現代文最新傾向LABO 斎藤隆

入試現代文の最新傾向を分析し、次年度の傾向を予測する大胆企画

予想問題/「人生はアルゴリズムか」池澤夏樹『朝日新聞』/科学論

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 

 最近、「未来予測」、「人工知能((AI)」、「情報化社会」に関連して話題になっている『サピエンス全史』・『ホモデウス』についての、秀逸な論考(「『神なるヒト』の衝撃 人生はアルゴリズムか」 池澤夏樹《終わりと始まり》2018年9月5日『朝日新聞(夕刊)』)が発表されましたので、今回の記事で、詳細に解説します。

 池澤夏樹氏は、入試頻出著者であり、「AI (人工知能)」、「未来予測」、「情報化社会」関連の論点は、入試頻出論点です。

 来年度以降の現代文(国語)・小論文対策として、今回の記事を熟読してください。

 

 

朝日新聞デジタル

朝日新聞デジタル

 

 

 

(2)予想問題/「『神なるヒト』の衝撃 人生はアルゴリズムか」 池澤夏樹 《終わりと始まり》2018年9月5日『朝日新聞(夕刊)』

 

 

終わりと始まり 2.0

終わりと始まり 2.0

 

  

 

(本文)

(概要です)

(【1】・【2】・【3】・・・・は当ブログで付記した段落番号です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です) 

 

(序論は省略します)


【1】未来はどうなるか?

【2】これは常に人間の心を領している問題である。他の生物は個体としても種としてもそんなことは考えない。

【3】しかし、我々凡人が悩むのはせいぜい明日のことなのだ。この国を率いる人々の頭にあるのも日銀短観の範囲内。遠い先などまるで見えていない。だから時代遅れの原発にしがみつく。

【4】ここに一人、おそろしく遠くを見ている男がいる。ユヴァル・ノア・ハラリ、イスラエルの若い歴史家で、『サピエンス全史』という本で世界中を感嘆させた。

 

 

サピエンス全史 上下合本版 文明の構造と人類の幸福

サピエンス全史 上下合本版 文明の構造と人類の幸福

 

 

  

(「人生はアルゴリズムか」 池澤夏樹)

【5】大所高所からものを見る。対象との間に距離を置いて客観視を試みる,それがこの人の場合、過去数万年から未来(少なくとも)数百年に及ぶ。

【6】冷静にして沈着、あるいは冷酷と言われるかもしれない。なにしろ、ずっと人類を悩ませてきた、飢餓と疫病と戦争という課題は解決されたと言うのだ。これら相手の戦いは決着を見た。残るは敗残兵を駆逐する局地戦のみ。

【7】そう言われて改めて考えてみる。そうなのかもしれない。ぼくなどは近未来の危機を言いつのる偽の予言者かもしれない。

【8】数万年前、ホモ・サピエンス(→当ブログによる「注」→「ホモ・サピエンス」とは、ラテン語で「知恵ある人」の意。一般に動物分類学上の学名としての「現生人類」。本来は、人間を英知をもつ存在として規定する哲学上の言葉として用いられた。しかし、18世紀中頃、スウェーデンの生物学者 C.リンネは,生物の体系的分類を行うにあたり、この語をもって人間を表わす学名とした)がネアンデルタール人などに対して優位に立った理由を、ハラリはこう説明するーーネアンデルタール人が「川の近くにライオンがいる」と言えたとしても、「ライオンはわが部族の守護霊だ」と宣言することはサピエンスにしかできなかった。つまり「存在しないものについての情報を伝達する能力」だ。抽象思考力によってせいぜい百五十個体の群れが数億の信徒集団に変わった。これを認知革命と呼ぶ。

 

 

(当ブログによる解説)

 サピエンスは、現在の唯一の人類種です。

 しかし、遥か以前はそうではありませんでした。

 

 この事情を、ハラリは以下のように説明しています。

「  実は、約200万年前から1万年前ごろまで、この世界にはいくつかの人類種が同時に存在していたのだ。

 10万年前の地球には、少なくとも6つの異なるヒトの種が暮らしていた。

 複数の種が存在した過去ではなく、私たちしかいない現在が特異なのであり、ことによると、私たちが犯した罪の証なのかもしれない。ほどなく見るように、私たちサピエンスには、自らの兄弟たちの記憶を抑え込むだけの十分な理由があるからだ。」(『サピエンス全史』)

 

 では、なぜ、ネアンデタール人等が滅び、サピエンスのみが生き残り発展したのでしょうか?

 ハラリは、「認知革命」とも言える「新しい思考と意思疎通の方法」の獲得が理由と説明しています。

 おそらく、4万年~7万年前にこのような大変革が起こったと推定されるのです。

 サピエンスは、現代人に匹敵する高度な知能によって、舟、ランプ、弓矢などを発明しました。

 さらに、言葉の使用とコミュニケーションの発達は、架空のもの(神話等、共同幻想とも表現されるもの)を語る能力まで獲得し、共通の目標下での集団活動が可能になったのです

 

 強力で強大な「共同幻想」、つまり、「虚構」なくしては、大きなコミュニティを維持することができないのです。

 ヒト以外の動物も、一定の群れを作って生活することがあります。

 しかし、「共同幻想」がない状態で、組織として協力し合えるのは、約150個体が限界とされています。

 

 狩猟採集時代には人口爆発は起こりませんでした。

 しかし、狩猟採集集団から農耕集団に移行することで、人口が急激に拡大します。

 すると、共同体統治に関連する諸問題が発生しました。

 ヒトは、貨幣、宗教や帝国といった「共同幻想」を集団全体で信じこむことで、数万人単位、数十万人単位、さらに現代国家では1億人以上の集団行動を可能としました。

 全てのものは、人類が長い歴史の中で作り上げてきた「虚構」であるという指摘は、過激で、興味深い視点です。


 国家も貨幣も資本主義経済も、さらには、全てが虚構なのです。

 ヒトの進化において、文字の発明が、かなり大きな契機になりました。

 文字の発明の後、宗教、貨幣、制度、国家といった、共同幻想を背景として、人類は急速に発展していくのです。

 

  このことに関して、ハラリは以下のように述べています。

「  アフリカで、細々と暮らしていたホモ・サピエンスが食物連鎖の頂点に立ち、文明を築いたのはなぜか。

 その答えを解く鍵は「虚構」にある。

 我々が当たり前のように信じている国家や国民、企業や法律、さらには人権や平等といった考えまでもが虚構であり、虚構こそが見知らぬ人同士が協力することを可能にしたのだ。

 やがて人類は農耕を始めたが、農業革命は狩猟採集社会よりも過酷な生活を人類に強いた、史上最大の詐欺だった。

 そして、歴史は統一と向かう。その原動力の一つが、究極の虚構であり、最も効率的な相互信頼の制度である貨幣だった。

「  私達の言語が持つ真に比類ない特徴は、人間やライオンについての情報を伝達する能力ではない。

 むしろそれは、まったく存在しないものについての情報を伝達する能力だ。見たことも、触れたことも、匂いを嗅いだこともない、ありとあらゆる種類の存在について話す能力があるのは、私たちの知るかぎりではサピエンスだけだ。

 虚構、すなわち架空の事物について語るこの能力こそが、サピエンスの言語の特徴として異彩を放っている。」

「  サピエンスはこのように、認知革命以後ずっと二重の現実の中に暮らしてきた。一方には、川や木やライオンといった客観的事実が存在し、もう一方には、神や国民や法人といった想像上の現実が存在する。

 時が流れるうちに、想像上の現実は果てしなく力を増し、今日では、あらゆる川や木やライオンの存続そのものが、神や国民や法人といった想像上の存在物あってこそになっているほどだ。」(『サピエンス全史』)

 


(「人生はアルゴリズムか」 池澤夏樹)

【9】その一方でテクノロジーの罠があった。農業革命を例に取ろう。始まりは狩猟採集の偶然の副産物だっただろう。こぼれた種が芽を出す。獲った獲物の仔を連れ帰って餌をやったら成獣になった。遠出しなくとも食料が手に入る。子供たちの暮らしが楽になるとみなが思ったから普及した。気がついてみるととんでもないところへ来ていた。

 

 

 (当ブログによる解説)

「小麦により家畜化された、私たちサピエンス」について

 「私たちサピエンスが、小麦により家畜化されている」という指摘は、かなり衝撃的です。

 しかし、言われてみると、確かに、一部に真理を含んでいるようです。

 「農業革命」により、サピエンスには、「新たな面倒な義務」が発生したとも言えるからです。

 

 このことについて、ハラリは以下のように記述しています。 

「  農業革命は、安楽に暮らせる新しい時代の到来を告げるにはほど遠く、農耕民は狩猟採集民よりも一般に困難で、満足度の低い生活を余儀なくされた。狩猟採集民は、もっと刺激的で多様な時間を送り、餓えや病気の危険が小さかった。」

「  人類は農業革命によって、手に入る食糧の総量をたしかに増やすことはできたが、食糧の増加は、より良い食生活や、より長い休暇には結びつかなかった。むしろ、人口爆発と飽食のエリート層の誕生につながった。平均的な農耕民は、平均的な狩猟採集民よりも苦労して働いたのに、見返りに得られる食べ物は劣っていた。」

「  農業革命は、安楽に暮らせる新しい時代の到来を告げるにはほど遠く、農耕民は狩猟採集民よりも一般に困難で、満足度の低い生活を余儀なくされた。狩猟採集民は、もっと刺激的で多様な時間を送り、飢えや病気の危険が小さかった。人類は農業革命によって、手に入る食糧の総量をたしかに増やすことはできたが、食糧の増加は、より良い食生活や、より長い余暇には結びつかなかった。むしろ、人口爆発と飽食のエリート層の誕生につながった。平均的な農耕民は、平均的な狩猟採集民よりも苦労して働いたのに、見返りに得られる食べ物は劣っていた。農業革命は、史上最大の詐欺だったのだ。」(『サピエンス全史』)


 「史上最大の詐欺」とはずいぶんとショッキングな表現です。

 しかし、それは誰の責任だったのでしょうか。

 

 著者ハラリは、「王のせいでもなければ、聖職者や商人のせいでもない。犯人は、小麦、稲、ジャガイモなどの、一握りの植物種だった。ホモ・サピエンスがそれらを栽培化したのではなく、逆にホモ・サピエンスがそれらに家畜化されたのだ」と述べています。

 

 さらに、以下のように述べています。

「  10000年前、小麦はただの野生の草にすぎず、中東の狭い範囲に生える、多くの植物の一つだった。ところがほんの数千年のうちに、突然小麦は世界中で生育するまでになった。生存と繁殖という、進化の基本的基準に照らすと、小麦は植物のうちでも地球の歴史上で指折りの成功を収めた。

「  それでは、いったいぜんたい、小麦は農民に何を提供したのか?
 じつは、個々の人々には何も提供しなかった。だが、ホモ・サピエンスという種全体には、授けたものがあった。小麦を栽培すれば、単位面積当たりの土地からはるかに多くの食物が得られ、そのおかげでホモ・サピエンスは指数関数的に数を増やせたのだ。」(『サピエンス全史』)

 

 つまり、個々人には、小麦栽培農業は何のメリットもないのです。

 だが、ホモ・サピエンスという種全体で見ると、個体数増加と、種の繁殖という、最高のメリットがあったということです。

 

 

(「人生はアルゴリズムか」 池澤夏樹)

【10】かつて不運な者は餓死したかもしれないが、過労死する者はいなかった。今から見れば狩猟採集生活はほとんど遊んで暮らす日々だった。安定した食料供給に支えられた文明が人間の99%を奴隷にした。

 

 

(当ブログによる解説) 

 太古の狩猟採集時代の実相については、『サピエンス全史』に詳しい説明があります。

 労働時間としては、狩猟は3日に1回、採集も1日3~6時間程度。

 定住する家もないから家事は不要。

 食物も多様で、穀物など限定された品種しか食べていなかった農耕民より、健康だった。

 災害や飢饉や疫病も、移動生活のため影響は少なかったようです。


 どうして、こんな豊かな生活なのでしょうか?

 それはホモ・サピエンスが地球上で数百万人程度しかいなかったためなのです。

 そのために、食糧は豊富でした。

 その地域で取り尽くせば、次の豊かな場所へと移動すれば、よかったのです。💙

 

 このことに関しては、『 暇と退屈の倫理学』(国分功一郎)でも引用されている『人類史のなかの定住革命』 (西田 正規)が参考になるので、以下に引用します。

「生態人類学的な研究からは、すでにいちおうの結論が出されているかもしれない。アフリカ大陸の狩猟採集民、ブッシュマンやハッザ、ピグミーは、半砂漠、サバンナ、森林に住みながら、いずれもが、野生する植物性食料の採集により多く頼り、狩で得た肉は彼らの食料の30パーセント以下を占めるにすぎないことが明らかにされてきた。熱帯での生活は、地域的な環境のちがいにもかかわらず、採集活動に重点を置く狩猟採集民としての共通性が指摘されたのである。

 彼らは、数家族からなる小さなキャンプをつぎつぎに移動させる遊動生活者である。

 成人男女は平均して1日2~4時間を狩や採集のために使い、それによってキャンプ成員の毎日の食料をまかなっている。不毛の土地に思えるカラハリ砂漠においてさえ、このていどの時間で必要な食料が調達されていたという事実が、われわれ文明人に与えたショックはじつに大きかった。

 彼らは、多くの時間を、おしゃべりや歌、ダンス、昼寝に使うが、たとえばピグミーは、古代エジプトにおいて、すでに歌と踊りの天才として知られていたし、16ビートにのせたポリフォニーを子どもでさえも自在にあやつる彼らの豊かな音楽性は、芸能山城組の山城祥二をして驚嘆せしめたということである。」 (『人類史のなかの定住革命』 西田 正規)

「  先史時代の人類史は、歴史時代の歴史にくらべて、変化の速度がきわめてゆっくりしている。これについて歴史的変化を発展と考える文明人は、先史時代の人類の創造性の欠如を予想しがちである。しかしピグミーは、われわれにもまして、だれもが豊かに音楽やダンスを楽しんでいるし、動物や植物について深い知識をもち、それを利用する技術を身につけている。 採集や狩に出かける彼らは、もてる知識や技術、体力、好奇心、洞察力を駆使するのである。彼らの創造性は、技術革新や支配の策略や歴史的モニュメントをつくることにではなく、狩やダンスやおしゃべりのなかにじゅうぶんに発揮されているのであろう。

 文明以前の生活をそのように考えなければ、高い知的能力をもった人類が先史時代の素朴な生活のなかで生まれてきたことを理解するのは不可能である。われわれからみれば素朴な先史時代の生活こそ、人類の高い知的能力を育てあげたのである。人類は、文明以前も文明以後も、つねに豊かな創造力に富んだ存在なのである。ただ、その向かうところが大きく変化したのである。」(『人類史のなかの定住革命』 西田 正規)

 

 

人類史のなかの定住革命 (講談社学術文庫)

人類史のなかの定住革命 (講談社学術文庫)

 

 

gensairyu.hatenablog.com

 

 

(「人生はアルゴリズムか」 池澤夏樹)

【11】我々は個体の幸福しか考えない。その一歩ずつの蓄積が全人類のコースを決める。すべてがエゴイズムに奉仕する。第一次世界大戦で顔面に負傷した兵士を救うために始まった形成外科はあっという間に美容に転用された。今、新規の医療技術は難病の治療という名目で開発され、すぐにもデザイナーベビー(→当ブログによる「注」→「デザイナーベビー」とは、受精卵の段階で遺伝子操作を施し、親が望む外見・体力・知的能力等を持たせた子供。親がその子供の特徴をデザインするかのようであるためそう呼ばれています。デザイナーチャイルド、ドナーベビーとも呼ばれています。デザイナーベビーは、遺伝子を選択して、目や髪の色といった特定の身体的特徴を持つ子供の生まれる確率を上げる技術的アイデアです。1990年代から受精卵の遺伝子操作は遺伝的疾病を回避することを主目的に論じられてきました。親の「より優れた子供を」等という欲求に従い、外見・知力・体力に関する遺伝子操作も論じられるようになってきました。他方で、子どもが特定の性質を持つように事前に遺伝子を設計することは、技術的にも倫理的にも、かなり問題視されています)に応用される。

【12】ハラリの新著『ホモ・デウス』を読んだ。彼は、生命活動はアルゴリズム(→当ブログによる「注」→アルゴリズムとは、数学、コンピューティング、言語学、あるいは関連する分野において、問題を解くための手順を定式化した形で表現したものを言います。「算法」と訳されることもあります)であるとあっさり言う。

 

 

ホモ・デウス テクノロジーとサピエンスの未来 (上)(下)巻セット

ホモ・デウス テクノロジーとサピエンスの未来 (上)(下)巻セット

 

 

 

(当ブログによる解説)

 定型的行動とは、遺伝的に決定された固定的行動類型を最小単位として構成された、生物の画一的活動のことです。

 一般に、生物の食料探索、危険回避のための行動は、複数の定型的行動の組合せから成立しています。

 そして、その行動の多くは、味覚や嗅覚等の感覚により誘発されます。

 生物における感覚の受容から定型的行動の指令・実行に至る手順は、基本的には遺伝的にプログラムされたアルゴリズムの組合せであると言ってよいのです。

 その点で、確かに、「生命活動はアルゴリズム」という側面があります。

 とはいっても、生物はこれを画一的に実行するのではなく、試行錯誤、学習を経て柔軟に遂行することができるのです。

 つまり、「生命活動」は、そのすべてが「アルゴリズム」とは言い切れないのではないでしょうか。

 

 

(「人生はアルゴリズムか」 池澤夏樹)

【13】問題解決のための手続きの連鎖。例えばレシピはアルゴリズムであり、柔軟性があるから素材が変わってもほぱ目的を達成できる。生命は自己保存、目前の快楽と、子孫の確保を目的とするアルゴリズムにすぎない。人間の意識は脳内のニューロンが一定の手順に従って信号を処理してゆく過程でしかない。心はこれに付随して生まれるだけで、自己は虚構である。

【14】多くの宗教が力を失った今、我々は人間至上主義の基礎としている。その前提にあるのは自由意志だが、しかし自己が虚構である以上、自由意志も虚構となる。

 【15】人間が行うことの多くはコンピューターの方がずっと速く確実に行われる。ドローンは人間の兵士より効率がいい。世界を動かすのはデータであり、その処理能力において人間は機械に劣っている。感情というアルゴリズムを捨ててコンピューターとデータベースに任せた方が有利。

【16】やがて人間は全世界的なインターネットに組み込まれたチップの一つと化す。そういう形で人間は、ヒトは、サピエンスは心と身体をアップグレードし、不死と幸福と神性を手に入れ、ホモ・デウス(神なるヒト)になる。心そのものが変わってしまう以上、その世界は我々には想像のしようがない。

【17】ハラリの言うことは今ここで我々が直面している問題をすべて飛び越えてしまうような展開である。このまま行けばこういう方向へ事態は進むだろうという予測である。

 

 

 (当ブログによる解説)

 著者ハラリは以下のように述べています。

「  今後1、2世紀のうちに人類は姿を消すと思います。

 でもそれは、人間が絶滅するということではなく、バイオテクノロジーや人口知能で、人間の体や脳や心のあり方が変わるだろうということです。」

 

 このような未来の人間のことを、この本の中では、超ホモ・サピエンスと呼んでいます。

 ハラリは、本書の最後で「未来を切り開く鍵は、私たち人間が欲望をコントロールできるかどうかだ」と主張しています。

 


(「人生はアルゴリズムか」 池澤夏樹)

【18】このショックはリチヤード・ドーキンスが個体は利己的な遺伝子の乗り物でしかない、と言った時に似ている。自分が主役ではないと知る空虚感。

 

 

(当ブログによる解説)

 リチャード・ドーキンスは『利己的な遺伝子』において「利己的遺伝子論」を主張しました。

 「利己的遺伝子論」とは、進化学における理論の一つです。

 自然選択や生物進化を、遺伝子中心の視点で理解する発想です。

 1970年代の血縁選択説、社会生物学の発展を受け、ジョージ・ウィリアムズ、ウィルソンらによって提唱されました。

 イギリスの動物行動学者リチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』により、一般的に向けに広く受け入れられるようになりました。


 ここでは「利己的」とは「自己の生存・繁殖率を他者よりも高めること」という意味です。

 「利他的」とは「自己の成功率を損なってでも他者の成功率を高めること」と定義されます。

 この用語は日常語の「利己」のように行為者の意図を表現する言葉ではなく、行動自体をその結果のみに基づいて分類するための用語です。

 行為者がどのような意図を持っていようとも、行為の結果が自己の成功率を高めるのであれば、それは「姿を変えた利己主義」と考えることができるのです。

 

 現実の自然界では、子育て行為や群れの中での役割分担など多くの利他的行動と考えられる例も見られます。

 遺伝子選択論者は、選択や淘汰は実質的には遺伝子に対して働くものと考え、利他的行動が自然界に存在しうる理由を以下のように説明しました。

 ある遺伝子Aに促された行動は、自ら損害を被っても同じ遺伝子Aを持つ他の個体を助ける性質があると仮定します。これは個体レベルで見れば利他的行動です。

 その行動による個体の損失より、遺伝子Aを持つ個体全体が受ける利益が大きいなら、遺伝子Aは淘汰を勝ち抜き、遺伝子プール中での頻度を増していくと考えられます。
 その結果として、遺伝子Aに促された「利他的行動」も広く見られるようになるのです。

 

 

(「人生はアルゴリズムか」 池澤夏樹)

【19】【最終段落】さて、これを受け入れていいものかどうか、抽象思考者としてのぽくの中のアルゴリズムが考え込んでいる。

(「人生はアルゴリズムか」 池澤夏樹)

 

 

終わりと始まり 2.0

終わりと始まり 2.0

 

 

 

 (当ブログによる解説)

 最終段落の【19】段落「さて、これを受け入れていいものかどうか、抽象思考者としてのぽくの中のアルゴリズムが考え込んでいる」における「これ」とは、【18】段落の「このショック」です。

 そして、「このショック」とは、その直前の以下のような「未来予測」です。

 

【14】段落「多くの宗教が力を失った今、我々は人間至上主義の基礎としている。その前提にあるのは自由意志だが、しかし自己が虚構である以上、自由意志も虚構となる。」

【15】段落「人間が行うことの多くはコンピューターの方がずっと速く確実に行われる。ドローンは人間の兵士より効率がいい。世界を動かすのはデータであり、その処理能力において人間は機械に劣っている。感情というアルゴリズムを捨ててコンピューターとデータベースに任せた方が有利。

【16】段落「やがて人間は全世界的なインターネットに組み込まれたチップの一つと化す。そういう形で人間は、ヒトは、サピエンスは心と身体をアップグレードし、不死と幸福と神性を手に入れ、ホモ・デウス(神なるヒト)になる。心そのものが変わってしまう以上、その世界は我々には想像のしようがない。」

【17】段落「ハラリの言うことは今ここで我々が直面している問題をすべて飛びてしまうような展開である。このまま行けばこういう方向へ事態は進むだろうという予測である。」

 

 これは、想像を絶する未来です。

 人間がロボット化してしまう未来です。

 考えたくないような未来です。

 ロボット化した自分に、人間は満足できるのでしょか?

 

 この点に関して、山極寿一氏は、最近の論考(「科学技術発展のリスク AI社会、新たな世界観を 山極寿一」「科学季評」『朝日新聞』2018年08月08日)の中で、以下のように述べています。

 かなり参考になる見解です。

 私の最近の記事で、この見解を解説しています。

 

 

gensairyu.hatenablog.com

 


(「科学技術発展のリスク AI社会 新たな世界観を」 山極寿一)

「  科学技術は今、情報によって人間や社会を作り替えようとしている。世界的なベストセラー「サピエンス全史」の著者ユヴァル・ノア・ハラリは、新作「ホモ・デウス」で、人間が超人となり神の領域に手を出そうとする未来を警告している。

 現代の科学は、人間の感覚や情動も、生化学データを処理するアルゴリズムであることを証明した。興奮とは、脳内の伝達物質アドレナリンが大量に放出されることと同義だといったように。だから、不安や苦痛、不快や恐怖は人為的に生化学的な処置をすることで取りのぞける。人類を悩ましてきた病気や戦争による被害はこの1世紀、特効薬の開発や、情報技術による世界的なルールの徹底によって激減した。

 次に人間が望むのは寿命の延長、不死の身体で、AIを含む科学技術の発展により生まれたゲノム編集や人体の工学的な改良によって実現する。今や人間は超人類を生み出す神の手を持とうとしていると、ハラリは主張する。

 その時、人間は生きる目的を何に求めたらいいのだろう。一部の人間が人類を超越し、神のごとき能力を持つホモ・デウスになれば、人種差別どころか、人と家畜に匹敵するような大きな差別が生まれるかもしれない。もはやこの世界の外にいる神は存在しない。不死の世界に天国も地獄も影響力を持ちえないからだ。

 こうなると、科学技術という“宗教”に対抗する世界観が必要だ。

(「科学技術発展のリスク AI社会、新たな世界観を 山極寿一」「科学季評」『朝日新聞』2018年08月08日)

 

 

 (3)当ブログにおける「人工知能」・「AI社会」・「情報化社会」関連記事の紹介

 

 「人工知能」・「AI社会」・「情報化社会」は、最近の入試頻出論点です。

 

gensairyu.hatenablog.com

 

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ーーーーーーーー

 

 今回の記事はこれで終わりです。

 次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

 ご期待ください。

 

  

 

 

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スティル・ライフ (中公文庫)

スティル・ライフ (中公文庫)

 

 

頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

 

 

5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

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現代文予想問題/「感性は感動しない」椹木野衣/早大教育過去問

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 

 今回は、入試頻出著者・椹木野衣(さわらぎのい)氏の入試頻出論考である「感性は感動しない」(2018年7月発行の、椹木氏の初のエッセー集『感性は感動しない』(世界思想社)に所収)について解説します。

 この論考は、最近、早稲田大学(教育学部)、一橋大学、津田塾大学、日本女子大などで同年度に、約30大学に出題された入試頻出問題です。

 この論考は、入試頻出論点である「芸術論」として、かなり秀逸です。

 受験生としては、一度は読んでおくべきでしょう。

 

 今回の記事の項目は、以下の通りです。記事は約1万5千字です。

 

(2)予想問題/「感性は感動しない」椹木野衣/早稲田大学教育学部過去問

(3)当ブログによる解説/「はじめに」(『感性は感動しない』所収)についての解説

(4)椹木野衣氏の紹介

(5)当ブログにおける「芸術論」関連記事の紹介

 

感性は感動しないー美術の見方、批評の作法 (教養みらい選書)

感性は感動しないー美術の見方、批評の作法 (教養みらい選書)

 

 

 

(2)予想問題/「感性は感動しない」椹木野衣/早稲田大学教育学部過去問

 

 

(問題文本文は太字です)

(概要です)

(【1】・【2】・【3】・・・・は当ブログで付記した段落番号です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です) 

 

【1】岡本太郎は感性について次のように言っている。
「感性をみがくという言葉はおかしいと思うんだ。
感性というのは、誰にでも、瞬間にわき起こるものだ。
感性だけ鋭くして、みがきたいと思ってもだめだね。
自分自身をいろいろな条件にぶっつけることによって、
はじめて自分全体のなかに燃え上がり、
広がるものが感性だよ」 (『強く生きる言葉』)

【2】至極まっとうな言葉だと思う。とくに哲学的な定義に頼らずとも、感性に実体などないの、感性に実体などないのだから、どんな堅い石でもみがけるはずがない。にもかわらず、しばしば僕らは「感性をみがく」などと口にしてきた。どうしてだろう。

【3】日本人は 修行が好きだ。歴史物語でも伝記物でも、努力した者が高く評価される。一種の一種の因果応報思想かもしれない。高じて敗者にさえ独得の美学を見ようとする。むろん、それはそれで独自のドラマツルギーを生み出した。梶原一騎の劇画的世界などが典型だろう。僕も決して嫌いではない。 が、野球や拳闘のみならず、この筋で行くと、芸術まで苦行をよしとするようになってしまう。が、それはちょっとまずいのではないか。

【4】スポーツや学問がある種の苦行を必要とするというのは真実だ。それは芸能でも同じだろう。 たしかに芸能で修行が絶対の条件であり、技は磨かれなければ到底見られたものではない。しかし芸術はどうだろうか。芸術に修行が必要だろうか。

