現代文最新傾向LABO 斎藤隆

入試現代文の最新傾向を分析し、次年度の傾向を予測する大胆企画

2010センター国語現代文解説/岩井克人「資本主義と『人間』」

(1)はじめに

 センター試験国語(現代文・評論文・小説)は、「問題文本文の全体構造」を問う問題が頻出です。定番と言えます。

 2010年度第1問は、全体構造を問う問題として、かなりの良問です。

 その上、著者は国語(現代文・評論)・小論文の入試頻出著者・岩井克人氏なので、小論文にも役立ちます。

 そこで、センター試験国語(現代文・評論)・小論文対策として、今回の記事では2010センター試験第1問を丁寧に解説していきます。  

 

 なお、今回の記事の項目は以下の通りです。

(2)2010センター試験第1問/岩井克人「資本主義と『人間』」(『21世紀の資本主義論』 )/ 問題・解説・解答

(3)要約

(4)岩井克人氏の紹介

(5)当ブログの「センター試験・関連記事」の紹介

(6)当ブログの「岩井克人氏・関連記事」の紹介

(7)当ブログの「資本主義・関連記事」の紹介

 

 

二十一世紀の資本主義論 (ちくま学芸文庫)

 

 

(2)2010センター試験第1問/岩井克人「資本主義と『人間』」(『21世紀の資本主義論』 )/ 問題・解説・解答


 
(問題文本文)(概要です)

(【1】・【2】・【3】・・・・は当ブログで付記した段落番号です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です) 

 

次の文章を読んで、後の問いに答えよ。

【1】フロイトによれば、人間の自己愛は過去に3度ほど大きな痛手をこうむったことがあるという。1度目は、コペルニクスの地動説によって地球が天体宇宙の中心から追放されたときに、2度目は、ダーウィンの進化論によって人類が動物世界の中心から追放されたときに、そして3度目は、フロイト自身の無意識の発見によって自己意識が人間の心的世界の中心から追放されたときに。

【2】しかしながら実は、人間の自己愛には、すくなくとももうひとつ、フロイトが語らなかった傷が秘められている。だが、それがどのような傷であるかを語るためには、ここでいささか回り道をして、まずは「ヴェニスの商人」について語らなければならない。

【3】ヴェニスの商人━━のそれは、人類の歴史の中で「ノアの洪水以前」から存在していた商業資本主義の体現者のことである。海をはるかへだてた中国やインドやペルシャまで航海をして絹やコショウや絨毯(じゅうたん)を安く買い、ヨーロッパに持ちかえって高く売りさばく。遠隔地とヨーロッパとのあいだに存在する価格の差異が、莫大(ばくだい)な利潤としてかれの手元に残ることになる。すなわち、ヴェニスの商人が体現している商業資本主義とは、地理的に離れたふたつの国のあいだの価格の差異を媒介して利潤を生み出す方法である。そこでは、利潤は差異から生まれている。

【4】だが、A経済学という学問は、まさに、このヴェニスの商人を抹殺することから出発した

【5】年々の労働こそ、いずれの国においても、年々の生活のために消費されるあらゆる必需品と有用な物資を本源的に供給する基金であり、この必需品と有用な物資は、つねに国民の労働の直接の生産物であるか、またはそれと交換に他の国から輸入したものである。

【6】『国富論』の冒頭にあるこのアダム・スミスの言葉は、一国の富の増大のためには外国貿易からの利潤を貨幣のかたちで蓄積しなければならないとする、重商主義者に対する挑戦状にほかならない。スミスは、一国の富の真の創造者を、遠隔地との価格の差異を媒介して利潤をかせぐ商業資本的活動にではなく、勃興(ぼっこう)しつつある産業資本主義のもとで汗水たらして労働する人間に見いだしたのである。それは、経済学における「人間主義宣言」であり、これ以後、経済学は「人間」を中心として展開されることになった。

【7】たとえば、リカードやマルクスは、スミスのこの人間主義宣言を、あらゆる商品の交換価値はその生産に必要な労働量によって規定されるという労働価値説として定式化した。

【8】実際、リカードやマルクスの眼前で進行しつつあった産業革命は、工場制度による大量生産を可能にし、1人の労働者が生産しうる商品の価値(労働生産性)はその労働者がみずからの生活を維持していくのに必要な消費財の価値(実質賃金率)を大きく上回るようになったのである。労働者が生産するこの剰余価値――それが、かれらが見いだした産業資本主義における利潤の源泉なのであった。もちろん、この利潤は産業資本家によって搾取されてしまうものではあるが、リカードやマルクスはその源泉をあくまでも労働する主体としての人間にもとめていたのである。

【9】だが、産業革命から250年を経た今日、ポスト産業資本主義の名のもとに、旧来の産業資本主義の急速な変貌(へんぼう)が伝えられている。ポスト産業資本主義――それは、加工食品や繊維製品や機械製品や化学製品のような実体的な工業生産物にかわって、B技術、通信、文化、広告、教育、娯楽といったいわば情報そのものを商品化する新たな資本主義の形態であるという。そして、このポスト産業資本主義といわれる事態の喧騒(けんそう)のなかに、われわれは、ふたたびヴェニスの商人の影を見いだすのである。

【10】なぜならば、商品としての情報の価値とは、まさに差異そのものが生み出す価値のことだからである。事実、すべての人間が共有している情報とは、その獲得のためにどれだけ労力がかかったとしても、商品としては無価値である。逆に、ある情報が商品として高価に売れるのは、それを利用するひとが他のひととは異なったことが出来るようになるからであり、それはその情報の開発のためにどれほど多くの労働が投入されたかには無関係なのである。

【11】まさに、ここでも差異が価格を作り出し、したがって、差異が利潤を生み出す。それは、あのヴェニスの商人の資本主義とまったく同じ原理にほかならない。すなわち、このポスト産業資本主義のなかでも、労働する主体としての人間は、商品の価値の創造者としても、一国の富の創造者としても、もはやその場所をもっていないのである。

【12】いや、さらに言うならば、伝統的な経済学の独壇場であるべきあの産業資本主義社会のなかにおいても、われわれは、抹殺されていたはずのヴェニスの商人の巨大な亡霊を発見しうるのである。

【13】産業資本主義ーーそれも、実は、ひとつの遠隔地貿易によって成立している経済機構であったのである。ただし、産業資本主義にとっての遠隔地とは、海のかなたの異国ではなく、一国の内側にある農村のことなのである。

【14】産業資本主義の時代、国内の農村にはいまだに共同体的な相互扶助の原理によって維持されている多数の人口が滞留していた。そして、この農村における過剰人口の存在が、工場労働者の生産性の飛躍的な上昇にもかかわらず、彼らが受け取る実質賃金率の水準を低く抑えることになったのである。たとえ工場労働者の不足によってその実質賃金率が上昇しはじめても、農村からただちに人口が都市に流れだし、そこでの賃金率を引き下げてしまうのである。

【15】それゆえ、都市の産業資本家は、都市にいながらにして、あたかも遠隔地交易に従事している商業資本家のように、労働生産性と実質賃金率という二つの異なった価値体系の差異を媒介できることになる。もちろん、そのあいだの差異が、利潤として彼らの手元に残ることになる。これが産業資本主義の利潤創出の秘密であり、それはいかに異質に見えようとも、利潤は差異から生まれてくるというあのヴェニスの商人の資本主義とまったく同じ原理にもとづくものなのである。

【16】この産業資本主義の利潤創出機構を支えてきた労働生産性と実質賃金率とのあいだの差異は、歴史的に長らく安定していた。農村が膨大な過剰人口を抱えていたからである。そして、この差異の歴史的な安定性が、その背後に「人間」という主体の存在を措定 (→「想定」という意味)してしまう、伝統的な経済学の「錯覚」を許してしまったのである。

【17】かつてマルクスは、人間と人間との社会的な関係によってつくりだされる商品の価値が、商品そのものの価値として実体化されてしまう認識論的錯覚を、商品の物神化と名付けた。その意味で、差異性という抽象的な関係の背後にリカードやマルクス自身が措定してきた主体としての「人間」とは、まさに物神化、いや人神化の産物にほかならないのである。

【18】差異は差異にすぎない。産業革命から250年、多くの先進資本主義国において、無尽蔵に見えた農村における過剰人口もとうとう枯渇してしまった。実質賃金率が上昇しはじめ、もはや労働生産性と実質賃金率とのあいだの差異を媒介する産業資本主義の原理によっては、利潤を生みだすことが困難になってきたのである。あたえられた差異を媒介するのではなく、みずから媒介すべき差異を意識的に創(つく)りだしていかなければ、利潤が生み出せなくなってきたのである。その結果が、差異そのものである情報を商品化していく、現在進行中のポスト産業資本主義という喧噪(けんそう)に満ちた事態にほかならない。

 【19】差異を媒介して利潤を生み出していたヴェニスの商人(X) ━━あのヴェニスの商人の資本主義こそ、まさに普遍的な資本主義であったのである。そして、D「人間」は、この資本主義の歴史のなかで、一度としてその中心にあったことはなかった。

(岩井克人「資本主義と『人間』」による)

 

ーーーーーーー

 

(設問)

 

問1(漢字問題は省略します)

 

問2 傍線部A「経済学という学問は、まさに、このヴェニスの商人を抹殺することから出発した」とあるが、それはどういうことか。その説明として最適なものを、次の中から一つ選べ。

① 経済学という学問は、差異を用いて莫大な利潤を得る仕組みを暴き、そうした利潤追求の不当性を糾弾することから始まったということ。

② 経済学という学問は、差異を用いて利潤を生み出す産業資本主義の方法を排除し、重商主義に挑戦することから始まったということ。

③ 経済学という学問は、差異が利潤をもたらすという認識を退け、人間の労働を富の創出の中心に位置づけることから始まったということ。

④ 経済学という学問は、労働する個人が富を得ることを否定し、国家の富を増大させる行為を推進することから始まったということ。

⑤ 経済学という学問は、地域間の価格差を利用して利潤を得る行為を批判し、労働者の人権を擁護することから始まったということ。

 

問3 傍線部B「技術、通信、文化、広告、教育、娯楽といったいわば情報そのものを商品化する新たな資本主義の形態」とあるが、この場合、「情報そのもの」が「商品化」されるとはどういうことか。その具体的な説明として最適なものを、次の中から一つ選べ。

① 多くの労力を必要とする工業生産物よりも、開発に多くの労力を前提としない特許や発明といった技術の方が、商品としての価値をもつようになること。

② 刻一刻と変動する株価などの情報を、誰もが同時に入手できるようになったことで、通信技術や通信機器が商品としての価値をもつようになること。

③ 広告媒体の多様化によって、工業生産物それ自体の創造性や卓越性を広告が正確にうつし出せるようになり、商品としての価値をもつようになること。

④ 個人向けに開発された教材や教育プログラムが、情報通信網の発達により一般向けとして広く普及したために、商品としての価値をもつようになること。

⑤ 多チャンネル化した有料テレビ放送が提供する多種多様な娯楽のように、各人の好みに応じて視聴される番組が、商品としての価値をもつようになること。

 

問4 傍線部C「伝統的な経済学の『錯覚』」とあるが、それはどういうことか。その説明として最適なものを、次の中から一つ選べ。

① 産業資本主義の時代に、農村から都市に流入した労働者が商品そのものの価値を決定づけたために、伝統的な経済学は、価値を定める主体を富の創造者として実体化してしまったということ。

② 産業資本主義の時代に、都市の資本家が農村から雇用される工場労働者を管理していたために、伝統的な経済学は、労働力を管理する主体を富の創造者と仮定してしまったということ。

③ 産業資本主義の時代に、大量生産を可能にする工場制度が労働者の生産性を上昇させたために、伝統的な経済学は、大きな剰余価値を生み出す主体を富の創造者と認定してしまったということ。

④ 産業資本主義の時代に、都市の資本家が利潤を創出する価値体系の差異を積極的に媒介していたために、伝統的な経済学は、その差異を媒介する主体を利潤の源泉と見なしてしまったということ。

⑤ 産業資本主義の時代に、農村の過剰な人口が労働者の生産性と実質賃金率の差異を安定的に支えていたために、伝統的な経済学は、労働する主体を利潤の源泉と認識してしまったということ。

 

問5 傍線部D「『人間』は、この資本主義の歴史のなかで、一度としてその中心にあったことはなかった」とあるが、それはどういうことか。本文全体の内容に照らして最適なものを、次の中から一つ選べ。

① 商業資本主義の時代においては、商業資本主義の体現者としての「ヴェニスの商人」が、遠隔地相互の価格の差異を独占的に媒介することで利潤を生み出していたので、利潤創出に参加できなかった「人間」の自己愛には深い傷が刻印されることになった。

② アダム・スミスは『国富論』において、真の富の創造者を勤勉に労働する人間に見いだし、旧来からの交易システムを成立させていた「ヴェニスの商人」を市場から退場させることで、資本主義が傷つけた「人間」の自己愛を回復させようと試みた。

③ 産業資本主義の時代においては、労働する「人間」中心の経済が達成されたように見えたが、そこにも差異を媒介する働きをもった、利潤創出機構としての「ヴェニスの商人」は内在し続けたため、「人間」が主体として資本主義にかかわることはなかった。

④ マルクスはその経済学において、人間相互の関係によってつくりだされた価値が商品そのものの価値として実体化されることを物神化と名付けたが、主体としての「人間」もまた認識論的錯覚のなかで物神化され、資本主義社会における商品となってしまった。

⑤ ポスト産業資本主義の時代においては、希少化した「人間」がもはや利潤の源泉と見なされることはなく、価値や富の中心が情報に移行してしまったために、アダム・スミスの意図した「人間主義宣言」は完全に失効したことが明らかとなった。

 

問6 この文章の表現について、次の(ⅰ)・(ⅱ)の各問いに答えよ。

(i)最終段落の(X)のダッシュ記号「━━」のここでの効果を説明するものとして適当でないものを、次の中から一つ選べ。

① 直前の内容とひと続きであることを示し、語句のくり返しを円滑に導く効果がある。

② 表現の間(ま)を作って注意を喚起し、筆者の主張を強調する効果がある。

③ 直前の語句に注目させ、抽象的な概念についての確認を促す効果がある。

④ 直前の語句で立ち止まらせ、断定的な結論の提示を避ける効果がある。

  

( ⅱ )この文章の構成の説明として最適なものを、次の中から一つ選べ。

① 人間の主体性についての問題を提起することから始まり、経済学の視点から資本主義の歴史を起源にさかのぼって述べ、商業資本主義と産業資本主義を対比し相違点を明確にした後、今後の展開を予測している。

② 差異が利潤を生み出すことを本義とする資本主義において、人間が主体的立場になかったことを検証した後、その理由を歴史的背景から分析し、最後に人間の自己愛に関する結論を提示している。

③ 人間の自己愛に隠された傷があることを指摘した後で、差異が利潤を生み出すという基本的な資本主義の原理をふまえてその事例の特徴を検証し、最後に冒頭で提起した問題についての見解を述べている。

④ 差異が利潤を生み出すという結論から資本主義の構造と人間の関係を検証し、人間の労働を価値の源泉とする経済学の理論にもとづいて、具体的な事例をあげて産業資本主義の問題を演繹(えんえき)的に論じている。


ーーーーーーー

 

(解説・解答)

問2(傍線部説明問題)

 傍線部の「ヴェニスの商人」とは「商業資本主義の体現者」(【3】段落)です。
 そして、「商業資本主義」とは、「地理的に離れたふたつの国のあいだの価格の差異を媒介して利潤を生み出す方法」(【3】段落)です。
 従って、「ヴェニスの商人を抹殺する」とは、「一国の富の真の創造者を、遠隔地との価格の差異を媒介して利潤をかせぐ商業資本的活動にではなく、勃興しつつある産業資本主義のもとで汗水たらして労働する人間に見いだ」(【6】段落)すことです。


① 経済学の「利潤追求の不当性を糾弾」の部分が不適切です。本文に、このような記述はありません。

② 本文に、このような記述はありません。

③ 適切です。

④ 本文に、このような記述はありません。

⑤ 本文に、このような記述はありません。

(解答)③


問3(傍線部説明問題)

→この設問こそ、問題文本文の熟読・精読が不可欠です。
「問題文本文の熟読・精読」さえすれば、何でもない問題です。要約のメモはやめて、大切な部分に線を引くだけで十分です。


 傍線部直後の「このポスト産業資本主義といわれる事態の喧騒のなかに、われわれは、ふたたびヴェニスの商人の影を見いだすのである」、

次の【10】段落の「なぜならば、商品としての情報の価値とは、まさに差異そのものが生み出す価値のことだからである」、

「ある情報が商品として高価に売れるのは、それを利用するひとが他のひととは異なったことが出来るようになるから」、

に注目してください。


 ここで、【3】段落に着目すると、「ヴェニスの商人」とは「商業資本主義の体現者」(【3】段落)であり、「商業資本主義」とは、「地理的に離れたふたつの国のあいだの価格の差異を媒介して利潤を生み出す方法」です。「そこでは、利潤は差異から生まれている」のです。

 従って、「差異そのものが生み出す価値」「差異が生み出す価値」がキーワードになります。

 つまり、「『情報そのもの』が『商品化』される」とは「『情報そのものの差異』が価値を生み出す」ということになります。

 

①~④ 「差異が生み出す価値」に関連した記述になっていないので、不適切です。

⑤ チャンネルの差異により、視聴者が番組を選択するという内容です。「チャンネル間の差異」が価値を決定することになるので、適切です。

(解答)⑤

 

問4(傍線部説明問題)

この差異の歴史的な安定性(→「産業資本主義の利潤創出機構を支えてきた労働生産性と実質賃金率とのあいだの差異」が、「歴史的に長らく安定していた」こと)が、その背後に「人間」という主体の存在を措定(「想定」)してしまう、伝統的な経済学の『錯覚』を許してしまったのである」

という文章の構造に着目する必要があります。 

 

 上記の「この」に注目して、直前の部分を熟読する必要があるということです。【14】~【16】段落のポイントを列記すると、以下のようになります。


【14】段落「農村における過剰人口の存在が、工場労働者の生産性の飛躍的な上昇にもかかわらず、彼らが受け取る実質賃金率の水準を低く抑えることになったのである。」

【15】段落「都市の産業資本家は、労働生産性と実質賃金率という二つの異なった価値体系の差異を媒介できることになる。これ産業資本主義の利潤創出の秘密であり、それはいかに異質に見えようとも、利潤は差異から生まれてくるというあのヴェニスの商人の資本主義とまったく同じ原理にもとづくものなのである。」


【16】段落「この差異の歴史的な安定性 (→「産業資本主義の利潤創出機構を支えてきた労働生産性と実質賃金率とのあいだの差異」が、「歴史的に長らく安定していた」こと)が、その背後に「人間」という主体の存在を措定(「想定」)してしまう、C 伝統的な経済学の『錯覚』を許してしまったのである。」

以上の構造を、丁寧に把握してください。⑤が正解になります。

 

①~④ 無関係です。本文に、このような記述はありません。

(解答)⑤

 

問5(傍線部説明問題)

 傍線部の「この資本主義の歴史のなかで」に注目してください。

 「商業資本主義」・「産業資本主義」・「ポスト産業資本主義」の三つの「主義」の内容を、チェックする必要があります。

 三つの「主義」は、「差異によって利益を生み出す」点では共通しています。

 

 具体的には、以下の各段落をチェックするとよいでしょう。

 

「商業資本主義」→【6】段落「遠隔地との価格の差異を媒介して利潤をかせぐ商業資本的活動

 

「産業資本主義」→【14】・【15】段落

【14】段落「産業資本主義の時代、国内の農村にはいまだに共同体的な相互扶助の原理によって維持されている多数の人口が滞留していた。そして、この農村における過剰人口の存在が、工場労働者の生産性の飛躍的な上昇にもかかわらず、彼らが受け取る実質賃金率の水準を低く抑えることになったのである。」

【15】段落「都市の産業資本家は、あたかも遠隔地交易に従事している商業資本家のように、労働生産性と実質賃金率という二つの異なった価値体系の差異を媒介できることになる。もちろん、そのあいだの差異が、利潤として彼らの手元に残ることになる。これが産業資本主義の利潤創出の秘密であり、それはいかに異質に見えようとも、利潤は差異から生まれてくるというあのヴェニスの商人の資本主義(→「商業資本主義」)とまったく同じ原理にもとづくものなのである。」


「ポスト産業資本主義」→【9】・【10】段落

【9】段落「ポスト産業資本主義――それは、加工食品や繊維製品や機械製品や化学製品のような実体的な工業生産物にかわって、B技術、通信、文化、広告、教育、娯楽といったいわば情報そのものを商品化する新たな資本主義の形態であるという。そして、このポスト産業資本主義といわれる事態の喧騒(けんそう)のなかに、われわれは、ふたたびヴェニスの商人の影を見いだすのである。」

【10】段落「なぜならば、商品としての情報の価値とは、まさに差異そのものが生み出す価値のことだからである。」

 

 ③は、「産業資本主義の時代においては、労働する『人間』中心の経済が達成されたように見えたが、そこにも差異を媒介する働きをもった、利潤創出機構としての『ヴェニスの商人』は内在し続けた」の部分が、以上の本文の説明の通りです。

 つまり、「『ヴェニスの商人』は内在し続けていた」と、3つの「主義」を普遍的に把握しているので正解です。

 

① 「利潤創出に参加できなかった『人間』の自己愛には深い傷が刻印されることになった」の部分は、本文にこのような記述がないので、誤りです。

② 無関係です。本文に、このような記述はありません。

④ 「主体としての『人間』もまた」「資本主義社会における商品となってしまった」の部分が明らかに誤りです。

⑤ 「アダム・スミスの意図した「人間主義宣言」は完全に失効したことが明らかとなった」の部分が明らかに誤りです。

(解答)③

 

問6 (表現を問う問題)

→この設問こそ、特に本文を読む前に読み、ポイントをチェックするべきです。(1)は単純な問題なので、本文を見るまでもなく、すぐに解答してよいでしょう。その後で、本文を読みながら、確認的にチェックするとよいと思います。

 

(1)(「ダッシュ記号」の効果を聞く問題) 

 ダッシュ記号の効果としては、「強調」の機能があります。

④ 「断定的な結論の提示を避ける効果」のような婉曲表現ではありません。従って、正解は④です。

(解答)④

 

(2)(文章構成を聞く問題)

→この設問は問題3・4・5と同様に、「本文の全体構造」を問う問題です。「本文の全体構造」を把握していれば、容易に解答できます。

 逆に言うと、問3・4・5と本設問の内、一つでもミスした一人は、「本文の全体構造」を完全に理解していることには、なりません。よく復習しておいてください。

 

 ③が、本文の構成に合致しています。

① 「商業資本主義と産業資本主義を対比」の部分が誤りです。

 【15】段落の「これが産業資本主義の利潤創出の秘密であり、それはいかに異質に見えようとも、利潤は差異から生まれてくるというあのヴェニスの商人の資本主(→「商業資本主義」)とまったく同じ原理にもとづくものなのである。」に反します。

 また、「今後の展開を予測している」も誤りです。このような記述は本文には、ありません。

② 「最後に人間の自己愛に関する結論を提示している」の部分が誤りです。このような記述は本文には、ありません。

④ 「人間の労働を価値の源泉とする経済学の理論にもとづいて」の部分が誤りです。また、「具体的な事例をあげて産業資本主義の問題を演繹(えんえき)的に論じている」の部分も誤りです。

(解答)③

 

ーーーーーーーー

 

(出典)岩井克人「資本主義と『人間』」『21世紀の資本主義論』 (ちくま学芸文庫) 

 

 

(3)要約

フロイトによれば、人間の自己愛は過去に三度ほど大きな痛手をこうむったことがあるという。しかし、資本主義の歴史を振り返ると、もう一つの傷がある。「ヴェニスの商人」が体現者である商業資本主義は、差異が利潤を生み出した。現在、急速に進行しているポスト産業資本主義においても、差異そのものである情報を商品化して利潤を生み出している点で、同様の構造がある。いや、さらに言うならば、産業資本主義においても、結局は労働生産性と実質賃金率との差異を媒介にして利潤を生み出していた点で、ヴェニスの商人の巨大な亡霊を発見しうるのである。差異を媒介して利潤を生み出していた、あのヴェニスの商人の資本主義こそ、まさに普遍的な資本主義であったのである。そして、「人間」は、この資本主義の歴史のなかで、一度としてその中心にあったことはなかった。

 


(4)岩井克人氏の紹介

岩井 克人(いわい かつひと、1947年生まれ ) 日本の経済学者(経済理論・法理論・日本経済論)。学位はPh.D.(マサチューセッツ工科大学・1972年)。米イェール大学助教授、東大助教授、米ペンシルベニア大学客員教授、米プリンストン大学客員准教授、東大教授などを経る。国際基督教大学客員教授、東京大学名誉教授、公益財団法人東京財団名誉研究員、日本学士院会員。

  

【著書】

『ヴェニスの商人の資本論』(筑摩書房・1985年、ちくま学芸文庫・1992年)

『不均衡動学の理論』(岩波書店・1987年)

『貨幣論』(筑摩書房・1993年、ちくま学芸文庫・1998年)

『資本主義を語る』(講談社・1994年、ちくま学芸文庫・1997年)

『二十一世紀の資本主義論』(筑摩書房・2000年、ちくま学芸文庫・2006年)

『会社はこれからどうなるのか』(平凡社・2003年、平凡社ライブラリー・2009年)

『会社はだれのものか』(平凡社・2005年)

『IFRSに異議あり』(日本経済新聞出版社・2011年)

『経済学の宇宙』(日本経済新聞出版社・2015年)

『不均衡動学の理論』(モダン・エコノミックス20/ 岩波オンデマンドブックス) 

 

  

(5)当ブログの「センター試験・関連記事」の紹介

 

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(6)当ブログの「岩井克人氏・関連記事」の紹介


  なお、当ブログでは、頻出著者・岩井克人氏の論考について、最近、予想問題記事を発表しました。ぜひ、ご覧ください。

 

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(7)当ブログの「資本主義・関連記事」の紹介

 

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ーーーーーーーー

 

今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

ご期待ください。

 

   

 

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二十一世紀の資本主義論 (ちくま学芸文庫)

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経済学の宇宙

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資本主義から市民主義へ (ちくま学芸文庫)

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

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5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

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センター国語(現代文・評論・小説)満点奪取への過去問解説→最新7問

(1)センター試験国語(現代文・評論・小説)満点奪取への過去問解説→最新7問

 

 2018センター試験が、いよいよ迫ってきました。そこで、2018センター試験国語(現代文・評論・小説)対策記事を書くことにします。センター対策としては、以下のことを注意してください。

① まず、センター対策演習は過去問のみにするべきです。模擬問題はレベル・内容の点から、やらない方が賢明でしょう。
 もし、模擬試験を受けるのであれば、時間内に解く訓練の場として活用する。問題の復習は単語のチェックくらいにして、あまり熱心にやらないようにしてください。結局は、時間のムダになります。

 

② センター現代文は最新論点の出題が多く国公立・私立大の国語(現代文)・小論文対策にもなります。

 最近の例でいえば、センター現代文では「アイデンティティ」・「自己」、「情報化社会」・「IT化社会」に関する論点が多く出題されています。これらは国公立・私立大の現代文・小論文にも、最近よく出題されるので、対策として有用なのです。

 

③ また、センター現代文は時間が壁となっています。しかし、ある程度のレベルの受験生が能率的・効率的に処理すれば9割、調子がよければ満点には取れるように作成されています。

 センター国語は80分で大問4問をやらなければなりません。現代文2問を45分前後で処理する必要があるのです。

 現代文2問は、いずれも問題文本文が3000字以上あり、設問文も長いので、読むだけでも大変です。各選択肢のチェックにも、時間がかかります。

 設問を重視した解法を意識するべきでしょう。

 本文を読む前に設問から先に読む。

 選択肢のチェックは消去法を活用する。

 これらの効率的な解法を駆使するべきでしょう。

 

 以下では、当ブログで発表した、センター試験国語(現代文)の解説記事を、最新年度から、紹介していきます。

 7問の冒頭部分ポイント部分を紹介します。

 

 今回の記事の項目は、以下の通りです。

 各項目にそれぞれの記事のリンク画像を貼っておきます。

 ほとんどの記事には、問題文本文の概要があります。

 

(2)2017年度センター国語第1問(現代文・評論)解説

(3)2016センター国語第1問解説『キャラ化する/される子どもたち』

(4)2015センター試験国語第1問(現代文・評論文)解説・IT化社会

(5)2013センター国語第1問(現代文)解説「鐔」小林秀雄・エッセイ

(6)2012センター国語第1問解説「境界として自己」木村敏・関係性

(7)2017センター試験国語第2問・問題解説・小説の純客観的解法

(8)2008センター試験国語第2問(小説)解説『彼岸過迄』夏目漱石

 

 

トランス・サイエンスの時代―科学技術と社会をつなぐ (NTT出版ライブラリーレゾナント)

 

 

(2)2017年度センター国語第1問(現代文・評論)解説

 この年度の問題は、「科学論」・「科学批判」に関する最新の論点が出題されました。そして、その直後の東大国語(現代文・評論文)で、同一論点が出題されました。

 従って、「センター試験現代文には、その年の、国公立・私立大学の現代文・小論文の流行論点を予告する側面がある」ということを、改めて再確認しました。

 皆さんも、このことは、意識しておいてください。

 

gensairyu.hatenablog.com

 

 上記の記事は、以下のような内容になっています。

 最初の部分を再掲します。詳しくは、リンク画像・経由で、ご覧ください。

 

ーーーーーーーー

 

(1)当ブログの予想論点記事が2017センター試験国語[1]に的中(著者・論点)しました。

 2016東大・一橋大・静岡大ズバリ的中(3大学ともに全文一致→下にリンク画像があります)に続く快挙です。うれしいことです。

 

 2016・12・13に発表した当ブログの記事(「国語予想問題『プロの裏切り・プライドと教養の復権を』神里達博」→下にリンク画像を貼っておきます)が、2017センター試験国語(現代文)問題[1]  (「科学コミュニケーション」・小林傳司)に、的中(著者・論点→科学論→科学コミュニケーション)しましたので、この記事で報告します。

 

 つまり、2017センター試験に、下の記事の中で紹介・解説した小林傳司氏のインタビュー記事(朝日新聞2016年3月10日《東日本大震災5年 問われる科学》「7:教訓を生かす 科学技術、社会と関わってこそ 専門家に任せすぎるな」)に強く関連した、小林氏の論考が出題されたのです。

 

gensairyu.hatenablog.com

 

gensairyu.hatenablog.com

 

gensairyu.hatenablog.com

 

 「2017センター試験国語[1]の『要旨』」と「当ブログ記事・的中」の説明

 2017センター試験に出題された小林氏の論考の「要旨」は、以下の通りです。

 科学社会学者(コリンズ、ピンチ)の見解を引用しつつ、その主張を考察する論考です。

 「現在、科学の様々なマイナス面が明らかになるにつれて、『科学が問題ではないか』という問題意識が生まれてきている。しかし、科学者は、このような問題意識を、科学に対する無知・誤解から生まれた反発とみなしがちである。

 だが、科学社会学(コリンズ、ピンチ)は、従来の科学者が持つこのような発想を批判する。科学は全面的に善なる存在ではないし、無謬の知識でもない、という。現実の科学は人類に寄与する一方で、制御困難な問題も引き起こす存在である(→科学の「両面価値的性格」)、と主張した。

 そして、科学社会学は、一般市民への啓蒙について『科学の内容ではなく、専門家と政治家やメディア、われわれとの関係について伝えるべき』と言う。
 科学社会学は、一般市民を科学の『ほんとうの』姿を知らない存在として見なしてしまっている。この『大衆に対する、硬直した態度』は、科学社会学も、従来の科学と同様である。科学社会学は、科学を正当に語る資格があるのは科学社会学としてしまう点に限界がある。」

 

 センター試験の問題文本文(小林氏の論考)は、

①  「科学社会学者(コリンズ、ピンチ)が科学の両面価値的性格を認めている点」は賛成していますが、

②  「『科学と一般市民の関係』についての科学社会学者の主張」については、厳しく批判しています。そして、その批判で終わっています。

 「では、どうしたら良いのか」という筆者の主張・結論が不明確なのです。

 この点で、今回のセンター試験の第一問は、一見、読みにくい問題でした。

 この②の問題の筆者(小林氏)の主張・結論は、まさに、朝日新聞のインタビュー記事の小林氏の見解だと思います。(以下で紹介します)


 この記事の、

『《東日本大震災5年 問われる科学》「7:教訓を生かす 科学技術、社会と関わってこそ 専門家に任せすぎるな」』

という見出しだけでも、ある程度のヒントになります。

 

 以下は 2016・12・13に発表した当ブログの記事  (「国語予想問題『プロの裏切り・プライドと教養の復権を』神里達博」) からの引用、つまり、朝日新聞のインタビュー記事の小林氏の見解です。

 

ーーーーーーーー

 

(以下は、当ブログの前掲の記事からの引用)

専門家に望まれる態度・心掛け

「専門家主義」からの脱却

①専門家たちは、「総合的教養」・「生きた教養」を身に付ける→「専門家の相互チェック」のために

②さらに、専門家も、国民も、「民主的コントロール」を意識する(→まさに、今回のセンター試験に出題された「科学コミュニケーション」です!)

 

 ここで参考になるのは、科学哲学者である小林傳司氏の意見です。以下に、概要を引用します。

 

(小林傳司氏の意見)(概要です)

(赤字は当ブログによる「強調」です。青字は当ブログによる「注」です) 

「  震災(→「東日本大震災」)により科学者への信頼は大きく失墜した。学界などから様々な反省が言われたが、今では以前に戻ったかのように見える。

一つは、日本社会が「専門家主義」から脱却できないことだ。「科学と社会の対話が大切」と言いながら、原発再稼働などの政策決定過程をみると「大事なことは専門家が決めるから、市民は余計な心配をしなくてよい」という姿勢が今も色濃い。震災で専門家があれほど視野が狭いことが露見したにもかかわらずだ。

 これらの課題にどう対応すればよいか。まずは、市民が意思決定を専門家に任せすぎず、自分たちの問題ととらえることだ。科学技術は、それがなければ私たちは生活ができないほど重要で強力になっている。原子力のような巨大技術ほど「科学技術のシビリアンコントロール(→民主的コントロール)」が必要だ。

 専門家は、市民が基礎知識に欠ける発言をしてもさげすんではならない。専門家は明確に言える部分と不確実な部分を分けて説明する責務があり、最終的には「社会が決める」という原則を受け入れなければいけない。

 日本社会は「この道一筋何十年」という深掘り型は高く評価してきたが、自分の専門を超えて物事を俯瞰(ふかん)的に見られる科学者を育ててこなかった。広い意味での「教養」が重要だと思う。」

(朝日新聞 2016年3月10日 《東日本大震災5年 問われる科学》「7:教訓を生かす 科学技術、社会と関わってこそ 専門家に任せすぎるな」)

 

 

キャラ化する/される子どもたち―排除型社会における新たな人間像 (岩波ブックレット)

 

 

(3)2016センター国語第1問解説『キャラ化する/される子どもたち』

 

gensairyu.hatenablog.com

 

 この記事の冒頭部分は、以下のようになっています。

 

ーーーーーーーー


(1)土井隆義氏の著書の出題状況

(当ブログ第1回の記事がテーマ・論点的中)

 2016年センター試験国語第1問(現代文・評論文)に、最近の流行論点・テーマである「自己」「アイデンティティー」(「若者論」・「日本人論」・「日本文化論」・「現代文明論」・「現代文明批判」・「コミュニケーション論」)が、出題されました。

 また、この問題は、「IT化社会」のテーマ・論点です。

 このブログの第1回記事(「開設の言葉ー入試現代文の最新傾向ー重要な、気付きにくい2本の柱」)において記述した、「入試現代文の最新傾向」、つまり、「IT化社会の光と影と闇」が、出題されました。

 テーマ・論点が的中しました。

 この記事については、下の画像からリンクできます。

 

gensairyu.hatenablog.com

 

 著者は、最近、注目されている気鋭の社会学者、土井隆義氏です。土井氏の著作は、過去に、以下の大学で出題されています。

2005慶応大(文)(小論文)『「個性」を煽られる子どもたち』

2009北海道大(後期・法)(小論文)『「優しい関係」に窒息する子どもたち』       

 2015信州大(教育)(現代文)『友だち地獄ー「空気を読む」世代のサバイバル』

 このように、小論文を含めた、入試現代文・小論文の世界では、注目すべき著者でした。

 

 そして、今年、2016年に、センター試験に『キャラする/された子どもたちー排除型社会における新たな人間像』(岩波ブックレット)から出題されのです。

 

(2)土井隆義氏の著書の、キーワード

 土井氏は、上記の一連の著書において、

「『個性』を過剰に指向する現代社会の病理」

「人生は素質により、全て決定されると信じ込む若者」(一種の、新しい宿命主義)

「優しい関係」(摩擦・衝突を神経質に回避する傾向)

「『社会性』を喪失した子どもたち」

「『異質』の『排除』」

「子どもたちの過剰な承認願望」

「排除される不安を回避するためのスマホ依存」

「友だち関係を維持するためのイジメ」

という視点から、「現代の子どもたちの世界」を、鋭く、説得力豊かに分析しています。

 

 

未知との遭遇【完全版】 (星海社新書)

 

 

(4)2015センター試験国語第1問(現代文・評論文)解説・IT化社会

 

gensairyu.hatenablog.com

 

 この記事の冒頭部分は、以下のようになっています。

 

ーーーーーーーー

 

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 2015年度センター試験国語(現代文・評論文)に出題された佐々木氏の論考(『未知との遭遇』)は、「IT化社会の問題点」、つまり、「歴史の崩壊」・「歴史意識の衰退」・「系譜学的(体系的)知の衰退」を鋭く指摘しています。

 この論点、言い換えれば、「反知性主義化」は、「IT化社会のマイナス面」・「IT化社会の影・闇」として、最近、問題化しています。佐々木氏の論考は、とても参考になるので、ここで紹介します。

 また、センター試験国語(現代文・評論文)対策として、役に立つように、丁寧な解説をしていきます。

 今回の記事は、以下の項目について書いていきます。記事は、約1万字です。

(2)2015センター試験国語第1問(現代文・評論文)『未知との遭遇』佐々木敦・の解説

(3)問題文本文の構成

(4)当ブログにおける「IT化社会」関連記事の紹介

(5)当ブログにおける「反知性主義」関連の記事の紹介

(6)当ブログにおける「センター試験国語(現代文・評論文)」関連の記事の紹介

(7)佐々木敦氏の紹介 

 

 (2)2015センター試験国語第1問(現代文・評論文)・『未知との遭遇』佐々木敦・の解説

(問題文本文)(佐々木敦氏の論考)

(概要です)

(【1】・【2】・【3】・・・・は、本文に付記されている段落番号です)

【1】ネット上で教えを垂れる人たちは、特にある程度有名な方々は、他者に対して啓蒙的な態度を取るということに、一種の義務感を持ってやってらっしゃる場合もあるのだろうと思います。僕も啓蒙は必要だと思うのですが、どうも良くないと思うのは、ともするとネット上では、啓蒙のベクトルが、どんどん落ちていくことです。たとえば掲示板やブログに「○○について教えてください」などという書き込みをしている「教えて君」みたいな人がよくいますが、そこには必ず「教えてあげる君」が現れる

 

 

小林秀雄全作品〈24〉考えるヒント〈下〉

 

 

 (5)2013センター国語第1問(現代文)解説「鐔」小林秀雄・エッセイ

 

gensairyu.hatenablog.com

 

この記事の冒頭部分は、以下のようになっています。

 

ーーーーーーーー

 

(1)~(2)は、前回の記事の(「センター試験現代文対策ー3・11後の最新・傾向分析①ー2012」)の(1)~(2)の概説です。(→この部分は省略します)

前回の記事を読んだ方は(3)から読んで下さい。

 

 (3)2013年度センター試験現代文[大問1](小林秀雄「鐔」)の、出題意図、本問作成者の問題意識の探究

【1】小林秀雄氏の紹介、入試出題状況

 小林秀雄氏は、近代日本の文芸評論の確立者です。

 個性的な、少々切れ味の良い挑発的な文体、詩的雰囲気のある表現が、特徴です。

 西洋絵画の批評や、ランボー、アラン等の翻訳にも、業績を残しました。

 

 入試現代文(国語)の世界では、20年くらい前までは、トップレベルの頻出著者(ほぼ全ての難関大学で、最低1回は出題されていました。)でした。

 現在は、トップレベルではないですが、やはり、頻出著者です。

 最近の入試に全く出題されていない、ということは、ありません。

 最近でも、以下の大学で出題されています。
 大阪大学『考えるヒント』
 明治大学『文化について』
 国学院大学『無常という事』
 明治学院大「骨董」

 
【2】この問題に対する一般的評価、それらに対する私の意見

 この問題については、

「かつての入試頻出著者ではあるが、小林秀雄氏の文章は今の受験生には難解過ぎて、少々、不適切な問題であった」

という評価が多いようです。

 本当に、そうなのでしょうか。

 

 私は、そうは思いません。

 単語のレベルは少々高いです。

 しかし、最近、京都大学・大阪大学・一橋大学・早稲田大学(政経)(教育)(国際教養)(文化構想)・上智大学・明治大学(法)・青山学院大学・中央大学(法)・法政大学等の現代文で流行が続いている擬古文(明治・大正期の文章)、
慶應大学・国公立大学等の小論文で頻出の福沢諭吉の論考、と比較して、
全体的に分かりやすい名文だと感じました。

 丁寧に読んでいけば、受験生にとっても、難解ではないはずです。

 本文のレベルを考慮して、設問は、例年より著しく平易になっています。

 

 しかし、本番直後では、平均点が例年より低下したことが、マスコミやウェブ上で、話題になりました。

 本文の丁寧な読解を諦めた受験生が、多かったのでしょう。

 受験生の粘りや集中力のなさを、問題とするべきです。

 私は、本問を難問・悪問と評価することは、できません。

 また、本問の問題文本文は、論理が飛躍しているので、試験問題として不適切という批判もありました。

 笑うべき批判です。

 今回の本文は、「エッセイ」・「随筆」なので、論理飛躍がある程度あるのは当然です。

 受験生は、著者の気持ち・感性・感想に、寄り添って読解して行けばよいのです。

 つまり、本問に対する様々な批判は、小林秀雄氏のイメージに固執したムード的なものか、的外れなものです。

 これから、そのことを、検証していきます。

 

【3】問題文本文のポイント

 問題文本文は、4つのブロックに分かれています。

 私が注目したのは、第1ブロック第3段落の記述です。

 筆者小林秀雄の主張が、ここにあります。

 以下に引用します。

 「誰も、身に降りかかる乱世に、乱世を以て処する事は出来ない。
 人間は、どう在ろうとも、どんな処にでも、どんな形ででも、平常心を、秩序を、文化を捜さなけれぱ生きて行けぬ。
 そういう止むに止まれぬ人心の動きが、兇器の一部分品を、少しずつ、少しずつ、鐔に仕立てて行くのである。」

 現代も、まさに、「乱世」です。

 日本国内では、3・11東日本大震災、福島原発事故、不景気、非正規雇用問題、年金破綻問題、少子化問題、高齢化問題、そして、熊本地震等の問題が山積しています。

 世界レベルでは、経済問題、テロ問題、難民問題、地球環境問題、温暖化等の難問だらけです。

 つまり、日本でも、世界レベルでも、政治的・経済的・社会的に大混乱が続いています。

 このような「乱世」の中でも、人々は、「乱世」のまま生きていくことは、できません。

 「秩序」、「安定」、さらには、レベルの高い「精神生活」が必要不可欠です。

 

 3・11東日本大震災の時にも、体育館等に避難していた被災者達は、読書への欲求があったと聞いています。

 また、少し落ち着いた時には、近くの書店に訪れる人が多かったようです。

 今現在の人々も、「乱世を乱世のままに生きていくこと」は、できないのです。

 

 受験生は、この第1ブロック第3段落を、しっかり読む必要があります。

 この部分が、この問題のキーセンテンスになっています。

 そして、複数の設問で、このキーセンテンスを聞いてきています。

 第2~4ブロックは、このキーセンテンスの具体例であり、本文も設問も、とても分かりやすい簡明な構造になっています。

 つまり、本問は、決して、難問でも悪問でもないのです。

 

 「本問の論考が、小林秀雄氏の論考にしては、今まで、頻出出典にならなかったのは、全体構造が単純だったからではないか」、

と私は推測します。

 難問か否かは、題材となった文章と設問を精査して、客観的に考えるべきです。

 著者のイメージから軽々に論ずるべきではないと思います。

 ましてや、受験生の平均点や感想は、一応の目安に過ぎません。

 悪問という評価は、よほどのことです。

 

 

自己・あいだ・時間―現象学的精神病理学 (ちくま学芸文庫)

 

 

 (6)2012センター国語第1問解説「境界として自己」木村敏・関係性

 

gensairyu.hatenablog.com

 

 この記事の前半部分は以下のようになっています。

 

ーーーーーーーー

 

(3)2012年度センター試験国語第1問(現代文)・(「境界としての自己」木村敏)の、出題意図、本問作成者の問題意識の探究

 木村敏氏は、精神病理学者、京都大学名誉教授です。

 臨床哲学的精神病理学の立場に立ち、現代の「科学主義」・「客観主義」、つまり、「現代の科学的常識」・「客観性重視主義」に対して異議を申し立てる姿勢を保っています。

 木村氏は、最近の難関大の現代文(国語)・小論文における入試頻出著者です。

 最近では、早稲田大学(法学部)(商学部)、上智大学、法政大学等で出題されています。


……………………

 

 今回の問題は、少々、分かりにくい内容になっています。

 しかし、実は、本問の「自己(アイデンティティ)の相対化」・「自己(アイデンティティ)の否定」、そして、これと表裏一体の、「自己と他者の境界の重視」・「関係性の重視」「間主観性の重視」は、最近流行の現代文・小論文の論点・テーマです。

 これらの論点・テーマは「自己(自分)」・「アイデンティティ」・「個性」・「私らしさ(自分らしさ)」の、過度の重視が目立ってきた10年くらい前(キラキラネームの氾濫が目につく頃)から出題され始めました。

 

……………………

 

 また、2011年には、早稲田大学(法学部)で、今回、センター試験現代文(国語)の問題として検討中の、木村敏氏の哲学的論考(『自分ということ』→この本も、最近流行の現代文・小論文の入試頻出出典)が出題されました。

 

 この論考のキーセンテンスは、以下の部分です。

 「『人と人のあいだ』が、単なる空白の隙間ではなくて、ずっしりと重みのある、実質的な力の場である。」

 「音楽の生命は、音符に書かれたひとつひとつの音にあるのではなくて、音と音の間の『ま』にはたらいている湧きあがるような時間のたわむれにあるのだろう。」

 「自分と相手との『あいだ』が、二人の真に『会い合う』場所となりうるためには、そしてこの『あいだ』の場所が、自分と相手の『自己』を同時に成立させる自覚の場所となりうるためには、そこに『ま』と呼ばれるようなはたらきが十分にはたらいて、二人がそれぞれ自己自身の歴史を生きていながら、その『あいだ』においては、共通の唯一の時間の生成に関与しあっている、ということがなくてはならないのではないのだろうか。」

 

 最後の引用文の前半部分に、2012年度センター試験と全く同一内容の、

「この(自分と相手との)『あいだ』の場所が、自分と相手の『自己』を同時に成立させる自覚の場所」

という、キーフレイズがあります。

 

……………………

 

 著者が主張する「自己(アイデンティティ)概念の相対化」は、「自己(アイデンティティ)概念」そのものの否定では、ありません。

 一般的・常識的な「自己(アイデンティティ)概念」から派生する、

「個人の深刻な孤立化」、

各種の(「自己概念」の誤解に基づく)「傲慢」、

「共同体軽視・無視・嫌悪」、

「倫理・モラルの軽視・無視」、

等のマイナス面を回避するために「新たな自己(アイデンティティ)概念」を模索・構築・創造しようするものです。

 

 

 (7)2017センター試験国語第2問・問題解説・小説の純客観的解法

 

gensairyu.hatenablog.com

 

 この記事の冒頭部分は、以下のようになっています。

 

ーーーーーーーー

 

 2017年センター国語第2問は、素直に解けば、20分程度で満点の取れる問題です。以下に、今回の問題を通して小説問題の効率的な解法を説明していきます。

 

(1)2017年センター試験国語第2問(小説)の解説

 2017年センター試験国語の小説問題は、文語文・擬古文的で読みにくい側面はありますが、設問・選択肢が素直なので、良問だと思います。

 今後の小説問題対策として、有用な問題と考えてたので、今回、記事化することにしました。

 以下では、次の項目を解説していきます。

 今回の記事は、約1万2千字です。

 

