現代文最新傾向LABO 斎藤隆

入試現代文の最新傾向を分析し、次年度の傾向を予測する大胆企画

現代文・小論文予想問題/『困難な成熟』内田樹/成熟とは何か

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 

 「成熟」は、入試頻出論点であり、人生の重要課題の一つです。

 人間の「成熟」を考える上で、秀逸な論考(「文庫版のためのあとがき」『困難な成熟』内田樹)が最近発表されたので、この記事で解説します。

 入試頻出著者・内田樹氏のメインテーマは、「成熟とは何か」「大人になるとは、どういうことか」です。

 内田氏は、このメインテーマに関連した著作を、最近でも何冊も発行しています。

 内田氏のブログ(『内田樹の研究室』)でも、このメインテーマに関連した記事が多いようです。

 そこで、上記の論考(「文庫版のためのあとがき」『困難な成熟』)を、内田氏の著作、ブログ記事を参照しつつ、解説することにします。

 

 

困難な成熟

困難な成熟

 

 

 

(2)現代文・小論文予想問題/「文庫版のためのあとがき」『困難な成熟』内田樹/成熟と何か

(概要です)

(本文は太字にしました)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です)

 

(「文庫版のためのあとがき」》『困難な成熟』)

「  この本は、「成熟」とか「自己陶冶」とか「大人になる」ということがもはや人々にとってそれほど喫緊の課題ではなくなった時代の風潮に対する僕からの提言です。

 もちろん「大人のナントカ」とか「いぶし銀のなんちゃら」とかいうようなコピーを掲げて、「バーでワインを頼む時の心得」とか「こういうスーツではタイはなんとかでなければならぬ」とかいうようなことを書いている人は今も掃いて捨てるほどいますけれど、僕が論じようとしている「大人」というのは、そういうもののことではありません。文庫版解説として、それについて思うことを書いてみたいとおもいます。」

 

 

(当ブログによる解説)

上記の

「大人のナントカ」とか「いぶし銀のなんちゃら」とかいうようなコピーを掲げて、「バーでワインを頼む時の心得」とか「こういうスーツではタイはなんとかでなければならぬ」とかいうようなことは、外形的、表面的なことで、実に下らないことです。 

 このような本、記事が人気があるというのは、人々が「画一的な、陳腐なマニュアル」を嫌悪しているのではなく、むしろ歓迎していることでもあります。

 いい歳になった成人達が、低レベルなマスコミ等が適当に捏造した画一的な「大人らしさ」に釣られるとは、実に情けないことです。

 大人としての自立性も、知性もないのでしょう。

 現代の日本人の悲しさです。

 

 

(「文庫版のためのあとがき」『困難な成熟』)

「僕の記憶では、昔の人は「大人というのはこういうふうにふるまうものだ」というようなことをことさらに言挙げする習慣はなかったように思います。大人というと、夏目漱石とか、森鷗外とか、永井荷風とか、谷崎潤一郎とか、内田百閒とか、そういう人たちの顔がまず思い浮かびますが、そういう文豪たちが「大人というものは」というような説教をしている文章を寡聞にして僕は読んだ記憶がありません。どちらかというと、この人たちの作物の魅力は、そのような定型をおおらかに踏みにじってゆく堂々たる風儀にあったように思います。(→当ブログによる「注」→「自信」であり「落ち着き」です)

 漱石という号を夏目金之助が撰したのは二十三歳の時でした。『晋書』にある「漱石枕流」(石で口漱ぎ、流れを枕にす)の故事を踏まえたものです。昔、中国に孫子荊という人がいて、この人は若い時から早く隠棲したいものだと思い、ある時、古詩を引いてその隠棲の境涯を述べました。ところがそれが記憶違いだった。オリジナルは「枕石漱流」でした。「石を枕にして眠り、目覚めたら川の流れで口を漱ぐ」という、アーシーでビューティフルなライフスタイルを描写した一節だったのを、動詞を前後入れ間違えて、「石で歯を磨き、流水に頭を浸して寝る」という千日回峰行的な誤読をしてしまった。周りに「そうじゃないよ」と指摘されたのですが、孫子荊は一歩も退かず、「いや、オレは隠棲したら、石で歯を磨いて、頭を川水に浸けて寝るのだ」と言い張った。その故事を踏まえて、漱石という号を選んだのでした。つまり、一度言い出したら間違いとわかっても訂正しない頑迷なおのれの性情の偏りを重々わきまえた上で、それを笑い、かつ律するというこの構えのうちに僕は「大人の風儀」とでもいうべきものを見るのです。(→当ブログによる「注」→「客観性」、「余裕」、「ゆとり」と言えるでしょう)

 

 

(当ブログによる解説)

  「一度言い出したら間違いとわかっても訂正しない頑迷なおのれの性情の偏りを重々わきまえた上で、それを笑い、かつ律するというこの構え」ということは、「自己の中の他者と違う多様性(個性)」を知ることです。

 しかも、「頑迷な」という点から、自己の内部に「マイナス的な側面があること」を知ること、とも考えることができるでしょう。

 自己の内面を熟知するということが、「大人」らしさを醸し出すのでしょう。

 

 これに対して、「子供」の特徴を、内田氏は、『期間限定の思想』の中で以下のように述べています。

 

「  「私」は無垢であり、邪悪で強力なものが「外部」にあって、「私」の自己実現や自己認識を妨害している。そういう話型で「自分についての物語」を編み上げようとする人間は、老若男女を問わず、みんな「子ども」(→単純性)だ。

 こういう精神のあり方(→自己の中のマイナスの側面、多様性に気付かないということ)が社会秩序にとって、潜在的にどれほど危険なものかはヒトラー・ユーゲントや紅衛兵や全共闘の事例からも知れるだろう。」」(『期間限定の思想』)

 

 

期間限定の思想 「おじさん」的思考2 (角川文庫)

期間限定の思想 「おじさん」的思考2 (角川文庫)

 

 

 

    「私」は無垢であり、邪悪で強力なものが「外部」にある」と思い込み、信じきることは、まるで「子供」です。

 自己の内面の邪悪な側面に気付かないとは、鈍感なのでしょうか。

 が、現代の日本では、このような気味の悪い「大人」が多いようです。

 

 

(「文庫版のためのあとがき」『困難な成熟』)

「  それは他に名を挙げた文人たちについても同様です。荷風先生も百閒先生も「こればかりは譲れない」という強いこだわりをそれぞれにお持ちでしたけれど、おのれの偏奇を少し遠い距離から冷めた目で観察(→「客観視)し、それを味わい深い文章に仕上げることによって文名を上げたのでした。

 そういう書き物を読んで、僕は「この人は大人だな」と感服しました。

 それはつまり、「大人」を大人たらしめているのは、然るべき知識があったり、技能があったり、あれこれの算段が整ったりという実定的な資質のことではなくて、むしろおのれの狭さ、頑なさ、器の小ささ、おのれの幼児性(→誰にも、頑固、狭量、幼児性はあります)を観察し、吟味し、記述することができる能力(→「自己観察」、「自己分析」、「自己相対化」)のことだということです。」

 

 

(当ブログによる解説)

 上記の「むしろ、おのれの狭さ、頑なさ、器の小ささ、おのれの幼児性」の部分は、重要です。

 「大人の条件」は、「自分の内部に多様な側面を持つことである」と主張しているのです。

 

 内田氏は、『大人のいない国』の中でも、以下のように述べています。

 

「  大人の条件として個人の中に多様性を持てているかが重要です。

 子どもと大人の違いは個人の中に多様性があるかどうかということですから。

 たとえば僕は今57歳ですけれど、僕の中には四歳の幼児もいるし、14歳の中学生もいるし、20歳の青年もいるし・・・・その時々の自分が全部ごちゃっと同居している。

 だから、もののはずみで小学生の自分が現れることだってある。年をとる効用ってそれだと思うんです。

 生きてきた年数分だけの自分が一人の人間の中に多重人格のように存在する。そのまとまりのなさが大人の「手柄」じゃないかな。(『大人のいない国』)

 

 

大人のいない国 (文春文庫)

大人のいない国 (文春文庫)

 

 

 

 上記の「文庫版のためのあとがき」の中の、
「おのれの狭さ、頑なさ、器の小ささ、おのれの幼児性を観察し、吟味し、記述することができる能力」の部分も重要です。

 つまり、この部分は、自分の「器の小ささ」を自覚することの重要性を述べているのです。

 

 この点については、「大人の責任感」について述べている『街場の共同体論』の次の一節が参考になります。

 

 「 システムの保全が「自分の仕事」だと思う人がいないと、システムは瓦解します。

 この「システム保全仕事」は、基本的にボランティアです。だって、システムの保全は「みんなの仕事」だからです。「みんな」で手分けして行うものです。別に工程表があるわけでもないし、指揮系統があるわけでもないし、一人ひとりの分掌を定めた組織図があるわけでもありません。

 それこそ「道路に落ちている空き缶を拾う」ような気分で行う仕事です。「道路に落ちている空き缶」を拾うのは、誰にとっても「自分の仕事」ではありません。自分が捨てたわけじゃないんですから。そんなものは捨てたやつが拾うべきであって、通りすがりの人間にそんな責任はない。それも理屈です。そういうのは「みんなの仕事」ではあっても、「自分の仕事」ではない。そう考えるのが「こども」です。

    「おとな」は違います。

 「おとな」というのは、そういうときにさくっと空き缶を拾って、ゴミ箱が手近になければ自分の家に持ち帰って、びん・かん・ペットボトルのビニール袋に入れて、ゴミの日に出すような人です。

 システムが破綻したときに、「システム回復は自分の業務契約には入っていない」、「そんなリスクがあるとは前任者から引き継がれていない」、「そもそも想定外だった」というふうに責任を自分以外のものに付け替えるの「こども」の特徴です。中高年であっても、禿げていて腹が出ていて、態度が大きくても、そういうことを言う人間はみんな「こども」です。

 こういう人間たちは、不調に陥ったシステムの立て直しというような大切な仕事には使えないということです。(『街場の共同体論』)

 

 

街場の共同体論

街場の共同体論

 

 

 

 器の大小は、「共同体に対する責任感」に関連するのでしょう。

 自分の「器の小ささ」を自覚するとは、それ自体が、自分の「共同体に対する責任感」を意識することです。

 つまり、その自覚自体が、大人の条件を満たしつつあることを意味しているのではないでしょうか。

 

 このこと、つまり、「大人と共同性」に関して、内田氏は、『街場の共同体論』の中で、以下のような見解を述べています。

 

「  消費者マインド(→「商品経済の中で、いかに賢明に行動するかという意識→ズル賢さ」「お客様意識」)と市場原理(→「資本主義原理」)を深々と内面化したせいで、最低限の学習努力・労働努力で成果を上げることをめざし、競争のためにはまわりの人間の足を引っ張るのが合理的だと考えるような子供たちが、そのまま成長して、そのまま加齢して老人になる。このときに、日本はほんとうに「おとなのいない国」になってしまうでしょう。それはもう安全でも豊かでもない国になるということです。

(『街場の共同体論』)


 このことに関連して内田氏はまた、「器」について、『困難な成熟』の中で、「贈与と被贈与」の側面からも考察しています。

 つまり、言い換えれば、「広義の共同性」と「贈与・被贈与」の関係について、鋭い分析をしています。以下に引用します。

 

「  贈与は「私が贈与した」という人ではなく、「私は贈与を受けた」と 思った人間によって生成するのです。 「目に映るすべてのものはメッセージ」(ユーミンの『優しさに包まれたなら』) この感覚のことを「被贈与の感覚」という。 誰もメッセージなんか送っていないんです。

 だけど、ユーミンは 自分を祝福してくれるメッセージをそこから勝手に 受け取った。そしてその贈りものに対する「お返し」に歌を作った。

 その歌を僕らは聴いて、心が温かくなった。 「世界は住むに値する場所だ」と思った。 そして今もこうして この歌について多くの人に書いている。 贈与は 形あるものではありません。それは運動です。 人間的な営為のすべては贈与を受けた立場からしか始まらない。

 そして、市民的成熟とは、「自分が贈与されたもの」 それゆえ「反対給付の義務を負っているもの」について、どこまで 長いリストを作ることができるか、それによって考慮されるものなのです。

 そのリストが長ければ長いほど(→感謝の気持ちが強ければ強いほど、つまり、謙虚になればなるほど)「大人」だということになる。 皆さんにしてほしいのは、ユーミンが歌ったとおり、 「目に映るすべてのことはメッセージ」ではないかと思って、 周りを見わたして欲しいということ、それだけです。(『困難な成熟』)

 


(「文庫版のためのあとがき」『困難な成熟』) 

「成熟する」というプロセスを多くの人は「旅程を進む」という移動のメタファーで考えているのではないかと思います。あれこれと苦労を重ねているうちに、さまざまな経験知が獲得されて、思慮が深まり、次第に「大人になってゆく」と。でも、僕は大人になるプロセスというのはそういうのとはちょっと違うのではないかと思います。知恵や経験が「加算」されるわけではない。

    ある出来事のせいでものの考え方が変わるいうことがあります。例えば、信頼していた人に裏切られたとします。そのせいでそれまで「人というのはこういうものだ」と思っていた「人間の定義」に若干の変更が加えられる。でも、それは定義の変更だけでは済まない。同時に、自分の過去の記憶の「書き換え」が行われる。これまでうまく飲み込めなかった出来事や片付かなかった気持ちが飲み込めたり、片付いたりする。逆に、それまで忘れていたことが不意に思い出されて、「なるほど、あれはそういう意味だったのか」と得心がゆく。人に裏切られ、傷ついたことによって、自分がこれまでどれだけの人を裏切り、傷つけてきたのか、その記憶が痛切に甦ってくる。一つの出来事を通過することによって、自分のそれまでの人生が表情や奥行きを変えてしまう。あれこれの経験の意味が変わってしまう。そういうことを何度も何度も繰り返すことが「大人になる」というプロセスではないかと僕は思うのです。

 晩年を迎えると「自叙伝」を書きたくなる人がいます。僕ももういい年ですので、その気持ちがわかります。それは歳をとると、それまで「オレの子供時代はこういうふうだったよ」と久しく人にも話し、自分でも信じてきたことが「どうもそうではなかった」ということが分かってくるからです。自分の周りにいた人たち、記憶の中ではるか遠景に霞んでいた人たちの相貌が何十年も経ってから不意にくっきりと浮かび上がってきて、その立ち居振る舞いや、片言隻語がありありと思い出されて、それが自分にとって何を意味していたのかが不意にわかるということがあります。

 僕たちがこれまでの生きてきた時間というのは、自分が思っているよりもずっと深く厚みのあるもであり、自分が今のような自分であるのは、自己決定したからでも、運命に偶然的に翻弄されたからでもなく、多くの人たちとのさまざまな関わり合いを通じて、陶器のようにゆっくり錬成されて出来上がったのだということがわかる。」

 

(当ブログによる解説)

 上記の「多くの人たちとのさまざまな関わり合いを通じて」、「陶冶」が進むこと、つまり、「成熟」することに関して、内田氏は、『呪いの時代』の中で「結婚」の有用性について述べています。

 

「  結婚が必要とするのは、「他者と共生する力」です。よく理解もできないし、共感もできない他人と、それにもかかわらず生活を共にし、支え合い、慰めあうことができる、その能力は人間が共同体を営んでゆくときの基礎的な能力に通じていると僕は思います。

 日本社会の深刻な問題は、他者との共生能力が劣化していることです。

 自分と価値観が違い、美意識が違い、生活習慣が違う他者を許容することのできない人が増えている。社会人としての成熟の指標のひとつは他者と共生できる能力です。

 この能力を開発する上で結婚というのは優れた制度だと僕は思います。

 「他者と共生する」というのは、「他者に耐える」ということではありません。「他者」を構成する複数の人格特性のうちにいくつか「私と同じもの」を見出し、「この他者は部分的には私自身である」と認めることです。(『呪いの時代』)

 

 

呪いの時代 (新潮文庫)

呪いの時代 (新潮文庫)

 

 

 

(「文庫版のためのあとがき」『困難な成熟』)

「陶冶」というのは陶器を焼き、鋳物を作ることですけれど、この動詞が成熟のメタファー として用いられることにはそれなりの理由があると思います。

 一つはそのプロセスには時間がかかること、一つはもとの物質が別の物質に変成すること、そしてもう一つは混入したものの化学的な干渉によって予想外の彩りや文様を帯びること。

 これはそのまま成熟の定義として使えると思います。」

 

 

(当ブログによる解説)

 ここで、『困難な成熟』の中から、「陶冶」に関連している、内田氏の「成熟の定義」を紹介します。

 

「  子として友人として配偶者として親として、それぞれの立場において、愛したり愛されたり、傷ついたり傷つけられたり、助けたり助けられたり・・・というごくごく当たり前の人生を一日一日淡々と送っている間にいつのまにか身につく経験知・実践知の厚みや深みを僕たちは「成熟」という言葉で指し示している。

(『困難な成熟』)

 

 なお、なぜ『困難な成熟』という題名にしたのか、については、次のような記述があります。

 

「  ある日気がついたら、前より少し大人になっていた。

 そういう経験を積み重ねて、薄皮を一枚ずつ剥いでゆくように人は成熟して。ロードマップもないし、ガイドラインもないし、マニュアルもない。そういうこみいった事情を僕は「困難」という形容詞に託したつもりです。(『困難な成熟』)

 


(「文庫版のためのあとがき》」『困難な成熟』)

「  自分で自分の成熟を統御することはできません。

 自分が成熟するというのは「今の自分とは別の自分になること」ですから、「こういう人間になりたい」というふうに目標を設定して、それを達成するというかたちをとることがありえないのです(後に回顧すると、自分が設定した目標がいかに幼く、お門違いなものか思い知って赤面する・・・・というのが「成熟した」ということなんですから)。

 しかし、現代社会はそういうふうにオープンエンドな成熟への道を進むように若い人たちを促し、励ます仕組みがありません。これはもうはっきり言い切ってしまいますけれど、「ありません」。

 今の社会の仕組みはどれも目標を数値的に設定して、そこに至る行程を細部まで予測し、最小限の時間、最少エネルギー消費で目標に到達する技術を競うというものです。一見するとスマートで合理的に見えますけれど、人生の本質的な目標の多くはそういうスキームには収まりません。」

 

 

(当ブログによる解説)

 上記の「今の社会の仕組みは、目標を数値的に設定して、そこに至る行程を細部まで予測し、最小限の時間、最少エネルギー消費で目標に到達する技術を競うというもの」という、一見合理的ですが、本質的には無味乾燥な「スキーム」を信仰している日本人の「社会的未成熟」を、内田氏は、以下のように揶揄しています。

 説得力に満ちた論考です。

    私も、この見解に賛成します。

 

「  基本的に「人間的成長」というものは、だいたいが「それまで非常に気になっていたこと」が「後で考えたらどうでもよくなる」という形式でなされるものである。

 私の経験からして、昼寝というのはそれに似た心理的効果をもたらす。

 だいたい私はリゾートに行っても、ほとんど昼寝している。

 2年前にハワイに1週間行ったときも、ひたすら昼寝をし続けて、兄に「よくそれだけ寝られるものだ」と感嘆されたことがある。

 温泉でもいちばん気分がいいのは、昼風呂に浸かったあとに、ちょっと昼ビールなどを飲んでそのまま浴衣のままごろんと畳の上で寝てしまうときである。

 昼寝から起き出したあとに最初につぶやくことばもそういえばつねにどことなく達観をにじませたものであった。

 「さあ、それではしゃきしゃきとことをすすめましょうか」というようなことばは決して口にされず、「なもん、どーでもいいじゃないの」というようなけだるい言葉だけが選択的に口を衝いて出てしまうのである。

 イタリアやスペインの諸君があまり働いていないわりには、どうも「大人」っぽい雰囲気を漂わせているのは、彼らがこまめにシエスタをすることと無関係ではないのかもしれぬ。

 昼寝は戦争とか投資信託とかM&Aとか、そういう殺伐としているものともなじみがよろしくない。

 日本人のとげとげしい社会的未成熟は、あるいは昼寝の不足に由来するのやも知れぬ。

「クールビズ」よりも「サマータイム」よりも、「日本中、午後1時から3時までシエスタ」ということにした方が日本の霊的成熟には資するところがあるのではないか。(「ゆとり」、「余裕」を意味しているのでしょう)

 少子化対策には間違いなく有効である。

(「昼寝のすすめ」『内田樹の研究室』2007年9月16日)

 

 ヒツジ的に、ロボット的に、効率的・合理的スキームを何の疑いもなく、信奉しているだけでは、人間的に成長することはできません。

 イタリア、スペインのようにラテン的に、余裕をもって、人間的に生活しなくては、人間的に成長してわけがないのです。

 つまり、「成熟すること」の前提に、人間的生活があるのです。

 現代の日本人は、このことに思い至らないのでしょう。

 

 

(「文庫版のためのあとがき」『困難な成熟』)

「「成熟」はそうです。先に述べた通り、「成熟した私」というのがどういうものであって、どういう属性を具えているのかを今、ここで言えるということはありえません。「幸福」というのもそうです。幸福を数値的に示すことはできません。年収がいくらで、持ち家の坪数がいくらで、乗っている車の値段がいくらで、子どもの評定平均値が何点で・・・・というようなことをいくら積み重ねても「幸福」にはたどりつけません。「長寿」というのもそうですね。これも人間にとってたいせつな課題です。だから階段で転びかけたり、車に轢かれかけたら「おっと危ない」と身をかわして、無事であれば「ああ、よかった」と嘆息したりもするわけです。でも、「長寿に最小限の時間で到達する」というのはどう考えても論理矛盾です。「あっという間に百歳になりました」と言って喜ぶ人というものを僕は想像できません。

 人間にとってたいせつなことのほとんど(→本質的なこと)「明確な目標設定/効率的な工程管理/費用対効果のよい目標達成」というような枠組みでは語ることができない。

 現代人はそれをどうも忘れてかけているようです。

 この本はその基本的なことを思い出してもらうために書きました。できれば、この本を何年か間をあけて、ときどき取り出して繰り返し読んで頂ければと思います。前に読んだときには読み落としていたことに次の時には眼が止まるということがあれば、僕もこの本を書いた甲斐があります。

 みなさんのご健闘を祈ります。」

(「文庫版のためのあとがき」『困難な成熟』)

 

 

 (当ブログによる解説)

 「大人の条件」とは、マニュアルが適用できないような場面でも対応できる柔軟な「応用能力」を身に付けることです。

 「応用能力」を一定のマニュアルやスキームで、身に付けることはできないのです。

 つまり、「大人の条件」を一定のスキーム等で満たすことは不可能ということになります。 

 この点について、内田氏は以下のように述べています。

 

「大人」と「子ども」の違いは、子どもは「やりかたのわかっていること」しかできないけれど、大人の条件は「どうふるまったらよいのかわからないときにも適切にふるまうことができる」ということにあります。

 言い換えると、「こういう場合には何をすればいいのかを示すマニュアルやガイドラインがないときにも、最適選択ができる」ということです。

 どうやったらそんなことができるのでしょう。論理的には不可能です。でも、実践的には別にむずかしいことではありません。「判断を保留する」「両方の言い分のナカを取る」「誰か最適なソリューションを知っていそうな人を探して答えを訊き出す」「いきなり土下座して、問題を『なかったこと』にしてもらう」などなど。

 これらに共通するのは「問いとそれに対する単一の正解」というスキームそのものを「揺り動かす」ということです。

 なんだ、簡単じゃないかと思われますか? 

 いや、けっこうむずかしいですよ。要は「揺り動か」せればそれでいいわけですけれど、それはしばしば堅牢な構築物を棒きれ一本で「揺り動かす」ようなタイトな条件を要求します。アルキメデスは「われに支点を与えよ。しからば地球を動かしてみせよう」と豪語しましたけれど、「レヴァレッジ」(梃子装置)という言葉はこういうときにこそ使いたいですね。

 「ピンチ」とは出来合いの「問題と解法」のスキームでは打つ手がない状況のことです。状況そのものを揺り動かさないと「取り付く島」がない。そういう場合に手持ちの棒きれ一本でなんとかしようと思ったら、「われに支点を与えよ」というしかありません。

 「大人」とはこの堅牢な構築物を一押しで揺るがすことのできるような「梃子の支点」を直感的に探り当てることのできる人のことです。あるいは、そのための能力開発に惜しみなく人間的リソースを投じ続けてきた人です。そのような能力は「構築物」の内側(私たちが平時において住みなじんでいる"システム"のことです)においてはふつう評価の対象にはなりません。

 だから、"システム"の内部での相対的な競争(ラット・レース)で優位に立つこと、同類たちとの「勝ち負け」に血道を上げている「子ども」たちは決して、そのような能力の開発に資源を投じません(この場合の「子ども」というのは、もうおわかりでしょうけれど、生物学的な年齢とは関係ありません)

(「大人になるための本」内田樹『じぶんや第46講』『紀伊国屋書店』)

 

 

 この内田氏の見解によると、現代の日本には、まともな「大人」は、極めて少ないことになります。

 ここから、「日本の教育方針の迷走・混乱」の原因が読み解けるようです。

 内田氏は、以下のように述べています。

 特に、最終部分の

  大人がつねに自分の未熟を恥じる文化からしか、子どもを成熟に導くメカニズムは生成しない。

に注目してください。

 

「  繰り返し言うように、教育の本義は「子どもたちを共生と協働を果たしうるだけの市民的成熟に導くこと」である。

 それ以外に、ない。

 教育の本義は格付けや選別や排除や標準化ではない。

 子どもたちを生き延びさせることであり、同時に共同体を生き延びさせることである。

 教育関係者があまり口にしないことで私がはっきり言っていることは、「子どもが危険だ」というのは、「子ども自身が危険にさらされている」ということと、「社会が子どもによって危険にさらされる」ということを同時に含意している、ということである。

 子どもが子どものままにとどまっていることを許した共同体は人類史上一つも存在しない。

 存在したのかもしれないが、消滅して、今は存在しない。

 成熟のメカニズム、共生と協働のための能力を適切に育成するプログラムを持たない共同体は、長くは存在できない。

 「英語ができないと金儲けに後れを取る」というような動機で英語学習を勧奨する文言を一国の教育行政を預かる省庁が満天下に公言することについて、「それはどうか」とたしなめる声は庁内からは出なかったのか。

 教育はその原点に還るべきだと私は思う。

 子どもを成熟させるために何が必要か、それを問うのである。

 それだけを問うのである。

 そう問うたときに、「ほんとうの大人」であれば、自身の未熟を深く恥じるだろう。

 大人がつねに自分の未熟を恥じる文化からしか、子どもを成熟に導くメカニズムは生成しない。

(「成熟のために」『内田樹の研究室』2009年6月27日)

 

  真に「自分の未熟」を恥じている大人が、現代日本に、どれくらいいるのでしょうか。

 それを考えると、暗澹たる思いにならざるを得ません。

 

 

 (3)当ブログにおける「内田樹」関連記事の紹介

  

gensairyu.hatenablog.com

 

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 ーーーーーーーー

 

今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

ご期待ください。

 

  

 

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

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5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

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予想問題/『人口減少社会の未来学』内田樹/少子化社会・高齢化

(1)はじめに/なぜ、この記事を書くのか?

 最近、入試頻出著者・内田樹氏が編者となり、最近の入試頻出論点である「人口減少社会」・「少子化」・「高齢化」に関する論考集(『人口減少社会の未来学』)が発行されました。

 そこで、国語(現代文)・小論文対策として、この本の内田樹氏の論考についての解説記事を、書くことにしました。

 さらに、内田氏のブログ記事における、「人口減少社会」に関する問題意識についての解説記事を、書くことにしました。

 

 なお、今回の記事の項目は以下の通りです。

 記事は約1万字です。

 

(2)予想出典・予想問題/『人口減少社会の未来学』(編・内田樹)の概要・キーセンテンス

(3)「人口減少社会」対策の現状と、その原因

(4)「人口減少社会」への対策論①→対策論を考え、実行することが、私たちにとって最も緊急な公的課題ではないか

(5)「人口減少社会」への対策論②→「転換期の心構え」→情報を懐疑せよ

(6)「人口減少社会」への対策論③→「若者の地方移住」の意味するもの

(7)「人口減少社会」への対策論④→「学びたいことを学ぶ。身につけたい技術を身につける」

(8)「人口減少社会」への対策論⑤→「一般的な心構え」

(9)当ブログにおける「内田樹」関連記事の紹介

 

人口減少社会の未来学

人口減少社会の未来学

  • 作者: 内田樹,池田清彦,井上智洋,小田嶋隆,姜尚中,隈研吾,高橋博之,平川克美,平田オリザ,ブレイディみかこ,藻谷浩介
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2018/04/27
  • メディア: 単行本
  • この商品を含むブログ (1件) を見る
 

 

 

(2)予想出典・予想問題/『人口減少社会の未来学』(編・内田樹)の概要・キーセンテンス

 

①『人口減少社会の未来学』【Book 紹介】

21世紀末、日本の人口は約半数に――。人口減少社会の「不都合な真実」をえぐり出し、文明史的スケールの問題に挑む〝生き残るため〟の論考集。各ジャンルを代表する第一級の知性が贈る、新しい処方箋がここに。

 

《目次》

・「序論 文明史的スケールの問題を前にした未来予測」 内田樹

・「ホモ・サピエンス史から考える人口動態と種の生存戦略」 池田清彦

・「頭脳資本主義の到来――AI時代における少子化よりも深刻な問題」 井上智洋

・「日本の“人口減少”の実相と、その先の希望――シンプルな統計数字により、「空気」の支配を脱する」 藻谷浩介

・「人口減少がもたらすモラル大転換の時代」 平川克美

・「縮小社会は楽しくなんかない」 ブレイディみかこ

・「武士よさらば――あったかくてぐちゃぐちゃと、街をイジル」 隈 研吾

・「若い女性に好まれない自治体は滅びる――『文化による社会包摂』のすすめ」 平田オリザ

・「都市と地方をかきまぜ、『関係人』を創出する」 高橋博之

・「少子化をめぐる世論の背景にある『経営者目線』」 小田嶋 隆

・「『斜陽の日本』の賢い安全保障のビジョン」 姜尚中

 

 今回の記事で紹介、解説するのは、上記の中の「序論 文明史スケールを前にした未来予測 内田樹」という論考です。

 

 ②『人口減少社会の未来学』の概要

 

 「序論 文明史的スケールの問題を前にした未来予測」については、以下の内田氏のエッセイが、上記の「序論」の要約的な内容になっているので、以下に引用します。

(概要です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です) 

 

「日本は人口減社会の世界最初の実験事例を提供することになる」内田樹『AERA 』2018年2月19日号/巻頭エッセイ「eyes 」

「  編者として「人口減社会」についての論集を作った。21世紀末の日本の人口は中位推計で6千万を切る。80年でおよそ半減する勘定になる。驚くべきなのは、それがどのような社会的変化をもたらすのかについての専門家による予測が今もほとんど何もなされていないことである。私のような素人が人口減社会の未来予測についての論集の編者に指名されるという一事からもそれは窺(うかが)い知れる。専門家たちが専門的知見に基づいて「これからこうなります」と言ってくれたら、私などに出番は回ってこない。

 それでもようやくメディアで人口減が扱われるようになった。先日読んだある新聞では政治家や行政官、学者が人口減問題について意見交換していたが、結論は「楽観する問題ではないが、かといって悲観的になるのではなく、人口減は既定の事実と受け止めて、対処法をどうするか考えたらいい」というものだった。それは結論ではなく、議論の出発点だろう。最後に政治家(福田康夫元首相だった)が「国家の行く末を総合的に考える中心がいない」と冷たく突き放して話は終わった。人口減については、誰も何も考えておらず、誰が考えるべきなのかについての合意も存在しないということだけはわかった。

 日本は人口減だが、世界の総人口はこれからもアフリカを中心に増え続け、世紀末には112億に達する。今でも地上では9人に1人が飢えている。人口が増えれば、飢餓や環境破壊はさらに進行するだろう。減らせるところから人口を減らすのは人類的には合理的な解である。人口減はどういうプロセスをたどり、どういう変化をもたらすことになるのか、日本はその世界最初の実験事例を提供することになる。

 世界史的な使命を担っているはずなのだが、その緊張感は日本の官民の指導者たちからまったく感じることができない。「婚活」だとか少子化対策だとかを思いつき的に語る以外は、相変わらず、五輪・万博やカジノ、リニア新幹線や官製相場でいずれ経済がV字回復して万事解決というような妄想に耽(ふけ)っている。若者たちが産業構造の劇的な変化を予期して、新しい生き方を模索し始めている姿だけが救いだ。

(『AERA』2018年2月19日号)

 

AERA2/19号

AERA2/19号

 

 

人口減少による地方消滅は避けられるか(朝日新聞オピニオン 日本がわかる論点2016)

人口減少による地方消滅は避けられるか(朝日新聞オピニオン 日本がわかる論点2016)

 

 

 「序論  文明史的スケールの問題を前にした未来予測  内田樹」において、注目した一節を以下に引用します。

 どれもが、重要な指摘と評価できます。

 キーセンテンスです。

 熟読してください。

 

「  日本の21世紀末の総人口は中位推計で6000万人と推計されています。これから80年間で人口がおよそ7000万人近く減る。これは政府や自治体が行っている婚活や育児支援のようなレベルの政策で対応できるスケールの変化ではありません。

 

「  人口減によって何が起きるかについての、科学的予測を踏まえた『国のかたち』についての国民的な議論はまだ始まっておりません。

 

「  日本社会には喫緊の論件だという切迫感がありません。それが不思議です。なぜなら、日本は世界で最初に超少子化・超高齢化のフェーズに突入する国だからです。

 

「  僕たち日本人は最悪の事態に備えて準備しておくということが嫌いなのです「嫌い」なのか、「できない」のか知りませんが、これはある種の国民的な「病」だと思います。

 戦争や恐慌や自然災害はどんな国にも起こります。その意味では「よくあること」です。でも、「危機が高い確率で予測されても何の手立ても講じない国民性格」というのは「よくあること」ではありません。それは一つ次数の高い危機です。「リスク」はこちらの意思にかかわりなく外部から到来しますが、リスクの到来が予測されているのに何も手立てを講じない」という集合的な無能は日本人が自分で選んだものだからです。「選んだもの」が言い過ぎなら、「自分に許しているもの」です。

 

後退戦で必要なのはクールで計量的な知性です。まずはそれです。イデオロギーも、政治的正しさも、悲憤憤慨も、愛国心も、楽観も悲観も、後退戦では用無しです。

 

「  人口減は対処を誤ると亡国的な危機を将来しかねない問題ですけれど、それについては政府も自治体もまだ何も手立てを講じていません。今の日本にはまだ何の合意も何のルールも存在しないということです。

 

「  これから社会のかたちはどう変わってゆくのか。それについての長期的な予測を立て、それに対して私たちは何ができるか、何をなすべきかを論じ、とりあえず今できることから着手するのは未来の世代に対する私たちの忌避できぬ責任だろうと思います。

 

  最後に生き残るシステムは、それを維持するためにプレイヤーたちが人間的成熟を求められるようなシステム、プレイヤーたちが『いい人』『誠実な人』『言葉をたがえない人』だと周りから思われることが不可欠であるようなシステムである。

 (「序論」内田樹『人口減少社会の未来学』)

 

(3)「人口減少社会」対策の現状と、その原因

 

 現在の日本においては、「近い将来の人口減少」への「対策」は、惨憺(さんたん)の一言でしょう。

 「無策」としか言えません。

 将来の最悪の事態を考えない、最悪の事態に備えない、というのは、日本の伝統なのでしょうか?


 内田樹氏は、『街場の憂国会議』の中で、第二次世界大戦における、日本の「将来に対する無策」を、以下のように述べています。

「百戦百勝」以外に正解はないと信じている人間は、「どうやって後退戦を戦うか」、「どうやって、『負けしろ』を多めにとるか」、「どのあたりで和睦を切り出すか」といったことを主題的に問わない。

 それどころか、そういう問いを口にすること自体を禁じ、禁令を犯すものを「非国民」「売国奴」と罵り、投獄し、処刑する。

  「負け方」について思量することがそのまま「敗北」を呼び寄せると彼らは信じていたのである。

 歴史が教えるのは、どういうふうに「負ける」のが、よりましか、について何も議論しなかったのものたちは、想像を絶する負け方を引き寄せたということである。

 (『街場の憂国会議』内田樹)

 

街場の憂国論 (文春文庫)

街場の憂国論 (文春文庫)

 

 

 戦争の時に、可能性としてありうる「後退戦」について議論することさえ、憚れるとは、どういうことでしょうか?

 日本人は、ネガティブなことを議論とすることを、タブーとしているようです。

 単なる「言霊信仰」だけでは説明できない、日本人特有の感性があるのでしょうか?

 「未来の起こりうる危機的側面」について考えない、つまり、「危機管理」の発想がないというのは、単なる「無能」であり、「子供」・「幼児」ということです。

 

 このバカバカしさは、現代日本においても、当てはまるようです。

 現代日本においても、社会全体が「無能化」し、「子供化」・「幼児化」しているという一面があるのでしょう。

 現代日本の「無能化」・「子供化」現象と、その予想される「悲惨な結末」、「当然の結末」について、以下のように述べています。

 

「人口減社会に向けて/『日本農業新聞』の《論点》」『内田樹の研究室』2018年03月16日

日本農業新聞の「論点」というコラムに定期的に寄稿している。2月は「人口減社会」について書いた。あまり普通の人の読まない媒体なので、ブログに再録。

 わが国では「さまざまな危機的事態を想定して、それぞれについて最適な対処法を考える」という構えそのものが「悲観的なふるまい」とみなされて禁圧されるのである。

 近年、東芝や神戸製鋼など日本のリーディングカンパニーで不祥事が相次いだが、これらの企業でも「こんなことを続けていると、いずれ大変なことになる」ということを訴えた人々はいたはずである。でも、経営者たちはその「悲観的な見通し」に耳を貸さなかった。たしかにいつかはばれて、倒産を含む破局的な帰結を迎えるだろう。だが、「大変なこと」を想像するととりあえず今日の仕事が手につかなくなる。だから、「悲観的なこと」について考えるのを先送りしたのである

 人口減も同じである。この問題に「正解」はない。「被害を最小限に止めることができそうな対策」しかない。でも、そんなことを提案しても誰からも感謝されない。場合によっては叱責される。だから、みんな黙っている。黙って破局の到来を待っている。

(「人口減社会に向けて」『内田樹の研究室』2018年3月16日)

 

食と農の黙示録―あしたへ手渡すいのち

食と農の黙示録―あしたへ手渡すいのち

 

 

 以上の記述は、「反知性主義」の発現の指摘そのものでしょう。

 「思考停止」状態の指摘、とも言えるでしょう。

 

 内田氏は、『日本の反知性主義』の中で、現代日本に蔓延している、悲しき「反知性主義」について以下のように述べています。

 もはや、日本社会においては、「反知性主義」は確固とした思考原理、行動原理になっている感じです。

 ある意味で、絶望的な状況です。

 

「  さまざまな市民レベルからの抵抗や批判の甲斐もなく、安倍政権による民主制空洞化の動きはその後も着実に進行しており、集団的自衛権の行使容認、学校教育法の改定など、次々と「成果」を挙げています。

 しかし、あきらかに国民主権を蝕み、平和国家を危機に導くはずのこれらの政策に国民の40%以上が今でも「支持」を与えています。

 長期的に見れば自己利益を損なうことが確実な政策を国民がどうして支持することができるのか、正直に言って私にはその理由がよく理解できません。

 これは先の戦争のとき、知性的にも倫理的にも信頼しがたい戦争指導部に人々が国の運命を託したのと同じく、国民の知性が(とりわけ歴史的なものの見方が)総体として不調になっているからでしょうか。それとも、私たちには理解しがたい、私たちがまだ見たことのない種類の構造的な変化が起りつつあることの徴候なのでしょうか。私たちにはこの問題を精査する責任があると思います。

 今回の主題は「日本の反知性主義」です。ホーフスタッターの『アメリカの反知性主義』は植民地時代から説き起こして、アメリカ人の国民感情の底に絶えず伏流する、アメリカ人であることのアイデンティティとしての反知性主義を摘抉した名著でした。

 現代日本の反知性主義はそれとはかなり異質なもののような気がしますが、それでも為政者からメディアまで、ビジネスから大学まで、社会の根幹部分に反知性主義・反教養主義が深く食い入っていることは間違いありません。それはどのような歴史的要因によってもたらされたものなのか? 

 人々が知性の活動を停止させることによって得られる疾病利得があるとすればそれは何なのか? 

(「まえがき」『日本の反知性主義』編・内田樹)

 

日本の反知性主義 (犀の教室)

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(4)「人口減少社会」への対策論①→

対策論を考え、実行することが、私たちにとって最も緊急な公的課題ではないか

 

 以下では、内田氏は、「人口減少社会への対策論を考え、実行することが、私たちにとって最も緊急な公的課題ではないか」と述べています。


「縮み行く世界」『内田樹の研究室』 2010年08月31日

「  一昨日の高橋源一郎さん、渋谷陽一さんとの鼎談の最後の方のテーマは「シュリンク(→ 「縮む、減る、少なくなる」という意味)してゆく社会で、市民はどんなふうにすれば尊厳を持って、かつ愉快に生きてゆくことができるか」ということであった。

 経済成長が止まったらもうおしまいだとか、人口がこれ以上減ったらもうおしまいだとか、国際社会でこれ以上侮られたらもうおしまいだ、とか「もうおしまいだ」的なワーディングで危機を論じる人がいる。

 たいへんに多い。

 私はこういう語り口は危険だと思う。

 というのは、そういうふうな言葉遣いで一度危機論を語ってしまった人は、警鐘を乱打したにもかかわらず事態が危機的になったときに「ほら、言ったことじゃない」と言う権利を確保してしまうからである。

 日本社会は不調になることによって、それを正しく予見した自分の知性の好調であることが証明される。

 そういう条件だと、危機論者は「もうおしまい」状態の到来を髪振り乱して押しとどめようとする仕事にはそれほど熱心にはなってくれない。

 そういう仕事は危機の到来を看過し黙許し、危機論者の必死の訴えに耳を貸さなかった諸君が後悔の涙にくれながらやればよいのだ。

 そういうふうに考えてしまう。

 これは属人的な資質の問題ではなく、「危機論を語る」ということのコロラリー(→「当然の結果」という意味)なのである。

 「俺の言うことをきかないと、危機になるぞ」という語り口で危機論を語ったのだが、誰も耳を傾けてくれなかったという苦い経験を持つ人は、いざ危機が到来したときに、つい「ほら、だから言ったじゃないか」と(口に出さなくても)思ってしまう。

 それどころか、危機の到来をはやめるような要因があれば、ついそれに「加担」してしまうことさえある。

 そういうことは無意識的に行われる。本人も自分が「危機の到来を加速するようなふるまい」をしていることには全然気づいていない。

 でも、危機論者にとって危機の到来は個人的には「喜ばしいこと」なのである(なにしろ彼らの未来予測の正しかったことが事実によって証明されるからである)。

 そういうのはあまりよくない。

 つねづね申し上げている通り、「ゴジラが来るぞ」と危機の切迫を訴え、備えの喫緊であることを論じたにもかかわらず「バカじゃないの」と嘲笑された科学者が、その予見の正しさを証明するためには、どうしたって実際にゴジラが来て都市を踏みにじる場面が必要なのである。

 彼が無意識のうちに(夢の中で、とか)「ゴジラの到来」を願ってもそれを責める権利は誰にもない。

 危機のときに、「だから、あのときああしていればよかったんだよ」というようなあとぢえを語るのは100%時間の無駄である。

 もう転轍点は過ぎてしまったのである。

 過去に戻ってやり直すことはできない。

 与えられた状況でベストを尽くすしかない。

  「経済成長が止まったらおしまいだ」と言っている人は経済成長が止まった時点で、自分はもう何の役にも立たない。何の政策も提言できない。何のビジョンも提示できないと宣言している。

 だって、「おしまい」というのは、政策提言もビジョンもプロジェクトもとにかく生産的なことは「なんにもできない」状況を指すからである。

 そのときにまだ次々と効果的な「打つ手」が思いつくようであるなら、それは「おしまい」の定義に悖る。

 実際には人口が減ろうと、経済成長が終わろうと、国際社会で侮りを受けようと、それでも私たちは生きていかなければならない。

 生きてゆかなければならない以上、「それでも自尊感情を保ち、気分よく生きるためにはどうすればいいか」という問いに知的資源を投じるのは生産的なことだ。

 高橋さんとそういう話をした。

 軍事用語を使って言えば、これからの日本は「後退戦」を戦うことになる。

 「百戦百勝以外はありえない」という『戦陣訓』のようなことを言う人間には後退戦は戦えない。

 だって、その立場からすれば後退戦などというものは「ありえない事態」だからだ。

 「ありえない事態」における適切なふるまいとは何かというような問いは、彼らには決して主題化しない。

 けれども、私たちはいま、それを主題として考究すべき時点にまで立ち至っている。

 無限に成長し続け、無限に人口が増え続け、無限に税収が増え続ける社会などというものは原理的に存在しない。

 そのような存在しないものを基準にして「そうでなくなったらおしまいだ」というようなことを言って青ざめるのは愚かなことである。

 繰り返し言うが、日本はこれから「縮んでゆく」。

 その過程でさまざまなフリクションが生じるだろう。

 それがもたらす損害を最小に抑制し、「縮むこと」がもたらすメリットを最大化する工夫を凝らすこと、それが私たちにとってもっとも緊急な公的課題ではないのか。

(「縮み行く世界」『内田樹の研究室』 2010年08月31日)

 

 「人口減少社会」への対策を考える際には、「次世代への責任」、「未来世代への責任」ということも考慮する必要があるということです。

 以下の内田氏のブログ記事も、同様なことを主張しています。


「神奈川新聞のインタビュー」「反骨は立ち上がる」『内田樹の研究室』 2017年05月03日

「  日本ははっきり末期的局面にある。これから急激な人口減を迎え、生産年齢人口が激減し、経済活動は活気を失い、国際社会におけるプレゼンスも衰える。

 日本はこれから長期にわたる「後退戦」を戦わなければならない。

後退戦の要諦は、ひとりも脱落させず、仲間を守り、手持ちの有限の資源をできるだけ温存して、次世代に手渡すことにある。後退戦局面で、「起死回生の突撃」のような無謀な作戦を言い立てる人たちについてゆくことは自殺行為である。残念ながら、今の日本の政治指導層はこの「起死回生・一発大逆転」の夢を見ている。

 五輪だの万博だのカジノだのリニアだのというのは「家財一式を質に入れて賭場に向かう」ようなものである。後退戦において絶対に採用してはならないプランである。けれども、今の日本にはこの「起死回生の大ばくち」以外にはプランBもCもない。

 国として生き残るための代替案の案出のために知恵を絞ろうというひとが政官財の要路のどこにもいない。

 だが、そうした危機的現状にあって、冷静なまなざしで現実を眺め、自分たちが生き残るために、自分たちが受け継ぐはずの国民資源を今ここで食い散らすことに対して「ノー」を告げる人たちが若い世代からきっと出てくると私は思っている

 日本の人口はまだ1億2千万人ある。人口減は止められないが、それでもフランスやドイツよりははるかに多い人口をしばらくは維持できる。指導層の劣化は目を覆わんばかりだけれど、医療や教育や司法や行政の現場では、いまも多くの専門家が、専門家としての矜持を保って、私たちの集団を支えるために日々命を削るような働きをしている。彼らを支えなければならない。

 後退戦の戦い方を私たちは知らない。経験がないからだ。

 けれども、困難な状況を生き延び、手持ちの資源を少しでも損なうことなく次世代の日本人に伝えるという仕事について、私たちは好き嫌いを言える立場にはない。

 それは国民国家のメンバーの逃れることのできぬ義務だからである。

(「神奈川新聞のインタビュー」「反骨は立ち上がる」『内田樹の研究室』 2017年05月03日)

 

(5)「人口減少社会」への対策論②→「転換期の心構え」→情報を懐疑せよ

 

 これからの「人口減少社会」は、日本の歴史にとって未知の転換期になります。

 その時に、私たちは、いかなる心構えをするべきなのでしょうか?