【5】たぶん、こんな疑問が出ること自体、僕らが芸術と芸能の区別をあまりうまくできていないことを示しているのではないか。

【6】はっきり言うが、芸術に技は必ずしも必要ではない。芸術に必要なのは、圧倒的に感性である。

【7】こんなことを書くとすぐに、いや、そのような感性重視の発想が、芸術のみならず、社会から文化に至るまで、すべてをなし崩しにしてしまったのではないか、いまこそ知識や経験を地道に積み上げる教育に戻るべきだ、という声が聞こえて来そうだ。たしかに、戦後の日本、とりわけ近年のわが国の諸分野におよぶ退潮の根本的な原因に、基礎教育の欠落があるというのは、その通りだろう。

【8】けれども、ここで僕が言いたいのは、もっと根源的なことだ。それは「芸術は教育可能か」という問題である。

【9】美術大学で教えている手前、言いにくくはあるのだが、大学で美術を教えるのはひどくむずかしい。とにかく、他の学問分野のようにおよそ体系といったものがない。教えられるのは、せいぜい美術の歴史をめぐる基本的な知識や、美術という制度をめぐる様々な社会的背景くらいではないか。しかし美術史や美学を修めたからといって、画家がよい絵を描くわけではない。彫刻家が見事な造形をなせるわけではない。むしろ、それに絡めとられ、わけがわからなくなってしまうことも少なくない。

【10】そもそも、よい絵とはなんであろうか。すぐれた美術作品とはどんなものであろうか。

【11】答えは簡単で、観る人の心を動かすものにほかならない。ポジティブな感情でもネガティブなものでもかまわない。 観る人の気持ちがわけもわからずグラグラと揺り動かされる。いても立ってもいられなくなる。一枚の絵がなぜだか頭からずっと離れない。それが、芸術が作品として成り立つ根源的な条件である。

【12】芸術が生み出すこうした現象を、僕らはしばしば「感動」などとひとくくりにしてわかったつもりになってしまう。これがよくない。その意味では 1 芸術にとって「感動」は諸悪の根源だ。

【13】感動などと言って済ませようとした瞬間に、あの苦労物語がここぞとばかり首をもたげてくる。 この絵を描くのに、画家がどれだけ血のにじむ努力をしたことか。どれだけ多くの人が関わり、波瀾万丈の道程があったことか。などなど。

【14】こうなってくると、無理矢理にでも感動しなければいけない気持ちにもなってくる。感動しなければ、自分が罪深いようにさえ思えてくる。一致団結して感動を支えるべきだ。そのためには、もっともっと勉強しなければならない。努力して感性をみがかなければならない。

 

ーーーーーーーー


(設問)

問1 傍線部1 「芸術にとって「感動」は諸悪の根源だ」とあるが、それはなぜか。その理由として最適なものを、次の中から一つ選べ。

ア その絵を本当には理解していないのに、自分が感動したことで理解したように思ってしまうから。

イ 感動という言葉でその絵を語ることによって、本当は感動していない自分を偽ることができるから。

ウ 芸術家の苦労と自分の感性が一致しなければならないと思い込み、芸術家に関する情報を集めることに熱中してしまうから。

エ 感動する要因はいくらでもあるはずなのに、芸術そのものではなく、芸術に対する否定的な感情こそが大切だと思ってしまうから。

オ 実際には感動していないにもかかわらず、自分の心が動かされたことを、感動という人に分かりやすい言葉で語ってすませてしまうから。

 

……………………………

 

(解説・解答)

 傍線部直前の「その意味では」に着目してください。
 直前の

芸術が生み出すこうした現象を、僕らはしばしば「感動」などとひとくくりにしてわかったつもりになってしまう。これがよくない 

が、傍線部の理由になります。

 また、傍線部1の理由は、傍線部1の直後の二つの段落にも述べられています。

【13】「感動などと言って済ませようとした瞬間に、あの苦労物語がここぞとばかり首をもたげてくる。 この絵を描くのに、画家がどれだけ血のにじむ努力をしたことか。どれだけ多くの人が関わり、波瀾万丈の道程があったことか。などなど。 」


【14】「 こうなってくると、無理矢理にでも感動しなければいけない気持ちにもなってくる。感動しなければ、自分が罪深いようにさえ思えてくる。一致団結して感動を支えるべきだ。そのためには、もっともっと勉強しなければならない。努力して感性をみがかなければならない。」

 

(解答) ウ

 

ーーーーーーーー

 

(『感性は感動しない』本文)

【15】正直言って、そういうのは疲れます。

【16】ここには、「芸術に感動できる者はすぐれた感性の持ち主であり、ゆえに作品に込められた高い技芸や複雑な歴史を読み解く優れた感性を持つ」という偏見が横たわっている。

【17】なぜ偏見かというと、先の美術をめぐる教育の話でも出たことだが、作る側だけでなく観る側にとっても、知識や技術は鑑賞の助けにはなっても、それがあるからといって本当に心が動かされるとはかぎらないからだ。むしろ、それが邪魔になって目の前の絵に感性が届かない、ということだって起きてくる。

【18】最近、やたらオーディオ・ガイドとやらが発達して、美術館に行くと、みなヘッドフォンを掛けて絵を観ている。あれはいったい、本当に絵を観ていることになるのか。肝心の絵のほうが、解説を聞くためのイラスト風情に成り下がっていはしないか。あんなものを付けて絵を観せられるなら、ひたすら何も考えずじっと絵を睨みつけたほうがずっといい。

【19】そうでなくても、2 芸術をめぐって感動の源泉を知識や技術にもとめようとすると、どうしてもわかりやすい基準に頼りがちだ。「うまい」「きれいだ」「ここちよい」などがそれである。うまい絵、きれいな絵、ここちよい絵ほど、パッと観に判断しやすく、みなで価値を共有できるものはない。

【20】実は、岡本太郎が真っ向から否定したものこそ、この三つの基準であった。「芸術は、うまくあってはならない、きれいであってはならない、ここちよくあってはならない」と岡本太郎は喝破した。


ーーーーーーーー


(設問)

問2 傍線部2 「芸術をめぐって感動の源泉を知識や技術にもとめようとすると、どうしてもわかりやすい基準に頼りがちだ。」とあるが、それはなぜか。その理由として最適なものを、次の中から一つ選べ。

ア 芸術に関する知識や技術ならば人に伝えられるものだから、それは容易にわかるものだと考えてしまうから。

イ 芸術に関する知識や技術にはある種の水準があるので、それを満たしていればわかりやすいことは事実だから。

ウ 芸術に関する知識や技術は特定の人にしか身につけられないので、わからないと自分の感性が鈍いと思ってしまうから。

エ 芸術に関する知識や技術は教えられればわかるので、実はわかっていなくてもわかった気になる言葉に結びつけやすいから。

オ 芸術に関する知識や技術を踏まえていればネガティヴな感情は起きないので、自分の中のネガティヴな感情を隠すためにわかりやすい言葉を選んでしまうから。 


……………………………

 

(解説・解答)

 傍線部の直前・直後の文脈に注意してください。

【18】段落「最近、やたらオーディオ・ガイドとやらが発達して、美術館に行くと、みなヘッドフォンを掛けて絵を観ている。あれはいったい、本当に絵を観ていることになるのか。肝心の絵のほうが、解説を聞くためのイラスト風情に成り下がっていはしないか。あんなものを付けて絵を観せられるなら、ひたすら何も考えずじっと絵を睨みつけたほうがずっといい。」

【19】段落そうでなくても、芸術をめぐって感動の源泉を知識や技術にもとめようとすると、どうしてもわかりやすい基準に頼りがちだ。「うまい」「きれいだ」「ここちよい」などがそれである。うまい絵、きれいな絵、ここちよい絵ほど、パッと観に判断しやすく、みなで価値を共有できるものはない

【20】段落実は、岡本太郎が真っ向から否定したものこそ、この三つの基準であった。「芸術は、うまくあってはならない、きれいであってはならない、ここちよくあってはならない」と岡本太郎は喝破した。

が、エ(→「芸術に関する知識や技術は教えられればわかるので、実はわかっていなくてもわかった気になる言葉に結びつけやすいから。」)に関連しています。

 

(解答) エ

 

ーーーーーーーー

 

(『感性は感動しない』本文)

【21】要は、ある絵を観て、「うわ、なんてみにくい絵なんだろう」「こういう絵はもう二度と観たくない」「こんな絵を描いた人物は、きっとどこか変なのだ」といった反応をすることを、芸術は排除するべきではない。世間的にはネガティヴだとされるこうした感情も、もしかするとその人の心の奥底に眠り、ずっと押さえつけられていたなにかに気づき、それを解放するきっかけになるかもしれないからだ。

【22】そして、どんな絵に心が揺さぶられるかは、けっきょくのところ、その人にしかわからない。誰にもわかってもらえない。ましてや共有などできるはずがない。感性がみがけないというのは、煎じ詰めればそういうことだ。

【23】つまり、芸術における感性とは、あくまでも観る側の心の自由にある。決して、高められるような代物ではない。その代わり、貶(おとし)められることもない。そのひとがそのひとであるということ、それだけが感性の根拠だからだ。

【24】ひとたびこれをまちがえると、3 感性の根拠が自分のなかではなく、作られた作品や、それを作った作者の側にあるように思い込んでしまう。しかし、芸術体験にとってこれほど不幸なことはない。

【25】他人のことは決してわからない。ましてや他人の感性などわかるはずがない。けっきょく芸術作品は自分で観るしかない。それは誰にも肩代わりができない、あなただけの体験だ。言い換えれば、個が全責任を負って観ることができるのが芸術だ。そして、これがすべてなのである。

【26】ところが安易にこの権利を作り手の側に渡してしまう。渡した途端、他人のことはわからないものだから、すぐにわかりやすい理由に頼ろうとしてしまう。この絵の描き手はどのくらい描写の技を持っているか、過去にどんな履歴を積んでいるか、どんな有力な流派に属しているか。これでは心は動かされない。反対に心を支配されてしまう。では、そうならぬためにはどうしたらよいか。


ーーーーーーーー


(設問)

問3 傍線部3 「感性の根拠が自分のなかではなく、作られた作品や、それを作った作者の側にあるように思い込んでしまう。しかし、芸術体験にとってこれほど不幸なことはない」とあるが、それはなぜか。その理由を述べた部分を35字以上40字以内で本文から一つ抜き出し、最初と最後の3字を、それぞれ記せ。

 

……………………………

 

(解説・解答)

 「芸術体験にとってこれほど不幸はことはない」ということの「理由」を問われていることに、注意してください。

 傍線部の「感性の根拠」は、直後の「自分のなか」です。

 さらに言うと、文脈から見て、直前の

【23】段落「つまり、芸術における感性とは、あくまでも観る側の心の自由にある。決して、高められるような代物ではない。その代わり、貶(おとし)められることもない。そのひとがそのひとであるということ、それだけが感性の根拠だからだ。

における、「そのひとがそのひとであるということ」です。


 傍線部3は、「感性の根拠」を「作り手の側」に渡すことについて述べています。

 傍線部3は、「感性の根拠」を「作り手の側」に渡すことは、「芸術体験にとって不幸なこと」である、と主張しているのです。

 「芸術体験にとってこれほど不幸はことはない」ということの「理由」については、傍線部3より二つ後ろの、

【26】段落「ところが安易にこの権利を作り手の側に渡してしまう。渡した途端、他人のことはわからないものだから、すぐにわかりやすい理由に頼ろうとしてしまう。この絵の描き手はどのくらい描写の技を持っているか、過去にどんな履歴を積んでいるか、どんな有力な流派に属しているか。これでは心は動かされない。反対に心を支配されてしまう。

に着目してください。


(解答) 他人の・・・・しまう

 

ーーーーーーーー

 

(『感性は感動しない』本文)

【27】感性などみがこうとしないことだ。いま書いたとおり、感性とは「あなたがあなたであること」以外に根拠をおきようのないなにものかだ。一枚の絵の前に立って、いったいあなたがなにを感じるのか。たしかに、その感じ方には、当人が受けて来た教育や慣習といった様々な背景によって、色が付いているだろう。しかし、それはそれでよいのである。芸術にはまっさらな気持ちで接するべきだとする、別のかたちの潔癖主義の誘いに乗ることはない。4 芸術作品とは自分がなにものであるかを映し出す鏡なのであるから、汚れた自分のままがよいのだ。むしろ自分の汚れを絵に映してしっかりと見届け、そこから先へ進んでゆく糧にすればよい。

 

ーーーーーーーー


(設問)

問4 傍線部 4 「芸術作品とは自分がなにものであるかを映し出す鏡なのであるから、汚れた自分のままがよいのだ」とあるが、それはなぜか。その理由として最適なものを、次の中から一つ選べ。

ア 自分はどういう人間かを知るのが芸術を鑑賞する目的なので、何も知らない状態のままの自分で臨めばいいから。

イ 芸術作品は自分の中の醜い部分をも映し出す効果があるので、無理に純白の状態を装ってみてもしかたがないから。

ウ 絵画の鑑賞には知識や技術への理解は必要ないので、それまでに教わったことに新たにつけ加えなくてもよいから。

エ 芸術作品にはまっさらな自分が映し出されるわけではないので、それまで受けた教育を見つめ直す必要はないから。

 オ ありのままの自分の感性によって芸術を鑑賞することで、はじめて芸術家の経歴をも含めた芸術家自身と向きあえるから。

 

……………………………

 

(解説・解答)

 傍線部4の「汚れた自分」に言及しているのは、【21】段落です。

【21】段落「要は、ある絵を観て、「うわ、なんてみにくい絵なんだろう」「こういう絵はもう二度と観たくない」「こんな絵を描いた人物は、きっとどこか変なのだ」といった反応をすることを、芸術は排除するべきではない。世間的にはネガティヴだとされるこうした感情も、もしかするとその人の心の奥底に眠り、ずっと押さえつけられていたなにかに気づき、それを解放するきっかけになるかもしれないからだ。」

上記の、

「世間的にはネガティヴだとされるこうした感情」

「その人の心の奥底に眠り、ずっと押さえつけられていたなにか」

が、「汚れた自分」に関連しています。


 また、傍線部直後の「むしろ自分の汚れを絵に映してしっかりと見届け、そこから先へ進んでゆく糧にすればよい。」の部分もポイントになります。

 

(解答) イ

 

ーーーーーーーー

 

(『感性は感動しない』本文)

【28】芸術作品には芸術作品の「分際」というものがある。最終的には、あなたの生き様に何も及ぼさないのであれば、どんなに価値が高いとされている芸術でも、本当のところは粗大ゴミも同然なのである。

【29】別の言い方をすると、芸術家にとって、観る者の感性の優位には残酷なところがある。作り手が、自作の価値の源泉をできあいの知識や履歴に頼れなくなったとき、作家は丸裸にされてしまうからだ。

【30】職業柄、よく美術館やギャラリーを訪れるのだが、見事な技を持ち、様々な歴史的な文脈を踏まえ、まるで一個の構造物のようによく練られた作品に出会うことは 少なくない。しかし、それでいてまったく心を動かされないのだ。

【31】5 こういう作品には、なにか無惨なものがある。よくできていて、しかも同時に無惨なのだ。いや、よくできているということ自体が、無惨なのかもしれない。つまり、知識や技の痕跡は垣間見えても、直接、感性を呼び覚ます力がない。学習の対象にはなっても、絵を観ることの喜びや哀しみがない。怒りや晴れやかさがない。

 

ーーーーーーーー


(設問)

問5 傍線部 5「こういう作品には、なにか無惨なものがある」とあるが、何を「無惨」と述べているのか。その説明として最適なものを次の中から一つ選べ。

ア 世間では価値が高くても、自分には粗大ゴミ同然であること。

イ すぐれた鑑賞者によって、芸術家の人間性が暴かれてしまうこと。

ウ「うまい」「きれいだ」「ここちよい」といった言葉で語れてしまうこと。

エ 芸術家が勉強して身につけた以上のことが表現されてしまっていること。

オ 鑑賞者が 汚れた自分の眼で観ることによって、芸術家の技術が無視されること。

 

……………………………

 

(解説・解答)

 傍線部の「こういう作品」とは、直前の【30】段落の、「美術館やギャラリー」で出会う「見事な技を持ち、様々な歴史的な文脈を踏まえ、まるで一個の構造物のようによく練られた作品」です。

 

 「無惨」の内容については、傍線部直後に、「よくできていて、しかも同時に無惨なのだ。いや、よくできているということ自体が、無惨なのかもしれない。つまり、知識や技の痕跡は垣間見えても、直接、感性を呼び覚ます力がない。学習の対象にはなっても、絵を観ることの喜びや哀しみがない。怒りや晴れやかさがない」と述べられています。

 

 なお、【19】段落の

そうでなくても、2 芸術をめぐって感動の源泉を知識や技術にもとめようとすると、どうしてもわかりやすい基準に頼りがちだ。「うまい」「きれいだ」「ここちよい」などがそれである。うまい絵、きれいな絵、ここちよい絵ほど、パッと観に判断しやすく、みなで価値を共有できるものはない。

という記述も、ヒントになります。

 

(解答) ウ

 

ーーーーーーーー

 

(『感性は感動しない』本文)

【32】反対に、そうした知識や技に裏付けられることがなく、まったく教育を受けたことかない者が引いた素描の線に猛烈に心を動かされることがある。けれども、そこで描かれた線が、特になにか優れているわけではない。

【33】ここで勘違いしてしまうと、線を引いた者の無垢や天才を賞讃するという別の悪弊に陥ってしまう。安易に子供の描く絵はみなすばらしいと言ってみたり、障害をおった者の絵を格別に賛美したりしてしまう。6 本当は、感性を通じて自分の心のなかを覗き込んでいるだけなのに、そのことに気づかないづかない。気づこうとしない。結局、怖いからだろう。

【34】誰でも、自分の心の中身を知るのは怖い。だからふだんはそっと仕舞っておく。けれども、ときに芸術作品はこの蓋を容赦なく開けてしまう。冒頭に掲げた岡本太郎の言葉にある「いろいろな条件にぶっつける」というのは、まさにそのことだ。ゴツゴツとした感触がある。なにか軋轢(あつれき)が生じる。自分が壊れそうになる。こうした生の手触りを感じるとき、僕らは、自分のなかで感性が音を立てて蠢いているのを初めて知る。

【35】感性とは、どこまでも事後的にしか知れないものだからだ。

 (椹木野衣「感性は感動しない」)


ーーーーーーーー


(設問)  

問6 傍線部 6「本当は、感性を通じて自分の心のなかを覗き込んでいるだけなのに、 そのことに気づかないづかない」とあるが、どういうことか。その説明として最適なものを次の中から一つ選べ。

ア 芸術作品は知識や技術ではどうにもならないものなのに、自分の未熟さを直視できないこと。

イ 芸術によって自分を見ているはずなのに、弱い者への同情によって、それが覆い隠されてしまうこと。

ウ 「かわいい」とか「かわいそう」といった通俗的な観念が自分の中にあることが怖くて、それに向き合わないこと。 

エ 芸術の教育を受けていない人の絵に感動する自分が、そのような人たちと同等のレベルであることを知るのが怖いこと。

オ 感性は正しい自分の姿を見せているのに、 芸術の教育を受けていない人の作品が自分の感性よりもすぐれていると思いこんでしまうこと。 

 

……………………………

 

(解説・解答)

 直前の文脈に注目してください。

 傍線部の「自分の心のなか」と、傍線部直前の

「  ここで勘違いしてしまうと、線を引いた者の無垢や天才を賞讃するという別の悪弊に陥ってしまう。安易に子供の描く絵はみなすばらしいと言ってみたり、障害をおった者の絵を格別に賛美したりしてしまう」

を対比することが、スタートになります。

 

 傍線部の「自分の心のなか」を説明しているのは、以下の二つです。

【21】段落「要は、ある絵を観て、「うわ、なんてみにくい絵なんだろう」「こういう絵はもう二度と観たくない」「こんな絵を描いた人物は、きっとどこか変なのだ」といった反応をすることを、芸術は排除するべきではない。世間的にはネガティヴだとされるこうした感情も、もしかするとその人の心の奥底に眠り、ずっと押さえつけられていたなにかに気づき、それを解放するきっかけになるかもしれないからだ。」

 

【27】段落「感性などみがこうとしないことだ。いま書いたとおり、感性とはあなたがあなたであること以外に根拠をおきようのないなにものかだ 。一枚の絵の前に立って、いったいあなたがなにを感じるのか。たしかに、その感じ方には、当人が受けて来た教育や慣習といった様々な背景によって、色が付いているだろう。しかし、それはそれでよいのである。芸術にはまっさらな気持ちで接するべきだとする、別のかたちの潔癖主義の誘いに乗ることはない。4 芸術作品とは自分がなにものであるかを映し出す鏡なのであるから、汚れた自分のままがよいのだ。むしろ自分の汚れを絵に映してしっかりと見届け、そこから先へ進んでゆく糧にすればよい。」

 

 この二つの段落と、傍線部直前の「勘違い」に関連する、以下の記述を対比するとよいでしょう。

【32】段落「反対に、そうした知識や技に裏付けられることがなく、まったく教育を受けたことかない者が引いた素描の線に猛烈に心を動かされることがある。けれども、そこで描かれた線が、特になにか優れているわけではない。 」

【33】段落「ここで勘違いしてしまうと、線を引いた者の無垢や天才を賞讃するという別の悪弊に陥ってしまう。安易に子供の描く絵はみなすばらしいと言ってみたり、障害をおった者の絵を格別に賛美したりしてしまう。」


(解答) イ

 

ーーーーーーーー


(設問)

問7 本文では「感性」が キーワードとなっているが、筆者は要するに「感性」とは何を根拠としていると言いたいのか。


……………………………

 

(解説・解答)

 「感性」について述べられている以下の箇所に注目してください。

【23】段落「つまり、芸術における感性とは、あくまでも観る側の心の自由にある。決して、高められるような代物ではない。その代わり、貶(おとし)められることもない。そのひとがそのひとであるということ、それだけが感性の根拠だからだ。

【27】段落「感性などみがこうとしないことだ。いま書いたとおり、感性とはあなたがあなたであること以外に根拠をおきようのないなにものかだ。一枚の絵の前に立って、いったいあなたがなにを感じるのか。たしかに、その感じ方には、当人が受けて来た教育や慣習といった様々な背景によって、色が付いているだろう。しかし、それはそれでよいのである。芸術にはまっさらな気持ちで接するべきだとする、別のかたちの潔癖主義の誘いに乗ることはない。4 芸術作品とは自分がなにものであるかを映し出す鏡なのであるから、汚れた自分のままがよいのだ。むしろ自分の汚れを絵に映してしっかりと見届け、そこから先へ進んでゆく糧にすればよい。」

 

 上記の「あなたがあなたであること」とは「アイデンティティ」を指します。

 

(解答) アイデンティティ(8字)

 

ーーーーーーーー

 

感性は感動しない――美術の見方、批評の作法 教養みらい選書

 

 

(3)当ブログによる解説/「はじめに」(『感性は感動しない』所収)についての解説

 

 

 今回解説した「感性は感動しない」は、最近出版された『感性は感動しない』に収録されています。

 『感性は感動しない』のテーマについては、「はじめに」に述べられているので、以下に引用します。

「私がこの本を通じて伝えたいことは、煎じつめて言えば、あなたにとっての世界が、まだ手つかずの未知の可能性の状態としてここにある、ということの神秘なのです。それを発見することができるのはあなただけだ、ということでもあります。絵を見たり文を書いたりすることは、ものを食べたり空気を吸ったりするのと違って、しなければそれで済んでしまうことです。しかし同時に、人生にとって無駄とも思えるそういう領域のなかに、私の言う神秘はひっそりと隠れていて、いつかしっかりと見つけられるのを待っているのです。/さあ、これからこの本を通じて、世界への新しい扉を開いてみて下さい。世界の入り口へと通じる扉は、実は一枚ではありません。その先にある隠し扉こそが、本当の扉なのです」(「はじめに」『感性は感動しない』)


 上記の「はじめに」は、「絵画の鑑賞」が、「未知の自分の発見・確認」、「未知のアイデンティティの発見・確認」のために有用であることを示唆しています。

 

 このことは、問3・4・6・7に関連しています。

 

 「絵画の鑑賞」は、まさに「絵画の観照(→当ブログによる「注」→「観照」とは、主観をまじえないで物事を冷静に観察して、意味を明らかに知ること)」です。

 言い換えれば、「自分の観照」、「アイデンティティの観照」、つまり、「人生の観照」なのです。

 

 椹木野衣氏は、『感性は感動しない』に関する2018年9月5日の『朝日新聞(夕刊)』のインタビュー記事の中で、以下のように述べています。

「  芸術とは、自分の中にいる子ども、すなわち、かけがえのない、自分が自分であることの芯になるものと出会い直すためにあるのではないでしょうか」


 このことを実感するためには、「芸術の鑑賞」・「感性」・「自分」・「アイデンティティ」について述べられている以下の箇所に注目してください。


【1】段落「岡本太郎は感性について次のように言っている。

「感性をみがくという言葉はおかしいと思うんだ。

感性というのは、誰にでも、瞬間にわき起こるものだ

感性だけ鋭くして、みがきたいと思ってもだめだね。

自分自身をいろいろな条件にぶっつけることによって、

はじめて自分全体のなかに燃え上がり、
広がるものが感性だよ」 (『強く生きる言葉』)


【10】段落「そもそも、よい絵とはなんであろうか。すぐれた美術作品とはどんなものであろうか。」


【11】段落「答えは簡単で、観る人の心を動かすものにほかならない。ポジティブな感情でもネガティブなものでもかまわない。 観る人の気持ちがわけもわからずグラグラと揺り動かされる。いても立ってもいられなくなる。一枚の絵がなぜだか頭からずっと離れない。それが、芸術が作品として成り立つ根源的な条件である。」

 

【21】段落「  要は、ある絵を観て、「うわ、なんてみにくい絵なんだろう」「こういう絵はもう二度と観たくない」「こんな絵を描いた人物は、きっとどこか変なのだ」といった反応をすることを、芸術は排除するべきではない。世間的にはネガティヴだとされるこうした感情も、もしかするとその人の心の奥底に眠り、ずっと押さえつけられていたなにかに気づき、それを解放するきっかけになるかもしれないからだ。

 

【22】段落「そして、どんな絵に心が揺さぶられるかは、けっきょくのところ、その人にしかわからない。誰にもわかってもらえない。ましてや共有などできるはずがない。感性がみがけないというのは、煎じ詰めればそういうことだ。」

 

【23】段落「つまり、芸術における感性とは、あくまでも観る側の心の自由にある。決して、高められるような代物ではない。その代わり、貶(おとし)められることもない。そのひとがそのひとであるということ、それだけが感性の根拠だからだ。

 

【25】「他人のことは決してわからない。ましてや他人の感性などわかるはずがない。けっきょく芸術作品は自分で観るしかない。それは誰にも肩代わりができない、あなただけの体験だ。言い換えれば、個が全責任を負って観ることができるのが芸術だ。そして、これがすべてなのである。」

 

【27】段落「感性などみがこうとしないことだ。いま書いたとおり、感性とはあなたがあなたであること以外に根拠をおきようのないなにものかだ。一枚の絵の前に立って、いったいあなたがなにを感じるのか。たしかに、その感じ方には、当人が受けて来た教育や慣習といった様々な背景によって、色が付いているだろう。しかし、それはそれでよいのである。芸術にはまっさらな気持ちで接するべきだとする、別のかたちの潔癖主義の誘いに乗ることはない。4 芸術作品とは自分がなにものであるかを映し出す鏡なのであるから、汚れた自分のままがよいのだ。むしろ自分の汚れを絵に映してしっかりと見届け、そこから先へ進んでゆく糧にすればよい。

 

【33】段落「ここで勘違いしてしまうと、線を引いた者の無垢や天才を賞讃するという別の悪弊に陥ってしまう。安易に子供の描く絵はみなすばらしいと言ってみたり、障害をおった者の絵を格別に賛美したりしてしまう。本当は、感性を通じて自分の心のなかを覗き込んでいるだけなのに、そのことに気づかないづかない。気づこうとしない。結局、怖いからだろう。

 