(2)「小説問題解法」のポイント・注意点

(3)「センター試験小説問題」の解法のポイント・コツ

(4)2017センター試験国語第2問の解説→本文概要と解説解答

(5)今回の小説問題本文の「あらすじ」

(6)野上弥生子氏の紹介

(7)当ブログの「夏目漱石」関連記事の紹介・一覧

(8)当ブログの「小説問題解説」関連記事の紹介・一覧

(9)当ブログの「センター試験国語解説」記事の紹介・一覧

(10)2017センター試験国語第1問に「当ブログの予想論点記事(科学論)」が的中(著者・論点)したこと、についての報告記事、の紹介

  

(2)「小説問題解法」のポイント・注意点

 小説・エッセイ(随筆)問題の入試出題率は、相変わらず高く、毎年約1割です。

 まず、センター試験の国語では、毎年、出題されます。

 次に、難関国公立・私立大学では、頻出です。

 東大・京都大・大阪大(文)・一橋大・東北大・広島大・筑波大・岡山大・長崎大・熊本大等の国公立大、早稲田大(政経)(文)(商)(教育)(国際教養)(文化構想)、上智大、立命館大、学習院大、マーチ(明治大・青山学院大・立教大・中央大・法政大)(特に文学部)、女子大の現代文では、特に頻出です。

 また、難関国公立・私立大学の小論文の課題文として、出題されることもあります。

 

 小説・エッセイ問題については、「解法(対策)を意識しつつ、慣れること」が必要となります。

 本来、小説やエッセイは、一文一文味わいつつ読むべきです。(国語自体が本来は、そういうものです。)が、これは入試では、時間の面でも、解法の方向でも、有害ですらあります。

 あくまで、設問(そして、選択肢)の要求に応じて、主観的文章を(設問の要求に応じて)純客観的に分析しなくてはならないのです。

(国語を純客観的に分析? これ自体がパラドックスですが、ここでは、この問題には踏み込みません。日本の大学入試制度の問題点です。)

 

 この点で、案外、読書好きの受験生が、この種の問題に弱いのです。(読書好きの受験生は、語彙力があるので、あとは、問題対応力を養成すればよいのです。)

 

 しかし、それほど心配する必要はありません。

 「入試問題の要求にいかに合わせていくか」という方法論を身に付けること、つまり、小説・エッセイ問題に、「正しく慣れる」ことで、得点力は劇的にアップするのです。

 そこで、次に、小説・エッセイ問題の解法のポイントをまとめておきます。

 

【1】5W1H(つまり、筋)の正解な把握

① 誰が(Who)      人物

② いつ(When)       時

③ どこで(Where)  場所

④ なぜ(Why)       理由→これが重要

⑤ なにを(What)    事件

⑥ どうした(How) 行為

 

 上の①~⑥は、必ずしも、わかりやすい順序で書いてあるとは限りません。

 読む側で、一つ一つ確認していく必要があります。

 特に、④の「なぜ(理由)」は、入試の頻出ポイントなので、注意してチェックすることが大切です。

 

【2】登場人物の心理・性格をつかむ

① 登場人物の心理は、その行動・表情・発言に、にじみ出ているので、軽く読み流さないようにする。

② 情景描写は、登場人物の心情を暗示的・象徴的に提示している場合が多いということを、意識して読む。

③ 心理面に重点を置いて、登場人物相互間の人間関係を押さえていく。

④ 登場人物の心理を推理する問題が非常に多い。その場合には、受験生は自分をその人物の立場に置いて、インテリ的に(まじめに→さらに言えば、人生重視的に)、一般的に、考えていくようにする。

⑤ 心理は、時間とともに流動するので、心理的変化は丁寧に追うようにする。

 以上を元に、いかに小説問題を解いていくか、を以下で解説していきます。

 


(3)「センター試験小説問題」の解法のポイント・コツ

【1】先に設問をチェックする

 センター試験の小説問題の本文は、難関大学の小説問題か、それ以上の長文の場合が多いのです。

 そこで、センター試験小説問題を効率的に解くための1つ目のコツは、本文を読む前に設問(特に、設問文)に目を通すことです。

 すぐに設問文に目を通し、「何を問われているか」を押さえてください。

 「設問で問われていること」を意識しつつ読むことで、時間を短縮化することができます。

 

【2】消去法を、うまく使う

 センター試験の小説問題の選択肢は、最近は、少々、長文化しています。

 しかし、明白な傷のある選択肢が多いので、消去法を駆使していくことで、効率的に処理することが可能です。

 

 

彼岸過迄 (新潮文庫)

 

 

 (8)2008センター試験国語第2問(小説)解説『彼岸過迄』夏目漱石

 

gensairyu.hatenablog.com

 

 夏目漱石は、入試頻出著者です。この問題も、よく検討しておくべきでしょう。

 この問題についても、前記の「小説の純客観的解法」により丁寧に解説しました。

 

ーーーーーーーー

 

今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

ご期待ください。

 

  

 

gensairyu.hatenablog.com

  

トランス・サイエンスの時代―科学技術と社会をつなぐ (NTT出版ライブラリーレゾナント)

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未知との遭遇【完全版】 (星海社新書)

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

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5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

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 私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。

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「水の東西」等の「リズムの哲学ノート」(山崎正和)による新解釈

(1)はじめに/山崎正和氏の最近の論考「リズムの哲学ノート」、インタビュー記事から、山崎氏の名著「水の東西」・「無常のリズム」(『混沌からの表現』)を読み直す

 

 山崎正和氏の著作は、長期的な入試頻出出典です。山崎氏の著作は大筋は分かりやすいのですが、私は、今まで、その「思想の底流や価値観」が見えにくい面があるように感じていました。
 しかし、最近『アスティオン』に連載された「リズムの哲学ノート」、2017年発行の『舞台をまわす、舞台がまわるー山崎正和オーラルヒステリー』、最近の新聞掲載の「批評」や「インタビュー」を読み、「山崎氏の思想の基盤」が見えてきたのではないか、と思っています。
 つまり、山崎氏の使用する言葉の内容の理解が、より深まったということです。本来、論考は、それ自体の熟読・精読を通して理解するべきです。ただ、その著者が、ある言葉をどのような意味で使用しているかについては、その著者の他の文献を参照することは許されるのです。
 そこで、これらの材料を元に、山崎氏の著名な論考である「水の東西」・「無常のリズム」(『混沌からの表現』)を読み直すとともに、「山崎氏の思想の基盤」を検証することにします。

 以下の記事は、入試国語(現代文)・小論文対策としても、かなり役立つと思います。

 

 まず、初めに注目したのは、『2016年6月25日・読売新聞・夕刊』に掲載された山崎正和氏のインタビュー記事(「生老病死の旅路」)でした。

 この文章は、山崎氏の思考の根幹を、山崎氏自らが分かりやすく説明していて、私にとっては、驚きでした。一読した後に、何の前触れもなく一気に湖水が澄んで、山崎氏の思想の、深い湖の底を見てしまったような感慨を覚えました。
 以下に概要を引用します。


「   運命に後押しされたとき一歩前に踏み込む、8の力で押されたら2は自分の力で頑張り、ここまで来たように思います。
 京大進学以外は、自分で意図したというより、運命に押された感じですが、いま思うのは『人生はリズム』ではないか、ということです。例えば今日みたいな日、『暑いな』と言ったらそれまでだけど、『初夏だな』と思うと、そこには自然、社会と個人との応答がある。さらに『初夏だからショウブを植えよう』になると、単に暑いという認識から進んで、感じる喜び、つくる感動が生まれるんです。
 実は、2012年夏に、がんの兆候を示す指標が最悪で、常識なら死んでいる、と宣告されました。その時、突然、長らく放置していた主題が蘇り、『リズムの哲学ノート』を雑誌連載しました。がんの警告という運命がリズムなら、それが私を執筆に向けて後押ししたのもリズムの流れに違いないと思います。」

 

 この文章に、「私の解釈」を青字で挿入し、「リズム」と「リズムの同類語と思われる表現」を赤字にすると、以下のようになります。

「  運命に後押しされたとき一歩前に踏み込む、8の力で押されたら2は自分の力で頑張り、ここまで来たように思います。

 京大進学以外は、自分で意図したというより、運命に押された感じですが、いま思うのは『人生はリズム』ではないか、ということです。例えば今日みたいな日、『暑いな』と言ったらそれまでだけど、『初夏だな』と思うと、そこには自然、社会と個人との応答がある。(→「リズム」、つまり、「自然」を、どのように受けとめるか、は個人の問題ということでしょう) さらに「初夏だからショウブを植えよう」になると、単に暑いという認識から進んで、感じる喜び、つくる感動が生まれるんです。(→「リズム」(「自然」)に意志で働きかけることができる。気の持ちようによって、「リズム」・「自然」から喜び感動を得ることができる。つまり、「リズム」・「自然」を、どのように柔軟に活用するかの問題でしょう)

 実は、2012年夏に、がんの兆候を示す指標が最悪で、常識なら死んでいる、と宣告されました。その時、突然、長らく放置していた主題が蘇り、『リズムの哲学ノート』を雑誌連載しました。がんの警告という運命リズム(→「リズム=運命」という関係に注目してください)なら、それが私を執筆に向けて後押ししたのもリズムの流れ (→「リズム」が私に「気付き」を与えてくれた、ということです)に違いないと思います。」


 この文章は、山崎正和氏の愛読者にとっては、より深い読解の重要な手がかりになるはずです。

 上記の文章を読むと、山崎氏は、「リズム」を、かなり重視していることが分かります。
 そして、山崎氏は「人生=リズム=自然=運命」と考えているということが分かります。
 しかも、この「リズム=自然=運命」に対して、ある程度は、人間の意志による働きかけが可能であるということが理解できます。

 さらに、冒頭の「運命に後押しされたとき一歩前に踏み込む、8の力で押されたら2は自分の力で頑張り、ここまで来たように思います」という文を読むと、「運命=リズム」の動きに逆らわないで、むしろ、その動きに「自然に」乗ることの重要性に気づきます。

 

 また、「実は、2012年夏に、がんの兆候を示す指標が最悪で、常識なら死んでいる、と宣告されました。その時、突然、長らく放置していた主題が蘇り、『リズムの哲学ノート』を雑誌連載しました。」という記述から明らかですが、山崎氏の「主題」(→テーマ)、つまり、山崎氏の「思想の根幹」は、「リズムの哲学」です。

 言い換えれば、山崎氏は、「リズム」を深く考察することが、「人生・世界・事物」の「根源・原理」の追求につながると考えているのです。
 この一節から、急に視界が開けてきた感じがしました。

 

混沌からの表現 (ちくま学芸文庫)

 

  なお、以下の記事の項目は、次の通りです。

(2)「リズムの哲学ノート」と「無常のリズム」

(3)「リズムの哲学ノート」と「水の東西」

(4)山崎正和氏の思想の背景

(5)「積極的無常観」について

(6)山崎正和氏の紹介

(7)当ブログの「山崎正和氏・関連記事」の紹介

(8)当ブログの「無常観・関連記事」の紹介

 

(2)「リズムの哲学ノート」と「無常のリズム」

 

 「リズムの哲学ノート」(『アスティオン』連載)を元にすれば、山崎氏のこれまでの著作を、さらに深く読解することが可能になりそうです。
 そこで、今回は、このことにチャレンジしてみます。
 このチャレンジは、あくまで試論であり、後に修正する可能性もあることを意識して、大胆に私の考えを展開していくつもりです。

 

 着目するべきは、「リズムの哲学ノート」の中で記述されている「リズム」の内容説明です。
 前述のように、「人生=リズム=自然=運命」と考える山崎氏の思想からすると、「リズム」の内容説明は、そのまま「人生」の内容説明になるからです。

 以下に、主に「リズムの哲学ノート」の中から参考になりそうな記述を引用しつつ、山崎氏の名著「水の東西」・「無常のリズム」(『混沌からの表現』)の解釈をしていきます。

 

(引用は概要です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です)

 

 まず、「リズムの哲学ノート」の中で、私が注目したのは以下の部分です。

「  何よりも哲学は、この世界の根源的な原理であるリズムを感じとり、リズムとともに生きることによって、その働きを如実に知ることができるはずである。」(「リズムの哲学ノート」『アスティオン85』)

「  逆説に響くかもしれないが、人がこの無常観を忘れないかぎり、常識世界における冒険的な自由意志の発揮は安全でもあり有用でもあるといえる。無常観とは正確にリズムの観念の裏返しであって、どんな営みにも始めと中と終わり(序・破・急)(→「序・破・急」を「無常観」の象徴と考えていることが分かります)があり、とりわけ必然的に終わりがあることを知る世界観である。そしてこの世界観を悟達した人は、あらゆる行動について過剰な意志を抱くことはないだろうし、個別の具体的な行為についても終わりの到来を敏感に悟り、心やすらかに諦めることができるはずである。」(『アスティオン85』)


 上記の最後の一文「この世界観(→「無常観」)を悟達した人は、あらゆる行動について過剰な意志を抱くことはないだろうし、個別の具体的な行為についても終わりの到来を敏感に悟り、心やすらかに諦めることができるはずである」

は、まるで日本人のことを説明している感じです。

 「心やすらかに諦めることができる」の部分は、日本人の「何事にも淡白な性格」や「諦念」を、そのまま解説しているようです。

 

 上記の論考を元にすれば、あの有名な「無常のリズム」(『混沌からの表現』)の内容も、よく理解できます。まず、「無常のリズム」の一節(概要)を引用します。

「  寺田寅彦は、花火のなかには『序・破・急』の三段の生成のリズムがあると書いた。始めがあり、中があり、終わりがあり、それが整然たるリズムに乗って展開するとき、われわれはものごとが『完結』したという印象を受ける。

 日本人は、この三段の生成のリズムに敏感であり、一瞬の変化のなかにもまとまりを感じ取る感受性にめぐまれているのかもしれない。

 その感受性が、花火という、純粋な『変化』そのもののような美を育てた。はじけては消える夏の夜の花火を見ていると、ふと、そこはかとない悲しみがただようことは事実である。

 日本人は昔からそういう『はかなさ』に心ひかれ、人生の無常に耽溺してきたと信じられている。それは、たしかに、その通りなのだが、しかしその同じ日本人が、ふしぎに一方で極端なニヒリズムに走らなかったことも事実なのである。人生の無常をかこち(→「嘆く」という意味)ながら、われわれの先祖はそのなかにけっこう安定した自然(→「リズム」、「無常観」)を見出だしていた。そしてそれはたぶん、一瞬の変化の中にも『序・破・急』を感じとる、あの敏感な秩序の感覚のせいにちがいないのである。」(「無常のリズム」『混沌からの表現』)

 

 上記の赤字部分の内容は、前記の論考(「リズムの哲学ノート」)を青字に注目して読むと、さらに理解が深まるでしょう。

 精読すると分かるのですが、下記の論考は、上記(「無常のリズム」)の赤字部分を詳しく説明しているようにも思います。山崎氏は、上記の赤字部分を意識して、下記のようなことを述べているのではないでしょうか。

「  この世界観(→「無常観」)を悟達した人は、あらゆる行動について過剰な意志を抱くこと(→「過剰な意志重視主義」は現代人の悪弊です。「意志万能主義」は「滑稽な信仰」と化しています。特に、日本の会社、教育現場、スポーツ分野に蔓延している、一種の「無知」・「傲慢」です)はないだろうし、個別の具体的な行為についても終わりの到来(→「終わりの到来」とは、「無常の実相」であり、「リズムの実相」と言えるでしょう)を敏感に悟り、心やすらかに諦めること(→「心の平穏を得る」ということでしょうか。そうであるならば、上記の「人生の無常をかこちながら、われわれの先祖はそのなかにけっこう安定した自然を見出だしていた」の部分に対応することになります)ができるはずである。」(山崎正和『アスティオン85』)

 以上の二つの論考は、「日本人と無常観」に関する卓越した考察であり、山崎正和氏の「主題」に密接に関連しています。

 そのことを再確認した私は、この二つの論考の内容の深さに感動し、何度も読み直してしまいました。

 

(3)「リズムの哲学ノート」と「水の東西」

 

 次に、「リズムの哲学ノート」の以下の記述を読むと、「水の東西」の解釈に役に立ちます。

 まず、「水の東西」の著名な一節を引用します。

 「赤字の部分」に注目してください。

 「リズム」と、「リズムと読み替えることが可能な表現」を、赤字化しました。

「『鹿おどし』が動いているのを見ると、その愛嬌の中に、なんとなく人生の気だるさのようなものを感じることがある。かわいらしい竹のシーソーの一端に水受けが付いていて、それに筧の水が少しずつたまる。静かに緊張が高まりながら、やがて水受けがいっぱいになると、シーソーはぐらりと傾いて水をこぼす。緊張が一気に解けて水受けが跳ね上がるとき、竹が石をたたいて、こおんと、くぐもった優しい音を立てるのである。

 見ていると、単純な、緩やかなリズムが、無限にいつまでも繰り返される。緊張が高まり、それが一気にほどけ、しかし何事も起こらない徒労がまた一から始められる。ただ、曇った音響が時を刻んで、庭の静寂と時間の長さをいやが上にも引き立てるだけである。水の流れなのか、時の流れなのか、『鹿おどし』は我々に流れるものを感じさせる。それをせき止め、刻むことによって、この仕掛けはかえって流れてやまないものの存在を強調していると言える。

 言うまでもなく、にはそれ自体として定まった形はない。そうして、形がないということについて、恐らく日本人は西洋人と違った独特の好みを持っていたのである。『行雲流水』という仏教的な言葉があるが、そういう思想はむしろ思想以前の感性によって裏付けられていた。それは外界に対する受動的な態度と言うよりは、積極的に、形なきものを恐れない心の現れではなかっただろうか。

 見えない水と、目に見える水。

 もし、流れを感じることだけが大切なのだとしたら、我々は水を実感するのにもはや水を見る必要さえないと言える。ただ断続する音の響きを聞いてその間隙に流れるもの(→リズム)を間接に心で味わえばよい。そう考えればあの『鹿おどしは、日本人がを鑑賞する行為の極致を現す仕掛けだと言えるかもしれない。」(「水の東西」『混沌からの表現』)

 

 この「水の東西」と、以下の「リズムの哲学ノート」の一節を読み比べてください。

 まるで、山崎氏は、「水の東西」を意識して以下の論考を展開している感じです。

「  あらためて読者の記憶を喚起したいが、私の提唱するリズムはベルクソンの言う純粋持続ではなかった。 リズムには拍節が打ち込まれるのが本来であり、純粋持続とは違って堰(せ)き止められ、鹿おどし構造(→「リズム=鹿おどし構造」の関係に注目してください)をつくるのが本然の姿であった。」(『アスティオン83』)

 上記で山崎氏は、「リズムは鹿おどし構造をつくるのが本然の姿」と言っています。

 「水の東西」は、「鹿おどし構造」について論じていますが、「水の東西」の論考自体が「リズム」について考察していることになります。

 このことは、私にとっては、衝撃でした。

 つまり、この「水の東西」は水を通して、「日本人の無常観」を論じていることになります。

 このことを意識して、「水の東西」を熟読すると、私は新たな感慨に包まれます。

 これほど、日本人の、ひいては、自分自身の「無常観」を冷静に洞察した著者は、珍しいと思います。

 

 さらに、以下の論考も注目するべきです。
「  身体が『もの思う』とは、現象に目を凝らすことであり、耳を澄ますことだろうが、いずれも目や耳が思わずしてしまう反応であって、ここには能動性と受動性の前後関係はまったくない。目を凝らし耳を澄ますのは、何かが見えたり聞こえたりしたからであり、その逆もまた真であって、認められるのは、いわば『誘いだされた能動性』というべきもののほかにはない。」(『アスティオン85』)

 この上記の赤字部分は、かなり重要なことを指摘しています。日本人が「鹿おどし」の音に耳を澄ますことは、まさに「身体が『もの思う』こと」なのです。

 このことを元に「水の東西」の下記の部分を読むと、これまでの解釈とは違った解釈が可能になると思われます。

「  もし、流れを感じることだけが大切なのだとしたら、我々は水を実感するのにもはや水を見る必要さえないと言える。ただ断続する音の響きを聞いて、その間隙に流れるもの(→リズム)を間接に心で味わえばよい。そう考えればあの『鹿おどし』は、日本人が水を鑑賞する行為の極致を現す仕掛けだと言えるかもしれない。」(「水の東西」『混沌からの表現』)

の赤字部分を熟読してください。

 日本人は「身体が『もの思う』(→身体によって、音と共に「無常観」を再確認する)民族」ということが、よく分かります。

 

 なお、「身体でものを思う」の点は、デカルトの「物心二元論」、「身体論」の論点にも関連していることに注目してください。

 以下に、当ブログの「物心二元論(心身二元論)」・「身体論」関連記事のリンク画像を貼っておきます。ぜひ、参照してください。

  

gensairyu.hatenablog.com

 

gensairyu.hatenablog.com

 

gensairyu.hatenablog.com

 

 さらに、「リズムの哲学ノート」から引用します。
「  リズムの特性の第一は、それがもっぱら顕現する現象であり、ひたすら感知することはできても、それを造りだすことはできないという事実である。
 そしてその第二の特色はそれを感じることが喜びであり、その認識が解放感に直結しているという不思議である。たしかにすべて知ることは喜びを伴うが、リズムを知ることの歓喜は次元を異にしている。リズムの喜びはその喜び方そのものが身体的であって、人はただ目を凝らし耳を澄ますだけではなく、たとえ僅かでも全身を揺すりながら享受するのが普通だろう。哲学にとって、リズムは知ることが最終目的となるような現象であり、裏返せば知ることをそれだけで完結自立させるような現象なのである。」(『アスティオン85』)

 この論考を元にすると、「水の東西」の下記の部分の解釈が、より深まるはずです。

「 ただ断続する響きを聞いて、その間隙に流れるもの(→リズム)を間接に心で味わえばよい。」(「水の東西」『混沌からの表現』)

 日本人も微かに、無意識の内に、「音の響き」に身体を共鳴させているのでしょう。リズムを知ることの歓喜、リズムを再確認することの歓喜と共に。

 

 次の一節も参考になります。

「  リズムは当然ながら、たんに哲学者に認識されるだけでなく、常識社会に暮らす普通の人にも感知される。そして、リズムを知るということ、いいかえればリズムを体感しながら生きるということは、誰であれ、二つの意味で認識者を自由にしてくれる。」(『アスティオン85』)

 「花火」や「鹿おどし」の「リズム」を体感することは、ある意味で人を自由にしてくれるということでしょう。

 

 それでは、「二つの意味」とは何か?

 以下の説明を熟読してください。

「  第一に、それはいっさいの機械的な必然性、硬直した規則性から人を解き放ち、閉じられた受動性の檻から救出してくれる。

 第二にリズムは機械的必然性とは逆の、カント的な自由意志の桎梏リズムは機械的必然性とは逆の、カント的な自由意志の桎梏(しっこく)(→「拘束」という意味。「自由意志を持つべし」という命令自体が「近代原理」からの「拘束」ということです。ここには、「近代批判」の視点があることに注意してください)からも人を解放する。意志は見えない石碑に彫られた銘文であって、睡眠中にも他事に追われているときにも人を縛りつづける。むしろ意志は行動が挫折したときに強化され、人の死後に不動の命令となるものであって、およそ生の柔軟性とは無縁の存在なのであった。(→「自由意志」、「意志」をマイナス評価していることに注意してください) この自由意志がいったん形成され、生の硬直が発生した後では、もちろんリズムにこれと対抗して勝つ可能性はない。人にできることは、いわば予防的措置であって、日頃からリズムに敏感な生活習慣を身につけ、頑固な自由意志が生まれにくい環境に暮らすことだろう。」(『アスティオン85』)


 上記の最終部分を読むと、「鹿おどし」は「日本の伝統の知恵」なのかもしれません。

 何か他のことをしている時にも、音は聞こえるのです。

 水の流れを見ることに集中していなくとも、「鹿おどし」の音は、聞こえるのです。

 そして、「リズムを体感しながら生きるということは、誰であれ二つの意味で認識者を自由にしてくれる」のです。

 

 さらに、「リズムの哲学ノート」からの引用を続けます。

「  自然現象についていえば、朝夕の推移、季節の変化を外界の事象として傍観するのではなく、それに運ばれてみずからが現在を生きていることを実感することである。」(『アスティオン85』)

 上記では、「自然現象に運ばれて自分が生きていること」を実感することが、「真の生の実感」であると、山崎氏は主張しているのでしょう。

 

 「リズムの哲学ノート」の以下の論考も「水の東西」・「無常のリズム」を読解に、大いに参考になります。

「  リズムそのものは普遍的であり、さればこそリズム感覚の伝播も早いのであるが、あるリズム単位を最初に発見するのはあくまでも共同体の総意であって、それ以上の絶対的な法則というものはない。現代でもリズムの完結性の指標は文明によって多様に見られ、「序破急」とか「起承転結」とか「ソナタ形式」とか、地域ごとに多彩を極めているのはそのことの名残りだろう。」(『アスティオン81』)

「『ある身体』は世界的なリズムの小さな波として閉じこめられ、誕生と死のあいだの短い時間内にあらしめられている存在だった。この究極の受動性と局限性はただの知識ではなく、幼、青、壮、老という身体変化を通じて直接に感じられる。そしてその結果として獲られる不安と儚さの感覚(→「無常観」と読み替えることが可能です)が、『ある身体』(→「存在する身体」という意味)を駆って身体の外の無限の時空、世界全体を知ろうと努めさせるのだろう。」(『アスティオン82』)

 以上を読むと、山崎氏は、ほとんどすべての事象を「リズム」や「鹿おどし」の視点から見つめ、読み直そうとしていることが分かります。

 そして、そのことが、的確であることに感服してしまいます。

 日本人だけではなく、人類全体、そればかりではなく、この世のすべての存在は「リズム」の下にあるのですから、このことは当然のことでしょう。

 

(4)山崎正和氏の思想の背景

 

 では、なぜ、山崎氏は、このような「揺るぎない強固な視点」・「透徹した視点」を身に付けたのでしょうか?

  『舞台をまわす、舞台がまわるーー山崎正和オーラルヒステリー』(2017年発行)を読むと、「満洲からの引き揚げ体験」等が、山崎氏の幼年期・少年期の人格形成にかなり影響を及ぼしたことが想像されます。

 つまり、満州での凄惨な体験や、敗戦後の未曾有の混乱が、山崎氏を早熟で鋭敏な人間に作り上げたのでしょう。


 満州医科大学教授を父として京都に生まれた山崎氏は、国際都市・奉天で少年時代を過ごします。

 結核治療を理由に戻った京都でイジメを受け、再び満州に戻りました。

 しかし、そこにソ連軍が来ました。山崎氏は以下のように述べています。

「これは本当に『占領軍』でした。それは血に飢えた狼でした。
 このような状況の中で、日本人は子供を学校に通わせました。母親たちは地下室に潜み、大人の男は外出したら殺されるという状況下に、子供だけが外出したんです。」

 マイナス10度以下の学校では、首つり死体が凍結した状態で梁(はり)から、ぶら下がることもありました。そのような中で、臨時教員の授業を受けたのです。

 これらの体験と、山崎氏本人の繊細な卓越した感受性が、「強固なリズムの視点」の基盤にあるのでしょう。

 

(5)「積極的無常観」について

 

 日本人の「リズム(無常観)」に対する態度は、「積極的無常観」とでも言うべきものでしょう。山崎氏も、そのように呼んでいます。

「無常のリズム」の中で「積極的無常観」に該当する記述は、以下の部分です。


「  日本人は昔からそういう「はかなさ」に心ひかれ、人生の無常に耽溺してきたと信じられている。それは、たしかに、その通りなのだが、しかしその同じ日本人が、ふしぎに一方で極端なニヒリズムに走らなかったことも事実なのである。人生の無常をかこちながら、われわれの先祖はそのなかにけっこう安定した自然(→「リズム」、「無常観」)を見出だしていた。」

 

 また、「水の東西」の中で、「積極的無常観」に該当する記述としては、以下の部分が挙げられます。特に、赤字の部分に着目してください。

「  それ自体として定まった形はない。そうして、形がないということについて、恐らく日本人は西洋人と違った独特の好みを持っていたのである。『行雲流水』という仏教的な言葉があるが、そういう思想はむしろ思想以前の感性によって裏付けられていた。それは外界に対する受動的な態度と言うよりは、積極的に、形なきものを恐れない心の現れではなかっただろうか。」(「水の東西」『混沌からの表現』)

 

 朝日新聞に、山崎正和氏が受けたインタビュー記事(「震災国の私たち」2012年3月9日『朝日新聞』)の中でも、山崎氏は同様の主旨のことを延べています。

 以下に引用します。

「  日本では17年の間に2度も国家規模の大震災が起きた。この結果、日本人の中である種の無常観が目覚めたかも知れない。」

「  日本人の場合、無常観を抱えたまま頑張るという不思議な伝統がある。いわば積極的無常観。それが戻ってきたのではないか。」

「  大震災はいつか必ずやってくる。それにもかかわらず、だれもヤケにも投げやりにもならず、『守るな 逃げろ』という非難訓練にまじめに参加している。」

「  震災を予期した無常観を抱えながら、極めて地道に一つひとつ解決し前に進んでいく。そうやって生きていくと思います。」

 

 さらに2014年1月12日『読売新聞』の「《シリーズ・地球を読む》『積極的無常観』のすすめ」の中では、より詳細に「積極的無常観」について述べているので、以下にポイントになる部分を引用します。

「  若者が明日の希望のために努力するのにたいして、老人は明日はどうなるかわからないからこそ、今日をがんばるのである。世は無常であることを痛感するがゆえに、今日を常の通りに生きようとするのである。無常を覚えながら自暴自棄にならず、逆に今日を深く味わう生き方を私はかねて積極的無常観と呼んできた。時代にはそれぞれを覆う独特の気分があるが、21世紀前半を特徴づける気分には、この積極的無常観が色濃い影を落としそうな予感がする。世界的に高齢化が進み、老人の感性が社会への影響力を増すことが考えられるうえ、たまたまそれと並んで、社会の予測不可能性が急速に高まる傾向が顕著になったからである。」

 「 たとえば日本では東海、東南海、南海大地震が同時に襲う恐れが明日にもありうることは誰もが知っている。だが、この報道にたいして、日本人は恐慌にも自暴自棄にも陥らず、防災ならぬ「『減災」』をめざして地道な努力を重ねている。注目に値するのが減災という概念であって、災害のあることを受け入れたうえで積極的な対処を図る思想である。」

「  振り返ると、日本には積極的無常観の長い伝統があって、『明日に夢があるから今日頑張ろう』という思想と、『明日はどうなるかわからないから今日がんばろう』という思想が両立してきた。」

「  科学技術が進歩を続け、他方で明日をも知れぬ個人の偶然が残る限り、進歩主義と積極的無常観の両立は日本が世界に発しうるメッセージになるのではなかろうか。」

 

  以上を読めば、「積極的無常観」こそが、私たちがとるべき賢明な態度だということが、よく分かると思います。

 そして、現に、日本人の多くが、無意識的にせよ、意識的にせよ、「積極的無常観」をとっているということは、誇らしいことだと考えます。

 

(6)山崎正和氏の紹介

 

【1】山崎正和氏の紹介

 山崎正和氏は、1934年、京都生まれ。京都大学文学部哲学科卒業。劇作家、評論家、演劇研究者。評論は、文明批評、文芸批評、芸術論、演劇論と、実に多彩である。文化功労者。日本芸術院会員。大阪大学教授、東亜大学学長、中央教育審議会会長などを歴任。

 

【2】山崎正和氏の著書 

 主な著書として、

『世阿弥』(新潮文庫)(第9回岸田國士戯曲賞受賞)、

『劇的なる日本人』(新潮社)、

『混沌からの精神』(ちくま学芸文庫)、

『日本文化と個人主義』(中央公論社)、

『近代の擁護』(PHP研究所)、

『社交する人間』(中公文庫)、

『装飾とデザイン』(中公文庫)、

『日本人はどこへ向かっているのか』(潮出版社)、

『山崎正和全戯曲』(河出書房新社)、

『舞台をまわす、舞台がまわる-山崎正和オーラルヒストリー』(中央公論新社)

などがあります。

 以上の、ほとんどの著作は、難関国公立・私立大学の現代文(国語)・小論文の入試頻出出典です。

 

(7)当ブログの「山崎正和氏・関連記事」の紹介

 

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(8)当ブログの「無常観・関連記事」の紹介

 

gensairyu.hatenablog.com

 

ーーーーーーーー 

 

今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後の予定です。

ご期待ください。

 

   

 

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舞台をまわす、舞台がまわる - 山崎正和オーラルヒストリー

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5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

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 私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。

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予想問題「未来世代への責任」岩井克人/地球環境問題・世代間倫理

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 

 現在は、異常気象、地球温暖化など「地球環境問題」に関する論点が、問題化しています。

 「地球環境問題」は「科学批判」のテーマにおける重要な論点でもあります。

 「科学批判」は、2017年度のセンター試験国語(現代文)、東大国語(現代文)でも出題された流行論点・頻出論点です。この2問については、「論点的中記事」を発表しましたので、リンク画像を最後に貼っておきます。ぜひ、ご覧下さい。

 

 最近、次のような記事が発表されました。

「地球環境に科学者ら1万5千人警告 『時間切れが迫る』」(2017年11月15日・朝日新聞デジタル)

「地球温暖化や自然破壊の悪化に警鐘を鳴らし、持続可能な社会に向かうよう訴える声明が、世界の約1万5千人の科学者らの署名とともに米科学誌に発表された。

 日本から署名を寄せた、ノーベル物理学賞受賞者で東京大宇宙線研究所長の梶田隆章さんは『もうすでに非常に厳しい段階に入りつつある。一刻も早い対策の実現が必要との思いです』と朝日新聞の取材に対しコメントした。

 この声明は科学誌バイオサイエンスに13日付で発表された『世界の科学者による人類への警告』。184カ国の1万5364人の科学者らが署名した。1992年に米NGO『憂慮する科学者同盟』が発表した声明の更新版にあたる。

 この25年間で世界の人口が約20億人増え、様々な環境問題が深刻化したと指摘。地球温暖化が進んで平均気温が約0・5度上昇しているとしている。

 声明は、現状維持では取り返しがつかない状態になるとして『時間切れが迫りつつある』と訴える一方、人類は事態好転に向けた変化を起こせるとも指摘。政府や市民がとるべき対策として、二酸化炭素を排出する化石燃料から再生可能エネルギへの切り替えを進めることなど、13項目を提言した。」

 

 こういう「地球環境問題」に関する論点がクローズアップされている時には、「地球環境問題」の基本的な、根本的な論点が出題されることが多いようです。

 そこで、現代文(国語)・小論文対策として、今回は、入試頻出著者・岩井克人氏の、著名な論考「未来世代への責任」、つまり「世代間倫理」についての予想問題解説記事を書きます。

 「世代間倫理」は、慶応大学小論文でよく出題され、最近では2017東大現代文(→この記事の最後に「論点的中報告記事」のリンク画像があります)にも出題されている重要論点です。

 設問としては、金沢大学の現代文(国語)の過去問を使用します。

 

 なお、今回の記事の項目は以下の通りです。

(2)「未来世代への責任」岩井 克人/地球環境問題・世代倫理/2002金沢大過去問

(3)「世代間倫理」の定義

(4)新自由主義経済とモラルハザード(倫理崩壊)の関係/岩井氏の見解

(5)岩井克人氏の紹介

(6)当ブログの「地球環境問題」・「消費社会」関連記事の紹介→「地球環境問題」と「消費社会」の論点は密接に関係しています

 

経済学の宇宙

 

(2)「未来世代への責任」岩井 克人/地球環境問題・世代倫理/2002金沢大過去問 

 

(引用部分は概要です)

(【1】・【2】・【3】・・・・は当ブログによる段落番号です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です) 

 
【1】私は経済学者です。そして、経済学者とは現代において数少ない「悪魔」の一員です。

【2】人類は太古の昔から利己心の悪について語ってきました。他者に対して責任ある行動をとることーーそれが人間にとって真の「倫理」であると教えてきたのです。だが、経済学という学問はまさにこの「倫理」を否定することから出発したのです。

【3】経済学の父アダム・スミス(→アダム・スミス(1723年~1790年)は、イギリスの哲学者・倫理学者・経済学者。スコットランド生まれ。主著に倫理学書『徳感情論』(1759年)と経済学書『国富論』(1776年)。市場経済システムが「自己完結的」であるということを、最初に明確に定義した)はこう述べています。「通常、個人は自分の安全と利得だけを意図している。だが、彼は見えざる手に導かれて、自分の意図しなかった〈公共〉の目的を促進することになる」。ここでスミスが「見えざる手」と呼んだのは、資本主義を律する市場機構のことです。資本主義社会においては、自己利益の追求こそが社会全体の利益を増進するのだと言っているのです。(→「自己完結的」というのは、「自己利益の追求」という人間の欲望を自由に解放しておけば、市場も社会も自然と成長し続ける、という意味です。たとえ、各個人の行為が利己的でも、それが集積されると、結果として個々の意図とは無関係に、社会全体の利益となるということです)

【4】① 経済学者の「悪魔」ぶりがもっとも顕著に発揮されるのは、環境問題に関してでしょう。 多くの人にとって、資本主義が前提とする私的所有制こそ諸悪の根源です。環境破壊とは、私的所有制の下での個人や企業の自己利益の追求によって引き起こされると思っているはずです。

【5】だが、経済学者はそのような常識を逆撫でします。私的所有制とは、まさに環境問題を解決するために導入された制度だと言うのです。

【6】かつて、人類は誰のものでもない草原で自由に家畜を放牧していました。家畜を一頭増やせば、それだけ多く肉や皮やミルクがとれます。草原は誰のものでもないので、家畜が食べる牧草はタダです。確かに一頭増えれば他の家畜が食べる牧草が減り、その発育に影響しますが、自由に放牧されている家畜の中で自分の家畜が占める割合は微々たるものです。それゆえ、人々は草原に牧草がある限り、自分の家畜を増やしていくことになります。その結果、牧草は次第に枯渇し、いつの日か無数の痩せこけた家畜がわずかに残された牧草を求めて争い合う事態が到来することになると言うのです。

【7】これこそ「元祖」環境問題です。そして経済学者は、それは、自然のままの草原が誰の所有でもない共有地であるがゆえの悲劇であると主張します。環境問題とは 「共有地の悲劇」だと言うのです。(→「共有地の悲劇」とは、1968年に生物学者ギャレット・ハーディンが発表したモデルのことです。このモデルは、後にゲーム理論として定式化され、社会的ジレンマ、特に環境問題を議論するときに、取り上げられることが多いようです。ある集合体において、メンバー全員が互いに協力的行動をとっていれば、メンバー全員にメリットがあります。しかし、各人が個別の合理的判断の下、利己的に行動する非協力的状態になると、結果として、誰にとってもデメリットになってしまうという結果を示すモデルです)

【8】事実、もし草原が分割され、その一画を牧場として所有するようになると、その中の家畜はすべて「自分」の家畜となります。その時さらに一頭飼うかどうかは、その一頭が新たに牧草を食べることによって、牧場内の他の家畜の発育がどれだけ影響を受けるかを勘案して決めるようになるはずです。(→この点を「合理的判断」と評価するのです)もはや牧草はタダではありません。他人に牧場を貸したり売ったりする時でも、その中の牧草の価値に応じた賃料や価格を請求するようになるはずです。牧草は合理的に管理され、共有地の悲劇から救われることになります。私的所有制の下での自己利益の追求こそが環境破壊を防止することになると言うわけです。

【9】「悪魔」の一員だけあって、経済学者の論理は完璧です(私自身この論理を30年間教えてきました)。実際、1997年の地球温暖化防止に関する京都議定書(→「京都議定書」は、1997年12月に京都市で開かれた第3回気候変動枠組条約締約国会議(地球温暖化防止京都会議、COP3)で同月11日に採択された、気候変動枠組条約に関する議定書。正式名称は、「気候変動に関する国際連合枠組条約の京都議定書」。地球温暖化の原因となる、温室効果ガスの一種である二酸化炭素 、メタン 、亜酸化窒素 、ハイドロフルオロカーボン類等について、先進国における削減率を1990年を基準として各国別に定めました)は、この論理を取り入れました。また、先進諸国に温暖化ガスの排出枠を権利として割り当て、その過不足を売買することを条件付きで許したのです。(→「排出取引」のことを言っています。「排出取引」とは、各国家や各企業ごとに温室効果ガスの排出枠を定め、排出枠が余った国や企業と、排出枠を超えて排出してしまった国や企業との間で取引する制度。この取引はビジネスとしても成り立つため、企業や政府、双方に経済効果・環境効果が生まれます。「排出権取引」、「排出量取引」とも言います。京都議定書第17条に規定されていて、温室効果ガスの削減を補完する「京都メカニズム」(柔軟性措置)の1つです)

【10】ここでは、温暖化ガスが汚染する大気は家畜が食べ荒らす牧草に対応し、各国が売買しうる排出枠は牧畜家が所有する牧場に対応しています。すなわち、それは大気という自然環境に一種の所有権を設定することによって、それが共有地である限り進行していく温暖化という悲劇を解決しようとしているのです。

【11】では、これで環境問題はすべてめでたく解決するのでしようか?

【12】答えは「否」です。わが人類は不幸にも、経済学者の論理が作動しえない共有地を抱えているのです。

【13】それは「未来世代」の環境です。

【14】② 地球温暖化が深刻であるのは、各国間の利害が対立しているからではありません。未来と現在の二つの世代の間の利害が対立しているからなのです。未来世代を取り巻く自然環境が現在世代によって一方的に破壊されてしまうからなのです。

【15】もちろん、経済学者の論理にしたがえば、この問題も未来世代に未来の環境に関する所有権を与えることによって解決されるはずです。未来世代は、未来の環境が受ける被害に応じた補償額を現在世代に請求するようになり、現在世代はその費用を考慮して環境破壊的な経済活動を自主的に抑えるようになるからです。

【16】だが、ここに根源的な問題が浮かび上がります。未来世代とは、まだこの世に存在していない人間です。タイムマシーンにでも乗らない限り、未来世代が現在世代と取引することは論理的に不可能なのです。

【17】唯一可能な方策は、現在世代が未来世代の権利を代行することです。だが、それは利害関係の当事者の一方が同時に他方も代理して取引するという、まさに利害の相反する状況を作り出してしまいます。現在世代が自己利益を追求している限り、未来世代の利益を考慮して、自分自身と取引することなど、ありえません。

【18】とうとう、われわれは、私有財産制によっては解決不可能な問題に行き当たってしまったのです。

【19】未来世代とは単なる他者ではありません。それは自分の権利を自分で行使できない本質的に無力な他者なのです。③ その未来世代の権利を代行しなけれはならない現在世代とは、未成年者の財産を管理する後見人や意識不明の患者を手術する医者と同じ立場に置かれているのです。自己利益の追求を抑え、無力な他者の利益の実現に責任を持って行動することが要請されているのです。すなわち、「倫理」的な存在となることが要請されているのです。

【20】どうやら、私は「悪魔」の一員として失格したようです。経済学者の論理を極限まで推し進めた結果、その論理が追放してしまったはずの「倫理」なるものを再び呼び戻す羽目に陥ってしまったからです。

【21】だが京都議定書の批准をめぐる最近の混乱(→当時のアメリカのブッシュ大統領が、地球温暖化対策のための京都議定書から離脱する旨表明しました。また、最近では、アメリカのトランプ大統領が、地球温暖化対策の国際的なルールを定めたパリ協定から離脱すると発表しました。結果として、京都議定書は失敗でした。先進国のみにCO2排出削減を義務付けましたが、CO2排出量が多い中進国、発展途上国を野放しにしたため、世界全体のCO2排出量は増え続けています。さらに、これから地球温暖化防止のために必要な国際的な枠組みは、義務も罰則もありません。従って、世界全体のCO2排出量を半減させて、CO2濃度を現状の濃度のままとする、という目標を達成できないことは確実です)は、まさにその「倫理」こそ地球上で最も枯渇した資源(→「新自由主義」・「利己主義」との関係が問題になります。→後述します)であることを思い出させてくれました。環境問題が真に困難な問題であることを結果的に指し示すことになったという意味では、④ 私も立派に「悪魔」としての役割を果たしたと言えるのかもしれません。

 (岩井克人「未来世代への責任」)

 

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(設問)

問1  傍線部①について、なぜ、そのように言えるのかを簡潔に説明せよ。

問2  傍線部②について、この部分でなぜ、「各国間の利害のか対立」以外に「未来と現在の二つの世代の間の利害の対立」が持ち出されるのか。その理由を120字以内で記せ。

問3  傍線部③について、「現在世代」をこのように、たとえている理由を簡潔に説明せよ。

問4  傍線部④について、なぜ、そのように言えるのかを簡潔に説明せよ。

 

ーーーーーーーー

 

(解説・解答)

問1(傍線部説明問題・理由説明問題)

→記述式問題の場合にも、出題者が何を問題としているかを、本文を熟読する前にチェックしておく方が効率的です。設問から先に見るべきでしょう。

→熟読・精読を心がけてください。要約を意識しなくても、人間の脳は、自然に要約しているのです❗

 傍線部が、
【1】段落「私は経済学者です。そして、経済学者とは現代において数少ない『悪魔』の一員です」、

および、【2】・【3】段落を受けて、

「経済学者の『悪魔』ぶりがもっとも顕著に発揮される」となっていることに注意してください。

 傍線部の理由説明は、【4】~【8】段落に述べられています。

(解答)
環境破壊とは、私的所有制の下で個人や企業が自己利益追求の結果、引き起こされると考える常識に対して、経済学者は環境問題を「共有地の悲劇」の一種と考え、私的所有制の下での、自己利益の追求こそが環境問題を解決すると主張するから。

 

問2(傍線部説明問題・理由説明問題) 

 傍線部が、
「【11】では、これで環境問題はすべてめでたく解決するのでしようか?
【12】答えは「否」です。わが人類は不幸にも、経済学者の論理が作動しえない共有地を抱えているのです。
【13】それは「未来世代」の環境です。」
の理由部分になっていることに注目してください。

 そのうえで、傍線部直後の「未来世代を取り巻く自然環境が現在世代によって一方的に破壊されてしまうからなのです」が、「傍線部の言い換え」になっていることを読み取ってください。

(解答)
京都議定書の発想は、共有地である自然環境に所有権を設定することにより温暖化が解決可能とするものだが、それは現在世代の利害対立の面から捉えた議論にすぎず、一方的に被害を受ける未来世代を考慮していないという欠陥を指摘するため。(120字以内) 

 

問3(傍線部説明問題・理由説明問題)

 傍線部直後の2つの文に注目してください。

 つまり、傍線部は、

「自己利益の追求を抑え、無力な他者の利益の実現に責任を持って行動することが要請されているのです。すなわち、「『倫理」』的な存在となることが要請されているのです。」という2つの文の具体例としての役割があるのです。

 言い換えると、「未来世代の権利を代行しなけれはならない現在世代」は、「自己利益の追求を抑え、無力な他者(→まだ存在していない「未来世代」)の利益の実現に責任を持って行動することが要請されている」、つまり、

「倫理的な存在」になることが要請されているのです。

(解答)
「後見人」も「医者」も、自分の権利を行使できない無力な者に対する「倫理」的な存在となることが要請されており、無力な者の権利の代行を委任されている点で共通しているから。
 
 

問4(傍線部説明問題・理由説明問題) 

 傍線部直前の「京都議定書の批准をめぐる最近の混乱は、まさにその「倫理」こそ地球上で最も枯渇した資源であることを思い出させてくれました。環境問題が真に困難な問題であることを結果的に指し示すことになったという意味では」に注目する必要があります。

 特に、「環境問題が真に困難な問題であることを結果的に指し示すことになったという意味では」という限定的な表現に注目してください。

 私が「悪魔」である理由は以下の通りです。

 未来世代の環境を保障するのに唯一可能なものは「倫理」である。しかし、その「倫理」が地球上で最も枯渇した資源であることを明らかにしたからです。

 つまり、このままでは、人間には悲惨な将来のみが待っていること、を完璧に証明したからと推測されます。

(解答)
「京都議定書の批准をめぐる混乱」にみられるように、人が「倫理的存在」となることは困難である。だが、環境問題の根本的解決には「倫理」が必要なことを証明した。人は「倫理的存在」であることはできないのに、「倫理」が環境問題の解決に不可欠という現実を突きつけたことが、「悪魔」なのである。 

 

ーーーーーーーー

 

【要約】

 他者に対して責任ある行動をとること、という人間にとっての真の「倫理」を否定している点で、経済学者は現代における「悪魔」だと言える。
 それが顕著なのは「環境問題」に関してである。
 経済学者は、「資本主義が前提とする私的所有制こそ諸悪の根源」だとする一般的常識を否定して、私的所有制の下での自己利益追求こそが環境破壊を解決する制度だと言う。
 しかし、この論理は、未来と現在の世代間の利害対立を解消できないという根本的欠陥を有している。
 未来世代に環境の所有権を与えたうえで、現代世代が未来世代と合理的な取引を行うのであれば、現在世代は環境破壊的経済活動を自主的に抑制するようになるだろう。しかし、未来世代が未だ存在しない以上、未来世代と現在世代の取引は論理的に不可能である。
 つまり、経済学者の言うような私有財産制では、環境問題が根本的には解決しない。
 従って、現在世代には、自己利益の追求を抑え、無力な他者の利益の実現に、倫理的に責任を持って行動することが要請される。
 しかし、「倫理」は同時に現在、地球上で最も枯渇した資源であるから、「倫理的行動」の実現は困難である。
 このように、環境問題が真に困難な問題であることを指し示すことになったという意味では、私も立派に「悪魔」としての役割を果たしたと言えるのかもしれない。

