現代文最新傾向LABO 斎藤隆

入試現代文の最新傾向を分析し、次年度の傾向を予測する大胆企画

予想問題「広がる『ポスト真実』」神里達博〈月刊安心新聞〉朝日新聞

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 最近、世界的に、政治の局面で「ポスト真実」ということが、重大なキーワードになっています。そこで、今回は、この最新キーワードについての解説記事を、

「広がる『ポスト真実』事実の軽視  まるで中世」(2017年2月17日朝日新聞「月刊安心新聞」千葉大教授・神里達博)、

をベースにして、書くことにしました。

 

 今回の記事は、英語から派生した最新キーワードの解説も多いので、英語長文読解問題にも役に立つことでしょう。

 

 今回の記事は、以下の項目を解説します。

 

(2)「広がる『ポスト真実』事実の軽視  まるで中世」(2017年2月17日朝日新聞「月刊安心新聞」神里達博)の解説

では、

● 「ポスト真実」の定義・内容

● 「ポスト真実」の訳語、意味を考える

● 「フェイクニュース」の意味・内容

● 「代替的事実(オルタナティブファクト)」の意味・内容

● 「バズワード」の意味・内容

● 「ポケモンGO現象=現実軽視の風潮=感想社会・感情社会」について

● 「ボスト真実」の問題点

● 「ポスト真実」に対する対策論

 

 (3)当ブログにおける「トランプ現象」に関する記事の紹介

 

 

文明探偵の冒険 今は時代の節目なのか (講談社現代新書)

 

 

(2)「広がる『ポスト真実』事実軽視  まるで中世」(2017年2月17日朝日新聞「月刊安心新聞」神里達博)の解説

 

(神里達博氏の論考)(概要です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です)

【1】南スーダンで国連平和維持活動(PKO)に従事している自衛隊の日報に、PKO5原則に抵触する可能性のある「戦闘」の文字があることが判明した。

防衛大臣は、これは法的な意味の戦闘ではなく、また、国会答弁では、憲法9条上の問題になる言葉は使うべきではないことから「武力衝突」という言葉を使っていると、応じた。かつての日本ならば、一気に政権が揺らいでもおかしくないほどの事件にも見えるが、現状としては、そこまでの緊迫感はないようだ。

 

ーーーーーーーー

 

 (当ブログによる解説)

 稲田氏はなぜ、このような奇妙な答弁をしたのか。 

「戦闘と言うと憲法9条に違反するから戦闘とは言わない」ということは、憲法違反の実態を自白したのも同然です。そのことも驚異ですが、このことが、国会でも、マスメディアでも、国民レベルでも、大して問題にならないことも驚異と言わなくてはなりません。

 稲田氏の発言は、後述する「ポスト真実」、「代替的事実(オルタナティブファクト)」に関連しています。

 

 ーーーーーーーー

 

(神里達博氏の論考)

【2】もちろん与党が安定的に多数を占めているとか、内閣支持率自体が高いといった要因もあろう。国際情勢の変化に対する不安から、安全保障については新しい考え方で臨むべきだ、という世論が強まってるのも感じる。そういった政治的背景について考えていけば、この奇妙な雰囲気を説明できるかもしれない。

【3】だが、果たしてそれだけが理由なのだろうか。

【4】かつての名門企業「東芝」が今、存亡の危機に瀕しているのは周知のとおりである。なぜそこまで追い詰められたのか。理由は重層的だろうが、何よりも、経営状態についての「事実」が共有されておらず、むしろ長年にわたって隠蔽されてきたことが問題の本質であろう。

【5】 このような、事実を事実として受け入れず「字面の書き換え」でつじつまを合わすという悪弊が、実は私たちの社会のさまざまな領域に広がっているのかもしれない。その結果いつの間には本当に守らなければならない規則が忘れられ、ついに大惨事に至るというケースもある。

【6】1999年に起きたJCO東海事業所・核燃料加工施設での臨界事故はまさにこのようなルールの逸脱が重畳した結果、起きた悲劇であった。核物質という、最も緊張感をもって向き合うべきものが、日常のとるに足らないルーチンにまで転落していたのである。

【7】ところが、この「事実軽視」という事態は、今や日本だけの問題でもないらしい。オックスフォード出版局が、2016年に最も注目された言葉として挙げたのが「Post-truth (ポスト・トゥルース)(ポスト真実)」であった。これは、客観的な事実よりも、人々の感情や主観の方が、世論の形成に大きな役割を果たす政治状況のことを意味する。英国が欧州連合(EU)離脱を決めたことや、事実でないことを盛んにツイートしたトランプ陣営の勝利の背景には、この共通の状況があるというのだ。

 

ーーーーーーーー

 

(当ブログによる解説)

 上記の【7】段落は重要なポイントを含んでいます。以下に説明していきます。

 

● 「ポスト真実」の定義・内容


 オックスフォード出版局が、2016年に最も注目された言葉として挙げたのが「Post - truth (ポストトゥルース)(ポスト真実)」でした。
 これは客観的な事実よりも、人々の感情や主観の方が、世論の形成に大きな役割を果たす政治状況のことを意味しています。
 反事実的内容のツイートを連発したトランプ候補の予想外の当選、英国の欧州連合(EU) 離脱決定の基盤には、このような政治状況も考えられるというのです。

 

  事実がもはや最重要ではなく、重要なのは個々人の感情であるということです。

 「『ポスト真実』の政治における論証」は、政策の詳細は軽視され、分かりやすい単純な断言を繰り返し、事実に基づく反対意見は無視されます。つまり、伝統的な政治的議論とは異なり、事実が歪められ、二次的な重要性しかなくっています。この「ポスト真実」は、Web 社会の拡大化により、注目されるようになった最新・重要論点です。

 

●「ポスト真実」の訳語、意味を考える

 「Post-」という語は、「後に」・「次の」という意味を持ち、「脱」とも訳されます。  

 「Post-」の後にくる言葉は「過去に存在したもの」となるので、「Post-」は「重要ではない」という意味にもなります。従って、post-truthは、「客観的な事実・真実が重視されないこと」を意味します。

 「事実関係の明白な誤りを含む情報が、堂々と、まかり通るようになっている」といった意味では「事実軽視」の方が訳語として適しているようです。

 しかし、日本では「ポスト真実」で定着しつつあります。

 ただ、「ポスト(post-)」を「後」・「脱」と訳すると、「ポスト真実」は、「脱・真実」・「脱・事実」となり、日本語として少々、意味が曖昧になります。その点で、「真実軽視」の方が適切です。

 

● 「フェイクニュース」の意味・内容

 

 「フェイクニュース」の現状については、「選挙とフェイクニュース ~揺れるヨーロッパ~アメリカ大統領戦の際に大きな注目を集めた『フェイクニュース』」 (2017年4月26日・NHKクローズアップ現代)のWeb上の説明が、明解な解説をしています。以下に引用します。 

 

「『フェイクニュース』(→「フェイクニュース(Fake News)」とは、虚偽の情報でつくられたニュースを意味しています。具体的には、主にネット上で発信・拡散されるウソの記事を指します。中傷等を目的にした個人発信の情報などを含める場合もあるようです。2016年のイギリスのEU離脱の是非を問う国民投票、アメリカ大統領選選挙では、SNS を通して大量のフェイクニュースが拡散され、投票行動に少なからぬ影響を与えたという批判が出ました。)が、いま、ヨーロッパを席巻している。今月23日に第1回投票が行われたフランス大統領選挙では、有力候補のマクロン氏など複数の候補を中傷するフェイクニュースが次々と拡散し、陣営は対応を迫られた。 現地のメディアが連携して、フェイクニュースを監視する現場に密着すると、事実と嘘を混在させた「巧妙なフェイク」ニュースが急増していることが分かってきた。さらに、別の国で起きた事件の動画を組み合わせ、ねつ造されたフェイクニュースを徹底検証すると、拡散の過程で人々が「信じたい事実」と結びつくことでフェイクがファクトを駆逐し、社会に広がっている実態が見えてきた。 一方、ドイツでは、フェイクニュースを放置した事業者に罰金を科す法案が提出されたが、政府がフェイクを取り締まることに対して激しい賛否の声が上がっています。」

 ……………………………

 

(当ブログによる解説)

 日本とは違って、欧米では、「フェイクニュース」が、政治的に、かなり問題になっているようです。この問題は、民主主義の根幹に関連する重大な問題と言えます。日本でも、いずれ問題化することでしょう。

 

● 「代替的事実(オルタナティブ・ファクト)」の意味・内容


「ポスト真実」(Post-truth)とよく似た概念として、「『事実』と並行して存在する『もう一つの事実』」と言う意味の「代替的事実」(alternative facts)という言葉があります。      

 

 大統領報道官が、トランプ氏の就任式に集まった人数を事実より多く話したことに関して、2017年1月22日に、コンウェイ氏(トランプ・アメリカ大統領顧問)は番組司会者のチャック・トッド氏に「あなたはそれをウソだと言うが、われわれの報道官であるショーン・スパイサー氏は代替的事実を述べたにすぎない」と釈明しました。

 これは、ジョージ・オーウェルの『1984年』を連想させる言葉なので、「ポスト真実」時代のキーワードの一つとして注目されました。

 メディアによる報道と自己の事実認識にズレが生じた場合、メディアが虚偽報道を行っている可能性があります。しかし、「ファクトチェック(事実確認)」により、メディアの報道が確かに「事実」だと判明しても、自己の認識が「もう一つの事実」だとすれば、自己の認識は「事実」ということになります。

(→完全に詭弁です。言い逃れ、と評価してもよいでしょう。)

 そうすると「事実」に反する報道を行っているメディアが、逆に「虚偽報道」であるという事実が確定的に明らかになります。

(→前提が荒唐無稽なので、結論も荒唐無稽になります。「代替的事実」は単なる「嘘」だとする意見が多いようです。このように「『事実』を認識しながら、もう『一つの事実』を信じる思考」を、『1984年』の中の用語で「二重思考」と言います。)

 

● 「バズワード」の意味・内容

  

 トランプ新政権の幹部の発言から生まれた「代替的事実」という最新キーワードは、「ポスト真実」の時代を象徴する「バズワード」とも、言われています。

 「バズワード(buzzword)」とは、一見、もっともらしいけれども、実際には、意味が曖昧な用語のことです。「代替的事実」という用語は、有権者を煙に巻く、悪質なフェイク(嘘)と言えるでしょう。

  

ーーーーーーーー

 

(神里達博氏の論考)

【8】政治が言葉を軽視するのは今に始まったことではないかもしれない。ただ、先進諸国で同時多発的に、かなり真正面から「事実」が無視され、しかもそのことを多くの人々がさほど気にもとめないという状況は、かつてあっただろうか。

【9】だがスコープを少し広げてみらば、その言うな時代が過去に存在したことに気づかされる。

【10】中世後期に書かれた「健康全書」という本がある。当時、先進地域であったアラビア世界にける養生法の書をラテン語に翻訳したもので、図版が豊富なことでも知られる。その中に、「マンドラゴラ」という植物の記述がある。これは根のところが人間の形になっており、引き抜くと恐ろしい声で叫び、聞いたものを死に至らしめると説明されている。

【11】当然、現実には存在しない生物なのだが、驚かされるのは、これがキャベツやホウレンソウなど、普通の植物の記述と並んで記載されていることだ。ここから見えてくるのは、対象が実在するかどうかではなく、集合的な主観において、リアリティーを共有できるかどうかだったのではないか、ということだ。

【12】実際このほかにも、実際・観察に基づかないために科学として成立していない記述など、事実性が重視されない中世の文献は多々見つかる。

【13】長い間、中世は暗黒の時代であり、非合理と迷信が支配していたという理解がなされてきた。これは自らが生きる「近代の価値」をことさら称揚する立場から書かれた。歪曲された歴史記述だったという面もあろう。だが、いつの間にか私たちが生きる時代が、むしろ中世に似てきているということではないだろうか。

【14】「ポスト真実」が、ツィッターなどのSNSで広がったことも、「中世化」と符合するだろう。情報化によって私たちはすでに、現実に存在する世界ではない、電子的な記号システムの体系に、リアリティーを感じるようになっている。昨年話題になったゲーム「ボケモンGO」のように、仮想空間にモンスターが跋扈(ばっこ)し、それを生身の人間が追いかけるという現象(→バーチャルリアリティ重視・擬似現実重視 )も、現実が重視されなくなっているという点では、地続きなのかもしれない。

 

ーーーーーーーー

 

(当ブログによる解説)

 

● 「ポケモンGO」現象=現実軽視の風潮=感想社会・感情社会」について

 「ポケモンGO」現象と「ポスト真実」を関連づけて論じることは、きわめて正当なことです。現在の先進諸国は、政治的に危うい「感想社会」・「感情社会」に陥っていると言えるでしょう。この危機的状況を、内田樹氏・養老孟司氏が、『週刊現代』の対談の中で分かりやすく説明しているので、以下に引用します。

 

「『感想社会』スペシャル対談  養老孟司×内田樹  日本人はなぜ、『バカ』になったのか——『ありのまま』『ネトウヨ』『ヘイトスピーチ』を大批判 」 (『週刊現代 』2014・9・8 現代ビジネス)

  養老   結局、メディアの情報も世論も印象論や感想文ばかりなんですよ。データの裏付けがない「感想社会」。佐世保の同級生殺人事件のような犯罪が起きると、すぐに「少年犯罪が増えている」と言うでしょう。

内田 実際には減っていますからね。

養老 自殺率もそう。統計的なデータに基づけば、自殺率も他の先進国と比べて特別高いとは言えない。メディアの役割は本来、こういう思い込みを検証そして正すことなんですけどね。

内田 受信する側の問題もあります。情報が増えすぎた一方、個人が処理できる情報量には限度がある。だから結局受信する情報を自分に理解できる話、耳に入りやすい情報だけに限定する。ネット上にはジャンクな「オレ好み」の情報だけを蓄積した「情報通」が大量出現してますから。

養老 そうやって自分の中だけで純化し、「これこそ重要な問題だ」と確信を深めていく。新聞の一面になる記事や週刊誌の見出しだけを表面的に取得して、論理的な深掘りをしない。

内田 日本のメディアって世界的にも特殊なんですよ。読売新聞が1000万部、朝日が800万部でしょう。こんな部数の全国紙がある国なんか他にありませんから。国民の半数近くの政治的意見が朝日から産経までの社説の間に収まっていた。 

養老 情報面でも日本は一億総中流だったわけですね。 

内田 新聞の劣化とネットへの重心移動でその「総中流」が崩れて、情報においても階層化が始まっている。質のいい情報を選択的に送受信できる「情報強者」と、ジャンクな情報に曝される「情報弱者」に二極化している。「情報弱者」たちは自分たちこそ真実を知っていると素朴に信じ込んでいて、脊髄反射的に「感想」を垂れ流している。声だけは大きい。

養老 そして、「個人の感想だから」と責任逃れをする。ネットは論文や資料を探すには便利だけど、僕はそれ以外では使いません。関係ないことはいくら頭に入れてもしょうがない。いくらネットの中を徘徊したって、現実はわかりませんよ。 

内田 ネット世論は世の中を動かす力は弱いと思います。現実を動かすのは最終的には生身の身体です。実際に会って、声を聴いて、顔と顔を見合わせる場がなければ、運動なんか立ち上がりませんから。

 

 内田氏の最後の発言、ネット世論は世の中を動かす力は弱いと思います。現実を動かすのは最終的には生身の身体です。実際に会って、声を聴いて、顔と顔を見合わせる場がなければ、運動なんか立ち上がりませんから。という発言は、私も、そのように考えます。

 

ーーーーーーーー

 

(神里達博氏の論考)

【15】私は以前から、この時代は近代性が弱ってきて、いずれ中世に逆戻りしてしまうのではないかという不安を感じてきた。杞憂だとよいのだが、最近はその傾向が強まっているようにも思える。事実の軽視は言うまでもなく、恐ろしい結果をもたらしかねない。大きな時代の潮流にあらがうのは容易ではないが、近代という時代に培ったさまざまなものごとの価値を整理し、改めて確認すべき時期にあるのではないか。

 

ーーーーーーーー

 

(当ブログによる解説)

 

● 「ボスト真実」の問題点

 「ポスト真実の問題点」については、「『私の真実』居直る時代 『ポスト真実』に覆われる危うさとは」(2017・3・24  朝日新聞)における、山崎望氏・三島憲一氏の意見が参考になります。

 

 山崎望氏(政治学者・駒沢大准教授)は、「『ポスト真実』の時代とは、『うそ』がはびこるというより、『私の真実』に居直る時代」だと述べています。
 作家・オーウェルが描いたのは、国家が上から真実を押しつける全体主義社会です。しかし、現代は、むしろ、各個人が「自分の真実」を勝手に主張し始めていると述べているのです。
 山崎氏は、このことは、全体主義とは異質な危険性を含むはらむとみています。  「ポスト真実」の時代に人気を得る政治家は、自分こそが「真の民衆の代弁者」と強調し、だからこそ、私が発言が「真実」と主張するのです。
 「ポスト真実」の時代は、「本当の真実」の存在は疑わない、「私の真実」の時代と評価できるということです。

 山崎氏は、「本来は、政治の場で語られる意見の違いは、妥協なしに白黒つける話ではなく、対話を通じて折り合っていくものです。しかし、『ポスト真実』の時代では、自分と相手との違いを相手の『間違い』にすり替え、多様な現実を切り捨て自分の立場に居直るから、社会の分断が深まってしまう」と、「ポスト真実の時代」の問題点を鋭く指摘しています。

 

 つまり、民主主義的議論が成立しにくくなり、共同体や民主主義が崩壊してしまうということです。

 

 一方、三島憲一氏(ドイツ哲学者・大阪大名誉教授)は、「私の真実」に居直ることの危険性はほかにもあり、政治を可能にする人間の根本的思考が破壊されてしまう可能性を指摘しています。
 三島教授は、「『うそ』は政治の世界でも珍しくはないが、ばれたら非難されるのが前提です。その前提が失われ、『正しさ』についてのモラルについて、他人と共有することを放棄してしまうのが、『うそ』に覆われた世界だ」と語ります。

 「そのような社会では、他者との、実りある政治的論争は不可能になり、自分と立場が異なる人と、公共の議論を通じて、社会を営むことができなくなるのではないか」と三島氏は述べています。

 

 要するに、社会の共同運営=「民主主義」が、不可能になってしまうということです。社会や共同体の崩壊の危険性すら、ありうるというでしょう。重大な問題のはずです。

 

● 「ポスト真実」に対する対策論

 

 「ポスト真実に対する対策論」としては、まず、 

① 無視

② SNS に頼り過ぎない

が考えられます。

 が、やはり、

③ ファクト・チェック(事実確認)

④ メディア・リテラシー(情報適応能力)の補強、粘り強い思考

が重要でしょう。

 

 以下では、最近発表された、様々な論考を参考にしながら、③・④について、検討していきます。

 

 まず、佐藤優氏の『知性とは何か』 から、参照していきます。佐藤氏は、

「SNSが普及した現代においては、瞬時の判断を求めることが流行になりつつある」と指摘しています。このことに関連して、「ソ連崩壊のきっかけは『これしかない』と判断を急いだことにあった」と述べています。

 

 瞬時の判断には、リスクが伴います。政治の重大な場面では、拙速を意識して避けるべきです。SNSなどが普及した現在、私たちは忍耐力を失いつつあるのかも、しれません。だとすれば、私たちは、日頃から、思考の忍耐力をつけるように努力するべきでしょう。

 すなわち、

③ ファクト・チェック(事実確認)

④ メディア・リテラシー(情報適応能力)の補強、粘り強い思考

が必要になるのです。

 

 同様の対策論は、

「世論形成が危ない~SNS政治に『待った』」 (芹川洋一・論説主幹 2017・3・6 日本経済新聞・オピニオン欄「核心」)でも、主張されています。

 要旨は、以下のような内容です。

「現在のような『ポスト真実の時代』においては、ネット・テレビ・雑誌・新聞が互いにチェックしながら、ゆがんだ世論形成にならないようにしていくしかない。
 求められるのは、客観主義にもとづく正確な事実、データ・証拠による比較分析、全体状況と時間軸の中でとらえていく思考だ。」

 

 ここでも、

③ ファクト・チェック(事実確認)

④ メディア・リテラシー(情報適応能力)の補強、粘り強い思考

が、強調されています。

 

 一方で、入試頻出著者である内田樹氏は、メディアリテラシーについて、以下のような見解を述べています。

 

 

「  アメリカ大統領選挙ではネット上に大量の偽情報が飛び交った。ロシアのハッカーがトランプ氏を当選させるために組織的に動いたということも、CIAは報告している。

 これについて「ネット情報の信頼性を損なった」という批判をしても始まらないと私は思う。ネット情報は所詮は「その程度のもの」である。そして、この事件を手厳しく批判するテレビも新聞も、情報の信頼性においてそれほどアドバンテージを誇れるわけではない。

 いま肝に銘ずべきことは、「私たちひとりひとりがメディアリテラシーを高めてゆかないと、この世界はいずれ致命的な仕方で損なわれるリスクがある」ということである。そのことをもっと恐れたほうがいい。

 「メディアリテラシー」というのは流れてくる情報のいちいちについてその真偽を判定できるほど豊かな知識を備えていることではない。そんなことは不可能である。自分の専門以外のほとんどすべてのことについて、私たちはその真偽を判定できるほどの知識を持っていない。

 だから、私たちに求められているのは「自分の知らないことについてその真偽を判定できる能力」なのである。

 そんなことできるはずがないと思う人がいるかもしれない。

 けれども、私たちはふだん無意識的にその能力を行使している。

 知らないことについて知性は真偽を判定できない。けれども、私たちの身体はそれが「深く骨身にしみてくることば」であるか「表層を滑ってゆくことば」であるかを自然に聞きわけている。

 古いバイオリンの音色は、ヨーロッパの石造りの家の厚い壁を通して、遠い部屋でも聴き取れるという。そのような言葉だけが耳を傾けるに値する。

(『AERA』2017年1月16日号)

 

 内田樹氏は、 「メディア・リテラシー(情報適応能力)」を、「身体性のレベルで考察することの重要性」を、主張しているのです。かなり参考になる意見です。

 

 

 多くの人々は、自己がどのような政治的判断をしようとも、政治的危機は当分到来しないだろうと、希望的展望の下で生きています。しかし、「事実軽視」の「咎め」は、確実に来るはずです。「ポスト真実の時代」の問題は、有権者一人一人の緊急で重大な課題でもあるのです。

 

 (3)当ブログにおける「トランプ現象」に関する記事の紹介

  

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ーーーーーーーー

 

今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後の予定です。

ご期待ください。

 

    

 

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談 no.105 科学を科学する……領域を超えて

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文明探偵の冒険 今は時代の節目なのか (講談社現代新書)

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朝日新聞デジタル

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

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5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

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 私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。

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現古融合対策・解法ー2016早大文化『地獄変』『宇治拾遺物語』

(1)なぜ、この記事を書くのか

 

 現古融合問題、現古漢融合問題を不得意とする受験生が多いようです。

 高校でも塾・予備校でも、現古融合問題、現古漢融合問題を演習・指導する機会が少ないことが、その理由でしょう。 

 一般的には、現代文・古文・漢文を解く実力があれば、現古融合問題、現古漢融合問題を解くことに問題はないと思われているようです。

 しかし、入試本番では、単純な現代文問題よりも、現古融合問題、現古漢融合問題の方が、問題文本文の字数が、はるかに多い場合も珍しくありません。

 そのために、意識して対策をしておいた方が賢明です。

 従って、今回は、その対策記事を書くことにしたのです。


(2)現古融合問題、現古漢融合問題の解法

 

 今回の記事では、漢文問題は省略します。 

 漢文問題を省略しても、問題文本文、設問の字数が約8000字もあります。

 この問題を20~30分でやるためには、効率性を重視する必要があります。

 そこで、以下に効率的に処理するポイントを列挙していきます。

 

①  本文より先に設問を見て、問われていることを意識して本文を読むべきです。効率的に解答しなければ、時間内に解くことは不可能でしょう。本文の要約を書いている時間などは、ないことは言うまでもありません。特に、今回の現代文は小説なので、要約は全く不要です。


②  現古融合問題には、現代文・古文が独立している場合と、現代文の引用部分に古文が含まれている場合がありますが、解き方は同じです。共に、現代文が中心になっています。そして、現代文に関連する古文が出題されるのです。設問数、配点は現代文が古文より大の場合がほとんどです。現代文を中心にやっていくべきでしょう。

 

③  しかも、現代文が古文のヒントになる場合が多いのです。現代文自体が古文の解説になっていることが、つまり、現代文に古文の訳が含まれていることが多いので、このことを意識してください。

 

④  古文の設問は、基本的な文法問題、大まかな筋を聞くだけの、アッサリした問題が出題されることが多いのです。その点からも、設問から読むべきです。つまり、入試問題は、時間内に合格点が取れるように作られているのです。

 

⑤  注はヒントになります。すなわち、古文の訳が提示されている場合が多いのです。入試は案外に親切に作成されている、ということを意識してください。

 

⑥  現古融合問題においては、現代文問題よりも、設問自体が親切なヒントになっていることが多いようです。問題文本文は、もちろんですが、設問も丁寧に読んだ方がよいでしょう。

 

⑦  現古漢融合問題も、現代文が中心で、現代文に関連する古文、古文に関連する漢文が出題される場合が多いようです。比重としては、現代文>古文>漢文、となります。現代文・古文自体が漢文の解説になっているので、つまり、現代文・古文に漢文の訳が含まれていることが多いので、現代文・古文を特に重点的に精読してください。
 他の点については、現古融合問題についての上記の解説を参考にしてください。

 

 

地獄変・偸盗 (新潮文庫)

 

 

 (3)2016早稲田大学・文化構想学部の解説

 

(問題文本文)(青字は当ブログによる「注」です) 

甲A〔次の文章は、芥川龍之介『歯車』の一節である。〕

 僕は丸善の二階の書棚にストリントベルグの「伝説」を見つけ、二三頁ずつ目を通した。それは僕の経験と大差のないことを書いたものだった。のみならず黄いろい表紙をしていた。僕は「伝説」を書棚へ戻し、今度は殆(ほとん)ど手当り次第に厚い本を一冊引きずり出した。しかしこの本も挿(さ)し画(え)の一枚に僕等人間と変りのない、目鼻のある歯車ばかり並べていた。(それは或独逸(ドイツ)人の集めた精神病者の画集だった)僕はいつか憂鬱(ゆううつ)の中に反抗的精神の起るのを感じ、やぶれかぶれになった賭博狂(とばくきょう)のようにいろいろの本を開いて行った。が、なぜかどの本も必ず文章か挿し画かの中に多少の針を隠していた。どの本も?――僕は何度も読み返した「マダム・ボヴァリイ」を手にとった時さえ、畢竟(ひっきょう)僕自身も中産階級のムッシウ・ボヴァリイに外ならないのを感じた。・・・・
 日の暮に近い丸善の二階には僕の外に客もないらしかった。僕は電燈の光の中に書棚の間をさまよって行った。それから「宗教」と云う札を掲げた書棚の前に足を休め、緑いろの表紙をした一冊の本へ目を通した。この本は目次の第何章かに「恐しい四つの敵、――疑惑、恐怖、驕慢きょうまん、官能的欲望」と云う言葉を並べていた。僕はこう云う言葉を見るが早いか、一層〔 ① 〕精神の起るのを感じた。それ等の敵と呼ばれるものは少くとも僕には感受性や理智の異名に外ならなかった。が、〔 ② 〕精神もやはり〔 ③ 〕精神のようにやはり僕を不幸にするのはいよいよ僕にはたまらなかった。僕はこの本を手にしたまま、ふといつかペン・ネエムに用いた「寿陵余子(じゅりょうよし)」と云う言葉を思い出した。それは邯鄲(かんたん)の歩みを学ばないうちに寿陵の歩みを忘れてしまい、蛇行匍匐(だこうほふく)して帰郷したと云う「韓非子(かんぴし)」中の青年だった。今日(こんにち)の僕は誰の目にも「寿陵余子」であるのに違いなかった。しかし まだ地獄へ堕ちなかった僕もこのペン・ネエムを用いていたことは、――僕は大きい書棚を後ろに努めて妄想を払うようにし、丁度僕の向うにあったポスタアの展覧室へはいって行った。が、そこにも一枚のポスタアの中には聖ジョオジらしい騎士が一人翼のある竜を刺し殺していた。しかもその騎士は兜(かぶと)の下に僕の敵の一人に近い、しかめ面を半ば露(あらわ)していた。僕は又「韓非子」の中の屠竜(とりゅう)の技の話を思い出し、展覧室へ通りぬけずに幅の広い階段を下って行った。

 僕はもう夜になった日本橋通りを歩きながら、屠竜と云う言葉を考えつづけた。それは又僕の持っている硯(すずり)の銘にも違いなかった。この硯を僕に贈ったのは或若い事業家だった。彼はいろいろの事業に失敗した揚句、とうとう去年の暮に破産してしまった。僕は高い空を見上げ、無数の星の光の中にどのくらいこの地球の小さいかと云うことを、――従ってどのくらい僕自身の小さいかと云うことを考えようとした。しかし昼間は晴れていた空もいつかもうすっかり曇っていた。僕は突然何ものかの僕に敵意を持っているのを感じ、電車線路の向うにある或カッフェへ避難することにした。
 それは「避難」に違いなかった。僕はこのカッフェの薔薇(ばら)そう色の壁に何か平和に近いものを感じ、一番奥のテエブルの前にやっと楽々と腰をおろした。そこには幸い僕の外に二三人の客のあるだけだった。僕は一杯のココアを啜(すす)り、ふだんのように巻煙草をふかし出した。巻煙草の煙は薔薇色の壁へかすかに青い煙を立ちのぼらせて行った。この優しい色の調和もやはり僕には愉快だった。けれども僕は暫(しば)らくの後、僕の左の壁にかけたナポレオンの肖像画を見つけ、そろそろ又不安を感じ出した。ナポレオンはまだ学生だった時、彼の地理のノオト・ブックの最後に「セエント・ヘレナ、小さい島」と記していた。それは或は僕等の言うように偶然だったかも知れなかった。しかしナポレオン自身にさえ恐怖を呼び起したのは確かだった。・・・・
 僕はナポレオンを見つめたまま、僕自身の作品を考え出した。するとまず記憶に浮かんだのは「侏儒(しゅじゅ)の言葉」の中のアフォリズムだった。(殊に「 人生は地獄よりも地獄的である」と云う言葉だった)それから   「地獄変」の主人公、――良秀と云う画師の運命だった。それから・・・・僕は巻煙草をふかしながら、こう云う記憶から逃れる為にこのカッフェの中を眺めまわした。僕のここへ避難したのは五分もたたない前のことだった。しかし 2  このカッフェは短時間の間にすっかり容子(ようす)を改めていた。就中(なかんずく)僕を不快にしたのはマホガニイまがいの椅子やテエブルの少しもあたりの薔薇色の壁と調和を保っていないことだった。僕はもう一度人目に見えない苦しみの中に落ちこむのを恐れ、銀貨を一枚投げ出すが早いか、匆々(そうそう)このカッフェを出ようとした。

「もし、もし、二十銭頂きますが、・・・・」

 僕の投げ出したのは銅貨(→銅貨には、一銭・五銭・十銭の三種類がありました)だった。

 

 (注)  銀貨・・・・当時流通していた、五十銭銀貨

 

ーーーーーーーー

 

(設問)

 →以下の3問は、実際の入試では、漢文の問題文本文「丙」の後ろに提示されていますが、「甲A」を読みつつ、すぐに解くべきなので、今回のこの記事では、この場所に提示しています。問題文本文より先に設問を見ておけば、「甲A」を初めて精読しながら設問を解くことができます。

 

問1  甲Aの文章における空欄①~③に入る語句の組み合わせとして、最適なものを次の中から一つ選べ。


イ 1 伝統的  2 近代的  3 反抗的

ロ 1 伝統的  2 反抗的  3 近代的

ハ 1 近代的  2 伝統的  3 反抗的

ニ 1 近代的  2 反抗的  3 伝統的

ホ 1 反抗的  2 伝統的  3 近代的

ヘ 1 反抗的  2 近代的  3 伝統的

 

問2  甲Aの文章における傍線部1「まだ地獄へ堕ちなかった僕もこのペン・ネエムを用いていた」と記す背景に、筆者のどのような考えがあったのか。最適なものを次の中から一つ選べ。

 

イ  書棚にあった目鼻のある歯車の画集にはさまっていた針に指を傷つけられたことと、「韓非子」の青年の愚かさを重ね合わせた。

ロ  憂鬱の中に反抗的精神を呼び覚まされた際、中国故事の邯鄲一炊の夢のような白日夢を見たと感じ、陶然とした気持ちになった。

ハ  「宗教」の札を掲げた書棚にある本に、「恐ろしい四つの敵」とあるのを見て、現在の自分が地獄に堕ちているかのように感じた。

ニ  歩みを忘れて蛇行匍匐して帰郷した青年と自分を重ね合わせたペン・ネエムだが、そこに龍を殺すという真意を発見して驚いた。

ホ  現在の地獄のような状況を伝統的精神で解決しようとしたが、近代的精神に邪魔されて、かえって不幸になってしまうと感じた。

ヘ  若いころには、さして深い考えもなく用いたペン・ネエムが、のちの自らの運命を予言していたかのように感じて、慄然とした。

 

問3甲Aの文章における傍線部2に「このカッフェは短時間の間にすっかり容子(ようす)を改めていた」とあるが、それはどうしてか。最適なものを一つ選べ。

 

イ ナポレオンが記した運命の予言を思い起こし、思わずセエント・ヘレナ島にいるような錯覚を起こしたから。

ロ  短時日のうちに改装工事を行ったためか、以前来たときに比べて薔薇色の壁の色の調和が一新していたから。
ハ  昼間から夕刻にいたる太陽光線の変化によって、壁と椅子とテエブルの色が、以前とは異なって見えたから。