【34】段落「 誰でも、自分の心の中身を知るのは怖い。だからふだんはそっと仕舞っておく。けれども、ときに芸術作品はこの蓋を容赦なく開けてしまう。冒頭に掲げた岡本太郎の言葉にある「いろいろな条件にぶっつける」というのは、まさにそのことだ。ゴツゴツとした感触がある。なにか軋轢(あつれき)が生じる。自分が壊れそうになる。こうした生の手触りを感じるとき、僕らは、自分のなかで感性が音を立てて蠢いているのを初めて知る。

 


(4)椹木野衣氏の紹介

 

 椹木野衣(さわらぎ のい)

 1962年埼玉県生まれ。

 故郷の秩父で音楽と出会い、京都の同志社で哲学を学んだ盆地主義者。

 美術批評家として会田誠、村上隆、ヤノベケンジら現在のアート界を牽引する才能をいち早く見抜き、発掘してきた。

 既存のジャンルを破壊する批評スタイルで知られ、蓄積なしに悪しき反復を繰り返す戦後日本を評した「悪い場所」(『日本・現代・美術』新潮社)という概念は、日本の批評界に大きな波紋を投げかけた。

 ほかにも読売新聞(2010-2011)、朝日新聞(2017-)の書評委員としてあらゆる分野にわたる書評多数。

 多摩美術大学教授にして岡本太郎「芸術は爆発だ!」の精神的継承者。

 芸術人類学研究所所員も務める。

 1児の父。

 

【おもな著書】 


『シミュレーショニズム』(増補版はちくま学芸文庫)、

『反アート入門』『アウトサイダー・アート入門』(ともに幻冬舎)、

『太郎と爆発』(書房新社)、

『後美術論』(美術出版社、第25回吉田秀和賞)、

『震美術論』(美術出版社、平成29年度芸術選奨文部科学大臣賞)

 

後美術論 (BT BOOKS)

後美術論 (BT BOOKS)

 

 

震美術論 (BT BOOKS)

震美術論 (BT BOOKS)

 

 

 

(5)当ブログにおける「芸術論」関連記事の紹介

 

 「芸術論」は、入試頻出論点です。慣れるようにしてください。

 

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ーーーーーーーー

 

 今回の記事は、これで終わりです。

 次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

 ご期待ください。

 

  

 

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

 

 

5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

 

 

 

 私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。

https://twitter.com/gensairyu 

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予想問題/「AI 社会 新たな世界観を」山極寿一『朝日新聞』

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 

 AI 社会、科学批判は、最近の流行論点、頻出論点です。

 この論点については、背景知識の有無がモノをいいます。

 最近、これらの論点に関する、入試頻出著者・山極寿一氏の秀逸な論考(「AI社会 新たな世界観を」山極寿一『朝日新聞』《科学批評》)が発表されました。

 そこで、国語(現代文)・小論文対策として、この論考、および、この論考に関連する論点を、詳しく解説します。

 

 

朝日新聞デジタル

朝日新聞デジタル

 

 

 

(2)予想問題/「科学技術発展のリスク AI社会 新たな世界観を」 山極寿一《科学季評》『朝日新聞』2018年8月8日

 

(本文は太字にしました)

(概要です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です) 

 

 最近のあらゆる未来志向型プロジェクトで、人工知能(AI)は欠かせない要素だ。AIを用いたスマート農業やスマート漁業、複雑なデータ解析を一瞬でこなす医療診断、人口縮小社会の効率的な情報システムの構築など、枚挙にいとまがない。果たしてAIは人間に明るい未来を約束してくれるだろうか。

 AI社会とは、情報によって人間が地球規模でつながる仕組みだ。人々はすでに情報なしで暮らせない社会に生きているが、今後あらゆる行為を選ぶうえでAIの判断が欠かせなくなる。言葉を持った人間が、身体ではなく脳でつながろうとしてきた当然の帰結だと私は思う。

 人類が700万年にわたる進化の過程で手に入れた最も大きな力は、相手の気持ちに立って物事を推し量れる共感力だ。人類の祖先が200万年前に脳を大きくし始めたのは、集団の規模が拡大し、より多くの人と密接に協力関係を結ぶようになったからだ。ゴリラの3倍の大きさを誇るホモ・サピエンスの脳でも、共感し合いながら暮らせる集団の規模は150人程度だ。それが、約7万年前に言葉による認知革命が起こり、さらに1万2千年前に始まった農耕によって、より多くの人々が一緒に暮らすことが可能になった。

 以後、人類は世界を言葉で分類し、あらゆるものを情報化して操作してきた。だが、共感力を用いた人間のつながりは、身体を用いたコミュニケーションが不可欠だ。情報を介して脳だけでつながっても共感力は発揮できない。これまでの戦争における人間の扱いや、誤った情報操作による虐待の歴史は、いまだに人間が共感力を広げられていないことを示している。

 


(当ブログによる解説)

 「共感力」については、入試頻出著者・山崎正和氏の次の論考(「物神崇拝と動物愛護ののちに」『一冊の本』2001年2月号)が、かなり参考になります。

 以下に、概要を引用します。

 

「  一般に人間には対象のなかに自分と同質の生命を感じとる能力があって、この共感によって対象の生命と一体化することを感情移入という。

 そして、犬や花であれ無生物の人形であれ、とくに自分より小さいものに感情を移入したときに、その対象を可愛いと感じるらしい。そういう感情移入が起こるのは対象の形や性質にもよるが、それ以上に人間の心の側の積極的な能力によっている。現に実際には生命のない人形を可愛いと思うのは、明らかに特定の文化に育てられた心の作用の結果だろう。 

 ところで、この心の作用はもともとは「可愛さ」とは関係がなく、もっと広く物神崇拝という伝統的な精神の文化のなかで働いていた。巨大な岩石に畏敬を覚えたり、日常の食物や道具を「もったいない」と感じるのは、そういう文化の現れであろう。いうまでもなく巨石も一粒の米も可愛いものではなく、むしろ人が頭を垂れるべき対象であった。それをいえば人形も古代では可愛さの対象ではなく、恐れたり願をかけたりする、まじないの道具であった。なまじ人間の形をしているからややこしいが、人形は人間以上に大きい生命の象徴であって、いわば物神崇拝の精神を凝縮して具象化した対象だったようである。

 これにたいして、一匹ぴきの子犬に可愛らしさを感じるのは、これまではもっと直接的な生命の共感によるものと考えられてきた。大きさの点でも子犬は人間を超えた生命の象徴ではなく、逆に人間より弱く小さな生命の持ち主である。それを愛するのは物神崇拝とは別の文化の現れであり、動物愛護と呼ばれる精神の発動だと考えられてきた。いったい動物愛護の感情がいつ生まれたか定かではないが、おそらく十七世紀ごろの近代的な自然観の誕生と何らかの関係があるだろう。ともかくそれは一粒の米をもったいないと思う感情とは異なり、むしろ人間の子供を可愛がる感情に似ていると見なされてきた。そしてたぶん人形が人に可愛がられる対象に変わったのも、こうした文化の歴史的な変化と並行していたはずである。 

 だが、人形が初めて可愛い存在に変わったとき、それはおそらく人間の想像力の多大な発揮を必要とするものだっただろう。形も単純だったし、もちろん自分の力で動くものではなかった。犬や猫のような愛玩動物とは違って、向こうから人間の感情移入の働きを誘発する存在ではなかった。これには直接的な生命の共感が難しいだけに、人間はより多く努力して実在しない生命を読みとる必要があった。いいかえれば、人形を可愛いと感じるためには、人は物神崇拝の文化を失いながら、物神崇拝のために求められるような強い想像力を要求されていたはずである。やがて何百年もの歳月をかけて、人間は少しずつ人形を可愛がる感情を育て、同時に可愛らしさをそそる人形の形状を生みだしてきた。しかしそれでも、近代文化は人形と愛玩動物のあいだに厳然たる区別を置く一方、どんな単純な人形にも生命を感じとる感受性を残してきたのである。 

 こう考えると、「アイボ」の出現はこの長い区別を攪乱し、物神崇拝と動物愛護の文化の終わりの始まりになるのかもしれない。まるで生きた動物のように反応する機械にたいして、人間にはそこに生命を読みとる強い想像力はいらない。可愛らしさは対象のほうからかってにやってきて、人間の受け身の心を直接にとらえてくれる。これを続けて行けば感情移入の能力は萎縮して、やがて動かない人形は可愛いものではなくなるかもしれない。同時に愛玩動物の可愛らしさも生物の特権的な特徴ではなくなり、少なくとも感情の次元で動物と機械との区別が弱くなることが考えられるのである。

 すでに科学の世界では物神崇拝的な生命観は完全に否定され、生物と無生物の距離さえ大きく縮まろうとしている。法律の世界でも動物と物体の区別は捨てられ、飼い犬を殺しても器物損壊としてしか罰せられない。そこへまったく思いがけない方向から、いま感情文化の世界にも同じ流れの変化が迫っているのかもしれないのである。

(山崎正和「物神崇拝と動物愛護ののちに」『一冊の本』2001年2月号)

 

 また、「身体を用いたコミュニケーション」、つまり、「身体コミュニケーション」については、入試頻出著者・市川浩氏の次の論考(『「身」の構造―身体論を超えて』)を、知っておくべきでしょう。

 概要を以下に引用します。

 

「  相手がにっこりすると、思わず私もにっこりします。これは相手がほほ笑んでいるから、こちらもほほ笑み返さなければ礼儀上悪いと思ってにっこりするわけではありません。相手のほほ笑みを見ると、こっちも思わずほほ笑んでしまう。

 逆に、相手の顔がこわばっていると、自然に私の顔もこわばってしまう。つまり、他者の身体というのは、決して科学が扱うような客体的身体ではなく、表情をもった身体であり、私の身体もまた気づかぬうちに表情や身ぶりで、それに応えています。

 つまり、身体的レヴェルでの他者の主観性の把握と、私の応答があるわけです。これがいわゆるノン・ヴァーバル・コミュニケーション(→「非言語コミュニケーション)ですが、もしこうした身体的な場の共有がなけれは、言葉のうえでは話が通じても、心が通わないでしょう。

 逆に場が共有されていれば、言葉が足りなかったり、多少行き違ってもわかり合うことができます。

(中略)

 電話だと誤解が起こりやすいのは、身体的レヴェルでのコミュニケーションが制限されているからです。大事な話があるときは、電話では話せないから会えないか、と言います。

(中略)

 これは生き身が、単なる対象としての身体ではなく、互いに感応(→「共感」)し、問いかけ、応答する、表情的身体だからこそ可能なのです。人々の間で無意識のうちに交わされる身体的対話は、社会のうちに共通の表情を作り上げて行きます。外国人を見ると同じ顔に見えるように、われわれもひとりひとり違った顔をしているように見えながら、外から見れば、共通の表情をしているのでしょう。 

 (市川浩『「身」の構造―身体論を超えて』)

 

 

〈身〉の構造 身体論を超えて (講談社学術文庫)

〈身〉の構造 身体論を超えて (講談社学術文庫)

 

 

 

(「科学技術発展のリスク AI社会 新たな世界観を」 山極寿一)

 科学技術は今、情報によって人間や社会を作り替えようとしている。世界的なベストセラー「サピエンス全史」の著者ユヴァル・ノア・ハラリは、新作「ホモ・デウス」で、人間が超人となり神の領域に手を出そうとする未来を警告している。

 現代の科学は、人間の感覚や情動も、生化学データを処理するアルゴリズム (→当ブログによる「注」→アルゴリズムとは、数学、コンピューティング、言語学、あるいは関連する分野において、問題を解くための手順を定式化した形で表現したものを言う。算法と訳されることもある)であることを証明した。興奮とは、脳内の伝達物質アドレナリンが大量に放出されることと同義だといったように。だから、不安や苦痛、不快や恐怖は人為的に生化学的な処置をすることで取りのぞける。人類を悩ましてきた病気や戦争による被害はこの1世紀、特効薬の開発や、情報技術による世界的なルールの徹底によって激減した。

 次に人間が望むのは寿命の延長、不死の身体で、AIを含む科学技術の発展により生まれたゲノム編集や人体の工学的な改良によって実現する。今や人間は超人類を生み出す神の手を持とうとしていると、ハラリは主張する。

 その時、人間は生きる目的を何に求めたらいいのだろう。一部の人間が人類を超越し、神のごとき能力を持つホモ・デウスになれば、人種差別どころか、人と家畜に匹敵するような大きな差別が生まれるかもしれない。もはやこの世界の外にいる神は存在しない。不死の世界に天国も地獄も影響力を持ちえないからだ。

 こうなると、科学技術という“宗教”に対抗する世界観が必要だ。

 

 

(当ブログによる解説)

「  次に人間が望むのは寿命の延長、不死の身体で、AIを含む科学技術の発展により生まれたゲノム編集や人体の工学的な改良によって実現する。今や人間は超人類を生み出す神の手を持とうとしていると、ハラリは主張する。

 その時、人間は生きる目的を何に求めたらいいのだろう。一部の人間が人類を超越し、神のごとき能力を持つホモ・デウスになれば、人種差別どころか、人と家畜に匹敵するような大きな差別が生まれるかもしれない。もはやこの世界の外にいる神は存在しない。不死の世界に天国も地獄も影響力を持ちえないからだ。

 こうなると、科学技術という“宗教”に対抗する世界観が必要だ。

の部分は、「パラダイムシフト」に関連しています。

 

 「パラダイムシフト」(paradigm shift)とは、その時代や分野において当然のことと考えられていた認識・思想、社会全体の価値観などが革命的に変化することをいいます。「パラダイムチェンジ」ともいいます。

科学史家トーマス・クーンが『科学革命の構造』で提唱した「パラダイム概念」の説明で用いられたものが拡大解釈されて一般化したものです。

 「パラダイムシフト」は、狭義では「科学革命」と同義です。

 

 一般用語としての「パラダイム」は「規範」を意味する単語です。

 しかし、科学史家トーマス・クーンの科学革命で提唱した「パラダイム概念」が、拡大解釈され、一般化されて用いられ始めました。

 拡大解釈された「パラダイム」は「認識の仕方」・「常識」・「支配的な解釈」などの意味合いで使われています。

 広義の「パラダイムシフト」は、「発想の転換」や「常識への懐疑」、「革新的な発想」などの意味で使用されています。

 人類は、恒常的に何らかの重大な問題に直面しているため、そのたびに新たな解決が求められています。

 その解決のための手段としての「パラダイムシフト」は、一定の説得力を持っているために、一般化したのです。

 「パラダイム」は、狭義には、その時代・分野における主流の思想が衰え、新しい思想が主流となることを指します。

『ホモ・デウス』によると、「パラダイムシフト」の必要性が強く感じられます。

 近い将来、以下のように、「データイズムに社会/世界の最高権威の地位を譲り渡すことになる」可能性が高いからです。

 

 この点を丁寧に解説している池田純一氏の論考(「第5回:『サピエンス全史』に続く物語、そして人類は「データの神」に駆逐される~連載・池田純一書評」『ワイアード・ブック・レヴュー』)の一部の概要を以下に引用します。

 

「  この話が厄介なのは、長寿・救命という「ヒューマニズム(人間第一主義)」の要請に素直に従っていく過程で、その試み自体がヒューマニズムの前提、すなわち、人間が世界の中心であり、人間が世界秩序を決める「最終権威」である、という考え方の大前提を切り崩してしまうところだ。なぜなら、人間よりもシステムのほうが人間のことをよく知る存在であることがあからさまに公知のものとなってしまうからだ。なにより、人間の精神状態(マインドやコンシャスネス)も、生体活動を支える生化学的アルゴリズムが発現させたものにすぎないと、当の〈システム〉が日々囁いてくる。

 こうしてヒューマニズムは内破し、データイズムに社会/世界の最高権威の地位を譲り渡すことになる。

 かつて神がいた場所を「データ」が占める。

(「第5回:『サピエンス全史』に続く物語、そして人類は「データの神」に駆逐される~連載・池田純一書評」『ワイアード・ブック・レヴュー』)

 

 

〈未来〉のつくり方 シリコンバレーの航海する精神 (講談社現代新書)

〈未来〉のつくり方 シリコンバレーの航海する精神 (講談社現代新書)

 

 


 「パラダイムシフト」とは、現代の科学技術の急速な発展により発生するであろう「データイズム」という「人を超える力」を、いかにして「人類」がコントロールしていくか、という問題が発生します。

 

 まさに、山極氏が主張するように、「科学技術という“宗教”に対抗する世界観が必要」になってくるのです。

 ここで言う「世界観」とは、「人間性」・「人間の自由」をいかに確保するか、の問題でもあります。

 

 新たな、想像を超える、AI 社会における「世界観」をいかに考えていくか、の問題は、簡単な問題ではありません。熟考するべき問題です。

 

 ただ、その際には、以下の村上陽一郎氏の見解(「科学と世界観」『歴史としての部分』)のように、「人間と自然の関係」は、強く意識する必要があるでしょう。

 つまり、人間の生物的側面、人間と自然は一体、という点を軽視できないのです。

 

「  今日的な視点で科学技術と「進歩」を考えた時、南北の格差に気づく。北は、科学技術の「進歩」による「恩恵」を享受する段階から、支払った代価をいとおしみ始めた。「恩恵」とはいいながら、環境破壊によって未来を危うくするという代価を支払っていることにようやく気づき始めた。しかし、南はようやく、代価を支払ってでも、「進歩」を手に入れようとする。このような北と南のライムラグが問題になる。

 北は人類の歴史の主体者として、科学技術の自然の支配と制御による、人類の悲惨と病苦からの解放という「救済」の自明性を疑い始めた。科学技術による環境破壊などを考えると必然的な流れである。しかし、そこには根本的な問題が3つある。

(中略)

 第三は、人類も自然の導く流れの外にはあり得ないことである。確かに、人間が自分たちに都合よく自然を支配する自由度は大きい。もし、生物学的な「種」が、「同一の行動様式を持つ固体の集合」と定義されているならば、人間の文化を一つの「種」とみなすことができる。人間全体というよりも、それぞれの文化を持つ民族や文化圏が一つの「種」を形成し、地球上にいくつのも「種」が共存していると言うことができる。とするならば、人間は、同一の行動様式を持つ「種」を自らの選択によって自由に決定できるかといえば、明らかにそうではない。人間と自然は切り離せない一体のものであり、人間が自然を支配し制御しているようでありながら、それは自然に強く制限されているのである

(「科学と世界観」『歴史としての科学』村上陽一郎)

 

 

歴史としての科学

歴史としての科学

 

 

 

 また、「AI 社会と世界観」を安易に考えることは危険だということも、知っておくべきでしょう。

 科学技術の発展の流れに漫然と乗ってしまうことは、「ただ生存しているだけの空疎な人生」を送ることでしょう。

 以下の池田晶子氏の論考(「『コンビニエントな人生』を哲学する」『死とは何か』)は、かなり参考になります。

 

「  科学技術は、生存することそれ自体が価値であり少しでも長く生存することがよいことなのだという大前提を少しも疑わないことでこそ、めざましい進歩を遂げることができたのだ。そして、少しでも長く生存する限り、その生存はより快適なほうがいい、これが例の「クオリティ・オブ・ライフ」という妙な文句の真意である。この延長線上に、やがて「コンビニエンス」という発想が出てくる。便利さが価値になるほど、人間の価値は薄まる。 

 便利さを享受する愚昧な人々ただ生存しているだけの空疎な人々、夢の近未来社会とは、要するにこれである。わざと悲観的に言っているのではない。何のために何をしているのかを内省することなく、ひたすら外界を追求してきたことの当然の帰結である。 

 さて「便利」ということについて考えてきたが、対する「不便」というのは、便利さを知らなければ出てこない言葉である。したがって、不便という言葉を知った人はすでに不幸だろう。古来より人は、この状態を警戒して、「足るを知る」、すなわち、あるがままを認めることの幸福を説いたのではなかったか。

(池田晶子「『コンビニエントな人生』を哲学する」『死とは何か』)

 

 

死とは何か さて死んだのは誰なのか

死とは何か さて死んだのは誰なのか

 

 


(「科学技術発展のリスク AI社会 新たな世界観を」 山極寿一)

 この春、「人間とは何か」という問いに、AIとゴリラと仏教の視点から考えるシンポに参加した。大乗仏教では、世界を構成するあらゆるものは「縁起」によってつながっていると考える。一見、AIによるネットワークの拡大と似ているが、AIがデータ化された情報によってつながっているのに対し、仏教は直観により世界を把握しようとする。

 

 

(当ブログによる解説)

 「縁」については、最近出版された『熊楠の星の時間』(中沢新一)に分かりやすい説明があるので、以下に引用します。

 

「  仏教は世界の構造を「縁=relation」としてとらえます。存在しているものも非存在のものも、すべては縁によってつながり関係しあっているから、そこには実体がない。この仏教の発想からは、人間の外にある自然を、「自然」という自立的な実体として認めてしまうことは許されないことでした。

(『熊楠の星の時間』中沢新一)

 

 

熊楠の星の時間 (講談社選書メチエ)

熊楠の星の時間 (講談社選書メチエ)

 

 

  

 「縁起」とは、「全ての現象は、他との関係が縁となって生起するということ」です。

 全ての現象は、原因や条件が相互に密接に関係しあって成立しているものです。

 つまり、全ての現象は、独立的なものではなく、条件・原因がなくなれば結果も自ずからなくなるのです。

 これは、仏教の根本的教理の一つであり、釈迦の悟りの内容を表明するものとされています。

 


(「科学技術発展のリスク AI社会 新たな世界観を」 山極寿一)

 たとえば、科学は人間の身体や心の動きを図や画像、数式によって捉えようとするが、それは生物の一側面に過ぎない。生物は本来、仲間や他の生物の動きを様々な感覚を用いて直観的に予測し反応している。そこに情報には還元できない認識力や生物どうしの関係が存在する。

 宗教学者の中沢新一は、言葉や自然科学など、事物を分類して整理する「ロゴスの論理」に対し、事物を独立したものとして取り出さず、関係の網の目の中の作用として認識する「レンマの論理」が、人間に新しい世界観をもたらすかもしれないと述べている。

 


(当ブログによる解説)

 「レンマ」に関しては、『熊楠の星の時間』(中沢新一)に以下のような、丁寧な記述があります。

「  西欧ではこのロゴスの知性作用をとても重視しました。キリスト教時代でもそうですし、近代科学の時代になってもロゴスこそが真理を表現できる能力を持つ、と考えられてきました。とくに近代科学では、ロゴスの持つ能力の幅はぐっと狭められて、形式論理としてのロジックが支配的になります。

「「レンマ」の学を実際に打ち立てたのは仏教だったという。仏教では「ロゴス」の中心になっている、同一律、矛盾律、排中律の3つの法則を否定した。そういう思考を徹底させたナーガールジュナ(龍樹)(→当ブログによる「注」→龍樹は、2世紀に生まれたインド仏教の僧である。龍樹とは、サンスクリットのナーガールジュナの漢訳名で、日本では漢訳名を用いることが多い。中観派の祖であり、日本では、八宗の祖師と称されることがある)はそこで、生滅(存在と非存在)、断常(非連続と連続)、一異(一と多様)、来出、というロゴスの導き出した4つの世界現象のあり方を徹底的に否定し、不生不滅、不断不常、不一不異、不来不出こそが現象の真のあり方であると主張した。

 そして世界をレンマ的、直観的に把握するために、瞑想訓練が組み入れられ、具体的には言語の働きを停止させるヨガを行う。それによって世界の実相を見届けようとする。すると、ロゴスの知性作用によって「因果関係」を認められた現象の奥に、因果関係で結びつけられていない偶然性(蓋然性)の自由な運動として、この世界がつくられている様子が直観的に把握できるようになる。

(『熊楠の星の時間』中沢新一)

 


(「科学技術発展のリスク AI社会 新たな世界観を」 山極寿一)

 レンマの思想は、大正から昭和初期に発展した「西田哲学」や、今西錦司の自然学にも反映されている。現代の科学は時間を空間的に理解しようとするが、生物はその二つを同時に直観的に認識する。それが生命の流れを感じることだ西田幾多郎は言う。今西はこの世界の構造も機能も一つのものから分化したものであるから、生物は互いに理解しあい共存する能力を持っていると言う。その生命の認識や相互作用、生物どうしが織りなす全体像を、現代の科学技術はつかむことができない。

 

 

(当ブログによる解説)

  今西は、専門を細分化する西洋型分析主義では自然が見えないと考えていたのである。むしろ、自然をトータルなものとみる東洋的全体論を自分の考えの基礎にしていた。自然の中でカゲロウを観察し、種と種はそれぞれ棲み分けを通して共存しているという「棲み分け」理論を打ち出した。これも東洋的全体論が今西の思想の底流にあったからこそ発見されたものである。

 「今西説」によると、生理・生態がよく似た個体同士は、生活史において競争と協調の動的平衡が生じます。

 この動的平衡状態の中で組織されたものが実体としての種であり、今西が提唱する「種社会」です。

 「種社会」は様々な契機によって分裂し、別の「種社会」を形成するようになります。

 分裂した種社会はそれぞれ「棲み分け」ることにより、可能ならば競争を避けつつ、適切な環境に移動することができた時、「生物個体」・「種社会」はそれぞれ自己完結的・自立的な働きを示すのです。

 その結果、生じる生理・生態・形態の変化が進化であるとしました。

 

 

(「科学技術発展のリスク AI社会 新たな世界観を」 山極寿一)

 AIもレンマもつながりを重視することに変わりはない。ただ、手法が違うので、結果はまるで異なったものになる。情報によって効率的な暮らしを与えてくれるAI社会は、個体がデータに置き換わり差別や格差を広げる危険をはらむ。一方でレンマは生命のつながりや流れに目を開かせ、私たちに新しく生きる目的をもたらしてくれるかもしれない。

(「科学技術発展のリスク AI社会 新たな世界観を」 山極寿一《科学季評》『朝日新聞』2018年8月8日)

 

 

(当ブログ記事による解説) 

「  事物を独立したものとして取り出さず、関係の網の目の中の作用として認識する「レンマの論理」が、人間に新しい世界観をもたらすかもしれないと述べている。

「  レンマは生命のつながりや流れに目を開かせ、私たちに新しく生きる目的をもたらしてくれるかもしれない。

以上の山極氏の指摘は重要です。


 AI研究の方向性としては、東洋思想的な考えで、「環境全体の中で、AIや人間をどのように考えていくか」という視点が必要になってくるでしょう。

 

 (3)当ブログにおける「AI 社会」関連記事の紹介

 

 

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ーーーーーーーー

 

 今回の記事は、これで終わりです。 

 次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

 ご期待ください。

 

  

 

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

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5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

 

 

 

 私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。

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予想問題/「安くておいしい国の限界」小熊英二『朝日新聞』/国際化

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 

 「グローバル化(国際化)」に関する論点は、入試頻出論点です。

 最近、「グローバル化」、「観光立国」についての、入試頻出著者秀逸な論考(「観光客と留学生 『安くておいしい国』の限界」小熊英二/2018・5・31『朝日新聞』「論壇時評」)が発表されたので、国語(現代文)・小論文対策として、今回の記事で解説します。

 小熊英二氏は、入試頻出著者です。

 

 なお、今回の記事の項目は以下の通りです。

 記事は約1万字です。

(2)予想問題/「観光客と留学生 『安くておいしい国』の限界」(小熊英二・2018・5・31『朝日新聞』「論壇時評」)

(3)当ブログによる解説

(4)当ブログにおける「グローバル化」関連記事の紹介

 

 

朝日新聞デジタル

朝日新聞デジタル

 

 

 

(2)予想問題/「観光客と留学生 『安くておいしい国』の限界」(小熊英二・2018・5・31『朝日新聞』「論壇時評」)

 

(本文は太字です)

(概要です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です) 

 

 国際会議で外国に行くと、観光客の急増に驚く。パリやニューヨークはもちろん、ベイルート、バンコク、北京などもそうだ。「マナーの悪い観光客に困っている」という話はどこでも聞いた。

 国連世界観光機関(UNWTO)の統計では、2000年から17年に世界の国際観光客到着数は2倍に増えた。17年は7%の「高度成長」ぶりだ。昔より航空券も安いし、ネットで簡単に予約できるのだから当然だろう。

 16年のランキングだと、日本は国際観光客到着数で世界16位。ただし増加率が高く、12年から17年に3倍以上になった。今や観光は日本第5位の産業だが、多すぎる観光客のせいで「観光公害」が出ているという声もある。