 

 

(3)「世代間倫理」の定義

 

「  異なった世代間の倫理関係が世代間倫理であり、例えば、高齢者介護など世代間の支え合いに基づく社会保障制度に関する責任負担の問題や、雇用における年齢差別の問題を考える場合のような、同時代の中の世代間の倫理問題と、例えば植民地政策や戦争のように、遠い過去に不正や危害について子孫が責任を負うべきかとか、あるいは、天然資源の利用、核廃棄物の貯蔵、地球温暖化など特に環境倫理の問題を考える場面で、未来世代との正義(公平性)や未来世代への責任もしくは義務を考える場合のような、同時代ではない遠く隔たった世代間の倫理問題とがある。とりわけ、後者は人間の同時的相互関係を基本とする近代倫理学にとっては難問である」(『現代倫理学事典』弘文堂)

 

 この定義においても、未来世代との関係における「世代間倫理」は、困難な問題と記述されていることに注目してください。

 

 
(4)新自由主義経済とモラルハザード(倫理崩壊)の関係/岩井氏の見解
   

 新自由主義経済とは市場原理主義、グローバル化、自由貿易、公的部門の民営化、規制緩和などを推進することで、公的部門の比率を減少させ、民間部門の役割を増大させる政治経済思想です。

 そして、自由貿易による関税撤廃。市場経済、規制緩和による価格破壊。これらにより、輸入食品の安全性問題や国内農業の崩壊、コスト削減・成果主義による企業のモラル・安全意識の低下が目立ってきています。

 しかも、弱肉強食の競争原理を掲げる新自由主義・市場主義は、「公共性の問題」を、「競争の公正性」、「セーフティネット」に置き換えます。公共性を軽視した社会運営は、人々から連帯感、共生意識、倫理観を奪い取り、非人間的な人間関係だけが残ることになります。

 新自由主義経済が進展して、利己主義が世界中ではびこり、モラルハザード(倫理崩壊)が起き、世界各地でデモと暴動が頻発する時代となりました。自分たちの生命・存在に危機が迫れば、秩序・倫理が喪失していくことは当然です。

 

 この点に関して、岩井氏は、「経済学はその理論体系から倫理を葬り去ることによって成立した学問です」(『経済学の宇宙』P361)と「経済学」を批判しています。

 そして、岩井氏は、以下のように、『資本主義から市民主義へ』の中で資本主義社会における「倫理の必要性」を強調しています。

「じつは「『資本主義社会は倫理性を絶対に必要とする」』というのが、ぼくの主張です。しかも、まさにそれが契約関係によって成立する社会であることによって倫理性が要請されるということなのです。」(P129『資本主義から市民主義へ』)

 経済学者が倫理を強調することは、珍しいことです。

 上記の「未来世代への責任」では、

「【1】私は経済学者です。そして、経済学者とは現代において数少ない「悪魔」の一員です。
【2】人類は太古の昔から利己心の悪について語ってきました。他者に対して責任ある行動をとることーーそれが人間にとって真の「倫理」であると教えてきたのです。だが、経済学という学問はまさにこの「倫理」を否定することから出発したのです。」

と述べられていることに、矛盾する感じです。

 

 しかし、「【21】だが京都議定書の批准をめぐる最近の混乱は、まさにその「『倫理」』こそ地球上で最も枯渇した資源であることを思い出させてくれました」という由々しき現状、

新自由主義経済における倫理性の全くの欠如という状況から、

これまでの視点を大きく変換したのでしょう。

 

 岩井氏の「倫理」に関する考察はユニークな上に、入試頻出なので、さらに引用していきます。

 熟読してください。

倫理の問題に戻ります。端的に言ってしまうと、倫理とは、人間が死ぬ存在であることと本質的にかかわっていると思っています。なぜなら、人間が永遠に生きられるとすると、現在何か悪いことをやっても、将来かならず相手に対して償いをすることが可能になるからです。それは、すべてを、法律的な権利義務の関係、いや、もっと正確には、経済的な貸し借り関係に還元してしまうことになるのです。そこでは、ほんとうの意味での倫理性は必要でなくなってしまう。だが、人間は有限な存在です。だから、自分のおこなった行為に対して、どのようにしても償いや返済ができない可能性がある。そこではじめて、本来的な意味での主体的な責任という問題が生まれてくるのです。それが究極の意味での倫理の問題だと思うのです。」(P131・132『資本主義から市民主義へ』)


「言語・法・貨幣、さらにそれとは別のカテゴリーですけれど、定言命題(→ 主語に対して述語が結びついているという形の単純な命題)としての倫理―これらが、まさに自己循環論法の産物であるということ、つまり実体的な根拠をもっていないということに、究極的には人間の人間としての自由の拠り所があるし、人間にとっての救いがあると思っています。自己循環論法であるからこそ、遺伝子情報の制約からも、人間理性の限界からも自由になれるのです。その意味で、言語・法・貨幣、そして倫理、とりわけ、それらすべての基礎にある言語のなかに、もっとも根源的な真理が隠されているわけです。無根拠だから空虚なのではありません。無根拠だから真理を見出していく無限の潜在力にあふれているのです。」(P144・145『資本主義から市民主義へ』)

 

「ミルトン・フリードマンのような単純な新古典派経済学(→「新古典派経済学」とは、経済学における学派の一つ。 新古典派の考え方は、自由放任主義である。 価格の調整速度が速いということを前提として理論を展開している。 競争原理が第一と考えている)の人たちは、ぜんぶ利潤追求でOKだと語っていますが、ぼくは逆に、資本主義そのものに矛盾があるということを、不均衡動学(→『不均衡動学の理論』)で論証し、『貨幣論』で論証し、会社論(→『会社はこれからどうなるのか』→本書において岩井氏は、「会社は株主のものである」とする株主主権を批判する一方で、「信任」ということを重視しています。また、2008年以降の世界経済危機を、1970年代後半から始まったグローバル化のもととなった「新古典派経済学」の「壮大な失敗」と考えています)でも論証しているわけです。会社論では信任が必要だ、倫理が必要だということを語っている。つまり、資本主義はつねにどこかで市民社会とつながっていなければならない。そうしなれば、自己崩壊の危機をつねにかかえてしまうことになる。やはり、法が自己循環的な構造をもっているがゆえに、どこかで市民社会とつながっていなければ、自己崩壊してしまう危険をつねにかかえてしまう。」(P273・274『資本主義から市民主義へ』)

 

 あらゆる学問がそうですが、「経済学」も、常にどこかで市民社会とつながっていなければならない学問です。
 市民社会の基盤には、倫理があるのですから、経済学も倫理性を有しているべきでしょう。そうしなれば、一般社会から隔絶した空理空論と評価されることになるでしょう。
 以上の点で、岩井氏の論考は、極めて正当と評価できると思います。

 

(5)岩井克人氏の紹介

岩井 克人(いわい かつひと、1947年生まれ ) 日本の経済学者(経済理論・法理論・日本経済論)。学位はPh.D.(マサチューセッツ工科大学・1972年)。米イェール大学助教授、東大助教授、米ペンシルベニア大学客員教授、米プリンストン大学客員准教授、東大教授などを経る。国際基督教大学客員教授、東京大学名誉教授、公益財団法人東京財団名誉研究員、日本学士院会員。

  

【著書】

『ヴェニスの商人の資本論』(筑摩書房・1985年、ちくま学芸文庫・1992年)

『不均衡動学の理論』(岩波書店・1987年)

『貨幣論』(筑摩書房・1993年、ちくま学芸文庫・1998年)

『資本主義を語る』(講談社・1994年、ちくま学芸文庫・1997年)

『二十一世紀の資本主義論』(筑摩書房・2000年、ちくま学芸文庫・2006年)

『会社はこれからどうなるのか』(平凡社・2003年、平凡社ライブラリー・2009年)

『会社はだれのものか』(平凡社・2005年)

『IFRSに異議あり』(日本経済新聞出版社・2011年)

『経済学の宇宙』(日本経済新聞出版社・2015年)

『不均衡動学の理論』(モダン・エコノミックス20/ 岩波オンデマンドブックス) 

 

  なお、当ブログでは、岩井克人氏の論考については、最近、予想問題記事を発表しました。ぜひ、ご覧ください。

 

gensairyu.hatenablog.com

 

 

(6)当ブログの「地球環境問題」・「消費社会」関連記事の紹介

 「地球環境問題」の根本的原因・背景に「消費社会」の問題があります。常に、セットで考えるようにしてください。「消費社会」・「高度消費社会」の論点は、入試頻出論点です。

 

gensairyu.hatenablog.com

 

gensairyu.hatenablog.com

 

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ーーーーーーーー

 

今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

ご期待ください。

 

   

 

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経済学の宇宙

経済学の宇宙

 

 

不均衡動学の理論 (モダン・エコノミックス 20)

不均衡動学の理論 (モダン・エコノミックス 20)

 

 

資本主義から市民主義へ (ちくま学芸文庫)

資本主義から市民主義へ (ちくま学芸文庫)

 

 

会社はこれからどうなるのか

会社はこれからどうなるのか

 

 

頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

 

 

5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

 

 

 私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。

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予想問題『日本文化の論点』宇野常寛/2014早大社会現代文

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 

 評論家・宇野常寛氏は、最近の入試頻出著者です。

 宇野氏は継続的に、「3・11東日本大震災、福島原発事故」について、深い考察をしています。

 「3・11東日本大震災、福島原発事故」は、最近の流行論点・頻出論点であり、当ブログにおける中心テーマになっています。


 以下に、当ブログの第1回の記事「開設の言葉」の概要を引用します。

 

「入試現代文(国語)・小論文の最新傾向として、注目するべきポイントとしては、2つの大きな柱があります。

【1】1つの柱は、「IT社会の光と影と闇」です。

【2】もう1つの柱は、「3・11東日本大震災の各方面に対する影響」です。

 「各方面」は、実に多方面にわたっています。入試現代文(国語)・小論文の問題を読んでいると、現代文明論、科学批判(近代科学論・現代科学論)以外に、自己論(アイデンティティ論)・環境論・人間関係論・人生論・政治論(民主主義論)等、「影響」が思いもしない方面にまで及んでいる事に、驚かされます。

 「影響」は、「単なる影響」のレベルでは、ありません。
 今までないくらいに大きく、底知れぬほど深く、長期的なものと言えます。

 最近の入試現代文(国語)・小論文にも、その影響は続いています。」

 

gensairyu.hatenablog.com

 

 今回の宇野氏の論考(『日本文化の論点』)は、「3・11東日本大震災、福島原発事故」と「世界観・終末観の変化」という、入試国語(現代文)・小論文における、頻出で重要なテーマを論じているので、予想問題記事として取り上げることにしました。

 

 今回の記事の項目は、以下の通りです。

(2)予想問題『日本文化の論点』宇野常寛/2014早稲田大学(社会)過去問

(3)本問のポイントの解説→「宇野氏の問題意識」の解説

(4)宇野常寛氏の紹介

(5)当ブログの「東日本大震災・福島原発事故」関連記事の紹介

(6)当ブログの最近の「予想問題」記事の紹介

 

日本文化の論点 (ちくま新書)

 

(2)予想問題『日本文化の論点』宇野常寛/2014早稲田大学(社会)過去問

 

(引用部分は概要です)

(【1】・【2】・・・・は当ブログによる段落番号です)(

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です) 

【1】円谷英二が始めた日本の特撮は、精巧なミニチュアで作られた町や山や海を舞台に、怪獣やヒーローやスーパーマシンたちが活躍し、見る者をワクワクさせてきました。しかし現在、特撮は、デジタル技術の発展と共に形を変え、その価値を見直す岐路に立たされていると言えます。本展覧会は、特撮のこうした状況を何とかしたいとかねてから考えてきた庵野秀明が、「館長」となって「博物館」を立ち上げた、というコンセプトのもとで開催します。
(「館長 庵野秀明 特撮博物館」東京都現代美術館公式ホームページより)

【2】展示の初日に行こう、と決めていました。2012年7月のこの週は息抜きしよう、遊ぼうと心に決めて、この日を待っていたくらいです。

【3】実を言うと、その日まで僕はひどく落ち込んでいました。理由は他愛もないことです。その前々日の日曜日、僕は国際展示場で催されたあるアイドルグループの握手会でちょっとした失敗をしてしまっていました。握手のスケジュールを甘く見積っていて、時間内に複数のメンバーのブースを回ることができずに握手券を二枚を無駄にしてしまったのです。僕の見積りが甘くなったのは、僕も運営側も予測できなかったレベルでの混雑です。予想外の数のファンが殺到した結果、会場で小さな混乱がお子っていたのです。僕は正直、落ち込んだけれど、その一方であの空間に満ちていた混沌とした圧倒的のな力には、やはり何かを期待させるものを感じていました。

【4】そして訪れた7月10日、すでに清澄白河の会場は混雑していて、平日の昼間、それも午前中にどこから湧いて出たんだろうというくらい、そこには大人たちが、いや「おおきなおともだち」がいっぱい集まっていました。平均年齢も高くて、33歳の僕はあの中ではたぶんかなり若い方だったと思います。僕らはそんな状況がもたらす奇妙な居心地に少し戸惑いながら、この博物館の奥へ、奥へと入っていきました。

【5】特撮の歴史とは戦後日本の精神史でもあります。『ウルトラ』シリーズの生みの親として知られる「特撮の父」円谷英二は独自の特撮技術を開発し、戦前から映画界で活躍していましたが、その技術を政府に評価され戦時中は当時所属していた東宝の社員として数多くの戦意高揚映画の制作に関わりました。後に円谷が怪獣映画などで駆使する特撮技術の多くが、この時期の戦意高揚映画の制作の中で培われたと言われています。そして終戦後、公職追放で一時期東宝を追われた後に復帰し、戦争映画などの特技監督を務めました。そのかたわら、日本初の本格特撮映画『ゴジラ』を発表し、国内に「怪獣映画」というジャンルを確立することになります。

【6】広く知られているように、怪獣ゴジラはアメリカの核実験によって怪獣に変異した古代生物で、1945年の公開当時、東京を焼け野原に変えるその衝撃は空襲の再来として受け止められました。その来歴から明らかなように、円谷的な想像力とは少なくとも「政治の季節」と呼ばれた1960年代までは国家や軍隊といった ① 大文字の「政治」性と密接な関係を持ち、そこで描かれる巨大なもの(怪獣など)による都市破壊は、国家による暴力ーーつまり、戦争による社会破壊が重ね合わされています。

【7】『ウルトラマン』(1966~1967年)、『ウルトラセブン』(1967~1968年)の2作は、サンフランシスコ体制の比喩として繰り返し読解されてきた歴史があります。すなわち、いや高度成長期の日本の街並みを襲う怪獣や宇宙人は東側諸国の侵攻軍であり、それを撃退すべく組織されながらも見るからに戦力不足の「科学特捜隊」や「ウルトラ警備隊」といった防衛組織は日本の自衛隊、そして防衛組織に代わって侵略者を退治してくれるウルトラマンやウルトラセブンは在日米軍、という見たてになります。

【8】20世紀という「戦争の世紀」の表舞台で活躍した、国民国家による暴力装置=〔 A 〕へのおそれと憧れが複雑に入り混じった感情が、子ども番組という不自由な枠組みに軟着陸したときに生まれた奇形的な想像力ーーそれが戦後日本のミニチュア特撮の本質です。それは強大なものへの憧れと、それをストレートに表現することを許してくれない敗戦の傷跡ーー自分たち日本こそが悪の侵略者だったという歴史の呪縛ーーが複雑に絡み合うことで生まれた、永遠の「12歳の少年」の自画像です。怪獣映画やウルトラマンはあらゆる意味において戦争映画のアイロニカルな代替物=〔    B    〕であったと言えるでしょう。

〔  1  〕

【9】そして、映画の代替物として発展した戦後怪獣映画は、戦後社会の変化とともにゆるやかに終焉していきました。それは奇しくもミニチュア特撮という文化の勃興と衰退の歴史に重なります。21世紀の日本の「特撮」の主流は、むしろチャンバラ劇の流れをくむ東映系の等身大ヒーロー、つまり、『仮面ライダー』シリーズや『スーパー戦隊』シリーズで、怪獣映画の類の人気は下火はになって久しいものがあります。これらの番組においてはいわゆる「殺陣(たて)」を中心としたアクションが中核にあり、ミニチュア特撮は補助的な要素でしかありません。物語的にも1970年代の勃興期から、怪獣映画や『ウルトラ』シリーズが否応なく孕(はら)んでいた戦後的政治性の呪縛から解放された、自由で政治性の希薄な、痛快娯楽劇が展開されることが多かったのです。

〔  2  〕

【10】展示のクライマックスは、庵野秀明と樋口真嗣によおる短編映画『巨神兵東京に現わる』でした。宮崎駿の映画/漫画『風の谷のナウシカ』に登場する巨大人型兵器「巨神兵」が現代の東京に襲来し、街々を一瞬で灰塵(かいじん)に帰するその過程を、今失われつつあるミニチュア特撮技術の粋を凝らして撮影した9分間の短編映画です。

【11】半世紀以上の時間をかけて積み重ねられ、伝えられてきた技術を惜しみなく投入したその映像は、特撮ファンの僕のひいき目を差し引いても、最新のコンピューター・グラフィックス技術を駆使したハリウッド映画と比べても遜色がないように見えました。

【12】その日、巨神兵のフィギュアと図録を買い込んで帰路についた僕たちは、氷イチゴを食べました。まだ午後の早い時間だったけれど、いい一日だったと思いました。すばらしい展示だったし、すばらしい映画だっ

【13】でも・・・・崩れ落ちそうになる氷の山をストローでつつきながら、同行した友人が遠慮がちに述べたのです。「展示も映画も素晴らしい。あの映画の映像で用いられていたミニチュア特撮もすごい職人芸だと思う。しかし上上映会直後後、 ② 隣に座ってた中学生くらいの女の子が『CGみたいですごいね』と感想を漏らしたのを聞いたか」と。

〔  3  〕

【14】『巨神兵東京に現わる』を観ると、そこに描かれた20世紀後半的(冷戦期的)な終末観がすでに過去のものでしかないことを痛感させられます。︎映像に添えられた舞城王太郎の「詩」を、林原めぐみが読み上げることで語られる終末観(ある日、空から巨大なもの=核兵器が降ってきて、世界が一瞬で終わる)にせよ、スタッフたちがメイキングで語る「こんな時代だからこそミニチュア特撮を」という自意識=アイロニーにせよ、すべてノスタルジーとしてしか機能しないことを改めて思い知らされてしまいます。

〔  4  〕

【15】福島の原子力発電所の問題ひとつとっても、それは明らかでしょう。人類の傲慢=〔 C 〕が僕たちの世界を変えるとき、それはかつて冷戦時代に夢想された核戦争のように一瞬ですべてをリセットするのではなく、何十年もの時間をかけてゆっくりと、蝕むように少しずつ日常の中から僕らの世界的変えていきます。あるいはどれほど作中で「いま」の東京をミニチュアで再現し、シナリオに携帯電話の出てくるシーンを組み込んだとしても、その一方で電柱や東京タワーといった「昭和」的アイコンの力を借りなければ彼らは表現を構築できません。

〔  5  〕

【16】この映画はコンセンプチュアルであるがゆえに、20世紀後半的(冷戦期的)な世界観/終末観と、ミニチュア特撮の育んできた③ アイロニカルな想像力では(物語的にも手法的にも)現代を描くことができないことを決定的に告白してしまっています。怪獣映画もミニチュア特撮も戦後的アイロニーも、20世紀後半的(冷戦期的)な終末観も、すべて過去のもので、もはや④ ノスタルジィしかもたらしません。だからこそ、これらは博物館で展示されるものに相応しいのです。そこには過去しかありません。よって今やそれらは誰も傷つけません。安全な表現だからです。冷戦下に育まれた「世界の終わり」のイメージ、そして戦後的想像力はいよいよ「終わり」を迎えてしまったのだ、と僕は確信しました。とくに「あの日」からは。(宇野常寛『日本文化の論点』より)

 

ーーーーーーーー

 

(設問)

 

問1 次の段落が入る位置として最適な箇所を空欄1~5の中から一つ選べ。

 すなわち、冷戦が終結し、戦後的な社会構造がゆるやかに解体されてゆく中で、戦後的な政治性に強くその精神性を依存していたミニチュア特撮は、技術的にも物語的にも衰微していくことになったわけです。そして、その衰微があったからこそ、これらの文化の「遺産」は博物館に収められることになった、と言えるでしょう。

 

問2 空欄A~Cに入る言葉として最適なものを、次の中から一つ選べ。

A  1 空襲  2 軍隊  3 戦争  4 破壊  5 侵略

B  1 ヒーロー  2 特撮  3 ミニチュア  4 こども番組  5 傷跡

C  1 怪獣ゴジラ  2 核兵器  3 核実験  4 核の力  5 原爆

 

問3 傍線部①「大文字の「『政治」』性」という表現の説明として適切でないものを、次の中から一つ選べ。

1  戦後日本の精神史を代表するもの

2  20世紀の表舞台で活躍した装置

3  自分たちが侵略者だったという歴史の呪縛

4  おそれや憧れの対象となる強大なもの

5  戦後的な社会構造を構築してきたもの

 

問4 傍線部②「隣に座ってた中学生くらいの女の子が『CGみたいですごいね』と感想を漏らしたのを聞いたか」という友人の発言は何を意味しているか。その説明として最適なものを、次の中から一つ選べ。

1  中学生の言葉から、ミニチュア特撮技術を結集して撮影した映像が、最新のCG技術を駆使したハリウッド映画と比べても遜色がないほど優れていることが確認できてうれしい。

2  中学生の言葉から、精巧なミニチュアで作られた町や山や海を舞台に、怪獣やヒーローやスーパーマシンたちが活躍する特撮は今なお、見る者をワクワクさせていることが分かる。

3 『巨神兵東京に現わる』を現在のCGになぞらえる中学生の言葉は、どんなに優れた映像でも、ミニチュア特撮がすでに過去のものでしかないことを物語っている。

4 『巨神兵東京に現わる』は「いま」の東京を再現した優れた映像だとしても、中学生の言葉は、ミニチュア特撮のリアリティがCGに及ばないことを示している。

5  宮崎駿の映画/漫画に登場する「巨神兵」が現代の東京に襲来し、街々を一瞬で破壊するテーマは、本来アニメやCGに相応しいことを、中学生の発言は明らかにしている。

 

問5 傍線部③「アイロニカルな想像力」と同じ意味で用いられている言葉として最適なものを、次の中から一つ選べ。

1  おそれと憧れが複雑に入り混じった感情

2  戦後的政治性の呪縛からの解放

3  舞城王太郎の「詩」が語る終末観

4  スタッフたちがメイキングで語る自意識

5  一瞬ですべてをリセットするという夢想

 

問6 傍線部④「ノスタルジィ」の例として挙げられている文中の語句として適切でないものを、次の中から一つ選べ。

1  巨大なもの(怪獣など)による都市破壊

2『仮面ライダー』シリーズや『スーパー戦隊』シリーズ

3  ある日、空から巨大なもの=核兵器が降ってきて、世界が一瞬で終わるという終末観

4  「こんな時代だからこそミニチュア特撮を」という自意識

5  電柱や東京タワーといった「昭和」的アイコン

 

問7 本文の内容と一致するものを、次の中から二つ選べ。

1  怪獣やヒーローやスパーマシンたちが活躍し、見る者をワクワクさせてきたミニチュア特撮は、デジタル技術の発展とともに形を変え、その価値を見直す岐路に立たされている。

2  ミニチュア特撮は見る者の多くをワクワクさせてきたが、過去のものとなりつつある。それは、アイドルグループの握手会が未来に向けて期待を感じさせるのと対照的である。

3  ミニチュア特撮は戦後的政治性を孕んできたが、『仮面ライダー』シリーズや『スパー戦隊』シリーズなどの等身大ヒーローに淘汰されて、その役割を果たせなくなった。

4  ハリウッド映画と比べても遜色がない『巨神兵東京に現わる』は、ノスタルジィにほかならないが、同時にミニチュア特撮がこれから生き残っていく可能性の方向を示唆している。

5  アメリカの核実験によって怪獣に変異したゴジラが東京の街々を破壊する恐怖は、まったく現代的なものに姿を変え、福島原発事故の恐怖として今日の社会に甦った。

6  ミニチュア特撮が繰り返し描いてきた都市破壊や世界の終わりは、戦後的政治性の呪縛を内包していたが、最終的には誰も傷つけない安全な表現になってしまった。

7  地震と原発事故の「あの日」があったことによって、徹底的な都市破壊といった「世界の終わり」を繰り返し描いてきたミニチュア特撮は「終わり」を迎えてしまった。

 

ーーーーーーー

 

(解説・解答)

問1 (脱文挿入問題) 

→本文を読む前に、脱文のポイントをチェックするべきです。

 「脱文」冒頭の、「言い換え」の接続語「すなわち」に注目してください。
 つまり、以下の文脈に着目する必要があります。

直前の【9】段落「そして、映画の代替物として発展した戦後怪獣映画は、戦後社会の変化とともにゆるやかに終焉していきました。それは奇しくもミニチュア特撮という文化の勃興と衰退の歴史に重なります。」


【脱文】「すなわち、冷戦が終結し、戦後的な社会構造がゆるやかに解体されてゆく中で、戦後的な政治性に強くその精神性を依存していた。ニチュア特撮は、技術的にも物語的にも衰微していくことになったわけです。」

 

 次に、「脱文」後半部の
「その衰微があったからこそ、これら(→「ミニチュア特撮」)の文化の「遺産」は博物館に収められることになった、と言えるでしょう。」

直後の【10】段落「展示のクライマックスは、庵野秀明と樋口真嗣による短編映画『巨神兵東京に現わる』でした。宮崎駿の映画/漫画『風の谷のナウシカ』に登場する巨大人型兵器「巨神兵」が現代の東京に襲来し、街々を一瞬で灰塵(かいじん)に帰するその過程を、今失われつつあるミニチュア特撮技術の粋を凝らして撮影した9分間の短編映画です。」

(解答)2

 

問2 (空欄補充問題)

 →すぐに、選択肢をチェックしてください。

A 【6】段落の「国家による暴力ーーつまり、戦争による社会破壊」、空欄直前の「20世紀という『戦争の世紀』の表舞台で活躍した」、「国民国家による暴力装置=」に注目して2の「軍隊」を選択してください。 

B   空欄直前の「怪獣映画やウルトラマン」、「戦争映画のアイロニカルな代替物=」に着目してください。

C   空欄直前の「原子力発電所」の問題ひとつとっても」、空欄直後の「核戦争」、「人類の傲慢」に注意して、4の「核の力」を選択してください。

(解答)A=2 B=3 C=4

 

問3 (傍線部説明問題)

 傍線部直前の「国家や軍隊といった」に注目して、「適切でないもの」を選択してください。

(解答)1

 

問4 (傍線部説明問題)

「展示も映画も素晴らしい。あの映画の映像で用いられていたミニチュア特撮もすごい職人芸だと思う。しかし上映直後、②隣に座ってた中学生くらいの女の子が『CGみたいですごいね』と感想を漏らしたのを聞いたか」の文脈に注意するべきです。

 「しかし」以下には、「ミニチュア特撮」をマイナス評価するニュアンスの表現が来るはずです。

 本文における、「ミニチュア特撮をマイナス評価する記述」に注目すると、以下のものが挙げられます。

【9】段落「そして、映画の代替物として発展した戦後怪獣映画は、戦後社会の変化とともにゆるやかに終焉していきました。それは奇しくもミニチュア特撮という文化の勃興と衰退の歴史に重なります。」

【10】段落「展示のクライマックスは、庵野秀明と樋口真嗣による短編映画『巨神兵東京に現わる』でした。宮崎駿の映画/漫画『風の谷のナウシカ』に登場する巨大人型兵器「巨神兵」が現代の東京に襲来し、街々を一瞬で灰塵(かいじん)に帰するその過程を、今失われつつあるミニチュア特撮技術の粋を凝らして撮影した9分間の短編映画です。」

【16】段落「怪獣映画もミニチュア特撮も戦後的アイロニーも、すべて過去のもので、もはや④ ノスタルジィしかもたらしません。だからこそ、これらは博物館で展示されるものに相応しいのです。そこには過去しかありません。」

 以上の文脈に着目してください。

(解答)3

 

問5(傍線部説明問題)

 傍線部直前の「ミニチュア特撮の育んできた」に着目したうえで、

【8】段落「20世紀という『戦争の世紀』の表舞台で活躍した、国民国家による暴力装置=〔A=軍隊]へのおそれと憧れが複雑に入り混じった感情が、子ども番組という不自由な枠組みに軟着陸したときに生まれた奇形的な想像力ーーそれが戦後日本のミニチュア特撮の本質です。」のポイントを読み取ってください。

(解答)1

 

問6(傍線部説明問題)

 傍線部を含む一文より、「ノスタルジィ」の対象は、

「怪獣映画」・「ミニチュア特撮」・「戦後的アイロニー」・「20世紀後半的(冷戦期的)な終末観」であることは明らかです。

 そして、

【9】段落の「これらの番組(→「『仮面ライダー』シリーズや『スーパー戦隊』シリーズ」) においてはいわゆる「殺陣(たて)」を中心としたアクションが中核にあり、ミニチュア特撮は補助的な要素でしかありません。物語的にも1970年代の勃興期から、怪獣映画や『ウルトラ』シリーズが否応なく孕(はら)んでいた戦後的政治性の呪縛から解放された、自由で政治性の希薄な、痛快娯楽劇が展開されることが多かったのです。」という記述から、2(「『仮面ライダー』シリーズや『スーパー戦隊』シリーズ」)が不適切です。

(解答)2

 

問7(趣旨合致問題) 

→本文を読む前に、設問のポイントをチェックすることにより、効率的に処理することができます。

 

1【1】段落(「館長 庵野秀明 特撮博物館」東京都現代美術館公式ホームページより」)の文章なので、不一致です。

2  全体の文脈に合致しています。

3  「『仮面ライダー』シリーズや『スパー戦隊』シリーズなどの等身大ヒーローに淘汰されて、その役割を果たせなくなった。」の部分が誤りです。本文に、このような記述はありません。

4  「同時にミニチュア特撮がこれから生き残っていく可能性の方向を示唆している。」の部分が誤りです。

5  本文には、このような記述はありません。

6【16】段落より合致しています。

7【16】段落の最終の二文より、誤りです。

(解答)2・6

 

ーーーーーーーー

 

(3)本問のポイントの解説→「宇野氏の問題意識」の解説

 

 本問の重要段落は、【14】・【15】・【16】段落です。

 以下に、各段落のポイントを再掲します。

 

【14】段落「『巨神兵東京に現わる』を観ると、そこに描かれた20世紀後半的(冷戦期的)な終末観がすでに過去のものでしかないことを痛感させられます。︎映像に添えられた舞城王太郎の「詩」を、林原めぐみが読み上げることで語られる終末観(ある日、空から巨大なもの=核兵器が降ってきて、世界が一瞬で終わる)にせよ、スタッフたちがメイキングで語る「こんな時代だからこそミニチュア特撮を」という自意識=アイロニーにせよ、すべてノスタルジーとしてしか機能しないことを改めて思い知らされてしまいます。」

【16】段落「この映画はコンセンプチュアルであるがゆえに、20世紀後半的(冷戦期的)な世界観/終末観と、ミニチュア特撮の育んできた③ アイロニカルな想像力では(物語的にも手法的にも)現代を描くことができないことを決定的に告白してしまっています。怪獣映画もミニチュア特撮も戦後的アイロニーも、20世紀後半的(冷戦期的)な終末観も、すべて過去のもので、もはや④ ノスタルジィしかもたらしません。だからこそ、これらは博物館で展示されるものに相応しいのです。そこには過去しかありません。よって今やそれらは誰も傷つけません。安全な表現だからです。冷戦下に育まれた「世界の終わり」のイメージ、そして戦後的想像力はいよいよ「終わり」を迎えてしまったのだ、と僕は確信しました。とくに「あの日」からは。

【15】段落「福島の原子力発電所の問題ひとつとっても、それは明らかでしょう。人類の傲慢=〔C=核の力〕が僕たちの世界を変えるとき、それはかつて冷戦時代に夢想された核戦争のように一瞬ですべてをリセットするのではなく、何十年もの時間をかけてゆっくりと、蝕むように少しずつ日常の中から僕らの世界的変えていきます。」

 

 これらのポイントは、問5・問6・問7に関連しています。

 今回の入試問題の作成者は、宇野氏の意図を見事に読み取っているようです。難関大学の入試問題をチェックすると、その読解の正確さに感心することが多いのです。この点から、私は、入試問題演習の重要性を力説しています。

 模擬試験は、サラッと復習するだけにしてください。

 

「東日本大震災」・「福島原発事故」と「世界観」・「終末観」の密接な関係性について、宇野氏は、他の本で以下のような重要な指摘をしています。

 入試頻出論点なので、熟読してください。

「『風の谷のナウシカ』『北斗の拳』ーーたしかにこの国の物語的想像力は、豊かで平和な消費社会を終わらせる決定的な非日常を『最終(核)戦争後の未来』への願望というかたちで表現してきた。かつて存在した東西冷戦を背景に、『終わりなき日常』を断絶させる力の象徴として『核』というイメージは機能してきたのだ。」(『リトル・ピープルの時代』)

 

 上記は、「これまでの核のイメージ」についての記述です。これまでは、「核」は、「核=核戦争=最終戦争」というイメージで機能してきたのです。このイメージは、今なお、人々の心に強く根を張っているはずです。

 しかし、福島原発事故以降、「核の力」について、新たなイメージが発生してきていることが、問題なのです。このことに関して、宇野氏は、以下のように、鋭い指摘をしています。

それ(原発)は人間が生み出したものでありながら、今や人間のコントロールを離れ、私たちの生活世界を内部から蝕み始めている。私たちのすぐそばに、生活空間の〈内側〉にありながらも、もはや誰にも制御できないものがある。おそらくは私たちの無意識に刷り込まれていくであろうこの感覚が、どんな想像力を生むのか。文化批評の担い手としての私の関心はこの一点にあると言っていい。」(『リトル・ピープルの時代』)

 

 上記の最後の二文は、「これからも福島原発事故の影響を注視し、考え続けていく、それこそが私のライフワークである」とする、宇野氏の批評家としての、高らかな宣言と言うべきものです。このような宣言をする批評家が日本にいるということは、日本の誇りであり、救いです。

 確かに、福島原発事故以降、何やら薄気味の悪い雰囲気が日常を覆ってきています。その雰囲気は、終末観・死の匂いを漂わせています。原子力発電所を、昔のように見ることは、できなくなっているのです。

 良き小説・評論は、「私たちに、物事や人生の本質を気付かせてくれる」と言われていますが、上記の論考を読むと、そのことを実感します。

 

 以下の宇野氏の見解も、なかなかの内容です。

「『Show must go on』という副題が添えられたこの映画のコンセプトは、単純かつ明快だ。それは震災(及びそれに伴って発生した原子力発電所事故)を AKB48 それ自体(→「AKB48現象」は、現代文明論・消費社会論・現代文化論・日本文化論・日本人論・現代若者論として、軽視できない現象です。特に、宇野氏の論考においては、重要な論点になっています)と重ね合わせること、だ。共にもはや人間の手では制御できないもの、もはやコントロール不可能な圧倒的かつ自律的な存在として両者を重ね合わせること、それだけだ。」(『原子爆弾とジョーカーなき世界』)

「この映画が、そしてAKB48という存在が体現する肯定性は、あるいは被災地に響く『ヘビーローテーション』のもつ肯定性は、そんな制御不可能なものを受け入れた上ではじめて成立する。それはたぶん、目に見えない力が少しずつ浸食していくことで変化していくあたらしい世界を受け入れることを意味するだろう。」(『原子爆弾とジョーカーなき世界』) 

 

 最新刊の 『母性のディストピア』発刊に際しての、宇野氏の発言も深い考察で、味わいがあります。熟読してください。

 「かつての敗戦が1945年8月の前と後ですっぱりとこの国を書き換えたのに対して、この震災は決定的な変化を社会にもたらすことはないが、しかしその前後では確実に変化が起こっている、といった奇妙な状態を僕たちにもたらしています。長く続く余震や、長期化する被災地復興、特にその処理に数十年を要する原発事故の性質もあり、日常の中に非日常的なものがランダムに現れるような感覚が常態化しています。」(宇野常寛書き下ろし『「母性のディストピア2.0」へのメモ書き』第1回:「リトル・ピープルの時代」から「母性のディストピア2.0」へ  ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆2015.1.6 vol.234)

 

 「非日常的なもの」、しかも、「致命的なそれ」が「日常」に混在していることの真の意味。このことを考えると、宇野氏の問題意識の重さが理解できるはずです。

 宇野氏は、これからも、注目するべき評論家の一人でしょう。

 

(4)宇野常寛氏の紹介

 

宇野常寛(うの つねひろ)

評論家。1978年生。批評誌〈PLANETS〉編集長。

 

著書に『ゼロ年代の想像力』(早川書房)、

『リトル・ピープルの時代』(幻冬舎)、

『日本文化の論点』(筑摩書房)、

石破茂との対談『こんな日本をつくりたい』(太田出版)、

『静かなる革命へのブループリント この国の未来をつくる7つの対話』(河出書房新社)、

『母性のディストピア』(集英社)など多数。

 

企画・編集参加に「思想地図 vol.4」(NHK出版)、

「朝日ジャーナル 日本破壊計画」(朝日新聞出版)など。

 

京都精華大学ポップカルチャー学部非常勤講師、立教大学兼任講師など、その活動は多岐に渡る。

 

(5)当ブログの「東日本大震災・福島原発事故」関連記事の紹介

 

 「東日本大震災・福島原発事故」関連の論点は、流行論点・頻出論点です。

 

gensairyu.hatenablog.com

 

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(6)当ブログの最近の「予想問題」記事の紹介

 

 各記事は、約1万字です。じっくり、取り組んでください。

 

gensairyu.hatenablog.com

 

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ーーーーーーーー

 

今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

ご期待ください。

 

    

 

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日本文化の論点 (ちくま新書)

日本文化の論点 (ちくま新書)

 

 

原子爆弾とジョーカーなき世界 (ダ・ヴィンチブックス)

原子爆弾とジョーカーなき世界 (ダ・ヴィンチブックス)

 

 

母性のディストピア

母性のディストピア

 

 

頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

 

 

5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

 

 

 私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。

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予想問題『勉強の哲学 来たるべきバカのために』千葉雅也 

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 今年のベストセラーになっている哲学書『 勉強の哲学 来たるべきバカのために 』(千葉雅也)は、入試対策上も注目するべきです。
 本書のキーワードは 「自己」・「言語」・「コード」・「アイロニー」・「ユーモア」・「自由」・「欲望」であり、これらは、国語(現代文)・小論文における頻出論点・重要語です。

 そのうえ、本書は、高レベルな内容を、丁寧に分かりやすく論じているので、入試対策上、要注意です。

 本書は来年度以降、難関大学の国語(現代文)・小論文に出題される可能性が高いので、今回、入試国語(現代文)・小論文対策として、概要を紹介・解説することにしました。

 

 今回の記事の項目は、以下の通りです。

(2)「はじめに」(P8~15)の解説

(3)「第1章 勉強と言語ーー言語偏重の人になる」の冒頭部分の解説 

(4)全体の概説 

(5)千葉雅也氏の紹介 

(6)当ブログの最近の「哲学」関連記事の紹介

 

勉強の哲学 来たるべきバカのために

 

(2)「はじめに」(P8~15)の解説

 「はじめに」は内容が充実しているので、概要を解説します。

(黒字が本文です)

(概要です)

(青字は当ブログによる「注」です)

(赤字は当ブログによる「本文の強調」です)

(以下も同じです)

 

「  いま、立ち止まって考えることが、難しい。

 溢れる情報刺激のなかで、何かに焦点を絞ってじっくり考えることが、難しい。

 そこで、キーワードになるのが『有限化』です。

 ある限られた=有限な範囲で、立ち止まって考える。無限に広がる情報の海で、次々に押し寄せる波に、ノリに、ただ流されていくのではなく。

『ひとまずこれを勉強した』と言える経験を成り立たせる。勉強を有限化する。

 

「  勉強を深めることで、これまでのノリでできた『バカなこと』が、いったんできなくなります。全体的に、人生の勢いがしぼんでしまう時期に入るかもしれません。しかし、その先には『来たるべきバカ』 (→この刺激的な表現を理解することが、本書のポイントと言えます。入試に出題される場合には、この表現の意味が、最大のポイントになるでしょう)に変身する可能性が開けているのです。この本は、そこへの道のりをガイドするものです。」


「  単純にバカなノリ。みんなでワイワイやれる。これが、第一段階。

 いったん、昔の自分がいなくなるという試練を通過する。これが、第二段階。

 しかしその先で、来たるべきバカに変身する。第三段階。」

 「来たるべきバカ」とは、アイロニー的思考、ユーモア的思考を越えて、自分の享楽的なこだわりに動かされて、それまでの自己から逸脱して、新しい自由な行動を開始する人間を意味します。

 また、「バカ」という表現は、「自己」を「相対化」しているのです。この点も注意する必要があります。

 

「  いったんノリが悪くなる、バカができなくなるという第二段階を経て、第三段階に至る。すなわち、来たるべきバカの段階、新たな意味でのノリ(→この表現にも注目してください。直後の「自己目的的」なノリに注意する必要があります)を獲得する段階へと至る。

 本書を通して、ノリという言葉の意味は、最終的に変化します。

 バンドで演奏するときのような、集団的・共同的なノリから出発し、そこから分離するようなノリへと話を進めていく。それは『自己目的的』なノリ(→「目的的」という言葉は「目的にそった、目的に関する」といった意味になります。入試頻出です)である。」

 この部分は、全体の構造を告知しています。

 第一章以下では、「来るべきバカ」への過程を読み取るようにしてください。

 

(3)「第1章 勉強と言語ーー言語偏重の人になる」(P17~)の冒頭部分の解説

    第一章冒頭部分も重要な内容を丁寧に論じていて、出題可能性が高いので、概要を解説します。

(黒字は本文です)

(「見出し」は【太字】にしました)

 

【勉強とは、自己破壊である】

「  勉強とは、自己破壊(→この表現も刺激的で、この表現の意味を理解することがポイントになります)である。

 では、何のために勉強をするのか?

 何のために、自己破壊としての勉強などという恐ろしげなことをするのか?

 それは、『自由になる』ためです。

 どういう自由(→ここにおける「自由」の意味内容の理解も問題になりそうです)か? これまでの『ノリ』から自由になるのです。」

 

「  私たちは、同調圧力によって、できることの範囲を狭められていた。不自由だった。その限界を破って、人生の新しい『可能性』を開くために、深く勉強するのです。

 けれども、後ろ髪を引かれるでしょう――私たちは、なじみの環境において、『その環境ならではのことをノってやれていた』からです。ところが、この勉強論は、あろうことか、それをできなくさせようとしている――勉強によってむしろ、能力の損失が起こる。」

 

「  こんなふうに、勉強は、むしろ損をすることだと思ってほしい。(→「損する」とは、どういう意味か? この点も問われそうです)

 勉強とは、かつてのノっていた自分をわざと破壊する、自己破壊である。

 言い換えれば、勉強とは、わざと『ノリが悪い』人になることである。」

 

【自由になる、可能性の余地を開く】

「  自由になるということ。それは、いまより多くの可能性を考え、実行に移せるような新しい自分になるということです。新たな行為の可能性を開くのです。そのために、これまでの自分を(全面的にではなくても)破壊し、そして、生まれ直すのです。第二の誕生です

 会社や家族や地元といった『環境』が、私たちの可能性を制約している、と考えてみる。

 圧縮的に言えば、私たちは『環境依存的』な存在であると言える。」(P23)

 

「  概念を定義しながら、話を進めていきましょう。まず、『環境』と『他者』から。

 本書では、『環境』という概念を、『ある範囲において、他者との関係に入った状態』という意味で使うことにします。シンプルには、環境=他者関係です。 

 『他者』とは、『自分自身ではないものすべて』です。普通は『他者』と言うと、他の人間=他人のことですが、それより意味を広げてください。親も恋人も、知らない人も、リンゴやクジラも、高速道路も、神も、すべて『他者』と捉えることにします。こういう『他者』概念は、とくにフランス現代思想(→多くの入試頻出著者、特に、哲学者はフランス現代思想に強く影響されています。従って、この記述は要注意です)において見られる使い方です。」

 この「他者」概念の説明は、特に重要なので、しっかり理解するようにしてください。「自己」以外は、すべて「他者」と考えることで、「自己の位置付け」が単純化します。

 

「  環境的な制約=他者関係による制約から離れて生きることはできません。

 環境のなかで、何をするべきかの優先順位がつく。環境の求めに従って、次に『すべき』ことが他のことを押しのけて浮上する。もし『完全に自由にしてよい』となったら、次の行動を決められない、何もできないでしょう。(→「生きる」とは「環境の中で生きる」ということです。「人間・生物は、環境の要求の中で、状況に合わせて、生きるしかない」と言ってもよいでしょう。)  環境依存的に不自由だから、行為できるのです。(→この部分は、秀逸な表現です。感動的な、逆説的記述です。入試で、この部分が出題されたら、空欄補充問題、理由説明問題など、様々な角度から出題されるでしょう)

 『何でも自由なのではない、可能性が限られている』ということを、ここまで『不自由』と言ってきましたが、今後は、哲学的に『有限性』と言うことにしましょう。逆に、『何でも自由』というのは、可能性が『無限』だということです。

 無限vs.有限、この対立が、本書においてひじょうに重要になります。  

 無限の可能性のなかでは、何もできない。行為には、有限性が必要である。

 この部分は、かなり重要な指摘です。少し立ち止まって熟考する必要があります。「無限の可能性」の中では、「選択」が非常に困難になるのです。不可能に近いでしょう。

 

「  有限性とつきあいながら、自由になる。

 まずは抽象的にそう言わせてください。おいおいその意味は明らかになります。」

 

【目的、環境のコード、ノリ】

「  私たちは環境依存的であり、環境には目的があり、環境の目的に向けて人々の行為が連動している。環境の目的が、人々を結びつけている=『共同化』している。

 そこで、次のように定義しましょう。

 環境における『こうするもんだ』とは、行為の『目的的・共同的な方向づけ』である。それを、環境の『コード』と呼ぶことにする。

 言い直すと、『周りに合わせて生きている』というのは、環境のコードによって目的的に共同化されているという意味です。」

 

「  環境のコードに習慣的・中毒的に合わせてしまっている状態を、本書では、ひとことで『ノリ』と表すことにしましょう。

 ノリとは、環境のコードにノってしまっていることである。」(P27)

 

「  本書では、ノリという言い方をまず、環境への『適応』、『順応』という意味で使います。」

 

【自分は環境のノリに乗っ取られている】

「  私たちは、いつでもつねに、環境のノリと癒着しているはずです。

 たいていは、環境のノリと自分の癒着は、なんとなくそれを生きてしまっている状態であって、分析的には意識されていない。」(P28)

 

「  自分は、環境のノリに、無意識的なレベルで乗っ取られている。

 ならば、どうやって自由になることができるのでしょう?

