現代文最新傾向LABO 斎藤隆

入試現代文の最新傾向を分析し、次年度の傾向を予測する大胆企画

2015東大国語第1問(現代文)『傍らにあること』池上哲司/解説

(1)はじめに ─ なぜ、この記事を書くのか?


 「自己」・「アイデンティティ」・「自分らしさ」、「自己と死」は、入試頻出論点です。

  「自己」・「アイデンティティ」の内実をいかに考えるかについては、さまざまな視点があります。

 今回の記事で解説する、2015東大国語第1問(現代文)『傍らにあること』池上哲司は、読むべき内容になっています。

 設問も、全体的に見て、ハイレベルで良問です。

 ぜひ、チャレンジしてください。

 

 なお、今回の記事の項目は以下の通りです。

 

(2)2015東大国語第1問(現代文)「傍らにあること」池上哲司/解説

(3)補充説明① ─ 本書の内容 ─ 「自由の重さ」と「他者の承認」

(4)補充説明② ─ 最近の東大国語第1問の傾向について

(5)池上哲司氏の紹介

(6)当ブログにおける「自己」・「自分」・「自分らしさ」関連記事の紹介

(7)当ブログにおける「承認欲求」関連記事の紹介

 

傍らにあること: 老いと介護の倫理学 (筑摩選書)

 


(2)2015東大国語第1問(現代文)「傍らにあること」池上哲司/解説

 

(問題文本文)(概要です)

(【1】・【2】・【3】・・・・は当ブログで付記した段落番号です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です) 

 

(問)次の文章を読んで、後の設問に答えよ。

【1】昨日机に向かっていた自分と現在机に向かっている自分、両者の関係はどうなっているのだろう。身体的にも意味的にも、昨日の自分と現在の自分とが微妙に違っていることは確かである。しかし、その違いを認識できるのは、その違いにもかかわらず成立している不変の自分なるものがあるからではないのかこういった発想は根強く、誘惑的でさえある。ァこのような見方は出発点のところで誤っているのである。このプロセスを時間的に分断し、対比することで、われわれは過去の自分と現在の自分とを別々のものとして立て、それから両者の同一性を考えるという道に迷いこんでしまう。過去の自分と現在の自分という二つの自分があるのではない。あるのは、今働いている自分ただ一つである。生成しているところにしか自分はない。

【2】過去の自分は、身体として意味として現在の自分のなかに統合されており、その限りで過去の自分は現在の自分と重なることになる。身体として統合されているとは、たとえば、運動能力に明らかである。最初はなかなかできないことでも、訓練を通じてわれわれはそれができるようになる。そして、いったん可能となると、今度はその能力を当たり前のものとしてわれわれは使用する。また、意味として統合されているとは、われわれが過去の経験を土台として現在の意味づけをなしていることに見られるとおりである。現在の自分が身体的、意味的統合を通じて、結果として過去の自分を回収する。換言すれば、回収されて初めて、過去の自分は「現在の自分の過去」という資格を獲得できるのである。


ーーーーーーーー

 

(設問)(1)

このような見方は出発点のところで誤っているのである」(傍線部ア)とあるが、なぜそういえるのか、説明せよ。(60字程度)

……………………………


(解説・解答)

 傍線部の「このような見方」とは、「身体的にも意味的にも、昨日の自分と現在の自分とが微妙に違っていることは確かである。

 しかし、その違いを認識できるのは、その違いにもかかわらず成立している不変の自分なるものがあるからではないのか」とする「見方」です。

 

 次に、傍線部の「出発点のところ」とは、「過去の自分と現在の自分とを別々のものとして」考えることです。

 それが「誤っている」理由は、

【1】段落最終部分「過去の自分と現在の自分という二つの自分があるのではない。あるのは、今働いている自分ただ一つである。生成しているところにしか自分はない」、

【2】段落冒頭部分「過去の自分は、身体として意味として現在の自分のなかに統合されており、その限りで過去の自分は現在の自分と重なることになる」からです。

 以上のポイントをまとめるとよいでしょう。

 

 自分は「不変」ではないのです。
 自分は、意識レベル、無意識レベルで、日々、自ら微調整し、変化している運動体、可動体です。
 このことが、池上氏の主張の根幹であり、スタートです。

 

(解答)
「不変の自分」という発想は、過去を統合した現在の生成としてしかありえない自分を、過去と現在に分断することを前提とするから。


ーーーーーーーー

 

(問題文本文)(概要です)

【3】統合が意識されている場合もあれば、意識されていない場合もある。したがって、現在の自分へと回収されている過去の自分が、それとして常に認識されているとは限らない。むしろ、忘れられていることの方が多いと思われる。二十年前の今日のことが記憶にないからといって、それ以前の自分とそれ以後の自分とが断絶しているということにはならない。第一、二十年前から今日現在までのことを、とぎれることなく記憶していること自体不可能である。重要なのは、何を忘れ、何を覚えているかである。つまり、自分の出会ったさまざまな経験を、どのようなものとして引き受け、意味づけているかである。そして、そのような過去への姿勢を、現在の世界への姿勢として自らの行為を通じて表現するということが、働きかけるということであり、他者からの応答によってその姿勢が新たに組み直されることが、自分の生成である。そしてこの生成の運動において、いわゆる自分の自分らしさというものも現れるのである。

【4】 ィこの運動を意識的に完全に制御できると考えてはならない。つまり、自分らしさは、自らがそうと判断すべき事柄ではないし、そうあろうと意図して実現できるものでもない。具体的に言えば、自分のことを人格者であるとか、高潔な人柄であるとか考えるなら、それはむしろ、自分がそのような在り方からどれほど遠いかを示しているのである。また、人格者となろうとする意識的努力は、それがどれほど真摯なものであれ、いや、真摯なものであればあるほど、どうしてもそこには不自然さが感じられてしまう。ここには、自分の自分らしさは他人によって認められるという逆説が成立する。このことは、とりわけ意識もせずに、まさに自然に為される行為に、その人のその人らしさが紛(まご)う方なく認められるという、日常の経験を考えてみても分かるだろう。 

【5】自分とはこういうものであろうと考えている姿と、現実の自分とが一致していることはむしろ稀である。それは、現実の自分とはあくまで働きであり、その働きは働きの受け手から判断されうるものだからである。しかし、そうであるならば、自分の自分らしさは他人によって決定されてしまいはしないか。ここが面倒なところである。自分らしさは他人によって認められるのであるが、決定されるわけではない。自分らしさは生成の運動なのだから、固定的に捉えることはできない。それでも、自分らしさが認められるというのは、自分について他人が抱いていた漠然としたイメージを、一つの具体的行為として自分が現実化するからである。しかし、ゥその認められた自分らしさは、すでに生成する自分ではなく、生成する自分の残した足跡でしかない。

【6】いわゆる他人に認められる自分らしさは、生成する自分という運動を貫く特徴ではありえない。かといって、自分で自分の自分らしさを捉えることもできない。結生成する自分の方向性などというものはないのだろうか。


ーーーーーーーー

 

設問(2)

「この運動を意識的に完全に制御できると考えてはならない」(傍線部イ)とあるが、なぜそう言えるのか。(60字程度)

……………………………


(解説・解答)

 「この運動」とは、直前の「いわゆる自分の自分らしさというもの」が「現れる」「生成の運動」です。

 

   「この運動を意識的に完全に制御できると考えてはならない」という理由は、

【4】段落「自分の自分らしさは他人によって認められるという逆説が成立する」、

【5】段落「自分とはこういうものであろうと考えている姿と、現実の自分とが一致していることはむしろ稀である。それは、現実の自分とはあくまで働きであり、その働きは働きの受け手から判断されうるものだからである」からです。


 なお、【3】段落後半部分「そのような過去への姿勢を、現在の世界への姿勢として自らの行為を通じて表現するということが、働きかけるということであり、他者からの応答によってその姿勢が新たに組み直されることが、自分の生成である」、


自分の生成→他者との関係の中で作られる


【5】段落後半部分「自分らしさが認められるというのは、自分について他人が抱いていた漠然としたイメージを、一つの具体的行為として自分が現実化する」、

 

自分らしさ→自分が現実化する

についても、指摘するとよいでしょう。


(解答)

自分らしさは、自らの働きかけに対する他者からの応答により再構成され、他人により判断され、認識されるものだから。

 

ーーーーーーーー


設問(3)

「その認められた自分らしさは、すでに生成する自分ではなく、生成する自分の残した足跡でしかない」(傍線部ウ)とはどういうことか、説明せよ。(60字程度)

……………………………


(解説・解答)

 傍線部の2文前の「自分らしさは生成の運動なのだから、固定的に捉えることはできない。」に注目してください。

 この文を元に、傍線部を、分かりやすく考えると、

「自分について他人が抱いていた漠然としたイメージを、一つの具体的行為として自分が現実化する」「自分らしさ」は、「自分」の「生成の運動」の一場面に過ぎないということです。

 

 この設問は、設問(1)と、ほぼ同一であることを意識してください。

 難関大学現代文では、模試とは違い、同一ポイントを視点を変えて問うことが、よく、あります。


(解答)

ある時点で、他人が認めた自分らしさは、生成し変化し続ける自分にとって、その過程のうちの一場面でしかないこと。


ーーーーーーーー

 

(問題文本文)(概要です)

【7】生成の方向性は生成のなかで自覚される以外にない。ただこの場合、何か自分についての漠然としたイメージが具体化することで、生成の方向性が自覚されるというのではない。というのは、ここで自覚されるのは依然として生成の足跡でしかないからである。生成の方向性は、棒のような方向性ではなく、生成の可能性として自覚されるのである。自分なり、他人なりが抱く自分についてのイメージ、それからどれだけ自由になりうるか。どれだけこれまでの自分を否定し、逸脱できるか。この「・・・・でない」という虚への志向性が現在生成する自分の可能性であり、方向性である。そして、これはまさに自分が生成する瞬間に、生成した自分を背景に同時に自覚されるのである。

【8】このような可能性のどれかが現実のなかで実現されていくが、それもわれわれの死によって終止符を打たれる。こうして、自分の生成は終わり、後には自分の足跡だけが残される。

【9】だが、本当にそうか。なるほど、自分はもはや生成することはないし、その足跡はわれわれの生誕と死によって限られている。しかし、働きはまだ生き生きと活動している。ある人間の死によって、その足跡のもっている運動性も失われるわけではない。つまり、ェ残された足跡を辿る人間には、その足の運びの運動性が感得されるのであり、その意味で足跡は働きをもっているのである。われわれがソクラテスの問答に直面するとき、ソクラテスの力強い働きをまざまざと感じるのではないか。

【10】自分としてのソクラテスは死んでいるが、働きとしてのソクラテスは生きている。生成する自分は死んでいるが、その足跡は生きている。正確に言おう。自分の足跡は他人によって生を与えられる。われわれの働きは徹頭徹尾他人との関係において成立し、他人によって引き出される。そして、自分が生成することを止めてからも、その働きが可能であるとするならば、その可能性はこの現在生成している自分に含まれているはずである。そのように、自分の可能性はなかば自分に秘められている。ォこの秘められた、可能性の自分に向かうのが、虚への志向性としての自分の方向性でもある。

(池上哲司『傍らにあること―老いと介護の倫理学』)

 

ーーーーーーーー

 

設問(4)

「残された足跡を辿る人間には、その足の運びの運動性が感得される」(傍線部エ)とはどういうことか、説明せよ。(60字程度)

……………………………


(解説・解答)

  傍線部「その足の運びの運動性」とは、

【5】段落の「自分について他人が抱いていた漠然としたイメージを、一つの具体的行為として自分が現実化」した「自分らしさ」であり、

【6】段落の「自分の自分らしさ」、「生成する自分の方向性」です。

 

 次に、傍線部直前の「つまり」に着目して、

【8】段落「このような可能性(→「現在生成する自分の可能性」)のどれかが現実のなかで実現されていくが、それもわれわれの死によって終止符を打たれる。こうして、自分の生成は終わり、後には自分の足跡だけが残される。」


【9】段落「しかし、働きはまだ生き生きと活動している。ある人間の死によって、その足跡のもっている運動性も失われるわけではない。」

「つまり(→「言い換え」)ェ残された足跡を辿る人間には、その足の運びの運動性が感得されるのであり、その意味で足跡は働きをもっているのである。」


(→これ以下も「傍線部エの言い換え」になっています)われわれがソクラテスの問答に直面するとき、ソクラテスの力強い働きをまざまざと感じるのではないか」

という論理展開に注目してください。

 

 【9】段落のポイントは、以下の部分です。

「自分の死後も『自分の働き』はまだ生き生きと活動している。ある人間の死によって、その足跡のもっている運動性も失われるわけではない。」

 

 つまり、「周りの人々の思惑を過度に気にすることなく、自由に、のびのびと生きよう」と呼び掛けているのでしょう。

 少々、ロマンティックで、センチメンタルな文章になっています。

 難関大学の出題者が好む詩的な内容です。

 

(解答)

自分の可能性を追求し続けた人の生の働きは、自分の死後にも、その痕跡を辿る他人の精神の中で、生きているかのように再現されるということ。

 

ーーーーーーーー


設問(5)

「この秘められた、可能性の自分に向かうのが、虚への志向性としての自分の方向性でもある」(傍線部オ)とあるが、どういうことか。本文全体の論旨を踏まえた上で、百字以上百二十字以内で説明せよ。


……………………………

 

(解説・解答)

設問(5)

「この秘められた、可能性の自分に向かうのが、虚への志向性としての自分の方向性でもある」(傍線部オ)とあるが、どういうことか本文全体の論旨を踏まえた上で、説明せよ。」

 

 上記の赤字部分に注目してください。

 入試の性格上、出題者の出題意図を強く意識して、説明することになります。

   「出題者の読みの方向性」に着目する必要があるということです。

   「出題者の読みの方向性」は、設問から推測するべきです。

 難関大学の現代文問題においては、本文のポイントや、少々曖昧な記述は、設問で的確に問われています。

 従って、各設問の流れに素直に乗って、「出題者」の出題意図に沿って、「本文全体の論旨」をまとめていく姿勢が大切です。

 

 傍線部の「虚への志向性としての自分の方向性」とは、

【7】段落後半部分「自分なり、他人なりが抱く自分についてのイメージ、それからどれだけ自由になりうるか。どれだけこれまでの自分を否定し、逸脱できるか。この『・・・・でない』という虚への志向性が現在生成する自分の可能性であり、方向性である。そして、これはまさに自分が生成する瞬間に、生成した自分を背景に同時に自覚されるのである。」に関連しています。


 この設問においては、「自己」の内容をまとめる必要があります。

 つまり、各設問のポイントを網羅することが大切です❗

 以下に、「各設問のポイント」を列挙していきます。

 

① 「あるのは、今働いている自分ただ一つである。生成しているところにしか自分はない。」(【1】段落最終部分)という点。→(設問1)

 

② 「過去の自分は、身体として意味として現在の自分のなかに統合されており、その限りで過去の自分は現在の自分と重なることになる。」(【2】段落冒頭部分)という点→(設問3)

 

③ 「働きかけ」・「自分らしさ」については、以下の点がポイントになります。

【3】段落後半部分「重要なのは、何を忘れ、何を覚えているかである。つまり、自分の出会ったさまざまな経験を、どのようなものとして引き受け、意味づけているかである。そして、 そのような過去への姿勢を、現在の世界への姿勢として自らの行為を通じて表現するということが、働きかけるということであり、他者からの応答によってその姿勢が新たに組み直されることが、自分の生成である。そしてこの生成の運動において、いわゆる自分の自分らしさというものも現れるのである。」→(設問2)

 

④ 「われわれの働き」は、死後も、「他人によって引き出される」可能性があるのです。→(設問4)

 つまり、「われわれの働き」・「われわれの足跡」は、自分の死後も生きている、ということです。

 以下の部分に注意してください。

【9】段落「その(自分の)足跡はわれわれの生誕と死によって限られている。しかし、働きはまだ生き生きと活動している。ある人間の死によって、その足跡のもっている運動性も失われるわけではない。つまり、ェ残された足跡を辿る人間には、その足の運びの運動性が感得されるのであり、その意味で足跡は働きをもっているのである。」

【10】段落前半部分「自分の足跡は他人によって生を与えられる。われわれの働きは徹頭徹尾他人との関係において成立し、他人によって引き出される。そして、自分が生成することを止めてからも、その働きが可能である。」

 以上の①~④の踏まえて、「可能性としての自分に向き合う」ことが、大切なのです。

 このことが、「自分なり、他人なりが抱く自分についてのイメージ、それからどれだけ自由になりうるか。どれだけこれまでの自分を否定し、逸脱できるか」(【7】段落)(→「虚への志向性」)を考え実践する、という「自分の方向性でもある」ということです。

 

(解答)

自己とは、固定不変の存在でなく、過去を引き受けつつ他者との関係や応答の中で不断に生成され、自らの死後も他人の中で生きうる運動であるから、今までの自分を否定し、逸脱できるかという自由の中に進むべき自らの可能性があるということ。(114字)

 

ーーーーーーーー


(出典)

池上哲司『傍らにあること 老いと介護の倫理学』〈第2章 自分ということ/6 自分への還帰〉

ーーーーーーーー

 

(3)補充説明① ─ 本書の内容 ─ 「自由の重さ」と「他者の承認」

 

 今回の問題は、「自由と責任」、ひいては、「『自由の重さ』と『他者の承認』」に関連しています。

 この点については、池上哲司氏は、本書『傍らにあるもの』で、以下のように述べています。

 

「 自由であるとは自らの判断に従って行為しうることであり、かつ現実に行為することである。したがって、先生や上司の言うことが間違っていると判断したにもかかわらず、自分の将来のことを考えて、反対意見を述べず先生や上司の判断に従うのであれば、それは自由であるとは言えない。つまり、可能性としては自由であるが、現実としては自由ではないのである。行為しうることと現実に行為することとの間にはさまざまな障害が存在しており、その障害を克服しうるか否かに自由はかかっている。

 だが、自由の現実のために自らの生命に危険がある場合はどうであろう。命を賭して自らの自由を実現することはできても、その結果自らの生命そのものを奪われることになったのでは、元も子もないのではないか。自由の実現が自由の可能性を奪う、これは極端な例である。しかし、自由ということを考えるとき、最終的にはこの問題を避けて通れないはずである。この点を考える前に、まずわれわれは、自由に耐えられるかという問いの意味を吟味することにしよう。

 耐えるということは、自由がわれわれにとって重荷となるということである。自由であることがわれわれの負担になるのは、自由が必然的に責任を伴うからである。自らの自由によって為したことに対しては、自分以外のほかの誰に責任を負わせることができようか。

 つまり、自由であればあるほど責任は大きく重くならざるをえない。それなのに、自らの判断にわれわれは絶対的な確信を抱くことができない。そこで、われわれは自分の判断や行為を肯定してくるれる他者を探しては、気休めをえようとする。 

 先生が認めてくれた、上司が認めてくれた、世界的権威が認めてくれた。けれども、相変わらず責任は自ら独りにあり、そこから逃れることはできない。この事実に気づいたとき、われわれにとって自由は厭うべきものでしかない。自由と責任を肩代わりしてくれる者をわれわれは探し求め、肩代わりしてくるなら、自らの自由さえ嬉々として譲り渡そうとする」(『傍らにあること』)

 


 池上氏は、この論考で以下のように私達に告げていると、私は感じました。

「『他者の承認」、「他者の共感」が必要なのは、分かるが、焦ることはない。自分の死後、他者の承認、他者の共感はあるかもしれない」



 私達は孤独であり、自由ではあるが、責任を背負わされています。

 このような状況において、私達は、「自らの判断」に「絶対的な確信」を「抱く」ために、何が必要になるのでしょうか?

 ここで、「他者の承認」、「他者の共感」を必要なのは、仕方のないことでしょう。

 しかし、余りにそれらを求め過ぎることは、自分を卑屈にすることであり、自分を歪めることになるのです。

 このことを、池上氏は主張しているのではないでしょうか。

 

 現代日本の一部の人々は、「承認欲求」が強すぎるために、余りに他者の反応に過敏になり、主体性を弱め、ひいては、「自己喪失状況」に陥っている人もいるようです。

 そのような人々に、

「焦る必要はない。私達のメッセージは、私達の死後も残る。」

「私達の死後にも、私達の足跡を辿る人間には、その足の運びの運動性が感得されるのであり、その意味で足跡は働きをもっている」

 このように、池上氏は語りかけているのでは、ないでしょうか?

 

 以上を意識して、池上氏の今回の論考の重要部分を読み直してみるとよいでしょう。


「【7】自分なり、他人なりが抱く自分についてのイメージ、それからどれだけ自由になりうるか。どれだけこれまでの自分を否定し、逸脱できるか。この「・・・・でない」という虚への志向性が現在生成する自分の可能性であり、方向性である。そして、これはまさに自分が生成する瞬間に、生成した自分を背景に同時に自覚されるのである。

【8】このような可能性のどれかが現実のなかで実現されていくが、それもわれわれの死によって終止符を打たれる。こうして、自分の生成は終わり、後には自分の足跡だけが残される。

【9】だが、本当にそうか。なるほど、自分はもはや生成することはないし、その足跡はわれわれの生誕と死によって限られている。しかし、働きはまだ生き生きと活動している。ある人間の死によって、その足跡のもっている運動性も失われるわけではない。つまり、ェ残された足跡を辿る人間には、その足の運びの運動性が感得されるのであり、その意味で足跡は働きをもっているのである。われわれがソクラテスの問答に直面するとき、ソクラテスの力強い働きをまざまざと感じるのではないか。

【10】自分としてのソクラテスは死んでいるが、働き(→「影響力」でしょう)としてのソクラテスは生きている。生成する自分は死んでいるが、その足跡は生きている。正確に言おう。自分の足跡は他人によって生を与えられる。われわれの働きは徹頭徹尾他人との関係において成立し、他人によって引き出される。そして、自分が生成することを止めてからも、その働きが可能であるとするならば、その可能性はこの現在生成している自分に含まれているはずである。」

 

 

(4)補充説明② ─ 最近の東大国語第1問の傾向について

 

 昨年の国語第1問(現代文)のテーマ(藤山直樹『落語の国の精神分析』)も、今年のテーマも、ともに「自己」・「アイデンティティ」でした。

 

 昨年の国語第1問のキーセンテンスは以下の通りです。
                  


「  自己のなかに自律的に作動する複数の自己があって、それらの対話と交流のなかに、ひとまとまりの『私』というある種の錯覚が生成される。それが精神分析の基本的な人間理解のひとつである」

「  落語を観る観客はそうした自分自身の本来的な分裂を、生き生きとした形で外から眺めて楽しむことができるのである。分裂しながらも、ひとりの落語家として生きている自分を見ることに、何か希望のようなものを体験するのである。

 

 以上の段落を読むと、筆者が「自己」を「複数」・「分裂」の視点から分析していることが分かります。

 
 この論考も興味深い内容を有しているので、解説記事を近日中に書く予定です。

 

  

(5)池上哲司氏の紹介

 

池上 哲司(いけがみ てつじ)
大谷大学文学部哲学科教授
 1949年、東京生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程(哲学専攻)単位取得退学。大谷大学文学部哲学科専任講師を経て大谷大学文学部哲学科助教授。1983年から1985年3月まで西ドイツ・アウクスブルク大学に留学。1992年大谷大学文学部哲学科教授、現在に至る。

 

【著書】

『実践哲学の現在』(共著・世界思想社)、
『自己と他者』(共編著・昭和堂)、
『モラル・アポリア』(共著・ナカニシヤ出版)、
『岩波講座 哲学12 性/愛の哲学』(共著・岩波書店)、
『親鸞像の再構築』(共著・筑摩書房)などのほか、
エッセイ集『不可思議な日常』(東本願寺出版部)がある。


【翻訳】

『近代政治哲学入門(叢書・ウニベルシタス)』(法政大学出版局)、
『倫理学の根本問題(現代哲学の根本問題3)』(晃洋書房)など。

 

不可思議な日常

不可思議な日常

 

 


(6)当ブログにおける「自己」・「自分」・「自分らしさ」関連記事の紹介

 

  「自己」・「自分」・「自分らしさ」は入試頻出論点です。

 以下の記事を、よく理解するように、してください。

 

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 (7)当ブログにおける「承認欲求」関連記事の紹介

 

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 ーーーーーーーー

 

今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

ご期待ください。

  

   

 

 

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傍らにあること: 老いと介護の倫理学 (筑摩選書)

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予想問題/「何のための人工知能なのか」新井紀子/AI と哲学

(1)はじめに

 
 「人工知能( AI )」は最近の入試頻出論点です。

 「人工知能( AI )と哲学」、「人工知能に関する国家戦略」、「その国家戦略における哲学者の影響力」について、数学者・人工知能学者の新井紀子氏が、最近、興味深い論考を発表しましたので、今回の記事で、紹介しつつ、発展的に解説します。

 

  なお、今回の記事の項目は、以下の通りです。

(2)「仏のAI立国宣言 何のための人工知能か 日本も示せ」(新井紀子(国立情報学研究所教授)、2018・4・18『朝日新聞』「新井紀子のメディア私評」)/解説

(3)「AIは哲学できるか」(森岡正博、2018・1・22『朝日新聞』)/解説

(4)「AI時代に『哲学』は何を果たせるか?」 (『そろそろ、人工知能の真実を話そう』著者ジャン=ガブリエル・ガナシアに訊く」2017・7・4『WIRED』)

(5)「日本における哲学者の地位がフランスと比較して、かなり低いこと」について

(6)「日本政府のAI 戦略」について

(7)当ブログにおける「人工知能( AI )」関連記事の紹介

 

朝日新聞デジタル

朝日新聞デジタル

 

 

(2)予想問題/「仏のAI立国宣言 何のための人工知能か 日本も示せ」(新井紀子(国立情報学研究所教授)、2018・4・18『朝日新聞』「新井紀子のメディア私評」)/解説

 

 まず、入試頻出著者・新井紀子氏の論考を引用します。

(概要です) 

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です)  

(以下、同じです)

 

「  日本ではほとんど報じられていないが、人工知能(AI)分野で、地政学的な変化がおきようとしている。フランスの動向だ。マクロン大統領は3月末、世界中からAI分野の有識者を招き意見交換会とシンポジウムを開催。フランスを「AI立国」とすると宣言した。2022年までに15億ユーロをAI分野に投資し、規制緩和を進める。

 招待された中には、フェイスブックのAI研究を統括するヤン・ルカンやアルファ碁の開発者として名高いディープマインド(DM)社のデミス・ハサビスらが含まれた。DMは今回パリに研究拠点を置くことを決めた。

 これだけ読むと、「フランスもついに重い腰を上げたか」という感想を持つ読者も少なくないだろう。ドイツは早々に「インダストリー4.0」を開始した。ビッグデータやAIを活用することで製造業の革新を目指す国家プロジェクトだ。日本でも各省が競ってAI関連のプロジェクトに着手。それでも、米国や中国との距離は縮まるどころかますます水をあけられている。いまさらフランスが参入しても手遅れなのでは、と私も思っていた。

 ところが、である。意見交換会が開かれるエリゼ宮に到着して驚いた。出席者の約半数が女性。女性研究者は1割程度と言われるAIの会合では極めて異例だ。そこには、「破壊兵器としての数学 ビッグデータはいかに不平等を助長し民主主義を脅かすか」の著者キャシー・オニールや、データの匿名化に精通したハーバード大学のラタニア・スウィーニーが含まれていた。マクロン大統領はこう言った。「AIの影響を受ける人々は『私』のような人(白人男性で40代)だけではない。すべての人だ。AIがどうあるべきかの議論には多様性が不可欠だ」と。

 大統領から求められ、「ロボットは東大に入れるか」プロジェクトを始めた意図を話した。「人々に広告をクリックさせるために」様々なサービスを無償で提供しているグーグルやフェイスブックのような巨大IT産業が、今回のAIブームを牽引することは2010年の段階で明らかだった。だが、日本はモノづくりの国である。99%の精度を、「100のうち99回正しい」ではなく「100に1回間違える」と認識すべき国だ。無償サービスの効率化のために開発された技術を、モノづくりに本格的に取り入れるべきか吟味すべきだ。AIの限界を探り、労働市場への影響を正確に見積もる必要があった、と。大統領は自ら詳しくメモを取りながら耳を傾けてくれた。

 一方、「新技術が登場する時には心配する人は必ずいる。電話やテレビが登場した時もそうだが、何の問題もなかった。AIも同じだ」と楽観論を展開するヤン・ルカンに、大統領は厳しく指摘した。「これまでの技術は国民国家という枠の中で管理できた。AIとビッグデータは違う。圧倒的な寡占状況があり、富の再分配が行われていない。フランスが育成した有能な人材がシリコンバレーに流出しても、フランスに税金は支払われない」と。

 アメリカと中国でブームになると、日本は慌ててAIに手を出した。だが、「何のため」かはっきりしない。夏目漱石そっくりのロボットを作ってみたり、小説を書かせてみたり、よく言えば百花繚乱、悪く言えば迷走気味である。メディアも、AIと聞けば何でも飛びつく状況だ。フランスは違う。AIというグローバルゲームのルールを変えるために乗り出してきたのだ。

 最後発のフランスにルールを変えられるのか。大統領のAIアドバイザーを務めるのは数学者のセドリック・ビラニだ。法学者や哲学者も連携して、アルゴリズムによる判断によって引き起こされ得る深刻な人権侵害、AIの誤認識による自己の責任の所在、世界中から最高の頭脳を吸引するシリコンバレーの「教育ただ乗り」問題を鋭く指摘。巨大なIT企業の急所を握る。そして、「データとアルゴリズムの透明性と正当な利用のための共有」という錦の御旗を掲げながら、同時に投資を呼び込む作戦だ。最初の一手は、5月に施行されるEU一般データ保護規則になることだろう。

 ヨーロッパでは哲学も倫理学も黴の生えた教養ではない。自らが望む民主主義と資本主義のルールを通すための現役バリバリの武器なのである。

 振り返って、我が国はどうか。「人間の研究者が『人工知能カント』に向かっていろいろ質問をして、その答えを分析することがカント研究者の仕事になるとわたしは予想する」(「AIは哲学できるか」森岡正博寄稿、本紙1月22日)。
 これでは、日本の哲学者の仕事は風前の灯と言わざるを得ない。(敬称略)

 (「仏のAI立国宣言 何のための人工知能か、日本も示せ」新井紀子(国立情報学研究所教授)、2018・4・18『朝日新聞』「新井紀子のメディア私評」)

 

 実に、秀逸な論考です。切れ味は、かなりのものです。

 この論考は、受験生や一般国民だけではなく、哲学者、政治家、政府の人々も、熟読するべきでしょう。

 AI の進化は、世界に大きなインパクトを与えることは確実です。

 これからの日本のAI 戦略を、どのようなものにしていくか?

 これは、緊急かつ重大な課題です。

 

 新井紀子氏の論考の中で、特に、以下の二つの指摘は、強く印象に残りました。

 「アメリカと中国でブームになると、日本は慌ててAIに手を出した。だが、『何のため』かはっきりしない。悪く言えば迷走気味である。フランスは違う。AIというグローバルゲームのルールを変えるために乗り出してきたのだ。

「  ヨーロッパでは哲学も倫理学も黴の生えた教養ではない。自らが望む民主主義と資本主義のルールを通すための現役バリバリの武器なのである。

 振り返って、我が国はどうか。「人間の研究者が『人工知能カント』に向かっていろいろ質問をして、その答えを分析することがカント研究者の仕事になるとわたしは予想する」(「AIは哲学できるか」森岡正博、朝日新聞1月22日)。
 これでは、日本の哲学者の仕事は風前の灯と言わざるを得ない。」

 

 今や、AIは、現在の閉塞的な状況の救世主として、ある種の期待を集めています。しかし、AI が人類を幸福に導くかどうかは、それをコントロールする人間の叡智(英知)によるという自明の理をフランス大統領は強く意識しているようです。

 この点は、日本と大きく違う点と言えます。

 

 次に、ここで気になるのは、「AIは哲学できるか」森岡正博、朝日新聞1月22日)です。どういう文脈で、森岡氏は、上記の記述をしたのでしょうか?

 そこで、次に、上記の森岡正博の論考の概要を引用します。

 

AI vs. 教科書が読めない子どもたち

AI vs. 教科書が読めない子どもたち

 

 

(3)「AIは哲学できるか」(森岡正博、2018・1・22『朝日新聞』)/解説

 

33個めの石 傷ついた現代のための哲学 (角川文庫)

33個めの石 傷ついた現代のための哲学 (角川文庫)

 

 

(概要です)

「  人工知能( AI )の進歩は目覚ましい。囲碁や将棋の世界では、もう人間は人工知能に勝てなくなってしまった。その波は、さらに広がっていくだろう。学者もその例外ではない。これまで学者たちが行ってきた研究が、人工知能によって置きかえられていく可能性もある。とくに、私が専門としている哲学の場合、考えることそれ自体が仕事内容のすべてであるから、囲碁や将棋と同じ運命をたどるかもしれない。この点を考えてみよう。

 まず、過去の哲学者の思考パターンの発見は、人工知能のもっとも得意とするところである。たとえば人工知能に哲学者カントの全集を読み込ませ、そこからカント風の思考パターンを発見させ、それを用いて「人工知能カント」というアプリを作らせることはいずれ可能になるであろう。人間の研究者が「人工知能カント」に向かっていろいろ質問をして、その答えを分析することがカント研究者の仕事になると私は予想する。この領域では人工知能と哲学者の幸福な共同作業が成立する。

 次に、人工知能に過去の哲学者たちのすべてのテキストを読み込ませて、そこから哲学的な思考パターンを可能な限り抽出させてみよう。すると、およそ人間が考えそうな哲学的思考パターンがずらっと揃うことになる。それに加えて、過去の哲学者たちが見逃していた哲学的思考パターンもたくさんあるはずだから、人工知能にそれらを発見させる。

 その結果、「およそ人間が考えそうな哲学的思考パターンのほぼ完全なリスト」ができあがるだろう。こうなると、もう人間によるオリジナルな哲学的思考パターンは生み出されようがない。将来の哲学者たちの仕事は、哲学的人工知能のふるまいを研究する一種の計算機科学に近づくだろう。

 しかしここで根本的な疑問が起きてくる。この哲学的人工知能はほんとうに哲学の作業を行っているのだろうか。外部から入力されたデータの中に未発見のパターンを発見したり、人間によって設定された問いに解を与えたりするだけならば、それは哲学とは呼べない。

 そもそも哲学は、自分自身にとって切実な哲学の問いを内発的に発するところからスタートするのである。たとえば、「なぜ私は存在しているのか?」とか「生きる意味はどこにあるのか?」という問いが切実なものとして自分に迫ってきて、それについてどうしても考えざるを得ないところまで追い込まれてしまう状況こそが哲学の出発点なのだ。人工知能は、このような切実な哲学の問いを内発的に発することがあるのだろうか。そういうことは当分は起きないと私は予想する。

 しかしながら、もし仮に、人間からの入力がないのに人工知能が自分自身にとって切実な哲学の問いを内発的に発し、それについてひたすら考え始めたとしたら、そのとき私は「人工知能は哲学をしている」と判断するだろうし、人工知能は正しい意味で「人間」の次元に到達したのだと判断したくなるだろう。

 哲学的には、自由意志に基づいた自律的活動と、普遍的な法則や真理を発見できる思考能力が、人間という類の証しであると長らく考えられてきた。しかし、それらは将来の人工知能によっていずれ陥落されるであろう。

 人工知能が人間の次元に到達するためには、それに加えて、内発的哲学能力が必要だと私は考えたい。人工知能の進化によって、そのような「知性」観の見直しが迫られている。もちろん、彼らが発する内発的な哲学の問いはあまりにも奇妙で、我々の心にまったく響かないかもしれない。この点をめぐって人間と人工知能の対話が始まるとすれば、それこそが哲学に新次元を開くことになると思われる。(「AIは哲学できるか」森岡正博、2018・1・22『朝日新聞』)


 「AI と哲学の関係」の未来予測に関する森岡氏の分析は、ハイレベルで緻密です。

 森岡正博氏は、新井紀子氏と共に入試頻出著者なので、この論考は、熟読するべきです。

 高密度の論考ですから、時間をかけて理解するようにしてください。

 入試に出題されたら、難問になります。

 

 森岡氏の人工知能( AI )の進化に対する姿勢は、少々、弱気のようです。

 新井紀子氏の論考に引用されている部分も情けない卑屈な内容ですが、特に、森岡氏の論考の後半部分の以下の見解は、実に悲しい未来予測です。

 

「  哲学的には、自由意志に基づいた自律的活動と、普遍的な法則や真理を発見できる思考能力が、人間という類の証しであると長らく考えられてきた。しかし、それらは将来の人工知能によっていずれ陥落されるであろう。」

 

 この記述は、「AI の進化」を過大に評価しているようです。

 一部のAI 学者の楽観的な未来予測に、そのまま乗ってしまっている感じです。

 

 哲学者が、哲学の本質的・根源的な価値について、自覚していないのでしょうか?

 謙虚すぎる感じもします。

 哲学を軽視している日本という環境、哲学が学問の一分野にしか過ぎないという日本の環境が、日本の哲学者を卑屈にしている側面があるのかもしれません。

 その学問的価値を考えれば、哲学者は、もう少し過剰な自信を持つべきでしょう。

 現に、ヨーロッパの哲学者達は、確固たる矜持を保持しているのですから。

 

 あるいは、AI がよく分かっていないから、哲学者は、AI について、自信のない物言いをしているのでしょうか?


 この点に関しては、「人工知能(AI)が人類を超える」という主張には根拠がない、という見解を発表しているジャン=ガブリエル・ガナシア氏の発言が参考になります。

 以下に紹介します。

 

そろそろ、人工知能の真実を話そう (早川書房)

そろそろ、人工知能の真実を話そう (早川書房)

 

 


(4)「AI時代に『哲学』は何を果たせるか?」 (『そろそろ、人工知能の真実を話そう』著者ジャン=ガブリエル・ガナシアに訊く」2017・7・4『WIRED』)

 

 以下では、2017・7・4『WIRED』で発表された、「『そろそろ、人工知能の真実を話そう』著者ジャン=ガブリエル・ガナシア(→名門パリ第六大学でAI(人工知能)研究チームを率いる哲学者)に訊く」の一部を引用します。

 

(引用開始)

《「人工知能(AI)が人類を超える」という主張には根拠がない?》

 著書『そろそろ、人工知能の真実を話そう』でAI脅威論者と巨大テック企業の「不都合な真実」を綴ったフランスのAI哲学者、ジャン=ガブリエル・ガナシア。

 AIに限らず、あらゆるデジタルテクノロジーが世界を覆い尽くそうとしているいま、人類はそれにどう向き合わなければいけないのか。 

 自身もAIを使った研究を行う予防医学の俊英・石川善樹が迫る。(TEXT BY YOSHIKI ISHIKAWA)

 哲学者がAI時代に果たすべき役割とは何なのか? さらに言えば、来たる未来において、哲学者はどのようなことを考えるべきなのだろうか? ガナシア教授は次のように述べる。

「まず今後100年という時間軸で考えると、政治的に根源的な変化が起きるでしょう。そもそも国家というものが、ポジティヴにも、ネガティヴにも変わってくると思います。さらに言えば、わたしたちが当たり前だと思ってきた古典的な概念もどんどん変わっていくでしょう。テクノロジーの進展と未来をどう考えるのか、そこに哲学者も加わらないといけません。」

(引用終了)


 また、ガナシア氏は、『Biz/Zineプレス』で、以下のように「シンギュラリティ(技術的特異点)(→「シンギュラリティ」とは、未来学上の概念の一つ。指数関数的に高度化する人工知能により、技術が持つ問題解決能力が指数関数的に高度化することで、人類に代わって、人工知能やポストヒューマンが文明の進歩の主役に躍り出る時点の事である。具体的にその時点がいつ頃到来するかという予測は、この概念を収穫加速の法則と結びつける形で一般化させたレイ・カーツワイルの影響により、2045年頃に到来するとの説が有力視されることが多い。2012年以降、ディープラーニングの爆発的な普及で現実味を持って議論されるようになり、2045年問題とも呼ばれている)」を「批判」しています。

 

 「シンギュラリティ」」は「SF的世界観」と評価しているのです。

 

「  レイ・カーツワイルのシンギュラリティという考え方は、それまでにあった様々な理論を取り込んだだけで、独自の根拠があるわけではありません。またシンギュラリティの根拠とされるムーアの法則やプロセッサーの指数関数的な成長という仮説も、帰納的推論にすぎないものであり、科学的根拠とはいえないのです。言ってみればシンギュラリティは、科学というよりSF的な世界観です。1980年代にSF作家のヴァーナー・ヴィンジがこの言葉を普及させました。機械が人間を脅かすというのはSFの定番ストーリーです。AIの第一人者のマービン・ミンスキーやジョン・マッカーシーもSF小説好きでした。フランスにはもちろんジュール・ヴェルヌに始まるSFはありますが、科学者の中でSFへの関心は高くありません。」

 

 以上のガナシア氏の見解によれば、哲学者は、必要以上に未来を悲観する必要がないことになります。

 AI 進化の実態を直視して、「AI と哲学の関係」を考察することが大切でしょう。

 

 この点に関して、中島秀之(東京大学特任教授)と松原仁(公立はこだて未来大学教授)の対談(「終わることのない人工知能の話/日本のAIは黎明期をどう歩んできたか」『日経BP社』2016.08.29)における中島氏の発言が、「AI と哲学の関係」について、示唆に富んだ発言をしているので以下に紹介します。


(中島)「私の立場から言わせてもらうと『AIは嫌いだ』という人たちは、人工知能に関して哲学的なアプローチをしないんです。」

「新しい学問をやるとき、西欧では、哲学がものすごく大事になる。AIもそうだけど、新たな研究分野が学問分野になる前は、すべて『哲学』に分類されるから。そして、晴れて学問分野になったら、そのあと、哲学ではなく、物理学や数学といったふうに分類されるようになる。」(「終わることのない人工知能の話/日本のAIは黎明期をどう歩んできたか」(『日経BP社』2016.08.29)

 

 中島氏は、「新たな研究分野」は、すべて「哲学」からスタートするということ、言い換えると、「研究分野」・「学問分野」の基盤は、「哲学」ということを述べているのです。
 この点は、「哲学」と「新たな(理科系)研究分野」が最初から分離している日本とは、大きく違うところでしょう。

 

人工知能革命の真実 シンギュラリティの世界 (WAC BUNKO 271)

人工知能革命の真実 シンギュラリティの世界 (WAC BUNKO 271)

 

 

 

(5)「日本における哲学者の地位がフランスと比較して、かなり低いこと」について

 

 日本における哲学者の地位がフランスと比較して、かなり低いことも、哲学者の自信のなさの原因の一つでしょう。

 

 フランスが哲学を重視していることの代表的な具体例の一つに、「教育部門における哲学の必修」が挙げられます。

 そして、フランスでは、バカロレア(共通試験)に哲学の論文試験が必須科目になっています。

 これは、理科系志望の受験生にも課されています。この点は、日本から見ると、信じられないようなことと言えるでしょう。


 Wikipediaによると、「バカロレア」とは、以下のような制度です。

「  フランスのバカロレア (仏:baccalauréat) は、フランス教育省が発行する、中等教育レベル認証の国家資格である。
 1808年にナポレオン・ボナパルトによって導入され、2005年の時点では18歳に達したフランス国民の62%がバカロレアを取得している。

 バカロレアは、フランス教育省が発行する、中等教育レベル認証の国家資格である。1808年にナポレオン・ボナパルトによって導入され、2005年の時点では18歳に達したフランス国民の62%がバカロレアを取得している。

 以下の3種類が存在する。普通バカロレア、技術バカロレア、職業バカロレア。

 

【フランスの中等教育制度】

フランスではバカロレアを取得することによって原則としてどの大学にも入学することができる。大学の定員を超えた場合にはバカロレアの成績や居住地などに応じて、入学できる大学が決まる。

 

【普通バカロレア】

普通バカロレアは、科学系、人文系、経済・社会系と分野別に分かれている。

3つのうち科学系が最も難しく、次いで経済・社会系が難しい。科学系卒業者は全ての分野の職業に就けるとされている。その結果、多くの若者は科学系進学を希望し、近年科学系の生徒数増加、そして経済・社会系の生徒数減少という現象が見られる。一方、人文系は弁護士やジャーナリストまたは作家などの将来図を持っている生徒が集まるとされているが、現実には科学系からグランゼコールへ進学しないと厳しい。2013年の普通バカロレアの合格率は、91.9%であった。」

 

 以上のWikipediaの補足説明をします。

 フランスのバカロレアは、後期中等教育の終了試験であり、大学入学のための資格試験としての国家試験です。つまり、フランスの高校生が必ず受けなければならない試験がバカロレアです。毎年6月、フランスの高校生(日本の高校3年生相当)は、バカロレア初日の1時間目に、下記のような「哲学」の問題に取り組むのです。

 
 以下は、2010年度に実施されたフランスのバカロレア(「普通バカロレア」)の「哲学」の問題です。

【人文科学系】
1 真理の探究は利害を離れたものであり得るか。
2 未来を手に入れるためには過去を忘れなければならないか。
3 トマス・アクイナスの『神学大全』のテキストの一節を解釈せよ。

【自然科学系】
1 芸術に規則など不要か。
2 幸福であることはわれわれ(人)次第か。
3 ホッブズの『リヴァイアサン』に関するテキストの一節を解釈せよ。

【社会科学系】
1 科学的真理は危険なことがあるか。
2 歴史家の役割は裁くことか。
3 デュルケームの『道徳教育論』に関するテキストの一節を解釈せよ。

 以上、3問のうちから1つを選んで、4時間で解答せよ。

 前述した通り、フランスのバカロレア(共通試験)では、理科系志望の受験生にも哲学の論文試験が必須科目になっています。

 

 一方で、日本では、一般の理科系学部だけではなく、医学部入試においても、小論文が課されることは、極めてマレです。

 その小論文試験の中で、最もハイレベルな小論文問題は、東京医科歯科大学・後期試験小論文で出題された以下の問題といえます。(なお、東京医科歯科大学・前期試験においては、小論文は課されていません)

 

【東京医科歯科大学・後期試験小論文問題】

(時間120分)
《2015年》
「磁力と重力の発見」の抜粋を読み、著者の意見と自分の考えを述べる2問に答える。(200字・600字)
「病気の社会史 文明に探る病因」を読み、著者の意見と自分の考えを述べる2問に答える。(250字・400字)

《2014年》
「構図がわかれば絵画がわかる」を読み、筆者の意見と自分の考えを述べる2問に答える。(250字・400字)
「精神医療過疎の町から」を読み、筆者の考えと自分の意見を述べる2問に答える。(200字・400字)


