現代文最新傾向LABO 斎藤隆

入試現代文の最新傾向を分析し、次年度の傾向を予測する大胆企画

予想出典/『小林秀雄 美しい花』若松英輔

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 

 最近、発行された『小林秀雄 美しい花』(若松英輔)が、前回の記事で解説した『常世の花 石牟礼道子』(若松英輔)と同様に、内容的にも、レベル的にも、難関大学の現代文(国語)・小論文の題材として、ふさわしいです。 

 そこで、今回の記事で解説します。

 字数は、約1万字です。

 

 今回の記事の項目は以下の通りです。

(2)予想出典・予想問題/『小林秀雄 美しい花』若松英輔/「はじめに」・「概要」

(3)予想出典・予想問題/『小林秀雄 美しい花』/①「小林秀雄における『批評』」

(4)予想出典・予想問題/『小林秀雄 美しい花』/②「美」について

(5)予想出典・予想問題/『小林秀雄 美しい花』/③「読むこと」について

(6)予想出典・予想問題/『小林秀雄 美しい花』/④「謎」について

(7)予想出典・予想問題/『小林秀雄 美しい花』/⑤「コトバ」・「神秘」・「魂」についてー「まとめ」として

(8)当ブログにおける「小林秀雄」解説記事の紹介

 

 まず、出版元が公表している「Book 紹介」を引用します。

【内容説明】

小林秀雄は月の人である。中原中也、堀辰雄、ドストエフスキー、ランボー、ボードレール。

小林は彼らに太陽を見た。

歴史の中にその実像を浮かび上がらせる傑作評伝。

『ランボオ』『Xへの手紙』『ドストエフスキイの生活』から『モオツァルト』まで。

小林秀雄の著作を生き直すように読み、言葉の向こうへ広がる世界へと誘う。

 

【出版社内容情報】

美しい「花」がある、「花」の美しさという様なものはない。

色、音、光、香り、言葉、あるいは不可視な感情の痕跡――。

芸術に触れ、真につき動かされたときに遭遇する何かこそが、真の美であり、実在なのだと語った小林秀雄。

ベルクソン、ランボー、モーッアルト、ドストエフスキー、本居宣長らとの出会を通じ、小林が生涯にわたって考え続けたのが美をめぐる問題だった。

不世出の批評家が語りながら考え、書きながら生きた軌跡をその現場に降り立つように蘇らせる試みにみちた長編評論

 

 

小林秀雄 美しい花

小林秀雄 美しい花

 

 

 

(2)予想出典・予想問題/『小林秀雄 美しい花』若松英輔/「はじめに」・「概要」

 

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です) 


 『小林秀雄 美しい花』の「序章」で若松氏は、次のように述べています。

「  小林にとって批評とは、読み、書くことによって、論じる相手の生涯を生き直してみようとすることだった。」

 この言葉は、また、若松氏の覚悟でもあります。

 若松氏は、小林秀雄と同じ道を辿ろうしているでしょう。


 小林秀雄は一連の著書で、読者に、ある意味で苛烈な要求をしています。

 直に、「見ること」、「聴くこと」、「読むこと」、「感じること」を心掛けよ。

 次に、「考えること」を、それらと同レベルに設定せよ。 


 
 これは、真に実存的に物を見て、「存在の根源」を見詰めるということでしょう。

 対象に「没入せよ」と言うのです。

 「没入」とは、批評する相手の心を通して自分を照らす、ということでもあります。

 これが、小林秀雄の「批評の構造」です。


 若松氏は、まさに、この「批評の構造」の実践として、本書『小林秀雄 美しい花』を執筆しています。

 それゆえにこそ、若松氏は、新たな小林秀雄像を実感できたのでしょう。

 このことは、以下の若松氏の言葉からも明らかです。

 

「  小林は多くの人に影響を与えた「太陽の人」として語り継がれてきました。しかし彼は、誰よりも真摯に他者からの影響をという「光」を受けた「月の人」でした。これまでの小林秀雄像を刷新できればと思います。

(『小林秀雄 美しい花』)


 若松氏は、小林秀雄に寄り添い、交感することにより、小林秀雄が捉えた「超越者」、「目に見えない叡智」、「世界の根源」を垣間見ようとしています。

 言い換えれば、異界と交感した批評家、哲学者、詩人である小林秀雄に、まさに「没入」しています。

 この「実験的精神」こそ、小林秀雄が生涯を賭けて試み、私たちに感動を与えてくれる各著作の原動力になっていることに留意するべきです。

 本書『小林秀雄 美しい花』は、死者・小林秀雄との「会話」の記録とも言えます。

 若松氏にとって、「死者」とは「今なお生きている者」です。

 この価値観は、若松氏のこれまでの著作の基盤になっています。

 彼にとっての、「哲学者」や「詩人」とは、自らが何かを創造する者ではありません。

 「何か」から伝達される「言葉」の通り道としての「人間」です。

 このことは、小林秀雄を崇拝していた池田晶子氏も指摘しています。

 若松氏も、「死者から言葉を預かった者」としての立場から本書を書いているのでしょう。

 

 若松氏は、その著書『内村鑑三 悲しみの使徒』の中で以下のように述べています。

「  死者がいる「霊性」の世界は、確かにある「実在」であり、小林秀雄もこの認識を前提としている。

 

 

内村鑑三 悲しみの使徒 (岩波新書)

内村鑑三 悲しみの使徒 (岩波新書)

 

 

 

 以下では、『小林秀雄 美しい花』をはじめとする若松氏の各著作の中のキーワードである、

① 「小林秀雄における『批評』」、

② 「美」、

③ 「読むこと」、

④ 「謎」、

⑤ 「コトバ」・「神秘」・「魂」、

について解説していきます。

 

 この記事を読んでいけば分かることですが、注意するべきは、これらのキーワードは、「超越者」、「目に見えない叡智」、「世界の根源」に密接に関連しているということです。

 

 

(3)予想出典・予想問題/『小林秀雄 美しい花』若松英輔/①「小林秀雄における『批評』」

 

 「小林秀雄における『批評』」については、「序章 美と見神」に、簡潔な解説があります。

「  自己を、もっともよく理解しているのは自分である、と思うのは、一種の幻想に過ぎない。むしろ、人間にとって自己とは永遠の謎とほとんど同義であり、生きるとは、己れという解明不可能な存在に、可能な限り接近しようとする試みだと言ったほうが現実に近い。それが現実であるならば、自分よりも自分に近い他者という存在も空想の産物ではなくなる。論じる対象自身よりもその人の心に近づこうとすること、こうした一見不可能な試みに身を投じること、それが小林秀雄にとっての批評の基点だった。」(「序章 美と見神」『小林秀雄 美しい花』若松英輔)


 同様のことを、小林秀雄は『人間の建設』の中で述べています。

 以下に引用します。

(小林)  自己表現、本物の自己、確固たる自我の表明に拘泥するばかりで、物の本質を見る目を曇らせてしまってはいないか。

 自分の心の「ほしいままなもの」、小我への執着を捨て、自然を客体として眺めるのをやめ、自己を自然の中に置くとき、物事の本質、本然の姿は見えてくるのだ。

「(小林)  その人の身になってみるというのが、実は批評の極意です。高みにいて、なんとかかんとかいう言葉はいくらでもありますが、その人の身になってみたら、だいたい言葉がないのです。いったんそこまで行って、なんとかして言葉をみつけるというのが批評なのです。」 

 

 物事をよく「見る」ということ、「その人の身になってみること」、このことを、現代人は忘れがちです。

 素直になれ、と小林秀雄は、静かに諭しているのです。
 
 また、『小林秀雄全集第七巻』の中で、小林秀雄は、このようにも言っています。

「  僕も前に福沢諭吉の事を書いたことがあるけれども、福沢諭吉は『文明論之概略』の序文でこういう事を言っている。現代の日本文明というものは、一人にして両身あるごとき文明だ、つまり過去の文明と新しい文明を一つの身にもっておる、一生にして二生を持つが如き事をやっている、そういう経験は西洋人にはわからん、現代の日本人だけがもっている実際の経験だというのだよ。そういう経験をもったということは、われわれのチャンスであるというのだ。そういうチャンスは利用しなくちゃいかん。だから、俺はそれを利用し、文明論を書く、と言うのだ。 実証精神というのは、そういうものだと思うのだがね。

 何もある対象に向かって実証的方法を使うということが実証精神でないよ。自分が現に生きている立場、自分の特殊の立場が、学問をやる場合に先ず見えていなくちゃならぬ。俺は現にこういう特殊な立場に立っているんだということが学問の切掛けにならなければいけないのじゃないか。

 そういうふうな処が今の学者にないことが駄目なのだ。日本の今の現状というようなものをある方法で照明する。そうでないのだ。西洋人にはできないある経験を現に僕等しているわけだろう。そういう西洋人ができない経験、僕等でなければやれない経験をしているという、そういう実際の生活の切掛けから学問が起こらなければいけないのだよ。そういうものが土台になって学問が起こらなければいけない。そういうものを僕は実証的方法というのだよ。」

「  眼の前の物をはっきり見て、凡そ見のこしということをしない自分の眼力と、凡そ自由自在な考える力とを信じる。そこからしか学問も芸術も始まらない。

(「實験的精神」『小林秀雄全集第七巻』)

 
 若松氏が、「小林秀雄における『批評』」を、いかに考えているかは、小林秀雄の「様々なる意匠」の有名な一節、「批評とは竟(つい)に己れの夢を懐疑的に語る事ではないのか」の解説から明らかになります。

 この一節は、一般的には、「批評とは、ある対象物により自己の内部に湧いてきた感触を、自己の、あり得る限りの技量を尽くした言語、理論に置き換え語ること」と理解されています。

 しかし、若松氏は、以下のように、全く別の解釈をします。

「  この「己れの夢」は評者自身の夢でなく、論じられる対象物である「彼」と、論じる「私」の「主客が渾沌こんとんとするような交わり」が起きた末に語られた夢だ。

 若松氏は、小林秀雄の「その人の身になってみること」を徹底して考えていくのでしょう。

 つまり、若松氏自身もまた、小林秀雄の「身になってみる」を実践しているのです。

 自分が語っているのか、小林秀雄の言葉が乗り移ったのか分からないような、その境地まで思いを沈めているのです。

 

 例えば、小林秀雄と、中原中也の恋人の長谷川泰子をめぐる事件を論ずる際にも、この、小林秀雄に寄り添う姿勢は貫かれます。

 若松氏は、二人の青年がランボーの詩を訳した時、互いの訳文が影響し合うほど「精神的に密接な関係」だった事実を指摘しています。

 その上で、小林秀雄は単に泰子を愛したのでない、としています。

 つまり、「中原から長谷川泰子を奪うことで、中原との関係を手に入れようとしたのではないか」と推測しているのです。

 小林秀雄に寄り添えば、「小林秀雄における中原中也の価値」が、見えてくるのでしょう。

 対象者に寄り添い、感じること、その実感を大切にして考えることこそが、「小林秀雄における『批評』」の真髄なのです。

 つまり、「小林秀雄における批評」の「根拠」は、対象者に寄り添い、感じること、その実感を大切にして考えること、と言えるのです。

 

 この点について、若松英輔氏は、ツイートで次のように述べています。

  小林秀雄は、親友の河上徹太郎こそが本当の批評家で自分は詩人にすぎない、と言っていますが本当です。小林の作品は詩のように読むのがよく、事実を追い、「証拠」を見つけようとするには不向きな書き手だと思います。私は、小林が優れているから読んできたのではありません。まず、打たれたのです。

 


(4)予想出典・予想問題/『小林秀雄 美しい花』若松英輔/②「美について」

 

 「美」が小林秀雄のテーマであったことを、若松氏は、以下のようにして指摘しています。

「  美は今に宿り、悠久の世界がそこにあることを教える。悠久は、彼方に存在するのではない。今に随伴する。今とは、永遠の時が世界に現象するときの謂いである。今を見つめない者がどうして永遠を知ることができようか、今を、真実の意味で育むことを知らない者が、どうして永遠を誓うことができるだろうか、と小林は問い掛けるのである。」(『小林秀雄 美しい花』)

「  ベルクソン、ランボー、モーッアルト、ドストエフスキー、本居宣長らとの出会を通じ、小林が生涯にわたって考え続けたのが美をめぐる問題だった。」
(『小林秀雄 美しい花』 )

「  音楽、絵画、彫刻、言葉によって深奥に導かれ、「何か」に遭遇すること。その「何か」を小林は「美」と呼んだ。

(『小林秀雄 美しい花』)

 

 「批評と美」に関連して、若松氏は、「批評とは論理の構築ではなく、美を垣間(かいま)見た者たちによる詩」ではないか、と述べています。

 この一節は、小林秀雄など超一流の批評家についてのみ言えることですが、反芻を必要とする、興味深い内容を含んでいるようです。

 

 この一節の真の理解のためには、以下の若松氏の指摘が参考になるでしょう。

「  言葉にならないことに胸が満たされたとき人は、言葉との関係をもっとも深める。文字があるその奥には、言葉にならない呻(うめ)きがある。そう思って誰かの文章を読んでみる。書かれていないはずのことが、まざまざと心に浮かび上がってくるのに驚くだろう。奇妙に聞こえるかもしれないが、言葉とは、永遠に言葉たり得ない何ものかの顕現なのである。」(『言葉の贈り物』若松英輔) 

「  哲学という言葉が苛烈な力を持って若い私を魅了したのは、人間が感じる世界の彼方にある、もう一つの世界をかいま見させてくれると思ったからだった。」(『言葉の贈り物』若松英輔)  

「  ソクラテスがまずとらえたのは、人間の問題ではなく、彼が「知恵」と呼ぶ神の働きがいかに世界で働いているかという理(ことわり)だった。

(『言葉の贈り物』若松英輔) 

 

 

言葉の贈り物

言葉の贈り物

 

 


上記の

「永遠に言葉たり得ない何ものか」、

「世界の彼方にある、もう一つの世界」、

「知恵」

こそが、「言葉の根源」であり、「美」でもあるでしょう。


 ここで、小林秀雄の、あの有名な一節を再考します。

「  物数を極めて、工夫を尽して後、花の失せぬところを知るべし」。美しい花がある、花の美しさという様なものはない。彼の花の観念の曖昧さについて頭を悩ます現代の哲学者の方が、化かされているに違いない。肉体の動きに則って観念の動きを修正するがいい、前者の動きは後者の動きより遥かに神妙で深淵だから、彼はそう言っているのだ。(「当麻」小林秀雄)


 『小林秀雄 美しい花』で若松氏は、

「  小林が生涯かけて探求したものは、時には「歴史」であり、「魂」であり、「美」であり、「花」である」

と述べています。

 この記述からも明らかですが、『小林秀雄 美しい花』のタイトルの「美しい花」は、小林秀雄の「当麻」の「美しい花がある、花の美しさという様なものはない」のオマージュでしょう。

 

 上記の小林秀雄の一節は、私たち現代人への痛烈な皮肉になっています。

 肉体、実感から離れ、観念に支配・拘束された思考機械に堕落した自己の惨めさに気付け、と小林秀雄は、親身に忠告してくれているのです。

 一見、素っ気ない文章ですが、ここには、神のような鋭さと、女神のような優しさが横溢しています。

 だからこそ、一部の、いや、意外に多くの読者が、小林秀雄に耽溺していくでしょう。


 小林秀雄は、ドストエフスキーを論じて「颱風に巻き込まれた人間だけが颱風の眼を知っている事を絶叫しているだけだ」と述べています。

 このことについて、若松氏は、次のように書いています。

「  客観という、ほとんど迷信のような視座に翻弄されている者は、対象を遠く離れて見ようとする。主観から離れれば離れるほどよく見えると信じて疑わない。確かに、その眼には全体の風景はよく映るだろう。しかし、その人物には「颱風」の中心で何が起こっているかはけっして分からない。実際の台風も、離れている者に迫りくるのは暴風雨だが、その中心では、ときに穏やかな天空があり、外から見るのとはまったく異なる光景が広がっているのである。」

(『小林秀雄 美しい花』若松英輔)

 現代社会に蔓延し絶対的宗教と化している客観主義、科学万能主義への懐疑が、述べられています。

 客観主義、科学万能主義を無反省に信奉することは、ある意味で、自己の実感を否定・無視することに直結するのです。

 そのことは、「自己の素朴な判断」を冷笑の対象としてしまうこと、ひいては、自己否定に繋がるのです。

 「自己を、反生物的な、反人間的な思考機械に変容させて、合理的に人生を生きることの底知れぬニヒリズム」に、現代人は封印されているとも言ってよいでしょう。

 


(5)予想出典・予想問題/『小林秀雄 美しい花』若松英輔/③「読むこと」について

 

 若松氏は、小林秀雄の導きに従い、「読むこと」を重層的に解釈しています。

 人生を賭けて、文字に、文章に、作者に向き合うことにより、「読むこと」には、無限な可能性が発生していくということです。

 『小林秀雄 美しい花』には、以下のような記述があります。

「  読むとは心の中に不可視な文字で書くことである。読むとは、魂の奥に、ふれることのできない一冊の本を書くことにほかならない。人が衝撃を受けるのは、紙の上に印刷された文字にではなく、自らの胸の内に読むことによって記された言葉だというのである。」

(『小林秀雄 美しい花』)

「  批評家が批評家を読むなかで、「読む」ということの可能性へと話は進む。読むことで、文章の合間からその人が再び立ち上がり、生きなおされる。

(『小林秀雄 美しい花』)


 さらに、『悲しみの秘儀』の中で若松氏は、「読者」、「文学」を次のように定義しています。

 斬新な、想像力を掻き立てるような記述と評価できるでしょう。

「  読者とは、書き手から押し付けられた言葉を受け止める存在ではない。書き手すら感じ得なかった真意を個々の言葉に、また物語の深層に発見していく存在である。こうした固有の役割が、読み手に託されていることを私たちは、書物を開くたびに、何度となく想い返してよい。また、文学とは、ガラスケースに飾られた書物の中にあるのではなく、個々の魂で起こる一度切りの経験の呼び名であることも想い出してよいのである。」

(「文学の経験」『悲しみの秘儀』若松英輔)

 

 次の記述は、「よむ」の深遠な実相を私たちに伝えてくれます。

「  「よむ」という営みは、文字を追うこととは限らない。こころを、あるいは空気を「よむ」ともいう。句を詠む、歌を詠むともいう。「詠む」は、「ながむ」とも読む。『新古今和歌集』の時代、「眺む」には、遠くを見ることだけでなく、異界の光景を認識することを指した。

(「低くて濃密な場所」『悲しみの秘儀』若松英輔)

 『悲しみの秘儀』のテーマは、「言葉と生命・魂との密接な関連性」です。

 この書も、読むべき良書です。

 

 

若松英輔エッセイ集 悲しみの秘義

若松英輔エッセイ集 悲しみの秘義

 

 

 

 「読むこと」に関連して、若松氏は、「言葉」を「人間」より上位に置いて、以下のような箴言を記述しています。

「  人間が言葉を使うのではなく、言葉と共に、さらにいえば人が、真の意味で言葉に用いられたとき、出来事が起こる。」

(『小林秀雄 美しい花』)

 

 確かに、「言葉」は、個々の個人よりも長く、この世に存在し、個人の意識・思考・行動を規定してきた存在です。

 私たちは、「言葉」の持つ「力」、さらに言えば、「魔力」を考える必要があるでしょう。

 このことに意識が及べば、「読むこと」を簡単に考えることはできないはずです。

 


(6)予想出典・予想問題/『小林秀雄 美しい花』若松英輔/④「謎」について

 

「  人を大切に思うとは、その人の存在が「謎」として深まっていくことではないのか。この本ではそう呼びかけたかったのである。

 以上のようなことを、若松氏は述べています。

 

  「小林秀雄と謎の関係」について、若松氏は、以下のように述べています。

「 「謎」という一語こそ『無常という事』(→小林秀雄の著作)を読み解く最も重要な鍵語だ。」

「 「謎」は信じることを通じてのみ、ふれ得るもので「思想」と同義である。」

(『小林秀雄 美しい花』)

「  人生という謎は、解かれることよりも、愛されることを望んでいる。謎を謎のままに、その世界を歩くこと、それが小林にとって生きることだった。」

(『小林秀雄 美しい花』 )

 

 人生は謎に満ちています

 人生自体が謎と言えます。

 「自己」とは何か?

 「生きる」とは何か?

 「死」とは何か?

 

 私たちも、小林秀雄を師として、「謎を謎のままに、その世界を歩くこと」を心掛けるべきでしょう。

 「謎を謎のままに、その世界を歩くこと」により、「謎」は解明されていくのでしょう。

 解明されないとしても、それでよいのです。

 生きていくこと自体が、解明なのかもしれないからです。

 


(7)予想出典・予想問題/『小林秀雄 美しい花』若松英輔/⑤「コトバ」・「神秘」・「魂」についてー「まとめ」として

 

 若松氏は、池田晶子氏を、かなり評価しています。

 「崇拝」と言ってもよいかもしれません。

 

 池田晶子氏の『新・考えるヒント』(→小林秀雄の『考えるヒント』を意識して書かれています)には、以下のような記述があります。

「  小林秀雄の『考えるヒント』に倣って、考えつくところをこうして書いているわけだが、書いているうちに、彼と我とが判然としなくなってくるところが、今さなながら面白い。この経験こそ、考えるということの醍醐味、一種忘我の、と言えば誤解を招くなら、小林ふうに無私の、と言おうか、精神が自身を味わうことの喜びであろう。

 人が、その固有のダイモンに憑かれることができるのは、生活すなわち生命と引き換えに、己れの魂を明け渡した時だけだ。ソクラテスは論理の、小林もまた理知の、そしてランボーは、小林の言い方を借りるなら美神の、それを宿命と言えば、わかりがいいだろうか、言葉を命と知るがゆえにそう生きざるを得なかった者たちの生である。」

(『新・考えるヒント』池田晶子 )

 

 

新・考えるヒント

新・考えるヒント

 

 

 

 若松氏は、『叡知の詩学 小林秀雄と井筒俊彦』の中で、「言葉には三つの意味の次元がある」という井筒俊彦氏の見解を紹介しています。

realistc(現実的)、

narrative/legendary(物語的・神話的)、

imaginal(異界的)、

の三つの次元です。

 

 「詩」の言葉は、「異界的な領域」まで「考え」を沈潜させていきます。

 「異界的な領域」とは、意味と音が結合される以前の「コトバ」の根源が漂う世界です。

 この「世界の深層」、「人間存在の深層」に、そのような領域が広がっているという事実を、「詩」は私たちに覚醒させようとしているのです。

 そこから新しく世界を見直すことを、「詩」は、囁くように、諭すように、呼び掛けるように、私たちに問い掛けるのです。

 

 『叡知の詩学』が主張しているのは、小林秀雄と井筒俊彦という哲学者の内面に、そうした「詩」が生きていたという事実です。

 そして、二人は、ある意味で「詩人」でもあったのです。

 

 「詩人」は「神秘を語る人」です。

 「神秘」についても、若松氏は、考察を進めています。

「  神秘家とは、神秘体験に遭遇し、そこに意味を探る人間のことではない」と若松氏は井筒俊彦氏の言葉を引用し、以下のように述べています。

「  真実の啓示を受容した者は必ず、その実現を志し一介の行為者となり、万民のために奉仕する。

 神秘とは、口先で語られるものでなく、行為され、実践されなければならない。」

(『叡智の詩学』若松英輔)

 

 「真実の啓示を受容した者」とは「詩人」であり、「哲学者」です。


 『生きる哲学』の中で、若松氏は、以下のように主張しています。

 「哲学」とは、単なる静止状態の概念ではない。

 「私たちが瞬間を生きる中で、まざまざと感じること」そのものである、と。

 若松氏における哲学については、「コトバ」が重要な役割を果たしているので、ここで、「コトバ」の説明をします。

 『生きる哲学』のはじめで、若松氏は、「本書では言語の姿にとらわれない「言葉」をコトバとカタカナで書く」と定義しています。

 その上で、「私たちが文学に向き合うとき、言語はコトバへの窓になる。絵画を見るときは、色と線、あるいは構図が、コトバへの扉となるだろう。彫刻と対峙するときは形が、コトバとなって迫ってくる。楽器によって奏でられた旋律がコトバの世界へと導いてくれるだろう」と述べています。

 井筒俊彦氏が「形の定まらない意味の顕れ」を「コトバ」と呼んだことを踏まえて、若松氏もその意味で「コトバ」を使うのです。

 

 若松氏が、様々な著作で繰り返し語るのは、「コトバと魂の邂逅」についてです。

 「コトバと哲学の密接な関係」です。

 つまり、「コトバにより自己を見詰める作法」についてです。

 『生きる哲学』には、次のような記述があります。

「  コトバとの邂逅はいつも魂の出来事である。コトバは常に魂を貫いて訪れる。何者かが魂にふれたとき、人は自らにも魂と呼ぶべき何者かが在ることを知る」(『生きる哲学』)

 
 また、『小林秀雄 美しい花』には、以下のような、詩的な、哲学的な記述があります。

「  読むとは心の中に不可視な文字で書くことである。読むとは、魂の奥に、ふれることのできない一冊の本を書くことにほかならない。人が衝撃を受けるのは、紙の上に印刷された文字にではなく、自らの胸の内に読むことによって記された言葉だというのである。」(『小林秀雄 美しい花』)

 

 『小林秀雄 美しい花 』は、若松氏のこれまでの歩みの「一応のまとめ」のような内容になっています。

 この書をきっかけにして、さらに、若松氏の他の著作を「読む」と、より理解が進むと思います。


 ともあれ、『小林秀雄 美しい花 』は、「言葉を越えたコトバ」=「詩」の実相を、小林秀雄的に、実験的に、自己の実感に忠実に、探求した書と言えるでしょう。

 私たちは、より分かりやすく、より親切な「小林秀雄」に出逢えたのです。

 

 

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 (8)当ブログにおける「小林秀雄」解説記事の紹介

 

gensairyu.hatenablog.com

 

 上記の記事の一部を引用します。


 小林秀雄氏は、一時代前の思想家・文芸評論家ですが、小林氏の思想は、決して、古びていません。

 それは、小林氏の論考は、「人間存在の根源」に焦点を当てているからです。

 それ故に、今だに、難関大学の現代文(国語)・小論文に出題されています。

 しかも、小林氏の論考は、2016センター試験にも出題され、かなり話題になりました。

(引用終了)

 

 

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  上記の記事の一部を引用します。


【1】小林秀雄氏の紹介、入試出題状況

 小林秀雄氏は、近代日本の文芸評論の確立者です。

 個性的な、少々切れ味の良い挑発的な文体、詩的雰囲気のある表現が、特徴です。

 西洋絵画の批評や、ランボー、アラン等の翻訳にも、業績を残しました。

 

 入試現代文(国語)の世界では、20年くらい前までは、トップレベルの頻出著者(ほぼ全ての難関大学で、最低1回は出題されていました。)でした。

 現在は、トップレベルではないですが、やはり、頻出著者です。

 最近の入試に全く出題されていない、ということは、ありません。

 最近でも、以下の大学で出題されています。

 大阪大学『考えるヒント』

 明治大学『文化について』

 国学院大学『無常という事』

 明治学院大「骨董」

 

【2】この問題に対する一般的評価、それらに対する私の意見

 この問題については、

「  かつての入試頻出著者ではあるが、小林秀雄氏の文章は今の受験生には難解過ぎて、少々、不適切な問題であった」

という評価が多いようです。

 本当に、そうなのでしょうか。

 

 私は、そうは思いません。

 単語のレベルは少々高いです。

 しかし、
最近、京都大学・大阪大学・東北大学・一橋大学・東京学芸大学・宮崎大学・香川大学・岡山大学・奈良女子大学・早稲田大学(政経)(教育)(国際教養)(文化構想)・上智大学・明治大学(法)・青山学院大学・中央大学(法)・法政大学・関西学院大学・南山大学・国学院大学・成城大学等の現代文で流行が続いている擬古文(明治・大正期の文章)、
慶應大学・国公立大学等の小論文、
で頻出の福沢諭吉の論考と比較して、全体的に分かりやすい名文だと感じました。

 丁寧に読んでいけば、受験生にとっても、難解ではないはずです。

 

 (丁寧に読むということは、上記の京都大学・早稲田大学・上智大学・明治大学・青山学院大学等で流行している擬古文対策のポイントでも、あります。)

 

 本文のレベルを考慮して、設問は、例年より著しく平易になっています。

 

 しかし、本番直後では、平均点が例年より低下したことが、マスコミやウェブ上で、話題になりました。

 本文の丁寧な読解を諦めた受験生が、多かったのでしょう。

 受験生の粘りや集中力のなさを、問題とするべきです。

 私は、本問を難問・悪問と評価することは、できません。

 

 また、本問の問題文本文は、論理が飛躍しているので、試験問題として不適切という批判もありました。

 笑うべき批判です。

 今回の本文は、エッセイ・随筆なので、論理飛躍がある程度あるのは当然です。

 受験生は、著者の気持ち・感性・感想に、寄り添って読解して行けばよいのです。

 

 つまり、本問に対する様々な批判は、小林秀雄氏のイメージに固執したムード的なものか、的外れなものです。

 従って、センター試験を受験するつもりの受験生としては、この問題を、スルーしないで、しっかりと学習するべきです。

 また、上記の擬古文が頻出の、京都大学・早稲田大学・上智大学・明治大学・青山学院大学等を受験する受験生は、擬古文対策として、しっかり、やっておくべきです。

 (引用終了)

 

ーーーーーーーー

 

 今回の記事は、これで終わりです。

 次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

 ご期待ください。

 

 

   

 

 

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

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5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

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予想出典/『常世の花 石牟礼道子』若松英輔

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 

 最近、発行された『常世の花 石牟礼道子』(若松英輔)が、内容的にも、レベル的にも、難関大学の現代文(国語)・小論文の題材として、ふさわしいので、今回の記事で解説します。

 

 まず、この本の「Book 紹介」を以下に引用します。

 「 「どんなに語ろうとしても言葉にならないことがある」

2月になくなった稀代の思想家の語りえなかった言葉を受けとめ語り継ぐ若松英輔による追悼文集。

小さな沈黙を心に宿らせ「いのち」の連関へ思いを繋ぐ。 まだ石牟礼作品を手にしたことのない人への誘い

『常世の花 石牟礼道子』(亜紀書房) 

 

 今回の記事の項目は、以下の通りです。

(2)予想出典・予想問題/『常世の花 石牟礼道子』若松英輔/「書くこと」・「詩」について

(3)「石牟礼道子氏の『書くスタイル』」について

(4)「死」・「死者」・「霊」・「霊性」について

(5)若松英輔氏の紹介

 

 

常世の花 石牟礼道子

常世の花 石牟礼道子

 

 

 

(2)予想出典・予想問題/『常世の花 石牟礼道子』若松英輔/「書くこと」・「詩」について

 

 本書のメインテーマは、「書くこと」と「詩」です。

 この点について、若松氏は、以下のように簡潔に述べています。

 

「  石牟礼さんは、『苦海浄土 わが水俣病』は「詩」だという

 比喩ではない。石牟礼さんにとって詩とは、言葉によって、言葉になり得ないものを表現しようとする試みであり、同時に、自らの心情を語ることがないまま逝かねばならなかった者たちの声を、どうにか受け止めようとする営みだった。

(『常世の花 石牟礼道子』若松英輔)

 

 この解説を読み、『苦海浄土』(石牟礼道子)の以下の部分を熟読すると、若松氏の解説の適切さが分かると思います。

「  そのときまでわたくしは水俣川の下流のほとりに住みついているただの貧しい一主婦であり、安南、ジャワや唐、天竺をおもう詩を天にむけてつぶやき、同じ天にむけて泡を吹いてあそぶちいさなちいさな蟹たちを相手に、不知火海の干潟を眺め暮らしていれば、いささか気が重いが、この国の女性年齢に従い七、八十年の生涯を終わることができるであろうと考えていた。

 この日はことにわたくしは自分が人間であることの嫌悪感に、耐えがたかった。

 釜鶴松のかなしげな山羊のような、魚のような瞳と流木じみた姿態と、決して往生できない魂魄は、この日から全部わたくしの中に移り住んだ。」

(『苦海浄土』石牟礼道子)

 

「  水俣病のなんの、そげん見苦しか病気に、なんで俺がかかるか。

 彼はいつもそういっていたのだった。彼にとって水俣病などというものは、ありうべからざることであり、実際それはありうべからざることであり、見苦しいという彼の言葉は、水俣病事件への、この事件を創り出し、隠蔽し、無視し、忘れ去らせようとし、忘れつつある側が負わねばならぬ道義を、そちらの側が棄て去ってかえりみない道義を、そのことによって死につつある無名の人間が、背負って放ったひとことであった。」

(『苦海浄土』石牟礼道子)

 

 

新装版 苦海浄土 (講談社文庫)

新装版 苦海浄土 (講談社文庫)

 

 

 

「  石牟礼さんは、『苦海浄土 わが水俣病』は「詩」だという

 比喩ではない。石牟礼さんにとって詩とは、言葉によって、言葉になり得ないものを表現しようとする試みであり、同時に、自らの心情を語ることがないまま逝かねばならなかった者たちの声を、どうにか受け止めようとする営みだった。」

(『常世の花 石牟礼道子』若松英輔)

 

 石牟礼氏にとっての「詩」とは、「祈ること」でもあったのでしょう。

 「詩」と「祈ること」の類似性については、若松氏は、以下のように述べています。

「  祈ることと、願うことは違う。願うとは、自らが欲することを何者かに訴えることだが、祈るとは、むしろ、その何者かの声を聞くことのように思われる。」
(「はじめに」『悲しみの秘儀』)

 

 

若松英輔エッセイ集 悲しみの秘義

若松英輔エッセイ集 悲しみの秘義

 

 


「  石牟礼は、きよ子を知らない。きよ子の両親にしか会っていない。石牟礼にとって書くとは、きよ子のような言葉を奪われた人々の口に、あるいは手になることだった。そうして生まれたのが『苦海浄土』だった。」(「花の供養に」『悲しみの秘儀』若松英輔)


 上記の「石牟礼にとって書くとは、きよ子のような言葉を奪われた人々の口に、あるいは手になることだった」は、注目するべき一節です。

   「言葉を奪われた人々の口に、あるいは手になる」ためには、死者の臨在を実感する必要があるのです。

   「死者の臨在の実感」についても、若松氏は、『神秘の夜の旅』の中で述べています。

 若松氏の『神秘の夜の旅』に取り上げられた越知保夫、小林秀雄、井筒俊彦、リルケ、ドストエフスキー等の共通点は、可視的ではない「至高なる存在」を信じていたことです。

 しかも、彼等は、その「臨在」をリアルに感じていたのです。

 そして、「詩人たち」は、その体験を通じて、あることを語り始める口になっていくのです。

 
『神秘の夜の旅』の記述を引用します。

「  詩人は自身を語る前に、託されたことを語らなくてはならない。むしろ、何ものかに言葉を「委託」されたとき、その人は詩人になる。

 詩人の努力は、言葉を探すところにだけあるのではない。彼に「委託」する、主体からの「呼びかけ」を待つことである。

(『神秘の夜の旅』若松英輔)

 

 

神秘の夜の旅

神秘の夜の旅

 

 

 

 「詩人」においては、「書くこと」が、一般的に考えられている自己表現の次元とは違うのです。

 個人レベルを超越した、いわば、霊の「呼びかけ」に導かれて、忘我の状態で記述することなのでしょう。

 詩人はひたすら静かに、無私の状態になり、「霊」からの「呼びかけ」を待っているのです。

 

『神秘の夜の旅』の中で、若松氏の引用しているリルケの詩を紹介します。

「  風に似てふきわたりくる声を聴け、静寂からつくられる絶ゆることないあの音信を。

 あれこそ、あの若い死者たちから来るおまえの呼びかけだ。

 かつて、おまえがローマやナポリをおとずれたとき、教会堂に立ち入るごとに、かれらの運命は静かにおまえに話しかけたではないか。

 また、さきごろサンタ・マリヤ・フォルモーサ寺院でもそうであったように、死者の碑銘がおごそかにおまえに委託してきたではないか。」

(『神秘の夜の旅』若松英輔)

 

 いわば、現代においても、「詩人」は「中世」に一人生きているのです。

 「中世」は、「霊性」が生きている時代です。

 『神秘の夜の旅』の中から、その点についての越知保夫氏の記述(「小林秀雄の『近代絵画』における『自然』」)を引用します。

「  勿論現代人にとっては超自然などというものは、全く無意味な空虚な観念にすぎない。が、中世ではそうではなかった。自然は、超自然によって意味づけられていたのである。超自然界は人間の自然の能力を越えてはいる厳存する実在であり、恩寵の世界である。」

(『神秘の夜の旅』若松英輔)

 

 『常世の花 石牟礼道子』は、石牟礼道子という「詩人」の「遺言」を、「詩人」若松英輔が受け継ごうとしている書のようです。

 その決意を次の記述から感じることができるでしょう。

「  昨年の六月に会ったとき、石牟礼さんが伝えたいと言っていたのも、どんなに語ろうとしても言葉にならないことがある、ということだったような気がしている。

 会って話さねばならないことがある、人はそう強く感じても、それを語り得るとは限らない。だが、対話を求められた方は、その気持ちを受けとめることができる。語り得ないことを語り継ぐ、それが石牟礼道子の遺言だったと、私は勝手に解釈している。」

(「あとがき」『常世の花 石牟礼道子』若松英輔)


 そして、若松氏は、「詩人」をこのように表現しています。

「  言語は、コトバの片鱗にすぎない。言葉を口にしないものたちもコトバを語る。コトバは、ときに野草の色として、鳥のさえずりとして、あるいは岩のかたちとして語った。

 色に魅せられた画家はそれを写し、旋律を聴いた音楽家は曲を生んだ。彫刻家とは、巌に宿った像を掘り出すものであり、詩人とは、霊感に貫かれ、コトバを宿し、それを律動とともに生み落とした者の呼称だろう。」(『常世の花 石牟礼道子』)

 

 上記の「詩人とは、霊感に貫かれ、コトバを宿し、それを律動とともに生み落とした者の呼称」に着目してください。

 

 「詩人とは、霊感に貫かれ、コトバを宿し、それを律動とともに生み落とした」については、同様のことを池田晶子氏が述べているのは、とても興味深いことです。

 そのことに触れている若松氏の記述を以下に引用します。 

「  池田晶子にとって「書く」とは、コトバの通路になることだった。自らをコトバが通りすぎる場と化す営みだった。自分が語るのではない。語るのはコトバであり、自分に託されているのはそれを聞き、書き記すことだけであると彼女は信じ、それを実践するために生きた。

(『池田晶子 不滅の哲学』若松英輔) 

 

 

池田晶子 不滅の哲学

池田晶子 不滅の哲学

 

 

 

 ここでの「コトバ」は、一般的な「言葉」では、ありません。

 若松氏にとって、特別の意味のある表現です。

 言語でありながら、不定形な姿で私たちの前に現前する「言葉」を、ここでは「コトバ」と表記しているのです。


『生きる哲学』の初めで若松氏は、コトバについて、以下のように解説しています。

「  本書では言語の姿にとらわれない「言葉」をコトバとカタカナで書く。

「  私たちが文学に向き合うとき、言語はコトバへの窓になる。絵画を見るときは、色と線、あるいは構図が、コトバへの扉となるだろう。彫刻と対峙するときは形が、コトバとなって迫ってくる。楽器によって奏でられた旋律がコトバの世界へと導いてくれるだろう。」

(『生きる哲学』)

 

 

生きる哲学 (文春新書)

生きる哲学 (文春新書)

 

 

 

 さらに、このようにも述べています。

「  言語的世界の彼方で開花する意味の火花をコトバと呼んできた。」

「  コトバとの邂逅はいつも魂の出来事である。コトバは常に魂を貫いて訪れる。何者かが魂にふれたとき、人は自らにも魂と呼ぶべき何者かが在ることを知る。」(『生きる哲学』)

 ここで言う「コトバ」とは、「魂に関する出来事」、つまり「魂を揺さぶる出来事」なのでしょう。

 

 哲学者の井筒俊彦氏は「形の定まらない意味の顕れ」を「コトバ」と呼んでいます。

 若松氏もそのような意味で、「コトバ」を使っているようです。
 
 『生きる哲学』の最後の部分で、井筒俊彦氏の言葉が引用されているのです。

「  コトバ以前に成立している客観的リアリティなどというものは、心の内にも外にも存在しない。書き手が書いていく。それにつれて、意味リアリティが生起し、展開していく。

 意味があって、それをコトバで表現するのではなくて、次々に書かれるコトバが意味を生み、リアリティを創っていくのだ。

 コトバが書かれる以前には、カオスがあるにすぎない。書き手がコトバに身を任せて、その赴くままに進んでいく。その軌跡がリアリティである。「世界」がそこに展開する。

(『生きる哲学』若松英輔)

 

 

(3)「石牟礼道子氏の『書くスタイル』」について


 「石牟礼道子氏の書くスタイル」については、

「  頭だけでなく、体で書く、それが石牟礼道子氏の流儀である」
と若松英輔氏は、『常世の花 石牟礼道子』で述べています。


 以下に引用します。

「  石牟礼さんの言葉は誰にも似ていない律動を有している。

 それがいわゆる学習の結果なら、あの無常をたたえた響きは生まれることはなかっただろう。

 彼女は類を見ない、優れた歴史感覚の持ち主だった。

 言葉を歴史の奥底からくみ上げる特異の才能に恵まれていた。

 その感覚は、島原の乱で亡くなったキリシタンと水俣病事件をめぐる運動に参加した人々をつなぎ、水俣病事件と足尾銅山鉱毒事件をつないだ。

 その言葉は、現代が危機に直面したとき、いっそう力強く浮かび上がった。

 東日本大震災のあと
「花や何 ひとそれぞれの 涙のしずくに洗われて咲きいずるなり」
という一節がある「花を奉る」と題する彼女の詩に、慰めを見出した人も少なかったのではないだろうか。

 『苦海浄土』をどのような心持ちで書いたかを尋ねたことがある。

 しばらく沈黙したあと彼女は、静かにこう語り始めた。

 これまでにないことが起こったのだから、これまでにない様式で書かねばならないと思った。

 詩のつもりで書きました。

 書くことは、独りで行う闘いです、と言った。

 そして最後に、今も闘っています、とも語った。

 あの時の佇まいを忘れることができない。

 石牟礼道子は現代日本で、語らないまま逝った者たちの嘆きを受け止めるという、最も大きな問いを生きた書き手の一人であり、真の意味における闘士だった。

 また『苦海浄土』は詩で、石牟礼道子は稀代の詩人だった。

 また、しばしば彼女と語りあったのは亡き者たちのことだった。

 石牟礼さんにとって書くことは、自らの思いを表現する以前に、語ることを奪われた者たちの言葉をわが身に宿し、世に送り出すことだった。

(『常世の花 石牟礼道子』若松英輔)

 

 上記の「書くことは、独りで行う闘いです、と言った」の部分は、「コトバ」が、どのような状態の中から来るのかを、示唆しています。

 これについては、池田晶子氏の以下の記述が参考になります。

 

「  孤独なもの思いにおいてこそ、人は世界へと開かれることができるという逆説、孤独な思索者の内なる饗宴である。「内語」という現象にそれはきわまるだろう。

(『あたりまえなことばかり』池田晶子)

 

 このような状況の中での石牟礼氏は、「書くこと」という、「独りで行う闘い」をしていたのでしょう。

 静謐の中で、「死者の声が生者を通して語られ書かれること」、つまり、「合掌」が、なされていたのでしょう。

 

 以下の記述は、心に沁みます。

「現世にあるのは、不条理が生んだ悲しみと嘆きばかりであり、生者に許されているのが、滅びゆくのを待つことのみであるかのように思われたとしてもなお、「地上にひらく一輪の花の力を念じて合掌」する、と石牟礼さんは歌うのである」

(『常世の花 石牟礼道子』若松英輔)

 

 

(4)「死」・「死者」・「霊」・「霊性」について

 

 次に、若松氏が、「死」・「死者」・「霊」・「霊性」をどのように把握しているのか、を見ていきます。

 まず、「霊性」の定義については、若松氏は以下のように述べています。

 

『霊性』とは、万人のなかにある、自らを超える何ものかを希求する衝動やである。人間が自らの手ではどのようにも埋めることのできない欠落を充たす何ものかを乞い求める本能である。

(『常世の花 石牟礼道子』)

 

 さらに、若松氏は、石牟礼氏が述べていた「荘厳」という表現に注目しています。

 『常世の花 石牟礼道子』に何度か登場するキーワードに「死者からの働きかけ」としての「荘厳」があります。

 『常世の花 石牟礼道子』の中では、「荘厳」を「深みからの光りに照らし出される」という意味としています。

 その他に次のような記述があります。

「自分の中のいちばん深いさびしい気持を、ひそやかに荘厳してくれるような声が聞きたいと、人は悲しみの底で想っています。だからこそ、山の声、風の声を魂の奥で聴くのです。」 

 「荘厳」は、「石牟礼氏と死者との密接な関係」を明示するキーワードと言えるでしょう。

 

  「死者」については、『死者との対話』若松英輔にも、詳しい解説があります。

「  死者が見えないからといって、死者は存在しないといってはならない。私の実体験からそうだと納得できるのは魂が、からだの中にあるのではありません。魂がからだを、存在を包んでいるのです。」

 上記の「死者が見えないからといって、死者は存在しないといってはならない」という部分は、若松氏が、様々な著作で繰り返し述べていることです。

 

 特に、『死者との対話』には、かなり詳しい解説があります。

 以下に引用します。

「  死者をありありと感じる一群の人々がいて、彼らがそれを真摯に語ったとしても、それにふさわしい態度で受け入れる者が少ない、それが現代です。

 現代が死者を封じ込めてきたのは、科学がその存在を証明できないからです。しかし、よく考えてみると、科学的証明が可能か、という問い自体が間違っていることに気がつきます。

 科学はもともと「死」を境に、その線を超えた領域での出来事を自らの守備範囲としないと宣言している、ある一つの考えに過ぎません。

 科学が不完全であることは、日々、進歩していることからも明らかです。完全なものは進歩しません。

 ですから、科学が死者の存在を証明できないということは、それが存在しないこととはまったく関係がありません。

 現代人は、自分の問いそのものがまちがっているかもしれないとは考えない。自分の問い方は常に正しいと思っている。あの人は、自分の目の前からいなくなったんだから、存在しない、確かなのは、喪ったことと癒されない悲しみだけだ。

 死者なんていない、だから、こんなに悲しいんじゃないか、そう思い込む。私もそうでした。でも、本当にそうでしょうか。

 死者はいる、死者は私たちのそばにいる、ときに私たち自身よりも近くに存在している、と今は感じています。

 そして、死者の臨在をもっとも強く実感させるのは「悲しみ」です。

 

「  もし、私にイエスのような不思議な力があって、からだにふれるだけで病気が治せたとします。 

 すると、人々は私を賞賛し、奇蹟を起こしたというかもしれない。

 しかし、よく考えてみると元にもどっただけなのです。

 苦難、苦痛を経験しているわけですから、単に元にもどったというのは言いすぎですが、このとき私たちに示されているのは、病が癒えたという奇蹟と同時に、病む以前の状態もまた「奇蹟」だったということです。

 しかし、誰も毎日の生活を「奇蹟」だとは言わない。

 あまりに日常化しているからです。それを失ってはじめて、その貴重さが分かる。ですが、失うというきびしい経験を経ずとも、日常が奇蹟であることを実感することはできます。そのもっとも端的な契機が、死者と共に生きることだと思うのです。 

 むしろ、私たちが、こうして死者たちと共にあり得ることの方が、よほど奇蹟的ではないでしょうか。

 病が癒えただけでなく、死んだ者と再び生きることができるのです。

 それは万人に、無条件に開かれている真実の奇蹟です。

 

「  死者の姿が見えないということは、その実在をなんらおびやかすことではありません。

 今日は雨で空は曇っています。曇っているから太陽は見えません。

 私が今、空を見上げて、太陽が消えてしまったと騒ぎだしたら、皆さんはどうお感じになりますか。

 太陽が見えないからといって、太陽がなくなったといってはならないように、死者が見えないからといって、死者は存在しないといってはならない。

 太陽が見えなくても、光が見えているから太陽を感じることができる、と反論されるかもしれません。

 死者も同じです。私たちは死者を光として感じることができます。

 光は、いつも明るく輝いているとはかぎりません。闇もまた、光の姿の一つです。闇とは、光が失われた状態ではなくて、光が一点に凝縮している状態です。

 ですから、闇を感じるとき、私たちは同時に光の存在を感じることができます。私たちの感覚がそれを認識できなくても、魂はそれを知っています。

(『死者との対話』若松英輔)

 

 科学万能主義を信奉する現代人にとっては、上記の論考は、少々理解し難い内容かもしれません。

 しかし、全ての出来事を「科学の視点」から判断する必要はないはずです。

 特に、「直感」、「実感」については、各自の素直な感性に従えばよいのではないでしょうか。

 しかも、現代においては、科学万能主義には、数々の疑問が提示されているのです。

 以上の視点から、以下の若松氏の論考を読むと、新たな知見が得られるはずです。

 

「  鎮魂を論じることと、魂を感じることとは別です。魂の実在を信じていなくても、鎮魂を口にすることはできる、それが現代なのかも知れません。大震災のとき、文学者ならまだしも、宗教者すらそうだった、と私には思えました。

 彼らの発言は、現実から離れているだけでなく、冷淡にさえ感じられました。 

 冷淡な、と私が言ったのは、彼らが、生者を思う死者の言葉に耳を傾ける前に、彼らを別な次元に追いやることで決着をつけようとした、と見受けられたからです。」
(『死者との対話』若松英輔)

 

 確かに、「鎮魂」には、「死者を生者とは別の次元に追いやることで決着をつけよう」とする側面があります。

 「鎮魂」という言葉が持つ、ある種の「よそよそしさ」、「冷淡さ」は、否定しようがないでしょう。

 「死者と生者は別の次元の存在」という「思い込み」、「偏見」から離れて、以下の論考を熟読すると、今までとは違う感慨を得ることができるでしょう。

 「 「死」があるのではなく、死者がいるだけであるように、病気もまた存在しません。存在するのは病を背負う人間だけです。「病者」というとき、私たちは病気に目を奪われて、その人の苦しみや悲しみ、その人の本当の姿を見失ってはいないでしょうか。

 「死」と死者の関係も似ています。「死」に目を奪われていると、死者の姿が見えにくくなります。

 「亡骸」は、いわば現代が作りだした、すべての終焉である「死」の偶像です。「死」こそ、私たちから死者を隠すものなのです。死者に出会うために私たちが最初になすべきは、「死」の呪縛から離れることではないでしょうか。むしろ、避けようとしてきた悲しみこそが、生者と死者の間にある「死」の壁を溶かすのではないでしょうか。

 死者は抽象的な概念ではありません。実在です。それは、人間が安易に解釈することを拒むものです。汲めども尽きぬ、何かです。

 死者が実在であるというのは、私たちがその存在を忘れてもなお存在するものだからです。

 

「  死者は生者といつも共にある。その状態を、ここでは「協同」と呼びたいと思います。

 私が自分の魂から眼をそらすことがあっても、死者は決してそこから離れることはない、それが私の経験している死者との交わりです。死者に出会うとは、「魂にふれる」ことと同じだといってもよいと思います。

(『死者との対話』)

 

 さらに、若松氏は、死者の「魂に触れる」可能性について、白川静氏の見解を引用しつつ、次のような示唆に富んだ説明をしています。

「  魂は不死であると信じられていた時代、人は魂に触れ得ると信じていた。また人々にとって、魂を語ることは、すなわち死者に触れることだった。

 古代、歌を詠むとは、言葉によって魂を「振る」、即ち魂を動かし、触れる営みである。風が木の葉を「振る」ごとく、言葉は、魂に触れることができると信じられていた。そこに比喩を読みとってはならない。「魂振り」とは、そうした言葉の秘儀を示す表現である。

 万葉の時代、恋を歌う相聞歌は、死者への挽歌から生まれた、そう言ったのは白川静である。挽歌の底を流れるのは、言葉にならない呻きである。恋愛は、恋の一部に過ぎない。恋するとは、好意を超えて、全身を賭して相手を思う営みだった。

(『魂にふれる』若松英輔)

 

 ところで、私たちが、「死者」を思う時に、必ず付きまとう「悲しみ」とは何でしょうか?