 内田氏は「懐疑的精神」の重要性を強調しています。

 

「『難しさ』とは何か?」『内田樹の研究室』(2017.1.15)

「 転換期というのは、大人たちの大半が今何が起きているのかを実は理解できていない状況のことです。だから、大人たちが「こうしなさい」「こうすれば大丈夫」と言うことについても、とりあえず全部疑ってかかる必要がある。今は「マジョリティについて行けばとりあえず安心」という時代ではないからです。

 社会成員の過半数がまっすぐに崖に向かって行進しているということだって、おおいにありうるのです。

 ですから、この本に書かれていることだって(今僕が書いているこの言葉を含めて)、みなさんは基本的には「全部疑ってかかる」必要があります。

(「『難しさ』とは何か?」『内田樹の研究室』2017年1月15日) 

 

 以上のように内田氏は、懐疑的精神の必要性を主張しています。

 その上で、手に入る限りの、あらゆる資料、判断材料を入手して、自分自身で熟考していくことが大切でしょう。

 

 (6)「人口減少社会」への対策論③

→「若者の地方移住」の意味するもの

 

 内田氏は、現代日本において、一部の若者たちが地方移住をしていることに注目して、この現象が「人口減少社会」の対策論の実践として有用ではないか、と主張しています。

 傾聴するべき意見として、以下に引用します。

 

「地方移住の意味するもの」『内田樹の研究室』2017年07月31日

「  先週の『サンデー毎日』に少し長めのものを寄稿した。

 もう次の号が出る頃だからネットに再録。

 地方移住者たちは直感的にそういう生き方を選んだ。それは経済成長が止まった社会において、なお「選択と集中」という投機的な経済活動にある限りの国富を投じようとする人たち対抗して、まだ豊かに残っている日本の国民資源-温帯モンスーンの豊饒な自然、美しい山河、農林水産の伝統文化、地域に根付いた芸能や祭祀を守ろうとする人たちが選んだ生き方である。

 先月号の『フォーリン・アフェアーズ・レポート』では、モルガン・スタンレーのチーフ・グロバル・ストラテジストという肩書のエコノミストが、経済成長の時代は終わったという「経済の新しい現実を認識している指導者はほとんどない」ことを嘆いていた。経済目標を下方修正しなければならないにもかかわらず、政治家たちは相変わらず「非現実的な経済成長を目標に設定し続け」ている。

 中でも質の悪い指導者たちは「人々の関心を経済問題から引き離そうと、外国人をスケープゴートにしたり、軍事的冒険主義に打って出たりすることでナショナリズムを煽っている」(『フォーリン・アフェアーズ・レポート』、2017年 第六号、フォーリン・アフェアーズ・ジャパン、21-22頁)。

 まるで日本のことを書かれているような気がしたが、世界中どこでも政治指導者たちの知性の不調は似たり寄ったりのようである。

 だが、このエコノミストのような認識が遠からず「世界の常識」になるだろうと私は思っている。今求められているのは、この後始まる「定常経済の時代」において世界標準となりうるような「オルタナティヴ」(→当ブログによる「注」→alternative/「既存のものに取ってかわる新しいもの」という意味)を提示することである。

 若者たちの地方移住はその「オルタナティヴ」のひとつの実践である。

 海外メディアがこの動きを「超高齢化・超少子化日本の見出した一つの解」として興味をもって報道する日が来るのはそれほど遠いことではないと私は思っている。

(「地方移住の意味するもの」『内田樹の研究室』2017年07月31日)

 

 (7)「人口減少社会」への対策論④→「学びたいことを学ぶ。身につけたい技術を身につける」

 

 内田氏は、学生の立場からの「人口減少社会」への対策論についても言及しています。

 かなり参考になるので、以下に引用します。

 

「受験生のみなさんへ/サンデー毎日」『内田樹の研究室』2018年03月23日

「サンデー毎日」の先週号に「受験生のみなさんへ」と題するエッセイを寄稿した。

 高校生や中学生もできたら小学生も読んで欲しい。

 受験生のみなさんへ。

 こんにちは。内田樹です。この春受験を終えられた皆さんと、これから受験される皆さんに年長者として一言申し上げる機会を頂きました。これを奇貨として、他の人があまり言いそうもないことを書いておきたいと思います。

 それは日本の大学の現状についてです。いま日本の大学は非常に劣悪な教育研究環境にあります。僕が知る限りでは、過去数十年で最悪と申し上げてよいと思います。

 気鬱な予言になりますけれど、大学を含む日本の学校教育はこれから先ますます「落ち目」になってゆきます。V字回復の見込みはありません。もうすぐに18歳人口の急減によって、大学が次々と淘汰されて消えてゆきます。2017年度で大学を経営する660の学校法人のうち112法人(17%)が経営困難、21法人は2019年度中に経営破綻が見込まれています。みなさんがこれから進学しようとしている先は、そういう危機的状況にある領域なのです。

 じゃあ、どうすればいいんだ、と悲痛な声が上がると思います。上がって当然です。分かっているのは「こうすればうまくゆく」というシンプルな解は存在しないということです。

 初めて経験する状況ですから成功事例というものがない。生き延びる方途はみなさんが自力で見つけるか創り出すなりするしかない。書物やメディアで必要な情報を集め、事情に通じていそうな人に相談し、アドバイスに耳を傾け、分析し、解釈して、生きる道を決定するしかありません。

 そして、その選択の成否については自分で責任を取るしかない。誰もみなさんに代わって「人生の選択を誤った」ことの責任を取ってはくれません。

 どのような専門的な知識や技能を手につけたらよいのかを判断をする時にこれまでは「決して食いっぱぐれがない」とか「安定した地位や収入が期待できるから」という経験則に従うことができました。これからはそれができない。日本の産業構造や雇用状況は、これから、少子化、高齢化とAIの導入で激変することが確実だからです。

 でも、どの産業セクターが、いつ、どのようなかたちで雇用空洞化に遭遇するかは誰も予測できない。

 ですから、僕からみなさんにお勧めすることはとりあえず一つだけです。

 それは「学びたいことを学ぶ。身につけたい技術を身につける」ということです。「やりたくはないけれど、やると食えそうだから」といった小賢しい算盤を弾かない。「やりたいこと」だけにフォーカスする。

 それは自分がしたいことをしている時に人間のパフォーマンスは最も高まるからです。生きる知恵と力を最大化しておかないと生き延びることが難しい時代にみなさんは踏み込むのです。

(「受験生のみなさんへ/サンデー毎日」『内田樹の研究室』2018年03月23日)

 

 内田氏の言いたいことは、要するに、「人口減少社会」の到来という未知の転換期において、「生き延びる」ためには、目先の「不確定な」経済的利益にとらわれないで、「自らの意欲、希望」に従うべきだ、ということでしょう。

 私は、内田氏のこの意見に賛成します。

 そもそも、いつの時代でも、「自分の人生を大切にする」ためには、そういう「心構え」が不可欠なはずです。

 ましてや、未知の一種の動乱の時代には、この「心構え」こそが、自分を助けることになるでしょう。

 「好きこそ、ものの上手なれ」です。

 

(8)「人口減少社会」への対策論⑤

→「一般的な心構え」

 

  「一般的な心構え」としては、第二次世界大戦研究の第一人者・半藤一利氏の以下の見解が妥当でしょう。

 第二次世界大戦史・太平洋戦争史の研究を通して、秀逸な「日本人論」を主張している半藤氏の「人口減少社会」に関する考察は、かなり説得力があります。

 

『日本人は、なぜ同じ失敗を繰り返すのか 撤退戦の研究 (知恵の森文庫)』半藤 一利

「  たぶん日本は国家としての急激な伸張はもう望めないでしょう。美しく成熟するためにはどうすればいいかを考えなければならないときにきている。

 成熟の進行と少子化によって消費パワーは確実に落ちていく。それは国力の衰退を意味し、その結果、日本は一、二の国に追い越されることになる。ただし、一、二の国に追い越されても、日本が依然として経済的な大国であることは間違いない。

 

「  日本人は、これ以上思う通りに欲望を発散させないこと。ここまでで結構ということで満足することに合意すれば、これ以上自然は壊れない。

 今の生活の欲望をこれ以上発散させないこと、これ以上余計なことはしないこと、自己限定の決意、そうした落ち着いた生活というものを覚悟する。

 

「  戦略とはチョイス、選択。そして、選択とは決断。戦争で開戦するかしないかも難しい決断だが、最も難しいのは撤退戦である。

(『日本人は、なぜ同じ失敗を繰り返すのか  撤退戦の研究 (知恵の森文庫)』半藤 一利)

 

日本人は、なぜ同じ失敗を繰り返すのか 撤退戦の研究 (知恵の森文庫)

日本人は、なぜ同じ失敗を繰り返すのか 撤退戦の研究 (知恵の森文庫)

 

 

 

 (9)当ブログにおける「内田樹」関連記事の紹介

 

gensairyu.hatenablog.com

 

gensairyu.hatenablog.com

 

gensairyu.hatenablog.com

 

 ーーーーーーーー

 

今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

ご期待ください。

 

   

 

gensairyu.hatenablog.com

 

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サンデー毎日増刊 大学入試全記録 2018年度版

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頻出 難関私大の現代文 (アルファプラスシリーズ)

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5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

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 私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。

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予想問題/「言葉の生成について」内田樹/読解力・知的成熟

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 

 PISA 経済協力開発機構(OECD)の2015年国際学習到達度調査(PISA)で、日本の「読解力」の順位が前回の4位から8位に低下しました。

 このことを契機に、「教育現場」における「読解力の養成」が問題化しています。

  

   「子供の読解力の養成」について、最近、入試頻出著者・内田樹氏が、『内田樹の研究室』に秀逸な論考を発表しました。

 そこで、国語(現代文)・小論文対策として、以下にその概要を引用し、ポイントを解説していきます。

 

 

(2)予想問題/「言葉の生成について」内田樹/2018・3・28『内田樹の研究室』

 

(概要です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です)

 

「『徒然草』の現代語訳をしている時に、一つ発見がありました。今日はその経験を踏まえて、言葉はどうやって生まれるのか、言葉はどうやって受肉するのかという、言葉の生まれる生成的なプロセスについて、思うところをお話ししたいと思います。

 つい最近、PISA(→当ブログによる「注」→OECD生徒の学習到達度調査Programme for International Student Assessment、PISAとは、経済協力開発機構(OECD)による国際的な生徒の学習到達度調査のこと。日本では国際学習到達度調査とも言われるが、英語の原文は「国際生徒評価のためのプログラム」)の読解力テストの点数が劇的に下がったという報道がありました。記事によると、近頃の子どもたちはスマホなど簡便なコミュニケーションツールを愛用しているので、難解な文章を読む訓練がされていない、それが読解力低下の原因であろうと書かれていました。

 たしかに、それはその通りだろうと思います。しかし、だからと言って「どうやって読解力を育成するか?」というような実利的な問題の立て方をするのは、あまりよろしくないのではないかという気がします。

 というのは、読解力というのは目の前にある文章に一意的な解釈を下すことを自制する、解釈を手控えて、一時的に「宙吊りにできる」能力のことではないかと僕には思えるからです。

 難解な文章を前にしている時、それが「難解である」と感じるのは、要するに、それがこちらの知的スケールを越えているからです。

 それなら、それを理解するためには自分を閉じ込めている知的な枠組みを壊さないといけない。これまでの枠組みをいったん捨てて、もっと汎用性の高い、包容力のある枠組みを採用しなければならない。読解力が高まるとはそういうことです。大人の叡智に満ちた言葉は、子どもには理解できません。経験も知恵も足りないから、理解できるはずがないんです。ということは、子どもが読解力を高めるには「成熟する」ということ以外にない。ショートカットはない。

 僕はニュースを見ていて、読解力が下がっているというのは、要するに日本人が幼児化したのだと感じました。「読解力を上げるためにはこれがいい!」というようなこと言い出した瞬間に、他ならぬそのような発想そのものが日本人の知的成熟を深く損うことになる。(→当ブログによる「注」→ということは、子どもが読解力を高めるには「成熟する」ということ以外にない。ショートカットはない。→成熟する他に対策はないのに、対策を考えること自体が愚かなのです。)

 なぜ、そのことに気がつかないのか。」(「言葉の生成について」)

 

(当ブログによる解説)

 現代日本では、真の「市民的成熟」は非常に困難という事情があります。

 それでは、いかにして市民的成熟を達成するか?

 このことについては、内田樹氏の最近の著書『困難な成熟』が、かなり参考になります。

 この本は、著者に定期的に送られてくる人生相談の質問に答えたメルマガ連載を書籍化したものです。

 この本の最初には、次のような記述が、あります。

  タイトルは「困難な成熟」としました。我が師エマニュエル・レヴィナス先生の『困難な自由』から拝借しました。全体を貫く主題は「いかにして市民的成熟を達成するのか」というただひとつの問に集約されるように思ったからです。

 成熟というプロセスは「それまでそんなふうに見たことのない仕方でものごとをを見るようになった」「それまで、そんなものがこの世に存在するとは知らなかったものを認識した」というかたちをとる。

 

 最後の一文は、少々曖昧ですが、重要な示唆的な内容になっています。

 今回の「言葉の生成について」を『困難な成熟』を参照しながら読むと、理解が深まると思います。

 

困難な成熟

困難な成熟

 

 

 内田氏は、『内田樹の研究室』における別の記事(「大人への道」)で、以下のように、「資本主義の進展」により「日本社会の幼児化」が顕著になったと述べています。

 

「  企業から、「共同的に生きる」ということの基礎的なノウハウが欠如した社会集団(→当ブログによる「注」→ここでは、「幼児化したまま、成熟していない若者」をさしています)がいるのだけれど、それを「どうしたらいいのか」という問いがあった。

 「どうしたらいい」のかという対症的な問いの前に、「どうしてこのような集団が発生したのか」という原因についての問いが立てられなければならない。

 同じことをもう繰り返し書いているので、詳しくはもう書かないが、要するに「自己利益を優先的に追求すること」「自分らしく生きること」がたいへんけっこうなことであるというイデオロギーが80年代から20年余にわたり官民あげての合意によって、日本全体に普及したことの見事な結果である。

 当の若い方たちに責任があるわけではない。

 自己利益と自分らしさの追求が、国策的に推奨されたのは、それが集団の解体を促進し、市民たちの原子化を徹底し、結果的に消費活動の病的な活性化をもたらしたからである。

 考えれば当然のことだ。

 資本主義は市民の原子化・砂粒化(→当ブログによる「注」→伝統文化・伝統的価値の破壊、地域社会の破壊、家族関係の破壊、それらが導く個人の孤立化)を推し進める。

 「他者と共生する能力の低い人間」は「必要なものを自分の金で買う以外に調達しようのない人間」だからである。

 それこそ理想的な消費者である。

 それゆえ、高度消費社会は、「自分が自分の手で稼いだものについては、それを占有し、誰ともシェアしてはならない。『自分らしさ』は誰とも共有できない商品に埋め尽くされることで証示される」と信じる子どもたちを作り出すことに国力を傾けた。

 共生能力が低く、自己利益の確保を集団の利益の増大よりも優先させる若者たちは官民挙げての国民的努力の「成果」以外のなにものでもない。

 それについて「誰の責任だ」と凄んでみても始まらない。

 そのような若者たちのありようについては、ある年齢以上の日本人全員に責任がある(私自身は「そういうのはよろしくないです」とずっと言ってきたが、私の声がさっぱり「世論」の容れるところにならなかったのは畢竟私の非力さゆえであり、その意味では、この否定的状況について私もまたその有責者であることに変わりはない)。

 何より、このような共生能力の欠如は、日本社会が例外的に豊かで安全である限りは市場に活気をもたらす「プラス」の要因であったことを、私たちはどれほど苦々しくても認めなければならないと思う。

 そのような理想的消費者の出現のおかげで、現に企業はおおいに収益を上げたわけであるから(花王さんも含めてね)、いまさら「困った」と言われても困る。

 「痩せたい。でも食べたい」というのと同じである。

 この世が成熟した市民ばかりになれば、市場は「火が消えたようになる」けれど、それでもいいですか、ということである。

 というのも、「成熟した市民」は、その定義からして、他者と共生する能力が高く、自分の資産を独占せず、ひろく共用に供する人間だからである。

 それは自分もあまりお金をつかわないし、人にもつかわせない人、ということである。

「成熟した市民」とは言い換えれば「飢餓ベース」「貧窮ベース」の人間のことである。

 危機的状況でも乏しい資源しかない場所でも生き延びることができる「仕様」の人間のことである。

 記号的・誇示的な消費活動ともっとも無縁な人たちである。

 だから、資本主義は市民の成熟を喜ばない。

 そのことを肝に銘じておこう。

 日本社会が「子ども」ばかりになったのは資本主義の要請に従ったからである。

(「大人への道」内田樹『内田樹の研究室』2010年4月22日)

 

 

 さらに、内田氏は、『大人のいない国』の中で、今の日本には、「成熟した人間」のロールモデルがいないと、以下のように述べています。

 

(『大人のいない国』からの引用)

鷲田 幼稚な人が幼稚なままでちゃんと生きていける。

内田 そうなんです。欧米にもアジアにも、そんな社会ないですよ。日本みたいに外側だけ中高年で、中身が子どものままというような人たちが権力を持ったり、情報を集中管理していたりしたら、ふつうはつぶれますよ。

鷲田 今の日本には大人がいないんですよ。いるのは老人と子どもだけ。若い人はみんな、もう自分は若くないと思っているし、オジサン、オバサンたちはまだ自分はどこか子どもだと思っている。成熟していない大人と、もうこの先ないと思っている子どもだけの国になってしまいましたね。

内田 学生たちに聞くと「とにかく年をとりたくない」って言うんですよ。まだ20歳ですよ。子どもなのに、大人になりたくない、と。それも仕方がないかなとも思うんです。だって、成熟した人間のロールモデル(→当ブログによる「注」→自分にとって、具体的な行動・思考の模範・手本となる人物のこと)がいないんですから。

 (『大人のいない国』)

 

 

大人のいない国 (文春文庫)

大人のいない国 (文春文庫)

 

 

(「言葉の生成について」の概要の続き)

「  以前、ある精神科医の先生から「治療家として一番必要なことは、軽々しく診断を下さないことだ」という話を伺ったことがあります。それを、その先生は「中腰を保つ」と表現していました。この「中腰」です。立たず、座らず、「中腰」のままでいる。急いでシンプルな解を求めない。これはもちろんきついです。でも、それにある程度の時間耐えないと、適切な診断は下せない。適切な診断力を持った医療人になれない。

 今の日本社会は、自分自身の知的な枠組みをどうやって乗り越えていくのか、という実践的課題の重要性に対する意識があまりに低い。低いどころか、そういう言葉づかいで教育を論ずる人そのものがほとんどいない。むしろ、どうやって子どもたちを閉じ込めている知的な枠組みを強化するか、どうやって子どもたちを入れている「檻」を強化するかということばかり論じている。

 しかし、考えればわかるはずですが、子どもたちを閉じ込めている枠組みを強化して行けば、子どもたちは幼児段階から脱却することができない。できなくなる。でも、現代日本人はまさにそのようなものになりつつある。けっこうな年になっても、幼児的な段階に居着いたままで、子どもの頃と知的なフレームワークが変わらない。

(→当ブログによる「注」→悲惨な状況です。それに気付かないことも悲惨です。このことが、日本に固有な、歪んだ「高齢化社会」問題の原因の一つになっているのです→この点については、新たに記事化する予定です)

 もちろん、知識は増えます。でも、それは水平方向に広がるように、量的に増大しているだけで、深く掘り下げていくという垂直方向のベクトルがない。読解力というのは量的なものではありません。

 僕が考える読解力というのは、自分の知的な枠組みを、自分自身で壊して乗り越えていくという、ごくごく個人的で孤独な営みであって、他人と比較したり、物差しをあてがって数値的に査定するようなものではない。読解力とは、いわば生きる力そのもののことですから。

(→当ブログによる「注」→「読解力」=「生きる力そのもの」という指摘は、重要です)

 現実で直面するさまざまな事象について、それがどういうコンテクストの中で生起しているのか、どういうパターンを描いているのか、どういう法則性に則っているのか、それを見出す力は、生きる知恵そのものです。何か悲しくて、生きる知恵を数値的に査定したり、他人と比較しなくてはならないのか。そういう比較できないし、比較すべきではないものを数値的に査定するためには、「読解力とはこういうテストで数値的に考量できる」というシンプルな定義を無理やり押し付けるしかない。けれども、ある種のドリルやテストを課せば読解力が向上するという発想そのものが子どもたちの「世界を読み解く力」を損なっている。(→上記の「読解力」=「生きる力」=「生きる知恵」=「世界を読み解く力」は重要な指摘と言えます)

 僕がそのように思うに至ったのには、レヴィナスを翻訳した経験が深く与っています。レヴィナスは「邪悪なほど難解」という形容があるほど難解な文章を書く哲学者です。
 僕は1970年代の終わり頃、修士論文を書いている時にレヴィナスの名を知り、参考文献として何冊かを取り寄せ、最初に『困難な自由』という、ユダヤ教についてのエッセイ集を読みました。しかし、これが全く理解できない。そして、茫然自失してしまった。にもかかわらず、自分はこれを理解できるような人間にならなければということについては深い確信を覚えました。ただ知識を量的に増大させて太刀打ちできるようなものではない、ということはよくわかりました。人間そのものの枠組みを作り替えないと理解できない。

 それまでも難しい本はたくさん読んできましたが、その難しさは知識の不足がもたらしたもので、別に自分自身が変わらなくても、勉強さえすれば、いずれ分かるという種類の難解さに思われました。でも、レヴィナスの難解さは、あきらかにそれとは質の違うものでした。今のままの自分では一生かかっても理解できないだろうということがはっきりわかる、そういう難解さでした。その時は「成熟する」という言い回しは浮かびませんでしたが、とにかく自分が変わらなければ始まらないことは実感した。

 レヴィナスが難解だったのは、語学力や知識の問題というよりは、自分が幼くて、レヴィナスのような「大人」の言うことがわからなかったからだということがわかった。レヴィナスの書くものの本質的なメッセージは、一言で言うと、「成熟せよ」ということです。

 全く分からないけど、どんどん読む。そうすると、何週間かたつうちに、意味は分からなくても、テキストと呼吸が合ってくる。呼吸が合ってくると、「このセンテンスはこの辺で終わる」ということがわかる。どの辺で「息継ぎ」するかがわかる。そのうちにある語が来ると、次にどういう語が来るか予測できるようになる。ある名詞がどういう動詞となじみがいいか、ある名詞がどういう形容詞を呼び寄せるか、だんだん分かるようになる。不思議なもので、そうなってくると、意味が分からなくても、文章を構成する素材については「なじみ」が出てくる。

 そのうちにだんだん意味がわかってくる。

 でも、それは頭で理解しているわけじゃないんです。まず身体の中にしみ込んできて、その「体感」を言葉にする、そういうプロセスです。それは喩えて言えば、「忘れていた人の名前が喉元まで出かかっている」時の感じに似ています。これはただ「わからない」というのとはもう質が違います。体はもうだいぶわかってきている。それを適切な言葉に置き換えられないだけなんです。

 身体は、もうかなりわかっているんだけれど、まだうまく言葉にならないで「じたばたしている」、これこそ言葉がまさに生成しようとしているダイナミックな局面です。たしかに思いはあるのだが、それに十全に照応する記号がまだ発見されない状態、それはと子どもが母語を獲得してゆくプロセスそのものです。僕たちは誰もが母語を習得したわけですから、そのプロセスがどういうものであるかを経験的には知っているはずなんです。

 まず「感じ」がある。未定型の、星雲のような、輪郭の曖昧な思念や感情の運動がある。それが表現されることを求めている。言葉として「受肉」されることを待望している。だから必死で言葉を探す。でも、簡単には見つからない。そういうものなんです。それが自然なんです。それでいいいんです。そういうプロセスを繰り返し、深く、豊かに経験すること、それが大切なんです。

 レヴィナスを毎日翻訳するという生活が10年近く続いたわけですけれど、これだけ「わからない言葉」に身をさらすということをしていると、まだぴったりした言葉に出会っていない思念や感情は、いわば「身に合う服」がないまま、裸でうろうろしているような感じなんです。だから、何を見ても「あ、これなら着られるかな、似合うかな」と思う。四六時中そればかり考えている。新聞を読んでも、小説を読んでも、漫画を読んでも、友だちと話していても、いつも「まだ服を着ていない思い」が着ることのできる言葉を探している。そのことがずっと頭の中にある。そうすると、喉に刺さった魚の骨みたいなもので、気になって気になって、朝から晩まで、そのことばかり考えている。でも、魚の骨と同じで、そのことばかり考えているうちに、それに慣れて、意識的にはもう考えなくなってしまう。そして、ある日気がつくと、喉の痛みがなくなっている。喉に刺さっていた小骨が唾液で溶けてしまったんです。「痛い痛い」と言いながら、身体はずっと気長に唾液を分泌し続けていた。そして、ある日「喉に刺さった小骨」は溶けて、カルシウムになって、僕の身体に吸収され、僕の一部分になってしまっていた。

 新しい記号の獲得というのは、そういうふうにして行われるものだと思います。「記号化されることを求めているアイデアの破片」のようなものが、いつも頭の中に散らばっている。デスクトップ一杯に散らかっている。だから、何を見ても「これはあれかな」と考える。音楽を聴いても、映画を見ても、本を読んでいても、いつも考えている。

 そういう時に役に立つのは「なんだかよくわからない話」です。自分にうまく理解できない話。そういう話の中に「これはあれかな」の答えが見つかることがある。当然ですよね、自分が知っているものの中にはもう答えはないわけだから。知らないことの中から答えを探すしかない。自分がふだん使い慣れている記号体系の中にはぴったりくる言葉がないわけですから、「よそ」から持ってくるしかない。自分がそれまで使ったことのない言葉、よく意味がわからないし、使い方もわからない言葉を見て、「あ、これだ!」と思う。そういうことが実際によくあります。

 これは本当によい修業だったと思います。そういう明けても暮れても「言葉を探す」という作業を10年20年とやってきた結果、「思いと言葉がうまくセットにならない状態」、アモルファスな「星雲状態」のものがなかなか記号として像を結ばないという状態が僕にはあまり不快ではなくなった。むしろそういう状態の方がデフォルト(→当ブログによる「注」→「普通」という意味)になった。

 たいせつなのは、どういう「ヴォイス(voice)」を選ぶかということだと思います。「ヴォイス」というのは、その人固有の「声」のことです。余人を以ては代え難い、その人だけの「声」。

 国語教育目標は、生徒たち一人ひとりが自分固有の「ヴォイス」を発見すること、それに尽くされるのではないかと僕は思います。

 基本は呼吸なんです。呼吸は国語によって変わります。イタリア人やフランス人とは息継ぎのリズムが違います。イタリア人が日常的に話しているイタリア語をリズミカルに、抑揚をつけて話すとオペラになる。日本人でも日常の言葉を音楽的に処理すると、謡になったり、浄瑠璃になったり、落語になったりする。

 多くの人が勘違いしているようですけれど、自分の思考プロセスは自分のものではありません。それは、マグマや地下水流のようなもので、自分の外部に繋がっています。それと繋がることが「ヴォイス」を獲得するということです。呼吸と同じです。呼吸というのは酸素を外部から採り入れ、二酸化炭素を外部に吐き出すことです。外部がないと成り立たない。自分の中にあるものの組み合わせを替えたり、置き換えたりしているだけではすぐに窒息してしまいます。生きるためには外部と繋がらなければならない。

 言葉が生成するプロセスというのは、自分のものではありません。自分の中で活発に働いているけれども、自分のものではない。それに対する基本的なマナーは敬意を持つことなんです。自分自身の中から言葉が湧出するプロセスに対して丁寧に接する。敬意と溢れるような好奇心を以て向き合う。」(「言葉の生成について」)

 

 (当ブログによる解説) 

 上記の最終段落について解説します。

   「言葉が生成するプロセス」への「敬意」、つまり、「成熟」と「自分以外のものへの敬意」の「関係」については、『困難な成熟』の第3章「与えるということ」の一節が参考になります。

 「敬意」は「成熟」の前提条件ともいえるものです。

 

(以下、引用)

「  贈与は「私が贈与した」という人ではなく、「私は贈与を受けた」と思った人間によって生成するのです。 「目に映るすべてのものはメッセージ」(ユーミンの『優しさに包まれたなら』) この感覚のことを「被贈与の感覚」という。

 「カーテンを開いて、静かな木漏れ陽の、やさしさに包まれたなら、きっと、目に映るすべてのことはメッセージ」

 聴いて、はっとしました。これは贈与論ではないか、と。

「目に映るすべてのことはメッセージ」ですよ。この感覚のことを「被贈与の感覚」と僕は申し上げているわけです。

誰もメッセージなんか送っていないんです。

 木漏れ陽は誰かからのメッセージじゃありません。ただの自然現象です。でも、ユーミンはそこに「メッセージ」を読み出した。自分を祝福してくれるメッセージをそこから「勝手に」受け取った。そしてその贈り物に対する「お返し」に歌を作った。 

 その歌を僕らは聴いて、心が温かくなった。「世界は住むに値する場所だ」と思った。そういう思いを与えてくれたユーミンに「ありがとう」という感謝を抱いた。返礼義務を感じたので、とりあえずCDを買った(昔なので、買ったのはLPですけど。)

 そして、はじめてこの歌を聴いてから35年くらい経ってからも、こうやって「あれはいいね」という文章を書いている。

 贈与は 形あるものではありません。

 それは運動です。 人間的な営為のすべては「贈与を受けた立場からしか始まらない。

 そして、市民的成熟とは、「自分が贈与されたもの」 それゆえ「反対給付の義務を負っているもの」について、どこまで 長いリストを作ることができるか、それによって考慮されるものなのです。 そのリストが長ければ長いほど、「大人」だということになる。

 皆さんにしてほしいのは、ユーミンが歌ったとおり、 「目に映るすべてのことはメッセージ」ではないかと思って、 周りを見わたして欲しいということ、それだけです。

 (『困難な成熟』)

 

 また、上記の「言葉の生成について」の中の、

「言葉が生成するプロセスというのは、自分のものではありません。自分の中で活発に働いているけれども、自分のものではない」

の部分は、「言語道具観」とは異なる内田氏の「言語観」を知っておくと、分かりやすくなります。

 従って、「言語観」についての内田氏の見解(「白川静先生を悼む」『内田樹の研究室』2006年11月6日)を引用します。

 

「  白川先生の漢字論は『コミュニケーションの道具としての言葉』という功利的言語観と隔たるところ遠い。

 私たちが言葉を用いるのではなく、言葉によって私たちが構築され変容されてゆく。

 白川先生はそう教えた。

 この言語観はソシュール以後の構造主義言語学やレヴィ=ストロースやジャック・ラカンの構造主義記号論と深く通じている。

 そういう意味で白川静先生は「日本を代表する構造主義者」と呼んでよいのではないかと私は思っている。

(内田樹「白川静先生を悼む」『内田樹の研究室』2006年11月6日)

 

 (「言葉の生成について」の概要の続き)

「ヴォイス」の発見とは、自分の中で言葉が生まれていくプロセスそのものを観察し、記述できること、そう言ってよいかと思います。自分の中で言葉が生まれ、それを使ってなにごとかを表現し、今度はそうやって表現されたものに基づいて「このような言葉を発する主体」は何者なのかという一段次数の高いレベルから反転して、自己理解を深めてゆく。そういうダイナミックな往還の関係があるわけです。そのプロセスが起動するということがおそらく「ヴォイス」の発見ということではないかと僕は思います。(→当ブログによる「注」→「ヴォイス」の発見は「自己理解」の重要なプロセス、という指摘は、「自己理解」を考察する上で必要なことです)

 今の子どもたちの語彙が貧困で、コミュニケーション力が落ちている最大の理由は、周囲の大人たちの話す言葉が貧困で、良質なコミュニケーションとして成り立っていないからです。

 周りにいる大人たちが陰影に富んだ豊かな言葉でやりとりをしていて、意見が対立した場合はさまざまな角度から意見を述べ合い、それぞれが譲り合ってじっくり合意形成に至る、そういうプロセスを日常的に見ていれば、そこから学ぶことができる。それができないとしたら、それは子どもたちではなく、周りの大人たちの責任です。

 もし今の子どもたちの読解力が低下しているとしたら、その理由は社会自体の読解力が低下しているからです。子どもに責任があるわけじゃない。大人たち自身が難解な文章を「中腰」で読み続けることがもうできない。

 時々、議論を始める前に、「まずキーワードを一意的に定義しましょう。そうしないと話にならない」という人がいますね。そういうことを言うとちょっと賢そうに見えると思っているからそんなことを言うのかも知れません。でも、よく考えるとわかりますけれど、そんなことできるわけがない。キーワードというのは、まさにその多義性ゆえにキーワードになっている。

 それが何を意味するかについての理解が皆それぞれに違うからこそ現に問題が起きている。その定義が一致すれば、もうそこには問題はないんです。語義の理解が違うから問題が起きている。

 語義についての理解の一致こそが議論の最終目的なわけです。

 そこに到達するまでは、キーワードの語義はペンディングにしておくしかない。多義的なまま持ちこたえるしかない。今日の僕の話にしても「教育」とは何か、「学校」とは何か、「言語」とは何か、「成熟」とは何か・・・・無数のキーワードを含んでいます。その一つ一つについて話を始める前に一意的な定義を与え、それに皆さんが納得しなければ話が始められないということにしたら、僕は一言も話せない。語義を曖昧なままにして話を始めて、こちらが話し、そちらが聴いているうちに、しだいに言葉の輪郭が整ってくる。合意形成というのは、そういうものです。

 僕たちが使う重要な言葉は、それこそ「国家」でも、「愛」でも、「正義」でも、一義的に定義することが不可能な言葉ばかりです。しかし、定義できるということと、その言葉が使えるということはレベルの違う話です。一意的に定義されていないということと、その言葉がそれを使う人の知的な生産力を活性化したり、対話を円滑に進めたりすることとの間に直接的な関係はないんです。むしろ、多義的であればあるほど、僕たちは知的に高揚し、個人的な、個性的な、唯一無二の定義をそこに書き加えていこうとする。

 でも、それは言葉を宙吊りにしたまま使うということですよね。言葉であっても、観念であっても、身体感覚であっても、僕たちはそれを宙吊り状態のまま使用することができる。シンプルな解に落とし込まないで、「中腰」で維持してゆくことができる。その「中腰」に耐える忍耐力こそ、大人にとっても子どもにとっても、知的成熟に必須のものだと思います。でも、そういうことを言う人が今の日本社会にはいない。全くいない。」(「言葉の生成について」)

 

(当ブログによる解説)

 上記は「効率第一主義」の弊害が顕著になっています。

 すべてのことに「効率第一主義」を適用することは、誤りといえます。

 ましてや、「本質的な議論」に「効率第一主義」を適用しようとする発想は、異様としか言えません。

 「本質的な議論」は、時間をかけて徹底的におこなうべきでしょう。

  

(「言葉の生成について」の概要の続き)

「  誰もが「いいから早く」って言う。「400字以内で述べよ」って言う。だから、こういう講演の後に質疑応答があると、「先生は講演で『宙吊り』にするということを言われましたが、それは具体的にはどうしたらいいということですか」って(笑)、質問してくる人がいる。「どうしたらいいんですか」というシンプルな解を求めるのを止めましょうという話をしているのに、それを聞いた人たちが「シンプルな解を求めないためには、どうしたらいいんですか」というシンプルな解を求めてくる。

(→当ブログによる「注」→この部分は低レベルなコントのようになっています。登場人物は、どうしようもない「漫画的な愚者」です)

 自分で考えてください、自分で考えていいんです。自分で考えることが大切なんです、とそういう話をしているのに、「一般解」を求めてくる。何を論じても、「で、早い話がどうしろと言っているんですか?」と聞いてくる。そこまで深く「シンプルな解」への欲求が内面化している。

 首尾一貫した、整合的なセンテンスを語らなければならないというルールがいつから採用されたんでしょう。だって、言葉の生成というのはそういうものじゃないでしょう。言葉がなかなか着地できないまま、ふらふらと空中を漂って、「なんて言えばいいんだろう、もっと適当な表現はないかなあ」と、つっかえたり、言いよどんだり、前言撤回したり、そういう言語活動こそが「ヴォイス」を獲得するために必須の行程なんです。そういう言葉がうねうねと渦を巻くようなプロセスを「生成的なもの」だと見なして、大人たちが忍耐強く、興味深くそれを支援するということが言葉能力の成熟のためには絶対に必要なんです。」 

(2016年12月9日 大阪府高等学校国語研究会にて)

(「言葉の生成について」内田樹/2018・3・28『内田樹の研究室』)

  

 

 (当ブログによる解説)

 上記の論考の中心ポイントである、「読解力」と「経験・年齢」の「関係」については、『寝ながら学べる構造主義』の「あとがき」に、以下のように書かれています。

 かなり参考になるので引用します。

 

「  私は二十歳の頃、構造主義という当時最先端の思想に食いつこうと必死だったが、難解すぎてさっぱり分からなかった。

 それから歳を経て人並みに世間の苦労を積み、「人としてたいせつなこと」が段々と分かるようになってきました。

 そういう年回りになってから読むと、かつては邪悪なまでに難解であった構造主義者の言いたいことがすらすら分かるじゃありませんか。

 レヴィ=ストロースは要するに「みんな仲良くしようね」と言っており、バルトは「ことばづかいで人は決まる」と言っており、ラカンは「大人になれよ」と言っており、フーコーは「私はバカが嫌いだ」と言っているのでした。

 べつに哲学史の知識がふえたためでも、フランス語読解力がついたためでもありません。

 馬齢を重ねているうちに、人と仲良くすることの大切さも、ことばのむずかしさも、大人になることの必要性も、バカはほんとに困るよね、ということも痛切に思い知らされ、おのずと先賢の教えがしみじみ身に沁みるようになったというだけのことです

 (内田樹『寝ながら学べる構造主義』)

 

*1" src="https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/41XEPVMR1ML._SL160_.jpg" alt="寝ながら学べる構造主義 *2" />

寝ながら学べる構造主義 *3

 

 

 やはり、「読解力」アップのポイントは、「知的成熟」、つまり、「大人になる」ことなのでしょう。

 しかし、子供にとっては、上記の「言葉の生成について」で述べられているように、身近に手本となるような「大人のロールモデル」がいないという不幸な現状があります。

 現代の日本社会が、「大人」というものの価値を認識していないので、「真の大人」がいなくなっているのです。

 

 内田樹氏と同様に、鷲田清一氏も、『大人のいない国』の「プロローグ」で、「大人」というものの再評価を主張しています。

 

「  近頃の不正の数々は、システムを管理している者の幼稚さを表に出した。

 ナイーブなまま、思考停止したままでいられる社会は、じつはとても危うい社会であることを浮き彫りにしたはずなのである。それでもまだ外側からナイーブな糾弾しかしない。そして心のどこかで思っている。いずれだれかが是正してくれるだろう、と。しかし実際にはだれも責任をとらない。

 サーヴィス社会(→当ブログによる「注」→「高度消費社会」と言い換えてもよいでしょう)たしかに心地よい。けれども、先にあげた生きるうえで欠かせない能力の一つ一つをもういちど内に回復してゆかなければ、脆弱なシステムとともに自身が崩れてしまう。システム管理者の幼稚さはそのことを知らせたはずだ。

 「地域の力」といったこのところよく耳にする表現も、見えないシステムに生活を委託するのではなく、目に見える相互のサービス(他者に心をくばる、世話をする、面倒をみる)をいつでも交換できるように配備しておくのが、起こりうる危機を回避するためにはいちばん大事なことだと告げているのだろう。これ以上向こうに行くと危ないという感覚、あるいはものごとの軽重の判別、これらをわきまえてはじめて「一人前」である。

 ひとはもっと「おとな」に憧れるべきである。そのなかでしか、もう一つの大事なもの、「未熟」は、護れない。芸術をはじめとする文化のさまざまな可能性を開いてきた「未熟」な感受性を、護ることはできない。 (『大人のいない国』)  

 

 

 (3)当ブログにおける「内田樹」関連記事の紹介

 

gensairyu.hatenablog.com

 

gensairyu.hatenablog.com

 

gensairyu.hatenablog.com

 

ーーーーーーーー
  

 今回の記事は、これで終わりです。

 次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

 ご期待ください。

   

 

gensairyu.hatenablog.com

 

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困難な成熟

困難な成熟

 

 

頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

 

 

5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

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 私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。

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*1:文春新書

*2:文春新書

*3:文春新書

予想問題「スポーツ本来の意義 高尚な遊び取り戻す時」佐伯啓思

 (1)なぜ、この記事を書くのか?

 

 「遊びの精神」は、 入試頻出論点です。

 また、東京オリンピック、最近のマラソンブーム、ジョギングブーム等により、「スポーツ」関連論点は流行論点になっています。

 最近の日大アメリカンフットボール部の「危険なタックル問題」が、きっかけとなり、「スポーツ」関連論点は、さらに流行する可能性があります。

 

 最近、入試頻出著者・佐伯啓思氏が、「遊びの精神」・「スポーツ」」に関する秀逸な論考を発表しました。

 来年度以降の入試国語(現代文)・小論文対策として、この論考、および、「遊びの精神」について、幅広く解説します。

 

 なお、今回の項目は以下の通りです。記事は、約1万字です。

 

(2)予想問題/「スポーツ本来の意義 『高尚な遊び』取り戻す時」(佐伯啓思『朝日新聞』2018・6・1「異論のススメ」))

(3)ホイジンガの主張する「遊戯」・「高尚な気晴らし」について

(4)「遊びの価値」について

(5)「ゆとり」とは何か?

(6)「遊びの精神」・「余裕」の必要性

(7)「遊びの精神」・「余裕」を身に付けるためには?

(8)当ブログにおける「佐伯啓思」関連記事の紹介

(9)当ブログにおける「スポーツ」関連記事の紹介

 

 

(2)予想問題/「スポーツ本来の意義 『高尚な遊び』取り戻す時」(佐伯啓思『朝日新聞』2018・6・1「異論のススメ」))

 

(概要です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です)

(以下、同じです) 

 

「  アメフトの試合における日大の悪質な反則行為が社会問題となっている。連日、ニュースのトップを飾るほどの事件かとも思うが、なにせこのところのトップニュースは、「もり・かけ(森友・加計学園)問題」から、財務省の事務次官を始めとする多様なセクハラ問題と、何やら各種・各所の「反則」行為とその糾弾ばかりが目立っている。

 日大アメフト問題はともかく、改めてスポーツについて論じてみたい。スポーツとは、もともとディス・ポルトという語源をもっているようだが、これは船が停泊する港(ポルト)を否定する(ディス)ものであり、停泊地から離れる、つまり、はめをはずす、といった意味を含んでいるという説がある。実際、英語の「スポート」には「戯れ」や「気晴らし」や「ふざけ」といった意味がある。だから、もともとスポーツは「はめをはずす」ものといえるのだが、その第一義的な意義は、それが日常の窮屈な秩序や組織の規則から一時的に解放されて気晴らしを行う、という点にあった。日常のなかに無理やりに押し込まれた過剰なエネルギーの発露である。

 ところが、オランダの歴史家であるヨハン・ホイジンガが、かつて「ホモ・ルーデンス」(1938年)と題する本で、人間の文化は(そして政治も経済も)「遊び」のなかで生み出された、述べた。「ホモ・ルーデンス」とは「遊び(ルードゥス)」から発した「遊ぶ人」だ。

 もちろん、これは「遊び人」ではない。「ホモ・ルーデンス」とは、ただ生きるという生存活動ではなく、日常的生活を超えた次元で、人間のもつ過剰なエネルギーが生み出した活動の様式なのである。「遊び」という言葉が十分に暗示しているように、それは、生活必需品の生産や確保を旨とする日常の活動とは異なった次元にあった。賞品や名誉をめぐって争われる競技など、その典型であろう。生を確保するための日常の活動では人々は必死になるが、この過剰なエネルギーの発露である「遊び」においては、人は、どこか余裕をもち、楽しんで気晴らしをするだろう。

 ホイジンガは、その場合、非日常的なこの過剰なエネルギーを整序するものとして、とりわけ宗教的・儀式的なものの役割を重視している。古代ギリシャのオリンピックも、もともとは神々へ捧げる祝祭の競技であった。スポーツは、確かに「遊び(ルードゥス)」を起源としているが、「スポーツ」がもっている非日常的な「はめはずし」の行き過ぎを防ぐものは、その背後にある「聖なるもの」であり、そこに一定の「様式」や「規則」が生み出されてきたのである。日本では、「道」という観念がその代替的役割を果たしたのであろう。

 そして、神々を背後において行われる競技という「遊び」の精神は、ソクラテスやソフィストの言論競技の根底にもあり、そうだとすれば、それは言論を戦わせる民主政治にも通じる。また、もともと、聖なる場所にしつらえられた市場でモノのやりとりをする市場経済にも通じるものである。それらの根底には「遊び」の要素がある。

 とすれば、「スポーツ」にも、また政治上の言論戦にも、また経済競争にも、どこか余裕があり、楽しむ精神があり、偶発性があり、ルールがあり、その先には、何らかの「聖なるもの」へ向けた意識があった神々が見ている、というような意識である。スポーツの競争や競技は、むろん真剣勝負であるが、その真剣さは、生きるための日常の必死な生真面目さとは一線を画した、どこかに余裕をもった真剣勝負であった。

 ところが、オランダの歴史家であるホイジンガは、今日、スポーツから遊びが失われている、という。そもそも、祭祀(さいし)との関連がすっかり失われ、ただただ勝つことや記録だけが自己目的化され、カネをかけた大規模な大会に組織され、機械的で合理的な訓練が優位となり、もっぱら職業的な活動となっている。これでは、本来の「高尚な気晴らし」は失われてしまう。勝つために合理的に訓練され組織された闘争本能の発露になっている、ということだ。

 政治も経済も、もともと「遊び」に淵源(えんげん)をもつというホイジンガの発想を借用すれば、今日の民主政治も市場競争も、スポーツと同様、あまりに合理化され、組織化され、過度に勝敗にこだわり、数字に動かされ、自由さも余裕も失ってしまったようにみえる。確かに、今日の国会論戦も、金融市場の投機も、どこかゲーム的で「過剰なエネルギーの発露」の感がないわけではないが、そこには、「遊び」のもつ余裕もなければ、逆に生きる上での必死の生真面目さもない。ただ、「勝つこと」だけがすべてになってしまった。

 今日、大衆的なショウと化した政治も過度に競争状態に陥った経済も、そしてスポーツも、従来のルールに従っていては勝てない。だから、トランプのような「反則的な」大統領が登場して保護主義を唱え、習近平が自由貿易を唱えている。これも反則であろう。フェイクニュースの横行も反則である。本来の「遊び」が失われてしまい、本当に、はめがはずれてしまった。勝つためには反則でもしなければ、という意識があらゆる領域で社会を動かしている。「遊び」がもっていた余裕や自由さが社会からなくなりつつあるのだ。まずはスポーツこそ人間存在の根源にある「遊び」の精神を取り戻す時であろう。」

(「スポーツ本来の意義 『高尚な遊び』取り戻す時」佐伯啓思『朝日新聞』2018・6・1「異論のススメ」)

 

 現代文明は、「余裕」や「人間性」を喪失した、下品で悲惨な状況になっているようです。

 特に、日本社会は、政治の失敗、グローバル化の影響により、「余裕」・「ゆとり」をすっかり失い、貧困化し、節約ヒステリーに陥っている感じです。

 また、マスコミや医学界に踊らされて健康ヒステリー、清潔パニックにも陥っているようです。

 日本社会の劣化が露呈しているのです。


 日本人は、本来は「遊びの達人」でした。

 日本の伝統文化には「遊びの精神」が色濃いようです。

 「梁塵秘抄」には、次のような有名な一節があります。

 「遊びをせんとや生まれけむ

 戯れせんとや生まれけん

 遊ぶ子供の声聞けば

 我が身さへこそ動(ゆる)がるれ」

 歌舞伎、能楽、狂言、茶の湯、花道、歌舞伎、落語、和歌、俳句、川柳、民謡等には、「遊びの精神」が充満しています。

 しかし、近代以降の日本は「遊び」を軽視しています。

 

 教育の分野でも、すぐに役に立つ実用的な教育が求められる傾向があります。

 果たして、それで創造的な人間が育つでしょうか?