 情けないことに、フランスと日本のレベル・内容の落差は、歴然です。


 「フランスの教育」における「哲学の価値や重み」については、『哲学する子どもたち』(中島さおり)に詳しい説明があるので、以下に一部を引用、紹介します。

 

哲学する子どもたち: バカロレアの国フランスの教育事情

哲学する子どもたち: バカロレアの国フランスの教育事情

 

 

「『高校最終学年で勉強するのは哲学ではない。哲学することなのだ』とフランスの哲学教師たちは言う。そこがイタリアやスペインで教えているものと本質的に異なる点でもある。」(本書P35 )

 

 フランスでは、高校生が「哲学する」のです。日本では、大学の哲学科の学生が「哲学」を勉強しますが、「哲学する」ことは、あるのでしょうか。

 

 本書によると、バカロレアという国家試験を最終目標にして、中学から高校の教育内容が作成されています。

 つまり、小学生から高校生まで、主に哲学的な設問への論述の方法を細かくを学んでいくのです。

 各段階で、レベルに対応してそれぞれに仕上げていきます。

 従って、哲学的な論述の基本がスムーズに修得されていくのです。

 一方で、日本での作文は、日記や感想文が主です。

 この点を、著者・中島さおり氏は、「私小説的な内容」と評価しています。


 また、「大学入試のための勉強」というと、日本では知識の暗記中心、受験テクニック重視というイメージが強いようです。

 しかし、バカロレアでは、本質的な思考力、論述力が試されているのです。

 日本の教育は、本質的思考ではなく、指示されれたことに熱中する、忠実なロボットのような人間の養成を目指している感じです。

 

 中島さおり氏は、「『哲学する子どもたち』/『日刊ゲンダイ DIGITAL』 著者インタビュー」の中で、「日本の教育の歪み」を以下のように指摘しています。

「フランスが哲学を重視するのは共和国の基礎は自由に考える人間、市民であるというモンテスキューの思想が生きているからです。こうした教育はものの考え方や伝える力を養う。日本人もこういう教育をすれば、議論下手ではなくなるのではないか、と思います。もうひとつ、フランス教育は一般教養を非常に重視します。近現代史にも力を入れています。日本では大学で一般教養が軽視されていますが、これは世界的に見てもおかしなことだと思いますね」(『哲学する子どもたち』(中島さおり)/『日刊ゲンダイ DIGITAL』 著者インタビュー

 

(6)「日本政府のAI 戦略」について

 

「日本のAI 戦略」については、そこにおける「哲学の地位」に問題があります。
まず、「日本のAI 戦略」についての、最近の新聞記事を見てみます。


①2018年2月2日 『日本経済新聞』

「政府は2日、分野を横断して科学技術の革新をめざす「統合イノベーション戦略」(仮称)策定に向けた会議の初会合を首相官邸で開いた。人工知能(AI)や大学改革などの重点分野ごとに分科会を設置し、6月までをめどに新たな戦略をつくる。分野別に乱立していた戦略本部をつなぎ、各省庁が連携して政策を具体化する。」

 

②『朝日新聞』2018年1月6日《社説》「AI 時代の人間 豊かな活用に道開くため」

「  人工知能( AI )のセミナーやシンポジウムが花盛りだ。

 車の自動運転に代表される、AI がもたらす明るく快適な未来。その裏側で、人間の制御を超えて世界を根底から変えてしまう『シンギュラリティー(技術的特異点)』と呼ばれる事態が訪れるのではないか、という漠とした不安も広がる。

 技術は時として、予想をはるかに上回る速度で進む。AI もそんな段階に入ったのか。人間はAI にどう向き合うべきか。そして、これからの時代に備えた人づくりとは。

 本格的に考えなければならない時期に来ている。

 

《人にしかできぬこと》

  AI を活用しつつ、人間らしく働き、生活するにはどうしたらいいのか。

 『AI は統計などを使って機械的に答えを出すだけで、物事の意味はわかっていない。だから、その意味を理解し、適切に状況判断できる能力を養うことが、人にとって何より大切だ』

 国立情報学研究所の新井紀子教授はそう話す。

 基本となるのは、正確に読み正確に書くという、昔ながらの力だという。デジタル時代は、メールなど文字情報のやりとりが仕事に占める割合が高く、『誤読や表現力不足によってつまずくことが少なくない』と見る。教科書や新聞の文章を使った読解力テストを独自に開発し、中高生らに受けてもらって弱点を探っている。

 結果は、能動態と受動態の違いに気がつかない、文章で説明されている内容に合致する図が選べないなど、決して芳しいものではない。

 だが、嘆いていても始まらない。協力した学校の先生たちからは、『分かっていないことが分かった』ことを前向きにとらえ、授業方法の改善を探る動きが出ているという。

 人間は計算力や記憶力でコンピューターに及ばない。それでも困らないのは、道具として使いこなせているからだ。AI についても本質は変わらない。大切なのは、AI をどう制御し、人間の幸せのために役立てるかを考え、その方向に社会を構築していくことだ。

 

《アシロマの挑戦再び》

 昨年1月、米カリフォルニア州アシロマに、AI 研究者や法律、倫理、哲学などの専門家が集い、AI 開発に際して守るべき23の原則をまとめた。

 『人間の尊厳、権利、自由、文化的多様性に適合するように設計され、運用されるべきである』といった理念をかかげ、AI 軍拡競争の回避や研究者同士の協力、政策立案者との健全な交流なども盛り込んだ。

 このアシロマ原則は各国政府や多くの研究者を刺激し、さらに具体的な指針づくりをめざす動きが盛んになっている。

 日本の人工知能学会倫理委員会は、米国の学会やNPOと提携して、インターネットを使った市民対話を開いている。

 『公益のためのAI 』や『労働に対するAI の影響』などのテーマ別に、誰でも、投稿された意見や疑問を読み、自ら書き込むことができる。ことし2月まで意見を交換し、それを踏まえて実行可能な政策を提言することをめざしている。

 国家や企業が入り乱れて開発を競うなか、いかに秩序を維持し、人類の幸福につなげるか。

 難題ではある。だがアシロマといえば、43年前に世界の科学者が集まって遺伝子組み換え技術の研究指針を議論し、一定の規制を実現させた、科学史にその名を刻む地だ。

 AI の専門家にかぎらず、人文・社会科学の研究者らも広く巻きこみ、政治家や官僚、そして市民との対話を重ねる。その営みが人間中心の社会でのAI 活用につながると信じたい。


 上記の『日本経済新聞』・『朝日新聞』の二つの記述を読んでも、フランスとは異なり、「哲学重視の視点」は明確では、ありません。


 「国家的AI 戦略における哲学の位置づけ」は、政府がさまざまな政策決定過程において、哲学者をいかに重用しているかという、政府側の意識、価値観の問題でも、あります。

 残念なことに、日本は、哲学的・長期的な考察が重要になるべき国家の教育問題、高齢者問題等においても、哲学者の意見を重視しているということは、ないようです。

 つまり、日本には、叡知(英知)を重視する姿勢がないということです。

 未来の選択を誤らないために、フランスのように、人間の叡知を信じている哲学者等が中心となった、国家的な取り組みが必要でしょう。

 

 ここで、再び、前記の新井紀子氏の論考を思い起こすべきです。

「  ヨーロッパでは哲学も倫理学も黴の生えた教養ではない。自らが望む民主主義と資本主義のルールを通すための現役バリバリの武器なのである。」

  

(7)当ブログにおける「人工知能( AI )」関連記事の紹介

 

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ーーーーーーーー

 

今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

ご期待ください。

 

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

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5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

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 私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。

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2007センター国語第1問(現代文)「日本の庭について」・解説

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 

 「グローバル化」、「国際化」、「国際交流」の前提として、「日本文化の特質」、つまり、「自己」・「自文化」を知ることが不可欠になります。

 「他者理解」・「他文化理解」の前提は、「自己理解」・「自文化理解」です。

 そのため、日本と西洋を比較する「日本文化論」、「日本芸術論」、「比較文化論」は、最近の入試頻出論点です。

 日本と西洋とを比較する「日本文化論」、「日本芸術論」、「比較文化論」には、様々な視点、切り口があります。

 「日本文化論」、「日本芸術論」、「比較文化論」の論考に対応するためには、それらの個性的な視点、切り口を素直に理解して、筆者の「論の流れ」を読み取ることがポイントになります。

 「素直な読解」は、現代文、小論文においては、常に必要なことです。

 

 今回は、センター試験国語、難関大学の国語(現代文)・小論文対策として、山本健吉氏の「日本文化論」の秀逸な論考を解説します。

 

 なお、今回の記事は、約1万字です。

 記事の項目は以下の通りです。

 

(2)2007センター試験国語第1問・「日本の庭について」山本健吉/解説

(3)要約

(4)当ブログにおける「日本文化論」・「日本芸術論」・「比較文化論」関連記事の紹介

(5)当ブログにおける「センター試験現代文・解説」関連記事の紹介

 

 

俳句鑑賞歳時記 (角川ソフィア文庫)

 

 

(2)2007センター試験国語第1問・「日本の庭について」山本健吉/解説

 

(問題文本文)(概要です)

(【1】・【2】・【3】・・・・は当ブログで付記した段落番号です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です) 

 

【問】 次の文章を読んで、後の問に答えよ。

【1】日本の庭は時間とともに変化し、推移することが生命なのだ。ある形を凍結させ、永久に動かないようにとの祈念を籠(こ)めた、記念碑的な造型が、そこにあるわけではない。不変の形を作り出すことが芸術の本質なら、変化を生命とする日本の庭は、およそ芸術と言えるかどうか。これは少なくとも、ヨーロッパ式の芸術理念とは違った考えに基づいて、作り出され存在しているもののように思われる。

【2】私たち日本人の多くは、少なくとも戦後の住宅難からアパート暮らし、団地暮らし、マンション暮らしが一般化するまでは、規模の大小にかかわらず、日本式の庭または庭らしい空間を伴った家に住んでいた。庭らしい空間というのは、庭を持たない家でも、物干し場や張り出しの手摺(てす)りや軒下などの僅(わず)かな空間を利用しては、鉢植や盆栽を並べたり、蜜柑(みかん)箱や石油缶などに土を入れてフラワー・ボックスに仕立てたり、庭の代用物を作ることに執心するいじましい心根を持っているからである。

【3】そういう心根の大本をたずねると、日本人が古来、人間の生活と自然とを連続したものと受け取り、自然を対象化して考える傾向のなかったことに気づく。それは征服すべき対象ではなく、その中に在って親和関係を保つべきものであった。あるいは、草木鳥獣虫魚から地水火風に到(いた)るあらゆるものと、深い「縁」を結ぶことによって生きるという考え方である。それらの生物も無機物も、あるいは自然界のあらゆるものを、魂と命とを持ったものとして心を通わせ、畏(おそ)れ親しんだアニミズムの思想、あるいは心情があった。

【4】ヨーロッパ式の庭園は、左右相称で、幾何学的図形をなしている花壇や、やはり幾何学的図形を石組で作り出し、中央に噴水を出した泉水や、丸く刈り込んだ樹木や大理石その他の彫刻を置いた、よく手入れされた芝生など、人間の造型意志をはっきり示しているところに特色がある。それは最初に設計した人の手を離れた時、一つの完成に達しているのであって、その後手入れさえ施していればそのまま最初の形を保持して行くことが出来ると考えた。

【5】庭園において動かない造型を作り出すということは、彫刻や絵画や建築や、ヨーロッパ流の芸術理念を作り出しているそれらのジャンルに準じて、庭園も考えられているということである。

【6】ところが、日本では作庭をも含めて、ことに中世期にその理念を確立したもろもろの芸術──たとえば茶や生花や連歌・俳諧など──においては、永遠不変の造型を願わないばかりか、一瞬の生命の示現を果たしたあとは、むしろ消え去ることを志向している。不変とは、ピンで刺したの揚羽蝶(あげはちょう)の標本のように、そのまま死を意味する。それに反して変化こそ、生なのである。西洋の多くの芸術が志向するものが永遠に変わることのない、美しい堅固な形であるなら、日本のある種の芸術が志向するものは移って止(や)まぬ生命の輝きなのである。生命が日本の芸術、この場合は日本の庭の、根本に存在する標(しる)しなのだ。

【7】私はそれら日本の芸術家たちに、自分の作品を永遠に残そうという願いが、本当にあったかどうかを疑う。ヨーロッパ流の芸術観では、芸術とは自然を素材にして、それに人工を加えることで完成に達せしめられた永遠的存在なのだから、A 造型し構成し変容せしめようという意志がきわめて強い。それが芸術家の自負するに足る創造であって、それによって象徴的に、彼等(かれら)自身が永生への望みを達するのである。

 

ーーーーーーーー

 

(設問)

問1 (省略します)

問2 傍線部A「造型し構成し変容せしめよう」とあるが、それはどういうことか。その説明として最も適当なものを、次の中から一つ選べ。

① 変化し続ける自然を作品として凍結することにより、一瞬の生命の示現を可能にさせようとすること。

② 時間とともに変化する自然に手を加え、永遠不変の完結した形をそなえた作品を作り出そうとすること。

③ 常に変化する自然と人間の生活との親和性に注目し、両者を深い「縁」で結んだ形の作品を創造しようとすること。

④ 変化こそ自然の本質だとする考えを積極的に受け入れ、消え去った後も記憶に残る作品を作り上げようとすること。

⑤ 芸術家たちの造型意志によって、自然の素材の変化を生かしつつ、堅固な様式の作品に再構成しようとすること。


……………………………

 

(解説・解答)

問2(傍線部説明問題)

 傍線部は、「ヨーロッパ流の芸術観」についての説明です。

 傍線部直前の「ヨーロッパ流の芸術観では、芸術とは自然を素材にして、それに人工を加えることで完成に達せしめられた永遠的存在なのだから」が、「傍線部の理由説明」になっていることに注目してください。

このことと、【6】段落「西洋の多くの芸術が志向するものが永遠に変わることのない、美しい堅固な形である」から、

(→「時間とともに変化する自然に手を加え、永遠不変の完結した形をそなえた作品を作り出そうとすること」)が正解になります。


① 「一瞬の生命の示現を可能にさせようとすること」が、【6】段落第1文「日本では作庭をも含めて、・・・・永遠不変の造型を願わないばかりか、一瞬の生命の示現を果たしたあとは、むしろ消え去ることを志向している」より、「日本の芸術観」です。

③ 「常に変化する自然と人間の生活との親和性に注目し、両者を深い「縁」で結んだ形の作品を創造しようとすること」は、【3】段落「(日本人にとって)それ(→「自然」)は征服すべき対象ではなく、その中に在って親和関係を保つべきものであった。あるいは、草木鳥獣虫魚から地水火風に到(いた)るあらゆるものと、深い『縁』を結ぶことによって生きるという考え方である。」より、「日本の芸術観」です。

④ 「変化こそ自然の本質だとする考えを積極的に受け入れ」は、【1】段落より、「日本の芸術観」です。

⑤ 「自然の素材の変化を生かしつつ」は、【1】段落「日本の庭は時間とともに変化し、推移することが生命なのだ。」より、「日本の芸術観」です。

 

 この設問は、基礎的なレベルですが、内容的には、他の論考を読解する上で、かなり参考になります。「日本の芸術観」・「日本人の感性」は、教養、予備知識として重要です。よく復習しておくべきです。

 

(解答) ②

 

ーーーーーーーー

 

(問題文本文)(概要です)

【8】造型意志が極端に弱いのが、日本の芸術である。日本における美の使徒たちに、そのような意志が微弱にしか育たなかったのは、やはり日本人が堅固な石の家にでなく、壊れやすく朽ちやすく燃えやすい木の家に住んでいることに由来しているかも知れない。彼等は自分たちの生のあかしとしての造型物を、後世に残そうなどとは心がけなかった。

【9】たとえば、生花とは造型なのか。たとえそこにいくらかの造型的要素があったとしても、それが生花の生命であり、目標であるのか。馬鹿(ばか)らしい。彫刻や絵画が永遠の造型を目ざしているのに、花というはかない素材で何を造型しうるというのか。一ときの美しさを誇ってたちまち花は散るのである。散るからこそ花は美しく、そこに生きた花の短い命との一期(いちご)の出会いを愛惜すること
が出来る。B 造型ではなく、花の命を惜しむことが、生花の極意である。

【10】あるいはまた、主(あるじ)と客とが一室に対座して、一服の茶を喫することに、形を残そうとの願いがいささかでも認められようか。茶室や茶庭や茶碗や(注1)茶匙(ちゃさじ)や茶掛(ちゃがけ)などに、ある造型が認められるとしても、それが茶の湯の目的なのではない。一服の茶を媒介として、そこに美しく凝縮し純化した時間と空間とが作り出されたら、それは客に取っても主に取っても、何物にも替えがたい最高度の悦楽で、それこそ生涯の目標とするに足る、輝かしい生命の発露、一期一会(いちごいちえ)の出会いであった。

【11】造型意志を極小にまで持って行った文学は、十七字の発句(ほっく)であろう。だが、芭蕉は発句よりも(注2)連句に、自分の生きがいを覚えた。連句はそれこそ自分一個のはからいを極微に止(とど)めて、あとはなりゆく自然のままに自分を委(ゆだ)ねてしまった文学なのだ。座の雰囲気の純一化が連句を付け合う者たちの楽しみであって、(注3)文台引き卸せば即ち反古(ほうぐ)とは、芭蕉の日ごろの覚悟であった。残された懐紙は、座の楽しみの粕(かす)に過ぎなかった。自己を没却し、自然のままに随順し、仲間と楽しみを一つにするところに、やはり茶会と同じ、一期一会の歓(よろこ)びがあった。

 

ーーーーーーーー

 

(設問)

問3 傍線部B「造型ではなく、花の命を惜しむことが、生花の極意である」とあるが、筆者は、この生花に続けて、茶の湯、連句の例を挙げている。それは「一期の出会い」を踏まえた上で、日本の芸術のどのような点を強調するためか。その説明として最も適当なものを、次の中から一つ選べ。

① 花の命の短さ、茶の湯の主客の対座、連句の中の発句のもつ十七字という極小の単位などにしぼって、芸術における簡素さを強調するため。

② 生花をともにでる場、茶の湯の主客の対座、連句の座のうちの楽しい雰囲気を取り上げて、芸術における人間関係の豊かさを強調するため。

③ 花の短い命、茶の湯の対座、連句を楽しむ時間の短さに注目して、表現された形よりも芸術における性を強調するため。

④ 花の短い命と向き合うことと、茶の湯の対座、仲間で作り合う連句の座とを重ねて、芸術における個の表現意識の弱さを強調するため。

⑤ 生花、茶の湯、連句を、人と物、人と人とが出会う場の価値にかかわらせて、芸術における空間性そのものを強調するため。


……………………………

 

(解説・解答)

問3(傍線部説明問題)

 設問文の「筆者は、この生花に続けて、茶の湯、連句の例を挙げている。それは『一期の出会い』を踏まえた上で、日本の芸術のどのような点を強調するためか」に注意してください。

④ 「花の短い命と向き合うこと」は、傍線部直前の「散るからこそ花は美しく、そこに生きた花の短い命との一期(いちご)の出会いを愛惜することが出来る。」に合致しています。

 次に、「芸術における個の表現意識の弱さを強調する」は、【11】段落「芭蕉は発句よりも(注2)連句に、自分の生きがいを覚えた。連句はそれこそ自分一個のはからいを極微に止(とど)めて、あとはなりゆく自然のままに自分を委(ゆだ)ねてしまった文学なのだ。・・・・自己を没却し、自然のままに随順し、仲間と楽しみを一つにするところに、やはり茶会と同じ、一期一会の歓(よろこ)びがあった。」に合致しています。

 

① 「連句の中の発句のもつ十七字という極小の単位などにしぼって」は、【11】段落「造型意志を極小にまで持って行った文学は、十七字の発句(ほっく)であろう。だが、芭蕉は発句よりも(注2)連句に、自分の生きがいを覚えた。」に反しています。

 また、「芸術における簡素さを強調するため」は、本文に、このような記述は、ありません。

② 「芸術における人間関係の豊かさを強調するため」は、「生花」とは無関係です。

③ 「芸術における刹那(せつな)性を強調するため」は、【10】・【11】段落の最終文の「一期一会(いちごいちえ)」とはズレています。

⑤ 「芸術における空間性そのものを強調するため」は、【11】段落最終文「自己を没却し、自然のままに随順し、仲間と楽しみを一つにするところに、やはり茶会と同じ、一期一会の歓(よろこ)びがあった。」に反しています。

 

(解答) ④


ーーーーーーーー

 

(問題文本文)(概要です)

【12】では庭は、どのような意味で、日本の芸術であったのか。

(空白アリ)

【13】日本の代表的な庭園とされている一つに、(注4)龍安寺(りょうあんじ)方丈の石庭がある。一樹一草も使わず、大小十五の石が五十余(注5)坪の地に置かれ、一面に白砂を敷きつめただけの庭で、庭全体が海面の体相をなし、巌(いわお)が島嶼(とうしょ)に準(なぞら)えられ、一見する者は誰しも精神の緊張を覚える。この庭は外国人にもひどく感動を与えるらしく、ことにアメリカにはこの形を模した石庭がいくつも作られているという。だが、それが龍安寺の石庭と似ても似つかぬものであったとしても、致し方もない。

【14】石庭といえば、日本の庭の代表のように言われているのは、どういう理由によるのだろう。Cこの庭の絶賛者の一人に志賀直哉氏がある。氏は言う。「これ程に張り切った感じの強い、広々した庭を自分は知らない。然(しか)しこれは日常見て楽しむ底(てい)の庭ではない。楽しむにしては余りに厳格すぎる。しかも吾々(われわれ)の精神はそれを眺める事によって不思議な歓喜踊躍(ようやく)を感ずる」(『龍安寺の庭』)。

【15】大正十三年に書かれたこの文章が、この庭を一躍有名にし、その後賛美者の列がつづき、中には石の配置にことさらな意味づけを見出そうとする哲学好きも多かった。私もまた、志賀氏の文章によって、龍安寺の庭の美を知った一人だが、論者のその意味づけのうるささに何時(いつ)か嫌悪を覚えるようになり、これが果たして日本の庭を代表する傑作なのかと、いくばくの疑いを抱くようになった。

【16】志賀氏はまた次のように言っている。「(注6)相阿弥(そうあみ)が石だけの庭を残して置いてれた事は後世の者には幸いだった。木の多い庭ではそれがどれだけ元の儘(まま)であるか後世では分からない。例えば(注7)本法寺の(注8)光悦の庭でも中の『(注9)八ッ橋』を信じられるだけで、他は信じられない。そういう意味で龍安寺の庭程(ほど)原形を失わぬ庭は他(ほか)にないだろう。庭では吾々は当時のままでそれを感ずる事が出来る」(同)。

【17】この一文は、石庭を相阿弥の作と想定して、ほぼその最初に作られたままの姿で今日といえども存在していることを、今日の鑑賞家である自分たちにとって幸いだとしているのである。変化してやまぬ草木が一本もないのだから、作者が最初に置いた石の配置さえ動かさなければ、それは原形を失っていないはずだし、それを相阿弥の庭としてまじり気なく受け取ることが出来ることになる。

【18】だが志賀氏はここで、作者(相阿弥と想定して)の意図が、そのままの形で今日のわれわれに伝わることを、どうして幸いとしたのであろう。ここにはやはり、永遠不変の記念碑的な造型物を志向するヨーロッパ流の芸術理念の上に、飽くまでも作者の個の表現としての作品を重んずる近代風の考えが重なっているのではなかろうか。そのような点から考えれば、龍安寺の石庭は、変化することのない堅固な素材だけで作られていて、それはヨーロッパ風の芸術理念から言っても、何等(なんら)躓(つまず)きとなる要素はない。だが、日本の庭の多くは、作られた瞬間に、歳月による自然の変化に委ねられ、その結果庭は日々に成熟を加えて行く。言わばそれは、芭蕉の言葉にあるように、「造化にしたがひ、造化にかへる」(『笈(おい)の小文』)ことを理想としている。芸術という熟語はアートの訳語として作られたものだが、術の字はやはり手わざであり、人工であって、造化(自然)に随(したが)うという東洋古来の理念を含んでいない。

 

ーーーーーーーー

 

(設問)

問4 傍線部C「この庭の絶賛者の一人に志賀直哉氏がある」とあるが、志賀が絶賛したのはなぜだと筆者は考えているか。その説明として最も適当なものを、次の中から一つ選べ。

① 石と白砂だけが配置された庭の幾何学的な構図に、日本の庭には珍しいヨーロッパ的芸術理念の精巧な模倣を見出したからだと、筆者は考えている。

② 石と白砂だけに素材を限った簡潔で緊張した造型に、日本の芸術理念とヨーロッパの芸術理念との幸福な出会いを確認したからだと、筆者は考えている。

③ 石と白砂だけの一見無造作に見える景物の配置に、かえって切り取られた空間としての庭本来の魅力を強く感じたからだと、筆者は考えている。

④ 石と白砂だけで作り出された庭の純粋な空間の潔さに、一期一会の歓びにすべてをかける作者の覚悟を直感したからだと、筆者は考えている。

⑤ 石と白砂だけで実現された空間の造型性に、それを創造した作者の強固な意図がそのまま息づいていることを発見したからだと、筆者は考えている。

 

……………………………

 

(解説・解答)

問4(傍線部説明問題)

  「志賀が絶賛した」理由については、以下が該当します。
【18】段落「ここにはやはり、永遠不変の記念碑的な造型物を志向するヨーロッパ流の芸術理念の上に、飽くまでも作者の個の表現としての作品を重んずる近代風の考えが重なっているのではなかろうか。」

 従って、⑤(「→石と白砂だけで実現された空間の造型性に、それを創造した作者の強固な意図がそのまま息づいていることを発見したからだと、筆者は考えている。」)が正解になります。


① 「日本の庭には珍しいヨーロッパ的芸術理念の精巧な模倣を見出したからだと、筆者は考えている」は、本文に、このような記述はありません。

② 「日本の芸術理念とヨーロッパの芸術理念との幸福な出会いを確認したからだと、筆者は考えている」は、本文に、このような記述はありません。

③ 「かえって切り取られた空間としての庭本来の魅力を強く感じたからだと、筆者は考えている」は、本文に、このような記述はありません。

④ 「一期一会の歓びにすべてをかける作者の覚悟を直感したからだと、筆者は考えている」 は、本文に、このような記述はありません。

 

(解答) ⑤

 

ーーーーーーーー

 

(問題文本文)(概要です)

【19】この庭は一定の空間を切り取ってその中に石を配置し、それを方丈から見るものとして対象化したところに成立している。それは見るためだけの庭であって、その意味では額縁によって切り取られた絵と変わりはない。だが日本の多くの庭は、主の生活に融(と)けこんで、その中に自由に出入りすることの出来る空間であって、見るものとして対象化された作品ではない。生命を持ち、変化する草木を一本も植えこんでいないこの庭は、思わくありげな、抽象的図形で、たまたま客人として鑑賞する立場に立てば、誰しも一種の緊迫した気分に誘いこまれるだろう。だが、この寺に住まい、朝夕この庭と対している住持の立場に立てばどうなのか。このような、つねに人に非常の時間を持することを強い、日常の時間に解放することのない緊張した空間に堪えるには、人は眼(め)を眠らせるより仕方がない。それは毎日それと共にあるには、あまりに息づまるような、窮屈きわまる庭なのである。日本の多くの庭の、人の気持をくつろがせ、解き放ち、嬉戯(きぎ)の心を全身にみなぎらせてゆくような要素が、ここにはない。志賀氏が「これは日常見て楽しむ底の庭ではない。楽しむにしては余りに厳格すぎる」と言ったのは、この間の機微を言っているものだと思う。庭が人の住む建築物に付属するものであるかぎり、Dこの非日常性は例外と言うべきである。

(山本健吉「日本の庭について」による)

 

(注) 

1 茶掛──茶席に掛ける掛軸など。

2 連句──五・七・五の長句と、七・七の短句を一定の法則の下に交互に付け連ねる俳諧の一形式。

3 文台引き卸せば即ち反古──文台は句会の中心となる台で、短冊や懐紙をのせる。反古は用済みの紙。

4 龍安寺方丈──龍安寺は京都市にある臨済宗の寺。方丈は、住持(住職)の居間。

5 坪──土地面積の単位。一坪は、約三・三平方メートル。

6 相阿弥──室町後期の画家で、造園にもすぐれていた。

7 本法寺──京都市にある日蓮宗の寺。

8 光悦──本阿弥光悦。江戸初期の美術家・工芸家。

9 八ッ橋──ここでは、本法寺にある、池に沿って八角形に敷石を並べたものを指す。


ーーーーーーーー

 

(設問)

問5 傍線部D「この非日常性は例外と言うべきである」とあるが、それはどういうことか。その説明として最も適当なものを、次の中から一つ選べ。

① 日本の庭が、本来、変化を生命とし、そこに一期一会の歓びをもたらすものであるなら、龍安寺方丈の石庭は、不変の様式美という芸術理念を追い求めるがゆえに、例外と位置づけられるということ。

② 日本の庭が、本来、歳月による自然の変化に委ねられるものであるなら、龍安寺方丈の石庭は、相阿弥の庭として揺るぎない個の表現であるがゆえに、例外的に芸術の本道と位置づけられるということ。

③ 日本の庭が、本来、自然のたたずまいと一体化し、人をくつろがせるものであるなら、龍安寺方丈の石庭は、緊張感をもって見ることを強いるがゆえに、例外と位置づけられるということ。

④ 日本の庭が、本来、人工でありながら自然に従うものであるなら、龍安寺方丈の石庭は、ヨーロッパ風の芸術理念に即応した造型美のゆえに、例外的に芸術の本道と位置づけられるということ。

⑤ 日本の庭が、本来、四季の変化に人の生命のはかなさを感じさせるものであるなら、龍安寺方丈の石庭は、草木主体ではなく、生命なき石や砂からなる様式美のゆえに、例外と位置づけられるということ。

 

……………………………

 

(解説・解答)問5(傍線部説明問題)

 傍線部直前の「庭が人の住む建築物に付属するものであるかぎり」、傍線部の「この非日常性」に注目してください。

 「庭が人の住む建築物に付属するもの」とは、「日常的な庭」を意識し、傍線部と同一段落の、「日本の多くの庭の、人の気持をくつろがせ、解き放ち、嬉戯(きぎ)の心を全身にみなぎらせてゆくような要素」のある「庭」、を指しています。

 一方、「この非日常性」は、傍線部と同一段落の「この庭(→「「龍安寺方丈の石庭」)は、思わくありげな、抽象的図形で、たまたま客人として鑑賞する立場に立てば、誰しも一種の緊迫した気分に誘いこまれるだろう。だが、この寺に住まい、朝夕この庭と対している住持の立場に立てばどうなのか。このような、つねに人に非常の時間を持することを強い、日常の時間に解放することのない緊張した空間に堪えるには、人は眼(め)を眠らせるより仕方がない。それは毎日それと共にあるには、あまりに息づまるような、窮屈きわまる庭なのである。」志賀氏が『これは日常見て楽しむ底の庭ではない。楽しむにしては余りに厳格すぎる』と言ったのは、この間の機微を言っているものだと思う。」を指しています。


 つまり、「龍安寺方丈の石庭」は、「日本の日常的な庭」とは違い、「緊張した空間」、「あまりに息づまるような、窮屈きわまる庭」、「楽しむにしては余りに厳格すぎる」庭、言い換えれば、「非日常的な庭」なのです。

 以上の「対比」に着目すると、
(→「日本の庭が、本来、自然のたたずまいと一体化し、人をくつろがせるものであるなら、龍安寺方丈の石庭は、緊張感をもって見ることを強いるがゆえに、例外と位置づけられるということ」)が、正解になります。

 

 「日常」・「非日常」の対比は、入試頻出論点です。

 

① 「龍安寺方丈の石庭は、不変の様式美という芸術理念を追い求めるがゆえに」が、傍線部の直前を意識していないので、誤りです。

②と④は、「例外的に芸術の本道と位置づけられる」が、本文にこのような記述がなく、誤りです。

⑤ 「龍安寺方丈の石庭は、草木主体ではなく、生命なき石や砂からなる様式美のゆえに、例外と位置づけられる」は、傍線部の直前を意識していないので、誤りです。


(解答) ③


ーーーーーーーー


(設問)
問6 本文は、空白行によって前後に分けられているが、本文の内容や展開の説明として最も適当なものを、次の中から一つ選べ。

① 前半では日本の庭とヨーロッパの庭との差異を芸術理念の面から説明し、後半では一転して、感性の面から龍安寺の 石庭を代表とする日本の庭とヨーロッパの庭との共通性に光を当てている。

② 前半ではヨーロッパの芸術理念と日本の芸術理念とを比較対照し、それを踏まえて後半では日本の芸術理念から見れば、龍安寺の石庭は日本の庭の例外として位置づけられると論じている。

③ 前半ではヨーロッパとは異なる日本の芸術の一般的な特徴について紹介し、その上で後半では両者の芸術理念の共通点に普遍性を認めつつ、龍安寺の石庭が日本の代表的な庭園たり得る理由を説明している。

④ 前半では庭以外の生花・茶道・連句などの芸術分野に広く触れているが、後半では日本の庭のみを取り上げ、特に龍安寺の石庭が日本の芸術理念を集約したものだとする論理展開になっている。

⑤ 前半ではヨーロッパと日本の芸術理念を比較して抽象的に論じているが、それに対して後半では日本の庭を例に挙げ、龍安寺の石庭が例外的に永遠不変性を得たことを具体的に論じている。

 

……………………………

 

(解説・解答)

問6(本文の構成を問う問題)

① 「後半では一転して、感性の面から龍安寺の 石庭を代表とする日本の庭とヨーロッパの庭との共通性に光を当てている」は、本文にこのような記述がなく、誤りです。

② これが正解です。問2~5がヒントになっています。

 

→入試本番では、各設問の関係を意識するようにしてください。センター試験、難関大学現代文においては、このことは、重要なポイントです。設問全体がストーリー性を有していることが多いのです。この点を、志望大学の過去問の演習を通して実感するべきです。模擬試験では、なく。


 ちなみに、私は、模擬試験の価値をあまり認めていません。本番と比較して、スタッフのレベルが違いすぎることが多いからです。時間内に処理する訓練に、一定の効果があるだけです。

 結論としては、時間内に処理することに問題がなければ、なるべく、模擬試験には触れないことが賢明です。時間のムダ、有害無益です。それよりも、過去問を重視するべきです。

 

③ 「後半では両者の芸術理念の共通点に普遍性を認めつつ、龍安寺の石庭が日本の代表的な庭園たり得る理由を説明している」は、本文にこのような記述がなく、誤りです。

④ 「特に龍安寺の石庭が日本の芸術理念を集約したものだとする論理展開になっている」は、本文にこのような記述は、ありません。
 むしろ、「龍安寺の石庭」は「日本の庭の例外」として位置づけられると論じています。

⑤ 「前半ではヨーロッパと日本の芸術理念を比較して抽象的に論じている」が誤りです。【9】~【11】段落で、「生花」・茶の湯」・「連句」という具体例を提示して、「日本の芸術理念」を「具体的に」論じています。


(解答) ②

 

ーーーーーーーー

 

【出典】

山本健吉「日本の庭について」(『山本健吉全集』巻4所収)


 
(3)要約

 

 日本の庭は永遠不変の造型を願わないばかりか、一瞬の生命の示現を果たした後は、むしろ消え去る事を志向している。これに対して、ヨーロッパ式の庭園は、永遠に変わることのない不変の形を作り出すことを本質とする。それが芸術家の自負するに足る創造であって、それによって象徴的に、彼等自身が永生への望みを達するのである。一方で、造形意志が極端に弱いのが、日本の芸術である。

 ところで、日本の代表的な庭園とされる龍安寺方丈の石庭は、変化することのない堅固な素材だけで作られていて、ヨーロッパ風の芸術理念から言っても、何ら躓きとなる要素を持っていない。また、この石庭は緊張した空間であり、窮屈きわまる庭である。日本の多くの庭に見られる、人の気持ちをくつろがせ、解き放ち、嬉戯の心を全身にみなぎらせてゆくような要素はない。その点で、この非日常性を考慮すれば、龍安寺の石庭は、日本の代表的な庭園ではなく例外的存在である。

 

 

(4)当ブログにおける「日本文化論」・「日本芸術論」・「比較文化論」関連記事の紹介

 

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今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

ご期待ください。

 

 

 

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予想問題『疑似科学入門』池内了/理科系論点/早大文学部過去問

(1)この記事を書く理由ー最近、流行している、理科系の論点・テーマに注目しよう

 

 最近は、大学入試の現代文(国語)・小論文の世界に、理科系論点・テーマが、多く出題されるようになってきました。

 現代文明においては、地球温暖化・核廃棄物等の問題を見ても分かるように、我々人類の生存・存立に多大な影響を及ぼすような理科系論点・テーマが発生しているからです。

 これらの問題は、文科系、理科系の壁を越えて、今や、人類全体にとって、緊急な重大な問題になっているのです。

 

 たとえば、理科系論点・テーマにおける、トップレベルの入試頻出著者である池内了氏(宇宙物理学者・天文学者)の論考の最近の出題状況は、以下の通りです。

 

早稲田大学(文)ー「擬似科学入門」

早稲田大学(国際教養)ー「物理学と神」

新潟大学ー「物理学と神」

福井大学ー「本の棲み分け」

中央大学ー「科学の限界」

奈良教育大学ー「科学の限界」

明治学院大学(小論文)ー「人間と科学の不協和音」

立教大学ー「科学の限界」

愛媛大学(小論文)ー「科学と人間の不協和音」

立命館大学ー「擬似科学入門」

 以上のように、池内了氏の論考は、最近のトップレベルの頻出出典です。

 

 理科系論点・テーマは、最近の流行です。

 理科系論点・テーマについては、予備知識・背景知識が、より重要になるので、このブログでは特に重視しています。

 

 理科系論点(理系論点)は、人生にも役立つような、興味深い内容のものが多いのです。食わず嫌いは、いろいろな意味で、「もったいないこと」と言えます。

 理科系の知識の不足が、マスコミや医者を絶対化して、彼らの指示通りに、無意味な食事制限、ダイエット、定期健康診断等に右往左往する健康ヒステリー、人間のロボット化、自己喪失化、自己疎外化を招くのです。

 積極的に、理科系の論考に取り組みようにしてください。

 理科系の入試頻出著者の論考は、新書で多数、出版されています。

 今回の記事で取り上げた論考も、人生に、かなり役に立つ内容です。

 

  なお、今回の記事の項目は、以下の通りです。記事は約1万字です。

(2)予想問題・『擬似科学入門』池内了/理科系論点/早大文学部過去問

(3)要約

(4)池内了氏の紹介

(5)当ブログにおける他の「理科系論点・解説」記事の紹介

(6)当ブログにおける他の「早大現代文・解説」記事の紹介

 

 

疑似科学入門 (岩波新書)

 

 

(2)予想問題・『擬似科学入門』池内了/理科系論点/2009早大文学部過去問

 

(問題文本文)(概要です)

(【1】・【2】・【3】・・・・は当ブログで付記した段落番号です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です) 

【1】人間は、以上のような、知覚、記憶、思考の各過程の組み合わせの結果としてある種の判断を下すのだが、その一連の認知行為のなかで各過程のエラーが積み重なり強め合って知らぬ間に判断エラーをしてしまうことになる。


【2】人はある事象を見たとき必ず何らかの信念(例えば、B型の血液の人間は二面性がある)を持ち、その信念に沿って「こんなことが起こるだろう」と予期し(彼はB型だから矛盾した行動をとるだろう)、結果を見たとき予期に合致するよう〔 ① 〕しようとする傾向がある。その結果、予期していた通りのことが起こったとしか見ないから信念がいっそう強められる。つまり、信念→予期→予期を強化するよう結果を解釈→いっそう強い信念になる、というプラスのフィードバックがはたらき、ますます頑固に信じるようになるのだ。

【3】この場合、「こんなことが起こるだろう」と予期する段階において「こんなことは起こりえないだろう」とは一切思わず、また結果を見たとき予期に反する事実は無視してしまう傾向がある。また、予期に沿った情報は記憶しやすいが、〔 ② 〕には注意がいかないこともある。例えば、女性ドライバーは運転が下手だという信念の持ち主は、そのような目で常にドライバーを見ており、実際に下手な女性ドライバーを目撃すると信念をいっそう強める。運転が上手な女性ドライバーがもっと多くいても記憶に残らず無視してしまうのだ。〔 イ 〕

 

ーーーーーーーー

 

(設問)

問1 空欄①・②に入る最適な語句を、それぞれ次の中から選べ。

① イ  結果を提示   

     ロ  安易に解釈 

     ハ  選択的に解釈   

     ニ  結論的に提示

 

② イ  反証となる情報   

     ロ  信念にあう事実 

     ハ  予期された事実   

     ニ  結論となる情報

 

……………………………

 

(解説・解答)

問1(空欄補充問題)

①  【2】段落「人はある事象を見たとき必ず何らかの信念を持ち、その信念に沿って「こんなことが起こるだろう」と予期し、結果を見たとき予期に合致するよう〔 ① 〕しようとする傾向がある。つまり、信念→予期→予期を強化するよう結果を解釈→いっそう強い信念になる、というプラスのフィードバックがはたらき、ますます頑固に信じるようになるのだ。」、

【3】段落「この場合、「こんなことが起こるだろう」と予期する段階において、結果を見たとき予期に反する事実は無視してしまう傾向がある。」

という文脈(→赤字部分に注目してださい)より、ハ(→「選択的な解釈」)が正解になります。

 

(解答) ハ


② 【3】段落「また、予期に沿った情報は記憶しやすいが、〔 ② 〕には注意がいかないこともある。例えば、女性ドライバーは運転が下手だという信念の持ち主は、そのような目で常にドライバーを見ており、実際に下手な女性ドライバーを目撃すると信念をいっそう強める。運転が上手な女性ドライバーがもっと多くいても記憶に残らず無視してしまうのだ。」という文脈より、イ (→「反証となる情報」)が正解になります。

 

(解答) イ

 

ーーーーーーーー

 

(問題文本文)(概要です)

【4】このプラスのフィードバックによって、予期が結果を決めるだけでなく、予期したことが実現してしまうという逆転した状況も生まれかねない。先生が「この子はできが悪い」と思い込む(予期してしまう)と、どのような行動もできの悪さに結びつける。そのため、ますますできが悪いという解釈が積み重なり、(せっかく本人が努力していても目に入らず)結局その子どもは「落ちこぼれ」になってしまう。この場合、先生の予期が原因となった落ちこぼれだから、実は「落ちこぼし」なのである。〔 ロ 〕

【5】もう一つの判断エラーは、サンプルの数が多いと平均的な値に近づく(これを数学で「大数の法則」という)が、サンプルの数が少ないと平均からのズレが大きいのが普通であるのに、それがあたかも平均であるかのように誤認してしまうというケースである。「あの医者は名医だ」という噂があり、事実多くの患者がそう言う場合は信用できる。ところが、「あの医者にかかると女の子が多く生まれる」という噂となると怪しいのだ。〔 ハ 〕

【6】それと似たことで、B 「平均への回帰」という現象がある。ある生徒の学校のテストの成績は上下するのがつきものだが、何回かで平均すると、ある一定のレベルになるのが普通である。各回のテスト結果は平均の力プラス誤差として出るのだが、誤差は体調や集中度や寝不足などによって良かったり悪かったりと変化するから、成績は平均点の上下を変動する。しかし、何回もテストをすれば平均に回帰するものである。だから、一回ごとの成績に一喜一憂することなく、自分の平均はこの程度だと見定められればいいのである。普段はいい成績を取っているのに、ある時(誤差で)悪い成績を取ってしまい、自暴自棄になってしまうことがある。少数のサンプルだけで判断すると誤る例である。〔 ニ 〕

【7】野球で「二年目のジンクス」ということがよく言われる。一年目は好成績を残したのに、二年目はさっぱりダメという場合である。イチローのような特段に優れた選手は例外で、ほとんどが並の実力の持ち主だから、一年目は誤差でたまたまいい成績となっただけで、二年目からは平均に戻ったと考えた方が正しいだろう。にもかかわらず、スウィングが悪い、モーションが悪いと指摘され、自分もそうではないかと思い込んでフォームを崩してしまい、結局大成しなかった選手が多くいる。〔 ホ 〕数年間を見て実力を見極める度量が欲しいものである。 

 

ーーーーーーーー

 

(設問)

問2 次の文は、本文中に入るべきものである。最適な箇所を空欄イ~ホの中から選べ。

そのようなケースが世の中には多いのではないだろうか。「要領の悪い部下」「下手な野球選手」などゴマンとありそうである。

 

問3 傍線部B「『平均への回帰』という現象」は、どのような判断エラーを回避する上で有効か。次の中から最適なものを選べ。

イ   誤差のあることを認識しながらも特定の事例を重視して判断すること。

ロ   偶然的に生じた結果を問題にしすぎて判断してしまうこと。

ハ   誤差の生ずる確率をできるだけ低めに予測して判断すること。

ニ   少数のサンプルから簡単に判断して結論を出してしまうこと。

 

……………………………

 

(解説・解答)

問2(脱文挿入問題)

 脱文の「そのようなケース」(→「要領の悪い部下」「下手な野球選手」を発生させるケース)に注目してください。

 
  【4】段落「このプラスのフィードバックによって、A 予期が結果を決めるだけでなく、予期したことが実現してしまうという逆転した状況も生まれかねない。先生が『この子はできが悪い』と思い込む(予期してしまう)と、どのような行動もできの悪さに結びつける。そのため、ますますできが悪いという解釈が積み重なり、(せっかく本人が努力していても目に入らず)結局その子どもは『落ちこぼれ』になってしまう。この場合、先生の予期が原因となった落ちこぼれだから、実は『落ちこぼし』なのである。〔 ロ 〕」

というケースが、脱文の「そのようなケース」に適合するので、ロが正解になります。

 

(解答) ロ

 

問3(傍線部説明問題)

 傍線部B「『平均への回帰』という現象」は、どのような判断エラーを回避する上で有効か、という設問の条件に着目してください。


【5】段落「もう一つの判断エラーは、サンプルの数が多いと平均的な値に近づく(これを数学で「大数の法則」という)が、サンプルの数が少ないと平均からのズレが大きいのが普通であるのに、それがあたかも平均であるかのように誤認してしまうというケースである。」、

