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現代文最新傾向LABO 斎藤隆

入試現代文の最新傾向を分析し、次年度の傾向を予測する大胆企画

予想問題「無常という事」小林秀雄・身体感覚・身体論・死生観・随筆

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 

 小林秀雄氏は、一時代前の思想家・文芸評論家ですが、小林氏の思想は、決して、古びていません。

 それは、小林氏の論考は、「人間存在の根源」に焦点を当てているからです。

 それ故に、今だに、難関大学の現代文(国語)・小論文に出題されています。

 しかも、小林氏の論考は、2016センター試験にも出題され、かなり話題になりました。

 

 小林秀雄氏は、近代日本の、文芸評論・近代批評の確立者です。

 個性的な、少々切れ味の良い挑発的な文体、詩的雰囲気のある表現が、特徴です。

 西洋絵画の批評や、ランボー、アラン等の翻訳にも、業績を残しました。

 

 入試現代文(国語)・小論文の世界では、20年くらい前までは、トップレベルの頻出著者(ほぼ全ての難関大学で、最低1回は出題されていました)でした。

 現在は、トップレベルではないですが、やはり、頻出著者です。

 最近の入試に全く出題されていない、ということは、ありません。

 最近でも、以下の大学で出題されています。

 大阪大学『考えるヒント』

 明治大学『文化について』

 国学院大学『無常という事』

 明治学院大「骨董」

 

 

 (2)「無常という事」を読む際に、最初に意識するべきことについて

 

① 小林秀雄氏は、ポストモダンの旗手であり、最近でも入試頻出著者です。


 この名文は、近代的思考に対しての本質的・根源的な批判的考察、いわゆるポストモダン(近代原理を批判する立場)的考察がなされているので、一読する価値があります。

 最近の難関大学には、近代的価値観を根本的に見直し、「人間の本質」・「人生の本質」に迫ろうとする論考、ポストモダン的論考が、かなり出題されています。

 だからこそ、ポストモダンの旗手的立場にいる小林秀雄氏の論考は、最近でも、頻出なのです。

 


② 「無常という事」は論理の飛躍があり、分かりにくいエッセイ(随筆)です。従って、この「無常という事」を考えるについては、筆者である小林秀雄氏の思想を追跡・考察していくことにします。

 

 本文は本文として、虚心に、素直に読むべきです。

 予備知識を背景として読むべきではありません。

 

 しかし、その著者が日々、どのような方向で、ものを考えているか? 

 あるいは、現代に対して、どのような問題意識を持っているのか? 

 ある単語・キーワードを、どのような意味で用いているのか? 

を知っておくことは、有用だと思います。

 

 従って、この「無常という事」を考えるについては、筆者である小林秀雄氏の思想を追跡・考察していくことにします。

 

 

③ 「小林秀雄氏の思索の基本姿勢」は、「自分の個人的・身体感覚的体験」を出発点にしています。このことを意識してください。

 

 この体験を共有できるかどうか、少なくとも、この体験を共有しようとする姿勢を持てるかどうか、が小林氏の作品を理解するポイントになります。

 しかも、「無常ということ」の場合は、この体験の質がきわめて宗教色・神秘性の強いものになっているのです。

 そのうえ、この作品は、エッセイ(随筆)です。エッセイは、それ自体が主観性が強いのです。

 従って、最低でも、「小林氏の体験を共有しようとする姿勢」が必要になるでしょう。

 

 「小林秀雄の思索の基本姿勢は、自分の個人的・身体感覚的体験を出発点にしていること」

については、以下の内田樹氏の論考が参考になります。

 

(赤字は当ブログによる「強調」です)

「  鳥瞰的な、非人称的な視点ではなく、あくまで自分の『特殊な立場』に踏みとどまり、自分のまわりを見る。

『眼の前の物をはっきり見て、凡そ見のこしということをしない自分の眼力と、凡そ自由自在な考える力とを信じ』る。(「實験的精神」『小林秀雄全集第七巻』新潮社、289頁)

 そこからしか学問も芸術も始まらない、と小林秀雄は言う。

 そして、そういう構えを『原始的』と呼んでいる。

何かに率直に驚いて、すぐそこから真っすぐに考えはじめるというようなところがある』(282頁)パスカルを評して、小林は彼を『ものを考える原始人』だと言う。」

( 内田樹の研究室 「Just like a barbarian 」 2010年04月03日 ) 

 

 強い主観性を有し、論理の飛躍の著しい、この哲学的な作品は、エッセイ(随筆)の学習には、理想的な教材と言えます。

 この作品と格闘しておけば、他の哲学的論考、エッセイにも、対応する応用力が身に付くはずです。

 

 

モオツァルト・無常という事 (新潮文庫)

 

 

(3)予想問題ー「無常という事」小林秀雄の解説

 

(小林氏の論考)

(概要です)

(【1】【2】【3】・・・・は当ブログで付加した段落番号です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です)

【1】「ある人いはく、比叡の御社に、偽りてかんなぎのまねしたるなま女房の、十禅師の御前にて、夜うち深け、人しづまりて後、ていとうていとうと、つゞみを打ちて、心すましたる声にて、とてもかくても候、なうなうとうたひけり。其心を人にしひ問はれて云(いはく)、生死無常(しょうじむじょう)の有様を思ふに、此世のことはとてもかくても候、なう後世(ごせ)をたすけ給へと申すなり。云々(うんぬん)」

 

ーーーーーーーー


《現代語訳》

比叡神社で、偽って巫女のふりをした若い女房が、夜が更けて、人が寝静まった後に、ぽんぽんと鼓を打ち、心から澄んだ声で、「どうでもこうでもいいのです、ねえねえ」と謡を謡った。その意味を、あとで人に強いて問われて、このように答えた。

生死は無常という事を思いますと、この世の事は、どうでもこうでもいいのです。

後世を助けてくださいと、神様に、お願い申し上げてあげていたのです」

 

ーーーーーーーー


(当ブログの解説)

( 問題 )なぜ、この論考は、唐突に死後(後世)の話から、始まるのか?

 いささか、特異な構成だと私は思います。

 このことを考えるについては、この論考が1942年、つまり第2次世界大戦中に発表されたということを考慮する必要があります。

 死が日常的な問題である時代に発表されているのです。

 

ーーーーーーーー 

 

(小林氏の論考)

【2】これは、「一言芳談抄(いちごんほうだんしょう)」の中にある文で、読んだ時、いい文章だと心に残ったのであるが、先日、比叡山に行き、山王権現(さんのうごんげん)の辺りの青葉やら石垣やらを眺めて、ぼんやりとうろついていると、突然、この短文が、当時の絵巻物の残欠でも見る様な風に心に浮かび、文の節々が、まるで古びた絵の細勁(さいけい)な描線を辿る様に心に染み渡ったそんな経験は、初めてなので、酷く心が動き、坂本で蕎麦を喰っている間も、あやしい思いがし続けた。あの時、自分は何を感じ、何を考えていたのだろうか、今になってそれがしきりに気に懸かる。無論、取るに足らぬ或る幻覚が起ったに過ぎまい。そう考えて済ますのは便利ではあるが、どうもそういう便利な考え(→近代的な知性的・理性的な思考)を信用する気になれないのは、どうしたものだろうか。実は、何を書くのか判然しないままに書き始めているのである。

 

ーーーーーーーー

 

(当ブログの解説)

( 問題 ) 以下の記述は、どのようなことを意味しているのか?

「無論、取るに足らぬ或る幻覚が起ったに過ぎまい。そう考えて済ますのは便利ではあるが、どうもそういう便利な考え(→近代的な知性的・理性的な思考)を信用する気になれないのは、どうしたものだろうか。」

 

  小林氏は、自分の直感・現場体験を重視しようとしているのでしょう。

 自分の身体で、五感で感じた出来事を噛み締め、そこから論を進めたい、と考えているのです。すべてを頭だけで観念的に考えようとする近代的・現代的な思考形式、への反発心が感じられます。

 現在では、内田樹氏・養老孟司氏(→両氏とも、入試頻出著者です)などが、同様の思考態度を貫徹しています。

 この問題は、論点としては、いわゆる、「身体論」と言われています。

 「身体論」は、入試現代文(国語)・小論文の最頻出論点です。

 だからこそ、今回の記事でこの「無常という事」を解説しているのです。

 逆に言うと、「身体論」を充分に理解していないと、この「無常という事」も分からないのです。

 

 明治時代から、「文明開化」による「西洋化・近代化」により、日本人の精神構造に、「西洋的な人間中心主義的発想」・「理性・知性重視主義」・「科学的合理主義」が流入し始めました。

 そして、「身体感覚をも意識した考察」・「自然との交流」・「死後の世界との交流」(→これらこそ、日本の伝統的価値観と言えます)は、出来なくなりました。

 その結果、「死」・「歴史」は、日々の生活から遠ざかったのです。

  「死」が日常から遠ざかるということは、「突発的な死」 (運命の残酷性→「一寸先は闇」)や、自然な時間の流れ(人間は生物なのだから、「老」・「病」・「死」は当然のこと)(→これらこそが「無常」です)という当たり前なこと、つまり、「人生の真理」が日常から消えるということです。

 だからこそ、現代の日本人の多くが、自分が平均寿命まで生きることを前提に、あるいは、平均寿命までも生きることを前提に、実に愚かなことに没入していくのでしょう。

 「死」を意識して、「自分の人生の有限性」、「一寸先は闇」を痛感すれば、「今」を楽しく生きることを心がけるはずです。

 本来、健康ブーム、禁欲ブーム、ダイエット、アンチ・エイジングなど、どうでもよいことのです。

 「今」を楽しまず、自分では確定的に到来すると思い込んでいる老後のために、自分の健康面の観察・点検にばかり集中し、禁欲生活に邁進することの、悲しいほどのバカバカしさ。

 

 このことは、戦後になって、著しく、病的と言えるほどに進行したのです。

 現在の日本では、西洋にも見られないほどの、歪んだ形の「西洋的・近代的発想」が主流です。

 それゆえに、日本の伝統的価値観に立脚して、近代原理を批判している「無常という事」は、一般的に、難解と評価されているのでしょう。 

 

( 問題 ) 「小林氏の感性の鋭敏さ」が分かるのは、どの部分の記述か? 

 小林秀雄氏において、自分自身の「身体性」を通して考えること、感じること、現実の場で具体的に感じ考えることの能力が、いかに優れているか、は以下の記述より明らかです。

  ぼんやりとうろついていると、突然、この短文が、当時の絵巻物の残欠でも見る様な風に心に浮かび、文の節々が、まるで古びた絵の細勁(さいけい)な描線を辿る様に心に染み渡った 

  

( 問題 ) 「心に染み渡った」とは、どのような意味なのか? 同類語、同類表現を列挙せよ。

 共鳴、共感、同調、などを挙げるとよいでしょう。

 「腑に落ちる」、「全身で納得すること」でも、よいと思います。

  

(問題)なぜ、「実は、何を書くのか判然しないままに書き始めているのである」と記述されているのか?

 これは、読者への明確な宣言です。

 つまり、小林氏は、自分のこの論考を、計画的に論理的には書き進めないと宣言しているのです。

 あたかも、詩のように、感性重視で書いていこうとしているのでしょう。

 これは、現代の先進国社会、特に日本社会における異様とも言える知性支配、知性優位に向けての、小林氏特有の皮肉的表現であるように、私には思われます。

 

 (問題) 「無常という事」における、この段落の意味は? 

 この段落に記述された小林氏の体験が、「この論考の重要な出発点」になっています。 

 「比叡山に行き、山王権現(さんのうごんげん)の辺りの青葉やら石垣やらを眺めて、ぼんやりとうろついている

という状況における、宗教的体験、神秘的体験が、この論考の前提と言ってもよいでしょう。

 確かに、小林氏自身が言うように「取るに足らぬある幻覚」(→近代的な知性的・理性的な思考)で済ますこともできましょう。
 しかし、そのように即断できない気持ちが、小林氏には、あるようです。

 まさに、ここが、この論考を読み解くポイントになります。

 この体験に対して共有できる心を持っていること、少なくとも、共有しようとする気持ちを有することが、この作品を理解する前提になります。

 ここで小林氏の体験を軽視すると、これ以後の記述を把握することが困難になります。

 従って、この作品を読み解こうとするのであれば、「この体験に寄り添う気持ち」を持つようにしてください。

 つまり、西洋的・近代的な合理的・科学的発想から離れるようにすることがポイントです。

  

ーーーーーーーー

 

(小林氏の論考)

「【3】「一言芳談抄」は、恐らく兼好の愛読書の1つだったのであるが、この文を「徒然草」の内に置いても少しも遜色はない。今はもう同じ文を目の前にして、そんな詰まらぬ事しか考えられないのである。依然として一種の名文とは思われるが、あれほど自分を動かした美しさは何処に消えてしまったのか。消えたのではなく現に眼の前にあるのかも知れぬ。それを掴むに適したこちらの心身の或る状態だけが消え去って、取り戻す術を自分は知らないのかも知れない。こんな子供らしい疑問が、既に僕を途方もない迷路に押しやる。僕は押されるままに、別段反抗はしない。そういう美学(→「美学」とは美の本質や構造を、その現象としての自然・芸術及びそれらの周辺領域を対象として、経験的かつ形而上学的に探究する哲学の一領域。伝統的に美学は、「美とは何か」という美の本質、「どのようなものが美しいのか」という美の基準、「美は何のためにあるのか」という美の価値を問題として取り組んできた)の萌芽とも呼ぶべき状態に、少しも疑わしい性質を見付け出す事が出来ないからである。だが、僕は決して美学には行き着かない。

 

 ーーーーーーーー

 

(当ブログの解説)

(問題)以下の文章は、何を主張しようとしているのか?

 僕は押されるままに、別段反抗はしない。そういう「美学の萌芽」とも呼ぶべき状態に、少しも疑わしい性質を見付け出す事が出来ないからである。だが、僕は決して美学には行き着かない。

 

 「美学の萌芽」「美学」の対比は、注目するべき点です。 

 「美学」になると、学問の一分野になり論理重視になっていくので、小林氏は警戒しているのでしょう。

  

ーーーーーーーー

 

(小林氏の論考)

【4】確かに空想なぞしてはいなかった。青葉が太陽に光るのやら、石垣の苔のつき具合やらを一心に見ていたのだし、鮮やかに浮び上った文章をはっきり辿った。余計な事は何一つ考えなかったのであるどの様な自然の諸条件に、僕の精神のどの様な性質が順応したのだろうか。そんな事は分からない。分からぬ許(ばか)りではなく、そういう具合な考え方が既に一片の洒落(しゃれ)に過ぎないかも知れない。僕は、ただ或る充ち足りた時間(→「人生の充実」でしょうか?)があった事を思い出しているだけだ。自分が生きている証拠だけが充満し、その一つ一つがはっきりとわかっている様な時間が。無論、今はうまく思い出しているわけではないのだが、あの時は、実に巧みに思い出していた(→特殊用法?)のではなかったか。何を。鎌倉時代をか。そうかも知れぬ。そんな気もする。

 

ーーーーーーーー

 

(当ブログの解説)

(問題) この段落の意味は、何か? 何を主張しようとしているのか?

 「自分が生きている証拠だけが充満する時間」、つまり、「人生の充実感」は、「余計な事は何一つ考えず(心を虚しくして)」 「鎌倉時代を」 「巧みに思ひ出す」ことによって、「満ち足りた時間」の中にあらわれています。

 自分を近代的思考の束縛から解放させること、自分の身体感覚を解放して過去への共感能力を高めていくことが、人生の真の充足感・満足感につながるのでしょう。
 精神よりも、自分の身体感覚に素直に従うこと。

 そのことにより、自分の身体が解放され、ひいては、精神も充実感を味わえるのでは、ないでしょうか。

 このことを、小林氏は主張したいのだと思います。

 

 日本の伝統的文化の根底にある「豊かな感受性」が、小林秀雄氏にあったのでしょう。

 「豊かな感受性」は「豊かな共感能力」と言い換えても、よいでしょう。

 平安時代、鎌倉時代の日本人には、それがあったし、なま女房の話を『一言芳談抄』に収録した人、また、兼好にも、その感受性はあったのだと思います。

 

ーーーーーーーー

 

(小林氏の論考)

「【5】歴史の新しい見方とか新しい解釈とかいう思想(→近代的発想を意味しています)からはっきり逃れるのが、以前には大変難しく思えたものだ。そういう思想は、一見魅力ある様々な手管(てくだ)めいたものを備えて、僕を襲ったから。一方歴史というものは、見れば見るほど動かし難い形と映って来るばかりであった。新しい解釈なぞでびくともするものではない、そんなものにしてやられる様な脆弱(ぜいじゃく)なものではない、そういう事をいよいよ合点して、歴史はいよいよ美しく感じられた。晩年の鴎外が論証家に堕したという様な説は取るに足らぬ。あの膨大な論証を始めるに至って、彼は恐らくやっと歴史の塊に推参した(→真の歴史を見出だす入口に立った、ということ。→鴎外が晩年になって、「新しい解釈などでびくともするものではない、つまり、解釈を拒絶して動じない」真の歴史を書き記そうとした、ということ)のである。「古事記伝」を読んだ時も、同じ様なものを感じた。解釈を拒絶して動じないものだけが美しい、これが宣長(のりなが)の抱いた一番強い思想だ。解釈だらけの現代には一番秘められた思想だ。そんな事を或る日考えた。又、或る考えが突然浮び、たまたま傍にいた川端康成さんにこんなふうに喋ったのを思い出す。彼笑って答えなかったが。

【6】「『生きている人間などというものは、どうも仕方のない代物だな。何を考えているのやら、何を言い出すのやら、仕出かすのやら、自分の事にせよ、解った例(ため)しがあったのか。鑑賞にも観察にも堪えない。其処(そこ)に行くと死んでしまった人間というのは大したものだ。何故、ああはっきりとしっかりとして来るんだろう。まさに人間の形をしているよ。してみると、生きている人間とは、人間になりつつある一種の動物かな』」

 

ーーーーーーーー 

 

(当ブログの解説)

(問題) この【5】・【6】段落の意味? なぜ、「彼笑って答えなかった」のか?

 いろいろなことが、考えられます。川端康成氏の反応は、とても微妙な、曖昧な態度と言えるのです。

 考えられる理由としては、まず、

 「その場ですぐに答えられるようなレベルの問題ではないので、笑うしか、なかったから」、ということです。

 次に、「同意のサイン」と考えることも可能です。

 

ーーーーーーーー

 

(小林氏の論考)(概要です)

「【7】この一種の動物という考えは、かなり僕の気に入ったが、考えの糸は切れたままでいた。歴史には死人だけしか現れて来ない。従って、のっ引きならぬ(→「どうにもならない」という意味)人間の相しか現れぬし、動じない美しい形しか現れぬ。思い出となれば、みんな美しく見えるとよく言うが、その意味をみんなが間違えている。僕等が過去を飾り勝ちなのではない。過去の方で僕等に余計な思いをさせないだけなのである。思い出が、僕等を一種の動物であることから救うのだ。記憶するだけではいけないのだろう。思い出さなくてはいけないのだろう。多くの歴史家が、一種の動物に留まるのは、頭を一杯にしている(→「知識、論理、知性」に拘束されている、という意味)ので、心を虚しく(「近代的な論理・知性に拘束されないで、純粋な感性で」という意味)して思い出す事が出来ないからではあるまいか。

 

ーーーーーーーー

 

(当ブログの解説)

(問題) 「歴史には死人だけしか現れて来ない。従ってのっ引きならぬ人間の相しか現れぬし、動じない美しい形しか現れぬ。」の中の 「動じない」とは、どのような意味か? 

 「人生上の悩みに心を動かさない、現世的利益に右往左往しない」という意味です。

  

(問題)なぜ、思い出は美しいのか。

 固定した、美しい過去(歴史)が、僕等に余計な思いをさせないから、です。
  

(問題)なぜ、「思い出が僕等を一種の動物であることから救う」のか。

 僕等は生きている人間であり、「一種の動物」です。そして、「一種の動物」は、「無常」であり、不安定な存在です。

 一方で、「思い出すこと」は、「生きている証拠だけが充満している時間」です。
 言い換えれば、「思い出すこと」は、「無常な一種の動物である僕等」に、「満ち足りた時間」、つまり、「充足的・安定的な時間」を与え、救ってくれるのです。

  

(問題)この論考における「思い出す」とは、どのような意味か?

 「多くの歴史家が、一種の動物に留まるのは、頭を一杯にしている」という文脈から考えると、「思い出す」とは、「直感」・「感情」・「理性」が総合的に働いた作用です。

 『学生との対話』(新潮社)の中で、小林氏は、「イマジネーションは、対象と私とがある親密な関係に入り込むこと」と述べていますが、「思い出す」についても、同様に考えてよいでしょう。

 【2】・【3】段落の文脈からも、このことは肯定できると思います。

 ここでは、「客観性のみで対象に向き合うことの否定」と、「主観性の尊重」が強調されています。

 「対象と交わること」とは、身体感覚を駆動させて、その対象と交流し、接触することなのです。

 

 ーーーーーーーー

 

(小林氏の論考)(概要です)

「【8】上手に思い出す事は非常に難しい。だが、それが、過去から未来に向かって飴(あめ)の様に延びた時間という蒼(あお)ざめた思想(僕にはそれが現代における最大の妄想と思われるが)から逃れる唯一の本当に有効なやり方の様に思える。成功の期はあるのだ。この世無常とは決して仏説という様なものではあるまい。それは幾時(いつ)如何(いか)なる時代でも、人間の置かれる一種の動物的状態である。現代人には、鎌倉時代の何処かのなま女房ほどにも、無常ということが分かっていない。常なるもの(→伝統的価値観、死生観、死への意識)を見失ったからである。」  (『文学界』昭和17年6月号)

 

ーーーーーーーー

 

(当ブログの解説)

(問題)「現代人は、鎌倉時代のなま女房ほどにも無常ということがわかっていない」とは、どういう意味か?

 「なま女房」は、確固たる「死生観」(→「死」と「生」に関する価値観。「生死は無常なのでどうすることもできない」とする価値観)を保持していたが、現代の日本人は、「死」・「人生の無常」を直視していないということです。

 

(問題)「常なるもの」とは何か?

 「日本古来の伝統的死生観」です。

 前述したように、明治時代からの、「文明開化」による「西洋化・近代化」により、日本人の精神構造が、「西洋的な人間中心主義的発想」となりました。

 そして、「自然との交流」・「死後の世界との交流」は、出来なくなりました。

 その結果、「死」・「歴史」は、日々の生活から遠ざかったのです。

 それとともに、「日本古来の伝統的死生観」も、ほとんど消滅してしまったのです。

 このことは、戦後になって、著しく進行したのです。

 

 この人間として不自然な状態から脱却するためには、日頃から、頭だけで観念的に考えないようにする、全身で納得することを心がける、腑に落ちるということを大切にする、というようにして、「自分の身体感覚」をも重視して、考察することを意識するべきです。

 「自分の身体性」に意識が向けば、自分の「老」・「死」は、時間と宿命の流れに支配され、自分の意識を超越したものだという当然の事実が強く認識できるはずです。

 人は「老」・「死」の絶対性から逃れることはできないのです。

 このことを「無常」というのでしょう。

 現代の日本人は、「自己の身体性」から目を背けたために、この「無常の感覚」、つまり、「日本の伝統的価値観」まで忘れてしまったのでしょう。

 

 小林秀雄氏は、「死を直視することの重要性」を以下のように述べています。

「人の世の秩序を、つらつら思うなら、死によって完結する他はない生の営みの不思議を納得するでしょう。死を目標とした生しか、私たちには与えられていない。そのことが納得出来た者には、よく生きる事は、よく死ぬ事だろう。 」(小林秀雄「生と死」『小林秀雄全作品  第26集』)

 

「この世に生まれ、暮らし、様々な異変に会い、死滅するという人の一生を、これを生きて知る他はない当人の身になって納得してみよ。歴史の真相に推参できるだろう。兼好はこれを『実(まこと)の大事』と呼んでいる。」(小林秀雄「生と死」)

 

 「小林秀雄についての批評」に関してはトップレベルの文芸評論家の秋山駿氏は、「小林秀雄ーその生と文学の魅力」 (『Web版 有鄰・第414号(平成14年5月10日)』有隣堂)の中で、とても参考になることを述べています。

「小林は乱暴な人だ、と言ったが、その乱暴とは、一度自分で決断したら、前途も知らず、前後も見ず、自分を信じて一直線に突き進む元気、といった意味のものだ。

 その一直線に突き進む元気が、小林の文学の中央を貫く。出発点から最後まで貫く。」

 そして、『考えるヒント』について、以下のように続けています。

小林は、戦後の時代が、あまりにも日本文化の基本から外れた方へ進んでいるのを見て、時代に抗して、警告として、彼が日本と現代について考えたところを種子として、われわれへとばら撒いたのであった。一粒の麦もし死なば・・・・、それがヒントの真意であった。

 このことは、「無常という事」についても、同じように言えるのでは、ないでしょうか。

 ただ、「無常という事」は戦争中の作品です。

 とすると、戦争中から、戦後思想的なものはあったのでしょう。

 

 

 (4)当ブログにおける、「身体論」関連記事の紹介

 

gensairyu.hatenablog.com

 

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(5)当ブログにおける、「日本の伝統的価値観」関連記事の紹介

 

gensairyu.hatenablog.com

  

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(6)当ブログにおける、「小林秀雄氏の論考」に関連する記事の紹介

 

gensairyu.hatenablog.com

 

ーーーーーーーー

 

今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

ご期待ください。

 

   

  

gensairyu.hatenablog.com

 

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モオツァルト・無常という事 (新潮文庫)

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小林秀雄全作品〈26〉信ずることと知ること

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

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5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

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 私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。

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予想問題「憲法9条の矛盾」平和主義・集団的自衛権・佐伯啓思

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 

 平和主義、憲法9条改正問題、集団的自衛権は、大学入試現代文(国語)・小論文の最近の流行論点です。

 しかし、これらの論点は、なかなか分かりにくい側面があります。

 

 また、このような「政治的問題」は、政治的思想調査、政治的踏み絵になりかねないので、大学入試現代文(国語)・小論文に出題されない、と考えている人がいるようです。

 しかし、そうしたことはありません。

 最近でも、 慶応大学法学部・小論文で、政治的問題と言える「日本の戦後補償問題」が出題されています。 

 

 最近発表された、入試頻出著者の佐伯啓思氏の「異論のススメー憲法9条の矛盾・平和守るため戦わねば」 (朝日新聞 2017・5・5)は、以上の論点を明解に解説しています。
 そこで、今回は、この論考についての解説記事を書きます。


 特に、憲法9条を中心とする「憲法改正問題」については、反対説、賛成説、さまざまな見解を読むべきです。 
 そのことが視野を広げ、理解を深めるポイントになります
 今回は、賛成説を丁寧に説明している、佐伯啓思氏の論考を解説します。

 

 佐伯啓思氏は、入試現代文(国語)・小論文における入試頻出著者です。そして、この論考は佐伯氏の最新の論考です。  

 佐伯氏の論考は、最近では、神戸大学、新潟大学、早稲田大学(政経)・(文)、立教大学、法政大学、中央大学、関西大学等で出題されています。

 

(2)集団的自衛権ー「憲法9条の矛盾・平和守るため戦わねば」 佐伯啓思(『朝日新聞』2017年5月5日朝刊「異論のススメ」)

 

(概要です)

(【1】【2】【3】・・・・は当ブログで付加した段落番号です)

(赤字、太字は、当該ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です)

「【1】この5月3日で憲法施行から70年が経過した。安倍首相は3年後の憲法改正をめざすとし、9条に自衛隊の合憲化を付加したいと述べた。私にはそれで充分だとは思えない。

【2】実際には、今日ほどこの憲法の存在が問われているときはないだろう。最大の理由はいうまでもなく、朝鮮半島有事の可能性が現実味を帯びてきたからである。北朝鮮と米国の間に戦闘が勃発すれば、日本も戦闘状態に入る。また、韓国にいる日本人の安全も確保しなければならない。はたしてこうしたことを憲法の枠組のなかで対応できるのか、という厳しい現実を突きつけられているからである。

【3】2年ほど前に、安倍首相は集団的自衛権の行使容認をめざして、日本の安全保障にかかわる法整備をおこなった。野党や多くの「識者」や憲法学者は、これを違憲として、憲法擁護を訴えたが、はたして、彼らは今日の事態についてどのようにいうのであろうか。野党も、朝鮮半島情勢にはまったく無関心のふりをしている。」

 

ーーーーーーーー

 

 (当ブログによる解説)

 集団的自衛権については これを認めることが「世界の常識」のようです。

 グローバルスタンダード(国際基準)を崇拝するマスメディアや学界、評論家などのうちの多数が、この論点では、なぜグローバルスタンダードを考慮しないのかが不可解です。

 自分達の立場にとって不都合があるからでしょうか? 

 何か意図があるのでしょうか?

 あるいは、不勉強、無知なのでしょうか?