 

 最近の、日本の淀んだような閉塞感を払拭するためには、「遊びの精神」の再評価が不可欠でしょう。

 

朝日新聞デジタル

朝日新聞デジタル

 

 

 

(3)ホイジンガの主張する「遊戯」・「高尚な気晴らし」について

 

 ホイジンガは、「遊戯」、「高尚な気晴らし」、「聖なる遊び」について、以下のように述べています。

 ホイジンガは、「遊び」は、「単なる遊び」ではなく、宇宙における人間存在を高貴たらしめている、「聖なるなるもの」、「美なるもの」という側面がある、と強調しているのです。

 以下に、上記の佐伯氏の論考に関連するホイジンガの見解を引用します。

 

「  プラトンの遊びと神聖なるものとの同一化は、神聖なものを遊びと呼ぶことで冒瀆(ぼうとく)しているのではない。その反対である。彼は、遊びという概念を、精神の最高の境地に引きあげることによって、それを高めている。われわれは、この本の初めの箇所で、遊びはすべての文化に先行して存在していた、と述べた。人間は子どものうちは楽しみのために遊び、真面目な人生の中に立てば、休養、レクリエーションのために遊ぶ。しかし、それよりもっと高いところで遊ぶこともできるのだ。それが、美と神聖の遊びである。」

 

「  祭礼の行為は遊びでありつつ、同時に、清め、祈り、救済の約束、等々であり、共同体の安寧と福祉を人々に確信させるという、高次の機能を果たしている。聖なる遊びは、共同体の繁栄のためになくてはならぬものであり、宇宙的洞察と社会の発展を内に秘めていながら、しかし常に遊びであり、必要と真面目の味気ない世界の外で、それを超えて成し遂げられる行為である。」


「  遊戯というものが現にあるということが、宇宙の中でわれわれ人間が占めている位置の超理論的な性格を、絶えず幾度となく証明する理由になっているのであり、しかもこの場合、それが最高の意味での証明でさえある。動物は遊戯をすることができる。だからこそ、動物はもはや単なる機械的なもの以上の存在である。われわれは遊戯もするし、それと同時に、自分が遊戯していることを知ってもいる。だからこそ、われわれは単に理性を行使するだけの存在以上のものである。」

 

「  遊戯はものを結びつけ、また解き放つのである。それはわれわれを虜にし、また呪縛する。それはわれわれを魅惑する。すなわち遊戯は、人がさまざまな事象の中に認めて言い表わすことのできる性質のうち、最も高貴な二つの性質によって充されている。リズムとハーモニーがそれである。」

 


(4)「遊びの価値」について

 

 上記の佐伯氏の論考の最終部分では、以下のように述べられています。

 

「遊び」がもっていた余裕や自由さが社会からなくなりつつあるのだ。まずはスポーツこそ人間存在の根源にある「遊び」の精神を取り戻す時であろう。

 

 この言葉は重要です。

 人間存在の根源には、「遊びの精神」があるのです

 「遊びの精神」は人間にとって不可欠、と言ってもよいでしょう。

 

 この点に関して、プラトンは、以下のように述べています。

「  人間のさまざまの問題は、たしかに大いなる真面目さをもってするには値しないものです」

 ここでプラトンが意識しているのは、「パイデイアπαιδεία」という言葉です。

 「パイデイア」は「パイディアπαιδία」(「子どもの遊び」という意味。転じて「遊び一般」)から派生した来た言葉で、「教育」・「教養」といった意味を有しています。

 プラトンは、「遊び」につながる「この語本来の意味」に注目しているようです。

 そして、「正しい生き方とは、一種の『遊び』を楽しみながら、人生を過ごすことにある。そうすることによって、私達は神の加護を受け、戦争にも勝利することができる」と言っています。

 

 遊びは、つらい人生を生きていくための大切な要素であり、人生を支える基盤のひとつなのです。

 従って、人間的に豊かに生きていくためには、「遊びの精神」を忘れては、いけないでしょう。

 

 ドイツの教育学者で、幼児教育の祖であるフレーベルは、子ども時代の「遊び」を評価し、「遊びは人を強くする精神的沐浴(もくよく)」と述べています。

 このことは、「大人の遊び」にも、通じる部分があると思います。

 

 しかし、現代の日本人は、「遊び」というものに偏見を持っている感じです。

 余裕がないのでしょうか?

 

 このことについて、多田道太郎氏が『遊びと日本人』の中で、洒落た卓見を述べています。

 考えさせる内容を含んでいるので、以下に引用します。

「『大人の遊び』というものに関して、私たちは、大抵、冷淡である。むしろ、冷酷である。ときには酷薄でさえある。遊びそのものの魅力には、われ知らず引き寄せられる一方、私たちは傍観者としては、冷たくこれを射る眼をもっている。これはどうしたことか、と問うことも愚に似ている。それほど堅い偏見の殻が遊びについての考えを厚くおおうている。」

「  最も感動的な子供の遊びを上限に置き、もっとも非感動的なセックスや麻薬の遊びを下限におくと、その上限下限の階段序列にさまざまの遊びを置くことができる。そして、ひとは、ある遊びを許し、他の遊びを許さないが、そのことは、当の人物のリベラル度をはかる物差しともなる。

 

 哲学者であるスピノザも、『エチカ』(1677年)の中で次のように述べています。

「  人間の体は、性質を異にする多くの部分から成り立っているので、それぞれの器官がいつもよく働き、心身共に能力を十分に発揮するためには、それぞれの諸器官が多様で必要な栄養をとらえねばならない。自由な生活の楽しみこそが、生命活動の栄養である。」

 

 18世紀のドイツの詩人、フリードリヒ・フォン・シラーも、「遊びの重要性」について、以下のように述べているのです。

「  人間は、文字通り人間であるときだけ遊んでいるのであって、遊んでいるところでだけ真の人間なのだ。」

 

 「人間」と「遊び」は、密接な関係にあるということでしょう。

 「遊んでいるところでだけ真の人間なのだ」の部分は、感動しました。

 そして、思わず納得してしまいました。

 

 「遊び」は、「人間の豊かさ」の原点です。

 さらに、「面白さを追求する精神」が「創造力の源泉」となり、社会を豊かにしていくのです。

 「スポーツ」・「遊び」の教育的効果だけでなく、「人間としての豊かさ」を育成する要素としての「スポーツ」・「遊び」の重要性を意識するべきでしょう。

 

 

(5)「ゆとり」とは何か?

 

 ところで、「ゆとり」とは、何でしょうか?

 曖昧な内容を含んだ言葉です。

 なかなか、実感できない側面があります。

 辞書をひくと、「余裕を持たせるために設けられた空間」と説明され、類語として、「スペース」 ・  「余剰 」・「余り」 ・ 「残り」などが挙げられています。

 

 この点について、入試頻出著者・鷲田清一氏が、鋭い指摘しているので、以下に引用します。

 

 「 ゆとりとは、じぶんが自由にできる時間をもつということではなくて、意のままにならないもの、それは物であったり別の生き物であったり記憶であったりするが、そういうもののひとつひとつに丁寧に接するなかで生まれてくるものであるはずだ。それは、じぶん以外の何かを迎え容れうる、そういう空白をもっているということであって、くつろぐ、つまりじぶんの気に入ったもので回りを満たすという態度とは正反対のものなのである。」(『想像のレッスン』鷲田清一)

 

  「ゆとり」と「くつろぎ」が、正反対という指摘には、唸るしか、ありません。

 

〈想像〉のレッスン NTT出版ライブラリーレゾナント015

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(6)「遊びの精神」・「余裕」の必要性

 

 「遊びの精神」・「余裕」は、人間が真に人間的に生きるためには、必要不可欠なものです。

 このことを、明解に気付かせてくれる、皮肉的な論考を以下に紹介します。

  佐原真氏の『遺跡が語る日本人のくらし』です。

 

「  オーストラリアのヨーク半島の付け、西側にいたイル=イヨロント族の変化を見てみます。 

 かれらは食料採集民で、狩りをしたり木の実を集めたりという生活をしていました。かれらにとっても石斧(いしおの)は男のものでした。奥さんや子供が借りることはできましたけれど、借りるとき、返すときのあいさつは、夫は妻に、父は子に優位に立っていることを確かめる機会でした。そこへ白人がやってきて、鉄の斧が入ってきました。イル=イヨロント族の人びとが白人の手助けをすると、その代償として鉄の斧をくれたりします。ときには、奥さんが鉄の斧をもらうことがあります。夫のほうは石の斧しかもっていないのに、奥さんが鉄の斧をもっていることになります。そうすると、「すまんけど、おまえの鉄の斧を貸してくれ」ということもおきてきます。これが石が鉄に代わったことでおきたさまざまな結果の一つです。 

 もっと重要なことは、イル=イヨロント族が浮いた時間をどう使ったかということです。この点にいま私は大きな関心をもっています。 

 浮いた時間を使って、なんとかれらは昼寝をしたのです。私はじつは、その部分を読んだときに吹き出してしまいました。この笑いには軽蔑の意味もふくまれていたと思うのです。ところが、私のこの感想は実はまちがっていた、といまは思っています。 

 二千年前、日本ではどうだったでしょうか。石から鉄へと変わってきたときに、弥生人はおそらく浮いた時間で宴会に出席することも、昼寝をすることもしませんでした。石から鉄への変化を、生産力の飛躍的な増大につなげたのです。いままで石の斧が一本倒している時間で、四本倒すというぐあいに、すごく生産力を高めたのです。 

 四世紀、六世紀(古墳時代)の農民が働き者だったことは、群馬県で火山の噴火や洪水の直後に復旧工事にとりくんだ証拠からわかっています。また、日本の農業が草をとればとるほど、よい収穫を約束される農業であることから、弥生農民が働き者だったことを、私は予測しています。 

 パプア=ニューギニアやオーストラリアでは浮いた時間を遊びに使ったのに、日本では労働に使ったということで、日本人は勤勉だと先祖をほめたたえるつもりか、と思われるかもしれません。そうではありません。 

 道具や技術は、毎年のようにどんどんすぐれたものになっていきます。なんのためだと思いますか。質問すると、すこしでも楽になるようにとか、効率がよくなるようにとか、企業がもうけるためだとかいう答えがよくもどってきます。しかし、結果から見ると、私はそうではない面もあると思うのです。 

 じつは、私たちを忙しくするために道具や技術は発達してきているのではないでしょうか。それまで十時間かかったところを、三時間で行くことができるようになったとします。浮いた七時間をどう使うかと考えてみると、ほかの仕事をしているのです。 

 すくなくとも、つい最近までは、歩いている時間とか車に乗っている時間はボケーッとしていることができました。あるいは空想にふけることができました。しかし、いまや携帯電話ができたのです。歩いていても、車に乗っていても、いつ電話がかかてくるかわかりません。相手からだけでなくて、自分からもかけます。なにもそんなときまでと思うのですが、そんな大人たちが増えています。 

 私たちは、技術や道具の発達は自分たちを解放するためだと思っていますが、じつは大きな誤解で、自分たちを忙しくするために技術や道具が発達している面もあるのではないかと思うのです。

 そこで私は思うのです。オーストラリアのイル=イヨロント族が浮いた時間を寝たというのは、正解だ、と。 

 多田道太郎さんは、つぎのようなことを私に語ってくれました。 

「日本には『休む』とか『怠ける』ということばがあるけれども、みんな悪い意味で使われている。しかし、私たちは、むしろ強制されたことはなにもしないという状況に自分をおくことがたいせつだ。そういう状況のなかで、自由にしたいことをする、それが遊びだ。

 多田さんのいうことのなかに、私にとって非常に重要なことが含まれていました。それは、強制されている状況からは空想力がはばたくはずがない、休んではじめて人間の構想力とか空想力がはばたくのだということです。働きづめに働いていると、そのあげくに出てくることは、しょせんたいしたことはないのだということです。空想力は想像力とおきかえてもいい。アインシュタインが知識よりも想像力のほうがずっと大切だ、と言っていることを思いだします。 

 たしかに日本人は働きすぎると思います。私たちはもうすこし余裕をもって、いい意味での怠惰の精神、遊びの精神で生きていくべきではないでしょうか。これを、なによりもまず自分自身に言いたいと思います。 もっと余裕をもって、遊びをもって生きていったらいいのではないか、それをイル=イヨロント族に学びたいという思いなのです。

(佐原真『遺跡が語る日本人のくらし』)

 

  以下の部分を読み、佐原氏の発想に、思わずニヤリとしてしまいました。

 現代文明は、根本的に愚かなのでしょうか。

 その愚かな面に誰も気付かない不思議さ。

 「常識」の恐ろしさということが、よく分かります。

 常識の刻印が押された瞬間に、私達は、疑問を感じなくなるでしょう。

 そのバカバカしさを、オーストラリアのイル=イヨロント族が教えてくれている感じです。  

 

 「 私たちは、技術や道具の発達は自分たちを解放するためだと思っていますが、じつは大きな誤解で、自分たちを忙しくするために技術や道具が発達している面もあるのではないかと思うのです。

 そこで私は思うのです。オーストラリアのイル=イヨロント族が浮いた時間を寝たというのは、正解だ、と。 」

 

 「 たしかに日本人は働きすぎると思います。私たちはもうすこし余裕をもって、いい意味での怠惰の精神、遊びの精神で生きていくべきではないでしょうか。これを、なによりもまず自分自身に言いたいと思います。 もっと余裕をもって、遊びをもって生きていったらいいのではないか、それをイル=イヨロント族に学びたいという思いなのです。」

 

遺跡が語る日本人のくらし (岩波ジュニア新書)

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 (7)「遊びの精神」・「余裕」を身に付けるためには?

 

 それでは、「余裕」を身に付けるためには、どうしたら良いのでしょうか?

 福田恆存氏の以下の論考(「教養について」『私の幸福論』)が、大いに参考になるでしょう。

 

「  大抵の人が、新しく知ったことについて、いい気になりすぎる。それにばかり眼を注いでいるものですから、かえってほかのことが見えなくなる。峠の上で自分が新しく知ったことだけが、知るに値する大事なことだと思いこんで、それにまだ気づかぬ谷間の人々を軽蔑する。

 あるいは、憂国の志を起して、その人たちに教えこもうとする。が、そういう自分には、もう谷間の石ころが見えなくなっていることを忘れているのです。同時に見いだしたばかりの新世界にのみ心を奪われて、未知の世界に背を向けている自分に気づかずにいるのです。 

 こうして、知識は人々に余裕を失わせます。いや、逆かもしれない。知識の重荷を背負う余裕のない人、それだけの余力のない人が、それを背負いこんだので、そういう結果になるのかもしれません。というのも、知識が重荷だという実感に欠けているからでしょう。

 もっと皮肉にいえば、それを重荷と感じるほど知識を十分に背負いこまずに、いいかげんですませているからでしょう。しかし、本人が実感しようとしまいと、知識は重荷であります。自分の体力以上にそれを背負いこんでよろめいていれば、周囲を顧みる余裕のないのは当然です。

 それが無意識のうちに、人々の神経を傷つける。みんないらいらしてくる。そうなればなるほど、自分の新しく知った知識にしがみつき、それを知らない人たちに当り散らすということになる。そして、ますます余裕を失うのです。 

 家庭における親子の対立などというものも、大抵はその程度のことです。旧世代と新世代の対立というのも、そんなものです。が、新世代は、自分の新しく知った知識が、刻々に古くなりつつあるのに気づかない。

 ですから、あるときがくると、また別の新しい知識を仕入れた新世代の出現に出あって、愕然とするのです。そのときになってはじめて、かれらは自分には荷の勝ちすぎた知識であったことに気づき、あまりにもいさぎよくそれを投げすててしまう。

 すなわち、自分を旧世代のなかに編入するのです。 とにかく、知識のある人ほど、いらいらしているという実情は、困ったものです。もっと余裕がほしいと思います。知識は余裕をともなわねば、教養のうちにとりいれられません。

 対人関係において、自分の位置を発見し、そうすることによって、自分を存在せしめ主張するのと同様に、知識にたいしても、自分の位置を発見し、そうすることによって、知識を、そして自分を自由に操らなければなりません。

 さもなければ、荷物の知識に、逆に操られてしまうでしょう。知識に対して自分の位置を定める(→当ブログによる「注」→冷静、客観性)というのは、その知識と自分との距離を測定することです。この一定の距離を、隔てるというのがとりもなおさず、余裕をつくることであり、力をぬくことであります。くりかえし申しますが、それが教養というものなのです。 

 ここから、おのずと読書法が出てまいります。本は、距離をおいて読まねばなりません。早く読むことは自慢にはならない。それは、あまりにも著者の意のままになることか、あるいはあまりにも自己流に読むことか、どちらかです。どちらもいけない。本を読むことは、本と、またその著者と対話をすることです。本は、問うたり、答えたりしながら読まねばなりません。要するに、読書は、精神上の力くらべであります。本の背後にある著者の思想や生きかたと、読む自分の思想や生きかたと、この両者のたたかいなのです。そのことは、自分を否定するような本についてばかりでなく、自分を肯定してくれる本についてもいえます。 

 したがって、本を読むときには、一見、自分に都合のいいことが書いてあっても、そこまで著者が認めてくれるかどうか、そういう細心の注意を払いながら、一行一行、問答をかわして読み進んでいかなければなりません。自分を否定するような本についても同様です。字面では否定されているが、自分のぶつかっているこの問題については、あるいは著者も自分のいきかたを認めるかもしれない。そういうふうに自分を主張しながら、行間に割りこんでいかねばなりません。それが知識にたいして自分の居場所を打ちたてるということです。本はそういうふうに読んで、はじめて教養となりましょう。 」

(福田恆存「教養について」『私の幸福論』)

 

 

私の幸福論 (ちくま文庫)

私の幸福論 (ちくま文庫)

 

 

 

 「余裕」とは、「周囲を顧みる余裕」ということです。

 また、「本は、距離をおいて読まねばなりません」という記述から、「余裕」とは、問題となっている対象から「距離を置くこと」であるということ、が分かります。

 かなり参考になる論考です。

  

 「余裕を取り戻すには、どうするべきか?」については、内山節氏の『自由論 自然と人間のゆらぎの中で』も、参考になります。

 

「  現代人の忙しさの背景には、私たちの社会が、だんだんプロセスを問わない社会になってきたことが、関係しているのであろう。

 あたかも結果が正解であればそれでよい試験のように、それがどのような人間関係のなかでつくられ、どのようなプロセスを経て手に入れたものなのかというようなことは、現在ではどうでもよくなった。

 できるだけ早く結果を手にすることが、価値になったのである。こうしてプロセスに時間がかかることは、時間の無駄だとみなされるようになり、誰もが時間の合理的管理という発想を、身につけるようになっていった。

 ところが、時間を合理的に管理することによって、時間の余裕は生まれなかったのである。逆に暇なはずの時間においてさえ、時間に支配され、時間に追われつづける今日の状況が生まれてきた。おそらく、時間をもっと合理的に管理すれば、余裕という自由も生まれてくるだろうと考える発想は、根本のところで誤っているのであろう。

 そうではなく、ものをつくりだしていくプロセスや、それを手に入れるプロセスなどに、時間を超越した価値をみいだせる社会こそが、人間的な余裕を生み出すのである」(『自由論 自然と人間のゆらぎの中で』内山節)

 

 

自由論――自然と人間のゆらぎの中で (岩波人文書セレクション)

自由論――自然と人間のゆらぎの中で (岩波人文書セレクション)

 

 

 

「『時間の合理的管理』が『余裕』を作り出すのではない。時間を超越した価値をみいだせる社会こそが、人間的な余裕を生み出すのである」という内山氏の主張には、賛成せざるをえないでしょう。

 「効率性第一主義」は、非人間的発想なのでしょう。

 「効率性第一主義」が常識化している現代文明それ自体が、病んでいるのです。

 私達は、今こそ、その病理を意識するべきなのでしょう。

 

 

(8)当ブログにおける「佐伯啓思」関連記事の紹介

 

  佐伯啓思氏は、入試頻出著者です。

 

gensairyu.hatenablog.com

 

gensairyu.hatenablog.com

 

gensairyu.hatenablog.com

 

 

(9)当ブログにおける「スポーツ」関連記事の紹介

 

 「スポーツ」関連論点は、最近の流行論点です。

 

gensairyu.hatenablog.com

 

gensairyu.hatenablog.com

 

ーーーーーーーー

 

今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

ご期待ください。

 

  

 

gensairyu.hatenablog.com

 

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反・幸福論 (新潮新書)

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西欧近代を問い直す (PHP文庫)

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

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5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

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 私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。

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予想問題/公共哲学/「生き方変える働き方改革を」高端正幸

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 

 最近は、「働き方改革」関連法案と電通過労自殺事件の影響もあってか、最近、「長時間労働」や「働き方」に関するニュースや論考が目立っています。

 このような議論が盛んになった翌年の入試現代文・小論文では、「労働」・「働き方」に関連する根本的・本質的な論考が出題されることが多いので、注意が必要です。

 特に、「『生き方変える働き方改革を』高端正幸『朝日新聞』2018・3・29《あすを探る》」は、最近の入試頻出論点の「公共哲学」に関する論点を多く含んでいるので、今回の記事で解説します。

 この論考は、ユニークな視点が盛り込まれていて、とても参考になります。

 来年の入試現代文・小論文に出題される可能性は高いと思われます。

 

 なお、今回の記事の項目は、以下の通りです。記事は約1万字です。

  

(2)予想問題/「生き方変える働き方改革を」(高端正幸『朝日新聞』2018・3・29

《あすを探る/財政・経済》 

(3)予想問題/「『働き方改革』を問う」(内山 節『東京新聞』2018年2月11日「時代を読む」)

(4)「公共の価値」/人々の「おまかせ構造」の問題性

(5)予想問題/「公共哲学」に関する秀逸な論考ー『「里」という思想』(内山節)

 

 

朝日新聞デジタル

朝日新聞デジタル

 

 

 

(2)予想問題/「生き方変える働き方改革を」(高端正幸『朝日新聞』2018・3・29

《あすを探る/財政・経済》)

 

(高端氏の論考は太字部分です)

(概要です)

(【1】・【2】・【3】・・・・は当ブログで付記した段落番号です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です)

(以下、同じです) 

 

【1】家族や地域が自分の拠(よ)りどころになるという手ごたえが薄れ、まじめに頑張れば家計の安定が得られるという約束も揺らぐ時代に私たちは生きている。家族や地域という「共」、そして個人的・物質的な豊かさという「私」における拠りどころや指針の喪失は、不安を増幅させる。

 

 (→当ブログによる「注」→「家族や地域という『共』」の部分は、よく覚えておいてください。)

 

【2】そこで「公」の役割が重要になる。しかし、「共」が失われ、「私」も窮したままでは、「公」も揺らぐと考えたほうがよい。「公」・「共」・「私」は、互いに支え合うものだからだ。

【3】佐賀県伊万里市の図書館は、1995年に開館した。公民館の一室が図書館だったこの地に、市民とともに育つ、市民の図書館を欲した市民たちが、勉強を重ね、市役所と協力して開館にこぎつけた。読書会・学習会などイベントの企画、サークル活動の成果の展示、公報活動など、幅広い活動を市民と職員が一体となって担い、図書館を支える市民の輪を広げながら、人と人とが、つながり学び合う場を丁寧に育んでいる。

【4】図書館は単なる「本をタダで読んだり借りたりできる場所」ではない。地域の知的財産を市民が育て、分かち合う。それが伊万里市民図書館の目指す姿であり、全国の公共図書館が内包する可能性だ。

【5】いわば、「共」の力が「公」の図書館の存在意義を高めるとともに、「公」の図書館が「共」を絶えず活性化させている。そこに集う個々の「私」も、図書館という共有財産から知的・文化的な豊かさを享受し、地域のつながりに包摂され、「共」の一員となる。その結果、地域における「公」への信頼も育まれる。「公」・「共」・「私」が結びつき、互いを高め合う中でこそ、「公」の存在意義が形をとるということを、この事例は物語っている。

 

(→当ブログによる「注」→この具体例は、「公」・「共」・「私」の関係を実感するために、重要です。

 「「公」・「共」・「私」が結びつき、互いを高め合う中でこそ、「公」の存在意義が形をとるということを、この事例は物語っています。」の部分はキーセンテンスです。

 特に重要です。)


【6】ところがいま、福祉、学校、公共交通など、あらゆる分野で「公」の存在意義が揺らいでいる。私たちは、モノやサービスをひたすら個人消費する生活に浸(つ)かりきったうえに、その消費生活にさえ窮する時代に生きている。いきおい、肥大化する「私」への執着が、「公」や「共」の可能性に対する想像力を縮ませる。そこで、「私」の論理で「公」が否定されたり、「共」、つまり、地域やNPOの力がやみくもに期待されたりする。

 

(→当ブログによる「注」→まさに、「人任せ」、「受け身状態」、「永続的なお客様状態」です。

 各人が、自己の「当事者性」に思いが及ぶことはないようです。

 主体的に自己の困難を克服しようとする気概がないのでしょう。)

 

【7】しかし、「公」・「共」・「私」は、どれかのかわりにどれかを、という関係にはない。私たちは、これら三つの領域が結びつき、互いを高め合う関係を、想像力を膨らませて模索するほかないのだ。

【8】その意味で不可欠なのは、私たち一人一人が、「必死に稼ぎ、自力で生活を成り立たせる」ことに埋没することをやめ、「私」を超える領域(→「公」)に真摯(しんし)なまなざしを向けることではないか。

【9】その点、「働き方改革」が大きな意味を持ちうることを忘れるべきではない。「残業代ゼロ」「定額働かせ放題」などと揶揄(やゆ)されても仕方のない法案であるうえ、過労死問題もクローズアップされたため、過労死防止という当然なすべきことに改革の目的が矮小(わいしょう)化された感がある。また、少子化問題にとらわれるあまり、ワーク・ライフ・バランスの「ライフ」の中身も家事・育児といった家庭生活のみであるかのごとく扱われがちだ

 

(→当ブログによる「注」→「過労死防止という当然なすべきこと」の部分は、まさに、当たり前です。

 「少子化問題にとらわれるあまり、ワーク・ライフ・バランスの「ライフ」の中身も家事・育児といった家庭生活のみであるかのごとく扱われがちだ。」の部分は特に重要です。

 「ライフ」は、完全に私的領域のみが考慮され、「地域という『共』」は考慮外になっているようです。

 「私」の存在基盤のはずの「共」を考える時間的・精神的・金銭的余裕がないのでしょうか。)

 

【10】しかし、本来の「働き方改革」は、稼ぐための労働に汲々(きゅうきゅう)とする「私」が、「公」や「共」の価値に気づくだけの精神的余裕や、社会活動に参加する時間的余裕を取り戻し、互いに支え、支えられる関係に包まれてゆくことを射程に入れるべきものだ。

【11】「働き方」の改革は手段にすぎない。目的は「生き方」を変えることにある。その先にこそ、「公」・「共」・「私」が共鳴する、望むべき社会への途も開けるのではないだろうか。

(「生き方変える働き方改革を」 高端正幸)

 

(→当ブログによる「注」→「【11】「働き方」の改革は手段にすぎない。目的は「生き方」を変えることにある。その先にこそ、「公」・「共」・「私」が共鳴する、望むべき社会への途も開けるのではないだろうか。」の部分も、再考するべき内容になっています。

 理想論に聞こえるかもしれませんが、過去の伝統社会は、まさに、「『公』・『共』・『私』が共鳴する社会」だったのです。

 私たちが、「私」が肥大化した現代文明の中で、何となく窒息状態にあるとしたら、過去の「『公』・『共』・『私』が共鳴する社会」を再評価することが必要でしょう。

 この点は重要なので、以下にさらに論じていきます。)

 

 

復興と日本財政の針路 (叢書 震災と社会)

復興と日本財政の針路 (叢書 震災と社会)

 

 

 

(3)予想問題/「『働き方改革』を問う」(内山 節『東京新聞』2018年2月11日「時代を読む」)

 

 「働き方改革」を、「働き方」、「仕事」、「労働論」、つまり、「働きがいを感じられる仕事」に限定して考えると、以下の入試頻出著者・内山氏の論考が大いに参考になります。


(概要です)

「18世紀から19世紀にかけてヨーロッパで産業革命がおこり資本主義が生まれていったとき、労働者の多くは、この新しい経済と労働のかたちに批判的だった。当時は長時間労働が蔓延していた。

 だが、その頃の労働者たちが書いたものを読むと、批判の軸になっていたのは低賃金や長時間労働ではなかったことがわかる。誇りをもてない労働、自分を一定時間の消耗にさらすだけの労働、監視されながら命令に従うだけの労働。そういう労働のあり方に対して、労働者たちは怒りをもっていたのである。

 それは当然であったのかもしれない。なぜなら、資本主義が生まれる前の社会では、普通の人々は農民や職人、商人として働いている。いわば自営で仕事をし、一人一人が自分の仕事スタイルをもっていた。その仕事スタイルは、それぞれの考え方や自分がもっている技などからつくられてくるもので、人々は自分がつくりだす労働に誇りをもっていたのである。

 ところが、資本主義の時代になると、安価に大量生産されてくる工場生産物によって、職人たちは仕事を奪われていった。仕事を失った職人は、工場で働くようになる。そして、勤めるようになった企業で感じたものは、誇りをもてない労働、人間性を奪われた労働、働きがいのない労働だったのである。

 仕事帰りに1杯の酒が飲めることとの引き換えに、誇りのない、苦痛なだけの労働に従事しなければならないのか。当時の労働者たちは、そんなことを訴える文章をよく書いていた。

 現代の人々も、同じようなことを感じているのかもしれない。社会のなかでは長時間労働が蔓延し、格差社会のもとでの低賃金労働も構造化されている。だが、それ以上に問題なのは、誇りをもてない労働、働きがいのない労働の広がりである。

 自分の労働は、お金と引き換えにおこなう精神的、肉体的消耗にすぎないと感じている人もいるだろう。社会に役立っているのかどうかもわからないままに、ノルマや数字に追われる労働をしている。そんな感覚も今日の労働の世界には広がっている。

 現在の労働の問題点は、働きがいのない労働に長時間従事しなければならないことや、働きがいのない低賃金労働が広がっていることにあるといってもよい。逆に言えば、労働のなかに誇りや楽しみ、働きがいを感じられる仕事なら、私たちは少々労働時間が延びても、その仕事をやり遂げようとするものである。もちろん、あまりにも長い労働時間は、よいことではないのだが。

 現在語られている「働き方改革」に、疑問を感じる人はけっこう多い。その理由は、労働の質を問うていないからである。労働が働きがいのあるものになるためには、自分の仕事に社会的有用性が感じられ、労働の価値を認めてくれる職場や取引先、消費者などとの関係が重要なはずだ。とすれば、それは、経済のあり方、企業のあり方の改革でなければならないはずなのである。そういう根本的な視点をもたずに残業時間を減らせと言っているだけなら、働く側にとっては、残業代が減るだけのことになってしまう。

 資本主義形成期の労働者たちは、働きがいがなくなった労働を問題にしていた。そして今日もなお、同じ問題が問われている。」

(「『働き方改革』を問う」(内山 節『東京新聞』2018年2月11日「時代を読む」)

 

 
 上記の論考を要約すると以下のようになります。

 

現在語られている「働き方改革」に問題点


「労働の質」を問うていないからである。

労働が「働きがい」のあるものになるためには、「自分の仕事に社会的有用性が感じられ、労働の価値を認めてくれる職場や取引先、消費者などとの関係」(→ある意味で、「公」との関係性)が「重要」なはずだ。

「働き方改革」は、「経済のあり方、企業のあり方の改革」でなければならないはずなのである。

そういう「根本的な視点」をもたずに「残業時間を減らせ」と言っているだけなら、働く側にとっては、残業代が減るだけのことになってしまう。

 

 

(4)「公共の価値」/人々の「おまかせ構造」の問題性


 仕事に「生きがい」を持つことも大切です。

 一方で、仕事以外の私的な生活の場で「公共の価値」を意識することも必要です。


 (なお、「公共」とは、「私」や個 (individual) に対置される概念です。英語のパブリック (public) を翻訳した言葉です。)

 
 「公共」は「私」の存立基盤です。

 「公共の価値」を意識することは、「公共哲学」の重要論点です。


 ここで問題になるのは、「公共の価値」を意識しないこと、つまり、人々の「おまかせ構造」です

 上記の高端氏の論考では、以下のように、人々の「おまかせ構造」を問題視しています。

「【6】私たちは、モノやサービスをひたすら個人消費する生活に浸(つ)かりきったうえに、その消費生活にさえ窮する時代に生きている。いきおい、肥大化する「私」への執着が、「公」や「共」の可能性に対する想像力を縮ませる。そこで、「私」の論理で「公」が否定されたり、「共」、つまり、地域やNPOの力がやみくもに期待されたりする。」(「生き方変える働き方改革を」高端正幸)

 


 ここで問題になっているのは、「地域やNPO」への「おまかせの構造」です。

 この点を具体的に説明しているのは、入試頻出著者・鷲田清一氏の『しんがりの思想』です。

 

 以下に、その部分を引用します。

「  日本社会は明治以降、近代化の過程で、行政、医療、福祉、教育、流通など地域社会における相互支援の活動を、国家や企業が公共的なサービスとして引き取り、市民はそのサービスを税金やサービス料と引き換えに消費するという仕組みに変えていった。一歩先に近代化に取り組んでいた西欧諸国が、そうした相互支援の活動を、教区など、行政機構と個人のあいだにある、いわゆる中間集団の活動にある程度残しておいたのとは対照的に。

 が、それと並行して進行したのが、市民たちの相互支援のネットワークが張られる場たるコミュニティ、たとえば町内、氏子・檀家、組合、会社などによる福祉・構成活動の先細りである。人々は、提供されるサービス・システムにぶら下がるばかりで、自分たちで力を合わせてそれを担う力量(→まさに、「当事者性」です)を急速に失っていった。いいかえると、それらのサービス・システムが劣化したり機能停止したときに、対案も出せねば課題そのものを引き取ることもできずに、クレームをつけるだけの、そういう受動的で無力な存在に、いつしかなってしまっていた。

 公共機関への「おまかせ」の構造である。」

 

 今回、特に、問題となるのは、一般的に使用されている「ワークライフバランス」という言葉の「内容」です。

 この点について、高端氏は上記の論考で、以下のように、その常識的意味に疑問を提示しています。

 

【9】その点、「働き方改革」が大きな意味を持ちうることを忘れるべきではない。「残業代ゼロ」「定額働かせ放題」などと揶揄(やゆ)されても仕方のない法案であるうえ、過労死問題もクローズアップされたため、過労死防止という当然なすべきことに改革の目的が矮小(わいしょう)化された感がある。また、少子化問題にとらわれるあまり、ワーク・ライフ・バランスの「ライフ」の中身も家事・育児といった家庭生活のみであるかのごとく扱われがちだ。」 (「生き方変える働き方改革を」高端正幸)

 

 さらに言えば、現代社会では、「ワーク」も私的利益のみで働き、「ワーク」も「ライフ」ともに「私的な性格」しか持ちえなくなっていることが問題でしょう。

 私的利益のみに意識的になり、公共的なことは「お上」・「公」に依存する傾向が著しくなっているようです。
 
 つまり、現代の高度に発達したサービス社会の中での「市民性の喪失」を、大きな課題になってきているのです。

 「市民性の喪失」は、「当事者性の喪失」とも言えます。


 

 それでは、「当事者性」をどのように取り戻してゆくべきでしょうか。

 高端氏は、上記の論考で以下のように強調しています。

 これこそ、正論でしょう。

 

【10】本来の「働き方改革」は、稼ぐための労働に汲々(きゅうきゅう)とする「私」が、「公」や「共」の価値に気づくだけの精神的余裕や、社会活動に参加する時間的余裕を取り戻し、互いに支え、支えられる関係に包まれてゆくことを射程に入れるべきものだ。

【11】「働き方」の改革は手段にすぎない。目的は「生き方」を変えることにある。その先にこそ、「公」・「共」・「私」が共鳴する、望むべき社会への途も開けるのではないだろうか。」(「生き方変える働き方改革を」高端正幸)

 

 現代社会の様々な閉塞的・悲観的状況を打開するためには、現在の日本の、「働きすぎ」の社会のあり方を根本的に見直して、「公」・「共」・「私」が共鳴する、望むべき社会への途を目指すしか、対応策はないのです。

 これは、決して、単なる「理想論」ではありません。

 対応策は、ただ、これだけなのです。

 問題は、国民が、このことに気付き行動に移すかどうか、だけでしょう。


 言い換えれば、国家資本主義、高度消費社会が進展している現代日本社会では、各人が無自覚に自己世界に自閉していては、いずれ、各方面で破局的結果を招来することになる可能性が濃厚です。

 各自の人生を真に充実させるためには、「私」を「公共世界」に接続させることが大切です。

 「公共哲学」への注目が不可欠でしょう。

 

しんがりの思想 ―反リーダーシップ論― (角川新書)

しんがりの思想 ―反リーダーシップ論― (角川新書)

 

 

 

 このことを、強調しているのが、内山節氏の以下の論考です。 

 最近の入試頻出論考なので、以下に概要を引用します。

 

(5)予想問題/「公共哲学」に関する秀逸な論考ー『「里」という思想』(内山節)

 

 (概要です)

「  私たちは日本という風土のなかで暮らしている。そして、日本の風土のなかで暮らしてきた人々の過去の経験を受け継いでいる。日本的な農業や林業、漁業の仕方、日本的な建築、日本的な宗教観、祭りなどの行事やさまざまな習慣。私たちの発想や考え方も、この風土から完全に離れては作られていない。いわば、私たちは、日本の風土を基層文化として持ちながら存在しているのである。 

 ところが、そんなことは十分に認めているはずの私も、日本という国家に対しては、少し冷静な態度をとりたくなる。というのは、次のような気持ちが私にはあるからである。 

 私が上野村(群馬県多野郡にある山村)に滞在するようになった頃、村人が使う「公共」という言葉に関心をもったことがあった。「それは公共の仕事だから」とか、「それは公共のことだから」というようなかたちで、村人は何度となく「公共」という言葉を使う。ところが、村人が使うこの言葉の響きは、それまで私が東京で感じていたものとは少し違っていた。 

 東京で「公共」といえば、国や自治体が担うもの、つまり行政が担当すべきものを指していた。それに対して、私たち「私」であり、「私人」であった。だが、村人が使う「公共」は、それとは違う。「公共」とは、村では、みんなの世界のことであり、「公共の仕事」とは、「みんなでする仕事」のことであった。だから、春になって、冬の間に荒れた道をみんなでなおすことは、「公共の仕事」であり、山火事の報を受けて家から消火にとび出すことも、祭りの準備をすることも、「公共の仕事」であった。 「公共」と行政とは、村では必ずしも一致していないのである。村人の感覚では、行政の前に「公共」があり、行政は「公共」のある部分を代行することはあっても、それはあくまで代行であって、行政イコール「公共」ではなかった。 

 そして、村人が感じている「公共」の世界とは、それほど広いものではなかった。それは、自分たちが直接かかわることのできる世界であり、自分たちが行動することによって責任を負える世界のことであった 。つまり、自分との関係がわかる広さといってもよいし、それは、おおよそ、「村」という広さであるといってもよい。 

 つまり、村人にとっては、社会は、それぞれの地域で展開している「公共」の世界の連合体のようなものとして、とらえられていた。そして、私には、その方が社会の自然なとらえ方のように思われた。「公共」とは、自分たちが共同で作りだしている世界だととらえる考え方も、行政は公共のある部分を代行しているにせよ、決して行政イコール公共ではないという見方も、社会とはそれぞれの地域の人々が責任を負っている場所の連合体だというとらえ方も、である。 

 私には、近代国家はこのような社会観をつき崩してきたように思われる。近代国家は、すべての人々を国民として共通化、平準化しようとしてきた。国民としての画一化をは図ったといってもよい。おそらく、その理由は、近代国家というものが、ヨーロッパの絶対王制の時代状況下で生まれたからであろう。すなわち、度重なる戦争をくり返していたヨーロッパ絶対王制の国家は、戦争に勝利するためには、臣民の国民としての統一と、国家統一のための国民的アイデンティティーの確立、共通意識をもった国民としての画一化が、どうしても必要であった。そして、この国民としての共通化が、後に市場経済形成にも役立っていった。 

 この国民国家が、近代化の過程で日本にも移入されてきたのだとするなら、村人の感じている「公共」の世界と国家との間には、ずいぶん大きな隔たりがあることになる。そのどちらに重心を置くことが、自然と人間の未来にとってよいのか。それは、私たちが考えてもよい課題である。 」(内山節『「里」という思想』) 

 

 上野村では、「公共哲学」が自然な形で実践されているのです。

 日本の農村地域で普通に行われている「地域の助け合い」、「地域の共同作業」が、「公共哲学」という学問領域の雛型になっている感じです。

 まさに、「ポストモダン」、「脱近代」の時代における「伝統社会の再評価・見直し」の一環と言えるでしょう。

 伝統の中に、人類の知恵が潜在していることが多いのです。

 

 内山氏が、上野村に滞在するようになり、内山氏は伝統社会の素晴らしさを知ることになりました。

 このことは、内山氏の幸運であり、それにより上記の論考を読めることは、私たちの幸運です。

 

 特に、以下の部分は重要です。熟読するべきです。

 

 「 村人が使う「公共」は、それとは違う。「公共」とは、村では、みんなの世界のことであり、「公共の仕事」とは、「みんなでする仕事」のこと」

 

「  「公共」と行政とは、村では必ずしも一致していないのである。村人の感覚では、行政の前に「公共」があり、行政は「公共」のある部分を代行することはあっても、それはあくまで代行であって、行政イコール「公共」ではなかった。」

 

「  村人が感じている「公共」の世界とは、それほど広いものではなかった。それは、自分たちが直接かかわることのできる世界であり、自分たちが行動することによって責任を負える世界のことであった。」

 

「  村人にとっては、社会は、それぞれの地域で展開している「公共」の世界の連合体のようなものとして、とらえられていた。そして、私には、その方が社会の自然なとらえ方のように思われた。」

 

「里」という思想 (新潮選書)

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ーーーーーーーー

 

今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

ご期待ください。

 

   

 

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

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5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

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予想問題/「自分なりの死の哲学は」佐伯啓思『朝日新聞』

(1)はじめに/なぜ、この記事を書くのか?

 入試頻出著者・佐伯啓思氏が、入試頻出論点である「死の哲学」・「死生観」・「尊厳死」・「安楽死」・「孤独死」・「無縁死」について、秀逸な論考(→「いかに最期を迎えるか、自分なりの『死の哲学』は」佐伯啓思(『朝日新聞』2018年2月2日「異論のススメ」)を発表しました。

 これらの論点は、現代文明批判、現代文明論、近代批判の論点として、最頻出なので、佐伯氏の著書『反・幸福論』・『日本の宿命』を参照しながら解説していきます。

 

 今回の記事の項目は、以下の通りです。なお、記事は約1万字です。

(2)予想問題/「いかに最期を迎えるか、自分なりの『死の哲学』は」佐伯啓思(『朝日新聞』2018年2月2日「異論のススメ」)

(3)「死生学」について

(4) 「日本古来の伝統的死生観」の再評価について

(5)佐伯啓思氏の紹介

(6)当ブログにおける「佐伯啓思」関連記事の紹介

(7)当ブログにおける「哲学」関連記事の紹介

 

反・幸福論 (新潮新書)

 

 

(2)予想問題/「いかに最期を迎えるか、自分なりの『死の哲学』は」佐伯啓思(『朝日新聞』2018年2月2日「異論のススメ」)

 

(「異論のススメ」本文①)

(概要です)

(赤字は、当ブログによる「強調」です)

(青字は、当ブログによる「注」です)

 

 去る1月21日の未明に評論家の西部邁(→西部 邁(にしべ すすむ、1939年3月15日~2018年1月21日)は日本の保守派の評論家。元経済学者。雑誌『表現者』顧問。元東京大学教養学部教授)さんが逝去され、本紙に私も追悼文を書かせていただいた。西部さんの最期は、ずっと考えてこられたあげくの自裁死である。彼をこの覚悟へと至らしめたものは、家族に介護上の面倒をかけたくない、という一点が決定的に大きい。西部さんは、常々、自身が病院で不本意な延命治療や施設で介護など受けたくない、といっておられた。もしそれを避けるなら自宅で家族の介護に頼るほかない。だがそれも避けたいとなれば、自死しかないという判断であったであろう。

 このような覚悟をもった死は余人にはできるものではないし、私は自死をすすめているわけではないが、西部さんのこの言い分は私にはよくわかる。いや、彼は、われわれに対してひとつの大きな問いかけを発したのだと思う。それは、高度の医療技術や延命治療が発達したこの社会で、人はいかに死ねばよいのか、という問題である。死という自分の人生を締めくくる最大の課題に対してどのような答えを出せばよいのか、という問題なのである。今日、われわれは実に深刻な形でこの問いの前に放り出されている。」

 

 ーーーーーーーー

 

(当ブログによる解説)

 上記の論考の前半部分は、西部氏への追悼文です。

 追悼文は、名文が多いようです。 

 以下の佐伯氏の「西部氏への追悼文」も、心に響きます。

「  西部邁さんが逝去された。予想していたとはいえ、現実となればたいへんに寂しい。その死について他人がとやかくいう筋合いではない。余人にはできぬその激しい生き方の延長上にある強い覚悟をもった死であった。

 私が西部さんと出会ったのは、もう40年以上前になる。若手の経済学者として東大に赴任された西部さんとは、毎週、ほとんど夜が明けるまで論じ、笑い、厳しく問い詰められた。私の大学院生活の後半のすべてがそこにあった。この濃密な時間のなかで、西部さんが絶えず問いかけたのは、生への覚悟であった。お前は何を信条にして生きているのか、それを実践しているのか、という問いかけであった。自らの信条も覚悟ももたぬ者が学問や研究などやって何になるのだ、というのである。

 その西部さんが、社会に蔓延する偽善や欺瞞の言説に我慢がならなかったのは当然であろう。どれほどの高名な学者であれ、社会的な著名人であれ、その言動の根底に偽善やごまかしを見いだせば、西部さんは容赦なかった。その意味で、彼ほど、権力や権威や評判におもねることを嫌った人を私は知らない。

 西部さんは、チェスタトン(→ギルバート・キース・チェスタトン(1874年5月29日~1936年6月14日)はイギリスの作家、批評家、詩人、随筆家。ロンドン・ケンジントンに生まれ。セント・ポール校、スレイド美術学校に学ぶ。推理作家としても有名で、カトリック教会に属するブラウン神父が遭遇した事件を解明するシリーズが探偵小説の古典として知られている。後期ヴィクトリア朝時代の物質主義・機械万能主義に対し鋭い批判を加えた。(→「現代文明批判」と同じです)得意の警句と逆説を駆使したその文芸批評、文明批評は鋭利、過激)の次の言葉をよく口にしていた。「一人の良い女性、一人の良い友、ひとつの良い思い出、一冊の良い書物」、それがあれば人生は満足だ、と。西部さんは存分に生き、満足して亡くなられたと思う。心からご冥福をお祈りします。」(「西部邁さんを悼む 絶えず問うた 生への覚悟」佐伯啓思『朝日新聞』2018.1.25)

 

 この追悼文の以下の部分は、特に心に染みます。

 「西部さんは、チェスタトンの次の言葉をよく口にしていた。「一人の良い女性、一人の良い友、ひとつの良い思い出、一冊の良い書物」、それがあれば人生は満足だ、と。西部さんは存分に生き、満足して亡くなられたと思う。」

 

 「人生の究極の価値」、「生きがい」について考えさせられます。

 人間は何のために生きているのか?