 この点についても、若松氏は、考察しています。

 以下に引用します。

「  悲しいと感じるそのとき、君は近くに、亡き愛する人を感じたことはないだろうか。ぼくらが悲しいのは、その人がいなくなったことよりも、むしろ、近くにいるからだ、そう思ったことはないだろうか。

 もちろん、姿は見えず、声は聞こえない。手を伸ばしても触れることはできない。ぼくらは、その存在を感じるのに、触れることもできず、その声を聞くこともできない、そのことが悲しいのではないだろうか。でも、ぼくらは、ただ悲しいだけじゃないことも知っている。心の内に言葉が湧きあがり、知らず知らず、声にならない会話を交わし、その人を、触れられるほど、すぐそこに感じたことはないだろうか。

 ぼくは、ある。

 人は死なない、むしろ死ぬことができない、そう言ったら、君は驚くだろうか。この世界には、死を経験した人間は1人もいない。死が消滅であるなら、ぼくらが経験しているのは、まったく違うことではないだろうか。ぼくらは、亡くなった人を永遠に失ったから悲しいのではなくて、その人々が永遠の世界から、ぼくらが暮らす、この世界に近づいてくるから、悲しいと感じられるのではないだろうか。」

(『死者との対話』)

 

 『死者との対話』は、抽象的な「死」よりも、具体的な「死者」に重点を置いて、論を進めているようです。

 「死者」と言う時、私たちは「身近な死者」をイメージするために、より一層、若松氏の見解を傾聴することになるのです。

 

   「死者」とは、そもそも何なのか。

 若松氏は、『魂にふれる』の中でも、このことを、どこまでも考え抜こうとしています。

 「死者」について考えることは、「生者」について考えることでもあり、「自己」について考えることであることを、強く意識しているのでしょう。

「  死の経験者は皆無でも、死者は、万人の内に共に生きている。死者の姿は見えない。見えないものに出会うことを望むなら、見えないものを大切にしなくてはならない。

 それは、死者と君の関係においてだけでなく、君と君の愛する人のためにも、とても大切なことなんだ。目に見えず、耳に聞こえず、手に触れることのできないもの、さらに語り得ないものであっても、存在していて、それが人と人を結びつけていることを、いつも覚えていてほしい。

 見えないことと存在しないことは、まったく違う。空が曇っていて、太陽がよく見えないからといって、ぼくらは、太陽が消えたとは言わない。よく見えないだけで、太陽は雲の向こうで、いつもと変わらず輝いている。死者も同じだ。ぼくらがその姿を見失うことがあっても、彼らは、ぼくらに向かって光を放ち続けている。」
(『魂にふれる』)

 

「  死者と共にあるということは、思い出を忘れないように毎日を過ごすことではなく、むしろ、その人物と共に今を生きるということではないだろうか。

 新しい歴史を積み重ねることではないだろうか。「死者」は肉眼で「見る」ことができない。だが、「見えない」ことが、実在をいっそう強く私たちに感じさせる。死者の経験とは、「見る」経験ではない。むしろ、「見られる」経験である。死者は、「呼びかける」対象である以上に、「呼びかけ」を行なう主体なのである。

 (『魂にふれる』若松英輔)


「  死者は、ずっとあなたを思っている。あなたが良き人間だからではなく、ただ、あなたを思っている。私たちが彼らを忘れていたとしても、彼らは私たちを忘れない。死者は随伴者である。彼らは、私たちと共に苦しみ、嘆き、悲しみ、喜ぶ。生者を守護することは、死者の神聖なるつとめである。死者は感謝を求めない。ただ生き抜くことを望むだけだ。死者は、生者が死者のために生きることを望むのではなく、死者の力を用いてくれることを願っている。死者を探してはならない。私たちが探すのは、自分が見たいと思う方角に過ぎない。おそらく、そこに死者はいない。ただ、語ることを止め、静かに佇んでみる。すると、あなたを思う不可視な「隣人」の存在に気がつくだろう。

 死者を感じたいと願うなら、独りになることを避けてはならない。それは、私たちに訪れた沈黙という恩寵である。死者はいたずらに孤独を癒すことはしない。孤独を通じてのみ知り得る人生の実相があることを、彼らは知っている。死者は、むしろ、その耐えがたい孤独を共に耐え抜こうとする。誰も自分の悲しみを理解しない。そう思ったとき、あなたの傍らにいて、共に悲しみ、涙するのは死者である。私たちは信頼し得る生者を信用するように、死者の働きを信じてよい。死者にとって、生者の信頼は無上の供物となり、死者からの信頼は、生者には慰めと感じられる。

 (『死者との対話』若松英輔)

 

 以上を熟読すると、今までの常識的な「死者に対する認識」に、変化が生ずるでしょう。

 私たちは、「呼びかけを行なう主体」、「随伴者」、「不可視な隣人」、「私たちの傍らにいて、共に悲しみ、涙する」存在である「死者」を、決して軽んじてはならないのです。


 中島岳志氏は、死者について、以下のように述べています。

「私たちの世界は、生者だけで成り立っているのではない。死者を含むメンバーで構成されている。私たちの日常は、死者たちが紡ぎあげてきた経験知や暗黙知によって支えられている。」

(若松英輔『常世の花 石牟礼道子』についての中島岳志氏の書評『毎日新聞』2018年8月12日)

 

(5)若松英輔氏の紹介

 

若松英輔(わかまつ えいすけ)批評家・随筆家。1968年生まれ、慶應義塾大学文学部仏文科卒業。

2007年「越知保夫とその時代 求道の文学」にて第14回三田文学新人賞評論部門当選。

2016 年「叡知の詩学 小林秀雄と井筒俊彦」にて第2回西脇順三郎学術賞を受賞。

NHK「100分de名著」内村鑑三、石牟礼道子の回にゲスト講師として出演。

 

【著書】

『井筒俊彦 叡知の哲学』(慶應義塾大学出版会)、

『池田晶子 不滅の哲学』(トランスビュー)、

『岡倉天心「茶の本」を読む』(岩波書店)、

『君の悲しみが美しいから僕は手紙を書いた』(河出書房新社)、 

『吉満義彦 詩と天使の形而上学』(岩波書店 2014)、

『生きる哲学』(文藝春秋社)、

『悲しみの秘義』(ナナロク社)、

『イエス伝』(中央公論新社)、

『生きていくうえで、かけがえのないこと』(亜紀書)、

『緋の舟』(志村ふくみとの共著)(求龍堂)等

 

 ーーーーーーーー

 

 今回の記事は、これで終わりです。

 次回の死者は、約1週間後に発表の予定です。

 ご期待ください。

 

   

 

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論点/「『新潮45』問題と休刊 せめて議論の場は寛容に」佐伯啓思

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 

 入試頻出著者・佐伯啓思氏は、最近、着目するべき論考(「『新潮45』問題と休刊 せめて論議の場は寛容に」 佐伯啓思《異論のススメ》『朝日新聞』2018年10月5日)を発表しました。


 この論考は、

「日本人と情緒性の関係」、

「過剰反応社会」、

「正義論」、

「正義に潜む独善性」、

「ポリティカル・コレクトネス」、

「寛容」、

「寛容のパラドックス」、

「戦う民主主義」、

といった、最新の様々な論点を含んでいて、注目するべき論考です。

 

 そこで、今回は、現代文(国語)・小論文対策として、この論考を詳しく発展的に解説します。

 記事は、約1万字です。

 

 

朝日新聞デジタル

朝日新聞デジタル

 

 

 


(2)予想問題解説/「『新潮45』問題と休刊 せめて論議の場は寛容に」 佐伯啓思《異論のススメ》『朝日新聞』2018年10月5日

 

(概要です)

(太字が本文です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です) 


 新潮社の月刊誌「新潮45」8月号に掲載された杉田水脈氏の、LGBTへの行政支援に異議を唱える原稿が差別的だとの批判を受け、国会でも取り上げられた。これに対し、「新潮45」は10月号で、杉田擁護の原稿を数本掲載したが、一部に不適切な表現があるとされ、ツイッター等で同誌への激しい非難が生じた。そして新潮社は突然、同誌を休刊とした。事実上の廃刊である。

 本紙も、9月26日朝刊で、1面と社会面の両面を使って「新潮45」の休刊を報じている。この雑誌の休刊がそれほどの重大ニュースなのかと思うが、発端となった杉田氏の文章が「日本を不幸にする『朝日新聞』」と題する特集のひとつであった。何やら「朝日」対「新潮45」という構図である。

 私はこの数年、「新潮45」に連載していたので、少し書きにくいのだが、個人的な立場を離れて若干の感想を記しておきたい。

 まず、この数年、いわゆる論壇がいささか異常な状態になっているように思う。論壇のすべてとはいわないが、その目立つ部分が、論点を単純化し、多くの場合、左右の批判の応酬、それも、たぶんに情緒的な攻撃にも似た状態になり、そこにSNSが加わって、ともかくも世論に働きかけるという状態になっている。そうしないと目立たないのであり、目立たなければ話題にならず、もっと端的にいえば「売れない」のだ。

 

 

(当ブログによる解説)

【日本人と情緒性の関係】

 上記に関連して、「日本人と情緒性の関係」を考察していきます。

 「日本人と情緒性の関係」については、内田樹氏の『日本辺境論』が、かなり参考になります。

 内田樹氏は、本書で以下のように述べています。

「  日本社会の基本精神は、「理性から出発し、互いに独立した平等な個人」のそれではなく、「全体の中に和を以て存在し、一体を保つ、全体のために個人の独立・自由を没却するところの和」であり、それは「渾然たる一如一体の和」だ。

 言いかえれば、「和の精神」ないし原理で成り立っている社会集団の構成員たる個人は、相互のあいだに区別が明らかでなく、ぼんやり漠然と一体をなして溶け合っている。

 まさに、これは、私がこれまで説明してきた社会関係の不確実性・非固定性の意識にほかならないのであって、わが国伝統の社会意識、ないし法意識の正確な理解であり、表現である、と言うことができる。

という川島武宣氏の見解を紹介し、内田氏は次のように言っています。

 

「  主義主張、利害の異なる他者と遭遇したとき日本人はとりあえず、「渾然たる一如一体」の、アオモルファス(→当ブログによる「注」→結晶構造を持たない状態の物質)な、どろどろしたアマルガム(→合金)をつくろうとします。そこに圭角(けいかく)(→行動・言語に角があって円満でないこと)のあるもの、尖ったものを収めてしまおうとする。

 この傾向は個人間の利害の対立を調停するときに顕著に現われます。

 戦後制定された調停制度を普及させるために、委員たちに配布された「調停かるた」というものがあったそうです。「かるた」に曰く。「論より義理と人情の話し合い」、「権利義務などと四角にもの言わず」、「なまなかの法律論はぬきにして」、 「白黒を決めぬ ところに味がある」。

 一読してびっくりしたのは、これが日々学内外のさまざまなトラ ブルに遭遇して、その調停にかかわるときに、私の口を衝(つ)いて出る言葉そのままだからです。川島はこのようなマインドは、 「和を以て貴しとなす」と日本最初の憲法に掲げられてから変っていないと書いています。たしかに変っていない。それは確信を込めて申し上げられます。

 

 なぜ、このような特異な国民性になったのでしょうか? 

 内田氏は、その理由は日本語の世界で唯一と言ってよい日本語の「言語構造」にある、と説明しています

 日本語は、「表意文字=漢字」と「表音文字=かな」から成り立っています。

 そして、その二つの文字は、脳の二つの異なる部位でコントロールされていのです。

 一つの部位は「合理性」を、もう一つの部位は「情緒性」を担当しています。

 思考は、言語で行うので、言語自体に情緒性があれば、思考にも情緒性が付加されるのは当然のことなのです。

 つまり、思考が、純粋に合理的ではなくなるのです。

 


【過剰反応社会】

 現代の日本社会で起きている「過剰反応現象」の原因を、榎本博明氏は、『「過剰反応」社会の悪夢』の中で、以下のように述べています。

「日本社会が過剰反応を生み出しており、多くの人々に感情的な反応を取らせる構造になっている。」

「  例えば、世の中の出来事を伝えるニュース番組では、今や必ずといっていいほど「コメンテーター」や「司会者」が登場し、自分の判断や感情を付け加えた上でニュースを伝えます。これにより、私たちはニュースを受け取ると同時に、コメンテーターたちの「感情」をも受け取ることになるのです。

 こうなってしまうと、私たちはニュースの内容を自分なりに理解しようと試みる時間も与えられないまま、「かわいそう」、「許せない」といった感情に支配されることになります。

 このように、感情優先の報道が多くなってしまったことにより、多くの人が感情的な反応をするようになってしまい、冷静さを失った過剰反応も増えてしまった

 

 また、榎本氏は、次のようなことも述べています。

「偽物のプライドを持つ人は、自己誇大感と自信のなさの間を揺れ動くため心の余裕がなく、過剰に攻撃的な反応を示す。背景には対人不安心理が絡むこともあり、脆くてすぐに崩れ落ちそうなプライドを必死に支えようとする悪あがきなのである。」
(『「過剰反応』社会の悪夢』榎本博明)

 

 「過剰反応を回避する」ために、榎本氏は、以下のことに注意するとよいと述べています。

 つまり、

「物事を多面的にみることができること」、

「相手の身になって考えること」

が大切であるとしています。

 要するに、客観的に、冷静になるべし、ということでしょう。

 

 

「過剰反応」社会の悪夢 (角川新書)

「過剰反応」社会の悪夢 (角川新書)

 

 

 

 
(「『新潮45』問題と休刊 せめて論議の場は寛容に」)

 評論家であれ著述家であれ、表現者とは、常に自らの表現の内容と形式について細心の注意を払うべきものであり、普通はそうするものだ。とりわけ、誰かを傷つける可能性のある文章を書く場合には、必要以上に神経を使うのが当然である。表現の自由をたてに何を書いてもよいというものではない。

 その意味で、杉田氏の原稿に配慮が欠け、杉田擁護の論考の一部に問題があったのは事実だと思う。だがその後の、「新潮45」バッシングもまた異常であって、杉田氏を擁護する者は、それだけで差別主義者であるかのようにみなされるとすれば、これもまた問題であろう。

 杉田氏の論考が評論としての周到さを欠いたものだったと私も思うが、ここには少なくとも、三つの重要な論点が含まれていた。ひとつは、問題となった「生産性」である。日本では、構造改革以降、この20年以上、あらゆる物事を生産性や成果主義のタームで論じてきたのである。私はこのこと自体が問題だと思うから杉田氏の論旨には賛同しないが、しかし、政策判断の基準として生産性が適切なのか、どこまでこの概念を拡張できるのか、という論点はある。

 第二に、そもそも結婚や家族とは何か、ということがある。法的な問題以前に、はたして結婚制度は必要なのか、結婚によって家族(家)を作る意味はどこにあるのか。こうした論点である。そして第三に、LGBTは「個人の嗜好(しこう)」の問題なのか、それとも「社会的な制度や価値」の問題なのか、またそれをつなぐ論理はどうなるのか、ということだ。しかし、杉田氏への賛同も批判も、この種の基本的な問題へ向き合うことはなく、差別か否かが独り歩きした。これでは、不毛な批判の応酬になるほかない。

 また、「新潮45」休刊の背景には、SNSにおける激しい批判と、文芸関係者による新潮社への抗議があったようだ。もともと作家や文芸評論家を主力執筆者にもっていた同社が、この圧力に屈したということになる。だがこれも両者ともに過剰反応ではなかろうか。人間は、100%の善人でもなければ100%の悪人でもない。裏も表もある。簡単に白黒つけられるものではない。白と黒の間には無数の灰色があり、その濃淡を仕分け、それを描くのが表現者の仕事である。そして、新潮社の雑誌の特質は、きれいごとではない、この人間の複雑な様相をいささかシニカルに描きだすところにあった。それがすべて崩れてしまった。

 す私は、人間社会の深いところに「正義」の観念(→当ブログによる「注」→正義に関する論点は、受験上、かなり重要です→「正義論」→後述します)はあると思うが、それを振りかざすことは嫌悪する。それはたちまち不寛容になり、それでは議論も何も成り立たなくなる。だから、人間の行為や人物を白黒に分けて、「白」でないものはすべて「黒」と断定して糾弾する、などということもやりたくはない。それゆえ、近年の風潮であるいわゆるPC(ポリティカル・コレクトネス)も、基本的には疑いの目をもってみたくなる。自分たちの主張を「正義」として、反対の立場を封印することは「コレクトネス」でも何でもない。

 


(当ブログによる解説)

【正義の味方】

 上記の
「私は、人間社会の深いところに「正義」の観念はあると思うが、それを振りかざすことは嫌悪する」

の部分に関しては、最近、「正義の味方」というキーワードが、最近、問題になっています。

 「正義の味方」とは、一般的にはプラスイメージの存在です。

 しかし、その「正義の味方」から実力を行使された側からは、「自分とは違う価値観から考えた正義を実現する者」にすぎないわけです。

 「何が正義か」は、それぞれの価値観によるのです。

 すべての正義が普遍的なわけではありません。

 「絶対的な正義」はないのです。

 けれども、「独善的な正義」が、現代社会には氾濫しています。

 
 そのためでしょうか、近年の様々な分野の作品では、「正義の味方」という言葉は、少々、胡散臭い、怪しいイメージの存在として使用されているようです。

 「正義の味方的な、おバカキャラ」、「正義漢的なトラブルメーカー」等が、それです。

 さらに、「正義」を振りかざし、独善的な振る舞いをする人への皮肉として、「正義の味方」と呼ばれることさえあるようです。

 つまり、本来の言葉の意味から、全く正反対の意味として使用されている場合もあるのです。

 

 

【正義に潜む独善性】

 「正義に潜む独善性」については、先崎彰容氏の論考(「独善的な政治思想の暴走を思いとどまり、安易な正義感に浸った自分を戒め・・・・熱い矜持をもった若者たちへ」 先崎彰容『正論』2017年6月2日)が、かなり参考になります。

 以下に概要を引用します。

「  5月連休明けの大学は、学生相談の季節である。新しい学年が始まり、次の進路への階段を一歩あがる。なんといっても大学は自由だ。時間はいくらでもあり、何より通学範囲や上京によって、格段に世界が広がるのだ。黙っていても刺激は外からやってくる。今までの「自分」が揺さぶられ、目の前には可能性という名の広野が茫漠とどこまでも続いている。

≪右に進むのか左に進むのか≫

 人は自分なりの「ものさし」を持たないと、最初の一歩を踏みだすことができない。右に進むのか、左に進むのかを判断する基準がなければ、私たちは広野に佇(たたず)んだまま餓死することもある。多感な学生時代の、将来に対する不安と飢餓感は、大げさではなく、孤独感を抱えたまま広野を歩む作業なのである。

 だから今年もまた、1人の学生が私の研究室の扉をノックしたときも、別段、驚きはなかった。

 若々しい紅潮した顔つきの学生は、幼い頃から父母にいわれ安定した公務員職を今でも目指していること、しかし高校生時代から急速に「人権」や「憲法」といった問題について自分なりに考え、うなされるように思考を深めてもいること、それが恐らく大学でいう「政治学」「政治思想史」という学問分野に当たること、さらには大学院進学に伴う将来不安について、一息に語りつくした。その顔つきと、緊張感に満ちた態度は、まさに20年前の自分自身と同じだった。


 今、私は「教員」という立場であることによって、自分の半分程度の年齢の学生から助言を請われている。それはようやく発見した遠くに見える灯のような存在として彼の前にあるのだろう。だから私は、実は自分がつい先ほどまで原稿を書いていて、その締め切りに追われて動揺している人間であり、数百枚の大作であるがゆえに日々作品への自信と不安の間を揺れ動いている人間であること、つまり到底成熟した人間ではあり得ないことを隠さねばならない。

 引き出しにそっとしまい込むように、自分の半身を隠し「教員」という役割を果たさねばならない。そしてできうれば、この20歳の学生の期待に応えられるような灯として、一歩を踏みだすための「ものさし」を提供したい。

≪過激になりすぎていないか≫

 不惑を越えた自分が、そういう人間になれるかどうかは今もって分からない。ただ、ぼんやりと熱を帯びた頭で聞いていた学生のある言葉が耳に触れたとき、私のなかである感動が襲っていた。

 「人権」や「憲法」という言葉に触発され、高校時代から自分なりの考えを練り続けてきた若者は、自分自身の思考が深まりすぎて「勝手な独善に陥っているのではないか。過激になりすぎているのではないか」と思い、私の読書経験と学生時代の生活、また勉強のための参考文献を聞きたいと言ってきたのである。

 彼は今、自分が独善に陥っているのではと逡巡し、立ち止まっている。茫漠とした先には「政治」という言葉だけが見えかけている。だがそこまで、どう到達したらよいのかが分からない。若いとはいえ、自分なりの方法はある。でもその歩みはやみくもではないのか。どんどん思い込みの道に迷い込んでいる。歩むべき方向を指し示し、同じ悩みをかつて抱き、そして現在、目的地に向かってのっしのっしと歩いているように見える教員、つまりは私のもとに彼は辿りついたのである。

≪政治は英雄的行為ではない≫

 私は何も、自分を信頼してくれたことに感動したのではない。多感でうなされるような情熱をもつ学生が、自分の突進する政治思想を懐疑し、他者の意見を聞くことで冷静に相対化しようと思ったこと、この姿勢に感動したのだ。

 なぜなら私にとって「政治」とは、誰か悪人を仕立てあげ、批判罵倒し「殺せ、引きずり降ろせ」と騒ぐことではないから。あるいは政治とは、生きる力を減退させることではなく、むしろ人びとの生活の営みを維持する生命をたたえた行為だと思うから。つまり政治は善人と悪人に腑分けし、自分を善人であると叫ぶ卑猥な快楽を意味しない。複雑な人間関係を調停し、終わりのない生活を支え続け、英雄的な行為とはまるで無縁なのが政治なのだと思う。

 こういう確信を抱いてきた私にとって、学生が自らの独善的な政治思想の暴走に思いとどまり、安易な正義感に浸った自分を戒めるために、研究室のドアの前に立ったことは、評価すべきだと思われた。真摯な態度は、過剰に陥りがちな青春時代とはまた違う、若さだけがもつ熱い矜持があった。それが資料に埋もれた私の頭を次第に冷やし、心地よい風が吹き抜けていったのである。

(「独善的な政治思想の暴走を思いとどまり、安易な正義感に浸った自分を戒め・・・・熱い矜持をもった若者たちへ」 先崎彰容『正論』2017年6月2日)

 

 

 

上記の

「  若者は、自分自身の思考が深まりすぎて「勝手な独善に陥っているのではないか。過激になりすぎているのではないか」と思い

「  彼は今、自分が独善に陥っているのではと逡巡(しゅんじゅん)し、立ち止まっている」

「  多感でうなされるような情熱をもつ学生が、自分の突進する政治思想を懐疑し、他者の意見を聞くことで冷静に相対化しようと思ったこと」

「  学生が自らの独善的な政治思想の暴走に思いとどまり、安易な正義感に浸った自分を戒めるため」 

は、「キーセンテンス」になっています。


 特に、「逡巡」、「懐疑」、「冷静に相対化」は、「正義に潜む独善性」について鈍感な、現代の日本人が何度も反芻するべきキーワードでしょう。

 

 

違和感の正体 (新潮新書)

違和感の正体 (新潮新書)

 

 

 

【ポリティカル・コレクトネス】

 次に、最新のキーワードとして、「ポリティカル・コレクトネス」を理解することも重要です。

 「ポリティカル・コレクトネス」とは、「政治的に正しい表現」とも呼ばれています。

 公正・公平・中立的で、差別・偏見が含まれていない表現を指しています。

 1980年代に多民族国家アメリカ合衆国で提唱された、「用語における差別・偏見を取り除くために、政治的観点から正しい用語を使う」という意味で使用される表現です。

 また、伝統的主流派に反対して、「少数派の権利保護」、「社会的公正の実現」を主張する立場を指す場合もあります。

 

 「ポリティカル・コレクトネス」は差別是正活動の一環として、英語以外の言語にも波及した結果、一部表現の言い換えにつながりました。

 「ポリティカル・コレクトネス」の圧力は、日本における差別用語の「言い換え」圧力と類似しています。

 「ポリティカル・コレクトネス」は、「表現の自由」を阻害するものになりかねないのです。
 そのため、「ポリティカル・コレクトネス」の圧力を行き過ぎと考える人々からは、「言葉狩り」と評価されることもあるようです。

 

 以下の内田樹氏の見解(「『政治的に正しいこと』は正しいのか?」内田樹『内田樹の研究室』2008年3月16日)は、その一例です。 

「  バリ島海水浴でばりばりに日焼けした上にスキー焼けしたので、季節感のない色黒男になってしまった。

 むかしはこういうのを「くろんぼ大会」と称したのであるが若い人はご存じないであろう。

 1960年代までは夏休み明けに一番黒く日焼けした子どもを学校で表彰していた。

 たいへんよい企図のものであったと思うのだが、「くろんぼ」がご案内のとおりポリティカリーにコレクトではないということで使用禁止用語となり、ついでに「よく遊んだこと」を肌の黒さを基準に考量し、これを讃えるという風儀もまた失われたのである。

 ポリティカル・コレクトネスによる用語制限によって私たちが得たものと失ったものはどちらが多いのか、ときどき疑問になる。

 自分の語法に伏流するイデオロギー性を自己検閲する習慣を定着させたという功績はむろん高く評価されねばならぬ。

 だが、PC の難点は「自分の語法に伏流するイデオロギー性を自己検閲する習慣に伏流するイデオロギー性」の検出には、ほとんど知的リソースを備給しないという点にある。

 わかりにくくてすまない。

 要するに、PC 的なことを大声で言うやつは総じて頭が悪いということである。

 頭が悪いことと邪悪なことではどちらがより有害であるかについては意見の分かれるところであるが、アナトール・フランスはこの論件についてたいへん適切な言葉を残している。

「邪悪な人間はときどき邪悪でなくなることがあるが、愚鈍な人間はつねに愚鈍なままである。」

 そういえば先日「丸坊主」と書いたら、「PC 的に不適切用語です」という校閲からのチェックが入った。

 ちょうど山本浩二くんといっしょにお茶を飲んでいるところだったので、いったいどこが不適切であるのかについてしばらく意見交換した。

 「丸」は PC 的に問題ではないであろうから、不適切なのは「坊主」の方なのであろう。

 しかし、寡聞にしていつから「坊主」が活字にしてはならぬ語に登録されたのか私は知らない(その経緯を知っている人がいたらご教示ください)。

 たしかに「坊主」には貶下的なニュアンスがあるのは事実である。

 「三日坊主」とか「腕白坊主」とか「生臭坊主」とか。

 そもそも、年少のものを呼称するに僧侶の称を流用するという習慣自体が「僧侶一般」に対する世俗の人間たちの ambivalent な感情抜きには説明できない。

 だが、僧侶を両義的にみつめるまなざしはすでに平安時代から存在したのである

 つまり、「坊主」というのは「その本義とは違う不適切な含意をともなう語」として古来使われてきた語なのである。

 その語義を昨日今日ぽっと出てきた「良識」で使用禁止にしてよろしいのか。

 それが「正しい」ということになれば、およそ敬意と嫌悪の両義を含むすべての語は使用を禁じられねばならないことになる。

 私は一昨日所用のために警察署に行ったが、その窓口で警察官は私を「ご主人さん」と呼んだ。

 「ここにハンコ捺して、証紙貼って持ってきて」

 「ご」も「主人」も「さん」もどこにも貶下的な語義はないが、その語はあきらかに「市民を敵視する」トーンで使われていた。

「あのですね、こっちは『ご』に『主人』に『さん』と三段構えで敬語使ってるわけですよ。市民に対する公僕の『お仕えする』という姿勢をアピールするために。これなら文句のつけようないでしょう? え? まだ足りないの?『お市民さま』の方がいい?」

 こういうのはよろしくないと私は思う。

 おそらく、警察庁内部の知恵者が「年齢にかかわらず男性は『ご主人さん』、既婚未婚の別なく女性は『奥さん』と統一的に呼称しておけば、まず PC 的批判は受けずに済むでしょう」というようなことを提言して、そういうことが内規化されたのであろう。

 しかし、私は「ご主人さん」と呼ばれて、飲み屋で「社長」とか「大将」とか呼ばれたような嫌な気分になった。

「社長」も「大将」も、「ご主人さん」も社会的地位についての指示記号である。

 そして、私は使用人を持たない未婚の男子であるから、誰からも「ご主人さん」と呼ばれる立場にない。

 誰からも「ご主人さん」と呼ばれる立場にない人間に対して平然とそのような呼称を用いるのは、あきらかに非礼である。

 「ご主人さん」が貶下的含意をもつのは、そのような指示記号が明らかに事実を指示していない場合に、あえてその呼称を用いることで、「要するに、お前が社会的に何ものであるかなんてことに、オレはぜんぜん興味ないわけよ」というメッセージを発信しているからである。

 あらゆる名詞は「その名詞を用いても、指示対象についての情報が少しも増えない」場合には貶下的含意を持つことができる。

 悪意は語義のレベルにあるのではなく、文脈にある。

 ポリティカリーにコレクトな「言葉の検閲者」たちを私が嫌うのは、彼らの言語の機能と本質についての理解(→言語論の論点として重要です)があまりに浅いからである。

 使える言葉をいくら規制しても、使う人間に悪意がある限り、言葉は語義を離れて攻撃的に機能することができる。

 現に、私は「ポリティカリーにコレクトな人々」という語をもっぱら「頭の悪い人」という意味で用いている。

 おそらく、この用例もやがて日本語の語彙に登録されて、「ポリティカリーにコレクトな」という形容詞そのものが「不適切語」として校閲にチェックされる日が来るであろう。(→かなり強烈な皮肉です)

(「『政治的に正しいこと』は正しいのか?」内田樹『内田樹の研究室』2008年3月16日)

 

 
(「『新潮45』問題と休刊 せめて論議の場は寛容に」)

 そして、リベラル派が唱えるPCに対するいらだちが、いわゆる保守派には根強くあった。しかしまた、その自称保守派も、このところ急激に不寛容になりつつある。論の結論だけで、敵か味方かに単純化されてしまう。SNSがそれを増長する。

 本当に大事なのは、議論の結論というより、その論じ方であろう。

 もともと、リベラルも保守も、その基底には「寛容」があったはずだ。異なった立場を認め、多様性を容認することは、どちらにも共通する原則である。この原則だけが、健全な論争を可能にしたのだ。だが今日、社会から「寛容さ」が急激に失われている。それは論壇だけのことではないのだが、せめて紙媒体の論議の場だけでも「寛容さ」を保つ矜持がなければ、わが国の知的文化は本当に崩壊するだろう。

(「『新潮45』問題と休刊 せめて議論の場は寛容に」佐伯啓思)

 


(当ブログによる解説)

【「寛容」に関して】

 「寛容」に関しては、「寛容のパラドックス」を理解する必要があります。

 「寛容のパラドックス」とは、カール・ポパーが1945年に発表したパラドックスです。

 ポパーは、以下のように述べています。

 「もし社会が無制限に寛容であるならば、その寛容は最終的には不寛容な人々によって奪われるか破壊される。寛容な社会を維持するためには、社会は不寛容に不寛容であらねばならない」

 原則的に「寛容」は守るべき重要な概念だが、例外を認めなければ、寛容な社会は実現不可能である、とするのです。

 

 以下に詳説します。

 ポパーは、『開かれた社会とその敵』において、このパラドックスを以下のように定義しました。

「寛容のパラドックス」についてはあまり知られていない。

 無制限の寛容は確実に寛容の消失を導く。

 もし我々が不寛容な人々に対しても無制限の寛容を広げるならば、もし我々に不寛容の脅威から寛容な社会を守る覚悟ができていなければ、寛容な人々は滅ぼされ、その寛容も彼らとともに滅ぼされる。

 この定式において、私は例えば、不寛容な思想から来る発言を常に抑制すべきだ、などと言うことをほのめかしているわけではない。

 我々が理性的な議論でそれらに対抗できている限り、そして世論によってそれらをチェックすることが出来ている限りは、抑制することは確かに賢明ではないだろう。

 しかし、もし必要ならば、たとえ力によってでも、不寛容な人々を抑制する権利を我々は要求すべきだ。

 と言うのも、彼らは我々と同じ立場で理性的な議論を交わすつもりがなく、全ての議論を非難することから始めるということが容易に解るだろうからだ。彼らは理性的な議論を「欺瞞だ」として、自身の支持者が聞くことを禁止するかもしれないし、議論に鉄拳や拳銃で答えることを教えるかもしれない。

 ゆえに我々は主張しないといけない。寛容の名において、不寛容に寛容であらざる権利を。

 
 同様の見解を哲学者ジョン・ロールズも正義論』において、以下のように述べています。

「  公正な社会は不寛容に寛容であらねばならない。

 そうでなければ、その社会は不寛容と言うことになり、そうするとつまり、不公正な社会ということになる。

  しかし、社会は、寛容という原則よりも優先される自己保存の正当な権利を持っている。

 寛容な人々が、自身の安全と自由の制度が危機に瀕していると切実かつ合理的な理由から信じる場合に限り、不寛容な人々の自由は制限されるべきだ」


 以上の、ポパー、ロールズに反対する説があります。

 渡辺一夫氏は、「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか」の中で、以下のように主張しています。

「  我々と同じ意見を持っている者のための思想の自由でなしに、我々の憎む思想にも自由を与えることが大事である。」

「  寛容は寛容によってのみ護られるべきであり、決して不寛容によって護られるべきでないという気持ちを強められる。

 よしそのために個人の生命が不寛容によって奪われることがあるとしても、寛容は結局は不寛容に勝つに違いないし、我々の生命は、そのために燃焼されてもやむを得ぬし、快いとおもわねばなるまい。

 その上、寛容な人々の増加は、必ず不寛容の暴力の発作を薄め且つ柔らげるに違いない。

 不寛容によって寛容を守ろうとする態度は、むしろ相手の不寛容をさらにけわしくするだけであると、僕は考えている。その点、僕は楽観的である。

 ただ一つ心配なことは、手っとり早く、容易であり、壮烈であり、男らしいように見える不寛容のほうが、忍苦を要し、困難で、卑怯にも見え、女々しく思われる寛容よりも、はるかに魅力があり、「詩的」でもあり、生甲斐をも感じさせてくれる場合も多いということである。

 あたかも戦争のほうが、平和よりも楽であると同じように。だがしかし、僕は、人間の想像力と利害打算とを信ずる。人間が想像力を増し、更に高度な利害打算に長ずるようになれば、否応なしに、寛容のほうを選ぶようになるだろうとも思っている。

 僕は、ここでもわざと、利害打算という思わしくない言葉を用いる。

(「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか」渡辺一夫)

 

 この論考は、1993年の慶應義塾大学文学部の小論文試験課題文として出題されています。

 

 「寛容」は「多様性」の論点のキーワードです。

 「寛容をいかに考えるか」は、非常にデリケートな問題です。

 佐伯氏の「せめて議論の場合は寛容に」という、控え目な提案にさえ、反対する見解は根強いのです。

 受験生としては、自分の立場を決定する前に、「寛容」に関する議論を、しっかりと理解しておくべきでしょう。

 


 【戦う民主主義】

 「寛容」に関しては、「戦う民主主義」を理解しておくことも大切です。

 「戦う民主主義」とは、ドイツをはじめとするヨーロッパで顕著な、民主主義理念の一つです。 

 民主主義を否定する自由、民主主義を打倒する権利を認めない「民主主義」です。


 民主主義体制を維持するためには、国民に、思想の自由、表現の自由を保障することが不可欠です。

 しかし、国民が、何らかの説得・誘導により、自分の政治的自由を自ら放棄し、民主主義的手続きにより、民主主義制度廃止の手続きをした場合はどうなるのでしょうか。

 このような民主主義体制の自滅の結果として、独裁制が成立する危険性があります。

 そこで前もって、「民主主義体制を敵視する自由」を制限し、民主主義体制維持を自国民に義務付ける、という防御手段を採用しておくことが考えられます。

 このように、民主主義的手続きで民主主義体制を否定しようという勢力から、民主主義体制を守るという発想が「戦う民主主義」です。

 

 これは、「ナチズム」の教訓に沿った思想です。

 「ナチズム」が民主主義の中から発生してしまった歴史を直視し、熟考した結果の思想なのです。

 これは、寛容を重視する伝統的リベラリズムにおいて、「人はすべての場合に寛容であるべきという必要はなく、不寛容な者には不寛容であるべき」という例外的処置が肯定されていることとも対応しています。

 

 しかし、「民主主義」の具体的内容は、一義的に決められるものではありません。

 歴史的に見て、国、宗教、民族等により、多様な内容を含んでいます。

 現在でも、民主主義の具体的内容として統一的な見解が得られているわけではありません。

 

 民主主義の内容・定義のこうした多様性を無視して、特定の思想を「ナチズム」として排除することは、場合によっては、権力者によって濫用され、「表現の自由」(→自由主義の根幹であり、民主主義の前提)が侵害されるおそれがあります。

 つまり、「ナチズム的」という、極めて曖昧なレッテルを貼れば、容易に「表現の自由」を制限することが可能になります。

 さらに、特定の価値に優劣はなく、また、優劣をつけるべきではないという、価値相対主義的な立場からも、「戦う民主主義」の思想には異議が唱えられています。

 これらの点から、「戦う民主主義」の思想を採用している国は多くはありません。


 

ーーーーーーーー

 

 今回の記事は、これで終わりです。

 次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

 ご期待ください。

 

 

   

 

 

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

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5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

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予想問題/「死を考えること 人に優しい社会への一歩」佐伯啓思

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 

 佐伯啓思氏は、入試頻出著者です。

 佐伯氏の論考は、最近では、神戸大学、新潟大学、早稲田大学(政経)・(文)、立教大学、法政大学、中央大学、関西大学等で出題されています。

 

 佐伯氏は、最近、「現代文明批判」(現代文明論)」、「近代批判」、「死生観」、「日本人論」、「グローバル化」に関する「死を考えること 人に優しい社会への一歩」(《異論のススメ》『朝日新聞』2018年8月3日)を発表しました。

 この論考は2018年7月に出版した『死と生』に関連しています。

 

 「現代文明批判(現代文明論)」、「近代批判」、「死生観」、「日本人論」、「グローバル化」は入試頻出論点です。

 そこで、現代文(国語)・小論文対策として、この論考を『死と生』や、佐伯氏の他の著作等を参照して解説します。

 

 記事は約1万字です。

 

 

死と生 (新潮新書)

死と生 (新潮新書)

 

 

 

(2)予想問題/「死を考えること 人に優しい社会への一歩」佐伯啓思〈異論のススメ〉『朝日新聞』2018年8月3日

 

 

朝日新聞デジタル

朝日新聞デジタル

 

 

 

(問題文本文)(概要です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です) 

 

 この7月に私は『死と生』(新潮新書)という本を出版した。評論のようなエッセーのような内容であるが、ここで私なりの「死生観」を論じてみたかった。人口の減少と医療の進歩のおかげで、日本では高齢化がますます進展し、独居老人世帯も2025年には700万世帯になるとみられる。

 こういう現状のなかで、いやおうもなく、どこでどのように死ぬかという「死に方」にわれわれは直面せざるをえず、さらには「死とは何か」などということを考えざるをえなくなってきた。「死を考える」といえば、いかにも陰気で憂鬱でうんざりという感じであるが、別にそういうわけでもない。これほど人間の根源的な事実はなく、誰にもまったく平等にやってくる。そもそも死を厭(いと)い、面倒なものには蓋をしてきた今日の社会の風潮のほうが奇妙なのではなかろうか。

 人々の活動の自由をできる限り拡大し、富を無限に増大させるという、自由と成長を目指した近代社会は、確かに、死を表立って扱わない。死を論じるよりも成長戦略を論じるほうがはるかに意義深く見える。しかし、そうだろうか。かつてないほどの自由が実現され、経済がこれほどまでの物的な富を生み出し、しかも、誰もが大災害でいきなり死に直面させられる今日の社会では、成長戦略よりも「死の考察」のほうが、実は必要なのではなかろうか。

 

 

(当ブログによる解説)

 私たちは、高度情報社会、新自由主義社会の中で、雑事に追われ、「生と死の問題」に関心を持てなくなっているようです。

 およそ、「死」という哲学的問題に心を向ける精神的余裕がないのです。

 このことは、戦後の日本社会、近代の合理主義に問題があるようです。

 

 この問題に関して、佐伯氏は、『反・幸福論』の中で以下のように述べています。

「  考えてみれば、日本の伝統的な価値観は、決して個人の自由礼讃や富の称賛をしてきたわけではありません。それどころか、『個人の自由』や『経済的な富』に対しては随分と警戒的だったのです。その意味では、日本の価値観の根本には、近代主義とはどうしてもなじまないところがあります。戦後日本の価値とは対立しあう面があるのです。

 それに代わってわれわれがもともともっていたものは、独特の人生観であり、死生観であり、自然観だったのです。国民の価値とは、本来、人生観、死生観、自然観、それに歴史観によって組み立てられます。ところが、この人生観や死生観、自然観が戦後日本ではすっかり忘れさられてしまいました。

 自由や富はいくら積み上げても人生観や死生観の代わりにはならないのです。もっといえば、人生観や死生観や自然観を見失ったために、どれだけ自由を求めても、経済を成長させても、幸せ感がなかなか得られないのではないでしょうか。 

「  終末の迎え方、「死に方」は、知恵や努力やカネやコネで人為的に操作できるが、「死」そのものは、まったく人間を超えたものなのです。人は、「死」を前にして、まったく無力であり、ただ頭を垂れるほかない。ここでは、全ての人間の営みも文明も一気にすべての意味を失ってしまう。どれほど、人間が壮大な建造物を建て、富を築き上げても、「死」を目の前にしたら何の意味もない。

 近代人が理想とする「自由」も「幸福追求」もすべてが死を目の当たりにすると、色あせてしまう。あらゆる存在を無意味化してしまうという点で、「死」は「絶対的無意味」というしかありません。

(『反・幸福論』佐伯啓思)

 

 

反・幸福論 (新潮新書)

反・幸福論 (新潮新書)

 

 

 

(「死を考えること 人に優しい社会への一歩」佐伯啓思)

 もっとも、いくら考えたとしても、「死とは何か」など答えのでるものではない。だから考えても意味がない、という側にも言い分はありそうにもみえる。しかし、私はそうは思わない。われわれが自分たちの生の意義を問おうとし、この現実社会の意味を問おうとすれば、いったんは、この現実の生から離れ、それから抜け出さねばならず、死を前提にして生を見直さねばならない。だから、死を考えることはまた、生を考えることでもあり、家族や社会のありかたを考えることでもある。つまり、自分なりの「死生観」を論じることである。

 

 

(当ブログによる解説)

 「死生観」は、「家族観」、「社会観」、「人生観」等に密接に関連しているのです。

 さらに言えば、「死生観」は、様々な「価値観」の根本です。

 「死生観の確立」こそが、人生の最大目標とも言いえるのでしょう。

 

 『死と生』(佐伯啓思)には、次のような記述があります。

 赤字部分に注目して、熟読してください。

「  死を論じるということは、実は生を論じることにもなるのです。

 人間は死すべき存在である、という命題はまた、人間は死を意識しつつ死へ向かって生きる、ということも意味し、これはまさに生き方を論じることでもあるのです。

 「死」と「生」は対の問題です。にもかかわらず、往々にして、「死」はただ「生」の切断であり、「生」を終わらせるものだ、と考えられがちです。

 そうではなく、「死」、正確には「死への意識」が「生」を支え充実させることもあるのです

「生も死も無意味だ」から出発して、その「無意味さ」こそが、自我への執着を否定したうえで、現実世界をそのまま自然に受け止めることを可能にするのです。

 われわれは、草木のように土から生まれ、また土に戻ってゆき、そしてまた別の命が芽を出す。すべての存在がこうした植物的な循環のなかにあることをそのまま受け止めるほかありません。とすれば、われわれは特に霊魂はあるのかないのか、あるいは来世はあるのかどうか、などということに悩まされる必要はない。

 確かに、生も死もどちらでもよい、などと達観することはできません。しかし、この達観に接近しようとしたのが日本的な死生観のひとつの大きな特徴だったのであり、それは現代のわれわれにも決して無縁ではないでしょう

 人間は死すべき存在である、という命題はまた、人間は死を意識しつつ死へ向かって生きる、ということを意味し、これはまさに生き方を論じることでもあるのです。

(『死と生』佐伯啓思)

 

【「死生学」について】

 「死生観」に関連して、「死生学」の解説をします。

 「死生学」(しせいがく)( 英 : thanatology)は、ギリシャ語の「タナトス」と、「学」ないしは「科学」を結びつけた学術用語です。

 「死についての科学」と定義することができます。

 死と死生観についての学問的研究のことです。

 「死生学」が対象とするのは、「人間の死」です。

 「死生学」の創始者の一人、アリエスによると、「人間は死者を埋葬する唯一の動物」です。

 埋葬儀礼は、ネアンデルタール人から始まり、歴史の流れの中で、人類は「死に対する態度=死生観」を構築してきました。

 「死生学」は、このような「死生観」を、哲学・医学・心理学・民俗学・文化人類学・宗教などの研究を通して分析、解明しようとしています。

 そして、その視点から、「死への準備教育」を模索している学際的学問です。

 「死生学」は、「尊厳死問題」、「医療告知」などを背景として、1970年代に一応の確立を遂げた新たな学問分野です。

 

 「死生学」は、死をタブー視し、死を非日常的なものとして、これを遠ざける現代社会に疑問を提示する、新たな学問領域です。

 つまり、「死に対して取るべき心構え」という観点から、「生の価値」を再認識しようという試みです。

 死を自分の将来の必然として見詰めることで、「自己の生」において真に大切なものを考察する営みを提唱するのです。

 

 また、「死生観」に関しては、「メメント・モリ」について理解しておくことも大切です。

 「メメント・モリ」は、ラテン語で「自分が(いつか)必ず死ぬことを忘れるな」という意味の警句です。

 「死を想え」と訳されることもあります。

 

 「メメント・モリ」に関しては、京都学派の哲学者として著名な田辺元氏が、「死の哲学(死の弁証法)」と称される哲学を構築しました。

 その哲学の概要を提示した論文は「メメント モリ」です。

 田辺氏は、この論文の中で、現代を「死の時代」と規定しました。

 近代人が「生」の快楽や喜びを無反省に追求した結果、「生」を豊かにするための科学技術が、「生」を脅かすという矛盾的状況を招来し、現代人をニヒリズムに追い込んだ、というのです。

 田辺氏は、この悲惨な現状を打開するために、「メメント・モリ」の警句に立ち戻るべき」と主張しています。

 

 「メメント・モリ」については、古代ローマの哲学者、セネカの言葉も知っておくべきでしょう。

 以下に引用します。

「何かに忙殺されている人間は、忙殺されているうちに、稚拙な精神をもったまま、何の準備もなく、いきなり老年に襲われる。そこで、あわてて、この老人は、わずか数年の余命を乞い求め、空しい若作りで老いをごまかそうとする。しかし、それでも病気や衰弱がやってきて、死を思い知らされる。その時になり、怯えながら末期を迎え、自分の人生は愚かだったと後悔するのだ」

 

 上記は、「ゆるキャラ」やテーマパークに歓喜し、単なる運動会であるオリンピックを崇め、医者や栄養士の根拠不明な託宣の操り人形に成り下がった、現代の幼児的な日本人そのもの、の描写の感じがします。

 

 

 

(「死を考えること 人に優しい社会への一歩」佐伯啓思)

 「死生観」は、ひろい意味での宗教意識と深くつながっている。なぜなら、多くの宗教意識は、この現実を超越した聖なるものを想定し、その聖なるものによって人々を結びつけ、また、この聖性によって、人々の現実の生に意味を与えるものだからである。

 そして、たいていの社会には、漠然としていても、何らかの宗教意識がある。イスラムはかなり明白であるが、アメリカはプロテスタント中心のいわば宗教大国であり、西欧では、かなり薄められたとはいえ、西欧文化のいわば母型としてキリスト教があるし、そもそも無宗教とは、多くの場合、意思的な無神論を意味する。それらが、ゆるやかに西欧人の死生観を形づくっている。

 では、今日の日本における宗教意識とは何なのだろうか。『NHK放送文化研究所』の調査(2008年)によると、「死後の世界を信じる」という人の割合は44%もあり、特に若者層では多い。しかも確実にこの割合は増えている。「祖先の霊的な力を信じる」人は47%ほどもいる。だがそれでは、このうちのどれくらいの人が、神道であれ、仏教であれ、その教義や教説を知っているのだろうか。 おそらくは、その内容はさして知らないが、何となく宗教への関心がある、ということであろう。

 明治の近代日本では、神道の国家化と反比例して仏教は排斥された。そして、戦後になると、すべて宗教の立場は著しく低落した。宗教は、近代社会の合理主義や科学主義、自由主義や民主主義とは正面から対立するとみなされた。そして、近代以前に人々が自然にもっていた死生観も失われていった。

 先日、オウム真理教の元幹部たちが死刑に処せられたが、もしも、われわれが、多少なりとも仏教の教説を知っておれば、この団体が若い人たちにこれほど大きな影響力をもつことはなかったのではないかと思う。また、前近代にあったような、神道的、あるいは仏教的な死生観がある程度共有されておれば、そもそもこのような団体が生まれたかも疑問に思う。もっとも過激な行動に駆り立てられた元幹部に高学歴のいわば合理的な科学に浸された人たちが多いというのは確かに考えさせられることなのである。戦後の宗教意識の排除が、逆に、秘教的なカルトへと安易に寄りかかる道を開いたとも思われる。

 仏教の教えの根底には、現世の欲望や我執を否定し、無我や無私へ向かい解脱を願うという志向がある。さとりを開くことによって生への執着や死の恐怖を克服しようとするところがある。これは、西洋のような絶対神をもってきて、神との契約の絶対性や神の教えの道徳的絶対性を説くやり方とはかなり異なっている。西洋では人は神に従属している。しかし、日本の宗教意識においては絶対的な神は存在しない。むしろ、清明心であれ、静寂であれ、無常観であれ、「無」へ向かう性向が見られることは間違いないであろう。

 


(当ブログによる解説)

 西洋と日本の「宗教意識」や「宗教観」の違いを知ることは、グローバル化における他者理解、自己理解のために、不可欠です。

 また、これらの違いを意識していないと、グローバル化、欧米化により、目に見えない悪影響を受けることになります。

 この点に関して、佐伯氏は、『学問の力』で以下のように述べています。

「   知識には、われわれが意識していないものがあって、人間は、無意織のなかでこそ、 寝たり歩いたりボーッとしたりしているなかでこそ、 考えているし、また感じているのです。 そこに感受性がでてきます。 物事を、特にそれと意識したり、 分析したりするのではなく、それ以前に、 ある種の感勧をもち、 ある印象をもち、 こころを動かされることです。 そして、感受性というのは文化のなかからしかでてこない。 また、文化というものは歴史観や宗教観のなかからしかでてきません。

 日本人の学術的な能力というものも、日本の文化と切り離せない。ということは、日本の歴史観や宗教観と切り離せないということです。 この歴史観や宗教観も、そうと意識してもち歩いているものではありません。 ほとんど無意識のうちにわれわれに刷り込まれているものであり、われわれの感受性の基盤となっているものです。