 

 「世界の常識が集団的自衛権を認めること」については、以下の見解が参考になります。

 

「国際法は憲法に勝るが世界の常識 集団的自衛権は憲法違反、の大間違い 」

(『週刊ダイヤモンド』2015年7月11日号) 

 百地章氏(日大教授)が6月26日の「言論テレビ」で集団的自衛権、平和安全法制について重要な点を指摘しました。

 野党が、多くの憲法学者の多数説を根拠として一連の法案を廃案にせよと主張しています。しかし、そもそも、批判的立場の人々は、 国際法と憲法の関係を理解していないというのです。

 百地氏は、この点を理解しなければ、「集団的自衛権の行使容認」の違憲性・合憲性を正しく判断することはできない、と以下のように言います。

集団的自衛権が国内で問題になることはありません。国際間の権利で、国際法上の権利です。国際社会においては、各国の憲法よりも国際法が優位するというのが法学者の常識であり大前提です。 

 そこで国連憲章51条を見れば、全ての国連加盟国に『固有の権利』として集団的自衛権を認めています。
 すなわち、国連加盟諸国は全て国際法上、集団的自衛権を有し、行使することができるのです。日本国憲法に、わが国には集団的自衛権があるとか行使できるとか書いていなくても、権利はあり、行使できるのです。
 憲法に書いていないのは日本だけではありません。その他諸国の憲法にも書かれていません。領土主権についても同じです」

 

 また、長尾一紘氏(中大名誉教授)は、「『集団的自衛権は合憲』・なぜか疎外されている『集団的自衛権は合憲』の憲法学者座談会ーー長尾一紘×百地章×浅野善治」 (『週刊新潮 』2017年5月18日菖蒲月特大号 2017・5・10発売)の中で、次のような見解を述べています。

「日本の憲法学者は9条に関する限り、まるでガラパゴス諸島の生物です。昭和20年代で思考停止してしまったようです。

 主権国家が当然保有する、集団的自衛権について賛成と反対の意見が対立していること自体が間違いで、世界中でも、こんな議論をしているのは日本だけ。国際的な基準に合わせるべきでしょう。

 集団的自衛権に反対する声があること自体が異常ですが、それを異常と認識しない人々もまた異常と言わざるを得ません。」

 

 さらに、髙橋 洋一氏( 経済学者・嘉悦大学教授 )は、「集団的自衛権」について、

 「反対しているのは中韓だけ! 集団的自衛権  『世界の常識』が理解できない左派マスコミにはウンザリだ」(髙橋 洋一・現代ビジネス ・ 講談社) - isMedia)の中で、以下のように述べています。

「《日本は不思議な国》

 世界の多くの国がどこかと何らかの同盟関係をなぜ結ぶかといえば、そのほうが戦争のリスクを減らせるからである。集団的自衛権の行使は同盟関係の基本中の基本なので、何らかの同盟関係を結んでいる国では、本来、議論にさえならない。

 この点、日米同盟がありながら、集団的自衛権の行使の是非を議論する日本は不思議な国だ。多くの国では、日本が集団的自衛権の行使をするといったら、同盟関係がありながら集団的自衛権の行使を認めなかったこれまでの『非常識』を、世界の常識に変えるくらいにしか思わない。」

 

 これらの見解は、集団的自衛権を考える際には、大いに参考になるはずです。

 

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〈「異論のススメ」の続き〉

「【4】私がここで述べたいのは、現行の法的枠組のなかでいかなる対応が可能なのか、という技術的な問題ではない。そうではなく、国の防衛と憲法の関係というかなりやっかいな問題なのである。」

 

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  (当ブログによる解説)

 「国の防衛と憲法の関係については、佐伯氏は、『反・民主主義論』(新潮新書)の「まえがき」で、さらに分かりやすく記述しているので、以下に概要を引用します。

「   2015年から16年にかけて、「民主主義」の意味を問いかける事象が世界的に起きた。アメリカではトランプ現象が生じた。日本でも、2015年が戦後70年ということであったが、戦後憲法戦後民主主義戦後平和主義も定着とは言えず、むしろその欺瞞が露呈してきた。

 「国家」「民主主義」「平和」「国防」といった政治学の、そして「国」のもっとも根幹に関わる概念について、われわれはまともに思索を張り巡らせたことがあったのか。

 そこで本書で「民主主義」や「憲法」を論じ、唯一の正解はないが、私なりの見解をさし示してみたい。さもなければ、いつまでたってもわれわれは護憲・改憲の党派的対立から抜け出せず、また、民主主義の名のもとに、われわれの政治はとどまるところをしらず混迷に陥っていくだろうからである。」

 

 上記の論考においては、「護憲・改憲の党派的対立」がポイントになっています。

 国の防衛を考える際に、政治的・党派的立場から考えを進める発想は、大学入試においては、必要ありません。

 あくまで、事実と論理を重視してください。

 入試において問われているのは、知識・常識と論理力だけです。

 

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〈「異論のススメ」の続き〉

「【5】戦争というような非常事態が生じても、あくまで現行憲法の平和主義を貫くべきだ、という意見がある。とくに護憲派の人たちはそのようにいう。しかし、今日のような「緊急事態前夜」になってみれば、そもそもの戦後憲法の基本的な立場に無理があったというほかないであろう。憲法の前文にはつぎのようなことが書かれている。「日本国民は・・・・平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」。これを受けて9条の非武装平和主義がある。

【6】ところが、今日、もはや「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」いるわけにはいかなくなった。ということは、9条平和主義にもさしたる根拠がなくなるということであろう。考えてみれば、日本は、北朝鮮とはいまだに平和条約を締結しておらず、ロシアとも同じである。中国との国交回復にさいしては、尖閣問題は棚上げされ、領土問題は確定していない。つまり、これらの諸国とは、厳密には、そして形式上は、いまだに完全には戦争が終結していないことになる。サンフランシスコ講和条約は、あくまで米英蘭など、西洋諸国とのあいだのものなのである。」

 

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 (当ブログによる解説)

今日、もはや「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」いるわけにはいかなくなった。ということは、9条平和主義にもさしたる根拠がなくなるということであろう。

と、佐伯氏は主張しています。

 この問題を考えるについては、「現在の日本をめぐる国際情勢」をどのように評価するか、という点が重要でしょう。

 

 特に問題ではない、と評価すれば、今も、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」よいことになります。

 

 一方、現在の国外の状況を憂慮するべきだ、と考えれば、緊急事態前夜と考えることになるのです。

 このように考えると、「現在の日本をめぐる国際情勢」に関する記述は、以下のようになるでしょう。

「  日本をめぐる国際情勢がどれだけ悪化しているかを列挙してみたい。

北方領土問題をめぐるロシア。

尖閣諸島問題におけるでの不当な態度を示す中国の態度。

核開発をやめない北朝鮮。

歴史問題に関する韓国の態度。

 明らかに、日本における安全保障環境が激変しているのではないでしょうか。」

 

 佐伯氏は、現状を直視しない性善説、つまり他人・他国を簡単に信頼する立場には立っていません。

 この立場は、グローバルスタンダードからは通説でしょう。

 

 ただし、この論点が、大学入試現代文(国語)に出題された場合には、出題者の立場に沿って考察するべきです。

 また、入試小論文に出題された場合には出題者の立場に沿って論述、つまり、特に指定のない限り、課題文に賛成する方向で論述する方が賢明です。( 受験生が、短時間で、一流の学者・評論家の論考を論破できるような論文を書くことは無理でしょう。大学側がそれを要求することは、ないと思います。)

 その方が、合格率がアップします。

 選抜試験なので、自分の政治的立場を貫く必要はないのです。

 試験は、自分の政治的立場を主張する場では、ありません。

 大人になることです。

 冷静になることです。

 

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 〈「異論のススメ」の続き〉

「【7】しかも、この憲法発布後しばらくして、冷戦がはじまり、朝鮮戦争が生じる。戦後憲法の平和主義によって日本を永遠に武装解除した米国は、つねに軍事大国として世界の戦争にかかわってきた。しかも、その米国が日本の安全保障までつかさどっているのである。

【8】こうした矛盾、あるいは異形を、われわれはずっと放置してきた。そして、もしかりに米国と北朝鮮が戦争状態にでも突入すれば、われわれはいったいなにをすべきなのか、それさえも国会でほとんど論議されていないありさまである。米国がすべて問題を処理してくれるとでも思っているのであろうか。

 

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  (当ブログによる解説)

    こうした矛盾、あるいは異形を、われわれはずっと放置してきた。」

について、佐伯氏は、『反・民主主義論』の中で、さらに詳しく述べています。

「  すべてが日本国憲法という印章(→「水戸黄門の印籠、葵の御紋」をイメージすると、よいでしょう)の前で思考停止になってしまう。戦前では、「国体」や「天皇」を持ち出せば、直立不動、フリーズした。戦後はそれが「憲法」に変わっただけです。「憲法」という言葉の前で直立不動になってしまう人がいる。「憲法に反する」と言えば、脳内細胞がフリーズしてしまう。」( 「第一章 日本を滅ぼす『異形の民主主義』) 


 日本国憲法は、その条文を厳密に解釈すれば、日本は自衛権も持てないと言うことになります。

 日本の防衛を事実上、カバーしたのは米軍でした。

 日本の戦後の長期的な平和は、憲法9条によってのみ実現したのではなく、それ以上に強大な米軍による抑止力によって実現したのです。

 これは日本国憲法についての矛盾です。

 非武装平和主義を宣言しながら、その背後に強大な米軍が存在していたのです。

 

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〈「異論のススメ」の続き〉
「【9】憲法9条は、まず前半で「侵略戦争の放棄」という意味での平和主義をかかげる。それはよいとしても、後段にある「戦力の放棄と交戦権の否定」は、そのまま読めば、いっさいの自衛権の放棄をめざすというほかない。少なくとも自衛権の行使さえできるだけ制限しようとする。なにせ戦力をもたないのだから、自衛のしようがないからだ。これがなりたつのは、文字どおり、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」できる場合に限られるだろう。そして、そのようなことは、戦後世界のなかでは一度も生じなかった。

【10】 国連憲章を引き合いに出すまでもなく、自衛権は主権国家の固有の権利である。憲法は、国民の生命、財産などの基本的権利の保障をうたっているが、他国からの脅威に対して、それらの安全を確保するにも自衛権が実効性をもたなければならない。つまり、国防は憲法の前提になる、ということであり、憲法によって制限されるべきものではない。

【11】そのこと(→「国防は憲法の前提になる」ということ)と,憲法の基調にある「平和への希求」はけっして矛盾するものではない。平和主義とは無条件の戦争放棄ではなく、あくまでみずからの野心に突き動かされた侵略戦争の否定であり、これは国際法上も違法である。もしも、われわれが他国によって侵略や攻撃の危機にさらされれば、これに対して断固として自衛の戦いをすることは、平和国家であることと矛盾するものではなかろう。いや、平和を守るためにも、戦わなければならないであろう。」

 

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 (当ブログによる解説)

    「国家の自衛権」とは、急迫不正の侵害を排除するために、武力をもって必要な行為を行う国際法上の権利です。

 自己保存の本能を基礎に置く合理的な権利であると考えられてきました。

 

 佐伯氏は、国家の自衛権について、「誰が国を守るのか」( 『産経新聞』 2014・7・21 )の中で、より分かりやすく説明しています。

 以下に引用します。 

「戦後日本は、民主主義と平和主義を高く掲げ、この2つの主義を両輪にしてきた。その結果、多くの者にとっては、民主主義イコール平和主義とみなされた。民主主義者は平和主義者でなければならなかった。

 にもかかわらず、戦後日本の民主主義と平和主義の組み合わせが、どうも、うさん臭いのは、この平和主義がもっぱら憲法9条の武力放棄を意味しているからにほかならない。平和愛好、構築なら誰も批判もしないだろうが、問題はその方法なのである。憲法9条といういささか特異な形態における平和主義という「方法」が問題なのである。

 もっとも、いわゆる護憲派の平和主義者からすれば、憲法9条に示された平和主義こそが理想的理念だということになる。とすれば、その途端にまた、うさん臭さが露呈してくる。それは、日米安保体制の存在である。平和主義を掲げながら米軍を駐留させ、他国との交戦になれば、米軍を頼みにするというこの欺瞞(ぎまん)である。交戦とまではいかなくとも、少なくとも、戦争の抑止を米軍に依存していることは間違いない。

 憲法を前提とすれば、こういう形にならざるをえない。しかしそれを平和主義といって、何やら就職活動の履歴書のように、いかにも温厚、誠実、穏健を演出しても、その背後にあるものを想起すれば、欺瞞的というほかない。

 実は、民主主義はイコール平和主義ではないのである。たとえば、戦後日本で民主主義の手本とみなされたジャンジャック・ルソーは、決してそんなことはいっていない。それどころか、統治者が国のために死ねといえば、市民は進んで死ななければならない、と明瞭に書いている。言い方は少々どぎついが、端的にいえばそういうことになるのであって、それが西欧政治思想の根本なのである。

 どうしてかというと、近代国家は主権によって動かされる。そして、主権者の役割は何よりまず国民の生命財産を守ることとされる。とすれば、もし主権者が君主なら、君主は彼の国民の生命財産を守らなければならない。そして、主権者が国民ならば国民が自らの手によって彼ら自身の生命財産を守らなければならない。これが道理というものであろう。とすれば、民主主義では国民皆兵が原則なのである。もちろん、具体的にはさまざまな形がありうる。しかし「理念」としてはそうなる。

 こうしたいささか面倒なことを書いてきたのは、集団的自衛権にかかわる論議において、この種の原則論がまったく確認されていないことに危惧をおぼえるからである。技術的・法的な手続き論も必要だが、本当に重要なのは「誰が国を守るのか」という原則論にこそあるのではなかろうか。

 

 上記の論考の最終部分の「本当に重要なのは「誰が国を守るのか」という原則論にこそあるのではなかろうか。」の一文は、重要な視座と言えます。

 また、この直前の「民主主義では国民皆兵が原則なのである。もちろん、具体的にはさまざまな形がありうる。しかし「理念」としてはそうなる」の部分は、現代の西洋の政治理念そのものです。

 現在のスイス、スウェーデンの国防政策を見ても、このことは、明白な事実です、

 この点については、以下に記述していきます。

 

 まず、国民皆兵とは、以下のような内容の制度です。

  Wikipediaから、概要を引用します。

「いわゆる国民皆兵による徴兵制はフランス革命から始まる。フランス革命以降、国家は国民のものであるという建前になったため、戦争に関しても、主権者たる国民全員が行なう義務があるということになった。そして、革命に伴う周辺諸国との戦争で兵員を確保する必要に迫られたため、ナポレオンなどによって国民軍が作られた。時代が下ると、祖国に対する忠誠義務と受け取られるようになった。

 近代に徴兵制が生み出されたのは、戦争の近代化に伴って兵器の威力が増して、志願制では人員の補充ができなくなるほど戦死者が多くなったことと、国民主権の原理によって国民を戦場に駆り出す大義名分ができたのが主な理由である。

《現代》

 兵器の近代化は、軍隊の省力化と定員減少をもたらし、同時に兵器運用技術の高度化・専門化を招いた。定員減少により、大量の新兵は不必要となり、訓練にも費用が掛かり過ぎるなどの理由によって徴兵制度の存在意義は低下した。現代においては、再び職業軍人の時代が到来したと言える。西洋諸国では、冷戦終了後から2000年代初頭にかけて次々と徴兵制を廃止し、イギリス・フランス・イタリア・スペインなどは志願制に移行している。」

 

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 〈「異論のススメ」の続き〉

「【12】「平和とはなにか」という問題はひとまずおき、仮に護憲派の人たちのいうように「平和こそは崇高な理念」だとするなら、この崇高な価値を守るためには、その侵害者に対して身命を賭して戦うことは、それこそ「普遍的な政治道徳の法則」ではないだろうか。それどころか、世界中で生じる平和への脅威に対してわれわれは積極的に働きかけるべきではなかろうか。私は護憲派でもなければ、憲法前文をよしとするものではないが、そう解さなければ、「全世界の国民」の平和を実現するために,「いずれの国家も,自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」という憲法前文さえも死文になってしまうであろう。」

 

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 (当ブログによる解説)

 「平和こそは崇高な理念」 とする平和主義を考える際に、参考になるのはスイス、スウェーデンにおける国防政策です。


 スイスは「永世中立国」であると同時に、徴兵制を採用している国民皆兵国家でもあります。

 スイスは、強力な国防政策を採用する武装中立国家です。

 「永世中立国」とは、将来もし他国間で戦争が起こっても、その戦争の圏外に立つことを意味するものです。つまり、自国は中立の立場である事を宣言し、他国がその中立を保障・承認している、永世中立の立場を取る国家です。この場合の中立は国際法上の義務です。
 

 また、スウェーデンは非同盟中立の立場をとりつつ、自衛のために強力な軍隊を保持している武装中立国家です。

 兵器の国産にも熱心で、独自の潜水艦・戦闘機などを開発・配備しています。

 

 スイス、スウェーデンは、「カルタゴの歴史」を教訓にしているのでしょう。 


 日本人は国防問題を検討する際には、日本と同じような貿易国家・平和主義国家であった、かつての「カルタゴ」が滅亡した歴史を考慮する必要があるのではないでしょうか。

 カルタゴは紀元前250年頃の地中海の貿易大国でした。が、その経済に脅威を感じたローマ帝国の攻撃により滅亡しました。

 カルタゴ滅亡の理由としては、主として、一般的に、カルタゴ市民が軍事的防衛に無関心だったことが、挙げられます。もともと、自国の防衛は傭兵頼りの上に、平和主義的な意見が強かったのです。

 

 なお、当ブログでは、先月、最近の国際情勢を意識して、カントの『永遠平和のために』についての解説記事を発表しました。

 ぜひ、ご覧ください。

 

gensairyu.hatenablog.com

 

(3)佐伯啓思氏の紹介

 

 1949(昭和24)年、奈良県生まれ。社会思想家。京都大学名誉教授。東京大学経済学部卒。東京大学大学院経済学研究科博士課程単位取得。2007年正論大賞。

著書は、
『隠された思考』(筑摩学芸文庫)(サントリー学芸賞)

『時間の身振り学』(筑摩書房)→神戸大学、早稲田大学(政経)で出題

『「アメリカニズム」の終焉』(中公文庫)(東畑記念賞)

『現代日本のリベラリズム』(講談社)(読売論壇賞)

『現代社会論』(講談社学術文庫)

『自由とは何か』(講談社現代新書)→立教大学、法政大学で出題

『反・幸福論』(新潮新書)→小樽商科大学で出題

『倫理としてのナショナリズム』(中公文庫)→関西大学で出題

『日本の宿命』(新潮新書)

『正義の偽装』(新潮新書)

『西田幾多郎・無私の思想と日本人』(新潮新書)

など多数。

 

(4)当ブログの、佐伯啓思氏の論考に関連する記事の紹介

 

 

gensairyu.hatenablog.com

 

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 ーーーーーーーー

 

今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

ご期待下さい。

 

  

 

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反・民主主義論 (新潮新書)

反・民主主義論 (新潮新書)

 

 

 

従属国家論 (PHP新書)

従属国家論 (PHP新書)

 

 

 

朝日新聞デジタル

朝日新聞デジタル

 

 

 

頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

 

 

 

5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

 

 

 私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。

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予想問題・養老孟司・個性・自分さがし『ぼちぼち結論』『バカの壁』

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 養老氏は、入試現代文(国語)・小論文における著者別出題数で、ほぼ毎年、ベスト10に入っている頻出著者です。

 高校現代文(国語)や小論文の教科書にも、養老孟司氏の論考は、かなり採用されています。

 そこで、今回は、現代文(国語)・小論文対策として、養老氏の論考の中でも特に頻出で、入試現代文(国語)・小論文でも頻出論点の、「個性」の予想問題について解説します。

 

 以下の記事では、次の各項目を説明します。

 

(2)養老孟司氏の論考の特徴

(3)予想問題・『ぼちぼち結論』養老孟司・2009東京女子大出題

(4)個性個性崇拝に関する養老孟司氏の見解

     ①  「個性信仰」は西洋文化に由来する(『無思想の発見』)

     ②  「自分さがし」批判→「自分」とは「創る」ものであって、「探す」ものではない(『無思想の発見』)

           ③  「個性」とは「人を見る目」(『逆立ち日本論』)

           ④  「個性」は外部的評価によるものである(『逆立ち日本論』)

           ⑤  「オンリーワン」・「世界に一つだけの花」批判(『超バカの壁』)

           ⑥  「個性」より大切なもの(『バカの壁』)

(5)当ブログの「個性」・「個性崇拝」関連の記事の紹介

(6)養老孟司氏の紹介

(7)当ブログの、養老孟司氏の論考に関連する記事の紹介

  

 (2)養老孟司氏の論考の特徴

 養老孟司氏の論考においては、「問題提起」と「その解答」が最初に提示されることが多いのです。
 しかし、「その問題提起」と「その解答」の「関連性」が、一見わかりにくい時があります。少々、飛躍している感じがあります。
 その場合に、混乱したり、停止したりしないで、すぐに、さらに読み進めることが大事です。
 直後から、実に、わかりやすい説明が始まることが多いのが、養老孟司氏の論考の特徴です。

 

 (3)予想問題・『ぼちぼち結論』養老孟司・2009東京女子大出題

 

(【1】【2】【3】・・・・は当ブログで付記した段落番号です)

【1】若い頃にはよく注意されたものである。「ちゃんと現実を見なさい、現実を」と。その現実なるものがよくわからなかったから、現実とはどういうものか、いつも頭の隅で考えていた。大人になれば、あれこれ現実というものに触れるはずだ。そうなれば、少しは「現実がわかる」ようになるだろう、と。 

【2】ところがいつまでたっても、その「現実」なるものがわからない。とうとう自分で勝手に定義することになった。現実とは「その人の行動に影響を与えるもの」である。それ以外にない。そう思ったら、長年の重荷が下りてしまった。 

【3】だから現実は人によって違う。A 唯一客観的現実なんてものは、皮肉なことに、典型的な抽象である。だって、だれもそれを知らないからである。私が演壇の上で講演をしているとする。聴衆の目に映る私の姿は、すべて異なっている。なぜなら私を見る角度は、全員が異なっているからである。それならテレビカメラは、どの角度から私を捉えたら、「客観的」映像となるのか。二人の人が同一の視点から、同じものを見るなんてことは、それこそ「客観的に不可能」なのである。 

【4】こんなことを言うと、すぐに屁理屈だといわれる。人それぞれ、見うる角度が違うからどうだというのだ。そんなことは些細な違いに過ぎないじゃないか。そういう些細なことに囚われるのが学者というもので、だから世間の役に立たないのだ。

 

ーーーーーーーー

 

(設問)

問1 傍線部Aにおいて「唯一客観的現実」が「抽象」だという理由を30字以内で説明せよ。

……………………………

(解説・解答)

問1(傍線部・理由説明問題)

 「唯一客観的現実」が「客観的にみて存在不可能」、その根拠として「各人の見る角度は違う」の2点を指摘するようにしてください。

(解答)

各人の見る角度は違うので唯一客観的事実は存在不可能だから。(29字)

 

ーーーーーーーー

 

(問題文本文)
【5】それは果たして些細なことなのだろうか。それを些細なこととみなすことで、近代社会は「進歩発展」してきた。だから特定のカメラマンが特定の角度から、特定の時点で撮影した映像を、客観的映像などと強弁するのである。

【6】一人一人の世界が感覚的に異なるからこそ、個人や個性の意味が生じる。 

【7】〔  ①  〕、個人なんかいらない。それを「些細な違い」と暗黙に決め付けるから、若者が人生の意味を見つけられないのである。これといってさしたる才能もない自分が生きる意味なんて、どこにあるというのか。世界中を見渡せば、自分の人生なんて六十億分の一に過ぎない。過去に生きた人まで含めたら、いったいどこまで些細になるだろうか。 

【8】B そう思うから、今度は個性、個性と逆にいう。それを強調するほうの錯覚とは、個性が「自分のなかにある」という思い込みである。 C  そもそも違いとは他人が感覚で捉えるもので、自分のなかにあるものではない。「お前は変なヤツだなあ」といわれて、「エッ、どこが」と怪訝な顔をしているのが個性であり、「私の個性はこれです」などと主張するものではない。近頃は入学や入社のときに、そんなことを書かせることもあるらしいが、話がそれではひっくり返っている。そんな会社や学校はどうせロクなところではなかろう。相手の個性を発見する目が貴重なのであって、個性自体が貴重なのではない。状況によって、社会が必要とする個性は違ってくるからである。 

【9】〔 ② 〕「自分で意識している個性」なんてものがあったら、ぎこちない人生になるであろう。俺の個性はこうだから、こうしなくっちゃ。そんなことを思いかねない。冗談じゃない、素直にしていて、そこにおのずから人と違うところがある、それを個性というのである。 

【10】素直に自分の気持ちに従わず、「こうしなくては」と思うのが世間では普通で、それは社会的役割というものがあるからである。天皇陛下はこうしなくてはならないということがたくさんあるはずで、それは社会的役割である。それを勝手に変えられたら周囲が困る。〔    ③    〕「こうしなくては」と本人も思うので、それはホンネとは違って当然である。 

【11】いまの大人は、D 社会的役割を個性つまり自分と混同していないか。社長は個性でも本人でもなく、社会的役割である。定年になればそれがわかるであろうが、現代の問題は、たとえ年配者でも「定年になるまで、それがわからない」ところにあると私は思っている。私は会社のソトの人間だから、社長も平も区別がつかない。そんなものは、私にとっては〔 ④ 〕に過ぎない。それを「〔 ⑤ 〕」だと思っているのは、そう思っているだけのことである。 」

(養老孟司『ぼちぼち結論』)

 

ーーーーーーーー

 

(設問)

問2  傍線部Bにおいて「逆に」とあるが、「何」と「何」が「逆」というのか。それぞれ10字以内で空欄を補う形で答えよ。

〔     〕と〔     〕

 

問3  傍線部Cと同趣旨の文をこの後の文中から40字以内で抜き出して、初めの5文字と終わりの5文字を記せ。

 

問4  空欄①・②・③に入る最適な言葉を次の中から、それぞれ一つずつ選べ。

ア そもそも  イ それなら  ウ それでなきゃあ

エ だから  オ だが

 

問5  空欄④・⑤に入る最適な言葉を次の中から、それぞれ一つずつ選べ。

ア 現実  イ 理想  ウ 絶対  エ 具象  オ 抽象

 

問6  傍線部Dに指摘されるような「社会的役割と個性」の混同にあたる例を次の中から一つ選べ。

ア  共演した俳優同士が恋愛関係になる。

イ  運動部の監督は選手の私生活にまで目を配るべきだ。

ウ  猛烈上司が部下にも猛烈に働くことを求める。

エ  学校では規律にやかましい先生が家ではだらしない。

オ  お笑い芸人はふだんから陽気でなければならない。

 

問7  本文の趣旨に合致するものを次の中から二つ選べ。

ア  学者は些細なことにこだわるあまり、現実というものが理解できない。

イ  個性などというものは些細な違いにすぎないのだから、そんなものにとらわれてはならない。

ウ  現代社会では個性的であることが不可欠であり、だからこそ些細な違いもおろそかにしてはならない。

エ  ひとりひとりの個人にはそれぞれの個性があり、その個性の違いに応じてそれぞれの現実がある。

オ  社会的役割こそが現実ということなのであり、それを無視して個性にこだわっても仕方がない。

カ  現代人が個性と思っているものの多くは思い違いにすぎない。

 

 ……………………………

(解説・解答)

問2(空欄補充問題・記述問題)

 「そう思う」ことと、「個性、個性という」ことが「逆」という文脈を把握することが、ポイントになります。 

(解答)

些細な違いしかない(9字)  

個性、個性という(8字)

 

問3(傍線部と同趣旨の文を抜き出す問題)

《 今度は個性、個性と逆にいう。それを強調するほうの錯覚とは、個性が「自分のなかにある」という思い込みである。 C  そもそも違いとは他人が感覚で捉えるもので、自分のなかにあるものではない。「お前は変なヤツだなあ」といわれて、「エッ、どこが」と怪訝な顔をしているのが個性であり、「私の個性はこれです」などと主張するものではない。》という文脈を理解してください。

 傍線部Cは、「個性の内容は他者評価により決定される」という内容になっています。

(解答)  相手の個性・のではない

 

問4(空欄補充問題)

 要約しようとしないで、本文を熟読・精読してください

 養老氏の表現の癖を意識して、文脈を押さえることもポイントになります。

(解答)  =ウ  =ア  =エ

 

問5(空欄補充問題)

「いまの大人は、D 社会的役割を個性つまり自分と混同していないか。社長は個性でも本人でもなく、社会的役割である。定年になればそれがわかるであろうが、現代の問題は、たとえ年配者でも「定年になるまで、それがわからない」ところにあると私は思っている。私は会社のソトの人間だから、社長も平も区別がつかない。そんなものは、私にとっては〔 ④ 〕に過ぎない。それを「〔 ⑤ 〕」だと思っているのは、そう思っているだけのことである。 」の中の、

「私は会社のソトの人間だから、社長も平も区別がつかない。そんなものは、私にとっては〔 ④ 〕に過ぎない。」

のクールな、冷淡な表現に注目してください。

 その上で、【3】段落における「現実」・「抽象」が全体のキーワードになっていることを、把握することが必要になります。

(解答)  =オ  =ア

  

問6(傍線部の具体例を選択する問題)

  「いまの大人」が、特に「サラリーマン社会に生きる大人(つまり、現代日本社会のほとんどの大人)」が、「社会的役割と個性を混同」している具体例を選択するとよいでしょう。 

(解答)  

 

問7(趣旨合致問題)

ア  本文に、このような記述はありません。

イ  本文に、このような記述はありません。

ウ  「不可欠」の部分が、言い過ぎになっています

エ  本文の趣旨に合致しています。

オ  この選択肢は問5に関連しています。筆者は「社会的役割」を「抽象」と評価しています。従って、この選択肢は誤りです。

カ  最後の2つの段落の内容に合致しています。

(解答)  エ・カ

 

 (4)「個性」・「個性崇拝」に関する養老孟司氏の見解

 

 以下では、「個性」・「個性崇拝」に関する養老孟司氏の見解を紹介・解説します。

 どれも入試頻出事項なので、よく読むようにしてください。

 

①  「個性信仰」は西洋文化に由来する(『無思想の発見』)

②  「自分さがし」批判→「自分」とは「創る」ものであって、「探す」ものではない(『無思想の発見』)

 

(概要です)

(赤字は当ブログによる強調です)

(→以下、同じです)

「日本語では、自分を表現する言葉が多く、さらに通常の一人称が場合によっては二人称に用いられることがある。日本語では一人称と二人称がしばしば行き来する。こんな言語はほかにあるか。

 日本人は実体、あるいは本心への深い確信がある。それだから言葉などはどうでもいいのである。

 俺もお前も一緒くたの世界に、ある日突然、実存的主体としての自己が侵入してきた。これを近代的自我という。日本語では、「私」は自分個人と、「公私の別」の私の両方の意味を含むので混乱がおきる。日本では過去においては、公私の私は self ではなく「家」であった。その証拠に、欧米と違って日本では相当小さな家にでもちゃんと塀があるではないか。家のそとに出れば公の世界であるが、家の中は private の世界なのである。新しい憲法は「家」を否定した。だから核家族ができた。核家族は自然にできたのではなく、憲法が作った。一方、西洋では個人が集まって家族を作る。日本と西洋では同じ家族でもベクトルが正反対なのである。憲法の一番の問題は第九条ではない。家にかんする部分である。

 自分は身体を実存だと思う。それは30年解剖をやったためであろう。数学者は数学の世界を現実と思い、ある人はお金を、ある人は社会的地位を現実だと思う。それは脳の癖である。それぞれの脳がどういう現実に長く浸かってきたかである。

 さて、そうであるならば、どのような人も自分という意識のもとで生まれてからずっと生きてきているわけである。意識というものが現実であり、実在であると思うのは当然である。

 西洋社会はキリスト教社会であり、そこでは霊魂不滅なのであるから、「変わらない私」・「自己同一性」が当然の前提とされる。西欧の「近代的自我」とは「不滅の霊魂」

の近代的な言い換えである。

 意識とは「同じ」ということである。自分が連続しているという感覚である。意識とは機能であって、実体ではない。であるとすれば、自我もまた機能であって、実体ではない。日本が封建的とかいろいろいって今までの世界を壊してきたために、何が失われたか?「自分という実体」に対する確信が失われたのである。

 だから「自分探し」が始まる。それは「感覚世界」の不在つまり経験の不足とペアである。自分とは「創る」ものであって、「探す」ものではない。大切なことは具体的な世界を身をもって知ることである。

 自分を創る作業の典型は「修行」である。叡山を走り回ったら、自分ができるのか。そんなことは知らない。しかし、伝統的にそうするのだから、できるのであろう。少なくとも、ふつうのお坊さんではなくなるはずである。それだけのことだが、人生とは「それだけのこと」に満ちている。私は三十年、解剖をやった。それだけのことである。そのあと十年、本を書いた。それだけのことである。」 (『無思想の発見』)

 

ーーーーーーーー

(当ブログによる解説)

 養老氏の見解は、歴史的・宗教的背景を踏まえており、とても説得力があります。

 このように緻密に歴史的・宗教的背景への配慮がなされているので、養老孟司氏の論考は入試頻出なのです。

 論の構成は一般常識(マスコミレベル)には沿ってはいません。

 が、入試の世界、つまり、論壇(インテリレベル)においては、日本人論・日本社会論として極めて正統的です。

 マスコミレベルにおいては、一般大衆に迎合して、あるいは、一般大衆を幼児化しようとして、または、マスコミ自身の無知ゆえなのか、欧米にもない歪んだ形の「個性崇拝」・「個性礼賛」が氾濫しています。

 そこで、養老氏は、そもそも「個性とは何か」と、「個性の本質」を考察しているのです。

 

  

③  「個性」とは「人を見る目」

④  「個性」は外部的評価によるものである

 

  『逆立ち日本論』(養老孟司・内田樹・新潮選書 )も、参考になる一冊です。

 この中で、現代日本社会における、「個性」の「奇妙な」取り扱いについて、養老孟司氏と内田樹氏が、注目するべき対談をしています。


《「個性」とは「人を見る目」》

「養老:「個性」というものは、その人に内在するものということになっていますけど、それは間違いですよ。古くから日本の世界ではそんなことを言っていません。それは「人を見る目」なんです。

 

内田:「人を見る目」が個性とは・・・・。どういうことですか?