 

 

(当ブログによる解説)

 「観光公害」とは、観光が原因となる種々の弊害です。

 例えば、車の騒音・排気ガス・渋滞、ゴミの不法投棄、開発、景観破壊、環境破壊などです。

 「観光公害」は、観光客急増による様々な弊害が目立ち始めた現在の日本において使われ始めている造語です。


 日本では、世界遺産登録直後に見られる訪問者数の激増が顕著な例です。例えば、白川郷では前述のほぼ全ての事象が報告されています。

 

 「観光公害」は、「グローバル化」のマイナス面と評価できるでしょう。

 

 「観光公害」に関連して、『「夜遊び」の経済学 世界が注目する「ナイトタイムエコノミー」』(光文社新書)に以下のような記述があります。

 明快な説明で、かなり参考になります。

「  観光客は「ただそこに来る」だけでは経済効果は生まず、むしろそれを受け入れる側の地域にとっては、一義的に「コスト要因」に他ならない。観光客が訪問先でゴミを発生させれば、それを処理するのは地域の自治体であり、その原資は地域に住む住民の治める税である。観光客が歩く公道、使用する公衆トイレは全て自治体財源によって維持管理される公共物であり、ましてや観光客を迎え入れるために新たなインフラ整備を行うということになれば、当然そこには地域住民の血税が投入されることとなる。

 そのような様々な財源部分の話をさっぴいたとしても、そもそも域外から得体の知れない人間が多数来訪し、道端でワイワイガヤガヤと大騒ぎし、私有地や進入禁止地域にまで入り込み、「旅の恥はかき捨て」とばかりにトラブルを巻き起こすなどというのは、地域の住民にとって必ずしも歓迎されるものではない。

 はっきり言ってしまえば、観光客というのはそこに根ざして生活する人間にとっては、根源的に厄介者であり、迷惑以外の何ものでもないのである。

(『「夜遊び」の経済学』 木曽 崇)

 

 

 

 

(「観光客と留学生 『安くておいしい国』の限界」)

 なぜこれほど急に増えたのか。アジアとくに中国が経済成長し、近場の日本が観光先になったことも一因だ。だが私が世界各地を訪ねた経験からいうと、別の理由がある。観光客からみれば、日本は「安くておいしい国」になったのだ。

 ここ20年で、世界の物価は上がった。欧米の大都市だと、サンドイッチとコーヒーで約千円は珍しくない。香港やバンコクでもランチ千円が当然になりつつある。だが東京では、その3分の1で牛丼が食べられる。それでも味はおいしく、店はきれいでサービスはよい。ホテルなども同様だ。これなら外国人観光客に人気が出るだろう。1990年代の日本は観光客にとって物価の高い国だったが、今では「安くておいしい国」なのだ。

 なお、00年から16年に、フランスは国際観光客数が7%しか伸びていない。それに対し、日本は400%も伸びている。国際観光客数ランキング30位までの国で400%以上伸びたのは、日本・インド・ハンガリーの三つだ。この三カ国は、外国人観光客からみて「安くておいしい国」だといえるだろう。

 このことは、日本の1人当たりGDPが、95年の世界3位から17年の25位まで落ちたことと関連している。「安くておいしい店」は、千客万来で忙しいだろうが、利益や賃金はあまり上がらない。観光客や消費者には天国かもしれないが、労働者にとっては地獄だろう。

 

 

(当ブログによる解説)

 上記の「安くておいしい」については、『観光立国の正体 』(藻谷浩介・山田桂一郎)が、かなり参考になります。


 本書によれば、「観光業」においては、単なる「価格競争」ではなく、「地域全体の活性化」を考えないと、長期的に見れば、うまくいくことはないのです。

 

 このことについて詳しく解説してある箇所を、本書より引用します。

(スイスのツェルマットでは)レストランで使う食材やホテルの備品にしても、「地元で買う・地元を使う」の思想は徹底しています。

 多少コストが高く付いたとしても、地域内でお金を使ってキャッシュフローを活発にした方が、結局は地元のためになる。

 この考え方はツェルマットが観光・リゾート地としてスタートした19世紀末から一貫して変わりません。もちろん、質が悪いものを扱うと厳しく指摘されますから、経営努力を怠ることはできません。
 今、日本の観光・リゾート地に一番欠けているのが、この「地域内でお金を回す」という意識ではないでしょうか。特に近年は、目先の価格競争に気を取られ、1円でも安い業者から食材・資材を購入しようと躍起になっている事業者が増えています。しかし、そうやって無理に利益を出しても、地元の生産者や業者が倒れてしまえば、結局はその地域の活力そのものがなくなってしまいます。 (『観光立国の正体 』藻谷浩介・山田桂一郎)

 

 つまり、日本の観光地の事業者には、長期的視点に欠けていると言うことです。

 観光客は、人々が幸福に暮らしている土地にこそ長期滞在したいし、リピーターになりたいのです。

 「活力のある地域」が好まれるのは、当然でしょう。

 

 この点について、本書は以下のように述べています。

「  何度でも訪れたくなる「強い観光地」の基礎となるのは、そこで暮らす人たちの豊かなライフスタイルです。そこにリアリティをもたらすためには地元ならではの生活文化や伝統風習、自然環境や景観の良さ、地場産業が提供する本格的な価値に裏打ちされたきめ細やかな商品や製品、サービスの提供が必要になります。

「  残念ながら日本の観光・リゾート地のほとんどは、そういった厳しいリピーター獲得競争を知らないまま、ひたすら一見客だけを相手に商売を続けてきました。特に高度成長期からバブル期、近年までずっと一拍だけの団体客メインでやってきたために、せっかく二泊、三泊と連泊を希望している個人のお客様に対して、二泊目以降の夕食を出せなくなってしまう旅館やホテルが未だに存在しています。もしくは、そういう個人客にも団体用のビュッフェスタイルの食事でごまかしています。

 経営的に見ればどう考えても長期滞在者の方がありがたいはずなのに、そういう一番大切な顧客を満足させるノウハウを持っていないのです。このことは、日本の観光業界において「リピーターあってこそのサービス業」というビジネスの常識すら共有されていない証拠と言えます。

 昔々、画一的な団体旅行が主流だった時代は、それでも問題なかったかもしれません。しかし、これだけ価値観が多様化し、インターネットでいくらでも情報が得られる時代、その手法が通用しないのは明らかです。実際、宿泊者数ではなく消費額ベースで見ると、団体客のシェアはすでに全体の約1割です。つまり業界の売上の約9割が、今では個人によって支えられています。しかし、そういう現実は理解していても、古いタイプの事業者というのは自らマーケティングをしてきた経験もありません。そもそも自分たちの魅力について真剣に考えたこともないため、どういう層のお客様にどのような商品提供や情報発信をすればよいかも分からないのです。その結果、やみくもな価格競争に巻き込まれてしまうケースが多くなってしまうのです。

(『観光立国の正体 』藻谷浩介・山田桂一郎)

 

 

観光立国の正体 (新潮新書)

観光立国の正体 (新潮新書)

 

 

 

(「観光客と留学生 『安くておいしい国』の限界」)

 元経済産業省官僚の古賀茂明はこう述べる。「日本には、20代、30代で高度な知識・能力を有する若者が、高賃金で働く職場が少ない。稼げないから、食べ物も安くなるのだろう」。古賀は米国で経営学修士を取って起業した若者のこんな声を紹介する。「日本に帰る理由を考えたけど、一つもなかった。強いて挙げれば、そこそこおいしいご飯がタダ同然で食べられることかな。(→当ブログによる解説→まともな金額ではない、ということです。一種の狂気的状況です) アメリカだと、日本の何倍もするからね」

 

 

(当ブログによる解説)

「日本には、高度な知識・能力を有する若者が、高賃金で働く職場が少ない。米国で経営学修士を取って起業した有能な若者にとって、日本に帰る理由が、ただ、そこそこおいしいご飯がタダ同然で食べられることしかない」とは情けないことです。

 有能な若者が厚待遇で働ける場がないということは、日本は、もはや、まともな先進国ではないということです。

 情けない状況と言えます。

 


(「観光客と留学生 『安くておいしい国』の限界」)

 一方で日本では、観光客だけでなく留学生も増えた。12年度の約16万人が、17年度には約27万人だ。もっとも世界全体でも00年の約210万人が14年の約500万人に伸びてはいるが、これまた日本の増え方には特徴がある。

 福岡日本語学校長の永田大樹はいう。「世界で活躍するには英語圏への留学が有利だが、日本は非英語圏で、日本語習得は難しい。それでも留学生が集まるのは、『働ける国』だからだ」。日本では就労ビザのない留学生でも週に28時間まで働ける。だが米国では留学生は就労禁止だ。独仏や豪州、韓国は留学生でも就労して生活費の足しにできるが、日本より時間制限が厳しい。そのため「日本に来る留学生の層は、おのずと途上国からの『苦学生』が多くなる」という。

 いま日本では年に30万人、週に6千人の人口が減っている。17年末の在留外国人は前年末から7%増えたが、外国人の労働者で就労ビザを持つ人は18%。残りは技能実習生、留学生、日系人などだ。受け入れ方が不透明なので、労災隠しなどの人権侵害も数多い。こうした外国人が、コンビニや配送、建設、農業など、低賃金で日本人が働きたがらない業種を支えている。

 


(当ブログによる解説)

 外国人は増加の一途を辿っています。

「  実は、そもそも日本が「移民」に門戸を開いていないという認識そのものが間違いだ 

と『コンビニ外国人』の著者・芹澤健介氏は指摘し、以下のように述べています。

 

「  政府は表向き、移民については「真摯に検討を進める」という立場で、「受け入れ」を認めてはいないという立場です。当然、法整備も整っていません。

 安倍首相も、「移民政策をとることは断じてありません」と何度も明言しています。でも、実際には日本で働く外国人は増えています。コンビニだけで数千人の外国人店員がいます。実は外国人の流入者数を見れば、すでに2014年の時点で経済協力開発機構(OECD)加盟国のうち、日本は世界第5位の「移民流入国」だという報告すらあるのです

(『コンビニ外国人』芹澤健介)

 


(「観光客と留学生 『安くておいしい国』の限界」)

 いま政府は、産業界の要請に応じ、実習生の滞在期間を延長したうえ、留学生の就労時間延長も検討している。その一方、政府が促進してきた「高度人材」の誘致は停滞したままだ。アジアの経済成長に伴い、実習生の募集は年々厳しくなっている。外国人で低賃金部門の人手不足を補う政策は、人権軽視であるだけでなく、早晩限界がくるだろう。

 外国人のあり方は、日本社会の鏡である。外国人観光客が喜ぶ「安くておいしい日本」は、労働者には過酷な国だ。そしてその最底辺は、外国人によって支えられているのである。

 私は、もう「安くておいしい日本」はやめるべきだと思う。客数ばかり増やすより、良いサービスには適正価格をつけた方が、観光業はもっと成長できる。牛丼も千円で売り、最低賃金は時給1500円以上にするべきだ。「そんな高い賃金を払ったら日本の農業や物流や介護がつぶれる」というなら、国民合意で税金から価格補助するか、消費者にそれなりの対価を払ってもらうべきだ

 そうしないと、低賃金の長時間労働で「安くて良質な」サービスを提供させるブラック企業の問題も、外国人の人権侵害も解決しない。デフレからの脱却もできないし、出生率も上がらないだろう。(→当ブログによる解説→低賃金が「少子化社会」の根本原因の一つです)

 日本の人々は、良いサービスを安く提供する労働に耐えながら、そのストレスを、安くて良いサービスを消費することで晴らしてきた。そんな生き方は、もう世界から取り残されている。

(「観光客と留学生 『安くておいしい国』の限界」 小熊英二/2018・5・31『朝日新聞』「論壇時評」)

 

 

(3)当ブログによる解説

 

 上記の「日本の人々は、良いサービスを安く提供する労働に耐えながら、そのストレスを、安くて良いサービスを消費することで晴らしてきた。」の部分は、悲哀に満ちた内容になっています。

 いじめられた子供が、さらに弱い子供をいじめる構造に似ています。

 異様で巧妙なガス抜き構造とも言えます。

 他の世界を見る余裕がないのでしょうか?

 「自己喪失」、「アイデンティティの崩壊」でしょうか?

 もともと、自己、アイデンティティがないのでしょうか?

 いずれにしても、日本人の素質の問題か、教育の失敗でしょう。

 

 「ある程度高くて高品質」、「安ければ、それなりのもの」。

 これが正当な判断です。

 「低価格高品質」の背景には、悲惨な歪みが存在していることを考察するべきでしょう。

 この考察は、それほどハイレベルな考察ではないはずです。

 生産者、販売者、消費者として「安くて良いもの」を追求する日本人は、「長期的視点」が決定的に欠けているようです。

 

 「長期的視点」(時間性)については、入試頻出著者・内田樹氏が『日本の反知性主義』(編・内田樹)に詳しく解説しているので、以下に紹介します。

 

 『日本の反知性主義』では、以下のように述べられています。

「  知性が知性的でありうるのは、それが「社会的あるいは公共的性格」を持つときだけである

「  社会性、公共性とは、過去と未来の双方向に向けて、時間的に開放されているかどうか、それが社会性・公共性を基礎づける本質的な条件だろうと私は思う

「  私は先に反知性主義の際立った特徴はその「狭さ」、その無時間性(→当ブログによる解説→「目先の利益」のみということです)にあると書いた。長い時間の流れの中におのれを位置づけるために想像力を行使することへの忌避、同一的なものの反復(→「同じ表情、同じ言葉づかいで、同じストックフレーズを繰り返し、同じロジックを繰り返すこと (本書P54)」)によって時間の流れそのものを押しとどめようとする努力、それが反知性主義の本質である

(『日本の反知性主義』編・内田樹)

 

 

日本の反知性主義 (犀の教室)

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  • 作者: 内田樹,赤坂真理,小田嶋隆,白井聡,想田和弘,高橋源一郎,仲野徹,名越康文,平川克美,鷲田清一
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 「時間性」(長期的視点)とは、内田氏によれば、「長い時間の流れの中におのれを位置づけるために想像力を行使すること」です。

 つまり、「想像力を駆使して、長期的に見ること」です。

 そのことが、内田氏のいう「過去と未来の双方向に向けて、時間的に開放されていること」なのです。

 そして、これこそが、真の「社会性」・「公共性」の本質的基盤なのです。

 この部分が、「一般的・常識的な『社会性』・『公共性』の理解」とは、大きく違う卓越した発想です。


 特に、日本人は、「時間性」(長期的視点で、ものを考える姿勢)に関しては、大きな弱点を有しているようです。

 その顕著な具体例が、地方の主要駅前の「シャッター商店街」です。

 見たことのある人は、皆、息をのみます。

 人通りの絶えた道、閉じられたまま、錆びついてしまったシャッター。

 もう何年間も、そのままなのでしょう。

 なぜ、その商店街は、そこまで完全に滅亡したのでしょうか?(

 

 商店街の経営努力不足もあったのでしょうが、何よりも、地元民が、その商店街を見捨ててしまったことが最大の理由です。

 たぶん、郊外の道路に面した、大駐車場完備の大企業系列の大型スーパーに通うようになったのでしょう。

  安さ、便利さ、大量の品揃え、それらは、全て魅力的なポイントです。

 それらに、ひかれて、そこに集まっていくというのも、ひとつの合理的な選択です。

 しかし、その結果として、何が発生したのでしょうか?

 

 地域経済の疲弊、地元雇用の減少、人口の減少。

 あげくには今や、「地方消滅」という概念、キーワードすら発生しています。

 「地方消滅」は、地元民の経済的活動だけが原因では、ないでしょうが、大きな要因です。

 今の自分たちの行動が、結果として何を発生させるのか?

 地元の商店街で日々の買い物をしない、食事もしない、地元産の農林水産物を買わない。

 それが地元経済の衰退を招来し、そして、地元の消滅。

 そんなことは、想像力を少し働かせれば、分かることです。

 ほんの僅かな「想像力」さえ働かせれば。

 

 「長期的視点」から、ものを考えるという「時間性」は、西欧では当然の「生活習慣」です。

 これは、伝統重視ということでもあります。

 だからこそ、フランスでも、イタリアでも、スペイン、ポルトガルでも、地元のカフェ、レストラン、地元の伝統的料理、地元産の農林水産物を大切にして、ひいては、自分たちを大切にしてきたのです。

 フランスの、歩道に大きくはみ出た、古くから続いているカフェの大量のテーブルと椅子。

 そこに、寛ぐ地元民たち。

 伝統を大切にし、自分たちを大切にしている賢明な人びとの、自信に包まれた安息が、そこには、あります。

 

 「地元の商店街を大切にすること」は、「自分たちを大切にすること」なのです。

 過去・未来について長期的視点を持って考えれば、こんな当たり前のことが、日本では一般的には通用しないのです。

 過去・伝統は、古臭くて、ほとんど無価値と考える極端な偏見すら、存在しています。

 今、盛んに議論されている「教育改革問題」に参加している論者の中には、そのような熱病的偏見にとりつかれたとしか思えない発言をする人がいるようです。

 国際化、グローバル化というマスコミの掛け声に踊らされて、右往左往する日本人。

 「完璧」ではなく、「適度」の「グローバル化」で良いのでは、ないでしょうか

 「完璧なグローバル化」は、「完璧な欧米化」と同義ですが、それで真に幸福になる日本人が、いったい、どれほど、いるのでしょうか。


 地元重視、日本の伝統重視という当たり前の視点は、いつの間にか、現代の日本人の脳内からかなり蒸発しているのでしょう。(それでも、最近は、地元重視、伝統重視の風潮が少し復活しつつあるのは、良い傾向だと思います)

 
 「長期的視点」から、ものを考えるという「時間性」の発想。

 これが経済中心主義、効率中心主義のアメリカでは、あまり尊重されません。

 アメリカを、お手本としつつも、それをさらに悪化させたのが、日本と言えそうです。

 

 これに対して、モーリス・ブランショ等のフランス現代思想を研究した内田氏は、フランス等の西欧の価値観をも学んだのでしょう。

 内田氏のいう「時間性」は、伝統重視、未来尊重の思想です。

 自己を、現在に存在するだけの一点と考えるのではなく、過去と未来をつなぐ直線上の一点と考える思想です。

 自己を「完全な孤立的存在」とは、考えません。

 従って、自己には存在理由があり、それと同時に、未来に対する責任もあります。
 

  内田氏は、現代日本の加熱気味のグローバル化から、日本の良き伝統を守るべく、この本書の編著者となったのでしょう。

 現在、日本はグローバリズムとの様々な軋轢の中で揺れています。

 そして、日本の一部の知識層は、「無秩序なグローバル化」に反対しています。

 が、もし、日本人の大部分が、内田氏の言うような形で反知性主義化しているのであれば、グローバル化の大波に翻弄されて、日本社会はいずれ崩壊するでしょう。

 もはや、今は、その過程に過ぎないのかもしれません。

 そうなれば、素直になりすぎた日本人は、日本の真の実相を知ろうという発想すらなく、その中でニコニコと「幸福」そうに生きていくのでしょう。

 これは、考えすぎでしょうか。

 
  ここで、入試傾向の話をします。

 「グローバル化と日本人」、あるいは、「日本人論」、「知性とは何か」、「伝統」は、入試現代文・小論文の頻出論点・テーマです。

 グローバル化が急速に進展して来た、ここ10年位は、出題率が増加傾向にあります。

 内田氏の論考の基本的方向性は、難関大学の入試現代文・小論文から見ると、まさに正統派です。

 「日本人の弱点」を徹底的に摘出して、日本人に反省を促す啓蒙的な論考が、難関大学の入試問題では、正統派なのです。

 

 

(4)当ブログにおける「グローバル化」関連記事の紹介

 

 グローバル化(国際化)は流行論点・頻出論点です。

 背景知識を貪欲に吸収するべきでしょう。

 

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 ーーーーーーーー

 

 今回の記事は、これで終わりです。

 次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

 ご期待ください。

  

  

 

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

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5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

 

 

 私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。

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予想問題/「胆力について」『私の身体は頭がいい』内田樹/驚く人

(1)はじめに/なぜ、この記事を書くのか?

 

  「胆力」「驚くこと」「驚くけど驚かないこと」は、入試頻出論点であり、人生の重要課題の一つです。

 人間の「胆力」を考える上で、秀逸な論考(「胆力について」『私の身体は頭がいい』内田樹)がありますので、この記事で解説します。

 

 入試頻出著者・内田樹氏のメインテーマは、「成熟とは何か」「大人になるとは、どういうことか」です。

 内田氏は、このメインテーマに関連した著作を、最近でも何冊も発行しています。

 

 「胆力」は、内田樹氏のメインテーマである「成熟とは何か」「大人になるとは、どういうことか」に密接に関連しているのです。

 内田氏は、「胆力」に関連した著作を、最近、何冊も発行しています。

 内田氏のブログ(『内田樹の研究室』)でも、「胆力」のテーマ・論点に関連した記事が多いようです。

 そこで、上記の論考(「胆力について」『私の身体は頭がいい』)を 、内田氏の他の著作、ブログ記事

(『内田樹の研究室』)を参照しつつ、解説することにします。

 

 なお、今回の記事の項目は以下の通りです。記事は約1万字です。

 

(2)予想問題/「胆力について」『私の身体は頭がいい』内田樹

(3)補充説明①/「胆力の内容」①

(4)補充説明②/「胆力の内容」②

(5)補充説明③/「胆力は計測不可能ということ」について

(6)補充説明④/「胆力」をつけるために

(7)補充説明⑤/「危機管理」における「胆力」の必要性

(8)当ブログにおける「内田樹」関連記事の紹介

 

 

私の身体は頭がいい (文春文庫)

 

 

(2)予想問題/「胆力について」『私の身体は頭がいい』内田樹


(問題文本文)(概要です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です) 

   

(「胆力について」本文)

「胆力」というのは簡単に言えば「びっくりしない」ということである。

 生物は「びっくりする」とその身体能力が急激に低下する。感覚も判断力も想像力もすべて鈍磨する。非常に弱い動物の場合は、びっくりしただけで死んでしまうことだってある。

 だから「驚かない」ということは生物の生存戦略上たいへん大切なことなのである。

 では、どうやったら「驚かない」ようになるのか。

 これが矛盾しているように聞こえるであろうが、「驚く」ことによってなのである。

 かつてロラン・バルドは真に批評的な知性の本質は驚く能力に存すると書いたことがある。考えてみれば当然のことだけれど、「何を見ても驚かない」というのは、要するに知性が鈍感だということである。自分の枠組みにしがみつき、どんな出来事に遭遇しても、「あ、これは『あれ』ね」と既知に還元して説明できてしまう人間は、たしかに驚くことが少ないだろう。けれども、その代償として、そのような人は決して未知に遭遇することができない。世界のすべての事象が既知のものはであり、出会うすべてのものの意味をあらかじめ知っているとしたら、それはたしかに心安いだろう。けれども、それはそれで危険な生き方のような気がする。「人間、尽きるところ、色と慾よ」と言ってはばからないタイプの人がこれに当たる。

 その反対に、日常経験することのいちいちに、あたりまえの事象のうちに「あれ? 何だろうこれは?」とひっかかりを感じ、何にでも「驚き」の種を見つけることができる人がいる。「あれ? どうして甲陽園とか苦楽園とか甲東園とか甲子園とか香炉園とか・・・・西宮市には『園』のつく駅名が多いんだろう? 不思議だなあ」と思う人と、そういうことにまるで気づかない人がいる。

 西宮市内の駅名に「園」の名が多いことが気になる人は、やがて小林一三という人物がどのようにして箕面有馬電気軌道の敷設から始めて、阪急百貨店、宝塚歌劇などのアミューズメント・センターを核とした田園都市構想を立てたかをしるだろう。

 「え? これ何なの? どうして?」という驚きが知的探究を動機づける。

 

 

 (当ブログによる解説)

 「驚く」能力とは、「問題発見能力」ということです。 

 ここでは、「センス・オブ・ワンダー」の重要な価値を再認識する必要があります。

 「センス・オブ・ワンダー」とは、一定の対象に触れることで受ける、ある種の不思議な感動・心理的感覚を表現する概念・用語です。

 「センス・オブ・ワンダー」の価値については、レイチェルの最後の著書『センス・オブ・ワンダー』で丁寧に述べられているので、以下に引用します。


「子どもたちの世界は、いつも生き生きとして新鮮で美しく、驚きと感激にみちあふれています。残念なことに、わたしたちの多くは大人になるまえに澄みきった洞察力や、美しいもの、畏敬すべきものへの直感力をにぶらせ、あるときはまったく失ってしまいます。もしも、わたしが、すべての子どもの成長を見守る善良な妖精に話しかける力をもっているとしたら、世界中の子どもに、生涯消えることのない『センス・オブ・ワンダー=神秘さや不思議さに目をみはる感性』を授けてほしいとたのむでしょう。

 この感性は、やがて大人になるとやってくる怠慢と幻滅、わたしたちが自然という力の源泉から遠ざかること、つまらない人工的なものに夢中になることなどに対する、かわらぬ解毒剤になるのです。」

「  地球の美しさと神秘を感じとれる人は、科学者であろうとなかろうと、人生に飽きて疲れたり、孤独にさいなまれることはけっしてないでしょう。」(『センス・オブ・ワンダー』レイチェル・L.カーソン)

 

 

センス・オブ・ワンダー

センス・オブ・ワンダー

 

 

 

 古代ギリシャの哲学者プラトン、および、その弟子のアリストテレスは、哲学の起源は「驚くこと」である、と言っています。

 プラトン、アリストテレスが言う「驚くこと」は、「能動的な驚き」でしょう。

 哲学者は、多くの人々が「常識」・「当然」と考えていることにも、能動的に驚くことができる人なのです。

 プラトンは『テアイテトス』の中で、自分の師のソクラテスの発言として、次のように記述しています。


「なぜなら、実に、その驚異(タウマゼイン)の情(こころ)こそ知恵を愛し求める者の情なのだからね。つまり、求知(哲学)の始まりはこれよりほかにはないのだ。」 (『テアイテトス』プラトン/ 田中美知太郎訳 )

 

 

テアイテトス (岩波文庫)

テアイテトス (岩波文庫)

 

 

 

 プラトンの弟子であるアリストテレスは、『形而上学』の中で、「哲学と驚異」の関係を次のように述べています。


「けだし、驚異することによって人間は、今日でもそうであるがあの最初の場合にもあのように、知恵を愛求し(哲学し)始めたのである。ただし、その始めには、ごく身近の不思議な事柄に驚異の念を抱き、それからしだいに少しずつ進んで遥かに大きな事象についても、疑念を抱くようになったのである。たとえば、月の受ける諸相だの太陽や星の諸態だのについて、あるいはまた全宇宙の生成について。」 (『形而上学』アリストテレス/出隆訳 )

 

 

形而上学〈上〉 (岩波文庫)

形而上学〈上〉 (岩波文庫)

 

 

 

 「哲学の根本」が「驚き」であるという見解は、近代や現代文の哲学者たちも主張しています。

 たとえば、キルケゴール、ヘーゲル、ハイデッガーなどです。

 

 

私の身体は頭がいい (文春文庫)

私の身体は頭がいい (文春文庫)

 

 


(「胆力について」本文)

「驚かない人」は自分の前にある現実を現実としてそのまま受け入れる。だから、どのような歴史的所(しょよ)(→)に条件づけられ、どのような偶然によって、その現実が現実になったのかを探ろうという気にならない。

「驚かない人」というのは言い換えれば、世界は「このようになるべくしてなっている。」というある種の宗教的信憑(しんぴょう)(→)性のうちに安らいでいるのである。

 「驚く人」はそうではない。

    「驚く人」というのは、私達は「この現実とは違う現実」を生きる可能性もあったのだという事を想像することができる人である。「この現実とは違う現実もありえたのでは・・・・」と思えるからこそ、目の前の現実に「何か、ちょっと変かな」という違和感も覚えるのである。

 なぜ、ある出来事が起こり、そうでない出来事は起こらないのか? どうして、「この現実とは違う現実」の可能性について人々は進んで語ろうとしないのかのか?