 もし、それを失ってしまったら、操り人形みたいな、腹話術のようなものになってしまう。(→現代の日本人のほとんどが、まさにグローバル化の「操り人形」になっているようです)機械的に外国人の言葉をただ日本語に翻訳しているようなものです。戦後、日本人の言語感覚は大変ひどくなってしまって、自分の実感というものが言葉で表せない。 そのことと、 感受性の問題は決して無関係ではないのです。

 面白いことに、 日本語には「こころが通じる」という言い方がありますが、 たぶん英語にはありません。 そもそも「こころ」という言葉が英語には翻訳しにくい。

 スピリットもマインドも少し違うし、 ソウルは近いのかもしれないけれど、 やはり違います。 強いていえば、 アダム・スミスがいうようなシンパシーに近いのかもしれません。

(『学問の力』佐伯啓思)

 

 上記に関連して佐伯氏は、『自由と民主主義はもうやめる』中で、現代のわが国における共通的な価値について考察し、戦後に喪失してしまった「日本的精神」を復活すことを主張しています。

 つまり、「日本的精神」を取り戻すことによってのみ、現代文明を覆うニヒリズムを克服することが可能になると述べています。

 この対策論については、以下で詳説します。

  

 

学問の力 (ちくま文庫)

学問の力 (ちくま文庫)

 

 

 

(「死を考えること 人に優しい社会への一歩」佐伯啓思)

 私には、もしもこのような宗教意識が今日のわれわれにある程度共有されておれば、これほど騒々しく他人の非を責めたて、SNSで人を誹謗し、競争と成長で利益をえることばかりに関心を向ける社会にはならなかったのではないかと思われる。今年から学校では道徳が教科化されたのなら、ぜひとも、日本人の宗教意識や世界の宗教の簡単な解説ぐらいはすべきではなかろうか。

(「死を考えること 人に優しい社会への一歩」佐伯啓思〈異論のススメ〉『朝日新聞』2018年8月3日)

 

 

(当ブログによる解説)

 佐伯氏の言うように、 「他者尊重」のために、学校の道徳の授業で「日本人の宗教意識」や「世界の宗教」を教えていくことは必要です。

 その際には、西田幾多郎の「無私の思想」の概要も教授するとよいでしょう。

 

 佐伯氏は、『西田幾多郎 無私の思想と日本人』の中で、西田幾多郎の「無私の思想」を、以下のように分かりやすく解説しています。 

「  日本の思惟には、ゆく川のごとく、次々と時が去り、また来るという趣があると言えよう。「今」が生起する次の瞬間には無へと消えていく。形を持たない無が、今の瞬間に形あるものを現出させる。それを感じ取ることは、「もののあわれ」を感じることである。これを感じるゆえに、人との出会いを大切に思うのである。

「  この世は本質的に矛盾をはらんでいる。この矛盾こそが、人生の実相というべきものではないか。根源的矛盾にあえて目をつむり、「存在するものの論理」をまっすぐに展開したのが、通常のわれわれの思考である。

 無へ向かう志向とは、すべてを「無」のなかに投げ込み、しかし、その生を受け入れようとする態度である。

 日本人の「無」は、必ずしも「有」の否定ではない。日本的な精神の「無常」という観念により、一方で諦念があり、他方で覚悟が出てくる。一方で「はかなさ」があるとともに、「美」を求めようとする。人とのつながりに恬淡とするとともに、定めや縁を感じ取る。

「  日本の精神では、私自身を含め、いかなる「物体」「モノ」もいずれは消えてなくなると考える。これは決定的な宿命、さだめである。その論理でいけば「モノがある」とは、「・・・・に於いてある」ということであり、究極的には「無の場所」に於いてあるということになる。モノの本質は、いずれそこへと帰っていく「無」の世界にこそある。「私自身」も、いずれ確実に「無」へと帰する。つまり、現在の「生」は「死」によって支えられているといえる。このことから、いったん私を滅して「無」へと送り込むことで、そこから改めて私の本当の姿が見えてくる。つまり、自己とは「絶対無の場所」に自己を映すものだというわけである。

 すべての物的存在は、その背後に「無」を漂わせる。

 存在を存在たらしめているのは、西洋思想が考えるように、なにか絶対者のような究極的存在ではない。最終的にすべてを包摂する「絶対無の場所」というものを考えれば、すべての存在は「無」から生まれ、「無」に帰していく。「無」から出てきて、「無」に帰っていくだけである。

 それだからこそ、私たちは、ある場所であるモノとほとんど偶然の出会いを経験できるという意味で「一期一会」や「縁」という言葉を使う。(→だからこそ、他者を尊重するのです。エチケット、節度が重要になるのです)そして、そこには「悲哀」も伴う。

(『西田幾多郎 無私の思想と日本人』佐伯啓思)

 

 

西田幾多郎 無私の思想と日本人 (新潮新書)

西田幾多郎 無私の思想と日本人 (新潮新書)

 

 

 

 上記は、「日本人の伝統的な感受性」の解説です。

 日本の「無私の思想」が、いかに「一期一会の精神」と密接に関連しているか、を説明しています。

 ところが、現代の日本人は、精神的余裕をなくし、上記の、かつてのような、素晴らしい繊細な感受性を喪失しているようです。

 この悲しむべき状況について、佐伯氏は、以下のように解説しています。


「精神の余裕失った日本」佐伯啓思「日の蔭りの中で」『産経新聞』2015年12月28日

「  グローバルな大競争の時代になり、どの国もゆったりと成長できる世の中ではなくなった。競争は、国の単位においても、企業や組織の単位においても、あるいは個人を単位としても、勝者と敗者を作り出してゆく。構造改革で、勝てるところにカネをまわせ、勝てないところは切り捨てよといった政策を続けた結果も手伝い、この十数年のうちに、われわれは、すっかり余裕を失ってしまった

 余裕を失ったのは、十分な経済成長を生み出すことができなくなった富の世界だけではなく、われわれの精神の方も同じである。

 いや、停滞の20年などといっても、日本は依然、経済大国である。富は十分にある。しかしこの豊かさのなかで、われわれは、精神的な安寧や余裕を失っている自分を支えるために、少しでも自分に敵対する(と思われる)ものを攻撃し、自分を傷つける(と感じられる)ものを罵倒し、自己の存在を示すために大声で自己主張をする、という風潮へとなだれ込んでしまった。

 こうしたことは、もともと、われわれ日本人がもっとも忌み嫌ってきたことではなかったろうか。大声で言挙げしない。強引な自己主張は控える。相手の気持ちを忖度(そんたく)する。ことにあたって冷静でいる。友を裏切らず、他人を誹謗しない。仁や義を重んじる。こういったことがらは日本人の精神文化の核にあったはずだ。

 それが、このグローバルな大競争の時代に失われつつある。古都奈良にも海外からの観光客がかつてなくやってきている。中宮寺にもやってきているのであろう。しかし、この観音の微笑(アルカイック・スマイル)は観光のためにあるのではない。われわれ自身の精神を映すものなのである。 

(「精神の余裕失った日本」佐伯啓思「日の蔭りの中で」『産経新聞』2015年12月28日)

 

 上記の由々しき問題の対策論として、佐伯氏は、以下のような秀逸な主張(『自由と民主主義をもうやめる』)を展開しています。

 佐伯氏は、日本人のとるべき方策として「無常観を理解し、現代文明社会に蔓延しているニヒリズムから脱する」ことを提案しているのです

「  自由を極端に主張しない。自然権としての平等や人権ということも声高には主張しない。欲望の気ままな解放も主張しないし、競争というものも節度を持った枠内でしか認めない。これが本来の日本的精神です。調和を求め、節度を求め、自己を抑制する事を知り、他人に配慮する。これを、今の世の中で実践するのは非常に難しいことです。しかし、これら日本的な精神に基づいた価値観を打ち出していく以外に、われわれの取るべき道はありません

(『自由と民主主義をもうやめる』佐伯啓思) 

 

「これほど騒々しく他人の非を責めたて、SNSで人を誹謗し、競争と成長で利益をえることばかりに関心を向ける社会」(「死を考えること 人に優しい社会への一歩」)

から脱却するためには、つまり、他者尊重のためには、「脱成長主義」を考慮することも必要でしょう。

 「脱成長主義」については、佐伯氏の次の論考(「『人生フルーツ』と経済成長 脱成長主義を生きるには」佐伯啓思《異論のススメ》『朝日新聞』2017年6月2日)かなり参考になります。

 

「  先日、『人生フルーツ』(東海テレビ・東風)というドキュメンタリー映画をみた。東京では盛況と聞いていたが、遅れて上映された京都のミニシアターも満員であった。『日本住宅公団』で戦後日本の団地開発を手掛けた建築家・津端修一さんと、その妻・英子さんの日常生活の記録である。1960年代の高度成長時代に、津端さんは次々と日本のニュータウンを手掛けた。その1つが愛知県の『高蔵寺ニュータウン』であるが、自然との共生を目指した彼の計画は受け入れられなかった。そこで彼は、このニュータウンの一角に土地を購入し、小さな雑木林を作り、畑と果樹園を作り、毎日の食事は基本的に自給自足するという生活を送ってきた。畑では70種類の野菜、果樹園では50種類の果物を育てているという。映画は、90歳になった修一さんと3歳年下の英子さんの日常を淡々と描いているのだが、しみじみとした感慨を与えてくれる。

 大抵の建築家は、ニュータウンや団地の設計を手掛けても、そこには住まない。大都市からやって来て仕事を済ませると、それで終わりである。津端さんは、思い通りにならなかった愛知のニュータウンに住み、小さいながらもその土地に根を張り、そこで自然の息吹を聞こうとする。風が通り、鳥がやって来る。四季が巡る。時には台風が襲いかかる。その全てが循環しながら、土地を育み草花や野菜を育て、この老夫婦の生活を支えている。いや、この夫婦の生活そのものも、この生命の循環の中にあるように見える。

 かつては、日本の彼方此方にこういう場所がごく自然に存在していた。1960年代でも未だ、都市の郊外や地方を行けば、人々は自然の循環の中で野菜を作り、半ば自給しながら生活していた。その後、1960年代から1970年代にかけての高度成長は終息し、1980年代のバブル経済も崩壊した。にも拘わらず、四季の移ろいや自然の息吹と共に生きることは、今日、大変に難しくなっている。この映画を見ていると、自給的生活はかなり忙しいことがよくわかる。労力がいるのである。自給といっても、コメや肉まで手に入る訳ではない。90歳の津端さんは、自転車に乗って買いだしに出る。畑や家の手入れも大変だ。毎日同じことを繰り返すにも労力がいる。「できることは自分たちでやる」という独力自立の生活は、映画館でこれを見ている我々に与える清々しさからは想像できないエネルギーを必要とするのであろう。1990年代になって、日本は殆どゼロ成長に近い状態になっている。にも拘わらず、我々は相変わらずより便利な生活を求め、より多くの富を求め、休日ともなればより遠くまで遊びに行かなければ満足できない。政府も、AIやロボットによって、人間の労力をコンピューターや機械に置き換えようとする。住宅もIT等と結び付けられて、生活環境そのものが自動化されつつある。外国からは観光客を呼び込み、国内では消費需要の拡張に腐心している。それもこれも経済成長の為であり、それはグローバル競争に勝つためだというのだ。

 日本がグローバルな競争に曝されていることは私も理解しているつもりではあるが、その為に自然や四季の移ろいを肌で感じ、地域に根を下ろし、便利な機械や便利なシステムにできるだけ依存しない自立的生活が困難になっていくのは、我々の生活や経済のあり方としても本末転倒であろう

 この5月末に、私は『経済成長主義への訣別』(新潮選書)という本を出版した。私は、必ずしも経済成長を否定する「反成長論者」ではない。また、所謂「環境主義者」という訳でもない。

 しかし、これだけモノも資本も有り余っている今日の日本において、「グローバル競争に勝つ為にどうしても経済成長を」という「成長第一主義」の価値観には、容易には与することはできない。現実に経済成長が可能かどうかというより、問題は価値観なのである。

 経済成長によって、「より便利に、より豊かに」の追求を第一義にしてきた戦後日本の価値観を疑いたいのである。それよりもまず、我々はどういう生を送り死を迎えるか、それを少し自問してみたいのである。

 実は、東海テレビが人生フルーツを製作中に、急に津端さんが亡くなる。その直前まで、元気にいつもと同じ生活をしており、実に静かで自然な死であったようだ。こういう死を迎えることは、今日、中々難しい。我々はグルメ情報を片手に、美味いものの食べ歩きに精を出し、旅情報を基に秘境まででかけ、株式市場の動向に一喜一憂し、医療情報や健康食品に、やたら関心を持ち、そしてその挙げ句に、病院のベッドに縛り付けられて最後を迎えることになる。こうした今日の我々の標準的な生と死は、本当に幸せなものなのだろうか?(→当ブログによる「注」→私たちは、「死と生」を真剣に考えるべきではないか、と佐伯氏は問いかけているのです)

 確かに、「より多くの快楽を得たい」「より便利に生活したい」というのは、現代人の本性のようになっている。経済成長も、我々の生活に組み込まれている。しかし、この映画はまた、その気になれば、このグローバル競争の時代に、都市のニュータウンの真ん中で、細やかながらもこのような生が可能なことをも示している。

 経済成長を否定する必要はないが、その傍らで、脱成長主義の生を部分的であれ、採り入れることはできる筈であろう。

(「『人生フルーツ』と経済成長 脱成長主義を生きるには」佐伯啓思《異論のススメ》『朝日新聞』2017年6月2日)

 

 

 (3)当ブログにおける「佐伯啓思」関連記事の紹介

 

 佐伯啓思氏は、入試頻出著者です。

 

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予想問題/「シェアの未来/翼賛に通じる『共有』賛美」大塚英志

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 

 大塚英志氏は入試頻出著者です。

 大塚氏の論考は、最近では、立命館大学、関西大学、文教大学、大阪教育大学等で出題されています。

 最近、大塚氏は、「シェアの未来」「翼賛に通じる『共有』賛美」(〈耕論〉『朝日新聞』2018年6月15日)を発表しました。

 この論考は、短いながらも、現代文明批判として、鋭い問題意識を含んでいます。

 このような問題意識に、難関大学の入試問題作成者は注目するのです。

 そこで、現代文(国語)・小論文対策として、今回の記事で、この論考を、大塚氏の他の論考も紹介しながら、詳細に解説します。

 

 

朝日新聞デジタル

朝日新聞デジタル

 

 

 

(2)予想問題/「シェアの未来」「翼賛に通じる『共有』賛美」 (大塚英志〈耕論〉『朝日新聞』2018・6・15)

 

 

大政翼賛会のメディアミックス: 「翼賛一家」と参加するファシズム

大政翼賛会のメディアミックス: 「翼賛一家」と参加するファシズム

 

 

 

(本文は太字になっています)

(概要です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です) 

 

 

(「翼賛に通じる『共有』賛美」大塚英志)

 「シェアによって様々な問題が解決し、新しい時代がくるという見方に、そもそも違和感があります。シェアハウスは昔は「下宿」、民泊は「民宿」。海賊版だって、ウェブ上では「シェア」を自称していますよ。

 

(当ブログによる解説)

 「シェアリング・エコノミー」とは、物・サービス・場所などを、多くの人と共有・交換して利用する社会的な仕組み。

 自動車を個人や会社で共有するカーシェアリングをはじめ、ソーシャルメディアを活用して、個人間の貸し借りを仲介するさまざまなシェアリングサービスが登場しています。

 シェアエコノミー。シェアエコ。共有型経済。

 「共有経済」は、共有の社会関係によって統御される経済を指します。

 

  

(「翼賛に通じる『共有』賛美」大塚英志)

 所有への執着が減ったという議論も表層的でしょう。1980年代、ブランドものを身にまとい、人にどう見られるかを目的とする「消費による自己実現」が指摘されました。いまは見せるツールがウェブになっただけで、「インスタ映え」のために消費して、誰かの「いいね」で自己が確立できた気分になる、という構造は同じです。

 

(当ブログによる解説)

 人々の関心は、自己を取り巻く目に見える絆、自己承認欲求の充足、に集中しているようです。 

 そこには、「社会」や「政治」の入り込む隙間はないようです。

 

 この点について、大塚英志氏は、以下のような秀逸な指摘をしています。

「  想像力はもはや現実の「歴史」へと向かない。人々は「絆」と称し、ミニマムな世界の維持に必死である。(『月刊未来まんが研究所』vol.2)

  

 

(「翼賛に通じる『共有』賛美」大塚英志)

 むしろ、シェアという語の背後にある「共有」を賛美する空気の意味が、僕は気になります。

 1940年に近衛文麿を中心に戦時体制の確立を目指した、新体制運動下の大衆文化を研究しています。近衛新体制は「協同主義」と言って、隣組内で炊事など家事労働を「協同」で行わせたり、不用品の交換会を推進したり。それを賛美する記事が当時の新聞にいくらでも出ています。翼賛体制は、実はシェアリングエコノミーですよ。

 

 (当ブログによる解説)

 上記の「戦時体制の確立」→「協同主義」→「翼賛体制」の流れに注目してください。

 これは、「国民の一体化」、つまり、「全体主義」の確立を目指す露骨な政策です。

 

 「翼賛」は、元来は、「力を添えて助けること。補佐すること」という言葉です。

 しかし、戦前の「大政翼賛会」により、「世間的圧力による日本的ファシズム」、「反対意見を許さない総与党的風潮」をイメージする言葉となったのです。

 

 「翼賛体制」とは、大政翼賛会を中心とする第2次世界大戦中の政治体制です。

 日中戦争の長期戦化にともない、「国防国家体制」と呼ばれた国家総力戦体制の樹立が必要となりました。

 そのためには、政府と軍部をの矛盾をはじめとする支配層内部の対立解消と、国民の自発的な戦争協力を永続化させる組織の構築が、緊急の課題となりました。

 このため、近衛文麿首相を中心とする新体制運動が展開され、1940年10月12日大政翼賛会が結成されました。


 「世間的圧力による日本的ファシズム」は、現在でも、「日大タックル問題」と「モリ・カケ問題」の背景にあると言えるでしょう。

 「翼賛体制」は、大塚氏の主張するように、決して、単なる過去の出来事ではないのです。

 

 

(「翼賛に通じる『共有』賛美」大塚英志)

 いま、二次創作という形でキャラクターをシェアする文化があります。大政翼賛会は「翼賛一家」というキャラクターをシェアさせました。隣組は一つの「一家」であり、八紘一宇(はっこういちう)の象徴です。朝日新聞はその意をくみ、「翼賛一家」キャラクターを使った読者の投稿漫画、つまり二次創作を募っています。このキャラクターは、ほかの分野でもシェアされ、一般の人々がこれを用いた人形劇を作るマニュアルまで作られました。

 

 (当ブログによる解説)

 「二次創作」とは、何らかの下地となる作品、表現があり、それらを元にしている創作物および創作行為を指します。 

 パロディ、オマージュと似た言葉だが、二次創作と一言で言っても、ショートショート風のものもあれば、大長編やミステリー、コメディから妄想ラブストーリーまで多種多様です。

 

 

 (「翼賛に通じる『共有』賛美」大塚英志)

 翼賛体制は、そうやって「愛国心のシェア」を進めたわけです。

 そもそも「シェア」と「社会」は同義のはず。近代化の過程で、自由主義経済がもたらす貧困や格差の問題を「社会問題」と呼び、それは解決の責任が社会にあるという意味でした。社会とは本来、責任をシェアする場です。そして、シェアした責任を遂行するシステムが「国」です。

 それがいまは、格差も貧困も自己責任論がまかり通っています。NPOや民間の善意に任せ、国家がシェアすることを忌避しようとする社会問題があまりに多い。だから、この種の自己責任論を有権者が不用意に語ることは、社会問題をシェアしない国家を許し、自身も社会のシェアを拒むということになりかねないと思います。

 

 (当ブログによる解説)

 上記の

「いまは、自己責任論がまかり通っています。この種の自己責任論を有権者が不用意に語ることは、社会問題をシェアしない国家を許し、自身も社会のシェアを拒むということになりかねない」

の部分は、重要な問題を含んでいます。

 

 「社会のシェアを拒む」ということは、「公共性」・「社会性」を拒否するということです。

 「自己責任論」を徹底すれば、「公共性」・「社会性」の存在する意味はなくなります。

 

 「漫画というメディア」においても、「社会性の欠如」は、顕著なようです。

 大塚氏は、以下のように指摘しています。

漫画というメディアには他者性(→当ブログによる「注」→客観的視点→社会性・公共性)がないんです。これは僕が前々から言ってきたことで、「私」みたいなものを全肯定してくれるような言説を少年少女漫画は積み重ね、その他者性がないがゆえに戦後史の中で肥大することができた。(『少女たちの「かわいい」天皇』)

 

 現代社会における「他者性」・「社会性」の排除の、ある意味での正当性(→誤解に基づく正当性)や、「心地良さ」を少年・少女も敏感に察知し、その状況を積極的に受け入れたということでしょう。

 
 「社会のシェアを拒む」ということは、「公共性」・「社会性」を拒否するということです。

 「公共性の軽視」、「自己責任論」の蔓延している一例として、大塚氏は、『愚民社会』の中で以下のような事例を挙げています。

(大塚) 今、震災で地域の存続が問題になっていますが、ムラ的な共同体は近代の明治期あたりで解体し始めて、昭和初頭の世界恐慌のときにほぼ崩壊しているわけです。地域の「互助システム」を使って共同体単位で日本を復興しょうとするのは世界恐慌時の政策です。農山漁村の経済更生運動、とかいうやつです。でも、失敗した。とうに旧来のムラのシステムは崩壊していたからです。結局、何をやったかといえば郷土史や民話集をつくって「郷土愛」みたいなものを「あること」にして、ファシズムの下支えとしての郷土をつくった。だから厳しい言い方をすれば、被災地の復興が進まないという責任の一つには「あなたたち、復興し得るような社会システムやモチベーションを本当は持っていないんでしょう? ということでしょう。

「(大塚) 本当になんとかしたいのだったら、東北だけはリアルなカタストロフィが今回あったわけで、それは、彼らだけは「近代」をやり直すチャン(→「復興し得るような社会システム」を構築すること)があるということです。たぶん、やらないで、中央の政治家に助成の陳情して、おしまいだと思いますが。

(『愚民社会』大塚英志 宮台真司 )

 

 

愚民社会

愚民社会

 

 

 

 「自己責任論」に、「現代のweb社会の問題性」が加わることにより、「公共性の成立」はますます困難になっているようです。

  この辺の事情について、大塚氏は、『感情化する社会』の中で以下のように解説しています。

 参考になる分析です。

「感情化」とは、著者によれば、わたしたちの自己表出が「感情」という形でのみなされ、理性や合理でなく、感情の交換のみが社会を動かすようになることであり、そこで人々は「感情」以外のコミュニケーションを忌避する

 フェイスブックの「いいね!」が象徴するように、WebではSNSにおけるコミュニケーションが端的にそれを示している。そこでの議論の多くは、相手の非難に対し論理的に反論しようと努めても、いつのまにか「感情的」な表現に陥ることが避けられない。「いいね!」とは、私はそのように「感情的」になっていませんよ、という「感情」表現としてある。

 2016年8月8日、現行天皇は生前退位について「お気持ち」を表明した。それに対し、一方で、政権側は困惑し、他方で、国民の多数が「共感」を示した。著者は、この状況を、天皇は権力に「お気持ち」を忖度させず、国民が直接「お気持ち」を忖度する関係を作ってしまったと指摘する。

 リベラル側の視点に立てば、それは一見いいことのようだが、もちろん著者はそう軽薄ではない。

「   アダム・スミスは『道徳感情論』の中で以下のように主張している。感情同士を直接「共感」させるのではなく、そのあいだに中立的な観察者を設けることではじめて適切な判断ができるようになる、そのことをスミスは「道徳」といった。天皇と国民の直接的な「共感」には、この中立的な観察者が欠けている。

 「共感」に対して批評的であること、言葉を換えれば、他者をどう理解していくかという手続きを放棄した場合、そこは「感情」だけが共振してしまう「セカイ」であり、それは「社会」とはいえない、と。

 「人々が共感し合って何が悪い?」と問う者がいるとすれば、その人は「共感」できない感情は不快である、という真実から目をそらしている。なぜなら、不快なことの多くは「感情」の外にある「現実」だからだ。だから歴史的現実をいまも過度に生きる沖縄は「不快」さの対象となる。そして、相手が自分に「感情労働」を提供しないことが、「悪」と見なされ、「反日」と見なされて、「正義」の敵とさえ見なされる。

まずは「感情」の外に立つこと、すなわち、「批評」を取り戻すこと。

「沖縄」について「コメント」される言葉は、これを措いてあるはずがない。

(『感情化する社会』大塚英志)

 

 

感情化する社会

感情化する社会

 

 

 

(「翼賛に通じる『共有』賛美」 大塚英志)

 「日本」や「愛国心」というものがシェアされて、「社会」はシェアされないなかで、しょせんは起業家向けのビジネスモデルに過ぎないシェアリングエコノミーなるものが賛美されるのは、いささかグロテスクです。

 (「翼賛に通じる『共有』賛美」 大塚英志)

 

 (当ブログによる解説)

 ここでは、国、社会、マスコミが、「社会のシェア」とは別に、「シェアリングエコノミー」を無批判に賛美していることが問題なのです。

 

 大塚氏の『愚民社会』によれば、そもそも、近代以前の日本に、「公共性の伝統」はあったのです。

 以下に引用します。

「  本当は「空気」を読むのではない形での共同体と共同体の間の利害調整とか、共同体内の合理的な利害調整が、近代以前の社会になかったのかといったら、あったはずなんです。ぼくの専門ではありませんが、民俗学では例えば水利権とかですね。ムラの中でどうやって水を再配分していくのか、村落共同体の中と、更に対立する村との間でどうやって利害調整していくのかについてはかなり合理的なシステムや、協議の具体的な痕跡が残っているので、そういうノウハウはあったわけです。

 ただ、そうしたノウハウを「近代」の中で、近代的個人や新しい公共性としてつくり変えていうことしないで、村落共同体が経済共同体として崩壊していくとともに、その課題が持ち越されなかったということですね。 

 

 確かに、近代における「公共性」構築の困難性は、否定できない側面があります。

 大塚氏は、『人身御供論』の中で、この困難性を以下のように説明しています。

「 通過儀礼とは加入礼とも表現されるように、ある「社会」に加入するための儀式である。ところが近代「社会」がかかえる本質的な困難さは加入すべき「社会」の具体像が曖昧だという点にある。

「  そもそも通過儀礼が成立するための諸条件を「近代世界」は失なっているのであり、そこで近代以前の社会が持つ通過儀礼の形式のみを社会制度として復活させたところで、もやは人は「成熟」に至れないのだ。

「  成熟の社会的手続きとしての通過儀礼とそれを可能とした諸条件が解体してしまった結果、「成熟」という主題はムラという具体の場から乖離し、国家と個人という二つの未知の領域において問題とされるようになった。

(『人身御供論』大塚英志)

 

 それでは、「公共性の構築」のために、私たちは、どのように考えていけば良いのでしょうか?

 その方向性を、大塚英志氏は、『戦後民主主義のリハビリテーション 論壇でぼくは何を語ったか』の中で、次のように提案しています。

「  戦後の日本社会が達成し得たことと達成し得なかったこととを冷静に分析し、次の世代に財産として残すべきことと、反省をもって語り伝えるべきことを、ともに歴史化していく作業がそろそろ始められていいのではないか 。

「侵略史観」と「聖戦史観」の互いに自動化した言説に引き裂かれたままの戦前の歴史以上に、戦後史は歴史化されていないのである。主体のアイデンティティの拠り所を、ぼくは「民族」というファンタジーよりは「日本国憲法」という、ぼくたちの五十年の具体的な歴史を支えてきた相応に歴史化されたファンタジーに見い出すことのほうが、まだしも妥当だと考える。日本人は戦後史にこそ誇りをもつべきだと考えるぼくは、やはりそう語らざるをえないのである (大塚英志「福田和也と『保守』の葬送」大塚英志『戦後民主主義のリハビリテーション』)

 

 『戦後民主主義のリハビリテーション』 (角川文庫)は、「戦後民主主義」を考える上で、かなり参考になる著書です。

 本書の内容は以下のようになっています。

「  オウムの時代からネットバブル崩壊、そして自衛隊イラク派遣まで「論壇」を舞台に書かれた言葉の数々。この十年、社会は急速に階級化し、「自己責任」が是とされてきた。多くの言論人とメディアが右傾化と保身に転向し、公共性が社会から失われつつある現在、著者はあえて「戦後民主主義」こそが理念としてなお有効性を持つと主張する。個人が暗黙に「空気」を読むことを要求され、語るべき言葉が沈黙する時、それはファシズムの到来ではないのか? 一貫して同じ場所から語り続けるサヨクの矜持。」 (「Book」データベース)

 

 

戦後民主主義のリハビリテーション―論壇でぼくは何を語ったか (文芸シリーズ)

戦後民主主義のリハビリテーション―論壇でぼくは何を語ったか (文芸シリーズ)

 

 

 

 「公共性の構築」における年長者の役割を考慮することも、重要でしょう。

 この点については、『少女民俗学』 の文庫版での、大塚氏の解説が参考になります。

「  相応に齢をとった旧〈おたく〉としては,価値の崩壊を指摘するよりは、古い世代に常に課せられた責務として,目の前の彼ら彼女たちに、おずおずとぼくたちも本当は持ったことがない〈倫理〉を真摯に説くことも、また必要なのかもしれない。「鏡像」の向こう側にいる他者である彼らに向かって。みんな、おやじになったのだから。

(『少女民俗学 』大塚英志 ) 

 

 また、新たな「公共性の構築」に関しては、インターネット社会における「言葉」の問題を、強く意識する必要があります。

 大塚氏の以下の見解(「インフラとしての近代はネットが可能にした」〈インターネットは「愚民化」に影響するか〉 大塚英志×宮台真司 対談全文(後)『NEWS ポストセブン』2012・2・5)は、示唆に富んでいて、大いに参考になります。 

(司会者) 次の質問を紹介致します。福岡県20代の女性からです。「ネットは、呪いの言葉で溢れているという評論もあったように、2ちゃんねるやmixiを始め、ネットが愚民化を助長しているように思います。その一方で、民意を組み上げる『一般意志2.0』だという評価もあったようですが、インターネットは反愚民化に役立つと思いますか?お二人のネットの可能性についての意見が知りたいです」

(大塚) 近代的な個人の前提は、自分の言葉を持っていて、それを発信して、なおかつ議論ができるパブリックな場が保証されているってことだったわけですね。だけれども実際にはメディアにモノを書ける人間はついこの間まで限定されていたわけです、だから、そういう意味で近代的な個人を作る前提みたいな事は理念としてはあったんだけど、ツールとしてのインフラは整ってこなかったわけです。でも今は本当に何かを言おうと思えば、各自が自分で言葉を発信できるし、それこそニコニコチャンネルで勝手に何かを言うことも可能だし・・・・。というふうに言葉を発信するツールも、議論をしていくツールも出来上がって、いわば"インフラとしての近代"はネットが可能にしたんだと思います。

 ただ、もう一つそこで重要になってくるのは、それが柳田國男の問題なんだけど、「言葉をどういうふうに作っていくのか」。その言葉は観察し記録する言葉であって、それから議論しコミュニケーションし、最終的にそこにある合意という公共性を作っていく言葉。そういったものを作っていくための、いわば言葉の技術や言語的なスキルの問題。そちらの方がインターネットはまだ提供できてないんだろうなという気がして。

 ネットに出来上がっている世論みたいなことを、いわば一つの空気として、それが「民意なんだ」と。それは多分違う形の何かなんでしょうね。民主主義ではなくてね。それを新しい民主主義と呼んで、その空気にしたがって生きていくだったならば、魚の群れとしてこの国が生きていくっていう選択で、それはまたやっていったら、中国とは違う何かなるのかもしれないけど。僕はそういうのは嫌だなと思いますけどね。

(「インフラとしての近代はネットが可能にした」 大塚英志×宮台真司 対談全文(後)『NEWS ポストセブン』2012・2・5)

 

 「真に民主的な公共性」を作り上げていくためには、「公共性構築の言葉」は慎重に吟味し、検証していくべきなのです。

 

 また、「伝統と公共性の関係」にも配慮する必要がある、と大塚英志氏は、『「伝統」とは何か』の中で次のように主張しています。

 そして、「公共性の構築」について、新たな方向性を提案しています。

「伝統」も、「歴史」と同様に「つくられた」ものである。特に今日、 ぼくたちが「伝統」と信じる習慣や思考の多くは、明治以降の近代に新たに出来上がったものだ。

 近代国家というのはそこに生きる人が、 たとえば「自分は日本人だ」という「われわれ意識」がないと成り立たない。その時、「日本」という「われわれ」の帰属先が、昔からずっとあるように根拠付けるために「伝統」が「発見」されてしまうのだ。 このような、「伝統」とは近代の中で作られたものだ、という論議は 実は全く珍しいものではない。社会学や歴史学や、いわゆる現代思想系の研究者には自明の論議であるはずだ。だから本書の立場は、その種の論議に接している人々には何をいまさら、と聞こえるかもしれない。しかし、一つの理論として「伝統」は作られたものだ、と語ることは容易だが、そのことをぼくたちが具体的に実感することは、「つくる会」の教科書をめぐる騒動一つとってもけっこう困難だ。 だから本書では、「日本」の近代において、「伝統」がいかに「作られて」いったかについて、なるべく具体的で、かつ、好奇心を持って 読んでもらえそうな事例を示し、その過程を語ることにした。

 それは結果として、「伝統」がいかに政治的に作られ、しかも、そのことは時間が経つといかに見えにくくなるかということや、「伝統」 を作ろうとするあまりに陥る袋小路の奇妙さを実感していただくことになる、とぼくは考えるからだ。

 「個」を確立させ、それぞれが自分の「心意」をことばとして表出する技術を持ち、それぞれの差異を踏まえて公共性を立ち上げようとするかつての「公民の民俗学」と、一方では「国家」の、他方では「母」 の代償としての「世間」の中で、すでにある秩序に合わせることで 「正しい選挙民たれ」と説く「世間の民俗学」の差はあまりに大きい。  

 だからこそ、ぼくは「公民の民俗学」の可能性を改めて主張する。 「群れを慕う」感情の断念から出発し、名付けられていない、定かさえないが、しかし、それぞれの「私」を出発点とし、互いの差異を自らのことばで語り合い、それらの交渉の果てに「公共性」があるのだと考えた、昭和初頭に束の間出現した「公民の民俗学」こそが、ぼくたちが「日本」や「ナショナリズム」という、近代の中で作られた 「伝統」に身を委ねず、それぞれが違う「私」たちと、しかし共に生きいるためにどうにかこうにか共存できる価値を「創る」ための唯一の手段であると考える。

  「創る」のは「伝統」ではなく、「個」から出発する「公共性」である。 その時、ぼくたちには「伝統」も「ナショナリズム」も不要となるはずである。

(大塚英志『「伝統」とは何か』)

 

 大塚氏は、過去の翼賛体制の復活を、かなり警戒しています。

 「新たな公共性構築」のためには、「新たな政策」については、「翼賛体制の復活」を避けつつ、多角的な、慎重な考察をしていく必要があるのです。

 現代への冷徹な観察と批判的考察をしていけば、大塚氏のような、「新たな政策」に対して過敏な警戒的姿勢は当然の態度と言えるのです。

 

  現在の状況をみて、大塚氏は、『ジセダイ』『平成30年論』の中で、以下のように「嫌な予感」を表明しています。

 入試頻出著者である鷲田清一氏、内田樹氏、等も、様々な著作で、以下と同様の見解を表明しているのです。

「去年あたりから『一九八四年』が売れている、という話を出版関係者からちらりと聞くようになった。今更、村上春樹の『1Q84』との混同でもないだろうし、アメドラではディックの『高い城の男』がアマゾンで映像化されたり、ここ数年、ディストピア(→反理想世界。暗黒的世界。このような世界を表現した作品)という語そのものがなじみ深い語になったように、ディストピアそのものの流行は確かにある。

 だが、それは流行というよりは、北米でも日本でもEUでも私たちの現実が『一九八四年』に近づいてしまっているからではないかと、これも月並みなことを敢えて書く。

 ぼくはこの問題に限らず、このような「月並み」な批評や議論に立ち戻るべきではないか、と考える。それ故、ここから先は『一九八四年』論と現代社会という月並みなことを今更、書くことにする

 『一九八四年』について最低限確認しておけば、1948年に執筆され、既に原著はパブリックドメインとなった古典的ディストピア小説である。

 そして今回、問題としたいのは、その1948年の創造力の中に21世紀に入って十数年も過ぎ、ポストモダンということばさえ死語となった現在が、未だにある、ということについてだ。それはつまり私たちが社会なり現実を設計するための創造力が未だ1948年、70年前かそれ以前の水準にある、ということを意味する。

 それは、当然だが、「探偵妄想」という近代初頭の病に未だ囚われていることの「古さ」とやはり重なり合う。

 それではキンドルで『一九八四年』を買って、読み進めてみよう。一応、全体のプロットは読んではいなくても何となく知っている、という前提で話を進める。

 小説の冒頭、主人公のウィンストンは「探偵妄想」に似た視線を女から感じる。

 しかし、とくにこの娘はたいていの女性よりずっと危険だ、と以前、廊下ですれ違った時、彼女は横目でこちらの内奥まで貫き通すような一瞥をくれ、心がしばし、不吉な恐怖感で溢れた。〈思考警察〉の手先かもしれないという考えさえ脳裏をよぎった。そんなことはまずありそうもなかったが 安感はついぞ消えることがなく、彼女が近くに来ると、不安に恐怖と敵意までもが入り混じるのだ。

(ジョージ・オーウェル著・高橋和久訳『一九八四年』2009年、早川書房)

 興味深いのはこの「他者への脅え」が「女性」への脅え、そしてそれを通り越して女性への「敵意」としてさえウィンストンの中にあることだ。

 こういった「探偵妄想」が決してウィンストンの妄想ではないのは、この世界では人々は居室一つ一つに設置された「テレスクリーン」で監視されているからである。このテレスクリーンは同時に端末でもあり、あらゆる情報はそこからもたらされる。

 このテレスクリーンをスマホなり、対話型スピーカー端末なりと比べること自体、自分の想像力の陳腐さの証しとなるが、しかし、アマゾンの書評の一つには、ネットのある時代に作中の事柄は古くさすぎてつまらない、というニュアンスのものがあったので、一応「テレスクリーン」という比喩で「現在」を読み解くというわかり易い説明を一度だけしておく。

 そもそも、「テレスクリーン」が予見したものはデバイスということばがなかった時点で、デバイスによって私たちの日常全てが監視可能になる、という未来である。

 私たちはスマホの画面で留守中のペットや子供、遠方に住む年老いた親を「監視」できるのであり、「テレスクリーン」の日常化に気づいていないだけの話だ。それだけでなく、私たちの現在はスマホというモニター付きのデバイスをわざわざ持ち歩き、写真で自らを頻繁に撮影し、位置情報や検索・購入履歴も、その日の心拍数や歩いた歩数、その軌跡までiPhoneは勝手に記録し、そしてビッグデータとして吸い上げていく。スマホは携帯型テレスクリーンである。つまり、テレスクリーンのコンセプトが今や私たちの日常に違和なく組み込まれているのだ。テレスクリーンではライザップのインストラクターのように、毎朝の体操をサボタージュすると叱責が飛ぶが、ランニングなりその日の歩数について誉めてくれたり叱ってさえくれるアプリも確かあるはずだ。

 一方で何か犯罪が起きれば、まるでアメドラのように被疑者なり被害者なりの足取りが監視カメラの映像として次々と報道される。「監視社会」という言い方がもはや左翼の戯言にしか聞こえない程度には、私たちは監視されることになれている。

 このように「テレスクリーン」一例だけでも私たちの社会は『一九八四年』が描いた想像力のなかにいる。それは、私たちの現在が意に反して「監視社会」になったのではなく、望んでそうなったと理解すべきだ。

 何故なら私たちの多くはこの「監視社会」をディストピアと思っていないからだ。その証拠に、『一九八四年』ではディストピアとして描かれた「監視社会」を生きながら、それを不快と難じない、あるいは快適さえと感じるメンタリティがいつの頃からか成立しているではないか。

 いや、おまえは今しがた、私たちは近代の病としての監視妄想に苛まれていると言ったばかりではないか、と反論があるだろう。だが、スマホという「テレスクリーン」は同時に私たちの自我をテクノロジーで肥大させてくれる装置である。TwitterでもインスタでもLINEでもいいが、それは、物理的な距離を超えて私たちの内面を快適に拡張している。だからこそ、「工作員妄想」もまた肥大する。

 私たちは一方では、web のテクノロジーに快適に監視され、しかし、「工作員」に疑心暗鬼になっている。「工作員妄想」に苛まれながら国家の監視に安堵している。そういう矛盾を矛盾ともはや思えなくなっている。

 そう考えると『一九八四年』をディストピア小説として読むことが可能なのか、いささか不安になる。

 ぼくが「月並みな批評」がもう一度、必要だと考えるのはそれ故だ。

 (『ジセダイ』『平成30年論』大塚英志 「第2回:まるで『一九八四年』のようだと月並に思い、そして、吐き気さえしてきた2月」2018年03月16日 更新)

 

 上記の最終部分の状況は、自由を重視する立場からすれば、自発的奴隷状況、「自由からの逃走」とも評価し得るものでしょう。

 由々しき状況です。

 大塚氏の不安は、決して「杞憂」とは言えないのです。

 現代こそ、冷徹な観察と、批判的考察は、不可欠な時代と言えるのではないでしょうか。 

 

 

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

 

 

 

(3)大塚英志氏の紹介

 

大塚 英志(おおつか えいじ、1958年8月28日)は、批評家、民俗学者、小説家、漫画原作者、編集者。

国際日本文化研究センター研究部教授であり、東京藝術大学大学院映像研究科兼任講師も務める。

2006年から2014年まで神戸芸術工科大学教授及び特別教授、2014年から2016年までは東京大学大学院情報学環特任教授も務めた。

【主な受賞歴】サントリー学芸賞社会・風俗部門(『戦後まんがの表現空間 記号的身体の呪縛』)、角川財団学芸賞(『「捨て子」たちの民俗学―小泉八雲と柳田国男』)

 

【単著】

『システムと儀式』(本の雑誌社:1988年、ちくま文庫:1992年)

『物語消費論 「ビックリマン」の神話学』(新曜社:1989年、角川文庫『定本 物語消費論』:2001年)

『子供流離譚 さよなら〈コドモ〉たち』(新曜社:1990年)

『物語治療論 少女はなぜ「カツ丼」を抱いて走るのか』(講談社:1991年)

『戦後民主主義の黄昏 わたしたちが失おうとしているもの』(PHP研究所:1994年)

『「彼女たち」の連合赤軍 サブカルチャーと戦後民主主義』(文藝春秋:1996年、角川文庫:2001年)

『戦後民主主義のリハビリテーション 論壇でぼくは何を語ったか』(角川書店:2001年、角川文庫:2005年『GQ』1999年9月号~2001年3月号、『Voice』2000年3月号~2001年4月号連載の時評と『諸君!』『論座』『中央公論』等の論壇誌に掲載した評論をまとめたもの)

『「おたく」の精神史 1980年代論』(講談社現代新書:2004年、朝日文庫:2007年、星海社新書:2016年『諸君!』1999年10月号~2000年10月号連載)

『サブカルチャー文学論』(朝日新聞社:2004年、朝日文庫:2007年、『文學界』1998年4月号~2000年8月号連載)

『物語消滅論 キャラクター化する「私」、イデオロギー化する「物語」』(角川Oneテーマ21:2004年)

『「伝統」とは何か』(ちくま新書:2004年)

『憲法力 いかに政治のことばを取り戻すか』(角川Oneテーマ21:2005年)

『更新期の文学』(春秋社:2005年、『早稲田文学』2004年5月号~2005年5月号連載)

『村上春樹論 サブカルチャーと倫理』(若草書房:2006年)

『怪談前後 柳田民俗学と自然主義』(角川選書:2007年、『群像』2002年8月号~2004年2月号連載)

『公民の民俗学』(作品社:2007年、『「伝統」とは何か』に補論を加えて改題したもの)

『偽史としての民俗学 柳田國男と異端の思想』(角川書店:2007年、『怪』連載)

『護憲派の語る「改憲」論 日本国憲法の「正しい」変え方』(角川oneテーマ21:2007年)

『物語論で読む村上春樹と宮崎駿 構造しかない日本』(角川oneテーマ21:2009年)

『大学論 いかに教え、いかに学ぶか』(講談社現代新書:2010年)

『物語消費論改』(アスキー新書:2012年)

『社会を作れなかったこの国がそれでもソーシャルであるための柳田國男入門』(角川EPUB選書:2014年)

『メディアミックス化する日本』(イースト新書:2014年)

『感情化する社会』(太田出版:2016年)

『日本がバカだから戦争に負けた 角川書店と教養の運命』(星海社新書:2017年)

 

【共著】

(大澤信亮)『「ジャパニメーション」はなぜ敗れるか』(角川oneテーマ:2005年)

(川口創)『「自衛隊のイラク派兵差止訴訟」判決文を読む』(角川グループパブリッシング:2009年)

(世界まんが塾)『世界まんが塾』(角川書店:2017.3)(ひらりん)『まんがでわかるまんがの歴史』(KADOKAWA:2017年)

 

【対談集】

『最後の対話 ナショナリズムと戦後民主主義』(福田和也との対談、PHP研究所:2001年)

『天皇と日本のナショナリズム』(宮台真司・神保哲生の鼎談相手の一人、春秋社:2006年)

『リアルのゆくえ おたく/オタクはどう生きるか』(東浩紀との対談、講談社現代新書:2008年)

『愚民社会』(宮台真司との対談、太田出版:2011年)

 

【編著】

『「私」であるための憲法前文』(角川書店、2003年)

『読む。書く。護る。 「憲法前文」のつくり方』(角川書店、2004年)

『柳田国男 山人論集成』(角川ソフィア文庫、2013年)

『神隠し・隠れ里 柳田国男傑作選』(角川ソフィア文庫、2014年)

『動員のメディアミックス 〈創作する大衆〉の戦時下・戦後―』(思文閣出版、2017年)

『東大・角川レクチャーシリーズ 00 『ロードス島戦記』とその時代 黎明期角川メディアミックス証言集』(KADOKAWA、2018年)

 

ーーーーーーーー

 

 今回の記事は、これで終わりです。

 次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

 ご期待ください。

 

 

  

 

 

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

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5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

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 私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。

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予想問題「脳の中の古い水路」福岡伸一『世界は分けてもわからない』

(1)はじめに/なぜ、この記事を書くのか?

 

 「私たち」とは何か?

 人間とは何か?

 世界とは何か?

 「見る」とは、どういうことか?

 世界認識とは何か?

 「人間と世界の関係」を、どのように考えるべきか?

 科学とは何か?

 分析とは何か?

 「部分と全体の関係」を、どのように考えるべきか?

