現代文最新傾向LABO 斎藤隆

入試現代文の最新傾向を分析し、次年度の傾向を予測する大胆企画

注目図書『私たち、戦争人間について』『キリスト教と戦争』石川明人

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 現代は、戦争の危機が切迫してきている時代です。このような時こそ、単に「平和」を祈るだけではなく、「戦争」・「平和」について、より具体的に主体的に考えるべきでしょう。

 この問題を考察するきっかけとなる良書(『私たち、戦争人間について: 愛と平和主義の限界に関する考察』石川明人)が最近、発行されたので、注目図書、予想出典として、今回の記事で紹介します。

 難関大学の入試国語(現代文)・小論文対策において、要注意です。

 『私たち、戦争人間について』は、石川氏の今までの著作を踏まえた戦争論エッセイです。内容的には、戦争論、平和論、戦争哲学、宗教学、軍事学などに関する良質な論考になっています。難関大学が、現代文・小論文の入試問題の題材として興味を示すはずです。今回のこの記事を熟読することは、効果的な入試対策となるでしょう。

 

 本書の概要については、「〈激動する世界と宗教〉戦争論 人間の矛盾と限界と」 (石川明人・桃山学院大学准教授・2017年9月13日・朝日新聞・夕刊)のインタビュー記事が、かなりカバーしています。

 そこで、今回の記事では、石川氏の他の著作も参照しながら、このインタビュー記事の内容を詳説していきます。

 

 今回の記事の項目は、以下のようになっています。

(2)「〈激動する世界と宗教〉戦争論 人間の矛盾と限界」(石川明人・桃山学院大学准教授・2017年9月13日・朝日新聞・夕刊)の解説

(3)「人間の『ダークな側面』、戦争と平和は連続しているのではないか、人間の矛盾や限界」について

(4)「人間ならではの営み、文化としての戦争」について

(5)「宗教は時に戦争に関わる」点について

(6)平和運動はどうあるべきか?

(7)石川明人氏の紹介

(8)当ブログにおける「平和主義」関連記事の紹介

(9)当ブログにおける「キリスト教」関連記事の紹介

 

私たち、戦争人間について: 愛と平和主義の限界に関する考察

 

(2)「〈激動する世界と宗教〉戦争論 人間の矛盾と限界」(石川明人・桃山学院大学准教授・2017年9月13日・朝日新聞・夕刊)の解説

(概要です)

(【1】・【2】・【3】・・・・は当ブログで付記した段落番号です)

(青字は当ブログによる「注」です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(以下、同じです) 

まず、今回のインタビュー記事の概要を引用します。

【1】私たちは戦争や暴力に反対して「平和」を叫ぶ。しかし心の奥ではどうだろうかーー。桃山学院大学で「戦争学入門」を教えている石川明人准教授が『私たち、戦争人間についてーー愛と平和主義の限界に関する考察』(創元社)を著した。自分の「ダークな側面」を直視することから、平和を問い直そうと語りかける。

【2】本は、こんな告白から始まる。「人を殺すのは、きっと簡単だ。(中略) きっと私も、特殊な状況に置かれたら、底知れぬほど凶暴な振舞いを平気でしてしまえるのではないか、と思うことがある。自分がどこまで『平和主義者』でいられるか、正直なところ、あまり自信がない

 その言葉に続き、1994年にルワンダで起きた大虐殺が紹介される。多数派民族が少数派を、約100日間で80万人殺害したとされる事件だ。ほとんどは鉈(なた)やこん棒を使い、一人ひとり殺された。

 虐殺や戦争は「狂気」ということで片付けられるのか。自分の理性や道徳感覚はどこまで信頼できるだろうか。戦争や平和は連続しているのではないか。そうしたことを読者に繰り返し、問うている。

【3】石川氏の大学の授業計画には「この授業では、人間ならではの営み、すなわち文化として『戦争』『軍事』を捉え、考察する」とある。「文化としての戦争」について、石川氏は、以下のように述べています。

「意識的に準備して、過去からの経験を基に、より良いものにしようとし、継承する。その意味で、芸術などの文化とまったく同じです。戦争を肯定しているわけではありません。戦争や軍事が文化じゃないとしたら、人間の本能だから仕方ないということになる。健全な平和観の促進につなげるためには、戦争や軍事をタブー視しないことが大事じゃないでしょうか

【4】石川氏は戦争や軍事を通じて「人間とは何か」を考えてもらいたいと語る。 

「戦争では、人間はここまでクズになれるのかということが起きます。同時に、人間の勇気や自己犠牲が発揮される。人間の『わけの分からなさ』が再確認できます。人間について考察するのに、これほど有効な糸口はありません」

【5】自身はキリスト教徒。宗教学を軸足に、戦争論にも射程を広げていった。宗教は時に、戦争や暴力に関わる。「宗教は命を大切にするはずなのに」という声に対しては、こう説明する。

「宗教は『良く生きること』を説き、単に生存することを重視するわけではない。宗教が尊重するのは『条件付きの命』。そうであれば条件付きで戦争をしても不思議ではないのです

【6】では、平和運動は、どうあるべきか?

「よく、ラブ&ピースみたいなことを言いますね。でも世界を平和にするような愛とは、見ず知らずの人も大切にしたり許したりするレベル。そんな愛は無理でしょう。世界中の人と愛し合えると思えるなんて、逆に危うい認識のような気がする。愛の不可能性を正直に認めることから始めるべきではないでしょうか

 

ーーーーーーーー

 

(当ブログによる解説)

 このインタビュー記事は、『私たち、戦争人間についてーー愛と平和主義の限界に関する考察』の内容の概要になっています。

 ただし、石川氏の発言は、少々衝撃的で、日本人の一般常識に反するようです。このことは、このインタビュー記事だけでは、石川氏の主張の全容が分かりにくいという側面も、あるようです。そこで、以下では、

①【1】・【2】・【4】段落→人間の「ダークな側面」、戦争と平和は連続しているのではないか、人間の矛盾や限界

②【3】段落→人間ならではの営み、文化としての戦争

③【5】段落→「宗教は時に戦争に関わる」点

④【6】段落→平和運動はどうあるべきか

の各項目について、『私たち、戦争人間について』のほかに、石川氏の他の著書をも参照しながら詳説していきます。

 

 (3)「人間の『ダークな側面』」、「戦争と平和は連続しているのではないか」、「人間の矛盾や限界」について 

 ① 「人間の『ダークな側面』」について

 石川氏のルワンダ虐殺に関する発言について、補足します。

 この事件は、銃や爆弾ではなく、人が原始的にナタ・棍棒を使う方法で、約100日間で80万人が殺された事件です。人間はこれほど残酷になり得るもので、殺人者は別段「狂っていた」わけでもなく、普通に正気を保ちながら殺人を遂行したのです。殺人者には聖職者も含まれていました。

 石川氏は、『私たち、戦争人間について』の中で、このような事実を指摘して、「人を殺すことは簡単だ」と述べているのです。 

 

② 「戦争と平和は連続しているのではないか」という点について

 このことについては、『キリスト教と戦争』の中で、石川氏は同趣旨のことを述べているので、以下に、その概要を引用します。なかなか鋭い指摘であると、私は思います。


「多くのキリスト教徒は、『平和、平和』と口にするが、およそ人間の口から叫ばれる平和とは、ほとんどの場合、誰かにとって都合の良い『秩序』に他ならない。それは誰かによって作られ、誰かによって維持されるしかないものである。ほとんどの場合、『戦い』は平和のためにと思ってなされるのであるから、平和を望む気持ちと、戦いを決断する気持ちとの間に、根本的な違いはないのである。戦争についての問いは、人間の本性についての問いであり、戦争観とは人間観の応用に他ならないと言ってもよいだろう。」(『キリスト教と戦争』)(P212)


 石川氏は、『戦争は人間的な営みである』の中でも視点を変えて、同様のことを力説しています。この主張にも、深い思索が感じられます。以下に引用します。ぜひ、熟読してください。


「人間は、ただ食って、寝て、子供を残すだけでは満足できない生き物である。『正しく生きる』『快適に生きる』『美しく生きる』ことを求める。愛とか正義とか平和とか理想といったものにこだわるからこそ、『この社会を正しくせねばならない』と思うわけであろう。

 そうした思いが通常は政治運動や社会運動へと結びつくが、時にはさらに、戦争やテロへと結びつく。そういう意味で、やはり戦争と平和は、正反対のものではなく、むしろ同じ地平にあるものだと考えられねばならない。」 (『戦争は人間的な営みである』)


 次の引用も『戦争は人間的な営みである』からです。「キリスト教の殉教」を思考の出発点にしていますが、「戦争の本質」についての論考です。私は、卓見だと思います。この部分を何度も読み返すためだけでも、この本を購入する意味があります。


「多くの一般のキリスト教徒たちは、信仰深い殉教者たちに対して『あいつは自分の命を粗末にした』とは言わない。なぜならば『命よりも大切なものがある』ことを知っているからである。

 命が大切であることは誰もが知っているが、しかしそれでも人間は、『意味の喪失』あるいは『意味の獲得』によって、死を選択し、死を受け入れることがある。

 何らかの意味での『愛情』、あるいは『真心』があるからこそ、人間は命をかけて戦うことができてしまう、戦争を正当化できてしまうのだ。そこに、悲劇の本質があると考えるべきである。」 (『戦争は人間的な営みである』)

 

③ 「人間の矛盾や限界」について

 『私たち、戦争人間について』の「序章」には「人間の矛盾や限界」について、素朴で鋭い記述があります。以下に引用します。


「私たちは、戦争や暴力はいけないと口にして、『平和、平和』と叫んでいる。だが、本当に私はたちは、心の底から『平和主義者』でありたいと思っているのだろうか。

 現に、これまで人間は、愛とか平和とかを口にしながら、恐ろしいこと、おぞましいことをやってきた。人類の平和を祈りましょう、と言っている一方で、学校や職場では誰かと対立していることも珍しくない。

 

 『戦争は人間的な営みである』にも「人間の矛盾」についての、鋭い指摘があります。以下に引用します。言われてみれば、確かに、その通りで、感心してしまいます。
「平和を愛し、暴力を嫌う日本人の多くが、今でも忠臣蔵の物語を好むのはなぜだろうか。正義の味方が悪の組織と戦うアニメやドラマを、何の躊躇もなく子供たちに見せるのはなぜだろうか。」

 

 以上の2つの指摘は、まさに人間の矛盾です。人間は、特に日本人は、「武器」「兵器」「暴力」に関して無神経な言語表現をするようです。例えば、野球界では、平然と、1番打者を「切り込み隊長」、4番打者を「主砲」「巨砲」と表現しています。私は、以前から違和感を感じていましたが、今だに変わらないので、多くの日本人は何も感じていないのでしょう。

 以下に引用する石川氏の主張は、かなり本質的・根源的な論考です。読んでいて、思わず考えされられます。見事な内容です。


「人間は平和を祈りながら戦争をし、戦争をしながら平和を祈る。この矛盾に見えるものが、まさに現実の人間の姿であり、私たちが営む戦争の一側面なのである」

「『純然たる悪意』のみによって、何十万、何百万もの人間を、破壊や殺人に駆り立てることはできない。戦争は『悪意』よりも、むしろ何らかの『善意』によって支えられているのである。

 この世の『悪』が、すべて純然たる悪意のみから生まれているならば、この世の中の出来事はもっとわかりやすいものになっているはずである。善意からも悪が生じうるという人間的宿命を、もっと素直に見つめなければならない。

 警戒すべきなのは、あからさまな悪ではなく、むしろ浅薄な善意なのである。われわれが見つめるべきなのは、ある種の善意が戦争や暴力を正当化するという、人間の痛切な矛盾そのものなのである。」(『戦争は人間的な営みである』)

 

(4)「人間ならではの営み、文化としての戦争」について

 この点については、『私たち、戦争人間について』の第3章「戦争に役に立つ技術と知識」に、詳しく記述があります。

 戦争に不可欠な道具というと、兵器・武器のみをイメージすることが普通です。しかし、実際上は、戦争遂行には広範囲の用具・知識・技術が必要になります。このことについて説明している部分を、以下に引用します。

「戦争のための道具作りにおいては、どんなアイディアも許され、求められる。戦争はもちろん破壊的行為であるが、戦争ほど創造的な舞台はないのも事実だ。
 一方、武器や兵器といったものを、強く嫌悪する平和主義者たちも少なくない。武器があるから戦争が起きるのだ、持っていれば使いたくなるのが当然だ、という意見がある。高価な兵器を作ったり買ったりするのをやめて、その予算を福祉や教育にあてるべきだ、という声も耳にする。だが、そもそも、何が「武器」で何が「武器」ではないのだろうか。
 軍隊では、その時代に存在するすべてのモノや知識が活用される。したがって、あるモノや知識について、どこまでは軍事と『無関係』で、どこからが『間接的』に軍事的であり、どうなったら完全『軍事』だと判断されるのかは、最終的には恣意的なものでしかない。
 こうした『境界』が曖昧だという話は、もちろん軍事に限ったものではなく、他のさまざまな分野においても見られるだろう。だが、戦争や軍事ほど、一般の人たちが『自分はそれに関わっていない』と思いたがるものもない。
 戦争は悪である、と教育されるあまり、ふだん私たちは、自分の持っている能力が戦争に役立ち得るとは考えたがらない。みな自分だけは、平和主義者でいたいのだ。しかし、私たちが持っているあらゆるモノや、技術や、知識は、何らかの形で軍事に貢献する可能性を常に持っている。」(『私たち、戦争人間について』)


 つまり、戦争とは、国家の存立と各人の生命をかけて戦うものなので、その時点で人間の文明の最先端の成果が総動員されるのです。その意味で、あらゆる産業が「軍需産業」とも評価できるのです。さらに言えば、私たちは何らかの形で「軍事」に関与しているとも言えるのです。

 

(5)「宗教は時に戦争に関わる」点について

 この問題に関しては、『キリスト教と戦争』が詳しく論じています。

 まず、本書の内容の説明をします。

 以下は「BOOK・データベース」からの引用ですより)

世界最大の宗教、キリスト教の信者は、なぜ『愛と平和』を祈りつつ『戦争』ができるの? 殺人や暴力は禁止されているのではなかったか? 本書では、聖書の記述や、アウグスティヌス、ルターなど著名な神学者たちの言葉を紹介しながら、キリスト教徒がどのように武力行使を正当化するのかについて見ていく。平和を祈る宗教と戦争との奇妙な関係は、人間が普遍的に抱える痛切な矛盾を私たちに突きつけるであろう。


  『キリスト教と戦争』の「前書き」冒頭には、以下のように、非キリスト教徒の素朴な疑問と、石川氏による一応の解説が記述されています。


「なぜ、キリスト教徒は『愛』と『平和』を口にするのに、戦争をするのだろうか。それに対する答えはどうしても言い訳じみたものになりがちである。たとえば、『キリスト教徒がこれまで多くの戦争をしてきたのは事実だが、それはその時のキリスト教徒の過ちであって、キリスト教そのものが好戦的なのではない』とか、『わたしたちが信じているのは、戦争をしてきたキリスト教徒ではなく、愛を説くイエス・キリストである』とか『戦争を繰り返してきたこと自体、罪深い私たちが神を必要とする何よりの証拠である』と。
 このような返答では、ほとんどの非キリスト教徒の方々は、納得できないだろう。」
 「キリスト教というと平和主義のイメージが強く、『右の頬(ほお)を打たれたら左の頬も差し出せ』というようなイエスの有名な言葉を知っている人も多いだろう。しかし、キリスト教国家である欧米は決して「平和主義」ではなかったのです。むしろ、古来好戦的な傾向が強かったことは、十字軍や帝国主義などの歴史を見れば明白です。」

 

 第1章では、現在のローマ・カトリックは、一応は平和主義ではあるが、正当防衛と見なされる場合には戦争を否定していないという事実が述べられています。

 キリスト教は決して、無抵抗主義、絶対的平和主義を採用しては、いないのです。このことは、日本人が、ぜひ知っておくべきことです。

 キリスト教が大筋で、絶対的平和主義を採用していないことについては、石川氏は、以下のように、『キリスト教と戦争』の中で詳しく説明しています。   

 

「21世紀現在でも、絶対平和主義と正戦論(→「戦争」を「正当な戦争」と「不当な戦争」とに区別して,「正当な原因をもつ戦争」だけを合法と認める理論)との間ではさまざまな議論がなされている。キリスト教信仰に基づいた絶対平和主義者の声も、決して小さいわけではない。しかし、キリスト教主流派の歴史においては、やはり条件付きで戦争を肯定するのが基本的なスタイルとして引き継がれてきたのである。そうした思想は、5世紀にはすでに明らかな形で現れ、13世紀以降はある種の権威・伝統さえ有するようになって現在にいたっているというのが、端的な事実なのである。」

「聖書にはっきりと『いかなる理由によっても戦争をしてはいけない』とか『暴力はどんな状況でも禁じる』などと書いてくれていれば、話はもっと簡単であった。ところが、聖書では、『敵を愛せ』などと、良くも悪くも常識とは異なる表現がなされているものだから、では、やむをえないかぎりの実力行使でもって悪人を善の道に導くならば、それは敵に対する『愛』の行為に相当するのではないか、とか、無条件の非暴力主義は時には悪を放置・黙認する無責任な姿勢であり、愛に反する態度でもあるのではないか、などと、議論が錯綜するのである。

 聖書というのは、それぞれの人生や社会状況と重ね合わせて読まれる書物である。人や社会は、同じ教典を読んでいても、さまざまな人生経験を念頭に、またさまざまな平和を思い描きながら感じ、考え、行動する。キリスト教徒といえども、誰もが必ず『愛』と『暴力』は矛盾すると考えるわけではないのである。」(『キリスト教と戦争』)


 さらに、石川氏は、以下のように、現在のキリスト教の繁栄の背景に注目すれば、キリスト教が「非暴力主義」・「完全な平和主義」を採用しなかったことは明白である、と主張しています。

 

「単純に考えれば、もし最初からすべてのキリスト教徒が『平和主義的』に振る舞っていたら、キリスト教徒は絶滅していたか、せいぜい小さなセクトであるにとどまっていたのではないかと思われる。後のキリスト教徒は、実際には、異教徒や他教派を迫害し、戦争や植民地支配を行って勢力を拡大し、安全保障にも現実的に取り組むことで、生存し、仲間を増やしてきた。今現在も、世界中いたるところに23億人ものキリスト教徒がいるということが、少なくとも主派の教派は、決して純粋な非暴力主義でも完全な平和主義でもなかった証拠であろう。キリスト教は真理であるから世界に広まったのだ、などと思い込んでいるとしたら、それはナイーブというよりむしろ傲慢である。」 (『キリスト教と戦争』)

 

 以上は、かなり説得力のある論考になっている、と私は思います。

 

(6)平和運動はどうあるべきか?

 石川氏の平和運動についての基本的姿勢は、カントの『永遠平和のために』と同様に現実的であり、説得力があると思います。カントの『永遠平和のために』ついては、最近、記事を発表したので、ぜひ参照してください。

gensairyu.hatenablog.com

 

①  「現実的に考察する必要性」について

  『私たち、戦争人間について』の第6章「私たちの愛と平和主義には限界がある」においては、まず、「人類の歴史をたどると、少なくとも人口比で見れば殺戮は減少してきている事実」が指摘されています。つまり、「国家の成立、情報化、文明化等の理由により、闘争、紛争は少なくなり、殺される人間の比率は減少の一途をたどっている」のです。

 20世紀は2度の世界大戦により、かなりの人間が死亡したように思われていますが、現実に統計的に見れば、殺戮は減っているのです。

 その意味では、「平和の追求」や「戦争の防止」を考えることは、一定の意義・効果があるのです。

 しかし、戦後日本がやってきたような、ひたすら、抽象的に「平和を守れ」と叫ぶだけ方法では、効果は期待できないでしょう。

 国際紛争の実態を直視して、「平和追求」・「戦争防止」の方策を、現実的に考えて行かなくてはならないでしょう。

 石川氏は、『私たち、戦争人間について』の中で、「戦後日本は戦時中の『必勝の信念』を『平和への信念』に置き換えただけで、基本的には変わっていないのではないか」と述べています。

 私も、この見解に賛同します。

 では、具体的には、どのように考えるべきか?

  『キリスト教と戦争』の中で、石川氏は以下のように述べています。

「戦争は極めて複雑な名称なので、平和については戦争そのものに関する十分な考察のうえで議論されねばならない。同じ『戦争』であるからといって、戦国時代の戦いを念頭に太平洋戦争について議論しても無意味であるように、太平洋戦争のイメージだけで二一世紀の戦争は語れない。戦争は時代とともに常に変化していくので、私たちは常に新たな軍事・戦略環境を念頭におく必要がある。」

 さらに、『戦争は人間的な営みである』の中では、より分かりやすく説明しています。以下に引用する見解は、現実的で、説得力があります。

「私たちは、交通事故あるいは火事などに対して、『火事反対』『交通事故反対』とデモ行進をしたりはしない。
 交通事故を減らしたければ、『反対』と叫ぶ以前に、自動車、道路、標識、信号機などについて、あるいは運転する人間の行動などについて、研究するしかない。自動車や交通規制について無知であれば、交通安全についても無知であろう。
 同じように、『戦争反対』と叫ぶだけでは意味がないのである。もちろん戦争を火事や交通事故と同じレベルで考えているのではなく、その問題に対する態度そのものを問うているのである。

 戦争に対する『反対』は、それを叫ぶ本人のセンチメンタリズムを満足させるだけでしかない。平和を手に入れたければ、なおさらのこと『戦争』や『軍事』そのものを研究するしかないのだ。これは極めて当たり前の理屈である。」(『戦争は人間的営みである』)

 

② 「愛の不可能性」について

 石川氏は、『キリスト教と戦争』の中で、キリスト教における「愛」に関して、アメリカで発生した事件を紹介しています。

「2006年の秋、アメリカの小さな村の学校に、銃を持った男が押し入った。拳銃、ショットガン、ライフルを彼は、少女達を監禁し、5人を射殺、5人に重傷を負わせ、自らもその場で自殺した。
 静かな田舎町の学校で起きたこの惨事は、衝撃的な事件として報道された。しかし、事件そのものよりも、さらに人々を驚かせたものがある。それは、その被害者遺族や近隣住民たちの反応であった。殺された少女の家族らは、事件後すぐに『私たちは、犯人を赦(ゆる)します』と言ったからである。それだけでなく、彼らは自殺した犯人の家族たちをも気遣い、ともに悲しみと苦悩を分かち合って、金銭的な援助までしたのであった。
 このニュースは、アメリカのみならず世界各国に報道された。悲しみと怒りのなかにいるはずの被害者遺族たちが、犯人を赦し、犯人の家族をも思いやったこということは、キリスト教的な愛の実践として、国内外の多くの人々を感動させたのである。

 この事件が起きたのは、ペンシルバニア州のニッケルマインズという場所である。そこは『アーミッシュ』(→「アーミッシュ・アーミッシュ」は、アメリカ合衆国のペンシルベニア州などやカナダ・オンタリオ州などに居住するドイツ系移民のキリスト教集団。キリスト教と共同体に忠実である厳格な規則のある派である。アメリカ移民当時の生活様式を保持し、農耕や牧畜によって自給自足生活をしている。この派は20万人以上いるとされている)と呼ばれる、プロテスタントのキリスト教徒たちが住んでいる地域で、被害者を含め、近隣住民のほとんどはアーミッシュであった。」(『キリスト教と戦争』)

 この事件におけるアーミッシュの対応は、物語としては可能でも、とても現実のこととは思えません。

 なぜ、ここまでのことをするのでしょうか?

 キリスト教的な「愛」の教義通りの実践なのでしょうが。

 被害者側の人間的感情を、ここまで押し殺すことができるとは、とても信じられないのです。

 やはり、このような意見は多いようで、同様の見解について、石川氏は言及しています。以下に引用します。 

「ところが、こうしたアーミッシュの感動的な『赦し』に対しては、批判や疑問の声もないわけではなかったのである。

 あるコラムニストは、アーミッシュが悪に対し善によって報いようとした姿勢は、確かに感動的であったという。

 しかし、憎しみは常に悪いわけではないし、赦しが常に適切とも限らない、と論じた。彼は『われわれのなかに、子供が虐殺されたのに誰も怒らないような社会に本気で住みたいと思っている者が、どれだけいるだろうか』と問いかけたのである。」(『キリスト教と戦争』)

 つまり、宗教としての理想は別として、現実世界で字義通りの、「愛の実践」を行使することは、極めて困難と言わなければならないのです。

 石川氏は、読者に皮肉的に問いかけています。

「もし、本当に何をされても『赦す』ような宗教があったとしたら、それが世界中に広まることが可能だと思いますか?」(『キリスト教と戦争』)

 これは、当然の問いかけと言えるでしょう。もし、そのような宗教が存在したとしたら、すぐに消滅したでしょう。自己への攻撃に対して無抵抗なのですから。

 現実問題としては、「愛と平和」を実現するための絶対的平和主義では暴力や戦争を止めることができないのです。

 この一見して、悲観的な見解こそが、現実的な正解と言えるのではないでしょうか。

 石川氏は、『キリスト教と戦争』の中で、この見解と類似の主張をしています。以下に引用します。

  「私たちに可能なのは、ぎこちない愛のモノマネでもって、どうにか互いに相手を尊重する関係をつくるという希望を抱くだけだ。人は、愛という言葉のもとで、ずるいことや卑劣なこともできる。利益や面子のために、誰かを愛しているフリをすることだってある。」(『キリスト教と戦争』)

 このように考えると、前述のカントの『永遠平和のために』と同方向の結論になるのです。上記の赤字部分の内容を私たちは、よく噛みしめるべきでしょう。

 

(7)石川明人氏の紹介

石川 明人(イシカワ アキト)
1974年東京都生まれ。北海道大学卒業、同大学院博士後期課程単位取得退学。博士(文学)。北海道大学助手、助教をへて、現在、桃山学院大学准教授。専攻は宗教学、戦争論。

【単著】

『キリスト教と戦争』(中公新書)、

『戦場の宗教、軍人の信仰』(八千代出版)、

『戦争は人間的な営みである』(並木書房)、

『ティリッヒの宗教芸術論』(北海道大学出版会)、

【共著】

『人はなぜ平和を祈りながら戦うのか?』(並木書房)、
『アジアの宗教とソーシャル・キャピタル』(明石書店)などがある。

 

(8)当ブログにおける「平和主義」関連記事の紹介 

 

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 (9)当ブログにおける「キリスト教」関連記事の紹介

  

gensairyu.hatenablog.com

 

 ーーーーーーーー

今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

ご期待ください。

 

   

 

gensairyu.hatenablog.com

 

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私たち、戦争人間について: 愛と平和主義の限界に関する考察

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キリスト教と戦争 (中公新書)

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戦争は人間的な営みである (戦争文化試論)

戦争は人間的な営みである (戦争文化試論)

 

 

朝日新聞デジタル

朝日新聞デジタル

 

 

頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

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5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

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 私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。

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予想問題『しんがりの思想 反リーダーシップ論』鷲田清一・地域社会

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 

 鷲田清一氏は、ほとんどの難関大学の入試現代文(国語)・小論文で一度は出題されている、トップレベルの頻出著者です。
 最近では、センター試験、東京大学、東北大学、早稲田大学、慶應大学、上智大学等で出題されています。

 鷲田氏の入試頻出著書としては、

『モードの迷宮』(ちくま学芸文庫)、

『じぶん・この不思議な存在』(講談社現代新書)、

『悲鳴をあげる身体』(PHP 新書)、

『「聴く」ことの力ー臨床哲学試論』(ちくま学芸文庫)、

『わかりやすいはわかりにくい? 臨床哲学講座』(ちくま新書)等があります。

 
  最近、鷲田氏は『しんがりの思想 反リーダーシップ論』(角川新書・2015年発行)を発表しました。

 本書は、早くも入試頻出出典になっています。具体的には、群馬大学、大阪教育大学、鹿児島大学、早稲田大学(社会科学部)、明治大学、法政大学、立命館大学等の国語現代文小論文に出題されています。そこで、今回は本書のポイントであり、かつ、最頻出の箇所について、当ブログの予想問題を発表することにしました。

 今回取り上げる箇所は、鷲田氏の主張の中心であり、東日本大震災後の現代日本に対する鷲田氏の怒り、悲しみが色濃く滲み出ています。

  入試国語(現代文)・小論文対策として、じっくりと取り組むことを、おすすめします。


 なお、今回の記事の項目は、以下のように、なっています。

 (2)予想問題『しんがりの思想』鷲田清一

 (3)当ブログにおける「鷲田清一」関連記事の紹介

 (4)当ブログの「東日本大震災」関連記事の紹介

 

しんがりの思想 ―反リーダーシップ論― (角川新書)

 

(2)予想問題『しんがりの思想 反リーダーシップ論』鷲田清一

 

次の文章を読んで以下の問いに答えなさい。
 
(問題文本文)

(【1】・【2】・【3】・・・・は当ブログで付記した段落番号です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です) 

【1】政治や企業活動と地域社会の違いは、専従のリーダーがいないことである。政治のプロフェッショナル、つまりは職業政治家、ならびに専従の経営者にあたるものが存在しない。すでに述べたように、地方議会の議員がそれにあたるはずであったのだが、町内会や婦人会,商店街の振興会や社会福祉協議会などといった、選挙での集票機能をもった既存の団体とのパイプを使うばかりで、都市部であらたに動きだした NPO(→nonprofit organization の略。非営利の民間組織) やボランティアといった新しい市民のネットワークにうまく対応もしくは連携がとれていない大方の地方議員、残念ながら地域社会の十全な力になっているとはとてもいえない。地方議員のこの無力は、市民に力がついてきたからではなく、逆に、政治のプロ(であるはずのひとたち)への市民の「おまかせ」構造がますます昂じてきた結果なのである。

【2】社会がいやでも縮小してゆく時代、「廃」炉とか「ダウン」サイジングなどが課題として立ってくるところでは、先頭で道を切り開いてゆく人よりも、むしろ最後尾でみなの安否を確認しつつ進む登山グループの「しんがり」のような存在、退却戦で敵のいちばん近くにいて,味方の安全を確認してから最後に引き上げるような「しんがり」の判断が、もっとも重要になってくる。実際、震災復興にあっても、ひたすら「防災」のためのハード面での公共事業に取り組むのではなく、地域が震災前から抱え込んでいた問題を見据えながら、そこでの日々の暮らしを〔 A 〕に再興する取り組みと結びついた経済活性化策を講じなければならないだろうし、また、もし、そうした社会全体への気遣いや目配りができていれば、建築資材と労賃の高騰を招くことで東北での復興事業を大きく遅延させることが必定な〔 B 〕の誘致など、だれも発想しなかっただろう。こういう全体の気遣いこそ、ほんとうのプロフェッショナルが備えていなければならないものなのであり、また、よきフォロワーシップの心得というべきものである。そして、こうした心得を、ここで《しんがりの思想》と呼んでみたい。

【3】リーダーが、その「しんがり」の務めに戻るべきときが、いま来ている。ダウンサイジングという、 「右肩上がり」の時代のリーダーたちがいちばん不得手な難問が山積しているという状況が目の前にある。

【4】「経世済民」(political economy)の「エコノミー」という語が、ギリシャ語の「オイコノミア」(家政)からきているように、国家財政というのは家計とよく似ている。そもそも、どの経費を削るか、どこを膨らまし、どこを圧縮するか、何に当座は金を向け、何を後に回すか・・・・。思案のしどころである。国家財政においても家計においても。そしてこれはもっとも頭を使うところでもある。

〔C〕

けれども、いきなり切り捨てを申し渡して、せっかくのやる気を殺ぐのは忍びない。後に回す、あるいは眼をつむって切り捨てるにも、きちんとした理由をあげて、相手を納得させねばならない。そこであげるべき理由は何か、持つべき「未来像」は何か・・・・。

【5】ここにきて、財布を握る主婦ないしは主夫は、はたと考え込む。優先順位を決めるにあたっての理屈を考えなければならなくなるのだ。我慢を求めるためには、きちんとした説得の言葉が必要だ。相手に納得させるには、しっかりした「思想」が要る。「思想」という言葉が仰々しければ、「家族生活の基本となる考え方」と言ってもいい。あるいは価値の軽重と先後、つまりは「価値の〔 D 〕」と言ってもいい。そして何かをしきりにねだっていた子どもも、こういうことも考えないといけないのだというふうに、事の複雑さを知るようになる。

【6】かつて、人々が極度に貧しいときには、理屈は必要なかった。まずは、いのちをつなぐこと、生き存(ながら)えること、これが原点であることが明確であった。子どもが何かねだっても、「これがあったら家族みんなが数日間、食べられますからね」と言われれば、子どもは黙るほかなかった。ある程度の融通が利くほどに豊かになると、子どもは「あの子は買ってもらったのに、それに較べうちの親は愛情が薄い」というふうに不満を溜め込むようになる。

【7】「限界」を意識するのは、この意味で大事なことである。ここを超えると危険水域に入るという臨界点を知ること。これが、いのちをつなぐために、もっとも重要なことだ。 「限界」を見させまいとすることは、子どもの心を傷つけないという思いからのことだろうが、いずれ子どもをより大きな危機にさらすことになる。しかし、「限界」はよほど眼をこらさないと見えない。眼をこらすというのは、自分がどういう状況にあるかを一歩退いて見ること、つまりは、惰性を脱する行為だからだ。

【8】日本人は寡栄養に強く、過栄養に弱いと、肝臓疾患の専門医から聞いたことがある。どういうことかというと、日本人の身体は体内に採り入れた少ない脂肪を数日間うまく使って飢えを凌(→しの)ぐのには向いているが、栄養過多に対して脂肪を減らす機能がないということらしい。だから、このところ、肝脂肪が原因で肝臓ガンになる人、よがじわりじわり増えているという。そういう意味でも、減らすというのはほんとうにむずかしい。ご馳走があるのに、途中でやめるというのはむずかしい。便利な物をあえて使わないというのもむずかしい。何かある事業を立ち上げるために、別の事業をやめるというのもむずかしい。〔   E   〕。言葉はやさしいが、それを実行するのはむずかしい。このことがわたしたちの社会構造についてもいえるとするなら、〔   E   〕という古人の知恵、いいかえるとダウンサイジングというメンタリティに、いまだれよりも近いところにいるのが、というか、そうならざるをえない場所へいちばん先にはじき出されたのが、いまの若い世代なのかもしれない。骨の髄まで「成長」幻想に染められているそれ以前の世代には、〔 X 〕という〔 Y 〕が〔 Z 〕には映らないからである。ダウンサイジングというメンタリティにもっとも遠い世代のリーダー像では、縮小してゆく社会には対応できないのだ。

【9】この国は、本気で「退却戦」を考えなければならない時代に入りつつある。その時、リーダーの任に堪えるのは、もはや“引っ張ってゆく”タイプのリーダーではない。それは「右肩上がり」の時代にしか通用しないリーダー像だ。これに対して、ダウンサイジングの時代に求められるのは、言ってみれば「しんがり」のマインドである。

【10】「しんがり」とは、言うまでもなく、合戦で劣勢に立たされ、退却を余儀なくされた時に、隊列の最後部を務める部隊のことである。彼等が担うのは、敵の追撃に遭って、本体を先に安全な場所まで退却させるために、限られた軍勢で敵の追撃を阻止し、味方の犠牲を最小限に食い止める、極めて危険な任務である。「しんがり」は「後駆(しりがり)」が音便化した語で、「後備(あとぞな)え」「尻払い」「殿軍(でんぐん)」とも言われる。現代では「ケツモチ」という言い回しもあるようで、いわゆるイベントサークルでトラブルに陥った時、それに片を付けてくれる人のことらしい。ヤンキー語では、暴走族が暴走行為をする時に、最後尾を受け持つメンバーのことを指す。パトカーに追跡されると、速度を落として蛇行運転し、前の集団を逃がすのが彼等の役目である。

【11】あるいは、登山のパーティーで、最後尾を務める人。経験と判断と体力に最も秀でた人が、その任に就くという。一番手が、「しんがり」を務める。二番手は、先頭に立つ。そして、最も経験と体力に劣る者が、先頭の真後ろに付き、先頭はその人に息遣いや気配を背中でうかがいながら、歩行のペースを決めるという。要は、「しんがり」だけが隊列の全体を見ることができる。パーティ全の全員の後ろ姿を見ることができる。そして、隊員がよろけたり、脚を踏み外したりした時、間髪おかず救助にあたる。

【12】じっさい、「右肩下がり」の時代、「廃炉」とかダウンサイジングが課題として立ってくるところでは、先頭で道を切り開いてゆく人よりも、このように最後尾でみなの安否を確認しつつ進む登山隊の「しんがり」のような存在、仲間の安全を確認してから最後に引き上げる「しんがり」の判断が、最も重要になってくる。誰かに、あるいは特定の業界に、犠牲が集中していないか、リーダーは張り切りすぎで、皆が付いて行くのに四苦八苦しているのではないか、そろそろ、どこかから悲鳴があがらないか、このままで、果たして「もつ」か、といった〔    甲    〕のケア、各所への気遣いと、そこでの周到な判断こそ、縮小していく社会において、リーダーが備えていなければならないマインドなのである。
(鷲田清一『しんがりの思想 反リーダーシップ論』)


ーーーーーーーーー


(設問)

問1  傍線部1「『しんがり』の判断」とは、どのような判断か。本文中の語句を使い、40字以内で記せ(句読点も1字と数える)。

 

問2  空欄Aに入る最適な語句を次の中から一つ選べ。

ア 伝統的  イ 創造的  

ウ 地域的  エ 日常的  

オ 恒常的  カ 勃興的

キ 国際的


問3  空欄Bに入る漢字四字の語句を記せ。

 

問4  傍線部2「『右肩上がり』の時代のリーダーたちがいちばん不得手な難問」とあるが、そう言える理由として最適なものを次の中から一つ選べ。

アその時代のリーダー達には、しんがりの思想を持った人物が一人もいなかったから。

イ  その時代のリーダー像は本来のリーダー像からかけ離れた、幻想の中の存在だったから。

ウ  その時代のリーダー達は、ダウンサイジングのメンタリティを持つ必要がなかったから。

エ  その時代のリーダーは、登山の場合とは違い、しんがりが一番手を務めたから。

オ  その時代のリーダー達にとっては、「右肩下がり」こそ最も憂慮すべき問題だったから。


問5  空欄Cには次の文章が入る。正しい順序に並べ替えよ。

ア  だから、まず無駄を省くことを考える。

イ  けれども、それにも限界がある。

ウ  借金は家訓により御法度だ。

エ  一人ひとりの願いを聞き届ければ、家計は破綻する。

オ  切り捨てを決断しなければならないものがあるのは、あきらかだ。

カ  パイは決まっている。

 

問6  空欄Dに入る語句として最適なものを次の中から一つ選べ。

ア 思考法  イ 遠近法  

ウ 多様化  エ 具体化  

オ 局所性  カ 拡大化

 

問7  傍線部3「かつて、人々が極度に貧しいときには、理屈は必要なかった」とあるが、その理由として最適なものを次の中から一つ選べ。

ア  当時、何が一番大切かを知るのは困難ではなかったから。

イ  当時、生命は有限なことということは子どもも理解したから。

ウ  当時は、目をこらしても世の中の真実を見ることができなかったから。

エ  当時、子どもは母親の言う言葉に従わなければならなかったから。

オ  当時は、限界を意識すること自体が生きることの意味だったから。


問8  傍線部4「惰性を脱する行為」とは、ここでは、どのような行為のことか。最適なものを、次の中から一つ選べ。

ア  その場その場の状況を適切に把握すること

イ  力の限界を理解して最善の策を見出だすこと

ウ  物事の臨界点を知り、一歩踏み出すこと

エ  いのちをつなぐために必要な物を探すこと

オ  危険水域を的確に認識して、距離を置くこと


問9  空欄E(二箇所ある)に入る最適な表現を次の中から一つ選べ。

ア  ありのままに生きる

イ  自然体を知る

ウ  隠忍自重

エ  足るを知る

オ  虚飾を排する

カ  衣食足りて礼節を知る

キ  彼を知り己を知れば百戦殆(あや)うからず

 

問10  空欄X~Zに入る語句の組み合わせとして最適なものを、次の中から一つ選べ。

ア X 寡栄養  Y 自然  Z 自然

イ X 過栄養  Y 自然  Z 自然

ウ X 寡栄養  Y 不自然  Z 自然

エ X 過栄養  Y 不自然  Z 不自然

オ X 寡栄養  Y 不自然  Z 不自然

 

問11  空欄甲に入る本文中の二字の語句を記せ。

ーーーーーーーー 

 

(解説・解答)

問1(傍線部説明問題・記述式問題・キーセンテンスを問う問題)

 「『しんがり』の判断」に関しては、以下の2箇所に注目してください。

【2】段落「こういう全体の気遣いこそ、ほんとうのプロフェッショナルが備えていなければならないものなのであり、また、よきフォロワーシップの心得というべきものである。そして、こうした心得を、ここで《しんがりの思想》と呼んでみたい。 」

【12】段落「全体のケア、各所への気遣いと、そこでの周到な判断こそ、縮小していく社会において、リーダーが備えていなければならないマインドなのである。」


(解答)
縮小していく社会においてリーダーが備えるべき、全体への気遣いのある周到な判断。(39字)


問2(空欄補充問題)

 空欄の直前直後を、熟読・精読することが必要です。 

「実際、震災復興にあっても、ひたすら「防災」のためのハード面での公共事業に取り組むのではなく、地域が震災前から抱え込んでいた問題を見据えながら、そこでの日々の暮らしを〔 A 〕に再興する取り組みと結びついた経済活性化策を講じなければならないだろう」

 また、消去法を活用してください。

(解答)イ

 

問3(空欄補充問題・社会常識を問う問題)

 「社会常識を問う問題」は、模試では、あまり出題されません(→運営主体である予備校・添削会社の自己否定になるからです→社会常識は自主学習が可能です)。一方、大学は「社会常識」のある受験生を求めているので、「社会常識を問う問題』は、入試では頻出です。このようなこと、模試と過去問のレベルの大きな落差、があるので、私は模試を受けることを、あまりすすめていません。