 丁寧に考える必要があります。というのも、環境から完全に抜け出すことはできないからです。完全な自由はないのです。ならば、どうしたらいいのか。そこで、次のように考えてみるのはどうでしょう――環境に属していながら同時に、そこに『距離をとる』(→自己の状況の「客観化」・「相対化」ということでしょう。自己の状況に意識的になるということです)ことができるような方法を考える必要があるのだ、と。

 その場にいながら距離をとることを考える必要がある。

 このことを可能にしてくれるものがある。

 それは『言語』です。どういうことでしょうか?」(P30)

 

【自分とは、他者によって構築されたものである】

「  生(せい)とは、他者と関わることです。純粋にたった一人の状態はありえません。外から影響を受けていない『裸の自分』など、ありえません。どこまで皮を剥いても出てくるのは、他者によって『つくられた=構築された』自分であり、いわば、自分はつねに『着衣』(→この表現も悩ましいです。入試では、設問の題材になるでしょう)なのです。

 自分は『他者によって構築されたもの』である。

 

「  そして、言語という存在。

 言語を使えている、すなわち『自分に言語がインストールされている』のもまた、他者に乗っ取られているということなのです。


 
「  言語は、環境の『こうするもんだ』=コード(→「記号」です)のなかで、意味を与えられるのです。だから、言語習得とは、環境のコードを刷り込まれることなのです。言語習得と同時に、特定の環境でのノリを強いられることになっている。」

 

「  言葉の意味は、環境のコードのなかにある。

 いよいよ、「言語論」に入りました。入試頻出論点でありながら、大部分の受験生の不得意分野です。丁寧な読解を心がけてください。

 

「  言語習得とは、ある環境において、ものをどう考えるかの根っこのレベル(→「価値観」です)で『洗脳』を受けるようなことなのです。これはひじょうに根深い。言葉ひとつのレベルでイデオロギーを刷り込まれている、これを自覚するのはなかなか難しいでしょう。だから、こう言わねばならない。言語を通して、私たちは、他者に乗っ取られている。」(P34)

   「言語」=「コード」=「記号」=「価値観」ということでしょう。「価値観」→「文化」→「言語」の方が、分かりやすいかもしれません。
 

 (4)全体の概説

 全体について、「結論」(P216~)を参考にし、適宜、本文を引用して、解説していきます。

 本文の引用は「」で表示します。

(1)【第1章】「勉強と言語ーー言語偏重の人になる」 (原理編1)

「勉強とは、これまでの自分の自己破壊である」と要約されています。

 

① 人は基本的には、周りの環境の「ノリ」に合わせて生きています(環境への「適応」・「順応」)。

 勉強するのは、環境や同調圧力によって狭められた人生の「可能性」を切り開き、これまでのノリから「自由」になるためです。

 ここでの「勉強」とは、「自分の根っこのところに作用する勉強」(P19)のことで、著者は「ラディカル・ラーニング(深い学習)」と呼んでいます。

 この一連の「引っ越し」において、千葉氏は「言語」を重視します。

 この点は重要なので、本文第1章のポイントを以下に引用します。

「   言語は、私たちの環境のノリを強いるものであると同時に、逆に、ノリに対して『距離をとる』ためのものでもある。」(P39)

「  勉強とは結局、別のノリに引っ越すことですが、この勉強論で光を当てたいのは、以前のノリ1から新しいノリ2へ引っ越す途中での、二つのノリの『あいだ』です。そこにフォーカスするのが本書の特徴です。

 二つのノリのあいだで、私たちは居心地の悪い思いをする――。

 以前のノリ1と別のノリ2のあいだで、自分が引き裂かれるような状態。

 あるいは、
 二つの環境のコードのあいだで、板挟みになる。」(P40)

 

② 「不慣れな言葉の違和感」に注意することも重要です。その違和感を通して、特定の環境における用法から、別の用法を考え直す可能性が開けるのです。

 この点について、第1章では、以下のように述べられています。

「  言語には2つの使用がある。一つは『道具的』な言語使用。環境において、目的的な行為のために言語を使うこと。たとえば、『塩を取って』というのは『依頼』であり、相手を動かして塩を手に入れるという目的のために言っている。言葉のリモコンで何かをするわけです。

 二番目は、たんにそう言うために言っているという言語使用。これを『玩具的』な言語使用と呼びましょう。おもちゃで遊ぶように、言語を使うこと自体が目的になっている。先ほど挙げた詩の例はそういうものと捉えてほしい。ダジャレとか早口言葉もそうですね。」(P49)

「  慣れ親しんだ『こうするもんだ』から、別の『こうするもんだ』へ移ろうとする狭間における言語的な違和感を見つめる。そしてその違和感を、『言語をそれ自体として操作する意識』へと発展させる必要がある。」 (P52)

「  自由になる、つまり、環境の外部=可能性の空間を開くには、『道具的言語使用』のウェイトを減らし、言葉を言葉として、不透明なものとして意識する『玩具的な言語使用』にウェイトを移す必要がある。」(P56)

「  深い勉強、ラディカル・ラーニングとは、ある環境に癒着していたこれまでの自分を、玩具的な言語使用の意識化によって自己破壊し、可能性の空間へと身を開くことである。」(P217)

 

(2)【第2章】「アイロニー、ユーモア、ナンセンス」(原理編2)

 この章を要約すると「環境のノリから自由になるとは、ノリの悪い語りをすることである」ということになります。

 

① ノリの悪い語りは、自由になるための思考スキルに対応します。

 思考にはツッコミ(アイロニー)とボケ(ユーモア)があります。前者は根拠を疑って真理を目指し。後者は根拠を疑うことはせず、見方を多様化します。

 「アイロニー」と「ユーモア」は、本書におけるポイントであり、入試頻出論点なので、第2章から引用します。
「  辞書的には、アイロニーは『皮肉』、ユーモアは『しゃれ』ですが、要はツッコミとボケのことだと理解してもらってかまいません。」(P74)

「(0) 最小限のアイロニー意識:自分が従っているコードを客観視する。

その上で、

(1) アイロニー:コードを疑って批判する。

(2) ユーモア:コードに対してズレようとする。

そもそも不確定なコードをますます不確定にすることを、『コードの転覆』と呼ぶことにする。アイロニーとユーモアはそのための技術である。」(P75)

 

② 勉強の基本は「アイロニー」ですが、本書ではそれを徹底化することを避けて「ユーモアに折り返すこと」を推奨しています。

 この理由は、以下の通りです。 

「  アイロニーによってコードの根拠づけを無理にもとめられると、コードそのものの不確定性、要は『空気でしかなかった』という事実が、露になる。」(P81)

 つまり、アイロニーが過剰になると、絶対的に真なる根拠を得たいという欲望になるが、それは実現不可能な欲望なのです。

 そこで、アイロニーをやりすぎずにユーモアに折り返す。

 しかし、さらに先には、ユーモアの過剰もナンセンスへと進んでいってしまうのです。

 

③ だが、事実上、私たちの言語使用では、ユーモアは過剰化せず、ある見方を仮固定することになります。それを可能にする条件は、個性としての「享楽的こだわり」です。もちろん、「享楽的こだわり」もまた勉強の過程を通じて変化しうることになります。

 以上の点については、第2章では、以下のように丁寧に記述されています。

「  まず、自分の置かれている環境を客観視するという意味で、最小限のアイロニー意識をもつのが大前提なのでした。その上で、

(1) アイロニーを深める、すなわち、環境のコードの根拠を徹底的に疑っていくなら、ついには、言語を破棄し、言語というフィルターを通さずじかに、『現実それ自体』に触れたいという欲望になる。それは、極限としては、もはや何も言うことができない状態、『言語なき現実のナンセンス』になる。そこで、

(2) あらためて、環境ごとに異なるコードでの言語使用を認めるのが、ユーモアへの転回である。まず、拡張的ユーモア(→ズレた方向に話を広げるユーモア)は、複数の環境をコード変換で行き来できるようにする。このことを『諸言語の旅』と表現したのでした。

 以上を『アイロニーからユーモアの折り返し』と呼ぶことにしましょう。

(2ー1) しかしユーモアが過剰化されると、極限としては、あらゆる言葉がつながって、言語がトータルに無意味になるという『意味飽和のナンセンス』が想定される。ならば、諸言語への旅は、旅として成立しなくなる。比愉的に言えぱこれは、『どこかへ行くことが、即、世界中に行くことになってしまう』という状態なのです

 では、拡張的ユーモアにおける話・言葉の接続過剰はどうやって止まるのか?

 私たちは、ひとりひとりにそれぞれに、言葉をめぐる何らかの『重みづけ』(→「享楽的こだわり」です)をもっている。その『重みづけ』が私たちを『何でもどうにでも言える』のではなくさせる。

(2ー2) 縮減的ユーモア(→不必要に細かい話、自閉的な面をもっています)は、非意味的形態としての言語をもてあそぶ、強度的で享楽的な語りである。これは『形態のナンセンス』である。そこで、次のように考えます。個々人がもつさまざまな非意味的形態への享楽的こだわりが、ユーモアの意味飽和を防ぎ、言語の世界における足場の、いわば『仮固定』を可能にする。

 このことを 『形態の享楽によるユーモアの切断』と呼びましょう。」(P110~112)

 「享楽的こだわり」による「形態のナンセンス」には、「ユーモアの接続過剰」を断ち切る力があるということです。

  

④ なお、「享楽的こだわり」についても、注意が必要です。以下に、本文を引用します。

「  本書では、享楽的こだわりは、絶対に固定的なものではないと考えます。もし絶対に固定的なのならば、私たちは、運命的に自分のこだわりに従って生きるしかなくなる。だがそうではないのです。深い勉強は、ラディカル・ラーニングは、自分の根っこにある享楽的こだわりに介入するのです。

 享楽的こだわりが、勉強を通して、変化する可能性がある。」(P113) 


(3)【第3章】「決断ではなく中断」(原理編3・実践編1)

 要約は、以下のようになっています。

「  どのように勉強を開始するか。まず、自分の現状をメタに観察し、自己アイロニー〔自己ツッコミ〕と自己ユーモア〔自己ボケ〕の発想によって、現状に対する別の可能性を考える。」(P218)

 

① どのように勉強を始めるかについては、著者は、「身近なところから問題を見つけ、キーワード化し、それを扱うにふさわしい専門分野を探す」ことを薦めています。そして、「勉強とは何らかの専門分野に入ること、そのノリに引っ越すことである」としています。

 この一連の勉強過程でキーワードになるのが「有限化」です。無限に広がる情報に、ノリに、ただ流されるのではなく、「ひとまずこれを勉強した」と言える経験を成立させること。「勉強の有限化」とはそのような状態を指します。

 このことについて、第3章では、以下のように述べられています。

「  アイロニー的に勉強のテーマを考える。それは『追究型』と言える。他方で、ボケ=ユーモア方向もある。それは『連想型』です。キーワードを出すのにも、分野を想定するのにも、追究と連想がどちらも使えます。」(P131)
「  勉強は二つの方向できりがなくなる―――追求と連想、アイロニーとユーモアです。言い換えれば、『深追いのしすぎ』と『目移り』になる。勉強はアイロニーが基本なので、『深追いしているうちに目移りしてしまう』というのが、よく起こることです。」(P135)

 しかし、こうした営みには結局のところ際限がない。行きつく果てがナンセンスにならないよう、どこかで有限化する必要があるのです。

 さらに、第3章から引用します。

「  僕が言いたいことはシンプルです――『最後の勉強』をやろうとしてはいけない。絶対的な根拠を求めるな、ということです。それは、究極の自分探しとしての勉強はするな、と言い換えてもいい。自分を真の姿にしてくれるベストな勉強など、ない。」(P136)

「  では、どうやって勉強を有限化すればいいのか。」(P137)

 

 この解答が、実に秀逸です。じっくり、味わってください。

 以下に引用します。 

「  自分なりに考えて比較するというのは、信頼できる情報の比較を、ある程度のところで、享楽的に「中断」することである。

 信頼できる情報に自分の享楽を絡めて、『まあこれだろう』ときめる。」(P140)

 「中断」・「有限化」というのは、実は、継続のための不可欠な手法である、と千葉氏は主張しているのです。極度の理想主義が、継続を阻害してしまうという現実を知るべきです。

 そして、「中断」、つまり「便宜的な仮固定」を意識して活用して、思考活動のエンジンを完全には切ってしまわないことが、大切なのでしょう。

 

② 「欲望年表」、これは一種の自己分析です。自分のこだわりの発端を分析することで、享楽的こだわりも、また変化の契機を得るのです。ある。

 

 「環境のなかでノッている保守的な『バカ』の段階から、環境から浮くような小賢しい存在になることを経由して、メタな意識をもちつつも、享楽的なこだわりに後押しされてダンス的に新たな行為を始める『来たるべきバカ』へ。」(P219)

 これが本書における「勉強の原理論」の流れです。

 

 この点について、千葉氏は、以下のようにツイートしています。

「考えてみれば、僕の本では、アイロニー・ユーモア・享楽という三点での分析を繰り返す、というふうに(これを「勉強の三角形」と呼んでいる)、いわゆる『一周回って』というのに理論的な定義を与えたことになる。」

 

(4)【第4章】「勉強を有限化する技術」(実践編2)

 第4章は、要約すると「勉強とは、何かの専門分野に参加することである」となります。

 専門分野への参加に際しては入門書を複数比較してその分野の大枠を知ることなど、正統的な助言がなされています。
 なお、「このくらいでいい」という勉強の「有限化」をしてくれる存在が教師です。

 

 第4章は、勉強を「有限化」するための、具体的方法を提示しています。以下に列挙します。


①    勉強の本体は、信頼できる文献を読むことである。
② 「読書ノート」について、
③    「勉強のタイムラインを維持する」ための「ノートアプリ」について、
④ フリーライティングをするための「アウトライナー」について

 

 (5)千葉雅也氏の紹介

千葉雅也(ちば・まさや)
1978年栃木県生まれ。東京大学教養学部卒業。パリ第10大学および高等師範学校を経て、東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻表象文化論コース博士課程修了。博士(学術)。哲学/表象文化論を専攻。フランス現代思想の研究と、美術・文学・ファッションなどの批評を連関させて行う。現在は、立命館大学大学院先端総合学術研究科准教授。

 

【単著編集】

『動きすぎてはいけない――ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』(河出書房新社、2013年/第4回紀伊國屋じんぶん大賞受賞作)、
『別のしかたで――ツイッター哲学』(河出書房新社、2014年)、
『勉強の哲学――来たるべきバカのために』(文藝春秋、2017年)、

 

【監修編集】 

『哲子の部屋3――“本当の自分”って何?』(NHK『哲子の部屋』制作班著、河出書房新社、2015年。)、

 

【共著編集】 

『ヘーゲル入門』(河出書房新社、2010年)、
『ファッションは語りはじめた――現代日本のファッション批評』(フィルムアート社、2011年)、
『相対性コム デ ギャルソン論――なぜ私たちはコム デ ギャルソンを語るのか』(フィルムアート社、2012年)、
『身体と親密圏の変容』(大澤真幸、佐藤卓己、杉田敦、中島秀人、諸富徹編、岩波書店、2015年)、
『高校生と考える世界とつながる生き方』(左右社、2016年)

 

 (6)当ブログの最近の「哲学」関連記事の紹介

 哲学は現代文小論文の頻出分野なので、しっかり準備しておくべきです。

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ーーーーーーーー

 

今回の記事は、これで終わりです。 

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

ご期待ください。

 

   

 

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勉強の哲学 来たるべきバカのために

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動きすぎてはいけない: ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学 (河出文庫)

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別のしかたで:ツイッター哲学

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

 

 

 私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。

https://twitter.com/gensairyu 

https://twitter.com/gensairyu2

 

予想問題『ゲンロン0 観光客の哲学』東浩紀/哲学/グローバリズム

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 哲学者である東浩紀氏は、入試国語(現代文)・小論文における、最近の入試頻出著者です。

 東氏が最近、『ゲンロン0 観光客の哲学』という画期的な書を発行しました。

 この哲学書は、現代のグローバリズム、トランプ現象を強く意識しています。

 内容的にみて、来年度以降の入試国語(現代文)・小論文に出題される可能性が高いので、国語(現代文)・小論文対策として、今回は本書の解説をします。

 

ゲンロン0 観光客の哲学

 

 

(2)『ゲンロン0 観光客の哲学』(東浩紀)の解説

 

(青字は当ブログによる「注」です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(【】・【】・【】・・・・は当ブログによる項目設定です)

 

【本書執筆の背景】

 本書執筆の背景として、東氏は、ツイートで以下のように述べています。本書理解の参考になると思われるので、以下に引用します。

「ゲンロン0は哲学と文学を扱った本ですが、その背景には、震災(→東日本大震災)後、『いまここ』の現実に右往左往することしかできなくなった人文学と批評全体への静かな怒り、というか(自戒を込めた)絶望が宿っています。そんなことを書きました。」(東浩紀@ゲンロン6発売中 @hazuma 2017・4・8)


 また、本書の冒頭には、以下のような記述があります。

「ぼくはこの四半世紀、哲学や社会分析からサブカル評論や小説執筆まで、多岐にわたる仕事を行ってきた。それゆえ、受容も多様で、不毛な誤解に曝されることもあった。本書はその状況を変えるためにも書かれた。だから本書はいままでの仕事をたがいに接続するように構成されている。本書は、『存在論的、郵便的』の続編としても、『動物化するポストモダン』の続編としても、『一般意志2.0』の続編としても、『弱いつながり』の続編としても読むことができるはずである。『クォンタム・ファミリーズ』の続編としてすら読むことができるかもしれない。」(P7)

【本書の主題→「誤配」・「観光客」】

 本書の主題は、初めに、以下のように明示されています。
「誤配こそが社会をつくり連帯をつくる。だから、ぼくたちは積極的に誤配に身を曝さねばならない」(P9)


 グローバリズムの進展と、それへの反動としてのナショナリズムの台頭という状況下で、リベラリズムの理念である「普遍性」は崩壊しています。現代の世界では、人々は、以前のようには「寛容」を他者に対して示せなくなりつつあります。
 このような、何となく居心地の悪い時代において、リベラルな思考の基本として、著者は「観光客」の概念を強く主張しています。

 

【東氏の主張する「観光客」とは何か】

 本書冒頭で、東氏は、前著の『弱いつながり』を要約して、次のように説しています。
「ぼくは2014年に『弱いつながり』という小さな本を刊行した。そこでぼくは、村人、旅人、観光客という三分法を提案している。人間が豊かに生きていくためには、特定の共同体にのみ属する『村人』でもなく、どの共同体にも属さない『旅人』でもなく、基本的には特定の共同体に属しつつ、ときおり別の共同体も訪れる『観光客』的なありかたが大切だという主張である。」(P14)

 さらに、本書では、次のようにも述べています。
「ぼくはこの本で、もういちど世界市民への道を開きたいと考えている。ただし、ヘーゲル以来の、個人から国民へ、そして世界市民へという弁証法的上昇とは別のしかたで。それが観光客の道である。」(P154・155) 

 そして、観光学は経済などの側面から観光を規定するばかりで、人文学的な問いをしてこなかった、と言っています。

 

【なぜ、「観光客」的なあり方が重要なのか】

 端的に言えば、リベラルな知識人が主張する「他者を大事にしよう」という言葉に、誰も耳を貸さなくなり始めているからです。

 この点について、著者は以下のように述べています。
「この70年ほどの、人文系のいわゆる『リベラル知識人』にはひとつの共通の特徴がある。それはみな、手を替え品を替え『他者を大事にしろ』と訴え続けてきたということである。」(P15)

 しかし、イギリスのEU離脱、「アメリカ第一」を宣言するトランプ大統領の登場、頻発するテロ、西欧における極右政党の台頭など、今や「他者を大事に」というリベラルの主張は影響力を喪失しています。

 世界の人々は、自分や自分の国のことを第一に考えたいと考え始めているようです。

 

 このような問題点に対して、東氏は「観光客というあり方」を前面に押し出すという方針を提示します。東氏は、この方針の主旨を以下のように述べています。

「他者とつきあうのは疲れた、仲間だけでいい、他者を大事にしろなんてうんざりだ」と叫び続けている人々に、「でも、あなたたちも観光は好きでしょう」と問いかけ、そしてその問いかけを入り口にして、彼らを、いわば裏口から、「他者を大事にしろ」というリベラルの命法のなかにふたたび引きずりこみたいと考えている、と。

 そして、「観光客から始まる新しい(他者の)哲学を構想する。これが本書の目的である。」(P17)と続けています。

 

【人文系知識人のグローバリズム・アレルギー】

 東氏は、「観光客の哲学」を論じる前提として、「人文系知識人のグローバリズム・アレルギー」について考察しています。 
 そして、「グローバリズム・アレルギー」こそ、彼らの限界であると、以下のように言っています。
「グローバリズムを悪としてしか捉えてこられなかったこと。それこそがいままでの人文思想の限界だと考える。」(P32)


 この主張は、本書の大きなポイントになっていることに注意してください。

 「グローバリズム」は、「欲望の無制限の解放」と表裏一体であるとして、「グローバリズム」に批判的な人文系知識人は、むしろ多数派なのです。
 

 これに対して、東氏は、インタビューにおいても、以下のように、「グローバリズムへの抵抗」に賛意を示していません。
「この本のテーマでもありますが、ぼく自身はあまりグローバリズムは悪いと思っていません。だから『抵抗』ということもあまり考えません。思想が抵抗の道具だ、という発想が前提になっている今の人文書の読者さんとは、この点でも世界観が大きくずれています。」(『週刊読書人ウェブ』2017年5月4日・東浩紀氏インタビュー)


 そして、以下のように、グローバリズムのプラス面を容認したうえで、東氏は議論を進めるのです。

「グローバリズムは確かに富の集中を強めただろう。先進国内部で貧富の差を拡大もしただろう。しかし同時に国家間では貧富の格差を縮めてもいる。いまや世界は急速に均質になりつつある現代では国家間の経済格差は、各国国大の都市と地方の格差よりも小さくなりつつある。」(P33)

 世界はグローバリズムにより「フラット化」しました。

 この現実の哲学的意味を問うことが、「観光」の哲学的意味を問うことでもあるとして、「観光」について、以下のように論は進められます。

「観光は、本来ならば行く必要がないはずの場所に、ふらりと気まぐれで行き、見る必要のないものを見、会う必要のないひとに会う行為である」(P34)

「観光客にとっては、訪問先のすべての事物が商品であり展示物であり、中立的で無為な、つまりは偶然のまなざしの対象となる。」(P35)

 

【なぜ、「観光」をキーワードにしているか】

 なぜ観光をキーワードにしているか、といえば、「観光が必要なものではなく、しかも偶然性を強くもっていて、それが郵便的だからだ」と、東氏は述べています。以下に引用します。

「観光客と二次創作の両者に共通するのは無責任さである。観光客は住民に責任を負わない。同じように二次創作者も原作に責任を負わない。観光客は、観光地に来て、住民の現実や生活の苦労などまったく関係なく、自分の好きなところだけを消費して去っていく。二次創作者もまた、原作者の意図や苦労などまったく関係なく、自分の好きなところだけを消費して去っていく。」(P45・46)

 ただ、この「観光客の哲学」という理論に説得性を持たせることは、容易ではありません。  

 なぜならば、近代から現代に至るまで、人文系の思想家は、「観光客」を考慮の外に置いていたからです。

 

【なぜ、「観光客」は哲学の対象にならなかったのか】

 著者は、ヘーゲル、カール・シュミット、ハンナ・アレントなどの哲学者の見解を検証して、この理由を追求していきます。

 そして、明らかになるのは、ここでも、「人文系知識人のグローバリズム・アレルギー」が関係しているということです。

 東氏は以下のように述べています。

「シュミットもコジェーヴもアーレントも、19世紀から20世紀にかけての大きな社会変化のなかで、あらためて人間とはなにかを問うた思想家である。そこでシュミットは友と敵の境界を引き政治を行うものこそが人間だと答え、コジェーヴは他者の承認を賭けて闘争するものが人間だと答え、アーレントは広場で議論し公共をつくるものこそが人間だと答えた。」(P108)

 

 さらに、「これまでの人文学には、ある偏った無意識の欲望があったのだ」と、以下のように主張しています。

「シュミットとコジェーヴとアーレントは同じパラダイムを生きている。彼らはみな、経済合理性だけで駆動された、政治なき、友敵なきのっぺりとした大衆消費社会を批判するためにこそ、古きよき『人間』の定義を復活させようとしている。言い換えれば、彼らはみな、グローバリズムが可能にする快楽と幸福のユートピアを拒否するためにこそ、人文学の伝統を用いようとしている。本書が『観光客』について考えることで乗り越えたいのは、まさにこの無意識の欲望である。」(P109・110)

「20世紀の人文学は、大衆社会の実現と動物的消費社会の出現を『人間でないもの』の到来として位置付けた。そしてその到来を拒否しようとした。しかし、そのような拒否がグローバリズムが進む21世紀で通用するわけがない。」(P110)

 

 以上のように、著者は、「大衆社会の実現と動物的消費社会の出現」に批判的な「20世紀の人文学」を、「21世紀で通用」しないと、断言しています。この点も、本書のポイントになっています。

 現実に即して考察していく東氏の特徴が、よく現れていると思います。

 

 そして、東氏は、「20世紀の人文学」を立脚点としながら、「21世紀で通用」する理論の構築を試みようとするのです。
 ここで、「20世紀の人文学」の伝統の限界を、逆に活用していこうするのです。柔軟な、創造的な頭脳の凄みを感じます。
 以下に列挙する、その理論構成を丁寧に熟読してください。

 

 まず、「実は、『観光客』には、彼らが『人間ならざるもの』(→この強烈な表現に注目してください)として排除しようとしたすべての要件がそろっている」と東氏は言います。(P111・112)

 それは、「モダンな人間観」、「政治から排除されるべき異物性」です。

 つまり、「観光客」は「20世紀の人文学」からは「まともな人間」とは評価されてない、ということです。

 このことについての東氏の、明快な考察を以下に引用します。入試の題材になりそうな緻密な、丁寧な論考です。

「観光客は大衆である。労働者であり消費者である。観光客は私的な存在であり、公共的な役割を担わない。観光客は匿名であり、訪問先の住民と議論しない。訪問先の歴史にも関わらない。政治にも関わらない。観光客はただお金を使う。そして国境を無視して惑星上を飛びまわる。友もつくらなければ敵もつくらない。そこには、シュミットとコジェーヴとアーレントが『人間ではないもの』として思想の外部に弾き飛ばそうとした、ほぼすべての性格が集っている。観光客はまさに、20世紀の人文思想全体の敵なのだ。だからそれについて考え抜けば、必然的に、二〇世紀の思想の限界は乗り越えられる。(P111・112)

 

 上記の考え方は、まさに、「逆転の発想」と言えます。

 「20世紀の思想の限界」を乗り越えるためには、20世紀の思想が無視した対象 す(=「観光客」)の価値を再検証して、それについて考え抜く必要があるとしているのです。

 

【21世紀という時代の図式】

 以下では、「21世紀という時代」についての、東氏による分析が述べられています。現状に適合する理論構築のための、前提です。

 ここから、21世紀という時代の図式が整然と整理されていきます。以下に重要ポイントを引用します。それぞれの詳細は後述します。

「現代は、政治にはナショナリズムが、経済にはグローバリズムが割り当てられ、共存している『二層構造』の時代である。」(123・124)

「リバタリアニズム(→自由至上主義)はグローバリズムの思想的な表現で、コミュニタリアニズム(→共同体主義)は現代のナショナリズムの思想的な表現である。」

 

 そして、国民国家(=ネーション)間の関係を「愛を確認しないまま、肉体関係だけをさきに結んでしまったものになりがちな」関係にたとえています。以下に引用します。

「いまの時代、経済=身体は、欲望に忠実に、国境を越えすぐにつながってしまう。けれども政治=頭はその現実に追いつかない。政府=頭のほうは、両国のあいだにはさまざまな問題があり、いまだ信頼関係は育っていないので、経済=身体だけの関係は慎むべきだと考える。とはいえ市民社会=身体はすでに快楽を知っており、関係はなかなか切断できない。機会があればまた関係をもってしまう。比喩的に言えば、いま世界でそのような事態が起きている。」(P126) 

 

【「観光客の哲学」の方向性】

 以上のように述べたうえで、東氏は、「本書が構想する観光客の哲学」の方向性を、以下のように考察しています。
(P127) 「21世紀の世界は、人間が人間として生きるナショナリズムの層と、人間が動物としてしか生きることのできないグローバリズムの層、そのふたつの層がたがいに独立したまま重なりあった世界だと考えることができる。この世界像のうえであらためて定義すれば、本書が構想する観光客の哲学なるものは、グローバリズムの層とナショナリズムの層をつなぐヘーゲル的な成熟とは別の回路がないか、市民が市民社会にとどまったまま、個人が個人の欲望に忠実なまま、そのままで公共と普遍につながるもうひとつの回路はないか、その可能性を探る企てである。」(P127)

 

 なお、東氏は、本書で「グローバル化した現代」を以下のように二項対立で提示しています。

 まじめな公⇔ふまじめな私
 社会⇔実存
 人間(誇り高き精神)⇔動物(欲求を満たすのみ)
 全体主義⇔個人主義
 ナショナリズム⇔グローバリズム
 国民国家⇔帝国
 リベラリズム⇔リバタリアニズム

 上記で注目するべき点は、「グローバリズム」→「帝国」、という点です。
 

【「郵便的マルチチュード」という新たな概念】

 以上の考察を元にして、東氏は、現代の思想的な困難を次のようにまとめています。

「リバタリアニズムはグローバリズムの思想的な表現で、コミュタリアニズムは現代のナショナリズムの思想的表現である。そして、リベラリズムは、かつてのナショナリズムの思想的な表現だ。
 リベラリズムは普遍的な正義を信じた。他者への寛容を信じた。けれども、その立場は20世紀後半に急速に影響力を失い、いまではリバタリアニズムとコミュタリアニズムだけが残されている。リバタリアンには動物の快楽しかなく、コミュタリアンには共同体の善しかない。このままではどこにも普遍的な他者は現れない。それがぼくたちが直面している思想的な困難である。」(P132・133)

 

【では、この思想的困難を克服する道はあるのだろうか】

 結論的には「観光客の哲学」に行きつくことになりますが、そこに至るまでの経路が以下に展開されます。


 まず、「観光客」は、このような「二重構造の時代」において、「動物の層から人間の層へつながる横断の回路、すなわち、市民が市民として市民社会の層にとどまったまま、そのままで公共と普遍につながる回路」(p144)として位置づけられます。
 すなわち、「観光客」とは「帝国(→グローバリズム)の体制と国民国家の体制のあいだを往復し、私的な生の実感を私的なまま公的な政治につなげる存在の名称」(P155)です。

 
 そして、東氏は以下のように、「世界市民への道」、つまり「連帯」への道を「弁証法的上昇とは別の方法」で模索すると述べています。

「ぼくはこの本で、もういちど界市民への道を開きたいと考えている。ただし、ヘーゲル以来の、個人から国民へ、そして世界市民へという弁証法的上昇とは別のしかたで。それが観光客の道である。」(P154・155) 

 

【「観光客の哲学」の構想の契機】

 では、こうした状況把握をしたうえで、東氏は、「観光客の哲学」の構想の契機をどこに見出しているのでしょうか。


 そこで著者が注目したのが、アントニオ・ネグリとマイケル・ハートによる『帝国』(アントニオ・ネグリとマイケル・ハート)という書にある「マルチチュード」という概念です。

 「マルチチュード」とは、本書『観光客の哲学』内では「帝国の内部から生まれる帝国の秩序そのものへの抵抗運動を広く指す言葉」と説明されており、反体制運動や市民運動などを指します。

 著者が「マルチチュード」に注目した理由は、それが私的な生と公共の政治を分割しない性質、つまり上記の「二重構造」を揺るがす性質を持つ概念だからです。

 しかし、その一方で「マルチチュード」には重大な欠陥もあります。東氏は、以下のように説明しています。
「ひとことで言えば、マルチチュードがなぜ生まれるのか、そのメカニズムがうまく説明されていなかったし、また生まれたあとの拡大の論理にも無理があった。」(P155)


 つまり、「マルチチュード」は政治を動かすための方法論に問題があるのです。

 そこで著者は、この「マルチチュード」に修正を加えます。それが、『存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて』(1998年発行の著者の書)で提示された「誤配」(→「配達の失敗や予期しないコミュニケーションを引き起こす」という意味)という概念です。


 つまり、「観光客」とは訪れた先で偶然的に出会った人と言葉を交わす人たちであり、「誤配」の可能性を多く含んでいます。彼らは、連帯なしにコミュニケーションをして、私的な欲望で公的な空間をひそかに変容させる。そして、それは事後的に連帯が存在するかのような錯覚を与える、と言うのです。

 すなわち、観光客は観光の場で、さまざまな人や事物と出会う。それは、たまたま入った美術館や土産物屋かもしれない。観光客は、そこで「連帯」しようとはしない。「そのかわりたまたま出会ったひとと言葉を交わす」。その「偶然的なコミュニケーション」を通じて、あとから「なにか連帯らしきものがあったかのような気もしてくる」と、述べています。

 

 以下に引用する部分は、 「観光の魅力」を簡潔に表現しています。

「観光客が観光対象について正しく理解するなどまず期待できない。しかし、それでもその『誤配』こそがまた新たな理解やコミュニケーションにつながったりする。それが観光の魅力なのである。」(P159)


 著者は以上の点から、「観光客」を哲学的に言い換えたものとして、「郵便的マルチチュード」と表現するのです。

 

【「郵便的マルチチュード」の定義、効果】

 「郵便的マルチチュード」の定義として、東氏は以下のように述べています。重要なポイントなので、熟読してください。

 「郵便的マルチチュード」とは、「たえず連帯しそこなうことで事後的に生成し、結果的にそこに連帯が存在するかのように見えてしまう、そのような錯覚の集積がつくる連帯を作り出す集団」(P159)です。

 (→「郵便的」という言葉は、東氏の前著『存在論的、郵便的』の中核となる概念です。
 「郵便的」というのは「誤配=絶対的な偶然性」を重視する東氏のキーワードです。つまり、「郵便的」とは、「誤配、すなわち、配達の失敗や予期しないコミュニケーションの可能性を多く含む状態」を意味しています。)


 つまり、「これからの人類の連帯」は、デモのようなやみくもな動員でなく、「郵便物の誤配のような予期せぬ出会いの集積」で作られるとするのです。


 なお、東氏は、「郵便的マルチチュード」の具体的イメージを、インタビューで以下のように答えています。より分かりやすくなるので、ここで引用します。

「本では書いていないのですが、『郵便的マルチチュード』の実践のひとつの例は学校だと思います。たとえば同窓会。あれはまさに、『連帯は本当は存在しないのに、むしろ失敗していたのに事後的に連帯があるかのように見える』例ですね。ああいう時間的なズレを抱えた連帯をどう作るかが、郵便的マルチチュードの実践の肝だと思います。」(『週刊読書人ウェブ』2017年5月4日・東浩紀氏インタビュー)


 著者は「マルチチュード」がグローバリズムの中から生まれてくることに注目します。しかし、ネグリらが国民国家から「帝国」(→グローバリズム)への移行を考えているのに対して、著者は移行は起こらずに二層構造がこれからもつづくと考えています。

 ただし、ネグリらが「ネットワーク」・「連帯」を重視するのに対して、著者は「連帯そのもの」を重視するような考えは「否定神学的」であり、限界に突き当たる、と主張しています。

 (なお、著者は、「否定神学的」について以下のように説明しています。反体制運動や市民は、連帯も、連帯の理由も存在しないのに、連帯することになっている。無から連帯が生まれている。こういう思考回路を「否定神学的」と言っているのです。)

 

 以上のことを、東氏は、以下のように丁寧に記述しています。入試題材として採用される可能性が高いので、熟読するようにしてください。

「ネグリたちのマルチチュードは、あくまでも否定神学的なマルチチュードだった。だから、彼らは、連帯しないことによる連帯を夢見るしかなかった。けれども、ぼくたちは、観光客という概念のもと、その郵便化を考えたいと思う。そうすることで、たえず連帯しそこなうことで事後的に生成し、結果的にそこに連帯が存在するかのように見えてしまう。そのような錯覚の集積がつくる連帯を考えたいと思う。ひとがだれかと連帯しようとする。それはうまくいかない。あちこちでうまくいかない。あとから振り返ると、なにか連帯らしきものがあったかのような気もしてくる。そして、その錯覚がつぎの連帯の(失敗の)試みを後押しする。それが、ぼくが考える観光客=郵便的マルチチュードの連帯のすがたである。」(P159)

 さらに、こうも述べています。
「マルチチュードが郵便化すると観光客になる。観光客が否定神学化するとマルチチュードになる。連帯の理想を掲げ、デモの場所を求め、ネットで情報を集めて世界中を旅し、本国の政治とまったく無関係な場所にも出没する21世紀の『プロ』の市民運動家たちの行動様式がいかに観光客のそれに近いか、気がついていないのだ。観光客は、連帯はしないが、そのかわりたまたま出会ったひとと言葉を交わす。《デモには敵がいるが、観光には敵がいない。デモ(根源的民主主義)は友敵理論の内側にあるが、観光はその外部にあるのだ。」(P160)

 ポイントになるのは以下の部分です。
「ネグリたちはマルチチュードの連帯を夢見た。ぼくはかわりに観光客の誤配を夢見る。マルチチュードがデモに行くとすれば、観光客は物見遊山に出かける。前者がコミュニケーションなしに連帯をするのだとすれば、後者は連帯なしにコミュニケーションする。前者が帝国から生まれた反作用であり、私的な生を国民国家の政治で取りあげろと叫ぶのだとすれば、後者(→観光客)は帝国と国民国家の隙間から生まれたノイズであり、私的な欲望で公的な空間をひそかに変容させるだろう。」(P160)


 「観光客」は、近代思想では考慮外ですが、著者は「観光客」を通して、「新たな政治的連帯の回路」を考えられるのではないか、と主張しているのです。

 そして、「二十一世紀の新たな抵抗は、帝国と国民国家の隙間から生まれる。それは、帝国を外部から批判するのでもなく、また内部から脱構築するのでもなく、いわば誤配を演じなおすことを企てる。」(P192)と強調しています。
 さらに、また、ローティの「憐れみ」の考えを紹介し、「この『憐れみ』こそがある種の誤配を生み、社会をつくるのだ」と主張しています。


ーーーーーーーー

 

 本書は、グローバル化が進展した社会における、国際協調の枠組みの柔軟化のための、傑出した試論と評価できるでしょう。

 実現可能な世界市民への道が提示されています。

 普通の市民が普通の欲望的な観光をすることにより、世界に平和的な協調的なムードが広がる可能性に頼るしか道はない。これを絶望的状況と見るか、観光という希望があることこそ大きな救いと見るかは、評価が分かれるところでしょう。

 しかし、私は、現在の便利で安価な世界観光事情を考慮すると、決して、グローバリズムが派生させている現代の混乱を、完全に絶望視する必要はないと思います。

 東氏も、現在の世界観光事情をも意識して、「観光客の哲学」に「連帯への光明」を見出だしているのでしょう。

 
 なお、以下のインタビューは、本書を読解するうえで、かなり参考になると思われるので、引用します。東氏の真意が、よく分かります。

「(聞き手=坂上秋成) こういう言い方が適切かは分かりませんが、それでも第一部での『郵便的マルチチュード』がどういうものであるかという結論みたいなものを無理やり言うのであれば、それは『憐れみ』に集約されるのかなとも思うのですが。

(東) 偶然性に導かれた感情移入ですね。

 あと、これも本には書いていないんですが、ぼくの考えでは生きることそのものが『観光』なんです。ぼくたちはこの現実に観光客のようにやってくる。たまたまある時代ある場所に生まれ落ち、ツアー客がツアーバスで見知らぬ他人と同席するように、見知らぬ同時代人と一緒に生きていく。ツアーは1年で終わることもあれば80年続くこともあるけど、いつかは終わり、元の世界に戻っていく。そしてそんな観光地=この現実に対して、ぼくたちはほとんど何もできない、何も変えられないし、ほとんどのことは理解できない。でも、ちょっとだけ関わることができる。人生ってそんなもんだと思いますね。」(『週刊読書人ウェブ』2017年5月4日・東浩紀氏インタビュー)

 

 

(3)東浩紀氏の紹介

東 浩紀(あずま ひろき)
1971年東京都生まれ。哲学者・作家。専門は現代思想、表象文化論、情報社会論。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。株式会社ゲンロン代表、同社で批評誌『ゲンロン』を刊行。著書に『存在論的、郵便的』(新潮社、第21回サントリー学芸賞)、『クォンタム・ファミリーズ』(新潮社、第23回三島由紀夫賞)、『弱いつながり』(幻冬舎)など多数。2017年、『ゲンロン0 観光客の哲学』(ゲンロン)を刊行。

 

【単著 編集】

『存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて』(新潮社、1998年)
『郵便的不安たち』(朝日新聞社、1999年/のち文庫)
『不過視なものの世界』(朝日新聞社、2000年、対談集)
『動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会』(講談社現代新書、2001年)
『ゲーム的リアリズムの誕生―動物化するポストモダン2』(講談社現代新書、2007年)
『情報環境論集―東浩紀コレクションS』(講談社・講談社BOX、2007年)
『批評の精神分析―東浩紀コレクションD』(講談社・講談社BOX、2007年)
『郵便的不安たちβ』(河出文庫・東浩紀アーカイブス1、2011年)
『サイバースペースはなぜそう呼ばれるか』(河出文庫・東浩紀アーカイブス2、2011年)
『一般意志2.0―ルソー、フロイト、グーグル』(講談社、2011年/のち、講談社文庫、2016年)
『セカイからもっと近くに―現実から切り離された文学の諸問題』(東京創元社、2013年)
『弱いつながり―検索ワードを探す旅』(幻冬舎、2014年)
『ゲンロン0 観光客の哲学』(ゲンロン、2017年)

 

【共著 編集】

笠井潔『動物化する世界の中で』(集英社・集英社新書、2003年/ 往復書簡形式)
大澤真幸『自由を考える―9・11以降の現代思想』(日本放送出版協会・NHKブックス、2003年)
北田暁大『東京から考える―格差・郊外・ナショナリズム』(日本放送出版協会・NHKブックス、2007年)
大塚英志『リアルのゆくえ―おたく/オタクはどう生きるか』(講談社・講談社現代新書、2008年)
宮台真司『父として考える』(日本放送出版協会・生活人新書、2010年)
猪瀬直樹『正義について考えよう』(扶桑社新書、2015年)
大山顕『ショッピングモールから考える―ユートピア・バックヤード・未来都市』(ゲンロン、2015年/のち、幻冬舎新書、2016年)
小林よしのり、宮台真司『戦争する国の道徳―安保・沖縄・福島』(幻冬舎新書、2015年)
大山顕『ショッピングモールから考える―付章―庭・オアシス・ユートピア』(幻冬舎、2016年)
津田大介、中川淳一郎、夏野剛、西村博之、堀江貴文『ニコニコ超トークステージ ネット言論はどこへいったのか?』(角川学芸出版、2016年)

 

ーーーーーーーー

 

今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

ご期待ください。

 

     

 

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ゲンロン0 観光客の哲学

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動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

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現代日本の批評 1975-2001

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

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5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

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 私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。

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予想問題「好きなこととは何か?」『暇と退屈の倫理学』國分功一郎

(1)なぜ、この 記事を書くのか?

 國分功一郎氏は、最近の入試頻出著者です。國分氏の論考は、最近、慶応大学(商学部)、中央大学、同志社大学、関西大学、獨協大学などの国語(現代文)・小論文で出題されています。
 従って、国語(現代文)・小論文対策として、國分功一郎の氏の論考・著書を読むことを、おすすめします。

 
「自分らしく生きるためには、ということ」ーー國分功一郎氏は、『暇と退屈の倫理学』の中で、この問いが「暇と退屈への対応問題」という「案外と重要な哲学的問題」であると主張しています。そして、この重大問題に、様々な哲学者の知見を引用しながら堂々と立ち向かっています。

 この本は人生を考えるために、丁寧に分かりやすく書かれ、しかも、切れ味のよい秀逸なポストモダンの哲学書です。近代原理を改めて批判的に検証しようとする、近代批判の最新の名著です。

 高校生、受験生は、最低1冊は、國分功一郎氏の著書を読んでおくべきでしょう。

 

 最近、当ブログでは、流行出典である『暇と退屈の倫理学』の入試頻出箇所(「第4章 暇と退屈の疎外論ーー贅沢とは何か?」) について、予想問題記事を発表しましたが、同じく、頻出箇所である「序章 好きなこととは何か」を題材にして、予想問題(予想論点)を解説することにしました。

 問題としては、「2013年度同志社大学過去問」と「当ブログによる予想問題」を使用します。


 今回の記事の項目は、以下のようになっています。

(2)予想問題 「好きなこととは何か?」(『暇と退屈の倫理学』國分功一郎)/
2013同志社大過去問+予想問題

(3) 『暇と退屈の倫理学』の構成

(4)当ブログにおける『中動態の世界』(國分功一郎)関連記事の紹介

(5)國分功一郎氏の紹介・著書

(6)当ブログにおける「哲学」関連記事の紹介

 

暇と退屈の倫理学 増補新版 (homo Viator)

(2)予想問題 「好きなこととは何か?」(『暇と退屈の倫理学』國分功一郎)/

2013同志社大過去問+予想問題

 

(問題文本文)(概要です)

(【1】・【2】・【3】・・・・は当ブログで付記した段落番号です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です) 

 

【1】人類の歴史の中にはさまざまな対立があり、それが数えきれぬほどの悲劇を生み出してきた。だが、人類が豊かさを目指して努力してきたことは事実として認めてよいものと思われる。人々は社会の中にある不正と闘ってきたが、それは社会をよりよいものにしようと、少なくとも建前としてはそう思ってきたからだ。

【2】しかし、ここで不可解な逆説が見出される。人類が目指してきたはずの豊かさ、それが達成されると人が不幸になってしまうという逆説である。

【3】イギリスの哲学者バートランド・ラッセル[1872~1970]は1930年に『幸福論』という書物を出版し、その中でこんなことを述べた。今の西欧諸国の若者たちは自分の才能を発揮する機会が得られないために不幸に陥りがちである。それに対し、東洋諸国ではそういうことはない。共産主義革命が進行中のロシアでは、若者は世界中のどこよりも幸せであろう。なぜならそこには創造するべき新世界があるからだ。

【4】ラッセルが言っているのは簡単なことである。

【5】20世紀初頭のヨーロッパでは、すでに多くのことが成し遂げられていた。これから若者たちが苦労してつくり上げねばならない新世界などもはや存在しないように思われた。したがって若者にはあまりやることがない。だから彼らは不幸である。
【6】それに対しロシアや東洋諸国では、まだこれから新しい社会を作っていかねばならないから、若者たちが立ち上がって努力すべき課題が残されている。したがって、そこでは若者たちは幸福である。

【7】彼の言うことは分からないではない。使命感に燃えて何かの仕事に打ち込むことはすばらしい。ならば、そのようなすばらしい状況にある人は「幸福」であろう。逆に、そうしたすばらしい状況にいない人々、打ち込むべき仕事を持たぬ人々は「不幸」であるのかもしれない。

【8】しかし、何かおかしくないだろうか? 本当にそれでいいのだろうか?

【9】ある社会的な不正を正そうと人が立ち上がるのは、その社会をよりよいものに、より豊かなものにするためだ。ならば、社会が実際にそうなったのなら、人は喜ばねばならないはずだ。なのに、ラッセルによればそうではないのだ。人々の努力によって社会がよりよく、より豊かになると、人はやることがなくなって不幸になるというのだ。

【10】

 

〔X〕


【11】なぜこんなことになってしまうのだろうか? 何かがおかしいのではないか? 
【12】A そう、ラッセルの述べていることは分からないではない。だが、やはり何かがおかしい。そして、これをさも当然であるかのごとくに語るラッセルも、何かおかしいのである。

【13】ラッセルのように、打ち込むべき仕事を外から与えられない人間は不幸であると主張するなら、このおかしな事態をどうにもできない。やはりわたしたちはここで、「何かがおかしい」と思うべきなのだ。

【14】人類は豊かさを目指してきた。なのになぜその豊かさを喜べないのか? 以下に続く考察はすべてこの単純な問いを巡って展開されることとなる。

【15】人間が豊かさを喜べないのはなぜなのだろうか? 豊かさについてごく簡単に考察してみよう。

【16】国や社会が豊かになれば、そこに生きる人たちには余裕がうまれる。その余裕にはすくなくとも二つの意味がある。

【17】一つ目はもちろん金銭的な余裕だ。人は生きていくのに必要な分を超えた量の金銭を手に入れる。稼いだ金銭をすべて生存のために使い切ることはなくなるだろう。

【18】もう一つは時間的な余裕である。社会が富んでいくと、人は生きていくための労働にすべての時間を割く必要がなくなる。そして、何もしなくてもよい時間、すなわち暇を得る。

【19】では、続いてこんな風に考えてみよう。富んだ国の人たちはその余裕を何に使ってきたのだろうか? そして何に使っているのだろうか?

【20】「富むまでは願いつつもかなわなかった自分の好きなことをしている」という答えが返ってきそうである。確かにそうだ。金銭的・時間的な余裕がない生活というのは、あらゆる活動が生存のために行われる、そういった生活のことだろう。生存に役立つ以外のことはほとんどできない。ならば、余裕のある生活が送れるようになった人々は、その余裕をつかって、それまでは願いつつもかなわなかった何か好きなことをしている、そのように考えるのは当然だ。

【21】~【25】

 

[Y]

 

【26】さて、カタログからそんな「その人の感覚のあり方」を選ぶとはいったいどういうことなのか?