 

 これらの哲学的科学論、人間論は、現代文(国語)・小論文における入試頻出事項、入試頻出論点です。

 これらの論点についての秀逸な論考としては、『世界は分けてもわからない』(福岡伸一)が挙げられます。

 この論考は、最近の入試頻出著書です。

 そこで、今回は、この著書の中の「脳の中の古い水路」を題材とした予想問題の解説をします。

 

 なお、今回の記事の項目は以下の通りです。

 記事は約1万字です。 

(2)予想問題/「脳の中の古い水路」福岡伸一『世界は分けてもわからない』/2012明治大学過去問

(3)補足説明①/『世界は分けてもわからない』について

(4)補充説明②/『動物と人間の世界認識 イリュージョンなしに世界は見えない』(日高敏隆)について

(5)福岡伸一氏の紹介

 

 

世界は分けてもわからない (講談社現代新書)

世界は分けてもわからない (講談社現代新書)

 

 

 

(2)予想問題/「脳の中の古い水路」福岡伸一『世界は分けてもわからない』/2012明治大学過去問

 

 

(問題文本文)

(概要です)

(【1】・【2】・【3】・・・・は当ブログで付記した段落番号です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です) 


【1】空耳、というものがある。実際には音がしていないのに、音が聞こえたり、呼ばれてもいないのに名を呼ばれたような気がすることである。あるいは最近では、外国語の歌詞が変な日本語に聞こえたりすることも若い人たちのあいだでは空耳というそうで、それを集めた番組やサイトもあるという

【2】実は、それと同じようなことは目で見ていることに対しても起こりうる。それを仮にここでは「空目(そらめ)」という風に呼んでみたい。百聞は一見にしかず、あるいは、自分の目で実際確かめなさい、とはよくいわれることだが、これまでたどってきたとおり、実は、私たちがこの目で見ていると思っていること自体、私たちの内部で、あらかじめ水路づけされたものの上に成り立っている。ただし、私がここでいう空目とは、全く存在しないものが見える、いわゆる幻視のことではない。本当は全く偶然の結果なのに、そこに特別のパターンが見えてしまうとき、それを空目と呼びたいのである。

【3】私は、小さい頃から、自動車や列車の前面が、人の顔に見えてしかたがなかった。外車や改造車は、いかにもそれに乗っている人間に似て、居丈高な顔や怖そうな顔に。古い車は、まぬけなカエルに。世界は不思議な顔に満ちている。いつしか、私は、空目の画像をコレクションするようになった。

【4】尊敬してやまない昆虫写真家の 海野和男さん。彼の撮影したカメムシ。二人の、あまり強そうではないお相撲さんが仲よく並んでいる。ちょっと前には、アメリカですごいトーストが見つかった。トースト、つまりただの焼いたパンである。これが、オークションに出品されて2万8千ドルもの高値がつけられたという。なぜ? それはトーストの中央に、奇跡のマリア像が浮かび上がっているからである。すごい。なにがすごいかといえば、そういわれてみると、確かにそう見えるところが。今頃、パンはカビだらけになってしまっていないだろうか。

【5】マリアだけではない。恩寵は私たちのすぐそばにある。 1 ただそれがあまりに身近すぎるところに起こるというのもどうだろうか。マーマイト(というケチャップみたいな調味料)のフタの裏にもキリストは立ち現れるのだ。

【6】1996年に打ち上げられたNASAの探査衛星マーズ・グローバル・サーベイヤーが火星に最接近し、その表面に鮮明な映像を捉えた。そこには複雑で、奇妙な起伏が広がっていた。それをじっと眺めていると、そこには実にたくさん人工的な意匠が隠されていることに気づく。ゴリラに似た横顔、ぬりかべ、マスクをかぶった怪人、はたまたなどが見えると話題にもなりました。たまたまオバQまで。実にさまざまな顔が潜んでいる・・・・。

【7】私たちは、本来、ランダムなはずのものの中に〔 X 〕を見出す。いや、見出さずにはいられない。顔は、火星の、あるいは岩壁の表面にあるのではない。私たちの意識の内部にある。

【8】コンピュータ・グラフィック技術によって、非常に滑らかに変化する表面を描いたとする。例えば、超未来的な宇宙船。恒星からの強い光を浴びて船首はまぶしく輝き、他方、船尾は暗い宇宙に溶け込んでいる。そんな画像である。コンピュターは計算によって、暗黒と輝きとのあいだに、濃淡の階調がほんのわずかずつ、精密に減少するような完全に数学的なグラデーションを作り出す。

【9】むろん、人間の眼は、ある段とその前後の段との階調の差は、あまりにも微妙すぎて気づくことができない。つまり、どこを見てもトーンジャンプを検出することはできない。だから、このようにして描出された宇宙船は、あたかも天使の布で磨きぬかれた大理石のように、かぎりなく滑らかで美しい表面を体現するはずである。理論的には。

【10】ところが事実は全く異なる。このようにして正確に計算されて作り出された宇宙船は、しばしばギザギザや縞模様が浮かび上がった、極めて汚い表面をもってしまうのだ。

【11】私は、このようなことをセガの技術者、平山尚氏が書いている一文を興味深く読んだ。一体、何が起こっているのだろうか。ギザギザや縞模様は、数学的な処理の問題に起因しているのではない。また、コンピュータの液晶はや画像表示の仕組みに問題があるからでもない。私たちの認識のあり方に由来するのだ。その証拠に、しばしばギザギザや縞模様は、ゆらぎ、あちこちに移動し、見るたびに変幻自在に動く。

【12】おそらくそれは、私たちの内部にある眼が、あまりにも滑らかすぎる光景にいらだち、右往左往しているのである。そのあげくに無理矢理、境界線を、トーンジャンプを作り出し、そこに何らかの〔 Y 〕を見出すべく必死にもがいているのである。私たちの脳に貼りついた水路づけは、ここまで頑迷なものなのである。

【13】網膜上にはたくさんの視細胞が稠密(ちゅうみつ)に並んでいる。それはちょうどデジタル・カメラの画素のようなもので、おのおのレンズを通してやってくる光の強度を認識する。視細胞は認識した光の強度を神経繊維を通じて脳に伝える。一方、視細胞は互いに隣どうしの細胞と連携をとって、情報を交換している。ある視細胞にことさら強い光が入ってきたとする。この細胞はそれを信号に変えて、強い光が入ってきたことを脳に伝達する。そのとき同時に、隣の視細胞に対して、抑制的な情報を送る。「この光は俺が受け取ったから、おまえたちはそんなにさわがなくていいよ」と。ちょうど外野フライを捕球する野手が他の人間の動きを抑制するように。

【14】すると、どのようなことが起こるだろうか。周りが静まることによって、強い光を受け取った視細胞からの信号がことさら強調されることになる。つまり、2 コントラストがより明確化され、そこに境界線が作り出される。細胞と細胞のあいだのこのようなやりとり、つまり強い信号をより際立たせるための仕組みは、側方抑制と名づけられている。

【15】全く同じように説明できるわけではないが、滑らかすぎる変化に、人工的なギザギザや縞模様が出現してしまう空目も、このような細胞間の側方抑制的な仕組みが作用していると考えることができる。輪郭のないところに輪郭を求めるあまり、視細胞は、変化する階調のあらゆる場所で、側方抑制をかけてははずし、かけてははずすことを繰り返して、縞模様を 3 消長させているのだ。

【16】かつて私は、私の本の若い読者からこんな質問を受けたことがある。
なぜ、勉強をしなければならないのですか、と。そのとき、私は、十分答えることができなかった。もちろん今でも十分に答えることはできない。しかし、少なくとも次のようにいうことはできるだろう。

【17】連続して変化する色のグラデーションを見ると、私たちはその中に不連続な、存在しないはずの境界を見てしまう。逆に不連続な点と線があると、私たちはそれをつないで連続した図像を作ってしまう。つまり、私たちは、本当は無関係なことがらに、因果関係を付与しがちなのだ。なぜだろう。連続を分節し、ことさら境界を強調し、不足補って見ることが、生き残る上で有利に働くと感じられたから。もともとランダムに推移する自然現象を無理にでも関連づけることが安心につながったから。世界を図式化し単純化することが、わかることだと思えたから。

【18】かつて私たちが身につけた知覚と認識の 4 水路はしっかりと私たちの内部に残っている。しかし、このような水路は、ほんとうに生存上有利で、ほんとうに安心を与え、世界に対する、ほんとうの理解をもたらしたのだろうか。ヒトの眼が切り取った「部分」は人工的なものであり、ヒトの認識が見出した「関係」の多くは妄想でしかない。

【19】私たちは見ようと思うものしか見ることができない。そして、見たと思っていることも、ある意味ですべてが空目なのである。

【20】世界は分けないことにはわからない。しかし、分けてもほんとうにわかったことにはならない。つまり、私たちは世界の全体を一挙に見ることはできない。しかし大切なのはそのことに自省的であるということである。

【21】滑らかに見えるものは、実は毛羽立っている。毛羽立って見えるものは、実は限りなく滑らかなのだ。 

【22】【ラスト段落】5 そのリアルのありようを知るために、私たちは勉強しなければならない。

(福岡伸一『世界は分けてもわからない』)

 


ーーーーーーーー

 

(設問)

問1 傍線部 1 「ただそれがあまりに身近すぎるところに起こるというのもどうだろうか」という表現には、筆者のどのような気持ちが表されているか。最適なものを、次の中から選べ。

A 高貴な方々の姿形が、安っぽいものに出現することに対する罪悪感。

B 神聖なものが、卑俗なものの中に出現することに対する戸惑い。

C 聖なる人々が、日常品の中に出現することによって、汚れてしまうという不安。

D 尊い聖人の姿形が、本当に現実の世界に出現するのだろうかという猜疑心。


問2 空欄X・Yに共通して当てはまる言葉として最適なものを次の中から選べ。

A 映像   B 認識   C リアル   D パターン


問3 傍線部 2 「コントラスト」とはどういうことか。最適なものを次の中から選べ。

A 対照   B 対象   C 対称   D 対症


問4 傍線部 3 「消長」の使い方として、最適なものを次の中から選べ。

A ランプが消長するのは、注意の合図である。

B 文明の消長は、歴史の中で証明されている。

C 彼の姿が消長してから、もう10年近くなる。

D 火事がようやく消長したので、ひと安心だ。

 

問5 傍線部 4 「水路」という比喩の意味として、最適なものを次の中から選べ。

A 連続   B 存在   C 推移   D 関係

 

問6 傍線部 5 「そのリアルのありようを知るために、私たちは勉強しなければならない」とは、どういうことか。

A 無関係なことに因果関係を見出そうとするヒトの習性を、学ぶことによって追求し、「空目」と呼ばれる現象について、いつかその成り立ちを解明しようとすること。

B ヒトの認識の多くは妄想でしかなく、ほとんどが「空目」であることをよく理解し、その欠点を補うためには常に勉強し、努力をしなければならないということ。

C ヒトが見ることのできる世界の姿は、常に一部分でしかないことを自覚し、そうであるがゆえに、理性的で冷静な思考と判断を心掛けなければならないということ。

D 滑らかに見えるものと毛羽立って見えるものが、実は同一のものであることを判断できるようにするためには、常に新しい知識を吸収する必要があるということ。

 


ーーーーーーーー

 

(解説・解答)

問1(傍線部説明問題)

 傍線部直前の「恩寵」(→①神や主君から受ける恵み・慈しみ。②キリスト教で、人類に対する「神の愛」・「神の恵み」。恩恵)とは、【4】段落の「奇跡のマリア像」、【5】段落の「マリア」、「キリスト」をさしています。

 

 このことを読み取った上に、以下の段落に注目してください。

【4】「尊敬してやまない昆虫写真家の 海野和男さん。彼の撮影したカメムシ。二人の、あまり強そうではないお相撲さんが仲よく並んでいる。ちょっと前には、アメリカですごいトーストが見つかった。トースト、つまり、ただの焼いたパンである。これが、オークションに出品されて2万8千ドルもの高値がつけられたという。なぜ? それはトーストの中央に、奇跡のマリア像が浮かび上がっているからである。すごい。なにがすごいかといえば、そういわれてみると、確かにそう見えるところが。今頃、パンはカビだらけになってしまっていないだろうか。」

【5】「マリアだけではない。恩寵は私たちのすぐそばにある。 1 ただそれがあまりに身近すぎるところに起こるというのもどうだろうか。マーマイト(というケチャップみたいな調味料)のフタの裏にもキリストは立ち現れるのだ。」

の文脈に注目すると、「恩寵があまりに安直に出現すること」に対する筆者の「戸惑い」(B)が感じられます。

 

(解答)B

 

問2(空欄補充問題)(キーワードを問う問題)

 空欄X・Yの直前・直後を精読することが必要です。

 その上で、特に注目するべき段落は【2】・【12】・【17】段落です。

【2】「実は、それと同じようなことは目で見ていることに対しても起こりうる。それを仮にここでは「空目(そらめ)」という風に呼んでみたい。百聞は一見にしかず、あるいは、自分の目で実際確かめなさい、とはよくいわれることだが、これまでたどってきたとおり、実は、私たちがこの目で見ていると思っていること自体、私たちの内部で、あらかじめ水路づけされたものの上に成り立っている。ただし、私がここでいう空目とは、全く存在しないものが見える、いわゆる幻視のことではない。本当は全く偶然の結果なのに、そこに特別のパターンが見えてしまうとき、それを空目と呼びたいのである。

【12】「おそらくそれは、私たちの内部にある眼が、あまりにも滑らかすぎる光景にいらだち、右往左往しているのである。そのあげくに無理矢理、境界線を、トーンジャンプを作り出し、そこに何らかの〔 Y 〕を見出すべく必死にもがいているのである。私たちの脳に貼りついた水路づけは、ここまで頑迷なものなのである。」

【17】「連続して変化する色のグラデーションを見ると、私たちはその中に不連続な、存在しないはずの境界を見てしまう。逆に不連続な点と線があると、私たちはそれをつないで連続した図像を作ってしまう。つまり、私たちは、本当は無関係なことがらに、因果関係を付与しがちなのだ。なぜだろう。連続を分節し、ことさら境界を強調し、不足補って見ることが、生き残る上で有利に働くと感じられたから。もともとランダムに推移する自然現象を無理にでも関連づけることが安心につながったから。世界を図式化し単純化することが、わかることだと思えたから。 」

 

(解答)D


 なお、「空目」は古文の世界でも使用されています。
 意味としては、以下のようになっています。

① 見まちがえ。

② 見そこない。

③ ありもしないことを見たように思うこと。

 

 『源氏物語』の中でも、以下のように空目は使われています。

「光ありと見し夕顔の上露(うはつゆ)にたそかれ時の空目(そらめ)なりけり」(『源氏物語』「夕顔」)

(光り輝いていると見た夕顔(の花)の上の露のようなお顔は、夕暮れ方の見間違えでございました)

 

問3(傍線部説明問題)(単語力・語彙力を問う問題)

 「コントラスト」の辞書的意味は、
 「①対照。対比。②写真・テレビ画像などで、明るい部分と暗い部分との明暗の差。明暗比」です。

 

 この辞書的意味をもとにして、以下の文脈を精読すると、Aの「対照」が正解になります。

【13】網膜上にはたくさんの視細胞が稠密(ちゅうみつ)に並んでいる。それはちょうどデジタル・カメラの画素のようなもので、おのおのレンズを通してやってくる光の強度を認識する。視細胞は認識した光の強度を神経繊維を通じて脳に伝える。一方、視細胞は互いに隣どうしの細胞と連携をとって、情報を交換している。ある視細胞にことさら強い光が入ってきたとする。この細胞はそれを信号に変えて、強い光が入ってきたことを脳に伝達する。そのとき同時に、隣の視細胞に対して、抑制的な情報を送る。「この光は俺が受け取ったから、おまえたちはそんなにさわがなくていいよ」と。ちょうど外野フライを捕球する野手が他の人間の動きを抑制するように。

【14】「すると、どのようなことが起こるだろうか。周りが静まることによって、強い光を受け取った視細胞からの信号がことさら強調されることになる。つまり、2 コントラストより明確化され、そこに境界線が作り出される。」

 

(解答)A

 

問4(傍線部説明問題)(単語力・語彙力を問う問題)

 消長の意味は「勢いが衰えたり盛んになったりすること。盛衰」です。

 「消長」は入試頻出語句です。

 

(解答)A

 

問5(傍線部説明問題)(キーワードを問う問題)

 以下の二つの段落を熟読すると、Dの「関係」が正解だと分かります。

傍線部直前の

【17】「連続して変化する色のグラデーションを見ると、私たちはその中に不連続な、存在しないはずの境界を見てしまう。逆に不連続な点と線があると、私たちはそれをつないで連続した図像を作ってしまう。つまり、私たちは、本当は無関係なことがらに、因果関係を付与しがちなのだ。なぜだろう。連続を分節し、ことさら境界を強調し、不足補って見ることが、生き残る上で有利に働くと感じられたから。もともとランダムに推移する自然現象を無理にでも関連づけることが安心につながったから。世界を図式化し単純化することが、わかることだと思えたから。」、

傍線部を含む

【18】かつて私たちが身につけた知覚と認識の 4 水路はしっかりと私たちの内部に残っている。しかし、このような水路は、ほんとうに生存上有利で、ほんとうに安心を与え、世界に対する、ほんとうの理解をもたらしたのだろうか。ヒトの眼が切り取った「部分」は人工的なものであり、ヒトの認識が見出した「関係」の多くは妄想でしかない。

 

(解答)B


 【17】段落に関して、『世界は分けてもわからない』の中に興味深い記述があるので、以下に引用します。

「私たちヒトの祖先がこの地球上に出現たのは今から七百万年も前のことである。700万年の時間のほとんどを、ヒトは常に、怯え、警戒しながら暮らしてきたはずだ。いつ、どんな危険に直面するかわからない。いかなる未知と遭遇するか予想できない。

 だから、私たちは、遠い草原のかなたに、あるいは森の暗がりの中に、いち早く、生物の有無を見出し、かつその敵味方を判別することが求められた。」

 見た途端にある形が浮かぶのは、周囲の世界を秩序立てようと勝手に、ある輪郭を作り、線引きをしてしまう、人間の習性が原因のようです。

 人間の祖先が、外敵をいち早く察知しようとした、生存戦略上の防御反応の名残なのでしょう。

 

問6(傍線部説明問題)

 以下の段落を熟読すれば、C(→「ヒトが見ることのできる世界の姿は、常に一部分でしかないことを自覚し、そうであるがゆえに、理性的で冷静な思考と判断を心掛けなければならないということ」)が正解ということが分かります。

【19】「私たちは見ようと思うものしか見ることができない。(→「ヒトが見ることのできる世界の姿は、常に一部分でしかないこと」→C)そして、見たと思っていることも、ある意味ですべてが空目なのである。」

【20】「世界は分けないことにはわからない。しかし、分けてもほんとうにわかったことにはならない。つまり、私たちは世界の全体を一挙に見ることはできない。しかし大切なのはそのことに自省的であるということである。」

【21】「滑らかに見えるものは、実は毛羽立っている。毛羽立って見えるものは、実は限りなく滑らかなのだ。」

【22】【ラスト段落】「 5 そのリアルのありようを知るために、私たちは勉強しなければならない。

 

 A・B・Dについては、このような記述は本文にはないので、誤りです。 

 

(解答)C

 

 本文の趣旨、この設問から思い出されるのは、カエサルの以下の言葉です。

「人間ならば誰にでも、現実のすべてが見えるわけではない。 多くの人は、見たいと欲する現実しか見ていない(カエサル)」

 有名なこの言葉は、『ローマ人の物語』(塩野七生)の中で、以下のように紹介されています。

「人間ならば誰にでも、現実のすべてが見えるわけではない。 多くの人は、見たいと欲する現実しか見ていない」

 

 

 

(3)補足説明①/『世界は分けてもわからない』について

 

 『世界は分けてもわからない』の「エピローグ」で、福岡伸一氏は、以下の文章で締めくくっています。

「この世界のあらゆる要素は、互いに関連し、すべてが一対多の関係でつながりあっている。つまり世界には部分が無い。部分と呼び、部分として切りだせるものもない。そこには輪郭線もボーダーも存在しない。

 そして、この世界のあらゆる因子は、互いに他を律し、あるいは相補している。物質・エネルギー・情報をやりとりしている。そのやりとりには、ある瞬間だけを捉えてみると、供し手と受け手があるように見える。しかしその微分を解き、次の瞬間を見ると、原因と結果は逆転している。あるいは、また別の平衡を求めて動いている。つまり、この世界には、本当の意味での因果関係と呼ぶべきものもまた存在しない。

 世界は分けないことにはわからない。しかし、世界は分けてもわからないのである。

 分けてもわからないと知りつつ、今日もなお私は世界を分けようとしている。それは世界を認識することの契機がその往還にしかないからである」

 

 上記を読むと、何とか「世界の真理」に接近しようとする、福岡氏の一途な気持ちが、よく分かります。

 

 また、『世界は分けてもわからない』という題名の由来は、次のように説明されています。

 「生命現象において部分と呼ぶべきものはない。このことは古くから別の表現でずっと言われ続けてきたことでもある。

 たとえば次のように。

 全体は部分の総和以上の何ものかである。

 たしかに生命現象において、全体は、部分の総和以上の何ものかである。この魅力的なテーゼを、あまりに素朴に受け止めると、私たちは、すぐにでもあやういオカルティズムに接近してしまう。ミクロなパーツにはなくても、それが集合体になるとそこに加わる、プラスαとは一体何なのか。

 それは実にシンプルなことである。生命現象を、分けて、分けて、分けて、ミクロなパーツを切り抜いてくるとき、私たちが切断しているものがプラスαの正体である。それは流れである。エネルギーと情報の流れ。生命現象の本質は、物質的な基盤にあるのではなく、そこでやりとりされるエネルギーと情報の効果にこそある。」


 上記の

「生命現象を、分けて、分けて、分けて、ミクロなパーツを切り抜いてくるとき、私たちが切断しているものがプラスαの正体である。それは流れである。エネルギーと情報の流れ。生命現象の本質は、物質的な基盤にあるのではなく、そこでやりとりされるエネルギーと情報の効果にこそある。

の部分は、何度も読み直すべきでしょう。

 


 (4)補充説明②/『動物と人間の世界認識 イリュージョンなしに世界は見えない』(日高敏隆)について

 

動物と人間の世界認識―イリュージョンなしに世界は見えない (ちくま学芸文庫)

動物と人間の世界認識―イリュージョンなしに世界は見えない (ちくま学芸文庫)

 

 

 

 『世界は分けてもわからない』を読み、すぐに思い出されるのは、『動物と人間の世界認識 イリュージョンなしに世界は見えない』(日高敏隆)(筑摩書房)です。

 日高敏隆氏は、入試頻出著者であり、『動物と人間の世界認識』は入試頻出著書です。


 この本の要旨は、「物質として存在する客観的な世界があっても、動物と人間では見えているものが違う」ということです。

 

 動物が何を見て、それぞれ、いかなる「環世界」を持っているか、を探るために行われたネコ、イヌ、ハエ、チョウなどの生態観察・研究が、分かりやすく紹介されていて、興味深い内容になっています。
 
 『世界は分けてもわからない』に関連している記述は、以下の通りです。

「それぞれの動物は、それぞれの環世界を持っていて、それは我々が見ている客観的な世界とは違ってそのごく一部分を切り取って見ている」

「それぞれの動物は、音、匂い、光、色などへの自分の知覚の枠内で、周りの環境の中から自分に意味のあるものを認識し、それらの組み合わせによって自分の世界を構築している」

「彼らは環世界を構築して、その中で生きているのであって、自分たちの周りに如何にさまざまなものが実在していようとも、自分たちの環世界にないものは、彼らにとって存在しないに等しい

「人間以外の動物たちも身の回りの環境をすべて本能によって即物的に捉えているわけではなく、むしろ本能があるゆえに、それによって環境のなかの幾つかを抽出し、それに意味を与えて自らの世界認識を持ち、その世界の中でのみ行動している。それら世界は決して客観的な存在ではなく、あくまで個々の動物主体により抽出、抽象された主観的なものである。」

「それぞれの動物が見ている世界は、みな客観的な認識ではなくて、イリュージョン(→「錯覚」)による認識ということなる」


 つまり、「あらゆる生物は人間を含め、それぞれ『色眼鏡』なしには、ものを見ることはできない。人間が客観的に、つまりは、科学的に事象を見ることができると思うのは誤りであり、思い上がり」だということです。


 そして、日高敏隆氏は、人間の「イリュージョン」の特質に注目します。

 見えているものがイリュージョンである動物たちの中で、人間は「概念によるイリュージョン」を持っています。

 人間は知覚の枠を越えて理論的にイリュージョンを構築できるのです。

 それが、「概念によるイリュージョン」です。

 「概念によるイリュージョン」により、見えないものを見えるものに転化(→「空目」、「奇跡のマリア像」、「マーマイトのフタの裏のキリスト」など)することがあるのです。

 

 ある意味で、私たちは、視覚の世界では、「概念によるイリュージョン(錯覚)」に拘束・支配されている、と評価できるのでしょう。



(5)福岡伸一氏の紹介

 

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福岡伸一(ふくおか  しんいち)

1959年東京生まれ。京都大学卒。

米国ハーバード大学研究員、京都大学助教授などを経て、現在、青山学院大学理工学部 化学・生命科学科教授。分子生物学専攻。専門分野で論文を発表するかたわら、一般向け著作・翻訳も手がける。

 

2007年に発表した『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書)は、サントリー学芸賞、および中央公論新書大賞を受賞し、ベストセラーとなる。

他に『プリオン説はほんとうか?』(講談社ブルーバックス・講談社出版文化賞)

 

『ロハスの思考』(ソトコト新書・木楽舎)、

『生命と食』(岩波ブックレット)、

『できそこないの男たち』(光文社新書)、

『動的平衡』(木楽舎)、

『世界は分けてもわからない』(講談社現代新書)、

『ルリボシカミキリの青』(文春文庫・文藝春秋)、

『生命科学の静かなる革命』(インターナショナル新書・集英社インターナショナル)

など、著書多数。

 

 最新刊は『ツチハンミョウのギャンブル』(文藝春秋)。

 『動的平衡』は現在3巻まで刊行されている。

 また、対談集『動的平衡ダイアローグ』が出版されている(いずれも木楽舎刊)。

 

 

ツチハンミョウのギャンブル

ツチハンミョウのギャンブル

 

 

動的平衡 生命はなぜそこに宿るのか

動的平衡 生命はなぜそこに宿るのか

 

 

動的平衡2 生命は自由になれるのか

動的平衡2 生命は自由になれるのか

 

 

動的平衡3 チャンスは準備された心にのみ降り立つ

動的平衡3 チャンスは準備された心にのみ降り立つ

 

 

 

 美術ではヨハネス・フェルメールの熱心なファン。

 現存画は必ず所蔵されている場で鑑賞することをポリシーとしていて、著書の発表や絵画展の企画にも携わっている。

  

 

フェルメール 光の王国 (翼の王国books)

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 ーーーーーーーー

 

 今回の記事は、これで終わりです。

 次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

 ご期待ください。

 

    

 

 

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

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5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

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予想問題/「猫は後悔するか」野矢茂樹『語りえぬものを語る』/哲学

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 

 「哲学」、「言語論」は、入試頻出論点です。

 今回は、入試頻出著者・野矢茂樹氏の入試頻出出典『語りえぬものを語る』の中の「猫は後悔するか」を解説します。

 

 今回の記事の項目は以下の通りです。

 記事は1万字です。

 

 (2)予想問題/「猫は後悔するか」野矢茂樹『語りえぬものを語る』/哲学/福島大過去問

(3)野矢茂樹氏の紹介

(4)当ブログにおける「哲学」関連記事の紹介

 

 

語りえぬものを語る

語りえぬものを語る

 

 


(2)予想問題/「猫は後悔するか」野矢茂樹『語りえぬものを語る』/哲学/福島大過去問


(問題文本文)

(概要です)

(【1】・【2】・【3】・・・・は当ブログで付記した段落番号です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です) 


【1】人間はあれこれと後悔する。こんな連載、引き受けなければよかった、等々。では猫はどうか。いや、別に猫にかぎらない。人間以外の動物は、後悔をするのだろうか。

【2】猫が鳥に襲いかかる。逃げられる。でも、惜しかった。そのときその猫は、「もう少し忍び足で近づいてから飛びかかればよかったにゃ」などという日本語に翻訳できるような仕方で後悔するのだろうか」私の考えでは、しない。いや、できない。猫は、そして人間以外の動物は、後悔というものを為(な)しえない。なぜか。

【3】後悔するということは、事実に反する思いを含んでいる。「ああすればよかった」というのは、そうしなかったという事実に反する思いであり、「あんなことしなければよかった」というのは、そんなことをしてしまったという事実に反する思いである。ならば、事実に反する思いをもつというのは、どのようにして可能になるのだろうか。

【4】ひとつ用語を導入しておきたい。そこで『論理哲学論考』においてウィトゲンシュタインは、可能な事実の総体を A「論理空間」と呼ぶ。そこには、現実に起こった事実と現実には起こらなかったけれど起こりえたという事実が含まれている。ここで「起こりえた」というのは目いっぱい広くとっていただきたい。私は現実には大学の教員をしているが、もしかしたら大リーガーであったかもしれない。もちろん、それがふつうの意味では「ありえない」ことなのは私が一番よく知っている。だが、能力的に不可能であっても、思考不可能ではない。「もし私が大リーガーであったなら」と反事実的な想像をすることは別に矛盾ではない。私が大リーガーでホームランをばかすか打つ。どこに矛盾があろうか。

【5】ここで捉えられる「可能性」は、われわれが捉えうる最も広い意味での可能性、つまり論理的可能性にほかならない。それは論理的に矛盾しないかぎりは可能であると言われる。そんな可能性の総体、それが論理空間である。現実の世界というのは論理空間の中のごく一部分にすぎない。実際に起こっていることを取り巻いて、現実化しなかった可能性が広大に開けているだが他方、われわれはただこの現実の世界を生きるしかない。ここに問題の根っこがある。

【6】われわれが出会うのはすべて現実の世界である。 B 可能性の世界などというものがどこかにあるわけではない。へたをすると「思考の世界」などというものを想定し、しかもそれを「心の中」に位置づけたりしたくなるかもしれない。だが、見まわしてほしい。部屋の中、あるいは窓の外。見えるのは現実に起こっているさまざまな事実である。「心の中」(実にいいかげんな言葉だと思うが、いまはそれには目をつぶって)を探ってみてもよい。軽く頭痛がする。それも現実に起こっている事実である。あれやこれや考えている。非現実的なことを考えているかもしれないが、そう考えていること、それは現実の事実である。文字を書きつける。声に出さずに語る。イメージを思い描く。あるいは脳がある状態になる。すべて、現実に起こっている事実にほかならない。

【7】私に与えられているものは現実の事実だけである。しかし私は現実を取り巻く可能性の総体たる論理空間を了解している。だとすれば、この現実を元手に、論理空間の了解が形成されるのでなければならない。それはどのようにしてか。

【8】なによりもまず、世界が分節化されていなければならない。例えば白い犬が走っているという事実を、〈白い〉という性質と〈一匹のあの犬〉という対象と〈走っている〉という動作という要素から構成されるものとして捉えている。こうした構成要素を取り出すことを「分節化」と言う。

【9】われわれはすでに分節化された世界に生きている。分節化されていない世界とは、いわば徹底的な抽象画の世界にも喩(たと)えられるだろう。そこでは、 C あらゆる対象の輪郭が失われ、それら対象がもっていた意味も消え去る。他方、われわれが生きている世界はそうではない。そんな世界。われわれは、〈あの犬は白い〉という事実から、〈あの犬〉という対象(あの犬)と性質(白い)を分節化し、あるいはまた〈机の上にパソコンがある〉という事実から、対象(その机、そのパソコン)と関係(・・・・の上に・・・・がある)を、事実を構成する要素として分節化している。性質と関係をあわせて「概念」と呼ぶことにしよう。われわれは世界をさまざまな対象とさまざまな概念に分節化して捉えている。

【10】かりに世界が分節化されていなかったなら、反事実的な思いも不可能となるだろう。犬が走っているという事実を前にして、その犬が逆立ちするという反事実的なことを考える。そのような思いが可能になるのも、〈その犬〉という対象と〈走る〉という概念が別々の要素として捉えられているからである。その犬はなるほどいまは走っている。しかし、走っている状態しかありえないのではなく、歩いていたり寝ていたり、あるいは逆立ちすることも、考えることができる。それは、〈その犬〉という対象を〈走る〉という概念以外の要素(〈歩く〉〈寝る〉〈逆立ちする〉等々)と組み合わせることが可能だということにほかならない。そのためには、〈その犬〉という対象と〈走る〉という概念は別々の構成要素として区別されていなければならない。つまり、論理空間を開くには、世界が対象と概念に分節化されていなければならないのである。

【11】ただし、ここでもう少しことがらを正確に捉えておきたい。いま述べたように、論理空間を開くには世界が分節化されていなければならないが、逆に、 D 世界が分節化されているためには論理空間が成立していなければならないのである。

【12】机の上のパソコンを考えてみよう。なるほどいまは机の上にあるが、可能性としてはそのパソコンはさまざまな場所にありうる。例えば床の上に置く。あるいは部屋の外に持ち出す。そこで、われわれが可能性を理解していないとしてみよう。そのとき、そのパソコンはその机の上にしかありえないものとなってしまうだろう。そのパソコンとその机が分離されることを、われわれは想像することさえできない。そうなってしまったら、それはつまり、そのパソコンと机は分離不可能(しかも論理的に分離不可能)ということであり、それはもはやさらなる要素に分解不可能な一つの対象ということになる。

【13】机の色についても同じように議論される。いまはその机は茶色だが、もしその机が茶色以外の色である可能性をわれわれが理解していないのだとすれば、その机は茶色でしかありえないことになる。そのとき、その机と茶色という色は論理的に分離不可能となり、それらを別々の要素として分節化して考えることは不可能である。

【14】さらにこの議論は、パソコンと机に対してだけではなく、机と床に対しても成り立つ。いまは机は床の上にあるが、われわれはそれが他の場所、例えば外の路上にあるといった反事実的な可能性も了解している。そこで、もしそのような反事実的はな了解がないのであれば、その机とその床は論理的に分離不可能となり、分節化されていないことになる。かくして、パソコンと机が癒着し、机と床が癒着し、床は建物と癒着し、建物は地面と癒着して、ついには宇宙全体が論理的に分離不可能となってしまうだろう。

【15】世界から対象と概念を分節化して捉えるためには、その対象と概念が他のさまざまな対象や概念と組み合わされる可能性が理解されていなければならないのである。したがって、世界が分節化されているためには論理空間が成立していなければならない。このことと、先に示した「論理空間が成立するためには世界が分節化されていなければならない」を併(あわ)せるならば、つまり、論理空間の成立と分節化された世界の成立は、どちらが先というものではなく、厳密に同時なのである。

【16】さらに、論理空間の成立のためには、それゆえまた分節化された世界の成立のためには、われわれは分節化された言語をもっていなければならない。

【17】言語にはさまざまな働きがあるが、その中の重要なものは、ものごとを表現するという働きである。例えば、「白い犬が走っている」という言葉は〈白い犬が走っている〉という事実を表現する。しかるべき場面で「あの犬」と言えば、それはある一匹の犬を表現する。あるいは「白い」という語はある範囲の色を表現している。逆に、ものごとを表現する働きをもったものはすべて「言語」と呼ぶことにしよう。われわれはふつう「言語」というと音声言語と文字言語だけを考えがちだが、言語の働きを持ったものはさらにさまざまにある。例えば種々の図案で表された標識なども言語であり、鉄道路線図も言語であり、設計図のような図面も、それが実際に作られるべきものを表現しているという意味では言語である。あるいはまた、飲食店に置かれてある食品サンプルも、実物の代用品という意味で言語と言えるだろう。

【18】もし、われわれの世界から、これら言語と称すべきものたちのいっさいがなくなったとしたら、どうだろう。私の考えでは、そのとき世界もまた未分節の状態になるしかない。そのことを示すために、「世界は分節化されているが、分節化された言語はもっていない」と仮定してみよう。( E 背理法の仮定)

【19】先ほど論じたように〈机の上にパソコンがある〉という事実が〈その机〉〈そのパソコン〉〈・・・・の上に・・・・がある〉という構成要素に分節化されているためには、それらの要素が〈机の上にパソコンがある〉と組み合わせ以外の組み合わせ、例えば〈パソコンの上に机がある〉といった組み合わせを作りうるのでなければならない。さもなければ、〈机の上にパソコンがある〉という事実はそれ以上分節化されないひとかたまりとなってしまうだろう。だが、いま、いっさいの言語がないと仮定している。〈その机〉や〈そのパソコン〉という対象、および〈・・・・の上に・・・・がある〉という概念を表現してくれる言葉がない。だとすれば、その対象や概念そのものを組み替えてみるしかない。つまり、実際にパソコンの上に机を置いてみるしかない。そんなことをしたらパソコンが壊れるだろうということは措(お)いておくとしても、根本的なことは、それはもはや現実のことであり、たんなる可能性ではないということである。

【20】やはり、どうしたって言語がなければならない。言語がなければいっさいは現物となる。そのとき、現物に対してさまざまな組み合わせを試してみたとしても、それらはすべて現実の事実になるしかない。それゆえ、反事実的な可能性を開くにはどうしても現物の代理物たる言語が必要なのである。われわれはそうした言葉をさまざまに組み合わせる。それがさまざまな可能性を表現する。最初に述べたが、可能性の世界なるものがどこかはどこか(心の中であれイデア的な世界にであれ)にあるわけではないということだ。言語もまた、現実の一部にほかならない。食品サンプルは心的な何ものかでもイデア的な何ものかでもなく塩化ビニールで作られており、音声言語は空気振動であり、文字言語は現実に書きだされたインクの染み等である。それゆえ、言葉を用いているときにも、われわれはけっしてこの現実世界の外に出て行っているわけではない。われわれは現実に生きるしかない。この現実の中で、空気振動やインクの染みや塩化ビニールの塊を適当に操りながら、さまざまな可能性を表現するのである。「白い犬が逆立ちして走り去る」という模様を紙上に描けば、それは白い犬が逆立ちして走り去っていく可能性を表現している。可能性とは、このように、言語が表現するものとしてのみ、成り立ちうる。それ以外に可能性の生存場所はない。

【21】可能性を開く言語は分節化されていなければならない。さもなければ、言語においてさまざまな組み合わせを試すことができないからである。「机の上にパソコンがある」という言語表現があり、それが「机」「パソコン」「・・・・の上に・・・・がある」という語句に分節化されているからこそ、インクの染みにおいて「パソコンの上に机がある」という組み合わせを試すことができる。そしてそれが〈パソコンの上に机がある〉という非現実の可能的な事実を表現する。われわれはこうして、そしてこのようにしてのみ、可能性を了解するのである。

【22】論理空間・分節化された世界・分節化された言語、これらはすべて厳密に同時に成立する。それゆえ、言語をもっていない動物は可能性の了解をもたず、分節化された世界にも生きていないことになる。


(野矢茂樹『語りえぬものを語る』)

 

ーーーーーーーー


(設問)


問1 Aについて、本文における「論理空間」についての説明として適切なものは以下のうちどれか。あてはまるものをすべて選べ。

 

①論理空間とは、現実化しなかった論理的可能性の総体のことである。

②われわれは現実の事実のみに基づいて論理空間の成立を了解している。

③論理空間には実際には起こらなかった非現実の可能的事実が含まれている。

④論理空間を了解するには、現実の事実を分節化できなければならない。

⑤人間が論理空間を了解できるのは人間が言語を持っているためである。

 

問2 Bについて、このように筆者が述べるのはなぜか。本文に即して50字以内で説明せよ。

 

問3 Cについて、ほぼ同様の内容を表現した部分を、C以降の本文から20字程度で抜き出せ。

 

問4 Dについて、このように筆者が考えるのはなぜか。本文に即して説明せよ。

 

問5 Eについて、筆者は「言語が存在しないと世界もまた未分節の状態になるしかない」ことを、背理法を用いてどのように示しているか、説明せよ。なお「背理法」とはある命題が真であることを証明するために、あえてその命題を偽と仮定して推論を進め、矛盾が導かれることを示す証明の方法である。

 

問6 本文において、筆者は「人間以外の動物は、後悔というものを為しえない」理由をどのように説明しているのか。筆者の論証過程に即して説明せよ。

 


ーーーーーーーー

 

(解説・解答)
問1

① 【4】段落 ひとつ用語を導入しておきたい。『論理哲学論考』においてウィトゲンシュタインは、可能な事実の総体をA「論理空間」と呼ぶ。そこには、現実に起こった事実と現実には起こらなかったけれど起こりえたという事実が含まれている

に反します。

 

② 【4】段落に反しています。

 

③ 【4】段落に合致しています。

 

④ 以下の段落に合致しています。

【7】段落 「私に与えられているものは現実の事実だけである。しかし私は現実を取り巻く可能性の総体たる論理空間を了解している。だとすれば、この現実を元手に、論理空間の了解が形成されるのでなければならない。それはどのようにしてか。

【8】段落 なによりもまず、世界が分節化されていなければならない。例えば白い犬が走っているという事実を、〈白い〉という性質と〈一匹のあの犬〉という対象と〈走っている〉という動作という要素から構成されるものとして捉えている。こうした構成要素を取り出すことを「分節化」と言う。

【9】段落 「われわれはすでに分節化された世界に生きている。分節化されていない世界とは、いわば徹底的な抽象画の世界にも喩(たと)えられるだろう。そこでは、C あらゆる対象の輪郭が失われ、それら対象がもっていた意味も消え去る。

【10】段落 「かりに世界が分節化されていなかったなら、反事実的な思いも不可能となるだろう。・・・・つまり、論理空間を開くには、世界が対象と概念に分節化されていなければならないのである。


⑤ 以下の段落に合致しています。

【16】段落 「論理空間の成立のためには、それゆえまた分節化された世界の成立のためには、われわれは分節化された言語をもっていなければならない 。」

【20】段落 「やはり、どうしたって言語がなければならない。言語がなければいっさいは現物となる。そのとき、現物に対してさまざまな組み合わせを試してみたとしても、それらはすべて現実の事実になるしかない。それゆえ、反事実的な可能性を開くにはどうしても現物の代理物たる言語が必要なのである。」

 

(解答)③・④・⑤

 

問2

 傍線部Bを含む段落を精読する必要があります。

 特に、赤字部分が重要です。

【6】段落 われわれが出会うのはすべて現実の世界である。B 可能性の世界などというものがどこかにあるわけではない。へたをすると「思考の世界」などというものを想定し、しかもそれを「心の中」に位置づけたりしたくなるかもしれない。だが、見まわしてほしい。部屋の中、あるいは窓の外。見えるのは現実に起こっているさまざまな事実である。「心の中」(実にいいかげんな言葉だと思うが、いまはそれには目をつぶって)を探ってみてもよい。軽く頭痛がする。それも現実に起こっている事実である。あれやこれや考えている。非現実的なことを考えているかもしれないが、そう考えていること、それは現実の事実である。文字を書きつける。声に出さずに語る。イメージを思い描く。あるいは脳がある状態になる。すべて、現実に起こっている事実にほかならない。

 

(解答)われわれが出会うのは全て現実の世界で、非現実的なことを考えても、それ自体が現実の世界であるから。(48字)

 

問3

 【9】段落と、【11】~【14】段落を対比するとよいでしょう。


【9】「われわれはすでに分節化された世界に生きている。分節化されていない世界とは、いわば徹底的な抽象画の世界にも喩(たと)えられるだろう。 そこでは、C あらゆる対象の輪郭が失われ、それら対象がもっていた意味も消え去る。」

 

↓対比してください。

 

【11】 「ただし、ここでもう少しことがらを正確に捉えておきたい。いま述べたように、論理空間を開くには世界が分節化されていなければならないが、逆に、世界が分節化されているためには論理空間が成立していなければならないのである。

【12】「机の上のパソコンを考えてみよう。なるほどいまは机の上にあるが、可能性としてはそのパソコンはさまざまな場所にありうる。例えば床の上に置く。あるいは部屋の外に持ち出す。そこで、われわれが可能性を理解していないとしてみよう。そのとき、そのパソコンはその机の上にしかありえないものとなってしまうだろう。そのパソコンとその机が分離されることを、われわれは想像することさえできない。そうなってしまったら、それはつまり、そのパソコンと机は分離不可能(しかも論理的に分離不可能)ということであり、それはもはやさらなる要素に分解不可能な一つの対象ということになる。」

【13】「机の色についても同じように議論される。いまはその机は茶色だが、もしその机が茶色以外の色である可能性をわれわれが理解していないのだとすれば、その机は茶色でしかありえないことになる。そのとき、その机と茶色という色は論理的に分離不可能となり、それらを別々の要素として分節化して考えることは不可能である。」

【14】「さらにこの議論は、パソコンと机に対してだけではなく、机と床に対しても成り立つ。いまは机は床の上にあるが、われわれはそれが他の場所、例えば外の路上にあるといった反事実的な可能性も了解している。そこで、もしそのような反事実的はな了解がないのであれば、その机とその床は論理的に分離不可能となり、分節化されていないことになる。かくして、パソコンと机が癒着し、机と床が癒着し、床は建物と癒着し、建物は地面と癒着して、ついには宇宙全体が論理的に分離不可能となってしまうだろう。」


(解答)宇宙全体が論理的に分離不可能となってしまう(21字)


問4

 【11】・【15】段落を精読してください。

【11】「ただし、ここでもう少しことがらを正確に捉えておきたい。いま述べたように、論理空間を開くには世界が分節化されていなければならないが、逆に、D 世界が分節化されているためには論理空間が成立していなければならないのである。

【15】「世界から対象と概念を分節化して捉えるためには、その対象と概念が他のさまざまな対象や概念と組み合わされる可能性が理解されていなければならないのである。したがって、世界が分節化されているためには論理空間が成立していなければならない。

 

(解答)
世界から対象と概念を分節化して捉えるためには、その対象と概念が他のさまざまな対象や概念と組み合わされる可能性が理解されていなければならから。
 

問5

 「背理法」とは、ある命題 Pを証明したいときに、P が偽であると仮定して、そこから矛盾を導くことにより、P が偽であるという仮定が誤り、つまり P は真であると結論付けることです。

 

 本設問を考えるについては、傍線部を含む段落と、直後の二つの段落を精読する必要があります。

【18】「もし、われわれの世界から、これら言語と称すべきものたちのいっさいがなくなったとしたら、どうだろう。私の考えでは、そのとき世界もまた未分節の状態になるしかない。そのことを示すために、「世界は分節化されているが、分節化された言語はもっていない」と仮定してみよう。E 背理法の仮定 )」

【19】「先ほど論じたように〈机の上にパソコンがある〉という事実が〈その机〉〈そのパソコン〉〈・・・・の上に・・・・がある〉という構成要素に分節化されているためには、それらの要素が〈机の上にパソコンがある〉と組み合わせ以外の組み合わせ、例えば〈パソコンの上に机がある〉といった組み合わせを作りうるのでなければならない。さもなければ、〈机の上にパソコンがある〉という事実はそれ以上分節化されないひとかたまりとなってしまうだろう。だが、いま、いっさいの言語がないと仮定している。〈その机〉や〈そのパソコン〉という対象、および〈・・・・の上に・・・・がある〉という概念を表現してくれる言葉がない。だとすれば、その対象や概念そのものを組み替えてみるしかない。つまり、実際にパソコンの上に机を置いてみるしかない。そんなことをしたらパソコンが壊れるだろうということは措(お)いておくとしても、根本的なことは、それはもはや現実のことであり、たんなる可能性ではないということである。

【20】「やはり、どうしたって言語がなければならない。言語がなければいっさいは現物となる。そのとき、現物に対してさまざまな組み合わせを試してみたとしても、それらはすべて現実の事実になるしかない。それゆえ、反事実的な可能性を開くにはどうしても現物の代理物たる言語が必要なのである。

 

 つまり、反事実的な可能性は成立不可能になるのです。

 それゆえ、反事実的な可能性を開くにはどうしても現物の代理物たる言語が必要なのです。

 

(解答)分節化された世界の成立には、対象や概念の非現実的なものを含めた組み合わせの可能性の総体を理解する必要があるが、言語がない場合、対象や概念の現物そのものを実際に組み替えるしかなくなり、非現実的な可能性は成り立たなくなる。

 

問6

 この設問は、要約問題です。

 本文のキーワードを使用するにしてください。

 

 以下の【3】段落と【22】段落(最終段落)を「核」として、全体をまとめるとよいでしょう。

【3】「後悔するということは、事実に反する思いを含んでいる。「ああすればよかった」というのは、そうしなかったという事実に反する思いであり、「あんなことしなければよかった」というのは、そんなことをしてしまったという事実に反する思いである。ならば、事実に反する思いをもつというのは、どのようにして可能になるのだろうか。」

【22】(最終段落)「論理空間・分節化された世界・分節化された言語、これらはすべて厳密に同時に成立する。それゆえ、言語をもっていない動物は可能性の了解をもたず、分節化された世界にも生きていないことになる。」

 

(解答) 後悔は、「ああすればよかった」という事実に反する思いを含む。後悔をするためには、別の論理的な可能性がそこになければならず、そのような論理的可能性の総体は「論理空間」と呼ばれる。「論理空間」が形成されるためには世界が分節化されていなければならず、分節化された世界を可能とするためには言語が必要である。動物は人間と違って言語を持たないため、猫は後悔できない。

 

ーーーーーーーー

 

 

(3)野矢茂樹氏の紹介

 

野矢 茂樹(のや しげき、1954年9月15日)哲学者。立正大学文学部哲学科教授。東京大学名誉教授。東京都出身。

専攻は(分析哲学、言語哲学、他者論、行為論、ウィトゲンシュタイン研究)。大森荘蔵に師事。

ウィトゲンシュタインを中心に、クワイン、デイヴィッドソンなどもしばしば参照の対象とする。

平易な解説による哲学入門書や論理学入門書の執筆も多い。

2017年、『心という難問 空間・身体・意味』で第29回和辻哲郎文化賞受賞。


【単著】

『論理学』東京大学出版会、1994年

『心と他者』勁草書房、1995年

『哲学の謎』講談社、1996年

『論理トレーニング』産業図書、1997年/新版、2006年『無限論の教室』、講談社、1998年

『哲学・航海日誌』、春秋社、1999

『はじめて考えるときのように』PHPエディターズ・グループ、2001年

『論理トレーニング 101題』産業図書、2001年

『論理哲学論考を読む』哲学書房、2002年/ちくま学芸文庫、2006年

『同一性・変化・時間』哲学書房、2002年

『ここにないもの』大和書房、2004年

『他者の声 実在の声』産業図書、2005年

『入門! 論理学』中公新書、2006年

『大森荘蔵』講談社、2007年

『語りえぬものを語る』講談社、2011年

『心という難問 空間・身体・意味』 講談社、2016年

『大人のための国語ゼミ』 山川出版社、2017年

 

 

大人のための国語ゼミ

大人のための国語ゼミ

 

 

心という難問 空間・身体・意味

心という難問 空間・身体・意味

 

 

 

【共著編集】

『「語りえぬもの」からの問いかけ 東大駒場「哲学・宗教・芸術」連続講義』 講談社、2002年

『はじめて考えるときのように 「わかる」ための哲学的道案内』 PHPエディターズグループ/PHP文庫で再刊、2004年

『ここにないもの-新哲学対話』 大和書房、2004年/中公文庫で再刊、2013年

『哲学ということ』第7巻、春秋社〈爆笑問題のニッポンの教養〉、2007年

『言語学の教室 哲学者と学ぶ認知言語学』 中央公論新社、2013年

 

【訳書編集】 

F. ホイル・Ch. ウィクラマシンゲ 『宇宙からの生命』 青土社、1985年

S. B. コップ 『ブッダに会ったらブッダを殺せ』 青土社、1987年

ウィトゲンシュタイン 『ウィトゲンシュタインの講義-ケンブリッジ1932‐1935年』第2巻、勁草書房〈双書プロブレーマタ〉、1991年

ウィトゲンシュタイン(アリス・アンブローズ編) 『ウィトゲンシュタインの講義』 講談社学術文庫、2013年

ウィトゲンシュタイン 『論理哲学論考』 岩波書店〈岩波文庫〉、2003年

 

【共訳書編集】

C. マッギン 『ウィトゲンシュタインの言語論 クリプキに抗して』 植木哲也・塚原典央訳、勁草書房、1990年

A. ウエストン 『ここからはじまる倫理』 高村夏輝・法野谷俊哉訳、春秋社、2004年

R. フォグリン 『理性はどうしたって綱渡りです』 塩谷賢・村上祐子訳、春秋社、2005年

 

 

(4)当ブログにおける「哲学」関連記事の紹介

 

 

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 今回の記事は、これで終わりです。

 次回の記事は、約1週間後です。 

 ご期待ください。

 

 

   

 

 

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

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5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

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予想問題/「持たないという豊かさ」原研哉『日本のデザイン』

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 

 「現代文明批判」・「現代文明論」は、入試現代文(国語)・小論文における最頻出の論点です。

 その中でも、「経済自由主義(新自由主義・グローバリズム)の進展」、それに伴う、「日本人論」、「日本文化論」、「伝統文化の見直し・再評価」、「ゆとり」・「真の豊かさ」・「精神的な豊かさ」の「見直し・再評価」が、特に流行論点、頻出論点になっています。

 そこで、今回は、これらの論点を幅広く含む「持たないという豊かさ」(原研哉『日本のデザイン 美意識がつくる未来』)についての予想問題の解説をします。

 なお、原研哉氏は、入試頻出著者です。

 

 今回の記事の項目は以下の通りです。

 記事は、約1万字です。

 

(2)予想問題/原研哉「持たないという豊かさ」原研哉『日本のデザイン 美意識がつくる未来』/2013高知大学国語(現代文)過去問

(3)「高度消費社会」についての参考文献/「好きなこととは何か?」(『暇と退屈の倫理学』國分功一郎)

(4)原研哉氏の紹介

(5)当ブログにおける「日本文化論」・「日本人論」・「伝統文化の見直し・再評価」関連記事の紹介

 

日本のデザイン――美意識がつくる未来 (岩波新書)

日本のデザイン――美意識がつくる未来 (岩波新書)

 

 

(2)予想問題/原研哉「持たないという豊かさ」原研哉『日本のデザイン 美意識がつくる未来』/2013高知大学国語(現代文)過去問

 

(問題文本文)

(概要です)

(【1】・【2】・【3】・・・・は当ブログで付記した段落番号です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です) 

 


【1】住空間をきれいにするには、できるだけ空間から物をなくすことが肝要ではないだろうか。ものを所有することが豊かであると、僕らはいつの間にか考えるようになった。

【2】高度成長の頃の三種の神器は、テレビ、冷蔵庫、洗濯機、その次は自動車とルームクーラーとカラーテレビ。戦後の飢餓状態を経た日本人は、いつしか、ものを率先して所有することで豊かさや充足感を噛み締めるようになっていたのかもしれない。しかし、考えてみると、快適さとは、溢れかえるほどのものに囲まれていることではない。むしろ、ものを最小限に始末した方が快適なのである。① 何もないという簡潔さこそ、高い精神性や豊かなイマジネーションを育む温床であると、日本人はその歴史を通して、達観したはずである。 

【3】慈照寺の同仁斎にしても、桂の離宮にしても、空っぽだから清々しいのであって、ごちゃごちゃと雑貨やら用度品やらで溢れているとしたなら、目も当てられない。洗練を経た居住空間は、簡素にしつらえられ、実際にこの空間に居る時も、ものを少なくすっきりと用いていたはずである。用のないものは、どんなに立派でも蔵や納戸に収納し、実際に使うときだけ取り出してくる。それが、日本的な暮らしの作法であったはずだ。

【4】しかしながら、今の日本の人々の住宅は、仮に天井をはがして俯瞰(ふかん)するならば、どこの世帯もおおむね夥しいもので溢れかえっているのではないかと想像される。率先して所有へと突き進んだ結果である。かつて腹ぺこに泣かされた欲深ウサギは両方の手にビスケットを持っていないと不安なのである。しかし冷静に判断するなら、両方の手に何も持っていない方が、生きていく上では便利である。両手が自由なら、それを振って挨拶もできるし、時には花を活けることもできよう。両の手がビスケットでいつも塞(ふさ)がれていては、そういうわけにもいかない。

【5】ピーター・メンツェルという写真家の作品に『地球家族』と題された写真集がある。これは多様な文化圏の家族を撮影したものだ。それぞれの家族は、全ての家財道具を家の前に並べ、家を背景にして写真に収まっている。どのくらいの国や文化、家族の写真が収められていたかは正確に記憶していないけれども、鮮明に覚えているのは、日本人の家財道具が、群を抜いて多かったことである。日本人は、いったいいつの間にこんなにたくさんの道具に囲まれて暮らしはじめたかと、唖然とした気持ちでそれを眺めた。無駄と言い切ることはできないまでも、なくてもよいものたちを、よくぞここまで細かく取り揃えものだとあきれる。 別の言い方をするならば、② ものの生産と消費の不毛な結末を静かに指摘しているようなその写真は、僕らがどこかで道を間違えてしまったことを暗示しているようであった。