 模試の効用としては、「時間内に処理する訓練」くらいしか、ありません。年に2回くらい受ければ充分です。志望大学の過去問に対応することを留意するべきです。

 

 解法としては、「建築資材と労賃の高騰を招くことで東北での復興事業を大きく遅延させることが必定な〔 B 〕の誘致」の部分を熟読・精読することが不可欠です。

(解答)東京五輪 (「五輪大会」でも可)

 

問4(傍線部説明問題)

 【8】段落の以下の部分に注目してください。

骨の髄まで『成長』幻想に染められているそれ以前の世代には、〔X=過栄養〕という〔Y=不自然〕が不自然〔Z=不自然〕には映らないからである。ダウンサイジングというメンタリティにもっとも遠い世代のリーダー像では、縮小してゆく社会には対応できないのだ。

(解答)ウ

  

問5(文章並べ替え問題)

 空欄直後の
「けれども、いきなり切り捨てを申し渡して、せっかくのやる気を殺ぐのは忍びない」より、最後がオ(「切り捨てを決断しなければならないものがあるのは、あきらかだ。」)になることが分かります。

 以下の2つのセットは、すぐに分かるでしょう。

カ(「パイは決まっている。」)→エ(「一人ひとりの願いを聞き届ければ、家計は破綻する。」)、

ウ(「借金は家訓により御法度だ。」)→ア(「だから、まず無駄を省くことを考える。」)→イ(⑤「けれども、それにも限界がある。」)。

 「カ→エ」のセットが「ウ→ア→イ」より前にくるので、全体的にみて、「カ→エ→ウ→ア→イ→オ」になります。


(解答)カ→エ→ウ→ア→イ→オ

 

↓「文章並べ替え問題の解法」を詳しく説明しました。 

gensairyu.hatenablog.com

 

問6(空欄補充問題)

 直前の「『思想』という言葉が仰々しければ、『家族生活の基本となる考え方』と言ってもいい。あるいは価値の軽重と先後」に注目すると、よいでしょう。

(解答)イ

 

問7(傍線部説明問題)

 直後の「まずはいのちをつなぐこと、生き存(ながら)えること、これが原点であることが明確であった。子どもが何かねだっても、『これがあったら家族みんなが数日間、食べられますからね』と言われれば、子どもは黙るほかなかった。」に着目する必要があります。

(解答)ア

 

問8(傍線部説明問題)

 直前の「『限界』はよほど眼をこらさないと見えない。眼をこらすというのは、自分がどういう状況にあるかを一歩退いて見ること」の部分がヒントになります。

(解答)オ

 

問9 (空欄補充問題・慣用表現)

 解法としては、以下の部分に注目してください。

直前の「ご馳走があるのに、途中でやめるというのはむずかしい。便利な物をあえて使わないというのもむずかしい。」、

直後の「古人の知恵、いいかえるとダウンサイジング(→「ダウンサイジング(Downsizing)」とは、「サイズ(規模)を小さくする」という意味)というメンタリティ」。

 

 なお、ウの「隠忍自重(いんにんじちょう)」とは、「怒りの気持ち等を我慢して、軽々しい言動を慎む」という意味です。

(解答)エ

 

問10 (空欄補充問題)

 「段落毎の要約をメモする」といった時間のムダな、バカなことをしないでください。頭の中で自然に要約ができます。熟読・精読を心がけてください。

 

 解法としては、

直前の「骨の髄まで『成長』幻想に染められているそれ以前の世代」、
直後の「ダウンサイジングというメンタリティにもっとも遠い世代のリーダー像では、縮小してゆく社会には対応できないのだ」、

がポイントになります。

(解答)エ

 

問11 (空欄補充問題)

 空欄直前の「誰かに、あるいは特定の業界に、犠牲が集中していないか、リーダーは張り切りすぎで、皆が付いて行くのに四苦八苦しているのではないか、そろそろ、どこかから悲鳴があがらないか、このままで、果たして『もつ』か、といった」、空欄直後の「ケア」に着目してください。

 

 解答である「全体」は、直前の段落の後半部分、
「要は、『しんがり』だけが隊列のを見ることができる。パーティ全員の後ろ姿を見ることができる。そして、隊員がよろけたり、脚を踏み外したりした時、間髪おかず救助にあたる。」にあります。

(解答)全体

 

ーーーーーーーー


(出典)鷲田清一『しんがりの思想:反リーダーシップ論』「第4章しんがりという務め フォロワーシップの時代」

 

ーーーーーーーーー

 

 鷲田氏は、『しんがりの思想』の中で、上記の本文の直後に「フォロワーシップの時代」という「見出し」を付けて、「しんがりの思想」について、より丁寧な説明をしているので、概要を引用します。この部分も入試頻出箇所です。

 

「地域社会とか市民社会と呼ばれる場は、職業政治の場ではない。誰もが余所に本務をもったままで、そうしたゆるい集団の一員として参画する。それは、日々、それぞれの持ち場で、おのれの務めを果たしながら、公共的な課題が持ち上がれば、誰もが時にリーダーに推され、時に、メンバーの一員、そうワン・オブ・ぜムになって行動する。つまり、普段はリーダーに推された人の足を引っ張ることもなく、よほどのことがない限り従順に行動するが場合によっては、すぐに主役の交代もできる、そういう可塑性(しなり)のある集団であろう。リーダーに、そしてシステムに全部を預けず、しかし全部を自分が丸ごと引き受けるのでもなく、いつも全体の気遣いをできるところで責任を担う。そんな伸縮可能な関わり方で維持されてゆく集団であろう。

 実際、誰もがリーダーになりたがる社会ほど、もろいものはない。日頃は自己の本務を果たしつつ、公共的なことがらについて、ある時は「今は仕事が手を抜けないのでちょっと頼む」、ある時は「あなたも本業が忙しいでしょうからしばらくわたしが交代するよ」というように、前面に出たり、背後に退いたりしながら、しかし、いつも全体に気配りができる、そんな賢いフォロワーの存在こそが、ここでは大きな意味を持つ。公共的なことがらに関して、観客になるのではなく、みずから問題の解決のためのネットワークを編んでゆく能力、これこそが、「市民性」の成熟の前提となるということであろう。」

 

(3)当ブログにおける「鷲田清一」関連記事の紹介

 

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 (4)当ブログの「東日本大震災」関連記事の紹介

    

 以下のように、「東日本大震災」関連の論考は、入試頻出です。意識して、取り組んでください。

 

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ーーーーーーーー

 

今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

ご期待ください。

  

    

 

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しんがりの思想 ―反リーダーシップ論― (角川新書)

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

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5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

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 私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。

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予想問題『暇と退屈の倫理学』國分功一郎/消費社会・真の豊かさ

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 國分功一郎氏は、最近の入試頻出著者です。國分氏の論考は、最近、慶応大学(商学部)、中央大学、同志社大学、関西大学、獨協大学などの国語(現代文)・小論文で出題されています。
 従って、国語(現代文)・小論文対策として、國分功一郎の氏の論考・著書を読むことを、おすすめします。

 

「自分らしく生きるためには、ということ」
國分功一朗氏は、『暇と退屈の倫理学』の中で、この問いが「暇と退屈への対応問題」という「案外と重要な哲学的問題」であると主張しています。そして、この重大問題に、様々な哲学者の知見を引用しながら堂々と立ち向かっています。

 この本は人生を考えるために、丁寧に分かりやすく書かれ、しかも、切れ味のよい秀逸な哲学書です。

 高校生、受験生は、最低1冊は、國分功一郎氏の著書を読んでおくべきでしょう。

 

 そこで、今回の記事でも、最近の流行出典である、國分氏の『暇と退屈の倫理学』の頻出箇所を題材にして、予想問題(予想論点)を解説することにしました。

 

 今回の記事の項目は、以下のようになっています。

(2)予想問題/『暇と退屈の倫理学』國分功一郎

(3) 『暇と退屈の倫理学』の構成

(4)國分功一郎氏の紹介・著書・訳書

(5)当ブログにおける「哲学」関連記事の紹介

(6)当ブログにおける「消費社会」関連記事の紹介 

 

暇と退屈の倫理学 増補新版 (homo Viator)

 

 (2)予想問題/『暇と退屈の倫理学』國分功一郎

 

(問題文本文)

(【1】・【2】・【3】・・・・は当ブログで付記した段落番号です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です)

 

【1】どんなにおいしい食事でも食べられる量は限られている。腹八分目という昔からの戒めを破って食べまくったとしても、食事はどこかで終わる。いつもいつも腹八分目で質素な食事というのはさびしい。やはりたまには豪勢な食事を腹一杯、十二分に食べたいものだ。これが浪費である。浪費は生活に豊かさをもたらす。そして、浪費はどこかでストップする。

【2】それに対して消費はストップしない。たとえばグルメブームなるものがあった。雑誌やテレビで、この店がおいしい、有名人が利用しているなどと宣伝される。人々はその店に殺到する。なぜ殺到するのかというと、だれかに「あの店に行ったよ」と言うためである。

【3】当然、宣伝はそれでは終わらない。次はまた別の店が紹介される。またその店に行かなければならない。「あの店に行ったよ」と口にしてしまった者は、「えぇぇ? この店行ったことないの? 知らないの?」と言われるのを嫌がるだろう。だから、紹介される店を延々と追い続けなければならない。

【4】これが消費である。消費者が受け取っているのは、食事という物ではない。その店に付与された観念や意味である。この消費行動において、店は完全に記号になっている。だから消費は終わらない。

【5】浪費と消費の違いは明確である。消費するとき、人は実際に目の前に出てきた物を受け取っているのではない。なぜモデルチェンジすれば物が売れて、モデルチェンジしないと物が売れないのかと言えば、人がモデルそのものを見ていないからである。「チェンジした」という観念だけを消費しているからである。

【6】ボードリヤールは消費される観念の例として「個性」に注目している。今日、広告は消費者の「個性」を煽(あお)り、消費者が消費によって「個性的」になることをもとめる。消費者は「個性的」でなければならないという強迫観念を抱く。

【7】問題はそこで追求されている「個性」がいったい何なのかがだれにも分からないということである。したがって、「個性」はけっして完成しない。つまり、消費によって「個性」を追いもとめるとき、人が満足に到達することがない。その意味で消費は常に失敗するように仕向けられている。失敗するというより、成功しない。あるいは、到達点がないにもかかわらず、どこかに到達することがもとめられる。こうして選択の自由が消費者に強制される。

【8】 消費社会を相対的に位置づけるために、それとは正反対の社会を紹介しよう。ボードリヤールも言及しているが、人類学者マーシャル・サーリンズは 「原初のあふれる社会」という仮説を提示している。これは現代の狩猟採集民の研究を通じて、石器時代の経済の「豊かさ」を論証したものである。

【9】 狩猟採集民はほとんど物をもたない。道具は貸し借りする。計画的に食料を貯蔵したり生産したりもしない。なくなったら採りにいく。無計画な生活である。

【10】彼らはしばしば、物をもたないから困窮していると言われる。そして、それは彼らの「未来に対する洞察力のなさ」こそが原因であると思われている。つまり、計画的に貯蔵したり生産したりする知恵がないために十分に物をもっていないとして、「文明人」たちから憐(あわ)れみの目で眺められている。

【11】しかし、これは実情から著しくかけ離れている。彼らはすこしも困窮していない。狩猟採集民は何ももたないから貧乏なのではなくて、むしろそれ故に自由である。きわめて限られた物的所有物のおかげで、彼らは日々の必需品に関する心配からまったく免れており、生活を享受しているのである。

【12】また、彼らが未来に対する洞察力を欠き、貯蓄等の計画を知らないのは、知恵がないからではない。彼らのような生活では、単に未来を思い煩う必要がないのだ。 

【13】狩猟採集生活においては少ない労力で多くの物が手に入る。彼らは何らの経済的計画もせず、貯蔵もせず、すべてを一度に使い切る大変な浪費家である。だが、それは浪費することが許される経済的条件のなかに生きているからだ。

【14】 したがって狩猟採集民の社会は、一般に考えられているのとは反対に物があふれる豊かな社会である。彼らが食料調達のために働くのは、だいたい一日三時間から四時間だという。サーリンズは、農耕民に囲まれていたけれども農業の採用を拒否してきた、ある狩猟採集民のことを紹介している。なぜ彼らは農業の採用を拒んできたのか? 「そうなればもっとひどく働かねばならない」からだそうである。

【15】もちろん狩猟採集民を過度に理想化してはならない。狩猟採集民もうまく食料調達ができないことはあろうし、環境の変化によって容易に困窮に陥ることはあろう(しかし、農耕民の方がその可能性が高いとも言えるのだが・・・・)

【16】重要なのは、彼らの生活の豊かさが浪費と結びついているということである。彼らは贅沢な暮らしを営んでいる。これが重要である。ボードリヤールやサーリンズも言うように、浪費できる社会こそが「豊かな社会」である。将来への気づかいの欠如と浪費性は「真の豊かさのしるし」、贅沢のしるしに他ならない。

 

〔 3 〕


【17】消費社会はしばしば物があふれる社会であると言われる。物が過剰である、と。しかし、これはまったくのまちがいである。サーリンズを援用しつつボードリヤールも言っているように、現代の消費社会を特徴づけるのは物の過剰ではなくて稀少性である。消費社会では、物がありすぎるのではなくて、物がなさすぎるのだ。

【18】なぜかと言えば、商品が消費者の必要によってではなく、生産者の事情で供給されるからである。生産者が売りたいと思う物しか、市場に出回らないのである。消費社会とは物があふれる社会ではなく、物が足りない社会だ。

【19】そして消費社会は、そのわずかな物を記号に仕立て上げ、消費者が〔 ① 〕し続けるように仕向ける。消費社会は私たちを〔 ② 〕ではなくて〔 ③ 〕へと駆り立てる。消費社会としては〔 ④ 〕されては困るのだ。なぜなら〔 ⑤ 〕は満足をもたらしてしまうからだ。消費社会は、私たちが浪費家ではなくて消費者になって、絶えざる観念の〔 ⑥ 〕のゲームを続けることをもとめるのである。消費社会とは、人々が浪費するのを妨げる社会である。

【20】消費社会において、私たちはある意味で我慢させられている。浪費して満足したくても、そのような回路を閉じられている。しかも消費と浪費の区別などなかなか思いつかない。浪費するつもりが、いつのまにか消費のサイクルのなかに閉じ込められてしまう。

【21】この観点は極めて重要である。なぜならそれは、質素さの提唱とは違う仕方での消費社会批判を可能にするからである。

【22】しばしば、消費社会に対する批判は、つつましい質素な生活の推奨を伴う。「消費社会は物を浪費する」「人々は消費社会がもたらす贅沢になれてしまっている」「人々はガマンして質素に暮らさねばならない」。日本でもかつて「清貧の思想」というのが流行(はや)ったがまさしくこれだ。

【23】そうした「思想」は 根本的な勘違いにもとづいている。消費は贅沢などもたらさない。消費する際に人は物を受け取らないのだから、消費はむしろ贅沢を遠ざけている。消費は徹底して推し進めようとする消費社会は、私たちから浪費と贅沢を奪っている。

【24】しかも単にそれらを奪っているだけではない。いくら消費を続けても満足はもたらされないが、消費には限界がないから、それは延々と繰り返される。延々と繰り返されるのに、満足がもたらされないから、消費は次第に過激に、過剰になっていく。しかも過剰になればなるほど、満足の欠如が感じられるようになる。

【25】 これこそが、20世紀に登場した消費社会を特徴づける状態に他ならない。

【26 】消費社会を批判するためのスローガンを考えるとすれば、それは 「贅沢をさせろ」になるだろう。

(國分功一郎『暇と退屈の倫理学』による)

 

ーーーーーーーー

 

(設問)

問1  傍線部1「この消費行動において、店は完全に記号になっている」における「記号」は、どのような意味か。最適なものを、次の中から一つ選べ。

ア  個人にとって大切な印ということ

イ  他と区別するための便宜的なもの

ウ  宣伝の対象としての存在

エ  物の消費量を数値化する際に使用する算式の記号

オ  物のイメージ、意味、その魅力などの情報ということ

カ  関係を簡明に表示するもの 

キ  自分の意図を表現する行為

 

問2  傍線部2「原初のあふれる社会」の内容として不適切なものを、次の中から一つ選べ。

ア  狩猟採集民は、豊かさを知る社会に生きている。

イ  狩猟採集民は、観念的な消費生活を知らない。

ウ  狩猟採集民は、観念よりも物に即した生活をしている。

エ  狩猟採集民は、物質的には困窮生活をしていた。

オ  狩猟採集民は、贅沢を奪われてはいない。

カ  狩猟採集民は、浪費を自制していない生活をしている。

 

問3  空欄〔3〕には【17】~【26】段落の内容の「小見出し」が入る。「小見出し」として最適なものを、次の中から一つ選べ。

ア  物が過剰な社会

イ  物が不足している社会

ウ  消費を促進する社会

エ  消費を妨げる社会

オ  消費社会を批判する

カ  消費とは何か?

キ  人は何を消費するのか?

 

問4  空欄①~⑥には、「浪費」か「消費」が入る。「消費」が入るものを、すべて選べ。

 

問5  傍線部4「私たちはある意味で我慢させられている」とあるが、どのような意味で「我慢させられている」のか。最適なものを、次の中から一つ選べ。

ア  浪費しようとする気持ちを抑制されて、ごくわずかな物を入手するだけで満足するようになっているから。

イ  欲望が、たえずかきたてられるため、何かを思う存分、入手して満足したという気分を味わうことができないから。

ウ  欲望が、たえずかきたてられるため、何が自分の真の欲望かが分からなくなっているから。

エ  わずかしかないものに、世の中の人々が、殺到するようになってしまったので、満足できる人など存在しえないから。

オ  欲望が、たえずかきたてられるため、わずかしかないものに、世の中の人々が、殺到するようになってしまったから。

 

問6  傍線部5「根本的な勘違い」の内容として最適なものを、次の中から一つ選べ。

ア  商品が過剰に流通し過ぎている。

イ  消費と浪費の区別は明確である。

ウ  浪費は満足をもたらさない。

エ  消費社会は物を浪費する。

オ  消費には限界があるはずである。

 

問7  傍線部6「贅沢をさせろ」の意味として最適なものを、次の中から一つ選べ。

ア  質素な生活でも贅沢を感じる社会を取り戻すためには、雑誌やテレビなどから遠ざかる必要がある。

イ  浪費のできない社会では、真に豊かな生活を送っているという満足感は味わえない。

ウ  過激化する一方の欲望を満足させることができなければ、豊かな社会とは言えない。

エ  質素な生活でも贅沢を感じる社会を取り戻すためには、物質的な欲望を抑制する必要があるだろう。

オ  いつまでも消費し続けられる社会のためには、充分すぎるほどの商品が流通していなくてはならない。

 

問8  この文章の内容と合致しないものを、次の中から一つ選べ。

ア  ふだんは質素に暮らしていても、たまに浪費することができれば、その人の生活は豊かになる。

イ  狩猟採取民が農業にたずさわることを選択しないのは、彼らが既に豊かな社会を実現しているからである。

ウ  真に豊かな暮らしを送るためには、食料に困ることのないように計画的な生活を送ることが大切である。

エ  消費社会では、人々は欲しいと思う物を入手しても満足できず、常に欲望をかきたてられている。

オ  浪費は、どこかでストップするものである。

カ  消費の対象は物ではないと言えるのである。

キ  浪費できる社会が、真に豊かな社会と評価できるのであろう。

 

ーーーーーーー

 

(設問)

問1 (傍線部説明問題)

 直前の「これが消費である。消費者が受け取っているのは、食事という物ではない。その店に付与された観念や意味である。」に注目してください。

 「記号論」における「記号」は、かなり広い意味で使われます。「一定の意味を持つもの」のすべてが記号になります。衣服、制度、観念などの、すべてです。

(解答) オ


問2 (傍線部説明問題)

  【11】段落の 「しかし、これは実情から著しくかけ離れている。彼らはすこしも困窮していない。狩猟採集民は何ももたないから貧乏なのではなくて、むしろそれ故に自由である。きわめて限られた物的所有物のおかげで、彼らは日々の必需品に関する心配からまったく免れており、生活を享受しているのである。」から、正解は明らかです。

 

 それにしても、かつての狩猟採取民は、羨ましい境遇に生きていたようです。自然との関係で様々な困難はあったでしょう。が、現代人のような、社会的・制度的な些末な膨大な心配には無縁で、自由であったことは確かなようです。 

 つい、現代生活のバカバカしさを感じてしまいます。
 貯蓄や、計画的生活などの虚しさを感じざるを得ないのです。

 特に、以下の【13】・【14】段落は、現代の文明人のプライドを吹き飛ばす痛快な内容になっています。

 かつて、「現代の1日8時間、週40時間労働は、人類史上稀に見る奴隷制度だ」という趣旨の歴史学の論考を読みましたが、そのことを思い出しました。

  

【13】段落「狩猟採集生活においては少ない労力で多くの物が手に入る。彼らは何らの経済的計画もせず、貯蔵もせず、すべてを一度に使い切る大変な浪費家である。だが、それは浪費することが許される経済的条件のなかに生きているからだ。」

【14】段落「したがって、狩猟採集民の社会は、一般に考えられているのとは反対に物があふれる豊かな社会である。彼らが食料調達のために働くのは、だいたい一日三時間から四時間だという。サーリンズは、農耕民に囲まれていたけれども農業の採用を拒否してきた、ある狩猟採集民のことを紹介している。なぜ彼らは農業の採用を拒んできたのか? 

そうなればもっとひどく働かねばならない』からだそうである。」

 

 なお、「石器時代の豊かさ」に関する【8】~【16】段落は衝撃的な、興味深い内容で、熟読・精読しないと、正確な理解は困難です。従って、入試頻出箇所になっているのです。

  

(解答) エ

 

問3 (空欄補充問題・「小見出し」選択問題)

 ポイントになる段落は、【20】・【21】段落です。以下に再掲します。

【20】段落 「消費社会において、私たちはある意味で我慢させられている。浪費して満足したくても、そのような回路を閉じられている。しかも消費と浪費の区別などなかなか思いつかない。浪費するつもりが、いつのまにか消費のサイクルのなかに閉じ込められてしまう。」

【21】段落 「この観点は極めて重要である。なぜならそれは、質素さの提唱とは違う仕方での消費社会批判を可能にするからである。」

 

(解答) エ

 

問4 (空欄補充問題)

 このような空欄が大量にある問題の場合には、すぐに答えようとはしないで、落ち着いて、まず、ヒント・ポイントになる文章を探すことが大切です。

 

 以下に、本文の注目するべき部分を赤字化して、再掲します。

【19】段落 「そして消費社会は、そのわずかな物を記号に仕立て上げ、消費者が〔 ① 〕し続けるように仕向ける。消費社会は私たちを〔 ② 〕ではなくて〔 ③ 〕へと駆り立てる。消費社会としては〔 ④ 〕されては困るのだ。なぜなら〔 ⑤ 〕は満足をもたらしてしまうからだ。消費社会は、私たちが浪費家ではなくて消費者になって、絶えざる観念の〔 ⑥→直前を読めば、ここには「消費」が入ることが容易に分かります。正解が明白な空欄から埋めていくべきです 〕のゲームを続けることをもとめるのである。消費社会とは、人々が浪費するのを妨げる社会である。」

【20】段落 「消費社会において、私たちはある意味で我慢させられている。浪費して満足したくても、そのような回路を閉じられている。しかも消費と浪費の区別などなかなか重いつかない。浪費するつもりが、いつのまにか消費のサイクルのなかに閉じ込められてしまう。」

 

(解答) ①・③・⑥

 

問5 (傍線部説明問題)

 【19】・【20】段落におけるポイントの部分を赤字化 して、以下に呈示します。

【19】段落 「そして消費社会は、そのわずかな物を記号に仕立て上げ、消費者が〔①=消費〕し続けるように仕向ける。消費社会は私たちを〔②=浪費〕ではなくて〔③=消費〕へと駆り立てる。消費社会としては〔④=浪費〕されては困るのだ。なぜなら〔⑤=浪費〕は満足をもたらしてしまうからだ。消費社会は、私たちが浪費家ではなくて消費者になって、絶えざる観念の〔⑥=消費〕のゲームを続けることをもとめるのである。消費社会とは、人々が浪費するのを妨げる社会である。」

【20】段落 「消費社会において、4  私たちはある意味で我慢させられている。 浪費して満足したくても、そのような回路を閉じられている。しかも消費と浪費の区別などなかなか重いつかない。浪費するつもりが、いつのまにか消費のサイクルのなかに閉じ込められてしまう。 」

 

 つまり、「私たちはある意味で我慢させられている」理由としては、「消費社会そのものの構造」、言い換えれば、「企業と広告業界等の策略(企業戦略)の存在」を指摘できればよいのです。

(解答) イ

 

問6 (傍線部説明問題)

 傍線部直前の「そうした『思想』」は、

直前段落 (【22】段落)の 「しばしば、消費社会に対する批判は、つつましい質素な生活の推奨を伴う。『消費社会は物を浪費する』『人々は消費社会がもたらす贅沢になれてしまっている』人々はガマンして質素に暮らさねばならない』」

をさしています。

 

 【22】・【23】段落は、切れ味のよい内容になっています。これからも、この部分がポイントになる設問が多く出題されることが予想されます。熟読・精読するべき段落です。

(解答) エ


問7 (傍線部説明問題)

 直前の「消費社会を批判するためのスローガンを考えるとすれば」に、注目する必要があります

 「浪費」と「消費」の区別を意識してください。本文のポイントになっています。

 問4と同趣旨の問題です。

(解答) イ


問8 (趣旨合致問題) 

 趣旨合致問題は、本文よりも設問から先に見ることにより、効率的に処理することが可能になります。


 「浪費」・「消費」の区別を意識してください。本文のポイントになっています。

  問4と同趣旨の問題です。

(解答) ウ

 

ーーーーーーーー

(出典)國分功一郎『暇と退屈の倫理学』「第4章 暇と退屈の疎外論ーー贅沢とは何か?」  の一節

 

(3) 『暇と退屈の倫理学』の構成

 『暇と退屈の倫理学』の「序章」の最後に,本書の構成について,著者・國分功一郎氏が簡潔にまとめているので、それを引用します。

 「最初の第一章では,暇と退屈というこの本の主題の出発点となる考えを練り上げる。暇と退屈がいかなる問題を構成しているのかが明らかにされるだろう。

 第二章から第四章までは主に歴史的な見地から暇と退屈の問題を扱っている。
 第二章はある人類学的な仮説をもとに有史以前について論じる。問題となるのは退屈の起源である。
 第三章は歴史上の暇と退屈を,主に経済史的な観点から検討し,暇が有していた逆説的な地位に注目しながら,暇だけでなく余暇にまで考察を広める。
 第四章では消費社会の問題を取り上げ,現代の暇と退屈を論じる。

 第五章から第七章では哲学的に暇と退屈の問題を扱う。
 第五章ではハイデッガーの退屈論を紹介する。
 第六章ではハイデッガーの退屈論を批判的に考察するためのヒントを生物学のなかに探っていく。
 第七章ではそこまでに得られた知見をもとに,実際に<暇と退屈の倫理学>を構想する。」

 

(当ブログによる解説)

 第四章以下では「消費と労働」、「疎外」について考察しています。
 つまり、現代人は、ある程度の「豊かさ」と「暇」を入手したが、その「暇な時間」に何をしたいのか、よく分からない人が多い。人類は他の動物と異なり、環世界を変幻自在に飛び回ることができる自由な存在であるために、退屈を嫌う。その点に企業・広告業界等が注目し、人々が余暇に行うであろう欲望の対象を用意し、広告宣伝等により誘導する。つまり、私たちの需要・欲求は、あらかじめ企業等の供給側によって支配されているという構造があるのです。
 これに対して、國分氏は、受動的で際限のない、虚しい「消費」を批判し、「真の豊かさ」としての「浪費」の意義を強調しています。
 そして、真の豊かな「浪費」を享受するために、浪費を味わえるようにする一定の訓練と、動物的「とりさらわれ」(→「熱中。集中」という意味)の重要性を主張するのです。

 

(4)國分功一郎氏の紹介・著書・訳書 

國分功一郎(こくぶん・こういちろう)
1974年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。高崎経済大学経済学部准教授。専攻は哲学。

 

【著書】

『スピノザの方法』(みすず書房)、
『暇と退屈の倫理学』(朝日出版社。のち増補新版、太田出版。第2回紀伊國屋じんぶん大賞受賞作)。
『哲学の自然』(中沢新一との共著、太田出版)、
『ドゥルーズの哲学原理』(岩波書店)、
『来るべき民主主義──小平市都道328号線と近代政治哲学の諸問題』(幻冬舎新書)、
『社会の抜け道』(古市憲寿との共著、小学館)、
『哲学の先生と人生の話をしよう』(朝日新聞出版)、
『統治新論──民主主義のマネジメント』(大竹弘二との共著、太田出版)、
『近代政治哲学――自然・主権・行政』(筑摩書房・ちくま新書)、
『民主主義を直感するために』(晶文社)、
『中動態の世界――意志と責任の考古学』(医学書院。第16回小林秀雄賞受賞作)など。


【訳書】

デリダ『マルクスと息子たち』(岩波書店)、
コールブルック『ジル・ドゥルーズ』(青土社)、
ドゥルーズ『カントの批判哲学』(ちくま学芸文庫)、
オンフレ『ニーチェ』(ちくま学芸文庫)など。

 

【共訳】

デリダ『そのたびごとにただ一つ、世界の終焉』(岩波書店)、
フーコー『フーコー・コレクション4』(ちくま学芸文庫)、
ガタリ『アンチ・オイディプス草稿』(みすず書房)などがある。

 

 (5)当ブログにおける哲学関連記事の紹介

 

 入試国語(現代文)・小論文においては、哲学の一定レベルの理解が不可欠です。積極的に取り組むようにしてください。

 

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(6)当ブログにおける「消費社会」関連記事の紹介

 

 消費社会の論点は、入試国語(現代文)・小論文の最重要論点です。ぜひ、参照してください。

 

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ーーーーーーーー

 

今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

ご期待ください。

 

   

 

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暇と退屈の倫理学 増補新版 (homo Viator)

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暇と退屈の倫理学

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中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

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5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

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 私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。

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坂口安吾『茶番に寄せて』/2017早大政経現代文(国語)解説

1)なぜ、この記事を書くのか?

 

 坂口安吾は入試国語(現代文)・小論文における頻出著者です。最近では、以下のような大学で出題されています。

「散る日本」ー佐賀大学、南山大学
「FARCEに就いて」ー上智大学、神戸女学院大学
「文学のふるさと」ー明治大学、早稲田大学文化構想、
「意慾的創作文章の形式と方法」ー京都大学
「美について」ー大阪大学(小論文)
「娯楽奉仕の心構え」ー島根大学
「傲慢な眼」ー大阪府立大学

 

 今回、解説する2017 早稲田大学政経学部に出題された 『茶番に寄せて 』は、2010 早稲田大学早大(国際教養学部)にも同一の文章が箇所が出題されている頻出出典です。

 

 なお、今回の記事の項目は、以下の通りです。

(2)2017早稲田大学・政経学部ー現代文(国語)解説/『茶番に寄せて』坂口安吾

(3)「FARCEに就て」の解説

(4)坂口安吾氏の紹介

(5)「無頼派」について

 

茶番に寄せて

 

 (2)2017早稲田大学・政経学部ー現代文(国語)解説/『茶番に寄せて』坂口安吾

 

【1】日本には傑(すぐ)れた道化芝居が殆(ほと)んど公演されたためしがない。文学の方でも、井伏鱒二という特異な名作家が存在はするが、一般に、批評家も作家も、編輯者も読者も厳粛で、笑うことを好まぬという風がある。

【2】僕はさきごろ『文体』編輯の北原武夫から、思いきった戯作を書いてみないかという提案を受けた。かねて僕は戯作を愛し、落語であれ漫才であれ、インチキ・レビュウの脚本であれ、頼まれれば、白昼も芸術として堂々通用のできるものを書いてみせると大言壮語していたことがあるものだから、紙面をさいてくれる気持になったのである。北原の意は有難いが、読者がそこまでついてきてくれるかどうかは疑わしい。けれども僕は、そのうち、思いきった戯作を書いて、読者に見参するつもりである。

【3】〔  ①  〕

 

【4】然(しか)し、諷刺は、笑いの豪華さに比べれば、極めて貧困なものである。諷刺する人の優越がある限り、諷刺の足場はいつも危く、その正体は貧困だ。諷刺は、諷刺される物と対等以上であり得ないが、それが〔  ②  〕という正当ならぬ方法を用い、すでに自ら不当に高く構えこんでいる点で、物言わぬ諷刺の対象がいつも勝を占めている。

【5】諷刺にも優越のない場合がある。諷刺者自身が同時に諷刺される者の側へ参加している場合がそうで、また、諷刺が虚無へ渡る橋にすぎない場合がそうだ。これらの場合は、諷刺の正体がすでに a 合理に属しているから、もはや諷刺と言えないだろう。諷刺は本来笑いの合理性を掟とし、そこを踏み外してはならないのである。即ち諷刺は対象への否定から出発する。これは道化の邪道である。むしろ贋物(にせもの)なのである。

【6】正しい道化は人間の存在自体が孕(はら)んでいる不合理や矛盾の肯定からはじまる。警視総監が泥棒であっても、それを否定し揶揄(やゆ)するのではなく、そのような不合理自体を、合理化しきれないゆえに、肯定し、丸呑みにし、笑いという豪華な魔術によって、有耶無耶(うやむや)のうちにそっくり昇天させようというのである。b 合理の世界が散々もてあました不合理を、もはや精根つきはてたので、突然不合理のまま丸呑みにして、笑いとばして了(しま)おうというわけである。

【7】だから道化の本来は〔  ③  〕だ。そこまでは合理の法でどうにか捌(さば)きがついてきた。ここから先は、もう、どうにもならぬ。ーーという、ようやっと持ちこたえてきた合理精神の歯をくいしばった渋面が、笑いの国では、突然赤褌ひとつになって裸踊りをしているようなものである。それゆえ、笑いの高さ深さとは、笑いの直前まで、合理精神が不合理を合理化しようとしてどこまで努力してきたか、そうして、とうとう、どの点で兜(かぶと)を脱いで投げ出してしまったかという程度による。

【8】だから道化は戦い敗れた合理精神が、完全に 合理を肯定したときである。即ち、合理精神の悪戦苦闘を経験したことのない超人と、合理精神の悪戦苦闘に疲れ乍(なが)らも決して休息を欲しない超人だけが、道化の笑いに鼻もひっかけずに済まされるのだ。道化はいつもその一歩手前のところまでは笑っていない。そこまでは 合理の国で悪戦苦闘していたのである。突然ほうりだしたのだ。むしゃくしゃして、原料のまま、不合理を突きだしたのである。

【9】道化は昨日は笑っていない。そうして、明日は笑っていない。一秒さきも一秒あとも、もう笑っていないが、道化芝居のあいだだけは、笑いのほかには何物もない。涙もないし、揶揄もないし、凄味(すごみ)などというものもない。裏に物を企んでいる大それた魂胆は微塵(みじん)もないのだ。ひそかに裏を諷しているしみったれた精神もない。だから道化は純粋な休みの時間だ。昨日まで営々と貯め込んだ百万円を、突然バラまいてしまう時である。惜(おし)げもなく底をはたく時である。

【10】道化は浪費であるけれども、一秒さきまで営々と貯めこんできた努力のあとであることを忘れてはならない。甚だしく勤勉な貯金家が、エイとばかり矢庭(やにわ)に金庫を蹴とばして、札束をポケットというポケットへねじこみ、さて、血走った眼付をして街へ飛びだしたかと思うと、疾風のようにみんな使って、元も子もなくしてしまったのである。

【11】道化の国では、ビールよし、シャンパンよし、おしるこもよし、巴里の女でもアルジェリアの女でもなんでもいい。使い果してしまうまでは選り好みなしにO・Kだ。否定の精神がないのである。すべてがそっくり肯定されているばかり。泥棒も悪くないし、聖人も善くはない。学者は学問を知らず、裏長屋の熊さんも学者と同じ程度には物識りだ。即ち泥棒も牧師くらい善人なら、牧師も泥棒くらい悪人なのである。善玉悪玉の批判はない。人性の矛盾撞着(どうちゃく)がそっくりそのまま肯定されているばかり。どこまで行っても、ただ肯定があるばかり。

【12】道化の作者は誰に贔負(ひいき)も同情もしない。また誰を憎むということもない。ただ肯定する以外には何等の感傷もない木像なのである。憐れな孤児にも同情しないし、無実の罪人もいたわらない。ふられる奴にも助太刀しないし、貧乏な奴に一文もやらない。そうかと思うと、ふられた奴が恋仇の結婚式で祝辞をのべ、死んだ奴が花束の下から首を起こして突然棺桶をねぎりだす。別段死者や恋仇をいたわる精神があるわけじゃない。万事万端ただ森羅万象の肯定以外に何物もない。どのような不合理も矛盾もただ肯定の一手である。解決もなく、解釈もない。解決や解釈で間に合うなら、笑いの国のお世話にはならなかった筈なのである。

【13】フランスに『フィガロ』という『都新聞』のような新聞がある。「セビリアの理髪師」や「フィガロの結婚」のフィガロから来た名称らしく、なぜ私が笑うかって言うのですかい。笑わないと泣いちゃうからさ、というフィガロの科白(せりふ)が題字のところに刷りこんである。(多分そうだったと思いますよ)「セビリアの理髪師」や「フィガロの結婚」は却々(なかなか)の名作だが、4  ここに引用したような笑いの精神は、僕のとらないところである。世之助の武者振りや源内先生の戯作には、そういうケチな魂胆がない。

【14】一言にして僕の笑いの精神を表わすようなものを探せば、「浜松の音は、ざざんざあ」という太郎冠者がくすねた酒に酔っぱらい、おきまりに唄いだすはやしの文句でも引くことにしようか。「橋の下の菖蒲(しょうぶ)は誰が植えたしょうぶぞ。ぼろおんぼろおん」という山伏のおきまりの祈りの文句にでもしようか。それ自体が不合理だ。人を納得させもしないし、偉くもしない。ただゲタゲタと笑うがいいのだ。一秒さきと一秒あとに笑わなければいいのである。そのときは、笑ったことも忘れるがいい。そんなにいつまで笑いつづけていられるものじゃないことは分りきっているのである。

【15】道化文学は、作者にとっては、趣向がすべてであり、結果としては読者から、笑ってもらうことがすべてなのである。

(坂口安吾「茶番に寄せて」)


ーーーーーーーー

 

(設問)(基礎的な語句問題等は省略しました) 

問1 傍線部 a ~ d の合理の中に、本来は不合理と入るべきで、このままでは意味の通らない箇所が二箇所ある。次の中から二つ選べ。

イ  a   ロ  b   ハ  c   ニ  d

 

問2 空欄①には、次の五つの文から構成される一段落が入る。五つの文を正しく並べ替えたとき、三番目に来る文はどれか。

イ  そうして、喜劇には諷刺がなければならないという考えをもつ。

ロ  ところが何事も合理化せずにいられぬ人々が存在して、笑いも亦合理的でなければならぬと考える。

ニ  無意味なものにゲラゲラ笑って愉しむことができないのである。

ハ  笑いは不合理を母胎にする。

ホ  笑いの豪華さも、その不合理とか無意味のうちにあるのであろう。

 

問3 空欄②に入る語句として最適なものを次の中から一つ選べ。

イ 諷刺  ロ 魔術  ハ 道化  ニ 揶揄  ホ 批判


問4 空欄③に入る語句として最適なものを次の中から一つ選べ。

イ 肯定と否定の相剋(そうこく)

ロ 合理精神の休息

ハ 人間存在の逆説

ニ 社会諷刺の隠れ蓑(みの)

ホ 予期せぬ笑いの魔術

 

問5 傍線部4に「ここに引用したような笑いの精神は、僕のとらないところである」とあるが、それはなぜか。その説明として最適なものを次の中から一つ選べ。

イ  笑いと涙は表裏一体のものであり、本来の笑いの精神からいえば、笑いのうちに涙を含んでいるものだから。

ロ  笑いは人類に普遍的な行為であり、フィガロの言葉だけではとても本来の笑いの精神をとらえることができないから。

ハ  笑いも涙も突発的なもので、なぜ突然泣いたりの笑ったリすることのか本人にも理由がわからないのが本来の笑いの精神だから。

ニ  笑いのなかにしか人生の真実はなく、本来の笑いの精神からいえば涙など一滴も入り込む余地は考えられないから。

ホ  笑いはただおかしいから笑うばかりで、その理由を解釈すること自体が本来の笑いの精神からはずれているから。


問6 問題文の内容と合致するものとして最適なものを次の中から一つ選べ。

イ  笑いは不合理の産物だが、その笑いが傑れた道化芝居になるためには合理的な解釈と気のきいた諷刺が必要で、日本には「セビリアの理髪師」や「フィガロの結婚」のような諷刺劇の伝統がないために、傑れた道化芝居が上演されることが少ない。

ロ  道化というのは、人生の戦いに敗れた合理精神が何もかも投げ出してしまう瞬間に生れる一瞬の哄笑こそが命で、その瞬間が到達するまでは一切の笑いを禁じられ、修行僧のような難行苦行に悪戦苦闘する不合理な経験を強いられている。

ハ  諷刺が笑いに比べて貧困なのは、本来対象とは対等でまたあるに敗れるかかわらず、自らを高く構えて対象に優越しようとするからで、この世のあらゆるものを肯定し、不合理を不合理としてまるごと享受する笑いの豪華さにはとても及ばない。

ニ  笑いに、否定の精神がないというのは、すべてをそのまま受け入れるということを意味しているが、そのことを通して憐れな孤児や無実の罪人の存在を世に知らしめ、感傷的にならずに社会的弱者を救済し手をさしのべる契機をもたらしている。

ホ  道化の国では、あらゆるものの価値が転倒し善悪正邪が入れ代わることで笑いが発生するが、それは道化芝居のなかだけに起こる出来事であって、現実にはありえないからこそ純粋に笑ってその不合理な行為を肯定することができるのである。

 

ーーーーーーーー

 