【27】最近他界した経済学者ジョン・ガルブレイス[1908~2006]は、20世紀半ば、1958年に著した『豊かな社会』でこんなことを述べている。

【28】現代人は自分が何をしたいのかを自分で意識することができなくなってしまっている。広告やセールスマンの言葉によって組み立てられて初めて自分の欲望がはっきりするのだ。自分が欲しいものが何であるのかを広告屋に教えてもらうというこのような事態は、19世紀の初めなら思いもよらぬことであったに違いない。

【29】経済は消費者の需要によって動いているし動くべきであるとする「消費者主権」という考えが長く経済学を支配していたがために、B 自分の考えは経済学者たちから強い抵抗にあったとガルブレイスは述べている。つまり、消費者が何かを必要としているという事実(需要)が最初にあり、それを生産者が感知してモノを生産する(供給)、これこそが経済の基礎であると考えられていたというわけだ。

【30】ガルブレイスによれば、そんなものは経済学者の思い込みに過ぎない。だからこう指摘したのである。高度消費社会ーー彼の言う「豊かな社会」ーーにおいては、供給が需要に先行している。いや、それどころか、供給側が需要を操作している。つまり、生産者が消費者に「あなたが欲しいのはこれなんですよ」と語りかけ、それを買わせるようしている、と。

【31】今となってはガルブレイスの主張は誰の目にも明らかである。消費者の中で欲望が自由に決定されるなどとは誰も信じてはいない。欲望は生産に依存する。生産は生産によって満たされるべき欲望をつくり出す。

【32】ならば、「好きなこと」が、消費者の中で自由に決定された欲望に基づいているなどとは到底言えない。私の「好きなこと」は、生産者が生産者の都合のよいように、広告やその他手段によって創り出されているかもしれない。もしそうでなかったら、どうして日曜日にやることを土曜日にテレビで教えてもらったりするだろうか? どうして趣味をカタログから選び出したりするだろうか?

【33】こう言ってもいいだろう。「豊かな社会」、すなわち、余裕のある社会においては、確かにその余裕は余裕を獲得した人々の「好きなこと」のために使われている。しかし、その「好きなこと」とは、願いつつもかなわなかったことではない。

【34】問題はこうなる。そもそもわたしたちは、余裕を得た暁にかなえたい何かなど持っていたのか?

【35】すこし視野を広げてみよう。

【36】20世紀の資本主義の特徴の一つは、文化産業と呼ばれる領域の巨大化にある。20世紀の資本主義は新しい経済活動の領域として文化を発見した。

【37】もちろん文化や芸術はそれまでも経済と切り離せないものだった。芸術家だって霞を食って生きているわけではないのだから、貴族から依頼を受けて肖像画を描いたり、曲を作ったりしていた。芸術が経済から特別に独立していたということはない。

【38】けれども20世紀には、広く文化という領域が大衆に向かって開かれるとともに、大衆向けの作品を操作的に作りだして大量に消費させ利益を得るという手法が確立された。そうした手法に基づいて利益を挙げる産業を文化産業と呼ぶ。

【39】文化産業については膨大(ぼうだい)な研究があるが、その中でも最も有名なものの一つが、マックス・ホルクハイマー[1895~1973]とテオドール・アドルノ[1903~1969]が1947年に書いた『啓蒙の弁証法』である。

【40】アドルノとホルクハイマーはこんなことを述べている。文化産業が支配的な現代においては、消費者の感性そのものがあらかじめ製作プロダクションのうちに先取りされている。

【41】どういうことだろうか? 彼らは哲学者なので、哲学的な概念を用いてこのことを説明している。すこし噛み砕いて説明してみよう。

【42】彼らが利用するのは、18世紀ドイツの哲学者カント[1724~1804]の哲学だ。C カントは人間が行う認識という仕組みがどうして可能であるのかを考えた。どうやって人間は世界を認識しているのか? 人間はあらかじめいくつかの概念をもっている、というのがカントの考えだった。人間は世界をそのまま受け取っているのではなくて、あらかじめもっていた何らかの型(概念)にあてはめて理解しているというわけだ。

【43】たとえば、たき火に近づけば熱いと感じる。このときひとは、「炎は熱いから、それに近づくと熱いのだ」という認識を得るだろう。この「から」にあたるのが、人間があらかじめもっている型(概念)だ。この場合には、原因と結果を結びつける因果関係という概念である。因果関係という型があらかじめ頭の中にあるからこそ、ひとは「炎は熱いから、それに近づくと熱いのだ」という認識を得られる。

【44】もしもこの概念がなければ、たき火が燃えているという知覚と、熱いという感覚とを結びつけることができない。単に、「ああ、たき火が燃えているなぁ」という知覚と、「ああ、なんか顔が熱いなぁ」という感覚があるだけだ。

【45】人間は世界を受け取るだけでない。それらを自分なりの型にそって主体的にまとめ上げる。18世紀の哲学者カントはそのように考えた。そして、人間にはそのような主体性が当然期待できるのだと、カントはそう考えていた。

【46】アドルノとホルクハイマーが言っているのは、カントが当然と思っていたこのことが、いまや当然ではなくなったということだ。人間に期待されていた主体性は、人間によってではなく、産業によってあらかじめ準備されるようになった。産業は主体が何をどう受け取るのかを先取りし、受け取られ方の決められたものを主体に差し出している。

【47】もちろん熱いモノを熱いと感じさせないことはできない。白いモノを黒に見せることもできない。当然だ。だが、それが熱いとか白いとかではなくて、「楽しい」だったらどうだろう? 「これが楽しいってことなのですよ」というイメージとともに、「楽しいもの」を提供する。たとえばテレビで、或る娯楽を「楽しむ」タレントの映像を流し、その次の日には、視聴者に金銭と時間を使ってもらって、その娯楽を「楽しんで」もらう。わたしたちはそうして自分の「好きなこと」を獲得し、お金と時間を使い、それを提供している産業が利益を得る。

【48】「好きなこと」はもはや願いつつもかなわなかったことではない。それどころか、そんな願いがあったかどうかも疑わしい。願いをかなえられる余裕を手にした人々が、今度は文化産業に「好きなこと」を与えてもらっているのだから。

【49】ならば、どうしたらいいのだろうか?

【50】いまアドルノとホルクハイマーを通じて説明した問題というのは決して目新しいものではない。それどころか、大衆社会を分析した社会学の本には必ず書かれているであろう月並みなテーマだ。だが本書は、この月並みなテーマを取り上げたいのである。

【51】資本主義の全面展開によって、少なくとも先進国の人々は裕福になった。そして暇を得た。だが、暇を得た人々は、その暇をどう使ってよいのか分からない。何が楽しいのか分からない。自分の好きなことが何なのか分からない。

【52】そこに資本主義がつけ込む。文化産業が、既成の楽しみ、産業に都合のよい楽しみを人々に提供する。かつては労働者の労働力が搾取されていると盛んに言われた。D いまでは、むしろ労働者の暇が搾取されている。高度情報化社会という言葉が死語となるほどに情報化が進み、インターネットが普及した現在、この暇の搾取は資本主義を牽引する大きな力である。(國分功一郎「『好きなこと』とは何か?」)

 

ーーーーーーーー

 

(設問)

問1 空欄Xに入る次の5つの「文章のブロック」を並べ替えよ。(予想問題)

ア  それだったら、社会をより豊かなものにしようと努力する必要などない。

イ  なぜと言って、不正をただそうとする営みが実現を見たら、結局人々は不幸になるというのだから。

ウ  人々は社会をより豊かなものにしようと努力してきた。なのにそれが実現したら、人は逆に不幸になる。

エ  社会的不正などそのままにしておけばいい。豊かさなど目指さず、惨めな生活を続けさせておけばいい。

オ  もしラッセルの言うことが正しいのなら、これはなんとばかばかしいことであろうか。

 

問2 傍線部Aについて、「ラッセルの述べていること」を、筆者が「やはり何かがおかしい」と感じるのはなぜか。最適なものを、次の中から一つ選べ。(同志社大学)

ア  ラッセルの主張に従えば、すでに自由を獲得した西欧諸国の若者たちが、自分の才能を発揮する場を求めて、共産主義革命が進行中のロシアに移住してしまうことになるから。

イ  ラッセルの主張に従えば、人々が幸福を得るためには、不正や不便との闘いなど努力すべき課題が残されていた、19世紀のヨーロッパに戻る必要が生じてしまうから。

ウ  ラッセルの主張に従えば、打ち込むべき仕事をもつ人々も、打ち込むべき仕事を外から与えられない人間も、ともに不幸であり、人類に本当の幸福はありえないことになってしまうから。

エ  ラッセルの主張に従えば、人々が努力してよりよく、より豊かな社会を実現させると、新世界の創造など打ち込むべき仕事をもてなくなり、不幸に陥ってしまうことになるから。

オ  ラッセルの主張に従えば、人類が豊かさを目指して社会のなかにある不正や不便と闘ってきたのは、建前にすぎなかったからこそ、よりよい社会が実現してしまったことになるから。

 

問3 空欄Yに入る次の5つの段落を並べ替えよ。(予想問題)

ア  ところがいまでは「趣味」をカタログ化して選ばせ、そのために必要な道具を提供する企業がある。テレビCMでは、子育てを終え、亭主も家にいる、そんな年齢の主婦を演じる女優が、「でも、趣味ってお金がかかるわよね」とつぶやく。すると間髪を入れず、「そんなことはありません!」とナレーションが入る。カタログから「趣味」を選んでもらえれば、必要な道具が安くすぐに手に入ると宣伝する。

イ  こう問うてみると、これまでのようにはすんなりと答えがでてこなくなる。もちろん、「好きなこと」なのだから個人差があるだろうが、いったいどれだけの人が自分の「好きなこと」を断定できるだろうか?

ウ「好きなこと」という表現から、「趣味」という言葉を思いつく人も多いだろう。趣味とは何だろう? 辞書によれば、趣味はそもそもは「どういうものに美しさやおもしろさを感じるかという、その人の感覚のあり方」を意味していた(『大辞泉』)。これが転じて、個人が楽しみとしている事柄を指すようになった。 

エ  ならば今度はこんな風に問うてみよう。その「好きなこと」とは何か? やりたくてもできなかったこととはいったい何だったのか? いまそれなりに余裕のある国・社会に生きている人たちは、その余裕をつかって何をしているのだろうか?

オ  土曜日にテレビをつけると、次の日の日曜日に時間的・金銭的余裕をつぎ込んでもらうための娯楽の類を宣伝する番組が放送されている。その番組を見て、番組が勧める場所に行って、金銭と時間を消費する。さて、そうする人々は、「好きなこと」をしているのか? それは「願いつつもかなわなかった」ことなのか?

 

問4  傍線部Bについて、ガルブレイスの考えが「経済学者たちから強い抵抗にあった」のは、なぜか。最適なものを、次の中から一つ選べ。(同志社大学)

ア  資本主義発生以前の19世紀では、広告やセールスマンの言葉によって組み立てられる欲望はなかったから。

イ  19世紀の初めでは、消費者の個別の注文を受け、生産者がモノを生産する「消費者主義」が、正当性をもっていたから。

ウ  消費者の需要がまずあって、生産者がそれを感知して供給するという考え方が、経済学を支配していたから。

エ  消費者の需要によって経済は動いているとする経済学者に、生産者の都合を優先する考えが受け入れられなかったから。

オ  「ゆたかな社会」、すなわち、余裕のある社会の到来は、経済学者ガルブレイスの思い込みにすぎなかったから。

 

問5 傍線部Cについて、カントの考える「認識という仕組み」の説明として最適なものを、次の中から一つ選べ。(同志社大学)

ア  人間は、あらかじめもっている世界認識という型を現象にあてはめて、主体性を発揮する。

イ  因果関係という概念は、「炎」と「熱」の場合には説明が可能だが、「楽しい」の場合には不可能になる。
ウ  人間は、原因と結果を結びつける因果関係という概念を働かせて、知覚から感覚を導き出す。
エ  因果関係という概念のうち、「から」にあたる型を現象にあてはめて、世界を受け取る主体性が期待される。 
オ  人間は、あらかじめもっている概念にあてはめて世界を理解し、主体的にまとめ上げる。


問6 本文中の「好きなこと」と、ほぼ同じ意味を持つ漢字2字の語句を、すべて抜き出せ。(予想問題)

  

問7 本文の内容に合致するものを、次の中から二つ選べ。(同志社大学)

ア  国や社会が豊かになれば、人々に金銭的余裕と時間的余裕が生まれる。

イ  余裕のある国・社会に生きている人々は、あらゆる活動が生存のために行われる生活を忘れている。

ウ  娯楽の類を宣伝する番組は、趣味をカタログから選びやすいように配慮した、企業の好意に基づいている。

エ  「趣味」を「その人の感覚のあり方」と説く辞書の定義は、今日では無効になっている。

オ  20世紀には、文化という領域が大衆に向かって開かれ、文化産業が巨大化した。

カ  いつの時代でも、文化や芸術は経済の支配化にある。

 

問8 傍線部Dについて、「いまでは、むしろ労働者の暇が搾取されている」のは、なぜか説明せよ。(句読点とも40字以内) (同志社大学)

 

ーーーーーーーー

 

(解説・解答)
問1(文章並べ替え問題)

→並べ替え問題は、まず、2~3のセットを早く確定することが、解法のポイントです。

 まず第一に、

オ「もしラッセルの言うことが正しいのなら、これなんとばかばかしいことであろうか。」、

ウ「人々は社会をより豊かなものにしようと努力してきた。なのにそれが実現したら、人は逆に不幸になる。」、

ア「それだったら、社会をより豊かなものにしようと努力する必要などない。」、

の文脈より「オ→ウ→ア」のセットができます。

 エはアの言い換えです。

 イは「オ→ウ→ア→エ」の理由部分になります。

(解答) オ→ウ→ア→エ→イ

 

問2(傍線部説明問題・理由説明問題)

 直前の【8】~【11】段落、直後の【13】段落に着目してください。

 標準レベルの問題です。

(解答) エ

 

問3(段落並べ替え問題)

 →並べ替え問題は、まず、2~3のセットを早く確定することが、解法のポイントです。

 イ・エの問題提起部分に注目すれば、「エ→イ→オ」は明白です。

 また、空欄直後の【26】「さて、カタログからそんな『その人の感覚のあり方』を選ぶとはいったいどういうことなのか?」より、「ウ→ア」がラストになることが分かります。

(解答) エ→イ→オ→ウ→ア

 

問4(傍線部説明問題・理由説明問題)

 解法としては、傍線部直前の、

【29】「経済は消費者の需要によって動いているし動くべきであるとする「消費者主権」という考えが長く経済学を支配していたがために(→「ために」に注意してください)

に注目してください。

(解答) ウ

 

問5(傍線部説明問題)

 解法としては、

「彼らが利用するのは、18世紀ドイツの哲学者カント[1724~1804]の哲学だ。 カントは人間が行う認識という仕組みがどうして可能であるのかを考えた。

という傍線部直後の

「どうやって人間は世界を認識しているのか? 人間はあらかじめいくつかの概念をもっている、というのがカントの考えだった。人間は世界をそのまま受け取っているのではなくて、あらかじめもっていた何らかの型(概念)にあてはめて理解しているというわけだ。」、

 【45】段落の「人間は世界を受け取るだけでない。それらを自分なりの型にそって主体的にまとめ上げる。18世紀の哲学者カントはそのように考えた。」

に着目するべきです。

(解答) オ

 

問6(キーワードの類語を抜き出す問題・記述式問題)→入試頻出です

→この問題は、本文を熟読する前に見た方が効率的です。

 解法としては、筆者が「好きなこと」を、分かりやすく具体化して、言い換えている点に注目してください。

 筆者の立場に立って、筆者の「工夫」や「丁寧さ」を読み取る態度が必要になります。

 そのうえで、資本主義・文化産業の「操作」・「先取り」という「仕掛け」を読み取るとよいでしょう。

(解答)  趣味・需要・欲望・感性

 

問7(趣旨合致問題)

→趣旨合致問題は、本文を熟読する前に見た方が効率的です。そのうえで、各選択肢のポイントを、前もって、チェックしておくべきでしょう。

ア 【15】・【18】段落に合致しています。

イ   本文に、このような記述は、ありません。

ウ 【38】・【47】・【52】段落に反しています。

エ   「今日では無効になっている」の部分が本文に反しています。

オ 【39】段落以降に合致しています。

カ   「言い過ぎ」になっているので、誤りです。

(解答) ア・オ

 

問8(傍線部説明問題・理由説明問題・記述式問題)

→この問題も本文を熟読する前に見た方が効率的です。

 この問題は、問6に関連しています。傍線部は、筆者が最も主張したいキーセンテンスです。

 傍線部の理由としては、直前の、

【51】段落「資本主義の全面展開によって、少なくとも先段落進国の人々は裕福になった。そして暇を得た。だが、暇を得た人々は、その暇をどう使ってよいのか分からない。何が楽しいのか分からない。自分の好きなことが何なのか分からない。」、

【52】段落「そこに資本主義がつけ込む。文化産業が、既成の楽しみ、産業に都合のよい楽しみを人々に提供する。かつては労働者の労働力が搾取されていると盛んに言われた。」、

さらに、
【47】段落「わたしたちはそうして自分の『好きなこと』を獲得し、お金と時間を使い、それを提供している産業が利益を得る。」、

に注目するとよいでしょう。

(解答)
人々が暇を活用できないことにつけ込み、文化産業が楽しみを提供し利益を得るから。(39字)

 

ーーーーーーーー

 

(出典) 《序章   「好きなこと」とは何か?》『暇と退屈の倫理学』國分功一郎、の一節

 

 ーーーーーーーー

 

 なお、問題文本文の続き、つまり、「序章」の続きには、以下のような重要な記述があります。赤字部分に特に注意して、熟読してください。

なぜ暇は搾取されるのだろうか? それは人が退屈することを嫌うからである。人は暇を得たが、暇を何に使えばよいのか分からない。このままでは暇の中で退屈してしまう。だから、与えられた楽しみ、準備・用意された快楽に身を委ね、安心を得る。では、どうすればよいのだろうか? なぜ人は暇の中で退屈してしまうのだろうか? そもそも退屈とは何か? 

 こうして、暇の中でいかに生きるべきか、退屈とどう向き合うべきかという問いが現れる。〈暇と退屈の倫理学〉が問いたいのはこの問いである。



(3) 『暇と退屈の倫理学』の構成

 『暇と退屈の倫理学』の「序章」の最後に,本書の構成について,著者・國分功一郎氏が簡潔にまとめているので、それを引用します。

 「最初の第一章では,暇と退屈というこの本の主題の出発点となる考えを練り上げる。暇と退屈がいかなる問題を構成しているのかが明らかにされるだろう。

 第二章から第四章までは主に歴史的な見地から暇と退屈の問題を扱っている。
 第二章はある人類学的な仮説をもとに有史以前について論じる。問題となるのは退屈の起源である。
 第三章は歴史上の暇と退屈を,主に経済史的な観点から検討し,暇が有していた逆説的な地位に注目しながら,暇だけでなく余暇にまで考察を広める。
 第四章では消費社会の問題を取り上げ,現代の暇と退屈を論じる。

 第五章から第七章では哲学的に暇と退屈の問題を扱う。
 第五章ではハイデッガーの退屈論を紹介する。
 第六章ではハイデッガーの退屈論を批判的に考察するためのヒントを生物学のなかに探っていく。
 第七章ではそこまでに得られた知見をもとに,実際に<暇と退屈の倫理学>を構想する。」

 

 ーーーーーーーー

 

(当ブログによる解説)

 第四章以下では「消費と労働」、「疎外」について考察しています。
 つまり、現代人は、ある程度の「豊かさ」と「暇」を入手したが、その「暇な時間」に何をしたいのか、よく分からない人が多い。人類は他の動物と異なり、環世界を変幻自在に飛び回ることができる自由な存在であるために、退屈を嫌う。その点に企業・広告業界等が注目し、人々が余暇に行うであろう欲望の対象を用意し、広告宣伝等により誘導する。つまり、私たちの需要・欲求は、あらかじめ企業等の供給側によって支配されているという構造があるのです。

 これに対して、國分氏は、受動的で際限のない、虚しい「消費」を批判し、「真の豊かさ」としての「浪費」の意義を強調しています。
 そして、真の豊かな「浪費」を享受するために、浪費を味わえるようにする一定の訓練と、動物的「とりさらわれ」(→「熱中。集中」という意味)の重要性を主張するのです。

 

(4)当ブログにおける『中動態の世界』(國分功一郎)関連記事の紹介

  『中動態の世界』は2017年度発行の最新の哲学書です。2017年度のベストセラーになっている、話題の哲学書です。2018年度以降の入試頻出出典になる可能性が高いので、要注意です。

 

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(5)國分功一郎氏の紹介・著書

國分功一郎(こくぶん・こういちろう)
1974年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。高崎経済大学経済学部准教授。専攻は哲学。

 

【著書】

『スピノザの方法』(みすず書房)、

『暇と退屈の倫理学』(朝日出版社。のち増補新版、太田出版。第2回紀伊國屋じんぶん大賞受賞作)、

『哲学の自然』(中沢新一との共著、太田出版)、

『ドゥルーズの哲学原理』(岩波書店)、

『来るべき民主主義──小平市都道328号線と近代政治哲学の諸問題』(幻冬舎新書)、

『社会の抜け道』(古市憲寿との共著、小学館)、

『哲学の先生と人生の話をしよう』(朝日新聞出版)、

『統治新論──民主主義のマネジメント』(大竹弘二との共著、太田出版)、

『近代政治哲学――自然・主権・行政』(筑摩書房・ちくま新書)、

『民主主義を直感するために』(晶文社)、

『中動態の世界――意志と責任の考古学』(医学書院。第16回小林秀雄賞受賞作)など。

 

(6)当ブログにおける「哲学」関連記事の紹介

 

  「哲学」は入試国語(現代文)・小論文の頻出分野です。国語(現代文)・小論文対策として、ぜひ、参照してください。

 

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ーーーーーーーー

 

今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

ご期待ください

 

  

 

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暇と退屈の倫理学 増補新版 (homo Viator)

暇と退屈の倫理学 増補新版 (homo Viator)

 

 

暇と退屈の倫理学

暇と退屈の倫理学

 

 

近代政治哲学:自然・主権・行政 (ちくま新書)

近代政治哲学:自然・主権・行政 (ちくま新書)

 

 

頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

 

 

5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

 

 

 私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。

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『中動態の世界』國分功一郎/哲学/現代文・小論文予想出典(後編)

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 國分功一郎氏は、最近の入試頻出著者です。國分氏の論考は、最近、慶応大学(商学部)、中央大学、同志社大学、関西大学、獨協大学などの難関大学の国語(現代文)・小論文で出題されています。
 従って、難関大学入試(受験)・センター試験の国語(現代文)・小論文対策として、國分功一郎の氏の論考・著書を読むことを、おすすめします。

 最近、当ブログでは、「予想問題『暇と退屈の倫理学』國分功一郎/消費社会・真の豊かさ」を発表しましたが、國分氏が今年に刊行した『中動態の世界』が、また素晴らしい名著です。

 

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 従って今回は、「予想出典」として本書の紹介記事を発表します。

 『中動態の世界』は、最近のベストセラーになっています。

 近代的常識や「べき論」の牢獄からの穏当な脱走を提案する、現代人救済のための哲学書です。

 近代批判の良書です。

 丁寧に、分かりやすく記述されているので、難関大学を目指す受験生、高校生であれば、充分に楽しめることでしょう。高校生、受験生は、最低1冊は、國分功一郎氏の著書を読んでおくべきでしょう。

 入試のレベルで見ると、入試出典として採用されやすい論考には、一定のポイントがあります。未知のユニーク視点、日本語として美しい文、明快な論理構造などです。
 本書は、これらのポイントを充分に満たしています。

 本書が、来年度以降の国語(現代文)・小論文問題として出題される可能性は、かなり高いと思われます。

 そこで、国語(現代文)・小論文対策として、予想出典記事を発表します。
  『中動態の世界』は密度の濃い論考であり、「入試題材の宝庫」なので、今回の予想出典記事は、前編・後編の2回に分けて発表します。

 今回は前回の「『中動態の世界』國分功一郎/哲学/現代文・小論文予想出典(前編)」(→主に本書の前半を中心に解説しました)に続く、その「後編」(→主に本書の後半を中心に解説します)です。

 今回の記事の理解を深めるために、ぜひ、前回の「前編」を、読んでください。

 

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 『中動態の世界』の後半では、アレント、ハイデッガー、スピノザ等の偉大な哲学者達の説を、國分氏が解明した「中動態の世界」の視座から読み直すことで、彼らの説をより明快に解説しています。
 ただ、國分氏は、偉大な哲学者達の論理や直感に一定の評価をして、彼らの学問的価値を高めようとしています。彼らへの畏敬の念が感じられる論考です。

『暇と退屈の倫理学』と合わせ読むと「人間性の真の解放」の意味が実感できます。

 

 今回の記事は、「第5章意志と選択」・「第8章中動態と自由の哲学」を中心に解説していきます。今回の記事の項目は、以下のようになっています。

 

(2)「第5章・意志と選択/アレント」の解説

(3)「第8章・中動態と自由の哲学/スピノザ」の解説

(4)國分功一郎氏の紹介・著書

(5)当ブログにおける「哲学」関連記事の紹介

 

(2)「第5章・意志と選択/アレント」の解説

 

(引用部分は概要です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です) 

 

【アレントの意志論】

 本書によると、アレントは「能動/受動の図式」にこだわり、「中動性」の正しい理解に至っていないようです。國分氏は、アレントの『精神の生活』を解説しつつ、その点を厳しく指摘していきます。


 初めに、國分氏は、「アレントの意志の定義」を呈示しています。

「  アレントは次のように述べている。
 われわれは記憶は、過去に関わる精神的な器官と見なすことができる。 それは過ぎ去ったものにかかわっているからである。ならば同じ意味で、われわれは未来にかかわる精神的な器官を考えることができるだろう。それが意志である。」(P128 )

 

 アレントが批判している「アリストテレスの可能態の考え方」は、未来は過去に存在していたものの帰結以外のなにものでもない、としています。

 この説に対して、アレントは次のように指摘しています。

「実在する一切のものには、その原因の一つとしての可能態が先行しているはずだ、という見解は、暗々裏に未来を、真正な時制とすることを否定している。」(P129)

 

 アレントは「未来」と「意志」の存在を強く主張しています。『中動態の世界』から引用します。

「アレントによれば、未来が未来として認められるためには、未来は過去からの帰結であってはならない。未来は過去から切断された絶対的な始まりでなければならない。そのような真正な時制としての未来が認められれたとき、はじめて意志に場所が与えられる。始まりを司る能力、何事かを始める能力の存在が認められることになる。」(P130)

 
 次に、『中動態の世界』は「意志と選択の違いとは何か?」の論点に入ります。
 まず、國分氏は、次のように述べています。

「意志の概念は、責任の概念と結びついている。われわれは、意志を、何ごとかを開始する能力として理解している。だからこそ、この言葉に基づいて責任を考えることができる。 」(P130)

 

【意志と選択の違いとは何か?】

 それでは、意志と選択の違いは何でしょうか?
 國分氏は、以下のように記述しています。

ある行為が過去からの帰結であれば、その行為をその行為者の意志によるものと見なすことはできない。その行為はその人によって開始されたものではないからである。たしかにその行為者は何らかの選択はしたのだろう。しかしこの場合、選択は諸々の要素の相互作用の結果として出現したのであって、その行為者が己の意志によって開始したのではないことになる。

 日常において、選択は不断に行われている。そして選択はそれが過去からの帰結であるならば、意志の実現とは見なせない。ならば次のように結論できよう。意志と選択は明確に区別されねばならない。」 (P131)

 

 以上の区別の基準は、かなり明確です。


 次に、國分氏は「意志の内容」の考察に入ります。

「過去からの帰結としての選択と、区別されるべきものとしての意志とは、何か? それは過去からの帰結としてある選択の脇に突然現れて、無理やりにそれを過去から切り離そうとする概念である。しかもこの概念は自然とそこに現れてくるのではない。それは呼び出される。」(P132)

 「しかもこの概念(→「意志」)は自然とそこに現れてくるのではない。それは呼び出される。」の部分は、かなり衝撃的な内容になっています。

 

 ここで、私達は、立ち止まって考えるべきです。「意志」という、私達のアイデンティティの根幹である「意志」は、「自然とそこに現れてくるのではない」のです。

 

 さらに、國分氏は続けて、以下のように説明しています。熟読するべき箇所です。

「責任を問うためには、この選択の開始地点を確定しなければならない。その確定のために呼び出されるのが意志という概念である。この概念は私の選択の脇に来て、選択と過去のつながりを切り裂き、選択の開始地点を私の中に置こうとする。」(P 132)

 

 上記の、

「責任の確定のために呼び出されるのが意志という概念である。」

「この(責任の)概念は選択の開始地点を私の中に置こうとする。」

の部分により、「責任概念」の強力なパワーが、よく分かります。

 まさに、「責任社会」の構築のために「意志概念」が発明されたことが、よく分かります。

 

 さらに、本書から引用します。
「こう考えると、選択と意志の区別は明確であり、実に単純であると言わねばならない。望むと望まざるとにかかわらず、選択は不断に行われている。意志は後からやってきてその選択に取り憑く。
 ところが、この実に単純な区別がこれまで正確に理解されてこなかった。意志をめぐる議論が常に混乱の中にあったのはそのためであると思われる。 」
「アレントが解きほぐしたのは、思想史における混乱だけではない。この混乱は、『意志』という語を用いる際、われわれ自身がしばしば陥る混乱でもある。」(P132)

 

 確かに、私達は日々の、「選択」に過ぎない決断を「意志」と考え、その自己の判断を自分自身で尊重しています。完全に混乱しています。その点を、アレントは問題視したのです。

 

【意志が選択にすり替えられてしまう】

 以下は、「意志が選択にすり替えられてしまう」ことについての、國分氏の丁寧な説明です。

 読みごたえのある論考です。いかにも、入試に出題されそうな部分です。熟読してください。

「選択がそれまでの経緯や周囲の状況、心身の状態など、さまざまな影響のもとで行われるのは、考えてみれば当たり前のことである。ところが抽象的な議論になるとそれが忘れあれ、いつの間にやら選択が、絶対的な始まりを前提とする意志にすり替えられてしまう。過去から地続きであって常に不純である他ない選択が、過去から切断された始まりと見なされる純粋な意志に取り違えられてしまうのだ。」

「『意志など幻想だ』と言われるときも、実際には、意志ではなくて選択が扱われていたというのに、結論部においてはなぜか意志が否定されている場合がある。」

「たとえば、ある人が何かを選択するにあたり、その選択行為が明確に意識されるよりも前の時点で、脳内で何らかの活動が始まっていたことが実験によって証明されたとしよう。これによって否定されるのは、単に、選択の開始地点は人の明晰な意識のなかにあるという思い込みに過ぎない。そして、ある選択が、行為として行われた時点に至るまでのさまざまな要素によって影響を受けているのは当たり前であって、そんなことはわざわざ指摘するまでもない。また、脳内で起こることをすべて意識できるはずがないのだから、選択が意識されるよりも前に脳内で何らかの活動が始まっているのも当然である。」(P133・134)

 

 上記の引用では、意志と選択が区別されています。「選択」は過去の様々な事情を原因として、なされる行為です。従って、「意志」は、必然的に、一切の過去の原因から「切断」されたものでなければならないことになります。

 しかし、そのような「純粋な意志」は存在しないのです。

 

 この部分は、近代原理の当然の前提である「意志」の存在それ自体の、内容の見直しをしていて、入試題材として価値が高いと思われます。


【では意識の役割は?】

 では、意識の役割は何でしょうか?
 この点について、國分氏は以下のように述べています。

「選択が過去からの帰結であり、決して純粋な始まりではないとすれば、われわれは選択における意識の役割をもあらためて定義することができるだろう。
 意識は選択に影響を与える無数の影響の一つである。」

「選択は無数の要素の影響を受けざるをえず、意識はそうした要素の一つに過ぎないとしたら、意識は決して万能ではない。しかし、それは無力でもない。」

「意志という絶対的な始まりを想定せずとも、選択という概念ーー過去からの帰結であり、また無数の要素の相互作用のもとにあるーーを通じて、われわれは意識のための場所を確保することができる。むしろ意志の概念を斥けることによってこそ、意識の役割を正当に評価することができる。」(P135)

 

 上記の「意志の概念を斥けることによってこそ、意識の役割を正当に評価することができる」の部分は、かなり重大なことを主張しています。

 「意志概念の却下」を主張しているのです。「意志」の内容が空虚であるならば、「意志概念」を尊重する必要はない、むしろ「意志概念」は余計なものだ、と言っているのです。思い切った提言だと思います。

 

【意志をめぐるアレントの不可解な選択】

 一方で、國分氏は、アレント自身により定義された意志概念は、それを哲学的に擁護することは困難と述べています。

「意志は過去からの帰結であってはならず、過去から切断された絶対的な始まりでなければならないが、それはとても存在するとは思えない。」

「アレントによる意志の定義は、自らが定義している対象の存在の可能性を自らで切り崩してしまう、そのような定義である。」

「なぜならば、われわれは純粋で絶対的な始まりなど考えることができないからである。一人一人の精神のなかに純粋で絶対な始まりがあるなどと主張することは、少なくとも哲学的にはきわめて困難である。それはいわば『無からの創造』を求める主張である。」(P138)

 

 アレントの定義は一種の自己矛盾である、と主張しているのです。そして、次のように述べています。

「意志の概念を擁護することは、キリスト教神学の伝統に訴えかける以外の仕方では、不可能である。」(P138)

 

【「カツアゲ」・「便所掃除」の問題】

 銃で脅された人物が、自分の手でポケットからお金を取り出して、それを相手に渡すという「カツアゲ」の例について、アレントは、アリストテレスの定義によればカツアゲされてお金を差し出すことは自発的な行為になるとしています。 

 しかし、國分氏は、この「カツアゲ」の事例について、「ここでは、するとさせるの境目が問われているのであり、この事例は中動態と無関係ではありえない」と主張しています。

 そして、嫌がる相手に便所掃除させる事例について、「権力」と「暴力」の視点を援用して以下のように説明しています。

「権力を行使するものは権力によって相手に行為をさせるのだから、行為のプロセスの外にいる。これは中動性に対立する意味での能動性に該当する。権力によって行為させられる側は、行為のプロセスの内にいるのだから中動的である。」(P151)

「武器で脅されて便所掃除されられている者は、それを進んですると同時にイヤイヤさせられてもいる。すなわち、単に行為のプロセスの中にいる。能動性と中動性の対立で説明すれば、これは簡単に説明できることである。能動と受動の対立、『する』と『される』の対立でこれを説明しようとするからうまくいかないのだ。

「こう考えると、暴力と権力をきちんと区別せず、両者を曖昧に重ねてしまう考え方というのは、能動性と中動性の対立で理解すべきであるものを、無理やりに、能動性と受動性、『する』と『される』の対立に押し込む考え方だと言うことができるだろう。」(P151)

 

【非自発的同意の概念】

 ここで、國分氏は、アレントの説を批判して、「非自発的同意の概念」の必要性を主張しています。

「アレントは武器のような道具を用いなければ得られない同意は同意ではないと考えている。それは強制された同意であって、自発的な同意ではない、と。これはつまりアレントが、強制か同意かという視点で行為を捉えていることを意味する。だからこそアレントによれば『一致して行為すること』と見なされるべき行為は、自発的な同意に基づく場合に限られるのである。
 しかし実際の行為は強制か自発かでは割り切れるものではない。」(P156)

「強制はないが自発的でもなく、自発的ではないが同意している、そうした事態は十分に考えられる。というか、そうした事態は日常にあふれている。それが見えなくなっているのは、強制か自発かという対立で、すなわち、能動か受動かという対立で物事を眺めているからである。そして、能動と中動の対立を用いれば、そうした事態は実にたやすく記述できるのだ。」(P158)

 

【「仕方なく」を排除した先】

 以下においては、國分氏は、「非自発的同意の概念」を排除することによる問題性を指摘しています。


非自発的同意を行為の類型から排除することは、単に行為の記述として不十分なだけではない。それは看過できない重大な帰結を招き寄せる。」(P158)

「非自発的同意を行為の一類型として認めないならば、ある同意に関して『同意したのだから自発的であったのだ』と見なされてしまう可能性が出てくる。道具等々を用いた強い強制力が働いていなくても、人は、何らかの理由から、疑問を感じているのに同意してしまう場合がある。つまり、暴力によって『あらゆる可能性を閉ざ』されているわけではないが、かといって自発的でもない、にもかかわらず同意してしまうことがありうる(ハラスメントにおいてはこうしたケースが問題になる)。」

「 非自発的な同意というカテゴリーがなければ、そうした同意は単なる同意として、すなわち『あなたが進んで結んだ同意』として理解されてしまうだろう。」(P159)

 

 以上を読むと、「非自発的同意の概念」を排除することにより、「自発性や同意の範囲」が「不当に拡大」することが、よく分かります。

 それとともに、「責任の範囲」が「不当に拡大」することになるのです。

 そして、今まで、「責任の範囲は不当に拡大」されているのです。これは、「意志概念の確立」に伴う異様な皮肉であり、スリラーとも評価できるでしょう。

 

 さらに、國分氏は議論を進めます。

「そもそも自発的な同意とは何なのだろうか?そういうものはありうるのだろうか? 人はどういう場合に、自発的に一致して行為していると言いうるのだろうか?」

「ここでわれわれはアレントの意志の定義を思い起こさざるをえない。過去からの帰結でない、真の始まりである未来を司る器官としての意志とは、まさしく、純粋に自発的な能力のことであろう。人々が自発的に一致して行為するとは、おそらくアレントのなかで、各人が各人の『意志』をもって集団的に行為することを意味していたのだろう。」

「しかし、すでに指摘した通り、そのような意志の存在は哲学的にはとても支持しえない。純粋な始まりなどないし、純粋に自発的な同意もありえない。選択が常に不純であるように、同意も常に不純であろう。そして、そうしたことはわれわれの日常にあふれている(たとえば、誰しもが糊口の資を得るために、仕方なく働いている)。」(P159)

 

 上記の「純粋に自発的な同意もありえない」 ということは、「同意の内容」を検討する際には、常に「中動態的な視点」が必要だということです。

 行為の実態を精密に分析するためには、「能動/受動の二分法」以外に、「中動態的な視点」が不可欠だということです。

 

(3)「第8章・中動態と自由の哲学/スピノザ」の解説

 國分氏は、スピノザについて、以下のように評価しています。

 中動態という語を用いなかったスピノザではあるが、スピノザ哲学の核心には

中動態が確たる地位を占めている、と。

 スピノザは能動でも受動でもない動詞の形態に注目しているようです。

 以下は、これらのことを指摘している部分の引用です。

 

「スピノザがヘブライ語の文法書を書いていて、中動態についてかなり精確に察知していて、スピノザ哲学がそういう中動態の世界を描いていた。」(P231)

「スピノザは、能動態でも受動態でも説明できない観念があることに気づいており、しかも、それが重要な観念であることを 意識している。」(P236)

「スピノザが『中動態』という用語を用いたことはないし、『ヘブライ語文法綱要』でもそのような表現は現れない。だが、その思想のなかにはこの失われた態に通ずる概念が明確に存在している。」(p236)

 
 以上を前提にして、國分氏は、「能動/中動」の視点から、スピノザ哲学を読み直しています。

 

 まず、上記の「スピノザが『中動態』という用語を用いたことはない」の中の「この失われた態(中動態)に通ずる概念」は、「内在原因」と呼ばれていることを紹介しています。

 『エチカ』の体系の出発点には神なる実体があるのですが、その神と万物との関係を定義するのが、この概念です。

「神と万物との関係」について、國分氏は、さらに以下のように説明しています。

「スピノザは神なる実体とは、この宇宙あるいは自然そのものに他ならず、そうした実体がさまざまな仕方で変状したものとして万物は存在していると考えた。すなわち、あらゆる物は神の一部であり、また神の内にある、と。したがって、神は万物の原因という意味で作用を及ぼすわけだが、その作用は神の内に留まる。神は作用するが、その作用は神以外の何ものにも届かない。」(p236)

 

 そして、さらに、國分氏は、スピノザ哲学における「様態」についても、以下のように説明しています。

「神こそが唯一存在している『実体』であり、これがさまざまな仕方で『変状』することによって諸々の個物が現れる。実体の変状として存在する個物のことをスピノザは『様態』と呼んだ。」(P239)

 

 以上の各定義の後に、國分氏は、すぐに、以下のような重要な指摘をしています。

『エチカ』の中の『様態的存在論』は、いわゆる能動/受動の対では説明できないものであって、これは『中動態的存在論』としてしか理解できない」とするアガンベンの説を紹介しているのです。


 そして、以下のように述べています。
「スピノザ哲学の核心には、われわれの言語、いわゆる能動と受動に支配されたこの言語ではうまく説明しきれないものがあるのだ。」(P240)

 

 さらに、スピノザの存在論において中動態が確たる地位を占めていることは、神を説明するスピノザの言葉遣いに明白だとして、以下のように記述しています。

「神という実体の変状は、『変状 affectio 』という名詞だけでなく、『 afficitur 変状する』という動詞によっても説明される。 これは、『働きかける』『ある状態におく』『刺激する』『影響を及ぼす』などを意味する afficio という動詞が受動態に活用したものである。」(P241)

「afficitur の指し示す事態も同様である。この表現は神が一つの過程のなかにいることを示している。」(P242)


 以上のことを述べた上で、以下のように結論付けています。

スピノザが構想する世界は中動態だけがある世界である。内在原因とはつまり中動態の世界を説明する概念に他ならない。」(P243)


 結論として、國分氏は、スピノザの言う能動と受動を考えると、「質」の問題として考えることができると、以下のように述べています。

「われわれの変状がわれわれの本質によって説明できるとき、すなわち、われわれの変状がわれわれの本質を十分に表現しているとき、われわれは能動である。逆に、その個体の本質が外部からの刺激によって圧倒されてしまっている場合には、そこに起こる変状は個体の本質をほとんど表現しておらず、外部から刺激を与えたものの本質を多く表現していることになるだろう。その場合にはその個体は受動である。」(P256)

「一般に能動と受動は行為の方向として考えられている。行為の矢印が自分から発していれば能動であり、行為の矢印が自分に 向いていれば受動だというのがその一般的なイメージであろう。それに対しスピノザは、能動と受動を、方向ではなく、質の差として考えた。」 (P257)

 

【これで「カツアゲ」が説明できる!】

 國分氏は、スピノザの説は「カツアゲ」の説明に役立つと、以下のように評価しています。

「これはきわめて説得力のある考え方と思われる。というのもわれわれは、行為していることが必ずしも能動であることを意味しないという事実をよく知っているからである。」(P257)
 
 カツアゲを、私達は能動とは言いません。

 しかし、「一般的な能動と受動の区別では、困っている人に義の心からお金を渡す行為と、脅されてお金を渡す行為をうまく区別できない」と國分氏は主張しています。なぜならば行為の方向はどちらも同じだからです。

 これに対して、スピノザのように、「能動と受動を、方向ではなく、質の差として考える」と、この事態を明確に説明できるのです。

 このことを、國分氏は以下のように述べています。

「困っている人に義の心からお金を渡す行為は、その人の本質が原因となって起こっている行為なので限りなく能動に近い行為と言いうるだろう。」(P257)

 

【能動と受動の度合い/純粋な能動にはなりえない】

 國分氏は「スピノザ倫理学の一つの注意点」として、以下のことを指摘しています。

「われわれはどれだけ能動に見えようとも、完全な能動、純粋無垢な能動ではありえない。外部の原因を完全に排することは様態には叶わない願いだからである。完全に能動たりうるのは、自らの外部をもたない神だけである。」
「だが、自らの本質が原因となる部分をより多くしていくことはできる。能動と受動はしたがって、二者択一としてではなくて、度合いをもつものとして考えられねばならない。(→ここにも、「中動態の視点」が入っているようです) われわれは純粋な能動になることはできないが、受動の部分を減らし、能動の部分を増やすことはできる。」(P258)


 以上は、「中動態の視点」から考えた、明快な論考になっています。中動態的思考には、的確な柔軟性、即応性があるということです。

 

【自由について】

 以下では、國分氏は、スピノザ哲学の再評価を試みています。この論考には、説得力があると思います。ということは、入試題材として魅了的ということです。熟読してください。

 「スピノザは自由意志を否定し、人がそれを感じるのは自らを行為へともたらした原因の認識を欠いているからだと説いた。そのためにスピノザはしばしば自由を否定する哲学者だと思われている。しかし実際は違う。」(P261)

 「スピノザによれば、自由は必然性と対立しない。むしろ、自らを貫く必然的な法則に基いて、その本質を十分に表現しつつ行為するとき、われわれは自由であるのだ。スピノザは、いかなる受動の状態にあろうとも、それを明晰に認識さえできれば、その状態を脱することができると述べた。」(P262)

 

【自由は認識によって、もたらされる】

 結論として、國分氏は、自由について、以下のように述べています。

自由を追求することは自由意志を認めることではない。中動態を論ずるなかで、われわれは何度も、自由意志あるいは意志の存在について否定的な見解を述べてきた。もしかしたら、その論述は読者に『「自由」』に対する否定的な見解を抱かせたかもしれない。」

 「だが自由意志や意志を否定することは自由を追い求めることとまったく矛盾しない。それどころか、自由がスピノザの言うように認識によってもたらされるのであれば、自由意志を信仰することこそ、われわれが自由になる道をふさいでしまうとすら言わねばならない。その信仰はありもしない純粋な始まりを信じることを強い、われわれが物事をありのままに認識することを妨げるからである。

 その意味で、われわれが、そして世界が、中動態のもとに動いている事実を認識することこそ、われわれが自由になるための道なのである。中動態の哲学は自由を志向するのだ。」(P263)

 

 最後の「われわれが、そして世界が、中動態のもとに動いている事実を認識することこそ、われわれが自由になるための道なのである。中動態の哲学は自由を志向するのだ」の部分は、確かに、私達の自己認識や他者理解の大きな助けになるでしょう。

 「能動/受動の二分法」の不当な拘束からの解放は、私達を、より自由な精神生活へと導くのでしょう。 

 「真の自由とは何か?」

 私達は、本書をきっかけに、再考するべきでしょう。

 

(4)國分功一郎氏の紹介・著書

國分功一郎(こくぶん・こういちろう)
1974年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。高崎経済大学経済学部准教授。専攻は哲学。

 

【著書】

『スピノザの方法』(みすず書房)、

『暇と退屈の倫理学』(朝日出版社。のち増補新版、太田出版。第2回紀伊國屋じんぶん大賞受賞作)、

『哲学の自然』(中沢新一との共著、太田出版)、

『ドゥルーズの哲学原理』(岩波書店)、

『来るべき民主主義──小平市都道328号線と近代政治哲学の諸問題』(幻冬舎新書)、

『社会の抜け道』(古市憲寿との共著、小学館)、

『哲学の先生と人生の話をしよう』(朝日新聞出版)、

『統治新論──民主主義のマネジメント』(大竹弘二との共著、太田出版)、

『近代政治哲学――自然・主権・行政』(筑摩書房・ちくま新書)、

『民主主義を直感するために』(晶文社)、

『中動態の世界――意志と責任の考古学』(医学書院。第16回小林秀雄賞受賞作)など。

 

 (5)当ブログにおける「哲学」関連記事の紹介

 

 哲学は国語(現代文)・小論文における入試頻出分野です。ぜひ、参考にしてください。

 

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 ーーーーーーー

 

今回の記事はこれで終わりです。

次回の記事は約1週間後に発表の予定です。

ご期待ください。

 

  

 

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中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)

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暇と退屈の倫理学 増補新版 (homo Viator)

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近代政治哲学:自然・主権・行政 (ちくま新書)

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

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5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

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 私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。

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『中動態の世界』國分功一郎/哲学/現代文・小論文予想出典(前編)

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 國分功一郎氏は、最近の入試頻出著者です。國分氏の論考は、最近、慶応大学(商学部)、中央大学、同志社大学、関西大学、獨協大学などの国語(現代文)・小論文で出題されています。
 従って、国語(現代文)・小論文対策として、國分功一郎の氏の論考・著書を読むことを、おすすめします。

 最近、当ブログでは、「予想問題『暇と退屈の倫理学』國分功一郎/消費社会・真の豊かさ」を発表しましたが、國分氏が今年に刊行した『中動態の世界』が、また素晴らしい名著です。

 従って今回は、「予想出典」として本書の紹介記事を発表します。

  

gensairyu.hatenablog.com

 

 『中動態の世界』は、最近のベストセラーになっています。

 本書は、ミステリーを越えた、皮肉的傑作スリラー風の、本格的な哲学書です。

 近代的常識や「べき論」の牢獄からの穏当な脱走を提案する、現代人救済のための哲学書です。

 丁寧に、分かりやすく記述されているので、難関大学を目指す受験生、高校生であれば、充分に楽しめることでしょう。高校生、受験生は、最低1冊は、國分功一郎氏の著書を読んでおくべきでしょう。

 バッハを聴いた後のような、爽やかな読後感に包まれる稀有な書です。すでに、古典の風格があります。私は世界レベルの書だと思っています。ぜひ、購入して、座右の書にしてください。