【6】ものにはそのひとつひとつに生産の過程があり、マーケティングのプロセスがある。石油や鉄鉱石のような資源の採掘に始まる遠大なものづくりの端緒に遡って、ものは計画され、修正され、実施されて世にかたちをなしてくる。さらに広告やプロモーションが流通の後押しを受けて、それらは人々の暮らしのそれぞれの場所にたどり着く。そこにどれほどのエネルギーが消費されることだろう。その大半が、なくてもいいような、雑駁とした物品であるとしたらどうだろうか。資源も、創造も、輸送も、電波も、チラシも、コマーシャルも、それらの大半が、③ 暮らしに濁りを与えるだけの結果しかもたらしていないとするならば、これほど虚しいことはない。

【7】僕らはいつしか、もので溢れかえる日本というものを度を越えて許容してしまったのかもしれない。世界第2位であったGDPを、目に見えない誇りとして頭の中に装着してしまった結果か、あるいは、戦後の物資の乏しい時代に経験したものへの渇望がどこかで幸福を測る感覚の目盛りも狂わせてしまったのかもしれない。秋葉原にしてもブランドショップにしても、過剰なる製品供給の情景は、ものへの切実な渇望をひとたび経験した目で見るならば、確かに頼もしい勢いに見えるだろう。だから、いつの間にか日本人はものを過剰に買い込み、その異常なる量に鈍感になってしまった。

【8】しかし、そろそろ僕らはものを捨てなくてはいけない。捨てることのみを「もったいない」と考えてはいけない。捨てられるものの風情に感情移入して「もったいない」と感じる心持ちにはもちろん共感できる。しかし膨大な無駄を排出した結果の、廃棄の局面でのみ機能させるのだとしたら、その「もったいない」はやや鈍感に過ぎるかもしれない。廃棄するときでは遅いのだ。もしそういう心情を働かせるなら、まずは何かを大量に生産するときに感じた方がいいし、さもなければそれを購入するときに考えた方がいい。④ もったいないのは、捨てることではなく、廃棄を運命づけられた不毛なる生産が意図され、次々と実行に移されることではないか。

【9】だから大量生産という状況について少し批評的になった方がいい。むやみに生産量を誇ってはならないのだ。大量生産・大量消費を加速させてきたのは、企業のエゴイステックな成長意欲だけではない。所有の果てを想像できない消費者のイマジネーションの脆弱さもそれに加担している。ものは売れてもいいが、それは世界を心地よくしていくことが前提であり、人はそのためにものを欲するのが自然である。さして必要でもないものを溜め込むことは決して快適ではないし心地よくもない。

【10】良質な旅館に泊まると、感受性の感度が数ランクあがったように感じる。それは空間への気配りが行きとどいているために安心して身も心も開放できるからである。しつらいや調度の基本はものを少なく配することである。何もない簡素な空間にあってこそ畳の目の織りなす面の美しさに目が向き、壁の漆喰(しっくい)の風情にそそられる。床(とこ)に活けられた花や花器に目が向き、料理が盛りつけられた器の美しさを堪能できる。そして庭に満ちている自然に素直に意識が開いていくのである。ホテルにしても同様。簡潔に極まった環境であるからこそ一枚のタオルの素材に気を通わせることができ、バスローブの柔らかさを楽しむ肌の繊細さが呼び起こされてくるのである。

【11】これは一般の住まいにも当てはまる。現在の住まいにあるものを最小限に絞って、不要なものを処分しきれば、住空間は確実に快適になる。試しに夥しい物品のほとんどを取り除いてみればいい。おそらくは予想外に美しい空間が出現するはずだ。

【12】無駄なものを捨てて暮らしを簡潔にするということは、家具や調度、生活用具を味わうための背景をつくるということである。芸術作品でなくとも、あらゆる道具には相応の美しさがある。何の変哲もないグラスでも、しかるべき氷を入れてウイスキーを注げば、めくるめく琥珀色がそこに現れる。霜の付いたグラスを優雅な紙敷の上にぴしりと置ける片付いたテーブルがひとつあれば、グラスは途端に魅力を増す。逆に、漆器が艶やかな漆黒をたたえて、⑤ 陰影を礼賛する準備ができていたとしても、リモコンが散乱していたり、ものが溢れかえっているダイニングではその風情を味わうことは難しい。

【13】白木のカウンターに敷かれた一枚の白い紙や、漆の盆の上にことりと置かれた青磁の小鉢、あるいは塗り椀の蓋を開けた瞬間に香りたつ出し汁のにおいに、ああこの国に生まれてよかったと思う刹那(せつな)がある。そんな高踏な緊張など日々の暮らしに持ち込みたくはないと言われるかもしれない。⑥ 緊張ではなくゆるみや開放感こそ、心地よさに繋がるのだという考え方も当然あるだろう。家は休息の場でもあるのだ。しかし、だらしなさへの無制限の許容がリラクゼーションにつながるという考えは、ある種の堕落をはらんではいまいか。ものを用いる時に、そこに潜在する美を発揮させられる空間や背景がわずかにあるだけで、暮らしの喜びは必ず生まれてくる。そこに人は充足を実感してきたはずである。

【14】伝統的な工芸品を活性化するために、様々な試みが講じられている。たとえば、現在の生活様式にあったデザインの導入であるとか、新しい用い方の提案であるとかである。自分もそんな活動に加わったこともある。そういう時に痛切に思うのは、漆器にしても陶磁器にしても、⑦ 問題の本質はいかに魅力的なものを生み出すかではなく、それらの魅力を味わう暮らしをいかに再興できるかである。漆器が売れないのは漆器の人気が失われたためではない。今日でも素晴らしい漆器を見れば人々は感動する。しかし、それを味わい楽しむ暮らしの余白がどんどん失われているのである。

【15】伝統工芸品に限らず、現代のプロダクツも同様である。豪華さや所有の多寡ではなく、利用の深度が大事なのだ。よりよく使い込む場所がないと、ものは成就しないし、ものに託された暮らしの豊かさも成就しない。だから僕たちは今、未来に向けて住まいのかたちを変えていかなくてはならない。育つものはかたちを変える。「家」も同様である。

【16】ものを捨てるのはその一歩である。「もったいない」をより前向きに発展させる意味で「捨てる」のである。どうでもいい家財道具を世界一たくさん所有している国の人から脱皮して、簡潔さを背景にものの素敵さを日常空間の中で開花させることのできる繊細な感受性をたずさえた国の人に立ち返らなくてはいけない。

【17】持つよりもなくすこと。そこに住まいのかたちを作り直していくヒントがある。何もないテーブルの上に箸置きを配する。そこに箸がぴしりと決まったら、暮らしはすでに豊かなのである。
 (原研哉「持たないという豊かさ」『日本のデザイン 美意識がつくる未来』)

 


ーーーーーーーー

 

(設問)

問1 傍線部①「何もないという簡潔さこそ、高い精神性や豊かなイマジネーションを育む温床である」とあるが、その具体例が述べられている一文を50字(句読点を含む)以内で抜き出せ。

 
……………………………

 

問1(解説・解答)

 傍線部の「何もないという簡潔さ」、「高い精神性や豊かなイマジネーション」、「育む温床」に注目して本文を精読してください。

 傍線部を含む一文、「何もないという簡潔さこそ、高い精神性や豊かなイマジネーションを育む温床であると、日本人はその歴史を通して、達観したはずである」に留意することも必要です。

  
 傍線部と同内容のことを、さらに具体的に論じている【10】段落

「良質な旅館に泊まると、感受性の感度が数ランクあがったように感じる。それは空間への気配りが行きとどいているために安心して身も心も開放できるからである。しつらいや調度の基本はものを少なく配することである。何もない簡素な空間にあってこそ畳の目の織りなす面の美しさに目が向き、壁の漆喰(しっくい)の風情にそそられる。

に着目してください。

 

(解答)何もない簡素な空間にあってこそ、畳の目の織りなす面の美しさに目が向き、壁の漆喰の風情にそそられる。(49字)

 

ーーーーーーーー 

 

問2 傍線部②「ものの生産と消費の不毛な結末を静かに指摘しているようなその写真は、僕らがどこかで道を間違えてしまったことを暗示しているようであった」について、次の問いに答えよ。

(1)ものの生産と消費の不毛な結末」とは、具体的にどのようなことを指すのか、文章中の語句を用いて説明せよ

(2)「僕らがどこかで道を間違えてしまったことを暗示している」とあるが、筆者はどのように「道を間違えてしまった」と考えているか、わかりやすく説明せよ。


……………………………

 

問2(解説・解答)

(1)傍線部直前、および、傍線部を含む段落をより具体的に再説している直後の段落を、まとめるとよいでしょう。


(2)傍線部が【1】~【5】段落のまとめになっていることを読み取る必要があります。
 どのように「道を間違えてしまった」については、【1】・【2】段落をまとめるとよいです。

 
(解答)

(1)日本人の家財道具が、他の文化圏に比べ群を抜いて多く、なくてもよいものたちを、細かく取り揃えていること。


(2)快適さとは、溢れかえるほどのものに囲まれていることではない。むしろ、ものを最小限に始末した方が快適なのである。しかし、ものを所有することが豊かであると、僕らはいつの間にか考えるようになった。


ーーーーーーーー

 

問3 傍線部③「暮らしに濁りを与える」、傍線部⑤「陰影を礼賛する準備」について、③は「濁り」、⑤は「陰影」の内容を具体的に示し、それぞれの傍線部の意味をわかりやすく説明せよ。

 

……………………………

 

問3 (解説・解答)

③ 「濁り」とは、筆者の主張する「高い精神性や豊かなイマジネーションを育む生活」、を阻害する「マイナス的側面」です。

 

⑤ 「陰影を礼賛」とは、日本の伝統を礼賛した『陰翳礼讃』(谷崎潤一郎)を意識していることは明らかです。

 従って、ここで言う「陰影」とは、 「物事などに含みや趣があること。微妙なニュアンス」という意味です。

 その上で、直前の「漆器が艶やかな漆黒をたたえて」に注目してください。


(解答)

③ 日本人は、高い精神性や豊かなイマジネーションを育む生活になくてもいいような、雑駁とした物品を多く持っているということ。

⑤ 「漆器が艶やかな漆黒」を味わう心の用意をすること。

 

ーーーーーーーー


問4 傍線部④「もったいないのは、捨てることではなく、廃棄を運命づけられた不毛なる生産が意図され、次々と実行に移されることではないか」とあるが、どのような意味か、わかりやすく説明せよ。

 

……………………………

 

問4(解説・解答)

 「もったいないのは、不毛なる生産が意図され、次々と実行に移されることではないか」の部分を、本文中の表現を使用して、わかりやすく説明するようにしてください。

 

 直前の 

「  膨大な無駄を排出した結果の、廃棄の局面でのみ機能させるのだとしたら、その「もったいない」はやや鈍感に過ぎるかもしれない。廃棄するときでは遅いのだ。もしそういう心情を働かせるなら、まずは何かを大量に生産するときに感じた方がいいし、さもなければそれを購入するときに考えた方がいい。

をまとめるとよいでしょう。


(解答)
もったいないという気持ちは、なくてもいいような、雑駁とした物品を捨てる時ではなく、大量に生産するときに感じた方がいいという意味。


 
ーーーーーーーー

 

問5 傍線部⑥「緊張ではなくゆるみや開放感こそ、心地よさに繋がるのだという考え方」と対照的な考え方はどのような考え方か、わかりやすく説明せよ。

 

 ……………………………

 

問5(解説・解答)

 「緊張ではなくゆるみや開放感こそ、心地よさに繋がるのだという考え方」については、
【2】段落「高度成長の頃の三種の神器は、テレビ、冷蔵庫、洗濯機、その次は自動車とルームクーラーとカラーテレビ。戦後の飢餓状態を経た日本人は、いつしか、ものを率先して所有することで豊かさや充足感を噛み締めるようになっていたのかもしれない」に述べられています。

 

 一方で、筆者は、傍線部⑥「緊張ではなくゆるみや開放感こそ、心地よさに繋がるのだという考え方」について、その直後の「しかし」以下で、「だらしなさへの無制限の許容がリラクゼーションにつながるという考えは、ある種の堕落をはらんではいまいか」と批判しています。

 そして、その直後で、「ものを用いる時に、そこに潜在する美を発揮させられる空間や背景がわずかにあるだけで、暮らしの喜びは必ず生まれてくる。そこに人は充足を実感してきたはずである」と自説を主張しています。

 この「論」の流れを意識する必要があります。

 

(解答)ものを用いる時に、そこに潜在する美を発揮させられる空間や背景がわずかにあるだけで、暮らしの喜びは必ず生まれてくる。そこに人は充足を実感してきたはずである。

 

ーーーーーーーー


問6 傍線部⑦「問題の本質はいかに魅力的なものを生み出すかではなく、それらの魅力を味わう暮らしをいかに再興できるかである」とは、筆者のどのような考えのあらわれであるか、文章全体をふまえて説明せよ。

 

……………………………

 

問6(解説・解答)

 「問題の本質は、それら(→「もの」)の魅力を味わう暮らしをいかに再興できるかである」

という主張を、筆者は他の部分で、いかに、分かりやすく、具体的に言い換えているかを読み取る必要があります。

 

 筆者の主張が明確な以下の段落をまとめるとよいと思います。

【14】段落「伝統的な工芸品を活性化するために、様々な試みが講じられている。自分もそんな活動に加わったこともある。そういう時に痛切に思うのは、漆器にしても陶磁器にしても、⑦ 問題の本質はいかに魅力的なものを生み出すかではなく、それらの魅力を味わう暮らしをいかに再興できるかである。漆器が売れないのは漆器の人気が失われたためではない。今日でも素晴らしい漆器を見れば人々は感動する。しかし、それ(→「伝統的な工芸品」)を味わい楽しむ暮らしの余白がどんどん失われているのである。

【15】段落「伝統工芸品に限らず、現代のプロダクツも同様である。豪華さや所有の多寡ではなく、利用の深度が大事なのだ。よりよく使い込む場所がないと、ものは成就しない←し、ものに託された暮らしの豊かさも成就しない。だから僕たちは今、未来に向けて住まいのかたちを変えていかなくてはならない。

【16】段落「ものを捨てるのはその一歩である。『もったいない」』をより前向きに発展させる意味で『捨てる』のである。どうでもいい家財道具を世界一たくさん所有している国の人から脱皮して、簡潔さを背景にものの素敵さを日常空間の中で開花させることのできる繊細な感受性をたずさえた国の人に立ち返らなくてはいけない。

【17】段落「持つよりもなくすこと。そこに住まいのかたちを作り直していくヒントがある。」

 

 五感に余白を作るということでしょう。

 言い換えれば、「ものの美」を感じる「精神的ゆとり」を意識的に作るということです。

 現代の日本人は、「精神的ゆとり」が、なさ過ぎるのです。

 IT 化による労働密度の強化、不景気や人手不足等を理由とする労働時間の増大が背景にあります。



(解答)

伝統的工芸品、プロダクツ(→「製品」「生産物」という意味)を活性化するために必要なことは、それらの魅力を味わう暮らしの余白をいかに再興できるかである。よりよく使い込む場所がないと、ものは成就しないし、暮らしの豊かさも成就しない。だから、僕たちは今、未来に向けて住まいのかたちを簡素化する必要がある。簡潔さを背景に、ものの素敵さを味わう繊細な感受性を取り戻すべきである

 

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(3)「高度消費社会」についての参考文献/「好きなこととは何か?」(『暇と退屈の倫理学』國分功一郎)

 

 

暇と退屈の倫理学 増補新版 (homo Viator)

暇と退屈の倫理学 増補新版 (homo Viator)

 

 

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  上記の「持たないという豊かさ」は、入試頻出論点である「高度消費社会」に関連しています。

 そこで、高度消費社会に関する必読論考、入試頻出論考である「好きなこととは何か?」(『暇と退屈の倫理学』國分功一郎)の重要部分を以下に引用します。

 ぜひ、熟読してください。

 

「  最近他界した経済学者ジョン・ガルブレイス[1908~2006]は、20世紀半ば、1958年に著した『豊かな社会』でこんなことを述べている。

 現代人は自分が何をしたいのかを自分で意識することができなくなってしまっている。広告やセールスマンの言葉によって組み立てられて初めて自分の欲望がはっきりするのだ。自分が欲しいものが何であるのかを広告屋に教えてもらうというこのような事態は、19世紀の初めなら思いもよらぬことであったに違いない。

 経済は消費者の需要によって動いているし動くべきであるとする「消費者主権」という考えが長く経済学を支配していたがために、自分の考えは経済学者たちから強い抵抗にあったとガルブレイスは述べている。つまり、消費者が何かを必要としているという事実(需要)が最初にあり、それを生産者が感知してモノを生産する(供給)、これこそが経済の基礎であると考えられていたというわけだ。

 ガルブレイスによれば、そんなものは経済学者の思い込みに過ぎない。だからこう指摘したのである。高度消費社会ーー彼の言う「豊かな社会」ーーにおいては、供給が需要に先行している。いや、それどころか、供給側が需要を操作している。つまり、生産者が消費者に「あなたが欲しいのはこれなんですよ」と語りかけ、それを買わせるようしている、と。

 今となってはガルブレイスの主張は誰の目にも明らかである。消費者の中で欲望が自由に決定されるなどとは誰も信じてはいない。欲望は生産に依存する。生産は生産によって満たされるべき欲望をつくり出す。

 ならば、「好きなこと」が、消費者の中で自由に決定された欲望に基づいているなどとは到底言えない。私の「好きなこと」は、生産者が生産者の都合のよいように、広告やその他手段によって創り出されているかもしれない。もしそうでなかったら、どうして日曜日にやることを土曜日にテレビで教えてもらったりするだろうか? どうして趣味をカタログから選び出したりするだろうか?

 こう言ってもいいだろう。「豊かな社会」、すなわち、余裕のある社会においては、確かにその余裕は余裕を獲得した人々の「好きなこと」のために使われている。しかし、その「好きなこと」とは、願いつつもかなわなかったことではない。

 問題はこうなる。そもそもわたしたちは、余裕を得た暁にかなえたい何かなど持っていたのか?

 すこし視野を広げてみよう。

 20世紀の資本主義の特徴の一つは、文化産業と呼ばれる領域の巨大化にある。20世紀の資本主義は新しい経済活動の領域として文化を発見した。

 もちろん文化や芸術はそれまでも経済と切り離せないものだった。芸術家だって霞を食って生きているわけではないのだから、貴族から依頼を受けて肖像画を描いたり、曲を作ったりしていた。芸術が経済から特別に独立していたということはない。

 けれども20世紀には、広く文化という領域が大衆に向かって開かれるとともに、大衆向けの作品を操作的に作りだして大量に消費させ利益を得るという手法が確立された。そうした手法に基づいて利益を挙げる産業を文化産業と呼ぶ。

 文化産業については膨大(ぼうだい)な研究があるが、その中でも最も有名なものの一つが、マックス・ホルクハイマー[1895~1973]とテオドール・アドルノ[1903~1969]が1947年に書いた『啓蒙の弁証法』である。

 アドルノとホルクハイマーはこんなことを述べている。文化産業が支配的な現代においては、消費者の感性そのものがあらかじめ製作プロダクションのうちに先取りされている。

 どういうことだろうか? 彼らは哲学者なので、哲学的な概念を用いてこのことを説明している。すこし噛み砕いて説明してみよう。

 彼らが利用するのは、18世紀ドイツの哲学者カント[1724~1804]の哲学だ。カントは人間が行う認識という仕組みがどうして可能であるのかを考えた。どうやって人間は世界を認識しているのか? 人間はあらかじめいくつかの概念をもっている、というのがカントの考えだった。人間は世界をそのまま受け取っているのではなくて、あらかじめもっていた何らかの型(概念)にあてはめて理解しているというわけだ。

 たとえば、たき火に近づけば熱いと感じる。このときひとは、「炎は熱いから、それに近づくと熱いのだ」という認識を得るだろう。この「から」にあたるのが、人間があらかじめもっている型(概念)だ。この場合には、原因と結果を結びつける因果関係という概念である。因果関係という型があらかじめ頭の中にあるからこそ、ひとは「炎は熱いから、それに近づくと熱いのだ」という認識を得られる。

 もしもこの概念がなければ、たき火が燃えているという知覚と、熱いという感覚とを結びつけることができない。単に、「ああ、たき火が燃えているなぁ」という知覚と、「ああ、なんか顔が熱いなぁ」という感覚があるだけだ。

 人間は世界を受け取るだけでない。それらを自分なりの型にそって主体的にまとめ上げる。18世紀の哲学者カントはそのように考えた。そして、人間にはそのような主体性が当然期待できるのだと、カントはそう考えていた。

 アドルノとホルクハイマーが言っているのは、カントが当然と思っていたこのことが、いまや当然ではなくなったということだ。人間に期待されていた主体性は、人間によってではなく、産業によってあらかじめ準備されるようになった。産業は主体が何をどう受け取るのかを先取りし、受け取られ方の決められたものを主体に差し出している。

 もちろん熱いモノを熱いと感じさせないことはできない。白いモノを黒に見せることもできない。当然だ。だが、それが熱いとか白いとかではなくて、「楽しい」だったらどうだろう? 「これが楽しいってことなのですよ」というイメージとともに、「楽しいもの」を提供する。たとえばテレビで、或る娯楽を「楽しむ」タレントの映像を流し、その次の日には、視聴者に金銭と時間を使ってもらって、その娯楽を「楽しんで」もらう。わたしたちはそうして自分の「好きなこと」を獲得し、お金と時間を使い、それを提供している産業が利益を得る。

 「好きなこと」はもはや願いつつもかなわなかったことではない。それどころか、そんな願いがあったかどうかも疑わしい。願いをかなえられる余裕を手にした人々が、今度は文化産業に「好きなこと」を与えてもらっているのだから。

 ならば、どうしたらいいのだろうか?

 いまアドルノとホルクハイマーを通じて説明した問題というのは決して目新しいものではない。それどころか、大衆社会を分析した社会学の本には必ず書かれているであろう月並みなテーマだ。だが本書は、この月並みなテーマを取り上げたいのである。

 資本主義の全面展開によって、少なくとも先進国の人々は裕福になった。そして暇を得た。だが、暇を得た人々は、その暇をどう使ってよいのか分からない。何が楽しいのか分からない。自分の好きなことが何なのか分からない。 

 そこに資本主義がつけ込む。文化産業が、既成の楽しみ、産業に都合のよい楽しみを人々に提供する。かつては労働者の労働力が搾取されていると盛んに言われた。いまでは、むしろ労働者の暇が搾取されている。高度情報化社会という言葉が死語となるほどに情報化が進み、インターネットが普及した現在、この暇の搾取は資本主義を牽引する大きな力である。

(「『好きなこと』とは何か?」国分功一郎『暇と退屈の倫理学』)

 

 

(4)原研哉氏の紹介

 

デザイナー。1958年生まれ。

「もの」のデザインと同様に「こと」のデザインを重視して活動中。

 2000年に「RE-DESIGN─日常の21世紀」という展覧会を制作し、何気ない日常の文脈の中にこそ驚くべきデザインの資源があることを提示した。

 2002年に無印良品のアドバイザリーボードのメンバーとなり、アートディレクションを開始する。長野オリンピックの開・閉会式プログラムや、 2005年愛知万博の公式ポスターを制作するなど日本の文化に深く根ざした仕事も多い。

 2007年、2009年にはパリ・ミラノ・東京で「TOKYO FIBER─SENSEWARE展」を、2008年から2009年にかけては「JAPAN CAR展」をパリとロンドンの科学博物館で開催するなど、産業の潜在力を展覧会を通して可視化し、広く世界に広げていく仕事に注力している。

 2011年には北京を皮切りに「DESIGNING DESIN 原研哉2011中国展」を巡回するなど、活動の幅をアジアへと拡大。

 著書「デザインのデザイン」や「白」はアジア各国語版をはじめ多言語に翻訳されている。

 

 日本デザインセンター代表取締役。武蔵野美術大学教授。日本デザインコミッティー理事長。日本グラフィックデザイナー協会副会長。原デザイン研究所。 

 


【著作】

『ポスターを盗んでください』(新潮社、1995)

『マカロニの穴のなぞ』(朝日新聞社、2001/のちに文庫) 『デザインのめざめ』(河出書房新社、2014)

『原研哉』(ギンザ・グラフィック・ギャラリー〈ggg Books〉2002)

『デザインのデザイン』(岩波書店、2003)

『FILING─混沌のマネージメント』(宣伝会議、2005)

『TOKYO FIBER'07 SENSEWARE』(朝日新聞社、2007)

『デザインのデザイン Special Edition』(岩波書店、2007)

『白』(中央公論新社、2008)

『ポスターを盗んでください+3』(平凡社、2009)

『日本のデザイン - 美意識がつくる未来』(岩波書店〈岩波新書〉2011)

『デザインのめざめ』 (河出書房新社〈河出文庫〉2014)

『HOUSE VISION 2 CO-DIVIDUAL 分かれてつながる/離れてあつまる』 (美術出版社、2016)

『Ex-formation』(平凡社、2017)

『百合』 (中央公論新社、2018)

『白・百合(2冊セット)』(中央公論新社 、2018)

 

 

白

 

 

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(4)当ブログにおける「日本文化論」・「日本人論」・「伝統文化の見直し・再評価」関連記事の紹介

 

 

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ーーーーーーーー

 

 今回の記事は、これで終わりです。

 次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

 ご期待ください。

  

   

 

 

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

 

 

5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

 

 

 私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。

https://twitter.com/gensairyu 

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予想問題/「最後の一句」森 鷗外/早大国際教養学部過去問

(1)小説問題を得意分野にしよう

 

【1】なぜ、小説問題は不得意分野になりやすいのか?→問題点

 

 浪人生に敗因を聞くと、センター試験でも、難関大学入試でも、小説問題が敗因だったという声が多いことに驚きます。

 確かに、小説問題は、国語(現代文)の中でも特に解きにくい側面があります。

 

 主観的文章を客観的に読解・分析する作業は、日常的に慣れている精神的活動ではありません。

 しかし、この作業は、「設問に寄り添って考えること」、「筆者の立場に立ち、筆者の心情に寄り添えばよい」だけです。

 「この作業」に「慣れ」さえすれば、よいのです。

 ただ、この作業の手順マニュアルは、あまり普及していないようです。

 

 その理由として考えられるのは、大学受験の現場に蔓延中の「主体的な読み」という、受け狙いの、悪質な、キャッチコピーです。

 主体的に読むのは当然です。わざわざ言うことではない、無意味な言葉です。

 この「キャッチコピー」の受け手側の誤解が、「客観的読解軽視」、「設問軽視」の元凶でしょう。

 問題は、「主体的な読み」という受験界の神話から、いかに脱却するか、でしょう。

 

 ここで問題にしているのは、一部の、大衆受けを狙う指導者、解説書、組織がこの神話を大々的に掲げていることです。

 このキャッチコピーが、ある程度の支持を得ているということは、過度の「個性重視」・「アイデンティティ重視」という歪んだ世間の風潮が背景にあるのでしょうか。

 

 ともあれ、少し工夫することで、つまり、対策を意識することで、小説問題を得意分野にすることが、可能です。

 あきらめないことが肝心です! 

 

 入試本番では、平均点が5割前後になるように、基礎的・標準的問題を多くしているのです。

 その点で、受験生に親切な問題とも言えるのです。

 受験生の実力を信用していないとも言えますが。

 


【2】小説問題が不得意分野になりやすい理由と、その対策

 

①苦手意識→その対策

 

 小説問題に苦手意識を持っている受験生が多いようです。

 固い内容の小説自体に苦手意識を持っているのでしょう。

 日常的に固い内容の小説を敬遠していることと、高校の指導方法・教科書に問題があるようです。

 高校において、固い内容の小説の読解の時間が少なすぎるのではないでしょうか。

 対策としては、日頃から意識して、娯楽小説・エンターテイメント小説以外の小説を読むようにするとよいでしょう。


②解説書、指導者の問題点→その対策

 

 小説問題は、それほどハイレベルではありません。

 私は、問題は解説書と指導者にあるように感じています。

 つまり、不必要に複雑化して解説している解説書が、「小説問題は案外とハイレベル」「小説問題は悪問が多い」という風潮を助長している感じです。

 そして、自分で考えることをしないで、それを参考にしている指導者が、そのような風潮を助長しているように思います。

 受験生レベルでも、問題を熟読して自分で考えると、基礎的問題が多いことが分かるはずです。

 従って、複雑化の著しい解説に出会った時には、解説書を疑うことも必要だと思います。

 本番の小説問題で、無意味に複雑な設問は一度も出題されたことはないのですから。

 
③模擬問題・模擬試験問題の問題点→その対策

 

 小説問題の演習は過去問のみにするべきです。

 模擬問題はレベル・内容の点から、やらない方が賢明です。

 模試は時間内にやる訓練のみに有効です。

 自分にとって分かりにくい設問を飛ばす訓練のために。

 時間が余ったら、飛ばした問題をやり直してみるのです。

 模擬試験の小説問題の復習は、単語チェックくらいにしてください。

 丁寧な復習は時間の無駄です。

 

 過去問は直近から遡り、最近の傾向を知るとよいでしょう。

 最近は、見事に易化しているのです。

 特に、小説問題は、平易になっています。

 生徒のレベル低下に合わせて、一定の平均点を確保するためだと思われます。


 ちなみに、生徒のレベル低下は、小・中・高の国語の授業時間数の低下に関連しています。

 今の受験生は「ゆとり教育」・「総合学習」等という、基礎学科の授業時間を減少する、バカバカしい「教育実験」の犠牲者になっています。

 「教育の場」での「実験」は、生徒にとって迷惑でしか、ありません。

 生徒の親等は、積極的に反対の声を上げるべきでしょう。

 国民レベルの議論も必要でしょう。


 現代文問題、特に小説問題は、時間が壁になっています。

 しかし、論理的に効率的に処理すれば満点も可能なのです。

 あきらめないことが肝心です! 

 


 (2)小説問題解法のポイント・注意点

 

 小説問題は毎年、一定の割合で出題されます。

 特に、文学部では頻出です。

 また、難関国公立・私立大学の小論文の課題文として、出題されることもあります。

 

 小説問題については、「解法(対策)を意識しつつ、慣れること」が必要となります。

 本来、小説は、一文一文味わいつつ読むべきです。

 国語自体が本来は、そういうものです。

 が、これは入試では、時間の面でも、解法の方向でも、有害ですらあります。

 あくまで、設問(そして、選択肢)の要求に応じて、主観的文章を設問の要求に応じて、純客観的に分析しなくてはならないのです。

 小説を純客観的に分析すること。

 これ自体がパラドックスですが、入試問題の性質上、仕方がないのです。

 

 この点で、案外、読書好きの受験生が、この種の問題に弱いのです。

 ただ、読書好きの受験生は、語彙力があるので、あとは、問題対応力を養成すればよいのです。

 それほど心配する必要はありません。

 「入試問題の要求にいかに合わせていくか」という方法論を身に付けること、つまり、小説問題に、「正しく慣れる」ことで、得点力は劇的にアップするのです。

 そこで、次に、「小説問題の解法のポイント」をまとめておきます。

 

 
【1】5W1H(つまり、筋)の正確な把握

 

① 誰が(Who)     人物

 

② いつ(When)     

 

③ どこで(Where) 場所

 

④ なぜ(Why)   理由→これが重要

 

 理由の記述は、必ず傍線部の近くにあるので、心配する必要はありません。

 小説家としても、「ある行為・心理の理由」を説得力豊かに、リアリティを感じさせるように記述することは、腕の見せ所なのです。

 従って、「理由の記述」は、傍線部の近くにあるものなのです。

 このことは、覚えておくべきことです。

 

⑤ なにを(What)    事件

 

⑥ どうした(How) 行為

 

 上の①~⑥は、必ずしも、わかりやすい順序で書いてあるとは限りません。

 読む側で、一つ一つ確認していく必要があります。

 特に、④の「なぜ(理由)」は、入試の頻出ポイントなので、注意してチェックすることが大切です。

 

【2】人物の心理・性格をつかむ

 

① 登場人物の心理は、その行動・表情・発言に、にじみ出ているので、軽く読み流さないようにする。

② 情景描写は、登場人物の心情を暗示的・象徴的に提示している場合が多いということを、意識して読む。

③ 心理面に重点を置いて、登場人物相互間の人間関係を押さえていく。

④ 登場人物の心理を推理する問題が非常に多い。

 その場合には、受験生は自分をその人物の立場に置いて、インテリ的に(真面目に、さらに言えば、人生重視的に)、一般的に、考えていくようにする。

⑤ 心理は、時間とともに流動するので、心理的変化は丁寧に追うようにする。

⑥ 気持ちを表している部分に傍線を引く。

 登場人物の心情を記述している部分に、薄く傍線を引きながら本文を読むことが大切です。

 

 以上を元に、『最後の一句』(森 鷗外)(早大国際教養学部過去問)を題材にして、「いかに小説問題を解いていくか」を、以下で解説していきます。

 なお、森 鷗外は、入試頻出著者です。

 

 

教科書で読む名作 高瀬舟・最後の一句ほか (ちくま文庫)

教科書で読む名作 高瀬舟・最後の一句ほか (ちくま文庫)

 

 

 

 (3)予想問題/『最後の一句』(森 鷗外)/早大国際教養学部過去問

 


(問) 2年前、逃亡した使用人の巻き添えで捕らえられた船乗り業桂屋の主人太郎兵衛の処刑が行われる2日前、太郎兵衛の長女のいち(16歳)は、自分ら子供たちを身代わりにした父の助命嘆願を思いつく。助命嘆願処を一晩かけて書き上げ、翌朝、母には内緒で、妹のまつ(14歳)、とく(8歳)、跡取り養子の長太郎(12歳)、弟初五郎(6歳)とともに、西町奉行に願い出る。願いは却下され、引き下げられるが、願書の文面のしっかりしていることに不審をおぼえた西町奉行の佐佐は、翌日、拷問の道具を揃え、改めて子供5名を取り調べることとする。その朝。いちの取り調べからはじまる次の文を読んで、あとの問いに答えよ。

 

 次に長女いちが調べられた。当年十六歳にしては、少し穉(おさな)く見える、痩肉(やせじし)の小娘である。しかしこれは些(ちと)の臆(おく)する気色もなしに、一部始終の陳述をした。およそ前日来経歴した事を問われるままに、はっきり答えた。

「それではまつの外には誰にも相談はいたさぬのじゃな」と、取調役(とりしらべやく)が問うた。

「誰にも申しません。長太郎にも精(くわ)しい事は申しません。お父っさんを助けて戴(いただ)く様に、お願いしに往(ゆ)くと申しただけでございます。お役所から帰りまして、年寄衆(としよりしゅう)のお目にかかりました時、わたくし共四人の命を差し上げて、父をお助け下さるように願うのだと申しましたら、長太郎が、それでは自分も命が差し上げたいと申して、とうとうわたくしに自分だけのお願書(ねがいしょ)を書かせて、持ってまいりました。」

 いちがこう申し立てると、長太郎が懷ろから書付(かきつ)けを出した。

 取調役の指図で、同心が一人長太郎の手から書付けを受け取って、縁側に出した。

 取調役はそれを披(ひら)いて、いちの願書と引き比べた。いちの願書は町年寄(まちどしより)の手から、取り調べの始まる前に、出させてあったのである。

 長太郎の願書には、自分も姉や弟妹と一緒に、父の身代わりになって死にたいと、前の願書と同じ手跡で書いてあった。

 取調役は「まつ」と呼びかけた。しかしまつは呼ばれたのに気が付かなかった。いちが「お呼びになったのだよ」と言った時、まつは始めておそるおそる項垂(うなだ)れていた頭(こうべ)を挙(あ)げて、縁側の上の役人を見た。

〔 a 〕」と、取調役が問うた。

 まつは「はい」と言って頷(うなず)いた。

 次に取調役は「長太郎」と呼び掛けた。

 長太郎はすぐに「はい」と言った。

〔 b 〕

「みんな死にますのに、わたしが一人生きていたくはありません」と、長太郎ははっきり答えた。

「とく」と取調役が呼んだ。とくは姉や兄が順序に呼ばれたので、こん度は自分が呼ばれたのだと気が付いた。そして只(ただ)目を睜(みは)って役人の顔を仰ぎ見た。 

〔 c 〕

 とくは黙って顔を見ているうちに、唇に血色がなくなって、目に涙が一ぱい溜まってきた。

「初五郎」と取調役が呼んだ。

 ようよう六歳になる末子の初五郎は、これも黙って役人の顔を見たが、「〔 d 〕」と問われて、活発にかぶりを振った。書院の人々は覚えず、それを見て微笑(ほほえ)んだ。

 この時佐佐が書院の敷居際(しきいぎわ)まで進み出て、「いち」と呼んだ。

「はい。」

「お前の申し立てには嘘はあるまいな。もし少しでも申した事に間違いがあって、人に教えられたり、相談をしたりしたのなら、今すぐに申せ。隠して申さぬと、そこに並べてある道具で、誠の事を申すまで責めさせるぞ。」佐佐は責道具のある方角を指さした。

 いちはさされた方角を一目見て、少しもたゆたわずに、「いえ、申した事に間違いはございません」と言い放った。その目は冷ややかで、そのことばは徐(しず)かであった。

「そんなら今一つお前に聞くが、身代わりをお聞き届けになると、お前たちはすぐに殺されるぞよ。父の顔を見ることは出来ぬが、それでも好いか。」

「よろしゅうございます」と、同じような、冷ややかな調子で答えたが、少し間を置いて、 1  何か心に浮かんだらしく、「お上の事には間違いはございますまいから」と言い足した。

 佐佐の顔には、不意打ちに逢ったような、驚愕(きょうがく)の色が見えたが、それはすぐに消えて、険しくなった目が、いちの面(おもて)に注がれた。〔 e 〕とでも言おうか。しかし佐佐は何も言わなかった。

 次いで佐佐は何やら取調役にささやいたが、間もなく取調役が町年寄に、「御用が済んだから、引き取れ」と言い渡した。

 白州(しらす)を下がる子供等を見送って佐佐は太田と稲垣とに向いて、「生先(おいさき)の恐ろしいものでござりますな」と言った。心の中には、哀(あわ)れな孝行娘の影も残らず、人に教唆(きょうさ)せられた、おろかな子供の影も残らず、只氷のように冷ややかに、刃(やいば)のように鋭い、いちの最後の言葉の最後の一句が反響しているのである。元文頃の徳川家の役人は、固(もと)より「マルチリウム」という洋語も知らず、又当時の辞書には献身という訳語もなかったので、人間の精神に、老若男女の別なく 2  罪人太郎兵衛の娘に現われたような作用があることを、知らなかったのは無理もない。しかし献身の中に潜む〔 f 〕の鋒(ほこさき)は、いちと語(ことば)を交えた佐佐のみではなく、書院にいた役人一同の胸をも刺した。

 

(出典)『最後の一句』森 鷗外

 

ーーーーーーーー

 

(設問)

問1 空欄 a~d には、それぞれ次の取調役の問いかけのうちの一つが入る。最適なものを次の中から選べ。

 

ア お前も死んでもいいのか

イ お前は姉と一緒に死にたいのだな

ウ お前はどうじゃ、死ぬるのか

エ お前は書付に書いてあるとおりに、兄弟一緒に死にたいのじゃな

 

問2 傍線部 1 「何か心に浮かんだ」とあるが、その内容として最適なものを次の中から選べ。

 

ア 近いうちに特赦が行われるという噂を思い出し、それを守ってもらいたいという気持ちが頭をもたげた。

イ そもそも父への罪科が使用人の罪に巻き添えになったもので、死罪は不当だという気持ちが頭をよぎった。

ウ 死んだ後のことを、お上に確認をとっておいたほうが安心だという気持ちが頭をもたげた。

エ ことによれば自分たちの死後、お上が約束を守らないのではないかという不安が頭をよぎった。

オ もうすでに父は殺害されているのでは、という不安が頭をよぎった。

 

問3 空欄 e に入る最適な語句を次の中から選べ。

 

ア 驚愕にみちた好奇の目

イ 憎悪を帯びた驚異の目

ウ 慈愛を漂わせた畏敬の目

エ 驚異に染まった懐疑の目

オ 疑念を帯びた不審の目

 

問4 傍線部 2 「罪人太郎兵衛の娘に現われたような作用」とあるが、その内容を示す語として最適なものを次の中から選べ。

 

ア 博愛  イ人権意識  ウ 平等  エ 孝行  オ 自己犠牲

 

問5 空欄 f に入る最適な語を次の中から選べ。

 

ア 反抗   イ 自恃(じじ)   ウ 悲哀   エ 逆説   オ 革命

 

ーーーーーーーー

 

(解説・解答)

 

【 小説問題の具体的解法 】 

【1】本文熟読の前に、先に、本文以外の、本文のリード文・設問・本文の「注」などをチェックして設問の全体像を把握する。

 小説問題を効率的に解くための1つ目のコツは、本文を読む前に本文以下の、本文のリード文・設問・本文の「注」に目を通すことです。

 すぐにこれらに目を通し、「何を問われているか」を押さえてください。

 「設問で問われていること」を意識しつつ、本文を読むことで、時間を短縮化することができます。

→今回の問題は、空欄補充問題が半分以上です。

 従って、本文の精読が必要不可欠です。

 
【2】消去法を、うまく使う

 小説問題の選択肢は、明白な傷のある選択肢が多いので、消去法を駆使していくことで、効率的に処理することが可能です。

 
 【3】空欄補充問題、傍線部説明問題については、空欄補充問題、傍線部が含まれている文にも、注目す

→今回の問題でも、同じです。

 このことは、案外と盲点になっているようです。

 

 

問1(空欄補充問題)

 a ~ d の選択肢の微妙な差異に留意してください。

 その差異が解答のポイントになっています。

 

a 最初は長女いちが調べられています。

  次に、「取調役は『まつ』 (→次女)と呼びかけた」のですから、「お前は姉と一緒に死にたいのだな」(イ)が入ります。

 

b  空欄直後に注目してください。

「『みんな死にますのに、わたしが一人生きていたくはありません』と、長太郎ははっきり答えた。」

より、「お前は書付に書いてあるとおりに、兄弟一緒に死にたいのじゃな」(エ)が入ります。

 

c  空欄の直前・直後の、

「  次に取調役は『長太郎』と呼び掛けた。

 長太郎はすぐに『はい』と言った。

〔 b 〕

みんな死にますのに、わたしが一人生きていたくはありません』と、長太郎ははっきり答えた。」

を受けて、「お前も死んでもいいのか」(ア)が入ります。

 

d  残った「お前はどうじゃ、死ぬるのか」(ウ)が入ります。

  前後の文脈とも整合しています。

 

(解答) a=イ  b=エ  c=ア  d=ウ

 

問2(傍線部説明問題) 

 傍線部 1 「何か心に浮かんだ」の直前の、

『そんなら今一つお前に聞くが、身代わりをお聞き届けになると、お前たちはすぐに殺されるぞよ。父の顔を見ることは出来ぬが、それでも好いか。』

『よろしゅうございます』と、同じような、冷ややかな調子で答えたが、少し間を置いて」と、

傍線部直後の、

『お上の事には間違いはございますまいから』と言い足した。

に注目してください。

 

「お上の事には間違いはございますまいから」には、「皮肉」と「反抗」が含まれています。

 

 このことは、本文最終部分の、

 「白州(しらす)を下がる子供等を見送って佐佐は太田と稲垣とに向いて、『生先(おいさき)の恐ろしいものでござりますな』と言った。心の中には、哀(あわ)れな孝行娘の影も残らず、人に教唆(きょうさ)せられた、おろかな子供の影も残らず、只氷のように冷ややかに、刃(やいば)のように鋭い、いちの最後の言葉の最後の一句が反響しているのである。元文頃の徳川家の役人は、固(もと)より「マルチリウム」という洋語も知らず、又当時の辞書には献身という訳語もなかったので、人間の精神に、老若男女の別なく 2 罪人太郎兵衛の娘に現われたような作用があることを、知らなかったのは無理もない。しかし献身の中に潜む〔 f 〕の鋒(ほこさき)は、いちと語(ことば)を交えた佐佐のみではなく、書院にいた役人一同の胸をも刺した。」

からも明らかです。


 「お上の事には間違いはございますまいから」は、「お上のことは絶対」という発想が常識だった時代の、「いち」が言える最大限の皮肉です。


 なぜ、このような皮肉を言ったのでしょうか?

 本来、父は「逃亡した使用人の巻き添えで捕らえられた」のです。

 はたして、父は死罪に値する罪を犯したのか?

 丁寧な吟味をしたのか?

