現代文最新傾向LABO 斎藤隆

入試現代文の最新傾向を分析し、次年度の傾向を予測する大胆企画

アイデンティティ・主体性/2018予想論点/体系的総整理③

(1)はじめに/早くも、当ブログの予想問題記事が2018センター試験国語第1問(現代文・評論文)に論点的中(「主体性の相対化」)しました

 

(今回の記事の記述は太字にしました)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です)


 『中動態の世界』(國分功一郎)、『勉強の哲学 』(千葉雅也)等が評判になったことにより、「アイデンティティ」の論点が、今年の流行論点になる可能性が高いと思われます。

 「アイデンティティ」は毎年、現代文・小論文で一定の割合で出題されている頻出論点ですが、2018年度は、より一層、出題率が高まると予想されるのです。

 

 さっそく、2018センター試験国語(現代文)「アフォーダンス」が出題されました。

 「物体の属性(形・材質等)が、物体の加工についてのメッセージをデザイナーに発している」とする考えです。

 2018センター国語(現代文)の出典『デザインド・リアリティ』は2008年発行です。なぜ10年前の本から出題されたのでしょうか?

 評判の哲学書『中動態の世界』(國分功一郎)のインパクトにより、「主体性の相対化」、「環境からの影響の重要性」が注目されていることが背景にあるのではないか、と思われます。

 

 また、2018センター試験国語(現代文・評論)の結論部分は 「原心理なるものは想定できず私達の心の現象は、文化歴史的条件と不可分の一体である‘心理学として再記述されていくであろう」となっています。

 この記述は『中動態の世界』(國分功一郎)における、「古代ギリシャ哲学の『意志概念の不在』」と「中動態」の説明と、ほぼ同内容であり、とても興味深いです。

 以上の『中動態の世界』における「古代ギリシャ哲学の『意志概念の不在』」と「中動態」の説明については、当ブログで予想出典(問題)記事として発表済みなので、ぜひ参照してください。

 

gensairyu.hatenablog.com

 

gensairyu.hatenablog.com

 

 今回の記事では、「アイデンティティ」・「自己」を、主に「主体性」・「自発性」、「思考」・「意志」の側面から考えて、当ブログの今までの記事を体系的に整理していきます。

 中心となるのは、『中動態の世界』関連記事です。

 適宜、「新情報」も追加します。

 

  そもそも、当ブログは以下の基本的方針で作成しています。

 以下に、当ブログの第1回記事の「開設の言葉」を引用します。

 

gensairyu.hatenablog.com

 

 ……………………………

 

 (引用開始)

 今現在の入試現代文・小論文の最新傾向として、注目するべきポイントとしては、2つの大きな柱があります。

【1】1つの柱は、「IT社会の光と影と闇」です。

 この論点・テーマは、3・11東日本大震災の前から登場していたので、割と有名ですが、最近のスマホの爆発的な流行により、新たな論点・テーマが発生しています。

 

【2】 もう1つの柱は、「3・11東日本大震災の各方面に対する影響」です。

 「各方面」は、実に多方面にわたっています。

 2016年の、センター試験や難関大学の現代文(国語)・小論文入試問題を、検討している現在も、この考えは変わってはいません。 

(引用終了)

 

 ……………………………

 

(今回の記事の記述)

 上記の「東日本大震災」と「情報化社会」・「IT化社会」の視点から見ても、「アイデンティティ」・「主体性」の論点は重要です。

 

 「東日本大震災」からの視点とは、

この出来事が、

「生と死」・「本質」・「人生」・「人生観」・「世界観」の「見直し」の契機、

「アイデンティティ」・「自己」・「主体性」の相対化、

「絆」・「共同体」・「人間関係」の再評価、

「ニヒリズム」の蔓延、

の契機になったということです。


 「情報化社会」・「IT化社会」からの視点とは、

「情報化社会」・「IT化社会」と「消費社会」が車の両輪となり、

人々の「暇」・「思考」・「自由」・「主体性」・「自主性」・「自己」の「搾取」をしているということです。

 

 前回の記事(「情報化社会・IT化社会/2018予想論点/体系的整理②」)に引用した入試頻出著者・國分功一郎氏の発言(2018年1月1日の朝日新聞)は「アイデンティティ」・「主体性」を考える際にも、かなり参考になるので、再掲します。

 

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(引用開始)

(青字は当ブログによる「注」です)

 

「(國分功一郎氏は)いまや平成の日常となった、満員電車の風景を例に語り始めた。多くの人がぼうっとスマホを見ている。消費社会は私たちを終わることのない消費のゲームに投げ込み、もはや依存症(→一種の「自己喪失」・「自己疎外」と評価できます)に近い。平成にもたらされたのは、依存を利用して人々にお金を使わせる仕組みではないでしょうか(→「資本主義」・「高度消費社会」による「マインドコントロール」・「飼育」です。「健康ヒステリー」も、同様です)」

 暇は「自分で自分のすることを決められる自由」。(→これこそ「自主性」・「自己確立」です)

 退屈は「満たされない状態」。
 國分はそう整理し、「暇だからといって退屈するわけではない」と言う。
 平成になってIT化が進んでも、人々は楽になるどころか逆に長時間、仕事に拘束される(→「IT化社会のマイナス面」です。「人間のロボット化・」が進行中です)。仕事以外も誰かとつながり続けている。(→「不安感」・「自己承認欲求」と言えます)

 自分が本当にしたいことは何なのか。心身が疲れてそれを考えられない。(→「思考停止」・「自己喪失」・「自己疎外」・「反知性主義」) 楽しむ(→「人生を楽しむ」ということです。「生の喜び」・「生きがい」そのものです)には、自分と向き合う時間や訓練が必要(→「思索の訓練」、または、國分氏が『暇と退屈の倫理学』で強調している「動物的とりさらわれ(没頭)」の訓練)なのです。人は楽しみ方を知らないと、暇、自由の中で退屈する。退屈がつらいから、スマホに貴重な時間を奪われる」

 國分はユダヤ人哲学者ハンナ・アーレントを思い出したと言う。
「アーレントは『孤独と寂しさは違う』と言っています。孤独とは、私が自分自身(→ここで言う「自分自身」とは、「思い出」・「課題」・「予定」・「夢」・「ビジョン」・「身体」・「感覚」・「欲望」・「意欲」等です)と一緒にいること(→「味わうこと」・「思考」・「思索」・「自問自答」)。自分と一緒にいられない人が寂しさを感じ、一緒にいてくれる他者を求める。だから、自己と対話できない。孤独にならなければ、人はものを考えられない。孤独(→ある意味で「自己そのもの」です)こそ、現代社会で失われているものです。」 (『朝日新聞』2018・1・1/平成とは/第一部 時代の転換/3幸福論/「一瞬のハッピーがあれば、人はまた走れる」) 

(引用終了)

 

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朝日新聞デジタル for Tablet

朝日新聞デジタル for Tablet

 

 

 

 なお、最近、発表した「2018予想論点/体系的整理①・②」については、以下のリンク画像から、ご覧ください。

 

gensairyu.hatenablog.com

 

gensairyu.hatenablog.com

 

 今回の記事の項目は以下のようになっています。

 

(2)『中動態の世界』ー「アイデンティティ」・「主体性」概念の再検討

(3)「自己喪失」・「自己疎外」/「思考停止状態」・「マインドコントロール」・「隷属的思考」・「反知性主義」

(4)対策ー「真のアイデンティティ」を取り戻すためには/対策論

(5)「自己肯定」・「自己承認」・「承認欲求」

 

中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)

 

 

(2)『中動態の世界』ー「アイデンティティ」・「主体性」概念の再検討

 

①『中動態の世界』國分功一郎/哲学/現代文・小論文予想出典(前編)

 

gensairyu.hatenablog.com

 

 最近評判になっている『中動態の世界』(國分功一郎)は、現在の「アイデンティティ」概念・「主体性」概念を根本的に見直す契機になる名著と言えます。

 この本を読めば、自責・責任感・自省に捕らわれ過ぎることはない、ということが分かります

 環境・状況・外部の中で、折り合いをつけながら、人間は仕方なく生き考えているという側面があるのです。

 「自己」・「主体性」が自分のすべてをコントロールしているわけではないのです。

 

 上記の記事のポイント部分を引用します。 

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(引用開始)

(2)『中動態の世界』の解説 ② 能動と受動をめぐる諸問題

 以下では、「能動/受動の二分法」と「意志・責任」の「密接な関係」についての記述が展開されます。

 本書の最重要部分です。

 大げさに言えば、この世の中の隠されたスリラーについて、冷静に記述されています。

「 『能動と受動の区別』は、すべての行為を『する』か『される』かに分配することを求める。しかし、この区別は、以上のことを考えてみると、非常に不便で不正確なものだ。だが、それにもかかわらず、われわれはこの区別を使っている。そしてそれを使わざるをえない。どうしてなのだろうか。」(P21)

「  能動/受動の区別の曖昧さとは、要するに、意志の概念の曖昧さなのではないか? 一方、能動や意志という概念は実に都合よく使われるものである。」(P24~26)

 

 上記の「能動や意志という概念は実に都合よく使われるものである」については、以下のように説明しています。

「  能動における『する』という行為の出発点は『私』にあり、また『私』こそがその原動力であることを強調する。だから、そこには『意志』の存在が喚起されてくる。そして、自分の『意志』で自由に選択した行為であるからには、そこには『責任』が伴ってくることにもなる。」(P22)

「  責任を負うためには人は能動的でなければならない。人は能動的であったから責任を負わされるというよりも、責任あるものと見なしてよいと判断されたときに、能動的であったと解釈されるということである。意志を有していたから責任を負わされるのではない。責任を負わせてよいと判断された瞬間に、意志の概念が突如出現する。

  『夜更かしのせいで授業中に居眠りをしているのだから、居眠りの責任を負わせてもよい』と判断された瞬間に、その人物は、夜更かしを自らの意志で能動的にしたことにされる。

 つまり、責任の概念は、自らの根拠として行為者の意志や能動性を引き合いに出すけれども、実はそれらとは何か別の判断に依拠しているということである。」(P25・26)

 

 「能動態」→「意志」→「主体性」→「責任」の流れは、極めて論理的に見えます。

 しかし、立ち止まって考えてみれば、詭弁のような怪しさに満ちた、胡散臭い言葉の構築に過ぎないのではないでしょうか。

 この点について、國分氏は、以下のように、説明しています。短い文章ですが、衝撃的な内容を含んでいるようです。

「  意志の概念が引き合いに出されたり、行為が能動と受動に振り分けられることには、一定の社会的必要性があることを意味している。」(P29)

 

 上記の文章は、読んでいて、ゾッとする内容です。「能動性と責任の密接な関係」、「主体性のリスク」が、よく分かります。以下の文章と合わせて読むことで、より理解が進むでしょう。

「  能動と受動の区別は、責任を問うために社会がある必要とするものだった。だが、社会的必要性はこの区別を単に想定し、要請しているのであって、それを効果として発生させているのではない。」

「  この区別はふだん、われわれの思考の中でまるで必然的な区別のあるかのように作用している。従って、この区別の外部を思い描くことは容易ではない。われわれは能動でも受動でもない状態をそう簡単には想像できない。」(P 32・33)

 まさに、スリラーです。日本の学校教育の強固さ、徹底性が、よく分かります。
 言語や文法が、権力による制度的支配の、見えない、隠された道具のように見えます。

 言語の法則に過ぎないと思われている文法が、責任の基礎にあること。

 このことは、驚きでしか、ありません。

 

 私たちは自由に思考するように思っていますが、実は、文法に支配されているということです。思考は言語の組み合わせにより構築されるのですから、このことは当然のことなのです。日々、意識していないだけです。そして、自由だと思いこんでいるだけです。

 

 さて、以下の文章から、さらに、「新たな驚き」の事実が明らかになります。丁寧に読んでください。「哲学的な覚醒のスタート」です。

「  フランスの言語学者バンヴェニストがはっきりと述べていることだが、能動と受動の対立というのは、一度これを知ってしまうとそれ以外のものが認められなくなるほどに強力だけれども、少しも普遍的なものではない。バンヴェニストは『多くの言語が能動態と受動態の対立を知らないし、そもそも、インド=ヨーロッパ語族の諸言語の歴史においても、この対立は比較的最近現れたものなのだ』と述べている。」(P34)

 (引用終了)

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 (今回の記事の記述)

  さらに、上記の記事のポイント部分を引用します。

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(引用開始)

(2)『中動態の世界』の解説 ④中動態の意味論

 本書によると、

「主体から発して主体の外で完遂する過程」として、「能動態しかない動詞」として挙げられているのは、「曲げる」「食べる」「与える」などです。

 一方で、「主語がその動作主である過程の内部にいる」として、「中動態しかない動詞」として挙げられているのは、「生まれる」「死ぬ」「寝ている」などです。(P86)

 

 中動態が指し示していたのは、「主語が過程の内部にある」状態です。中動態のみをとっていた動詞、たとえば「できあがる」「惚れ込む」「希望する」などは、どれも、生成の過程、感情に突き動かされている過程、未来に期待している過程を表しています。

 逆に能動態のみをとっていた動詞、たとえば「行く」や「食べる」は、「行ってしまう」や「平らげる」といったニュアンスを持ち、主語が完結した過程の外部にいる状態を表していました。(P88・89 )

「中動/能動」という対で語られる時、問題になるのは「過程の内か外か」でした。


 ここで、古代ギリシアに「意志」という概念はなかった、という衝撃の事実が、明らかにされてます。

 中動態の動詞「生まれる、思われる、現れる」は、自由な意志による主体的な行為ではない、ということです。そして、「能動/受動の対」で人間の行動を判断しようとする思考が、中動態的思考を抑圧した可能性が明らかにされます。


「中動態と対立するところの能動態においては、ーーこう言ってよければーー主体は蔑ろにされている。

 

『能動性』とは単に過程の出発点になるということであって、われわれがたとえば『主体性』といった言葉で想像するところの意味からは著しく乖離している」 (P91)

 能動態と中動態の対立が、能動態と受動態の対立に転じたということは、意志の有無が問題にされるようになったことを意味します。つまり、「能動/中動」が対立する世界には、「意志」は存在しなかった。つまり、古代ギリシアには、アリストテレスの哲学には、「意志」の概念はなかったのです。

 

重要なことなので、本書から引用します。

「 アレントによれば、ギリシア人たちは意志という考え方を知らない。彼らは意志に相当する言葉すらもたなかった。ギリシアの大哲学者アリストテレスの哲学には、意志の概念が欠けている。」(P100)

 (引用終了)

 

……………………………

 

 (今回の記事の記述)

 上記の、めまいのするような、驚くべき内容を、よく熟読してください。

 何かが、足元から、崩れるような感じさえ、します。

 「中動態の世界」を知ることで、「意志」・「主体性」・「自己」(アイデンティティ)の過大評価を見直すことができます。

 肩から力を抜いた人生を送ることができます。

 伝統的な生き方を知ることができたからです。

 

②『中動態の世界』國分功一郎/哲学/現代文・小論文予想出典(後編)

 

gensairyu.hatenablog.com

 

上の記事のポイント部分を引用します。

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(引用開始)

(2)「第5章・意志と選択/アレント」の解説

(引用部分は概要です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です) 

 

【アレントの意志論】

 本書によると、アレントは「能動/受動の図式」にこだわり、「中動性」の正しい理解に至っていないようです。國分氏は、アレントの『精神の生活』を解説しつつ、その点を厳しく指摘していきます。


 初めに、國分氏は、「アレントの意志の定義」を呈示しています。

「  アレントは次のように述べている。
 われわれは記憶は、過去に関わる精神的な器官と見なすことができる。 それは過ぎ去ったものにかかわっているからである。ならば同じ意味で、われわれは未来にかかわる精神的な器官を考えることができるだろう。それが意志である。」(P128 )

 

 アレントが批判している「アリストテレスの可能態の考え方」は、「未来は過去に存在していたものの帰結以外のなにものでもない」としています。

 この説に対して、アレントは次のように指摘しています。

「実在する一切のものには、その原因の一つとしての可能態が先行しているはずだ、という見解は、暗々裏に未来を、真正な時制とすることを否定している。」(P129)

 

 アレントは「未来」と「意志」の存在を強く主張しています。『中動態の世界』から引用します。

「アレントによれば、未来が未来として認められるためには、未来は過去からの帰結であってはならない。未来は過去から切断された絶対的な始まりでなければならない。そのような真正な時制としての未来が認められれたとき、はじめて意志に場所が与えられる。始まりを司る能力、何事かを始める能力の存在が認められることになる。」(P130)

 
 次に、『中動態の世界』は「意志と選択の違いとは何か?」の論点に入ります。
 まず、國分氏は、次のように述べています。

「意志の概念は、責任の概念と結びついている。われわれは、意志を、何ごとかを開始する能力として理解している。だからこそ、この言葉に基づいて責任を考えることができる。 」(P130)

 

【意志と選択の違いとは何か?】

 それでは、意志と選択の違いは何でしょうか?
 國分氏は、以下のように記述しています。

ある行為が過去からの帰結であれば、その行為をその行為者の意志によるものと見なすことはできない。その行為はその人によって開始されたものではないからである。たしかにその行為者は何らかの選択はしたのだろう。しかしこの場合、選択は諸々の要素の相互作用の結果として出現したのであって、その行為者が己の意志によって開始したのではないことになる。

 日常において、選択は不断に行われている。そして選択はそれが過去からの帰結であるならば、意志の実現とは見なせない。ならば次のように結論できよう。意志と選択は明確に区別されねばならない。」 (P131)

(引用終了)

 

  

(3)「自己喪失」・「自己疎外」/「思考停止状態」・「マインドコントロール」・「隷属的思考」・「反知性主義」

 

 「自己喪失」・「自己疎外」も「アイデンティティ」・「主体性」に関連する重要論点です。

 「自己喪失」・「自己疎外」は、「思考停止状態」・「マインドコントロール」・「反知性主義」を含むので、以下では、「思考停止状態」・「マインドコントロール」・「反知性主義」について解説した記事を紹介します。

 

①「予想問題・丸山真男『日本の思想』Ⅳ「である」ことと「する」こと①」/「思考停止状態」

 

gensairyu.hatenablog.com

 

 上の記事のポイント部分を引用します。 

 ……………………………

 

(引用開始)

 鷲田清一氏は、「現代日本の思考停止状態」を以下のように論じています。(以下は概要です)

(なお、赤字は当ブログによる強調、青字は当ブログによる注です)

 

「正面からはなかなか反対しにくい問題というのが、いまの社会には意外と多くある。(→当ブログによる注→この状態を、難関大学の入試現代文(国語)・小論文に出題されている論考では、「全体主義的傾向・風潮」と表現していることもあります)

 たとえば「エコ」。いま、環境保護に反対するひとはたぶんいないだろう。けれども環境保護がめざす人類文明のサステイナビリティ(持続可能性)について言えば、人類文明が育んできた諸価値のうちのいったい何をサステイン(維持・育成)するのかについて、突っ込んで議論されてきたとは思えない。くわえて、地球温暖化が科学的に実証されたことなのか・・・・・・。こうした問いよりも、それを大きな声では発しにくい空気のほうが、わたしにははるかにリアルに迫っている。

 「安心・安全」がいかに監視社会の深化と連動しているかの指摘も、何かひねくれ者の発言であるかのように受けとられる。あるいは「イノベーション」。〈新しさ〉の形而上学(→当ブログによる注→「哲学」という意味)こそ近代という時代を空転させることになった元凶であることの指摘も無視して、「イノベーション」がいかにもニューウェイヴであるかのように呼びかけられる。

 ああでもない、こうでもないとじっくり吟味する余裕もないままに、こぞって思考停止状態に陥っているという印象が拭(ぬぐ)えない。言いかえると、論理に代わってイメージの連接が、推論を駆動しているかのような印象が拭えない。」(『わかりやすいはわかりにくい?』(鷲田清一)の第13章「わかりやすいはわかりにくい?ー知性について」の冒頭部分)

 (引用終了)

 

 

②「現代文・小論文キーワード・最新オススメ本『現代思想史入門』船木享」/「隷属的思考」・「マインドコントロール」

 

gensairyu.hatenablog.com

 

 上の記事のポイント部分を引用します。

……………………………

 

(引用開始)

【 第1章 生命   4 生命政治   生と統計・生と死 】
「いまのひとびとには、健康のためにみずから進んで隷属しようとする思考があり、それを促すための膨大な情報が流されている。厚生権力は、行動ばかりでなく特定の思考を促進して、自由で平等であるはずのひとびとをいいなりにしようとしている。

 喫煙も肥満も運動不足も、一定割合のひとに深刻な状態をもたらすのは確かである。それは統計学的に正しい。だが、だからこそ逆に、統計学的には、一定割合のひとは、それにもかかわらず健康であり続け、あるいはほかのことが原因で死ぬのである。「裏は真ならず」、喫煙も肥満も運動不足も、それを解消すればするほど健康になるというわけではない。」

……………………………

 

(当ブログによる解説)

 つまり、「人生」=「常に、自分の健康のみに注意」、というバカバカしい展開になるのです。

 今は、まさに、一部の人々は、この状況になっています。 

 病人でもない人々が、日々、「自分の将来の病気への不安」に思い煩うということです。

 一種の自主的な「精神的幽閉」・「思考停止状態」です。

 見事な、反知性主義的状況と評価できます。

(引用終了)

 

 

③「頻出論点・「『私』消え、止まらぬ連鎖」高村薫・消費社会・欲望論」/「自己喪失」・「自己疎外」

 

gensairyu.hatenablog.com

 

 上の記事のポイント部分を引用します。

 ……………………………

 

(引用開始)

(概要です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(【1】【2】【3】・・・・は当ブログで付加した段落番号です)

 

「【2】持ち家がほしい。名声がほしい。力がほしい。そういう「私」は、はたしてどこまで「私」であるか。たとえば〔A=寸暇〕を惜しんで株に熱中する「私」を、「私」はどこまで「私」だと知っているか。人間の欲望について考えるとき、 まずはそう問わなければならないような世界に私たちは生きている。

 【3】たとえば、ある欲望をもったとき、私たちはそれをかなえようとする。その段階で、私たちはなにがしかの手段に訴えねばならず、そのために対外的な意味や目的への、欲望の読み替えが行われる。健康のため。家族のため。生活の必要のため、などなど。こうした読み替えは、すなわち欲望の外部化であり、欲望は、この高度な消費社会では「私」から離れて、つくられるものになってゆく。

【4】そこでは名声や幸福といった抽象的な欲望さえ、目と耳に訴える情報に外部化され、置換されるのが普遍的な光景である。たとえば、家がほしい「私」は、ぴかぴかの空間や家族の笑顔の映像に置換された新築マンションの広告に見入る。そこにいるのはうつくしい映像情報に見入る「私」であり、家族の笑顔を脳に定着させる「私」であって、たんに家がほしい漠とした「私」はずっと後ろに退いている。代わりに、家族の笑顔を見たい「私」が前面に現れ、それは映像のなかの新築マンションと結びついて、欲望は具体的なかたちになるわけである。

【5】けれども、こうしてかたちになった欲望は、ほんとうに「私」の欲望か。「私」はたしかに家がほしかったのだけれども、その欲望は正しくこういうかたちをしていたのか。仮に、確かに家族の笑顔を見たいがために家がほしかったのだとしても、家という欲望と、家族の笑顔という欲望は本来別ものであり、これを一つにしたのは「私」ではない、〔B=広告 〕である。

【6】このように、消費者と名付けられたときから「私」は誰かがつくり出した欲望のサイクルに取り込まれている。そこでは「私」は覆い隠され、ただ大量の情報に目と耳を奪われて思考を停止した、「私」ではない何者かが闊歩(かっぽ)している。」

( 高村  薫 「『私』消え、止まらぬ連鎖 情報に支配され『消費者』に」 )(朝日新聞・2006年1月5日・夕刊4面・文化欄「新・欲望論2」)

(引用終了)

 

 

君たちが知っておくべきこと: 未来のエリートとの対話

 

 

 ④「『君たちが知っておくべきこと』佐藤優③・現代文・小論文予想出典」/「マインドコントロール」

 

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 上の記事のポイント部分を引用します。

 ……………………………

 

(引用開始)

マインドコントロール(4)「自分の思考の鋳型(いがた)を知ろう」(P82)

佐藤氏の講義の概要を記述します。

「(佐藤) 皆さんに、ぜひ読んでほしいのが、岡田尊司(たかし)という精神科の先生が書いた『マインド・コントロール』という本です。

 たとえば、高学歴の人達がカルトに入信したり、ブラック企業で違法行為に手を染めていったりということがある。こういう人たちは、さまざまなマインド・コントロールを受けている。

 彼の分析によると、マインド・コントロールの原形は、子供たちが集まるスポーツクラブや進学塾にあると言うのです。そこでは、子供をトンネルに入れるみたいに周囲から遮断して、その小さな世界のルールや価値観で支配する。トンネルの先に見える明かりは、試合に勝つ、もしくは、志望校に合格すること。そこに向かって脇目もふらずに邁進(まいしん)していく、そんな世界を作る。

 この方法をとることで、確かに効率的に能力を伸ばすことはできるかもしれないけれど、そういう形で思考の鋳型(いがた)(→当ブログによる注→「鋳物を作る際に、溶かした金属を注ぎ入れる型」という意味)を作られた人というのは弱いのです。つまり、企業、役所などでも、比較的簡単に疑問も持たず、その世界に没入してしまう。マインド・コントロールされやすい。

 (引用終了)

 

 

⑤「2016東大国語ズバリ的中報告・内田樹『日本の反知性主義』」/「反知性主義」

 

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勉強の哲学 来たるべきバカのために

 

(4)対策ー「真のアイデンティティ」を取り戻すためには/対策論

 

 以下は、対策論の記事の紹介です。

 

①「予想問題『勉強の哲学 来たるバカのために』千葉雅也」/「自己改革」

 

gensairyu.hatenablog.com

 

上の記事のポイント部分を引用します。

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(引用開始)

(3)「第1章 勉強と言語ーー言語偏重の人になる」(P17~)の冒頭部分の解説

    第一章冒頭部分も重要な内容を丁寧に論じていて、出題可能性が高いので、概要を解説します。

(黒字は本文です)

(「見出し」は【太字】にしました)

 

【勉強とは、自己破壊である】

「  勉強とは、自己破壊(→この表現も刺激的で、この表現の意味を理解することがポイントになります)である。

 では、何のために勉強をするのか?

 何のために、自己破壊としての勉強などという恐ろしげなことをするのか?

 それは、『自由になる』ためです。

 どういう自由(→ここにおける「自由」の意味内容の理解も問題になりそうです)か? 

 これまでの『ノリ』から自由になるのです。」

 

「  私たちは、同調圧力によって、できることの範囲を狭められていた。不自由だった。その限界を破って、人生の新しい『可能性』を開くために、深く勉強するのです。

 けれども、後ろ髪を引かれるでしょう――私たちは、なじみの環境において、『その環境ならではのことをノってやれていた』からです。ところが、この勉強論は、あろうことか、それをできなくさせようとしている――勉強によってむしろ、能力の損失が起こる。」

 

「  こんなふうに、勉強は、むしろ損をすることだと思ってほしい。(→「損する」とは、どういう意味か? この点も問われそうです)

 勉強とは、かつてのノっていた自分をわざと破壊する、自己破壊である。

 言い換えれば、勉強とは、わざと『ノリが悪い』人になることである。」

 

【自由になる、可能性の余地を開く】

「  自由になるということ。それは、いまより多くの可能性を考え、実行に移せるような新しい自分になるということです。新たな行為の可能性を開くのです。そのために、これまでの自分を(全面的にではなくても)破壊し、そして、生まれ直すのです。第二の誕生です。

会社や家族や地元といった『環境』が、私たちの能性を制約している、と考えてみる。

 圧縮的に言えば、私たちは『環境依存的』な存在であると言える。」(P23)

 (引用終了)

 

 

暇と退屈の倫理学 増補新版 (homo Viator)

 

②「予想問題『暇と退屈の倫理学』國分功一郎/消費社会・真の豊かさ」/「動物的とらさらわれ(没頭)」

 

gensairyu.hatenablog.com

 

上の記事のポイント部分を引用します。

……………………………

 

(引用開始)

(当ブログによる解説)

 第四章以下では「消費と労働」、「疎外」について考察しています。
 つまり、現代人は、ある程度の「豊かさ」と「暇」を入手したが、その「暇な時間」に何をしたいのか、よく分からない人が多い。人類は他の動物と異なり、環世界を変幻自在に飛び回ることができる自由な存在であるために、退屈を嫌う。その点に企業・広告業界等が注目し、人々が余暇に行うであろう欲望の対象を用意し、広告宣伝等により誘導する。つまり、私たちの需要・欲求は、あらかじめ企業等の供給側によって支配されているという構造があるのです。

 これに対して、國分氏は、受動的で際限のない、虚しい「消費」を批判し、「真の豊かさ」としての「浪費」の意義を強調しています。

 そして、真の豊かな「浪費」を享受するために、浪費を味わえるようにする一定の訓練と、「動物的とりさらわれ」(→「没頭。熱中」という意味)の重要性を主張するのです。

(引用終了)

 

 

(5)「自己肯定」・「自己承認」・「承認欲求」

 

 「自己肯定」・「自己承認」・「承認欲求」は、アイデンティティにおける重要な論点です。これらを解説した記事を、以下に紹介します。

 

①「予想論点ー労働観・自己『人間はなぜ働かなくてはならないのか』」/「自己承認」・「承認欲求」

 

gensairyu.hatenablog.com

 

上の記事のポイント部分を引用します。

……………………………

 

(引用開始)

 (問題文本文)(概要です)
「【7】人はそれぞれの置かれた条件を踏まえて、それぞれの部署で自らの労働行為を社会に向かって投与するが、それらの諸労働は、およそ、ある複数の人間行為の統合への見通しと目的とを持たずにばらばらに存在するということはあり得ず、だれかのそれへの気づきと関与と参入とをはじめから「当てにしている」。そしてできあがった生産物や一定のサービス活動が、だれか他人によって所有されたり消費されたりすることもまた「当てにしている」。そこには、労働行為というものが、社会的な共同性全体の連鎖的関係を通してその意味と本質を受け取るという原理が貫かれている。労働は、一人の人間が社会的人格としてのアイデンティティを承認されるための、必須条件なのである。」 

(小浜逸郎「人間はなぜ働かなくてはならないのか」)

(引用終了)

 

 

 ②「自己承認」・「自己肯定」/「鷲田清一・関連記事」の紹介

 

gensairyu.hatenablog.com

 

 上の記事のポイント部分を引用します。

……………………………

 

(引用開始)

 本書『じぶん・この不思議な存在』」の冒頭に、以下のような、「問題提起」の一節があります。

「  わたしってだれ?

    じぶんってなに?

 だれもがそういう爆弾のような問いを抱えている。

 爆弾のような、といったのは、この問いに囚(とら)われると、いままでせっかく積み上げ、塗り固めてきたことがみな、がらがら崩れだしそうな気がするからだ。」


 本書の内容、つまり、上記の「問題提起」に対する解説は、以下の、本書の「エピローグ」に要約されています。

「わたしがこの本のなかで伝えたかったことはただ一つ、〈わたしはだれ?〉という問いに答えはないということだ。

 とりわけ、その問いを自分の内部に向け、そこに何か自分だけに固有なものをもとめる場合には。そんなものはどこにもない。

 じぶんが所有しているものとしてのじぶんの属性のうちにではなくて、誰かある他者にとっての他者のひとりでありえているという、そうしたありかたのなかに、ひとはかろうじてじぶんの存在を見いだすことができるだけだ。」 ( P 176 )

(引用終了)

 

ーーーーーーーー

 

 今回の記事は、これで終わりです。

 次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

 ご期待ください。

 

 

  

 

 

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

  

 

5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

 

 

 私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。

https://twitter.com/gensairyu 

https://twitter.com/gensairyu2

 

 

情報化社会・IT化社会/2018予想論点/体系的整理②

(1)はじめにー「2018直前特集/現代文・小論文予想論点/論点整理②/情報化社会・IT化社会・Web社会・インターネット社会」

 

(今回の記事の記述は太字にしました)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です)

 

 当ブログは以下の基本的方針で作成しています。

 以下に、当ブログの第1回記事の「開設の言葉」を引用します。

 

gensairyu.hatenablog.com

 

 ……………………………

 

 (引用開始)

 今現在の入試現代文・小論文の最新傾向として、注目するべきポイントとしては、2つの大きな柱があります。

 

【1】1つの柱は、「IT社会の光と影と闇」です。

 この論点・テーマは、3・11東日本大震災の前から登場していたので、割と有名ですが、最近のスマホの爆発的な流行により、新たな論点・テーマが発生しています。

 

【2】 もう1つの柱は、「3・11東日本大震災の各方面に対する影響」です。

 「各方面」は、実に多方面にわたっています。

 2016年の、センター試験や難関大学の現代文(国語)・小論文入試問題を、検討している現在も、この考えは変わってはいません。 

(引用終了)

 

……………………………

 

(今回の記事の記述)

 2017年度の入試国語(現代文)・小論文に出題された問題を概観しても、上記の傾向に変化はないようです。

 私は、以上の「IT社会の光と影と闇」・「3・11東日本大震災の各方面に対する影響」の2つの視点(入試頻出論点・流行論点)を重視して、最近の論考を読んでいます。そして、特に注目するべきものを、「予想出典」・「予想問題」として、週に1回のペースで当ブログで記事を発表しています。

 2017年度も、その方針で、約50の記事を発表しました。

 
 東日本大震災以後は、「IT社会の影と闇」に関連した良質な論考が多く発表されたこともあったので、今年の記事には、この論点について記事の割合が増加しました。

 そこで、今回の記事では、難関大学国語(現代文)・小論文対策として、「IT社会の影と闇」に関連した良質な論考を題材にした「予想出典記事」・「予想問題記事」を紹介していきます。一部、2016年度に発表した記事も含みます。

 

 今回の記事の項目は以下のようになっています。

 

(2)「消費社会」の牽引役としての「情報化社会」

(3)コミュニケーション能力の低下

(4)「電子情報・検索」の問題点ー「個人を殻に閉じ込める」・「反知性主義」ー「共同体を破壊する可能性」

(5)「フェイクニュース」・「ポスト真実」

(6)電子書籍

(7)「監視社会」/「自由」・「民主主義」に対する脅威

(8)人工知能

 

 なお、「東日本大震災・関連記事」の「体系的・論点整理」については、以下の記事を、ご覧ください。

 

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暇と退屈の倫理学 増補新版 (homo Viator)

 

 

(2)「消費社会」の牽引役としての「情報化社会」

 

 「(高度)情報化社会」と「(高度)消費社会」は車の両輪ですが、情報化社会は消費社会を促進している牽引役とも言うべき存在です。

 このことを、入試頻出著者・國分功一郎氏は、2018年1月1日の朝日新聞で次のように明快に述べています。以下に概要を引用します。

 

 ……………………………

 

(引用開始)

「(國分功一郎氏は)いまや平成の日常となった、満員電車の風景を例に語り始めた。多くの人がぼうっとスマホを見ている。費社会は私たちを終わることのない消費のゲームに投げ込み、もはや依存症に近い。平成にもたらされたのは、依存を利用して人々にお金を使わせる仕組みではないでしょうか

 暇は「自分で自分のすることを決められる自由」、
 退屈は「満たされない状態」。
 國分はそう整理し、「暇だからといって退屈するわけではない」と言う。
 平成になってIT化が進んでも、人々は楽になるどころか逆に長時間、仕事に拘束される。仕事以外も誰かとつながり続けている。

 自分が本当にしたいことは何なのか。心身が疲れてそれを考えられない。「楽しむには、自分と向き合う時間や訓練が必要なのです。人は楽しみ方を知らないと、暇、自由の中で退屈する。退屈がつらいから、スマホに貴重な時間を奪われる

 國分はユダヤ人哲学者ハンナ・アーレントを思い出したと言う。
「アーレントは『孤独と寂しさは違う』と言っています。孤独とは、私が自分自身と一緒にいること。自分と一緒にいられない人が寂しさを感じ、一緒にいてくれる他者を求める。だから、自己と対話できない。孤独にならなければ、人はものを考えられない。孤独こそ、現代社会で失われているものです」 

(『朝日新聞』2018・1・1/平成とは/第一部 時代の転換/3幸福論/「一瞬のハッピーがあれば、人はまた走れる」) 

(引用終了)

 

 

朝日新聞デジタル

朝日新聞デジタル

 

 

 國分氏は、頻出著書・『暇と退屈の倫理学』のポイントのような、分かりやすいコメントを発言していて、かなりタメになります。
 

 

①予想問題「好きなこととは何か?」『暇と退屈の倫理学』國分功一郎/2013同志社大過去問+予想問題

 

gensairyu.hatenablog.com

  

 「好きなこととは何か?」は「情報化社会と消費社会の関係」を明快に解説しています。

 上の記事のポイント部分を引用します。

 

 ……………………………

 

(引用開始)

(問題文本文)(概要です)

(【1】・【2】・【3】・・・・は当ブログで付記した段落番号です)

 

【27】最近他界した経済学者ジョン・ガルブレイス[1908~2006]は、20世紀半ば、1958年に著した『豊かな社会』でこんなことを述べている。

【28】現代人は自分が何をしたいのかを自分で意識することができなくなってしまっている。広告やセールスマンの言葉によって組み立てられて初めて自分の欲望がはっきりするのだ。自分が欲しいものが何であるのかを広告屋に教えてもらうというこのような事態は、19世紀の初めなら思いもよらぬことであったに違いない。 

【46】アドルノとホルクハイマーが言っているのは、カントが当然と思っていたこのことが、いまや当然ではなくなったということだ。人間に期待されていた主体性は、人間によってではなく、産業によってあらかじめ準備されるようになった。産業は主体が何をどう受け取るのかを先取りし、受け取られ方の決められたものを主体に差し出している。

【47】「これが楽しいってことなのですよ」というイメージとともに、「楽しいもの」を提供する。たとえばテレビで、或る娯楽を「楽しむ」タレントの映像を流し、その次の日には、視聴者に金銭と時間を使ってもらって、その娯楽を「楽しんで」もらう。わたしたちはそうして自分の「好きなこと」を獲得し、お金と時間を使い、それを提供している産業が利益を得る。

【48】「好きなこと」はもはや願いつつもかなわなかったことではない。それどころか、そんな願いがあったかどうかも疑わしい。願いをかなえられる余裕を手にした人々が、今度は文化産業に「好きなこと」を与えてもらっているのだから。

【49】ならば、どうしたらいいのだろうか?

【51】資本主義の全面展開によって、少なくとも先進国の人々は裕福になった。そして暇を得た。だが、暇を得た人々は、その暇をどう使ってよいのか分からない。何が楽しいのか分からない。自分の好きなことが何なのか分からない。

【52】そこに資本主義がつけ込む。文化産業が、既成の楽しみ、産業に都合のよい楽しみを人々に提供する。かつては労働者の労働力が搾取されていると盛んに言われた。いまでは、むしろ労働者の暇が搾取されている。高度情報化社会という言葉が死語となるほどに情報化が進み、インターネットが普及した現在、この暇の搾取は資本主義を牽引する大きな力である。(國分功一郎「『好きなこと』とは何か?」)

(引用終了)

 

②予想問題『暇と退屈の倫理学』國分功一郎/消費社会・真の豊かさ

 

gensairyu.hatenablog.com

 

 上の記事のポイント部分を引用します。

 

 ……………………………

 

(引用開始)

(問題文本文)

(【1】・【2】・【3】・・・・は当ブログで付記した段落番号です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です)


【1】どんなにおいしい食事でも食べられる量は限られている。腹八分目という昔からの戒めを破って食べまくったとしても、食事はどこかで終わる。いつもいつも腹八分目で質素な食事というのはさびしい。やはりたまには豪勢な食事を腹一杯、十二分に食べたいものだ。これが浪費である。浪費は生活に豊かさをもたらす。そして、浪費はどこかでストップする。

【2】それに対して消費はストップしない。たとえばグルメブームなるものがあった。雑誌やテレビで、この店がおいしい、有名人が利用しているなどと宣伝される。人々はその店に殺到する。なぜ殺到するのかというと、だれかに「あの店に行ったよ」と言うためである。

【3】当然、宣伝はそれでは終わらない。次はまた別の店が紹介される。またその店に行かなければならない。「あの店に行ったよ」と口にしてしまった者は、「えぇぇ? この店行ったことないの? 知らないの?」と言われるのを嫌がるだろう。だから、紹介される店を延々と追い続けなければならない。

【4】これが消費である。消費者が受け取っているのは、食事という物ではない。その店に付与された観念や意味である。この消費行動において、店は完全に記号になっている。だから消費は終わらない。

【5】浪費と消費の違いは明確である。消費するとき、人は実際に目の前に出てきた物を受け取っているのではない。なぜモデルチェンジすれば物が売れて、モデルチェンジしないと物が売れないのかと言えば、人がモデルそのものを見ていないからである。「チェンジした」という観念だけを消費しているからである。

 (出典・國分功一郎『暇と退屈の倫理学』「第4章 暇と退屈の疎外論ーー贅沢とは何か?」  の一節)

 (引用終了)

 

 ③「消費社会と情報化社会」に関する、他の記事の紹介

 

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(3)コミュニケーション能力の低下

 

①予想問題「極大化した不安 共に過ごす時間を」山際寿一・現代文明論

 

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  上の記事の冒頭部分を引用します。

 

 ……………………………

 

(引用開始)

①「『極大化した不安 共に過ごす時間を』・山極寿一・耕論・〈私たちはどこにいるのか〉2017・1・1朝日新聞」の解説

(概要です)

(【1】・【2】・【3】・・・・は当ブログで付記した段落番号です)

【4】安心をつくり出すのは、相手と対面し、見つめ合いながら、状況を判断する「共感力」です。類人猿の対面コミュニケーションを継承したもので、協力したり、争ったり、慮(おもんぱか)ったりしながら、互いの思いをくみ取って信頼関係を築き、安心を得る。

【6】現代はどうでしょう。集団とのつながりを断ち、集団に属することで生じるしがらみや息苦しさを軽減する。次々にマンションが建ち、個人は快適で安全な環境を得ましたが、地域社会の人のつながりはどんどん薄れた。

【7】直近では、人々はソーシャルメディアを使い、対面不要な仮想コミュニティーを生み出しました。現実世界であまりにもコミュニティーと切り離された不安を心理的に補う補償作用として、自己表現しているのかも知れません。でも、その集団は、150人の信頼空間より大方は小さく、いつ雲散霧消するかわからない。若者はますます、不安になっています。

 (引用終了)

 

②2016年センター国語第1問解説『キャラ化する/される子どもたち』

 

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  上の記事のポイント部分を引用します。

 
 ……………………………

 

(引用開始)


(1)土井隆義氏の著書の出題状況(第1回の記事がテーマ・論点的中)

 2016年センター試験国語第1問(現代文・評論文)に、最近の流行論点・テーマである「自己」「アイデンティティー」(「若者論」・「日本人論」・「日本文化論」・「現代文明論」・「現代文明批判」・「コミュニケーション論」)が、出題されました。

 

 また、この問題は、「IT化社会」のテーマ・論点です。

 このブログの第1回記事(「開設の言葉ー入試現代文の最新傾向ー重要な、気付きにくい2本の柱」)において記述した、「入試現代文の最新傾向」、つまり、「IT化社会の光と影と闇」が、出題されました。

 テーマ・論点が的中しました。

 

(2)土井隆義氏の著書の、キーワード

 土井氏は、上記の一連の著書において、

「人生は素質により、全て決定されると信じ込む若者」(一種の、新しい宿命主義)

「優しい関係」(摩擦・衝突を神経質に回避する傾向)

「子どもたちの過剰な承認願望」

排除される不安を回避するためのスマホ依存

「友だち関係を維持するためのイジメ」

という視点から、「現代の子どもたちの世界」を、鋭く、説得力豊かに分析しています。

 (引用終了)

 

 

(4)「電子情報・検索」の問題点ー「個人を殻に閉じ込める」・「反知性主義」ー「共同体を破壊する可能性」

 

① 現代文(国語)・小論文問題解説『ビブリオバトル』(山崎正和)

 

gensairyu.hatenablog.com

 

 上の記事のポイント部分を引用します。

 

……………………………

 

(引用開始)

(山崎氏の論考の概要)

「⑭ 人々が活字文化を疎んじ、電子情報の検索に頼って生きることは、単に文章力や思考力を弱めるだけでなく、個人を殻に閉じ込めて共同体を破壊することにつながる。

⑮ 私はその意味で、ビブリオバトルを義務教育に取り入れることを提案したい。文化的な階層社会を生むことは、ぜひ避けたいからである。」

(引用終了)

 

…………………………… 

 

  「電子情報の検索に頼って生きることが文章力や思考力を弱めること」(→反知性主義化)については、2015年度センター試験に出題された佐々木氏の論考(『未知との遭遇』)が、とても参考になるので、ここで紹介します。

 

② 2015センター試験国語第1問(現代文・評論文)『未知との遭遇』解説・IT化社会

  

gensairyu.hatenablog.com

 

上の記事の冒頭部分、ポイント部分を引用します。

 

 …………………………… 

 

(引用開始)

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 2015年度センター試験国語(現代文・評論文)に出題された佐々木氏の論考(『未知との遭遇』)は、「IT化社会の問題点」、つまり、「歴史の崩壊」・「歴史意識の衰退」・「系譜学的(体系的)知の衰退」を鋭く指摘しています。この論点、言い換えれば、「反知性主義化」は、「IT化社会のマイナス面」・「IT化社会の影・闇」として、最近、問題化しています。佐々木氏の論考は、とても参考になるので、ここで紹介します。

 

(2)2015センター試験の解説

(問題文本文の概要)  

(なお、[8]・[9]・[10]・・・・は、センター試験国語の問題文本文に付記されている段落番号です)

「[8] われわれは、ある事象の背後に「歴史」と呼ばれる時間があると考えるわけですが、ネット以後、そういった「歴史」を圧縮したり編集したりすることが、昔よりずっとやり易くなりました。時間軸を抜きにして、それを一個の「塊=マッス」として、丸ごと捉えることが可能になった。

[9] ただ、そのことによって、たとえば「体系的」という言葉の意味が、決定的に変わってしまった。しかし、「物語」としての「歴史」の記述/把握という営みは、少なからず行われてきたし、今も行われている。過去から現在を経て未来へと流 れてゆく「時間」というものが、そのあり方からして「物語」を要求してくる。「物語」とは、因果性の別名です。

[10] しかしネット以後、このような一種の系譜学的な知よりも、「歴史」全体を「塊」のように捉える 、いわばホーリスティック(→問題文本文に付記されている注→「全体的、包括的」)な考え方がメインになってきたのではないかと思うのです。これはある意味では「歴史」の崩壊でもあります。」

(引用終了)

 

 …………………………… 

 

③『考えないヒト』正高信男・IT化社会・コミュニケーション能力低下

 

gensairyu.hatenablog.com

 


 上の記事の冒頭部分を引用します。

 

…………………………… 


(引用開始)

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 携帯電話、スマホなどへの過度の依存により、言語運用能力・思考力の衰退、反知性主義などの退化的現象が現代日本に顕著になっている、という意見が強まっています。
 そこで、「携帯電話」と「人間のサル化(退化)」の関係を鋭く指摘している、入試頻出著者・正高信男氏の論考が、再び流行・頻出出典となる可能性が高まっているので、今回は、この記事を書くことにしました。

 (引用終了)

 

(5)「フェイクニュース」・「ポスト真実」

 

①予想問題「広がる『ポスト真実』」神里達博〈月刊安心新聞〉朝日新聞

 

gensairyu.hatenablog.com

 

 上の記事の冒頭部分を引用します。

 

 ……………………………

 

(引用開始)

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 最近、世界的に、政治の局面で「ポスト真実」ということが、重大なキーワードになっています。そこで、今回は、この最新キーワードについての解説記事を、

「広がる『ポスト真実』事実の軽視  まるで中世」(2017年2月17日朝日新聞「月刊安心新聞」千葉大教授・神里達博)、

をベースにして、書くことにしました。

 

 今回の記事は、以下の項目を解説します。

〇 「ポスト真実」の定義・内容

〇 「ポスト真実」の訳語、意味を考える

〇 「フェイクニュース」の意味・内容

〇 「代替的事実(オルタナティブファクト)」の意味・内容

〇 「バズワード」の意味・内容

〇 「ポケモンGO現象=現実軽視の風潮=感想社会・感情社会」について

〇 「ボスト真実」の問題点

〇 「ポスト真実」に対する対策論

 (3)当ブログにおける「トランプ現象」に関する記事の紹介

 

「ポスト真実」の定義・内容

 オックスフォード出版局が、2016年に最も注目された言葉として挙げたのが「Post・truth (ポストトゥルース)(ポスト真実)」でした。

 これは客観的な事実よりも、人々の感情や主観の方が、世論の形成に大きな役割を果たす政治状況のことを意味しています。

 反事実的内容のツイートを連発したトランプ候補の予想外の当選、英国の欧州連合(EU) 離脱決定の基盤には、このような政治状況も考えられるというのです。

 この「ポスト真実」は、Web社会の拡大化により、注目されるようになった最新・重要論点です。

 

「フェイクニュース」の意味・内容

 「フェイクニュース」の現状については、「選挙とフェイクニュース ~揺れるヨーロッパ~アメリカ大統領戦の際に大きな注目を集めた『フェイクニュース』」 (2017年4月26日・NHKクローズアップ現代)のWeb上の説明が、明解な解説をしています。以下に引用します。 

 
「『フェイクニュース』(→「フェイクニュース(Fake News)」とは、虚偽の情報でつくられたニュースを意味しています。具体的には、主にネット上で発信・拡散されるウソの記事を指します)が、いま、ヨーロッパを席巻している。今月23日に第1回投票が行われたフランス大統領選挙では、有力候補のマクロン氏など複数の候補を中傷するフェイクニュースが次々と拡散し、陣営は対応を迫られた。 」

 

 ……………

 

(当ブログによる解説)

 日本とは違って、欧米では、「フェイクニュース」が、政治的に、かなり問題になっているようです。この問題は、民主主義の根幹に関連する重大な問題と言えます。日本でも、いずれ問題化することでしょう。

(引用終了)

 

②「メディアリテラシー」内田樹

 以上の「フェイクニュース」に対応するためには、「メディアリテラシー」が必要になりますが、この点について、内田樹氏は、以下のように述べています。

 

……………………………

 

(概要です)

 アメリカ大統領選挙ではネット上に大量の偽情報が飛び交った。

 これについて「ネット情報の信頼性を損なった」という批判をしても始まらないと私は思う。ネット情報は所詮は「その程度のもの」である。

  いま肝に銘ずべきことは、「私たちひとりひとりがメディアリテラシーを高めてゆかないと、この世界はいずれ致命的な仕方で損なわれるリスクがある」ということである。そのことをもっと恐れたほうがいい。

 メディアリテラシーというのは流れてくる情報のいちいちについてその真偽を判定できるほど豊かな知識を備えていることではない。(→「メディアリテラシー」→一般的には「情報メディアを主体的に読み解いて必要な情報を引き出し、その真偽を見抜き、活用する能力」・「情報を批判的に読み取る能力」という意味)

 そんなことは不可能である。自分の専門以外のほとんどすべてのことについて、私たちはその真偽を判定できるほどの知識を持っていない。だから、私たちに求められているのは「自分の知らないことについてその真偽を判定できる能力」なのである。そんなことできるはずがないと思う人がいるかもしれない。

 

 けれども、私たちはふだん無意識的にその能力を行使している。知らないことについて知性は真偽を判定できない。けれども、私たちの身体はそれが「深く骨身にしみてくることば」であるか「表層を滑ってゆくことば」であるかを自然に聞きわけている。

(内田樹・『AERA』2017年1月16日号)

 

 

 (6)電子書籍

 

gensairyu.hatenablog.com

 

 上の記事のポイントを引用します。

 

……………………………

 

(引用開始)

(3)予想問題・内田樹氏の論考「活字中毒患者は電子書籍で本を読むのか?」-明治大学(全学部統一入試問題の一部抜粋)

問題 次の文章を読んで、後の問いに答えよ。

【2】 紙の本はなくならない。というか、紙の本という確固とした基盤ぬきには、そもそも電子書籍というものは存立することができないというのが私の結論である。理由を以下に述べる。

【3】電子書籍の第一の難点は「どこを読んでいるかわからない」ことである。

【4】電子書籍は、紙の本を読んでいる状態を疑似的には経験できる。だが、残り何頁であるかがわからない。

【5】自分が全体のどの部分を読んでいるかを鳥瞰的に絶えず点検することは読書する場合に必須の作業である。というのは、それによって、その文章の解釈可能性に大きな差異が生じるからである。

【12】第二の難点は、電子書籍では「宿命的な出会い」が起こらないということである

【13】その本の予備知識がないにもかかわらず、その本の死活的重要性が先駆的にわかるということはなぜ起きるのであろう。説明は二つある。 

 (引用終了)

 

(7)「監視社会」/「自由」・「民主主義」に対する脅威

 

①「予想問題・「である」ことと「する」こと②・『日本の思想』丸山真男②」

   

gensairyu.hatenablog.com

 

 上の記事のポイント部分を引用します。

 

 ……………………………

 

 (引用開始)

 「監視社会」も、「自由」との関係で、最近の流行論点・テーマになっています。

 「監視社会」に関する論考として、最新で、鋭い考察のなされている、頻出著者の古東哲明氏の論考(概要)を、以下に紹介します。

 

「電子光学技術(人工衛星・情報収集技術網)による「パナプティコン(一望監視システム)」(→当ブログによる注→中央の監視塔からは牢獄を監視できるが、牢獄からは監視塔の様子が分からないような一望監視システムのために、囚人は常に直接的に監視されている気分になり、遂には、その気分が日常化してしまうという趣旨)追い打ちをかける。世界規模での「警察化(監視化)」が進行する。世界全体が「一大監房」と化する。自由を奪われ「拘禁」されているという閉塞感情が瀰漫(びまん)(→当ブログによる注→「はびこる。広がる」という意味)する。〈今ここ〉で生きているこのリアルな空間や光景を喪失することを通じ、抑圧的で不自由な生存を獲得する。」(古東哲明『瞬間を生きる哲学』)

(引用終了)

 

 

 上の記事に関連する下の記事も、ぜひ参照してください。

 

gensairyu.hatenablog.com

 

 

日本の思想 (岩波新書)

 

 

②予想問題ー共謀罪と監視社会ー自由・人権・民主主義を守るためには

 

gensairyu.hatenablog.com

 

 上の記事の冒頭部分を以下に引用します。

 

……………………………

 

 (引用開始)


(1)なぜ、この記事を書くのか?