傍線部直後の一文「ある生徒の学校のテストの成績は上下するのがつきものだが、何回かで平均すると、ある一定のレベルになるのが普通である。」、

傍線部を含む段落(【6】段落)の最終文「少数のサンプルだけで判断すると誤る例である。」

に注目すると、ニ(→「少数のサンプルから簡単に判断して結論を出してしまうこと」)という判断エラーを回避する上で、「『平均への回帰』という現象」は有効なことが分かります。


(解答) ニ

 

ーーーーーーーー

 

(問題文本文)(概要です)

【8】以上、判断の各過程におけるエラーについて述べてきたが、それらに共通する心理を整理しておこう。 

【9】まず、「認知的節約の原理」がある。限られた情報から欠けた部分を経験や先入観や単純な〔 a 〕によって補い、効率よく事態を処理しようとする心理のことだ。本人にとって負担が少ない思考法だが、そこにエラーが生じてしまうのだ。 

【10】続いて、「認知的保守性の原理」を挙げよう。すでに持っているスキーマを保ち維持しようとする傾向で、反証を無視したり、無理にでも自分の描像に合わせてしまう心理である。自分は一貫した考え方をしていると自認できるので〔 ③ 〕が得られることになる。だからこそ間違いやすいとも言える。C 自分が安心できる思考法でつい安住してしまうからだ。 

【11】もう一つは、「主観的確証の原理」で、どちらともつかない証拠だけでなく明らかな反証であっても、自分の予期を積極的に支持していると勝手に解釈する心理傾向である。「いやよいやよも好きのうち」と身勝手に思い込んでセクシュアルハラスメントに及ぶ人間がその典型と言える。D 自分の身勝手さに気づかず、全て他人のせいにして安閑としている人にお目にかかることが多いのはこのためだろう。被疑者に対して状況証拠しか見つかっていないのに犯人と決めつけ、すべてその〔 b 〕の下で解釈したがる例もある。犯人が見つかっていないと不安だが、強引にでも決めつけてしまえば安心するのだ。(早く安心したいという気持が底に潜んでいることもある。)この心理には、思考の経済性や一貫性なども絡み合っている。こうなるともはや〔 c  〕する気持を失ってしまう。 

【12】さらに付け加えるとすれば、「偶然性を拒否したい心理」、言い換えれば「確固とした因果関係として説明したい心理」もある。偶然に起こったことであっても必然だと思い込み、それをきちんとした因果関係で説明しようとすると科学的な理由が見つからず、ついに超常的現象だと考えてしまうケースである。予知夢がテレパシーしかないと解釈し、たまたま当たったのを透視できたと受け取り、そのまま信じ込んでしまうのだ。認知的エラーを自覚しない人ほど、自分の体験を絶対化して信じ込む傾向が強い。「しょせん、体験したことがない人にはわからない」として、他人の意見や忠告を受け入れなくなってしまうのだ。そして、自分の意見を強調すればするほどその信念はいっそう強くなっていき、もはや後戻りが不可能になる。 

 

ーーーーーーーー

 

(設問)

問1 空欄③に入る最適な語句を次の中から選べ。

イ   認知的な独自性ロ

ロ   心理的な安定感

ハ   人間的な信頼感

ニ   保守的な確実性

 

問4 空欄a~cに入る最適な語句を、それぞれ次の中から選べ。

イ 状況   ロ 仮定   ハ  解釈   ニ 類推   ホ 自省   ヘ 自認

  

問5 傍線部A(【4】段落)「予期が結果を決めるだけでなく、予期したことが実現してしまうという逆転した状況」は、筆者のいうどのような原理または心理からの判断エラーによって生まれやすいか。本文中の次の語句の中から、最適なものを選べ。

イ   「認知的節約の原理」

ロ   「認知的保守性の原理」

ハ   「主観的確証の原理」

ニ   「偶然性を拒否したい心理」

 

問6 傍線部Cで、「自分が安心できる思考法でつい安住してしまう」ために判断エラーが生じやすいと言っているが、そのような人の「思考法」の特色はどのようなものか。次の中から適合しないものを一つ選べ。

イ   自分の仮説を絶対化して信じ込む。

ロ   偶然起こったことを必然と思い込む。

ハ   他人の意見や忠告を受け入れる。

ニ   自分の体験を重視し強い信念を持つ。

 

問7 傍線部D(→「自分の身勝手さに気づかず、全て他人のせいにして安閑としている人」)のような人は、人の性格や行動を示す次の語のどれと無縁であると見ることができるか。最適なものを選べ。

イ 頑固   ロ 無視   ハ 度量   ニ 勝手   ホ 透視


……………………………

 

(解説・解答)

 問1(空欄補充問題)

 空欄直前の「自分は一貫した考え方をしていると自認できるので」、

直後の「C 自分が安心できる思考法でつい安住してしまう」に注目してください。

 ロ(→「心理的な安定感」)が正解になります。


(解答) ロ

 

問4(空欄補充問題)

a 直前・直後の文脈を精読してください。

【9】「『認知的節約の原理』がある。限られた情報から欠けた部分を経験や先入観や単純な〔 a 〕によって補い、効率よく事態を処理しようとする心理のことだ。本人にとって負担が少ない思考法だが、そこにエラーが生じてしまうのだ。 」

より、ニ(→「類推」)が正解になります。

 

b 「被疑者に対して状況証拠しか見つかっていないのに犯人と決めつけ(→強引な「仮定」です)、すべてその〔 b 〕の下で解釈したがる例もある。」の文脈を読み取ってください。

 

C 空欄を含む段落の「『いやよいやよも好きのうち』と身勝手に思い込んでセクシュアルハラスメントに及ぶ人間」、「D 自分の身勝手さに気づかず、全て他人のせいにして安閑としている人」がヒントになります。

 ホ(→「自省」)が正解になります。

 

(解答) a=ニ   b=ロ   c=ホ

 

問5(傍線部説明問題)

 設問文が長いので、注意してください。

  【4】段落「このプラスのフィードバックによって、A予期が結果を決めるだけでなく、予期したことが実現してしまうという逆転した状況も生まれかねない。先生が『この子はできが悪い』と思い込む(予期してしまう)と、どのような行動もできの悪さに結びつける。」と、

【10】段落「続いて、『認知的保守性の原理』を挙げよう。すでに持っているスキーマを保ち維持しようとする傾向で、反証を無視したり、無理にでも自分の描像に合わせてしまう心理である。」が、同趣旨であることを読み取ってください。

 ロ(→「認知的保守性の原理」)が正解になります。

 

(解答) ロ

 

問6(傍線部説明問題)

 設問文が長いので、注意してください。


(→「自分の仮説を絶対化して信じ込む」)は、【10】段落第2文「すでに持っているスキーマを保ち維持しようとする傾向で、反証を無視したり、無理にでも自分の描像に合わせてしまう心理である。」に対応しています。

 

(→「偶然起こったことを必然と思い込む」)は、【12】段落第2文「偶然に起こったことであっても必然だと思い込み、それをきちんとした因果関係で説明しようとすると科学的な理由が見つからず、ついに超常的現象だと考えてしまうケースである。」に対応しています。

 

ハ (→「他人の意見や忠告を受け入れる」)は、【12】段落第5文「『しょせん、体験したことがない人にはわからない』として、他人の意見や忠告を受け入れなくなってしまうのだ。」に適合していないので、このハが正解になります。

 

ニ (→「自分の体験を重視し強い信念を持つ」)は、【12】段落第4文「認知的エラーを自覚しない人ほど、自分の体験を絶対化して信じ込む傾向が強い」に対応しています。


(解答) ハ

 

問7(傍線部説明問題)

 ハの「度量」は、 「他人の言行をよく受けいれる、おおらかな心」という意味なので、傍線部D(→「自分の身勝手さに気づかず、全て他人のせいにして安閑としている人」)と「無縁」です。

 ハが正解になります。


(解答) ハ

 

ーーーーーーーー

 

(問題文本文)(概要です)

【13】むろん、人間の認知エラーが多いと言っても、私たちは日常生活において大きな支障なしに生きている。それを無意識のうちに矯正したり、または大きな問題が起こらないので気づかないままやり過ごしている。ときには認知エラーが人間の生存にプラスにはたらいていることもあると知っておくべきだろう。あまりに気にし過ぎると神経症を病むことになりかねないからだ。 
 
【14】ただ、突発的な事件が起こって即座の判断を迫られたり、すぐに合理的な解釈ができない事象に遭遇したりしたとき、〔  甲  〕が肝腎なのである。それは疑似科学に騙されていないか自らを点検することにも通じるからだ。 

(池内了『疑似科学入門』による)


ーーーーーーーー


(設問)

問8 空欄甲に入るべき最適なものを次の中から選べ。

イ 認知過程には誤りが多いことを自覚して、自分の推論を絶対化しないこと

ロ 人間の行動には必ずしも合理性がないから、無理にも合理化した説明を受け入れること

ハ 判断エラーは認知の過程で生じるのだから、その各過程を分析し再確認すること

ニ 合理的な解釈は常に類推による非合理なものを持ち、エラーを含むことを自覚すること

ホ 自分の推論を相対化していては、合理的に解釈ができないことを認識して判断すること


……………………………

 

(解説・解答)

問8(空欄補充問題)

 この設問は、実質的には、「趣旨合致問題」と言えます。

 空欄直後の「肝腎」は「重要」という意味です。

 この設問は、「緊急な状況下で、どのような判断をするべきか」ということが問われています。

 筆者の見解に従えば、このような状況下では、各「判断エラー」に共通する心理、つまり、「認知的節約の原理」、「認知的保守性の原理」、「主観的確証の原理」、「偶然性を拒否したい心理」を回避することが重要となります。

 特に、「偶然性を拒否したい心理」、【12】脱落後半部の「自分の体験を絶対化して信じ込む」こと、「他人の意見や忠告を受け入れなくなってしまう」こと、を回避することが必要でしょう。

 従って、イ(→「認知過程には誤りが多いことを自覚して、自分の推論を絶対化しないこと」)が正解になります。

 

 空欄直後の一文(→「それは疑似科学に騙されていないか自らを点検することにも通じるからだ」)イの根拠になります。

 

 ハも候補になりますが、空欄直後の一文との論理的整合性に難があるので、正解とは、なりません。

 

(解答) イ

 

ーーーーーーーー

 

【出典】

池内了『疑似科学入門』〈第1章 科学の時代の非合理主義《3 超常現象の心理学》〉の一節

 

(3)要約

 

人間は一連の認知行為の中で各過程のエラーが積み重なり強め合って、知らぬ間に判断エラーをしている。判断エラーには「プラスのフィードバック」により信念が強化されるケースと、少数のサンプルを平均と誤認するケースがある。それらに共通する心理として、「認知的節約の原理」、「認知的保守性の原理」、「主観的確証の原理」、「確固とした因果関係として説明したい心理」がある。重要なことは、認知過程には誤りが多いことを自覚して、自分の推論を絶対化しないことである。

 

(4)池内了氏の紹介 

 

 池内 了(いけうち さとる、1944年12月14日)

 兵庫県姫路市生まれ。

 天文学者、宇宙物理学者。総合研究大学院大学名誉教授、名古屋大学名誉教授。理学博士。兵庫県姫路市出身。


 研究テーマは、宇宙の進化、銀河の形成と進化、星間物質の大局構造など。現在は、科学・技術・社会論に傾注。新しい博物学を提唱。科学エッセイや科学時事を新聞や雑誌に執筆している。

 世界平和アピール七人委員会委員、軍学共同反対連絡会共同代表。

  『お父さんが話してくれた宇宙の歴史』(岩波書店)で、第13回(1993年度)日本科学読物賞、産経児童出版文化賞(JR賞)を受賞。

  『科学の考え方・学び方』(岩波ジュニア新書)で、第13回(1997年度)講談社出版文化賞(科学部門)、産経児童出版文化賞(推薦)を受賞。

    2000年からの一連の著作物に対して、関科学技術振興財団より第6回(2008年度)パピルス賞を受賞。

 

【著書】

『宇宙のかたちをさぐる』(岩波ジュニア新書・1988年)

『お父さんが話してくれた宇宙の歴史』(1~4)(岩波書店・ 1992年)

『科学の考え方・学び方』(岩波ジュニア新書・1996年)

『物理学と神』(集英社新書・2002年)

『疑似科学入門』(岩波新書・2008年)

『時間とは何か』(講談社・2008年)

『ノーベル賞で語る現代物理学』(新書館・2008年)

『娘と話す 宇宙ってなに?』(現代企画室・2009年)

『パラドックスの悪魔』(講談社・2010年)

『科学と人間の不協和音』(角川oneテーマ21・2012年)

『生きのびるための科学』(晶文社・2012年)

『知識ゼロからの科学史入門』(幻冬舎・2012年)

『科学の限界』(ちくま新書・2012年)

『現代科学の歩きかた』(河出書房新社・2013年)

『宇宙論と神』(集英社新書・2014年)

『科学・技術と現代社会』(上・下)(みすず書房・2014年)

『宇宙入門 138億年を読む』(角川ソフィア文庫・2014年) 

『科学のこれまで、科学のこれから』(岩波ブックレット・2014年)

『科学は、どこまで進化しているか』(祥伝社新書・2015年)

『科学者と戦争』(岩波書店・2016年)

『科学者と軍事研究』(岩波新書・2017年)

 

以下の2冊も、入試頻出出典です。↓

宇宙論と神 (集英社新書)

宇宙論と神 (集英社新書)

 

 

科学者と戦争 (岩波新書)

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 ーーーーーーーー

 

今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

ご期待ください。

 

    

 

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疑似科学入門 (岩波新書)

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科学者と軍事研究 (岩波新書)

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

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5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

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2008センター国語第1問(現代文・評論)解説/奥・日本文化論

(1)はじめに

 

 2008センター試験国語第1問は、内容的に、やや難解だったという意見があります。

 「奥」という語の多義性、日本人独自の空間感覚が、近代化・欧米化した現代日本人には、分かりにくい部分があったかもしれません。
 対策としては、自分の価値観に固執しないで、「筆者の論の流れ」に素直に乗っていくことです。これが、熟読、理解のポイントなのです。

 

 世の中には、「主体的読解」という奇妙な、受け狙いのスローガンが蔓延しています。が、理解は自分の脳でするのですから、この点では、当然のことを言っているだけです。
 問題は、このスローガンにより、自分の価値観を前面に出して読解してしまうことです。これは、避けるべきでしょう。有害無益でしか、ありません。

 

 また、今回の問題は、引用文が、本文理解のポイントになっています。そのことも、分かりにくさの原因になっているのでしょう。
 引用文を軽視しないようにしてください。

 

 そして、問題文本文を読む前に、設問をざっと見ることが大切です。その上で、「設問の指定」に素直に従って丁寧に熟読していけば、本問は、満点を取ることが充分に可能です。

 

 なお、今回の記事の項目は以下の通りです。

(2)2008センター試験国語第1問・「住居空間の心身論 『奥』の日本文化」狩野敏次/解説/奥の思想・日本文化論

(3)補充説明ー「奥」の「多義的な意味」について

(4)狩野敏次氏の紹介

(5)当ブログにおける「センター試験国語」関連記事の紹介

(6)当ブログにおける「日本文化論」関連記事の紹介

 

 

闇のコスモロジー―魂と肉体と死生観 (生活文化史選書)

 

(2)2008センター試験国語第1問・「住居空間の心身論 『奥』の日本文化」狩野敏次/解説/奥の思想・日本文化論

 

(問題文本文)(概要です)

(【1】・【2】・【3】・・・・は当ブログで付記した段落番号です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です) 

 

【1】私達は昼と夜を全く別の空間として体験する。特に夜の闇の中にいると、空間の中に闇が溶けているのではなく、逆に闇そのものが空間を形成しているのではないかと思えてくる。闇と空間は一体となって私達に働きかける。(注1)ミンコフスキーは、夜の闇を昼の「明るい空間」に対立させた上で、その積極的な価値に注目する。

【2】・・・・夜は死せる何ものかでもない。ただそれはそれそれに固有の生命をもっている。夜に於(おい)ても、私は梟(ふくろう)の鳴き声や仲間の呼び声を聞いたり、遥か遠くに微(かす)かな光が尾をひくのを認めたりすることがある。しかし、これら全ての印象は、明るい空間が形成するのとは全然異なった基盤の上に、繰り広げられるであろう。この基盤は、生ける自我と一種特別な関係にあり、明るい空間の場合とは全く異なった仕方で、自我に与えられるであろう。

【3】明るい空間の中では、私達は視覚によってものを捉えることができる。私達とものの間、私達と空間の間を距離が隔てている。距離は物差(ものさし)で測定できる量的なもので、この距離を媒介にして、私達は空間と間接的な関係を結ぶ。私達と空間の間を「距離」が隔てているため、空間が私達に直接触れることはない。

【4】一方、A闇は「明るい空間」とは全く別の方法で私達に働きかける。明るい空間の中では視覚が優先し、その結果、他の身体感覚が抑制される。ところが闇の中では、視覚にかわって、明るい空間の中で抑制されていた身体感覚がよびさまされ、その身体感覚による空間把握が活発化する。私達の身体は空間に直接触れ合い、空間が私達の身体に浸透するように感じられる。空間と私達はひとつに溶けあう。それは「物質的」で、「手触り」のあるものだ。明るい空間はよそよそしいが、暗い空間はなれなれしい。恋人達の愛の囁きは、明るい空間よりも暗い空間の中でこそふさわしい。

【5】闇の中では、私達と空間はある共通の雰囲気に参与している。私達を支配するのは、ミンコフスキーが指摘するように、あらゆる方向から私達を包みこむ「深さ」の次元である。それは気配に満ち、神秘性を帯びている。


ーーーーーーーー
 
(設問)

問1(省略)

 

問2 傍線部A「闇は『明るい空間』とはまったく別の方法で私たちにはたらきかける」とあるが、そのはたらきかけは私たちにどのような状況をもたらすか。その説明として最も適当なものを次の中から一つ選べ。

① 視覚的な距離によってへだてられていた私たちの身体と空間が親密な関係になり、ある共通の雰囲気にともに参与される。

② 物差で測定できる量的な距離で空間を視覚化する能力が奪われ、私たちの身体全体に浸透する共感覚的な体験も抑制させられる。

③ 距離を媒介として結ばれていた私たちの身体と空間との関係が変容し、もっぱら視覚的な効果によって私たちを包み込む深さを認識させられる。

④ 視覚ではなく身体感覚で距離がとらえられ、その結果として、空間と間接的な関係を結ぶ私たちの感覚が活性化させられる。

⑤ 視覚の持つ距離の感覚がいっそう鋭敏になり、私たちの身体と空間とが直接触れ合い、ひとつに溶け合うように感じさせられる。


……………………………

 

(解説・解答)

問2(傍線部説明問題)

 傍線部直後に、傍線部の説明があります。

「明るい空間」=視覚が優先し、その結果、他の身体感覚が抑制される、

「闇のなか」=視覚以外の身体感覚がよびさまされ、その身体感覚による空間把握が活発化する、

という対比が明確です。

 

 「その(闇の)はたらきかけは私たちにどのような状況をもたらすか」については、【4】・【5】段落に記述されています。

【4】段落「闇の中では、視覚にかわって、明るい空間の中で抑制されていた身体感覚がよびさまされ、その身体感覚による空間把握が活発化する。私達の身体は空間に直接触れ合い、空間が私達の身体に浸透するように感じられる。空間と私達はひとつに溶けあう。明るい空間はよそよそしいが、暗い空間はなれなれしい。」、

【5】段落「闇の中では、私達と空間はある共通の雰囲気に参与している。

より、①(→「視覚的な距離によってへだてられていた私たちの身体と空間が親密な関係になり、ある共通の雰囲気にともに参与される」)が正解になります。


 この設問は、入試頻出論点である「身体論」の典型的な問題です。

 よく理解するように、してください。

 下の記事も参照してください。

 

gensairyu.hatenablog.com

 

② 「物差で測定できる量的な距離で空間を視覚化する能力が奪われ」が、誤りです。

③ 前半はよいが、後半が誤りです。「視覚的な効果」は「明るい空間」の話です。

④ 「その結果として、空間と間接的な関係を結ぶ私たちの感覚が活性化させられる」が誤りです。

【4】段落の「私達の身体は空間に直接触れ合い、空間が私達の身体に浸透するように感じられる。空間と私達はひとつに溶けあう。」に反しています。

⑤ 「視覚の持つ距離の感覚がいっそう鋭敏になり」が誤りです。

 

(解答) ①

 

 ーーーーーーーー

 

(問題文本文)(概要です)

 

【6】「深さ」は私達の前にあるのではない。私達の周りにあって、私達を包みこむ、しかも私達の五感全体を貫き、身体全体に浸透する共感覚的な体験である。

【7】近代の空間が失ってきたのは、実は深さの次元である。近代建築がめざしてきたのは明るい空間の実現であった。(注2)ピロティ、連続窓、ガラスの壁、陸屋根は、近代建築が明るい空間を実現するために開発した装置である。人工照明の発達がそれに拍車をかける。明るい空間が実現するにつれ、B視覚を中心にした身体感覚の制度化が進んだ。視覚はものと空間を対象化する。空間は測定可能な量に還元され、空間を支配するのは距離であり、広がりであると考えられるようになった。それと同時に、互いに異なる意味や価値を帯びた「場所性」が空間から排除され、空間のあらゆる場所は人工的に均質化されることになった。こうして、場所における違いを持たない(注3)ユークリッド的な均質空間ができあがる。

【8】深さは、空間的には水平方向における深さを表している。幅に対する奥行(おくゆき)である。しかし、均質化された近代の空間にはこの奥行が存在しない。なぜなら、均質空間はどの場所も無性格で取り換え可能だから、奥行は横から見られた幅であり、奥行と幅は相対化距離に還元されてしまうからだ。均質空間では、幅も奥行も「距離」という次元に置き換えられる。従って、そこにあるのは空間の広がりだけであり、深さがない。

【9】ミンコフスキーが深さについて語っているのは、専ら空間的な意味においてである。一般に西洋では、深さは水平方向における深さであり、純粋に空間的な意味しかもっていないようである。それに対して、わが国では深さは水平方向における深さであると同時に、時間的な長さをも意味する。深さは空間的であるとともに時間的な意味をもつ。それを端的に表した言葉が「奥」である。奥は日常的にもよく使われる言葉だ。


ーーーーーーーー
 
(設問)

問3 傍線部B「視覚を中心にした身体感覚の制度化がすすんだ」とあるが、それはどういうことか。その説明として最も適当なものを、次の中から一つ選べ。

① 身体とは一線を画していた視覚が、身体感覚の中に吸収されるようになってきた、ということ。

② 身体感覚相互の優劣関係が、視覚を軸にするかたちで統御されてきた、ということ。

③ 視覚以外の身体感覚が、人為的な力によって退化を余儀なくされてきた、ということ。

④ 五感をつらぬく共感覚を、視覚だけが独占するようになってきた、ということ。

⑤ 視覚の特権性や優位性を人びとが自発的に享受するようになってきた、ということ。


……………………………

 

(解説・解答)

問3(傍線部説明問題)

 傍線部B「視覚を中心にした身体感覚の制度化がすすんだ」の言い換えとしての、

【7】段落「明るい空間が実現するにつれ、B視覚を中心にした身体感覚の制度化が進んだ。(→「視覚中心主義」と言われることも、あります)視覚はものと空間を対象化する。空間は測定可能な量に還元され、空間を支配するのは距離であり、広がりであると考えられるようになった。それと同時に、互いに異なる意味や価値を帯びた「場所性」が空間から排除され、空間のあらゆる場所は人工的に均質化されることになった。こうして、場所における違いを持たない(注3)ユークリッド的な均質空間ができあがる。」、

【9】段落「一般に西洋では、深さは水平方向における深さであり、純粋に空間的な意味しかもっていないようである。」より、

(→「身体感覚相互の優劣関係が、視覚を軸にするかたちで統御されてきた、ということ」)が正解になります。


 ところで、ここに言う「制度」とは、「広義の意味の制度」です。

 「制度」は、国家・団体等などを統治・運営するために定められた「決まり」だけではなく、「個人の思考から独立している、規範的妥当性・社会的実在として発生したもの」という意味でも、使用されています。

 

 なお、【7】段落は、「近代批判」の視点が含まれていることにも着目してください。


① 「身体とは一線を画していた視覚」の部分が、意味不明で、誤りです。

③ このような記述は本文になく、誤りです。

④ 「視覚だけが独占する」という記述は本文になく、誤りです。

⑤ 「人びとが自発的に享受するようになってきた」という記述は本文になく、誤りです。

 

(解答) ②

 

ーーーーーーーー
 

(問題文本文)(概要です)

 

【10】たとえば、来客を家の中に案内する際、よく「奥へどうぞ」などという。具体的に座敷とか応接間といわずに「奥」という。この場合の「奥」とは一体何を指しているのだろうか。それが具体的な部屋を指しているのでないことは明らかである。「座敷へどうぞ」「応接間へどうぞ」といわれれば、部屋のイメージを頭に思い描くこともできる。だが奥といわれると、少しおおげさにいえば、一体どこへつれて行かれるのだろうという一抹の不安が心をよぎる。奥は漠然として、つかみどころがない。奥は具体的な対象物を指す言葉ではなく、漠然とある何ものかを暗示する言葉である。このあたりに、日本語に固有な奥という言葉の深い意味が隠されているように思われる。試みに(注4)辞書を引いてみると、奥には次のような意味がある。

【11】「外(と)」「端(はし)」「口(くち)」の対。オキ(沖)と同根。空間的には、入口から深く入った所で、人に見せず大事にする所をいうのが原義。そこに届くには多くの時間が経過するので、時間の意に転ずると、晩(おそ)いこと。また、最後・行く先・将来の意。入口から深く入った所。最も深くて人のゆかない、神秘的な所。末尾。〈「道の奥」の意で〉奥州。みちのく。奥まった部屋。心の底。芸の秘奥。貴人の妻の居室。貴人の妻。奥方。夫人。晩(おそ)いこと。また、最後。将来。行く先。

【12】要するに、奥は空間的にも時間的にも到達しがたい最終的な場所、時間を指している。それだけではない。奥義、奥伝という言葉があるように、奥には空間的、時間的な意味の他に、深遠ではかり難いという心理的な意味もある。C 奥は空間的、時間的、心理的な様々な意味を含みながら広く日本の文化を支えている。

【13】奥を具体的に体験できる場所に日本の古い神社がある。神社の境内は鎮守の森とよばれる深い森に包まれ、その森を分け入るように長い参道が続いている。参道は社殿に向かってまっすぐにのびているのではない。右に左に折れ曲がり、つま先あがりの坂道になったり険しい石段になったり、実に変化に富んでいる。参道の両脇には鳥居や献燈(けんとう)がいくつも並び、うっそうとした木立や苔(こけ)むした庭石などとともに巧みに配されている。そして(注5)手水舎(てみずや)、回廊、拝殿、玉垣、正殿へと続くが、神社の中心である正殿には仏教寺院のように偶像が安置されているわけではない。せいぜい神の(注6)依代(よりしろ)としての鏡があるくらいだ。仏教寺院の中心は仏像とそれが安置してある本堂だが、神社にはそれに相当するものがない。(注7)上田篤(あつし)氏が指摘するように、神社の中心はむしろ参道である。見通しのきかない曲がりくねった参道を一歩一歩踏みしめながら歩いて行くと、私達の精神は次第に高揚し、聖なるものに近づいて行くような感じを抱く。その時、私達は奥を感じる。奥は最終的な建物ではなく、そこへ至るまでのプロセスを造形化したものだといえる。

 

ーーーーーーーー
 
(設問)

問4 傍線部C「奥は空間的、時間的、心理的なさまざまな意味を含みながらひろく日本の文化を支えている」とあるが、その「奥」の例として、筆者は神社の参道を挙げている。神社の参道における体験のどのような点に筆者は注目しているか。その説明として最も適当なものを、次の中から一つ選べ。

① 神社の参道では、人は神の依代である鏡を安置してある正殿にたどりつき、そこにいたるまでの神社独特の距離の長さを実感できる点。

② 神社の参道では、人は信仰の対象である鎮守の森に分け入っていき、信仰を求める心が優しく包み込まれていることに気づかされる点。

③ 神社の参道では、人は見通しのきかない曲がりくねった道を正殿に向かって時間をかけて進み、聖なるものに近づく高揚感を味わうことができる点。

④ 神社の参道では、人は献燈や庭石を配した木立の中に続く石段をのぼり、自然と人間の精神とが調和した環境に身を置く充実感をいだくことができる点。

⑤ 神社の参道では、人は最終的な建物である正殿をめざしてひたすら歩き、正殿の中の鏡に向き合うことでそれまでのプロセスを再認識することができる点。


……………………………

 

(解説・解答)
問4(傍線部説明問題)

【13】段落「神社の中心はむしろ参道である。見通しのきかない曲がりくねった参道を一歩一歩踏みしめながら歩いて行くと、私達の精神は次第に高揚し、聖なるものに近づいて行くような感じを抱く 。その時、私達は奥を感じる。は最終的な建物ではなく、そこへ至るまでのプロセスを造形化したものだといえる。」より、

(→「神社の参道では、人は見通しのきかない曲がりくねった道を正殿に向かって時間をかけて進み、聖なるものに近づく高揚感を味わうことができる点」)が正解です。

 

① 「そこにいたるまでの神社独特の距離の長さを実感できる点」は、ポイントでは、ありません。

② 「信仰を求める心が優しく包み込まれていることに気づかされる点」が、本文と一致していません。

④ 「自然と人間の精神とが調和した環境に身を置く充実感をいだくことができる点」が、本文と一致していません。

⑤ 「正殿の中の鏡に向き合うことでそれまでのプロセスを再認識することができる点」は、本文にこのような記述はありません。

 

 本問では、前半で「明るい空間」と「闇」との対比が論点であり、後半では、「闇」に関連する「奥」が論点になっています。

 ここで注目するべきは、「距離」・「奥」の意味内容です。

 前半の「距離」とは、「空間的」なものです。

 他方、後半の「奥」は、「空間的な距離」とは区別された、「心理的な距離感覚」・「時間感覚」をも意味しています。


(解答) ③


ーーーーーーーー
 

(問題文本文)(概要です)


【14】奥について最初のまとまった論稿を発表したのは(注8)槇(まき)文彦氏である。槇氏は奥の特性を次のように説明する。

【15】奥性は最後に到達した極点として、そのものにクライマックスはない場合が多い。そこへ辿りつくプロセスにドラマと儀式性を求める。つまり高さではなく水平的な深さの演出だからである。多くの寺社に至る道が曲折し、僅(わず)かな高低差とか、樹木の存在が、見え隠れの論理に従って利用される。それは時間という(注9)次数を含めた空間体験の構築である。

【16】奥は時間的な要素を含む概念である。その点、「間」との類似性が考えられて興味深い。奥は純粋に空間的な意味での奥行ではなく、目的へ向かうプロセスの演出によって私達の心の中に生じる心理的な距離感覚であり、時間感覚である。人間の身体感覚に深く関わる概念だといえる。また槇氏は、奥は「見る人、作る人の心の中での原点」であり、「見えざる中心」だという。先程の「奥へどうぞ」という言葉には、案内する側とされる側の両者の心の中の原点にむかって行くというニュアンスがある。

D案内された瞬間から、既に奥の空間体験が始まっているのである。奥は最終的に到達すべき建物や部屋が目的ではなく、そこへ至るプロセスに儀式と演出を求めるからだ。

(狩野敏次「住居空間の心身論──『奥』の日本文化」による。ただし、本文の一部を改変した)


(注1)ミンコフスキー──フランスで活躍した精神科医・哲学者(1885~1972)。引用は『生きられる時間』による。

(注2)ピロティ、連続窓、ガラスの壁、陸屋根──ピロティは、二階以上を部屋とし、一階を柱だけにした建物の一階部分。連続窓・ガラスの壁は、広範な視野を可能にした近代建築技法。陸屋根は、勾配(こうばい)が少なく、ほとんど水平な屋根。

(注3)ユークリッド──紀元前300年頃のギリシアの数学者。それまでの幾何学を集大成した。

(注4)辞書──ここでは『岩波古語辞典』を指す。

(注5)手水舎、回廊、拝殿、玉垣、正殿──手水舎は、神社で参拝者が手を洗い、口をすすぐための水盤を置く建物。ちょうずや、とも読む。回廊、拝殿、玉垣、正殿は、いずれも神社を構成する施設。

(注6)依代──神を祭る際、神霊の代わりとして据えたもの。

(注7)上田篤──建築家・建築学者。指摘は『鎮守の森』による。

(注8)槇文彦──建築家・建築学者。引用は『見えがくれする都市』による。

(注9)次数──文字因数の数(Χ2乗なら2、Χ3乗なら3)を指す数学用語。ここでは複雑さの度合いを示す。

 

 ーーーーーーーー
 
(設問)

問5 傍線部D「案内された瞬間から、すでに奥の空間体験がはじまっている」とあるが、それはどういうことか。その説明として最も適当なものを次の(1)~(5)のうちから一つ選べ。

① 「奥へどうぞ」と言われたときから、空間的にも時間的にも到達しがたい「奥」を、到達点そのものではなく、そこに至る過程において心理的な距離や時間として感じること。

② 「奥へどうぞ」と言われたときから、空間的な意味をもつ「奥」を、そこにいたる測定可能な距離としてだけでなく、明確に限定された時間としても感じること。

③ 「奥へどうぞ」と言われたときから、深遠ではかりがたい「奥」を、数量に還元できる対象とすることで、無性格で取替え可能な距離や時間として感じること。

④ 「奥へどうぞ」と言われたときから、不安にさせられる「奥」を、案内する側とされる側が同じ対象物をめざして一体感をもつことで、親密な距離や時間として感じること。

⑤ 「奥へどうぞ」と言われたときから、闇に包まれて気配にみちている「奥」を、神秘的な儀式が行なわれている空間とすることで、人知を超えた心理的な距離や時間として感じること。

 

……………………………

 

(解説・解答)

問5(傍線部説明問題)

  【16】【最終段落】を熟読してください。

「  奥は時間的な要素を含む概念である。奥は純粋に空間的な意味での奥行ではなく、目的へ向かうプロセスの演出によって私達の心の中に生じる心理的な距離感覚であり、時間感覚である。人間の身体感覚に深く関わる概念だといえる。先程の「奥へどうぞ」という言葉には、案内する側とされる側の両者の心の中の原点にむかって行くというニュアンスがある。D 案内された瞬間から、既に奥の空間体験が始まっているのである。は最終的に到達すべき建物や部屋が目的ではなく、そこへ至るプロセスに儀式と演出を求めるからだ。」


 傍線部D 「案内された瞬間から、すでに奥の空間体験がはじまっている」は、直前の「『奥へどうぞ』という言葉には、案内する側とされる側の両者の心の中の原点にむかって行くというニュアンスがある」の言い換えです。

 

 同様の内容は、【16】【最終段落】の前半部分

「奥は時間的な要素を含む概念である」

「奥は、目的へ向かうプロセスの演出によって私達の心の中に生じる心理的な距離感覚であり、時間感覚」

でも、述べられています。

 このことを説明している①(→「奥へどうぞ」と言われたときから、空間的にも時間的にも到達しがたい「奥」を、到達点そのものではなく、そこに至る過程において心理的な距離や時間として感じること。)が正解です。


② 「そこにいたる測定可能な距離としてだけでなく、明確に限定された時間としても感じること」が、本文にこのような記述がなく、誤りです。

③ 「『奥』を、数量に還元できる対象とすること」が、本文にこのような記述がなく、誤りです。

④ 「案内する側とされる側が同じ対象物をめざして一体感をもつこと」が、本文にこのような記述がなく、誤りです。

⑤ 「『奥』を、神秘的な儀式が行なわれている空間とすること」が、本文にこのような記述がなく、誤りです。

 

(解答) ①


ーーーーーーーー
 
(設問)

問6 この文章では論を進めるうえで、具体的な事例を挙げたり、他の文献を取り上げたりしている。筆者がそのような論の進め方をする意図の説明として最も適当なものを、次のA群・B群の中から一つ選べ。

 

A群

① ピロティ、連続窓等の例は、空間を量的に把握することによって奥行きという存在を消してきた近代建築の価値観の妥当性を確認するために用いられている。

② ピロティ、連続窓等の例は、人工照明の発達によってひろがりのある空間の実現を目指すようになってきた近代建築の技術的進歩を評価するために用いられている。

③ ピロティ、連続窓等の例は、近代建築が闇の追放によってもたらした空間の均質化が内包する問題点を引き出すために用いられている。

④ ピロティ、連続窓等の例は、近代建築が明るい空間をめざすことによって深さという次元を失ってしまった誤りの重大さを証明するために用いられた。

 

B群

① ミンコフスキーの文章を取り上げたのは、近代における西洋と伝統的な日本とのあいだの、空間のとらえ方の違いを明確にするためである。

② 奥の意味についての辞書の説明を取り上げたのは、日本語に固有な奥の意味が、辞書などでは表しきれないことを証明するためである。

③ 上田篤の指摘を取り上げたのは、神社の参道に関する考えには、共感しつつ、奥については対立する見解をもつことを強調するためである。

④ 槇文彦の文章を取り上げたのは、奥についての先駆的な論として紹介し解説を加えることによって、自説の説得力を増すためである。


……………………………

 

(解説・解答)
問6(全体の構成を問う問題)

【A群】

 ピロティ等の例を含む【7】段落の冒頭は、「近代の空間が失ってきたのは、実は深さの次元である」で、最終部分は「それと同時に、互いに異なる意味や価値を帯びた『場所性』が空間から排除され、空間のあらゆる場所は人工的に均質化されることになった。こうして、場所における違いをもたないユークリッド的な均質空間ができあがる」です。

 これを読むと、正解は③(→「ピロティ、連続窓等の例は、近代建築が闇の追放によってもたらした空間の均質化が内包する問題点を引き出すために用いられている」)であることがわかります。

① 「近代建築の価値観の妥当性を確認するために用いられている」が誤りです。

② 「近代建築の技術的進歩を評価するために用いられている」が誤りです。

④ 「近代建築が深さという次元を失ってしまった誤りの重大さを証明するために用いられている」が言いすぎで、誤りです。

 

(解答) ③


【B群】 

「槇(まき)文彦の論考」を根拠にしての傍線部Dの結論、という論の流れから、④が正解と分かります。

① 全くの誤りです。ミンコフスキーの文章(【2】段落)は「闇」の「積極的な価値」についてです。「西洋と日本の比較」とは無関係です。

② 「辞書の説明」により「奥」の思想は分かりやすくなっています。

③ 「奥については対立する見解をもつこと」が誤りです。「対立」はありません。


(解答) ④

 

ーーーーーーーー
 


【出典】

狩野敏次「住居空間の心身論ー『奥』の日本文化」〈空間の深さと共感覚〉〈奥の意味〉(『日本学』20号所載)の一節。

 

【要約】

闇の中では視覚以外の身体感覚がよびさまされ、その身体感覚による空間把握が活発化する。空間が私たちの身体に浸透するように感じられる。一方、近代の明るい空間は場所を人工的に均質化し、深さの次元を失っている。それに対して、わが国では深さは水平方向における深さであると同時に、時間的な長さをも意味する。それを端的に表す言葉が「奥」である。「奥」は、心理的な距離感覚であり、時間感覚である。この点で、「奥」は日本文化を支えている。

 


(3)補充説明ー「奥」の「多義的な意味」について

 

 「奥」のような「多義語」は、入試頻出論点です。

 「奥」の「多義的な意味」について、國學院デジタル・ミュージアムに分かりやすい説明があったので、以下に、その一部を引用します。

 

……………………………

 

(引用開始)

「奥」の意味

①奥まった所・果て、

②心の奥、

③将来・行く末。

 空間的には①・②の意味で、時間的には③の意味で用いられる。

 ③の例は万葉集の恋歌に多く見られ、恋情にかかわって、将来についての予測を内容とする例に「奥もかなしも」(14-3403)、「奥もいかにあらめ」(4-659)があり、同様に不安を内容とする例に「奥をなかねそ」(14-3410)、「奥をかぬかぬ」(14-3487)がある。

 「奥まく」(11-2439)、「奥まふ」(6-1024、1025、11-2728)も将来を期待する意とされるが、これらは心の奥に秘めての意とも解され、その場合は②の例となる。

 時間に関しては、遅咲きの植物種をさす「奥手(おくて)」(8-1548)の語も見られる。

(引用終了)

 

 ……………………………

 

 以上を、問題文本文の【11】段落と合わせて読むと、「奥」の多義性、「奥の思想」について、より理解が進むでしょう。

 特に、「奥の意味」の「②心の奥、③将来・行く末」に注目してください。

 

 

(4)狩野敏次氏の紹介

 

狩野敏次(かのう としつぐ)

1947年、東京に生まれる。芝浦工業大学工学部建築工学科卒業、法政大学大学院工学研究科修了。以後、栗田勇氏に師事。専攻は文化史、建築史。
特に具体的なモノ・場所・空間が喚起するイメージを手がかりに、日本人の他界観を考察している。
日本生活文化史学会、日本民俗建築学会会員、日本文藝家協会会員。

 

 

【著書】

『魂   その原形をめぐって』(雄山閣・生活文化史選書・2017)

『木と水のいきものがたり 語り継がれる生命の神秘』(雄山閣・生活文化史選書・2014)

『闇のコスモロジー 魂と肉体と死生観』(雄山閣・生活文化史選書・2011)

『昔話にみる山の霊力 なぜお爺さんは山へ柴刈りに行くのか 』(雄山閣・2007)

『かまど /ものと人間の文化史』 (法政大学出版局・2004)

 

魂 その原形をめぐって (生活文化史選書)

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木と水のいきものがたり―語り継がれる生命の神秘 (生活文化史選書)

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(6)当ブログにおける「日本文化論」関連記事の紹介

 

 日本文化論は、入試頻出論点です。

 

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ーーーーーーーー

 

今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後の予定です。

ご期待ください。

 

   

 

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 私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。

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予想問題/『白』原研哉/世界生成の原像/早大文学部過去問

(1)はじめに  

 

 原研哉氏の論考は、国語(現代文)・小論文における入試頻出著者です。

 最近では、東大、信州大、高知大、群馬大、早稲田大、明治大、立命館大、学習院大、法政大等の現代文・小論文で出題されています。

 今回解説する『白』は、東大、早稲田大、学習院大、成蹊大、学習院女子大、フェリス女学院大等で出題されています。

 

 芸術論、日本文化論は、入試頻出論点です。

 これからも、原研哉氏の論考は、要注意です。

 

 なお、今回の記事の項目は、以下の通りです。

(2)予想問題/『白』原研哉・2009早大文学部過去問・解説

(3)本問の補充説明

(4)原研哉氏の紹介

(5)当ブログにおける「芸術論」・「日本文化論」関連記事の紹介

(6)当ブログにおける「早大現代文」関連記事の紹介

 

 

白

 


(2)予想問題/『白』原研哉/2009早大文学部過去問・解説

 

(問題文本文)(概要です)

(【1】・【2】・【3】・・・・は当ブログで付記した段落番号です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です) 

 

【1】日本の伝統色における白は、古代に生まれた「あかし」「くらし」「しろし」「あをし」という四つの色の形容詞の一つ「しろし」に由来する。しろしとは「いとしろし=いちじるし」であり、顕在性を表現している。純度の高い光、水の雫にたたえられる清澄さのようなもの、あるいは、勢いよく落ちる滝のような鮮烈な輝きを持つものなど、いちじるしきものの様相は、変転する世界の中にくっきりと浮かび上がる。そういうものに意識の焦点を合わせ、感覚の琴線を震わせる心象が「しろし」である。それを言葉で捕まえ、長い歴史の中でひとつの美意識として立ち上がってきた概念が「白」である。

【2】伝統色とは単に物理的な光の属性を言うものではなく、A それ以外の多くの質や感受性を同時に運ぶものだが、この「白」という言葉に潜在する「いちじるし」という特性は白を読み解いていく上で大切な手がかりになる。

【3】一方で、白は『色の不在』を表現している点でひときわ特殊な色である。

【4】光の色を全て混ぜあわせると白になり、絵の具やインクの色を全て引いていくと白になる。白はあらゆる色の統合であると同時に無色である。〔 ① 〕である点で特別な色である。別な言い方をすれば、その分だけ、より強く物質性を喚起させる質感であり、間や余白のような時間性や空間性をはらむものであり、不在やゼロ度のような抽象的な概念をも含んでいる。ここで述べる白はb 流行色のように消費される色の属性でないことは言うまでもなく、c 色彩理論の対象となるものでもない。さらに言えば伝統色の系譜で語りつくせる性質でもない。そんな白に意識を通わせているうちに、ひとつの問いが浮かび上がってきた。白は単なる色ではなく、むしろd 表現の「コンセプト」として機能しているのではないかという問いである。

 

……………………………

 

(設問)

問1の(1)  空欄①に入る最適な語句を、それぞれ次の中から選べ。

イ    色に寄り添う色

ロ    色を生み出す色

ハ    色をのがれた色

ニ    色に歯向かう色

 

問2 傍線部A 「それ以外の多くの質や感受性を同時に運ぶもの」の説明として最適なものを次の中から選べ。

イ 人の心情にさまざまなイメージを喚起し、言葉を通して対象を絶妙に輪郭づけるもの。

ロ 混沌としたものを視覚的にまとめあげ、一つの秩序の中にしっかりと整えるもの。

ハ この世界にはさまざまに名づけられる事象があるということを、教えてくれるもの。

ニ 客観性と主観性の融合した、新しいものの性質を捉える手立てを創造するもの。

 

問3 傍線部a~dのうち、一つだけ他の三つと性格的に違うものがあるとすれば、それはどれか。最適なものを選べ。

 

……………………………

 

(解説・解答)

問1(1)(空欄補充問題)

「〔①〕である点で特別な色」は、直前段落の「白は『色の不在』を表現している点でひときわ特殊な色である。」「白は『色の不在』点特殊な色」と対応しています。

(解答) ハ

 

問2(傍線部説明問題)

    傍線部の「それ」は、直前の「物理的な光の属性」を指しています。

 傍線部の「それ以外の多くの質や感受性を同時に運ぶもの」の説明は、直前の段落の後半部分に、「いちじるしきものの様相は、変転する世界の中にくっきりと浮かび上がるそういうものに意識の焦点を合わせ、感覚の琴線を震わせる心象が『しろし』である。それを言葉で捕まえ、長い歴史の中でひとつの美意識として立ち上がってきた概念が『白』である。」と説明されています。

 従って、イ(→「人の心情にさまざまなイメージを喚起し、言葉を通して対象を絶妙に輪郭づけるもの」)が正解になります。

(解答) イ


問3(傍線部説明問題)

 dだけが「白」の説明になっています。

 a・b・cは、「白の対極のイメージ」の説明になっています。

(解答) d

 