 

 この点は、大いに疑問です。

 しかし、当時では、この疑問を晴らす手段はありません。

 たとえ、いい加減な判断でも、その判断は絶対なのです。

 それゆえに、この最後の一句に、いちは自分の覚悟をこめるしかなかったのでしょう。

 彼女の内面では、自分たちの「死」は確定しています。

 ただ、心配な事は取調役たちが、この覚悟と引き換えになっている約束(父の助命)を遂行してくれるか、という点です。

 この点を冷徹に確認しているのです。

 

(解答) イ

 

問3(空欄補充問題)

 空欄直前の

 「佐佐の顔には、不意打ちに逢ったような、驚愕(きょうがく)の色が見えたが、それはすぐに消えて、険しくなった目が、いちの面(おもて)に注がれた

に着目してください。

 イの「憎悪」がポイントになります。


(解答) イ

 

問4(傍線部説明問題)

 傍線部を含む

「元文頃の徳川家の役人は、固(もと)より『マルチリウム』という洋語も知らず、又当時の辞書には献身という訳語もなかったので、人間の精神に、老若男女の別なく 2 罪人太郎兵衛の娘に現われたような作用 があることを、知らなかったのは無理もない。しかし献身の中に潜む〔 f 〕の鋒(ほこさき)」

の文脈に注意してください。

 傍線部は、「献身」の言い換えになっているのです。


(解答) オ


問5(空欄補充問題)

  まず、空欄を含む一文

「献身の中に潜む f 〕の鋒(ほこさき)は、いちと語(ことば)を交えた佐佐のみではなく、書院にいた役人一同の胸をも刺した」に注目する必要があります。


 次に、傍線部 1 を含む部分、

「『よろしゅうございます』と、同じような、冷ややかな調子で答えたが、少し間を置いて、 1 何か心に浮かんだ らしく、『お上の事には間違いはございますまいから』と言い足した。

 佐佐の顔には、不意打ちに逢ったような、驚愕(きょうがく)の色が見えたが、それはすぐに消えて、険しくなった目が、いちの面(おもて)に注がれた〔 e=憎悪を帯びた驚異の目 〕とでも言おうか。しかし佐佐は何も言わなかった。」

に注目するとよいでしょう。


(解答) ア

 

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[オーディオブックCD] 最後の一句・高瀬舟(CD2枚)

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この小説の結末は以下のようになっています。

 

「  城代(じょうだい)も両奉行もいちを「変な小娘だ」と感じて、その感じには物でも憑(つ)いているのではないかという迷信さえ加わったので、孝女に対する同情は薄かったが、当時の行政司法の、元始的な機関が自然に活動して、いちの願意は期せずして貫徹した。桂屋太郎兵衛の刑の執行は、「江戸へ伺中(うかがいちゅう)日延(ひのべ)」ということになった。これは取り調べのあった翌日、十一月二十五日に町年寄(まちどしより)に達せられた。次いで元文四年三月二日に、「京都において大嘗会(だいじょうえ)御執行相成り候(そろ)てより日限(にちげん)も相立たざる儀につき、太郎兵衛事、死罪御赦免仰せいだされ、大阪北、南組、天満(てんま)の三口御構(くちおかまい)の上追放」ということになった。桂屋の家族は、再び西奉行所に呼び出されて、父に別れを告げることができた。大嘗会というのは、貞享(じょうきょう)四年に東山天皇の盛儀があってから、桂屋太郎兵衛の事を書いた高札(こうさつ)の立った元文三年十一月二十三日の直前、同じ月の十九日に五十一年目に、桜町天皇が挙行したもうまで、中絶していたのである。

 

 

最後の一句・山椒大夫ほか (読んでおきたい日本の名作)

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 (4)当ブログにおける「小説問題」関連記事の紹介

 

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 ーーーーーーーー

 

 今回の記事は、これで終わりです。

 次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

 ご期待ください。

 

 

  

 

 

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朗読CD 朗読街道(7)鼻・最後の一句 芥川龍之介、森鴎外

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

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5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

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予想問題/『陰翳礼讃』谷崎潤一郎/2014早大政経過去問

(1)なぜ、この記事を書くのか?→擬古文・文語文を得意分野にしよう。

 

 大学入試現代文(国語)・小論文における、擬古文(および、擬古文的な、一時代前の読みにくい文章、文語文)の出題率は、決して低下していません。

 むしろ、最近では、じわじわ増加しています。

入試頻出分野と言えます。

 最近では、2013年のセンター試験で、小林秀雄氏の「鐔」が出題され、この問題に対して、「一時代前の文章で読みにくく、問題として不適切ではないか」という批判がありました。

 この種の意見は、難関国公立・私立大の入試の実態を知らない人々から出された、ある意味で無責任なものです。

 受験生としては、冷静に、正確な入試の情報を入手して、合理的で、賢明な対応をとるべきです。

 

【 最近の、擬古文・文語文の出題状況 】

 

① センター試験

1991ー夏目漱石「道草」

1997ー島崎藤村「夜明け前」

2004ー森鴎外「護持院原の敵討」 

2008ー夏目漱石「彼岸過迄」

2013ー小林秀雄「鐔」

 

② 難関国公立・私立大(一部です) 

東北大ー岡本かの子、横光利一、

一橋大ー中江兆民、福沢諭吉、津田左右吉、

京都大ー岡倉天心、福地桜痴、西田幾多郎、福沢諭吉、永井荷風、

大阪大ー柳田国雄、永井荷風、岡本かの子、中島敦、

広島大ー久米正雄、

早稲田大(政経)ー高村光太郎、夏目漱石、木下杢太郎、岡本綺堂、正岡子規、

早稲田大(文化構想)ー北村透谷、南方熊楠、

早稲田大(国際)ー夏目漱石、森鴎外、二葉亭四迷、

上智大(法)ー津田左右吉、夏目漱石、

上智大(経済)ー坪内逍遙、福沢諭吉、夏目漱石、徳富蘆花、中江兆民、

上智大(文)ー幸田露伴、

中央大(法)ー穂積陳重、夏目漱石、吉野作造、

明治大(法)ー安部磯雄、幸田露伴、穂積陳重、

立教大(文)ー安部次郎、葉山嘉樹、

法政大ー梶井基次郎、柳宗悦、

立命館大ー長谷川如是閑、

 

 以上は、最近、出題された例の、ほんの一部です。

 上記の、東北大、一橋大、京都大、大阪大、広島大、早稲田大(政経)(文化構想)(国際)、上智大(法)(経済)(文)、中央大(法)、明治大(法)、立教大(文)、法政大、立命館大などを目指す受験生が、擬古文・文語文問題対策をするべきなのは当然です。

 また、それまで擬古文・文語文を出題しなかった大学・学部が、突然、擬古文を出題することも、よくあります。

 従って、油断は禁物です。

 

 いかにも読みにくい擬古文・文語文は、頻繁に出題されているのです。

 現代文の引用文が擬古文・文語文という問題も、頻出です。

 よって、なるべく早く、擬古文・文語文対策をとることが大切だと思います。

 

 なお、擬古文・文語文対策をやっておくと、漢文・古文(特に、江戸時代)の文章読解、古文・漢文の漢字・単語問題(読み問題・意味問題)にも、かなり、役に立ちます。


 なお、今回の項目は以下の通りです。

 今回の記事は、約1万字です。

 

(2)予想問題/『陰翳礼讃』谷崎潤一郎/2014年早稲田大政経・過去問

(3)補充解説

(4)擬古文・文語文対策ー擬古文・文語文解法のポイント・注意点

(5)当ブログにおける「擬古文・文語文」関連記事

 

 

陰翳礼讃・文章読本 (新潮文庫)

陰翳礼讃・文章読本 (新潮文庫)

 

 

 

(2)予想問題/『陰翳礼讃』谷崎潤一郎/2014年早稲田大政経・過去問

 

(問題文本文)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です) 


(問)次の文章は、谷崎潤一郎が自宅を新築したときの体験をふまえて1933(昭和8年)に書いた『陰翳礼讃』の一節である。現在から判断すると、時代的な制約をもった記述も含まれるが、日本建築の独自性を厠(かわや)(便所)に見いだして論じたユニークな文章である。これ読んで、あとの問いに答えよ。


 私は、京都や奈良の寺院へ行って、昔風の、うすぐらい、そうしてしかも掃除の行き届いた厠へ案内される毎に、つくづく 1 日本建築の有難みを感じる。茶の間もいいにはいいけれども、日本の厠は実に精神が安まるように出来ている。それらは必ず母屋(おもや)から離れて、青葉の匂や苔の匂のして来るような植え込みの蔭に設けてあり、廊下を伝わって行くのであるが、そのうすぐらい光線の中にうずくまって、ほんのり明るい障子の反射を受けながら瞑想に〔 A 〕り、または窓外の庭のけしきを眺める気持は、何とも云えない。漱石先生は毎朝便通に行かれることを一つの楽しみに数えられ、それは寧(むし)ろ生理的快感であると云われたそうだが、その快感を味わう上にも、閑寂な壁と、清楚な木目に囲まれて、眼に青空や青葉の色を見ることの出来る日本の厠ほど、恰好な場所はあるまい。そうしてそれには、繰り返して云うが、或る程度の薄暗さと、徹底的に清潔であることと、蚊の呻うなりさえ耳につくような静かさとが、必須の条件なのである。私はそう云う厠にあって、しとしとと降る雨の音を聴くのを好む。殊に関東の厠には、床に細長い掃き出し窓がついているので、軒端 や木の葉からしたたゝり落ちる点滴が、石燈籠の根を洗い飛び石の苔を湿おしつゝ土に沁み入るしめやかな音を、3 ひとしお 身に近く聴くことが出来る。まことに厠は虫の音によく、鳥の声によく、月夜にもまたふさわしく、四季おりおりの物のあわれを味わうのに最も適した場所であって、恐らく古来の俳人は此処から無数の題材を得ているであろう。されば日本の建築の中で、一番風流に出来ているのは厠であるとも云えなくはない。総(す)べてのものを詩化してしまう我等の祖先は、住宅中で何処よりも不潔であるべき場所を、〔 B 〕、雅致のある場所に変え、花鳥〔 C 〕月と結び付けて、なつかしい連想の中へ包むようにした。これを西洋人が頭から不浄扱いにし、公衆の前で口にすることをさえ忌むのに比べれば、我等の方が遙かに賢明であり、真に4 風雅の骨髄を得ている。強いて缺点を云うならば、母屋から離れているために、夜中に通うには便利が悪く、冬は殊に風邪を引く憂いがあることだけれども、「風流は寒きものなり」と云う斎藤緑雨の言の如く、ああいう場所は外気と同じ冷たさの方が気持がよい。ホテルの西洋便所で、スチームの温気がして来るなどは、まことにイヤなものである。ところで、数寄屋普請を好む人は、誰しもこう云う日本流の厠を理想とするであろうが、寺院のように家の廣い割りに人数が少く、しかも掃除の手が揃っている所はいいが、普通の住宅で、ああいう風に常に清潔を保つことは容易でない。取り分け床を板!張りや畳にすると、礼儀作法をやかましく云い、雑巾がけを 5 レイコウ しても、つい汚れが目立つのである。で、これも結局はタイルを張り詰め、水洗式のタンクや便器を取り附けて、浄化装置にするのが、衛生的でもあれば、手数も省けると云うことになるが、その代り「風雅」や「花鳥〔 C 〕 月」とは全く縁が切れてしまう。彼処がそんな風にぱっと明るくて、おまけに四方が真っ白な壁だらけでは、漱石先生のいわゆる生理的快感を、心ゆく限り享楽する気分になりにくい。〔 D 〕、隅から隅まで純白に見え渡るのだから確かに清潔違いないが、自分の体から出る物の落ち着き先について、そうまで念を押さずとものことである。いくら美人の玉の肌でも、お臀や足を人前へ出しては失礼であると同じように、ああムキ出しに明るくするのはあまりと云えば無躾(ぶしつけ)〔 E 〕、見える部分が清潔であるだけ見えない部分の連想を挑発させるようにもなる。やはりああいう場所は、もやもやとした薄暗がりの光線で包んで、何処から清浄になり、何処から不浄になるとも、けじめを朦朧(もうろう)とぼかして置いた方がよい。まあそんな訳で、私も自分の家を建てる時、浄化装置にはしたものの、タイルだけは一切使わぬようにして、床には楠(くすのき)の板を張り詰め、日本風の感じを出すようにしてみた。(『陰翳礼讃』谷崎潤一郎)

 

ーーーーーーーー

 

(設問)

問1 傍線部 1 「日本建築の有難みを感じる」の説明として最適なものを次の中から選べ。

イ 日本建築のすばらしさは厠においてきわまり、物のあわれを基本とする日本文化の美点がそこにすべて集約しているということ。
 
ロ 日本建築の魅力は寺院などの広い家において最もよく発揮されるものであり、普通の住宅でその魅力を取り入れられるのは厠くらいものだということ。

ハ 日本建築のよさを感ずるためには薄暗さと静寂さとを必要とするが、西洋の近代文明においては、いずれも求めがたい価値観だということ。

ニ 日本建築は薄暗くて不便で使い勝手がよいとはいえないが、その暗さにも精神のやすらぎと落ち着きとを与えてくれるものがあるということ。

ホ 日本建築の美しさは自然の中で森羅万象と融和のうちにあり、その最もよい例が厠のもたらす生理的快感であるということ。

 

問2 空欄Aには漢字1字が入る。次のイ~ホのカタカナ部分の中から、その漢字を含むものを一つ選べ。

イ 屋根からツイラクする。
ロ 飛行機が降下する。
ハ 趣味にタンノウする。
ニ 勉強にボットウする。
ホ 泥がチンデンする。

 

問3 傍線部 2 の漢字の読みをひらがなで、傍線部5のカタカナを漢字で、それぞれ記せ。

 

問4 傍線部 3 「ひとしお」の意味として最適なものを次の中から一つ選べ。

イ 一向   ロ 一興   ハ 一方   ニ 一度   ホ 一段

 

問5 空欄B・Dに入る最適な語句を、次の中から、それぞれ選べ。ただし、同じ語句は入らない。

イ ところで   ロ だから   ハ なるほど   ニ かえって   ホ したがって

 

問6 空欄C・Eに入る最適な漢字一字を、それぞれ記せ。


問7 傍線部 4 「風雅の骨髄」を筆者はどのようなものと考えているのか。最適なものを次の中から一つ選べ。

イ 不潔であるべきところを徹底的に美化して清潔にすること。

ロ すべてのものを詩化して現実の不浄から眼をそらせること。

ハ 公衆の前で口にするのもはばかれることを包み隠さないこと。

ニ 強いて欠点をも押し隠さずに痩せ我慢をして堪えること。

ホ 直接性をきらって何ごとも朦朧とぼかしてはっきりさせないこと。


問8 本文の趣旨と一致しないものを、次の中から一つ選べ。

イ 日本の近代化は西洋化でもあったけれど、建築においてもわが国独自のいいところがたくさんあるにもかかわらず、それらを十分に活かしきれておらず、もっとそうしたものを取り入れるようにすれば、私たちの感性に活かします適したものとなってゆくはずである。

ロ それぞれの国の文化は各国で培われてきた伝統的な背景があるので、それらをまったく無視して西洋文化をやみくもに模倣することで近代化を押し進めていったとしても、私たちの感覚になじまない白々しいものとなってしまうだけである。

ハ 厠といったものは最も人の眼から隠しておきたいもので、母屋から遠く離してつくるのが理想だが、寺院などの広い家ならばいざ知らず、普通の住宅ではそうもゆかないので、その代わりに浄化装置が取りつけられるようになった。

ニ 私たちは西洋から近代的な文明の利器を取り入れて、生活に物質的なゆとりと豊かさと利便性とを獲得してきたが、その代償として祖先から育まれてきた精神にやすらぎを与えるような伝統的な感性を失ってしまったといえる。

ホ 私たちの伝統的な文化においては最も人前をはばかる不浄なものを極力人前から遠ざけると同時に、自然のうちにそれを調和させるように心がけてきたが、清潔さを第一に求めるあまりに、近代以降そうした配慮も次第に失われてきている。

 

問9 谷崎潤一郎の作品を次の中から一つ選べ。

イ 刺青   ロ 草枕   ハ 或る女   ニ 夜明け前   ホ 暗夜行路

 

ーーーーーーーー

 

(解答・解説)


問1(傍線部説明問題)

 以下の部分がポイントになります。

 

 傍線部を含む一文 「私は、京都や奈良の寺院へ行って、昔風の、うすぐらい、そうしてしかも掃除の行き届いた厠へ案内される毎に、つくづく 1 日本建築の有難みを感じる

本文中央部 「まことに厠は虫の音によく、鳥の声によく、月夜にもまたふさわしく、四季おりおりの物のあわれを味わうのに最も適した場所であって、恐らく古来の俳人は此処から無数の題材を得ているであろう。されば日本の建築の中で、一番風流に出来ているのは厠であるとも云えなくはない。総(す)べてのものを詩化してしまう我等の祖先は、住宅中で何処よりも不潔であるべき場所を、〔B=かえって〕、雅致のある場所に変え、花鳥〔C=風〕月と結び付けて、なつかしい連想の中へ包むようにした。」


 以上を総合的に考えれば、「厠」と「日本の文化の美点」の密接な関係に留意しているイが正解となります。

 

 ロとハは、「厠」と「日本の文化の美点」に注目していないので、誤りです。

 二とホは、「日本の文化の美点」についての記述が曖昧で誤りです。

 また、ホの「生理的快感」は、夏目漱石の例で出されているだけです。

 

(解答) イ


問2(空欄補充問題・漢字問題)

 空欄直前の「瞑想に」に注目すると、「耽る(ふける)」が入ります。
 よって、「耽溺」のハが正解になります。

 他の選択肢は、イ=墜落、ロ=降下、二=没頭、ホ=沈殿(沈澱)

 

(解答) ハ


問題3(漢字問題)

 2の「軒端」(のきば)とは、 「軒の先端。 軒に近い所」という意味。

 

(解答) 2=のきば   5=励行

 

問4 (語彙問題)

 「ひとしお」は「一入」と書きます。

 「ひとしお」の類語として、「一段と。更(さら)に。一層。一際(ひときわ)。以前にも増して」があります。

 

(解答) ホ

 

問5(空欄補充問題・接続語)

 空欄Bの直前は「住宅中で何処よりも不潔であるべき場所を」であり、直後は「雅致のある場所に変え、花鳥〔C=風〕月と結び付けて、なつかしい連想の中へ包むようにした」雅致のある場所」です。

 従って、正反対の結論を導く「かえって」が入ります。

 空欄Dは、直後の文が「隅から隅まで純白に見え渡るのだから確かに清潔には違いないが」と、逆接の「が」で終わる譲歩文になっていることに着目してください。

 Dには、譲歩文を導く「なるほど」が入ります。

 

(解答) B=ニ   D=ハ

 

【「譲歩表現(譲歩構文)」の重要性・「譲歩表現(譲歩構文)」をマスターするポイント】

 「譲歩表現(譲歩構文)」については、現代文の参考書よりも、「英文法」、「英語構文」、あるいは、「英語長文読解」の、(厚い)参考書に詳しく解説してあるので、それらを参照する方が賢明です。

 現代文(国語)・小論文の読解においては、この「譲歩表現(譲歩構文)」を、いかにマスターするかが、大ポイントになります。

 「譲歩表現(譲歩構文)」のパターンは、かなり多いのです。

 つまり、「なるほど・・・・しかし」と同内容の「譲歩表現(譲歩構文)」と同様のパターンは、日本語の接続語が多彩である上に、著者がアバウトに使用することもあるので、かなり多いのです。

 現代文の参考書などでは(過失か故意か不明ですが)、「『譲歩表現(譲歩構文)』のパターンは、20、または、30」と書いてあるようです。

 が、それは、明らかに少なすぎます。

 それを見て、油断しない方がよいと思います。

 かなり多いので、完全マスターは困難ですが、なるべく多く覚えるようにしてください。

 その姿勢を持てば、入試には対応できます。

 


問6(空欄補充問題・四字熟語)

C→「花鳥風月」
E→「不躾千万」

いずれも基礎的な問題です。

 

(解答) C=風 E=千

 

 本文は読みにくいですが、全設問の半分以上が語彙力・単語力、文学史を問う問題です。

 難解な本文を見ただけで簡単に諦めないことが大切です。 

 本文よりも、設問から先に見ることを勧めていることの理由の一つは、設問のレベルや内容を前もって知ることにより、ヤル気が違ってくることがあります。


 入試合格・勝負のポイントは「粘り」です。

 擬古文、文語文問題は、このような知識重視型の問題が多いのです。

 単語力・語彙力をアップするようにしてください。

 

 本問をやることにより、大学側の教養重視、語彙力重視の姿勢が、よく分かると思います。

 模擬試験とは、違います。

 入試過去問をやることの必要性を実感してください。

 

 (私は、本来、キーワードのマスターや語彙力・単語力の増強をしないで、現代文・小論文で、数多くの問題を解いていくこと(問題演習)は、無意味であると思っています。

 キーワードや語彙・単語の知識が不充分なまま、現代文・小論文の問題を解いてみても、結局は、それらの不足を痛感するだけです。)



問7(傍線部説明問題)

 傍線部の直前部分に着目してください。

 傍線部の「風雅の骨髄」が、「西洋人のトイレに対する考え方」との対比で論じられている点に注目してください。

 筆者は文章の最終部分で、「清潔さ」を重視するあまり「ムキ出しに明るくした」西洋風のトイレを批判しています。
 
 つまり、「いくら美人の玉の肌でも、お臀や足を人前へ出しては失礼であると同じように、ああムキ出しに明るくするのはあまりと云えば無躾(ぶしつけ)〔E=千万〕、見える部分が清潔であるだけ見えない部分の連想を挑発させるようにもなる。やはりああいう場所は、もやもやとした薄暗がりの光線で包んで、何処から清浄になり、何処から不浄になるとも、けじめを朦朧(もうろう)とぼかして置いた方がよい。」と記述しています。 

 

 この内容に合致するのは、ホです。

イは、「総(す)べてのものを詩化してしまう我等の祖先は、住宅中で何処よりも不潔であるべき場所を、〔B=かえって〕、雅致のある場所に変え、花鳥〔C=風〕月と結び付けて、なつかしい連想の中へ包むようにした。」に反しています。

ロは、「現実の不浄から眼をそらさせること」の部分が誤りです。

ハは、「西洋式トイレ」の特徴と言えます。

二は、「痩せ我慢をして堪えること」の部分が誤りです。


(解答) ホ

 

問8(趣旨合致問題)

 問題文本文を熟読する前に、この問8に注目すると、戦いを有利に進めることが出来ます。

 

 ハの「厠といったものは最も人の眼から隠しておきたいもので、母屋から遠く離してつくるのが理想」という「厠」の存在を否定的にとらえる部分が、筆者の主張に反しています。
 

(解答) ハ

 

問9 (文学史問題)

 「文学史問題」は、貴重な得点源です。

 マメに暗記するようにしてください。


ロ 『草枕』 は、夏目漱石、

ハ 『或る女』は、有島武郎、

二 『夜明け前』は、島崎藤村、

ホ 『暗夜行路』は、志賀直哉。


(解答) イ

 

ーーーーーーーー

 

(3)補充解説

 

 問題文本文の最終部分は、少々、改変があります。

 原文では以下のようになっています。

「  そんな訳で、私も自分の家を建てる時、浄化装置にはしたものの、タイルだけは一切使わぬようにして、床には楠の板を張り詰め、日本風の感じを出すようにしてみたが、さて困ったのは便器であった。と云うのは、御承知の如く、水洗式のものは皆真っ白な磁器で出来ていて、ピカピカ光る金属製の把手などが附いている。ぜんたい私の注文を云えば、あの器は、男子用のも、女子用のも、木製の奴が一番いい。蝋塗りにしたのは最も結構だが、木地のままでも、年月を経るうちには適当に黒ずんで来て、木目が魅力を持つようになり、不思議に神経を落ち着かせる。分けてもあの、木製の朝顔に青々とした杉の葉を詰めたのは、眼に快いばかりでなく些の音響をも立てない点で理想的と云うべきである。私はああいう贅沢な真似は出来ないまでも、せめて自分の好みに叶(かな)った器を造り、それへ水洗式を応用するようにしてみたいと思ったのだが、そう云うものを特別に誂(あつら)えると、よほどの手間と費用が懸るのであきらめるより外はなかった。そしてその時に感じたのは、照明にしろ、煖房にしろ、便器にしろ、文明の利器を取り入れるのに勿論異議はないけれども、それならそれで、なぜもう少しわれわれの習慣や趣味生活を重んじ、それに順応するように改良を加えないのであろうか、と云う一事であった。」

 


 また、今回の問題文本文の前には、次のような文章があります。

 この文章を読んでから、今回の問題文本文を熟読すると、内容がより良く理解できるでしょう。

「  今日、普請道楽の人が純日本風の家屋を建てて住まおうとすると、電気や瓦斯ガスや水道等の取附け方に苦心を払い、何とかしてそれらの施設が日本座敷と調和するように工夫を凝らす風があるのは、自分で家を建てた経験のない者でも、待合、料理屋、旅館等の座敷へ這入ってみれば常に気が付くことであろう。独りよがりの茶人などが科学文明の恩沢を度外視して、辺鄙(へんぴ)な田舎にでも草庵を営むなら格別、いやしくも相当の家族を擁して都会に住居する以上、いくら日本風にするからと云って、近代生活に必要な煖房や照明や衛生の設備を斥ける訳には行かない。で、凝り性の人は電話一つ取り附けるにも頭を悩まして、梯子段の裏とか、廊下の隅とか、出来るだけ目障りにならない場所に持って行く。その他庭の電線は地下線にし、部屋のスイッチは押入れや地袋の中に隠し、コードは屏風(びょうぶ)の蔭を這わす等、いろいろ考えた揚句、中には神経質に作為をし過ぎて、却(かえ)ってうるさく感ぜられるような場合もある。実際電燈などはもうわれわれの眼の方が馴れッこになってしまっているから、なまじなことをするよりは、あの在来の乳白ガラスの浅いシェードを附けて、球をムキ出しに見せて置く方が、自然で、素朴な気持もする。夕方、汽車の窓などから田舎の景色を眺めている時、茅葺きの百姓家の障子の蔭に、今では時代おくれのしたあの浅いシェードを附けた電球がぽつんと燈っているのを見ると、風流にさえ思えるのである。しかし煽風器などと云うものになると、あの音響と云い形態と云い、未だに日本座敷とは調和しにくい。それも普通の家庭なら、イヤなら使わないでも済むが、夏向き、客商売の家などでは、主人の趣味にばかり媚びる訳に行かない。私の友人の偕楽園主人は随分普請に凝る方であるが、煽風器を嫌って久しい間客間に取り附けずにいたところ、毎年夏になると客から苦情が出るために、結局我を折って使うようになってしまった。かく云う私なぞも、先年身分不相応な大金を投じて家を建てた時、それに似たような経験を持っているが、細かい建具や器具の末まで気にし出したら、種々な困難に行きあたる。たとえば障子一枚にしても、趣味から云えばガラスを篏(は)めたくないけれども、そうかと云って、徹底的に紙ばかりを使おうとすれば、採光や戸締まり等の点で差支えが起る。よんどころなく内側を紙貼りにして、外側をガラス張りにする。そうするためには表と裏と桟を二重にする必要があり、従って費用も嵩(かさ)むのであるが、さてそんなにまでしてみても、外から見ればただのガラス戸であり、内から見れば紙のうしろにガラスがあるので、やはり本当の紙障子のようなふっくらした柔かみがなく、イヤ味なものになりがちである。そのくらいならただのガラス戸にした方がよかったと、やっとその時に後悔するが、他人の場合は笑えても、自分の場合は、そこまでやってみないことには中々あきらめが付きにくい。近来電燈の器具などは、行燈式のもの、提燈式のもの、八方式のもの、燭台式のもの等、日本座敷に調和するものがいろいろ売り出されているが、私はそれでも気に入らないで、昔の石油ランプや有明行燈や枕行燈を古道具屋から捜して来て、それへ電球を取り附けたりした。分けても苦心したのは煖房の設計であった。と云うのは、およそストーヴと名のつくもので日本座敷に調和するような形態のものは一つもない。その上瓦斯(ガス)ストーヴはぼうぼう燃える音がするし、また煙突でも付けないことにはじきに頭痛がして来るし、そう云う点では理想的だと云われる電気ストーヴにしても、形態の面白くないことは同様である。電車で使っているようなヒーターを地袋の中へ取り附けるのは一策だけれども、やはり赤い火が見えないと、冬らしい気分にならないし、家族の団欒(だんらん)にも不便である。私はいろいろ智慧を絞って、百姓家にあるような大きな炉を造り、中へ電気炭を仕込んでみたが、これは湯を沸かすにも部屋を温めるにも都合がよく、費用が嵩むと云う点を除けば、様式としてはまず成功の部類であった。で、煖房の方はそれでどうやら巧く行くけれども、次に困るのは、浴室と厠である。偕楽園主人は浴槽や流しにタイルを張ることを嫌がって、お客用の風呂場を純然たる木造にしているが、経済や実用の点からは、タイルの方が万々優っていることは云うまでもない。ただ、天井、柱、羽目板等に結構な日本材を使った場合、一部分をあのケバケバしいタイルにしては、いかにも全体との映りが悪い。出来たてのうちはまだいいが、追い追い年数が経って、板や柱に木目もくめの味が出て来た時分、タイルばかりが白くつるつるに光っていられたら、それこそ木に竹を接いだようである。でも浴室は、趣味のために実用の方を幾分犠牲に供しても済むけれども、厠になると、一層厄介な問題が起るのである。」(『陰翳礼讃』)

 

 

(4)擬古文・文語文対策ー擬古文・文語文解法のポイント・注意点

 

 以下に、擬古文・文語文対策として、すぐに役立つ、擬古文・文語文解法のポイント・コツ・注意点を、簡潔に述べます。

 

① 古文・漢文の基礎を固める

 擬古文は、古文と現代文の過渡期 (明治時代・大正時代) の文章であることを、意識してください。

 

② 慣れる

 過去問(他大学、他学部の過去問も含む)を多くやることにより、擬古文・文語文に慣れるようにしてください。

 模擬問題 (模擬試験・問題集など)は、作成者のレベルに問題があることが多いので、つまり、入試問題のように洗練されていないので、おすすめできません。

 

③   粘る。諦めない

 最初 (通読の第一回目) は飛ばし読みも可→早く全体像を把握する→過去問を演習することにより、「粘ること」や「諦めないこと」、「早く全体像を把握すること」の有用性・重要性を実感してください。

 

④ 早く問題文本文に付加されている「注」に着目する

 「注」には、難読語の読み・意味や、難解部分の現代語訳が、記述されていることが多いのです。

 従って、早く着目すること、つまり、本文を精読・熟読する前に着目することが、必要です。

 入試問題は、案外、受験生に親切です。

 得点分布曲線を理想型にするためです。

 

⑤ 設問をヒントにする

 本番の問題では、本文が難解な時には、設問に様々なヒントがあることが多いのです。

 設問を精密にチェックして、ヒントを発見することを、心掛けてください。

 予想以上に、ヒントがあることに驚くと思います。

 従って、「注」と同じように、早く注目すること、つまり、本文を精読・熟読する前に注目することが、必要です。

 

 以上に気をつけて、擬古文・文語文問題に、チャレンジしてください。

 入試直前期以外では、時間制限を設定しないで、じっくり考えてください。

 

 

 (5)当ブログにおける「擬古文・文語文」関連記事

 

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ーーーーーーーー

 

 今回の記事は、これで終わりです。

 次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

 ご期待ください。

 

 

   

 

 

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陰翳礼讃 (中公文庫)

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5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

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 私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。

https://twitter.com/gensairyu 

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予想問題/「人生はアルゴリズムか」池澤夏樹『朝日新聞』/科学論

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 

 最近、「未来予測」、「人工知能((AI)」、「情報化社会」に関連して話題になっている『サピエンス全史』・『ホモデウス』についての、秀逸な論考(「『神なるヒト』の衝撃 人生はアルゴリズムか」 池澤夏樹《終わりと始まり》2018年9月5日『朝日新聞(夕刊)』)が発表されましたので、今回の記事で、詳細に解説します。

 池澤夏樹氏は、入試頻出著者であり、「AI (人工知能)」、「未来予測」、「情報化社会」関連の論点は、入試頻出論点です。

 来年度以降の現代文(国語)・小論文対策として、今回の記事を熟読してください。

 

 

朝日新聞デジタル

朝日新聞デジタル

 

 

 

(2)予想問題/「『神なるヒト』の衝撃 人生はアルゴリズムか」 池澤夏樹 《終わりと始まり》2018年9月5日『朝日新聞(夕刊)』

 

 

終わりと始まり 2.0

終わりと始まり 2.0

 

  

 

(本文)

(概要です)

(【1】・【2】・【3】・・・・は当ブログで付記した段落番号です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です) 

 

(序論は省略します)


【1】未来はどうなるか?

【2】これは常に人間の心を領している問題である。他の生物は個体としても種としてもそんなことは考えない。

【3】しかし、我々凡人が悩むのはせいぜい明日のことなのだ。この国を率いる人々の頭にあるのも日銀短観の範囲内。遠い先などまるで見えていない。だから時代遅れの原発にしがみつく。

【4】ここに一人、おそろしく遠くを見ている男がいる。ユヴァル・ノア・ハラリ、イスラエルの若い歴史家で、『サピエンス全史』という本で世界中を感嘆させた。

 

 

サピエンス全史 上下合本版 文明の構造と人類の幸福

サピエンス全史 上下合本版 文明の構造と人類の幸福

 

 

  

(「人生はアルゴリズムか」 池澤夏樹)

【5】大所高所からものを見る。対象との間に距離を置いて客観視を試みる,それがこの人の場合、過去数万年から未来(少なくとも)数百年に及ぶ。

【6】冷静にして沈着、あるいは冷酷と言われるかもしれない。なにしろ、ずっと人類を悩ませてきた、飢餓と疫病と戦争という課題は解決されたと言うのだ。これら相手の戦いは決着を見た。残るは敗残兵を駆逐する局地戦のみ。

【7】そう言われて改めて考えてみる。そうなのかもしれない。ぼくなどは近未来の危機を言いつのる偽の予言者かもしれない。

【8】数万年前、ホモ・サピエンス(→当ブログによる「注」→「ホモ・サピエンス」とは、ラテン語で「知恵ある人」の意。一般に動物分類学上の学名としての「現生人類」。本来は、人間を英知をもつ存在として規定する哲学上の言葉として用いられた。しかし、18世紀中頃、スウェーデンの生物学者 C.リンネは,生物の体系的分類を行うにあたり、この語をもって人間を表わす学名とした)がネアンデルタール人などに対して優位に立った理由を、ハラリはこう説明するーーネアンデルタール人が「川の近くにライオンがいる」と言えたとしても、「ライオンはわが部族の守護霊だ」と宣言することはサピエンスにしかできなかった。つまり「存在しないものについての情報を伝達する能力」だ。抽象思考力によってせいぜい百五十個体の群れが数億の信徒集団に変わった。これを認知革命と呼ぶ。

 

 

(当ブログによる解説)

 サピエンスは、現在の唯一の人類種です。

 しかし、遥か以前はそうではありませんでした。

 

 この事情を、ハラリは以下のように説明しています。

「  実は、約200万年前から1万年前ごろまで、この世界にはいくつかの人類種が同時に存在していたのだ。

 10万年前の地球には、少なくとも6つの異なるヒトの種が暮らしていた。

 複数の種が存在した過去ではなく、私たちしかいない現在が特異なのであり、ことによると、私たちが犯した罪の証なのかもしれない。ほどなく見るように、私たちサピエンスには、自らの兄弟たちの記憶を抑え込むだけの十分な理由があるからだ。」(『サピエンス全史』)

 

 では、なぜ、ネアンデタール人等が滅び、サピエンスのみが生き残り発展したのでしょうか?

 ハラリは、「認知革命」とも言える「新しい思考と意思疎通の方法」の獲得が理由と説明しています。

 おそらく、4万年~7万年前にこのような大変革が起こったと推定されるのです。

 サピエンスは、現代人に匹敵する高度な知能によって、舟、ランプ、弓矢などを発明しました。

 さらに、言葉の使用とコミュニケーションの発達は、架空のもの(神話等、共同幻想とも表現されるもの)を語る能力まで獲得し、共通の目標下での集団活動が可能になったのです

 

 強力で強大な「共同幻想」、つまり、「虚構」なくしては、大きなコミュニティを維持することができないのです。

 ヒト以外の動物も、一定の群れを作って生活することがあります。

 しかし、「共同幻想」がない状態で、組織として協力し合えるのは、約150個体が限界とされています。

 

 狩猟採集時代には人口爆発は起こりませんでした。

 しかし、狩猟採集集団から農耕集団に移行することで、人口が急激に拡大します。

 すると、共同体統治に関連する諸問題が発生しました。

 ヒトは、貨幣、宗教や帝国といった「共同幻想」を集団全体で信じこむことで、数万人単位、数十万人単位、さらに現代国家では1億人以上の集団行動を可能としました。

 全てのものは、人類が長い歴史の中で作り上げてきた「虚構」であるという指摘は、過激で、興味深い視点です。


 国家も貨幣も資本主義経済も、さらには、全てが虚構なのです。

 ヒトの進化において、文字の発明が、かなり大きな契機になりました。

 文字の発明の後、宗教、貨幣、制度、国家といった、共同幻想を背景として、人類は急速に発展していくのです。

 

  このことに関して、ハラリは以下のように述べています。

「  アフリカで、細々と暮らしていたホモ・サピエンスが食物連鎖の頂点に立ち、文明を築いたのはなぜか。

 その答えを解く鍵は「虚構」にある。

 我々が当たり前のように信じている国家や国民、企業や法律、さらには人権や平等といった考えまでもが虚構であり、虚構こそが見知らぬ人同士が協力することを可能にしたのだ。

 やがて人類は農耕を始めたが、農業革命は狩猟採集社会よりも過酷な生活を人類に強いた、史上最大の詐欺だった。

 そして、歴史は統一と向かう。その原動力の一つが、究極の虚構であり、最も効率的な相互信頼の制度である貨幣だった。

「  私達の言語が持つ真に比類ない特徴は、人間やライオンについての情報を伝達する能力ではない。

 むしろそれは、まったく存在しないものについての情報を伝達する能力だ。見たことも、触れたことも、匂いを嗅いだこともない、ありとあらゆる種類の存在について話す能力があるのは、私たちの知るかぎりではサピエンスだけだ。

 虚構、すなわち架空の事物について語るこの能力こそが、サピエンスの言語の特徴として異彩を放っている。」

「  サピエンスはこのように、認知革命以後ずっと二重の現実の中に暮らしてきた。一方には、川や木やライオンといった客観的事実が存在し、もう一方には、神や国民や法人といった想像上の現実が存在する。

 時が流れるうちに、想像上の現実は果てしなく力を増し、今日では、あらゆる川や木やライオンの存続そのものが、神や国民や法人といった想像上の存在物あってこそになっているほどだ。」(『サピエンス全史』)

 


(「人生はアルゴリズムか」 池澤夏樹)

【9】その一方でテクノロジーの罠があった。農業革命を例に取ろう。始まりは狩猟採集の偶然の副産物だっただろう。こぼれた種が芽を出す。獲った獲物の仔を連れ帰って餌をやったら成獣になった。遠出しなくとも食料が手に入る。子供たちの暮らしが楽になるとみなが思ったから普及した。気がついてみるととんでもないところへ来ていた。

 

 

 (当ブログによる解説)

「小麦により家畜化された、私たちサピエンス」について

 「私たちサピエンスが、小麦により家畜化されている」という指摘は、かなり衝撃的です。

 しかし、言われてみると、確かに、一部に真理を含んでいるようです。

 「農業革命」により、サピエンスには、「新たな面倒な義務」が発生したとも言えるからです。

 

 このことについて、ハラリは以下のように記述しています。 

「  農業革命は、安楽に暮らせる新しい時代の到来を告げるにはほど遠く、農耕民は狩猟採集民よりも一般に困難で、満足度の低い生活を余儀なくされた。狩猟採集民は、もっと刺激的で多様な時間を送り、餓えや病気の危険が小さかった。」

「  人類は農業革命によって、手に入る食糧の総量をたしかに増やすことはできたが、食糧の増加は、より良い食生活や、より長い休暇には結びつかなかった。むしろ、人口爆発と飽食のエリート層の誕生につながった。平均的な農耕民は、平均的な狩猟採集民よりも苦労して働いたのに、見返りに得られる食べ物は劣っていた。」

「  農業革命は、安楽に暮らせる新しい時代の到来を告げるにはほど遠く、農耕民は狩猟採集民よりも一般に困難で、満足度の低い生活を余儀なくされた。狩猟採集民は、もっと刺激的で多様な時間を送り、飢えや病気の危険が小さかった。人類は農業革命によって、手に入る食糧の総量をたしかに増やすことはできたが、食糧の増加は、より良い食生活や、より長い余暇には結びつかなかった。むしろ、人口爆発と飽食のエリート層の誕生につながった。平均的な農耕民は、平均的な狩猟採集民よりも苦労して働いたのに、見返りに得られる食べ物は劣っていた。農業革命は、史上最大の詐欺だったのだ。」(『サピエンス全史』)


 「史上最大の詐欺」とはずいぶんとショッキングな表現です。

 しかし、それは誰の責任だったのでしょうか。

 

 著者ハラリは、「王のせいでもなければ、聖職者や商人のせいでもない。犯人は、小麦、稲、ジャガイモなどの、一握りの植物種だった。ホモ・サピエンスがそれらを栽培化したのではなく、逆にホモ・サピエンスがそれらに家畜化されたのだ」と述べています。

 

 さらに、以下のように述べています。

「  10000年前、小麦はただの野生の草にすぎず、中東の狭い範囲に生える、多くの植物の一つだった。ところがほんの数千年のうちに、突然小麦は世界中で生育するまでになった。生存と繁殖という、進化の基本的基準に照らすと、小麦は植物のうちでも地球の歴史上で指折りの成功を収めた。

「  それでは、いったいぜんたい、小麦は農民に何を提供したのか?
 じつは、個々の人々には何も提供しなかった。だが、ホモ・サピエンスという種全体には、授けたものがあった。小麦を栽培すれば、単位面積当たりの土地からはるかに多くの食物が得られ、そのおかげでホモ・サピエンスは指数関数的に数を増やせたのだ。」(『サピエンス全史』)

 

 つまり、個々人には、小麦栽培農業は何のメリットもないのです。

 だが、ホモ・サピエンスという種全体で見ると、個体数増加と、種の繁殖という、最高のメリットがあったということです。

 

 

(「人生はアルゴリズムか」 池澤夏樹)

【10】かつて不運な者は餓死したかもしれないが、過労死する者はいなかった。今から見れば狩猟採集生活はほとんど遊んで暮らす日々だった。安定した食料供給に支えられた文明が人間の99%を奴隷にした。

 

 

(当ブログによる解説) 

 太古の狩猟採集時代の実相については、『サピエンス全史』に詳しい説明があります。

 労働時間としては、狩猟は3日に1回、採集も1日3~6時間程度。

 定住する家もないから家事は不要。

 食物も多様で、穀物など限定された品種しか食べていなかった農耕民より、健康だった。

 災害や飢饉や疫病も、移動生活のため影響は少なかったようです。


 どうして、こんな豊かな生活なのでしょうか?

 それはホモ・サピエンスが地球上で数百万人程度しかいなかったためなのです。

 そのために、食糧は豊富でした。

 その地域で取り尽くせば、次の豊かな場所へと移動すれば、よかったのです。💙

 

 このことに関しては、『 暇と退屈の倫理学』(国分功一郎)でも引用されている『人類史のなかの定住革命』 (西田 正規)が参考になるので、以下に引用します。

「生態人類学的な研究からは、すでにいちおうの結論が出されているかもしれない。アフリカ大陸の狩猟採集民、ブッシュマンやハッザ、ピグミーは、半砂漠、サバンナ、森林に住みながら、いずれもが、野生する植物性食料の採集により多く頼り、狩で得た肉は彼らの食料の30パーセント以下を占めるにすぎないことが明らかにされてきた。熱帯での生活は、地域的な環境のちがいにもかかわらず、採集活動に重点を置く狩猟採集民としての共通性が指摘されたのである。

 彼らは、数家族からなる小さなキャンプをつぎつぎに移動させる遊動生活者である。

 成人男女は平均して1日2~4時間を狩や採集のために使い、それによってキャンプ成員の毎日の食料をまかなっている。不毛の土地に思えるカラハリ砂漠においてさえ、このていどの時間で必要な食料が調達されていたという事実が、われわれ文明人に与えたショックはじつに大きかった。

 彼らは、多くの時間を、おしゃべりや歌、ダンス、昼寝に使うが、たとえばピグミーは、古代エジプトにおいて、すでに歌と踊りの天才として知られていたし、16ビートにのせたポリフォニーを子どもでさえも自在にあやつる彼らの豊かな音楽性は、芸能山城組の山城祥二をして驚嘆せしめたということである。」 (『人類史のなかの定住革命』 西田 正規)

「  先史時代の人類史は、歴史時代の歴史にくらべて、変化の速度がきわめてゆっくりしている。これについて歴史的変化を発展と考える文明人は、先史時代の人類の創造性の欠如を予想しがちである。しかしピグミーは、われわれにもまして、だれもが豊かに音楽やダンスを楽しんでいるし、動物や植物について深い知識をもち、それを利用する技術を身につけている。 採集や狩に出かける彼らは、もてる知識や技術、体力、好奇心、洞察力を駆使するのである。彼らの創造性は、技術革新や支配の策略や歴史的モニュメントをつくることにではなく、狩やダンスやおしゃべりのなかにじゅうぶんに発揮されているのであろう。

 文明以前の生活をそのように考えなければ、高い知的能力をもった人類が先史時代の素朴な生活のなかで生まれてきたことを理解するのは不可能である。われわれからみれば素朴な先史時代の生活こそ、人類の高い知的能力を育てあげたのである。人類は、文明以前も文明以後も、つねに豊かな創造力に富んだ存在なのである。ただ、その向かうところが大きく変化したのである。」(『人類史のなかの定住革命』 西田 正規)

 

 

人類史のなかの定住革命 (講談社学術文庫)

人類史のなかの定住革命 (講談社学術文庫)

 

 

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(「人生はアルゴリズムか」 池澤夏樹)

【11】我々は個体の幸福しか考えない。その一歩ずつの蓄積が全人類のコースを決める。すべてがエゴイズムに奉仕する。第一次世界大戦で顔面に負傷した兵士を救うために始まった形成外科はあっという間に美容に転用された。今、新規の医療技術は難病の治療という名目で開発され、すぐにもデザイナーベビー(→当ブログによる「注」→「デザイナーベビー」とは、受精卵の段階で遺伝子操作を施し、親が望む外見・体力・知的能力等を持たせた子供。親がその子供の特徴をデザインするかのようであるためそう呼ばれています。デザイナーチャイルド、ドナーベビーとも呼ばれています。デザイナーベビーは、遺伝子を選択して、目や髪の色といった特定の身体的特徴を持つ子供の生まれる確率を上げる技術的アイデアです。1990年代から受精卵の遺伝子操作は遺伝的疾病を回避することを主目的に論じられてきました。親の「より優れた子供を」等という欲求に従い、外見・知力・体力に関する遺伝子操作も論じられるようになってきました。他方で、子どもが特定の性質を持つように事前に遺伝子を設計することは、技術的にも倫理的にも、かなり問題視されています)に応用される。

【12】ハラリの新著『ホモ・デウス』を読んだ。彼は、生命活動はアルゴリズム(→当ブログによる「注」→アルゴリズムとは、数学、コンピューティング、言語学、あるいは関連する分野において、問題を解くための手順を定式化した形で表現したものを言います。「算法」と訳されることもあります)であるとあっさり言う。

 

 

ホモ・デウス テクノロジーとサピエンスの未来 (上)(下)巻セット

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(当ブログによる解説)

 定型的行動とは、遺伝的に決定された固定的行動類型を最小単位として構成された、生物の画一的活動のことです。

 一般に、生物の食料探索、危険回避のための行動は、複数の定型的行動の組合せから成立しています。

 そして、その行動の多くは、味覚や嗅覚等の感覚により誘発されます。

 生物における感覚の受容から定型的行動の指令・実行に至る手順は、基本的には遺伝的にプログラムされたアルゴリズムの組合せであると言ってよいのです。

 その点で、確かに、「生命活動はアルゴリズム」という側面があります。

 とはいっても、生物はこれを画一的に実行するのではなく、試行錯誤、学習を経て柔軟に遂行することができるのです。

 つまり、「生命活動」は、そのすべてが「アルゴリズム」とは言い切れないのではないでしょうか。

 

 

(「人生はアルゴリズムか」 池澤夏樹)

【13】問題解決のための手続きの連鎖。例えばレシピはアルゴリズムであり、柔軟性があるから素材が変わってもほぱ目的を達成できる。生命は自己保存、目前の快楽と、子孫の確保を目的とするアルゴリズムにすぎない。人間の意識は脳内のニューロンが一定の手順に従って信号を処理してゆく過程でしかない。心はこれに付随して生まれるだけで、自己は虚構である。

【14】多くの宗教が力を失った今、我々は人間至上主義の基礎としている。その前提にあるのは自由意志だが、しかし自己が虚構である以上、自由意志も虚構となる。

 【15】人間が行うことの多くはコンピューターの方がずっと速く確実に行われる。ドローンは人間の兵士より効率がいい。世界を動かすのはデータであり、その処理能力において人間は機械に劣っている。感情というアルゴリズムを捨ててコンピューターとデータベースに任せた方が有利。

【16】やがて人間は全世界的なインターネットに組み込まれたチップの一つと化す。そういう形で人間は、ヒトは、サピエンスは心と身体をアップグレードし、不死と幸福と神性を手に入れ、ホモ・デウス(神なるヒト)になる。心そのものが変わってしまう以上、その世界は我々には想像のしようがない。

【17】ハラリの言うことは今ここで我々が直面している問題をすべて飛び越えてしまうような展開である。このまま行けばこういう方向へ事態は進むだろうという予測である。

 

 

 (当ブログによる解説)

 著者ハラリは以下のように述べています。

「  今後1、2世紀のうちに人類は姿を消すと思います。

 でもそれは、人間が絶滅するということではなく、バイオテクノロジーや人口知能で、人間の体や脳や心のあり方が変わるだろうということです。」

 

 このような未来の人間のことを、この本の中では、超ホモ・サピエンスと呼んでいます。

 ハラリは、本書の最後で「未来を切り開く鍵は、私たち人間が欲望をコントロールできるかどうかだ」と主張しています。

 


(「人生はアルゴリズムか」 池澤夏樹)

【18】このショックはリチヤード・ドーキンスが個体は利己的な遺伝子の乗り物でしかない、と言った時に似ている。自分が主役ではないと知る空虚感。

 

 

(当ブログによる解説)

 リチャード・ドーキンスは『利己的な遺伝子』において「利己的遺伝子論」を主張しました。

 「利己的遺伝子論」とは、進化学における理論の一つです。

 自然選択や生物進化を、遺伝子中心の視点で理解する発想です。

 1970年代の血縁選択説、社会生物学の発展を受け、ジョージ・ウィリアムズ、ウィルソンらによって提唱されました。

 イギリスの動物行動学者リチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』により、一般的に向けに広く受け入れられるようになりました。


 ここでは「利己的」とは「自己の生存・繁殖率を他者よりも高めること」という意味です。

 「利他的」とは「自己の成功率を損なってでも他者の成功率を高めること」と定義されます。

 この用語は日常語の「利己」のように行為者の意図を表現する言葉ではなく、行動自体をその結果のみに基づいて分類するための用語です。

 行為者がどのような意図を持っていようとも、行為の結果が自己の成功率を高めるのであれば、それは「姿を変えた利己主義」と考えることができるのです。

 

 現実の自然界では、子育て行為や群れの中での役割分担など多くの利他的行動と考えられる例も見られます。

 遺伝子選択論者は、選択や淘汰は実質的には遺伝子に対して働くものと考え、利他的行動が自然界に存在しうる理由を以下のように説明しました。

 ある遺伝子Aに促された行動は、自ら損害を被っても同じ遺伝子Aを持つ他の個体を助ける性質があると仮定します。これは個体レベルで見れば利他的行動です。

 その行動による個体の損失より、遺伝子Aを持つ個体全体が受ける利益が大きいなら、遺伝子Aは淘汰を勝ち抜き、遺伝子プール中での頻度を増していくと考えられます。
 その結果として、遺伝子Aに促された「利他的行動」も広く見られるようになるのです。

 

 

(「人生はアルゴリズムか」 池澤夏樹)

【19】【最終段落】さて、これを受け入れていいものかどうか、抽象思考者としてのぽくの中のアルゴリズムが考え込んでいる。

(「人生はアルゴリズムか」 池澤夏樹)

 

 

終わりと始まり 2.0

終わりと始まり 2.0

 

 

 

 (当ブログによる解説)

 最終段落の【19】段落「さて、これを受け入れていいものかどうか、抽象思考者としてのぽくの中のアルゴリズムが考え込んでいる」における「これ」とは、【18】段落の「このショック」です。

 そして、「このショック」とは、その直前の以下のような「未来予測」です。

 

【14】段落「多くの宗教が力を失った今、我々は人間至上主義の基礎としている。その前提にあるのは自由意志だが、しかし自己が虚構である以上、自由意志も虚構となる。」

【15】段落「人間が行うことの多くはコンピューターの方がずっと速く確実に行われる。ドローンは人間の兵士より効率がいい。世界を動かすのはデータであり、その処理能力において人間は機械に劣っている。感情というアルゴリズムを捨ててコンピューターとデータベースに任せた方が有利。

【16】段落「やがて人間は全世界的なインターネットに組み込まれたチップの一つと化す。そういう形で人間は、ヒトは、サピエンスは心と身体をアップグレードし、不死と幸福と神性を手に入れ、ホモ・デウス(神なるヒト)になる。心そのものが変わってしまう以上、その世界は我々には想像のしようがない。」

【17】段落「ハラリの言うことは今ここで我々が直面している問題をすべて飛びてしまうような展開である。このまま行けばこういう方向へ事態は進むだろうという予測である。」

 

 これは、想像を絶する未来です。

 人間がロボット化してしまう未来です。

 考えたくないような未来です。

 ロボット化した自分に、人間は満足できるのでしょか?