 現在、最近成立した共謀罪(テロ等準備罪)の様々な問題性を指摘する論考が、数多く発表されています。

 入試対策上、それぞれの論考に目を通すことも重要です。

 しかし、このような場合には、個々の専門的・技術的な論点よりも、「自由・人権・民主主義の価値」、「脆さ・弱さを内在している『自由・人権・民主主義』をいかに確保するか」、という論点が出題されることが多いのです。

 そこで、入試現代文(国語)・小論文対策として、これらの論点を以下に解説していきます。

 

(2)共謀罪(テロ等準備罪)の問題性ー「監視社会」の可能性、萎縮効果

  「共謀罪(テロ等準備罪)ー賛成説・反対説のそれぞれの理由」については、前回の記事で解説しましたので、ぜひ参照してください。

 

gensairyu.hatenablog.com

 

  「共謀罪(テロ等準備罪)の問題性」に関しては、以下の点が主張されています。

 実際に、どのようになっていくか、については、これからの政府の運用実態、歴史の推移を注視していく必要があるでしょう。

①  「監視社会」化の可能性

②  萎縮効果ー活気がなく、創造性に乏しい、発展性のない社会になりかねない

③  萎縮効果の具体例ー政府の方針に科学的観点から反対することが抑圧される可能性がある

(引用終了)

 

 

(8)人工知能

 

①「人工知能②ー身体性・自我・倫理問題ー現代文・小論文予想論点」

 

 「人工知能の進化」に関しては、「無制限とする説」と、「限界があるとする説」に分かれているようです。

 国語(現代文)・小論文対策としては、それぞれの説について知っておくことが必要です。

  

  まず、下の記事を紹介します。

 

gensairyu.hatenablog.com

 

 上の記事の重要部分である「シンギュラリティ」について、引用します。

 

 ーーーーーーーー

 

(引用開始)

 シンギュラリティ(技術的特異点)

(→「シンギュラリティ(Singularity)」とは、「人工知能が人間の能力を超えることで起こる出来事。人類が人工知能と融合し、人類の進化が特異点(成長曲線が無限大になる点)に到達すること」という意味)

という言葉をキーワードにして、「2045年までにAIが人類を超える」とする見解が、最近の様々な月刊誌の「人工知能特集」・新刊本で目立ちます。

 軍事技術への転用、人工知能の暴走への不安もあります。

 (引用終了)

 

 ………………………………

 

 以上に対して、人工知能の進化には限界があるとする意見もあります。以下に紹介します。

 

 ②新井紀子氏の見解

 

……………………………

 

(引用開始)

 「AIと生きる」 新井紀子氏

 

(『朝日新聞』2016・11・9(耕論)「AIと生きる」新井紀子)


「AIの実力とはどれほどなのか、そして私たちはどう備えたら良いのか」 

「推論力磨いて使いこなせ」

 

新井紀子氏(国立情報学研究所教授。1962年生まれ。専門は遠隔教育(システム開発、教育)、数理論理学。著書に『コンピュータが仕事を奪う』『AIvs教科書が読めない子どもたち 』『ほんとうにいいの? デジタル教科書』など)

 


 AIプロジェクト「ロボットは東大に入れるか」の「東ロボくん」は、高校3年生の上位2割程度の実力です。でも、東大合格は無理。今後も不可能でしょう。5年育て、AIにできることと、できないことがあるのがわかりました。

 東ロボくんは膨大に覚え、傾向を捉えるのは得意です。教科書などで「織田信長」と「楽市楽座」はいつも一緒に出てくることがわかり、選択肢の問題なら正答できる。
 しかし、「市の日はどんな天気だと人々は喜んだでしょう」と聞かれたら答えられない。教科書やウィキペディアには書いてないからです。

 

 東ロボくんに限らず、どのAIも、基本的に言葉のパターンを見て、統計的に妥当そうな答えを返しているにすぎません。言葉の意味を理解しているわけではないのです。

 にもかかわらず、東ロボくんの相対的な成績が良いのはなぜなのか。疑問に思った私たちは、中高校生が教科書をどう読み、どこまで理解できているのかを調査しました。すると、中学生の約2割は教科書の文章の主語と目的語が何かという基礎的読解ができておらず、約5割は内容を読み取れていませんでした。子どもたちもAIのように、意味を理解せず、キーワードを上手に覚えているだけなのかもしれません

 効率良い暗記より、意味を深く理解でき、推論できる教育こそが、AI時代の学校や家庭で必要です。自らの実体験に基づいて想像力を働かせ、未知の世界をより深くイメージできる力です。

 たとえば、何時間もアリの巣を観察する。子どもたちは、アリの様子を眺めるうち、自らの集団生活の経験も踏まえ、「役割分担」というのはこういうことなんだ、とストンと胸に落ちる。現実世界と「役割分担」という言葉がつながるのです。この実体験に基づいた論理的な推論力がないと、AIを超えることはできません。

 

 

ロボットは東大に入れるか (よりみちパン! セ) (よりみちパン!セ)



 

 

 ③岡田暁生氏の見解

 

 岡田暁生氏(音楽学者。京都大学教授。著書に『クラシック音楽とは何か』『メロドラマ・オペラのヒロインたち』など)も同様に、「人工知能の限界」を以下のように述べています。

 

……………………………


(『毎日新聞』2017・1・16日夕刊)

「AIはモーツァルトになれますか」ーー岡田氏は最近、よく、このような質問をされるという。

 「モーツァルト風の曲が作れるか」という意味なら「イエス」、「モーツァルト並みの曲が書けるか」なら「ノー」と答えるそうです。


 どんな大作曲家の曲にも、独特のパターンがあるから、AIは、パターンなどデータの集積と組み合わせによって「モーツァルトらしい曲」に仕上げることはできる。

 しかし、パターンそのものを生み出し、人々の心を打つ名曲を作ることは、偉大な作曲家、つまり人間にしかできない、と岡田さんは強調しています。(『毎日新聞』2017・1・16・夕刊)

 

 また、岡田氏は、「人工知能はモーツァルトを超えられるか?」(『世界思想』 44号 2017春特集・人工知能)においても、人工知能には限界があると述べています。

 「見出し」は、以下のようになっています。

 

「人工知能が作る音楽は従来の作曲の延長」

『芸術』への位置は遠い」

「人間の感性が人工知能並みに低下する恐怖」

 

 そして、論考の最終部分で以下のように述べています。

 

「モーツァルトの交響曲に拍手喝采を送った二百数十年前の聴衆のような闊達なコミュニケーションは、今日の人間にはもはや不可能になっているのではないかとすら思う。」

「人工知能が人間並みの能力を持つことよりも、人間の知能が人工知能並みに低下してしまうことの方が、私にはよほど怖い。ただしその兆しはもう既に現れ始めているような気がする。」

 

 

クラシック音楽とは何か

 

 ④「人工知能」に関する、他の記事の紹介

 

 以下の記事は、いずれも、「人工知能」と「人間の本質」の「関係」を考察しています。

 ぜひ、参考にしてください。

 

gensairyu.hatenablog.com

 

gensairyu.hatenablog.com

 

gensairyu.hatenablog.com

 

ーーーーーーーー

 

今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

ご期待ください。

 

   

 

gensairyu.hatenablog.com

 

gensairyu.hatenablog.com

 

gensairyu.hatenablog.com

 

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暇と退屈の倫理学 増補新版 (homo Viator)

暇と退屈の倫理学 増補新版 (homo Viator)

 

 

頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

 

 

5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

 

 

 私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。

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2014センター国語第1問(現代文)『漢文脈と近代日本』解説

(1)はじめに

 本問は、漢文脈が江戸時代の武士階級にいかなる影響を与えたか、を論じた内容になっています。

 「言語と人格形成の関係」は重要論点です。

 最近では、「能動態・受動態の二分法」と「意志」・「自己意識」の関係にメスを入れ、「中動態」の存在意義に光を当てた『中動態の世界』(國分功一郎)が評判になったことで、本書を中心として、「言語と人格形成の関係」の論点は、頻出論点になりそうです。

 この論点を理解する「きっかけ」として、今回の問題は役立つでしょう。

 

中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)

 

 

 設問は、センター試験としては、標準的なレベルです。熟読を基本にして、消去法を併用すると満点も充分に可能でしょう。

 国語第1問(現代文)については、約25分しか使えないので、効率的に処理することを心がけてください。

 

 センター現代文を効率的に処理するポイント・コツについては、最近、当ブログで記事を発表したので、ぜひ参照してください。

 

gensairyu.hatenablog.com

  

gensairyu.hatenablog.com

 

 今回の記事の項目は、以下の通りです。記事は約1万字です。

(2)2014センター試験国語第一問『漢文脈と近代日本』齋藤希史/解説

(3)本文解説→「言語帝国主義」について

(4)齋藤希史氏の紹介

 

漢文脈と近代日本 (角川ソフィア文庫)

 

(2)2014センター試験国語第一問(現代文・評論文)『漢文脈と近代日本』齋藤希史/解説

問 以下は18世紀末から19世紀にかけて、幕府の教学制度が整備され、さらにこれをモデルとした学問奨励策が各藩に普及していくに伴って、漢文を読み書きする行為が士族階級を主な担い手として日本全国に広まったことを述べた後に続く文章である。これを読んで、後の問いに答えよ。

 

(問題文本文)(概要です)

(【1】・【2】・【3】・・・・は問題本文に付記されている段落番号です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です) 

 

【1】漢文学習の入り口は素読です。初学者はまず『論語』や『孝経』などを訓点に従ってただ棒読みする素読を叩きこまれました。漢籍を訓読するというのは一種の翻訳、つまり、解釈することですから、解釈の標準が定まっていないと、訓読もまちまちになってしまいます。そうすると、読み方、つまり素読を統一することはできなくなります。「素読吟味」という試験は素読の正確さを問うものでした。素読、すなわち訓読はおおまかにせよ統一されていることが前提となりましたし、さらにその前提として、解釈の統一が必要でした。つまり、解釈の統一は、カリキュラムとしての素読の普及と一体のものであったと言えるのです。やや極端な言い方ですが、異学の禁があればこそ、素読の声は全国津々浦々に響くことになったのです。

【2】このように歴史の流れを理解すれば、十九世紀以降の日本において、漢文が公的に認知された素養であったということも、納得しやすいのではないでしょうか。

【3】さて、こうした歴史的な環境の中で、漢文は広く学ばれるようになったのですが、多くの人々は儒者になるために経書を学んだのではありませんし、漢詩人になるために漢籍をひもといたのではありませんでした。そうした専門家になるためではなく、いわば基礎学問としての漢学を修めたのです。もちろん、体制を支える教学として、身分秩序を重んじる朱子学が用いられたという側面を無視することはできません。しかし、現実に即して見れば、漢学は知的世界への入り口として機能しました。訓読を叩きこまれ、大量の漢籍に親しむことで、彼らは自身の知的世界を形成していったのです。

【4】となると、その過程で、ある特定の思考や感覚の型が形成されていったことにも、注意を向ける必要があります。といっても、忠や孝に代表される儒教道徳が漢文学習によって身についたと言いたいのではありません。そうした側面がないとは言えないのですが、通俗的な道徳を説く書物なら、漢籍を持たずとも、巷に溢れていました。何も漢文を学ばなければ身につかないものでもなかったのです。

【5】 A もう少し広く考えてみましょう。

【6】そもそも中国古典文は、特定の地域の特定の階層の人々によって担われた書きことばとして始まりました。逆に言えば、その書きことばによって構成される世界に参入することが、すなわちその階層に属することになるわけです。どんなことばについてもそうですが、B  人がことばを得、ことばが人を得て、その世界は拡大します。前漢から魏晋にかけて、その書きことばの世界は古典世界としてのシステムを整えていき、高度なリテラシー(読み書き能力)によって社会に地位を占める階層がその世界を支えました。それが、士人もしくは士大夫と呼ばれる人々です。

【7】『論語』一つを取ってみても、そこで語られるのは人としての生き方であるように見えて、士としての生き方です。「学んで時に習う・・・」と始められるように、それは「学ぶ」階層のために書かれています。儒家ばかりではありません。無為自然を説く道家にしても、知の世界の住人であればこそ、無為自然を説くのです。乱暴な言い方ですが、農民や商人に向かって隠逸を説くのではないのです。

【8】思想でなく文学にしても、同じことが言えます。たしかに、中国最古の詩集である『詩経』には民歌に類するものが含まれていますが、その注釈や編纂が士人の手になるものである以上、統治のために民情を知るという視線はすでに定まっています。まして、魏晋以降、士人が自らの志や情を託しうるものとして詩を捉え、ついには詩作が彼らの生を構成するほとんど不可欠の要素になったことを見れば、唐代以降の科挙による詩作の制度を待たずとも、古典詩はすでに士人のものだったことは、あきらかです。

【9】こういう観点からすれば、古典詩文の能力を問う科挙は、士大夫を制度的に再生産するシステムであったのみならず、士大夫の思考や感覚の型―とりあえずこれをエトスと呼ぶことにします―の継承をも保証するシステムだったことになります。

【10】日本の近世社会における漢文の普及もまた、士人的エトスもしくは士人意識―その中身については後で述べます―への志向を用意しました。漢文をうまく読み、うまく書くには、字面だけを追って真似ても限界があります。その士人としての意識に同化してこそ、まるで唐代の名文家韓愈が乗り移ったかのような文章が書けるというわけです。あるいは、彼らの詩文を真似て書いているうちに、心の構えがそうなってしまうと言ってもよいでしょう。文体はたんに文体に止まるものではないのです。

 

ーーーーーーーー

 

(設問・解説・解答)

問1は省略

問2 傍線部A 「もう少し広く考えてみましょう。」とあるが、それはなぜか。その説明として最適なものを次の中から一つ選べ。

① 中国に目を転じて時代をさかのぼり、中国古典文に見られる思想と文学の共通点を考慮に入れることで、近世後期の日本において漢籍が知的世界の基礎になった根拠が把握できるから。

② 中国に目を転じて時代をさかのぼり、科挙を例に学問の制度化の歴史的起源に関する議論を展開することで、近世後期の日本において漢学が素養として公的に認知された理由が把握できるから。

③ 中国に目を転じて時代をさかのぼり、儒家だけでなく道家の思想も士大夫階級に受け入れられた状況を踏まえることで、近世後期の日本において漢文学習により知的世界が多様化した前提が把握できるから。

④ 中国に目を転じて時代をさかのぼり、中国古典文と士大夫階級の意識との関係を考察することで、近世後期の日本において漢文学習を通して思考や感覚の型が形成された過程が把握できるから。

⑤ 中国に目を転じて時代をさかのぼり、中国古典文に示された民情への視線を分析することで、近世後期の日本において漢学の専門家以外にも漢文学習が広まった背景が把握できるから。

 

……………………………

 

【問2解説・解答】(傍線部説明問題)


【2】段落「十九世紀以降の日本において、漢文が公的に認知された素養であった」、

【3】段落「現実に即して見れば、漢学は知的世界への入り口として機能しました。訓読を叩きこまれ、大量の漢籍に親しむことで、彼らは自身の知的世界を形成していったのです」、

【4】段落「その過程で、ある特定の思考や感覚の型が形成されていったことにも、注意を向ける必要があります」、

【5】段落「A もう少し広く考えてみましょう」、

【6】段落「そもそも中国古典文は、特定の地域の特定の階層の人々によって担われた書きことばとして始まりました」、

【8】段落「古典詩はすでに士人のものだったことは、あきらかです」、

【9】段落「こういう観点からすれば、古典詩文の能力を問う科挙は、士大夫の思考や感覚の型の継承をも保証するシステムだった」、

【10】段落「日本の近世社会における漢文の普及もまた、士人的エトスもしくは士人意識への志向を用意しました」、

より④(→④中国に目を転じて時代をさかのぼり、/中国古典文と士大夫階級の意識との関係を考察することで、/近世後期の日本において漢文学習を通して思考や感覚の型が形成された過程が把握できるから。)が適切です。


①  「思想と文学の共通点の部分」が、

②  「科挙を例に学問の制度化の歴史的起源に関する議論を展開」が、

③  「道家の思想も士大夫階級に受け入れられた状況を踏まえることで、近世後期の日本において漢文学習により知的世界が多様化した前提」が、

⑤  「中国古典文に示された民情への視線を分析」が、

それぞれ無関係です。

→このように、センター現代文においては、消去法を活用すると、誤りの選択肢を簡単にチェックすることができます。

 
(解答)④

 

ーーーーーーーー

 

(設問)

問3 傍線部B 「人がことばを得、ことばが人を得て、その世界は拡大します」とあるが、中国では具体的にどのような展開があったのか。その説明として最適なものを次の中から一つ選べ。

① 無為自然を説く道家のことばに導かれ、上昇志向を捨てた人々がいる一方で、身分秩序を説く中国古典文が社会規範として広く支持されるにつれて、リテラシーの程度によって階層を明確に区分する社会体制が浸透していった。

② 中国古典文の素養が士大夫にとって不可欠になると、リテラシーの獲得に対する人々の意欲が高まるとともに、中国古典文が書きことばの規範となり、やがてその規範に基づく科挙制度を通して統治システムが行き渡っていった。

③ 高度な教養を持つ士大夫がそのリテラシーによって中国古典文の世界を支えるようになると、その世界で重視された儒家の教えが社会規範として流布し、結果的に伝統的な身分秩序を固定化する体制が各地に形成されていった。

④ 中国古典文のリテラシーを獲得した人々が自由に自らの志や情を詩にするようになると、支配階層であるが編む経書の中にも民情を取り入れたものが出現し、科挙制度のもとで確立した身分秩序が流動化していった。

⑤ 中国古典文のリテラシーを重視する科挙が導入され、古典詩文への関心が共有されるようになると、士大夫が堅持してきた書きことばの規範が大衆化し、人々を統治するシステム全体の変容につながっていった。

 

……………………………

 

【問3解説・解答】(傍線部説明問題)

 まず、【6】段落「その書きことば(→「中国古典文」)によって構成される世界に参入することが、すなわちその階層に属することになるわけです。B 人がことばを得、ことばが人を得て、その世界は拡大します。その書きことばの世界は古典世界としてのシステムを整えていき、高度なリテラシー(読み書き能力)によって社会に地位を占める階層がその世界を支えました。それが、士人もしくは士大夫と呼ばれる人々です」の部分が、

「中国古典文の素養が士大夫にとって不可欠になると、リテラシーの獲得に対する人々の意欲が高まる」に対応しています。

 次に、【6】段落「その書きことばの世界は古典世界としてのシステムを整えていき」の部分が、

②「中国古典文が書きことばの規範となり」に対応しています。→「その世界は拡大します」に対応しています。

 さらに、【9】段落「こういう観点からすれば、古典詩文の能力を問う科挙は、士大夫を制度的に再生産するシステムであったのみならず、士大夫の思考や感覚の型の継承をも保証するシステムだったことになります」の部分が、

②「やがてその規範に基づく科挙制度を通して統治システムが行き渡っていった」に対応しています。

以上より、②が正解になります。

 

①  「無為自然を説く道家のことばに導かれ、上昇志向を捨てた人々がいる」が【7】段落に反します。

③  「伝統的な身分秩序を固定化する体制が各地に形成されていった」が無関係です。

④  「支配階層であるが編む経書の中にも民情を取り入れたものが出現」は、文学的側面に限定されているので、不適切です。

⑤  「士大夫が堅持してきた書きことばの規範が大衆化し」の部分は、本文に、このような記述がなく不適切です。


(解答)②


ーーーーーーーー

 

(問題文本文)

【11】そういうふうにして、古典文の世界に自らを馴染ませていくこと自体は、中国でも日本でもそれほどの違いがあるわけではありません。ただ、誰がどのようにして、というところには注意が必要です。もう一度、近世日本に戻って考えてみましょう。
【12】繰り返しになりますが、日本における近世後期の漢文学習の担い手は士族階級でした。となると、中国の士大夫と日本の武士が漢文を介してどのように繋(つな)がるのか、見ておく必要があります。

【13】軍功を競う中世までの武士とは異なり、近世幕藩体制における士族はすでに統治を維持するための吏僚であって、中国の士大夫と類似したポジションにありました。その意味では、士人意識には同化しやすいところがあります。一方、中国の士大夫があくまで文によって立つことでアイデンティティを確保していたのに対し、武士は武から外れることは許されません。抜かなくても刀は要るのが太平の武士です。文と武、それは越えがたい対立のように見えます。

【14】しかしそれも、武を文に対立するものとしてではなく、武を忠の現れと見なしていくことで、平時の自己確認も容易になります。C 刀は、武勇ではなく忠義の象徴となるのです。これは、武への価値づけの転換であると同時に、そうした武に支えられてこその文であるという意識が生まれる契機にもなります。

【15】やや誇張して言えば、近世後期の武士にとっての文武両道なるものは、行政能力が文 、忠義の心が武ということなのです。武芸の鍛錬も、総じて精神修養に眼目があります。水戸市藩の藩校弘道館を始まるめ、全国各地の藩校が
文武両道を標榜ひょうぼうしたことは、こうした脈絡の中で捉えてこそ意味があるでしょう。たとえば、幕末の儒者、佐藤一斎の『言志晩録』にはこんな一節があります。

(問題文本文では、漢文、書き下し文が提示されていますが、当ブログでは「意訳」だけにします)

 剣術は臆病な心を抱く者は負け、勇気に頼る者は敗れる。必ずや勇気と臆病な心を消し、勝負を一動に忘れ、かくの如き者は勝つ。心学もまたこれに外ならず。

【16】 臆病も勇猛も勝負も超越してこそ、勝つことができる。武芸がすでに技術ではなく、精神が左右するものになっています。だからこそ、精神修養の学である「心学」が、武芸の鍛錬になぞらえられているのです。注意したいのは、武芸を心学に喩(たと)えているのではないことです。その逆です。心学を武芸の鍛錬によって喩えるほどに、武芸は精神の領域に属する行為となっていたというわけです。

【17】そして寛政以降の教化政策によって、学問は士族が身を立てるために必須の要件となりました。政治との通路は武芸ではなく学問によって開かれたのです。もちろん「学問吟味」という名で始まった試験は、中国の科挙制度のような大規模かつ組織的な登用試験とは明らかに異なっていますし、正直に言えば、ままごとのようなものかもしれません。けれども、「学問吟味」や「素読吟味」では褒美が下され、それは幕吏として任用されるさいの履歴に記すことができました。武勲ならぬ文勲です。そう考えれば、むしろあからさま官吏登用試験でないほうが、武士たちの感覚にはよく適合したとも言えるのです。

【18】もう一つ、教化のための儒学はまず修身に始まるわけですが、それが 治国・平天下に連なっていることも、確認しておきましょう。つまり、統治への意識ということです。士大夫の自己認識の重要な側面がここにあることは、言うまでもありません。武将とその家来たちもまた、その意識を分かちもつことで、士となったのです。経世の志と言い換えることもできるでしょう。「修身・斉家・治国・平天下」とは、四書の一つ『大学』の八条目のうち、後半の四つです。『大学』は朱子学のテキストとして重んじられ、倫理の基本でもありました。

【19】(中略)近世の思想史をていねいに見ようとすれば、右の捉え方は、ややおおづかみに過ぎるかもしれません。

【20】しかし当の学生たちにとってみれば、漢文で読み書きするという世界がまず目の前にあり、そこには日常の言語とは異なる文脈があることこそが重要なのです。そしてそれは、道理と天下を語ることばとしてあったのです。D 漢文で読み書きすることは、道理と天下を背負ってしまうことでもあったのです。

(齋藤希史『漢文脈と近代日本』による)


ーーーーーーーー

 


(設問・解説・解答) 

問4 傍線部C 「刀は、武勇ではなく忠義の象徴となる」とあるが、それによって近世後期の武士はどういうことが可能になったのか。その説明として最適なものを次の中から一つ選べ。

① 近世後期の武士は、刀が持つ武芸の力を忠義の精神の現れと価値づけることで、理想とする中国の士大夫階級の単なる模倣ではない、日本独自の文と武に関する理念を打ち出すことができるようになった。

② 近世後期の武士は、単なる武芸の道具であった刀を、漢文学習によって得られた吏僚としての資格と、武士に必須な忠義心とを象徴するものと見なすことで、学問への励みにすることができるようになった。

③ 近世後期の武士は、刀を持つことが本来意味していた忠義の精神の中に、武芸を支える胆力と、漢文学習によって獲得した知力とを加えることで、吏僚としての武士の新たな価値を発見できるようになった。

④ 近世後期の武士は、武芸の典型としての刀を忠義の精神の現れと見なし、その精神を吏僚として要求される行政能力の土台と位置づけることで、学問につとめる自らの生き方を正当化できるようになった。

⑤ 近世後期の武士は、常に刀を携えることで、統治のためには忠義て結ばれた関係が最も重要であることを自覚し、出世のための学問を重んじる風潮に流されず、精神の修養に専念できるようになった。

……………………………


【問4解説・解答】(傍線部説明問題)

 まず、【14】段落「武を文に対立するものとしてではなく、武を忠の現れと見なしていくこと」は、

④「近世後期の武士は、武芸の典型としての刀を忠義の精神の現れと見なし」に対応しています。

 次に、【15】段落「近世後期の武士にとっての文武両道なるものは、行政能力が文 、忠義の心が武ということなのです。」は、

④「その精神を吏僚として要求される行政能力の土台と位置づけることで」に対応しています。

 さらに、【14】段落「平時の自己確認も容易になります」は、

④「学問につとめる自らの生き方を正当化できるようになった」に対応しています。

以上より、④が正解になります。

 

①  「理想とする中国の士大夫階級の単なる模倣ではない、日本独自の文と武に関する理念を打ち出すことができるようになった」は、

②  「刀を、漢文学習によって得られた吏僚としての資格と、武士に必須な忠義心とを象徴するものと見なす」は、

③  「刀を持つことが本来意味していた忠義の精神」は、本文に、このような記述は、ありません。

⑤  「近世後期の武士は、出世のための学問を重んじる風潮に流されず」は、【17】段落の「学問は士族が身を立てるために必須の要件となりました」に反します。


(解答)④


ーーーーーーーー

 

問5 傍線部D「漢文で読み書きすることは、道理と天下を背負ってしまうことでもあった」とあるが、それはどういうことか。本文全体の内容に照らして最適なものを次の中から一つ選べ。

① 武士の子弟たちは、漢文を学ぶことを通して、幕府の教化政策を推進する者に求められる技能を会得するとともに、中国の科挙制度が形成した士人意識と同様のエリートとしての内面性を備えるようになったということ。
②武士の子弟たちは、漢文を学ぶことを通して、行政能力としての文と忠義の心としての武とを個々の内面において調和させるとともに、幕吏として登用されために不可欠な資格を獲得するようになったということ。

③ 武士の子弟たちは、漢文を学ぶことを通して、身を立てるのに必要な知識を獲得するとともに、士人としての思考や心の構えをおのずから身に付け、幕藩体制下の統治者としてのあり方を体得するようになったということ。 

④ 武士の子弟たちは、漢文を学ぶことを通して、幕府の教化政策の根幹に据えられている修身を実践するとともに、士人としての生き方を超えた、人としての生き方にかなう経世の志を明確に自覚するようになったということ。 

⑤ 武士の子弟たちは、漢文を学ぶことを通して、中国の士人が継承してきた伝統的な思考法に感化されるとともに、それに基づき国家を統治するという役割を天命として引き受ける気になったということ。


……………………………


【問5解説・解答】(傍線部説明問題)

 まず、【17】段落「学問は士族が身を立てるために必須の要件となりました。政治との通路は学問によって開かれた」が、
③「武士の子弟たちは、漢文を学ぶことを通して、身を立てるのに必要な知識を獲得する」に対応しています。

 次に、【18】段落「教化のための儒学はまず修身に始まるわけですが、それが 治国・平天下に連なっていることも、確認しておきましょう。つまり、統治への意識ということです」が、

③「士人としての思考や心の構えをおのずから身に付け、幕藩体制下の統治者としてのあり方を体得するようになった」に対応しています。

以上より、③が正解になります。

 

①  「幕府の教化政策を推進する者に求められる技能」は、

②  「行政能力としての文と忠義の心としての武とを個々の内面において調和させる」は、

④  「士人としての生き方を超えた」は、

⑤  「国家を統治するという役割を天命として引き受ける気になった」は、

それぞれ、本文に、このような記述はありません。

→このように、センター現代文においては、消去法を活用すると、誤りの選択肢を簡単にチェックすることができます。


(解答)③


ーーーーーーーー

 

問6 この文章の表現と構成について、次の問いに答えよ。

(i)この文章の表現に関する説明として最適なものを次の中から一つ選べ。

① ある程度の長さの段落と段落の間に、第2、第5、第9段落のように、読み手に問いかけるような、一文のみから成る短い段落をはさむことにより、論理の展開に緩急のリズムが付き、読み進めやすくなっている。

② 「やや極端な言い方ですが」(第1段落)、「逆に言えば」(第6段落)、「正直に言えば」(第17段落)などの表現により、それぞれの前の部分と、それに続く部分との関係があらかじめ示され、内容が読み取りやすくなっている。

③   第1、第3、第4、第7段落などにおいて、その最後の部分が「~のです」という文末表現で終わることにより、それぞれそこまでの内容についての確認・念押しが行われ、次の話題に移ることが明らかになっている。

④ 「です・ます」という優しい調子の書き方の中に、「漢籍を待たずとも」(第4段落)や「文武両道なるものは」(第15段落)などの学術的な言い回しも交えることにより、内容に見合う観念的なスタイルが確保されている。

 

(ⅱ)この文章の構成に関する説明として最適なものを次の中から一つ選べ。

① 第1段落~第4段落に示された全体の骨子について、第5段落~第10段落と、第11段落~第20段落との二つの部分が、それぞれの観点から具体的に説明するという構成になっている。

② 第1段落~第2段落が前置き部分に相当し、第3段落~第16段落が中心部分となり、それに対して、第17段落~第20段落が補足部分という構成になっている。

③ 第1段落~第10段落と、第11段落~第20段落という、大きく二つの部分に分けられ、同一の話題に対して、前半が概略的な説明部分、後半が詳細な説明部分という構成になっている。

④ 第1段落~第2段落、第3段落~第11段落、第12段落~第19段落、そして第20段落という四つの部分が、起承転結という関係で結び付く構成になっている。

 

……………………………

 

【問6解説・解答】(「文章の表現と構成」を問う問題→センター試験特有の問題)

→この種の設問は、本文を熟読する前にチェックしておくと、問題を効率的に処理することができます。


(i)

① 「第9段落」の一文は読み手に「問いかけて」いるとは言えないので、不適切です。

② 問題は、ありません。

③ 「第1段落」の場合は「次の話題に移ることが明らかになっている」とは、なっていません。

④ 「内容に見合う観念的なスタイルが確保されている」の部分が不適切です。

 

(解答)②

 
(ⅱ)

① 適切です。

② 最終段落が「論の中心」ですから、②は不適切です。

③ 第1段落~第10段落と、第11段落~第20段落を一つのまとまりとする点が不適切です。

④ 第17段落~第20段落が、「結」になっているので、不適切です。


(解答)①


ーーーーーーーー

 

(3)本文解説→「言語帝国主義」について

 問題文本文の「キーセンテンス」は以下の部分です。本問は、キーセンテンスを中心に作成されています。

 

【6】段落「どんなことばについてもそうですが、B 人がことばを得、ことばが人を得て、その世界は拡大します

【9】段落「古典詩文の能力を問う科挙は、士大夫の思考や感覚の型の継承をも保証するシステムだったことになります」

【10】段落「彼らの詩文を真似て書いているうちに、心の構えがそうなってしまうと言ってもよいでしょう。文体はたんに文体に止まるものではないのです」

【20】段落「当の学生たちにとってみれば、漢文で読み書きするという世界がまず目の前にあり、そこには日常の言語とは異なる文脈があることこそが重要なのです。そしてそれは、道理(→「倫理」)と天下を語る言葉としてあったのです。D 漢文で読み書きすることは、道理と天下を背負ってしまうことでもあった 

 

 以上を見て分かるように、キーセンテンスの2ヶ所が傍線部説明問題になっています。さすがに、センター現代文の問題作成者のレベルは高いです。

 

 ところで、これらを読むと、私は、「言語と人格形成の関係」の論点とともに、「言語帝国主義」の論点を連想してしまいます。まさに、今回の本文の内容は、江戸幕府による受け身的な「漢文脈・帝国主義」そのものだからです。


 「言語帝国主義」については、最近、当ブログで解説記事(「現代文・小論文・予想問題解説『さらば、資本主義』(佐伯啓思)①」)を発表したので、ポイント部分を再掲します。

 

gensairyu.hatenablog

……………………………

 

(再掲開始)

(2)「帝国主義」とは、一つの国家が自国の民族主義・文化・宗教・経済体系等を拡大する目的で、あるいは、領土・天然資源等を獲得する目的で、軍事力を背景として他国家を侵略しようとする思想・政策です。

 「植民地主義」とは国家主権を国外に拡大する思想・政策です。

 「帝国主義」と「植民地主義」とは、当然、表裏の関係にあります。

 「帝国主義」は、第二次世界大戦後に事実上、終焉し、「脱植民地化」が進行しました。

 

(3)しかし、現在では「文化帝国主義」、「経済的帝国主義(自由貿易帝国主義)」、「政治的帝国主義(過度の政治的影響力の行使)」が進展しています。

 「文化帝国主義」とは自国の文化・言語を他国に植え付け、他文化・他言語との差別化を促進する政策・行為です。

 「英語帝国主義」は、「文化帝国主義」の一部です。 

 「文化帝国主義」は、それを推進する側が有用性・一般性・普遍性を強調する形態をとることが多いのです。

 

(4)最近における「小学校英語教育の強化政策」の論点は、この「文化帝国主義」の一部である「英語帝国主義」の、「自発的・受身的な受容」の視点から考察すると、かなり問題性があると思います。

 ある意味で、「自主的・受身的植民地化政策」と評価しうる政策です。

 この点については、鈴木孝夫氏(言語学者)の秀逸な論考(『日本の感性が世界を変える・言語生態学的文明論』新潮選書)を題材にした予想問題記事を制作することを、現在、検討中です。

 鈴木氏は、難関大学の入試現代文(国語)・小論文の頻出著者です。

 

(5)また、「小学校英語教育」については、この記事を書いている時に、施光恒(せ・てるひさ)氏の注目すべきインタビュー記事がありましたので、ここで、報告します。

 そのインタビュー記事は、2016年9月8日の朝日新聞に掲載されました(オピニオン&フォーラム「異議あり」)。

 施氏の紹介は、「教育改革にダメを出す政治学者 施光恒さん」となっています。

 「大見出し」は「英語強化は民主主義の危機 分断も招く」、小見出しは「苦手な人は人生の選択肢が保障されず、社会の意思疎通も不十分に」です。

 今現在、政府は「英語強化の改革」を進めています。

 「小学校で英語を教科に格上げし、大学では授業を英語でするよう求める」改革です。

 この「改革」に対して、施氏は、「これでは日本はだめになる」と批判しています。

 施氏は、九州大学准教授で、専攻は政治理論、政治哲学です。著書に『リベラリズムの再生』(慶應義塾大学出版会)、『TPP 黒い条約』(共著・集英社新書)、『英語化は愚民化』(集英社新書)等があります。


 インタビューを読むと、「英語教育の強化」の論点・テーマを「民主主義」や「日本社会のコミュニケーションの分断」の視点から批判していて、とても興味深い内容になっています。

(再掲終了)

 

……………………………

 

  『英語化は愚民化』は、最近、出版されたものです。
 以下に 施光恒氏の『英語化は愚民化』について、「Book紹介」のポイントを引用します。

 

……………………………

 

(引用開始)

英語化を進めた大学に巨額の補助金を与えるスーパーグローバル大学創成支援から、果ては英語公用語特区の提案まで。日本社会を英語化する政策の暴走が始まった。
英語化推進派のお題目は国際競争力の向上。しかし、英語化を推進すれば、日本経済は急速に力をなくすだろう。多数の国民が母国語で活躍してこそ国家と経済が発展していくという現代政治学最前線の分析から逆行することになるからだ。
国際政治の力学から見ても、英語による文化支配のさらなる強化は、世界の不平等を拡大するだけだ。
TPPで決定的となった日本社会の英語化。その罠を暴き、公正な世界秩序づくりへの処方箋を描く、衝撃作!

 (「Book紹介」)

(引用終了)


……………………………


 今回のセンター試験の問題は、現在、日本で進行中の、グローバル化、国際化、つまり、「英語による言語帝国主義」を意識した出題だと思われます。

 その問題意識を考慮に入れて、本文を読むと、より一層、理解が深まるでしょう。

 

(4)齋藤希史氏の紹介

齋藤 希史(さいとう まれし、1963年生まれ)は、日本の漢文学者、東京大学教授。専門は中国古典文学、清末-明治期の言語・文学・出版。

 

【著書編集】

『漢文脈の近代 清末=明治の文学圏』(名古屋大学出版会・2005)

『漢文脈と近代日本』(日本放送出版協会・NHKブックス・2007/角川ソフィア文庫・2014)

『漢文スタイル』(羽鳥書店・2010)

『漢詩の扉』(角川選書・2013)

『漢字世界の地平 私たちにとって文字とは何か』(新潮選書・2014)

『詩のトポス 人と場所をむすぶ漢詩の力』(平凡社・2016)

 

ーーーーーーーーー 

 

 今回の記事は、これで終わりです。

 次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

 ご期待ください。

 

 

 

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漢文脈と近代日本 (角川ソフィア文庫)

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漢字世界の地平: 私たちにとって文字とは何か (新潮選書)

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

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5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

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 私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。

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2018予想論点/体系的整理①/東日本大震災と哲学的論考

(1)入試直前特集/2018予想論点・予想出典/体系的整理①/東日本大震災と哲学的論考

 

 今回の記事は、「入試直前特集/2018予想論点・予想出典/体系的整理①/東日本大震災と哲学的論考」です。

 

 当ブログは以下の基本的方針で作成しています。

 この基本的方針は、現在も変わっていません。

 以下に、当ブログの第一回記事の「開設の言葉」を引用します。

 

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 …………………………

 

(引用開始) 

(青字は当ブログによる「注」です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(以下、同じです)

 

(2)入試現代文(国語)・小論文の最新傾向ー重要な、気付きにくい2本の柱

 今現在の入試現代文(国語)・小論文の最新傾向として、注目するべきポイントとしては、2つの大きな柱があります。

 

【1】1つの柱は、「IT社会の光と影と闇」です。

 この論点・テーマは、3・11東日本大震災の前から登場していたので、割と有名ですが、最近のスマホ(スマートフォン)の爆発的な流行により、新たな論点・テーマが発生しています。

 スマホは、それまでの携帯電話とは、まるで違うものです。それだけに、プラス面、マイナス面も、携帯電話と比較して、拡大化・深刻化するのです。

 私が、「IT社会の光と影と闇」と書き、「光と影」だけにしなかったのは、事態の深刻性を強調するためです。

 

【2】もう1つの柱は、「3・11東日本大震災の各方面に対する影響」です。

 「各方面」は、実に多方面にわたっています。

 入試現代文(国語)・小論文の問題を読んでいると、現代文明論(文明論)、科学批判(近代科学論・現代科学論)以外に、自己論(アイデンティティ論)・環境論・人間関係論・人生論・政治論(民主主義論等)等、「影響」が思いもしない方面にまで及んでいる事に、驚かされます。

 「影響」は、「単なる影響」のレベルでは、ありません。今までないくらいに大きく、底知れぬほど深く、長期的なものと言えます。

 2015年の入試現代文(国語)・小論文にも、その影響は続いています。

  私は、2013年3月に出版した自分の参考書(『頻出 難関私大の現代文』開拓社)の「あとがき」に以下のように書きました。

 

  「2011年の東日本大震災・福島原発事故は、これ以降の難関大入試の現代文・小論文に、かなり大きな影響を与えたようだ。あの事件は、今振り返ってみても、第二次世界大戦に匹敵する出来事なのだと思う。

  2012年の難関大の入試問題を精査してみると、それまでよりも、本質的・哲学的文章、人間関係・人間存在・生命・科学批判・安全・時代の混乱に焦点を絞った文章が、目立ってきている。

 私は、この変化をとても好ましいものだと思っている。本来、現代文の入試問題は、本質的・哲学的文章であるべきだと思っているからだ。

 あらゆる学問の基礎には哲学的視点が不可欠であり、これは欧米では当然の前提である。日本の高校・大学の教育にそれが不足している事に、私はこれまで、少なからず危機感を感じていたのである。

 今回、この参考書の依頼が来た時、私は難関大入試におけるこの傾向の変化を、いかに本書に取り入れるかに腐心した。

 東日本大震災以降、日本人全体の価値観は、大きく変わったのだと感じる。まだ明確には、その全体は把握できないが、何かが大きく変わったのは確かだ。

 よく分からないが、良い方向への変化だとは感じる。

 その実体を探ることは、我々の日々の課題だと思う。

 そして、より良い方向へと進路を変えていくことも」

 

 2015年の難関大学の入試問題(現代文(国語)・小論文)を概観しても、あの時と同じ感想を持ちました。入試現代文(国語)・小論文は、まっとうな道を選んでいるようです。

(引用終了)

 

…………………………… 

 

(今回の記事の記述)

 2016・2017年度の入試国語(現代文)・小論文に出題された問題を概観しても、上記の傾向に変化はないようです。

 私は、以上の「IT社会の光と影と闇」・「3・11東日本大震災の各方面に対する影響」の2つの視点(入試頻出論点・流行論点)を重視して、最近の論考を読んでいます。そして、特に注目するべきものを、「予想出典」・「予想問題」として、週に1回のペースで当ブログで記事を発表しています。

 2017年度も、その方針で、約50の記事を発表しました。

 

 東日本大震災以後は、ハイレベルで良質な哲学的論考が多く発表されたこともあったので、今年の記事には、哲学論考の割合が増加しました。

 そこで、今回の記事では、難関大学国語(現代文)・小論文対策として、「東日本大震災」に関連した「哲学」・「哲学的論考」を題材にした「予想出典記事」・「予想問題記事」を紹介していきます。一部、2016年度に発表した記事も含みます。

 

 東日本大震災以後、良質な哲学的論考が多く発表されています。

 下の『ニコ生思想地図』の告知コピーは、この現象を象徴している感じです。

 

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(引用開始)
  「暇」と「退屈」という日常的で身近なものごとから哲学のコアへと、一気に急行していく『暇と退屈の倫理学』(國分功一郎・朝日出版社)は、哲学という学の持つポテンシャルを見事にみせつけています。

 収束しない原発問題に、復調の兆しが見えない日本経済。

 危機が覆っているにもかかわらず、日常がいまだ続いているかに見える震災以後の現在。

そうした壁を突破するために、いまこそ「哲学」が本気を出すべき時が来たのではないでしょうか。

  『思想地図β』編集長で「哲学者」でもある『一般意志2.0』の著者東浩紀と國分氏が、震災以後の哲学の可能性を徹底的に語ります!
(『ニコ生思想地図』「震災以後、哲学とは何か」國分功一郎×東浩紀)

 (引用終了)

 

……………………………

 

 (今回の記事の記述)

今回の記事の項目は以下の通りです。記事は約1万字です。

 

(2)國分功一郎氏・関連記事の紹介

 ① 予想問題『暇と退屈の倫理学』國分功一郎/消費社会・真の豊かさ

 ② 予想問題「好きなこととは何か?」『暇と退屈の倫理学』國分功一郎

 ③『中動態の世界』國分功一郎/哲学/現代文・小論文予想出典(前編)

 ④『中動態の世界』國分功一郎/哲学/現代文・小論文予想出典(後編)

(3)予想問題『ゲンロン0 観光客の哲学』東裕紀/哲学/グローバリズム

(4)予想問題『日本文化の論点』宇野常寛/2014早大社会過去問

(5)予想問題『しんがりの思想 反リーダーシップ論』鷲田清一・地域社会

(6)予想問題「シン・ゴジラ」御厨貴・「戦後」と「災後」・東日本大震災

(7)ニヒリズム→「予想問題 「ナウシカとニヒリズム」 重田園江・2014学習院大過去問」

(8)科学批判①→「2017東大国語第1問(現代文・評論)的中報告・解説・科学と倫理」

(9)科学批判②→「2012東大国語第1問(現代文)解説『意識は実在しない』河野哲也」

 

中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)

 

 

(2)國分功一郎氏・関連記事の紹介

 

① 予想問題『暇と退屈の倫理学』國分功一郎/消費社会・真の豊かさ

 

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(今回の記事の記述) 

 國分功一郎氏は、最近の入試頻出著者です。『暇と退屈の倫理学』は、入試頻出著書になっています。最近発表された『中動態の世界』も内容的にみて、入試頻出著書になる可能性が高いでしょう。

 当ブログでは、今年、『暇と退屈の倫理学』と『中動態の世界』に関して、それぞれ2本ずつの予想問題記事を発表しました。以下で紹介します。

 

  『暇と退屈の倫理学』は、東日本大震災以後、日本に蔓延する同調圧力に対する異議として書かれた側面があります。そのことは、以下の、2つの「BOOK紹介」から推測されます。 

 

……………………………

 


●朝日新聞やニューヨークタイムズのインタビューで注目を浴びる気鋭のスピノザ研究者が、「3・11以降の生き方」を問う。はつ剌と、明るく、根拠をもって「よりよい社会」を目指す論客のデビュー。

何をしてもいいのに、何もすることがない。

だから、没頭したい、打ち込みたい・・・・。

でも、ほんとうに大切なのは、自分らしく、自分だけの生き方のルールを見つけること。

 

●昨年 発表した著書、『暇と退屈の倫理学』が、哲学書としては異例のヒットを記録。
國分さんは、このテーマを追求することで、去年の3月11日以降、私たちが大切にするべきものは何なのかを問いかけ、多くの反響を受けています。

『暇と退屈の倫理学』「Book紹介」

 

 …………………………

 

(今回の記事の記述)

   「予想問題『暇と退屈の倫理学』國分功一郎/消費社会・真の豊かさ」の記事における重要部分を以下に紹介します。

 

 …………………………

 

(引用開始)

(当ブログによる解説)

 第四章以下では「消費と労働」、「疎外」について考察しています。
 つまり、現代人は、ある程度の「豊かさ」と「暇」を入手したが、その「暇な時間」に何をしたいのか、よく分からない人が多い。人類は他の動物と異なり、環世界を変幻自在に飛び回ることができる自由な存在であるために、退屈を嫌う。その点に企業・広告業界等が注目し、人々が余暇に行うであろう欲望の対象を用意し、広告宣伝等により誘導する。つまり、私たちの需要・欲求は、あらかじめ企業等の供給側によって支配されているという構造があるのです。
 これに対して、國分氏は、受動的で際限のない、虚しい「消費」を批判し、「真の豊かさ」としての「浪費」の意義を強調しています。
 そして、真の豊かな「浪費」を享受するために、浪費を味わえるようにする一定の訓練と、動物的「とりさらわれ」(→「熱中。集中」という意味)の重要性を主張するのです。

 (引用終了)

 

 …………………………

 

② 予想問題「好きなこととは何か?」『暇と退屈の倫理学』國分功一郎

 

gensairyu.hatenablog.com

 

(今回の記事の記述)

  以下に、「予想問題「好きなこととは何か?」『暇と退屈の倫理学』國分功一郎」

 の冒頭部分を紹介します。

 

……………………………

 

(引用開始)

 最近、当ブログでは、流行出典である『暇と退屈の倫理学』の入試頻出箇所(「第4章 暇と退屈の疎外論ーー贅沢とは何か?」) について、予想問題記事を発表しましたが、同じく、頻出箇所である「序章 好きなこととは何か」を題材にして、予想問題(予想論点)を解説することにしました。

 問題としては、「2013年度同志社大学過去問」と「当ブログによる予想問題」を使用します。

 (引用終了)

 

……………………………

 

③『中動態の世界』國分功一郎/哲学/現代文・小論文予想出典(前編)

 

gensairyu.hatenablog.com

 

 (今回の記事の記述)

  『中動態の世界』は、『暇と退屈の倫理学』の「真の自由追求のテーマ」をさらに深め、発展させようとしているのでは、ないでしょうか?