ニ  何ものかの敵意から避難したはずなのに、巻煙草の煙や肖像画によって恐ろしい記憶を呼び覚まされたから。

ホ  薔薇色の壁と、マホガニイまがいの椅子やテエブルの調和が保たれていないため、幸福感が増してきたから。

ヘ  カッフェの店員の勘違いにより、銀貨と銅貨を間違えられ、すぐに勘定を済ませることができなかったから。

 

 ……………………………

 

(解説・解答)

問1(空欄補充問題)

①  直前の「一層」を押さえたうえで、第一段落の「反抗的精神」に注目してください。
②  第一段落に着目する必要があります。「僕」はストリントベルグの「伝説」にも「反抗的精神の起るのを感じ」ていることに、注意してください。

(解答)  ホ

 

問2(傍線部説明問題)

 傍線部自体を、よく考えてください。そこにヒントがあります。(→本番特有の問題です。)それを意識したうえで、傍線部の直前・直後の、不吉な雰囲気に満ちた記述に着目してください。

(解答)  ヘ

 

問3(傍線部説明問題・理由説明) 

  「消去法」を使用しなければ、解答不能です。そのことを前提にして、各選択肢の傷の大小を比較する必要があります。

 ニ以外は、大きな傷があります。ニについては、「このカッフェは短時間の間にすっかり容子(ようす)を改めていた」理由の一つとして、「自分の巻煙草の煙」を挙げることは可能です

(解答)  ニ

 

ーーーーーーーー

 

(問題文本文)

 甲B〔次の文章は、甲A傍線部 b のもとになった、芥川龍之介『侏儒の言葉』「地獄」の全文である。〕
 人生は地獄よりも地獄的である。地獄の与える苦しみは一定の法則を破ったことはない。たとえば餓鬼道の苦しみは目前の飯を食おうとすれば飯の上に火の燃えるたぐいである。しかし人生の与える苦しみは不幸にもそれほど単純ではない。目前の飯を食おうとすれば、火の燃えることもあると同時に、又存外楽楽と食い得ることもあるのである。のみならず楽楽と食い得た後さえ、腸加太児(カタル)の起ることもあると同時に、又存外楽楽と消化し得ることもあるのである。こう云う無法則の世界に順応するのは何びとにも容易に出来るものではない。もし地獄に堕(お)ちたとすれば、わたしは必ず咄嗟(とっさ)の間に餓鬼道の飯も掠(かす)め得るであろう。況や針の山や血の池などは二三年其処に住み慣れさえすれば格別跋渉(ばっしょう)の苦しみを感じないようになってしまう筈(はず)である。

 

(注)  腸加太児・・・・炎症を伴う腸の病気。

  

甲C〔次の文章は、甲A傍線部 c が踏まえている、芥川龍之介『地獄変』の末尾の部分である。〕
 その夜雪解(ゆきげ)の御所で、大殿様が車を御焼きになつた事は、誰の口からともなく世上へ洩(も)れましたが、それに就(つ)いては随分いろいろな批判を致すものもおったようでございます。先(まづ)第一に何故(なぜ)大殿様が良秀の娘を御焼き殺しなすったか、――これは、かなわぬ恋の恨みからなすったのだと云う噂が、一番多うございました。が、大殿様の思召しは、全く車を焼き人を殺してまでも、屏風の画を描こうとする絵師根性の曲(よこしま)なのを懲(こ)らす御心算(おつもり)だったのに相違ございません。現に私は、大殿様が御口ずからそう仰有(おつしゃ)るのを伺った事さえございます。
 それからあの良秀が、目前で娘を焼き殺されながら、それでも屏風の画を描きたいと云うその木石のやうな心もちが、やはり何かとあげつらわれたようでございます。中にはあの男を罵(ののし)って、画の為には親子の情愛も忘れてしまう、人面獣心の曲者(くせもの)だなどと申すものもございました。あの横川の僧都様などは、こう云う考えに味方をなすった御一人で、「如何に一芸一能に秀でようとも、人として五常を弁(わきま)えねば、地獄に堕ちる外はない」などと、よく仰有ったものでございます。
 ところがその後一月ばかり経(た)って、いよいよ地獄変の屏風が出来上りますと良秀は早速それを御邸(おやしき)へ持つて出て、恭しく大殿様の御覧に供えました。丁度その時は僧都様も御居合わせになりましたが、屏風の画を一目御覧になりますと、流石(さすが)にあの一帖の天地に吹き荒(すさ)んでいる火の嵐の恐しさに御驚きなすったのでございましょう。それまでは苦い顔をなさりながら、良秀の方をじろじろ睨(ね)めつけていらしったのが、思わず知らず膝を打つて、「出かしおった」と仰有いました。この言を御聞きになつて、大殿様が苦笑なすった時の御容子も、未だに私は忘れません。
 それ以来あの男を悪く云うものは、少くとも御邸の中だけでは、殆ど一人もいなくなりました。誰でもあの屏風を見るものは、如何に日頃良秀を憎く思っているにせよ、不思議に厳(おごそ)かな心もちに打たれて、炎熱地獄の大苦艱(だいくげん)を如実に感じるからでもございましょうか。
 しかしそうなった時分には、良秀はもうこの世に無い人の数にはいっておりました。それも屏風の出来上った次の夜に、自分の部屋の梁(はり)へ縄をかけて、縊(くび)れ死んだのでございます。一人娘を先立てたあの男は、恐らく安閑として生きながらえるのに堪えなかったのでございましょう。屍骸は今でもあの男の家の跡に埋まって居ります。尤も小さな標(しるし)の石は、その後何十年かの雨風に曝(さら)されて、とうの昔誰の墓とも知れないように、苔蒸(こけむ)しているにちがいございません。

 

乙 〔次の文章は、甲C芥川龍之介『地獄変』のもととなった『宇治拾遺物語』該当説話の全文である。〕

 これも今はむかし、絵仏師良秀と云ありける。家の隣より火出きて風をしおほひてせめければ、逃出て大路へ出にけり。人のかかする仏もおはしけり。又、衣きぬ妻子なども、さながら内に有りけり。それもしらず、ただ逃いでたるをことにて、むかひのつらにたてり。
 みれば、すでに我家にうつりて、煙、炎くゆりけるまで、おおかたむかひのつらに立てながめければ、「あさましきこと」とて、人ども、きとぶらひけれど、さはがず。「いかに」と人いひければ、むかひにたちて、家の焼くるを見て、うちうなづて、時々わらひけり。 「あはれ、しつるせうとくかな。年ごろはわろく書きたる物かな」と云ふ時に、とぶらひにきたる者共、「こはいかに、かくては立ち給へるぞ。あさましき事かな。のつき給つるか」といひければ、「なんでう、物のつくべきぞ。年ごろ、不動尊の火焔をあしく書ける也。今みれば、かうこそ燃えけれと、心えつるなり。これこそ、せうとくよ。この道をたてて、世にあらんには、仏だによく書たてまつらば、百千の家も出来なん。わたうたちこそ、させる能もおはせねば、をもおしみ給へ」と云ひて、あざ笑ひてこそ立てりけれ。

 其後にや、良秀がよぢり不動とて、今に人々めであへり。

 

 (注) せうとく・・・・所得。利益のこと。

         わたうたち・・・・お前たち。

 

ーーーーーーーー

 

(設問)

問4  乙の文章における傍線部3に「家の焼くるを見て、うちうなづて、時々わらひけり」とあるが、良秀はなぜ家が焼けるのを見て笑ったのか。その説明として、最適なものを一つ選べ。

イ  これまで見たことのないような炎を見て、新しい境地を発見した喜びと、高みに達したという満足感を得たから。

ロ  車に閉じ込められ焼き殺された娘の苦しみを思い合わせ、安閑として生きながらえない自らの運命を悟ったから。

ハ  火事見舞いにかけつけた者たちに妻子を焼き殺したことを告白したことによって、自責の念がより強くなったから。

ニ  怨霊にとりつかれ、意識せずに火を付けてしまったことにより、あらゆる罪悪感が喜びに変わってしまったから。

ホ  どうしても描けなかった不動尊の火炎を表現できたことにより、家などは今後何軒でも建てられると思ったから。

ヘ  人面獣心と非難されながら絵を描き続けてきたものの、唯一の拠り所であった妻子を失ったことに気付いたから。

 

問5乙の文章における傍線部4・5の意味として、最適なものを、それぞれ次の中から一つ選べ。

イ 動作   ロ 楽器   ハ 財産
ニ 言葉   ホ 悪霊   ヘ 食物


問6  乙の文章に用いられている敬意を表す活用語をすべて取り出し、敬語の種類と活用形を確認した上で、その組み合わせが本文にみえるものを次の中から二つ選べ。

イ 尊敬・未然形    ロ 尊敬・連用形
ハ 尊敬・終止形    ニ 謙譲・連体形
ホ 謙譲・已然形    ヘ 謙譲・命令形

 

問7  甲A~C・乙の文章の、いずれかの内容と合致するものを次の中から選べ。

イ  芥川龍之介は、『荘子』の「屠龍」の語に、自分の名前に含まれる龍を屠るという寓意を感じたので、死への恐れを克服するために地獄を描く作品を次々と執筆した。

ロ  芥川龍之介は、『侏儒の言葉』において、人生の苦しみに比べれば地獄はたいした存在ではなく、住み慣れれば特別な苦しみなど感じなくなってしまうだろうと説いた。

ハ『地獄変』において、横川の僧都様は数少ない良秀の庇護者であり、完成した地獄絵の屏風を見てあまりの出来の良さに感動したため、大殿様に笑われてしまった。

ニ  芥川龍之介は、『宇治拾遺物語』を換骨奪胎して、『地獄変』を芸術至上主義的な作品に昇華し、自死した良秀を炎熱地獄から極楽に往生した人物とした。

 

  ……………………………

 

(解説・解答)

問4(傍線部説明問題・理由説明)(解説・解答)

 「乙の文章」については、問4~6の3問しかないことを確認してから、本文を読んでください。この設問を意識して本文を読むことこそ、効率性重視です。

 本質的・中心的理由が正解になります。イが正解になります。なお、甲C『地獄変』第一段落の「大殿様の思召しは、全く車を焼き人を殺してまでも、屏風の画を描こうとする絵師根性の曲(よこしま)なのを懲(こ)らす御心算(おつもり)だった」の部分がヒントになることを確認してください。

 ホのような、表面的・物質的理由は、本質的・中心的理由に劣ります。

(解答)イ

 

問5(傍線部説明問題・意味説明)

  傍線部の直前・直後の精読が不可欠です。特に、直後の動詞がポイントになります。

(解答)4=ホ5=ハ

 

問6(古文文法問題・敬語)

(解答)イ・ロ


問7(趣旨合致問題)

 趣旨合致問題も、まず、設問の選択肢を見てから本文を読むようにすると効率的です。

 

 ロについては、乙の文章の最終文に注目してください。他の選択肢は、本文に記述のない表現を含んでいます。

 なお、問題文本文の甲Bに関する設問は、これのみです❗ 設問を問題文本文より先に見て、効率的に処理するべきです

 

 また、甲Cについての設問は、問7のハ・ニだけです❗ あとは、問4のヒントになっているだけです

 

 甲B・甲Cを精読する前に、このことを知っておくべきです。設問を先に見ないで、問題文本文を闇雲に精読することは、実に愚かなことです。

 

 現古融合問題、現古漢融合問題は、問題文本文の総字数は5000~8000字に及ぶ場合が多いのですが、効率的に対応すれば、20~30分で処理することは、充分に可能です。くれぐれも、このことを意識しておいてください。

 
(解答)ロ

 

 乙(『宇治拾遺物語』)の現代語訳(口語訳)

 これも今となっては昔の話ですが、仏画の絵師で良秀という者がいました。家の隣から火が発生して、風が(火に)おおいかぶさって(火が)迫ってきたので、(良秀は)逃げ出して、大通りに出てきました。(家の中には、)人が(依頼して)描かせている仏様もいらっしゃいました。また衣服を着ていない(良秀の)妻や子なども、そのまま家の中にいました。(良秀は)それを認識することなく、ただ(自分が)逃げ出したことをよしとして、(家の)向かいの側に立っていました。 
 見ると、すでに我が家に燃え移っており、煙や火が立ち上ったときまで家の向かいに立って総じて(その様子を)眺めていたので、 
「大変なことですね。」
と言って、人々が見舞いに来たのですが、(良秀は)動じていません。 
「どうしたのか。」
と(ある人が)言ったところ、(良秀は燃え上がる家の)向かいに立って、家が焼けるのを見て、うなずいて、時々笑っていました。 
「ああ、もうけものをしたよ。長い間(私は背景の炎を)下手に描いてきたものだよ。」
と(良秀が)言うので、見舞いに来た人々が、 
「これはどうして、このようにしてお立ちになっているのですか。驚きあきれたことだよ。霊が取り付いていらっしゃるのですか。」
と言ったところ、(これを聞いた良秀は、) 
「どうして霊がとりつくことがあろうか。(いや、ない)。長い間、不動尊の(背景の)炎を下手に描いていたのだ。今見ると、(火は)このように燃えるのだったなあと納得したのだ。これこそもうけものだよ。この道(絵を描く職業)で生きていくならば、仏様さえうまく描き申し上げていれば、100軒1000軒の家もきっと建つだろうよ。お前たちこそ、これといった才能もお持ちでないから、物を惜しみなさるのだ。」
と言って、馬鹿にして笑って立っていました。 
 その後のことでしょうが、良秀のよじり不動として、今でも人々が(彼の絵を)称賛し合っています。 

 

 ーーーーーーーー

 

今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

ご期待ください。

  

  

 

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地獄変

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地獄変・偸盗 (新潮文庫)

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今昔物語集・宇治拾遺物語 (新明解古典シリーズ (7))

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

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5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

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予想問題「ナウシカとニヒリズム」重田園江・2014学習院大過去問

 (1)なぜ、この記事を書くのか?

 

 現代社会は「ニヒリズム(虚無主義)」が蔓延している時代だ、と言われています。現代思想を理解するうえで、「ニヒリズム」の理解は必要不可欠です。入試現代文(国語)・小論文においても、「ニヒリズム(虚無主義)」は、頻出論点・流行論点になっています。

 一方で、宮崎駿氏の作品に関する論考も、最近では頻出です。例えば、2014年度には名古屋市立大で、鎌田東二氏の「鎮守の森から見たトトロ論」が出題されています。

 このような状況で、重田園江氏の「ナウシカとニヒリズム」(『世界思想』2013 春号 )が、2014年度の学習院大(経済)が出題されました。

 重田氏の論考は、本質的で明解です。頻出出典になる可能性があるので、今回は、この論考を現代文(国語)・小論文対策として、記事にすることにしました。


 なお、宮崎駿氏の『風の帰る場所』を参照します。 

  

社会契約論: ホッブズ、ヒューム、ルソー、ロールズ (ちくま新書 1039)

 

 

(2)重田園江『ナウシカとニヒリズム』2014学習院大(経済)の解説

 

(問題文本文)

(概要です)

(【1】・【2】・【3】・・・・は当ブログで付記した段落番号です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

 

「【1】ニヒリズムって何だろう。

【2】ウィキペディア日本語版には、「ニヒリズムあるいは虚無主義(きょむしゅぎ、英: Nihilism / 独: Nihilismus)とは、この世界、特に過去および現在における人間の存在には意義、目的、理解できるような真理、本質的な価値などがないと主張する哲学的な立場である。名称はラテン語の Nihil (無)に由来する」とある。

【3】ニヒリズムという言葉を耳にしたことがある人には、これはごく一般的な定義だろう。ニヒリズムは虚無的で、世界にも生にも意味がないと言う。そのため「生きていてもしかたがない。どうせこの世には意味がないのだから」という厭世(えんせい)主義を生む。逆に「どうせ意味などないのだから、あと先考えず好き〔P〕題に生きればいい」という刹那(せつな)的快楽主義にも結びつく。

【4】おそらく多くの人と同じように、私も長らく、世界の悲惨さに直面するがゆえに生を浪費するこうした態度こそ、ニヒリズムだと考えていた。生きることは無価値だとこの世界と生を否定するか、それならばどう生きてもいいと快楽の限りを尽くすか。これらは表面的な生き方としては正反対に見えるけれど、根底にはニヒリズムという一つの共通項があると。

【5】宮崎駿『風の谷のナウシカ』(全七巻、徳間書店)には、主人公の少女ナウシカが「虚無」に抗うシーンがくり返し出てくる。ナウシカは戦いに次ぐ戦いの日々を過ごし、数かぎりない生命が、まるで何の価値もないかのように踏みつけられ、犠牲にされ、無残に果てて ゆく姿を、あまりにも多く見てきた。やがて彼女は心身ともに〔 ア 〕し、虚無に苛(さいな)まれ、呑(の)まれそうになる。

【6】作品中、虚無と対峙(たいじ)するシーンはさまざまなヴァリエーションで現れる。A  虚無はときに、骸骨(がいこつ)のような醜さで彼女の前に姿を見せ、誘惑に失敗すると苛立ちを隠さない。あるいは全く正反対に「楽園」の姿で近づき、そこに閉じ込めようとする。

【7】この物語を読んではじめて気づいたことがある。それは、ニヒリズムとは厭世主義でも刹那的快楽主義でもないということだ。ニヒリズムは無を認めることで生の意味を否定する態度ではない。むしろ無を認めることを避け、現実から目を逸らしたまま生の意味を肯定できる場所にとどまろうとする態度なのだ。

【8】よく考えてみれば、この世界に意味などない、だから人間の生にも定まった目的はないと認めるのは、恐ろしいことだ。厭世主義者や快楽主義者は、この「無意味さ」を進んで受け入れる。だから彼らには、ニヒリストにはない勇気と、それでも人が生きているという事実を、事実として〔 イ 〕する力がある。

【9】『ナウシカ』で言うなら、土鬼の皇兄ナムリスがこうした人物の筆〔Q〕だろう。ナムリスは人間の営み、とくに支配者として殺戮のかぎりを尽くす自分たちのような人間が、きわめて下劣で愚かだとよく分かっている。それを承知で、役割を果たすかのように卑怯な策略を めぐらし暴虐を尽くし、世界が終末に至る次第を見届けようとする。

【10】これと対照的なのが、ナウシカが巨神兵を連れて「墓所」を封印しに行く途中で出会う、トルメキアの二人の王子たちだ。彼らは無益な戦いに倦(う)み疲れているが、父王の言いつけに背いて遁走(とんそう)する勇気はない。さりとて自ら戦いの先頭に立つ気概もなく、小心さと用心深さでその場を切り抜けることだけに〔 ウ 〕する人たちだ。彼らはナウシカとともに、「墓所の庭」と呼ばれる楽園へと招き入れられる。

【11】図書館を思わせる巨大な部屋で古楽器に向かい、楽譜を再現し音を奏でるのに夢中になっているのは二人の王子だ。彼らの表情は活き活きし、戦場におけるのとはまるで別人だ。ナウシカもまた、この庭の外にあるすべてを忘れてしまいそうになる。だがそのとき、ずっと一緒に旅をしてきた゚テト」という名の小動物を思い出す。テトの名をきっかけに彼女は我に返り、「庭」からの脱出を〔 エ 〕する。

【12】ナウシカはそれまで何度も虚無と対決してきた。虚無は尊敬する人の姿をとり、もっともらしい理屈をたずさえて、生の意味を否定してくる。人間は醜く愚かで、世界に何一つ有益なものを残さない。い彼らを救うことにも彼らの世界に関わることにも意味などない。それどころか、お前もまた人間として、大地と生き物たちを傷つけ穢(けが)す愚か者のひとりなのだと。

【13】だが最後の、最も重要な対決は、こうした場面をそのままくり返さない。それは楽園の姿をとって現れる。美しく、平穏で、その静けさが薄汚い世界のすべてを忘れさせる、楽園の姿で。

【14】物語の中で、ナウシカは突然「ここから出なければ」と直感する。それはニヒリズムの本質が、この世界を見た上で否定することではなく、人間たちの醜さと愚行、それによって穢され踏みにじられる世界を、〔  X  〕ことにあるからだ。

【15】トルメキアの王子たちは、ついさっきまで自分たちが生きていた、血と欲望と争いに満ちた世界を完全に〔 オ 〕してしまう。彼らは過去も未来も問うことのないまま、時間なき一生を墓所の庭で過ごすのだろう。 B  この王子たちは生まれながらの悪人でも暴君でもない。ただ小心なだけだ。時代が少し違えば、真っ当に生きられた人たちだろう。彼らには、戦乱に明け暮れる世界の悲惨さとともに生きる力がないだけだ。

【16】ナウシカがもとの世界に帰るきっかけは、彼女が愛した小さな生き物の名を思い出すことだった。この小さな生き物が息づく世界に戻ることは、愚かな殺戮を行い世界を焼き尽くすことで、一時でも疑心から解放され、小さな虚栄心を満たそうとする人々の思惑の渦の中に、再び飛び込むことを意味する。

【17】それを承知で、彼女はこの世界を選び取るのだ。ナウシカははじめから、逃れられない運命に否〔R〕なく巻き込まれる人間としては描かない。

【18】物語の終わり近く、ナウシカは「森の人」と呼ばれる種族の少年に、世界の秘密を握る森で一緒に生きてほしいと誘われる。彼女の返答は、「あなたは生命の流れの中に身を置いておられます。私はひとつひとつの生命とかかわってしまう」というものだ。このときも彼女は「こちらの世界」にとどまることを選択する。

【19】ナウシカは旅の中で、世界の悲惨、人々の愚かさ、移ろいやすさ、思慮のなさ、無軌道な欲望といった真実を、そこここに積み重なる死体とともに見てきた。

【20】こうした体験は、一見相異なるが根は共通する二つの考えに帰着しうる。一つはトルメキアの王子たちに見られるものだ。彼らはこの世界の外に楽園を探し、そこに安息の地を見出すことで、嫌な記憶をすべて消し去ってしまう。もう一つは、ナウシカを誘う虚無の語りとしてくり返し現れるものだ。虚無は、現実の苦しみや悲しみには何か人知を超えた意味があるのだと信じ込ませようとする。これは人が宗教にすがり来世での救済を求める際、しばしば寄りかかる理屈だ。この考えによるなら、この世が汚く苦しみに満ちているほど、救世主の到来は近い。

 

【21】ナウシカはどちらの態度も決して受け入れない。それらはいずれもこの世界の外部を拠り所に、現実世界そのものを見ないですますからだ。そしてこれこそニヒリズムの本質なのだ。ニヒリズムとは、この世界が苦しみに満ちていることを、恐怖や臆病(おくびょう)ゆえに直視しない態度だ。そこから、世界の外側に苦しみの根拠を求め「意味」をねつ造するか、現実を忘却させる楽園に逃げ込むかはどちらでもありうる。私に分かるのは、ニヒリズムは戦場に特有のものではないということだ。 むしろ日常のあちこちにあって、無関心や逃避や安易な意味づけの形で、私たちの心にするりと忍び込む。

 

【22】C  ニヒリズムは危険すぎる。これこそ、ニーチェが一九世紀末にまさに生命を賭けて訴えようとしたことだ。宮崎駿はニーチェのよき理解者として、戦いの寓話の中でニヒリズムに抗する物語を再び語ったのだ。

(重田園江『ナウシカとニヒリズム』 )

 

ーーーーーーーー

 

(設問)

問1  空欄ア~オに入る最適な語を次の中から、それぞれ一つ選べ。ただし、一つの語は一箇所にしか入らない。

1 演技  2 決意  3 熟睡  4 遡行(そこう)

5 認識  6 破壊  7 疲弊  8 飛躍

9 腐心  10 忘却

 

問2  空欄P~Rに入る最適な漢字一字を、次の中からそれぞれ一つ選べ。

1 圧  2 応  3 改  4 決  5 主  6 順

7 舌  8 先  9 定  10 頭  11 認  12 方

13 放  14 命  15 例


問3  空欄Xに入る最適な語句を次の中から一つ選べ。

1 肯定していく
2 単に否定する
3 見ないですます
4 乗り越えていく
5 幻視して浄化する


問4  傍線部Aに「虚無はときに、骸骨のような醜さで彼女の前に姿を見せ」るとあるが、なぜ「虚無」はナウシカの前に「骸骨のような醜さ」で登場するのか。その理由を説明した次の文の空欄甲~丙に入る最適な語句を、本文の中から指定の字数でそれぞれ一つ抜き出せ。ただし、乙と丙に同じ語句は入らない。字数は句読点、記号、符号を含む。 

〔 甲 〕(3字)な欲望をもった人間たちが〔  乙  〕(6字)ということを示すとともに、その人間たちによって汚されていく〔  丙  〕(6字)をナウシカにつきつけるため。

 

問5  傍線部B「この王子たちは生まれながらの悪人でも暴君でもない。ただ小心なだけだ」とあり、筆者はトルメキアの王子たちの「小心」さを批判している。筆者は彼らには、どういうことが必要だったと考えているか。その説明として最適なものを次の中から一つ選べ。

1 王子たちには上位の権力者の命令に逆らう勇気が必要だった。
2 王子たちには兵たちを指揮する者として最前線に立つ勇気が必要だった。
3 王子たちには政治を担う者として争いに満ちた世界を正す勇気が必要だった。
4 王子たちには人間の営みの空しさを受け入れて踏みとどまる勇気が必要だった。

5 王子たちには現在の状況と対決できる有益な方法を見つけて実行する勇気が必要だった。

 

問6  傍線部Cに「ニヒリズムは危険すぎる」とあるが、筆者がこのように述べたのは、なぜか。その説明として適切なものを次の中から二つ選べ。

1 ニヒリズムは、物質文明の無制限の発展を助長して、世界の生物的な均衡を崩してしまうから。

2 ニヒリズムは、現実を超越した楽園や擬似現実をつくって、目前の苦悩を昇華させているから。

3 ニヒリズムは、現実を生きていくために必要な理性を、一時的な快楽によって混乱させてしまうから。

4 ニヒリズムは、人々の選択する力を奪い、破滅へとむかう運命に巻き込むような力をもっているから。

5 ニヒリズムは、生きている現実の生々しさや厳しさから人々を遊離させて別世界へと誘ってしまうから。

6 ニヒリズムは、変動する社会状況の中で、生の意味を否定することで、我々の生きる活力を奪ってしまうから。

7 ニヒリズムは、通常の日常的な営みの中に遍在していて、我々に取りつくさまざまの機会をうかがっているから。

8 ニヒリズムは、一般的な定義とは異なって、逆説的に、人々の現実的な関心を高めてしまい、かえって社会秩序が不安定になるから。

 

ーーーーーーーー

 

(解説・解答)

問1(空欄補充問題)

 この問題は精読・熟読が不可欠です。段落の要約、全体の要約は、有害無益です。問題を解きながら、このことを確認してください。

ア  直後の「虚無に苛(さいな)まれ、呑(の)まれそうになる」を意識する必要があります。

イ  直後の段落に注目してください。

ウ  直前の「自ら戦いの先頭に立つ気概もなく、小心さと用心深さでその場を切り抜けることだけに」という表現との接続関係に、留意する必要があります。

【14】段落に注目してください。

オ  直後の四文に着目するとよいでしょう。

(解答)

ア=7  イ=5  ウ=9  エ=2  オ=10

 

問2(空欄補充問題)

 この問題も精読・熟読が不可欠です。段落の要約、全体の要約は、有害無益です。 

 また、この問題は、単語力が問われています。入試本番では、模試よりも、単語力。教養が多く問われます。日々、これらの知識増強を図るようにしてください。では、なぜ、模試、特に予備校系の模試では、単語力教養を重視していないのか? 無知、あるいは、予備校の存在意義の低下を防ぐためではないかと思われます。 

(解答)

P=13   Q=10   R=2

 

問3(空欄補充問題)

  【14】段落の「物語の中で、ナウシカは突然『ここから出なければ』と直感する。それはニヒリズムの本質が、この世界を見た上で否定することではなく、人間たちの醜さと愚行、それによって穢され踏みにじられる世界を、〔X=見ないですます〕ことにあるからだ。」という文脈に注意してください。

 

(解答)  


問4(空欄補充問題)

甲→「〔 甲 〕な欲望をもった人間たち」とあるから、「欲望」をマイナス評価する表現が入ります。

乙→「甲な欲望」から派生する「人間の実態」をイメージするとよいでしょう。

丙→乙になった人間たちが作り出す「環境」を意識する必要があります。

(解答)

甲=無軌道

乙=下劣で愚かだ

丙=世界の悲惨さ


問5(傍線部説明問題)

 本文での「ニヒリズムの本質」が「現実を直視しない態度」であることを読み取ってください。
 その上で、そうではない態度を選択する必要があります。

(解答)  


問6(趣旨合致問題)

 趣旨合致問題は、問われている点だけが分かれば良いのです。本文を読む前に、選択肢を見るようにしてください。

 この問題も精読・熟読が不可欠です。段落の要約、全体の要約は、有害無益です。問題を解きながら、このことを確認してください。

 直前の段落に、「ニヒリズムの本質」についての、筆者の本質的分析が述べられていることに、着目するとよいでしょう。

 宮崎駿氏も、筆者である重田氏も、ニーチェの立場である「能動的ニヒリズム」に賛成しているようです。この点、つまり、「能動的ニヒリズム」について、さらに以下に解説していきます。

(解答)  5・7

 

 

(3)「ニヒリズム」についてー「ニーチェ」の思想・「能動的ニヒリズム」

 

   「ニヒリズム(虚無主義)」とは、この世界には、目的・価値などがないと主張する哲学的な立場です。


 ニーチェによれば、ニヒリズムに対して、私たちが取りうる態度は大きく分けて二つあります。

 一つは、無価値な現実世界に絶望し、目先の状況に身を委ねて生きるという人生態度です(「消極的・受動的ニヒリズム」)。

 もう一つは、すべてが「無価値」・「仮象」ということを前向きに考える生き方です。つまり、自ら積極的に「仮象」を生み出し、一瞬一瞬を真剣に生きるという態度です(「積極的・能動的ニヒリズム」)。

 ニーチェは「積極的・能動的ニヒリズム」を強く肯定し、「永劫回帰」の思想の下で、自らを創造的に展開していく、鷲の勇気と蛇の知恵を備えた「超人」になることを推奨しています。

 

 「ニヒリズム」の中で、まどろんでいるだけでは、ニーチェは人間は「末人(まつじん)」になってしまうと言っています。

   「末人」とは、「安楽重視で、憧れ・目標を持たない人間」です。ニーチェは「人間は憧れの矢を持っていなければいけない」と主張するのです。そうでないと、ノミみたいな人間(末人)ばかりになってしまうと考えていました。

 

 

 (4)宮崎駿氏の「能動的ニヒリズム」ー『風の帰る場所』

 

 宮崎駿氏は、「能動的ニヒリズム」の立場をとっているようです。宮崎駿氏のインタビュー集『風の帰る場所』の中で、次のように述べています。

「国境もなにもいろんなものがひしめきあい交じりあいながら生きていかなければならないときに、80年代の簡単な民族主義や安直なニヒリズムの刹那主義はうんざりだ。だから、どういうようにして自分は生きていけるということも含めて、もう少し本質的な映画を作らないと駄目な時期がきたと思うのです。」

 

  『風の帰る場所』の中で、宮崎氏は、さらに、「突き抜けたニヒリズム」について語っていました。

「伝導の書(旧約聖書の一書)に書かれている突き抜けたニヒリズムというのは読んでいてちょっと元気が出ました。 汝の尽くせる限りのことを尽くせと、黄泉(よみ)の国にいったら何にも無いよって(笑)。権謀も術策もないけど知恵も知識もない、だからお前の空なる人生のあいだは自分のパンを喜びをもって食い楽しみながら酒を飲んで、額に汗流して尽くせるだけのことを尽くして生きるのは神様もよしとしてるんだっていう。すごいですねぇ、旧約聖書っていうのはすごいものなんだ、ということを初めてその時知ったんですけど(笑)」

 

 ここで言う「突き抜けたニヒリズム」は、「能動的ニヒリズム」と、ほぼ同内容と考えてよいでしょう。

 

 さらに、「突き抜けたニヒリズムを動機づけるものは?」と聞かれて、宮崎氏は、次のように答えています。

「ええ、難しいですね、ものすごく難しいと思います。でも安直なイデオロギーは手に入れたくないですね。だからやっぱり、ある種の歴史観で見ちゃうと「どうしてこの時代に人が生きていたんだろう、生きていられたんだろう」って、理解できなくなる瞬間があるんですよ。どうも人が生きるっているのは、そういうのとはなんか根源的にちょっと違うものなんだなっていう。「人がなぜ生きていくのか」とかさ。それをこのごろ思いますね。子供をいっぱい作れっていうようになっちゃいましたから(笑)。

 とにかくいっぱい作っていっぱい苦しんでね。アトピーに悩み、環境問題に悩み経済に悩みながら生きていくことがどうやら生きてくということらしいと。そうやって当面、あと10年ぐらい生きていこうっていう風に僕は決めたんです。」

 

「実は僕は母親とその問題をめぐって、ずーっと思春期の頃に論争してたんです。『人間っていうのは仕方がないものなんだ』っているのがオフクロの持論で、僕は『そんなことはない』って言い合ってたんですけどね。どうもこのままいくと、オフクロに無条件降伏になるから嫌だなと思って(笑)」

 宮崎駿氏は、母親の影響を受け入れて、「人間というのは仕方がないもの」ということを認めながら、何とか生きていく「突き抜けたニヒリズム」の立場をとっているようです。

 

 

(5)「能動的ニヒリズム」と「ナウシカ」

 

 以上の記述をもとに、今回の問題の「ナウシカ」のストーリーを解説します。

 「ナウシカ」は途中まで、「受動的ニヒリズム」に悩まされます。

 しかし、「墓所の主」と対峙する(【5】段落以下)に至って、「能動的ニヒリズム」に目覚めます(【14】段落)。

 物語の途中で、ナウシカが「虚無」に悩まされるシーンが、繰り返し出現します。

 これらのシーンは、「ナウシカ」が「能動的ニヒリズム」に目覚めるための、苦しみの過程と評価できます。

 

 