 

養老:だって、自分の個性なんて主張したって意味がないのです。戦後、「個性」が主張され始めて何が起こったかというと、上役がサボり、教師がサボるようになりました。なぜなら上役や教師というのは、人を見る目がなくちゃできないことだったのです。それで「お前はあっち、お前はこっち」って示してやるのが本来の役目だったのです。それを「個性」という内在型にしたら自己責任だけになっちゃいました。

 入学願書に「自分の個性」とか書かせるでしょう?

 本来、「個性」というのは他人の目にどう映るかということのはずでしょう。個性なんて違って当たり前だからこそ、「お前はこういうふうに」「お前にはこれは向かない」と違いを見る目が大事なのに、それが「個性」ですべて崩れてしまった。人がどう見ようが「個性」はあるものだということになってしまいました。

  「見る目」がないと「個性」なんてないも同じです。

  他人のことがわからなくて、どうやって生きられるでしょう。

 社会は共通性の上に成り立つものです。「個性を持て」というよりも「他人の気持ちをわかるようになれ」というほうがよいはずです。

 

内田:自己評価とか自己点検というのは外部評価との「ズレ」を発見するための装置だと思うんですよ。ほとんどの人は自己評価が外部評価よりも高い。「世間のやつらはオレの真価を知らない」と思うのは向上心を動機づけるから、自己評価と外部評価がそういうふうにずれていること自体は、ぜんぜん構わないんです。でも、その「ずれ」をどうやって補正して、二つを近づけるかという具体的な問題にリンクしなければ何の意味もない。自己評価が唯一の尺度で、外部評価には耳を傾けないというのはただのバカですよ。」(『逆立ち日本論』)

 

ーーーーーーーー

(当ブログによる解説)

 この項目は、上記の予想問題の内容に関連しています。

特に、

「  本来、「個性」というのは他人の目にどう映るかということのはずでしょう。個性なんて違って当たり前だからこそ、「お前はこういうふうに」「お前にはこれは向かない」と違いを見る目が大事なのに、それが「個性」ですべて崩れてしまった。人がどう見ようが「個性」はあるものだということになってしまいました。

 「見る目」がないと「個性」なんてないも同じです。

の部分は熟読しておくべきです。

 

 

⑤  「オンリーワン」・「世界に一つだけの花」批判

 

  『超バカの壁』の中で、養老氏は、「ナンバーワンより、オンリーワン、世界に一つだけの花」に対して以下のような鋭い批判を展開していて、注目する必要があります。

 

ナンバーワンより、オンリーワン、世界に一つだけの花だ、というような言い方が支持を得ているのは戦後教育の賜物でしょうか。

 しかし、若い人には、この逆を言ってあげないと救われないと思います。あなたはただの人だというべきです。

 ナンバーワンよりオンリーワンというような表現は、その部分だけとりあげれば間違いはありません。人間はみんなそれぞれに個性を持っている独特の人なのだということは、その通りです。しかし、どうも好きになれないのです。

 そもそも「個性」というのはあるに決まっている。そこに自信があればいちいち口に出すこともない。わざわざオンリーワンだ何だと声高にいうというのは、その確信が弱いからこそだと思えるのです。他人に認めて欲しい。だからわざわざ主張をするのです。

 本当に唯一の自分の価値があることがわかっていれば、別に人に認められていなくてもいい。場合によっては引きこもっていても構わないわけです。

 ささいなことで、『それは自分らしくない』『それをやると自分ではない』というような人は逆に自分についての確信がないのです。どうもオンリーワンを主張している人は、実はこういう側の人のような気がするのです。

 そういう人は外側に何か勝手に自分で壁を作っているのです。
 それが自分だとか無理やり主張しているわけですから疲れる。それは長い間もたない。

 もっと自由でもいいのではないか。そう思うのですが、なぜか人は仕切りたがるのです。」(『超バカの壁』)

 

 

⑥  「個性」より大切なもの

 

 養老氏は『バカの壁』の中で、「『個性』より大切なもの」について、見解を展開しています。

 この論考は、かなり重要です。

 入試現代文(国語)・小論文でも、最頻出の論点です。

 以下に引用します。

 

「  本来意識というのは共通性を徹底的に追求するものなのです。その共通性を徹底的に確保するために、言語の論理と文化、伝統がある。人間の脳の特に意識的な部分というのは、個人間の差異を無視して、同じようにしよう、同じようにしようとする性質を持っている。

 一方、このところとみに、”個性”とか”自己”とか”独創性”とかを重宝する物言いが増えてきた。文部科学省も、ことあるごとに”個性”的な教育とか、”子供の個性を尊重する”とか、”独創性豊かな子供を作る”とか言っています。

 しかし、”共通了解”を追求することが文明の自然な流れだとすれば、個性強調は、おかしな話です。明らかに矛盾していると言ってよい。

 多くの人にとって共通の了解事項を広げていく。これによって文明が発展してきたはずなのに、ところがもう片方では急に”個性”が大切だとか何とか言ってくるのは話がおかしい。

 個性が大事だといいながら、実際には、よその人の顔色を窺ってばかり、というのが今の日本人のやっていることでしょう。だとすれば、そういう現状をまず認めるところから始めるべきでしょう。個性も独創性もクソも無い。

 いまの若い人を見ていて、つくづく可哀想だなと思うのは、がんじがらめの”共通了解”を求められつつも、意味不明の”個性”を求められるという矛盾した境遇にあるというところです。

 では、脳が徹底して共通性を追求していくものだとしたら、本来の”個性”というのはどこにあるか。それは、初めから私にも皆さんにもあるものなのです。なぜなら、私の皮膚を切り取ってあなたに植えたって絶対にくっつきません。・・・皮膚ひとつとってもこんな具合です。すなわち、”個性”何ていうのは初めから与えられているものであって、それ以上のものでもなければ、それ以下のものでもない。

 若い人への教育現場において、おまえの個性を伸ばせなんて馬鹿なことは言わない方がいい。

 それよりも親の気持ちが分かるか、友達の気持ちが分かるか、ホームレスの気持ちが分かるかというふうに話を持っていくほうが、余程まともな教育じゃないか。そこが今の教育は逆立ちしていると思っています」(『バカの壁』)

 

ーーーーーーーー

(当ブログによる解説)

 もっともな見解です。

 入試における頻出している正統的な意見と言えます。

 この論考は、熟読しておくべきでしょう。

 入試国語(現代文)・小論文だけではなく、これからの人生にも役立つはずです。

 

 人間は「関係性」の中で生きているのです。

 養老氏はこの点を丁寧に説明しているので、さらに、『バカの壁』から引用しておきます。

 

「  こういう状態、ー共生といってもいいし、一心同体とか運命共同体といっても構いませんーが、自然の本来の姿である。そう考えると、個性を持って、確固とした「自分」を確立して、独立して生きる、などといった考え方が、実はまったく現実味のないものだと考えられるのではないでしょうか。生物の本質から離れているのは明らかです。」(『バカの壁』)

 

  この論考は、「『個性を持って生きる』は反自然的である」と主張しているのです。

 この点は、

最近流行の「『関係性』の再評価・見直し」・「共同性」の論点

に密接に関連しています。

 そこで、以下に、

当ブログにおける「関係性」・「共同性」関連の記事

を紹介します。

 ぜひ、ご覧ください。

 

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 (5)当ブログの「個性」・「個性崇拝」関連の記事の紹介

 

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 (6)養老孟司氏の紹介 

【1】養老孟司氏の紹介

 1937年、鎌倉市生まれ。東京大学医学部卒業後、解剖学教室に入る。1995年、東京大学医学部教授を退官し、同大学名誉教授に。1989年、『からだの見方』でサントリー学芸賞を受賞。1985年以来一般書を執筆し始め、『形を読む』『解剖学教室へようこそ』『日本人の身体観』などで人体をわかりやすく解説し、『唯脳論』『人間科学』『バカの壁』『養老訓』といった多数の著作では、「身体の喪失」から来る社会の変化について思索を続けている。

 

 【2】養老孟司氏の著書の紹介

『ヒトの見方-形態学の目から』(ちくま文庫)、

『からだの見方』(ちくま文庫)、

『唯脳論』 (ちくま学芸文庫)、

『涼しい脳味噌』(文春文庫)、

『カミとヒトの解剖学』(法藏館)、

『解剖学教室へようこそ』(ちくまプリマーブックス)、

『続・涼しい脳味噌』(文春文庫)、

『バカの壁』(新潮新書)、

『まともな人』(中公新書)、

『いちばん大事なこと― 養老教授の環境論』(集英社新書)、

『死の壁』(新潮新書)、

『無思想の発見』(ちくま新書)、

『超バカの壁』(新潮新書)、

『「自分」の壁』(新潮新書)、

『文系の壁 理系の対話で人間社会をとらえ直す』(PHP新書)、

などが、あります。

 いずれも、入試頻出出典です。

 

(7)当ブログの、養老孟司氏の論考に関連する記事の紹介 

 

gensairyu.hatenablog.com

  

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 ーーーーーーーー

 

 今回の記事は、これで終わりです。

 次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

 ご期待ください。

 

  

  

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ぼちぼち結論 (中公新書)

ぼちぼち結論 (中公新書)

 

  

バカの壁 (新潮新書)

バカの壁 (新潮新書)

 

 

超バカの壁 (新潮新書 (149))

超バカの壁 (新潮新書 (149))

 

 

5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

 

 

頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

 

 

 私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。

https://twitter.com/gensairyu 

https://twitter.com/gensairyu2

 

予想問題『悲鳴をあげる身体』鷲田清一・存在の世話・存在の肯定

 (1)なぜ、この論考に注目したのか?

 鷲田清一氏は、ほとんどの難関大学の入試現代文(国語)・小論文で一度は出題されている、トップレベルの頻出著者です。

 
 最近では、センター試験、東京大学、東北大学、早稲田大学、慶應大学、上智大学等で、出題されています。

 鷲田氏の入試頻出著書としては、

『モードの迷宮』(ちくま学芸文庫)、

『じぶん・この不思議な存在』(講談社現代新書)、

『悲鳴をあげる身体』(PHP 新書)、

『「聴く」ことの力ー臨床哲学試論』(ちくま学芸文庫)、

『わかりやすいはわかりにくい? 臨床哲学講座』(ちくま新書)、

『しんがりの思想』(角川新書)

等があります。

 

 最近の難関大学では、

『わかりやすいはわかりにくい? 臨床哲学講座』(ちくま新書)

『「聴く」ことの力ー臨床哲学講座』(ちくま学芸文庫)、

からの出題が目立ちます。

 その中で、『悲鳴をあげる身体』は、長期的に頻出出典になっています。

 その内容が難関大学国語(現代文)・小論文の問題としてふさわしいので、入試国語(現代文)・小論文対策として、このブログで紹介、解説します。

 

  

悲鳴をあげる身体 (PHP新書)

 

 (2)予想問題ー『悲鳴をあげる身体』鷲田清一

 

(問題文本文)

(【1】【2】【3】・・・・は当ブログで付記した段落番号です)

【1】いのちを潰さないことには、わたしたちが生きていけないということ、このことをしっかり思いださせてくれる行事がある。NHKテレビの「ひるどき日本列島」という番組で紹介していた埼玉県のある村の祭りはその一つだ。

 

【2】つつじが満開になる季節に、赤や白のその花を毟(むし)りとって、籠いっぱいにためる。それを子どもたちが手にもち、大空を仰いで空中に花をふりまく。あるいは、たがいにかけあって戯れる。ほんとうの花吹雪である。地面が花びらの絨毯と化す。その〔   ①   〕なこと。

 

 【3】せっかく花を引きちぎること、それをあたり一面にぶちまけること。せっかく育てたもののいのちを奪うこと、それを、ふだんは掃いて清めている道に棄てること。フランスのある思想家の言葉をもじって言えば、世界が無秩序に変えられるためにある秩序のように見えてくる。

 

 【4】いずれ食べるために飼育すること、いずれ摘むために栽培すること。これは農牧業というかたちでひとびとがいとなんできたことだ。せっかくていねいに作りあげたものを壊すというわたしたちの日々のいとなみの構造だけを純粋に析出したのが、この祭りだ。

 

【5】いのちの深いやりとり、深い交感。その単純な事実を子どもたちに身をもって味わわせる祭り。あるいは、世界がこのようでもありうるということを世界は現にあるのとは別のありかた、反対のありかたもしうるということを確認する作業であると言ってもよい。つまり〔   A   〕と思われたものを〔   B   〕に変える作業・・・・。世界をひっくり返すこの愉悦は、子どもを〔   ②   〕のなかに浸す。

 

【6】 

〔  X  

 

【7】この覆いは残酷さを隠すためのものだろうが、ほんとうは、〔  甲        〕   という、もっと大事なものを隠してしまっているとは言えないか。

 

 【8】家庭と学校という場所は、〔    甲     〕ということ大事なものを深く体験するためにあるはずだった。家庭や学校で体験されるべきとても大事なこと、それについてもう少し考えてみよう。

 

ーーーーーーーー

 

(設問)

問1 空欄①・②に入る言葉を次の中から、それぞれ一つずつ選べ。

① ア 豪奢  イ 高慢  ウ 傲慢

     エ 尊大  オ 横柄

② ア 日々  イ 純粋  ウ 秩序 

     エ 陶酔  オ 不快  

 

問2 空欄A・Bに入る語句の組み合わせとして最適なものを、次の中から一つ選べ。

ア  A 無秩序  B 秩序

イ  A 人工  B 自然

ウ  A 感性  B 論理

エ  A 肯定  B 否定

オ  A 必然  B 偶然 

 

問3 空欄X( 第6段落 )には、次のア~キの七つの文章が入る。正しい順序に並び替えよ。 

ア   ひとつのいのちが別のいのちの火に変わる。

イ   それどころか、じぶんたちの誕生や死も、病院というひとの眼に触れない場所で処置するようになった。

ウ   が、宇宙的と言っていいこの単純な事実を、わたしたちはふだんひとの眼に触れないようにばかりしている。

エ   わたしたちは日々、獣を殺し、魚を釣り、葉をむしって食べている。

オ   肉や魚を切り身にし、透明ラップをかけて売ったりして。

カ   新生児も遺体もきれいにされ、衣にくるまれてから対面するようになった。

キ   そしてそれをほんとうにおいしくいただく。

 

問4 空欄甲に入るのに最適な、平仮名のみの八字の表現を、本文中の表現のみを使用して記せ。

 

……………………………

 

( 解説・解答 )

 

問1(空欄補充問題)

 空欄補充問題は、本文を精読・熟読することが必要不可欠です。 

 要約を書いて考えるようなことは、するべきではありません。

 「空欄補充問題に対応する際の要約の有害性」については、下の記事に詳しく説明しましたので、ぜひ、ご覧ください。

  

gensairyu.hatenablog.com

 

 空欄補充問題対策としては、以下の記事に丁寧な説明があります。

 ぜひ、参照してください。

  

gensairyu.hatenablog.com

 

(解答)  ①=ア   ②=エ 

 

 2(空欄補充問題)

 空欄Xの直前の「つまり」に注目してください。

   「世界が現にある」がに関連しています。

   「世界は現にあるのとは別のありかた、反対のありかたもしうるということ」が

に関連しています。

 

(解答) オ

 

 問3(文章並べ替え問題)

 文章並べ替え問題についても、その解法を以前に記事化しましたので、ぜひ、ご覧ください。

 

gensairyu.hatenablog.com

 

 まず第一に、イの「それどころか」、ウの冒頭の「が」・「この単純な事実」、カの「新生児も遺体も」、キの「それ」に着目することが必要です。

 そして、各文の内容を把握すると、

 

エ  わたしたちは日々、獣を殺し、魚を釣り、葉をむしって食べている。

キ  そしてそれをほんとうにおいしくいただく。

ア  ひとつのいのちが別のいのちの火に変わる。

 

のセットが確定します。

次に、残りの文については、

 

  が、宇宙的と言っていいこの単純な事実を、わたしたちはふだんひとの眼に触れないようにばかりしている。④

オ  肉や魚を切り身にし、透明ラップをかけて売ったりして。⑤

イ  それどころか、じぶんたちの誕生や死も、病院というひとの眼に触れない場所で処置するようになった。⑥

カ  新生児も遺体もきれいにされ、衣にくるまれてから対面するようになった。⑦

 

のセットが確定します。

 

  【7】段落の「この覆いは残酷さを隠すためのもの」から、「ウ→オ→イ→カ」のセットが後半になります。

 従って、「エ→キ→ア→ウ→オ→イ→カ」正解になります。

 

  【7】段落は、以下のような文章になります。

 

「わたしたちは日々、獣を殺し、魚を釣り、葉をむしって食べている。そしてそれをほんとうにおいしくいただく。ひとつのいのちが別のいのちの火に変わる。が、宇宙的と言っていいこの単純な事実を、わたしたちはふだんひとの眼に触れないようにばかりしている。肉や魚を切り身にし、透明ラップをかけて売ったりして。それどころか、じぶんたちの誕生や死も、病院というひとの眼に触れない場所で処置するようになった。新生児も遺体もきれいにされ、衣にくるまれてから対面するようになった。」

 

(解答)エ→キ→ア→ウ→オ→イ→カ 

 

 問4(空欄補充・記述問題)

 以下の文章を赤字部分に留意して、熟読・精読してください。

 

【5】いのちの深いやりとり、深い交感。その単純な事実を子どもたちに身をもって味わわせる祭り。あるいは、世界がこのようでもありうるということを世界は現にあるのとは別のありかた、反対のありかたもしうるということを確認する作業であると言ってもよい。つまり〔A=必然〕と思われたものを〔B=偶然〕に変える作業・・・・。世界をひっくり返すこの愉悦は、子どもを〔 ②=陶酔〕のなかに浸す。

【6】 〔  X  =わたしたちは日々、獣を殺し、魚を釣り、葉をむしって食べている。そしてそれをほんとうにおいしくいただく。ひとつのいのちが別のいのちの火に変わる。が、宇宙的と言っていいこの単純な事実を、わたしたちはふだんひとの眼に触れないようにばかりしている。肉や魚を切り身にし、透明ラップをかけて売ったりして。それどころか、じぶんたちの誕生や死も、病院というひとの眼に触れない場所で処置するようになった。新生児も遺体もきれいにされ、衣にくるまれてから対面するようになった。〕

【7】この覆いは残酷さを隠すためのものだろうが、ほんとうは、〔  甲        〕   という、もっと大事なものを隠してしまっているとは言えないか。

【8】家庭と学校という場所は、〔    甲    〕ということ大事なものを深く体験するためにあるはずだった。

 

 (解答) いのちのやりとり

 

ーーーーーーーー

 

(問題文本文)

 【9】 学校について友人と話したとき、彼がおもしろい問いをぶつけてきた。幼稚園じゃお歌とお遊戯ばかりだったのに、どうして学校に上がるとお歌とお遊戯が授業から外されるんだろうというのだ。


【10】 小学校に入ると音楽の時間に楽譜の読みかた、笛の吹きかた、合唱のしかたは習った。体育の特別授業として一学期に一、二回、フォークダンスの練習もした。が、どちらの時間も生徒だった頃のわたしはてれにてれた、あるいはふてくされた。なにか恥ずかしかったからである、おもしろくなかったからである。ひとといっしょに歌うのは楽しいはずである。踊るのも楽しいはずである。ついこのあいだも見物してきたのだが、知人がやっている阿波踊りの連の練習会を見ているだけでもそれは分かる。みんな同じように踊りながら、みんなどことなく違う。勝手に踊っている。音楽や体育の時間は、音と動作をきっちり揃えることが要求される。それがつまらない理由だ。もともとみんなで同じような動作をすることは楽しいのだが、同じ動作をするのはいやなのだ。ファッションだってそう。みんなよく似た服装をしているが(していないと不安だが)、同じ服装は絶対にいやなのだ。


【11】 幼稚園では、いっしょに歌い、いっしょにお遊戯をするだけでなく、いっしょにおやつやお弁当も食べる。他人の身体に起こっていることを生き生きと感じる練習だ。そういう作業がなぜ学校では軽視されるのか、不思議なかんじがする。ここで他者への想像力は、幸福の感情と深くむすびついている。

 

【12】生きる理由がどうしても見当たらなくなったときに、じぶんが生きるにあたいする者であることをじぶんに納得させるのは、思いのほかむずかしい。そのとき、死への恐れは働いても、生きるべきだという倫理は働かない。生きるということが楽しいものであることの経験、そういう人生への肯定が底にないと、死なないでいることをじぶんでは肯定できないものだ。お歌とお遊戯はその楽しさを体験するためにあったはずだ。永井均は最近の著作のなかでこう書いている。『子供の教育において第一になすべきことは、道徳を教えることではなく、人生が楽しいということを、つまり自己の生が根源において肯定されるべきものであることを、体におぼえこませてやることである』と(『これがニーチェだ』)。あるいは、幼児期に不幸な体験があったとして、それに代わるものを、それに耐えられるだけの力を、学校はあたえうるのでなければその存在理由はない。だれかの子として認められなかった子どもに、その子を『だれか』として全的に肯定することで、〔  乙  〕をあたえうるのでなければ、その存在の意味がない。


【13】近代社会では、ひとは他人との関係の結び方を、まず家庭と学校という二つの場所で学ぶ。養育・教育というのは共同生活のルールを教えることではある。が、ほんとうに重要なのは、ルールそのものではなくて、むしろルールがなりたつための前提がなんであるかを理解させることであろう。社会において規則がなりたつのは、相手も同じ規則に従うだろうという相互の期待や信頼がなりたっているときだけである。他人へのそういう根源的な〈信頼〉がどこかで成立していないと、社会は観念だけの不安定なものになる。


【14】幼稚園でのお歌とお遊戯、学校での給食。みなでいっしょに身体を使い、動かすことで、他人の身体に起こっていること(つまり、直接に知覚できないこと)を生き生きと感じる練習を、わたしたちはくりかえしてきた。身体に想像力を備わせることで、他人を思いやる気持ちを、つまりは共存の条件となるものを、育んできたのである。

 

【15】さて家庭では、ひとは、<信頼>のさらにその基礎となるものを学ぶ。というより、からだで深く憶える。<親密さ>という感情である。

 

【16】家庭という場所、そこで人はいわば〔 丙 〕で他人の世話を享(う)ける。言う事を聞いたからとか、おりこうさんにしたらとかいった理由や条件なしに、自分がただここにいるという、ただそういう理由だけで世話をしてもらった経験がたいていのひとにはある。こぼしたミルクを拭ってもらい、顎や脇の下、指や脚の間を丹念に洗ってもらった経験・・・・。そういう ③ 「存在の世話」 を、いかなる条件や留保もつけずにしてもらった経験が、将来自分がどれほど他人を憎むことになろうとも、最後のぎりぎりのところでひとへの<信頼>を失わないでいさせてくれる。そういう人生への〔    丁 〕感情がなければ、ひとは苦しみが堆積するなかで、最終的に、死なないでいる理由をもちえないだろうと思われる。

【17】

〔  Y  

 

【18】逆にこういう経験があれば、他人もまた自分と同じ「一」として存在すべきものとして尊敬できる。かわいがられる経験。まさぐられ、遊ばれ、いたわられる経験。人間の尊厳とは、最終的にそういう経験を幼い時に持てたかどうかにかかっている。人間の尊厳とは最終的にそういう経験を幼いときにもてたかどうかにかかっているとは言えないだろうか。

 

ーーーーーーーー

 

(設問)

 

問5 空欄乙に入る五字以内の語句を本文から抜き出して記せ。

 

問6 空欄丙に入る四字以内の語句を本文から抜き出して記せ。

 

問7 傍線部③「存在の世話」とあるが、ここでは、「存在」とは、どういう意味か。最適なものを一つ選べ。

ア  宇宙的とも言っていい単純な事実

イ  じぶんが、ただここにいるということ

ウ  じぶんたちの誕生や死

エ  死なないでいること

オ  幼児期の不幸な体験

 

問8 空欄丁に入る最適な二字の語句を本文から抜き出して記せ。

 

問9 空欄Y(第17段落)には、次のア~オの五つの文章が入る。正しい順序に並び替えよ。

ア こういう経験がないと、一生どこか欠乏感をもってしか生きられない。

イ その経験があれば、母がじぶんを産んでしばらくして死んでも耐えられる。

ウ つまりじぶんを、存在する価値のあるものとして認めることが最後のところでできないのである。

エ あるいは、生きることのプライドを、追いつめられたぎりぎりのところでもてるかどうかは、じぶんが無条件に肯定された経験をもっているかどうか、わたしがわたしであるというだけでぜんぶ認められ世話されたことがあるかどうかにかかっていると言い換えてもいい。

オ あるいは、じぶんが親や他人にとって邪魔な存在ではないのかという疑いをいつも払拭できない。

 

問10 次の文の中で、本文の内容に合致するものを選べ。ただし、正解は一つとは限らない。

ア  学校では、いのちのやりとりを学ぶ機会が、案外多いと言える。

イ  花を引きちぎり、あたり一面にぶちまけるような祭りは、資源保護に反するので、教育上規制するべきである。

ウ  じぶんが生きるに値する価値があるか否かを認識することは意外に難しいので、生きていくためには、じぶんの存在を肯定されることが必要と言える。

エ  養育や教育は、共同生活のルールを教えることであるから、幼稚園では、歌や遊戯でそのルールを身体に覚えさせている。

オ  存在の世話を自分自身に対してしても、そこに意味はない。

カ  自分の存在理由は自分で捜すしかないので、自己責任の問題である。

キ  他者の存在の承認には、様々な点でリスクがあるので、慎重におこなうべきである。

ク  人間の尊厳とは、じぶんが無条件に肯定された経験をもっているかどうかに関係していると言える。

 

……………………………

 

( 解説・解答 )

問5(空欄補充・記述問題)

 【12】段落を赤字部分に着目して、熟読・精読するとよいでしょう。

 

「  生きる理由がどうしても見当たらなくなったときに、じぶんが生きるにあたいする者であることをじぶんに納得させるのは、思いのほかむずかしい。そのとき、死への恐れは働いても、生きるべきだという倫理は働かない。生きるということが楽しいものであることの経験、そういう人生への肯定が底にないと、死なないでいることをじぶんでは肯定できないものだ。お歌とお遊戯はその楽しさを体験するためにあったはずだ。永井均は最近の著作のなかでこう書いている。『子供の教育において第一になすべきことは、道徳を教えることではなく、人生が楽しいということを、つまり自己の生が根源において肯定されるべきものであることを、体におぼえこませてやることである』と(『これがニーチェだ』)。あるいは、幼児期に不幸な体験があったとして、それに代わるものを、それに耐えられるだけの力を、学校はあたえうるのでなければその存在理由はない。だれかの子として認められなかった子どもに、その子を『だれか』として全的に肯定することで、〔  乙  〕をあたえうるのでなければ、その存在の意味がない。

 

(解答) 存在理由

  

問6(空欄補充・記述問題)

 空欄丙を含む一文が【16】段落の冒頭部分になっていることに注目してください。

  【16】段落の前半部分は、空欄丙を含む一文の説明になっています。

    また、【17】段落は【16】段落と密接に関連しています。

 従って、【16】・【17】段落を赤字部分に着目して熟読・精読することが必要です。

 

【16】家庭という場所、そこで人はいわば〔 丙 〕で他人の世話を享(う)ける。

言う事を聞いたからとか、おりこうさんにしたらとかいった理由や条件なしに、自分がただここにいるという、ただそういう理由だけで世話をしてもらった経験がたいていのひとにはある。こぼしたミルクを拭ってもらい、顎や脇の下、指や脚の間を丹念に洗ってもらった経験・・・・。そういう  ③「存在の世話」 を、いかなる条件や留保もつけずにしてもらった経験が、将来自分がどれほど他人を憎むことになろうとも、最後のぎりぎりのところでひとへの<信頼>を失わないでいさせてくれる。そういう人生への〔    丁  〕肯定感情がなければ、ひとは苦しみが堆積するなかで、最終的に、死なないでいる理由をもちえないだろうと思われる。

【17】あるいは、生きることのプライドを、追いつめられたぎりぎりのところでもてるかどうかは、じぶんが無条件に肯定された経験をもっているかどうか、わたしがわたしであるというだけでぜんぶ認められ世話されたことがあるかどうかにかかっていると言い換えてもいい。その経験があれば、母がじぶんを産んでしばらくして死んでも耐えられる。こういう経験がないと、一生どこか欠乏感をもってしか生きられない。あるいは、じぶんが親や他人にとって邪魔な存在ではないのかという疑いをいつも払拭できない。つまりじぶんを、存在する価値のあるものとして認めることが最後のところでできないのである。

  

(解答) 無条件

 

問7(傍線部説明問題)

 「存在の世話」における「存在」の意味が問われています。

 傍線部③を含む【16】段落の

「家庭という場所、そこで人はいわば〔 丙=無条件 〕で他人の世話を享(う)ける。言う事を聞いたからとか、おりこうさんにしたらとかいった理由や条件なしに、自分がただここにいるという、ただそういう理由だけで世話をしてもらった経験がたいていのひとにはある。」

の文脈を把握してください。

「イ  じぶんが、ただここにいるということ」が正解になります。

 

 (解答) イ

 

問8(空欄補充・記述問題)

 空欄丁を含む【16】段落が【12】段落を受けていることを読み取ってください。

 そのうえで、【12】段落を熟読・精読する必要があります。

 特に、赤字部分に注意してください。

 

【12】生きる理由がどうしても見当たらなくなったときに、じぶんが生きるにあたいする者であることをじぶんに納得させるのは、思いのほかむずかしい。そのとき、死への恐れは働いても、生きるべきだという倫理は働かない。生きるということが楽しいものであることの経験、そういう人生への肯定が底にないと、死なないでいることをじぶんでは《肯定》できないものだ。お歌とお遊戯はその楽しさを体験するためにあったはずだ。永井均は最近の著作のなかでこう書いている。『子供の教育において第一になすべきことは、道徳を教えることではなく、人生が楽しいということを、つまり自己の生が根源において《肯定》されるべきものであることを、体におぼえこませてやることである』と(『これがニーチェだ』)。あるいは、幼児期に不幸な体験があったとして、それに代わるものを、それに耐えられるだけの力を、学校はあたえうるのでなければその存在理由はない。だれかの子として認められなかった子どもに、その子を『だれか』として全的に《肯定》することで、〔 =存在理由 〕をあたえうるのでなければ、その存在の意味がない。

 

(解答) 肯定

 

問9(文章並べ替え問題)

 まず第一に、アの「こういう経験」、イの「その経験」、ウの「つまり」、エの「あるいは」・「と言い換えてもいい」、オの「あるいは」に着目してください。

 そうすると、

 

エ あるいは、生きることのプライドを、追いつめられたぎりぎりのところでもてるかどうかは、じぶんが無条件に肯定された経験をもっているかどうか、わたしがわたしであるというだけでぜんぶ認められ世話されたことがあるかどうかにかかっていると言い換えてもいい。

その経験があれば、母がじぶんを産んでしばらくして死んでも耐えられる。

 

というセットは、すぐに確定できるでしょう。

 次に、ア、ウ、オは、以下のように、それぞれの文の赤字部分に注目するとよいでしょう。

 

ア こういう経験がないと、一生どこか欠乏感をもってしか生きられない。

オ あるいは、じぶんが親や他人にとって邪魔な存在ではないのかという疑いをいつも払拭できない。

ウ つまりじぶんを、存在する価値のあるものとして認めることが最後のところでできないのである。

 

  【18】段落の内容に注目すると、「ア→オ→ウ」が後半になることが分かります。

 

(解答)  エ→イ→ア→オ→ウ

 

問10 (趣旨合致問題)

 趣旨合致問題の解法のポイントについては、下の記事で丁寧に説明したので、ぜひ、ご覧ください。

 問題文本文を読む前に、設問を見ることが大切です。

 設問のポイントのみ、チェックできれば、それでよいのです。

 割り切ることが必要です。

 