 「真の自由とは、決して、自己の自由意志を行使することではない。それは、近代に特有の誤解であり、偏見にすぎない。」

 本書を読み、私は、「國分氏は、そのように主張しているのだ」と感じました。

 本書は、近代批判・現代文明批判・現代文明論・現代社会論の名著です。

 

 以下に「『中動態の世界』國分功一郎/哲学/現代文・小論文予想出典(前編)」の重要部分を再掲します。

 

……………………………

 

 (引用開始)

『中動態の世界』(前編) 以下では、「能動/受動の二分法」と「意志・責任」の「密接な関係」についての記述が展開されます。本書の最重要部分です。大げさに言えば、この世の中の隠されたスリラーについて、冷静に記述されています。

「 『能動と受動の区別』は、すべての行為を『する』か『される』かに分配することを求める。しかし、この区別は、以上のことを考えてみると、非常に不便で不正確なものだ。だが、それにもかかわらず、われわれはこの区別を使っている。そしてそれを使わざるをえない。どうしてなのだろうか。」(P21)

「  能動/受動の区別の曖昧さとは、要するに、意志の概念の曖昧さなのではないか? 一方、能動や意志という概念は実に都合よく使われるものである。」(P24~26)

 

 上記の「能動や意志という概念は実に都合よく使われるものである」については、以下のように説明しています。

「  能動における『する』という行為の出発点は『私』にあり、また『私』こそがその原動力であることを強調する。だから、そこには『意志』の存在が喚起されてくる。そして、自分の『意志』で自由に選択した行為であるからには、そこには『責任』が伴ってくることにもなる。」(P22)

「  責任を負うためには人は能動的でなければならない。人は能動的であったから責任を負わされるというよりも、責任あるものと見なしてよいと判断されたときに、能動的であったと解釈されるということである。意志を有していたから責任を負わされるのではない。責任を負わせてよいと判断された瞬間に、意志の概念が突如出現する。

  『夜更かしのせいで授業中に居眠りをしているのだから、居眠りの責任を負わせてもよい』と判断された瞬間に、その人物は、夜更かしを自らの意志で能動的にしたことにされる。

 つまり、責任の概念は、自らの根拠として行為者の意志や能動性を引き合いに出すけれども、実はそれらとは何か別の判断に依拠しているということである。」(P25・26)

  (引用終了)

 

   ……………………………

 

『中動態の世界』國分功一郎/哲学/現代文・小論文予想出典(後編)

 

gensairyu.hatenablog.com

 

 (今回の記事の記述)

 上記の記事から重要部分を紹介します。

 

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 (引用開始)

 『中動態の世界』は、最近のベストセラーになっています。

 近代的常識や「べき論」の牢獄からの穏当な脱走を提案する、現代人救済のための哲学書です。

 近代批判の良書です。

 丁寧に、分かりやすく記述されているので、難関大学を目指す受験生、高校生であれば、充分に楽しめることでしょう。高校生、受験生は、最低1冊は、國分功一郎氏の著書を読んでおくべきでしょう。

 入試のレベルで見ると、入試出典として採用されやすい論考には、一定のポイントがあります。未知のユニーク視点、日本語として美しい文、明快な論理構造などです。
 本書は、これらのポイントを充分に満たしています。

 本書が、来年度以降の国語(現代文)・小論文問題として出題される可能性は、かなり高いと思われます。

 そこで、国語(現代文)・小論文対策として、予想出典記事を発表します。

  『中動態の世界』は密度の濃い論考であり、「入試題材の宝庫」なので、今回の予想出典記事は、前編・後編の2回に分けて発表します。

 今回は前回の「『中動態の世界』國分功一郎/哲学/現代文・小論文予想出典(前編)」(→主に本書の前半を中心に解説しました)に続く、その「後編」(→主に本書の後半を中心に解説します)です。

 『中動態の世界』の後半では、アレント、ハイデッガー、スピノザ等の偉大な哲学者達の説を、國分氏が解明した「中動態の世界」の視座から読み直すことで、彼らの説をより明快に解説しています。

 ただ、國分氏は、偉大な哲学者達の論理や直感に一定の評価をして、彼らの学問的価値を高めようとしています。彼らへの畏敬の念が感じられる論考です。

  『暇と退屈の倫理学』と合わせ読むと「人間性の真の解放」の意味が実感できます。

 

 今回の記事は、「第5章意志と選択」・「第8章中動態と自由の哲学」を中心に解説していきます。今回の記事の項目は、以下のようになっています。

 (引用終了) 

 

……………………………

 

 

ゲンロン0 観光客の哲学

 

 

(3)予想問題『ゲンロン0 観光客の哲学』東裕紀/哲学/グローバリズム

  

gensairyu.hatenablog.com

 

 (今回の記事の記述)

 『観光客の哲学』は、「福島第一原発観光地化計画」・「ダークツーリズム」

(→「福島第一原発観光地化計画」→東浩紀が中心となって2012年から企画する福島第一原子力発電所跡地付近の復興計画。福島原発事故の記憶を風化させず歴史に残すことを目的とする。事故後25年後にあたる2036年頃、除染が進んで福島原発跡から数百メートルの距離まで一般市民が防護服なしに近づけるようになった状態を想定し、事故跡地付近に建設する施設や、そこでの展示などを提案する)

(→「ダークツーリズム」→日本では、作家の東浩紀やジャーナリストの津田大介が、チェルノブイリ原子力発電所を対象とした紀行を発表し、その後、書籍として福島第一原子力発電所を『福島第一原発観光地化計画』(思想地図βvol.4-2・2013年)として刊行したことで、一般的に知られるようになった)

から発展した名著と言えるでしょう。

 

   『ゲンロン0 観光客の哲学』執筆の背景として、東氏は、ツイートで以下のように述べています。本書理解の参考になると思われるので、以下に引用します。

「ゲンロン0は哲学と文学を扱った本ですが、その背景には、震災(→東日本大震災)後、『いまここ』の現実に右往左往することしかできなくなった人文学と批評全体への静かな怒り、というか(自戒を込めた)絶望が宿っています。そんなことを書きました。」(東浩紀@ゲンロン6発売中 @hazuma 2017・4・8)

 

 東日本大震災以後、良質な哲学論考が多く発表されています。下の『ニコ生思想地図』の告知コピーは、この現象を象徴している感じです。

  《「暇」と「退屈」という日常的で身近なものごとから哲学のコアへと、一気に急行していく『暇と退屈の倫理学』(國分功一郎・朝日出版社)は、哲学という学の持つポテンシャルを見事にみせつけています。》

 

……………………………

 

 

日本文化の論点 (ちくま新書)

 

 

(4)予想問題『日本文化の論点』宇野常寛/2014早大社会過去問

 

gensairyu.hatenablog.com

 

 

 (今回の記事の記述)

 上記の記事の冒頭部分を引用します。

 

……………………………

 

(引用開始)

「評論家・宇野常寛氏は、最近の入試頻出著者です。

 宇野氏は継続的に、 「3・11東日本大震災、福島原発事故」について、深い考察をしています。

 今回の宇野氏の論考(『日本文化の論点』)は、「3・11東日本大震災、福島原発事故」と「世界観・終末観の変化」という、入試国語(現代文)・小論文における、頻出で重要なテーマを論じているので、予想問題記事として取り上げることにしました。」

  (引用終了) 

 

 ……………………………

 

 

しんがりの思想 ―反リーダーシップ論― (角川新書)

 

 

 (5)予想問題『しんがりの思想 反リーダーシップ論』鷲田清一・地域社会

 

gensairyu.hatenablog.com

 

 (今回の記事の記述) 

 上記の記事の冒頭部分、重要部分を引用します。

 

 ……………………………

 

 (引用開始)

「鷲田清一氏は、ほとんどの難関大学の入試現代文(国語)・小論文で一度は出題されている、トップレベルの頻出著者です。
 最近では、センター試験、東京大学、東北大学、早稲田大学、慶應大学、上智大学等で出題されています。」

 

「 最近、鷲田氏は『しんがりの思想 反リーダーシップ論』(角川新書・2015年発行)を発表しました。

 本書は、早くも入試頻出出典になっています。具体的には、群馬大学、大阪教育大学、鹿児島大学、早稲田大学(社会科学部)、明治大学、法政大学、立命館大学等の国語現代文小論文に出題されています。そこで、今回は本書のポイントであり、かつ、最頻出の箇所について、当ブログの予想問題を発表することにしました。」

 

『しんがりの思想』の本文(概要)

「【2】社会がいやでも縮小してゆく時代、「廃」炉とか「ダウン」サイジングなどが課題として立ってくるところでは、先頭で道を切り開いてゆく人よりも、むしろ最後尾でみなの安否を確認しつつ進む登山グループの「しんがり」のような存在、退却戦で敵のいちばん近くにいて,味方の安全を確認してから最後に引き上げるような1 「しんがり」の判断が、もっとも重要になってくる。実際、震災復興にあっても、ひたすら「防災」のためのハード面での公共事業に取り組むのではなく、地域が震災前から抱え込んでいた問題を見据えながら、そこでの日々の暮らしを〔 A=創造的 〕に再興する取り組みと結びついた経済活性化策を講じなければならないだろうし、また、もし、そうした社会全体への気遣いや目配りができていれば、建築資材と労賃の高騰を招くことで東北での復興事業を大きく遅延させることが必定な〔 B=東京五輪 〕の誘致など、だれも発想しなかっただろう。こういう全体の気遣いこそ、ほんとうのプロフェッショナルが備えていなければならないものなのであり、また、よきフォロワーシップの心得というべきものである。そして、こうした心得を、ここで《しんがりの思想》と呼んでみたい。

【3】リーダーが、その「しんがり」の務めに戻るべきときが、いま来ている。ダウンサイジングという、 「右肩上がり」の時代のリーダーたちがいちばん不得手な難問が山積しているという状況が目の前にある。」

   (引用終了)

 

 ……………………………

 

オーラル・ヒストリー―現代史のための口述記録 (中公新書)

 

 

(6)予想問題「シン・ゴジラ」御厨貴・「戦後」と「災後」・東日本大震災

 

gensairyu.hatenablog.com

 

 (今回の記事の記述)

 上記の記事の重要部分を引用します。

 

 ……………………………

 

(引用開始)

(御厨氏の論考)(概要です)

(【1】・【2】・【3】・・・・は当ブログで付記した段落番号です)

【1】「この国はまだまだやれる」。映画「シン・ゴジラ」の中で、ゴジラ対策の任を負った官邸の政治家・矢口蘭堂のセリフに、ホッとした。今、社会現象となった話題の映画「シン・ゴジラ」は、大人の鑑賞に堪える、いや大人向けの政治映画である。スクリーンに2時間くぎ付けとなること間違いなしだ。

【2】始まってすぐ、これは3・11東日本大震災と福島原発事故、そして日米安全保障条約が絡んだ物語だと誰しも分かる。この5年間を経験した日本人につきつけられた「非常時にどう立ち向かうか」の問いに、見る者は待ったなしの感覚を持たされる。これ、考えないようにしてきたなと。 

   

 ………………

 

(当ブログの解説)

 今回のこの映画は、シン・ゴジラが東日本大震災・福島原発事故の暗喩であることを、堂々と出してきています。


 この作品は、「3・11東日本大震災とは何だったのか」を、改めて問い直したものです。この作品は、大震災当時の官邸・自治体・自衛隊の行動、米国からの働きかけ等を、かなり、なぞっているようです。その上で、この作品は、仮想的「災害」への対応のシミュレーションを示すばかりではなく、さらに、一応の解決がなされた後の不安定な状況と、将来の展望まで提示しようとしている野心作と言えるでしょう。

   (引用終了)

 

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ミシェル・フーコー: 近代を裏から読む (ちくま新書)

 

 (7)ニヒリズム→「予想問題 「ナウシカとニヒリズム」 重田園江・2014学習院大過去問」

 

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  (今回の記事の記述)

 東日本大震災・福島原発事故の際に、多くの科学者たちは「想定外」という言葉を乱発しました。しかし、科学を信頼してきた国民にとって、この「想定外」発言は失望そのものでした。

 さらに、原発事故直後の情報混乱等により、国民の科学に対する不信感が増大しました。それとともに、世の中に「ニヒリズム」が蔓延しました。

 「ニヒリズム」に関する秀逸な哲学的論考として重田園江氏の「ナウシカとニヒリズム」を「予想問題」として記事化したので、以下に紹介します。

 

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 (引用開始)

 (1)なぜ、この記事を書くのか?
 現代社会は「ニヒリズム(虚無主義)」が蔓延している時代だ、と言われています。現代思想を理解するうえで、「ニヒリズム」の理解は必要不可欠です。入試現代文(国語)・小論文においても、「ニヒリズム(虚無主義)」は、頻出論点・流行論点になっています。

 一方で、宮崎駿氏の作品に関する論考も、最近では頻出です。例えば、2014年度には名古屋市立大で、鎌田東二氏の「鎮守の森から見たトトロ論」が出題されています。

 このような状況で、重田園江氏の「ナウシカとニヒリズム」(『世界思想』2013 春号) が、2014年度の学習院大(経済)が出題されました。

 重田氏の論考は、本質的で明解です。頻出出典になる可能性があるので、今回は、この論考を現代文(国語)・小論文対策として、記事にすることにしました。

   (引用終了)

 

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(8)科学批判①→「2017東大国語第1問(現代文・評論)的中報告・解説・科学と倫理」

 

gensairyu.hatenablog.com

 

  (今回の記事の記述)

 最近発表されている論考を概観すると、「科学批判」・「科学論」は、2017年度入試に続き、2018年度入試でも、流行・頻出論点になりそうです。

 そこで、「2017東大国語第1問(現代文・評論)的中報告・解説・科学と倫理」の記事を紹介します。

 

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(引用開始)

(1)2017東大国語第1問・的中報告

→2017センター試験国語第1問(現代文・評論文)に続き、2017東大国語第1問にも当ブログの予想論点記事 (「科学論」「科学と倫理」)が的中しました。2016東大現代文ズバリ的中・一橋大現代文ズバリ的中(共に全文一致)に続く喜びです。そこで、今回は、2017東大国語第1問(現代文・評論)の解説をします。

 

 当ブログでは、東日本大震災」・「福島原発事故」・「人工知能」などを素材として、「科学の急激な発展」、「科学の暴走」、「科学コミュニケーション」、「科学と倫理」について考察した予想論点記事を発信してきました。

 詳しくは、下のリンク画像をご覧ください。

 

 そして、2017センター試験国語第1問で、「科学コミュニケーション」が出題され、2017東大国語第1問で「科学と倫理」が出題されました。

 「科学コミュニケーション」の重要な目的の1つが、「科学的倫理基準の民主的コントロール」であることを考慮すると、2つの問題は、『「科学の暴走」と「人類の危機」』という同一の問題意識が背景にあると言えるでしょう。

 2017センター試験国語第1問、2017東大国語第1問ともに、「科学の暴走」という、現代の重大な問題を真正面から取り上げた、「誠実」かつ「真摯(しんし)」な問題だと思います。

 2つの問題の作成チームに敬意を表します。

 「人工知能」・「遺伝子操作」・「分子生物学」・「原発」・「先端医療」等を考えると、今回の2問は、来年度入試においても、国語(現代文)・小論文における重要論点・テーマとなるはずです。

 従って、よく理解しておく必要があるでしょう。

 

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(2)2017東大国語第1問(現代文・評論)・解説ー『芸術家たちの精神史』伊藤徹

(問題文本文)(概要です)

「【1】テクノロジーには問題を自ら作り出し、それをまた新たな技術の開発によって解決しようとするかたちで自己展開していく傾向が、本質的に宿っているように私には思われる。科学技術によって産み落とされた環境破壊が、それを取り戻すために、新たな技術を要請するといった事例は、およそ枚挙にいとまないし、感染防止のためのワクチンに対してウィルスが耐性を備えるようになり、新たな開発を強いられるといったことは、毎冬のように耳にする話である。東日本大震災の直後稼働を停止した浜岡原発に対して、中部電力が海抜二二メートルの防波堤を築くことによって、「安全審査」を受けようとしているというニュースに接したときも、同じ思いがリフレインするとともに、こうした展開にはたして終わりがあるのだろうかという気がした。技術開発の発展が無限に続くとは、たしかにいいきれない。次のステージになにが起こるのか、当の専門家自身が予測不可能なのだから、先のことは誰にも見えないというべきだろう。けれども科学技術の展開には、人間の営みでありながら、有無をいわせず人間をどこまでも牽引(けんいん)していく不気味なところがある。」

  (引用終了)

 

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意識は実在しない 心・知覚・自由 (講談社選書メチエ)

 

 

(9)科学批判②→「2012東大国語第1問(現代文)解説『意識は実在しない』河野哲也」

 

  (今回の記事の記述)

 「科学批判」・「科学論」を考える際には、頻出著者・河野哲也氏の以下の頻出論考を外すことは、できません。

 上記の記事の重要部分を紹介します。

 

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(引用開始)
 
 (3)河野哲也『意識は実在しない』ー2012年度の流行出典ー東大と早稲田大(教育)で、同一箇所から出題

 

 ①【科学批判のテーマ】

 本問題は、「科学批判」(近代科学論・現代科学論)がテーマになっている問題です。

 3・11東日本大震災・福島原発事故以降、入試現代文(国語)・小論文に出題される「科学批判」(科学論)のテーマは、より先鋭化し、出題率も増加しています。

 3・11以前も、環境汚染、自然破壊、地球温暖化、チェルノブイリ原発事故等により、「科学批判」のテーマは、一定量の出題がみられました。

 しかし、3・11以降は、「科学」に対する批判は明白に先鋭化し、「科学批判」のテーマは出題率が増加しています。

 

 これは、考えてみれば、当然のことです。

 福島原発事故の際の、原子力村の学者達、地震学者達の無責任な「想定外」の連呼。

 崩壊した「安全神話」。

 今だに完全には収束していない福島原発の処理。

 これらをみれば、「科学」に対する厳しい批判的論考は、増えこそすれ、減ることはないでしょう。

 大学における現代文(国語)・国語入試問題作成者の「問題意識」も同じでしょう。

 たとえ、問題作成者の「問題意識」がそうでないとしても、入試現代文(国語)・小論文の世界は、「出典」の関係で論壇・言論界・出版界の影響を受けるのです。

 

 2012年度の東大と早稲田大(教育)では、河野哲也氏の『意識は実在しない』の「序論 環境と心の問題」の冒頭部分から出題されました。

 東大と早稲田大(教育)を比較すると、問題文本文の最終段落は同じですが、最初の部分が違います。

 早稲田大(教育)の方が、最初の2段落分だけ多くなっています。

 以下に、早稲田大(教育)の問題文本文の最初の2段落の概要を記述します。

 ①②・・・・は、早稲田大(教育)に特有な段落番号です。

「① 人類が全体として取り組まなければならない大問題はいくつもある。

② 2012年3月に起きた東北関東地方での大地震で私たちは、地震と津波に打ちのめされると同時に、原子力発電の危険性をあまりに強烈な形で思い知らされた。

 この大災害には、人災の要素がもちろん存在し、長期的に私たちが環境とどのようにつきあっていくべきなのか、自然と社会のあり方が抜本的に問われている。

 

 ここから分かるように、今回の河野氏の論考は、3・11東日本大震災をきっかけとして書かれたものです。

 まさに、3・11東日本大震災以降の、3・11を意識した先鋭的で哲学的な「科学批判」の代表格の論考です。

 内容的にも、視点が秀逸で、ハイレベルな本質的な論考です。

 いかに素晴らしい先鋭的・哲学的な論考かは、これから説明します。

 これから、長期的に現代文(国語)・小論文の入試頻出出典となる可能性の高い論考と言えます。

   (引用終了)

 

 ーーーーーーーー

 

今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

ご期待ください。

 

  

 

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

 

 

5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

 

 

 

 私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。

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2011センター国語第1問(現代文・評論文)解説

 (1)なぜ、この記事を書くのか?

 

 鷲田清一氏は、ほとんどの難関大学の入試現代文(国語)・小論文で一度は出題されている、トップレベルの頻出著者です。
 最近では、センター試験、東京大学、東北大学、早稲田大学、慶應大学、上智大学等で出題されています。

 鷲田氏の入試頻出著書としては、

『モードの迷宮』(ちくま学芸文庫)、

『じぶん・この不思議な存在』(講談社現代新書)、

『悲鳴をあげる身体』(PHP 新書)、

『「聴く」ことの力ー臨床哲学試論』(ちくま学芸文庫)、

『わかりやすいはわかりにくい? 臨床哲学講座』(ちくま新書)等があります。

 

 今回の「身ぶりの消失」は、『 感覚の幽い風景 』所収の「現代住居論」・「身体論」・「ケア論」の名著です。

 「身体論」・「ケア論」は入試頻出論点です。

 特に、鷲田氏の「身体論」・「ケア論」は、最近の流行論点になっています。

 

 本文はハイレベルですが、設問はきわめて基礎的です。

 このことは、センター試験国語(現代文・評論文)の最近の一般的特徴です。

 従って、直前演習の題材として、オススメです。

 

 そればかりではなく、頻出著者・鷲田清一氏の頻出・流行論点である、今回の論考を考察することは、現代文対策、小論文対策としても有用です。

 

 今回の記事の項目は以下の通りです。記事は約1万字です。

(2)2011センター試験第1問・「身ぶりの消失」鷲田清一/問題・解説・解答

(3)本文のポイントの解説

(4)当ブログの「センター試験解説・関連記事」の紹介(リンク画像)

(5)当ブログの「鷲田清一氏・関連記事」の紹介(リンク画像)

  

感覚の幽(くら)い風景 (中公文庫)

 

(2)2011センター試験第1問・「身ぶりの消失」鷲田清一(『感覚の幽い風景』所収)/問題・解説・解答

 

問 次の文章を読んで、後の問いに答えよ。

 

(問題文本文)(概要です)

(【1】・【2】・【3】・・・・は当ブログで付記した段落番号です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です) 

 

【1】わたしは思い出す。しばらく前に訪れた高齢者用のグループホーム(→本文の「注」→高齢者などが自立して地域社会で生活するための共同住居)のことを。

【2】住むひとのいなくなった木造の民家をほとんど改修もせずに使うデイ・サーヴィス(→本文の「注」→高齢者などのため、入浴、食事、日常動作訓練などを日帰りで行う福祉サービス)の施設だった。もちろん「バリアフリー」からはほど遠い。玄関の前には石段があり、玄関の戸を引くと、玄関間がある。靴を脱いで、よいしょと家に上がると、今度は襖。それを開けてみなが集っている居間に入る。軽い「認知症」を患っているその女性は、お菓子を前におしゃべりに興じている老人たちの輪にすぐには入れず、呆然と立ち尽くす。が、なんとなくいたたまれず腰を折ってしゃがみかけると、とっさに「どうぞ」と、いざりながら(→本文の「注」→座った状態で体の位置をずらしながら)、じぶんが使っていた座布団を差し出す手が伸びる。「おかまいなく」と座布団をおし戻し、「何言うておすな、遠慮せんといっしょにお座りやす」(→本文の「注」→「何言うておすな」・「お座りやす」→それぞれ「何をおっしゃっているんですか」・「お座りなさいませ」の意)とふたたび座布団がおし戻される・・・・。

【3】和室の居間で立ったままでいることは「不自然」である。「不自然」であるのは、いうまでもなく、人体にとってではない。居間という空間においてである。居間という空間がもとめる挙措の「風」に、立ったままでいることは合わない。高みから他のひとたちを見下ろすことは「風」に反する。だから、いたたまれなくなって、腰を下ろす。これはからだで憶えているふるまいである。からだはそんなふうに動いてしまう。

【4】からだが家のなかにあるというのはそういうことだ。からだの動きが、空間との関係で、ということは同じくそこにいる他のひとびととの関係で、ある形に整えられているということだ。

【5】一方でバリアフリーにつくられた空間ではそうはいかない。人体の運動に合わせたこの抽象的な空間では、からだは空間の内部にありながらその空間の〈外〉にある。からだはその空間にまだ住み込んでいない。そしてそこになじみ、そこに住みつくというのは、これまでからだが憶えてきた挙措を忘れるということだ。ただっぴろい空間にあって立ちつくしていても「不自然」でないような感覚がからだを侵蝕(しんしょく)してゆくということだ。単独の人体がただ物理的に空間の内部にあるということがまるで自明であるかのように。こうして、さまざまなふるまいをまとめあげた「暮らし」というものが、人体から脱落してゆく。

 

……………………………

 

(設問)

問2 傍線部A「からだが家のなかにあるというのはそういうことだ 」とあるが、それはどういうことか。その説明として最適なものを次の中から選べ。

①  身体との関係が安定した空間では人間の身体が孤立することはないが、他のひとびとと暮らすなかで自然と身に付いた習慣によって、身体が侵蝕されているということ。

②  暮らしの空間でさまざまな記憶を蓄積してきた身体は、不自然な姿勢をたちまち正してしまうように、人間の身体はそれぞれの空間で経験してきた規律に完全に支配されているということ。

③  生活空間のなかで身に付いた感覚によって身体が規定されてしまうのではなく、経験してきた動作の記憶を忘れ去ることで、人間の身体は新しい空間に適応し続けているということ。

④  バリアフリーに作られた空間では身体が空間から疎外されてしまうが、具体的な生活経験を伴う空間では、人間の身体は空間と調和していくことができるのでふるまいを自発的に選択できているということ。

⑤  ただ物理的に空間の内部に身体が存在するのではなく、人間の身体が空間やその空間にいるひとびとと互いに関係しながら、みずからの身体の記憶に促されることでふるまいを決定しているということ。

 

……………………………

 

(解説・解答)
問2(傍線部説明問題)

 まず、傍線部の「そういうこと」に注目してください。

 直前段落の「和室の居間で立ったままでいることは『不自然』である。『不自然』であるのは、いうまでもなく、人体にとってではない。居間という空間においてである。これはからだで憶えているふるまいである。からだはそんなふうに動いてしまう。」を受けている表現です。

 次に、傍線部の直後の、「からだの動きが、空間との関係で、ということは同じく、そこにいる他のひとびととの関係で、ある形に整えられている」が、傍線部を言い換えていることに着目するとよいでしょう。

 ⑤は、「からだの動きが、/空間との関係で、/そこにいる他のひとびととの関係で、/ある形に整えられている」という2つの要素を含んでいます。

 また、⑤の「みずからの身体の記憶に促されることでふるまいを決定している」は、直前段落の「これはからだで憶えているふるまいである。からだはそんなふうに動いてしまう」を受けている表現です。

 従って、⑤が正解になります。

①は、「空間との関係」を欠いているので誤りです。

②は、「そこにいる他のひとびととの関係」を欠いているので誤りです。

③は、「経験してきた動作の記憶を忘れ去ること」の部分が誤りです。

④は、「そこにいる他のひとびととの関係」を欠いているので誤りです。また、「ふるまいを自発的に選択できている」も「空間との関係」・「そこにいる他のひとびととの関係」に反しています。

(解答)⑤

 

ーーーーーーーー 

 

(問題文本文)

 【6】心ある介護スタッフは、入所者がこれまでの「暮らし」のなかで使いなれた茶碗や箸を施設にもってくるよう「指導」する。洗う側からすれば、割れやすい陶器製の茶碗より施設が供するプラスチックのコップのほうがいいに決まっているが、それでも使いなれた茶碗を奨(すす)める。割れやすいからていねいに持つ、つまり、身体のふるまいに気をやる機会を増すことで「痴呆(ちほう)」(→本文の「注」→「認知症」)の進行を抑えるということももちろんあろう。が、それ以上に、身体を孤立させないという配慮がそこにはある。

【7】停電のときでも身の回りのほとんどの物に手を届けることができるように、からだは物に身をもたせかけている。からだは物の場所にまでいつも出かけていっている。
物との関係が切断されれば、身は宙に浮いてしまう。
新しい空間で高齢者が転びやすいのは 、比喩(ひゆ)ではなく、まさに身が宙に浮いてしまうからである。 まわりの空間への手がかりが奪われているからである。「バリアフリー」で楽だとおもうのは、あくまで介護する側の視点である。まわりの空間への手がかりがあって、他の身体、──それは、たえず動く不安定なものだ──との丁々発止のやりとりもはじめて可能になる。とすれば、人体の運動に対応づけられた空間では、他のひととの関係もぎくしゃくしてくることになる。あるいは、物とのより滑らかな関係に意を配るがために、他者に関心を寄せる余裕もなくなってくる 。そう、たがいに「見られ、聴かれる」という関係がこれまで以上に成り立ちにくくなる。空間がいってみれば、 中身を失う・・・・。

【8】X 「中身」?

【9】この言葉をいきいきと用いた建築論がある。青木淳『原っぱと遊園地』(王国社、2004年)だ。青木によれば、「遊園地」が「あらかじめそこで行われることがわかっている建築」だとすれば、「原っぱ」とは、そこでおこなわれることが空間の「中身」を創(つく)ってゆく場所のことだ。原っぱでは、子どもたちはとにもかくにもそこへ行って、そこから何をして遊ぶか決める。そこでは、たまたま居合わせた子どもたちの行為の糸がたがいに絡まりあい、縒(よ)り合わされるなかで、空間の「中身」が形をもちはじめる。その絡まりや縒り合せをデザインするのが、巧(うま)い遊び手のわざということであろう。

【10】青木はこの「原っぱ」と「遊園地」を、二つの対立する建築理念の比喩として用いている。 そして前者の建築理念、つまりは、特定の行為のための空間を作るのではなく、行為と行為をつなぐものそれ自体をデザインするような建築を志す。「B 空間がそこで行われるだろうことに対して先回りしてしまってはいけない」というわけだ。

 

………………………………

 

(設問)

問3 傍線部B「空間がそこで行われることに先回りしてしまってはいけない」とあるが、それはなぜか。その説明として最適なものを次の中から一つ選べ。

①  原っぱのように、遊びの手がかりがきわめて少ない空間では、行為の内容や方法が限定されやすく空間の用途が特化される傾向を持ってしまうから。

②  原っぱのように、使用規則やそこでの「行動基準が規定されていない空間では、多様で自由な行為が保証されているためにかえってその空間の利用法を見失わせてしまうから。

③  遊園地のように、明確に定められた規則に従うことが自明とされた空間では、行為が事前に制限されるので空間を共有するひとびとの主体性が損なわれてしまうから。

④  遊園地のように、その場所で行われる行為を想定して設計された空間では、行為相互の偶発的な関係から空間の予想外の使い方が生み出されにくくなるから。

⑤  遊園地のように、特定の遊び方に合わせて計画的にデザインされた空間では、空間の用途や行為の手順が誰にでも容易に推測できて興味をそいでしまうから。

 

………………………………

 

(解説・解答)

問3(傍線部説明問題・理由説明)

 傍線部(「空間がそこで行われるだろうことに対して先回りしてしまってはいけない 」)が直前の二文の理由付けになっているという構造に注目してください。

 直前の二文は以下の通りです。
 「青木はこの『原っぱ』と『遊園地』を、二つの対立する建築理念の比喩として用いている。 そして前者の建築理念、つまりは、特定の行為のための空間を作るのではなく、行為と行為をつなぐものそれ自体をデザインするような建築を志す。」

 傍線部の「先回り」とは、「遊園地」の「建築理念」、つまり、「あらかじめそこで行われることがわかっている建築」(直前の【9】段落)を指しています。
 それを否定して、「原っぱ」の建築理念(→「そこでおこなわれることが空間の「中身」を創ってゆく場所」)(直前の【9】段落)を支持しているのです。

 

 ④の「行為相互の偶発的な関係から空間の予想外の使い方が生み出される」は、
【9】段落「たまたま居合わせた子どもたちの行為の糸がたがいに絡まりあい、縒(よ)り合わされるなかで、空間の『中身』が形をもちはじめる」
の言い換えになっています。

正解は④です。

 

①  「原っぱ」の建築理念として誤りです。

②  「原っぱ」を否定的に記述しているので誤りです。

③  「規則に従うこと」の部分が無関係で誤りです。
 また、「遊園地」と「原っぱ」の対比は、「空間の中身」に関連しているので、「主体性」について記述している③は不適切です。

⑤  「遊園地」と「原っぱ」の対比は、「空間の中身」に関連しているので、「人の興味」について記述している⑤は不適切です。

(解答)④

 

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(問題文本文)

【11】では、造作はすくないほうがいいのか。ホワイトキューブ(→本文の「注」→白い壁面で囲まれた空間、美術作品の展示などに使う) のようなまったく無規定のただのハコが理想的だということになるのだろうか。ちがう、と青木はいう。

【12】まったくの無個性の抽象空間のなかで、理論的にはそこでなんでもできるということではない。たとえば、工場をアトリエやギャラリーに改装した空間が好まれるのは、それが特性のない空間だからではない。工場の空間はむしろ逆に、きわめて明確な特性を持っている。工場には、様々な機械の自由な設置を可能にするために、できる限り無柱の大きな容積を持った空間が求められる。そこでの作業を考え、部屋の隅々まで光が均等に行き渡るように、天井にはそのためにもっとも適切な採光窓がとられる。その目標から逸脱する部位での建設コストは切り詰められる。工場はこうした論理を徹底することでつくられてきた。この結果として、工場は工場ならではの空間の質を持つに至る。 工場は、無限定の空間と均一な光で満たされるということと引き替えに、一般的な意味での居心地の良さを捨てるという、明確な特性を持った空間なのである。
工場は、単に空間と光の均質を実現した抽象的な空間なのではない。工場は、そこでの作業を妨害しない範囲で、柱や梁(はり)のトラス(→本文の「注」→三角形を組み合わせた構造)が露出されている、きわめて物質的で具体的な空間なのである。

【13】このような空間に「自由」を感じるのは、そこではその空間の「使用規則」やそこでの「行動基準」がキャンセルされているからだ。「使用規則」をキャンセルされた物質の塊が別の行為への手がかりとして再生するからだ。原っぱもおなじだ。そこは雑草の生えたでこぼこのある更地であり、来るべき自由な行為のために整地されキューブとしてデザインされた空間なのではない。そこにはいろんな手がかりがある。

【14】木造家屋を再利用したグループホームは、逆に空間の「使用規則」やそこでの「行動基準」がキャンセルされていない。その意味では「自由」は限定されているようにみえるが、そこで開始されようとしているのは別の「暮らし」である。からだと物や空間とのたがいに浸透しあう関係のなかで、別のひととの別の暮らしへと空間自体が編みなおされようとしている。その手がかりの充満する空間だ。青木はいう。「文化というのは、すでにそこにあるモノと人の関係が、それをとりあえずは結びつけていた機能以上に成熟し 、今度はその関係から新たな機能を探る段階のことではないか」、と。そのかぎりでC 高齢者たちが住みつこうとしているこの空間には「文化」がある

 

……………………………

 

(設問)

問4 傍線部C「高齢者たちがすみつこうとしているこの空間には『文化』がある」とあるが、それはどういうことか。その説明として最適なものを次の中から一つ選べ。

①  木造家屋を再利用したグループホームという空間では、人のふるまいが制約されているということとひきかえに、伝統的な暮らしを取り戻す可能性があるということ。

②  木造家屋を再利用したグループホームという空間では、多くの入居者の便宜をはかるために設備が整えられているので、暮らすための手がかりが豊富にあり、快適な生活が約束されているということ。

③  木造家屋を再利用したグループホームという空間では、そこで暮らす者にとって、身に付いたふるまいを残しつつ、他者との出会いに触発されて新たな暮らしを築くことができるということ。

④  木造家屋を再利用したグループホームという空間では、空間としての自由度がきわめて高く、ひとびとがそれぞれ身に付けてきた暮らしの知恵を生かすように暮らすことができること。

⑤  木造家屋を再利用したグループホームという空間では、さまざまな生活歴を持ったひとびとの行動基準の多様性に対応が可能なため、個々の趣味に合った生活を送ることができるということ。

 

……………………………

 

(解説・解答)

問4(傍線部説明問題)

  傍線部の直前の「そのかぎりで」という限定的表現、傍線部の「この空間」、「文化」に着目する必要があります。

 
 傍線部Cの直前に、
 「文化というのは、すでにそこにあるモノと人の関係が、それをとりあえず結びつけていた機能以上に成熟し、今度はその関係から新たな機能を探る段階のことではないか」
と、「青木淳」による「文化」の定義が示されていて「そのかぎりで」傍線部Cが成立するのです。

 従って、③が正解になります。

 

①は、「伝統的な暮らしを取り戻す」が、「今度はその関係から新たな機能を探る段階」に反しています。

②の「多くの入居者の便宜をはかる」・「快適な生活が約束されている」、

④の「空間としての自由度がきわめて高く」、

⑤の「さまざまな生活歴を持ったひとびとの行動基準の多様性に対応が可能なため、個々の趣味に合った生活を送ることができる」は、

【14】段落の「木造家屋を再利用したグループホームは、逆に空間の『使用規則』やそこでの『行動基準』がキャンセルされていない。その意味では『自由』は限定されているようにみえる」に反しています。

(解答)③


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(問題文本文)

【15】住宅は「暮らし」の空間である。「暮らし」の空間が他の目的を明確にもった空間と異なるのは、そこでは複数の異なる行為がいわば同時並行でおこなわれることにある。何かを見つめながら、まったく別の物思いにふけっている。食事をしながら、おしゃべりに興ずる。食器を洗いながら、子どもたちと打ち合わせをする。電話で話しながら、部屋を片づける。ラジオを聴きながら、家計簿をつける。食事、労働、休息、調理、育児、しつけ、介護、習い事、寄りあいと、暮らしのいろいろな象面(→本文の「注」→ここでは暮らしのなかの場面のこと)がたがいに被(かぶ)さりあっている。これが住宅という空間を濃くしている。(犬なら、餌(えさ)を食いながら人の顔を眺めるということができない? 排尿しながら、他の犬の様子をうかがうということができない?)

【16】住宅は、いつのまにか目的によって仕切られてしまった。リヴィングルーム、ベッドルーム、仕事部屋、子ども部屋、ダイニングルーム、キッチン、バスルーム、ベランダ・・・・。生活空間がさまざまの施設やゾーニング(→建築などの設計において、用途などの性質によって空間を区分・区画すること)によって都市空間が切り分けられるのとおなじように、用途別に切り分けられるようになった。当然、ふるまいも切り分けられる。襖を腰を下ろして開けるというふうに、ふるまいを鎮め、それにたしかな形をあたえるのが住宅であったように、歩きながら食べ、ついでにコンピュータのチェックをするというふうに 、(注意されながらも)その形をはみだすほどに多型的に動き回らせるのも住宅である。D  行為と行為をつなぐこの空間の密度を下げているのが、現在の住宅である。かつての木造家屋にはいろんなことがそこでできるという、空間のその可塑性によって、からだを眠らせないという知恵が、ひそやかに挿し込まれていた。木造家屋を再利用したグループホームは、たぶん、そういう知恵をひきつごうとしている。

(鷲田清一「身ぶりの消失」による)


ーーーーーーー

 

(設問)

問5 傍線部D「行為と行為をつなぐこの空間の密度を下げているのが、現在の住宅である」とあるが、それはどういうことか。その説明として最適なものを次の中から一つ選べ。

①  現在の住宅では、仕事部屋や子ども部屋など目的ごとに空間が切り分けられており、それぞれの用途とはかかわらない複数の異なる行為を同時に行ったり、他者との関係を作り出したりするような可能性が低下してしまっていること。

②  現在の住宅では、ゾーニングが普及することでそれぞれの空間の独立性が高められており、家族であってもそれぞれが自室で過ごす時間が増えることで、人と人とが触れあい、関係を深めていくことが少なくなってしまっていること。

③  現在の住宅では、空間の慣習的な使用規則に縛られない設計がなされており、居住者たちがそのときその場で思いついたことを実現できるように、各自がそれぞれの行為を同時に行えるようになっていること。

④  木造家屋などかつての居住空間では、居間や台所など空間ごとの特性が際立っていたが、現代の住宅では、居住者が部屋の用途を交換でき、空間それぞれの特性がなくなってきていること。

⑤  木造家屋などかつての居住空間では、人体の運動と連動して空間が作り変えられるような特性があったが、空間ごとの役割を明確にした現在の住宅では、予想外の行為によって空間の用途を多様にすることが困難になっていること。 

 

問6 この文章の表現について、次の(1)・(2)の問いに答えよ。

(1)傍線部X(→【8】段落)の表現効果を説明するものとして最適なものを次の中から一つ選べ。

①  議論を中断し問題点を整理して、新たな仮説を立てようとしていることを読者に気づかせる効果がある。

②  これまでの論を修正する契機を与えて、新たに論を展開しようとしていることを読者に気づかせる効果がある。

③  行き詰まった議論を打開するために話題を転換して、新たな局面に読者を誘導する効果がある。

④  あえて疑問を装うことで立ち止まり、さらに内容を深める新たな展開に読者を誘導する効果がある。


(2)筆者は論を進める上で青木淳の建築論をどのように用いているか。その説明として最適なものを次の中から一つ選べ。

①  筆者は青木の建築論に異を唱えながら、一見すると関連のなさそうな複数の空間を結びつけ、「暮らし」の空間として木造家屋を再利用したグループホームに関する主張をしている。

②  筆者は青木の建築論の背景にある考え方を例に用いて、それぞれの作業ごとに切り分けられた現代の「暮らし」の空間を批判し、木造家屋を再利用したグループホームの有用性を説く主張を補強している。

③  筆者は青木の建築論を援用しながら、空間の編みなおしという知見を提示することで、「暮らし」の空間として木造家屋を再利用したグループホームに価値を見いだす主張に説得力を与えている。

④  筆者は青木の建築論を批判的に検証したうえで、現代の「暮らし」と工場における空間とを比較し、木造家屋を再利用したグループホームに自由な空間の良さがあると主張している。


……………………………

 

(解説・解答)

問5(傍線部説明問題)

 傍線部の「行為と行為をつなぐこの空間の密度」とは、「(人を)多型的に動き回らせる」空間です。

 つまり、【15】段落に記述されている、

「複数の異なる行為」が「同時並行でおこなわれる」空間、

「暮らしのいろいろな象面がたがいに被さりあっている」空間、

「濃く」なっている空間です。

 一方、傍線部D「行為と行為をつなぐこの空間の密度を下げているのが、現在の住宅である」とは、その逆です。

 つまり、「現在の住宅」は、「目的によって仕切られ」、「用途別に切り分けられるようになった」空間です。(【16】段落)

 以上より①が正解です。

 

 ②~⑤は、「行為の重なり合い」について触れていないので不適切です。

(解答)①

 

問6(1)表現効果

 傍線部の前後の「論の構造」を問う問題です。「論の構造」を把握していれば、解答にたどり着けます

  【7】~【9】段落の「論の構造」は、以下のようになっています。

【7】段落「『バリアフリー』で楽だとおもうのは、あくまで介護する側の視点である。そう、たがいに『見られ、聴かれる』という関係がこれまで以上に成り立ちにくくなる。空間がいってみれば、 中身を失う・・・・。」

【8】段落「X「『中身」』?」

【9】段落「この言葉(→「中身」)をいきいきと用いた建築論がある。青木淳『原っぱと遊園地』(王国社、2004年)だ。青木によれば、『遊園地』が『あらかじめそこで行われることがわかっている建築』だとすれば、『原っぱ』とは、そこでおこなわれることが空間の『中身』を創(つく)ってゆく場所のことだ。」

 以上から、明白なように、「論」が「空間の中身」に関連していることについては、傍線部Xの前後を通じて一貫しています。

 従って、④が正解です。

①の「議論を中断し問題点を整理」、

②の「ここまでの論を修正する契機を与えて」、

③の「行き詰まった議論を打開するために話題を転換して」

は、いずれも不適切です。

(解答)④

 

問6(2)(「引用文の位置付け」を問う問題)

 筆者は【13】段落で「青木淳の建築論」を引用して、「原っぱ」・「(アトリエとしての)工場」に共通するのは、新たな行為を生み出す「手がかり」があることと述べています。

 そして、筆者は、【14】段落で以下のように述べています。

「木造家屋を再利用したグループホーム」では、「別のひととの別の暮らしへと空間自体が編みなおされようとしている」

(グループホームは)その手がかりの充満する空間だ」

 つまり、「木造家屋を再利用したグループホーム」でも、新たな行為を生み出す「手がかり」があると主張しているのです。

 従って、この構造を把握している③(③→筆者は青木の建築論を援用しながら、空間の編みなおしという知見を提示することで、「暮らし」の空間として木造家屋を再利用したグループホームに価値を見いだす主張に説得力を与えている。)が正解です。

 

①・④→「青木淳の建築論」に批判的ではないので、誤りです。

②は、「筆者は青木の建築論の背景にある考え方を例に用いて」の部分が意味不明です。また、「グループホームの有用性」の意味が曖昧で不適切です。

(解答)③

 

ーーーーーーーー

(出典)「身ぶりの消失」(『風景の幽い感覚』)

 

(3)本文のポイントの解説

 

 「身ぶりの消失」のポイントは、以下の段落の赤字部分でしょう。再掲します。

 

 ……………………………

 

【1】わたしは思い出す。しばらく前に訪れた高齢者用のグループホームのことを。

【2】住むひとのいなくなった木造の民家をほとんど改修もせずに使うデイ・サーヴィスの施設だった。もちろん「バリアフリー」からはほど遠い。玄関の前には石段があり、玄関の戸を引くと、玄関間がある。靴を脱いで、よいしょと家に上がると、今度は襖。それを開けてみなが集っている居間に入る。軽い「認知症」を患っているその女性は、お菓子を前におしゃべりに興じている老人たちの輪にすぐには入れず、呆然と立ち尽くす。が、なんとなくいたたまれず腰を折ってしゃがみかけると、とっさに「どうぞ」と、いざりながら、じぶんが使っていた座布団を差し出す手が伸びる。「おかまいなく」と座布団をおし戻し、「何言うておすな、遠慮せんといっしょにお座りやす」とふたたび座布団がおし戻される・・・・。

【3】和室の居間で立ったままでいることは「不自然」である。「不自然」であるのは、いうまでもなく、人体にとってではない。居間という空間においてである。居間という空間がもとめる挙措の「風」に、立ったままでいることは合わない。高みから他のひとたちを見下ろすことは「風」に反する。だから、いたたまれなくなって、腰を下ろす。これはからだで憶えているふるまいである。からだはそんなふうに動いてしまう。

【4】A  からだが家のなかにあるというのはそういうことだ。からだの動きが、空間との関係で、ということは同じくそこにいる他のひとびととの関係で、ある形に整えられているということだ。

 【7】停電のときでも身の回りのほとんどの物に手を届けることができるように、からだは物に身をもたせかけている。からだは物の場所にまでいつも出かけていっている。物との関係が切断されれば、身は宙に浮いてしまう。新しい空間で高齢者が転びやすいのは 、比喩(ひゆ)ではなく、まさに身が宙に浮いてしまうからである。 まわりの空間への手がかりが奪われているからである。「バリアフリー」で楽だとおもうのは、あくまで介護する側の視点である。まわりの空間への手がかりがあって、他の身体、──それは、たえず動く不安定なものだ──との丁々発止のやりとりもはじめて可能になる。とすれば、人体の運動に対応づけられた空間では、他のひととの関係もぎくしゃくしてくることになる。あるいは、物とのより滑らかな関係に意を配るがために、他者に関心を寄せる余裕もなくなってくる 。そう、たがいに『見られ、聴かれる』という関係がこれまで以上に成り立ちにくくなる。空間がいってみれば、 中身を失う・・・・。

 

……………………………

 

 鷲田氏は、常識では、絶対的なプラス的存在である「バリアフリー空間の問題性」を、鋭く指摘しています。

 鷲田氏は、「身体と空間の関係性」を重視しています。

 身体性重視の観点からの「合理性批判」・「近代批判」は、読んでいて心地よいです。

 國分功一郎氏の『 中動態の世界 』と同じ味わいです。

 「高齢化社会問題」、「ケアの論点」を考える上で、この論考は重要です。

 国語(現代文)・小論文対策として、この論考を、ぜひ熟読しておいてください。

 

 

(4)当ブログの「センター試験解説・関連記事」の紹介

 

 

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(5)当ブログの「鷲田清一氏・関連記事」の紹介

 

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 ーーーーーーーー

 

今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

ご期待ください。

 

   

  

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5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

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 私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。

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センター小説満点のコツ・ポイント/解説・小説の純客観的解法

(1)「センター小説」解法・はじめに・「センター小説」をめぐる問題点を指摘する

 

 今回の記事は、当ブログの「2008センター小説解説」、「2017センター小説解説」の2つの記事をベースにしつつ、新たに、「センター小説で満点を取るコツ・ポイント」を提示することを目的として、大幅な加筆を加えた内容になっています。

 加筆部分は字 ( 赤太字青太字にする場合もあります)にしておきます。

 なお、上記の記事についてのリンク画像を下に貼っておきます。

 

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 浪人生に敗因を聞くと、センター試験でも、難関大学入試でも、小説問題が敗因だったという声が多いことに驚きます。

 確かに、小説問題は、国語(現代文)の中でも特に解きにくい側面があります。

 

 主観的文章を客観的に読解・分析する作業は、日常的に慣れている精神的活動ではありません。

 しかし、この作業は、「設問に寄り添って考えること」、「筆者の立場に立ち、筆者の心情に寄り添えばよい」だけです。

 「この作業」に「慣れ」さえすれば、よいのです。

 ただ、この作業の手順マニュアルは、あまり普及していないようです。

 その理由として考えられるのは、大学受験の現場に蔓延中の「主体的な読み」という、受け狙いのキャッチコピーです。

 主体的に読むのは当然です。わざわざ言うことではない、無意味な言葉です。このキャッチコピーの誤解が「客観的読解軽視」、「設問軽視」の元凶でしょう。

 問題は、「主体的な読み」という受験界の神話から、いかに脱却するか、でしょう。

 

 ここで問題にしているのは、一部の、大衆受けを狙う指導者、解説書、組織がこの神話を大々的に掲げていることです。

 このキャッチコピーが、ある程度の支持を得ているということは、過度の「個性重視」・「アイデンティティ重視」という歪んだ世間の風潮が背景にあるのでしょうか。

 

 話題を元に戻します。

 ともあれ、少し工夫することで、つまり、対策を意識することで、小説問題を得意分野にすることが、可能です。

 あきらめないことが肝心です! 