(6)当ブログの「ニヒリズム」・「ニーチェ」関連の記事、「哲学用語集」の紹介

 

 当該ブログでは、最近、 「歪んだ能動的ニヒリズム」についての、藤田省三氏の論考、「『安楽』への全体主義」(『全体主義の時代経験』)を解説した記事を発表しました。ぜひ、ご覧ください。

 なお、以下は、当該記事の藤田省三氏の論考の要旨です。

「今日の社会は、不快の源を一掃して、一面的な「安楽」を追求する能動的ニヒリズムの状態に陥っている。その結果、人生の多様な素晴らしい緒価値を「安楽」に隷属させ、事物との相互的な交渉に基づく「経験」が失われてしまった。人生の歩みは、平板な時間の経過となり、人生にはリズムが無くなることになった。」

  

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 「哲学用語集」としては、以下の2冊を、おすすめします。

現代思想史入門 (ちくま新書)

現代思想史入門 (ちくま新書)

 

 

現代思想を読む事典 (講談社現代新書)

現代思想を読む事典 (講談社現代新書)

 

 

 以下の記事は、上記の2冊を紹介した内容になっています。

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(7)重田園江氏の紹介

 

 ①人物紹介

重田 園江(おもだ  そのえ)
1968年兵庫県西宮市生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。日本開発銀行を経て、東京大学大学院総合文化研究科博士課程単位取得。現在は明治大学政治経済学部准教授。専門分野は政治思想史、現代思想、社会思想史、ミシェル・フーコー研究。

②著作 

『フーコーの穴――統計学と統治の現代』(木鐸社、2003年)、
イアン・ハッキング『偶然を飼いならす――統計学と第二次科学革命』(共訳、木鐸社、1999年)、
芹沢一也・高桑和己編『フーコーの後で』(慶應義塾大学出版会、2007年)、
『連帯の哲学Ⅰ――フランス社会連帯主義』(勁草書房、2010年)、
『ミシェル・フーコー――近代を裏から読む』(ちくま新書、2011年)、
『社会契約論――ホッブズ、ヒューム、ルソー、ロールズ』(ちくま新書、2013年)など。

 

ーーーーーーーー

 

 今回の記事は、これで終わりです。

 次回の記事は約1週間後に発表の予定です。

 ご期待ください。

 

   

 

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社会契約論: ホッブズ、ヒューム、ルソー、ロールズ (ちくま新書 1039)

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ミシェル・フーコー ――近代を裏から読む (ちくま新書)

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風の谷のナウシカ コミック 1-7巻セット

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風の帰る場所 ナウシカから千尋までの軌跡 (文春ジブリ文庫)

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

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 私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。

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予想問題「人工知能の開発・その先の不老不死人間の問題点」山崎正和

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 

 今回の記事は、トップレベルの入試頻出著者である山崎正和氏の論考、「人工知能の開発ー『薔薇色』実は深刻な問題 不死が生む  傲慢な世界」(〈地球を読む〉2017・2・26『読売新聞』)の解説です。

 

 今回の山崎正和氏の論考は、「人工知能の近未来の問題」を哲学的・根源的にかなり深く掘り下げて検討しています。
 人間以上の判断力と創造力を持った人工知能、それを利用した、もはや人間とは言えないような不老不死の「非生物的人間」が開発されたら、どのような問題が発生するか、についての哲学的・皮肉的な思考実験と言えるでしょう。

 相変わらず、切れ味抜群です。山崎氏は健在です。

 今回の論考は、山崎氏独自の皮肉、逆説のレトリックが駆使され、読み応えがあります。

 広く深く、視点が転換する演劇的な構成が、実に絶妙です。

 この練りに練った至高の論考は、近いうちに、難関大学の現代文(国語)・小論文に出題される可能性が極めて高いと思われます。

 予想出典、予想問題、予想論点として、注目するべきです。

 しかも、「人工知能」は最近の流行論点・頻出論点です。

 最近でも、2016東大現代文・一橋大現代文で本文ズバリ的中、2017センター試験国語・東大現代文などで論点的中させた私のセンサーが強く反応しています。(→的中報告記事のリンク画像を、下に貼っておきます。)
 そこで、現代文(国語)・小論文対策として、今回の記事を書くことにしました。

 

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 今回の論考は、まず、「最新の人工知能はただのコンピュータとは違い、自発的な判断力や感情まで備え、人間と同等か、それ以上の精神活動を行う能力を秘めている」(【2】段落)ことを前提にしています。

 そして、さらに人工知能が進化して、自発的な判断力や感情まで備え、人間と同等か、それ以上の精神活動を行う能力を獲得したら、どのような問題が発生するか、

 さらに、人工知能を利用して、人間の不老不死が実現したら、どのような問題が発生するかを哲学的・皮肉的に考察した思考実験です。

 しかし、最終段落の「  言うまでもなく、人工知能の技術は有用、不可欠である。だがそれを研究し論ずる人はもっと足を地につけたほうがよい。早い話が完全自動運転の車の開発に各社が狂奔しているなかで、老人運転車がアクセルとブレーキを踏み誤るといった、現存の技術で対応できる事故を防ぐ車がまだ普及していないのである」という記述を読むと、山崎氏は、人工知能が最終的に「自発的な判断力や感情まで備え、人間と同等か、それ以上の精神活動を行う能力」を獲得する可能性は極めて低いと考えているようです。

 

 「『 創造的 』な仕事を含むすべての仕事をロボットが行い、全人類が余暇を楽しむ夢のような社会」(【7】段落)、

 「人工知能を利用して個人として永遠に生きる、不老不死の『非生物的人間』の創造」(【12】段落)の実現可能性は、極めて低いということになります。

 

 

舞台をまわす、舞台がまわる - 山崎正和オーラルヒストリー

 

(2)「人工知能の開発ー『薔薇色』実は深刻な問題 不死が生む  傲慢な世界」(山崎正和〈地球を読む〉2017・2・26『読売新聞』)の解説

 

(概要です)

(【1】・【2】・【3】・・・・は当ブログで付記した段落番号です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です)


【1】このところマスコミを騒がせている最大の話題の一つは「人工知能」だろう。人工知能(AI)と、それをロボットに載せるテクノロジーの知能化、あらゆる物をインターネットで結ぶ(IoT)は蒸気機関の発明、電力エネルギーの導入、コンピューターの応用についで、「第4次産業革命」を起こすだろうといわれる。

(→近未来の、日本の急激な人口減少社会、少子化社会を意識しています)

 

【2】最新の人工知能はただのコンピュータとは違い、自発的な判断力や感情まで備え、人間と同等か、それ以上の精神活動を行う能力を秘めている。工場労働をはじめとして、介護や医療の分野人間の代りができるから、これで労働力不足の心配はなくなるという声がある。ある推計によれば、肉体労働、事務労働の8割が人工知能に委ねられると予想されるという。


【3】これを聞いて朗報と受け取る人が多い。未来学者は勿論、TVタレントでさえ「薔薇色」の時代が来たと囃(はや)し立てるありさまである。だが、すでに思慮深い少数派が指摘しているように、この薔薇色の背後には失業と転職という深刻な問題が潜んでいる。

(→「仕事から解放されるということ」は、「収入ゼロ」になるということです。このことの重大性を社会は、もっと意識するべきです)

 

【4】楽観論者は事態を軽く見て、事務や肉体労働の従事者は「創造的」な仕事に転職すればよいという。だが本人がその気になっても中年の事務職員がデザイナーや科学研究者へ転職することが可能だろうか。恐ろしい時間と努力が必要だが、その間の生活費と研修費用を誰が負担するのか。しかも、楽観論者は職業観に偏見があって、事務職員が仕事を愛し、それまで生きがいを覚えて働いてきた事実を忘れている。

(→つまり、生きがいを喪失する人々が大量に発生するということが、どういう事態に繋がるか、という想像力が欠けているのです。費用の問題も重大ですが、精神を病む人間の大量発生が予想されます。軽視できないことです。早めの対策が必要になるでしょう。)

  

【5】また考えれば脅威はさらに重大であって、人工知能が究極まで進化すれば、人類の100%が失業する可能性もないとはいえない。「創造的」な仕事もロボットがすることになれば、人類は完全に自由になるが、しかし完全に無収入にもなる。そうなれば消費は皆無になるから、ロボットの従事する生産も無意味になってしまう。どうしても無人企業が生み出す収益を適切に分配し、余暇を楽しむ全人類を生活させる一種の共産主義(→完全なる「ユートピア社会」と言えるでしょう。市民が労働から解放された、古代ギリシアのポリス社会を連想してしまいます。)が必要となる。

 

【6】ところが従来の共産主義が夢に過ぎず、その過程の社会主義的分配が強権と官僚主義を招くことを、人類はすでに学んでしまった。この弊を避ける知恵を現在の人類は持たないから、ここでも新しい深遠な英知を将来の人工知能に期待するほかはあるまい

 (→この部分では、山崎氏は人工知能に対して、かなりの敬意を表しています。しかし、この敬意が本心なのか、強烈な皮肉なのか、は問題になるところです)

 

【7】創造的 」な仕事を含むすべての仕事をロボットが行い、全人類が余暇を楽しむ夢のような社会は、果たして実現可能だろうか。その場合、ロボットが生み出した収益の配分も人工知能に頼ることになる。要するに平等や公正といった価値観も人工知能に育ててもらうわけだ。

 (→この部分でも直前の【6】段落と同様に、、山崎氏は人工知能に対して、かなりの敬意を表しています。しかし、この敬意が本心からのものなのか、はかなり疑問です。直後の【8】段落から、このことは明らかでしょう。詳しい説明は、【8】段落でします。)

  

 【8】いくら人工知能に自由に考えてもらうといっても、その思考の出発点となる資料は現代の人類が入れるほかなく、入れる内容は現代の価値観しかないという現実がある。人工とはいえ、知能は知能だから無から考えから始めるわけにはいかず、必ず思想史上の過去に縛られ、助けも受ける。(→人工知能の限界です。機械に、「機械自体の限界」があるのは、考えてみれば、当然のことです。そして、この限界は、「致命的限界」とも言えそうです。すなわち、人工知能は、あくまで「知能だから無から考えから始めるわけにはいかず、必ず思想史上の過去に縛られ」るのです。そうであれば、「従来の共産主義の弊を避ける知恵を持たない」(【6】段落)現在の人類の価値観を、思考の出発点とする人工知能に、「新しい深遠な英知」(【6】段落)の創造を期待するのは無理なことでしょう。従って、【6】・【7】段落における、「人工知能への敬意」は「皮肉的表現」ということになります。)

が、そうなると問題は一段と次元を異にする困難を露呈するだろう。

 

【9】その縛りが21世紀前半の価値観であり、現時点までの思想の伝統であるとすれば、これは現代が未来を制約し、歴史を凍結することを意味する。

 
【10】もちろん生きた人間も歴史の制約を受ける存在であり、どんな個人も幼少期に植えつけられた価値観を信じ、若干の修整を加えながらも終生、それを引きずって生きてゆく。しかし反面、人間には死という冷厳な宿命があって、この断絶のおかげで人類全体は歴史の変化に順応することができる。特定の時代の価値観がいかに頑固であっても、それを信奉する世代が死ねば、のちの歴史は格別の争いを起こすことなく自然に変わっていける。

 

【11】もはや念を押すまでもないが、人工知能にはこの死という断絶がなく、一時代の価値観を根底に抱いたまま永遠に生きるということが問題なのである。

(→人工知能が不死だとすると、知的部分を人工知能にかなり依存している人類全体が、「歴史の変化」に対応できなくなるということになります。)

ちなみに人工知能の讃美者には不老不死を憧れる人が多く、むしろ逆に不老不死を実現するために人工知能を求める論者が目立つ。 

(→「人工知能開発の最終目的」の一つが「不老不死の実現」とは、興味深い指摘だと思います。「不老不死の実現」を真剣に考えている科学者が、実際に数多く存在していることが、驚きです。)

 

【12】前に本欄でも紹介したレイ・カーツワイルが典型的だが、彼の『不連続点は近い』(邦訳『ポスト・ヒューマン誕生』)もこの夢を論じて、そのために「非生物的人間」の創造を主張していた。方法は二つある。いずれにせよ、造られた非生物的人間は個人として永遠に生きるわけで、世代交代もなくなり歴史は凍結状態に入ることになる。

 (→【14】・【15】段落からすると、「非生物的人間」の「不老不死」ということ自体が、「価値の文明史の発展」を阻害するのです。「非生物的人間」は惰性的な因習の中で、ただ生存を継続させているだけなのです。退屈の極致の中で生きるだけです。つまり、「不老不死」を熱望することは、ある意味で、人間自体の「利益・幸福」には、必ずしも繋がらないということになるのです。)

 

【13】語るに落ちる笑い話だが、カーツワイルは迂闊(うかつ)にも自分の非生物的分身を造るにあたって、消化器官は要らないが皮膚は残したいと洩(も)らしている。 後者は性の快楽に必要だからというのだが、わかるのは彼が食欲より性欲に価値を感じているという事実だろう。ここでは未来の価値観が現代の制約を受けるどころか、危うく一人の男の私的な価値観によって決定されようとしているといえる。 

(→ここでも、痛烈な皮肉的表現が躍動しています❗ 揶揄(やゆ)的表現とも言えそうです。ただ、科学の進歩の方向は、一人の、あるいは、少人数の科学者の私的価値観により決定されるということは、確かに、あるでしょう。これは、考えてみれば、非常に怖いことです。特に、現代のように、「科学の社会に対する影響」が絶大なことを考慮すると、このことは重大な問題を含んでいると言えるのです。『「科学の進歩」と民主的コントロール』の論点は、現在では、人類の存続に関係するほどの重大性を有しているのです。人工知能の開発についても、民主的コントロールが必要なことは、勿論です。この『「科学の進歩」と民主的コントロール』の論点は、2017年度のセンター試験、東大現代文(国語)に、出題されています。上のリンク画像を、ぜひ、ご覧ください。山崎氏は、直接的には、この論点には言及していませんが、間接的に、皮肉的に、言及していると見てよいと思います。)

 

【14】振り返って人類の歴史を見れば、そもそも価値の文明史はその内部に個人の死と世代交代を含み、伝承の流れに随時の断絶があればこそ発展してきた。断絶なくただ続くのは惰性的な因習であって、

(→「不老不死の非生物的人間達」の作る「歴史」は、単なる「惰性」であり、もはや、真の文化伝統は発生しなくなると、言っているのです。逆に言えば、「不老不死の非生物的人間達」が、世界を支配した時から、これまでの人間の歴史の発展は、停止してしまうのでしょう。)

真の文化伝統は過去と現在の緊張した対決を内に孕(はら)む。

 

【15】文化伝統には古典と呼ばれる今はなき価値があり、時間を隔てた継承者がそれを懸命に習得することで蘇(よみがえ)る。この死と蘇生のリズムが文明史を造り、その根底には生物的人間の生のリズムがあった。(→ここは重要なポイントです。「生物的人間の生と死」、「世代交代」が文明の発展の根底にある、ということです。)

それを失った非生物的な文明はどんな姿を見せるのだろうか。

 

【16】たぶん死の恐怖のない個人は傲慢になり、知的能力を無限に拡張しながら、他の非生物的個人と競争を重ね、しばしば抗争を繰り返すだろう。その人数も無限に増えるはずだから、資源と環境の制約が解決されても、その居場所は宇宙まで溢れるだろう。

(→実に壮大なスケールな話です。この文の映像的効果は見事です。)

 

【17】だが忘れてはならないのは、数千億光年のこの宇宙にも法則があり、それは無数の星を生んでは滅ぼす生命的リズムだということである。

(→「非生物的人間」の完全な、つまり、「無限の不老不死」は、あり得ないということを言っているのでしょう。)


【18】言うまでもなく、人工知能の技術は有用、不可欠である。だが、それを研究し、それについて論ずる人はもっと足を地につけたほうがよい。早い話が完全自動運転の車の開発に各社が狂奔しているなかで、老人運転車がアクセルとブレーキを踏み誤るといった、現存の技術で対応できる事故を防ぐ車がまだ普及していないのである。

(→大どんでん返しです。見事なものです。さすがに、現代の一流の脚本家でもある山崎氏の皮肉は、このうえもなく強烈です。つまり、こういうことです。直前まで、「人工知能を利用した不老不死の非生物的人間が宇宙にまで進出する可能性」を示唆していたのに、つまり、「スケールの巨大な夢物語・ユートピアが実現する可能性」を示唆していたのに、ここでは、低レベルな話題に急転直下です。しかも、目も眩むような夢物語を語る人工知能の専門家が、案外簡単ではないかと思われる「ブレーキとアクセルの踏み違い問題」を、今もって解決できないとは、悲しくなるような話です。これほどの基本的レベルをクリアできないようでは、ユトピア社会の実現、夢物語の実現は無理ではないか、と言いたいのではないでしょうか。つい、「人工知能の専門家達はホラ吹き集団なのか」と思ってしまいます。実際のところ、私は、人工知能の専門家達を「ホラ吹き集団」とは思っていません。しかし、この山崎氏の秀逸な論考を読むと、人工知能の専門家達が語る夢物語への道のりは、それほど平坦でも、単純でも、ないのではないか、と思うのです。)

 

 

 

(3)山崎正和氏の紹介

  

【1】山崎正和氏の紹介

 山崎正和氏は、1934年、京都生まれ。京都大学文学部哲学科卒業。劇作家、評論家、演劇研究者。評論は、文明批評、文芸批評、芸術論、演劇論と、実に多彩である。文化功労者。日本芸術院会員。大阪大学教授、東亜大学学長、中央教育審議会会長などを歴任。

 

【2】山崎正和氏の著書 

 主な著書として、

『世阿弥』(新潮文庫)(第9回岸田國士戯曲賞受賞)、

『劇的なる日本人』(新潮社)、

『混沌からの精神』(ちくま学芸文庫)、

『日本文化と個人主義』(中央公論社)、

『近代の擁護』(PHP研究所)、

『社交する人間』(中公文庫)、

『装飾とデザイン』(中公文庫)、

『日本人はどこへ向かっているのか』(潮出版社)、

『山崎正和全戯曲』(河出書房新社)、

『舞台をまわす、舞台がまわる-山崎正和オーラルヒストリー』(中央公論新社)

などがあります。

 

 以上のうちで、

『劇的なる日本人』(新潮社)、

『混沌からの精神』(ちくま学芸文庫)、

『日本文化と個人主義』(中央公論社)、

『近代の擁護』(PHP研究所)、

『社交する人間』(中公文庫)、

『装飾とデザイン』(中公文庫)、

『日本人はどこへ向かっているのか』(潮出版社)

は、いずれも、難関国公立・私立大学の現代文(国語)・小論文の入試頻出出典です。

 

 

 (4)当ブログにおける「山崎正和氏の論考」関連記事の紹介

 

gensairyu.hatenablog.com

 

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(5)当ブログにおける「人工知能関連」の記事の紹介

 

gensairyu.hatenablog.com

 

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ーーーーーーーー

 

今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

ご期待ください。

 

   

 

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日本人はどこへ向かっているのか

日本人はどこへ向かっているのか

 

 

舞台をまわす、舞台がまわる - 山崎正和オーラルヒストリー

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

 

  

5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

 

 

 私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。

https://twitter.com/gensairyu 

https://twitter.com/gensairyu2

 

予想問題「無常という事」小林秀雄・身体感覚・身体論・死生観・随筆

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 

 小林秀雄氏は、一時代前の思想家・文芸評論家ですが、小林氏の思想は、決して、古びていません。

 それは、小林氏の論考は、「人間存在の根源」に焦点を当てているからです。

 それ故に、今だに、難関大学の現代文(国語)・小論文に出題されています。

 しかも、小林氏の論考は、2016センター試験にも出題され、かなり話題になりました。

 

 小林秀雄氏は、近代日本の、文芸評論・近代批評の確立者です。

 個性的な、少々切れ味の良い挑発的な文体、詩的雰囲気のある表現が、特徴です。

 西洋絵画の批評や、ランボー、アラン等の翻訳にも、業績を残しました。

 

 入試現代文(国語)・小論文の世界では、20年くらい前までは、トップレベルの頻出著者(ほぼ全ての難関大学で、最低1回は出題されていました)でした。

 現在は、トップレベルではないですが、やはり、頻出著者です。

 最近の入試に全く出題されていない、ということは、ありません。

 最近でも、以下の大学で出題されています。

 大阪大学『考えるヒント』

 明治大学『文化について』

 国学院大学『無常という事』

 明治学院大「骨董」

 

 

 (2)「無常という事」を読む際に、最初に意識するべきことについて

 

① 小林秀雄氏は、ポストモダンの旗手であり、最近でも入試頻出著者です。


 この名文は、近代的思考に対しての本質的・根源的な批判的考察、いわゆるポストモダン(近代原理を批判する立場)的考察がなされているので、一読する価値があります。

 最近の難関大学には、近代的価値観を根本的に見直し、「人間の本質」・「人生の本質」に迫ろうとする論考、ポストモダン的論考が、かなり出題されています。

 だからこそ、ポストモダンの旗手的立場にいる小林秀雄氏の論考は、最近でも、頻出なのです。

 


② 「無常という事」は論理の飛躍があり、分かりにくいエッセイ(随筆)です。従って、この「無常という事」を考えるについては、筆者である小林秀雄氏の思想を追跡・考察していくことにします。

 

 本文は本文として、虚心に、素直に読むべきです。

 予備知識を背景として読むべきではありません。

 

 しかし、その著者が日々、どのような方向で、ものを考えているか? 

 あるいは、現代に対して、どのような問題意識を持っているのか? 

 ある単語・キーワードを、どのような意味で用いているのか? 

を知っておくことは、有用だと思います。

 

 従って、この「無常という事」を考えるについては、筆者である小林秀雄氏の思想を追跡・考察していくことにします。

 

 

③ 「小林秀雄氏の思索の基本姿勢」は、「自分の個人的・身体感覚的体験」を出発点にしています。このことを意識してください。

 

 この体験を共有できるかどうか、少なくとも、この体験を共有しようとする姿勢を持てるかどうか、が小林氏の作品を理解するポイントになります。

 しかも、「無常ということ」の場合は、この体験の質がきわめて宗教色・神秘性の強いものになっているのです。

 そのうえ、この作品は、エッセイ(随筆)です。エッセイは、それ自体が主観性が強いのです。

 従って、最低でも、「小林氏の体験を共有しようとする姿勢」が必要になるでしょう。

 

 「小林秀雄の思索の基本姿勢は、自分の個人的・身体感覚的体験を出発点にしていること」

については、以下の内田樹氏の論考が参考になります。

 

(赤字は当ブログによる「強調」です)

「  鳥瞰的な、非人称的な視点ではなく、あくまで自分の『特殊な立場』に踏みとどまり、自分のまわりを見る。

『眼の前の物をはっきり見て、凡そ見のこしということをしない自分の眼力と、凡そ自由自在な考える力とを信じ』る。(「實験的精神」『小林秀雄全集第七巻』新潮社、289頁)

 そこからしか学問も芸術も始まらない、と小林秀雄は言う。

 そして、そういう構えを『原始的』と呼んでいる。

何かに率直に驚いて、すぐそこから真っすぐに考えはじめるというようなところがある』(282頁)パスカルを評して、小林は彼を『ものを考える原始人』だと言う。」

( 内田樹の研究室 「Just like a barbarian 」 2010年04月03日 ) 

 

 強い主観性を有し、論理の飛躍の著しい、この哲学的な作品は、エッセイ(随筆)の学習には、理想的な教材と言えます。

 この作品と格闘しておけば、他の哲学的論考、エッセイにも、対応する応用力が身に付くはずです。

 

 

モオツァルト・無常という事 (新潮文庫)

 

 

(3)予想問題ー「無常という事」小林秀雄の解説

 

(小林氏の論考)

(概要です)

(【1】【2】【3】・・・・は当ブログで付加した段落番号です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です)

【1】「ある人いはく、比叡の御社に、偽りてかんなぎのまねしたるなま女房の、十禅師の御前にて、夜うち深け、人しづまりて後、ていとうていとうと、つゞみを打ちて、心すましたる声にて、とてもかくても候、なうなうとうたひけり。其心を人にしひ問はれて云(いはく)、生死無常(しょうじむじょう)の有様を思ふに、此世のことはとてもかくても候、なう後世(ごせ)をたすけ給へと申すなり。云々(うんぬん)」

 

ーーーーーーーー


《現代語訳》

比叡神社で、偽って巫女のふりをした若い女房が、夜が更けて、人が寝静まった後に、ぽんぽんと鼓を打ち、心から澄んだ声で、「どうでもこうでもいいのです、ねえねえ」と謡を謡った。その意味を、あとで人に強いて問われて、このように答えた。

生死は無常という事を思いますと、この世の事は、どうでもこうでもいいのです。後世を助けてくださいと、神様に、お願い申し上げてあげていたのです」

 

ーーーーーーーー


(当ブログの解説)

( 問題 )なぜ、この論考は、唐突に死後(後世)の話から、始まるのか?

 いささか、特異な構成だと私は思います。

 このことを考えるについては、この論考が1942年、つまり第2次世界大戦中に発表されたということを考慮する必要があります。

 死が日常的な問題である時代に発表されているのです。

 

ーーーーーーーー 

 

(小林氏の論考)

【2】これは、「一言芳談抄(いちごんほうだんしょう)」の中にある文で、読んだ時、いい文章だと心に残ったのであるが、先日、比叡山に行き、山王権現(さんのうごんげん)の辺りの青葉やら石垣やらを眺めて、ぼんやりとうろついていると、突然、この短文が、当時の絵巻物の残欠でも見る様な風に心に浮かび、文の節々が、まるで古びた絵の細勁(さいけい)な描線を辿る様に心に染み渡ったそんな経験は、初めてなので、酷く心が動き、坂本で蕎麦を喰っている間も、あやしい思いがし続けた。あの時、自分は何を感じ、何を考えていたのだろうか、今になってそれがしきりに気に懸かる。無論、取るに足らぬ或る幻覚が起ったに過ぎまい。そう考えて済ますのは便利ではあるが、どうもそういう便利な考え(→近代的な知性的・理性的な思考)を信用する気になれないのは、どうしたものだろうか。実は、何を書くのか判然しないままに書き始めているのである。

 

ーーーーーーーー

 

(当ブログの解説)

( 問題 ) 以下の記述は、どのようなことを意味しているのか?

「無論、取るに足らぬ或る幻覚が起ったに過ぎまい。そう考えて済ますのは便利ではあるが、どうもそういう便利な考え(→近代的な知性的・理性的な思考)を信用する気になれないのは、どうしたものだろうか。」

 

  小林氏は、自分の直感・現場体験を重視しようとしているのでしょう。

 自分の身体で、五感で感じた出来事を噛み締め、そこから論を進めたい、と考えているのです。すべてを頭だけで観念的に考えようとする近代的・現代的な思考形式、への反発心が感じられます。

 現在では、内田樹氏・養老孟司氏(→両氏とも、入試頻出著者です)などが、同様の思考態度を貫徹しています。

 この問題は、論点としては、いわゆる、「身体論」と言われています。

 「身体論」は、入試現代文(国語)・小論文の最頻出論点です。

 だからこそ、今回の記事でこの「無常という事」を解説しているのです。

 逆に言うと、「身体論」を充分に理解していないと、この「無常という事」も分からないのです。

 

 明治時代から、「文明開化」による「西洋化・近代化」により、日本人の精神構造に、「西洋的な人間中心主義的発想」・「理性・知性重視主義」・「科学的合理主義」が流入し始めました。

 そして、「身体感覚をも意識した考察」・「自然との交流」・「死後の世界との交流」(→これらこそ、日本の伝統的価値観と言えます)は、出来なくなりました。

 その結果、「死」・「歴史」は、日々の生活から遠ざかったのです。

  「死」が日常から遠ざかるということは、「突発的な死」 (運命の残酷性→「一寸先は闇」)や、自然な時間の流れ(人間は生物なのだから、「老」・「病」・「死」は当然のこと)(→これらこそが「無常」です)という当たり前なこと、つまり、「人生の真理」が日常から消えるということです。

 だからこそ、現代の日本人の多くが、自分が平均寿命まで生きることを前提に、あるいは、平均寿命までも生きることを前提に、実に愚かなことに没入していくのでしょう。

 「死」を意識して、「自分の人生の有限性」、「一寸先は闇」を痛感すれば、「今」を楽しく生きることを心がけるはずです。

 本来、健康ブーム、禁欲ブーム、ダイエット、アンチ・エイジングなど、どうでもよいことのです。

 「今」を楽しまず、自分では確定的に到来すると思い込んでいる老後のために、自分の健康面の観察・点検にばかり集中し、禁欲生活に邁進することの、悲しいほどのバカバカしさ。

 

 このことは、戦後になって、著しく、病的と言えるほどに進行したのです。

 現在の日本では、西洋にも見られないほどの、歪んだ形の「西洋的・近代的発想」が主流です。

 それゆえに、日本の伝統的価値観に立脚して、近代原理を批判している「無常という事」は、一般的に、難解と評価されているのでしょう。 

 

( 問題 ) 「小林氏の感性の鋭敏さ」が分かるのは、どの部分の記述か? 

 小林秀雄氏において、自分自身の「身体性」を通して考えること、感じること、現実の場で具体的に感じ考えることの能力が、いかに優れているか、は以下の記述より明らかです。

  ぼんやりとうろついていると、突然、この短文が、当時の絵巻物の残欠でも見る様な風に心に浮かび、文の節々が、まるで古びた絵の細勁(さいけい)な描線を辿る様に心に染み渡った 

  

( 問題 ) 「心に染み渡った」とは、どのような意味なのか? 同類語、同類表現を列挙せよ。

 共鳴、共感、同調、などを挙げるとよいでしょう。

 「腑に落ちる」、「全身で納得すること」でも、よいと思います。

  

(問題)なぜ、「実は、何を書くのか判然しないままに書き始めているのである」と記述されているのか?

 これは、読者への明確な宣言です。

 つまり、小林氏は、自分のこの論考を、計画的に論理的には書き進めないと宣言しているのです。

 あたかも、詩のように、感性重視で書いていこうとしているのでしょう。

 これは、現代の先進国社会、特に日本社会における異様とも言える知性支配、知性優位に向けての、小林氏特有の皮肉的表現であるように、私には思われます。

 

 (問題) 「無常という事」における、この段落の意味は? 

 この段落に記述された小林氏の体験が、「この論考の重要な出発点」になっています。 

 「比叡山に行き、山王権現(さんのうごんげん)の辺りの青葉やら石垣やらを眺めて、ぼんやりとうろついている

という状況における、宗教的体験、神秘的体験が、この論考の前提と言ってもよいでしょう。

 確かに、小林氏自身が言うように「取るに足らぬある幻覚」(→近代的な知性的・理性的な思考)で済ますこともできましょう。
 しかし、そのように即断できない気持ちが、小林氏には、あるようです。

 まさに、ここが、この論考を読み解くポイントになります。

 この体験に対して共有できる心を持っていること、少なくとも、共有しようとする気持ちを有することが、この作品を理解する前提になります。

 ここで小林氏の体験を軽視すると、これ以後の記述を把握することが困難になります。

 従って、この作品を読み解こうとするのであれば、「この体験に寄り添う気持ち」を持つようにしてください。

 つまり、西洋的・近代的な合理的・科学的発想から離れるようにすることがポイントです。

  

ーーーーーーーー

 

(小林氏の論考)

「【3】「一言芳談抄」は、恐らく兼好の愛読書の1つだったのであるが、この文を「徒然草」の内に置いても少しも遜色はない。今はもう同じ文を目の前にして、そんな詰まらぬ事しか考えられないのである。依然として一種の名文とは思われるが、あれほど自分を動かした美しさは何処に消えてしまったのか。消えたのではなく現に眼の前にあるのかも知れぬ。それを掴むに適したこちらの心身の或る状態だけが消え去って、取り戻す術を自分は知らないのかも知れない。こんな子供らしい疑問が、既に僕を途方もない迷路に押しやる。僕は押されるままに、別段反抗はしない。そういう美学(→「美学」とは美の本質や構造を、その現象としての自然・芸術及びそれらの周辺領域を対象として、経験的かつ形而上学的に探究する哲学の一領域。伝統的に美学は、「美とは何か」という美の本質、「どのようなものが美しいのか」という美の基準、「美は何のためにあるのか」という美の価値を問題として取り組んできた)の萌芽とも呼ぶべき状態に、少しも疑わしい性質を見付け出す事が出来ないからである。だが、僕は決して美学には行き着かない。

 

 ーーーーーーーー

 

(当ブログの解説)

(問題)以下の文章は、何を主張しようとしているのか?

 僕は押されるままに、別段反抗はしない。そういう「美学の萌芽」とも呼ぶべき状態に、少しも疑わしい性質を見付け出す事が出来ないからである。だが、僕は決して美学には行き着かない。

 

 「美学の萌芽」「美学」の対比は、注目するべき点です。 

 「美学」になると、学問の一分野になり論理重視になっていくので、小林氏は警戒しているのでしょう。

  

ーーーーーーーー

 

(小林氏の論考)

【4】確かに空想なぞしてはいなかった。青葉が太陽に光るのやら、石垣の苔のつき具合やらを一心に見ていたのだし、鮮やかに浮び上った文章をはっきり辿った。余計な事は何一つ考えなかったのであるどの様な自然の諸条件に、僕の精神のどの様な性質が順応したのだろうか。そんな事は分からない。分からぬ許(ばか)りではなく、そういう具合な考え方が既に一片の洒落(しゃれ)に過ぎないかも知れない。僕は、ただ或る充ち足りた時間(→「人生の充実」でしょうか?)があった事を思い出しているだけだ。自分が生きている証拠だけが充満し、その一つ一つがはっきりとわかっている様な時間が。無論、今はうまく思い出しているわけではないのだが、あの時は、実に巧みに思い出していた(→特殊用法?)のではなかったか。何を。鎌倉時代をか。そうかも知れぬ。そんな気もする。

 

ーーーーーーーー

 

(当ブログの解説)

(問題) この段落の意味は、何か? 何を主張しようとしているのか?