 入試のレベルで見ると、入試出典として採用されやすい論考には、一定のポイントがあります。未知のユニーク視点、日本語として美しい文、明快な論理構造などです。
 本書は、これらのポイントを充分に満たしています。最近でも、2016東大・一橋大現代文で本文的中、2017東大・大阪大学現代文、2017センター試験現代文で論点的中の実績のある私としては、本書は「入試題材」の宝庫と考えています。(→なお、各「的中報告記事」については、この記事の「(4)当ブログにおける「哲学」関連記事の紹介」、最後の部分にリンク画像を貼っておきますので、ぜひ、ご覧ください。)

 本書が、来年度以降の国語(現代文)・小論文問題として出題される可能性は、かなり高いと思われます。そこで、国語(現代文)・小論文対策として、今回は『中動態の世界』について予想出典(予想問題)記事を書くことにしました。

  『中動態の世界』は密度の濃い論考であり、「入試題材の宝庫」なので、今回の予想出典記事は、前編・後編の2回に分けて発表します。

 

 今回の記事の項目は、以下のようになっています。

(2)『中動態の世界』の解説

     ①『中動態の世界』という本のもくろみ・執筆のきっかけ

     ②  能動と受動をめぐる諸問題

     ③  中動態という古名

     ④  中動態の意味論

     ⑤  言語の歴史

     ⑥  尋問する言語

     ⑦  非自発的同意/カツアゲの問題

     ⑧  中動態と自由の哲学/中動態の世界に生きる

(3)國分功一郎氏の紹介・著書・訳書 

(4)当ブログにおける「哲学」関連記事の紹介

 

中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)

 

 (2)『中動態の世界』の解説

 今回の記事では、著者である國分功一郎氏のインタビューをまじえて、『中動態の世界』を解説していきます。

(引用部分は概要です)

(①~⑨は当ブログによる項目番号です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です) 

 

①『中動態の世界』という本のもくろみ・執筆のきっかけ

 まず、國分氏のインタビューでの発言を引用します。

 「僕が中動態を知ったのは大学生の頃です。聞いた瞬間に衝撃が走るような感じがあったことを覚えています。能動と受動で人間の行為を分類してしまう思考に対する疑問、その分類に付随する形で存在している意志や自発性、責任といった概念に対する疑問、自分の中にボンヤリと存在していたそれらの疑問が心の中ではっきり浮かび上がってきたような感覚だったのだろうと思います。

 そうした疑問は現代哲学の中では、むしろ、ありふれたものです。また、それらの疑問を中動態に結びつける学者も国内外を問わず結構いました。でも、彼らの書き物を読んでも全く納得できませんでした。それらはいずれも中動態について『能動態でも受動態でもない』ということ以上のことを何も言っていなかったからです。

 この本は今までいろいろな方が考えてこられたことの総合に過ぎません。これは謙遜ではなくて、僕は本当にそういう気持ちで取り組んだんです。『 能動態でも受動態でもない』という説明では不十分だということも言語学者バンヴェニストを読めば分かることです。しかし、バンヴェニストの議論をきちんと押さえた上で、先ほど述べた意志や責任の問題にまで言及している本があるかというと、全くないだから、各トピックについてのこれまでの研究の最良の部分を総合したというわけです。

 以上が『中動態の世界』(医学書院)という本のもくろみであるわけです。」

(國分氏の発言・特集「中動態の世界」『週刊読書人ウェブ』2017・6・29)


 國分氏は謙虚な発言をしていますが、私は、本書は野心作であり、労作であり、名著だと思います。

 上記の発言を読んだだけで、文法用語である中動態が、現代的な困難な哲学的課題をクリアするツールになりうる、ということが分かります。ここから、私たちは、ワクワクすることになります。

 

 次は、本書を執筆する「きっかけ」、本書と『暇と退屈の倫理学』との関連、についてです。

「『暇と退屈の倫理学』で人間には“ぼんやりとした退屈に浸っている”状態が大切だ、と主張した点が、アルコールや薬物などへの依存症の回復に有効なアプローチたり得る、と専門家や当事者から指摘され続け、とうとう本格的に『中動態』研究に乗り出す。」(國分氏の発言・『文春オンライン』2017・5・14)

 

 ②  能動と受動をめぐる諸問題

 以下の國分氏の発言を読むと、私たちの常識である「能動/受動の対立」が、実は、曖昧で危ういものであることが、分かります。「常識」というものの、一面のバカバカしさが分かります

「『謝る』や『仲直りする』は、まさしく、『する』と『される』の分類では説明できないものです。 

  『私が謝罪する』という文は能動態です。しかし、実際には私が能動的に謝罪するのではない。私がどれだけ自分の『能動性』を発揮しようとも、謝罪することはできません。なぜならば、自分の心の中に『私が悪かった』という気持ちが現れることが重要だからです。

 また『謝る』が能動として説明できないからといって、これを受動で説明することもできません。できないというか、それを受動で説明しようものなら、大変なことになってしまうでしょう(もちろん、謝罪会見では、多くの人が『私は謝罪させられている』と思っているでしょうが)。
 要するに、『する』と『される』、能動と受動の対立では、『謝る』という行為をうまく説明できないのです。『中動態の世界』では他にもいくつかの行為を分析していますが、これは『謝る』のような心に深く結びついた行為にのみ当てはまることではありません。」(國分氏の発言 | 現代ビジネス | 講談社)

 この発言について、國分氏は、本書の中で以下のように記述しています。来年度以降の入試に、そのまま出題されそうなので、精読を、おすすめします。

「私が『自分の過ちを反省して、相手に謝るぞ』と意志しただけではダメである。
 心の中に『私が悪かった』という気持ちが現れてこなければ、他者の要求に応えることはできない。そして、そうした気持ちが現れるためには、心のなかで諸々の想念をめぐる実にさまざまな条件が満たされねばならないだろう。
 謝罪する気持ちが相手の心のなかに現れていなければ、それを謝罪として受け入れることはできない。そうした気持ちの現れを感じたとき、私は自分のなかに『許そう』という気持ちの現れを感じる。私が謝るのではない。私のなかに、私の心のなかに、謝る気持ちが現れることが本質的なのである。」(P19)

 

 「謝ること」の本質について、鋭い考察が見られる論考です。説得力のある、分かりやすい記述になっています。

 

 次は、常識的には、能動態でしかない「歩く」という動詞についての分析です。読みごたえが、あります。

「  たとえば『歩く』という基本的行為ですら、ちょっと分析してみると、『私の身体において歩くという行為が実現されている』と説明しなければならないものであることが分かります。歩くという行為が実現するためには、実に多くの条件が満たされねばならず、したがって、『歩こう』という意志が歩くという行為を引き起こしているとはとても言えないからです。」(國分氏の発言 | 現代ビジネス | 講談社)

 

 以上の発言は、「能動/受動の二分法」についての私たちの常識を再考する、重要な内容を含んでいます。同内容のことについて、國分氏は、本書の中で以下のように記述しています。

「  私が歩く。そのとき、私は『歩こう』という意志をもって、この歩行なる行為を自分で遂行しているように思える。しかし、事はそう単純ではない。

 体には200以上の骨、100以上の関節、400の骨格筋がある。それらが繊細な連係プレーを行うことによって歩くことができる。私はそうした複雑な人体の機構を、自分で動かそうと思って動かしているわけではない。

 実際、あまりに複雑な人体の機構を、意識という一つの司令塔からコントロールすることは不可能であり、身体の各部は意識からの指令を待たず、各部で自動的に連絡をとりあって複雑な連携をこなしていることが知られている。」(P 17 )

 

 この興味深い論点については、國分氏は、さらに続けて、以下のように述べています。

「  さらに、歩こうという意志が行為の最初にあるかどうかも疑わしい。
 脳内では、意志という主観的な経験に先立ち、無意識のうちに運動プログラムが進行している。しかもそれだけではない。意志の現れが感じられた後、脳内ではこの運動プログラムに従うとしたら身体や世界はどう動くのかが『内部モデル』に基づいてシミュレートされるのだが、その結果としてわれわれは、実際にはまだ身体は動いていないにもかかわらず、意志に沿って自分の身体が動いたかのような感覚を得る。どのようにして起こっているのかわからないことに対して、自分の意志によってのみ、なしているという表現は妥当ではない。それよりは『(さまざまな必要条件が満たされつつ)私のもとで歩行が実現されている』と表現されるべきである。」(P20)

 

 以上の論考は、かなり緻密な論理構成になっています。このような緻密性は、難関大学の入試問題作成者が好むポイントです。

 この部分は出題の可能性が高いので、熟読しておくべきでしょう。

 

 以下の部分では、國分氏は、再び、「能動/受動の二分法」の曖昧性を主張しています。

「『私は歩く』という表現は能動態に属する。しかし、今、見たように能動性のカテゴリーに収まりきらない能動態でないのであれば対する受動態なのか。『私が歩く』を『私は歩かされている』と言い換えられるとは思えない。」(P 21)

 

 以下では、「能動/受動の二分法」と「意志・責任」の「密接な関係」についての記述が展開されます。本書の最重要部分です。大げさに言えば、この世の中の隠されたスリラーについて、冷静に記述されています。

「 『能動と受動の区別』は、すべての行為を『する』か『される』かに分配することを求める。しかし、この区別は、以上のことを考えてみると、非常に不便で不正確なものだ。だが、それにもかかわらず、われわれはこの区別を使っている。そしてそれを使わざるをえない。どうしてなのだろうか。」(P21)

「  能動/受動の区別の曖昧さとは、要するに、意志の概念の曖昧さなのではないか? 一方、能動や意志という概念は実に都合よく使われるものである。」(P24~26)

 

 上記の「能動や意志という概念は実に都合よく使われるものである」については、以下のように説明しています。

「  能動における『する』という行為の出発点は『私』にあり、また『私』こそがその原動力であることを強調する。だから、そこには『意志』の存在が喚起されてくる。そして、自分の『意志』で自由に選択した行為であるからには、そこには『責任』が伴ってくることにもなる。」(P22)

「  責任を負うためには人は能動的でなければならない。人は能動的であったから責任を負わされるというよりも、責任あるものと見なしてよいと判断されたときに、能動的であったと解釈されるということである。意志を有していたから責任を負わされるのではない。責任を負わせてよいと判断された瞬間に、意志の概念が突如出現する。

  『夜更かしのせいで授業中に居眠りをしているのだから、居眠りの責任を負わせてもよい』と判断された瞬間に、その人物は、夜更かしを自らの意志で能動的にしたことにされる。

 つまり、責任の概念は、自らの根拠として行為者の意志や能動性を引き合いに出すけれども、実はそれらとは何か別の判断に依拠しているということである。」(P25・26)

 

 「能動態」→「意志」→「主体性」→「責任」の流れは、極めて論理的に見えます。

 しかし、立ち止まって考えてみれば、詭弁のような怪しさに満ちた、胡散臭い言葉の構築に過ぎないのではないでしょうか。

 この点について、國分氏は、以下のように、説明しています。短い文章ですが、衝撃的な内容を含んでいるようです。

「  意志の概念が引き合いに出されたり、行為が能動と受動に振り分けられることには、一定の社会的必要性があることを意味している。」(P29)

 

 上記の文章は、読んでいて、ゾッとする内容です。「能動性と責任の密接な関係」、「主体性のリスク」が、よく分かります。以下の文章と合わせて読むことで、より理解が進むでしょう。

「  能動と受動の区別は、責任を問うために社会がある必要とするものだった。だが、社会的必要性はこの区別を単に想定し、要請しているのであって、それを効果として発生させているのではない。」

「  この区別はふだん、われわれの思考の中でまるで必然的な区別のあるかのように作用している。従って、この区別の外部を思い描くことは容易ではない。われわれは能動でも受動でもない状態をそう簡単には想像できない。」(P 32・33)

 まさに、スリラーです。日本の学校教育の強固さ、徹底性が、よく分かります。
 言語や文法が、権力による制度的支配の、見えない、隠された道具のように見えます。
 言語の法則に過ぎないと思われている文法が、責任の基礎にあること。

 このことは、驚きでしか、ありません。

 以下の文章は、この「驚き」を、私たちの脳に定着させる働きがあるようです。

「 言語が思考を規定するのではない。言語は思考の可能性を規定する。つまり、人が考えうることは言語に影響されるということだ。これをやや哲学っぽく定式化するならば、言語は思考の可能性の条件であると言えよう。」(p111)

 

 私たちは自由に思考するように思っていますが、実は、文法に支配されているということです。思考は言語の組み合わせにより構築されるのですから、このことは当然のことなのです。日々、意識していないだけです。そして、自由だと思いこんでいるだけです。

 

 さて、以下の文章から、さらに、「新たな驚き」の事実が明らかになります。丁寧に読んでください。「哲学的な覚醒のスタート」です。

「  フランスの言語学者バンヴェニストがはっきりと述べていることだが、能動と受動の対立というのは、一度これを知ってしまうとそれ以外のものが認められなくなるほどに強力だけれども、少しも普遍的なものではない。バンヴェニストは『多くの言語が能動態と受動態の対立を知らないし、そもそも、インド=ヨーロッパ語族の諸言語の歴史においても、この対立は比較的最近現れたものなのだ』と述べている。」(P34)

 

③  中動態という古名

 これからは、「中動態」の説明になります。

 本書から引用します。

「  能動態と受動態の区別が新しいものであるとはどういうことかと言うと、かつて、能動態でも受動態でもない『中動態 』なる態が存在していて、これが能動態と対立していたというのである。すなわち、もともと存在していたのは、能動態と受動態の区別ではなく、能動態と中動態の区別だった。」(P34)

「  受動態はずいぶんと後になってから、中動態の派生形として発展してきたものであることが比較言語学によって、すでに明らかになっている。」(P41)

 

 またも、ここで、衝撃の事実が告げられています。

 「中動態」とは、能動態と受動態の「中間の態」という意味です。

 日常、私たちは「能動/受動」で文章を把握しています。この対比は、主語(主体)の存在を前提としています。そして、そこから「意志」や「責任」の問題が発生しています。

 一方で、中動態という態は、能動と受動の間にあると錯覚しがちですが、実は、そうではない可能性が、本書で指摘されています。

 つまり、「責任の明確化」という観点から中動態は徐々に排除され、「能動態と受動態との対立」へと変化して行った可能性があるのです。

 本書、『中動態の世界』は、前記の「①『中動態の世界』という本のもくろみ・執筆のきっかけ」の國分氏の発言から分かりますが、その「中動態の実体」を、実証的に検証していこうとする壮大な意図を有しています。


 すなわち、本書によると、「能動態と受動態」のほかに中動態があったのではないのです。

  「能動態と中動態の対比」がもともと存在していたが、その後、受動態が中動態から発展し、中動態に、とって変わったという歴史的経緯があったのです。そして、中動態は、動作の結果が主体のもとにとどまるような行為などに部分的に用いられたらしいのです。
 このことの本質は、「能動/受動の二分法」が常識化している現代人には、理解不能に近いでしょう。


  「同じ『能動態』であっても、対比の相手が受動態の時と中動態の時では意味も変わる。つまり、文法が違うということは、世界観そのものが違うということなのである」と國分氏も、本書で述べています。

   「中動態の実相」については、以下で説明していきます。

 

④  中動態の意味論

 本書によると、

「主体から発して主体の外で完遂する過程」として、「能動態しかない動詞」として挙げられているのは、「曲げる」「食べる」「与える」などです。

 一方で、「主語がその動作主である過程の内部にいる」として、「中動態しかない動詞」として挙げられているのは、「生まれる」「死ぬ」「寝ている」などです。(P86)

 

 この点については、國分氏の発言を参照すると、より分かりやすくなるでしょう。以下に引用します。
「たとえば『曲げる』というのはこの対立(→「能動/中動」の対立)言うと、能動に対応します。『曲げる』という過程は主語の外で完結するからです。それに対し、たとえば『反省する』というのは主語の内で起こる過程です。『惚れる』とかもそうです。中動態は僕らが知っている能動/受動の対立ではうまく説明できない事態をうまく説明してくれます。『惚れる』というのは能動でも受動でもない。単に誰かを好きになってしまう過程あるいは出来事が主語の中で起こっているだけです。中動態はこういう事態を実にうまく説明してくれる。」(特集「中動態の世界」 第二部 「失われた「態」を求めて」國分功一郎講演『週刊読書人ウェブ』2017・6・29)


 「主語が、過程の内にあるか外にあるか」がポイントになっています。(P88)

 本書を元に解説します。
 中動態が指し示していたのは、「主語が過程の内部にある」状態です。中動態のみをとっていた動詞、たとえば「できあがる」「惚れ込む」「希望する」などは、どれも、生成の過程、感情に突き動かされている過程、未来に期待している過程を表しています。

 逆に能動態のみをとっていた動詞、たとえば「行く」や「食べる」は、「行ってしまう」や「平らげる」といったニュアンスを持ち、主語が完結した過程の外部にいる状態を表していました。(P88・89 )

「中動/能動」という対で語られる時、問題になるのは「過程の内か外か」でした。


 ここで、古代ギリシアに「意志」という概念はなかった、という衝撃の事実が、明らかにされてます。

 中動態の動詞「生まれる、思われる、現れる」は、自由な意志による主体的な行為ではない、ということです。そして、「能動/受動の対」で人間の行動を判断しようとする思考が、中動態的思考を抑圧した可能性が明らかにされます。


「中動態と対立するところの能動態においては、ーーこう言ってよければーー主体は蔑ろにされている。『能動性』とは単に過程の出発点になるということであって、われわれがたとえば『主体性』といった言葉で想像するところの意味からは著しく乖離している」 (P91)

 

 能動態と中動態の対立が、能動態と受動態の対立に転じたということは、意志の有無が問題にされるようになったことを意味します。つまり、「能動/中動」が対立する世界には、「意志」は存在しなかった。つまり、古代ギリシアには、アリストテレスの哲学には、「意志」の概念はなかったのです。

 

重要なことなので、本書から引用します。

「  アレントによれば、ギリシア人たちは意志という考え方を知らない。彼らは意志に相当する言葉すらもたなかった。ギリシアの大哲学者アリストテレスの哲学には、意志の概念が欠けている。」(P100)

 

 上記の赤字部分は、本当に衝撃的な内容です。

 すぐには、信じられないような内容です。しかし、事実なのです。

 何と言うことでしょう。主体性についての近代的常識は、ここで、大きく揺らぐことになります。そして、私たちは、「主体性」とは何かのための罠ではないか、と疑問視し始めるのです。

 

⑤  言語の歴史

 なぜ、言語世界から中動態は消え、「能動/受動の対立」が支配的になったのか。

 國分氏は、「『能動/受動の対立』が支配的になったことは、『出来事を描写する言語』から『行為者を確定する言語へ』という、『言語の移行の歴史の一側面』なのではないか」と述べています。(P175・176)

 このことに関連して、以下のことも述べています。

「 1万年以上にも及ぶ言語の歴史を俯瞰すると、文法体系上、先にできたのは名詞で、動詞はそのあとに発達した。さらに、人称は非人称(三人称)が先にでき、一人称や二人称はそのあとに発達した。
 動詞とは、行為を行為者に帰属させることを求める言語であり、行為の帰属先に要求されるのが『意志』である。」(P175)

「  おそらく、いまに至るまでわれわれを支配している思考、ギリシアに始まった西洋の哲学によってある種の仕方で規定されてきた この思考は、中動態の抑圧のもとに成立している。」(P120)

 

⑥  尋問する言語

 本書の中で、著者は、「能動/受動の対立」を際立たせる現在の言語を「尋問する言語」と呼んでいます。

「その言語は行為者に尋問することをやめない。常に行為の帰属先を求め、能動か受動のどちらかを選ぶよう強制する。」(P195)


 まさに、「オール・オア・ナシング」の世界です。

 警察による取り調べをイメージします。「能動/受動の二分法」自体が警察的役割を担っているようです。私たちが日々、不可思議な疲労感を感じる原因の中には、このことがあるのかも知れません。

 

⑦  非自発的同意/カツアゲの問題

 以下では、「非自発的同意」の問題を解説します。

 國分の発言を引用します。
「力に怯え心ならずも従うーーカツアゲや性暴力・各種ハラスメントで顕著ですが、非自発的同意という事態が日常にはゴロゴロある。能動性、受動性という概念にうまく当てはまらない状況です。」(國分氏の発言・『文春オンライン』2017・5・14)

 

    本書では、「銃で脅迫されて、ポケットから財布を取り出す行為は能動か受動か?」(P142~158)ということが論点化されています。

 ハンナ・アレントによると「アリストテレスの哲学なら能動になる」ということです。「私が暴力によって脅されてはいるものの、物理的には強制されずに行った行為」だからです。

 確かに、「財布を出さない」ということを能動的に選択できる余地が、論理的には残されてはいます。しかし、現実的に、その余地はあるのでしょうか?

 ここで、「私が暴力によって脅されてはいるものの、物理的には強制されずに行った行為」の中に、もう一つ概念が必要だったことがわかります。それが「同意」です。この場合の行為には、自発性は存在しないが「同意」は存在しているのです。(P142~158)

  「強制ではないが自発的でもなく、自発的ではないが同意はしている。そうした事態は日常的に多くみられる」のです。(P158)

  「自分はカツが食べたいが、仲間が蕎麦にしようというから仕方なく蕎麦屋に行く」という場合などが、これに当たります。

「強制か自発か、つまり能動か受動か、ではなく能動と中動の対立する事態を枠組みとして設定すれば、事態が分かりよくなる。」(P 158)と、國分氏は述べています。

 つまり、すべての行為を「能動/受動の区別」に無理に当てはめる必要はない、それでは、実態を把握できないと、主張しているのです。妥当な見解だと思います。

 

   「能動/受動という対立図式」は、ある行為を誰に帰属させるべきかという問い、すなわち意志の問題を前景化します。

 では、中動態の概念を再構成することで何がわかるのでしょうか。

 今でも、私たちは、「能動/受動の二分法」に対応しない「中動態の世界」に生きているのです。中動態の概念を再構成することにより、存在しているけれども、存在していないことになっている世界が、浮かび上がるのです。明解化されるのです。

 

 ⑧中動態と自由の哲学/中動態の世界に生きる

 本書の後半部では、國分氏は、アレント、ハイデッガー、ドゥルーズ、デリダ、スピノザらが注目した「中動態」的問題の哲学的意義を、みずからが明確化した「中動態的発想」を基礎にして、果敢に検証しています。 

 そして、「内面的自由」へと向かうコースを提示していきます。

  『中動態の世界』は、私たちを「近代の主体性」の「幻想と呪縛」から覚醒させることを意図して書かれた書です。現代社会の中で硬直した私たちの思考を、心地よく「尋問する言語」より解放してくれます。

 この「尋問する言語」は、常に、自分自身をも尋問していることを意識してください。自分を拘束している「他者」は、自分自身なのです。

 

 國分氏は本書の冒頭でアルコールや薬物の依存症における「意志」概念の問題性を対話の形で記述しています。中動態の再認識や再評価は、それらの依存症の治癒にも寄与できる可能性があるようです。

 さらに、中動態的発想は、普遍的な価値があると思います。中動態の世界に生きる方が、より自然に、人間らしく生きられるような気がします。皮肉なことに、「主体性」に不必要にこだわることが、かえって、人間を息苦しくさせるのでは、ないでしょうか。

 國分氏は、以下のように述べています。

「  責任の観念と結びついている以上、能動と受動の区別を易々と捨て去ることはできません。しかし、この区別が決して普遍的ではないこと、それどころか、かなり不便なものであることもまた事実です。」(國分氏の発言 | 現代ビジネス | 講談社)

「  過去や現実の制約から完全に解き放たれた絶対的自由など存在しない。逃れようのない状況に自分らしく対処していくこと、それが中動態的に生きることであり、スピノザの言う“自由”に近付くこと。僕はこの本で自由という言葉を強調したかった」(國分氏の発言・『文春オンライン』2017・5・14)


 本書の最後で、國分氏は以下のように述べています。

 私たちは、この言葉を何度も噛みしめるべきでしょう。

「  たしかにわれわれは中動態の世界を生きているのだから、少しずつその世界を知ることはできる。そうして、少しずつだが自由に近づいていくことができる。これが中動態の世界を知ることで得られるわずかな希望である。」(P294)


 「中動態」を意識することで、近代になってからこれまでの、「意志」・「主体性」・「自己」の過大評価を見直すことができます。肩から力を抜いた生き方を、自信を持って送ることができます。伝統的な生き方を知ることができたからです。

 この点について、より良く考えたい人には、本書と『暇と退屈の倫理学』を合わせて読むことを、おすすめします。

 ここで、字数がリミットになりました。次回は、本書『中動態の世界』の後半部を中心に、現代文・小論文入試で出題されそうな部分を解説する予定です。

 

(3)國分功一郎氏の紹介・著書・訳書 

國分功一郎(こくぶん・こういちろう)
1974年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。高崎経済大学経済学部准教授。専攻は哲学。

【著書】

『スピノザの方法』(みすず書房)、

『暇と退屈の倫理学』(朝日出版社。のち増補新版、太田出版。第2回紀伊國屋じんぶん大賞受賞作)、

哲学の自然』(中沢新一との共著、太田出版)、

『ドゥルーズの哲学原理』(岩波書店)、

『来るべき民主主義──小平市都道328号線と近代政治哲学の諸問題』(幻冬舎新書)、

『社会の抜け道』(古市憲寿との共著、小学館)、

『哲学の先生と人生の話をしよう』(朝日新聞出版)、

『統治新論──民主主義のマネジメント』(大竹弘二との共著、太田出版)、

『近代政治哲学――自然・主権・行政』(筑摩書房・ちくま新書)、

『民主主義を直感するために』(晶文社)、

『中動態の世界――意志と責任の考古学』(医学書院。第16回小林秀雄賞受賞作)など。


【訳書】

デリダ『マルクスと息子たち』(岩波書店)、
コールブルック『ジル・ドゥルーズ』(青土社)、
ドゥルーズ『カントの批判哲学』(ちくま学芸文庫)、
オンフレ『ニーチェ』(ちくま学芸文庫)など。

【共訳】

デリダ『そのたびごとにただ一つ、世界の終焉』(岩波書店)、
フーコー『フーコー・コレクション4』(ちくま学芸文庫)、
ガタリ『アンチ・オイディプス草稿』(みすず書房)などがある。

 

(4)当ブログにおける「哲学」関連記事の紹介


 入試国語(現代文)・小論文においては、哲学の一定レベルの理解が不可欠です。積極的に取り組むようにしてください。

 

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ーーーーーーー

 

今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

ご期待ください。

 

  

 

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中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)

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暇と退屈の倫理学 増補新版 (homo Viator)

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僕らの社会主義 (ちくま新書 1265)

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

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5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

 

 

 私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。

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注目図書『私たち、戦争人間について』『キリスト教と戦争』石川明人

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 現代は、戦争の危機が切迫してきている時代です。このような時こそ、単に「平和」を祈るだけではなく、「戦争」・「平和」について、より具体的に主体的に考えるべきでしょう。

 この問題を考察するきっかけとなる良書(『私たち、戦争人間について: 愛と平和主義の限界に関する考察』石川明人)が最近、発行されたので、注目図書、予想出典として、今回の記事で紹介します。

 難関大学の入試国語(現代文)・小論文対策において、要注意です。

 『私たち、戦争人間について』は、石川氏の今までの著作を踏まえた戦争論エッセイです。内容的には、戦争論、平和論、戦争哲学、宗教学、軍事学などに関する良質な論考になっています。難関大学が、現代文・小論文の入試問題の題材として興味を示すはずです。今回のこの記事を熟読することは、効果的な入試対策となるでしょう。

 

 本書の概要については、「〈激動する世界と宗教〉戦争論 人間の矛盾と限界と」 (石川明人・桃山学院大学准教授・2017年9月13日・朝日新聞・夕刊)のインタビュー記事が、かなりカバーしています。

 そこで、今回の記事では、石川氏の他の著作も参照しながら、このインタビュー記事の内容を詳説していきます。

 

 今回の記事の項目は、以下のようになっています。

(2)「〈激動する世界と宗教〉戦争論 人間の矛盾と限界」(石川明人・桃山学院大学准教授・2017年9月13日・朝日新聞・夕刊)の解説

(3)「人間の『ダークな側面』、戦争と平和は連続しているのではないか、人間の矛盾や限界」について

(4)「人間ならではの営み、文化としての戦争」について

(5)「宗教は時に戦争に関わる」点について

(6)平和運動はどうあるべきか?

(7)石川明人氏の紹介

(8)当ブログにおける「平和主義」関連記事の紹介

(9)当ブログにおける「キリスト教」関連記事の紹介

 

私たち、戦争人間について: 愛と平和主義の限界に関する考察

 

(2)「〈激動する世界と宗教〉戦争論 人間の矛盾と限界」(石川明人・桃山学院大学准教授・2017年9月13日・朝日新聞・夕刊)の解説

(概要です)

(【1】・【2】・【3】・・・・は当ブログで付記した段落番号です)

(青字は当ブログによる「注」です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(以下、同じです) 

まず、今回のインタビュー記事の概要を引用します。

【1】私たちは戦争や暴力に反対して「平和」を叫ぶ。しかし心の奥ではどうだろうかーー。桃山学院大学で「戦争学入門」を教えている石川明人准教授が『私たち、戦争人間についてーー愛と平和主義の限界に関する考察』(創元社)を著した。自分の「ダークな側面」を直視することから、平和を問い直そうと語りかける。

【2】本は、こんな告白から始まる。「人を殺すのは、きっと簡単だ。(中略) きっと私も、特殊な状況に置かれたら、底知れぬほど凶暴な振舞いを平気でしてしまえるのではないか、と思うことがある。自分がどこまで『平和主義者』でいられるか、正直なところ、あまり自信がない

 その言葉に続き、1994年にルワンダで起きた大虐殺が紹介される。多数派民族が少数派を、約100日間で80万人殺害したとされる事件だ。ほとんどは鉈(なた)やこん棒を使い、一人ひとり殺された。

 虐殺や戦争は「狂気」ということで片付けられるのか。自分の理性や道徳感覚はどこまで信頼できるだろうか。戦争や平和は連続しているのではないか。そうしたことを読者に繰り返し、問うている。

【3】石川氏の大学の授業計画には「この授業では、人間ならではの営み、すなわち文化として『戦争』『軍事』を捉え、考察する」とある。「文化としての戦争」について、石川氏は、以下のように述べています。

「意識的に準備して、過去からの経験を基に、より良いものにしようとし、継承する。その意味で、芸術などの文化とまったく同じです。戦争を肯定しているわけではありません。戦争や軍事が文化じゃないとしたら、人間の本能だから仕方ないということになる。健全な平和観の促進につなげるためには、戦争や軍事をタブー視しないことが大事じゃないでしょうか

【4】石川氏は戦争や軍事を通じて「人間とは何か」を考えてもらいたいと語る。 

「戦争では、人間はここまでクズになれるのかということが起きます。同時に、人間の勇気や自己犠牲が発揮される。人間の『わけの分からなさ』が再確認できます。人間について考察するのに、これほど有効な糸口はありません」

【5】自身はキリスト教徒。宗教学を軸足に、戦争論にも射程を広げていった。宗教は時に、戦争や暴力に関わる。「宗教は命を大切にするはずなのに」という声に対しては、こう説明する。

「宗教は『良く生きること』を説き、単に生存することを重視するわけではない。宗教が尊重するのは『条件付きの命』。そうであれば条件付きで戦争をしても不思議ではないのです

【6】では、平和運動は、どうあるべきか?

「よく、ラブ&ピースみたいなことを言いますね。でも世界を平和にするような愛とは、見ず知らずの人も大切にしたり許したりするレベル。そんな愛は無理でしょう。世界中の人と愛し合えると思えるなんて、逆に危うい認識のような気がする。愛の不可能性を正直に認めることから始めるべきではないでしょうか

 

ーーーーーーーー

 

(当ブログによる解説)

 このインタビュー記事は、『私たち、戦争人間についてーー愛と平和主義の限界に関する考察』の内容の概要になっています。

 ただし、石川氏の発言は、少々衝撃的で、日本人の一般常識に反するようです。このことは、このインタビュー記事だけでは、石川氏の主張の全容が分かりにくいという側面も、あるようです。そこで、以下では、

①【1】・【2】・【4】段落→人間の「ダークな側面」、戦争と平和は連続しているのではないか、人間の矛盾や限界

②【3】段落→人間ならではの営み、文化としての戦争

③【5】段落→「宗教は時に戦争に関わる」点

④【6】段落→平和運動はどうあるべきか

の各項目について、『私たち、戦争人間について』のほかに、石川氏の他の著書をも参照しながら詳説していきます。

 

 (3)「人間の『ダークな側面』」、「戦争と平和は連続しているのではないか」、「人間の矛盾や限界」について 

 ① 「人間の『ダークな側面』」について

 石川氏のルワンダ虐殺に関する発言について、補足します。

 この事件は、銃や爆弾ではなく、人が原始的にナタ・棍棒を使う方法で、約100日間で80万人が殺された事件です。人間はこれほど残酷になり得るもので、殺人者は別段「狂っていた」わけでもなく、普通に正気を保ちながら殺人を遂行したのです。殺人者には聖職者も含まれていました。

 石川氏は、『私たち、戦争人間について』の中で、このような事実を指摘して、「人を殺すことは簡単だ」と述べているのです。 

 

② 「戦争と平和は連続しているのではないか」という点について

 このことについては、『キリスト教と戦争』の中で、石川氏は同趣旨のことを述べているので、以下に、その概要を引用します。なかなか鋭い指摘であると、私は思います。


「多くのキリスト教徒は、『平和、平和』と口にするが、およそ人間の口から叫ばれる平和とは、ほとんどの場合、誰かにとって都合の良い『秩序』に他ならない。それは誰かによって作られ、誰かによって維持されるしかないものである。ほとんどの場合、『戦い』は平和のためにと思ってなされるのであるから、平和を望む気持ちと、戦いを決断する気持ちとの間に、根本的な違いはないのである。戦争についての問いは、人間の本性についての問いであり、戦争観とは人間観の応用に他ならないと言ってもよいだろう。」(『キリスト教と戦争』)(P212)


 石川氏は、『戦争は人間的な営みである』の中でも視点を変えて、同様のことを力説しています。この主張にも、深い思索が感じられます。以下に引用します。ぜひ、熟読してください。


「人間は、ただ食って、寝て、子供を残すだけでは満足できない生き物である。『正しく生きる』『快適に生きる』『美しく生きる』ことを求める。愛とか正義とか平和とか理想といったものにこだわるからこそ、『この社会を正しくせねばならない』と思うわけであろう。

 そうした思いが通常は政治運動や社会運動へと結びつくが、時にはさらに、戦争やテロへと結びつく。そういう意味で、やはり戦争と平和は、正反対のものではなく、むしろ同じ地平にあるものだと考えられねばならない。」 (『戦争は人間的な営みである』)


 次の引用も『戦争は人間的な営みである』からです。「キリスト教の殉教」を思考の出発点にしていますが、「戦争の本質」についての論考です。私は、卓見だと思います。この部分を何度も読み返すためだけでも、この本を購入する意味があります。


「多くの一般のキリスト教徒たちは、信仰深い殉教者たちに対して『あいつは自分の命を粗末にした』とは言わない。なぜならば『命よりも大切なものがある』ことを知っているからである。

 命が大切であることは誰もが知っているが、しかしそれでも人間は、『意味の喪失』あるいは『意味の獲得』によって、死を選択し、死を受け入れることがある。

 何らかの意味での『愛情』、あるいは『真心』があるからこそ、人間は命をかけて戦うことができてしまう、戦争を正当化できてしまうのだ。そこに、悲劇の本質があると考えるべきである。」 (『戦争は人間的な営みである』)

 

③ 「人間の矛盾や限界」について

 『私たち、戦争人間について』の「序章」には「人間の矛盾や限界」について、素朴で鋭い記述があります。以下に引用します。


「私たちは、戦争や暴力はいけないと口にして、『平和、平和』と叫んでいる。だが、本当に私はたちは、心の底から『平和主義者』でありたいと思っているのだろうか。

 現に、これまで人間は、愛とか平和とかを口にしながら、恐ろしいこと、おぞましいことをやってきた。人類の平和を祈りましょう、と言っている一方で、学校や職場では誰かと対立していることも珍しくない。

 

 『戦争は人間的な営みである』にも「人間の矛盾」についての、鋭い指摘があります。以下に引用します。言われてみれば、確かに、その通りで、感心してしまいます。
「平和を愛し、暴力を嫌う日本人の多くが、今でも忠臣蔵の物語を好むのはなぜだろうか。正義の味方が悪の組織と戦うアニメやドラマを、何の躊躇もなく子供たちに見せるのはなぜだろうか。」

 

 以上の2つの指摘は、まさに人間の矛盾です。人間は、特に日本人は、「武器」「兵器」「暴力」に関して無神経な言語表現をするようです。例えば、野球界では、平然と、1番打者を「切り込み隊長」、4番打者を「主砲」「巨砲」と表現しています。私は、以前から違和感を感じていましたが、今だに変わらないので、多くの日本人は何も感じていないのでしょう。

 以下に引用する石川氏の主張は、かなり本質的・根源的な論考です。読んでいて、思わず考えさせれられます。見事な内容です。


「人間は平和を祈りながら戦争をし、戦争をしながら平和を祈る。この矛盾に見えるものが、まさに現実の人間の姿であり、私たちが営む戦争の一側面なのである」

「『純然たる悪意』のみによって、何十万、何百万もの人間を、破壊や殺人に駆り立てることはできない。戦争は『悪意』よりも、むしろ何らかの『善意』によって支えられているのである。

 この世の『悪』が、すべて純然たる悪意のみから生まれているならば、この世の中の出来事はもっとわかりやすいものになっているはずである。善意からも悪が生じうるという人間的宿命を、もっと素直に見つめなければならない。

 警戒すべきなのは、あからさまな悪ではなく、むしろ浅薄な善意なのである。われわれが見つめるべきなのは、ある種の善意が戦争や暴力を正当化するという、人間の痛切な矛盾そのものなのである。」(『戦争は人間的な営みである』)

 

(4)「人間ならではの営み、文化としての戦争」について

 この点については、『私たち、戦争人間について』の第3章「戦争に役に立つ技術と知識」に、詳しく記述があります。

 戦争に不可欠な道具というと、兵器・武器のみをイメージすることが普通です。しかし、実際上は、戦争遂行には広範囲の用具・知識・技術が必要になります。このことについて説明している部分を、以下に引用します。

「戦争のための道具作りにおいては、どんなアイディアも許され、求められる。戦争はもちろん破壊的行為であるが、戦争ほど創造的な舞台はないのも事実だ。
 一方、武器や兵器といったものを、強く嫌悪する平和主義者たちも少なくない。武器があるから戦争が起きるのだ、持っていれば使いたくなるのが当然だ、という意見がある。高価な兵器を作ったり買ったりするのをやめて、その予算を福祉や教育にあてるべきだ、という声も耳にする。だが、そもそも、何が「武器」で何が「武器」ではないのだろうか。
 軍隊では、その時代に存在するすべてのモノや知識が活用される。したがって、あるモノや知識について、どこまでは軍事と『無関係』で、どこからが『間接的』に軍事的であり、どうなったら完全『軍事』だと判断されるのかは、最終的には恣意的なものでしかない。
 こうした『境界』が曖昧だという話は、もちろん軍事に限ったものではなく、他のさまざまな分野においても見られるだろう。だが、戦争や軍事ほど、一般の人たちが『自分はそれに関わっていない』と思いたがるものもない。
 戦争は悪である、と教育されるあまり、ふだん私たちは、自分の持っている能力が戦争に役立ち得るとは考えたがらない。みな自分だけは、平和主義者でいたいのだ。しかし、私たちが持っているあらゆるモノや、技術や、知識は、何らかの形で軍事に貢献する可能性を常に持っている。」(『私たち、戦争人間について』)


 つまり、戦争とは、国家の存立と各人の生命をかけて戦うものなので、その時点で人間の文明の最先端の成果が総動員されるのです。その意味で、あらゆる産業が「軍需産業」とも評価できるのです。さらに言えば、私たちは何らかの形で「軍事」に関与しているとも言えるのです。

 

(5)「宗教は時に戦争に関わる」点について

 この問題に関しては、『キリスト教と戦争』が詳しく論じています。

 まず、本書の内容の説明をします。

 以下は「BOOK・データベース」からの引用ですより)

世界最大の宗教、キリスト教の信者は、なぜ『愛と平和』を祈りつつ『戦争』ができるの? 殺人や暴力は禁止されているのではなかったか? 本書では、聖書の記述や、アウグスティヌス、ルターなど著名な神学者たちの言葉を紹介しながら、キリスト教徒がどのように武力行使を正当化するのかについて見ていく。平和を祈る宗教と戦争との奇妙な関係は、人間が普遍的に抱える痛切な矛盾を私たちに突きつけるであろう。


  『キリスト教と戦争』の「前書き」冒頭には、以下のように、非キリスト教徒の素朴な疑問と、石川氏による一応の解説が記述されています。


「なぜ、キリスト教徒は『愛』と『平和』を口にするのに、戦争をするのだろうか。それに対する答えはどうしても言い訳じみたものになりがちである。たとえば、『キリスト教徒がこれまで多くの戦争をしてきたのは事実だが、それはその時のキリスト教徒の過ちであって、キリスト教そのものが好戦的なのではない』とか、『わたしたちが信じているのは、戦争をしてきたキリスト教徒ではなく、愛を説くイエス・キリストである』とか『戦争を繰り返してきたこと自体、罪深い私たちが神を必要とする何よりの証拠である』と。
 このような返答では、ほとんどの非キリスト教徒の方々は、納得できないだろう。」
 「キリスト教というと平和主義のイメージが強く、『右の頬(ほお)を打たれたら左の頬も差し出せ』というようなイエスの有名な言葉を知っている人も多いだろう。しかし、キリスト教国家である欧米は決して「平和主義」ではなかったのです。むしろ、古来好戦的な傾向が強かったことは、十字軍や帝国主義などの歴史を見れば明白です。」

 

 第1章では、現在のローマ・カトリックは、一応は平和主義ではあるが、正当防衛と見なされる場合には戦争を否定していないという事実が述べられています。

 キリスト教は決して、無抵抗主義、絶対的平和主義を採用しては、いないのです。このことは、日本人が、ぜひ知っておくべきことです。

 キリスト教が大筋で、絶対的平和主義を採用していないことについては、石川氏は、以下のように、『キリスト教と戦争』の中で詳しく説明しています。   

 

「21世紀現在でも、絶対平和主義と正戦論(→「戦争」を「正当な戦争」と「不当な戦争」とに区別して,「正当な原因をもつ戦争」だけを合法と認める理論)との間ではさまざまな議論がなされている。キリスト教信仰に基づいた絶対平和主義者の声も、決して小さいわけではない。しかし、キリスト教主流派の歴史においては、やはり条件付きで戦争を肯定するのが基本的なスタイルとして引き継がれてきたのである。そうした思想は、5世紀にはすでに明らかな形で現れ、13世紀以降はある種の権威・伝統さえ有するようになって現在にいたっているというのが、端的な事実なのである。」

「聖書にはっきりと『いかなる理由によっても戦争をしてはいけない』とか『暴力はどんな状況でも禁じる』などと書いてくれていれば、話はもっと簡単であった。ところが、聖書では、『敵を愛せ』などと、良くも悪くも常識とは異なる表現がなされているものだから、では、やむをえないかぎりの実力行使でもって悪人を善の道に導くならば、それは敵に対する『愛』の行為に相当するのではないか、とか、無条件の非暴力主義は時には悪を放置・黙認する無責任な姿勢であり、愛に反する態度でもあるのではないか、などと、議論が錯綜するのである。

 聖書というのは、それぞれの人生や社会状況と重ね合わせて読まれる書物である。人や社会は、同じ教典を読んでいても、さまざまな人生経験を念頭に、またさまざまな平和を思い描きながら感じ、考え、行動する。キリスト教徒といえども、誰もが必ず『愛』と『暴力』は矛盾すると考えるわけではないのである。」(『キリスト教と戦争』)


 さらに、石川氏は、以下のように、現在のキリスト教の繁栄の背景に注目すれば、キリスト教が「非暴力主義」・「完全な平和主義」を採用しなかったことは明白である、と主張しています。

 

「単純に考えれば、もし最初からすべてのキリスト教徒が『平和主義的』に振る舞っていたら、キリスト教徒は絶滅していたか、せいぜい小さなセクトであるにとどまっていたのではないかと思われる。後のキリスト教徒は、実際には、異教徒や他教派を迫害し、戦争や植民地支配を行って勢力を拡大し、安全保障にも現実的に取り組むことで、生存し、仲間を増やしてきた。今現在も、世界中いたるところに23億人ものキリスト教徒がいるということが、少なくとも主派の教派は、決して純粋な非暴力主義でも完全な平和主義でもなかった証拠であろう。キリスト教は真理であるから世界に広まったのだ、などと思い込んでいるとしたら、それはナイーブというよりむしろ傲慢である。」 (『キリスト教と戦争』)

 

 以上は、かなり説得力のある論考になっている、と私は思います。

 

(6)平和運動はどうあるべきか?

 石川氏の平和運動についての基本的姿勢は、カントの『永遠平和のために』と同様に現実的であり、説得力があると思います。カントの『永遠平和のために』ついては、最近、記事を発表したので、ぜひ参照してください。

gensairyu.hatenablog.com

 

①  「現実的に考察する必要性」について

  『私たち、戦争人間について』の第6章「私たちの愛と平和主義には限界がある」においては、まず、「人類の歴史をたどると、少なくとも人口比で見れば殺戮は減少してきている事実」が指摘されています。つまり、「国家の成立、情報化、文明化等の理由により、闘争、紛争は少なくなり、殺される人間の比率は減少の一途をたどっている」のです。

 20世紀は2度の世界大戦により、かなりの人間が死亡したように思われていますが、現実に統計的に見れば、殺戮は減っているのです。

 その意味では、「平和の追求」や「戦争の防止」を考えることは、一定の意義・効果があるのです。

 しかし、戦後日本がやってきたような、ひたすら、抽象的に「平和を守れ」と叫ぶだけ方法では、効果は期待できないでしょう。

 国際紛争の実態を直視して、「平和追求」・「戦争防止」の方策を、現実的に考えて行かなくてはならないでしょう。

 石川氏は、『私たち、戦争人間について』の中で、「戦後日本は戦時中の『必勝の信念』を『平和への信念』に置き換えただけで、基本的には変わっていないのではないか」と述べています。

 私も、この見解に賛同します。

 では、具体的には、どのように考えるべきか?

  『キリスト教と戦争』の中で、石川氏は以下のように述べています。

「戦争は極めて複雑な名称なので、平和については戦争そのものに関する十分な考察のうえで議論されねばならない。同じ『戦争』であるからといって、戦国時代の戦いを念頭に太平洋戦争について議論しても無意味であるように、太平洋戦争のイメージだけで二一世紀の戦争は語れない。戦争は時代とともに常に変化していくので、私たちは常に新たな軍事・戦略環境を念頭におく必要がある。」

 さらに、『戦争は人間的な営みである』の中では、より分かりやすく説明しています。以下に引用する見解は、現実的で、説得力があります。

「私たちは、交通事故あるいは火事などに対して、『火事反対』『交通事故反対』とデモ行進をしたりはしない。
 交通事故を減らしたければ、『反対』と叫ぶ以前に、自動車、道路、標識、信号機などについて、あるいは運転する人間の行動などについて、研究するしかない。自動車や交通規制について無知であれば、交通安全についても無知であろう。
 同じように、『戦争反対』と叫ぶだけでは意味がないのである。もちろん戦争を火事や交通事故と同じレベルで考えているのではなく、その問題に対する態度そのものを問うているのである。

 戦争に対する『反対』は、それを叫ぶ本人のセンチメンタリズムを満足させるだけでしかない。平和を手に入れたければ、なおさらのこと『戦争』や『軍事』そのものを研究するしかないのだ。これは極めて当たり前の理屈である。」(『戦争は人間的営みである』)

 

② 「愛の不可能性」について

 石川氏は、『キリスト教と戦争』の中で、キリスト教における「愛」に関して、アメリカで発生した事件を紹介しています。

「2006年の秋、アメリカの小さな村の学校に、銃を持った男が押し入った。拳銃、ショットガン、ライフルを彼は、少女達を監禁し、5人を射殺、5人に重傷を負わせ、自らもその場で自殺した。
 静かな田舎町の学校で起きたこの惨事は、衝撃的な事件として報道された。しかし、事件そのものよりも、さらに人々を驚かせたものがある。それは、その被害者遺族や近隣住民たちの反応であった。殺された少女の家族らは、事件後すぐに『私たちは、犯人を赦(ゆる)します』と言ったからである。それだけでなく、彼らは自殺した犯人の家族たちをも気遣い、ともに悲しみと苦悩を分かち合って、金銭的な援助までしたのであった。
 このニュースは、アメリカのみならず世界各国に報道された。悲しみと怒りのなかにいるはずの被害者遺族たちが、犯人を赦し、犯人の家族をも思いやったこということは、キリスト教的な愛の実践として、国内外の多くの人々を感動させたのである。

 この事件が起きたのは、ペンシルバニア州のニッケルマインズという場所である。そこは『アーミッシュ』(→「アーミッシュ・アーミッシュ」は、アメリカ合衆国のペンシルベニア州などやカナダ・オンタリオ州などに居住するドイツ系移民のキリスト教集団。キリスト教と共同体に忠実である厳格な規則のある派である。アメリカ移民当時の生活様式を保持し、農耕や牧畜によって自給自足生活をしている。この派は20万人以上いるとされている)と呼ばれる、プロテスタントのキリスト教徒たちが住んでいる地域で、被害者を含め、近隣住民のほとんどはアーミッシュであった。」(『キリスト教と戦争』)

 この事件におけるアーミッシュの対応は、物語としては可能でも、とても現実のこととは思えません。

 なぜ、ここまでのことをするのでしょうか?