(解説・解答)

 まず、「茶番(ちゃばん)」の意味を確認します。
 「茶番」とは、「①滑稽(こっけい)な即興寸劇。②底の見えすいた下手な芝居。ばかげた振る舞い」という意味です。

 

 次に、この論考のキーセンテンスの解説をします。

「正しい道化は人間の存在自体が孕(はら)んでいる不合理や矛盾の肯定からはじまる」(【6】第1文)
 この一文は、この論考のキーセンテンスです。この一文は、素晴らしい思想を含んでいるようです。単純に表現するすれば、全肯定的ヒューマニズム、笑劇的ヒューマニズム、日本人には珍しいラテン風楽天主義、笑い飛ばせ主義となります。
 現代日本の閉塞的状況においてこそ、坂口安吾氏の論考は、先鋭的な近代批判、現代文明批判として、さらに、再評価されるべきです。

 鬱々していても仕方がない。   

 日々、顔を歪めて生きていても、何の解決にはならないのです。

 どのようにしても、解決策がないのであれば、悩みは笑い飛ばしてしまえば、よいのです。悩みは時間が解決してくれるでしょう。時間が解決してくれない悩みは、ありません。例えば、あなたが消えてしまえば、悩みも消えてなくなります。人生は有限で、悩みも有限です。無限と思い込むから、顔を歪めてしまうのです。ここは、ラテン的楽天主義、全肯定的ヒューマニズム、笑劇的ヒューマニズムで生きて、人生を楽しむべきでしょう。


問1(誤記指摘問題→「キーワード」の誤記を指摘する問題)

→このような問題が頻出なので、設問文を本文より先に読むべきなのです。今回は、本文を熟読・精読する前に、この設問を読まないと、大混乱→空中分解→終わり、という流れになります。

 しかも、今回は「合理」・「不合理」というキーワードが問題となっているので、設問を先に読まないことのハンデは、極大になります。


 この設問の解法としては、特に、【6】段落第1文の「正しい道化は人間の存在自体が孕(はら)んでいる不合理や矛盾の肯定からはじまる」がキーセンテンスになっていることに注意してください。

 その上で、「合理」と「不合理」の対比を意識して、a~dそれぞれの正当性を確認してください。

(解答)  イ・ハ

 

問2(文章並べ替え問題)

【文章並べ替え問題について】

 最近は、早稲田大学、マーチレベル大学、関関同立などの難関大学で、「文章並べ替え問題」が流行になっています。国語(現代文)だけではなく、小論文でも出題されることもあります。
 今まで出題歴のない大学や学部で、突然、出題されることも、よくあります。
 従って、しっかりと対策をしておくべきです。

 この問題が出来ないと、全体の文脈の把握が困難になります。配点以上のダメージを受けることになります、

 しかも、本番では、本文全体のキーの部分が、文章並べ替え問題として使われることが多いので、「文章並べ替え問題」を得意分野にしておくべきです。

 「文章並べ替え問題」が不得意な受験生は、「文章並べ替え問題」のみを、集中的にやるようにしてください。

 短期間に「文章並べ替え問題」を集中的にやることで、解法のポイント・コツを会得することが、可能になるのです。

 しかも、その際には、志望校レベルの過去問のみを、やるようにした方が賢明です。

 良質な問題を演習しなければ、実力はつきません。


 「文章並べ替え問題」は、論理力や推理力のアップに有用です。

 しかも、先程述べましたように、志望大学で今まで「文章並べ替え問題」が出題されていないとしても、いつ出題されるか分からないので、油断なく準備しておくべきでしょう。


【「文章並べ替え問題」の解法・ポイント】

① 第一に、「並べ替えるべき文章」(選択肢の文章)の全体、空欄の直前・直後の文脈にざっと目を通して、大まかな内容(文脈)を把握する。

② その後は、まずは、「並べ替えるべき文章」(選択肢の文章)に集中する。 

 初めに、「並べ替えるべき文章」(選択肢の文章)の各文の中心テーマを把握。その際に、各文の接続語、指示語、文末等をチェックする。

③ その上で、文章のペアを作っていく。  その際には、わかるものからペアを作っていく。

 つまり、どれが「全体の最初の文章」として適切か、については、あまり気にしないようにする。

 →全部の順序を一度に確定しようとはしないことです。せっかちは禁物です。イライラしないように! 冷静第一です。地道第一です。

 最初は、「ペアを作ること」に専念するべきです。

④ ペアを2~3組程度作った後で、「どのペアが最初に来るか、最後に来るか」、を考える。

 その際には、「空欄(並べ替え問題の空欄)の直前・直後」と「並べ替えた文」との接続関係を精密にチェックする。

 

 

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 今回の設問の解法としては、「笑い」と「諷刺」の対比に注目する必要があります。

 そして、直前段落と直後段落の接続に着目して、最初と最後を、まず決めてから並べていくと、効率的に解くことができます。
 ハ→ホ→ロ→ニ→イの順になります。

(解答)  ロ

 

問3(空欄補充問題) 

【空欄補充問題のポイント】

 「空欄補充問題」は、空欄の直前・直後にヒントがあることが非常に多いのです。

 空欄補充問題を解く際には、本文の精読・熟読に基づく精密な分析が不可欠です。

 要約を離れ、本文に集中しながら(本文をじっと見ながら)、考察するようにしてください。段落の要約をメモしながらする作戦は、取らない方が賢明です。

 

 


 今回の問題については、直後の「正当ならぬ方法を用い、すでに自ら不当に高く構えこんでいる点」に着目してください。

(解答)  ニ

 

問4(空欄補充問題)

 「道化」の「本来」的性格を、直後の段落から読み取ってください。
 具体的には、
【8】段落「合理精神の悪戦苦闘に疲れ乍(なが)らも決して休息を欲しない超人だけが、道化の笑いに鼻もひっかけずに済まされるのだ」、
【9】段落「道化は純粋な休みの時間だ」、
がポイントになります。

(解答)  ロ

 

問5(傍線部説明問題・理由説明問題)

 傍線部の「ここに引用したような笑いの精神」は、直前の「なぜ私が笑うかって言うのですかい。笑わないと泣いちゃうからさ」を、さしています。
 このような「笑いの精神」は、
【12】段落「道化の作者は誰に贔負(ひいき)も同情もしない。また誰を憎むということもない。ただ肯定する以外には何等の感傷もない木像なのである」、
「どのような不合理も矛盾もただ肯定の一手である。解決もなく、解釈もない。解決や解釈で間に合うなら、笑いの国のお世話にはならなかった筈なのである」、
に反しています。

(解答)  ホ


問6(趣旨合致問題)

【趣旨合致問題のポイント】
 問題文本文を読む前に、設問を見ることが大切です。
 設問のポイントのみ、チェックできれば、それでよいのです。
 割り切ることが必要です。

 

 本問の解法としては、「諷刺」と違い、「道化」の「笑い」が「全存在を、そのままで肯定するもの」という筆者がポイントになります。

イ  「その笑いが傑れた道化芝居になるためには合理的な解釈と気のきいた諷刺が必要」の部分が、「諷刺」をプラス評価している点で、【4】段落の趣旨に反しているので、誤りです。

ロ  「修行僧のような難行苦行に悪戦苦闘する不合理な経験を強いられている」の部分は、本文に、このような記述がないので、誤りです。

ハ 【4】・【12】段落の趣旨に合致しています。

ニ  「社会的弱者を救済し手をさしのべる契機をもたらしている」の部分は、本文に、このような記述がないので、誤りです。

ホ  「現実にはありえないからこそ純粋に笑ってその不合理な行為を肯定することができるのである」の部分は、本文に、このような記述がないので、誤りです。

(解答)  ハ

 

 

 (3)「FARCEに就て」の解説

 

 坂口安吾は「FARCEに就て」 (→この論考も入試頻出出典です) においても「茶番に寄せて」と同趣旨のことを述べているので、以下に引用します。

「ファルス  (→「FARCE」とは「笑劇。道化芝居」という意味)とは、人間のすべてを、全的に、一つ残さず肯定しようとするものである。およそ人間の現実に関する限りは、空想であれ、夢であれ、死であれ、怒りであれ、矛盾であれ、トンチンカンであれ、ムニャムニャであれ、何から何まで肯定しようとするものである。ファルスとは、否定をも肯定し、肯定をも肯定し、さらにまた肯定し、結局人間に関する限りのすべてを永遠に永劫に永久に肯定肯定肯定して止むまいとするものである。諦めを肯定し、溜息を肯定し、何言ってやんでいを肯定し、と言ったようなもんだよを肯定し──つまり、全的に人間存在を肯定しようとすることは、結局、途方もない混沌を、途方もない矛盾の玉を、グイとばかりに呑みほすことになるのだが、しかし決して矛盾を解決することにはならない、人間ありのままの混沌を永遠に肯定しつづけて止まないところの根気のほどを、呆れ果てたる根気のほどを、白熱し、一人熱狂して持ちつづけるだけのことである。哀れ、その姿は、ラ・マンチャのドン・キホーテ先生のごとく、頭から足の先までRidicule(→「あざけり,嘲笑」という意味)に終ってしまうとは言うものの、それはファルスの罪ではなく人間様の罪であろう、と、ファルスは決して責任を持たない。」

 

 以上のうちで、注目するべき論考は、以下の部分です。

「人間のすべてを、全的に、トンチンカンであれ、ムニャムニャであれ、何から何まで肯定しようとするものである

人間ありのままの混沌を永遠に肯定しつづけて止まないところの根気のほどを、呆れ果てたる根気のほどを、白熱し、一人熱狂して持ちつづけるだけのことである

 

 安吾の論理は一見暴論ですが、一種の「悟りへの道」を拓くものにも見えます。 

 その過激性は、究極の過激を意識しつつ、露悪的であることを装いながら、品格を保ち、迷いのある人々を労るものですあると、私には思われるのです。

 破天荒な言葉・論理の渦巻きに巻き込まれる感じはしますが、逆に鼓舞され、勇気付けられるような、奇妙な「ぬくみ」が、そこには存在するのです。表面的な陳腐な、いかにも大衆受けするような優しい言葉を超えた、人間味のある温かさを感じてしまうのです。繰り返される全的な肯定が、その理由でしょう。

 安吾は、戯作者・エンターティナーであり、また、人間性を信頼する哲学者である、と私は感じます。理性中心主義が、人間の行動を抑制し過ぎているのではないか、と分かりやすいほどの過激な表現で訴えているのです。

 人間が矛盾的存在であることを認めながら、矛盾(=「人間ありのままの混沌」)こそが人間の精神の真実である、と述べているのです。

 これこそ、天衣無縫的な稚気による、日本独特の理性の破壊、純文学的理性の破壊でしょう。

 この稚気は、頭の固くなった現代の日本人には、理解不能なレベルに突き抜けているようです。言ってみれば、ラテン風とも言えるような、かつ、仏教的悟りの境地なのかもしれません。
 小林一茶のような、坂口安吾の無条件な全肯定主義は、閉塞感が社会全体を覆っている、現代日本には、かなり有用な妙薬ではないでしょうか。

 苦味のある濃厚な含む笑いが、その当時の現状の打破には必要と考えていたのかもしれません。

 坂口安吾は、理性への懐疑、知性への懐疑を前提として、笑いつつ、毒を味わいつつ、悟りに到達しようとする道のあることを確信しているのでしょう。

 つまり、安吾は、人々に各自の生命力自体の活力を、再認識させようとしているのかもしれません。現代の理性重視、知性重視という近代原理が、いかに人々の発想や行動を拘束し、生命力を低下させているかを考えさせようとしているのでしょう。 

 理性批判、知性批判は、感性の復活、心身二元論批判に通じるものがあります。それゆえに、坂口安吾の論考は、入試頻出出典になっているのです。

 

 坂口安吾は笑いの共感を得やすいように、分かりやすく、過激性の効果を承知して語っているのでしょう。その主張の根源には真の自由の追求があると思われます。

 

 

(4)坂口安吾氏の紹介 

坂口 安吾(さかぐち あんご、1906年(明治39年)10月20日 ~ 1955年(昭和30年)2月17日)は、日本の小説家、評論家、随筆家。本名は坂口 炳五(さかぐち へいご)。

 戦前・戦後にかけての近代日本文学の代表的作家の一人。新潟県出身。東洋大学印度哲学倫理学科卒業。アテネ・フランセでフランス語習得。1926(大正15)年、求道を目指し、東洋大学印度哲学科に入学したが、悟りを得ることはなかった。 

 1930(昭和5)年、友人らと創刊した同人雑誌『言葉』に発表した「風博士」を牧野信一に絶賛されたことにより、作家活動を開始する。1946(昭和21)年、戦後の本質を鋭く洞察した『堕落論』、『白痴』の発表により、一躍人気作家として脚光を浴びる。

 純文学のみならず、歴史小説、推理小説、探偵小説も執筆し、文芸論や時代風俗から古代歴史まで広範囲に及ぶ随筆・エッセイなど、多彩な執筆活動をした。

 小説の代表作は「紫大納言」「真珠」「白痴」「桜の森の満開の下」「夜長姫と耳男」など

 エッセイの代表作は「FARCEに就て」「文学のふるさと」「日本文化私観」「堕落論」「教祖の文学」など。

 

 

 (5)「無頼派」について

 無頼派(ぶらいは)は、第二次世界大戦後、既存の文学への批判的姿勢を鮮明にした日本の作家達に冠された名称です。「新戯作派(しんげさくは)」と同義ですが、現在はこの呼称の方が有名です。
 無頼派と同義の「新戯作派」という言葉は、坂口安吾の戯作に関する論考が、きっかけになっています。『戯作者文学論』、『大阪の反逆 ー織田作之助の死 』などで、坂口は、文学における戯作性の再評価を主張しました。つまり、洒落・滑稽を重視した江戸時代後期の「戯作精神」を復活を唱えたのです。
 この「戯作精神の復活」の思想は、坂口の論考『FARCEに就て』、『お伽草紙』『如是我聞』『晩年』『グッド・バイ』の太宰治の諸作品における道化精神などに見られます。そこには、日本文学の私小説的リアリズムへの痛烈な批判的精神があります。
「無頼派作家」には、坂口安吾、太宰治、織田作之助、田中英光、檀一雄などが含まれます。

 

 ーーーーーーーー

 

今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後の予定です。

ご期待ください。

 

   

 

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茶番に寄せて

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堕落論・日本文化私観 他22篇 (岩波文庫)

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日本の名随筆 (60) 愚

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

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5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

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 私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。

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茂木健一郎『思考の補助線』/明大(政経)・山口大現代文解説

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 

 茂木健一郎氏は、トップレベルの入試頻出著者です。最近では、福井大学、金沢大学、山口大学、早稲田大学、明治大学、立命館大学、関西大学、青山学院大学、成蹊大学などの国語(現代文)・小論文で出題されています。
 国語(現代文)・小論文対策として、茂木健一郎氏の論考を読むことを、おすすめします。

 

 しかも、茂木氏の論考は、知的好奇心を心地よく刺激してくれる上に、人生に役立ちます。

 高校生、受験生は、最低1冊は、茂木健一郎氏の著書を読んでおくべきでしょう。

 そこで、今回の記事でも、『思考の補助線』の中の山口大学、明治大学政経学部に出題された箇所(「個性を支えるパラドックス」)(同一箇所→頻出箇所です)を解説することにしました。

 

  なお、今回の記事の項目は、以下の通りです。

 (2)茂木健一郎『思考の補助線』2017山口大学・2009明治大学(政経)現代文解説

 (3)茂木健一郎氏の紹介

 (4)当ブログにおける「個性」関連記事の紹介

 

思考の補助線 (ちくま新書)

 

 

(2)茂木健一郎『思考の補助線』2017山口大学・2009明治大学(政経)現代文解説

 次の文章を読んで、後の問に答えよ。

 

(問題文本文)

(【1】・【2】・【3】・・・・は当ブログで付記した段落番号です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です) 


【1】日本の論壇で、「個性」の行きすぎということが「戦後民主主義」とからめて批判的に議論されたときがあった。私は、そのような論者に基本的にうさんくさいものを感じて、同調するどころか、まともに取り合う気にすらならなかった。 

【2】民主主義が、否定されるべきものとして議論に出てくること自体、何を言いたいのかわからない。「戦後」という限定詞を付けたからといって、なぜそれが〔  A  〕なニュアンスになるのか? 

【3】1  「戦後民主主義」の中での「個性」や「権利」の行きすぎを論ずる論客に至っては、最低限の論理的整合性すらないように思われた。「個性」が輝いたり、「権利」が認められたほうが、よいに決まっている。「個性」や「権利」といった、人類が長い歴史の中で勝ちとってきた価値を否定的に議論している論客は、自分の論文が凡百の雑文と同等に扱われたり、財産が恣意的に没収されても、かまわないとでもいうのか。おそらくは、自分だけは例外というわけなのだろう。英訳でもしてみれば、論理構造の破綻にすぐ気づく。まさに、日本語で書かれ、日本語圏という特殊なマーケットで消費されることでしか成立しえない、ロクでもない議論であったように今でも思っている。 

【4】「個性」が社会全体の調和と相容れないというのはとりわけ粗雑な議論で、科学的に見ても間違っている。「個性」は、他者とのコミュニケーションがあってこそ、はじめて磨かれるものだからである。個性が輝いている人は、同時に他者との関係性を大切にし、社会にも貢献する人である可能性が高い。逆に、顔のない、没個性の人のほうが、よほど社会から孤立し、調和を乱す可能性が高い。社会の調和のためにも、一人ひとりが個性を磨くのがよいのである。

【5】そもそも、人格というものは他者との関係性なしでは成立しない。他者との濃密なやりとりの中に徐々に形成されていくのが私たちの人格である。河原の石ころが流されていく間に他の石とぶつかってしだいに形を変えていくように、私たち人間もまた、他者との行き交いの中に、しだいに人格をととのえていく。その中で、しだいに一人ひとりの個性が立ち上がってくる。モーツァルトが誕生し、小林秀雄が生まれてくる。 

【6】インターネットに象徴される情報化社会の高度化で、「個性」の価値はかつてなく高まっている。個性のない、均一社会の調和しか考えない人間だけが集まった国をつくっても、国際競争に勝てない時代がすでに到来している。「ビートルズ」という強烈な個性を持ったロック・バンドが登場したことによって、英国がどれだけの恩恵を得たか。マイクロソフトのビル・ゲイツや、アップル・コンピュータのスティーヴ・ジョブズのような個性的な創業者が出現していなかったら、アメリカの経済はどうなっていたか。戦後民主主義の中で個性が行きすぎたなどとする言説は、科学的な記述としてだけでなく、実体経済におけるパフォーマティヴの文脈の中でも間違っている。 

【7】個性は、他人とのやりとりの中で磨かれる。日本の中に、個性を磨くために必要なコミュニケーションが不足しているわけではあるまい。むしろ、濃厚すぎるくらいだろう。問題なのは、コミュニケーションの内実である。コミュニケーションにおける力学の働き方によっては、個性を大切にするアメリカのような国も、没個性をよしとする風潮が見られぬでもなかった一時期の日本のような国もできあがる。力学をどう設計するかが、コミュニケーションの作用を決するのである。 

【8】他者とのコミュニケーションには、お互いを同質化する契機があることも事実である。とりわけ、ティーンエージャーのときには、「ピア・プレッシャー」と呼ばれる、人と異なる見かけや振る舞いを排除しようとする傾向が顕著となる。中学の頃、ちょっと変わったことをやってからかわれたり、また、自分もからかう側に立った経験がある人も多いだろう。同化作用はコミュニケーションの中に程度の差こそあれ必ずある。それは大人になっても本質的に変わらないし、社会全体としても明確な傾向として存在し続ける。そのような同化のダイナミクスが〔  B  〕すればファシズムに通じることは歴史が証明しているところである。

【9】その一方で、コミュニケーションの効果として、個性を際立たせる効果もある。同化作用のことを考えると逆説的にも思われるが、他者との濃密な関係性を持つことが、個性を際立たせるために必要なダイナミックスを提供するのである。そのことは、作曲家としてのモーツァルトの個性が、当時のウィーンを中心とする濃密な音楽サークルがなければ成り立たなかったことを考えても明らかであろう。歴史上、文化の領域において〔  C  〕な個性の峰々が立つときには、その背後には必ずといっていいほど濃密な行き交いを内包するコミュニティがあった。

【10】コミュニケーションの持つそのような働きを「個性化作用」と呼ぶことにするとすれば、「同化作用」と「個性化作用」の分水嶺(ぶんすいれい)はどこにあるのだろうか。  3  日本人のコミュニケーションの現状が、不幸にして「個性化作用」よりも「同化作用」が勝るものであるとするならば、そのような形勢を逆転するための「賢者の石」はどこにあるのだろうか。

【11】脳は、その中にある1千億の神経細胞の間のシナプスと呼ばれる結合部位を変化させることによって、その振る舞いを変えていく。このような脳の「学習」には大きく分けて2種類ある。すなわち、正解が決まっていて、もし間違えば「教師」がそれを教えてくれる「教師あり」学習と、正解がないか、あるいは正解があったとしてもそれが何なのかを教えてくれる「教師」がいない「教師なし」学習である。

【12】「教師なし」学習のうち、重要なのは、ドーパミンをはじめとする脳内報酬物質のダイナミクスにもとづく「強化学習」である。ある行為をしたときに、結果として脳内報酬物質が放出されれば、そのことがトリガー(→本文の「注」→「引き金。きっかけ」)となり、その行為が強化される。その結果、脳内報酬物質の放出が最大化されていくのである。

【13】最終的に学習の方向性を決めるのは、あくまでも脳内報酬物質である。何をうれしいと感じるか、脳内の報酬の文化が、強化学習の方向性を決めるのである。

【14】どのような「人格」を形成するかというテーマにおける「正解」は一つではない。極端に不安定な人格を除いて、進化の淘汰圧の中でそれなりに生きのびることのできる人格にはさまざまな「解」がある。人格の形成は、脳内報酬系にもとづく強化学習の典型的な例であると考えられるのである。

【15】すでに多くの研究が示しているように、脳内報酬物質を放出させるきっかけになる外部からの刺激のうち、最も強力なものは、他人からの承認である。何かをやって、それが周囲に認められたり、ほめられたりしたときに、そのことが脳内のドーパミンをはじめとする報酬物質を放出させるのである。その結果、強化学習が成立することになる。極言すれば、脳は、「他人にほめられるように」変化していくのである。

【16】人格形成において、他人とのやりとりが重大な意味を持つことは経験に照らしても明らかであろう。コミュニケーションのダイナミクスが「同化作用」をもたらすか、それとも「個性化作用」をもたらすかの分水嶺は、お互いに他人を承認ないしは否認する価値の構造の中にある。

【17】社会の中のやりとりにおいて、他人と同じような振る舞いをしたり、最大公約数的な意見を表明した結果、周囲からポジティヴ〔 D 〕なフィードバック(→本文の「注」→「受け手から送り手へ戻ってくる反応・意見など」)を得ると、そのような「同化」のベクトルが強化されることになる。「同化」も「個性化」も、同じくコミュニケーションの現場において成立する。そもそもコミュニケーションがなければ、「同化」も「個性化」も起こりえない。

【18】冒頭に批判的に紹介した一時期の日本の論壇の風潮におけるように、「他人と同じこと」を是とし、そのような振る舞いをしたときにそれを肯定するというような報酬構造があると、社会は自然に均質化していく。一方、少し変わったことをしたほうが賞賛を得られるような状況が続くと、社会の中に個性が輝く人が増えていく。

【19】少年モーツァルトが、どのような「報酬構造」の中にいてあのような個性を輝かせたか、いうまでもないだろう。当時のウィーンの宮廷が、他人と似たような振る舞い、全体の調和を何よりも優先するというような報酬構造を持った場所であったら、天才モーツァルトができあがることもなかった。脳の働きから複雑な社会の動きを断ずるのは、乱暴なようだが、そうすることで見えてくる真実もある。現代の日本の場合、「お互いに人と違ったことをやったらほめ合おう」というくらい割り切った行動規範にしてはじめて、社会が変わるくらいのダイナミクスに結実するのではないか。

【20】ところで「個性」といっても、それは他者との絶対的な差異を意味するのではない。たとえば、文化的な領域において、個性的な作品が輝き、多くの人に賞賛されるのは、それを理解することができてこそである。モーツァルトの音楽は、当時の人々に難しいという評判だった。それでも、モーツアルトの音楽を同時代の人々が受容したのは、リズムやメロディ、構成など、当時の人々の間で共有されていた音楽の文法を身につけていたからである。

【21】ここに、コミュニケーションを通して人々が個性を磨く際のきわめて重要な問題が提起される。すなわち、人間の「個性」とは、他人とのやり取りを通して獲得される共通の基盤の上に構成されるものだということである。

【22】権利にも、いうまでもなく社会において共通の基盤がある。もともと、個人の権利が無限に認められるということはありえない。よく知られた「公共の福祉」による制約があるし、そもそも権利の保護や行使は個人では完結せず、司法制度を中核とする社会のインフラを必要とする。

【23】重要なのは、権利の制約を導く概念として持ち出される「公共の福祉」のような概念を大文字のそれとして不用意に立ててしまわないことだろう。「権利」も「個性」と同じように、人と人とのコミュニケーションにその起源を持つ。人々の権利意識もまた、脳の一般的な学習原理にもとづいて形成される。ある社会が「個性」や「権利」をどのように扱うかは、第一義的には、コミュニケーションの現場で人々が何を是とし、何を非とするかという価値観と、それを受けた脳内の報酬系のダイナミクス、そして強化学習によって決定される。

【24】他者との共通基盤があってこそ、「個性」は輝く。このパラドックスの中にこそ、コミュニケーションに支えられて今、ここにある私たち人間の本質を考えるための大切なヒントがある。(茂木健一郎『思考の補助線』による)

 

ーーーーーーーー


(設問)(基礎的な問題は省略しました)

問1  空欄A~Dに入る適語を次の中から選べ。(山口大学)

① エスカレート  ② パラドックス ③ ポジティヴ  ④ ユニーク ⑤ ネガティヴ


問2  傍線部1 「『戦後民主主義』の中での『個性』や『権利』の行きすぎを論ずる論客に至っては、最低限の論理的整合性すらないように思われた」とあるが、筆者は「個性」や「権利」というものを、社会において、どのように決定されると考えているか。その説明として最適なものを次の中から一つ選べ。(明治大学)

①  脳の一般的な学習原理として社会が求めているものを快不快として判断をした上で、さらにコミュニケーションや司法制度との関わりの中で決定されると考えている。

②  他人とのやりとりを通して獲得される共通の基盤の上に構成され、さらに公共の福祉の制約があるために、司法制度を中核とする社会のインフラの整備の中で決定されると考えている。

③  公共の福祉の制約があるために無限に認めらるわけではなく、社会の中で流通している共通事項を考え、さらに人々とのコミュニケーションをすることによって決定されると考えている。

④  他者との関係性や社会に貢献することによって構成されるが、しかしそれらは個人だけの問題ではなく、司法制度を中心とする制度の中でのインフラを通して決定されると考えている。

⑤  人と人とのコミュニケーションの現場で人々が正しいとし、また何を正しくないとするかという価値観や、さらにそれを受けた脳内の報酬系の力学、そして強化学習によって決定されると考えている。


問3  傍線部2「コミュニケーションの持つそのような働きを『個性化作用』と呼ぶことにするとすれば、『同化作用』と『個性化作用』の分水嶺(ぶんすいれい)はどこにあるのだろうか」とあるが、筆者はその分水嶺をどこにあると考えているか。それを端的に示す部分を本文中より24字で探し、その最初と最後の3字ずつを記せ。(句読点も字数に含む)→(明治大学)

 

問4  傍線部3「日本人のコミュニケーションの現状が、不幸にして『個性化作用』よりも『同化作用』が勝るものであるとするならば、そのような形勢を逆転するための『賢者の石』はどこにあるのだろうか。」とあるが、筆者はその賢者の石は、どのようにしたら得られると考えているか。それを本文中の言葉を用いて50字以内で記せ。(句読点も字数に含む)→(山口大学)・(明治大学)

問5  傍線部4「他者との共通基盤があってこそ、『個性』は輝く」の具体例として、本文ではどのような例が挙げられているか。その具体例の内容を、できるだけ本文の表現を用いて40字以内で説明せよ。(山口大学)

 

問6   本文の内容と最も合致するものを次の中から一つ選べ。(明治大学)

①  モーツァルトの音楽は当時難解であるという評判もあったが、しかし同時代の人々がそれを受け入れることができたのは、人々が基本的に共有している音楽の文法や調和や同化作用があったからである。

②   脳の学習には正解が決まっていて、間違えても教師がそれを教えてくれる教師あり学習と、正解があったとしてもそれが何なのかを教えない教師なしの学習があるが、後者の方が脳には良い。

③   戦後民主主義の中で、マイクロソフトのビル・ゲイツなどの個性的な創業者が実体経済に及ぼす影響を考えても、強烈な個性あるものだけが求められている。

④   コミュニケーションにはお互いを同質化する契機があり、人と異なった見かけや振る舞いを排除しようとする傾向もあるが、その一方でお互いの個性を際立たせる効果もある。

⑤   進化の淘汰圧の中で生きのびる人格にはさまざまな「解」があるが、一方でまた強力に一つのことにこだわる力を持った人格が多いのも事実である。


ーーーーーーーー

 

(解説・解答)

問1(空欄補充問題)

A  直前の一文の「民主主義が、否定されるべきものとして議論に出てくること」に注目してください。
B  「ファシズム」(全体主義→現在の日本の「嫌煙運動」や「オリンピック中心主義」)は、「同化のダイナミクス」が悪化・進展した状況です。
C  直後の「個性の峰々」に着目してください。
D  直後の「強化」がヒントになります。

(解答) A=⑤  B=①  C=④  D=③

 

問2(傍線部説明問題)

 効率的に問題を処理するために、本文を熟読・精読する前に、この設問を見ておくべきです。傍線部は、本文のポイントやキーセンテンスになっていることが多いのです。


【23】段落に説明があります。
「ある社会が『個性』や『権利』をどのように扱うかは、第一義的には、コミュニケーションの現場で人々が何を是とし、何を非とするかという価値観と、それを受けた脳内の報酬系のダイナミクス、そして強化学習によって決定される。」

(解答) ⑤

 

問3(傍線部説明問題・記述問題)

 効率的に問題を処理するために、本文を熟読・精読する前に、この設問を見ておくべきです。

 

 「分水嶺」とは、「雨水が異なる水系に分かれる場所」という意味です。ここから、「物事の方向性が決まる分かれ目」・「転機」・「ターニングポイント」の「たとえ」として使用されます。
この意味を確認した上で、

【16】段落の「コミュニケーションのダイナミクスが『同化作用』をもたらすか、それとも『個性化作用』をもたらすかの分水嶺は、お互いに他人を承認ないしは否認する価値の構造の中ある」の部分に注目してください。

(解答) お互い・造の中

 

問4(傍線部説明問題・記述問題)

 効率的に問題を処理するために、本文を熟読・精読する前に、この設問を見ておくべきです。

 

 傍線部の「そのような形勢を逆転するための」に着目してください。

【19】段落の「現代の日本の場合、『お互いに人と違ったことをやったらほめ合おう』というくらい割り切った行動規範にしてはじめて、社会が変わるくらいのダイナミクスに結実するのではないか」の部分を制限字数に注意して、まとめるとよいでしょう。

(解答)
今の日本人が「人と違ったことをやったらほめ合おう」というような割り切った行動規範を意識して持つ。(49字)

 

問5(傍線部説明問題・記述問題)

 効率的に問題を処理するために、本文を熟読・精読する前に、この設問を見ておくべきです。

 本文のポイント、筆者の主張、つまり、具体例と本質論を関連させて読解できているか、を問う問題です。

 

 解法としては、
【19】段落の「当時のウィーンの宮廷が、他人と似たような振る舞い、全体の調和を何よりも優先するというような報酬構造を持った場所であったら、天才モーツァルトができあがることもなかった。」、

【20】段落の「モーツァルトの音楽は、当時の人々に難しいという評判だった。それでもモーツァルトの音楽を同時代の人々が受容したのは、リズムやメロディ、構成など、当時の人々の間で共有されていた音楽の文法を身につけていたからである。」、

【21】段落の、「人間の『個性』とは、他人とのやり取りを通して獲得される共通の基盤の上に構成されるものだということである。」

という記述から、具体例としては、「天才モーツァルト」を挙げるべきでしょう。

(解答)
モーツァルトの作品が賞賛されたのは、彼が同時代の音楽の文法を共有したからだ。(40字)

 

問6(趣旨合問題)

 趣旨合致問題も、効率的に問題を処理するために、本文を熟読・精読する前に、この設問を見ておくべきです。本文を熟読・精読しながら、①~⑤に関連する段落が見つかったら、すぐにチェックするようにしてください。①~⑤さえ、チェックできれば、それでよいのです。全文を完全暗記しようとするのは、不可能ですから、やめるべきでしょう。理想主義、完全主義は、入試では有害無益です。
 また、「段落ごとの要約」、「全体の要約」をメモすることは、入試の現場では、やめた方が賢明です。時間・手間のムダです。本文を熟読・精読しつつ、重要箇所に線を引くだけで十分です。


①は、【20】段落に関連しています。「同化作用」は、「モーツァルトの音楽を同時代の人々が受容したのは、リズムやメロディ、構成など、当時の人々の間で共有されていた音楽の文法を身につけていたからである」と無関係なので、誤りです。

②は、【11】~【13】段落に関連しています。「後者の方が脳には良い」は、このような記述は本文にないので、誤りです。

③は、【6】段落に関連しています。「強烈な個性あるものだけが求められている」は、このような記述は本文にないので、誤りです。

④は、【8】・【9】段落に関連しています。この④は、【8】・【9】段落の内容に合致しているので、正解になります。

⑤は、【14】段落に関連しています。「一方でまた強力に一つのことにこだわる力を持った人格が多いのも事実である」は、このような記述は本文にないので、誤りです。

(解答) ④

 

ーーーーーーーー

(出典)茂木健一郎『思考の補助線』「個性を支えるパラドックス」の全文

 

(3)茂木健一郎氏の紹介

 

茂木健一郎(もぎ けんいちろう)

1962年東京生まれ。脳科学者。ソニーコンピュータサイエンス研究所シニアリサーチャー、慶應義塾大学特別研究教授。東京大学理学部、法学部卒業後、 東京大学大学院理学系研究科物理学専攻課程修了。理学博士。理化学研究所、ケンブリッジ大学を経て現職。2005年、『脳と仮想』(新潮社)で、第4回小林秀雄賞を受賞。2009年、『今、ここからすべての場所へ』(筑摩書房)で第12回桑原武夫学芸賞を受賞。その他著書多数。

 

【単著編集】

『脳とクオリア   なぜ脳に心が生まれるのか』(日経サイエンス社 1997年 )

『意識とはなにか 「私」を生成する脳』(ちくま新書 2003年)

『脳と仮想』(新潮社 2004 のちに文庫化 2007年)

『脳内現象   〈私〉はいかに創られるか』(NHK出版 2004年) 

『脳と創造性 「この私」というクオリアへ』(PHP研究所 2005年)

『ひらめき脳』(新潮新書 2006年)

『欲望する脳』(集英社新書 2007年)

『感動する脳』(PHP研究所  2007年 のちに文庫化)

『思考の補助線』(ちくま新書   2008年) 

『化粧する脳』(集英社新書  2009年)

『疾走する精神  「今、ここ」から始まる思想』(中公新書  2009年)

『生命と偶有性』(新潮社   2010年)

『創造する脳』(PHPエディターズ・グループ   2013年)

『生命と偶有性』(新潮選書   2015年)

『東京藝大物語』(講談社   2015年   のちに文庫化)

『ありったけの春』(夜間飛行   2017年)

 

【共著】

『脳+心+遺伝子VS.サムシンググレート   ミレニアムサイエンス 人間とは何か』(養老孟司・村上和雄・竹内薫共著   徳間書店   2000年 のちに文庫化 )

『スルメを見てイカがわかるか!』(共著者:養老孟司 角川書店   2003年) 

『養老孟司&茂木健一郎の「天才脳」の育て方』 (アスコム)

『こころと脳の対話』(共著者:河合隼雄 潮出版社   2008年 のちに新潮文庫)

『自分の頭で考えるということ』(羽生善治共著  大和書房   2010年)

『わたしの3・11   あの日から始まる今日』(編 毎日新聞社   2011年)

『何のために「学ぶ」のか』(外山滋比古・前田英樹・今福龍太・本川達雄・小林康夫・鷲田清一共著 ちくまプリマー新書   中学生からの大学講義   2015年)

 

 (4)当ブログにおける「個性」関連記事の紹介

 

「個性」は頻出論点です。

 

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ーーーーーーーー

 

今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

ご期待ください。

 

   

 

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思考の補助線 (ちくま新書)

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 ↓最新作です。

ヤセないのは脳のせい (新潮新書)

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

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5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

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 私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。

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ポピュリズム・その積極的意義とは何かー2017学習院大現代文解説

(1)今回の記事について

 今回の記事は、「2017早大現代文・学習院大現代文・論点的中報告③・ポピュリズム」の追加版として、2017学習院大学・現代文(吉田徹「ポピュリズムにどう向き合う」)の解説をします。

  

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  ここで、流行・頻出論点である「ポピュリズム」の意味を確認的に説明します。

 「ポピュリズム」とは、一般大衆の利害・権利・欲望・不安・恐怖などを利用して、大衆の支持を基盤として、既存の体制・エリート層・インテリ階級などと対決姿勢をとる政治思想のことです。
 日本語では「大衆主義」・「大衆迎合主義」などと訳されています。
 また、同様の思想を持つ人物・集団を「ポピュリスト」と呼び、大衆主義者・大衆迎合主義者などと訳されています。

 

 「ポピュリズム」の最近の論考については、2017年・学習院大学経済学部国語に出題された吉田徹氏の論考(「ポピュリズムにどう向き合う」)が分かりやすいうえに、秀逸なので、今回の記事で詳しく解説していきます。

私が秀逸だと評価するのは、吉田氏がポピュリズムにプラス面を見出だそうとする点です。

 他の多くの論考がポピュリズムを否定する中で、吉田氏の論考は、かなりユニークです。このようなユニークな論考は、読解力を必要とするために、国語(現代文)・小論文の入試問題に採用されやすいのです。ぜひとも、以下の問題にチャレンジしてください。

 

 今回の記事の項目は、以下のようになっています。

(2)2017学習院大学・現代文・解説・吉田徹「ポピュリズムにどう向き合う」

(3)『ポピュリズムを考える』(吉田徹)の紹介・解

(4)吉田徹氏の紹介

(5)当ブログにおける「ポピュリズム」・「トランプ現象」・「民主主義」に関する記事の紹

(6)当ブログにおける2017年度入試・論点的中記事の紹介

(7)当ブログにおける2016年度入試・ズバリ的中記事の紹介

(8)当ブログの最近の人気記事の紹介

 

ポピュリズムを考える 民主主義への再入門 NHKブックス

 

 

(2)2017学習院大学・現代文・解説・吉田徹「ポピュリズムにどう向き合う」

 

(問題文本文)(概要です)

(【1】・【2】・【3】・・・・は当ブログで付記した段落番号です)

(青字は当ブログによる「注」です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(以下、同じです)

【1】「一匹の妖怪が世界を徘徊(はいかい)している。ポピュリズムという名の妖怪が」。マルクスの「共産党宣言」をもじった言葉がメディアで躍る。

【2】(省略)英国の具体例について

【3】(省略)南欧、東欧諸国の具体例について

【4】米大統領選予備選での「トランプ〔   ①   〕」も加わり、先進国はポピュリズムの時代を迎えている。

【5】ポピュリズムは、日本では「衆愚政治」と同義にされ、最近では「反知性主義」とも関連付けられる。しかし 本来は民主政に対する主権者の深い疑念と落胆を原動力とした政治現象だ。以下では、本質、スタイル、戦略にまたがるポピュリズムの特徴と、それを生み出す要因を3つ挙げ、代表民主政に持つ含意を探る。

【6】ラテン語「ポプルス(人々)」の派生語であるポピュリズムは、社会のエリート・既得権益層に虐げられるとされるサイレントマジョリティー(声なき多数派)を代表することを本質とする。ただ、ここでいう「人々」は庶民や労働者、年金生活者、ワーキングプアなど、可変的な存在であり、既存の支持構造が組み替えられることでニッチ(隙間)市場が開拓される。

【7】エリート・既得権益層と名指しされるのも、政治家・官僚、資本家あるいは労働組合など文脈に依存する。B  ポピュリズムは何よりも、政治が一部の人間に寡占され民意がねじ曲げられていることへの異議申し立てであって、人々を束ねるイデオロギーではなく、彼らの不満を表現する否定の政治だからだ

【8】例えば、西欧の極右ポピュリスト政党は1990年代まで、既得権益の打破を訴えて市場機能を重くみる「新自由主義」の旗を掲げていた。だが既成政党が新自由主義的政策を実現していくと、今度は福祉国家路線を支持するようになる。これもポピュリズムはエリートへの〔  ②  〕を主眼とするからだ。

【9】すなわち、ポピュリズム伸長の裏には代表制民主主義の機能不全がある。欧米では、特に80年代から投票率の低下と政治不信の高まりがみられた。その一方で、保革間での政権交代が常態化し、冷戦終結以降、保守政党は文化的リベラルに、社民政党は経済的新自由主義志向に傾斜して「グローバル化コンセンサス(合意)」が形成された。

【10】これら保革政党の中道化は、それまで保守・自由主義政党を支持していた中間層の文化的不安、左派・社民政党を支持していた労働者層の経済的不安を置き去りにした。このため多くのポピュリスト政党は、文化的には反リベラル、経済的には大きな政府を志向することになった。

【11】次にポピュリズムは「多数者の専制」を警戒し、個人の理性や法の支配を原則とする自由主義的原理を嫌う。司法による権力のチェック・アンド・バランスや官僚制の専門知、知識人・メディアの言説を含め、それはエリート支配の道具とみなされるからだ。