  今回の趣旨合致問題は、標準レベルで素直な問題です。

 

gensairyu.hatenablog.com

 

(解答) ウ・ク

 

 

(3)「存在の肯定」・「存在の承認」・「存在の贈与」についての補足説明 

 

 「存在の肯定」・「存在の承認」・「存在の贈与」は、鷲田氏の論考におけるキーワードです。

 「存在の肯定」・「存在の承認」・「存在の贈与」は、難解な側面があります。

 従って、簡単に理解しようとはしないで、鷲田氏の様々な文章を読み、じっくり考えるようにした方がよいと思います。

 その点で、以下の『「聴く」ことの力』 における論考は、「存在の肯定」・「存在の承認」「存在の贈与」を考えるうえで、かなり参考になるでしょう。

 

生きる理由がどうしても見当たらなくなったときに、じぶんがほんとうに生きるにあたいする者であることをじぶんに納得させるのが、思いのほかむずかしい。

生きるということが楽しいものであることのたっぷりとした経験、そういう人生への肯定が底にないと、ひとはじぶんが死なないでいることをじぶんでは肯定できないものだ。

しかし、この経験がたっぷりとはできなかったらどうか。

そのときには、他者がそれを贈るのである。

他者をそのままそっくり肯定すること、条件をつけないで。

こういう贈り物ができるかどうかは、ふたたびそのひとが、つまり贈るひと自身が、かつてたった一度きりであっても、無条件でその存在を肯定された経験があるかどうかにかかっている。

相手の側からすれば、他者の存在をそっくりそのまま受容してなされる。

「存在の世話」とでもいうべき行為である。

ケアの根っこにあるべき経験とはそういうものではなかろうか。

 

 また、『死なないでいる理由』の中の、以下の文章は、今回の記事で取り上げた『悲鳴をあげる身体』の一節と、ほとんど同内容ですが、味わい深いものがあります。

 

「こぼしたミルクを拭ってもらい、便で汚れた肛門をふいてもらい、顎や脇の下、指や脚のあいだを丹念に洗ってもらった経験。

そういう「存在の世話」を、いかなる条件も保留もつけずにしてもらった経験が、将来じぶんがどれほど他人を憎むことになろうとも、最後のぎりぎりのところでひとへの<信頼>を失わないでいさせてくれる。

そういう人生への肯定感がなければ、ひとは苦しみが堆積するなかで、最終的に、死なないでいる理由をもちえないだろうとおもわれる。

 

 

 (4)当ブログの、鷲田清一氏の論考に関連する記事の紹介

 

 鷲田清一は、入試国語(現代文)・小論文におけるトップレベルの頻出著者なので、意識して、鷲田氏の論考を読むようにしてください。

  

gensairyu.hatenablog.com

 

gensairyu.hatenablog.com

 

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gensairyu.hatenablog.com

  

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 ーーーーーーーー

 

今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

ご期待ください。

 

   

 

 

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悲鳴をあげる身体 (PHP新書)

悲鳴をあげる身体 (PHP新書)

 

 

 

頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

 

 

5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

 

 

 私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。

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予想出典・『永遠平和のために』カント・平和・移民問題・グローバル化

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 

 最近では、民族紛争・宗教対立・英国のEU離脱・トランプ現象など、国際関係・外交問題・グローバル化関連のニュース・論考が非常に多くなっています。

 最近の大学入試国語(現代文)・小論文でも、これらに関連する政治哲学・政治学関連の論考の出題が増加しています。

 その際に、大哲学者カントの『永遠平和のために』が引用されたり、論考の対象になることが多いのです。

 従って、教養・予備知識として、カントやこの本について知っておくことは、国語(現代文)・小論文対策として、大切なことだと思います。

 従って、今回の記事では、『永遠平和のために』の解説をしていきます。

 

 以下の記事の項目は、次のようになっています。記事は約1万字です。

 

(2)「日本の鎖国を賢明と評した哲学者カント」(孫崎享・『日刊ゲンダイ』2017・4・22「日本外交と政治の正体」)の解説

(3)『永遠平和のために』の解説

(4)「歓待の思考」・「訪問権」、「日本の鎖国」について

(5)2003早稲田大学法学部国語(現代文)(「歓待の思考」(『主権のかなたで』)鵜飼哲)の解説

(6)『NHK100分de名著カント  永遠平和のために 』(2016・8)の紹介・解説

 

  

 (2)「日本の鎖国を賢明と評した哲学者カント」(孫崎享・『日刊ゲンダイ』2017・4・22「日本外交と政治の正体」)の解説

 

  『日刊ゲンダイ』(2017年4月22日「日本外交と政治の正体」)に、「日本の鎖国を『賢明』と評した哲学者カント」という孫崎 享氏の、以下のような論考が掲載されました。その一部を引用します。

 

(概要です)

(青字は当ブログによる「注」です)

ドイツの哲学者カント(1724~1804年)が近世最大の哲学者であることには異論がないだろう。1795年に出版された政治哲学の著書「永遠平和のために」は、欧州各国が今のような平和的な関係を築き上げていくうえで「貢献」したことも多くの人は知っている。
 だが、「永遠平和のために」の中で、日本の鎖国を「賢明であった」と評価しているのを知っている人は果たしてどれだけいるだろうか。カントは著書の中で、こう書いている。

 われわれの大陸の文明化された諸国家、とくに商業活動の盛んな諸国家の非友好的な態度をこれと比較してみると、かれらがほかの土地やほかの民族を訪問する際に(訪問することはかれらにとってそこを征服すると同じことを意味するが)示す不正は驚くべき程度に達している。

 アメリカ、黒人地方、香料諸島、喜望峰などは、それらが発見されたとき、かれらにとっては誰にも属さない地であるかのようであったが、それは彼等が住民を無に等しいとみなしたからである。


 東インドでは、かれらは、商業支店を設けるだけという口実の下に、軍隊を導入した。それとともに原住民を圧迫し、その地の諸国家を扇動して、広範な範囲におよぶ戦争を起こし、飢え、反乱、裏切りその他人類を苦しめるあらゆる災厄を嘆く声が数えたてるような悪事を持ち込んだのである。


 それゆえ中国と日本はこれらの来訪者を試した後で、次の措置をとったのは賢明であった(として鎖国に言及)。(→当ブログによる注→(カントの記述)「すなわち前者は来訪は許したが入国は許さず、後者は来訪すらもヨーロッパ民族の一民族にすぎないオランダ人にだけ許可し、しかもその際に彼らを囚人のように扱い、自国民との交際から閉め出したのである」)


 カントが、〈諸国家を扇動して、広範な範囲におよぶ戦争を起こし、飢え、反乱、裏切りその他人類を苦しめるあらゆる災厄を持ち込んだ〉とは、まさに米国の中東政策そのものであり、朝鮮半島でも「諸国家を扇動して」、「災難」を持ち込もうとしている。 

 

ーーーーーーーー

 

(当ブログによる解説) 

 外交問題の専門家である孫崎享氏が、カントの言葉を引いて、現在の世界政治の問題点について論考を発表している点に、私は注目しました。

 孫崎氏の見識、カントの言葉の重み、に注目したのです。

 

 カントの過去の言葉は、「現在の世界政治の混乱」を読み解く際の、「本質的な視座」を示唆してくれるのです。

 それだけ、カントの考察が、「人間の行動の根源」を突いているからでしょう。

 

 以上の文章におけるカントの『永遠平和のために』から引用部分は、『永遠平和のために』の中で、「第二章の第三確定条項」を説明する所に記述されています。

 つまり、カントは、海外に進出している西洋諸国の、アフリカ・アジアなどにおける侵略的な外交姿勢を批判し、中国と日本の鎖国政策を、ある程度、賢明な措置と判断しているのです。

 この点について、さらに解説していきます。

 

永遠平和のために (岩波文庫)

 

(3)『永遠平和のために』の解説

 

 まず、「本書の目次」を紹介します。

 この「目次」は、ある程度、要約のようになっているので、丁寧に読んでいくと、『永遠平和のために』の概要が分かるでしょう。

 

ーーーーーーーー


『永遠平和のために』(カント (著)/ 宇都宮芳明 (訳) 岩波文庫)

【目次】

永遠平和のために

 

第一章 この章は、国家間の永遠平和のための予備条項を含む

 第一条項 将来の戦争の種をひそかに保留して締結された平和条約は、決して平和条約と見なされてはならない 。

 第二条項 独立しているいかなる国家(小国であろうと、大国であろうと、この場合問題ではない)も継承、交換、買収、または贈与によって、他の国家がこれを取得できるということがあってはならない。

 第三条項 常備軍は、時とともに全廃されなければならない。

 第四条項 国家の対外戦争にかんしては、いかなる国債も発行されてはならない。

 第五条項 いかなる国家も、他の国家の体制や政治に暴力をもって干渉してはならない。

 第六条項 いかなる国家も、他国との戦争において、将来の平和時における相互間の信頼を不可能にしてしまうような行為をしてはならない 。

 

第二章 この章は、国家間の永遠平和のための確定条項を含む

 第一確定条項 各国家における市民的体制は、共和的でなければならない。

 第二確定条項 国際法、自由な諸国家の連合制度に基礎を置くべきである。

 第三確定条項 世界市民法は、普遍的な友好をもたらす諸条件に制限されなければならない。

(→上記の孫崎氏の論考は、この条項(「歓待の思考」・「訪問権」)に関連しています。詳しくは、以下に解説します。)
  
第一補説 永遠平和の保証について

第二補説 永遠平和のための秘密条項(1796)

 

付録 
一 永遠平和という見地から見た道徳と政治の不一致について
二 公法の先験的概念による政治と道徳の一致について

 

 ーーーーーーーー

 

(当ブログによる解説) 

 

「第一章 第三条項 常備軍は、時とともに全廃されなければならない。」

「第一補説 永遠平和の保証について」

が、少々、理想主義的ですが、全体としては、現実主義的と評価できると思います。

 この点については、この記事の 「(6)『NHK100分de名著  カント  永遠平和のために』」で、改めて解説します。

 

 

(4)「歓待の思考」・「訪問権」、「日本の鎖国」について

 

 『永遠平和のために』においては、上記の孫崎氏の文章における〈カントの『永遠平和のために』からの引用部分〉の前に、「第二章の第三確定条項」を説明する記述があります。

 この記述は、一般的に、政治哲学・政治学の分野においては、「訪問権」・「歓待の思考」についての記述と言われています。

 以下のようになっています。

 

 (青字は当ブログによる「注」です)

「外国人が要求できるのは、客人の権利(この権利を要求するには、かれを一定の期間家族の一員として扱うという、好意ある特別な契約が必要となろう)ではなくて、訪問の権利である。この権利は、地球の表面を共同に所有する権利に基づいて、たがいに交際を申し出ることができるといった、すべての人間に属している権利である。人間は、もともとだれひとりとして、地上のある場所にいることについて、他人よりも多くの権利を所有しているわけではない。(→すなわち、いかなる個人も他国を訪れた際に、「歓待」される権利を持つのです )」(『永遠平和のために』第二章第三確定条項より)

 

 しかし、当時の世界状況は、カントの見解とは、かなり異なっていました。

 西欧諸国は,通商・布教などを名目として、自国の権益拡大を世界各地で実施していました。

 カントには、それらの行為は,あまりに強権的・強圧的に見えたのでしょう。

 そのために、孫崎享氏の引用した、以下のような見解を述べたのです。

 

 「われわれの大陸の文明諸国家、特に商業活動の盛んな諸国家の非友好的な態度を比較してみると、かれらがほかの土地やほかの民族を訪問する際に(訪問することは、かれらにとって、そこを征服することと同じことを意味するが)示す不正は恐るべき程度にまで達してしている。
 アメリカ、アフリカ、香料諸島、喜望峰などは、それらが発見されたとき、かれらにとっては、だれにも属さない土地であるかのようであったが、それは彼らが先住民たちを無に等しいとみなしたからである。

 東インドでは、かれらは商業支店を設けるだけだという口実の下に軍隊を導入したが、しかし、それとともに先住民を圧迫し、その諸国家を扇動して、広範な範囲におよぷ戦争をおこし、飢え、反乱、裏切り、そのほか人類を苦しめるあらゆる災厄と同様の悪事をもちこんだのである。
 それゆえ、中国と日本が、これらの来訪者を試した後で、つぎの措置をとったのは賢明であった。すなわち、中国は、来航は許したが入国は許さず、日本は来航すらもヨーロッバ民族の一民族にすぎないオランダ人だけに許可し、しかも、その際かれらを囚人のようにあつかい、自国民との交際に制限をあたえたのである。」(『永遠平和のために』)


 近代になり、ヨーロッパの強権的・強圧的な海外進出をくい止める措置として,中国(清朝)、日本(徳川幕府)などの国が,鎖国政策をとったことを、カントは「賢明な措置」として肯定しています。

 カントはケンペルの「旅行記」などを通して,日本が鎖国政策に踏み切らざるを得ない理由を、ある程度理解していたのでしょう。

 

 ケンペルは『日本誌』(今井正編訳・霞ヶ関出版)の付録第二章「もっともな理由のある日本の鎖国」で、以下のような見解を述べています。

 

(概要です)

「日本人の場合は、異国との交わりは、ただ生活のため、便益のため、贅沢のために必要な物資を入手する方便であることは、だれも否定しないであろう。
 人類の繋りの基盤がここに置かれているならば、自然にめぐまれ、あらゆる種類の必要物資を豊富に授かっており、かつその国民の多年にわたる勤勉な努力によって国造りが完成している国家としては、自分からは何も求めるものがない外国にたいしては、外国人どもの計略にのらず、貪慾をはねかえし、騙されないようにし、戦いをしないようにして、その国民と国境を守ることが上策であり、また為政者の義務でもある。

 それは、たしかに納得できる国家の行き方であろう。日本は他の世界諸国に比べて、このような有利な条件に恵まれている国である。」

 

ーーーーーーーー

 

(当ブログによる解説)


 江戸幕府の鎖国政策は、日本においても、明治以降、全面的に否定的な評価を受けてきましたが、ケンペルの見解は、それとは正反対です。

 ケンペルは、当時の世界と日本の状況を踏まえた上で、日本には、鎖国をする論理的根拠があるとしています。

 当時の西洋に、日本の鎖国に対して一定の評価をしている知識人がいたという事実は、現代の日本人が、ぜひとも知っておくべきことです。

 近代的な西洋的価値観(明治時代以降の日本国・日本人の価値観そのもの)に染まり、日本の鎖国を全否定することはないのです。

 

 

 (5)2003早稲田大学法学部国語(現代文)(「歓待の思考」(『主権のかなたで』)鵜飼哲)の解説


 次に、『永遠平和のために』の中の「歓待の思考」から出題された入試国語(現代文)問題として有名な、2003年の早稲田法学部の問題について解説します。

 この問題文本文は、『永遠平和のために』の「第二章 第三確定条項 世界市民法は、普遍的な友好をもたらす諸条件に制限されなければならない。」を説明しているカントの記述の引用から始まります。 

 以下に引用します。

 

(概要です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

「『世界公民法は普遍的な好遇についての諸条件に限られるべきである』

この条項で提起されているのは博愛ではなくて、権利についてである。そして、ここで歓待(よい待遇)というのは、外国人が他国の土地に足を踏み入れたというだけの理由で、その国の人間から敵としての扱いを受けない権利のことである。その国の人間は、彼の生命に危険のおよばない方法でするかぎり、その外国人を退去させることはできる。しかし彼が彼の居場所で平和にふるまうかぎり、その外国人に敵としての扱いをしてはならない。もっとも彼が要求できるのは、滞在権((そのためには、この権彼をしばらく家族の一員として扱うという、特別の好意ある契約が必要とされるであろう))ではなくて、訪問権である。この権利は、地球表面の共同所有権に基づいて互いに友好を結び合うよう、すべての人間にそなわる権利である。つまり、地球の表面は球面で、人間は無限に分散して拡がることはできず、結局は並存することを互いに忍び合わなくてはならないが、しかし根源的には誰ひとりとして地上のある場所にいることについて、他の人より多くの権利を持つ者ではないからである。」

  

 この引用文の直後で、著者・鵜飼哲氏は、以下のような重要な考察をしています。

「  生まれてきたときには、誰もがこの世に「客」としてやってくるほかはないのであり、そこでいわば最初の歓待の経験をするということに関してである。

 この「起源」の歓待は、単に、その名が示すような「歓び」だったわけではないだろう。この世界の「客」となったばかりの新生児は、たとえ歓待を受けようと、まだ、笑ってはいない。「初めに」「客」であったことは、おそらく、死にも比すべき外傷でさえあるだろう。主権が主権である限りその核に持ち続ける残酷さ、かつての日本の外務官僚の、「外国人は煮て食おうと焼いて食おうと主権国家の自由」という発言にみられるような恐るべき残酷さは、このような外傷に対する反動として考察したとき、はじめてその本質が垣間見えるのではないだろうか。」


 この世に生を受け、そして、生きるということの、歓待に付随する「不快感」が外傷のように心の底に残り、「主権」という仕組みのもとで排外的な心情を生み出していく、と鵜飼氏は説明しています。

 日常の空間に、まるで「客」のように到来する存在(たとえば「路上生活者」)に対する、排他的な感情の根本に、このような「不快感」があるのではないか、と鵜飼氏は主張しているのです。

 そして、鵜飼氏は、日本国の出入国管理法の残酷さ、排外主義的伝統を批判します。

 グローバリゼーションの進行や、少子化による労働力不足に付随して発生するであろう「移民」の問題などが、具体的・歴史的な場で思考されるためには、カントのいう「歓待の思考」の発想が要請されるとしています。

 

 この問題の「本文全体の要約」としては、以下のようになります。

「グローバリゼーションの進行の中で、地球の表面をすべての人間が権利として共有するという歓待の思考が現実化されつつある。しかし、これに、よそ者を排除する力を持つ主権が立ちはだかる。従って、歓待の思考は、思考だけではなく、社会・国家のレベルの具体的・歴史的現実の中で、この主権を対象化し、制限しなければならない。それは、また日本人一人一人が排外主義を脱して、自己を再発明することをも意味するのである。」

 

 

 なお、この論考が含まれている『主権のかなたで』は、全体として、以下のような内容になっています。

 

「  国民国家や市民社会の「よそ者」として排除され、不安定な生を強いられる人々。排除の根源にある「主権」の論理に対置すべき「歓待」の原理とは何か。排除に抵抗する実践の理路はどのようなものでありうるのか。デリダ、サイード、シュミットらのテクストに向き合い、世紀転換期の激動を凝視しつつ、来たるべき世界の予兆を探る繊細な思索の記録。

 収録されている論考のほとんどは、1995年から2005年の10年間に、つまり世紀転換期に書かれています。それは、20世紀の終わりと21世紀の始まりというだけでなく、戦後50年であった1995年という転換点と、2001年の〈9・11〉という転換点を含んだ時期の思考と抵抗の軌跡でもあります。」(「表紙カバー」より)

 

 

(6)『NHK100分de名著カント  永遠平和のために 』(2016・8)の紹介・解説

 

 カントの「平和」についての考え方を知るために、本書と『永遠平和のために』(岩波文庫)を併読することを、おすすめします。

 

  『 NHK100分de名著 カント  永遠平和のために 』(番組の解説者は津田塾大学教授の萱野稔人(かやの・としひと)氏です)のWeb上の解説が、『 永遠平和のために』の理解のために秀逸なので、以下に引用します。

 

(概要です)

(赤字、太字は、当ブログによる「強調」です) 

「  人間の本性は「邪悪なもの」であり「戦争すること」である

 18世紀ドイツの哲学者イマヌエル・カントが生きた時代は、ヨーロッパの多くの国が王権を巡る争いや植民地獲得のための競争に明け暮れていました。この情勢を憂えたカントは著書『永遠平和のために』の中で、人間の本性は邪悪であり戦争に向かうのは当然だと説きました。この考えの意味するところを、津田塾大学教授の萱野稔人(かやの・としひと)さんに解説していただきます。

* * *

 カントがいかに現実主義者だったかは、彼の人間観にも現れています。その人間観はかなり悲観的です。人間はもともと道徳を備えているとも、道徳的に完成できるとも言っていません。「人間は邪悪な存在である」というのが、カントのそもそもの出発点です。それをはっきり示しているのが「軍事国債の禁止」にある次の文章です。

 

「国債の発行によって戦争の遂行が容易になる場合には、権力者が戦争を好む傾向とあいまって(これは人間に生まれつきそなわっている特性のように思える)、永遠平和の実現のための大きな障害となるのである。」
(『永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編』中山元訳、光文社古典新訳文庫)以下同

 

 つまりカントは、「人間にはもともと戦争を好む傾向があるので、国債を発行していくらでも金が手に入るようになると、その傾向に火がついて軍備をどんどん拡張し、しまいには戦争をはじめてしまう」と言っているのです。人間の本質を「邪悪」ととらえた箇所として、以下の一節も重要です。

 

「戦争そのものにはいかなる特別な動因も必要ではない。戦争はあたかも人間の本性に接ぎ木されたかのようである。」

 

 戦争は、相手が自分に対してなんらかの利害対立や敵意を持つからこそ起こる、と多くの人は思っているでしょう。しかしカントは、戦争すること自体が人間の本性だから、特別な原因がなくても戦争は起こる──というのです。

 現代に生きる私たちは、武器を持たずに人ごみのなかを無防備に歩くことができますが、それは法の支配が確立されているからであって、じつは見ず知らずの人びとのなかを丸腰で歩けることのほうが歴史的にみれば奇跡的な状態なのです。カントの言葉を引いてみましょう。


「ともに暮らす人間たちのうちで永遠平和は自然状態(スタトゥス・ナーチューラーリス)ではない。自然状態とはむしろ戦争状態なのである。つねに敵対行為が発生しているわけではないとしても、敵対行為の脅威がつねに存在する状態である。」


 こうした自然状態を戦争状態とみるという考え方は、カントがオリジナルではなく、17世紀に活躍した思想家トマス・ホッブズに端を発する「社会契約説」を下敷きにしています。社会契約説とは、どのように人間が国家をつくったのかを論じたもので、要約すると、国家の成り立ちを次のように考えます。


「法秩序が存在しない自然状態では、人間は常に自分の利益だけを考えて行動する。それゆえに放っておくと戦争状態へと向かい、生存さえ危うくなってしまう。そこで命や一定の権利を守るために、人間は相互にルールを守るという契約を結び、それが国家(政府)になった」

 

 カントもこの社会契約説を支持し、人間の本性は邪悪で戦争に向かうのは当然だと考えました。この考えは人類の歴史をみれば正しく、人間は本来平和的だったと道徳的に主張することはナンセンスです。戦争に向かうのは人間の本性として当たり前なのだから、それを異常なものだと特別視してしまうと問題の本質を見誤ります。


 カントにとって大事なのは「なぜ戦争が起こるか」ではなく、「どうすれば戦争が起きなくなるか」です。この問いの転換こそが『永遠平和のために』を読み解く際の重要な鍵となりますので、ここでぜひ頭に入れておいてください。

(『 NHK100分de名著 カント 永遠平和のために 』のWeb上の解説より)

 

 ーーーーーーーー

 

(当ブログによる解説)

 本書のカントは、「自然状態とは戦争状態」という前提に立ち、その上で、独立国家同士が牽制しつつも、平和を維持するためには国家間に国際連合的なものが必須であると説いています。

 この点からも、カントは現実主義者と評価するべきでしょう。

 カントは、現実世界が弱肉強食の世界であることを認めた上で、「世界平和」へ至る道について方法論を呈示しているのです。

 

 カントは、「永遠平和は確実に実現する」とは言っていません。

 たとえば、『永遠平和のために』の「第一補説」では、以下のように述べています。

 

「なるほどこの保証は、永遠平和の到来を予言するのに十分な確実さはもたない。しかし実践的見地では十分な確実さをもち、この目的にむかって努力することをわれわれに義務づけるのである」

 

 カントの想定する「永遠平和」は、目指すべきものとして把握されており、「完全な形で実現するものだ」という、いわゆるメルヘン的・空想的な平和主義では、ありません。

 カントは、「平和それ自体」への限りない接近に、希望の光明を見出だしているのでしょう。
 カントは、「永遠平和に向かって努力すること」それ自体が意味のあることである、と本書で力説しているのでしょう。

 

ーーーーーーーー

 

 今回の記事は、これで終わりです。

 次回の記事は、約1週間後の予定です。

 ご期待ください。

 

    

 

永遠平和のために (岩波文庫)

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カント『永遠平和のために』 2016年8月 (100分 de 名著)

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哲学はなぜ役に立つのか?

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主権のかなたで

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日本外交:現場からの証言

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

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予想問題『じぶん・この不思議な存在』鷲田清一・他者の他者としての自分

 

(1)なぜ、この論考に注目したのか?

 

 鷲田清一氏は、ほとんどの難関大学の入試現代文(国語)・小論文で一度は出題されている、トップレベルの頻出著者です。

 
 最近では、センター試験、東京大学、東北大学、早稲田大学、慶應大学、上智大学等で、出題されています。

 鷲田氏の入試頻出著書としては、

『モードの迷宮』(ちくま学芸文庫)、

『じぶん・この不思議な存在』(講談社現代新書)、

『悲鳴をあげる身体』(PHP 新書)、

『「聴く」ことの力ー臨床哲学試論』(ちくま学芸文庫)、

『わかりやすいはわかりにくい? 臨床哲学講座』(ちくま新書)、

『しんがりの思想』(角川新書)、

等があります。

 

 最近の難関大学では、

『わかりやすいはわかりにくい? 臨床哲学講座』(ちくま新書)、

『「聴く」ことの力ー臨床哲学講座』(ちくま学芸文庫)、

からの出題が目立ちます。

 

 その中で、『じぶん・この不思議な存在』は、長期的に頻出出典になっています。

 その内容が難関大学現代文(国語)・小論文の問題としてふさわしいので、このブログで予想問題の紹介、解説をします。

 

 なお、今回の記事の項目は以下の通りです。 

(2)予想問題・『じぶん・この不思議な存在』鷲田清一・立命館大学国語(現代文)

(3)本書『じぶん・この不思議な存在』の解説

 ①総説

 ②「自分さがし」・「自分の個性」について

 ③本書のキーワードである「他者の他者としての自分」を、鷲田氏は他の著書でどのように説明しているのか?

 ④まとめ

(4)当ブログにおける、鷲田清一氏・関連の記事の紹介

(5)当ブログにおける、「関係性」関連の記事の紹介

 

 

じぶん・この不思議な存在 (講談社現代新書)

 

 

 

 

 

 

(2)予想問題・『じぶん・この不思議な存在』鷲田清一・立命館大学国語(現代文)過去問

 

(問題文本文)

(赤字はブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です)

【1】わたしたちは、目の前にあるものを、それは何であるかと解釈し、区分けしながら生きている。たとえば現実と非現実、自分と自分でないもの、生きているものと死んだもの、よいことと悪いこと、大人と子供、男性と女性・・・・。こうした区分けのしかたを他の人たちと共有しているとき、わたしたちは自分を「普通」(ノーマル、ナチュラル)の人間だと感じる。そして、わたしたちが共有している意味の分割線を混乱させたり、不明にしたり、無視したりする存在に出会ったとき、彼らを、別の世界に生きている人というより、わたしたちと同じこの世界にいながら、「普通」でない人と見なしてしまう。 

【2】ではなぜ、わたしたちは〔  A  〕の境界にこのようにヒステリックに固執するのだろう。それは、わたしたちが「~である/~でない」というしかたでしか自分を感じ、理解することができないからではないだろうか。そしてそういう〔  A  〕の分割の中にうまく自分を挿入できないとき、いったい自分はだれなのかという、その〔  B  〕の輪郭が失われてしまうからではないだろうか。つまり、それほどまでに〈わたし〉はもろく、不可解な〔  B  〕であるからではないだろうか。 

【3】たとえば、身体を持たない〈わたし〉があり得ないことはあまりに明白であるのに、それでは〈わたし〉と身体とはどのような関係にあるかと問うてみると、自分がほとんどなんの確かな答えも持っていないことに気づかされる。 

 

ーーーーーーーー 

 

(問題)

問1  空欄A・Bに入れるのに、最も適当なものを、次の中から選べ。

1 人間   2 原因   3 存在   4 解釈

5 所有物   6 結果   7 身体   8 意味

 

……………………………

 

(解説・解答)

問1

A  

は、前にある「意味の分割線」に注目してください。

 つまり、【1】段落最終文の

「わたしたちが共有している意味の分割線を混乱させたり、不明にしたり、無視したりする存在に出会ったとき、彼らを、別の世界に生きている人というより、わたしたちと同じこの世界にいながら、「普通」でない人と見なしてしまう。 」

の文脈に注目するとよいでしょう。

 

B 

【2】段落第2文の

わたしたちが「~である/~でない」というしかたでしか自分を感じ、理解することができないからではないだろうか。

における、

《 「自分」は「~である/~でない」という部分 》は、《 「自分」の「何」についての議論なのか 》、を考えるとよいでしょう。

  

(解答)  A=8  B=3

 

ーーーーーーーー

 

 (問題文本文) 

【4】「わたしの足」というとき、わたしと足はどういう関係にあるのかと考え始めると、たちまち謎に包まれる。わたしは足であるか? ノー。わたしは足を持つのか? たぶん、イエス。もし身体がわたしの所有物だとすると、所有物は譲渡や交換が可能であるはずだから、足から順に自分の身体を次々に別の身体と取り替えていっても、わたしはわたしであるはずだ。けれども想像が腹部あたりに達したころから、だんだんあやしい気分、おぞましい気分になってくる。〔 C 

【5】つまり、自分が身体であるのか、身体を持つのかはっきりしないまま、わたしたちはなんとなく自分がこの身体の皮膚の内側にあると思い込んでいる。だから、身体の形状がわたしたちのそれとは違った異形の身体に出会ったときには、すくなからず動揺してしまう。わたしをいまこの〈わたし〉としている身体的条件がたんに一つの〔 D 〕にすぎず、〈わたし〉の存在にとってかならずしも決定的なことではないことが、目にみえるかたちで暴露されるからである。

 

ーーーーーーーー

 

(問題)

問2  空欄Cに入れるのに、最も適当なものを、次の中から選べ。

1 身体はわたしが所有しているものだと、断言したくなってくる

2 身体などなくなってしまえと、言いたくなってくる

3 身体はわたしが所有しているものではないと、前言を翻(ひるがえ)したくなってくる

4 わたしの身体を誰かの身体とそっくり交換したくなってくる

5 わたしの身体を誰かと交換したいなどとは、今後一切思わなくなる

 

 

問題3  空欄Dに入れるのに、最も適当なものを、次の中から選べ。 

1 差異化の可能化

2 偶然性の可能化

3 可能性の抽象化

4 可能性の具体化

5 差異性の必然化

……………………………

 

(解説・解答)

 

問2

こういう難解な文章を、要約して解くことは有害無益です。時間的にも、損失です。本文の精読・熟読に専念してください。

「もし身体がわたしの所有物だとすると、所有物は譲渡や交換が可能であるはずだから、足から順に自分の身体を次々に別の身体と取り替えていっても、わたしはわたしであるはずだ。けれども想像が腹部あたりに達したころから、だんだんあやしい気分、おぞましい気分になってくる。」という文脈に注目してください。

 

(解答) 3

 

問3 

「 わたしをいまこの〈わたし〉としている身体的条件が、たんに一つの〔 D 〕にすぎず」、

(わたしをいまこの〈わたし〉としている身体的条件が)〈わたし〉の存在にとって

かならずしも決定的ではないこと」と、

「目にみえるかたちで暴露されるからである。」の文脈に着目してください。

 

(解答) 4

 

ーーーーーーーー

 

(問題文本文)

【6】このように考えてくると、わたしがだれであるかということは、わたしがだれでないかということ、つまりだれを自分とは異なるもの(他者)と見なしているかということと、背中合わせになっていることがわかる。ところが、わたしがそれによって他者との差異を確認するその意味の軸線がわたしたちによって共有されているところでは、この軸線がその形成の歴史を忘却して「自然」的なものと見なされ(ここから「自然」が規範としての意味を持ち始める)、それを共有しないものは、わたしたちではないもの=「普通」でないものとして否認される。「普通」ということは世界の解釈の一体系を共有しているということにすぎないにもかかわらず、である。わたしたちが自分の存在に形を与えていくこのプロセスは、だから同時に、きわめて〔   E 〕なプロセスでもある。それは、常に解釈の規準を提示し、それを共有できないものは排除し、それを外れるものには欠陥とか劣性といった否定的なまなざしのもとで自らを見ることを強いる。 

【7】わたしはだれかという問いは、わたしはだれを〈非―わたし〉として差異化(=差別)することによってわたしであり得ているのか、という問いと一体をなしている。わたしもあなたも同じ「人間」であるという言い方は、〈わたし〉が一定の差別(逆差別も含めて)の上に初めて成り立つ存在にすぎないことをかえって覆い隠してしまうおそれがある。

【8】「わたしはだれ?」ーーそれは、おそらく、〈わたし〉を形作っている差異の軸線をそのつど具体的なコンテクスト(→「文脈。脈絡」という意味)に則して検証していくところでしか答えられないであろう。 

 

ーーーーーーーー

 

(問題)

問4  空欄Eに入れるのに、最も適当なものを、次の中から選べ。

1 抽象的   2 政治的  3 倫理的

4 自然的   5 決定的

 

問5  この文章の筆者は、傍線①の「わたしはだれ?」という問いに対して、どのように答えようとしているか。最も適当なものを、次の中から選べ。

1 わたしたちは、わたしたちではないひとを知ることをとおしてしか、じぶん自身を知ることができない。

 

2 わたしたちは、じぶんは誰かという問いをじぶんの内部に向けることによってしか、じぶん自身を知ることができない。

 

3 わたしたちは、じぶんではないものからじぶんの存在を隔離することになってしか、じぶん自身を知ることができない。

 

4 わたしたちは、じぶん自身の中身をそのつど検証していくことによってしか、じぶん自身を知ることができない。

 

5 わたしたちは、身体を所有することによってしか、じぶん自身を知ることができない。

……………………………

 

(解説・解答)

 

問4

「このプロセス」は、「政治的な、かけひき」の側面があります。

わたしがだれであるかということは、わたしがだれでないかということ、つまりだれを自分とは異なるもの(他者)と見なしているかということと、背中合わせになっていることがわかる。ところが、わたしがそれによって他者との差異を確認するその意味の軸線がわたしたちによって共有されているところでは、この軸線がその形成の歴史を忘却して「自然」的なものと見なされ(ここから「自然」が規範としての意味を持ち始める)、それを共有しないものは、わたしたちではないもの=「普通」でないものとして否認される。それは、常に解釈の規準を提示し、それを共有できないものは排除し、それを外れるものには欠陥とか劣性といった否定的なまなざしのもとで自らを見ることを強いる 

文脈の赤字部分に注目してください。

  

(解答) 2

 

問5

【2】段落の「ではなぜ、わたしたちは〔 A=意味 〕の境界にこのようにヒステリックに固執するのだろう。それは、わたしたちが「~である/~でない」というしかたでしか自分を感じ、理解することができないからではないだろうか。」、

7】段落のわたしはだれかという問いは、わたしはだれを〈非―わたし〉として差異化(=差別)することによってわたしであり得ているのか、という問いと一体をなしている

【8】段落の「わたしはだれ?」ーーそれは、おそらく、〈わたし〉を形作っている差異の軸線をそのつど具体的なコンテクスト(→「文脈。脈絡」という意味)に則して検証していくところでしか答えられないであろう。 

に着目してください。

 

(解答) 1

 

ーーーーーーー

 

【要約】

わたしたちは目の前にあるものを、なんであるかと解釈し、区分けしながら生きている。なぜなら、わたしたちが、「~である/~でない」というしかたでしか、じぶんを感じ、理解することができないからである。わたしたちは、わたしたちでないひとを知ることをとおしてしか、じぶんを知ることができない、といえるのである。

 

【出典】

本問は以下の目次の中の「2 じぶんの内とじぶんの外」の一節です。

 

【目次】
1  爆弾のような問い
2  じぶんの内とじぶんの外
3  じぶんに揺さぶりをかける
4  他者の他者であるということ
5 「顔」を差しだすということ
6  死にものとしての「わたし」

 

 

(3)本書『じぶん・この不思議な存在』の解説

 

 ①総説

 本書『じぶん・この不思議な存在』」の冒頭に、以下のような、「問題提起」の一節があります。

「  わたしってだれ?