 

 センター本番では、平均点が5~6割になるように、基礎的・標準的問題を多くしているのです。

 その点で、受験生に親切な問題とも言えるのです。

 受験生の実力を信用していないとも言えますが。

 


(2)小説問題を得意分野にしよう→なぜ、小説問題は不得意分野になりやすいのか?→問題点と対策(今回の記事の追加部分です)

 

①苦手意識、その対策

 センター小説に苦手意識を持っている受験生が多いようです。固い内容の小説自体に苦手意識を持っているのでしょう。

 日常的に固い内容の小説を敬遠していることと、高校の指導方法・教科書に問題があるようです。

 高校において、固い内容の小説の読解の時間が少なすぎるのではないでしょうか。

 対策としては、日頃から意識して、娯楽小説・エンターテイメント小説以外の小説を読むようにするとよいでしょう。


②解説書、指導者の問題点、その対策

 センター小説は、それほどハイレベルではありません。

 私は、問題は解法書と指導者にあるように感じています。

 つまり、不必要に複雑化して解説している解説書が、「小説問題は案外とハイレベル」「小説問題は悪問が多い」という風潮を助長している感じです。

 そして、自分で考えることをしないで、それを参考にしている指導者が、そのような風潮を助長しているように思います。

 受験生レベルでも、問題を熟読して自分で考えると、基礎的問題が多いことが分かるはずです。

 従って、複雑化の著しい解説に出会った時には、解説書を疑うことも必要だと思います。

 センターの本番の小説問題で、無意味に複雑な設問は一度も出題されたことはないのですから。

 
③模擬問題・模擬試験問題の問題点、その対策

 センター演習は過去問のみにするべきです。模擬問題はレベル・内容の点から、やらない方が賢明です。

 模試は時間内にやる訓練のみに有効です。自分にとって分かりにくい設問を飛ばす訓練のために。

 時間が余ったら、飛ばした問題をやり直してみるとよいでしょう。

 模擬試験の小説問題の復習は、単語チェックくらいにしてください。丁寧な復習は時間の無駄です。

 

 センター過去問は直近から遡り、最近の傾向を知るとよいでしょう。最近は、見事に易化しているのです。特に、小説問題は、平易になっています。

 生徒のレベル低下に合わせて、一定の平均点を確保するためだと思われます。


 ちなみに、生徒のレベル低下は、小・中・高の国語の授業時間数の低下に関連しています。今の受験生は「ゆとり教育」・「総合学習」等という、基礎学科の授業時間を減少する「教育実験」の犠牲者になっています。

 「教育の場」での「実験」は、生徒にとって迷惑でしか、ありません。生徒の親等は、積極的に反対の声を上げるべきでしょう。国民レベルの議論も必要でしょう。


 センター現代文 は時間が壁になっています。

 しかし、論理的に効率的に処理すれば満点も可能なのです。

 あきらめないことが肝心です! 

 


 (3)小説問題解法のポイント・注意点

 

 センター試験の国語では毎年出題されます。

 難関国公立・私立大学では頻出です。

 また、難関国公立・私立大学の小論文の課題文として、出題されることもあります。

 

 小説問題については、「解法(対策)を意識しつつ、慣れること」が必要となります。

 本来、小説は、一文一文味わいつつ読むべきです。国語自体が本来は、そういうものです。

 が、これは入試では、時間の面でも、解法の方向でも、有害ですらあります。

 あくまで、設問(そして、選択肢)の要求に応じて、主観的文章を設問の要求に応じて、純客観的に分析しなくてはならないのです。(国語を純客観的に分析? これ自体がパラドックスですが、ここでは、この問題には踏み込みません。日本の大学入試制度の問題点です。)

 

 この点で、案外、読書好きの受験生が、この種の問題に弱いのです。

 ただ、読書好きの受験生は、語彙力があるので、あとは、問題対応力を養成すればよいのです。

 それほど心配する必要はありません。

 「入試問題の要求にいかに合わせていくか」という方法論を身に付けること、つまり、小説問題に、「正しく慣れる」ことで、得点力は劇的にアップするのです。

 そこで、次に、「小説問題の解法のポイント」をまとめておきます。

 
【1】5W1H(つまり、筋)の正確な把握

① 誰が(Who)     人物

 

② いつ(When)      時

 

③ どこで(Where) 場所

 

④ なぜ(Why)   理由→これが重要

(→今回の記事における補充説明→必ず、理由の記述は傍線部の近くにあるので、心配する必要はありません。小説家としても、「ある行為・心理の理由」を説得力豊かに、リアリティを感じさせるように記述することは、腕の見せ所なのです。従って、「理由の記述」は、傍線部の近くにあるものなのです。このことは、覚えておくべきことです。)

 

⑤ なにを(What)    事件

 

⑥ どうした(How) 行為

 

 上の①~⑥は、必ずしも、わかりやすい順序で書いてあるとは限りません。

 読む側で、一つ一つ確認していく必要があります。

 特に、④の「なぜ(理由)」は、入試の頻出ポイントなので、注意してチェックすることが大切です。

 

【2】人物の心理・性格をつかむ

① 登場人物の心理は、その行動・表情・発言に、にじみ出ているので、軽く読み流さないようにする。

② 情景描写は、登場人物の心情を暗示的・象徴的に提示している場合が多いということを、意識して読む。

③ 心理面に重点を置いて、登場人物相互間の人間関係を押さえていく。

④ 登場人物の心理を推理する問題が非常に多い。その場合には、受験生は自分をその人物の立場に置いて、インテリ的に(真面目に、さらに言えば、人生重視的に)、一般的に、考えていくようにする。

⑤ 心理は、時間とともに流動するので、心理的変化は丁寧に追うようにする。

⑥ 気持ちを表している部分に傍線を引く。登場人物の心情を記述している部分に、薄く傍線を引きながら本文を読むことが大切です。

 

  以上を元に、「いかに小説問題を解いていくか」を以下で解説していきます。

 

 

(4)センター試験・小説問題の解法のポイント・コツ

 

【1】本文熟読の前に、先に、本文以外の、本文のリード文・設問・本文の「注」などをチェックして設問の全体像を把握する。

 

 センター試験の小説問題の本文は、難関大学の小説問題以上の長文の場合が多いのです。

 そこで、センター試験小説問題を効率的に解くための1つ目のコツは、本文を読む前に本文以下の、本文のリード文・設問(特に、設問文)・本文の「注」に目を通すことです。

 すぐにこれらに目を通し、「何を問われているか」を押さえてください。

 「設問で問われていること」を意識しつつ、本文を読むことで、時間を短縮化することができます。

 

【2】消去法を、うまく使う

 

 センター試験の小説問題の選択肢は、最近は、少々、長文化しています。

 しかし、明白な傷のある選択肢が多いので、消去法を駆使していくことで、効率的に処理することが可能です。

 

 消去法については、上記のリンク画像の「センター小説問題・解説記事」、下の「小説問題・解説記事」リンク画像も参考にしてください。

 

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 【3】傍線部説明問題については、傍線部自体に注目する

 

 このことは、案外と盲点になっているようです。

 以下で、さらに「センター過去問」を使用して具体的に説明します。

 

彼岸過迄 (新潮文庫)

 

 

(5)本文熟読の前に、本文のリード文・設問文等から「あらすじ」・「問題のポイント」・「問題の全体像」を把握する。→2008センター過去問による解説

 

 以下は、2008センター小説問題の、本文のリード文・設問文のみをピックアップしたものです。これらを読み、5分程度で、「本文のあらすじ」・「問題のポイント」・「問題の全体像」を把握してみてください。

 私の見解は、この下に提示します。

 

 次の文章は、夏目漱石の小説『彼岸過迄(ひがんすぎまで)』の一節である。「僕」と従妹(いとこ)の田口千代子は、幼いうちに「僕」の母が将来の結婚を申し入れた間柄である。父の死後、母は「僕」と千代子との結婚を強く望むが、「僕」は積極的に千代子を求めようとしない。以下の文章は、田口家の別荘を「僕」と母が訪れた場面である。これを読んで、後の問いに答えよ。

 

問2 傍線部A「この男は生まれるや否や交際場裏に棄てられて、そのまま今日まで同じ所で人となったのだと評したかった」とあるが、そのように高木を評する「僕」の思いを説明したものとして最も適当なものを、次の中から一つ選べ。

 問3 傍線部B「僕をして執念く美しい人に附纏わらせないものは、まさにこの酒に棄てられた淋しみの障害に過ぎない」とあるが、この部分で「僕」は自分をどのようにとらえているか。その説明として最適なものを次の中から一つ選べ。


問4 傍線部C「僕はどうしても僕の嫉妬心を抑え付けなければ自分の人格に対して申し訳がないような気がした」とあるが、なぜ「僕」はこのような気持ちになったのか。その理由として最適なものを次の中から一つ選べ。

 

問5 傍線部D「僕が僕の占いの的中しなかったのを、母のために喜んだのは事実である。同時に同じ出来事が僕を焦燥しがらせたのも嘘ではない」とあるが、この部分での「僕」の心情はどのようなものと考えられるか。その説明として最適なものを次の中から一つ選べ。

 
問6 この文章における表現の特徴についての説明として適当なものを、次の中から二つ選べ。

① 初めて嫉妬に心を奪われることになった経緯を、「僕」の心情の描写よりも、高木をめぐる母と叔母の噂話、千代子と高木とのやりとり、高木の「僕」に対する態度の描写などを通して示している。

② 「落ち着いた今の気分でその時の事を回顧してみると」とあるように、出来事全体を見渡せる「今」の立場から、《当時の「僕」の心情や行動》について原因や理由を明らかにしながら描いている。

③ 「僕」自身の心情を回顧的に語る部分に現在形を多用することで、別荘での出来事から遠く隔たった現在においても、「僕」の内面の混乱が整理されないまま未だに続いていることを示している。

④ 「凝結した形にならない嫉妬」「存在の権利を失った嫉妬心」などのように、漢語や概念的な言葉で表現することによって、「僕」が自分の心情を対象化し分析的にとらえようとしていることがわかる。

⑤ 笑いながらの千代子の発言を「罵られた」と述べたり、玉突きの経験がないことを「幸いにして」と述べたりすることによって、出来事をそのままには受け取ろうとしない「僕」の屈折したユーモアを示している。

⑥ 「自然が反対を比較する」「会話を僕の手から奪った」「自然から使われる自分」などの表現から、擬人法を用いることで、「僕」が抽象的なものごとをわかりやすく説明しようとしていることがわかる。

 

ーーーーーーーー

 

 (私の見解)

 把握するべきポイントを赤字と「→→」で明示します。


問 次の文章は、夏目漱石の小説『彼岸過迄(ひがんすぎまで)』の一節である。

「僕」と従妹(いとこ)の田口千代子は、幼いうちに「僕」の母が将来の結婚を申し入れた間柄である。父の死後、母は「僕」と千代子との結婚を強く望むが、「僕」は積極的に千代子を求めようとしない。以下の文章は、田口家の別荘を「僕」と母が訪れた場面である。これを読んで、後の問いに答えよ。

→ここには、主な登場人物と、人間関係が説明されています。特に、「僕と田口千代子」、「僕と『僕の母』」の関係は、要注意です。→【1】

 

問2 傍線部A「この男は生まれるや否や交際場裏に棄てられて、そのまま今日まで同じ所で人となったのだと評したかった」とあるが、そのように高木を評する「僕」の思いを説明したものとして最も適当なものを、次の中から一つ選べ。

→「僕」が高木をのマイナス評価していることが分かります。→【2】

 

 問3 傍線部B「僕をして執念く美しい人に附纏わらせないものは、まさにこの酒に棄てられた淋しみの障害に過ぎない」とあるが、この部分で「僕」は自分をどのようにとらえているか。その説明として最も適当なものを次の中から一つ選べ。

→この部分では、「僕」の「自己評価」の内容が問われています。→【3】


問4 傍線部C「僕はどうしても僕の嫉妬心を抑え付けなければ自分の人格に対して申し訳がないような気がした」とあるが、なぜ「僕」はこのような気持ちになったのか。その理由として最も適当なものを次の①~⑤のうちから一つ選べ。

→「僕」と「僕の嫉妬心」の「関係」が問われています→【4】

 

問5 傍線部D「僕が僕の占いの的中しなかったのを、母のために喜んだのは事実である。同時に同じ出来事が僕を焦燥しがらせたのも嘘ではない」とあるが、この部分での「僕」の心情はどのようなものと考えられるか。その説明として最も適当なものを次の中から一つ選べ。

→「僕の占い」とは「何か」に注目する必要があります。→【5】

 
問6 この文章における表現の特徴についての説明として適当なものを、次の中から二つ選べ。

① 初めて嫉妬に心を奪われることになった経緯を、「僕」の心情の描写よりも、高木をめぐる母と叔母の噂話、千代子と高木とのやりとり、高木の「僕」に対する態度の描写などを通して示している。

② 「落ち着いた今の気分でその時の事を回顧してみると」とあるように、出来事全体を見渡せる「今」の立場から、当時の「僕」の心情や行動について原因や理由を明らかにしながら描いている。

③ 「僕」自身の心情を回顧的に語る部分に現在形を多用することで、別荘での出来事から遠く隔たった現在においても、「僕」の内面の混乱が整理されないまま未だに続いていることを示している。

④ 「凝結した形にならない嫉妬」「存在の権利を失った嫉妬心」などのように、漢語や概念的な言葉で表現することによって、「僕」が自分の心情を対象化し分析的にとらえようとしていることがわかる。

⑤ 笑いながらの千代子の発言を「罵られた」と述べたり、玉突きの経験がないことを「幸いにして」と述べたりすることによって、出来事をそのままには受け取ろうとしない「僕」の屈折したユーモアを示している。

⑥ 「自然が反対を比較する」「会話を僕の手から奪った」「自然から使われる自分」などの表現から、擬人法を用いることで、「僕」が抽象的なものごとをわかりやすく説明しようとしていることがわかる。

 

→この設問では、赤字部分に注目してください。→【6】

→また、③と④は、矛盾的内容になっていることにも着目してください。→【7】

 

→短時間にザッと見ただけでも、以上の【1】~【7】の「有用な情報」を入手することができます。

 

  

(6)「センター小説問題」特有の「文章表現問題」を処理するポイント→先に設問をチェックする→2017センター小説・問6 

  

 以下の問題を見て、最初に、どこに目をつけるべきでしょうか? 5分間くらい考えてみてください。


問6 この文章の表現に関する説明として適当でないものを、次の①~⑥のうちから二つ選べ。 

① 語句に付された傍点には、共通してその語を目立たせる働きがあるが、1行目「あんよ」、24行目「あらわ」のように、その前後の連続するひらがな表記から、その語を識別しやすくする効果もある。

② 22行目以降の落葉や46行目以降の日本画の描写には、さまざまな色彩語が用いられている、前者については、さらに擬音語が加えられ、視覚・聴覚の両面から表現されている。

③ 38行目「透明な黄色い光線」、55行目「真珠色の柔らかい燻したような光線」のように、秋晴れの様子が室内外に差す光の色を通して表現されている。

④ 43行目「直子は本統(ほんとう)は画(え)の事などは何にも知らぬのである」、44行目「画の具のなさえ委(くわ)しくは知らぬ素人である」は、直子の無知を指摘し、突き放そうとする表現である。

⑤ 55行目「暫時うるさい『品定め』から免れた悦(よろこ)びを歌いながら、安らかに休息してるかのように見えた」は、絵画や彫刻にかたどられた人たちの、穏やかな中にも生き生きとした姿を表現したものである。

⑥ 直子が、亡くなった淑子のことを回想する68行目以降の場面では、女学生時代の会話が再現されている。これによって、彼女とのやり取りが昨日のことのように思い出されたことが表現されている。

 

ーーーーーーーー 

 

(解説)

 要注意ポイントは赤字で、解説は青字で明示します。

 
問6 この文章の表現に関する説明として適当でないもの(→要注意❗)を、次の①~⑥のうちから二つ選べ。

 

① 語句に付された傍点には、共通してその語を目立たせる働きがあるが、1行目「あんよ」、24行目「あらわ」のように、その前後の連続するひらがな表記から、その語を識別しやすくする効果もある。


② 22行目以降の落葉や46行目以降の日本画の描写には、さまざまな色彩語が用いられている、前者については、さらに擬音語が加えられ、視覚・聴覚の両面から表現されている。


③ 38行目「透明な黄色い光線」、55行目「真珠色の柔らかい燻したような光線」のように、秋晴れの様子が室内外に差す光の色を通して表現されている

 

④ 43行目「直子は本統(ほんとう)は画(え)の事などは何にも知らぬのである」、44行目「画の具のなさえ委(くわ)しくは知らぬ素人である」は、直子の無知を指摘し、突き放そうとする表現 (→「直子の無知を指摘し、突き放そうとする表現」は「極端表現」です。まず、この④を先に検討するべきです❗→このような、いかにも怪しい選択肢は、要注意です。このことは、意識しておいてください)である。

 

⑤ 55行目「暫時うるさい『品定め』から免れた悦(よろこ)びを歌いながら、安らかに休息してるかのように見えた」は、絵画や彫刻にかたどられた人たちの、穏やかな中にも生き生きとした姿 (→「生き生きとした姿」は「安らかに休息してるかのように見えた」と矛盾しているのではないでしょうか?→まず、この⑤を先に検討するべきです❗→選択肢自体の中に「矛盾した表現」がある場合には、要注意です)を表現したものである。

 

⑥ 直子が、亡くなった淑子のことを回想する68行目以降の場面では、女学生時代の会話が再現されている。これによって、彼女とのやり取りが昨日のことのように思い出されたことが表現されている。

 

→「各行数」と赤字部分をチェックしてください。

 

……………………………

 

(設問の解説・解答)

 

④ 本文の他の記述を考慮しても、43行目・44行目の表現が「直子の無知を指摘し、突き放そうとする表現」と評価することは、無理です。

 

⑤ 「『品定め』から免れた悦(よろこ)びを歌いながら、安らかに休息してるかのように見えた」の説明としては、「絵画や彫刻にかたどられた人たちの、穏やかな中にも生き生きとした姿」は、ズレている、と言えます。 

 従って、不適当です。

 

 他の選択肢は、本文と照合すると、「適当」と評価されます。

 →本設問は、素直で単純な問題でした。選択肢だけで、ある程度、正解が絞れました。

 

(解答) ④・⑤

 

 

(7)「小説・傍線部説明問題」の解法→「傍線部説明問題」については、「傍線部自体」に注目する必要があります。具体的には、以下のような手順で処理すると効率的です。→2008センター小説過去問

 

 次の設問を解いてください。

 

問 次の文章は、夏目漱石の小説『彼岸過迄(ひがんすぎまで)』の一節である。「僕」と従妹(いとこ)の田口千代子は、幼いうちに「僕」の母が将来の結婚を申し入れた間柄である。父の死後、母は「僕」と千代子との結婚を強く望むが、「僕」は積極的に千代子を求めようとしない。以下の文章は、田口家の別荘を「僕」と母が訪れた場面である。これを読んで、後の問いに答えよ。

 田口の叔母は、高木さんですと云って丁寧(ていねい)にその男を僕に紹介した。彼は見るからに肉の緊(し)まった血色の好い青年であった。年からいうと、あるいは僕より上かも知れないと思ったが、そのきびきびした顔つきを形容するには、是非とも青年という文字(もんじ)が必要になったくらい彼は生気に充(み)ちていた。僕はこの男を始めて見た時、これは自然が反対を比較するために、わざと二人を同じ座敷に並べて見せるのではなかろうかと疑(うたぐ)った。無論その不利益な方面を代表するのが僕なのだから、こう改まって引き合わされるのが、僕にはただ悪い洒落(しゃれ)としか受取られなかった。
 二人の容貌(ようぼう)がすでに意地の好くない対照を与えた。しかし様子とか応対ぶりとかになると僕はさらにはなはだしい相違を自覚しない訳にいかなかった。僕の前にいるものは、母とか叔母とか従妹とか、皆親しみの深い血族ばかりであるのに、それらに取り巻かれている僕が、この高木に比べると、かえってどこからか客にでも来たように見えたくらい、彼は自由に遠慮なく、しかもある程度の品格を落す危険なしに己(おのれ)を取扱かう術(すべ)を心得ていたのである。知らない人を怖(おそ)れる僕にいわせると、この A この男は生まれるや否や交際場裏(こうさいじょうり)に棄(す)てられて、そのまま今日まで同じ所で人となったのだと評したかった。彼は十分と経(た)ないうちに、凡(すべ)ての会話を僕の手から奪った。そうしてそれを悉(ことごと)く一身に集めてしまった。その代り僕を除(の)け物にしないための注意を払って、時々僕に一句か二句の言葉を与えた。それがまた生憎(あいにく)僕には興味の乗らない話題ばかりなので、僕はみんなを相手にする事もできず、高木一人を相手にする訳にも行かなかった。彼は田口の叔母を親しげにお母さんお母さんと呼んだ。千代子に対しては、僕と同じように、千代ちゃんという幼馴染(おさななじ)みに用いる名を、自然に命ぜられたかのごとく使った。そうして僕に、先ほどお着きになった時は、ちょうど千代ちゃんと貴方(あなた)の御噂(うわさ)をしていたところでしたと云った。

 

 ーーーーーーーー

 

(設問)

問2 傍線部A「この男は生まれるや否や交際場裏に棄てられて、そのまま今日まで同じ所で人となったのだと評したかった」とあるが、そのように高木を評する「僕」の思いを説明したものとして最も適当なものを、次の中から一つ選べ。


① 初対面の人にも全くものおじせず、家族のように親しげに周囲の人の名を呼ぶので、羨ましく思っている。

② 明るく話し上手で人づきあいに長けているうえ、そつのない態度で会話を支配するので、不快に思っている。

③ 周囲のすべての人に配慮しつつも、その態度はおしつけがましいものでもあるので、うっとうしく思っている。

④ 品格もあり容貌も立派な人物だが、完全無欠な態度によって「僕」の居場所を脅かすので、憎らしく思っている。

⑤ 洋行帰りという経歴の持ち主であり、自分をよく見せる作為的な振る舞いをするので、面白くなく思っている。

 

……………………………

 

【解説・解答】(主人公(「僕」)の心理を問う問題)

 (解説の太字は、今回の記事で追加した「補充説明」です)

  「生まれるや否や交際場裏に棄てられて、そのまま今日まで」という露骨な悪意に満ちた表現のニュアンスから、「僕」は高木を不快に思っていることが分かります。

 また、
交際場裏に棄てられ」という表現と、

傍線部の直前の「僕の前にいるものは、母とか叔母とか従妹とか、皆親しみの深い血族ばかりであるのに、それらに取り巻かれている僕が、この高木に比べると、かえってどこからか客にでも来たように見えたくらい、彼は自由に遠慮なく、しかもある程度の品格を落す危険なしに己を取扱かう術(すべ)を心得ていた」とから、

「高木」は美辞麗句を駆使して、その場の人々を、自分に有利なように巧妙に操るテクニック(社交術)を自然に身に付けている、と言いたいのです。 


 つまり、「高木」は、ほぼ、詐欺師的なイヤな人間ということです。『坊っちゃん』における「赤シャツ」をイメージするとよいでしょう。
 


「傍線部説明問題」の解法のポイント・コツ

 「傍線部それ自体」を、「精密に分析」していくことが必要です。

(以下は、今回の記事による補充説明です)

 本番入試では、「傍線部それ自体」に、「露骨なヒント・ポイント」があることが、かなり多いのです。傍線部の説明をするのですから、傍線部自体にヒントがあるのは、よくあることです。

(ただし、模擬試験には、このことは、当てはまりません。気付かないのか、知っていても、一般大衆受けしないので営業上この種の問題を回避しているのか、は不明です。)

 

 「傍線部それ自体に、露骨なヒント・ポイントがあること」については、「センター試験過去問の検討」を通して実感しておいてください。この作業は、各人が、自分自身で地道に進める必要があります。

 様々な解説書を、そのまま信用することなく、一つ一つ丁寧にチェックしていってください。

 特に、納得しにくい、妙に複雑化されている解説に出会ったら、この作業は必須です。短時間で終わるので、面倒に思わずに取りかかってください。

 有名出版社発行の解説書が、当該設問の「傍線部それ自体に、露骨なヒント・ポイントがあること」に気付かず、誤解の迷路に迷い込んで、勝手に難問化して解説していることが、よくあります。「悪問だ」と評価していることさえ、あります。この種のミスは、毎年度の解説に発生している感じです。

 笑ってください。苦情の通知は出す必要は、ありません。すぐに訂正されますが、あなたの努力が報われることはありません。思考力のない他の受験生の得点力アップに貢献するだけです。

 「プロ」の、いい加減な本質を見抜いたことで、よい「人生勉強」になったと思えばよいのです。
 そして、より一層、入試問題に限らず、「何事も自分自身の頭で考えることの大切さ」を、自覚してください。

 受験勉強をすることの最大の価値は、この点にある、と私は思っています。

 「プロ」の書いた解説の、基本的なミスに気付くことにより、「プロ」を疑い、「プロを高評価する世の中」を疑うこと、つまり、「プロ」も「世の中」も完全には信用しないこと、この姿勢が大切なのです。


 これは、小説問題だけではなく、評論問題でも必要なことです。

 厳しい時間制限があるので、「傍線部それ自体」の「精密分析」に、すぐに着手してください。

 段落要約・全体要約を書いている時間的余裕は、ありません。

 センター試験では、小説問題は25分前後で処理する必要があるのです❗

 

 各選択肢を検討します。

①は、「羨ましく思っている」の部分が不適で、誤りです。

②は、上記の解説より、これが最適であり、正解です。

③は、「周囲のすべての人に配慮」の部分が誤りです。「僕」は「配慮」されていません。

④・⑤は、「交際場」との関連性がないので、誤りです。

 以上のように、実に基礎的な、単純な問題です。

 実態を知れば、小説問題に対する苦手意識は不要だと分かるはずです。

(解答) ② 

 

ーーーーーーーー

 

 今回の記事は、これで終わりです。

 次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

 ご期待ください。

 

  

 

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

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2010センター国語現代文解説/岩井克人「資本主義と『人間』」

(1)はじめに

 センター試験国語(現代文・評論文・小説)は、「問題文本文の全体構造」を問う問題が頻出です。定番と言えます。

 2010年度第1問は、全体構造を問う問題として、かなりの良問です。

 その上、著者は国語(現代文・評論)・小論文の入試頻出著者・岩井克人氏なので、小論文にも役立ちます。

 そこで、センター試験国語(現代文・評論)・小論文対策として、今回の記事では2010センター試験第1問を丁寧に解説していきます。  

 

 なお、今回の記事の項目は以下の通りです。

(2)2010センター試験第1問/岩井克人「資本主義と『人間』」(『21世紀の資本主義論』 )/ 問題・解説・解答

(3)要約

(4)岩井克人氏の紹介

(5)当ブログの「センター試験・関連記事」の紹介

(6)当ブログの「岩井克人氏・関連記事」の紹介

(7)当ブログの「資本主義・関連記事」の紹介

 

 

二十一世紀の資本主義論 (ちくま学芸文庫)

 

 

(2)2010センター試験第1問/岩井克人「資本主義と『人間』」(『21世紀の資本主義論』 )/ 問題・解説・解答


 
(問題文本文)(概要です)

(【1】・【2】・【3】・・・・は当ブログで付記した段落番号です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です) 

 

次の文章を読んで、後の問いに答えよ。

【1】フロイトによれば、人間の自己愛は過去に3度ほど大きな痛手をこうむったことがあるという。1度目は、コペルニクスの地動説によって地球が天体宇宙の中心から追放されたときに、2度目は、ダーウィンの進化論によって人類が動物世界の中心から追放されたときに、そして3度目は、フロイト自身の無意識の発見によって自己意識が人間の心的世界の中心から追放されたときに。

【2】しかしながら実は、人間の自己愛には、すくなくとももうひとつ、フロイトが語らなかった傷が秘められている。だが、それがどのような傷であるかを語るためには、ここでいささか回り道をして、まずは「ヴェニスの商人」について語らなければならない。

【3】ヴェニスの商人━━のそれは、人類の歴史の中で「ノアの洪水以前」から存在していた商業資本主義の体現者のことである。海をはるかへだてた中国やインドやペルシャまで航海をして絹やコショウや絨毯(じゅうたん)を安く買い、ヨーロッパに持ちかえって高く売りさばく。遠隔地とヨーロッパとのあいだに存在する価格の差異が、莫大(ばくだい)な利潤としてかれの手元に残ることになる。すなわち、ヴェニスの商人が体現している商業資本主義とは、地理的に離れたふたつの国のあいだの価格の差異を媒介して利潤を生み出す方法である。そこでは、利潤は差異から生まれている。

【4】だが、A経済学という学問は、まさに、このヴェニスの商人を抹殺することから出発した

【5】年々の労働こそ、いずれの国においても、年々の生活のために消費されるあらゆる必需品と有用な物資を本源的に供給する基金であり、この必需品と有用な物資は、つねに国民の労働の直接の生産物であるか、またはそれと交換に他の国から輸入したものである。

【6】『国富論』の冒頭にあるこのアダム・スミスの言葉は、一国の富の増大のためには外国貿易からの利潤を貨幣のかたちで蓄積しなければならないとする、重商主義者に対する挑戦状にほかならない。スミスは、一国の富の真の創造者を、遠隔地との価格の差異を媒介して利潤をかせぐ商業資本的活動にではなく、勃興(ぼっこう)しつつある産業資本主義のもとで汗水たらして労働する人間に見いだしたのである。それは、経済学における「人間主義宣言」であり、これ以後、経済学は「人間」を中心として展開されることになった。

【7】たとえば、リカードやマルクスは、スミスのこの人間主義宣言を、あらゆる商品の交換価値はその生産に必要な労働量によって規定されるという労働価値説として定式化した。

【8】実際、リカードやマルクスの眼前で進行しつつあった産業革命は、工場制度による大量生産を可能にし、1人の労働者が生産しうる商品の価値(労働生産性)はその労働者がみずからの生活を維持していくのに必要な消費財の価値(実質賃金率)を大きく上回るようになったのである。労働者が生産するこの剰余価値――それが、かれらが見いだした産業資本主義における利潤の源泉なのであった。もちろん、この利潤は産業資本家によって搾取されてしまうものではあるが、リカードやマルクスはその源泉をあくまでも労働する主体としての人間にもとめていたのである。

【9】だが、産業革命から250年を経た今日、ポスト産業資本主義の名のもとに、旧来の産業資本主義の急速な変貌(へんぼう)が伝えられている。ポスト産業資本主義――それは、加工食品や繊維製品や機械製品や化学製品のような実体的な工業生産物にかわって、B技術、通信、文化、広告、教育、娯楽といったいわば情報そのものを商品化する新たな資本主義の形態であるという。そして、このポスト産業資本主義といわれる事態の喧騒(けんそう)のなかに、われわれは、ふたたびヴェニスの商人の影を見いだすのである。

【10】なぜならば、商品としての情報の価値とは、まさに差異そのものが生み出す価値のことだからである。事実、すべての人間が共有している情報とは、その獲得のためにどれだけ労力がかかったとしても、商品としては無価値である。逆に、ある情報が商品として高価に売れるのは、それを利用するひとが他のひととは異なったことが出来るようになるからであり、それはその情報の開発のためにどれほど多くの労働が投入されたかには無関係なのである。

【11】まさに、ここでも差異が価格を作り出し、したがって、差異が利潤を生み出す。それは、あのヴェニスの商人の資本主義とまったく同じ原理にほかならない。すなわち、このポスト産業資本主義のなかでも、労働する主体としての人間は、商品の価値の創造者としても、一国の富の創造者としても、もはやその場所をもっていないのである。

【12】いや、さらに言うならば、伝統的な経済学の独壇場であるべきあの産業資本主義社会のなかにおいても、われわれは、抹殺されていたはずのヴェニスの商人の巨大な亡霊を発見しうるのである。

【13】産業資本主義ーーそれも、実は、ひとつの遠隔地貿易によって成立している経済機構であったのである。ただし、産業資本主義にとっての遠隔地とは、海のかなたの異国ではなく、一国の内側にある農村のことなのである。

【14】産業資本主義の時代、国内の農村にはいまだに共同体的な相互扶助の原理によって維持されている多数の人口が滞留していた。そして、この農村における過剰人口の存在が、工場労働者の生産性の飛躍的な上昇にもかかわらず、彼らが受け取る実質賃金率の水準を低く抑えることになったのである。たとえ工場労働者の不足によってその実質賃金率が上昇しはじめても、農村からただちに人口が都市に流れだし、そこでの賃金率を引き下げてしまうのである。

【15】それゆえ、都市の産業資本家は、都市にいながらにして、あたかも遠隔地交易に従事している商業資本家のように、労働生産性と実質賃金率という二つの異なった価値体系の差異を媒介できることになる。もちろん、そのあいだの差異が、利潤として彼らの手元に残ることになる。これが産業資本主義の利潤創出の秘密であり、それはいかに異質に見えようとも、利潤は差異から生まれてくるというあのヴェニスの商人の資本主義とまったく同じ原理にもとづくものなのである。

【16】この産業資本主義の利潤創出機構を支えてきた労働生産性と実質賃金率とのあいだの差異は、歴史的に長らく安定していた。農村が膨大な過剰人口を抱えていたからである。そして、この差異の歴史的な安定性が、その背後に「人間」という主体の存在を措定 (→「想定」という意味)してしまう、伝統的な経済学の「錯覚」を許してしまったのである。

【17】かつてマルクスは、人間と人間との社会的な関係によってつくりだされる商品の価値が、商品そのものの価値として実体化されてしまう認識論的錯覚を、商品の物神化と名付けた。その意味で、差異性という抽象的な関係の背後にリカードやマルクス自身が措定してきた主体としての「人間」とは、まさに物神化、いや人神化の産物にほかならないのである。

【18】差異は差異にすぎない。産業革命から250年、多くの先進資本主義国において、無尽蔵に見えた農村における過剰人口もとうとう枯渇してしまった。実質賃金率が上昇しはじめ、もはや労働生産性と実質賃金率とのあいだの差異を媒介する産業資本主義の原理によっては、利潤を生みだすことが困難になってきたのである。あたえられた差異を媒介するのではなく、みずから媒介すべき差異を意識的に創(つく)りだしていかなければ、利潤が生み出せなくなってきたのである。その結果が、差異そのものである情報を商品化していく、現在進行中のポスト産業資本主義という喧噪(けんそう)に満ちた事態にほかならない。

 【19】差異を媒介して利潤を生み出していたヴェニスの商人(X) ━━あのヴェニスの商人の資本主義こそ、まさに普遍的な資本主義であったのである。そして、D「人間」は、この資本主義の歴史のなかで、一度としてその中心にあったことはなかった。

(岩井克人「資本主義と『人間』」による)

 

ーーーーーーー

 

(設問)

 

問1(漢字問題は省略します)

 

問2 傍線部A「経済学という学問は、まさに、このヴェニスの商人を抹殺することから出発した」とあるが、それはどういうことか。その説明として最適なものを、次の中から一つ選べ。

① 経済学という学問は、差異を用いて莫大な利潤を得る仕組みを暴き、そうした利潤追求の不当性を糾弾することから始まったということ。

② 経済学という学問は、差異を用いて利潤を生み出す産業資本主義の方法を排除し、重商主義に挑戦することから始まったということ。

③ 経済学という学問は、差異が利潤をもたらすという認識を退け、人間の労働を富の創出の中心に位置づけることから始まったということ。

④ 経済学という学問は、労働する個人が富を得ることを否定し、国家の富を増大させる行為を推進することから始まったということ。

⑤ 経済学という学問は、地域間の価格差を利用して利潤を得る行為を批判し、労働者の人権を擁護することから始まったということ。

 

問3 傍線部B「技術、通信、文化、広告、教育、娯楽といったいわば情報そのものを商品化する新たな資本主義の形態」とあるが、この場合、「情報そのもの」が「商品化」されるとはどういうことか。その具体的な説明として最適なものを、次の中から一つ選べ。

① 多くの労力を必要とする工業生産物よりも、開発に多くの労力を前提としない特許や発明といった技術の方が、商品としての価値をもつようになること。

② 刻一刻と変動する株価などの情報を、誰もが同時に入手できるようになったことで、通信技術や通信機器が商品としての価値をもつようになること。

③ 広告媒体の多様化によって、工業生産物それ自体の創造性や卓越性を広告が正確にうつし出せるようになり、商品としての価値をもつようになること。

④ 個人向けに開発された教材や教育プログラムが、情報通信網の発達により一般向けとして広く普及したために、商品としての価値をもつようになること。

⑤ 多チャンネル化した有料テレビ放送が提供する多種多様な娯楽のように、各人の好みに応じて視聴される番組が、商品としての価値をもつようになること。

 

問4 傍線部C「伝統的な経済学の『錯覚』」とあるが、それはどういうことか。その説明として最適なものを、次の中から一つ選べ。

① 産業資本主義の時代に、農村から都市に流入した労働者が商品そのものの価値を決定づけたために、伝統的な経済学は、価値を定める主体を富の創造者として実体化してしまったということ。

② 産業資本主義の時代に、都市の資本家が農村から雇用される工場労働者を管理していたために、伝統的な経済学は、労働力を管理する主体を富の創造者と仮定してしまったということ。

③ 産業資本主義の時代に、大量生産を可能にする工場制度が労働者の生産性を上昇させたために、伝統的な経済学は、大きな剰余価値を生み出す主体を富の創造者と認定してしまったということ。

④ 産業資本主義の時代に、都市の資本家が利潤を創出する価値体系の差異を積極的に媒介していたために、伝統的な経済学は、その差異を媒介する主体を利潤の源泉と見なしてしまったということ。

⑤ 産業資本主義の時代に、農村の過剰な人口が労働者の生産性と実質賃金率の差異を安定的に支えていたために、伝統的な経済学は、労働する主体を利潤の源泉と認識してしまったということ。

 

問5 傍線部D「『人間』は、この資本主義の歴史のなかで、一度としてその中心にあったことはなかった」とあるが、それはどういうことか。本文全体の内容に照らして最適なものを、次の中から一つ選べ。

① 商業資本主義の時代においては、商業資本主義の体現者としての「ヴェニスの商人」が、遠隔地相互の価格の差異を独占的に媒介することで利潤を生み出していたので、利潤創出に参加できなかった「人間」の自己愛には深い傷が刻印されることになった。

② アダム・スミスは『国富論』において、真の富の創造者を勤勉に労働する人間に見いだし、旧来からの交易システムを成立させていた「ヴェニスの商人」を市場から退場させることで、資本主義が傷つけた「人間」の自己愛を回復させようと試みた。

③ 産業資本主義の時代においては、労働する「人間」中心の経済が達成されたように見えたが、そこにも差異を媒介する働きをもった、利潤創出機構としての「ヴェニスの商人」は内在し続けたため、「人間」が主体として資本主義にかかわることはなかった。

④ マルクスはその経済学において、人間相互の関係によってつくりだされた価値が商品そのものの価値として実体化されることを物神化と名付けたが、主体としての「人間」もまた認識論的錯覚のなかで物神化され、資本主義社会における商品となってしまった。

⑤ ポスト産業資本主義の時代においては、希少化した「人間」がもはや利潤の源泉と見なされることはなく、価値や富の中心が情報に移行してしまったために、アダム・スミスの意図した「人間主義宣言」は完全に失効したことが明らかとなった。

 

問6 この文章の表現について、次の(ⅰ)・(ⅱ)の各問いに答えよ。

(i)最終段落の(X)のダッシュ記号「━━」のここでの効果を説明するものとして適当でないものを、次の中から一つ選べ。

① 直前の内容とひと続きであることを示し、語句のくり返しを円滑に導く効果がある。

② 表現の間(ま)を作って注意を喚起し、筆者の主張を強調する効果がある。

③ 直前の語句に注目させ、抽象的な概念についての確認を促す効果がある。

④ 直前の語句で立ち止まらせ、断定的な結論の提示を避ける効果がある。

  

( ⅱ )この文章の構成の説明として最適なものを、次の中から一つ選べ。

① 人間の主体性についての問題を提起することから始まり、経済学の視点から資本主義の歴史を起源にさかのぼって述べ、商業資本主義と産業資本主義を対比し相違点を明確にした後、今後の展開を予測している。

② 差異が利潤を生み出すことを本義とする資本主義において、人間が主体的立場になかったことを検証した後、その理由を歴史的背景から分析し、最後に人間の自己愛に関する結論を提示している。

③ 人間の自己愛に隠された傷があることを指摘した後で、差異が利潤を生み出すという基本的な資本主義の原理をふまえてその事例の特徴を検証し、最後に冒頭で提起した問題についての見解を述べている。

④ 差異が利潤を生み出すという結論から資本主義の構造と人間の関係を検証し、人間の労働を価値の源泉とする経済学の理論にもとづいて、具体的な事例をあげて産業資本主義の問題を演繹(えんえき)的に論じている。


ーーーーーーー

 

(解説・解答)

問2(傍線部説明問題)

 傍線部の「ヴェニスの商人」とは「商業資本主義の体現者」(【3】段落)です。
 そして、「商業資本主義」とは、「地理的に離れたふたつの国のあいだの価格の差異を媒介して利潤を生み出す方法」(【3】段落)です。
 従って、「ヴェニスの商人を抹殺する」とは、「一国の富の真の創造者を、遠隔地との価格の差異を媒介して利潤をかせぐ商業資本的活動にではなく、勃興しつつある産業資本主義のもとで汗水たらして労働する人間に見いだ」(【6】段落)すことです。


① 経済学の「利潤追求の不当性を糾弾」の部分が不適切です。本文に、このような記述はありません。

② 本文に、このような記述はありません。

③ 適切です。

④ 本文に、このような記述はありません。

⑤ 本文に、このような記述はありません。

(解答)③


問3(傍線部説明問題)

→この設問こそ、問題文本文の熟読・精読が不可欠です。
「問題文本文の熟読・精読」さえすれば、何でもない問題です。要約のメモはやめて、大切な部分に線を引くだけで十分です。


 傍線部直後の「このポスト産業資本主義といわれる事態の喧騒のなかに、われわれは、ふたたびヴェニスの商人の影を見いだすのである」、

次の【10】段落の「なぜならば、商品としての情報の価値とは、まさに差異そのものが生み出す価値のことだからである」、

「ある情報が商品として高価に売れるのは、それを利用するひとが他のひととは異なったことが出来るようになるから」、

に注目してください。


 ここで、【3】段落に着目すると、「ヴェニスの商人」とは「商業資本主義の体現者」(【3】段落)であり、「商業資本主義」とは、「地理的に離れたふたつの国のあいだの価格の差異を媒介して利潤を生み出す方法」です。「そこでは、利潤は差異から生まれている」のです。

 従って、「差異そのものが生み出す価値」「差異が生み出す価値」がキーワードになります。

 つまり、「『情報そのもの』が『商品化』される」とは「『情報そのものの差異』が価値を生み出す」ということになります。

 

①~④ 「差異が生み出す価値」に関連した記述になっていないので、不適切です。

⑤ チャンネルの差異により、視聴者が番組を選択するという内容です。「チャンネル間の差異」が価値を決定することになるので、適切です。

(解答)⑤

 

問4(傍線部説明問題)

この差異の歴史的な安定性(→「産業資本主義の利潤創出機構を支えてきた労働生産性と実質賃金率とのあいだの差異」が、「歴史的に長らく安定していた」こと)が、その背後に「人間」という主体の存在を措定(「想定」)してしまう、伝統的な経済学の『錯覚』を許してしまったのである」

という文章の構造に着目する必要があります。 

 

 上記の「この」に注目して、直前の部分を熟読する必要があるということです。【14】~【16】段落のポイントを列記すると、以下のようになります。


【14】段落「農村における過剰人口の存在が、工場労働者の生産性の飛躍的な上昇にもかかわらず、彼らが受け取る実質賃金率の水準を低く抑えることになったのである。」

【15】段落「都市の産業資本家は、労働生産性と実質賃金率という二つの異なった価値体系の差異を媒介できることになる。これ産業資本主義の利潤創出の秘密であり、それはいかに異質に見えようとも、利潤は差異から生まれてくるというあのヴェニスの商人の資本主義とまったく同じ原理にもとづくものなのである。」


【16】段落「この差異の歴史的な安定性 (→「産業資本主義の利潤創出機構を支えてきた労働生産性と実質賃金率とのあいだの差異」が、「歴史的に長らく安定していた」こと)が、その背後に「人間」という主体の存在を措定(「想定」)してしまう、C 伝統的な経済学の『錯覚』を許してしまったのである。」

以上の構造を、丁寧に把握してください。⑤が正解になります。

 

①~④ 無関係です。本文に、このような記述はありません。

(解答)⑤

 

問5(傍線部説明問題)

 傍線部の「この資本主義の歴史のなかで」に注目してください。

 「商業資本主義」・「産業資本主義」・「ポスト産業資本主義」の三つの「主義」の内容を、チェックする必要があります。

 三つの「主義」は、「差異によって利益を生み出す」点では共通しています。

 

 具体的には、以下の各段落をチェックするとよいでしょう。

 

「商業資本主義」→【6】段落「遠隔地との価格の差異を媒介して利潤をかせぐ商業資本的活動

 

「産業資本主義」→【14】・【15】段落

【14】段落「産業資本主義の時代、国内の農村にはいまだに共同体的な相互扶助の原理によって維持されている多数の人口が滞留していた。そして、この農村における過剰人口の存在が、工場労働者の生産性の飛躍的な上昇にもかかわらず、彼らが受け取る実質賃金率の水準を低く抑えることになったのである。」

【15】段落「都市の産業資本家は、あたかも遠隔地交易に従事している商業資本家のように、労働生産性と実質賃金率という二つの異なった価値体系の差異を媒介できることになる。もちろん、そのあいだの差異が、利潤として彼らの手元に残ることになる。これが産業資本主義の利潤創出の秘密であり、それはいかに異質に見えようとも、利潤は差異から生まれてくるというあのヴェニスの商人の資本主義(→「商業資本主義」)とまったく同じ原理にもとづくものなのである。」


「ポスト産業資本主義」→【9】・【10】段落

【9】段落「ポスト産業資本主義――それは、加工食品や繊維製品や機械製品や化学製品のような実体的な工業生産物にかわって、B技術、通信、文化、広告、教育、娯楽といったいわば情報そのものを商品化する新たな資本主義の形態であるという。そして、このポスト産業資本主義といわれる事態の喧騒(けんそう)のなかに、われわれは、ふたたびヴェニスの商人の影を見いだすのである。」

【10】段落「なぜならば、商品としての情報の価値とは、まさに差異そのものが生み出す価値のことだからである。」

 

 ③は、「産業資本主義の時代においては、労働する『人間』中心の経済が達成されたように見えたが、そこにも差異を媒介する働きをもった、利潤創出機構としての『ヴェニスの商人』は内在し続けた」の部分が、以上の本文の説明の通りです。

 つまり、「『ヴェニスの商人』は内在し続けていた」と、3つの「主義」を普遍的に把握しているので正解です。

 

① 「利潤創出に参加できなかった『人間』の自己愛には深い傷が刻印されることになった」の部分は、本文にこのような記述がないので、誤りです。

② 無関係です。本文に、このような記述はありません。

④ 「主体としての『人間』もまた」「資本主義社会における商品となってしまった」の部分が明らかに誤りです。

⑤ 「アダム・スミスの意図した「人間主義宣言」は完全に失効したことが明らかとなった」の部分が明らかに誤りです。

(解答)③

 

問6 (表現を問う問題)

→この設問こそ、特に本文を読む前に読み、ポイントをチェックするべきです。(1)は単純な問題なので、本文を見るまでもなく、すぐに解答してよいでしょう。その後で、本文を読みながら、確認的にチェックするとよいと思います。

 

(1)(「ダッシュ記号」の効果を聞く問題) 

 ダッシュ記号の効果としては、「強調」の機能があります。

④ 「断定的な結論の提示を避ける効果」のような婉曲表現ではありません。従って、正解は④です。

(解答)④

 

(2)(文章構成を聞く問題)

→この設問は問題3・4・5と同様に、「本文の全体構造」を問う問題です。「本文の全体構造」を把握していれば、容易に解答できます。

 逆に言うと、問3・4・5と本設問の内、一つでもミスした一人は、「本文の全体構造」を完全に理解していることには、なりません。よく復習しておいてください。

 

 ③が、本文の構成に合致しています。

① 「商業資本主義と産業資本主義を対比」の部分が誤りです。

 【15】段落の「これが産業資本主義の利潤創出の秘密であり、それはいかに異質に見えようとも、利潤は差異から生まれてくるというあのヴェニスの商人の資本主(→「商業資本主義」)とまったく同じ原理にもとづくものなのである。」に反します。

 また、「今後の展開を予測している」も誤りです。このような記述は本文には、ありません。

② 「最後に人間の自己愛に関する結論を提示している」の部分が誤りです。このような記述は本文には、ありません。

④ 「人間の労働を価値の源泉とする経済学の理論にもとづいて」の部分が誤りです。また、「具体的な事例をあげて産業資本主義の問題を演繹(えんえき)的に論じている」の部分も誤りです。

(解答)③

 

ーーーーーーーー

 

(出典)岩井克人「資本主義と『人間』」『21世紀の資本主義論』 (ちくま学芸文庫) 

 

 

(3)要約

フロイトによれば、人間の自己愛は過去に三度ほど大きな痛手をこうむったことがあるという。しかし、資本主義の歴史を振り返ると、もう一つの傷がある。「ヴェニスの商人」が体現者である商業資本主義は、差異が利潤を生み出した。現在、急速に進行しているポスト産業資本主義においても、差異そのものである情報を商品化して利潤を生み出している点で、同様の構造がある。いや、さらに言うならば、産業資本主義においても、結局は労働生産性と実質賃金率との差異を媒介にして利潤を生み出していた点で、ヴェニスの商人の巨大な亡霊を発見しうるのである。差異を媒介して利潤を生み出していた、あのヴェニスの商人の資本主義こそ、まさに普遍的な資本主義であったのである。そして、「人間」は、この資本主義の歴史のなかで、一度としてその中心にあったことはなかった。