 何を求めて生きているのか?

 人生に不可欠なものは何か?

 「生きがい」とは何なのか?

 生きていくために必要なものは、案外少ないのでないか?

 本当に必要なものは、それほどないのでは、ないか?

 人生に多くのものを求めるのは、間違いなのではないか?

 要するに、人生とは大したことではないのでは、ないか?

 

 ーーーーーーーー

 

朝日新聞デジタル

朝日新聞デジタル

 

 

 

(「異論のススメ」本文②)

(概要です)

 

 簡単な事実をいえば、日本は超高齢社会にはいってしまっている。2025年には65歳以上の割合は人口の30%に達するとされる。介護施設の収容能力をはるかに超えた老人が出現する。また、現在、50歳で独身という生涯未婚率は、男で23%、女で14%となっている。少子化の現状を考慮すれば、1人で死なねばならない老人の割合は今後も増加することになろう。

 おまけに医療技術や新たな医薬品の開発によって寿命はますます延びる。政府は人生100歳社会の到来を唱え、医療の進歩と寿命の延長は、無条件で歓迎すべきこととされる。しかしそうだろうか。それはまた別の面からいえば、年老いて体は弱っても容易には死ねない社会の到来でもあるだろう。ということは、長寿社会とは、家族の負担も含めて長い老齢期をどうすごすか、という問題であり、その極限に、家族もなく看取(みと)るものもない孤独死独居死という事実が待ち構えている、ということでもあろう。

 とはいえ、統計的なことをここで述べたいわけではない。超高齢社会とは、人の死に方という普遍的なテーマの方に、われわれの関心を改めて振り向ける社会なのである。近代社会は、生命尊重、自由の権利、個人の幸福追求を基本的な価値としてきた。それを実現するものは経済成長、人権保障、技術革新だとされてきた。しかし、今日、われわれは、もはやこれらが何らの解決ももたらさない時代へと向かっている。近代社会が排除し、見ないことにしてきた「死」というテーマにわれわれは向きあわざるを得なくなっている。 

 いくら思考から排除しようとしても、また、いくら美化しようとしても、老・病・死という現実は、とてもきれいごとで片付くものではない。仏教の創始者にとって人間の最大の苦とされた老・病・死の問題は、それが、決して他人には代替不能な個人的な事態であるにもかかわらず、それを自力ではいかんともしがたい、という点にある。徹底して個人の問題であるにもかかわらず、個人ではどうにもならないのだ。自宅にいて家族に看取ってもらうのが一番などといって、政府もこの方向を模索しているが、じっさいにはそれは容易なことではない。また、家族にも事情があり、その家族もいない者はどうすればよいのか、ということにもなる。

 やむをえず入院すると、そこでは延命治療が施される。私は、自分の意思で治療をやめる尊厳死はもちろん、一定の条件下で積極的に死を与える安楽死も認めるべきだと思う。だが、その種の議論さえ、まだタブー視されるのである。

 

 ーーーーーーーー

 

 (当ブログによる解説)

 『反・幸福論』の中で、佐伯啓思氏は、「無縁社会われわれが自主的に選択した近代原理からの当然の帰結である」として、次のように述べます。

「都市化という形で近代化を目指したとき、われわれはこぞって『故郷喪失者』になろうとしたのです。いつまでも『故郷』などに縛られたくはない。都会ではばたかなければ幸福になどなれないと考えたのです。積極的に『故郷喪失者』であろうとしたのでした。それはまた『縁』を断ち切ることでした。われわれは『無法者』ではないにしても『無縁者』になろうとしたのでした。今頃になってまた『コミュニティ』が見直されたり、時には『絆』などといわれたりします。両方とも、『共同体』や『縁』とはあえて言わないのです。『共同体』や『縁』は『ムラ』『イエ』を連想させてしまうからです。

『絆』というのは、個人がある意味で自由に選びとり作り出すものです。それは偶然を引き受けようという『縁』とは似てはいるがまったく違った言葉です」

(『反・幸福論』第三章「『無縁社会』で何が悪い」)

 

 「縁」・「絆」の「背景」の落差の指摘は秀逸です。

 「縁」と「絆」には、「個人の意志の介在の有無」という大きな落差があります。

 その大きな落差こそ、「孤独死」の背景なのです。

 

 つまり、「孤独死」の背景には、個人の意志による選択があるということです。

 「個人主義」の重視からの、自明の帰結が「孤独死」ということになります。

 「個人主義」の問題点を検証しないで、「孤独死」それ自体を問題にしても、何の解決にもならないのです。

 

 もっとも、「死」は、本質的に、それ自体が「孤独」で、「個人的な現象」と言えます。

  『反・幸福論』でも説かれているように、「人は、生まれる時は母親とともにあるが、死ぬ時はみな孤独に死ぬ」ということを再確認するべきでしょう。

 

  『反・幸福論』には、次のような一節があります。

「生まれるということ」は母親という他者がいなければ成り立ちませんが、「死」は、全く個人的で個体的な現象という以外にない。だから、死とは本質的に『無縁化』なのです。」(『反・幸福論』P 86 )

 

    「異論のススメ」の中の「尊厳死」・「安楽死」については、「積極的安楽死」・「消極的安楽死」の区別から考えると、分かりやすくなります。

 

 「積極的安楽死」とは、致死性薬物の服用、投与により、死に至る行為です。

 医療上の積極的安楽死は、患者の要求に応じて、医師が延命治療を中止することです。

 自分で積極的安楽死を行った場合は自殺なので犯罪にはなりません。

 日本では、他人による積極的安楽死は法律で容認されていないので、刑法上は殺人罪の対象となります。

 

 一方で、「消極的安楽死」とは、救命のための治療を開始せず、人間を死に至らせる行為です。

 医療上の消極的安楽死は、病気の治療をすることが可能であっても、患者の明確な意志に基づき治療をしないことにより、結果として患者を死に至らせることです。

 世界各国では、終末期の患者に対する消極的安楽死は広く認められています。

 日本では、患者本人の明確な意思表示に基づく「消極的安楽死」は、殺人罪、殺人幇助罪・承諾殺人罪には、なりません。

 

 「安楽死」の背景には、「自分の命の取扱いは自分で決める」という「個人主義」における「自己決定権の思想」があります。

 人間には、他者の権利を著しく侵害することがない限り、自己の意思に従い、より良い死に方を選択する自由が、個人の権利として存在するのです。

 

 「尊厳死」(→「尊厳死」とは、人間が人間としての尊厳を保ち死に臨むことであり、インフォームド・コンセントのひとつとされています。末期癌患者などの治癒の見込みのない人が、クオリティ・オブ・ライフ(QOL) と尊厳を保ちつつ最期の時を過ごすための医療がターミナルケア(終末期医療)です)についても、「安楽死」と同様に、自らの死のあり方を自己の意思によって決定する「自己決定権」の観点から説明されることが多いのです。

 

 これらの議論がタブー視されるのは、「延命治療」の悲惨な実態を知らないこと、自分の死を具体的に想像できないこと、つまり、死をタブー視することによる「死への意識不足」が原因でしょう。

 

 ーーーーーーーー

 

(「異論のススメ」本文③)

(概要です)

 

 近代社会が、生命尊重や個人の自由、幸福追求を強く唱えたのは、ただ生きていればよいからではなく、個人の充実した生の活動をかけがえのないものと考えたからである。だから、その条件として生命尊重や自由の権利などに重要な意味が与えられたのだ。しかし、人は年老い、活力を失い、病に伏し、死に接近してゆく。これが厳然たる現実である。いくら「充実した生の活動」といっても、その生がかげり、活動が意のままにならない時がくる。

 かつて、この「老い、活力を失い、病に伏し、死に接近する」苦にこそ人生の実相をみたのは仏教であった。自由の無限の拡大や幸福追求をむしろ苦の原因として、この苦からの解脱を説いた。それは、今日の近代社会のわれわれの価値観とはまったく違うものである。ただ仏教が述べたのは、生は死への準備であり、常に死を意識した生を送るべきだということである。死の側から生を見たということである。

 別に仏教が死に方を教示してくれるわけでもないし、仏教の復興を訴えようというのではない。「死」は、あくまで個人的な問題なのである。「死の一般論」などというものはない。自分なりの「死の哲学」を模索するほかない。

 西部さんの自死は、あくまで西部さんなりの死の哲学であった。ただそれは、「では、お前は死をどう考えるのかね?」と問いかけている。答えを出すのはたいへん難しい。だが、われわれの前にこの問いがおかれていることは間違いないだろう。

(「いかに最期を迎えるか、自分なりの“死の哲学”は」佐伯啓思『朝日新聞』2018年2月2日「異論のススメ」)

 

ーーーーーーーー

 

 (当ブログによる解説)

 上記の論考の中で、特に重要なのは、以下の一節です。

    「死」は、あくまで個人的な問題なのである。「死の一般論」などというものはない。自分なりの「死の哲学」を模索するほかない。

 

 佐伯氏が主張するのは、各自が自分なりの「死生観」を持つべきだということです。

 近代原理は、徹底的に「死」を遠ざけてきました。

 「死」はタブーであり、思考の対象から一切除去するべき事項です。

 テレビでも、新聞、雑誌においても、様々なバカバカしい理由を付加して、死体の映像はカットされています。

 

 しかし、東日本大震災は、むき出しの無慈悲な膨大な「死」を私たちに見せつけました。

 それにより、私たちは「自分自身の死」をイメージすることになりました。

 このことは、「人生」を考えることでも、あります。

 この経緯を佐伯氏は、以下のように述べています。

 

「  私の基本的な立場は次のようなものです。

 今日の日本社会の混迷、もっと特定化して言えば、言論におけるタガのはずれ方を生みだしたものは、大きく言えば、戦後日本で、われわれがその上に社会を組み立ててきた価値が借りものであり、そのことの意味を分かっていなかったからだ、ということです。

 もっと端的に言いましょう。戦後日本の「自由」「民主」「平和」「富の増大」「ヒューマニズム」「幸福追求」などという価値はどこか借り物であり、われわれの腑に落ちていないからです。そして、大事なことは、それにもかかわらず、われわれはそれを正しいものとして積極的にもちあげ、それに疑問を呈することを許さなかったのです。

 もっと大きく言うと、それを近代主義ということも可能でしょう。近代主義とは、自由の拡大、平等や民主主義の進展、経済発展、人権や基本的権利の拡張、平和の増進が人々の「幸福」につながり、「幸福の増大」は望ましいことだ、という考え方です。その意味での「幸福追求」こそがわれわれが目指すべきものだ、ということなのです。今日、この近代主義の価値観を疑う者はまずいないでしょう。

 私には、この種の「幸福追求」を絶対化し、それを疑うことをやめたところに、今日の日本の閉塞感がでてきているように思えるのです。「幸福追求」は必ず行き詰まります。まず他人のそれと衝突するでしょう。そうすると、いったいどうしてそれを調停するのか。

 また、人は、決して「運命的なもの」から逃れられません。別の言い方をすれば、理不尽な偶然のいたずらから逃れることはできません。人間の手ではどうにもならないことがいくらでもあります。こうなると、「幸福であろう、幸福であろう」という強迫観念がむしろ不幸をもたらしてしまうのです。

 実は、前作の『反・幸福論』を連載している最中に東日本大震災が起きました。まさに、どうにもならない理不尽で偶然の途方もない力が、人の幸福をあざわらうかのように吹き飛ばしてしまったのです。

 私には、この大震災は、われわれの追求してきた幸福のあり方、生活の組み立て方を根底から考え直す契機となるべきものと思われました。まさしく、人は、むきだし生と死の前に立たされたのでした。

 死生観こそが求められているのでした。被災者や被災地を考えれば早急な「復興」が必要なことは言うまでもありません。しかし、その「復興」は、いく分かは新たな社会像をさし示すものでなければならず、そのためには何らかの自然観や死生観がなければならないのです(『日本の宿命』「まえがき」 )

 

日本の宿命 (新潮新書)

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   「死生観」とは、何か?

 このことを考えることは、私たちを迷路に誘い込むことになる側面があることは確かでしょう。

 単純な問題ではないのです。

 永遠に解けない難問の一つと言えます。

 ごく一部の自覚的な思索者においては、この問題を解くためにこそ生きている、とさえ言えるのです。

 

 佐伯氏は、「死生観」について、以下のように述べています。、

「『死生観』とは、『死』をどういうものとして受け入れ、『死』を前提としてどのように生きればよいのかという漠然たる了解です。中世には『メメント・モリ(死を忘れるな)』という教訓がありましたが、生命尊重主義生存第一主義をとる近代社会では確固たる『死生観』を持ちえなかった」(『反・幸福論』)

 

 そして、佐伯氏は、「死」に最も接しているはずの医者が「死」に関心を持っていないとして、医者を批判しています。

「  医者が『死』についてあまり関心をもたないのは、ひとつは、医者は死者を相手にするのではなく、あくまで『生』の側にいるからでしょう。職業柄『生かす』ことを考えるのでしょう。

 それと、もうひとつは、どうやら『生』も『死』もたかが生物体の個体が消滅するかどうかだけのことで、それも生物的現象だと思っているふしがあります。

 強いていえば、現代の死生観なるものはそういうものなのです。いわば『死生観なき時代の死生観』といってもよいでしょう。」

 

 佐伯氏は、現代の「死生観」とは「生命尊重主義」・「生存第一主義」の時代の「死生観もどき」だとして、次のように述べます。

「  この文明の最高度な段階で、われわれは『死とは、ただ個体としての生物体の消滅である』という、あまりにあけすけで単純でむき出しの『死』という原点に復帰したというわけです。とすれば、ベッドにくくりつけられて死ぬのも、誰に知られることもなくひっそりと孤独死をするのも実は同じことなのではないでしょうか。どちらも、『死とは、ただ個体としての生物体の消滅である』という現代の原理からすれば、同じ考え方に基づいているのではないでしょうか」

 

 次に、上記の論考(「自分なりの死の哲学は」)では、「孤独死」・「独居死」を論じていましたが、『反・幸福論』では、「『無縁死』とは『現代の姥捨て』ではないか」という重要な指摘をしています。

 佐伯氏は、次のように述べています。

「  無縁死とは、もっとわかりやすい現代の姥捨てということになるでしょう。いわば自己責任原則による姥捨てのセルフサービスのようなものなのです。

(→当ブログによる「注」→なんとも過激な皮肉的表現です。しかし、一面において、この指摘は正当です。私たちは個人主義を信奉し、個人主義的な行為、言い換えれば、孤立的行為を喜んで遂行しています。一方で、「姥捨て」は、他律的孤立化の元での死、他律的・強制的な個人主義的状況(「死」)の創出と評価することが可能だからです)

 そして結局、姥捨てにかわる別のやり方を現代の文明が発見したわけでもないのです。

 私は、何も無縁死を礼讃しようとしているわけではありません。

 ただ、姥捨てを悲惨だ、凄惨だ、人権無視だといって非難するほど、われわれが進歩したわけでもなんでもない、ということなのです」

 

 さらに、佐伯氏は、「孤独死」についても次のように述べます。

「『死』とは、どうしても生物体としての個体の消滅です。『人間』が否応なく動物に戻る瞬間なのです。そこにどんな死に方がいいも悪いもありません。自然死としては、できるだけ荷物を軽くし、現世の縁をたち、誰にもさして迷惑をかけず(確かに死体処理者や遺品処理者にはかなり迷惑がかかりますが)、猫が自らの死期を悟ったとき姿を消すように、いつのまにか、こっそりと孤独死するのが本当の姿なのです

 

 上記は、理の当然のことを改めて指摘した論考と言えるでしょう。

 死は個人的な現象です。

 「死=孤独」なのですから、「孤独死」というのは、考えてみれば、実に奇妙な表現と言えるのです。

 孤独死を問題視する論考は、本音の所は、上記の佐伯氏の論考の 「(確かに死体処理者や遺品処理者にはかなり迷惑がかかりますが)」の部分を、気にしているのでしょう。

 

 (3)「死生学」について

 

「  「死」は、あくまで個人的な問題なのである。「死の一般論」などというものはない。自分なりの“死の哲学”を模索するほかない。西部さんの自死は、あくまで西部さんなりの死の哲学であった。ただそれは、「では、お前は死をどう考えるのかね?」と問いかけている。答えを出すのはたいへん難しい。だが、われわれの前にこの問いがおかれていることは間違いないだろう。

(「いかに最期を迎えるか、自分なりの“死の哲学”は」佐伯啓思『朝日新聞』2018年2月2日「異論のススメ」)

 

 上記の論考における「死生観」を考える上で、最近の学問である「死生学」を軽視することはできません。

 「死生学」は、個人の死とその死生観についての学問です。

 具体的には自己の死に向き合うことで、「死までの生き方」を考える学問です。

 死生学の開拓者の一人、アリエスによれば、「人間は死者を埋葬する唯一の動物」です。

 この埋葬儀礼はネアンデルタール人にまでさかのぼるものです。

 それ以来長い歴史の中で、人類は「死に対する態度=死生観」を養ってきました。

 死生学はこのような死生観を哲学・医学・心理学・民俗学・文化人類学等を通して解明し、「死への準備教育」を目的とする学際的な学問です。

 死生学は尊厳死問題・緩和医療問題等を背景にして、最近、確立された新しい学問領域です。


 現代社会は、「死」を徹底的にタブー視する社会です。

 近代以前において「死」は最重要な哲学的思索の対象でしたが、近代以降の社会思想は、人間生活から死を排除しました。

 現代社会において一般化している「核家族」も、死を排除した小共同体です。

 子供は成人になるまで、身近な家族の死に直面する機会は、極めて少ないでしょう。

 それに対し、前近代における大家族においては、家族構成は二世代になり、家族の死は身近なものでした。

   「死生学」は、死をタブー視している現代社会において、「死への態度」という視点から「生の根元的価値」を見つめ直そうという学問的試みです。

 

   「死生学」においては、「死への準備教育(死の準備教育)」を重視しています。

   「死への準備教育(death education)」とは、人間らしい死を迎えること、死に直面したり、親族と死別したりすることの苦悩を和らげるための教育、に関連する教育をいいます。

   「死への準備教育」は、欧米を中心に広まっています。

 具体的には、ホスピスと幼稚園の併設、学会開催、社会講座開催等です。

 

 日本でも、最近、「死への準備教育」は注目され、「死への準備教育」が求められるようになっています。

 その背景には、以下の点が挙げられるでしょう。

 

 高齢化社会の進行。

 病院死の急増。

 延命治療等による、周りを医療機器に囲まれた死の急増。(→輸液ルート、導尿バルン、気道チューブ、動脈ライン等、身体中にチューブやセンサーが取り付けられた重症患者のことを『スパゲティ症候群』と呼びます)

 死の定義の曖昧化。具体的には、脳死と心臓死の論争。

 「生きること」の意義の喪失。それに伴う自殺や犯罪の増加。

 

 これらの深刻な現代状況を背景に、「人間らしく死ぬこととは、どうことか?」「生と死とは何か?」を追求する「死生学」の意義が問われるようになって来たのです。

 

 (4) 「日本古来の伝統的死生観」の再評価について

 

「 「死」は、あくまで個人的な問題なのである。「死の一般論」などというものはない。自分なりの「死の哲学」を模索するほかない。西部さんの自死は、あくまで西部さんなりの死の哲学であった。ただそれは、「では、お前は死をどう考えるのかね?」と問いかけている。答えを出すのはたいへん難しい。だが、われわれの前にこの問いがおかれていることは間違いないだろう。」

 (「いかに最期を迎えるか、自分なりの“死の哲学”は」佐伯啓思『朝日新聞』2018年2月2日「異論のススメ」)

 

 上記に関連する日本古来の伝統的死生観の再評価について、当ブログで、最近解説したので、以下に、その記事(→「予想問題「無常という事」小林秀雄・身体感覚・身体論・死生観・随筆」)の該当部分を再掲します。

 

gensairyu.hatenablog.com

 

ーーーーー

 

(再掲開始)

 

(小林氏の論考)(概要です)

「【8】上手に思い出す事は非常に難しい。だが、それが、過去から未来に向かって飴(あめ)の様に延びた時間という蒼(あお)ざめた思想(僕にはそれが現代における最大の妄想と思われるが)から逃れる唯一の本当に有効なやり方の様に思える。成功の期はあるのだ。この世は無常とは決して仏説という様なものではあるまい。それは幾時(いつ)如何(いか)なる時代でも、人間の置かれる一種の動物的状態である。現代人には、鎌倉時代の何処かのなま女房ほどにも、無常ということが分かっていない。常なるもの(→伝統的価値観、死生観、死への意識)を見失ったからである。」  (『文学界』昭和17年6月号)

 

ーーーーーーーー

 

(当ブログの解説)

 

(問題)「現代人は、鎌倉時代のなま女房ほどにも無常ということがわかっていない」とは、どういう意味か?

 

 「なま女房」は、確固たる「死生観」(→「死」と「生」に関する価値観。「生死は無常なのでどうすることもできない」とする価値観)を保持していたが、現代の日本人は、「死」・「人生の無常」を直視していないということです。

 

(問題)「常なるもの」とは何か?

 「日本古来の伝統的死生観」です。

 前述したように、明治時代からの、「文明開化」による「西洋化・近代化」により、日本人の精神構造が、「西洋的な人間中心主義的発想」となりました。

 そして、「自然との交流」・「死後の世界との交流」は、出来なくなりました。

 その結果、「死」・「歴史」は、日々の生活から遠ざかったのです。

 それとともに、「日本古来の伝統的死生観」も、ほとんど消滅してしまったのです。

 このことは、戦後になって、著しく進行したのです。

 

 この人間として不自然な状態から脱却するためには、日頃から、頭だけで観念的に考えないようにする、全身で納得することを心がける、腑に落ちるということを大切にする、というようにして、「自分の身体感覚」をも重視して、考察することを意識するべきです。

 「自分の身体性」に意識が向けば、自分の「老」・「死」は、時間と宿命の流れに支配され、自分の意識を超越したものだという当然の事実が強く認識できるはずです。

 人は「老」・「死」の絶対性から逃れることはできないのです。

 このことを「無常」というのでしょう。

 現代の日本人は、「自己の身体性」から目を背けたために、この「無常の感覚」、つまり、「日本の伝統的価値観」まで忘れてしまったのでしょう。

 

 小林秀雄氏は、「死を直視することの重要性」を以下のように述べています。

「人の世の秩序を、つらつら思うなら、死によって完結する他はない生の営みの不思議を納得するでしょう。死を目標とした生しか、私たちには与えられていない。そのことが納得出来た者には、よく生きる事は、よく死ぬ事だろう。 」(小林秀雄「生と死」『小林秀雄全作品  第26集』)

 

「この世に生まれ、暮らし、様々な異変に会い、死滅するという人の一生を、これを生きて知る他はない当人の身になって納得してみよ。歴史の真相に推参できるだろう。兼好はこれを『実(まこと)の大事』と呼んでいる。」(小林秀雄「生と死」)

 

 「小林秀雄についての批評」に関してはトップレベルの文芸評論家の秋山駿氏は、「小林秀雄ーその生と文学の魅力」 (『Web版 有鄰・第414号(平成14年5月10日)』有隣堂)の中で、とても参考になることを述べています。

「小林は乱暴な人だ、と言ったが、その乱暴とは、一度自分で決断したら、前途も知らず、前後も見ず、自分を信じて一直線に突き進む元気、といった意味のものだ。

 その一直線に突き進む元気が、小林の文学の中央を貫く。出発点から最後まで貫く。」

 そして、『考えるヒント』について、以下のように続けています。

「小林は、戦後の時代が、あまりにも日本文化の基本から外れた方へ進んでいるのを見て、時代に抗して、警告として、彼が日本と現代について考えたところを種子として、われわれへとばら撒いたのであった。一粒の麦もし死なば・・・・、それがヒントの真意であった。」

 このことは、「無常という事」についても、同じように言えるのでは、ないでしょうか。

 ただ、「無常という事」は戦争中の作品です。

 とすると、戦争中から、戦後思想的なものはあったのでしょう。

 

(再掲終了)

 

朝日新聞デジタル

朝日新聞デジタル

 

  

 

(5)佐伯啓思氏の紹介

 

 1949(昭和24)年、奈良県生まれ。社会思想家。京都大学名誉教授。東京大学経済学部卒。東京大学大学院経済学研究科博士課程単位取得。2007年正論大賞。

 

著書は、

『隠された思考』(筑摩学芸文庫)(サントリー学芸賞)

『時間の身振り学』(筑摩書房)→神戸大学、早稲田大学(政経)で出題

『「アメリカニズム」の終焉』(中公文庫)(東畑記念賞)

『現代日本のリベラリズム』(講談社)(読売論壇賞)

『現代社会論』(講談社学術文庫)

『自由とは何か』(講談社現代新書)→立教大学、法政大学で出題

『反・幸福論』(新潮新書)→小樽商科大学で出題

『倫理としてのナショナリズム』(中公文庫)→関西大学で出題

『日本の宿命』(新潮新書)

『正義の偽装』(新潮新書)

『西田幾多郎・無私の思想と日本人』(新潮新書)

など多数。

 

(6)当ブログにおける「佐伯啓思」関連記事の紹介

 

gensairyu.hatenablog.com

 

gensairyu.hatenablog.com

 

(7)当ブログにおける「哲学」関連記事の紹

 

gensairyu.hatenablog.com

 

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 ーーーーーーーー

 

今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

ご期待ください。

 

    

 

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反・幸福論 (新潮新書)

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

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5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

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 私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。

https://twitter.com/gensairyu 

https://twitter.com/gensairyu2

 

2015東大国語第1問(現代文)『傍らにあること』池上哲司/解説

(1)はじめに ─ なぜ、この記事を書くのか?


 「自己」・「アイデンティティ」・「自分らしさ」、「自己と死」は、入試頻出論点です。

  「自己」・「アイデンティティ」の内実をいかに考えるかについては、さまざまな視点があります。

 今回の記事で解説する、2015東大国語第1問(現代文)『傍らにあること』池上哲司は、読むべき内容になっています。

 設問も、全体的に見て、ハイレベルで良問です。

 ぜひ、チャレンジしてください。

 

 なお、今回の記事の項目は以下の通りです。

 

(2)2015東大国語第1問(現代文)「傍らにあること」池上哲司/解説

(3)補充説明① ─ 本書の内容 ─ 「自由の重さ」と「他者の承認」

(4)補充説明② ─ 最近の東大国語第1問の傾向について

(5)池上哲司氏の紹介

(6)当ブログにおける「自己」・「自分」・「自分らしさ」関連記事の紹介

(7)当ブログにおける「承認欲求」関連記事の紹介

 

傍らにあること: 老いと介護の倫理学 (筑摩選書)

 


(2)2015東大国語第1問(現代文)「傍らにあること」池上哲司/解説

 

(問題文本文)(概要です)

(【1】・【2】・【3】・・・・は当ブログで付記した段落番号です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です) 

 

(問)次の文章を読んで、後の設問に答えよ。

【1】昨日机に向かっていた自分と現在机に向かっている自分、両者の関係はどうなっているのだろう。身体的にも意味的にも、昨日の自分と現在の自分とが微妙に違っていることは確かである。しかし、その違いを認識できるのは、その違いにもかかわらず成立している不変の自分なるものがあるからではないのかこういった発想は根強く、誘惑的でさえある。ァこのような見方は出発点のところで誤っているのである。このプロセスを時間的に分断し、対比することで、われわれは過去の自分と現在の自分とを別々のものとして立て、それから両者の同一性を考えるという道に迷いこんでしまう。過去の自分と現在の自分という二つの自分があるのではない。あるのは、今働いている自分ただ一つである。生成しているところにしか自分はない。

【2】過去の自分は、身体として意味として現在の自分のなかに統合されており、その限りで過去の自分は現在の自分と重なることになる。身体として統合されているとは、たとえば、運動能力に明らかである。最初はなかなかできないことでも、訓練を通じてわれわれはそれができるようになる。そして、いったん可能となると、今度はその能力を当たり前のものとしてわれわれは使用する。また、意味として統合されているとは、われわれが過去の経験を土台として現在の意味づけをなしていることに見られるとおりである。現在の自分が身体的、意味的統合を通じて、結果として過去の自分を回収する。換言すれば、回収されて初めて、過去の自分は「現在の自分の過去」という資格を獲得できるのである。


ーーーーーーーー

 

(設問)(1)

このような見方は出発点のところで誤っているのである」(傍線部ア)とあるが、なぜそういえるのか、説明せよ。(60字程度)

……………………………


(解説・解答)

 傍線部の「このような見方」とは、「身体的にも意味的にも、昨日の自分と現在の自分とが微妙に違っていることは確かである。

 しかし、その違いを認識できるのは、その違いにもかかわらず成立している不変の自分なるものがあるからではないのか」とする「見方」です。

 

 次に、傍線部の「出発点のところ」とは、「過去の自分と現在の自分とを別々のものとして」考えることです。

 それが「誤っている」理由は、

【1】段落最終部分「過去の自分と現在の自分という二つの自分があるのではない。あるのは、今働いている自分ただ一つである。生成しているところにしか自分はない」、

【2】段落冒頭部分「過去の自分は、身体として意味として現在の自分のなかに統合されており、その限りで過去の自分は現在の自分と重なることになる」からです。

 以上のポイントをまとめるとよいでしょう。

 

 自分は「不変」ではないのです。
 自分は、意識レベル、無意識レベルで、日々、自ら微調整し、変化している運動体、可動体です。
 このことが、池上氏の主張の根幹であり、スタートです。

 

(解答)
「不変の自分」という発想は、過去を統合した現在の生成としてしかありえない自分を、過去と現在に分断することを前提とするから。


ーーーーーーーー

 

(問題文本文)(概要です)

【3】統合が意識されている場合もあれば、意識されていない場合もある。したがって、現在の自分へと回収されている過去の自分が、それとして常に認識されているとは限らない。むしろ、忘れられていることの方が多いと思われる。二十年前の今日のことが記憶にないからといって、それ以前の自分とそれ以後の自分とが断絶しているということにはならない。第一、二十年前から今日現在までのことを、とぎれることなく記憶していること自体不可能である。重要なのは、何を忘れ、何を覚えているかである。つまり、自分の出会ったさまざまな経験を、どのようなものとして引き受け、意味づけているかである。そして、そのような過去への姿勢を、現在の世界への姿勢として自らの行為を通じて表現するということが、働きかけるということであり、他者からの応答によってその姿勢が新たに組み直されることが、自分の生成である。そしてこの生成の運動において、いわゆる自分の自分らしさというものも現れるのである。

【4】 ィこの運動を意識的に完全に制御できると考えてはならない。つまり、自分らしさは、自らがそうと判断すべき事柄ではないし、そうあろうと意図して実現できるものでもない。具体的に言えば、自分のことを人格者であるとか、高潔な人柄であるとか考えるなら、それはむしろ、自分がそのような在り方からどれほど遠いかを示しているのである。また、人格者となろうとする意識的努力は、それがどれほど真摯なものであれ、いや、真摯なものであればあるほど、どうしてもそこには不自然さが感じられてしまう。ここには、自分の自分らしさは他人によって認められるという逆説が成立する。このことは、とりわけ意識もせずに、まさに自然に為される行為に、その人のその人らしさが紛(まご)う方なく認められるという、日常の経験を考えてみても分かるだろう。 

【5】自分とはこういうものであろうと考えている姿と、現実の自分とが一致していることはむしろ稀である。それは、現実の自分とはあくまで働きであり、その働きは働きの受け手から判断されうるものだからである。しかし、そうであるならば、自分の自分らしさは他人によって決定されてしまいはしないか。ここが面倒なところである。自分らしさは他人によって認められるのであるが、決定されるわけではない。自分らしさは生成の運動なのだから、固定的に捉えることはできない。それでも、自分らしさが認められるというのは、自分について他人が抱いていた漠然としたイメージを、一つの具体的行為として自分が現実化するからである。しかし、ゥその認められた自分らしさは、すでに生成する自分ではなく、生成する自分の残した足跡でしかない。

【6】いわゆる他人に認められる自分らしさは、生成する自分という運動を貫く特徴ではありえない。かといって、自分で自分の自分らしさを捉えることもできない。結生成する自分の方向性などというものはないのだろうか。


ーーーーーーーー

 

設問(2)

「この運動を意識的に完全に制御できると考えてはならない」(傍線部イ)とあるが、なぜそう言えるのか。(60字程度)

……………………………


(解説・解答)

 「この運動」とは、直前の「いわゆる自分の自分らしさというもの」が「現れる」「生成の運動」です。

 

   「この運動を意識的に完全に制御できると考えてはならない」という理由は、

【4】段落「自分の自分らしさは他人によって認められるという逆説が成立する」、

【5】段落「自分とはこういうものであろうと考えている姿と、現実の自分とが一致していることはむしろ稀である。それは、現実の自分とはあくまで働きであり、その働きは働きの受け手から判断されうるものだからである」からです。


 なお、【3】段落後半部分「そのような過去への姿勢を、現在の世界への姿勢として自らの行為を通じて表現するということが、働きかけるということであり、他者からの応答によってその姿勢が新たに組み直されることが、自分の生成である」、


自分の生成→他者との関係の中で作られる


【5】段落後半部分「自分らしさが認められるというのは、自分について他人が抱いていた漠然としたイメージを、一つの具体的行為として自分が現実化する」、

 

自分らしさ→自分が現実化する

についても、指摘するとよいでしょう。


(解答)

自分らしさは、自らの働きかけに対する他者からの応答により再構成され、他人により判断され、認識されるものだから。

 

ーーーーーーーー


設問(3)

「その認められた自分らしさは、すでに生成する自分ではなく、生成する自分の残した足跡でしかない」(傍線部ウ)とはどういうことか、説明せよ。(60字程度)

……………………………


(解説・解答)

 傍線部の2文前の「自分らしさは生成の運動なのだから、固定的に捉えることはできない。」に注目してください。

 この文を元に、傍線部を、分かりやすく考えると、

「自分について他人が抱いていた漠然としたイメージを、一つの具体的行為として自分が現実化する」「自分らしさ」は、「自分」の「生成の運動」の一場面に過ぎないということです。

 

 この設問は、設問(1)と、ほぼ同一であることを意識してください。

 難関大学現代文では、模試とは違い、同一ポイントを視点を変えて問うことが、よく、あります。


(解答)

ある時点で、他人が認めた自分らしさは、生成し変化し続ける自分にとって、その過程のうちの一場面でしかないこと。


ーーーーーーーー

 

(問題文本文)(概要です)

【7】生成の方向性は生成のなかで自覚される以外にない。ただこの場合、何か自分についての漠然としたイメージが具体化することで、生成の方向性が自覚されるというのではない。というのは、ここで自覚されるのは依然として生成の足跡でしかないからである。生成の方向性は、棒のような方向性ではなく、生成の可能性として自覚されるのである。自分なり、他人なりが抱く自分についてのイメージ、それからどれだけ自由になりうるか。どれだけこれまでの自分を否定し、逸脱できるか。この「・・・・でない」という虚への志向性が現在生成する自分の可能性であり、方向性である。そして、これはまさに自分が生成する瞬間に、生成した自分を背景に同時に自覚されるのである。

【8】このような可能性のどれかが現実のなかで実現されていくが、それもわれわれの死によって終止符を打たれる。こうして、自分の生成は終わり、後には自分の足跡だけが残される。

【9】だが、本当にそうか。なるほど、自分はもはや生成することはないし、その足跡はわれわれの生誕と死によって限られている。しかし、働きはまだ生き生きと活動している。ある人間の死によって、その足跡のもっている運動性も失われるわけではない。つまり、ェ残された足跡を辿る人間には、その足の運びの運動性が感得されるのであり、その意味で足跡は働きをもっているのである。われわれがソクラテスの問答に直面するとき、ソクラテスの力強い働きをまざまざと感じるのではないか。

【10】自分としてのソクラテスは死んでいるが、働きとしてのソクラテスは生きている。生成する自分は死んでいるが、その足跡は生きている。正確に言おう。自分の足跡は他人によって生を与えられる。われわれの働きは徹頭徹尾他人との関係において成立し、他人によって引き出される。そして、自分が生成することを止めてからも、その働きが可能であるとするならば、その可能性はこの現在生成している自分に含まれているはずである。そのように、自分の可能性はなかば自分に秘められている。ォこの秘められた、可能性の自分に向かうのが、虚への志向性としての自分の方向性でもある。

(池上哲司『傍らにあること―老いと介護の倫理学』)

 

ーーーーーーーー

 

設問(4)

「残された足跡を辿る人間には、その足の運びの運動性が感得される」(傍線部エ)とはどういうことか、説明せよ。(60字程度)

……………………………


(解説・解答)

  傍線部「その足の運びの運動性」とは、

【5】段落の「自分について他人が抱いていた漠然としたイメージを、一つの具体的行為として自分が現実化」した「自分らしさ」であり、

【6】段落の「自分の自分らしさ」、「生成する自分の方向性」です。

 

 次に、傍線部直前の「つまり」に着目して、

【8】段落「このような可能性(→「現在生成する自分の可能性」)のどれかが現実のなかで実現されていくが、それもわれわれの死によって終止符を打たれる。こうして、自分の生成は終わり、後には自分の足跡だけが残される。」


【9】段落「しかし、働きはまだ生き生きと活動している。ある人間の死によって、その足跡のもっている運動性も失われるわけではない。」

「つまり(→「言い換え」)ェ残された足跡を辿る人間には、その足の運びの運動性が感得されるのであり、その意味で足跡は働きをもっているのである。」


(→これ以下も「傍線部エの言い換え」になっています)われわれがソクラテスの問答に直面するとき、ソクラテスの力強い働きをまざまざと感じるのではないか」

という論理展開に注目してください。

 

 【9】段落のポイントは、以下の部分です。

「自分の死後も『自分の働き』はまだ生き生きと活動している。ある人間の死によって、その足跡のもっている運動性も失われるわけではない。」

 

 つまり、「周りの人々の思惑を過度に気にすることなく、自由に、のびのびと生きよう」と呼び掛けているのでしょう。

 少々、ロマンティックで、センチメンタルな文章になっています。

 難関大学の出題者が好む詩的な内容です。

 

(解答)

自分の可能性を追求し続けた人の生の働きは、自分の死後にも、その痕跡を辿る他人の精神の中で、生きているかのように再現されるということ。

 

ーーーーーーーー


設問(5)

「この秘められた、可能性の自分に向かうのが、虚への志向性としての自分の方向性でもある」(傍線部オ)とあるが、どういうことか。本文全体の論旨を踏まえた上で、百字以上百二十字以内で説明せよ。


……………………………

 

(解説・解答)

設問(5)

「この秘められた、可能性の自分に向かうのが、虚への志向性としての自分の方向性でもある」(傍線部オ)とあるが、どういうことか本文全体の論旨を踏まえた上で、説明せよ。」

 

 上記の赤字部分に注目してください。

 入試の性格上、出題者の出題意図を強く意識して、説明することになります。

   「出題者の読みの方向性」に着目する必要があるということです。

   「出題者の読みの方向性」は、設問から推測するべきです。

 難関大学の現代文問題においては、本文のポイントや、少々曖昧な記述は、設問で的確に問われています。

 従って、各設問の流れに素直に乗って、「出題者」の出題意図に沿って、「本文全体の論旨」をまとめていく姿勢が大切です。

 

 傍線部の「虚への志向性としての自分の方向性」とは、

【7】段落後半部分「自分なり、他人なりが抱く自分についてのイメージ、それからどれだけ自由になりうるか。どれだけこれまでの自分を否定し、逸脱できるか。この『・・・・でない』という虚への志向性が現在生成する自分の可能性であり、方向性である。そして、これはまさに自分が生成する瞬間に、生成した自分を背景に同時に自覚されるのである。」に関連しています。


 この設問においては、「自己」の内容をまとめる必要があります。

 つまり、各設問のポイントを網羅することが大切です❗

 以下に、「各設問のポイント」を列挙していきます。

 

① 「あるのは、今働いている自分ただ一つである。生成しているところにしか自分はない。」(【1】段落最終部分)という点。→(設問1)

 

② 「過去の自分は、身体として意味として現在の自分のなかに統合されており、その限りで過去の自分は現在の自分と重なることになる。」(【2】段落冒頭部分)という点→(設問3)

 

③ 「働きかけ」・「自分らしさ」については、以下の点がポイントになります。

【3】段落後半部分「重要なのは、何を忘れ、何を覚えているかである。つまり、自分の出会ったさまざまな経験を、どのようなものとして引き受け、意味づけているかである。そして、 そのような過去への姿勢を、現在の世界への姿勢として自らの行為を通じて表現するということが、働きかけるということであり、他者からの応答によってその姿勢が新たに組み直されることが、自分の生成である。そしてこの生成の運動において、いわゆる自分の自分らしさというものも現れるのである。」→(設問2)

 

④ 「われわれの働き」は、死後も、「他人によって引き出される」可能性があるのです。→(設問4)

 つまり、「われわれの働き」・「われわれの足跡」は、自分の死後も生きている、ということです。

 以下の部分に注意してください。

【9】段落「その(自分の)足跡はわれわれの生誕と死によって限られている。しかし、働きはまだ生き生きと活動している。ある人間の死によって、その足跡のもっている運動性も失われるわけではない。つまり、ェ残された足跡を辿る人間には、その足の運びの運動性が感得されるのであり、その意味で足跡は働きをもっているのである。」

【10】段落前半部分「自分の足跡は他人によって生を与えられる。われわれの働きは徹頭徹尾他人との関係において成立し、他人によって引き出される。そして、自分が生成することを止めてからも、その働きが可能である。」

 以上の①~④の踏まえて、「可能性としての自分に向き合う」ことが、大切なのです。

 このことが、「自分なり、他人なりが抱く自分についてのイメージ、それからどれだけ自由になりうるか。どれだけこれまでの自分を否定し、逸脱できるか」(【7】段落)(→「虚への志向性」)を考え実践する、という「自分の方向性でもある」ということです。

 

(解答)

自己とは、固定不変の存在でなく、過去を引き受けつつ他者との関係や応答の中で不断に生成され、自らの死後も他人の中で生きうる運動であるから、今までの自分を否定し、逸脱できるかという自由の中に進むべき自らの可能性があるということ。(114字)

 

ーーーーーーーー


(出典)

池上哲司『傍らにあること 老いと介護の倫理学』〈第2章 自分ということ/6 自分への還帰〉

ーーーーーーーー

 

(3)補充説明① ─ 本書の内容 ─ 「自由の重さ」と「他者の承認」

 

 今回の問題は、「自由と責任」、ひいては、「『自由の重さ』と『他者の承認』」に関連しています。

 この点については、池上哲司氏は、本書『傍らにあるもの』で、以下のように述べています。

 

「 自由であるとは自らの判断に従って行為しうることであり、かつ現実に行為することである。したがって、先生や上司の言うことが間違っていると判断したにもかかわらず、自分の将来のことを考えて、反対意見を述べず先生や上司の判断に従うのであれば、それは自由であるとは言えない。つまり、可能性としては自由であるが、現実としては自由ではないのである。行為しうることと現実に行為することとの間にはさまざまな障害が存在しており、その障害を克服しうるか否かに自由はかかっている。

 だが、自由の現実のために自らの生命に危険がある場合はどうであろう。命を賭して自らの自由を実現することはできても、その結果自らの生命そのものを奪われることになったのでは、元も子もないのではないか。自由の実現が自由の可能性を奪う、これは極端な例である。しかし、自由ということを考えるとき、最終的にはこの問題を避けて通れないはずである。この点を考える前に、まずわれわれは、自由に耐えられるかという問いの意味を吟味することにしよう。

 耐えるということは、自由がわれわれにとって重荷となるということである。自由であることがわれわれの負担になるのは、自由が必然的に責任を伴うからである。自らの自由によって為したことに対しては、自分以外のほかの誰に責任を負わせることができようか。

 つまり、自由であればあるほど責任は大きく重くならざるをえない。それなのに、自らの判断にわれわれは絶対的な確信を抱くことができない。そこで、われわれは自分の判断や行為を肯定してくるれる他者を探しては、気休めをえようとする。 

 先生が認めてくれた、上司が認めてくれた、世界的権威が認めてくれた。けれども、相変わらず責任は自ら独りにあり、そこから逃れることはできない。この事実に気づいたとき、われわれにとって自由は厭うべきものでしかない。自由と責任を肩代わりしてくれる者をわれわれは探し求め、肩代わりしてくるなら、自らの自由さえ嬉々として譲り渡そうとする」(『傍らにあること』)

 


 池上氏は、この論考で以下のように私達に告げていると、私は感じました。

「『他者の承認」、「他者の共感」が必要なのは、分かるが、焦ることはない。自分の死後、他者の承認、他者の共感はあるかもしれない」



 私達は孤独であり、自由ではあるが、責任を背負わされています。

 このような状況において、私達は、「自らの判断」に「絶対的な確信」を「抱く」ために、何が必要になるのでしょうか?

 ここで、「他者の承認」、「他者の共感」を必要なのは、仕方のないことでしょう。

 しかし、余りにそれらを求め過ぎることは、自分を卑屈にすることであり、自分を歪めることになるのです。

 このことを、池上氏は主張しているのではないでしょうか。

 

 現代日本の一部の人々は、「承認欲求」が強すぎるために、余りに他者の反応に過敏になり、主体性を弱め、ひいては、「自己喪失状況」に陥っている人もいるようです。

 そのような人々に、

「焦る必要はない。私達のメッセージは、私達の死後も残る。」

「私達の死後にも、私達の足跡を辿る人間には、その足の運びの運動性が感得されるのであり、その意味で足跡は働きをもっている」

 このように、池上氏は語りかけているのでは、ないでしょうか?