 

 この点に関して、山極寿一氏は、最近の論考(「科学技術発展のリスク AI社会、新たな世界観を 山極寿一」「科学季評」『朝日新聞』2018年08月08日)の中で、以下のように述べています。

 かなり参考になる見解です。

 私の最近の記事で、この見解を解説しています。

 

 

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(「科学技術発展のリスク AI社会 新たな世界観を」 山極寿一)

「  科学技術は今、情報によって人間や社会を作り替えようとしている。世界的なベストセラー「サピエンス全史」の著者ユヴァル・ノア・ハラリは、新作「ホモ・デウス」で、人間が超人となり神の領域に手を出そうとする未来を警告している。

 現代の科学は、人間の感覚や情動も、生化学データを処理するアルゴリズムであることを証明した。興奮とは、脳内の伝達物質アドレナリンが大量に放出されることと同義だといったように。だから、不安や苦痛、不快や恐怖は人為的に生化学的な処置をすることで取りのぞける。人類を悩ましてきた病気や戦争による被害はこの1世紀、特効薬の開発や、情報技術による世界的なルールの徹底によって激減した。

 次に人間が望むのは寿命の延長、不死の身体で、AIを含む科学技術の発展により生まれたゲノム編集や人体の工学的な改良によって実現する。今や人間は超人類を生み出す神の手を持とうとしていると、ハラリは主張する。

 その時、人間は生きる目的を何に求めたらいいのだろう。一部の人間が人類を超越し、神のごとき能力を持つホモ・デウスになれば、人種差別どころか、人と家畜に匹敵するような大きな差別が生まれるかもしれない。もはやこの世界の外にいる神は存在しない。不死の世界に天国も地獄も影響力を持ちえないからだ。

 こうなると、科学技術という“宗教”に対抗する世界観が必要だ。

(「科学技術発展のリスク AI社会、新たな世界観を 山極寿一」「科学季評」『朝日新聞』2018年08月08日)

 

 

 (3)当ブログにおける「人工知能」・「AI社会」・「情報化社会」関連記事の紹介

 

 「人工知能」・「AI社会」・「情報化社会」は、最近の入試頻出論点です。

 

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ーーーーーーーー

 

 今回の記事はこれで終わりです。

 次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

 ご期待ください。

 

  

 

 

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スティル・ライフ (中公文庫)

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

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5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

 

 

 私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。

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現代文予想問題/「感性は感動しない」椹木野衣/早大教育過去問

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 

 今回は、入試頻出著者・椹木野衣(さわらぎのい)氏の入試頻出論考である「感性は感動しない」(2018年7月発行の、椹木氏の初のエッセー集『感性は感動しない』(世界思想社)に所収)について解説します。

 この論考は、最近、早稲田大学(教育学部)、一橋大学、津田塾大学、日本女子大などで同年度に、約30大学に出題された入試頻出問題です。

 この論考は、入試頻出論点である「芸術論」として、かなり秀逸です。

 受験生としては、一度は読んでおくべきでしょう。

 

 今回の記事の項目は、以下の通りです。記事は約1万5千字です。

 

(2)予想問題/「感性は感動しない」椹木野衣/早稲田大学教育学部過去問

(3)当ブログによる解説/「はじめに」(『感性は感動しない』所収)についての解説

(4)椹木野衣氏の紹介

(5)当ブログにおける「芸術論」関連記事の紹介

 

感性は感動しないー美術の見方、批評の作法 (教養みらい選書)

感性は感動しないー美術の見方、批評の作法 (教養みらい選書)

 

 

 

(2)予想問題/「感性は感動しない」椹木野衣/早稲田大学教育学部過去問

 

 

(問題文本文は太字です)

(概要です)

(【1】・【2】・【3】・・・・は当ブログで付記した段落番号です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です) 

 

【1】岡本太郎は感性について次のように言っている。
「感性をみがくという言葉はおかしいと思うんだ。
感性というのは、誰にでも、瞬間にわき起こるものだ。
感性だけ鋭くして、みがきたいと思ってもだめだね。
自分自身をいろいろな条件にぶっつけることによって、
はじめて自分全体のなかに燃え上がり、
広がるものが感性だよ」 (『強く生きる言葉』)

【2】至極まっとうな言葉だと思う。とくに哲学的な定義に頼らずとも、感性に実体などないの、感性に実体などないのだから、どんな堅い石でもみがけるはずがない。にもかわらず、しばしば僕らは「感性をみがく」などと口にしてきた。どうしてだろう。

【3】日本人は 修行が好きだ。歴史物語でも伝記物でも、努力した者が高く評価される。一種の一種の因果応報思想かもしれない。高じて敗者にさえ独得の美学を見ようとする。むろん、それはそれで独自のドラマツルギーを生み出した。梶原一騎の劇画的世界などが典型だろう。僕も決して嫌いではない。 が、野球や拳闘のみならず、この筋で行くと、芸術まで苦行をよしとするようになってしまう。が、それはちょっとまずいのではないか。

【4】スポーツや学問がある種の苦行を必要とするというのは真実だ。それは芸能でも同じだろう。 たしかに芸能で修行が絶対の条件であり、技は磨かれなければ到底見られたものではない。しかし芸術はどうだろうか。芸術に修行が必要だろうか。

【5】たぶん、こんな疑問が出ること自体、僕らが芸術と芸能の区別をあまりうまくできていないことを示しているのではないか。

【6】はっきり言うが、芸術に技は必ずしも必要ではない。芸術に必要なのは、圧倒的に感性である。

【7】こんなことを書くとすぐに、いや、そのような感性重視の発想が、芸術のみならず、社会から文化に至るまで、すべてをなし崩しにしてしまったのではないか、いまこそ知識や経験を地道に積み上げる教育に戻るべきだ、という声が聞こえて来そうだ。たしかに、戦後の日本、とりわけ近年のわが国の諸分野におよぶ退潮の根本的な原因に、基礎教育の欠落があるというのは、その通りだろう。

【8】けれども、ここで僕が言いたいのは、もっと根源的なことだ。それは「芸術は教育可能か」という問題である。

【9】美術大学で教えている手前、言いにくくはあるのだが、大学で美術を教えるのはひどくむずかしい。とにかく、他の学問分野のようにおよそ体系といったものがない。教えられるのは、せいぜい美術の歴史をめぐる基本的な知識や、美術という制度をめぐる様々な社会的背景くらいではないか。しかし美術史や美学を修めたからといって、画家がよい絵を描くわけではない。彫刻家が見事な造形をなせるわけではない。むしろ、それに絡めとられ、わけがわからなくなってしまうことも少なくない。

【10】そもそも、よい絵とはなんであろうか。すぐれた美術作品とはどんなものであろうか。

【11】答えは簡単で、観る人の心を動かすものにほかならない。ポジティブな感情でもネガティブなものでもかまわない。 観る人の気持ちがわけもわからずグラグラと揺り動かされる。いても立ってもいられなくなる。一枚の絵がなぜだか頭からずっと離れない。それが、芸術が作品として成り立つ根源的な条件である。

【12】芸術が生み出すこうした現象を、僕らはしばしば「感動」などとひとくくりにしてわかったつもりになってしまう。これがよくない。その意味では 1 芸術にとって「感動」は諸悪の根源だ。

【13】感動などと言って済ませようとした瞬間に、あの苦労物語がここぞとばかり首をもたげてくる。 この絵を描くのに、画家がどれだけ血のにじむ努力をしたことか。どれだけ多くの人が関わり、波瀾万丈の道程があったことか。などなど。

【14】こうなってくると、無理矢理にでも感動しなければいけない気持ちにもなってくる。感動しなければ、自分が罪深いようにさえ思えてくる。一致団結して感動を支えるべきだ。そのためには、もっともっと勉強しなければならない。努力して感性をみがかなければならない。

 

ーーーーーーーー


(設問)

問1 傍線部1 「芸術にとって「感動」は諸悪の根源だ」とあるが、それはなぜか。その理由として最適なものを、次の中から一つ選べ。

ア その絵を本当には理解していないのに、自分が感動したことで理解したように思ってしまうから。

イ 感動という言葉でその絵を語ることによって、本当は感動していない自分を偽ることができるから。

ウ 芸術家の苦労と自分の感性が一致しなければならないと思い込み、芸術家に関する情報を集めることに熱中してしまうから。

エ 感動する要因はいくらでもあるはずなのに、芸術そのものではなく、芸術に対する否定的な感情こそが大切だと思ってしまうから。

オ 実際には感動していないにもかかわらず、自分の心が動かされたことを、感動という人に分かりやすい言葉で語ってすませてしまうから。

 

……………………………

 

(解説・解答)

 傍線部直前の「その意味では」に着目してください。
 直前の

芸術が生み出すこうした現象を、僕らはしばしば「感動」などとひとくくりにしてわかったつもりになってしまう。これがよくない 

が、傍線部の理由になります。

 また、傍線部1の理由は、傍線部1の直後の二つの段落にも述べられています。

【13】「感動などと言って済ませようとした瞬間に、あの苦労物語がここぞとばかり首をもたげてくる。 この絵を描くのに、画家がどれだけ血のにじむ努力をしたことか。どれだけ多くの人が関わり、波瀾万丈の道程があったことか。などなど。 」


【14】「 こうなってくると、無理矢理にでも感動しなければいけない気持ちにもなってくる。感動しなければ、自分が罪深いようにさえ思えてくる。一致団結して感動を支えるべきだ。そのためには、もっともっと勉強しなければならない。努力して感性をみがかなければならない。」

 

(解答) ウ

 

ーーーーーーーー

 

(『感性は感動しない』本文)

【15】正直言って、そういうのは疲れます。

【16】ここには、「芸術に感動できる者はすぐれた感性の持ち主であり、ゆえに作品に込められた高い技芸や複雑な歴史を読み解く優れた感性を持つ」という偏見が横たわっている。

【17】なぜ偏見かというと、先の美術をめぐる教育の話でも出たことだが、作る側だけでなく観る側にとっても、知識や技術は鑑賞の助けにはなっても、それがあるからといって本当に心が動かされるとはかぎらないからだ。むしろ、それが邪魔になって目の前の絵に感性が届かない、ということだって起きてくる。

【18】最近、やたらオーディオ・ガイドとやらが発達して、美術館に行くと、みなヘッドフォンを掛けて絵を観ている。あれはいったい、本当に絵を観ていることになるのか。肝心の絵のほうが、解説を聞くためのイラスト風情に成り下がっていはしないか。あんなものを付けて絵を観せられるなら、ひたすら何も考えずじっと絵を睨みつけたほうがずっといい。

【19】そうでなくても、2 芸術をめぐって感動の源泉を知識や技術にもとめようとすると、どうしてもわかりやすい基準に頼りがちだ。「うまい」「きれいだ」「ここちよい」などがそれである。うまい絵、きれいな絵、ここちよい絵ほど、パッと観に判断しやすく、みなで価値を共有できるものはない。

【20】実は、岡本太郎が真っ向から否定したものこそ、この三つの基準であった。「芸術は、うまくあってはならない、きれいであってはならない、ここちよくあってはならない」と岡本太郎は喝破した。


ーーーーーーーー


(設問)

問2 傍線部2 「芸術をめぐって感動の源泉を知識や技術にもとめようとすると、どうしてもわかりやすい基準に頼りがちだ。」とあるが、それはなぜか。その理由として最適なものを、次の中から一つ選べ。

ア 芸術に関する知識や技術ならば人に伝えられるものだから、それは容易にわかるものだと考えてしまうから。

イ 芸術に関する知識や技術にはある種の水準があるので、それを満たしていればわかりやすいことは事実だから。

ウ 芸術に関する知識や技術は特定の人にしか身につけられないので、わからないと自分の感性が鈍いと思ってしまうから。

エ 芸術に関する知識や技術は教えられればわかるので、実はわかっていなくてもわかった気になる言葉に結びつけやすいから。

オ 芸術に関する知識や技術を踏まえていればネガティヴな感情は起きないので、自分の中のネガティヴな感情を隠すためにわかりやすい言葉を選んでしまうから。 


……………………………

 

(解説・解答)

 傍線部の直前・直後の文脈に注意してください。

【18】段落「最近、やたらオーディオ・ガイドとやらが発達して、美術館に行くと、みなヘッドフォンを掛けて絵を観ている。あれはいったい、本当に絵を観ていることになるのか。肝心の絵のほうが、解説を聞くためのイラスト風情に成り下がっていはしないか。あんなものを付けて絵を観せられるなら、ひたすら何も考えずじっと絵を睨みつけたほうがずっといい。」

【19】段落そうでなくても、芸術をめぐって感動の源泉を知識や技術にもとめようとすると、どうしてもわかりやすい基準に頼りがちだ。「うまい」「きれいだ」「ここちよい」などがそれである。うまい絵、きれいな絵、ここちよい絵ほど、パッと観に判断しやすく、みなで価値を共有できるものはない

【20】段落実は、岡本太郎が真っ向から否定したものこそ、この三つの基準であった。「芸術は、うまくあってはならない、きれいであってはならない、ここちよくあってはならない」と岡本太郎は喝破した。

が、エ(→「芸術に関する知識や技術は教えられればわかるので、実はわかっていなくてもわかった気になる言葉に結びつけやすいから。」)に関連しています。

 

(解答) エ

 

ーーーーーーーー

 

(『感性は感動しない』本文)

【21】要は、ある絵を観て、「うわ、なんてみにくい絵なんだろう」「こういう絵はもう二度と観たくない」「こんな絵を描いた人物は、きっとどこか変なのだ」といった反応をすることを、芸術は排除するべきではない。世間的にはネガティヴだとされるこうした感情も、もしかするとその人の心の奥底に眠り、ずっと押さえつけられていたなにかに気づき、それを解放するきっかけになるかもしれないからだ。

【22】そして、どんな絵に心が揺さぶられるかは、けっきょくのところ、その人にしかわからない。誰にもわかってもらえない。ましてや共有などできるはずがない。感性がみがけないというのは、煎じ詰めればそういうことだ。

【23】つまり、芸術における感性とは、あくまでも観る側の心の自由にある。決して、高められるような代物ではない。その代わり、貶(おとし)められることもない。そのひとがそのひとであるということ、それだけが感性の根拠だからだ。

【24】ひとたびこれをまちがえると、3 感性の根拠が自分のなかではなく、作られた作品や、それを作った作者の側にあるように思い込んでしまう。しかし、芸術体験にとってこれほど不幸なことはない。

【25】他人のことは決してわからない。ましてや他人の感性などわかるはずがない。けっきょく芸術作品は自分で観るしかない。それは誰にも肩代わりができない、あなただけの体験だ。言い換えれば、個が全責任を負って観ることができるのが芸術だ。そして、これがすべてなのである。

【26】ところが安易にこの権利を作り手の側に渡してしまう。渡した途端、他人のことはわからないものだから、すぐにわかりやすい理由に頼ろうとしてしまう。この絵の描き手はどのくらい描写の技を持っているか、過去にどんな履歴を積んでいるか、どんな有力な流派に属しているか。これでは心は動かされない。反対に心を支配されてしまう。では、そうならぬためにはどうしたらよいか。


ーーーーーーーー


(設問)

問3 傍線部3 「感性の根拠が自分のなかではなく、作られた作品や、それを作った作者の側にあるように思い込んでしまう。しかし、芸術体験にとってこれほど不幸なことはない」とあるが、それはなぜか。その理由を述べた部分を35字以上40字以内で本文から一つ抜き出し、最初と最後の3字を、それぞれ記せ。

 

……………………………

 

(解説・解答)

 「芸術体験にとってこれほど不幸はことはない」ということの「理由」を問われていることに、注意してください。

 傍線部の「感性の根拠」は、直後の「自分のなか」です。

 さらに言うと、文脈から見て、直前の

【23】段落「つまり、芸術における感性とは、あくまでも観る側の心の自由にある。決して、高められるような代物ではない。その代わり、貶(おとし)められることもない。そのひとがそのひとであるということ、それだけが感性の根拠だからだ。

における、「そのひとがそのひとであるということ」です。


 傍線部3は、「感性の根拠」を「作り手の側」に渡すことについて述べています。

 傍線部3は、「感性の根拠」を「作り手の側」に渡すことは、「芸術体験にとって不幸なこと」である、と主張しているのです。

 「芸術体験にとってこれほど不幸はことはない」ということの「理由」については、傍線部3より二つ後ろの、

【26】段落「ところが安易にこの権利を作り手の側に渡してしまう。渡した途端、他人のことはわからないものだから、すぐにわかりやすい理由に頼ろうとしてしまう。この絵の描き手はどのくらい描写の技を持っているか、過去にどんな履歴を積んでいるか、どんな有力な流派に属しているか。これでは心は動かされない。反対に心を支配されてしまう。

に着目してください。


(解答) 他人の・・・・しまう

 

ーーーーーーーー

 

(『感性は感動しない』本文)

【27】感性などみがこうとしないことだ。いま書いたとおり、感性とは「あなたがあなたであること」以外に根拠をおきようのないなにものかだ。一枚の絵の前に立って、いったいあなたがなにを感じるのか。たしかに、その感じ方には、当人が受けて来た教育や慣習といった様々な背景によって、色が付いているだろう。しかし、それはそれでよいのである。芸術にはまっさらな気持ちで接するべきだとする、別のかたちの潔癖主義の誘いに乗ることはない。4 芸術作品とは自分がなにものであるかを映し出す鏡なのであるから、汚れた自分のままがよいのだ。むしろ自分の汚れを絵に映してしっかりと見届け、そこから先へ進んでゆく糧にすればよい。

 

ーーーーーーーー


(設問)

問4 傍線部 4 「芸術作品とは自分がなにものであるかを映し出す鏡なのであるから、汚れた自分のままがよいのだ」とあるが、それはなぜか。その理由として最適なものを、次の中から一つ選べ。

ア 自分はどういう人間かを知るのが芸術を鑑賞する目的なので、何も知らない状態のままの自分で臨めばいいから。

イ 芸術作品は自分の中の醜い部分をも映し出す効果があるので、無理に純白の状態を装ってみてもしかたがないから。

ウ 絵画の鑑賞には知識や技術への理解は必要ないので、それまでに教わったことに新たにつけ加えなくてもよいから。

エ 芸術作品にはまっさらな自分が映し出されるわけではないので、それまで受けた教育を見つめ直す必要はないから。

 オ ありのままの自分の感性によって芸術を鑑賞することで、はじめて芸術家の経歴をも含めた芸術家自身と向きあえるから。

 

……………………………

 

(解説・解答)

 傍線部4の「汚れた自分」に言及しているのは、【21】段落です。

【21】段落「要は、ある絵を観て、「うわ、なんてみにくい絵なんだろう」「こういう絵はもう二度と観たくない」「こんな絵を描いた人物は、きっとどこか変なのだ」といった反応をすることを、芸術は排除するべきではない。世間的にはネガティヴだとされるこうした感情も、もしかするとその人の心の奥底に眠り、ずっと押さえつけられていたなにかに気づき、それを解放するきっかけになるかもしれないからだ。」

上記の、

「世間的にはネガティヴだとされるこうした感情」

「その人の心の奥底に眠り、ずっと押さえつけられていたなにか」

が、「汚れた自分」に関連しています。


 また、傍線部直後の「むしろ自分の汚れを絵に映してしっかりと見届け、そこから先へ進んでゆく糧にすればよい。」の部分もポイントになります。

 

(解答) イ

 

ーーーーーーーー

 

(『感性は感動しない』本文)

【28】芸術作品には芸術作品の「分際」というものがある。最終的には、あなたの生き様に何も及ぼさないのであれば、どんなに価値が高いとされている芸術でも、本当のところは粗大ゴミも同然なのである。

【29】別の言い方をすると、芸術家にとって、観る者の感性の優位には残酷なところがある。作り手が、自作の価値の源泉をできあいの知識や履歴に頼れなくなったとき、作家は丸裸にされてしまうからだ。

【30】職業柄、よく美術館やギャラリーを訪れるのだが、見事な技を持ち、様々な歴史的な文脈を踏まえ、まるで一個の構造物のようによく練られた作品に出会うことは 少なくない。しかし、それでいてまったく心を動かされないのだ。

【31】5 こういう作品には、なにか無惨なものがある。よくできていて、しかも同時に無惨なのだ。いや、よくできているということ自体が、無惨なのかもしれない。つまり、知識や技の痕跡は垣間見えても、直接、感性を呼び覚ます力がない。学習の対象にはなっても、絵を観ることの喜びや哀しみがない。怒りや晴れやかさがない。

 

ーーーーーーーー


(設問)

問5 傍線部 5「こういう作品には、なにか無惨なものがある」とあるが、何を「無惨」と述べているのか。その説明として最適なものを次の中から一つ選べ。

ア 世間では価値が高くても、自分には粗大ゴミ同然であること。

イ すぐれた鑑賞者によって、芸術家の人間性が暴かれてしまうこと。

ウ「うまい」「きれいだ」「ここちよい」といった言葉で語れてしまうこと。

エ 芸術家が勉強して身につけた以上のことが表現されてしまっていること。

オ 鑑賞者が 汚れた自分の眼で観ることによって、芸術家の技術が無視されること。

 

……………………………

 

(解説・解答)

 傍線部の「こういう作品」とは、直前の【30】段落の、「美術館やギャラリー」で出会う「見事な技を持ち、様々な歴史的な文脈を踏まえ、まるで一個の構造物のようによく練られた作品」です。

 

 「無惨」の内容については、傍線部直後に、「よくできていて、しかも同時に無惨なのだ。いや、よくできているということ自体が、無惨なのかもしれない。つまり、知識や技の痕跡は垣間見えても、直接、感性を呼び覚ます力がない。学習の対象にはなっても、絵を観ることの喜びや哀しみがない。怒りや晴れやかさがない」と述べられています。

 

 なお、【19】段落の

そうでなくても、2 芸術をめぐって感動の源泉を知識や技術にもとめようとすると、どうしてもわかりやすい基準に頼りがちだ。「うまい」「きれいだ」「ここちよい」などがそれである。うまい絵、きれいな絵、ここちよい絵ほど、パッと観に判断しやすく、みなで価値を共有できるものはない。

という記述も、ヒントになります。

 

(解答) ウ

 

ーーーーーーーー

 

(『感性は感動しない』本文)

【32】反対に、そうした知識や技に裏付けられることがなく、まったく教育を受けたことかない者が引いた素描の線に猛烈に心を動かされることがある。けれども、そこで描かれた線が、特になにか優れているわけではない。

【33】ここで勘違いしてしまうと、線を引いた者の無垢や天才を賞讃するという別の悪弊に陥ってしまう。安易に子供の描く絵はみなすばらしいと言ってみたり、障害をおった者の絵を格別に賛美したりしてしまう。6 本当は、感性を通じて自分の心のなかを覗き込んでいるだけなのに、そのことに気づかないづかない。気づこうとしない。結局、怖いからだろう。

【34】誰でも、自分の心の中身を知るのは怖い。だからふだんはそっと仕舞っておく。けれども、ときに芸術作品はこの蓋を容赦なく開けてしまう。冒頭に掲げた岡本太郎の言葉にある「いろいろな条件にぶっつける」というのは、まさにそのことだ。ゴツゴツとした感触がある。なにか軋轢(あつれき)が生じる。自分が壊れそうになる。こうした生の手触りを感じるとき、僕らは、自分のなかで感性が音を立てて蠢いているのを初めて知る。

【35】感性とは、どこまでも事後的にしか知れないものだからだ。

 (椹木野衣「感性は感動しない」)


ーーーーーーーー


(設問)  

問6 傍線部 6「本当は、感性を通じて自分の心のなかを覗き込んでいるだけなのに、 そのことに気づかないづかない」とあるが、どういうことか。その説明として最適なものを次の中から一つ選べ。

ア 芸術作品は知識や技術ではどうにもならないものなのに、自分の未熟さを直視できないこと。

イ 芸術によって自分を見ているはずなのに、弱い者への同情によって、それが覆い隠されてしまうこと。

ウ 「かわいい」とか「かわいそう」といった通俗的な観念が自分の中にあることが怖くて、それに向き合わないこと。 

エ 芸術の教育を受けていない人の絵に感動する自分が、そのような人たちと同等のレベルであることを知るのが怖いこと。

オ 感性は正しい自分の姿を見せているのに、 芸術の教育を受けていない人の作品が自分の感性よりもすぐれていると思いこんでしまうこと。 

 

……………………………

 

(解説・解答)

 直前の文脈に注目してください。

 傍線部の「自分の心のなか」と、傍線部直前の

「  ここで勘違いしてしまうと、線を引いた者の無垢や天才を賞讃するという別の悪弊に陥ってしまう。安易に子供の描く絵はみなすばらしいと言ってみたり、障害をおった者の絵を格別に賛美したりしてしまう」

を対比することが、スタートになります。

 

 傍線部の「自分の心のなか」を説明しているのは、以下の二つです。

【21】段落「要は、ある絵を観て、「うわ、なんてみにくい絵なんだろう」「こういう絵はもう二度と観たくない」「こんな絵を描いた人物は、きっとどこか変なのだ」といった反応をすることを、芸術は排除するべきではない。世間的にはネガティヴだとされるこうした感情も、もしかするとその人の心の奥底に眠り、ずっと押さえつけられていたなにかに気づき、それを解放するきっかけになるかもしれないからだ。」

 

【27】段落「感性などみがこうとしないことだ。いま書いたとおり、感性とはあなたがあなたであること以外に根拠をおきようのないなにものかだ 。一枚の絵の前に立って、いったいあなたがなにを感じるのか。たしかに、その感じ方には、当人が受けて来た教育や慣習といった様々な背景によって、色が付いているだろう。しかし、それはそれでよいのである。芸術にはまっさらな気持ちで接するべきだとする、別のかたちの潔癖主義の誘いに乗ることはない。4 芸術作品とは自分がなにものであるかを映し出す鏡なのであるから、汚れた自分のままがよいのだ。むしろ自分の汚れを絵に映してしっかりと見届け、そこから先へ進んでゆく糧にすればよい。」

 

 この二つの段落と、傍線部直前の「勘違い」に関連する、以下の記述を対比するとよいでしょう。

【32】段落「反対に、そうした知識や技に裏付けられることがなく、まったく教育を受けたことかない者が引いた素描の線に猛烈に心を動かされることがある。けれども、そこで描かれた線が、特になにか優れているわけではない。 」

【33】段落「ここで勘違いしてしまうと、線を引いた者の無垢や天才を賞讃するという別の悪弊に陥ってしまう。安易に子供の描く絵はみなすばらしいと言ってみたり、障害をおった者の絵を格別に賛美したりしてしまう。」


(解答) イ

 

ーーーーーーーー


(設問)

問7 本文では「感性」が キーワードとなっているが、筆者は要するに「感性」とは何を根拠としていると言いたいのか。


……………………………

 

(解説・解答)

 「感性」について述べられている以下の箇所に注目してください。

【23】段落「つまり、芸術における感性とは、あくまでも観る側の心の自由にある。決して、高められるような代物ではない。その代わり、貶(おとし)められることもない。そのひとがそのひとであるということ、それだけが感性の根拠だからだ。

【27】段落「感性などみがこうとしないことだ。いま書いたとおり、感性とはあなたがあなたであること以外に根拠をおきようのないなにものかだ。一枚の絵の前に立って、いったいあなたがなにを感じるのか。たしかに、その感じ方には、当人が受けて来た教育や慣習といった様々な背景によって、色が付いているだろう。しかし、それはそれでよいのである。芸術にはまっさらな気持ちで接するべきだとする、別のかたちの潔癖主義の誘いに乗ることはない。4 芸術作品とは自分がなにものであるかを映し出す鏡なのであるから、汚れた自分のままがよいのだ。むしろ自分の汚れを絵に映してしっかりと見届け、そこから先へ進んでゆく糧にすればよい。」

 

 上記の「あなたがあなたであること」とは「アイデンティティ」を指します。

 

(解答) アイデンティティ(8字)

 

ーーーーーーーー

 

感性は感動しない――美術の見方、批評の作法 教養みらい選書

 

 

(3)当ブログによる解説/「はじめに」(『感性は感動しない』所収)についての解説

 

 

 今回解説した「感性は感動しない」は、最近出版された『感性は感動しない』に収録されています。

 『感性は感動しない』のテーマについては、「はじめに」に述べられているので、以下に引用します。

「私がこの本を通じて伝えたいことは、煎じつめて言えば、あなたにとっての世界が、まだ手つかずの未知の可能性の状態としてここにある、ということの神秘なのです。それを発見することができるのはあなただけだ、ということでもあります。絵を見たり文を書いたりすることは、ものを食べたり空気を吸ったりするのと違って、しなければそれで済んでしまうことです。しかし同時に、人生にとって無駄とも思えるそういう領域のなかに、私の言う神秘はひっそりと隠れていて、いつかしっかりと見つけられるのを待っているのです。/さあ、これからこの本を通じて、世界への新しい扉を開いてみて下さい。世界の入り口へと通じる扉は、実は一枚ではありません。その先にある隠し扉こそが、本当の扉なのです」(「はじめに」『感性は感動しない』)


 上記の「はじめに」は、「絵画の鑑賞」が、「未知の自分の発見・確認」、「未知のアイデンティティの発見・確認」のために有用であることを示唆しています。

 

 このことは、問3・4・6・7に関連しています。

 

 「絵画の鑑賞」は、まさに「絵画の観照(→当ブログによる「注」→「観照」とは、主観をまじえないで物事を冷静に観察して、意味を明らかに知ること)」です。

 言い換えれば、「自分の観照」、「アイデンティティの観照」、つまり、「人生の観照」なのです。

 

 椹木野衣氏は、『感性は感動しない』に関する2018年9月5日の『朝日新聞(夕刊)』のインタビュー記事の中で、以下のように述べています。

「  芸術とは、自分の中にいる子ども、すなわち、かけがえのない、自分が自分であることの芯になるものと出会い直すためにあるのではないでしょうか」


 このことを実感するためには、「芸術の鑑賞」・「感性」・「自分」・「アイデンティティ」について述べられている以下の箇所に注目してください。


【1】段落「岡本太郎は感性について次のように言っている。

「感性をみがくという言葉はおかしいと思うんだ。

感性というのは、誰にでも、瞬間にわき起こるものだ

感性だけ鋭くして、みがきたいと思ってもだめだね。

自分自身をいろいろな条件にぶっつけることによって、

はじめて自分全体のなかに燃え上がり、
広がるものが感性だよ」 (『強く生きる言葉』)


【10】段落「そもそも、よい絵とはなんであろうか。すぐれた美術作品とはどんなものであろうか。」


【11】段落「答えは簡単で、観る人の心を動かすものにほかならない。ポジティブな感情でもネガティブなものでもかまわない。 観る人の気持ちがわけもわからずグラグラと揺り動かされる。いても立ってもいられなくなる。一枚の絵がなぜだか頭からずっと離れない。それが、芸術が作品として成り立つ根源的な条件である。」

 

【21】段落「  要は、ある絵を観て、「うわ、なんてみにくい絵なんだろう」「こういう絵はもう二度と観たくない」「こんな絵を描いた人物は、きっとどこか変なのだ」といった反応をすることを、芸術は排除するべきではない。世間的にはネガティヴだとされるこうした感情も、もしかするとその人の心の奥底に眠り、ずっと押さえつけられていたなにかに気づき、それを解放するきっかけになるかもしれないからだ。

 

【22】段落「そして、どんな絵に心が揺さぶられるかは、けっきょくのところ、その人にしかわからない。誰にもわかってもらえない。ましてや共有などできるはずがない。感性がみがけないというのは、煎じ詰めればそういうことだ。」

 

【23】段落「つまり、芸術における感性とは、あくまでも観る側の心の自由にある。決して、高められるような代物ではない。その代わり、貶(おとし)められることもない。そのひとがそのひとであるということ、それだけが感性の根拠だからだ。

 

【25】「他人のことは決してわからない。ましてや他人の感性などわかるはずがない。けっきょく芸術作品は自分で観るしかない。それは誰にも肩代わりができない、あなただけの体験だ。言い換えれば、個が全責任を負って観ることができるのが芸術だ。そして、これがすべてなのである。」

 

【27】段落「感性などみがこうとしないことだ。いま書いたとおり、感性とはあなたがあなたであること以外に根拠をおきようのないなにものかだ。一枚の絵の前に立って、いったいあなたがなにを感じるのか。たしかに、その感じ方には、当人が受けて来た教育や慣習といった様々な背景によって、色が付いているだろう。しかし、それはそれでよいのである。芸術にはまっさらな気持ちで接するべきだとする、別のかたちの潔癖主義の誘いに乗ることはない。4 芸術作品とは自分がなにものであるかを映し出す鏡なのであるから、汚れた自分のままがよいのだ。むしろ自分の汚れを絵に映してしっかりと見届け、そこから先へ進んでゆく糧にすればよい。

 

【33】段落「ここで勘違いしてしまうと、線を引いた者の無垢や天才を賞讃するという別の悪弊に陥ってしまう。安易に子供の描く絵はみなすばらしいと言ってみたり、障害をおった者の絵を格別に賛美したりしてしまう。本当は、感性を通じて自分の心のなかを覗き込んでいるだけなのに、そのことに気づかないづかない。気づこうとしない。結局、怖いからだろう。

 

【34】段落「 誰でも、自分の心の中身を知るのは怖い。だからふだんはそっと仕舞っておく。けれども、ときに芸術作品はこの蓋を容赦なく開けてしまう。冒頭に掲げた岡本太郎の言葉にある「いろいろな条件にぶっつける」というのは、まさにそのことだ。ゴツゴツとした感触がある。なにか軋轢(あつれき)が生じる。自分が壊れそうになる。こうした生の手触りを感じるとき、僕らは、自分のなかで感性が音を立てて蠢いているのを初めて知る。

 


(4)椹木野衣氏の紹介

 

 椹木野衣(さわらぎ のい)

 1962年埼玉県生まれ。

 故郷の秩父で音楽と出会い、京都の同志社で哲学を学んだ盆地主義者。

 美術批評家として会田誠、村上隆、ヤノベケンジら現在のアート界を牽引する才能をいち早く見抜き、発掘してきた。

 既存のジャンルを破壊する批評スタイルで知られ、蓄積なしに悪しき反復を繰り返す戦後日本を評した「悪い場所」(『日本・現代・美術』新潮社)という概念は、日本の批評界に大きな波紋を投げかけた。

 ほかにも読売新聞(2010-2011)、朝日新聞(2017-)の書評委員としてあらゆる分野にわたる書評多数。

 多摩美術大学教授にして岡本太郎「芸術は爆発だ!」の精神的継承者。

 芸術人類学研究所所員も務める。

 1児の父。

 

【おもな著書】 


『シミュレーショニズム』(増補版はちくま学芸文庫)、

『反アート入門』『アウトサイダー・アート入門』(ともに幻冬舎)、

『太郎と爆発』(書房新社)、

『後美術論』(美術出版社、第25回吉田秀和賞)、

『震美術論』(美術出版社、平成29年度芸術選奨文部科学大臣賞)

 

後美術論 (BT BOOKS)

後美術論 (BT BOOKS)

 

 

震美術論 (BT BOOKS)

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(5)当ブログにおける「芸術論」関連記事の紹介

 

 「芸術論」は、入試頻出論点です。慣れるようにしてください。

 

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ーーーーーーーー

 

 今回の記事は、これで終わりです。

 次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

 ご期待ください。

 

  

 

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

 

 

5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

 

 

 

 私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。

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予想問題/「AI 社会 新たな世界観を」山極寿一『朝日新聞』

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 

 AI 社会、科学批判は、最近の流行論点、頻出論点です。

 この論点については、背景知識の有無がモノをいいます。

 最近、これらの論点に関する、入試頻出著者・山極寿一氏の秀逸な論考(「AI社会 新たな世界観を」山極寿一『朝日新聞』《科学批評》)が発表されました。

 そこで、国語(現代文)・小論文対策として、この論考、および、この論考に関連する論点を、詳しく解説します。

 

 

朝日新聞デジタル

朝日新聞デジタル

 

 

 

(2)予想問題/「科学技術発展のリスク AI社会 新たな世界観を」 山極寿一《科学季評》『朝日新聞』2018年8月8日

 

(本文は太字にしました)

(概要です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です) 

 

 最近のあらゆる未来志向型プロジェクトで、人工知能(AI)は欠かせない要素だ。AIを用いたスマート農業やスマート漁業、複雑なデータ解析を一瞬でこなす医療診断、人口縮小社会の効率的な情報システムの構築など、枚挙にいとまがない。果たしてAIは人間に明るい未来を約束してくれるだろうか。

 AI社会とは、情報によって人間が地球規模でつながる仕組みだ。人々はすでに情報なしで暮らせない社会に生きているが、今後あらゆる行為を選ぶうえでAIの判断が欠かせなくなる。言葉を持った人間が、身体ではなく脳でつながろうとしてきた当然の帰結だと私は思う。

 人類が700万年にわたる進化の過程で手に入れた最も大きな力は、相手の気持ちに立って物事を推し量れる共感力だ。人類の祖先が200万年前に脳を大きくし始めたのは、集団の規模が拡大し、より多くの人と密接に協力関係を結ぶようになったからだ。ゴリラの3倍の大きさを誇るホモ・サピエンスの脳でも、共感し合いながら暮らせる集団の規模は150人程度だ。それが、約7万年前に言葉による認知革命が起こり、さらに1万2千年前に始まった農耕によって、より多くの人々が一緒に暮らすことが可能になった。

 以後、人類は世界を言葉で分類し、あらゆるものを情報化して操作してきた。だが、共感力を用いた人間のつながりは、身体を用いたコミュニケーションが不可欠だ。情報を介して脳だけでつながっても共感力は発揮できない。これまでの戦争における人間の扱いや、誤った情報操作による虐待の歴史は、いまだに人間が共感力を広げられていないことを示している。

 


(当ブログによる解説)

 「共感力」については、入試頻出著者・山崎正和氏の次の論考(「物神崇拝と動物愛護ののちに」『一冊の本』2001年2月号)が、かなり参考になります。

 以下に、概要を引用します。

 

「  一般に人間には対象のなかに自分と同質の生命を感じとる能力があって、この共感によって対象の生命と一体化することを感情移入という。

 そして、犬や花であれ無生物の人形であれ、とくに自分より小さいものに感情を移入したときに、その対象を可愛いと感じるらしい。そういう感情移入が起こるのは対象の形や性質にもよるが、それ以上に人間の心の側の積極的な能力によっている。現に実際には生命のない人形を可愛いと思うのは、明らかに特定の文化に育てられた心の作用の結果だろう。 

 ところで、この心の作用はもともとは「可愛さ」とは関係がなく、もっと広く物神崇拝という伝統的な精神の文化のなかで働いていた。巨大な岩石に畏敬を覚えたり、日常の食物や道具を「もったいない」と感じるのは、そういう文化の現れであろう。いうまでもなく巨石も一粒の米も可愛いものではなく、むしろ人が頭を垂れるべき対象であった。それをいえば人形も古代では可愛さの対象ではなく、恐れたり願をかけたりする、まじないの道具であった。なまじ人間の形をしているからややこしいが、人形は人間以上に大きい生命の象徴であって、いわば物神崇拝の精神を凝縮して具象化した対象だったようである。

 これにたいして、一匹ぴきの子犬に可愛らしさを感じるのは、これまではもっと直接的な生命の共感によるものと考えられてきた。大きさの点でも子犬は人間を超えた生命の象徴ではなく、逆に人間より弱く小さな生命の持ち主である。それを愛するのは物神崇拝とは別の文化の現れであり、動物愛護と呼ばれる精神の発動だと考えられてきた。いったい動物愛護の感情がいつ生まれたか定かではないが、おそらく十七世紀ごろの近代的な自然観の誕生と何らかの関係があるだろう。ともかくそれは一粒の米をもったいないと思う感情とは異なり、むしろ人間の子供を可愛がる感情に似ていると見なされてきた。そしてたぶん人形が人に可愛がられる対象に変わったのも、こうした文化の歴史的な変化と並行していたはずである。 

 だが、人形が初めて可愛い存在に変わったとき、それはおそらく人間の想像力の多大な発揮を必要とするものだっただろう。形も単純だったし、もちろん自分の力で動くものではなかった。犬や猫のような愛玩動物とは違って、向こうから人間の感情移入の働きを誘発する存在ではなかった。これには直接的な生命の共感が難しいだけに、人間はより多く努力して実在しない生命を読みとる必要があった。いいかえれば、人形を可愛いと感じるためには、人は物神崇拝の文化を失いながら、物神崇拝のために求められるような強い想像力を要求されていたはずである。やがて何百年もの歳月をかけて、人間は少しずつ人形を可愛がる感情を育て、同時に可愛らしさをそそる人形の形状を生みだしてきた。しかしそれでも、近代文化は人形と愛玩動物のあいだに厳然たる区別を置く一方、どんな単純な人形にも生命を感じとる感受性を残してきたのである。 

 こう考えると、「アイボ」の出現はこの長い区別を攪乱し、物神崇拝と動物愛護の文化の終わりの始まりになるのかもしれない。まるで生きた動物のように反応する機械にたいして、人間にはそこに生命を読みとる強い想像力はいらない。可愛らしさは対象のほうからかってにやってきて、人間の受け身の心を直接にとらえてくれる。これを続けて行けば感情移入の能力は萎縮して、やがて動かない人形は可愛いものではなくなるかもしれない。同時に愛玩動物の可愛らしさも生物の特権的な特徴ではなくなり、少なくとも感情の次元で動物と機械との区別が弱くなることが考えられるのである。

 すでに科学の世界では物神崇拝的な生命観は完全に否定され、生物と無生物の距離さえ大きく縮まろうとしている。法律の世界でも動物と物体の区別は捨てられ、飼い犬を殺しても器物損壊としてしか罰せられない。そこへまったく思いがけない方向から、いま感情文化の世界にも同じ流れの変化が迫っているのかもしれないのである。

(山崎正和「物神崇拝と動物愛護ののちに」『一冊の本』2001年2月号)

 

 また、「身体を用いたコミュニケーション」、つまり、「身体コミュニケーション」については、入試頻出著者・市川浩氏の次の論考(『「身」の構造―身体論を超えて』)を、知っておくべきでしょう。

 概要を以下に引用します。

 

「  相手がにっこりすると、思わず私もにっこりします。これは相手がほほ笑んでいるから、こちらもほほ笑み返さなければ礼儀上悪いと思ってにっこりするわけではありません。相手のほほ笑みを見ると、こっちも思わずほほ笑んでしまう。

 逆に、相手の顔がこわばっていると、自然に私の顔もこわばってしまう。つまり、他者の身体というのは、決して科学が扱うような客体的身体ではなく、表情をもった身体であり、私の身体もまた気づかぬうちに表情や身ぶりで、それに応えています。

 つまり、身体的レヴェルでの他者の主観性の把握と、私の応答があるわけです。これがいわゆるノン・ヴァーバル・コミュニケーション(→「非言語コミュニケーション)ですが、もしこうした身体的な場の共有がなけれは、言葉のうえでは話が通じても、心が通わないでしょう。

 逆に場が共有されていれば、言葉が足りなかったり、多少行き違ってもわかり合うことができます。

(中略)

 電話だと誤解が起こりやすいのは、身体的レヴェルでのコミュニケーションが制限されているからです。大事な話があるときは、電話では話せないから会えないか、と言います。

(中略)

 これは生き身が、単なる対象としての身体ではなく、互いに感応(→「共感」)し、問いかけ、応答する、表情的身体だからこそ可能なのです。人々の間で無意識のうちに交わされる身体的対話は、社会のうちに共通の表情を作り上げて行きます。外国人を見ると同じ顔に見えるように、われわれもひとりひとり違った顔をしているように見えながら、外から見れば、共通の表情をしているのでしょう。 

 (市川浩『「身」の構造―身体論を超えて』)

 

 

〈身〉の構造 身体論を超えて (講談社学術文庫)

〈身〉の構造 身体論を超えて (講談社学術文庫)

 

 

 

(「科学技術発展のリスク AI社会 新たな世界観を」 山極寿一)

 科学技術は今、情報によって人間や社会を作り替えようとしている。世界的なベストセラー「サピエンス全史」の著者ユヴァル・ノア・ハラリは、新作「ホモ・デウス」で、人間が超人となり神の領域に手を出そうとする未来を警告している。

 現代の科学は、人間の感覚や情動も、生化学データを処理するアルゴリズム (→当ブログによる「注」→アルゴリズムとは、数学、コンピューティング、言語学、あるいは関連する分野において、問題を解くための手順を定式化した形で表現したものを言う。算法と訳されることもある)であることを証明した。興奮とは、脳内の伝達物質アドレナリンが大量に放出されることと同義だといったように。だから、不安や苦痛、不快や恐怖は人為的に生化学的な処置をすることで取りのぞける。人類を悩ましてきた病気や戦争による被害はこの1世紀、特効薬の開発や、情報技術による世界的なルールの徹底によって激減した。

 次に人間が望むのは寿命の延長、不死の身体で、AIを含む科学技術の発展により生まれたゲノム編集や人体の工学的な改良によって実現する。今や人間は超人類を生み出す神の手を持とうとしていると、ハラリは主張する。

 その時、人間は生きる目的を何に求めたらいいのだろう。一部の人間が人類を超越し、神のごとき能力を持つホモ・デウスになれば、人種差別どころか、人と家畜に匹敵するような大きな差別が生まれるかもしれない。もはやこの世界の外にいる神は存在しない。不死の世界に天国も地獄も影響力を持ちえないからだ。

 こうなると、科学技術という“宗教”に対抗する世界観が必要だ。

 

 

(当ブログによる解説)

「  次に人間が望むのは寿命の延長、不死の身体で、AIを含む科学技術の発展により生まれたゲノム編集や人体の工学的な改良によって実現する。今や人間は超人類を生み出す神の手を持とうとしていると、ハラリは主張する。

 その時、人間は生きる目的を何に求めたらいいのだろう。一部の人間が人類を超越し、神のごとき能力を持つホモ・デウスになれば、人種差別どころか、人と家畜に匹敵するような大きな差別が生まれるかもしれない。もはやこの世界の外にいる神は存在しない。不死の世界に天国も地獄も影響力を持ちえないからだ。

 こうなると、科学技術という“宗教”に対抗する世界観が必要だ。

の部分は、「パラダイムシフト」に関連しています。

 

 「パラダイムシフト」(paradigm shift)とは、その時代や分野において当然のことと考えられていた認識・思想、社会全体の価値観などが革命的に変化することをいいます。「パラダイムチェンジ」ともいいます。

科学史家トーマス・クーンが『科学革命の構造』で提唱した「パラダイム概念」の説明で用いられたものが拡大解釈されて一般化したものです。

 「パラダイムシフト」は、狭義では「科学革命」と同義です。

 

 一般用語としての「パラダイム」は「規範」を意味する単語です。

 しかし、科学史家トーマス・クーンの科学革命で提唱した「パラダイム概念」が、拡大解釈され、一般化されて用いられ始めました。

 拡大解釈された「パラダイム」は「認識の仕方」・「常識」・「支配的な解釈」などの意味合いで使われています。

 広義の「パラダイムシフト」は、「発想の転換」や「常識への懐疑」、「革新的な発想」などの意味で使用されています。

 人類は、恒常的に何らかの重大な問題に直面しているため、そのたびに新たな解決が求められています。

 その解決のための手段としての「パラダイムシフト」は、一定の説得力を持っているために、一般化したのです。

 「パラダイム」は、狭義には、その時代・分野における主流の思想が衰え、新しい思想が主流となることを指します。

『ホモ・デウス』によると、「パラダイムシフト」の必要性が強く感じられます。

 近い将来、以下のように、「データイズムに社会/世界の最高権威の地位を譲り渡すことになる」可能性が高いからです。

 

 この点を丁寧に解説している池田純一氏の論考(「第5回:『サピエンス全史』に続く物語、そして人類は「データの神」に駆逐される~連載・池田純一書評」『ワイアード・ブック・レヴュー』)の一部の概要を以下に引用します。

 

「  この話が厄介なのは、長寿・救命という「ヒューマニズム(人間第一主義)」の要請に素直に従っていく過程で、その試み自体がヒューマニズムの前提、すなわち、人間が世界の中心であり、人間が世界秩序を決める「最終権威」である、という考え方の大前提を切り崩してしまうところだ。なぜなら、人間よりもシステムのほうが人間のことをよく知る存在であることがあからさまに公知のものとなってしまうからだ。なにより、人間の精神状態(マインドやコンシャスネス)も、生体活動を支える生化学的アルゴリズムが発現させたものにすぎないと、当の〈システム〉が日々囁いてくる。

 こうしてヒューマニズムは内破し、データイズムに社会/世界の最高権威の地位を譲り渡すことになる。

 かつて神がいた場所を「データ」が占める。

(「第5回:『サピエンス全史』に続く物語、そして人類は「データの神」に駆逐される~連載・池田純一書評」『ワイアード・ブック・レヴュー』)

 

 

〈未来〉のつくり方 シリコンバレーの航海する精神 (講談社現代新書)

〈未来〉のつくり方 シリコンバレーの航海する精神 (講談社現代新書)

 

 


 「パラダイムシフト」とは、現代の科学技術の急速な発展により発生するであろう「データイズム」という「人を超える力」を、いかにして「人類」がコントロールしていくか、という問題が発生します。

 

 まさに、山極氏が主張するように、「科学技術という“宗教”に対抗する世界観が必要」になってくるのです。

 ここで言う「世界観」とは、「人間性」・「人間の自由」をいかに確保するか、の問題でもあります。

 

 新たな、想像を超える、AI 社会における「世界観」をいかに考えていくか、の問題は、簡単な問題ではありません。熟考するべき問題です。

 

 ただ、その際には、以下の村上陽一郎氏の見解(「科学と世界観」『歴史としての部分』)のように、「人間と自然の関係」は、強く意識する必要があるでしょう。

 つまり、人間の生物的側面、人間と自然は一体、という点を軽視できないのです。

 

「  今日的な視点で科学技術と「進歩」を考えた時、南北の格差に気づく。北は、科学技術の「進歩」による「恩恵」を享受する段階から、支払った代価をいとおしみ始めた。「恩恵」とはいいながら、環境破壊によって未来を危うくするという代価を支払っていることにようやく気づき始めた。しかし、南はようやく、代価を支払ってでも、「進歩」を手に入れようとする。このような北と南のライムラグが問題になる。

 北は人類の歴史の主体者として、科学技術の自然の支配と制御による、人類の悲惨と病苦からの解放という「救済」の自明性を疑い始めた。科学技術による環境破壊などを考えると必然的な流れである。しかし、そこには根本的な問題が3つある。

(中略)

 第三は、人類も自然の導く流れの外にはあり得ないことである。確かに、人間が自分たちに都合よく自然を支配する自由度は大きい。もし、生物学的な「種」が、「同一の行動様式を持つ固体の集合」と定義されているならば、人間の文化を一つの「種」とみなすことができる。人間全体というよりも、それぞれの文化を持つ民族や文化圏が一つの「種」を形成し、地球上にいくつのも「種」が共存していると言うことができる。とするならば、人間は、同一の行動様式を持つ「種」を自らの選択によって自由に決定できるかといえば、明らかにそうではない。人間と自然は切り離せない一体のものであり、人間が自然を支配し制御しているようでありながら、それは自然に強く制限されているのである

(「科学と世界観」『歴史としての科学』村上陽一郎)

 

 

歴史としての科学

歴史としての科学

 

 

 

 また、「AI 社会と世界観」を安易に考えることは危険だということも、知っておくべきでしょう。

 科学技術の発展の流れに漫然と乗ってしまうことは、「ただ生存しているだけの空疎な人生」を送ることでしょう。

 以下の池田晶子氏の論考(「『コンビニエントな人生』を哲学する」『死とは何か』)は、かなり参考になります。

 

「  科学技術は、生存することそれ自体が価値であり少しでも長く生存することがよいことなのだという大前提を少しも疑わないことでこそ、めざましい進歩を遂げることができたのだ。そして、少しでも長く生存する限り、その生存はより快適なほうがいい、これが例の「クオリティ・オブ・ライフ」という妙な文句の真意である。この延長線上に、やがて「コンビニエンス」という発想が出てくる。便利さが価値になるほど、人間の価値は薄まる。 

 便利さを享受する愚昧な人々ただ生存しているだけの空疎な人々、夢の近未来社会とは、要するにこれである。わざと悲観的に言っているのではない。何のために何をしているのかを内省することなく、ひたすら外界を追求してきたことの当然の帰結である。 

 さて「便利」ということについて考えてきたが、対する「不便」というのは、便利さを知らなければ出てこない言葉である。したがって、不便という言葉を知った人はすでに不幸だろう。古来より人は、この状態を警戒して、「足るを知る」、すなわち、あるがままを認めることの幸福を説いたのではなかったか。

(池田晶子「『コンビニエントな人生』を哲学する」『死とは何か』)

 

 

死とは何か さて死んだのは誰なのか

死とは何か さて死んだのは誰なのか

 

 


(「科学技術発展のリスク AI社会 新たな世界観を」 山極寿一)

 この春、「人間とは何か」という問いに、AIとゴリラと仏教の視点から考えるシンポに参加した。大乗仏教では、世界を構成するあらゆるものは「縁起」によってつながっていると考える。一見、AIによるネットワークの拡大と似ているが、AIがデータ化された情報によってつながっているのに対し、仏教は直観により世界を把握しようとする。

 

 

(当ブログによる解説)

 「縁」については、最近出版された『熊楠の星の時間』(中沢新一)に分かりやすい説明があるので、以下に引用します。

 

「  仏教は世界の構造を「縁=relation」としてとらえます。存在しているものも非存在のものも、すべては縁によってつながり関係しあっているから、そこには実体がない。この仏教の発想からは、人間の外にある自然を、「自然」という自立的な実体として認めてしまうことは許されないことでした。

(『熊楠の星の時間』中沢新一)

 

 

熊楠の星の時間 (講談社選書メチエ)

熊楠の星の時間 (講談社選書メチエ)

 

 

  

 「縁起」とは、「全ての現象は、他との関係が縁となって生起するということ」です。

 全ての現象は、原因や条件が相互に密接に関係しあって成立しているものです。

 つまり、全ての現象は、独立的なものではなく、条件・原因がなくなれば結果も自ずからなくなるのです。

 これは、仏教の根本的教理の一つであり、釈迦の悟りの内容を表明するものとされています。

 


(「科学技術発展のリスク AI社会 新たな世界観を」 山極寿一)

 たとえば、科学は人間の身体や心の動きを図や画像、数式によって捉えようとするが、それは生物の一側面に過ぎない。生物は本来、仲間や他の生物の動きを様々な感覚を用いて直観的に予測し反応している。そこに情報には還元できない認識力や生物どうしの関係が存在する。

 宗教学者の中沢新一は、言葉や自然科学など、事物を分類して整理する「ロゴスの論理」に対し、事物を独立したものとして取り出さず、関係の網の目の中の作用として認識する「レンマの論理」が、人間に新しい世界観をもたらすかもしれないと述べている。

 


(当ブログによる解説)

 「レンマ」に関しては、『熊楠の星の時間』(中沢新一)に以下のような、丁寧な記述があります。

「  西欧ではこのロゴスの知性作用をとても重視しました。キリスト教時代でもそうですし、近代科学の時代になってもロゴスこそが真理を表現できる能力を持つ、と考えられてきました。とくに近代科学では、ロゴスの持つ能力の幅はぐっと狭められて、形式論理としてのロジックが支配的になります。

「「レンマ」の学を実際に打ち立てたのは仏教だったという。仏教では「ロゴス」の中心になっている、同一律、矛盾律、排中律の3つの法則を否定した。そういう思考を徹底させたナーガールジュナ(龍樹)(→当ブログによる「注」→龍樹は、2世紀に生まれたインド仏教の僧である。龍樹とは、サンスクリットのナーガールジュナの漢訳名で、日本では漢訳名を用いることが多い。中観派の祖であり、日本では、八宗の祖師と称されることがある)はそこで、生滅(存在と非存在)、断常(非連続と連続)、一異(一と多様)、来出、というロゴスの導き出した4つの世界現象のあり方を徹底的に否定し、不生不滅、不断不常、不一不異、不来不出こそが現象の真のあり方であると主張した。