 「自分が生きている証拠だけが充満する時間」、つまり、「人生の充実感」は、「余計な事は何一つ考えず(心を虚しくして)」 「鎌倉時代を」 「巧みに思ひ出す」ことによって、「満ち足りた時間」の中にあらわれています。

 自分を近代的思考の束縛から解放させること、自分の身体感覚を解放して過去への共感能力を高めていくことが、人生の真の充足感・満足感につながるのでしょう。
 精神よりも、自分の身体感覚に素直に従うこと。

 そのことにより、自分の身体が解放され、ひいては、精神も充実感を味わえるのでは、ないでしょうか。

 このことを、小林氏は主張したいのだと思います。

 

 日本の伝統的文化の根底にある「豊かな感受性」が、小林秀雄氏にあったのでしょう。

 「豊かな感受性」は「豊かな共感能力」と言い換えても、よいでしょう。

 平安時代、鎌倉時代の日本人には、それがあったし、なま女房の話を『一言芳談抄』に収録した人、また、兼好にも、その感受性はあったのだと思います。

 

ーーーーーーーー

 

(小林氏の論考)

「【5】歴史の新しい見方とか新しい解釈とかいう思想(→近代的発想を意味しています)からはっきり逃れるのが、以前には大変難しく思えたものだ。そういう思想は、一見魅力ある様々な手管(てくだ)めいたものを備えて、僕を襲ったから。一方歴史というものは、見れば見るほど動かし難い形と映って来るばかりであった。新しい解釈なぞでびくともするものではない、そんなものにしてやられる様な脆弱(ぜいじゃく)なものではない、そういう事をいよいよ合点して、歴史はいよいよ美しく感じられた。晩年の鴎外が論証家に堕したという様な説は取るに足らぬ。あの膨大な論証を始めるに至って、彼は恐らくやっと歴史の塊に推参した(→真の歴史を見出だす入口に立った、ということ。→鴎外が晩年になって、「新しい解釈などでびくともするものではない、つまり、解釈を拒絶して動じない」真の歴史を書き記そうとした、ということ)のである。「古事記伝」を読んだ時も、同じ様なものを感じた。解釈を拒絶して動じないものだけが美しい、これが宣長(のりなが)の抱いた一番強い思想だ。解釈だらけの現代には一番秘められた思想だ。そんな事を或る日考えた。又、或る考えが突然浮び、たまたま傍にいた川端康成さんにこんなふうに喋ったのを思い出す。彼笑って答えなかったが。

【6】「『生きている人間などというものは、どうも仕方のない代物だな。何を考えているのやら、何を言い出すのやら、仕出かすのやら、自分の事にせよ、解った例(ため)しがあったのか。鑑賞にも観察にも堪えない。其処(そこ)に行くと死んでしまった人間というのは大したものだ。何故、ああはっきりとしっかりとして来るんだろう。まさに人間の形をしているよ。してみると、生きている人間とは、人間になりつつある一種の動物かな』」

 

ーーーーーーーー 

 

(当ブログの解説)

(問題) この【5】・【6】段落の意味? なぜ、「彼笑って答えなかった」のか?

 いろいろなことが、考えられます。川端康成氏の反応は、とても微妙な、曖昧な態度と言えるのです。

 考えられる理由としては、まず、

 「その場ですぐに答えられるようなレベルの問題ではないので、笑うしか、なかったから」、ということです。

 次に、「同意のサイン」と考えることも可能です。

 

ーーーーーーーー

 

(小林氏の論考)(概要です)

「【7】この一種の動物という考えは、かなり僕の気に入ったが、考えの糸は切れたままでいた。歴史には死人だけしか現れて来ない。従って、のっ引きならぬ(→「どうにもならない」という意味)人間の相しか現れぬし、動じない美しい形しか現れぬ。思い出となれば、みんな美しく見えるとよく言うが、その意味をみんなが間違えている。僕等が過去を飾り勝ちなのではない。過去の方で僕等に余計な思いをさせないだけなのである。思い出が、僕等を一種の動物であることから救うのだ。記憶するだけではいけないのだろう。思い出さなくてはいけないのだろう。多くの歴史家が、一種の動物に留まるのは、頭を一杯にしている(→「知識、論理、知性」に拘束されている、という意味)ので、心を虚しく(「近代的な論理・知性に拘束されないで、純粋な感性で」という意味)して思い出す事が出来ないからではあるまいか。

 

ーーーーーーーー

 

(当ブログの解説)

(問題) 「歴史には死人だけしか現れて来ない。従ってのっ引きならぬ人間の相しか現れぬし、動じない美しい形しか現れぬ。」の中の 「動じない」とは、どのような意味か? 

 「人生上の悩みに心を動かさない、現世的利益に右往左往しない」という意味です。

  

(問題)なぜ、思い出は美しいのか。

 固定した、美しい過去(歴史)が、僕等に余計な思いをさせないから、です。
  

(問題)なぜ、「思い出が僕等を一種の動物であることから救う」のか。

 僕等は生きている人間であり、「一種の動物」です。そして、「一種の動物」は、「無常」であり、不安定な存在です。

 一方で、「思い出すこと」は、「生きている証拠だけが充満している時間」です。
 言い換えれば、「思い出すこと」は、「無常な一種の動物である僕等」に、「満ち足りた時間」、つまり、「充足的・安定的な時間」を与え、救ってくれるのです。

  

(問題)この論考における「思い出す」とは、どのような意味か?

 「多くの歴史家が、一種の動物に留まるのは、頭を一杯にしている」という文脈から考えると、「思い出す」とは、「直感」・「感情」・「理性」が総合的に働いた作用です。

 『学生との対話』(新潮社)の中で、小林氏は、「イマジネーションは、対象と私とがある親密な関係に入り込むこと」と述べていますが、「思い出す」についても、同様に考えてよいでしょう。

 【2】・【3】段落の文脈からも、このことは肯定できると思います。

 ここでは、「客観性のみで対象に向き合うことの否定」と、「主観性の尊重」が強調されています。

 「対象と交わること」とは、身体感覚を駆動させて、その対象と交流し、接触することなのです。

 

 ーーーーーーーー

 

(小林氏の論考)(概要です)

「【8】上手に思い出す事は非常に難しい。だが、それが、過去から未来に向かって飴(あめ)の様に延びた時間という蒼(あお)ざめた思想(僕にはそれが現代における最大の妄想と思われるが)から逃れる唯一の本当に有効なやり方の様に思える。成功の期はあるのだ。この世無常とは決して仏説という様なものではあるまい。それは幾時(いつ)如何(いか)なる時代でも、人間の置かれる一種の動物的状態である。現代人には、鎌倉時代の何処かのなま女房ほどにも、無常ということが分かっていない。常なるもの(→伝統的価値観、死生観、死への意識)を見失ったからである。」  (『文学界』昭和17年6月号)

 

ーーーーーーーー

 

(当ブログの解説)

(問題)「現代人は、鎌倉時代のなま女房ほどにも無常ということがわかっていない」とは、どういう意味か?

 「なま女房」は、確固たる「死生観」(→「死」と「生」に関する価値観。「生死は無常なのでどうすることもできない」とする価値観)を保持していたが、現代の日本人は、「死」・「人生の無常」を直視していないということです。

 

(問題)「常なるもの」とは何か?

 「日本古来の伝統的死生観」です。

 前述したように、明治時代からの、「文明開化」による「西洋化・近代化」により、日本人の精神構造が、「西洋的な人間中心主義的発想」となりました。

 そして、「自然との交流」・「死後の世界との交流」は、出来なくなりました。

 その結果、「死」・「歴史」は、日々の生活から遠ざかったのです。

 それとともに、「日本古来の伝統的死生観」も、ほとんど消滅してしまったのです。

 このことは、戦後になって、著しく進行したのです。

 

 この人間として不自然な状態から脱却するためには、日頃から、頭だけで観念的に考えないようにする、全身で納得することを心がける、腑に落ちるということを大切にする、というようにして、「自分の身体感覚」をも重視して、考察することを意識するべきです。

 「自分の身体性」に意識が向けば、自分の「老」・「死」は、時間と宿命の流れに支配され、自分の意識を超越したものだという当然の事実が強く認識できるはずです。

 人は「老」・「死」の絶対性から逃れることはできないのです。

 このことを「無常」というのでしょう。

 現代の日本人は、「自己の身体性」から目を背けたために、この「無常の感覚」、つまり、「日本の伝統的価値観」まで忘れてしまったのでしょう。

 

 小林秀雄氏は、「死を直視することの重要性」を以下のように述べています。

「人の世の秩序を、つらつら思うなら、死によって完結する他はない生の営みの不思議を納得するでしょう。死を目標とした生しか、私たちには与えられていない。そのことが納得出来た者には、よく生きる事は、よく死ぬ事だろう。 」(小林秀雄「生と死」『小林秀雄全作品  第26集』)

 

「この世に生まれ、暮らし、様々な異変に会い、死滅するという人の一生を、これを生きて知る他はない当人の身になって納得してみよ。歴史の真相に推参できるだろう。兼好はこれを『実(まこと)の大事』と呼んでいる。」(小林秀雄「生と死」)

 

 「小林秀雄についての批評」に関してはトップレベルの文芸評論家の秋山駿氏は、「小林秀雄ーその生と文学の魅力」 (『Web版 有鄰・第414号(平成14年5月10日)』有隣堂)の中で、とても参考になることを述べています。

「小林は乱暴な人だ、と言ったが、その乱暴とは、一度自分で決断したら、前途も知らず、前後も見ず、自分を信じて一直線に突き進む元気、といった意味のものだ。

 その一直線に突き進む元気が、小林の文学の中央を貫く。出発点から最後まで貫く。」

 そして、『考えるヒント』について、以下のように続けています。

小林は、戦後の時代が、あまりにも日本文化の基本から外れた方へ進んでいるのを見て、時代に抗して、警告として、彼が日本と現代について考えたところを種子として、われわれへとばら撒いたのであった。一粒の麦もし死なば・・・・、それがヒントの真意であった。

 このことは、「無常という事」についても、同じように言えるのでは、ないでしょうか。

 ただ、「無常という事」は戦争中の作品です。

 とすると、戦争中から、戦後思想的なものはあったのでしょう。

 

 (4)小林秀雄氏の紹介

 

小林秀雄(1902~1983)
 評論家。 1928年東京大学仏文科卒業。 1929年に、『改造』の懸賞文芸評論に『様々なる意匠』が2位入選。 1933年に、林房雄・川端康成らと『文学界』を創刊。「私小説論」・「ドストエフスキイの生活 」などを発表。戦後は、「モオツァルト」・「ゴッホの手紙」・「 私の人生観」・「近代絵画」・「考へるヒント」・「人間の建設」・「本居宣長」 などを発表。
51年日本芸術院賞受賞。 59年芸術院会員。 63年文化功労者。 67年文化勲章受章。日本の近代文芸批評の確立者、と評価されています。

 

 歯切れのよい筆致と逆説的表現で、プロレタリア文学の極端な観念性、新興芸術派の空虚性、私小説の不安定性・虚弱性を鋭敏に指摘しました。その上で、日本近代文学の全面的見直しに着手しました。
小林氏の文芸批評は、従来の印象批評を越えて、作品分析を通して、作者の「自己」に迫ろうとするものです。このことにより、日本での、本格的な近代文芸批評は小林秀雄氏によって確立されたと評価されています。
 思想的には、ランボーなどのフランス象徴派の詩人、ドストエフスキー・幸田露伴・志賀直哉などの著作、ベルクソンやアランの哲学に影響を受けていると言われています。
その思想は、西洋近代文化の受容を通じて自己確立を迫られる日本のインテリの苦悩を認めつつも、それを鋭く批判したものです。そして、その困難な超克の過程として、「自己の直感」・「歴史」・「自然」を直視する態度を採用していきました。これは、本居宣長・吉田兼好の著作などの、近代以前の日本文学にも造詣を持っていたことも関係していると思われます。
 晩年においては、文芸評論家の枠を越え、思想家としての性格が強くなりました。

 

 

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ーーーーーーーー

 

今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

ご期待ください。

 

   

  

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予想問題「憲法9条の矛盾」平和主義・集団的自衛権・佐伯啓思

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 

 平和主義、憲法9条改正問題、集団的自衛権は、大学入試現代文(国語)・小論文の最近の流行論点です。

 しかし、これらの論点は、なかなか分かりにくい側面があります。

 

 また、このような「政治的問題」は、政治的思想調査、政治的踏み絵になりかねないので、大学入試現代文(国語)・小論文に出題されない、と考えている人がいるようです。

 しかし、そうしたことはありません。

 最近でも、 慶応大学法学部・小論文で、政治的問題と言える「日本の戦後補償問題」が出題されています。 

 

 最近発表された、入試頻出著者の佐伯啓思氏の「異論のススメー憲法9条の矛盾・平和守るため戦わねば」 (朝日新聞 2017・5・5)は、以上の論点を明解に解説しています。
 そこで、今回は、この論考についての解説記事を書きます。


 特に、憲法9条を中心とする「憲法改正問題」については、反対説、賛成説、さまざまな見解を読むべきです。 
 そのことが視野を広げ、理解を深めるポイントになります
 今回は、賛成説を丁寧に説明している、佐伯啓思氏の論考を解説します。

 

 佐伯啓思氏は、入試現代文(国語)・小論文における入試頻出著者です。そして、この論考は佐伯氏の最新の論考です。  

 佐伯氏の論考は、最近では、神戸大学、新潟大学、早稲田大学(政経)・(文)、立教大学、法政大学、中央大学、関西大学等で出題されています。

 

(2)集団的自衛権ー「憲法9条の矛盾・平和守るため戦わねば」 佐伯啓思(『朝日新聞』2017年5月5日朝刊「異論のススメ」)

 

(概要です)

(【1】【2】【3】・・・・は当ブログで付加した段落番号です)

(赤字、太字は、当該ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です)

「【1】この5月3日で憲法施行から70年が経過した。安倍首相は3年後の憲法改正をめざすとし、9条に自衛隊の合憲化を付加したいと述べた。私にはそれで充分だとは思えない。

【2】実際には、今日ほどこの憲法の存在が問われているときはないだろう。最大の理由はいうまでもなく、朝鮮半島有事の可能性が現実味を帯びてきたからである。北朝鮮と米国の間に戦闘が勃発すれば、日本も戦闘状態に入る。また、韓国にいる日本人の安全も確保しなければならない。はたしてこうしたことを憲法の枠組のなかで対応できるのか、という厳しい現実を突きつけられているからである。

【3】2年ほど前に、安倍首相は集団的自衛権の行使容認をめざして、日本の安全保障にかかわる法整備をおこなった。野党や多くの「識者」や憲法学者は、これを違憲として、憲法擁護を訴えたが、はたして、彼らは今日の事態についてどのようにいうのであろうか。野党も、朝鮮半島情勢にはまったく無関心のふりをしている。」

 

ーーーーーーーー

 

 (当ブログによる解説)

 集団的自衛権については これを認めることが「世界の常識」のようです。

 グローバルスタンダード(国際基準)を崇拝するマスメディアや学界、評論家などのうちの多数が、この論点では、なぜグローバルスタンダードを考慮しないのかが不可解です。

 自分達の立場にとって不都合があるからでしょうか? 

 何か意図があるのでしょうか?

 あるいは、不勉強、無知なのでしょうか?

 

 「世界の常識が集団的自衛権を認めること」については、以下の見解が参考になります。

 

「国際法は憲法に勝るが世界の常識 集団的自衛権は憲法違反、の大間違い 」

(『週刊ダイヤモンド』2015年7月11日号) 

 百地章氏(日大教授)が6月26日の「言論テレビ」で集団的自衛権、平和安全法制について重要な点を指摘しました。

 野党が、多くの憲法学者の多数説を根拠として一連の法案を廃案にせよと主張しています。しかし、そもそも、批判的立場の人々は、 国際法と憲法の関係を理解していないというのです。

 百地氏は、この点を理解しなければ、「集団的自衛権の行使容認」の違憲性・合憲性を正しく判断することはできない、と以下のように言います。

集団的自衛権が国内で問題になることはありません。国際間の権利で、国際法上の権利です。国際社会においては、各国の憲法よりも国際法が優位するというのが法学者の常識であり大前提です。 

 そこで国連憲章51条を見れば、全ての国連加盟国に『固有の権利』として集団的自衛権を認めています。
 すなわち、国連加盟諸国は全て国際法上、集団的自衛権を有し、行使することができるのです。日本国憲法に、わが国には集団的自衛権があるとか行使できるとか書いていなくても、権利はあり、行使できるのです。
 憲法に書いていないのは日本だけではありません。その他諸国の憲法にも書かれていません。領土主権についても同じです」

 

 また、長尾一紘氏(中大名誉教授)は、「『集団的自衛権は合憲』・なぜか疎外されている『集団的自衛権は合憲』の憲法学者座談会ーー長尾一紘×百地章×浅野善治」 (『週刊新潮 』2017年5月18日菖蒲月特大号 2017・5・10発売)の中で、次のような見解を述べています。

「日本の憲法学者は9条に関する限り、まるでガラパゴス諸島の生物です。昭和20年代で思考停止してしまったようです。

 主権国家が当然保有する、集団的自衛権について賛成と反対の意見が対立していること自体が間違いで、世界中でも、こんな議論をしているのは日本だけ。国際的な基準に合わせるべきでしょう。

 集団的自衛権に反対する声があること自体が異常ですが、それを異常と認識しない人々もまた異常と言わざるを得ません。」

 

 さらに、髙橋 洋一氏( 経済学者・嘉悦大学教授 )は、「集団的自衛権」について、

 「反対しているのは中韓だけ! 集団的自衛権  『世界の常識』が理解できない左派マスコミにはウンザリだ」(髙橋 洋一・現代ビジネス ・ 講談社) - isMedia)の中で、以下のように述べています。

「《日本は不思議な国》

 世界の多くの国がどこかと何らかの同盟関係をなぜ結ぶかといえば、そのほうが戦争のリスクを減らせるからである。集団的自衛権の行使は同盟関係の基本中の基本なので、何らかの同盟関係を結んでいる国では、本来、議論にさえならない。

 この点、日米同盟がありながら、集団的自衛権の行使の是非を議論する日本は不思議な国だ。多くの国では、日本が集団的自衛権の行使をするといったら、同盟関係がありながら集団的自衛権の行使を認めなかったこれまでの『非常識』を、世界の常識に変えるくらいにしか思わない。」

 

 これらの見解は、集団的自衛権を考える際には、大いに参考になるはずです。

 

ーーーーーーーー

 

〈「異論のススメ」の続き〉

「【4】私がここで述べたいのは、現行の法的枠組のなかでいかなる対応が可能なのか、という技術的な問題ではない。そうではなく、国の防衛と憲法の関係というかなりやっかいな問題なのである。」

 

ーーーーーーーー

 

  (当ブログによる解説)

 「国の防衛と憲法の関係については、佐伯氏は、『反・民主主義論』(新潮新書)の「まえがき」で、さらに分かりやすく記述しているので、以下に概要を引用します。

「   2015年から16年にかけて、「民主主義」の意味を問いかける事象が世界的に起きた。アメリカではトランプ現象が生じた。日本でも、2015年が戦後70年ということであったが、戦後憲法戦後民主主義戦後平和主義も定着とは言えず、むしろその欺瞞が露呈してきた。

 「国家」「民主主義」「平和」「国防」といった政治学の、そして「国」のもっとも根幹に関わる概念について、われわれはまともに思索を張り巡らせたことがあったのか。

 そこで本書で「民主主義」や「憲法」を論じ、唯一の正解はないが、私なりの見解をさし示してみたい。さもなければ、いつまでたってもわれわれは護憲・改憲の党派的対立から抜け出せず、また、民主主義の名のもとに、われわれの政治はとどまるところをしらず混迷に陥っていくだろうからである。」

 

 上記の論考においては、「護憲・改憲の党派的対立」がポイントになっています。

 国の防衛を考える際に、政治的・党派的立場から考えを進める発想は、大学入試においては、必要ありません。

 あくまで、事実と論理を重視してください。

 入試において問われているのは、知識・常識と論理力だけです。

 

ーーーーーーーー 

 

〈「異論のススメ」の続き〉

「【5】戦争というような非常事態が生じても、あくまで現行憲法の平和主義を貫くべきだ、という意見がある。とくに護憲派の人たちはそのようにいう。しかし、今日のような「緊急事態前夜」になってみれば、そもそもの戦後憲法の基本的な立場に無理があったというほかないであろう。憲法の前文にはつぎのようなことが書かれている。「日本国民は・・・・平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」。これを受けて9条の非武装平和主義がある。

【6】ところが、今日、もはや「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」いるわけにはいかなくなった。ということは、9条平和主義にもさしたる根拠がなくなるということであろう。考えてみれば、日本は、北朝鮮とはいまだに平和条約を締結しておらず、ロシアとも同じである。中国との国交回復にさいしては、尖閣問題は棚上げされ、領土問題は確定していない。つまり、これらの諸国とは、厳密には、そして形式上は、いまだに完全には戦争が終結していないことになる。サンフランシスコ講和条約は、あくまで米英蘭など、西洋諸国とのあいだのものなのである。」

 

ーーーーーーーー

 

 (当ブログによる解説)

今日、もはや「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」いるわけにはいかなくなった。ということは、9条平和主義にもさしたる根拠がなくなるということであろう。

と、佐伯氏は主張しています。

 この問題を考えるについては、「現在の日本をめぐる国際情勢」をどのように評価するか、という点が重要でしょう。

 

 特に問題ではない、と評価すれば、今も、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」よいことになります。

 

 一方、現在の国外の状況を憂慮するべきだ、と考えれば、緊急事態前夜と考えることになるのです。

 このように考えると、「現在の日本をめぐる国際情勢」に関する記述は、以下のようになるでしょう。

「  日本をめぐる国際情勢がどれだけ悪化しているかを列挙してみたい。

北方領土問題をめぐるロシア。

尖閣諸島問題におけるでの不当な態度を示す中国の態度。

核開発をやめない北朝鮮。

歴史問題に関する韓国の態度。

 明らかに、日本における安全保障環境が激変しているのではないでしょうか。」

 

 佐伯氏は、現状を直視しない性善説、つまり他人・他国を簡単に信頼する立場には立っていません。

 この立場は、グローバルスタンダードからは通説でしょう。

 

 ただし、この論点が、大学入試現代文(国語)に出題された場合には、出題者の立場に沿って考察するべきです。

 また、入試小論文に出題された場合には出題者の立場に沿って論述、つまり、特に指定のない限り、課題文に賛成する方向で論述する方が賢明です。( 受験生が、短時間で、一流の学者・評論家の論考を論破できるような論文を書くことは無理でしょう。大学側がそれを要求することは、ないと思います。)

 その方が、合格率がアップします。

 選抜試験なので、自分の政治的立場を貫く必要はないのです。

 試験は、自分の政治的立場を主張する場では、ありません。

 大人になることです。

 冷静になることです。

 

 ーーーーーーーー

 

 〈「異論のススメ」の続き〉

「【7】しかも、この憲法発布後しばらくして、冷戦がはじまり、朝鮮戦争が生じる。戦後憲法の平和主義によって日本を永遠に武装解除した米国は、つねに軍事大国として世界の戦争にかかわってきた。しかも、その米国が日本の安全保障までつかさどっているのである。

【8】こうした矛盾、あるいは異形を、われわれはずっと放置してきた。そして、もしかりに米国と北朝鮮が戦争状態にでも突入すれば、われわれはいったいなにをすべきなのか、それさえも国会でほとんど論議されていないありさまである。米国がすべて問題を処理してくれるとでも思っているのであろうか。

 

ーーーーーーーー

 

  (当ブログによる解説)

    こうした矛盾、あるいは異形を、われわれはずっと放置してきた。」

について、佐伯氏は、『反・民主主義論』の中で、さらに詳しく述べています。

「  すべてが日本国憲法という印章(→「水戸黄門の印籠、葵の御紋」をイメージすると、よいでしょう)の前で思考停止になってしまう。戦前では、「国体」や「天皇」を持ち出せば、直立不動、フリーズした。戦後はそれが「憲法」に変わっただけです。「憲法」という言葉の前で直立不動になってしまう人がいる。「憲法に反する」と言えば、脳内細胞がフリーズしてしまう。」( 「第一章 日本を滅ぼす『異形の民主主義』) 


 日本国憲法は、その条文を厳密に解釈すれば、日本は自衛権も持てないと言うことになります。

 日本の防衛を事実上、カバーしたのは米軍でした。

 日本の戦後の長期的な平和は、憲法9条によってのみ実現したのではなく、それ以上に強大な米軍による抑止力によって実現したのです。

 これは日本国憲法についての矛盾です。

 非武装平和主義を宣言しながら、その背後に強大な米軍が存在していたのです。

 

ーーーーーーーー 

 

〈「異論のススメ」の続き〉
「【9】憲法9条は、まず前半で「侵略戦争の放棄」という意味での平和主義をかかげる。それはよいとしても、後段にある「戦力の放棄と交戦権の否定」は、そのまま読めば、いっさいの自衛権の放棄をめざすというほかない。少なくとも自衛権の行使さえできるだけ制限しようとする。なにせ戦力をもたないのだから、自衛のしようがないからだ。これがなりたつのは、文字どおり、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」できる場合に限られるだろう。そして、そのようなことは、戦後世界のなかでは一度も生じなかった。

【10】 国連憲章を引き合いに出すまでもなく、自衛権は主権国家の固有の権利である。憲法は、国民の生命、財産などの基本的権利の保障をうたっているが、他国からの脅威に対して、それらの安全を確保するにも自衛権が実効性をもたなければならない。つまり、国防は憲法の前提になる、ということであり、憲法によって制限されるべきものではない。

【11】そのこと(→「国防は憲法の前提になる」ということ)と,憲法の基調にある「平和への希求」はけっして矛盾するものではない。平和主義とは無条件の戦争放棄ではなく、あくまでみずからの野心に突き動かされた侵略戦争の否定であり、これは国際法上も違法である。もしも、われわれが他国によって侵略や攻撃の危機にさらされれば、これに対して断固として自衛の戦いをすることは、平和国家であることと矛盾するものではなかろう。いや、平和を守るためにも、戦わなければならないであろう。」

 

ーーーーーーーー

 

 (当ブログによる解説)

    「国家の自衛権」とは、急迫不正の侵害を排除するために、武力をもって必要な行為を行う国際法上の権利です。

 自己保存の本能を基礎に置く合理的な権利であると考えられてきました。

 

 佐伯氏は、国家の自衛権について、「誰が国を守るのか」( 『産経新聞』 2014・7・21 )の中で、より分かりやすく説明しています。

 以下に引用します。 

「戦後日本は、民主主義と平和主義を高く掲げ、この2つの主義を両輪にしてきた。その結果、多くの者にとっては、民主主義イコール平和主義とみなされた。民主主義者は平和主義者でなければならなかった。

 にもかかわらず、戦後日本の民主主義と平和主義の組み合わせが、どうも、うさん臭いのは、この平和主義がもっぱら憲法9条の武力放棄を意味しているからにほかならない。平和愛好、構築なら誰も批判もしないだろうが、問題はその方法なのである。憲法9条といういささか特異な形態における平和主義という「方法」が問題なのである。

 もっとも、いわゆる護憲派の平和主義者からすれば、憲法9条に示された平和主義こそが理想的理念だということになる。とすれば、その途端にまた、うさん臭さが露呈してくる。それは、日米安保体制の存在である。平和主義を掲げながら米軍を駐留させ、他国との交戦になれば、米軍を頼みにするというこの欺瞞(ぎまん)である。交戦とまではいかなくとも、少なくとも、戦争の抑止を米軍に依存していることは間違いない。

 憲法を前提とすれば、こういう形にならざるをえない。しかしそれを平和主義といって、何やら就職活動の履歴書のように、いかにも温厚、誠実、穏健を演出しても、その背後にあるものを想起すれば、欺瞞的というほかない。

 実は、民主主義はイコール平和主義ではないのである。たとえば、戦後日本で民主主義の手本とみなされたジャンジャック・ルソーは、決してそんなことはいっていない。それどころか、統治者が国のために死ねといえば、市民は進んで死ななければならない、と明瞭に書いている。言い方は少々どぎついが、端的にいえばそういうことになるのであって、それが西欧政治思想の根本なのである。

 どうしてかというと、近代国家は主権によって動かされる。そして、主権者の役割は何よりまず国民の生命財産を守ることとされる。とすれば、もし主権者が君主なら、君主は彼の国民の生命財産を守らなければならない。そして、主権者が国民ならば国民が自らの手によって彼ら自身の生命財産を守らなければならない。これが道理というものであろう。とすれば、民主主義では国民皆兵が原則なのである。もちろん、具体的にはさまざまな形がありうる。しかし「理念」としてはそうなる。

 こうしたいささか面倒なことを書いてきたのは、集団的自衛権にかかわる論議において、この種の原則論がまったく確認されていないことに危惧をおぼえるからである。技術的・法的な手続き論も必要だが、本当に重要なのは「誰が国を守るのか」という原則論にこそあるのではなかろうか。

 

 上記の論考の最終部分の「本当に重要なのは「誰が国を守るのか」という原則論にこそあるのではなかろうか。」の一文は、重要な視座と言えます。

 また、この直前の「民主主義では国民皆兵が原則なのである。もちろん、具体的にはさまざまな形がありうる。しかし「理念」としてはそうなる」の部分は、現代の西洋の政治理念そのものです。

 現在のスイス、スウェーデンの国防政策を見ても、このことは、明白な事実です、

 この点については、以下に記述していきます。

 

 まず、国民皆兵とは、以下のような内容の制度です。

  Wikipediaから、概要を引用します。

「いわゆる国民皆兵による徴兵制はフランス革命から始まる。フランス革命以降、国家は国民のものであるという建前になったため、戦争に関しても、主権者たる国民全員が行なう義務があるということになった。そして、革命に伴う周辺諸国との戦争で兵員を確保する必要に迫られたため、ナポレオンなどによって国民軍が作られた。時代が下ると、祖国に対する忠誠義務と受け取られるようになった。

 近代に徴兵制が生み出されたのは、戦争の近代化に伴って兵器の威力が増して、志願制では人員の補充ができなくなるほど戦死者が多くなったことと、国民主権の原理によって国民を戦場に駆り出す大義名分ができたのが主な理由である。

《現代》

 兵器の近代化は、軍隊の省力化と定員減少をもたらし、同時に兵器運用技術の高度化・専門化を招いた。定員減少により、大量の新兵は不必要となり、訓練にも費用が掛かり過ぎるなどの理由によって徴兵制度の存在意義は低下した。現代においては、再び職業軍人の時代が到来したと言える。西洋諸国では、冷戦終了後から2000年代初頭にかけて次々と徴兵制を廃止し、イギリス・フランス・イタリア・スペインなどは志願制に移行している。」

 

ーーーーーーーー

 

 〈「異論のススメ」の続き〉

「【12】「平和とはなにか」という問題はひとまずおき、仮に護憲派の人たちのいうように「平和こそは崇高な理念」だとするなら、この崇高な価値を守るためには、その侵害者に対して身命を賭して戦うことは、それこそ「普遍的な政治道徳の法則」ではないだろうか。それどころか、世界中で生じる平和への脅威に対してわれわれは積極的に働きかけるべきではなかろうか。私は護憲派でもなければ、憲法前文をよしとするものではないが、そう解さなければ、「全世界の国民」の平和を実現するために,「いずれの国家も,自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」という憲法前文さえも死文になってしまうであろう。」

 

ーーーーーーーー

 

 (当ブログによる解説)

 「平和こそは崇高な理念」 とする平和主義を考える際に、参考になるのはスイス、スウェーデンにおける国防政策です。


 スイスは「永世中立国」であると同時に、徴兵制を採用している国民皆兵国家でもあります。

 スイスは、強力な国防政策を採用する武装中立国家です。

 「永世中立国」とは、将来もし他国間で戦争が起こっても、その戦争の圏外に立つことを意味するものです。つまり、自国は中立の立場である事を宣言し、他国がその中立を保障・承認している、永世中立の立場を取る国家です。この場合の中立は国際法上の義務です。
 

 また、スウェーデンは非同盟中立の立場をとりつつ、自衛のために強力な軍隊を保持している武装中立国家です。

 兵器の国産にも熱心で、独自の潜水艦・戦闘機などを開発・配備しています。

 

 スイス、スウェーデンは、「カルタゴの歴史」を教訓にしているのでしょう。 


 日本人は国防問題を検討する際には、日本と同じような貿易国家・平和主義国家であった、かつての「カルタゴ」が滅亡した歴史を考慮する必要があるのではないでしょうか。

 カルタゴは紀元前250年頃の地中海の貿易大国でした。が、その経済に脅威を感じたローマ帝国の攻撃により滅亡しました。

 カルタゴ滅亡の理由としては、主として、一般的に、カルタゴ市民が軍事的防衛に無関心だったことが、挙げられます。もともと、自国の防衛は傭兵頼りの上に、平和主義的な意見が強かったのです。

 

 なお、当ブログでは、先月、最近の国際情勢を意識して、カントの『永遠平和のために』についての解説記事を発表しました。

 ぜひ、ご覧ください。

 

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(3)佐伯啓思氏の紹介

 

 1949(昭和24)年、奈良県生まれ。社会思想家。京都大学名誉教授。東京大学経済学部卒。東京大学大学院経済学研究科博士課程単位取得。2007年正論大賞。

著書は、
『隠された思考』(筑摩学芸文庫)(サントリー学芸賞)

『時間の身振り学』(筑摩書房)→神戸大学、早稲田大学(政経)で出題

『「アメリカニズム」の終焉』(中公文庫)(東畑記念賞)

『現代日本のリベラリズム』(講談社)(読売論壇賞)

『現代社会論』(講談社学術文庫)

『自由とは何か』(講談社現代新書)→立教大学、法政大学で出題

『反・幸福論』(新潮新書)→小樽商科大学で出題

『倫理としてのナショナリズム』(中公文庫)→関西大学で出題

『日本の宿命』(新潮新書)

『正義の偽装』(新潮新書)