 キリスト教的な「愛」の教義通りの実践なのでしょうが。

 被害者側の人間的感情を、ここまで押し殺すことができるとは、とても信じられないのです。

 やはり、このような意見は多いようで、同様の見解について、石川氏は言及しています。以下に引用します。 

「ところが、こうしたアーミッシュの感動的な『赦し』に対しては、批判や疑問の声もないわけではなかったのである。

 あるコラムニストは、アーミッシュが悪に対し善によって報いようとした姿勢は、確かに感動的であったという。

 しかし、憎しみは常に悪いわけではないし、赦しが常に適切とも限らない、と論じた。彼は『われわれのなかに、子供が虐殺されたのに誰も怒らないような社会に本気で住みたいと思っている者が、どれだけいるだろうか』と問いかけたのである。」(『キリスト教と戦争』)

 つまり、宗教としての理想は別として、現実世界で字義通りの、「愛の実践」を行使することは、極めて困難と言わなければならないのです。

 石川氏は、読者に皮肉的に問いかけています。

「もし、本当に何をされても『赦す』ような宗教があったとしたら、それが世界中に広まることが可能だと思いますか?」(『キリスト教と戦争』)

 これは、当然の問いかけと言えるでしょう。もし、そのような宗教が存在したとしたら、すぐに消滅したでしょう。自己への攻撃に対して無抵抗なのですから。

 現実問題としては、「愛と平和」を実現するための絶対的平和主義では暴力や戦争を止めることができないのです。

 この一見して、悲観的な見解こそが、現実的な正解と言えるのではないでしょうか。

 石川氏は、『キリスト教と戦争』の中で、この見解と類似の主張をしています。以下に引用します。

  「私たちに可能なのは、ぎこちない愛のモノマネでもって、どうにか互いに相手を尊重する関係をつくるという希望を抱くだけだ。人は、愛という言葉のもとで、ずるいことや卑劣なこともできる。利益や面子のために、誰かを愛しているフリをすることだってある。」(『キリスト教と戦争』)

 このように考えると、前述のカントの『永遠平和のために』と同方向の結論になるのです。上記の赤字部分の内容を私たちは、よく噛みしめるべきでしょう。

 

(7)石川明人氏の紹介

石川 明人(イシカワ アキト)
1974年東京都生まれ。北海道大学卒業、同大学院博士後期課程単位取得退学。博士(文学)。北海道大学助手、助教をへて、現在、桃山学院大学准教授。専攻は宗教学、戦争論。

【単著】

『キリスト教と戦争』(中公新書)、

『戦場の宗教、軍人の信仰』(八千代出版)、

『戦争は人間的な営みである』(並木書房)、

『ティリッヒの宗教芸術論』(北海道大学出版会)、

【共著】

『人はなぜ平和を祈りながら戦うのか?』(並木書房)、
『アジアの宗教とソーシャル・キャピタル』(明石書店)などがある。

 

(8)当ブログにおける「平和主義」関連記事の紹介 

 

gensairyu.hatenablog.com

 

 (9)当ブログにおける「キリスト教」関連記事の紹介

  

gensairyu.hatenablog.com

 

 ーーーーーーーー

今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

ご期待ください。

 

   

 

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私たち、戦争人間について: 愛と平和主義の限界に関する考察

私たち、戦争人間について: 愛と平和主義の限界に関する考察

 

 

キリスト教と戦争 (中公新書)

キリスト教と戦争 (中公新書)

 

 

戦争は人間的な営みである (戦争文化試論)

戦争は人間的な営みである (戦争文化試論)

 

 

朝日新聞デジタル

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

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5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

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 私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。

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予想問題『しんがりの思想 反リーダーシップ論』鷲田清一・地域社会

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 

 鷲田清一氏は、ほとんどの難関大学の入試現代文(国語)・小論文で一度は出題されている、トップレベルの頻出著者です。
 最近では、センター試験、東京大学、東北大学、早稲田大学、慶應大学、上智大学等で出題されています。

 鷲田氏の入試頻出著書としては、

『モードの迷宮』(ちくま学芸文庫)、

『じぶん・この不思議な存在』(講談社現代新書)、

『悲鳴をあげる身体』(PHP 新書)、

『「聴く」ことの力ー臨床哲学試論』(ちくま学芸文庫)、

『わかりやすいはわかりにくい? 臨床哲学講座』(ちくま新書)等があります。

 
  最近、鷲田氏は『しんがりの思想 反リーダーシップ論』(角川新書・2015年発行)を発表しました。

 本書は、早くも入試頻出出典になっています。具体的には、群馬大学、大阪教育大学、鹿児島大学、早稲田大学(社会科学部)、明治大学、法政大学、立命館大学等の国語現代文小論文に出題されています。そこで、今回は本書のポイントであり、かつ、最頻出の箇所について、当ブログの予想問題を発表することにしました。

 今回取り上げる箇所は、鷲田氏の主張の中心であり、東日本大震災後の現代日本に対する鷲田氏の怒り、悲しみが色濃く滲み出ています。

  入試国語(現代文)・小論文対策として、じっくりと取り組むことを、おすすめします。


 なお、今回の記事の項目は、以下のように、なっています。

 (2)予想問題『しんがりの思想』鷲田清一

 (3)当ブログにおける「鷲田清一」関連記事の紹介

 (4)当ブログの「東日本大震災」関連記事の紹介

 

しんがりの思想 ―反リーダーシップ論― (角川新書)

 

(2)予想問題『しんがりの思想 反リーダーシップ論』鷲田清一

 

次の文章を読んで以下の問いに答えなさい。
 
(問題文本文)

(【1】・【2】・【3】・・・・は当ブログで付記した段落番号です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です) 

【1】政治や企業活動と地域社会の違いは、専従のリーダーがいないことである。政治のプロフェッショナル、つまりは職業政治家、ならびに専従の経営者にあたるものが存在しない。すでに述べたように、地方議会の議員がそれにあたるはずであったのだが、町内会や婦人会,商店街の振興会や社会福祉協議会などといった、選挙での集票機能をもった既存の団体とのパイプを使うばかりで、都市部であらたに動きだした NPO(→nonprofit organization の略。非営利の民間組織) やボランティアといった新しい市民のネットワークにうまく対応もしくは連携がとれていない大方の地方議員、残念ながら地域社会の十全な力になっているとはとてもいえない。地方議員のこの無力は、市民に力がついてきたからではなく、逆に、政治のプロ(であるはずのひとたち)への市民の「おまかせ」構造がますます昂じてきた結果なのである。

【2】社会がいやでも縮小してゆく時代、「廃」炉とか「ダウン」サイジングなどが課題として立ってくるところでは、先頭で道を切り開いてゆく人よりも、むしろ最後尾でみなの安否を確認しつつ進む登山グループの「しんがり」のような存在、退却戦で敵のいちばん近くにいて,味方の安全を確認してから最後に引き上げるような「しんがり」の判断が、もっとも重要になってくる。実際、震災復興にあっても、ひたすら「防災」のためのハード面での公共事業に取り組むのではなく、地域が震災前から抱え込んでいた問題を見据えながら、そこでの日々の暮らしを〔 A 〕に再興する取り組みと結びついた経済活性化策を講じなければならないだろうし、また、もし、そうした社会全体への気遣いや目配りができていれば、建築資材と労賃の高騰を招くことで東北での復興事業を大きく遅延させることが必定な〔 B 〕の誘致など、だれも発想しなかっただろう。こういう全体の気遣いこそ、ほんとうのプロフェッショナルが備えていなければならないものなのであり、また、よきフォロワーシップの心得というべきものである。そして、こうした心得を、ここで《しんがりの思想》と呼んでみたい。

【3】リーダーが、その「しんがり」の務めに戻るべきときが、いま来ている。ダウンサイジングという、 「右肩上がり」の時代のリーダーたちがいちばん不得手な難問が山積しているという状況が目の前にある。

【4】「経世済民」(political economy)の「エコノミー」という語が、ギリシャ語の「オイコノミア」(家政)からきているように、国家財政というのは家計とよく似ている。そもそも、どの経費を削るか、どこを膨らまし、どこを圧縮するか、何に当座は金を向け、何を後に回すか・・・・。思案のしどころである。国家財政においても家計においても。そしてこれはもっとも頭を使うところでもある。

〔C〕

けれども、いきなり切り捨てを申し渡して、せっかくのやる気を殺ぐのは忍びない。後に回す、あるいは眼をつむって切り捨てるにも、きちんとした理由をあげて、相手を納得させねばならない。そこであげるべき理由は何か、持つべき「未来像」は何か・・・・。

【5】ここにきて、財布を握る主婦ないしは主夫は、はたと考え込む。優先順位を決めるにあたっての理屈を考えなければならなくなるのだ。我慢を求めるためには、きちんとした説得の言葉が必要だ。相手に納得させるには、しっかりした「思想」が要る。「思想」という言葉が仰々しければ、「家族生活の基本となる考え方」と言ってもいい。あるいは価値の軽重と先後、つまりは「価値の〔 D 〕」と言ってもいい。そして何かをしきりにねだっていた子どもも、こういうことも考えないといけないのだというふうに、事の複雑さを知るようになる。

【6】かつて、人々が極度に貧しいときには、理屈は必要なかった。まずは、いのちをつなぐこと、生き存(ながら)えること、これが原点であることが明確であった。子どもが何かねだっても、「これがあったら家族みんなが数日間、食べられますからね」と言われれば、子どもは黙るほかなかった。ある程度の融通が利くほどに豊かになると、子どもは「あの子は買ってもらったのに、それに較べうちの親は愛情が薄い」というふうに不満を溜め込むようになる。

【7】「限界」を意識するのは、この意味で大事なことである。ここを超えると危険水域に入るという臨界点を知ること。これが、いのちをつなぐために、もっとも重要なことだ。 「限界」を見させまいとすることは、子どもの心を傷つけないという思いからのことだろうが、いずれ子どもをより大きな危機にさらすことになる。しかし、「限界」はよほど眼をこらさないと見えない。眼をこらすというのは、自分がどういう状況にあるかを一歩退いて見ること、つまりは、惰性を脱する行為だからだ。

【8】日本人は寡栄養に強く、過栄養に弱いと、肝臓疾患の専門医から聞いたことがある。どういうことかというと、日本人の身体は体内に採り入れた少ない脂肪を数日間うまく使って飢えを凌(→しの)ぐのには向いているが、栄養過多に対して脂肪を減らす機能がないということらしい。だから、このところ、肝脂肪が原因で肝臓ガンになる人、よがじわりじわり増えているという。そういう意味でも、減らすというのはほんとうにむずかしい。ご馳走があるのに、途中でやめるというのはむずかしい。便利な物をあえて使わないというのもむずかしい。何かある事業を立ち上げるために、別の事業をやめるというのもむずかしい。〔   E   〕。言葉はやさしいが、それを実行するのはむずかしい。このことがわたしたちの社会構造についてもいえるとするなら、〔   E   〕という古人の知恵、いいかえるとダウンサイジングというメンタリティに、いまだれよりも近いところにいるのが、というか、そうならざるをえない場所へいちばん先にはじき出されたのが、いまの若い世代なのかもしれない。骨の髄まで「成長」幻想に染められているそれ以前の世代には、〔 X 〕という〔 Y 〕が〔 Z 〕には映らないからである。ダウンサイジングというメンタリティにもっとも遠い世代のリーダー像では、縮小してゆく社会には対応できないのだ。

【9】この国は、本気で「退却戦」を考えなければならない時代に入りつつある。その時、リーダーの任に堪えるのは、もはや“引っ張ってゆく”タイプのリーダーではない。それは「右肩上がり」の時代にしか通用しないリーダー像だ。これに対して、ダウンサイジングの時代に求められるのは、言ってみれば「しんがり」のマインドである。

【10】「しんがり」とは、言うまでもなく、合戦で劣勢に立たされ、退却を余儀なくされた時に、隊列の最後部を務める部隊のことである。彼等が担うのは、敵の追撃に遭って、本体を先に安全な場所まで退却させるために、限られた軍勢で敵の追撃を阻止し、味方の犠牲を最小限に食い止める、極めて危険な任務である。「しんがり」は「後駆(しりがり)」が音便化した語で、「後備(あとぞな)え」「尻払い」「殿軍(でんぐん)」とも言われる。現代では「ケツモチ」という言い回しもあるようで、いわゆるイベントサークルでトラブルに陥った時、それに片を付けてくれる人のことらしい。ヤンキー語では、暴走族が暴走行為をする時に、最後尾を受け持つメンバーのことを指す。パトカーに追跡されると、速度を落として蛇行運転し、前の集団を逃がすのが彼等の役目である。

【11】あるいは、登山のパーティーで、最後尾を務める人。経験と判断と体力に最も秀でた人が、その任に就くという。一番手が、「しんがり」を務める。二番手は、先頭に立つ。そして、最も経験と体力に劣る者が、先頭の真後ろに付き、先頭はその人に息遣いや気配を背中でうかがいながら、歩行のペースを決めるという。要は、「しんがり」だけが隊列の全体を見ることができる。パーティ全の全員の後ろ姿を見ることができる。そして、隊員がよろけたり、脚を踏み外したりした時、間髪おかず救助にあたる。

【12】じっさい、「右肩下がり」の時代、「廃炉」とかダウンサイジングが課題として立ってくるところでは、先頭で道を切り開いてゆく人よりも、このように最後尾でみなの安否を確認しつつ進む登山隊の「しんがり」のような存在、仲間の安全を確認してから最後に引き上げる「しんがり」の判断が、最も重要になってくる。誰かに、あるいは特定の業界に、犠牲が集中していないか、リーダーは張り切りすぎで、皆が付いて行くのに四苦八苦しているのではないか、そろそろ、どこかから悲鳴があがらないか、このままで、果たして「もつ」か、といった〔    甲    〕のケア、各所への気遣いと、そこでの周到な判断こそ、縮小していく社会において、リーダーが備えていなければならないマインドなのである。
(鷲田清一『しんがりの思想 反リーダーシップ論』)


ーーーーーーーーー


(設問)

問1  傍線部1「『しんがり』の判断」とは、どのような判断か。本文中の語句を使い、40字以内で記せ(句読点も1字と数える)。

 

問2  空欄Aに入る最適な語句を次の中から一つ選べ。

ア 伝統的  イ 創造的  

ウ 地域的  エ 日常的  

オ 恒常的  カ 勃興的

キ 国際的


問3  空欄Bに入る漢字四字の語句を記せ。

 

問4  傍線部2「『右肩上がり』の時代のリーダーたちがいちばん不得手な難問」とあるが、そう言える理由として最適なものを次の中から一つ選べ。

アその時代のリーダー達には、しんがりの思想を持った人物が一人もいなかったから。

イ  その時代のリーダー像は本来のリーダー像からかけ離れた、幻想の中の存在だったから。

ウ  その時代のリーダー達は、ダウンサイジングのメンタリティを持つ必要がなかったから。

エ  その時代のリーダーは、登山の場合とは違い、しんがりが一番手を務めたから。

オ  その時代のリーダー達にとっては、「右肩下がり」こそ最も憂慮すべき問題だったから。


問5  空欄Cには次の文章が入る。正しい順序に並べ替えよ。

ア  だから、まず無駄を省くことを考える。

イ  けれども、それにも限界がある。

ウ  借金は家訓により御法度だ。

エ  一人ひとりの願いを聞き届ければ、家計は破綻する。

オ  切り捨てを決断しなければならないものがあるのは、あきらかだ。

カ  パイは決まっている。

 

問6  空欄Dに入る語句として最適なものを次の中から一つ選べ。

ア 思考法  イ 遠近法  

ウ 多様化  エ 具体化  

オ 局所性  カ 拡大化

 

問7  傍線部3「かつて、人々が極度に貧しいときには、理屈は必要なかった」とあるが、その理由として最適なものを次の中から一つ選べ。

ア  当時、何が一番大切かを知るのは困難ではなかったから。

イ  当時、生命は有限なことということは子どもも理解したから。

ウ  当時は、目をこらしても世の中の真実を見ることができなかったから。

エ  当時、子どもは母親の言う言葉に従わなければならなかったから。

オ  当時は、限界を意識すること自体が生きることの意味だったから。


問8  傍線部4「惰性を脱する行為」とは、ここでは、どのような行為のことか。最適なものを、次の中から一つ選べ。

ア  その場その場の状況を適切に把握すること

イ  力の限界を理解して最善の策を見出だすこと

ウ  物事の臨界点を知り、一歩踏み出すこと

エ  いのちをつなぐために必要な物を探すこと

オ  危険水域を的確に認識して、距離を置くこと


問9  空欄E(二箇所ある)に入る最適な表現を次の中から一つ選べ。

ア  ありのままに生きる

イ  自然体を知る

ウ  隠忍自重

エ  足るを知る

オ  虚飾を排する

カ  衣食足りて礼節を知る

キ  彼を知り己を知れば百戦殆(あや)うからず

 

問10  空欄X~Zに入る語句の組み合わせとして最適なものを、次の中から一つ選べ。

ア X 寡栄養  Y 自然  Z 自然

イ X 過栄養  Y 自然  Z 自然

ウ X 寡栄養  Y 不自然  Z 自然

エ X 過栄養  Y 不自然  Z 不自然

オ X 寡栄養  Y 不自然  Z 不自然

 

問11  空欄甲に入る本文中の二字の語句を記せ。

ーーーーーーーー 

 

(解説・解答)

問1(傍線部説明問題・記述式問題・キーセンテンスを問う問題)

 「『しんがり』の判断」に関しては、以下の2箇所に注目してください。

【2】段落「こういう全体の気遣いこそ、ほんとうのプロフェッショナルが備えていなければならないものなのであり、また、よきフォロワーシップの心得というべきものである。そして、こうした心得を、ここで《しんがりの思想》と呼んでみたい。 」

【12】段落「全体のケア、各所への気遣いと、そこでの周到な判断こそ、縮小していく社会において、リーダーが備えていなければならないマインドなのである。」


(解答)
縮小していく社会においてリーダーが備えるべき、全体への気遣いのある周到な判断。(39字)


問2(空欄補充問題)

 空欄の直前直後を、熟読・精読することが必要です。 

「実際、震災復興にあっても、ひたすら「防災」のためのハード面での公共事業に取り組むのではなく、地域が震災前から抱え込んでいた問題を見据えながら、そこでの日々の暮らしを〔 A 〕に再興する取り組みと結びついた経済活性化策を講じなければならないだろう」

 また、消去法を活用してください。

(解答)イ

 

問3(空欄補充問題・社会常識を問う問題)

 「社会常識を問う問題」は、模試では、あまり出題されません(→運営主体である予備校・添削会社の自己否定になるからです→社会常識は自主学習が可能です)。一方、大学は「社会常識」のある受験生を求めているので、「社会常識を問う問題』は、入試では頻出です。このようなこと、模試と過去問のレベルの大きな落差、があるので、私は模試を受けることを、あまりすすめていません。

 模試の効用としては、「時間内に処理する訓練」くらいしか、ありません。年に2回くらい受ければ充分です。志望大学の過去問に対応することを留意するべきです。

 

 解法としては、「建築資材と労賃の高騰を招くことで東北での復興事業を大きく遅延させることが必定な〔 B 〕の誘致」の部分を熟読・精読することが不可欠です。

(解答)東京五輪 (「五輪大会」でも可)

 

問4(傍線部説明問題)

 【8】段落の以下の部分に注目してください。

骨の髄まで『成長』幻想に染められているそれ以前の世代には、〔X=過栄養〕という〔Y=不自然〕が不自然〔Z=不自然〕には映らないからである。ダウンサイジングというメンタリティにもっとも遠い世代のリーダー像では、縮小してゆく社会には対応できないのだ。

(解答)ウ

  

問5(文章並べ替え問題)

 空欄直後の
「けれども、いきなり切り捨てを申し渡して、せっかくのやる気を殺ぐのは忍びない」より、最後がオ(「切り捨てを決断しなければならないものがあるのは、あきらかだ。」)になることが分かります。

 以下の2つのセットは、すぐに分かるでしょう。

カ(「パイは決まっている。」)→エ(「一人ひとりの願いを聞き届ければ、家計は破綻する。」)、

ウ(「借金は家訓により御法度だ。」)→ア(「だから、まず無駄を省くことを考える。」)→イ(⑤「けれども、それにも限界がある。」)。

 「カ→エ」のセットが「ウ→ア→イ」より前にくるので、全体的にみて、「カ→エ→ウ→ア→イ→オ」になります。


(解答)カ→エ→ウ→ア→イ→オ

 

↓「文章並べ替え問題の解法」を詳しく説明しました。 

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問6(空欄補充問題)

 直前の「『思想』という言葉が仰々しければ、『家族生活の基本となる考え方』と言ってもいい。あるいは価値の軽重と先後」に注目すると、よいでしょう。

(解答)イ

 

問7(傍線部説明問題)

 直後の「まずはいのちをつなぐこと、生き存(ながら)えること、これが原点であることが明確であった。子どもが何かねだっても、『これがあったら家族みんなが数日間、食べられますからね』と言われれば、子どもは黙るほかなかった。」に着目する必要があります。

(解答)ア

 

問8(傍線部説明問題)

 直前の「『限界』はよほど眼をこらさないと見えない。眼をこらすというのは、自分がどういう状況にあるかを一歩退いて見ること」の部分がヒントになります。

(解答)オ

 

問9 (空欄補充問題・慣用表現)

 解法としては、以下の部分に注目してください。

直前の「ご馳走があるのに、途中でやめるというのはむずかしい。便利な物をあえて使わないというのもむずかしい。」、

直後の「古人の知恵、いいかえるとダウンサイジング(→「ダウンサイジング(Downsizing)」とは、「サイズ(規模)を小さくする」という意味)というメンタリティ」。

 

 なお、ウの「隠忍自重(いんにんじちょう)」とは、「怒りの気持ち等を我慢して、軽々しい言動を慎む」という意味です。

(解答)エ

 

問10 (空欄補充問題)

 「段落毎の要約をメモする」といった時間のムダな、バカなことをしないでください。頭の中で自然に要約ができます。熟読・精読を心がけてください。

 

 解法としては、

直前の「骨の髄まで『成長』幻想に染められているそれ以前の世代」、
直後の「ダウンサイジングというメンタリティにもっとも遠い世代のリーダー像では、縮小してゆく社会には対応できないのだ」、

がポイントになります。

(解答)エ

 

問11 (空欄補充問題)

 空欄直前の「誰かに、あるいは特定の業界に、犠牲が集中していないか、リーダーは張り切りすぎで、皆が付いて行くのに四苦八苦しているのではないか、そろそろ、どこかから悲鳴があがらないか、このままで、果たして『もつ』か、といった」、空欄直後の「ケア」に着目してください。

 

 解答である「全体」は、直前の段落の後半部分、
「要は、『しんがり』だけが隊列のを見ることができる。パーティ全員の後ろ姿を見ることができる。そして、隊員がよろけたり、脚を踏み外したりした時、間髪おかず救助にあたる。」にあります。

(解答)全体

 

ーーーーーーーー


(出典)鷲田清一『しんがりの思想:反リーダーシップ論』「第4章しんがりという務め フォロワーシップの時代」

 

ーーーーーーーーー

 

 鷲田氏は、『しんがりの思想』の中で、上記の本文の直後に「フォロワーシップの時代」という「見出し」を付けて、「しんがりの思想」について、より丁寧な説明をしているので、概要を引用します。この部分も入試頻出箇所です。

 

「地域社会とか市民社会と呼ばれる場は、職業政治の場ではない。誰もが余所に本務をもったままで、そうしたゆるい集団の一員として参画する。それは、日々、それぞれの持ち場で、おのれの務めを果たしながら、公共的な課題が持ち上がれば、誰もが時にリーダーに推され、時に、メンバーの一員、そうワン・オブ・ぜムになって行動する。つまり、普段はリーダーに推された人の足を引っ張ることもなく、よほどのことがない限り従順に行動するが場合によっては、すぐに主役の交代もできる、そういう可塑性(しなり)のある集団であろう。リーダーに、そしてシステムに全部を預けず、しかし全部を自分が丸ごと引き受けるのでもなく、いつも全体の気遣いをできるところで責任を担う。そんな伸縮可能な関わり方で維持されてゆく集団であろう。

 実際、誰もがリーダーになりたがる社会ほど、もろいものはない。日頃は自己の本務を果たしつつ、公共的なことがらについて、ある時は「今は仕事が手を抜けないのでちょっと頼む」、ある時は「あなたも本業が忙しいでしょうからしばらくわたしが交代するよ」というように、前面に出たり、背後に退いたりしながら、しかし、いつも全体に気配りができる、そんな賢いフォロワーの存在こそが、ここでは大きな意味を持つ。公共的なことがらに関して、観客になるのではなく、みずから問題の解決のためのネットワークを編んでゆく能力、これこそが、「市民性」の成熟の前提となるということであろう。」

 

(3)当ブログにおける「鷲田清一」関連記事の紹介

 

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 (4)当ブログの「東日本大震災」関連記事の紹介

    

 以下のように、「東日本大震災」関連の論考は、入試頻出です。意識して、取り組んでください。

 

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ーーーーーーーー

 

今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

ご期待ください。

  

    

 

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しんがりの思想 ―反リーダーシップ論― (角川新書)

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↓最新作です 

人生はいつもちぐはぐ (角川ソフィア文庫)

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

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5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

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 私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。

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予想問題『暇と退屈の倫理学』國分功一郎/消費社会・真の豊かさ

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 國分功一郎氏は、最近の入試頻出著者です。國分氏の論考は、最近、慶応大学(商学部)、中央大学、同志社大学、関西大学、獨協大学などの国語(現代文)・小論文で出題されています。
 従って、国語(現代文)・小論文対策として、國分功一郎の氏の論考・著書を読むことを、おすすめします。

 

「自分らしく生きるためには、ということ」
國分功一朗氏は、『暇と退屈の倫理学』の中で、この問いが「暇と退屈への対応問題」という「案外と重要な哲学的問題」であると主張しています。そして、この重大問題に、様々な哲学者の知見を引用しながら堂々と立ち向かっています。

 この本は人生を考えるために、丁寧に分かりやすく書かれ、しかも、切れ味のよい秀逸な哲学書です。

 高校生、受験生は、最低1冊は、國分功一郎氏の著書を読んでおくべきでしょう。

 

 そこで、今回の記事でも、最近の流行出典である、國分氏の『暇と退屈の倫理学』の頻出箇所を題材にして、予想問題(予想論点)を解説することにしました。

 

 今回の記事の項目は、以下のようになっています。

(2)予想問題/『暇と退屈の倫理学』國分功一郎

(3) 『暇と退屈の倫理学』の構成

(4)國分功一郎氏の紹介・著書・訳書

(5)当ブログにおける「哲学」関連記事の紹介

(6)当ブログにおける「消費社会」関連記事の紹介 

 

暇と退屈の倫理学 増補新版 (homo Viator)

 

 (2)予想問題/『暇と退屈の倫理学』國分功一郎

 

(問題文本文)

(【1】・【2】・【3】・・・・は当ブログで付記した段落番号です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です)

 

【1】どんなにおいしい食事でも食べられる量は限られている。腹八分目という昔からの戒めを破って食べまくったとしても、食事はどこかで終わる。いつもいつも腹八分目で質素な食事というのはさびしい。やはりたまには豪勢な食事を腹一杯、十二分に食べたいものだ。これが浪費である。浪費は生活に豊かさをもたらす。そして、浪費はどこかでストップする。

【2】それに対して消費はストップしない。たとえばグルメブームなるものがあった。雑誌やテレビで、この店がおいしい、有名人が利用しているなどと宣伝される。人々はその店に殺到する。なぜ殺到するのかというと、だれかに「あの店に行ったよ」と言うためである。

【3】当然、宣伝はそれでは終わらない。次はまた別の店が紹介される。またその店に行かなければならない。「あの店に行ったよ」と口にしてしまった者は、「えぇぇ? この店行ったことないの? 知らないの?」と言われるのを嫌がるだろう。だから、紹介される店を延々と追い続けなければならない。

【4】これが消費である。消費者が受け取っているのは、食事という物ではない。その店に付与された観念や意味である。この消費行動において、店は完全に記号になっている。だから消費は終わらない。

【5】浪費と消費の違いは明確である。消費するとき、人は実際に目の前に出てきた物を受け取っているのではない。なぜモデルチェンジすれば物が売れて、モデルチェンジしないと物が売れないのかと言えば、人がモデルそのものを見ていないからである。「チェンジした」という観念だけを消費しているからである。

【6】ボードリヤールは消費される観念の例として「個性」に注目している。今日、広告は消費者の「個性」を煽(あお)り、消費者が消費によって「個性的」になることをもとめる。消費者は「個性的」でなければならないという強迫観念を抱く。

【7】問題はそこで追求されている「個性」がいったい何なのかがだれにも分からないということである。したがって、「個性」はけっして完成しない。つまり、消費によって「個性」を追いもとめるとき、人が満足に到達することがない。その意味で消費は常に失敗するように仕向けられている。失敗するというより、成功しない。あるいは、到達点がないにもかかわらず、どこかに到達することがもとめられる。こうして選択の自由が消費者に強制される。

【8】 消費社会を相対的に位置づけるために、それとは正反対の社会を紹介しよう。ボードリヤールも言及しているが、人類学者マーシャル・サーリンズは 「原初のあふれる社会」という仮説を提示している。これは現代の狩猟採集民の研究を通じて、石器時代の経済の「豊かさ」を論証したものである。

【9】 狩猟採集民はほとんど物をもたない。道具は貸し借りする。計画的に食料を貯蔵したり生産したりもしない。なくなったら採りにいく。無計画な生活である。

【10】彼らはしばしば、物をもたないから困窮していると言われる。そして、それは彼らの「未来に対する洞察力のなさ」こそが原因であると思われている。つまり、計画的に貯蔵したり生産したりする知恵がないために十分に物をもっていないとして、「文明人」たちから憐(あわ)れみの目で眺められている。

【11】しかし、これは実情から著しくかけ離れている。彼らはすこしも困窮していない。狩猟採集民は何ももたないから貧乏なのではなくて、むしろそれ故に自由である。きわめて限られた物的所有物のおかげで、彼らは日々の必需品に関する心配からまったく免れており、生活を享受しているのである。

【12】また、彼らが未来に対する洞察力を欠き、貯蓄等の計画を知らないのは、知恵がないからではない。彼らのような生活では、単に未来を思い煩う必要がないのだ。 

【13】狩猟採集生活においては少ない労力で多くの物が手に入る。彼らは何らの経済的計画もせず、貯蔵もせず、すべてを一度に使い切る大変な浪費家である。だが、それは浪費することが許される経済的条件のなかに生きているからだ。

【14】 したがって狩猟採集民の社会は、一般に考えられているのとは反対に物があふれる豊かな社会である。彼らが食料調達のために働くのは、だいたい一日三時間から四時間だという。サーリンズは、農耕民に囲まれていたけれども農業の採用を拒否してきた、ある狩猟採集民のことを紹介している。なぜ彼らは農業の採用を拒んできたのか? 「そうなればもっとひどく働かねばならない」からだそうである。

【15】もちろん狩猟採集民を過度に理想化してはならない。狩猟採集民もうまく食料調達ができないことはあろうし、環境の変化によって容易に困窮に陥ることはあろう(しかし、農耕民の方がその可能性が高いとも言えるのだが・・・・)

【16】重要なのは、彼らの生活の豊かさが浪費と結びついているということである。彼らは贅沢な暮らしを営んでいる。これが重要である。ボードリヤールやサーリンズも言うように、浪費できる社会こそが「豊かな社会」である。将来への気づかいの欠如と浪費性は「真の豊かさのしるし」、贅沢のしるしに他ならない。

 

〔 3 〕


【17】消費社会はしばしば物があふれる社会であると言われる。物が過剰である、と。しかし、これはまったくのまちがいである。サーリンズを援用しつつボードリヤールも言っているように、現代の消費社会を特徴づけるのは物の過剰ではなくて稀少性である。消費社会では、物がありすぎるのではなくて、物がなさすぎるのだ。

【18】なぜかと言えば、商品が消費者の必要によってではなく、生産者の事情で供給されるからである。生産者が売りたいと思う物しか、市場に出回らないのである。消費社会とは物があふれる社会ではなく、物が足りない社会だ。

【19】そして消費社会は、そのわずかな物を記号に仕立て上げ、消費者が〔 ① 〕し続けるように仕向ける。消費社会は私たちを〔 ② 〕ではなくて〔 ③ 〕へと駆り立てる。消費社会としては〔 ④ 〕されては困るのだ。なぜなら〔 ⑤ 〕は満足をもたらしてしまうからだ。消費社会は、私たちが浪費家ではなくて消費者になって、絶えざる観念の〔 ⑥ 〕のゲームを続けることをもとめるのである。消費社会とは、人々が浪費するのを妨げる社会である。

【20】消費社会において、私たちはある意味で我慢させられている。浪費して満足したくても、そのような回路を閉じられている。しかも消費と浪費の区別などなかなか思いつかない。浪費するつもりが、いつのまにか消費のサイクルのなかに閉じ込められてしまう。

【21】この観点は極めて重要である。なぜならそれは、質素さの提唱とは違う仕方での消費社会批判を可能にするからである。

【22】しばしば、消費社会に対する批判は、つつましい質素な生活の推奨を伴う。「消費社会は物を浪費する」「人々は消費社会がもたらす贅沢になれてしまっている」「人々はガマンして質素に暮らさねばならない」。日本でもかつて「清貧の思想」というのが流行(はや)ったがまさしくこれだ。

【23】そうした「思想」は 根本的な勘違いにもとづいている。消費は贅沢などもたらさない。消費する際に人は物を受け取らないのだから、消費はむしろ贅沢を遠ざけている。消費は徹底して推し進めようとする消費社会は、私たちから浪費と贅沢を奪っている。

【24】しかも単にそれらを奪っているだけではない。いくら消費を続けても満足はもたらされないが、消費には限界がないから、それは延々と繰り返される。延々と繰り返されるのに、満足がもたらされないから、消費は次第に過激に、過剰になっていく。しかも過剰になればなるほど、満足の欠如が感じられるようになる。

【25】 これこそが、20世紀に登場した消費社会を特徴づける状態に他ならない。

【26 】消費社会を批判するためのスローガンを考えるとすれば、それは 「贅沢をさせろ」になるだろう。

(國分功一郎『暇と退屈の倫理学』による)

 

ーーーーーーーー

 

(設問)

問1  傍線部1「この消費行動において、店は完全に記号になっている」における「記号」は、どのような意味か。最適なものを、次の中から一つ選べ。

ア  個人にとって大切な印ということ

イ  他と区別するための便宜的なもの

ウ  宣伝の対象としての存在

エ  物の消費量を数値化する際に使用する算式の記号

オ  物のイメージ、意味、その魅力などの情報ということ

カ  関係を簡明に表示するもの 

キ  自分の意図を表現する行為

 

問2  傍線部2「原初のあふれる社会」の内容として不適切なものを、次の中から一つ選べ。

ア  狩猟採集民は、豊かさを知る社会に生きている。

イ  狩猟採集民は、観念的な消費生活を知らない。

ウ  狩猟採集民は、観念よりも物に即した生活をしている。

エ  狩猟採集民は、物質的には困窮生活をしていた。

オ  狩猟採集民は、贅沢を奪われてはいない。

カ  狩猟採集民は、浪費を自制していない生活をしている。

 

問3  空欄〔3〕には【17】~【26】段落の内容の「小見出し」が入る。「小見出し」として最適なものを、次の中から一つ選べ。

ア  物が過剰な社会

イ  物が不足している社会

ウ  消費を促進する社会

エ  消費を妨げる社会

オ  消費社会を批判する

カ  消費とは何か?

キ  人は何を消費するのか?

 

問4  空欄①~⑥には、「浪費」か「消費」が入る。「消費」が入るものを、すべて選べ。

 

問5  傍線部4「私たちはある意味で我慢させられている」とあるが、どのような意味で「我慢させられている」のか。最適なものを、次の中から一つ選べ。

ア  浪費しようとする気持ちを抑制されて、ごくわずかな物を入手するだけで満足するようになっているから。

イ  欲望が、たえずかきたてられるため、何かを思う存分、入手して満足したという気分を味わうことができないから。

ウ  欲望が、たえずかきたてられるため、何が自分の真の欲望かが分からなくなっているから。

エ  わずかしかないものに、世の中の人々が、殺到するようになってしまったので、満足できる人など存在しえないから。

オ  欲望が、たえずかきたてられるため、わずかしかないものに、世の中の人々が、殺到するようになってしまったから。

 

問6  傍線部5「根本的な勘違い」の内容として最適なものを、次の中から一つ選べ。

ア  商品が過剰に流通し過ぎている。

イ  消費と浪費の区別は明確である。

ウ  浪費は満足をもたらさない。

エ  消費社会は物を浪費する。

オ  消費には限界があるはずである。

 

問7  傍線部6「贅沢をさせろ」の意味として最適なものを、次の中から一つ選べ。

ア  質素な生活でも贅沢を感じる社会を取り戻すためには、雑誌やテレビなどから遠ざかる必要がある。

イ  浪費のできない社会では、真に豊かな生活を送っているという満足感は味わえない。

ウ  過激化する一方の欲望を満足させることができなければ、豊かな社会とは言えない。

エ  質素な生活でも贅沢を感じる社会を取り戻すためには、物質的な欲望を抑制する必要があるだろう。

オ  いつまでも消費し続けられる社会のためには、充分すぎるほどの商品が流通していなくてはならない。

 

問8  この文章の内容と合致しないものを、次の中から一つ選べ。

ア  ふだんは質素に暮らしていても、たまに浪費することができれば、その人の生活は豊かになる。

イ  狩猟採取民が農業にたずさわることを選択しないのは、彼らが既に豊かな社会を実現しているからである。

ウ  真に豊かな暮らしを送るためには、食料に困ることのないように計画的な生活を送ることが大切である。

エ  消費社会では、人々は欲しいと思う物を入手しても満足できず、常に欲望をかきたてられている。

オ  浪費は、どこかでストップするものである。

カ  消費の対象は物ではないと言えるのである。

キ  浪費できる社会が、真に豊かな社会と評価できるのであろう。

 

ーーーーーーー

 

(設問)

問1 (傍線部説明問題)

 直前の「これが消費である。消費者が受け取っているのは、食事という物ではない。その店に付与された観念や意味である。」に注目してください。

 「記号論」における「記号」は、かなり広い意味で使われます。「一定の意味を持つもの」のすべてが記号になります。衣服、制度、観念などの、すべてです。

(解答) オ


問2 (傍線部説明問題)

  【11】段落の 「しかし、これは実情から著しくかけ離れている。彼らはすこしも困窮していない。狩猟採集民は何ももたないから貧乏なのではなくて、むしろそれ故に自由である。きわめて限られた物的所有物のおかげで、彼らは日々の必需品に関する心配からまったく免れており、生活を享受しているのである。」から、正解は明らかです。

 

 それにしても、かつての狩猟採取民は、羨ましい境遇に生きていたようです。自然との関係で様々な困難はあったでしょう。が、現代人のような、社会的・制度的な些末な膨大な心配には無縁で、自由であったことは確かなようです。 

 つい、現代生活のバカバカしさを感じてしまいます。
 貯蓄や、計画的生活などの虚しさを感じざるを得ないのです。

 特に、以下の【13】・【14】段落は、現代の文明人のプライドを吹き飛ばす痛快な内容になっています。

 かつて、「現代の1日8時間、週40時間労働は、人類史上稀に見る奴隷制度だ」という趣旨の歴史学の論考を読みましたが、そのことを思い出しました。

  

【13】段落「狩猟採集生活においては少ない労力で多くの物が手に入る。彼らは何らの経済的計画もせず、貯蔵もせず、すべてを一度に使い切る大変な浪費家である。だが、それは浪費することが許される経済的条件のなかに生きているからだ。」

【14】段落「したがって、狩猟採集民の社会は、一般に考えられているのとは反対に物があふれる豊かな社会である。彼らが食料調達のために働くのは、だいたい一日三時間から四時間だという。サーリンズは、農耕民に囲まれていたけれども農業の採用を拒否してきた、ある狩猟採集民のことを紹介している。なぜ彼らは農業の採用を拒んできたのか? 

そうなればもっとひどく働かねばならない』からだそうである。」

 

 なお、「石器時代の豊かさ」に関する【8】~【16】段落は衝撃的な、興味深い内容で、熟読・精読しないと、正確な理解は困難です。従って、入試頻出箇所になっているのです。

  

(解答) エ

 

問3 (空欄補充問題・「小見出し」選択問題)

 ポイントになる段落は、【20】・【21】段落です。以下に再掲します。

【20】段落 「消費社会において、私たちはある意味で我慢させられている。浪費して満足したくても、そのような回路を閉じられている。しかも消費と浪費の区別などなかなか思いつかない。浪費するつもりが、いつのまにか消費のサイクルのなかに閉じ込められてしまう。」

【21】段落 「この観点は極めて重要である。なぜならそれは、質素さの提唱とは違う仕方での消費社会批判を可能にするからである。」

 

(解答) エ

 

問4 (空欄補充問題)

 このような空欄が大量にある問題の場合には、すぐに答えようとはしないで、落ち着いて、まず、ヒント・ポイントになる文章を探すことが大切です。

 

 以下に、本文の注目するべき部分を赤字化して、再掲します。

【19】段落 「そして消費社会は、そのわずかな物を記号に仕立て上げ、消費者が〔 ① 〕し続けるように仕向ける。消費社会は私たちを〔 ② 〕ではなくて〔 ③ 〕へと駆り立てる。消費社会としては〔 ④ 〕されては困るのだ。なぜなら〔 ⑤ 〕は満足をもたらしてしまうからだ。消費社会は、私たちが浪費家ではなくて消費者になって、絶えざる観念の〔 ⑥→直前を読めば、ここには「消費」が入ることが容易に分かります。正解が明白な空欄から埋めていくべきです 〕のゲームを続けることをもとめるのである。消費社会とは、人々が浪費するのを妨げる社会である。」

【20】段落 「消費社会において、私たちはある意味で我慢させられている。浪費して満足したくても、そのような回路を閉じられている。しかも消費と浪費の区別などなかなか重いつかない。浪費するつもりが、いつのまにか消費のサイクルのなかに閉じ込められてしまう。」

 

(解答) ①・③・⑥

 

問5 (傍線部説明問題)

 【19】・【20】段落におけるポイントの部分を赤字化 して、以下に呈示します。

【19】段落 「そして消費社会は、そのわずかな物を記号に仕立て上げ、消費者が〔①=消費〕し続けるように仕向ける。消費社会は私たちを〔②=浪費〕ではなくて〔③=消費〕へと駆り立てる。消費社会としては〔④=浪費〕されては困るのだ。なぜなら〔⑤=浪費〕は満足をもたらしてしまうからだ。消費社会は、私たちが浪費家ではなくて消費者になって、絶えざる観念の〔⑥=消費〕のゲームを続けることをもとめるのである。消費社会とは、人々が浪費するのを妨げる社会である。」

【20】段落 「消費社会において、4  私たちはある意味で我慢させられている。 浪費して満足したくても、そのような回路を閉じられている。しかも消費と浪費の区別などなかなか重いつかない。浪費するつもりが、いつのまにか消費のサイクルのなかに閉じ込められてしまう。 」

 

 つまり、「私たちはある意味で我慢させられている」理由としては、「消費社会そのものの構造」、言い換えれば、「企業と広告業界等の策略(企業戦略)の存在」を指摘できればよいのです。

(解答) イ

 

問6 (傍線部説明問題)

 傍線部直前の「そうした『思想』」は、

直前段落 (【22】段落)の 「しばしば、消費社会に対する批判は、つつましい質素な生活の推奨を伴う。『消費社会は物を浪費する』『人々は消費社会がもたらす贅沢になれてしまっている』人々はガマンして質素に暮らさねばならない』」

をさしています。

 

 【22】・【23】段落は、切れ味のよい内容になっています。これからも、この部分がポイントになる設問が多く出題されることが予想されます。熟読・精読するべき段落です。

(解答) エ


問7 (傍線部説明問題)

 直前の「消費社会を批判するためのスローガンを考えるとすれば」に、注目する必要があります

 「浪費」と「消費」の区別を意識してください。本文のポイントになっています。

 問4と同趣旨の問題です。

(解答) イ


問8 (趣旨合致問題) 

 趣旨合致問題は、本文よりも設問から先に見ることにより、効率的に処理することが可能になります。


 「浪費」・「消費」の区別を意識してください。本文のポイントになっています。

  問4と同趣旨の問題です。

(解答) ウ

 

ーーーーーーーー

(出典)國分功一郎『暇と退屈の倫理学』「第4章 暇と退屈の疎外論ーー贅沢とは何か?」  の一節

 

(3) 『暇と退屈の倫理学』の構成

 『暇と退屈の倫理学』の「序章」の最後に,本書の構成について,著者・國分功一郎氏が簡潔にまとめているので、それを引用します。

 「最初の第一章では,暇と退屈というこの本の主題の出発点となる考えを練り上げる。暇と退屈がいかなる問題を構成しているのかが明らかにされるだろう。

 第二章から第四章までは主に歴史的な見地から暇と退屈の問題を扱っている。
 第二章はある人類学的な仮説をもとに有史以前について論じる。問題となるのは退屈の起源である。
 第三章は歴史上の暇と退屈を,主に経済史的な観点から検討し,暇が有していた逆説的な地位に注目しながら,暇だけでなく余暇にまで考察を広める。
 第四章では消費社会の問題を取り上げ,現代の暇と退屈を論じる。

 第五章から第七章では哲学的に暇と退屈の問題を扱う。
 第五章ではハイデッガーの退屈論を紹介する。
 第六章ではハイデッガーの退屈論を批判的に考察するためのヒントを生物学のなかに探っていく。
 第七章ではそこまでに得られた知見をもとに,実際に<暇と退屈の倫理学>を構想する。」

 

(当ブログによる解説)

 第四章以下では「消費と労働」、「疎外」について考察しています。
 つまり、現代人は、ある程度の「豊かさ」と「暇」を入手したが、その「暇な時間」に何をしたいのか、よく分からない人が多い。人類は他の動物と異なり、環世界を変幻自在に飛び回ることができる自由な存在であるために、退屈を嫌う。その点に企業・広告業界等が注目し、人々が余暇に行うであろう欲望の対象を用意し、広告宣伝等により誘導する。つまり、私たちの需要・欲求は、あらかじめ企業等の供給側によって支配されているという構造があるのです。
 これに対して、國分氏は、受動的で際限のない、虚しい「消費」を批判し、「真の豊かさ」としての「浪費」の意義を強調しています。
 そして、真の豊かな「浪費」を享受するために、浪費を味わえるようにする一定の訓練と、動物的「とりさらわれ」(→「熱中。集中」という意味)の重要性を主張するのです。

 

(4)國分功一郎氏の紹介・著書・訳書 

國分功一郎(こくぶん・こういちろう)
1974年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。高崎経済大学経済学部准教授。専攻は哲学。

 

【著書】

『スピノザの方法』(みすず書房)、
『暇と退屈の倫理学』(朝日出版社。のち増補新版、太田出版。第2回紀伊國屋じんぶん大賞受賞作)。
『哲学の自然』(中沢新一との共著、太田出版)、
『ドゥルーズの哲学原理』(岩波書店)、
『来るべき民主主義──小平市都道328号線と近代政治哲学の諸問題』(幻冬舎新書)、
『社会の抜け道』(古市憲寿との共著、小学館)、
『哲学の先生と人生の話をしよう』(朝日新聞出版)、
『統治新論──民主主義のマネジメント』(大竹弘二との共著、太田出版)、
『近代政治哲学――自然・主権・行政』(筑摩書房・ちくま新書)、
『民主主義を直感するために』(晶文社)、
『中動態の世界――意志と責任の考古学』(医学書院。第16回小林秀雄賞受賞作)など。


【訳書】

デリダ『マルクスと息子たち』(岩波書店)、
コールブルック『ジル・ドゥルーズ』(青土社)、
ドゥルーズ『カントの批判哲学』(ちくま学芸文庫)、
オンフレ『ニーチェ』(ちくま学芸文庫)など。

 

【共訳】

デリダ『そのたびごとにただ一つ、世界の終焉』(岩波書店)、
フーコー『フーコー・コレクション4』(ちくま学芸文庫)、
ガタリ『アンチ・オイディプス草稿』(みすず書房)などがある。

 

 (5)当ブログにおける哲学関連記事の紹介

 

 入試国語(現代文)・小論文においては、哲学の一定レベルの理解が不可欠です。積極的に取り組むようにしてください。

 

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(6)当ブログにおける「消費社会」関連記事の紹介

 

 消費社会の論点は、入試国語(現代文)・小論文の最重要論点です。ぜひ、参照してください。

 

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ーーーーーーーー

 

今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

ご期待ください。

 

   

 

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5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

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坂口安吾『茶番に寄せて』/2017早大政経現代文(国語)解説

1)なぜ、この記事を書くのか?