 

 以上を意識して、池上氏の今回の論考の重要部分を読み直してみるとよいでしょう。


「【7】自分なり、他人なりが抱く自分についてのイメージ、それからどれだけ自由になりうるか。どれだけこれまでの自分を否定し、逸脱できるか。この「・・・・でない」という虚への志向性が現在生成する自分の可能性であり、方向性である。そして、これはまさに自分が生成する瞬間に、生成した自分を背景に同時に自覚されるのである。

【8】このような可能性のどれかが現実のなかで実現されていくが、それもわれわれの死によって終止符を打たれる。こうして、自分の生成は終わり、後には自分の足跡だけが残される。

【9】だが、本当にそうか。なるほど、自分はもはや生成することはないし、その足跡はわれわれの生誕と死によって限られている。しかし、働きはまだ生き生きと活動している。ある人間の死によって、その足跡のもっている運動性も失われるわけではない。つまり、ェ残された足跡を辿る人間には、その足の運びの運動性が感得されるのであり、その意味で足跡は働きをもっているのである。われわれがソクラテスの問答に直面するとき、ソクラテスの力強い働きをまざまざと感じるのではないか。

【10】自分としてのソクラテスは死んでいるが、働き(→「影響力」でしょう)としてのソクラテスは生きている。生成する自分は死んでいるが、その足跡は生きている。正確に言おう。自分の足跡は他人によって生を与えられる。われわれの働きは徹頭徹尾他人との関係において成立し、他人によって引き出される。そして、自分が生成することを止めてからも、その働きが可能であるとするならば、その可能性はこの現在生成している自分に含まれているはずである。」

 

 

(4)補充説明② ─ 最近の東大国語第1問の傾向について

 

 昨年の国語第1問(現代文)のテーマ(藤山直樹『落語の国の精神分析』)も、今年のテーマも、ともに「自己」・「アイデンティティ」でした。

 

 昨年の国語第1問のキーセンテンスは以下の通りです。
                  


「  自己のなかに自律的に作動する複数の自己があって、それらの対話と交流のなかに、ひとまとまりの『私』というある種の錯覚が生成される。それが精神分析の基本的な人間理解のひとつである」

「  落語を観る観客はそうした自分自身の本来的な分裂を、生き生きとした形で外から眺めて楽しむことができるのである。分裂しながらも、ひとりの落語家として生きている自分を見ることに、何か希望のようなものを体験するのである。

 

 以上の段落を読むと、筆者が「自己」を「複数」・「分裂」の視点から分析していることが分かります。

 
 この論考も興味深い内容を有しているので、解説記事を近日中に書く予定です。

 

  

(5)池上哲司氏の紹介

 

池上 哲司(いけがみ てつじ)
大谷大学文学部哲学科教授
 1949年、東京生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程(哲学専攻)単位取得退学。大谷大学文学部哲学科専任講師を経て大谷大学文学部哲学科助教授。1983年から1985年3月まで西ドイツ・アウクスブルク大学に留学。1992年大谷大学文学部哲学科教授、現在に至る。

 

【著書】

『実践哲学の現在』(共著・世界思想社)、
『自己と他者』(共編著・昭和堂)、
『モラル・アポリア』(共著・ナカニシヤ出版)、
『岩波講座 哲学12 性/愛の哲学』(共著・岩波書店)、
『親鸞像の再構築』(共著・筑摩書房)などのほか、
エッセイ集『不可思議な日常』(東本願寺出版部)がある。


【翻訳】

『近代政治哲学入門(叢書・ウニベルシタス)』(法政大学出版局)、
『倫理学の根本問題(現代哲学の根本問題3)』(晃洋書房)など。

 

不可思議な日常

不可思議な日常

 

 


(6)当ブログにおける「自己」・「自分」・「自分らしさ」関連記事の紹介

 

  「自己」・「自分」・「自分らしさ」は入試頻出論点です。

 以下の記事を、よく理解するように、してください。

 

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 (7)当ブログにおける「承認欲求」関連記事の紹介

 

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 ーーーーーーーー

 

今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

ご期待ください。

  

   

 

 

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傍らにあること: 老いと介護の倫理学 (筑摩選書)

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不可思議な日常

 

頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

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5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

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予想問題/「何のための人工知能なのか」新井紀子/AI と哲学

(1)はじめに

 
 「人工知能( AI )」は最近の入試頻出論点です。

 「人工知能( AI )と哲学」、「人工知能に関する国家戦略」、「その国家戦略における哲学者の影響力」について、数学者・人工知能学者の新井紀子氏が、最近、興味深い論考を発表しましたので、今回の記事で、紹介しつつ、発展的に解説します。

 

  なお、今回の記事の項目は、以下の通りです。

(2)「仏のAI立国宣言 何のための人工知能か 日本も示せ」(新井紀子(国立情報学研究所教授)、2018・4・18『朝日新聞』「新井紀子のメディア私評」)/解説

(3)「AIは哲学できるか」(森岡正博、2018・1・22『朝日新聞』)/解説

(4)「AI時代に『哲学』は何を果たせるか?」 (『そろそろ、人工知能の真実を話そう』著者ジャン=ガブリエル・ガナシアに訊く」2017・7・4『WIRED』)

(5)「日本における哲学者の地位がフランスと比較して、かなり低いこと」について

(6)「日本政府のAI 戦略」について

(7)当ブログにおける「人工知能( AI )」関連記事の紹介

 

朝日新聞デジタル

朝日新聞デジタル

 

 

(2)予想問題/「仏のAI立国宣言 何のための人工知能か 日本も示せ」(新井紀子(国立情報学研究所教授)、2018・4・18『朝日新聞』「新井紀子のメディア私評」)/解説

 

 まず、入試頻出著者・新井紀子氏の論考を引用します。

(概要です) 

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です)  

(以下、同じです)

 

「  日本ではほとんど報じられていないが、人工知能(AI)分野で、地政学的な変化がおきようとしている。フランスの動向だ。マクロン大統領は3月末、世界中からAI分野の有識者を招き意見交換会とシンポジウムを開催。フランスを「AI立国」とすると宣言した。2022年までに15億ユーロをAI分野に投資し、規制緩和を進める。

 招待された中には、フェイスブックのAI研究を統括するヤン・ルカンやアルファ碁の開発者として名高いディープマインド(DM)社のデミス・ハサビスらが含まれた。DMは今回パリに研究拠点を置くことを決めた。

 これだけ読むと、「フランスもついに重い腰を上げたか」という感想を持つ読者も少なくないだろう。ドイツは早々に「インダストリー4.0」を開始した。ビッグデータやAIを活用することで製造業の革新を目指す国家プロジェクトだ。日本でも各省が競ってAI関連のプロジェクトに着手。それでも、米国や中国との距離は縮まるどころかますます水をあけられている。いまさらフランスが参入しても手遅れなのでは、と私も思っていた。

 ところが、である。意見交換会が開かれるエリゼ宮に到着して驚いた。出席者の約半数が女性。女性研究者は1割程度と言われるAIの会合では極めて異例だ。そこには、「破壊兵器としての数学 ビッグデータはいかに不平等を助長し民主主義を脅かすか」の著者キャシー・オニールや、データの匿名化に精通したハーバード大学のラタニア・スウィーニーが含まれていた。マクロン大統領はこう言った。「AIの影響を受ける人々は『私』のような人(白人男性で40代)だけではない。すべての人だ。AIがどうあるべきかの議論には多様性が不可欠だ」と。

 大統領から求められ、「ロボットは東大に入れるか」プロジェクトを始めた意図を話した。「人々に広告をクリックさせるために」様々なサービスを無償で提供しているグーグルやフェイスブックのような巨大IT産業が、今回のAIブームを牽引することは2010年の段階で明らかだった。だが、日本はモノづくりの国である。99%の精度を、「100のうち99回正しい」ではなく「100に1回間違える」と認識すべき国だ。無償サービスの効率化のために開発された技術を、モノづくりに本格的に取り入れるべきか吟味すべきだ。AIの限界を探り、労働市場への影響を正確に見積もる必要があった、と。大統領は自ら詳しくメモを取りながら耳を傾けてくれた。

 一方、「新技術が登場する時には心配する人は必ずいる。電話やテレビが登場した時もそうだが、何の問題もなかった。AIも同じだ」と楽観論を展開するヤン・ルカンに、大統領は厳しく指摘した。「これまでの技術は国民国家という枠の中で管理できた。AIとビッグデータは違う。圧倒的な寡占状況があり、富の再分配が行われていない。フランスが育成した有能な人材がシリコンバレーに流出しても、フランスに税金は支払われない」と。

 アメリカと中国でブームになると、日本は慌ててAIに手を出した。だが、「何のため」かはっきりしない。夏目漱石そっくりのロボットを作ってみたり、小説を書かせてみたり、よく言えば百花繚乱、悪く言えば迷走気味である。メディアも、AIと聞けば何でも飛びつく状況だ。フランスは違う。AIというグローバルゲームのルールを変えるために乗り出してきたのだ。

 最後発のフランスにルールを変えられるのか。大統領のAIアドバイザーを務めるのは数学者のセドリック・ビラニだ。法学者や哲学者も連携して、アルゴリズムによる判断によって引き起こされ得る深刻な人権侵害、AIの誤認識による自己の責任の所在、世界中から最高の頭脳を吸引するシリコンバレーの「教育ただ乗り」問題を鋭く指摘。巨大なIT企業の急所を握る。そして、「データとアルゴリズムの透明性と正当な利用のための共有」という錦の御旗を掲げながら、同時に投資を呼び込む作戦だ。最初の一手は、5月に施行されるEU一般データ保護規則になることだろう。

 ヨーロッパでは哲学も倫理学も黴の生えた教養ではない。自らが望む民主主義と資本主義のルールを通すための現役バリバリの武器なのである。

 振り返って、我が国はどうか。「人間の研究者が『人工知能カント』に向かっていろいろ質問をして、その答えを分析することがカント研究者の仕事になるとわたしは予想する」(「AIは哲学できるか」森岡正博寄稿、本紙1月22日)。
 これでは、日本の哲学者の仕事は風前の灯と言わざるを得ない。(敬称略)

 (「仏のAI立国宣言 何のための人工知能か、日本も示せ」新井紀子(国立情報学研究所教授)、2018・4・18『朝日新聞』「新井紀子のメディア私評」)

 

 実に、秀逸な論考です。切れ味は、かなりのものです。

 この論考は、受験生や一般国民だけではなく、哲学者、政治家、政府の人々も、熟読するべきでしょう。

 AI の進化は、世界に大きなインパクトを与えることは確実です。

 これからの日本のAI 戦略を、どのようなものにしていくか?

 これは、緊急かつ重大な課題です。

 

 新井紀子氏の論考の中で、特に、以下の二つの指摘は、強く印象に残りました。

 「アメリカと中国でブームになると、日本は慌ててAIに手を出した。だが、『何のため』かはっきりしない。悪く言えば迷走気味である。フランスは違う。AIというグローバルゲームのルールを変えるために乗り出してきたのだ。

「  ヨーロッパでは哲学も倫理学も黴の生えた教養ではない。自らが望む民主主義と資本主義のルールを通すための現役バリバリの武器なのである。

 振り返って、我が国はどうか。「人間の研究者が『人工知能カント』に向かっていろいろ質問をして、その答えを分析することがカント研究者の仕事になるとわたしは予想する」(「AIは哲学できるか」森岡正博、朝日新聞1月22日)。
 これでは、日本の哲学者の仕事は風前の灯と言わざるを得ない。」

 

 今や、AIは、現在の閉塞的な状況の救世主として、ある種の期待を集めています。しかし、AI が人類を幸福に導くかどうかは、それをコントロールする人間の叡智(英知)によるという自明の理をフランス大統領は強く意識しているようです。

 この点は、日本と大きく違う点と言えます。

 

 次に、ここで気になるのは、「AIは哲学できるか」森岡正博、朝日新聞1月22日)です。どういう文脈で、森岡氏は、上記の記述をしたのでしょうか?

 そこで、次に、上記の森岡正博の論考の概要を引用します。

 

AI vs. 教科書が読めない子どもたち

AI vs. 教科書が読めない子どもたち

 

 

(3)「AIは哲学できるか」(森岡正博、2018・1・22『朝日新聞』)/解説

 

33個めの石 傷ついた現代のための哲学 (角川文庫)

33個めの石 傷ついた現代のための哲学 (角川文庫)

 

 

(概要です)

「  人工知能( AI )の進歩は目覚ましい。囲碁や将棋の世界では、もう人間は人工知能に勝てなくなってしまった。その波は、さらに広がっていくだろう。学者もその例外ではない。これまで学者たちが行ってきた研究が、人工知能によって置きかえられていく可能性もある。とくに、私が専門としている哲学の場合、考えることそれ自体が仕事内容のすべてであるから、囲碁や将棋と同じ運命をたどるかもしれない。この点を考えてみよう。

 まず、過去の哲学者の思考パターンの発見は、人工知能のもっとも得意とするところである。たとえば人工知能に哲学者カントの全集を読み込ませ、そこからカント風の思考パターンを発見させ、それを用いて「人工知能カント」というアプリを作らせることはいずれ可能になるであろう。人間の研究者が「人工知能カント」に向かっていろいろ質問をして、その答えを分析することがカント研究者の仕事になると私は予想する。この領域では人工知能と哲学者の幸福な共同作業が成立する。

 次に、人工知能に過去の哲学者たちのすべてのテキストを読み込ませて、そこから哲学的な思考パターンを可能な限り抽出させてみよう。すると、およそ人間が考えそうな哲学的思考パターンがずらっと揃うことになる。それに加えて、過去の哲学者たちが見逃していた哲学的思考パターンもたくさんあるはずだから、人工知能にそれらを発見させる。

 その結果、「およそ人間が考えそうな哲学的思考パターンのほぼ完全なリスト」ができあがるだろう。こうなると、もう人間によるオリジナルな哲学的思考パターンは生み出されようがない。将来の哲学者たちの仕事は、哲学的人工知能のふるまいを研究する一種の計算機科学に近づくだろう。

 しかしここで根本的な疑問が起きてくる。この哲学的人工知能はほんとうに哲学の作業を行っているのだろうか。外部から入力されたデータの中に未発見のパターンを発見したり、人間によって設定された問いに解を与えたりするだけならば、それは哲学とは呼べない。

 そもそも哲学は、自分自身にとって切実な哲学の問いを内発的に発するところからスタートするのである。たとえば、「なぜ私は存在しているのか?」とか「生きる意味はどこにあるのか?」という問いが切実なものとして自分に迫ってきて、それについてどうしても考えざるを得ないところまで追い込まれてしまう状況こそが哲学の出発点なのだ。人工知能は、このような切実な哲学の問いを内発的に発することがあるのだろうか。そういうことは当分は起きないと私は予想する。

 しかしながら、もし仮に、人間からの入力がないのに人工知能が自分自身にとって切実な哲学の問いを内発的に発し、それについてひたすら考え始めたとしたら、そのとき私は「人工知能は哲学をしている」と判断するだろうし、人工知能は正しい意味で「人間」の次元に到達したのだと判断したくなるだろう。

 哲学的には、自由意志に基づいた自律的活動と、普遍的な法則や真理を発見できる思考能力が、人間という類の証しであると長らく考えられてきた。しかし、それらは将来の人工知能によっていずれ陥落されるであろう。

 人工知能が人間の次元に到達するためには、それに加えて、内発的哲学能力が必要だと私は考えたい。人工知能の進化によって、そのような「知性」観の見直しが迫られている。もちろん、彼らが発する内発的な哲学の問いはあまりにも奇妙で、我々の心にまったく響かないかもしれない。この点をめぐって人間と人工知能の対話が始まるとすれば、それこそが哲学に新次元を開くことになると思われる。(「AIは哲学できるか」森岡正博、2018・1・22『朝日新聞』)


 「AI と哲学の関係」の未来予測に関する森岡氏の分析は、ハイレベルで緻密です。

 森岡正博氏は、新井紀子氏と共に入試頻出著者なので、この論考は、熟読するべきです。

 高密度の論考ですから、時間をかけて理解するようにしてください。

 入試に出題されたら、難問になります。

 

 森岡氏の人工知能( AI )の進化に対する姿勢は、少々、弱気のようです。

 新井紀子氏の論考に引用されている部分も情けない卑屈な内容ですが、特に、森岡氏の論考の後半部分の以下の見解は、実に悲しい未来予測です。

 

「  哲学的には、自由意志に基づいた自律的活動と、普遍的な法則や真理を発見できる思考能力が、人間という類の証しであると長らく考えられてきた。しかし、それらは将来の人工知能によっていずれ陥落されるであろう。」

 

 この記述は、「AI の進化」を過大に評価しているようです。

 一部のAI 学者の楽観的な未来予測に、そのまま乗ってしまっている感じです。

 

 哲学者が、哲学の本質的・根源的な価値について、自覚していないのでしょうか?

 謙虚すぎる感じもします。

 哲学を軽視している日本という環境、哲学が学問の一分野にしか過ぎないという日本の環境が、日本の哲学者を卑屈にしている側面があるのかもしれません。

 その学問的価値を考えれば、哲学者は、もう少し過剰な自信を持つべきでしょう。

 現に、ヨーロッパの哲学者達は、確固たる矜持を保持しているのですから。

 

 あるいは、AI がよく分かっていないから、哲学者は、AI について、自信のない物言いをしているのでしょうか?


 この点に関しては、「人工知能(AI)が人類を超える」という主張には根拠がない、という見解を発表しているジャン=ガブリエル・ガナシア氏の発言が参考になります。

 以下に紹介します。

 

そろそろ、人工知能の真実を話そう (早川書房)

そろそろ、人工知能の真実を話そう (早川書房)

 

 


(4)「AI時代に『哲学』は何を果たせるか?」 (『そろそろ、人工知能の真実を話そう』著者ジャン=ガブリエル・ガナシアに訊く」2017・7・4『WIRED』)

 

 以下では、2017・7・4『WIRED』で発表された、「『そろそろ、人工知能の真実を話そう』著者ジャン=ガブリエル・ガナシア(→名門パリ第六大学でAI(人工知能)研究チームを率いる哲学者)に訊く」の一部を引用します。

 

(引用開始)

《「人工知能(AI)が人類を超える」という主張には根拠がない?》

 著書『そろそろ、人工知能の真実を話そう』でAI脅威論者と巨大テック企業の「不都合な真実」を綴ったフランスのAI哲学者、ジャン=ガブリエル・ガナシア。

 AIに限らず、あらゆるデジタルテクノロジーが世界を覆い尽くそうとしているいま、人類はそれにどう向き合わなければいけないのか。 

 自身もAIを使った研究を行う予防医学の俊英・石川善樹が迫る。(TEXT BY YOSHIKI ISHIKAWA)

 哲学者がAI時代に果たすべき役割とは何なのか? さらに言えば、来たる未来において、哲学者はどのようなことを考えるべきなのだろうか? ガナシア教授は次のように述べる。

「まず今後100年という時間軸で考えると、政治的に根源的な変化が起きるでしょう。そもそも国家というものが、ポジティヴにも、ネガティヴにも変わってくると思います。さらに言えば、わたしたちが当たり前だと思ってきた古典的な概念もどんどん変わっていくでしょう。テクノロジーの進展と未来をどう考えるのか、そこに哲学者も加わらないといけません。」

(引用終了)


 また、ガナシア氏は、『Biz/Zineプレス』で、以下のように「シンギュラリティ(技術的特異点)(→「シンギュラリティ」とは、未来学上の概念の一つ。指数関数的に高度化する人工知能により、技術が持つ問題解決能力が指数関数的に高度化することで、人類に代わって、人工知能やポストヒューマンが文明の進歩の主役に躍り出る時点の事である。具体的にその時点がいつ頃到来するかという予測は、この概念を収穫加速の法則と結びつける形で一般化させたレイ・カーツワイルの影響により、2045年頃に到来するとの説が有力視されることが多い。2012年以降、ディープラーニングの爆発的な普及で現実味を持って議論されるようになり、2045年問題とも呼ばれている)」を「批判」しています。

 

 「シンギュラリティ」」は「SF的世界観」と評価しているのです。

 

「  レイ・カーツワイルのシンギュラリティという考え方は、それまでにあった様々な理論を取り込んだだけで、独自の根拠があるわけではありません。またシンギュラリティの根拠とされるムーアの法則やプロセッサーの指数関数的な成長という仮説も、帰納的推論にすぎないものであり、科学的根拠とはいえないのです。言ってみればシンギュラリティは、科学というよりSF的な世界観です。1980年代にSF作家のヴァーナー・ヴィンジがこの言葉を普及させました。機械が人間を脅かすというのはSFの定番ストーリーです。AIの第一人者のマービン・ミンスキーやジョン・マッカーシーもSF小説好きでした。フランスにはもちろんジュール・ヴェルヌに始まるSFはありますが、科学者の中でSFへの関心は高くありません。」

 

 以上のガナシア氏の見解によれば、哲学者は、必要以上に未来を悲観する必要がないことになります。

 AI 進化の実態を直視して、「AI と哲学の関係」を考察することが大切でしょう。

 

 この点に関して、中島秀之(東京大学特任教授)と松原仁(公立はこだて未来大学教授)の対談(「終わることのない人工知能の話/日本のAIは黎明期をどう歩んできたか」『日経BP社』2016.08.29)における中島氏の発言が、「AI と哲学の関係」について、示唆に富んだ発言をしているので以下に紹介します。


(中島)「私の立場から言わせてもらうと『AIは嫌いだ』という人たちは、人工知能に関して哲学的なアプローチをしないんです。」

「新しい学問をやるとき、西欧では、哲学がものすごく大事になる。AIもそうだけど、新たな研究分野が学問分野になる前は、すべて『哲学』に分類されるから。そして、晴れて学問分野になったら、そのあと、哲学ではなく、物理学や数学といったふうに分類されるようになる。」(「終わることのない人工知能の話/日本のAIは黎明期をどう歩んできたか」(『日経BP社』2016.08.29)

 

 中島氏は、「新たな研究分野」は、すべて「哲学」からスタートするということ、言い換えると、「研究分野」・「学問分野」の基盤は、「哲学」ということを述べているのです。
 この点は、「哲学」と「新たな(理科系)研究分野」が最初から分離している日本とは、大きく違うところでしょう。

 

人工知能革命の真実 シンギュラリティの世界 (WAC BUNKO 271)

人工知能革命の真実 シンギュラリティの世界 (WAC BUNKO 271)

 

 

 

(5)「日本における哲学者の地位がフランスと比較して、かなり低いこと」について

 

 日本における哲学者の地位がフランスと比較して、かなり低いことも、哲学者の自信のなさの原因の一つでしょう。

 

 フランスが哲学を重視していることの代表的な具体例の一つに、「教育部門における哲学の必修」が挙げられます。

 そして、フランスでは、バカロレア(共通試験)に哲学の論文試験が必須科目になっています。

 これは、理科系志望の受験生にも課されています。この点は、日本から見ると、信じられないようなことと言えるでしょう。


 Wikipediaによると、「バカロレア」とは、以下のような制度です。

「  フランスのバカロレア (仏:baccalauréat) は、フランス教育省が発行する、中等教育レベル認証の国家資格である。
 1808年にナポレオン・ボナパルトによって導入され、2005年の時点では18歳に達したフランス国民の62%がバカロレアを取得している。

 バカロレアは、フランス教育省が発行する、中等教育レベル認証の国家資格である。1808年にナポレオン・ボナパルトによって導入され、2005年の時点では18歳に達したフランス国民の62%がバカロレアを取得している。

 以下の3種類が存在する。普通バカロレア、技術バカロレア、職業バカロレア。

 

【フランスの中等教育制度】

フランスではバカロレアを取得することによって原則としてどの大学にも入学することができる。大学の定員を超えた場合にはバカロレアの成績や居住地などに応じて、入学できる大学が決まる。

 

【普通バカロレア】

普通バカロレアは、科学系、人文系、経済・社会系と分野別に分かれている。

3つのうち科学系が最も難しく、次いで経済・社会系が難しい。科学系卒業者は全ての分野の職業に就けるとされている。その結果、多くの若者は科学系進学を希望し、近年科学系の生徒数増加、そして経済・社会系の生徒数減少という現象が見られる。一方、人文系は弁護士やジャーナリストまたは作家などの将来図を持っている生徒が集まるとされているが、現実には科学系からグランゼコールへ進学しないと厳しい。2013年の普通バカロレアの合格率は、91.9%であった。」

 

 以上のWikipediaの補足説明をします。

 フランスのバカロレアは、後期中等教育の終了試験であり、大学入学のための資格試験としての国家試験です。つまり、フランスの高校生が必ず受けなければならない試験がバカロレアです。毎年6月、フランスの高校生(日本の高校3年生相当)は、バカロレア初日の1時間目に、下記のような「哲学」の問題に取り組むのです。

 
 以下は、2010年度に実施されたフランスのバカロレア(「普通バカロレア」)の「哲学」の問題です。

【人文科学系】
1 真理の探究は利害を離れたものであり得るか。
2 未来を手に入れるためには過去を忘れなければならないか。
3 トマス・アクイナスの『神学大全』のテキストの一節を解釈せよ。

【自然科学系】
1 芸術に規則など不要か。
2 幸福であることはわれわれ(人)次第か。
3 ホッブズの『リヴァイアサン』に関するテキストの一節を解釈せよ。

【社会科学系】
1 科学的真理は危険なことがあるか。
2 歴史家の役割は裁くことか。
3 デュルケームの『道徳教育論』に関するテキストの一節を解釈せよ。

 以上、3問のうちから1つを選んで、4時間で解答せよ。

 前述した通り、フランスのバカロレア(共通試験)では、理科系志望の受験生にも哲学の論文試験が必須科目になっています。

 

 一方で、日本では、一般の理科系学部だけではなく、医学部入試においても、小論文が課されることは、極めてマレです。

 その小論文試験の中で、最もハイレベルな小論文問題は、東京医科歯科大学・後期試験小論文で出題された以下の問題といえます。(なお、東京医科歯科大学・前期試験においては、小論文は課されていません)

 

【東京医科歯科大学・後期試験小論文問題】

(時間120分)
《2015年》
「磁力と重力の発見」の抜粋を読み、著者の意見と自分の考えを述べる2問に答える。(200字・600字)
「病気の社会史 文明に探る病因」を読み、著者の意見と自分の考えを述べる2問に答える。(250字・400字)

《2014年》
「構図がわかれば絵画がわかる」を読み、筆者の意見と自分の考えを述べる2問に答える。(250字・400字)
「精神医療過疎の町から」を読み、筆者の考えと自分の意見を述べる2問に答える。(200字・400字)


 情けないことに、フランスと日本のレベル・内容の落差は、歴然です。


 「フランスの教育」における「哲学の価値や重み」については、『哲学する子どもたち』(中島さおり)に詳しい説明があるので、以下に一部を引用、紹介します。

 

哲学する子どもたち: バカロレアの国フランスの教育事情

哲学する子どもたち: バカロレアの国フランスの教育事情

 

 

「『高校最終学年で勉強するのは哲学ではない。哲学することなのだ』とフランスの哲学教師たちは言う。そこがイタリアやスペインで教えているものと本質的に異なる点でもある。」(本書P35 )

 

 フランスでは、高校生が「哲学する」のです。日本では、大学の哲学科の学生が「哲学」を勉強しますが、「哲学する」ことは、あるのでしょうか。

 

 本書によると、バカロレアという国家試験を最終目標にして、中学から高校の教育内容が作成されています。

 つまり、小学生から高校生まで、主に哲学的な設問への論述の方法を細かくを学んでいくのです。

 各段階で、レベルに対応してそれぞれに仕上げていきます。

 従って、哲学的な論述の基本がスムーズに修得されていくのです。

 一方で、日本での作文は、日記や感想文が主です。

 この点を、著者・中島さおり氏は、「私小説的な内容」と評価しています。


 また、「大学入試のための勉強」というと、日本では知識の暗記中心、受験テクニック重視というイメージが強いようです。

 しかし、バカロレアでは、本質的な思考力、論述力が試されているのです。

 日本の教育は、本質的思考ではなく、指示されれたことに熱中する、忠実なロボットのような人間の養成を目指している感じです。

 

 中島さおり氏は、「『哲学する子どもたち』/『日刊ゲンダイ DIGITAL』 著者インタビュー」の中で、「日本の教育の歪み」を以下のように指摘しています。

「フランスが哲学を重視するのは共和国の基礎は自由に考える人間、市民であるというモンテスキューの思想が生きているからです。こうした教育はものの考え方や伝える力を養う。日本人もこういう教育をすれば、議論下手ではなくなるのではないか、と思います。もうひとつ、フランス教育は一般教養を非常に重視します。近現代史にも力を入れています。日本では大学で一般教養が軽視されていますが、これは世界的に見てもおかしなことだと思いますね」(『哲学する子どもたち』(中島さおり)/『日刊ゲンダイ DIGITAL』 著者インタビュー

 

(6)「日本政府のAI 戦略」について

 

「日本のAI 戦略」については、そこにおける「哲学の地位」に問題があります。
まず、「日本のAI 戦略」についての、最近の新聞記事を見てみます。


①2018年2月2日 『日本経済新聞』

「政府は2日、分野を横断して科学技術の革新をめざす「統合イノベーション戦略」(仮称)策定に向けた会議の初会合を首相官邸で開いた。人工知能(AI)や大学改革などの重点分野ごとに分科会を設置し、6月までをめどに新たな戦略をつくる。分野別に乱立していた戦略本部をつなぎ、各省庁が連携して政策を具体化する。」

 

②『朝日新聞』2018年1月6日《社説》「AI 時代の人間 豊かな活用に道開くため」

「  人工知能( AI )のセミナーやシンポジウムが花盛りだ。

 車の自動運転に代表される、AI がもたらす明るく快適な未来。その裏側で、人間の制御を超えて世界を根底から変えてしまう『シンギュラリティー(技術的特異点)』と呼ばれる事態が訪れるのではないか、という漠とした不安も広がる。

 技術は時として、予想をはるかに上回る速度で進む。AI もそんな段階に入ったのか。人間はAI にどう向き合うべきか。そして、これからの時代に備えた人づくりとは。

 本格的に考えなければならない時期に来ている。

 

《人にしかできぬこと》

  AI を活用しつつ、人間らしく働き、生活するにはどうしたらいいのか。

 『AI は統計などを使って機械的に答えを出すだけで、物事の意味はわかっていない。だから、その意味を理解し、適切に状況判断できる能力を養うことが、人にとって何より大切だ』

 国立情報学研究所の新井紀子教授はそう話す。

 基本となるのは、正確に読み正確に書くという、昔ながらの力だという。デジタル時代は、メールなど文字情報のやりとりが仕事に占める割合が高く、『誤読や表現力不足によってつまずくことが少なくない』と見る。教科書や新聞の文章を使った読解力テストを独自に開発し、中高生らに受けてもらって弱点を探っている。

 結果は、能動態と受動態の違いに気がつかない、文章で説明されている内容に合致する図が選べないなど、決して芳しいものではない。

 だが、嘆いていても始まらない。協力した学校の先生たちからは、『分かっていないことが分かった』ことを前向きにとらえ、授業方法の改善を探る動きが出ているという。

 人間は計算力や記憶力でコンピューターに及ばない。それでも困らないのは、道具として使いこなせているからだ。AI についても本質は変わらない。大切なのは、AI をどう制御し、人間の幸せのために役立てるかを考え、その方向に社会を構築していくことだ。

 

《アシロマの挑戦再び》

 昨年1月、米カリフォルニア州アシロマに、AI 研究者や法律、倫理、哲学などの専門家が集い、AI 開発に際して守るべき23の原則をまとめた。

 『人間の尊厳、権利、自由、文化的多様性に適合するように設計され、運用されるべきである』といった理念をかかげ、AI 軍拡競争の回避や研究者同士の協力、政策立案者との健全な交流なども盛り込んだ。

 このアシロマ原則は各国政府や多くの研究者を刺激し、さらに具体的な指針づくりをめざす動きが盛んになっている。

 日本の人工知能学会倫理委員会は、米国の学会やNPOと提携して、インターネットを使った市民対話を開いている。

 『公益のためのAI 』や『労働に対するAI の影響』などのテーマ別に、誰でも、投稿された意見や疑問を読み、自ら書き込むことができる。ことし2月まで意見を交換し、それを踏まえて実行可能な政策を提言することをめざしている。

 国家や企業が入り乱れて開発を競うなか、いかに秩序を維持し、人類の幸福につなげるか。

 難題ではある。だがアシロマといえば、43年前に世界の科学者が集まって遺伝子組み換え技術の研究指針を議論し、一定の規制を実現させた、科学史にその名を刻む地だ。

 AI の専門家にかぎらず、人文・社会科学の研究者らも広く巻きこみ、政治家や官僚、そして市民との対話を重ねる。その営みが人間中心の社会でのAI 活用につながると信じたい。


 上記の『日本経済新聞』・『朝日新聞』の二つの記述を読んでも、フランスとは異なり、「哲学重視の視点」は明確では、ありません。


 「国家的AI 戦略における哲学の位置づけ」は、政府がさまざまな政策決定過程において、哲学者をいかに重用しているかという、政府側の意識、価値観の問題でも、あります。

 残念なことに、日本は、哲学的・長期的な考察が重要になるべき国家の教育問題、高齢者問題等においても、哲学者の意見を重視しているということは、ないようです。

 つまり、日本には、叡知(英知)を重視する姿勢がないということです。

 未来の選択を誤らないために、フランスのように、人間の叡知を信じている哲学者等が中心となった、国家的な取り組みが必要でしょう。

 

 ここで、再び、前記の新井紀子氏の論考を思い起こすべきです。

「  ヨーロッパでは哲学も倫理学も黴の生えた教養ではない。自らが望む民主主義と資本主義のルールを通すための現役バリバリの武器なのである。」

  

(7)当ブログにおける「人工知能( AI )」関連記事の紹介

 

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ーーーーーーーー

 

今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

ご期待ください。

 

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

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5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

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2007センター国語第1問(現代文)「日本の庭について」・解説

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 

 「グローバル化」、「国際化」、「国際交流」の前提として、「日本文化の特質」、つまり、「自己」・「自文化」を知ることが不可欠になります。

 「他者理解」・「他文化理解」の前提は、「自己理解」・「自文化理解」です。

 そのため、日本と西洋を比較する「日本文化論」、「日本芸術論」、「比較文化論」は、最近の入試頻出論点です。

 日本と西洋とを比較する「日本文化論」、「日本芸術論」、「比較文化論」には、様々な視点、切り口があります。

 「日本文化論」、「日本芸術論」、「比較文化論」の論考に対応するためには、それらの個性的な視点、切り口を素直に理解して、筆者の「論の流れ」を読み取ることがポイントになります。

 「素直な読解」は、現代文、小論文においては、常に必要なことです。

 

 今回は、センター試験国語、難関大学の国語(現代文)・小論文対策として、山本健吉氏の「日本文化論」の秀逸な論考を解説します。

 

 なお、今回の記事は、約1万字です。

 記事の項目は以下の通りです。

 

(2)2007センター試験国語第1問・「日本の庭について」山本健吉/解説

(3)要約

(4)当ブログにおける「日本文化論」・「日本芸術論」・「比較文化論」関連記事の紹介

(5)当ブログにおける「センター試験現代文・解説」関連記事の紹介

 

 

俳句鑑賞歳時記 (角川ソフィア文庫)

 

 

(2)2007センター試験国語第1問・「日本の庭について」山本健吉/解説

 

(問題文本文)(概要です)

(【1】・【2】・【3】・・・・は当ブログで付記した段落番号です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です) 

 

【問】 次の文章を読んで、後の問に答えよ。

【1】日本の庭は時間とともに変化し、推移することが生命なのだ。ある形を凍結させ、永久に動かないようにとの祈念を籠(こ)めた、記念碑的な造型が、そこにあるわけではない。不変の形を作り出すことが芸術の本質なら、変化を生命とする日本の庭は、およそ芸術と言えるかどうか。これは少なくとも、ヨーロッパ式の芸術理念とは違った考えに基づいて、作り出され存在しているもののように思われる。

【2】私たち日本人の多くは、少なくとも戦後の住宅難からアパート暮らし、団地暮らし、マンション暮らしが一般化するまでは、規模の大小にかかわらず、日本式の庭または庭らしい空間を伴った家に住んでいた。庭らしい空間というのは、庭を持たない家でも、物干し場や張り出しの手摺(てす)りや軒下などの僅(わず)かな空間を利用しては、鉢植や盆栽を並べたり、蜜柑(みかん)箱や石油缶などに土を入れてフラワー・ボックスに仕立てたり、庭の代用物を作ることに執心するいじましい心根を持っているからである。

【3】そういう心根の大本をたずねると、日本人が古来、人間の生活と自然とを連続したものと受け取り、自然を対象化して考える傾向のなかったことに気づく。それは征服すべき対象ではなく、その中に在って親和関係を保つべきものであった。あるいは、草木鳥獣虫魚から地水火風に到(いた)るあらゆるものと、深い「縁」を結ぶことによって生きるという考え方である。それらの生物も無機物も、あるいは自然界のあらゆるものを、魂と命とを持ったものとして心を通わせ、畏(おそ)れ親しんだアニミズムの思想、あるいは心情があった。

【4】ヨーロッパ式の庭園は、左右相称で、幾何学的図形をなしている花壇や、やはり幾何学的図形を石組で作り出し、中央に噴水を出した泉水や、丸く刈り込んだ樹木や大理石その他の彫刻を置いた、よく手入れされた芝生など、人間の造型意志をはっきり示しているところに特色がある。それは最初に設計した人の手を離れた時、一つの完成に達しているのであって、その後手入れさえ施していればそのまま最初の形を保持して行くことが出来ると考えた。

【5】庭園において動かない造型を作り出すということは、彫刻や絵画や建築や、ヨーロッパ流の芸術理念を作り出しているそれらのジャンルに準じて、庭園も考えられているということである。

【6】ところが、日本では作庭をも含めて、ことに中世期にその理念を確立したもろもろの芸術──たとえば茶や生花や連歌・俳諧など──においては、永遠不変の造型を願わないばかりか、一瞬の生命の示現を果たしたあとは、むしろ消え去ることを志向している。不変とは、ピンで刺したの揚羽蝶(あげはちょう)の標本のように、そのまま死を意味する。それに反して変化こそ、生なのである。西洋の多くの芸術が志向するものが永遠に変わることのない、美しい堅固な形であるなら、日本のある種の芸術が志向するものは移って止(や)まぬ生命の輝きなのである。生命が日本の芸術、この場合は日本の庭の、根本に存在する標(しる)しなのだ。

【7】私はそれら日本の芸術家たちに、自分の作品を永遠に残そうという願いが、本当にあったかどうかを疑う。ヨーロッパ流の芸術観では、芸術とは自然を素材にして、それに人工を加えることで完成に達せしめられた永遠的存在なのだから、A 造型し構成し変容せしめようという意志がきわめて強い。それが芸術家の自負するに足る創造であって、それによって象徴的に、彼等(かれら)自身が永生への望みを達するのである。

 

ーーーーーーーー

 

(設問)

問1 (省略します)

問2 傍線部A「造型し構成し変容せしめよう」とあるが、それはどういうことか。その説明として最も適当なものを、次の中から一つ選べ。

① 変化し続ける自然を作品として凍結することにより、一瞬の生命の示現を可能にさせようとすること。

② 時間とともに変化する自然に手を加え、永遠不変の完結した形をそなえた作品を作り出そうとすること。

③ 常に変化する自然と人間の生活との親和性に注目し、両者を深い「縁」で結んだ形の作品を創造しようとすること。

④ 変化こそ自然の本質だとする考えを積極的に受け入れ、消え去った後も記憶に残る作品を作り上げようとすること。

⑤ 芸術家たちの造型意志によって、自然の素材の変化を生かしつつ、堅固な様式の作品に再構成しようとすること。


……………………………

 

(解説・解答)

問2(傍線部説明問題)

 傍線部は、「ヨーロッパ流の芸術観」についての説明です。

 傍線部直前の「ヨーロッパ流の芸術観では、芸術とは自然を素材にして、それに人工を加えることで完成に達せしめられた永遠的存在なのだから」が、「傍線部の理由説明」になっていることに注目してください。

このことと、【6】段落「西洋の多くの芸術が志向するものが永遠に変わることのない、美しい堅固な形である」から、

(→「時間とともに変化する自然に手を加え、永遠不変の完結した形をそなえた作品を作り出そうとすること」)が正解になります。


① 「一瞬の生命の示現を可能にさせようとすること」が、【6】段落第1文「日本では作庭をも含めて、・・・・永遠不変の造型を願わないばかりか、一瞬の生命の示現を果たしたあとは、むしろ消え去ることを志向している」より、「日本の芸術観」です。

③ 「常に変化する自然と人間の生活との親和性に注目し、両者を深い「縁」で結んだ形の作品を創造しようとすること」は、【3】段落「(日本人にとって)それ(→「自然」)は征服すべき対象ではなく、その中に在って親和関係を保つべきものであった。あるいは、草木鳥獣虫魚から地水火風に到(いた)るあらゆるものと、深い『縁』を結ぶことによって生きるという考え方である。」より、「日本の芸術観」です。

④ 「変化こそ自然の本質だとする考えを積極的に受け入れ」は、【1】段落より、「日本の芸術観」です。

⑤ 「自然の素材の変化を生かしつつ」は、【1】段落「日本の庭は時間とともに変化し、推移することが生命なのだ。」より、「日本の芸術観」です。

 

 この設問は、基礎的なレベルですが、内容的には、他の論考を読解する上で、かなり参考になります。「日本の芸術観」・「日本人の感性」は、教養、予備知識として重要です。よく復習しておくべきです。

 

(解答) ②

 

ーーーーーーーー

 

(問題文本文)(概要です)

【8】造型意志が極端に弱いのが、日本の芸術である。日本における美の使徒たちに、そのような意志が微弱にしか育たなかったのは、やはり日本人が堅固な石の家にでなく、壊れやすく朽ちやすく燃えやすい木の家に住んでいることに由来しているかも知れない。彼等は自分たちの生のあかしとしての造型物を、後世に残そうなどとは心がけなかった。

【9】たとえば、生花とは造型なのか。たとえそこにいくらかの造型的要素があったとしても、それが生花の生命であり、目標であるのか。馬鹿(ばか)らしい。彫刻や絵画が永遠の造型を目ざしているのに、花というはかない素材で何を造型しうるというのか。一ときの美しさを誇ってたちまち花は散るのである。散るからこそ花は美しく、そこに生きた花の短い命との一期(いちご)の出会いを愛惜すること
が出来る。B 造型ではなく、花の命を惜しむことが、生花の極意である。

【10】あるいはまた、主(あるじ)と客とが一室に対座して、一服の茶を喫することに、形を残そうとの願いがいささかでも認められようか。茶室や茶庭や茶碗や(注1)茶匙(ちゃさじ)や茶掛(ちゃがけ)などに、ある造型が認められるとしても、それが茶の湯の目的なのではない。一服の茶を媒介として、そこに美しく凝縮し純化した時間と空間とが作り出されたら、それは客に取っても主に取っても、何物にも替えがたい最高度の悦楽で、それこそ生涯の目標とするに足る、輝かしい生命の発露、一期一会(いちごいちえ)の出会いであった。

【11】造型意志を極小にまで持って行った文学は、十七字の発句(ほっく)であろう。だが、芭蕉は発句よりも(注2)連句に、自分の生きがいを覚えた。連句はそれこそ自分一個のはからいを極微に止(とど)めて、あとはなりゆく自然のままに自分を委(ゆだ)ねてしまった文学なのだ。座の雰囲気の純一化が連句を付け合う者たちの楽しみであって、(注3)文台引き卸せば即ち反古(ほうぐ)とは、芭蕉の日ごろの覚悟であった。残された懐紙は、座の楽しみの粕(かす)に過ぎなかった。自己を没却し、自然のままに随順し、仲間と楽しみを一つにするところに、やはり茶会と同じ、一期一会の歓(よろこ)びがあった。

 

ーーーーーーーー

 

(設問)

問3 傍線部B「造型ではなく、花の命を惜しむことが、生花の極意である」とあるが、筆者は、この生花に続けて、茶の湯、連句の例を挙げている。それは「一期の出会い」を踏まえた上で、日本の芸術のどのような点を強調するためか。その説明として最も適当なものを、次の中から一つ選べ。

① 花の命の短さ、茶の湯の主客の対座、連句の中の発句のもつ十七字という極小の単位などにしぼって、芸術における簡素さを強調するため。

② 生花をともにでる場、茶の湯の主客の対座、連句の座のうちの楽しい雰囲気を取り上げて、芸術における人間関係の豊かさを強調するため。

③ 花の短い命、茶の湯の対座、連句を楽しむ時間の短さに注目して、表現された形よりも芸術における性を強調するため。

④ 花の短い命と向き合うことと、茶の湯の対座、仲間で作り合う連句の座とを重ねて、芸術における個の表現意識の弱さを強調するため。

⑤ 生花、茶の湯、連句を、人と物、人と人とが出会う場の価値にかかわらせて、芸術における空間性そのものを強調するため。


……………………………

 

(解説・解答)

問3(傍線部説明問題)

 設問文の「筆者は、この生花に続けて、茶の湯、連句の例を挙げている。それは『一期の出会い』を踏まえた上で、日本の芸術のどのような点を強調するためか」に注意してください。

④ 「花の短い命と向き合うこと」は、傍線部直前の「散るからこそ花は美しく、そこに生きた花の短い命との一期(いちご)の出会いを愛惜することが出来る。」に合致しています。

 次に、「芸術における個の表現意識の弱さを強調する」は、【11】段落「芭蕉は発句よりも(注2)連句に、自分の生きがいを覚えた。連句はそれこそ自分一個のはからいを極微に止(とど)めて、あとはなりゆく自然のままに自分を委(ゆだ)ねてしまった文学なのだ。・・・・自己を没却し、自然のままに随順し、仲間と楽しみを一つにするところに、やはり茶会と同じ、一期一会の歓(よろこ)びがあった。」に合致しています。

 

① 「連句の中の発句のもつ十七字という極小の単位などにしぼって」は、【11】段落「造型意志を極小にまで持って行った文学は、十七字の発句(ほっく)であろう。だが、芭蕉は発句よりも(注2)連句に、自分の生きがいを覚えた。」に反しています。

 また、「芸術における簡素さを強調するため」は、本文に、このような記述は、ありません。

② 「芸術における人間関係の豊かさを強調するため」は、「生花」とは無関係です。

③ 「芸術における刹那(せつな)性を強調するため」は、【10】・【11】段落の最終文の「一期一会(いちごいちえ)」とはズレています。

⑤ 「芸術における空間性そのものを強調するため」は、【11】段落最終文「自己を没却し、自然のままに随順し、仲間と楽しみを一つにするところに、やはり茶会と同じ、一期一会の歓(よろこ)びがあった。」に反しています。

 

(解答) ④


ーーーーーーーー

 

(問題文本文)(概要です)

【12】では庭は、どのような意味で、日本の芸術であったのか。

(空白アリ)

【13】日本の代表的な庭園とされている一つに、(注4)龍安寺(りょうあんじ)方丈の石庭がある。一樹一草も使わず、大小十五の石が五十余(注5)坪の地に置かれ、一面に白砂を敷きつめただけの庭で、庭全体が海面の体相をなし、巌(いわお)が島嶼(とうしょ)に準(なぞら)えられ、一見する者は誰しも精神の緊張を覚える。この庭は外国人にもひどく感動を与えるらしく、ことにアメリカにはこの形を模した石庭がいくつも作られているという。だが、それが龍安寺の石庭と似ても似つかぬものであったとしても、致し方もない。

【14】石庭といえば、日本の庭の代表のように言われているのは、どういう理由によるのだろう。Cこの庭の絶賛者の一人に志賀直哉氏がある。氏は言う。「これ程に張り切った感じの強い、広々した庭を自分は知らない。然(しか)しこれは日常見て楽しむ底(てい)の庭ではない。楽しむにしては余りに厳格すぎる。しかも吾々(われわれ)の精神はそれを眺める事によって不思議な歓喜踊躍(ようやく)を感ずる」(『龍安寺の庭』)。

【15】大正十三年に書かれたこの文章が、この庭を一躍有名にし、その後賛美者の列がつづき、中には石の配置にことさらな意味づけを見出そうとする哲学好きも多かった。私もまた、志賀氏の文章によって、龍安寺の庭の美を知った一人だが、論者のその意味づけのうるささに何時(いつ)か嫌悪を覚えるようになり、これが果たして日本の庭を代表する傑作なのかと、いくばくの疑いを抱くようになった。

【16】志賀氏はまた次のように言っている。「(注6)相阿弥(そうあみ)が石だけの庭を残して置いてれた事は後世の者には幸いだった。木の多い庭ではそれがどれだけ元の儘(まま)であるか後世では分からない。例えば(注7)本法寺の(注8)光悦の庭でも中の『(注9)八ッ橋』を信じられるだけで、他は信じられない。そういう意味で龍安寺の庭程(ほど)原形を失わぬ庭は他(ほか)にないだろう。庭では吾々は当時のままでそれを感ずる事が出来る」(同)。

【17】この一文は、石庭を相阿弥の作と想定して、ほぼその最初に作られたままの姿で今日といえども存在していることを、今日の鑑賞家である自分たちにとって幸いだとしているのである。変化してやまぬ草木が一本もないのだから、作者が最初に置いた石の配置さえ動かさなければ、それは原形を失っていないはずだし、それを相阿弥の庭としてまじり気なく受け取ることが出来ることになる。