 


(4)岩井克人氏の紹介

岩井 克人(いわい かつひと、1947年生まれ ) 日本の経済学者(経済理論・法理論・日本経済論)。学位はPh.D.(マサチューセッツ工科大学・1972年)。米イェール大学助教授、東大助教授、米ペンシルベニア大学客員教授、米プリンストン大学客員准教授、東大教授などを経る。国際基督教大学客員教授、東京大学名誉教授、公益財団法人東京財団名誉研究員、日本学士院会員。

  

【著書】

『ヴェニスの商人の資本論』(筑摩書房・1985年、ちくま学芸文庫・1992年)

『不均衡動学の理論』(岩波書店・1987年)

『貨幣論』(筑摩書房・1993年、ちくま学芸文庫・1998年)

『資本主義を語る』(講談社・1994年、ちくま学芸文庫・1997年)

『二十一世紀の資本主義論』(筑摩書房・2000年、ちくま学芸文庫・2006年)

『会社はこれからどうなるのか』(平凡社・2003年、平凡社ライブラリー・2009年)

『会社はだれのものか』(平凡社・2005年)

『IFRSに異議あり』(日本経済新聞出版社・2011年)

『経済学の宇宙』(日本経済新聞出版社・2015年)

『不均衡動学の理論』(モダン・エコノミックス20/ 岩波オンデマンドブックス) 

 

  

(5)当ブログの「センター試験・関連記事」の紹介

 

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(6)当ブログの「岩井克人氏・関連記事」の紹介


  なお、当ブログでは、頻出著者・岩井克人氏の論考について、最近、予想問題記事を発表しました。ぜひ、ご覧ください。

 

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(7)当ブログの「資本主義・関連記事」の紹介

 

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ーーーーーーーー

 

今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

ご期待ください。

 

   

 

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二十一世紀の資本主義論 (ちくま学芸文庫)

二十一世紀の資本主義論 (ちくま学芸文庫)

 

 

経済学の宇宙

経済学の宇宙

 

 

資本主義から市民主義へ (ちくま学芸文庫)

資本主義から市民主義へ (ちくま学芸文庫)

 

 

頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

 

 

5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

 

 

 私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。

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センター国語(現代文・評論・小説)満点奪取への過去問解説→最新7問

(1)センター試験国語(現代文・評論・小説)満点奪取への過去問解説→最新7問

 

 2018センター試験が、いよいよ迫ってきました。そこで、2018センター試験国語(現代文・評論・小説)対策記事を書くことにします。センター対策としては、以下のことを注意してください。

① まず、センター対策演習は過去問のみにするべきです。模擬問題はレベル・内容の点から、やらない方が賢明でしょう。
 もし、模擬試験を受けるのであれば、時間内に解く訓練の場として活用する。問題の復習は単語のチェックくらいにして、あまり熱心にやらないようにしてください。結局は、時間のムダになります。

 

② センター現代文は最新論点の出題が多く国公立・私立大の国語(現代文)・小論文対策にもなります。

 最近の例でいえば、センター現代文では「アイデンティティ」・「自己」、「情報化社会」・「IT化社会」に関する論点が多く出題されています。これらは国公立・私立大の現代文・小論文にも、最近よく出題されるので、対策として有用なのです。

 

③ また、センター現代文は時間が壁となっています。しかし、ある程度のレベルの受験生が能率的・効率的に処理すれば9割、調子がよければ満点には取れるように作成されています。

 センター国語は80分で大問4問をやらなければなりません。現代文2問を45分前後で処理する必要があるのです。

 現代文2問は、いずれも問題文本文が3000字以上あり、設問文も長いので、読むだけでも大変です。各選択肢のチェックにも、時間がかかります。

 設問を重視した解法を意識するべきでしょう。

 本文を読む前に設問から先に読む。

 選択肢のチェックは消去法を活用する。

 これらの効率的な解法を駆使するべきでしょう。

 

 以下では、当ブログで発表した、センター試験国語(現代文)の解説記事を、最新年度から、紹介していきます。

 7問の冒頭部分ポイント部分を紹介します。

 

 今回の記事の項目は、以下の通りです。

 各項目にそれぞれの記事のリンク画像を貼っておきます。

 ほとんどの記事には、問題文本文の概要があります。

 

(2)2017年度センター国語第1問(現代文・評論)解説

(3)2016センター国語第1問解説『キャラ化する/される子どもたち』

(4)2015センター試験国語第1問(現代文・評論文)解説・IT化社会

(5)2013センター国語第1問(現代文)解説「鐔」小林秀雄・エッセイ

(6)2012センター国語第1問解説「境界として自己」木村敏・関係性

(7)2017センター試験国語第2問・問題解説・小説の純客観的解法

(8)2008センター試験国語第2問(小説)解説『彼岸過迄』夏目漱石

 

 

トランス・サイエンスの時代―科学技術と社会をつなぐ (NTT出版ライブラリーレゾナント)

 

 

(2)2017年度センター国語第1問(現代文・評論)解説

 この年度の問題は、「科学論」・「科学批判」に関する最新の論点が出題されました。そして、その直後の東大国語(現代文・評論文)で、同一論点が出題されました。

 従って、「センター試験現代文には、その年の、国公立・私立大学の現代文・小論文の流行論点を予告する側面がある」ということを、改めて再確認しました。

 皆さんも、このことは、意識しておいてください。

 

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 上記の記事は、以下のような内容になっています。

 最初の部分を再掲します。詳しくは、リンク画像・経由で、ご覧ください。

 

ーーーーーーーー

 

(1)当ブログの予想論点記事が2017センター試験国語[1]に的中(著者・論点)しました。

 2016東大・一橋大・静岡大ズバリ的中(3大学ともに全文一致→下にリンク画像があります)に続く快挙です。うれしいことです。

 

 2016・12・13に発表した当ブログの記事(「国語予想問題『プロの裏切り・プライドと教養の復権を』神里達博」→下にリンク画像を貼っておきます)が、2017センター試験国語(現代文)問題[1]  (「科学コミュニケーション」・小林傳司)に、的中(著者・論点→科学論→科学コミュニケーション)しましたので、この記事で報告します。

 

 つまり、2017センター試験に、下の記事の中で紹介・解説した小林傳司氏のインタビュー記事(朝日新聞2016年3月10日《東日本大震災5年 問われる科学》「7:教訓を生かす 科学技術、社会と関わってこそ 専門家に任せすぎるな」)に強く関連した、小林氏の論考が出題されたのです。

 

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 「2017センター試験国語[1]の『要旨』」と「当ブログ記事・的中」の説明

 2017センター試験に出題された小林氏の論考の「要旨」は、以下の通りです。

 科学社会学者(コリンズ、ピンチ)の見解を引用しつつ、その主張を考察する論考です。

 「現在、科学の様々なマイナス面が明らかになるにつれて、『科学が問題ではないか』という問題意識が生まれてきている。しかし、科学者は、このような問題意識を、科学に対する無知・誤解から生まれた反発とみなしがちである。

 だが、科学社会学(コリンズ、ピンチ)は、従来の科学者が持つこのような発想を批判する。科学は全面的に善なる存在ではないし、無謬の知識でもない、という。現実の科学は人類に寄与する一方で、制御困難な問題も引き起こす存在である(→科学の「両面価値的性格」)、と主張した。

 そして、科学社会学は、一般市民への啓蒙について『科学の内容ではなく、専門家と政治家やメディア、われわれとの関係について伝えるべき』と言う。
 科学社会学は、一般市民を科学の『ほんとうの』姿を知らない存在として見なしてしまっている。この『大衆に対する、硬直した態度』は、科学社会学も、従来の科学と同様である。科学社会学は、科学を正当に語る資格があるのは科学社会学としてしまう点に限界がある。」

 

 センター試験の問題文本文(小林氏の論考)は、

①  「科学社会学者(コリンズ、ピンチ)が科学の両面価値的性格を認めている点」は賛成していますが、

②  「『科学と一般市民の関係』についての科学社会学者の主張」については、厳しく批判しています。そして、その批判で終わっています。

 「では、どうしたら良いのか」という筆者の主張・結論が不明確なのです。

 この点で、今回のセンター試験の第一問は、一見、読みにくい問題でした。

 この②の問題の筆者(小林氏)の主張・結論は、まさに、朝日新聞のインタビュー記事の小林氏の見解だと思います。(以下で紹介します)


 この記事の、

『《東日本大震災5年 問われる科学》「7:教訓を生かす 科学技術、社会と関わってこそ 専門家に任せすぎるな」』

という見出しだけでも、ある程度のヒントになります。

 

 以下は 2016・12・13に発表した当ブログの記事  (「国語予想問題『プロの裏切り・プライドと教養の復権を』神里達博」) からの引用、つまり、朝日新聞のインタビュー記事の小林氏の見解です。

 

ーーーーーーーー

 

(以下は、当ブログの前掲の記事からの引用)

専門家に望まれる態度・心掛け

「専門家主義」からの脱却

①専門家たちは、「総合的教養」・「生きた教養」を身に付ける→「専門家の相互チェック」のために

②さらに、専門家も、国民も、「民主的コントロール」を意識する(→まさに、今回のセンター試験に出題された「科学コミュニケーション」です!)

 

 ここで参考になるのは、科学哲学者である小林傳司氏の意見です。以下に、概要を引用します。

 

(小林傳司氏の意見)(概要です)

(赤字は当ブログによる「強調」です。青字は当ブログによる「注」です) 

「  震災(→「東日本大震災」)により科学者への信頼は大きく失墜した。学界などから様々な反省が言われたが、今では以前に戻ったかのように見える。

一つは、日本社会が「専門家主義」から脱却できないことだ。「科学と社会の対話が大切」と言いながら、原発再稼働などの政策決定過程をみると「大事なことは専門家が決めるから、市民は余計な心配をしなくてよい」という姿勢が今も色濃い。震災で専門家があれほど視野が狭いことが露見したにもかかわらずだ。

 これらの課題にどう対応すればよいか。まずは、市民が意思決定を専門家に任せすぎず、自分たちの問題ととらえることだ。科学技術は、それがなければ私たちは生活ができないほど重要で強力になっている。原子力のような巨大技術ほど「科学技術のシビリアンコントロール(→民主的コントロール)」が必要だ。

 専門家は、市民が基礎知識に欠ける発言をしてもさげすんではならない。専門家は明確に言える部分と不確実な部分を分けて説明する責務があり、最終的には「社会が決める」という原則を受け入れなければいけない。

 日本社会は「この道一筋何十年」という深掘り型は高く評価してきたが、自分の専門を超えて物事を俯瞰(ふかん)的に見られる科学者を育ててこなかった。広い意味での「教養」が重要だと思う。」

(朝日新聞 2016年3月10日 《東日本大震災5年 問われる科学》「7:教訓を生かす 科学技術、社会と関わってこそ 専門家に任せすぎるな」)

 

 

キャラ化する/される子どもたち―排除型社会における新たな人間像 (岩波ブックレット)

 

 

(3)2016センター国語第1問解説『キャラ化する/される子どもたち』

 

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 この記事の冒頭部分は、以下のようになっています。

 

ーーーーーーーー


(1)土井隆義氏の著書の出題状況

(当ブログ第1回の記事がテーマ・論点的中)

 2016年センター試験国語第1問(現代文・評論文)に、最近の流行論点・テーマである「自己」「アイデンティティー」(「若者論」・「日本人論」・「日本文化論」・「現代文明論」・「現代文明批判」・「コミュニケーション論」)が、出題されました。

 また、この問題は、「IT化社会」のテーマ・論点です。

 このブログの第1回記事(「開設の言葉ー入試現代文の最新傾向ー重要な、気付きにくい2本の柱」)において記述した、「入試現代文の最新傾向」、つまり、「IT化社会の光と影と闇」が、出題されました。

 テーマ・論点が的中しました。

 この記事については、下の画像からリンクできます。

 

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 著者は、最近、注目されている気鋭の社会学者、土井隆義氏です。土井氏の著作は、過去に、以下の大学で出題されています。

2005慶応大(文)(小論文)『「個性」を煽られる子どもたち』

2009北海道大(後期・法)(小論文)『「優しい関係」に窒息する子どもたち』       

 2015信州大(教育)(現代文)『友だち地獄ー「空気を読む」世代のサバイバル』

 このように、小論文を含めた、入試現代文・小論文の世界では、注目すべき著者でした。

 

 そして、今年、2016年に、センター試験に『キャラする/された子どもたちー排除型社会における新たな人間像』(岩波ブックレット)から出題されのです。

 

(2)土井隆義氏の著書の、キーワード

 土井氏は、上記の一連の著書において、

「『個性』を過剰に指向する現代社会の病理」

「人生は素質により、全て決定されると信じ込む若者」(一種の、新しい宿命主義)

「優しい関係」(摩擦・衝突を神経質に回避する傾向)

「『社会性』を喪失した子どもたち」

「『異質』の『排除』」

「子どもたちの過剰な承認願望」

「排除される不安を回避するためのスマホ依存」

「友だち関係を維持するためのイジメ」

という視点から、「現代の子どもたちの世界」を、鋭く、説得力豊かに分析しています。

 

 

未知との遭遇【完全版】 (星海社新書)

 

 

(4)2015センター試験国語第1問(現代文・評論文)解説・IT化社会

 

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 この記事の冒頭部分は、以下のようになっています。

 

ーーーーーーーー

 

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 2015年度センター試験国語(現代文・評論文)に出題された佐々木氏の論考(『未知との遭遇』)は、「IT化社会の問題点」、つまり、「歴史の崩壊」・「歴史意識の衰退」・「系譜学的(体系的)知の衰退」を鋭く指摘しています。

 この論点、言い換えれば、「反知性主義化」は、「IT化社会のマイナス面」・「IT化社会の影・闇」として、最近、問題化しています。佐々木氏の論考は、とても参考になるので、ここで紹介します。

 また、センター試験国語(現代文・評論文)対策として、役に立つように、丁寧な解説をしていきます。

 今回の記事は、以下の項目について書いていきます。記事は、約1万字です。

(2)2015センター試験国語第1問(現代文・評論文)『未知との遭遇』佐々木敦・の解説

(3)問題文本文の構成

(4)当ブログにおける「IT化社会」関連記事の紹介

(5)当ブログにおける「反知性主義」関連の記事の紹介

(6)当ブログにおける「センター試験国語(現代文・評論文)」関連の記事の紹介

(7)佐々木敦氏の紹介 

 

 (2)2015センター試験国語第1問(現代文・評論文)・『未知との遭遇』佐々木敦・の解説

(問題文本文)(佐々木敦氏の論考)

(概要です)

(【1】・【2】・【3】・・・・は、本文に付記されている段落番号です)

【1】ネット上で教えを垂れる人たちは、特にある程度有名な方々は、他者に対して啓蒙的な態度を取るということに、一種の義務感を持ってやってらっしゃる場合もあるのだろうと思います。僕も啓蒙は必要だと思うのですが、どうも良くないと思うのは、ともするとネット上では、啓蒙のベクトルが、どんどん落ちていくことです。たとえば掲示板やブログに「○○について教えてください」などという書き込みをしている「教えて君」みたいな人がよくいますが、そこには必ず「教えてあげる君」が現れる

 

 

小林秀雄全作品〈24〉考えるヒント〈下〉

 

 

 (5)2013センター国語第1問(現代文)解説「鐔」小林秀雄・エッセイ

 

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この記事の冒頭部分は、以下のようになっています。

 

ーーーーーーーー

 

(1)~(2)は、前回の記事の(「センター試験現代文対策ー3・11後の最新・傾向分析①ー2012」)の(1)~(2)の概説です。(→この部分は省略します)

前回の記事を読んだ方は(3)から読んで下さい。

 

 (3)2013年度センター試験現代文[大問1](小林秀雄「鐔」)の、出題意図、本問作成者の問題意識の探究

【1】小林秀雄氏の紹介、入試出題状況

 小林秀雄氏は、近代日本の文芸評論の確立者です。

 個性的な、少々切れ味の良い挑発的な文体、詩的雰囲気のある表現が、特徴です。

 西洋絵画の批評や、ランボー、アラン等の翻訳にも、業績を残しました。

 

 入試現代文(国語)の世界では、20年くらい前までは、トップレベルの頻出著者(ほぼ全ての難関大学で、最低1回は出題されていました。)でした。

 現在は、トップレベルではないですが、やはり、頻出著者です。

 最近の入試に全く出題されていない、ということは、ありません。

 最近でも、以下の大学で出題されています。
 大阪大学『考えるヒント』
 明治大学『文化について』
 国学院大学『無常という事』
 明治学院大「骨董」

 
【2】この問題に対する一般的評価、それらに対する私の意見

 この問題については、

「かつての入試頻出著者ではあるが、小林秀雄氏の文章は今の受験生には難解過ぎて、少々、不適切な問題であった」

という評価が多いようです。

 本当に、そうなのでしょうか。

 

 私は、そうは思いません。

 単語のレベルは少々高いです。

 しかし、最近、京都大学・大阪大学・一橋大学・早稲田大学(政経)(教育)(国際教養)(文化構想)・上智大学・明治大学(法)・青山学院大学・中央大学(法)・法政大学等の現代文で流行が続いている擬古文(明治・大正期の文章)、
慶應大学・国公立大学等の小論文で頻出の福沢諭吉の論考、と比較して、
全体的に分かりやすい名文だと感じました。

 丁寧に読んでいけば、受験生にとっても、難解ではないはずです。

 本文のレベルを考慮して、設問は、例年より著しく平易になっています。

 

 しかし、本番直後では、平均点が例年より低下したことが、マスコミやウェブ上で、話題になりました。

 本文の丁寧な読解を諦めた受験生が、多かったのでしょう。

 受験生の粘りや集中力のなさを、問題とするべきです。

 私は、本問を難問・悪問と評価することは、できません。

 また、本問の問題文本文は、論理が飛躍しているので、試験問題として不適切という批判もありました。

 笑うべき批判です。

 今回の本文は、「エッセイ」・「随筆」なので、論理飛躍がある程度あるのは当然です。

 受験生は、著者の気持ち・感性・感想に、寄り添って読解して行けばよいのです。

 つまり、本問に対する様々な批判は、小林秀雄氏のイメージに固執したムード的なものか、的外れなものです。

 これから、そのことを、検証していきます。

 

【3】問題文本文のポイント

 問題文本文は、4つのブロックに分かれています。

 私が注目したのは、第1ブロック第3段落の記述です。

 筆者小林秀雄の主張が、ここにあります。

 以下に引用します。

 「誰も、身に降りかかる乱世に、乱世を以て処する事は出来ない。
 人間は、どう在ろうとも、どんな処にでも、どんな形ででも、平常心を、秩序を、文化を捜さなけれぱ生きて行けぬ。
 そういう止むに止まれぬ人心の動きが、兇器の一部分品を、少しずつ、少しずつ、鐔に仕立てて行くのである。」

 現代も、まさに、「乱世」です。

 日本国内では、3・11東日本大震災、福島原発事故、不景気、非正規雇用問題、年金破綻問題、少子化問題、高齢化問題、そして、熊本地震等の問題が山積しています。

 世界レベルでは、経済問題、テロ問題、難民問題、地球環境問題、温暖化等の難問だらけです。

 つまり、日本でも、世界レベルでも、政治的・経済的・社会的に大混乱が続いています。

 このような「乱世」の中でも、人々は、「乱世」のまま生きていくことは、できません。

 「秩序」、「安定」、さらには、レベルの高い「精神生活」が必要不可欠です。

 

 3・11東日本大震災の時にも、体育館等に避難していた被災者達は、読書への欲求があったと聞いています。

 また、少し落ち着いた時には、近くの書店に訪れる人が多かったようです。

 今現在の人々も、「乱世を乱世のままに生きていくこと」は、できないのです。

 

 受験生は、この第1ブロック第3段落を、しっかり読む必要があります。

 この部分が、この問題のキーセンテンスになっています。

 そして、複数の設問で、このキーセンテンスを聞いてきています。

 第2~4ブロックは、このキーセンテンスの具体例であり、本文も設問も、とても分かりやすい簡明な構造になっています。

 つまり、本問は、決して、難問でも悪問でもないのです。

 

 「本問の論考が、小林秀雄氏の論考にしては、今まで、頻出出典にならなかったのは、全体構造が単純だったからではないか」、

と私は推測します。

 難問か否かは、題材となった文章と設問を精査して、客観的に考えるべきです。

 著者のイメージから軽々に論ずるべきではないと思います。

 ましてや、受験生の平均点や感想は、一応の目安に過ぎません。

 悪問という評価は、よほどのことです。

 

 

自己・あいだ・時間―現象学的精神病理学 (ちくま学芸文庫)

 

 

 (6)2012センター国語第1問解説「境界として自己」木村敏・関係性

 

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 この記事の前半部分は以下のようになっています。

 

ーーーーーーーー

 

(3)2012年度センター試験国語第1問(現代文)・(「境界としての自己」木村敏)の、出題意図、本問作成者の問題意識の探究

 木村敏氏は、精神病理学者、京都大学名誉教授です。

 臨床哲学的精神病理学の立場に立ち、現代の「科学主義」・「客観主義」、つまり、「現代の科学的常識」・「客観性重視主義」に対して異議を申し立てる姿勢を保っています。

 木村氏は、最近の難関大の現代文(国語)・小論文における入試頻出著者です。

 最近では、早稲田大学(法学部)(商学部)、上智大学、法政大学等で出題されています。


……………………

 

 今回の問題は、少々、分かりにくい内容になっています。

 しかし、実は、本問の「自己(アイデンティティ)の相対化」・「自己(アイデンティティ)の否定」、そして、これと表裏一体の、「自己と他者の境界の重視」・「関係性の重視」「間主観性の重視」は、最近流行の現代文・小論文の論点・テーマです。

 これらの論点・テーマは「自己(自分)」・「アイデンティティ」・「個性」・「私らしさ(自分らしさ)」の、過度の重視が目立ってきた10年くらい前(キラキラネームの氾濫が目につく頃)から出題され始めました。

 

……………………

 

 また、2011年には、早稲田大学(法学部)で、今回、センター試験現代文(国語)の問題として検討中の、木村敏氏の哲学的論考(『自分ということ』→この本も、最近流行の現代文・小論文の入試頻出出典)が出題されました。

 

 この論考のキーセンテンスは、以下の部分です。

 「『人と人のあいだ』が、単なる空白の隙間ではなくて、ずっしりと重みのある、実質的な力の場である。」

 「音楽の生命は、音符に書かれたひとつひとつの音にあるのではなくて、音と音の間の『ま』にはたらいている湧きあがるような時間のたわむれにあるのだろう。」

 「自分と相手との『あいだ』が、二人の真に『会い合う』場所となりうるためには、そしてこの『あいだ』の場所が、自分と相手の『自己』を同時に成立させる自覚の場所となりうるためには、そこに『ま』と呼ばれるようなはたらきが十分にはたらいて、二人がそれぞれ自己自身の歴史を生きていながら、その『あいだ』においては、共通の唯一の時間の生成に関与しあっている、ということがなくてはならないのではないのだろうか。」

 

 最後の引用文の前半部分に、2012年度センター試験と全く同一内容の、

「この(自分と相手との)『あいだ』の場所が、自分と相手の『自己』を同時に成立させる自覚の場所」

という、キーフレイズがあります。

 

……………………

 

 著者が主張する「自己(アイデンティティ)概念の相対化」は、「自己(アイデンティティ)概念」そのものの否定では、ありません。

 一般的・常識的な「自己(アイデンティティ)概念」から派生する、

「個人の深刻な孤立化」、

各種の(「自己概念」の誤解に基づく)「傲慢」、

「共同体軽視・無視・嫌悪」、

「倫理・モラルの軽視・無視」、

等のマイナス面を回避するために「新たな自己(アイデンティティ)概念」を模索・構築・創造しようするものです。

 

 

 (7)2017センター試験国語第2問・問題解説・小説の純客観的解法

 

gensairyu.hatenablog.com

 

 この記事の冒頭部分は、以下のようになっています。

 

ーーーーーーーー

 

 2017年センター国語第2問は、素直に解けば、20分程度で満点の取れる問題です。以下に、今回の問題を通して小説問題の効率的な解法を説明していきます。

 

(1)2017年センター試験国語第2問(小説)の解説

 2017年センター試験国語の小説問題は、文語文・擬古文的で読みにくい側面はありますが、設問・選択肢が素直なので、良問だと思います。

 今後の小説問題対策として、有用な問題と考えてたので、今回、記事化することにしました。

 以下では、次の項目を解説していきます。

 今回の記事は、約1万2千字です。

 

(2)「小説問題解法」のポイント・注意点

(3)「センター試験小説問題」の解法のポイント・コツ

(4)2017センター試験国語第2問の解説→本文概要と解説解答

(5)今回の小説問題本文の「あらすじ」

(6)野上弥生子氏の紹介

(7)当ブログの「夏目漱石」関連記事の紹介・一覧

(8)当ブログの「小説問題解説」関連記事の紹介・一覧

(9)当ブログの「センター試験国語解説」記事の紹介・一覧

(10)2017センター試験国語第1問に「当ブログの予想論点記事(科学論)」が的中(著者・論点)したこと、についての報告記事、の紹介

  

(2)「小説問題解法」のポイント・注意点

 小説・エッセイ(随筆)問題の入試出題率は、相変わらず高く、毎年約1割です。

 まず、センター試験の国語では、毎年、出題されます。

 次に、難関国公立・私立大学では、頻出です。

 東大・京都大・大阪大(文)・一橋大・東北大・広島大・筑波大・岡山大・長崎大・熊本大等の国公立大、早稲田大(政経)(文)(商)(教育)(国際教養)(文化構想)、上智大、立命館大、学習院大、マーチ(明治大・青山学院大・立教大・中央大・法政大)(特に文学部)、女子大の現代文では、特に頻出です。

 また、難関国公立・私立大学の小論文の課題文として、出題されることもあります。

 

 小説・エッセイ問題については、「解法(対策)を意識しつつ、慣れること」が必要となります。

 本来、小説やエッセイは、一文一文味わいつつ読むべきです。(国語自体が本来は、そういうものです。)が、これは入試では、時間の面でも、解法の方向でも、有害ですらあります。

 あくまで、設問(そして、選択肢)の要求に応じて、主観的文章を(設問の要求に応じて)純客観的に分析しなくてはならないのです。

(国語を純客観的に分析? これ自体がパラドックスですが、ここでは、この問題には踏み込みません。日本の大学入試制度の問題点です。)

 

 この点で、案外、読書好きの受験生が、この種の問題に弱いのです。(読書好きの受験生は、語彙力があるので、あとは、問題対応力を養成すればよいのです。)

 

 しかし、それほど心配する必要はありません。

 「入試問題の要求にいかに合わせていくか」という方法論を身に付けること、つまり、小説・エッセイ問題に、「正しく慣れる」ことで、得点力は劇的にアップするのです。

 そこで、次に、小説・エッセイ問題の解法のポイントをまとめておきます。

 

【1】5W1H(つまり、筋)の正解な把握

① 誰が(Who)      人物

② いつ(When)       時

③ どこで(Where)  場所

④ なぜ(Why)       理由→これが重要

⑤ なにを(What)    事件

⑥ どうした(How) 行為

 

 上の①~⑥は、必ずしも、わかりやすい順序で書いてあるとは限りません。

 読む側で、一つ一つ確認していく必要があります。

 特に、④の「なぜ(理由)」は、入試の頻出ポイントなので、注意してチェックすることが大切です。

 

【2】登場人物の心理・性格をつかむ

① 登場人物の心理は、その行動・表情・発言に、にじみ出ているので、軽く読み流さないようにする。

② 情景描写は、登場人物の心情を暗示的・象徴的に提示している場合が多いということを、意識して読む。

③ 心理面に重点を置いて、登場人物相互間の人間関係を押さえていく。

④ 登場人物の心理を推理する問題が非常に多い。その場合には、受験生は自分をその人物の立場に置いて、インテリ的に(まじめに→さらに言えば、人生重視的に)、一般的に、考えていくようにする。

⑤ 心理は、時間とともに流動するので、心理的変化は丁寧に追うようにする。

 以上を元に、いかに小説問題を解いていくか、を以下で解説していきます。

 


(3)「センター試験小説問題」の解法のポイント・コツ

【1】先に設問をチェックする

 センター試験の小説問題の本文は、難関大学の小説問題か、それ以上の長文の場合が多いのです。

 そこで、センター試験小説問題を効率的に解くための1つ目のコツは、本文を読む前に設問(特に、設問文)に目を通すことです。

 すぐに設問文に目を通し、「何を問われているか」を押さえてください。

 「設問で問われていること」を意識しつつ読むことで、時間を短縮化することができます。

 

【2】消去法を、うまく使う

 センター試験の小説問題の選択肢は、最近は、少々、長文化しています。

 しかし、明白な傷のある選択肢が多いので、消去法を駆使していくことで、効率的に処理することが可能です。

 

 

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 (8)2008センター試験国語第2問(小説)解説『彼岸過迄』夏目漱石

 

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 夏目漱石は、入試頻出著者です。この問題も、よく検討しておくべきでしょう。

 この問題についても、前記の「小説の純客観的解法」により丁寧に解説しました。

 

ーーーーーーーー

 

今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

ご期待ください。

 

  

 

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「水の東西」等の「リズムの哲学ノート」(山崎正和)による新解釈

(1)はじめに/山崎正和氏の最近の論考「リズムの哲学ノート」、インタビュー記事から、山崎氏の名著「水の東西」・「無常のリズム」(『混沌からの表現』)を読み直す

 

 山崎正和氏の著作は、長期的な入試頻出出典です。山崎氏の著作は大筋は分かりやすいのですが、私は、今まで、その「思想の底流や価値観」が見えにくい面があるように感じていました。
 しかし、最近『アスティオン』に連載された「リズムの哲学ノート」、2017年発行の『舞台をまわす、舞台がまわるー山崎正和オーラルヒステリー』、最近の新聞掲載の「批評」や「インタビュー」を読み、「山崎氏の思想の基盤」が見えてきたのではないか、と思っています。
 つまり、山崎氏の使用する言葉の内容の理解が、より深まったということです。本来、論考は、それ自体の熟読・精読を通して理解するべきです。ただ、その著者が、ある言葉をどのような意味で使用しているかについては、その著者の他の文献を参照することは許されるのです。
 そこで、これらの材料を元に、山崎氏の著名な論考である「水の東西」・「無常のリズム」(『混沌からの表現』)を読み直すとともに、「山崎氏の思想の基盤」を検証することにします。

 以下の記事は、入試国語(現代文)・小論文対策としても、かなり役立つと思います。

 

 まず、初めに注目したのは、『2016年6月25日・読売新聞・夕刊』に掲載された山崎正和氏のインタビュー記事(「生老病死の旅路」)でした。

 この文章は、山崎氏の思考の根幹を、山崎氏自らが分かりやすく説明していて、私にとっては、驚きでした。一読した後に、何の前触れもなく一気に湖水が澄んで、山崎氏の思想の、深い湖の底を見てしまったような感慨を覚えました。
 以下に概要を引用します。


「   運命に後押しされたとき一歩前に踏み込む、8の力で押されたら2は自分の力で頑張り、ここまで来たように思います。
 京大進学以外は、自分で意図したというより、運命に押された感じですが、いま思うのは『人生はリズム』ではないか、ということです。例えば今日みたいな日、『暑いな』と言ったらそれまでだけど、『初夏だな』と思うと、そこには自然、社会と個人との応答がある。さらに『初夏だからショウブを植えよう』になると、単に暑いという認識から進んで、感じる喜び、つくる感動が生まれるんです。
 実は、2012年夏に、がんの兆候を示す指標が最悪で、常識なら死んでいる、と宣告されました。その時、突然、長らく放置していた主題が蘇り、『リズムの哲学ノート』を雑誌連載しました。がんの警告という運命がリズムなら、それが私を執筆に向けて後押ししたのもリズムの流れに違いないと思います。」

 

 この文章に、「私の解釈」を青字で挿入し、「リズム」と「リズムの同類語と思われる表現」を赤字にすると、以下のようになります。

「  運命に後押しされたとき一歩前に踏み込む、8の力で押されたら2は自分の力で頑張り、ここまで来たように思います。

 京大進学以外は、自分で意図したというより、運命に押された感じですが、いま思うのは『人生はリズム』ではないか、ということです。例えば今日みたいな日、『暑いな』と言ったらそれまでだけど、『初夏だな』と思うと、そこには自然、社会と個人との応答がある。(→「リズム」、つまり、「自然」を、どのように受けとめるか、は個人の問題ということでしょう) さらに「初夏だからショウブを植えよう」になると、単に暑いという認識から進んで、感じる喜び、つくる感動が生まれるんです。(→「リズム」(「自然」)に意志で働きかけることができる。気の持ちようによって、「リズム」・「自然」から喜び感動を得ることができる。つまり、「リズム」・「自然」を、どのように柔軟に活用するかの問題でしょう)

 実は、2012年夏に、がんの兆候を示す指標が最悪で、常識なら死んでいる、と宣告されました。その時、突然、長らく放置していた主題が蘇り、『リズムの哲学ノート』を雑誌連載しました。がんの警告という運命リズム(→「リズム=運命」という関係に注目してください)なら、それが私を執筆に向けて後押ししたのもリズムの流れ (→「リズム」が私に「気付き」を与えてくれた、ということです)に違いないと思います。」


 この文章は、山崎正和氏の愛読者にとっては、より深い読解の重要な手がかりになるはずです。

 上記の文章を読むと、山崎氏は、「リズム」を、かなり重視していることが分かります。
 そして、山崎氏は「人生=リズム=自然=運命」と考えているということが分かります。
 しかも、この「リズム=自然=運命」に対して、ある程度は、人間の意志による働きかけが可能であるということが理解できます。

 さらに、冒頭の「運命に後押しされたとき一歩前に踏み込む、8の力で押されたら2は自分の力で頑張り、ここまで来たように思います」という文を読むと、「運命=リズム」の動きに逆らわないで、むしろ、その動きに「自然に」乗ることの重要性に気づきます。

 

 また、「実は、2012年夏に、がんの兆候を示す指標が最悪で、常識なら死んでいる、と宣告されました。その時、突然、長らく放置していた主題が蘇り、『リズムの哲学ノート』を雑誌連載しました。」という記述から明らかですが、山崎氏の「主題」(→テーマ)、つまり、山崎氏の「思想の根幹」は、「リズムの哲学」です。

 言い換えれば、山崎氏は、「リズム」を深く考察することが、「人生・世界・事物」の「根源・原理」の追求につながると考えているのです。
 この一節から、急に視界が開けてきた感じがしました。

 

混沌からの表現 (ちくま学芸文庫)

 

  なお、以下の記事の項目は、次の通りです。

(2)「リズムの哲学ノート」と「無常のリズム」

(3)「リズムの哲学ノート」と「水の東西」

(4)山崎正和氏の思想の背景

(5)「積極的無常観」について

(6)山崎正和氏の紹介

(7)当ブログの「山崎正和氏・関連記事」の紹介

(8)当ブログの「無常観・関連記事」の紹介

 

(2)「リズムの哲学ノート」と「無常のリズム」

 

 「リズムの哲学ノート」(『アスティオン』連載)を元にすれば、山崎氏のこれまでの著作を、さらに深く読解することが可能になりそうです。
 そこで、今回は、このことにチャレンジしてみます。
 このチャレンジは、あくまで試論であり、後に修正する可能性もあることを意識して、大胆に私の考えを展開していくつもりです。

 

 着目するべきは、「リズムの哲学ノート」の中で記述されている「リズム」の内容説明です。
 前述のように、「人生=リズム=自然=運命」と考える山崎氏の思想からすると、「リズム」の内容説明は、そのまま「人生」の内容説明になるからです。

 以下に、主に「リズムの哲学ノート」の中から参考になりそうな記述を引用しつつ、山崎氏の名著「水の東西」・「無常のリズム」(『混沌からの表現』)の解釈をしていきます。

 

(引用は概要です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です)

 

 まず、「リズムの哲学ノート」の中で、私が注目したのは以下の部分です。

「  何よりも哲学は、この世界の根源的な原理であるリズムを感じとり、リズムとともに生きることによって、その働きを如実に知ることができるはずである。」(「リズムの哲学ノート」『アスティオン85』)

「  逆説に響くかもしれないが、人がこの無常観を忘れないかぎり、常識世界における冒険的な自由意志の発揮は安全でもあり有用でもあるといえる。無常観とは正確にリズムの観念の裏返しであって、どんな営みにも始めと中と終わり(序・破・急)(→「序・破・急」を「無常観」の象徴と考えていることが分かります)があり、とりわけ必然的に終わりがあることを知る世界観である。そしてこの世界観を悟達した人は、あらゆる行動について過剰な意志を抱くことはないだろうし、個別の具体的な行為についても終わりの到来を敏感に悟り、心やすらかに諦めることができるはずである。」(『アスティオン85』)


 上記の最後の一文「この世界観(→「無常観」)を悟達した人は、あらゆる行動について過剰な意志を抱くことはないだろうし、個別の具体的な行為についても終わりの到来を敏感に悟り、心やすらかに諦めることができるはずである」

は、まるで日本人のことを説明している感じです。

 「心やすらかに諦めることができる」の部分は、日本人の「何事にも淡白な性格」や「諦念」を、そのまま解説しているようです。

 

 上記の論考を元にすれば、あの有名な「無常のリズム」(『混沌からの表現』)の内容も、よく理解できます。まず、「無常のリズム」の一節(概要)を引用します。

「  寺田寅彦は、花火のなかには『序・破・急』の三段の生成のリズムがあると書いた。始めがあり、中があり、終わりがあり、それが整然たるリズムに乗って展開するとき、われわれはものごとが『完結』したという印象を受ける。

 日本人は、この三段の生成のリズムに敏感であり、一瞬の変化のなかにもまとまりを感じ取る感受性にめぐまれているのかもしれない。

 その感受性が、花火という、純粋な『変化』そのもののような美を育てた。はじけては消える夏の夜の花火を見ていると、ふと、そこはかとない悲しみがただようことは事実である。

 日本人は昔からそういう『はかなさ』に心ひかれ、人生の無常に耽溺してきたと信じられている。それは、たしかに、その通りなのだが、しかしその同じ日本人が、ふしぎに一方で極端なニヒリズムに走らなかったことも事実なのである。人生の無常をかこち(→「嘆く」という意味)ながら、われわれの先祖はそのなかにけっこう安定した自然(→「リズム」、「無常観」)を見出だしていた。そしてそれはたぶん、一瞬の変化の中にも『序・破・急』を感じとる、あの敏感な秩序の感覚のせいにちがいないのである。」(「無常のリズム」『混沌からの表現』)

 

 上記の赤字部分の内容は、前記の論考(「リズムの哲学ノート」)を青字に注目して読むと、さらに理解が深まるでしょう。

 精読すると分かるのですが、下記の論考は、上記(「無常のリズム」)の赤字部分を詳しく説明しているようにも思います。山崎氏は、上記の赤字部分を意識して、下記のようなことを述べているのではないでしょうか。

「  この世界観(→「無常観」)を悟達した人は、あらゆる行動について過剰な意志を抱くこと(→「過剰な意志重視主義」は現代人の悪弊です。「意志万能主義」は「滑稽な信仰」と化しています。特に、日本の会社、教育現場、スポーツ分野に蔓延している、一種の「無知」・「傲慢」です)はないだろうし、個別の具体的な行為についても終わりの到来(→「終わりの到来」とは、「無常の実相」であり、「リズムの実相」と言えるでしょう)を敏感に悟り、心やすらかに諦めること(→「心の平穏を得る」ということでしょうか。そうであるならば、上記の「人生の無常をかこちながら、われわれの先祖はそのなかにけっこう安定した自然を見出だしていた」の部分に対応することになります)ができるはずである。」(山崎正和『アスティオン85』)

 以上の二つの論考は、「日本人と無常観」に関する卓越した考察であり、山崎正和氏の「主題」に密接に関連しています。

 そのことを再確認した私は、この二つの論考の内容の深さに感動し、何度も読み直してしまいました。

 

(3)「リズムの哲学ノート」と「水の東西」

 

 次に、「リズムの哲学ノート」の以下の記述を読むと、「水の東西」の解釈に役に立ちます。

 まず、「水の東西」の著名な一節を引用します。

 「赤字の部分」に注目してください。

 「リズム」と、「リズムと読み替えることが可能な表現」を、赤字化しました。

「『鹿おどし』が動いているのを見ると、その愛嬌の中に、なんとなく人生の気だるさのようなものを感じることがある。かわいらしい竹のシーソーの一端に水受けが付いていて、それに筧の水が少しずつたまる。静かに緊張が高まりながら、やがて水受けがいっぱいになると、シーソーはぐらりと傾いて水をこぼす。緊張が一気に解けて水受けが跳ね上がるとき、竹が石をたたいて、こおんと、くぐもった優しい音を立てるのである。

 見ていると、単純な、緩やかなリズムが、無限にいつまでも繰り返される。緊張が高まり、それが一気にほどけ、しかし何事も起こらない徒労がまた一から始められる。ただ、曇った音響が時を刻んで、庭の静寂と時間の長さをいやが上にも引き立てるだけである。水の流れなのか、時の流れなのか、『鹿おどし』は我々に流れるものを感じさせる。それをせき止め、刻むことによって、この仕掛けはかえって流れてやまないものの存在を強調していると言える。

 言うまでもなく、にはそれ自体として定まった形はない。そうして、形がないということについて、恐らく日本人は西洋人と違った独特の好みを持っていたのである。『行雲流水』という仏教的な言葉があるが、そういう思想はむしろ思想以前の感性によって裏付けられていた。それは外界に対する受動的な態度と言うよりは、積極的に、形なきものを恐れない心の現れではなかっただろうか。

 見えない水と、目に見える水。

 もし、流れを感じることだけが大切なのだとしたら、我々は水を実感するのにもはや水を見る必要さえないと言える。ただ断続する音の響きを聞いてその間隙に流れるもの(→リズム)を間接に心で味わえばよい。そう考えればあの『鹿おどしは、日本人がを鑑賞する行為の極致を現す仕掛けだと言えるかもしれない。」(「水の東西」『混沌からの表現』)

 

 この「水の東西」と、以下の「リズムの哲学ノート」の一節を読み比べてください。

 まるで、山崎氏は、「水の東西」を意識して以下の論考を展開している感じです。

「  あらためて読者の記憶を喚起したいが、私の提唱するリズムはベルクソンの言う純粋持続ではなかった。 リズムには拍節が打ち込まれるのが本来であり、純粋持続とは違って堰(せ)き止められ、鹿おどし構造(→「リズム=鹿おどし構造」の関係に注目してください)をつくるのが本然の姿であった。」(『アスティオン83』)

 上記で山崎氏は、「リズムは鹿おどし構造をつくるのが本然の姿」と言っています。

 「水の東西」は、「鹿おどし構造」について論じていますが、「水の東西」の論考自体が「リズム」について考察していることになります。

 このことは、私にとっては、衝撃でした。

 つまり、この「水の東西」は水を通して、「日本人の無常観」を論じていることになります。

 このことを意識して、「水の東西」を熟読すると、私は新たな感慨に包まれます。

 これほど、日本人の、ひいては、自分自身の「無常観」を冷静に洞察した著者は、珍しいと思います。

 

 さらに、以下の論考も注目するべきです。
「  身体が『もの思う』とは、現象に目を凝らすことであり、耳を澄ますことだろうが、いずれも目や耳が思わずしてしまう反応であって、ここには能動性と受動性の前後関係はまったくない。目を凝らし耳を澄ますのは、何かが見えたり聞こえたりしたからであり、その逆もまた真であって、認められるのは、いわば『誘いだされた能動性』というべきもののほかにはない。」(『アスティオン85』)

 この上記の赤字部分は、かなり重要なことを指摘しています。日本人が「鹿おどし」の音に耳を澄ますことは、まさに「身体が『もの思う』こと」なのです。

 このことを元に「水の東西」の下記の部分を読むと、これまでの解釈とは違った解釈が可能になると思われます。

「  もし、流れを感じることだけが大切なのだとしたら、我々は水を実感するのにもはや水を見る必要さえないと言える。ただ断続する音の響きを聞いて、その間隙に流れるもの(→リズム)を間接に心で味わえばよい。そう考えればあの『鹿おどし』は、日本人が水を鑑賞する行為の極致を現す仕掛けだと言えるかもしれない。」(「水の東西」『混沌からの表現』)

の赤字部分を熟読してください。

 日本人は「身体が『もの思う』(→身体によって、音と共に「無常観」を再確認する)民族」ということが、よく分かります。

 

 なお、「身体でものを思う」の点は、デカルトの「物心二元論」、「身体論」の論点にも関連していることに注目してください。

 以下に、当ブログの「物心二元論(心身二元論)」・「身体論」関連記事のリンク画像を貼っておきます。ぜひ、参照してください。

  

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 さらに、「リズムの哲学ノート」から引用します。
「  リズムの特性の第一は、それがもっぱら顕現する現象であり、ひたすら感知することはできても、それを造りだすことはできないという事実である。
 そしてその第二の特色はそれを感じることが喜びであり、その認識が解放感に直結しているという不思議である。たしかにすべて知ることは喜びを伴うが、リズムを知ることの歓喜は次元を異にしている。リズムの喜びはその喜び方そのものが身体的であって、人はただ目を凝らし耳を澄ますだけではなく、たとえ僅かでも全身を揺すりながら享受するのが普通だろう。哲学にとって、リズムは知ることが最終目的となるような現象であり、裏返せば知ることをそれだけで完結自立させるような現象なのである。」(『アスティオン85』)

 この論考を元にすると、「水の東西」の下記の部分の解釈が、より深まるはずです。

「 ただ断続する響きを聞いて、その間隙に流れるもの(→リズム)を間接に心で味わえばよい。」(「水の東西」『混沌からの表現』)

 日本人も微かに、無意識の内に、「音の響き」に身体を共鳴させているのでしょう。リズムを知ることの歓喜、リズムを再確認することの歓喜と共に。

 

 次の一節も参考になります。

「  リズムは当然ながら、たんに哲学者に認識されるだけでなく、常識社会に暮らす普通の人にも感知される。そして、リズムを知るということ、いいかえればリズムを体感しながら生きるということは、誰であれ、二つの意味で認識者を自由にしてくれる。」(『アスティオン85』)

 「花火」や「鹿おどし」の「リズム」を体感することは、ある意味で人を自由にしてくれるということでしょう。

 

 それでは、「二つの意味」とは何か?

 以下の説明を熟読してください。

「  第一に、それはいっさいの機械的な必然性、硬直した規則性から人を解き放ち、閉じられた受動性の檻から救出してくれる。

 第二にリズムは機械的必然性とは逆の、カント的な自由意志の桎梏リズムは機械的必然性とは逆の、カント的な自由意志の桎梏(しっこく)(→「拘束」という意味。「自由意志を持つべし」という命令自体が「近代原理」からの「拘束」ということです。ここには、「近代批判」の視点があることに注意してください)からも人を解放する。意志は見えない石碑に彫られた銘文であって、睡眠中にも他事に追われているときにも人を縛りつづける。むしろ意志は行動が挫折したときに強化され、人の死後に不動の命令となるものであって、およそ生の柔軟性とは無縁の存在なのであった。(→「自由意志」、「意志」をマイナス評価していることに注意してください) この自由意志がいったん形成され、生の硬直が発生した後では、もちろんリズムにこれと対抗して勝つ可能性はない。人にできることは、いわば予防的措置であって、日頃からリズムに敏感な生活習慣を身につけ、頑固な自由意志が生まれにくい環境に暮らすことだろう。」(『アスティオン85』)


 上記の最終部分を読むと、「鹿おどし」は「日本の伝統の知恵」なのかもしれません。

 何か他のことをしている時にも、音は聞こえるのです。

 水の流れを見ることに集中していなくとも、「鹿おどし」の音は、聞こえるのです。

 そして、「リズムを体感しながら生きるということは、誰であれ二つの意味で認識者を自由にしてくれる」のです。

 

 さらに、「リズムの哲学ノート」からの引用を続けます。

「  自然現象についていえば、朝夕の推移、季節の変化を外界の事象として傍観するのではなく、それに運ばれてみずからが現在を生きていることを実感することである。」(『アスティオン85』)

 上記では、「自然現象に運ばれて自分が生きていること」を実感することが、「真の生の実感」であると、山崎氏は主張しているのでしょう。

 

 「リズムの哲学ノート」の以下の論考も「水の東西」・「無常のリズム」を読解に、大いに参考になります。

「  リズムそのものは普遍的であり、さればこそリズム感覚の伝播も早いのであるが、あるリズム単位を最初に発見するのはあくまでも共同体の総意であって、それ以上の絶対的な法則というものはない。現代でもリズムの完結性の指標は文明によって多様に見られ、「序破急」とか「起承転結」とか「ソナタ形式」とか、地域ごとに多彩を極めているのはそのことの名残りだろう。」(『アスティオン81』)

「『ある身体』は世界的なリズムの小さな波として閉じこめられ、誕生と死のあいだの短い時間内にあらしめられている存在だった。この究極の受動性と局限性はただの知識ではなく、幼、青、壮、老という身体変化を通じて直接に感じられる。そしてその結果として獲られる不安と儚さの感覚(→「無常観」と読み替えることが可能です)が、『ある身体』(→「存在する身体」という意味)を駆って身体の外の無限の時空、世界全体を知ろうと努めさせるのだろう。」(『アスティオン82』)

 以上を読むと、山崎氏は、ほとんどすべての事象を「リズム」や「鹿おどし」の視点から見つめ、読み直そうとしていることが分かります。

 そして、そのことが、的確であることに感服してしまいます。

 日本人だけではなく、人類全体、そればかりではなく、この世のすべての存在は「リズム」の下にあるのですから、このことは当然のことでしょう。

 

(4)山崎正和氏の思想の背景

 

 では、なぜ、山崎氏は、このような「揺るぎない強固な視点」・「透徹した視点」を身に付けたのでしょうか?