ーーーーーーーー


(問題文本文)(概要です)

【5】世界は色彩の饗宴である。〔  甲  〕芽吹いた若葉がやがて紅葉し、ついには枯れ葉になるように、まさに「土に帰る」という比喩のごとく。しかし混沌は死ではない。そこには、めくるめく色彩のエネルギーが保存されて胎動し、その中から再び、まっさらな色が生まれてくるのである。


……………………………


(設問)

問4 次の4つの文を並べ替えて、空欄〔甲〕に入るようにした時、3番目に来るものは、どれか。最適なものを選べ。

イ めくるめく自然は色のせめぎあいであり、まるで印象派の画家のパレットのように騒がしい。

ロ しかし、無数の営み、無数のときめきは移ろう時間の中で混ぜあわされ、大きな時間の中では褐色へと流転する。

ハ しかし、ひとたび混ぜあわされると、生気に満ちていた個性の饗宴はたちどころにグレーの混沌へと変転するのである。

ニ 木々の瑞々(みずみず)しさや水面のきらめき、果実の凝縮感に満ちた色合いや、めらめらと燃え上がるたき火の色など、僕らはそのひとつひとつをいとしいと思う。

 

……………………………


(解説・解答)
問4(文章並べ替え問題・空欄補充問題)

 空欄直前の「世界は色彩の饗宴」から、ニの「木々の瑞々(みずみず)しさや水面のきらめき、果実の凝縮感に満ちた色合いや、めらめらと燃え上がるたき火の色など」が、導かれます。

 そして、ニの「木々の瑞々(みずみず)しさや水面のきらめき、果実の凝縮感に満ちた色合いや、めらめらと燃え上がるたき火の色など」と、ロの「無数の営み、無数のときめき」に着目すると、「ニ→ロ」のセットが導かれます。

 

 次に、空欄直後の「芽吹いた若葉がやがて紅葉し、ついには枯れ葉になるように、まさに「土に帰る」という比喩のごとく。しかし、混沌は死ではない。そこには、めくるめく色彩のエネルギーが保存されて胎動し、その中から再び、まっさらな色が生まれてくるのである。」から、

 最後に来るものは、ハ(→「しかし、ひとたび混ぜあわされると、生気に満ちていた個性の饗宴はたちどころにグレーの混沌へと変転するのである。」)と分かります。


 イの「めくるめく自然は色のせめぎあいであり、まるで印象派の画家のパレットのように騒がしい。」と、

 ハの「しかし、ひとたび混ぜあわされると、生気に満ちていた個性の饗宴はたちどころにグレーの混沌へと変転する」を比較すると、「イ→ハ」のセットが導かれます。

 以上より、「ニ→ロ→イ→ハ」が確定します。

(解答) イ

 

ーーーーーーーー

 

(問題文本文)(概要です)

【6】そんな生成と流転のイメージの中に白を置いてみる。白は混沌の中から立ち上がってくる最も鮮烈なイメージの特異点である。混じりあうという負の原理を逆行し、グレーに回帰しようとする退行の引力を突破して表出する。白は特異性の極まりとして発生するのだ。それはなんの混合でもなく、色ですらない。

【7】エントロピーという概念がある。熱力学の第2法則の中で語られるこの概念は、混沌の度合いを示している。熱力学の第2法則とは、あらゆるエネルギーは平均化されていく方向で保存されるという物理法則である。東京の気温、シベリアの気温、コンゴ盆地の気温は、生命のような地球の活動のおかげでそれぞれ異なるが、巨大なスケールの時間の中では、やがて同じ温度になっていく。地球の温度も、いつかは周辺宇宙と入り交じって宇宙の平均温度に無限に接近していく。エントロピーの増加とは、特異性を減じて平均の果てへと帰趨することを意味している。全ての色が混じりあってグレーになるように、エントロピーが増大する果てには巨大なエネルギーの混沌世界がある。ただ、この混沌は死でも無でもない。何ものでもなくなったエネルギーは、同時に何にでもなりうる保存された可能性そのものであり、その大いなる無限の混沌からエントロピーを減じながら突出してくるものこそ「生」であり「情報」ではないか。エントロピーの引力圈をふりきって飛翔することが生命である。混沌の無意味から屹立(きつりつ)してくるものが意味であり情報である。その視点において生命は情報と同義である。

【8】白は、混沌の中から発生する生命あるいは情報の原像である。白はあらゆる混沌から潔癖にのがれきろうとする負のエントロピーの極みである。生命は色として輝くが、白は色をものがれて純粋に混沌の対極に達しようとする志向そのものである。
生命は白をまといながら生まれてくるが、具象的な生命は地に足がついた瞬間から色を帯びている。卵から黄色いヒナという生命が現れるように。白は現実の世界で実現されるものではない。僕らは白を見、白に触れたように感じているかもしれないが、それは錯覚である。現実世界の白は必ず汚れている。それは〔 ② 〕としての存在でしかない。白は繊細で壊れやすい。それは誕生の瞬間ですら完璧な白ではなく、触れるとすぐに、そうとは感じられない程度に汚れている。しかし、そうであればこそ白は意識の中にくっきりと屹立する。


……………………………

 

(設問)

問1の(2) 空欄②に入る最適な語句を、それぞれ次の中から選べ。

イ    白が消失した証し

ロ    白になるのを回避した亜流 

ハ    白に引き戻す作用

ニ    白を目指した痕跡

 

……………………………

 
(解説・解答)

問1(2)(空欄補充問題)

 【8】段落の設問部分までの論理展開、つまり、

白はあらゆる混沌から潔癖にのがれきろうとする負のエントロピーの極みである」、

「生命は色として輝くが、白は色をものがれて純粋に混沌の対極に達しようとする志向そのものである」から、

ニ (→「白を目指した痕跡」)が正解と判断できます。

(解答) ニ


ーーーーーーーー


(問題文本文)(概要です)

【9】象形文字研究の第一人者、白川静博士によると、「白」という漢字は頭蓋骨の象形文字であるという。象形文字が発明された時代に人の心をとらえる白の印象は、野に放置され、風雨や陽光にさらされ漂白された頭蓋骨であったという。その忽然たる白骨の印象は痛いほど明確にイメージできる。砂漠を歩けば獣の骨が、海辺を歩けば貝殻が点々と砂の上に発見できたであろうが、これらは生の痕跡としての白の印象である。

【10】白は生命の周辺にある。骨は死に接した白であるが、生に接する「乳」や「卵」も白い。授乳は動物にとって重要な営みであり、親の生命を子に渡していくような行為である。この乳が動物も人間も共通して白い。その中には命を育む豊富な滋養が含まれているわけで、僕らが「乳白」と呼ぶ時の白には混濁した有機物のイメージがある。乳の味は「乳白」の味であり有機物の味である。乳首からしたたり落ちる生命の糧が白いということは実に興味深い。

【11】卵もその多くは白い。その白の中に現実の生命が宿り、それがあの世とこの世の境界としての皮膜である卵の殼を割って出てきた時には、もはや白ではなく動物の色をしている。生命としてこの世に誕生した動物は既にカオスに向かって歩み始めているということだろうか。

【12】白は大いなる混沌から突出してきた情報、すなわち〔 乙 〕のイメージの際にある。混沌は「地」、白は「図」である。地から図を生み出す営みが創造ではないか。混沌たるグレーから白が立ちあがってくるイマジネーションに、〔  ③  〕が重なって見えるのである。
(原研哉『白』)

 

ーーーーーーーー

 

(設問)

問1の(3) 空欄③に入る最適な語句を、それぞれ次の中から選べ。

イ    芸術存在の危機

ロ    世界生成の原像

ハ    物理的光への回帰

ニ    理想概念への超克

 

問5 空欄乙に入る最適な漢字二字の語を、本文中から抜き出して記せ。

 

問6 本文の論旨に合致しないもの二つある。それらを選べ。

イ 白の持つ多様な世界に眼を向けることは、この世界に潜む新しい意味合いに出合うことにつながるはずである。

ロ 白いと感じる感受性を磨くためには、全感覚を一気に発揮するより、伝統を学びつつ一つ一つの感覚を研ぎ澄ますのが必要である。

ハ 人が自然の輝きや移ろいに向き合った時に生れる心象が少しずつ堆積し色の名前になるのであり、白も同じなのである。

ニ 白はすべての色であると同時に無色でもあり、そうした特性の中に物理的色彩概念を超えた、人間の心と感情に直接触れ合う稀有な世界が生まれる。

ホ 個々の現象が輝きを持つのは、エントロピーが増大し、世界がすべて一つとなった宇宙の存在との対比で意味づけることが可能であるからである。

 

ーーーーーーーー

 

(解説・解答)

問1(3)(空欄補充問題)

 空欄直前の「混沌たるグレーから白が立ちあがってくるイマジネーション」が、さらに直前の二文「地から図を生み出す営みが創造ではないか」に対応しています。

 「地から図を生み出す営みが創造ではないか」における「創造」がヒントになります。 

 ロ(→「世界生成の原像」)が正解になります。

(解答) ロ


問5(空欄補充問題)

 直前の「すなわち」に注目してください。

 直前文の「白は大いなる混沌から突出してきた情報」が根拠になります。

 さらに説明を探すと、この根拠と【8】段落第1文「白は、混沌の中から発生する生命あるいは情報の原像である」が対応していることが、分かります。

(解答) 生命


問6(趣旨合致問題)

イ 【4】段落の「白はあらゆる色の統合であると同時に無色である。〔①=色をのがれた色〕である点で特別な色である。別な言い方をすれば、その分だけ、より強く物質性を喚起させる質感であり、間や余白のような時間性や空間性をはらむものであり、不在やゼロ度のような抽象的な概念をも含んでいる。」、

「そんな白に意識を通わせているうちに、ひとつの問いが浮かび上がってきた。白は単なる色ではなく、むしろ表現の「コンセプト(→当ブログによる「注」→「概念。全体を貫く基本的な発想」という意味)」として機能しているのではないかという問いである。」の部分が根拠になります。

 

 本文にない記述になっています。本文に合致していません。


 「白も同じ」の部分が誤りです。

  【3】段落「白は『色の不在』を表現している点でひときわ特殊な色である」、     

  【6】段落「白は混沌の中から立ち上がってくる最も鮮烈なイメージの特異点である。」で述べているように、

「白」は「特殊」で、「特異」です


 ニの前半は、【4】段落前半部分「光の色を全て混ぜあわせると白になり、絵の具やインクの色を全て引いていくと白になる。白はあらゆる色の統合であると同時に無色である。」に対応しています。

 ニの後半は、【1】段落第2文以下「しろしとは『いとしろし=いちじるし』であり、顕在性を表現している。純度の高い光、水の雫にたたえられる清澄さのようなもの、あるいは、勢いよく落ちる滝のような鮮烈な輝きを持つものなど、いちじるしきものの様相は、変転する世界の中にくっきりと浮かび上がる。そういうものに意識の焦点を合わせ、感覚の琴線を震わせる心象が『しろし』である。」に対応しています。

 

ホ  【7】段落の後半部分「全ての色が混じりあってグレーになるように、エントロピーが増大する果てには巨大なエネルギーの混沌世界がある。ただ、この混沌は死でも無でもない。何ものでもなくなったエネルギーは、同時に何にでもなりうる保存された可能性そのものであり、その大いなる無限の混沌からエントロピーを減じながら突出してくるものこそ『生』であり『情報』ではないか。エントロピーの引力圈をふりきって飛翔することが生命である。混沌の無意味から屹立(きつりつ)してくるものが意味であり情報である。」、

【1】段落の第3文「純度の高い光、水の雫にたたえられる清澄さのようなもの、あるいは、勢いよく落ちる滝のような鮮烈な輝きを持つものなど、いちじるしきものの様相は、変転する世界の中にくっきりと浮かび上がる。」

が根拠になります。 

(解答) ロ・ハ


ーーーーーーーー

 

【出典】

『白』原研や哉〈第1章 白の発見《いとしろし》《色をのがれる》《生命と情報の原像》〉の一節

 

【要約】

日本の伝統色における白は、「いとしろし」=「いちじるし」に由来して、顕在性を表現している。白は、特異性の極まりとして発生している。なんの混合でも、色でもない。白は、混沌の中から発生する生命あるいは情報の原像なのである。混沌たるグレーから白が立ち上がってくるイマジネーションに、世界生成の原像が重なって見える。

 

(3)本問の補充説明


 原研哉氏は本書の【まえがき】で、「白」という概念に、たどり着いた「きっかけ」について、以下のように述べています。

「  人と意思の疎通を行う時には、一方的に情報を投げかけるのではなく、むしろ相手のイメージを受け入れる方が有効である場合が多い。
 つまり、いかに多く説得したかではなく、いかに多く聞けたかが、コミュニケーションの質を左右する。
 だから、人々は、歴史の中では、時に意図的に空っぽの器のようなものを作って、コミュニケーションを図ってきた。
 当初は『空(うつ)』について書こうとしていた。しかし、書き進むうちに『白』にたどり着いた。『空』を掘り進むスコップの先に『白』という概念がこつんとあたったのである。」

 

 「意思の疎通」、「(相手の意見を)いかに多く聞けたかが、コミュニケーションの質を左右する」、「コミュニケーションの質」が、思考のスタートであったということは、本書を理解する上で重要なポイントでしょう。

 ここでは、「受け身的姿勢」の「再評価」・「見直し」の視点が強調されている点に注目してください。

 デザイナーである原氏の独自性が、感じられます。

 

 以下の原氏の見解は一見、難解ですが、私たちを立ち止ませる内容を含んでいる、と私は思います。

「  白があるのではない。白いと感じる感受性があるのだ。だから白を探してはいけない。白いと感じる感じ方を探るのだ。白という感受性を探ることによって、僕らは普通の白よりも、もう少し白い白に意識を通わせることができるようになる。そして、日本の文化の中に、驚くべき多様さで織り込まれている白に気付くことができる」(P2)


「  白という感受性を探ることによって、僕らは、日本の文化の中に、驚くべき多様さで織り込まれている白に気付くことができる」と原氏は述べています。

 ここで言う「白という感受性を探ること」は、どういうことか。

 このことを考えることが、そのまま、日本の文化、日本人、そして、自分自身を考えることに繋がることを意識してください。

 

 さらに、原氏は、「『白=空白』の意味」、「空白の無限の可能性」について、以下のように記述しています。

「  白は時に『空白』を意味する。色彩の不在としての白の概念は、そのまま不在性そのものの象徴へと発展する。しかし、この空白は、『無』や『エネルギーの不在』ではなく、むしろ未来に充実した中身が満たされるべき『機前の可能性』(→当ブログによる「注」→ここにいう「機」とは 「物事の起こるきっかけ」という意味)として示される場合が多く、そのような白の運用はコミュニケーションに強い力を生み出す。空っぽの器には何も入っていないが、これを無価値と見ず、何かが入る『予兆』と見立てる創造性がエンプティネスに力を与える。このような『空白』あるいは『エンプティネス』のコミュケーションにおける力と、白は強く結びついている。」(P38)


 「白」は時に「空白」を意味する。しかし、この空白は、未来に充実した中身が満たされるべき『機前の可能性』として示される場合が多く」、「何かが入る『予兆』」になるという、逆説的状況が、ここでは問題になるわけです。

 

 次に、本書における以下の説明は、「本問の本文の内容」を発展的に詳説したものと言えるでしょう。

「  未知化は白に通じている。白とは混沌に向かう力に逆行し、突出してくるイメージの特異点である。それは既知の混濁から身をよじり、鮮度のある情報の形としてくっきりと僕らの意識の中に立ち上がる。白とは、汚れのない認識である。いとしろしき様相の具現、情報の屹立した様を言う。いとしろしき様相はいとしろしき認識を呼び起こす。『分かる』とは『いとしろしき認識』そのものではないか。既知化し、惰性化することは、意識の屹立がおさえられ認識の泥沼に沈むことである。その泥沼から、まっさらの白い紙のような意識を取り出してくることが『分かる』ということである。僕らは世界に対して永久に無知である。そしてそれでいいのだ。世界のリアリティに無限のおののき続けられる感受性を創造力と呼ぶのだから。」(P76)

 

 原氏は、「白」を以下のように表現しています。

混沌に向かう力に逆行し突出してくるイメージの特異点、

鮮度のある情報の形、

汚れのない認識、

いとしろしき様相の具現、

情報の屹立した様。

 以上の指摘は、本問の理解を助けてくれるでしょう。


さらに、上記の原氏の記述は、重要な内容を主張しています。

「『分かる』とは『いとしろしき認識』そのものではないか」、

「その泥沼から、まっさらの白い紙のような意識を取り出してくることが『分かる』ということである」、

これらの論考は、「分かる」を「白」から分析した卓見だ、と私は思います。

 

白百 (単行本)

 

 

(4)原研哉氏の紹介

 

デザイナー。1958年生まれ。

「もの」のデザインと同様に「こと」のデザインを重視して活動中。

 2000年に「RE-DESIGN─日常の21世紀」という展覧会を制作し、何気ない日常の文脈の中にこそ驚くべきデザインの資源があることを提示した。

 2002年に無印良品のアドバイザリーボードのメンバーとなり、アートディレクションを開始する。長野オリンピックの開・閉会式プログラムや、 2005年愛知万博の公式ポスターを制作するなど日本の文化に深く根ざした仕事も多い。

 2007年、2009年にはパリ・ミラノ・東京で「TOKYO FIBER─SENSEWARE展」を、2008年から2009年にかけては「JAPAN CAR展」をパリとロンドンの科学博物館で開催するなど、産業の潜在力を展覧会を通して可視化し、広く世界に広げていく仕事に注力している。

 2011年には北京を皮切りに「DESIGNING DESIN 原研哉2011中国展」を巡回するなど、活動の幅をアジアへと拡大。

 著書「デザインのデザイン」や「白」はアジア各国語版をはじめ多言語に翻訳されている。

 

 日本デザインセンター代表取締役。武蔵野美術大学教授。日本デザインコミッティー理事長。日本グラフィックデザイナー協会副会長。原デザイン研究所。 

 


【著作】

『ポスターを盗んでください』(新潮社、1995)
『マカロニの穴のなぞ』(朝日新聞社、2001/のちに文庫) 『デザインのめざめ』(河出書房新社、2014)
『原研哉』(ギンザ・グラフィック・ギャラリー〈ggg Books〉、2002)
『デザインのデザイン』(岩波書店、2003)
『FILING─混沌のマネージメント』(宣伝会議、2005)『TOKYO FIBER'07 SENSEWARE』(朝日新聞社、2007)
『デザインのデザイン Special Edition』(岩波書店、2007)
『白』(中央公論新社、2008)
『ポスターを盗んでください+3』(平凡社、2009)
『日本のデザイン - 美意識がつくる未来』(岩波書店〈岩波新書〉、2011)
『デザインのめざめ』 (河出書房新社〈河出文庫〉2014)
『HOUSE VISION 2 CO-DIVIDUAL 分かれてつながる/離れてあつまる』 (美術出版社、2016)
『Ex-formation』(平凡社、2017)
『百合』 (中央公論新社、 2018)
『白・百合(2冊セット)』(中央公論新社 、2018)

  

(5)当ブログにおける「芸術論」・「日本文化論」関連記事の紹介

 

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(6)当ブログにおける「早大現代文」関連記事の紹介

 

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ーーーーーーーー

 

 今回の記事は、これで終わりです。

 次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

 ご期待ください。

 

   

 

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白

 

 

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デザインのデザイン

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

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5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

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 私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。

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「原発の経済効果 神話に安住している間に」小熊英二/入試予想問題

(1)はじめに

 

 入試国語(現代文)・小論文の頻出キーワード、重要キーワードである「自助努力」、「主体性」、「先入観」、「根拠なき神話」、「神話への逃避」、「思考停止状態」、「自己喪失」、「自己疎外」等を学ぶのに有用なハイレベルな論考(→「原発の経済効果 神話に安住している間に」小熊英二・2018年3月29日・朝日新聞・論壇時評)が最近発表されました。

 そこで、入試国語(現代文)・小論文対策として、今回の記事で紹介・解説します。

 しかも、この論考は流行論点である「地域振興」が論点です。


 小熊英二氏の論考は、最近、中央大学・国語(現代文)、上智大学(総合人間)公募推薦小論文、群馬大学(社会情報)後期小論文等で出題されています。

 特に、上智大学(総合人間)公募推薦小論文では、「論壇時評」からの出題です。

 従って、今回紹介する論考は、そのまま、来年以降の入試の出典になる可能性が高いです。

 熟読することを、オススメします。

 

 なお、今回の記事の項目は以下の通りです。

(2)予想問題・解説/「原発の経済効果 神話に安住している間に」(小熊英二・2018年3月29日 朝日新聞/論壇時評)

(3)当ブログによる解説

(4)「根拠なき神話への逃避」・「思考停止状態」についての小坂井敏晶氏の論考

(5)現代日本社会における「長期的思考の欠如」について/内山節氏の論考

(6)「根拠なき神話への逃避」・「受動的状態」から脱するための対策論

(7)小熊 英二氏の紹介

(8)当ブログにおける「思考停止状態」・「根拠なき神話への逃避」関連記事の紹介

 

首相官邸の前で<DVD付き>

 

(2)予想問題・解説/「原発の経済効果 神話に安住している間に」(小熊英二・2018年3月29日 朝日新聞/論壇時評)

  

(問題文本文)(概要です)

(【1】・【2】・【3】・・・・は当ブログで付記した段落番号です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です) 

 

【1】最近の沖縄を訪ねて感じるのは、沖縄のなかの地域格差である。

【2】人口の半数が集中する那覇周辺域は、外国人観光客がめだち、有効求人倍率も高い。県の観光客数は昨年にハワイを抜いた。米軍基地の返還跡地にできたショッピングセンターもにぎわっている。種々の問題もあるにせよ、基地返還の経済効果を実感できる状況だ。

【3】だが、米軍基地の建設が行われている名護市辺野古は違う。ここは那覇からバスで2時間ほどかかるが、東京都心から山梨県に行くような感覚だ。活気があるとはいえない集落に、新しく立派な公共施設が立つ。政府は県を通さず、交付金を直接に市や集落に交付する。

【4】この2月、この名護市で、自民党と公明党が支援した新市長が、基地反対の前市長を破って当選した。当選後にこの新市長は、リゾートホテルの誘致や漁港の整備、各種補助金などの「御支援」の要望書を政府に提出した

【5】基地を歓迎する人はいないが、地域振興のために「迷惑施設」(→当ブログによる「注」→「迷惑施設」とは、人々が施設の必要性は認めるが、自らの居住地域には建てないでほしいと考える施設です。騒音、大気汚染、水質汚染、射能汚染等が発生するという理由で反対されることが多い。主な具体例としては、学校(保育園・幼稚園を含む)、清掃工場、下水処理場、核施設(原子力発電所等)、軍事施設(軍事基地等)が挙げられます。)を受け入れる。これまでくり返されてきた図式だ。 

【6】だが、一つ疑問がある。こうした手法は本当に地域振興に役立つのか。基地ではないが、原発については調査がある。

【7】新潟日報の前田有樹らは、柏崎刈羽原発の経済効果を調査報道した。(→『崩れた原発「経済神話」 柏崎刈羽原発から再稼働を問う』(新潟日報社原発問題特別取材班・著 明石書店)→《内容説明》「安全神話」崩壊後、いまだ生き残る「経済神話」。原発が稼働すれば地元経済が潤う、と感じている人は少なくない。それが再稼働を容認する理由のひとつになっている。だが、原発は地域振興にほんとうに役に立つのか。再稼働問題に揺れる柏崎刈羽原発。地元紙・新潟日報が原発と地域経済の問題を多面的に検証・追及した労作。)それによると、原発が地域経済に貢献するというのは「神話」だったという。

【8】柏崎市の産業別市内総生産額、小売業販売額、民間従業者数などを分析すると、確かに原発の建設工事が行われていた1978年から97年に、それらの指標は伸びていた。だがその伸び方は、県内で柏崎市と規模が近い市とほぼ同等だった。

【9】つまり、柏崎市の指標が伸びていたのは、原発の誘致よりも、日本経済全体が上げ潮だった影響が大きかった。柏崎市長を3期務めた西川正純氏は、このデータをみて「原発がない他の市と同じ歩みになるなんて」と絶句したという。

【10】唯一、建設業だけは市内総生産額が顕著に伸びていたが、原発建設が終わるとその効果も消えた。建設終了後の柏崎市は、人口減少が他市より激しく、一時的に増えた交付金や税金で建てた施設の維持管理で、財政が厳しくなっている。

  (→まさに、「長期的視点の欠如」と言えます)

【11】にもかかわらず、柏崎商工会議所に属する100社を調査したところ、再稼働を願う回答が66社にのぼった。だが柏崎市には原発と無関係な業種が多く、原発停止で売り上げが1割以上減ったのは7社だけだった。再稼働でどの業種が活性化するのか尋ねたところ、「飲み屋」という回答が最多で、再稼働の経済効果を具体的に示せる企業は少なかった。

【12】なお東電幹部は、再稼働すれば原発作業員が減ると認めている。停止している方が、安全対策や維持管理の工事が多いためだ。実際に柏崎の作業員は、全基停止していた2015年度の方が、稼働していた06年度より2割以上多かった。原発が止まると作業員が減り、地域にお金が落ちないというのは誤解なのだ。

【13】なぜ、こうした根拠のない「神話」が流布したのか。この調査報道を行った前田は、これまでのメディアの報道姿勢を批判している。原発停止の影響を報じるとき、メディアは原発関連の仕事を受注する企業や繁華街の飲食店など、影響がありそうな会社を選んで取材しがちだった。これが、原発停止の影響を過大に語るコメントが多い背景だったのだ。(→「情報化社会」・「IT化社会」の「問題点」の指摘です)  

【14】「だが思うに、無根拠な「神話」が生まれた最大の要因はメディアではない。メディアは、すでに流布していたイメージに束縛され、先入観に沿って取材していただけだ。最大の要因は、事態の変化を直視できない心の弱さである。(→「溺れる者は藁をも掴む」でしょう)

【15】原発と経済に、実はさほど関係はなかった。ただ、日本経済が上げ潮だった時期と、原発が建設されていた時期が重なっていたため、経済成長のシンボルになったにすぎない。だが人間は、「あの星が出ていた時は町が栄えていた」ということを、「あの星が出れば町が栄える」と混同してしまいがちだ。本当の原因を直視して解決に努力するより、他の理由に責任転嫁した方が楽だからである。経済が停滞し、社会が変化しているとき、人は神話に逃避(→当ブログによる「注」→「現実逃避」です。「現実逃避」とは、現実に求められたり、何かしなくてはならない物事から意図的に注意や意識をそらすための行為や心理状態。困難な状況から目をそむけ、不安から逃れようとするメカニズム)しやすい。

【16】だが、それは、状況から目をそらし自ら努力する姿勢を奪ってしまう。冒頭に述べたように、沖縄県名護の新市長は補助金の要望書を政府に提出したが、政府の経済官僚はこう溜息(ためいき)をついた。

【17】「まずは自分たちで汗をかいてみる、自助努力(→「天は自ら助くる者を助く」という諺があります。神は自分自身で努力する人に手を差しのべる、ということです)でどこまでできるかやってみる。そんな当たり前の精神が欠けていると言わざるをえないです」

【18】こうした神話への逃避は他にも散見される。たとえば「大日本帝国憲法の時代は家族の絆が強かった」としても、「憲法を改正すれば家族の絆が強くなる」というのは幻想だ。それは変化に目を閉ざし、さらなる停滞を招くことになる。

【19】原発に限っても、世界の変化に対する日本の停滞は著しい。上田俊英が指摘するように、世界の風力発電設備容量は15年に原発を抜き、太陽光も原発に迫っている。発電コストも大幅に下がり、日本が原発輸出を試みている英国でも、風力の方が新型原発より4割近くも安い。

(→当ブログによる「注」→国際エネルギー機関(IEA)は2017年11月14日、太陽光発電が2040年までに多くの国や地域で最も低コストのエネルギー源となり、低炭素型電源の設備容量として最大になるとの見通しを発表しました。) 

中国など他国が再生可能エネルギーに大幅に投資を増やすなか、日本の遅れが目立つことはNHKも報道した。

【20】今月で福島第一原発事故から7年。その間に世界は変わった。各種の神話から脱し、問題に正面から向きあうときだ。

 

朝日新聞デジタル

朝日新聞デジタル

 

 

 

(3)当ブログによる解説

 

 確かに、「従順」が一般的に悪いというわけではありません。

 人間は社会的動物です。人間は群れを作り、その中で他の人と同化したがる習性があるようです。人と違うということは、ある意味で危険なので、避けらる傾向があります。そこで、従順な姿勢をとり、自主的に体制に順応しようとするのです。

 しかし、「従順」には、危険な側面があります。なぜなら、「思考停止状態」になるからです。

 

 この危険な側面については、佐藤優氏の論考(『君たちが知っておくべきこと』)が参考になります。

 

gensairyu.hatenablog.com

 

 以下に引用します。

 

(本書における佐藤氏の講義の概要)

「  人は、なぜ権威を信用してしまうのだろうか。

 ニクラス・ルーマン(→本書による注→ドイツの社会学者(1927ー98)。行為の意味づけやコミュニケーションを重視した社会システムを構想した。他の主著に『社会システム理論』)は『信頼ー社会的な複雑性の縮減メカニズム』という本の中で、このメカニズムを説明している。

 複雑なシステム、つまり複雑系の中でわれわれは生きている。この自分を取り巻く複雑な事柄を一つ一つ解明するために割(さ)く時間やエネルギーはない。でも、複雑性には、縮減するメカニズムがある。法律・マニュアルを作るというのは、その一つです。

 そして、人間が持つ、一番重要かつ効果的に複雑性を縮減するメカニズムは「信頼」だというのがルーマンの仮説です。信頼によって、相当程度、判断する時間と過程を省略できます。→一種の「思考の放棄」であり、「他者への依存」です)

 一方、ユルゲン・ハーバーマス(→本書による「注」→ドイツの社会学者、哲学者。社会における理性に基づくコミュニケーション、行為の重要性に着目した。他の主著に『公共性の構造転換』)も『晩期資本主義における正統化の諸問題』の中で、「順応のメカニズム」ということを言っています。

 世の中の複雑さを構成する一つ一つの要素を一から自分で情報を集め、理屈を調べ、解明していくと時間が足りなくなってしまう。もちろん、面倒くさくもある。だから、自分に納得できないことがあるとしても、「誰か」が発した「これはいいですね」「これは悪いですね」という意見をとりあえず信頼しておく。それが続くと「順応の気構え」が出てきて、何事にも順応してしまうのです。

(→当ブログによる「注」→「完全な依存状態」、言い換えれば、「権威にコントロールされている」状態です。これは、「マインド・コントロール」と言ってもよい状態です。さらに言えば、「自己喪失(アイデンティティ喪失)」状態・「自己疎外」現象とも言うべき、最悪な状態なのです。分かりやすく言うならば、「人間のロボット化」、「反知性主義の極致」です。)

 順応と信頼はコインの裏表です。一度信頼してしまうと「これ、おかしいんじゃないの?」と思っても、なかなかそこを突き詰めることができなくなってしまう。なぜかというと、信頼した人に裏切られたという意識を持つことによって、なんてつまらない人を信頼してしまったのかと、自分で自分が情けなくなるからです。」

 

(4)「根拠なき神話への逃避」・「思考停止状態」についての小坂井敏晶氏の論考

 

 

答えのない世界を生きる

 

 

 「根拠なき神話への逃避」・「思考停止状態」は、入試国語(現代文)・小論文における頻出論点なので、さらに説明します。

 「根拠なき神話への逃避」・「思考停止状態」については、入試頻出著者・小坂井敏晶氏の明晰な論考が、かなり参考になります。

 
「どんな種類の命題でもその正しさが確信される過程では必ずどこかで思考停止が起こり、それ以上には疑問をさしはさまない地点がある。科学の分野であれ、宗教の世界であれ、日常的常識においてであれ、それはかわらない。その地点の彼岸に対して我々は無条件に信じているのだ。そういう意味では合理的証明と宗教的信仰とを完全に区別することは難しい。「理解する」「確信する」ということの意味は、科学においても宗教においても、究極的な地点ではそれほど異なっていない。」(『民族という虚構』東京大学出版会)

 

 その上に、小坂井氏によれば、私たちの「日常的思考」には、「科学や哲学の知見」と異なり、それ自体に問題点があるようです。

 以下に、小坂井氏の見解を引用します。

我々の日常的思考は次の3つの点で科学や哲学の知見と異なる。

 まず第一に、専門家と違い、問題を検討するための十分な情報がない。したがって部分的な検討しかできず、様々な角度から考察せずに結論に至ってしまう。

第二に、我々は社会構造に組み込まれており、所属する社会階層・年齢・性別・出身文化背景・職業などに固有な情報網から知識を得る。したがって偏った情報を基に判断せざるをえない。

 第三に、他者とコミュニケーションを持ち、具体的状況にすぐさま反応しなければならない。したがって十分な考察を経ずに判断や行動が実施される。」(『民族という虚構』)

 

 以上に加えて、「日本人の思考」の「一般的傾向」にも、問題があると、小坂井氏は、以下のように主張しています。

日本は弱者に優しくとも、逸脱者や反抗者には生きにくい社会だ。美意識にせよ倫理観にせよ、良いものの基準が社会的に強く規定される。だから均質化しやすい。本来好ましいはずの向上心が仇になる。より良い生き方を目指す時点ですでに我々は誤った道を踏み出しているのではないか。」(小坂井敏晶『答えのない世界を生きる』祥伝社・2017)

 

 つまり、「主体的思考」、「主体的選択」というものには、どうしても本質的困難性が伴うようです。

 私たちは、このことに自覚的であるべきでしょう。

 

 この点は、「自由意志」、「自由」に関連する重大な問題です。

 このことについて、小坂井氏は、以下のように鋭い分析をしています。

「自ら主体的に選択したと思っていても、我々は知らず知らずのうちに外界からの情報に影響を受けて判断は行動をしている。しかし、『嫌ならいいんですよ。強制する気はまったくありませんから』などと言われるために、本当は外的強制力が原因で引きだされた行為であるのに、その事実が隠蔽され、あたかも自ら選び取った行為であるごとく錯覚してしまう。ここには自由意志などない。あるのは自由の虚構だけである。」(『民族という虚構』)

 

 

(5)現代日本社会における「長期的思考の欠如」について/内山節氏の論考


 なお、今回の小熊英二氏の論考においては、以下のように、現代日本社会における

「長期的思考の欠如」も問題にしています。

「【10】唯一、建設業だけは市内総生産額が顕著に伸びていたが、原発建設が終わるとその効果も消えた。建設終了後の柏崎市は、人口減少が他市より激しく、一時的に増えた交付金や税金で建てた施設の維持管理で、財政が厳しくなっている。(→まさに、「長期的視点の欠如」と言えます)

 

 現代日本社会における「長期的思考(長期的視点)の欠如」については、入試頻出著者・内山節氏の論考が秀逸なので、以下に概要を引用します。

 

 「子どものころは、いつか地球が壊れるときが来るということを本気で心配したものだった。それが50億年くらい先のことだとわかっていても、安心感をもつことはできなかった。人類が生存できるのも、あと50万年くらいである。もっともこちらの方は人間が環境を破壊しつづけているために、もっとずっと早く生存できなくなる日が来ると考える人たちもいて、「そうかもしれない」と言うしかない状況のなかで、今日の私たちは暮らしている。

 伝統的な日本の社会においては、人々は過去も未来も現在のなかにあると考えて暮らしてきた。現在があるから振り返る過去や、展望する未来があるという意味でもあり、過去は現在を支えながら、いまも存在し、未来のあることが現在を支えているという意味でもある。ところが、近代的世界ができてくると、人間たちは過去、現在、未来を時系列でとらえるようになった。過去とは過ぎ去ったもの、未来は将来でしかなくなった。とともに、人間世界における経済の役割が大きくなってくると、次第に短い時間幅で物事を考える習慣が定着するようになった。経済は100年後のことなど相手にしない。常に今のことであり、せいぜい数年先の経営である。

 施行する時間幅の短さは今日の政策にも表れていて、たとえばアベノミクスをみても、金融緩和によって金をばらまけば一時的には金余りの状況が生まれるが、それが長期的にどんな影響をもたらすのかは、検討されているようには感じられない。これからどんな経済社会をつくっていったらよいのかという長期的な思想も、いまの政治から読み取ることはできない。

 私はそれは、社会の劣化だと思う。

 長い時間幅で思考することができなくなって、今の愉悦だけを求める思考が、この社会を劣化させている。この劣化した社会のもとでは、人間はどんなふうに生きたらよいのかとか、自然と人間はどんな関係にあったらよいのか、というようなことを深く考えることが、人間たちには苦手になってしまう。そんなことより、目の前の金やいまの自分を肯定してくれるものの方が、大事になるのである。ここから過剰なほどの自己肯定、現状肯定を望み、自分にとって不都合なことは無視する傾向も生まれてくる。

 困ったことにこの傾向が、一部の経営者や政治家にまで広がっていることだ。彼らは原発事故が生みだした現実も無視したいし、アベノミクスがさしたる成果を上げていないことも無視したい。

 不都合なことは無視し、自己肯定という愉悦だけを求める。深刻にとらえなければいけないのは、現在はびこっているこのような傾向である。ここから不都合な過去や未来を無視するという態度も生まれてくる。

 このような状況のなかに身を置いていると、私は、過去や未来が現在を支えていると考えながら、過去、現在、未来を一体的にとらえていたスケールの大きな思考から、学びたくなる。」

(「社会を劣化させるもの」内山節・東京新聞2014年3月9日「時代を読む」)

 

 

文明の災禍 (新潮新書)

 

 

(6)「根拠なき神話への逃避」・「受動的状態」から脱するための対策論

 

 これは、かなり難しい問題です。
 この点についても、上記の佐藤優氏の論考が参考になります。


 この点に関して、佐藤氏は『国家と神とマルクス』の中で、「『読書と思索』が『順応気構え』から脱する、よい契機になった」と言っています。

 確かに、「読書と思索」こそは、「順応気構え」という最悪の「受動的状態」から脱出する「最良の対抗策」と言えます。

 「自分の考え」をしっかりと保持し、「自分の思考」に自信を持っていれば、たとえ、思考の時間やエネルギーがそれほど確保できないとしても、簡単に「順応気構え」の状態に陥ることはないでしょう。
 

 「自己確立」のためには、「読書と思索」が不可欠です。

 これこそ、上記の小熊氏の論考における「自助努力」です。

 

 また、「現実直視」には、現実に対応する、対面する勇気が必要不可欠です。

 
 まさに、小熊英二氏の主張する通りです。
「【20】今月で福島第一原発事故から7年。その間に世界は変わった。各種の神話から脱し、問題に正面から向きあうときだ。」

 


(7)小熊 英二氏の紹介

 

小熊 英二(おぐま えいじ)

1962年東京都生まれ。社会学者。出版社勤務を経て、慶應義塾大学総合政策学部教授。
専攻は歴史社会学・相関社会科学。

映画『首相官邸の前で』で2016年「日本映画復興奨励賞」受賞。
『社会を変えるには』(講談社現代新書)で新書大賞を受賞。

ほかの著作に
『単一民族神話の起源』(サントリー学芸賞)、
『<民主>と<愛国>』(大仏次郎論壇賞、毎日出版文化賞)、『1968』(角川学芸賞、以上新曜社)、
『生きて帰ってきた男』(小林秀雄賞、岩波新書)など。

 

 

社会を変えるには (講談社現代新書)

 

(8)当ブログにおける「思考停止状態」・「根拠なき神話への逃避」関連記事の紹介

 

 

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ーーーーーーーー

 

今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

ご期待ください。

 

  

 

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首相官邸の前で<DVD付き>

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社会を変えるには (講談社現代新書)

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

 

 

5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

 

 

 私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。

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「言葉が失墜 物語なき憲法論」國分功一郎/現代文・小論文予想問題 

(1)はじめに

 

 「言葉が失墜、『物語』なき憲法論」(國分功一郎・朝日新聞2018年3月2日)は、大学入試国語(現代文)・小論文対策としても、注目するべき論考です。

 國分功一郎氏は、入試頻出著者であり、「物語」・「物語論」は入試頻出論点だからです。

 

 私は、この論考に関して、以下のように、2つのツィートをしました。

「2018東大国語 第1問(現代文) のキーワードも『物語』になっている。東大現代文作成者と國分功一郎 氏の問題意識が見事にリンクしていて、非常に興味深い。現代の日本の政治状況における『物語の崩壊現象』=『絶望的状況』に対するアンチテーゼなのだろう。」

https://t.co/SL14WBQEMXhttps://t.co

 

「2018東大国語 第1問(現代文)『歴史を哲学する』(野家啓一)においても、『物語』がキーワードになっています。『物語』は現代日本を考える上での、新たな視点になりつつあるのでしょうか? 興味深い指摘です。」

https://t.co/SL14WBz3on


 以下に2018東大国語第1問(現代文)の一部を、当ブログの記事から引用します。

 

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ーーーーーーー

 

(引用開始)

(2)2018東大国語第1問(現代文・評論)本文・解説・解答/『歴史を哲学する』野家啓一
(問題文本文)

(概要です)

(【1】・【2】・【3】・・・・は当ブログで付記した段落番号です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です) 

 

【1】余りに単純で身も蓋もない話ですが、過去は知覚的に見ることも、聞くことも、触ることもできず、ただ想起することができるだけです。その体験的過去における「想起」に当たるものが、歴史的過去においては「物語り行為」であるのが僕の主張にほかなりません。つまり、過去は知覚できないがゆえに、その「実在」を確証するためには、想起や物語り行為をもとにした「探究」の手続き、すなわち発掘や史料批判といった作業が不可欠なのです。

(中略)

【6】「理論的存在」と言っても、ミクロ物理学と歴史学とでは分野が少々かけ離れすぎておりますので、もっと身近なところ、歴史学の隣接分野である地理学から例をとりましょう。われわれは富士山や地中海をもちろん目で見ることができますが、同じ地球上に存在するものでも、「赤道」や「日付変更線」を見ることはできません。確かに地図の上には赤い線が引いてありますが、太平洋を航行する船の上からも赤道を知覚的に捉えることは不可能です。しかし、船や飛行機で赤道や日付変更線を「通過」することは可能ですから、その意味ではそれらは確かに地球上に「実在」しています。その「通過」を、われわれは目ではなく六分儀などの「計器」によって確認します。計器による計測を支えているのは、地理学や天文学の「理論」にほかなりません。ですから赤道や日付変更線は、直接に知覚することはできませんが、地理学の理論によってその「実在」を保証された「理論的存在」と言うことができます。この「理論」を「物語り」と呼び換えるならば、われわれは歴史的出来事の存在論へと一歩足を踏み入れることになります。

【7・最終段落】具体的な例を挙げましょう。仙台から平泉へ向かう国道4号線の近くに「衣川の古戦場」があります。ご承知のように、前9年の役や後3年の役の戦場となった場所です。現在目に見えるのは草や樹木の生い茂った何もないただの野原にすぎません。しかし、この場所で行われた安倍貞任と源義家との戦いがかつて「実在」したことをわれわれは疑いません。その確信は、『陸奥話記』や『古今著聞集』などの文書史料の記述や『前9年合戦絵巻』などの絵画資料、あるいは武具や人骨の発掘物に関する調査など、すなわち「物語り」のネットワークによって支えられています。このネットワークから独立に「前9年の役」を同定することはできません。それは物語りを超越した理想的年代記作者、すなわち「神の視点」を要請することにほかならないからです。だいいち「前9年の役」という呼称そのものが、すでに一定の「物語り」のコンテクストを前提としています。つまり「前9年の役」という歴史的出来事はいわば「物語り負荷的」な存在なのであり、その存在性格は認識論的に見れば、素粒子や赤道などの「理論的存在」と異なるところはありません。言い換えれば、エ  歴史的出来事の存在は「理論内在的」あるいは「物語り内在的」なのであり、フィクションといった誤解をあらかじめ防止しておくならば、それを「物語り的存在」と呼ぶこともできます。(『歴史を哲学する』野家啓一) 

(引用終了)

 

ーーーーーーー


 前記の私のツィートの「『物語の崩壊現象』=『絶望的状況』」が、「日本の反知性主義」を意味すると想定すると、この「絶望的状況」は、2016東大国語第1問(現代文・評論)に出題された「反知性主義者たちの肖像」(内田樹『日本の反知性主義』所収)にも関連します。

 

gensairyu.hatenablog.com

 


 また、私は、今回の「言葉が失墜、『物語』なき憲法論」に関して、以下のようなツィートをしました。

「國分功一郎氏は嘆きつつも、勇気を奮って、現代日本の反知性主義的、思考停止状態を、より良き状態へ導こうとしている。絶望しているだけでは、世界は変わらないからだ。今回の論考は『中動態の世界』のような「穏健革命的な憲法論」を書き上げるための、自分への働きかけのように見えます。 」
https://t.co/z5wvozNCAA

 

 これは、國分氏の論考を読んだ直後に、直感的に感じたことです。

 

 以下では、「言葉が失墜、『物語』なき憲法論」の解説をします。

 

 なお、今回の記事は、約1万字です。記事の項目は、以下の通りです。

 (2)「言葉が失墜、『物語』なき憲法論」(國分功一郎・朝日新聞2018年3月2日)の解説

(3)「大きな物語」と「小さな物語」

(4)「物語」の価値

(5)「憲法論」の現状を、どのように考えるか? 「憲法論」の目指すべき方向性?

「物語の再興」か、「立憲的改憲」か。

(6)「立憲的改憲」について

(7)國分功一郎氏の立場は?