 そのような発想をする人が「驚く人」である。

 「驚かない人」は世界には秩序があり,「神の見えざる手」がただ一つの最良の可能性だけを選択し続けていると無意識のうちに信じ込んでいる。

 「驚く人」は世界が「今のようではなかった」無限の可能性があることを感知している。だから、どこに分岐点があったのか、どのような「一撃」によって、現実は「このように」なり、「それとは違うように」ならなかったのかについて想像をめぐらせる。

 さて,ここで驚天動地の大事件が起きたときに、「肝を潰す」のはどちらだろう。より適切に対処できるのはどちらだろう。

 当然、「驚くこと」に慣れている人間である。というのは、この人にとって「驚く」ことは主体的、能動的に選び取られた世界とのかかわりの基本姿勢だからである。

 だから、「驚く人は驚かされない」。

 その逆に、日頃その堅牢で鈍重なフレームワーク(→「枠組み」という意味)のなかに安住している人は、よほどのことがないと驚かない代わりに、その人が驚くときというのは、そのフレームワークが「壊れた」ときであるからパニックに陥る。何の準備もなく、いきなり丸裸で、想像を絶した命がけの事件に直面させられることになるのである。

 だから、「驚かない人は、驚かされる」。

 


(当ブログによる解説)

 上記の「その人が驚くときというのは、そのフレームワークが「壊れた」ときであるからパニックに陥る。何の準備もなく、いきなり丸裸で、想像を絶した命がけの事件に直面させられることになるのである。」

 の部分の「パニック」を、内田樹氏は「居着き」と表現しています。

 

 これは、「真に驚いた瞬間に全身が硬直してしまう状態」を、武道の世界で「居着き」と言うことに、由来しています

 「居着き」については、以下の内田氏の解説が明快です。

「先手を取る」ということばを「相手より早く動く」ことと理解している人がいるけれども、これは正確ではない。武術的な意味での「先手」は物理的な速度や時間とは関係がないからである。

目の前にいる人が「そうすることによって何をしようとしているのかがわからない」ときに、私たちは頭上に「?」を点じたままに、その場に凍り付いてしまう。これが 「居着き」と呼ばれる状態である。

 「居着く」というのは、「相手は次にどう出るのか?」という待ちの姿勢に固着してしまうことである。一度、この状態に陥ったものは相手から「答え」が届くのをひたすら待つことしかできなくなる。これが「先手を取られる」という必敗の様態なのである。

(「勝者の非情・弱者の瀰漫」『内田樹の研究室』2005年9月13日)

 

 次の内田氏の解説も、参考になります。

 ぜひ、熟読してください。

「  武道における「隙」というのは文字通り空間的・時間的な「隙」のことであり、また「心の隙」のことである。身体の隙も心の隙も、居着きによってもたらされる。身体の一部の過緊張は他のどこかの部位の過弛緩をもたらし、思念の一点への居着きも隙を作る。

 居着くというのは、点としての入力に点として「反応」することであり、これは自他を含む場全体を平らかに「観察」することを妨げる。観察とは時間の流れ、場の布置におけるおのれの位置を鳥瞰的に把持することである。これは武道において最も重要な能力である。どれほど凄まじい攻撃であっても、その一瞬前にその場を通り過ぎていれば、その一寸遠くに身をかわしていれば、人を害することができない。

 それゆえ、武道では「機」と「座」を重く見る。

「機」とは「しかるべきとき」のことであり、「座」とは「しかるべき場所」のことである。その時以外にありえないような必然的な時に、その場以外にはありえない必然的な場において、果たすべきことを果す。それが兵法修業のめざすところである。

(「機と座」『内田樹の研究室』2017年10月12日)

 

 

(「胆力について」本文)

 胆力をつけるというのは、「危機に臨んで肝を潰さない」ための訓練のことである。

 私たちが学問研究をし、武道の稽古をするのは、煎じ詰めれば、「胆力をつける」ためである。

 「この現実とは違う現実の可能性」について、つねに想像をめぐらせ、「そうありえた現実の可能性」をできるだけ多く列挙しうること、これは学術的知性の条件

である。

 武道の稽古では「命がけの局面」というものを想定して、そういう場合に心身はどういう反応をして、どのように判断力や身体能力が低下するか、ということを繰り返しシミュレートする。そして、そのシビアな「能力低下のシミュレーション」に想像的に身体をなじませてゆきながら、それを生き延びる技術を学習するのである。

 驚く経験を自主的に積み重ねることによって、驚かされない心身を構築すること、それが多田先生のおっしゃっている「胆力をつける」ということの意味だと私は勝手に解釈している。

 胆力がある人というのは、ぼけっとした鈍感な人間のことではない。

 世界の唐突な崩壊、自分の生命の不意の終わりを、当然の可能性としてつねに勘定に入れている、想像力に富んだ人間のことなのである。

(「胆力について」『私の身体は頭がいい』内田樹)

 


(当ブログによる解説)

 本文の冒頭部分の解説をします。

「  「胆力」というのは簡単に言えば「びっくりしない」ということである。

 生物は「びっくりする」とその身体能力が急激に低下する。感覚も判断力も想像力もすべて鈍磨する。非常に弱い動物の場合は、びっくりしただけで死んでしまうことだってある。

 だから「驚かない」ということは生物の生存戦略上たいへん大切なことなのである。

 では、どうやったら「驚かない」ようになるのか。

 これが矛盾しているように聞こえるであろうが、「驚く」ことによってなのである。

 の部分は、重要な内容を含んでいます。

 特に重要なのは、最後の二つの文です。

 一見「矛盾」していることの中に、真理があるということです。

 このことは、よくあることなのです。

 

  「驚くけど驚かない」、「矛盾を矛盾のまま矛盾なく取り扱う」については、『身体を通して時代を読む』の中の、甲野嘉紀氏と内田氏の対談が分かりやすいので、以下に引用します。

 

甲野/私は武術を「矛盾を矛盾のまま矛盾なく取り扱う」と説いています。武術家はすごく敏感でなくてはいけないのですが、それと同時に、驚かない、動じないというのは、ある面からすれば鈍いとみえるような対応も必要なことですからね。

 つまり、生起するさまざまな状況に振りまわされないためには、矛盾した存在であることが必要だということです。

内田/そこがむずかしいところだと思うんです。胆力は「驚かないこと」だというと、鈍感になることだと勘違いする人がいます。鈍感な人間というのはたしかに細かいシグナルには反応しないので、ふだんは泰然自若としている。でも、生死の境のようなところで起きる地殻変動的な衝撃には対処できない。ある日いきなり「驚愕の閾値」を超えた入力がドカンと入ってくると、これまで「驚いたこと」がないので、「驚き方」がわからない。こういう人は「驚かされる」。変化に対して受け身になっている。

 それに対して敏感な人というのは、毎日毎時あらゆる新しい入力があるたびに「驚いている」。だから、「驚き方」に精通してくる。こういう人は、「驚く」けれど、もう「驚かされない」。「驚く」という動詞が能動態となっていて、受動的なものとしては経験されない。

 だから、日常的なフレームが壊れるような激動に際会しても、きちんと「驚いて」対処できる。胆力というのはどういうことじゃないかと思うんです。

 まめに驚く人間はあまり驚かされない。矛盾してますけど。

(『身体を通して時代を読む』甲野嘉紀・内田樹 )

 

 

身体を通して時代を読む―武術的立場 (文春文庫)

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身体を通して時代を読む (木星叢書)

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(3)補充説明①/「胆力の内容」①

 

 

  「胆力」の類語は、勇敢、胆っ玉(きもっ玉)、 根性、度胸、豪勇さ、勇猛、勇気、剛毅、気概です。

 ただ、「胆力」を背景にしているだけに、「胆力の内容」は、少々、分かりにくい側面があります。 

 以下の内田氏の説明を熟読すれば、理解が進むはずです。

💙💙胆力=時間意識→リラックス「この球は唯一無二の一球なり」『内田樹の研

「  リラックスを担保する心的条件は『胆力』です。

 『胆力』というのは端的に言えば、『時間意識』です。

 『自分が死んだとき』まで想像力を延長して、そこから今の自分を回顧する『逆流する時間意識』をもつ人間はあまり驚いたり、不安になったりしません。

 武道の場合は、そのつど『死ぬこと』を想定して、想像的に死んだ時点から動きを反省的に構築するわけです。

 別に形稽古の最中に死ぬわけではなく、ほんとうにあと何十年かあとに死んだときの自分を想定して、そこから現在の自分が 『ここにいて、ある動きをしていること』の歴史的必然性を見いだしてゆく、という手順を踏みます。

 つまり、『ただしいときに、ただしい場所で、ただしいやり方』で生きている 、ということについて確信が持てるならば、そのとき自分がしている動きは完全にリラックスしているベスト・パフォーマンスのはずなのです。

 オレはこんなところでこんなことやってていいんだろうか? というような疑問を抱いている人間のパフォーマンスが高いということは論理的にありえません。

 (「この球は唯一無二の一球なり」『内田樹の研究室』2005年4月8日)

 

 上記の説明は、胆力を「時間意識」、「死」、「人生」の視点から分析していて、分かりやすいと思います。

 武道は「死ぬこと」を前提としていることを考えれば、上記の説明は、きわめて妥当です。

 

 

(4)補充説明②/「胆力の内容」②

 

 次の成瀬雅春氏と内田樹氏の対談は、「胆力の内容」に関連しています。

 ぜひ、参考にしてください。

 

「  成瀬/ヨーガをきわめようと思えば、胆力を練らないといけない。なぜかといえば、生き抜く覚悟、死ぬ覚悟というものに直結しているからです。どんな情況にあっても、「ここを生き抜く」という胆力は、技術的なものよりずっと大切なんです。

内田/多田宏先生(内田氏の合気道の師匠)も、よく「胆力」という言葉をお使いになります。同じ意味で 「断定する」ということも言われます。

 自分が、あるとき、ある場所にいて、何かをしているときには、「私がここにいることは、宇宙が始まって以来宿命づけられていた必然の出来事である」と断定しなければいけない

 「胆力」というのは別に「負けないぞ!」と力むことじゃないんです。断定することなんです。

(『身体で考える』内田樹・成瀬雅春 )

 

 

身体で考える。

身体で考える。

 

 

 

(5)補充説明③/「胆力は計測不可能ということ」について

 

 胆力は、計測不可能です。

 従って、近代的な教育プロセスの対象になりにくい、という視点も重要です。

 この点について、内田氏の以下の指摘は、興味深いです。

 

 「胆力」というのは、つよいストレスに遭遇したとき、その危地を生き延びる上で死活的に重要な資質だが、それは危機的状況にあっても「ふだんと変わらぬ悠揚迫らぬ構え」をとることができるという仕方で発現される。

 つまり、外形的に何も変わらない、何も徴候化しないということが胆力の手柄なのである。だから、「チカラ」をもっぱら外形的な数値化できる成果や達成によって計測することの望む人の眼に「胆力」はたぶん見えない。

 当然ながら、彼らは「胆力を練るための教育プロセス」というようなものについては考えない。

 そのようなものがありうるということさえ考えない。

(「言葉の力」『内田樹の研究室』2010年5月14日)

 

 

(6)補充説明④/「胆力」をつけるために

 

 

 胆力をつけるためには、胆力をつけさせるには、どうしたらよいのでしょうか?

 これは、アイデンティティの確立、教育の場面における重要なポイントです。

 内田氏は、以下のように述べています。

 かなり説得力のある見解です。


「  日本のスポーツ界は「日本の旧軍型」の心身開発体系を採り入れた。でも、この追い詰め型教育には深刻な難点がある。

 それは「胆力」がつかないことです。

 たしかに人間を追い詰めると、恐怖や苦痛や不条理に対して「鈍感」にはなる。でも、入力に対して鈍感になることと「胆力がある」ことは違う。

 胆力があるというのは、極めて危機的な状況に陥ったときに、浮き足立たず、恐怖心を持たず、焦りもしないこと。どんなに破局的な事態においても、限定的には自分のロジックが通る場所が必ずあると信じて、そこをてがかりにして、怒りもせず、絶望もせず、じわじわと手をつけてゆく。とんでもなく不条理な状況の中でもむりやりに条理を通していく。胆力とはそういう心構えではないかと僕は思っているんです。

 頭に血が上って鬼になってしまうということと胆力があるということは方向がまったく違う。

 僕は日本型教育の最大の問題は、人を鈍感にはするけれど、胆力がつかないことにあるんだと思う。それが現代の日本人にいちばん欠けているものですよね。

 胆力を鍛えるというのはたぶん幕末から明治初期までの教育では重要なプログラムだったと思うんです。でも、それから後は体系的には整備されていない。「追い詰めて鬼にする」型の教育プログラムの方が短期的には効果があるから、時間的余裕がなかった近代日本は修羅場で鼻歌まじりに「ふつう」にふるまうにはどうすればいいか、というノウハウの開発には教育資源を投じてこなかった。

 どうすればいいのか。僕は10年くらい前からそのことをずっと考えてるんです。合気道に限らず、学問においても、若い人にはどうも胆力がない。

 スマートな知性は備えているんだけれど、学問の世界だったら、すぐに権威や査定を怖がる。そして、怖がったあげくに自分自身をミニチュアの権威や査定者に造型し直して、「恐怖させる側」に回り込もうとする。オリジナルな学者がさっぱり出てこない理由の一つは、若い人が権威を怖がり過ぎていることがあると思う。胆力がないんですよ。

 胆力をつけるという教育課題において、僕がいつも念頭においているのは、「その人が生まれつき持っているキャラを強める方向に伸ばす」ということ。やたらゲラゲラ笑う子に対しては「もっと笑え」という方向に持っていく。静かで内省的な子に対してはさらに内省的になるように促す。その人のキャラを加速させること、とにかく自分が人より過剰にもっている点を「いいところ」だと思い込めることが、胆力をつける上でもとても有効だと思うんですよね。

(「器に合わせすぎては、学びは起動しないのです」内田樹 2009年11月25日『現代ビジネス』講談社)

 

  内田氏の主張は、胆力を養成するためには、要するに、自己確信を得ること、自信を得ることが必要だ、ということです。

 


(7)補充説明⑤/「危機管理」における「胆力」の必要性

 

 現在、様々な場面で、「危機管理」の重要性が注目されています。

 実は、「危機管理」においてこそ「胆力」が必要不可欠なのです。

 このことについて、日本社会、日本人は、悲しいことに、まるで無自覚のようです。

 この悲劇、喜劇、幼児性について、内田氏は、以下のように痛烈に批判しています。

 内田氏の見解によれば、現代の日本の閉塞的状況の根本原因の一つは、エリート層の「胆力」不足にあるようです。

 

「 もう一つ、火力発電から原子力発電へのシフトに「地球温暖化キャンペーン」が深く関与していたこともここで指摘しておく必要があるだろう。

 炭酸ガスが排出されると地球環境は壊滅的な被害を受けるというあのキャンペーンは「炭酸ガスを出さない、安全でクリーンなエネルギー」である原子力発電への評価をじりじりと押し上げた。だが、「北極のシロクマさんのために」火力発電を止めて原発に切り替えると、今度は「日本の人々」が放射性物質の被曝を恐れなければならないリスクが発生しますということを「温暖化キャンペーン」に携わった人たちは誰もアナウンスしなかった。炭酸ガスが増えると、光合成がさかんになって植物が繁茂し、炭酸ガスの吸収が進み、濃度を下げる。そういうふうにして自然界はバランスを取っている。けれども放射性物質については、そんな牧歌的なバランスは存在しない。

《危機時に「正解」はない》

 ここまでは震災「以前」の危機管理について述べてきた。実際に災害が起きた「以後」の東電と政府の対応についても、私たちは人災的な瑕疵を指摘しないわけにはゆかない。

 危機管理の条件は「ありもの」しか使えないということである。手元にある資材、人材、資源、そして時間しか使えない。その中でやりくりしなくてはいけない。それは危機の時には「正解がない」ということである。危機的状況というのは、必要な資材がなく、必要な人員がなく、必要な情報がなく、必要な時間がないということである。いちばんきびしいのは「時間がない」ということである。とくに原発事故の場合は、放射性物質がいったん漏出し始めると、人間がそこにいって作業できなくなるから「打つ手」が一気に限定される。今なら選択できるオプションが一時間後には選択できなくなるということがありうる。その場合の「今できるベスト」は「正解」とはほど遠いものとなる。

 けれども、日本のエリートたちは「正解」がわからない段階で、自己責任・自己判断で「今できるベスト」を選択することを嫌う。これは受験エリートの通弊である。彼らは「正解」を書くことについては集中的な訓練を受けている。それゆえ、誤答を恐れるあまり、正解がわからない時は、「上位者」が正解を指示してくれるまで「じっとフリーズ(→「凍結。凍りつく」という意味)して待つ」という習慣が骨身にしみついている。彼らは決断に際して「上位者の保証」か「エビデンス(論拠)」を求める。自分の下した決断の正しさを「自分の外部」に求めるのである。仮に自分の決断が誤ったものであったとしても、「あの時にはああせざるを得なかった」と言える「言い訳の種」が欲しい。「エビデンス(論拠)とエクスキュース(言い訳)」が整わなければ動かないというのが日本のエリートの本質性格である。良い悪いを言っているわけではなく、「エリートというのは、そういうものだ」と申し上げているのである。

 だから、危機的状況にエリートは対応できない。もともとそのような事態に備えて「須要(しゅよう。すよう)(→「欠くことができないこと。必須(ひっす)」という意味)の人材」として育成されたものではないから、できなくて当たり前なのである。だから、「そういうことができる」人間をシステム内の要所要所に配備しておくことが必要なのである。「胆力のある人間」と言ってもよい。資源も情報も手立ても時間も限られた状況下で、自己責任でむずかしい決断を下すことのできる人間である。

 「胆力がある」ということは別に際だった知的・人格的資質ではない。「胆力のある人間」は「胆力のある人間を育成する教育プログラム」によって組織的に育成することができる。例えば武道や宗教はほんらいそのためのものである。けれども、日本の戦後教育は「危機的状況で適切な選択を自己決定できる人間」の育成に何の関心も示さなかった。教育行政が国策的に育成してきたのは「上位者の命令に従い、マニュアル通りにてきぱきと仕事をする人間」である。それだけである。

 たぶんこの後、次第にあきらかにされると思うけれども、事故の現場には「今はこうするのがベストだ。すぐに動こう」という具体的提案をした人がいたと私は思う。現場の人間は「正解」を待つことなく、「今できる最適のこと」を選ぶ訓練を受けている。でも、「上の人間」がその決断にストップをかけた。「軽はずみに動くな。上からの指示があるまで待て」ということを言った人間が必ずいたはずである。そして指示を求められた「上の人間」はまたさらにその「上の人間」に指示を仰いだ・・・・そんなふうにして初動の貴重な数時間、数十時間が空費され、事故は手の付けられないところまで拡大していった。

(「阪神・淡路大震災との違いは『人災』であること」 内田 樹『中央公論』2011年5月号)

 

 

(8)当ブログにおける「内田樹」関連記事の紹介

 

 

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 ーーーーーーーー

 

 今回の記事は、これで終わりです。

 次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

 ご期待ください。

 

   

 

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

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予想問題/『困難な成熟』「責任を取ることの意味」内田樹/倫理

(1)はじめに/なぜ、この記事を書くのか?

 

 現代の世界、アメリカ、日本社会においては、「責任」・「倫理」をめぐる議論は、やむことを知りません。

 現代文明は、崩壊の危機に直面しているのでしょうか。

 「政治」、「行政」、「経済」、「社会」等の様々な分野に、酷い脱法行為、モラルハザード、無責任が蔓延している今、「責任」概念の沿革、本質、意義を見直す必要があります。

 

 「責任」には、「法的責任」、「道義的責任」、「社会的責任」等があります。

 「責任」・「倫理」は、入試頻出論点であり、「人生」の重要課題の一つです。

 

 「責任」・「倫理」を考える上で、秀逸な論考(「責任を取ることの意味」『困難な成熟』内田樹) が最近発表されたので、現代文(国語)・小論文対策として、この記事で解説します。

 

 前回の記事に続けて、『困難な成熟』に関連した記事になります。

 

 入試頻出著者・内田樹氏のメインテーマの一つは、「責任」・「倫理」です。 

 これは、内田樹氏のメインテーマである「成熟とは何か」「大人になるとは、どういうことか」に密接に関連しているのです。

 内田氏は、この、「責任」・「倫理」に関連した著作を、最近、何冊も発行しています。

 内田氏のブログ(『内田樹の研究室』)でも、このテーマに関連した記事が多いようです。

 そこで、上記の論考(「責任を取ることの意味」『困難な成熟』)を、内田氏の他の著作、ブログ記事を参照しつつ、解説することにします。

 

  

困難な成熟

困難な成熟

 

 

 

(2)予想問題/「責任を取ることの意味」『困難な成熟』 内田樹/倫理

 

(本文)

(概要です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です) 

 

「「責任を取る」とはどういうことでしょうか。ニュースを眺めていると、テレビでもネットでも、不祥事を起こした企業や個人に対する「責任を取れ」という言葉が溢れています。しかし、人の死にかかわることや、原発事故など、個人のレベルをはるかに超えた問題について、人はどう責任を取ればいいのでしょうか。


《答えはシンプル》
「責任を取る」とはどういうことか。これは僕にとってはストライクゾーンど真ん中の質問です。というのも、「責任論」というのは、僕の師匠であるところのエマニュエル・レヴィナス先生の哲学の最大の主題であったからであります。ということはつまり、僕はレヴィナス先生に「弟子入り」宣言をなした1987年から四半世紀にわたり「責任」について考え続けてきたということになります。

 ですから、問いに対する僕の答えはシンプルです。でも、その理由を語るためにはいささか長い紙数が必要になります。

 問いはこうでした。「責任を取るということは可能でしょうか?」

 答え、「不可能です」

 以上。おしまい。

 シンプルですよね。でも、どうして責任を取るということが不可能なのか、その理路を語るためには、ずいぶん長いお話に付き合ってもらわなければなりません。そのご用意はよろしいかな。では、話を始めます。

 

《「ごめん」で済む話はない》

 人を傷つけたり、人が大切にしているものを損なったりした場合、それを「復元する」ということは原理的に不可能です。

 仮にすばらしく医学が発達していて、多少の怪我なら死者でも蘇生させることができる世界があったとします。そこで、誰かがあなたを殺しました。それもけっこうえげつないやり方で。斧で首を切り落とすとか、チェーンソーで胴体まっぷたつとか。でも、すぐに病院に運び込んだら、失血死した死者を医師たちがさくさくと縫い合わせて、傷跡をきれいにして、どんと心臓に電気ショックを送ったら、あなたは無事に蘇生しました。病院に運んだりする手間はぜんぶ殺人者が整えてくれました。もちろん、医療に要した費用も彼が払いました。

 さて、この場合、「いったん殺したけれど、きれいに元通りにしたから、これでチャラね」と殺人者が言ったとして、あなたはそれを許せますか?

もし、責任を取るというのが、「損なわれたものを原状に復す」ということを意味するなら、この殺人者はたしかに責任を取ったことになる。

 でも、「冗談じゃない」と皆さんは思うでしょう?

 斧で首を切られて殺されたときの不快感と絶望感は、傷跡が生理学的にどれほどきれいに縫い合わされたからと言って、それで消えるものじゃない。その経験は人間の深いところにある、何かピュアで無垢なものを取り返しのつかないしかたで壊してしまった。そこで失われたものはどんな手立てを尽くしてももう復元できません。

 別にそこまで極端な例を挙げなくても、ふだんの生活でも、復元というのは不可能だということはわかりますね。

 あなたが配偶者とか恋人に向かって「あなたのその性根の卑しいところが私は我慢できないの」とか「おまえさ、飯食うときに育ちの悪さが出っからよ、人前でいっしょに飯食うのやなんだよ、オレ」とか、そういうめちゃくちゃひどいことを言ったとします。でも、言ったあとに「これはあまりにひどいことを申し上げた」と深く反省して、「さっきのなしね。ごめんね。つい、心にもないことを言ってしまって・・・・」と言い訳しても、もう遅いですよね。もう、おしまいです。復元不能。

 世の中には、「ごめん」で済む話もあれば、「ごめん」で済まない話もある。そして、たいていの話は(満員電車の中で足を踏んじゃったとかいう、ほんとうにささいな事例以外は)「ごめんじゃ済まない」話なんです。足踏まれたくらいでさえ、「てめ、このやろう」と逆上して、刺しちゃう奴とかいるくらいですから。

 「ごめんで済む話」はこの世にない、と。そう思っていいたほうが無難だと思います。

 


(当ブログによる解説)

 私達の行動や発言は、案外、影響力があります。

 従って、行動や発言に注意せよ、ということです。

 「口は災いの門」という諺もあります。

 

 

(予想問題/「責任を取ることの意味」『困難な成熟』 内田樹)

《「眼には眼を、歯には歯を」という知恵》

 「ごめん」で済む話はない。どのような損害であれ、それを原状に復元して、「なかったこと」することはできない。そういうことです。ですから、「もう起きてしまったこと」について「責任を取る」ということはできません。原理的にできないのです。もう起きちゃったんだから。

 だから、人が不始末を犯したときに、「おい、どうすんだよ。責任取れよ」と凄んでいる人がいますけれど、あれは「私がこうむった損害について、あなたが原状回復をなすならば、すべては『なかったこと』にしてあげよう」と言っているわけじゃないんです。「どうすんだよ、お前、こんなことしやがって。どうやって責任取るんだよ。でも、おまえがどのようなかたちで責任を取ったつもりになろうしても、オレは『それでは責任を取ったことにはならない』と言うからね」と言っているんです。

 だからこそ、「眼には眼を、歯には歯を」という古代の法典が作られたのです。

 これは「同罪刑法」と呼ばれるルールですが、別にこれは未開人が考え出した残虐な法律というわけではありません。逆です。

 どこかで無限責任を停止させなければならないので、法律で「これ以上は責任を遡及してはならない」という限度を定めたのです。

 人に眼を抉られた人間には、相手の眼を抉る権利があるということを言っているのではありません。逆です。「人に眼を抉られた人間は、相手の目を抉る以上の報復をなしてはならない」と、復讐の権利の行使を抑制しているのです。

 実際には、眼を抉られた人の視力は、加害者の眼を抉ったことで回復するわけではありません。目は見えないままだし、痛みは消えないし、容貌だってずいぶん損なわれてしまった。でも、そういう損害は、相手の目を抉っても、何一つ回復されない。

 だから、「責任を取る」とは「原状に回復すること」であるというルールに基づけば、「眼には眼を」というのは、全然「原状回復」じゃない。だから、責任を取ったことにはならないのです。

 同罪刑法が教えているのは、どのようなことであれ、一度起きてしまったことを原状に復することはできないということです。人間は自分がひとたび犯した罪について、これを十分に償うということが決してできない。

 同罪刑法は、「責任を取ることの不可能性」を教えているのです。人間が人間に加えた傷は、どのような対抗的暴力を以ても、どのような賠償の財貨を以ても、癒やすことができない。「その傷跡からは永遠に血が流れ続ける」とレヴィナス先生は『困難な自由』に書いています。

 


(当ブログによる解説)

 砂漠地域には、レックス・タリオニス(lex talionis)、つまり同罪刑法、同害復讐法がありました。

 タリオニスという単語は、「同じ」を意味するタリス(talis)(ラテン語)に由来しています。

 この律法は『出エジプト記』(旧約聖書の二番目の書)に記述されています。

「もし人があい争って、害を与えたときには、命には命で、目には目で、歯には歯で、手には手で、足には足で、やけどにはやけどで、傷には傷で、打ち身には打ち身で償わなければならぬ」(『出エジプト記』)
 
 この律法は、一般的には「復讐の法」であると解釈されています。

 しかし、これは実際には「正義の法」です。

 すなわち、砂漠の民に、犯罪人を罰する時には、その罪に相当する罰を与えるべきである、と制限を設定することを強調する法です。

 「復讐」においては、被害者は被害より多く害を相手に与えようとします。

 一方で、「正義」は、「罪と罰との間の均衡」を要求します。

 すなわち、この律法は、「正義の法」なのです。

 


(予想問題/「責任を取ることの意味」『困難な成熟』 内田樹)

 《「責任を取る」ことなど誰にもできない》

 まことに逆説的なことですが、私たちが「責任」という言葉を口にするのは、「責任を取る」ことを求められるような事態に決して陥ってはならない、という予防的な文脈においてだということです。それ以外に「責任」という言葉の生産的な使用法はありません。