    じぶんってなに?

 だれもがそういう爆弾のような問いを抱えている。

 爆弾のような、といったのは、この問いに囚(とら)われると、いままでせっかく積み上げ、塗り固めてきたことがみな、がらがら崩れだしそうな気がするからだ。

だれもが、人生のなかで何度も何度もこの問いを口にする。

あるいは、ひとりごちる。

あるいは、そのような問いの切迫を、それと意識することなく感じている。

そして、そのように問うことじたいが、どうやらこの問いのうちに潜んでいる不安をあおりたてることになっているらしいことも、うすうすは気がついている。


 本書の内容、つまり、上記の「問題提起」に対する解説は、以下の、本書の「エピローグ」に要約されています。

「わたしがこの本のなかで伝えたかったことはただ一つ、〈わたしはだれ?〉という問いに答えはないということだ。

 とりわけ、その問いを自分の内部に向け、そこに何か自分だけに固有なものをもとめる場合には。そんなものはどこにもない。

 じぶんが所有しているものとしてのじぶんの属性のうちにではなくて、誰かある他者にとっての他者のひとりでありえているという、そうしたありかたのなかに、ひとはかろうじてじぶんの存在を見いだすことができるだけだ

 問題なのは、つねに具体的な「だれか」としての他者、つまりわたしの他者であり、したがって〈わたしはだれ?〉という問いには一般的な解は存在しないということである。

 ひとはそれぞれ、自分の道で特定の他者に出会うしかない。」 ( P 176 )

 

 

②  「自分さがし」・「自分の個性」について

 本書は本来、これらの本質を解説しているとも言えます。

 しかし、本書の内容がかなり難解な側面を有しているので、当ブログでは、ここで、改めて、これらについて解説します。

 

 約30年前の高度消費社会の時期から、「自分探し」・「わたし探し」ということが流行し始めました。

 主に、小学校・中学校教育、マスコミの商業戦略( ファッション・化粧品のCM等 )の影響もあって、日本社会における一部の人々は、「じぶんらしい個性」を闇雲に模索してきました。

 そのバカバカしい、反知性主義的ブームの具体例として、「キラキラネーム」が挙げられます。 

 とても読めないような、判読不能な名前すら、あります。

 暗号の世界に迷い込み、「名前の機能」を喪失しています。

 「キラキラネーム」については、最近の難関大学入試の国語(現代文)・小論文論点になっています。

 このブログで最近、記事として発表していますので、こちらも参照してください。

 

gensairyu.hatenablog.com

  

gensairyu.hatenablog.com

 

 この反知性主義的ブームの前提には、「自分の個性」が存在するという、根拠のない確信があるようです。

 しかし、「自分の個性」などとというものが、本当にあるのでしょうか?

 

 自分の中を探せばどこかに「じぶん」らしさがあるというのは、単なる幻想にすぎません。

 なぜなら、「固有な個性」を具体的に表現する道具が、主に形容詞、形容動詞という、一般的に使用されている語句だからです。

 それは、「真にオリジナルな個性」を、本来的に表現できないことを意味しているのです。

 さらに言えば、「じぶん」という名詞も、単なる一般名詞にすぎません。

 自分の中を探しても「じぶん」は見当たらないし、それ自体、単なるフィクションにすぎないのです。

 そうだとすれば、どのように解決策を考えればよいのでしょか?


 鷲田氏は、ここで「他者の他者であること」という「視点」に注目しています。

「  他者にとって意味のある他者たりえているかが、わたしたちがじぶんというものを感じられるかどうかを決めるというわけだ。

 母親に「この子とはそりが合いません」と言わせたら勝ちである。

 母親はいよいよ子どもを別の存在として認めたのだから。

 逆に、風邪で数日学校を休んだ後、学校に戻っても何の話題にもされなかった子どもは不幸である。

 他者のなかにじぶんがなにか意味のある場所を占めていないことを思い知らされたのだから。

 ときには恨まれ、気色わるがられたっていい。

 他人にとってひとりの確実な他者たりうるのであれば。」 ( P 146 )


 以上のように考えて、

 《『自分らしくあらねばならぬ』という強迫観念 》から自由になることについて考えてみることも大切だ、と鷲田氏は指摘するのです。

 

 鷲田氏は、R・D・レインの『自己と他者』から、一人の患者のエピソードを紹介しています。彼は、看護婦に一杯のお茶を入れてもらって、「だれかがわたしに一杯のお茶を下さったなんて、これが生まれてはじめてです」と語りました。

 ただ「誰かのために何かをする」ということ、そして、それ以上でも以下でもないということは、ふつう考えられているよりもずっと難しいことだと、鷲田氏は述べます。

 誰かに何かを「してあげる」という意識が働くとき、私は相手を「助けられる人」、つまり私の行為の客体にしてしまうことになります。このとき、他者は私の中に取り込まれてしまっています。

 こうした関係に陥ることなく、他者を他者として遇し、私もまた他者にとっての他者として遇されるような関係の中で、はじめて私と他者の双方が固有の存在になることができる」と鷲田氏は言います。

 

 こうして鷲田氏は、「私」の固有性とは、「他者の他者」となることだ、と主張します。

 この点について、鷲田氏は、実に的確な引用を提示しています。

「じぶんらしさ」というものは、イメージとして所有すべきものではなく、じぶん以外のなにかあるものを求めるプロセスのなかでかろうじて後からついてくるものである。

 じぶんが何に対してじぶんであるかという、その相手方がいつもじぶんを計る尺度である。」 (キルケゴール)

 

 ③  本書のキーワードである「他者の他者としての自分」を、鷲田氏は他の著書でどのように説明しているのか?

 

 鷲田氏は、本書のキーワード「他者の他者としての自分」を、他の著書で以下のように説明しています。

 これらを、読むことで、より理解が深まるでしょう。

 主なものを挙げます。

 

  まず、『大事なものは見えにくい』の中では、以下のように記述しています。

「  <わたし>の存在は、だれかある他者の宛先となることで、はじめてなりたってきた。

 <わたし>の存在とは、だれかの思いの宛先であるということ

 ヘーゲルやキュルケゴールといった哲学者の言葉を借りれば、「他者の他者」であるということだ。

 わたしわたし以外のだれかの他者であることによってはじめて、いいかえると、だれかある他者に「あなた」「おまえ」と名指されることによって、わたしたちはひとりの<わたし>になる。

 だから、というかたちでの、わたしにとっての二人称の他者の喪失とは、「他者の他者」たるわたしの喪失にほかならない。」 (『大事なものは見えにくい』P36 )

 

 だから、私にとっての大切な人の死は、あれほど悲しいのです。

 その悲しみの大きさの理由が、これを読んで、初めて分かります。

 

 次に、『「聴く」ことの力』では、以下のように説明しています。

「だれかに触れられているということ、

だれかに見つめられていること、

だれかからことばを向けられているということ、

これらのまぎれもなく現実的なものの体験のなかで、

その他者のはたらきかえの対象として自己を感受するなかではじめて、

いいかえると「他者の他者」としてじぶんを体験するなかではじめて、

その存在をあたえられるような次元というものが、<わたし>にはある。

<わたし>の固有性は、ここではみずからあたえうるものではなく、

他者によって見出されるものとしてある。」 ( P 126 )

 

 さらに続けて、鷲田氏は、以下のように述べています。

「  「わたし」、という(一般的な、社会的な)言葉を使うときわたしという存在はすでに集団の中に消えていく。(→この点は、この記事で解説しました)

「わたし」が「わたし」を見つけられるのは、「他者から他者として見られたときだけ」である。

 

  「他者の他者として自己」と「他者」の「関係」は、「自他の補完性」、あるいは、「自己と他者の関係性」とみることができます。

 このことについて、2000慶應大学文学部小論文で鷲田清一氏の論考(『「聴く」ことの力』)を題材として、以下のような問題が出題されました。

 

「(問1) 自己と他者の補完性を著者はどのように考えているのかまとめなさい (300字以内)。

(問2)「他者の他者としてのじぶん」とは何か述べなさい (400字以内)。」

 

 この問題も、今回の記事に関連しています。

 

 ④  まとめ 

 

 今回の記事は、言葉や論理では理解できるものの、実感としては、よく分からない側面があるかもしれません。

 マスコミからの情報、小学校・中学校・高校などの教育現場で指導、一般常識と、鷲田氏の主張が大きくズレているからでしょう。

 しかし、それでよいのです。

 「人生上の真理」と一般常識が全く違う場面は、いくらでもあります。

 

 人生には「不可解な側面」が付きまといます。

 それを簡単に割り切るのがマスコミであり、一般常識です。

 それはそれでよいのです。

 一般社会は、それらをスルーして、進行するのが常であり、それはそれで問題はないのです。

 

 一方で、哲学や難関大学入試の世界では、まさに、「人生上の不可解な側面」が問題になるのです。

 「人生上の不可解な側面」を簡単に割り切らずに、いかに対応していくべきか?

 

 この点について、鷲田氏は本書『じぶん・この不思議な存在』で、以下のような見解を述べています。

  

「  成熟というものは、同一であることを願うひとにしか訪れない。

 未熟という名の非同一性。

 つまりはアイデンティティの不在。

 一貫性のなさ、持続性のなさ、かたちのなさ。

 「青二才」とか、「未熟者」というのは、それこそ子どものように、本気でなににでもなろうとするし、ついさきほど言ったこともすぐに裏切るほど気まぐれで、あきっぽく、節操がないし、根は続かず、片時もじっとしていない。

 けれども、ここで未熟という場合の「未」は「まだない」ではない。

 ここでひとは、成熟するよりも速く「青二才」にならなければならないのだ。

 そうでなければ、ふたたび、かたちへの抑えがたい欲望に溺れてしまうことになるだろう。」 ( P82 )

 

 さらに、鷲田氏は本書で、こうも述べています。

「  人生を一つの説話でリニアに語りだし、〈わたし〉の存在を透明なもの、クリアなものにしようという、わたし達の欲望。

 その根深さによくよく目をこらす必要がある。

 わかりやすいっていうのは、きっと死ぬほどたいくつなはずだ。

 存在が不可解である、意味が不確定であるからこそ、わたしたちはそれに魅かれる。

 恋愛だって、賭け事だって、学問だって、人がのめりこむのは、それを前にしていると、自分の淵から、何か理解できないもの、自分ではコントロールできないものが押しよせてくるからだ。

 わかった顔をしているひとより、ぼうぜんとして「わからない・・・」とつぶやく無防備なひとのほうが、たぶん信用できる。」 (P84 )

 

 言葉や論理では理解できるものの、実感としては完全に納得できない、よく分からない側面。

 人生上の、曖昧な側面の存在。

 分からない状態の継続。

 しかし、それでよいのです。

 それを、手早く処理する必要は、ないのです。

 「人生上の不可解な側面」を、手早く処理することなど、できるわけがないのですから。

 

 さらに、『わかりやすいはわかりにくい?-臨床哲学講座』(ちくま新書)で述べられている以下の言葉には、深く考えさせられます。


「生きてゆくうえで本当に大事なこと(例えば、私は誰とか、愛とか)には、たいして答えがない。これらの問いは、問い続けることが答える事だ。」

 

 

 (4)当ブログにおける、鷲田清一氏・関連の記事の紹介

 

gensairyu.hatenablog.com

 

gensairyu.hatenablog.com

  

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gensairyu.hatenablog.com

 

(5)当ブログにおける、「関係性」関連の記事の紹介

 

gensairyu.hatenablog.com

 

gensairyu.hatenablog.com

 

ーーーーーーーー

 

今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

ご期待ください。

 

  

 

じぶん・この不思議な存在 (講談社現代新書)

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大事なものは見えにくい (角川ソフィア文庫)

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

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現代文・小論文キーワード・最新オススメ本『現代思想史入門』船木享

現代文・小論文キーワード・マスターのためのオススメ本→『現代思想史入門』(船木享・ちくま新書)→2017早大人間現代文に、早くも4000字の論考が出題されました。

 この記事の構成は、以下のようになっています。

(1)キーワードをマスターしよう→これこそが、効果的・合理的な学習法

(2)本書をオススメする理由→6つの理由

(3)本書の中から、これから出題が予想される論考の引用→キーワード赤字で「強調」しました

(4)目次など、本書の構成の詳細→予想問題として、注目するべき項目を赤字で指摘しました

 

(1)キーワードをマスターしよう→これこそが、効果的・合理的な学習法

 

 これから、私が最近、キーワード集として使用を始めて、かなり役に立っている新刊本を紹介していきます。
 それは、『現代思想史入門』(船木亨)(ちくま新書・2016年発行)(1200円+税)(約570ページ)です。

 以前の記事(→下に、リンク画像を貼っておきます)で紹介したオススメ本と組み合わせて利用すると、より、よいと思います。

 

  現代思想史入門 (ちくま新書)

 

 

 

 

 

 

gensairyu.hatenablog.com

 

 入試現代文(国語)・小論文の得点力アップのためには、キーワードのマスターが必要です。

 私は、現代文・小論文の長年の指導経験から、キーワードのマスターや語彙力・単語力の増強をしないで、問題演習をすることは無意味であると確信しています。


 評論文が読めるようになるための近道は、独特で難解な用語を、根本から理解することです。
 そのことは、論点・テーマを理解することにも、なります。

 キーワードや語彙・単語の知識が不充分なまま、現代文・小論文の問題を解いてみても、結局は、それらの単語力不足を痛感するだけです。

 つまり、まったく、時間の無駄な消費なのです。

 ここで言う「マスター」とは、「理解」の後に「暗記」することを意味します。

 そうでなければ、「暗記」しても、すぐに忘れてしまいます。

 また、真に「理解」しなければ、入試の現場で応用することは、できません。


 問題は、キーワード・マスターのために、どのような本(参考書・問題集)を選択するか、です。

 これが、入試合格のための、重要なポイントです。

 勉強時間を増やすことも重要ですが、参考書・問題集選択も重要なポイントなのです。


 「参考書選択」については、私は、少々理解に時間がかかっても、きちんとした内容のある本を選択するべきだと思います。

 「簡単に、すぐに分かること」を売り物にしている本は、早く読めるかもしれませんが、「真の理解」・「確実な暗記」には、つながりません。

 このことは、皆さんにも、思い当たる経験があると思います。

 

 

(2)本書(『現代思想史入門』船木享)をオススメする理由→6つの理由

 私は、以下の6つの理由により、本書をオススメします。

 理由を列挙した後で、それぞれの理由について詳しく説明します。

 

① 筆者が一流の哲学者で、入試頻出著者だからです。

② 丁寧に、分かりやすく書かれているからです。

③ 本書の基本的方針・構成が素晴らしいからです。

④ 本書が「引く事典」であると同時に、「読む事典」にもなっているからです。

⑤ 本書が、最新キーワードを網羅的に取り上げているからです。

⑥ 「目次、事項索引、人名・書名索引」が丁寧に、詳細に作成されているからです。これらは、全部で約30ページもあります。

 

ーーーーーーーー

 

①  本書をオススメする第1の理由は、筆者が一流の哲学者で、現代文・小論文の入試頻出著者だからです。

 船木亨氏は、哲学者です。専修大学文学部哲学科教授で、放送大学客員教授です。専攻はフランス現代哲学です。哲学は入試頻出分野です。 

 最近の現代文・小論文における入試頻出著者です。

 実際に、2016年に発行された『現代思想史入門』から、約4000字の論考が、早くも、2017早稲田大学人間科学部の国語(現代文)に出題されています。

 出題された部分は、第1章「生命―進化論から生命政治まで」の一節です。

 内容は、「ダーウィンの進化論が現代思想に与えた重大な影響」についてです。


 今の時期は、まだ本年度の入試情報が出そろっていません。これから、新たな情報が出そろってきて、本書からの出題情報がありましたら、この記事に追加の記述をする予定です。
 ともあれ、本書は将来的に、現代文・小論文の頻出出典になるような格調の高い論考です。
 最新キーワード集として有用な上に、将来的に予想問題の宝庫の可能性もあります。 

 

②  本書をオススメする第2の理由は、丁寧に、分かりやすく書かれているからです。

 私が、本書を、すすめる第2の理由は、本書が、ある程度、大学入試の現代文(国語)・小論文を意識して、受験生レベルにも理解できるように丁寧に分かりやすく書かれているからです。

 つまり、筆者は、学術的な、難解な思想専門用語をなるべく回避して、広く社会一般に向けて、思想史や自己の見解を語ろうとしています。

 従って、安心感を持って読み進めることができます。

 

③  本書をオススメする第3の理由は、本書の基本的方針・構成が素晴らしいからです。

 本書の基本的な方針は、以下のようになっています。 アマゾンの「ブック紹介」から引用します。

( 赤字は当ブログによる「強調」です )

「 二〇世紀のイデオロギー対立は終焉したが、新たな思想・哲学が出現していないように見える。近代のしがらみを捨てて、いま一度、現代思想の諸地層をもっとつぶさに見ていこう。そこに新たな思考が芽生えるきっかけが見つかりそうだ。生命精神歴史情報暴力の五つの層において現代思想をとらえ、それぞれ一九世紀後半あたりを出発点として、五度にわたってさらいなおす。現代思想の意義を探りつつ、その全体像を俯瞰する、初学者にもわかりやすい新しいタイプの入門書。」  ( アマゾンの「ブック紹介」より引用 )

 

 『現代思想史入門』の「はじめに」には、次のような記述があります。

「  本書が採用するのは、地層学になぞらえられた思想の流れと、それに断層を見いだしていく仕方である。

 重要なのはその時期を生きているひとびとの脳裏に生まれてくる発想であり、その表現の変遷である。おなじ言説が違う意味で使われるようになり、違う言説がおなじ意味で使われ続ける。そのありさまを知ることが、その時期の「思考」を理解するということである。
 そうした理由から、生命精神歴史情報暴力という五つの観点をとって五つの層と成し、それぞれ一九世紀後半くらいの出発点から、現代思想の歴史を五度にわたってさらえなおすことにした。それらの層の記述を順に重ねていきながら、「現代思想」と呼ばれるべきものの、それぞれの意義とその全体像が見えてくるようにしたつもりである。(→5つの視点(キーワード)から、思想史・思想界を分析・概観するということです)

 それぞれの章に対応するが、

 その第一の層は、進化論の衝撃から現代の生命政治にいたる生命概念の地層である。他の生物と共通する「生命」の新たな意味が、思想的にも政治的にもひとびとを捉えていく。

 第二の層は、それが宇宙進化論にまで進むあいだに定義されなおしていく人間概念の地層である。生命に対抗して、宗教や思想を形成してきた精神の地位を復活させようとした数々の試みである。

 第三の層は、そのとき変形されていく歴史概念の地層である。人間の歴史としてではなく、すべてが歴史として説明されるようになる結果として生じた「知」の変遷である。

 第四の層は、歴史が普遍的登記簿になってだれもが参照利用できるようになったポストモダンの地層である。情報化し、価値の相対化によって生じた現代社会の様相である。

 第五の層は、人間が新たな使命を与えられながらそこへと消滅していく機械概念の地層である。理性的主体としての「人間」が、社会形成においては「暴力」に囚われていたのに対し、機械との関わりにおいて生きられるようになっていく。

 これらの五つの層のそれぞれに見いだされるのは、社会状況と人間行動の捉えがたさ、混沌と冥(くら) さであるが、それらを重ねあわせてみることによって、この一五〇年の現代思想の重畳した諸地層のさまと、それぞれのよってきた由来や経路を捉えることくらいはできるだろう。

 

④  本書をオススメする第4の理由は、本書が「引く事典」と同時に、「読む事典」にも、なっているからです。

 読み物としてもボリュームがあります。

 約570ページもあり、読みごたえがあります。

 そして、筆者が分かりやすい比喩や、適切な引用をしているので、読みやすくなっています。

    「読む事典」にもなっていることで、そのまま、現代文・小論文の問題文本文を読解する訓練になります。

 現在の入試頻出著者の文章を、どんどん読めるのです。

 

⑤  本書をオススメする第5の理由は、最新のキーワード・論点を網羅的に取り上げているからです。

 IoT(イォット)についても、詳しい説明があります。

 これは、本書が2016年度に発行しているからこそ可能なことであり、他のキーワード集には決して真似のできないことです。
 そのために、説明が、現代という時代背景を踏まえた、分かりやすい正確なものになっています。

 

 また、大学の教員の現在の問題意識を知ることができます。

 これは、入試現代文・小論文において、とても有利になります。

 

⑥  本書をオススメする第6の理由は、「目次、事項索引、人名・書名索引」が、丁寧に詳細に作成されているからです。

 これらの「目次、事項索引、人名・書名索引」は、小さな活字で、全部で30ページ近くもあります。

 

 本書の「目次」の大筋は、以下のようになっています。

序章 現代とは何か
第1章 生命―進化論から生命政治まで
第2章 精神―宇宙における人間
第3章 歴史―構造主義史観へ
第4章 情報―ポストモダンと人間のゆくえ
第5章 暴力―マルクス主義から普遍的機械主義へ 

 

 なお、本書の詳細な目次については、この記事の最後に、要注意事項は赤字化して、引用しています。

 

 この種の字典・解説書物・参考書は、「索引も命」です。

 手に取ると分かりますが、索引だけで、かなりのページです。

 索引を、一通りめくるだけでも、手間が、かかります。

 しかし、それがいざ、特定の項目を調べる時には役立つのです。

 索引を見ていくだけでも分かりますが、大学入試現代文・小論文における重要単語は、特に説明が丁寧になっています。

 いくつか、参照ページ数の例を挙げます

 
「アイデンティティ」→15箇所、

「解釈」→25箇所、

「記号」→15箇所、

「構造主義」→40箇所、

「進化論」→45箇所、

「欲望」→30箇所、

 

 これらの単語は、入試頻出キーワード・論点ですが、かなり難解です。

 しかし、これだけのページを読んでいけば、理解が進むと思います。

 キーワードの多面的理解が可能になります。

 

 なお、前述のように、私は、本書から、来年度以降の入試現代文・小論文に出題される可能性が高いと考えています。

 そこで、今後、出題が予想される箇所について、この後に、幾つか、解説していきます。

 

 

 現代思想史入門 (ちくま新書)

 

 

 

 

 

 

(3)今後、出題が予想される論考→2箇所(ほんの一例です) 

 

( 概要です )

( 赤字は当ブログによる「強調」です )

( 青字は当ブログによる「注」です )

【 第1章 生命   4 生命政治   生と統計・生と死 】
「いまのひとびとには、健康のためにみずから進んで隷属しようとする思考があり、それを促すための膨大な情報が流されている。厚生権力は、行動ばかりでなく特定の思考を促進して、自由で平等であるはずのひとびとをいいなりにしようとしている。

 喫煙も肥満も運動不足も、一定割合のひとに深刻な状態をもたらすのは確かである。それは統計学的に正しい。だが、だからこそ逆に、統計学的には、一定割合のひとは、それにもかかわらず健康であり続け、あるいはほかのことが原因で死ぬのである。「裏は真ならず」、喫煙も肥満も運動不足も、それを解消すればするほど健康になるというわけではない。

 あるひとたちの初期のガンを切除させるために、自分も毎年のようにX線検査を受け、それがもとでガンになる確率を高めていく、しかも自分についてはしばしば末期ガンでしか発見されないというのは、一体どのような取引なのであろか。喫煙しているひとが、肺ガンで死ぬ確率よりその他の原因で死ぬ確率が高いにもかかわらず、好きな喫煙をやめてしまうというのは、一体どのような取引なのであろうか。似たようなことだと思うのだが、風呂で水死する確率が高齢者は高いからといって(2014年に4866人の9割)、かれらが風呂に入るのを禁じるべきだと、はたしてわれわれは考えるだろうか。

 厚生権力はこのように「ひとの生命を救う」というスローガンのもとに、こまごまとした生活の指針を発してきた。ひとが何のために生まれ、なぜ死ななければならないかについては答えられないのに、すべてのひとを「死に対する戦争」に巻き込んで、生きているあいだのすべてを健康に捧げるようにと強制する。それは、それぞれのひとに自分の身体を配慮させることによって、人間であるとはどういうことかについての思考の枠組を変更させようとしているともいえる。

 

……………………………

 

(当ブログによる解説)

 つまり、「人生」=「常に、自分の健康のみに注意」、というバカバカしい展開になるのです。

 今は、まさに、一部の人々は、この状況になっています。 

 病人でもない人々が、日々、「自分の将来の病気への不安」に思い煩うということです。

 一種の自主的な「精神的幽閉」です。

 見事な、反知性主義的状況と評価できます。

 

 

 【第5章 暴力   4 ポスト・ヒューマニズム   機械としての人間】

自然と文化を分けて考える場合、機械はまさに人間の作るものだから文化であるが、ガリレイやデカルトによって、科学が研究すべき自然もまた機械であるとみなされた。「宇宙は巨大な時計のようなものだ」というのであるが、人間が作ったものをモデルにして自然を考えはじめたのに、その自然のなかの機械が人間をも作りだしたと考えることになるのである。

 当初は、人間精神は、機械ではないと考えられていた。自然法則を数学を使って見いだして、それを応用して機械をつくるくらいであるから、機械とおなじ本性のものであるはずはない。何かを創造したり、発見したりすることのできる機械はあり得ないとされていた。それに対し、18世紀に、ラ・メトリの『人間機械論』という書物が現われた。「人間機械論」とは、宇宙や自然は機械だとする勢いで、人間身体をも機械とみなし、そのように認識する精神の働きも、 という機械の働きにすぎないと主張する思想である。

 ラ・メトリ以降も、その復刻版にすぎないような思想がつぎからつぎに出てきて、現在では脳科学と呼ばれている。現代の生物学者ドーキンスも、進化の過程で意識が自然発生したと述べていたが、進化を認識するほどの精神が進化によって発生する理由は、進化論のなかには見あたらない。現代の宇宙物理学者ホーキングも、宇宙とはみずからを認識する知性を宇宙のなかに作りだすと述べていたが、つじつまあわせ以上の何があるのか。

 もし、人間精神をそのまま脳という機械であるとみなすなら、機械とみなすその認識の働きを、表象の生産という機械の効果にしてしまう。(→この辺から、意味不明になっています。筆者の論考の文脈が混乱しているのではなく、脳科学の論理に混乱・こじつけがあるのです。) すると、機械として表象されたものは、脳という機械が作りだした効果にすぎないのだから、機械として理解された脳自体が何のことか分からなくなってしまう。それでは脳の説明にはなっていない。それは、何かが分かったかのようなイメージだけを与えてくれる混乱思考なのである。

 

……………………………

 

(当ブログによる解説)

 この論考は、「脳科学批判」として秀逸だと思います。

 最近では、機械的人間観に基づく脳科学は暴走気味で、オカルト的な側面さえ感じるようになっています。

 この暴走気味の脳科学に対しては、批判的な論考が散見されるようになってきています。

 「脳科学批判」は、近いうちに、入試流行論点になると思います。

 この点については、近日中に、このブログで予想論点記事を発表する予定です。

 

 

 (4)本書の目次の詳細(本書からの引用)→要注意箇所の指摘→赤字で「強調」しました

  

 ( 赤字は当ブログによる「強調」です )