(8)当ブログにおける「國分功一郎」関連記事の紹介

(9)当ブログにおける「憲法論」関連記事の紹介

 

朝日新聞デジタル

朝日新聞デジタル

 

 

 (2)「言葉が失墜、『物語』なき憲法論」(國分功一郎・朝日新聞2018年3月2日)の解説

 

(本文)(概要です)

(【1】・【2】・【3】・・・・は当ブログで付記した段落番号です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です) 


【1】この数年、時代の要請もあって憲法学者の本をしばしば繙(ひもと)くようになった。私の専門は哲学だから門外漢として読むわけだが、一つ気がついたことがあった。 

【2】憲法というのは高度に専門的・技術的であって、素人が容易に口出しできるものではない。ところが、戦後日本の憲法学を牽引してきた学者たちの言葉は少し違っていた。彼らの言葉はどこか文学的だった。

【3】私の愛読する樋口陽一氏の文章は、口調こそ硬いけれども、門外漢を排さぬ不思議な柔軟さを備えている。思えば、最近活躍する若手憲法学者、木村草太氏の本にはエンターテインメント小説的な要素が強い。憲法学者の言葉が広く読まれてきたことは戦後日本の特徴かもしれない。

【4】どうして憲法が文学と関係を結ぶのだろうか。それはおそらく、憲法が専門的・技術的でありながらも、それを支えるために何らかの物語を必要とするからだ。

 【5】戦後日本の憲法が訴えてきた価値の代表が平和主義と個人主義である。だが、9条を読んだだけでは平和主義の意味など分からない。ただ「個人」と言われてもピンとこない。

【6】身分制・家制度などの「くびき」からの解放があって初めて個人は存在する。個人はあらかじめ存在せず、解放によって生まれる。そして性差別の現存などから明らかなように、その解放はまだ十分ではない。

【7】このような物語(→「国民共通の歴史認識・現状認識」でしょうか)があって初めて人は「個人主義」の価値を理解できる。そして価値を共有しようとする人々の志によって憲法が生きる。憲法学者たちはこのことに意識的であった。それが彼らに緊張感をもたらし、その筆致は文学的なものにまで高まった。

【8】平和主義について言えば、価値を支えていたのはむしろ「あんな戦争はもうイヤだ」という感覚であったと思われる。感覚は大切であるが、それだけでは理解は生まれない。だからこそ憲法学者たちは専門的・技術的な論議だけに甘んじなかった。おそらく戦後の日本では、この感覚に匹敵する強度をもった平和主義の物語を紡ぎ出さんとする文学的な試みに、憲法学者たちが身を投じてきたのだ。

【9】いま憲法論議が盛んといわれる。だが、そうだろうか。私には論議が盛んなのではなくて、単にこれまで憲法を支えてきた物語が理解されなくなっただけに思える。というよりも、文学的な言葉によって紡ぎ出される物語そのものを人々が受容できなくなった。

【10】いまよく耳にする「世界には危険な連中がいるから軍備が必要」というタイプの「改憲論」は、価値を共有するための物語ではない。ただ感覚に訴えているだけである。いまはそれが有効に作用する。

【11】それ故であろう。「護憲論」の側ももはや物語を紡ぎ出すことに力を注ぐわけにはいかず、「9条があったから戦争に巻き込まれなかった」という安全を訴える主張を繰り返さざるをえなくなっている。「護憲論」も感覚に訴えているのだ。私はこの主張の内容は正しいと思う。だが、それは憲法の価値を共有するための物語にはなりえない。

【12】現代の日本において、文学的に紡ぎ出された物語はもはや有効に作用しなくなっている。だから、平和主義も個人主義も理解されない。これは端的に「言葉の失墜」と呼ぶべき事態であろう。言葉が失墜した時代に、憲法が掲げてきた高度な価値をどうやったら共有できるのだろうか。また、それを踏みにじろうとする勢力が現れた時、どう対応すればよいのだろうか。

【13】今の時点ではできることを懸命にやるしかない。だが、「今の時点でできること」に甘んじてはならない。そうでなければ、早晩憲法は死んでしまう。

 

…………………………

 

(今回の記事における、当ブログによる解説)

 以下では、上記の論考のポイントを列記します。

 

【4】段落の「どうして憲法が文学と関係を結ぶのだろうか。」は、重要な問題提起です。

 「憲法を支えるために何らかの物語」は、「国民の間の共通な価値観」を意味しています。

 

【7】段落は、全体の中心部分です。

「このような(→憲法についての)「物語」(→「国民共通の歴史認識・現状認識」、つまり、「価値を共有しようとする人々の志」)が憲法を支えるのです。


【8】段落も重要です。

 「平和主義の価値」を支えていたのは、→「平和主義についての国民の理解・総意」でした。


【10】・【11】段落の「憲法の価値を共有するための物語」は、この論考のキーフレイズです。

 

【12】段落の「言葉の失墜」「言葉が失墜した時代」にも、着目する必要があります。

 いわば、この論考の、マイナスのキーフレイズです。

 これらは、「政治家の言葉の軽さ」、「政治の言葉に対する国民の不信感」、ひいては、「国民の政治不信」を意味しているのでしょう。


【13】段落(最終段落)の「今の時点ではできることを懸命にやるしかない。」の「できること」は、少々、曖昧です。

 厳しい字数制限のある新聞発表の論考という性格上、ある程度、仕方のない点と言えます。

 「考えられる限りのあらゆること」という意味でしょう。

 

朝日新聞デジタル

 

(3)「大きな物語」と「小さな物語」


 「大きな物語」「小さな物語」は、入試現代文・小論文における重要論点です。

 この点について、國分氏は、2018年3月3日に以下のように2つのツィートしています。


「この記事(→今、検討中の「言葉が失墜、『物語』なき憲法論」)では「物語」の話をしていますが、その中でも触れた憲法学者の木村草太さんが、ほんの少し前に新城カズマさんとの対談本『社会をつくる「物語」の力』を出版されていました。この符合には驚きました。今の社会を考える上で「物語」がカギになるというのは僕も同感です。」

 

「また僕の業界では「物語」といえば「大きな物語」(モダン)「小さな物語」(ポストモダン)を当然思い起こします。人々が文学的な言葉によって紡ぎ出される物語を受容できなくなったのは後者に対応する事態なのか。僕は違うだろうと思っていますが、この点もまだ分析不十分・考察不十分ですね。」


 そこで、「『大きな物語』と『小さな物語』」について、以下で解説します。

 

『哲学キーワード事典』(編者・木田元)では、以下のように解説しています。 
ポストモダンを、一つの問題を表す言葉たらしめたのは、ジャン=フランソワ・リオタールである。リオタールによれば、ポストモダンとは「大きな物語」に対する不信があらわになった状況をいう。「大きな物語」とは、啓蒙の物語であり、理性と自由の漸進的な解放の物語疎外された労働の解放の物語(マルクス主義)である。 モダンにおいてはこうした物語ないし「メタ物語」が正当化の機能を果たしていたのであるが、いまやメタ物語は維持しがたく、諸々のさな物語が分立している状態にあるという」 (『哲学キーワード事典』)

 

……………………………

 

(今回の記事における、当ブログによる解説)

 すなわち、「ポストモダン」、「リオタール」、「大きな物語」、「啓蒙の物語」、「マルクス主義」、「小さな物語」の関係を把握することが、ここでは大切です。


 現代社会は、「諸々の小さな物語(→主に「自己物語」・「自己承認欲求物語」)が分立している状態」と言われています。

 

(4)「物語」の価値

 

 それでは、そもそも、「物語」(→主に「大きな物語」)はなぜ、問題になるのでしょうか。

 この点については、山崎正和氏の論考が、このことを本質的に解説しています。

 最近、当ブログでこの山崎氏の論考を紹介したので、以下に引用します。

gensairyu.hatenablog.com

 

ーーーーーーーー

 

(引用開始)

【4】「ビブリオバトル」の解説ー後半部分(「未知の本に触れ・知磨く」)ー関連論点の解説 

 (1)「『物語』と『共同体の結束』の関係」

(山崎正和氏の論考の概要)

(①・②・③・・・・は、当ブログで付記した段落番号です)

 「① ビブリオバトルは、なぜこれほど成功したのか。良い本を読むと感動を他人に語りたくなる習慣が本能のようにあったからだが、そういう本能はなぜ人間に備わっていたのだろうか。

② おそらく、根源は、共同体の中に生きる存在としての人間が、その共同体を言葉によって固めてきた、というところまで遡るだろう。

③ 言葉は情報や感想を語るとともに、物語を伝えてきた。物語は人が口頭で語り、そして語り継ぐことによって共同体を一つにまとめてきた。

 

……………………………

 

(当ブログによる解説)

【「『物語』と『共同体の結束』」について】

〔1〕上記の山崎氏の論考は、かなり価値の高い内容になっています。

 特に重要なのは、「物語は人が口頭で語り、そして語り継ぐことによって共同体を一つにまとめてきた。」の部分です。

 〔2〕概要としては記述しませんでしたが、上記の論考の中で、山崎氏は 「物語」の具体例として、「噂話(うわさばなし)」・「伝承」・「昔話」・「神話」・「叙事詩」を挙げています。

 「噂話」・「伝承」・「昔話」・「神話」・「叙事詩」は、人々の退屈しのぎ・レクリエーションになり、コミュニケーションの道具になると同時に、これらは「共同体」の結束に役立ったのです。

(引用終了)


ーーーーーーーー


(5)「憲法論」の現状を、どのように考えるか?

「憲法論」の目指すべき方向性?

「物語の再興」か、「立憲的改憲」か。

 

 それでは、「憲法論」の現状を、どのように考えるべきでしょうか。

 「憲法論」の目指すべき方向性は?

 「憲法」を支える「物語の再興」か?

 「立憲的改憲」か?

 

 はじめに、「立憲的改憲」を主張している中島岳志氏の見解から検討してみます。

 

(6)「立憲的改憲」について

 

 中島岳志氏は、2018年3月4日に國分氏の今回の論考について、5件のツィートをしています。

①「國分功一郎さんの論考は、短文ながら非常に重要な論点をいくつも含んでいる。國分さんが指摘するように、憲法をめぐる信頼と安定性は、「価値を共有するための物語」によって成り立っていた。しかし、これがいま失墜している。」

 

②「日本国憲法は短い。そのため不文律の合意や慣習、解釈の体系によって補完してきた。その全体を支えてきたのが、国民の間主観性(→当ブログによる「注」→「相互主観性」あるいは「共同主観性」とも言われる。二人以上の人間において同意が成り立っていること。こうして獲得される共同的な主観性において超越的世界は内在化され,その客観性が基礎づけられる、説明されている)である。これは國分さんが言う通り、文学的次元を伴う。安倍内閣は、これを意図的に崩壊させた。」

 

③「自衛権の範囲も明記されていない穴だらけの9条が、戦後日本社会の軍事的歯止めとして機能してきたのは、間主観性に基づく物語の力によってである。9条を変えることに国民が不安を抱くのは、単なる条文の問題を超えて、物語の喪失や改変に対する無意識の危惧があるからだろう。」

 

④「物語の再興か、立憲的改憲か。私はもはや前者が機能しない段階に達していると思っている。だから今できることは、長い憲法への漸進的移行である。不文律の合意を明文化していく必要があると考えている。9条に自衛権の範囲を明記した方がよいと考える。」

 

⑤「しかし、「いまの時点でできることに甘んじてはならない」という國分さんの指摘に、強く同意する。私はこの次元の問題を、「死者の立憲主義」や「死者のデモクラシー」という概念で捉え直したいと考えている。ここには文学の力が必要になる。」


 上記の「死者の立憲主義」については、中島岳志氏の最近の著書『「リベラル保守」宣言』において、詳しく解説されています。

 

 中島氏は「保守」にとっての「立憲主義」を、「死者の立憲主義」という言葉で表現しています。

 保守は、人間は完璧ではないと把握します。だから、保守は「進歩」という立場を取りません。また、「復古」という立場も採用しません。なぜなら、過去の人間も不完全だからです。

 

 その上で、以下のように述べています。

「保守は特定の人間によって構想された政治イデオロギーよりも、歴史の風雪に耐えた制度や良識に依拠し、理性を超えた宗教的価値を重視します。」

 すなわち、保守にとって大事なのは、生まれた土地や伝統、そしてそこで培われた歴史的集合的価値観です。

 従って、「保守」は、時間的変化に応じ、「歴史に潜む潜在的英知を継承するための漸進的改革」を進めようとするのです。

 

「リベラル保守」宣言 (新潮文庫)

「リベラル保守」宣言 (新潮文庫)

 

 

 

(7)國分功一郎氏の立場は?

 


 國分氏の立場については、「言葉が失墜、『物語』なき憲法論」と、この記事に関連する國分氏の「ツィート」から考えてみます。

  國分氏は、この記事に関連して、以下のような、4つのツィートをしています。


①「ただ僕が一番関心を持っているのは何よりも「言葉の失墜」です。これはジョルジオ・アガンベン『身体の使用』(みすず書房)における言語が歴史的ア・プリオリの座を占めなくなった、つまり我々の考え方が言語によって規定されなくなったという議論を参照しています(191-192頁)。」

 

②「言葉はというと、お店で使われる定型句が典型で、殆ど透明な記号になりつつある。僕らもメールを書くとき、予測変換で出てくる言葉を選んでいるだけです。それで十分コミュニケーションできてしまう。もちろんこの点はAIが人間に近づいているのではなく、人間がAIに近づいているという論点につながる。」


③「この点はフーコーの『言葉と物』の図式の次の展開と言えるものであって、フーコーは古典主義時代の透明な記号としての言語が、物質性をもった言語の存在そのものに取って代わられるという変化を論じたけれども、現在、言語は古典主義時代のそれに近づいているのではないか。」


④「その時、厚みのない、メッセージとエビデンス(→「根拠。証言。形跡」という意味)だけになった「言語」で、果たして我々は価値なるものを支える物語を作りうるのだろうか。そういう問題提起であるわけです。答えはもちろん、答えの方向性も僕には見えていないんですが。」

 
 次に、國分氏の今回の論考のポイントを列挙すると、以下のようになります。
 

「【4】どうして憲法が文学と関係を結ぶのだろうか。それはおそらく、憲法が専門的・技術的でありながらも、それを支えるために何らかの物語を必要とするからだ。

【7】このような物語があって初めて人は「個人主義」の価値を理解できる。そして価値を共有しようとする人々の志によって憲法が生きる。憲法学者たちはこのことに意識的であった。それが彼らに緊張感をもたらし、その筆致は文学的なものにまで高まった。

【9】いま憲法論議が盛んといわれる。だが、そうだろうか。私には論議が盛んなのではなくて、単にこれまで憲法を支えてきた物語が理解されなくなっただけに思える。というよりも、文学的な言葉によって紡ぎ出される物語そのものを人々が受容できなくなった。

【12】現代の日本において、文学的に紡ぎ出された物語はもはや有効に作用しなくなっている。だから、平和主義も個人主義も理解されない。これは端的に「言葉の失墜」と呼ぶべき事態であろう言葉が失墜した時代に、憲法が掲げてきた高度な価値をどうやったら共有できるのだろうか。また、それを踏みにじろうとする勢力が現れた時、どう対応すればよいのだろうか。」


 以上より考えると、國分氏は「大きな物語の復権」を目指しているような感じです。

 

 内田樹氏も、以下のように、最近の哲学者たちは「大きな物語の復権」に関心を移しつつある、と述べています。(内田樹「大きな物語の復権」『内田樹の研究室』2010年09月29日 )

 

 以下に概要を引用します。

ーーーーーーーー

 

(引用開始)

「FM東京からの電話取材で「マルクスブーム」についてお話する。
「今どうしてマルクスなのか?」ってさ、この定型的なタイトルなんとかなりませんか。
まあ、よろしい。
どうして、私たちは今ごろ「マルクス本」を書いたのか。
それについては『若マル』の中に縷々書いたので繰り返すの面倒だが、やはり最大の理由は「グランド・セオリーの復権」という思想史的な軌道修正である。

「グランド・セオリーの終焉」というのは、ご存じポスト・モダニズムの惹句である。

世界を概観し、歴史の流れを比較的単純なストーリーパターンでおおづかみに説明するような「大きな物語」を退けたポストモダニストたちは、きわめて複雑な知的ハイテクノロジーを駆使して、何を書いているのかぜんぜんわからない大量のテクストを書きまくった。
「何を書いているのかぜんぜんわからないテクスト」を書く人間はもちろん「わざと」そうしているのである。
それは読者に「この人は、どうしてこんなにむずかしく書くのだろうか?」という問いを発させるという遂行的な目的があるからである。
このような問いを立てた読者は高い確率で「この著者は私に理解できないことをさらさらと書けるほどに知的に卓越しているのだ」という判断を下すことになる。
この反応は人類学的には実はたいへんに正しいのである。
「なんだかわけのわからないもの」に触れたとき、「これは理解するに値しないほど無価値なものだ」とただちに断定するタイプの人間と、「これには私の理解を超える価値があるのではないか」と推量するタイプの人間ではどちらが心身のパフォーマンスを向上させる可能性が高いか、考えればわかる。
「わけのわからないもの」に遭遇したとき、「ふん」と鼻を鳴らして一瞥もくれずに立ち去るものと、これはいったい何であろうかと立ち止まってあれこれ思量するものでは、世界に対する「踏み込み」の深さが違う。

(中略)

ポストモダン知識人たちは、読んで「わかる」というのは、既知に同定され、定型に回収されることであるから、読んでも「わからない」方が書きものとしては良質なのだと考えた。
推論としては合理的である。
そして、ついに書いている本人さえ自分の書いたものを読んでも意味がわからないという地点にまで至って、唐突にポストモダンの時代は終わった。

もし、いまマルクスが再び読まれ始めているというのがほんとうだとしたら、それは「『大きな物語の終焉』という物語」が終焉したということではないかと私は思う。」(内田樹「大きな物語の復権」『内田樹の研究室』2010年09月29日) 

(引用終了)


ーーーーーーーー

 

(今回の記事における、当ブログによる解説)

 確かに、内田氏の言うように、「書いている本人さえ自分の書いたものを読んでも意味がわからないという地点」に到達して、「書いている本人」、つまり、「若き哲学者たち」は、「分かりやすい哲学」を目指しているのかもしれません。

 つまり、「グランド・セオリー(→「大きな物語」)の復権」という「思想史的な軌道修正」が、今現在、始まりつつあるのかも、しれません。


 この記事の最初に引用した私のツィート(→「國分功一郎氏は嘆きつつも、勇気を奮って、現代日本の反知性主義的、思考停止状態を、より良き状態へ導こうとしている。絶望しているだけでは、世界は変わらないからだ。今回の論考は『中動態の世界』のような「穏健革命的な憲法論」を書き上げるための、自分への働きかけのように見えます。」https://t.co/z5wvozNCAA)は、このような動きを感じているからこその感想でしょうか。

 

 國分氏は、憲法について、「グランド・セオリー(→「大きな物語」)の復権」という「思想史的な軌道修正」の先導役を、担おうとしているのでしょうか。

 もし、そうだとすると、このことは、国民にとっても、良いことだと思います。哲学者たちが、憲法、政治、社会、共同体について考察し、論考を発表していくことは、国民の思索の大いなる参考になることは確かだからです。

 

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 ーーーーーーーー

 

今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

ご期待ください。

 

  

 

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

 

 

5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

 

 私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。

https://twitter.com/gensairyu 

https://twitter.com/gensairyu2

   

2009センター国語第1問(現代文)「かんけりの政治学」解説

1)はじめに

 

 「子供社会と大人社会の対比」、あるいは、「子供社会に大人社会の原型・萌芽を見るという視点」は、入試国語(現代文)・小論文における頻出論点です。 

 子供社会は、大人社会の特徴を分析する上で、有効なリトマス試験紙になります。

 子供社会と対比することで、当たり前と思っている大人社会の異常性、現代文明の異常性が際立つのです。

 今回解説する2009年センター試験(「かんけりの政治学」栗原彬)は、「子供社会」の分析が秀逸です。

 そこで、入試国語(現代文)・小論文対策として、今回は、この問題の解説をします。

 

 今回の記事の項目は以下の通りです。

 

(2)2009年センター試験国語(現代文・評論)・問題文・解説

(3)要約

(4)栗原彬氏の紹介

(5)当ブログにおける「センター試験国語」関連記事の紹介

 

政治のフォークロア-多声的叙法

 

(2)2009年センター試験国語(現代文・評論)・問題文・解説

 

(問題文本文)(概要です)

(【1】・【2】・【3】・・・・は当ブログで付記した段落番号です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です) 

 

【問題】 次の文章を読んで、後の問いに答えよ。 

 

【1】 私の住む東京都品川区の旗の台の近辺では子どもたちが普通の隠れん坊をすることはほとんどない。そのかわりに変型した隠れん坊はしばしばおこなわれている。商店街の裏手の入り組んだ路地や、整地中の小工場の跡地や、まだ人の入っていない建て売り住宅の周りや、周囲のビルに押しつぶされそうな小公園で、子どもたちの呼び方では「複数オニ」とか「陣オニ」といった隠れん坊の変り種が生き延びている。その変り種のなかでも、かんけり(→本文の「注」→「かんけり(缶蹴り)」は、隠れん坊の一種。オニが陣地に缶を一個立て、缶を守りながら相手を捕まえる遊び。オニに捕まらないように缶を蹴ると、捕まった仲間を逃がすことができる)は子どもたちに好まれている。 

【2】「複数オニ」とは、その呼び名のとおり、見つかった者すべてが見つかった時点でオニに転じて、複数のオニが残りの隠れている子どもを探す隠れん坊である。 
【3】 「陣オニ」の場合は、立木でも塀の一部でもよい、オニが決めた「陣」にオニより早くタッチすればオニになることから免れる。ただし、かんけりと違って、助かるのは陣にタッチした本人だけである。 
【4】 子どもたちが集まって何かして遊ぼうとするときに、隠れん坊をしないで「複数オニ」や「陣オニ」をすることには見過ごし難い意味がありそうだ。隠れん坊は、a 藤田省三が「或る喪失の経験 隠れん坊の精神史」という論文(『精神史的考察』平凡社、1982年、所収)で述べたように、人生の旅を凝縮して型取りした身体ゲームである。オニはひとり荒野を彷徨し、隠れる側はどこかに「籠る」という対照的な構図はあるけれども、いずれも同じ社会から引き離される経験であり、オニは隠れていた者を見つけることによって仲間のいる社会に復帰し、隠れた者もオニに見つけてもらうことによって擬似的な死の世界から蘇生して社会に戻ることができる。隠れん坊が子どもの遊びの世界から消えることは、子どもたちが相互に役割を演じ遊ぶことによって自他を再生させつつ社会に復帰する演習の経験を失うということである。A たしかに「複数オニ」や「陣オニ」はおこなわれているけれども、それらはもはや普通の隠れん坊の退屈さを救うためにアクセントをつけた、といった程度のことではない。 


ーーーーーーーー


【設問】

問2 傍線部A「たしかに『複数オニ』や『陣オニ』はおこなわれているけれども、それらはもはや普通の隠れん坊の退屈さを救うためにアクセントをつけた、といった程度のことではない」とあるが、それはどういうことか。その説明として最も適当なものを、次の中から一つ選べ。 

①「複数オニ」や「陣オニ」は、子どもたちがいくつもの役割を相互に演じ遊ぶ点で、従来の隠れん坊の枠をこえた、人生の行程が凝縮して経験される苛酷な身体ゲームになってしまっているということ。

②「複数オニ」や「陣オニ」は、オニに捕まった者も助かる契機が与えられている点で、従来の隠れん坊にはなかった、擬似的な死の世界から蘇生する象徴的意味を内包してしまっているということ。

③「複数オニ」や「陣オニ」は、オニも隠れた者も仲間のもとに戻ることが想定されていない点で、従来の隠れん坊の本質であった、社会から離脱し復帰する要素を完全に欠いてしまっているということ。

④「複数オニ」や「陣オニ」は、子どもたちの自由を制限するさまざまなルールが付加されている点で、従来の隠れん坊とは異質な、管理社会のコスモロジーに主導された遊びに変質してしまっているということ。

⑤「複数オニ」や「陣オニ」は、隠れた者も途中でオニに転じることになっている点で、従来の隠れん坊の本義であった、相互の役割を守りつつ競い合う精神からは逸脱してしまっているということ。

 

……………………………

 

(解説・解答)

問2(傍線部説明問題) 

 傍線部Aを含む【4】段落の冒頭に「隠れん坊をしないで『複数オニ』や『陣オニ』をすることには見過ごし難い意味がありそうだ」とあり、それを受けて、傍線部Aの直前で、「隠れん坊が子どもの遊びの世界から消えることは、子どもたちが相互に役割を演じ遊ぶことによって自他を再生させつつ社会に復帰する演習の経験を失うということである。」という記述があります。

 この記述を、傍線部Aで「たしかに『複数オニ』や『陣オニ』はおこなわれているけれども、それらはもはや普通の隠れん坊の退屈さを救うためにアクセントをつけた、といった程度のことではない」と、確認的に論を展開しているのです。


 特に注目するべきは、「それらはもはや普通の隠れん坊の退屈さを救うためにアクセントをつけた、といった程度のことではない」の部分です。

 つまり、「複数オニ」や「陣オニ」には、「重大な問題点」があるということです。

 その「重大な問題点」とは、傍線部Aの直前の、「隠れん坊が子どもの遊びの世界から消えることは、子どもたちが相互に役割を演じ遊ぶことによって自他を再生させつつ社会に復帰する演習の経験を失う」ということです。

 このことを指摘している③(→「複数オニ」や「陣オニ」は、オニも隠れた者も仲間のもとに戻ることが想定されていない点で、従来の隠れん坊の本質であった、社会から離脱し復帰する要素を完全に欠いてしまっているということ。)が正解になります。

① 「従来の枠を超えた」の部分が誤りです。

② 「陣オニ」には「助かる契機」が欠けています。

④ 「子どもたちの自由を制限するさまざまなルールが付加されている点」ということではありません。

⑤ 「陣オニ」の説明部分が誤りです。


(解答) ③


ーーーーーーーー

 

(問題文本文)(概要です)

【5】b 小学六年生の男の子から聞いた話を翻案すれば、「複数オニ」の演習の主題は裏切りである。オニが目をつぶってかぞえている間に子どもたちはいっせいに逃げる。それぞれ隠れ場所を工夫しても、同じ方向に逃げれば、近くにいる者同士は互いにどの辺に隠れているかを知っている。そのとき一方が見つかれば即座にオニという名のスパイに変じて、寸秒前に仲間だった者の隠れ家をあばくことになる。近くに隠れた者との仲間意識は裏切り・裏切られる恒常的な不安によって脅かされている。連帯と裏切りとの相互変換が半所属の不安を産み出し、その不安を抑えこもうとして、裏切り者の残党狩りはいっそう苛酷なものになる。オニは聖なる媒介者であることをやめて秘密警察に転じ、隠れる側も一人ひとりが癒し難い離隔を深めつつ、仲間にスパイを抱えた逃亡者集団と化す。 

【6】「陣オニ」について、さきほどの少年は「自分だけ助かればよい」ゲームだという。「陣オニ」の本質をいいつくした説明であろう。「陣」になる木や石は、元来、呪的な(→本文の「注」→呪術的な、に同じ。ここでは、超自然な力が宿っている、の意)意味をもち、集団を成り立たせる中心であった。だが、今日、子どもたちのおこなう「陣オニ」では、「陣」は社会秩序そのものであり、「陣」に触れることは、自分を守ってくれる秩序へのコミットメント(→本文の「注」→関与すること。参加すること)を競争場裡(きょうそうじょうり)で獲得すること、選良(→本文の「注」→ここでは、エリートのこと)の資格を手にすることである。社会秩序の中心と私的エゴイズムとを結びつけるための単独的な冒険ということが、「陣オニ」の演習の本義なのだ。

【7】 隠れん坊の系譜をはずれた身体ゲームのなかで子どもたちに好まれている遊びは「高(たか)オニ」である。「高オニ」は、土の盛り上がったところ、石段の上部、ブロック塀の上など、オニの立った平面よりもより高い位置に立つことによってオニになることを免れる遊びで、鬼ごっこの一種と考えられる。この遊びの演習課題は、人より高い位置に立つこと、より高みをめざすことがポイントである。

【8】「複数オニ」「陣オニ」「高オニ」のような戸外の遊びに飽きた子どもたちは、子ども部屋に閉じこもって「人生ゲーム」に興じる。「人生ゲーム」は、周知のように、金を操作することによって人生の階段を上昇することを争うゲームである。ルーレットをまわすたびに金が動く。人生の修羅場をくぐって他人を蹴落(けお)としながら、自動車を買い、会社に入り、結婚し、土地を買い、家を建て、株を売買する。こうして最終的に獲得した財産の多寡に応じて、その人の人生の到達度が量られる。成功の頂点は億万長者、ついで社長で、最底辺は浮浪者(→本文の「注」→ 一定の職業および住居をもたない人に対して慣習的に用いられていた言葉)である。その間に万年課長とか平社員とかレーサーといった地位・職業が位階づけられて配列されている。

【9】B 「複数オニ」「陣オニ」「高オニ」の行き着く先が「人生ゲーム」といえるのではないか。これらのすべての身体ゲームが共通のコスモロジー(→本文の「注」→ 世界観。宇宙観)をもっている。それは、私生活主義と競争民主主義に主導された市民社会の模型としてのコスモロジーであり、また、産業社会型の管理社会の透視図法を骨格にもつコスモロジーでもある。これらの身体ゲームを通して、子どもたちは現実の社会への適応訓練をおこない、おとなの人生の写し絵を身体に埋め込むのである。

 

ーーーーーーーー

 

(設問)

問3 傍線部B「『複数オニ』『陣オニ』『高オニ』の行き着く先が『人生ゲーム』といえるのではないか」とあるが、それはどういうことか。その説明として最も適当なものを、次の中から一つ選べ。 

①「複数オニ」「陣オニ」「高オニ」において他者からの不信感を払拭するすべを学ぶことが、金銭によって運営される市民社会を模した「人生ゲーム」へとつながっていくということ。

②「複数オニ」「陣オニ」「高オニ」において他者から疎外される寂しさに耐えることが、他人を蹴落とし孤独に対処することが求められる「人生ゲーム」へとつながっていくということ。

③「複数オニ」「陣オニ」「高オニ」において他者と競争してより優位に立つ経験をもつことが、社会的成功を利己的にめざすことを目的とした「人生ゲーム」へとつながっていくということ。

④「複数オニ」「陣オニ」「高オニ」において他者への不安と信頼の間での振る舞い方を身につけることが、より高い地位や職業を得ることをめざす「人生ゲーム」へとつながっていくということ。

⑤「複数オニ」「陣オニ」「高オニ」において他者とともに形成する社会秩序の不安定さを感じとることが、私生活主義を貫くことを必要とする「人生ゲーム」へとつながっていくということ。

 

……………………………


(解説・解答)

問3(傍線部説明問題)

 傍線部Bの直後に「これらのすべての身体ゲームが共通のコスモロジーをもっている。それは、私生活主義競争民主主義に主導された市民社会の模型としてのコスモロジー」という記述があります。

    「私生活主義」・「競争民主主義」が、「人生ゲーム」の「コスモロジー」(→世界観。宇宙観)です。

 この2つのキーワードを意識している選択肢は、③(→「利己的」・「競争」→「複数オニ」「陣オニ」「高オニ」において「他者と競争してより優位に立つ経験をもつこと」が、「社会的成功を利己的にめざすことを目的」とした「人生ゲーム」へとつながっていくということ。)のみです。

 

 なお、
【5】段落第1文「『複数オニ』の演習の主題は裏切りである」、

【6】段落最終文の「社会秩序の中心私的エゴイズムとを結びつけるための単独行的な冒険ということが、『陣オニ』の演習の本義なのだ」、

【7】段落最終文の「この遊び(→「高オニ」)の演習課題は、人より高い位置に立つこと、より高みをめざすことがポイントである」を踏まえておく必要があります。

 いずれも、「利己的な発想」です。

 

①    「他者からの不信感を払拭するすべを学ぶこと」の部分が誤りです。

② 「他者から疎外される寂しさに耐えること」の部分が誤りです。

④ 「他者への不安と信頼の間での振る舞い方を身につけること」の部分が誤りです。

⑤ 「他者とともに形成する社会秩序の不安定さを感じとること」の部分が誤りです。

 

(解答)③

 

ーーーーーーーー

 

(問題文本文)(概要です)

【10】もとより玩具産業が次から次へと繰り出して見せる新しいゲームの魅力に子どもたちは抗し難い。ひとり遊びに子どもを引き入れるゲーム・ウォッチ、列強に分かれて太平洋戦争を再演してみせるシミュレーション・ゲームに子どもたちの関心が移れば、「人生ゲーム」は「クラシック」なゲーム、「ダサイ」遊びになってしまう。だが、たび重なるモデル・チェンジにもかかわらず、幻想的に上演されるゲームは、限定された同じコスモロジーを浮かび上がらせる。子どもたちに目先の関心を変えさせ、次から次へと飽きさせることもまたこの商業主義のコスモロジーの特徴である。子どもたちは飽きることの中毒症にかかったようなものだ。しかし、とことんまで飽きたとき、ふと、C飽きることに飽きてしまう一瞬が子どもたちを訪れる。密室で、とにかく他人を打ち負かすありとあらゆるゲームに熱中していた子どもたちが、思い出したように外へ出てくることがある。そのときボールがあれば、三角ベース(→本文の「注」→少人数で行う、野球を模した遊び)やサッカーが始まることもあるだろう。何もなくからだだけあるとき、「陣オニ」や「高オニ」が思い出されるだろう。だが、飽きることの煉獄(れんごく)(→本文の「注」→ここでは、苦しみを受ける場所のたとえ)から戻ってくるとき、子どもたちは管理社会のコスモロジーそれ自体に飽きているのだ。「陣オニ」や「高オニ」に同構造のコスモロジーを感じ取れば、子どもたちのからだは急速に熱中度を失う。 

【11】子どもたちのからだの慣性が、意図しないで管理社会のコスモロジーを引き寄せてしまう。累々たる管理社会のコスモロジーの山だ。だが、その間隙(かんげき)をぬうようにして、同じからだの慣性がもう一つのコスモロジーに出会う場合がある。もう一つのコスモロジーが憑きやすい遊びは、からだの集まりが相互性を帯びるときに思い出される。かんけりはそのような身体ゲームの一つである。 

 

ーーーーーーーー


(設問)
問4 傍線部C「飽きることに飽きてしまう一瞬が子どもたちを訪れる」とあるが、ここで子どもたちはどのような状態にあると筆者は考えているか。その説明として最も適当なものを、次の中から一つ選べ。 

① たび重なるゲームのモデル・チェンジに関心を失った子どもたちは、ふと戸外での遊びを思い出すことによって、管理社会のコスモロジーとは異なるコスモロジーに参入することになる。

② 次々に売り出される室内ゲームに魅力を感じなくなった子どもたちは、管理社会のコスモロジーを他の遊びにも感じ取ったとき、別のコスモロジーに基づいた遊びに向かう可能性を手にすることになる。

③ 玩具産業が提供する室内ゲームにも戸外での遊びにも飽きてしまった子どもたちは、他人を打ち負かすことの繰り返しを自省しはじめ、あらたなコスモロジーを身体性のうちに見いだそうとしている。 

④ 商業主義のコスモロジーに気づいた子どもたちは、同時に管理社会のコスモロジーからも離脱していることになるので、あらたなコスモロジーが内包された遊びを楽しめるようになっている。

⑤ 商業主義がもたらす遊びに関心をもてず管理社会のコスモロジーに飽きてしまった子どもたちは、別のコスモロジーに出会ったとしても、もはや遊びへの熱意を失ってしまっている。

 

……………………………

 

(解説・解答)

問4(傍線部説明問題)

 C を含む段落の後(【11】段落)に、「子どもたちのからだの慣性が、意図しないで管理社会のコスモロジーを引き寄せてしまう。累々たる管理社会のコスモロジーの山だ。だが、その間隙をぬうようにして、同じからだの慣性がもう一つのコスモロジーに出会う場合がある。」とあります。

 この部分は、「傍線部の一部説明」になっています。「設問の条件」は、「ここで子どもたちはどのような状態にあると筆者は考えているか」となっているので、解答するについては、確認的に、その経過を前段落(【10】段落)をも意識して検討するべきです。

 傍線部の「飽きること」とは、傍線部直前の「子どもたちに目先の関心を変えさせ、次から次へと飽きさせることもまたこの商業主義のコスモロジーの特徴である。子どもたちは飽きることの中毒症にかかったようなものだ。」における「飽きることの中毒症」の部分を指しています。

 つまり、「飽きることの煉獄」(傍線部の4文後ろ)を指しています。


 以上によれば、傍線部は、同一段落(【10】段落)最終部分)、【11】段落で、言い換えられていることが分かります。

【10】段落最終部分 「子どもたちは管理社会のコスモロジーそれ自体に飽きているのだ。『陣オニ』や『高オニ』に同構造のコスモロジーを感じ取れば、子どもたちのからだは急速に熱中度を失う。」、

【11】段落 「子どもたちのからだの慣性が、意図しないで管理社会のコスモロジーを引き寄せてしまう。累々たる管理社会のコスモロジーの山だ。だが、その間隙をぬうようにして、同じからだの慣性がもう一つのコスモロジーに出会う場合がある。」

 以上の赤字部分のキーフレイズのある②が正解になります。


 ①・③・④・⑤には、このキーフレイズが欠けています。

 さらに、②以外には、以下のような難点があります。

 

① 「モデル・チェンジに関心を失った」のではなく、「そういうゲームに関心を失った」のです。

③ 「自省」が誤りです。

④ 「同時に管理社会のコスモロジーからも離脱」まではしていません。

⑤ 本文にこのような記述はありません。

 

(解答)②


ーーーーーーーー


(問題文本文)(概要です)

【12】かんけりはね、かんを思いっきりけっとばすときが気持ちいいんだよ、と小六の男の子はいう。輪の中心に置かれたあきかんに吸い寄せられるようにして、物陰から物陰へと忍び寄っていく。背を見せたオニとの距離を見切ったとき、もうからだは物陰からとび出している。オニが猛然と迫ってくる。オニのからだとほとんど交錯するようにしながら、一瞬早くあきかんの横腹を蹴る。あきかんが空中をゆっくり弧を描いてくるりくるりと舞うとき、時よとまれ、とでも叫んでしまいそうな快感が押し寄せ、同時に「私」という名の何ものかが音もなく抜け出していき、とても身軽になったからだだけが残される。もっとも、いつもそんなにうまく蹴れるわけではない。しばしばかんはさわがしい音をたてながら舗道を転がっていったり、二、三メートル先の芝生にぽとんと落ちてとまったりする。それでもかんを蹴った喜びには変りない。 
【13】かんを蹴るとき、人は市民社会の「真の御柱」(→本文の「注」→ここでは、秩序の中心のたとえ) を蹴る身ぶりを上演している。輪が市民社会を示すとすれば、かんは秩序の中心であり、管理塔でもある。子どもたちはかんを蹴ることによって、家、学校、塾、地域、社会一般、そして自己内面の管理社会のコスモロジーに蹴りを入れているのだ。 

【14】小六の少年はまたいう。かんけりは隠れているとき、とっても幸福なんだよ。なんだか温かい気持ちがする。いつまででも隠れていて、もう絶対に出て来たくなくなるんだ。管理塔からの監視の死角に隠れているとき、一人であっても、あるいは二、三人がいっしょであっても、羊水(→本文の「注」→母胎内で胎児を保護している液体のこと)に包まれたような安堵感が生まれる。いうまでもなくこの「籠り」は、管理社会化した市民社会からのアジール(避難所)創建の身ぶりなのだ。市民社会からの離脱と内閉において、かいこがまゆをつくるように、もう一つのコスモス(→本文の「注」→秩序と調和をもつ世界または宇宙)が姿を現してくる。それは、胎内空間にも似て、根源的な相互的共同性に充ちたコスモスである。おとなも子どもも、そこで、見失った自分の内なる〈子ども〉、〈無垢なる子ども〉に再会するのである。 

【15】小六の男の子は最後にもう一つつけ加えていう。かんけりは「陣オニ」と違ってほかの人を救おうとするの。自分も救われたいけれど、つかまった仲間を助けなくちゃって、夢中になるのが楽しい。だけどオニは大変だな。オニは気の毒だから何回かかんを蹴られたら交替するんだ。実際、かんけりでは、隠れた者は誰もオニに見つかって市民社会に復帰したいとは考えない。運悪く捕われても、勇者が忽然と現れて自分を救出してくれることを願っている。D 隠れた者が囚われた友を奪い返して帰って来ようとするのは、つねにアジールの方、市民社会の制外的領域である。オニが「気の毒」であるのは、オニが最初から市民社会の住人であるかぎり、隠れた者を何人見つけても、そのことで自分が市民社会に復帰するドラマを経験しようがないからである。隠れる者は市民社会では囚われ人以外ではなく、したがって、オニは管理者であることをやめることはできない。 

(栗原彬「かんけりの政治学」による) 

 

ーーーーーーーー

 

(設問)

問5 傍線部D「隠れた者が囚われた友を奪い返して帰って来ようとするのは、つねにアジールの方、市民社会の制外的領域である」とあるが、それはなぜか。その説明として最も適当なものを、次の中から一つ選べ。 

① 隠れた者にとって、かんを蹴って友を助ける行為は仲間を哀れむ思いの高まりの結果であり、共同性を認めない社会から逃れることが、仲間を救う優しさをもち続けることを意味するから。

② 隠れた者にとって、かんを蹴って友を助ける行為はかんを蹴ることそのものに対する喜びに根ざしており、窮屈な市民社会から逃れることが、自己だけでなく他者をも再生できることを意味するから。

③ 隠れた者にとって、かんを蹴って友を助ける行為は心身が汚れていない自己の発見に起因しており、相互的共同性を強いる社会から逃れることが、多様な人生のあり方を見つめ直すことを意味するから。

④ 隠れた者にとって、かんを蹴って友を助ける行為は仲間との連帯感に基づくものであり、競争で相手を蹴落とす社会から逃れることが、安らぎのある共同性のなかに居続けることを意味するから。

⑤ 隠れた者にとって、かんを蹴って友を助ける行為は一人で生きる孤独への不安に由来するものであり、私生活主義を温存する社会から逃れることが、仲間とともにあり続けることを意味するから。

 

……………………………

 

(解説・解答)

問5(傍線部説明問題)

 Dの「アジール (避難所)」(→キーワードです)と対応する、前段落の「安堵感」・「相互的共同性」の2つのキーワードーを含む④が正解です。

 

以下に、詳説します。

「複数オニ」等とは違う、「かんけり」の持つ本質的意味を問う設問です。傍線部Dを含む段落、その直前の段落に正答の根拠があります。赤字部分が根拠です。

傍線部Dを含む段落(【最終段落】)
かんけりは「陣オニ」と違ってほかの人を救おうとするの。自分も救われたいけれど、つかまった仲間を助けなくちゃって、夢中になるのが楽しい。」、


傍線部Dを含む段落の一つ前の段落(【14】段落)
「小六の少年はまたいう。かんけりは隠れているとき、とっても幸福なんだよ。なんだか温かい気持ちがする。いつまででも隠れていて、もう絶対に出て来たくなくなるんだ。管理塔からの監視の死角に隠れているとき、一人であっても、あるいは二、三人がいっしょであっても、羊水(→本文の「注」→母胎内で胎児を保護している液体のこと)に包まれたような安堵感が生まれる。いうまでもなくこの「籠り」は、管理社会化した市民社会からのアジール(避難所)創建の身ぶりなのだ。市民社会からの離脱と内閉において、かいこがまゆをつくるように、もう一つのコスモス(→本文の「注」→秩序と調和をもつ世界または宇宙)が姿を現してくる。それは、胎内空間にも似て、根源的な相互的共同性に充ちたコスモスである。」

 

  「管理社会」とは、社会の組織化、情報の高度化などによって、人間生活のあらゆる面にわたり管理されるようになった社会。人間的な連帯がなくなり、人間疎外が深刻化している現代文明社会を批判的に把握する概念、です。

 

 つまり、「管理社会」とは、一言で言えば、「利己的社会」です。
 この反対の状態にいる時が「安堵感」を感じるということです。 

 また、「相互的共同性に充ちた社会」を求めているということです。


① 「仲間を哀れむ」・「優しさをもち続ける」と表現は、少々抽象的です。

② 「かんを蹴って友を助ける行為はかんを蹴ることそのものに対する喜びに根ざしており」が、誤りです。

③  「共同性を強いる社会」の部分が、本文の内容と正反対です。

⑤    「かんを蹴って友を助ける行為は一人で生きる孤独への不安に由来する」という記述は、本文にありません。
 
(解答) ④


ーーーーーーーー


(設問)

問6 この文章の特徴に関する説明として適当なものを、次の中から二つ選べ。 

① 傍線部a「藤田省三」の論は「隠れん坊」に関する研究であり、この文章では同種の研究がいかに数多くなされてきたかを示すために取り上げられている。

② 傍線部a「藤田省三」の論は筆者の論とは反対の立場からの考え方であり、この文章では筆者の論に対比される異論や反論の例として取り上げられている。

③ 傍線部bのように「小学六年生の男の子から聞いた話」を取り上げているのは、「隠れん坊」や「かんけり」などの本質や特徴を体験談として語らせることで、筆者の論に現実性をもたせるためである。

④ 傍線部bのように「小学六年生の男の子から聞いた話」を取り上げているのは、「複数オニ」をよく知っている子どもを登場させることで、大人と子どもの考え方の違いを浮き上がらせるためである。

⑤ この文章は、「隠れん坊」や「かんけり」などの子どもの遊びがもつ本質的な意味や性格を表す比喩(ひゆ)として、現代人にとっての「市民社会」や「管理社会」を取り上げている。

⑥ この文章は、「隠れん坊」や「かんけり」などの身近な題材・事実を取り上げることで、その背後にある現代人にとっての「市民社会」や「管理社会」がもつ意味や性格を説明しようとしている。

 

……………………………

 

(解説・解答)
問6(全体の構成を問う問題)

 ①・②、③・④、⑤・⑥、がセットになっていることに注目してください。

 

 「全体の構成」を問う設問です。このような「全体を聞く問題」は、本文を熟読する前にチェックすると、効率的に処理することができます。


①  「いかに数多くなされてきたか」の部分が誤りです。

② 「反論」が誤りです。

③ 具体例は、「筆者の論に現実性をもたせるため」のものです。

④ 「大人と子どもの考え方の違いを浮き上がらせるため」の部分が誤りです。

⑤ 「比喩として」の部分が誤りです。本格的に論じています。

⑥ 適切です。

 

(解答) ③・⑥

 

 

証言水俣病 (岩波新書)

 

 

 

(3)要約

 

 隠れん坊は、人生の旅を凝縮して型どりした身体ゲームである。「複数オニ」・「陣オニ」・「高オニ」は、裏切り、単独行的な冒険、人より高い位置に立つことが演習の主題になる。子どもたちは、戸外の遊びに飽きると、「人生ゲーム」に向かう。これらの身体ゲームに共通しているのは、私生活主義・競争民主主義に主導された市民社会の模型としての、産業社会型の管理社会の透視図法を骨格にもつコスモロジーである。かんを蹴るとき、子どもたちは、管理社会のコスモロジーに蹴りを入れているような快感を感じる。管理塔からの死角に隠れている時に安堵感が生まれる「籠り」は、管理社会化した市民社会からのアジール創建の身ぶりである。これは、根源的な相互的共同性に満ちたコスモスの出現なのである。