 さっき言ったように「責任取れよな」という言葉は、「お前には永遠に責任を取ることができない」という呪いの言葉です。「これこれの償いをなしたら許されるであろう」と言っているわけではありません。

 学校でいじめにあった子どもが自殺したときに、親がいじめた子どもの両親と学校長と担任を相手取って、「1億円の損害賠償請求」をしたというような記事を読むことがあります。これだって「1億円払ったら許してやる」と言っているわけではありません。この賠償額の設定基準は「相手の一生を台無しにできるくらいの金額」ということです。つまり、賠償請求をすることを通じて、「私はおまえたちを絶対に許さない」という賠償の不可能性を告げているのです。

 「責任を取れ」というセンテンスは「なぜなら、おまえには責任を取ることができないからだ」という口にされないセンテンスを常に伴っているのです。

 ですから、「どうやって責任を取るのか」というのは問いのありようとして、すでに間違っているのです。

 責任は取れないんですから。誰にも。

 私たちが責任について思考できることは、ひとつだけです。

 それは、どうすれば「責任を取る」ことを求められるような立場に立たないか、ということ、それだけです。

 勘違いしてもらっては困りますが、それは何についても「私は知らない。私は関与していない。私には責任がない」という言い訳を用意して、逃げ出すということではありません。まるで、逆です。

 だって、その人は「私には責任がない」と言い張っているわけですからね。いかなる不祥事が起きようと、他人が傷つこうと、貴重な富が失われようと、システムが瓦解しようと、「私には責任がない」と言って逃げ出すんです。そんなことを金切り声で言い立てる人間ばかりだったら、世の中、どうなりますか。「私には責任がない」と言う権利を留保している人間だけで構成された社会を想像してください。そりゃすごいですよ。電気は消える。水道は止まる。電車は来ない。銀行のATMは動かない。電話は通じない。その他もろもろ。

 きちんと機能している社会、安全で、そこそこ豊かで、みんながルールをだいたい守っている社会に住みながら、かつ「責任を取ることを人から求められないで済む」生き方をしようと思ったら、やることはひとつしかありません。

 それは「オレが責任を持つよ」という言葉を言うことです。

 

《逆説的な結論》

 これも考えればすぐにわかりますが、構成員全員が「オレには責任ないからね」と言い募り、不祥事の責任を誰か他人に押しつけようと汲々としている社会と、構成員全員が自分の手の届く範囲のことについては、「あ、それはオレが責任を持つよ」とさらっと言ってくれる社会で、どちらが「誰かが責任を取らなければならないようなひどいこと」が起こる確率が高いか。

 まことに逆説的なことではありますが、「オレが責任を取るよ」という言葉を言う人間が一人増えるごとに、その集団からは「誰かが責任を取らなければならないようなこと」が起きるリスクがひとつずつ減っていくのです。集団構成員の全員が人を差し置いてまで「オレが責任を取るよ」と言う社会では、「誰かが責任を取らなければならないような事故やミス」が起きても、「誰の責任だ」と言うような議論は誰もしません。そんな話題には誰も時間を割かない。だって、みんなその「ひどいこと」について、自分にも責任の一端があったと感じるに決まっているからです。

「この事態については、オレにも責任の一端はあるよな」と思って、内心忸怩(じくじ)(→深く恥じ入る様子)たる人間がどうして「責任者出てこい」というような他罰的な言葉をぺらぺら口に出すことができるでしょうか。

 

 

(当ブログによる解説)

 上記の議論は「組織論」の観点からも妥当と言えるでしょう。

 内田氏は、『困難な成熟』の中で以下のように述べています。

 

「  私たちは何のために集団を形成して暮らしているのか。

 それは集団内部で相対的な優劣や勝敗を競って、有限の資源を傾斜配分するゲームをするためではありません。

 生き延びるためです。

 さまざまな危機を乗り越えて生き延びるためです。

 そのためには、ともに集団を形成する「仲間たち」が、知性において、感受性において、身体能力において、それぞれに固有の異能において、ポテンシャルを開花させ、その生きる知恵と力とを最大化してくれることがどうしたって必要です。

 組織論はそのためのものです。

 どういう組織であれば組織構成員たちひとりひとりの能力が最大化するか。

 それが組織論のすべてです。

 (『困難な成熟』)

 

 また、内田氏は「贈与論」の観点から、「責任」について、ブログ『内田樹の研究室』の中で以下のようにも述べています。

 卓見と思われるので、以下に引用します。

 

「  すべての人がそれぞれの現場で、ちょっとずつオーバーアチーブする。それによって、社会システム全体の質が少しだけ向上して、僕たちは生活の全局面で(電車が時刻表通りに来るというようなかたちで)そのささやかな成果を享受することができる。

 そういう意味では、僕たちはすでに贈与と返礼のサイクルのうちに巻き込まれているのです。

 それが順調に機能している限り、僕たちは人間的な生活を送ることができている。

 僕たちの時代がしだいに貧しくなっているのは、システムの不調や資源の枯渇ゆえではなく、僕たちひとりひとりが「よきパッサー」である努力を怠ってきたからではないかと僕は考えています。

 僕たちは人間の社会はどこでも贈与と返礼のサイクルの上に構築されているという原理的なことを忘れかけていた。

 だから、それをもう一度思い出す必要がある。

 僕はそう思います。

(「自立と予祝について」『内田樹の研究室』2010年11月8日)

 

 上記と同様に、次の内田氏の見解も、「責任」と「贈与」の密接な関係を、見事に説明しています。

 

「  国民国家という制度はパーフェクトなものではないが、とりあえずこの制度をフェアにかつ合理的に運営してゆく以外に選択肢がない以上、集団のフルメンバーは共同体に対する「責任」を負う必要がある、というものである。

 責任とは、この共同体がフェアで合理的に運営され、それによって成員たちが幸福に暮らせるための努力を他の誰でもなく、おのれの仕事だと思う、ということである。

「このシステムにはいろいろ問題がある」と不平をかこつのはよいことである。けれども、「責任者出てこい。なんとかしろ」と言うのはフルメンバーの口にする言葉ではない。「問題のうちいくつかについては私がなんとかします」というのが大人の口にすべき言葉である。

(「国旗問題再論」『内田樹の研究室』2011年5月31日) 

 

 以上により、「責任」・「組織」・「贈与」の密接な関連が分かるでしょう。

 この三者の関係性は、入試頻出論点になっています。

 なお、「責任と贈与の関係」については、当ブログの前回の記事を参照してください。

 

 

gensairyu.hatenablog.com

 

 

(予想問題/「責任を取ることの意味」『困難な成熟』内田樹)

 長くなりましたので、結論を申し上げます(もう申し上げましたけど、まとめ)。

 責任というのは、誰にも取ることのできないものです。にもかかわらず、責任というのは、人に押しつけられるものではありません。自分で引き受けるものです。というのは、「責任を引き受けます」と宣言する人間が多ければ多いほど、「誰かが責任を引き受けなければならないようなこと」の出現確率は逓減(ていげん)してゆくからです。

 どのような社会的な概念も、人間が幸福に、豊かに、安全に生き延びるために考案されたものです。「責任」という概念もそのひとつです。

 「責任」は「鍋」とか「目覚まし時計」のように、実体的に存在するものではありません。でも、それが「ある」というふうに考えた方がいいと昔の人は考えた。

 それをどういうふうに扱うのかについて、エンドレスに困惑することを通じて、人間が倫理的に成熟してゆくことを可能にする、遂行的な概念だからこそ、作り出されたのです。

 

 

 (当ブログによる解説)

上記の 

「  どのような社会的な概念も、人間が幸福に、豊かに、安全に生き延びるために考案されたものです。「責任」という概念もそのひとつです。

 「責任」は、それが「ある」というふうに考えた方がいいと昔の人は考えた。

 それをどういうふうに扱うのかについて、エンドレスに困惑することを通じて、人間が倫理的に成熟してゆくことを可能にする、遂行的な概念だからこそ、作り出されたのです。

の部分は、かなり重要なことを言っています。

 従って、さらに、内田氏の著作を参照しながら解説します。

 

 内田氏は、『他者と死者』の中で以下のように述べています。

 「倫理」・「責任」と「人間性」の「関係性」についての本質的な説明です。

 

「  神の裁きが完全であれば、皮肉なことに、人間たちの倫理性は衰微する。

 なぜなら、人間が倫理的にふるまう努力をしなくても、神の奇跡的介入によって、人間の世界は倫理的なものになるはずだからである。

 神が完全管理する世界には善への志向は根付かない。皮肉なことだが、そうなのである。

 私の外部にある「他者」がまず私の罪を咎め、それに応えて私が有責感を覚知する、というクロノロジックな順序でものごとが進む限り、人間の善性は基礎づけられない。 

 人間の善性を基礎づけるのは、人間自身である。

 同罪刑法的志向に基づかず、神の力をも借りずに、なお善を行いうるという事実、それが人間の人間性を真に基礎づけるのである。

 レヴィナスは「神なき世界」における善の可能性について、短く美しい言葉を書いている。

 無秩序な世界、善が勝利に至らない世界における犠牲者の立場、それが受苦である。

 受苦が神を打ち立てる。

 救援のためのいかなる顕現をも断念し、十全に有責である人間の成熟をこそ求める神を。

(『他者と死者/ラカンによるレヴィナス』内田樹)

 

 

他者と死者―ラカンによるレヴィナス (文春文庫)

他者と死者―ラカンによるレヴィナス (文春文庫)

 

 

 

(予想問題/「責任を取ることの意味」『困難な成熟』 内田樹)

 そういう意味では、それは「摂理」とか「善」とか「美」とかいう概念と同じようにとらえがたいものです。「どんなものだか見たいから、ここに紐で括って持って来い」というようなご要望にお応えできる筋のものではありません。

 


(当ブログによる解説)

 ここでは、「思考」と「概念」・「言葉」の関係が問題になっています。

 「思考」に先行するのは「言葉」である、と主張する内田氏の見解を『こんな日本で良かったね』から引用します。

 

 「 先行するのは「言葉」であり、「言いたいこと」というのは「言葉」が発されたことの事後的効果として生じる「幻想」である。(→当ブログによる「注」→学校教育、常識レベルでは、この「幻想」が固定化しているようです)

 より厳密には、「言いたいことがうまく言えなかった」という身体的な不満足感を経由して、あたかもそのようなものが言語に先行して存在していたかのように仮象するのである。

(『こんな日本で良かったね』内田樹)

 

こんな日本でよかったね―構造主義的日本論 (文春文庫)

こんな日本でよかったね―構造主義的日本論 (文春文庫)

 

 

 

 以上の解説を、言語観、言語論レベルからさらに詳細に説明すると、以下の通りになります。「言語観」・「言語論」も入試頻出論点になっています。

 内田氏の『寝ながら学べる構造主義』から引用します。

「  ギリシャ以来の伝統的言語観は、名づけられる前から「もの」はあり、ものの名前は人間が勝手につけたという「名称目録的言語観(カタログ言語観)」であった。

 しかし、ソシュールは、名づけられることによって、はじめて「もの」はその意味を確定するのであり、命名される前の「名前をもたないもの」は実在しないと考えた。
 言語活動は「分節する」作業そのものであり、名前がつくことで、ある概念が我々の思考の中に存在するようになる。

 我々が「心」「内面」「意識」と名づけているものは、極論すれば、言語を運用した結果、事後的に得られた言語記号の効果だとさえ言えるかもしれない。

(『寝ながら学べる構造主義』内田樹)

 

 

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寝ながら学べる構造主義 *3

 

 

 

(予想問題/(「責任を取ることの意味」『困難な成熟』 内田樹)

 それはあるいはヒッチコックが「マクガフィン」と呼んだものと似ているのかも知れません。

 マクガフィンというのは、スパイ映画なんかで、敵味方が入り乱れて奪い合う「マイクロフィルム」とか「秘密の地図」の類です。それが何であるかはどうでもよろしい。とにかく、それをめぐってすべての登場人物の欲望が編制されている。誰一人、その呪縛から逃れることができない。でも、実体が何だかわからない。そして、なんだからわからなくても、サスペンスの興趣は少しも減殺されない。

 マクガフィンには効果だけがあって実体がありません。

 

 これについてヒッチコックはこんな小咄を紹介しています。

「その網棚の上にあるのはなんだい?」

「これかい、これはマクガフィンだよ」

「マクガフィンて、何だい?」

「アディロンダック山地でライオンを狩るためのだよ」

「アディロンダックにライオンなんかいないぜ」

「ほら、マクガフィンは役に立っているだろ」

マクガフィンを「責任」に、「ライオン」を「われわれの社会を脅かすリスク」に置き換えて読んでみて下さい。」

(「責任を取ることの意味」『困難な成熟』 内田樹)

 

 

(当ブログによる解説)

 この予想問題が実際に出題されたら、上記の最終部分の「責任」・「われわれの社会を脅かすリスク」というキーワードは、空欄補充問題になりそうです。

 このことも、今回の記事を書く理由の一つになっています。


 次に、「マクガフィン」 について、Wikipedia から概略を引用します。

 

「  マクガフィン (MacGuffin) 」とは、物語構成上で登場人物への動機付けや話を進めるために用いられる、仕掛けのひとつです。

 登場人物たちの視点、あるいは、読者・観客などからは重要なものです。

 しかし、作品の構造から言えば他のものに置き換えが可能な物です。

 「泥棒が狙う宝石」・「スパイが狙う重要書類」など、そのジャンルでは陳腐なものです。

 「マクガフィン」という言葉は映画監督のアルフレッド・ヒッチコックがしばしば、自身の映画を説明するときに使った言葉です。フランソワ・トリュフォーによるヒッチコックの長時間インタビュー集『映画術』には、この「マクガフィン」への言及が何度もあります。同書のヒッチコックの言によれば、「マクガフィン」は、以下のイギリスに伝わるジョークが由来であるとしています。

 ふたりの男が汽車のなかでこんな対話をかわした。

「棚のうえの荷物はなんだね」とひとりがきくと、もうひとりが答えるには、「ああ、あれか、あれはマクガフィンさ」。

「マクガフィンだって?  そりゃ、なんだね」

「高地地方でライオンをつかまえる道具だよ」

「ライオンだって?  高地地方にはライオンなんていないぞ」。

 すると、相手は、「そうか、それじゃ、あれはマクガフィンじゃないな!」と言った。

 


 この「マクガフィン」について、ヒッチコックとトリュフォーが『映画術』(『映画術 ヒッチコック/トリュフォー』山田宏一・蓮實重彦訳)の中で、次のように議論しています。

 『海外特派員』に関する対談です。

 ヒッチコックによる「マクガフィン」の解説が、実に分かりやすいので、以下に引用します。

 「記号論」の解説としても、秀逸です。

 

 「 トリュフォー(T) その機密というのが、例の暗号ですね。

ヒッチコック(H) そう、あの暗号だ。「マクガフィン」という暗号。「マクガフィとは何か」、それについて語らなければならないな。

T 「マクガフィン」という暗号は単にプロットのためのきっかけというか口実にすぎないのではありませんか。

H そう、たしかに「マクガフィン」はひとつの「手」だ。仕掛けだ。

 しかし、これにはおもしろい由来がある。きみも知ってのとおり、ラディヤード・キプリングという小説家はインドやアフガニスタンの国境で原地人と戦うイギリスの軍人の話ばかり書いていた。この種の冒険小説では、いつもきまってスパイが砦の地図を盗むことが話のポイントになる。この砦の地図を盗むことを「マクガフィン」と言ったんだよ。それ以上の意味はない。

 だから、ヘンに理屈っぽいやつが「マクガフィン」の内容や真相を解明しようとしたところで、なにもありはしないんだよ。わたし自身はいつもこう考えている──砦の地図とか密書とか書類は、物語の人物たちにはたしかに命と同じように貴重なものにちがいない。しかし、ストーリーの語り手としてのわたし個人にとってはなんの意味もないものだ、とね。

 ところで、この「マクガフィン」という言葉そのものの由来は何なのか。たぶんスコットランド人の名前から来ているんじゃないかと思う。こんなコントがあるんだよ。ふたりの男が汽車のなかでこんな対話をかわした。

 

「棚のうえの荷物はなんだね」とひとりがきくと、もうひとりが答えるには、「ああ、あれか、あれはマクガフィンさ」

「マクガフィンだって? そりゃ、なんだね」

「高地地方でライオンをつかまえる道具だよ」

「ライオンだって? 高地地方にはライオンなんていないぞ」

すると、相手は、「そうか、それじゃ、あれはマクガフィンじゃないな!」と言ったというんだよ。

 

 この小話は「マクガフィン」というのは、じつはなんでもないということを言っているわけなんだ。

T じつにおもしろいですね。ケッサクなアイデアですね・・・・。まさに、それこそヒッチコック映画の妙と言えます。

H しかし、わたしのそんなやりかたに慣れていないシナリオライターと仕事をするときには、きまって「マクガフィン」のことでもめるんだよ。相手は「マクガフィン」とは何かということにどうしても執着する。なんでもないんだ、とわたしは言うんだよ。

 たとえば『三十九夜』だ。スパイの真の目的は何か。小指のない男の正体は? それに、映画の最初のほうで殺される若い女は何を求めていたのか。他人のアパートで背中を刺されて殺されるほどの重要な秘密をにぎっていたとしたら、それはいったい何なのか。そんなことはどうでもいいんだよ。

 わたしたちは映画をつくるんだからね。プロットのための口実が大きくリアルになりすぎると、シナリオとしてはおもしろくても、映画としてはややこしくてわかりにくくなってしまう。

(『映画術 ヒッチコック/トリュフォー』 山田宏一・蓮實重彦訳)

 

 

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(3)当ブログにおける「内田樹」関連記事の紹介

 

gensairyu.hatenablog.com

  

gensairyu.hatenablog.com

 

 ーーーーーーーー

 

 今回の記事は、これで終わりです。

 次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

 ご期待ください。

 

  

 

gensairyu.hatenablog.com

 

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

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5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

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現代文・小論文予想問題/『困難な成熟』内田樹/成熟とは何か

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 

 「成熟」は、入試頻出論点であり、人生の重要課題の一つです。

 人間の「成熟」を考える上で、秀逸な論考(「文庫版のためのあとがき」『困難な成熟』内田樹)が最近発表されたので、この記事で解説します。

 入試頻出著者・内田樹氏のメインテーマは、「成熟とは何か」「大人になるとは、どういうことか」です。

 内田氏は、このメインテーマに関連した著作を、最近でも何冊も発行しています。

 内田氏のブログ(『内田樹の研究室』)でも、このメインテーマに関連した記事が多いようです。

 そこで、上記の論考(「文庫版のためのあとがき」『困難な成熟』)を、内田氏の著作、ブログ記事を参照しつつ、解説することにします。

 

 

困難な成熟

困難な成熟

 

 

 

(2)現代文・小論文予想問題/「文庫版のためのあとがき」『困難な成熟』内田樹/成熟と何か

(概要です)

(本文は太字にしました)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です)

 

(「文庫版のためのあとがき」》『困難な成熟』)

「  この本は、「成熟」とか「自己陶冶」とか「大人になる」ということがもはや人々にとってそれほど喫緊の課題ではなくなった時代の風潮に対する僕からの提言です。

 もちろん「大人のナントカ」とか「いぶし銀のなんちゃら」とかいうようなコピーを掲げて、「バーでワインを頼む時の心得」とか「こういうスーツではタイはなんとかでなければならぬ」とかいうようなことを書いている人は今も掃いて捨てるほどいますけれど、僕が論じようとしている「大人」というのは、そういうもののことではありません。文庫版解説として、それについて思うことを書いてみたいとおもいます。」

 

 

(当ブログによる解説)

上記の

「大人のナントカ」とか「いぶし銀のなんちゃら」とかいうようなコピーを掲げて、「バーでワインを頼む時の心得」とか「こういうスーツではタイはなんとかでなければならぬ」とかいうようなことは、外形的、表面的なことで、実に下らないことです。 

 このような本、記事が人気があるというのは、人々が「画一的な、陳腐なマニュアル」を嫌悪しているのではなく、むしろ歓迎していることでもあります。

 いい歳になった成人達が、低レベルなマスコミ等が適当に捏造した画一的な「大人らしさ」に釣られるとは、実に情けないことです。

 大人としての自立性も、知性もないのでしょう。

 現代の日本人の悲しさです。

 

 

(「文庫版のためのあとがき」『困難な成熟』)

「僕の記憶では、昔の人は「大人というのはこういうふうにふるまうものだ」というようなことをことさらに言挙げする習慣はなかったように思います。大人というと、夏目漱石とか、森鷗外とか、永井荷風とか、谷崎潤一郎とか、内田百閒とか、そういう人たちの顔がまず思い浮かびますが、そういう文豪たちが「大人というものは」というような説教をしている文章を寡聞にして僕は読んだ記憶がありません。どちらかというと、この人たちの作物の魅力は、そのような定型をおおらかに踏みにじってゆく堂々たる風儀にあったように思います。(→当ブログによる「注」→「自信」であり「落ち着き」です)

 漱石という号を夏目金之助が撰したのは二十三歳の時でした。『晋書』にある「漱石枕流」(石で口漱ぎ、流れを枕にす)の故事を踏まえたものです。昔、中国に孫子荊という人がいて、この人は若い時から早く隠棲したいものだと思い、ある時、古詩を引いてその隠棲の境涯を述べました。ところがそれが記憶違いだった。オリジナルは「枕石漱流」でした。「石を枕にして眠り、目覚めたら川の流れで口を漱ぐ」という、アーシーでビューティフルなライフスタイルを描写した一節だったのを、動詞を前後入れ間違えて、「石で歯を磨き、流水に頭を浸して寝る」という千日回峰行的な誤読をしてしまった。周りに「そうじゃないよ」と指摘されたのですが、孫子荊は一歩も退かず、「いや、オレは隠棲したら、石で歯を磨いて、頭を川水に浸けて寝るのだ」と言い張った。その故事を踏まえて、漱石という号を選んだのでした。つまり、一度言い出したら間違いとわかっても訂正しない頑迷なおのれの性情の偏りを重々わきまえた上で、それを笑い、かつ律するというこの構えのうちに僕は「大人の風儀」とでもいうべきものを見るのです。(→当ブログによる「注」→「客観性」、「余裕」、「ゆとり」と言えるでしょう)

 

 

(当ブログによる解説)

  「一度言い出したら間違いとわかっても訂正しない頑迷なおのれの性情の偏りを重々わきまえた上で、それを笑い、かつ律するというこの構え」ということは、「自己の中の他者と違う多様性(個性)」を知ることです。

 しかも、「頑迷な」という点から、自己の内部に「マイナス的な側面があること」を知ること、とも考えることができるでしょう。

 自己の内面を熟知するということが、「大人」らしさを醸し出すのでしょう。

 

 これに対して、「子供」の特徴を、内田氏は、『期間限定の思想』の中で以下のように述べています。

 

「  「私」は無垢であり、邪悪で強力なものが「外部」にあって、「私」の自己実現や自己認識を妨害している。そういう話型で「自分についての物語」を編み上げようとする人間は、老若男女を問わず、みんな「子ども」(→単純性)だ。

 こういう精神のあり方(→自己の中のマイナスの側面、多様性に気付かないということ)が社会秩序にとって、潜在的にどれほど危険なものかはヒトラー・ユーゲントや紅衛兵や全共闘の事例からも知れるだろう。」」(『期間限定の思想』)

 

 

期間限定の思想 「おじさん」的思考2 (角川文庫)

期間限定の思想 「おじさん」的思考2 (角川文庫)

 

 

 

    「私」は無垢であり、邪悪で強力なものが「外部」にある」と思い込み、信じきることは、まるで「子供」です。

 自己の内面の邪悪な側面に気付かないとは、鈍感なのでしょうか。

 が、現代の日本では、このような気味の悪い「大人」が多いようです。

 

 

(「文庫版のためのあとがき」『困難な成熟』)

「  それは他に名を挙げた文人たちについても同様です。荷風先生も百閒先生も「こればかりは譲れない」という強いこだわりをそれぞれにお持ちでしたけれど、おのれの偏奇を少し遠い距離から冷めた目で観察(→「客観視)し、それを味わい深い文章に仕上げることによって文名を上げたのでした。

 そういう書き物を読んで、僕は「この人は大人だな」と感服しました。

 それはつまり、「大人」を大人たらしめているのは、然るべき知識があったり、技能があったり、あれこれの算段が整ったりという実定的な資質のことではなくて、むしろおのれの狭さ、頑なさ、器の小ささ、おのれの幼児性(→誰にも、頑固、狭量、幼児性はあります)を観察し、吟味し、記述することができる能力(→「自己観察」、「自己分析」、「自己相対化」)のことだということです。」

 

 

(当ブログによる解説)

 上記の「むしろ、おのれの狭さ、頑なさ、器の小ささ、おのれの幼児性」の部分は、重要です。

 「大人の条件」は、「自分の内部に多様な側面を持つことである」と主張しているのです。

 

 内田氏は、『大人のいない国』の中でも、以下のように述べています。

 

「  大人の条件として個人の中に多様性を持てているかが重要です。

 子どもと大人の違いは個人の中に多様性があるかどうかということですから。

 たとえば僕は今57歳ですけれど、僕の中には四歳の幼児もいるし、14歳の中学生もいるし、20歳の青年もいるし・・・・その時々の自分が全部ごちゃっと同居している。

 だから、もののはずみで小学生の自分が現れることだってある。年をとる効用ってそれだと思うんです。

 生きてきた年数分だけの自分が一人の人間の中に多重人格のように存在する。そのまとまりのなさが大人の「手柄」じゃないかな。(『大人のいない国』)

 

 

大人のいない国 (文春文庫)

大人のいない国 (文春文庫)

 

 

 

 上記の「文庫版のためのあとがき」の中の、
「おのれの狭さ、頑なさ、器の小ささ、おのれの幼児性を観察し、吟味し、記述することができる能力」の部分も重要です。

 つまり、この部分は、自分の「器の小ささ」を自覚することの重要性を述べているのです。

 

 この点については、「大人の責任感」について述べている『街場の共同体論』の次の一節が参考になります。

 

 「 システムの保全が「自分の仕事」だと思う人がいないと、システムは瓦解します。

 この「システム保全仕事」は、基本的にボランティアです。だって、システムの保全は「みんなの仕事」だからです。「みんな」で手分けして行うものです。別に工程表があるわけでもないし、指揮系統があるわけでもないし、一人ひとりの分掌を定めた組織図があるわけでもありません。

 それこそ「道路に落ちている空き缶を拾う」ような気分で行う仕事です。「道路に落ちている空き缶」を拾うのは、誰にとっても「自分の仕事」ではありません。自分が捨てたわけじゃないんですから。そんなものは捨てたやつが拾うべきであって、通りすがりの人間にそんな責任はない。それも理屈です。そういうのは「みんなの仕事」ではあっても、「自分の仕事」ではない。そう考えるのが「こども」です。

    「おとな」は違います。

 「おとな」というのは、そういうときにさくっと空き缶を拾って、ゴミ箱が手近になければ自分の家に持ち帰って、びん・かん・ペットボトルのビニール袋に入れて、ゴミの日に出すような人です。

 システムが破綻したときに、「システム回復は自分の業務契約には入っていない」、「そんなリスクがあるとは前任者から引き継がれていない」、「そもそも想定外だった」というふうに責任を自分以外のものに付け替えるの「こども」の特徴です。中高年であっても、禿げていて腹が出ていて、態度が大きくても、そういうことを言う人間はみんな「こども」です。

 こういう人間たちは、不調に陥ったシステムの立て直しというような大切な仕事には使えないということです。(『街場の共同体論』)

 

 

街場の共同体論

街場の共同体論

 

 

 

 器の大小は、「共同体に対する責任感」に関連するのでしょう。

 自分の「器の小ささ」を自覚するとは、それ自体が、自分の「共同体に対する責任感」を意識することです。

 つまり、その自覚自体が、大人の条件を満たしつつあることを意味しているのではないでしょうか。

 

 このこと、つまり、「大人と共同性」に関して、内田氏は、『街場の共同体論』の中で、以下のような見解を述べています。

 