  『舞台をまわす、舞台がまわるーー山崎正和オーラルヒステリー』(2017年発行)を読むと、「満洲からの引き揚げ体験」等が、山崎氏の幼年期・少年期の人格形成にかなり影響を及ぼしたことが想像されます。

 つまり、満州での凄惨な体験や、敗戦後の未曾有の混乱が、山崎氏を早熟で鋭敏な人間に作り上げたのでしょう。


 満州医科大学教授を父として京都に生まれた山崎氏は、国際都市・奉天で少年時代を過ごします。

 結核治療を理由に戻った京都でイジメを受け、再び満州に戻りました。

 しかし、そこにソ連軍が来ました。山崎氏は以下のように述べています。

「これは本当に『占領軍』でした。それは血に飢えた狼でした。
 このような状況の中で、日本人は子供を学校に通わせました。母親たちは地下室に潜み、大人の男は外出したら殺されるという状況下に、子供だけが外出したんです。」

 マイナス10度以下の学校では、首つり死体が凍結した状態で梁(はり)から、ぶら下がることもありました。そのような中で、臨時教員の授業を受けたのです。

 これらの体験と、山崎氏本人の繊細な卓越した感受性が、「強固なリズムの視点」の基盤にあるのでしょう。

 

(5)「積極的無常観」について

 

 日本人の「リズム(無常観)」に対する態度は、「積極的無常観」とでも言うべきものでしょう。山崎氏も、そのように呼んでいます。

「無常のリズム」の中で「積極的無常観」に該当する記述は、以下の部分です。


「  日本人は昔からそういう「はかなさ」に心ひかれ、人生の無常に耽溺してきたと信じられている。それは、たしかに、その通りなのだが、しかしその同じ日本人が、ふしぎに一方で極端なニヒリズムに走らなかったことも事実なのである。人生の無常をかこちながら、われわれの先祖はそのなかにけっこう安定した自然(→「リズム」、「無常観」)を見出だしていた。」

 

 また、「水の東西」の中で、「積極的無常観」に該当する記述としては、以下の部分が挙げられます。特に、赤字の部分に着目してください。

「  それ自体として定まった形はない。そうして、形がないということについて、恐らく日本人は西洋人と違った独特の好みを持っていたのである。『行雲流水』という仏教的な言葉があるが、そういう思想はむしろ思想以前の感性によって裏付けられていた。それは外界に対する受動的な態度と言うよりは、積極的に、形なきものを恐れない心の現れではなかっただろうか。」(「水の東西」『混沌からの表現』)

 

 朝日新聞に、山崎正和氏が受けたインタビュー記事(「震災国の私たち」2012年3月9日『朝日新聞』)の中でも、山崎氏は同様の主旨のことを延べています。

 以下に引用します。

「  日本では17年の間に2度も国家規模の大震災が起きた。この結果、日本人の中である種の無常観が目覚めたかも知れない。」

「  日本人の場合、無常観を抱えたまま頑張るという不思議な伝統がある。いわば積極的無常観。それが戻ってきたのではないか。」

「  大震災はいつか必ずやってくる。それにもかかわらず、だれもヤケにも投げやりにもならず、『守るな 逃げろ』という非難訓練にまじめに参加している。」

「  震災を予期した無常観を抱えながら、極めて地道に一つひとつ解決し前に進んでいく。そうやって生きていくと思います。」

 

 さらに2014年1月12日『読売新聞』の「《シリーズ・地球を読む》『積極的無常観』のすすめ」の中では、より詳細に「積極的無常観」について述べているので、以下にポイントになる部分を引用します。

「  若者が明日の希望のために努力するのにたいして、老人は明日はどうなるかわからないからこそ、今日をがんばるのである。世は無常であることを痛感するがゆえに、今日を常の通りに生きようとするのである。無常を覚えながら自暴自棄にならず、逆に今日を深く味わう生き方を私はかねて積極的無常観と呼んできた。時代にはそれぞれを覆う独特の気分があるが、21世紀前半を特徴づける気分には、この積極的無常観が色濃い影を落としそうな予感がする。世界的に高齢化が進み、老人の感性が社会への影響力を増すことが考えられるうえ、たまたまそれと並んで、社会の予測不可能性が急速に高まる傾向が顕著になったからである。」

 「 たとえば日本では東海、東南海、南海大地震が同時に襲う恐れが明日にもありうることは誰もが知っている。だが、この報道にたいして、日本人は恐慌にも自暴自棄にも陥らず、防災ならぬ「『減災」』をめざして地道な努力を重ねている。注目に値するのが減災という概念であって、災害のあることを受け入れたうえで積極的な対処を図る思想である。」

「  振り返ると、日本には積極的無常観の長い伝統があって、『明日に夢があるから今日頑張ろう』という思想と、『明日はどうなるかわからないから今日がんばろう』という思想が両立してきた。」

「  科学技術が進歩を続け、他方で明日をも知れぬ個人の偶然が残る限り、進歩主義と積極的無常観の両立は日本が世界に発しうるメッセージになるのではなかろうか。」

 

  以上を読めば、「積極的無常観」こそが、私たちがとるべき賢明な態度だということが、よく分かると思います。

 そして、現に、日本人の多くが、無意識的にせよ、意識的にせよ、「積極的無常観」をとっているということは、誇らしいことだと考えます。

 

(6)山崎正和氏の紹介

 

【1】山崎正和氏の紹介

 山崎正和氏は、1934年、京都生まれ。京都大学文学部哲学科卒業。劇作家、評論家、演劇研究者。評論は、文明批評、文芸批評、芸術論、演劇論と、実に多彩である。文化功労者。日本芸術院会員。大阪大学教授、東亜大学学長、中央教育審議会会長などを歴任。

 

【2】山崎正和氏の著書 

 主な著書として、

『世阿弥』(新潮文庫)(第9回岸田國士戯曲賞受賞)、

『劇的なる日本人』(新潮社)、

『混沌からの精神』(ちくま学芸文庫)、

『日本文化と個人主義』(中央公論社)、

『近代の擁護』(PHP研究所)、

『社交する人間』(中公文庫)、

『装飾とデザイン』(中公文庫)、

『日本人はどこへ向かっているのか』(潮出版社)、

『山崎正和全戯曲』(河出書房新社)、

『舞台をまわす、舞台がまわる-山崎正和オーラルヒストリー』(中央公論新社)

などがあります。

 以上の、ほとんどの著作は、難関国公立・私立大学の現代文(国語)・小論文の入試頻出出典です。

 

(7)当ブログの「山崎正和氏・関連記事」の紹介

 

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(8)当ブログの「無常観・関連記事」の紹介

 

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ーーーーーーーー 

 

今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後の予定です。

ご期待ください。

 

   

 

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混沌からの表現 (ちくま学芸文庫)

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別冊アステイオン 「災後」の文明

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舞台をまわす、舞台がまわる - 山崎正和オーラルヒストリー

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

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5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

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 私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。

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予想問題「未来世代への責任」岩井克人/地球環境問題・世代間倫理

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 

 現在は、異常気象、地球温暖化など「地球環境問題」に関する論点が、問題化しています。

 「地球環境問題」は「科学批判」のテーマにおける重要な論点でもあります。

 「科学批判」は、2017年度のセンター試験国語(現代文)、東大国語(現代文)でも出題された流行論点・頻出論点です。この2問については、「論点的中記事」を発表しましたので、リンク画像を最後に貼っておきます。ぜひ、ご覧下さい。

 

 最近、次のような記事が発表されました。

「地球環境に科学者ら1万5千人警告 『時間切れが迫る』」(2017年11月15日・朝日新聞デジタル)

「地球温暖化や自然破壊の悪化に警鐘を鳴らし、持続可能な社会に向かうよう訴える声明が、世界の約1万5千人の科学者らの署名とともに米科学誌に発表された。

 日本から署名を寄せた、ノーベル物理学賞受賞者で東京大宇宙線研究所長の梶田隆章さんは『もうすでに非常に厳しい段階に入りつつある。一刻も早い対策の実現が必要との思いです』と朝日新聞の取材に対しコメントした。

 この声明は科学誌バイオサイエンスに13日付で発表された『世界の科学者による人類への警告』。184カ国の1万5364人の科学者らが署名した。1992年に米NGO『憂慮する科学者同盟』が発表した声明の更新版にあたる。

 この25年間で世界の人口が約20億人増え、様々な環境問題が深刻化したと指摘。地球温暖化が進んで平均気温が約0・5度上昇しているとしている。

 声明は、現状維持では取り返しがつかない状態になるとして『時間切れが迫りつつある』と訴える一方、人類は事態好転に向けた変化を起こせるとも指摘。政府や市民がとるべき対策として、二酸化炭素を排出する化石燃料から再生可能エネルギへの切り替えを進めることなど、13項目を提言した。」

 

 こういう「地球環境問題」に関する論点がクローズアップされている時には、「地球環境問題」の基本的な、根本的な論点が出題されることが多いようです。

 そこで、現代文(国語)・小論文対策として、今回は、入試頻出著者・岩井克人氏の、著名な論考「未来世代への責任」、つまり「世代間倫理」についての予想問題解説記事を書きます。

 「世代間倫理」は、慶応大学小論文でよく出題され、最近では2017東大現代文(→この記事の最後に「論点的中報告記事」のリンク画像があります)にも出題されている重要論点です。

 設問としては、金沢大学の現代文(国語)の過去問を使用します。

 

 なお、今回の記事の項目は以下の通りです。

(2)「未来世代への責任」岩井 克人/地球環境問題・世代倫理/2002金沢大過去問

(3)「世代間倫理」の定義

(4)新自由主義経済とモラルハザード(倫理崩壊)の関係/岩井氏の見解

(5)岩井克人氏の紹介

(6)当ブログの「地球環境問題」・「消費社会」関連記事の紹介→「地球環境問題」と「消費社会」の論点は密接に関係しています

 

経済学の宇宙

 

(2)「未来世代への責任」岩井 克人/地球環境問題・世代倫理/2002金沢大過去問 

 

(引用部分は概要です)

(【1】・【2】・【3】・・・・は当ブログによる段落番号です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です) 

 
【1】私は経済学者です。そして、経済学者とは現代において数少ない「悪魔」の一員です。

【2】人類は太古の昔から利己心の悪について語ってきました。他者に対して責任ある行動をとることーーそれが人間にとって真の「倫理」であると教えてきたのです。だが、経済学という学問はまさにこの「倫理」を否定することから出発したのです。

【3】経済学の父アダム・スミス(→アダム・スミス(1723年~1790年)は、イギリスの哲学者・倫理学者・経済学者。スコットランド生まれ。主著に倫理学書『徳感情論』(1759年)と経済学書『国富論』(1776年)。市場経済システムが「自己完結的」であるということを、最初に明確に定義した)はこう述べています。「通常、個人は自分の安全と利得だけを意図している。だが、彼は見えざる手に導かれて、自分の意図しなかった〈公共〉の目的を促進することになる」。ここでスミスが「見えざる手」と呼んだのは、資本主義を律する市場機構のことです。資本主義社会においては、自己利益の追求こそが社会全体の利益を増進するのだと言っているのです。(→「自己完結的」というのは、「自己利益の追求」という人間の欲望を自由に解放しておけば、市場も社会も自然と成長し続ける、という意味です。たとえ、各個人の行為が利己的でも、それが集積されると、結果として個々の意図とは無関係に、社会全体の利益となるということです)

【4】① 経済学者の「悪魔」ぶりがもっとも顕著に発揮されるのは、環境問題に関してでしょう。 多くの人にとって、資本主義が前提とする私的所有制こそ諸悪の根源です。環境破壊とは、私的所有制の下での個人や企業の自己利益の追求によって引き起こされると思っているはずです。

【5】だが、経済学者はそのような常識を逆撫でします。私的所有制とは、まさに環境問題を解決するために導入された制度だと言うのです。

【6】かつて、人類は誰のものでもない草原で自由に家畜を放牧していました。家畜を一頭増やせば、それだけ多く肉や皮やミルクがとれます。草原は誰のものでもないので、家畜が食べる牧草はタダです。確かに一頭増えれば他の家畜が食べる牧草が減り、その発育に影響しますが、自由に放牧されている家畜の中で自分の家畜が占める割合は微々たるものです。それゆえ、人々は草原に牧草がある限り、自分の家畜を増やしていくことになります。その結果、牧草は次第に枯渇し、いつの日か無数の痩せこけた家畜がわずかに残された牧草を求めて争い合う事態が到来することになると言うのです。

【7】これこそ「元祖」環境問題です。そして経済学者は、それは、自然のままの草原が誰の所有でもない共有地であるがゆえの悲劇であると主張します。環境問題とは 「共有地の悲劇」だと言うのです。(→「共有地の悲劇」とは、1968年に生物学者ギャレット・ハーディンが発表したモデルのことです。このモデルは、後にゲーム理論として定式化され、社会的ジレンマ、特に環境問題を議論するときに、取り上げられることが多いようです。ある集合体において、メンバー全員が互いに協力的行動をとっていれば、メンバー全員にメリットがあります。しかし、各人が個別の合理的判断の下、利己的に行動する非協力的状態になると、結果として、誰にとってもデメリットになってしまうという結果を示すモデルです)

【8】事実、もし草原が分割され、その一画を牧場として所有するようになると、その中の家畜はすべて「自分」の家畜となります。その時さらに一頭飼うかどうかは、その一頭が新たに牧草を食べることによって、牧場内の他の家畜の発育がどれだけ影響を受けるかを勘案して決めるようになるはずです。(→この点を「合理的判断」と評価するのです)もはや牧草はタダではありません。他人に牧場を貸したり売ったりする時でも、その中の牧草の価値に応じた賃料や価格を請求するようになるはずです。牧草は合理的に管理され、共有地の悲劇から救われることになります。私的所有制の下での自己利益の追求こそが環境破壊を防止することになると言うわけです。

【9】「悪魔」の一員だけあって、経済学者の論理は完璧です(私自身この論理を30年間教えてきました)。実際、1997年の地球温暖化防止に関する京都議定書(→「京都議定書」は、1997年12月に京都市で開かれた第3回気候変動枠組条約締約国会議(地球温暖化防止京都会議、COP3)で同月11日に採択された、気候変動枠組条約に関する議定書。正式名称は、「気候変動に関する国際連合枠組条約の京都議定書」。地球温暖化の原因となる、温室効果ガスの一種である二酸化炭素 、メタン 、亜酸化窒素 、ハイドロフルオロカーボン類等について、先進国における削減率を1990年を基準として各国別に定めました)は、この論理を取り入れました。また、先進諸国に温暖化ガスの排出枠を権利として割り当て、その過不足を売買することを条件付きで許したのです。(→「排出取引」のことを言っています。「排出取引」とは、各国家や各企業ごとに温室効果ガスの排出枠を定め、排出枠が余った国や企業と、排出枠を超えて排出してしまった国や企業との間で取引する制度。この取引はビジネスとしても成り立つため、企業や政府、双方に経済効果・環境効果が生まれます。「排出権取引」、「排出量取引」とも言います。京都議定書第17条に規定されていて、温室効果ガスの削減を補完する「京都メカニズム」(柔軟性措置)の1つです)

【10】ここでは、温暖化ガスが汚染する大気は家畜が食べ荒らす牧草に対応し、各国が売買しうる排出枠は牧畜家が所有する牧場に対応しています。すなわち、それは大気という自然環境に一種の所有権を設定することによって、それが共有地である限り進行していく温暖化という悲劇を解決しようとしているのです。

【11】では、これで環境問題はすべてめでたく解決するのでしようか?

【12】答えは「否」です。わが人類は不幸にも、経済学者の論理が作動しえない共有地を抱えているのです。

【13】それは「未来世代」の環境です。

【14】② 地球温暖化が深刻であるのは、各国間の利害が対立しているからではありません。未来と現在の二つの世代の間の利害が対立しているからなのです。未来世代を取り巻く自然環境が現在世代によって一方的に破壊されてしまうからなのです。

【15】もちろん、経済学者の論理にしたがえば、この問題も未来世代に未来の環境に関する所有権を与えることによって解決されるはずです。未来世代は、未来の環境が受ける被害に応じた補償額を現在世代に請求するようになり、現在世代はその費用を考慮して環境破壊的な経済活動を自主的に抑えるようになるからです。

【16】だが、ここに根源的な問題が浮かび上がります。未来世代とは、まだこの世に存在していない人間です。タイムマシーンにでも乗らない限り、未来世代が現在世代と取引することは論理的に不可能なのです。

【17】唯一可能な方策は、現在世代が未来世代の権利を代行することです。だが、それは利害関係の当事者の一方が同時に他方も代理して取引するという、まさに利害の相反する状況を作り出してしまいます。現在世代が自己利益を追求している限り、未来世代の利益を考慮して、自分自身と取引することなど、ありえません。

【18】とうとう、われわれは、私有財産制によっては解決不可能な問題に行き当たってしまったのです。

【19】未来世代とは単なる他者ではありません。それは自分の権利を自分で行使できない本質的に無力な他者なのです。③ その未来世代の権利を代行しなけれはならない現在世代とは、未成年者の財産を管理する後見人や意識不明の患者を手術する医者と同じ立場に置かれているのです。自己利益の追求を抑え、無力な他者の利益の実現に責任を持って行動することが要請されているのです。すなわち、「倫理」的な存在となることが要請されているのです。

【20】どうやら、私は「悪魔」の一員として失格したようです。経済学者の論理を極限まで推し進めた結果、その論理が追放してしまったはずの「倫理」なるものを再び呼び戻す羽目に陥ってしまったからです。

【21】だが京都議定書の批准をめぐる最近の混乱(→当時のアメリカのブッシュ大統領が、地球温暖化対策のための京都議定書から離脱する旨表明しました。また、最近では、アメリカのトランプ大統領が、地球温暖化対策の国際的なルールを定めたパリ協定から離脱すると発表しました。結果として、京都議定書は失敗でした。先進国のみにCO2排出削減を義務付けましたが、CO2排出量が多い中進国、発展途上国を野放しにしたため、世界全体のCO2排出量は増え続けています。さらに、これから地球温暖化防止のために必要な国際的な枠組みは、義務も罰則もありません。従って、世界全体のCO2排出量を半減させて、CO2濃度を現状の濃度のままとする、という目標を達成できないことは確実です)は、まさにその「倫理」こそ地球上で最も枯渇した資源(→「新自由主義」・「利己主義」との関係が問題になります。→後述します)であることを思い出させてくれました。環境問題が真に困難な問題であることを結果的に指し示すことになったという意味では、④ 私も立派に「悪魔」としての役割を果たしたと言えるのかもしれません。

 (岩井克人「未来世代への責任」)

 

ーーーーーーーー

 

(設問)

問1  傍線部①について、なぜ、そのように言えるのかを簡潔に説明せよ。

問2  傍線部②について、この部分でなぜ、「各国間の利害のか対立」以外に「未来と現在の二つの世代の間の利害の対立」が持ち出されるのか。その理由を120字以内で記せ。

問3  傍線部③について、「現在世代」をこのように、たとえている理由を簡潔に説明せよ。

問4  傍線部④について、なぜ、そのように言えるのかを簡潔に説明せよ。

 

ーーーーーーーー

 

(解説・解答)

問1(傍線部説明問題・理由説明問題)

→記述式問題の場合にも、出題者が何を問題としているかを、本文を熟読する前にチェックしておく方が効率的です。設問から先に見るべきでしょう。

→熟読・精読を心がけてください。要約を意識しなくても、人間の脳は、自然に要約しているのです❗

 傍線部が、
【1】段落「私は経済学者です。そして、経済学者とは現代において数少ない『悪魔』の一員です」、

および、【2】・【3】段落を受けて、

「経済学者の『悪魔』ぶりがもっとも顕著に発揮される」となっていることに注意してください。

 傍線部の理由説明は、【4】~【8】段落に述べられています。

(解答)
環境破壊とは、私的所有制の下で個人や企業が自己利益追求の結果、引き起こされると考える常識に対して、経済学者は環境問題を「共有地の悲劇」の一種と考え、私的所有制の下での、自己利益の追求こそが環境問題を解決すると主張するから。

 

問2(傍線部説明問題・理由説明問題) 

 傍線部が、
「【11】では、これで環境問題はすべてめでたく解決するのでしようか?
【12】答えは「否」です。わが人類は不幸にも、経済学者の論理が作動しえない共有地を抱えているのです。
【13】それは「未来世代」の環境です。」
の理由部分になっていることに注目してください。

 そのうえで、傍線部直後の「未来世代を取り巻く自然環境が現在世代によって一方的に破壊されてしまうからなのです」が、「傍線部の言い換え」になっていることを読み取ってください。

(解答)
京都議定書の発想は、共有地である自然環境に所有権を設定することにより温暖化が解決可能とするものだが、それは現在世代の利害対立の面から捉えた議論にすぎず、一方的に被害を受ける未来世代を考慮していないという欠陥を指摘するため。(120字以内) 

 

問3(傍線部説明問題・理由説明問題)

 傍線部直後の2つの文に注目してください。

 つまり、傍線部は、

「自己利益の追求を抑え、無力な他者の利益の実現に責任を持って行動することが要請されているのです。すなわち、「『倫理」』的な存在となることが要請されているのです。」という2つの文の具体例としての役割があるのです。

 言い換えると、「未来世代の権利を代行しなけれはならない現在世代」は、「自己利益の追求を抑え、無力な他者(→まだ存在していない「未来世代」)の利益の実現に責任を持って行動することが要請されている」、つまり、

「倫理的な存在」になることが要請されているのです。

(解答)
「後見人」も「医者」も、自分の権利を行使できない無力な者に対する「倫理」的な存在となることが要請されており、無力な者の権利の代行を委任されている点で共通しているから。
 
 

問4(傍線部説明問題・理由説明問題) 

 傍線部直前の「京都議定書の批准をめぐる最近の混乱は、まさにその「倫理」こそ地球上で最も枯渇した資源であることを思い出させてくれました。環境問題が真に困難な問題であることを結果的に指し示すことになったという意味では」に注目する必要があります。

 特に、「環境問題が真に困難な問題であることを結果的に指し示すことになったという意味では」という限定的な表現に注目してください。

 私が「悪魔」である理由は以下の通りです。

 未来世代の環境を保障するのに唯一可能なものは「倫理」である。しかし、その「倫理」が地球上で最も枯渇した資源であることを明らかにしたからです。

 つまり、このままでは、人間には悲惨な将来のみが待っていること、を完璧に証明したからと推測されます。

(解答)
「京都議定書の批准をめぐる混乱」にみられるように、人が「倫理的存在」となることは困難である。だが、環境問題の根本的解決には「倫理」が必要なことを証明した。人は「倫理的存在」であることはできないのに、「倫理」が環境問題の解決に不可欠という現実を突きつけたことが、「悪魔」なのである。 

 

ーーーーーーーー

 

【要約】

 他者に対して責任ある行動をとること、という人間にとっての真の「倫理」を否定している点で、経済学者は現代における「悪魔」だと言える。
 それが顕著なのは「環境問題」に関してである。
 経済学者は、「資本主義が前提とする私的所有制こそ諸悪の根源」だとする一般的常識を否定して、私的所有制の下での自己利益追求こそが環境破壊を解決する制度だと言う。
 しかし、この論理は、未来と現在の世代間の利害対立を解消できないという根本的欠陥を有している。
 未来世代に環境の所有権を与えたうえで、現代世代が未来世代と合理的な取引を行うのであれば、現在世代は環境破壊的経済活動を自主的に抑制するようになるだろう。しかし、未来世代が未だ存在しない以上、未来世代と現在世代の取引は論理的に不可能である。
 つまり、経済学者の言うような私有財産制では、環境問題が根本的には解決しない。
 従って、現在世代には、自己利益の追求を抑え、無力な他者の利益の実現に、倫理的に責任を持って行動することが要請される。
 しかし、「倫理」は同時に現在、地球上で最も枯渇した資源であるから、「倫理的行動」の実現は困難である。
 このように、環境問題が真に困難な問題であることを指し示すことになったという意味では、私も立派に「悪魔」としての役割を果たしたと言えるのかもしれない。

 

 

(3)「世代間倫理」の定義

 

「  異なった世代間の倫理関係が世代間倫理であり、例えば、高齢者介護など世代間の支え合いに基づく社会保障制度に関する責任負担の問題や、雇用における年齢差別の問題を考える場合のような、同時代の中の世代間の倫理問題と、例えば植民地政策や戦争のように、遠い過去に不正や危害について子孫が責任を負うべきかとか、あるいは、天然資源の利用、核廃棄物の貯蔵、地球温暖化など特に環境倫理の問題を考える場面で、未来世代との正義(公平性)や未来世代への責任もしくは義務を考える場合のような、同時代ではない遠く隔たった世代間の倫理問題とがある。とりわけ、後者は人間の同時的相互関係を基本とする近代倫理学にとっては難問である」(『現代倫理学事典』弘文堂)

 

 この定義においても、未来世代との関係における「世代間倫理」は、困難な問題と記述されていることに注目してください。

 

 
(4)新自由主義経済とモラルハザード(倫理崩壊)の関係/岩井氏の見解
   

 新自由主義経済とは市場原理主義、グローバル化、自由貿易、公的部門の民営化、規制緩和などを推進することで、公的部門の比率を減少させ、民間部門の役割を増大させる政治経済思想です。

 そして、自由貿易による関税撤廃。市場経済、規制緩和による価格破壊。これらにより、輸入食品の安全性問題や国内農業の崩壊、コスト削減・成果主義による企業のモラル・安全意識の低下が目立ってきています。

 しかも、弱肉強食の競争原理を掲げる新自由主義・市場主義は、「公共性の問題」を、「競争の公正性」、「セーフティネット」に置き換えます。公共性を軽視した社会運営は、人々から連帯感、共生意識、倫理観を奪い取り、非人間的な人間関係だけが残ることになります。

 新自由主義経済が進展して、利己主義が世界中ではびこり、モラルハザード(倫理崩壊)が起き、世界各地でデモと暴動が頻発する時代となりました。自分たちの生命・存在に危機が迫れば、秩序・倫理が喪失していくことは当然です。

 

 この点に関して、岩井氏は、「経済学はその理論体系から倫理を葬り去ることによって成立した学問です」(『経済学の宇宙』P361)と「経済学」を批判しています。

 そして、岩井氏は、以下のように、『資本主義から市民主義へ』の中で資本主義社会における「倫理の必要性」を強調しています。

「じつは「『資本主義社会は倫理性を絶対に必要とする」』というのが、ぼくの主張です。しかも、まさにそれが契約関係によって成立する社会であることによって倫理性が要請されるということなのです。」(P129『資本主義から市民主義へ』)

 経済学者が倫理を強調することは、珍しいことです。

 上記の「未来世代への責任」では、

「【1】私は経済学者です。そして、経済学者とは現代において数少ない「悪魔」の一員です。
【2】人類は太古の昔から利己心の悪について語ってきました。他者に対して責任ある行動をとることーーそれが人間にとって真の「倫理」であると教えてきたのです。だが、経済学という学問はまさにこの「倫理」を否定することから出発したのです。」

と述べられていることに、矛盾する感じです。

 

 しかし、「【21】だが京都議定書の批准をめぐる最近の混乱は、まさにその「『倫理」』こそ地球上で最も枯渇した資源であることを思い出させてくれました」という由々しき現状、

新自由主義経済における倫理性の全くの欠如という状況から、

これまでの視点を大きく変換したのでしょう。

 

 岩井氏の「倫理」に関する考察はユニークな上に、入試頻出なので、さらに引用していきます。

 熟読してください。

倫理の問題に戻ります。端的に言ってしまうと、倫理とは、人間が死ぬ存在であることと本質的にかかわっていると思っています。なぜなら、人間が永遠に生きられるとすると、現在何か悪いことをやっても、将来かならず相手に対して償いをすることが可能になるからです。それは、すべてを、法律的な権利義務の関係、いや、もっと正確には、経済的な貸し借り関係に還元してしまうことになるのです。そこでは、ほんとうの意味での倫理性は必要でなくなってしまう。だが、人間は有限な存在です。だから、自分のおこなった行為に対して、どのようにしても償いや返済ができない可能性がある。そこではじめて、本来的な意味での主体的な責任という問題が生まれてくるのです。それが究極の意味での倫理の問題だと思うのです。」(P131・132『資本主義から市民主義へ』)


「言語・法・貨幣、さらにそれとは別のカテゴリーですけれど、定言命題(→ 主語に対して述語が結びついているという形の単純な命題)としての倫理―これらが、まさに自己循環論法の産物であるということ、つまり実体的な根拠をもっていないということに、究極的には人間の人間としての自由の拠り所があるし、人間にとっての救いがあると思っています。自己循環論法であるからこそ、遺伝子情報の制約からも、人間理性の限界からも自由になれるのです。その意味で、言語・法・貨幣、そして倫理、とりわけ、それらすべての基礎にある言語のなかに、もっとも根源的な真理が隠されているわけです。無根拠だから空虚なのではありません。無根拠だから真理を見出していく無限の潜在力にあふれているのです。」(P144・145『資本主義から市民主義へ』)

 

「ミルトン・フリードマンのような単純な新古典派経済学(→「新古典派経済学」とは、経済学における学派の一つ。 新古典派の考え方は、自由放任主義である。 価格の調整速度が速いということを前提として理論を展開している。 競争原理が第一と考えている)の人たちは、ぜんぶ利潤追求でOKだと語っていますが、ぼくは逆に、資本主義そのものに矛盾があるということを、不均衡動学(→『不均衡動学の理論』)で論証し、『貨幣論』で論証し、会社論(→『会社はこれからどうなるのか』→本書において岩井氏は、「会社は株主のものである」とする株主主権を批判する一方で、「信任」ということを重視しています。また、2008年以降の世界経済危機を、1970年代後半から始まったグローバル化のもととなった「新古典派経済学」の「壮大な失敗」と考えています)でも論証しているわけです。会社論では信任が必要だ、倫理が必要だということを語っている。つまり、資本主義はつねにどこかで市民社会とつながっていなければならない。そうしなれば、自己崩壊の危機をつねにかかえてしまうことになる。やはり、法が自己循環的な構造をもっているがゆえに、どこかで市民社会とつながっていなければ、自己崩壊してしまう危険をつねにかかえてしまう。」(P273・274『資本主義から市民主義へ』)

 

 あらゆる学問がそうですが、「経済学」も、常にどこかで市民社会とつながっていなければならない学問です。
 市民社会の基盤には、倫理があるのですから、経済学も倫理性を有しているべきでしょう。そうしなれば、一般社会から隔絶した空理空論と評価されることになるでしょう。
 以上の点で、岩井氏の論考は、極めて正当と評価できると思います。

 

(5)岩井克人氏の紹介

岩井 克人(いわい かつひと、1947年生まれ ) 日本の経済学者(経済理論・法理論・日本経済論)。学位はPh.D.(マサチューセッツ工科大学・1972年)。米イェール大学助教授、東大助教授、米ペンシルベニア大学客員教授、米プリンストン大学客員准教授、東大教授などを経る。国際基督教大学客員教授、東京大学名誉教授、公益財団法人東京財団名誉研究員、日本学士院会員。

  

【著書】

『ヴェニスの商人の資本論』(筑摩書房・1985年、ちくま学芸文庫・1992年)

『不均衡動学の理論』(岩波書店・1987年)

『貨幣論』(筑摩書房・1993年、ちくま学芸文庫・1998年)

『資本主義を語る』(講談社・1994年、ちくま学芸文庫・1997年)

『二十一世紀の資本主義論』(筑摩書房・2000年、ちくま学芸文庫・2006年)

『会社はこれからどうなるのか』(平凡社・2003年、平凡社ライブラリー・2009年)

『会社はだれのものか』(平凡社・2005年)

『IFRSに異議あり』(日本経済新聞出版社・2011年)

『経済学の宇宙』(日本経済新聞出版社・2015年)

『不均衡動学の理論』(モダン・エコノミックス20/ 岩波オンデマンドブックス) 

 

  なお、当ブログでは、岩井克人氏の論考については、最近、予想問題記事を発表しました。ぜひ、ご覧ください。

 

gensairyu.hatenablog.com

 

 

(6)当ブログの「地球環境問題」・「消費社会」関連記事の紹介

 「地球環境問題」の根本的原因・背景に「消費社会」の問題があります。常に、セットで考えるようにしてください。「消費社会」・「高度消費社会」の論点は、入試頻出論点です。

 

gensairyu.hatenablog.com

 

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ーーーーーーーー

 

今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

ご期待ください。

 

   

 

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経済学の宇宙

経済学の宇宙

 

 

不均衡動学の理論 (モダン・エコノミックス 20)

不均衡動学の理論 (モダン・エコノミックス 20)

 

 

資本主義から市民主義へ (ちくま学芸文庫)

資本主義から市民主義へ (ちくま学芸文庫)

 

 

会社はこれからどうなるのか

会社はこれからどうなるのか

 

 

頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

 

 

5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

 

 

 私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。

https://twitter.com/gensairyu 

https://twitter.com/gensairyu2

 

予想問題『日本文化の論点』宇野常寛/2014早大社会現代文

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 

 評論家・宇野常寛氏は、最近の入試頻出著者です。

 宇野氏は継続的に、「3・11東日本大震災、福島原発事故」について、深い考察をしています。

 「3・11東日本大震災、福島原発事故」は、最近の流行論点・頻出論点であり、当ブログにおける中心テーマになっています。


 以下に、当ブログの第1回の記事「開設の言葉」の概要を引用します。

 

「入試現代文(国語)・小論文の最新傾向として、注目するべきポイントとしては、2つの大きな柱があります。

【1】1つの柱は、「IT社会の光と影と闇」です。

【2】もう1つの柱は、「3・11東日本大震災の各方面に対する影響」です。

 「各方面」は、実に多方面にわたっています。入試現代文(国語)・小論文の問題を読んでいると、現代文明論、科学批判(近代科学論・現代科学論)以外に、自己論(アイデンティティ論)・環境論・人間関係論・人生論・政治論(民主主義論)等、「影響」が思いもしない方面にまで及んでいる事に、驚かされます。

 「影響」は、「単なる影響」のレベルでは、ありません。
 今までないくらいに大きく、底知れぬほど深く、長期的なものと言えます。

 最近の入試現代文(国語)・小論文にも、その影響は続いています。」

 

gensairyu.hatenablog.com

 

 今回の宇野氏の論考(『日本文化の論点』)は、「3・11東日本大震災、福島原発事故」と「世界観・終末観の変化」という、入試国語(現代文)・小論文における、頻出で重要なテーマを論じているので、予想問題記事として取り上げることにしました。

 

 今回の記事の項目は、以下の通りです。

(2)予想問題『日本文化の論点』宇野常寛/2014早稲田大学(社会)過去問

(3)本問のポイントの解説→「宇野氏の問題意識」の解説

(4)宇野常寛氏の紹介

(5)当ブログの「東日本大震災・福島原発事故」関連記事の紹介

(6)当ブログの最近の「予想問題」記事の紹介

 

日本文化の論点 (ちくま新書)

 

(2)予想問題『日本文化の論点』宇野常寛/2014早稲田大学(社会)過去問

 

(引用部分は概要です)

(【1】・【2】・・・・は当ブログによる段落番号です)(

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です) 

【1】円谷英二が始めた日本の特撮は、精巧なミニチュアで作られた町や山や海を舞台に、怪獣やヒーローやスーパーマシンたちが活躍し、見る者をワクワクさせてきました。しかし現在、特撮は、デジタル技術の発展と共に形を変え、その価値を見直す岐路に立たされていると言えます。本展覧会は、特撮のこうした状況を何とかしたいとかねてから考えてきた庵野秀明が、「館長」となって「博物館」を立ち上げた、というコンセプトのもとで開催します。
(「館長 庵野秀明 特撮博物館」東京都現代美術館公式ホームページより)

【2】展示の初日に行こう、と決めていました。2012年7月のこの週は息抜きしよう、遊ぼうと心に決めて、この日を待っていたくらいです。

【3】実を言うと、その日まで僕はひどく落ち込んでいました。理由は他愛もないことです。その前々日の日曜日、僕は国際展示場で催されたあるアイドルグループの握手会でちょっとした失敗をしてしまっていました。握手のスケジュールを甘く見積っていて、時間内に複数のメンバーのブースを回ることができずに握手券を二枚を無駄にしてしまったのです。僕の見積りが甘くなったのは、僕も運営側も予測できなかったレベルでの混雑です。予想外の数のファンが殺到した結果、会場で小さな混乱が起こっていたのです。僕は正直、落ち込んだけれど、その一方であの空間に満ちていた混沌とした圧倒的な力には、やはり何かを期待させるものを感じていました。

【4】そして訪れた7月10日、すでに清澄白河の会場は混雑していて、平日の昼間、それも午前中にどこから湧いて出たんだろうというくらい、そこには大人たちが、いや「おおきなおともだち」がいっぱい集まっていました。平均年齢も高くて、33歳の僕はあの中ではたぶんかなり若い方だったと思います。僕らはそんな状況がもたらす奇妙な居心地に少し戸惑いながら、この博物館の奥へ、奥へと入っていきました。

【5】特撮の歴史とは戦後日本の精神史でもあります。『ウルトラ』シリーズの生みの親として知られる「特撮の父」円谷英二は独自の特撮技術を開発し、戦前から映画界で活躍していましたが、その技術を政府に評価され戦時中は当時所属していた東宝の社員として数多くの戦意高揚映画の制作に関わりました。後に円谷が怪獣映画などで駆使する特撮技術の多くが、この時期の戦意高揚映画の制作の中で培われたと言われています。そして終戦後、公職追放で一時期東宝を追われた後に復帰し、戦争映画などの特技監督を務めました。そのかたわら、日本初の本格特撮映画『ゴジラ』を発表し、国内に「怪獣映画」というジャンルを確立することになります。

【6】広く知られているように、怪獣ゴジラはアメリカの核実験によって怪獣に変異した古代生物で、1945年の公開当時、東京を焼け野原に変えるその衝撃は空襲の再来として受け止められました。その来歴から明らかなように、円谷的な想像力とは少なくとも「政治の季節」と呼ばれた1960年代までは国家や軍隊といった ① 大文字の「政治」性と密接な関係を持ち、そこで描かれる巨大なもの(怪獣など)による都市破壊は、国家による暴力ーーつまり、戦争による社会破壊が重ね合わされています。

【7】『ウルトラマン』(1966~1967年)、『ウルトラセブン』(1967~1968年)の2作は、サンフランシスコ体制の比喩として繰り返し読解されてきた歴史があります。すなわち、いや高度成長期の日本の街並みを襲う怪獣や宇宙人は東側諸国の侵攻軍であり、それを撃退すべく組織されながらも見るからに戦力不足の「科学特捜隊」や「ウルトラ警備隊」といった防衛組織は日本の自衛隊、そして防衛組織に代わって侵略者を退治してくれるウルトラマンやウルトラセブンは在日米軍、という見たてになります。

【8】20世紀という「戦争の世紀」の表舞台で活躍した、国民国家による暴力装置=〔 A 〕へのおそれと憧れが複雑に入り混じった感情が、子ども番組という不自由な枠組みに軟着陸したときに生まれた奇形的な想像力ーーそれが戦後日本のミニチュア特撮の本質です。それは強大なものへの憧れと、それをストレートに表現することを許してくれない敗戦の傷跡ーー自分たち日本こそが悪の侵略者だったという歴史の呪縛ーーが複雑に絡み合うことで生まれた、永遠の「12歳の少年」の自画像です。怪獣映画やウルトラマンはあらゆる意味において戦争映画のアイロニカルな代替物=〔    B    〕であったと言えるでしょう。

〔  1  〕

【9】そして、映画の代替物として発展した戦後怪獣映画は、戦後社会の変化とともにゆるやかに終焉していきました。それは奇しくもミニチュア特撮という文化の勃興と衰退の歴史に重なります。21世紀の日本の「特撮」の主流は、むしろチャンバラ劇の流れをくむ東映系の等身大ヒーロー、つまり、『仮面ライダー』シリーズや『スーパー戦隊』シリーズで、怪獣映画の類の人気は下火はになって久しいものがあります。これらの番組においてはいわゆる「殺陣(たて)」を中心としたアクションが中核にあり、ミニチュア特撮は補助的な要素でしかありません。物語的にも1970年代の勃興期から、怪獣映画や『ウルトラ』シリーズが否応なく孕(はら)んでいた戦後的政治性の呪縛から解放された、自由で政治性の希薄な、痛快娯楽劇が展開されることが多かったのです。

〔  2  〕

【10】展示のクライマックスは、庵野秀明と樋口真嗣によおる短編映画『巨神兵東京に現わる』でした。宮崎駿の映画/漫画『風の谷のナウシカ』に登場する巨大人型兵器「巨神兵」が現代の東京に襲来し、街々を一瞬で灰塵(かいじん)に帰するその過程を、今失われつつあるミニチュア特撮技術の粋を凝らして撮影した9分間の短編映画です。

【11】半世紀以上の時間をかけて積み重ねられ、伝えられてきた技術を惜しみなく投入したその映像は、特撮ファンの僕のひいき目を差し引いても、最新のコンピューター・グラフィックス技術を駆使したハリウッド映画と比べても遜色がないように見えました。

【12】その日、巨神兵のフィギュアと図録を買い込んで帰路についた僕たちは、氷イチゴを食べました。まだ午後の早い時間だったけれど、いい一日だったと思いました。すばらしい展示だったし、すばらしい映画だっ

【13】でも・・・・崩れ落ちそうになる氷の山をストローでつつきながら、同行した友人が遠慮がちに述べたのです。「展示も映画も素晴らしい。あの映画の映像で用いられていたミニチュア特撮もすごい職人芸だと思う。しかし上上映会直後後、 ② 隣に座ってた中学生くらいの女の子が『CGみたいですごいね』と感想を漏らしたのを聞いたか」と。

〔  3  〕

【14】『巨神兵東京に現わる』を観ると、そこに描かれた20世紀後半的(冷戦期的)な終末観がすでに過去のものでしかないことを痛感させられます。︎映像に添えられた舞城王太郎の「詩」を、林原めぐみが読み上げることで語られる終末観(ある日、空から巨大なもの=核兵器が降ってきて、世界が一瞬で終わる)にせよ、スタッフたちがメイキングで語る「こんな時代だからこそミニチュア特撮を」という自意識=アイロニーにせよ、すべてノスタルジーとしてしか機能しないことを改めて思い知らされてしまいます。

〔  4  〕

【15】福島の原子力発電所の問題ひとつとっても、それは明らかでしょう。人類の傲慢=〔 C 〕が僕たちの世界を変えるとき、それはかつて冷戦時代に夢想された核戦争のように一瞬ですべてをリセットするのではなく、何十年もの時間をかけてゆっくりと、蝕むように少しずつ日常の中から僕らの世界的変えていきます。あるいはどれほど作中で「いま」の東京をミニチュアで再現し、シナリオに携帯電話の出てくるシーンを組み込んだとしても、その一方で電柱や東京タワーといった「昭和」的アイコンの力を借りなければ彼らは表現を構築できません。

〔  5  〕

【16】この映画はコンセンプチュアルであるがゆえに、20世紀後半的(冷戦期的)な世界観/終末観と、ミニチュア特撮の育んできた③ アイロニカルな想像力では(物語的にも手法的にも)現代を描くことができないことを決定的に告白してしまっています。怪獣映画もミニチュア特撮も戦後的アイロニーも、20世紀後半的(冷戦期的)な終末観も、すべて過去のもので、もはや④ ノスタルジィしかもたらしません。だからこそ、これらは博物館で展示されるものに相応しいのです。そこには過去しかありません。よって今やそれらは誰も傷つけません。安全な表現だからです。冷戦下に育まれた「世界の終わり」のイメージ、そして戦後的想像力はいよいよ「終わり」を迎えてしまったのだ、と僕は確信しました。とくに「あの日」からは。(宇野常寛『日本文化の論点』より)

 

ーーーーーーーー

 

(設問)

 

問1 次の段落が入る位置として最適な箇所を空欄1~5の中から一つ選べ。

 すなわち、冷戦が終結し、戦後的な社会構造がゆるやかに解体されてゆく中で、戦後的な政治性に強くその精神性を依存していたミニチュア特撮は、技術的にも物語的にも衰微していくことになったわけです。そして、その衰微があったからこそ、これらの文化の「遺産」は博物館に収められることになった、と言えるでしょう。

 

問2 空欄A~Cに入る言葉として最適なものを、次の中から一つ選べ。

A  1 空襲  2 軍隊  3 戦争  4 破壊  5 侵略

B  1 ヒーロー  2 特撮  3 ミニチュア  4 こども番組  5 傷跡

C  1 怪獣ゴジラ  2 核兵器  3 核実験  4 核の力  5 原爆

 

問3 傍線部①「大文字の「『政治」』性」という表現の説明として適切でないものを、次の中から一つ選べ。

1  戦後日本の精神史を代表するもの

2  20世紀の表舞台で活躍した装置

3  自分たちが侵略者だったという歴史の呪縛

4  おそれや憧れの対象となる強大なもの

5  戦後的な社会構造を構築してきたもの

 

問4 傍線部②「隣に座ってた中学生くらいの女の子が『CGみたいですごいね』と感想を漏らしたのを聞いたか」という友人の発言は何を意味しているか。その説明として最適なものを、次の中から一つ選べ。

1  中学生の言葉から、ミニチュア特撮技術を結集して撮影した映像が、最新のCG技術を駆使したハリウッド映画と比べても遜色がないほど優れていることが確認できてうれしい。

2  中学生の言葉から、精巧なミニチュアで作られた町や山や海を舞台に、怪獣やヒーローやスーパーマシンたちが活躍する特撮は今なお、見る者をワクワクさせていることが分かる。

3 『巨神兵東京に現わる』を現在のCGになぞらえる中学生の言葉は、どんなに優れた映像でも、ミニチュア特撮がすでに過去のものでしかないことを物語っている。

4 『巨神兵東京に現わる』は「いま」の東京を再現した優れた映像だとしても、中学生の言葉は、ミニチュア特撮のリアリティがCGに及ばないことを示している。

5  宮崎駿の映画/漫画に登場する「巨神兵」が現代の東京に襲来し、街々を一瞬で破壊するテーマは、本来アニメやCGに相応しいことを、中学生の発言は明らかにしている。

 

問5 傍線部③「アイロニカルな想像力」と同じ意味で用いられている言葉として最適なものを、次の中から一つ選べ。

1  おそれと憧れが複雑に入り混じった感情

2  戦後的政治性の呪縛からの解放

3  舞城王太郎の「詩」が語る終末観

4  スタッフたちがメイキングで語る自意識

5  一瞬ですべてをリセットするという夢想

 

問6 傍線部④「ノスタルジィ」の例として挙げられている文中の語句として適切でないものを、次の中から一つ選べ。

1  巨大なもの(怪獣など)による都市破壊

2『仮面ライダー』シリーズや『スーパー戦隊』シリーズ

3  ある日、空から巨大なもの=核兵器が降ってきて、世界が一瞬で終わるという終末観

4  「こんな時代だからこそミニチュア特撮を」という自意識

5  電柱や東京タワーといった「昭和」的アイコン

 

問7 本文の内容と一致するものを、次の中から二つ選べ。

1  怪獣やヒーローやスパーマシンたちが活躍し、見る者をワクワクさせてきたミニチュア特撮は、デジタル技術の発展とともに形を変え、その価値を見直す岐路に立たされている。

2  ミニチュア特撮は見る者の多くをワクワクさせてきたが、過去のものとなりつつある。それは、アイドルグループの握手会が未来に向けて期待を感じさせるのと対照的である。

3  ミニチュア特撮は戦後的政治性を孕んできたが、『仮面ライダー』シリーズや『スパー戦隊』シリーズなどの等身大ヒーローに淘汰されて、その役割を果たせなくなった。

4  ハリウッド映画と比べても遜色がない『巨神兵東京に現わる』は、ノスタルジィにほかならないが、同時にミニチュア特撮がこれから生き残っていく可能性の方向を示唆している。

5  アメリカの核実験によって怪獣に変異したゴジラが東京の街々を破壊する恐怖は、まったく現代的なものに姿を変え、福島原発事故の恐怖として今日の社会に甦った。

6  ミニチュア特撮が繰り返し描いてきた都市破壊や世界の終わりは、戦後的政治性の呪縛を内包していたが、最終的には誰も傷つけない安全な表現になってしまった。

7  地震と原発事故の「あの日」があったことによって、徹底的な都市破壊といった「世界の終わり」を繰り返し描いてきたミニチュア特撮は「終わり」を迎えてしまった。

 

ーーーーーーー

 

(解説・解答)

問1 (脱文挿入問題) 

→本文を読む前に、脱文のポイントをチェックするべきです。

 「脱文」冒頭の、「言い換え」の接続語「すなわち」に注目してください。
 つまり、以下の文脈に着目する必要があります。

直前の【9】段落「そして、映画の代替物として発展した戦後怪獣映画は、戦後社会の変化とともにゆるやかに終焉していきました。それは奇しくもミニチュア特撮という文化の勃興と衰退の歴史に重なります。」


【脱文】「すなわち、冷戦が終結し、戦後的な社会構造がゆるやかに解体されてゆく中で、戦後的な政治性に強くその精神性を依存していた。ニチュア特撮は、技術的にも物語的にも衰微していくことになったわけです。」

 

 次に、「脱文」後半部の
「その衰微があったからこそ、これら(→「ミニチュア特撮」)の文化の「遺産」は博物館に収められることになった、と言えるでしょう。」

直後の【10】段落「展示のクライマックスは、庵野秀明と樋口真嗣による短編映画『巨神兵東京に現わる』でした。宮崎駿の映画/漫画『風の谷のナウシカ』に登場する巨大人型兵器「巨神兵」が現代の東京に襲来し、街々を一瞬で灰塵(かいじん)に帰するその過程を、今失われつつあるミニチュア特撮技術の粋を凝らして撮影した9分間の短編映画です。」

(解答)2

 

問2 (空欄補充問題)

 →すぐに、選択肢をチェックしてください。

A 【6】段落の「国家による暴力ーーつまり、戦争による社会破壊」、空欄直前の「20世紀という『戦争の世紀』の表舞台で活躍した」、「国民国家による暴力装置=」に注目して2の「軍隊」を選択してください。 

B   空欄直前の「怪獣映画やウルトラマン」、「戦争映画のアイロニカルな代替物=」に着目してください。

C   空欄直前の「原子力発電所」の問題ひとつとっても」、空欄直後の「核戦争」、「人類の傲慢」に注意して、4の「核の力」を選択してください。

(解答)A=2 B=3 C=4

 

問3 (傍線部説明問題)

 傍線部直前の「国家や軍隊といった」に注目して、「適切でないもの」を選択してください。

(解答)1

 

問4 (傍線部説明問題)

「展示も映画も素晴らしい。あの映画の映像で用いられていたミニチュア特撮もすごい職人芸だと思う。しかし上映直後、②隣に座ってた中学生くらいの女の子が『CGみたいですごいね』と感想を漏らしたのを聞いたか」の文脈に注意するべきです。

 「しかし」以下には、「ミニチュア特撮」をマイナス評価するニュアンスの表現が来るはずです。

 本文における、「ミニチュア特撮をマイナス評価する記述」に注目すると、以下のものが挙げられます。

【9】段落「そして、映画の代替物として発展した戦後怪獣映画は、戦後社会の変化とともにゆるやかに終焉していきました。それは奇しくもミニチュア特撮という文化の勃興と衰退の歴史に重なります。」

【10】段落「展示のクライマックスは、庵野秀明と樋口真嗣による短編映画『巨神兵東京に現わる』でした。宮崎駿の映画/漫画『風の谷のナウシカ』に登場する巨大人型兵器「巨神兵」が現代の東京に襲来し、街々を一瞬で灰塵(かいじん)に帰するその過程を、今失われつつあるミニチュア特撮技術の粋を凝らして撮影した9分間の短編映画です。」