【18】だが志賀氏はここで、作者(相阿弥と想定して)の意図が、そのままの形で今日のわれわれに伝わることを、どうして幸いとしたのであろう。ここにはやはり、永遠不変の記念碑的な造型物を志向するヨーロッパ流の芸術理念の上に、飽くまでも作者の個の表現としての作品を重んずる近代風の考えが重なっているのではなかろうか。そのような点から考えれば、龍安寺の石庭は、変化することのない堅固な素材だけで作られていて、それはヨーロッパ風の芸術理念から言っても、何等(なんら)躓(つまず)きとなる要素はない。だが、日本の庭の多くは、作られた瞬間に、歳月による自然の変化に委ねられ、その結果庭は日々に成熟を加えて行く。言わばそれは、芭蕉の言葉にあるように、「造化にしたがひ、造化にかへる」(『笈(おい)の小文』)ことを理想としている。芸術という熟語はアートの訳語として作られたものだが、術の字はやはり手わざであり、人工であって、造化(自然)に随(したが)うという東洋古来の理念を含んでいない。

 

ーーーーーーーー

 

(設問)

問4 傍線部C「この庭の絶賛者の一人に志賀直哉氏がある」とあるが、志賀が絶賛したのはなぜだと筆者は考えているか。その説明として最も適当なものを、次の中から一つ選べ。

① 石と白砂だけが配置された庭の幾何学的な構図に、日本の庭には珍しいヨーロッパ的芸術理念の精巧な模倣を見出したからだと、筆者は考えている。

② 石と白砂だけに素材を限った簡潔で緊張した造型に、日本の芸術理念とヨーロッパの芸術理念との幸福な出会いを確認したからだと、筆者は考えている。

③ 石と白砂だけの一見無造作に見える景物の配置に、かえって切り取られた空間としての庭本来の魅力を強く感じたからだと、筆者は考えている。

④ 石と白砂だけで作り出された庭の純粋な空間の潔さに、一期一会の歓びにすべてをかける作者の覚悟を直感したからだと、筆者は考えている。

⑤ 石と白砂だけで実現された空間の造型性に、それを創造した作者の強固な意図がそのまま息づいていることを発見したからだと、筆者は考えている。

 

……………………………

 

(解説・解答)

問4(傍線部説明問題)

  「志賀が絶賛した」理由については、以下が該当します。
【18】段落「ここにはやはり、永遠不変の記念碑的な造型物を志向するヨーロッパ流の芸術理念の上に、飽くまでも作者の個の表現としての作品を重んずる近代風の考えが重なっているのではなかろうか。」

 従って、⑤(「→石と白砂だけで実現された空間の造型性に、それを創造した作者の強固な意図がそのまま息づいていることを発見したからだと、筆者は考えている。」)が正解になります。


① 「日本の庭には珍しいヨーロッパ的芸術理念の精巧な模倣を見出したからだと、筆者は考えている」は、本文に、このような記述はありません。

② 「日本の芸術理念とヨーロッパの芸術理念との幸福な出会いを確認したからだと、筆者は考えている」は、本文に、このような記述はありません。

③ 「かえって切り取られた空間としての庭本来の魅力を強く感じたからだと、筆者は考えている」は、本文に、このような記述はありません。

④ 「一期一会の歓びにすべてをかける作者の覚悟を直感したからだと、筆者は考えている」 は、本文に、このような記述はありません。

 

(解答) ⑤

 

ーーーーーーーー

 

(問題文本文)(概要です)

【19】この庭は一定の空間を切り取ってその中に石を配置し、それを方丈から見るものとして対象化したところに成立している。それは見るためだけの庭であって、その意味では額縁によって切り取られた絵と変わりはない。だが日本の多くの庭は、主の生活に融(と)けこんで、その中に自由に出入りすることの出来る空間であって、見るものとして対象化された作品ではない。生命を持ち、変化する草木を一本も植えこんでいないこの庭は、思わくありげな、抽象的図形で、たまたま客人として鑑賞する立場に立てば、誰しも一種の緊迫した気分に誘いこまれるだろう。だが、この寺に住まい、朝夕この庭と対している住持の立場に立てばどうなのか。このような、つねに人に非常の時間を持することを強い、日常の時間に解放することのない緊張した空間に堪えるには、人は眼(め)を眠らせるより仕方がない。それは毎日それと共にあるには、あまりに息づまるような、窮屈きわまる庭なのである。日本の多くの庭の、人の気持をくつろがせ、解き放ち、嬉戯(きぎ)の心を全身にみなぎらせてゆくような要素が、ここにはない。志賀氏が「これは日常見て楽しむ底の庭ではない。楽しむにしては余りに厳格すぎる」と言ったのは、この間の機微を言っているものだと思う。庭が人の住む建築物に付属するものであるかぎり、Dこの非日常性は例外と言うべきである。

(山本健吉「日本の庭について」による)

 

(注) 

1 茶掛──茶席に掛ける掛軸など。

2 連句──五・七・五の長句と、七・七の短句を一定の法則の下に交互に付け連ねる俳諧の一形式。

3 文台引き卸せば即ち反古──文台は句会の中心となる台で、短冊や懐紙をのせる。反古は用済みの紙。

4 龍安寺方丈──龍安寺は京都市にある臨済宗の寺。方丈は、住持(住職)の居間。

5 坪──土地面積の単位。一坪は、約三・三平方メートル。

6 相阿弥──室町後期の画家で、造園にもすぐれていた。

7 本法寺──京都市にある日蓮宗の寺。

8 光悦──本阿弥光悦。江戸初期の美術家・工芸家。

9 八ッ橋──ここでは、本法寺にある、池に沿って八角形に敷石を並べたものを指す。


ーーーーーーーー

 

(設問)

問5 傍線部D「この非日常性は例外と言うべきである」とあるが、それはどういうことか。その説明として最も適当なものを、次の中から一つ選べ。

① 日本の庭が、本来、変化を生命とし、そこに一期一会の歓びをもたらすものであるなら、龍安寺方丈の石庭は、不変の様式美という芸術理念を追い求めるがゆえに、例外と位置づけられるということ。

② 日本の庭が、本来、歳月による自然の変化に委ねられるものであるなら、龍安寺方丈の石庭は、相阿弥の庭として揺るぎない個の表現であるがゆえに、例外的に芸術の本道と位置づけられるということ。

③ 日本の庭が、本来、自然のたたずまいと一体化し、人をくつろがせるものであるなら、龍安寺方丈の石庭は、緊張感をもって見ることを強いるがゆえに、例外と位置づけられるということ。

④ 日本の庭が、本来、人工でありながら自然に従うものであるなら、龍安寺方丈の石庭は、ヨーロッパ風の芸術理念に即応した造型美のゆえに、例外的に芸術の本道と位置づけられるということ。

⑤ 日本の庭が、本来、四季の変化に人の生命のはかなさを感じさせるものであるなら、龍安寺方丈の石庭は、草木主体ではなく、生命なき石や砂からなる様式美のゆえに、例外と位置づけられるということ。

 

……………………………

 

(解説・解答)問5(傍線部説明問題)

 傍線部直前の「庭が人の住む建築物に付属するものであるかぎり」、傍線部の「この非日常性」に注目してください。

 「庭が人の住む建築物に付属するもの」とは、「日常的な庭」を意識し、傍線部と同一段落の、「日本の多くの庭の、人の気持をくつろがせ、解き放ち、嬉戯(きぎ)の心を全身にみなぎらせてゆくような要素」のある「庭」、を指しています。

 一方、「この非日常性」は、傍線部と同一段落の「この庭(→「「龍安寺方丈の石庭」)は、思わくありげな、抽象的図形で、たまたま客人として鑑賞する立場に立てば、誰しも一種の緊迫した気分に誘いこまれるだろう。だが、この寺に住まい、朝夕この庭と対している住持の立場に立てばどうなのか。このような、つねに人に非常の時間を持することを強い、日常の時間に解放することのない緊張した空間に堪えるには、人は眼(め)を眠らせるより仕方がない。それは毎日それと共にあるには、あまりに息づまるような、窮屈きわまる庭なのである。」志賀氏が『これは日常見て楽しむ底の庭ではない。楽しむにしては余りに厳格すぎる』と言ったのは、この間の機微を言っているものだと思う。」を指しています。


 つまり、「龍安寺方丈の石庭」は、「日本の日常的な庭」とは違い、「緊張した空間」、「あまりに息づまるような、窮屈きわまる庭」、「楽しむにしては余りに厳格すぎる」庭、言い換えれば、「非日常的な庭」なのです。

 以上の「対比」に着目すると、
(→「日本の庭が、本来、自然のたたずまいと一体化し、人をくつろがせるものであるなら、龍安寺方丈の石庭は、緊張感をもって見ることを強いるがゆえに、例外と位置づけられるということ」)が、正解になります。

 

 「日常」・「非日常」の対比は、入試頻出論点です。

 

① 「龍安寺方丈の石庭は、不変の様式美という芸術理念を追い求めるがゆえに」が、傍線部の直前を意識していないので、誤りです。

②と④は、「例外的に芸術の本道と位置づけられる」が、本文にこのような記述がなく、誤りです。

⑤ 「龍安寺方丈の石庭は、草木主体ではなく、生命なき石や砂からなる様式美のゆえに、例外と位置づけられる」は、傍線部の直前を意識していないので、誤りです。


(解答) ③


ーーーーーーーー


(設問)
問6 本文は、空白行によって前後に分けられているが、本文の内容や展開の説明として最も適当なものを、次の中から一つ選べ。

① 前半では日本の庭とヨーロッパの庭との差異を芸術理念の面から説明し、後半では一転して、感性の面から龍安寺の 石庭を代表とする日本の庭とヨーロッパの庭との共通性に光を当てている。

② 前半ではヨーロッパの芸術理念と日本の芸術理念とを比較対照し、それを踏まえて後半では日本の芸術理念から見れば、龍安寺の石庭は日本の庭の例外として位置づけられると論じている。

③ 前半ではヨーロッパとは異なる日本の芸術の一般的な特徴について紹介し、その上で後半では両者の芸術理念の共通点に普遍性を認めつつ、龍安寺の石庭が日本の代表的な庭園たり得る理由を説明している。

④ 前半では庭以外の生花・茶道・連句などの芸術分野に広く触れているが、後半では日本の庭のみを取り上げ、特に龍安寺の石庭が日本の芸術理念を集約したものだとする論理展開になっている。

⑤ 前半ではヨーロッパと日本の芸術理念を比較して抽象的に論じているが、それに対して後半では日本の庭を例に挙げ、龍安寺の石庭が例外的に永遠不変性を得たことを具体的に論じている。

 

……………………………

 

(解説・解答)

問6(本文の構成を問う問題)

① 「後半では一転して、感性の面から龍安寺の 石庭を代表とする日本の庭とヨーロッパの庭との共通性に光を当てている」は、本文にこのような記述がなく、誤りです。

② これが正解です。問2~5がヒントになっています。

 

→入試本番では、各設問の関係を意識するようにしてください。センター試験、難関大学現代文においては、このことは、重要なポイントです。設問全体がストーリー性を有していることが多いのです。この点を、志望大学の過去問の演習を通して実感するべきです。模擬試験では、なく。


 ちなみに、私は、模擬試験の価値をあまり認めていません。本番と比較して、スタッフのレベルが違いすぎることが多いからです。時間内に処理する訓練に、一定の効果があるだけです。

 結論としては、時間内に処理することに問題がなければ、なるべく、模擬試験には触れないことが賢明です。時間のムダ、有害無益です。それよりも、過去問を重視するべきです。

 

③ 「後半では両者の芸術理念の共通点に普遍性を認めつつ、龍安寺の石庭が日本の代表的な庭園たり得る理由を説明している」は、本文にこのような記述がなく、誤りです。

④ 「特に龍安寺の石庭が日本の芸術理念を集約したものだとする論理展開になっている」は、本文にこのような記述は、ありません。
 むしろ、「龍安寺の石庭」は「日本の庭の例外」として位置づけられると論じています。

⑤ 「前半ではヨーロッパと日本の芸術理念を比較して抽象的に論じている」が誤りです。【9】~【11】段落で、「生花」・茶の湯」・「連句」という具体例を提示して、「日本の芸術理念」を「具体的に」論じています。


(解答) ②

 

ーーーーーーーー

 

【出典】

山本健吉「日本の庭について」(『山本健吉全集』巻4所収)


 
(3)要約

 

 日本の庭は永遠不変の造型を願わないばかりか、一瞬の生命の示現を果たした後は、むしろ消え去る事を志向している。これに対して、ヨーロッパ式の庭園は、永遠に変わることのない不変の形を作り出すことを本質とする。それが芸術家の自負するに足る創造であって、それによって象徴的に、彼等自身が永生への望みを達するのである。一方で、造形意志が極端に弱いのが、日本の芸術である。

 ところで、日本の代表的な庭園とされる龍安寺方丈の石庭は、変化することのない堅固な素材だけで作られていて、ヨーロッパ風の芸術理念から言っても、何ら躓きとなる要素を持っていない。また、この石庭は緊張した空間であり、窮屈きわまる庭である。日本の多くの庭に見られる、人の気持ちをくつろがせ、解き放ち、嬉戯の心を全身にみなぎらせてゆくような要素はない。その点で、この非日常性を考慮すれば、龍安寺の石庭は、日本の代表的な庭園ではなく例外的存在である。

 

 

(4)当ブログにおける「日本文化論」・「日本芸術論」・「比較文化論」関連記事の紹介

 

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今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

ご期待ください。

 

 

 

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5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

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 私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。

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予想問題『疑似科学入門』池内了/理科系論点/早大文学部過去問

(1)この記事を書く理由ー最近、流行している、理科系の論点・テーマに注目しよう

 

 最近は、大学入試の現代文(国語)・小論文の世界に、理科系論点・テーマが、多く出題されるようになってきました。

 現代文明においては、地球温暖化・核廃棄物等の問題を見ても分かるように、我々人類の生存・存立に多大な影響を及ぼすような理科系論点・テーマが発生しているからです。

 これらの問題は、文科系、理科系の壁を越えて、今や、人類全体にとって、緊急な重大な問題になっているのです。

 

 たとえば、理科系論点・テーマにおける、トップレベルの入試頻出著者である池内了氏(宇宙物理学者・天文学者)の論考の最近の出題状況は、以下の通りです。

 

早稲田大学(文)ー「擬似科学入門」

早稲田大学(国際教養)ー「物理学と神」

新潟大学ー「物理学と神」

福井大学ー「本の棲み分け」

中央大学ー「科学の限界」

奈良教育大学ー「科学の限界」

明治学院大学(小論文)ー「人間と科学の不協和音」

立教大学ー「科学の限界」

愛媛大学(小論文)ー「科学と人間の不協和音」

立命館大学ー「擬似科学入門」

 以上のように、池内了氏の論考は、最近のトップレベルの頻出出典です。

 

 理科系論点・テーマは、最近の流行です。

 理科系論点・テーマについては、予備知識・背景知識が、より重要になるので、このブログでは特に重視しています。

 

 理科系論点(理系論点)は、人生にも役立つような、興味深い内容のものが多いのです。食わず嫌いは、いろいろな意味で、「もったいないこと」と言えます。

 理科系の知識の不足が、マスコミや医者を絶対化して、彼らの指示通りに、無意味な食事制限、ダイエット、定期健康診断等に右往左往する健康ヒステリー、人間のロボット化、自己喪失化、自己疎外化を招くのです。

 積極的に、理科系の論考に取り組みようにしてください。

 理科系の入試頻出著者の論考は、新書で多数、出版されています。

 今回の記事で取り上げた論考も、人生に、かなり役に立つ内容です。

 

  なお、今回の記事の項目は、以下の通りです。記事は約1万字です。

(2)予想問題・『擬似科学入門』池内了/理科系論点/早大文学部過去問

(3)要約

(4)池内了氏の紹介

(5)当ブログにおける他の「理科系論点・解説」記事の紹介

(6)当ブログにおける他の「早大現代文・解説」記事の紹介

 

 

疑似科学入門 (岩波新書)

 

 

(2)予想問題・『擬似科学入門』池内了/理科系論点/2009早大文学部過去問

 

(問題文本文)(概要です)

(【1】・【2】・【3】・・・・は当ブログで付記した段落番号です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です) 

【1】人間は、以上のような、知覚、記憶、思考の各過程の組み合わせの結果としてある種の判断を下すのだが、その一連の認知行為のなかで各過程のエラーが積み重なり強め合って知らぬ間に判断エラーをしてしまうことになる。


【2】人はある事象を見たとき必ず何らかの信念(例えば、B型の血液の人間は二面性がある)を持ち、その信念に沿って「こんなことが起こるだろう」と予期し(彼はB型だから矛盾した行動をとるだろう)、結果を見たとき予期に合致するよう〔 ① 〕しようとする傾向がある。その結果、予期していた通りのことが起こったとしか見ないから信念がいっそう強められる。つまり、信念→予期→予期を強化するよう結果を解釈→いっそう強い信念になる、というプラスのフィードバックがはたらき、ますます頑固に信じるようになるのだ。

【3】この場合、「こんなことが起こるだろう」と予期する段階において「こんなことは起こりえないだろう」とは一切思わず、また結果を見たとき予期に反する事実は無視してしまう傾向がある。また、予期に沿った情報は記憶しやすいが、〔 ② 〕には注意がいかないこともある。例えば、女性ドライバーは運転が下手だという信念の持ち主は、そのような目で常にドライバーを見ており、実際に下手な女性ドライバーを目撃すると信念をいっそう強める。運転が上手な女性ドライバーがもっと多くいても記憶に残らず無視してしまうのだ。〔 イ 〕

 

ーーーーーーーー

 

(設問)

問1 空欄①・②に入る最適な語句を、それぞれ次の中から選べ。

① イ  結果を提示   

     ロ  安易に解釈 

     ハ  選択的に解釈   

     ニ  結論的に提示

 

② イ  反証となる情報   

     ロ  信念にあう事実 

     ハ  予期された事実   

     ニ  結論となる情報

 

……………………………

 

(解説・解答)

問1(空欄補充問題)

①  【2】段落「人はある事象を見たとき必ず何らかの信念を持ち、その信念に沿って「こんなことが起こるだろう」と予期し、結果を見たとき予期に合致するよう〔 ① 〕しようとする傾向がある。つまり、信念→予期→予期を強化するよう結果を解釈→いっそう強い信念になる、というプラスのフィードバックがはたらき、ますます頑固に信じるようになるのだ。」、

【3】段落「この場合、「こんなことが起こるだろう」と予期する段階において、結果を見たとき予期に反する事実は無視してしまう傾向がある。」

という文脈(→赤字部分に注目してださい)より、ハ(→「選択的な解釈」)が正解になります。

 

(解答) ハ


② 【3】段落「また、予期に沿った情報は記憶しやすいが、〔 ② 〕には注意がいかないこともある。例えば、女性ドライバーは運転が下手だという信念の持ち主は、そのような目で常にドライバーを見ており、実際に下手な女性ドライバーを目撃すると信念をいっそう強める。運転が上手な女性ドライバーがもっと多くいても記憶に残らず無視してしまうのだ。」という文脈より、イ (→「反証となる情報」)が正解になります。

 

(解答) イ

 

ーーーーーーーー

 

(問題文本文)(概要です)

【4】このプラスのフィードバックによって、予期が結果を決めるだけでなく、予期したことが実現してしまうという逆転した状況も生まれかねない。先生が「この子はできが悪い」と思い込む(予期してしまう)と、どのような行動もできの悪さに結びつける。そのため、ますますできが悪いという解釈が積み重なり、(せっかく本人が努力していても目に入らず)結局その子どもは「落ちこぼれ」になってしまう。この場合、先生の予期が原因となった落ちこぼれだから、実は「落ちこぼし」なのである。〔 ロ 〕

【5】もう一つの判断エラーは、サンプルの数が多いと平均的な値に近づく(これを数学で「大数の法則」という)が、サンプルの数が少ないと平均からのズレが大きいのが普通であるのに、それがあたかも平均であるかのように誤認してしまうというケースである。「あの医者は名医だ」という噂があり、事実多くの患者がそう言う場合は信用できる。ところが、「あの医者にかかると女の子が多く生まれる」という噂となると怪しいのだ。〔 ハ 〕

【6】それと似たことで、B 「平均への回帰」という現象がある。ある生徒の学校のテストの成績は上下するのがつきものだが、何回かで平均すると、ある一定のレベルになるのが普通である。各回のテスト結果は平均の力プラス誤差として出るのだが、誤差は体調や集中度や寝不足などによって良かったり悪かったりと変化するから、成績は平均点の上下を変動する。しかし、何回もテストをすれば平均に回帰するものである。だから、一回ごとの成績に一喜一憂することなく、自分の平均はこの程度だと見定められればいいのである。普段はいい成績を取っているのに、ある時(誤差で)悪い成績を取ってしまい、自暴自棄になってしまうことがある。少数のサンプルだけで判断すると誤る例である。〔 ニ 〕

【7】野球で「二年目のジンクス」ということがよく言われる。一年目は好成績を残したのに、二年目はさっぱりダメという場合である。イチローのような特段に優れた選手は例外で、ほとんどが並の実力の持ち主だから、一年目は誤差でたまたまいい成績となっただけで、二年目からは平均に戻ったと考えた方が正しいだろう。にもかかわらず、スウィングが悪い、モーションが悪いと指摘され、自分もそうではないかと思い込んでフォームを崩してしまい、結局大成しなかった選手が多くいる。〔 ホ 〕数年間を見て実力を見極める度量が欲しいものである。 

 

ーーーーーーーー

 

(設問)

問2 次の文は、本文中に入るべきものである。最適な箇所を空欄イ~ホの中から選べ。

そのようなケースが世の中には多いのではないだろうか。「要領の悪い部下」「下手な野球選手」などゴマンとありそうである。

 

問3 傍線部B「『平均への回帰』という現象」は、どのような判断エラーを回避する上で有効か。次の中から最適なものを選べ。

イ   誤差のあることを認識しながらも特定の事例を重視して判断すること。

ロ   偶然的に生じた結果を問題にしすぎて判断してしまうこと。

ハ   誤差の生ずる確率をできるだけ低めに予測して判断すること。

ニ   少数のサンプルから簡単に判断して結論を出してしまうこと。

 

……………………………

 

(解説・解答)

問2(脱文挿入問題)

 脱文の「そのようなケース」(→「要領の悪い部下」「下手な野球選手」を発生させるケース)に注目してください。

 
  【4】段落「このプラスのフィードバックによって、A 予期が結果を決めるだけでなく、予期したことが実現してしまうという逆転した状況も生まれかねない。先生が『この子はできが悪い』と思い込む(予期してしまう)と、どのような行動もできの悪さに結びつける。そのため、ますますできが悪いという解釈が積み重なり、(せっかく本人が努力していても目に入らず)結局その子どもは『落ちこぼれ』になってしまう。この場合、先生の予期が原因となった落ちこぼれだから、実は『落ちこぼし』なのである。〔 ロ 〕」

というケースが、脱文の「そのようなケース」に適合するので、ロが正解になります。

 

(解答) ロ

 

問3(傍線部説明問題)

 傍線部B「『平均への回帰』という現象」は、どのような判断エラーを回避する上で有効か、という設問の条件に着目してください。


【5】段落「もう一つの判断エラーは、サンプルの数が多いと平均的な値に近づく(これを数学で「大数の法則」という)が、サンプルの数が少ないと平均からのズレが大きいのが普通であるのに、それがあたかも平均であるかのように誤認してしまうというケースである。」、

傍線部直後の一文「ある生徒の学校のテストの成績は上下するのがつきものだが、何回かで平均すると、ある一定のレベルになるのが普通である。」、

傍線部を含む段落(【6】段落)の最終文「少数のサンプルだけで判断すると誤る例である。」

に注目すると、ニ(→「少数のサンプルから簡単に判断して結論を出してしまうこと」)という判断エラーを回避する上で、「『平均への回帰』という現象」は有効なことが分かります。


(解答) ニ

 

ーーーーーーーー

 

(問題文本文)(概要です)

【8】以上、判断の各過程におけるエラーについて述べてきたが、それらに共通する心理を整理しておこう。 

【9】まず、「認知的節約の原理」がある。限られた情報から欠けた部分を経験や先入観や単純な〔 a 〕によって補い、効率よく事態を処理しようとする心理のことだ。本人にとって負担が少ない思考法だが、そこにエラーが生じてしまうのだ。 

【10】続いて、「認知的保守性の原理」を挙げよう。すでに持っているスキーマを保ち維持しようとする傾向で、反証を無視したり、無理にでも自分の描像に合わせてしまう心理である。自分は一貫した考え方をしていると自認できるので〔 ③ 〕が得られることになる。だからこそ間違いやすいとも言える。C 自分が安心できる思考法でつい安住してしまうからだ。 

【11】もう一つは、「主観的確証の原理」で、どちらともつかない証拠だけでなく明らかな反証であっても、自分の予期を積極的に支持していると勝手に解釈する心理傾向である。「いやよいやよも好きのうち」と身勝手に思い込んでセクシュアルハラスメントに及ぶ人間がその典型と言える。D 自分の身勝手さに気づかず、全て他人のせいにして安閑としている人にお目にかかることが多いのはこのためだろう。被疑者に対して状況証拠しか見つかっていないのに犯人と決めつけ、すべてその〔 b 〕の下で解釈したがる例もある。犯人が見つかっていないと不安だが、強引にでも決めつけてしまえば安心するのだ。(早く安心したいという気持が底に潜んでいることもある。)この心理には、思考の経済性や一貫性なども絡み合っている。こうなるともはや〔 c  〕する気持を失ってしまう。 

【12】さらに付け加えるとすれば、「偶然性を拒否したい心理」、言い換えれば「確固とした因果関係として説明したい心理」もある。偶然に起こったことであっても必然だと思い込み、それをきちんとした因果関係で説明しようとすると科学的な理由が見つからず、ついに超常的現象だと考えてしまうケースである。予知夢がテレパシーしかないと解釈し、たまたま当たったのを透視できたと受け取り、そのまま信じ込んでしまうのだ。認知的エラーを自覚しない人ほど、自分の体験を絶対化して信じ込む傾向が強い。「しょせん、体験したことがない人にはわからない」として、他人の意見や忠告を受け入れなくなってしまうのだ。そして、自分の意見を強調すればするほどその信念はいっそう強くなっていき、もはや後戻りが不可能になる。 

 

ーーーーーーーー

 

(設問)

問1 空欄③に入る最適な語句を次の中から選べ。

イ   認知的な独自性ロ

ロ   心理的な安定感

ハ   人間的な信頼感

ニ   保守的な確実性

 

問4 空欄a~cに入る最適な語句を、それぞれ次の中から選べ。

イ 状況   ロ 仮定   ハ  解釈   ニ 類推   ホ 自省   ヘ 自認

  

問5 傍線部A(【4】段落)「予期が結果を決めるだけでなく、予期したことが実現してしまうという逆転した状況」は、筆者のいうどのような原理または心理からの判断エラーによって生まれやすいか。本文中の次の語句の中から、最適なものを選べ。

イ   「認知的節約の原理」

ロ   「認知的保守性の原理」

ハ   「主観的確証の原理」

ニ   「偶然性を拒否したい心理」

 

問6 傍線部Cで、「自分が安心できる思考法でつい安住してしまう」ために判断エラーが生じやすいと言っているが、そのような人の「思考法」の特色はどのようなものか。次の中から適合しないものを一つ選べ。

イ   自分の仮説を絶対化して信じ込む。

ロ   偶然起こったことを必然と思い込む。

ハ   他人の意見や忠告を受け入れる。

ニ   自分の体験を重視し強い信念を持つ。

 

問7 傍線部D(→「自分の身勝手さに気づかず、全て他人のせいにして安閑としている人」)のような人は、人の性格や行動を示す次の語のどれと無縁であると見ることができるか。最適なものを選べ。

イ 頑固   ロ 無視   ハ 度量   ニ 勝手   ホ 透視


……………………………

 

(解説・解答)

 問1(空欄補充問題)

 空欄直前の「自分は一貫した考え方をしていると自認できるので」、

直後の「C 自分が安心できる思考法でつい安住してしまう」に注目してください。

 ロ(→「心理的な安定感」)が正解になります。


(解答) ロ

 

問4(空欄補充問題)

a 直前・直後の文脈を精読してください。

【9】「『認知的節約の原理』がある。限られた情報から欠けた部分を経験や先入観や単純な〔 a 〕によって補い、効率よく事態を処理しようとする心理のことだ。本人にとって負担が少ない思考法だが、そこにエラーが生じてしまうのだ。 」

より、ニ(→「類推」)が正解になります。

 

b 「被疑者に対して状況証拠しか見つかっていないのに犯人と決めつけ(→強引な「仮定」です)、すべてその〔 b 〕の下で解釈したがる例もある。」の文脈を読み取ってください。

 

C 空欄を含む段落の「『いやよいやよも好きのうち』と身勝手に思い込んでセクシュアルハラスメントに及ぶ人間」、「D 自分の身勝手さに気づかず、全て他人のせいにして安閑としている人」がヒントになります。

 ホ(→「自省」)が正解になります。

 

(解答) a=ニ   b=ロ   c=ホ

 

問5(傍線部説明問題)

 設問文が長いので、注意してください。

  【4】段落「このプラスのフィードバックによって、A予期が結果を決めるだけでなく、予期したことが実現してしまうという逆転した状況も生まれかねない。先生が『この子はできが悪い』と思い込む(予期してしまう)と、どのような行動もできの悪さに結びつける。」と、

【10】段落「続いて、『認知的保守性の原理』を挙げよう。すでに持っているスキーマを保ち維持しようとする傾向で、反証を無視したり、無理にでも自分の描像に合わせてしまう心理である。」が、同趣旨であることを読み取ってください。

 ロ(→「認知的保守性の原理」)が正解になります。

 

(解答) ロ

 

問6(傍線部説明問題)

 設問文が長いので、注意してください。


(→「自分の仮説を絶対化して信じ込む」)は、【10】段落第2文「すでに持っているスキーマを保ち維持しようとする傾向で、反証を無視したり、無理にでも自分の描像に合わせてしまう心理である。」に対応しています。

 

(→「偶然起こったことを必然と思い込む」)は、【12】段落第2文「偶然に起こったことであっても必然だと思い込み、それをきちんとした因果関係で説明しようとすると科学的な理由が見つからず、ついに超常的現象だと考えてしまうケースである。」に対応しています。

 

ハ (→「他人の意見や忠告を受け入れる」)は、【12】段落第5文「『しょせん、体験したことがない人にはわからない』として、他人の意見や忠告を受け入れなくなってしまうのだ。」に適合していないので、このハが正解になります。

 

ニ (→「自分の体験を重視し強い信念を持つ」)は、【12】段落第4文「認知的エラーを自覚しない人ほど、自分の体験を絶対化して信じ込む傾向が強い」に対応しています。


(解答) ハ

 

問7(傍線部説明問題)

 ハの「度量」は、 「他人の言行をよく受けいれる、おおらかな心」という意味なので、傍線部D(→「自分の身勝手さに気づかず、全て他人のせいにして安閑としている人」)と「無縁」です。

 ハが正解になります。


(解答) ハ

 

ーーーーーーーー

 

(問題文本文)(概要です)

【13】むろん、人間の認知エラーが多いと言っても、私たちは日常生活において大きな支障なしに生きている。それを無意識のうちに矯正したり、または大きな問題が起こらないので気づかないままやり過ごしている。ときには認知エラーが人間の生存にプラスにはたらいていることもあると知っておくべきだろう。あまりに気にし過ぎると神経症を病むことになりかねないからだ。 
 
【14】ただ、突発的な事件が起こって即座の判断を迫られたり、すぐに合理的な解釈ができない事象に遭遇したりしたとき、〔  甲  〕が肝腎なのである。それは疑似科学に騙されていないか自らを点検することにも通じるからだ。 

(池内了『疑似科学入門』による)


ーーーーーーーー


(設問)

問8 空欄甲に入るべき最適なものを次の中から選べ。

イ 認知過程には誤りが多いことを自覚して、自分の推論を絶対化しないこと

ロ 人間の行動には必ずしも合理性がないから、無理にも合理化した説明を受け入れること

ハ 判断エラーは認知の過程で生じるのだから、その各過程を分析し再確認すること

ニ 合理的な解釈は常に類推による非合理なものを持ち、エラーを含むことを自覚すること

ホ 自分の推論を相対化していては、合理的に解釈ができないことを認識して判断すること


……………………………

 

(解説・解答)

問8(空欄補充問題)

 この設問は、実質的には、「趣旨合致問題」と言えます。

 空欄直後の「肝腎」は「重要」という意味です。

 この設問は、「緊急な状況下で、どのような判断をするべきか」ということが問われています。

 筆者の見解に従えば、このような状況下では、各「判断エラー」に共通する心理、つまり、「認知的節約の原理」、「認知的保守性の原理」、「主観的確証の原理」、「偶然性を拒否したい心理」を回避することが重要となります。

 特に、「偶然性を拒否したい心理」、【12】脱落後半部の「自分の体験を絶対化して信じ込む」こと、「他人の意見や忠告を受け入れなくなってしまう」こと、を回避することが必要でしょう。

 従って、イ(→「認知過程には誤りが多いことを自覚して、自分の推論を絶対化しないこと」)が正解になります。

 

 空欄直後の一文(→「それは疑似科学に騙されていないか自らを点検することにも通じるからだ」)イの根拠になります。

 

 ハも候補になりますが、空欄直後の一文との論理的整合性に難があるので、正解とは、なりません。

 

(解答) イ

 

ーーーーーーーー

 

【出典】

池内了『疑似科学入門』〈第1章 科学の時代の非合理主義《3 超常現象の心理学》〉の一節

 

(3)要約

 

人間は一連の認知行為の中で各過程のエラーが積み重なり強め合って、知らぬ間に判断エラーをしている。判断エラーには「プラスのフィードバック」により信念が強化されるケースと、少数のサンプルを平均と誤認するケースがある。それらに共通する心理として、「認知的節約の原理」、「認知的保守性の原理」、「主観的確証の原理」、「確固とした因果関係として説明したい心理」がある。重要なことは、認知過程には誤りが多いことを自覚して、自分の推論を絶対化しないことである。

 

(4)池内了氏の紹介 

 

 池内 了(いけうち さとる、1944年12月14日)

 兵庫県姫路市生まれ。

 天文学者、宇宙物理学者。総合研究大学院大学名誉教授、名古屋大学名誉教授。理学博士。兵庫県姫路市出身。


 研究テーマは、宇宙の進化、銀河の形成と進化、星間物質の大局構造など。現在は、科学・技術・社会論に傾注。新しい博物学を提唱。科学エッセイや科学時事を新聞や雑誌に執筆している。

 世界平和アピール七人委員会委員、軍学共同反対連絡会共同代表。

  『お父さんが話してくれた宇宙の歴史』(岩波書店)で、第13回(1993年度)日本科学読物賞、産経児童出版文化賞(JR賞)を受賞。

  『科学の考え方・学び方』(岩波ジュニア新書)で、第13回(1997年度)講談社出版文化賞(科学部門)、産経児童出版文化賞(推薦)を受賞。

    2000年からの一連の著作物に対して、関科学技術振興財団より第6回(2008年度)パピルス賞を受賞。

 

【著書】

『宇宙のかたちをさぐる』(岩波ジュニア新書・1988年)

『お父さんが話してくれた宇宙の歴史』(1~4)(岩波書店・ 1992年)

『科学の考え方・学び方』(岩波ジュニア新書・1996年)

『物理学と神』(集英社新書・2002年)

『疑似科学入門』(岩波新書・2008年)

『時間とは何か』(講談社・2008年)

『ノーベル賞で語る現代物理学』(新書館・2008年)

『娘と話す 宇宙ってなに?』(現代企画室・2009年)

『パラドックスの悪魔』(講談社・2010年)

『科学と人間の不協和音』(角川oneテーマ21・2012年)

『生きのびるための科学』(晶文社・2012年)

『知識ゼロからの科学史入門』(幻冬舎・2012年)

『科学の限界』(ちくま新書・2012年)

『現代科学の歩きかた』(河出書房新社・2013年)

『宇宙論と神』(集英社新書・2014年)

『科学・技術と現代社会』(上・下)(みすず書房・2014年)

『宇宙入門 138億年を読む』(角川ソフィア文庫・2014年) 

『科学のこれまで、科学のこれから』(岩波ブックレット・2014年)

『科学は、どこまで進化しているか』(祥伝社新書・2015年)

『科学者と戦争』(岩波書店・2016年)

『科学者と軍事研究』(岩波新書・2017年)

 

以下の2冊も、入試頻出出典です。↓

宇宙論と神 (集英社新書)

宇宙論と神 (集英社新書)

 

 

科学者と戦争 (岩波新書)

科学者と戦争 (岩波新書)

 

 

 

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 ーーーーーーーー

 

今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

ご期待ください。

 

    

 

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疑似科学入門 (岩波新書)

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科学者と軍事研究 (岩波新書)

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

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5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

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 私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。

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2008センター国語第1問(現代文・評論)解説/奥・日本文化論

(1)はじめに

 

 2008センター試験国語第1問は、内容的に、やや難解だったという意見があります。

 「奥」という語の多義性、日本人独自の空間感覚が、近代化・欧米化した現代日本人には、分かりにくい部分があったかもしれません。
 対策としては、自分の価値観に固執しないで、「筆者の論の流れ」に素直に乗っていくことです。これが、熟読、理解のポイントなのです。

 

 世の中には、「主体的読解」という奇妙な、受け狙いのスローガンが蔓延しています。が、理解は自分の脳でするのですから、この点では、当然のことを言っているだけです。
 問題は、このスローガンにより、自分の価値観を前面に出して読解してしまうことです。これは、避けるべきでしょう。有害無益でしか、ありません。

 

 また、今回の問題は、引用文が、本文理解のポイントになっています。そのことも、分かりにくさの原因になっているのでしょう。
 引用文を軽視しないようにしてください。

 

 そして、問題文本文を読む前に、設問をざっと見ることが大切です。その上で、「設問の指定」に素直に従って丁寧に熟読していけば、本問は、満点を取ることが充分に可能です。

 

 なお、今回の記事の項目は以下の通りです。

(2)2008センター試験国語第1問・「住居空間の心身論 『奥』の日本文化」狩野敏次/解説/奥の思想・日本文化論

(3)補充説明ー「奥」の「多義的な意味」について

(4)狩野敏次氏の紹介

(5)当ブログにおける「センター試験国語」関連記事の紹介

(6)当ブログにおける「日本文化論」関連記事の紹介

 

 

闇のコスモロジー―魂と肉体と死生観 (生活文化史選書)

 

(2)2008センター試験国語第1問・「住居空間の心身論 『奥』の日本文化」狩野敏次/解説/奥の思想・日本文化論

 

(問題文本文)(概要です)

(【1】・【2】・【3】・・・・は当ブログで付記した段落番号です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です) 

 

【1】私達は昼と夜を全く別の空間として体験する。特に夜の闇の中にいると、空間の中に闇が溶けているのではなく、逆に闇そのものが空間を形成しているのではないかと思えてくる。闇と空間は一体となって私達に働きかける。(注1)ミンコフスキーは、夜の闇を昼の「明るい空間」に対立させた上で、その積極的な価値に注目する。

【2】・・・・夜は死せる何ものかでもない。ただそれはそれそれに固有の生命をもっている。夜に於(おい)ても、私は梟(ふくろう)の鳴き声や仲間の呼び声を聞いたり、遥か遠くに微(かす)かな光が尾をひくのを認めたりすることがある。しかし、これら全ての印象は、明るい空間が形成するのとは全然異なった基盤の上に、繰り広げられるであろう。この基盤は、生ける自我と一種特別な関係にあり、明るい空間の場合とは全く異なった仕方で、自我に与えられるであろう。

【3】明るい空間の中では、私達は視覚によってものを捉えることができる。私達とものの間、私達と空間の間を距離が隔てている。距離は物差(ものさし)で測定できる量的なもので、この距離を媒介にして、私達は空間と間接的な関係を結ぶ。私達と空間の間を「距離」が隔てているため、空間が私達に直接触れることはない。

【4】一方、A闇は「明るい空間」とは全く別の方法で私達に働きかける。明るい空間の中では視覚が優先し、その結果、他の身体感覚が抑制される。ところが闇の中では、視覚にかわって、明るい空間の中で抑制されていた身体感覚がよびさまされ、その身体感覚による空間把握が活発化する。私達の身体は空間に直接触れ合い、空間が私達の身体に浸透するように感じられる。空間と私達はひとつに溶けあう。それは「物質的」で、「手触り」のあるものだ。明るい空間はよそよそしいが、暗い空間はなれなれしい。恋人達の愛の囁きは、明るい空間よりも暗い空間の中でこそふさわしい。

【5】闇の中では、私達と空間はある共通の雰囲気に参与している。私達を支配するのは、ミンコフスキーが指摘するように、あらゆる方向から私達を包みこむ「深さ」の次元である。それは気配に満ち、神秘性を帯びている。


ーーーーーーーー
 
(設問)

問1(省略)

 

問2 傍線部A「闇は『明るい空間』とはまったく別の方法で私たちにはたらきかける」とあるが、そのはたらきかけは私たちにどのような状況をもたらすか。その説明として最も適当なものを次の中から一つ選べ。

① 視覚的な距離によってへだてられていた私たちの身体と空間が親密な関係になり、ある共通の雰囲気にともに参与される。

② 物差で測定できる量的な距離で空間を視覚化する能力が奪われ、私たちの身体全体に浸透する共感覚的な体験も抑制させられる。

③ 距離を媒介として結ばれていた私たちの身体と空間との関係が変容し、もっぱら視覚的な効果によって私たちを包み込む深さを認識させられる。

④ 視覚ではなく身体感覚で距離がとらえられ、その結果として、空間と間接的な関係を結ぶ私たちの感覚が活性化させられる。

⑤ 視覚の持つ距離の感覚がいっそう鋭敏になり、私たちの身体と空間とが直接触れ合い、ひとつに溶け合うように感じさせられる。


……………………………

 

(解説・解答)

問2(傍線部説明問題)

 傍線部直後に、傍線部の説明があります。

「明るい空間」=視覚が優先し、その結果、他の身体感覚が抑制される、

「闇のなか」=視覚以外の身体感覚がよびさまされ、その身体感覚による空間把握が活発化する、

という対比が明確です。

 

 「その(闇の)はたらきかけは私たちにどのような状況をもたらすか」については、【4】・【5】段落に記述されています。

【4】段落「闇の中では、視覚にかわって、明るい空間の中で抑制されていた身体感覚がよびさまされ、その身体感覚による空間把握が活発化する。私達の身体は空間に直接触れ合い、空間が私達の身体に浸透するように感じられる。空間と私達はひとつに溶けあう。明るい空間はよそよそしいが、暗い空間はなれなれしい。」、

【5】段落「闇の中では、私達と空間はある共通の雰囲気に参与している。

より、①(→「視覚的な距離によってへだてられていた私たちの身体と空間が親密な関係になり、ある共通の雰囲気にともに参与される」)が正解になります。


 この設問は、入試頻出論点である「身体論」の典型的な問題です。

 よく理解するように、してください。

 下の記事も参照してください。

 

gensairyu.hatenablog.com

 

② 「物差で測定できる量的な距離で空間を視覚化する能力が奪われ」が、誤りです。

③ 前半はよいが、後半が誤りです。「視覚的な効果」は「明るい空間」の話です。

④ 「その結果として、空間と間接的な関係を結ぶ私たちの感覚が活性化させられる」が誤りです。

【4】段落の「私達の身体は空間に直接触れ合い、空間が私達の身体に浸透するように感じられる。空間と私達はひとつに溶けあう。」に反しています。

⑤ 「視覚の持つ距離の感覚がいっそう鋭敏になり」が誤りです。

 

(解答) ①

 

 ーーーーーーーー

 

(問題文本文)(概要です)

 

【6】「深さ」は私達の前にあるのではない。私達の周りにあって、私達を包みこむ、しかも私達の五感全体を貫き、身体全体に浸透する共感覚的な体験である。

【7】近代の空間が失ってきたのは、実は深さの次元である。近代建築がめざしてきたのは明るい空間の実現であった。(注2)ピロティ、連続窓、ガラスの壁、陸屋根は、近代建築が明るい空間を実現するために開発した装置である。人工照明の発達がそれに拍車をかける。明るい空間が実現するにつれ、B視覚を中心にした身体感覚の制度化が進んだ。視覚はものと空間を対象化する。空間は測定可能な量に還元され、空間を支配するのは距離であり、広がりであると考えられるようになった。それと同時に、互いに異なる意味や価値を帯びた「場所性」が空間から排除され、空間のあらゆる場所は人工的に均質化されることになった。こうして、場所における違いを持たない(注3)ユークリッド的な均質空間ができあがる。

【8】深さは、空間的には水平方向における深さを表している。幅に対する奥行(おくゆき)である。しかし、均質化された近代の空間にはこの奥行が存在しない。なぜなら、均質空間はどの場所も無性格で取り換え可能だから、奥行は横から見られた幅であり、奥行と幅は相対化距離に還元されてしまうからだ。均質空間では、幅も奥行も「距離」という次元に置き換えられる。従って、そこにあるのは空間の広がりだけであり、深さがない。

【9】ミンコフスキーが深さについて語っているのは、専ら空間的な意味においてである。一般に西洋では、深さは水平方向における深さであり、純粋に空間的な意味しかもっていないようである。それに対して、わが国では深さは水平方向における深さであると同時に、時間的な長さをも意味する。深さは空間的であるとともに時間的な意味をもつ。それを端的に表した言葉が「奥」である。奥は日常的にもよく使われる言葉だ。


ーーーーーーーー
 
(設問)

問3 傍線部B「視覚を中心にした身体感覚の制度化がすすんだ」とあるが、それはどういうことか。その説明として最も適当なものを、次の中から一つ選べ。

① 身体とは一線を画していた視覚が、身体感覚の中に吸収されるようになってきた、ということ。

② 身体感覚相互の優劣関係が、視覚を軸にするかたちで統御されてきた、ということ。

③ 視覚以外の身体感覚が、人為的な力によって退化を余儀なくされてきた、ということ。

④ 五感をつらぬく共感覚を、視覚だけが独占するようになってきた、ということ。

⑤ 視覚の特権性や優位性を人びとが自発的に享受するようになってきた、ということ。


……………………………

 

(解説・解答)

問3(傍線部説明問題)

 傍線部B「視覚を中心にした身体感覚の制度化がすすんだ」の言い換えとしての、

【7】段落「明るい空間が実現するにつれ、B視覚を中心にした身体感覚の制度化が進んだ。(→「視覚中心主義」と言われることも、あります)視覚はものと空間を対象化する。空間は測定可能な量に還元され、空間を支配するのは距離であり、広がりであると考えられるようになった。それと同時に、互いに異なる意味や価値を帯びた「場所性」が空間から排除され、空間のあらゆる場所は人工的に均質化されることになった。こうして、場所における違いを持たない(注3)ユークリッド的な均質空間ができあがる。」、

【9】段落「一般に西洋では、深さは水平方向における深さであり、純粋に空間的な意味しかもっていないようである。」より、

(→「身体感覚相互の優劣関係が、視覚を軸にするかたちで統御されてきた、ということ」)が正解になります。


 ところで、ここに言う「制度」とは、「広義の意味の制度」です。

 「制度」は、国家・団体等などを統治・運営するために定められた「決まり」だけではなく、「個人の思考から独立している、規範的妥当性・社会的実在として発生したもの」という意味でも、使用されています。

 

 なお、【7】段落は、「近代批判」の視点が含まれていることにも着目してください。


① 「身体とは一線を画していた視覚」の部分が、意味不明で、誤りです。

③ このような記述は本文になく、誤りです。

④ 「視覚だけが独占する」という記述は本文になく、誤りです。

⑤ 「人びとが自発的に享受するようになってきた」という記述は本文になく、誤りです。

 

(解答) ②

 

ーーーーーーーー
 

(問題文本文)(概要です)

 