 

 

(4)栗原彬氏の紹介

栗原 彬(くりはら あきら、1936年4月18日生まれ)は、日本の社会学者、立教大学名誉教授、立命館大学研究顧問。専門は政治社会学。
 栃木県宇都宮市生まれ。東京大学教養学部卒業。三井物産勤務を経て、東京大学大学院社会学研究科で学ぶ。立教大学法学部助手、武蔵大学人文学部講師、立教大学法学部助教授・教授、2002年定年、名誉教授、明治大学文学部教授、2007年立命館大学特別招聘教授。水俣フォーラム代表および日本ボランティア学会代表。

 

【単著編集】

『やさしさのゆくえ 現代青年論』(筑摩書房、1981年)『歴史とアイデンティティ 近代日本の心理=歴史研究』(新曜社、1982年)
『管理社会と民衆理性 日常意識の政治社会学』(新曜社、1982年)
『政治の詩学 眼の手法』(新曜社、1983年)
『政治のフォークロア 多声体的叙法』(新曜社、1988年)
『やさしさの存在証明 若者と制度のインターフェイス』(新曜社、1989年)
『人生のドラマトゥルギー』(岩波書店、1994年)
『「やさしさ」の闘い 社会と自己をめぐる思索の旅路で』(新曜社、1996年)
『「存在の現れ」の政治 水俣病という思想』(以文社、2005年)

 

【編著編集】

『講座差別の社会学(全4巻)』(弘文堂、1996年 ~1997年)
『証言水俣病』(岩波新書 2000年)
『人間学』(編 世織書房 2015)
『ひとびとの精神史 第3巻 六〇年安保 1960年前後』(編 岩波書店 2015)

 

 

人間学

 

 

(5)当ブログにおける「センター試験国語」関連記事の紹介

 

 

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 ーーーーーーーー

 

 今回の記事は、これで終わりです。

 次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

 ご期待ください。

 

  

 

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政治のフォークロア-多声的叙法

政治のフォークロア-多声的叙法

 

 

震災前後――2000年以降 (ひとびとの精神史 第9巻)

震災前後――2000年以降 (ひとびとの精神史 第9巻)

  • 作者: 栗原彬,テッサ・モーリス‐スズキ,苅谷剛彦,吉見俊哉,杉田敦
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2016/07/27
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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人間学

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  • 作者: 栗原彬,内田八州成,天田城介,杉山光信,吉見俊哉
  • 出版社/メーカー: 世織書房
  • 発売日: 2015/10/10
  • メディア: 単行本
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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

 

5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

 

 私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。

https://twitter.com/gensairyu 

https://twitter.com/gensairyu2

 

予想問題「消費されるスポーツ」『スポーツを考える』多木浩二/早大過去問

(1)はじめに

 

 多木浩二氏は、トップレベルの入試頻出著者です。多木氏の論考は、最近では、東大、早大(政経学部)・(文学部)・(教育学部)・(スポーツ科学部)、上智大、明治大、中央大などで出題されています。

 その中でも、『スポーツを考える』は、特に、頻出著書になっています。

 そこで、今回は、国語(現代文)・小論文対策として、この論考の予想問題について、解説します。

 

 なお、今回の記事の項目は以下の通りです。

(2)予想問題/「消費されるスポーツ」『スポーツを考える』多木浩二/早大スポーツ科学部過去問

(3)要約

(4)多木浩二氏の紹介

(5)当ブログにおける「スポーツ」関連記事の紹介

 

スポーツを考える―身体・資本・ナショナリズム (ちくま新書)

 


(2)予想問題/「消費されるスポーツ」『スポーツを考える』多木浩二/早大スポーツ科学部過去問

 


(問題文本文)(概要です)

(【1】・【2】・【3】・・・・は当ブログで付記した段落番号です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です) 

 

【問題】次の文章を読んで、後の問いに答えよ。

【1】スポーツを観る経験の仕方はふたつある。ひとつはメディアによってスペクタクルとして受けとることである。それは消費行動になる。メディアはスポーツを記号化し、観戦者はそのなかに没入することはないが、その記号を自分のペースで利用することができる。これはとくにテレビの場合に著しい。それは直接の体験ではないばかりではない。いつでもリプレイでき、画像を止めることも、そこに動きの説明を書き込むこともできるからである。観戦する側は、スタジアムにいるわけではなく、自分の家の室内にいて、ときには別の行為をしながらときどき観るといった経験が可能である。スポーツは日常生活のなかに同化してしまうのであり、スポーツがわれわれを日常性から逸脱させることはない。われわれはスポーツのみならず、スポーツする身体も消費しているのである。  〔 イ 〕  

【2】テレビによる経験は、最初からある距離をとっているから、決して臨場的なエクスタシーを感じることはない。しかし、これはスポーツにたいして空間的、時間的に個人的な経験を拡大する。われわれは決して個人では経験できないいろいろな角度、いろいろな視野で観られるだけでなく、反復して観ることもできるし、スローで確かめることもできる。つまり、スポーツをメディアが構成する言説(→「言説」→「意見を言ったり物事を説明したりすること。また、その言葉。意見。主張」という意味)として受けとる。これは特異な経験ではない。現代社会での経験は、生の出来事を経験するよりも言説に媒介された経験の方が正常だと言えるからである。衛星中継の発達によってわれわれの経験する空間はネーションを超えてひろがり、日本にいながら世界のどこかで行われているゲームを観戦することができる。だが、じかに目で観ている場合と、速度、力、全体の雰囲気は違っている。テレビのカメラを通したものであるし、レンズやフレーム、クローズ・アップとロング・ショットというイメージ言説のモードは免れない。〔 ロ 〕

【3】しかし、スタジアムに行くことは、すでにそのゲームの一部になることである。もちろん今そこで起こったことを再現して検証したり、ファウルをチェックしたりすることなどできない。それができないことは、スポーツ観戦が〔 ① 〕できないことに他ならない。そのとき、テレビでは決してありえない〔 ② 〕瞬間を経験する。日常のわれわれの生活はダブル・バインド(二重拘束)の状態にある。というのは現代社会は多価値的であり、同時に相反する異質な価値を受けとることが普通の状態であるからである。われわれは最初からねじれた存在である。スポーツを直接観ることはそのことを忘れさせる。われわれは日常のダブル・バインドの状態から脱出する。少なくとも人びとは真の存在を回復したような錯覚に陥る。われわれはこのことをエクスタシーと呼んでいる。〔 ハ 〕 

【4】言うまでもないが、エクスタシーはスポーツの独占物ではない。芸術がもっとも深いエクスタシーを生みだしてきたであろうし、宗教も人をトランス(→「トランス」→ある種の精神状態を表す語。入神状態・恍惚と訳される)状態に誘い込む。しかしスポーツは身体的であり、決して特別な感受性を必要とはしない。さらに今日では芸術にはむしろこうしたエクスタシーから遠ざかることが必要になっている。宗教はたんなるエクスタシーとは異なるものをもっている。そうなるとスポーツのスタジアムで集団的に一体化することは今日、もっとも普通の人間にエクスタシーを経験させるものではないのか。われわれのまわりには群衆がひしめいている。自分もそのひとりなのである。この群衆経験の極限にあるのがエクスタシーである。ファシズムの集団的行動は、このエクスタシーあるいはダブル・バインドの消滅を意識的に取り入れたものであった。エクスタシーの瞬間のもたらす幻覚は、日常を離脱し、他界に触れ、真の存在を取りもどしたかのように錯覚させることである。〔 ニ 〕

【5】しかし、現代社会では今後ますますメディアの力はひろがり、直接的経験は少なくなる。このことは間違いない。言い換えると、スポーツはますます記号として消費される身体のパフォーマンスになる。これには明らかに二つの面がある。ひとつは、〔  ③  〕しかし、もう一面では、その放映権料がスポーツを支え、巨大な資本の力は浸透度をさらに強めていくだろう。主体のない巨大な力がひろがる領域は、一見すると力の支配のメカニズムの場に見えるが、スポーツはそのメカニズムが単純なだけに、その④  ディジタルな競争の無限の反復は、反対に資本主義のモデルに見えるようになっていくだろう。〔 ホ 

(多木浩ニ『スポーツを考える』)

 

ーーーーーーーー

 

【設問】

問1 次の一文は本文中に入るべきものである。〔イ〕~〔ホ〕の中から最適な箇所を選べ。

そう考えると政治がスポーツを利用したというより、スポーツこそ政治のモデルであったのかもしれない。

 

問2 空欄①・②に入る最適な語句を、それぞれ、次の中から選べ。

①  イ 記号化   ロ 実体化   ハ 正常化  ニ 特権化

②  イ 絶対的   ロ 抽象的   ハ 理想的  ニ 歴史的

 

問3 空欄③に入る最適なものを次の中から選べ。

イ メディアと観客の関係は、それ自体が一種のねじれたダブル・バインドの様相を呈するようにもなる

ロ 確かに観客はメディアによって集合化はされるが、メディアは観客のエクスタシーを脱色する機能にもなる

ハ 疑いなくメディアは観客を集合化し、メディアが観客のエクスタシーをいっそう煽り立てる役割を果たすことにもなる

ニ メディアが集合化しようとすればするほど、観客はメディアの提供するエクスタシーからますます遠ざかる結果にもなる

 

問4 傍線部④「ディジタルな競争」とは、ここではどのようなことを指しているか。次の中から、最適なものを選べ。

イ スポーツの記録や判定に、ディジタル時計の精度が求めらること。 

ロ スポーツの結果が、結局は勝つか負けるの二者択一に帰着すること。

ハ スポーツの勝敗や選手の成績など、すべて数字によって表示されること。

ニ スポーツから人間的な要素を切り捨て、合理性と勝敗のみを追求すること。

 

問5 本文の論旨と合致しないものが次の中に2つある。それを選べ。

イ スポーツを観る経験の仕方の1つは、メディアによってスペクタクルとして受けとることであり、それは今日では決して特異な経験とは言えない。

ロ スポーツのスタジアムで集団的に一体化することは、日常性からの逸脱であり、われわれがすでにそのゲームの一部になっていることを意味する。

ハ一見すると、巨大な資本の力がスポーツに浸透しつつあるように見えるが、実際はスポーツこそが巨大な資本のメカニズムを操っているのである。

ニ テレビによる観戦の経験ではなく、スポーツを直接観る経験こそが、われわれを日常生活におけるダブル・バインドの状態から脱出させるものだ。

ホ エクスタシーはスポーツの独占物ではないが、今日では芸術や宗教によるよりも、はるかに深いエクスタシーが、スポーツの観戦によって得られる。

 


ーーーーーーーー

 

【解法・解答】

問1(空欄補充問題)

    「スポーツと政治」の関係について論じている段落はどこか?

  【4】段落第6文以下、特に第10文に注目してください。

「そうなるとスポーツのスタジアムで集団的に一体化することは今日、もっとも普通の人間にエクスタシー(→「エクスタシー」という言葉はギリシャ語のエクスタシスが語源で、神との合一、魂の現象界への離脱といった意味合いがある。快感が最高潮に達して無我夢中の状態になること。恍惚(こうこつ)。忘我)を経験させるものではないのか。われわれのまわりには群衆がひしめいている。自分もそのひとりなのである。この群衆経験の極限にあるのがエクスタシーである。(第10文→)ファシズム(→第一次大戦後に出現した全体主義的・排外的な政治理念・政治体制。自由主義に反対し、一党独裁による専制主義・国粋主義を採用する。対外的には反共政策・侵略政策をとる。初めはイタリアのムッソリーニの政治運動呼称であったが、広義にはドイツのナチズムやスペイン等の同様の政治運動を指す。「ファッショ」)の集団的行動は、このエクスタシーあるいはダブル・バインド(→「ダブル・バインド」とは、二つの矛盾した命令をすることで、相手の精神にストレスがかかる状態)の消滅を意識的に取り入れたものであった。エクスタシーの瞬間のもたらす幻覚は、日常を離脱し、他界に触れ、真の存在を取りもどしたかのように錯覚させることである。」


(解答)  ニ


問2(空欄補充問題)

① 空欄①直前の「それ」とは、1つ前の文の「今そこで起こったことを再現して検証したり、ファウルをチェックしたりすること」をさし、これは【1】段落第4文以下「メディアはスポーツを記号化し、観戦者はそのなかに没入することはないが、その記号を自分のペースで利用することができる。これはとくにテレビの場合に著しい。」を意味しています。

 なお、「記号化」とは、「個々の具体的特徴や違いを省略化して、事実を単純化・シンボル化する」という意味です。

 

② 直後の第5文以下「日常のわれわれの生活はダブル・バインド(二重拘束)の状態にある。というのは現代社会は多価値的であり、同時に相反する異質な価値を受けとることが普通の状態であるからである。われわれは最初からねじれた存在である。スポーツを直接観ることはそのことを忘れさせる。われわれは日常のダブル・バインドの状態から脱出する。少なくとも人びとは真の存在を回復したような錯覚に陥る。われわれはこのことをエクスタシーと呼んでいる。 」に着目してください。

 特に、最終部分の「真の存在を回復したような錯覚」・「エクスタシー」に着目するとよいでしょう。

 まさに、「絶対的瞬間」と言えます。


(解答)  ① イ  ② イ

 

問3(空欄補充問題)

【2】段落第1文「テレビによる経験は、最初からある距離をとっているから、決して臨場的なエクスタシーを感じることはない。

【4】段落第6文以下「そうなるとスポーツのスタジアムで集団的に一体化(→「集団的に一体化」の部分に「身体論な視点」があります)することは今日、もっとも普通の人間にエクスタシーを経験させるものではないのか。われわれのまわりには群衆がひしめいている。自分もそのひとりなのである。この群衆経験の極限にあるのがエクスタシーである。ファシズムの集団的行動は、このエクスタシーあるいはダブル・バインドの消滅を意識的に取り入れたものであった。エクスタシーの瞬間のもたらす幻覚は、日常を離脱し、他界に触れ、真の存在を取りもどしたかのように錯覚させることである。そうかんがえると政治がスポーツを利用したというより、スポーツこそ政治のモデルであったのかもしれない。 」

の対比より判断するとよいでしょう。

 

 イは、【3】段落(→「日常のわれわれの生活はダブル・バインド(二重拘束)の状態にある。というのは現代社会は多価値的であり、同時に相反する異質な価値を受けとることが普通の状態であるからである。われわれは最初からねじれた存在である」)から見て、「ダブル・バインド」の意味を取り違えています。

 

(解答) ロ

 

問4(傍線部説明問題)

 傍線部直前の「その」は、「スポーツはそのメカニズムが単純な」を指しています。

 次に、「傍線部それ自体」(→「ディジタルな競争」)に注目する必要があります。

 「ディジタル」(→「デジタル」とも表記)とは、「連続的な数量に基づく『アナログ』に対して、離散的な数量に基づき値を扱う方式」という意味です。

 また、「ディジタルデータ」はすべて「0」と「1」を組み合わせた数字で構成されています。つまり、「有」・「無」のどちらかです。そのため、「ディジタル」は「単純」の意味で使用されることが多いのです。

 以上より、ロ(→「スポーツの結果が、結局は勝つか負けるの二者択一に帰着すること」)が正解になります。

 

 ニは「合理性を追求すること」の部分が「ディジタルな競争」からズレるので、誤りです。

 

 (解答)  ロ

 

問5(趣旨合致問題)

イ イは、「スポーツを観る経験の仕方の1つは、メディアによってスペクタクル(→「スペクタクル」とは「視覚的に強烈な印象を与えるようなもの」という意味。広義では、光景や情景などが意味される。芸能業界用語としては、「視覚的に強い印象を与えるような大掛かりな場面や出し物」の意味)として受けとることであり、それは今日では決して特異な経験とは言えない。」となっています。

 これは、
【1】段落第1文「スポーツを観る経験の仕方はふたつある。ひとつはメディアによってスペクタクルとして受けとることである。それは消費行動になる。」

【2】段落(特に第4文以下)
「【2】テレビによる経験は、最初からある距離をとっているから、決して臨場的なエクスタシーを感じることはない。しかし、これはスポーツにたいして空間的、時間的に個人的な経験を拡大する。われわれは決して個人では経験できないいろいろな角度、いろいろな視野で観られるだけでなく、反復して観ることもできるし、スローで確かめることもできる。つまり、スポーツをメディアが構成する言説として受けとる。これは特異な経験ではない。

に合致しています。

 

 なお、本書には、「スペクタクルとしてのスポーツは日常を超えているのではなく、日常生活では拡散して見えにくくなる身体感覚を、目に見えるまで凝縮して情報の領域に持ち込むものなのである。」との記述があります。


ロ (「スポーツのスタジアムで集団的に一体化することは、日常性からの逸脱であり、われわれがすでにそのゲームの一部になっていることを意味する。」)は、

【1】段落第5文、【3】段落第1文以下に合致しています。

【3】段落「しかし、スタジアムに行くことは、すでにそのゲームの一部になることである。もちろん今そこで起こったことを再現して検証したり、ファウルをチェックしたりすることなどできない。それができないことは、スポーツ観戦が〔①=記号化]できないことに他ならない。そのとき、テレビでは決してありえない〔②=絶対的〕瞬間を経験する。日常のわれわれの生活はダブル・バインド(二重拘束)の状態にある。というのは現代社会は多価値的であり、同時に相反する異質な価値を受けとることが普通の状態であるからである。われわれは最初からねじれた存在である。スポーツを直接観ることはそのことを忘れさせる。われわれは日常のダブル・バインドの状態から脱出する。少なくとも人びとは真の存在を回復したような錯覚に陥る。われわれはこのことをエクスタシーと呼んでいる。


ニ (「テレビによる観戦の経験ではなく、スポーツを直接観る経験こそが、われわれを日常生活におけるダブル・バインドの状態から脱出させるものだ。」)は、

【3】段落第5文以下に合致しています。

【3】段落第5文以下「日常のわれわれの生活はダブル・バインド(二重拘束)の状態にある。というのは現代社会は多価値的であり、同時に相反する異質な価値を受けとることが普通の状態であるからである。われわれは最初からねじれた存在である。スポーツを直接観ることはそのことを忘れさせる。われわれは日常のダブル・バインドの状態から脱出する。少なくとも人びとは真の存在を回復したような錯覚に陥る。われわれはこのことをエクスタシーと呼んでいる。 」

 

ハ (→「一見すると、巨大な資本の力がスポーツに浸透しつつあるように見えるが、実際はスポーツこそが巨大な資本のメカニズムを操っているのである。」)は、

【5】段落最終後半部分(→「もう一面では、その放映権料がスポーツを支え、巨大な資本の力は浸透度をさらに強めていくだろう。主体のない巨大な力がひろがる領域は、一見すると力の支配のメカニズムの場に見えるが、スポーツはそのメカニズムが単純なだけに、そのディジタルな競争の無限の反復は、反対に資本主義のモデルに見えるようになっていくだろう。」)より不適です。

 

ホ (「エクスタシーはスポーツの独占物ではないが、今日では芸術や宗教によるよりも、はるかに深いエクスタシーが、スポーツの観戦によって得られる。」)は【4】段落に関連しますが、このような「エクスタシーの深さ」に関する記述はないので、不適です。


【4】段落「言うまでもないが、エクスタシーはスポーツの独占物ではない。芸術がもっとも深いエクスタシーを生みだしてきたであろうし、宗教も人をトランス状態に誘い込む。しかしスポーツは身体的であり、決して特別な感受性を必要とはしない。さらに今日では芸術にはむしろこうしたエクスタシーから遠ざかることが必要になっている。宗教はたんなるエクスタシーとは異なるものをもっている。そうなるとスポーツのスタジアムで集団的に一体化することは今日、もっとも普通の人間にエクスタシーを経験させるものではないのか。われわれのまわりには群衆がひしめいている。自分もそのひとりなのである。この群衆経験の極限にあるのがエクスタシーである。ファシズムの集団的行動は、このエクスタシーあるいはダブル・バインドの消滅を意識的に取り入れたものであった。エクスタシーの瞬間のもたらす幻覚は、日常を離脱し、他界に触れ、真の存在を取りもどしたかのように錯覚させることである。そうかんがえると政治がスポーツを利用したというより、スポーツこそ政治のモデルであったのかもしれない。 」

 

 (解答) ハ・ホ

 

ーーーーーーーー 

 

(3)要約 

スポーツを観る経験の仕方は2つある。1つはメディアによりスペクタクルとして受けとることである。観戦者はメディアにより記号化されたスポーツを自分のペースで利用することができる。もう1つは、スタジアムに行くことである。スタジアムで集団的に一体化することは、最も普通の人間に、エクスタシー、あるいは、ダブル・バインドの消滅を経験させるものである。現代社会では、今後メディアの力は広がり、スポーツはますます記号化される。スポーツのディジタルな競争の無限の反復は、反対に資本主義のモデルに見えるようになっていくだろう。



生きられた家

 

 

(4)多木浩二氏の紹介

 

多木 浩二(たき こうじ、1928年 - 2011年4月13日)は、日本の思想家、批評家(美術評論家・写真評論家)。専門は、芸術学、哲学。
兵庫県神戸市生まれ。旧制第三高等学校、東京大学文学部美学美術史学科卒業。東京造形大学教授、千葉大学教授、神戸芸術工科大学客員教授を歴任。

 

【著書】

『生きられた家』(田畑書店、1976年)、のち改訂『生きられた家 経験と象徴』(青土社、1984年/岩波書店《岩波現代文庫》、2001年)

『眼の隠喩 視線の現象学』(青土社/筑摩書房《ちくま学芸文庫》、2008年)

『欲望の修辞学』(青土社、1987年)

『天皇の肖像』(岩波書店《岩波新書》、1988年/《岩波現代文庫》、2002年)

『写真の誘惑』(岩波書店、1990年)

『ヌード写真』(岩波書店《岩波新書》、1992年)

『都市の政治学』(岩波書店《岩波新書》、1994年)

『スポーツを考える 身体・資本・ナショナリズム』(筑摩書房《ちくま新書》、1995年)

『戦争論』(岩波書店《岩波新書》、1999年)

『ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』(岩波書店《岩波現代文庫》、2000年)

『写真論集成』(岩波書店《岩波現代文庫》、2003年)

『雑学者の夢』(岩波書店、2004年)

『進歩とカタストロフィ モダニズム夢の百年』(青土社、2005年)

『肖像写真 時代のまなざし』(岩波書店《岩波新書》、2007年)

『映像の歴史哲学』(みすず書房、2013年)等

 

 

(5)当ブログにおける「スポーツ」関連記事の紹介

 

 

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ーーーーーーーー

 

 今回の記事は、これで終わりです。

 次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

 ご期待ください。

 

  

 

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スポーツを考える―身体・資本・ナショナリズム (ちくま新書)

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眼の隠喩―視線の現象学 (ちくま学芸文庫)

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都市の政治学 (岩波新書 新赤版 (366))

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戦争論 (岩波新書)

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

 

 

5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

 

 

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予想問題「擬似群衆の時代」『書物の変』港千尋/早大・千葉大過去問

(1)はじめに

 港千尋氏は、入試国語(現代文)・小論文におけるトップレベルの頻出著者です。
 特に、『書物の変 グーグルベルクの時代』は、最近の頻出著書になっています。


 以下に、主な出題例を挙げます。小論文の場合は、その旨を表記します。現代文(国語)は、表記しません。

 早稲田大学(スポーツ科学部)、
 千葉大学、
 島根大学(小論文)、
 立教大学(全学部)、

 以上のうち、早稲田大学(スポーツ科学部)と千葉大学では、同一箇所(「疑似群衆の時代」)から出題されました。
 この問題は、これからも出題の可能性があるので、この記事で解説します。


 今回の記事の項目は、以下の通りです。

(2)予想問題解説/「疑似群衆の時代」港千尋/早稲田大学スポーツ科学部・千葉大学過去問

 (3)港千尋氏の紹介

 (4)当ブログにおける「情報化社会」関連記事の紹介

 (5)当ブログにおける「早大現代文・小論文」関連記事の紹介

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書物の変―グーグルベルグの時代

 

 

(2)予想問題解説/「疑似群衆の時代」港千尋/早稲田大学スポーツ科学部・千葉大学過去問

 

(問題文本文)(概要です)

(【1】・【2】・【3】・・・・は当ブログで付記した段落番号です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です) 


(問)次の文章を読み、後の問いに答えよ。


【1】ヨーロ ッパで写真が発明されたのは 19世紀の前半だが、 その発明直後から複製メディアとして大きな成功を収めたのは、まさしくそれが大衆社会の到来に重なっていたからである。それ以来レンズは多くの人間の集団を写してきた。人間は生まれてから死ぬまで、その人生の節目ごとに写真に撮られてきた。家族写真にはじまり、学校や会社、あるいは村や町などの祭や〔A〕行事には必ず記念写真が付き物であり、集団はイメージによって記録されてきた。

 

ーーーーーーーー


(設問)

 問1 空欄Aに入る2字の語句を次の中から1つ選べ。(早大・スポーツ科学部)

イ 葬礼 ロ 集団 ハ 重要 ニ 年中 ホ 協賛

 

……………………………


(解説・解答)

問1(空欄補充問題)

 「家族写真にはじまり、学校や会社、あるいは村や町などの祭や〔A〕行事には必ず記念写真が付き物であり、集団はイメージによって記録されてきた」の文脈を押さえてください。

 

(解答) ニ

 

ーーーーーーーー

 

(問題文本文)(概要です)

【2】19世紀後半には南北戦争やクリミア戦争にも写真家が駆けつけて、写真が報道の分野に大きな一歩を踏み出してゆく。おそらく人類は、この170年に限ってみても、それ以前に生産されたイメージよりも多くの映像を残してきただろう。わたしたちが1日の間に目にすることの映像の量が、中世に生きた人間が一生の間に出会う絵の量をはるかに超えているとしても、なんら不思議はない。
【3】時代が動く時、それはしばしば大きな群衆現象を伴う。1989年代の秋から冬にかけて、旧ソ連と東ヨーロッパで起きた一連の革命は、日増しに大きくなるテモや集会が雪崩のようにして、当時の政権を倒していった。わたし自身それらのデモや集会、あるいはその後に続く内戦などを見つめてきたが、21世紀も最初の10年を過ぎようとする今、時代を動かしてゆく群衆のあり方が、少し変わってきているようにみえる。その変化は当然、社会の変化と連携しているはずである。
【4】少なくともベルリンの壁が崩壊するまで、単なる1  群衆現象はマスメディアと切り離すことの出来ない関係にあった。権力は群衆の中から生まれ、また群衆は権力との緊張関係の中に存在するが、その関係をとりもつものとしてマスメディアが、大きな影響力をもってきたことは改めて言うまでもない。その役割自体にそれほどの変化はないが、個人の側から見ると、わたしたちが現在手にしている 2  新しい種類のメディアには驚くべきものがある。言うまでもなく、小型の情報通信端末と、それに向けたさまざまなサービスである。メディアの小型化と複合化とともに、情報の配信技術も高度化し、映像や音楽をどこでも受信するだけでなく、個人がさまざまな情報を配信することも日常的な活動となっている。

 

ーーーーーーーー

 

(設問)

問2 傍線部1「群衆現象はマスメディアと切り離すことの出来ない関係にあった」は、具体的にはどういうことか。その説明として最適なものを次の中から1つ選べ。

(早大・スポーツ科学部)

イ 新聞や雑誌のようなマスメディアが、多くの人々によって購入されることで利益をあげ、部数を伸ばして発展してきたということ。

ロ 大衆社会においては、ことあるごとに写真を撮ることが当然のこととなっていったため、群衆もその中で記録され、マスメディアの中にイメージとして残されていくこと。

ハ マスメディアは、多くの読者、視聴者を対象としており、集団に影響を与えるため、偏りのない情報を流すことが求められてきたこと。

ニ テレビや新聞の情報によって人々が集まって行動したり、群衆の行動を、それらメディアが報じることで、より大きな行動を引き起こしたりすること。


……………………………

 

(解説・解答)

問2(傍線部説明問題)

 傍線部直後の一文「権力は群衆の中から生まれ、また群衆は権力との緊張関係の中に存在するが、その関係をとりもつものとしてマスメディアが、大きな影響力をもってきたことは改めて言うまでもない。」に注目してください。

 傍線部1の説明になっています。

 

(解答) ニ


ーーーーーーーー

 

(設問)

問3 傍線部2「新しい種類のメディア」とあるが、本文では、これらがどのような変化をもたらしたとしているか。その説明として最適なものを次の中から選べ。

(早大・スポーツ科学部)

イ 情報通信端末の普及により、職場や学校といった場所にとらわれず、どこでも映像が見られるようになった。

ロ 誰でも、どこからでも、多くの人に向けた文章や映像を気軽に送受信することができるようになった。

ハ 新たな映像技術によって、実際には存在しない人物や事物が細部まで細かく映像化できるようになった。

ニ 遠くで起こった出来事が多くの人々に知らされることによって、誰しもが情報を共有できるようになった。


……………………………


(解説・解答)

問3(傍線部説明問題)

 傍線部直後の2文で傍線部を説明しています。
「言うまでもなく、小型の情報通信端末と、それに向けたさまざまなサービスである。メディアの小型化と複合化とともに、情報の配信技術も高度化し、映像や音楽をどこでも受信するだけでなく、個人がさまざまな情報を配信することも日常的な活動となっている。」

 イは、「情報の配信」の説明が、ありません。

 

(解答) ロ

 

ーーーーーーーー

 

(問題文本文)(概要です)

【5】この変化の特徴のひとつは、メディアが家や家庭といった、特定の場所に固定されることから完全に解放された点にある。モバイルという言葉が端的に示しているように、受信と発信の核となる移動型のパーソナルメディアが爆発的に拡大している。その一方で、超小型化したコンピューターが、人間社会のいたるところに入り込み、今やわたしたちは朝目覚めてから夜寝るまで、いや寝ている間さえ、コンピューターの存在から逃れることはできない。電子マネーを例にとるまでもなく、情報化社会は人間の社会活動のすべてがコンピューターを介して執り行われる方向へと、つき進んでいる。

【6】3  そのことがもたらす効率や安全の旗印と引き換えに、私たちが非常に厳しい管理と監視の社会に生きなければならないことも、なかば事実である。情報管理が行き届いた現在は、20世紀の群衆がマスメディアと取り持っていた関係とは、質的に違う状態へ入りつつあることは、誰もが肌で感じることではないだろうか。ポスト産業社会ならぬ、ポスト情報化社会に、この地球全体が入りつつあることを、群衆を眺めてきた者のひとりとして実感するのだ。そして、このことが今日の群衆に、新たな性格を与え始めているように思える。それは互いに関係している。ふたつの増大によって特徴づけられる。


ーーーーーーーー

 

(設問)

問4 傍線部3「そのことがもたらす効率や安全の旗印と引き換えに、私たちが非常に厳しい管理と監視の社会に生きなければならない」の具体的な事例として適切でないものを次の中から1つ選べ。(早大・スポーツ科学部)

イ 匿名、別名で意見を述べたり、コミュニケーションを行う機会が増えることで、無責任で一方的な情報が流される危険性が生じる。

ロ 容易に買い物や取引ができる一方で、自分の買い物の傾向や好みについての情報が、別の企業に売り渡される危険性も生まれる。

ハ 携帯電話を使うことで、その通信内容や、どこで何をしていたかが記録として残されたり、誰かに見られたりする危険性が出てくる。

ニ 学校の中の色々な場所を映像で映し出すことで、不審者が入ってくることを防止できる反面、学生までもそれによって常に見張られる危険性がある。

 

……………………………

 

(解説・解答)

問4(傍線部説明問題)

 「適切でないもの」を選ぶことに注意してください。

 傍線部3「そのことがもたらす効率や安全の旗印と引き換えに、私たちが非常に厳しい管理と監視の社会に生きなければならない」自体を、熟読する必要があります。


 また、傍線部直後の記述がヒントになっています。

情報管理が行き届いた現在は、20世紀の群衆がマスメディアと取り持っていた関係とは、質的に違う状態へ入りつつあることは、誰もが肌で感じることではないだろうか。ポスト産業社会ならぬ、ポスト情報化社会に、この地球全体が入りつつあることを、群衆を眺めてきた者のひとりとして実感するのだ。そして、このことが今日の群衆に、新たな性格を与え始めているように思える。それは互いに関係している。ふたつの増大によって特徴づけられる。」

 イは、後半部分が「管理と監視」と無関係です。

 

(解答) イ


ーーーーーーーー

 

(問題文本文)(概要です)

【7】その 1 つは、X  疑似群衆の増大と名付けることが出来るだろう。インターネット上に形成されている、さまざまなコミュニティを想像すると分かりやすいかもしれない。Twitterのように言葉を介している場合もあれば、オンラインゲームのようにアクションの共有によって形成されている群衆もある。あるいは登録している数が数百万という、仮想の都市「セカンドライフ」。すでに各国の企業が出資しているばかりでなく、セカンドライフ上にギャラリーや美術館をオープンするアーティストも出てきている。

【8】こうした、実空間で互いに隔離されているのに、情報空間では互いに影響を与えられる具体的な関係をもっている擬似的な群衆が、より実在の群衆を凌駕してしまうという現実である。これはお茶の間でテレビの前に座っている間に形成されている、視聴者という名の群衆とは明らかに異なる性格のものだ。それは物理的な建築を必要としない、新しい都市であり、どこにも場所をもたないが、あらゆるところに存在しているとも言える空間である。4  わたしたちが生きる都市とは、この空間と絶え間のないイメージ交換によって成立している。

 


ーーーーーーーー

 

(設問)

問5 傍線部4「わたしたちが生きる都市とは、この空間と絶え間のないイメージ交換によって成立している」は、どういうことか。その説明として最適なものを次の中から1つ選べ。(早大・スポーツ科学部)

イ インターネット上の仮想の集団やコミュニティは、私たちが生きている実際の空間とは別であり、現実とかけ離れた意見やイメージが交換されている。

ロ 実際には、バラバラな場所にいる人々が、互いにイメージを交換しあうことにより、あたかも1つの場所に集まっているかのような認識が生まれる。

ハ 仮想空間の中で生まれた評価や意見が、そこにあたかも群衆が存在しているかのようなイメージを作り出し、そのイメージが現代の群衆を作り上げてもいる。

ニ 現代は、インターネット上の意見やコミュニケーションからの影響が大きいために、私たちの都市は、それら仮想の空間に近い形をとりはじめている。 


……………………………

 

(解説・解答)

問5(傍線部説明問題) 

 傍線部の「わたしたちが生きる都市とは、この空間と絶え間のないイメージ交換によって成立している。」に着目して、傍線部4を含む【8】段落を熟読するとよいでしょう。

 特に、下記の赤字部分に注目してください。

【8】段落「こうした、実空間で互いに隔離されているのに、情報空間では互いに影響を与えられる具体的な関係をもっている擬似的な群衆が、より実在の群衆を凌駕してしまうという現実である。これはお茶の間でテレビの前に座っている間に形成されている、視聴者という名の群衆とは明らかに異なる性格のものだ。それは物理的な建築を必要としない、新しい都市であり、どこにも場所をもたないが、あらゆるところに存在しているとも言える空間である。4  わたしたちが生きる都市とは、この空間と絶え間のないイメージ交換によって成立している。」

 

(解答) ハ

 

ーーーーーーーー

 

(問題文本文)(概要です)

【9】もう 1 つは〔 B 〕の増大と仮に呼ぶことが出来るだろう。かつてなかったほどの多くの情報チャンネルを持った個人は、意思の決定を先延ばしにする傾向がある。それは必ずしも、待ち合わせの場所をあらかじめ決めないというような、単なる習慣の変化ではない。残されている時間がある限り、より多くの情報を手にしつつ、最後の瞬間まで心を決めない。決定しない群衆が、購買から投票までさまざまな局面において、影響を増してゆくのではないか。例えば、選挙に関するアンケートで「分からない」と回答する比率が多い時、必ずしもそれは消極的な意見を表しているのではないのかもしれない。それこそが擬似群衆に特有の態度であるかもしれない。


ーーーーーーーー

 

(設問)

問6 空欄Bに当てはまる言葉を次の中から1つ選べ。(早大・スポーツ科学部)

イ 非論理性
ロ 非日常性
ハ 非決定性
ニ 非現実性
ホ 非公開性


……………………………


(解説・解答)

問6(空欄補充問題)

 空欄Bの直後の記述を熟読してください。

 →要約ではなく、熟読です。ましてや、「要約のメモ」は、入試本番では、有害無益でしかありません。

 特に、赤字部分に注目してください。

「もう 1 つは〔 B 〕の増大と仮に呼ぶことが出来るだろう。かつてなかったほどの多くの情報チャンネルを持った個人は、意思の決定を先延ばしにする傾向がある。それは必ずしも、待ち合わせの場所をあらかじめ決めないというような、単なる習慣の変化ではない。残されている時間がある限り、より多くの情報を手にしつつ、最後の瞬間まで心を決めない。決定しない群衆が、購買から投票までさまざまな局面において、影響を増してゆくのではないか。」


(解答) ハ

 

ーーーーーーーー

 

(問題文本文)(概要です)

【10】このような特徴を潜在させてレンズの前に立ち現れる人間たちは、かつてとは違った装いをしているだろうか。歴史上さまざまな群衆が記録されてきたが、ポスト情報化社会を形成する最大の群衆は,目に見えないのではないか。それをひとことで表すならば、Y  「待機する群衆」ではないかと思う。都市だけではない。地球上のどこにいても、情報システムを通じてつながっている群衆は、常に何かを待っている。たとえば労働の場において、非正規社員や移民労働者の不当解雇が世界規模の問題となっているが、それは見方を変えると、常に待機することを余儀なくされる人々が爆発的に増大しているということではないかと思うのである。

【11】彼女や彼は、掌の小さな画面を見つめながら、何かを待っている。待つ群衆がいかなる力を潜在させているのか、それが見えてくるかどうかは、芸術にとっても政治にとっても、無視の出来ないテーマになるであろう。(港千尋「擬似群衆の時代」)


ーーーーーーーー

 

(設問)

問7 本文の中で、筆者は「現在の群衆の特徴」をいかにとらえているか。最適なものを次の中から1つ選べ。(早大・スポーツ科学部)

イ 仮想空間で生まれた意見や評価は、実際に集まった群衆によるものではないが、今日では実際の群衆よりも強い影響力さえ持っている。

ロ 写真というメディアは大衆社会とともに生まれ、群衆を記録してきているので、現代の群衆もまた写真からその性質をとらえることが有効である。

ハ 厳しい管理と監視の中にある現代社会では、自分の行動を目立たせないよう、自身の決定を表明しない傾向が群衆の中に生まれている。

ニ 「待機する群衆」は、特定の思想をもって積極的に集まって行動するわけではないので、現実には社会を変えていく力となることは難しい。


……………………………

 

(解説・解答)

問7(キーワード説明問題)

 イは傍線4を含む【8】段落・第1文に一致しています。

【8】段落「こうした、実空間で互いに隔離されているのに、情報空間では互いに影響を与えられる具体的な関係をもっている擬似的な群衆が、より実在の群衆を凌駕してしまうという現実である。これはお茶の間でテレビの前に座っている間に形成されている、視聴者という名の群衆とは明らかに異なる性格のものだ。それは物理的な建築を必要としない、新しい都市であり、どこにも場所をもたないが、あらゆるところに存在しているとも言える空間である。4  わたしたちが生きる都市とは、この空間と絶え間のないイメージ交換によって成立している。

 

(解答) イ

 

ーーーーーーーー

 

(設問)

問8 傍線部X 「擬似群衆」(【7】段落)とはどのようなものか。120字程度で分かりやすく説明せよ。(千葉大)


……………………………


(解説・解答)

問8(傍線部説明問題・キーワード説明問題・記述問題)

 「疑似群衆」については、以下の段落をまとめてください。

【8】段落「こうした、実空間で互いに隔離されているのに、情報空間では互いに影響を与えられる具体的な関係をもっている擬似的な群衆」「それは物理的な建築を必要としない、新しい都市であり、どこにも場所をもたないが、あらゆるところに存在しているとも言える空間である。」

【10】段落「地球上のどこにいても、情報システムを通じてつながっている群衆」

 

(解答)
実空間では互いに隔離されているのに、情報空間では互いに影響を与えられる具体的な関係を持っていることに代表される、特定の場所に固定されることから解放されて場所を持たないが、あらゆる所に存在しているといえるもの。

 

ーーーーーーーー

 

(設問)

問9 傍線部Y 「待機する群衆」(【9】段落)を筆者はどのように評価していると考えられるか。文章全体を視野に入れながら、170字程度で説明しなさい。(千葉大)

 

……………………………

 

(解説・解答)
問9(傍線部説明問題・キーワード説明問題・記述問題)

 「待機する群衆」と、「筆者によるその評価」については、以下の段落を、まとめるとよいでしょう。

【6】段落「3  そのことがもたらす効率や安全の旗印と引き換えに、私たちが非常に厳しい管理と監視の社会に生きなければならないことも、なかば事実である。情報管理が行き届いた現在は、20世紀の群衆がマスメディアと取り持っていた関係とは、質的に違う状態へ入りつつあることは、誰もが肌で感じることではないだろうか。ポスト産業社会ならぬ、ポスト情報化社会に、この地球全体が入りつつあることを、群衆を眺めてきた者のひとりとして実感するのだ。そして、このことが今日の群衆に、新たな性格を与え始めているように思える。それは互いに関係している。ふたつの増大によって特徴づけられる。」

【7】段落「その 1 つは、A  擬似群衆の増大と名付けることが出来るだろう。インターネット上に形成されている、さまざまなコミュニティを想像すると分かりやすいかもしれない。Twitterのように言葉を介している場合もあれば、オンラインゲームのようにアクションの共有によって形成されている群衆もある。」

【9】段落「もう 1 つは〔B=非決定性〕の増大と仮に呼ぶことが出来るだろう。かつてなかったほどの多くの情報チャンネルを持った個人は、意思の決定を先延ばしにする傾向がある。残されている時間がある限り、より多くの情報を手にしつつ、最後の瞬間まで心を決めない。決定しない群衆が、購買から投票までさまざまな局面において、影響を増してゆくのではないか。」

【10】段落「歴史上さまざまな群衆が記録されてきたが、ポスト情報化社会を形成する最大の群衆は,目に見えないのではないか。それをひとことで表すならば、Y  「待機する群衆」ではないかと思う。都市だけではない。地球上のどこにいても、情報システムを通じてつながっている群衆は、常に何かを待っている。たとえば労働の場において、非正規社員や移民労働者の不当解雇が世界規模の問題となっているが、それは見方を変えると、常に待機することを余儀なくされる人々が爆発的に増大しているということではないかと思うのである。

【11】段落「彼女や彼は、掌の小さな画面を見つめながら、何かを待っている。待つ群衆がいかなる力を潜在させているのか、それが見えてくるかどうかは、芸術にとっても政治にとっても、無視の出来ないテーマになるであろう。

 

(解答)
ポスト情報化社会に移行しつつある現代社会において、「擬似性」・「非決定性」という明確な特徴を持つ「待機する群衆」が出現したのは、ある意味で、きわめて当然のことである。爆発的に増大しつつあるこのような人々がいかなるバワーを潜在させているのかは、芸術においても政治においても、無視することができない、注目するべきテーマであると評価している。

 

 

(3)港千尋氏の紹介

 

港  千尋(みなと ちひろ、1960年9月25日生まれ

写真家、映像人類学者。早稲田大学政治経済学部卒業。南米滞在後、パリを拠点に写真家として活躍。また同時に、混迷の時代をするどく射抜く独自の批評活動を展開。芸術の発生、記憶と予兆、イメージと政治などをテーマに、ラディカルな知と創造のスタイルを提示。1995年より多摩美術大学美術学部で教鞭をとり、現在は同大学情報デザイン学科教授。
 2006年〈市民の色〉で伊奈信男賞受賞。2007年第52回ヴェネチア・ビエンナーレ美術展における日本館の展示企画コミッショナーに就任。

 

【受賞歴】

1997年 『記憶 - 「創造」と「想起」の力』でサントリー学芸賞受賞(社会・風俗部門)

2006年 写真展「市民の色 chromatic citizen」で第31回 伊奈信男賞受賞(ニコンサロン)

 

【単著】 

『ブラジル宣言』(弘文堂 1988)

『太平洋の迷宮 キャプテン・クックの冒険』(リブロポート 1988)

『群衆論 20世紀ピクチャー・セオリー』(リブロポート 1991/のち、ちくま学芸文庫)

『考える皮膚 触覚文化論』(青土社 1993)

『注視者の日記』(みすず書房 1995)

『記憶 創造と想起の力』(講談社選書メチエ 1996/サントリー学芸賞)

『写真という出来事 クロニクル1988-1994』(フォトプラネット 1998)

『映像論 〈光の世紀〉から〈記憶の世紀〉へ』(NHKブックス 1998)

『自然まだ見ぬ記憶へ』(NTT出版 2000)

『遠心力 冒険者たちのコスモロジー』(白水社 2000)

『予兆としての写真 映像原論』(岩波書店 2000)

『第三の眼 デジタル時代の想像力』(廣済堂出版 2001のち新編、せりか書房 2009)

『洞窟へ 心とイメージのアルケオロジー』(せりか書房 2001)

『影絵の戦い  9・11以降のイメージ空間』(岩波書店 2005)

『レヴィ=ストロースの庭』(NTT出版 2008)

『愛の小さな歴史』(インスクリプト 2009)

『書物の変 グーグルベルグの時代』(せりか書房 2010)

『芸術回帰論』(平凡社新書 2012) 

『ヴォイドへの旅 空虚の力の想像力について』(青土社 2012) 

『ヒョウタン美術館』(WAVE 出版)

『夢みる人のクロスロード 美術と記憶の場所』(平凡社)

 など。

 

 

(4)当ブログにおける「情報化社会」関連記事の紹介

  

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 (5)当ブログにおける「早大現代文・小論文」関連記事の紹介

 

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 ーーーーーーーー

 

 今回の記事は、これで終わりです。

 次回の記事は約1週間後の予定です。

 ご期待ください。

 

    

 

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書物の変―グーグルベルグの時代

書物の変―グーグルベルグの時代

 

 

 

芸術回帰論 (平凡社新書)

芸術回帰論 (平凡社新書)

 

 

 

ヒョウタン美術館 “The Gourd Museum

ヒョウタン美術館 “The Gourd Museum"

 

 

 

夢みる人のクロスロード: 芸術と記憶の場所

夢みる人のクロスロード: 芸術と記憶の場所

 

 

 

 

頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

 

5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

 

 

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2018東大国語第1問(現代文)解説/著者・論点的中報告