【16】段落「怪獣映画もミニチュア特撮も戦後的アイロニーも、すべて過去のもので、もはや④ ノスタルジィしかもたらしません。だからこそ、これらは博物館で展示されるものに相応しいのです。そこには過去しかありません。」

 以上の文脈に着目してください。

(解答)3

 

問5(傍線部説明問題)

 傍線部直前の「ミニチュア特撮の育んできた」に着目したうえで、

【8】段落「20世紀という『戦争の世紀』の表舞台で活躍した、国民国家による暴力装置=〔A=軍隊]へのおそれと憧れが複雑に入り混じった感情が、子ども番組という不自由な枠組みに軟着陸したときに生まれた奇形的な想像力ーーそれが戦後日本のミニチュア特撮の本質です。」のポイントを読み取ってください。

(解答)1

 

問6(傍線部説明問題)

 傍線部を含む一文より、「ノスタルジィ」の対象は、

「怪獣映画」・「ミニチュア特撮」・「戦後的アイロニー」・「20世紀後半的(冷戦期的)な終末観」であることは明らかです。

 そして、

【9】段落の「これらの番組(→「『仮面ライダー』シリーズや『スーパー戦隊』シリーズ」) においてはいわゆる「殺陣(たて)」を中心としたアクションが中核にあり、ミニチュア特撮は補助的な要素でしかありません。物語的にも1970年代の勃興期から、怪獣映画や『ウルトラ』シリーズが否応なく孕(はら)んでいた戦後的政治性の呪縛から解放された、自由で政治性の希薄な、痛快娯楽劇が展開されることが多かったのです。」という記述から、2(「『仮面ライダー』シリーズや『スーパー戦隊』シリーズ」)が不適切です。

(解答)2

 

問7(趣旨合致問題) 

→本文を読む前に、設問のポイントをチェックすることにより、効率的に処理することができます。

 

1【1】段落(「館長 庵野秀明 特撮博物館」東京都現代美術館公式ホームページより」)の文章なので、不一致です。

2  全体の文脈に合致しています。

3  「『仮面ライダー』シリーズや『スパー戦隊』シリーズなどの等身大ヒーローに淘汰されて、その役割を果たせなくなった。」の部分が誤りです。本文に、このような記述はありません。

4  「同時にミニチュア特撮がこれから生き残っていく可能性の方向を示唆している。」の部分が誤りです。

5  本文には、このような記述はありません。

6【16】段落より合致しています。

7【16】段落の最終の二文より、誤りです。

(解答)2・6

 

ーーーーーーーー

 

(3)本問のポイントの解説→「宇野氏の問題意識」の解説

 

 本問の重要段落は、【14】・【15】・【16】段落です。

 以下に、各段落のポイントを再掲します。

 

【14】段落「『巨神兵東京に現わる』を観ると、そこに描かれた20世紀後半的(冷戦期的)な終末観がすでに過去のものでしかないことを痛感させられます。︎映像に添えられた舞城王太郎の「詩」を、林原めぐみが読み上げることで語られる終末観(ある日、空から巨大なもの=核兵器が降ってきて、世界が一瞬で終わる)にせよ、スタッフたちがメイキングで語る「こんな時代だからこそミニチュア特撮を」という自意識=アイロニーにせよ、すべてノスタルジーとしてしか機能しないことを改めて思い知らされてしまいます。」

【16】段落「この映画はコンセンプチュアルであるがゆえに、20世紀後半的(冷戦期的)な世界観/終末観と、ミニチュア特撮の育んできた③ アイロニカルな想像力では(物語的にも手法的にも)現代を描くことができないことを決定的に告白してしまっています。怪獣映画もミニチュア特撮も戦後的アイロニーも、20世紀後半的(冷戦期的)な終末観も、すべて過去のもので、もはや④ ノスタルジィしかもたらしません。だからこそ、これらは博物館で展示されるものに相応しいのです。そこには過去しかありません。よって今やそれらは誰も傷つけません。安全な表現だからです。冷戦下に育まれた「世界の終わり」のイメージ、そして戦後的想像力はいよいよ「終わり」を迎えてしまったのだ、と僕は確信しました。とくに「あの日」からは。

【15】段落「福島の原子力発電所の問題ひとつとっても、それは明らかでしょう。人類の傲慢=〔C=核の力〕が僕たちの世界を変えるとき、それはかつて冷戦時代に夢想された核戦争のように一瞬ですべてをリセットするのではなく、何十年もの時間をかけてゆっくりと、蝕むように少しずつ日常の中から僕らの世界的変えていきます。」

 

 これらのポイントは、問5・問6・問7に関連しています。

 今回の入試問題の作成者は、宇野氏の意図を見事に読み取っているようです。難関大学の入試問題をチェックすると、その読解の正確さに感心することが多いのです。この点から、私は、入試問題演習の重要性を力説しています。

 模擬試験は、サラッと復習するだけにしてください。

 

「東日本大震災」・「福島原発事故」と「世界観」・「終末観」の密接な関係性について、宇野氏は、他の本で以下のような重要な指摘をしています。

 入試頻出論点なので、熟読してください。

「『風の谷のナウシカ』『北斗の拳』ーーたしかにこの国の物語的想像力は、豊かで平和な消費社会を終わらせる決定的な非日常を『最終(核)戦争後の未来』への願望というかたちで表現してきた。かつて存在した東西冷戦を背景に、『終わりなき日常』を断絶させる力の象徴として『核』というイメージは機能してきたのだ。」(『リトル・ピープルの時代』)

 

 上記は、「これまでの核のイメージ」についての記述です。これまでは、「核」は、「核=核戦争=最終戦争」というイメージで機能してきたのです。このイメージは、今なお、人々の心に強く根を張っているはずです。

 しかし、福島原発事故以降、「核の力」について、新たなイメージが発生してきていることが、問題なのです。このことに関して、宇野氏は、以下のように、鋭い指摘をしています。

それ(原発)は人間が生み出したものでありながら、今や人間のコントロールを離れ、私たちの生活世界を内部から蝕み始めている。私たちのすぐそばに、生活空間の〈内側〉にありながらも、もはや誰にも制御できないものがある。おそらくは私たちの無意識に刷り込まれていくであろうこの感覚が、どんな想像力を生むのか。文化批評の担い手としての私の関心はこの一点にあると言っていい。」(『リトル・ピープルの時代』)

 

 上記の最後の二文は、「これからも福島原発事故の影響を注視し、考え続けていく、それこそが私のライフワークである」とする、宇野氏の批評家としての、高らかな宣言と言うべきものです。このような宣言をする批評家が日本にいるということは、日本の誇りであり、救いです。

 確かに、福島原発事故以降、何やら薄気味の悪い雰囲気が日常を覆ってきています。その雰囲気は、終末観・死の匂いを漂わせています。原子力発電所を、昔のように見ることは、できなくなっているのです。

 良き小説・評論は、「私たちに、物事や人生の本質を気付かせてくれる」と言われていますが、上記の論考を読むと、そのことを実感します。

 

 以下の宇野氏の見解も、なかなかの内容です。

「『Show must go on』という副題が添えられたこの映画のコンセプトは、単純かつ明快だ。それは震災(及びそれに伴って発生した原子力発電所事故)を AKB48 それ自体(→「AKB48現象」は、現代文明論・消費社会論・現代文化論・日本文化論・日本人論・現代若者論として、軽視できない現象です。特に、宇野氏の論考においては、重要な論点になっています)と重ね合わせること、だ。共にもはや人間の手では制御できないもの、もはやコントロール不可能な圧倒的かつ自律的な存在として両者を重ね合わせること、それだけだ。」(『原子爆弾とジョーカーなき世界』)

「この映画が、そしてAKB48という存在が体現する肯定性は、あるいは被災地に響く『ヘビーローテーション』のもつ肯定性は、そんな制御不可能なものを受け入れた上ではじめて成立する。それはたぶん、目に見えない力が少しずつ浸食していくことで変化していくあたらしい世界を受け入れることを意味するだろう。」(『原子爆弾とジョーカーなき世界』) 

 

 最新刊の 『母性のディストピア』発刊に際しての、宇野氏の発言も深い考察で、味わいがあります。熟読してください。

 「かつての敗戦が1945年8月の前と後ですっぱりとこの国を書き換えたのに対して、この震災は決定的な変化を社会にもたらすことはないが、しかしその前後では確実に変化が起こっている、といった奇妙な状態を僕たちにもたらしています。長く続く余震や、長期化する被災地復興、特にその処理に数十年を要する原発事故の性質もあり、日常の中に非日常的なものがランダムに現れるような感覚が常態化しています。」(宇野常寛書き下ろし『「母性のディストピア2.0」へのメモ書き』第1回:「リトル・ピープルの時代」から「母性のディストピア2.0」へ  ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆2015.1.6 vol.234)

 

 「非日常的なもの」、しかも、「致命的なそれ」が「日常」に混在していることの真の意味。このことを考えると、宇野氏の問題意識の重さが理解できるはずです。

 宇野氏は、これからも、注目するべき評論家の一人でしょう。

 

(4)宇野常寛氏の紹介

 

宇野常寛(うの つねひろ)

評論家。1978年生。批評誌〈PLANETS〉編集長。

 

著書に『ゼロ年代の想像力』(早川書房)、

『リトル・ピープルの時代』(幻冬舎)、

『日本文化の論点』(筑摩書房)、

石破茂との対談『こんな日本をつくりたい』(太田出版)、

『静かなる革命へのブループリント この国の未来をつくる7つの対話』(河出書房新社)、

『母性のディストピア』(集英社)など多数。

 

企画・編集参加に「思想地図 vol.4」(NHK出版)、

「朝日ジャーナル 日本破壊計画」(朝日新聞出版)など。

 

京都精華大学ポップカルチャー学部非常勤講師、立教大学兼任講師など、その活動は多岐に渡る。

 

(5)当ブログの「東日本大震災・福島原発事故」関連記事の紹介

 

 「東日本大震災・福島原発事故」関連の論点は、流行論点・頻出論点です。

 

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(6)当ブログの最近の「予想問題」記事の紹介

 

 各記事は、約1万字です。じっくり、取り組んでください。

 

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ーーーーーーーー

 

今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

ご期待ください。

 

    

 

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日本文化の論点 (ちくま新書)

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原子爆弾とジョーカーなき世界 (ダ・ヴィンチブックス)

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母性のディストピア

母性のディストピア

 

 

頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

 

 

5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

 

 

 私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。

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予想問題『勉強の哲学 来たるべきバカのために』千葉雅也 

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 今年のベストセラーになっている哲学書『 勉強の哲学 来たるべきバカのために 』(千葉雅也)は、入試対策上も注目するべきです。
 本書のキーワードは 「自己」・「言語」・「コード」・「アイロニー」・「ユーモア」・「自由」・「欲望」であり、これらは、国語(現代文)・小論文における頻出論点・重要語です。

 そのうえ、本書は、高レベルな内容を、丁寧に分かりやすく論じているので、入試対策上、要注意です。

 本書は来年度以降、難関大学の国語(現代文)・小論文に出題される可能性が高いので、今回、入試国語(現代文)・小論文対策として、概要を紹介・解説することにしました。

 

 今回の記事の項目は、以下の通りです。

(2)「はじめに」(P8~15)の解説

(3)「第1章 勉強と言語ーー言語偏重の人になる」の冒頭部分の解説 

(4)全体の概説 

(5)千葉雅也氏の紹介 

(6)当ブログの最近の「哲学」関連記事の紹介

 

勉強の哲学 来たるべきバカのために

 

(2)「はじめに」(P8~15)の解説

 「はじめに」は内容が充実しているので、概要を解説します。

(黒字が本文です)

(概要です)

(青字は当ブログによる「注」です)

(赤字は当ブログによる「本文の強調」です)

(以下も同じです)

 

「  いま、立ち止まって考えることが、難しい。

 溢れる情報刺激のなかで、何かに焦点を絞ってじっくり考えることが、難しい。

 そこで、キーワードになるのが『有限化』です。

 ある限られた=有限な範囲で、立ち止まって考える。無限に広がる情報の海で、次々に押し寄せる波に、ノリに、ただ流されていくのではなく。

『ひとまずこれを勉強した』と言える経験を成り立たせる。勉強を有限化する。

 

「  勉強を深めることで、これまでのノリでできた『バカなこと』が、いったんできなくなります。全体的に、人生の勢いがしぼんでしまう時期に入るかもしれません。しかし、その先には『来たるべきバカ』 (→この刺激的な表現を理解することが、本書のポイントと言えます。入試に出題される場合には、この表現の意味が、最大のポイントになるでしょう)に変身する可能性が開けているのです。この本は、そこへの道のりをガイドするものです。」


「  単純にバカなノリ。みんなでワイワイやれる。これが、第一段階。

 いったん、昔の自分がいなくなるという試練を通過する。これが、第二段階。

 しかしその先で、来たるべきバカに変身する。第三段階。」

 「来たるべきバカ」とは、アイロニー的思考、ユーモア的思考を越えて、自分の享楽的なこだわりに動かされて、それまでの自己から逸脱して、新しい自由な行動を開始する人間を意味します。

 また、「バカ」という表現は、「自己」を「相対化」しているのです。この点も注意する必要があります。

 

「  いったんノリが悪くなる、バカができなくなるという第二段階を経て、第三段階に至る。すなわち、来たるべきバカの段階、新たな意味でのノリ(→この表現にも注目してください。直後の「自己目的的」なノリに注意する必要があります)を獲得する段階へと至る。

 本書を通して、ノリという言葉の意味は、最終的に変化します。

 バンドで演奏するときのような、集団的・共同的なノリから出発し、そこから分離するようなノリへと話を進めていく。それは『自己目的的』なノリ(→「目的的」という言葉は「目的にそった、目的に関する」といった意味になります。入試頻出です)である。」

 この部分は、全体の構造を告知しています。

 第一章以下では、「来るべきバカ」への過程を読み取るようにしてください。

 

(3)「第1章 勉強と言語ーー言語偏重の人になる」(P17~)の冒頭部分の解説

    第一章冒頭部分も重要な内容を丁寧に論じていて、出題可能性が高いので、概要を解説します。

(黒字は本文です)

(「見出し」は【太字】にしました)

 

【勉強とは、自己破壊である】

「  勉強とは、自己破壊(→この表現も刺激的で、この表現の意味を理解することがポイントになります)である。

 では、何のために勉強をするのか?

 何のために、自己破壊としての勉強などという恐ろしげなことをするのか?

 それは、『自由になる』ためです。

 どういう自由(→ここにおける「自由」の意味内容の理解も問題になりそうです)か? これまでの『ノリ』から自由になるのです。」

 

「  私たちは、同調圧力によって、できることの範囲を狭められていた。不自由だった。その限界を破って、人生の新しい『可能性』を開くために、深く勉強するのです。

 けれども、後ろ髪を引かれるでしょう――私たちは、なじみの環境において、『その環境ならではのことをノってやれていた』からです。ところが、この勉強論は、あろうことか、それをできなくさせようとしている――勉強によってむしろ、能力の損失が起こる。」

 

「  こんなふうに、勉強は、むしろ損をすることだと思ってほしい。(→「損する」とは、どういう意味か? この点も問われそうです)

 勉強とは、かつてのノっていた自分をわざと破壊する、自己破壊である。

 言い換えれば、勉強とは、わざと『ノリが悪い』人になることである。」

 

【自由になる、可能性の余地を開く】

「  自由になるということ。それは、いまより多くの可能性を考え、実行に移せるような新しい自分になるということです。新たな行為の可能性を開くのです。そのために、これまでの自分を(全面的にではなくても)破壊し、そして、生まれ直すのです。第二の誕生です

 会社や家族や地元といった『環境』が、私たちの可能性を制約している、と考えてみる。

 圧縮的に言えば、私たちは『環境依存的』な存在であると言える。」(P23)

 

「  概念を定義しながら、話を進めていきましょう。まず、『環境』と『他者』から。

 本書では、『環境』という概念を、『ある範囲において、他者との関係に入った状態』という意味で使うことにします。シンプルには、環境=他者関係です。 

 『他者』とは、『自分自身ではないものすべて』です。普通は『他者』と言うと、他の人間=他人のことですが、それより意味を広げてください。親も恋人も、知らない人も、リンゴやクジラも、高速道路も、神も、すべて『他者』と捉えることにします。こういう『他者』概念は、とくにフランス現代思想(→多くの入試頻出著者、特に、哲学者はフランス現代思想に強く影響されています。従って、この記述は要注意です)において見られる使い方です。」

 この「他者」概念の説明は、特に重要なので、しっかり理解するようにしてください。「自己」以外は、すべて「他者」と考えることで、「自己の位置付け」が単純化します。

 

「  環境的な制約=他者関係による制約から離れて生きることはできません。

 環境のなかで、何をするべきかの優先順位がつく。環境の求めに従って、次に『すべき』ことが他のことを押しのけて浮上する。もし『完全に自由にしてよい』となったら、次の行動を決められない、何もできないでしょう。(→「生きる」とは「環境の中で生きる」ということです。「人間・生物は、環境の要求の中で、状況に合わせて、生きるしかない」と言ってもよいでしょう。)  環境依存的に不自由だから、行為できるのです。(→この部分は、秀逸な表現です。感動的な、逆説的記述です。入試で、この部分が出題されたら、空欄補充問題、理由説明問題など、様々な角度から出題されるでしょう)

 『何でも自由なのではない、可能性が限られている』ということを、ここまで『不自由』と言ってきましたが、今後は、哲学的に『有限性』と言うことにしましょう。逆に、『何でも自由』というのは、可能性が『無限』だということです。

 無限vs.有限、この対立が、本書においてひじょうに重要になります。  

 無限の可能性のなかでは、何もできない。行為には、有限性が必要である。

 この部分は、かなり重要な指摘です。少し立ち止まって熟考する必要があります。「無限の可能性」の中では、「選択」が非常に困難になるのです。不可能に近いでしょう。

 

「  有限性とつきあいながら、自由になる。

 まずは抽象的にそう言わせてください。おいおいその意味は明らかになります。」

 

【目的、環境のコード、ノリ】

「  私たちは環境依存的であり、環境には目的があり、環境の目的に向けて人々の行為が連動している。環境の目的が、人々を結びつけている=『共同化』している。

 そこで、次のように定義しましょう。

 環境における『こうするもんだ』とは、行為の『目的的・共同的な方向づけ』である。それを、環境の『コード』と呼ぶことにする。

 言い直すと、『周りに合わせて生きている』というのは、環境のコードによって目的的に共同化されているという意味です。」

 

「  環境のコードに習慣的・中毒的に合わせてしまっている状態を、本書では、ひとことで『ノリ』と表すことにしましょう。

 ノリとは、環境のコードにノってしまっていることである。」(P27)

 

「  本書では、ノリという言い方をまず、環境への『適応』、『順応』という意味で使います。」

 

【自分は環境のノリに乗っ取られている】

「  私たちは、いつでもつねに、環境のノリと癒着しているはずです。

 たいていは、環境のノリと自分の癒着は、なんとなくそれを生きてしまっている状態であって、分析的には意識されていない。」(P28)

 

「  自分は、環境のノリに、無意識的なレベルで乗っ取られている。

 ならば、どうやって自由になることができるのでしょう?

 丁寧に考える必要があります。というのも、環境から完全に抜け出すことはできないからです。完全な自由はないのです。ならば、どうしたらいいのか。そこで、次のように考えてみるのはどうでしょう――環境に属していながら同時に、そこに『距離をとる』(→自己の状況の「客観化」・「相対化」ということでしょう。自己の状況に意識的になるということです)ことができるような方法を考える必要があるのだ、と。

 その場にいながら距離をとることを考える必要がある。

 このことを可能にしてくれるものがある。

 それは『言語』です。どういうことでしょうか?」(P30)

 

【自分とは、他者によって構築されたものである】

「  生(せい)とは、他者と関わることです。純粋にたった一人の状態はありえません。外から影響を受けていない『裸の自分』など、ありえません。どこまで皮を剥いても出てくるのは、他者によって『つくられた=構築された』自分であり、いわば、自分はつねに『着衣』(→この表現も悩ましいです。入試では、設問の題材になるでしょう)なのです。

 自分は『他者によって構築されたもの』である。

 

「  そして、言語という存在。

 言語を使えている、すなわち『自分に言語がインストールされている』のもまた、他者に乗っ取られているということなのです。


 
「  言語は、環境の『こうするもんだ』=コード(→「記号」です)のなかで、意味を与えられるのです。だから、言語習得とは、環境のコードを刷り込まれることなのです。言語習得と同時に、特定の環境でのノリを強いられることになっている。」

 

「  言葉の意味は、環境のコードのなかにある。

 いよいよ、「言語論」に入りました。入試頻出論点でありながら、大部分の受験生の不得意分野です。丁寧な読解を心がけてください。

 

「  言語習得とは、ある環境において、ものをどう考えるかの根っこのレベル(→「価値観」です)で『洗脳』を受けるようなことなのです。これはひじょうに根深い。言葉ひとつのレベルでイデオロギーを刷り込まれている、これを自覚するのはなかなか難しいでしょう。だから、こう言わねばならない。言語を通して、私たちは、他者に乗っ取られている。」(P34)

   「言語」=「コード」=「記号」=「価値観」ということでしょう。「価値観」→「文化」→「言語」の方が、分かりやすいかもしれません。
 

 (4)全体の概説

 全体について、「結論」(P216~)を参考にし、適宜、本文を引用して、解説していきます。

 本文の引用は「」で表示します。

(1)【第1章】「勉強と言語ーー言語偏重の人になる」 (原理編1)

「勉強とは、これまでの自分の自己破壊である」と要約されています。

 

① 人は基本的には、周りの環境の「ノリ」に合わせて生きています(環境への「適応」・「順応」)。

 勉強するのは、環境や同調圧力によって狭められた人生の「可能性」を切り開き、これまでのノリから「自由」になるためです。

 ここでの「勉強」とは、「自分の根っこのところに作用する勉強」(P19)のことで、著者は「ラディカル・ラーニング(深い学習)」と呼んでいます。

 この一連の「引っ越し」において、千葉氏は「言語」を重視します。

 この点は重要なので、本文第1章のポイントを以下に引用します。

「   言語は、私たちの環境のノリを強いるものであると同時に、逆に、ノリに対して『距離をとる』ためのものでもある。」(P39)

「  勉強とは結局、別のノリに引っ越すことですが、この勉強論で光を当てたいのは、以前のノリ1から新しいノリ2へ引っ越す途中での、二つのノリの『あいだ』です。そこにフォーカスするのが本書の特徴です。

 二つのノリのあいだで、私たちは居心地の悪い思いをする――。

 以前のノリ1と別のノリ2のあいだで、自分が引き裂かれるような状態。

 あるいは、
 二つの環境のコードのあいだで、板挟みになる。」(P40)

 

② 「不慣れな言葉の違和感」に注意することも重要です。その違和感を通して、特定の環境における用法から、別の用法を考え直す可能性が開けるのです。

 この点について、第1章では、以下のように述べられています。

「  言語には2つの使用がある。一つは『道具的』な言語使用。環境において、目的的な行為のために言語を使うこと。たとえば、『塩を取って』というのは『依頼』であり、相手を動かして塩を手に入れるという目的のために言っている。言葉のリモコンで何かをするわけです。

 二番目は、たんにそう言うために言っているという言語使用。これを『玩具的』な言語使用と呼びましょう。おもちゃで遊ぶように、言語を使うこと自体が目的になっている。先ほど挙げた詩の例はそういうものと捉えてほしい。ダジャレとか早口言葉もそうですね。」(P49)

「  慣れ親しんだ『こうするもんだ』から、別の『こうするもんだ』へ移ろうとする狭間における言語的な違和感を見つめる。そしてその違和感を、『言語をそれ自体として操作する意識』へと発展させる必要がある。」 (P52)

「  自由になる、つまり、環境の外部=可能性の空間を開くには、『道具的言語使用』のウェイトを減らし、言葉を言葉として、不透明なものとして意識する『玩具的な言語使用』にウェイトを移す必要がある。」(P56)

「  深い勉強、ラディカル・ラーニングとは、ある環境に癒着していたこれまでの自分を、玩具的な言語使用の意識化によって自己破壊し、可能性の空間へと身を開くことである。」(P217)

 

(2)【第2章】「アイロニー、ユーモア、ナンセンス」(原理編2)

 この章を要約すると「環境のノリから自由になるとは、ノリの悪い語りをすることである」ということになります。

 

① ノリの悪い語りは、自由になるための思考スキルに対応します。

 思考にはツッコミ(アイロニー)とボケ(ユーモア)があります。前者は根拠を疑って真理を目指し。後者は根拠を疑うことはせず、見方を多様化します。

 「アイロニー」と「ユーモア」は、本書におけるポイントであり、入試頻出論点なので、第2章から引用します。
「  辞書的には、アイロニーは『皮肉』、ユーモアは『しゃれ』ですが、要はツッコミとボケのことだと理解してもらってかまいません。」(P74)

「(0) 最小限のアイロニー意識:自分が従っているコードを客観視する。

その上で、

(1) アイロニー:コードを疑って批判する。

(2) ユーモア:コードに対してズレようとする。

そもそも不確定なコードをますます不確定にすることを、『コードの転覆』と呼ぶことにする。アイロニーとユーモアはそのための技術である。」(P75)

 

② 勉強の基本は「アイロニー」ですが、本書ではそれを徹底化することを避けて「ユーモアに折り返すこと」を推奨しています。

 この理由は、以下の通りです。 

「  アイロニーによってコードの根拠づけを無理にもとめられると、コードそのものの不確定性、要は『空気でしかなかった』という事実が、露になる。」(P81)

 つまり、アイロニーが過剰になると、絶対的に真なる根拠を得たいという欲望になるが、それは実現不可能な欲望なのです。

 そこで、アイロニーをやりすぎずにユーモアに折り返す。

 しかし、さらに先には、ユーモアの過剰もナンセンスへと進んでいってしまうのです。

 

③ だが、事実上、私たちの言語使用では、ユーモアは過剰化せず、ある見方を仮固定することになります。それを可能にする条件は、個性としての「享楽的こだわり」です。もちろん、「享楽的こだわり」もまた勉強の過程を通じて変化しうることになります。

 以上の点については、第2章では、以下のように丁寧に記述されています。

「  まず、自分の置かれている環境を客観視するという意味で、最小限のアイロニー意識をもつのが大前提なのでした。その上で、

(1) アイロニーを深める、すなわち、環境のコードの根拠を徹底的に疑っていくなら、ついには、言語を破棄し、言語というフィルターを通さずじかに、『現実それ自体』に触れたいという欲望になる。それは、極限としては、もはや何も言うことができない状態、『言語なき現実のナンセンス』になる。そこで、

(2) あらためて、環境ごとに異なるコードでの言語使用を認めるのが、ユーモアへの転回である。まず、拡張的ユーモア(→ズレた方向に話を広げるユーモア)は、複数の環境をコード変換で行き来できるようにする。このことを『諸言語の旅』と表現したのでした。

 以上を『アイロニーからユーモアの折り返し』と呼ぶことにしましょう。

(2ー1) しかしユーモアが過剰化されると、極限としては、あらゆる言葉がつながって、言語がトータルに無意味になるという『意味飽和のナンセンス』が想定される。ならば、諸言語への旅は、旅として成立しなくなる。比愉的に言えぱこれは、『どこかへ行くことが、即、世界中に行くことになってしまう』という状態なのです

 では、拡張的ユーモアにおける話・言葉の接続過剰はどうやって止まるのか?

 私たちは、ひとりひとりにそれぞれに、言葉をめぐる何らかの『重みづけ』(→「享楽的こだわり」です)をもっている。その『重みづけ』が私たちを『何でもどうにでも言える』のではなくさせる。

(2ー2) 縮減的ユーモア(→不必要に細かい話、自閉的な面をもっています)は、非意味的形態としての言語をもてあそぶ、強度的で享楽的な語りである。これは『形態のナンセンス』である。そこで、次のように考えます。個々人がもつさまざまな非意味的形態への享楽的こだわりが、ユーモアの意味飽和を防ぎ、言語の世界における足場の、いわば『仮固定』を可能にする。

 このことを 『形態の享楽によるユーモアの切断』と呼びましょう。」(P110~112)

 「享楽的こだわり」による「形態のナンセンス」には、「ユーモアの接続過剰」を断ち切る力があるということです。

  

④ なお、「享楽的こだわり」についても、注意が必要です。以下に、本文を引用します。

「  本書では、享楽的こだわりは、絶対に固定的なものではないと考えます。もし絶対に固定的なのならば、私たちは、運命的に自分のこだわりに従って生きるしかなくなる。だがそうではないのです。深い勉強は、ラディカル・ラーニングは、自分の根っこにある享楽的こだわりに介入するのです。

 享楽的こだわりが、勉強を通して、変化する可能性がある。」(P113) 


(3)【第3章】「決断ではなく中断」(原理編3・実践編1)

 要約は、以下のようになっています。

「  どのように勉強を開始するか。まず、自分の現状をメタに観察し、自己アイロニー〔自己ツッコミ〕と自己ユーモア〔自己ボケ〕の発想によって、現状に対する別の可能性を考える。」(P218)

 

① どのように勉強を始めるかについては、著者は、「身近なところから問題を見つけ、キーワード化し、それを扱うにふさわしい専門分野を探す」ことを薦めています。そして、「勉強とは何らかの専門分野に入ること、そのノリに引っ越すことである」としています。

 この一連の勉強過程でキーワードになるのが「有限化」です。無限に広がる情報に、ノリに、ただ流されるのではなく、「ひとまずこれを勉強した」と言える経験を成立させること。「勉強の有限化」とはそのような状態を指します。

 このことについて、第3章では、以下のように述べられています。

「  アイロニー的に勉強のテーマを考える。それは『追究型』と言える。他方で、ボケ=ユーモア方向もある。それは『連想型』です。キーワードを出すのにも、分野を想定するのにも、追究と連想がどちらも使えます。」(P131)
「  勉強は二つの方向できりがなくなる―――追求と連想、アイロニーとユーモアです。言い換えれば、『深追いのしすぎ』と『目移り』になる。勉強はアイロニーが基本なので、『深追いしているうちに目移りしてしまう』というのが、よく起こることです。」(P135)

 しかし、こうした営みには結局のところ際限がない。行きつく果てがナンセンスにならないよう、どこかで有限化する必要があるのです。

 さらに、第3章から引用します。

「  僕が言いたいことはシンプルです――『最後の勉強』をやろうとしてはいけない。絶対的な根拠を求めるな、ということです。それは、究極の自分探しとしての勉強はするな、と言い換えてもいい。自分を真の姿にしてくれるベストな勉強など、ない。」(P136)

「  では、どうやって勉強を有限化すればいいのか。」(P137)

 

 この解答が、実に秀逸です。じっくり、味わってください。

 以下に引用します。 

「  自分なりに考えて比較するというのは、信頼できる情報の比較を、ある程度のところで、享楽的に「中断」することである。

 信頼できる情報に自分の享楽を絡めて、『まあこれだろう』ときめる。」(P140)

 「中断」・「有限化」というのは、実は、継続のための不可欠な手法である、と千葉氏は主張しているのです。極度の理想主義が、継続を阻害してしまうという現実を知るべきです。

 そして、「中断」、つまり「便宜的な仮固定」を意識して活用して、思考活動のエンジンを完全には切ってしまわないことが、大切なのでしょう。

 

② 「欲望年表」、これは一種の自己分析です。自分のこだわりの発端を分析することで、享楽的こだわりも、また変化の契機を得るのです。ある。

 

 「環境のなかでノッている保守的な『バカ』の段階から、環境から浮くような小賢しい存在になることを経由して、メタな意識をもちつつも、享楽的なこだわりに後押しされてダンス的に新たな行為を始める『来たるべきバカ』へ。」(P219)

 これが本書における「勉強の原理論」の流れです。

 

 この点について、千葉氏は、以下のようにツイートしています。

「考えてみれば、僕の本では、アイロニー・ユーモア・享楽という三点での分析を繰り返す、というふうに(これを「勉強の三角形」と呼んでいる)、いわゆる『一周回って』というのに理論的な定義を与えたことになる。」

 

(4)【第4章】「勉強を有限化する技術」(実践編2)

 第4章は、要約すると「勉強とは、何かの専門分野に参加することである」となります。

 専門分野への参加に際しては入門書を複数比較してその分野の大枠を知ることなど、正統的な助言がなされています。
 なお、「このくらいでいい」という勉強の「有限化」をしてくれる存在が教師です。

 

 第4章は、勉強を「有限化」するための、具体的方法を提示しています。以下に列挙します。


①    勉強の本体は、信頼できる文献を読むことである。
② 「読書ノート」について、
③    「勉強のタイムラインを維持する」ための「ノートアプリ」について、
④ フリーライティングをするための「アウトライナー」について

 

 (5)千葉雅也氏の紹介

千葉雅也(ちば・まさや)
1978年栃木県生まれ。東京大学教養学部卒業。パリ第10大学および高等師範学校を経て、東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻表象文化論コース博士課程修了。博士(学術)。哲学/表象文化論を専攻。フランス現代思想の研究と、美術・文学・ファッションなどの批評を連関させて行う。現在は、立命館大学大学院先端総合学術研究科准教授。

 

【単著編集】

『動きすぎてはいけない――ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』(河出書房新社、2013年/第4回紀伊國屋じんぶん大賞受賞作)、
『別のしかたで――ツイッター哲学』(河出書房新社、2014年)、
『勉強の哲学――来たるべきバカのために』(文藝春秋、2017年)、

 

【監修編集】 

『哲子の部屋3――“本当の自分”って何?』(NHK『哲子の部屋』制作班著、河出書房新社、2015年。)、

 

【共著編集】 

『ヘーゲル入門』(河出書房新社、2010年)、
『ファッションは語りはじめた――現代日本のファッション批評』(フィルムアート社、2011年)、
『相対性コム デ ギャルソン論――なぜ私たちはコム デ ギャルソンを語るのか』(フィルムアート社、2012年)、
『身体と親密圏の変容』(大澤真幸、佐藤卓己、杉田敦、中島秀人、諸富徹編、岩波書店、2015年)、
『高校生と考える世界とつながる生き方』(左右社、2016年)

 

 (6)当ブログの最近の「哲学」関連記事の紹介

 哲学は現代文小論文の頻出分野なので、しっかり準備しておくべきです。

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今回の記事は、これで終わりです。 

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

ご期待ください。

 

   

 

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

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予想問題『ゲンロン0 観光客の哲学』東浩紀/哲学/グローバリズム

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 哲学者である東浩紀氏は、入試国語(現代文)・小論文における、最近の入試頻出著者です。

 東氏が最近、『ゲンロン0 観光客の哲学』という画期的な書を発行しました。

 この哲学書は、現代のグローバリズム、トランプ現象を強く意識しています。

 内容的にみて、来年度以降の入試国語(現代文)・小論文に出題される可能性が高いので、国語(現代文)・小論文対策として、今回は本書の解説をします。

 

ゲンロン0 観光客の哲学

 

 

(2)『ゲンロン0 観光客の哲学』(東浩紀)の解説

 

(青字は当ブログによる「注」です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(【】・【】・【】・・・・は当ブログによる項目設定です)

 

【本書執筆の背景】

 本書執筆の背景として、東氏は、ツイートで以下のように述べています。本書理解の参考になると思われるので、以下に引用します。

「ゲンロン0は哲学と文学を扱った本ですが、その背景には、震災(→東日本大震災)後、『いまここ』の現実に右往左往することしかできなくなった人文学と批評全体への静かな怒り、というか(自戒を込めた)絶望が宿っています。そんなことを書きました。」(東浩紀@ゲンロン6発売中 @hazuma 2017・4・8)


 また、本書の冒頭には、以下のような記述があります。

「ぼくはこの四半世紀、哲学や社会分析からサブカル評論や小説執筆まで、多岐にわたる仕事を行ってきた。それゆえ、受容も多様で、不毛な誤解に曝されることもあった。本書はその状況を変えるためにも書かれた。だから本書はいままでの仕事をたがいに接続するように構成されている。本書は、『存在論的、郵便的』の続編としても、『動物化するポストモダン』の続編としても、『一般意志2.0』の続編としても、『弱いつながり』の続編としても読むことができるはずである。『クォンタム・ファミリーズ』の続編としてすら読むことができるかもしれない。」(P7)

【本書の主題→「誤配」・「観光客」】

 本書の主題は、初めに、以下のように明示されています。
「誤配こそが社会をつくり連帯をつくる。だから、ぼくたちは積極的に誤配に身を曝さねばならない」(P9)


 グローバリズムの進展と、それへの反動としてのナショナリズムの台頭という状況下で、リベラリズムの理念である「普遍性」は崩壊しています。現代の世界では、人々は、以前のようには「寛容」を他者に対して示せなくなりつつあります。
 このような、何となく居心地の悪い時代において、リベラルな思考の基本として、著者は「観光客」の概念を強く主張しています。

 

【東氏の主張する「観光客」とは何か】

 本書冒頭で、東氏は、前著の『弱いつながり』を要約して、次のように説しています。
「ぼくは2014年に『弱いつながり』という小さな本を刊行した。そこでぼくは、村人、旅人、観光客という三分法を提案している。人間が豊かに生きていくためには、特定の共同体にのみ属する『村人』でもなく、どの共同体にも属さない『旅人』でもなく、基本的には特定の共同体に属しつつ、ときおり別の共同体も訪れる『観光客』的なありかたが大切だという主張である。」(P14)

 さらに、本書では、次のようにも述べています。
「ぼくはこの本で、もういちど世界市民への道を開きたいと考えている。ただし、ヘーゲル以来の、個人から国民へ、そして世界市民へという弁証法的上昇とは別のしかたで。それが観光客の道である。」(P154・155) 

 そして、観光学は経済などの側面から観光を規定するばかりで、人文学的な問いをしてこなかった、と言っています。

 

【なぜ、「観光客」的なあり方が重要なのか】

 端的に言えば、リベラルな知識人が主張する「他者を大事にしよう」という言葉に、誰も耳を貸さなくなり始めているからです。

 この点について、著者は以下のように述べています。
「この70年ほどの、人文系のいわゆる『リベラル知識人』にはひとつの共通の特徴がある。それはみな、手を替え品を替え『他者を大事にしろ』と訴え続けてきたということである。」(P15)

 しかし、イギリスのEU離脱、「アメリカ第一」を宣言するトランプ大統領の登場、頻発するテロ、西欧における極右政党の台頭など、今や「他者を大事に」というリベラルの主張は影響力を喪失しています。

 世界の人々は、自分や自分の国のことを第一に考えたいと考え始めているようです。

 

 このような問題点に対して、東氏は「観光客というあり方」を前面に押し出すという方針を提示します。東氏は、この方針の主旨を以下のように述べています。

「他者とつきあうのは疲れた、仲間だけでいい、他者を大事にしろなんてうんざりだ」と叫び続けている人々に、「でも、あなたたちも観光は好きでしょう」と問いかけ、そしてその問いかけを入り口にして、彼らを、いわば裏口から、「他者を大事にしろ」というリベラルの命法のなかにふたたび引きずりこみたいと考えている、と。

 そして、「観光客から始まる新しい(他者の)哲学を構想する。これが本書の目的である。」(P17)と続けています。

 

【人文系知識人のグローバリズム・アレルギー】

 東氏は、「観光客の哲学」を論じる前提として、「人文系知識人のグローバリズム・アレルギー」について考察しています。 
 そして、「グローバリズム・アレルギー」こそ、彼らの限界であると、以下のように言っています。
「グローバリズムを悪としてしか捉えてこられなかったこと。それこそがいままでの人文思想の限界だと考える。」(P32)


 この主張は、本書の大きなポイントになっていることに注意してください。

 「グローバリズム」は、「欲望の無制限の解放」と表裏一体であるとして、「グローバリズム」に批判的な人文系知識人は、むしろ多数派なのです。
 

 これに対して、東氏は、インタビューにおいても、以下のように、「グローバリズムへの抵抗」に賛意を示していません。
「この本のテーマでもありますが、ぼく自身はあまりグローバリズムは悪いと思っていません。だから『抵抗』ということもあまり考えません。思想が抵抗の道具だ、という発想が前提になっている今の人文書の読者さんとは、この点でも世界観が大きくずれています。」(『週刊読書人ウェブ』2017年5月4日・東浩紀氏インタビュー)


 そして、以下のように、グローバリズムのプラス面を容認したうえで、東氏は議論を進めるのです。

「グローバリズムは確かに富の集中を強めただろう。先進国内部で貧富の差を拡大もしただろう。しかし同時に国家間では貧富の格差を縮めてもいる。いまや世界は急速に均質になりつつある現代では国家間の経済格差は、各国国大の都市と地方の格差よりも小さくなりつつある。」(P33)

 世界はグローバリズムにより「フラット化」しました。

 この現実の哲学的意味を問うことが、「観光」の哲学的意味を問うことでもあるとして、「観光」について、以下のように論は進められます。

「観光は、本来ならば行く必要がないはずの場所に、ふらりと気まぐれで行き、見る必要のないものを見、会う必要のないひとに会う行為である」(P34)

「観光客にとっては、訪問先のすべての事物が商品であり展示物であり、中立的で無為な、つまりは偶然のまなざしの対象となる。」(P35)

 

【なぜ、「観光」をキーワードにしているか】

 なぜ観光をキーワードにしているか、といえば、「観光が必要なものではなく、しかも偶然性を強くもっていて、それが郵便的だからだ」と、東氏は述べています。以下に引用します。

「観光客と二次創作の両者に共通するのは無責任さである。観光客は住民に責任を負わない。同じように二次創作者も原作に責任を負わない。観光客は、観光地に来て、住民の現実や生活の苦労などまったく関係なく、自分の好きなところだけを消費して去っていく。二次創作者もまた、原作者の意図や苦労などまったく関係なく、自分の好きなところだけを消費して去っていく。」(P45・46)

 ただ、この「観光客の哲学」という理論に説得性を持たせることは、容易ではありません。  

 なぜならば、近代から現代に至るまで、人文系の思想家は、「観光客」を考慮の外に置いていたからです。

 

【なぜ、「観光客」は哲学の対象にならなかったのか】

 著者は、ヘーゲル、カール・シュミット、ハンナ・アレントなどの哲学者の見解を検証して、この理由を追求していきます。

 そして、明らかになるのは、ここでも、「人文系知識人のグローバリズム・アレルギー」が関係しているということです。

 東氏は以下のように述べています。

「シュミットもコジェーヴもアーレントも、19世紀から20世紀にかけての大きな社会変化のなかで、あらためて人間とはなにかを問うた思想家である。そこでシュミットは友と敵の境界を引き政治を行うものこそが人間だと答え、コジェーヴは他者の承認を賭けて闘争するものが人間だと答え、アーレントは広場で議論し公共をつくるものこそが人間だと答えた。」(P108)

 

 さらに、「これまでの人文学には、ある偏った無意識の欲望があったのだ」と、以下のように主張しています。

「シュミットとコジェーヴとアーレントは同じパラダイムを生きている。彼らはみな、経済合理性だけで駆動された、政治なき、友敵なきのっぺりとした大衆消費社会を批判するためにこそ、古きよき『人間』の定義を復活させようとしている。言い換えれば、彼らはみな、グローバリズムが可能にする快楽と幸福のユートピアを拒否するためにこそ、人文学の伝統を用いようとしている。本書が『観光客』について考えることで乗り越えたいのは、まさにこの無意識の欲望である。」(P109・110)

「20世紀の人文学は、大衆社会の実現と動物的消費社会の出現を『人間でないもの』の到来として位置付けた。そしてその到来を拒否しようとした。しかし、そのような拒否がグローバリズムが進む21世紀で通用するわけがない。」(P110)

 

 以上のように、著者は、「大衆社会の実現と動物的消費社会の出現」に批判的な「20世紀の人文学」を、「21世紀で通用」しないと、断言しています。この点も、本書のポイントになっています。

 現実に即して考察していく東氏の特徴が、よく現れていると思います。

 

 そして、東氏は、「20世紀の人文学」を立脚点としながら、「21世紀で通用」する理論の構築を試みようとするのです。
 ここで、「20世紀の人文学」の伝統の限界を、逆に活用していこうするのです。柔軟な、創造的な頭脳の凄みを感じます。
 以下に列挙する、その理論構成を丁寧に熟読してください。

 

 まず、「実は、『観光客』には、彼らが『人間ならざるもの』(→この強烈な表現に注目してください)として排除しようとしたすべての要件がそろっている」と東氏は言います。(P111・112)

 それは、「モダンな人間観」、「政治から排除されるべき異物性」です。

 つまり、「観光客」は「20世紀の人文学」からは「まともな人間」とは評価されてない、ということです。

 このことについての東氏の、明快な考察を以下に引用します。入試の題材になりそうな緻密な、丁寧な論考です。

「観光客は大衆である。労働者であり消費者である。観光客は私的な存在であり、公共的な役割を担わない。観光客は匿名であり、訪問先の住民と議論しない。訪問先の歴史にも関わらない。政治にも関わらない。観光客はただお金を使う。そして国境を無視して惑星上を飛びまわる。友もつくらなければ敵もつくらない。そこには、シュミットとコジェーヴとアーレントが『人間ではないもの』として思想の外部に弾き飛ばそうとした、ほぼすべての性格が集っている。観光客はまさに、20世紀の人文思想全体の敵なのだ。だからそれについて考え抜けば、必然的に、20世紀の思想の限界は乗り越えられる。(P111・112)

 

 上記の考え方は、まさに、「逆転の発想」と言えます。

 「20世紀の思想の限界」を乗り越えるためには、20世紀の思想が無視した対象 す(=「観光客」)の価値を再検証して、それについて考え抜く必要があるとしているのです。

 

【21世紀という時代の図式】

 以下では、「21世紀という時代」についての、東氏による分析が述べられています。現状に適合する理論構築のための、前提です。

 ここから、21世紀という時代の図式が整然と整理されていきます。以下に重要ポイントを引用します。それぞれの詳細は後述します。

「現代は、政治にはナショナリズムが、経済にはグローバリズムが割り当てられ、共存している『二層構造』の時代である。」(123・124)

「リバタリアニズム(→自由至上主義)はグローバリズムの思想的な表現で、コミュニタリアニズム(→共同体主義)は現代のナショナリズムの思想的な表現である。」

 

 そして、国民国家(=ネーション)間の関係を「愛を確認しないまま、肉体関係だけをさきに結んでしまったものになりがちな」関係にたとえています。以下に引用します。

「いまの時代、経済=身体は、欲望に忠実に、国境を越えすぐにつながってしまう。けれども政治=頭はその現実に追いつかない。政府=頭のほうは、両国のあいだにはさまざまな問題があり、いまだ信頼関係は育っていないので、経済=身体だけの関係は慎むべきだと考える。とはいえ市民社会=身体はすでに快楽を知っており、関係はなかなか切断できない。機会があればまた関係をもってしまう。比喩的に言えば、いま世界でそのような事態が起きている。」(P126) 

 

【「観光客の哲学」の方向性】

 以上のように述べたうえで、東氏は、「本書が構想する観光客の哲学」の方向性を、以下のように考察しています。
(P127) 「21世紀の世界は、人間が人間として生きるナショナリズムの層と、人間が動物としてしか生きることのできないグローバリズムの層、そのふたつの層がたがいに独立したまま重なりあった世界だと考えることができる。この世界像のうえであらためて定義すれば、本書が構想する観光客の哲学なるものは、グローバリズムの層とナショナリズムの層をつなぐヘーゲル的な成熟とは別の回路がないか、市民が市民社会にとどまったまま、個人が個人の欲望に忠実なまま、そのままで公共と普遍につながるもうひとつの回路はないか、その可能性を探る企てである。」(P127)

 

 なお、東氏は、本書で「グローバル化した現代」を以下のように二項対立で提示しています。

 まじめな公⇔ふまじめな私
 社会⇔実存
 人間(誇り高き精神)⇔動物(欲求を満たすのみ)
 全体主義⇔個人主義
 ナショナリズム⇔グローバリズム
 国民国家⇔帝国
 リベラリズム⇔リバタリアニズム

 上記で注目するべき点は、「グローバリズム」→「帝国」、という点です。
 

【「郵便的マルチチュード」という新たな概念】

 以上の考察を元にして、東氏は、現代の思想的な困難を次のようにまとめています。

「リバタリアニズムはグローバリズムの思想的な表現で、コミュタリアニズムは現代のナショナリズムの思想的表現である。そして、リベラリズムは、かつてのナショナリズムの思想的な表現だ。
 リベラリズムは普遍的な正義を信じた。他者への寛容を信じた。けれども、その立場は20世紀後半に急速に影響力を失い、いまではリバタリアニズムとコミュタリアニズムだけが残されている。リバタリアンには動物の快楽しかなく、コミュタリアンには共同体の善しかない。このままではどこにも普遍的な他者は現れない。それがぼくたちが直面している思想的な困難である。」(P132・133)

 

【では、この思想的困難を克服する道はあるのだろうか】

 結論的には「観光客の哲学」に行きつくことになりますが、そこに至るまでの経路が以下に展開されます。


 まず、「観光客」は、このような「二重構造の時代」において、「動物の層から人間の層へつながる横断の回路、すなわち、市民が市民として市民社会の層にとどまったまま、そのままで公共と普遍につながる回路」(p144)として位置づけられます。
 すなわち、「観光客」とは「帝国(→グローバリズム)の体制と国民国家の体制のあいだを往復し、私的な生の実感を私的なまま公的な政治につなげる存在の名称」(P155)です。

 
 そして、東氏は以下のように、「世界市民への道」、つまり「連帯」への道を「弁証法的上昇とは別の方法」で模索すると述べています。

「ぼくはこの本で、もういちど界市民への道を開きたいと考えている。ただし、ヘーゲル以来の、個人から国民へ、そして世界市民へという弁証法的上昇とは別のしかたで。それが観光客の道である。」(P154・155) 

 

【「観光客の哲学」の構想の契機】

 では、こうした状況把握をしたうえで、東氏は、「観光客の哲学」の構想の契機をどこに見出しているのでしょうか。


 そこで著者が注目したのが、アントニオ・ネグリとマイケル・ハートによる『帝国』(アントニオ・ネグリとマイケル・ハート)という書にある「マルチチュード」という概念です。

 「マルチチュード」とは、本書『観光客の哲学』内では「帝国の内部から生まれる帝国の秩序そのものへの抵抗運動を広く指す言葉」と説明されており、反体制運動や市民運動などを指します。

 著者が「マルチチュード」に注目した理由は、それが私的な生と公共の政治を分割しない性質、つまり上記の「二重構造」を揺るがす性質を持つ概念だからです。

 しかし、その一方で「マルチチュード」には重大な欠陥もあります。東氏は、以下のように説明しています。
「ひとことで言えば、マルチチュードがなぜ生まれるのか、そのメカニズムがうまく説明されていなかったし、また生まれたあとの拡大の論理にも無理があった。」(P155)