【12】ポピュリスト政治家はこれら具体的な主体や機関が民主政の敵だと名指しして、それまで政治化されていなかった人々を動員しようとする。彼らが国民投票などの直接民主制を支持するのも、既存の意思・政策決定の回路がエリートに独占されてしまっているとみなすためだ。

【13】欧州の経済危機と緊縮政策も、こうした主張を後押しする。

【14】こうした中で、ポピュリスト政治家は不況の原因は単一通貨ユーロと金融資本、それと結託しているエリート層にあると訴え、再分配を自国民に限る「福祉排外主義」を掲げ、国民の不満を吸い上げている。15年に拡大した難民流入も、治安・生活上のセキュリティー不安を高めている。既存の政治勢力は、当初ポピュリスト政党の主張を無視するが、選挙で抗し切れずその主張を争点化させると、より過激な主張をするポピュリスト政党に競り負けてしまう。

【15】各国のポピュリズムは、アウトサイダーであるカリスマ的なリーダーが、人々を包摂できていたとする原初的で倫理的な共同体(ハートランド)を掲げる点でも共通する。それは右派ポピュリズムの場合、エスニシティー(民族性)・地域・言語を核とした国民国家であることが多い。

【16】これは戦後国家の経済社会の変容と関係している。戦前秩序の回復や反共を旗印にしたネオナチやファシズム勢力と異なり、現代ポピュリズムは、階級融和の原則からなる「戦後コンセンサス」への郷愁を基盤としている。高度成長と同質的な社会は分厚い中間層を生み出し、戦後政治の安定を実現してきた。しかし、経済のグローバル化と社会の個人化が低成長時代と合わさったことで、国家は外部と内部から再編の圧力にさらされるようになった。

【17】米同時テロ後、イスラム的価値は戦後西欧の普遍的価値と相いれないとするポピュリスト政治家があおる「文明の衝突」論も、国民の同質性と移民制限へと傾く。こうした経済的・文化的不安は、権威主義的で現状変革志向の政治を呼び込む。開かれた社会を推し進めるグローバル化から剥奪感を抱く人々と、それを政治の力で変えると約束する政治家が呼応して、ポピュリズム現象は生起していく。

【18】19世紀末の米国の人民党やロシアのナロードニキ運動など、ポピュリズムは産業構造や価値観が転換する状況において、エリートが固定化して伝統的な利益媒介構造が揺らぐ際に台頭する。つまり、ポピュリズムが民主政を危機に陥れているのではなく、民主政が危機であるがゆえにポピュリズムが起きるという因果を認識することが重要だ。

【19】民意の期待値を代表エリートが満たしていないと感じられる時に、いや応なくポピュリズムは台頭する。

【20】ポピュリズムは民主政における鬼子だ。ポピュリズムと無縁な民主政はなかったし、これからもないだろう。ただしポピュリズムは、硬直化し劣化した政治を流動化させ、それまで取り上げられてこなかった争点を政治に持ち込むことで、代表制と民意の間で不可避的に生まれる不一致を解消する契機ともなる。

【21】もっとも、それを可能とするのは「共産党宣言」の言葉を再び借りれば「妖怪をはらい清める同盟」の実現にかかっている。具体的には、既存の政治が自己改革を含むイノベーションを完遂し、政策の実効性を高めるといった、民意の「入力」と政策の「出力」の両面での改善を意味する。

【22】こうした民主政の絶えざるバージョンアップ、すなわち統治されるものと統治するものの一致が実現され、民主政の持つ本来の理念が生かされるのであれば、ポピュリズムという〔 ③ 〕は初めて窒息させられることになるだろう。(吉田徹「ポピュリズムにどう向き合う」による)

 

ーーーーーーーー

 

(設問)

(基礎的問題は省略します)

問1  空欄①~③に入る最適な語句を次の中から、それぞれ一つ選べ。

①  1 逆風  2 狂風  3 疾風  4 旋風  5 烈風

②  

1  資本家たちへの抗議

2  搾取された人々の救済

3  エリートへの異議申し立て

4  政治的混乱の発生と政権奪取

5  中間階級の育成と生活条件の向上

③  1 怪物  2 主権者  3 帝王  4 同志  5 妖怪

 

問2  傍線部Aで筆者はポピュリズムが「本来は民主政に対する主権者の深い疑念と落胆を原動力とした政治現象だ」と述べています。「主権者の深い疑念と落胆」を具体的に説明した、最適な9字の語句を本文から抜き出して記せ(字数は句読点、記号、符号を含む)。


問3の①

傍線部Bに「政治が一部の人間に寡占され民意がねじ曲げられている」とある。ポピュリズムの立場では、そうした事態がなぜ起こっていると捉えているか。その理由として最適なものを次の中から一つ選べ。

1  理性や法を信じて決断し行動をおこす人々が少くなってしまったから。

2  知識人が民意を代表するための、新しい思想を生み出すことを怠るようになってしまったから。

3  国民投票などの手段を使っても、既得権益層の妨害によって、民意が十分に反映できないから。

4  司法やメディアなどの重要な機関を握っているのが、自由主義的な立場を取っている人々だから。

5  既存の意思・政策決定の回路がシステム疲労をおこして、誤った判断を下すことが多くなってきたから。


問3の②

傍線部B「ポピュリズムは何よりも、政治が一部の人間に寡占され民意がねじ曲げられていることへの異議申し立てであって、人々を束ねるイデオロギーではなく、彼らの不満を表現する否定の政治だからだ」で、筆者はポピュリズムの特徴を「人々を束ねるイデオロギーではなく、彼らの不満を表現する否定の政治だ」と述べています。現代のポピュリズム政治家はどのような政治をするのですか。次の中から、合致するものを二つ選びなさい。

1  ポピュリスト政治家は、ナチスなどに見られたようなファシズム的な政策を唱えることが一般的である。

2  ポピュリスト政治家は、世界的な市場の拡大によって社会的な格差が拡大したとして、福祉政策の充実を訴えている。

3  ポピュリスト政治家は、民族や言語の同質性に根幹を置き、地域的に限定された国民国家の再編を主張することが多い。

 4  ポピュリスト政治家は、巧みな選挙戦術を駆使して議会を牛耳ることで、政策決定の回路を我が物としようとしている。

5  ポピュリスト政治家は、伝統的に労働者階級に地盤を置いて、既得権益を握る人々を攻撃する政策なら何でも賛成する。

6  ポピュリスト政治家は、市場の自由化を図って新自由主義を主張し続ける一方で、文化的には伝統主義的な傾向が強くなっている。

7  ポピュリスト政治家は、移民排斥を主張すると同時に、市場の世界的な拡大を肯定しようとするため、一貫性に欠けることがある。

8  ポピュリスト政治家は、マスメディアの力を利用して、テロなどの事件が起きるたびに宣伝活動を繰りひろげて、勢力を拡大しようとしている。

 

問4  傍線部で、筆者はポピュリズムが「代表民主政に持つ含意を探る」と述べている。筆者はどのような「含意」を明らかにしていますか。それを説明した、次の文章の空欄のX~Z入る最適な語句を、本文の中から指定の字数でそれぞれ一つ抜き出して記せ(字数は句読点、記号、符号を含む)。

 筆者はポピュリズムが民主政を〔 X 〕(8字)わけではなく、逆に民主政が〔 Y 〕(4字)をおこしているからこそ台頭してくると述べている。従って、ポピュリズムはこれまで無視されてきた争点を政治に持ち込むことによって、サイレントマジョリティーと既存の政治勢力との間に生じた食い違いを〔 Z 〕(6字)にもなりうると、筆者は考えている。 

 

ーーーーーーーー

 

(解説・解答) 

問1(空欄補充問題)

①  (予備知識・教養を問う問題)

 本文を熟読・精読することは、勿論です。
 が、トランプ現象、イギリスのEU離脱、ポピュリズムを知っておけば、この問題においても、かなり有利だと思います。「トランプ旋風」というキーワードは、新聞・テレビなどのメディアに、よく登場していました。
 この問題も、論点についての予備知識・教養の重要性を知らせてくれます。

② 〔②〕を含む【8】段落が【7】段落の具体例であることに注目して、【7】段落の傍線部Bの「ポピュリズムは何よりも、政治が一部の人間に寡占され民意がねじ曲げられていることへの異議申し立て」に着目する必要があります。

③ 【1】段落「『一匹の妖怪が世界を徘徊(はいかい)している。ポピュリズムという名の妖怪が』」、【21】段落「『妖怪をはらい清める同盟』の実現」に注意してください

(解答)①=4  ②=3  ③=5


問2(抜き出し問題)

 →この問題は本文を熟読する前に見ておくべきです。

 傍線部Aを具体的に説明した文章が【17】段落にあることを読み取る必要があります。

  【5】傍線部A「(ポピュリズムは)本来は民主政に対する主権者の深い疑念と落胆を原動力とした政治現象だ」と、
【17】「こうした経済的・文化的不安は、権威主義的で現状変革志向の政治を呼び込む。開かれた社会を推し進めるグローバル化から剥奪感を抱く人々と、それを政治の力で変えると約束する政治家が呼応して、 ポピュリズム現象は生起していく」は、ほぼ同一内容です。

 (解答)経済的・文化的不安

 

問3(傍線部説明問題)

→この問題も本文を熟読する前に見ておくべきです。

①【11】・【12】段落を熟読してください。

→本文を熟読・精読することは、勿論です。

 が、トランプ現象、イギリスのEU離脱、ポピュリズムを知っておけば、この問題においても、かなり有利だと思います。

 「トランプ旋風」というキーワードは、新聞・テレビなどのメディアに、よく登場していました。 

 この問題も、論点についての予備知識・教養の重要性を知らせてくれます。

 2は【8】段落より、3は【15】~【17】段落より、それぞれ正解になります。

 7は、このような記述が本文には、ないので、誤りです。

(解答)①=4  ②=2・3


問4(空欄補充問題)

→この問題も本文を熟読する前に見ておくべきです。この問題は、「出題者による要約」の一部が空欄補充問題になっています。この問題を、本文を読む前に見ることで、大筋を把握することができます。また、空欄補充問題を解くうえで注意する表現を押さえることができるのです。

 X・Zについては、本文の「まとめ」部分である【18】~【20】段落の内容から判断してください。

 Xの「危機に陥れている」については【18】段落に、Zの「解消する契機」については【20】段落に、それぞれの記述があります。

 Yについては、Yを含む一文が「ポピュリズムの台頭」に関する記述であることに注目して、【9】段落第1文を熟読する必要があります。

(解答)

X=危機に陥れている  

Y=機能不全  

Z=解消する契機
 

 ーーーーーーーー

 

(出典) 吉田徹「ポピュリズムにどう向き合う」(『日本経済新聞』2016年2月4日・朝刊掲載)

 

(3)『ポピュリズムを考える』(吉田徹)の紹介・解説

 

【本書の方向性】

 多くの論考はポピュリズムを愚民政治の一種とのみとらえています。それに対して、本書は以下のように、むしろ、ポピュリズムは民主主義に必然的に生じる現象と考え、その功罪を分析するという姿勢で書かれています。

「  やや挑発的に言えば、私たちが生きている今の民主政治では、ポピュリズムは避けることができないのだ。それは民主主義に内在する固有の現象ですらあるかもしれないのだ。」
「  この本は、安直なポピュリズム批判を展開するのでも、反対にポピュリズムを擁護するものでもない。そうではなく、なぜポピュリズムが民主主義で生じるのかを考えることを目的にしている。」

「『民主主義』が不可避的に『ポピュリズム』を内在させているのだとしたら、私たちはどう行動したらいいのか」

 

 そして、「ポピュリズムについて考えることは、民主主義について考えることである」と著者は主張しています。

 

【ポピュリズムの問題性】

 「ポピュリズムの本質は『否定の政治』にある」と吉田氏は、述べています。
 ポピュリズムそのものは、必ずしも共通した政治姿勢を持たないのです。既得権益層・特権階級を否定するために、われわれ「人々(人民)」は立ち上がらなければならない、というのがポピュリズムの基盤です。

 そして、敵を設定しては攻撃するという習性を持つポピュリズムには、必然的に一種の破壊衝動を伴います。だからこそ、ポピュリズムを批判する人々が多いのでしょう。

 

【原因論】

 では、ポピュリズムはいかなる時に発生しやすいのでしょうか。
 ポピュリズムとは、本来は民主主義体制の下で主権者である「大衆」・「人々」が、受けるべき利益・権利が不十分である、特定階層に独占されていると感じる時、それを取り戻そうとする動きとして発生するものです。つまり、ポピュリズムは政治的・経済的な「ズレ」の中で、不可避的に発生するということになります。

 このように、「人々」の概念に、内部/外部の境界線を設定して、特定の「人々」という集団と、同時に彼らの共通の「敵」を作り出すことが、ポピュリズムの本質的特徴です。

 

 それでは、なぜ現代でも、ポピュリズムが発生しているのでしょうか。

 吉田氏は、大きな経済的・政治的な構造的要因として、グローバル化とサービス産業化による政治の分配システムのゆらぎがある、としてます。以下に、概要を引用します。

「  先進国では、グローバル化とサービス産業化が進んだ結果、大企業と労働組合との安定的な関係は崩壊し、流動的で組織的に忠誠心を持たない雇用者や労働者が中心を占めるようなっている。
 それゆえ、こうした大企業や労働組合などからなる社会集団の利益を政治に取り込み、公正に分配できていた政治のシステムは、むしろ非効率で不公平なものとみなされるようになっていく。
 既存の政党や政治勢力は、改革を続行することで新たな分配システムを構築しようとするものの、これが再び多くの有権者に疎外感をいだかせるようになる。
 他の一般的な政治現象と同じく、ポピュリズムは特定の構造的要因から生まれてくるのである。

 ポピュリズムを政治家個人のパーソナリティやイデオロギーに還元してしまうのでは、このポピュリズムのダイナミズム(→「動き」というニュアンスの意味)は理解できない。
 政治が揺らぐとき、そこには必ずポピュリズムが介在し、介入する空白地帯が生じる。そして、ポピュリズムは政治に対する不満に巣食い、そして不満がポピュリズムを成長させていく。つまり、ポピュリズムは私たちの生きる政治世界のリトマス試験紙のようなものなのである。」

 

【ポピュリズムの積極的側面】

 敵を作っては攻撃するという側面をもつポピュリズムには、必然的にある種の破壊衝動がつきまといます。だから、ポピュリズムを批判する人々が多いのです。

 しかし、筆者はポピュリズムには積極的側面(プラスの側面)もあると、以下のように指摘しています。

「  ポピュリズムの持つ力は、民主主義にとっての重要な要素の一つでもあることは、確かである。それは、政治エリートを中心に形成される形式的・理性的な民主主義と、『人々』の感情からなる実態的・情念的な民主主義との乖離を告発し、構造的に隠蔽された不満を政治の俎上に乗せる。ポピュリズムは、民主主義の不均衡を是正するいわば自己回復運動のようなものである」

  

 確かに、ポピュリズムによって、民主主義の問題点を明確化することはできます。しかし、ポピュリズムには危険性もあるのです。


【対策論】

 では、どうすればいいのか。

 吉田氏は、ポイントは、「『情念』のポピュリズムと、『理性』の参加民主主義を両立させることにある」と述べています。

 具体的には、「政治における『信念=情念』の回復」と「『参加民主主義』という経路」を提案しているのです。

 

 民主政治には、参加民主主義という手段・理論が存在します。

 参加民主主義の理論は、市民社会論や熟議民主主義論といった理論へと派生しています。

 その目的は、参加を通じた人々のエンパワーメント (→能力向上、権限付与)です。民主主義の過程になるべく多くの、多様な人々を参加させることにより、民主主義の実質化や充実を意図しているのです。

 吉田氏は熟議民主主義論の意義を次のように述べています。

「  平等な人々による非公式でゆるやかな討論の場を設けることで、たがいの意見や立場を開陳し、それらを交換することで、民主主義のコンセンサスと正当性を回復しようとする。
 これは、民主主義を形式的側面と『数の力』からいったん解放し、その過程で政治的リテラシーを高め、人間の人格的な完成をも視野に入れる。
 すなわち、参加=熟議の経路は、『投票』に矮小化される『多数派』のための民主主義とも、『交渉』を必要とされる『利益』を確保するための民主主義とも異なる形で、多様かつ多層的な共同体の人々の合意を尊重し、民主主義の正当性を高め、強化しようとする企てである。」

 

 要するに、吉田氏は、「ポピュリズムの危険性を避けつつ、ポピュリズムを乗り越え、ポピュリズムの目標を達成するための方策」として、「政治の情念的次元にあるポピュリズムと、理性的次元にある参加民主主義との間で戦線協定を結び、現状変革への意思とすること」を主張しているのです。

 

(4)吉田徹氏の紹介

  

吉田 徹(よしだ  とおる)

1975年生まれ。日本の政治学者。東京都出身。
1997年 慶應義塾大学法学部政治学科卒業2002年 東京大学大学院総合文化研究科国際社会科学修士課程修了。ドイツ研究振興協会DIGES II(Diploma for German Studies and European Studies)修了。2005年 東京大学大学院総合文化研究科国際社会科学博士課程単位取得退学。
専門は、比較政治・ヨーロッパ政治。北海道大学法学研究科教授。芹沢一也主宰のシノドスアドバイザー。フランス社会科学高等研究院日仏財団リサーチ・アソシエイト。

 

【著書】

『ミッテラン社会党の転換―社会主義から欧州統合へ』(法政大学出版局、2008年)
『二大政党制批判論―もうひとつのデモクラシーへ』(光文社新書、2009年)
『ポピュリズムを考える―民主主義への再入門』(日本放送出版協会、2011年)
『感情の政治学』(講談社選書メチエ、2014年)
『「野党」論―それは何のためにあるのか』(ちくま新書、2016年)
などがある。

 

(5)当ブログにおける「ポピュリズム」・「トランプ現象」・「民主主義」に関する記事の紹介

 

 「ポピュリズム」・「トランプ現象」・「民主主義」は、2017年度の入試国語(現代文)・小論文における流行・頻出論点です。2018年度入試においても、流行が続く可能性が高いと思います。国語(現代文)・小論文対策として、ぜひ、参照してください。

  

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 (7)当ブログにおける2016年度入試・ズバリ的中記事の紹介

 

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ーーーーーーーー

 

今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

ご期待ください。

 

    

 

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ポピュリズムを考える 民主主義への再入門 NHKブックス

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

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「身体、この遠きもの」鷲田清一・1999東大国語(現代文)解説

(1)「身体論」・「心身問題」とは何か?

 入試頻出論点、流行論点である「身体論」は難解です。難解ゆえに、読解問題として、ふさわしいから、頻出、流行になっているという側面が、あるように思えます。
「身体論」は予備知識・教養がモノを言うので、入試国語(現代文)・小論文対策として、しっかり準備しおくことが賢明です。

 「身体論」は「心身問題」とも呼ばれています。 

 そもそも「心身問題」とは何か、については、以下に引用する鷲田清一氏の説明が分かりやすいです。

 

(概要です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

「心(精神)と身体(その構造・状態・行動)との関係については、いろいろな動機や関心のもとに昔から問題にされてきた。しかし、特に西洋近世のデカルト的二元論の考え方が有力になってからは、この問題が哲学の主題の一つとなり、現在にいたっている。すなわち、身体は、科学的法則にのっとって機械論的に説明されるべき物質的世界に属し、他方われわれは、感じたり欲したり考えたりする心的過程を内的に意識するが、この両者はどう関係しているのか、

 という問題である。」(鷲田清一『哲学事典』平凡社)

 

 上記は、「心と身体の関係」についての「デカルト的二元論」が議論の対象になっていると述べているのです。

 さらに、鷲田氏の論考を引用します。

 

「精神(こころ)と身体(からだ)とが異なる属性をもつ2つの別の実体であるとするなら、日常の暮らしのなかでこれらのあいだに相互作用があるのはどうしてかという問題である。じっさい、ひとは悲しみにうちひしがれているとき眼から涙を流すし、怯えているときは身体ががくがく震えるというふうに、あきらかに心身は同一の出来事の二面といっていいほどに緊密に結びついている。この問題は「心身問題」とよばれ、近世の哲学史においてはしばらく、こころの問題はこうした文脈で語られることになった。」(鷲田清一『現代社会学事典』弘文堂)

 

 上記の論考のポイントは、心身は同一の出来事の二面 」の部分です。このことが、

デカルト的二元論に対する批判の本質的根拠になっているのです。

 

 なお、今回の記事の項目は、以下のように、なっています。

(2)「身体、この遠きもの」鷲田清一氏の・1999年東大国語第1問(現代文・評論文)解説

(3)参考資料ー「身体、この遠きもの」ー 「前記の鷲田清一氏の論考の続き部分」の解説

(4)当ブログにおける「東大現代文」関連の記事の紹介

(5)当ブログにおける「鷲田清一」関連の記事の紹介

(6)当ブログにおける「身体論」・「心身問題」関連の記事の紹介

(7)当ブログにおける「センター試験」関連の記事の紹介

 

新編 普通をだれも教えてくれない (ちくま学芸文庫)

 

(2)「身体、この遠きもの」鷲田清一氏の・1999年東大国語第1問(現代文・評論文)解説

(問題文本文)

(【1】・【2】・【3】・・・・は当ブログで付記した段落番号です)

(青字は当ブログによる「注」です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(以下、同じです)

 

【1】身体はひとつの物質体であることは間違いないが、他の物質体とは異質な現われ方をする。

【2】たとえば、身体はそれが正常に機能しているばあいには、ほとんど現われない。歩くとき、脚の存在はほとんど意識されることはなく、脚の動きを意識すれば逆に脚がもつれてしまう。話すときの口唇や舌の動き、見るときの眼についても、同じことが言える。呼吸するときの肺、食べるときの胃や膵臓(すいぞう)となれば、これらはほとんど存在しないにひとしい。つまり、わたしたちにとって身体は、ふつうは素通りされる透明なものであって、その存在はいわば消えている。が、その同じ身体が、たとえばわたしが疲れきっているとき、あるいは病の床に臥(ふ)しているときには、にわかに、不透明なものとして、あるいは腫(は)れぼったい厚みをもったものとして、わたしたちの日々の経験のなかに浮上してくる。そしてわたしの経験に一定のバイヤス(→本文の「注」→受けとめ方に片寄りを生じさせること)をかけてくる。あるいは、わたしの経験をこれまでとは別の色で染め上げる。ときには、わたしと世界とのあいだにまるで壁のように立ちはだかる。ァ わたしがなじんでいたこの身体は、よそよそしい異物として迫ってきさえするのである。

【3】 あるときは、わたしたちの行為を支えながらわたしたちの視野からは消え、あるときは、わたしたちがなそうとしている行為を押しとどめようとわたしたちの前に立ちはだかる、こうした身体の奇妙な現われ方は、さらに別の局面でも見いだされる。それはたとえば、わたしたちがなにかをじぶんのものとして「もつ」(所有する)という局面だ。なにかを所有するというのは、なにかをじぶんのものとして、意のままにできるということである。そのとき身体は、ものを捕る、掴(つか)む、持つというかたちで、ィ 所有という行為の媒体として働いている 。つまり身体は、わたしが随意に使用しうる「器官」である。が、その身体をわたしは自由にすることができない。痛みが身体のそこかしこを突然襲うこと、あるいは身体にも《倦怠(けんたい)》が訪れることに、だれも抗(あらが)うことはできない。このことを、『存在と所有』の著者G・マルセルは次のような逆説としてとらえる。つまり、「わたしが事物を意のままにすることを可能にしてくれるその当のものが、現実にはわたしの意のままにならない」という逆説のなかに、かれは「不随意性〔意のままにならないこと〕ということの形而上学的な神秘」を見てとるのである。

【4】こういう「神秘」は、身体一般のなかには見いだされない。身体一般というのは医学研究者にとっては存在しても、ひとりひとりの個人には存在しない。身体はわたしたちにとっていつも「だれかの身体」なのだ。痛みひとつをとっても、それはつねにわたしの痛みであって、その痛みをだれか任意の他人に代わってもらうなどということはありえない。そのとき、痛みはわたしの痛みというより、わたしそのものとなっており、わたしの存在と痛みの経験とを区別するのはむずかしい。ゥ 身体にはたしかに「わたしは身体をもつ」と言うのが相応(ふさわ)しい局面があるにはあるが、同時に「わたしは身体である」と言ったほうがぴったりとくる局面もあるのである。人称としてのわたしと身体との関係は、対立や齟齬(そご)(→「食い違い」という意味)といった乖離(かいり)(→「落差。分離」という意味)状態にあるときもあれば、一方が他方に密着したり埋没したりするときもあるというふうに、どうも極端に可塑(かそ)(→「柔軟。変形可能」という意味)的なものであるらしい。

【5】身体は皮膚に包まれているこの肉の塊のことだ、と、これもだれもが自明のことのように言う。が、これもどうもあやしい。たとえば怪我をして、一時期杖をついて歩かなければならなくなったとき、持ちなれぬ杖の把手(とって)の感触がはじめは気になってしようがない。が、持ちなれてくると、掌(てのひら。たなごころ)の感覚は掌と把手との接触点から杖の先に延びて、杖の先で地面の形状や固さを触知している。ェ 感覚の起こる場所が掌から杖の先まで延びたのだ。同じようにわたしたちの足裏の感覚は、それがじかに接触している靴の内底においてではなく、地面と接触している靴の裏面で起こる。わたしたちは靴の裏で、道が泥濘(でいねい)かアスファルトか砂利道かを即座に感知するのである。身体の占める空間はさらに、わたしのテリトリーにまで拡張される。見ず知らずのひとが、じぶんの家族なら抵抗がない至近距離に入ってきたとき、皮膚がじかに接触しているのでなくても不快な密着感に苦しくなる。いつも座っているじぶんの座席に、ある日別の人間が座っていると、それがたとえ公共的な場所(たとえば図書館)であっても苛立(いらだ)たしい気分になる。あるいはさらにもっと遠く、たとえばテレビで船やヘリコプターからの中継を見ているとき、まるで酔ったような気分になることすらある。このようにわたしたちの身体の限界は、その物体としての身体の表面にあるわけではない。わたしたちの身体は、その皮膚を超えて伸びたり縮んだりする。わたしたちの気分が縮こまっているときには、わたしたちの身体的存在はぐっと収縮し、じぶんの肌ですら外部のように感じられる。身体空間は物体としての身体が占めるのと同じ空間を構成するわけではないのだ。

 

ーーーーーーーー

 

(設問)(漢字問題は省略します)

設問(1) 「わたしがなじんでいたこの身体が、よそよそしい異物として迫ってきさえする」(傍線部ア)とあるが、このような事が起こるのはなぜか、その理由を説明せよ。(60字程度)

 

設問(2) 「所有という行為の媒体として働いている」とあるが、どういう意味か、説明せよ。(60字程度)

 

設問(3) 「身体にはたしかに『わたしは身体をもつ』と言うのが相応しい局面があるにはあるが、同時に『わたしは身体である』と言ったほうがぴったりとくる局面もある」とあるが、「わたしは身体をもつ」ということと、「わたしは身体である」ということとの違いを、筆者の論旨にしだがって説明せよ。(60字程度)

 

設問(4) 「感覚の起こる場所が掌から杖の先まで伸びたのだ」とあるが、このようなことが生じるのはなぜか。その理由を、筆者の論旨にしたがって説明せよ。(60字程度)

 

ーーーーーーーー

 

【 東大現代文の解法のポイント 】

①  「全問・記述式問題の特殊性」を意識しよう→「時間配分」に気を付けよう

 東大現代文は素直な標準レベルの問題が多いので、論理的に精読・熟読していく姿勢が大切です。ある程度の理解が進むまでは、要約を考えないようにするべきです。

 問題は、いかに時間内に答案を書き上げるか、です。この答案作成の訓練は、何回か、しておくべきです。 

 その際には、過去問題を使用することを、おすすめします。模擬問題は、本文のレベルも、設問のレベルも、本番の問題とズレがあるので、使用しない方が賢明です。作成者のレベル、作成時間などに、落差がありすぎるのです。

 東大の合格点は、5~6割なので、記述問題においては、満点を狙う必要は、ありません。特に、大問1においては、最後の記述問題が最も配点が高いので、ここでじっくり考えられる時間を確保することが大切です。そのためには、最初の方の設問に時間をかけすぎないようにしてください。最初の方の設問については、7~8割の点が取れそうと思ったら、それで満足して、次の設問に取りかかるべきでしょう。

 「腹八分の精神」が、全体の得点をアップさせるポイントです。完全主義は、入試においては、有害無益です。

 

②設問に指定がある場合以外には、「自分なりの表現」は使用しないようにしよう→誤読・誤解と評価される可能性があります❗

 設問(三)・(四)に「筆者の論旨にしたがって」と、「注意書き」があります。

 これは、「なるべく、本文の表現を使用して答案を作成してください」という意味です。特に、キーワードは本文の表現を、「そのまま」使用するべきです。採点者は、キーワードに着目して採点しているのです。

 受験生が類語や、「自分なり」の表現を使用すると、「誤読・誤解しているのでは、ないか」と、マイナス評価される可能性があります。

 

ーーーーーーーー

 

(解説・解答)

設問(一)

 傍線部アは段落の最終文であること、に着目することが大切です。

 まず、【2】段落が、「身体」が「正常に機能しているとき」と、「そうでない場合」を対比していることを確認してください。。前者では、「ほとんど意識のなかに現われない」のに対して、後者では、「よそよそしい異物として迫ってきさえする」(傍線部)のです。

 第2に、傍線部「わたしがなじんでいたこの身体が、よそよそしい異物として迫ってきさえする」を、【3】段落第1文「あるときは、わたしたちの行為を支えながらも、わたしたちの視野から消えている。あるときは、わたしたちの行為を押しとどめる。」と、説明し直していることに着目してください。

 

(解答)
普通は意識しない身体が、不調な時には、自分の意志や行為を阻害する存在として意識されるから。

 

設問(二)

 傍線部イの直後の文章「つまり身体は、わたしが随意に使用しうる『器官』である」を、本文の表現を使用して、分かりやすく説明してください。

 「媒体」=媒介、仲介という意味です。従って、身体という「器官」は、「所有という行為」の仲介するのです。


(解答)
ものを所有することは、身体という器官を使い、ものを随意に扱うことを通じて初めて現実の行為になるということ。

 

 なお、ここで、【3】段落最終文の「形而上学的」について説明します。

「形而上」とは「抽象的・精神的なもの」という意味です。

「形而上学」とは「物事の存在の根本原理を研究する学問」・「思想」・「哲学」という意味です。

 このキーワードは、入試頻出事項ですが、案外と盲点になっています。

 

設問(三)

 傍線部ウは、内容的に見て、直前の一文の言い換えになっていることを読み取ってください。

「わたしは身体をもつ」という局面は、【3】段落の傍線部イの直後の一文で述べられているように、「わたし」という主体が身体を客体化している状態です。
 一方で、「わたしは身体である」という局面は、傍線部ウの直前の一文、直後の一文で明らかなように、「わたし」という主体と「身体の経験」とが「区別できない」状態です。

 

(解答)
前者は、「わたし」が身体を器官として使用しうる局面であるのに対して、後者は、身体の経験が「わたし」に密着し不可分となる局面。

 

 なお、 「わたしは身体をもつ」ということについては、鷲田氏は、別の著書(『悲鳴をあげる身体』)で、興味深い指摘をしています。入試頻出事項なので、以下に引用します。

「わたしは身体をもつ」ということにも、問題がないわけではない。というのも、「わたし」はその身体(という所有物)の外部に立てないからである。身体なしに「わたし」は存在しえないという意味でももちろんあるが、それ以上に、身体ではない「わたし」にとって、内/外ということは比喩的な意味でしか語りえないからである。なにかの内か外かということは、それ自体が空間的な存在についてしか言えない。所有が「わたし」とその外部に存在するものとの関係であるとき、「わたし」と外部を隔てているのは、空間的存在としての身体である。

 そうとすれば、すくなくとも「わたし」と身体とのあいだには所有の関係はなりたちにくいように思われる。」 (『悲鳴をあげる身体』)


設問(四)

 本設問を解くポイントは、二つあります。

 一つは【1】段落で述べられている、身体は単なる「物質体」ではないことです。それは、要するに、「身体は心理的存在でもある」ということです。「心身二元論」に疑問を提示しているのです。
 もう一つは、最終段落後半で、その時の気分に応じて、身体が「その皮膚を超えて伸びたり縮んだりする」と述べられていることです。


(解答)身体は単なる物体ではなく、心理的な存在であるので、身体感覚や身体空間は、その時の気分や状況に応じて伸縮するものとなるから。

 

ーーーーーーーー 

(出典)鷲田清一『普通をだれも教えてくれない』〈Ⅱ からだが悲鳴をあげている パニック・ボディ《身体、この遠きもの》〉の一節。

 

(3)参考資料ー「身体、この遠きもの」ー 「前記の鷲田清一氏の論考の続き部分」の解説

 前記の鷲田清一氏の論考(「身体、この遠きもの」)の続き部分を引用します。


「  身体はまた、時間的な現象でもある (→「身体」を「現象」と把握している点を強く意識して、以下を読解することが大切です)  身体はたえず変化している(→「身体は固定している物体ではない」ということです。ここで、「一般社会の常識」に異議を提示しているのです) 。細胞はつねに生成し、皮膚はつねに入れ替わる。同じ身体ということは、大づかみにしか言えない。また、記憶というと精神や脳の働きのように言われるが、実際には身体もまた記憶する。たとえば子どものとき、わたしたちは小学校の校歌だとか歴代の天皇の名前だとか円周率を何十桁だとか暗記したものだが、それを口ずさまないで紙に書きなさいと言われても、記憶はなかなかよみがえらない。口を動かさないとだめなのだ。あるいは字、いくら記憶をたどっても出てこない字が、手を宙で動かせば出てくる。身体の運動のなかに記憶は書き込まれているのである。このように身体の存在を、いま・ここという経験の中心に限定すること、あるいは皮膚に包まれたこの物質的な身体の占める空間に限定することは、どうも身体についての抽象的な考え方のようである。

 物質の塊としての身体、わたしたちはこれを、もっとも具体的な身体として考えるくせになっているようだが、改めてよく考えてみれば、そういう物質体としての「具体的」な身体をわたしはきわめて不完全にしか知覚できない。身体の表面についてはその一部しか、じかに見ることはできないし、その一部は触れることもできない。身体の内部はこれは、カメラかなんかの媒体を通してデジタル画像としては見ることもできるだろうが、じかにそれを見たり触れたりすることはまったく不可能だろういや、もっと怖い事実がある。他人がわたしをわたしとして認めてくれるときのその顔、それをわたしは終生、じかに見ることはできない(→「永遠の不可視性」ということです)。じぶんの顔というのは、それに逐一反応する他人の表情を介して、想像ないしは解釈するしかないものなのである。だから、じぶんで見ながら制御することのできない顔をむきだしにしておくのは、きわめて無防備なことだ。それを恐れて、わたしたちは、表情を繕(つくろ)い、化粧をし、たえず鏡をのぞき込んで、じぶんの顔を微調整する。できてきたスナップ写真にも一喜一憂する。じぶんでイメージしているじぶんの顔との誤差が、気になってしようがないからだろう。そういう意味では、現在のわたしたちのように素顔を外にさらすよりも、ヴェールで覆っておくほうが、よほど理にかなっている(→「合理的。論理的」という意味)ように思われる。

 だからこそ、わたしたちは、じぶんの存在を確固としたものとして感じられるように、まさにわたしがそれであるところの身体を、たえず確認しつづけていようとする。鏡をのぞき、外見(身だしなみ)を整える。風呂につかったり、シャワーを浴びたり、日光浴をしたりして、皮膚感覚を刺激し、身体の見えない部位を触知しようとする。まるで子宮という密室のなかに戻るかのように、あるいは押し入れとか机の下とかいった狭い空間をその代理物にするかのように、わたしたちは衣服という囲いのなかに身を挿入する。わたしたちは、楽な服のほうがいいと言いながら、実際のところは、着ているか着ていないかわからないようなゆるゆる服では、気に入らない。締めつけたり囲ったりして、〈像〉としてのとりとめのない身体を触覚的に補強してくれなかったら服の意味はないからである。

 じぶんの身体のプロポーションが基準にかなっているか、顔がおかしくないか、色はどうか、髪は薄くないかなどと、わたしたちは容貌に悩むことがよくある。身体の外見を過剰なくらいに飾ることもある。ある固定観念に金縛りになって、なかなか抜けだせないこともある。このようにわたしと身体との関係が、わたしが抱く身体のイメージや観念を通して、もつれたり、かたよったり、硬直したりするのは、身体がわたしにとっては、知覚される物質体であるよりもむしろ、想像されるひとつの〈像〉(→「自分の頭の中のイメージ」です→「不安定性」がポイントになっています)であるからだろう。そして、その〈像〉としてしか近づけない、みずからの身体的な存在が、皮膚で包まれた物質体としての身体をあふれでたり、めり込んだりしているからだろう。

 じぶんがそれであるところの身体がじぶんから遠く隔てられているということ、身体とのぎくしゃく(→「しっくりとは、いかない状況」という意味)とした関係のすべてはそういうわたしたちの存在条件に因(よ)(→「生きていること」、それ自体に伴う「不安」・「悩み」ということでしょうか。「ぎくしゃくとした関係」はある意味では、「楽しみ」・「暇つぶし」とも、言えるでしょう)。ーー『各人はそれぞれおのれ自身にもっとも遠い者である。』(ニーチェ)」 (『普通をだれも教えてくれない』)

 

 上記の、

わたしが抱く身体のイメージや観念」、

身体がわたしにとっては、知覚される物質体であるよりもむしろ、想像されるひとつの〈像〉(→「自分の頭の中のイメージ」です→「不安定性」がポイントになっています)である」、

については、入試頻出事項になっています。

 鷲田氏は、『ちぐはぐな身体 ファッションって何?』の中でも、上記と同様のことを述べています。より、理解が進むと思われるので、以下に引用します。

 

(概要です)

身体は〈像 (イメージ) 〉である。人間は自分の顔を自分で直(じか)に見ることはできない。背中や後頭部も、下半身の局部もそうだ。自分で知覚できる部分は思っているほど多くない。

 自分の身体で、自分自身が、じかに見たり触れたりして確認できるのは、つねにその断片でしかないとすると、この自分の身体とは離れてみればこんなふうに見えるんだろう、という想像の中でしか、自分の身体はその全体像を表さないと言っていいはずだ。つまり、自分の身体とは自分が想像するもの、つまり<像(イメージ)>でしかありえないことになる。」

 

(4)当ブログにおける「東大現代文」関連の記事の紹介

 

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(5)当ブログにおける「鷲田清一」関連の記事の紹介

 

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(6)当ブログにおける「身体論」・「心身問題」関連の記事の紹介

 

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↓この論考が身体論に関連しているということは、意外に盲点になっているようです。

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(7)当時ブログにおける「センター試験」関連の記事の紹介

 

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今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

ご期待ください。

 

    

  

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悲鳴をあげる身体 (PHP新書)

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2013東大国語第1問(現代文・評論文)解説ー翻訳・異文化理解

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 

 グローバル化、国際化の進展する現在において、政治・経済・社会などの様々な局面でグローバル化のマイナス面が鮮明になってきています。このような時こそ、「異文化理解」の重要性がますます高まってくるのです。

 入試国語(現代文)・小論文においても、「異文化理解」の論点は流行・頻出論点になっています。分かりにくい点の多い「異文化理解」の論点については、予備知識・教養のある方が明らかに有利です。

 そこで、今回は、入試国語(現代文)・小論文対策として、「翻訳と異文化理解の関係」について考察している湯浅博雄氏の論考(2013年・東大現代文過去問)を解説します。

 

 なお、今回の記事の項目は、以下のようになっています。

(2)東大現代文の解法→全問・記述式問題の特殊性を意識しよう→時間の使い方に気を付けよう

(3)2013年東大国語第1問(現代文・評論文)「ランボーの詩の翻訳について」湯浅博雄→本文・設問・解説・解答

(4)当ブログにおける「異文化理解」関連記事の紹介

(5)当ブログにおける「東大現代文(評論文)解説」関連記事の紹介

(6)当ブログにおける「センター試験国語(現代文)」関連記事の紹

(7)湯浅博雄氏の紹介

 

(2)東大現代文の解法→全問・記述式問題の特殊性を意識しよう→時間の使い方に気を付けよう

 

 東大現代文は素直な標準レベルの問題が多いので、論理的に精読・熟読していく姿勢が大切です。ある程度の理解が進むまでは、要約を考えないようにするべきです。

 問題は、いかに時間内に答案を書き上げるか、です。この答案作成の訓練は、何回か、しておくべきです。 

 その際には、過去問題を使用することを、おすすめします。模擬問題は、本文のレベルも、設問のレベルも、本番の問題とズレがあるので、使用しない方が賢明です。作成者のレベル、作成時間などに、落差がありすぎるのです。

 東大の合格点は、5~6割なので、記述問題においては、満点を狙う必要は、ありません。特に、大問1においては、最後の記述問題が最も配点が高いので、ここでじっくり考えられる時間を確保することが大切です。そのためには、最初の方の設問に時間をかけすぎないようにしてください。最初の方の設問については、7~8割の点が取れそうと思ったら、それで満足して、次の設問に取りかかるべきでしょう。

 「腹八分の精神」が、全体の得点をアップさせるポイントです。完全主義は、入試においては、有害無益です。

 

翻訳のポイエーシス―他者の詩学 (ポイエーシス叢書 60)

 

 

(3)2013年東大国語第1問(現代文・評論文)「ランボーの詩の翻訳について」湯浅博雄→本文・設問・解説・解答

 

(【1】・【2】・【3】・・・・は、当ブログで付記した段落番号です)