 そして世界をレンマ的、直観的に把握するために、瞑想訓練が組み入れられ、具体的には言語の働きを停止させるヨガを行う。それによって世界の実相を見届けようとする。すると、ロゴスの知性作用によって「因果関係」を認められた現象の奥に、因果関係で結びつけられていない偶然性(蓋然性)の自由な運動として、この世界がつくられている様子が直観的に把握できるようになる。

(『熊楠の星の時間』中沢新一)

 


(「科学技術発展のリスク AI社会 新たな世界観を」 山極寿一)

 レンマの思想は、大正から昭和初期に発展した「西田哲学」や、今西錦司の自然学にも反映されている。現代の科学は時間を空間的に理解しようとするが、生物はその二つを同時に直観的に認識する。それが生命の流れを感じることだ西田幾多郎は言う。今西はこの世界の構造も機能も一つのものから分化したものであるから、生物は互いに理解しあい共存する能力を持っていると言う。その生命の認識や相互作用、生物どうしが織りなす全体像を、現代の科学技術はつかむことができない。

 

 

(当ブログによる解説)

  今西は、専門を細分化する西洋型分析主義では自然が見えないと考えていたのである。むしろ、自然をトータルなものとみる東洋的全体論を自分の考えの基礎にしていた。自然の中でカゲロウを観察し、種と種はそれぞれ棲み分けを通して共存しているという「棲み分け」理論を打ち出した。これも東洋的全体論が今西の思想の底流にあったからこそ発見されたものである。

 「今西説」によると、生理・生態がよく似た個体同士は、生活史において競争と協調の動的平衡が生じます。

 この動的平衡状態の中で組織されたものが実体としての種であり、今西が提唱する「種社会」です。

 「種社会」は様々な契機によって分裂し、別の「種社会」を形成するようになります。

 分裂した種社会はそれぞれ「棲み分け」ることにより、可能ならば競争を避けつつ、適切な環境に移動することができた時、「生物個体」・「種社会」はそれぞれ自己完結的・自立的な働きを示すのです。

 その結果、生じる生理・生態・形態の変化が進化であるとしました。

 

 

(「科学技術発展のリスク AI社会 新たな世界観を」 山極寿一)

 AIもレンマもつながりを重視することに変わりはない。ただ、手法が違うので、結果はまるで異なったものになる。情報によって効率的な暮らしを与えてくれるAI社会は、個体がデータに置き換わり差別や格差を広げる危険をはらむ。一方でレンマは生命のつながりや流れに目を開かせ、私たちに新しく生きる目的をもたらしてくれるかもしれない。

(「科学技術発展のリスク AI社会 新たな世界観を」 山極寿一《科学季評》『朝日新聞』2018年8月8日)

 

 

(当ブログ記事による解説) 

「  事物を独立したものとして取り出さず、関係の網の目の中の作用として認識する「レンマの論理」が、人間に新しい世界観をもたらすかもしれないと述べている。

「  レンマは生命のつながりや流れに目を開かせ、私たちに新しく生きる目的をもたらしてくれるかもしれない。

以上の山極氏の指摘は重要です。


 AI研究の方向性としては、東洋思想的な考えで、「環境全体の中で、AIや人間をどのように考えていくか」という視点が必要になってくるでしょう。

 

 (3)当ブログにおける「AI 社会」関連記事の紹介

 

 

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ーーーーーーーー

 

 今回の記事は、これで終わりです。 

 次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

 ご期待ください。

 

  

 

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

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5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

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 私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。

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予想問題/「安くておいしい国の限界」小熊英二『朝日新聞』/国際化

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 

 「グローバル化(国際化)」に関する論点は、入試頻出論点です。

 最近、「グローバル化」、「観光立国」についての、入試頻出著者秀逸な論考(「観光客と留学生 『安くておいしい国』の限界」小熊英二/2018・5・31『朝日新聞』「論壇時評」)が発表されたので、国語(現代文)・小論文対策として、今回の記事で解説します。

 小熊英二氏は、入試頻出著者です。

 

 なお、今回の記事の項目は以下の通りです。

 記事は約1万字です。

(2)予想問題/「観光客と留学生 『安くておいしい国』の限界」(小熊英二・2018・5・31『朝日新聞』「論壇時評」)

(3)当ブログによる解説

(4)当ブログにおける「グローバル化」関連記事の紹介

 

 

朝日新聞デジタル

朝日新聞デジタル

 

 

 

(2)予想問題/「観光客と留学生 『安くておいしい国』の限界」(小熊英二・2018・5・31『朝日新聞』「論壇時評」)

 

(本文は太字です)

(概要です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です) 

 

 国際会議で外国に行くと、観光客の急増に驚く。パリやニューヨークはもちろん、ベイルート、バンコク、北京などもそうだ。「マナーの悪い観光客に困っている」という話はどこでも聞いた。

 国連世界観光機関(UNWTO)の統計では、2000年から17年に世界の国際観光客到着数は2倍に増えた。17年は7%の「高度成長」ぶりだ。昔より航空券も安いし、ネットで簡単に予約できるのだから当然だろう。

 16年のランキングだと、日本は国際観光客到着数で世界16位。ただし増加率が高く、12年から17年に3倍以上になった。今や観光は日本第5位の産業だが、多すぎる観光客のせいで「観光公害」が出ているという声もある。

 

 

(当ブログによる解説)

 「観光公害」とは、観光が原因となる種々の弊害です。

 例えば、車の騒音・排気ガス・渋滞、ゴミの不法投棄、開発、景観破壊、環境破壊などです。

 「観光公害」は、観光客急増による様々な弊害が目立ち始めた現在の日本において使われ始めている造語です。


 日本では、世界遺産登録直後に見られる訪問者数の激増が顕著な例です。例えば、白川郷では前述のほぼ全ての事象が報告されています。

 

 「観光公害」は、「グローバル化」のマイナス面と評価できるでしょう。

 

 「観光公害」に関連して、『「夜遊び」の経済学 世界が注目する「ナイトタイムエコノミー」』(光文社新書)に以下のような記述があります。

 明快な説明で、かなり参考になります。

「  観光客は「ただそこに来る」だけでは経済効果は生まず、むしろそれを受け入れる側の地域にとっては、一義的に「コスト要因」に他ならない。観光客が訪問先でゴミを発生させれば、それを処理するのは地域の自治体であり、その原資は地域に住む住民の治める税である。観光客が歩く公道、使用する公衆トイレは全て自治体財源によって維持管理される公共物であり、ましてや観光客を迎え入れるために新たなインフラ整備を行うということになれば、当然そこには地域住民の血税が投入されることとなる。

 そのような様々な財源部分の話をさっぴいたとしても、そもそも域外から得体の知れない人間が多数来訪し、道端でワイワイガヤガヤと大騒ぎし、私有地や進入禁止地域にまで入り込み、「旅の恥はかき捨て」とばかりにトラブルを巻き起こすなどというのは、地域の住民にとって必ずしも歓迎されるものではない。

 はっきり言ってしまえば、観光客というのはそこに根ざして生活する人間にとっては、根源的に厄介者であり、迷惑以外の何ものでもないのである。

(『「夜遊び」の経済学』 木曽 崇)

 

 

 

 

(「観光客と留学生 『安くておいしい国』の限界」)

 なぜこれほど急に増えたのか。アジアとくに中国が経済成長し、近場の日本が観光先になったことも一因だ。だが私が世界各地を訪ねた経験からいうと、別の理由がある。観光客からみれば、日本は「安くておいしい国」になったのだ。

 ここ20年で、世界の物価は上がった。欧米の大都市だと、サンドイッチとコーヒーで約千円は珍しくない。香港やバンコクでもランチ千円が当然になりつつある。だが東京では、その3分の1で牛丼が食べられる。それでも味はおいしく、店はきれいでサービスはよい。ホテルなども同様だ。これなら外国人観光客に人気が出るだろう。1990年代の日本は観光客にとって物価の高い国だったが、今では「安くておいしい国」なのだ。

 なお、00年から16年に、フランスは国際観光客数が7%しか伸びていない。それに対し、日本は400%も伸びている。国際観光客数ランキング30位までの国で400%以上伸びたのは、日本・インド・ハンガリーの三つだ。この三カ国は、外国人観光客からみて「安くておいしい国」だといえるだろう。

 このことは、日本の1人当たりGDPが、95年の世界3位から17年の25位まで落ちたことと関連している。「安くておいしい店」は、千客万来で忙しいだろうが、利益や賃金はあまり上がらない。観光客や消費者には天国かもしれないが、労働者にとっては地獄だろう。

 

 

(当ブログによる解説)

 上記の「安くておいしい」については、『観光立国の正体 』(藻谷浩介・山田桂一郎)が、かなり参考になります。


 本書によれば、「観光業」においては、単なる「価格競争」ではなく、「地域全体の活性化」を考えないと、長期的に見れば、うまくいくことはないのです。

 

 このことについて詳しく解説してある箇所を、本書より引用します。

(スイスのツェルマットでは)レストランで使う食材やホテルの備品にしても、「地元で買う・地元を使う」の思想は徹底しています。

 多少コストが高く付いたとしても、地域内でお金を使ってキャッシュフローを活発にした方が、結局は地元のためになる。

 この考え方はツェルマットが観光・リゾート地としてスタートした19世紀末から一貫して変わりません。もちろん、質が悪いものを扱うと厳しく指摘されますから、経営努力を怠ることはできません。
 今、日本の観光・リゾート地に一番欠けているのが、この「地域内でお金を回す」という意識ではないでしょうか。特に近年は、目先の価格競争に気を取られ、1円でも安い業者から食材・資材を購入しようと躍起になっている事業者が増えています。しかし、そうやって無理に利益を出しても、地元の生産者や業者が倒れてしまえば、結局はその地域の活力そのものがなくなってしまいます。 (『観光立国の正体 』藻谷浩介・山田桂一郎)

 

 つまり、日本の観光地の事業者には、長期的視点に欠けていると言うことです。

 観光客は、人々が幸福に暮らしている土地にこそ長期滞在したいし、リピーターになりたいのです。

 「活力のある地域」が好まれるのは、当然でしょう。

 

 この点について、本書は以下のように述べています。

「  何度でも訪れたくなる「強い観光地」の基礎となるのは、そこで暮らす人たちの豊かなライフスタイルです。そこにリアリティをもたらすためには地元ならではの生活文化や伝統風習、自然環境や景観の良さ、地場産業が提供する本格的な価値に裏打ちされたきめ細やかな商品や製品、サービスの提供が必要になります。

「  残念ながら日本の観光・リゾート地のほとんどは、そういった厳しいリピーター獲得競争を知らないまま、ひたすら一見客だけを相手に商売を続けてきました。特に高度成長期からバブル期、近年までずっと一拍だけの団体客メインでやってきたために、せっかく二泊、三泊と連泊を希望している個人のお客様に対して、二泊目以降の夕食を出せなくなってしまう旅館やホテルが未だに存在しています。もしくは、そういう個人客にも団体用のビュッフェスタイルの食事でごまかしています。

 経営的に見ればどう考えても長期滞在者の方がありがたいはずなのに、そういう一番大切な顧客を満足させるノウハウを持っていないのです。このことは、日本の観光業界において「リピーターあってこそのサービス業」というビジネスの常識すら共有されていない証拠と言えます。

 昔々、画一的な団体旅行が主流だった時代は、それでも問題なかったかもしれません。しかし、これだけ価値観が多様化し、インターネットでいくらでも情報が得られる時代、その手法が通用しないのは明らかです。実際、宿泊者数ではなく消費額ベースで見ると、団体客のシェアはすでに全体の約1割です。つまり業界の売上の約9割が、今では個人によって支えられています。しかし、そういう現実は理解していても、古いタイプの事業者というのは自らマーケティングをしてきた経験もありません。そもそも自分たちの魅力について真剣に考えたこともないため、どういう層のお客様にどのような商品提供や情報発信をすればよいかも分からないのです。その結果、やみくもな価格競争に巻き込まれてしまうケースが多くなってしまうのです。

(『観光立国の正体 』藻谷浩介・山田桂一郎)

 

 

観光立国の正体 (新潮新書)

観光立国の正体 (新潮新書)

 

 

 

(「観光客と留学生 『安くておいしい国』の限界」)

 元経済産業省官僚の古賀茂明はこう述べる。「日本には、20代、30代で高度な知識・能力を有する若者が、高賃金で働く職場が少ない。稼げないから、食べ物も安くなるのだろう」。古賀は米国で経営学修士を取って起業した若者のこんな声を紹介する。「日本に帰る理由を考えたけど、一つもなかった。強いて挙げれば、そこそこおいしいご飯がタダ同然で食べられることかな。(→当ブログによる解説→まともな金額ではない、ということです。一種の狂気的状況です) アメリカだと、日本の何倍もするからね」

 

 

(当ブログによる解説)

「日本には、高度な知識・能力を有する若者が、高賃金で働く職場が少ない。米国で経営学修士を取って起業した有能な若者にとって、日本に帰る理由が、ただ、そこそこおいしいご飯がタダ同然で食べられることしかない」とは情けないことです。

 有能な若者が厚待遇で働ける場がないということは、日本は、もはや、まともな先進国ではないということです。

 情けない状況と言えます。

 


(「観光客と留学生 『安くておいしい国』の限界」)

 一方で日本では、観光客だけでなく留学生も増えた。12年度の約16万人が、17年度には約27万人だ。もっとも世界全体でも00年の約210万人が14年の約500万人に伸びてはいるが、これまた日本の増え方には特徴がある。

 福岡日本語学校長の永田大樹はいう。「世界で活躍するには英語圏への留学が有利だが、日本は非英語圏で、日本語習得は難しい。それでも留学生が集まるのは、『働ける国』だからだ」。日本では就労ビザのない留学生でも週に28時間まで働ける。だが米国では留学生は就労禁止だ。独仏や豪州、韓国は留学生でも就労して生活費の足しにできるが、日本より時間制限が厳しい。そのため「日本に来る留学生の層は、おのずと途上国からの『苦学生』が多くなる」という。

 いま日本では年に30万人、週に6千人の人口が減っている。17年末の在留外国人は前年末から7%増えたが、外国人の労働者で就労ビザを持つ人は18%。残りは技能実習生、留学生、日系人などだ。受け入れ方が不透明なので、労災隠しなどの人権侵害も数多い。こうした外国人が、コンビニや配送、建設、農業など、低賃金で日本人が働きたがらない業種を支えている。

 


(当ブログによる解説)

 外国人は増加の一途を辿っています。

「  実は、そもそも日本が「移民」に門戸を開いていないという認識そのものが間違いだ 

と『コンビニ外国人』の著者・芹澤健介氏は指摘し、以下のように述べています。

 

「  政府は表向き、移民については「真摯に検討を進める」という立場で、「受け入れ」を認めてはいないという立場です。当然、法整備も整っていません。

 安倍首相も、「移民政策をとることは断じてありません」と何度も明言しています。でも、実際には日本で働く外国人は増えています。コンビニだけで数千人の外国人店員がいます。実は外国人の流入者数を見れば、すでに2014年の時点で経済協力開発機構(OECD)加盟国のうち、日本は世界第5位の「移民流入国」だという報告すらあるのです

(『コンビニ外国人』芹澤健介)

 


(「観光客と留学生 『安くておいしい国』の限界」)

 いま政府は、産業界の要請に応じ、実習生の滞在期間を延長したうえ、留学生の就労時間延長も検討している。その一方、政府が促進してきた「高度人材」の誘致は停滞したままだ。アジアの経済成長に伴い、実習生の募集は年々厳しくなっている。外国人で低賃金部門の人手不足を補う政策は、人権軽視であるだけでなく、早晩限界がくるだろう。

 外国人のあり方は、日本社会の鏡である。外国人観光客が喜ぶ「安くておいしい日本」は、労働者には過酷な国だ。そしてその最底辺は、外国人によって支えられているのである。

 私は、もう「安くておいしい日本」はやめるべきだと思う。客数ばかり増やすより、良いサービスには適正価格をつけた方が、観光業はもっと成長できる。牛丼も千円で売り、最低賃金は時給1500円以上にするべきだ。「そんな高い賃金を払ったら日本の農業や物流や介護がつぶれる」というなら、国民合意で税金から価格補助するか、消費者にそれなりの対価を払ってもらうべきだ

 そうしないと、低賃金の長時間労働で「安くて良質な」サービスを提供させるブラック企業の問題も、外国人の人権侵害も解決しない。デフレからの脱却もできないし、出生率も上がらないだろう。(→当ブログによる解説→低賃金が「少子化社会」の根本原因の一つです)

 日本の人々は、良いサービスを安く提供する労働に耐えながら、そのストレスを、安くて良いサービスを消費することで晴らしてきた。そんな生き方は、もう世界から取り残されている。

(「観光客と留学生 『安くておいしい国』の限界」 小熊英二/2018・5・31『朝日新聞』「論壇時評」)

 

 

(3)当ブログによる解説

 

 上記の「日本の人々は、良いサービスを安く提供する労働に耐えながら、そのストレスを、安くて良いサービスを消費することで晴らしてきた。」の部分は、悲哀に満ちた内容になっています。

 いじめられた子供が、さらに弱い子供をいじめる構造に似ています。

 異様で巧妙なガス抜き構造とも言えます。

 他の世界を見る余裕がないのでしょうか?

 「自己喪失」、「アイデンティティの崩壊」でしょうか?

 もともと、自己、アイデンティティがないのでしょうか?

 いずれにしても、日本人の素質の問題か、教育の失敗でしょう。

 

 「ある程度高くて高品質」、「安ければ、それなりのもの」。

 これが正当な判断です。

 「低価格高品質」の背景には、悲惨な歪みが存在していることを考察するべきでしょう。

 この考察は、それほどハイレベルな考察ではないはずです。

 生産者、販売者、消費者として「安くて良いもの」を追求する日本人は、「長期的視点」が決定的に欠けているようです。

 

 「長期的視点」(時間性)については、入試頻出著者・内田樹氏が『日本の反知性主義』(編・内田樹)に詳しく解説しているので、以下に紹介します。

 

 『日本の反知性主義』では、以下のように述べられています。

「  知性が知性的でありうるのは、それが「社会的あるいは公共的性格」を持つときだけである

「  社会性、公共性とは、過去と未来の双方向に向けて、時間的に開放されているかどうか、それが社会性・公共性を基礎づける本質的な条件だろうと私は思う

「  私は先に反知性主義の際立った特徴はその「狭さ」、その無時間性(→当ブログによる解説→「目先の利益」のみということです)にあると書いた。長い時間の流れの中におのれを位置づけるために想像力を行使することへの忌避、同一的なものの反復(→「同じ表情、同じ言葉づかいで、同じストックフレーズを繰り返し、同じロジックを繰り返すこと (本書P54)」)によって時間の流れそのものを押しとどめようとする努力、それが反知性主義の本質である

(『日本の反知性主義』編・内田樹)

 

 

日本の反知性主義 (犀の教室)

日本の反知性主義 (犀の教室)

  • 作者: 内田樹,赤坂真理,小田嶋隆,白井聡,想田和弘,高橋源一郎,仲野徹,名越康文,平川克美,鷲田清一
  • 出版社/メーカー: 晶文社
  • 発売日: 2015/03/20
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 「時間性」(長期的視点)とは、内田氏によれば、「長い時間の流れの中におのれを位置づけるために想像力を行使すること」です。

 つまり、「想像力を駆使して、長期的に見ること」です。

 そのことが、内田氏のいう「過去と未来の双方向に向けて、時間的に開放されていること」なのです。

 そして、これこそが、真の「社会性」・「公共性」の本質的基盤なのです。

 この部分が、「一般的・常識的な『社会性』・『公共性』の理解」とは、大きく違う卓越した発想です。


 特に、日本人は、「時間性」(長期的視点で、ものを考える姿勢)に関しては、大きな弱点を有しているようです。

 その顕著な具体例が、地方の主要駅前の「シャッター商店街」です。

 見たことのある人は、皆、息をのみます。

 人通りの絶えた道、閉じられたまま、錆びついてしまったシャッター。

 もう何年間も、そのままなのでしょう。

 なぜ、その商店街は、そこまで完全に滅亡したのでしょうか?(

 

 商店街の経営努力不足もあったのでしょうが、何よりも、地元民が、その商店街を見捨ててしまったことが最大の理由です。

 たぶん、郊外の道路に面した、大駐車場完備の大企業系列の大型スーパーに通うようになったのでしょう。

  安さ、便利さ、大量の品揃え、それらは、全て魅力的なポイントです。

 それらに、ひかれて、そこに集まっていくというのも、ひとつの合理的な選択です。

 しかし、その結果として、何が発生したのでしょうか?

 

 地域経済の疲弊、地元雇用の減少、人口の減少。

 あげくには今や、「地方消滅」という概念、キーワードすら発生しています。

 「地方消滅」は、地元民の経済的活動だけが原因では、ないでしょうが、大きな要因です。

 今の自分たちの行動が、結果として何を発生させるのか?

 地元の商店街で日々の買い物をしない、食事もしない、地元産の農林水産物を買わない。

 それが地元経済の衰退を招来し、そして、地元の消滅。

 そんなことは、想像力を少し働かせれば、分かることです。

 ほんの僅かな「想像力」さえ働かせれば。

 

 「長期的視点」から、ものを考えるという「時間性」は、西欧では当然の「生活習慣」です。

 これは、伝統重視ということでもあります。

 だからこそ、フランスでも、イタリアでも、スペイン、ポルトガルでも、地元のカフェ、レストラン、地元の伝統的料理、地元産の農林水産物を大切にして、ひいては、自分たちを大切にしてきたのです。

 フランスの、歩道に大きくはみ出た、古くから続いているカフェの大量のテーブルと椅子。

 そこに、寛ぐ地元民たち。

 伝統を大切にし、自分たちを大切にしている賢明な人びとの、自信に包まれた安息が、そこには、あります。

 

 「地元の商店街を大切にすること」は、「自分たちを大切にすること」なのです。

 過去・未来について長期的視点を持って考えれば、こんな当たり前のことが、日本では一般的には通用しないのです。

 過去・伝統は、古臭くて、ほとんど無価値と考える極端な偏見すら、存在しています。

 今、盛んに議論されている「教育改革問題」に参加している論者の中には、そのような熱病的偏見にとりつかれたとしか思えない発言をする人がいるようです。

 国際化、グローバル化というマスコミの掛け声に踊らされて、右往左往する日本人。

 「完璧」ではなく、「適度」の「グローバル化」で良いのでは、ないでしょうか

 「完璧なグローバル化」は、「完璧な欧米化」と同義ですが、それで真に幸福になる日本人が、いったい、どれほど、いるのでしょうか。


 地元重視、日本の伝統重視という当たり前の視点は、いつの間にか、現代の日本人の脳内からかなり蒸発しているのでしょう。(それでも、最近は、地元重視、伝統重視の風潮が少し復活しつつあるのは、良い傾向だと思います)

 
 「長期的視点」から、ものを考えるという「時間性」の発想。

 これが経済中心主義、効率中心主義のアメリカでは、あまり尊重されません。

 アメリカを、お手本としつつも、それをさらに悪化させたのが、日本と言えそうです。

 

 これに対して、モーリス・ブランショ等のフランス現代思想を研究した内田氏は、フランス等の西欧の価値観をも学んだのでしょう。

 内田氏のいう「時間性」は、伝統重視、未来尊重の思想です。

 自己を、現在に存在するだけの一点と考えるのではなく、過去と未来をつなぐ直線上の一点と考える思想です。

 自己を「完全な孤立的存在」とは、考えません。

 従って、自己には存在理由があり、それと同時に、未来に対する責任もあります。
 

  内田氏は、現代日本の加熱気味のグローバル化から、日本の良き伝統を守るべく、この本書の編著者となったのでしょう。

 現在、日本はグローバリズムとの様々な軋轢の中で揺れています。

 そして、日本の一部の知識層は、「無秩序なグローバル化」に反対しています。

 が、もし、日本人の大部分が、内田氏の言うような形で反知性主義化しているのであれば、グローバル化の大波に翻弄されて、日本社会はいずれ崩壊するでしょう。

 もはや、今は、その過程に過ぎないのかもしれません。

 そうなれば、素直になりすぎた日本人は、日本の真の実相を知ろうという発想すらなく、その中でニコニコと「幸福」そうに生きていくのでしょう。

 これは、考えすぎでしょうか。

 
  ここで、入試傾向の話をします。

 「グローバル化と日本人」、あるいは、「日本人論」、「知性とは何か」、「伝統」は、入試現代文・小論文の頻出論点・テーマです。

 グローバル化が急速に進展して来た、ここ10年位は、出題率が増加傾向にあります。

 内田氏の論考の基本的方向性は、難関大学の入試現代文・小論文から見ると、まさに正統派です。

 「日本人の弱点」を徹底的に摘出して、日本人に反省を促す啓蒙的な論考が、難関大学の入試問題では、正統派なのです。

 

 

(4)当ブログにおける「グローバル化」関連記事の紹介

 

 グローバル化(国際化)は流行論点・頻出論点です。

 背景知識を貪欲に吸収するべきでしょう。

 

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 ーーーーーーーー

 

 今回の記事は、これで終わりです。

 次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

 ご期待ください。

  

  

 

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

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5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

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 私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。

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予想問題/「胆力について」『私の身体は頭がいい』内田樹/驚く人

(1)はじめに/なぜ、この記事を書くのか?

 

  「胆力」「驚くこと」「驚くけど驚かないこと」は、入試頻出論点であり、人生の重要課題の一つです。

 人間の「胆力」を考える上で、秀逸な論考(「胆力について」『私の身体は頭がいい』内田樹)がありますので、この記事で解説します。

 

 入試頻出著者・内田樹氏のメインテーマは、「成熟とは何か」「大人になるとは、どういうことか」です。

 内田氏は、このメインテーマに関連した著作を、最近でも何冊も発行しています。

 

 「胆力」は、内田樹氏のメインテーマである「成熟とは何か」「大人になるとは、どういうことか」に密接に関連しているのです。

 内田氏は、「胆力」に関連した著作を、最近、何冊も発行しています。

 内田氏のブログ(『内田樹の研究室』)でも、「胆力」のテーマ・論点に関連した記事が多いようです。

 そこで、上記の論考(「胆力について」『私の身体は頭がいい』)を 、内田氏の他の著作、ブログ記事

(『内田樹の研究室』)を参照しつつ、解説することにします。

 

 なお、今回の記事の項目は以下の通りです。記事は約1万字です。

 

(2)予想問題/「胆力について」『私の身体は頭がいい』内田樹

(3)補充説明①/「胆力の内容」①

(4)補充説明②/「胆力の内容」②

(5)補充説明③/「胆力は計測不可能ということ」について

(6)補充説明④/「胆力」をつけるために

(7)補充説明⑤/「危機管理」における「胆力」の必要性

(8)当ブログにおける「内田樹」関連記事の紹介

 

 

私の身体は頭がいい (文春文庫)

 

 

(2)予想問題/「胆力について」『私の身体は頭がいい』内田樹


(問題文本文)(概要です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です) 

   

(「胆力について」本文)

「胆力」というのは簡単に言えば「びっくりしない」ということである。

 生物は「びっくりする」とその身体能力が急激に低下する。感覚も判断力も想像力もすべて鈍磨する。非常に弱い動物の場合は、びっくりしただけで死んでしまうことだってある。

 だから「驚かない」ということは生物の生存戦略上たいへん大切なことなのである。

 では、どうやったら「驚かない」ようになるのか。

 これが矛盾しているように聞こえるであろうが、「驚く」ことによってなのである。

 かつてロラン・バルドは真に批評的な知性の本質は驚く能力に存すると書いたことがある。考えてみれば当然のことだけれど、「何を見ても驚かない」というのは、要するに知性が鈍感だということである。自分の枠組みにしがみつき、どんな出来事に遭遇しても、「あ、これは『あれ』ね」と既知に還元して説明できてしまう人間は、たしかに驚くことが少ないだろう。けれども、その代償として、そのような人は決して未知に遭遇することができない。世界のすべての事象が既知のものはであり、出会うすべてのものの意味をあらかじめ知っているとしたら、それはたしかに心安いだろう。けれども、それはそれで危険な生き方のような気がする。「人間、尽きるところ、色と慾よ」と言ってはばからないタイプの人がこれに当たる。

 その反対に、日常経験することのいちいちに、あたりまえの事象のうちに「あれ? 何だろうこれは?」とひっかかりを感じ、何にでも「驚き」の種を見つけることができる人がいる。「あれ? どうして甲陽園とか苦楽園とか甲東園とか甲子園とか香炉園とか・・・・西宮市には『園』のつく駅名が多いんだろう? 不思議だなあ」と思う人と、そういうことにまるで気づかない人がいる。

 西宮市内の駅名に「園」の名が多いことが気になる人は、やがて小林一三という人物がどのようにして箕面有馬電気軌道の敷設から始めて、阪急百貨店、宝塚歌劇などのアミューズメント・センターを核とした田園都市構想を立てたかをしるだろう。

 「え? これ何なの? どうして?」という驚きが知的探究を動機づける。

 

 

 (当ブログによる解説)

 「驚く」能力とは、「問題発見能力」ということです。 

 ここでは、「センス・オブ・ワンダー」の重要な価値を再認識する必要があります。

 「センス・オブ・ワンダー」とは、一定の対象に触れることで受ける、ある種の不思議な感動・心理的感覚を表現する概念・用語です。

 「センス・オブ・ワンダー」の価値については、レイチェルの最後の著書『センス・オブ・ワンダー』で丁寧に述べられているので、以下に引用します。


「子どもたちの世界は、いつも生き生きとして新鮮で美しく、驚きと感激にみちあふれています。残念なことに、わたしたちの多くは大人になるまえに澄みきった洞察力や、美しいもの、畏敬すべきものへの直感力をにぶらせ、あるときはまったく失ってしまいます。もしも、わたしが、すべての子どもの成長を見守る善良な妖精に話しかける力をもっているとしたら、世界中の子どもに、生涯消えることのない『センス・オブ・ワンダー=神秘さや不思議さに目をみはる感性』を授けてほしいとたのむでしょう。

 この感性は、やがて大人になるとやってくる怠慢と幻滅、わたしたちが自然という力の源泉から遠ざかること、つまらない人工的なものに夢中になることなどに対する、かわらぬ解毒剤になるのです。」

「  地球の美しさと神秘を感じとれる人は、科学者であろうとなかろうと、人生に飽きて疲れたり、孤独にさいなまれることはけっしてないでしょう。」(『センス・オブ・ワンダー』レイチェル・L.カーソン)

 

 

センス・オブ・ワンダー

センス・オブ・ワンダー

 

 

 

 古代ギリシャの哲学者プラトン、および、その弟子のアリストテレスは、哲学の起源は「驚くこと」である、と言っています。

 プラトン、アリストテレスが言う「驚くこと」は、「能動的な驚き」でしょう。

 哲学者は、多くの人々が「常識」・「当然」と考えていることにも、能動的に驚くことができる人なのです。

 プラトンは『テアイテトス』の中で、自分の師のソクラテスの発言として、次のように記述しています。


「なぜなら、実に、その驚異(タウマゼイン)の情(こころ)こそ知恵を愛し求める者の情なのだからね。つまり、求知(哲学)の始まりはこれよりほかにはないのだ。」 (『テアイテトス』プラトン/ 田中美知太郎訳 )

 

 

テアイテトス (岩波文庫)

テアイテトス (岩波文庫)

 

 

 

 プラトンの弟子であるアリストテレスは、『形而上学』の中で、「哲学と驚異」の関係を次のように述べています。


「けだし、驚異することによって人間は、今日でもそうであるがあの最初の場合にもあのように、知恵を愛求し(哲学し)始めたのである。ただし、その始めには、ごく身近の不思議な事柄に驚異の念を抱き、それからしだいに少しずつ進んで遥かに大きな事象についても、疑念を抱くようになったのである。たとえば、月の受ける諸相だの太陽や星の諸態だのについて、あるいはまた全宇宙の生成について。」 (『形而上学』アリストテレス/出隆訳 )

 

 

形而上学〈上〉 (岩波文庫)

形而上学〈上〉 (岩波文庫)

 

 

 

 「哲学の根本」が「驚き」であるという見解は、近代や現代文の哲学者たちも主張しています。

 たとえば、キルケゴール、ヘーゲル、ハイデッガーなどです。

 

 

私の身体は頭がいい (文春文庫)

私の身体は頭がいい (文春文庫)

 

 


(「胆力について」本文)

「驚かない人」は自分の前にある現実を現実としてそのまま受け入れる。だから、どのような歴史的所(しょよ)(→)に条件づけられ、どのような偶然によって、その現実が現実になったのかを探ろうという気にならない。

「驚かない人」というのは言い換えれば、世界は「このようになるべくしてなっている。」というある種の宗教的信憑(しんぴょう)(→)性のうちに安らいでいるのである。

 「驚く人」はそうではない。

    「驚く人」というのは、私達は「この現実とは違う現実」を生きる可能性もあったのだという事を想像することができる人である。「この現実とは違う現実もありえたのでは・・・・」と思えるからこそ、目の前の現実に「何か、ちょっと変かな」という違和感も覚えるのである。

 なぜ、ある出来事が起こり、そうでない出来事は起こらないのか? どうして、「この現実とは違う現実」の可能性について人々は進んで語ろうとしないのかのか?

 そのような発想をする人が「驚く人」である。

 「驚かない人」は世界には秩序があり,「神の見えざる手」がただ一つの最良の可能性だけを選択し続けていると無意識のうちに信じ込んでいる。

 「驚く人」は世界が「今のようではなかった」無限の可能性があることを感知している。だから、どこに分岐点があったのか、どのような「一撃」によって、現実は「このように」なり、「それとは違うように」ならなかったのかについて想像をめぐらせる。

 さて,ここで驚天動地の大事件が起きたときに、「肝を潰す」のはどちらだろう。より適切に対処できるのはどちらだろう。

 当然、「驚くこと」に慣れている人間である。というのは、この人にとって「驚く」ことは主体的、能動的に選び取られた世界とのかかわりの基本姿勢だからである。

 だから、「驚く人は驚かされない」。

 その逆に、日頃その堅牢で鈍重なフレームワーク(→「枠組み」という意味)のなかに安住している人は、よほどのことがないと驚かない代わりに、その人が驚くときというのは、そのフレームワークが「壊れた」ときであるからパニックに陥る。何の準備もなく、いきなり丸裸で、想像を絶した命がけの事件に直面させられることになるのである。

 だから、「驚かない人は、驚かされる」。

 


(当ブログによる解説)

 上記の「その人が驚くときというのは、そのフレームワークが「壊れた」ときであるからパニックに陥る。何の準備もなく、いきなり丸裸で、想像を絶した命がけの事件に直面させられることになるのである。」

 の部分の「パニック」を、内田樹氏は「居着き」と表現しています。

 

 これは、「真に驚いた瞬間に全身が硬直してしまう状態」を、武道の世界で「居着き」と言うことに、由来しています

 「居着き」については、以下の内田氏の解説が明快です。

「先手を取る」ということばを「相手より早く動く」ことと理解している人がいるけれども、これは正確ではない。武術的な意味での「先手」は物理的な速度や時間とは関係がないからである。

目の前にいる人が「そうすることによって何をしようとしているのかがわからない」ときに、私たちは頭上に「?」を点じたままに、その場に凍り付いてしまう。これが 「居着き」と呼ばれる状態である。

 「居着く」というのは、「相手は次にどう出るのか?」という待ちの姿勢に固着してしまうことである。一度、この状態に陥ったものは相手から「答え」が届くのをひたすら待つことしかできなくなる。これが「先手を取られる」という必敗の様態なのである。

(「勝者の非情・弱者の瀰漫」『内田樹の研究室』2005年9月13日)

 

 次の内田氏の解説も、参考になります。

 ぜひ、熟読してください。

「  武道における「隙」というのは文字通り空間的・時間的な「隙」のことであり、また「心の隙」のことである。身体の隙も心の隙も、居着きによってもたらされる。身体の一部の過緊張は他のどこかの部位の過弛緩をもたらし、思念の一点への居着きも隙を作る。

 居着くというのは、点としての入力に点として「反応」することであり、これは自他を含む場全体を平らかに「観察」することを妨げる。観察とは時間の流れ、場の布置におけるおのれの位置を鳥瞰的に把持することである。これは武道において最も重要な能力である。どれほど凄まじい攻撃であっても、その一瞬前にその場を通り過ぎていれば、その一寸遠くに身をかわしていれば、人を害することができない。

 それゆえ、武道では「機」と「座」を重く見る。

「機」とは「しかるべきとき」のことであり、「座」とは「しかるべき場所」のことである。その時以外にありえないような必然的な時に、その場以外にはありえない必然的な場において、果たすべきことを果す。それが兵法修業のめざすところである。

(「機と座」『内田樹の研究室』2017年10月12日)

 

 

(「胆力について」本文)

 胆力をつけるというのは、「危機に臨んで肝を潰さない」ための訓練のことである。

 私たちが学問研究をし、武道の稽古をするのは、煎じ詰めれば、「胆力をつける」ためである。

 「この現実とは違う現実の可能性」について、つねに想像をめぐらせ、「そうありえた現実の可能性」をできるだけ多く列挙しうること、これは学術的知性の条件

である。

 武道の稽古では「命がけの局面」というものを想定して、そういう場合に心身はどういう反応をして、どのように判断力や身体能力が低下するか、ということを繰り返しシミュレートする。そして、そのシビアな「能力低下のシミュレーション」に想像的に身体をなじませてゆきながら、それを生き延びる技術を学習するのである。

 驚く経験を自主的に積み重ねることによって、驚かされない心身を構築すること、それが多田先生のおっしゃっている「胆力をつける」ということの意味だと私は勝手に解釈している。

 胆力がある人というのは、ぼけっとした鈍感な人間のことではない。

 世界の唐突な崩壊、自分の生命の不意の終わりを、当然の可能性としてつねに勘定に入れている、想像力に富んだ人間のことなのである。

(「胆力について」『私の身体は頭がいい』内田樹)

 


(当ブログによる解説)

 本文の冒頭部分の解説をします。

「  「胆力」というのは簡単に言えば「びっくりしない」ということである。

 生物は「びっくりする」とその身体能力が急激に低下する。感覚も判断力も想像力もすべて鈍磨する。非常に弱い動物の場合は、びっくりしただけで死んでしまうことだってある。

 だから「驚かない」ということは生物の生存戦略上たいへん大切なことなのである。

 では、どうやったら「驚かない」ようになるのか。

 これが矛盾しているように聞こえるであろうが、「驚く」ことによってなのである。

 の部分は、重要な内容を含んでいます。

 特に重要なのは、最後の二つの文です。

 一見「矛盾」していることの中に、真理があるということです。

 このことは、よくあることなのです。

 

  「驚くけど驚かない」、「矛盾を矛盾のまま矛盾なく取り扱う」については、『身体を通して時代を読む』の中の、甲野嘉紀氏と内田氏の対談が分かりやすいので、以下に引用します。

 

甲野/私は武術を「矛盾を矛盾のまま矛盾なく取り扱う」と説いています。武術家はすごく敏感でなくてはいけないのですが、それと同時に、驚かない、動じないというのは、ある面からすれば鈍いとみえるような対応も必要なことですからね。

 つまり、生起するさまざまな状況に振りまわされないためには、矛盾した存在であることが必要だということです。

内田/そこがむずかしいところだと思うんです。胆力は「驚かないこと」だというと、鈍感になることだと勘違いする人がいます。鈍感な人間というのはたしかに細かいシグナルには反応しないので、ふだんは泰然自若としている。でも、生死の境のようなところで起きる地殻変動的な衝撃には対処できない。ある日いきなり「驚愕の閾値」を超えた入力がドカンと入ってくると、これまで「驚いたこと」がないので、「驚き方」がわからない。こういう人は「驚かされる」。変化に対して受け身になっている。

 それに対して敏感な人というのは、毎日毎時あらゆる新しい入力があるたびに「驚いている」。だから、「驚き方」に精通してくる。こういう人は、「驚く」けれど、もう「驚かされない」。「驚く」という動詞が能動態となっていて、受動的なものとしては経験されない。

 だから、日常的なフレームが壊れるような激動に際会しても、きちんと「驚いて」対処できる。胆力というのはどういうことじゃないかと思うんです。

 まめに驚く人間はあまり驚かされない。矛盾してますけど。

(『身体を通して時代を読む』甲野嘉紀・内田樹 )

 

 

身体を通して時代を読む―武術的立場 (文春文庫)

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身体を通して時代を読む (木星叢書)

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(3)補充説明①/「胆力の内容」①

 

 

  「胆力」の類語は、勇敢、胆っ玉(きもっ玉)、 根性、度胸、豪勇さ、勇猛、勇気、剛毅、気概です。

 ただ、「胆力」を背景にしているだけに、「胆力の内容」は、少々、分かりにくい側面があります。 

 以下の内田氏の説明を熟読すれば、理解が進むはずです。

💙💙胆力=時間意識→リラックス「この球は唯一無二の一球なり」『内田樹の研

「  リラックスを担保する心的条件は『胆力』です。

 『胆力』というのは端的に言えば、『時間意識』です。

 『自分が死んだとき』まで想像力を延長して、そこから今の自分を回顧する『逆流する時間意識』をもつ人間はあまり驚いたり、不安になったりしません。

 武道の場合は、そのつど『死ぬこと』を想定して、想像的に死んだ時点から動きを反省的に構築するわけです。

 別に形稽古の最中に死ぬわけではなく、ほんとうにあと何十年かあとに死んだときの自分を想定して、そこから現在の自分が 『ここにいて、ある動きをしていること』の歴史的必然性を見いだしてゆく、という手順を踏みます。

 つまり、『ただしいときに、ただしい場所で、ただしいやり方』で生きている 、ということについて確信が持てるならば、そのとき自分がしている動きは完全にリラックスしているベスト・パフォーマンスのはずなのです。

 オレはこんなところでこんなことやってていいんだろうか? というような疑問を抱いている人間のパフォーマンスが高いということは論理的にありえません。

 (「この球は唯一無二の一球なり」『内田樹の研究室』2005年4月8日)

 

 上記の説明は、胆力を「時間意識」、「死」、「人生」の視点から分析していて、分かりやすいと思います。

 武道は「死ぬこと」を前提としていることを考えれば、上記の説明は、きわめて妥当です。

 

 

(4)補充説明②/「胆力の内容」②

 

 次の成瀬雅春氏と内田樹氏の対談は、「胆力の内容」に関連しています。

 ぜひ、参考にしてください。

 

「  成瀬/ヨーガをきわめようと思えば、胆力を練らないといけない。なぜかといえば、生き抜く覚悟、死ぬ覚悟というものに直結しているからです。どんな情況にあっても、「ここを生き抜く」という胆力は、技術的なものよりずっと大切なんです。

内田/多田宏先生(内田氏の合気道の師匠)も、よく「胆力」という言葉をお使いになります。同じ意味で 「断定する」ということも言われます。

 自分が、あるとき、ある場所にいて、何かをしているときには、「私がここにいることは、宇宙が始まって以来宿命づけられていた必然の出来事である」と断定しなければいけない

 「胆力」というのは別に「負けないぞ!」と力むことじゃないんです。断定することなんです。

(『身体で考える』内田樹・成瀬雅春 )

 

 

身体で考える。

身体で考える。

 

 

 

(5)補充説明③/「胆力は計測不可能ということ」について

 

 胆力は、計測不可能です。

 従って、近代的な教育プロセスの対象になりにくい、という視点も重要です。

 この点について、内田氏の以下の指摘は、興味深いです。

 

 「胆力」というのは、つよいストレスに遭遇したとき、その危地を生き延びる上で死活的に重要な資質だが、それは危機的状況にあっても「ふだんと変わらぬ悠揚迫らぬ構え」をとることができるという仕方で発現される。

 つまり、外形的に何も変わらない、何も徴候化しないということが胆力の手柄なのである。だから、「チカラ」をもっぱら外形的な数値化できる成果や達成によって計測することの望む人の眼に「胆力」はたぶん見えない。

 当然ながら、彼らは「胆力を練るための教育プロセス」というようなものについては考えない。

 そのようなものがありうるということさえ考えない。

(「言葉の力」『内田樹の研究室』2010年5月14日)

 

 

(6)補充説明④/「胆力」をつけるために

 

 

 胆力をつけるためには、胆力をつけさせるには、どうしたらよいのでしょうか?

 これは、アイデンティティの確立、教育の場面における重要なポイントです。

 内田氏は、以下のように述べています。

 かなり説得力のある見解です。


「  日本のスポーツ界は「日本の旧軍型」の心身開発体系を採り入れた。でも、この追い詰め型教育には深刻な難点がある。

 それは「胆力」がつかないことです。

 たしかに人間を追い詰めると、恐怖や苦痛や不条理に対して「鈍感」にはなる。でも、入力に対して鈍感になることと「胆力がある」ことは違う。

 胆力があるというのは、極めて危機的な状況に陥ったときに、浮き足立たず、恐怖心を持たず、焦りもしないこと。どんなに破局的な事態においても、限定的には自分のロジックが通る場所が必ずあると信じて、そこをてがかりにして、怒りもせず、絶望もせず、じわじわと手をつけてゆく。とんでもなく不条理な状況の中でもむりやりに条理を通していく。胆力とはそういう心構えではないかと僕は思っているんです。

 頭に血が上って鬼になってしまうということと胆力があるということは方向がまったく違う。

 僕は日本型教育の最大の問題は、人を鈍感にはするけれど、胆力がつかないことにあるんだと思う。それが現代の日本人にいちばん欠けているものですよね。

 胆力を鍛えるというのはたぶん幕末から明治初期までの教育では重要なプログラムだったと思うんです。でも、それから後は体系的には整備されていない。「追い詰めて鬼にする」型の教育プログラムの方が短期的には効果があるから、時間的余裕がなかった近代日本は修羅場で鼻歌まじりに「ふつう」にふるまうにはどうすればいいか、というノウハウの開発には教育資源を投じてこなかった。

 どうすればいいのか。僕は10年くらい前からそのことをずっと考えてるんです。合気道に限らず、学問においても、若い人にはどうも胆力がない。

 スマートな知性は備えているんだけれど、学問の世界だったら、すぐに権威や査定を怖がる。そして、怖がったあげくに自分自身をミニチュアの権威や査定者に造型し直して、「恐怖させる側」に回り込もうとする。オリジナルな学者がさっぱり出てこない理由の一つは、若い人が権威を怖がり過ぎていることがあると思う。胆力がないんですよ。

 胆力をつけるという教育課題において、僕がいつも念頭においているのは、「その人が生まれつき持っているキャラを強める方向に伸ばす」ということ。やたらゲラゲラ笑う子に対しては「もっと笑え」という方向に持っていく。静かで内省的な子に対してはさらに内省的になるように促す。その人のキャラを加速させること、とにかく自分が人より過剰にもっている点を「いいところ」だと思い込めることが、胆力をつける上でもとても有効だと思うんですよね。

(「器に合わせすぎては、学びは起動しないのです」内田樹 2009年11月25日『現代ビジネス』講談社)

 

  内田氏の主張は、胆力を養成するためには、要するに、自己確信を得ること、自信を得ることが必要だ、ということです。

 


(7)補充説明⑤/「危機管理」における「胆力」の必要性

 

 現在、様々な場面で、「危機管理」の重要性が注目されています。

 実は、「危機管理」においてこそ「胆力」が必要不可欠なのです。

 このことについて、日本社会、日本人は、悲しいことに、まるで無自覚のようです。

 この悲劇、喜劇、幼児性について、内田氏は、以下のように痛烈に批判しています。

 内田氏の見解によれば、現代の日本の閉塞的状況の根本原因の一つは、エリート層の「胆力」不足にあるようです。

 

「 もう一つ、火力発電から原子力発電へのシフトに「地球温暖化キャンペーン」が深く関与していたこともここで指摘しておく必要があるだろう。

 炭酸ガスが排出されると地球環境は壊滅的な被害を受けるというあのキャンペーンは「炭酸ガスを出さない、安全でクリーンなエネルギー」である原子力発電への評価をじりじりと押し上げた。だが、「北極のシロクマさんのために」火力発電を止めて原発に切り替えると、今度は「日本の人々」が放射性物質の被曝を恐れなければならないリスクが発生しますということを「温暖化キャンペーン」に携わった人たちは誰もアナウンスしなかった。炭酸ガスが増えると、光合成がさかんになって植物が繁茂し、炭酸ガスの吸収が進み、濃度を下げる。そういうふうにして自然界はバランスを取っている。けれども放射性物質については、そんな牧歌的なバランスは存在しない。

《危機時に「正解」はない》

 ここまでは震災「以前」の危機管理について述べてきた。実際に災害が起きた「以後」の東電と政府の対応についても、私たちは人災的な瑕疵を指摘しないわけにはゆかない。

 危機管理の条件は「ありもの」しか使えないということである。手元にある資材、人材、資源、そして時間しか使えない。その中でやりくりしなくてはいけない。それは危機の時には「正解がない」ということである。危機的状況というのは、必要な資材がなく、必要な人員がなく、必要な情報がなく、必要な時間がないということである。いちばんきびしいのは「時間がない」ということである。とくに原発事故の場合は、放射性物質がいったん漏出し始めると、人間がそこにいって作業できなくなるから「打つ手」が一気に限定される。今なら選択できるオプションが一時間後には選択できなくなるということがありうる。その場合の「今できるベスト」は「正解」とはほど遠いものとなる。

 けれども、日本のエリートたちは「正解」がわからない段階で、自己責任・自己判断で「今できるベスト」を選択することを嫌う。これは受験エリートの通弊である。彼らは「正解」を書くことについては集中的な訓練を受けている。それゆえ、誤答を恐れるあまり、正解がわからない時は、「上位者」が正解を指示してくれるまで「じっとフリーズ(→「凍結。凍りつく」という意味)して待つ」という習慣が骨身にしみついている。彼らは決断に際して「上位者の保証」か「エビデンス(論拠)」を求める。自分の下した決断の正しさを「自分の外部」に求めるのである。仮に自分の決断が誤ったものであったとしても、「あの時にはああせざるを得なかった」と言える「言い訳の種」が欲しい。「エビデンス(論拠)とエクスキュース(言い訳)」が整わなければ動かないというのが日本のエリートの本質性格である。良い悪いを言っているわけではなく、「エリートというのは、そういうものだ」と申し上げているのである。

 だから、危機的状況にエリートは対応できない。もともとそのような事態に備えて「須要(しゅよう。すよう)(→「欠くことができないこと。必須(ひっす)」という意味)の人材」として育成されたものではないから、できなくて当たり前なのである。だから、「そういうことができる」人間をシステム内の要所要所に配備しておくことが必要なのである。「胆力のある人間」と言ってもよい。資源も情報も手立ても時間も限られた状況下で、自己責任でむずかしい決断を下すことのできる人間である。

 「胆力がある」ということは別に際だった知的・人格的資質ではない。「胆力のある人間」は「胆力のある人間を育成する教育プログラム」によって組織的に育成することができる。例えば武道や宗教はほんらいそのためのものである。けれども、日本の戦後教育は「危機的状況で適切な選択を自己決定できる人間」の育成に何の関心も示さなかった。教育行政が国策的に育成してきたのは「上位者の命令に従い、マニュアル通りにてきぱきと仕事をする人間」である。それだけである。

 たぶんこの後、次第にあきらかにされると思うけれども、事故の現場には「今はこうするのがベストだ。すぐに動こう」という具体的提案をした人がいたと私は思う。現場の人間は「正解」を待つことなく、「今できる最適のこと」を選ぶ訓練を受けている。でも、「上の人間」がその決断にストップをかけた。「軽はずみに動くな。上からの指示があるまで待て」ということを言った人間が必ずいたはずである。そして指示を求められた「上の人間」はまたさらにその「上の人間」に指示を仰いだ・・・・そんなふうにして初動の貴重な数時間、数十時間が空費され、事故は手の付けられないところまで拡大していった。

(「阪神・淡路大震災との違いは『人災』であること」 内田 樹『中央公論』2011年5月号)

 

 

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 今回の記事は、これで終わりです。

 次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

 ご期待ください。

 

   

 

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