【10】たとえば、来客を家の中に案内する際、よく「奥へどうぞ」などという。具体的に座敷とか応接間といわずに「奥」という。この場合の「奥」とは一体何を指しているのだろうか。それが具体的な部屋を指しているのでないことは明らかである。「座敷へどうぞ」「応接間へどうぞ」といわれれば、部屋のイメージを頭に思い描くこともできる。だが奥といわれると、少しおおげさにいえば、一体どこへつれて行かれるのだろうという一抹の不安が心をよぎる。奥は漠然として、つかみどころがない。奥は具体的な対象物を指す言葉ではなく、漠然とある何ものかを暗示する言葉である。このあたりに、日本語に固有な奥という言葉の深い意味が隠されているように思われる。試みに(注4)辞書を引いてみると、奥には次のような意味がある。

【11】「外(と)」「端(はし)」「口(くち)」の対。オキ(沖)と同根。空間的には、入口から深く入った所で、人に見せず大事にする所をいうのが原義。そこに届くには多くの時間が経過するので、時間の意に転ずると、晩(おそ)いこと。また、最後・行く先・将来の意。入口から深く入った所。最も深くて人のゆかない、神秘的な所。末尾。〈「道の奥」の意で〉奥州。みちのく。奥まった部屋。心の底。芸の秘奥。貴人の妻の居室。貴人の妻。奥方。夫人。晩(おそ)いこと。また、最後。将来。行く先。

【12】要するに、奥は空間的にも時間的にも到達しがたい最終的な場所、時間を指している。それだけではない。奥義、奥伝という言葉があるように、奥には空間的、時間的な意味の他に、深遠ではかり難いという心理的な意味もある。C 奥は空間的、時間的、心理的な様々な意味を含みながら広く日本の文化を支えている。

【13】奥を具体的に体験できる場所に日本の古い神社がある。神社の境内は鎮守の森とよばれる深い森に包まれ、その森を分け入るように長い参道が続いている。参道は社殿に向かってまっすぐにのびているのではない。右に左に折れ曲がり、つま先あがりの坂道になったり険しい石段になったり、実に変化に富んでいる。参道の両脇には鳥居や献燈(けんとう)がいくつも並び、うっそうとした木立や苔(こけ)むした庭石などとともに巧みに配されている。そして(注5)手水舎(てみずや)、回廊、拝殿、玉垣、正殿へと続くが、神社の中心である正殿には仏教寺院のように偶像が安置されているわけではない。せいぜい神の(注6)依代(よりしろ)としての鏡があるくらいだ。仏教寺院の中心は仏像とそれが安置してある本堂だが、神社にはそれに相当するものがない。(注7)上田篤(あつし)氏が指摘するように、神社の中心はむしろ参道である。見通しのきかない曲がりくねった参道を一歩一歩踏みしめながら歩いて行くと、私達の精神は次第に高揚し、聖なるものに近づいて行くような感じを抱く。その時、私達は奥を感じる。奥は最終的な建物ではなく、そこへ至るまでのプロセスを造形化したものだといえる。

 

ーーーーーーーー
 
(設問)

問4 傍線部C「奥は空間的、時間的、心理的なさまざまな意味を含みながらひろく日本の文化を支えている」とあるが、その「奥」の例として、筆者は神社の参道を挙げている。神社の参道における体験のどのような点に筆者は注目しているか。その説明として最も適当なものを、次の中から一つ選べ。

① 神社の参道では、人は神の依代である鏡を安置してある正殿にたどりつき、そこにいたるまでの神社独特の距離の長さを実感できる点。

② 神社の参道では、人は信仰の対象である鎮守の森に分け入っていき、信仰を求める心が優しく包み込まれていることに気づかされる点。

③ 神社の参道では、人は見通しのきかない曲がりくねった道を正殿に向かって時間をかけて進み、聖なるものに近づく高揚感を味わうことができる点。

④ 神社の参道では、人は献燈や庭石を配した木立の中に続く石段をのぼり、自然と人間の精神とが調和した環境に身を置く充実感をいだくことができる点。

⑤ 神社の参道では、人は最終的な建物である正殿をめざしてひたすら歩き、正殿の中の鏡に向き合うことでそれまでのプロセスを再認識することができる点。


……………………………

 

(解説・解答)
問4(傍線部説明問題)

【13】段落「神社の中心はむしろ参道である。見通しのきかない曲がりくねった参道を一歩一歩踏みしめながら歩いて行くと、私達の精神は次第に高揚し、聖なるものに近づいて行くような感じを抱く 。その時、私達は奥を感じる。は最終的な建物ではなく、そこへ至るまでのプロセスを造形化したものだといえる。」より、

(→「神社の参道では、人は見通しのきかない曲がりくねった道を正殿に向かって時間をかけて進み、聖なるものに近づく高揚感を味わうことができる点」)が正解です。

 

① 「そこにいたるまでの神社独特の距離の長さを実感できる点」は、ポイントでは、ありません。

② 「信仰を求める心が優しく包み込まれていることに気づかされる点」が、本文と一致していません。

④ 「自然と人間の精神とが調和した環境に身を置く充実感をいだくことができる点」が、本文と一致していません。

⑤ 「正殿の中の鏡に向き合うことでそれまでのプロセスを再認識することができる点」は、本文にこのような記述はありません。

 

 本問では、前半で「明るい空間」と「闇」との対比が論点であり、後半では、「闇」に関連する「奥」が論点になっています。

 ここで注目するべきは、「距離」・「奥」の意味内容です。

 前半の「距離」とは、「空間的」なものです。

 他方、後半の「奥」は、「空間的な距離」とは区別された、「心理的な距離感覚」・「時間感覚」をも意味しています。


(解答) ③


ーーーーーーーー
 

(問題文本文)(概要です)


【14】奥について最初のまとまった論稿を発表したのは(注8)槇(まき)文彦氏である。槇氏は奥の特性を次のように説明する。

【15】奥性は最後に到達した極点として、そのものにクライマックスはない場合が多い。そこへ辿りつくプロセスにドラマと儀式性を求める。つまり高さではなく水平的な深さの演出だからである。多くの寺社に至る道が曲折し、僅(わず)かな高低差とか、樹木の存在が、見え隠れの論理に従って利用される。それは時間という(注9)次数を含めた空間体験の構築である。

【16】奥は時間的な要素を含む概念である。その点、「間」との類似性が考えられて興味深い。奥は純粋に空間的な意味での奥行ではなく、目的へ向かうプロセスの演出によって私達の心の中に生じる心理的な距離感覚であり、時間感覚である。人間の身体感覚に深く関わる概念だといえる。また槇氏は、奥は「見る人、作る人の心の中での原点」であり、「見えざる中心」だという。先程の「奥へどうぞ」という言葉には、案内する側とされる側の両者の心の中の原点にむかって行くというニュアンスがある。

D案内された瞬間から、既に奥の空間体験が始まっているのである。奥は最終的に到達すべき建物や部屋が目的ではなく、そこへ至るプロセスに儀式と演出を求めるからだ。

(狩野敏次「住居空間の心身論──『奥』の日本文化」による。ただし、本文の一部を改変した)


(注1)ミンコフスキー──フランスで活躍した精神科医・哲学者(1885~1972)。引用は『生きられる時間』による。

(注2)ピロティ、連続窓、ガラスの壁、陸屋根──ピロティは、二階以上を部屋とし、一階を柱だけにした建物の一階部分。連続窓・ガラスの壁は、広範な視野を可能にした近代建築技法。陸屋根は、勾配(こうばい)が少なく、ほとんど水平な屋根。

(注3)ユークリッド──紀元前300年頃のギリシアの数学者。それまでの幾何学を集大成した。

(注4)辞書──ここでは『岩波古語辞典』を指す。

(注5)手水舎、回廊、拝殿、玉垣、正殿──手水舎は、神社で参拝者が手を洗い、口をすすぐための水盤を置く建物。ちょうずや、とも読む。回廊、拝殿、玉垣、正殿は、いずれも神社を構成する施設。

(注6)依代──神を祭る際、神霊の代わりとして据えたもの。

(注7)上田篤──建築家・建築学者。指摘は『鎮守の森』による。

(注8)槇文彦──建築家・建築学者。引用は『見えがくれする都市』による。

(注9)次数──文字因数の数(Χ2乗なら2、Χ3乗なら3)を指す数学用語。ここでは複雑さの度合いを示す。

 

 ーーーーーーーー
 
(設問)

問5 傍線部D「案内された瞬間から、すでに奥の空間体験がはじまっている」とあるが、それはどういうことか。その説明として最も適当なものを次の(1)~(5)のうちから一つ選べ。

① 「奥へどうぞ」と言われたときから、空間的にも時間的にも到達しがたい「奥」を、到達点そのものではなく、そこに至る過程において心理的な距離や時間として感じること。

② 「奥へどうぞ」と言われたときから、空間的な意味をもつ「奥」を、そこにいたる測定可能な距離としてだけでなく、明確に限定された時間としても感じること。

③ 「奥へどうぞ」と言われたときから、深遠ではかりがたい「奥」を、数量に還元できる対象とすることで、無性格で取替え可能な距離や時間として感じること。

④ 「奥へどうぞ」と言われたときから、不安にさせられる「奥」を、案内する側とされる側が同じ対象物をめざして一体感をもつことで、親密な距離や時間として感じること。

⑤ 「奥へどうぞ」と言われたときから、闇に包まれて気配にみちている「奥」を、神秘的な儀式が行なわれている空間とすることで、人知を超えた心理的な距離や時間として感じること。

 

……………………………

 

(解説・解答)

問5(傍線部説明問題)

  【16】【最終段落】を熟読してください。

「  奥は時間的な要素を含む概念である。奥は純粋に空間的な意味での奥行ではなく、目的へ向かうプロセスの演出によって私達の心の中に生じる心理的な距離感覚であり、時間感覚である。人間の身体感覚に深く関わる概念だといえる。先程の「奥へどうぞ」という言葉には、案内する側とされる側の両者の心の中の原点にむかって行くというニュアンスがある。D 案内された瞬間から、既に奥の空間体験が始まっているのである。は最終的に到達すべき建物や部屋が目的ではなく、そこへ至るプロセスに儀式と演出を求めるからだ。」


 傍線部D 「案内された瞬間から、すでに奥の空間体験がはじまっている」は、直前の「『奥へどうぞ』という言葉には、案内する側とされる側の両者の心の中の原点にむかって行くというニュアンスがある」の言い換えです。

 

 同様の内容は、【16】【最終段落】の前半部分

「奥は時間的な要素を含む概念である」

「奥は、目的へ向かうプロセスの演出によって私達の心の中に生じる心理的な距離感覚であり、時間感覚」

でも、述べられています。

 このことを説明している①(→「奥へどうぞ」と言われたときから、空間的にも時間的にも到達しがたい「奥」を、到達点そのものではなく、そこに至る過程において心理的な距離や時間として感じること。)が正解です。


② 「そこにいたる測定可能な距離としてだけでなく、明確に限定された時間としても感じること」が、本文にこのような記述がなく、誤りです。

③ 「『奥』を、数量に還元できる対象とすること」が、本文にこのような記述がなく、誤りです。

④ 「案内する側とされる側が同じ対象物をめざして一体感をもつこと」が、本文にこのような記述がなく、誤りです。

⑤ 「『奥』を、神秘的な儀式が行なわれている空間とすること」が、本文にこのような記述がなく、誤りです。

 

(解答) ①


ーーーーーーーー
 
(設問)

問6 この文章では論を進めるうえで、具体的な事例を挙げたり、他の文献を取り上げたりしている。筆者がそのような論の進め方をする意図の説明として最も適当なものを、次のA群・B群の中から一つ選べ。

 

A群

① ピロティ、連続窓等の例は、空間を量的に把握することによって奥行きという存在を消してきた近代建築の価値観の妥当性を確認するために用いられている。

② ピロティ、連続窓等の例は、人工照明の発達によってひろがりのある空間の実現を目指すようになってきた近代建築の技術的進歩を評価するために用いられている。

③ ピロティ、連続窓等の例は、近代建築が闇の追放によってもたらした空間の均質化が内包する問題点を引き出すために用いられている。

④ ピロティ、連続窓等の例は、近代建築が明るい空間をめざすことによって深さという次元を失ってしまった誤りの重大さを証明するために用いられた。

 

B群

① ミンコフスキーの文章を取り上げたのは、近代における西洋と伝統的な日本とのあいだの、空間のとらえ方の違いを明確にするためである。

② 奥の意味についての辞書の説明を取り上げたのは、日本語に固有な奥の意味が、辞書などでは表しきれないことを証明するためである。

③ 上田篤の指摘を取り上げたのは、神社の参道に関する考えには、共感しつつ、奥については対立する見解をもつことを強調するためである。

④ 槇文彦の文章を取り上げたのは、奥についての先駆的な論として紹介し解説を加えることによって、自説の説得力を増すためである。


……………………………

 

(解説・解答)
問6(全体の構成を問う問題)

【A群】

 ピロティ等の例を含む【7】段落の冒頭は、「近代の空間が失ってきたのは、実は深さの次元である」で、最終部分は「それと同時に、互いに異なる意味や価値を帯びた『場所性』が空間から排除され、空間のあらゆる場所は人工的に均質化されることになった。こうして、場所における違いをもたないユークリッド的な均質空間ができあがる」です。

 これを読むと、正解は③(→「ピロティ、連続窓等の例は、近代建築が闇の追放によってもたらした空間の均質化が内包する問題点を引き出すために用いられている」)であることがわかります。

① 「近代建築の価値観の妥当性を確認するために用いられている」が誤りです。

② 「近代建築の技術的進歩を評価するために用いられている」が誤りです。

④ 「近代建築が深さという次元を失ってしまった誤りの重大さを証明するために用いられている」が言いすぎで、誤りです。

 

(解答) ③


【B群】 

「槇(まき)文彦の論考」を根拠にしての傍線部Dの結論、という論の流れから、④が正解と分かります。

① 全くの誤りです。ミンコフスキーの文章(【2】段落)は「闇」の「積極的な価値」についてです。「西洋と日本の比較」とは無関係です。

② 「辞書の説明」により「奥」の思想は分かりやすくなっています。

③ 「奥については対立する見解をもつこと」が誤りです。「対立」はありません。


(解答) ④

 

ーーーーーーーー
 


【出典】

狩野敏次「住居空間の心身論ー『奥』の日本文化」〈空間の深さと共感覚〉〈奥の意味〉(『日本学』20号所載)の一節。

 

【要約】

闇の中では視覚以外の身体感覚がよびさまされ、その身体感覚による空間把握が活発化する。空間が私たちの身体に浸透するように感じられる。一方、近代の明るい空間は場所を人工的に均質化し、深さの次元を失っている。それに対して、わが国では深さは水平方向における深さであると同時に、時間的な長さをも意味する。それを端的に表す言葉が「奥」である。「奥」は、心理的な距離感覚であり、時間感覚である。この点で、「奥」は日本文化を支えている。

 


(3)補充説明ー「奥」の「多義的な意味」について

 

 「奥」のような「多義語」は、入試頻出論点です。

 「奥」の「多義的な意味」について、國學院デジタル・ミュージアムに分かりやすい説明があったので、以下に、その一部を引用します。

 

……………………………

 

(引用開始)

「奥」の意味

①奥まった所・果て、

②心の奥、

③将来・行く末。

 空間的には①・②の意味で、時間的には③の意味で用いられる。

 ③の例は万葉集の恋歌に多く見られ、恋情にかかわって、将来についての予測を内容とする例に「奥もかなしも」(14-3403)、「奥もいかにあらめ」(4-659)があり、同様に不安を内容とする例に「奥をなかねそ」(14-3410)、「奥をかぬかぬ」(14-3487)がある。

 「奥まく」(11-2439)、「奥まふ」(6-1024、1025、11-2728)も将来を期待する意とされるが、これらは心の奥に秘めての意とも解され、その場合は②の例となる。

 時間に関しては、遅咲きの植物種をさす「奥手(おくて)」(8-1548)の語も見られる。

(引用終了)

 

 ……………………………

 

 以上を、問題文本文の【11】段落と合わせて読むと、「奥」の多義性、「奥の思想」について、より理解が進むでしょう。

 特に、「奥の意味」の「②心の奥、③将来・行く末」に注目してください。

 

 

(4)狩野敏次氏の紹介

 

狩野敏次(かのう としつぐ)

1947年、東京に生まれる。芝浦工業大学工学部建築工学科卒業、法政大学大学院工学研究科修了。以後、栗田勇氏に師事。専攻は文化史、建築史。
特に具体的なモノ・場所・空間が喚起するイメージを手がかりに、日本人の他界観を考察している。
日本生活文化史学会、日本民俗建築学会会員、日本文藝家協会会員。

 

 

【著書】

『魂   その原形をめぐって』(雄山閣・生活文化史選書・2017)

『木と水のいきものがたり 語り継がれる生命の神秘』(雄山閣・生活文化史選書・2014)

『闇のコスモロジー 魂と肉体と死生観』(雄山閣・生活文化史選書・2011)

『昔話にみる山の霊力 なぜお爺さんは山へ柴刈りに行くのか 』(雄山閣・2007)

『かまど /ものと人間の文化史』 (法政大学出版局・2004)

 

魂 その原形をめぐって (生活文化史選書)

魂 その原形をめぐって (生活文化史選書)

 

 

木と水のいきものがたり―語り継がれる生命の神秘 (生活文化史選書)

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(5)当ブログにおける「センター試験国語」関連記事の紹介

 

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(6)当ブログにおける「日本文化論」関連記事の紹介

 

 日本文化論は、入試頻出論点です。

 

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ーーーーーーーー

 

今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後の予定です。

ご期待ください。

 

   

 

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昔話にみる山の霊力―なぜお爺さんは山へ柴刈りに行くのか

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

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5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

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予想問題/『白』原研哉/世界生成の原像/早大文学部過去問

(1)はじめに  

 

 原研哉氏の論考は、国語(現代文)・小論文における入試頻出著者です。

 最近では、東大、信州大、高知大、群馬大、早稲田大、明治大、立命館大、学習院大、法政大等の現代文・小論文で出題されています。

 今回解説する『白』は、東大、早稲田大、学習院大、成蹊大、学習院女子大、フェリス女学院大等で出題されています。

 

 芸術論、日本文化論は、入試頻出論点です。

 これからも、原研哉氏の論考は、要注意です。

 

 なお、今回の記事の項目は、以下の通りです。

(2)予想問題/『白』原研哉・2009早大文学部過去問・解説

(3)本問の補充説明

(4)原研哉氏の紹介

(5)当ブログにおける「芸術論」・「日本文化論」関連記事の紹介

(6)当ブログにおける「早大現代文」関連記事の紹介

 

 

白

 


(2)予想問題/『白』原研哉/2009早大文学部過去問・解説

 

(問題文本文)(概要です)

(【1】・【2】・【3】・・・・は当ブログで付記した段落番号です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です) 

 

【1】日本の伝統色における白は、古代に生まれた「あかし」「くらし」「しろし」「あをし」という四つの色の形容詞の一つ「しろし」に由来する。しろしとは「いとしろし=いちじるし」であり、顕在性を表現している。純度の高い光、水の雫にたたえられる清澄さのようなもの、あるいは、勢いよく落ちる滝のような鮮烈な輝きを持つものなど、いちじるしきものの様相は、変転する世界の中にくっきりと浮かび上がる。そういうものに意識の焦点を合わせ、感覚の琴線を震わせる心象が「しろし」である。それを言葉で捕まえ、長い歴史の中でひとつの美意識として立ち上がってきた概念が「白」である。

【2】伝統色とは単に物理的な光の属性を言うものではなく、A それ以外の多くの質や感受性を同時に運ぶものだが、この「白」という言葉に潜在する「いちじるし」という特性は白を読み解いていく上で大切な手がかりになる。

【3】一方で、白は『色の不在』を表現している点でひときわ特殊な色である。

【4】光の色を全て混ぜあわせると白になり、絵の具やインクの色を全て引いていくと白になる。白はあらゆる色の統合であると同時に無色である。〔 ① 〕である点で特別な色である。別な言い方をすれば、その分だけ、より強く物質性を喚起させる質感であり、間や余白のような時間性や空間性をはらむものであり、不在やゼロ度のような抽象的な概念をも含んでいる。ここで述べる白はb 流行色のように消費される色の属性でないことは言うまでもなく、c 色彩理論の対象となるものでもない。さらに言えば伝統色の系譜で語りつくせる性質でもない。そんな白に意識を通わせているうちに、ひとつの問いが浮かび上がってきた。白は単なる色ではなく、むしろd 表現の「コンセプト」として機能しているのではないかという問いである。

 

……………………………

 

(設問)

問1の(1)  空欄①に入る最適な語句を、それぞれ次の中から選べ。

イ    色に寄り添う色

ロ    色を生み出す色

ハ    色をのがれた色

ニ    色に歯向かう色

 

問2 傍線部A 「それ以外の多くの質や感受性を同時に運ぶもの」の説明として最適なものを次の中から選べ。

イ 人の心情にさまざまなイメージを喚起し、言葉を通して対象を絶妙に輪郭づけるもの。

ロ 混沌としたものを視覚的にまとめあげ、一つの秩序の中にしっかりと整えるもの。

ハ この世界にはさまざまに名づけられる事象があるということを、教えてくれるもの。

ニ 客観性と主観性の融合した、新しいものの性質を捉える手立てを創造するもの。

 

問3 傍線部a~dのうち、一つだけ他の三つと性格的に違うものがあるとすれば、それはどれか。最適なものを選べ。

 

……………………………

 

(解説・解答)

問1(1)(空欄補充問題)

「〔①〕である点で特別な色」は、直前段落の「白は『色の不在』を表現している点でひときわ特殊な色である。」「白は『色の不在』点特殊な色」と対応しています。

(解答) ハ

 

問2(傍線部説明問題)

    傍線部の「それ」は、直前の「物理的な光の属性」を指しています。

 傍線部の「それ以外の多くの質や感受性を同時に運ぶもの」の説明は、直前の段落の後半部分に、「いちじるしきものの様相は、変転する世界の中にくっきりと浮かび上がるそういうものに意識の焦点を合わせ、感覚の琴線を震わせる心象が『しろし』である。それを言葉で捕まえ、長い歴史の中でひとつの美意識として立ち上がってきた概念が『白』である。」と説明されています。

 従って、イ(→「人の心情にさまざまなイメージを喚起し、言葉を通して対象を絶妙に輪郭づけるもの」)が正解になります。

(解答) イ


問3(傍線部説明問題)

 dだけが「白」の説明になっています。

 a・b・cは、「白の対極のイメージ」の説明になっています。

(解答) d

 

ーーーーーーーー


(問題文本文)(概要です)

【5】世界は色彩の饗宴である。〔  甲  〕芽吹いた若葉がやがて紅葉し、ついには枯れ葉になるように、まさに「土に帰る」という比喩のごとく。しかし混沌は死ではない。そこには、めくるめく色彩のエネルギーが保存されて胎動し、その中から再び、まっさらな色が生まれてくるのである。


……………………………


(設問)

問4 次の4つの文を並べ替えて、空欄〔甲〕に入るようにした時、3番目に来るものは、どれか。最適なものを選べ。

イ めくるめく自然は色のせめぎあいであり、まるで印象派の画家のパレットのように騒がしい。

ロ しかし、無数の営み、無数のときめきは移ろう時間の中で混ぜあわされ、大きな時間の中では褐色へと流転する。

ハ しかし、ひとたび混ぜあわされると、生気に満ちていた個性の饗宴はたちどころにグレーの混沌へと変転するのである。

ニ 木々の瑞々(みずみず)しさや水面のきらめき、果実の凝縮感に満ちた色合いや、めらめらと燃え上がるたき火の色など、僕らはそのひとつひとつをいとしいと思う。

 

……………………………


(解説・解答)
問4(文章並べ替え問題・空欄補充問題)

 空欄直前の「世界は色彩の饗宴」から、ニの「木々の瑞々(みずみず)しさや水面のきらめき、果実の凝縮感に満ちた色合いや、めらめらと燃え上がるたき火の色など」が、導かれます。

 そして、ニの「木々の瑞々(みずみず)しさや水面のきらめき、果実の凝縮感に満ちた色合いや、めらめらと燃え上がるたき火の色など」と、ロの「無数の営み、無数のときめき」に着目すると、「ニ→ロ」のセットが導かれます。

 

 次に、空欄直後の「芽吹いた若葉がやがて紅葉し、ついには枯れ葉になるように、まさに「土に帰る」という比喩のごとく。しかし、混沌は死ではない。そこには、めくるめく色彩のエネルギーが保存されて胎動し、その中から再び、まっさらな色が生まれてくるのである。」から、

 最後に来るものは、ハ(→「しかし、ひとたび混ぜあわされると、生気に満ちていた個性の饗宴はたちどころにグレーの混沌へと変転するのである。」)と分かります。


 イの「めくるめく自然は色のせめぎあいであり、まるで印象派の画家のパレットのように騒がしい。」と、

 ハの「しかし、ひとたび混ぜあわされると、生気に満ちていた個性の饗宴はたちどころにグレーの混沌へと変転する」を比較すると、「イ→ハ」のセットが導かれます。

 以上より、「ニ→ロ→イ→ハ」が確定します。

(解答) イ

 

ーーーーーーーー

 

(問題文本文)(概要です)

【6】そんな生成と流転のイメージの中に白を置いてみる。白は混沌の中から立ち上がってくる最も鮮烈なイメージの特異点である。混じりあうという負の原理を逆行し、グレーに回帰しようとする退行の引力を突破して表出する。白は特異性の極まりとして発生するのだ。それはなんの混合でもなく、色ですらない。

【7】エントロピーという概念がある。熱力学の第2法則の中で語られるこの概念は、混沌の度合いを示している。熱力学の第2法則とは、あらゆるエネルギーは平均化されていく方向で保存されるという物理法則である。東京の気温、シベリアの気温、コンゴ盆地の気温は、生命のような地球の活動のおかげでそれぞれ異なるが、巨大なスケールの時間の中では、やがて同じ温度になっていく。地球の温度も、いつかは周辺宇宙と入り交じって宇宙の平均温度に無限に接近していく。エントロピーの増加とは、特異性を減じて平均の果てへと帰趨することを意味している。全ての色が混じりあってグレーになるように、エントロピーが増大する果てには巨大なエネルギーの混沌世界がある。ただ、この混沌は死でも無でもない。何ものでもなくなったエネルギーは、同時に何にでもなりうる保存された可能性そのものであり、その大いなる無限の混沌からエントロピーを減じながら突出してくるものこそ「生」であり「情報」ではないか。エントロピーの引力圈をふりきって飛翔することが生命である。混沌の無意味から屹立(きつりつ)してくるものが意味であり情報である。その視点において生命は情報と同義である。

【8】白は、混沌の中から発生する生命あるいは情報の原像である。白はあらゆる混沌から潔癖にのがれきろうとする負のエントロピーの極みである。生命は色として輝くが、白は色をものがれて純粋に混沌の対極に達しようとする志向そのものである。
生命は白をまといながら生まれてくるが、具象的な生命は地に足がついた瞬間から色を帯びている。卵から黄色いヒナという生命が現れるように。白は現実の世界で実現されるものではない。僕らは白を見、白に触れたように感じているかもしれないが、それは錯覚である。現実世界の白は必ず汚れている。それは〔 ② 〕としての存在でしかない。白は繊細で壊れやすい。それは誕生の瞬間ですら完璧な白ではなく、触れるとすぐに、そうとは感じられない程度に汚れている。しかし、そうであればこそ白は意識の中にくっきりと屹立する。


……………………………

 

(設問)

問1の(2) 空欄②に入る最適な語句を、それぞれ次の中から選べ。

イ    白が消失した証し

ロ    白になるのを回避した亜流 

ハ    白に引き戻す作用

ニ    白を目指した痕跡

 

……………………………

 
(解説・解答)

問1(2)(空欄補充問題)

 【8】段落の設問部分までの論理展開、つまり、

白はあらゆる混沌から潔癖にのがれきろうとする負のエントロピーの極みである」、

「生命は色として輝くが、白は色をものがれて純粋に混沌の対極に達しようとする志向そのものである」から、

ニ (→「白を目指した痕跡」)が正解と判断できます。

(解答) ニ


ーーーーーーーー


(問題文本文)(概要です)

【9】象形文字研究の第一人者、白川静博士によると、「白」という漢字は頭蓋骨の象形文字であるという。象形文字が発明された時代に人の心をとらえる白の印象は、野に放置され、風雨や陽光にさらされ漂白された頭蓋骨であったという。その忽然たる白骨の印象は痛いほど明確にイメージできる。砂漠を歩けば獣の骨が、海辺を歩けば貝殻が点々と砂の上に発見できたであろうが、これらは生の痕跡としての白の印象である。

【10】白は生命の周辺にある。骨は死に接した白であるが、生に接する「乳」や「卵」も白い。授乳は動物にとって重要な営みであり、親の生命を子に渡していくような行為である。この乳が動物も人間も共通して白い。その中には命を育む豊富な滋養が含まれているわけで、僕らが「乳白」と呼ぶ時の白には混濁した有機物のイメージがある。乳の味は「乳白」の味であり有機物の味である。乳首からしたたり落ちる生命の糧が白いということは実に興味深い。

【11】卵もその多くは白い。その白の中に現実の生命が宿り、それがあの世とこの世の境界としての皮膜である卵の殼を割って出てきた時には、もはや白ではなく動物の色をしている。生命としてこの世に誕生した動物は既にカオスに向かって歩み始めているということだろうか。

【12】白は大いなる混沌から突出してきた情報、すなわち〔 乙 〕のイメージの際にある。混沌は「地」、白は「図」である。地から図を生み出す営みが創造ではないか。混沌たるグレーから白が立ちあがってくるイマジネーションに、〔  ③  〕が重なって見えるのである。
(原研哉『白』)

 

ーーーーーーーー

 

(設問)

問1の(3) 空欄③に入る最適な語句を、それぞれ次の中から選べ。

イ    芸術存在の危機

ロ    世界生成の原像

ハ    物理的光への回帰

ニ    理想概念への超克

 

問5 空欄乙に入る最適な漢字二字の語を、本文中から抜き出して記せ。

 

問6 本文の論旨に合致しないもの二つある。それらを選べ。

イ 白の持つ多様な世界に眼を向けることは、この世界に潜む新しい意味合いに出合うことにつながるはずである。

ロ 白いと感じる感受性を磨くためには、全感覚を一気に発揮するより、伝統を学びつつ一つ一つの感覚を研ぎ澄ますのが必要である。

ハ 人が自然の輝きや移ろいに向き合った時に生れる心象が少しずつ堆積し色の名前になるのであり、白も同じなのである。

ニ 白はすべての色であると同時に無色でもあり、そうした特性の中に物理的色彩概念を超えた、人間の心と感情に直接触れ合う稀有な世界が生まれる。

ホ 個々の現象が輝きを持つのは、エントロピーが増大し、世界がすべて一つとなった宇宙の存在との対比で意味づけることが可能であるからである。

 

ーーーーーーーー

 

(解説・解答)

問1(3)(空欄補充問題)

 空欄直前の「混沌たるグレーから白が立ちあがってくるイマジネーション」が、さらに直前の二文「地から図を生み出す営みが創造ではないか」に対応しています。

 「地から図を生み出す営みが創造ではないか」における「創造」がヒントになります。 

 ロ(→「世界生成の原像」)が正解になります。

(解答) ロ


問5(空欄補充問題)

 直前の「すなわち」に注目してください。

 直前文の「白は大いなる混沌から突出してきた情報」が根拠になります。

 さらに説明を探すと、この根拠と【8】段落第1文「白は、混沌の中から発生する生命あるいは情報の原像である」が対応していることが、分かります。

(解答) 生命


問6(趣旨合致問題)

イ 【4】段落の「白はあらゆる色の統合であると同時に無色である。〔①=色をのがれた色〕である点で特別な色である。別な言い方をすれば、その分だけ、より強く物質性を喚起させる質感であり、間や余白のような時間性や空間性をはらむものであり、不在やゼロ度のような抽象的な概念をも含んでいる。」、

「そんな白に意識を通わせているうちに、ひとつの問いが浮かび上がってきた。白は単なる色ではなく、むしろ表現の「コンセプト(→当ブログによる「注」→「概念。全体を貫く基本的な発想」という意味)」として機能しているのではないかという問いである。」の部分が根拠になります。

 

 本文にない記述になっています。本文に合致していません。


 「白も同じ」の部分が誤りです。

  【3】段落「白は『色の不在』を表現している点でひときわ特殊な色である」、     

  【6】段落「白は混沌の中から立ち上がってくる最も鮮烈なイメージの特異点である。」で述べているように、

「白」は「特殊」で、「特異」です


 ニの前半は、【4】段落前半部分「光の色を全て混ぜあわせると白になり、絵の具やインクの色を全て引いていくと白になる。白はあらゆる色の統合であると同時に無色である。」に対応しています。

 ニの後半は、【1】段落第2文以下「しろしとは『いとしろし=いちじるし』であり、顕在性を表現している。純度の高い光、水の雫にたたえられる清澄さのようなもの、あるいは、勢いよく落ちる滝のような鮮烈な輝きを持つものなど、いちじるしきものの様相は、変転する世界の中にくっきりと浮かび上がる。そういうものに意識の焦点を合わせ、感覚の琴線を震わせる心象が『しろし』である。」に対応しています。

 

ホ  【7】段落の後半部分「全ての色が混じりあってグレーになるように、エントロピーが増大する果てには巨大なエネルギーの混沌世界がある。ただ、この混沌は死でも無でもない。何ものでもなくなったエネルギーは、同時に何にでもなりうる保存された可能性そのものであり、その大いなる無限の混沌からエントロピーを減じながら突出してくるものこそ『生』であり『情報』ではないか。エントロピーの引力圈をふりきって飛翔することが生命である。混沌の無意味から屹立(きつりつ)してくるものが意味であり情報である。」、

【1】段落の第3文「純度の高い光、水の雫にたたえられる清澄さのようなもの、あるいは、勢いよく落ちる滝のような鮮烈な輝きを持つものなど、いちじるしきものの様相は、変転する世界の中にくっきりと浮かび上がる。」

が根拠になります。 

(解答) ロ・ハ


ーーーーーーーー

 

【出典】

『白』原研や哉〈第1章 白の発見《いとしろし》《色をのがれる》《生命と情報の原像》〉の一節

 

【要約】

日本の伝統色における白は、「いとしろし」=「いちじるし」に由来して、顕在性を表現している。白は、特異性の極まりとして発生している。なんの混合でも、色でもない。白は、混沌の中から発生する生命あるいは情報の原像なのである。混沌たるグレーから白が立ち上がってくるイマジネーションに、世界生成の原像が重なって見える。

 

(3)本問の補充説明


 原研哉氏は本書の【まえがき】で、「白」という概念に、たどり着いた「きっかけ」について、以下のように述べています。

「  人と意思の疎通を行う時には、一方的に情報を投げかけるのではなく、むしろ相手のイメージを受け入れる方が有効である場合が多い。
 つまり、いかに多く説得したかではなく、いかに多く聞けたかが、コミュニケーションの質を左右する。
 だから、人々は、歴史の中では、時に意図的に空っぽの器のようなものを作って、コミュニケーションを図ってきた。
 当初は『空(うつ)』について書こうとしていた。しかし、書き進むうちに『白』にたどり着いた。『空』を掘り進むスコップの先に『白』という概念がこつんとあたったのである。」

 

 「意思の疎通」、「(相手の意見を)いかに多く聞けたかが、コミュニケーションの質を左右する」、「コミュニケーションの質」が、思考のスタートであったということは、本書を理解する上で重要なポイントでしょう。

 ここでは、「受け身的姿勢」の「再評価」・「見直し」の視点が強調されている点に注目してください。

 デザイナーである原氏の独自性が、感じられます。

 

 以下の原氏の見解は一見、難解ですが、私たちを立ち止ませる内容を含んでいる、と私は思います。

「  白があるのではない。白いと感じる感受性があるのだ。だから白を探してはいけない。白いと感じる感じ方を探るのだ。白という感受性を探ることによって、僕らは普通の白よりも、もう少し白い白に意識を通わせることができるようになる。そして、日本の文化の中に、驚くべき多様さで織り込まれている白に気付くことができる」(P2)


「  白という感受性を探ることによって、僕らは、日本の文化の中に、驚くべき多様さで織り込まれている白に気付くことができる」と原氏は述べています。

 ここで言う「白という感受性を探ること」は、どういうことか。

 このことを考えることが、そのまま、日本の文化、日本人、そして、自分自身を考えることに繋がることを意識してください。

 

 さらに、原氏は、「『白=空白』の意味」、「空白の無限の可能性」について、以下のように記述しています。

「  白は時に『空白』を意味する。色彩の不在としての白の概念は、そのまま不在性そのものの象徴へと発展する。しかし、この空白は、『無』や『エネルギーの不在』ではなく、むしろ未来に充実した中身が満たされるべき『機前の可能性』(→当ブログによる「注」→ここにいう「機」とは 「物事の起こるきっかけ」という意味)として示される場合が多く、そのような白の運用はコミュニケーションに強い力を生み出す。空っぽの器には何も入っていないが、これを無価値と見ず、何かが入る『予兆』と見立てる創造性がエンプティネスに力を与える。このような『空白』あるいは『エンプティネス』のコミュケーションにおける力と、白は強く結びついている。」(P38)


 「白」は時に「空白」を意味する。しかし、この空白は、未来に充実した中身が満たされるべき『機前の可能性』として示される場合が多く」、「何かが入る『予兆』」になるという、逆説的状況が、ここでは問題になるわけです。

 

 次に、本書における以下の説明は、「本問の本文の内容」を発展的に詳説したものと言えるでしょう。

「  未知化は白に通じている。白とは混沌に向かう力に逆行し、突出してくるイメージの特異点である。それは既知の混濁から身をよじり、鮮度のある情報の形としてくっきりと僕らの意識の中に立ち上がる。白とは、汚れのない認識である。いとしろしき様相の具現、情報の屹立した様を言う。いとしろしき様相はいとしろしき認識を呼び起こす。『分かる』とは『いとしろしき認識』そのものではないか。既知化し、惰性化することは、意識の屹立がおさえられ認識の泥沼に沈むことである。その泥沼から、まっさらの白い紙のような意識を取り出してくることが『分かる』ということである。僕らは世界に対して永久に無知である。そしてそれでいいのだ。世界のリアリティに無限のおののき続けられる感受性を創造力と呼ぶのだから。」(P76)

 

 原氏は、「白」を以下のように表現しています。

混沌に向かう力に逆行し突出してくるイメージの特異点、

鮮度のある情報の形、

汚れのない認識、

いとしろしき様相の具現、

情報の屹立した様。

 以上の指摘は、本問の理解を助けてくれるでしょう。


さらに、上記の原氏の記述は、重要な内容を主張しています。

「『分かる』とは『いとしろしき認識』そのものではないか」、

「その泥沼から、まっさらの白い紙のような意識を取り出してくることが『分かる』ということである」、

これらの論考は、「分かる」を「白」から分析した卓見だ、と私は思います。

 

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(4)原研哉氏の紹介

 

デザイナー。1958年生まれ。

「もの」のデザインと同様に「こと」のデザインを重視して活動中。

 2000年に「RE-DESIGN─日常の21世紀」という展覧会を制作し、何気ない日常の文脈の中にこそ驚くべきデザインの資源があることを提示した。

 2002年に無印良品のアドバイザリーボードのメンバーとなり、アートディレクションを開始する。長野オリンピックの開・閉会式プログラムや、 2005年愛知万博の公式ポスターを制作するなど日本の文化に深く根ざした仕事も多い。

 2007年、2009年にはパリ・ミラノ・東京で「TOKYO FIBER─SENSEWARE展」を、2008年から2009年にかけては「JAPAN CAR展」をパリとロンドンの科学博物館で開催するなど、産業の潜在力を展覧会を通して可視化し、広く世界に広げていく仕事に注力している。

 2011年には北京を皮切りに「DESIGNING DESIN 原研哉2011中国展」を巡回するなど、活動の幅をアジアへと拡大。

 著書「デザインのデザイン」や「白」はアジア各国語版をはじめ多言語に翻訳されている。

 

 日本デザインセンター代表取締役。武蔵野美術大学教授。日本デザインコミッティー理事長。日本グラフィックデザイナー協会副会長。原デザイン研究所。 

 


【著作】

『ポスターを盗んでください』(新潮社、1995)
『マカロニの穴のなぞ』(朝日新聞社、2001/のちに文庫) 『デザインのめざめ』(河出書房新社、2014)
『原研哉』(ギンザ・グラフィック・ギャラリー〈ggg Books〉、2002)
『デザインのデザイン』(岩波書店、2003)
『FILING─混沌のマネージメント』(宣伝会議、2005)『TOKYO FIBER'07 SENSEWARE』(朝日新聞社、2007)
『デザインのデザイン Special Edition』(岩波書店、2007)
『白』(中央公論新社、2008)
『ポスターを盗んでください+3』(平凡社、2009)
『日本のデザイン - 美意識がつくる未来』(岩波書店〈岩波新書〉、2011)
『デザインのめざめ』 (河出書房新社〈河出文庫〉2014)
『HOUSE VISION 2 CO-DIVIDUAL 分かれてつながる/離れてあつまる』 (美術出版社、2016)
『Ex-formation』(平凡社、2017)
『百合』 (中央公論新社、 2018)
『白・百合(2冊セット)』(中央公論新社 、2018)

  

(5)当ブログにおける「芸術論」・「日本文化論」関連記事の紹介

 

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(6)当ブログにおける「早大現代文」関連記事の紹介

 

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ーーーーーーーー

 

 今回の記事は、これで終わりです。

 次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

 ご期待ください。

 

   

 

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白

 

 

白百 (単行本)

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デザインのデザイン

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

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5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

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「原発の経済効果 神話に安住している間に」小熊英二/入試予想問題

(1)はじめに

 

 入試国語(現代文)・小論文の頻出キーワード、重要キーワードである「自助努力」、「主体性」、「先入観」、「根拠なき神話」、「神話への逃避」、「思考停止状態」、「自己喪失」、「自己疎外」等を学ぶのに有用なハイレベルな論考(→「原発の経済効果 神話に安住している間に」小熊英二・2018年3月29日・朝日新聞・論壇時評)が最近発表されました。

 そこで、入試国語(現代文)・小論文対策として、今回の記事で紹介・解説します。

 しかも、この論考は流行論点である「地域振興」が論点です。


 小熊英二氏の論考は、最近、中央大学・国語(現代文)、上智大学(総合人間)公募推薦小論文、群馬大学(社会情報)後期小論文等で出題されています。

 特に、上智大学(総合人間)公募推薦小論文では、「論壇時評」からの出題です。

 従って、今回紹介する論考は、そのまま、来年以降の入試の出典になる可能性が高いです。

 熟読することを、オススメします。

 

 なお、今回の記事の項目は以下の通りです。

(2)予想問題・解説/「原発の経済効果 神話に安住している間に」(小熊英二・2018年3月29日 朝日新聞/論壇時評)

(3)当ブログによる解説

(4)「根拠なき神話への逃避」・「思考停止状態」についての小坂井敏晶氏の論考

(5)現代日本社会における「長期的思考の欠如」について/内山節氏の論考

(6)「根拠なき神話への逃避」・「受動的状態」から脱するための対策論

(7)小熊 英二氏の紹介

(8)当ブログにおける「思考停止状態」・「根拠なき神話への逃避」関連記事の紹介

 

首相官邸の前で<DVD付き>

 

(2)予想問題・解説/「原発の経済効果 神話に安住している間に」(小熊英二・2018年3月29日 朝日新聞/論壇時評)

  

(問題文本文)(概要です)

(【1】・【2】・【3】・・・・は当ブログで付記した段落番号です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です) 

 

【1】最近の沖縄を訪ねて感じるのは、沖縄のなかの地域格差である。

【2】人口の半数が集中する那覇周辺域は、外国人観光客がめだち、有効求人倍率も高い。県の観光客数は昨年にハワイを抜いた。米軍基地の返還跡地にできたショッピングセンターもにぎわっている。種々の問題もあるにせよ、基地返還の経済効果を実感できる状況だ。

【3】だが、米軍基地の建設が行われている名護市辺野古は違う。ここは那覇からバスで2時間ほどかかるが、東京都心から山梨県に行くような感覚だ。活気があるとはいえない集落に、新しく立派な公共施設が立つ。政府は県を通さず、交付金を直接に市や集落に交付する。

【4】この2月、この名護市で、自民党と公明党が支援した新市長が、基地反対の前市長を破って当選した。当選後にこの新市長は、リゾートホテルの誘致や漁港の整備、各種補助金などの「御支援」の要望書を政府に提出した

【5】基地を歓迎する人はいないが、地域振興のために「迷惑施設」(→当ブログによる「注」→「迷惑施設」とは、人々が施設の必要性は認めるが、自らの居住地域には建てないでほしいと考える施設です。騒音、大気汚染、水質汚染、射能汚染等が発生するという理由で反対されることが多い。主な具体例としては、学校(保育園・幼稚園を含む)、清掃工場、下水処理場、核施設(原子力発電所等)、軍事施設(軍事基地等)が挙げられます。)を受け入れる。これまでくり返されてきた図式だ。 

【6】だが、一つ疑問がある。こうした手法は本当に地域振興に役立つのか。基地ではないが、原発については調査がある。

【7】新潟日報の前田有樹らは、柏崎刈羽原発の経済効果を調査報道した。(→『崩れた原発「経済神話」 柏崎刈羽原発から再稼働を問う』(新潟日報社原発問題特別取材班・著 明石書店)→《内容説明》「安全神話」崩壊後、いまだ生き残る「経済神話」。原発が稼働すれば地元経済が潤う、と感じている人は少なくない。それが再稼働を容認する理由のひとつになっている。だが、原発は地域振興にほんとうに役に立つのか。再稼働問題に揺れる柏崎刈羽原発。地元紙・新潟日報が原発と地域経済の問題を多面的に検証・追及した労作。)それによると、原発が地域経済に貢献するというのは「神話」だったという。

【8】柏崎市の産業別市内総生産額、小売業販売額、民間従業者数などを分析すると、確かに原発の建設工事が行われていた1978年から97年に、それらの指標は伸びていた。だがその伸び方は、県内で柏崎市と規模が近い市とほぼ同等だった。

【9】つまり、柏崎市の指標が伸びていたのは、原発の誘致よりも、日本経済全体が上げ潮だった影響が大きかった。柏崎市長を3期務めた西川正純氏は、このデータをみて「原発がない他の市と同じ歩みになるなんて」と絶句したという。

【10】唯一、建設業だけは市内総生産額が顕著に伸びていたが、原発建設が終わるとその効果も消えた。建設終了後の柏崎市は、人口減少が他市より激しく、一時的に増えた交付金や税金で建てた施設の維持管理で、財政が厳しくなっている。

  (→まさに、「長期的視点の欠如」と言えます)

【11】にもかかわらず、柏崎商工会議所に属する100社を調査したところ、再稼働を願う回答が66社にのぼった。だが柏崎市には原発と無関係な業種が多く、原発停止で売り上げが1割以上減ったのは7社だけだった。再稼働でどの業種が活性化するのか尋ねたところ、「飲み屋」という回答が最多で、再稼働の経済効果を具体的に示せる企業は少なかった。

【12】なお東電幹部は、再稼働すれば原発作業員が減ると認めている。停止している方が、安全対策や維持管理の工事が多いためだ。実際に柏崎の作業員は、全基停止していた2015年度の方が、稼働していた06年度より2割以上多かった。原発が止まると作業員が減り、地域にお金が落ちないというのは誤解なのだ。

【13】なぜ、こうした根拠のない「神話」が流布したのか。この調査報道を行った前田は、これまでのメディアの報道姿勢を批判している。原発停止の影響を報じるとき、メディアは原発関連の仕事を受注する企業や繁華街の飲食店など、影響がありそうな会社を選んで取材しがちだった。これが、原発停止の影響を過大に語るコメントが多い背景だったのだ。(→「情報化社会」・「IT化社会」の「問題点」の指摘です)  