 

 坂口安吾は入試国語(現代文)・小論文における頻出著者です。最近では、以下のような大学で出題されています。

「散る日本」ー佐賀大学、南山大学
「FARCEに就いて」ー上智大学、神戸女学院大学
「文学のふるさと」ー明治大学、早稲田大学文化構想、
「意慾的創作文章の形式と方法」ー京都大学
「美について」ー大阪大学(小論文)
「娯楽奉仕の心構え」ー島根大学
「傲慢な眼」ー大阪府立大学

 

 今回、解説する2017 早稲田大学政経学部に出題された 『茶番に寄せて 』は、2010 早稲田大学早大(国際教養学部)にも同一の文章が箇所が出題されている頻出出典です。

 

 なお、今回の記事の項目は、以下の通りです。

(2)2017早稲田大学・政経学部ー現代文(国語)解説/『茶番に寄せて』坂口安吾

(3)「FARCEに就て」の解説

(4)坂口安吾氏の紹介

(5)「無頼派」について

 

茶番に寄せて

 

 (2)2017早稲田大学・政経学部ー現代文(国語)解説/『茶番に寄せて』坂口安吾

 

【1】日本には傑(すぐ)れた道化芝居が殆(ほと)んど公演されたためしがない。文学の方でも、井伏鱒二という特異な名作家が存在はするが、一般に、批評家も作家も、編輯者も読者も厳粛で、笑うことを好まぬという風がある。

【2】僕はさきごろ『文体』編輯の北原武夫から、思いきった戯作を書いてみないかという提案を受けた。かねて僕は戯作を愛し、落語であれ漫才であれ、インチキ・レビュウの脚本であれ、頼まれれば、白昼も芸術として堂々通用のできるものを書いてみせると大言壮語していたことがあるものだから、紙面をさいてくれる気持になったのである。北原の意は有難いが、読者がそこまでついてきてくれるかどうかは疑わしい。けれども僕は、そのうち、思いきった戯作を書いて、読者に見参するつもりである。

【3】〔  ①  〕

 

【4】然(しか)し、諷刺は、笑いの豪華さに比べれば、極めて貧困なものである。諷刺する人の優越がある限り、諷刺の足場はいつも危く、その正体は貧困だ。諷刺は、諷刺される物と対等以上であり得ないが、それが〔  ②  〕という正当ならぬ方法を用い、すでに自ら不当に高く構えこんでいる点で、物言わぬ諷刺の対象がいつも勝を占めている。

【5】諷刺にも優越のない場合がある。諷刺者自身が同時に諷刺される者の側へ参加している場合がそうで、また、諷刺が虚無へ渡る橋にすぎない場合がそうだ。これらの場合は、諷刺の正体がすでに a 合理に属しているから、もはや諷刺と言えないだろう。諷刺は本来笑いの合理性を掟とし、そこを踏み外してはならないのである。即ち諷刺は対象への否定から出発する。これは道化の邪道である。むしろ贋物(にせもの)なのである。

【6】正しい道化は人間の存在自体が孕(はら)んでいる不合理や矛盾の肯定からはじまる。警視総監が泥棒であっても、それを否定し揶揄(やゆ)するのではなく、そのような不合理自体を、合理化しきれないゆえに、肯定し、丸呑みにし、笑いという豪華な魔術によって、有耶無耶(うやむや)のうちにそっくり昇天させようというのである。b 合理の世界が散々もてあました不合理を、もはや精根つきはてたので、突然不合理のまま丸呑みにして、笑いとばして了(しま)おうというわけである。

【7】だから道化の本来は〔  ③  〕だ。そこまでは合理の法でどうにか捌(さば)きがついてきた。ここから先は、もう、どうにもならぬ。ーーという、ようやっと持ちこたえてきた合理精神の歯をくいしばった渋面が、笑いの国では、突然赤褌ひとつになって裸踊りをしているようなものである。それゆえ、笑いの高さ深さとは、笑いの直前まで、合理精神が不合理を合理化しようとしてどこまで努力してきたか、そうして、とうとう、どの点で兜(かぶと)を脱いで投げ出してしまったかという程度による。

【8】だから道化は戦い敗れた合理精神が、完全に 合理を肯定したときである。即ち、合理精神の悪戦苦闘を経験したことのない超人と、合理精神の悪戦苦闘に疲れ乍(なが)らも決して休息を欲しない超人だけが、道化の笑いに鼻もひっかけずに済まされるのだ。道化はいつもその一歩手前のところまでは笑っていない。そこまでは 合理の国で悪戦苦闘していたのである。突然ほうりだしたのだ。むしゃくしゃして、原料のまま、不合理を突きだしたのである。

【9】道化は昨日は笑っていない。そうして、明日は笑っていない。一秒さきも一秒あとも、もう笑っていないが、道化芝居のあいだだけは、笑いのほかには何物もない。涙もないし、揶揄もないし、凄味(すごみ)などというものもない。裏に物を企んでいる大それた魂胆は微塵(みじん)もないのだ。ひそかに裏を諷しているしみったれた精神もない。だから道化は純粋な休みの時間だ。昨日まで営々と貯め込んだ百万円を、突然バラまいてしまう時である。惜(おし)げもなく底をはたく時である。

【10】道化は浪費であるけれども、一秒さきまで営々と貯めこんできた努力のあとであることを忘れてはならない。甚だしく勤勉な貯金家が、エイとばかり矢庭(やにわ)に金庫を蹴とばして、札束をポケットというポケットへねじこみ、さて、血走った眼付をして街へ飛びだしたかと思うと、疾風のようにみんな使って、元も子もなくしてしまったのである。

【11】道化の国では、ビールよし、シャンパンよし、おしるこもよし、巴里の女でもアルジェリアの女でもなんでもいい。使い果してしまうまでは選り好みなしにO・Kだ。否定の精神がないのである。すべてがそっくり肯定されているばかり。泥棒も悪くないし、聖人も善くはない。学者は学問を知らず、裏長屋の熊さんも学者と同じ程度には物識りだ。即ち泥棒も牧師くらい善人なら、牧師も泥棒くらい悪人なのである。善玉悪玉の批判はない。人性の矛盾撞着(どうちゃく)がそっくりそのまま肯定されているばかり。どこまで行っても、ただ肯定があるばかり。

【12】道化の作者は誰に贔負(ひいき)も同情もしない。また誰を憎むということもない。ただ肯定する以外には何等の感傷もない木像なのである。憐れな孤児にも同情しないし、無実の罪人もいたわらない。ふられる奴にも助太刀しないし、貧乏な奴に一文もやらない。そうかと思うと、ふられた奴が恋仇の結婚式で祝辞をのべ、死んだ奴が花束の下から首を起こして突然棺桶をねぎりだす。別段死者や恋仇をいたわる精神があるわけじゃない。万事万端ただ森羅万象の肯定以外に何物もない。どのような不合理も矛盾もただ肯定の一手である。解決もなく、解釈もない。解決や解釈で間に合うなら、笑いの国のお世話にはならなかった筈なのである。

【13】フランスに『フィガロ』という『都新聞』のような新聞がある。「セビリアの理髪師」や「フィガロの結婚」のフィガロから来た名称らしく、なぜ私が笑うかって言うのですかい。笑わないと泣いちゃうからさ、というフィガロの科白(せりふ)が題字のところに刷りこんである。(多分そうだったと思いますよ)「セビリアの理髪師」や「フィガロの結婚」は却々(なかなか)の名作だが、4  ここに引用したような笑いの精神は、僕のとらないところである。世之助の武者振りや源内先生の戯作には、そういうケチな魂胆がない。

【14】一言にして僕の笑いの精神を表わすようなものを探せば、「浜松の音は、ざざんざあ」という太郎冠者がくすねた酒に酔っぱらい、おきまりに唄いだすはやしの文句でも引くことにしようか。「橋の下の菖蒲(しょうぶ)は誰が植えたしょうぶぞ。ぼろおんぼろおん」という山伏のおきまりの祈りの文句にでもしようか。それ自体が不合理だ。人を納得させもしないし、偉くもしない。ただゲタゲタと笑うがいいのだ。一秒さきと一秒あとに笑わなければいいのである。そのときは、笑ったことも忘れるがいい。そんなにいつまで笑いつづけていられるものじゃないことは分りきっているのである。

【15】道化文学は、作者にとっては、趣向がすべてであり、結果としては読者から、笑ってもらうことがすべてなのである。

(坂口安吾「茶番に寄せて」)


ーーーーーーーー

 

(設問)(基礎的な語句問題等は省略しました) 

問1 傍線部 a ~ d の合理の中に、本来は不合理と入るべきで、このままでは意味の通らない箇所が二箇所ある。次の中から二つ選べ。

イ  a   ロ  b   ハ  c   ニ  d

 

問2 空欄①には、次の五つの文から構成される一段落が入る。五つの文を正しく並べ替えたとき、三番目に来る文はどれか。

イ  そうして、喜劇には諷刺がなければならないという考えをもつ。

ロ  ところが何事も合理化せずにいられぬ人々が存在して、笑いも亦合理的でなければならぬと考える。

ニ  無意味なものにゲラゲラ笑って愉しむことができないのである。

ハ  笑いは不合理を母胎にする。

ホ  笑いの豪華さも、その不合理とか無意味のうちにあるのであろう。

 

問3 空欄②に入る語句として最適なものを次の中から一つ選べ。

イ 諷刺  ロ 魔術  ハ 道化  ニ 揶揄  ホ 批判


問4 空欄③に入る語句として最適なものを次の中から一つ選べ。

イ 肯定と否定の相剋(そうこく)

ロ 合理精神の休息

ハ 人間存在の逆説

ニ 社会諷刺の隠れ蓑(みの)

ホ 予期せぬ笑いの魔術

 

問5 傍線部4に「ここに引用したような笑いの精神は、僕のとらないところである」とあるが、それはなぜか。その説明として最適なものを次の中から一つ選べ。

イ  笑いと涙は表裏一体のものであり、本来の笑いの精神からいえば、笑いのうちに涙を含んでいるものだから。

ロ  笑いは人類に普遍的な行為であり、フィガロの言葉だけではとても本来の笑いの精神をとらえることができないから。

ハ  笑いも涙も突発的なもので、なぜ突然泣いたりの笑ったリすることのか本人にも理由がわからないのが本来の笑いの精神だから。

ニ  笑いのなかにしか人生の真実はなく、本来の笑いの精神からいえば涙など一滴も入り込む余地は考えられないから。

ホ  笑いはただおかしいから笑うばかりで、その理由を解釈すること自体が本来の笑いの精神からはずれているから。


問6 問題文の内容と合致するものとして最適なものを次の中から一つ選べ。

イ  笑いは不合理の産物だが、その笑いが傑れた道化芝居になるためには合理的な解釈と気のきいた諷刺が必要で、日本には「セビリアの理髪師」や「フィガロの結婚」のような諷刺劇の伝統がないために、傑れた道化芝居が上演されることが少ない。

ロ  道化というのは、人生の戦いに敗れた合理精神が何もかも投げ出してしまう瞬間に生れる一瞬の哄笑こそが命で、その瞬間が到達するまでは一切の笑いを禁じられ、修行僧のような難行苦行に悪戦苦闘する不合理な経験を強いられている。

ハ  諷刺が笑いに比べて貧困なのは、本来対象とは対等でまたあるに敗れるかかわらず、自らを高く構えて対象に優越しようとするからで、この世のあらゆるものを肯定し、不合理を不合理としてまるごと享受する笑いの豪華さにはとても及ばない。

ニ  笑いに、否定の精神がないというのは、すべてをそのまま受け入れるということを意味しているが、そのことを通して憐れな孤児や無実の罪人の存在を世に知らしめ、感傷的にならずに社会的弱者を救済し手をさしのべる契機をもたらしている。

ホ  道化の国では、あらゆるものの価値が転倒し善悪正邪が入れ代わることで笑いが発生するが、それは道化芝居のなかだけに起こる出来事であって、現実にはありえないからこそ純粋に笑ってその不合理な行為を肯定することができるのである。

 

ーーーーーーーー

 

(解説・解答)

 まず、「茶番(ちゃばん)」の意味を確認します。
 「茶番」とは、「①滑稽(こっけい)な即興寸劇。②底の見えすいた下手な芝居。ばかげた振る舞い」という意味です。

 

 次に、この論考のキーセンテンスの解説をします。

「正しい道化は人間の存在自体が孕(はら)んでいる不合理や矛盾の肯定からはじまる」(【6】第1文)
 この一文は、この論考のキーセンテンスです。この一文は、素晴らしい思想を含んでいるようです。単純に表現するすれば、全肯定的ヒューマニズム、笑劇的ヒューマニズム、日本人には珍しいラテン風楽天主義、笑い飛ばせ主義となります。
 現代日本の閉塞的状況においてこそ、坂口安吾氏の論考は、先鋭的な近代批判、現代文明批判として、さらに、再評価されるべきです。

 鬱々していても仕方がない。   

 日々、顔を歪めて生きていても、何の解決にはならないのです。

 どのようにしても、解決策がないのであれば、悩みは笑い飛ばしてしまえば、よいのです。悩みは時間が解決してくれるでしょう。時間が解決してくれない悩みは、ありません。例えば、あなたが消えてしまえば、悩みも消えてなくなります。人生は有限で、悩みも有限です。無限と思い込むから、顔を歪めてしまうのです。ここは、ラテン的楽天主義、全肯定的ヒューマニズム、笑劇的ヒューマニズムで生きて、人生を楽しむべきでしょう。


問1(誤記指摘問題→「キーワード」の誤記を指摘する問題)

→このような問題が頻出なので、設問文を本文より先に読むべきなのです。今回は、本文を熟読・精読する前に、この設問を読まないと、大混乱→空中分解→終わり、という流れになります。

 しかも、今回は「合理」・「不合理」というキーワードが問題となっているので、設問を先に読まないことのハンデは、極大になります。


 この設問の解法としては、特に、【6】段落第1文の「正しい道化は人間の存在自体が孕(はら)んでいる不合理や矛盾の肯定からはじまる」がキーセンテンスになっていることに注意してください。

 その上で、「合理」と「不合理」の対比を意識して、a~dそれぞれの正当性を確認してください。

(解答)  イ・ハ

 

問2(文章並べ替え問題)

【文章並べ替え問題について】

 最近は、早稲田大学、マーチレベル大学、関関同立などの難関大学で、「文章並べ替え問題」が流行になっています。国語(現代文)だけではなく、小論文でも出題されることもあります。
 今まで出題歴のない大学や学部で、突然、出題されることも、よくあります。
 従って、しっかりと対策をしておくべきです。

 この問題が出来ないと、全体の文脈の把握が困難になります。配点以上のダメージを受けることになります、

 しかも、本番では、本文全体のキーの部分が、文章並べ替え問題として使われることが多いので、「文章並べ替え問題」を得意分野にしておくべきです。

 「文章並べ替え問題」が不得意な受験生は、「文章並べ替え問題」のみを、集中的にやるようにしてください。

 短期間に「文章並べ替え問題」を集中的にやることで、解法のポイント・コツを会得することが、可能になるのです。

 しかも、その際には、志望校レベルの過去問のみを、やるようにした方が賢明です。

 良質な問題を演習しなければ、実力はつきません。


 「文章並べ替え問題」は、論理力や推理力のアップに有用です。

 しかも、先程述べましたように、志望大学で今まで「文章並べ替え問題」が出題されていないとしても、いつ出題されるか分からないので、油断なく準備しておくべきでしょう。


【「文章並べ替え問題」の解法・ポイント】

① 第一に、「並べ替えるべき文章」(選択肢の文章)の全体、空欄の直前・直後の文脈にざっと目を通して、大まかな内容(文脈)を把握する。

② その後は、まずは、「並べ替えるべき文章」(選択肢の文章)に集中する。 

 初めに、「並べ替えるべき文章」(選択肢の文章)の各文の中心テーマを把握。その際に、各文の接続語、指示語、文末等をチェックする。

③ その上で、文章のペアを作っていく。  その際には、わかるものからペアを作っていく。

 つまり、どれが「全体の最初の文章」として適切か、については、あまり気にしないようにする。

 →全部の順序を一度に確定しようとはしないことです。せっかちは禁物です。イライラしないように! 冷静第一です。地道第一です。

 最初は、「ペアを作ること」に専念するべきです。

④ ペアを2~3組程度作った後で、「どのペアが最初に来るか、最後に来るか」、を考える。

 その際には、「空欄(並べ替え問題の空欄)の直前・直後」と「並べ替えた文」との接続関係を精密にチェックする。

 

 

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 今回の設問の解法としては、「笑い」と「諷刺」の対比に注目する必要があります。

 そして、直前段落と直後段落の接続に着目して、最初と最後を、まず決めてから並べていくと、効率的に解くことができます。
 ハ→ホ→ロ→ニ→イの順になります。

(解答)  ロ

 

問3(空欄補充問題) 

【空欄補充問題のポイント】

 「空欄補充問題」は、空欄の直前・直後にヒントがあることが非常に多いのです。

 空欄補充問題を解く際には、本文の精読・熟読に基づく精密な分析が不可欠です。

 要約を離れ、本文に集中しながら(本文をじっと見ながら)、考察するようにしてください。段落の要約をメモしながらする作戦は、取らない方が賢明です。

 

 


 今回の問題については、直後の「正当ならぬ方法を用い、すでに自ら不当に高く構えこんでいる点」に着目してください。

(解答)  ニ

 

問4(空欄補充問題)

 「道化」の「本来」的性格を、直後の段落から読み取ってください。
 具体的には、
【8】段落「合理精神の悪戦苦闘に疲れ乍(なが)らも決して休息を欲しない超人だけが、道化の笑いに鼻もひっかけずに済まされるのだ」、
【9】段落「道化は純粋な休みの時間だ」、
がポイントになります。

(解答)  ロ

 

問5(傍線部説明問題・理由説明問題)

 傍線部の「ここに引用したような笑いの精神」は、直前の「なぜ私が笑うかって言うのですかい。笑わないと泣いちゃうからさ」を、さしています。
 このような「笑いの精神」は、
【12】段落「道化の作者は誰に贔負(ひいき)も同情もしない。また誰を憎むということもない。ただ肯定する以外には何等の感傷もない木像なのである」、
「どのような不合理も矛盾もただ肯定の一手である。解決もなく、解釈もない。解決や解釈で間に合うなら、笑いの国のお世話にはならなかった筈なのである」、
に反しています。

(解答)  ホ


問6(趣旨合致問題)

【趣旨合致問題のポイント】
 問題文本文を読む前に、設問を見ることが大切です。
 設問のポイントのみ、チェックできれば、それでよいのです。
 割り切ることが必要です。

 

 本問の解法としては、「諷刺」と違い、「道化」の「笑い」が「全存在を、そのままで肯定するもの」という筆者がポイントになります。

イ  「その笑いが傑れた道化芝居になるためには合理的な解釈と気のきいた諷刺が必要」の部分が、「諷刺」をプラス評価している点で、【4】段落の趣旨に反しているので、誤りです。

ロ  「修行僧のような難行苦行に悪戦苦闘する不合理な経験を強いられている」の部分は、本文に、このような記述がないので、誤りです。

ハ 【4】・【12】段落の趣旨に合致しています。

ニ  「社会的弱者を救済し手をさしのべる契機をもたらしている」の部分は、本文に、このような記述がないので、誤りです。

ホ  「現実にはありえないからこそ純粋に笑ってその不合理な行為を肯定することができるのである」の部分は、本文に、このような記述がないので、誤りです。

(解答)  ハ

 

 

 (3)「FARCEに就て」の解説

 

 坂口安吾は「FARCEに就て」 (→この論考も入試頻出出典です) においても「茶番に寄せて」と同趣旨のことを述べているので、以下に引用します。

「ファルス  (→「FARCE」とは「笑劇。道化芝居」という意味)とは、人間のすべてを、全的に、一つ残さず肯定しようとするものである。およそ人間の現実に関する限りは、空想であれ、夢であれ、死であれ、怒りであれ、矛盾であれ、トンチンカンであれ、ムニャムニャであれ、何から何まで肯定しようとするものである。ファルスとは、否定をも肯定し、肯定をも肯定し、さらにまた肯定し、結局人間に関する限りのすべてを永遠に永劫に永久に肯定肯定肯定して止むまいとするものである。諦めを肯定し、溜息を肯定し、何言ってやんでいを肯定し、と言ったようなもんだよを肯定し──つまり、全的に人間存在を肯定しようとすることは、結局、途方もない混沌を、途方もない矛盾の玉を、グイとばかりに呑みほすことになるのだが、しかし決して矛盾を解決することにはならない、人間ありのままの混沌を永遠に肯定しつづけて止まないところの根気のほどを、呆れ果てたる根気のほどを、白熱し、一人熱狂して持ちつづけるだけのことである。哀れ、その姿は、ラ・マンチャのドン・キホーテ先生のごとく、頭から足の先までRidicule(→「あざけり,嘲笑」という意味)に終ってしまうとは言うものの、それはファルスの罪ではなく人間様の罪であろう、と、ファルスは決して責任を持たない。」

 

 以上のうちで、注目するべき論考は、以下の部分です。

「人間のすべてを、全的に、トンチンカンであれ、ムニャムニャであれ、何から何まで肯定しようとするものである

人間ありのままの混沌を永遠に肯定しつづけて止まないところの根気のほどを、呆れ果てたる根気のほどを、白熱し、一人熱狂して持ちつづけるだけのことである

 

 安吾の論理は一見暴論ですが、一種の「悟りへの道」を拓くものにも見えます。 

 その過激性は、究極の過激を意識しつつ、露悪的であることを装いながら、品格を保ち、迷いのある人々を労るものですあると、私には思われるのです。

 破天荒な言葉・論理の渦巻きに巻き込まれる感じはしますが、逆に鼓舞され、勇気付けられるような、奇妙な「ぬくみ」が、そこには存在するのです。表面的な陳腐な、いかにも大衆受けするような優しい言葉を超えた、人間味のある温かさを感じてしまうのです。繰り返される全的な肯定が、その理由でしょう。

 安吾は、戯作者・エンターティナーであり、また、人間性を信頼する哲学者である、と私は感じます。理性中心主義が、人間の行動を抑制し過ぎているのではないか、と分かりやすいほどの過激な表現で訴えているのです。

 人間が矛盾的存在であることを認めながら、矛盾(=「人間ありのままの混沌」)こそが人間の精神の真実である、と述べているのです。

 これこそ、天衣無縫的な稚気による、日本独特の理性の破壊、純文学的理性の破壊でしょう。

 この稚気は、頭の固くなった現代の日本人には、理解不能なレベルに突き抜けているようです。言ってみれば、ラテン風とも言えるような、かつ、仏教的悟りの境地なのかもしれません。
 小林一茶のような、坂口安吾の無条件な全肯定主義は、閉塞感が社会全体を覆っている、現代日本には、かなり有用な妙薬ではないでしょうか。

 苦味のある濃厚な含む笑いが、その当時の現状の打破には必要と考えていたのかもしれません。

 坂口安吾は、理性への懐疑、知性への懐疑を前提として、笑いつつ、毒を味わいつつ、悟りに到達しようとする道のあることを確信しているのでしょう。

 つまり、安吾は、人々に各自の生命力自体の活力を、再認識させようとしているのかもしれません。現代の理性重視、知性重視という近代原理が、いかに人々の発想や行動を拘束し、生命力を低下させているかを考えさせようとしているのでしょう。 

 理性批判、知性批判は、感性の復活、心身二元論批判に通じるものがあります。それゆえに、坂口安吾の論考は、入試頻出出典になっているのです。

 

 坂口安吾は笑いの共感を得やすいように、分かりやすく、過激性の効果を承知して語っているのでしょう。その主張の根源には真の自由の追求があると思われます。

 

 

(4)坂口安吾氏の紹介 

坂口 安吾(さかぐち あんご、1906年(明治39年)10月20日 ~ 1955年(昭和30年)2月17日)は、日本の小説家、評論家、随筆家。本名は坂口 炳五(さかぐち へいご)。

 戦前・戦後にかけての近代日本文学の代表的作家の一人。新潟県出身。東洋大学印度哲学倫理学科卒業。アテネ・フランセでフランス語習得。1926(大正15)年、求道を目指し、東洋大学印度哲学科に入学したが、悟りを得ることはなかった。 

 1930(昭和5)年、友人らと創刊した同人雑誌『言葉』に発表した「風博士」を牧野信一に絶賛されたことにより、作家活動を開始する。1946(昭和21)年、戦後の本質を鋭く洞察した『堕落論』、『白痴』の発表により、一躍人気作家として脚光を浴びる。

 純文学のみならず、歴史小説、推理小説、探偵小説も執筆し、文芸論や時代風俗から古代歴史まで広範囲に及ぶ随筆・エッセイなど、多彩な執筆活動をした。

 小説の代表作は「紫大納言」「真珠」「白痴」「桜の森の満開の下」「夜長姫と耳男」など

 エッセイの代表作は「FARCEに就て」「文学のふるさと」「日本文化私観」「堕落論」「教祖の文学」など。

 

 

 (5)「無頼派」について

 無頼派(ぶらいは)は、第二次世界大戦後、既存の文学への批判的姿勢を鮮明にした日本の作家達に冠された名称です。「新戯作派(しんげさくは)」と同義ですが、現在はこの呼称の方が有名です。
 無頼派と同義の「新戯作派」という言葉は、坂口安吾の戯作に関する論考が、きっかけになっています。『戯作者文学論』、『大阪の反逆 ー織田作之助の死 』などで、坂口は、文学における戯作性の再評価を主張しました。つまり、洒落・滑稽を重視した江戸時代後期の「戯作精神」を復活を唱えたのです。
 この「戯作精神の復活」の思想は、坂口の論考『FARCEに就て』、『お伽草紙』『如是我聞』『晩年』『グッド・バイ』の太宰治の諸作品における道化精神などに見られます。そこには、日本文学の私小説的リアリズムへの痛烈な批判的精神があります。
「無頼派作家」には、坂口安吾、太宰治、織田作之助、田中英光、檀一雄などが含まれます。

 

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今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後の予定です。

ご期待ください。

 

   

 

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茶番に寄せて

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堕落論・日本文化私観 他22篇 (岩波文庫)

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茂木健一郎『思考の補助線』/明大(政経)・山口大現代文解説

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 

 茂木健一郎氏は、トップレベルの入試頻出著者です。最近では、福井大学、金沢大学、山口大学、早稲田大学、明治大学、立命館大学、関西大学、青山学院大学、成蹊大学などの国語(現代文)・小論文で出題されています。
 国語(現代文)・小論文対策として、茂木健一郎氏の論考を読むことを、おすすめします。

 

 しかも、茂木氏の論考は、知的好奇心を心地よく刺激してくれる上に、人生に役立ちます。

 高校生、受験生は、最低1冊は、茂木健一郎氏の著書を読んでおくべきでしょう。

 そこで、今回の記事でも、『思考の補助線』の中の山口大学、明治大学政経学部に出題された箇所(「個性を支えるパラドックス」)(同一箇所→頻出箇所です)を解説することにしました。

 

  なお、今回の記事の項目は、以下の通りです。

 (2)茂木健一郎『思考の補助線』2017山口大学・2009明治大学(政経)現代文解説

 (3)茂木健一郎氏の紹介

 (4)当ブログにおける「個性」関連記事の紹介

 

思考の補助線 (ちくま新書)

 

 

(2)茂木健一郎『思考の補助線』2017山口大学・2009明治大学(政経)現代文解説

 次の文章を読んで、後の問に答えよ。

 

(問題文本文)

(【1】・【2】・【3】・・・・は当ブログで付記した段落番号です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です) 


【1】日本の論壇で、「個性」の行きすぎということが「戦後民主主義」とからめて批判的に議論されたときがあった。私は、そのような論者に基本的にうさんくさいものを感じて、同調するどころか、まともに取り合う気にすらならなかった。 

【2】民主主義が、否定されるべきものとして議論に出てくること自体、何を言いたいのかわからない。「戦後」という限定詞を付けたからといって、なぜそれが〔  A  〕なニュアンスになるのか? 

【3】1  「戦後民主主義」の中での「個性」や「権利」の行きすぎを論ずる論客に至っては、最低限の論理的整合性すらないように思われた。「個性」が輝いたり、「権利」が認められたほうが、よいに決まっている。「個性」や「権利」といった、人類が長い歴史の中で勝ちとってきた価値を否定的に議論している論客は、自分の論文が凡百の雑文と同等に扱われたり、財産が恣意的に没収されても、かまわないとでもいうのか。おそらくは、自分だけは例外というわけなのだろう。英訳でもしてみれば、論理構造の破綻にすぐ気づく。まさに、日本語で書かれ、日本語圏という特殊なマーケットで消費されることでしか成立しえない、ロクでもない議論であったように今でも思っている。 

【4】「個性」が社会全体の調和と相容れないというのはとりわけ粗雑な議論で、科学的に見ても間違っている。「個性」は、他者とのコミュニケーションがあってこそ、はじめて磨かれるものだからである。個性が輝いている人は、同時に他者との関係性を大切にし、社会にも貢献する人である可能性が高い。逆に、顔のない、没個性の人のほうが、よほど社会から孤立し、調和を乱す可能性が高い。社会の調和のためにも、一人ひとりが個性を磨くのがよいのである。

【5】そもそも、人格というものは他者との関係性なしでは成立しない。他者との濃密なやりとりの中に徐々に形成されていくのが私たちの人格である。河原の石ころが流されていく間に他の石とぶつかってしだいに形を変えていくように、私たち人間もまた、他者との行き交いの中に、しだいに人格をととのえていく。その中で、しだいに一人ひとりの個性が立ち上がってくる。モーツァルトが誕生し、小林秀雄が生まれてくる。 

【6】インターネットに象徴される情報化社会の高度化で、「個性」の価値はかつてなく高まっている。個性のない、均一社会の調和しか考えない人間だけが集まった国をつくっても、国際競争に勝てない時代がすでに到来している。「ビートルズ」という強烈な個性を持ったロック・バンドが登場したことによって、英国がどれだけの恩恵を得たか。マイクロソフトのビル・ゲイツや、アップル・コンピュータのスティーヴ・ジョブズのような個性的な創業者が出現していなかったら、アメリカの経済はどうなっていたか。戦後民主主義の中で個性が行きすぎたなどとする言説は、科学的な記述としてだけでなく、実体経済におけるパフォーマティヴの文脈の中でも間違っている。 

【7】個性は、他人とのやりとりの中で磨かれる。日本の中に、個性を磨くために必要なコミュニケーションが不足しているわけではあるまい。むしろ、濃厚すぎるくらいだろう。問題なのは、コミュニケーションの内実である。コミュニケーションにおける力学の働き方によっては、個性を大切にするアメリカのような国も、没個性をよしとする風潮が見られぬでもなかった一時期の日本のような国もできあがる。力学をどう設計するかが、コミュニケーションの作用を決するのである。 

【8】他者とのコミュニケーションには、お互いを同質化する契機があることも事実である。とりわけ、ティーンエージャーのときには、「ピア・プレッシャー」と呼ばれる、人と異なる見かけや振る舞いを排除しようとする傾向が顕著となる。中学の頃、ちょっと変わったことをやってからかわれたり、また、自分もからかう側に立った経験がある人も多いだろう。同化作用はコミュニケーションの中に程度の差こそあれ必ずある。それは大人になっても本質的に変わらないし、社会全体としても明確な傾向として存在し続ける。そのような同化のダイナミクスが〔  B  〕すればファシズムに通じることは歴史が証明しているところである。

【9】その一方で、コミュニケーションの効果として、個性を際立たせる効果もある。同化作用のことを考えると逆説的にも思われるが、他者との濃密な関係性を持つことが、個性を際立たせるために必要なダイナミックスを提供するのである。そのことは、作曲家としてのモーツァルトの個性が、当時のウィーンを中心とする濃密な音楽サークルがなければ成り立たなかったことを考えても明らかであろう。歴史上、文化の領域において〔  C  〕な個性の峰々が立つときには、その背後には必ずといっていいほど濃密な行き交いを内包するコミュニティがあった。

【10】コミュニケーションの持つそのような働きを「個性化作用」と呼ぶことにするとすれば、「同化作用」と「個性化作用」の分水嶺(ぶんすいれい)はどこにあるのだろうか。  3  日本人のコミュニケーションの現状が、不幸にして「個性化作用」よりも「同化作用」が勝るものであるとするならば、そのような形勢を逆転するための「賢者の石」はどこにあるのだろうか。

【11】脳は、その中にある1千億の神経細胞の間のシナプスと呼ばれる結合部位を変化させることによって、その振る舞いを変えていく。このような脳の「学習」には大きく分けて2種類ある。すなわち、正解が決まっていて、もし間違えば「教師」がそれを教えてくれる「教師あり」学習と、正解がないか、あるいは正解があったとしてもそれが何なのかを教えてくれる「教師」がいない「教師なし」学習である。

【12】「教師なし」学習のうち、重要なのは、ドーパミンをはじめとする脳内報酬物質のダイナミクスにもとづく「強化学習」である。ある行為をしたときに、結果として脳内報酬物質が放出されれば、そのことがトリガー(→本文の「注」→「引き金。きっかけ」)となり、その行為が強化される。その結果、脳内報酬物質の放出が最大化されていくのである。

【13】最終的に学習の方向性を決めるのは、あくまでも脳内報酬物質である。何をうれしいと感じるか、脳内の報酬の文化が、強化学習の方向性を決めるのである。

【14】どのような「人格」を形成するかというテーマにおける「正解」は一つではない。極端に不安定な人格を除いて、進化の淘汰圧の中でそれなりに生きのびることのできる人格にはさまざまな「解」がある。人格の形成は、脳内報酬系にもとづく強化学習の典型的な例であると考えられるのである。

【15】すでに多くの研究が示しているように、脳内報酬物質を放出させるきっかけになる外部からの刺激のうち、最も強力なものは、他人からの承認である。何かをやって、それが周囲に認められたり、ほめられたりしたときに、そのことが脳内のドーパミンをはじめとする報酬物質を放出させるのである。その結果、強化学習が成立することになる。極言すれば、脳は、「他人にほめられるように」変化していくのである。

【16】人格形成において、他人とのやりとりが重大な意味を持つことは経験に照らしても明らかであろう。コミュニケーションのダイナミクスが「同化作用」をもたらすか、それとも「個性化作用」をもたらすかの分水嶺は、お互いに他人を承認ないしは否認する価値の構造の中にある。

【17】社会の中のやりとりにおいて、他人と同じような振る舞いをしたり、最大公約数的な意見を表明した結果、周囲からポジティヴ〔 D 〕なフィードバック(→本文の「注」→「受け手から送り手へ戻ってくる反応・意見など」)を得ると、そのような「同化」のベクトルが強化されることになる。「同化」も「個性化」も、同じくコミュニケーションの現場において成立する。そもそもコミュニケーションがなければ、「同化」も「個性化」も起こりえない。

【18】冒頭に批判的に紹介した一時期の日本の論壇の風潮におけるように、「他人と同じこと」を是とし、そのような振る舞いをしたときにそれを肯定するというような報酬構造があると、社会は自然に均質化していく。一方、少し変わったことをしたほうが賞賛を得られるような状況が続くと、社会の中に個性が輝く人が増えていく。

【19】少年モーツァルトが、どのような「報酬構造」の中にいてあのような個性を輝かせたか、いうまでもないだろう。当時のウィーンの宮廷が、他人と似たような振る舞い、全体の調和を何よりも優先するというような報酬構造を持った場所であったら、天才モーツァルトができあがることもなかった。脳の働きから複雑な社会の動きを断ずるのは、乱暴なようだが、そうすることで見えてくる真実もある。現代の日本の場合、「お互いに人と違ったことをやったらほめ合おう」というくらい割り切った行動規範にしてはじめて、社会が変わるくらいのダイナミクスに結実するのではないか。

【20】ところで「個性」といっても、それは他者との絶対的な差異を意味するのではない。たとえば、文化的な領域において、個性的な作品が輝き、多くの人に賞賛されるのは、それを理解することができてこそである。モーツァルトの音楽は、当時の人々に難しいという評判だった。それでも、モーツアルトの音楽を同時代の人々が受容したのは、リズムやメロディ、構成など、当時の人々の間で共有されていた音楽の文法を身につけていたからである。

【21】ここに、コミュニケーションを通して人々が個性を磨く際のきわめて重要な問題が提起される。すなわち、人間の「個性」とは、他人とのやり取りを通して獲得される共通の基盤の上に構成されるものだということである。

【22】権利にも、いうまでもなく社会において共通の基盤がある。もともと、個人の権利が無限に認められるということはありえない。よく知られた「公共の福祉」による制約があるし、そもそも権利の保護や行使は個人では完結せず、司法制度を中核とする社会のインフラを必要とする。

【23】重要なのは、権利の制約を導く概念として持ち出される「公共の福祉」のような概念を大文字のそれとして不用意に立ててしまわないことだろう。「権利」も「個性」と同じように、人と人とのコミュニケーションにその起源を持つ。人々の権利意識もまた、脳の一般的な学習原理にもとづいて形成される。ある社会が「個性」や「権利」をどのように扱うかは、第一義的には、コミュニケーションの現場で人々が何を是とし、何を非とするかという価値観と、それを受けた脳内の報酬系のダイナミクス、そして強化学習によって決定される。

【24】他者との共通基盤があってこそ、「個性」は輝く。このパラドックスの中にこそ、コミュニケーションに支えられて今、ここにある私たち人間の本質を考えるための大切なヒントがある。(茂木健一郎『思考の補助線』による)

 

ーーーーーーーー


(設問)(基礎的な問題は省略しました)

問1  空欄A~Dに入る適語を次の中から選べ。(山口大学)

① エスカレート  ② パラドックス ③ ポジティヴ  ④ ユニーク ⑤ ネガティヴ


問2  傍線部1 「『戦後民主主義』の中での『個性』や『権利』の行きすぎを論ずる論客に至っては、最低限の論理的整合性すらないように思われた」とあるが、筆者は「個性」や「権利」というものを、社会において、どのように決定されると考えているか。その説明として最適なものを次の中から一つ選べ。(明治大学)

①  脳の一般的な学習原理として社会が求めているものを快不快として判断をした上で、さらにコミュニケーションや司法制度との関わりの中で決定されると考えている。

②  他人とのやりとりを通して獲得される共通の基盤の上に構成され、さらに公共の福祉の制約があるために、司法制度を中核とする社会のインフラの整備の中で決定されると考えている。

③  公共の福祉の制約があるために無限に認めらるわけではなく、社会の中で流通している共通事項を考え、さらに人々とのコミュニケーションをすることによって決定されると考えている。

④  他者との関係性や社会に貢献することによって構成されるが、しかしそれらは個人だけの問題ではなく、司法制度を中心とする制度の中でのインフラを通して決定されると考えている。

⑤  人と人とのコミュニケーションの現場で人々が正しいとし、また何を正しくないとするかという価値観や、さらにそれを受けた脳内の報酬系の力学、そして強化学習によって決定されると考えている。


問3  傍線部2「コミュニケーションの持つそのような働きを『個性化作用』と呼ぶことにするとすれば、『同化作用』と『個性化作用』の分水嶺(ぶんすいれい)はどこにあるのだろうか」とあるが、筆者はその分水嶺をどこにあると考えているか。それを端的に示す部分を本文中より24字で探し、その最初と最後の3字ずつを記せ。(句読点も字数に含む)→(明治大学)

 

問4  傍線部3「日本人のコミュニケーションの現状が、不幸にして『個性化作用』よりも『同化作用』が勝るものであるとするならば、そのような形勢を逆転するための『賢者の石』はどこにあるのだろうか。」とあるが、筆者はその賢者の石は、どのようにしたら得られると考えているか。それを本文中の言葉を用いて50字以内で記せ。(句読点も字数に含む)→(山口大学)・(明治大学)

問5  傍線部4「他者との共通基盤があってこそ、『個性』は輝く」の具体例として、本文ではどのような例が挙げられているか。その具体例の内容を、できるだけ本文の表現を用いて40字以内で説明せよ。(山口大学)

 

問6   本文の内容と最も合致するものを次の中から一つ選べ。(明治大学)

①  モーツァルトの音楽は当時難解であるという評判もあったが、しかし同時代の人々がそれを受け入れることができたのは、人々が基本的に共有している音楽の文法や調和や同化作用があったからである。

②   脳の学習には正解が決まっていて、間違えても教師がそれを教えてくれる教師あり学習と、正解があったとしてもそれが何なのかを教えない教師なしの学習があるが、後者の方が脳には良い。

③   戦後民主主義の中で、マイクロソフトのビル・ゲイツなどの個性的な創業者が実体経済に及ぼす影響を考えても、強烈な個性あるものだけが求められている。

④   コミュニケーションにはお互いを同質化する契機があり、人と異なった見かけや振る舞いを排除しようとする傾向もあるが、その一方でお互いの個性を際立たせる効果もある。

⑤   進化の淘汰圧の中で生きのびる人格にはさまざまな「解」があるが、一方でまた強力に一つのことにこだわる力を持った人格が多いのも事実である。


ーーーーーーーー

 

(解説・解答)

問1(空欄補充問題)

A  直前の一文の「民主主義が、否定されるべきものとして議論に出てくること」に注目してください。
B  「ファシズム」(全体主義→現在の日本の「嫌煙運動」や「オリンピック中心主義」)は、「同化のダイナミクス」が悪化・進展した状況です。
C  直後の「個性の峰々」に着目してください。
D  直後の「強化」がヒントになります。

(解答) A=⑤  B=①  C=④  D=③

 

問2(傍線部説明問題)

 効率的に問題を処理するために、本文を熟読・精読する前に、この設問を見ておくべきです。傍線部は、本文のポイントやキーセンテンスになっていることが多いのです。


【23】段落に説明があります。
「ある社会が『個性』や『権利』をどのように扱うかは、第一義的には、コミュニケーションの現場で人々が何を是とし、何を非とするかという価値観と、それを受けた脳内の報酬系のダイナミクス、そして強化学習によって決定される。」

(解答) ⑤

 

問3(傍線部説明問題・記述問題)

 効率的に問題を処理するために、本文を熟読・精読する前に、この設問を見ておくべきです。

 

 「分水嶺」とは、「雨水が異なる水系に分かれる場所」という意味です。ここから、「物事の方向性が決まる分かれ目」・「転機」・「ターニングポイント」の「たとえ」として使用されます。
この意味を確認した上で、

【16】段落の「コミュニケーションのダイナミクスが『同化作用』をもたらすか、それとも『個性化作用』をもたらすかの分水嶺は、お互いに他人を承認ないしは否認する価値の構造の中ある」の部分に注目してください。

(解答) お互い・造の中

 

問4(傍線部説明問題・記述問題)

 効率的に問題を処理するために、本文を熟読・精読する前に、この設問を見ておくべきです。

 

 傍線部の「そのような形勢を逆転するための」に着目してください。

【19】段落の「現代の日本の場合、『お互いに人と違ったことをやったらほめ合おう』というくらい割り切った行動規範にしてはじめて、社会が変わるくらいのダイナミクスに結実するのではないか」の部分を制限字数に注意して、まとめるとよいでしょう。

(解答)
今の日本人が「人と違ったことをやったらほめ合おう」というような割り切った行動規範を意識して持つ。(49字)

 

問5(傍線部説明問題・記述問題)

 効率的に問題を処理するために、本文を熟読・精読する前に、この設問を見ておくべきです。

 本文のポイント、筆者の主張、つまり、具体例と本質論を関連させて読解できているか、を問う問題です。

 

 解法としては、
【19】段落の「当時のウィーンの宮廷が、他人と似たような振る舞い、全体の調和を何よりも優先するというような報酬構造を持った場所であったら、天才モーツァルトができあがることもなかった。」、

【20】段落の「モーツァルトの音楽は、当時の人々に難しいという評判だった。それでもモーツァルトの音楽を同時代の人々が受容したのは、リズムやメロディ、構成など、当時の人々の間で共有されていた音楽の文法を身につけていたからである。」、

【21】段落の、「人間の『個性』とは、他人とのやり取りを通して獲得される共通の基盤の上に構成されるものだということである。」

という記述から、具体例としては、「天才モーツァルト」を挙げるべきでしょう。

(解答)
モーツァルトの作品が賞賛されたのは、彼が同時代の音楽の文法を共有したからだ。(40字)

 

問6(趣旨合問題)

 趣旨合致問題も、効率的に問題を処理するために、本文を熟読・精読する前に、この設問を見ておくべきです。本文を熟読・精読しながら、①~⑤に関連する段落が見つかったら、すぐにチェックするようにしてください。①~⑤さえ、チェックできれば、それでよいのです。全文を完全暗記しようとするのは、不可能ですから、やめるべきでしょう。理想主義、完全主義は、入試では有害無益です。
 また、「段落ごとの要約」、「全体の要約」をメモすることは、入試の現場では、やめた方が賢明です。時間・手間のムダです。本文を熟読・精読しつつ、重要箇所に線を引くだけで十分です。


①は、【20】段落に関連しています。「同化作用」は、「モーツァルトの音楽を同時代の人々が受容したのは、リズムやメロディ、構成など、当時の人々の間で共有されていた音楽の文法を身につけていたからである」と無関係なので、誤りです。

②は、【11】~【13】段落に関連しています。「後者の方が脳には良い」は、このような記述は本文にないので、誤りです。

③は、【6】段落に関連しています。「強烈な個性あるものだけが求められている」は、このような記述は本文にないので、誤りです。

④は、【8】・【9】段落に関連しています。この④は、【8】・【9】段落の内容に合致しているので、正解になります。

⑤は、【14】段落に関連しています。「一方でまた強力に一つのことにこだわる力を持った人格が多いのも事実である」は、このような記述は本文にないので、誤りです。

(解答) ④

 

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(出典)茂木健一郎『思考の補助線』「個性を支えるパラドックス」の全文

 

(3)茂木健一郎氏の紹介

 

茂木健一郎(もぎ けんいちろう)

1962年東京生まれ。脳科学者。ソニーコンピュータサイエンス研究所シニアリサーチャー、慶應義塾大学特別研究教授。東京大学理学部、法学部卒業後、 東京大学大学院理学系研究科物理学専攻課程修了。理学博士。理化学研究所、ケンブリッジ大学を経て現職。2005年、『脳と仮想』(新潮社)で、第4回小林秀雄賞を受賞。2009年、『今、ここからすべての場所へ』(筑摩書房)で第12回桑原武夫学芸賞を受賞。その他著書多数。

 

【単著編集】

『脳とクオリア   なぜ脳に心が生まれるのか』(日経サイエンス社 1997年 )

『意識とはなにか 「私」を生成する脳』(ちくま新書 2003年)

『脳と仮想』(新潮社 2004 のちに文庫化 2007年)

『脳内現象   〈私〉はいかに創られるか』(NHK出版 2004年) 

『脳と創造性 「この私」というクオリアへ』(PHP研究所 2005年)

『ひらめき脳』(新潮新書 2006年)

『欲望する脳』(集英社新書 2007年)

『感動する脳』(PHP研究所  2007年 のちに文庫化)

『思考の補助線』(ちくま新書   2008年) 

『化粧する脳』(集英社新書  2009年)

『疾走する精神  「今、ここ」から始まる思想』(中公新書  2009年)

『生命と偶有性』(新潮社   2010年)

『創造する脳』(PHPエディターズ・グループ   2013年)

『生命と偶有性』(新潮選書   2015年)

『東京藝大物語』(講談社   2015年   のちに文庫化)

『ありったけの春』(夜間飛行   2017年)

 

【共著】

『脳+心+遺伝子VS.サムシンググレート   ミレニアムサイエンス 人間とは何か』(養老孟司・村上和雄・竹内薫共著   徳間書店   2000年 のちに文庫化 )

『スルメを見てイカがわかるか!』(共著者:養老孟司 角川書店   2003年) 

『養老孟司&茂木健一郎の「天才脳」の育て方』 (アスコム)

『こころと脳の対話』(共著者:河合隼雄 潮出版社   2008年 のちに新潮文庫)

『自分の頭で考えるということ』(羽生善治共著  大和書房   2010年)

『わたしの3・11   あの日から始まる今日』(編 毎日新聞社   2011年)

『何のために「学ぶ」のか』(外山滋比古・前田英樹・今福龍太・本川達雄・小林康夫・鷲田清一共著 ちくまプリマー新書   中学生からの大学講義   2015年)

 

 (4)当ブログにおける「個性」関連記事の紹介

 

「個性」は頻出論点です。

 

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今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

ご期待ください。

 

   

 

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