【1】詩人━ 作家が言おうとすること、いやむしろ正確に言えば、その書かれた文学作品が言おう、言い表そうと志向することは、それを告げる言い方、表し方、志向する仕方と切り離してはありえない。人々はよく、ある詩人ー作家の作品は「しかじかの主張をしている」、「こういうメッセージを伝えている」、「彼の意見、考え、感情、思想はこうである」、と言うことがある。筆者も、ときに(長くならないよう、短縮し、簡潔に省略するためにせよ)それに近い言い方をしてしまう場合がある。しかし、実のところ、ある詩人ー作家の書いた文学作品が告げようとしているなにか、とりあえず内容・概念的なものとみなされるなにか、言いかえると、その思想、考え、意見、感情などと思われているなにかは、それだけで切り離され、独立して自存していることはないのである。〈意味され、志向されている内容〉は、それを〈意味する仕方、志向する仕方〉の側面、表現形態の面、意味するかたちの側面と一体化して作用することによってしか存在しないし、コミュニケートされない。だから、〈意味されている内容・概念・イデー〉のみを抜き出して「これこそ詩人ー作家の思想であり、告げられたメッセージである」ということはできないのだ。

【2】それゆえまた、詩人ー 作家のテクストを翻訳する者は、次のような姿勢を避けるべきだろう。つまり翻訳者が、むろん原文テクストの読解のために、いったんそのテクストの語り方の側面、意味するかたちの側面を経由して読み取れるのは当然なのであるが、しかしフォルム的側面はすぐに読み終えられ、通過されて、もうこの〈意味するかたちの側面〉を気づかうことをやめるという姿勢はとるべきではない。ア もっぱら自分が抜き出し、読み取ったと信じる意味内容・概念の側面に注意を集中してしまうという態度をとってはならない。そうやって自分が読み取った意味内容、つまり〈私〉へと伝達され、〈私〉によって了解された概念的中身・内容が、それだけで独立して、まさにこのテクストの〈言おう、語ろう〉としていることをなす(このテクストの志向であり、意味である)とみなしてはならないのである。

【3】翻訳者は、このようにして自分が読み取り、了解した概念的中身・内容が、それだけで独立して(もうそのフォルム的側面とは無関係に)、このテクストの告げる意味であり、志向であるとみなしてはならず、また、そういう意味や志向を自分の母語によって読みやすく言い換えればよいと考えてはならないだろう。

【4】自分が抜き出し、読み取った中身・内容を、自らの母語によって適切に言い換えれば首尾よく翻訳できると考え、そう実践することは、しばしば読みやすく、理解しやすい翻訳作品を生み出すかもしれない。ただし、そこには、大きな危うさも内包されているのだ。原文のテクストがその独特な語り口、言い方、表現の仕方によって、きわめて微妙なやり方で告げようとしているなにかを十分に気づかうことから眼をそらせてしまうおそれがあるだろう。

【5】少し極端に言えば、たとえばある翻訳者が「これがランボーの詩の日本語訳である」として読者に提示する詩が、ランボーのテクストの翻訳作品であるというよりも、ィ はるかに翻訳者による日本語作品であるということもありえるのだ。

【6】それを避けるためには、やはり翻訳者はできる限り原文テクストを逐語的にたどること、〈字句どおりに〉翻訳する可能性を追求するべきだろう。原文の〈意味する仕方・様式・かたち〉の側面、表現形態の面、つまり志向する仕方の面に注意を凝らし、それにあたうかぎり忠実であろうとするのである。

【7】その点を踏まえて、もう一度考えてみよう。ランボーが《Tu voles selon……》(……のままに飛んでいく)と書いたことのうちには、つまりこういう語順、構文、語法として〈意味する作用や働き〉を行なおうとし、なにかを言い表そうと志向したこと、それをコミュニケートしようとしたことのうちには、なにかしら特有な、独特のもの、密かなものが含まれている。翻訳者は、この特有な独特さ、なにか密かなものを絶えず気づかうべきであろう。なぜならそこにはランボーという書き手の(というよりも、そうやって書かれた、このテクストの)独特さ、特異な単独性が込められているからだ。すなわち、通常ひとが〈個性〉と呼ぶもの、芸術家や文学者の〈天分〉とみなすものが宿っているからである。

【8】こうして翻訳者は、相容れない、両立不可能な、とも思える、二つの要請に同時に応えなければならないだろう。その一つは、原文が意味しようとするもの、言おうとし、志向し、コミュニケートしようとするものをよく読み取り、それをできるだけこなれた、達意の日本語にするという課題・任務であり、もう一つは、そのためにも、原文の〈かたち〉の面、すなわち言葉づかい(その語法、シンタックス、用語法、比喩法など)をあたう限り尊重するという課題・任務である。そういう課題・任務に応えるために、翻訳者は、見たとおり、原文=原語と母語との関わり方を徹底的に考えていく。翻訳者は、原文の〈意味する仕方・様式・かたち〉の側面、表現形態の面、つまり志向する仕方の面を注意深く読み解き、それを自国語の分脈のなかに取り込もうとする。しかし、フランス語における志向する仕方は、日本語における志向する仕方と一致することはほとんどなく、むしろしばしば食い違い、齟齬をきたし、摩擦を起こす。それゆえ翻訳者は諸々の食い違う志向する仕方を必死になって和合させ、調和させようと努めるのだ。あるやり方で自国語(自らの母語)の枠組みや規範を破り、変えるところまで進みながら、ハーモニーを生み出そうとするのである。

【9】こうして翻訳者は、絶えずゥ原語と母語とを対話させることになる。この対話は、おそらく無限に続く対話、終わりなき対話であろう。というのも諸々の食い違う志向の仕方が和合し、調和するということは、来るべきものとして約束されることはあっても、けっして到達されることや実現されることはないからだ。こうした無限の対話のうちに、まさしく翻訳の喜びと苦悩が表裏一体となって存しているだろう。

【10】もしかしたら、ェ 翻訳という対話は、ある新しい言葉づかい、新しい文体や書き方へと開かれているかもしれない。だからある意味で原文=原作に新たな生命を吹き込み、成長を促し、生き延びさせるかもしれない。翻訳という試み、原文と(翻訳者の)母語との果てしのない対話は、ことによると新しい言葉の在りようへとつながっているかもしれない。そう約束されているかもしれない。こういう約束の地平こそ、ベンヤミンが示唆した翻訳者の使命を継承するものであろう。

【11】そしてこのことは、もっと大きなパースペクティブにおいて見ると、諸々の言葉の複合性を引き受けるということ、他者(他なる言語・文化、異なる宗教・社会・慣習・習俗など)を受け止め、よく理解し、相互に認め合っていかなければならないということ、そのためには必然的になんらかの「翻訳」の必然性を受け入れ、その可能性を探り、拡げ、掘り下げていくべきであるということに結ばれているだろう。翻訳は諸々の言語・文化・宗教・慣習の複数性、その違いや差異に細心の注意を払いながら、自らの母語(いわゆる自国の文化・慣習)と他なる言語(異邦の文化・慣習)とを関係させること、対話させ、競い合わせることである。そうだとすれば、ォ 翻訳という営為は、諸々の言語・文化の差異のあいだを媒介し、可能なかぎり横断していく営みであると言えるのではないだろうか。

(湯浅博雄「ランボーの詩の翻訳について」)

【注】

○フォルムーー forme(フランス語)、form(英語)に同じ。

○ランボー ーーArthur Rimbaud(1854~1891)フランスの詩人

○シンタックスーー syntax 構文

○ベンヤミンーーWalter Benjamin(1892~1940)ドイツの批評家

 

ーーーーーーーー

 

(設問)(漢字問題は省略します)

(一)「もっぱら自分が抜き出し、読み取ったと信じる意味内容・概念の側面に注意を集中してしまうという態度を取ってはならない」(傍線部ア)とあるが、それはなぜか、説明せよ。(60字程度) 

(二)「はるかに翻訳者による日本語作品である」(傍線部イ)とはどういうことか、説明せよ。(60字程度) 

(三)「原語と母語とを対話させる」(傍線部ウ)とはどういうことか、説明せよ。(60字程度) 

(四)「翻訳という対話は、ある新しい言葉づかい、新しい文体や書き方へと開かれている」(傍線部エ)とあるが、なぜそういえるのか、説明せよ。(60字程度)

(五)「翻訳という営為は、諸々の言語・文化の差異のあいだを媒介し、可能なかぎり横断していく営みである」(傍線部オ)とあるが、なぜそういえるのか、本文全体の趣旨を踏まえた上で、100字以上120字以内で説明せよ。

 

 ーーーーーーーー

 

【解説・解答】

(一)(理由説明問題)

  まず、傍線部アでは、「『意味内容・概念の側面』に、もっぱら注意を集中してはならない」と述べているから、「意味内容」と反対のものを考えます。
 それでは、「意味内容・概念の側面」の反対の言葉は何でしょうか? 傍線部の直前の文で、「〈意味するかたちの側面〉を気づかうことをやめるという姿勢は取るべきではない」と述べているので、「かたち」です。

 次に、傍線部を含む【2】段落の最初に「それゆえ」とあることに注目して、直前の段落にも着目するべきです。

 「かたち」とは、【1】段落第5文では「表現形態」と表現されています。

 また、【1】段落第1文に「詩人―作家が言おうとすること、その書かれた文学作品が言おう、言い表そうと志向することは、それを告げる言い方、表し方、志向する仕方と切り離してはありえない」と述べられていることにも、注意してください。

(解答)

文学作品では内容と表現形態は一体化しており、内容だけに注目していては、作品の一面を見ているにすぎないから。

 

(二)(傍線部説明問題)

 傍線部イでは、「翻訳された文学作品は、翻訳作品であるというよりも、ィ はるかに翻訳者による日本語作品であるということもありえる」と述べている。

 この傍線部を含む一文は「少し極端に言えば」で始まるので、直前の【3】段落・最終文の言い換えです。そこに注目すると、「内容のみの伝達に集中し、表現形態を軽視した翻訳は、原文の独特な語り口、言い方、表現の仕方によって告げようとしているなにかから眼をそらせる」とあります。

 その「なにか」とは、何でしょうか? 

 【4】段落と同一意味内容の【7】段落より「テクストの独特さ、特異な単独性」、「通常ひとが〈個性〉と呼ぶもの」であることが分かります。

 つまり、内容伝達にのみに集中する翻訳は、表現形態の中に含まれている「テクストの独特さ、特異な単独性」、「通常ひとが〈個性〉と呼ぶもの」を伝えきれず、自らの創作のようなものになるのです。

(解答)

翻訳者が、原文の表現形態に含まれる特異な単独性を無視し、読み取った内容のみを日本語に言い換えた、原作とは別の作品ということ。

→内容的には、設問(一)と同じです。同一内容のことを、別の視点から聞いています。本文における重要なポイントだからです


(三)(傍線部説明問題)

 傍線部ウ「絶えず原語と母語とを対話させる」の直前の「こうして」に注目する必要があります。傍線部ウは、直前段落の内容を受けています。

  直前の【8】段落は、「原文の言語を翻訳しようとすると、二つの言語の志向する仕方の違いから翻訳が一致することはほとんどない。従って、翻訳者は二つの言語を和合・調和させようと努力する」という内容になっています。

 もちろん、この「原語と母語との対話」は、傍線部の直後にも記述されているように、「無限の対話」になる可能性があります。しかし、そこに翻訳の喜びと苦悩の両方があるのでしょう。  

(解答)

原語の表現形態を尊重しつつ母語に翻訳する過程で、原語と母語との表現形態の齟齬の調和を目指して、規範を変容させてでも適切な翻訳を模索するということ。

 

(四)(理由説明問題)

 傍線部エでは、「翻訳により、新しい言葉づかいや新しい文体が生まれるかもしれない」と述べています。

 これは、直前の【9】段落・最終文で、「原語と母語の無限の対話のうちに、まさしく翻訳の喜びと苦悩が表裏一体となって存在している」と述べている点に関連しています。

 さらに、傍線部エは、【8】段落・最終文にも関連しています。再掲します。
「翻訳者は諸々の食い違う志向する仕方を必死になって和合させ、調和させようと努めるのだ。あるやり方で自国語(自らの母語)の枠組みや規範を破り、変えるところまで進みながら、ハーモニーを生み出そうとするのである。」

 これは、両言語の文法・語法の違いから、原語の表現形態をそのまま母語に移すことができないからです。

 しかし、その翻訳者の苦しみは報われないものではなく、傍線部エの後の文で述べられているように、「翻訳という試みは、新しい言葉の在りようへとつながっているかもしれない」のです。

(解答)

原語の表現形態をそのままでは母語に移せないため、翻訳者は、母語の既存の枠組みや規範を破り、変化させる可能性があるから。


(五)(理由説明問題)

 傍線部の直前の「そうだとすれば」に注目する必要があります。

 傍線部の直接の理由は直前の一文に述べられています。

 直前の一文は、以下のようになっています。「翻訳は/①諸々の言語・文化・宗教・慣習の複数性、その違いや差異に細心の注意を払いながら、/②自らの母語(いわゆる自国の文化・慣習)と他なる言語(異邦の文化・慣習)とを関係させること、対話させ、競い合わせることである。」

 この一文は、①②に注目すると、設問(一)~(四)の内容を含んでいることが分かります。

 従って、①・②に注意しながら、設問(一)~(四)の解答をまとめつつ、「翻訳」と「異文化理解」の「関係」を考えるようにするとよいでしょう。

 要するに、この設問は、設問(一)~(四)の解答を意識しつつ、最終段落である【11】段落を説明する問題と言えます。
 本文全体を要約する問題では、ありません。

 なお、傍線部を含む【11】段落では、翻訳は、単なる言語の置き換えではなく、他文化を理解するということであると述べられていることに注意してください。 

(解答)

文学作品の翻訳は内容と表現形態が一体化しているので、他者の言語の表現形態と自己の母語の調和のため、母語の枠組みの解体・変化まで考えて新たな表現を模索するが、これは諸々の言語・文化の複数性を引き受けて相互の文化理解を試みる態度に通じるから。(120字)

 

 

(4)当ブログにおける「異文化理解」関連記事の紹介

 

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(7)湯浅博雄氏の紹介

 

湯浅 博雄(ゆあさ ひろお)
1947年香川県生まれ。日本のフランス文学者。東京大学大学院人文科学研究科仏文学専攻博士課程単位取得。パリ第3大学大学院に留学。東京大学大学院総合文化研究科・教養学部教授を経て、同名誉教授。獨協大学特任教授(外国語学部フランス語学科)。
フランス思想・文学、言語態研究。
主としてランボー及びバタイユを研究、翻訳するほか、詩や現代思想も翻訳している。


【著書】

『未知なるもの=他なるもの』(哲学書房)、
『他者と共同体』(未來社)、
『反復論序説』(未來社)、
『ランボー論』(思潮社)、
『聖なるものと〈永遠回帰〉』(ちくま学芸文庫)、
『バタイユ』(講談社学術文庫)、
『応答する呼びかけ』(未來社)、
『翻訳のポイエーシス 他者の詩学』(未來社) ほか。

 

【翻訳編集】 

『アルチュール・ランボー 生涯と作品』( M.A.リュフ 村山千恵共訳・人文書院 1980)
『ニーチェ』 (ジル・ドゥルーズ  朝日出版社 1985/ ちくま学芸文庫 1998)
『宗教の理論』 (ジョルジュ・バタイユ  人文書院 1985/ ちくま学芸文庫 2002)
『アルチュール・ランボー』 (ピエール・プチフィス 中安ちか子共訳・筑摩書房 1986)
『エロティシズムの歴史』(バタイユ 中地義和共訳・哲学書房 1987、新版2001/ ちくま学芸文庫 2011.4)
「至高性 呪われた部分 - 普遍経済論の試み 第3巻」( バタイユ 人文書院 1990)
『パッション』 (ジャック・デリダ 未來社 2001)
『エコノミメーシス』 (ジャック・デリダ 小森謙一郎共訳・未來社 2006)
『ランボー全集』 (平井啓之、中地義和、川那部保明共訳・ 青土社 2006)

 

ーーーーーーーー

 

今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

ご期待ください。

   

  

  

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翻訳のポイエーシス―他者の詩学 (ポイエーシス叢書 60)

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終わりなき対話 II 限界-経験 (単行本)

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応答する呼びかけ―言葉の文学的次元から他者関係の次元へ (ポイエーシス叢書 58)

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

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5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

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 私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。

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擬古文・文語文・青学大現代文解説『濹東綺譚』永井荷風・近代批判

 (1)なぜ、この記事を書くのか?→擬古文・文語文を得意分野にしよう。

 

 大学入試現代文(国語)・小論文における、擬古文(および、擬古文的な、一時代前の読みにくい文章、文語文)の出題率は、決して低下していません。

 むしろ、最近では、じわじわ増加しています。

 最近では、2013年のセンター試験で、小林秀雄氏の「鐔」が出題され、この問題に対して、「一時代前の文章で読みにくく、問題として不適切ではないか」という批判がありました。

 この種の意見は、難関国公立・私立大の入試の実態を知らない人々から出された、ある意味で無責任なものです。

 受験生としては、冷静に入試の情報を入手して、合理的で、賢明な対応をとるべきです。

 以下に、擬古文・文語文の出題状況について、センター試験、主な難関大学の出題を列挙します。

 
《1》最近の擬古文(および、擬古文的な文章、文語文)の出題状況

 

① センター試験

1991ー夏目漱石「道草」

1997ー島崎藤村「夜明け前」

2004ー森鴎外「護持院原の敵討」 

2008ー夏目漱石「彼岸過迄」

2013ー小林秀雄「鐔」

 

② 難関国公立・私立大(一部です)

東北大ー岡本かの子、横光利一、

一橋大ー中江兆民、福沢諭吉、津田左右吉、

京都大ー岡倉天心、福地桜痴、西田幾多郎、福沢諭吉、永井荷風、

大阪大ー柳田国雄、永井荷風、岡本かの子、中島敦、

広島大ー久米正雄、

早稲田大(政経)ー高村光太郎、夏目漱石、木下杢太郎、岡本綺堂、正岡子規、

早稲田大(文化構想)ー北村透谷、南方熊楠、

早稲田大(国際)ー夏目漱石、森鴎外、二葉亭四迷、

上智大(法)ー津田左右吉、夏目漱石、

上智大(経済)ー坪内逍遙、福沢諭吉、夏目漱石、徳富蘆花、中江兆民、

上智大(文)ー幸田露伴、

中央大(法)ー穂積陳重、夏目漱石、吉野作造、

明治大(法)ー安部磯雄、幸田露伴、穂積陳重、

立教大(文)ー安部次郎、葉山嘉樹、

法政大ー梶井基次郎、柳宗悦、

立命館大ー長谷川如是閑、

 

 以上は、最近、出題された例の、ほんの一部です。

 上記の、東北大、一橋大、京都大、大阪大、広島大、早稲田大(政経)(文化構想)(国際)、上智大(法)(経済)(文)、中央大(法)、明治大(法)、立教大(文)、法政大、立命館大などを目指す受験生が、擬古文対策をするべきなのは当然です。

 が、それまで擬古文を出題しなかった大学・学部が、突然、擬古文を出題することも、よくあります。

 従って、油断は禁物です。

 

 いかにも読みにくい擬古文は、頻繁に出題されているのです。

 現代文の引用文が擬古文という問題も、頻出です。

 従って、なるべく早く、擬古文対策をとることが大切だと思います。

 

 (なお、擬古文・文語文対策をやっておくと、漢文・古文(特に、江戸時代)の文章読解、古文・漢文の漢字・単語問題(読み・意味)にも、かなり、役に立ちます。)

 

《2》擬古文・文語文対策ー擬古文・文語文解法のポイント・注意点

 以下に、擬古文・文語文対策として、すぐに役立つ、擬古文・文語文解法のポイント・コツ・注意点を、簡潔に述べます。

 

① 古文・漢文の基礎を固める

→擬古文は、古文と現代文の過渡期(明治時代・大正時代)の文章であることを、意識してください。

 

② 慣れる

→過去問(他大学、他学部の過去問も含む)を多くやることにより、擬古文・文語文に慣れるようにしてください。
 模擬問題(模擬試験・問題集など)は、作成者のレベルに問題があることが多いので、つまり、入試問題のように洗練されていないので、おすすめできません。

 

③   粘る。諦めない

→最初(通読の第一回目)は飛ばし読みも可(早く全体像を把握する)→過去問を演習することにより、「粘ること」や「諦めないこと」、「早く全体像を把握すること」の有用性・重要性を実感してください。

 

④ 早く問題文本文に付加されている「注」に着目する

→「注」には、難読語の読み・意味や、難解部分の現代語訳が、記述されていることが多いのです。従って、早く着目すること、つまり、本文を精読・熟読する前に着目することが、必要です。

→入試問題は、案外、受験生に親切です。得点分布曲線を理想型にするためです。

 

⑤ 設問をヒントにする

→本番の問題では、本文が難解な時には、設問に様々なヒントがあることが多いのです。設問を精密にチェックして、ヒントを発見することを、心掛けてください。予想以上に、ヒントがあることに驚くと思います。従って、「注」と同じように、早く注目すること、つまり、本文を精読・熟読する前に注目することが、必要です。

 

 以上に気をつけて、以下の予想問題(頻出問題です)に、チャレンジしてください。入試直前期以外では、時間制限を設定しないで、じっくり考えてください。

 なお、下の『濹東綺譚』(永井荷風)は、頻出出典です。
 来年度も出題の可能性が高いので、気をつけてください。

 

ぼく東綺譚 (新潮文庫)

 

 

(2) 『墨東綺譚』永井荷風(2010青山学院大学過去問・解説)ー擬古文・文語文対策

(青字は問題文本文の「注」、当ブログによる「注」です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

【1】わたくしは帚葉(そうよう)翁(→「本文の注」(以下は「注」と表記)→筆者永井荷風の友人)と共に万茶亭(ばんさてい)(→「注」→荷風の行きつけの喫茶店)に往(い)く時は、狭い店の中の暑さと蠅(はえ)の多いのとを恐れて、店先の並木の下に出してある椅子(いす)に腰をかけ、夜も十二時になって店の灯の消える時までじっとしている。家へ帰って枕についても眠られない事を知っているので十二時を過ぎてもなお行くべきところがあれば誘われるままに行くことを  辞さなかった。翁はわたくしと相対して並木の下に腰をかけている間に、万茶亭と隣接した酒場に出入する客の人数を数えて手帳に書きとめる。円タク(→「注」→市内料金が一円均一の流しのタクシー)の運転手や門附(かどづけ)(→「注」→人家の門口で芸を見せ報酬をもらう人)と近づきになって話をする。それにも飽きると、表通りへ物を買いに行ったり路地を歩いたりして、戻って来るとその見て来た事をわたくしに報告する。今、どこの路地で無頼漢が仁義の礼を交していたとか、あるいは向こうの川岸で怪しげな女に袖を引かれたとか、かつてどこそこの店にいた女給が今はどこそこの女主人になっているとかいう類の話である。

【2】わたくしは翁の談話によって、銀座の町がわずか三四年見ない間にすっかり変った、その景況の大略を知ることができた。震災前表通りに在った商店で、もとの処(ところ)に同じ業をつづけているものは数えるほどで、今はことごとく関西もしくは九州から来た人の経営に任(ゆだ)ねられた。裏通の到(いた)る処に海豚汁(ふぐじる)や関西料理の看板がかけられ、横町の角々に屋台店の多くなったのも 2  怪しむには当らない。地方の人が多くなって、外で物を食う人が増加したことは、いずこの飲食店も皆繁昌している事がこれを明らかにしている。地方の人は東京の習慣を知らない。最初、停車場構内の飲食店、また百貨店の食堂で見覚えた事はことごとく東京の習慣だと思込んでいるので、汁粉(しるこ)屋の看板を掛けた店へ来て中華蕎麦(そば)があるかときき、蕎麦屋に入って天麩羅(てんぷら)を 3  あつらえ断られていぶかし気な顔をするものも少なくない。飲食店の硝子(がらす)窓に飲食物の模型を並べ、これに価格をつけて置くようになったのも、蓋(けだ)し止むことを得ざる結果で、これまたその範を大阪に則ったものだということである。

【3】街に灯がつき蓄音機の響きが聞こえ始めると、酒気を帯びた男が四五人ずつ一組になり、互にその腕を肩にかけ合い、腰を抱き合いして、表通りといわず裏通りといわず銀座中をひょろひょろさまよい歩く。これも昭和になってから新たに見る所の景況で、震災後しきりにカフェーの出来はじめた頃にはまだ見られぬものであった。わたくしはこの不体裁にしてはなはだ無遠慮な行動の原因するところを 4  つまびらかにしないのであるが、その実例によって考察すれば、昭和二年初めて三田の書生(→「注」→慶応大学の学生)及び三田出身の紳士が野球見物の帰り群をなし隊を作って銀座通を襲った事を看過するわけには行かない。彼等は酔いに乗じて夜店の商品を踏みこわし、カフェーに乱入して店内の器具のみならず家屋にも多大の損害を与え、制御の任に当る警吏と相争うに至った。そして毎年二度ずつ、この暴行は繰返されて今日に及んでいる。わたくしは世の父兄にして未だ一人の深くこれを憤り、その子弟をして退学せしめたもののある事を聞かない。世はこぞって書生の暴行を以て〔  A  〕となすものらしい。かつてわたくしも明治大正の交わり、乏(ぼう)を承(う)けて(→「注」→ここでは「就任の依頼を受けて」の意)三田に教鞭(きょうべん)を把(と)った事もあったが、早く辞して去ったのは幸いであった。そのころ、わたくしは経営者中の一人から、三田の文学も稲門(→「注」→早稲田大学のこと)に負けないように尽力していただきたいと言われて、 5  その愚劣なるに眉をひそめたこともあった。彼等は文学芸術を以て野球と同一に視(み)ていたのであった。

【4】わたくしは元来その習癖よりして党を結び群をなし、その威を借りて事をなすことを欲しない。むしろ、これを怯(きょう)となして(→「注」→卑怯なことと考えて)排(しりぞ)けている。治国の事はこれを避けて論外に措(お)く。わたくしは芸林に遊ぶものの往々社を結び党を立てて、己に与するを揚げ与せざるを抑えようとするものを見て、之を怯となし、陋(ろう)となす(→「注」→心根が卑しいと考えること)である。

【5】鴻雁(こうがん)(→「注」→雁)は空を行く時列をつくって己を護(まも)ることに努めているが、鶯は幽谷を出でて喬木(きょうぼく)に遷(うつ)らんとする時、群をもなさず列をもつくらない。しかもなお鴻雁は猟者の砲火を逃るることができないではないか。〔  B    〕(永井荷風『濹東綺譚』「作後贅言」による)

 

ーーーーーーーー

 

(設問)

問1  傍線部1「辞さなかった」の意味として最適なものを次の中から一つ選べ。

①  決めなかった
②  断らなかった
③  信じなかった
④  話さなかった
⑤  欲しなかった

 

問2  傍線部2「怪しむには当らない」の意味として最適なものを次の中から一つ選べ。

①  深い意味があるわけではない
②  不思議がるほどのことはない
③  不調和だということはできない
④  理由を詮索(せんさく)しても仕方がない
⑤  悪く言うほどのことではない


問3  傍線部3「あつらえ」の意味として最適なものを次の中から一つ選べ。

① 想像し  ② 食べ  ③ 注目し  

④ 残し  ⑤ 料理し

 

問4  傍線部4「つまびらかにしない」の意味として最適なものを次の中から一つ選べ。

①  くわしく知らない
②  研究していない
③  肯定しない
④  報告していない
⑤  理解できない


問5  空欄Aに入る文字として最適なものを次の中から一つ選べ。

① 奇  ② 愚  ③ 是  ④ 否  ⑤ 無

 

問6  傍線部5「その愚劣なるに眉をひそめたこともあった」とあるが、筆者はなぜそのように感じたのか。その理由として最適なものを次の中から一つ選べ。

①  文学芸術は、野球のように、大学間の伝統の差によって勝敗が決まるものではないから。
②  文学芸術は、野球のように、夢中になるだけの価値があるものではないから。
③  文学芸術は、野球のように、勝ち負けを競うような単純なものではないから。
④  文学芸術は、野球のように、努力次第で結果が出せるようなものではないから。
⑤  文学芸術は、野球のように、大学をあげて応援しなければならないようなものではないから。


問7  傍線部6「与する」の「与」の読みとして最適なものを次の中から選べ。

① き  ② よ  ③  そん  ④ くみ  ⑤ あたい


問8  空欄Bに入る文として最適なものを次の中から一つ選べ。

①   結社は必ずしも身を守る道とは言えない。
②   人間は必ずしも鳥と同じではない
③   飛行は必ずしも万全の防御ではない
④   無秩序は秩序あるに勝るのである
⑤   災いの来たれるは時の運である

 

ーーーーーーーー

 

(解説・解答)

 本文は読みにくいですが、ほとんどの設問が語彙力を問う問題)単語力を問う問題です。難解な本文を見ただけで簡単に諦めないことが大切です。入試合格・勝負のポイントは「粘り」です。擬古文、文語文問題は、このような知識重視型の問題が多いのです。単語力・語彙力をアップするようにしてください。


問1(意味選択問題・語彙力を問う問題)

 基礎的な問題です。

(解答) ②


問2(意味選択問題・語彙力を問う問題)

 「怪しむ」は「不思議だと思う」、「変だと思う」という意味です。

(解答) ②


問3(意味選択問題・語彙力を問う問題)

 「あつらえる」(誂える)は「注文する」という意味。昔は「飲食店における注文」の意味でも使いました。

(解答) ③


問4(意味選択問題・語彙力を問う問題) 

→頻出問題です。

 「つまびらか」(詳らか)は「詳しい様子」という意味。

(解答) ①


問5(空欄補充問題・語彙力を問う問題)

 空欄を含む文の二つ前の文「毎年二度ずつ、この暴行は繰返されて今日に及んでいる」、

直前の文「わたくしは世の父兄にして未いまだ一人いちにんの深く之を憤り其子弟をして退学せしめたもののある事を聞かない」より、

「この不体裁にしてはなはだ無遠慮な」(【3】段落第3文)「書生の暴行」(【3】段落第7文、空欄Aを含む一文)を肯定的に評価していることを読み取ってください。 

(解答) ③


問6(傍線部説明問題・理由説明問題)

 まず、傍線部の「その」に注目してください。 

 「眉をひそめる」は「嫌な時、心配な時に眉にしわを寄せる」という意味です。

「眉をひそめた」理由は、直前の「経営者中の一人から、三田の文学も稲門に負けないように尽力していただきたいと言われ」たことと、直後の「彼等は文学芸術を以て野球と同一に視(み)ていた」ことです。つまり、「文学芸術」を「野球と同一に視て」いて、「負けないように」と言ってしまうことを「愚劣」と表現したのです。

(解答) ③


問7(漢字の読み問題)

→頻出問題です。

 「与(くみ)する」の意味は「味方する。助力する」です。「読み」も「意味」も最頻出です。

(解答) ④


問8(空欄補充問題)

 直前の「鴻雁(こうがん)(→「注」→雁)は空を行く時をつくっておのれを護(まも)ることに努めているが、鶯は幽谷を出でて喬木(きょうぼく)に遷(うつ)らんとする時、をもなさずもつくらない。しかもなお鴻雁は猟者の砲火を逃るることができないではないか。」、

直前の段落の「わたくしは元来その習癖よりしてを結びをなし、其威を借りて事をなすことを欲しない。むしろ之を怯(きょう)となして(→「注」→卑怯なことと考えて)排(しりぞ)けている。治国の事はこれを避けて論外に措(お)く。わたくしは芸林に遊ぶものの往々を結びを立てて、己おのれに与くみするを揚げ与せざるを抑えようとするものを見て、之を怯となし、陋(ろう)となす(→「注」→心根が卑しいと考えること)である。」、

に注目してください。

 直前の「」・「」が、「結社」の「言い換え」になっていることを読み取ってください。

 (解答) ①

 

 

(3)永井荷風の紹介

 

 永井荷風(1879~1959)本名壮吉。号は断腸亭主人。東京生れ。明治・大正・昭和期の小説家、随筆家。

 東京都小石川に官吏の子として生まれる。高等師範学校付属中学校(1897年卒)をへて、東京外国語学校清語科(現東京外大)中退。福地源一郎に弟子入りし、広津柳浪に入門。習作のかたわら清元、尺八、落語を稽古。また福地桜痴に師事、歌舞伎作者の修業もする。ゾラに心酔して『地獄の花』などを著す。1903年より1908年まで外遊。帰国して『あめりか物語』『ふらんす物語』等の作品を発表して、「耽美派」の代表作家となる。1910年、慶応大学教授となり、『三田文学』を創刊。その一方、花柳界に入りびたって『腕くらべ』『つゆのあとさき』『濹東綺譚』などを著す。『腕くらべ』などで花柳界の風俗を描写した。

 第2次世界大戦中は沈黙したが,戦後,その間ひそかに書きためた『浮沈』『踊子』『勲章』『来訪者』や 17年以来の日記『断腸亭日乗』を発表。 1952年文化勲章受章。

 フランスから帰国後、東京の形骸化した西洋文明、皮相的な近代日本への嫌悪感を隠さず、反発した。偏奇館と名付けた自宅で孤独に著作を続け、反時代的、反俗的な文明批評家としての姿勢を貫いた。そして、江戸趣味へ傾斜しつつ、「かつての江戸」と「色街」を愛した。独自の文明批評と耽美享楽の作風で、「反自然主義文学」の代表作家として著名だった。

 

 

(4)当ブログにおける「擬古文・文語文」関連の記事の紹介

 

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 ーーーーーーーー

 

今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は約1週間後に発表の予定です。

ご期待ください。

 

   

 

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ぼく東綺譚 (新潮文庫)

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ふらんす物語 (新潮文庫)

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

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5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

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予想問題『身の構造』市川浩/早大教育・過去問ー身体論・身(み)

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 

 近代原理であるデカルトの「心身二元論」については、様々な批判があります。

 近代化の進展により、以下のような深刻な病理が顕著になってきました。

 様々な事物からの奥行き・味わいの消滅、自己確認と無縁になってしまった労働環境、人間関係の希薄化・表面化・一時化、アイデンティティの不安定化・拡散、人間の冷酷化・ロボット化、感性の幼児化・未発達。

 これらの深刻な病理は、「生きている身体」(「身(み)」)、感覚の直接性(体感)を保持している「身体」の重要性を、軽視してきた結果です。それゆえに、今こそ、「身体性の復権」が課題になっているのです。

 「心身二元論」の見直しに関連する議論は、「身体論」と言われています。「身体論」は入試現代文(国語)・小論文における頻出・重要論点です。

 

 今回は、「身体論」における頻出著者である市川浩氏の論考『身の構造』の解説を、早稲田大学教育学部の過去問解説を通して行います。

 

 なお、市川氏は『身の構造』の中で以下のように述べています。(赤字は当ブログによる「強調」です)

「近代科学が発展してくる前提として、決定的な「切断」の論理がはたらいていることを認識しなくてはならない。自と他とを明確に分ける。身体と心とを明確に分ける。このような「切断」を前提として近代科学が発展してきた。それがあまりにも効果的だから、何でもできそうに思えている。しかし、実際には、物事はそれほど「切断」されていない。自分と他人、心と身体は、案外つながっているのではなかろうか。」(『身の構造』)

 この視点は、近代批判として重要な視点だと思います。

 

〈身〉の構造 身体論を超えて (講談社学術文庫)

 

 

 (2)『〈身〉の構造』の解説ー早稲田大学教育学部・過去問の解説

(問題文本文)(概要)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です)

(以下も同様です)

【1】われわれのからだは、そのすべての部分がいつも同じようにはたらいているわけではない。寝ているとき、座っているとき、しゃべっているとき、歩いているときは、はたらいている神経も筋肉も同じではない。われわれは、刻一刻たえず新しい身の統合をなしとげている。このたえず変化する動的な統合の複雑さには、どのような人工的システムもかなわないだろう。だがこの現実的な統合が身の統合のすべてではない。

【2】道を歩いている人のなかには、剣道の達人もあれば、ピアノの上手な人もあるだろう。道を歩くという現実的な統合の範囲にとどまるかぎり、ふたりの身の統合の構造は似たようなものであり、からだとしては同じだ、といえるかもしれない。しかし、それがふたりの身の真の姿ではない。ふたりの身は、今は実現していないが、実現しうる〔 1 〕な統合可能性を  構造化している。ひとりの身のうちには、これまでの剣の立ち合い、さらにはこれまでの剣道の歴史、B  ケンゼン 一致の思想までも、肉化しているかもしれない。ピアノを弾く人は、ピアノの鍵盤を身体図式のうちに組みこみ、ピアノ曲の解釈の歴史、演奏法の伝統をも潜在的な身の統合のうちに包みこんでいる。身は解剖学的構造をもった生理的身体であると同時に、文化や歴史をそのうちに沈澱させ、身の構造として構造化した文化的・歴史的身体にほかならない。つまり身体は文化を内蔵するのである。

【3】そればかりではなく、素質のように未来に実現すべき〔 2 〕統合もあれば、病者にとっての健康のように回復すべき可能的統合もある。病や障害は、現実的統合としてみれば、それ自体は積極的な統合である。それが異常や欠如とみなされるのは、今は不在である可能的身体(いわゆる健康な身体)との関係において、異常であったり、欠如であったりするにすぎない。「健康」という概念は時代や社会によって異なる。色弱が問題にならない社会もあれば、聖なる呪術師や巫女が、精神異常とされる社会もあるだろう。身の可能的統合の拡がりは、時代や社会によって変化する。生き身は単なる生理的身体ではなく、そのような潜在的、あるいは可能的な統合を内蔵している。

【4】この内蔵化の過程というのは、連続的な過程にみえて、実はかなり不連続である。スポーツでも楽器の演奏でも、あるいはもっと抽象的な学習でもよい。試みるたびにうまくなり、理解が進むのは当然として、あるとき突然身の動きが自由になり、頭が晴れる思いをすることがあるのではないだろうか。あたかもそれまで無かった網目が突然身のうちに張りめぐらされたかのように。経験は身のうちに沈澱し、くりかえしは(能動的な訓練の場合はもちろん、とくに意識することなくくりかえしている場合でも)、自分では気がつかない小さな発見と創造によって、まだ不確定な網目を潜在的に身のうちに紡ぎ出しているのではないだろうか。

【5】練習は、能動的に身をある方向に整除して、統合を容易にする回路を身のうちに形成する試みである。身体を動かさないイメージ練習や、イメージを積極的に浮かべて練習することが、動きを内蔵する早道であることがある。これは意識的・能動的な統合である。ところが逆につぎの段階では、C イメージが邪魔になる。こんどは動きによってイメージを消し、無心の状態に達することが必要になる。場合によっては、練習を休むことによって、上手くなったり、こつがつかめることさえある。この場合にはたらいているのは、無意識的・受動的な統合ともいうべきものである。休んでいる間も練習された動きは、徐々に身のうちに沈澱し、動きのネットワークが〔 3 〕に構成され、あるとき突然網目がつながるのであろう

【6】ところが一たん網目ができあがると、くりかえしはただの反復に陥りがちである。最も D 抵抗のない道がえらばれ、習慣は惰性となるだろう。しかし惰性なくりかえしは、あるとき飽和状態になる。われわれは突然惰性的生に飽きていることを発見する。

【7】どんな E 立派な計画やユートピアにたいしても、「否!」という少数者がいるというだけではなく、計画は現実化するにつれて惰性化し、それに飽きた多数者を生み出す。人間は座りつづけることもできないし、立ちつづけることもできない。すぐに惰性化する存在でありながら、惰性的でありつづけることもできない。

【8】人間は易きにつく存在だから、禁欲の時代のつぎに享楽の時代が来るのはわかりやすい道理である。面白いのは、人間は享楽にも飽きるということである。享楽の時代のつぎに禁欲の時代が来るという不思議さーー同じ状態を永くつづけることができない人間のいたたまれなさは、動かしがたくみえる生き方を転換し、不可避とみえる袋小路を打開する力さえもっている。これが 慢性的=創造的な習慣的身体の逆説である。(市川浩の文章による)

 

ーーーーーーーー

 

(設問)

問1  空欄1~3に入れるのに最適なものを次の中から選べ。

1 動的  2 現実的  3 潜在的  4 構造的  

5 生理的  6  文化的・歴史的  7 可能的  

8 積極的  9 抽象的  10 能動的  

11 受動的  12 習慣的

 

問2  傍線部Aの「構造化」とほぼ同じ意味で用いられている語(3字)を文中から抜き出せ。

 

問3  傍線部Bのカタカナに該当する漢字を次の中から選べ。

1 健全  2 剣禅  3 剣善  4 剣前  5 研漸

 

問4  傍線部C「イメージが邪魔になる」のはなぜか。その理由として最適なものを次の中から選べ。

1  イメージ練習ばかりに頼っていると、それが沈殿して受動的な網目を構成してしまうから

2  イメージ練習の反復は、身体化されることがなく飽和状態になってマンネリ化するから。

3  イメージ練習で形成化されたものが固定化し、新しい能動的な網目を生み出さないから

4  イメージ練習と能動的練習は回路がちがうので、新しい網目を統合しないから

5  イメージ練習ばかりに頼っていると、網目の受動的なこと構成を阻害されるから

 

問5  傍線部D「抵抗のない道がえらばれ」るということと、ほぼ同じ意味で用いられている語句(5字)を文中から抜き出せ。

 

問6  本文の論旨の上で、傍線部E「立派な計画やユートピア」に相当する語はどれか。次の中から最適なものを選べ。

1 結合  2 歴史  3 過程  4 網目  5 構成  6 惰性

 

問7  傍線部F「惰性的=創造的な習慣的身体の逆説」とはどういうことか。その説明として最適なものを次の中から選べ。

1  惰性と創造を反復しつつ、最終的には無意識のうちに習慣化した身体を作り出すという逆説

2  享楽にさえ飽きる存在でありながら、逆に禁欲的状態によってユートピアを創造する不思議さ

3  惰性と創造を共存させながら、習慣によって生を新しく転換するというパラドックス

4  惰性的な生は永続せず、必ず新しい生を生み出さずにはいない身体の不思議なあり方

5  惰性と創造を繰り返しつつ、しかも同じ状態にとどまらない人間の心の面白さ

 

問8  この文章の主題を端的に示す表題として最適なものを次の中から選べ。

1  身体は潜在的可能を統合する

2  身体は文化を内蔵する

3  意識的・能動的な統合

4  身体を統合するネットワーク

5  人間は享楽にも飽きる

 

ーーーーーーーー

 

(解説・解答)

問1 (空欄補充問題)