『西田幾多郎・無私の思想と日本人』(新潮新書)

など多数。

 

(4)当ブログの、佐伯啓思氏の論考に関連する記事の紹介

 

 

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今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

ご期待下さい。

 

  

 

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反・民主主義論 (新潮新書)

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従属国家論 (PHP新書)

従属国家論 (PHP新書)

 

 

 

朝日新聞デジタル

朝日新聞デジタル

 

 

 

頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

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5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

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予想問題・養老孟司・個性・自分さがし『ぼちぼち結論』『バカの壁』

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 養老氏は、入試現代文(国語)・小論文における著者別出題数で、ほぼ毎年、ベスト10に入っている頻出著者です。

 高校現代文(国語)や小論文の教科書にも、養老孟司氏の論考は、かなり採用されています。

 そこで、今回は、現代文(国語)・小論文対策として、養老氏の論考の中でも特に頻出で、入試現代文(国語)・小論文でも頻出論点の、「個性」の予想問題について解説します。

 

 以下の記事では、次の各項目を説明します。

 

(2)養老孟司氏の論考の特徴

(3)予想問題・『ぼちぼち結論』養老孟司・2009東京女子大出題

(4)個性個性崇拝に関する養老孟司氏の見解

     ①  「個性信仰」は西洋文化に由来する(『無思想の発見』)

     ②  「自分さがし」批判→「自分」とは「創る」ものであって、「探す」ものではない(『無思想の発見』)

           ③  「個性」とは「人を見る目」(『逆立ち日本論』)

           ④  「個性」は外部的評価によるものである(『逆立ち日本論』)

           ⑤  「オンリーワン」・「世界に一つだけの花」批判(『超バカの壁』)

           ⑥  「個性」より大切なもの(『バカの壁』)

(5)当ブログの「個性」・「個性崇拝」関連の記事の紹介

(6)養老孟司氏の紹介

(7)当ブログの、養老孟司氏の論考に関連する記事の紹介

  

 (2)養老孟司氏の論考の特徴

 養老孟司氏の論考においては、「問題提起」と「その解答」が最初に提示されることが多いのです。
 しかし、「その問題提起」と「その解答」の「関連性」が、一見わかりにくい時があります。少々、飛躍している感じがあります。
 その場合に、混乱したり、停止したりしないで、すぐに、さらに読み進めることが大事です。
 直後から、実に、わかりやすい説明が始まることが多いのが、養老孟司氏の論考の特徴です。

 

 (3)予想問題・『ぼちぼち結論』養老孟司・2009東京女子大出題

 

(【1】【2】【3】・・・・は当ブログで付記した段落番号です)

【1】若い頃にはよく注意されたものである。「ちゃんと現実を見なさい、現実を」と。その現実なるものがよくわからなかったから、現実とはどういうものか、いつも頭の隅で考えていた。大人になれば、あれこれ現実というものに触れるはずだ。そうなれば、少しは「現実がわかる」ようになるだろう、と。 

【2】ところがいつまでたっても、その「現実」なるものがわからない。とうとう自分で勝手に定義することになった。現実とは「その人の行動に影響を与えるもの」である。それ以外にない。そう思ったら、長年の重荷が下りてしまった。 

【3】だから現実は人によって違う。A 唯一客観的現実なんてものは、皮肉なことに、典型的な抽象である。だって、だれもそれを知らないからである。私が演壇の上で講演をしているとする。聴衆の目に映る私の姿は、すべて異なっている。なぜなら私を見る角度は、全員が異なっているからである。それならテレビカメラは、どの角度から私を捉えたら、「客観的」映像となるのか。二人の人が同一の視点から、同じものを見るなんてことは、それこそ「客観的に不可能」なのである。 

【4】こんなことを言うと、すぐに屁理屈だといわれる。人それぞれ、見うる角度が違うからどうだというのだ。そんなことは些細な違いに過ぎないじゃないか。そういう些細なことに囚われるのが学者というもので、だから世間の役に立たないのだ。

 

ーーーーーーーー

 

(設問)

問1 傍線部Aにおいて「唯一客観的現実」が「抽象」だという理由を30字以内で説明せよ。

……………………………

(解説・解答)

問1(傍線部・理由説明問題)

 「唯一客観的現実」が「客観的にみて存在不可能」、その根拠として「各人の見る角度は違う」の2点を指摘するようにしてください。

(解答)

各人の見る角度は違うので唯一客観的事実は存在不可能だから。(29字)

 

ーーーーーーーー

 

(問題文本文)
【5】それは果たして些細なことなのだろうか。それを些細なこととみなすことで、近代社会は「進歩発展」してきた。だから特定のカメラマンが特定の角度から、特定の時点で撮影した映像を、客観的映像などと強弁するのである。

【6】一人一人の世界が感覚的に異なるからこそ、個人や個性の意味が生じる。 

【7】〔  ①  〕、個人なんかいらない。それを「些細な違い」と暗黙に決め付けるから、若者が人生の意味を見つけられないのである。これといってさしたる才能もない自分が生きる意味なんて、どこにあるというのか。世界中を見渡せば、自分の人生なんて六十億分の一に過ぎない。過去に生きた人まで含めたら、いったいどこまで些細になるだろうか。 

【8】B そう思うから、今度は個性、個性と逆にいう。それを強調するほうの錯覚とは、個性が「自分のなかにある」という思い込みである。 C  そもそも違いとは他人が感覚で捉えるもので、自分のなかにあるものではない。「お前は変なヤツだなあ」といわれて、「エッ、どこが」と怪訝な顔をしているのが個性であり、「私の個性はこれです」などと主張するものではない。近頃は入学や入社のときに、そんなことを書かせることもあるらしいが、話がそれではひっくり返っている。そんな会社や学校はどうせロクなところではなかろう。相手の個性を発見する目が貴重なのであって、個性自体が貴重なのではない。状況によって、社会が必要とする個性は違ってくるからである。 

【9】〔 ② 〕「自分で意識している個性」なんてものがあったら、ぎこちない人生になるであろう。俺の個性はこうだから、こうしなくっちゃ。そんなことを思いかねない。冗談じゃない、素直にしていて、そこにおのずから人と違うところがある、それを個性というのである。 

【10】素直に自分の気持ちに従わず、「こうしなくては」と思うのが世間では普通で、それは社会的役割というものがあるからである。天皇陛下はこうしなくてはならないということがたくさんあるはずで、それは社会的役割である。それを勝手に変えられたら周囲が困る。〔    ③    〕「こうしなくては」と本人も思うので、それはホンネとは違って当然である。 

【11】いまの大人は、D 社会的役割を個性つまり自分と混同していないか。社長は個性でも本人でもなく、社会的役割である。定年になればそれがわかるであろうが、現代の問題は、たとえ年配者でも「定年になるまで、それがわからない」ところにあると私は思っている。私は会社のソトの人間だから、社長も平も区別がつかない。そんなものは、私にとっては〔 ④ 〕に過ぎない。それを「〔 ⑤ 〕」だと思っているのは、そう思っているだけのことである。 」

(養老孟司『ぼちぼち結論』)

 

ーーーーーーーー

 

(設問)

問2  傍線部Bにおいて「逆に」とあるが、「何」と「何」が「逆」というのか。それぞれ10字以内で空欄を補う形で答えよ。

〔     〕と〔     〕

 

問3  傍線部Cと同趣旨の文をこの後の文中から40字以内で抜き出して、初めの5文字と終わりの5文字を記せ。

 

問4  空欄①・②・③に入る最適な言葉を次の中から、それぞれ一つずつ選べ。

ア そもそも  イ それなら  ウ それでなきゃあ

エ だから  オ だが

 

問5  空欄④・⑤に入る最適な言葉を次の中から、それぞれ一つずつ選べ。

ア 現実  イ 理想  ウ 絶対  エ 具象  オ 抽象

 

問6  傍線部Dに指摘されるような「社会的役割と個性」の混同にあたる例を次の中から一つ選べ。

ア  共演した俳優同士が恋愛関係になる。

イ  運動部の監督は選手の私生活にまで目を配るべきだ。

ウ  猛烈上司が部下にも猛烈に働くことを求める。

エ  学校では規律にやかましい先生が家ではだらしない。

オ  お笑い芸人はふだんから陽気でなければならない。

 

問7  本文の趣旨に合致するものを次の中から二つ選べ。

ア  学者は些細なことにこだわるあまり、現実というものが理解できない。

イ  個性などというものは些細な違いにすぎないのだから、そんなものにとらわれてはならない。

ウ  現代社会では個性的であることが不可欠であり、だからこそ些細な違いもおろそかにしてはならない。

エ  ひとりひとりの個人にはそれぞれの個性があり、その個性の違いに応じてそれぞれの現実がある。

オ  社会的役割こそが現実ということなのであり、それを無視して個性にこだわっても仕方がない。

カ  現代人が個性と思っているものの多くは思い違いにすぎない。

 

 ……………………………

(解説・解答)

問2(空欄補充問題・記述問題)

 「そう思う」ことと、「個性、個性という」ことが「逆」という文脈を把握することが、ポイントになります。 

(解答)

些細な違いしかない(9字)  

個性、個性という(8字)

 

問3(傍線部と同趣旨の文を抜き出す問題)

《 今度は個性、個性と逆にいう。それを強調するほうの錯覚とは、個性が「自分のなかにある」という思い込みである。 C  そもそも違いとは他人が感覚で捉えるもので、自分のなかにあるものではない。「お前は変なヤツだなあ」といわれて、「エッ、どこが」と怪訝な顔をしているのが個性であり、「私の個性はこれです」などと主張するものではない。》という文脈を理解してください。

 傍線部Cは、「個性の内容は他者評価により決定される」という内容になっています。

(解答)  相手の個性・のではない

 

問4(空欄補充問題)

 要約しようとしないで、本文を熟読・精読してください

 養老氏の表現の癖を意識して、文脈を押さえることもポイントになります。

(解答)  =ウ  =ア  =エ

 

問5(空欄補充問題)

「いまの大人は、D 社会的役割を個性つまり自分と混同していないか。社長は個性でも本人でもなく、社会的役割である。定年になればそれがわかるであろうが、現代の問題は、たとえ年配者でも「定年になるまで、それがわからない」ところにあると私は思っている。私は会社のソトの人間だから、社長も平も区別がつかない。そんなものは、私にとっては〔 ④ 〕に過ぎない。それを「〔 ⑤ 〕」だと思っているのは、そう思っているだけのことである。 」の中の、

「私は会社のソトの人間だから、社長も平も区別がつかない。そんなものは、私にとっては〔 ④ 〕に過ぎない。」

のクールな、冷淡な表現に注目してください。

 その上で、【3】段落における「現実」・「抽象」が全体のキーワードになっていることを、把握することが必要になります。

(解答)  =オ  =ア

  

問6(傍線部の具体例を選択する問題)

  「いまの大人」が、特に「サラリーマン社会に生きる大人(つまり、現代日本社会のほとんどの大人)」が、「社会的役割と個性を混同」している具体例を選択するとよいでしょう。 

(解答)  

 

問7(趣旨合致問題)

ア  本文に、このような記述はありません。

イ  本文に、このような記述はありません。

ウ  「不可欠」の部分が、言い過ぎになっています

エ  本文の趣旨に合致しています。

オ  この選択肢は問5に関連しています。筆者は「社会的役割」を「抽象」と評価しています。従って、この選択肢は誤りです。

カ  最後の2つの段落の内容に合致しています。

(解答)  エ・カ

 

 (4)「個性」・「個性崇拝」に関する養老孟司氏の見解

 

 以下では、「個性」・「個性崇拝」に関する養老孟司氏の見解を紹介・解説します。

 どれも入試頻出事項なので、よく読むようにしてください。

 

①  「個性信仰」は西洋文化に由来する(『無思想の発見』)

②  「自分さがし」批判→「自分」とは「創る」ものであって、「探す」ものではない(『無思想の発見』)

 

(概要です)

(赤字は当ブログによる強調です)

(→以下、同じです)

「日本語では、自分を表現する言葉が多く、さらに通常の一人称が場合によっては二人称に用いられることがある。日本語では一人称と二人称がしばしば行き来する。こんな言語はほかにあるか。

 日本人は実体、あるいは本心への深い確信がある。それだから言葉などはどうでもいいのである。

 俺もお前も一緒くたの世界に、ある日突然、実存的主体としての自己が侵入してきた。これを近代的自我という。日本語では、「私」は自分個人と、「公私の別」の私の両方の意味を含むので混乱がおきる。日本では過去においては、公私の私は self ではなく「家」であった。その証拠に、欧米と違って日本では相当小さな家にでもちゃんと塀があるではないか。家のそとに出れば公の世界であるが、家の中は private の世界なのである。新しい憲法は「家」を否定した。だから核家族ができた。核家族は自然にできたのではなく、憲法が作った。一方、西洋では個人が集まって家族を作る。日本と西洋では同じ家族でもベクトルが正反対なのである。憲法の一番の問題は第九条ではない。家にかんする部分である。

 自分は身体を実存だと思う。それは30年解剖をやったためであろう。数学者は数学の世界を現実と思い、ある人はお金を、ある人は社会的地位を現実だと思う。それは脳の癖である。それぞれの脳がどういう現実に長く浸かってきたかである。

 さて、そうであるならば、どのような人も自分という意識のもとで生まれてからずっと生きてきているわけである。意識というものが現実であり、実在であると思うのは当然である。

 西洋社会はキリスト教社会であり、そこでは霊魂不滅なのであるから、「変わらない私」・「自己同一性」が当然の前提とされる。西欧の「近代的自我」とは「不滅の霊魂」

の近代的な言い換えである。

 意識とは「同じ」ということである。自分が連続しているという感覚である。意識とは機能であって、実体ではない。であるとすれば、自我もまた機能であって、実体ではない。日本が封建的とかいろいろいって今までの世界を壊してきたために、何が失われたか?「自分という実体」に対する確信が失われたのである。

 だから「自分探し」が始まる。それは「感覚世界」の不在つまり経験の不足とペアである。自分とは「創る」ものであって、「探す」ものではない。大切なことは具体的な世界を身をもって知ることである。

 自分を創る作業の典型は「修行」である。叡山を走り回ったら、自分ができるのか。そんなことは知らない。しかし、伝統的にそうするのだから、できるのであろう。少なくとも、ふつうのお坊さんではなくなるはずである。それだけのことだが、人生とは「それだけのこと」に満ちている。私は三十年、解剖をやった。それだけのことである。そのあと十年、本を書いた。それだけのことである。」 (『無思想の発見』)

 

ーーーーーーーー

(当ブログによる解説)

 養老氏の見解は、歴史的・宗教的背景を踏まえており、とても説得力があります。

 このように緻密に歴史的・宗教的背景への配慮がなされているので、養老孟司氏の論考は入試頻出なのです。

 論の構成は一般常識(マスコミレベル)には沿ってはいません。

 が、入試の世界、つまり、論壇(インテリレベル)においては、日本人論・日本社会論として極めて正統的です。

 マスコミレベルにおいては、一般大衆に迎合して、あるいは、一般大衆を幼児化しようとして、または、マスコミ自身の無知ゆえなのか、欧米にもない歪んだ形の「個性崇拝」・「個性礼賛」が氾濫しています。

 そこで、養老氏は、そもそも「個性とは何か」と、「個性の本質」を考察しているのです。

 

  

③  「個性」とは「人を見る目」

④  「個性」は外部的評価によるものである

 

  『逆立ち日本論』(養老孟司・内田樹・新潮選書 )も、参考になる一冊です。

 この中で、現代日本社会における、「個性」の「奇妙な」取り扱いについて、養老孟司氏と内田樹氏が、注目するべき対談をしています。


《「個性」とは「人を見る目」》

「養老:「個性」というものは、その人に内在するものということになっていますけど、それは間違いですよ。古くから日本の世界ではそんなことを言っていません。それは「人を見る目」なんです。

 

内田:「人を見る目」が個性とは・・・・。どういうことですか?

 

養老:だって、自分の個性なんて主張したって意味がないのです。戦後、「個性」が主張され始めて何が起こったかというと、上役がサボり、教師がサボるようになりました。なぜなら上役や教師というのは、人を見る目がなくちゃできないことだったのです。それで「お前はあっち、お前はこっち」って示してやるのが本来の役目だったのです。それを「個性」という内在型にしたら自己責任だけになっちゃいました。

 入学願書に「自分の個性」とか書かせるでしょう?

 本来、「個性」というのは他人の目にどう映るかということのはずでしょう。個性なんて違って当たり前だからこそ、「お前はこういうふうに」「お前にはこれは向かない」と違いを見る目が大事なのに、それが「個性」ですべて崩れてしまった。人がどう見ようが「個性」はあるものだということになってしまいました。

  「見る目」がないと「個性」なんてないも同じです。

  他人のことがわからなくて、どうやって生きられるでしょう。

 社会は共通性の上に成り立つものです。「個性を持て」というよりも「他人の気持ちをわかるようになれ」というほうがよいはずです。

 

内田:自己評価とか自己点検というのは外部評価との「ズレ」を発見するための装置だと思うんですよ。ほとんどの人は自己評価が外部評価よりも高い。「世間のやつらはオレの真価を知らない」と思うのは向上心を動機づけるから、自己評価と外部評価がそういうふうにずれていること自体は、ぜんぜん構わないんです。でも、その「ずれ」をどうやって補正して、二つを近づけるかという具体的な問題にリンクしなければ何の意味もない。自己評価が唯一の尺度で、外部評価には耳を傾けないというのはただのバカですよ。」(『逆立ち日本論』)

 

ーーーーーーーー

(当ブログによる解説)

 この項目は、上記の予想問題の内容に関連しています。

特に、

「  本来、「個性」というのは他人の目にどう映るかということのはずでしょう。個性なんて違って当たり前だからこそ、「お前はこういうふうに」「お前にはこれは向かない」と違いを見る目が大事なのに、それが「個性」ですべて崩れてしまった。人がどう見ようが「個性」はあるものだということになってしまいました。

 「見る目」がないと「個性」なんてないも同じです。

の部分は熟読しておくべきです。

 

 

⑤  「オンリーワン」・「世界に一つだけの花」批判

 

  『超バカの壁』の中で、養老氏は、「ナンバーワンより、オンリーワン、世界に一つだけの花」に対して以下のような鋭い批判を展開していて、注目する必要があります。

 

ナンバーワンより、オンリーワン、世界に一つだけの花だ、というような言い方が支持を得ているのは戦後教育の賜物でしょうか。

 しかし、若い人には、この逆を言ってあげないと救われないと思います。あなたはただの人だというべきです。

 ナンバーワンよりオンリーワンというような表現は、その部分だけとりあげれば間違いはありません。人間はみんなそれぞれに個性を持っている独特の人なのだということは、その通りです。しかし、どうも好きになれないのです。

 そもそも「個性」というのはあるに決まっている。そこに自信があればいちいち口に出すこともない。わざわざオンリーワンだ何だと声高にいうというのは、その確信が弱いからこそだと思えるのです。他人に認めて欲しい。だからわざわざ主張をするのです。

 本当に唯一の自分の価値があることがわかっていれば、別に人に認められていなくてもいい。場合によっては引きこもっていても構わないわけです。

 ささいなことで、『それは自分らしくない』『それをやると自分ではない』というような人は逆に自分についての確信がないのです。どうもオンリーワンを主張している人は、実はこういう側の人のような気がするのです。

 そういう人は外側に何か勝手に自分で壁を作っているのです。
 それが自分だとか無理やり主張しているわけですから疲れる。それは長い間もたない。

 もっと自由でもいいのではないか。そう思うのですが、なぜか人は仕切りたがるのです。」(『超バカの壁』)

 

 

⑥  「個性」より大切なもの

 

 養老氏は『バカの壁』の中で、「『個性』より大切なもの」について、見解を展開しています。

 この論考は、かなり重要です。

 入試現代文(国語)・小論文でも、最頻出の論点です。

 以下に引用します。

 

「  本来意識というのは共通性を徹底的に追求するものなのです。その共通性を徹底的に確保するために、言語の論理と文化、伝統がある。人間の脳の特に意識的な部分というのは、個人間の差異を無視して、同じようにしよう、同じようにしようとする性質を持っている。

 一方、このところとみに、”個性”とか”自己”とか”独創性”とかを重宝する物言いが増えてきた。文部科学省も、ことあるごとに”個性”的な教育とか、”子供の個性を尊重する”とか、”独創性豊かな子供を作る”とか言っています。

 しかし、”共通了解”を追求することが文明の自然な流れだとすれば、個性強調は、おかしな話です。明らかに矛盾していると言ってよい。

 多くの人にとって共通の了解事項を広げていく。これによって文明が発展してきたはずなのに、ところがもう片方では急に”個性”が大切だとか何とか言ってくるのは話がおかしい。

 個性が大事だといいながら、実際には、よその人の顔色を窺ってばかり、というのが今の日本人のやっていることでしょう。だとすれば、そういう現状をまず認めるところから始めるべきでしょう。個性も独創性もクソも無い。

 いまの若い人を見ていて、つくづく可哀想だなと思うのは、がんじがらめの”共通了解”を求められつつも、意味不明の”個性”を求められるという矛盾した境遇にあるというところです。

 では、脳が徹底して共通性を追求していくものだとしたら、本来の”個性”というのはどこにあるか。それは、初めから私にも皆さんにもあるものなのです。なぜなら、私の皮膚を切り取ってあなたに植えたって絶対にくっつきません。・・・皮膚ひとつとってもこんな具合です。すなわち、”個性”何ていうのは初めから与えられているものであって、それ以上のものでもなければ、それ以下のものでもない。

 若い人への教育現場において、おまえの個性を伸ばせなんて馬鹿なことは言わない方がいい。

 それよりも親の気持ちが分かるか、友達の気持ちが分かるか、ホームレスの気持ちが分かるかというふうに話を持っていくほうが、余程まともな教育じゃないか。そこが今の教育は逆立ちしていると思っています」(『バカの壁』)

 

ーーーーーーーー

(当ブログによる解説)

 もっともな見解です。

 入試における頻出している正統的な意見と言えます。

 この論考は、熟読しておくべきでしょう。

 入試国語(現代文)・小論文だけではなく、これからの人生にも役立つはずです。

 

 人間は「関係性」の中で生きているのです。

 養老氏はこの点を丁寧に説明しているので、さらに、『バカの壁』から引用しておきます。

 

「  こういう状態、ー共生といってもいいし、一心同体とか運命共同体といっても構いませんーが、自然の本来の姿である。そう考えると、個性を持って、確固とした「自分」を確立して、独立して生きる、などといった考え方が、実はまったく現実味のないものだと考えられるのではないでしょうか。生物の本質から離れているのは明らかです。」(『バカの壁』)

 

  この論考は、「『個性を持って生きる』は反自然的である」と主張しているのです。

 この点は、

最近流行の「『関係性』の再評価・見直し」・「共同性」の論点

に密接に関連しています。

 そこで、以下に、

当ブログにおける「関係性」・「共同性」関連の記事

を紹介します。

 ぜひ、ご覧ください。

 

gensairyu.hatenablog.com

 

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 (5)当ブログの「個性」・「個性崇拝」関連の記事の紹介

 

gensairyu.hatenablog.com

  

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 (6)養老孟司氏の紹介 

【1】養老孟司氏の紹介

 1937年、鎌倉市生まれ。東京大学医学部卒業後、解剖学教室に入る。1995年、東京大学医学部教授を退官し、同大学名誉教授に。1989年、『からだの見方』でサントリー学芸賞を受賞。1985年以来一般書を執筆し始め、『形を読む』『解剖学教室へようこそ』『日本人の身体観』などで人体をわかりやすく解説し、『唯脳論』『人間科学』『バカの壁』『養老訓』といった多数の著作では、「身体の喪失」から来る社会の変化について思索を続けている。

 

 【2】養老孟司氏の著書の紹介

『ヒトの見方-形態学の目から』(ちくま文庫)、

『からだの見方』(ちくま文庫)、

『唯脳論』 (ちくま学芸文庫)、

『涼しい脳味噌』(文春文庫)、

『カミとヒトの解剖学』(法藏館)、

『解剖学教室へようこそ』(ちくまプリマーブックス)、

『続・涼しい脳味噌』(文春文庫)、

『バカの壁』(新潮新書)、

『まともな人』(中公新書)、

『いちばん大事なこと― 養老教授の環境論』(集英社新書)、

『死の壁』(新潮新書)、

『無思想の発見』(ちくま新書)、

『超バカの壁』(新潮新書)、

『「自分」の壁』(新潮新書)、

『文系の壁 理系の対話で人間社会をとらえ直す』(PHP新書)、

などが、あります。

 いずれも、入試頻出出典です。

 

(7)当ブログの、養老孟司氏の論考に関連する記事の紹介 

 

gensairyu.hatenablog.com

  

gensairyu.hatenablog.com

  

 ーーーーーーーー

 

 今回の記事は、これで終わりです。

 次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

 ご期待ください。

 

  

  

gensairyu.hatenablog.com

 

gensairyu.hatenablog.com

 

gensairyu.hatenablog.com

 

gensairyu.hatenablog.com

 

ぼちぼち結論 (中公新書)

ぼちぼち結論 (中公新書)

 

  

バカの壁 (新潮新書)

バカの壁 (新潮新書)

 

 

超バカの壁 (新潮新書 (149))

超バカの壁 (新潮新書 (149))

 

 

5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

 

 

頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

 

 

 私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。

https://twitter.com/gensairyu 

https://twitter.com/gensairyu2

 

予想問題『悲鳴をあげる身体』鷲田清一・存在の世話・存在の肯定

 (1)なぜ、この論考に注目したのか?

 鷲田清一氏は、ほとんどの難関大学の入試現代文(国語)・小論文で一度は出題されている、トップレベルの頻出著者です。

 
 最近では、センター試験、東京大学、東北大学、早稲田大学、慶應大学、上智大学等で、出題されています。

 鷲田氏の入試頻出著書としては、

『モードの迷宮』(ちくま学芸文庫)、

『じぶん・この不思議な存在』(講談社現代新書)、

『悲鳴をあげる身体』(PHP 新書)、

『「聴く」ことの力ー臨床哲学試論』(ちくま学芸文庫)、

『わかりやすいはわかりにくい? 臨床哲学講座』(ちくま新書)、

『しんがりの思想』(角川新書)

等があります。

 

 最近の難関大学では、

『わかりやすいはわかりにくい? 臨床哲学講座』(ちくま新書)

『「聴く」ことの力ー臨床哲学講座』(ちくま学芸文庫)、

からの出題が目立ちます。

 その中で、『悲鳴をあげる身体』は、長期的に頻出出典になっています。

 その内容が難関大学国語(現代文)・小論文の問題としてふさわしいので、入試国語(現代文)・小論文対策として、このブログで紹介、解説します。

 

  

悲鳴をあげる身体 (PHP新書)

 

 (2)予想問題ー『悲鳴をあげる身体』鷲田清一

 

(問題文本文)

(【1】【2】【3】・・・・は当ブログで付記した段落番号です)

【1】いのちを潰さないことには、わたしたちが生きていけないということ、このことをしっかり思いださせてくれる行事がある。NHKテレビの「ひるどき日本列島」という番組で紹介していた埼玉県のある村の祭りはその一つだ。

 

【2】つつじが満開になる季節に、赤や白のその花を毟(むし)りとって、籠いっぱいにためる。それを子どもたちが手にもち、大空を仰いで空中に花をふりまく。あるいは、たがいにかけあって戯れる。ほんとうの花吹雪である。地面が花びらの絨毯と化す。その〔   ①   〕なこと。

 

 【3】せっかく花を引きちぎること、それをあたり一面にぶちまけること。せっかく育てたもののいのちを奪うこと、それを、ふだんは掃いて清めている道に棄てること。フランスのある思想家の言葉をもじって言えば、世界が無秩序に変えられるためにある秩序のように見えてくる。

 

 【4】いずれ食べるために飼育すること、いずれ摘むために栽培すること。これは農牧業というかたちでひとびとがいとなんできたことだ。せっかくていねいに作りあげたものを壊すというわたしたちの日々のいとなみの構造だけを純粋に析出したのが、この祭りだ。

 

【5】いのちの深いやりとり、深い交感。その単純な事実を子どもたちに身をもって味わわせる祭り。あるいは、世界がこのようでもありうるということを世界は現にあるのとは別のありかた、反対のありかたもしうるということを確認する作業であると言ってもよい。つまり〔   A   〕と思われたものを〔   B   〕に変える作業・・・・。世界をひっくり返すこの愉悦は、子どもを〔   ②   〕のなかに浸す。

 

【6】 

〔  X  

 

【7】この覆いは残酷さを隠すためのものだろうが、ほんとうは、〔  甲        〕   という、もっと大事なものを隠してしまっているとは言えないか。

 

 【8】家庭と学校という場所は、〔    甲     〕ということ大事なものを深く体験するためにあるはずだった。家庭や学校で体験されるべきとても大事なこと、それについてもう少し考えてみよう。

 

ーーーーーーーー

 

(設問)

問1 空欄①・②に入る言葉を次の中から、それぞれ一つずつ選べ。

① ア 豪奢  イ 高慢  ウ 傲慢

     エ 尊大  オ 横柄

② ア 日々  イ 純粋  ウ 秩序 

     エ 陶酔  オ 不快  

 

問2 空欄A・Bに入る語句の組み合わせとして最適なものを、次の中から一つ選べ。

ア  A 無秩序  B 秩序

イ  A 人工  B 自然

ウ  A 感性  B 論理

エ  A 肯定  B 否定

オ  A 必然  B 偶然 

 

問3 空欄X( 第6段落 )には、次のア~キの七つの文章が入る。正しい順序に並び替えよ。 

ア   ひとつのいのちが別のいのちの火に変わる。

イ   それどころか、じぶんたちの誕生や死も、病院というひとの眼に触れない場所で処置するようになった。

ウ   が、宇宙的と言っていいこの単純な事実を、わたしたちはふだんひとの眼に触れないようにばかりしている。

エ   わたしたちは日々、獣を殺し、魚を釣り、葉をむしって食べている。

オ   肉や魚を切り身にし、透明ラップをかけて売ったりして。

カ   新生児も遺体もきれいにされ、衣にくるまれてから対面するようになった。

キ   そしてそれをほんとうにおいしくいただく。

 

問4 空欄甲に入るのに最適な、平仮名のみの八字の表現を、本文中の表現のみを使用して記せ。

 

……………………………

 

( 解説・解答 )

 

問1(空欄補充問題)

 空欄補充問題は、本文を精読・熟読することが必要不可欠です。 

 要約を書いて考えるようなことは、するべきではありません。

 「空欄補充問題に対応する際の要約の有害性」については、下の記事に詳しく説明しましたので、ぜひ、ご覧ください。

  

gensairyu.hatenablog.com

 

 空欄補充問題対策としては、以下の記事に丁寧な説明があります。

 ぜひ、参照してください。

  

gensairyu.hatenablog.com

 

(解答)  ①=ア   ②=エ 

 

 2(空欄補充問題)

 空欄Xの直前の「つまり」に注目してください。

   「世界が現にある」がに関連しています。

   「世界は現にあるのとは別のありかた、反対のありかたもしうるということ」が

に関連しています。

 

(解答) オ

 

 問3(文章並べ替え問題)

 文章並べ替え問題についても、その解法を以前に記事化しましたので、ぜひ、ご覧ください。

 

gensairyu.hatenablog.com

 

 まず第一に、イの「それどころか」、ウの冒頭の「が」・「この単純な事実」、カの「新生児も遺体も」、キの「それ」に着目することが必要です。

 そして、各文の内容を把握すると、

 

エ  わたしたちは日々、獣を殺し、魚を釣り、葉をむしって食べている。

キ  そしてそれをほんとうにおいしくいただく。

ア  ひとつのいのちが別のいのちの火に変わる。

 

のセットが確定します。

次に、残りの文については、

 

  が、宇宙的と言っていいこの単純な事実を、わたしたちはふだんひとの眼に触れないようにばかりしている。④

オ  肉や魚を切り身にし、透明ラップをかけて売ったりして。⑤

イ  それどころか、じぶんたちの誕生や死も、病院というひとの眼に触れない場所で処置するようになった。⑥

カ  新生児も遺体もきれいにされ、衣にくるまれてから対面するようになった。⑦

 

のセットが確定します。

 

  【7】段落の「この覆いは残酷さを隠すためのもの」から、「ウ→オ→イ→カ」のセットが後半になります。

 従って、「エ→キ→ア→ウ→オ→イ→カ」正解になります。

 

  【7】段落は、以下のような文章になります。

 

「わたしたちは日々、獣を殺し、魚を釣り、葉をむしって食べている。そしてそれをほんとうにおいしくいただく。ひとつのいのちが別のいのちの火に変わる。が、宇宙的と言っていいこの単純な事実を、わたしたちはふだんひとの眼に触れないようにばかりしている。肉や魚を切り身にし、透明ラップをかけて売ったりして。それどころか、じぶんたちの誕生や死も、病院というひとの眼に触れない場所で処置するようになった。新生児も遺体もきれいにされ、衣にくるまれてから対面するようになった。」

 

(解答)エ→キ→ア→ウ→オ→イ→カ 

 

 問4(空欄補充・記述問題)

 以下の文章を赤字部分に留意して、熟読・精読してください。

 

【5】いのちの深いやりとり、深い交感。その単純な事実を子どもたちに身をもって味わわせる祭り。あるいは、世界がこのようでもありうるということを世界は現にあるのとは別のありかた、反対のありかたもしうるということを確認する作業であると言ってもよい。つまり〔A=必然〕と思われたものを〔B=偶然〕に変える作業・・・・。世界をひっくり返すこの愉悦は、子どもを〔 ②=陶酔〕のなかに浸す。

【6】 〔  X  =わたしたちは日々、獣を殺し、魚を釣り、葉をむしって食べている。そしてそれをほんとうにおいしくいただく。ひとつのいのちが別のいのちの火に変わる。が、宇宙的と言っていいこの単純な事実を、わたしたちはふだんひとの眼に触れないようにばかりしている。肉や魚を切り身にし、透明ラップをかけて売ったりして。それどころか、じぶんたちの誕生や死も、病院というひとの眼に触れない場所で処置するようになった。新生児も遺体もきれいにされ、衣にくるまれてから対面するようになった。〕