「  目次 

はじめに
今日を読み解く思想/近代の行きづまり/ツリーからリゾームヘ/現代思想の諸地層

序章  現代とは何か 
1 近代の終わり
ソーカル事件/思想の難解さ/宴のあと
2 現代のはじまり
時代としての〈いま〉/一九世紀なかばの生活/歴史のなかに入っていく哲学/シェリー夫人の「フランケンシュタイン」/われわれのなかの怪物

 

第1章 生命ーー進化論から生命政治まで
1 進化論→(この部分が、前述のように、2017早稲田大学人間科学部・国語(現代文)に出題されました)
生物学と自然科学/ドリーシュの「生気論」/ダーウィンの「進化論」/哲学から科学が独立する/ヘッケルの「系統樹」
2 優生学
優生思想/ゴールトンの「優生学」/タブーとなった優生学/出生前診断
3 公民権運動と生命倫理
アメリカ公民権運動/フェミニズム/生命倫理生命倫理のその後
4 生命政治
医療のアンチ・ヒューマニズムフーコーの「ビオ-ポリティーク」/人口政策/大病院の起源/臨床医学の病気観/政策と産業のための医療政策と産業のための医療/病人の側から見た病院/予防医学/生と統計/死と生/病気における苦痛/フーコーの「狂気の歴史」健康な精神なるもの排除と治療
5 トリアージ社会
知と権力の結合/ベンタムの「パノプティコン」/アガンベンの「剥きだしの生」/生命の数/統計的判断の不条理/道徳の終焉/国家と健康神なき文化的妄信

 

第2章 精神――宇宙における人間
1 進化論の哲学
スペンサーの「文明進化論」/ジェイムズの「プラグマティズム」/ベルクソンの「創造的進化」/ホワイトヘッドの「有機的哲学」/ビッグバン仮説/宇宙進化論/宇宙と神/歴史は進化の普遍的登記簿に
2 西欧の危機
シュペングラーの「西洋の没落」/フッサールの「西欧的なもの」/新たな哲学へ
3 生の哲学
存在と生/ディルタイの「解釈学」/ギュイヨーの「生の強度」/ニーチェの「ニヒリズム」/神の死
4 人間学
シェーラーの「宇宙における人間の地位」/文化人類学レヴィ=ストロースの「構造人類学」/野生の思考/哲学的人間学

5 実存主義とは何だったのか

有神論と無神論/サルトルの「実存主義」/ハイデガーの「アンチ・ヒューマニズム」/存在論的差異/死に向かう存在/存在と言葉/存在か無か/〈わたし〉と〈もの〉/メルロ・ポンティの「両義性の哲学」/進化と宗教

 

第3章 歴史――構造主義史観
1 歴史の歴史
古代・中世・近代/歴史の概念/ヘーゲルの「歴史哲学」/ポパーの「歴史主義の貧困」/宇宙の歴史と歴史学/ナチュラルヒストリー/存在したもの/普遍的登記簿/歴史とポストモダン
2 現代哲学
哲学の終焉のはじまり/哲学の四つの道/哲学という思想/生か意識か/現象学/フッサールの「現象学的反省」/時間性/ベルクソンの「純粋持続」/ドゥルーズの「差異の哲学」/現代哲学の終焉
3 論理実証主義
心理学と心霊学/フレーゲの「意味と意義」/ウィトゲンシュタインの「語り得ないもの」/英米系哲学
4 構造主義
歴史言語学派/ソシュールの「差異の体系」/構造主義の出発/構造主義の三つの課題/ロラン・バルトの「エクリチュール」/構造主義的批評/フーコーの「エピステーメー」/構造主義的歴史/フーコー学
5 象徴から言語へ
メルロ=ポンティの「生の歴史」/象徴と記号/フーコーの「人間の終焉

 

第4章 情報――ポストモダンと人間のゆくえ

1 ポストモダニズム
建築のポストモダン/メルロ=ポンティの「スタイル」/ベンヤミンの「アウラ」/芸術のポストモダン/文学のポストモダン/近代文学/映画のポストモダン

2 ポストモダン思想
リオタールの「ポストモダンの条件」/大きな物語/思想のポストモダンポスト構造主義/デリダの「脱構築」/ロゴス中心主義/デリダ=サール論争/前衛とポストモダニスト/状況なるもの/ポストモダン思想のその後

3 情報化社会論
ダニエル・ベルの「イデオロギーの終焉」/アルチュセールの「国家イデオロギー装置」/トフラーの「未来学」/ボードリヤールの「シミュラークル」/道徳と芸術のゆくえ/価値の相対化/マンフォードの「ポスト歴史的人間」

4 世界と人間とメディア
ルネサンス/世界の発見/人間の発見/時計の発明/大衆の出現とマスメディア/大衆社会論/マクルーハンの「メディアはメッセージである」/文明進歩の地理空間/帝国とグローバリゼーション管理社会論

5 マルクス主義と進歩の終わり
文明の終わり/マルクスの「共産主義革命」/資本主義社会/共産主義社会/歴史の過剰と欠如/人間の脱人間化と世界の脱中心化/サルトルの「自由の刑」/哲学のゆくえ

 

第5章 暴力――マルクス主義から普遍的機械主義
1 革命の無意識
五月革命/ライヒの「性革命」/精神分析/フロイトの「無意識」/エディプス・コンプレックス/精神分析のその後/ラカンの「鏡像段階」/構造化された無意識/どのような意味で構造主義
2 フランクフルト学派
ベンヤミンの「暴力論」/神的暴力/亡命ユダヤ人思想家たち/アドルノとホルクハイマーの「啓蒙の弁証法」/フロムの「自由から逃走」/マルクーゼの「人間の解放」/資本主義からの逃走

3 アンチ・オイディプス
ドゥルーズとガタリの「欲望する機会」/狂人たち/無意識は表象しない/国家/野生と野蛮/資本主義社会/メルロ=ポンティの「現象的身体」/マルクスの「非有機的肉体」/フロイトの「死の衝動」/アルトーの「器官なき身体」/ドゥルーズとガタリの「千のプラトー」/自由から逃走へ
4 ポスト・ヒューマニズム 
現代フランス思想/ニーチェの「神の影」/機械としての人間/カフカの「エクリチュール機械」/自然と文化の二元論/機械としての人間/カンギレムの「生命と人間の連続史観」/機械一元論哲学/ドゥルーズとガタリの「普遍的機会主義」
5 機械と人間のハイブリッド
ハラウェイの「サイボーグ宣言」/女性/人間はみな畸形である/ハラウェイの「有機的身体のアナロジー」/機械と生物のネットワーク/死の衝動と生の強度/生の受動性

 

おわりに
今日の思考/哲学の栄枯盛衰/非哲学の出現/現代哲学から現代思想へ/現代思想の諸断層

 

あとがき
事項索引
人名・書名索引

 

(5)筆者紹介


船木  亨 (ふなき  とおる)
1952年東京都生まれ。東京大博士(文学)。東京大学大学院人文科学研究科(倫理学専攻)博士課程修了。専修大学文学部哲学科教授、放送大学客員教授。専攻はフランス現代哲学。

著書として、

『ドゥルーズ』(清水書院 Century books 人と思想 1994)、

『ランド・オブ・フィクション ベンタムにおける功利性と合理性』(木鐸社 1998)、

『メルロ=ポンティ入門』(ちくま新書 2000)、

『<見ること>の哲学 鏡像と奥行』(世界思想社 2001)、

『デジタルメディア時代の《方法序説》 機械と人間とのかかわりについて』(ナカニシヤ出版 2005)、

『進化論の5つの謎 いかにして人間になるか』(ちくまプリマー新書 2008)、

『現代哲学への挑戦』(放送大学教育振興会 2011)、

『差異とは何か <分かること>の哲学』(世界思想社、2014)

など。

 

 ーーーーーーーー

 

今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後の予定です。ご期待ください。

  

  

 

現代思想史入門 (ちくま新書)

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現代哲学への挑戦 (放送大学教材)

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

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5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

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 私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。

https://twitter.com/gensairyu 

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2017早大国際現代文・解説・論点的中報告⑦・IT化社会・モラル

(1)2017では、センター現代文、東大、早大政経・法、学習院大、慶大経済(小論文)、大阪大、神戸大に続き、早大国際現代文にも、当ブログの予想論点記事が的中しました。

 2017でも、

①センター現代文(「科学論」)、  

②東大現代文(「科学と倫理」)、

③早大(政経)(法)現代文・学習院大現代文(「ポピュリズム」)、

④慶大経済小論文(「ソクラテス的思考」)、

⑤大阪大現代文(「文系の知」)、

⑥神戸大現代文(『考える身体』)

に続き、

早大国際教養学部現代文『「患者様」が医療を壊す』岩田健太郎)にも、当ブログの予想論点記事(  「 IT化社会の影・闇」、「科学論・モラル・信頼」 )が的中しました。

 つまり、2017早大国際現代文(『「患者様」が医療を壊す』岩田健太郎)に、当ブログの予想論点記事

「開設の言葉ー入試現代文の最新傾向ー重要な、気付きにくい2本の柱」

「国語予想問題『プロの裏切り・プライドと教養の復権を』神里達博」

が、的中しました。


 2016東大現代文ズバリ的中(全文一致)・2016一橋大現代文ズバリ的中(全文一致)に続く喜びです。

 そこで、今回は、2017早大国際現代文の問題解説をします。


 なお、これまでに発表した、

「2017の論点的中報告・問題解説記事①~④」については、

「2017の論点的中報告・問題解説記事⑤」に、リンク画像を貼っておきましたので、そちらを、ご覧ください。

  

gensairyu.hatenablog.com

 

gensairyu.hatenablog.com

 

 2017年度の早大国際の現代文問題(『「患者様」が医療を壊す』岩田健太郎)では、以下のような内容の論考が出題されました。

 論点は「医者・患者の目指すべき関係」です。

 

 最近の「医者と患者の関係」の悪化の原因は、患者の権利意識の高まり(悪平等主義)ではないか。
 患者が自らの権利意識を背景に、インターネット等の情報に基づいて、医者に無理な要求をしたり、医者を糾弾しようとすればするほど、医者から良好な医療を得ることが困難となる。

 それは、患者にとって損失である。
 そこで筆者が提案するのは「お医者さんごっこ」である。
 つまり、医療の場で患者は医者を専門家(プロ)として信頼し任せる。また、医者は、患者とのコミュニケーションを充分にとって全力を尽くす。
 このように、患者も医者も、大人として、演技することが、「医者と患者の関係」を改善することの近道である。

 

 今回の問題(『「患者様」が医療を壊す』岩田健太郎 )は、

「IT化社(情報化社会)のマイナス面」→「専門家よりもインターネット上の情報を優先する」、
「自己中心主義」→「社会全体の幼児化現象」・「現代日本社会における共同性軽視の風潮」、
「『平等』の内容を誤解したことによる、極端な平等主義」→「悪平等主義」・「エリート・専門家を尊重しない風潮」、
「『権利』の内容を誤解したことによる、異様な権利意識」、
「科学に対する根拠不明な懐疑主義」→「一種の偶像破壊か?」、


つまり、「反知性主義」、「近代思想・現代思想そのもの」、

に関連しています。


 つまり、これらの現象に対して、

「医療の充実」・「真の共同性の復活」には、🍎「専門家のプライドを尊重するために、専門家を信頼することの必要性」、

ひいては、「良好な人間関係の構築には他者を尊重・信頼する必要があること」を呈示して、

根本的な現代文明批判」をしているのではないのでしょうか?

 

 このように考えると、今回の2017早大国際・現代文の問題は、かなりの良問と言えます。

 来年度の国語(現代文・評論文)・小論文対策のために、この問題は、よく理解しておくべきだと思われます。

 

 今回の早大国際の現代文問題は、当ブログの、当ブログの予想論点記事

「開設の言葉ー入試現代文の最新傾向ー重要な、気付きにくい2本の柱」

「国語予想問題『プロの裏切り・プライドと教養の復権を』神里達博」

を読んでおけば、かなり、分かりやすかったと思われます。

 

 これら二つの記事のポイントを、以下に、再掲します。

 

 まず、
「開設の言葉ー入試現代文の最新傾向ー重要な、気づきにくい2本の柱」で述べたキーワード、「IT化社会のマイナス面」、つまり、 「IT化社会の影・闇を記述した箇所を再掲します。

ーーーーーーーー(再掲、スタート)

 

gensairyu.hatenablog.com

 

入試現代文(国語)・小論文の最新傾向として、注目するべきポイントとしては、2つの大きな柱があります。

 

【1】1つの柱は、「 IT化社会の光と影と闇」です。

 この論点・テーマは、3・11東日本大震災の前から登場していたので、割と有名ですが、最近のスマホ(スマートフォン)の爆発的な流行により、新たな論点・テーマが発生しています。

 スマホは、それまでの携帯電話とは、まるで違うものです。それだけに、プラス面、マイナス面も、携帯電話と比較して、拡大化・深刻化するのです。

 私が、「 IT化社会の光と影と闇」と書き、「光と影」だけにしなかったのは、事態の深刻性を強調するためです。

 

【2】もう1つの柱は、「3・11東日本大震災の各方面に対する影響」です。

 

ーーーーーーーー(再掲、終了)

 

 次に、
「国語予想問題『プロの裏切り・プライドと教養の復権を』神里達博」
の中の、「プロ・専門家を尊重する必要性」について記述した箇所を再掲します。

 

ーーーーーーーー(再掲、スタート)

 

gensairyu.hatenablog.com

(2)「プロの裏切りープライドと教養の復権を」の解説

(神里達博氏の論考)(概要です)

(赤字は当ブログによる「強調」です。青字は当ブログによる「注」です)

「今年を振り返りながら改めて思うのは、「プロのモラル」に関わる事件が多かったということである。

 杭工事のデータ偽装(「三井不動産レジデンシャル」・「旭化成建材」)は典型例だろう。そのような行為は、企業ブランドを大きく傷つけ、また業界全体に対する不信を招きかねない、重大な裏切りである。

 今年は他にも、40年以上にもわたって組織的に行政の目を欺いてきた「化学及(および)血清療法研究所(化血研)」の不正や、「東芝」の不正会計など、類似する事例が多数、報じられた。これらに共通するのは、なんらかの専門性をもって社会に対して仕事を請け負っていた者が、主として経済的利益を増やすために、信頼に背く行為を行っていた、という点である。私たちは、このような「プロの裏切り」に対して、どう対処すべきなのか。すぐに聞こえてくるのは罰則や監視の強化を求める声だが、ここでは少し違う角度から考えてみたい。まず、専門家のモラルとは、どのように維持されてきたのか、歴史的な流れを確認しておこう。

     *

 日本語でいう「プロ」とは「プロフェッショナル」の略語だが、英語の「Profess=明言する」から派生した言葉だ。これは元々、キリスト教世界において、特別に神から召喚(→「人を呼び出す」という意味)されて就くべき仕事、すなわち、聖職者、医師、法曹家の三つを指していた。そこでは専門的な訓練とともに、職に伴う倫理が求められたのは言うまでもない。そして、それを担保するのは、個人の自律もあっただろうが、同業者の相互チェックも重要な意味を持っていたと考えられる。自分たちの仕事のいわば「品質保証」は、職能共同体による自治によって担われてきたのだ。

 この点は伝統的な「職人」の世界も似ている。倫理を下支えするのは、技に対するプライドというべきものであったはずだ。

 だが近代に入ると、さまざまな仕事が社会的分業によって行われるようになっていく。これはまさに、「専門家=エキスパート」と呼ばれる人たちの増大を意味するのだ。典型例は「科学者」であろう。職業としての科学者が出現してきたのは、19世紀の欧州である。

 このようにして、多数の専門家によって社会が運営されるようになってくると、伝統的な職能共同体に属する「プロ」や「職人」の倫理は、社会の背景へと退いていく。このような社会構造の変容に対して、最も早く警告を発した者の一人に、スペインの哲学者、オルテガがいる。彼は、大衆社会の出現とは、誰もが専門家となり、しかし自分の専門以外には関心を持たない、「慢心した坊ちゃん」の集まりになることだと看破した。そうやって「総合的教養」を失っていくヨーロッパ人を彼は「野蛮」と嘆いたのだ。

     *

 今、日本で起こっていることは、そのさらに先を行くものにも見える。素人には分からない狭く閉ざされた領域に住む「専門家」が、いつの間にか社会全体の規範から逸脱し、結局は自己利益の増大、あるいは自己保身のために、社会を欺く。この事態は実に深刻だ。

 とはいえ、この状況はいずれ、世界中を悩ます共通の難問となるかもしれない。なぜなら近代の重要な本質が「分業」である以上、この世界は専門分化によってどこまでも分断されていく運命にあるからだ。

 ならば、この流れに抗(あらが)う方法はあるのだろうか。

 おそらく鍵となるのは、かつての「プロ」や「職人」が持っていた「プライド」と、失われた「教養」であると考えられる。すなわち、「目先の利益」や「大人の事情」よりも、自らの仕事に対する誇りを優先させることができるか、そして自分の専門以外の事柄に対する判断力の基礎となる「生きた教養」を再構築できるかどうか、ではないか。

 そのために私たちにもすぐできることがある。それは利害関係を超えた「他者」に関心を持つこと、そして、その他者の良き仕事ぶりを見つけたら、素直に敬意(リスペクト)を表明することだ。人は理解され、尊敬されてはじめて、誇りを持てる。抜本的解決は容易ではないが、できれば罰則や監視ではなく、知性尊敬によって世界を変えていきたい。」
(「プロの裏切り・プライドと教養の復権を」  2015・12・18「朝日新聞」月刊安心新聞)

 ーーーーーーーー

 (当ブログによる解説)

 「プロのモラル違反」は、国民の生命・健康・財産に重大な悪影響を及ぼすことが多いので、深刻な問題です。それだけに、この問題の対策は、緊急の課題です。

 神里氏の言うように、確かに「罰則」・「監視」では、根本的・本質的な解決にはならないのです。しかも、厳重な「罰則」や「監視」の中では、専門家たちの意欲・やる気は、どうしても減退していくでしょう。それでは、長期的視点から見て、社会にとって賢明な対策とは言えません。

 私も、本質的解決は、「知性」・「敬意(リスペクト)」によるしかないと思います。たとえ、実現困難な道だ、としてもです。

 そのためには、日本社会は、今こそ、歪んだ「悪平等主義」・「悪平等思想」を見直すべきです。「高い専門性」・「高い能力」のある人間を素直に高評価するべきなのです。

 それこそ、真の「個性重視」ではないでしょうか。「個性」とは、ファッションなどの外見的なものではありません。能力・技能こそ「真の個性」の最たるものです。

 また、これこそ、「真のグローバル化」です。欧米では、医師・弁護士・IT技術者専門性の高い技術者などの専門家・プロ・エリートの高評価は、当然のことです。

 だとすれば、専門家・プロ・エリートには、「素直に」「敬意」を表し、様々な待遇面でも、「それなりの高待遇」をもって対応するべきです。

 専門家たちがプライド・誇りを持って、気持ちよく、レベルの高い、きちんとした仕事をすれば、それが社会の長期的利益につながるのです。

 歪んだ「悪平等思想」から離れ、長期的視点から、物事を考えることこそが、賢明な道なのです。
 これこそが、今回の問題の根本的な解決策だと思います。

ーーーーーーーー(再掲、終了)

 

 「患者様」が医療を壊す (新潮選書)

 

 

 

 

 

 

(2)2017早大国際教養現代文の解説ー『「患者様」が医療を壊す』岩田健太郎

 

(問題文本文)(概要です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です)

 

「  賢い患者になりましょう。
 こんな言葉がもてはやされたことがあります。実は僕も、「患者はもっと賢くあるべきだ」と思っていたクチです。
 薬の名前くらいちゃんと覚えておかねばならない。病気についてもちゃんと勉強しておく。賢い患者にならねばならない、という理念はアメリカでは常識的で、僕も「それが正しい」と固く信じていました。
 〔  a  〕「賢い患者になる」というコンセプト(→「概念・考え方」という意味)は「勝ち組になりましょう」というコンセプトです。これは勝ち組の立場からの意見であり、上から見た見解です。もちろん、賢くなって良いですよ。でも、そうでなければならない、と決めつけるのはよくないのです。
 最近僕は、患者さんにだっていろいろなあり方があって良いのだと思うようになってきました。〔   b   〕、繰返しの名前とかしっかり覚えてくるのはよいことですよ。インターネットで自分の病気について勉強するのも素晴らしいでしょう。しかし、何事も過ぎたるは及ばざるがごとし。僕らは病気と闘うため「だけ」に生きているわけではないのです。〔   c   〕こういうことに固執しすぎて、目を〔   X   〕と輝かせて、病気のことだけ考えている患者さんを診ると、僕はちょっと困ってしまいます。〔                 〕
 「先生にお任せします」
とにこにこと平和な顔でおっしゃる患者さんは実に幸せそうに見えることができた。そこまで無条件に主治医を信頼しているのですから。どんな薬を出されてもこういう患者さんは幸福です。こんな人にお節介を焼いて、

「医療の言っていることが正しいなんて保証はないんだから、ちゃんと薬の名前くらいチェックしておかなきゃダメよ。もしかしたら副作用が多かったり、値段の高い薬を押しつけられているかもしれないわよ。賢い患者にならなきゃ」なんて言ってはいけないのですね。〔  2    〕 

 「先生にもらった薬なんですが、名前は・・・・ああ、なんて言いましたっけ」
というのも結構じゃあないですか。これこそ信頼の表れではありませんか。良好な「お医者さんごっこ」がそこでおっしゃる行われているのです。
 別に薬の名前を調べたり、インターネットで病気の勉強をするな、というのではありません。どんどん勉強したらよいのです。でもそれが医者を糾弾する「がために」行う勉強であれば、本末転倒。「医者の揚げ足を取ってやろう」的な目的で行う知識の取得は邪悪な性質を帯びてしまい、それは長い目で見るとその患者さん自身の〔   Y   〕を損なっていくという非常に不幸な経緯をたどることになるのです。これでは何のために「賢い患者」になったのだか分かりません。
 本当に賢い人は、実は凡愚のように見えるものです。黒澤明の『椿三十郎』じゃないですが、抜き身の刃物を出しっぱなしにしているのは本当の賢さではないのです。「ここでは全てあなたにお任せ・・・・という態度が適切な振る舞い方だな」と認識できるならば、その人はさらに「一段高い賢さ」を備えているのだと僕は思います。
 「この先生は私のために生まれてきてくれたのだ」
 と考えることが出来れば、「お医者さんごっこ」として上出来なのだ、という話をしました。今からまったく逆の話をします。Aという正論の逆はBという暴論なのではありません。同時に 甲  矛盾する二つの概念が成立してしまうのが大人の世界です。〔 Z 〕「目の前の主治医はあなたのためにいるかけがえのない存在だ」と認識した方が良いのですが、その実、医者というのはあなたのためだけにいるわけではないのです。そういうことも同時に頭の片隅には置いておく。矛盾する概念を両方頭の引き出しに入れておいて、自由に都合良く活用する。これが「お医者さんごっこ」です。

 病気を診ず、患者を診る。

 という言葉があります。実は、僕の大嫌いな言葉です。通常は「良い言葉」とされるこの言葉が、なせば僕の神経を逆撫でしてしまうのでしょう。
〔   d   〕、病気と患者というのは対立概念ではありません。〔  3  〕患者があって病気があり、病気があるから人は「患者」と呼ばれるのです。両者は本来お互いを内包する、共存する概念で、少しも対立していません。
 少しも対立していないものを無理矢理対立させる。これは二項対立(→入試頻出キーワード)の好きな、単純思考な人たちの常套手段です。日本のマスメディアの常套手段でもあります。
 このようにありもしない対立概念を作ってしまい、仮想敵たる「病気しか診ない医師」に対するルサンチマン(→「恨み・憎悪」という意味)をつのらせ、そして自分はそうではない、正義の「患者を診る医者」であるべき、「こっち側」に引っ込む。テレビで見てると、こんな番組ばっかりでしょ、最近は。
 そのような恣意性と偽善性を僕は嫌うのです。  
 同じような理由で僕の嫌いな表現に「全人的に患者を診る」という言葉があります。全人的? 患者を全人的に診るなんてたいていの医者にあるとてもむりです。〔  4  〕そういう出来もしないことをべらべらと口にする軽薄さが好きになれない。こういうことを軽々しく口にしてはいけない。患者の「本当の気持ち」なんてそう簡単に分かるわけがないのに、「分かったようなふり」をする軽薄さが気に入らない。」  ( 岩田健太郎『「患者様」が医療を壊す』より )


ーーーーーーーー


(問題)

問1  空欄a~dに入る最も適切なものを次の中から、それぞれ一つ選べ。

 

あまり   ロ しかし   ハ そもそも

ニ ところで   ホ もちろん

 

問2  X~Zに入る最も適切なものを次の中からそれぞれ一つ選べ。

 

X  イ うるうる  ロ ぎらぎら  ハ くりくり

      らんらん  ホ りんりん

Y  イ 健康  ロ 常識  ハ 精神  ニ 知性  ホ 分別

Z  イ 偽善的には  ロ 現実的には

      ハ 合理的には  ニ ドグマとしては

      ホ ファンタジーとしては

 

問3  次の文は、本文中の空欄1~4 のどこかに入る。最も適切な場所を次の中から一つ選べ。

病気なんて、所詮(しょせん) 人生の一要素に過ぎないのですから。

 イ 1     ロ 2     ハ 3     ニ 4  

 

問4  傍線部甲「矛盾する二つの概念」が具体的に指すものとして最も適切なものを次の中から一つ選べ。

 

イ  賢い医者と愚かな医者

ロ  賢い患者と愚かな患者

ハ  病気しか診ない医者と患者を診る医者

ニ  唯一無二の主治医と万人のための医者

ホ  病気の勉強をする患者と主治医にお任せの患者

 

問5  「お医者さんごっこ」という表現が本文中に複数回出てくるが、筆者はこの表現をどのような意味で使っているか。最も適切なものを次の中から一つ選べ。

 

イ  患者は医者に無条件に従う。

ロ  患者は医者より劣っているようにふるまう。

ハ  主治医は私(患者)のためにいるのだと心から信じる。

ニ  医者と患者が共に建前と本音を上手に使い分ける。

ホ  心の中では医者を信じていなくても、口では「先生にお任せします」と言う。

 

問6  本文の内容と合致するものを、次の中から二つ選べ。

 

イ  医者を信頼する態度を示す患者は賢い。

ロ  凡愚のように見える人は、本当は賢い。

ハ  物事を固定的な二項対立として考えることは非生産的である。

ニ  賢い患者は病気のことを医者にすべてまかせてしまう。

ホ  インターネットで薬のチェックをしている患者は賢くない。

へ  病気しか診ない医者の方が患者しか診ない医者より優れている。

  

ーーーーーーーー

 

(解説・解答)

問1(接続語の空欄補充問題・選択問題)

 空欄前後の文脈を精読・熟読するようにしてください。

 自分でメモした要約を元に考えることは、やめるべきです。

 私は、当ブログのこれまでの記事で、受験生による「要約のメモ」に基づく読解が、いかに有害無益か、を何度も説明してきました。

 実際に、入試本番で、時間不足、精読・熟読の不足、自分の不完全な要約メモに依存することによる混乱、などで失敗した受験生は、私の意見に納得してくれるはずです。

 入試本番の厳しい時間制限を考慮しない、極度に理想主義的な指導者の言葉に、そのまま従うのは、賢明ではありません。

 

(解答) a ロ   b ホ   c イ   d ハ

 

問2(空欄補充問題・選択問題)

X  慣用表現です。一つ一つ、地道に覚えていくだけです。

 

Y  別に薬の名前を調べたり、インターネットで病気の勉強をするな、というのではありません。どんどん勉強したらよいのです。でもそれが医者を糾弾する「がために」行う勉強であれば、本末転倒。「医者の揚げ足を取ってやろう」的な目的で行う知識の取得は邪悪な性質を帯びてしまい、それは長い目で見るとその患者さん自身の〔 Y 〕を損なっていくという非常に不幸な経緯をたどることになるのです。

の文脈を、丁寧に把握してください。

 「医者に行く」ということは、健康の回復が目的です。 

 しかし、「医者の揚げ足を取ってやろう」的な目的で行う知識の取得は、本来の目的に反するということを、ここでは言っているのです。

 

Z 直後の「その実」に着目してください。

   「[    Z ]「目の前の主治医はあなたのためにいるかけがえのない存在だ」と認識した方が良いのですが、その実、医者というのはあなたのためだけにいるわけではないのです。

となっていますから、[  Z  ]その実」は、対応関係になります。

 

(解答)  X ニ   Y イ   Z ホ

 

問3(脱文挿入問題)

 空欄 Ⅰ の2文前の表現との関係に注目してください。

   「僕らは病気と闘うため「だけ」に生きているわけではないのです。〔 c 〕こういうことに固執しすぎて、目を〔 X 〕と輝かせて、病気のことだけ考えている患者さんを診ると、僕はちょっと困ってしまいます。

 つまり、筆者は、「病気」を、それほど重大視しては、いないのです。

 

(解答) イ

 

問4(傍線部説明問題)

 直後の文脈に着目するとよいでしょう。

[    Z ]目の前の主治医はあなたのためにいるかけがえのない存在だ」と認識した方が良いのですが、その実、医者というのはあなたのためだけにいるわけではないのです。そういうことも同時に頭の片隅には置いておく。矛盾する概念矛盾する概念を両方両方頭の引き出しに入れておいて、自由に都合良く活用する。これが「お医者さんごっこ」です。

 赤字に注目して熟読するとよい、と思います。

 

(解答)  ニ

 

問5(説明問題)

 空欄を含む文の、2つ後ろの文の表現がポイントになります。

同時に甲矛盾する二つの概念が成立できるしてしまうのが大人の世界です。〔 Z 〕「目の前の主治医はあなたのためにいるかけがえのない存在だ」と認識した方が良いのですが、その実、医者というのはあなたのためだけにいるわけではないのです。そういうことも同時に頭の片隅には置いておく。矛盾する概念を両方頭の引き出しに入れておいて、自由に都合良く活用する。これが「お医者さんごっこ」です。

 

(解答)  ニ

 

問6(内容判定問題)

 この問題は、本文を読む前に、選択肢を先に読んで、ポイントをチェックしておくべきです。

 

(解答)  イ・ハ

 

 (3)解説

 

 筆者は、最近の「医者と患者の関係」の悪化の原因を、患者の過度の権利意識の高まりが、原因ではないかと述べています。最近の患者の中には、いろいろと、面倒な人もいるようです。インターネット上の不正確な情報をもとに治療方針に注文をつける場合もあるようです。

 患者が「自らの権利意識」や「インターネット上の不正確な情報」を背景に、医者に無理な要求をすればするほど、医者から得られるべき良好な医療を得ることが困難となると、筆者は主張しています。

 ここで、筆者の提案するのは、「お医者さんごっこ」です。つまり、患者は医者を専門家として尊重して、信頼し任せる。一方、医者は、患者を「お客様」として扱うのではなく、患者とのコミュニケーションを充分にとって全力を尽くす。充分にコミュニケーションをとって全力を尽くす。
 このように患者も医者も振舞う(演技する)ことが、「患者と医者の関係」を改善することの近道であるとしています。
 確かに、医者も人間ですから、患者から信頼されれば、気持ちよく仕事ができます。
 結局、お互いを尊重して、充分なコミュニケーションをとることで、良い医療が得られるのではないかと、筆者は考えます。

 

 (4)本書の筆者紹介


岩田 健太郎(イワタ ケンタロウ)

1971年、島根県生まれ。島根医科大学(現・島根大学医学部)卒。米国アルバートアインシュタイン医科大学ベスイスラエル・メディカルセンター、北京インターナショナルSOSクリニック、亀田総合病院勤務などを経て、神戸大学大学院医学研究科微生物感染症学講座感染治療学分野教授。

 

著書に

『主体性は教えられるか』(筑摩選書)、

『悪魔の味方ー米国医療の現場から』(克誠堂出版)、

『感染症外来の事件簿』(医学書院)、

『感染症は実在しないー構造構成的感染症学』(北大路書房)、

『予防接種は「効く」のか?ーワクチン嫌いを考える』(光文社新書)

『1秒もムダに生きないー時間の上手な使い方』(光文社新書)、

『「患者様」が医療を壊す』(新潮選書)、

『ためらいのリアル医療倫理ー命の価値は等しいか?』(技術評論社)、

など多数がある。

 

ーーーーーーーー

 

今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

ご期待ください。

 

   

 

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「患者様」が医療を壊す (新潮選書)

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食べ物のことはからだに訊け!: 健康情報にだまされるな (ちくま新書)

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

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『考える身体』身体論・解説・論点的中報告⑥・2017神戸大現代文

(1)2017では、センター現代文、東大、早大政経・法、学習院大、慶大経済(小論文)、大阪大に続き、神戸大現代文にも、当ブログの予想論点記事が的中しました。

 

 2017でも、

①センター国語第1問(現代文・評論文)、

②東大国語第1問(現代文・評論文)、

③早大政経現代文・早大法現代文・学習院大現代文、

④慶大経済小論文、

⑤大阪大現代文

に続き、
神戸大国語(現代文・評論文)(『考える身体』三浦雅士)にも、当ブログの予想論点記事(心身二元論身体論)が的中しました。

 

 つまり、2017神戸大現代文に、当ブログの予想論点記事

「2012東大国語第1問(現代文)解説『意識は実在しない』河野哲也」、

「2017早大(文化)「見ることとうつすこと」鈴木理策・予想出典」、  

「2016年東大国語ズバリ的中報告・内田樹・『日本の反知性主義』」、

が、的中しました。


 2016東大現代文ズバリ的中(全文一致)・2016一橋大現代文ズバリ的中(全文一致)に続く喜びです。

 そこで、今回は、2017神戸大現代文の問題解説をします。


 なお、これまでに発表した、

「2017の論点的中報告・問題解説記事①~⑤」、

「2016東大現代文ズバリ的中報告・問題解説記事」、

「2016一橋大現代文ズバリ的中報告・問題解説記事」、

については、「2017の論点的中報告・問題解説記事⑤」にリンク画像を貼っておきましたので、そちらを、ご覧ください。

 

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 今年度の神戸大の現代文問題(『考える身体』三浦雅士)では、以下のような文章が出題されました。冒頭部分を引用します。

 

(問題文本文)(概要です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です)

「  舞踊ほど根源的な芸術はない。ここ二十年来、バレエや日本舞踊を熱心に見続けてきて、繰り返しそう思った。

 感動とは身体的なものだ。人によっては、理論的な何かがまずあって、その理論に近いものに出会って感動するということがあるのかもしれない。だが、それはたぶん偽物である。ほんものの感動はそんな余裕を与えない。それは嵐のように、突風のように襲ってくるのである。鼓動が高まり背筋が青ざめる。文字通り、打ちのめされるのである。

 感動は相対的なものではない。絶対的なものだ。嵐が過ぎ去って、これはいったい何だったのかと、人は考える。感動する身体とはいったい何か。そしてまた、感動される身体とはいったい何か、と。だが、考えているそのそばから、さらにまた新しい感動が襲ってくる。身体が震えるのである。こうして、なかば陶酔し、なかば覚醒しているという不思議な状態に置かれる。これこそ舞踊の醍醐味なのだ。

 この舞踊の醍醐味のなかで、感動とは身体の問題であると考えるようになった。

 (『考える身体』三浦雅士 )

 

 今回の問題(『考える身体』)は、

「極端な科学重視主義」→「『理系の知』の重視」、
「極端な客観重視主義」、
「理性・知性重視主義」、
「精神性重視主義」、
「合理主義」、
「観念的発想」、
つまり、「近代思想・現代思想そのもの」、

「最近の文系学部軽視の風潮」、

「現代日本社会における、共同性軽視の風潮」
に関連しています。


 つまり、これらの現象に対して、「人間的な生の充実」・「真の共同性の復活」には、「『身体性』の再評価・重視」が不可欠という原理・原則論を呈示して、「根本的な現代文明批判」をしているのではないのでしょうか?