「  消費者マインド(→「商品経済の中で、いかに賢明に行動するかという意識→ズル賢さ」「お客様意識」)と市場原理(→「資本主義原理」)を深々と内面化したせいで、最低限の学習努力・労働努力で成果を上げることをめざし、競争のためにはまわりの人間の足を引っ張るのが合理的だと考えるような子供たちが、そのまま成長して、そのまま加齢して老人になる。このときに、日本はほんとうに「おとなのいない国」になってしまうでしょう。それはもう安全でも豊かでもない国になるということです。

(『街場の共同体論』)


 このことに関連して内田氏はまた、「器」について、『困難な成熟』の中で、「贈与と被贈与」の側面からも考察しています。

 つまり、言い換えれば、「広義の共同性」と「贈与・被贈与」の関係について、鋭い分析をしています。以下に引用します。

 

「  贈与は「私が贈与した」という人ではなく、「私は贈与を受けた」と 思った人間によって生成するのです。 「目に映るすべてのものはメッセージ」(ユーミンの『優しさに包まれたなら』) この感覚のことを「被贈与の感覚」という。 誰もメッセージなんか送っていないんです。

 だけど、ユーミンは 自分を祝福してくれるメッセージをそこから勝手に 受け取った。そしてその贈りものに対する「お返し」に歌を作った。

 その歌を僕らは聴いて、心が温かくなった。 「世界は住むに値する場所だ」と思った。 そして今もこうして この歌について多くの人に書いている。 贈与は 形あるものではありません。それは運動です。 人間的な営為のすべては贈与を受けた立場からしか始まらない。

 そして、市民的成熟とは、「自分が贈与されたもの」 それゆえ「反対給付の義務を負っているもの」について、どこまで 長いリストを作ることができるか、それによって考慮されるものなのです。

 そのリストが長ければ長いほど(→感謝の気持ちが強ければ強いほど、つまり、謙虚になればなるほど)「大人」だということになる。 皆さんにしてほしいのは、ユーミンが歌ったとおり、 「目に映るすべてのことはメッセージ」ではないかと思って、 周りを見わたして欲しいということ、それだけです。(『困難な成熟』)

 


(「文庫版のためのあとがき」『困難な成熟』) 

「成熟する」というプロセスを多くの人は「旅程を進む」という移動のメタファーで考えているのではないかと思います。あれこれと苦労を重ねているうちに、さまざまな経験知が獲得されて、思慮が深まり、次第に「大人になってゆく」と。でも、僕は大人になるプロセスというのはそういうのとはちょっと違うのではないかと思います。知恵や経験が「加算」されるわけではない。

    ある出来事のせいでものの考え方が変わるいうことがあります。例えば、信頼していた人に裏切られたとします。そのせいでそれまで「人というのはこういうものだ」と思っていた「人間の定義」に若干の変更が加えられる。でも、それは定義の変更だけでは済まない。同時に、自分の過去の記憶の「書き換え」が行われる。これまでうまく飲み込めなかった出来事や片付かなかった気持ちが飲み込めたり、片付いたりする。逆に、それまで忘れていたことが不意に思い出されて、「なるほど、あれはそういう意味だったのか」と得心がゆく。人に裏切られ、傷ついたことによって、自分がこれまでどれだけの人を裏切り、傷つけてきたのか、その記憶が痛切に甦ってくる。一つの出来事を通過することによって、自分のそれまでの人生が表情や奥行きを変えてしまう。あれこれの経験の意味が変わってしまう。そういうことを何度も何度も繰り返すことが「大人になる」というプロセスではないかと僕は思うのです。

 晩年を迎えると「自叙伝」を書きたくなる人がいます。僕ももういい年ですので、その気持ちがわかります。それは歳をとると、それまで「オレの子供時代はこういうふうだったよ」と久しく人にも話し、自分でも信じてきたことが「どうもそうではなかった」ということが分かってくるからです。自分の周りにいた人たち、記憶の中ではるか遠景に霞んでいた人たちの相貌が何十年も経ってから不意にくっきりと浮かび上がってきて、その立ち居振る舞いや、片言隻語がありありと思い出されて、それが自分にとって何を意味していたのかが不意にわかるということがあります。

 僕たちがこれまでの生きてきた時間というのは、自分が思っているよりもずっと深く厚みのあるもであり、自分が今のような自分であるのは、自己決定したからでも、運命に偶然的に翻弄されたからでもなく、多くの人たちとのさまざまな関わり合いを通じて、陶器のようにゆっくり錬成されて出来上がったのだということがわかる。」

 

(当ブログによる解説)

 上記の「多くの人たちとのさまざまな関わり合いを通じて」、「陶冶」が進むこと、つまり、「成熟」することに関して、内田氏は、『呪いの時代』の中で「結婚」の有用性について述べています。

 

「  結婚が必要とするのは、「他者と共生する力」です。よく理解もできないし、共感もできない他人と、それにもかかわらず生活を共にし、支え合い、慰めあうことができる、その能力は人間が共同体を営んでゆくときの基礎的な能力に通じていると僕は思います。

 日本社会の深刻な問題は、他者との共生能力が劣化していることです。

 自分と価値観が違い、美意識が違い、生活習慣が違う他者を許容することのできない人が増えている。社会人としての成熟の指標のひとつは他者と共生できる能力です。

 この能力を開発する上で結婚というのは優れた制度だと僕は思います。

 「他者と共生する」というのは、「他者に耐える」ということではありません。「他者」を構成する複数の人格特性のうちにいくつか「私と同じもの」を見出し、「この他者は部分的には私自身である」と認めることです。(『呪いの時代』)

 

 

呪いの時代 (新潮文庫)

呪いの時代 (新潮文庫)

 

 

 

(「文庫版のためのあとがき」『困難な成熟』)

「陶冶」というのは陶器を焼き、鋳物を作ることですけれど、この動詞が成熟のメタファー として用いられることにはそれなりの理由があると思います。

 一つはそのプロセスには時間がかかること、一つはもとの物質が別の物質に変成すること、そしてもう一つは混入したものの化学的な干渉によって予想外の彩りや文様を帯びること。

 これはそのまま成熟の定義として使えると思います。」

 

 

(当ブログによる解説)

 ここで、『困難な成熟』の中から、「陶冶」に関連している、内田氏の「成熟の定義」を紹介します。

 

「  子として友人として配偶者として親として、それぞれの立場において、愛したり愛されたり、傷ついたり傷つけられたり、助けたり助けられたり・・・というごくごく当たり前の人生を一日一日淡々と送っている間にいつのまにか身につく経験知・実践知の厚みや深みを僕たちは「成熟」という言葉で指し示している。

(『困難な成熟』)

 

 なお、なぜ『困難な成熟』という題名にしたのか、については、次のような記述があります。

 

「  ある日気がついたら、前より少し大人になっていた。

 そういう経験を積み重ねて、薄皮を一枚ずつ剥いでゆくように人は成熟して。ロードマップもないし、ガイドラインもないし、マニュアルもない。そういうこみいった事情を僕は「困難」という形容詞に託したつもりです。(『困難な成熟』)

 


(「文庫版のためのあとがき》」『困難な成熟』)

「  自分で自分の成熟を統御することはできません。

 自分が成熟するというのは「今の自分とは別の自分になること」ですから、「こういう人間になりたい」というふうに目標を設定して、それを達成するというかたちをとることがありえないのです(後に回顧すると、自分が設定した目標がいかに幼く、お門違いなものか思い知って赤面する・・・・というのが「成熟した」ということなんですから)。

 しかし、現代社会はそういうふうにオープンエンドな成熟への道を進むように若い人たちを促し、励ます仕組みがありません。これはもうはっきり言い切ってしまいますけれど、「ありません」。

 今の社会の仕組みはどれも目標を数値的に設定して、そこに至る行程を細部まで予測し、最小限の時間、最少エネルギー消費で目標に到達する技術を競うというものです。一見するとスマートで合理的に見えますけれど、人生の本質的な目標の多くはそういうスキームには収まりません。」

 

 

(当ブログによる解説)

 上記の「今の社会の仕組みは、目標を数値的に設定して、そこに至る行程を細部まで予測し、最小限の時間、最少エネルギー消費で目標に到達する技術を競うというもの」という、一見合理的ですが、本質的には無味乾燥な「スキーム」を信仰している日本人の「社会的未成熟」を、内田氏は、以下のように揶揄しています。

 説得力に満ちた論考です。

    私も、この見解に賛成します。

 

「  基本的に「人間的成長」というものは、だいたいが「それまで非常に気になっていたこと」が「後で考えたらどうでもよくなる」という形式でなされるものである。

 私の経験からして、昼寝というのはそれに似た心理的効果をもたらす。

 だいたい私はリゾートに行っても、ほとんど昼寝している。

 2年前にハワイに1週間行ったときも、ひたすら昼寝をし続けて、兄に「よくそれだけ寝られるものだ」と感嘆されたことがある。

 温泉でもいちばん気分がいいのは、昼風呂に浸かったあとに、ちょっと昼ビールなどを飲んでそのまま浴衣のままごろんと畳の上で寝てしまうときである。

 昼寝から起き出したあとに最初につぶやくことばもそういえばつねにどことなく達観をにじませたものであった。

 「さあ、それではしゃきしゃきとことをすすめましょうか」というようなことばは決して口にされず、「なもん、どーでもいいじゃないの」というようなけだるい言葉だけが選択的に口を衝いて出てしまうのである。

 イタリアやスペインの諸君があまり働いていないわりには、どうも「大人」っぽい雰囲気を漂わせているのは、彼らがこまめにシエスタをすることと無関係ではないのかもしれぬ。

 昼寝は戦争とか投資信託とかM&Aとか、そういう殺伐としているものともなじみがよろしくない。

 日本人のとげとげしい社会的未成熟は、あるいは昼寝の不足に由来するのやも知れぬ。

「クールビズ」よりも「サマータイム」よりも、「日本中、午後1時から3時までシエスタ」ということにした方が日本の霊的成熟には資するところがあるのではないか。(「ゆとり」、「余裕」を意味しているのでしょう)

 少子化対策には間違いなく有効である。

(「昼寝のすすめ」『内田樹の研究室』2007年9月16日)

 

 ヒツジ的に、ロボット的に、効率的・合理的スキームを何の疑いもなく、信奉しているだけでは、人間的に成長することはできません。

 イタリア、スペインのようにラテン的に、余裕をもって、人間的に生活しなくては、人間的に成長してわけがないのです。

 つまり、「成熟すること」の前提に、人間的生活があるのです。

 現代の日本人は、このことに思い至らないのでしょう。

 

 

(「文庫版のためのあとがき」『困難な成熟』)

「「成熟」はそうです。先に述べた通り、「成熟した私」というのがどういうものであって、どういう属性を具えているのかを今、ここで言えるということはありえません。「幸福」というのもそうです。幸福を数値的に示すことはできません。年収がいくらで、持ち家の坪数がいくらで、乗っている車の値段がいくらで、子どもの評定平均値が何点で・・・・というようなことをいくら積み重ねても「幸福」にはたどりつけません。「長寿」というのもそうですね。これも人間にとってたいせつな課題です。だから階段で転びかけたり、車に轢かれかけたら「おっと危ない」と身をかわして、無事であれば「ああ、よかった」と嘆息したりもするわけです。でも、「長寿に最小限の時間で到達する」というのはどう考えても論理矛盾です。「あっという間に百歳になりました」と言って喜ぶ人というものを僕は想像できません。

 人間にとってたいせつなことのほとんど(→本質的なこと)「明確な目標設定/効率的な工程管理/費用対効果のよい目標達成」というような枠組みでは語ることができない。

 現代人はそれをどうも忘れてかけているようです。

 この本はその基本的なことを思い出してもらうために書きました。できれば、この本を何年か間をあけて、ときどき取り出して繰り返し読んで頂ければと思います。前に読んだときには読み落としていたことに次の時には眼が止まるということがあれば、僕もこの本を書いた甲斐があります。

 みなさんのご健闘を祈ります。」

(「文庫版のためのあとがき」『困難な成熟』)

 

 

 (当ブログによる解説)

 「大人の条件」とは、マニュアルが適用できないような場面でも対応できる柔軟な「応用能力」を身に付けることです。

 「応用能力」を一定のマニュアルやスキームで、身に付けることはできないのです。

 つまり、「大人の条件」を一定のスキーム等で満たすことは不可能ということになります。 

 この点について、内田氏は以下のように述べています。

 

「大人」と「子ども」の違いは、子どもは「やりかたのわかっていること」しかできないけれど、大人の条件は「どうふるまったらよいのかわからないときにも適切にふるまうことができる」ということにあります。

 言い換えると、「こういう場合には何をすればいいのかを示すマニュアルやガイドラインがないときにも、最適選択ができる」ということです。

 どうやったらそんなことができるのでしょう。論理的には不可能です。でも、実践的には別にむずかしいことではありません。「判断を保留する」「両方の言い分のナカを取る」「誰か最適なソリューションを知っていそうな人を探して答えを訊き出す」「いきなり土下座して、問題を『なかったこと』にしてもらう」などなど。

 これらに共通するのは「問いとそれに対する単一の正解」というスキームそのものを「揺り動かす」ということです。

 なんだ、簡単じゃないかと思われますか? 

 いや、けっこうむずかしいですよ。要は「揺り動か」せればそれでいいわけですけれど、それはしばしば堅牢な構築物を棒きれ一本で「揺り動かす」ようなタイトな条件を要求します。アルキメデスは「われに支点を与えよ。しからば地球を動かしてみせよう」と豪語しましたけれど、「レヴァレッジ」(梃子装置)という言葉はこういうときにこそ使いたいですね。

 「ピンチ」とは出来合いの「問題と解法」のスキームでは打つ手がない状況のことです。状況そのものを揺り動かさないと「取り付く島」がない。そういう場合に手持ちの棒きれ一本でなんとかしようと思ったら、「われに支点を与えよ」というしかありません。

 「大人」とはこの堅牢な構築物を一押しで揺るがすことのできるような「梃子の支点」を直感的に探り当てることのできる人のことです。あるいは、そのための能力開発に惜しみなく人間的リソースを投じ続けてきた人です。そのような能力は「構築物」の内側(私たちが平時において住みなじんでいる"システム"のことです)においてはふつう評価の対象にはなりません。

 だから、"システム"の内部での相対的な競争(ラット・レース)で優位に立つこと、同類たちとの「勝ち負け」に血道を上げている「子ども」たちは決して、そのような能力の開発に資源を投じません(この場合の「子ども」というのは、もうおわかりでしょうけれど、生物学的な年齢とは関係ありません)

(「大人になるための本」内田樹『じぶんや第46講』『紀伊国屋書店』)

 

 

 この内田氏の見解によると、現代の日本には、まともな「大人」は、極めて少ないことになります。

 ここから、「日本の教育方針の迷走・混乱」の原因が読み解けるようです。

 内田氏は、以下のように述べています。

 特に、最終部分の

  大人がつねに自分の未熟を恥じる文化からしか、子どもを成熟に導くメカニズムは生成しない。

に注目してください。

 

「  繰り返し言うように、教育の本義は「子どもたちを共生と協働を果たしうるだけの市民的成熟に導くこと」である。

 それ以外に、ない。

 教育の本義は格付けや選別や排除や標準化ではない。

 子どもたちを生き延びさせることであり、同時に共同体を生き延びさせることである。

 教育関係者があまり口にしないことで私がはっきり言っていることは、「子どもが危険だ」というのは、「子ども自身が危険にさらされている」ということと、「社会が子どもによって危険にさらされる」ということを同時に含意している、ということである。

 子どもが子どものままにとどまっていることを許した共同体は人類史上一つも存在しない。

 存在したのかもしれないが、消滅して、今は存在しない。

 成熟のメカニズム、共生と協働のための能力を適切に育成するプログラムを持たない共同体は、長くは存在できない。

 「英語ができないと金儲けに後れを取る」というような動機で英語学習を勧奨する文言を一国の教育行政を預かる省庁が満天下に公言することについて、「それはどうか」とたしなめる声は庁内からは出なかったのか。

 教育はその原点に還るべきだと私は思う。

 子どもを成熟させるために何が必要か、それを問うのである。

 それだけを問うのである。

 そう問うたときに、「ほんとうの大人」であれば、自身の未熟を深く恥じるだろう。

 大人がつねに自分の未熟を恥じる文化からしか、子どもを成熟に導くメカニズムは生成しない。

(「成熟のために」『内田樹の研究室』2009年6月27日)

 

  真に「自分の未熟」を恥じている大人が、現代日本に、どれくらいいるのでしょうか。

 それを考えると、暗澹たる思いにならざるを得ません。

 

 

 (3)当ブログにおける「内田樹」関連記事の紹介

  

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 ーーーーーーーー

 

今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

ご期待ください。

 

  

 

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

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5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

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 私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。

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予想問題/『人口減少社会の未来学』内田樹/少子化社会・高齢化

(1)はじめに/なぜ、この記事を書くのか?

 最近、入試頻出著者・内田樹氏が編者となり、最近の入試頻出論点である「人口減少社会」・「少子化」・「高齢化」に関する論考集(『人口減少社会の未来学』)が発行されました。

 そこで、国語(現代文)・小論文対策として、この本の内田樹氏の論考についての解説記事を、書くことにしました。

 さらに、内田氏のブログ記事における、「人口減少社会」に関する問題意識についての解説記事を、書くことにしました。

 

 なお、今回の記事の項目は以下の通りです。

 記事は約1万字です。

 

(2)予想出典・予想問題/『人口減少社会の未来学』(編・内田樹)の概要・キーセンテンス

(3)「人口減少社会」対策の現状と、その原因

(4)「人口減少社会」への対策論①→対策論を考え、実行することが、私たちにとって最も緊急な公的課題ではないか

(5)「人口減少社会」への対策論②→「転換期の心構え」→情報を懐疑せよ

(6)「人口減少社会」への対策論③→「若者の地方移住」の意味するもの

(7)「人口減少社会」への対策論④→「学びたいことを学ぶ。身につけたい技術を身につける」

(8)「人口減少社会」への対策論⑤→「一般的な心構え」

(9)当ブログにおける「内田樹」関連記事の紹介

 

人口減少社会の未来学

人口減少社会の未来学

  • 作者: 内田樹,池田清彦,井上智洋,小田嶋隆,姜尚中,隈研吾,高橋博之,平川克美,平田オリザ,ブレイディみかこ,藻谷浩介
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2018/04/27
  • メディア: 単行本
  • この商品を含むブログ (1件) を見る
 

 

 

(2)予想出典・予想問題/『人口減少社会の未来学』(編・内田樹)の概要・キーセンテンス

 

①『人口減少社会の未来学』【Book 紹介】

21世紀末、日本の人口は約半数に――。人口減少社会の「不都合な真実」をえぐり出し、文明史的スケールの問題に挑む〝生き残るため〟の論考集。各ジャンルを代表する第一級の知性が贈る、新しい処方箋がここに。

 

《目次》

・「序論 文明史的スケールの問題を前にした未来予測」 内田樹

・「ホモ・サピエンス史から考える人口動態と種の生存戦略」 池田清彦

・「頭脳資本主義の到来――AI時代における少子化よりも深刻な問題」 井上智洋

・「日本の“人口減少”の実相と、その先の希望――シンプルな統計数字により、「空気」の支配を脱する」 藻谷浩介

・「人口減少がもたらすモラル大転換の時代」 平川克美

・「縮小社会は楽しくなんかない」 ブレイディみかこ

・「武士よさらば――あったかくてぐちゃぐちゃと、街をイジル」 隈 研吾

・「若い女性に好まれない自治体は滅びる――『文化による社会包摂』のすすめ」 平田オリザ

・「都市と地方をかきまぜ、『関係人』を創出する」 高橋博之

・「少子化をめぐる世論の背景にある『経営者目線』」 小田嶋 隆

・「『斜陽の日本』の賢い安全保障のビジョン」 姜尚中

 

 今回の記事で紹介、解説するのは、上記の中の「序論 文明史スケールを前にした未来予測 内田樹」という論考です。

 

 ②『人口減少社会の未来学』の概要

 

 「序論 文明史的スケールの問題を前にした未来予測」については、以下の内田氏のエッセイが、上記の「序論」の要約的な内容になっているので、以下に引用します。

(概要です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です) 

 

「日本は人口減社会の世界最初の実験事例を提供することになる」内田樹『AERA 』2018年2月19日号/巻頭エッセイ「eyes 」

「  編者として「人口減社会」についての論集を作った。21世紀末の日本の人口は中位推計で6千万を切る。80年でおよそ半減する勘定になる。驚くべきなのは、それがどのような社会的変化をもたらすのかについての専門家による予測が今もほとんど何もなされていないことである。私のような素人が人口減社会の未来予測についての論集の編者に指名されるという一事からもそれは窺(うかが)い知れる。専門家たちが専門的知見に基づいて「これからこうなります」と言ってくれたら、私などに出番は回ってこない。

 それでもようやくメディアで人口減が扱われるようになった。先日読んだある新聞では政治家や行政官、学者が人口減問題について意見交換していたが、結論は「楽観する問題ではないが、かといって悲観的になるのではなく、人口減は既定の事実と受け止めて、対処法をどうするか考えたらいい」というものだった。それは結論ではなく、議論の出発点だろう。最後に政治家(福田康夫元首相だった)が「国家の行く末を総合的に考える中心がいない」と冷たく突き放して話は終わった。人口減については、誰も何も考えておらず、誰が考えるべきなのかについての合意も存在しないということだけはわかった。

 日本は人口減だが、世界の総人口はこれからもアフリカを中心に増え続け、世紀末には112億に達する。今でも地上では9人に1人が飢えている。人口が増えれば、飢餓や環境破壊はさらに進行するだろう。減らせるところから人口を減らすのは人類的には合理的な解である。人口減はどういうプロセスをたどり、どういう変化をもたらすことになるのか、日本はその世界最初の実験事例を提供することになる。

 世界史的な使命を担っているはずなのだが、その緊張感は日本の官民の指導者たちからまったく感じることができない。「婚活」だとか少子化対策だとかを思いつき的に語る以外は、相変わらず、五輪・万博やカジノ、リニア新幹線や官製相場でいずれ経済がV字回復して万事解決というような妄想に耽(ふけ)っている。若者たちが産業構造の劇的な変化を予期して、新しい生き方を模索し始めている姿だけが救いだ。

(『AERA』2018年2月19日号)

 

AERA2/19号

AERA2/19号

 

 

人口減少による地方消滅は避けられるか(朝日新聞オピニオン 日本がわかる論点2016)

人口減少による地方消滅は避けられるか(朝日新聞オピニオン 日本がわかる論点2016)

 

 

 「序論  文明史的スケールの問題を前にした未来予測  内田樹」において、注目した一節を以下に引用します。

 どれもが、重要な指摘と評価できます。

 キーセンテンスです。

 熟読してください。

 

「  日本の21世紀末の総人口は中位推計で6000万人と推計されています。これから80年間で人口がおよそ7000万人近く減る。これは政府や自治体が行っている婚活や育児支援のようなレベルの政策で対応できるスケールの変化ではありません。

 

「  人口減によって何が起きるかについての、科学的予測を踏まえた『国のかたち』についての国民的な議論はまだ始まっておりません。

 

「  日本社会には喫緊の論件だという切迫感がありません。それが不思議です。なぜなら、日本は世界で最初に超少子化・超高齢化のフェーズに突入する国だからです。

 

「  僕たち日本人は最悪の事態に備えて準備しておくということが嫌いなのです「嫌い」なのか、「できない」のか知りませんが、これはある種の国民的な「病」だと思います。

 戦争や恐慌や自然災害はどんな国にも起こります。その意味では「よくあること」です。でも、「危機が高い確率で予測されても何の手立ても講じない国民性格」というのは「よくあること」ではありません。それは一つ次数の高い危機です。「リスク」はこちらの意思にかかわりなく外部から到来しますが、リスクの到来が予測されているのに何も手立てを講じない」という集合的な無能は日本人が自分で選んだものだからです。「選んだもの」が言い過ぎなら、「自分に許しているもの」です。

 

後退戦で必要なのはクールで計量的な知性です。まずはそれです。イデオロギーも、政治的正しさも、悲憤憤慨も、愛国心も、楽観も悲観も、後退戦では用無しです。

 

「  人口減は対処を誤ると亡国的な危機を将来しかねない問題ですけれど、それについては政府も自治体もまだ何も手立てを講じていません。今の日本にはまだ何の合意も何のルールも存在しないということです。

 

「  これから社会のかたちはどう変わってゆくのか。それについての長期的な予測を立て、それに対して私たちは何ができるか、何をなすべきかを論じ、とりあえず今できることから着手するのは未来の世代に対する私たちの忌避できぬ責任だろうと思います。

 

  最後に生き残るシステムは、それを維持するためにプレイヤーたちが人間的成熟を求められるようなシステム、プレイヤーたちが『いい人』『誠実な人』『言葉をたがえない人』だと周りから思われることが不可欠であるようなシステムである。

 (「序論」内田樹『人口減少社会の未来学』)

 

(3)「人口減少社会」対策の現状と、その原因

 

 現在の日本においては、「近い将来の人口減少」への「対策」は、惨憺(さんたん)の一言でしょう。

 「無策」としか言えません。

 将来の最悪の事態を考えない、最悪の事態に備えない、というのは、日本の伝統なのでしょうか?


 内田樹氏は、『街場の憂国会議』の中で、第二次世界大戦における、日本の「将来に対する無策」を、以下のように述べています。

「百戦百勝」以外に正解はないと信じている人間は、「どうやって後退戦を戦うか」、「どうやって、『負けしろ』を多めにとるか」、「どのあたりで和睦を切り出すか」といったことを主題的に問わない。

 それどころか、そういう問いを口にすること自体を禁じ、禁令を犯すものを「非国民」「売国奴」と罵り、投獄し、処刑する。

  「負け方」について思量することがそのまま「敗北」を呼び寄せると彼らは信じていたのである。

 歴史が教えるのは、どういうふうに「負ける」のが、よりましか、について何も議論しなかったのものたちは、想像を絶する負け方を引き寄せたということである。

 (『街場の憂国会議』内田樹)

 

街場の憂国論 (文春文庫)

街場の憂国論 (文春文庫)

 

 

 戦争の時に、可能性としてありうる「後退戦」について議論することさえ、憚れるとは、どういうことでしょうか?

 日本人は、ネガティブなことを議論とすることを、タブーとしているようです。

 単なる「言霊信仰」だけでは説明できない、日本人特有の感性があるのでしょうか?

 「未来の起こりうる危機的側面」について考えない、つまり、「危機管理」の発想がないというのは、単なる「無能」であり、「子供」・「幼児」ということです。

 

 このバカバカしさは、現代日本においても、当てはまるようです。

 現代日本においても、社会全体が「無能化」し、「子供化」・「幼児化」しているという一面があるのでしょう。

 現代日本の「無能化」・「子供化」現象と、その予想される「悲惨な結末」、「当然の結末」について、以下のように述べています。

 

「人口減社会に向けて/『日本農業新聞』の《論点》」『内田樹の研究室』2018年03月16日

日本農業新聞の「論点」というコラムに定期的に寄稿している。2月は「人口減社会」について書いた。あまり普通の人の読まない媒体なので、ブログに再録。

 わが国では「さまざまな危機的事態を想定して、それぞれについて最適な対処法を考える」という構えそのものが「悲観的なふるまい」とみなされて禁圧されるのである。

 近年、東芝や神戸製鋼など日本のリーディングカンパニーで不祥事が相次いだが、これらの企業でも「こんなことを続けていると、いずれ大変なことになる」ということを訴えた人々はいたはずである。でも、経営者たちはその「悲観的な見通し」に耳を貸さなかった。たしかにいつかはばれて、倒産を含む破局的な帰結を迎えるだろう。だが、「大変なこと」を想像するととりあえず今日の仕事が手につかなくなる。だから、「悲観的なこと」について考えるのを先送りしたのである

 人口減も同じである。この問題に「正解」はない。「被害を最小限に止めることができそうな対策」しかない。でも、そんなことを提案しても誰からも感謝されない。場合によっては叱責される。だから、みんな黙っている。黙って破局の到来を待っている。

(「人口減社会に向けて」『内田樹の研究室』2018年3月16日)

 

食と農の黙示録―あしたへ手渡すいのち

食と農の黙示録―あしたへ手渡すいのち

 

 

 以上の記述は、「反知性主義」の発現の指摘そのものでしょう。

 「思考停止」状態の指摘、とも言えるでしょう。

 

 内田氏は、『日本の反知性主義』の中で、現代日本に蔓延している、悲しき「反知性主義」について以下のように述べています。

 もはや、日本社会においては、「反知性主義」は確固とした思考原理、行動原理になっている感じです。

 ある意味で、絶望的な状況です。

 

「  さまざまな市民レベルからの抵抗や批判の甲斐もなく、安倍政権による民主制空洞化の動きはその後も着実に進行しており、集団的自衛権の行使容認、学校教育法の改定など、次々と「成果」を挙げています。

 しかし、あきらかに国民主権を蝕み、平和国家を危機に導くはずのこれらの政策に国民の40%以上が今でも「支持」を与えています。

 長期的に見れば自己利益を損なうことが確実な政策を国民がどうして支持することができるのか、正直に言って私にはその理由がよく理解できません。

 これは先の戦争のとき、知性的にも倫理的にも信頼しがたい戦争指導部に人々が国の運命を託したのと同じく、国民の知性が(とりわけ歴史的なものの見方が)総体として不調になっているからでしょうか。それとも、私たちには理解しがたい、私たちがまだ見たことのない種類の構造的な変化が起りつつあることの徴候なのでしょうか。私たちにはこの問題を精査する責任があると思います。

 今回の主題は「日本の反知性主義」です。ホーフスタッターの『アメリカの反知性主義』は植民地時代から説き起こして、アメリカ人の国民感情の底に絶えず伏流する、アメリカ人であることのアイデンティティとしての反知性主義を摘抉した名著でした。

 現代日本の反知性主義はそれとはかなり異質なもののような気がしますが、それでも為政者からメディアまで、ビジネスから大学まで、社会の根幹部分に反知性主義・反教養主義が深く食い入っていることは間違いありません。それはどのような歴史的要因によってもたらされたものなのか? 