1は、直後の一文の「ひとりの身のうちには、これまでの剣の立ち合い、さらにはこれまでの剣道の歴史、ケンゼン一致の思想までも、肉化しているかもしれない。」に注目してください。1には「潜在的」(3)が入ります。

2は、直前の「素質のように未来に実現すべき」に着目するとよいでしょう。2には「可能的」(7)が入ります。

3は、直前の一文「この場合にはたらいているのは、無意識的・受動的な統合ともいうべきものである」に注意してください。また、「休んでいる間練習された動きは、徐々に身のうちに沈澱し、動きのネットワークが〔 3 〕に構成」されるというのですから、3には「受動的」(11)が入ります。

(解答) 1=3   2=7   3=11

 

問2( キーワードを問う問題)→本文を読む前にチェックするべきです。

①Aを含む一文「ふたりの身は、今は実現していないが、実現しうる〔1=潜在的〕な統合可能性を A  構造化している。」、

②同一段落最終文 「つまり身体は文化を内蔵するのである。」、

③【3】段落最終文「生き身は単なる生理的身体ではなく、そのような潜在的、あるいは可能的な統合を内蔵 している。」、

④【4】段落第1文「この内蔵化の過程というのは、連続的な過程にみえて、実はかなり不連続である。」、

の関連性に注目してください。

(解答) 内蔵化

 

問3 (語彙力を問う問題)

 「剣禅一致」とは「剣道の究極の境地は、禅の無念無想の境地と同じ」という意味です。文脈から、漢字を推測してください。このような漢字書き取り問題は頻出です。

 (解答) 2

 

問4 (傍線部説明問題・理由説明問題)

 傍線部直後の、
こんどは動きによってイメージを消し、無心の状態に達することが必要になる。場合によっては、練習を休むことによって、上手くなったり、こつがつかめることさえある。この場合にはたらいているのは、無意識的・受動的な統合ともいうべきものである。」

は、傍線部の言い換えになっていることを読み取ってください。

 (解答) 5

 

問5 (語彙力を問う問題)

→本文を読む前にチェックするべきです。

 【8】段落冒頭文の「易きにつく」が、「安易な道を選ぶ」という意味であることが分かれば、単純な問題です。

(解答) 易きにつく


問6 (キーワードを選択する問題)

→本文を読む前にチェックするべきです。

 傍線部直後の「計画は現実化するにつれて惰性化」、直前の段落の「一たん網目ができあがると、くりかえしはただの反復に陥りがちである」の表現の類似性に注目してください。

(解答) 4

 

問7 (傍線部説明問題)

 傍線部の「逆説」は「矛盾」を意味しています。この点を確認したうえで、傍線部直前の「これ」に注目する必要があります。

 傍線部直前の「これ」は、一文前の「享楽の時代のつぎに禁欲の時代が来るという不思議さーー同じ状態を永くつづけることができない人間のいたたまれなさは、動かしがたくみえる生き方を転換し、不可避とみえる袋小路を打開する力さえもっている。」を、さしています。

 この部分を精読してください。

→無意味、ムダな「要約」をカットして、「精読・熟読」に専念するべきです。

(解答) 4

 

問8 (主題を選択する問題)

 →本文を読む前にチェックするべきです。この問題は、一種の「趣旨合致問題」です。

  【2】段落最終文の「つまり身体は文化を内蔵するのである。」が、キーセンテンスになっています。このキーセンテンスは、市川氏の主張の根幹になっています。

 なお、「文化」とは、「人間の知的思考や精神的進歩と、その成果・価値観」です。「ある社会の成員が共有している行動様式や生活様式」をさすことが多いです。

 (解答) 2

 

 

 (3)市川浩氏の主張「身体論」・「身体観」の解説

  

 心身二元論は、デカルトが提唱した理論です。デカルトは、疑い得ない「わたし」を発見しました。ここでの「わたし」とは、「思考しているわたし」であり、「純粋な精神」です。

 ここにおける「精神の尊厳」はモンティーニュ、パスカルへと受け継がれていきます。つまり、言い換えれば、哲学においては「身体」それ自体は考察の外に置かれるようになったのです。

 この点に市川浩氏は注目しました。

 心身二元論に限界を感じた市川氏は、別の身体観を打ち出すに至ります。

  つまり、「身体」とは、「世界と互いに感応しあう関係性をもったもの」という身体観です。

   『身の構造』には、次のような記述があります。

「私が感覚を通して世界をとりもどしたのは、デカルトの考えを、身をもって確かめ直すことだったと思うんです。そういう意味で心身二元論にはおかしなところがあるという感じを、私はたえず持ち続けてきました。」 (『身の構造』)

 そして、市川氏は、 「身体のはたらき」の視点から、「身体の機能」と「精神の機能」との「融合」を徹底的に考察し、「精神とは身体である」と結論付けました。(『精神としての身体』)

 

 この点について、さらに詳述します。

 市川氏は『身の構造』の中で、次のように述べています。

「誤解をおそれずいうなら、身体が精神である。精神と身体は、同一の現実につけられた二つの名前にほかならない。それはデカルトが、二元論的な立場からではあるが、精神は身体の一部に(たとえば脳髄に)他の部分をさしおいて宿っているわけではなく、身体と全面的に合一し、あたかも一つの全体をなしているとのべたとき、いいあらわそうとした事態である。〈はたらきとしての身体〉が、あるレヴェルの統合を達成し、「身体が真に人間の身体となった」とき、精神と身体はもはや区別されない。「精神」と「身体」は、人間的現実の具体的な活動のある局面を抽象し、固定化することによってあたえられた名前である。このような具体的現実を指し示すことばとして、より適切なのは、日本語の「身(み)」ということばであろう。「わが身」「身につく」「身にしみる」「身を入れる」「身になってみる」「身につまされる」・・・・というとき、「身」は、ある場合には「身体」、ある場合には「心」、ある場合には「自己」、またある場合には「立場」ということばで近似的におきかえることができる。しかし、そのいずれもが「身」ということばのもっている、ある充実した親密性を失っている。

「身」は、単なる身体でもなければ、精神でもなくーーしかし時としてそれらに接近するーー精神である身体、あるいは身体である精神としての〈実存〉を意味するのである。われわれが生きている人間的現実を指し示す言葉として、〈身〉以上に適当な用語は見出しにくいように思われる。」(『身の構造』)

 

 市川浩氏は、日本語の「身(み)」が、「身体」を現す言葉として最適だと述べています。

 確かに、例えば「身構える」という言葉は、「肉体」が身構える姿勢をとる時だけではなく、「気持ち」が警戒する時にも使います。

 『身の構造』の中には、このような適切な具体例が数多く列挙されていて、「身(み)」=「精神である身体、あるいは、身体である精神としての〈実存〉」=「人われわれが生きている人間的現実」ということがよくわかります。

 

 次に、『「身」の構造』の中から、今回の早稲田大学教育学部の過去問に関連する記述、つまり、「可能的統合」に関連した記述を引用します。

 「赤ん坊が自分の手を見つめる」の一節です。(概要です)

 味わい深い内容です。

「赤ん坊がまじまじと自分の手を見つめながら、手を開いたり閉じたりしていることがあります。あたかも不思議なものを見るかのように、あきずにくりかえしている。赤ん坊は、何か物を取ろうとしても、なかなかうまく手を届かせることができません。対象としての自分の手と内側から感じている自分の手がまだうまく統合されていないのでしょう。考えてみれば、対象として見えている手が、同時に主体として感じている手でもあるということは、不思議なことですね。赤ん坊は、そういう不思議さを自分の手を動かして見ながら感じているのでしょう。

 手そのものを見て遊ぶ赤ん坊の手遊びは、身が身へ折り返す二重化のはじまりであり、もっとも原初的な自意識の萌芽ではないでしょうか。自分の自分に対する関係が反省ですが、身体的レベルでの反省(→一種の「可能的統合」と評価できます)ともいうべきものが、この二重感覚にはあるわけです。」(『身の構造』)

 

 次に、『身の構造』の中から、市川氏の論考のキーワードである「潜在的な統合可能性」についての記述を、引用します。今回の早大教育の過去問と合わせて読むと、市川氏の見解について、より理解が進むでしょう。

 「身体はたえず錯綜し生成するものである。意識に現れて現実化している統合のほか、意識に現れない潜在的な統合可能性がある。この現実化している統合は「狭義の錯綜体」であり、それを背後で支える無意識の統合は「広義の錯綜体」である。こうした錯綜体はあらかじめ確定された体系ではない。私達が生きていく中でたえず生成され、更新していくものである。つまり、私たちがこれまで知らなかった、潜在的な統合可能性を自己のうちから引き出し、実際に統合する身体として、現実化させるということである。(→ 前述の「赤ん坊が自分の手を見つめる」の記述は、この点に関連しています)このとき私達は気づかぬうちに、自己の錯綜体に直面している。そして、これらの現実的・可能的な統合は他者がいる世界との、かかわりのなかで行われるのである。」

 「このように錯綜体(→「身(み)」)は、生理的・文化的な共有の間身体図式の中で形成され、また身体図式は個々人の新しい行動がたえず共有されることによってつくられてゆく。身は文化によって形成されつつ、文化を形作る。」 (『身の構造』)

 

 ここで、「身体と文化の密接な関係」が、説明されています。

 今回の問題の問8に関連しています。

 「文化」が「人間の知的思考や精神的進歩と、その成果・価値観」であることを意識してください。

 身体と精神的活動は密接に関連しているのです。

 このことは、「近代以前の人間」にとって、当たり前のことであり、常識でした。

 

 市川氏は「錯綜体」(→「身(み)」)が有する特異な特徴について、さらに次のように述べています。

「我々の潜在的な身の統合可能性として、“ 常 ”の身ではなく、“ 稀 ”であり、“ 奇 ”であり、“ 異 ”であるような身の統合可能性があるということです。そういった潜在的な統合可能性によっても我々は形づくられているから、自己が自己自身にとって疑わしいものであったり、不思議なものであったりするわけでしょう。」 (『身の構造』P208)

 

 上記は、私達が時時々感じる「不審な存在としての自己」や「自己の不可思議性」についての、秀逸な説明になっています。

 「自己の不可解性」に悩むことは、ないということです。

 市川氏の見解によれば、「自己の不可解性」は、人間にとって当然のことなのです。

 

 

(4)市川浩氏の紹介

 

 【経歴・思想】

 市川 浩(いちかわ ひろし・1931年 ~ 2002年)京都生まれ。日本における哲学者、身体論者。明治大学名誉教授。 京都大学文学部を卒業後、1954年(昭和29)毎日新聞社に入社、大阪本社に勤務。4年間の記者生活ののち、東京大学大学院に入学、同人文科学研究科比較文学・比較文化課程修了。東邦大学助教授などを経て、1972年明治大学商学部教授(~1999年)。 

 

 前述のように、デカルト以来、西洋哲学では「心身二元論」が主流でした。精神(心)と身体を別々のものととらえ、身体は精神によって支配されるものとしたのです。この考え方に立てば、精神についてのみ研究すれば、人間の本質を理解できることになります。 

 しかし、「心身二元論で人間の精神活動を真に理解することはできない」という立場もあります。
 その一つが、「生の哲学」です。「生の哲学」はショーペンハウアーにより提唱され、ニーチェやベルクソンが同様の見解を述べています。市川氏はこの「生の哲学」の流れをくむ哲学者です。
 市川の哲学の根底には、ポール・ヴァレリーの身体観があります。ヴァレリーは身体を「錯綜体」としてとらえました。すなわち、身体は当然、自己のものでありながら、完全に自己のものでなく(たとえば、私は自分の顔を見ることができない)、しかし、もちろん、言うまでもなく、他者のものではない。また、他者のものである(他人からは、自己の身体を見ることができる)と同時に、当然、自己のものでもある。ヴァレリーは、このように、「身体」を「主客が錯綜するもの」として把握したのです。

 

【著作】

単著

『精神としての身体』 (勁草書房・1975、のち講談社学術文庫・1992年・ISBN 978-4061590199)
『人類の知的遺産 ベルクソン』(講談社・1983、のち講談社学術文庫)
『<身>の構造 』(青土社・1985、のち講談社学術文庫)
『現代芸術の地平』 (岩波書店・1985)
『<私さがし>と<世界さがし>』(岩波書店・1989)
『「中間者」の哲学—メタ・フィジックを超えて』( 岩波書店・1990年・ISBN 978-4000013581)
『身体論集成』 (中村雄二郎編・岩波現代文庫・2001)

 

→以上の著書は現代思想に多大な影響を及ぼしています。

 

編著 

『新・哲学入門』(山崎正一共編・講談社現代新書・1968)
『現代哲学事典』(山崎正一共編・講談社現代新書・1970)
『身体の現象学』(山崎賞選考委員会・河出書房新社・1977)
『<知>と<技>のフィールド・ワーク』 (思潮社・1990)
『現代哲学の冒険 全15巻』(岩波書店・1990-91)
『寺山修司の宇宙 / 市川浩』(新書館・1992)

 

 

 (5)当ブログにおける「心身二元論」・「身体論」関係記事の紹介

 

 「身体論」は、難関国公立・私立大学の現代文(国語)・小論文における頻出・流行論点です。

  

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ーーーーーーーー

 

 今回の記事は、これで終わりです。

 次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

 ご期待ください。

 

   

 

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〈身〉の構造 身体論を超えて (講談社学術文庫)

〈身〉の構造 身体論を超えて (講談社学術文庫)

 

 

精神としての身体 (講談社学術文庫)

精神としての身体 (講談社学術文庫)

 

 

頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

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5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

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予想問題ー共謀罪と監視社会ー自由・人権・民主主義を守るためには

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 

 現在、最近成立した共謀罪(テロ等準備罪)の様々な問題性を指摘する論考が、数多く発表されています。

 入試対策上、それぞれの論考に目を通すことも重要です。

 しかし、このような場合には、個々の専門的・技術的な論点よりも、「自由・人権・民主主義の価値」、「脆さ・弱さを内在している『自由・人権・民主主義』をいかに確保するか」、という論点が出題されることが多いのです。

 そこで、入試現代文(国語)・小論文対策として、これらの論点を以下に解説していきます。

 

共謀罪の何が問題か (岩波ブックレット)

 

 

(2)共謀罪(テロ等準備罪)の問題性ー「監視社会」の可能性、萎縮効果

 

  「共謀罪(テロ等準備罪)ー賛成説・反対説のそれぞれの理由」については、前回の記事で解説しましたので、ぜひ参照してください。

 

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  「共謀罪(テロ等準備罪)の問題性」に関しては、以下の点が主張されています。

 実際に、どのようになっていくか、については、これからの政府の運用実態、歴史の推移を注視していく必要があるでしょう。

 

①  「監視社会」化の可能性

②  萎縮効果ー活気がなく、創造性に乏しい、発展性のない社会になりかねない

③  萎縮効果の具体例ー政府の方針に科学的観点から反対することが抑圧される可能性がある

 

①  「監視社会」化の可能性

 

    「『監視社会』化の可能性」については、高山佳奈子氏の『共謀罪の何が問題か』が参考になります。以下に、概要を引用します。 

(概要です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です)

(以下に引用する論考についても同じです) 

「  共謀罪法案の構成要件である「組織的犯罪集団」「計画」「準備行為」の内容も曖昧で実質的に限定がなく、捜査機関の判断でどのようにも運用される余地を残す。

 この法律の「方向性」として、一つは、犯罪の計画を立てそうであると判断した人物を監視すること、もう一つは、十分な証拠がなくても摘発してしまうことといった事態が予想される。それらの事態は、いずれ、国民の「内心の自由」への干渉にまで及んでいくだろう。

 捜査対象と権限が拡大し、盗聴、スパイ行為、司法取引による密告が横行するだろう。自白に頼る面が強くなるから、冤罪も増えていく。

 「共謀罪法案」はまさしく「平成の治安維持法」であり、それは「国民総監視」へと帰着していくだろう。」(『共謀罪の何が問題か』高山佳奈子)

 

②  萎縮効果ー活気がなく、創造性に乏しい、発展性のない社会になりかねない

 

 この点については、以下の神里達博氏の主張が参考になります。

「  「治安」という価値の強調による副作用は、すでに多くの識者が指摘する人権侵害の問題だけではない。要するに活気がなく、創造性に乏しい、発展性のない社会になりかねないのだ。そうなれば当然、「経済成長」や「イノベーション」などは望むべくもない。私たちは、そんな社会にしたいのか。いま一度、問い直す必要があるのではないだろうか。

(「テロの『恐怖』の拡散・予防措置 正当化されやすく」神里達博「月刊安心新聞」『朝日新聞』2017年6月16日)

 

③  萎縮効果の具体例ー政府の方針に科学的観点から反対することが抑圧される可能性がある

 

 萎縮効果の具体例を、「問う『共謀罪』 学問の世界から」(『朝日新聞』2017年6月17日)の中で、入試頻出著者の池内了氏(宇宙物理学者)が発言しています。以下に引用します。

「  憲法19条で思想、良心の自由を侵してはならないとされているが、法案が成立すれば計画に合意し、準備行為をした段階で罪になる。拡大解釈で内面に介入され、政府批判をしただけで捜査対象となるのではないかと心配だ。科学者の歴史を振り返ると思想が裁かれたことがある。原爆開発のマンハッタン計画の責任者だったロバート・オッペンハイマーだ。1950年代、アメリカでは共産主義を追放していた。彼も共産主義を信奉していたと疑われ、国会機密に接する権利を剥奪された。米国で英雄とされた科学者も国の政策が変わると、思想が摘発された。現在の日本ではオッペンハイマーのように思想が罪になることはない。ただ、『共謀罪』が成立すると、準備行為で罪になる。心の中を問われるため、反原発など社会問題について、政府の方針に科学的観点から反対することが抑圧される可能性がある。 」 (「問う『共謀罪』 学問の世界から」池内了『朝日新聞』2017年6月17日)

 

(3)対策論ー「自由・人権・民主主義をいかに確保するか」

 

 以下では、次の論点について解説していきます。

①  思考停止をしない、政治的無関心を避ける→『茶色の朝』の紹介

②  諦観しないこと、諦めないこと→多角的検討・視点の必要性→『現代政治の思想と行動』丸山真男

③  ニヒリズムからの脱却→内田樹氏の論考

④  制度の現実の働き方を絶えず監視し、批判する姿勢→「『である』ことと『する』こと」(『日本の思想』丸山真男

⑤  政治的懐疑主義の必要性→トーマス・ジェファーソン、バートランド・ラッセル

 

 上記の「共謀罪(テロ等準備罪)の問題性」が、実際に、どのように現実化していくのかについては、これからのこの法律の運用状況を注視していく必要があります。

 それとは別に、この機会に、

「自由・人権・民主主義の価値を再認識すること」、

「脆さ・弱さを内在している『自由・人権・民主主義』を、いかに確保するか、ということ」

を改めて考察することも、重要です。

 そこで、以下では、重要な論考を紹介しつつ、特に「自由・人権・民主主義を、いかに確保するか」の論点を解説していきます。

 

茶色の朝

 

 ①  思考停止をしない、政治的無関心を避ける→『茶色の朝』の紹介

 

 「政治問題についての思考停止」・「政治的無関心」が、いかに危険で重大な結果を招くか、について、最近、注目されている『茶色の朝』(フランク・パブロフ)を紹介します。

 まず、大月書店のHPからこの本を紹介します。 「仏ベストセラー・反ファシズムの寓話。世界10ヶ国以上で出版。『ごく普通の』国家が、日々の生活に知らぬ間に忍び込み、人びとの行動や考え方をだんだんと支配するようになるさまを描いたショート・ストーリー。」

 

 次に、『茶色の朝』の「あらすじ」を書きます。

【物語のあらすじ】

 ある国の物語です。友人とコーヒーを飲みながら、おしゃべりをするのを、毎日の日課としている男がいました。ある日、主人公は、その友人が飼い犬を始末した事実を知らされました。毛色が茶色ではなかったことだけが、その理由でした。その国の政府では、茶色 (→フランスの読者には、「茶色」はナチス、ファシズム、極右の人々を連想させる色だそうです)の犬・猫が、健康的で都市生活にも適合しやすいという理由で、茶色以外のペットは飼わないことを内容とする声明を発表したばかりでした。主人公は、自分の白黒の猫をすでに処分していました。さらに、友人が彼のペットを始末した事実に少し動揺します。

 それから、二人は、これまでのように日課を続けていましたが、わずかな変化が発生しました。

 茶色以外のペットを排除する政策に批判的な新聞が廃刊になり、その系列出版社の書籍が、廃刊、起訴され、図書館から強制撤去されたのです。

 主人公は驚き、「茶色新聞」のみしか読めないことにウンザリしつつも、周囲の人間達が、これまで通りの生活を淡々と続けていくのを見て、「たぶん心配性の俺がバカなのだろう」と考えたのでした。

 次第に、主人公達は、生活が茶色一色になっていくことに、さして違和感を覚えなくなりました。主人公達は茶色のペットとの暮らしを、快適と感じるようになりました。

 だが、状況は、また変化したのです。多数の人々が逮捕され始めたのです。その中には、友人達も含まれていました。

 やがて、夜明け前に、ある「茶色の朝」に、主人公の家のドアをノックする音がします。「いま行くから」と、主人公が、ドアをノックした人に声をかける場面で物語は終わります。ノックした人は、主人公を逮捕しに来た自警団の可能性が高いのです。主人公は昔、白と黒のブチの犬を飼っていたのです。(あらすじ終了)

 

 この本は、日本語の翻訳、絵、「高橋哲哉氏(哲学者・東大教授)(→入試頻出著者です)のメッセージ」により構成されています。 

  『茶色の朝』の「高橋哲哉氏のメッセージ」は、本文より字数は多いですが、内容は実に読みやすいのです。以下に、「政治的無関心の危険性」を糾弾している、高橋氏のメッセージの一部を引用します。

 

『茶色の朝』は、私達の誰もがもっている怠慢、臆病、自己保身、他者への無関心といった日常的な態度の積み重ねが、ファシズムや全体主義を成立させる重要な要因であることを、実に見事に描き出している。この物語は、日本にも無縁ではない。主人公たちが『茶色』を受容していく時に持ち出す、さまざまな『言い訳』と似たような理由をつけて、その都度『流れ』を受け入れている。

  『やり過ごさないこと』、『思考停止をやめること』が必要だ。

    しかし、『では、どうすればよいのか』という問い自体にも、問題がある。他者から指示してもらおうというのは、そこに、国や『お上』の方針に従うことをよしとするのと同型のメンタリティーがあるのではないか、と感じられてならない。」 (「高橋哲哉氏のメッセージ」『茶色の朝』)

 

 主体性のない人間達、アイデンティティの確立していない人間達、問題意識のない人間達は、「自由」・「人権」・「民主主義」を確保することは、できないと、高橋氏は強調しているのでしょう。これは、極めて正当な卓見だと、私は考えます。

 「主体性」・「アイデンティティ」・「問題意識」こそが、自分自身を守るものであることを、日本国民は強く意識する必要があるでしょう。

 

 「自由・人権・民主主義の確保」という視点に役立つと思われるので、高橋哲哉氏の「メッセージ」から、「この本が出版された背景」について、一部を紹介します。 

【この本が出版された背景】

「フランスの読者にとって、茶色はナチスを連想させる色です。「茶色」は、ナチスを連想させるだけではありません。そのイメージがもとになり、今日ではもっと広く、ナチズム、ファシズム、全体主義などと親和性をもつ「極右」の人々を連想させる色になっています。 

 1990年代に入り、東西冷戦が終結すると、西ヨーロッパでもそれまでのイデオロギー対立が後退し、民族・国民的アイデンティティによりどころを求める動きが強まって、各国・各地域に極右運動が台頭しました。西ヨーロッパ全体にこうした極右運動が広がっていくのを見て、あるフランス人はこれを「茶シャツのヨーロッパ」と名付けました。 

 フランク・パヴロフが『茶色の朝』を書いたのも、フランス社会がやがて「茶色」に染まってしまうのではないかという不安と、なんとかそれに人びとの注意を促したいという危機感のなかでのことでした。 シャン=マリー・ルペンに率いられた極右政党・国民戦線は、1980年代末ごろから大統領選挙で15パーセント前後の得票率を示し、地方都市では市長の座を占めるようになっていました。そして、1998年の統一地方選挙で国民戦線が躍進し、保守派のなかにこの極右と協力関係を結ぼうとする動きが出てきたときに、パヴロフは強い抗議の意思表示として、この作品を出版したのです。しかも、多くの人びと、とくに若い世代に読んでほしいと考え、印税を放棄し、わずか1ユーロの定価で出版することにしたのです。

 その後、驚くべきことが起こります。 2002年春の大統領選挙で、ルペン候補が社会党のジョスパン候補をおさえて第2位となり、決選投票でシラク大統領と一騎打ちを闘うことになったのです。人種差別と排外主義で知られる極右候補が決選投票に残るという前代未聞 の椿事(ちんじ)に、フランス社会は大きく動揺しました。

 まさにそのときです、人びとがこのわずか11ページの小さな物語を発見したのは。自分たちが置かれた状況の意味を理解し、何をなすべきかを考えようと、多くの人が『茶色の朝』を読みました。「極右にノンを」の運動がもりあがり、結果はルペン候補の敗北。パヴロフはその間、なんとベストセラー作家の仲間入りをすることになったのです。」(「高橋哲哉氏のメッセージ」『茶色の朝』)

 

 現在の日本の政治的状況を絶望しているだけでは、いけないでしょう。ある意味で、取り返しのつかないことになった、ということを強く反省して、その上で、これからは、どうすればよいいのかを考察することが重要になってくるのです。

 政府による「共謀罪」の乱用をどう防ぐのか。

 これからは、この点を考察していくことが必要になるのです。このことについては、以下で、さらに解説していきます。

 

 ②  諦観しないこと、諦めないこと→多角的検討・視点の必要性→『現代政治の思想と行動』丸山真男

 

 次に、「情報化社会の日本人」の「思考の弱点」について、改めて検討します。「情報化社会のマイナス面」、「情報化社会の影・夜」の論点です。

 

 ここで、参考になるのは、丸山真男氏の『現代政治の思想と行動』です。(なお、以下の部分は、2008年早稲田大学法学部の問題として出題されました。) 

「現実と本来一面において与えられたものであると同時に他面で日々造られて行くものなのですが、普通「現実」というときは、もっぱら前の契機だけが前面に出て、現実のプラスティック(→当ブログによる注→「柔軟」という意味)な面は無視されます。いいかえれば、現実とは日本では端的に既成事実と等置されます。現実たれということは既成事実に屈服せよということにほかなりません。現実が所与性(→「与えられたもの」という意味。入試頻出キーワード)と過去性においてだけ捉えられるとき、それは容易に諦観に転化します。「現実だから仕方がない」というふうに、現実はいつも、「仕方がない過去」なのです。私はかつてこうした思考様式がいかに広く戦前戦後の指導者層に喰入り、それがいよいよ日本の「現実」をのっぴきならない泥沼に追い込んだかを分析したことがあります。

 日本人の「現実」観を構成する第二の特徴は現実の一次元性とでもいいましょうか。いうまでもなく社会的現実はきわめて錯雑し矛盾したさまざまな動向によって、立体的に構成されていますが、そうした現実の多元的構造はなくいわゆる「現実を直視せよ」とか「現実的地盤に立て」とかいって叱咤(しった)する場合にはたいてい簡単に無視されて、現実の一つの側面だけが強調されるのです。再び前の例に戻れば、当時、自由主義や民主主義を唱え、英米との協調を説き、反戦運動を起こす、等々の動向は一様に「非現実的」の烙印を押され、ついで反国家的と断ぜられました。いいかえればファッショ化に沿う方向だけが「現実的」と見られ、それに逆らう方向は非現実的と考えられたわけです。」(『現代政治の思想と行動』丸山真男 )

 

(内容解説)

 丸山真男氏は、「日本人の思考の弱点」を改善するために、

〈1〉諦観しない、

〈2〉多角的検討・視点の必要性、

を主張しています。

 「多角的検討・思考・視点」とは、短期的視点のほかに、「長期的視点」を意識すること、たとえば「歴史に学ぶこと」も入ります。

 「多角的視点の獲得」については、佐藤優氏の『君たちが知っておくべきことー未来のエリートとの対話』が参考になります。

 なお、佐藤優氏の『君たちが知っておくべきこと』については、このブログで、最近、「予想問題①~③ 」の記事を発表しましたので、そちらも、ご覧下さい。

 また、『現代政治の思想と行動』が、2008年早稲田大学法学部の問題として、どのような形で出題されたか、については、下の記事( 「である」ことと「する」こと②『日本の思想』丸山真男 )を参照してください。

 

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 ③  ニヒリズムからの脱却→内田樹氏の論考

 

 「ニヒリズムからの脱却」も重要です。日本の現代社会における「『ニヒリズム』の問題性」については、入試頻出著者である内田樹氏の以下の論考が参考になります。

 

「  この共謀罪法案に「いつか来た道」を懸念する声もある。でも、僕はそう簡単に再来するとは思わない。戦前の警察組織とは敗戦で断絶しているし、思想警察をつくって社会全体を監視するにはヒトもカネも足りない。反基地運動や労働運動を一網打尽にするために使おうか、という程度だろう。政府が狙うのは「隣人を密告するマインド」の養成だ。政府には網羅的に検挙する能力がない。ならば、お上に代わって我々国民が摘発しよう、となる。 
 注目すべきは、特定秘密保護法、安全保障法制を施行させ、いままさに「共謀罪」の成立を図り、そして憲法改正をめざす流れだ。立憲主義を空洞化させ、独裁化を進めているのは明らかなのに、有権者の半数ほどが現政権を支持している。 

 多くの日本国民には主権者としての意識がない。バブルが崩壊し、国連安保理の常任理事国入りに失敗した日本は、国家目標を見失った。理想を冷笑するニヒリズム(虚無主義)も広がっている。誰もが共有できる国家目標を掲げ、ニヒリズムに対抗していかなければならない。」

(「政府の狙いは隣人を密告するマインド」 内田樹 「問う『共謀罪』 学問の世界から」『朝日新聞デジタル』2017年6月11日)

 

 内田樹氏は、現代日本社会の状況を「ニヒリズム」と評価しています。

 国家的理想も、あるべき国家観も、未来への希望も、すべて喪失しまった現代の日本の国民は、未来に展望が見いだせないために、現状維持的発想に固執してしまい、極端に保守化してしまう。

 しかし、「ニヒリズム」に埋没したままでは、発展や進歩は、ありません。「ニヒリズム」は「政治的無関心」を招来し、状況は、ますます悪化するばかりです。何とか、「ニヒリズム」から脱却する方策を模索するべきでしょう。

 具体的な方策については、以下の記述で解説します。

 

 なお、「ニヒリズム」については、最近、当ブログにおいて、重田園江氏のユニークな、本質的な哲学的論考を解説した記事を発表したので、ぜひ参照してください。

 

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 ④  制度の現実の働き方を絶えず監視し、批判する姿勢→「『である』ことと『する』こと」(『日本の思想』丸山真男 )

 

  「自由」・「人権」・「民主主義」を確保するためには、 「各制度の現実の働き方を絶えず監視し、批判する姿勢」が不可欠です。

 この点については、古典的名著であり、入試頻出出典である、丸山真男氏の『日本の思想』の中の「 Ⅳ・『である』ことと『する』こと」が、かなり参考になります。以下に引用します。

 

「  たとえば、日本国憲法の第十二条を開いてみましょう。そこには「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。」と記されてあります。この規定は基本的人権が「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」であるという憲法第九十七条の宣言と対応しておりまして、自由獲得の歴史的なプロセスを、いわば将来に向かって投射したものだといえるのですが、そこにさきほどの「時効」について見たものと、いちじるしく共通する精神を読みとることは、それほど無理でも困難でもないでしょう。つまり、この憲法の規定を若干読みかえてみますと、「国民はいまや主権者となった、しかし主権者であることに安住して、その権利の行使を怠っていると、ある朝目ざめてみると、もはや主権者でなくなっているといった事態が起こるぞ。」という警告になっているわけなのです。これは大げさな威嚇でもなければ空疎な説教でもありません。それこそナポレオン三世のクーデターからヒットラーの権力掌握に至るまで、最近百年の西欧民主主義の血塗られた道程がさし示している歴史的教訓にほかならないのです。

    アメリカのある社会学者が「自由を祝福することはやさしい。それに比べて自由を擁護することは困難である。しかし自由を擁護することに比べて、自由を市民が日々行使することは、さらに困難である。」といっておりますが、 ここにも、基本的に同じ発想があるのです。私たちの社会が自由だ自由だといって、自由であることを祝福している間に、いつの間にかその自由の実質はカラッポになっていないとも限らない。自由は置き物のようにそこにあるのでなく、現実の行使によってだけ守られる、いいかえれば、日々自由になろうとすることによって、はじめて自由でありでありうるということなのです。

 その意味では近代社会の自由とか権利とかいうものは、どうやら生活の惰性を好む者、毎日の生活さえなんとか安全に過ごせたら、物事の判断などはひとにあずけてもいいと思っている人、あるいはアームチェアから立ち上がるよりもそれに深々とよりかかっていたい気性の持ち主などにとっては、はなはだもって荷厄介(にやっかい)な代物(しろもの)だといえましょう。

 民主主義というものは、人民が本来制度の自己目的化(→絶対化)を不断に警戒し、制度の現実の働き方を絶えず監視し批判する姿勢によって、はじめて生きたものとなりうるのです。それは民主主義という名の制度自体についてなによりあてはまる。つまり自由と同じように民主主義も、不断の民主化によって辛うじて民主主義でありうるような、そうした性格を本質的にもっています。民主主義的思考とは、定義や結論よりもプロセスを重視することだといわれることの、もっとも内奥の意味がそこにあるわけです。」 (丸山真男『日本の思想』〈Ⅳ・「である」ことと「する」こと〉)

 

 この論考は、 

「民主主義の本質的な脆さ、弱さ」、

自由・人権・民主主義を、いかに確保するか」、

についての見事な考察です。

 ぜひ、熟読して、よく理解するようにしてください。この論考は、現代文(国語)、小論文で、入試頻出です。

 

 なお、この『日本の思想』の解説記事を以前に発表しているので、こちらも、ご覧下さい。

 

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 次に、自由・人権・民主主義を、いかに確保するか」の具体的方策について、考えることにします。

 この論点を考察する際に、参考になるのは、以下の『新潟日報』の「社説」です。この「社説」の視点は重要です。前述した「多角的検討・視点」、「批判的姿勢」、後述する「政治的懐疑主義」を意識しつつ、これからの『共謀罪法』の運用実態を注目していくべきでしょう。

 

「  改正組織犯罪処罰法が成立した。政権と与党が強引に成立に持ち込んだ経過を見れば不安は拭えない。捜査機関の乱用を防ぐため、国民の側が運用を厳しく監視していくことが不可欠になる。

 改めて「共謀罪」がはらむ問題点を見つめ、不適切な捜査手法や国民の生活を脅かしかねない運用拡大の動きに厳しく目を凝らしていかなければならない。

 「共謀罪」を土台にしたテロ対策が本当に有効なものとして機能するのかについてもチェックしていかなければならない。 

 議論が尽くされたとはいえない中で政権と与党が強権的に成立させた法律が、本当に国民のためになるものかどうか。それが分かるのはこれからである。」 (「『共謀罪』成立 乱用防止へ国民が監視を」「社説」『新潟日報』2017年6月16日)

 

⑤  「政治的懐疑主義」の必要性→トーマス・ジェファーソン、バートランド・ラッセル

 

 要するに、各個人が持つべき政治的姿勢としては、「政治的懐疑主義」が必要不可欠です。このことは、欧米では、政治的常識と言えます。

 アメリカ独立宣言を起草したトーマス・ジェファーソン(→トーマス・ジェファーソン(1743年~1826年)は、アメリカ合衆国の政治家で、第3代アメリカ合衆国大統領 )の有名な、次の言葉があります。

信頼はどこまでも専制の親である。自由な政府は、信頼ではなく、猜疑に基づいて建設される。

 

 つまり、本来、政府は、単なる信頼の対象ではなくて、疑いつつ監視するべき対象である、と主張しているのです。だからこそ、憲法で、三権分立制度などで、時の権力の権力乱用に一定の歯止めをかける必要性が存在するのです。

 こうした立憲主義の本質から「共謀罪法」をみた場合、「政府を全面的に信頼しておけば国民は安全・安心だ」という、一面的な、安易な考え方は、賢明ではないことが分かります。

 

 同様の趣旨のことは、バートランド・ラッセル(→バートランド・アーサー・ウィリアム・ラッセル(1872年~1970年)は、イギリスの哲学者、論理学者、数学者、社会批評家、政治活動家。ラッセル伯爵家の貴族であり、イギリスの首相を2度務めた初代ラッセル伯ジョン・ラッセルは祖父にあたる。名付け親は同じくイギリスの哲学者ジョン・スチュアート・ミル。ミルはラッセル誕生の翌年に死去したが、その著作はラッセルの生涯に大きな影響を与えた。1950年にノーベル文学賞を受賞した。)も主張しています。以下に引用します。

 「英語を話す国の特質の一つは、政党への無限の興味と信念である。国民の大部分は、ある政党が権力の座につくと、苦しめられてきた害悪が改められると心から信じ、投票する。これは政権交代が起る一つの理由である。だが、改められないので、やがてすべての政党への迷信の夢がさめる。その時、彼は老人になっている。息子が親の二の舞をふむ。この事実に対し、国民の大半が政治上何か貢献できることは、政治問題に対して全くちがった見方をすることにある。政党政治とか別の政治機関とかに依らねばならないとすれば、この政党か機関と民主主義とをどう結びつけるかが、最も差し迫った問題となる。

 政治家に、高邁さ(こうまい)(→「気高く、優れている」という意味)が欲しいと主張しても無駄である。(→日本人、日本のマスコミは、いまだに、こうしたことが分かっていないようです。)高邁さを主張する政治家は多分当選を他人に奪われる。政治家への道徳的勧告は、賄賂をとるな、と露骨に言う以外には何の役にも立たない。期待できる最上の行動は、できるだけ多くの人々が政治的懐疑論者になり、魅力的に提示される政党綱領を軽信せず、厳しく検討することである。有能で公共精神に富む人も、政治で成功するには偽善者にならなければならない。 」(『ラッセル思想辞典』バートランド・ラッセル、牧野力・編 )

 

 以上の①~⑤の「対策論」は、内容的に重複している側面がありますが、内容の重大性を考慮して、別項目として解説しました。よく理解するようにしてください。

 

(4)当ブログの「自由・人権・民主主義」関連の記事の紹介

 

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 ーーーーーーーー

 

 今回の記事は、これで終わりです。

 次回の記事は、約1週間後の予定です。

 ご期待ください。

  

   

 

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 私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。

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予想問題・共謀罪(テロ等準備罪)ー賛成説・反対説のそれぞれの理由

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 

  「共謀罪」の構成要件を改め「テロ等準備罪」を設ける「改正組織犯罪処罰法」は、与野党の激しい駆け引きの末、2017年6月15日に成立しました。安倍晋三首相は「テロを未然に防ぐために、国際社会としっかり連携したい」と意義を強調しました。しかし、「特定秘密保護法」、「安全保障関連法」に続き、世論の賛否が分かれた中で、この法案を強引に成立させた安倍政権の手法に、野党側は「民主主義軽視」と主張しています。

 それ以外に、有力な憲法学者、刑法学者、国際法学者、危機管理学者、政治哲学者、法哲学者、文学者等も、この法案に関して、多くの反対説、賛成説の論考・見解を発表しています。

 この共謀罪(テロ等準備罪)は、内心の自由、思想・良心の自由、表現の自由、プライバシー、監視社会、グローバル化のマイナス面、テロ、安心・安全、危機管理という重大な論点に関連しているからです。

 このようにな状況をみると、まさに、来年度の難関大学の入試現代文(国語)・小論文に出題される可能性が高いと予想されます。そこで、今回は入試現代文(国語)・小論文対策の視点から、共謀罪(テロ等準備罪)の問題点の解説をしていきます。

 

 なお、このような「政治的問題」は、政治的思想調査、政治的踏み絵になりかねないので、大学入試現代文(国語)・小論文に出題されない、と考えている人がいるようです。

 しかし、そうしたことは、ありません。

 最近でも、 慶応大学法学部・小論文で、「政治的問題」と言える「日本の戦後補償問題」が出題されています。

 

 以下では、次の項目を解説します。

(2)「共謀罪」と「テロ等準備罪」の違いは何か?

(3) 賛成説・反対説のそれぞれの理由・対立点

(4) まとめー賛成説・反対説の調和は可能か?

 

 

(2)「共謀罪」と「テロ等準備罪」の違いは何か?