 まさに、ポストモダン(脱近代)的な発想です。

 

 各人が「自己の身体性」を再評価・重視することは、「人間的な生の充実」・「真の共同性の復活」のためには、不可欠なのです。

 このように考えると、今回の神戸大現代文の問題は、かなりの良問と言えます。来年度の国語(現代文・評論文)・小論文対策のために、この問題は、よく理解しておくべきだと思われます。

 

 今回の神戸大の現代文問題は、当ブログの、

「2012東大国語第1問(現代文)解説『意識は実在しない』河野哲也」、

「2017早大(文化)「見ることとうつすこと」鈴木理策・予想出典」、  

「2016年東大国語ズバリ的中報告・内田樹・『日本の反知性主義』」、

を読んでおけば、かなり、分かりやすかったと思われます。

 これら三つの記事のポイントを、以下に、再掲します。

 

 まず、「2012東大国語第1問(現代文)解説『意識は実在しない』河野哲也」の記事から、「身体論」の前提となっているデカルトの「物心二元論(心身二元論)」を記述した箇所を再掲します。

 

gensairyu.hatenablog.com

 

ーーーーーーーー(再掲、スタート)

 

 入試現代文(国語)・小論文における「科学批判」(近代科学論・現代科学論)の中で多いのは、「科学」の根本原理である「物心二元論(心身二元論)」を批判し、この根本原理そのものを見直そうとする論考(→「身体論」)です。

 今回、検討する問題も、同じ方向の論考です。

 そこで、まず、デカルトの「物心二元論(心身二元論)」の定義・内容について説明します。

【物心二元論(心身二元論)】

 デカルト(近代哲学の父)は、世界のあらゆるものは二種類に分類できると考えました。
 「考えるもの」と「広がりのあるもの」です。
 「考えるもの」、つまり、「魂」が、「広がりのある事物」とは全然違う性質のものだ、という主張は、その後の「精神と身体の二元論」(「心身二元論」)の基礎となりました。

【一元論と二元論】

 「一元論」とは、世界の全てを、ある一つの原理で説明できるという思想であり、「二元論」とは、世界の全ては二つの原理で説明する必要があるという思想です。

 世界を一つの原理のみで説明することは、少々無理があります。

 そこで出てきたのが、「生滅変化する現象の世界」と「変化しない理念の世界(イデア)」を対立(「二元論」)させるプラトンの哲学です。

 この二元論は、「心身二元論」の基礎になっています
 
【デカルトの心身二元論】

 デカルトの「心身二元論」とは、「精神(心)」と「身体(身)」を明確に区別した「二元論」です。
 つまり、精神(心)と身体(物質)という根本原理によって世界を説明する考え方です。

 ……………………

 今回の問題を解いていく際には、以上の「デカルトの心身二元論」 を予備知識として、しっかり理解しておく必要があります。

 そうでないと、本問は、かなりの難問になってしまいます。

 

ーーーーーーーー(再掲、終了)

 

 「身体論」は、デカルトの「物心二元論(心身二元論)」を根本的に見直そうとする思想です。

 

 次に、「2017早大(文化)「見ることとうつすこと」鈴木理策・予想出典」の中の、鈴木氏が、「『見ること』における『身体性』の見直し」を主張している箇所を再掲します。

 

gensairyu.hatenablog.com

 

ーーーーーーーー(再掲、スタート)

 

(鈴木氏の論考)(概要です)

(【1】【2】【3】・・・・は、当ブログで付記した段落番号です)

(青字は、当ブログによる「注」です)

(赤字は、当ブログによる「強調」です)

(紫色の字は、早稲田大学・文化構想学部の入試で、傍線部説明問題・空欄補充問題として問われた部分です)

【8】私は撮影では出来るだけ何もしないことを目指します。わざわざ大型カメラを担いで出かけていくのですから、何もしない、というのは矛盾しているようですが、画面に作為を込めないこと、私自身の存在を消していくことを目指しているのです(→「写真家としての主体性の放棄」、を意図している感じです。「写真家と風景の関係」から、「近代的な『主体』・『客体』」という枠組みを消去しようという、大胆な実験の感じがします。「写真家の主体性」を明確化することは、「お決まりの作法」に染まることだ、と意識しているのです)カメラを構えて歩いて行き、気になる光景に出会ったら三脚を立て、大体の位置で構図を決めて、その後は変更しません。ピントは、その場所で最初に目がいった部分に合わせます。シャッターも狙わずに押す工夫をしています。(→道を歩いていて、気になった風景のある場所に立ち止まり、風景をじっくり見つめる直前の瞬間を、風景を「構図」・「シャッターチャンス」を意識して見つめる直前の瞬間を、フィルムに保存する感じです)そんな風に撮影した写真は、いわゆる写真的な見どころを含みませんが、外の世界をありのまま(→写真家の「近代的な解釈」による変形・強調が介入していない、ということです)表しています。(→写真を見る人は、初めて風景と対面した時の、ぼんやりとした当惑の場に、直面することになります)私が写真でしたいと思っていることは少し変わっているかもしれません。

【9】今年の春、香川県丸亀市猪熊弦一郎現代美術館の企画で個展を開催しました。展覧会は七月から東京オペラシティアートギャラリーに巡回しています。写真を見せるというより風景を見る(→「対象と直に交わっている場」・「外の世界と入場者の身体が直接触れる場」、つまり、「風景と初めて出会う場」・「風景に目の焦点が合って、風景を『構図』・『シャッターチャンス』の枠組みの中で再構成する以前の場」という意味、だと思います)になれば良いと考え、自身で展示構成を行いました。会場に並ぶ写真を見ると、その都度新しい発見があります。写真家は自分の写した全てを確認済みと思われるでしょうが、ものを見ることは常に新しい経験(→外の世界とその人の身体が直接触れた時に、その人の目に映る「今」は、「過去」と常に違うからです)です。」  (「見ることとうつすこと」鈴木理策)

 

ーーーーーーーー(再掲、終了)

 

 さらに、「2016年東大国語ズバリ的中報告・内田樹氏・『日本の反知性主義』」の中の、身体性重視の記述を再掲します。

gensairyu.hatenablog.com

 

ーーーーーーーー(再掲、スタート) 

 

(内田氏の論考)(概要です)

(青字は、当ブログによる「注」です)

(赤字は、当ブログによる「強調」です)

バルトによれば、無知とは知識の欠如ではなく、知識に飽和されているせいで未知のものを受け容れることができなくなった状態を言う。実感として、よくわかる。「自分はそれについてはよく知らない」と涼しく認める人は「自説に固執する」ということがない。他人の言うことをとりあえず黙って聴く。聴いて「得心がいったか」「腑に落ちたか」「気持ちが片付いたか」どうかを自分の内側をみつめて判断する。ァそのような身体反応を以てさしあたり理非の判断に代えることができる人を私は「知性的な人」だとみなすことにしている。その人においては知性が活発に機能しているように私には思われる。そのような人たちは単に新たな知識や情熱を加算しているのではなく、自分の知的な枠組みそのものをそのつど作り替えているからである。知性とはそういう知の自己刷新のことを言うのだろうと私は思っている。個人的な定義だが、しばらくこの仮説に基づいて話を進めたい。」  (『日本の反知性主義』内田樹 )

…………………………………………

問(1)「そのような身体反応を以てさしあたり理非の判断に代えることができる人」(傍線部ア)とはどういう人のことか、説明せよ。

…………………………………………

〔解答・解説〕

 傍線部の「そのような身体反応」に注目する必要があります。

 「そのような身体反応」とは、直前の「得心」(納得)、「腑に落ちた」「気持ちが片づいた」を指しています。

 つまり、傍線部アは、「頭脳のみで観念的に考えるのではなく、全身的納得を意識して理非の判定をするということ 」、を意味しています。

 従って、解答は、「納得や了解等の全身的な感覚を意識して物事の正否を判定する人」となります。」

 

ーーーーーーーー(再掲、終了)

 

 今回は、『考える身体』の入試頻出箇所を、最近の立教大学の過去問を使用して、予想問題として解説します。

 (なお、漢字の書き取り問題、読み問題は省略します)

 

 考える身体

 

 

 

 

 

(2)予想問題解説・『考える身体』三浦雅士ー立教大学国語(現代文)出題

 

(問題文本文)(概要です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です)

 

【1】人は意識において考えるよりも先に、まず身体において考えているというべきだろう。ある① 身体所作の体系を採用したその段階において、人の身体は、意識よりも先にすでに考えはじめているのだ。少なくともある種の考え方、思考の流儀を採用しているのである。そういえば、十九世紀の小説の名手たちは、登場人物を描くにあたって、何よりも、その顔かたちと身ごなしを克明に描きだしていた。思想はまずその身体に現れると直観していたに違いない。

【2】ここには、おもしろい問題が山積している。

【3】身体の問題というと、人はまず自分の身体を眺める。手を見、腕を見、さらには我が身を鏡に映しだしてみる。つまり、身体というと、人はまず個人の身体を思い浮かべるのだ。そしてたいていは、どこかしら恥ずかしくなって、肩をすくめる。身体は個人に属すのであって、集団に属すわけではないというわけだ。だが、ほんとうはそうではない。仕草や表情にしてもそうだが、共同体の基盤は身体にあると言っていいほどなのである。

 

ーーーーーーーー

 

(問題)

問1  傍線部①の「身体所作」とほぼ同じ内容を表す言葉を本文中から二つ抜き出し、それぞれ四字以内で記せ。

 

………………………………

 

(解説・解答)

問1(単語力を問う問題・記述問題)

 このような「単語力を問う問題」は、入試では頻出です。模擬試験と大きく違う点です。 

 しかも、今回は記述式問題なので、配点は高いと思われます。

 さらに、今回の問題は、入試頻出です。ミスした人は、よく復習しておいてください。

(解答)  身ごなし・仕草

 

ーーーーーーーー

  

(問題文本文)(概要です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です)

【4】日常生活の随所にその証拠がころがっている。たとえば、人はなぜスポーツを観戦するのか。勝敗の行方を見極めたいと思うからか。そうではない。人の身体の動きに同調してみたいのである。相撲で、ひとりの力士が土俵を割りそうになりながら残すとき、見るものも同じように反り身になって相手の回しを握り締めているのである。だからこそ、手に汗握るのだ。つまり、スポーツを見るものは、そのスポーツをいっしょに戦っているのである。野球にしてもそうだ。投球が決まった一瞬、まるで指揮者に操られたように、会場の全体がどよめく。投手や打者の呼吸に、全観衆の呼吸が同調しているからである。それが人間の身体なのだ。

【5】想像力といえば、意識の問題と考えられがちだが、そうではない。それはまず身体の問題なのだ。身体がまず他人の身体になりきるのである。その運動、その緊張、その痛みを分け持ってしまう。想像力の基盤は身体にあるとさえ言いたいほどである。

【6】模倣もまた身体の想像力のひとつと考えるといい。人は、歩き方、走り方、泳ぎ方を習うが、教科書によってではない。身体を介して習うのである。実際、子供は、教えるよりも先にまねている。身体の想像力は、意識の想像力を上回る。稽古事の経験者ならばだれでも思いあたるだろうが、言葉による注意は、身体の想像力のきっかけにすぎない。

【7】舞踊に関心を持つようになってはじめて、以上の事実に気づいた。人はなぜダンスを見るのか。何よりもまず身体そのものが、他人の身体と同調したいからなのだ。舞台を見るとき、人は、ダンサーとともに踊っているのである。回転し、跳躍しているのである。だからこそ、見終えた後に、快い疲労を覚えるのだ。また、だからこそ、より美しく舞うもの、より華やかに踊るものにひかれるのである。スポーツにしても同じだ。人は、より強い、より速い、より美しいフォームにひかれる。身体の想像力の限界を試そうとでもするように、人は舞台を見る。試合を見る。見ているのは目ではない。身体なのだ。

【8】そういえば、昔はよく、尊敬する人物の肖像や彫像を机上に飾ったものだ。なぜか。見ることが、全身的な行為であると信じられていたからである。〔   A   〕の想像力以上に、〔   B   〕の想像力が重要であることが、直観的に把握されていたからだ。人物だけではない。たとえば雄大な光景は人を雄大にする。人は全身で見るのであり、見た瞬間、何よりもまず身体がその光景に同調しようとするのだ。

 

ーーーーーーーー

 

(問題)

問2  空欄A・Bには、それぞれどんな言葉を補ったらよいか。本文中から最も適当な言葉を抜き出して記せ。

 

………………………………

 

(解説・解答)

問2  (空欄補充問題・記述問題)

  【8】段落の内容をよく把握することが必要になります。

 また、空欄A・Bを含む一文が、直前の一文の理由になっていることを確認してください。

 (解答)  A 意識  B 身体

 

ーーーーーーーー

 

(問題文本文)(概要です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です)

【9】このように考えると、なぜ舞踊と遊戯が神事として誕生したかが分かってくる。舞踊と遊戯、すなわちダンスとスポーツは、おそらくその起源をひとつにしている。いずれも、身体を介して、人間が集団を成していること、共同体を形づくっていることを確認する行為にほかならなかったのである。神前で舞うとき、共同体の成員もまたともに舞うのだ。相撲にしてもそうだ。観客もまた力を尽くして戦うのである。たとえば綱引きのような遊戯は、身体のこのような共同性をそのまま象徴していると言っていい。しかも舞踊や遊戯は、身体を介して、人と人の共同性のみならず、人と自然の共同性をも教えたはずである。身体の想像力は、人と動物、人と自然の境界をも、やすやすと越えたはずだからだ。

【10】近代になって、意識と身体は画然と分けられた。同時に、五感とその領域も鋭く分割された。〔   C   〕の領域には美術が、[   D   ]の領域には音楽が配分された。そのいずれにもかかわる舞踊や演劇は、いささか曖昧な芸術としてさげすまれた。身体の領域はただ健康の問題、医学の問題へと差し回されたのである。そして、ひたすら健康の技術にかかわるものとして、保健体育の思想が登場したのだった。

【11】だが、いまや近代の全体が問い直されているのである。美術も音楽も、いや文学さえもが、じつは全身的な感受の対象であることが明らかになりつつある。たとえば文体は、呼吸を通して全身にかかわるのである。芸術の鑑賞は、いまや身体の想像力を抜きに語ることはできない。いわんや舞台芸術の鑑賞、スポーツの観戦にいたっては、まさに身体の問題にほかならないのである。

【12】おそらく、新しい観客論がいま要請されているのである。そう、たとえばオリンピックを、そのような観客論の立場から考察し直すような視点が要請されているのだ。」( 三浦雅士「考える身体」 )

 

ーーーーーーーー

 

(問題)

問3  空欄C・Dには、それぞれどんな言葉を補ったらよいか。自分で考えて記せ。

 

問4  筆者の考えによれば、スポーツを観戦することと雄大な光景を眺めることの間には共通点がある。その共通点とは何かを、本文に即して句読点とも二十字以内で記せ。

 

問5  傍線部②について。「新しい観客論がいま要請されている」のはなぜか。その理由を、本文に即して句読点とも六十字以内で説明せよ。

 

………………………………

 

(解答・解説)(解答)

 

問3(空欄補充問題・記述問題)

 常識・単語力のレベルの問題です。

 確実に解答できるようにしてください。

 (解答)C視覚D聴覚

 

問4(説明問題・記述問題)

 「同調」がキーワードになっていることを、読み取ってください。

 第【8】段落に注目するとよいでしょう。

 設問文の本文に即して」に注意してください。

 「本文中のキーワード」を使用することを要求されているのです。

 (解答)何よりもまず見る側の身体が同調する点。(19字)

 

5(理由説明問題・記述問題)→「心身二元論」の見直し

 最終の二つの段落に着目する必要があります。

 ポイントは「近代」、つまり、「近代原理」・「心身二元論」の見直しです。

 

  設問文の本文に即して」に注意してください。

 「本文中のキーワード」を使用することを要求されているのです。

 (解答)  意識と身体を画然と分けた「近代」が問い直されている今、スポーツの鑑賞も身体の想像力の問題として見直されるべきだから。(60字)

 

ーーーーーーーー

 

 【要約】

人は意識において考えるより先に、まず身体において考えている。共同体の基盤は身体にある。人がスポーツを見るとき、そのスポーツを一緒に戦っている。想像力は、まず身体の問題である。舞踊や遊戯は、身体を介して、人と人の共同性のみならず、人と自然の共同性をも教えたはずである。あらゆる意味で分断の時代であった近代が問い直される中、新しい観客論も要請されている。

 

 

 

 (3)本書・著者の紹介

 

【本書の内容】

身体の思想ではない。いまや、思想の身体こそ語られるべきではないか――。人類の起源から現代にいたる歴史的文脈のなかに「身体」を位置づけ、身体と精神、言葉、思考、芸術、舞踊との関係を縦横に描き出す。(「ブック紹介」より引用)

 

【著者紹介】

三浦 雅士(みうら まさし)
1946年生まれ。編集者、文芸評論家、舞踊研究者。日本芸術院会員。弘前高校卒業。『ユリイカ』『現代思想』編集長を経て、批評活動を展開する。1991年『ダンスマガジン』編集長、94年『大航海』編集長。文芸評論家、新書館編集主幹。

 

【著書】
『私という現象 同時代を読む』(冬樹社 1981年/講談社学術文庫 1996年)
『メランコリーの水脈』(サントリー学芸賞・福武書店 1984年/福武文庫 1989年/講談社文芸文庫 2003年)
『寺山修司 鏡のなかの言葉』(新書館 1987年)
『身体の零度 何が近代を成立させたか』(読売文学賞・講談社選書メチエ 1994年)
『バレエの現代』(文藝春秋 1995年)
『考える身体』(NTT出版 1999年)
『バレエ入門』(新書館 2000年)
『村上春樹と柴田元幸のもうひとつのアメリカ』(新書館 2003年)
『青春の終焉』(伊藤整文学賞・講談社 2001年/講談社学術文庫 2012年)
『漱石―母に愛されなかった子』(岩波新書 2008年)
『人生という作品』(NTT出版 2010年)
『ポストモダンを超えて: 21世紀の芸術と社会を考える 』(平凡社 2016年)

 

ーーーーーーーー 

 

今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

ご期待ください。

 

   

 

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考える身体

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ポストモダンを超えて: 21世紀の芸術と社会を考える

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

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2017大阪大国語(現代文・評論)解説・論点的中報告⑤・文系の知

(1)2017でも、センター現代文、東大現代文、早大政経・法・現代文、学習院大現代文、慶大経済・小論文に続き、大阪大現代文にも、当ブログの予想論点記事が的中しました。

 

 2017でも、

①センター国語第1問(現代文・評論文)、

②東大国語第1問(現代文・評論文)、

③早大政経現代文・早大法現代文・学習院大現代文、

④慶大経済小論文、

に続き、

大阪大国語(現代文・評論文)(『「文系学部廃止」の衝撃』吉見俊哉)にも、当ブログの予想論点記事が的中しました。

 

 つまり、2017大阪大国語(現代文・評論文)に、当ブログの予想論点記事
(「予想問題・『文系学部解体』室井尚・『日本の反知性主義』(1)」、
 「予想問題・『文系学部解体』室井尚・『日本の反知性主義』(2)」)
が、的中しました。

 2016東大現代文ズバリ的中(全文一致)・2016一橋大現代文ズバリ的中(全文一致)に続く喜びです。

 そこで、今回は、2017大阪大学国語(現代文・評論文)の問題解説をします。


 なお、これまでに発表した、

「2017の論点的中報告・問題解説記事①~④」、

「2016東大現代文ズバリ的中報告・問題解説記事」、

「2016一橋大現代文ズバリ的中報告・問題解説記事」、

については、下にリンク画像を貼っておきます。

 

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 「予想論点的中報告記事②」として扱います↓ 

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 「予想論点的中報告記事①」として扱います↓

gensairyu.hatenablog.com

 

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 今年度の大阪大学の現代文問題(『「文系学部廃止」の衝撃』吉見俊哉)では、以下のような内容の論考が出題されました。

 

 「文系の知は役に立たないから要らない」という議論ばかりではなく、「文系の知は役に立たないけれども価値がある」という議論には、賛成できない。
 むしろ、「文系の知」は必ず役に立つ。「役に立つ」とは、今後五年の経済成長に貢献するといった「手段的な有用性」に限定されない。

 そうした「効用」の論理は、特定の価値世界のなかの出来事にすぎない。

 歴史のなかでは「価値の軸」は必ず変化する。高度成長期と現在を比較すれば明らかなように、これまでも数十年単位で「価値の軸」は変化してきた。

 そして、この「価値の軸」が大きく変化するとき、過去の「手段的な有用性」は、一挙に役に立たなくなる。

 短期的な答えを出す「理系的な知」より、目的や価値の新たな軸を発見・創造する「文系的な知」こそが、長期的に見て、役に立つのだ。

 


 今回の問題(『「文系学部廃止」の衝撃』)は、
「グローバル経済・新自由主義に関連した、日本社会の短期的利益の極端な追求」、
「『理系の知』の重視」、
「最近の文系学部軽視の風潮」、
「読書離れ」、
「反知性主義→日本社会の幼児化・テーマパーク化・劇場化、日本人のマリオネット化(操り人形化→羊化→政治的無関心・健康ヒステリー・グローバル化崇拝現象など)」、
「ポピュリズム」、
に関連しています。


 つまり、これらの現象に対して、

「日本(組織)の存続」・「日本(組織)の持続的発展」には、「『文系の知』の再評価・重視」、つまり、「教養・哲学の再評価・重視」が不可欠という原理・原則論を呈示して、根本的な「現代文明批判」をしているのではないのでしょうか?

 市民が教育によって「文系の知」・「幅広い教養」・「哲学的な知」、すなわち、「確固たるアイデンティティ」・「確固たる自己」・「批判的思考」を持つことは、「日本(組織)の存続」・「日本(組織)の持続的発展」のために不可欠なのです。

 このように考えると、今回の大阪大学国語(現代文・評論文)の問題は、かなりの良問と言えます。来年度の国語(現代文・評論文)・小論文対策のために、この問題は、よく理解しておくべきだと思われます。

 

 今回の大阪大学の現代文問題は、当ブログの、

「予想問題・『文系学部解体』室井尚・『日本の反知性主義』(1)」、
「予想問題・『文系学部解体』室井尚・『日本の反知性主義』(2)」

を読んでおけば、かなり、分かりやすかったと思われます。→リンク画像は下に貼っておきます。

 これら二つの記事のポイントを、以下に、再掲します。

 

 まず、「予想問題・『文系学部解体』室井尚・『日本の反知性主義』(1)」の記事から、「文系の知」の「価値」を記述した箇所を再掲します。

 

ーーーーーーーー(再掲、スタート)

 

 【2】「文系学部解体」の進行

 実は、この問題は1990年代以後の「大学改革」の結果である、と室井氏は、主張しています。
 この経過について、本書の「巻末資料」の「著者blog 」を引用します。

「大学審議会が91年に出した『大学設置基準の大綱化』は、各大学独自の教育・カリキュラム改革を推進させ、その結果、約5年で」教養部・一般教育部は、ほとんどの大学から姿を消した。新自由主義経済学の影響の強いこの改革は、要するに、大学教育に競争原理を持ち込むことにより、お互いに切磋琢磨することによって、教育の質や効率を高めるという効果を狙っていた。さらに、文部科学省は、2004年に国立大学法人化を実施し、国立大学は、企業の形態を取ることになった。」 

 しかし、短期的な数値目標の設定や、競争原理の導入は、大学教育の質の向上に結びつかなかったと、室井氏は述べています。
 この改革の背景にあるのは、大学に「民間企業の論理」を導入する考え方であると、室井氏は、結論付けています。

 即戦力となる人材育成の要求等の、「短期的視点」でしか思考しない論理が持ち込まれ、その結果として、「文系の知」が軽視されたということなのです。

【3】斎藤隆による補足説明

 大学とは、本来、「教養」を身につけ、「多様性」を受けとめる場です。
 その大学が、いわゆる構造改革以降、新自由主義的な効率化、合理化、競争原理の波にさらされ、目に見える具体的成果を要求されています。

 「教育上の成果」とは、何でしょうか。
 短期的に、成果が顕在化するものなのでしょうか。
 室井氏の言うように、「アカデミー」とは、「無用の知」という余裕を備えた「知性の学び」です。
 そこから、「豊かな可能性を秘めた創造的な知性」が、醸成されていくのです。
 従って、大学教育の教育上の成果は、「長期的な視点」で考えるべきです。
  「文系学部解体・軽視」は、大学だけではなく、現代の社会や経済と密接に関連した問題だと思います。

 あらゆる事項を、お金、つまり、「経済的効果」に換算することでしか評価できない、現代日本社会の貧しい思考力を、本書を読みながら、悲しみの中で、改めて知ってしまいました。
 そのような悪化した状況下でも、決して挫けないで、大学教育に対して希望を捨てない室井氏の姿勢に、私は救いを感じました。
 この問題は、国立大学だけに限定されたことでは、ありません。
 国家から補助金を支給されている私立大学においても、同じような問題が発生しているはずです。

 これらの問題が、大学入試の国語(現代文)・小論文問題に、どのような影響があるのか、大いに興味があります。

 実際に、2016年度には、前述のように、国立大学のトップレベル4校(東大・大阪大・広島大・静岡大)に、『日本の反知性主義』から「知性」に関する論点・テーマが出題されました。

 来年度も、難関大学の国語(現代文)・小論文入試で、類似の現象が見られる可能性が大です。

 
ーーーーーーーー(再掲、終了)

 

 上記の最終段落の予想は、2017年の今年、慶大経済学部小論文、慶大商学部小論文、大阪大学現代文などで、的中しました。

 

 次に、「予想問題・『文系学部解体』室井尚・『日本の反知性主義』(2)」の中の、「長期的視点から見た『文系的知』の重要な価値」について記述した箇所を再掲します。

 

ーーーーーーーー(再掲、スタート)


 このように考えると、吉岡氏、内田氏、室井氏が、「隙間」・「ノイズ」という、一見、「無価値なもの」の「見直し・再評価」から、「大学の存在価値」を再考する姿勢が、とても興味深いのです。

 「文系的知」も、一見、つまり、「短期的視点」から見ると、いかにも価値の低いものです。
 しかし、「隙間」や「ノイズ」と同じように、本質的・根源的・哲学的に、長期的視点で考察してみると、「文系的知」には、奥深く、重要な価値があるのではないでしょうか。

 
ーーーーーーーー(再掲、終了)

 

 これら二つの記事を読んでおけば、今年の大阪大学現代文の問題は、かなり分かりやすかったと思われます。

 

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 今回の問題は、頻出著者である吉見俊哉氏の著作からの出題であり、しかも、「知性」という流行論点を含んでいるので、来年度の国語(現代文・評論文)・小論文にも出題される可能性が大です。

 従って、国語(現代文・評論文)・小論文対策として、解説していきます。

 なお、今回の問題は、英語の長文読解問題としても有用です。

 ぜひとも、気合いを入れて、お読みください。

 

 「文系学部廃止」の衝撃 (集英社新書)

 

 

 

 

 

(2)2017大阪大学現代文解説ー『「文系学部廃止」の衝撃』吉見俊哉

(問題文本文)(概要です)

(赤字は、当ブログによる強調です)

(青字は、当ブログによる注です)

【1】 大学の知が「役に立つ」のは、必ずしも国家や産業に対してだけとは限りません。神に対して役に立つこと、人に対して役に立つこと、そして地球社会の未来に対して役に立つこと・・・・。大学の知が向けられるべき宛先にはいくつものレベルの違いがあり、その時々の政権や国家権力、近代的市民社会といった臨界を超えています。 