【7】この覆いは残酷さを隠すためのものだろうが、ほんとうは、〔  甲        〕   という、もっと大事なものを隠してしまっているとは言えないか。

【8】家庭と学校という場所は、〔    甲    〕ということ大事なものを深く体験するためにあるはずだった。

 

 (解答) いのちのやりとり

 

ーーーーーーーー

 

(問題文本文)

 【9】 学校について友人と話したとき、彼がおもしろい問いをぶつけてきた。幼稚園じゃお歌とお遊戯ばかりだったのに、どうして学校に上がるとお歌とお遊戯が授業から外されるんだろうというのだ。


【10】 小学校に入ると音楽の時間に楽譜の読みかた、笛の吹きかた、合唱のしかたは習った。体育の特別授業として一学期に一、二回、フォークダンスの練習もした。が、どちらの時間も生徒だった頃のわたしはてれにてれた、あるいはふてくされた。なにか恥ずかしかったからである、おもしろくなかったからである。ひとといっしょに歌うのは楽しいはずである。踊るのも楽しいはずである。ついこのあいだも見物してきたのだが、知人がやっている阿波踊りの連の練習会を見ているだけでもそれは分かる。みんな同じように踊りながら、みんなどことなく違う。勝手に踊っている。音楽や体育の時間は、音と動作をきっちり揃えることが要求される。それがつまらない理由だ。もともとみんなで同じような動作をすることは楽しいのだが、同じ動作をするのはいやなのだ。ファッションだってそう。みんなよく似た服装をしているが(していないと不安だが)、同じ服装は絶対にいやなのだ。


【11】 幼稚園では、いっしょに歌い、いっしょにお遊戯をするだけでなく、いっしょにおやつやお弁当も食べる。他人の身体に起こっていることを生き生きと感じる練習だ。そういう作業がなぜ学校では軽視されるのか、不思議なかんじがする。ここで他者への想像力は、幸福の感情と深くむすびついている。

 

【12】生きる理由がどうしても見当たらなくなったときに、じぶんが生きるにあたいする者であることをじぶんに納得させるのは、思いのほかむずかしい。そのとき、死への恐れは働いても、生きるべきだという倫理は働かない。生きるということが楽しいものであることの経験、そういう人生への肯定が底にないと、死なないでいることをじぶんでは肯定できないものだ。お歌とお遊戯はその楽しさを体験するためにあったはずだ。永井均は最近の著作のなかでこう書いている。『子供の教育において第一になすべきことは、道徳を教えることではなく、人生が楽しいということを、つまり自己の生が根源において肯定されるべきものであることを、体におぼえこませてやることである』と(『これがニーチェだ』)。あるいは、幼児期に不幸な体験があったとして、それに代わるものを、それに耐えられるだけの力を、学校はあたえうるのでなければその存在理由はない。だれかの子として認められなかった子どもに、その子を『だれか』として全的に肯定することで、〔  乙  〕をあたえうるのでなければ、その存在の意味がない。


【13】近代社会では、ひとは他人との関係の結び方を、まず家庭と学校という二つの場所で学ぶ。養育・教育というのは共同生活のルールを教えることではある。が、ほんとうに重要なのは、ルールそのものではなくて、むしろルールがなりたつための前提がなんであるかを理解させることであろう。社会において規則がなりたつのは、相手も同じ規則に従うだろうという相互の期待や信頼がなりたっているときだけである。他人へのそういう根源的な〈信頼〉がどこかで成立していないと、社会は観念だけの不安定なものになる。


【14】幼稚園でのお歌とお遊戯、学校での給食。みなでいっしょに身体を使い、動かすことで、他人の身体に起こっていること(つまり、直接に知覚できないこと)を生き生きと感じる練習を、わたしたちはくりかえしてきた。身体に想像力を備わせることで、他人を思いやる気持ちを、つまりは共存の条件となるものを、育んできたのである。

 

【15】さて家庭では、ひとは、<信頼>のさらにその基礎となるものを学ぶ。というより、からだで深く憶える。<親密さ>という感情である。

 

【16】家庭という場所、そこで人はいわば〔 丙 〕で他人の世話を享(う)ける。言う事を聞いたからとか、おりこうさんにしたらとかいった理由や条件なしに、自分がただここにいるという、ただそういう理由だけで世話をしてもらった経験がたいていのひとにはある。こぼしたミルクを拭ってもらい、顎や脇の下、指や脚の間を丹念に洗ってもらった経験・・・・。そういう ③ 「存在の世話」 を、いかなる条件や留保もつけずにしてもらった経験が、将来自分がどれほど他人を憎むことになろうとも、最後のぎりぎりのところでひとへの<信頼>を失わないでいさせてくれる。そういう人生への〔    丁 〕感情がなければ、ひとは苦しみが堆積するなかで、最終的に、死なないでいる理由をもちえないだろうと思われる。

【17】

〔  Y  

 

【18】逆にこういう経験があれば、他人もまた自分と同じ「一」として存在すべきものとして尊敬できる。かわいがられる経験。まさぐられ、遊ばれ、いたわられる経験。人間の尊厳とは、最終的にそういう経験を幼い時に持てたかどうかにかかっている。人間の尊厳とは最終的にそういう経験を幼いときにもてたかどうかにかかっているとは言えないだろうか。

 

ーーーーーーーー

 

(設問)

 

問5 空欄乙に入る五字以内の語句を本文から抜き出して記せ。

 

問6 空欄丙に入る四字以内の語句を本文から抜き出して記せ。

 

問7 傍線部③「存在の世話」とあるが、ここでは、「存在」とは、どういう意味か。最適なものを一つ選べ。

ア  宇宙的とも言っていい単純な事実

イ  じぶんが、ただここにいるということ

ウ  じぶんたちの誕生や死

エ  死なないでいること

オ  幼児期の不幸な体験

 

問8 空欄丁に入る最適な二字の語句を本文から抜き出して記せ。

 

問9 空欄Y(第17段落)には、次のア~オの五つの文章が入る。正しい順序に並び替えよ。

ア こういう経験がないと、一生どこか欠乏感をもってしか生きられない。

イ その経験があれば、母がじぶんを産んでしばらくして死んでも耐えられる。

ウ つまりじぶんを、存在する価値のあるものとして認めることが最後のところでできないのである。

エ あるいは、生きることのプライドを、追いつめられたぎりぎりのところでもてるかどうかは、じぶんが無条件に肯定された経験をもっているかどうか、わたしがわたしであるというだけでぜんぶ認められ世話されたことがあるかどうかにかかっていると言い換えてもいい。

オ あるいは、じぶんが親や他人にとって邪魔な存在ではないのかという疑いをいつも払拭できない。

 

問10 次の文の中で、本文の内容に合致するものを選べ。ただし、正解は一つとは限らない。

ア  学校では、いのちのやりとりを学ぶ機会が、案外多いと言える。

イ  花を引きちぎり、あたり一面にぶちまけるような祭りは、資源保護に反するので、教育上規制するべきである。

ウ  じぶんが生きるに値する価値があるか否かを認識することは意外に難しいので、生きていくためには、じぶんの存在を肯定されることが必要と言える。

エ  養育や教育は、共同生活のルールを教えることであるから、幼稚園では、歌や遊戯でそのルールを身体に覚えさせている。

オ  存在の世話を自分自身に対してしても、そこに意味はない。

カ  自分の存在理由は自分で捜すしかないので、自己責任の問題である。

キ  他者の存在の承認には、様々な点でリスクがあるので、慎重におこなうべきである。

ク  人間の尊厳とは、じぶんが無条件に肯定された経験をもっているかどうかに関係していると言える。

 

……………………………

 

( 解説・解答 )

問5(空欄補充・記述問題)

 【12】段落を赤字部分に着目して、熟読・精読するとよいでしょう。

 

「  生きる理由がどうしても見当たらなくなったときに、じぶんが生きるにあたいする者であることをじぶんに納得させるのは、思いのほかむずかしい。そのとき、死への恐れは働いても、生きるべきだという倫理は働かない。生きるということが楽しいものであることの経験、そういう人生への肯定が底にないと、死なないでいることをじぶんでは肯定できないものだ。お歌とお遊戯はその楽しさを体験するためにあったはずだ。永井均は最近の著作のなかでこう書いている。『子供の教育において第一になすべきことは、道徳を教えることではなく、人生が楽しいということを、つまり自己の生が根源において肯定されるべきものであることを、体におぼえこませてやることである』と(『これがニーチェだ』)。あるいは、幼児期に不幸な体験があったとして、それに代わるものを、それに耐えられるだけの力を、学校はあたえうるのでなければその存在理由はない。だれかの子として認められなかった子どもに、その子を『だれか』として全的に肯定することで、〔  乙  〕をあたえうるのでなければ、その存在の意味がない。

 

(解答) 存在理由

  

問6(空欄補充・記述問題)

 空欄丙を含む一文が【16】段落の冒頭部分になっていることに注目してください。

  【16】段落の前半部分は、空欄丙を含む一文の説明になっています。

    また、【17】段落は【16】段落と密接に関連しています。

 従って、【16】・【17】段落を赤字部分に着目して熟読・精読することが必要です。

 

【16】家庭という場所、そこで人はいわば〔 丙 〕で他人の世話を享(う)ける。

言う事を聞いたからとか、おりこうさんにしたらとかいった理由や条件なしに、自分がただここにいるという、ただそういう理由だけで世話をしてもらった経験がたいていのひとにはある。こぼしたミルクを拭ってもらい、顎や脇の下、指や脚の間を丹念に洗ってもらった経験・・・・。そういう  ③「存在の世話」 を、いかなる条件や留保もつけずにしてもらった経験が、将来自分がどれほど他人を憎むことになろうとも、最後のぎりぎりのところでひとへの<信頼>を失わないでいさせてくれる。そういう人生への〔    丁  〕肯定感情がなければ、ひとは苦しみが堆積するなかで、最終的に、死なないでいる理由をもちえないだろうと思われる。

【17】あるいは、生きることのプライドを、追いつめられたぎりぎりのところでもてるかどうかは、じぶんが無条件に肯定された経験をもっているかどうか、わたしがわたしであるというだけでぜんぶ認められ世話されたことがあるかどうかにかかっていると言い換えてもいい。その経験があれば、母がじぶんを産んでしばらくして死んでも耐えられる。こういう経験がないと、一生どこか欠乏感をもってしか生きられない。あるいは、じぶんが親や他人にとって邪魔な存在ではないのかという疑いをいつも払拭できない。つまりじぶんを、存在する価値のあるものとして認めることが最後のところでできないのである。

  

(解答) 無条件

 

問7(傍線部説明問題)

 「存在の世話」における「存在」の意味が問われています。

 傍線部③を含む【16】段落の

「家庭という場所、そこで人はいわば〔 丙=無条件 〕で他人の世話を享(う)ける。言う事を聞いたからとか、おりこうさんにしたらとかいった理由や条件なしに、自分がただここにいるという、ただそういう理由だけで世話をしてもらった経験がたいていのひとにはある。」

の文脈を把握してください。

「イ  じぶんが、ただここにいるということ」が正解になります。

 

 (解答) イ

 

問8(空欄補充・記述問題)

 空欄丁を含む【16】段落が【12】段落を受けていることを読み取ってください。

 そのうえで、【12】段落を熟読・精読する必要があります。

 特に、赤字部分に注意してください。

 

【12】生きる理由がどうしても見当たらなくなったときに、じぶんが生きるにあたいする者であることをじぶんに納得させるのは、思いのほかむずかしい。そのとき、死への恐れは働いても、生きるべきだという倫理は働かない。生きるということが楽しいものであることの経験、そういう人生への肯定が底にないと、死なないでいることをじぶんでは《肯定》できないものだ。お歌とお遊戯はその楽しさを体験するためにあったはずだ。永井均は最近の著作のなかでこう書いている。『子供の教育において第一になすべきことは、道徳を教えることではなく、人生が楽しいということを、つまり自己の生が根源において《肯定》されるべきものであることを、体におぼえこませてやることである』と(『これがニーチェだ』)。あるいは、幼児期に不幸な体験があったとして、それに代わるものを、それに耐えられるだけの力を、学校はあたえうるのでなければその存在理由はない。だれかの子として認められなかった子どもに、その子を『だれか』として全的に《肯定》することで、〔 =存在理由 〕をあたえうるのでなければ、その存在の意味がない。

 

(解答) 肯定

 

問9(文章並べ替え問題)

 まず第一に、アの「こういう経験」、イの「その経験」、ウの「つまり」、エの「あるいは」・「と言い換えてもいい」、オの「あるいは」に着目してください。

 そうすると、

 

エ あるいは、生きることのプライドを、追いつめられたぎりぎりのところでもてるかどうかは、じぶんが無条件に肯定された経験をもっているかどうか、わたしがわたしであるというだけでぜんぶ認められ世話されたことがあるかどうかにかかっていると言い換えてもいい。

その経験があれば、母がじぶんを産んでしばらくして死んでも耐えられる。

 

というセットは、すぐに確定できるでしょう。

 次に、ア、ウ、オは、以下のように、それぞれの文の赤字部分に注目するとよいでしょう。

 

ア こういう経験がないと、一生どこか欠乏感をもってしか生きられない。

オ あるいは、じぶんが親や他人にとって邪魔な存在ではないのかという疑いをいつも払拭できない。

ウ つまりじぶんを、存在する価値のあるものとして認めることが最後のところでできないのである。

 

  【18】段落の内容に注目すると、「ア→オ→ウ」が後半になることが分かります。

 

(解答)  エ→イ→ア→オ→ウ

 

問10 (趣旨合致問題)

 趣旨合致問題の解法のポイントについては、下の記事で丁寧に説明したので、ぜひ、ご覧ください。

 問題文本文を読む前に、設問を見ることが大切です。

 設問のポイントのみ、チェックできれば、それでよいのです。

 割り切ることが必要です。

 

  今回の趣旨合致問題は、標準レベルで素直な問題です。

 

gensairyu.hatenablog.com

 

(解答) ウ・ク

 

 

(3)「存在の肯定」・「存在の承認」・「存在の贈与」についての補足説明 

 

 「存在の肯定」・「存在の承認」・「存在の贈与」は、鷲田氏の論考におけるキーワードです。

 「存在の肯定」・「存在の承認」・「存在の贈与」は、難解な側面があります。

 従って、簡単に理解しようとはしないで、鷲田氏の様々な文章を読み、じっくり考えるようにした方がよいと思います。

 その点で、以下の『「聴く」ことの力』 における論考は、「存在の肯定」・「存在の承認」「存在の贈与」を考えるうえで、かなり参考になるでしょう。

 

生きる理由がどうしても見当たらなくなったときに、じぶんがほんとうに生きるにあたいする者であることをじぶんに納得させるのが、思いのほかむずかしい。

生きるということが楽しいものであることのたっぷりとした経験、そういう人生への肯定が底にないと、ひとはじぶんが死なないでいることをじぶんでは肯定できないものだ。

しかし、この経験がたっぷりとはできなかったらどうか。

そのときには、他者がそれを贈るのである。

他者をそのままそっくり肯定すること、条件をつけないで。

こういう贈り物ができるかどうかは、ふたたびそのひとが、つまり贈るひと自身が、かつてたった一度きりであっても、無条件でその存在を肯定された経験があるかどうかにかかっている。

相手の側からすれば、他者の存在をそっくりそのまま受容してなされる。

「存在の世話」とでもいうべき行為である。

ケアの根っこにあるべき経験とはそういうものではなかろうか。

 

 また、『死なないでいる理由』の中の、以下の文章は、今回の記事で取り上げた『悲鳴をあげる身体』の一節と、ほとんど同内容ですが、味わい深いものがあります。

 

「こぼしたミルクを拭ってもらい、便で汚れた肛門をふいてもらい、顎や脇の下、指や脚のあいだを丹念に洗ってもらった経験。

そういう「存在の世話」を、いかなる条件も保留もつけずにしてもらった経験が、将来じぶんがどれほど他人を憎むことになろうとも、最後のぎりぎりのところでひとへの<信頼>を失わないでいさせてくれる。

そういう人生への肯定感がなければ、ひとは苦しみが堆積するなかで、最終的に、死なないでいる理由をもちえないだろうとおもわれる。

 

 

 (4)当ブログの、鷲田清一氏の論考に関連する記事の紹介

 

 鷲田清一は、入試国語(現代文)・小論文におけるトップレベルの頻出著者なので、意識して、鷲田氏の論考を読むようにしてください。

  

gensairyu.hatenablog.com

 

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 ーーーーーーーー

 

今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

ご期待ください。

 

   

 

 

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悲鳴をあげる身体 (PHP新書)

悲鳴をあげる身体 (PHP新書)

 

 

 

頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

 

 

5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

 

 

 私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。

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予想出典・『永遠平和のために』カント・平和・移民問題・グローバル化

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 

 最近では、民族紛争・宗教対立・英国のEU離脱・トランプ現象など、国際関係・外交問題・グローバル化関連のニュース・論考が非常に多くなっています。

 最近の大学入試国語(現代文)・小論文でも、これらに関連する政治哲学・政治学関連の論考の出題が増加しています。

 その際に、大哲学者カントの『永遠平和のために』が引用されたり、論考の対象になることが多いのです。

 従って、教養・予備知識として、カントやこの本について知っておくことは、国語(現代文)・小論文対策として、大切なことだと思います。

 従って、今回の記事では、『永遠平和のために』の解説をしていきます。

 

 以下の記事の項目は、次のようになっています。記事は約1万字です。

 

(2)「日本の鎖国を賢明と評した哲学者カント」(孫崎享・『日刊ゲンダイ』2017・4・22「日本外交と政治の正体」)の解説

(3)『永遠平和のために』の解説

(4)「歓待の思考」・「訪問権」、「日本の鎖国」について

(5)2003早稲田大学法学部国語(現代文)(「歓待の思考」(『主権のかなたで』)鵜飼哲)の解説

(6)『NHK100分de名著カント  永遠平和のために 』(2016・8)の紹介・解説

 

  

 (2)「日本の鎖国を賢明と評した哲学者カント」(孫崎享・『日刊ゲンダイ』2017・4・22「日本外交と政治の正体」)の解説

 

  『日刊ゲンダイ』(2017年4月22日「日本外交と政治の正体」)に、「日本の鎖国を『賢明』と評した哲学者カント」という孫崎 享氏の、以下のような論考が掲載されました。その一部を引用します。

 

(概要です)

(青字は当ブログによる「注」です)

ドイツの哲学者カント(1724~1804年)が近世最大の哲学者であることには異論がないだろう。1795年に出版された政治哲学の著書「永遠平和のために」は、欧州各国が今のような平和的な関係を築き上げていくうえで「貢献」したことも多くの人は知っている。
 だが、「永遠平和のために」の中で、日本の鎖国を「賢明であった」と評価しているのを知っている人は果たしてどれだけいるだろうか。カントは著書の中で、こう書いている。

 われわれの大陸の文明化された諸国家、とくに商業活動の盛んな諸国家の非友好的な態度をこれと比較してみると、かれらがほかの土地やほかの民族を訪問する際に(訪問することはかれらにとってそこを征服すると同じことを意味するが)示す不正は驚くべき程度に達している。

 アメリカ、黒人地方、香料諸島、喜望峰などは、それらが発見されたとき、かれらにとっては誰にも属さない地であるかのようであったが、それは彼等が住民を無に等しいとみなしたからである。


 東インドでは、かれらは、商業支店を設けるだけという口実の下に、軍隊を導入した。それとともに原住民を圧迫し、その地の諸国家を扇動して、広範な範囲におよぶ戦争を起こし、飢え、反乱、裏切りその他人類を苦しめるあらゆる災厄を嘆く声が数えたてるような悪事を持ち込んだのである。


 それゆえ中国と日本はこれらの来訪者を試した後で、次の措置をとったのは賢明であった(として鎖国に言及)。(→当ブログによる注→(カントの記述)「すなわち前者は来訪は許したが入国は許さず、後者は来訪すらもヨーロッパ民族の一民族にすぎないオランダ人にだけ許可し、しかもその際に彼らを囚人のように扱い、自国民との交際から閉め出したのである」)


 カントが、〈諸国家を扇動して、広範な範囲におよぶ戦争を起こし、飢え、反乱、裏切りその他人類を苦しめるあらゆる災厄を持ち込んだ〉とは、まさに米国の中東政策そのものであり、朝鮮半島でも「諸国家を扇動して」、「災難」を持ち込もうとしている。 

 

ーーーーーーーー

 

(当ブログによる解説) 

 外交問題の専門家である孫崎享氏が、カントの言葉を引いて、現在の世界政治の問題点について論考を発表している点に、私は注目しました。

 孫崎氏の見識、カントの言葉の重み、に注目したのです。

 

 カントの過去の言葉は、「現在の世界政治の混乱」を読み解く際の、「本質的な視座」を示唆してくれるのです。

 それだけ、カントの考察が、「人間の行動の根源」を突いているからでしょう。

 

 以上の文章におけるカントの『永遠平和のために』から引用部分は、『永遠平和のために』の中で、「第二章の第三確定条項」を説明する所に記述されています。

 つまり、カントは、海外に進出している西洋諸国の、アフリカ・アジアなどにおける侵略的な外交姿勢を批判し、中国と日本の鎖国政策を、ある程度、賢明な措置と判断しているのです。

 この点について、さらに解説していきます。

 

永遠平和のために (岩波文庫)

 

(3)『永遠平和のために』の解説

 

 まず、「本書の目次」を紹介します。

 この「目次」は、ある程度、要約のようになっているので、丁寧に読んでいくと、『永遠平和のために』の概要が分かるでしょう。

 

ーーーーーーーー


『永遠平和のために』(カント (著)/ 宇都宮芳明 (訳) 岩波文庫)

【目次】

永遠平和のために

 

第一章 この章は、国家間の永遠平和のための予備条項を含む

 第一条項 将来の戦争の種をひそかに保留して締結された平和条約は、決して平和条約と見なされてはならない 。

 第二条項 独立しているいかなる国家(小国であろうと、大国であろうと、この場合問題ではない)も継承、交換、買収、または贈与によって、他の国家がこれを取得できるということがあってはならない。

 第三条項 常備軍は、時とともに全廃されなければならない。

 第四条項 国家の対外戦争にかんしては、いかなる国債も発行されてはならない。

 第五条項 いかなる国家も、他の国家の体制や政治に暴力をもって干渉してはならない。

 第六条項 いかなる国家も、他国との戦争において、将来の平和時における相互間の信頼を不可能にしてしまうような行為をしてはならない 。

 

第二章 この章は、国家間の永遠平和のための確定条項を含む

 第一確定条項 各国家における市民的体制は、共和的でなければならない。

 第二確定条項 国際法、自由な諸国家の連合制度に基礎を置くべきである。

 第三確定条項 世界市民法は、普遍的な友好をもたらす諸条件に制限されなければならない。

(→上記の孫崎氏の論考は、この条項(「歓待の思考」・「訪問権」)に関連しています。詳しくは、以下に解説します。)
  
第一補説 永遠平和の保証について

第二補説 永遠平和のための秘密条項(1796)

 

付録 
一 永遠平和という見地から見た道徳と政治の不一致について
二 公法の先験的概念による政治と道徳の一致について

 

 ーーーーーーーー

 

(当ブログによる解説) 

 

「第一章 第三条項 常備軍は、時とともに全廃されなければならない。」

「第一補説 永遠平和の保証について」

が、少々、理想主義的ですが、全体としては、現実主義的と評価できると思います。

 この点については、この記事の 「(6)『NHK100分de名著  カント  永遠平和のために』」で、改めて解説します。

 

 

(4)「歓待の思考」・「訪問権」、「日本の鎖国」について

 

 『永遠平和のために』においては、上記の孫崎氏の文章における〈カントの『永遠平和のために』からの引用部分〉の前に、「第二章の第三確定条項」を説明する記述があります。

 この記述は、一般的に、政治哲学・政治学の分野においては、「訪問権」・「歓待の思考」についての記述と言われています。

 以下のようになっています。

 

 (青字は当ブログによる「注」です)

「外国人が要求できるのは、客人の権利(この権利を要求するには、かれを一定の期間家族の一員として扱うという、好意ある特別な契約が必要となろう)ではなくて、訪問の権利である。この権利は、地球の表面を共同に所有する権利に基づいて、たがいに交際を申し出ることができるといった、すべての人間に属している権利である。人間は、もともとだれひとりとして、地上のある場所にいることについて、他人よりも多くの権利を所有しているわけではない。(→すなわち、いかなる個人も他国を訪れた際に、「歓待」される権利を持つのです )」(『永遠平和のために』第二章第三確定条項より)

 

 しかし、当時の世界状況は、カントの見解とは、かなり異なっていました。

 西欧諸国は,通商・布教などを名目として、自国の権益拡大を世界各地で実施していました。

 カントには、それらの行為は,あまりに強権的・強圧的に見えたのでしょう。

 そのために、孫崎享氏の引用した、以下のような見解を述べたのです。

 

 「われわれの大陸の文明諸国家、特に商業活動の盛んな諸国家の非友好的な態度を比較してみると、かれらがほかの土地やほかの民族を訪問する際に(訪問することは、かれらにとって、そこを征服することと同じことを意味するが)示す不正は恐るべき程度にまで達してしている。
 アメリカ、アフリカ、香料諸島、喜望峰などは、それらが発見されたとき、かれらにとっては、だれにも属さない土地であるかのようであったが、それは彼らが先住民たちを無に等しいとみなしたからである。

 東インドでは、かれらは商業支店を設けるだけだという口実の下に軍隊を導入したが、しかし、それとともに先住民を圧迫し、その諸国家を扇動して、広範な範囲におよぷ戦争をおこし、飢え、反乱、裏切り、そのほか人類を苦しめるあらゆる災厄と同様の悪事をもちこんだのである。
 それゆえ、中国と日本が、これらの来訪者を試した後で、つぎの措置をとったのは賢明であった。すなわち、中国は、来航は許したが入国は許さず、日本は来航すらもヨーロッバ民族の一民族にすぎないオランダ人だけに許可し、しかも、その際かれらを囚人のようにあつかい、自国民との交際に制限をあたえたのである。」(『永遠平和のために』)


 近代になり、ヨーロッパの強権的・強圧的な海外進出をくい止める措置として,中国(清朝)、日本(徳川幕府)などの国が,鎖国政策をとったことを、カントは「賢明な措置」として肯定しています。

 カントはケンペルの「旅行記」などを通して,日本が鎖国政策に踏み切らざるを得ない理由を、ある程度理解していたのでしょう。

 

 ケンペルは『日本誌』(今井正編訳・霞ヶ関出版)の付録第二章「もっともな理由のある日本の鎖国」で、以下のような見解を述べています。

 

(概要です)

「日本人の場合は、異国との交わりは、ただ生活のため、便益のため、贅沢のために必要な物資を入手する方便であることは、だれも否定しないであろう。
 人類の繋りの基盤がここに置かれているならば、自然にめぐまれ、あらゆる種類の必要物資を豊富に授かっており、かつその国民の多年にわたる勤勉な努力によって国造りが完成している国家としては、自分からは何も求めるものがない外国にたいしては、外国人どもの計略にのらず、貪慾をはねかえし、騙されないようにし、戦いをしないようにして、その国民と国境を守ることが上策であり、また為政者の義務でもある。

 それは、たしかに納得できる国家の行き方であろう。日本は他の世界諸国に比べて、このような有利な条件に恵まれている国である。」

 

ーーーーーーーー

 

(当ブログによる解説)


 江戸幕府の鎖国政策は、日本においても、明治以降、全面的に否定的な評価を受けてきましたが、ケンペルの見解は、それとは正反対です。

 ケンペルは、当時の世界と日本の状況を踏まえた上で、日本には、鎖国をする論理的根拠があるとしています。

 当時の西洋に、日本の鎖国に対して一定の評価をしている知識人がいたという事実は、現代の日本人が、ぜひとも知っておくべきことです。

 近代的な西洋的価値観(明治時代以降の日本国・日本人の価値観そのもの)に染まり、日本の鎖国を全否定することはないのです。

 

 

 (5)2003早稲田大学法学部国語(現代文)(「歓待の思考」(『主権のかなたで』)鵜飼哲)の解説


 次に、『永遠平和のために』の中の「歓待の思考」から出題された入試国語(現代文)問題として有名な、2003年の早稲田法学部の問題について解説します。

 この問題文本文は、『永遠平和のために』の「第二章 第三確定条項 世界市民法は、普遍的な友好をもたらす諸条件に制限されなければならない。」を説明しているカントの記述の引用から始まります。 

 以下に引用します。

 

(概要です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

「『世界公民法は普遍的な好遇についての諸条件に限られるべきである』

この条項で提起されているのは博愛ではなくて、権利についてである。そして、ここで歓待(よい待遇)というのは、外国人が他国の土地に足を踏み入れたというだけの理由で、その国の人間から敵としての扱いを受けない権利のことである。その国の人間は、彼の生命に危険のおよばない方法でするかぎり、その外国人を退去させることはできる。しかし彼が彼の居場所で平和にふるまうかぎり、その外国人に敵としての扱いをしてはならない。もっとも彼が要求できるのは、滞在権((そのためには、この権彼をしばらく家族の一員として扱うという、特別の好意ある契約が必要とされるであろう))ではなくて、訪問権である。この権利は、地球表面の共同所有権に基づいて互いに友好を結び合うよう、すべての人間にそなわる権利である。つまり、地球の表面は球面で、人間は無限に分散して拡がることはできず、結局は並存することを互いに忍び合わなくてはならないが、しかし根源的には誰ひとりとして地上のある場所にいることについて、他の人より多くの権利を持つ者ではないからである。」

  

 この引用文の直後で、著者・鵜飼哲氏は、以下のような重要な考察をしています。

「  生まれてきたときには、誰もがこの世に「客」としてやってくるほかはないのであり、そこでいわば最初の歓待の経験をするということに関してである。

 この「起源」の歓待は、単に、その名が示すような「歓び」だったわけではないだろう。この世界の「客」となったばかりの新生児は、たとえ歓待を受けようと、まだ、笑ってはいない。「初めに」「客」であったことは、おそらく、死にも比すべき外傷でさえあるだろう。主権が主権である限りその核に持ち続ける残酷さ、かつての日本の外務官僚の、「外国人は煮て食おうと焼いて食おうと主権国家の自由」という発言にみられるような恐るべき残酷さは、このような外傷に対する反動として考察したとき、はじめてその本質が垣間見えるのではないだろうか。」


 この世に生を受け、そして、生きるということの、歓待に付随する「不快感」が外傷のように心の底に残り、「主権」という仕組みのもとで排外的な心情を生み出していく、と鵜飼氏は説明しています。

 日常の空間に、まるで「客」のように到来する存在(たとえば「路上生活者」)に対する、排他的な感情の根本に、このような「不快感」があるのではないか、と鵜飼氏は主張しているのです。

 そして、鵜飼氏は、日本国の出入国管理法の残酷さ、排外主義的伝統を批判します。

 グローバリゼーションの進行や、少子化による労働力不足に付随して発生するであろう「移民」の問題などが、具体的・歴史的な場で思考されるためには、カントのいう「歓待の思考」の発想が要請されるとしています。

 

 この問題の「本文全体の要約」としては、以下のようになります。

「グローバリゼーションの進行の中で、地球の表面をすべての人間が権利として共有するという歓待の思考が現実化されつつある。しかし、これに、よそ者を排除する力を持つ主権が立ちはだかる。従って、歓待の思考は、思考だけではなく、社会・国家のレベルの具体的・歴史的現実の中で、この主権を対象化し、制限しなければならない。それは、また日本人一人一人が排外主義を脱して、自己を再発明することをも意味するのである。」

 

 

 なお、この論考が含まれている『主権のかなたで』は、全体として、以下のような内容になっています。

 

「  国民国家や市民社会の「よそ者」として排除され、不安定な生を強いられる人々。排除の根源にある「主権」の論理に対置すべき「歓待」の原理とは何か。排除に抵抗する実践の理路はどのようなものでありうるのか。デリダ、サイード、シュミットらのテクストに向き合い、世紀転換期の激動を凝視しつつ、来たるべき世界の予兆を探る繊細な思索の記録。

 収録されている論考のほとんどは、1995年から2005年の10年間に、つまり世紀転換期に書かれています。それは、20世紀の終わりと21世紀の始まりというだけでなく、戦後50年であった1995年という転換点と、2001年の〈9・11〉という転換点を含んだ時期の思考と抵抗の軌跡でもあります。」(「表紙カバー」より)

 

 

(6)『NHK100分de名著カント  永遠平和のために 』(2016・8)の紹介・解説

 

 カントの「平和」についての考え方を知るために、本書と『永遠平和のために』(岩波文庫)を併読することを、おすすめします。

 

  『 NHK100分de名著 カント  永遠平和のために 』(番組の解説者は津田塾大学教授の萱野稔人(かやの・としひと)氏です)のWeb上の解説が、『 永遠平和のために』の理解のために秀逸なので、以下に引用します。

 

(概要です)

(赤字、太字は、当ブログによる「強調」です) 

「  人間の本性は「邪悪なもの」であり「戦争すること」である

 18世紀ドイツの哲学者イマヌエル・カントが生きた時代は、ヨーロッパの多くの国が王権を巡る争いや植民地獲得のための競争に明け暮れていました。この情勢を憂えたカントは著書『永遠平和のために』の中で、人間の本性は邪悪であり戦争に向かうのは当然だと説きました。この考えの意味するところを、津田塾大学教授の萱野稔人(かやの・としひと)さんに解説していただきます。

* * *

 カントがいかに現実主義者だったかは、彼の人間観にも現れています。その人間観はかなり悲観的です。人間はもともと道徳を備えているとも、道徳的に完成できるとも言っていません。「人間は邪悪な存在である」というのが、カントのそもそもの出発点です。それをはっきり示しているのが「軍事国債の禁止」にある次の文章です。

 

「国債の発行によって戦争の遂行が容易になる場合には、権力者が戦争を好む傾向とあいまって(これは人間に生まれつきそなわっている特性のように思える)、永遠平和の実現のための大きな障害となるのである。」
(『永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編』中山元訳、光文社古典新訳文庫)以下同

 

 つまりカントは、「人間にはもともと戦争を好む傾向があるので、国債を発行していくらでも金が手に入るようになると、その傾向に火がついて軍備をどんどん拡張し、しまいには戦争をはじめてしまう」と言っているのです。人間の本質を「邪悪」ととらえた箇所として、以下の一節も重要です。

 

「戦争そのものにはいかなる特別な動因も必要ではない。戦争はあたかも人間の本性に接ぎ木されたかのようである。」

 

 戦争は、相手が自分に対してなんらかの利害対立や敵意を持つからこそ起こる、と多くの人は思っているでしょう。しかしカントは、戦争すること自体が人間の本性だから、特別な原因がなくても戦争は起こる──というのです。

 現代に生きる私たちは、武器を持たずに人ごみのなかを無防備に歩くことができますが、それは法の支配が確立されているからであって、じつは見ず知らずの人びとのなかを丸腰で歩けることのほうが歴史的にみれば奇跡的な状態なのです。カントの言葉を引いてみましょう。


「ともに暮らす人間たちのうちで永遠平和は自然状態(スタトゥス・ナーチューラーリス)ではない。自然状態とはむしろ戦争状態なのである。つねに敵対行為が発生しているわけではないとしても、敵対行為の脅威がつねに存在する状態である。」


 こうした自然状態を戦争状態とみるという考え方は、カントがオリジナルではなく、17世紀に活躍した思想家トマス・ホッブズに端を発する「社会契約説」を下敷きにしています。社会契約説とは、どのように人間が国家をつくったのかを論じたもので、要約すると、国家の成り立ちを次のように考えます。


「法秩序が存在しない自然状態では、人間は常に自分の利益だけを考えて行動する。それゆえに放っておくと戦争状態へと向かい、生存さえ危うくなってしまう。そこで命や一定の権利を守るために、人間は相互にルールを守るという契約を結び、それが国家(政府)になった」

 

 カントもこの社会契約説を支持し、人間の本性は邪悪で戦争に向かうのは当然だと考えました。この考えは人類の歴史をみれば正しく、人間は本来平和的だったと道徳的に主張することはナンセンスです。戦争に向かうのは人間の本性として当たり前なのだから、それを異常なものだと特別視してしまうと問題の本質を見誤ります。


 カントにとって大事なのは「なぜ戦争が起こるか」ではなく、「どうすれば戦争が起きなくなるか」です。この問いの転換こそが『永遠平和のために』を読み解く際の重要な鍵となりますので、ここでぜひ頭に入れておいてください。

(『 NHK100分de名著 カント 永遠平和のために 』のWeb上の解説より)

 

 ーーーーーーーー

 

(当ブログによる解説)

 本書のカントは、「自然状態とは戦争状態」という前提に立ち、その上で、独立国家同士が牽制しつつも、平和を維持するためには国家間に国際連合的なものが必須であると説いています。

 この点からも、カントは現実主義者と評価するべきでしょう。

 カントは、現実世界が弱肉強食の世界であることを認めた上で、「世界平和」へ至る道について方法論を呈示しているのです。

 

 カントは、「永遠平和は確実に実現する」とは言っていません。

 たとえば、『永遠平和のために』の「第一補説」では、以下のように述べています。

 

「なるほどこの保証は、永遠平和の到来を予言するのに十分な確実さはもたない。しかし実践的見地では十分な確実さをもち、この目的にむかって努力することをわれわれに義務づけるのである」

 

 カントの想定する「永遠平和」は、目指すべきものとして把握されており、「完全な形で実現するものだ」という、いわゆるメルヘン的・空想的な平和主義では、ありません。

 カントは、「平和それ自体」への限りない接近に、希望の光明を見出だしているのでしょう。
 カントは、「永遠平和に向かって努力すること」それ自体が意味のあることである、と本書で力説しているのでしょう。

 

ーーーーーーーー

 

 今回の記事は、これで終わりです。

 次回の記事は、約1週間後の予定です。

 ご期待ください。

 

    

 

永遠平和のために (岩波文庫)

永遠平和のために (岩波文庫)

 

  

カント『永遠平和のために』 2016年8月 (100分 de 名著)

カント『永遠平和のために』 2016年8月 (100分 de 名著)

 

  

哲学はなぜ役に立つのか?