 つまり、「マルチチュード」は政治を動かすための方法論に問題があるのです。

 そこで著者は、この「マルチチュード」に修正を加えます。それが、『存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて』(1998年発行の著者の書)で提示された「誤配」(→「配達の失敗や予期しないコミュニケーションを引き起こす」という意味)という概念です。


 つまり、「観光客」とは訪れた先で偶然的に出会った人と言葉を交わす人たちであり、「誤配」の可能性を多く含んでいます。彼らは、連帯なしにコミュニケーションをして、私的な欲望で公的な空間をひそかに変容させる。そして、それは事後的に連帯が存在するかのような錯覚を与える、と言うのです。

 すなわち、観光客は観光の場で、さまざまな人や事物と出会う。それは、たまたま入った美術館や土産物屋かもしれない。観光客は、そこで「連帯」しようとはしない。「そのかわりたまたま出会ったひとと言葉を交わす」。その「偶然的なコミュニケーション」を通じて、あとから「なにか連帯らしきものがあったかのような気もしてくる」と、述べています。

 

 以下に引用する部分は、 「観光の魅力」を簡潔に表現しています。

「観光客が観光対象について正しく理解するなどまず期待できない。しかし、それでもその『誤配』こそがまた新たな理解やコミュニケーションにつながったりする。それが観光の魅力なのである。」(P159)


 著者は以上の点から、「観光客」を哲学的に言い換えたものとして、「郵便的マルチチュード」と表現するのです。

 

【「郵便的マルチチュード」の定義、効果】

 「郵便的マルチチュード」の定義として、東氏は以下のように述べています。重要なポイントなので、熟読してください。

 「郵便的マルチチュード」とは、「たえず連帯しそこなうことで事後的に生成し、結果的にそこに連帯が存在するかのように見えてしまう、そのような錯覚の集積がつくる連帯を作り出す集団」(P159)です。

 (→「郵便的」という言葉は、東氏の前著『存在論的、郵便的』の中核となる概念です。
 「郵便的」というのは「誤配=絶対的な偶然性」を重視する東氏のキーワードです。つまり、「郵便的」とは、「誤配、すなわち、配達の失敗や予期しないコミュニケーションの可能性を多く含む状態」を意味しています。)


 つまり、「これからの人類の連帯」は、デモのようなやみくもな動員でなく、「郵便物の誤配のような予期せぬ出会いの集積」で作られるとするのです。


 なお、東氏は、「郵便的マルチチュード」の具体的イメージを、インタビューで以下のように答えています。より分かりやすくなるので、ここで引用します。

「本では書いていないのですが、『郵便的マルチチュード』の実践のひとつの例は学校だと思います。たとえば同窓会。あれはまさに、『連帯は本当は存在しないのに、むしろ失敗していたのに事後的に連帯があるかのように見える』例ですね。ああいう時間的なズレを抱えた連帯をどう作るかが、郵便的マルチチュードの実践の肝だと思います。」(『週刊読書人ウェブ』2017年5月4日・東浩紀氏インタビュー)


 著者は「マルチチュード」がグローバリズムの中から生まれてくることに注目します。しかし、ネグリらが国民国家から「帝国」(→グローバリズム)への移行を考えているのに対して、著者は移行は起こらずに二層構造がこれからもつづくと考えています。

 ただし、ネグリらが「ネットワーク」・「連帯」を重視するのに対して、著者は「連帯そのもの」を重視するような考えは「否定神学的」であり、限界に突き当たる、と主張しています。

 (なお、著者は、「否定神学的」について以下のように説明しています。反体制運動や市民は、連帯も、連帯の理由も存在しないのに、連帯することになっている。無から連帯が生まれている。こういう思考回路を「否定神学的」と言っているのです。)

 

 以上のことを、東氏は、以下のように丁寧に記述しています。入試題材として採用される可能性が高いので、熟読するようにしてください。

「ネグリたちのマルチチュードは、あくまでも否定神学的なマルチチュードだった。だから、彼らは、連帯しないことによる連帯を夢見るしかなかった。けれども、ぼくたちは、観光客という概念のもと、その郵便化を考えたいと思う。そうすることで、たえず連帯しそこなうことで事後的に生成し、結果的にそこに連帯が存在するかのように見えてしまう。そのような錯覚の集積がつくる連帯を考えたいと思う。ひとがだれかと連帯しようとする。それはうまくいかない。あちこちでうまくいかない。あとから振り返ると、なにか連帯らしきものがあったかのような気もしてくる。そして、その錯覚がつぎの連帯の(失敗の)試みを後押しする。それが、ぼくが考える観光客=郵便的マルチチュードの連帯のすがたである。」(P159)

 さらに、こうも述べています。
「マルチチュードが郵便化すると観光客になる。観光客が否定神学化するとマルチチュードになる。連帯の理想を掲げ、デモの場所を求め、ネットで情報を集めて世界中を旅し、本国の政治とまったく無関係な場所にも出没する21世紀の『プロ』の市民運動家たちの行動様式がいかに観光客のそれに近いか、気がついていないのだ。観光客は、連帯はしないが、そのかわりたまたま出会ったひとと言葉を交わす。《デモには敵がいるが、観光には敵がいない。デモ(根源的民主主義)は友敵理論の内側にあるが、観光はその外部にあるのだ。」(P160)

 ポイントになるのは以下の部分です。
「ネグリたちはマルチチュードの連帯を夢見た。ぼくはかわりに観光客の誤配を夢見る。マルチチュードがデモに行くとすれば、観光客は物見遊山に出かける。前者がコミュニケーションなしに連帯をするのだとすれば、後者は連帯なしにコミュニケーションする。前者が帝国から生まれた反作用であり、私的な生を国民国家の政治で取りあげろと叫ぶのだとすれば、後者(→観光客)は帝国と国民国家の隙間から生まれたノイズであり、私的な欲望で公的な空間をひそかに変容させるだろう。」(P160)


 「観光客」は、近代思想では考慮外ですが、著者は「観光客」を通して、「新たな政治的連帯の回路」を考えられるのではないか、と主張しているのです。

 そして、「二十一世紀の新たな抵抗は、帝国と国民国家の隙間から生まれる。それは、帝国を外部から批判するのでもなく、また内部から脱構築するのでもなく、いわば誤配を演じなおすことを企てる。」(P192)と強調しています。
 さらに、また、ローティの「憐れみ」の考えを紹介し、「この『憐れみ』こそがある種の誤配を生み、社会をつくるのだ」と主張しています。


ーーーーーーーー

 

 本書は、グローバル化が進展した社会における、国際協調の枠組みの柔軟化のための、傑出した試論と評価できるでしょう。

 実現可能な世界市民への道が提示されています。

 普通の市民が普通の欲望的な観光をすることにより、世界に平和的な協調的なムードが広がる可能性に頼るしか道はない。これを絶望的状況と見るか、観光という希望があることこそ大きな救いと見るかは、評価が分かれるところでしょう。

 しかし、私は、現在の便利で安価な世界観光事情を考慮すると、決して、グローバリズムが派生させている現代の混乱を、完全に絶望視する必要はないと思います。

 東氏も、現在の世界観光事情をも意識して、「観光客の哲学」に「連帯への光明」を見出だしているのでしょう。

 
 なお、以下のインタビューは、本書を読解するうえで、かなり参考になると思われるので、引用します。東氏の真意が、よく分かります。

「(聞き手=坂上秋成) こういう言い方が適切かは分かりませんが、それでも第一部での『郵便的マルチチュード』がどういうものであるかという結論みたいなものを無理やり言うのであれば、それは『憐れみ』に集約されるのかなとも思うのですが。

(東) 偶然性に導かれた感情移入ですね。

 あと、これも本には書いていないんですが、ぼくの考えでは生きることそのものが『観光』なんです。ぼくたちはこの現実に観光客のようにやってくる。たまたまある時代ある場所に生まれ落ち、ツアー客がツアーバスで見知らぬ他人と同席するように、見知らぬ同時代人と一緒に生きていく。ツアーは1年で終わることもあれば80年続くこともあるけど、いつかは終わり、元の世界に戻っていく。そしてそんな観光地=この現実に対して、ぼくたちはほとんど何もできない、何も変えられないし、ほとんどのことは理解できない。でも、ちょっとだけ関わることができる。人生ってそんなもんだと思いますね。」(『週刊読書人ウェブ』2017年5月4日・東浩紀氏インタビュー)

 

 

(3)東浩紀氏の紹介

東 浩紀(あずま ひろき)
1971年東京都生まれ。哲学者・作家。専門は現代思想、表象文化論、情報社会論。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。株式会社ゲンロン代表、同社で批評誌『ゲンロン』を刊行。著書に『存在論的、郵便的』(新潮社、第21回サントリー学芸賞)、『クォンタム・ファミリーズ』(新潮社、第23回三島由紀夫賞)、『弱いつながり』(幻冬舎)など多数。2017年、『ゲンロン0 観光客の哲学』(ゲンロン)を刊行。

 

【単著 編集】

『存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて』(新潮社、1998年)
『郵便的不安たち』(朝日新聞社、1999年/のち文庫)
『不過視なものの世界』(朝日新聞社、2000年、対談集)
『動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会』(講談社現代新書、2001年)
『ゲーム的リアリズムの誕生―動物化するポストモダン2』(講談社現代新書、2007年)
『情報環境論集―東浩紀コレクションS』(講談社・講談社BOX、2007年)
『批評の精神分析―東浩紀コレクションD』(講談社・講談社BOX、2007年)
『郵便的不安たちβ』(河出文庫・東浩紀アーカイブス1、2011年)
『サイバースペースはなぜそう呼ばれるか』(河出文庫・東浩紀アーカイブス2、2011年)
『一般意志2.0―ルソー、フロイト、グーグル』(講談社、2011年/のち、講談社文庫、2016年)
『セカイからもっと近くに―現実から切り離された文学の諸問題』(東京創元社、2013年)
『弱いつながり―検索ワードを探す旅』(幻冬舎、2014年)
『ゲンロン0 観光客の哲学』(ゲンロン、2017年)

 

【共著 編集】

笠井潔『動物化する世界の中で』(集英社・集英社新書、2003年/ 往復書簡形式)
大澤真幸『自由を考える―9・11以降の現代思想』(日本放送出版協会・NHKブックス、2003年)
北田暁大『東京から考える―格差・郊外・ナショナリズム』(日本放送出版協会・NHKブックス、2007年)
大塚英志『リアルのゆくえ―おたく/オタクはどう生きるか』(講談社・講談社現代新書、2008年)
宮台真司『父として考える』(日本放送出版協会・生活人新書、2010年)
猪瀬直樹『正義について考えよう』(扶桑社新書、2015年)
大山顕『ショッピングモールから考える―ユートピア・バックヤード・未来都市』(ゲンロン、2015年/のち、幻冬舎新書、2016年)
小林よしのり、宮台真司『戦争する国の道徳―安保・沖縄・福島』(幻冬舎新書、2015年)
大山顕『ショッピングモールから考える―付章―庭・オアシス・ユートピア』(幻冬舎、2016年)
津田大介、中川淳一郎、夏野剛、西村博之、堀江貴文『ニコニコ超トークステージ ネット言論はどこへいったのか?』(角川学芸出版、2016年)

 

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今回の記事は、これで終わりです。

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動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

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予想問題「好きなこととは何か?」『暇と退屈の倫理学』國分功一郎

(1)なぜ、この 記事を書くのか?

 國分功一郎氏は、最近の入試頻出著者です。國分氏の論考は、最近、慶応大学(商学部)、中央大学、同志社大学、関西大学、獨協大学などの国語(現代文)・小論文で出題されています。
 従って、国語(現代文)・小論文対策として、國分功一郎の氏の論考・著書を読むことを、おすすめします。

 
「自分らしく生きるためには、ということ」ーー國分功一郎氏は、『暇と退屈の倫理学』の中で、この問いが「暇と退屈への対応問題」という「案外と重要な哲学的問題」であると主張しています。そして、この重大問題に、様々な哲学者の知見を引用しながら堂々と立ち向かっています。

 この本は人生を考えるために、丁寧に分かりやすく書かれ、しかも、切れ味のよい秀逸なポストモダンの哲学書です。近代原理を改めて批判的に検証しようとする、近代批判の最新の名著です。

 高校生、受験生は、最低1冊は、國分功一郎氏の著書を読んでおくべきでしょう。

 

 最近、当ブログでは、流行出典である『暇と退屈の倫理学』の入試頻出箇所(「第4章 暇と退屈の疎外論ーー贅沢とは何か?」) について、予想問題記事を発表しましたが、同じく、頻出箇所である「序章 好きなこととは何か」を題材にして、予想問題(予想論点)を解説することにしました。

 問題としては、「2013年度同志社大学過去問」と「当ブログによる予想問題」を使用します。


 今回の記事の項目は、以下のようになっています。

(2)予想問題 「好きなこととは何か?」(『暇と退屈の倫理学』國分功一郎)/
2013同志社大過去問+予想問題

(3) 『暇と退屈の倫理学』の構成

(4)当ブログにおける『中動態の世界』(國分功一郎)関連記事の紹介

(5)國分功一郎氏の紹介・著書

(6)当ブログにおける「哲学」関連記事の紹介

 

暇と退屈の倫理学 増補新版 (homo Viator)

(2)予想問題 「好きなこととは何か?」(『暇と退屈の倫理学』國分功一郎)/

2013同志社大過去問+予想問題

 

(問題文本文)(概要です)

(【1】・【2】・【3】・・・・は当ブログで付記した段落番号です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です) 

 

【1】人類の歴史の中にはさまざまな対立があり、それが数えきれぬほどの悲劇を生み出してきた。だが、人類が豊かさを目指して努力してきたことは事実として認めてよいものと思われる。人々は社会の中にある不正と闘ってきたが、それは社会をよりよいものにしようと、少なくとも建前としてはそう思ってきたからだ。

【2】しかし、ここで不可解な逆説が見出される。人類が目指してきたはずの豊かさ、それが達成されると人が不幸になってしまうという逆説である。

【3】イギリスの哲学者バートランド・ラッセル[1872~1970]は1930年に『幸福論』という書物を出版し、その中でこんなことを述べた。今の西欧諸国の若者たちは自分の才能を発揮する機会が得られないために不幸に陥りがちである。それに対し、東洋諸国ではそういうことはない。共産主義革命が進行中のロシアでは、若者は世界中のどこよりも幸せであろう。なぜならそこには創造するべき新世界があるからだ。

【4】ラッセルが言っているのは簡単なことである。

【5】20世紀初頭のヨーロッパでは、すでに多くのことが成し遂げられていた。これから若者たちが苦労してつくり上げねばならない新世界などもはや存在しないように思われた。したがって若者にはあまりやることがない。だから彼らは不幸である。
【6】それに対しロシアや東洋諸国では、まだこれから新しい社会を作っていかねばならないから、若者たちが立ち上がって努力すべき課題が残されている。したがって、そこでは若者たちは幸福である。

【7】彼の言うことは分からないではない。使命感に燃えて何かの仕事に打ち込むことはすばらしい。ならば、そのようなすばらしい状況にある人は「幸福」であろう。逆に、そうしたすばらしい状況にいない人々、打ち込むべき仕事を持たぬ人々は「不幸」であるのかもしれない。

【8】しかし、何かおかしくないだろうか? 本当にそれでいいのだろうか?

【9】ある社会的な不正を正そうと人が立ち上がるのは、その社会をよりよいものに、より豊かなものにするためだ。ならば、社会が実際にそうなったのなら、人は喜ばねばならないはずだ。なのに、ラッセルによればそうではないのだ。人々の努力によって社会がよりよく、より豊かになると、人はやることがなくなって不幸になるというのだ。

【10】

 

〔X〕


【11】なぜこんなことになってしまうのだろうか? 何かがおかしいのではないか? 
【12】A そう、ラッセルの述べていることは分からないではない。だが、やはり何かがおかしい。そして、これをさも当然であるかのごとくに語るラッセルも、何かおかしいのである。

【13】ラッセルのように、打ち込むべき仕事を外から与えられない人間は不幸であると主張するなら、このおかしな事態をどうにもできない。やはりわたしたちはここで、「何かがおかしい」と思うべきなのだ。

【14】人類は豊かさを目指してきた。なのになぜその豊かさを喜べないのか? 以下に続く考察はすべてこの単純な問いを巡って展開されることとなる。

【15】人間が豊かさを喜べないのはなぜなのだろうか? 豊かさについてごく簡単に考察してみよう。

【16】国や社会が豊かになれば、そこに生きる人たちには余裕がうまれる。その余裕にはすくなくとも二つの意味がある。

【17】一つ目はもちろん金銭的な余裕だ。人は生きていくのに必要な分を超えた量の金銭を手に入れる。稼いだ金銭をすべて生存のために使い切ることはなくなるだろう。

【18】もう一つは時間的な余裕である。社会が富んでいくと、人は生きていくための労働にすべての時間を割く必要がなくなる。そして、何もしなくてもよい時間、すなわち暇を得る。

【19】では、続いてこんな風に考えてみよう。富んだ国の人たちはその余裕を何に使ってきたのだろうか? そして何に使っているのだろうか?

【20】「富むまでは願いつつもかなわなかった自分の好きなことをしている」という答えが返ってきそうである。確かにそうだ。金銭的・時間的な余裕がない生活というのは、あらゆる活動が生存のために行われる、そういった生活のことだろう。生存に役立つ以外のことはほとんどできない。ならば、余裕のある生活が送れるようになった人々は、その余裕をつかって、それまでは願いつつもかなわなかった何か好きなことをしている、そのように考えるのは当然だ。

【21】~【25】

 

[Y]

 

【26】さて、カタログからそんな「その人の感覚のあり方」を選ぶとはいったいどういうことなのか?

【27】最近他界した経済学者ジョン・ガルブレイス[1908~2006]は、20世紀半ば、1958年に著した『豊かな社会』でこんなことを述べている。

【28】現代人は自分が何をしたいのかを自分で意識することができなくなってしまっている。広告やセールスマンの言葉によって組み立てられて初めて自分の欲望がはっきりするのだ。自分が欲しいものが何であるのかを広告屋に教えてもらうというこのような事態は、19世紀の初めなら思いもよらぬことであったに違いない。

【29】経済は消費者の需要によって動いているし動くべきであるとする「消費者主権」という考えが長く経済学を支配していたがために、B 自分の考えは経済学者たちから強い抵抗にあったとガルブレイスは述べている。つまり、消費者が何かを必要としているという事実(需要)が最初にあり、それを生産者が感知してモノを生産する(供給)、これこそが経済の基礎であると考えられていたというわけだ。

【30】ガルブレイスによれば、そんなものは経済学者の思い込みに過ぎない。だからこう指摘したのである。高度消費社会ーー彼の言う「豊かな社会」ーーにおいては、供給が需要に先行している。いや、それどころか、供給側が需要を操作している。つまり、生産者が消費者に「あなたが欲しいのはこれなんですよ」と語りかけ、それを買わせるようしている、と。

【31】今となってはガルブレイスの主張は誰の目にも明らかである。消費者の中で欲望が自由に決定されるなどとは誰も信じてはいない。欲望は生産に依存する。生産は生産によって満たされるべき欲望をつくり出す。

【32】ならば、「好きなこと」が、消費者の中で自由に決定された欲望に基づいているなどとは到底言えない。私の「好きなこと」は、生産者が生産者の都合のよいように、広告やその他手段によって創り出されているかもしれない。もしそうでなかったら、どうして日曜日にやることを土曜日にテレビで教えてもらったりするだろうか? どうして趣味をカタログから選び出したりするだろうか?

【33】こう言ってもいいだろう。「豊かな社会」、すなわち、余裕のある社会においては、確かにその余裕は余裕を獲得した人々の「好きなこと」のために使われている。しかし、その「好きなこと」とは、願いつつもかなわなかったことではない。

【34】問題はこうなる。そもそもわたしたちは、余裕を得た暁にかなえたい何かなど持っていたのか?

【35】すこし視野を広げてみよう。

【36】20世紀の資本主義の特徴の一つは、文化産業と呼ばれる領域の巨大化にある。20世紀の資本主義は新しい経済活動の領域として文化を発見した。

【37】もちろん文化や芸術はそれまでも経済と切り離せないものだった。芸術家だって霞を食って生きているわけではないのだから、貴族から依頼を受けて肖像画を描いたり、曲を作ったりしていた。芸術が経済から特別に独立していたということはない。

【38】けれども20世紀には、広く文化という領域が大衆に向かって開かれるとともに、大衆向けの作品を操作的に作りだして大量に消費させ利益を得るという手法が確立された。そうした手法に基づいて利益を挙げる産業を文化産業と呼ぶ。

【39】文化産業については膨大(ぼうだい)な研究があるが、その中でも最も有名なものの一つが、マックス・ホルクハイマー[1895~1973]とテオドール・アドルノ[1903~1969]が1947年に書いた『啓蒙の弁証法』である。

【40】アドルノとホルクハイマーはこんなことを述べている。文化産業が支配的な現代においては、消費者の感性そのものがあらかじめ製作プロダクションのうちに先取りされている。

【41】どういうことだろうか? 彼らは哲学者なので、哲学的な概念を用いてこのことを説明している。すこし噛み砕いて説明してみよう。

【42】彼らが利用するのは、18世紀ドイツの哲学者カント[1724~1804]の哲学だ。C カントは人間が行う認識という仕組みがどうして可能であるのかを考えた。どうやって人間は世界を認識しているのか? 人間はあらかじめいくつかの概念をもっている、というのがカントの考えだった。人間は世界をそのまま受け取っているのではなくて、あらかじめもっていた何らかの型(概念)にあてはめて理解しているというわけだ。

【43】たとえば、たき火に近づけば熱いと感じる。このときひとは、「炎は熱いから、それに近づくと熱いのだ」という認識を得るだろう。この「から」にあたるのが、人間があらかじめもっている型(概念)だ。この場合には、原因と結果を結びつける因果関係という概念である。因果関係という型があらかじめ頭の中にあるからこそ、ひとは「炎は熱いから、それに近づくと熱いのだ」という認識を得られる。

【44】もしもこの概念がなければ、たき火が燃えているという知覚と、熱いという感覚とを結びつけることができない。単に、「ああ、たき火が燃えているなぁ」という知覚と、「ああ、なんか顔が熱いなぁ」という感覚があるだけだ。

【45】人間は世界を受け取るだけでない。それらを自分なりの型にそって主体的にまとめ上げる。18世紀の哲学者カントはそのように考えた。そして、人間にはそのような主体性が当然期待できるのだと、カントはそう考えていた。

【46】アドルノとホルクハイマーが言っているのは、カントが当然と思っていたこのことが、いまや当然ではなくなったということだ。人間に期待されていた主体性は、人間によってではなく、産業によってあらかじめ準備されるようになった。産業は主体が何をどう受け取るのかを先取りし、受け取られ方の決められたものを主体に差し出している。

【47】もちろん熱いモノを熱いと感じさせないことはできない。白いモノを黒に見せることもできない。当然だ。だが、それが熱いとか白いとかではなくて、「楽しい」だったらどうだろう? 「これが楽しいってことなのですよ」というイメージとともに、「楽しいもの」を提供する。たとえばテレビで、或る娯楽を「楽しむ」タレントの映像を流し、その次の日には、視聴者に金銭と時間を使ってもらって、その娯楽を「楽しんで」もらう。わたしたちはそうして自分の「好きなこと」を獲得し、お金と時間を使い、それを提供している産業が利益を得る。

【48】「好きなこと」はもはや願いつつもかなわなかったことではない。それどころか、そんな願いがあったかどうかも疑わしい。願いをかなえられる余裕を手にした人々が、今度は文化産業に「好きなこと」を与えてもらっているのだから。

【49】ならば、どうしたらいいのだろうか?

【50】いまアドルノとホルクハイマーを通じて説明した問題というのは決して目新しいものではない。それどころか、大衆社会を分析した社会学の本には必ず書かれているであろう月並みなテーマだ。だが本書は、この月並みなテーマを取り上げたいのである。

【51】資本主義の全面展開によって、少なくとも先進国の人々は裕福になった。そして暇を得た。だが、暇を得た人々は、その暇をどう使ってよいのか分からない。何が楽しいのか分からない。自分の好きなことが何なのか分からない。

【52】そこに資本主義がつけ込む。文化産業が、既成の楽しみ、産業に都合のよい楽しみを人々に提供する。かつては労働者の労働力が搾取されていると盛んに言われた。D いまでは、むしろ労働者の暇が搾取されている。高度情報化社会という言葉が死語となるほどに情報化が進み、インターネットが普及した現在、この暇の搾取は資本主義を牽引する大きな力である。(國分功一郎「『好きなこと』とは何か?」)

 

ーーーーーーーー

 

(設問)

問1 空欄Xに入る次の5つの「文章のブロック」を並べ替えよ。(予想問題)

ア  それだったら、社会をより豊かなものにしようと努力する必要などない。

イ  なぜと言って、不正をただそうとする営みが実現を見たら、結局人々は不幸になるというのだから。

ウ  人々は社会をより豊かなものにしようと努力してきた。なのにそれが実現したら、人は逆に不幸になる。

エ  社会的不正などそのままにしておけばいい。豊かさなど目指さず、惨めな生活を続けさせておけばいい。

オ  もしラッセルの言うことが正しいのなら、これはなんとばかばかしいことであろうか。

 

問2 傍線部Aについて、「ラッセルの述べていること」を、筆者が「やはり何かがおかしい」と感じるのはなぜか。最適なものを、次の中から一つ選べ。(同志社大学)

ア  ラッセルの主張に従えば、すでに自由を獲得した西欧諸国の若者たちが、自分の才能を発揮する場を求めて、共産主義革命が進行中のロシアに移住してしまうことになるから。

イ  ラッセルの主張に従えば、人々が幸福を得るためには、不正や不便との闘いなど努力すべき課題が残されていた、19世紀のヨーロッパに戻る必要が生じてしまうから。

ウ  ラッセルの主張に従えば、打ち込むべき仕事をもつ人々も、打ち込むべき仕事を外から与えられない人間も、ともに不幸であり、人類に本当の幸福はありえないことになってしまうから。

エ  ラッセルの主張に従えば、人々が努力してよりよく、より豊かな社会を実現させると、新世界の創造など打ち込むべき仕事をもてなくなり、不幸に陥ってしまうことになるから。

オ  ラッセルの主張に従えば、人類が豊かさを目指して社会のなかにある不正や不便と闘ってきたのは、建前にすぎなかったからこそ、よりよい社会が実現してしまったことになるから。

 

問3 空欄Yに入る次の5つの段落を並べ替えよ。(予想問題)

ア  ところがいまでは「趣味」をカタログ化して選ばせ、そのために必要な道具を提供する企業がある。テレビCMでは、子育てを終え、亭主も家にいる、そんな年齢の主婦を演じる女優が、「でも、趣味ってお金がかかるわよね」とつぶやく。すると間髪を入れず、「そんなことはありません!」とナレーションが入る。カタログから「趣味」を選んでもらえれば、必要な道具が安くすぐに手に入ると宣伝する。

イ  こう問うてみると、これまでのようにはすんなりと答えがでてこなくなる。もちろん、「好きなこと」なのだから個人差があるだろうが、いったいどれだけの人が自分の「好きなこと」を断定できるだろうか?

ウ「好きなこと」という表現から、「趣味」という言葉を思いつく人も多いだろう。趣味とは何だろう? 辞書によれば、趣味はそもそもは「どういうものに美しさやおもしろさを感じるかという、その人の感覚のあり方」を意味していた(『大辞泉』)。これが転じて、個人が楽しみとしている事柄を指すようになった。 

エ  ならば今度はこんな風に問うてみよう。その「好きなこと」とは何か? やりたくてもできなかったこととはいったい何だったのか? いまそれなりに余裕のある国・社会に生きている人たちは、その余裕をつかって何をしているのだろうか?

オ  土曜日にテレビをつけると、次の日の日曜日に時間的・金銭的余裕をつぎ込んでもらうための娯楽の類を宣伝する番組が放送されている。その番組を見て、番組が勧める場所に行って、金銭と時間を消費する。さて、そうする人々は、「好きなこと」をしているのか? それは「願いつつもかなわなかった」ことなのか?

 

問4  傍線部Bについて、ガルブレイスの考えが「経済学者たちから強い抵抗にあった」のは、なぜか。最適なものを、次の中から一つ選べ。(同志社大学)

ア  資本主義発生以前の19世紀では、広告やセールスマンの言葉によって組み立てられる欲望はなかったから。

イ  19世紀の初めでは、消費者の個別の注文を受け、生産者がモノを生産する「消費者主義」が、正当性をもっていたから。

ウ  消費者の需要がまずあって、生産者がそれを感知して供給するという考え方が、経済学を支配していたから。

エ  消費者の需要によって経済は動いているとする経済学者に、生産者の都合を優先する考えが受け入れられなかったから。

オ  「ゆたかな社会」、すなわち、余裕のある社会の到来は、経済学者ガルブレイスの思い込みにすぎなかったから。

 

問5 傍線部Cについて、カントの考える「認識という仕組み」の説明として最適なものを、次の中から一つ選べ。(同志社大学)

ア  人間は、あらかじめもっている世界認識という型を現象にあてはめて、主体性を発揮する。

イ  因果関係という概念は、「炎」と「熱」の場合には説明が可能だが、「楽しい」の場合には不可能になる。
ウ  人間は、原因と結果を結びつける因果関係という概念を働かせて、知覚から感覚を導き出す。
エ  因果関係という概念のうち、「から」にあたる型を現象にあてはめて、世界を受け取る主体性が期待される。 
オ  人間は、あらかじめもっている概念にあてはめて世界を理解し、主体的にまとめ上げる。


問6 本文中の「好きなこと」と、ほぼ同じ意味を持つ漢字2字の語句を、すべて抜き出せ。(予想問題)

  

問7 本文の内容に合致するものを、次の中から二つ選べ。(同志社大学)

ア  国や社会が豊かになれば、人々に金銭的余裕と時間的余裕が生まれる。

イ  余裕のある国・社会に生きている人々は、あらゆる活動が生存のために行われる生活を忘れている。

ウ  娯楽の類を宣伝する番組は、趣味をカタログから選びやすいように配慮した、企業の好意に基づいている。

エ  「趣味」を「その人の感覚のあり方」と説く辞書の定義は、今日では無効になっている。

オ  20世紀には、文化という領域が大衆に向かって開かれ、文化産業が巨大化した。

カ  いつの時代でも、文化や芸術は経済の支配化にある。

 

問8 傍線部Dについて、「いまでは、むしろ労働者の暇が搾取されている」のは、なぜか説明せよ。(句読点とも40字以内) (同志社大学)

 

ーーーーーーーー

 

(解説・解答)
問1(文章並べ替え問題)

→並べ替え問題は、まず、2~3のセットを早く確定することが、解法のポイントです。

 まず第一に、

オ「もしラッセルの言うことが正しいのなら、これなんとばかばかしいことであろうか。」、

ウ「人々は社会をより豊かなものにしようと努力してきた。なのにそれが実現したら、人は逆に不幸になる。」、

ア「それだったら、社会をより豊かなものにしようと努力する必要などない。」、

の文脈より「オ→ウ→ア」のセットができます。

 エはアの言い換えです。

 イは「オ→ウ→ア→エ」の理由部分になります。

(解答) オ→ウ→ア→エ→イ

 

問2(傍線部説明問題・理由説明問題)

 直前の【8】~【11】段落、直後の【13】段落に着目してください。

 標準レベルの問題です。

(解答) エ

 

問3(段落並べ替え問題)

 →並べ替え問題は、まず、2~3のセットを早く確定することが、解法のポイントです。

 イ・エの問題提起部分に注目すれば、「エ→イ→オ」は明白です。

 また、空欄直後の【26】「さて、カタログからそんな『その人の感覚のあり方』を選ぶとはいったいどういうことなのか?」より、「ウ→ア」がラストになることが分かります。

(解答) エ→イ→オ→ウ→ア

 

問4(傍線部説明問題・理由説明問題)

 解法としては、傍線部直前の、

【29】「経済は消費者の需要によって動いているし動くべきであるとする「消費者主権」という考えが長く経済学を支配していたがために(→「ために」に注意してください)

に注目してください。

(解答) ウ

 

問5(傍線部説明問題)

 解法としては、

「彼らが利用するのは、18世紀ドイツの哲学者カント[1724~1804]の哲学だ。 カントは人間が行う認識という仕組みがどうして可能であるのかを考えた。

という傍線部直後の

「どうやって人間は世界を認識しているのか? 人間はあらかじめいくつかの概念をもっている、というのがカントの考えだった。人間は世界をそのまま受け取っているのではなくて、あらかじめもっていた何らかの型(概念)にあてはめて理解しているというわけだ。」、

 【45】段落の「人間は世界を受け取るだけでない。それらを自分なりの型にそって主体的にまとめ上げる。18世紀の哲学者カントはそのように考えた。」

に着目するべきです。

(解答) オ

 

問6(キーワードの類語を抜き出す問題・記述式問題)→入試頻出です

→この問題は、本文を熟読する前に見た方が効率的です。

 解法としては、筆者が「好きなこと」を、分かりやすく具体化して、言い換えている点に注目してください。

 筆者の立場に立って、筆者の「工夫」や「丁寧さ」を読み取る態度が必要になります。

 そのうえで、資本主義・文化産業の「操作」・「先取り」という「仕掛け」を読み取るとよいでしょう。

(解答)  趣味・需要・欲望・感性

 

問7(趣旨合致問題)

→趣旨合致問題は、本文を熟読する前に見た方が効率的です。そのうえで、各選択肢のポイントを、前もって、チェックしておくべきでしょう。

ア 【15】・【18】段落に合致しています。

イ   本文に、このような記述は、ありません。

ウ 【38】・【47】・【52】段落に反しています。

エ   「今日では無効になっている」の部分が本文に反しています。

オ 【39】段落以降に合致しています。

カ   「言い過ぎ」になっているので、誤りです。

(解答) ア・オ

 

問8(傍線部説明問題・理由説明問題・記述式問題)

→この問題も本文を熟読する前に見た方が効率的です。

 この問題は、問6に関連しています。傍線部は、筆者が最も主張したいキーセンテンスです。

 傍線部の理由としては、直前の、

【51】段落「資本主義の全面展開によって、少なくとも先段落進国の人々は裕福になった。そして暇を得た。だが、暇を得た人々は、その暇をどう使ってよいのか分からない。何が楽しいのか分からない。自分の好きなことが何なのか分からない。」、

【52】段落「そこに資本主義がつけ込む。文化産業が、既成の楽しみ、産業に都合のよい楽しみを人々に提供する。かつては労働者の労働力が搾取されていると盛んに言われた。」、

さらに、
【47】段落「わたしたちはそうして自分の『好きなこと』を獲得し、お金と時間を使い、それを提供している産業が利益を得る。」、

に注目するとよいでしょう。

(解答)
人々が暇を活用できないことにつけ込み、文化産業が楽しみを提供し利益を得るから。(39字)

 

ーーーーーーーー

 

(出典) 《序章   「好きなこと」とは何か?》『暇と退屈の倫理学』國分功一郎、の一節

 

 ーーーーーーーー

 

 なお、問題文本文の続き、つまり、「序章」の続きには、以下のような重要な記述があります。赤字部分に特に注意して、熟読してください。

なぜ暇は搾取されるのだろうか? それは人が退屈することを嫌うからである。人は暇を得たが、暇を何に使えばよいのか分からない。このままでは暇の中で退屈してしまう。だから、与えられた楽しみ、準備・用意された快楽に身を委ね、安心を得る。では、どうすればよいのだろうか? なぜ人は暇の中で退屈してしまうのだろうか? そもそも退屈とは何か? 

 こうして、暇の中でいかに生きるべきか、退屈とどう向き合うべきかという問いが現れる。〈暇と退屈の倫理学〉が問いたいのはこの問いである。



(3) 『暇と退屈の倫理学』の構成

 『暇と退屈の倫理学』の「序章」の最後に,本書の構成について,著者・國分功一郎氏が簡潔にまとめているので、それを引用します。

 「最初の第一章では,暇と退屈というこの本の主題の出発点となる考えを練り上げる。暇と退屈がいかなる問題を構成しているのかが明らかにされるだろう。

 第二章から第四章までは主に歴史的な見地から暇と退屈の問題を扱っている。
 第二章はある人類学的な仮説をもとに有史以前について論じる。問題となるのは退屈の起源である。
 第三章は歴史上の暇と退屈を,主に経済史的な観点から検討し,暇が有していた逆説的な地位に注目しながら,暇だけでなく余暇にまで考察を広める。
 第四章では消費社会の問題を取り上げ,現代の暇と退屈を論じる。

 第五章から第七章では哲学的に暇と退屈の問題を扱う。
 第五章ではハイデッガーの退屈論を紹介する。
 第六章ではハイデッガーの退屈論を批判的に考察するためのヒントを生物学のなかに探っていく。
 第七章ではそこまでに得られた知見をもとに,実際に<暇と退屈の倫理学>を構想する。」

 

 ーーーーーーーー

 

(当ブログによる解説)

 第四章以下では「消費と労働」、「疎外」について考察しています。
 つまり、現代人は、ある程度の「豊かさ」と「暇」を入手したが、その「暇な時間」に何をしたいのか、よく分からない人が多い。人類は他の動物と異なり、環世界を変幻自在に飛び回ることができる自由な存在であるために、退屈を嫌う。その点に企業・広告業界等が注目し、人々が余暇に行うであろう欲望の対象を用意し、広告宣伝等により誘導する。つまり、私たちの需要・欲求は、あらかじめ企業等の供給側によって支配されているという構造があるのです。

 これに対して、國分氏は、受動的で際限のない、虚しい「消費」を批判し、「真の豊かさ」としての「浪費」の意義を強調しています。
 そして、真の豊かな「浪費」を享受するために、浪費を味わえるようにする一定の訓練と、動物的「とりさらわれ」(→「熱中。集中」という意味)の重要性を主張するのです。

 

(4)当ブログにおける『中動態の世界』(國分功一郎)関連記事の紹介

  『中動態の世界』は2017年度発行の最新の哲学書です。2017年度のベストセラーになっている、話題の哲学書です。2018年度以降の入試頻出出典になる可能性が高いので、要注意です。

 

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(5)國分功一郎氏の紹介・著書

國分功一郎(こくぶん・こういちろう)
1974年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。高崎経済大学経済学部准教授。専攻は哲学。

 

【著書】

『スピノザの方法』(みすず書房)、

『暇と退屈の倫理学』(朝日出版社。のち増補新版、太田出版。第2回紀伊國屋じんぶん大賞受賞作)、

『哲学の自然』(中沢新一との共著、太田出版)、

『ドゥルーズの哲学原理』(岩波書店)、

『来るべき民主主義──小平市都道328号線と近代政治哲学の諸問題』(幻冬舎新書)、

『社会の抜け道』(古市憲寿との共著、小学館)、

『哲学の先生と人生の話をしよう』(朝日新聞出版)、

『統治新論──民主主義のマネジメント』(大竹弘二との共著、太田出版)、

『近代政治哲学――自然・主権・行政』(筑摩書房・ちくま新書)、

『民主主義を直感するために』(晶文社)、

『中動態の世界――意志と責任の考古学』(医学書院。第16回小林秀雄賞受賞作)など。

 

(6)当ブログにおける「哲学」関連記事の紹介

 

  「哲学」は入試国語(現代文)・小論文の頻出分野です。国語(現代文)・小論文対策として、ぜひ、参照してください。

 

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ーーーーーーーー

 

今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

ご期待ください

 

  

 

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『中動態の世界』國分功一郎/哲学/現代文・小論文予想出典(後編)

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 國分功一郎氏は、最近の入試頻出著者です。國分氏の論考は、最近、慶応大学(商学部)、中央大学、同志社大学、関西大学、獨協大学などの難関大学の国語(現代文)・小論文で出題されています。
 従って、難関大学入試(受験)・センター試験の国語(現代文)・小論文対策として、國分功一郎の氏の論考・著書を読むことを、おすすめします。

 最近、当ブログでは、「予想問題『暇と退屈の倫理学』國分功一郎/消費社会・真の豊かさ」を発表しましたが、國分氏が今年に刊行した『中動態の世界』が、また素晴らしい名著です。

 

gensairyu.hatenablog.com

 

 従って今回は、「予想出典」として本書の紹介記事を発表します。

 『中動態の世界』は、最近のベストセラーになっています。

 近代的常識や「べき論」の牢獄からの穏当な脱走を提案する、現代人救済のための哲学書です。

 近代批判の良書です。

 丁寧に、分かりやすく記述されているので、難関大学を目指す受験生、高校生であれば、充分に楽しめることでしょう。高校生、受験生は、最低1冊は、國分功一郎氏の著書を読んでおくべきでしょう。

 入試のレベルで見ると、入試出典として採用されやすい論考には、一定のポイントがあります。未知のユニーク視点、日本語として美しい文、明快な論理構造などです。
 本書は、これらのポイントを充分に満たしています。

 本書が、来年度以降の国語(現代文)・小論文問題として出題される可能性は、かなり高いと思われます。

 そこで、国語(現代文)・小論文対策として、予想出典記事を発表します。
  『中動態の世界』は密度の濃い論考であり、「入試題材の宝庫」なので、今回の予想出典記事は、前編・後編の2回に分けて発表します。

 今回は前回の「『中動態の世界』國分功一郎/哲学/現代文・小論文予想出典(前編)」(→主に本書の前半を中心に解説しました)に続く、その「後編」(→主に本書の後半を中心に解説します)です。

 今回の記事の理解を深めるために、ぜひ、前回の「前編」を、読んでください。

 

gensairyu.hatenablog.com

 

 『中動態の世界』の後半では、アレント、ハイデッガー、スピノザ等の偉大な哲学者達の説を、國分氏が解明した「中動態の世界」の視座から読み直すことで、彼らの説をより明快に解説しています。
 ただ、國分氏は、偉大な哲学者達の論理や直感に一定の評価をして、彼らの学問的価値を高めようとしています。彼らへの畏敬の念が感じられる論考です。

『暇と退屈の倫理学』と合わせ読むと「人間性の真の解放」の意味が実感できます。

 

 今回の記事は、「第5章意志と選択」・「第8章中動態と自由の哲学」を中心に解説していきます。今回の記事の項目は、以下のようになっています。

 

(2)「第5章・意志と選択/アレント」の解説

(3)「第8章・中動態と自由の哲学/スピノザ」の解説

(4)國分功一郎氏の紹介・著書

(5)当ブログにおける「哲学」関連記事の紹介

 

(2)「第5章・意志と選択/アレント」の解説

 

(引用部分は概要です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です) 

 

【アレントの意志論】

 本書によると、アレントは「能動/受動の図式」にこだわり、「中動性」の正しい理解に至っていないようです。國分氏は、アレントの『精神の生活』を解説しつつ、その点を厳しく指摘していきます。


 初めに、國分氏は、「アレントの意志の定義」を呈示しています。

「  アレントは次のように述べている。
 われわれは記憶は、過去に関わる精神的な器官と見なすことができる。 それは過ぎ去ったものにかかわっているからである。ならば同じ意味で、われわれは未来にかかわる精神的な器官を考えることができるだろう。それが意志である。」(P128 )

 

 アレントが批判している「アリストテレスの可能態の考え方」は、未来は過去に存在していたものの帰結以外のなにものでもない、としています。

 この説に対して、アレントは次のように指摘しています。

「実在する一切のものには、その原因の一つとしての可能態が先行しているはずだ、という見解は、暗々裏に未来を、真正な時制とすることを否定している。」(P129)

 

 アレントは「未来」と「意志」の存在を強く主張しています。『中動態の世界』から引用します。

「アレントによれば、未来が未来として認められるためには、未来は過去からの帰結であってはならない。未来は過去から切断された絶対的な始まりでなければならない。そのような真正な時制としての未来が認められれたとき、はじめて意志に場所が与えられる。始まりを司る能力、何事かを始める能力の存在が認められることになる。」(P130)

 
 次に、『中動態の世界』は「意志と選択の違いとは何か?」の論点に入ります。
 まず、國分氏は、次のように述べています。

「意志の概念は、責任の概念と結びついている。われわれは、意志を、何ごとかを開始する能力として理解している。だからこそ、この言葉に基づいて責任を考えることができる。 」(P130)

 

【意志と選択の違いとは何か?】

 それでは、意志と選択の違いは何でしょうか?
 國分氏は、以下のように記述しています。

ある行為が過去からの帰結であれば、その行為をその行為者の意志によるものと見なすことはできない。その行為はその人によって開始されたものではないからである。たしかにその行為者は何らかの選択はしたのだろう。しかしこの場合、選択は諸々の要素の相互作用の結果として出現したのであって、その行為者が己の意志によって開始したのではないことになる。

 日常において、選択は不断に行われている。そして選択はそれが過去からの帰結であるならば、意志の実現とは見なせない。ならば次のように結論できよう。意志と選択は明確に区別されねばならない。」 (P131)

 

 以上の区別の基準は、かなり明確です。


 次に、國分氏は「意志の内容」の考察に入ります。

「過去からの帰結としての選択と、区別されるべきものとしての意志とは、何か? それは過去からの帰結としてある選択の脇に突然現れて、無理やりにそれを過去から切り離そうとする概念である。しかもこの概念は自然とそこに現れてくるのではない。それは呼び出される。」(P132)

 「しかもこの概念(→「意志」)は自然とそこに現れてくるのではない。それは呼び出される。」の部分は、かなり衝撃的な内容になっています。

 

 ここで、私達は、立ち止まって考えるべきです。「意志」という、私達のアイデンティティの根幹である「意志」は、「自然とそこに現れてくるのではない」のです。

 

 さらに、國分氏は続けて、以下のように説明しています。熟読するべき箇所です。

「責任を問うためには、この選択の開始地点を確定しなければならない。その確定のために呼び出されるのが意志という概念である。この概念は私の選択の脇に来て、選択と過去のつながりを切り裂き、選択の開始地点を私の中に置こうとする。」(P 132)

 

 上記の、

「責任の確定のために呼び出されるのが意志という概念である。」

「この(責任の)概念は選択の開始地点を私の中に置こうとする。」

の部分により、「責任概念」の強力なパワーが、よく分かります。

 まさに、「責任社会」の構築のために「意志概念」が発明されたことが、よく分かります。

 

 さらに、本書から引用します。
「こう考えると、選択と意志の区別は明確であり、実に単純であると言わねばならない。望むと望まざるとにかかわらず、選択は不断に行われている。意志は後からやってきてその選択に取り憑く。
 ところが、この実に単純な区別がこれまで正確に理解されてこなかった。意志をめぐる議論が常に混乱の中にあったのはそのためであると思われる。 」
「アレントが解きほぐしたのは、思想史における混乱だけではない。この混乱は、『意志』という語を用いる際、われわれ自身がしばしば陥る混乱でもある。」(P132)

 

 確かに、私達は日々の、「選択」に過ぎない決断を「意志」と考え、その自己の判断を自分自身で尊重しています。完全に混乱しています。その点を、アレントは問題視したのです。

 

【意志が選択にすり替えられてしまう】

 以下は、「意志が選択にすり替えられてしまう」ことについての、國分氏の丁寧な説明です。

 読みごたえのある論考です。いかにも、入試に出題されそうな部分です。熟読してください。

「選択がそれまでの経緯や周囲の状況、心身の状態など、さまざまな影響のもとで行われるのは、考えてみれば当たり前のことである。ところが抽象的な議論になるとそれが忘れあれ、いつの間にやら選択が、絶対的な始まりを前提とする意志にすり替えられてしまう。過去から地続きであって常に不純である他ない選択が、過去から切断された始まりと見なされる純粋な意志に取り違えられてしまうのだ。」

「『意志など幻想だ』と言われるときも、実際には、意志ではなくて選択が扱われていたというのに、結論部においてはなぜか意志が否定されている場合がある。」

「たとえば、ある人が何かを選択するにあたり、その選択行為が明確に意識されるよりも前の時点で、脳内で何らかの活動が始まっていたことが実験によって証明されたとしよう。これによって否定されるのは、単に、選択の開始地点は人の明晰な意識のなかにあるという思い込みに過ぎない。そして、ある選択が、行為として行われた時点に至るまでのさまざまな要素によって影響を受けているのは当たり前であって、そんなことはわざわざ指摘するまでもない。また、脳内で起こることをすべて意識できるはずがないのだから、選択が意識されるよりも前に脳内で何らかの活動が始まっているのも当然である。」(P133・134)

 

 上記の引用では、意志と選択が区別されています。「選択」は過去の様々な事情を原因として、なされる行為です。従って、「意志」は、必然的に、一切の過去の原因から「切断」されたものでなければならないことになります。

 しかし、そのような「純粋な意志」は存在しないのです。

 

 この部分は、近代原理の当然の前提である「意志」の存在それ自体の、内容の見直しをしていて、入試題材として価値が高いと思われます。


【では意識の役割は?】

 では、意識の役割は何でしょうか?
 この点について、國分氏は以下のように述べています。

「選択が過去からの帰結であり、決して純粋な始まりではないとすれば、われわれは選択における意識の役割をもあらためて定義することができるだろう。
 意識は選択に影響を与える無数の影響の一つである。」

「選択は無数の要素の影響を受けざるをえず、意識はそうした要素の一つに過ぎないとしたら、意識は決して万能ではない。しかし、それは無力でもない。」

「意志という絶対的な始まりを想定せずとも、選択という概念ーー過去からの帰結であり、また無数の要素の相互作用のもとにあるーーを通じて、われわれは意識のための場所を確保することができる。むしろ意志の概念を斥けることによってこそ、意識の役割を正当に評価することができる。」(P135)

 

 上記の「意志の概念を斥けることによってこそ、意識の役割を正当に評価することができる」の部分は、かなり重大なことを主張しています。

 「意志概念の却下」を主張しているのです。「意志」の内容が空虚であるならば、「意志概念」を尊重する必要はない、むしろ「意志概念」は余計なものだ、と言っているのです。思い切った提言だと思います。

 

【意志をめぐるアレントの不可解な選択】

 一方で、國分氏は、アレント自身により定義された意志概念は、それを哲学的に擁護することは困難と述べています。

「意志は過去からの帰結であってはならず、過去から切断された絶対的な始まりでなければならないが、それはとても存在するとは思えない。」

「アレントによる意志の定義は、自らが定義している対象の存在の可能性を自らで切り崩してしまう、そのような定義である。」

「なぜならば、われわれは純粋で絶対的な始まりなど考えることができないからである。一人一人の精神のなかに純粋で絶対な始まりがあるなどと主張することは、少なくとも哲学的にはきわめて困難である。それはいわば『無からの創造』を求める主張である。」(P138)

 

 アレントの定義は一種の自己矛盾である、