【2】そしてこの多層性は、時間的なスパンの違いも含んでいます。文系の知にとって、三年、五年ですぐに役に立つことは難しいかもしれません。しかし、三〇年、五〇年の中長期的スパンでならば、工学系よりも人文社会系の知のほうが役に立つ可能性が大です。ですから、「人文社会系の知は役に立たないけれども大切」という議論ではなく、「人文社会系は長期的にとても役に立つから価値がある」という議論が必要なのです。

【3】そのためには、「役に立つ」とはどういうことかを深く考えなければなりません。概していえば、「役に立つ」ことには (1) 二つの次元があります。一つ目は、目的がすでに設定されていて、その目的を実現するために最も優れた方法を見つけていく目的遂行型です。これは、どちらかというと理系的な知で、文系は苦手です。たとえば、東京と大阪を行き来するために、どのような技術をくみあわせれば最も速く行けるのかを考え、開発されたのが新幹線でした。また最近では、情報工学で、より効率的なビッグデータの処理や言語検索のシステムが開発されています。いずれも目的は所与で、その目的の達成に「役に立つ」成果を挙げます。文系の知にこうした目に見える成果の達成は難しいでしょう。

【4】しかし、「役に立つ」ことには、実はもう一つの次元があります。たとえば本人はどうしていいかわからないでいるのだけれども、友人や教師の言ってくれた一言によってインスピレーションが生まれ、厄介だと思っていた問題が一挙に解決に向かうようなときがあります。この場合、何が目的か最初はわかっていないのですが、その友人や教師の一言が、向かうべき方向、いわば目的や価値の軸を発見させてくれるのです。このようにして、「役に立つ」ための価値や目的自体を創造することを価値創造型と呼んでおきたいと思います。これは、役に立つと社会が考える価値軸そのものを再考したり、新たに創造したりする実践です。文系が「役に立つ」のは、多くの場合、この後者の意味においてです。

 

 ーーーーーーーー

 

(問題)

(問2)傍線部(1)「二つの次元」について、それぞれを端的に示す言葉を本文中から抜き出しながら、両者の違いを八〇字以内で説明しなさい。

 

………………………………

 

(解説・解答)

(問2)(内容説明問題)

 

 【3】・【4】段落をまとめるとよいでしょう。「目的遂行型」「価値創造型」というキーワードを使ってまとめてください。 

 

(解答)

一つは目的遂行型で、所与の目的達成に役立ち、短期に成果を出す理系的知である。他方、価値創造型は価値や目的自体を創造・再考する、長期的に有効な文系的知である。(78字)

 

 ーーーーーーーー

 

(問題文本文)(概要です)

(赤字は、当ブログによる強調です)

(青字は、当ブログによる注です)

【5】古典的な議論では、ドイツの社会学者マックス・ウエーバーによる「目的合理的行為」と「価値合理的行為」という区分があります。そこでは、合理性には「目的合理性」と「価値合理性」の二つがある、と言われました。「目的合理性」とは、ある目的に対して最も合理的な手段連鎖が組み立てられていくことであるのに対し、「価値合理性」は、何らかの目的に対してというよりも、それ自体で価値を持つような活動です。

【6ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で論じたことは、プロテスタンティズムの倫理は価値合理的行為であったのだが、その行為の連鎖が結果的にきわめて目的合理的なシステムである資本主義を生み出し、やがてその価値合理性が失われた後も自己転回を続けたという洞察です。そこで強調されたのは、目的合理性が自己完結したシステムは、いつか価値の内実を失って化石化していくのだが、目的合理的な行為自体がその状態を内側から変えていくことはできない、という暗澹たる予言でした。

【7】このウェーバーの今なお見事な古典的洞察に示されるように、目的遂行型の有用性、「役に立つこと」は、与えられた目的や価値がすでに確立されていて、その達成手段を考えるには有効ですが、そのシステムを内側から変えていくことができません。したがって目的や価値軸そのものが変化したとき、一挙に役に立たなくなります。

 

【8】つまり、目的遂行型ないしは手段的有用性としての「役に立つ」は、与えられた目的に対してしか役に立つことができません。もし目的や価値の軸そのものが変わってしまったならば、「役に立つ」と思って出した解も、もはや価値がないということになります。そして実際、こうしたことは、長い時間のなかでは必ず起こることなのです。

【9】価値の軸は、決して不変ではありません。数十年単位で歴史を見れば、当然、価値の尺度が変化してきたことが分かります。たとえば、一九六〇年代と現在では、価値軸がすっかり違います。一九六四年の東京オリンピックが催されたころは、より速く、より高く、より強くといった右肩上がりの価値軸が当たり前でしたから、その軸にあった「役に立つ」ことが求められていました。新幹線も首都高速道路も、そのような価値の軸からすれば追い求めるべき「未来」でした。ところが、二〇〇〇年代以降、私たちは、もう少し違う価値観を持ち始めています。末長く使えるとか、リサイクルできるとか、ゆっくり、愉快に、時間をかけて役に立つことが見直されているのです。価値の軸が変わってきたのです。

(中略)

【10】すべてがそうというわけではありませんが、概して理系の学問は、与えられた目的に対して最も「役に立つ」ものを作る、目的遂行型の知であることが多いと思います。そして、そのような手段的有用性においては、文系よりも理系が優れていることが多いのも事実です。しかし、もう一つの価値創造的に「役に立つ」という点ではどうでしょうか。

【11】目的遂行型の知は、短期的に答えを出すことを求められます。しかし、価値創造的に「役に立つ」ためには長期的に変化する多元的な価値の尺度を視野に入れる力が必要なのです。ここにおいて文系の知は、短くても二〇年、三〇年、五〇年、場合によっては一〇〇年、一〇〇〇年という、総体的に長いスパンのなかで対象を見極めようとしてきました。これこそが、文系の知の最大の特徴だと言えますが、だからこそ、文系の学問には長い時間のなかで価値創造的に「役に立つ」ものを生み出す可能性があるのです。

【12】また、多元的な価値の尺度があるなかで、その時その時で最適の価値軸に転換していくためには、それぞれの価値軸に対して距離を保ち、批判していくことが必要です。そうでなければ (2) 一つの価値軸にのめり込み、それが新たなものに変わったときにまったく対応できないということになるでしょう。たとえば過去の日本が経験したように、「鬼畜米英」となれば一斉に「鬼畜米英」に、「高度成長」と言えば皆が「高度成長」に向かって走っていくというようなことでは、絶対に新しい価値は生まれません。それどころか、そうやって皆が追求していた目標が時代に合わなくなった際、新たな価値を発見することもできず、どこに向かって舵を切ったらいいか、再び皆でわからなくなってしまうのです。

【13】価値の尺度が劇的に変化する現代、前提としていたはずの目的が、一瞬でひっくり返ってしまうことは珍しくありません。そうしたたなかで、いかに新たな価値の軸をつくり出していくことができるか。あるいは新しい価値が生まれてきたとき、どう評価していくのか。それを考えるには、目的遂行型な知だけでは駄目です。価値の軸を多元的に捉える視座を持った知でないといけない。そしてこれが、主として文系の知なのだと思います。

【14】なぜならば、新しい価値の軸を生んでいくためには、現存の価値の軸、つまり皆が自明だと思っているものを疑い、反省し、批判を行い、違う価値の軸の可能性を見つける必要があるからです。経済成長や新成長経済といった自明化している目的と価値を疑い、そういった自明性から飛び出す視点がなければ、新しい創造性は出てきません。ここには文系的の知が絶対に必要ですから、理系的な知は役に立ち、文系的なそれは (3)役に立たないけれども価値があるという議論は間違っていると、私は思います。主に理系な知は短く役に立つことが多く、文系的な知はむしろ長く役に立つことが多いのです。

(吉見俊哉『「文系学部廃止」の衝撃』より。出題の都合により一部改変した箇所がある。)

 

 ーーーーーーーー

 

(問題)

(問3)傍線部(2)「一つの価値軸にのめり込み、それが新たなものに変わったときにまったく対応できない」と筆者が述べている理由を、八〇字以内で説明しなさい。

 

(問4)傍線部(3)「役に立たないけれども価値がある」という議論と、筆者の立場との相違点について、理系の知に対する文系の知の違いに言及しながら二〇〇字以内で説明しなさい。

 

………………………………

  

(解説・解答) 

(問3)(理由説明問題)

 

 文脈から判断すると、【12】・【13】段落の内容をまとめるとよいでしょう。

 「のめり込み」という、少々、極端な表現に注目して答案をまとめてください。

 「価値の一元化・固定化のみの状況に安住する(熱中する)と、多元的な価値軸に対して距離を保つこと、批判することができず、新たな価値軸を作り出すことも、評価すること(→相対主義的態度)も、困難になるから」という指摘が、必要不可欠になります。

 

 (解答)

目的遂行型の知は価値や目的が固定している時には、かなり有効だが、その価値のみを追求していると、長期的には変化する多元的な価値を評価・創造することはできないから。(80字)

 

 

(問4)(内容説明問題)

 

 問2・3の解答内容を踏まえつつ、全文要約的に、まとめることを求めらています。

  「文系の知」と「理系の知」との役立ち方の次元が相反することを簡潔にまとめると、よいでしょう。

 

 「役に立つ」には、「目的遂行型」(理系の知)と「価値創造型」(文系の知)の二つの次元があること。

 「理系の知」は短期的には役立つが、「文系の知」は短期的には役立たないこと。

 しかし、文系の知は「変化する多元的な価値の尺度」を視野に入れ、現存の価値が変化したとき、新たな価値軸を創造し、新しい価値軸を評価することができる点で、長期的に役立つ知であること。

 つまり、「文系の知」は、価値軸の変化を予見したり、先導したりする価値創造的な次元を含む。その点で、「短く役立つ知」である「理系の知」とは次元が異なること。

 

 以上の点に留意して、答案を作成してください。

 

 (解答)

理系の知は目的遂行的で所与の目的達成に有効なのに対し、文系の知は価値創造的でその有効性は長期的に見ないと明確ではない。一般的には理系の知の方が評価が高く、文系の知は「役に立たないが大切だ」程度に扱われている。しかし、価値の尺度が変化する中では理系の知は対応できない。従って、価値軸を多元的に捉える視座を持ち、その時代の価値を相対化し、新たな価値を創造していく文系の知が必要だと筆者は主張する。(196字)

 

 

(3)本書の内容紹介、著者紹介

 

吉見 俊哉(よしみ・しゅんや)
1957年、東京都生まれ。東京大学大学院情報学環教授。同大学副学長、大学総合教育センター長などを歴任。社会学、都市論、メディア論、文化研究を主な専攻としつつ、日本におけるカルチュラル・スタディーズの中心的な役割を果たす。


主な著書に、
『都市のドラマトゥルギー』(弘文堂、1987年 河出文庫 2008年)、
『メディア時代の文化社会学』(新曜社、1994年)、
『「声」の資本主義』(講談社学術選書、1995年)、
『リアリティ・トランジット』(紀伊国屋書店、1996年)、
『メディアとしての電話』(弘文堂、共著、 1992年)、
『都市の空間 都市の身体』(勁草書房、編著、1996年)、
『デザイン・テクノロジー・市場』(情報社会の文化3、東京大学出版会、共編著、1998年)、
『カルチュラル・スタディーズとの対話』(新曜社、共編著、1999年)、
『ニュースの誕生』(東京大学出版会、共編著、1999年)、
『カルチュラル・スタディーズ』(岩波書店、2000年)、
『メディア・スタディーズ』(せりか書房、編著、2000年)、
『内破する知』(東京大学出版会、共著、2000年)、
『カルチュラル・ターン、文化の政治学へ』(人文書院、2003 年)、
『ポスト戦後社会』(岩波新書、2008年)、
『天皇とアメリカ』(共著、集英社新書、2010 年)、
『大学とは何か』(岩波新書 2011年)
等多数。

 

ーーーーーーーー

 

今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

ご期待ください。

  

   

  

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「文系学部廃止」の衝撃 (集英社新書)

「文系学部廃止」の衝撃 (集英社新書)

 

 

大予言 「歴史の尺度」が示す未来 (集英社新書)

大予言 「歴史の尺度」が示す未来 (集英社新書)

 

 

頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

 

  

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2017慶大経済小論文・解説・論点的中報告④・ソクラテス的思考

(1)2017でも、センター現代文、東大現代文、早大政経・法・現代文、学習院大現代文に続き、慶大経済・小論文にも、当ブログの予想論点記事が的中しました。

 

 つまり、「慶大経済・小論文問題」に、当ブログの予想論点記事(「デモクラシー(民主主義)」・「文系学部解体」・「リベラルアーツ」)が的中しました。
 2016東大現代文ズバリ的中・一橋大現代文ズバリ的中(共に全文一致)に続く喜びです。
 そこで、今回は、「2017慶大経済・小論文」の解説をします。


 なお、これまでに発表した、2017の「論点的中報告・問題解説記事①~③」、2016の「東大現代文ズバリ的中報告・問題解説記事」、「一橋大現代文ズバリ的中・問題解説記事」については、下にリンク画像を貼っておきます。

 

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 「予想論点的中報告記事②」として扱います↓ 

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 「予想論点的中報告記事①」として扱います↓

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 今年度の慶大経済学部の小論文問題では、

「組織・国家の存続・発展のためにはデモクラシー(民主主義)が不可欠である。デモクラシー(民主主義)の基盤としては、伝統・権威に依存することなく、批判的思考態度を持ち、他者に敬意を抱きつつ、議論を重視するソクラテス的思考が必要となる。イエスマンばかりでは、組織・国家の存続・発展は望めない。このことは、歴史的に明らかである。ソクラテス的思考を養成するには人文学(リベラルアーツ、つまり、主に「文系の知」)を学ぶことが不可欠である。」という、論考が出題されました。


 今回の問題は、「トランプ現象」・「イギリスのEU離脱」・「ポピュリズム」、「最近の文系学部軽視の風潮」に関連しています。


 つまり、「トランプ現象」・「ポピュリズム」、「最近の文系学部軽視の風潮」に対して、「デモクラシー・民主主義」には、「ソクラテス的思考」・「文系学部の再評価・重視」が不可欠という原理・原則論を呈示して、根本的批判をしているのではないのでしょうか?

 市民が教育によって「批判的思考」と「省察の能力」を持つことは、「デモクラシー」の安定・存続、ひいては、国家・組織の存続・発展のために不可欠なのです。

 このように考えると、今回の慶大経済学部の問題は、かなりの良問と言えます。来年度の国語(現代文・評論文)・小論文対策のために、この問題は、よく理解しておくべきだと思われます。

 

 今回の慶大経済の小論文問題は、当ブログの「『君たちが知っておくべきこと』佐藤優③」、「予想問題・『文系学部解体』②」を読んでおけば、かなり、分かりやすかったと思われます。

 これら二つの記事のポイントを、以下に、再掲します。

 

 まず、「『君たちが知っておくべきこと』佐藤優③」の記事から、佐藤氏の講義(「教養を身につけるには」「リベラルアーツとは何か」・P123)の概要を再掲します。

 

ーーーーーーーー(再掲、スタート)

 

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です)

「  どうして近代になって、こんなに受験勉強が大変になったのでしょうか。

 しかも、皆さんがやっていることは、基本的には専門教育ではなく、一般教養です。そのために、なぜこれだけの時間をかけるかということについて、最も説得力のある説明をしているのは、アーネスト・ゲルナーというイギリスの社会人類学者です。

 ゲルナーは、高いレベルでの文化を支えるためには、専門教育のレベルが低くなってくると言う。専門教育を受けた人間は応用が利(き)かないということで職業教育上、一段下に見られるようになる。だから、一般教養が必要だというわけです。

 最近は盛んに『教養が必要、リベラルアーツ(→「①職業・専門には直接結びつかない教養。自由学芸。②一般教養」という意味)が重要』と言われています。リベラルアーツリベラルとは何か? 自由人であるということです。つまり、奴隷ではないということです。

 自由人が身につけるべきものが教養であるなら、すなわち、テクネー(技術)を持っているのは奴隷だということになる。司法試験の準備、国家医師試験の準備は、世間的にはエリートを作り出すためのシステムと思われているけれど、その実、テクネーにすぎないのではないか。

 そう世界が思い始めたことで、幅広い教養が必要なのだという考え方に回帰しているのかもしれない。」

「  幅広い教養を身につけようと思ったら、まず自らの意志を持つこと、それから、いい先生を見つけること。あとは切磋琢磨できるいい友だちを見つけること。」

……………………………

(当ブログによる解説)

 佐藤氏の、自由人=教養、奴隷=テクネー(技術)、という対比は、極めて明解です。

 この講義は、現代の常識を、激しく揺さぶる内容を含んでいるので、熟読しておいて下さい。

 入試頻出著者の室井尚氏、吉見俊哉氏も、同趣旨の内容を発言しています。
 最近は、「教養」・「リベラルアーツ」の価値が再評価されています。

 「専門的知識・技術」に価値があるのは、勿論です。
 しかし、その価値は、短期的視点から見た評価です。

 長期的視点(→今回の慶大経済の小論文問題は、まさに、この点がポイントになっています)から見た場合に、「教養」・「リベラルアーツ」には独特の高い価値があるのです。

ーーーーーーーー(再掲、終了)
 

 次に、「予想問題・『文系学部解体』②」の中の、《「大学が崩壊する」ー自分の頭で何も考えないような「人材育成」に反対》の概要・解説を再掲します。

 

ーーーーーーーー(再掲、スタート)

 

 【概要④】

 「『教養教育』や『リベラルアーツ教育』が大切だというのは、さまざまな考え方を学ぶことで、自分がそれまで自由に考えていなかったこと、さまざまなイデオロギーや因襲に縛られていたということに対する『自覚』や『気づき』を与えてくれるから大切なのです。」

……………………………

(当ブログによる解説)

 さらには、『真の自由』こそは、『創造力の根源』や『真理探究の基礎』でも、あります。(→今回の慶大経済の問題は、まさに、ここがポイントになっています)
 これらの『創造力』、『真理探究』こそ人類の発展に不可欠なのです。

 ーーーーーーーー(再掲、終了)

 

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 「デモクラシー・民主主義」の論点についても、当ブログで昨年に予想論点記事を発表していたので、下にリンク画像を貼っておきます。

 

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 なお、今年度、2017年度において、「文系学部解体」・「リベラルアーツ」については、大阪大学国語(現代文・評論文)、法政大学国語(現代文・評論文)、慶應大学商学部小論文でも出題されています。

 また、「デモクラシー(民主主義)」については、新潟大学国語(現代文・評論文)、早稲田大学文学部国語(現代文・評論文)でも出題されています。
 これらのうち、大阪大学国語(現代文・評論文)については、さらに、「問題解説記事」を発表する予定です。ご期待ください。

 

 今回の問題は、流行論点を含んでいて、来年度の国語(現代文・評論文)・小論文にも出題される可能性が大なので、国語(現代文・評論文)・小論文対策として、解説していきます。

 今回の問題は、英語の長文読解問題としても有用です。ぜひとも、気合いを入れて、お読みください。

 

 経済成長がすべてか?――デモクラシーが人文学を必要とする理由

 

 

 

 

 

 

(1)慶應大学経済学部・小論文・問題解説(マーサ・C.ヌスバウム『経済成長がすべてか?ーーデモクラシーが人文学を必要とする理由』)

 

(問題文本文)(概要です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です)

 


【1】吟味されない人生は生きるに値しない」とソクラテスは公言していました。彼はこうした批判的問いかけという理想への忠誠を貫いたために命を落としたのです。今日では、ソクラテスの例が西洋における伝統的なリベラル教育の理論と実践の中心をなしています。伝統や権威を盲信するのではなく、自分自身で考え議論するソクラテス的なやり方で、議論する能力が、デモクラシーにとってかけがえのないものです。

【2】不決断というものはたいてい、権威への服従と仲間の圧力によってさらに悪化するものです。ソクラテスの批判的探求は完全に反権威主義的なものです。重要なのは話者の地位ではなく、ひたすら議論の中身なのです。
【3】「周囲の集団も重要ではありません。ソクラテス的論者はたえず異議を唱える人です。各人の議論だけが物事をはっきりさせると知っているからです。数よりも議論にしたがうように訓練された人が、デモクラシーに有用なのです。そのような人は、間違ったことや軽率なことを言わせようとする圧力に抵抗することができるでしょう。
【4】検証されない生活を送っている人々のさらなる問題は、しばしば互いに敬意を欠くことです。政治討論がスポーツの試合さながら自陣営に得点をもたらすためのものだと考えられるようになると、「相手陣営」は敵と見なされ、これを打ち負かしたい、辱しめたいとすら願うようになるのです。妥協点や共通点を探ろうとは思いつきもしないのです。(→トランプ現象をイメージします)  対話の相手に向けるソクラテスの態度は、彼が自分自身に向ける態度とまさに同じものです。各人が検証を必要としており、誰もが議論の前では平等なのです。このような批判的態度は、各人の立ち位置を明らかにします。その過程で、共有された前提や意見が交わる点が明らかになっていき、そのおかげで市民はひとつの結論を共有する方向に進んでいくのです。
【5】さて今度は、この能力と、強力なグローバル市場に包囲されている現代の多元的デモクラシーとの関連について考えてみましょう。経済的成功がまさに目標とされている場合でも、一流の会社経営者たちは、批判的な声が沈黙させられないような企業文化を、つまり主体性と説明責任を重んじる文化を作り出す重要性を知悉しています。優れたビジネス教育者たちは、私たちの最大の失敗のいくつかーーエンロンやワールドコムの破滅的な失敗ーーの原因として、イエスマンの文化を挙げていました。イエスマンの文化においては、批判的なアイデアは決して口にされないのです。
【6】ビジネスにおける二つ目の問題は、イノベーション(→「技術革新」という意味)です。繁栄したイノベーション文化を維持するのに不可欠な、想像力と独立した思考の技能を、教養教育が強化すると考えるに足る理由はいくつもあります。多くの会社が、専門に特化した訓練を受けてきた者よりも、教養課程で学んできた学生を好みます。アメリカ経済の特徴のひとつは、一般教養に重きを置いたきたところ、そして科学の分野では、より専門的な応用技術よりも基礎教育・基礎研究に重きを置いてきたところにあると思われます。

【7】しかしくり返しますが、持続的安定を望むデモクラシーの目標は、単なる経済成長だけではありえないし、またあるべきではないのですから、ここで私たちの中心的な主題である政治文化について再び考えてみましょう。人間は権威と仲間の圧力に追従しがちです。おぞましい事態を回避するためには、個々人が異議を申し立てることのできる文化を作り、こうした傾向を押しとどめる必要があります。ひとつの批判的な声が重要な結果をもたらしうるのです。個々人の主体的な声を重視することは、責任の文化を推奨することにもなるのです。自分の考えに責任を持つ人々は、自分の行為にも責任を持とうとするものです。タゴール(→「タゴルラビンドラナート・タゴール」は、インドの詩人 、思想家。詩聖として非常な尊敬を集めている。1913年には『ギーターンジャリ』によってノーベル文学賞を受賞。これはアジア人に与えられた初のノーベル賞でもあった。 インド国歌及びバングラデシュ国歌の作詞・作曲者で、タゴール国際大学の設立者でもあった。 )は、社会生活の官僚主義化と近代国家の機械的な性質が、人々の道徳的想像力を鈍磨させ、その結果人々は何の良心の呵責もなくおぞましい事態を黙認するようになると強調しています。世界がまっしぐらに崩壊へ向かうのを避けたいのなら独立した思考が重要である、とタゴールは言い添えています。

マーサ・C.ヌスバウム著、小沢自然・小野正嗣訳、『経済成長がすべてか?――デモクラシーが人文学を必要とする理由』(岩波書店、2013 年)

 

ーーーーーーーー

 

(問題) 

設問A ソクラテス的論者とは、どのように議論をする人なのか。200字以内で説明しなさい。

……………………………

(解説・解答)

 課題文を読むと、「ソクラテス的論者の特徴」について、3つの点が言及されているので、これを要約的にまとめると、よいでしょう。

 

(解答)

ソクラテス的論者の特徴は、以下の3点である。

第1に、伝統や権威を盲信するのではなく、自分で考え議論する点である。このような反権威主義的な態度の人物が重視するのは、議論の中身である。

第2に、批判的思考力を持ち、自分の考察についても、常に注意深いことである。

第3に、対話の相手に敬意を抱き、議論の前では誰もが平等であると考えることである。 

 

 ーーーーーーー

 

(問題) 

設問B  ソクラテス的なやり方で議論する能力を持つ人材は、組織(企業、行政機関など) において、どのような活躍ができるのか。

 また、そのためには、組織は、どのような条件を備えることが必要か、課題文のみにとらわれず、あなたの考えを論じなさい。

……………………………

(解説・解答)

 

問われているのは、以下の2点です。
(1)  ソクラテス的なやり方で議論をすることができる人は、組織において、どのような活躍ができるのか。
(2)  そのために組織は、どのような条件を備えることが必要か。

 

 まず、「(1)ソクラテス的なやり方で議論をすることができる人は、組織において、どのような活躍ができるのかについては、

 

第1に、「イノベーションに寄与できること」が、あげられます。「繁栄したイノベーション文化を維持する」ためには、「ソクラテス的思考」、つまり、「想像力と独立した思考」が不可欠です。このことは、以下の本文から導かれます。

「経済的成功がまさに目標とされている場合でも、一流の会社経営者たちは、批判的な声が沈黙させられないような企業文化を、つまり主体性と説明責任を重んじる文化を作り出す重要性を知悉しています。」 


第2に、重大な失敗を指摘して、会社の安定的経営・健全経営に貢献できます。会社が危機に陥ることを回避することができます。イエスマンばかりでは、会社の危機に対応できないのです。批判的思考が不可欠なのです。このことは、以下の本文から導かれます。

「優れたビジネス教育者たちは、私たちの最大の失敗のいくつかーーエンロンやワールドコムの破滅的な失敗ーーの原因として、イエスマンの文化を挙げていました。イエスマンの文化においては、批判的なアイデアは決して口にされないのです。」

 「タゴールは、社会生活の官僚主義化と近代国家の機械的な性質が、人々の道徳的想像力を鈍磨させ、その結果人々は何の良心の呵責もなくおぞましい事態を黙認するようになると強調しています。世界がまっしぐらに崩壊へ向かうのを避けたいのなら独立した思考が重要である、とタゴールは言い添えています。」

 

 次に、(2)  そのために組織は、どのような条件を備えることが必要かについては、

 

第1に、「社内デモクラシー」・「社内民主主義」の「育成」・「保持」が重要になります。言い換えると、多様な批判的意見を尊重することが必要になります。このことは、以下の本文から導かれます。

「経済的成功がまさに目標とされている場合でも、一流の会社経営者たちは、批判的な声が沈黙させられないような企業文化を、つまり主体性と説明責任を重んじる文化を作り出す重要性を知悉しています。」

 

第2に、「社員教育」として、「教養教育」を積極的に導入する必要があります。このことは、本文第6段落から導かれます。

 

 以上を答案の形にすると、以下のようになります。

 (解答)

「(1)ソクラテス的なやり方で議論をすることができる人は、組織において、どのような活躍ができるのかについては、

第1に、「イノベーションに寄与できること」が、あげられる。「繁栄したイノベーション文化を維持する」ためには、「ソクラテス的思考」、つまり、「想像力と独立した思考」が不可欠である。

第2に、重大な失敗を指摘して、会社の安定的経営・健全経営に貢献できる。会社が危機に陥ることを回避することができる。イエスマンばかりでは、会社の危機に対応できない。批判的思考が不可欠なのである。

次に、(2)  そのために組織は、どのような条件を備えることが必要かについては、

 第1に、「社内デモクラシー」・「社内民主主義」の「育成」・「保持」が重要になる。言い換えると、多様な批判的意見を尊重することが必要になる。

 第2に、「社員教育」として、「教養教育」を積極的に導入する必要がある。

 

【小論文答案作成のポイント】

 まず、本文を中心に考えることが必要です。つまり、「本文のキーワード」を使って記述するべきです。「本文のキーワード」を「自分なりの表現」で書かないようにしてください。採点者が、読解不足と判定するリスクがあります。つまらない自己主張をしないで、素直に問題に対応してください。

 その上で、自分の考えを記述するようにしてください。

 慶應大学経済学部の小論文は、わずか60分間で合計600字の記述を要求しています。

 問題文本文を読解すること、構想すること、メモをとること、などを考慮すると、設問Bも、設問Aと同様に、ほぼ要約を聞いていると考えるべきでしょう。私は、このように指導しています。このことは、設問Bの問題文からも明白です。

 例えば、設問Bの 「そのために組織は、どのような条件を備えることが必要かにおいて、「IT活用、コンペの実施、異業種や外国の企業との交流」等の、「本文とは無関係な、下らない具体例」をダラダラと書かないでください。

 試験の場で、自己主張することは、無意味どころか、時間的にも、内容的にも、字数的にも、有害でしかありません。「具体例を積極的に書くように」という指導法が、高校、予備校・塾で主流のようです。が、そのような、出題意図や、試験の実情を無視した、逆方向の指導のおかげで、長年、私の生徒の(小論文試験のある慶大などの難関大学の)合格率が5割超になっています。

 従って、私のこの指導法は、正しいと思います。 

 

 

(3)本書の内容紹介、著者・訳者の紹介

【本書の内容紹介】

グローバル市場での競争力を維持するために各国があらゆる無駄の切り棄てを余儀なくされる時代、短期的な利益の追求を国家が最優先する状況のなかで、人文学と芸術は無用の長物と見なされている。そのことが私たちの社会にもたらすものとは、なにか。科学や技術と同じくらい重要な、強い経済と繁栄のために真に求められるものを提示する。(「ブック紹介」より引用)


【著者紹介】【マサ・C.ヌースバウム】

マーサ・C.ヌスバウム(1947年生まれ)は、アメリカ合衆国の哲学者、倫理学者。ニューヨーク生まれ。ニューヨーク大学卒業後、ハーヴァード大学で修士号および博士号を取得。現在、シカゴ大学教授。
経済学者アマルティア・センとの共同研究で、潜在能力アプローチ(capability approach)を提起し、従来の開発や貧困をめぐる議論に介入した。2012年アストゥリアス皇太子賞社会科学部門、2016年京都賞思想・芸術部門を受賞。

【著書編集】

〈単著〉
『女性と人間開発ーー潜在能力アプローチ』(池本幸生・田口さつき・坪井ひろみ訳、岩波書店、2005年)
『感情と法ー現代アメリカ社会の政治的リベラリズム』(河野哲也訳、慶應義塾大学出版会)
『正義のフロンティアーー障碍者・外国人・動物という境界を越えて』(神島裕子訳、法政大学出版局)
『良心の自由ーアメリカの宗教的平等の伝統』(河野哲也監訳、慶應義塾大学出版会、2010)
『経済成長がすべてか?ーーデモクラシーが人文学を必要とする理由』(小沢自然・小野正嗣訳、岩波書店、2013年)

〈共著編集〉
『国を愛するということーー愛国主義の限界をめぐる論争』(辰巳伸知・能川元一訳、人文書院、2000年)

〈共編著編集〉
『クオリティー・オブ・ライフーー豊かさの本質とは』(水谷めぐみ・竹友安彦訳、里文出版、 2006年)
『クローン、是か非か』(中村桂子・渡会圭子訳、産業図書、1999年)

『動物の権利』(安部圭介・山本龍彦・大林啓吾監訳、尚学社、2013年)

 

 

【訳者紹介】

【 小沢/自然 
イギリス・エセックス大学大学院文学部博士課程修了。文学博士。現在、台湾・淡江大学外国語文学部英文学科准教授

 

【 小野/正嗣
東京大学大学院総合文化研究科博士課程満期退学。パリ第8大学文学博士。現在、明治学院大学文学部フランス文学科准教授。作家。(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

 

 

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今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

ご期待ください。

  

 

  

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