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主権のかなたで

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日本外交:現場からの証言

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

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予想問題『じぶん・この不思議な存在』鷲田清一・他者の他者としての自分

 

(1)なぜ、この論考に注目したのか?

 

 鷲田清一氏は、ほとんどの難関大学の入試現代文(国語)・小論文で一度は出題されている、トップレベルの頻出著者です。

 
 最近では、センター試験、東京大学、東北大学、早稲田大学、慶應大学、上智大学等で、出題されています。

 鷲田氏の入試頻出著書としては、

『モードの迷宮』(ちくま学芸文庫)、

『じぶん・この不思議な存在』(講談社現代新書)、

『悲鳴をあげる身体』(PHP 新書)、

『「聴く」ことの力ー臨床哲学試論』(ちくま学芸文庫)、

『わかりやすいはわかりにくい? 臨床哲学講座』(ちくま新書)、

『しんがりの思想』(角川新書)、

等があります。

 

 最近の難関大学では、

『わかりやすいはわかりにくい? 臨床哲学講座』(ちくま新書)、

『「聴く」ことの力ー臨床哲学講座』(ちくま学芸文庫)、

からの出題が目立ちます。

 

 その中で、『じぶん・この不思議な存在』は、長期的に頻出出典になっています。

 その内容が難関大学現代文(国語)・小論文の問題としてふさわしいので、このブログで予想問題の紹介、解説をします。

 

 なお、今回の記事の項目は以下の通りです。 

(2)予想問題・『じぶん・この不思議な存在』鷲田清一・立命館大学国語(現代文)

(3)本書『じぶん・この不思議な存在』の解説

 ①総説

 ②「自分さがし」・「自分の個性」について

 ③本書のキーワードである「他者の他者としての自分」を、鷲田氏は他の著書でどのように説明しているのか?

 ④まとめ

(4)当ブログにおける、鷲田清一氏・関連の記事の紹介

(5)当ブログにおける、「関係性」関連の記事の紹介

 

 

じぶん・この不思議な存在 (講談社現代新書)

 

 

 

 

 

 

(2)予想問題・『じぶん・この不思議な存在』鷲田清一・立命館大学国語(現代文)過去問

 

(問題文本文)

(赤字はブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です)

【1】わたしたちは、目の前にあるものを、それは何であるかと解釈し、区分けしながら生きている。たとえば現実と非現実、自分と自分でないもの、生きているものと死んだもの、よいことと悪いこと、大人と子供、男性と女性・・・・。こうした区分けのしかたを他の人たちと共有しているとき、わたしたちは自分を「普通」(ノーマル、ナチュラル)の人間だと感じる。そして、わたしたちが共有している意味の分割線を混乱させたり、不明にしたり、無視したりする存在に出会ったとき、彼らを、別の世界に生きている人というより、わたしたちと同じこの世界にいながら、「普通」でない人と見なしてしまう。 

【2】ではなぜ、わたしたちは〔  A  〕の境界にこのようにヒステリックに固執するのだろう。それは、わたしたちが「~である/~でない」というしかたでしか自分を感じ、理解することができないからではないだろうか。そしてそういう〔  A  〕の分割の中にうまく自分を挿入できないとき、いったい自分はだれなのかという、その〔  B  〕の輪郭が失われてしまうからではないだろうか。つまり、それほどまでに〈わたし〉はもろく、不可解な〔  B  〕であるからではないだろうか。 

【3】たとえば、身体を持たない〈わたし〉があり得ないことはあまりに明白であるのに、それでは〈わたし〉と身体とはどのような関係にあるかと問うてみると、自分がほとんどなんの確かな答えも持っていないことに気づかされる。 

 

ーーーーーーーー 

 

(問題)

問1  空欄A・Bに入れるのに、最も適当なものを、次の中から選べ。

1 人間   2 原因   3 存在   4 解釈

5 所有物   6 結果   7 身体   8 意味

 

……………………………

 

(解説・解答)

問1

A  

は、前にある「意味の分割線」に注目してください。

 つまり、【1】段落最終文の

「わたしたちが共有している意味の分割線を混乱させたり、不明にしたり、無視したりする存在に出会ったとき、彼らを、別の世界に生きている人というより、わたしたちと同じこの世界にいながら、「普通」でない人と見なしてしまう。 」

の文脈に注目するとよいでしょう。

 

B 

【2】段落第2文の

わたしたちが「~である/~でない」というしかたでしか自分を感じ、理解することができないからではないだろうか。

における、

《 「自分」は「~である/~でない」という部分 》は、《 「自分」の「何」についての議論なのか 》、を考えるとよいでしょう。

  

(解答)  A=8  B=3

 

ーーーーーーーー

 

 (問題文本文) 

【4】「わたしの足」というとき、わたしと足はどういう関係にあるのかと考え始めると、たちまち謎に包まれる。わたしは足であるか? ノー。わたしは足を持つのか? たぶん、イエス。もし身体がわたしの所有物だとすると、所有物は譲渡や交換が可能であるはずだから、足から順に自分の身体を次々に別の身体と取り替えていっても、わたしはわたしであるはずだ。けれども想像が腹部あたりに達したころから、だんだんあやしい気分、おぞましい気分になってくる。〔 C 

【5】つまり、自分が身体であるのか、身体を持つのかはっきりしないまま、わたしたちはなんとなく自分がこの身体の皮膚の内側にあると思い込んでいる。だから、身体の形状がわたしたちのそれとは違った異形の身体に出会ったときには、すくなからず動揺してしまう。わたしをいまこの〈わたし〉としている身体的条件がたんに一つの〔 D 〕にすぎず、〈わたし〉の存在にとってかならずしも決定的なことではないことが、目にみえるかたちで暴露されるからである。

 

ーーーーーーーー

 

(問題)

問2  空欄Cに入れるのに、最も適当なものを、次の中から選べ。

1 身体はわたしが所有しているものだと、断言したくなってくる

2 身体などなくなってしまえと、言いたくなってくる

3 身体はわたしが所有しているものではないと、前言を翻(ひるがえ)したくなってくる

4 わたしの身体を誰かの身体とそっくり交換したくなってくる

5 わたしの身体を誰かと交換したいなどとは、今後一切思わなくなる

 

 

問題3  空欄Dに入れるのに、最も適当なものを、次の中から選べ。 

1 差異化の可能化

2 偶然性の可能化

3 可能性の抽象化

4 可能性の具体化

5 差異性の必然化

……………………………

 

(解説・解答)

 

問2

こういう難解な文章を、要約して解くことは有害無益です。時間的にも、損失です。本文の精読・熟読に専念してください。

「もし身体がわたしの所有物だとすると、所有物は譲渡や交換が可能であるはずだから、足から順に自分の身体を次々に別の身体と取り替えていっても、わたしはわたしであるはずだ。けれども想像が腹部あたりに達したころから、だんだんあやしい気分、おぞましい気分になってくる。」という文脈に注目してください。

 

(解答) 3

 

問3 

「 わたしをいまこの〈わたし〉としている身体的条件が、たんに一つの〔 D 〕にすぎず」、

(わたしをいまこの〈わたし〉としている身体的条件が)〈わたし〉の存在にとって

かならずしも決定的ではないこと」と、

「目にみえるかたちで暴露されるからである。」の文脈に着目してください。

 

(解答) 4

 

ーーーーーーーー

 

(問題文本文)

【6】このように考えてくると、わたしがだれであるかということは、わたしがだれでないかということ、つまりだれを自分とは異なるもの(他者)と見なしているかということと、背中合わせになっていることがわかる。ところが、わたしがそれによって他者との差異を確認するその意味の軸線がわたしたちによって共有されているところでは、この軸線がその形成の歴史を忘却して「自然」的なものと見なされ(ここから「自然」が規範としての意味を持ち始める)、それを共有しないものは、わたしたちではないもの=「普通」でないものとして否認される。「普通」ということは世界の解釈の一体系を共有しているということにすぎないにもかかわらず、である。わたしたちが自分の存在に形を与えていくこのプロセスは、だから同時に、きわめて〔   E 〕なプロセスでもある。それは、常に解釈の規準を提示し、それを共有できないものは排除し、それを外れるものには欠陥とか劣性といった否定的なまなざしのもとで自らを見ることを強いる。 

【7】わたしはだれかという問いは、わたしはだれを〈非―わたし〉として差異化(=差別)することによってわたしであり得ているのか、という問いと一体をなしている。わたしもあなたも同じ「人間」であるという言い方は、〈わたし〉が一定の差別(逆差別も含めて)の上に初めて成り立つ存在にすぎないことをかえって覆い隠してしまうおそれがある。

【8】「わたしはだれ?」ーーそれは、おそらく、〈わたし〉を形作っている差異の軸線をそのつど具体的なコンテクスト(→「文脈。脈絡」という意味)に則して検証していくところでしか答えられないであろう。 

 

ーーーーーーーー

 

(問題)

問4  空欄Eに入れるのに、最も適当なものを、次の中から選べ。

1 抽象的   2 政治的  3 倫理的

4 自然的   5 決定的

 

問5  この文章の筆者は、傍線①の「わたしはだれ?」という問いに対して、どのように答えようとしているか。最も適当なものを、次の中から選べ。

1 わたしたちは、わたしたちではないひとを知ることをとおしてしか、じぶん自身を知ることができない。

 

2 わたしたちは、じぶんは誰かという問いをじぶんの内部に向けることによってしか、じぶん自身を知ることができない。

 

3 わたしたちは、じぶんではないものからじぶんの存在を隔離することになってしか、じぶん自身を知ることができない。

 

4 わたしたちは、じぶん自身の中身をそのつど検証していくことによってしか、じぶん自身を知ることができない。

 

5 わたしたちは、身体を所有することによってしか、じぶん自身を知ることができない。

……………………………

 

(解説・解答)

 

問4

「このプロセス」は、「政治的な、かけひき」の側面があります。

わたしがだれであるかということは、わたしがだれでないかということ、つまりだれを自分とは異なるもの(他者)と見なしているかということと、背中合わせになっていることがわかる。ところが、わたしがそれによって他者との差異を確認するその意味の軸線がわたしたちによって共有されているところでは、この軸線がその形成の歴史を忘却して「自然」的なものと見なされ(ここから「自然」が規範としての意味を持ち始める)、それを共有しないものは、わたしたちではないもの=「普通」でないものとして否認される。それは、常に解釈の規準を提示し、それを共有できないものは排除し、それを外れるものには欠陥とか劣性といった否定的なまなざしのもとで自らを見ることを強いる 

文脈の赤字部分に注目してください。

  

(解答) 2

 

問5

【2】段落の「ではなぜ、わたしたちは〔 A=意味 〕の境界にこのようにヒステリックに固執するのだろう。それは、わたしたちが「~である/~でない」というしかたでしか自分を感じ、理解することができないからではないだろうか。」、

7】段落のわたしはだれかという問いは、わたしはだれを〈非―わたし〉として差異化(=差別)することによってわたしであり得ているのか、という問いと一体をなしている

【8】段落の「わたしはだれ?」ーーそれは、おそらく、〈わたし〉を形作っている差異の軸線をそのつど具体的なコンテクスト(→「文脈。脈絡」という意味)に則して検証していくところでしか答えられないであろう。 

に着目してください。

 

(解答) 1

 

ーーーーーーー

 

【要約】

わたしたちは目の前にあるものを、なんであるかと解釈し、区分けしながら生きている。なぜなら、わたしたちが、「~である/~でない」というしかたでしか、じぶんを感じ、理解することができないからである。わたしたちは、わたしたちでないひとを知ることをとおしてしか、じぶんを知ることができない、といえるのである。

 

【出典】

本問は以下の目次の中の「2 じぶんの内とじぶんの外」の一節です。

 

【目次】
1  爆弾のような問い
2  じぶんの内とじぶんの外
3  じぶんに揺さぶりをかける
4  他者の他者であるということ
5 「顔」を差しだすということ
6  死にものとしての「わたし」

 

 

(3)本書『じぶん・この不思議な存在』の解説

 

 ①総説

 本書『じぶん・この不思議な存在』」の冒頭に、以下のような、「問題提起」の一節があります。

「  わたしってだれ?

    じぶんってなに?

 だれもがそういう爆弾のような問いを抱えている。

 爆弾のような、といったのは、この問いに囚(とら)われると、いままでせっかく積み上げ、塗り固めてきたことがみな、がらがら崩れだしそうな気がするからだ。

だれもが、人生のなかで何度も何度もこの問いを口にする。

あるいは、ひとりごちる。

あるいは、そのような問いの切迫を、それと意識することなく感じている。

そして、そのように問うことじたいが、どうやらこの問いのうちに潜んでいる不安をあおりたてることになっているらしいことも、うすうすは気がついている。


 本書の内容、つまり、上記の「問題提起」に対する解説は、以下の、本書の「エピローグ」に要約されています。

「わたしがこの本のなかで伝えたかったことはただ一つ、〈わたしはだれ?〉という問いに答えはないということだ。

 とりわけ、その問いを自分の内部に向け、そこに何か自分だけに固有なものをもとめる場合には。そんなものはどこにもない。

 じぶんが所有しているものとしてのじぶんの属性のうちにではなくて、誰かある他者にとっての他者のひとりでありえているという、そうしたありかたのなかに、ひとはかろうじてじぶんの存在を見いだすことができるだけだ

 問題なのは、つねに具体的な「だれか」としての他者、つまりわたしの他者であり、したがって〈わたしはだれ?〉という問いには一般的な解は存在しないということである。

 ひとはそれぞれ、自分の道で特定の他者に出会うしかない。」 ( P 176 )

 

 

②  「自分さがし」・「自分の個性」について

 本書は本来、これらの本質を解説しているとも言えます。

 しかし、本書の内容がかなり難解な側面を有しているので、当ブログでは、ここで、改めて、これらについて解説します。

 

 約30年前の高度消費社会の時期から、「自分探し」・「わたし探し」ということが流行し始めました。

 主に、小学校・中学校教育、マスコミの商業戦略( ファッション・化粧品のCM等 )の影響もあって、日本社会における一部の人々は、「じぶんらしい個性」を闇雲に模索してきました。

 そのバカバカしい、反知性主義的ブームの具体例として、「キラキラネーム」が挙げられます。 

 とても読めないような、判読不能な名前すら、あります。

 暗号の世界に迷い込み、「名前の機能」を喪失しています。

 「キラキラネーム」については、最近の難関大学入試の国語(現代文)・小論文論点になっています。

 このブログで最近、記事として発表していますので、こちらも参照してください。

 

gensairyu.hatenablog.com

  

gensairyu.hatenablog.com

 

 この反知性主義的ブームの前提には、「自分の個性」が存在するという、根拠のない確信があるようです。

 しかし、「自分の個性」などとというものが、本当にあるのでしょうか?

 

 自分の中を探せばどこかに「じぶん」らしさがあるというのは、単なる幻想にすぎません。

 なぜなら、「固有な個性」を具体的に表現する道具が、主に形容詞、形容動詞という、一般的に使用されている語句だからです。

 それは、「真にオリジナルな個性」を、本来的に表現できないことを意味しているのです。

 さらに言えば、「じぶん」という名詞も、単なる一般名詞にすぎません。

 自分の中を探しても「じぶん」は見当たらないし、それ自体、単なるフィクションにすぎないのです。

 そうだとすれば、どのように解決策を考えればよいのでしょか?


 鷲田氏は、ここで「他者の他者であること」という「視点」に注目しています。

「  他者にとって意味のある他者たりえているかが、わたしたちがじぶんというものを感じられるかどうかを決めるというわけだ。

 母親に「この子とはそりが合いません」と言わせたら勝ちである。

 母親はいよいよ子どもを別の存在として認めたのだから。

 逆に、風邪で数日学校を休んだ後、学校に戻っても何の話題にもされなかった子どもは不幸である。

 他者のなかにじぶんがなにか意味のある場所を占めていないことを思い知らされたのだから。

 ときには恨まれ、気色わるがられたっていい。

 他人にとってひとりの確実な他者たりうるのであれば。」 ( P 146 )


 以上のように考えて、

 《『自分らしくあらねばならぬ』という強迫観念 》から自由になることについて考えてみることも大切だ、と鷲田氏は指摘するのです。

 

 鷲田氏は、R・D・レインの『自己と他者』から、一人の患者のエピソードを紹介しています。彼は、看護婦に一杯のお茶を入れてもらって、「だれかがわたしに一杯のお茶を下さったなんて、これが生まれてはじめてです」と語りました。

 ただ「誰かのために何かをする」ということ、そして、それ以上でも以下でもないということは、ふつう考えられているよりもずっと難しいことだと、鷲田氏は述べます。

 誰かに何かを「してあげる」という意識が働くとき、私は相手を「助けられる人」、つまり私の行為の客体にしてしまうことになります。このとき、他者は私の中に取り込まれてしまっています。

 こうした関係に陥ることなく、他者を他者として遇し、私もまた他者にとっての他者として遇されるような関係の中で、はじめて私と他者の双方が固有の存在になることができる」と鷲田氏は言います。

 

 こうして鷲田氏は、「私」の固有性とは、「他者の他者」となることだ、と主張します。

 この点について、鷲田氏は、実に的確な引用を提示しています。

「じぶんらしさ」というものは、イメージとして所有すべきものではなく、じぶん以外のなにかあるものを求めるプロセスのなかでかろうじて後からついてくるものである。

 じぶんが何に対してじぶんであるかという、その相手方がいつもじぶんを計る尺度である。」 (キルケゴール)

 

 ③  本書のキーワードである「他者の他者としての自分」を、鷲田氏は他の著書でどのように説明しているのか?

 

 鷲田氏は、本書のキーワード「他者の他者としての自分」を、他の著書で以下のように説明しています。

 これらを、読むことで、より理解が深まるでしょう。

 主なものを挙げます。

 

  まず、『大事なものは見えにくい』の中では、以下のように記述しています。

「  <わたし>の存在は、だれかある他者の宛先となることで、はじめてなりたってきた。

 <わたし>の存在とは、だれかの思いの宛先であるということ

 ヘーゲルやキュルケゴールといった哲学者の言葉を借りれば、「他者の他者」であるということだ。

 わたしわたし以外のだれかの他者であることによってはじめて、いいかえると、だれかある他者に「あなた」「おまえ」と名指されることによって、わたしたちはひとりの<わたし>になる。

 だから、というかたちでの、わたしにとっての二人称の他者の喪失とは、「他者の他者」たるわたしの喪失にほかならない。」 (『大事なものは見えにくい』P36 )

 

 だから、私にとっての大切な人の死は、あれほど悲しいのです。

 その悲しみの大きさの理由が、これを読んで、初めて分かります。

 

 次に、『「聴く」ことの力』では、以下のように説明しています。

「だれかに触れられているということ、

だれかに見つめられていること、

だれかからことばを向けられているということ、

これらのまぎれもなく現実的なものの体験のなかで、

その他者のはたらきかえの対象として自己を感受するなかではじめて、

いいかえると「他者の他者」としてじぶんを体験するなかではじめて、

その存在をあたえられるような次元というものが、<わたし>にはある。

<わたし>の固有性は、ここではみずからあたえうるものではなく、

他者によって見出されるものとしてある。」 ( P 126 )

 

 さらに続けて、鷲田氏は、以下のように述べています。

「  「わたし」、という(一般的な、社会的な)言葉を使うときわたしという存在はすでに集団の中に消えていく。(→この点は、この記事で解説しました)

「わたし」が「わたし」を見つけられるのは、「他者から他者として見られたときだけ」である。

 

  「他者の他者として自己」と「他者」の「関係」は、「自他の補完性」、あるいは、「自己と他者の関係性」とみることができます。

 このことについて、2000慶應大学文学部小論文で鷲田清一氏の論考(『「聴く」ことの力』)を題材として、以下のような問題が出題されました。

 

「(問1) 自己と他者の補完性を著者はどのように考えているのかまとめなさい (300字以内)。

(問2)「他者の他者としてのじぶん」とは何か述べなさい (400字以内)。」

 

 この問題も、今回の記事に関連しています。

 

 ④  まとめ 

 

 今回の記事は、言葉や論理では理解できるものの、実感としては、よく分からない側面があるかもしれません。

 マスコミからの情報、小学校・中学校・高校などの教育現場で指導、一般常識と、鷲田氏の主張が大きくズレているからでしょう。

 しかし、それでよいのです。

 「人生上の真理」と一般常識が全く違う場面は、いくらでもあります。

 

 人生には「不可解な側面」が付きまといます。

 それを簡単に割り切るのがマスコミであり、一般常識です。

 それはそれでよいのです。

 一般社会は、それらをスルーして、進行するのが常であり、それはそれで問題はないのです。

 

 一方で、哲学や難関大学入試の世界では、まさに、「人生上の不可解な側面」が問題になるのです。

 「人生上の不可解な側面」を簡単に割り切らずに、いかに対応していくべきか?

 

 この点について、鷲田氏は本書『じぶん・この不思議な存在』で、以下のような見解を述べています。

  

「  成熟というものは、同一であることを願うひとにしか訪れない。

 未熟という名の非同一性。

 つまりはアイデンティティの不在。

 一貫性のなさ、持続性のなさ、かたちのなさ。

 「青二才」とか、「未熟者」というのは、それこそ子どものように、本気でなににでもなろうとするし、ついさきほど言ったこともすぐに裏切るほど気まぐれで、あきっぽく、節操がないし、根は続かず、片時もじっとしていない。

 けれども、ここで未熟という場合の「未」は「まだない」ではない。

 ここでひとは、成熟するよりも速く「青二才」にならなければならないのだ。

 そうでなければ、ふたたび、かたちへの抑えがたい欲望に溺れてしまうことになるだろう。」 ( P82 )

 

 さらに、鷲田氏は本書で、こうも述べています。

「  人生を一つの説話でリニアに語りだし、〈わたし〉の存在を透明なもの、クリアなものにしようという、わたし達の欲望。

 その根深さによくよく目をこらす必要がある。

 わかりやすいっていうのは、きっと死ぬほどたいくつなはずだ。

 存在が不可解である、意味が不確定であるからこそ、わたしたちはそれに魅かれる。

 恋愛だって、賭け事だって、学問だって、人がのめりこむのは、それを前にしていると、自分の淵から、何か理解できないもの、自分ではコントロールできないものが押しよせてくるからだ。

 わかった顔をしているひとより、ぼうぜんとして「わからない・・・」とつぶやく無防備なひとのほうが、たぶん信用できる。」 (P84 )

 

 言葉や論理では理解できるものの、実感としては完全に納得できない、よく分からない側面。

 人生上の、曖昧な側面の存在。

 分からない状態の継続。

 しかし、それでよいのです。

 それを、手早く処理する必要は、ないのです。

 「人生上の不可解な側面」を、手早く処理することなど、できるわけがないのですから。

 

 さらに、『わかりやすいはわかりにくい?-臨床哲学講座』(ちくま新書)で述べられている以下の言葉には、深く考えさせられます。


「生きてゆくうえで本当に大事なこと(例えば、私は誰とか、愛とか)には、たいして答えがない。これらの問いは、問い続けることが答える事だ。」

 

 

 (4)当ブログにおける、鷲田清一氏・関連の記事の紹介

 

gensairyu.hatenablog.com

 

gensairyu.hatenablog.com

  

gensairyu.hatenablog.com

 

gensairyu.hatenablog.com

 

gensairyu.hatenablog.com

 

(5)当ブログにおける、「関係性」関連の記事の紹介

 

gensairyu.hatenablog.com

 

gensairyu.hatenablog.com

 

ーーーーーーーー

 

今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

ご期待ください。

 

  

 

じぶん・この不思議な存在 (講談社現代新書)

じぶん・この不思議な存在 (講談社現代新書)

 

 

大事なものは見えにくい (角川ソフィア文庫)

大事なものは見えにくい (角川ソフィア文庫)

 

   

頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

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現代文・小論文キーワード・最新オススメ本『現代思想史入門』船木享

現代文・小論文キーワード・マスターのためのオススメ本→『現代思想史入門』(船木享・ちくま新書)→2017早大人間現代文に、早くも4000字の論考が出題されました。

 この記事の構成は、以下のようになっています。

(1)キーワードをマスターしよう→これこそが、効果的・合理的な学習法

(2)本書をオススメする理由→6つの理由

(3)本書の中から、これから出題が予想される論考の引用→キーワード赤字で「強調」しました

(4)目次など、本書の構成の詳細→予想問題として、注目するべき項目を赤字で指摘しました

 

(1)キーワードをマスターしよう→これこそが、効果的・合理的な学習法

 

 これから、私が最近、キーワード集として使用を始めて、かなり役に立っている新刊本を紹介していきます。
 それは、『現代思想史入門』(船木亨)(ちくま新書・2016年発行)(1200円+税)(約570ページ)です。

 以前の記事(→下に、リンク画像を貼っておきます)で紹介したオススメ本と組み合わせて利用すると、より、よいと思います。

 

  現代思想史入門 (ちくま新書)

 

 

 

 

 

 

gensairyu.hatenablog.com

 

 入試現代文(国語)・小論文の得点力アップのためには、キーワードのマスターが必要です。

 私は、現代文・小論文の長年の指導経験から、キーワードのマスターや語彙力・単語力の増強をしないで、問題演習をすることは無意味であると確信しています。


 評論文が読めるようになるための近道は、独特で難解な用語を、根本から理解することです。
 そのことは、論点・テーマを理解することにも、なります。

 キーワードや語彙・単語の知識が不充分なまま、現代文・小論文の問題を解いてみても、結局は、それらの単語力不足を痛感するだけです。

 つまり、まったく、時間の無駄な消費なのです。

 ここで言う「マスター」とは、「理解」の後に「暗記」することを意味します。

 そうでなければ、「暗記」しても、すぐに忘れてしまいます。

 また、真に「理解」しなければ、入試の現場で応用することは、できません。


 問題は、キーワード・マスターのために、どのような本(参考書・問題集)を選択するか、です。

 これが、入試合格のための、重要なポイントです。

 勉強時間を増やすことも重要ですが、参考書・問題集選択も重要なポイントなのです。


 「参考書選択」については、私は、少々理解に時間がかかっても、きちんとした内容のある本を選択するべきだと思います。

 「簡単に、すぐに分かること」を売り物にしている本は、早く読めるかもしれませんが、「真の理解」・「確実な暗記」には、つながりません。

 このことは、皆さんにも、思い当たる経験があると思います。

 

 

(2)本書(『現代思想史入門』船木享)をオススメする理由→6つの理由

 私は、以下の6つの理由により、本書をオススメします。

 理由を列挙した後で、それぞれの理由について詳しく説明します。

 

① 筆者が一流の哲学者で、入試頻出著者だからです。

② 丁寧に、分かりやすく書かれているからです。

③ 本書の基本的方針・構成が素晴らしいからです。

④ 本書が「引く事典」であると同時に、「読む事典」にもなっているからです。

⑤ 本書が、最新キーワードを網羅的に取り上げているからです。

⑥ 「目次、事項索引、人名・書名索引」が丁寧に、詳細に作成されているからです。これらは、全部で約30ページもあります。

 

ーーーーーーーー

 

①  本書をオススメする第1の理由は、筆者が一流の哲学者で、現代文・小論文の入試頻出著者だからです。

 船木亨氏は、哲学者です。専修大学文学部哲学科教授で、放送大学客員教授です。専攻はフランス現代哲学です。哲学は入試頻出分野です。 

 最近の現代文・小論文における入試頻出著者です。

 実際に、2016年に発行された『現代思想史入門』から、約4000字の論考が、早くも、2017早稲田大学人間科学部の国語(現代文)に出題されています。

 出題された部分は、第1章「生命―進化論から生命政治まで」の一節です。

 内容は、「ダーウィンの進化論が現代思想に与えた重大な影響」についてです。


 今の時期は、まだ本年度の入試情報が出そろっていません。これから、新たな情報が出そろってきて、本書からの出題情報がありましたら、この記事に追加の記述をする予定です。
 ともあれ、本書は将来的に、現代文・小論文の頻出出典になるような格調の高い論考です。
 最新キーワード集として有用な上に、将来的に予想問題の宝庫の可能性もあります。 

 

②  本書をオススメする第2の理由は、丁寧に、分かりやすく書かれているからです。

 私が、本書を、すすめる第2の理由は、本書が、ある程度、大学入試の現代文(国語)・小論文を意識して、受験生レベルにも理解できるように丁寧に分かりやすく書かれているからです。

 つまり、筆者は、学術的な、難解な思想専門用語をなるべく回避して、広く社会一般に向けて、思想史や自己の見解を語ろうとしています。

 従って、安心感を持って読み進めることができます。

 

③  本書をオススメする第3の理由は、本書の基本的方針・構成が素晴らしいからです。

 本書の基本的な方針は、以下のようになっています。 アマゾンの「ブック紹介」から引用します。

( 赤字は当ブログによる「強調」です )

「 二〇世紀のイデオロギー対立は終焉したが、新たな思想・哲学が出現していないように見える。近代のしがらみを捨てて、いま一度、現代思想の諸地層をもっとつぶさに見ていこう。そこに新たな思考が芽生えるきっかけが見つかりそうだ。生命精神歴史情報暴力の五つの層において現代思想をとらえ、それぞれ一九世紀後半あたりを出発点として、五度にわたってさらいなおす。現代思想の意義を探りつつ、その全体像を俯瞰する、初学者にもわかりやすい新しいタイプの入門書。」  ( アマゾンの「ブック紹介」より引用 )

 