 

  「共謀罪法」が国会で成立した翌日のほとんどの新聞は、この法案成立が一面トップ記事になりました。しかし、一部には「テロ等準備罪」と書いている新聞もありました。この違いは、「政府の提案理由」を認めるか否かの違いです。

 安倍政権は、以前に「共謀罪」を提出しても成立しなかったので、「テロ対策」を強調することで、成立を目指そうとしました。「オリンピックを控え、テロ対策が必要です」と国民に働きかけたのです。

 この手法を疑問視したメディアは、法案の根本的性質は変化していない評価して、「共謀罪」と表現しました。一方、政権支持派のメディアは、「テロ等準備罪」と表記しました。

 どのような呼び方をするかで、そのメディアの政治立場が鮮明になっています。

 

 

共謀罪の何が問題か (岩波ブックレット)

  

 

(3)賛成説・反対説のそれぞれの理由・対立点

 

①共謀罪・賛成説の理由

 

 政府側の説明、賛成説の理由は、主に、以下の二つです。

① 2020年の東京オリンピック・パラリンピックまでに、国際的なテロを取り締まるために必要である

② 国際組織犯罪防止条約(TOC条約)を締結するために必要である。

 

 たとえば、賛成派の『産経新聞』(産経抄・「共謀罪は世界の常識」2017年1月17日)は以下のように主張しています。

 

(概要です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です)

(以下、同様です)

「テロ組織に対応する国際組織犯罪防止条約は、共謀罪を盛り込んだ国内法の整備を締結の条件としている。締結していないのは、先進7カ国では日本だけだ。それどころか、国連加盟国のなかでも11カ国にすぎない。テロの事前情報がやりとりされるネットワークからはずれ、蚊帳の外に置かれたままでいいはずがない。共謀罪を敵視する政党やメディアは、日本が孤立を深めテロの標的となるのを座視せよ、とでもいうのか。」(産経抄・「共謀罪は世界の常識」『産経新聞』2017年1月17日)

 

 また、賛成説の宮家邦彦氏 (立命館大学客員教授、キヤノングローバル戦略研究所研究主幹)は、以下のように主張しています。

「  今回は立法に関する日本と欧米諸国との考え方の違いについて考えてみたい。

 共謀とは英語でコンスピラシー、つまり「徒党による謀議、合意」を意味する。英米法では「反社会的な目的を達成するため秘密行動を決意する」行為自体に刑事責任が問われる。英国の共謀罪は「コモンロー」、すなわち中世以来イングランドで発展した伝統、慣習、先例に基づく判例法の一部として確立したそうだ。これに対し共謀罪が成文法上の犯罪である米国でも、その定義は英国のコモンローに基づくという。法案に反対する識者は英米で共謀罪が労働運動や反戦運動に適用されたことを批判している。

 では、英米以外はどうか。欧州大陸諸国は英米的「判例法」ではなく「成文法」主義だ。興味深いことに、大陸諸国の多くは組織犯罪に対して「徒党による合意」ではなく、「犯罪組織への参加」自体の刑事責任を問う。つまり、具体的行為に関する共謀がなくても、その種の組織に参加するだけでアウトなのだ。

 OECD(経済協力開発機構)加盟35カ国をみると、上記のような英米法的「合意罪」を採用する国が7カ国、大陸法的「参加罪」採用が13カ国、両者を併用する国が14カ国となっている。もうお分かりだろう。最後の1カ国、すなわち「合意罪」も「参加罪」も採用していない唯一の国が、わが日本なのだ。

(→当ブログによる「注」→グローバルスタンダード(国際基準)と日本の、大きなズレを指摘しているのです。日本のマスメディアの大半が、この点を報道しないのは、不思議です。自分達の主張に不都合なグローバルスタンダードは無視する、日本のマスメディアの手法、ご都合主義が、この論点にも、見られます)

 日本の刑法体系は「法益侵害行為」のみを罰する古典的建前が基本だから、国際組織犯罪防止条約(TOC条約)が求めるような「合意罪」または「参加罪」のいずれも刑事責任を問えない。しかし、IT技術の発達により情報の処理伝達速度が飛躍的に向上した21世紀に侵害行為の発生を待っている余裕はない。

 テロ等準備罪は対象が組織的犯罪集団に限られる。一般人は調査対象とはなっても、捜査対象になる可能性は極めて低い。TOC条約は既に世界の187カ国・地域が締結した。世界のテロリストがネット技術を駆使し、ネット上で重大テロ事件を計画・実行する現実に鑑みれば、オリンピックなどのスポーツイベントの有無にかかわらず、日本が新たに立法措置をとるのは至極当然であろう。

 277もの犯罪が対象で冤罪(えんざい)を生む恐れがあるとの批判には、運用の厳格化で対処すればよい。そのためのプロ・専門家による国会審議ではないのか。やはり、客観的に見て、テロ等準備罪創設の機は熟していると考える。(宮家邦彦の World Watch ー「テロ等準備罪審議は『反対のための反対』そのものではないか」『産経ニュース』2017年4月27日)

 

 さらに、危機管理学の専門家である福田充氏(日本大学危機管理学部次長・ 教授 )は、賛成説の立場から、以下のような見解を述べています。 

「  テロ対策は国際協調が原則となる。国際的なネットワークに参加してはじめてインテリジェンス(→「インテリジェンス」→日本語では「情報活動・諜報活動」とも訳される「インテリジェンス」活動は、政策立案のために要求される情報を収集・分析・評価・共有して、政策化するために、たんなる寄せ集めのインフォメーション(情報)を、インテリジェンス(知恵)に変える活動」)の機能が発揮され、テロ情報を得ることができる。テロ等準備罪には賛成だ。国際協調路線を歩む先進国として必要不可欠な法体系だからだ。」 (福田充「テロ等準備罪を考える 国際協調へ法制度構築を」 『産経ニュース』2017年4月3日 )

 

 (共謀罪・反対説からの反論)

 一方で、以上の賛成説に対して、高山佳奈子氏は、『共謀罪の何が問題か』(岩波ブックレット)の中で、以下のように反対説を主張しています。

「  一言で断じれば、政府側の説明は、『全くのウソ』である。そして、『テロ対策』という面に局限すると、これまで日本はテロ対策として、国際条約や安保理決議ができる度に、比較的迅速に国内立法を行ってこれらを実施してきており、国連体制が要求するテロ対策は完備している。それ故、共謀罪法案は、テロ対策立法の内実を含んでいない。」(『共謀罪の何が問題か』高山佳奈子・岩波ブックレット)

 すなわち、高山氏は、「『国際組織犯罪防止条約』の主旨は、マフィア対策を目的として、『組織的な経済犯罪』をターゲットとしており、テロ対策を目的としていない。この観点から法案に挙げられた277の対象犯罪を眺めると、必要なもの(所得税法等)が除外されている。一方、テロ関係の犯罪は条約を批准するためには不要である。」と主張するのです。

 

 この点について、さらに、詳説します。

 これは、「立法理由」への疑問の提示です。政府や法案賛成派の有識者は、上記のように、この法案が、「マフィアなどによる犯罪の防止を目的とした、国際組織犯罪防止条約を参加するために必要だ」と主張します。

 このことについて、木村草太氏(首都大学東京大学院教授)は、以下のように述べています。

 「確かに、同条約は、加盟国の義務として、共謀罪か犯罪組織参加罪を法定することを要求しています(条約5条)。しかし、多くの専門家は、現行法のままでも、日本は条約を締結できるはずだと指摘するのです。なぜなら、条約全体の体系からは、必ずしも共謀罪・参加罪を法定せずとも、マフィアや暴力団などの犯罪組織による重大犯罪を効果的に防止する措置が取られていれば、加盟国の義務は果たせると解釈できるからです。

 実際、2004年に出された同条約についての『立法ガイド』では、共謀罪・参加罪の法定は必須ではないとされており、いずれも設けないで条約を批准した国も多いようです。また、2012年の国連文書でも、必ずしも条約の文言通りの法制をとらないカナダやフランスなどの立法例が紹介されています。条約の認める選択肢は広く、批准後に、問題が指摘されてから対応することもできよう。」 (木村草太「木村草太の憲法の新手(56)  テロ等準備罪法案 問題山積、いったん廃案に」『沖縄タイムス』2017年5月21日)

 

 また、国際組織犯罪防止条約(TOC条約)の専門家からも、安倍政権の手法を批判する意見があります。TOC条約締結に関し各国の指針となる国連の「立法ガイド」を執筆したニコス・パッサス氏(刑事司法学者)が、東京新聞のインタビューに答えて、以下のように語っています

「英国は長年TOC条約のメンバーだが、テロが起きた。条約を締結したからといってテロを止めることにはならない。」

条約そのものは、プライバシーの侵害につながる捜査手法の導入を求めていない。何を導入するかは国内で話し合って決める問題だ。新たな法案などの導入を正当化するために条約が利用されてはならない」(『東京新聞』2017年6月5日)

 要するに、「五輪のテロ対策でTOC条約を結ぶために、共謀罪法案が必要不可欠」という政府の説明に、疑問を提示しているのです。

 

→この論点は、少々、専門的・技術的なので、細かい点は、大学入試に出題される可能性は低いと思われます。しかし、予備知識として、概要は知っておく価値は、あります。「立法理由」が不十分であれば、「人権・自由」を制限する法律を制定する必要はないからです。

 

②共謀罪・反対派の意見

 

反対派の理由としては、主に、以下の4点があげられます。

①「テロは、現行法で対策できる」

 この点については、既述しました。

 なお、「現行法」とは、組織犯罪処罰法や暴対法、予備段階で爆発物や化学兵器を取り締まる法律などを指しています。なおハイジャックや、サリンなどを使用した毒物テロについては、現行法(前者は「航空機の強取等の処罰に関する法律第3条」、後者は「サリン等による人身被害の防止に関する法律第5条第3項」)でも「予備」の段階で処罰が可能です。

 「さらに、日本ではすでに、国連の主要なテロ防止条約13本を締結しており、国内法整備も整っている」と、反対説は説明しています。

 

②「国際組織犯罪防止条約(TOC条約)に対して、国内法を整備することは、条約を締約した国に任せられている」

   「条約を締約した国に任せられている」点については、既述しました。TOC条約の第34条第1項、国連「立法ガイド」の第51項を参照してください。

 国際組織犯罪防止条約(TOC条約。「パレルモ条約」とも言われています)は、そもそもテロ対策の条約ではなく、マフィアや暴力団対策のためのものです。

 そして、日本は暴力団対策も進んでいるうえに、重大犯罪については予備罪で処罰されます。

 しかも、日本では、「予備罪の共謀共同正犯」が判例で認められ、予備行為に関わった人は、みんな逮捕できます。従って、共謀罪法案がなくてもTOC条約を批准できるだろうというのは、多くの専門家の意見です。

 

③「一般人も、捜査の対象になり得る曖昧性があるので、問題である」

④「プライバシー、内心の自由、表現の自由、の重大な侵害という観点から、違憲である」

→これらの論点は、出題可能性が、かなり高いと予想されます。よく理解するようにしてください。

 2017年4月21日、この法案の審議中、盛山正仁法務副大臣は「一般の人が(捜査の)対象にならないということはないが、ボリュームは大変限られている」と述べました。しかし、2017年4月28日には「通常の団体に属し、通常の社会生活を送っている一般の方々は捜査の対象にならず、処罰されることはない」とも答弁しました。

 

 この点に関して、高山佳奈子氏は、『共謀罪の何が問題か』の中で、

「『共謀罪法案』が、

(1)対象を『犯罪組織集団』に限定すること、

(2)重大犯罪の『計画』を要件とすること、

(3)『実行準備行為』を要件とすること、

は、どれも実は限定になっていない」と述べています。

 

つまり、高山氏は、同書の中で、以下のような内容を述べています。概要を引用します。

(1)「組織的犯罪集団」について→「法案の条文における『組織的犯罪集団』には何の要件もつけられていません。つまり、事前の認定や指定がいらないばかりか、過去に違法行為を行ったこと等も要件とされていません。つまり、集団であれば、ある時点からこれに該当すると判断されてしまうのです(最高裁平成27年9月15日)。したがって、一般人の集団が突然、本法案の対象となってしまう危険性があります。」

(2)「計画」について→「法案の条文における『計画』にも何の要件もつけられていません。そのため、目配せはもちろんのこと、LINEや電子メールなど、どのような方法でも該当してしまいます。」

(3)「実行準備行為」について→「これまで、日本の裁判所は、ある行為を危険犯や予備罪として処罰するためには、それに値するだけの実際的な危険がなければならないとしてきました。これは憲法31条の適正手続の保障の要請でした。しかし、新設されようとしている『実行準備行為』は『関係場所の下見』などを例として『その他の計画をした犯罪を実行するための準備行為』と無制限に規定しています。ですからどのような行為も該当してしまうことになります。

 ある場所にいくことが、散歩なのか、犯罪の準備行為なのか、客観的には指標は何もありません。両者の違いは内心の目的のみです。『共謀罪は内心を処罰するものだ』と批判されるのはこのためです。内心を処罰される可能性があるということは、『思想・内心の自由』を侵すことを禁止する憲法19条に反している、と判断できるのです。」(『共謀罪の何が問題か』51頁)

 

 この法案には、高山氏の述べるような危険性が、確かに、あります。

 従って、国際社会からも次々と批判が出ています。

 たとえば、世界の約2万6000人の作家達が参加する国際組織「国際ペン」(本部・ロンドン)は6月5日、ジェニファー・クレメント会長の名前で、共謀罪法案に反対する声明を発表しました。「同法が成立すれば、日本における表現の自由とプライバシーの権利を脅かすものとなるであろう」として、「日本国民の基本的な自由を深く侵害することとなる立法に反対するよう、国会に対し強く求める」としています。

 国際ペンが、日本の国内法案について反対声明を出すのは2013年の特定秘密保護法案以来で、異例のことです。

 すでに2月に反対声明を出している日本ペンクラブ会長の浅田次郎も「国際ペンの反対声明を心強く思う。その半面、恥ずかしい。本来は、外国の方からこれは本当はこうだろうというようなことを言わせてはならない。どう考えても、この法律は必要だとは思えない」と語りました。

 

 (共謀罪・賛成説からの反論)

 以上の点について、共謀罪賛成説は、前記のように、「テロの効果的防止のためには、ある程度、『内心の自由』の侵害が発生しても仕方がない」という見解を主張しているのです。 

 言い換えれば、「内心のチェック」こそ、「テロの効果的防止」の重要ポイントと考えているのです。

 この記事の前半で、共謀罪賛成説の宮家邦彦氏の見解を既述しましたが、見解のポイントを再掲します。

「  日本の刑法体系は「法益侵害行為」のみを罰する古典的建前が基本だから、国際組織犯罪防止条約(TOC条約)が求めるような「合意罪」または「参加罪」のいずれも刑事責任を問えない。しかし、IT技術の発達により情報の処理伝達速度が飛躍的に向上した21世紀に侵害行為の発生を待っている余裕はない。」(宮家邦彦の World Watch ー「テロ等準備罪審議は『反対のための反対』そのものではないか」『産経ニュース』2017年4月27日)

 

 同様の趣旨を、井田良氏(中央大大学院教授・刑法)も主張しています。以下に引用します。

「  組織的犯罪集団や準備行為などが明文化されたことで、立証のハードルは高く、頻繁には適用されない。処罰対象が大幅に広がる懸念については、慎重な検討を必要とする。しかし、いま止めないと、取り返しが付かない危険をはらんだ犯罪の容疑者を捕まえようという場合、内心を見るのは当然である。」(「『共謀罪』参考人質疑 反対派『監視を危惧』 賛成派『乱用の危険ない』」・『東京新聞・夕刊』2017年4月25日)

 

テロとインテリジェンス―覇権国家アメリカのジレンマ

 

 

(4)まとめー賛成説・反対説の調和は可能か?

 以上のように、「安心・安全のためのテロ対策」を重視するか、「自由・人権」を重視するか、によって、共謀罪法案に対する評価は、大きく対立しています。

 しかし、「安心・安全」と「自由・人権」のいずれも、人間の生存・存立に必要不可欠な「価値・利益」です。

 従って、以上の賛成説と反対説を調和させることを考慮する必要があります。

 この点については、福田充氏の、以下の見解が、とても参考になります。 

「  危機管理の要はインテリジェンス

 現代的リスクの特徴はグローバル化であるである。グローバリゼーションにより、現代のリスクはグローバル化し、危機管理も国際協調が求められる時代となった。ウルリッヒ・ベックが指摘したグローバル・リスクには、(1)環境問題、(2)金融危機、(3)国際テロリズムの3つがあるが、現代においては食品の安全・安心から、原子力問題、海外旅行、戦争・紛争まで幅広くあらゆるリスクがグローバル化しているといえる。(福田充『リスク・コミュニケーションとメディア』北樹出版 )

 こうしたグローバルなリスクに対して、危機を未然に防ぐためのリスク・マネジメントに求められている能力は「インテリジェンス」である。日本語では情報活動、諜報活動とも訳されるインテリジェンス活動は、政策立案のために要求される情報を収集し、分析し、評価し、共有して、政策化するために、たんなる寄せ集めのインフォメーション(情報)を、インテリジェンス(知恵)に変える活動である。(福田充『テロとインテリジェンス』慶應義塾大学出版会)

 世界中でそして日本中で発生している事案について、幅広く情報収集し、それを他人事とするのではなく、自分事として活かして、自分の組織の危機を未然に防ぐための知恵とするインテリジェンス的思考が現代の日本人に求められている。

 

   「安全・安心」と「自由・人権」

 インテリジェンス能力の強化を伴う危機管理には、さまざまな方法、手段による情報収集、監視活動が伴うことになる。その監視の対象が火山であったり河川であったりする自然災害対策における監視活動、情報収集では、政治的価値をめぐる問題は発生してこなかった。しかしながら、その監視活動や情報収集が人や組織、国を対象としたものとなるとき、イデオロギーや政治的価値をめぐる根本的な問題が発生する。

 防犯対策やテロ対策のために街頭や駅、空港などの公共施設に監視カメラを設置する場合、または戦争を防ぐための外交、テロ対策のために実施される通信傍受において電話やメールなどが傍受される場合、個人のプライバシーなどの人権や自由が損なわれる事態が発生する可能性がある。アメリカで発生したスノーデン事件は、国家安全保障局(NSA)による世界中での通信傍受の実態が暴露された典型的な事件であった。

 テロや戦争を未然に防ぐためには、こうしたインテリジェンス活動は不可欠であり、それにより国民の「安全・安心」は守られるが、そのインテリジェンス活動が行きすぎると、国民の「自由・人権」が損なわれるという政治的価値をめぐるトレードオフ(→「両立しない関係」という意味)の問題が発生する。危機管理をめぐって、この「安全・安心」と「自由・人権」のバランスを取るための国民的な議論と合意形成こそ、現代の日本に必要である。

( 「危機管理学とは何か」福田充(日本大学危機管理学部教授)『PHPオンライン  衆知』2016年12月20日)

 

 さらに、福田充氏は、「リベラル(→「自由主義的」という意味)で民主的な危機管理の構築」について、言及しています。この論考は、秀逸な発想に充ちています。この論考の方向性が、現状では、理想的な方向性でしょう。実現は、かなり困難でしょうが、検討するべき重要な提案です。 

 以下に、引用します。

「  共謀罪・バランスが大切

 テロリズムのための道具の準備、資金の準備を把握するためには、準備行為を監視し、実行準備行為を捕捉しなくてはならない。そのためには通信傍受によるシギント(SIGINT)、情報衛星や監視カメラなどによるイミント(IMINT)などのインテリジェンス活動の強化が求められる。そこで課題となるのは、テロリズムを防止するための「安全・安心」の価値と、テロ対策によって影響を受ける「自由・人権」の価値のバランスをどうとるかという問題である。国民の「自由・人権」を守りながら、テロ対策を実行するために、リベラルで民主的な危機管理をどう構築していくか、これが最も重要な課題である。

(「テロを知らない日本人でもよく分かる『共謀罪』議論の核心」福田充『 iRONNA・産経デジタル』)

 

 「安心・安全」、「自由・人権」の論点は、世界的に問題化している、緊急かつ重大な論点です。日本人も、自分達の問題として、真剣に考察するべきです。

 大学入試においても重要ですが、受験生は、自分の人生の重要問題として、国民主権の当事者として、この問題を考え続けるべきでしょう。

 この論点については、当ブログにおいても、さらに取り上げていく予定です。

 

ーーーーーーーー

 

 今回の記事は、これで終わりです。

 次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

 ご期待ください。

 

    

 

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共謀罪の何が問題か (岩波ブックレット)

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メディアとテロリズム (新潮新書)

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

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5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

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 私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。

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2015センター試験国語第1問(現代文・評論文)解説・IT化社会

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 2015年度センター試験国語(現代文・評論文)に出題された佐々木氏の論考(『未知との遭遇』)は、「IT化社会の問題点」、つまり、「歴史の崩壊」・「歴史意識の衰退」・「系譜学的(体系的)知の衰退」を鋭く指摘しています。この論点、言い換えれば、「反知性主義化」は、「IT化社会のマイナス面」・「IT化社会の影・闇」として、最近、問題化しています。佐々木氏の論考は、とても参考になるので、ここで紹介します。

 

 また、センター試験国語(現代文・評論文)対策として、役に立つように、丁寧な解説をしていきます。

 

 今回の記事は、以下の項目について書いていきます。記事は、約1万字です。

(2)2015センター試験国語第1問(現代文・評論文)・『未知との遭遇』佐々木敦・の解説

(3)問題文本文の構成

(4)当ブログにおける「IT化社会」関連記事の紹介

(5)当ブログにおける「反知性主義」関連の記事の紹介

(6)当ブログにおける「センター試験国語(現代文・評論文)」関連の記事の紹介

(7)佐々木敦氏の紹介 

 

未知との遭遇【完全版】 (星海社新書)

 

 (2)2015センター試験国語第1問(現代文・評論文)・『未知との遭遇』佐々木敦・の解説

 

(問題文本文)(佐々木敦氏の論考)

(概要です)

(【1】・【2】・【3】・・・・は、本文に付記されている段落番号です)

 

【1】ネット上で教えを垂れる人たちは、特にある程度有名な方々は、他者に対して啓蒙的な態度を取るということに、一種の義務感を持ってやってらっしゃる場合もあるのだろうと思います。僕も啓蒙は必要だと思うのですが、どうも良くないと思うのは、ともするとネット上では、啓蒙のベクトルが、どんどん落ちていくことです。たとえば掲示板やブログに「○○について教えてください」などという書き込みをしている「教えて君」みたいな人がよくいますが、そこには必ず「教えてあげる君」が現れる。自分で調べてもすぐわかりそうなのに、どういうわけか他人に質問し、そして誰かが答える。そして両者が一緒になって、川が下流に流れ落ちるように、よりものを知らない人へ知らない人へと向かってしまうという現象があり、これはナンセンスではないかと思います。ツイッタ―でも、ちょっとしたつぶやきに対して「これこれはご存知ですか?」というリプライを飛ばしてくる人がいますが、つぶやいた人は「教えてあげる君」に教えられるまでもなく、それは知っていて、その上でつぶやいていたのかもしれない。だから僕は A  「教えて君」よりも「教えてあげる」の方が、場合によっては問題だと思います。自分より知識や情報を持っていない方に向かうよりも,自分が知らないことを新たに知ることができる方向に向かっていったほうがいいに決まっている。啓蒙するよりも啓蒙される側に回ったほうが,自分にとっては利があると思うのです。

  

ーーーーーーーー

 

(設問・解答・解説)

問2(傍線部説明問題・理由説明問題)

傍線部A「『教えて君』よりも『教えてあげる君』の方が、場合によっては問題だと思います」とあるが、それはなぜか。 

①「教えてあげる君」は「教えて君」に対して無責任な回答をすることによって、質問をただ繰り返すばかりの「教えて君」の態度の安直さを許容してしまっているため、「教えて君」の知的レベルを著しく低下させる弊害をもたらすことにもなるから。

②「教えてあげる君」は「教えて君」に知識を押しつけるばかりで、その時点での相手の知的レベルに応じた回答をしているわけではないため、「教えて君」をいたずらに困惑させてしまい、自らの教える行為を無意味なものにしてしまうことにもなるから。

③「教えてあげる君」は自身の知識を増やそうとすることがなく、「教えて君」の知的好奇心を新たに引き出すこともないため、「教えて君」もまた「教えてあげる君」と同様の状況に陥り、社会全体の知的レベルが向上していかないことにもなるから。

④「教えてあげる君」は社会全体の知的レベルを向上さえなければならないという義務感にとらわれており、「教えて君」の向上心に直接働きかけようとして教えているわけではないため、自分自身の知的レベルが向上していかないことにもなるから。

⑤「教えてあげる君」は「教えて君」を導くことで得られる自己満足を目的として教えているに過ぎず、「教えて君」の知的レベルを向上させることには関心がないため、「教えて君」と「教えてあげる君」との応答がむだに続いてしまうことにもなるから。

 

 …………………………

 

(解説)

 理由説明問題なので、傍線部前後から理由説明の箇所を探します。傍線部直前の「だから」に注目して、「だから」の前を精読します。

 直前の「自分で調べてもすぐにわかりそうなのに、どういうわけか他人に質問し、そして誰かが答える。そして両者が一緒になって、川が下流に流れ落ちるように、よりものを知らない人へ知らない人へと向かってしまうという現象があり、これはナンセンスではないかと思います。」の部分が理由の説明になります。

 この部分を言い換えている③が正解になります。

 

(正解)  ③

 

ーーーーーーーー

 

(問題文本文)(概要です) 

【2】ではどうして自分が考えたことをすでに考えた誰かが必ずといっていいほど存在するのか。それは要するに、過去があるから、大袈裟に言えば、人類がそれなりに長い歴史を持っているから、です。もちろん今だって新しい発想や知見が生まれているわけですが、いろいろな分野において、過去のストックが、ある程度まで溜(た)まってしまった。だから何らかの事柄にかんして考えてみようとすると、大概は過去のどこかに参照点がある。②「しかしわれわれは過去のすべてを知っているわけではない。だからオリジナルだと思ってリヴァイバルをしてしまうことがある。それゆえ生じてくる問題にいかに対すればいいのか。

【3】単純な答えですが、順番はともかくとして、自力で考えてみること、過去を参照することを、ワンセットでやるのがいいのだと思います。知っていることと、わかっていることは別物なのだから、独力で理解できた方が、他者の言説を丸呑(まるの)みするよりもましに決まっています。しかしその一方で、人類はそれなりに長い歴史を持っているので、過去には思考のための潤沢な資産がある。それを使わない手はない。だから自分が考えつつあることと、他人が考えたことを、どこかのタイミングで付き合わせてみればいい。そうすることによって、現在よりも先に進むことができる。

【4】「君の考えたことはとっくに誰かが考えた問題」と、ちょっと似ていますが、盗作、パクリをめぐる問題というものがあります。これは多くのひとが気付いていると思うのですが、ある時期以後、たとえば音楽においても、メロディラインが非常に似通った曲が頻出し、しかもそれがヒットしてしまったりするという現象が起こってきました。僕は意図的な盗作よりも、むしろ盗作するつもりのなど全然なくて、つまりオリジナルを知らないのにもかかわらず、なぜかよく似てしまう、そのことの方がむしろ問題だと思います。

【5】人類がそれなりに長い歴史を持っているということは、当然ながら人類は、これまでに沢山の曲を作ってきたわけです。メロディも沢山書いてきた。だから誰かがふと思いついたメロディが過去に前例があるということは、確率論的にも起き易(やす)くなっていることであって、ある意味で不可避だと言ってもいい。新しいメロディが、なかなか出てこないということは、それだけ過去に素晴らしいメロディが数多く紡ぎ出されたということです。それは別に悪いことではない。もちろん B  メロディを書こうとする音楽家にとっては、これはなかなか厳しい問題かもしれません。でも、「君の考えたことはとっくに誰かが考えた問題」と同じように、自分で考えたということは自分にとっては意味のあることだけれど、それでも何かに似てしまうということはあり得る、と端的な事実を認めるしかない。自分の口ずさんだメロディが、見知らぬ過去の誰かによって奏でられていたとしても、めげる必要はない。でも、それを認めることは必要です。知らなかったんだから何が悪い、誰が何と言おうとこれは自分のものだ、ということではない。知らないより知っていた方がいい、でも知らなかったこと自体は罪ではない、ということです。

 

ーーーーーーーー

 

問3(傍線部説明問題・理由説明問題)

傍線部 B「メロディを書こうとする音楽家にとっては、これはなかなか厳しい問題かもしれません」とあるが、それはなぜか。その説明としてその説明として最も適当なものを、次のうちから一つ選べ。

 

正解は②です。

②  音楽家は、新しい曲を作ることを期待されているが、多くの曲が作られてきたことで、自分が考え出したメロディに前例がある可能性が高くなるため、オリジナルな曲を作ることが困難になってきているから。

 

(解説)

 傍線部の「これ」という指示語の内容を明確化する必要があります。「これ」は、「これはなかなか厳しい問題」に着目すると、直前部分の「新しいメロディーが、なかなか出てこないということ」を、さしています。

 オリジナルな「新しいメロディー」が作り出せないことが問題なのです。

 

 ーーーーーーーー

 

 (問題文本文)(概要です)

【6】「意識せずして過去の何かに似てしまっているものに、誰かが気付いて「これって○○だよね」という指摘をする。それを自分自身の独創だと思っていた者は、驚き、戸惑う。しかし、その一方では、意識的な盗作をわからない人たちもいるわけです。明らか意識的にパクっているのだけれども、受け取る側のリテラシー(→本文の(注)→「リテラシー」→「読み書き能力。転じて、ある分野に関する知識を活用する基礎的な能力」)の低さゆえに、オリジナルとして流通してしまう、ということもしばしば起こっている。それが盗作側の利益になっていたりするならば、やはり一定のリテラシーが担保されなければならないとも思います。けれども、無意識的に何かに似てしまうというのは、これはもうしょうがないことだと思います。人類はそれなりに長い歴史を持っているのだから。 

【7】以上のような問題はいずれも、累積された過去と呼ばれる時間の中で、さまざまなことが行なわれてきてしまった、すなわち「多様性」が、ある閾値(いきち)(→本文の「注」→「限界値」)を越えてしまったということから生じています。人類がそれなりに長い歴史を持っているがゆえに、それだけ多くのコト/モノが積み重なったということに過ぎない。しかし、われわれが「多様性」を、何らかの意味でネガティブに受け取ってしまうのは、時間の流れとは別に、それがひと塊のマッス(量)として、いきなり自分の前に現れたかのように思えるからではないでしょうか。それはナンセンスなことだと思うのです。

【8】われわれは、ある事象の背後に「歴史」と呼ばれる時間があると考えるわけですが、ネット以後、そういった「歴史」を圧縮したり編集したりすることが、昔よりずっとやり易くなりました。時間軸を抜きにして、それを一個の「塊=マッス」として、丸ごと捉えることが可能になった。そういう作業において、ネットは極めて有効なツールだと思います。

【9】ただ、そのことによって、たとえば「体系的」という言葉の意味が、決定的に変わってしまった。しかし、「物語」としての「歴史」の記述/把握という営みは、少なからず行われてきたし、今も行われている。過去から現在を経て未来へと流 れてゆく「時間」というものが、そのあり方からして「物語」を要求してくる。「物語」とは、因果性の別名です。だからひとは「歴史」を書くつもりで、ついつい「物語」を書いてしまう。

【10】 しかしネット以後、このような一種の系譜学的な知よりも、「歴史」全体を「塊」のように捉える 、いわばホーリスティック(→本文の「注」→「全体的、包括的」)な考え方がメインになってきたのではないかと思うのです。これはある意味では C   「歴史」の崩壊でもあります。まず「現在」という「扉」があって、そこを開けると「塊」としての「歴史」がある。その「歴史」を大摑(おおづか)みに摑んでしまって、それから隙間を少しずつモザイク状に埋めていくことが、「歴史」の把握の仕方としては、今やリアルなのではないかと思うのです。

【11】先ほど「リテラシー」という言葉を出しましたが、リテラシーが機能していないと、何をわかってもらおうとしても空回りしてしまうことがあるので、最低限のリテラシーを形成するための啓蒙の必要性が、とりわけゼロ年代(→本文の「注」→「西暦2000年以降の最初の10年間」)になってからよく語られるようになってきました。たとえば芸術にかんしても、ある作家や作品に対する価値判断に一定の正当性を持たせるためには、どうしても啓蒙という作業が必要になってくるという意見があります。時間軸に拘束されない、崩壊した「歴史」の捉え方が、90年代以後、少しずつメインになってきて、僕はそれは基本的に良いことだと思っていたのですが、ゼロ年になってくると、その弊害も起こってきた。そのひとつの例が「意図的なパクり」だったりします。だから、ここまでくると、啓蒙も必要なのかもしれないという気持ちが、僕にも多少は芽生えてきました。けれども、やはり僕自身は、できれば啓蒙は他の人に任せておきたいのです。啓蒙を得意とする、啓蒙という行為に何らかの責任の意識を持っている人たちがなさってくれればよくて、僕はそれとは異なる次元にある、未知なるものへの好奇心/関心/興味を刺激することの方をやはりしたい。けれどもそれも今や受け手のリテラシーをある程度推し量りながらする必要がある。そこが難しい所であるわけですが。」

 

ーーーーーーーー

 

問4(傍線部説明問題) 傍線部C「『歴史』の崩壊」とあるが、それはどういうことか。その説明として最も適当なものを、次のうちから一つ選べ。

① インターネットによる情報収集の普及にともない、過去の出来事と現在の出来事との類似性を探し出すことが簡便にできるようになったため、両者の本質的な違いに着目することによって得られる解釈を歴史と捉える理解の仕方が成り立たなくなってしまったということ。

② インターネットによる情報収集の普及にともない、累積された過去に内在する多様性を尊重することが要求されるようになったため、多くの出来事を因果関係から説明し、それから構成された物語を歴史と捉える理解の仕方が人々に共有されなくなってしまったということ。

③ インターネットによる情報収集の普及にともない、過去の出来事を重要度の違いによって分類することができるようになったため、重要であるか否かを問題にすることなく等価なものとして拾い出された過去の出来事の集合体を歴史と捉える理解の仕方が根底から覆ってしまったということ。

④ インターネットによる情報収集の普及にともない、過去の個々の出来事を時間的な前後関係から離れて自由に結びつけられるようになったため、出来事を時間の流れに即してつなぐことで見いだされる因果関係を歴史と捉える理解の仕方が権威を失ってしまったということ。

⑤ インターンネットによる情報収集の普及にともない、累積された膨大な情報を時間の流れに即して圧縮したり編集したりすることが容易になったため、時間的な前後関係や因果関係を超えて結びつく過去と現在とのつながりを歴史と捉える理解の仕方が通用しなくなってしまったということ。

 

……………………………

 

解答・解説・問4

(問題の解答・解説)

 →選択肢は少々長いですが、「傷・ミス」を発見するようにしてください→「消去法」

 

 正解は④です。

 傍線部直前の「これ」は、直前の文の「『歴史』全体を『塊』のように捉える、いわばホーリスティック(「全体的、包括的」)な考え方」を、さしています。

 本来は、「歴史」を「時間軸」に沿った(「時間」が介在した)、「因果性」のある「物語」と捉えるべきです。

 これが、「系譜学的な知」です。

 ところが、「ネット以後」、「このような系譜学的な知よりも、『歴史』全体を塊のように捉える考え方がメインになってきたのではないか」、と筆者は主張しているのです。 

 

①は、「類似性を探し出すこと」の部分が、

②は、「過去に内在する多様性を尊重することが要求」の部分が、

③は、「過去の出来事を重要度の違いによって分類」の部分が、

⑤は、「因果関係を超えて結びつく」の部分が、

それぞれ、本文に、このような記述がなく、誤りになります。 

 ④は、「傷・ミス」がなく、「傍線線部、および、その前後」を言い換えているだけでなので、これが最も適当であり、正解となります。

 このように、各選択肢の「傷・ミス」をチェックしていくと、早く解答することができます。→「消去法」

 すぐに、選択肢を見るべきです。

 

(当ブログによる補充的解説)

〔1〕【  「『因果性』の軽視」は、「『論理性』の軽視」ということ】

 「因果性」、つまり、「原因・結果の流れ」を意識しないということは、「論理」を意識しないということです。

 これは、深刻で重大な問題です。

 「歴史の崩壊」だけでは、すまない問題です。

 「共同体」・「社会」・「人類」の「崩壊」、そして、「『ホモ・サピエンス(賢い人間)としての人間存在』の崩壊」につながる危険性があります。

 当ブログの第2回記事に取り上げた土井隆義氏の論考(『友だち地獄ー「空気を読む」世代のサバイバル』)の中に、「現代の若者たちは、自らのふるまいや態度に対して、言葉で根拠を与えることに、さしたる意義を見出だしにくくなっている。」という記述がありました。

 要するに、「現代の若者は、言葉を尊重しない」ということです。

 以上の点から考えると、これからの人間は「論理性」や「言葉」を軽視し、主に、動物のように、「本能」、「感性」、「直感」、「好き嫌い」で生きるのでしょうか?

 これも、一種の「反知性主義の蔓延」ということになるのでしょうか。

 

ーーーーーーーー 

 

問5 (キーワード説明問題) この文章全体を踏まえ、「啓蒙」という行為に対する筆者の考えをまとめたものとして最も適当なものを、次のうちから一つ選べ。

 

 正解は②です。②は、以下のような記述になっています。

 

②膨大な情報に取り囲まれ、物事の判断基準が見失われた現代では、正当な価値判断を行うためのリテラシーを形成する啓蒙という行為の必要性は高まり続けている、と筆者は思っている。しかし、みずからその作業を率先して担うよりは、好奇心を呼び起こすことで人が自力で新たな表現を生み出すよう促す側に身を置き続けたいと考えている。

 

 (解説)

【11】段落後半部の「啓蒙は必要」だが「啓蒙は他の人に任せておきたい」、「僕はそれとは異なる次元にある、未知なるものへの好奇心/関心/興味を刺激することの方をやはりしたい。」という記述がポイントになります。

①は、「単に他者を啓蒙するだけにとどまらず」の部分が、啓蒙はしないので、誤りです。

②は、上記の【11】の後半部分のポイント部分に合致しているので正しく、正解になります。

③は、「あえて地者を啓蒙する場にとどまり続けたい」の部分が、誤りです。

④は、「啓蒙という行為に積極的に関わる」の部分が、誤りです。

⑤は、「あえて啓蒙の意義を否定し」の部分が、誤りです。

 

以上からすると、問5は、標準レベルの問題です。

 

 ーーーーーーーー

 

問6 (文章表現説明問題)  この文章の表現に関する説明として適当でないものを、次の①~⑧のうちから二つ選べ。 

①  第1段落に出てくる「教えて君」「教えてあげる君」のような「君」付けの呼称は、それらの人たちに対する親しみではなく、軽いからかいの気持ちを示している。

②  第3段落の前半にある丁寧の助動詞「ます」がその段落の後半に出てこなくなるのは、読み手に対する直接的な気配りよりも内容そのものの説明に重点が移っているからである。 

③  第4段落の末尾の文中にある「そのこと」という指示表現は、それを用いず「なぜかよく似てしまうことの方が~」と続けた場合に比べて、次の段落への接続を滑らかにする働きをしている。 

④  第5段落の後半になって「~ない」という打消し表現が目立つようになるのは、同じ話題に関する議論を深めるために、肯定の立場から否定的な立場に転じて論じているからである。

⑤  第7段落の第4文で「しかしだからといって、~ありません。」は、第3文と同じく「しかし」という接続詞で始まっているが、どちらの「しかし」も第2文に対して逆接関係にあることを示している。

⑥  第8段落の第1文になって初めて「歴史」という語をカギカッコ付きで表示するようになったのは、従来の捉え方による歴史であることを際立たせるためである。

⑦  第10段落の第2文「これはある意味では~あります。」の「ある意味では」という表現は、一文全体を婉曲(えんきょく)な言い回しにするという働きをしている。

⑧  第11段落の第7文「啓蒙を得意とする、~したい。」の中の「なさって」という尊敬表現によって示される敬意には、その人たちに対して距離を置こうとする働きが含まれている。

 

 ……………………………

 

 (解説・解答)

この設問は、本文を読む前に見ておくと、効率的に問題を処理することができます。

 
①  筆者はネット上の「啓蒙」教え合いを問題視しています。「軽いからかい」という解釈は問題ないでしょう。 

②  第3段落後半から、筆者は自説を詳説しています。この②は正しいです。

③ 「そのことの方が」という表現は、直前を強調するためです。次の段落との接続を意識したものでは、ありません。この③は、適当では、ありません。

④  確かに、「~ない」という表現は多いですが、肯定の立場から否定の立場に転じてはいないので、この④は適当では、ありません。

⑤  この選択肢は正しいです。

⑥  カギカッコ付きの「歴史」は、「物語」、「因果性の別名」であり、それがネット社会の中で「崩壊」しているというのが筆者の主張です。従って、カギカッコ付きの「歴史」は「従来の捉え方による歴史」と言えます。正しいです。

⑦  この選択肢は問題ありません。

⑧  筆者の立場からすると、「啓蒙を得意とする」人たちは筆者とは「異なる次元」にいる人たちなので、「距離を置こう」としているという解釈は適切と言えます。

 

(解答)  ③・④ 

 

 (3)問題文本文の構成

 

【1】段落→筆者は、自分の知識より低いレベルに合わせてしまう「教えてあげる君」が、「教えて君」問題だと説明しています。

 

【2】段落~第【6】段落→盗作(パクリ)についてです。 筆者は、盗作が起こるのは、歴史の中に、潤沢な資産、溢れるばかりのストック、があるのが原因だと言っています。盗作の中には、偶然的なものと、意図的したものがあります。

  

【7】段落~【10】段落→盗作問題の解決方法について、筆者は、創作をしたら、過去に遡って同じような物がないかの検証をすることを提案しています。

 

【11】段落→最低限のリテラシーが機能しなくなったので、啓蒙の必要性が問題になっている。ネットの発達によって人々の「知」の在り方は変質し、系譜学的な知よりも、包括的なとらえ方がメインになった。それは良いことではあるのだが、既存の知識の積み重ねがないので、「意図的なパクリ」に気付かないなどの弊害も生じる。今は、筆者も啓蒙の必要を感じる。しかしながら、筆者は、啓蒙とは異なる次元にある、僕未知なるものへの好奇心/関心/興味を刺激することを、やはりしたいと考えている。

 

(4)当ブログにおける「IT化社会」関連記事の紹介

 

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(5)当ブログにおける「反知性主義」関連の記事の紹介

 

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(6)当ブログにおける「センター試験国語(現代文・評論文)」関連の記事の紹介

  

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(7)佐々木敦氏の紹介 

佐々木敦(ささき・あつし1964年生まれ。愛知県名古屋市生まれ。早稲田大学卒業。批評家音楽レーベルHEADZ主宰。雑誌『エクス・ポ』編集発行人。

 

【著書】

『映画的最前線  1988-1993』(水声社・1993)

『カルト・ムービーズ  こだわりの映画読本』(キーワード事典編集部共編・洋泉社・1993)

『ゴダール・レッスン あるいは最後から2番目の映画』(フィルムアート社・1994)

『テクノイズ・マテリアリズム』(青土社 2001)

『「批評」とは何か?  批評家養成ギブス』(メディア総合研究所・2008・ブレインズ叢書)

『ニッポンの思想』(講談社現代新書・2009)

『文学拡張マニュアル  ゼロ年代を超えるためのブックガイド』(青土社・2009)

『未知との遭遇   無限のセカイと有限のワタシ』(筑摩書房・2011)

『批評時空間』(新潮社・2012)