【14】「だが思うに、無根拠な「神話」が生まれた最大の要因はメディアではない。メディアは、すでに流布していたイメージに束縛され、先入観に沿って取材していただけだ。最大の要因は、事態の変化を直視できない心の弱さである。(→「溺れる者は藁をも掴む」でしょう)

【15】原発と経済に、実はさほど関係はなかった。ただ、日本経済が上げ潮だった時期と、原発が建設されていた時期が重なっていたため、経済成長のシンボルになったにすぎない。だが人間は、「あの星が出ていた時は町が栄えていた」ということを、「あの星が出れば町が栄える」と混同してしまいがちだ。本当の原因を直視して解決に努力するより、他の理由に責任転嫁した方が楽だからである。経済が停滞し、社会が変化しているとき、人は神話に逃避(→当ブログによる「注」→「現実逃避」です。「現実逃避」とは、現実に求められたり、何かしなくてはならない物事から意図的に注意や意識をそらすための行為や心理状態。困難な状況から目をそむけ、不安から逃れようとするメカニズム)しやすい。

【16】だが、それは、状況から目をそらし自ら努力する姿勢を奪ってしまう。冒頭に述べたように、沖縄県名護の新市長は補助金の要望書を政府に提出したが、政府の経済官僚はこう溜息(ためいき)をついた。

【17】「まずは自分たちで汗をかいてみる、自助努力(→「天は自ら助くる者を助く」という諺があります。神は自分自身で努力する人に手を差しのべる、ということです)でどこまでできるかやってみる。そんな当たり前の精神が欠けていると言わざるをえないです」

【18】こうした神話への逃避は他にも散見される。たとえば「大日本帝国憲法の時代は家族の絆が強かった」としても、「憲法を改正すれば家族の絆が強くなる」というのは幻想だ。それは変化に目を閉ざし、さらなる停滞を招くことになる。

【19】原発に限っても、世界の変化に対する日本の停滞は著しい。上田俊英が指摘するように、世界の風力発電設備容量は15年に原発を抜き、太陽光も原発に迫っている。発電コストも大幅に下がり、日本が原発輸出を試みている英国でも、風力の方が新型原発より4割近くも安い。

(→当ブログによる「注」→国際エネルギー機関(IEA)は2017年11月14日、太陽光発電が2040年までに多くの国や地域で最も低コストのエネルギー源となり、低炭素型電源の設備容量として最大になるとの見通しを発表しました。) 

中国など他国が再生可能エネルギーに大幅に投資を増やすなか、日本の遅れが目立つことはNHKも報道した。

【20】今月で福島第一原発事故から7年。その間に世界は変わった。各種の神話から脱し、問題に正面から向きあうときだ。

 

朝日新聞デジタル

朝日新聞デジタル

 

 

 

(3)当ブログによる解説

 

 確かに、「従順」が一般的に悪いというわけではありません。

 人間は社会的動物です。人間は群れを作り、その中で他の人と同化したがる習性があるようです。人と違うということは、ある意味で危険なので、避けらる傾向があります。そこで、従順な姿勢をとり、自主的に体制に順応しようとするのです。

 しかし、「従順」には、危険な側面があります。なぜなら、「思考停止状態」になるからです。

 

 この危険な側面については、佐藤優氏の論考(『君たちが知っておくべきこと』)が参考になります。

 

gensairyu.hatenablog.com

 

 以下に引用します。

 

(本書における佐藤氏の講義の概要)

「  人は、なぜ権威を信用してしまうのだろうか。

 ニクラス・ルーマン(→本書による注→ドイツの社会学者(1927ー98)。行為の意味づけやコミュニケーションを重視した社会システムを構想した。他の主著に『社会システム理論』)は『信頼ー社会的な複雑性の縮減メカニズム』という本の中で、このメカニズムを説明している。

 複雑なシステム、つまり複雑系の中でわれわれは生きている。この自分を取り巻く複雑な事柄を一つ一つ解明するために割(さ)く時間やエネルギーはない。でも、複雑性には、縮減するメカニズムがある。法律・マニュアルを作るというのは、その一つです。

 そして、人間が持つ、一番重要かつ効果的に複雑性を縮減するメカニズムは「信頼」だというのがルーマンの仮説です。信頼によって、相当程度、判断する時間と過程を省略できます。→一種の「思考の放棄」であり、「他者への依存」です)

 一方、ユルゲン・ハーバーマス(→本書による「注」→ドイツの社会学者、哲学者。社会における理性に基づくコミュニケーション、行為の重要性に着目した。他の主著に『公共性の構造転換』)も『晩期資本主義における正統化の諸問題』の中で、「順応のメカニズム」ということを言っています。

 世の中の複雑さを構成する一つ一つの要素を一から自分で情報を集め、理屈を調べ、解明していくと時間が足りなくなってしまう。もちろん、面倒くさくもある。だから、自分に納得できないことがあるとしても、「誰か」が発した「これはいいですね」「これは悪いですね」という意見をとりあえず信頼しておく。それが続くと「順応の気構え」が出てきて、何事にも順応してしまうのです。

(→当ブログによる「注」→「完全な依存状態」、言い換えれば、「権威にコントロールされている」状態です。これは、「マインド・コントロール」と言ってもよい状態です。さらに言えば、「自己喪失(アイデンティティ喪失)」状態・「自己疎外」現象とも言うべき、最悪な状態なのです。分かりやすく言うならば、「人間のロボット化」、「反知性主義の極致」です。)

 順応と信頼はコインの裏表です。一度信頼してしまうと「これ、おかしいんじゃないの?」と思っても、なかなかそこを突き詰めることができなくなってしまう。なぜかというと、信頼した人に裏切られたという意識を持つことによって、なんてつまらない人を信頼してしまったのかと、自分で自分が情けなくなるからです。」

 

(4)「根拠なき神話への逃避」・「思考停止状態」についての小坂井敏晶氏の論考

 

 

答えのない世界を生きる

 

 

 「根拠なき神話への逃避」・「思考停止状態」は、入試国語(現代文)・小論文における頻出論点なので、さらに説明します。

 「根拠なき神話への逃避」・「思考停止状態」については、入試頻出著者・小坂井敏晶氏の明晰な論考が、かなり参考になります。

 
「どんな種類の命題でもその正しさが確信される過程では必ずどこかで思考停止が起こり、それ以上には疑問をさしはさまない地点がある。科学の分野であれ、宗教の世界であれ、日常的常識においてであれ、それはかわらない。その地点の彼岸に対して我々は無条件に信じているのだ。そういう意味では合理的証明と宗教的信仰とを完全に区別することは難しい。「理解する」「確信する」ということの意味は、科学においても宗教においても、究極的な地点ではそれほど異なっていない。」(『民族という虚構』東京大学出版会)

 

 その上に、小坂井氏によれば、私たちの「日常的思考」には、「科学や哲学の知見」と異なり、それ自体に問題点があるようです。

 以下に、小坂井氏の見解を引用します。

我々の日常的思考は次の3つの点で科学や哲学の知見と異なる。

 まず第一に、専門家と違い、問題を検討するための十分な情報がない。したがって部分的な検討しかできず、様々な角度から考察せずに結論に至ってしまう。

第二に、我々は社会構造に組み込まれており、所属する社会階層・年齢・性別・出身文化背景・職業などに固有な情報網から知識を得る。したがって偏った情報を基に判断せざるをえない。

 第三に、他者とコミュニケーションを持ち、具体的状況にすぐさま反応しなければならない。したがって十分な考察を経ずに判断や行動が実施される。」(『民族という虚構』)

 

 以上に加えて、「日本人の思考」の「一般的傾向」にも、問題があると、小坂井氏は、以下のように主張しています。

日本は弱者に優しくとも、逸脱者や反抗者には生きにくい社会だ。美意識にせよ倫理観にせよ、良いものの基準が社会的に強く規定される。だから均質化しやすい。本来好ましいはずの向上心が仇になる。より良い生き方を目指す時点ですでに我々は誤った道を踏み出しているのではないか。」(小坂井敏晶『答えのない世界を生きる』祥伝社・2017)

 

 つまり、「主体的思考」、「主体的選択」というものには、どうしても本質的困難性が伴うようです。

 私たちは、このことに自覚的であるべきでしょう。

 

 この点は、「自由意志」、「自由」に関連する重大な問題です。

 このことについて、小坂井氏は、以下のように鋭い分析をしています。

「自ら主体的に選択したと思っていても、我々は知らず知らずのうちに外界からの情報に影響を受けて判断は行動をしている。しかし、『嫌ならいいんですよ。強制する気はまったくありませんから』などと言われるために、本当は外的強制力が原因で引きだされた行為であるのに、その事実が隠蔽され、あたかも自ら選び取った行為であるごとく錯覚してしまう。ここには自由意志などない。あるのは自由の虚構だけである。」(『民族という虚構』)

 

 

(5)現代日本社会における「長期的思考の欠如」について/内山節氏の論考


 なお、今回の小熊英二氏の論考においては、以下のように、現代日本社会における

「長期的思考の欠如」も問題にしています。

「【10】唯一、建設業だけは市内総生産額が顕著に伸びていたが、原発建設が終わるとその効果も消えた。建設終了後の柏崎市は、人口減少が他市より激しく、一時的に増えた交付金や税金で建てた施設の維持管理で、財政が厳しくなっている。(→まさに、「長期的視点の欠如」と言えます)

 

 現代日本社会における「長期的思考(長期的視点)の欠如」については、入試頻出著者・内山節氏の論考が秀逸なので、以下に概要を引用します。

 

 「子どものころは、いつか地球が壊れるときが来るということを本気で心配したものだった。それが50億年くらい先のことだとわかっていても、安心感をもつことはできなかった。人類が生存できるのも、あと50万年くらいである。もっともこちらの方は人間が環境を破壊しつづけているために、もっとずっと早く生存できなくなる日が来ると考える人たちもいて、「そうかもしれない」と言うしかない状況のなかで、今日の私たちは暮らしている。

 伝統的な日本の社会においては、人々は過去も未来も現在のなかにあると考えて暮らしてきた。現在があるから振り返る過去や、展望する未来があるという意味でもあり、過去は現在を支えながら、いまも存在し、未来のあることが現在を支えているという意味でもある。ところが、近代的世界ができてくると、人間たちは過去、現在、未来を時系列でとらえるようになった。過去とは過ぎ去ったもの、未来は将来でしかなくなった。とともに、人間世界における経済の役割が大きくなってくると、次第に短い時間幅で物事を考える習慣が定着するようになった。経済は100年後のことなど相手にしない。常に今のことであり、せいぜい数年先の経営である。

 施行する時間幅の短さは今日の政策にも表れていて、たとえばアベノミクスをみても、金融緩和によって金をばらまけば一時的には金余りの状況が生まれるが、それが長期的にどんな影響をもたらすのかは、検討されているようには感じられない。これからどんな経済社会をつくっていったらよいのかという長期的な思想も、いまの政治から読み取ることはできない。

 私はそれは、社会の劣化だと思う。

 長い時間幅で思考することができなくなって、今の愉悦だけを求める思考が、この社会を劣化させている。この劣化した社会のもとでは、人間はどんなふうに生きたらよいのかとか、自然と人間はどんな関係にあったらよいのか、というようなことを深く考えることが、人間たちには苦手になってしまう。そんなことより、目の前の金やいまの自分を肯定してくれるものの方が、大事になるのである。ここから過剰なほどの自己肯定、現状肯定を望み、自分にとって不都合なことは無視する傾向も生まれてくる。

 困ったことにこの傾向が、一部の経営者や政治家にまで広がっていることだ。彼らは原発事故が生みだした現実も無視したいし、アベノミクスがさしたる成果を上げていないことも無視したい。

 不都合なことは無視し、自己肯定という愉悦だけを求める。深刻にとらえなければいけないのは、現在はびこっているこのような傾向である。ここから不都合な過去や未来を無視するという態度も生まれてくる。

 このような状況のなかに身を置いていると、私は、過去や未来が現在を支えていると考えながら、過去、現在、未来を一体的にとらえていたスケールの大きな思考から、学びたくなる。」

(「社会を劣化させるもの」内山節・東京新聞2014年3月9日「時代を読む」)

 

 

文明の災禍 (新潮新書)

 

 

(6)「根拠なき神話への逃避」・「受動的状態」から脱するための対策論

 

 これは、かなり難しい問題です。
 この点についても、上記の佐藤優氏の論考が参考になります。


 この点に関して、佐藤氏は『国家と神とマルクス』の中で、「『読書と思索』が『順応気構え』から脱する、よい契機になった」と言っています。

 確かに、「読書と思索」こそは、「順応気構え」という最悪の「受動的状態」から脱出する「最良の対抗策」と言えます。

 「自分の考え」をしっかりと保持し、「自分の思考」に自信を持っていれば、たとえ、思考の時間やエネルギーがそれほど確保できないとしても、簡単に「順応気構え」の状態に陥ることはないでしょう。
 

 「自己確立」のためには、「読書と思索」が不可欠です。

 これこそ、上記の小熊氏の論考における「自助努力」です。

 

 また、「現実直視」には、現実に対応する、対面する勇気が必要不可欠です。

 
 まさに、小熊英二氏の主張する通りです。
「【20】今月で福島第一原発事故から7年。その間に世界は変わった。各種の神話から脱し、問題に正面から向きあうときだ。」

 


(7)小熊 英二氏の紹介

 

小熊 英二(おぐま えいじ)

1962年東京都生まれ。社会学者。出版社勤務を経て、慶應義塾大学総合政策学部教授。
専攻は歴史社会学・相関社会科学。

映画『首相官邸の前で』で2016年「日本映画復興奨励賞」受賞。
『社会を変えるには』(講談社現代新書)で新書大賞を受賞。

ほかの著作に
『単一民族神話の起源』(サントリー学芸賞)、
『<民主>と<愛国>』(大仏次郎論壇賞、毎日出版文化賞)、『1968』(角川学芸賞、以上新曜社)、
『生きて帰ってきた男』(小林秀雄賞、岩波新書)など。

 

 

社会を変えるには (講談社現代新書)

 

(8)当ブログにおける「思考停止状態」・「根拠なき神話への逃避」関連記事の紹介

 

 

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ーーーーーーーー

 

今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

ご期待ください。

 

  

 

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首相官邸の前で<DVD付き>

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社会を変えるには (講談社現代新書)

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

 

 

5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

 

 

 私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。

https://twitter.com/gensairyu 

https://twitter.com/gensairyu2

 

「言葉が失墜 物語なき憲法論」國分功一郎/現代文・小論文予想問題 

(1)はじめに

 

 「言葉が失墜、『物語』なき憲法論」(國分功一郎・朝日新聞2018年3月2日)は、大学入試国語(現代文)・小論文対策としても、注目するべき論考です。

 國分功一郎氏は、入試頻出著者であり、「物語」・「物語論」は入試頻出論点だからです。

 

 私は、この論考に関して、以下のように、2つのツィートをしました。

「2018東大国語 第1問(現代文) のキーワードも『物語』になっている。東大現代文作成者と國分功一郎 氏の問題意識が見事にリンクしていて、非常に興味深い。現代の日本の政治状況における『物語の崩壊現象』=『絶望的状況』に対するアンチテーゼなのだろう。」

https://t.co/SL14WBQEMXhttps://t.co

 

「2018東大国語 第1問(現代文)『歴史を哲学する』(野家啓一)においても、『物語』がキーワードになっています。『物語』は現代日本を考える上での、新たな視点になりつつあるのでしょうか? 興味深い指摘です。」

https://t.co/SL14WBz3on


 以下に2018東大国語第1問(現代文)の一部を、当ブログの記事から引用します。

 

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ーーーーーーー

 

(引用開始)

(2)2018東大国語第1問(現代文・評論)本文・解説・解答/『歴史を哲学する』野家啓一
(問題文本文)

(概要です)

(【1】・【2】・【3】・・・・は当ブログで付記した段落番号です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です) 

 

【1】余りに単純で身も蓋もない話ですが、過去は知覚的に見ることも、聞くことも、触ることもできず、ただ想起することができるだけです。その体験的過去における「想起」に当たるものが、歴史的過去においては「物語り行為」であるのが僕の主張にほかなりません。つまり、過去は知覚できないがゆえに、その「実在」を確証するためには、想起や物語り行為をもとにした「探究」の手続き、すなわち発掘や史料批判といった作業が不可欠なのです。

(中略)

【6】「理論的存在」と言っても、ミクロ物理学と歴史学とでは分野が少々かけ離れすぎておりますので、もっと身近なところ、歴史学の隣接分野である地理学から例をとりましょう。われわれは富士山や地中海をもちろん目で見ることができますが、同じ地球上に存在するものでも、「赤道」や「日付変更線」を見ることはできません。確かに地図の上には赤い線が引いてありますが、太平洋を航行する船の上からも赤道を知覚的に捉えることは不可能です。しかし、船や飛行機で赤道や日付変更線を「通過」することは可能ですから、その意味ではそれらは確かに地球上に「実在」しています。その「通過」を、われわれは目ではなく六分儀などの「計器」によって確認します。計器による計測を支えているのは、地理学や天文学の「理論」にほかなりません。ですから赤道や日付変更線は、直接に知覚することはできませんが、地理学の理論によってその「実在」を保証された「理論的存在」と言うことができます。この「理論」を「物語り」と呼び換えるならば、われわれは歴史的出来事の存在論へと一歩足を踏み入れることになります。

【7・最終段落】具体的な例を挙げましょう。仙台から平泉へ向かう国道4号線の近くに「衣川の古戦場」があります。ご承知のように、前9年の役や後3年の役の戦場となった場所です。現在目に見えるのは草や樹木の生い茂った何もないただの野原にすぎません。しかし、この場所で行われた安倍貞任と源義家との戦いがかつて「実在」したことをわれわれは疑いません。その確信は、『陸奥話記』や『古今著聞集』などの文書史料の記述や『前9年合戦絵巻』などの絵画資料、あるいは武具や人骨の発掘物に関する調査など、すなわち「物語り」のネットワークによって支えられています。このネットワークから独立に「前9年の役」を同定することはできません。それは物語りを超越した理想的年代記作者、すなわち「神の視点」を要請することにほかならないからです。だいいち「前9年の役」という呼称そのものが、すでに一定の「物語り」のコンテクストを前提としています。つまり「前9年の役」という歴史的出来事はいわば「物語り負荷的」な存在なのであり、その存在性格は認識論的に見れば、素粒子や赤道などの「理論的存在」と異なるところはありません。言い換えれば、エ  歴史的出来事の存在は「理論内在的」あるいは「物語り内在的」なのであり、フィクションといった誤解をあらかじめ防止しておくならば、それを「物語り的存在」と呼ぶこともできます。(『歴史を哲学する』野家啓一) 

(引用終了)

 

ーーーーーーー


 前記の私のツィートの「『物語の崩壊現象』=『絶望的状況』」が、「日本の反知性主義」を意味すると想定すると、この「絶望的状況」は、2016東大国語第1問(現代文・評論)に出題された「反知性主義者たちの肖像」(内田樹『日本の反知性主義』所収)にも関連します。

 

gensairyu.hatenablog.com

 


 また、私は、今回の「言葉が失墜、『物語』なき憲法論」に関して、以下のようなツィートをしました。

「國分功一郎氏は嘆きつつも、勇気を奮って、現代日本の反知性主義的、思考停止状態を、より良き状態へ導こうとしている。絶望しているだけでは、世界は変わらないからだ。今回の論考は『中動態の世界』のような「穏健革命的な憲法論」を書き上げるための、自分への働きかけのように見えます。 」
https://t.co/z5wvozNCAA

 

 これは、國分氏の論考を読んだ直後に、直感的に感じたことです。

 

 以下では、「言葉が失墜、『物語』なき憲法論」の解説をします。

 

 なお、今回の記事は、約1万字です。記事の項目は、以下の通りです。

 (2)「言葉が失墜、『物語』なき憲法論」(國分功一郎・朝日新聞2018年3月2日)の解説

(3)「大きな物語」と「小さな物語」

(4)「物語」の価値

(5)「憲法論」の現状を、どのように考えるか? 「憲法論」の目指すべき方向性?

「物語の再興」か、「立憲的改憲」か。

(6)「立憲的改憲」について

(7)國分功一郎氏の立場は?

(8)当ブログにおける「國分功一郎」関連記事の紹介

(9)当ブログにおける「憲法論」関連記事の紹介

 

朝日新聞デジタル

朝日新聞デジタル

 

 

 (2)「言葉が失墜、『物語』なき憲法論」(國分功一郎・朝日新聞2018年3月2日)の解説

 

(本文)(概要です)

(【1】・【2】・【3】・・・・は当ブログで付記した段落番号です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です) 


【1】この数年、時代の要請もあって憲法学者の本をしばしば繙(ひもと)くようになった。私の専門は哲学だから門外漢として読むわけだが、一つ気がついたことがあった。 

【2】憲法というのは高度に専門的・技術的であって、素人が容易に口出しできるものではない。ところが、戦後日本の憲法学を牽引してきた学者たちの言葉は少し違っていた。彼らの言葉はどこか文学的だった。

【3】私の愛読する樋口陽一氏の文章は、口調こそ硬いけれども、門外漢を排さぬ不思議な柔軟さを備えている。思えば、最近活躍する若手憲法学者、木村草太氏の本にはエンターテインメント小説的な要素が強い。憲法学者の言葉が広く読まれてきたことは戦後日本の特徴かもしれない。

【4】どうして憲法が文学と関係を結ぶのだろうか。それはおそらく、憲法が専門的・技術的でありながらも、それを支えるために何らかの物語を必要とするからだ。

 【5】戦後日本の憲法が訴えてきた価値の代表が平和主義と個人主義である。だが、9条を読んだだけでは平和主義の意味など分からない。ただ「個人」と言われてもピンとこない。

【6】身分制・家制度などの「くびき」からの解放があって初めて個人は存在する。個人はあらかじめ存在せず、解放によって生まれる。そして性差別の現存などから明らかなように、その解放はまだ十分ではない。

【7】このような物語(→「国民共通の歴史認識・現状認識」でしょうか)があって初めて人は「個人主義」の価値を理解できる。そして価値を共有しようとする人々の志によって憲法が生きる。憲法学者たちはこのことに意識的であった。それが彼らに緊張感をもたらし、その筆致は文学的なものにまで高まった。

【8】平和主義について言えば、価値を支えていたのはむしろ「あんな戦争はもうイヤだ」という感覚であったと思われる。感覚は大切であるが、それだけでは理解は生まれない。だからこそ憲法学者たちは専門的・技術的な論議だけに甘んじなかった。おそらく戦後の日本では、この感覚に匹敵する強度をもった平和主義の物語を紡ぎ出さんとする文学的な試みに、憲法学者たちが身を投じてきたのだ。

【9】いま憲法論議が盛んといわれる。だが、そうだろうか。私には論議が盛んなのではなくて、単にこれまで憲法を支えてきた物語が理解されなくなっただけに思える。というよりも、文学的な言葉によって紡ぎ出される物語そのものを人々が受容できなくなった。

【10】いまよく耳にする「世界には危険な連中がいるから軍備が必要」というタイプの「改憲論」は、価値を共有するための物語ではない。ただ感覚に訴えているだけである。いまはそれが有効に作用する。

【11】それ故であろう。「護憲論」の側ももはや物語を紡ぎ出すことに力を注ぐわけにはいかず、「9条があったから戦争に巻き込まれなかった」という安全を訴える主張を繰り返さざるをえなくなっている。「護憲論」も感覚に訴えているのだ。私はこの主張の内容は正しいと思う。だが、それは憲法の価値を共有するための物語にはなりえない。

【12】現代の日本において、文学的に紡ぎ出された物語はもはや有効に作用しなくなっている。だから、平和主義も個人主義も理解されない。これは端的に「言葉の失墜」と呼ぶべき事態であろう。言葉が失墜した時代に、憲法が掲げてきた高度な価値をどうやったら共有できるのだろうか。また、それを踏みにじろうとする勢力が現れた時、どう対応すればよいのだろうか。

【13】今の時点ではできることを懸命にやるしかない。だが、「今の時点でできること」に甘んじてはならない。そうでなければ、早晩憲法は死んでしまう。

 

…………………………

 

(今回の記事における、当ブログによる解説)

 以下では、上記の論考のポイントを列記します。

 

【4】段落の「どうして憲法が文学と関係を結ぶのだろうか。」は、重要な問題提起です。

 「憲法を支えるために何らかの物語」は、「国民の間の共通な価値観」を意味しています。

 

【7】段落は、全体の中心部分です。

「このような(→憲法についての)「物語」(→「国民共通の歴史認識・現状認識」、つまり、「価値を共有しようとする人々の志」)が憲法を支えるのです。


【8】段落も重要です。

 「平和主義の価値」を支えていたのは、→「平和主義についての国民の理解・総意」でした。


【10】・【11】段落の「憲法の価値を共有するための物語」は、この論考のキーフレイズです。

 

【12】段落の「言葉の失墜」「言葉が失墜した時代」にも、着目する必要があります。

 いわば、この論考の、マイナスのキーフレイズです。

 これらは、「政治家の言葉の軽さ」、「政治の言葉に対する国民の不信感」、ひいては、「国民の政治不信」を意味しているのでしょう。


【13】段落(最終段落)の「今の時点ではできることを懸命にやるしかない。」の「できること」は、少々、曖昧です。

 厳しい字数制限のある新聞発表の論考という性格上、ある程度、仕方のない点と言えます。

 「考えられる限りのあらゆること」という意味でしょう。

 

朝日新聞デジタル

 

(3)「大きな物語」と「小さな物語」


 「大きな物語」「小さな物語」は、入試現代文・小論文における重要論点です。

 この点について、國分氏は、2018年3月3日に以下のように2つのツィートしています。


「この記事(→今、検討中の「言葉が失墜、『物語』なき憲法論」)では「物語」の話をしていますが、その中でも触れた憲法学者の木村草太さんが、ほんの少し前に新城カズマさんとの対談本『社会をつくる「物語」の力』を出版されていました。この符合には驚きました。今の社会を考える上で「物語」がカギになるというのは僕も同感です。」

 

「また僕の業界では「物語」といえば「大きな物語」(モダン)「小さな物語」(ポストモダン)を当然思い起こします。人々が文学的な言葉によって紡ぎ出される物語を受容できなくなったのは後者に対応する事態なのか。僕は違うだろうと思っていますが、この点もまだ分析不十分・考察不十分ですね。」


 そこで、「『大きな物語』と『小さな物語』」について、以下で解説します。

 

『哲学キーワード事典』(編者・木田元)では、以下のように解説しています。 
ポストモダンを、一つの問題を表す言葉たらしめたのは、ジャン=フランソワ・リオタールである。リオタールによれば、ポストモダンとは「大きな物語」に対する不信があらわになった状況をいう。「大きな物語」とは、啓蒙の物語であり、理性と自由の漸進的な解放の物語疎外された労働の解放の物語(マルクス主義)である。 モダンにおいてはこうした物語ないし「メタ物語」が正当化の機能を果たしていたのであるが、いまやメタ物語は維持しがたく、諸々のさな物語が分立している状態にあるという」 (『哲学キーワード事典』)

 

……………………………

 

(今回の記事における、当ブログによる解説)

 すなわち、「ポストモダン」、「リオタール」、「大きな物語」、「啓蒙の物語」、「マルクス主義」、「小さな物語」の関係を把握することが、ここでは大切です。


 現代社会は、「諸々の小さな物語(→主に「自己物語」・「自己承認欲求物語」)が分立している状態」と言われています。

 

(4)「物語」の価値

 

 それでは、そもそも、「物語」(→主に「大きな物語」)はなぜ、問題になるのでしょうか。

 この点については、山崎正和氏の論考が、このことを本質的に解説しています。

 最近、当ブログでこの山崎氏の論考を紹介したので、以下に引用します。

gensairyu.hatenablog.com

 

ーーーーーーーー

 

(引用開始)

【4】「ビブリオバトル」の解説ー後半部分(「未知の本に触れ・知磨く」)ー関連論点の解説 

 (1)「『物語』と『共同体の結束』の関係」

(山崎正和氏の論考の概要)

(①・②・③・・・・は、当ブログで付記した段落番号です)

 「① ビブリオバトルは、なぜこれほど成功したのか。良い本を読むと感動を他人に語りたくなる習慣が本能のようにあったからだが、そういう本能はなぜ人間に備わっていたのだろうか。

② おそらく、根源は、共同体の中に生きる存在としての人間が、その共同体を言葉によって固めてきた、というところまで遡るだろう。

③ 言葉は情報や感想を語るとともに、物語を伝えてきた。物語は人が口頭で語り、そして語り継ぐことによって共同体を一つにまとめてきた。

 

……………………………

 

(当ブログによる解説)

【「『物語』と『共同体の結束』」について】

〔1〕上記の山崎氏の論考は、かなり価値の高い内容になっています。

 特に重要なのは、「物語は人が口頭で語り、そして語り継ぐことによって共同体を一つにまとめてきた。」の部分です。

 〔2〕概要としては記述しませんでしたが、上記の論考の中で、山崎氏は 「物語」の具体例として、「噂話(うわさばなし)」・「伝承」・「昔話」・「神話」・「叙事詩」を挙げています。

 「噂話」・「伝承」・「昔話」・「神話」・「叙事詩」は、人々の退屈しのぎ・レクリエーションになり、コミュニケーションの道具になると同時に、これらは「共同体」の結束に役立ったのです。

(引用終了)


ーーーーーーーー


(5)「憲法論」の現状を、どのように考えるか?

「憲法論」の目指すべき方向性?

「物語の再興」か、「立憲的改憲」か。

 

 それでは、「憲法論」の現状を、どのように考えるべきでしょうか。

 「憲法論」の目指すべき方向性は?

 「憲法」を支える「物語の再興」か?

 「立憲的改憲」か?

 

 はじめに、「立憲的改憲」を主張している中島岳志氏の見解から検討してみます。

 

(6)「立憲的改憲」について

 

 中島岳志氏は、2018年3月4日に國分氏の今回の論考について、5件のツィートをしています。

①「國分功一郎さんの論考は、短文ながら非常に重要な論点をいくつも含んでいる。國分さんが指摘するように、憲法をめぐる信頼と安定性は、「価値を共有するための物語」によって成り立っていた。しかし、これがいま失墜している。」

 

②「日本国憲法は短い。そのため不文律の合意や慣習、解釈の体系によって補完してきた。その全体を支えてきたのが、国民の間主観性(→当ブログによる「注」→「相互主観性」あるいは「共同主観性」とも言われる。二人以上の人間において同意が成り立っていること。こうして獲得される共同的な主観性において超越的世界は内在化され,その客観性が基礎づけられる、説明されている)である。これは國分さんが言う通り、文学的次元を伴う。安倍内閣は、これを意図的に崩壊させた。」

 

③「自衛権の範囲も明記されていない穴だらけの9条が、戦後日本社会の軍事的歯止めとして機能してきたのは、間主観性に基づく物語の力によってである。9条を変えることに国民が不安を抱くのは、単なる条文の問題を超えて、物語の喪失や改変に対する無意識の危惧があるからだろう。」

 

④「物語の再興か、立憲的改憲か。私はもはや前者が機能しない段階に達していると思っている。だから今できることは、長い憲法への漸進的移行である。不文律の合意を明文化していく必要があると考えている。9条に自衛権の範囲を明記した方がよいと考える。」

 

⑤「しかし、「いまの時点でできることに甘んじてはならない」という國分さんの指摘に、強く同意する。私はこの次元の問題を、「死者の立憲主義」や「死者のデモクラシー」という概念で捉え直したいと考えている。ここには文学の力が必要になる。」


 上記の「死者の立憲主義」については、中島岳志氏の最近の著書『「リベラル保守」宣言』において、詳しく解説されています。

 

 中島氏は「保守」にとっての「立憲主義」を、「死者の立憲主義」という言葉で表現しています。

 保守は、人間は完璧ではないと把握します。だから、保守は「進歩」という立場を取りません。また、「復古」という立場も採用しません。なぜなら、過去の人間も不完全だからです。

 

 その上で、以下のように述べています。

「保守は特定の人間によって構想された政治イデオロギーよりも、歴史の風雪に耐えた制度や良識に依拠し、理性を超えた宗教的価値を重視します。」

 すなわち、保守にとって大事なのは、生まれた土地や伝統、そしてそこで培われた歴史的集合的価値観です。

 従って、「保守」は、時間的変化に応じ、「歴史に潜む潜在的英知を継承するための漸進的改革」を進めようとするのです。

 

「リベラル保守」宣言 (新潮文庫)

「リベラル保守」宣言 (新潮文庫)

 

 

 

(7)國分功一郎氏の立場は?

 


 國分氏の立場については、「言葉が失墜、『物語』なき憲法論」と、この記事に関連する國分氏の「ツィート」から考えてみます。

  國分氏は、この記事に関連して、以下のような、4つのツィートをしています。


①「ただ僕が一番関心を持っているのは何よりも「言葉の失墜」です。これはジョルジオ・アガンベン『身体の使用』(みすず書房)における言語が歴史的ア・プリオリの座を占めなくなった、つまり我々の考え方が言語によって規定されなくなったという議論を参照しています(191-192頁)。」

 

②「言葉はというと、お店で使われる定型句が典型で、殆ど透明な記号になりつつある。僕らもメールを書くとき、予測変換で出てくる言葉を選んでいるだけです。それで十分コミュニケーションできてしまう。もちろんこの点はAIが人間に近づいているのではなく、人間がAIに近づいているという論点につながる。」


③「この点はフーコーの『言葉と物』の図式の次の展開と言えるものであって、フーコーは古典主義時代の透明な記号としての言語が、物質性をもった言語の存在そのものに取って代わられるという変化を論じたけれども、現在、言語は古典主義時代のそれに近づいているのではないか。」


④「その時、厚みのない、メッセージとエビデンス(→「根拠。証言。形跡」という意味)だけになった「言語」で、果たして我々は価値なるものを支える物語を作りうるのだろうか。そういう問題提起であるわけです。答えはもちろん、答えの方向性も僕には見えていないんですが。」

 
 次に、國分氏の今回の論考のポイントを列挙すると、以下のようになります。
 

「【4】どうして憲法が文学と関係を結ぶのだろうか。それはおそらく、憲法が専門的・技術的でありながらも、それを支えるために何らかの物語を必要とするからだ。

【7】このような物語があって初めて人は「個人主義」の価値を理解できる。そして価値を共有しようとする人々の志によって憲法が生きる。憲法学者たちはこのことに意識的であった。それが彼らに緊張感をもたらし、その筆致は文学的なものにまで高まった。

【9】いま憲法論議が盛んといわれる。だが、そうだろうか。私には論議が盛んなのではなくて、単にこれまで憲法を支えてきた物語が理解されなくなっただけに思える。というよりも、文学的な言葉によって紡ぎ出される物語そのものを人々が受容できなくなった。

【12】現代の日本において、文学的に紡ぎ出された物語はもはや有効に作用しなくなっている。だから、平和主義も個人主義も理解されない。これは端的に「言葉の失墜」と呼ぶべき事態であろう言葉が失墜した時代に、憲法が掲げてきた高度な価値をどうやったら共有できるのだろうか。また、それを踏みにじろうとする勢力が現れた時、どう対応すればよいのだろうか。」


 以上より考えると、國分氏は「大きな物語の復権」を目指しているような感じです。

 

 内田樹氏も、以下のように、最近の哲学者たちは「大きな物語の復権」に関心を移しつつある、と述べています。(内田樹「大きな物語の復権」『内田樹の研究室』2010年09月29日 )

 

 以下に概要を引用します。

ーーーーーーーー

 

(引用開始)

「FM東京からの電話取材で「マルクスブーム」についてお話する。
「今どうしてマルクスなのか?」ってさ、この定型的なタイトルなんとかなりませんか。
まあ、よろしい。
どうして、私たちは今ごろ「マルクス本」を書いたのか。
それについては『若マル』の中に縷々書いたので繰り返すの面倒だが、やはり最大の理由は「グランド・セオリーの復権」という思想史的な軌道修正である。

「グランド・セオリーの終焉」というのは、ご存じポスト・モダニズムの惹句である。

世界を概観し、歴史の流れを比較的単純なストーリーパターンでおおづかみに説明するような「大きな物語」を退けたポストモダニストたちは、きわめて複雑な知的ハイテクノロジーを駆使して、何を書いているのかぜんぜんわからない大量のテクストを書きまくった。
「何を書いているのかぜんぜんわからないテクスト」を書く人間はもちろん「わざと」そうしているのである。
それは読者に「この人は、どうしてこんなにむずかしく書くのだろうか?」という問いを発させるという遂行的な目的があるからである。
このような問いを立てた読者は高い確率で「この著者は私に理解できないことをさらさらと書けるほどに知的に卓越しているのだ」という判断を下すことになる。
この反応は人類学的には実はたいへんに正しいのである。
「なんだかわけのわからないもの」に触れたとき、「これは理解するに値しないほど無価値なものだ」とただちに断定するタイプの人間と、「これには私の理解を超える価値があるのではないか」と推量するタイプの人間ではどちらが心身のパフォーマンスを向上させる可能性が高いか、考えればわかる。
「わけのわからないもの」に遭遇したとき、「ふん」と鼻を鳴らして一瞥もくれずに立ち去るものと、これはいったい何であろうかと立ち止まってあれこれ思量するものでは、世界に対する「踏み込み」の深さが違う。

(中略)

ポストモダン知識人たちは、読んで「わかる」というのは、既知に同定され、定型に回収されることであるから、読んでも「わからない」方が書きものとしては良質なのだと考えた。
推論としては合理的である。
そして、ついに書いている本人さえ自分の書いたものを読んでも意味がわからないという地点にまで至って、唐突にポストモダンの時代は終わった。

もし、いまマルクスが再び読まれ始めているというのがほんとうだとしたら、それは「『大きな物語の終焉』という物語」が終焉したということではないかと私は思う。」(内田樹「大きな物語の復権」『内田樹の研究室』2010年09月29日) 

(引用終了)


ーーーーーーーー

 

(今回の記事における、当ブログによる解説)

 確かに、内田氏の言うように、「書いている本人さえ自分の書いたものを読んでも意味がわからないという地点」に到達して、「書いている本人」、つまり、「若き哲学者たち」は、「分かりやすい哲学」を目指しているのかもしれません。

 つまり、「グランド・セオリー(→「大きな物語」)の復権」という「思想史的な軌道修正」が、今現在、始まりつつあるのかも、しれません。


 この記事の最初に引用した私のツィート(→「國分功一郎氏は嘆きつつも、勇気を奮って、現代日本の反知性主義的、思考停止状態を、より良き状態へ導こうとしている。絶望しているだけでは、世界は変わらないからだ。今回の論考は『中動態の世界』のような「穏健革命的な憲法論」を書き上げるための、自分への働きかけのように見えます。」https://t.co/z5wvozNCAA)は、このような動きを感じているからこその感想でしょうか。

 

 國分氏は、憲法について、「グランド・セオリー(→「大きな物語」)の復権」という「思想史的な軌道修正」の先導役を、担おうとしているのでしょうか。

 もし、そうだとすると、このことは、国民にとっても、良いことだと思います。哲学者たちが、憲法、政治、社会、共同体について考察し、論考を発表していくことは、国民の思索の大いなる参考になることは確かだからです。

 

中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)

 

 


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今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

ご期待ください。

 

  

 

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近代政治哲学:自然・主権・行政 (ちくま新書)

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憲法改正に熱い国会、冷静な有権者 改憲論議を多角検証 (朝日新聞デジタルSELECT)

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

 

 

5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

 

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2009センター国語第1問(現代文)「かんけりの政治学」解説

1)はじめに

 

 「子供社会と大人社会の対比」、あるいは、「子供社会に大人社会の原型・萌芽を見るという視点」は、入試国語(現代文)・小論文における頻出論点です。 

 子供社会は、大人社会の特徴を分析する上で、有効なリトマス試験紙になります。

 子供社会と対比することで、当たり前と思っている大人社会の異常性、現代文明の異常性が際立つのです。

 今回解説する2009年センター試験(「かんけりの政治学」栗原彬)は、「子供社会」の分析が秀逸です。

 そこで、入試国語(現代文)・小論文対策として、今回は、この問題の解説をします。

 

 今回の記事の項目は以下の通りです。

 

(2)2009年センター試験国語(現代文・評論)・問題文・解説

(3)要約

(4)栗原彬氏の紹介

(5)当ブログにおける「センター試験国語」関連記事の紹介

 

政治のフォークロア-多声的叙法

 

(2)2009年センター試験国語(現代文・評論)・問題文・解説

 

(問題文本文)(概要です)

(【1】・【2】・【3】・・・・は当ブログで付記した段落番号です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です) 

 

【問題】 次の文章を読んで、後の問いに答えよ。 

 

【1】 私の住む東京都品川区の旗の台の近辺では子どもたちが普通の隠れん坊をすることはほとんどない。そのかわりに変型した隠れん坊はしばしばおこなわれている。商店街の裏手の入り組んだ路地や、整地中の小工場の跡地や、まだ人の入っていない建て売り住宅の周りや、周囲のビルに押しつぶされそうな小公園で、子どもたちの呼び方では「複数オニ」とか「陣オニ」といった隠れん坊の変り種が生き延びている。その変り種のなかでも、かんけり(→本文の「注」→「かんけり(缶蹴り)」は、隠れん坊の一種。オニが陣地に缶を一個立て、缶を守りながら相手を捕まえる遊び。オニに捕まらないように缶を蹴ると、捕まった仲間を逃がすことができる)は子どもたちに好まれている。 

【2】「複数オニ」とは、その呼び名のとおり、見つかった者すべてが見つかった時点でオニに転じて、複数のオニが残りの隠れている子どもを探す隠れん坊である。 
【3】 「陣オニ」の場合は、立木でも塀の一部でもよい、オニが決めた「陣」にオニより早くタッチすればオニになることから免れる。ただし、かんけりと違って、助かるのは陣にタッチした本人だけである。 
【4】 子どもたちが集まって何かして遊ぼうとするときに、隠れん坊をしないで「複数オニ」や「陣オニ」をすることには見過ごし難い意味がありそうだ。隠れん坊は、a 藤田省三が「或る喪失の経験 隠れん坊の精神史」という論文(『精神史的考察』平凡社、1982年、所収)で述べたように、人生の旅を凝縮して型取りした身体ゲームである。オニはひとり荒野を彷徨し、隠れる側はどこかに「籠る」という対照的な構図はあるけれども、いずれも同じ社会から引き離される経験であり、オニは隠れていた者を見つけることによって仲間のいる社会に復帰し、隠れた者もオニに見つけてもらうことによって擬似的な死の世界から蘇生して社会に戻ることができる。隠れん坊が子どもの遊びの世界から消えることは、子どもたちが相互に役割を演じ遊ぶことによって自他を再生させつつ社会に復帰する演習の経験を失うということである。A たしかに「複数オニ」や「陣オニ」はおこなわれているけれども、それらはもはや普通の隠れん坊の退屈さを救うためにアクセントをつけた、といった程度のことではない。 


ーーーーーーーー


【設問】

問2 傍線部A「たしかに『複数オニ』や『陣オニ』はおこなわれているけれども、それらはもはや普通の隠れん坊の退屈さを救うためにアクセントをつけた、といった程度のことではない」とあるが、それはどういうことか。その説明として最も適当なものを、次の中から一つ選べ。 

①「複数オニ」や「陣オニ」は、子どもたちがいくつもの役割を相互に演じ遊ぶ点で、従来の隠れん坊の枠をこえた、人生の行程が凝縮して経験される苛酷な身体ゲームになってしまっているということ。

②「複数オニ」や「陣オニ」は、オニに捕まった者も助かる契機が与えられている点で、従来の隠れん坊にはなかった、擬似的な死の世界から蘇生する象徴的意味を内包してしまっているということ。

③「複数オニ」や「陣オニ」は、オニも隠れた者も仲間のもとに戻ることが想定されていない点で、従来の隠れん坊の本質であった、社会から離脱し復帰する要素を完全に欠いてしまっているということ。

④「複数オニ」や「陣オニ」は、子どもたちの自由を制限するさまざまなルールが付加されている点で、従来の隠れん坊とは異質な、管理社会のコスモロジーに主導された遊びに変質してしまっているということ。

⑤「複数オニ」や「陣オニ」は、隠れた者も途中でオニに転じることになっている点で、従来の隠れん坊の本義であった、相互の役割を守りつつ競い合う精神からは逸脱してしまっているということ。

 

……………………………

 

(解説・解答)

問2(傍線部説明問題) 

 傍線部Aを含む【4】段落の冒頭に「隠れん坊をしないで『複数オニ』や『陣オニ』をすることには見過ごし難い意味がありそうだ」とあり、それを受けて、傍線部Aの直前で、「隠れん坊が子どもの遊びの世界から消えることは、子どもたちが相互に役割を演じ遊ぶことによって自他を再生させつつ社会に復帰する演習の経験を失うということである。」という記述があります。

 この記述を、傍線部Aで「たしかに『複数オニ』や『陣オニ』はおこなわれているけれども、それらはもはや普通の隠れん坊の退屈さを救うためにアクセントをつけた、といった程度のことではない」と、確認的に論を展開しているのです。


 特に注目するべきは、「それらはもはや普通の隠れん坊の退屈さを救うためにアクセントをつけた、といった程度のことではない」の部分です。

 つまり、「複数オニ」や「陣オニ」には、「重大な問題点」があるということです。

 その「重大な問題点」とは、傍線部Aの直前の、「隠れん坊が子どもの遊びの世界から消えることは、子どもたちが相互に役割を演じ遊ぶことによって自他を再生させつつ社会に復帰する演習の経験を失う」ということです。

 このことを指摘している③(→「複数オニ」や「陣オニ」は、オニも隠れた者も仲間のもとに戻ることが想定されていない点で、従来の隠れん坊の本質であった、社会から離脱し復帰する要素を完全に欠いてしまっているということ。)が正解になります。

① 「従来の枠を超えた」の部分が誤りです。

② 「陣オニ」には「助かる契機」が欠けています。

④ 「子どもたちの自由を制限するさまざまなルールが付加されている点」ということではありません。

⑤ 「陣オニ」の説明部分が誤りです。


(解答) ③


ーーーーーーーー

 

(問題文本文)(概要です)

【5】b 小学六年生の男の子から聞いた話を翻案すれば、「複数オニ」の演習の主題は裏切りである。オニが目をつぶってかぞえている間に子どもたちはいっせいに逃げる。それぞれ隠れ場所を工夫しても、同じ方向に逃げれば、近くにいる者同士は互いにどの辺に隠れているかを知っている。そのとき一方が見つかれば即座にオニという名のスパイに変じて、寸秒前に仲間だった者の隠れ家をあばくことになる。近くに隠れた者との仲間意識は裏切り・裏切られる恒常的な不安によって脅かされている。連帯と裏切りとの相互変換が半所属の不安を産み出し、その不安を抑えこもうとして、裏切り者の残党狩りはいっそう苛酷なものになる。オニは聖なる媒介者であることをやめて秘密警察に転じ、隠れる側も一人ひとりが癒し難い離隔を深めつつ、仲間にスパイを抱えた逃亡者集団と化す。 

【6】「陣オニ」について、さきほどの少年は「自分だけ助かればよい」ゲームだという。「陣オニ」の本質をいいつくした説明であろう。「陣」になる木や石は、元来、呪的な(→本文の「注」→呪術的な、に同じ。ここでは、超自然な力が宿っている、の意)意味をもち、集団を成り立たせる中心であった。だが、今日、子どもたちのおこなう「陣オニ」では、「陣」は社会秩序そのものであり、「陣」に触れることは、自分を守ってくれる秩序へのコミットメント(→本文の「注」→関与すること。参加すること)を競争場裡(きょうそうじょうり)で獲得すること、