 『現代思想史入門』の「はじめに」には、次のような記述があります。

「  本書が採用するのは、地層学になぞらえられた思想の流れと、それに断層を見いだしていく仕方である。

 重要なのはその時期を生きているひとびとの脳裏に生まれてくる発想であり、その表現の変遷である。おなじ言説が違う意味で使われるようになり、違う言説がおなじ意味で使われ続ける。そのありさまを知ることが、その時期の「思考」を理解するということである。
 そうした理由から、生命精神歴史情報暴力という五つの観点をとって五つの層と成し、それぞれ一九世紀後半くらいの出発点から、現代思想の歴史を五度にわたってさらえなおすことにした。それらの層の記述を順に重ねていきながら、「現代思想」と呼ばれるべきものの、それぞれの意義とその全体像が見えてくるようにしたつもりである。(→5つの視点(キーワード)から、思想史・思想界を分析・概観するということです)

 それぞれの章に対応するが、

 その第一の層は、進化論の衝撃から現代の生命政治にいたる生命概念の地層である。他の生物と共通する「生命」の新たな意味が、思想的にも政治的にもひとびとを捉えていく。

 第二の層は、それが宇宙進化論にまで進むあいだに定義されなおしていく人間概念の地層である。生命に対抗して、宗教や思想を形成してきた精神の地位を復活させようとした数々の試みである。

 第三の層は、そのとき変形されていく歴史概念の地層である。人間の歴史としてではなく、すべてが歴史として説明されるようになる結果として生じた「知」の変遷である。

 第四の層は、歴史が普遍的登記簿になってだれもが参照利用できるようになったポストモダンの地層である。情報化し、価値の相対化によって生じた現代社会の様相である。

 第五の層は、人間が新たな使命を与えられながらそこへと消滅していく機械概念の地層である。理性的主体としての「人間」が、社会形成においては「暴力」に囚われていたのに対し、機械との関わりにおいて生きられるようになっていく。

 これらの五つの層のそれぞれに見いだされるのは、社会状況と人間行動の捉えがたさ、混沌と冥(くら) さであるが、それらを重ねあわせてみることによって、この一五〇年の現代思想の重畳した諸地層のさまと、それぞれのよってきた由来や経路を捉えることくらいはできるだろう。

 

④  本書をオススメする第4の理由は、本書が「引く事典」と同時に、「読む事典」にも、なっているからです。

 読み物としてもボリュームがあります。

 約570ページもあり、読みごたえがあります。

 そして、筆者が分かりやすい比喩や、適切な引用をしているので、読みやすくなっています。

    「読む事典」にもなっていることで、そのまま、現代文・小論文の問題文本文を読解する訓練になります。

 現在の入試頻出著者の文章を、どんどん読めるのです。

 

⑤  本書をオススメする第5の理由は、最新のキーワード・論点を網羅的に取り上げているからです。

 IoT(イォット)についても、詳しい説明があります。

 これは、本書が2016年度に発行しているからこそ可能なことであり、他のキーワード集には決して真似のできないことです。
 そのために、説明が、現代という時代背景を踏まえた、分かりやすい正確なものになっています。

 

 また、大学の教員の現在の問題意識を知ることができます。

 これは、入試現代文・小論文において、とても有利になります。

 

⑥  本書をオススメする第6の理由は、「目次、事項索引、人名・書名索引」が、丁寧に詳細に作成されているからです。

 これらの「目次、事項索引、人名・書名索引」は、小さな活字で、全部で30ページ近くもあります。

 

 本書の「目次」の大筋は、以下のようになっています。

序章 現代とは何か
第1章 生命―進化論から生命政治まで
第2章 精神―宇宙における人間
第3章 歴史―構造主義史観へ
第4章 情報―ポストモダンと人間のゆくえ
第5章 暴力―マルクス主義から普遍的機械主義へ 

 

 なお、本書の詳細な目次については、この記事の最後に、要注意事項は赤字化して、引用しています。

 

 この種の字典・解説書物・参考書は、「索引も命」です。

 手に取ると分かりますが、索引だけで、かなりのページです。

 索引を、一通りめくるだけでも、手間が、かかります。

 しかし、それがいざ、特定の項目を調べる時には役立つのです。

 索引を見ていくだけでも分かりますが、大学入試現代文・小論文における重要単語は、特に説明が丁寧になっています。

 いくつか、参照ページ数の例を挙げます

 
「アイデンティティ」→15箇所、

「解釈」→25箇所、

「記号」→15箇所、

「構造主義」→40箇所、

「進化論」→45箇所、

「欲望」→30箇所、

 

 これらの単語は、入試頻出キーワード・論点ですが、かなり難解です。

 しかし、これだけのページを読んでいけば、理解が進むと思います。

 キーワードの多面的理解が可能になります。

 

 なお、前述のように、私は、本書から、来年度以降の入試現代文・小論文に出題される可能性が高いと考えています。

 そこで、今後、出題が予想される箇所について、この後に、幾つか、解説していきます。

 

 

 現代思想史入門 (ちくま新書)

 

 

 

 

 

 

(3)今後、出題が予想される論考→2箇所(ほんの一例です) 

 

( 概要です )

( 赤字は当ブログによる「強調」です )

( 青字は当ブログによる「注」です )

【 第1章 生命   4 生命政治   生と統計・生と死 】
「いまのひとびとには、健康のためにみずから進んで隷属しようとする思考があり、それを促すための膨大な情報が流されている。厚生権力は、行動ばかりでなく特定の思考を促進して、自由で平等であるはずのひとびとをいいなりにしようとしている。

 喫煙も肥満も運動不足も、一定割合のひとに深刻な状態をもたらすのは確かである。それは統計学的に正しい。だが、だからこそ逆に、統計学的には、一定割合のひとは、それにもかかわらず健康であり続け、あるいはほかのことが原因で死ぬのである。「裏は真ならず」、喫煙も肥満も運動不足も、それを解消すればするほど健康になるというわけではない。

 あるひとたちの初期のガンを切除させるために、自分も毎年のようにX線検査を受け、それがもとでガンになる確率を高めていく、しかも自分についてはしばしば末期ガンでしか発見されないというのは、一体どのような取引なのであろか。喫煙しているひとが、肺ガンで死ぬ確率よりその他の原因で死ぬ確率が高いにもかかわらず、好きな喫煙をやめてしまうというのは、一体どのような取引なのであろうか。似たようなことだと思うのだが、風呂で水死する確率が高齢者は高いからといって(2014年に4866人の9割)、かれらが風呂に入るのを禁じるべきだと、はたしてわれわれは考えるだろうか。

 厚生権力はこのように「ひとの生命を救う」というスローガンのもとに、こまごまとした生活の指針を発してきた。ひとが何のために生まれ、なぜ死ななければならないかについては答えられないのに、すべてのひとを「死に対する戦争」に巻き込んで、生きているあいだのすべてを健康に捧げるようにと強制する。それは、それぞれのひとに自分の身体を配慮させることによって、人間であるとはどういうことかについての思考の枠組を変更させようとしているともいえる。

 

……………………………

 

(当ブログによる解説)

 つまり、「人生」=「常に、自分の健康のみに注意」、というバカバカしい展開になるのです。

 今は、まさに、一部の人々は、この状況になっています。 

 病人でもない人々が、日々、「自分の将来の病気への不安」に思い煩うということです。

 一種の自主的な「精神的幽閉」です。

 見事な、反知性主義的状況と評価できます。

 

 

 【第5章 暴力   4 ポスト・ヒューマニズム   機械としての人間】

自然と文化を分けて考える場合、機械はまさに人間の作るものだから文化であるが、ガリレイやデカルトによって、科学が研究すべき自然もまた機械であるとみなされた。「宇宙は巨大な時計のようなものだ」というのであるが、人間が作ったものをモデルにして自然を考えはじめたのに、その自然のなかの機械が人間をも作りだしたと考えることになるのである。

 当初は、人間精神は、機械ではないと考えられていた。自然法則を数学を使って見いだして、それを応用して機械をつくるくらいであるから、機械とおなじ本性のものであるはずはない。何かを創造したり、発見したりすることのできる機械はあり得ないとされていた。それに対し、18世紀に、ラ・メトリの『人間機械論』という書物が現われた。「人間機械論」とは、宇宙や自然は機械だとする勢いで、人間身体をも機械とみなし、そのように認識する精神の働きも、 という機械の働きにすぎないと主張する思想である。

 ラ・メトリ以降も、その復刻版にすぎないような思想がつぎからつぎに出てきて、現在では脳科学と呼ばれている。現代の生物学者ドーキンスも、進化の過程で意識が自然発生したと述べていたが、進化を認識するほどの精神が進化によって発生する理由は、進化論のなかには見あたらない。現代の宇宙物理学者ホーキングも、宇宙とはみずからを認識する知性を宇宙のなかに作りだすと述べていたが、つじつまあわせ以上の何があるのか。

 もし、人間精神をそのまま脳という機械であるとみなすなら、機械とみなすその認識の働きを、表象の生産という機械の効果にしてしまう。(→この辺から、意味不明になっています。筆者の論考の文脈が混乱しているのではなく、脳科学の論理に混乱・こじつけがあるのです。) すると、機械として表象されたものは、脳という機械が作りだした効果にすぎないのだから、機械として理解された脳自体が何のことか分からなくなってしまう。それでは脳の説明にはなっていない。それは、何かが分かったかのようなイメージだけを与えてくれる混乱思考なのである。

 

……………………………

 

(当ブログによる解説)

 この論考は、「脳科学批判」として秀逸だと思います。

 最近では、機械的人間観に基づく脳科学は暴走気味で、オカルト的な側面さえ感じるようになっています。

 この暴走気味の脳科学に対しては、批判的な論考が散見されるようになってきています。

 「脳科学批判」は、近いうちに、入試流行論点になると思います。

 この点については、近日中に、このブログで予想論点記事を発表する予定です。

 

 

 (4)本書の目次の詳細(本書からの引用)→要注意箇所の指摘→赤字で「強調」しました

  

 ( 赤字は当ブログによる「強調」です )

「  目次 

はじめに
今日を読み解く思想/近代の行きづまり/ツリーからリゾームヘ/現代思想の諸地層

序章  現代とは何か 
1 近代の終わり
ソーカル事件/思想の難解さ/宴のあと
2 現代のはじまり
時代としての〈いま〉/一九世紀なかばの生活/歴史のなかに入っていく哲学/シェリー夫人の「フランケンシュタイン」/われわれのなかの怪物

 

第1章 生命ーー進化論から生命政治まで
1 進化論→(この部分が、前述のように、2017早稲田大学人間科学部・国語(現代文)に出題されました)
生物学と自然科学/ドリーシュの「生気論」/ダーウィンの「進化論」/哲学から科学が独立する/ヘッケルの「系統樹」
2 優生学
優生思想/ゴールトンの「優生学」/タブーとなった優生学/出生前診断
3 公民権運動と生命倫理
アメリカ公民権運動/フェミニズム/生命倫理生命倫理のその後
4 生命政治
医療のアンチ・ヒューマニズムフーコーの「ビオ-ポリティーク」/人口政策/大病院の起源/臨床医学の病気観/政策と産業のための医療政策と産業のための医療/病人の側から見た病院/予防医学/生と統計/死と生/病気における苦痛/フーコーの「狂気の歴史」健康な精神なるもの排除と治療
5 トリアージ社会
知と権力の結合/ベンタムの「パノプティコン」/アガンベンの「剥きだしの生」/生命の数/統計的判断の不条理/道徳の終焉/国家と健康神なき文化的妄信

 

第2章 精神――宇宙における人間
1 進化論の哲学
スペンサーの「文明進化論」/ジェイムズの「プラグマティズム」/ベルクソンの「創造的進化」/ホワイトヘッドの「有機的哲学」/ビッグバン仮説/宇宙進化論/宇宙と神/歴史は進化の普遍的登記簿に
2 西欧の危機
シュペングラーの「西洋の没落」/フッサールの「西欧的なもの」/新たな哲学へ
3 生の哲学
存在と生/ディルタイの「解釈学」/ギュイヨーの「生の強度」/ニーチェの「ニヒリズム」/神の死
4 人間学
シェーラーの「宇宙における人間の地位」/文化人類学レヴィ=ストロースの「構造人類学」/野生の思考/哲学的人間学

5 実存主義とは何だったのか

有神論と無神論/サルトルの「実存主義」/ハイデガーの「アンチ・ヒューマニズム」/存在論的差異/死に向かう存在/存在と言葉/存在か無か/〈わたし〉と〈もの〉/メルロ・ポンティの「両義性の哲学」/進化と宗教

 

第3章 歴史――構造主義史観
1 歴史の歴史
古代・中世・近代/歴史の概念/ヘーゲルの「歴史哲学」/ポパーの「歴史主義の貧困」/宇宙の歴史と歴史学/ナチュラルヒストリー/存在したもの/普遍的登記簿/歴史とポストモダン
2 現代哲学
哲学の終焉のはじまり/哲学の四つの道/哲学という思想/生か意識か/現象学/フッサールの「現象学的反省」/時間性/ベルクソンの「純粋持続」/ドゥルーズの「差異の哲学」/現代哲学の終焉
3 論理実証主義
心理学と心霊学/フレーゲの「意味と意義」/ウィトゲンシュタインの「語り得ないもの」/英米系哲学
4 構造主義
歴史言語学派/ソシュールの「差異の体系」/構造主義の出発/構造主義の三つの課題/ロラン・バルトの「エクリチュール」/構造主義的批評/フーコーの「エピステーメー」/構造主義的歴史/フーコー学
5 象徴から言語へ
メルロ=ポンティの「生の歴史」/象徴と記号/フーコーの「人間の終焉

 

第4章 情報――ポストモダンと人間のゆくえ

1 ポストモダニズム
建築のポストモダン/メルロ=ポンティの「スタイル」/ベンヤミンの「アウラ」/芸術のポストモダン/文学のポストモダン/近代文学/映画のポストモダン

2 ポストモダン思想
リオタールの「ポストモダンの条件」/大きな物語/思想のポストモダンポスト構造主義/デリダの「脱構築」/ロゴス中心主義/デリダ=サール論争/前衛とポストモダニスト/状況なるもの/ポストモダン思想のその後

3 情報化社会論
ダニエル・ベルの「イデオロギーの終焉」/アルチュセールの「国家イデオロギー装置」/トフラーの「未来学」/ボードリヤールの「シミュラークル」/道徳と芸術のゆくえ/価値の相対化/マンフォードの「ポスト歴史的人間」

4 世界と人間とメディア
ルネサンス/世界の発見/人間の発見/時計の発明/大衆の出現とマスメディア/大衆社会論/マクルーハンの「メディアはメッセージである」/文明進歩の地理空間/帝国とグローバリゼーション管理社会論

5 マルクス主義と進歩の終わり
文明の終わり/マルクスの「共産主義革命」/資本主義社会/共産主義社会/歴史の過剰と欠如/人間の脱人間化と世界の脱中心化/サルトルの「自由の刑」/哲学のゆくえ

 

第5章 暴力――マルクス主義から普遍的機械主義
1 革命の無意識
五月革命/ライヒの「性革命」/精神分析/フロイトの「無意識」/エディプス・コンプレックス/精神分析のその後/ラカンの「鏡像段階」/構造化された無意識/どのような意味で構造主義
2 フランクフルト学派
ベンヤミンの「暴力論」/神的暴力/亡命ユダヤ人思想家たち/アドルノとホルクハイマーの「啓蒙の弁証法」/フロムの「自由から逃走」/マルクーゼの「人間の解放」/資本主義からの逃走

3 アンチ・オイディプス
ドゥルーズとガタリの「欲望する機会」/狂人たち/無意識は表象しない/国家/野生と野蛮/資本主義社会/メルロ=ポンティの「現象的身体」/マルクスの「非有機的肉体」/フロイトの「死の衝動」/アルトーの「器官なき身体」/ドゥルーズとガタリの「千のプラトー」/自由から逃走へ
4 ポスト・ヒューマニズム 
現代フランス思想/ニーチェの「神の影」/機械としての人間/カフカの「エクリチュール機械」/自然と文化の二元論/機械としての人間/カンギレムの「生命と人間の連続史観」/機械一元論哲学/ドゥルーズとガタリの「普遍的機会主義」
5 機械と人間のハイブリッド
ハラウェイの「サイボーグ宣言」/女性/人間はみな畸形である/ハラウェイの「有機的身体のアナロジー」/機械と生物のネットワーク/死の衝動と生の強度/生の受動性

 

おわりに
今日の思考/哲学の栄枯盛衰/非哲学の出現/現代哲学から現代思想へ/現代思想の諸断層

 

あとがき
事項索引
人名・書名索引

 

(5)筆者紹介


船木  亨 (ふなき  とおる)
1952年東京都生まれ。東京大博士(文学)。東京大学大学院人文科学研究科(倫理学専攻)博士課程修了。専修大学文学部哲学科教授、放送大学客員教授。専攻はフランス現代哲学。

著書として、

『ドゥルーズ』(清水書院 Century books 人と思想 1994)、

『ランド・オブ・フィクション ベンタムにおける功利性と合理性』(木鐸社 1998)、

『メルロ=ポンティ入門』(ちくま新書 2000)、

『<見ること>の哲学 鏡像と奥行』(世界思想社 2001)、

『デジタルメディア時代の《方法序説》 機械と人間とのかかわりについて』(ナカニシヤ出版 2005)、

『進化論の5つの謎 いかにして人間になるか』(ちくまプリマー新書 2008)、

『現代哲学への挑戦』(放送大学教育振興会 2011)、

『差異とは何か <分かること>の哲学』(世界思想社、2014)

など。

 

 ーーーーーーーー

 

今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後の予定です。ご期待ください。

  

  

 

現代思想史入門 (ちくま新書)

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現代哲学への挑戦 (放送大学教材)

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

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5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

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2017早大国際現代文・解説・論点的中報告⑦・IT化社会・モラル

(1)2017では、センター現代文、東大、早大政経・法、学習院大、慶大経済(小論文)、大阪大、神戸大に続き、早大国際現代文にも、当ブログの予想論点記事が的中しました。

 2017でも、

①センター現代文(「科学論」)、  

②東大現代文(「科学と倫理」)、

③早大(政経)(法)現代文・学習院大現代文(「ポピュリズム」)、

④慶大経済小論文(「ソクラテス的思考」)、

⑤大阪大現代文(「文系の知」)、

⑥神戸大現代文(『考える身体』)

に続き、

早大国際教養学部現代文『「患者様」が医療を壊す』岩田健太郎)にも、当ブログの予想論点記事(  「 IT化社会の影・闇」、「科学論・モラル・信頼」 )が的中しました。

 つまり、2017早大国際現代文(『「患者様」が医療を壊す』岩田健太郎)に、当ブログの予想論点記事

「開設の言葉ー入試現代文の最新傾向ー重要な、気付きにくい2本の柱」

「国語予想問題『プロの裏切り・プライドと教養の復権を』神里達博」

が、的中しました。


 2016東大現代文ズバリ的中(全文一致)・2016一橋大現代文ズバリ的中(全文一致)に続く喜びです。

 そこで、今回は、2017早大国際現代文の問題解説をします。


 なお、これまでに発表した、

「2017の論点的中報告・問題解説記事①~④」については、

「2017の論点的中報告・問題解説記事⑤」に、リンク画像を貼っておきましたので、そちらを、ご覧ください。

  

gensairyu.hatenablog.com

 

gensairyu.hatenablog.com

 

 2017年度の早大国際の現代文問題(『「患者様」が医療を壊す』岩田健太郎)では、以下のような内容の論考が出題されました。

 論点は「医者・患者の目指すべき関係」です。

 

 最近の「医者と患者の関係」の悪化の原因は、患者の権利意識の高まり(悪平等主義)ではないか。
 患者が自らの権利意識を背景に、インターネット等の情報に基づいて、医者に無理な要求をしたり、医者を糾弾しようとすればするほど、医者から良好な医療を得ることが困難となる。

 それは、患者にとって損失である。
 そこで筆者が提案するのは「お医者さんごっこ」である。
 つまり、医療の場で患者は医者を専門家(プロ)として信頼し任せる。また、医者は、患者とのコミュニケーションを充分にとって全力を尽くす。
 このように、患者も医者も、大人として、演技することが、「医者と患者の関係」を改善することの近道である。

 

 今回の問題(『「患者様」が医療を壊す』岩田健太郎 )は、

「IT化社(情報化社会)のマイナス面」→「専門家よりもインターネット上の情報を優先する」、
「自己中心主義」→「社会全体の幼児化現象」・「現代日本社会における共同性軽視の風潮」、
「『平等』の内容を誤解したことによる、極端な平等主義」→「悪平等主義」・「エリート・専門家を尊重しない風潮」、
「『権利』の内容を誤解したことによる、異様な権利意識」、
「科学に対する根拠不明な懐疑主義」→「一種の偶像破壊か?」、


つまり、「反知性主義」、「近代思想・現代思想そのもの」、

に関連しています。


 つまり、これらの現象に対して、

「医療の充実」・「真の共同性の復活」には、🍎「専門家のプライドを尊重するために、専門家を信頼することの必要性」、

ひいては、「良好な人間関係の構築には他者を尊重・信頼する必要があること」を呈示して、

根本的な現代文明批判」をしているのではないのでしょうか?

 

 このように考えると、今回の2017早大国際・現代文の問題は、かなりの良問と言えます。

 来年度の国語(現代文・評論文)・小論文対策のために、この問題は、よく理解しておくべきだと思われます。

 

 今回の早大国際の現代文問題は、当ブログの、当ブログの予想論点記事

「開設の言葉ー入試現代文の最新傾向ー重要な、気付きにくい2本の柱」

「国語予想問題『プロの裏切り・プライドと教養の復権を』神里達博」

を読んでおけば、かなり、分かりやすかったと思われます。

 

 これら二つの記事のポイントを、以下に、再掲します。

 

 まず、
「開設の言葉ー入試現代文の最新傾向ー重要な、気づきにくい2本の柱」で述べたキーワード、「IT化社会のマイナス面」、つまり、 「IT化社会の影・闇を記述した箇所を再掲します。

ーーーーーーーー(再掲、スタート)

 

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入試現代文(国語)・小論文の最新傾向として、注目するべきポイントとしては、2つの大きな柱があります。

 

【1】1つの柱は、「 IT化社会の光と影と闇」です。

 この論点・テーマは、3・11東日本大震災の前から登場していたので、割と有名ですが、最近のスマホ(スマートフォン)の爆発的な流行により、新たな論点・テーマが発生しています。

 スマホは、それまでの携帯電話とは、まるで違うものです。それだけに、プラス面、マイナス面も、携帯電話と比較して、拡大化・深刻化するのです。

 私が、「 IT化社会の光と影と闇」と書き、「光と影」だけにしなかったのは、事態の深刻性を強調するためです。

 

【2】もう1つの柱は、「3・11東日本大震災の各方面に対する影響」です。

 

ーーーーーーーー(再掲、終了)

 

 次に、
「国語予想問題『プロの裏切り・プライドと教養の復権を』神里達博」
の中の、「プロ・専門家を尊重する必要性」について記述した箇所を再掲します。

 

ーーーーーーーー(再掲、スタート)

 

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(2)「プロの裏切りープライドと教養の復権を」の解説

(神里達博氏の論考)(概要です)

(赤字は当ブログによる「強調」です。青字は当ブログによる「注」です)

「今年を振り返りながら改めて思うのは、「プロのモラル」に関わる事件が多かったということである。

 杭工事のデータ偽装(「三井不動産レジデンシャル」・「旭化成建材」)は典型例だろう。そのような行為は、企業ブランドを大きく傷つけ、また業界全体に対する不信を招きかねない、重大な裏切りである。

 今年は他にも、40年以上にもわたって組織的に行政の目を欺いてきた「化学及(および)血清療法研究所(化血研)」の不正や、「東芝」の不正会計など、類似する事例が多数、報じられた。これらに共通するのは、なんらかの専門性をもって社会に対して仕事を請け負っていた者が、主として経済的利益を増やすために、信頼に背く行為を行っていた、という点である。私たちは、このような「プロの裏切り」に対して、どう対処すべきなのか。すぐに聞こえてくるのは罰則や監視の強化を求める声だが、ここでは少し違う角度から考えてみたい。まず、専門家のモラルとは、どのように維持されてきたのか、歴史的な流れを確認しておこう。

     *

 日本語でいう「プロ」とは「プロフェッショナル」の略語だが、英語の「Profess=明言する」から派生した言葉だ。これは元々、キリスト教世界において、特別に神から召喚(→「人を呼び出す」という意味)されて就くべき仕事、すなわち、聖職者、医師、法曹家の三つを指していた。そこでは専門的な訓練とともに、職に伴う倫理が求められたのは言うまでもない。そして、それを担保するのは、個人の自律もあっただろうが、同業者の相互チェックも重要な意味を持っていたと考えられる。自分たちの仕事のいわば「品質保証」は、職能共同体による自治によって担われてきたのだ。

 この点は伝統的な「職人」の世界も似ている。倫理を下支えするのは、技に対するプライドというべきものであったはずだ。

 だが近代に入ると、さまざまな仕事が社会的分業によって行われるようになっていく。これはまさに、「専門家=エキスパート」と呼ばれる人たちの増大を意味するのだ。典型例は「科学者」であろう。職業としての科学者が出現してきたのは、19世紀の欧州である。

 このようにして、多数の専門家によって社会が運営されるようになってくると、伝統的な職能共同体に属する「プロ」や「職人」の倫理は、社会の背景へと退いていく。このような社会構造の変容に対して、最も早く警告を発した者の一人に、スペインの哲学者、オルテガがいる。彼は、大衆社会の出現とは、誰もが専門家となり、しかし自分の専門以外には関心を持たない、「慢心した坊ちゃん」の集まりになることだと看破した。そうやって「総合的教養」を失っていくヨーロッパ人を彼は「野蛮」と嘆いたのだ。

     *

 今、日本で起こっていることは、そのさらに先を行くものにも見える。素人には分からない狭く閉ざされた領域に住む「専門家」が、いつの間にか社会全体の規範から逸脱し、結局は自己利益の増大、あるいは自己保身のために、社会を欺く。この事態は実に深刻だ。

 とはいえ、この状況はいずれ、世界中を悩ます共通の難問となるかもしれない。なぜなら近代の重要な本質が「分業」である以上、この世界は専門分化によってどこまでも分断されていく運命にあるからだ。

 ならば、この流れに抗(あらが)う方法はあるのだろうか。

 おそらく鍵となるのは、かつての「プロ」や「職人」が持っていた「プライド」と、失われた「教養」であると考えられる。すなわち、「目先の利益」や「大人の事情」よりも、自らの仕事に対する誇りを優先させることができるか、そして自分の専門以外の事柄に対する判断力の基礎となる「生きた教養」を再構築できるかどうか、ではないか。

 そのために私たちにもすぐできることがある。それは利害関係を超えた「他者」に関心を持つこと、そして、その他者の良き仕事ぶりを見つけたら、素直に敬意(リスペクト)を表明することだ。人は理解され、尊敬されてはじめて、誇りを持てる。抜本的解決は容易ではないが、できれば罰則や監視ではなく、知性尊敬によって世界を変えていきたい。」
(「プロの裏切り・プライドと教養の復権を」  2015・12・18「朝日新聞」月刊安心新聞)

 ーーーーーーーー

 (当ブログによる解説)

 「プロのモラル違反」は、国民の生命・健康・財産に重大な悪影響を及ぼすことが多いので、深刻な問題です。それだけに、この問題の対策は、緊急の課題です。

 神里氏の言うように、確かに「罰則」・「監視」では、根本的・本質的な解決にはならないのです。しかも、厳重な「罰則」や「監視」の中では、専門家たちの意欲・やる気は、どうしても減退していくでしょう。それでは、長期的視点から見て、社会にとって賢明な対策とは言えません。

 私も、本質的解決は、「知性」・「敬意(リスペクト)」によるしかないと思います。たとえ、実現困難な道だ、としてもです。

 そのためには、日本社会は、今こそ、歪んだ「悪平等主義」・「悪平等思想」を見直すべきです。「高い専門性」・「高い能力」のある人間を素直に高評価するべきなのです。

 それこそ、真の「個性重視」ではないでしょうか。「個性」とは、ファッションなどの外見的なものではありません。能力・技能こそ「真の個性」の最たるものです。

 また、これこそ、「真のグローバル化」です。欧米では、医師・弁護士・IT技術者専門性の高い技術者などの専門家・プロ・エリートの高評価は、当然のことです。

 だとすれば、専門家・プロ・エリートには、「素直に」「敬意」を表し、様々な待遇面でも、「それなりの高待遇」をもって対応するべきです。

 専門家たちがプライド・誇りを持って、気持ちよく、レベルの高い、きちんとした仕事をすれば、それが社会の長期的利益につながるのです。

 歪んだ「悪平等思想」から離れ、長期的視点から、物事を考えることこそが、賢明な道なのです。
 これこそが、今回の問題の根本的な解決策だと思います。

ーーーーーーーー(再掲、終了)

 

 「患者様」が医療を壊す (新潮選書)

 

 

 

 

 

 

(2)2017早大国際教養現代文の解説ー『「患者様」が医療を壊す』岩田健太郎

 

(問題文本文)(概要です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です)

 

「  賢い患者になりましょう。
 こんな言葉がもてはやされたことがあります。実は僕も、「患者はもっと賢くあるべきだ」と思っていたクチです。
 薬の名前くらいちゃんと覚えておかねばならない。病気についてもちゃんと勉強しておく。賢い患者にならねばならない、という理念はアメリカでは常識的で、僕も「それが正しい」と固く信じていました。
 〔  a  〕「賢い患者になる」というコンセプト(→「概念・考え方」という意味)は「勝ち組になりましょう」というコンセプトです。これは勝ち組の立場からの意見であり、上から見た見解です。もちろん、賢くなって良いですよ。でも、そうでなければならない、と決めつけるのはよくないのです。
 最近僕は、患者さんにだっていろいろなあり方があって良いのだと思うようになってきました。〔   b   〕、繰返しの名前とかしっかり覚えてくるのはよいことですよ。インターネットで自分の病気について勉強するのも素晴らしいでしょう。しかし、何事も過ぎたるは及ばざるがごとし。僕らは病気と闘うため「だけ」に生きているわけではないのです。〔   c   〕こういうことに固執しすぎて、目を〔   X   〕と輝かせて、病気のことだけ考えている患者さんを診ると、僕はちょっと困ってしまいます。〔                 〕
 「先生にお任せします」
とにこにこと平和な顔でおっしゃる患者さんは実に幸せそうに見えることができた。そこまで無条件に主治医を信頼しているのですから。どんな薬を出されてもこういう患者さんは幸福です。こんな人にお節介を焼いて、

「医療の言っていることが正しいなんて保証はないんだから、ちゃんと薬の名前くらいチェックしておかなきゃダメよ。もしかしたら副作用が多かったり、値段の高い薬を押しつけられているかもしれないわよ。賢い患者にならなきゃ」なんて言ってはいけないのですね。〔  2    〕 

 「先生にもらった薬なんですが、名前は・・・・ああ、なんて言いましたっけ」
というのも結構じゃあないですか。これこそ信頼の表れではありませんか。良好な「お医者さんごっこ」がそこでおっしゃる行われているのです。
 別に薬の名前を調べたり、インターネットで病気の勉強をするな、というのではありません。どんどん勉強したらよいのです。でもそれが医者を糾弾する「がために」行う勉強であれば、本末転倒。「医者の揚げ足を取ってやろう」的な目的で行う知識の取得は邪悪な性質を帯びてしまい、それは長い目で見るとその患者さん自身の〔   Y   〕を損なっていくという非常に不幸な経緯をたどることになるのです。これでは何のために「賢い患者」になったのだか分かりません。
 本当に賢い人は、実は凡愚のように見えるものです。黒澤明の『椿三十郎』じゃないですが、抜き身の刃物を出しっぱなしにしているのは本当の賢さではないのです。「ここでは全てあなたにお任せ・・・・という態度が適切な振る舞い方だな」と認識できるならば、その人はさらに「一段高い賢さ」を備えているのだと僕は思います。
 「この先生は私のために生まれてきてくれたのだ」
 と考えることが出来れば、「お医者さんごっこ」として上出来なのだ、という話をしました。今からまったく逆の話をします。Aという正論の逆はBという暴論なのではありません。同時に 甲  矛盾する二つの概念が成立してしまうのが大人の世界です。〔 Z 〕「目の前の主治医はあなたのためにいるかけがえのない存在だ」と認識した方が良いのですが、その実、医者というのはあなたのためだけにいるわけではないのです。そういうことも同時に頭の片隅には置いておく。矛盾する概念を両方頭の引き出しに入れておいて、自由に都合良く活用する。これが「お医者さんごっこ」です。

 病気を診ず、患者を診る。

 という言葉があります。実は、僕の大嫌いな言葉です。通常は「良い言葉」とされるこの言葉が、なせば僕の神経を逆撫でしてしまうのでしょう。
〔   d   〕、病気と患者というのは対立概念ではありません。〔  3  〕患者があって病気があり、病気があるから人は「患者」と呼ばれるのです。両者は本来お互いを内包する、共存する概念で、少しも対立していません。
 少しも対立していないものを無理矢理対立させる。これは二項対立(→入試頻出キーワード)の好きな、単純思考な人たちの常套手段です。日本のマスメディアの常套手段でもあります。
 このようにありもしない対立概念を作ってしまい、仮想敵たる「病気しか診ない医師」に対するルサンチマン(→「恨み・憎悪」という意味)をつのらせ、そして自分はそうではない、正義の「患者を診る医者」であるべき、「こっち側」に引っ込む。テレビで見てると、こんな番組ばっかりでしょ、最近は。
 そのような恣意性と偽善性を僕は嫌うのです。  
 同じような理由で僕の嫌いな表現に「全人的に患者を診る」という言葉があります。全人的? 患者を全人的に診るなんてたいていの医者にあるとてもむりです。〔  4  〕そういう出来もしないことをべらべらと口にする軽薄さが好きになれない。こういうことを軽々しく口にしてはいけない。患者の「本当の気持ち」なんてそう簡単に分かるわけがないのに、「分かったようなふり」をする軽薄さが気に入らない。」  ( 岩田健太郎『「患者様」が医療を壊す』より )


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(問題)

問1  空欄a~dに入る最も適切なものを