『あなたは今、この文章を読んでいる。 パラフィクションの誕生』(慶應義塾大学出版会・2014)

『ニッポンの音楽』(講談社現代新書・2014)

『ゴダール原論   映画・世界・ソニマージュ』(新潮社・2016)

『ニッポンの文学』(講談社現代新書・2016)

  

ーーーーーーーー

 

今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後の予定です。

ご期待ください。

 

    

  

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未知との遭遇【完全版】 (星海社新書)

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ニッポンの音楽 (講談社現代新書)

ニッポンの音楽 (講談社現代新書)

 

 

ニッポンの思想 (講談社現代新書)

ニッポンの思想 (講談社現代新書)

 

 

頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

 

  

5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

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私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。

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予想問題「極大化した不安 共に過ごす時間を」山際寿一・現代文明論

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 

 以下に紹介する山際寿一氏の論考(「極大化した不安 共に過ごす時間を」・耕論・〈私たちはどこにいるのか〉2017・1・1朝日新聞」)の一節、

「土地とも人とも切り離され、社会の中で個人が孤立している時代です。人類はどうやって安心を得たのか、生身の体に戻って確かめるために、霊長類学(→当ブログによる注→「文化人類学の一分野」)が必要とされているのでしょう」

は、私の心に響きました。

 最近では、文化人類学者、霊長類学者の、著作がかなり人気になっているようです。

 そして、長い間、文化人類学者、霊長類学者の論考は、入試頻出です。具体的には、青木 保、梅棹 忠夫、川田 順造、多田 道太郎、中根 千枝、波平 恵美子、正高 信男、山口 昌男、吉田 憲司、山際 寿一などの各氏の論考が、難関大学の入試現代文(国語)・小論文に頻出です。

 「人間とは何か」を考える際には、文化人類学の視点は重要であり、不可欠とさえ言えます。

 文化人類学者・霊長類学者のこれらの論考を熟読・精読することは、入試に役立つ上に、自分の人生の糧になります。

 最近、入試頻出著者である山際寿一氏の、上記の素晴らしい論考が発表されたので、今回は、この論考を、山際氏の他の著作等を引用しながら解説することにしました。

 

「サル化」する人間社会 (知のトレッキング叢書)

 

 

(2)「『極大化した不安 共に過ごす時間を』・山極寿一・耕論・〈私たちはどこにいるのか〉2017・1・1朝日新聞」の解説

 

(太字が山極寿一氏の論考です)

(概要です)

(【1】・【2】・【3】・・・・は当ブログで付記した段落番号です)

(青字は当ブログによる「注」です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

【1】安心が消え、不安が極大化した時代。私はいまを、そうとらえています。

【2】人類の進化の歴史を振り返ってみましょう。アフリカでチンパンジーとの共通祖先から枝分かれしたのは700万年前。大型肉食獣に襲われる恐れのない樹上空間があり、実り豊かな熱帯雨林の中でした。450万年前頃からサバンナ(→「サバンナ」とは明瞭な雨季・乾季をもつ、熱帯・亜熱帯地方にみられる低木が点在する草原。雨季にはイネ科の高い草が茂る)へ進出した。霊長類ヒト科の中でヒトだけが世界中に散らばるきっかけです。サバンナは逃げ場がなく、さぞ不安だったでしょう。

【3】狩猟具を持ったのは50万年前、大きな獲物を協力して狩るようになったのは20万年前です。人類の歴史のほとんどは、肉食獣から逃げ隠れし、集団で安全を守り合う時間でした。安全イコール安心です。だから人間の体の奥底には、互いに協力しないと安心は得られないことが刻み込まれ、社会性の根深い基礎になっています。安心は決して一人では得られません。」

 

ーーーーーーーー

 

(当ブログによる解説)

 「人類の歴史のほとんどは、肉食獣から逃げ隠れし、集団で安全を守り合う時間でした。

 の一文は、この論考の、最初のポイントになっています。

 この文については、『ヒトは食べられて進化した』 (ドナ・ハート著、ロバート・W・サスマン著、伊藤伸子訳・化学同人)が参考になります。

 本書には、

 「熱帯雨森を出て、サバンナ(草原)で生きる暮らすようになった初期人類は肉食獣に襲われ餌食にされた。肉体的に非力なヒトは、何とか生きのびるために知能と言語を発達させるしかなかった」

という記述があります。

 かなり、衝撃的な内容ですが、弱肉強食という自然界の掟の中で生きることの厳しさが、よく分かります。

 

 次に、「人間の体の奥底には、互いに協力しないと安心は得られないことが刻み込まれ、社会性の根深い基礎になっています。安心は決して一人では得られません。 」

については、山際氏の『人類進化論』に、より詳しい説明があります。

 以下に引用します。

「世界中の狩猟採取民を調査した人類学の結果から、狩猟採取民の社会は極めて平等であり、群れの内のメンバーは相互に助け合い、自己を犠牲にしても他のメンバーを仲間として助ける行動規範・社会規範が強いことが確認されている。そうでなければ生き残れなかったのが、狩猟採取生産段階の現実だった。助け合いルールが生活にインプットされていた。」 (『人類進化論』)

 

(当ブログによる解説)

 このことは、私たち人類の遠い祖先の話です。私たちの人類は、自己の生存のために、「助け合いルール」を不可欠のものとしていたのです。この点からみると、自己、アイデンティティ、自己主張、自己実現、個性尊重などは、副次的なものであることは、明白でしょう。生存が確保されて、初めて、これらの副次的なものは問題になるからです。このことを、現代の日本社会は誤解しているようです。反知性主義の蔓延、幼児化現象の蔓延と言えるでしょう。

 

ーーーーーーーー 

  

(山極寿一氏の論考)

【4】安心をつくり出すのは、相手と対面し、見つめ合いながら、状況を判断する「共感力」です。類人猿の対面コミュニケーションを継承したもので、協力したり、争ったり、慮(おもんぱか)ったりしながら、互いの思いをくみ取って信頼関係を築き、安心を得る。

【5】脳の大きさは、組織する集団の人数に比例します。構成人数が多いほど高まる社会的複雑性に、脳が対応しました。現代人と同じ脳の大きさになったのは60万年前で、集団は150人程度に増えていました。言葉を得たのは7万年前ですから、言葉なしに構築した信頼空間です。日頃言葉を駆使し、人間関係を左右していると思うのは、大きな間違いです。

 

 ーーーーーーーー

 

(当ブログによる解説)

 「言葉を得たのは7万年前ですから、言葉なしに構築した信頼空間です。日頃言葉を駆使し、人間関係を左右していると思うのは、大きな間違いです。 」

については、山際氏は、『季刊・考える人』 (2015年冬号・新潮社)の中で以下のように、さらに詳しく述べています。

「  家族やコミュニィを支えてきたのは、言葉ではなかった。言葉以前のコミュニケーションによる付き合い方だったと思います。そして、それは、今でも、同じなのです。人間関係については、だんだんと視覚を使うコミュニケーションが減って、逆に、遠距離間のコミュニケーション、相手の顔が見えないコミュニケーションがふえてきた。もう一つ言えば、視覚、聴覚、臭覚、触覚、味覚の五感のうち、触覚を使ったコミュニケーションは、人間のコミュニケーションのなかで非常に重要だった。だが、そういう接触を頻繁に使ったコミュニケーションも薄れてきました。もともと、人間は会うことでお互いの信頼関係を高め、維持してきたわけですが、今はそのことそのものが省略されるようになっている。食事もそう。昔は長い時間をかけて食事の準備をし、そして長い時間をかけて、みんなで楽しく語らいながら食べるものでした。家族の団欒というのは、必ず食事の席にあったのです。」(『季刊・考える人』)

 

 そして、「家族の崩壊」について、山際氏は、『家族進化論』の中で、

「霊長類の集団でのコミュニケーションの基本は、歌と身振りであり、人間でもそれは言葉以上に信頼や安心をもたらす効果を持つ。今、家族の崩壊が見られるのは、この対面でしか成立しないコミュニケーションが希薄になっているからだ」(『家族進化論』)

と主張しています。

 

 私(斎藤隆)は、卓見だと思います。

 IT化が進行している現代社会においてこそ、「対面でしか成立しないコミニュケーション」の再評価・見直しをしていくべきでしょう。

    

 ーーーーーーーー

 

(山極寿一氏の論考)

【6】現代はどうでしょう。集団とのつながりを断ち、集団に属することで生じるしがらみや息苦しさを軽減する。次々にマンションが建ち、個人は快適で安全な環境を得ましたが、地域社会の人のつながりはどんどん薄れた。

 

 ーーーーーーーー

 

(当ブログによる解説)

 上記の論考に関連して、山際氏は、『「サル化」する人間社会』の中で、以下のように、人間社会における「極端な個人主義化」を、「人間のサル化」と同視しています。

 「ゴリラの社会には上下関係や「負け」がない。喧嘩をしても敗者を作らない。誰も負けない状態で問題を解決する。誰も勝たない、誰も負けない、ということは、優劣をつけず、全員が対等であるというルールがあるからです 

 一方、サルは個人の利益優先の序列社会で、平等とは無縁です。自分より強いサルの前では、決して食べ物に手を出さない。食べているところを見られると、優位なサルに食べ物を取られてしまう。食べる時は分散し、互いに目が合わないようにします。サル社会では、相手の目を見ることは威嚇をあらわすことになります。従って、サル社会は食べ物を分かち合うことは出来ない。サルは群れてはいるが、所属する集団に愛着を持たないのです。

 人間が勝負にこだわり、個人の利益ばかりを追求し、家族や共同体に愛着を持たないようになれば、それはゴリラ社会よりもサル社会に近くなったことになります。スマホ・テレビで気分転換をして、一人暮らしが良いとなると、家族や共同体への愛着は消えて行くでしょう。」(『「サル化」する人間社会』)

 

(当ブログによる解説)

 この、「ゴリラ的社会→サル的社会」の変化という視点は、説得力があります。

 確かに、現代社会は、ある意味で非人間的な、「個人の利益優先の序列社会」になりつつあるようです。

 「グローバル化」は、まさに、そういう方向への変化です。

 「個人の利益優先の序列社会」は、特に、東京、大阪のような大都会で、顕著に見られる現象です。

 

 ちなみに、本書の主張は、『「サル化」する人間社会』 というタイトルに明示されています。著者によれば、家族が解体が進行し、個人主義的傾向が強くなっている現代文明において、ヒトの社会は「サル化」の傾向が顕著です。そして、このような現代社会においては、優劣を基準とした序列社会化が進み、平等の価値、信頼関係の価値が低下する可能性が高いと予測しているのです。このような人類の危機的未来に対して、著者は本書を通し、疑念を提示しているのです。

 

 ーーーーーーーー

 

(山極寿一氏の論考)

【7】直近では、人々はソーシャルメディアを使い、対面不要な仮想コミュニティーを生み出しました。現実世界であまりにもコミュニティーと切り離された不安を心理的に補う補償作用として、自己表現しているのかも知れません。でも、その集団は、150人の信頼空間より大方は小さく、いつ雲散霧消するかわからない。若者はますます、不安になっています。

 

 ーーーーーーーー

 

(当ブログによる解説)

    上記の論考に関連して、山際氏は、『「サル化」する人間社会』の中で、「IT化社会の問題点」を鋭く指摘しています。

 以下に引用します。

「  IT化によって、対面的なコミュニケーションが失われかけていることは、人間社会に大きな影響を与えます。人間の脳が許容できる集団の最大の人数は150人程度であり、これをマジックナンバーと言います。この程度の人数なら、人間はそれぞれの顔と性格を覚えていられます。 しかし、フェイスブックでは友達の数が400人、500人という人も珍しくはありません。若い世代ほど友達の数は増え、1000人、2000人とつながっている人もいます。果たして、それを人間は受け止めることができるのだろうか?  私には疑問です。」(『「サル化」する人間社会』)

 

 上記においては、山際氏は、現代の情報化社会、IT化社会の中では、真の「信頼関係」の構築は無理ではないのか、と主張しているのです。

  

 「信頼関係を作るには、視覚や接触によるコミニュケーションに勝るものはない」

 ことについては、山際氏は『「サル化」する人間社会』の中で、以下のような主旨の内容を述べています。

「人間は、生身の体をなかなか乗り越えられないものです。生物学的な体と生物学的な心が常に基盤にあり、昔からその部分はあまり変化していま せん。現在はインターネットが隆盛し、生身ではないコミュニケーション に傾いていますが、どこかで自然回帰的な動きが生じてくるだろうと思います。

 SNSを通して、ボランティアや会食の場がセッティングされたり、あるいはセミナーのような行事が開かれたりしているのは、直接顔を合わせることの重要度を感じている人が増えていることの表れではないでしょうか。」(『「サル化」する人間社会』)

 

(当ブログによる解説)

 上記の「直接顔を合わせることの重要度」については、確かに、最近は再評価されているようです。例えば、マドンナなどの欧米の歌手達が、最近は、ライブのコンサートに力を入れ始めているようです。

 

  ーーーーーーーー

 

(山極寿一氏の論考) 

【8】クリスマスを一人で過ごす若者の中に「一生懸命働いた自分へのご褒美 」に、自分に高級レストランを予約する人もいると聞いて考え込んでしまいます。人間は他人から規定される存在です。褒められることで安心するのであって、自分で自分を褒めるという精神構造をずっと持たなかった。それがいま、少なからぬ人々の共感を呼んでいる。やはり人間関係が基礎部分から崩れていると感じます。

 

  ーーーーーーーー

 

(当ブログによる解説)

  「自分へのご褒美」は、「承認欲求」の論点に関連しています。

  「承認欲求」、つまり「他者による『自己のアイデンティティの承認』」については、当ブログで最近、解説しました(→「予想問題ー労働観・自己・『人はなぜ働かなくてはなりないのか』小浜逸郎 」)

 その記事のポイントを再掲します。

 

 ………………………………

 

 「人間が自分のアイデンティティを承認されるためには、労働が必須条件、言い換えれば、必要条件だ」と言うことです。

 「労働」は、賃金を得るためだけのものではないのです。

 自分の、人間としての「アイデンティティ」を他者に承認してもらうために、あるのです。

 逆に言えば、自分の「アイデンティティ」を、他者に承認され、尊重されるためには、自分の労働を丁寧に遂行する必要がある、ということになります。

(再掲終了)

 

 ………………………………

 

 (当ブログによる解説)

 また、鷲田清一も、『「聴く」ことの力』の中で、「他者による自己承認の価値」を力説しています。

 この点については、最近の当ブログの記事(→「予想問題『じぶん  この不思議な存在』鷲田清一・ 他者の他者としての自分」) で発表したので、以下に再掲します。

  

………………………………

 

「  だれかに触れられているということ、だれかに見つめられていること、だれかからことばを向けられているということ、これらのまぎれもなく現実的なものの体験のなかで、その他者のはたらきかえの対象として自己を感受するなかではじめて、いいかえると『他者の他者』としてじぶんを体験するなかではじめて、その存在をあたえられるような次元というものが、<わたし>にはある。<わたし>の固有性は、ここではみずからあたえうるものではなく、他者によって見出されるものとしてある。」 

「  『わたし』、という(一般的な、社会的な)言葉を使うときわたしという存在はすでに集団の中に消えていく。『わたし』が『わたし』を見つけられるのは、『他者から他者として見られたときだけ』である。」(『「聴く」ことの力』)

(再掲終了)

 

 ………………………………

 

(当ブログによる解説)

 要するに、「他者の他者として自己」と「他者」の「関係」は、「自他の補完性」、あるいは、「自己と他者の関係性」とみることができます。

 

 「自分へのご褒美」が、いかに奇妙で歪んでいるものか、は以上の論考を熟読すれば、よく分かると思います。

 「人間は他人から規定される存在です。褒められることで安心するのであって、自分で自分を褒めるという構造をずっと持たなかった。

と、山際氏が述べるのは、当然のことなのです。

 

 なお、小浜逸郎氏も鷲田清一氏も、トップレベルの入試頻出著者です。上記の論考も、よく理解しておいてください。下に、リンク画像を貼っておきます。

 

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  ーーーーーーーー

 

(山極寿一氏の論考)

【9】土地とも人とも切り離され、社会の中で個人が孤立している時代です。人類はどうやって安心を得たのか、生身の体に戻って確かめるために、霊長類学が必要とされているのでしょう。

【10】大気汚染や原発事故など、安全と安心を与えてくれると期待された科学技術への信頼は低下しました。一方で遺伝子を組み換えて食料の生産性を上げ、AI(人工知能)は人間の思考力を早晩上回るという。自ら開発したものを制御できるのか、「人間はこのままでいられるか」という、壮大な不安のただ中にいる。しかも、その不安を解消する手段を持ちません。

【11】ビジネスも、不安をあおり立てることで成り立っています。保険や防犯システムに限りません。「ファッションが流行遅れかも」といった、他人から下に見られるかもしれない、社会の負け組になるかもしれないといった不安を、企業はあの手この手で刺激し、解消策を商売のタネにする。

【12】種々の不安は大きくなり続け、とどまることがない。「不安の極大化」とは、そういう意味です。

 

 ーーーーーーーー

 

(当ブログによる解説)

 「種々の不安」については、上記の山際氏の指摘したもの以外に、さらに多くものが挙げられるでしょう。

 具体的には、地球環境問題、大地震、自然の脅威、デフレ経済の悪化、現代資本経済の崩壊、国家財政の破綻の不安、高齢化社会、国防問題、福島原発事故などです。

 もっとも、いつの時代にも、不安はあったはずです。情報化社会により、マイナス情報が氾濫しているために、「不安が極大化」している側面もあるのでしょう。

 それにしても、確かに、各個人にとって、現代は、かつてないほどの「不安の極大化」している時代と言えるのです。

 

 なお、「霊長類学の定義」について、ここで解説します。

 霊長類学は、ヒト以外の霊長類を対象とした学際分野のことです。ヒトは、霊長類の一種です。したがって、種々の霊長類を調べることは「人間とは何か」という問いに迫ることでもあります。霊長類学の研究は、動物行動学、生態学、遺伝学、心理学、文化研究、社会学などと方法論を一致しています。しかし、研究手法について特に決まったやり方があるわけではないようです。霊長類学の研究は薬理的、外科的実験を伴う解剖学的研究、野生状態での行動や生態に及びます。霊長類学は、人類の進化の理解に多大な貢献をもたらしています。日本では、モンキーセンター (愛知県犬山) や,京都大学付属・霊長類研究所が創設されるにつれて,霊長類学は、最近急速に発展しています。

 

 ーーーーーーーー

 

(山極寿一氏の論考)

【13】人々が信頼をつむぎ、安心を得るために必要なのはただ一つ。ともに時間を過ごすことです。その時間は「目的的」(→目的的とは「目的のために、目的に沿った」という意味)であってはなりません。

【14】目的的とは「価値を得られるように過ごす」こと。いまは短時間でより多く価値を増やすことが求められますが、安心を得るのに必要なのは、見返りを求めず、ただともに過ごすこと。互いに相手に時間を捧げる。赤ちゃんに対するお母さんの時間がよい例です。

【15】昨今は同窓会ブームだそうですが、長い時間をともにした同級生となら、顔を合わせるだけで信頼関係を取り戻せる。心の底に安心できない自分がいる裏返しです。

【16】類人猿にはない、人類の進化の謎の一つに「プラトニックラブ」があります。子を残せないから生物学的にはムダなのに、熱い情熱と長い時間を注ぐのは、思い合うことが信頼や安心をもたらしてくれるから。人間は、一人ではどうにも生きられない存在なのです。

 

  ーーーーーーーー

 

(当ブログによる解説) 

 「人間は一人では生きられない存在」

に関連して、山際氏は、2014年9月28日の『東京新聞』で以下のように述べています。

 味わい深い文章です。ぜひ、じっくり読んでみてください。

「人間がサルと違うのは、社会や集団のために何かしたいと思えること。そこに自分が加わっている幸福感が、いろんな行動に駆り立ててきたんです。サルは自分の利益を最大化するために集団をつくります。今は人間も自分の利益を増やしてくれる仲間を選び、それができなくなったら仲間はいらない、となっています。人間とゴリラは五感がほとんど変わりません。そういう五感を中心につくられる社会には、それほど大きな差はないと思います。ゴリラの群れは十頭前後で、これを共鳴集団というんですが、人間でも家族やスポーツチームがこれにあたります。仲間の癖、性格を心得ているから、試合に出れば、声はかけるけれど言葉は交わさない。何を求めているか、目配せでわかる。われわれは家族や、家族のように親しく接している人との共鳴集団があることで安らぎや幸福感を得ていると思います。

 

   ーーーーーーー

 

(山極寿一氏の論考)

【17】グローバル化で社会が均一化すると、逆に人々の価値観は多様化する方向へ向かいます。個人が複数の価値観を備え、自分が属する複数の集団でそれぞれのアイデンティティーを持つようになります。そうした時代には、五感をフル出動させた人間関係のつくり方がさらに重要になるでしょう。

 

   ーーーーーーーー

 

(当ブログによる解説)

 「グローバル人材育成」について、山極氏は、『京大式 おもろい勉強法』(朝日新書)の中で、以下のように述べています。

 グローバル化、高度消費社会、IT 化社会、マスメディアなどに翻弄されている、私たち社会人にも参考になる見解だと思います。

「モノにしても、人にしても、交流は多岐にわたっている。昔に比べたら、考えられないほどの勢いで、多様な物が私たちの目の前を通り過ぎています。つまり、多様なものを認めつつ、自分というものをきちんと持っていないといけない時代をすでに迎えていると言えます。私は、それこそが重要なグローバル人材の素養だと思います。多様なものの存在を認めつつ、それを自分にうまく合わせつつ、なおかつ自分を失わずにいることができる人間。こういう素地は対話力のなかから鍛えられます。いろいろな人と会い、同調しながらも、自分が信じている、あるいは自分の身にまとっている教養をきちんと表現できる。そのためには、自らのアイデンティティをしっかり持つこと(→自己確立、アイデンティティ確立)です。

「グローバル人材とは、みんなにおもろいやんと言わせる人です。柔軟に他者を受け入れつつ、自己を鍛えて表現する。まわりを『おもろい』と思わせ、人を動かす対人力を身につけることが必要ではないか。」(『京大式おもろい勉強法』)

 

京大式 おもろい勉強法 (朝日新書)

京大式 おもろい勉強法 (朝日新書)

 

 

 

 以下は、当ブログにおける「文化人類学」・「霊長類学」関連記事、「IT化社会のマイナス面」・「IT化社会の影・闇」関連記事の紹介(リンク画像)です。

 「文化人類学」・「霊長類学」、「IT化社会のマイナス面」・「IT化社会の影・闇」は、いずれも、最近の流行・頻出論点です。

 

(3)当ブログにおける「文化人類学」・「霊長類学」関連記事の紹介

 

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(4)当ブログにおける「IT化社会のマイナス面」・「IT化社会の影・闇」関連記事の紹介

  

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(5) 山際寿一氏の紹介

 

山極寿一(ヤマギワ  ジュイチ) 1952年、東京都生まれ。霊長類学・人類学者。京都大学総長。京都大学理学部卒、京大大学院博士課程単位取得退学、理学博士。人類進化を研究テーマに、ゴリラを主たる研究対象にして人類の起源をさぐる。ルワンダ・カリソケ研究センター客員研究員、日本モンキーセンターのリサーチフェロー、京大霊長類研究所助手、京大大学院理学研究科助教授をへて同教授。2014年10月から総長。

日本アフリカ学会理事、中央環境審議会委員、日本学術会議会員、国立大学協会副会長。

 

【著書】

『森の巨人』(歩書房・1983年)

『ゴリラ   森に輝く白銀の背』(平凡社・1984年)

『ゴリラとヒトの間』(講談社現代新書・1993年)

『ゴリラの森に暮らす  アフリカの豊かな自然と知恵』(NTT出版・1996年)

『父という余分なもの  サルに探る文明の起源』(新書館・1997年・のち新潮文庫)

『ゴリラ雑学ノート 「森の巨人」の知られざる素顔』(ダイヤモンド社・1998年)

『ゴリラ』(東京大学出版会・2005年)

『暴力はどこからきたか   人間性の起源を探る』(日本放送出版協会・NHKブックス・2007年)

『家族進化論』(東京大学出版会・2012年)

『「サル化」する人間社会』(集英社インターナショナル・知のトレッキング叢書・2014年)

『ゴリラが胸をたたくわけ』(福音館書店・たくさんのふしぎ傑作集・2015年)

『京大式おもろい勉強法』(朝日新書・2015年)

『現代思想 2017年3月臨時増刊号  総特集◎人類学の時代  ムック』(共著・青土社・2017年)

『現代思想 2017年6月号 特集=変貌する人類史  ムック』 (共著・青土社・2017年)

『都市と野生の思考 』(共著・集英社インターナショナル インターナショナル新書・2017年)

 

ーーーーーーーー

 

今回の記事は、これで終わります。

次回の記事は、約1週間後の予定です。

ご期待ください。

  

   

 

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「サル化」する人間社会 (知のトレッキング叢書)

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人類進化論 霊長類学からの展開

人類進化論 霊長類学からの展開

 

 

朝日新聞デジタル

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

 

  

5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

 

 

 私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。

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予想問題「広告の形而上学」岩井克人『ヴェニスの商人の資本論』

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 

 現在は、消費動向の低迷、不景気、デフレ経済、経済のグローバル化、新自由業主義的経済など、様々な経済的論点が、現代文(国語)・小論文で問題化しています。 

 こういう時には、経済学の基本的な論点、特に、「消費社会」・「広告」の基礎理論などが出題されることが多いようです。
 そこで、現代文(国語)・小論文対策として、入試頻出著者・岩井克人氏の、頻出出典     『ヴェニスの商人の資本論』の中の「広告の形而上学」についての解説記事を書きます。
 題材としては、最近の関西学院大学現代文(国語)の過去問を使用します。

  

ヴェニスの商人の資本論 (ちくま学芸文庫)

 

(2)「広告の形而上学」(『ヴェニスの商人の資本論』)岩井克人ー関西学院大学・国語(現代文)・過去問の解説

 

 

(岩井克人氏の論考・問題文本文)

(概要です)

(【1】・【2】・【3】・・・・は当ブログで付記した段落番号です)

 

【1】マルクスはどこかで、商品世界のなかにおける貨幣 の存在は、動物世界のなかでライオンやトラやウサギやその他すベての現実の動物たちと相並んで(1)  「動物」なるものが闊歩しているように奇妙なものだと書いている。貨幣とは、それによってすベての商品の価値が表現される一般的な価値の尺度でありながら、同時にそれらの商品とともにそれ自身人々の需要の対象にもなるという(2)二重の存在なのである。

【2】「広告の時代」とまで言われている現代において、広告とは一見自明で平凡なものに見える。だが、その実、広告というものも、貨幣と同様、いわば形而上学的な奇妙さに満ち満ちた逆説的な存在なのである。 

【3】英語のどの受験参考書にも例文としてのっているように、"The proof of the pudding is in the eating."  すなわち、プディングであることの証明はそれを食べてみることである。だが、分業によって作る人と食べる人とが分離してしまっている資本主義社会においては、プディングは普通お金で買わなければ食べられない。(買わずに食べてしまったら、それは食い逃げか万引きである。)プディングがプディングであることの証明、いや、プディングがおいしいプディングであることの証明は、お金と交換にしか得られない。 

【4】たとえば、洋菓子屋の店先でどのプディングを買おうかと考えているとき、あるいは喫茶店でプディングを注文しようかどうか考えているとき、人はプディングそのものを比較しているのではない。人が実際に比較しているのは、ウィンドーの中なかのプディングの外見であり、メニューの中のプディングの写真であり、さらには新聞、雑誌、ラジオ、テレビ等におけるプディングのコマーシャルである。これらはいずれも広い意味でプディングの[ 3 ]にほかならない。

【5】すなわち、資本主義社会においては、人は消費者として商品そのものを比較することはできない。人は広告と媒介を通じてはじめて商品を比較することができるのである。

【6】資本主義社会とは、マルクスによれば「商品の巨大なる集合」である。しかし、広告を媒介にしてしか商品を知りえない消費者にとって、それはまずなによりも「広告の巨大なる集合」として立ち現れるはずである。そして、この広告の巨大なる集合の中において、あらゆる広告は広告として同じ平面上で比較され競合する。

【7】もちろん、広告とはつねに商品についての広告であり、その特徴や他の商品との差異について広告しているように見える。だが、人がたとえばある洋菓子店のウィンドウのプディングの並べ方は他の店に比べてセンスが良いと感じるとき、あるいは、ある製菓会社のプディングのコマーシャルは別の会社のよりも迫力に乏しいと思うとき、それは広告されているプディング同士の差異を問題にしているのではない。それは、プディングとは独立に、「広告の巨大なる集合」の中における (4)広告それ自体のあいだの差異を問題にしているのである。

【8】広告と広告とのあいだの差異ーそれは、広告が本来媒介すべき商品と商品とのあいだの差異に還元しえない、いわば「過剰な」差異である。それゆえ、それは、たとえばセンスの良し悪しとか迫力の有る無しとかいうような、違うから違うとしか言いようのない差異、すなわち(5)客観的対応物を欠いた差異そのものとしての差異としてあらわれる。

【9】だが、広告が広告であることから生まれるこの過剰であるがゆえに純粋な差異こそ、まさに企業の広告活動の拠って立つ基盤なのである。

【10】言語についてソシュールは、「すべては対立として用いられた差異にすぎず、対立が価値を生み出す」と述べているが、それはそのまま広告についてもあてはまる。差異のないところに価値は存在せず、差異こそ価値を生み出す。もし広告が単に商品の媒介にすぎず、広告のあいだの差異がすべて商品のあいだの差異に還元できるなら、企業にとってわざわざ広告活動をする理由はない。企業が広告にお金を出すのは、ひとえに広告の生み出す過剰なる差異性のためなのである。すなわち、広告とは、それが商品という実体の裏付けをもつからではなく、逆にそれがそのよう(6)客観的対応物を欠いた差異そのものとしての差異を作り出してしまうからこそ、商品の価値に帰着しえないそれ自身の価値をもつのである。 

【11】ところで資本主義においては、いかなる価値もお金で売り買いできる商品となるといえる。それゆえ、当然広告も商品となる。いや、実際、広告に関連する企業支出はGNPの1パーセント近くも占めている。これは、現代ではあまりにも身近な事実であり、人をことさら驚かせはしない。だが、それはその実、本来商品について語る媒介としての広告が、同時にそれ自体商品となって他の商品とともに売り買いされてしまうという、まさにライオンやトラやウサギとともに動物なるものが生息している光景とその奇妙さにおいてなんら変わるところのない形而上学的な逆説なのである。

【12】貨幣についての真の考察は、それが形而上学的な奇妙さに満ち満ちた存在であることへの驚きから始まった。広告が形而上学的な奇妙さに満ち満ちた存在であることへの驚きーそれは、広告についての真の考察の第一歩である。いや、少なくともそれは、広告という現象の浅薄さをただ糾弾したり、広告という現象の華やかさとただ戯れたりする言説に溢れている現代において、いささかなりとも差異性をもった言説を作り出すはずのものである。

 

ーーーーーーーー

 

(設問)

問1  傍線部(1)「「動物」なるものが闊歩している」とあるが、筆者は動物にカギ括弧をつけることによって、どのようなことを強調しているのか。次の中から最適なものを一つ選べ。

イ  固有名詞と普通名詞とが混在していることを強調している。
ロ  非現実的な生態系に分類していることを強調している。
ハ  概念的な存在として独立していることを強調している。
ニ  種類の異なる動物が現実社会にいることを強調している。
ホ  現実の動物と観念としての動物とが名辞を共有していることを強調している。

 

問2  傍線部(2)「二重の存在なのである」とあるが、それを広告についてどのように説明しているか。問題文中から55字以内で抜き出して記せ(句読点も字数に含むものとする)。


問3  空欄3に入る最適な語を、次の中から一つ選べ。

イ  商品    ロ  証明    ハ  味覚
ニ  本質    ホ  広告    ヘ  虚像

 

問4  傍線部(4)「広告それ自体のあいだの差異」の本質を筆す者はどのように理解しているのか。次の中から最適なものを一つ選べ。

イ  商品と商品とのあいだの差異
ロ  客観的対応物を欠いた差異
ハ  センスの良し悪しにかかわる差異
ニ  表面上で比較される差異
ホ  広告の宿命としての差異

 

問5  傍線部(5)「客観的対応物を~あらわれる」とあるが、このことによって広告は何を得るといえるのか。問題文中から25字以内で抜き出して記せ(句読点も字数に含むものとする)。

 

問6  傍線部(6)「客観的対応物」は、どのように言い換えられているか。次の中から最適なものを一つ選べ。

イ  価値の尺度
ロ  逆説的存在
ハ  巨大なる集合
ニ  商品という実体
ホ  華やかな現象


問7  問題文において述べられている「広告」の意味として、次の中から最適なものを一つ選べ。

イ  広告と広告との差異には、違うから違うとしか言いようのない「過剰」差異がある。
ロ  広告は商品の価値を比較することに意味があり、それ以上の付加価値はほとんどない。
ハ  広告と広告との差異は本来媒介すべき商品と商品とのあいだの差異に依拠するものであるといえる。
ニ  資本主義社会の中にあって消費者は広告という媒介だけでは商品そのものの比較が出来なくなっている。
ホ  広告とはつねに商品についての広告であるとともに商品同士の差異性だけを問題にしている。

 

問8  問題文の内容と合致しているものを次の中から二つ選べ。

イ  形而上学的な現代は、広告の華やかさと戯れによって窒息状態に陥っている。
ロ  資本主義社会においては、プディングは広告の媒介によって等価交換される。
ハ  商品同士の差異よりも広告同士の差異が、資本主義社会では問題にされる。
ニ  広告の巨大なる集合の中には、客観的な商品それ自体の過剰な差異がある。
ホ  差異性こそが商品の過剰なる価値を生み出し、企業の広報活動をうながす。
ヘ  商品世界における貨幣は、形而上学的な奇妙さに満ちた逆説的な存在である。


問9  問題文の表題として最適なものを次の中からを一つ選べ。

イ  広告の形而上学
ロ  広告の付加価値
ハ  広告の比較検討
ニ  広告の経営戦略
ホ  広告の商品価値


ーーーーーーーー

 

(解説・解答)

問1 (傍線部説明問題)

    「貨幣」が「商品価値の尺度となる性質」(抽象性)を持ちながら、「具体性」・「独立性」を有している「商品」と同じように、「需要の対象にもなる性質」を持っているということです。
(解答)  ハ


問2 (傍線部説明問題・記述式問題)

 まず、この設問を見てから本文全体を読むべきでしょう。

 第一に、傍線部直前の「貨幣とは、それによってすベての商品の価値が表現される一般的な価値の尺度でありながら、同時にそれらの商品とともにそれ自身人々の需要の対象にもなる」に注目して、「二重の存在」の意味を押さえてください。

 その上で、【11】段落の「資本主義においては、いかなる価値もお金で売り買いできる商品となるといえる。それゆえ、当然広告も商品となる。それは、本来商品について語る媒介としての広告が、同時にそれ自体商品となって他の商品とともに売り買いされてしまうという、形而上学的な逆説なのである。」の部分に着目してください。

(解答)  本来商品について語る媒介としての広告が、同時にそれ自体商品となって他の商品とともに売り買いされてしまう(51字)


問3 (空欄補充問題)

 直前の具体例を総合的に見て、選択肢の中のどの表現がベストか、を考えてください。

 すぐに、選択肢を見て、考えるべきです。

(解答)  ホ


問4 (傍線部説明問題)

 直後の【8】段落で、具体的で丁寧な説明をしています。【8】段落を再掲しておきます。

「広告と広告とのあいだの差異ーそれは、広告が本来媒介すべき商品と商品とのあいだの差異に還元しえない、いわば「過剰な」差異である。それゆえ、それは、たとえばセンスの良し悪しとか迫力の有る無しとかいうような、違うから違うとしか言いようのない差異、すなわち客観的対応物を欠いた差異そのものとしての差異としてあらわれる。」

(解答)  ロ
 
問5 (傍線部説明問題・記述式問題)

 設問文の「何を得る」がヒントになっています。

    「広告それ自体」の価値を記述している部分を、ピックアップしてください。

  【10】段落に着目してください。特に重要な部分を再掲します。

「差異のないところに価値は存在せず、差異こそ価値を生み出す。企業が広告にお金を出すのは、ひとえに広告の生み出す過剰なる差異性のためなのである。すなわち、広告とは、逆にそれがそのよう客観的対応物を欠いた差異そのものとしての差異を作り出してしまうからこそ、商品の価値に帰着しえないそれ自身の価値をもつのである。」

(解答)  商品の価値に帰着しえないそれ自身の価値をもつ(22字)

 

問6 (傍線部説明問題)

 傍線部直前の「そのような」に注意して、直前の「広告とは、それが商品という実体の裏付けをもつからではなく」に着目するべきです。

(解答) ニ

 

問7 (キーワード説明問題・趣旨合致問題)

 この設問も、本文を精読・熟読する前に見ておくべきです。

  【8】段落に、「広告の本質」についての記述があります。

 この設問に関係するのは、以下の部分です。

「広告と広告とのあいだの差異ーそれは、広告が本来媒介すべき商品と商品とのあいだの差異に還元しえない、いわば「過剰な」差異である。」
(解答)  イ


問8 (趣旨合致問題)

 この設問も、本文を精読・熟読する前に見ておくべきです。

 ハ・へ以外の選択肢には、本文にない記述が含まれているので、誤りです。

 

→【10】段落に着目してください。

 特に重要なのは、以下の部分です。

「広告のあいだの差異がすべて商品のあいだの差異に還元できるなら、企業にとってわざわざ広告活動をする理由はない。企業が広告にお金を出すのは、ひとえに広告の生み出す過剰なる差異性のためなのである。すなわち、広告とは、それが商品という実体の裏付けをもつからではなく、逆にそれがそのよう客観的対応物を欠いた差異そのものとしての差異を作り出してしまうからこそ、商品の価値に帰着しえないそれ自身の価値をもつのである。」


→【1 】・【 2 】・【12】段落に注意してください。

 特に、重要な部分は、以下の部分です。

「広告というものも、貨幣と同様、いわば形而上学的な奇妙さに満ち満ちた逆説的な存在なのである。」(【2】段落)、

「貨幣についての真の考察は、それが形而上学的な奇妙さに満ち満ちた存在であることへの驚きから始まった。」(【12】段落)


 ここで「形而上学的」について解説します。

 「形而上(けいじじょう)」とは「抽象的・精神的なもの」という意味です。
 「形而上学」とは「物事の存在の根本原理を研究する学問」「思想」「哲学」と意味になります。
 主に、「哲学」の意味で使われるようです。本問でも、この意味で使われています。


 「形而上学」は英語で「metaphysics(メタフィジックス)」といいます。metaは「上」・「超」の意味です。
 physicsは「物理学」の意味。物理学は物の特性などを探求する学問分野。
 すなわち、「形而上学」は、physicsの上の視点から、物それ自体でなくて、物を相対化・抽象化して本質を見直すことを試みよう、とする学問です。

 この単語は、入試頻出事項ですが、案外と盲点になっています。

 

 次に、「逆説的」について解説します。

 意味としては、次の二つがあります。

① 一見、真理に反するようにみえるが、一面の真理を示している表現。例として「急がば回れ」などがある。パラドックス。

② ある命題(→「判断内容」)から正当な推論によって導き出されているようにみえるが、結論で矛盾を含む命題。逆理。パラドックス。

 

 本文設問では、のニュアンスが強いとみてよいでしょう。 

(解答)  ハ・ヘ


問9 (表題選択問題)

 この設問も、本文を精読・熟読する前に見ておくべきです。

【2】・【12】段落に注目してください。特に重要な部分は、以下の部分です。

【2】段落の「現代において、広告とは一見自明で平凡なものに見える。だが、その実、広告というものも、貨幣と同様、いわば形而上学的な奇妙さに満ち満ちた逆説的な存在なのである。」

【12】段落の「広告が形而上学的な奇妙さに満ち満ちた存在であることへの驚きーそれは、広告についての真の考察の第一歩である。それは、現代において、いささかなりとも差異性をもった言説を作り出すはずのものである。」

(解答)  イ

 

ーーーーーーーー 

 

【要約】 

 広告は形而上学的な奇妙さに満ち満ちた逆説的な存在である。そのことへの驚きは、広告についての真の考察の第一歩である。この考察は、現代において、広告という現象について、いささかなりとも差異性をもった言説を作り出すはずのものである。

 

(3)当ブログにおける「消費社会」・「広告」関連の記事の紹介

 

 「消費社会」・「広告」は、頻出論点です。

 下の記事を、ぜひ、参照してください。

 

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(4)岩井克人氏の紹介

 

岩井 克人(いわい かつひと、1947年生まれ ) 日本の経済学者(経済理論・法理論・日本経済論)。学位はPh.D.(マサチューセッツ工科大学・1972年)。国際基督教大学客員教授、東京大学名誉教授、公益財団法人東京財団名誉研究員、日本学士院会員。

 

【著書】

『ヴェニスの商人の資本論』(筑摩書房・1985年、ちくま学芸文庫・1992年)

『不均衡動学の理論』(岩波書店・1987年)

『貨幣論』(筑摩書房・1993年、ちくま学芸文庫・1998年)

『資本主義を語る』(講談社・1994年、ちくま学芸文庫・1997年))

『二十一世紀の資本主義論』(筑摩書房・2000年、ちくま学芸文庫・2006年)

『会社はこれからどうなるのか』(平凡社・2003年、平凡社ライブラリー・2009年)

『会社はだれのものか』(平凡社・2005年)

『IFRSに異議あり』(日本経済新聞出版社・2011年)

『経済学の宇宙』(日本経済新聞出版社・2015年)

 

 ーーーーーーーー

 

 今回の記事は、これで終わりです。

 次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

 ご期待ください。

 

    

 

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ヴェニスの商人の資本論 (ちくま学芸文庫)

ヴェニスの商人の資本論 (ちくま学芸文庫)

 

 

貨幣論 (ちくま学芸文庫)

貨幣論 (ちくま学芸文庫)

 

 

経済学の宇宙

経済学の宇宙