(1)はじめに/2018東大国語第1問(現代文・評論)解説/著者・論点的中報告

 

 2018東大国語第1問(現代文・評論)に、入試頻出著者・野家啓一氏の『歴史を哲学する』が出題されました。

 

 野家氏の論考は、最近では、早稲田大学(政経学部)・(文学部)のほかに、大阪市立大学・上智大学(法)・立教大学等で、出題されています。

 

 本書『歴史を哲学する』は、野家氏の『物語の哲学』の発展型の論考です。

 『物語の哲学』のポイントについては、「予想問題『ビブリオバトル』(山崎正和)」の中で解説しました。

 

gensairyu.hatenablog.com

 

本問2018東大国語第1問(現代文)を解く上で、かなり参考になると思われるので、以下に引用します。

ーーーーーーーー

 

(引用開始)

(当ブログによる解説)

〔1〕【「物語は共同体の協働制作物」について】

 この論点については、2000年の早稲田大学文学部国語に出題された野家啓一氏の論考が最近の頻出出典(『物語の哲学』)なので、ここで紹介します。 

 

 (問題文本文の一部の概要)

 (以下の概要は、問題文本文の冒頭文と最終段落です。最終段落には、筆者の結論・主張が述べられています。)

「歴史叙述もまた、学問的にソフィスティケート(→「洗練されている」という意味)されているとはいえ、「過去物語」のヴァリエーションにほかならない。

 『思い出』はそのままでは『歴史』に転成することはできない。思い出が歴史に転生を遂げるためには (丙) 何よりも「物語行為」による媒介 が不可欠なのである。思い出の断片を織り合わせ、因果の糸を張りめぐらし、〔 C 〕の結構をしつらえることによって一枚の布にあえかな文様を浮かび上がらせることこそ、物語行為の役目にほかならない。物語られることによってはじめて、断片的な思い出は「構造化」され、また個人的な思い出は「共同化」される。「物語る」という言語行為を通じた思い出の構造化と共同化こそが、ほかならぬ歴史的事実の成立条件なのである。」

 (上記の概要に対応している設問のみを挙げます。)

 

問4 文中の〔 C 〕に入る最も適当な語句を、次の中から選べ。

イ 永劫回帰  

ロ 波瀾万丈

ハ 試行錯誤

ニ 起承転結

 

問5 傍線部(丙)の意味を具体的に述べている最も適当な箇所を、文中から10字以上、12字以内で抜き出して記せ(句読点や記号も1字と数える)。 

 

 ーーーーーー

 

(解答・解説)

【解答】 

問4 ニ

問5 思い出の構造化と共同化(11字)

 

【解説】

問4 直前の「それらの断片を織り合わせ、因果の糸を張りめぐらし」、直後の「結構(→「構造」という意味→入試頻出キーワードです)をしつらえる」(→「設備する。用意する」という意味)に注目するとよいでしょう。

 →この設問は、実質的には、「結構」・「しつらえる」の意味を聞いている問題です。この2つの語句は、入試頻出語句です。

 

問5 「思い出が歴史に転生を遂げるためには、(丙) 何よりも『物語行為』による媒介  が不可欠なのである」と、最終段落・最終文の「『物語る』という言語行為を通じた〈思い出の構造化と共同化〉こそが、ほかならぬ歴史的事実の成立条件なのである」が、同一内容であることを確認してください。 

(引用終了)

 

ーーーーーーーー

 

 (今回の記事の記述)

  「思い出」が「歴史」に転生を遂げるためには、「『物語行為』による媒介」が不可欠、

の部分は、今回の東大現代文の読解に役立ちます。

 「思い出の構造化=起承転結の結構」が必要、つまり、「歴史的事実の成立条件」が「起承転結の構造化」ということは、「そこに、リアリティーを設定する必要がある」ということでしょう。

 

 「説得性」、「客観性」がなければ、人々は支持をしないのです。

 民衆の支持のない歴史的事実は、世の中に残ることはないのです。

 

 この点は、野家氏の主張の最大のポイントなので、よく理解しておいてください。

 

 今回の2018東大現代文の内容は少々難解です。

 しかし、上記の「歴史的事実の成立条件」を意識して読めば、分かりやすくなると思います。

 

今回の記事の項目は以下の通りです。

 

(2)2018東大国語第1問(現代文・評論)本文・解説・解答/『歴史を哲学する』野家啓一

(3)野家啓一氏の紹介

(4)当ブログにおける「東大現代文」関連記事の紹介

 

 

(2)2018東大国語第1問(現代文・評論)本文・解説・解答/『歴史を哲学する』野家啓一

 

歴史を哲学する――七日間の集中講義 (岩波現代文庫)


(問題文本文)

(概要です)

(【1】・【2】・【3】・・・・は当ブログで付記した段落番号です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です) 

 


【1】余りに単純で身も蓋もない話ですが、過去は知覚的に見ることも、聞くことも、触ることもできず、ただ想起することができるだけです。その体験的過去における「想起」に当たるものが、歴史的過去においては「物語り行為」であるのが僕の主張にほかなりません。つまり、過去は知覚できないがゆえに、その「実在」を確証するためには、想起や物語り行為をもとにした「探究」の手続き、すなわち発掘や史料批判といった作業が不可欠なのです。

【2】そこで、過去と同様に知覚できないにも拘(かかわ)らず、われわれがその「実在」を信じて疑わないものを取り上げましょう。それはミクロ物理学の対象、すなわち素粒子です。電子や陽子や中性子を見たり、触ったりすることは、どんな優秀な物理学者にもできません。素粒子には質量やエネルギーやスピンはありますが、色も形も味も匂いもないからです。われわれが見ることができるのは、霧箱や泡箱によって捉えられた素粒子の飛跡にすぎません。それらは荷電粒子が通過してできた水滴や泡、すなわちミクロな粒子の運動のマクロな「痕跡」です。  その痕跡が素粒子の「実在」を示す証拠であることを保証しているのは、量子力学を基盤とする現代の物理学理論にほかなりません。その意味では、素粒子の「実在」の意味は直接的な観察によってではなく、間接的証拠を支えている物理学理論によって与えられていると言うことができます。逆に、物理学理論の支えと実験的証拠の裏づけなしに物理学者が「雷子」なる新粒子の存在を主張したとしても、それが実在するとは誰も考えませんし、だいいち根拠が明示されなければ検証や反証のしようがありません。ですから、素粒子が「実在」することは背景となる物理学理論のネットワークと不即不離なのであり、それらから独立に存在主張を行うことは意味をなしません。

【3】科学哲学では、このように直接的に観察できない対象のことを「理論的存在」ないしは「理論的構成体」と呼んでいます。むろん理論的存在と言っても イ「理論的虚構」という意味はまったく含まれていないことに注意してください。それは知覚的に観察できないというだけで、れっきとした「存在」であり、少なくとも現在のところ素粒子のような理論的存在の実在性を疑う人はおりません。しかし、その「実在」を確かめるためには、サイクロトロンを始めとする巨大な実験装置と一連の理論的手続きが要求されます。ですから、見聞臭触によって知覚的な観察可能なものだけが「実在」するという狭隘(きょうあい)な実証主義は捨て去らねばなりませんが、他方でその「実在」の意味は理論的「探究」の手続きと表裏一体のものであることにも留意せねばなりません。

【4】以上の話から、物理学に見られるような理論的「探究」の手続きが、「物理的事実」のみならず、「歴史的事実」を確定するためにも不可欠であることにお気づきになったと思います。そもそも「歴史(histoy)」の原義が「探究」であったことを思い出してください。歴史的事実は過去のものであり、もはや知覚的に見たり聞いたりすることはできませんので、その「実在」を主張するためには、直接間接の証拠が必要とされます。また、歴史学においては史料批判や年代測定など一連の理論的手続きが要求されることもご存じのとおりです。その意味で、歴史的事実を一連の「理論的存在」として特徴づけることは、抵抗感はあるでしょうが、それほど乱暴な議論ではありません。

【5】実際ポパーは、『歴史主義の貧困』の中で「社会科学の大部分の対象は、すべてではないにせよ、抽象的対象であり、それらは理論的構成体なのである(ある人々には奇妙に聞こえようが、「戦争」や「軍隊」ですら抽象的概念である。具体的なものは、殺される多くの人々であり、あるいは制服を着た男女等々である)」と述べています。同じことは、当然ながら歴史学にも当てはまります。歴史記述の対象は「もの」ではなく「こと」、すなわち個々の「事物」ではなく、関係の糸で結ばれた「事件」や「出来事」だからです。「戦争」や「軍隊」と同様に、ウ 「フランス革命」や「明治維新」が抽象的概念であり、それらが「知覚」ではなく、「思考」の対象であることは、さほど抵抗なく納得していただけるのではないかと思います。

【6】「理論的存在」と言っても、ミクロ物理学と歴史学とでは分野が少々かけ離れすぎておりますので、もっと身近なところ、歴史学の隣接分野である地理学から例をとりましょう。われわれは富士山や地中海をもちろん目で見ることができますが、同じ地球上に存在するものでも、「赤道」や「日付変更線」を見ることはできません。確かに地図の上には赤い線が引いてありますが、太平洋を航行する船の上からも赤道を知覚的に捉えることは不可能です。しかし、船や飛行機で赤道や日付変更線を「通過」することは可能ですから、その意味ではそれらは確かに地球上に「実在」しています。その「通過」を、われわれは目ではなく六分儀などの「計器」によって確認します。計器による計測を支えているのは、地理学や天文学の「理論」にほかなりません。ですから赤道や日付変更線は、直接に知覚することはできませんが、地理学の理論によってその「実在」を保証された「理論的存在」と言うことができます。この「理論」を「物語り」と呼び換えるならば、われわれは歴史的出来事の存在論へと一歩足を踏み入れることになります。

【7】具体的な例を挙げましょう。仙台から平泉へ向かう国道4号線の近くに「衣川の古戦場」があります。ご承知のように、前9年の役や後3年の役の戦場となった場所です。現在目に見えるのは草や樹木の生い茂った何もないただの野原にすぎません。しかし、この場所で行われた安倍貞任と源義家との戦いがかつて「実在」したことをわれわれは疑いません。その確信は、『陸奥話記』や『古今著聞集』などの文書史料の記述や『前9年合戦絵巻』などの絵画資料、あるいは武具や人骨の発掘物に関する調査など、すなわち「物語り」のネットワークによって支えられています。このネットワークから独立に「前9年の役」を同定することはできません。それは物語りを超越した理想的年代記作者、すなわち「神の視点」を要請することにほかならないからです。だいいち「前9年の役」という呼称そのものが、すでに一定の「物語り」のコンテクストを前提としています。つまり「前9年の役」という歴史的出来事はいわば「物語り負荷的」な存在なのであり、その存在性格は認識論的に見れば、素粒子や赤道などの「理論的存在」と異なるところはありません。言い換えれば、エ  歴史的出来事の存在は「理論内在的」あるいは「物語り内在的」なのであり、フィクションといった誤解をあらかじめ防止しておくならば、それを「物語り的存在」と呼ぶこともできます。

 

ーーーーーーーー

 

(設問)

設問(一)「その痕跡が素粒子の『実在』を示す証拠であることを保証しているのは、量子力学を基盤とする現代の物理学理論にほかなりません」(傍線部ア)とは、どういうことか、説明せよ。(60字程度)


設問(二)「『理論的虚構』という意味はまったく含まれていない」(傍線部イ)とはどういうことか、説明せよ。(60字程度)


設問(三)「『フランス革命』や『明治維新』が抽象的概念であり、それらが『知覚』ではなく、『思考』の対象であること」(傍線部ウ)とはどういうことか、説明せよ。(60字程度)

 

 問(四)「歴史的出来事の存在は『理論内在的』あるいは『物語り内在的』なのであり、フィクションといった誤解をあらかじめ防止しておくならば、それを『物語り的存在』と呼ぶこともできます」(傍線部エ)とあるが、「歴史的出来事の存在」はなぜ「物語り的存在」といえるのか、本文全体の論旨を踏まえた上で、100字以上120字以内で説明せよ。


ーーーーーーーー

 

(解説・解答)


設問(一)「その痕跡が素粒子の『実在』を示す証拠であることを保証しているのは、量子力学を基盤とする現代の物理学理論にほかなりません」(傍線部ア)とは、どういうことか、説明せよ。(60字程度)

 

 傍線部アが、【1】段落の「筆者の主張」(→「過去は知覚できないがゆえに、その「実在」を確証するためには、想起や物語り行為をもとにした「探究」の手続き、すなわち発掘や史料批判といった作業が不可欠なのです」)を「素粒子の実在」に適用している場面であることを確認してください。

 

 次に傍線部直後と、同一段落最終文で、傍線部を解説していることを読み取ってください。

傍線部直後→「その意味では、素粒子の『実在』の意味は直接的な観察によってではなく、間接的証拠を支えている物理学理論によって与えられていると言うことができます。」

同一段落最終文→「素粒子が『実在』することは背景となる物理学理論のネットワークと不即不離です。」

 

 以上をまとめて、知覚不可能な「理論的存在」の「実在性」を説明するとよいでしょう。

 

(解答)

知覚できない素粒子の実在を、知覚可能な実験的証拠により確信できるのは、現代物理学理論の支えがあるからということ。

 

 現代物理学理論の「仮説的性格」をなんとか擁護しようとする野家氏の懸命さ、熱意を読み取っていくことが必要です。

 受験生としては、自己の主観、価値観を置いておいて、出題者、筆者に寄りそうとする能力、理解力、読解能力が問われているわけです。

 

…………………………

 

設問(二)「『理論的虚構』という意味はまったく含まれていない」(傍線部イ)とはどういうことか、説明せよ。(60字程度)

 

 「理論的存在=虚構(→「フィクション」)」は誤解、を説明するとよいでしょう。

 【3】段落の整理を意識してください。

 特に、傍線部直後の
「それは知覚的に観察できないというだけで、れっきとした『存在』であり、少なくとも現在のところ素粒子のような理論的存在の実在性を疑う人はおりません。」

「その「実在」を確かめるためには、サイクロトロンを始めとする巨大な実験装置と一連の理論的手続きが要求されます。」に注目してください。

 

(解答) 

理論的存在は直接知覚できないが、その実在性は実験的証拠と理論的探究により証明可能なので、単なる理論的仮説ではないということ。

 

…………………………


設問(三)「『フランス革命』や『明治維新』が抽象的概念であり、それらが『知覚』ではなく、『思考』の対象であること」(傍線部ウ)とはどういうことか、説明せよ。(60字程度)

 

 歴史的事実の「抽象的概念性」を説明することになります。【4】・【5】段落の関係性を把握した上で傍線部の説明をしてください。

 

 具体的には、傍線部直前からの文脈の流れを、赤字に注目して、把握してください。

歴史記述の対象は「もの」ではなく「こと」、すなわち個々の「事物」ではなく、関係の糸で結ばれた「事件」や「出来事」だからです。「戦争」や「軍隊」と同様に、ウ『フランス革命』や『明治維新』が抽象的概念であり、それらが『知覚』ではなく、『思考』の対象であることは、さほど抵抗なく納得していただけるのではないかと思います。」

 

(解答)

歴史的事実は、具体的事物を特定の視点から相互に関連づけていく探究という思考を通して認識可能になるということ。

 

 …………………………

 

設問(四)「歴史的出来事の存在は『理論内在的』あるいは『物語り内在的』なのであり、フィクションといった誤解をあらかじめ防止しておくならば、それを『物語り的存在』と呼ぶこともできます」(傍線部エ)とあるが、「歴史的出来事の存在」はなぜ「物語り的存在」といえるのか、本文全体の論旨を踏まえた上で、100字以上120字以内で説明せよ。

 

 傍線部直前の「言い換えれば」に着目して、直前部分(→「だいいち「前9年の役」という呼称そのものが、すでに一定の「物語り」のコンテクストを前提としています。つまり「前9年の役」という歴史的出来事はいわば「物語り負荷的」な存在なのであり、その存在性格は認識論的に見れば、素粒子や赤道などの「理論的存在」と異なるところはありません。」)

を熟読してください。

 

 その上で、【1】・【4】・【7】段落で繰り返される筆者の主張をまとめるとよいでしょう。

 

【1】段落「つまり、過去は知覚できないがゆえに、その「実在」を確証するためには、想起や物語り行為をもとにした「探究」の手続き、すなわち発掘や史料批判といった作業が不可欠なのです。」

【4】段落「歴史的事実は過去のものであり、もはや知覚的に見たり聞いたりすることはできませんので、その「実在」を主張するためには、直接間接の証拠が必要とされます。また、歴史学においては史料批判や年代測定など一連の理論的手続きが要求されることもご存じのとおりです。その意味で、歴史的事実を一連の「理論的存在」として特徴づけることは、抵抗感はあるでしょうが、それほど乱暴な議論ではありません。」

【7】段落「だいいち「前9年の役」という呼称そのものが、すでに一定の「物語り」のコンテクストを前提としています。つまり「前9年の役」という歴史的出来事はいわば「物語り負荷的」な存在なのであり、その存在性格は認識論的に見れば、素粒子や赤道などの「理論的存在」と異なるところはありません。」

 

(解答)

歴史的出来事の存在は、物理学における理論的存在と同様、直接に知覚できないが、歴史上の出来事を客観的史料に基づき把握し、それらを「物語り」という意味的文脈により関係づける理論的探究を通して、初めてその実在を明確化できる認識対象だから。(117字)

 

 →今回の問題は、要するに、「客観性」・「論理性」・「説得性」を問う問題です。

 難解な記述に目を奪われず、「要するに何を言いたいのか?」を考えるようにする態度が必要不可欠です。

 単純化して思考することを、心がけるようにしてください。

 思考とは、単純化であり、要約化です。

 

 このことを理解していない現代文指導者、小論文指導者が、現在の多数派であるように思われます。

 受験生としては、「自分で考えていくこと」を意識することが賢明でしょう。

 当ブログは、自ら思考する意欲のある受験生を応援していきます。

 

(3)野家啓一氏の紹介

 

野家 啓一(のえ けいいち、1949年2月21日)は、日本の哲学者。東北大学名誉教授。専攻は、科学哲学。宮城県仙台市出身。


【著書】

『言語行為の現象学』(勁草書房、1993年)

『無根拠からの出発』(勁草書房、1993年)

『科学の解釈学』(新曜社、1993年/ちくま学芸文庫(増補)、2007年/講談社学術文庫(改訂)、2013年)

『物語の哲学ー柳田國男と歴史の発見』(岩波書店、1996年/岩波現代文庫、2005年)

『クーン パラダイム』(講談社、1998年)

『パラダイムとは何か、クーンの科学史革命』(講談社学術文庫、2008年)

『科学の哲学』(放送大学教育振興会、2004年)

『科学哲学への招待』(ちくま学芸文庫、2015年)

『歴史を哲学する』(岩波書店、2007年/岩波現代文庫、2016年)

 

物語の哲学 (岩波現代文庫)

 

 

 (4)当ブログにおける「東大現代文」関連記事の紹介

 

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ーーーーーーーー


 今回の記事は、これで終わりです。

 次回の記事は約1週間後に発表の予定です。

 ご期待ください。

 

    

 

 

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歴史を哲学する――七日間の集中講義 (岩波現代文庫)

歴史を哲学する――七日間の集中講義 (岩波現代文庫)

 

 

生命と死のあいだ―臨床哲学の諸相

生命と死のあいだ―臨床哲学の諸相

 

 

科学の解釈学 (講談社学術文庫)

科学の解釈学 (講談社学術文庫)

 

 

増補 科学の解釈学 (ちくま学芸文庫)

増補 科学の解釈学 (ちくま学芸文庫)

 

 

 

頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

 

 

5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

 

 

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予想問題『素手のふるまい アートがさぐる《未知の社会性》』鷲田清一

(1)はじめに/なぜ、この論考に注目したのか?

 

① 当ブログは以下の基本的方針で作成しています。

 

 この基本的方針は、現在も変わっていません。

 以下に、当ブログの第一回記事の「開設の言葉」を引用します。

 

gensairyu.hatenablog.com

 

 …………………………

 

(引用開始) 

 

(青字は当ブログによる「注」です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(以下、同じです)

 

(2)入試現代文(国語)・小論文の最新傾向ー重要な、気付きにくい2本の柱

 今現在の入試現代文(国語)・小論文の最新傾向として、注目するべきポイントとしては、2つの大きな柱があります。

 

【1】1つの柱は、「IT社会の光と影と闇」です。

 この論点・テーマは、3・11東日本大震災の前から登場していたので、割と有名ですが、最近のスマホ(スマートフォン)の爆発的な流行により、新たな論点・テーマが発生しています。

 スマホは、それまでの携帯電話とは、まるで違うものです。それだけに、プラス面、マイナス面も、携帯電話と比較して、拡大化・深刻化するのです。

 私が、「IT社会の光と影と闇」と書き、「光と影」だけにしなかったのは、事態の深刻性を強調するためです。

 

【2】もう1つの柱は、「3・11東日本大震災の各方面に対する影響」です。

 「各方面」は、実に多方面にわたっています。

 入試現代文(国語)・小論文の問題を読んでいると、現代文明論(文明論)、科学批判(近代科学論・現代科学論)以外に、自己論(アイデンティティ論)・環境論・人間関係論・人生論・政治論(民主主義論等)等、「影響」が思いもしない方面にまで及んでいる事に、驚かされます。

 「影響」は、「単なる影響」のレベルでは、ありません。今までないくらいに大きく、底知れぬほど深く、長期的なものと言えます。

 

(引用終了)

…………………………… 

 

(今回の記事の記述)

 2016・2017・2018年度の入試国語(現代文)・小論文に出題された問題を概観しても、上記の傾向に変化はないようです。

 

 私は、以上のように、

「IT社会の光と影と闇」・「3・11東日本大震災の各方面に対する影響」の2つの視点(入試頻出論点・流行論点)を重視して、最近の論考を読んでいます。そして、特に注目するべきものを、「予想出典」・「予想問題」として、週に1回のペースで当ブログで記事を発表しています。

 

 東日本大震災以後は、この大震災に関連するハイレベルで良質な哲学的論考が多く発表されています。

 そこで、今回の記事では、難関大学国語(現代文)・小論文対策として、鷲田清一氏の最近の論考を解説することにします。

 

② 鷲田清一氏は、ほとんどの難関大学の入試現代文(国語)・小論文で一度は出題されている、トップレベルの頻出著者です。

 

 最近では、センター試験、東大、東北大、早大、上智大等で、出題されています。

 

 鷲田氏の入試頻出著書としては、

『モードの迷宮』(ちくま学芸文庫)、

『じぶんーこの不思議な存在』(講談社現代新書)、

『悲鳴をあげる身体』(PHP 新書)、

『「聴く」ことの力ー臨床哲学試論』(ちくま学芸文庫)、

『わかりやすいはわかりにくい? 臨床哲学講座』(ちくま新書)、

『しんがりの思想』(角川新書)、

『語りきれないこと』(角川新書)、

等があります。

 

 最近の難関大学では、

『わかりやすいはわかりにくい? 臨床哲学講座』(ちくま新書)、

『「聴く」ことの力ー臨床哲学講座』(ちくま学芸文庫)、

『語りきれないこと』(角川新書)、

からの出題が目立ちます。

 

  最近、鷲田氏は『素手のふるまい アートがさぐる〈未知の社会性〉』を発表しました。

 「東日本大震災」以後の 「東北復興」・「日本人の意識改革」・「日本人の価値観の転換」は、鷲田氏の最近のメインテーマで、多くの論考を発表しています。

 そして、それらは、入試現代文・小論文に多数出題されています。

 本書は、その集大成とも言うべき、充実した内容になっています。

 

 その内容が難関大学現代文(国語)・小論文の問題としてふさわしいので、現代文対策、小論文対策として、このブログで紹介、解説します。

 なお、今回の記事の項目は以下の通りです。

 

(2)予想問題『素手のふるまい』/2017佐賀大学・前期日程・芸術地域デザイン学部/総合問題

(3)「コミュニティの解体」の意味、由来について

 ① 「市民の『おまかせ』構造」と、「その対策」について

 ② 「シチズン・シップ(市民力)」について

(4)「アートの力」について

(5)「わからないこと」への態度

(6)当ブログの「鷲田清一」関連記事の紹介

(7)当ブログの「東日本大震災」関連記事の紹介

 

素手のふるまい アートがさぐる【未知の社会性】

 

(2)予想問題『素手のふるまい』/2017佐賀大学・前期日程・芸術地域デザイン学部/総合問題

 


次の文章を読み、後の問いに答えよ。

 

 限られた資源と富の、適切な分配と運用を意味する「経済」は、いまや世界市場での熾烈(しれつ)なマネー・ゲームに、それを制御するすべもなく深く組み込まれている。 こういう制御不能なものの上に、わたしたちの日常生活がある。物価や株式の変動も、もろもろの格差や過疎化の進行も、流通する食材の安全性も、雇用環境や就労条件も、これに煽(あお)られ、左右される。限られた資源と富の、適切な分配と運用を意味する「経済」は、いまや殖財や投資を軸に動いており、企業活動はいまや「経世済民」(politicaleconomy)、つまりは「世を治め民を救う」という軌道から逸れている。それはもはや「経済」(経世済民)を担う公器といえる存在ではなくなっている。

 このことと同時に深く潜行するかたちで進んできたのが、私たちのコミュニティの解体である。

 私たちの共同性は、生き存(ながら)える過程をともにすることで成り立つものである。もっといえば、生き存えるために不可欠のことがら、調理、排泄物処理、出産、子育て、治療、看護、介護、看取り、防災などなどを協働しておこなうところで力をつけてきたものである。ところがこれらの《いのちの世話》ともいうべきプロセスを、人びとは行政や企業によるもろもろのサーヴィスとして消費するようになって久しい。地域から共同性が消えてゆくいちばんの要因はここにある。

 流通にあってはスーパーマーケットの大資本が地域の商店を駆逐してゆく。病の治療は医療と保険のシステムが、教育は学校制度が、ほぼ専門的にカヴァーする。このようにわたしたちの暮らしが行き届いたサーヴィス・システムの恩恵をこうむるなかで、「主(あるじ)」たるべき市民が「顧客」という受け身で無力な存在に成り下がってきた。

 そういう「命に近い仕事」を代行するシステムが停止あるいは機能不全に陥ったときに、ほとんど為す術がないのが現代社会の市民である。

 《生存の技法》がわたしたちの手からすっぽ抜けになっている。国家と市場がわたしたちの一人ひとりの「命に近い仕事」をも植民地化してくるただなかで、〈社会的なもの〉の動性をいかに回復してゆくのか

 そのとき、この失われた「命に近い」手仕事のなかにアートをどう組み込んでゆくか。不快なもの、あるいは異物をたえず押し隠してゆく「安楽」という名の感覚麻痺(まひ)が社会を覆うなか、アートはそこにどんな孔(あな)を穿(うが)つのか

 芸術から生活技術まで、スキルから作法まで《生存の技法》という文脈の中で、アートといま呼ばれているものをもう一度かき混ぜるなかで、「検証」という名のアートの自己言及をなすよりも先に、《アルス》(わざ)の始源のかたちまで立ち戻ることが、そのままアートの孕(はら)む〈未知の社会性〉が閃(ひらめ)く瞬間をみることにつながるはずだ。」

(鷲田清ー『素手のふるまいアートがさぐる〈未知の社会性〉』(朝日新聞出版、2016年)

 

(設問)

問① 「コミュニティの解体」の意味、由来を説明しなさい。 
問② 「コミュニティの維持や回復にアートを組み込む」とは、どのようなことか。説明しなさい。


   「コミュニティの維持や回復」・「新たなコミュニティの創造」には「アートの力」が不可欠ではないか?

というのが、鷲田清一氏の主張です。

 以下では、この点について、解説していきます。

 

(3)「コミュニティの解体」の意味、由来について

 

① 「市民の『おまかせ』構造」と、「その対策」について

 この論点について、鷲田氏の他の著書(『しんがりの思想 反リーダーシップ論』)が参考になるので、以下に引用します。

 

gensairyu.hatenablog.com

 

  以下は、上の記事の引用です。

 『しんがりの思想 反リーダーシップ論』(鷲田清一)からの引用です。

 

ーーーーーーーー

 

(引用開始)

 
(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です)

(以下、同じです) 

「  政治や企業活動と地域社会の違いは、専従のリーダーがいないことである。政治のプロフェッショナル、つまりは職業政治家、ならびに専従の経営者にあたるものが存在しない。すでに述べたように、地方議会の議員がそれにあたるはずであったのだが、町内会や婦人会,商店街の振興会や社会福祉協議会などといった、選挙での集票機能をもった既存の団体とのパイプを使うばかりで、都市部であらたに動きだした NPO(→nonprofit organization の略。非営利の民間組織)やボランティアといった新しい市民のネットワークにうまく対応もしくは連携がとれていない大方の地方議員、残念ながら地域社会の十全な力になっているとはとてもいえない。

 地方議員のこの無力は、市民に力がついてきたからではなく、逆に、政治のプロ(であるはずのひとたち)への市民の『おまかせ』構造がますます昂じてきた結果なのである。」

(『しんがりの思想 反リーダーシップ論』鷲田清一)

(引用終了)

 

しんがりの思想 ―反リーダーシップ論― (角川新書)

 

 

② 「シチズン・シップ(市民力)」について

 

 「市民の『おまかせ』構造」と、「その対策」について考察するということは、「シチズン・シップ(市民力)」を考察することです。

 「シチズン・シップ」については、『パラレルな知性』(鷲田清一)の中の、以下の論考が分かりやすいので、熟読してください。

 

「  本来、大学で学ぶということは、全体を見渡し、何が一番大事なのかという『価値の遠近法』を身につけることだったはずではないか。それは平たくいえば、さまざまな事態に直面した際に、絶対に失ってはならないものと、あればいいというものと、端的になくてもいいものと、絶対にあってはならないものという四つを、即座に見分けられる力をつけることである。

 もちろん、その価値の遠近は人によって異なりはするが、本を読むなり対話をするなかで、その全体を考えられるようになる。こうした教養の基盤としての教育が失われたままに知識としての専門家ばかりになってしまった。さながら『智者』はいるが『賢者』がいない社会であろう。

 専門家社会というのは、トータルの責任を取らない社会なのである。これを裏返せば、わたしたちが市民としてどんどん劣化してきたということだとおもう。『市民社会』と言いながら、市民がきわめて無能力化している社会なのだ。大震災は、こうした姿を図らずも露わにした。

 大震災を経て、わたしたちの社会はようやく『他人に任せすぎてきた』ことに気がついた。少し自分でも勉強して自衛しなければという気運が、人びとのあいだに生まれだしているようにおもう。震災は、そういうシチズン・シップ(市民力)を喚起したのではないだろうか。」(『パラレルな知性』)

 

パラレルな知性 (犀の教室)

パラレルな知性 (犀の教室)

 

 

  「シチズンシップ(市民力)」について、同様な内容のことを、<河北新報120年>で、鷲田氏は、「東北復興」に関して、より具体的に述べています。これを読むと、より理解が進みます。

 

「  東日本大震災と東京電力福島第1原発事故で私たちは、二つの『制御不能』に直面した。天災は防ぎようがないと再認識したし、原子力は人間が制御できないメカニズムだった。

 だが、制御不能は既に生活全般に及んでいる。例えば食材の流通や就労状況もグローバル市場に左右され、暮らしを翻弄している。

 これを民意で制御できる社会、いつでも立ち止まれる社会へと作り替えていくためには、どれぐらいのサイズの共同体がいいのか。そういう課題を可視化したのが『3・11』だった。

 もう『中央』対『地方』の図式で物事を捉える時代ではなくなった。昔は地方を『じかた』と読んでいた。『ちほう』という概念を捨てて『じかた』と考える方がいいと思う。(→「対策論」に入ります)

 じかたの対義語は『町方(まちかた)』。地方(じかた)は町方に食料を売り、日用品を買う。そういう循環関係、定常経済が成り立つ『藩』サイズのコミュニティーがたくさん自立分散している状態こそ、東北が目指すべき姿だろう。

 東北は『つくる』ことを大事にしてほしい。近代は生活基盤のほとんどを金で『買う』。だが、本当に安心できるのは、買わなくても誰かが助けてくれる暮らしの方だ。買う社会をつくる社会に戻す必要がある。

 誰もが公共を担う一員としての意識(→まさに、「シチズン・シップ(市民力)」です)を持ち、『市民』の名刺をもう一枚持つ東北を望みたい。行政任せではなく『みんなのもの』をみんなで担っていく。

(「地方と町方で好循環」鷲田清一〈河北新報120年〉2017年1月17日)

 

表現者たちの「3・11」―震災後の芸術を語る (河北選書)

表現者たちの「3・11」―震災後の芸術を語る (河北選書)

 

 

 ここで、「シチズン・シップ」の回復、創造において、「アートの力」がポイントになってきます。

 以下では、「アートの力」について、解説します。

 

 (4)「アートの力」について

 

① 「生きる力」としてのアート

 

  『都市と野生の思考』 (鷲田清一・山極寿一)から、ポイント部分を引用します。 

「(鷲田) だから生きる力をつけるために、コミュニケーション力をつけようみたいな話になりがちなんですが、そこでアーティストならプリコラージュする。つまり、あり合わせのものを使って自分で道具までつくり、なんとかするわけです。

(山極) 言い換えれば、自分の生活を、自分の感性と力で築き上げていく能力ですね。今のようにすべてが既製品で、人から与えられたものだけで暮らしていたら、生きている実感なんてなくなって当然です。自分では何もつくらず、選ぶだけなんだから。

(鷲田) これからは生きる力としてのアートが必要ではないかと思います。あらゆる社会的活動の中で、アートだけが目標を設定しません。それ以外の活動は、すべてマーケットや企業の論理が入り込んでいて、必ず目標が設定される。受験勉強も、大学運営も目標ありきじゃないですか。(→「目標」という「拘束」が絶対的価値を有している、現代社会の問題点を指摘しているのです。)

(山極) 確かにそうですね。

(鷲田) ところがアートはおもしろいからやる。最初からどんな絵を描くのかがわかっている画家はいない。何かおもしろいものを描きたいと、ああでもない、こうでもないとやっているうちに「いける!」となったときに、最初に考えもしなかったような作品ができる。それが生きる力の根源みたいなものでしょう。アート以外のアクティビティでは、目標が壊れたら、そこで終わりなんですよ。震災はそのことを教えてくれた。

(山極) アートは目標がないのがよいわけですね。(→ここが、ポイントです。熟考してください)

 

都市と野生の思考 (インターナショナル新書)

都市と野生の思考 (インターナショナル新書)

 

 

 上記の鷲田氏の考察は、「語源」からスタートしています。

 つまり、「芸術(art)」の語源を意識しています。 

 「art」は、本来、ラテン語の「ars(アルス)」であり、これは「生きるための技術」という意味です。

 現在、「目標」という言葉の価値が高まり、人々は何事に対しても目標を設定し、これに向かって邁進するようになっています。

 しかし、本来、「art」には、「目標」というものがなく、偶然の産物として発生する側面があります。

 「到達点が明確化していない場面で、人はどのように生きていくのか」という力がまさに、「生きるための技術」であり、「art」です。

 今はそこが軽視されているのではないかと、鷲田氏は主張しているのではないでしょうか。

 この見解は、卓見と言えます。

 私達の、ある種の思考停止状態、近代原理による拘束、悲しきマインドコントロール、を気付かせてくれるからです。

 

 このことに関連して、『素手のふるまい』の冒頭で、「アートが社会的に何の役にも立たないことにおいてのみ、社会に役立つ」という、一見、分かりにくい逆説が記述されていることに注目するべきです。

 そして、

「  東日本大震災直後、被災地に様々なアーティストが駆けつけ、人々を励ましたり、ボランティア活動を支援したりした。また、『絆』の連呼に疑問を持ち何もしないアーティストもいた。被災したひとの心を癒やすとか元気づけるというような『社会に役に立つアートという側面』だけにとどまったものだとしたら、『アート』は薄っぺらな意味しかもたないだろう」と、鷲田氏は述べています。

 これは、アートの、「生きるための技術」としての側面を強調しているのでしょう。

 

 さらに、鷲田氏は、以下のように述べています。

 「『生きるためにアートは本当に必要なのか』という問いに『素手』で向き合う姿。彼らが備えていたのは、あらかじめ共有するゴールはなくとも、ゆるやかだがもろくはない人間関係を編み、ともに何かを作り上げていく技(→多様性の重視ということです)だ。今社会に何が必要で何を立て直さないといけないのか、正解はなく、さまざまな見え方や感じ方をすり合わせていくしかない。その時に我々が持たなくてはいけない社会的態度が、アートの中にある」(『素手のふるまい』)

 

 

② 「自分たちのものだという感覚」と「アート」 

 

 「シチズン・シップ」の問題について、鷲田氏は、「若者の行動力」に期待を寄せています。


「  今の美大の卒業生は社会とリンクした活動を始める人が多い。彼らはどんどん人と交わり、お金を使わず自分の手でモノをこしらえ、面白がって社会を変えようとするタフさを持っている。・・・現代社会はあまりにも複雑で自分たちのものだという感覚が持ちにくい。だから自ら動かせるシステムを作りたいと思うのだろう。震災を契機に広がった感覚だと思う。」(『素手のふるまい』)

 

 「シチズン・シップ(市民力)」の回復、創造に「若者の行動力」が寄与する、と主張しているのでしょう。

 さらに、鷲田氏の見解を引用します。


「  アートはあらかじめ意味やコンテクストの描きこまれていない『がらんどう』から出発するものだからこそ、ゼロからコンテクストを編んでゆくという、手作り感のある運動を牽引するのだろう。このような『素手』の手法こそ、システムや制度にぶら下がらなくてもやってゆける、そのような市民力の育成のなかで生きてくるものであろう。」(『素手のふるまい』)

 
 以下は、「若者の行動力」に対する最高級の賛辞と思われます。


「  世界を転覆するとまでは言わないにしても、わたしたちがいま知っているお行儀のよい議会政治の蓋を開け、祭と祀と政とが不可分であったような『まつりごと』の次元へと測鉛を下ろし、社会秩序のフォーマットを根底から書き換えようという野心に突き動かされていると見えるものもある。」(『素手のふるまい』)

 

 このような芸術家の活動は、新たな「民主主義」・「自由主義」へのチャレンジ、表現とも言うべきものでしょう。

 

「  各自が各自の感受性に素直でいようとしていた。集まった人たちのゆるやかなイメージの交換と調整のなかで、つまり、最後までたがいの差異を解消しないまま、それでも最後はこれ以外にはないという一つのところへもってゆけた。これは、同一のイメージを共有するという形でみなが結集すること(→全体主義的傾向、集団主義的傾向です)対極にあるいとなみである。集団を、内部に向けて集結させるのではなく、未知のものへと開いてゆくこと。

 たがいに差異(→多様性)を深く内臓したまま、ゆるやかではあるがけっして脆くはない紐帯(→「絆」です)をかたちづくること。そういう〈未知の社会性〉の芽ばえに、〈自由〉の新しい形の生成(→自由主義重視)に、彼らは賭けていたのではないか。」(『素手のふるまい』)

 

 『おとなの背中』の中でも、鷲田氏は、「自由主義重視の見解」を述べています。

 

「  東日本大震災後、『幽霊のように』流通している言葉に『絆』がある。『絆』はもともと『動物をつなぎとめる綱』を意味する。何か具体的に必要かが見えるときに比喩の言葉を必要とするとは思えない。とすれば、『絆』言論を生業とする人たちのあいだで流通している言葉のように思える。

 『つながり』を否定する人はいないから、反対できない匿名の言葉として流通しているだけではないか。

 他者とのあいだに存在する差異(→多様性)を知ることは痛い認識であるが、それを通してでしか本当に必要なものは見えない。『絆』という言葉の被いは、多様性の前提となる差異の存在を覆い隠すものになってはならない。(→ここでは、「絆」の危険な側面を指摘しているのです。)

 

おとなの背中 (単行本)

おとなの背中 (単行本)

 

 

 以上のように『素手のふるまい』は、鷲田氏の臨床哲学者として力量が、存分に発揮された良書です。

 これからの入試頻出著書となる可能性が高いと思われます。

 以下に、Web 上の【Book 紹介】を引用します。

 

「  阪神大震災、東日本大震災、原発事故をへて、 臨床哲学者はアートが社会とどのようにかかわるのかを問い続けた。 

 藝大生ふたりは被災地支援の記録と報告会を行い、写真家は東北の村に入って新しい制作に取り組む。世界的に活躍する美術家によるインスタレーション(仮設構築物)、陶芸家の無人タコツボ販売所、美術家の焚き火の集い、工芸家による建築物のウクレレ化保存計画・・・・美よりもなによりも面白さにひかれて始まるアートのさまざまな動きを具体的に見ながら問いかける━━現代社会の隙間で『新しい社会性』はどのように胎動していくのか。

 人間の生きる技術としてのアートは教育、ケアの領域でも核になるのではないか。弛(ゆる)さ、弱さ、傷つきやすさ(→これらも「多様性」の問題です)をそのまま保持する勁(つよ)さとはどのようなものか。わかりやすさに負けず、いかに『わからなさ』(→多様性)を社会とアートの連帯の綴じ目にできるのか。

 芸術から生活技術まで、スキルから作法まで、《生存の技法》の文脈のなかで、素手でこじあけるアートが教育やケアの領域を横断し、未来の予兆を手探りする。これからの日本に必要な人間の生きる技術=『生存の技法』としてのアートと社会との錯綜した関係を読みほどく、臨床哲学者の注目の刺激的評論エッセイ。」

 

 「アート」について、鷲田氏は本書の最後で次のように述べています。

 「多様性維持のためのアートの役割」についての考察です


「  人びとが固まりはじめたら、人びとをつなぐシステムが凝固しはじめたら、すぐに溶剤をかける。固まるものから、たえずすり抜ける。糾合しようという動きにたえず抗う。そのようにいつもシステムの外部に片足を掛けていようとする人は、システムから外されてきた人たちの輪にもたやすく入っていける。

 そして、わたし(たち)の存在を塞ぐもの、囲い込むもの、凝り固まらせるものへの抗いとしてこそ、アートはある。他者との関係、ひいては自己自身との関係をたえず開いておくために、そこにすきまをこじ開ける動性として、アートはある。

 とすれば、生を丸くまとめること(→全体主義、集団主義)への抗いとして、アートはいつも世界への違和の感覚によって駆動されているはずである。そしてそれがまた、システムにぶら下がらなくても生きてゆける、そんな力の育成(→「シチズン・シップ(市民力)」の育成)につながるはずである。そう、《生存の技法》に、である。」(『素手のふるまい』)

 

 (5)「わからないこと」への態度

 

 この点について、鷲田氏の見解を、以下に、確認的に引用します。

「  そもそも人の智慧というのは、わからないものに直面したときに、答えがないまま、つまりはわからないままに、それにどう正確に処するかにあると言ってよい。イデオロギーとはだれも正面だっては反対できない思想のことだと、最初に行ったのは柄谷行人だと記憶するが、いまわたしたちの社会に流通している『エコ』『多様性』『安心・安全』『コミュニティ』『コミュニケーション』『イノヴェーション」(などの観念は、それを仔細に吟味すればさまざまの不整合や撞着に突き当たるはずなのに、さらなる吟味を抑圧し、それに対して正面からは異を唱えさせなくする思考の政治力学が根深く働いている。わたしたちの思考を催眠状態に置くような力学である━━『アート』もまたこの力学に巻き込まれており、それがイデオロギーというべきこうした範疇の諸観念と安易に接合することに抗って、わたしはこの原稿を書いている━━。そして、思考を停止させたまま、含みもなければ曲折もない、そんな単純な物言いが、あるいは不満や不安の強度を単純に高めるだけの粗雑な物言いが、言論の表面を厚く覆っている。屈折もなければ否定による媒介もないそうした思考には、他の人びとの思考の痙攣との過剰な同調はあっても、それをわからないままに抱え込んでいられる奥行きはない。あるいは、すぐには解消されない葛藤の前でその葛藤にさらされ続ける耐性というか、ためがない。

 しかし、個人の人生であれ国家の運営であれ、そこでほんとうに重要なことは、すぐにはわからないけれども大事なことを見さだめ、それに、わからないまま正確に対処するということである。」 (『素手のふるまい』)

 

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 今回の記事は、これで終わりです。

 次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

 ご期待ください。

 

   

 

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素手のふるまい アートがさぐる【未知の社会性】

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

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5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

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2018センター国語第2問(小説)解説/小説の純客観的解法

(1)はじめに


 息子の死、悲しみ、妻と夫の暗い対立、夫の死、孤独な妻、思い出、見たことがないのに眼前に出現した高校時代の夫の幻影、センチメンタルな結末、人生の鮮烈な一場面。
 2018センター試験小説は、題材(井上荒野)も設問もオーソドックスな良問だと思います。
 「キュウリいろいろ」は、2000センター試験の『鼠』(堀辰雄)に似た風合いの、センチメンタルな、読むべき小説です。

 

 なお、今回の項目は以下の通りです。

(2)「センター小説」解法/はじめに/「センター小説」をめぐる問題点を指摘する

(3)小説問題を得意分野にしよう→なぜ、小説問題は不得意分野になりやすいのか?→問題点と対策

(4)小説問題解法のポイント・注意点

(5)センター試験・小説問題の解法のポイント・コツ

(6)2018センター試験国語第2問(小説)「キュウリいろいろ」(『キャベツ炒めに捧ぐ』所収)解説/問題本文概要・設問・解説・解答

(7)井上荒野氏の紹介

(8)当ブログの「小説解法」関連記事の紹介

 

 

(2)「センター小説」解法/はじめに/「センター小説」をめぐる問題点を指摘する

 

 以下の(2)~(5)は、「センター小説満点のコツ・ポイント/解説・小説の純客観的解法」からの引用です。

 

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 浪人生に敗因を聞くと、センター試験でも、難関大学入試でも、小説問題が敗因だったという声が多いことに驚きます。

 確かに、小説問題は、国語(現代文)の中でも特に解きにくい側面があります。

 

 主観的文章を客観的に読解・分析する作業は、日常的に慣れている精神的活動ではありません。

 しかし、この作業は、「設問に寄り添って考えること」、「筆者の立場に立ち、筆者の心情に寄り添えばよい」だけです。

 「この作業」に「慣れ」さえすれば、よいのです。

 ただ、この作業の手順マニュアルは、あまり普及していないようです。

 その理由として考えられるのは、大学受験の現場に蔓延中の「主体的な読み」という、受け狙いのキャッチコピーです。

 主体的に読むのは当然です。わざわざ言うことではない、無意味な言葉です。このキャッチコピーの誤解が「客観的読解軽視」、「設問軽視」の元凶でしょう。

 問題は、「主体的な読み」という受験界の神話から、いかに脱却するか、でしょう。

 

 ここで問題にしているのは、一部の、大衆受けを狙う指導者、解説書、組織がこの神話を大々的に掲げていることです。

 このキャッチコピーが、ある程度の支持を得ているということは、過度の「個性重視」・「アイデンティティ重視」という歪んだ世間の風潮が背景にあるのでしょうか。

 

 話題を元に戻します。

 ともあれ、少し工夫することで、つまり、対策を意識することで、小説問題を得意分野にすることが、可能です。

 あきらめないことが肝心です! 

 

 センター本番では、平均点が5~6割になるように、基礎的・標準的問題を多くしているのです。

 その点で、受験生に親切な問題とも言えるのです。

 受験生の実力を信用していないとも言えますが。

 

(3)小説問題を得意分野にしよう→なぜ、小説問題は不得意分野になりやすいのか?→問題点と対策

 

①苦手意識、その対策

 センター小説に苦手意識を持っている受験生が多いようです。固い内容の小説自体に苦手意識を持っているのでしょう。

 日常的に固い内容の小説を敬遠していることと、高校の指導方法・教科書に問題があるようです。

 高校において、固い内容の小説の読解の時間が少なすぎるのではないでしょうか。

 対策としては、日頃から意識して、娯楽小説・エンターテイメント小説以外の小説を読むようにするとよいでしょう。

 

②解説書、指導者の問題点、その対策

 センター小説は、それほどハイレベルではありません。

 私は、問題は解法書と指導者にあるように感じています。

 つまり、不必要に複雑化して解説している解説書が、「小説問題は案外とハイレベル」「小説問題は悪問が多い」という風潮を助長している感じです。

 そして、自分で考えることをしないで、それを参考にしている指導者が、そのような風潮を助長しているように思います。

 受験生レベルでも、問題を熟読して自分で考えると、基礎的問題が多いことが分かるはずです。

 従って、複雑化の著しい解説に出会った時には、解説書を疑うことも必要だと思います。

 センターの本番の小説問題で、無意味に複雑な設問は一度も出題されたことはないのですから。

 
③模擬問題・模擬試験問題の問題点、その対策

 センター演習は過去問のみにするべきです。模擬問題はレベル・内容の点から、やらない方が賢明です。

 模試は時間内にやる訓練のみに有効です。自分にとって分かりにくい設問を飛ばす訓練のために。

 時間が余ったら、飛ばした問題をやり直してみるとよいでしょう。

 模擬試験の小説問題の復習は、単語チェックくらいにしてください。丁寧な復習は時間の無駄です。

 

 センター過去問は直近から遡り、最近の傾向を知るとよいでしょう。最近は、見事に易化しているのです。特に、小説問題は、平易になっています。

 生徒のレベル低下に合わせて、一定の平均点を確保するためだと思われます。

 ちなみに、生徒のレベル低下は、小・中・高の国語の授業時間数の低下に関連しています。今の受験生は「ゆとり教育」・「総合学習」等という、基礎学科の授業時間を減少する「教育実験」の犠牲者になっています。

 「教育の場」での「実験」は、生徒にとって迷惑でしか、ありません。生徒の親等は、積極的に反対の声を上げるべきでしょう。国民レベルの議論も必要でしょう。

 センター現代文 は時間が壁になっています。

 しかし、論理的に効率的に処理すれば満点も可能なのです。

 あきらめないことが肝心です! 

 

 (4)小説問題解法のポイント・注意点

 

 センター試験の国語では毎年出題されます。

 難関国公立・私立大学では頻出です。

 また、難関国公立・私立大学の小論文の課題文として、出題されることもあります。

 

 小説問題については、「解法(対策)を意識しつつ、慣れること」が必要となります。

 本来、小説は、一文一文味わいつつ読むべきです。国語自体が本来は、そういうものです。

 が、これは入試では、時間の面でも、解法の方向でも、有害ですらあります。

 あくまで、設問(そして、選択肢)の要求に応じて、主観的文章を設問の要求に応じて、純客観的に分析しなくてはならないのです。(国語を純客観的に分析? これ自体がパラドックスですが、ここでは、この問題には踏み込みません。日本の大学入試制度の問題点です。)

 

 この点で、案外、読書好きの受験生が、この種の問題に弱いのです。

 ただ、読書好きの受験生は、語彙力があるので、あとは、問題対応力を養成すればよいのです。

 それほど心配する必要はありません。

 「入試問題の要求にいかに合わせていくか」という方法論を身に付けること、つまり、小説問題に、「正しく慣れる」ことで、得点力は劇的にアップするのです。

 そこで、次に、「小説問題の解法のポイント」をまとめておきます。

 
【1】5W1H(つまり、筋)の正確な把握

 

① 誰が(Who)     人物

 

② いつ(When)      時

 

③ どこで(Where) 場所

 

④ なぜ(Why)   理由→これが重要

(→必ず、理由の記述は傍線部の近くにあるので、心配する必要はありません。小説家としても、「ある行為・心理の理由」を説得力豊かに、リアリティを感じさせるように記述することは、腕の見せ所なのです。従って、「理由の記述」は、傍線部の近くにあるものなのです。このことは、覚えておくべきことです。)

 

⑤ なにを(What)    事件

 

⑥ どうした(How) 行為

 

 上の①~⑥は、必ずしも、わかりやすい順序で書いてあるとは限りません。

 読む側で、一つ一つ確認していく必要があります。

 

 特に、④の「なぜ(理由)」は、入試の頻出ポイントなので、注意してチェックすることが大切です。

 

【2】人物の心理・性格をつかむ

 

① 登場人物の心理は、その行動・表情・発言に、にじみ出ているので、軽く読み流さないようにする。

② 情景描写は、登場人物の心情を暗示的・象徴的に提示している場合が多いということを、意識して読む。

③ 心理面に重点を置いて、登場人物相互間の人間関係を押さえていく。

④ 登場人物の心理を推理する問題が非常に多い。その場合には、受験生は自分をその人物の立場に置いて、インテリ的に(真面目に、さらに言えば、人生重視的に)、一般的に、考えていくようにする

⑤ 心理は、時間とともに流動するので、心理的変化は丁寧に追うようにする。

⑥ 気持ちを表している部分に傍線を引く。登場人物の心情を記述している部分に、薄く傍線を引きながら本文を読むことが大切です。

 

  以上を元に、「いかに小説問題を解いていくか」を以下で解説していきます。

 

 

(5)センター試験・小説問題の解法のポイント・コツ

 

【1】本文熟読の前に、先に、本文以外の、本文のリード文・設問・本文の「注」などをチェックして設問の全体像を把握する。

 

 センター試験の小説問題の本文は、難関大学の小説問題以上の長文の場合が多いのです。

 そこで、センター試験小説問題を効率的に解くための1つ目のコツは、本文を読む前に本文以下の、本文のリード文・設問(特に、設問文)・本文の「注」に目を通すことです。

 すぐにこれらに目を通し、「何を問われているか」を押さえてください。

 「設問で問われていること」を意識しつつ、本文を読むことで、時間を短縮化することができます。

 

【2】消去法を、うまく使う

 

 センター試験の小説問題の選択肢は、最近は、少々、長文化しています。

 しかし、明白な傷のある選択肢が多いので、消去法を駆使していくことで、効率的に処理することが可能です。

 この点については、上記のリンク画像のほかに、下のリンク画像も参考にしてください。

 

gensairyu.hatenablog.com

 

 【3】傍線部説明問題については、傍線部自体に注目する

 

 このことは、案外と盲点になっているようです。

 

キャベツ炒めに捧ぐ (ハルキ文庫 い 19-1)

 

(6)2018センター試験国語第2問(小説)「キュウリいろいろ」(『キャベツ炒めに捧ぐ』所収)解説/問題本文概要・設問・解説・解答

 

 

①問2(本文概要・設問・解説・解答)

 

「次の文章は、井上荒野の小説「キュウリいろいろ」の一節である。郁子は三十五年前に息子を亡くし、以来夫婦ふたり暮らしだったが、昨年夫が亡くなった。以下は、郁子がはじめてひとりでお盆を迎える場面から始まる。これを読んで、後の問いに答えよ。」


(本文概要)

 郁子はキュウリで二人を迎える馬を作る。息子(草)が亡くなってから、三十五年間、ずっとそうしてきた。

 足の速い馬は仏様がこちらへ来るときに、足の遅い牛は仏様が向こうへ戻る時にのっていただくのだという。

 息子(草)が亡くなってから、三十五年間、ずっとそうしてきた。

 馬に乗って帰ってきてほしかったし、一緒に連れていってほしかった。あるとき、それを夫に打ち明けてしまったことがある。君はほんとにそういうことを熱心にやるねと、からかう口調で言われて、腹が立ったのだ。あの子と一緒に乗っていけるように、立派な馬を作っているのよ。言った瞬間に後悔したが、遅かった。夫は何も言い返さなかった。ただ、暗い、寂しい顔になった。

 後悔はしたのだ、いつも。だが、憎まれ口が飛び出す。そういうことが幾度もあった。一度だけ、夫から「別れようか」と言われたことがあった。

 別れようか。俺と一緒にいることが、そんなにつらいのなら・・・・。

 いやよ。郁子は即座に答えた。

 あなたは逃げるつもりなのね? そんなの許さない。わたしは絶対に別れない。

 息子の死、息子の記憶に、一人でなんかとうてい耐えきれるはずがない。だから、昨年、夫が亡くなった時には怒りがあった。とうとう逃げたのね、と感じた。怒りは悲しみよりも大きいようで、どうしていいかわからなかった。

 キュウリの馬を二人分作った郁子は、息子の写真を見、それから夫の写真を見た。帰りの牛がないけれど、べつに帰らなくたっていい、と思う。馬に乗ってきて、 そのままずっとわたしのそばにいればいい。A  写真の俊介が苦笑したように見えた。郁子は、俊介(夫)の高校の同級生からの依頼により、名簿に載せる夫の写真を整理している。亡くなる前の夫のスナップ、その愉しげな表情が、自分と喋っている時だと教えられ嘘だわと思い、本当かしらとも思った。

ーーーーーーーー

 

(設問・解説・解答)

問2 傍線部A「写真の俊介が苦笑したように見えた」 とあるが、そのように郁子に見えたのはなぜか。その理由として最も適当なものを一つ選べ。

①キュウリで馬を作る自分に共感しなかった夫を今も憎らしく思っているが、そんな自分のことを、夫は嫌な気持ちを抑えて許してくれるだろうと想像しているから。

② 自分が憎まれ口を利いても、たいていはただ黙り込むだけだったことに、夫は後ろめたさを感じながら今も笑って聞き流そうとしているだろうと想像しているから。

③ かつては息子の元へ行きたいと言い、今は息子も夫も自分のそばにいてほしいと言う、身勝手な自分のことを、夫はあきれつつ受け入れて笑ってくれるだろうと想像しているから。

④ 亡くなった息子だけではなく夫の分までキュウリで馬を作っている自分のことを、以前からからかったときと同じように、夫は今も皮肉交じりに笑っているだろうと想像しているから。

⑤ ゆったりとした表情を浮かべた夫の写真を見て、夫に甘え続けていたことに今さら気づいた自分の頼りなさを、夫は困ったように笑っているだろうと想像しているから。


ーーーーーーーー

 

(解説・解答)

問2(傍線部説明問題・理由説明問題) 

 今回の問題は、「前書き」で説明されている状況を把握してから、熟読を開始する必要があります。

 傍線部 A は前段落の記述を受ける形となっています。
 仏様がこちらに来る時に乗るキュウリの馬を、息子と夫に一頭ずつ作った一方で、戻る時に乗る牛を作らなかったことについて、「べつに帰らなくたっていい」「そのままずっとわたしのそばにいればいい」と思った自分の心情。

 こうした話の流れのあとに傍線部Aがきています。
 写真の俊介が苦笑したように見えた理由が問われているわけですが、「そのように郁子に見えた理由」が問われていることに注意してください。

 郁子の心情は、直前の「馬に乗ってきて、 そのままずっとわたしのそばにいればいい」に直接的に表現されています。これを夫が生きていて聞けば 、またいつものようにからかうだろうが、亡くなっている夫は写真の中で「苦笑」したように見えたのです。

 つまり、郁子は、非現実的な「わがままなお願い」をする自分のことを、夫はあきれつつも笑って許してくれるだろう、という思いで写真を見たということです。

 こうした説明になっているのは③です。
 正解の③は、「かつては息子の元へ行きたいと言い、 今は息子も夫も自分のそばにいてほしい」と言う「身勝手さ」が、本文に記述されています。
 後半の「夫はあきれつつ受け入れて笑ってくれるだろう」という説明は、「苦笑したように見えた」という郁子の心情として適しています。
 これが正解です。

①は、「夫を今も憎らしく思っている」が本文に書かれていません。

②は、「夫は後ろめたさを感じながら」が本文から読み取れません。

④は、少々紛らわしいです。しかし、「夫は今も皮肉交じりに笑っているだろう」とする根拠は、ありません。「苦笑」という表現にも沿っていません。

⑤は、「夫に甘え続けていたことに今さら気づいた自分」という部分が誤りです。郁子はこのように自分自身を認識していません。

(解答)③

 

 ーーーーーーーー

 

②問3(本文概要・設問・解説・解答)

(本文概要)

 35行目より場面が転換。郁子が、電車で実家近くの駅に向かう場面です。 

 リュックを背負った中高年の一団に押し込まれるように車内の奥に移動すると、B  少し離れた場所に座っていた若い女性がぱっと立ち上がり、わざわざ郁子を呼びに来て、席を譲ってくれた。どうもありがとう。面食らいながらお礼を言って、ありがたく腰を下ろした。

 その女性は、男性と二人連れで、恋人同士か、夫婦になったばかりの二人のようだ。

 三十数年前、ちょうど今の女性くらいの年の頃、同じ電車に乗って同じ場所を目指していたことがあった。あのときも郁子は席を譲られたのだった。譲ったのは年配の男性だった。その男性の妻が郁子の隣に座ったので、その前に俊介とその男性が立つ。何ヶ月くらいですか? と男性の妻が郁子に訊(たず)ね、四ヶ月ですと郁子は答えた。よくおわかりになりましたね、と俊介が単純に不思議がっている口調で言った。郁子のお腹(なか)はまだほとんど目立たない頃だったから。経験者ですから、と男性の妻は笑い、奥さんじゃなくてご主人の様子を見ていればわかります、と男性が笑ったのだった。


ーーーーーーーー


(設問)

問3 傍線部B「少し離れた場所に座っていた若い女性がぱっと立ち上がり わざわざ郁子を呼びに来て、席を譲ってくれた」とあるが、この出来事をきっかけにした郁子の心の動きはどのようなものか。その説明として最も適当なものを一つ選べ。


① 三十数年前にも年配の夫婦が席を譲ってくれたことを思い起こし、他人にもわかるほど妊娠中の妻を気遣っていた夫とその気遣いを受けていたあの頃の自分に思いをはせている。

② 席を譲ってくれた年配の夫婦と気兼ねなく話した出来事を回想し、いま席を譲ってくれた女性が気を遣わせまいとわざわざ離れた場所に移動したことに感謝しつつも、物足りなく思っている。

③ まだ席を譲られる年齢でもないと思っていたのに譲られたことに戸惑いを感じつつ、以前同じように席を譲ってくれた年配の男性の優しさを思い起こし、若くて頼りなかった夫のことを懐かしんでいる。

④ 席を譲ってくれた女性と同じくらいの年齢のときにも、同じくらいの時間帯に同じ場所を目指して、夫と電車に乗っていて席を譲られたことを思い出し、その不思議な巡り合わせを新鮮に感じている。

⑤ 若い女性が自分に席を譲ってくれた配慮が思いもかけないことだったので、いささか慌てるとともに、同じようなことが夫と同行していた三十数年前にもあったのを思い出し、時の流れを実感している。


ーーーーーーーー


(解説・解答)
問3(傍線部説明問題)

  B 少し離れた場所に座っていた若い女性がぱっと立ち上がり わざわざ郁子を呼びに来て、席を譲ってくれた。

「この出来事をきっかけにした郁子の心の動き」が問われているので、傍線部B直後の内容を押さえていきます。

 42~47行目に書かれている、「三十数年前の同じような出来事の回想」を正確に把握できればよいでしょう。

①は、「三十数年前にも年配の夫婦が席を譲ってくれたことを思い起こし」の部分は本文に合致しています。次に、「他人にもわかるほど妊娠中の妻を気遣っていた夫」も正しいです。

①は過去への回想を的確に表現しているため正解です。
 
なお、「他人にもわかるほど」は「気遣っていた夫」を修飾しています。これは「奥さんじゃなくてご主人の様子を見ていればわかります」といった男性の言動から明白です。

②は、最後の「物足りなく思っている」が、本文に記述がなく、誤りです。

③は、「若くて頼りなかった夫のことを懐かしんでいる」が誤りです。夫は妊娠した郁子を気遣っていたので、「若くて頼りなかった」という説明は不適切です。

④は、「不思議な巡り合わせを新鮮に感じている」という部分が誤りです。ここでの中心は、夫と自分の関係を回想することです。

⑤は、 「時の流れ実感している」が誤りです。ここでは「時の流れ」を実感することは、郁子の心情の中心ではありません。

(解答) ①

 

ーーーーーーーー

 

③問4(本文概要・設問・解説・解答)

 

(本文概要)

 電車に乗ったのは、同級生から、高校の名簿用に夫の写真をかりたいと依頼を受け、夫の写真を、夫の同級生に届けるためだった。
 持参した写真は、結婚したばかりの若い頃のから、亡くなった年のものまでに渡っている。
 照れくさそうに微笑み、いかにも愉しげに笑ったり、熱心に何かを注視してる写真。こんなに幸福そうな俊介の写真が、これほどたくさんあるなんて。しかも、草が死んだ後も撮られている。
 たしかに、草が亡くなってしばらくは二人とも家に閉じこもり、写真とは無縁だった。それでも、いつしか外出し、笑うようにもなっていったのだ。植物が伸びるように人間は生きていく以上は笑おうとするものだ。
 そのことをあらためて写真の中にたしかめると、それはやはり強い驚きになった。郁子自身も笑って、俊介と微笑み合ってすらいる。C  郁子はまるで見知らぬ誰かを見るようにそれらを眺め、それが紛れもない自分と夫であることを何度もたしかめた。

 

ーーーーーーーー

 

(設問)
問4 傍線部C「郁子はまるで見知らぬ誰かを見るようにそれらを眺め、それが紛れもない自分と夫であることを何度でもたしかめた。」とあるが、その時の郁子の心情はどのようなものか。 その説明として最も適当なものを、一つ選べ。

① 息子を亡くした後、二人は悲しみに押しつぶされ、つらい生活を送ってきた。しかし、写真の二人からはそのような心の葛藤は少しも見いだすことができず、そこにはどこかの幸せな夫婦が写っているとしか思われなかった。

② 息子を亡くした悲しみに耐えて明るく振舞っていた夫から、距離をとりつつ自分は生きてきたと思っていた。しかし、案外自分も同様に振る舞い、夫に同調していたことを、写真の中に写った自分たちの姿から思い知った。

③ 息子の死後も明るさを失わない夫に不満といらだちを抱いていたが、そんな自分も時には夫のたくましさに助けられ、夫とともに明るく生きていた。写真に写った自分たちのそのような様子は容易には受け入れがたく思われた。

④ 息子の死にとらわれ、悲しみのうちに閉じこもるようにして夫と生きてきたと思っていたが、自分も夫も知らず知らず幸福に向かって生きようとしていた。写真に写るそんな自分たちの笑顔は思いがけないものだった。

⑤ 息子の死に打ちのめされた二人は、ともに深い悲しみに閉ざされた生活を送ってきた。互いに傷つけ合った記憶があざやかであるだけに、写真に残されていた幸福そうな姿が自分たちのものとは信じることができなかった。


ーーーーーーーー


(解説・解答)

問4(傍線部説明問題)

 この問題は、傍線部を含む段落が理解できていれば、解けます。特に、「植物が伸びるように」以下の詩的な比喩の理解を問うているのでしょう。


 郁子の見ている写真に関しての説明は56行目から始まります。
 「十数枚の写真」を見ながら、郁子は「強い驚き」を感じました。
 「草が亡くなってしばらくは二人とも家に閉じこもり、写真とは無縁だったこと」(64行目)と、
「写真に写っている、いかにも幸福そうな夫・俊介の顔や郁子自身の笑顔」(67・68行目)、
という二つの間の大きな落差に「強い驚き」を感じているのです。

 このために、その写真に写っている「自分と夫の姿」は、「まるで見知らぬ誰か」であるように感じられたわけです。

 このことを説明している④が正解になります。

 まず、前半は問題は、ありません。
 次に、「自分も夫も知らず知らず幸福に向かって生きようとしていた」は、本文の「植物が伸びるように人間は生きていく以上は笑おうとするものだ」と同趣旨です。

 

①は、後半の「そこにはどこかの幸せな夫婦が写っているとしか思われなかった」が誤りです。傍線部Cにあるように、郁子は、写真は自分たち夫婦であることを確認しています。

②は、「案外自分も同様に振る舞い、夫に同調していた」が誤りです。本文にこのような記述はありません。

③は、「時には夫のたくましさに助けられ」が本文に根拠がなく、誤りです。

⑤は、「互いに傷つけ合った記憶があざやかであるだけに」が本文に根拠がなく、誤りです。
(解答) ④

ーーーーーーーー

 

④問5(本文概要・設問・解説・解答)

 

(本文概要)

 夫の実家に近い駅で、夫の元同級生に待ち合わせ。白髪の上品そうな男性・石井さんは自転車で来ていて、二人乗りさせてくれる。

 行き先は俊介の故郷、同級生の石井さんが自転車に乗せて案内する。

 郁子がこの町に来たのは一度だけだった。その時も、駅から俊介の実家へ行く以外の道は通らなかった。それでも、自転車で行き過ぎる風景のところどころに懐かしさや既視感を覚えて郁子ははっと目を見開いた。

 十分も走らないうちに学校に着いた。

 しばらく外から眺めてから、正門から正面の校舎まで続くケヤキ並木を通り、裏門へ出た。守衛さんに話せば校内の見学もできると、石井さんは言ったが、D  その必要はありませんと郁子は答えた。何かを探しに来たわけではなかったし、もしそうだとしても、もうそれを見つけたような感覚があった。

 かつて俊介から聞いていた、その高校時代の話。

 頭の中に思い描いていた男子校の風景が、眼前にあらわれたのだという気がした。
それが、長い間、夫を憎んだり責めたりしている間も、自分の中に保存されていたことに郁子は呆然とした。呆然としながら、詰め襟の学生服を着た十六歳の俊介が、ハードルを跳ぶ女子学生たちを横目に見ながら校庭を横切っていく幻を眺めた。

 

ーーーーーーーー


(設問)
問5 傍線部D「その必要はありませんと郁子は答えた」とあるが、このように答えたのはなぜか。その説明として最も適当なものを、一つ選べ。

①夫の実家のある町並みを経て、彼が通った高校まで来てみると、校内を見るまでもなく若々しい夫の姿がありありと見えてきた。今まで夫を憎んでいると思い込んでいたが、その幻のあまりのあざやかさから、夫をいとおしむ心の強さをあらためて確認することができたから。

② 自分の心が過去に向けられ、たった一度来たきりで忘れたものと思っていた目の前の風景にも懐かしさや既視感を覚えるほどだった。高校時代から亡くなるまでの夫の姿が今や生き生きとよみがえり、大切なことは記憶の中にあるのだと認識することができたから。

③ 夫が若い頃過ごした町並みや高校を訪ねるうちに、いさかいの多かった暮らしの中でも、夫のなにげない思いや記憶を受け止め、夫の若々しい姿が自分の中に刻まれていたことに気がついた。そのような自分たち夫婦の時間の積み重なりを実感することができたから。

④ 長年夫を憎んだり責めたりしていたが、夫が若い日々を過ごした町並みを確認してゆくうちに、ようやく許す心境に達し、夫への理解も深まった。目の前にあらわれた若い夫の姿に、夫への感謝の念と、自分の新しい人生の始まりを予感することができたから。

⑤ 長く苦しめながら頼りにもしてきた夫が、学生服姿の少年として眼前にあらわれ、今は彼のことをいたわってあげたいという穏やかな心境になった。自分と夫は重苦しい夫婦生活からようやく解放されたのだということを、若き夫の幻によって確信することができたから。

ーーーーーーーー


(解説・解答)

問5(傍線部説明問題・理由説明問題)

 まず傍線部の確認をします。
 「その必要」の指示対象は「校内見学の必要性」です。
 次に、「その必要がない理由」は「何か探しに来たとしても、もうそれを見つけたような感覚があったから」と言う趣旨の記述が本文にはあります。
 そして、本文の最終部分には「夫を憎んだり責めたりしている間も、頭の中に思い描いていた俊介の高校時代の風景が自分の中に保存されていたことに郁子は呆然とした」と記述されています。

 このような本文の記述から、郁子の心情をどのように考えるかが問題になっています。

 

 さらに、消去法も併用して、解いていきます。

①は、最後の「夫をいとおしむ心の強さをあらためて確認することができた」の部分が誤りです。郁子は、夫に対して単純に「いとおしむ心の強さ」だけを持って生きてきては、いません。息子の死に遭遇して、夫に腹を立てたり、また夫の死に怒りを覚えたりしながら、心に葛藤を抱えながら生きてきたのです。

② 「高校時代から亡くなるまでの夫の姿がよみがえった」わけでは、ありません。また、「大切なことは記憶の中にあるのだと認識することができた」も誤りです。郁子は、過去の回想や記憶に頼って生きようとしているわけではありません。

③が正解です。問題のない説明になっています。特に、「夫の若々しい姿が自分の中に刻まれていたことに気がついた」と、後半の「そのような自分たち夫婦の時間の積み重なりを実感することができた」の部分が本文の104~109行目の記述と一致しています。

④は、「ようやく許す心境に達し」、「自分の新しい人生の始まりを予感することができた」は、本文にこのような記述がなく、誤りです。

⑤ 「自分と夫は重苦しい夫婦生活からようやく解放された」という部分が本文にこのような記述がなく、誤りです。誤りです。

(解答) ③

 

 (7)井上荒野氏の紹介

 

井上 荒野(いのうえ あれの、1961年2月4日)は、日本の小説家。東京都出身。小説家井上光晴の長女に生まれる。成蹊大学文学部卒業。1989年、「わたしのヌレエフ」で第1回フェミナ賞を受賞。2004年、『潤一』で第11回島清恋愛文学賞、2008年、『切羽へ』で第139回直木賞受賞。2011年、『そこへ行くな』で第6回中央公論文芸賞受賞。2016年、『赤へ』で柴田錬三郎賞受賞。


【著書】

『潤一』(2003年 マガジンハウス/のち新潮文庫)

『しかたのない水』(2005年 新潮社/のち文庫)

『誰よりも美しい妻』(2005年 マガジンハウス/のち新潮文庫)

『夜を着る』(2008年 文藝春秋/のち文庫)

『切羽へ』(2008年 新潮社/のち文庫)

『雉猫心中』(2009年 マガジンハウス/のち 新潮文庫)

『もう二度と食べたくないあまいもの』(2010年 祥伝社/のち文庫)

『そこへ行くな』(2011年 集英社/のち文庫)

『キャベツ炒めに捧ぐ』(2011年 角川春樹事務所/のちハルキ文庫)

『それを愛とまちがえるから』(2013年 中央公論新社/のち文庫)

『あなたにだけわかること』(2013年 講談社)

『悪い恋人』(2014年 朝日新聞出版)

『リストランテアモーレ』(2015年 角川春樹事務所/のち文庫)

『ママがやった = MAMA KILLED HIM』(文藝春秋 2016年)

『赤へ』(祥伝社 2016年)

 

 

切羽へ (新潮文庫)

 

 

(8)当ブログの「小説解法」関連記事の紹介

 

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ーーーーーーーー

 

 今回の記事は、これで終わりです。

 次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

 ご期待ください。

 

   

 

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キャベツ炒めに捧ぐ (ハルキ文庫 い 19-1)

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切羽へ (新潮文庫)

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赤へ

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

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5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

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 私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。

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デモクラシーの諸問題/2018予想論点/体系的総整理⑤ 

(1)はじめに

 

(今回の記事の記述は太字にしました)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です)

 

 今回の記事では、「デモクラシー」・「民主主義」に関連する当ブログの今までの記事を、体系的に整理して、紹介していきます。

 適宜、「新情報」も追加します。

 

 なお、このような「政治的問題」は、政治的思想調査、政治的踏み絵になりかねないので、大学入試現代文(国語)・小論文に出題されない、と考えている人がいるようです。

 しかし、そうしたことは、ありません。

 最近でも、 慶応大学法学部・小論文で、かなりの「政治的問題」と言える「日本の戦後補償問題」が出題されています。

 

 今回の論点を考察する際には、以下の視点が重要になります。

「 近代の政治哲学は、行政に対する鋭敏な感覚をもちつつも、やはりそこでは立法権中心主義とでも言うべき視座が支配的であった。それゆえに、主権を立法権として定義することの問題点は十分には考察されてこなかった。だが、実際の統治においては、行政が強大な権限を有している。

 ならば、主権はいかにして行政と関わりうるか、主権はいかにして執行権力をコントロールできるか、これが考察されねばならない。」
 (『近代政治哲学』國分功一郎)

 

 なお、今回の記事の項目は以下の通りです。

 

(2)デモクラシーの沿革

(3)リベラルアーツ/ソクラテス的思考

(4)ポピュリズム、大衆民主主義、トランプ現象

(5)日本のデモクラシーの諸問題

(6)グローバル化、グローバリズム、グローバリゼーション

(7)「民主主義」・「自由」に対する脅威/「監視社会」・「全体主義的傾向」

(8)平和と戦争

 

(2)デモクラシーの沿革

 

①  「民主主義」・「デモクラシー」→「言語を使う競技」/《予想問題「スポーツと民主主義」『反・民主主義論』(佐伯啓思)》

  

gensairyu.hatenablog.com

 

 佐伯氏は、「デモクラシーの沿革」を論じた後に、「トランプ現象」の解説をしています。

 この記事の冒頭部分を引用します。


……………………………

 

(引用開始)

(佐伯氏の論考)(概要です)  

「【1】スポーツとは『ディス・ポルト』から出た言葉である。『ポルト』とは『停泊する港』あるいは、『船を横づけにする左舷』という意味だ。『ディス』はその否定であるから、『ディス・ポルト』とは、停泊できない状態、つまり、秩序を保てない状態であり、はめをはずした状態、ということになる。
   
【5】いうまでもなくオリンピックは古代ギリシャ起源であり、ギリシャ人はスポーツを重んじた。争いを様式化し、競技を美的なものにまで高めようとした。そしてギリシャでは『競技』が賛美される一方で、ポリスでは『民主政治』が興隆した。民主主義とは、言論を通じる『競技』だったのである。肉体を使う競技と言語を使う競技がポリスの舞台を飾ることになる。

【6】古代のギリシャ人を特徴づける特質のひとつはこの『競技的精神』なのである。スポーツと政治は切り離すべきだ、などとわれわれはいうが、もともとの精神においては両者は重なりあっていたのであろう。」

(引用終了)

 

 

日本の思想 (岩波新書)

 

 

 

(3)リベラルアーツ/ソクラテス的思考

 

 ①  丸山真男の思想/《予想問題・丸山真男『日本の思想』Ⅳ「である」ことと「する」こと①》

 

 デモクラシー、民主主義を支える国民に必要な一般教養が「リベラル・アーツ」です。

 

gensairyu.hatenablog.com

 

 上の記事のポイントの一部分を引用します。


……………………………

 

(引用開始)

(2)「『である』ことと『する』こと」の解説ー東大・上智大・学習院大の入試問題を参照しつつ

 

(丸山真男氏の論考)

 「【1】学生時代に末弘厳太郎先生の法の講義をきいたとき「時効」という制度について次のように説明されたのを覚えています。金を借りて催促されないのをいいことにして、ネコババをきめこむ不心得者がトクをして、気の弱い善人の貸し手が結局損をするという結果になるのはずいぶん不人情な話のように思われるけれども、この規定の根拠には、権利の上に長くねむっている者は民法の保護に値しないという趣旨も含まれている、というお話だったのです。この説明に私はなるほどと思うと同時に「権利の上にねむる者」という言葉が妙に強く印象に残りました。いま考えてみると、請求する行為によって時効を中断しない限り、たんに自分は債権者であるという位置に安住していると、ついには債権を喪失するというロジックのなかには、一民法の法理にとどまらないきわめて重大な意味がひそんでいるように思われます。

【2】たとえば、日本国憲法の第十二条を開いてみましょう。そこには「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、〔イ=国民〕の不断の努力によって、これを保持しなければならない。」と記されてあります。この規定は基本的人権が「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」であるという憲法第九十七条の宣言と対応しておりまして、自由獲得の歴史的なプロセスを、いわば〔ロ=将来〕に向かって投射したものだといえるのですが、そこにさきほどの「時効」について見たものと、いちじるしく共通する〔ハ=精神〕を読みとることは、それほど無理でも困難でもないでしょう。」

(引用終了)

 

②  ソクラテス的思考/「2017慶大経済小論文・解説・論点的中報告④・ソクラテス的思考」

 

gensairyu.hatenablog.com

   

 上の記事のポイントの一部分を引用します。


……………………………


(引用開始)

(1)2017慶應大学経済学部・小論文・問題解説

(問題文本文)(概要です)

【1】「吟味されない人生は生きるに値しない」とソクラテスは公言していました。彼はこうした批判的問いかけという理想への忠誠を貫いたために命を落としたのです。今日では、ソクラテスの例が西洋における伝統的なリベラル教育の理論と実践の中心をなしています。伝統や権威を盲信するのではなく、自分自身で考え議論するソクラテス的なやり方で、議論する能力が、デモクラシーにとってかけがえのないものです。」

(マーサ・C.ヌスバウム著、小沢自然・小野正嗣訳、『経済成長がすべてか?━━デモクラシーが人文学を必要とする理由』)

(引用終了)

 

経済成長がすべてか?――デモクラシーが人文学を必要とする理由

 

 

 

 ③  リベラルアーツ教育/「予想問題・『文系学部解体』室井尚・『日本の反知性主義』(2)」

  

gensairyu.hatenablog.com

 

 上の記事のポイントの一部分を引用します。


……………………………

 

(引用開始)

 最も注目したのは、第4章「大学が崩壊する」の冒頭の『溶解する大学』以下の論考です。

 以下に概要・解説を書いていきます。

 

 (5)「大学が崩壊する」の概要・解説④ー自分の頭で何も考えないような「人材育成」に反対

 【概要④】

「  教養教育やリベラルアーツ教育(当ブログによる注→「リベラルアーツ」=人間性を豊かに育成する幅広い知識、物事の専門的追求の土台となる基礎的学問の総体。日本語では一般的に『教養』と訳される)が大切だというのは、さまざまな考え方を学ぶことで、自分がそれまで自由に考えていなかったこと、さまざまなイデオロギーや因襲に縛られていたということに対する『自覚』や『気づき』を与えてくれるから大切なのである。」

(引用終了)



(4)ポピュリズム、大衆民主主義、トランプ現象

 

①  ポピュリズム/「2017早大現代文・学習院大現代文・論点的中報告③・ポピュリズム」

 

gensairyu.hatenablog.com

 

 上の記事のポイントの一部分を引用します。

 

……………………………

 

(引用開始)

(2)2017早稲田大学政経学部ー『権力の読み方』萱野稔人

 2017年度の早稲田大学政経学部・国語(現代文・評論文)では、入試頻出著者の萱野稔人氏の、以下のような論考が出題されました。

 最初の段落は、以下のような内容です。

(【1】【2】・・・・は当ブログで付記した段落番号です)

 

「【1】現代のポピュリズム運動には、『国家はわれわれのたちに治安を守るべきだ』という要求が込めらている。一義的には国家のためのものである治安を、なぜ民衆がみずからのために国家に対して要求するのか、あるいは要求できるのか。」

 

 最後の段落は、以下のような内容です。

【16】ポピュリズムによる『国家への呼びかけ』は、現在の国家の脱国民化にたいするひとつの反作用にほかならない。その運動をうみだしている不安感は、国民国家のもとでむすばれていた民衆と国家のセキュリティ上の絆がほころびつつあることに起因している。そのほころびをむすび直そうとしてポピュリズムは、国民であるための核となる人種的アイデンティティへますます傾斜しているのだ。」(萱野稔人『権力の読み方』)

(引用終了)

 

……………………………


 さらに、上の記事のポイントの一部分を引用します。

 

……………………………


(引用開始)

(3)2017早稲田大学法学部ー『離脱と移動』西谷修

 早稲田大学法学部では、入試頻出著者である西谷修氏の論考(『離脱と移動』)が出題されました。

 この論考は、(主に、ポピュリズムにおける)「ナショナリズム(国家主義)への依存」を強く批判しています。

 この問題も、最近の「トランプ現象」・「イギリスのEU離脱」などのポピュリズムにおける「排外主義」を意識した出題と思われます。

 以下に問題本文の最終部分の一部を引用します。

 

(【最終段落】は当ブログで付記した段落番号です)

【最終段落】いま「クレオール」と呼ばないれて注目されるこの世界は、起源の不在を出発点とし、世界の各地から多様な要素を受け入れて複合的に形成され、みずからがつねに変成の途上にあることを意識している。そこではアイデンティティとは、どんな単一の起源や本質に還元されるものでもなく、それ自体複合的なものとして形成され、そのつど編み直される帰属のバランスのことだ。カリブ海の経験が、現在の世界のモデルになるとは言わないが、そこにひとつの先例を見ることはできる。たぶん長い射程で考えれば逆行できないだろうこの「移動の時代」に、それに見合った住まい方を見いだすには、『危機』を唱えて身構える(→当ブログによる「注」→「トランプ現象」)より、未知の状況に積極的に対処する創意(→当ブログによる「注」→「異文化理解」・「異文化との共生」の意欲・工夫)こそが必要だろう。」(西谷修『離脱と移動』)

 (引用終了)



②  大衆民主主義/「『君たちが知っておくべきこと』佐藤優③・現代文・小論文予想出典」 

 

gensairyu.hatenablog.com

 

 上の記事のポイントの一部分を引用します。


……………………………


(引用開始)

 白井氏は、最近、『永続敗戦論』『日本劣化論』等注目すべき著作を発表している思想史家、政治学者です。

 これから、難関大学の現代文・小論文に、出題されることが予想されます。

 

 白井氏の「反知性主義、その世界的文脈と日本的特徴」は、2016年大阪大学国語(現代文・評論文)に出題されたので、ここで、その一部を紹介します。

(白井氏の論考については、概要を記述します。なお、赤字は、当ブログによる強調です。)

「【1】リチャード・ホーフスタッター(→当ブログによる注→アメリカ合衆国の政治史家)による『アメリカの反知性主義』によれば、反知性主義とは「知的な生き方、および、それを代表するとされる人びとに対する憤りと疑惑」であり、「そのような生き方の価値を極小化しようとする傾向」と定義される。私はこの一般的な定義に同意するが、ここでポイントとなっているのは、反知性主義が積極的に攻撃的な原理であるということだ。知性の本質的な意味での働きに対して侮辱的で攻撃的な態度を取ることに、反知性主義の核心は見出される。

【2】ホーフスタッターの古典は歴史研究であったのと同時に、マッカーシズム(→当ブログによる注→1950年代にアメリカ合衆国において発生した反共産主義的な社会的・政治的運動)において、その病巣を露呈させたアメリカのデモクラシーに対する分析でもあった。つまり、 反知性主義は、政治の重要なファクターである。反知性主義の類似物として、「パンとサーカス」(→当ブログによる注→権力者により無償で付与される「パン(食料)とサーカス(娯楽)」によって、市民が政治的盲目に置かれている状況。愚民化政策の「たとえ」)の標語に象徴される愚民化政策というものが古代からある。為政者が、大衆が持つ知性への憎悪を操作・利用して動員し、それによって政敵を武装解除するということは、歴史上無数に繰り返されてきたに違いない。

【3】~【5】 (この記事「デモクラシーの諸論点/2018予想論点/体系的総整理⑤」では省略)

【6】かくして、大衆民主主義社会では、反知性主義の心情が社会の潜在的な主調低音(→当ブログによる「注」→「主調」とは「意見等の中心を構成している調子・色調」という意味)となる。」

 (引用終了)

 

③ トランプ現象/《予想問題「スポーツと民主主義」『反・民主主義論』(佐伯啓思)》

 

gensairyu.hatenablog.com

 

 上の記事のポイントの一部分を引用します。

 

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(引用開始)

② 「トランプ現象」については、以下のように説明しています。

「大事なことは、トランプ現象の登場は、決して反民主主義的なものではなく、それこそが民主主義そのものだということです。大衆の歓呼によって指導者を選ぶ。 一方、指導者たらんとするものは、大衆的歓呼をいかに引き出すかに腐心する、それこそが民主主義の核心にほかなりません。民主主義が大衆(デモス)による統治(クラティア)である限り、大衆の歓呼によって選出される指導者こそが民主政治の第一人者なのです。」(『反・民主主義論』P204) 

(引用終了)

 

④  ポピュリズム/「ポピュリズム・その積極的意義とは何かー2017学習院大現代文解説」

 

gensairyu.hatenablog.com

 

 上の記事のポイントの一部分を引用します。


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(引用開始)

 「ポピュリズム」の最近の論考については、2017年・学習院大学経済学部国語に出題された吉田徹氏の論考(「ポピュリズムにどう向き合う」)が分かりやすいうえに、秀逸なので、今回の記事で詳しく解説していきます。

 私が秀逸だと評価するのは、吉田氏がポピュリズムにプラス面を見出だそうとする点です。

 他の多くの論考がポピュリズムを否定する中で、吉田氏の論考は、かなりユニークです。

 

(2)2017学習院大学・現代文・解説・吉田徹「ポピュリズムにどう向き合う」 

(問題文本文)(概要です)

(【1】・【2】・【3】・・・・は当ブログで付記した段落番号です)

【1】「一匹の妖怪が世界を徘徊(はいかい)している。ポピュリズムという名の妖怪が」。マルクスの「共産党宣言」をもじった言葉がメディアで躍る。

【2】(省略)英国の具体例について

【3】(省略)南欧、東欧諸国の具体例について

【4】米大統領選予備選での「トランプ〔 ①=旋風 〕」も加わり、先進国はポピュリズムの時代を迎えている。

【5】ポピュリズムは、日本では「衆愚政治」と同義にされ、最近では「反知性主義」とも関連付けられる。しかし、本来は民主政に対する主権者の深い疑念と落胆を原動力とした政治現象だ。以下では、本質、スタイル、戦略にまたがるポピュリズムの特徴と、それを生み出す要因を3つ挙げ、代表民主政に持つ含意を探る。

(引用終了)

 

 

(5)日本のデモクラシーの諸問題

 

①  日本の教育の致命的問題点ー「ノブレス・オブリージュ」教育の欠如/「国語予想問題『プロの裏切り・プライドと教養の復権を』神里達博」

 

gensairyu.hatenablog.com

 

 上の記事のポイントの一部分を引用します。


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(引用開始)

 「ノブレス・オブリージュ」は、欧米社会の基礎的な道徳観であり、「高貴なる身分に付随する義務」を意味しています。

 すなわち、「高い地位にある者は、それにふさわしい振る舞いをしなければならない」とするものです。

 「それにふさわしい振る舞い」とは、「その身分にふさわしい高潔さ、気品、寛容、勇気」です。


 
 ② 内田樹氏の見解→悲観論 

 日本のエリートは「ノブレス・オブリージュ」を持つことができるか、については、内田樹氏の悲観論があります。以下に、引用します。

 
「  欧米の学校教育は、まだ日本の学校ほど激しく劣化していない。「何のために学校教育を受けるのか」について、とりあえずエリートたちには自分たちには「公共的な使命」が託されているという「ノブレス・オブリージュ」の感覚がまだ生きているからである。

 だが、日本の場合、東大や京大の卒業者の中に「ノブレス・オブリージュ」を自覚している者はほとんどいない。
 彼らは子どもの頃から、自分の学習努力の成果はすべて独占すべきであると教えられてきた人たちである。公益より私利を優先し、国富を私財に転移することに熱心で、私事のために公務員を利用しようとするものの方が出世するように制度設計されている社会で公共心の高いエリートが育つはずがない。
 
 結論を述べる。
 日本の学校教育制度は末期的な段階に達しており、小手先の「改革」でどうにかなるようなものではない。そこまで壊れている。」(内田樹の研究室「学校教育の終わり」2013・4・7)

(引用終了)



②  東日本大震災後の「リーダーシップ論」/「予想問題『しんがりの思想 反リーダーシップ論』鷲田清一・地域社会」

  

gensairyu.hatenablog.com

 

 入試頻出著者・鷲田清一氏の最近の「リーダーシップ論」です。

 ポイントの一部分を引用します。


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(引用開始)

(2)予想問題『しんがりの思想 反リーダーシップ論』鷲田清一

次の文章を読んで以下の問いに答えなさい。
 
(問題文本文)

(【1】・【2】・【3】・・・・は当ブログで付記した段落番号です)

【2】社会がいやでも縮小してゆく時代、「廃」炉とか「ダウン」サイジングなどが課題として立ってくるところでは、先頭で道を切り開いてゆく人よりも、むしろ最後尾でみなの安否を確認しつつ進む登山グループの「しんがり」のような存在、退却戦で敵のいちばん近くにいて,味方の安全を確認してから最後に引き上げるような「しんがり」の判断が、もっとも重要になってくる。実際、震災復興にあっても、ひたすら「防災」のためのハード面での公共事業に取り組むのではなく、地域が震災前から抱え込んでいた問題を見据えながら、そこでの日々の暮らしを〔A=創造的 〕に再興する取り組みと結びついた経済活性化策を講じなければならないだろうし、また、もし、そうした社会全体への気遣いや目配りができていれば、建築資材と労賃の高騰を招くことで東北での復興事業を大きく遅延させることが必定な〔B=東京五輪 〕の誘致など、だれも発想しなかっただろう。こういう全体の気遣いこそ、ほんとうのプロフェッショナルが備えていなければならないものなのであり、また、よきフォロワーシップの心得というべきものである。そして、こうした心得を、ここで《しんがりの思想》と呼んでみたい。

(引用終了)

 

しんがりの思想 ―反リーダーシップ論― (角川新書)

 

 

 

③  「現代日本」の「思考停止状態」・「反知性主義」/《予想問題・丸山真男