 人々が知性の活動を停止させることによって得られる疾病利得があるとすればそれは何なのか? 

(「まえがき」『日本の反知性主義』編・内田樹)

 

日本の反知性主義 (犀の教室)

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  • 作者: 内田樹,赤坂真理,小田嶋隆,白井聡,想田和弘,高橋源一郎,仲野徹,名越康文,平川克美,鷲田清一
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(4)「人口減少社会」への対策論①→

対策論を考え、実行することが、私たちにとって最も緊急な公的課題ではないか

 

 以下では、内田氏は、「人口減少社会への対策論を考え、実行することが、私たちにとって最も緊急な公的課題ではないか」と述べています。


「縮み行く世界」『内田樹の研究室』 2010年08月31日

「  一昨日の高橋源一郎さん、渋谷陽一さんとの鼎談の最後の方のテーマは「シュリンク(→ 「縮む、減る、少なくなる」という意味)してゆく社会で、市民はどんなふうにすれば尊厳を持って、かつ愉快に生きてゆくことができるか」ということであった。

 経済成長が止まったらもうおしまいだとか、人口がこれ以上減ったらもうおしまいだとか、国際社会でこれ以上侮られたらもうおしまいだ、とか「もうおしまいだ」的なワーディングで危機を論じる人がいる。

 たいへんに多い。

 私はこういう語り口は危険だと思う。

 というのは、そういうふうな言葉遣いで一度危機論を語ってしまった人は、警鐘を乱打したにもかかわらず事態が危機的になったときに「ほら、言ったことじゃない」と言う権利を確保してしまうからである。

 日本社会は不調になることによって、それを正しく予見した自分の知性の好調であることが証明される。

 そういう条件だと、危機論者は「もうおしまい」状態の到来を髪振り乱して押しとどめようとする仕事にはそれほど熱心にはなってくれない。

 そういう仕事は危機の到来を看過し黙許し、危機論者の必死の訴えに耳を貸さなかった諸君が後悔の涙にくれながらやればよいのだ。

 そういうふうに考えてしまう。

 これは属人的な資質の問題ではなく、「危機論を語る」ということのコロラリー(→「当然の結果」という意味)なのである。

 「俺の言うことをきかないと、危機になるぞ」という語り口で危機論を語ったのだが、誰も耳を傾けてくれなかったという苦い経験を持つ人は、いざ危機が到来したときに、つい「ほら、だから言ったじゃないか」と(口に出さなくても)思ってしまう。

 それどころか、危機の到来をはやめるような要因があれば、ついそれに「加担」してしまうことさえある。

 そういうことは無意識的に行われる。本人も自分が「危機の到来を加速するようなふるまい」をしていることには全然気づいていない。

 でも、危機論者にとって危機の到来は個人的には「喜ばしいこと」なのである(なにしろ彼らの未来予測の正しかったことが事実によって証明されるからである)。

 そういうのはあまりよくない。

 つねづね申し上げている通り、「ゴジラが来るぞ」と危機の切迫を訴え、備えの喫緊であることを論じたにもかかわらず「バカじゃないの」と嘲笑された科学者が、その予見の正しさを証明するためには、どうしたって実際にゴジラが来て都市を踏みにじる場面が必要なのである。

 彼が無意識のうちに(夢の中で、とか)「ゴジラの到来」を願ってもそれを責める権利は誰にもない。

 危機のときに、「だから、あのときああしていればよかったんだよ」というようなあとぢえを語るのは100%時間の無駄である。

 もう転轍点は過ぎてしまったのである。

 過去に戻ってやり直すことはできない。

 与えられた状況でベストを尽くすしかない。

  「経済成長が止まったらおしまいだ」と言っている人は経済成長が止まった時点で、自分はもう何の役にも立たない。何の政策も提言できない。何のビジョンも提示できないと宣言している。

 だって、「おしまい」というのは、政策提言もビジョンもプロジェクトもとにかく生産的なことは「なんにもできない」状況を指すからである。

 そのときにまだ次々と効果的な「打つ手」が思いつくようであるなら、それは「おしまい」の定義に悖る。

 実際には人口が減ろうと、経済成長が終わろうと、国際社会で侮りを受けようと、それでも私たちは生きていかなければならない。

 生きてゆかなければならない以上、「それでも自尊感情を保ち、気分よく生きるためにはどうすればいいか」という問いに知的資源を投じるのは生産的なことだ。

 高橋さんとそういう話をした。

 軍事用語を使って言えば、これからの日本は「後退戦」を戦うことになる。

 「百戦百勝以外はありえない」という『戦陣訓』のようなことを言う人間には後退戦は戦えない。

 だって、その立場からすれば後退戦などというものは「ありえない事態」だからだ。

 「ありえない事態」における適切なふるまいとは何かというような問いは、彼らには決して主題化しない。

 けれども、私たちはいま、それを主題として考究すべき時点にまで立ち至っている。

 無限に成長し続け、無限に人口が増え続け、無限に税収が増え続ける社会などというものは原理的に存在しない。

 そのような存在しないものを基準にして「そうでなくなったらおしまいだ」というようなことを言って青ざめるのは愚かなことである。

 繰り返し言うが、日本はこれから「縮んでゆく」。

 その過程でさまざまなフリクションが生じるだろう。

 それがもたらす損害を最小に抑制し、「縮むこと」がもたらすメリットを最大化する工夫を凝らすこと、それが私たちにとってもっとも緊急な公的課題ではないのか。

(「縮み行く世界」『内田樹の研究室』 2010年08月31日)

 

 「人口減少社会」への対策を考える際には、「次世代への責任」、「未来世代への責任」ということも考慮する必要があるということです。

 以下の内田氏のブログ記事も、同様なことを主張しています。


「神奈川新聞のインタビュー」「反骨は立ち上がる」『内田樹の研究室』 2017年05月03日

「  日本ははっきり末期的局面にある。これから急激な人口減を迎え、生産年齢人口が激減し、経済活動は活気を失い、国際社会におけるプレゼンスも衰える。

 日本はこれから長期にわたる「後退戦」を戦わなければならない。

後退戦の要諦は、ひとりも脱落させず、仲間を守り、手持ちの有限の資源をできるだけ温存して、次世代に手渡すことにある。後退戦局面で、「起死回生の突撃」のような無謀な作戦を言い立てる人たちについてゆくことは自殺行為である。残念ながら、今の日本の政治指導層はこの「起死回生・一発大逆転」の夢を見ている。

 五輪だの万博だのカジノだのリニアだのというのは「家財一式を質に入れて賭場に向かう」ようなものである。後退戦において絶対に採用してはならないプランである。けれども、今の日本にはこの「起死回生の大ばくち」以外にはプランBもCもない。

 国として生き残るための代替案の案出のために知恵を絞ろうというひとが政官財の要路のどこにもいない。

 だが、そうした危機的現状にあって、冷静なまなざしで現実を眺め、自分たちが生き残るために、自分たちが受け継ぐはずの国民資源を今ここで食い散らすことに対して「ノー」を告げる人たちが若い世代からきっと出てくると私は思っている

 日本の人口はまだ1億2千万人ある。人口減は止められないが、それでもフランスやドイツよりははるかに多い人口をしばらくは維持できる。指導層の劣化は目を覆わんばかりだけれど、医療や教育や司法や行政の現場では、いまも多くの専門家が、専門家としての矜持を保って、私たちの集団を支えるために日々命を削るような働きをしている。彼らを支えなければならない。

 後退戦の戦い方を私たちは知らない。経験がないからだ。

 けれども、困難な状況を生き延び、手持ちの資源を少しでも損なうことなく次世代の日本人に伝えるという仕事について、私たちは好き嫌いを言える立場にはない。

 それは国民国家のメンバーの逃れることのできぬ義務だからである。

(「神奈川新聞のインタビュー」「反骨は立ち上がる」『内田樹の研究室』 2017年05月03日)

 

(5)「人口減少社会」への対策論②→「転換期の心構え」→情報を懐疑せよ

 

 これからの「人口減少社会」は、日本の歴史にとって未知の転換期になります。

 その時に、私たちは、いかなる心構えをするべきなのでしょうか?

 内田氏は「懐疑的精神」の重要性を強調しています。

 

「『難しさ』とは何か?」『内田樹の研究室』(2017.1.15)

「 転換期というのは、大人たちの大半が今何が起きているのかを実は理解できていない状況のことです。だから、大人たちが「こうしなさい」「こうすれば大丈夫」と言うことについても、とりあえず全部疑ってかかる必要がある。今は「マジョリティについて行けばとりあえず安心」という時代ではないからです。

 社会成員の過半数がまっすぐに崖に向かって行進しているということだって、おおいにありうるのです。

 ですから、この本に書かれていることだって(今僕が書いているこの言葉を含めて)、みなさんは基本的には「全部疑ってかかる」必要があります。

(「『難しさ』とは何か?」『内田樹の研究室』2017年1月15日) 

 

 以上のように内田氏は、懐疑的精神の必要性を主張しています。

 その上で、手に入る限りの、あらゆる資料、判断材料を入手して、自分自身で熟考していくことが大切でしょう。

 

 (6)「人口減少社会」への対策論③

→「若者の地方移住」の意味するもの

 

 内田氏は、現代日本において、一部の若者たちが地方移住をしていることに注目して、この現象が「人口減少社会」の対策論の実践として有用ではないか、と主張しています。

 傾聴するべき意見として、以下に引用します。

 

「地方移住の意味するもの」『内田樹の研究室』2017年07月31日

「  先週の『サンデー毎日』に少し長めのものを寄稿した。

 もう次の号が出る頃だからネットに再録。

 地方移住者たちは直感的にそういう生き方を選んだ。それは経済成長が止まった社会において、なお「選択と集中」という投機的な経済活動にある限りの国富を投じようとする人たち対抗して、まだ豊かに残っている日本の国民資源-温帯モンスーンの豊饒な自然、美しい山河、農林水産の伝統文化、地域に根付いた芸能や祭祀を守ろうとする人たちが選んだ生き方である。

 先月号の『フォーリン・アフェアーズ・レポート』では、モルガン・スタンレーのチーフ・グロバル・ストラテジストという肩書のエコノミストが、経済成長の時代は終わったという「経済の新しい現実を認識している指導者はほとんどない」ことを嘆いていた。経済目標を下方修正しなければならないにもかかわらず、政治家たちは相変わらず「非現実的な経済成長を目標に設定し続け」ている。

 中でも質の悪い指導者たちは「人々の関心を経済問題から引き離そうと、外国人をスケープゴートにしたり、軍事的冒険主義に打って出たりすることでナショナリズムを煽っている」(『フォーリン・アフェアーズ・レポート』、2017年 第六号、フォーリン・アフェアーズ・ジャパン、21-22頁)。

 まるで日本のことを書かれているような気がしたが、世界中どこでも政治指導者たちの知性の不調は似たり寄ったりのようである。

 だが、このエコノミストのような認識が遠からず「世界の常識」になるだろうと私は思っている。今求められているのは、この後始まる「定常経済の時代」において世界標準となりうるような「オルタナティヴ」(→当ブログによる「注」→alternative/「既存のものに取ってかわる新しいもの」という意味)を提示することである。

 若者たちの地方移住はその「オルタナティヴ」のひとつの実践である。

 海外メディアがこの動きを「超高齢化・超少子化日本の見出した一つの解」として興味をもって報道する日が来るのはそれほど遠いことではないと私は思っている。

(「地方移住の意味するもの」『内田樹の研究室』2017年07月31日)

 

 (7)「人口減少社会」への対策論④→「学びたいことを学ぶ。身につけたい技術を身につける」

 

 内田氏は、学生の立場からの「人口減少社会」への対策論についても言及しています。

 かなり参考になるので、以下に引用します。

 

「受験生のみなさんへ/サンデー毎日」『内田樹の研究室』2018年03月23日

「サンデー毎日」の先週号に「受験生のみなさんへ」と題するエッセイを寄稿した。

 高校生や中学生もできたら小学生も読んで欲しい。

 受験生のみなさんへ。

 こんにちは。内田樹です。この春受験を終えられた皆さんと、これから受験される皆さんに年長者として一言申し上げる機会を頂きました。これを奇貨として、他の人があまり言いそうもないことを書いておきたいと思います。

 それは日本の大学の現状についてです。いま日本の大学は非常に劣悪な教育研究環境にあります。僕が知る限りでは、過去数十年で最悪と申し上げてよいと思います。

 気鬱な予言になりますけれど、大学を含む日本の学校教育はこれから先ますます「落ち目」になってゆきます。V字回復の見込みはありません。もうすぐに18歳人口の急減によって、大学が次々と淘汰されて消えてゆきます。2017年度で大学を経営する660の学校法人のうち112法人(17%)が経営困難、21法人は2019年度中に経営破綻が見込まれています。みなさんがこれから進学しようとしている先は、そういう危機的状況にある領域なのです。

 じゃあ、どうすればいいんだ、と悲痛な声が上がると思います。上がって当然です。分かっているのは「こうすればうまくゆく」というシンプルな解は存在しないということです。

 初めて経験する状況ですから成功事例というものがない。生き延びる方途はみなさんが自力で見つけるか創り出すなりするしかない。書物やメディアで必要な情報を集め、事情に通じていそうな人に相談し、アドバイスに耳を傾け、分析し、解釈して、生きる道を決定するしかありません。

 そして、その選択の成否については自分で責任を取るしかない。誰もみなさんに代わって「人生の選択を誤った」ことの責任を取ってはくれません。

 どのような専門的な知識や技能を手につけたらよいのかを判断をする時にこれまでは「決して食いっぱぐれがない」とか「安定した地位や収入が期待できるから」という経験則に従うことができました。これからはそれができない。日本の産業構造や雇用状況は、これから、少子化、高齢化とAIの導入で激変することが確実だからです。

 でも、どの産業セクターが、いつ、どのようなかたちで雇用空洞化に遭遇するかは誰も予測できない。

 ですから、僕からみなさんにお勧めすることはとりあえず一つだけです。

 それは「学びたいことを学ぶ。身につけたい技術を身につける」ということです。「やりたくはないけれど、やると食えそうだから」といった小賢しい算盤を弾かない。「やりたいこと」だけにフォーカスする。

 それは自分がしたいことをしている時に人間のパフォーマンスは最も高まるからです。生きる知恵と力を最大化しておかないと生き延びることが難しい時代にみなさんは踏み込むのです。

(「受験生のみなさんへ/サンデー毎日」『内田樹の研究室』2018年03月23日)

 

 内田氏の言いたいことは、要するに、「人口減少社会」の到来という未知の転換期において、「生き延びる」ためには、目先の「不確定な」経済的利益にとらわれないで、「自らの意欲、希望」に従うべきだ、ということでしょう。

 私は、内田氏のこの意見に賛成します。

 そもそも、いつの時代でも、「自分の人生を大切にする」ためには、そういう「心構え」が不可欠なはずです。

 ましてや、未知の一種の動乱の時代には、この「心構え」こそが、自分を助けることになるでしょう。

 「好きこそ、ものの上手なれ」です。

 

(8)「人口減少社会」への対策論⑤

→「一般的な心構え」

 

  「一般的な心構え」としては、第二次世界大戦研究の第一人者・半藤一利氏の以下の見解が妥当でしょう。

 第二次世界大戦史・太平洋戦争史の研究を通して、秀逸な「日本人論」を主張している半藤氏の「人口減少社会」に関する考察は、かなり説得力があります。

 

『日本人は、なぜ同じ失敗を繰り返すのか 撤退戦の研究 (知恵の森文庫)』半藤 一利

「  たぶん日本は国家としての急激な伸張はもう望めないでしょう。美しく成熟するためにはどうすればいいかを考えなければならないときにきている。

 成熟の進行と少子化によって消費パワーは確実に落ちていく。それは国力の衰退を意味し、その結果、日本は一、二の国に追い越されることになる。ただし、一、二の国に追い越されても、日本が依然として経済的な大国であることは間違いない。

 

「  日本人は、これ以上思う通りに欲望を発散させないこと。ここまでで結構ということで満足することに合意すれば、これ以上自然は壊れない。

 今の生活の欲望をこれ以上発散させないこと、これ以上余計なことはしないこと、自己限定の決意、そうした落ち着いた生活というものを覚悟する。

 

「  戦略とはチョイス、選択。そして、選択とは決断。戦争で開戦するかしないかも難しい決断だが、最も難しいのは撤退戦である。

(『日本人は、なぜ同じ失敗を繰り返すのか  撤退戦の研究 (知恵の森文庫)』半藤 一利)

 

日本人は、なぜ同じ失敗を繰り返すのか 撤退戦の研究 (知恵の森文庫)

日本人は、なぜ同じ失敗を繰り返すのか 撤退戦の研究 (知恵の森文庫)

 

 

 

 (9)当ブログにおける「内田樹」関連記事の紹介

 

gensairyu.hatenablog.com

 

gensairyu.hatenablog.com

 

gensairyu.hatenablog.com

 

 ーーーーーーーー

 

今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

ご期待ください。

 

   

 

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サンデー毎日増刊 大学入試全記録 2018年度版

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頻出 難関私大の現代文 (アルファプラスシリーズ)

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5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

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 私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。

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予想問題/「言葉の生成について」内田樹/読解力・知的成熟

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 

 PISA 経済協力開発機構(OECD)の2015年国際学習到達度調査(PISA)で、日本の「読解力」の順位が前回の4位から8位に低下しました。

 このことを契機に、「教育現場」における「読解力の養成」が問題化しています。

  

   「子供の読解力の養成」について、最近、入試頻出著者・内田樹氏が、『内田樹の研究室』に秀逸な論考を発表しました。

 そこで、国語(現代文)・小論文対策として、以下にその概要を引用し、ポイントを解説していきます。

 

 

(2)予想問題/「言葉の生成について」内田樹/2018・3・28『内田樹の研究室』

 

(概要です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です)

 

「『徒然草』の現代語訳をしている時に、一つ発見がありました。今日はその経験を踏まえて、言葉はどうやって生まれるのか、言葉はどうやって受肉するのかという、言葉の生まれる生成的なプロセスについて、思うところをお話ししたいと思います。

 つい最近、PISA(→当ブログによる「注」→OECD生徒の学習到達度調査Programme for International Student Assessment、PISAとは、経済協力開発機構(OECD)による国際的な生徒の学習到達度調査のこと。日本では国際学習到達度調査とも言われるが、英語の原文は「国際生徒評価のためのプログラム」)の読解力テストの点数が劇的に下がったという報道がありました。記事によると、近頃の子どもたちはスマホなど簡便なコミュニケーションツールを愛用しているので、難解な文章を読む訓練がされていない、それが読解力低下の原因であろうと書かれていました。

 たしかに、それはその通りだろうと思います。しかし、だからと言って「どうやって読解力を育成するか?」というような実利的な問題の立て方をするのは、あまりよろしくないのではないかという気がします。

 というのは、読解力というのは目の前にある文章に一意的な解釈を下すことを自制する、解釈を手控えて、一時的に「宙吊りにできる」能力のことではないかと僕には思えるからです。

 難解な文章を前にしている時、それが「難解である」と感じるのは、要するに、それがこちらの知的スケールを越えているからです。

 それなら、それを理解するためには自分を閉じ込めている知的な枠組みを壊さないといけない。これまでの枠組みをいったん捨てて、もっと汎用性の高い、包容力のある枠組みを採用しなければならない。読解力が高まるとはそういうことです。大人の叡智に満ちた言葉は、子どもには理解できません。経験も知恵も足りないから、理解できるはずがないんです。ということは、子どもが読解力を高めるには「成熟する」ということ以外にない。ショートカットはない。

 僕はニュースを見ていて、読解力が下がっているというのは、要するに日本人が幼児化したのだと感じました。「読解力を上げるためにはこれがいい!」というようなこと言い出した瞬間に、他ならぬそのような発想そのものが日本人の知的成熟を深く損うことになる。(→当ブログによる「注」→ということは、子どもが読解力を高めるには「成熟する」ということ以外にない。ショートカットはない。→成熟する他に対策はないのに、対策を考えること自体が愚かなのです。)

 なぜ、そのことに気がつかないのか。」(「言葉の生成について」)

 

(当ブログによる解説)

 現代日本では、真の「市民的成熟」は非常に困難という事情があります。

 それでは、いかにして市民的成熟を達成するか?

 このことについては、内田樹氏の最近の著書『困難な成熟』が、かなり参考になります。

 この本は、著者に定期的に送られてくる人生相談の質問に答えたメルマガ連載を書籍化したものです。

 この本の最初には、次のような記述が、あります。

  タイトルは「困難な成熟」としました。我が師エマニュエル・レヴィナス先生の『困難な自由』から拝借しました。全体を貫く主題は「いかにして市民的成熟を達成するのか」というただひとつの問に集約されるように思ったからです。

 成熟というプロセスは「それまでそんなふうに見たことのない仕方でものごとをを見るようになった」「それまで、そんなものがこの世に存在するとは知らなかったものを認識した」というかたちをとる。

 

 最後の一文は、少々曖昧ですが、重要な示唆的な内容になっています。

 今回の「言葉の生成について」を『困難な成熟』を参照しながら読むと、理解が深まると思います。

 

困難な成熟

困難な成熟

 

 

 内田氏は、『内田樹の研究室』における別の記事(「大人への道」)で、以下のように、「資本主義の進展」により「日本社会の幼児化」が顕著になったと述べています。

 

「  企業から、「共同的に生きる」ということの基礎的なノウハウが欠如した社会集団(→当ブログによる「注」→ここでは、「幼児化したまま、成熟していない若者」をさしています)がいるのだけれど、それを「どうしたらいいのか」という問いがあった。

 「どうしたらいい」のかという対症的な問いの前に、「どうしてこのような集団が発生したのか」という原因についての問いが立てられなければならない。

 同じことをもう繰り返し書いているので、詳しくはもう書かないが、要するに「自己利益を優先的に追求すること」「自分らしく生きること」がたいへんけっこうなことであるというイデオロギーが80年代から20年余にわたり官民あげての合意によって、日本全体に普及したことの見事な結果である。

 当の若い方たちに責任があるわけではない。

 自己利益と自分らしさの追求が、国策的に推奨されたのは、それが集団の解体を促進し、市民たちの原子化を徹底し、結果的に消費活動の病的な活性化をもたらしたからである。

 考えれば当然のことだ。

 資本主義は市民の原子化・砂粒化(→当ブログによる「注」→伝統文化・伝統的価値の破壊、地域社会の破壊、家族関係の破壊、それらが導く個人の孤立化)を推し進める。

 「他者と共生する能力の低い人間」は「必要なものを自分の金で買う以外に調達しようのない人間」だからである。

 それこそ理想的な消費者である。

 それゆえ、高度消費社会は、「自分が自分の手で稼いだものについては、それを占有し、誰ともシェアしてはならない。『自分らしさ』は誰とも共有できない商品に埋め尽くされることで証示される」と信じる子どもたちを作り出すことに国力を傾けた。

 共生能力が低く、自己利益の確保を集団の利益の増大よりも優先させる若者たちは官民挙げての国民的努力の「成果」以外のなにものでもない。

 それについて「誰の責任だ」と凄んでみても始まらない。

 そのような若者たちのありようについては、ある年齢以上の日本人全員に責任がある(私自身は「そういうのはよろしくないです」とずっと言ってきたが、私の声がさっぱり「世論」の容れるところにならなかったのは畢竟私の非力さゆえであり、その意味では、この否定的状況について私もまたその有責者であることに変わりはない)。

 何より、このような共生能力の欠如は、日本社会が例外的に豊かで安全である限りは市場に活気をもたらす「プラス」の要因であったことを、私たちはどれほど苦々しくても認めなければならないと思う。

 そのような理想的消費者の出現のおかげで、現に企業はおおいに収益を上げたわけであるから(花王さんも含めてね)、いまさら「困った」と言われても困る。

 「痩せたい。でも食べたい」というのと同じである。

 この世が成熟した市民ばかりになれば、市場は「火が消えたようになる」けれど、それでもいいですか、ということである。

 というのも、「成熟した市民」は、その定義からして、他者と共生する能力が高く、自分の資産を独占せず、ひろく共用に供する人間だからである。

 それは自分もあまりお金をつかわないし、人にもつかわせない人、ということである。

「成熟した市民」とは言い換えれば「飢餓ベース」「貧窮ベース」の人間のことである。

 危機的状況でも乏しい資源しかない場所でも生き延びることができる「仕様」の人間のことである。

 記号的・誇示的な消費活動ともっとも無縁な人たちである。

 だから、資本主義は市民の成熟を喜ばない。

 そのことを肝に銘じておこう。

 日本社会が「子ども」ばかりになったのは資本主義の要請に従ったからである。

(「大人への道」内田樹『内田樹の研究室』2010年4月22日)

 

 

 さらに、内田氏は、『大人のいない国』の中で、今の日本には、「成熟した人間」のロールモデルがいないと、以下のように述べています。

 

(『大人のいない国』からの引用)

鷲田 幼稚な人が幼稚なままでちゃんと生きていける。

内田 そうなんです。欧米にもアジアにも、そんな社会ないですよ。日本みたいに外側だけ中高年で、中身が子どものままというような人たちが権力を持ったり、情報を集中管理していたりしたら、ふつうはつぶれますよ。

鷲田 今の日本には大人がいないんですよ。いるのは老人と子どもだけ。若い人はみんな、もう自分は若くないと思っているし、オジサン、オバサンたちはまだ自分はどこか子どもだと思っている。成熟していない大人と、もうこの先ないと思っている子どもだけの国になってしまいましたね。

内田 学生たちに聞くと「とにかく年をとりたくない」って言うんですよ。まだ20歳ですよ。子どもなのに、大人になりたくない、と。それも仕方がないかなとも思うんです。だって、成熟した人間のロールモデル(→当ブログによる「注」→自分にとって、具体的な行動・思考の模範・手本となる人物のこと)がいないんですから。

 (『大人のいない国』)

 

 

大人のいない国 (文春文庫)

大人のいない国 (文春文庫)

 

 

(「言葉の生成について」の概要の続き)

「  以前、ある精神科医の先生から「治療家として一番必要なことは、軽々しく診断を下さないことだ」という話を伺ったことがあります。それを、その先生は「中腰を保つ」と表現していました。この「中腰」です。立たず、座らず、「中腰」のままでいる。急いでシンプルな解を求めない。これはもちろんきついです。でも、それにある程度の時間耐えないと、適切な診断は下せない。適切な診断力を持った医療人になれない。

 今の日本社会は、自分自身の知的な枠組みをどうやって乗り越えていくのか、という実践的課題の重要性に対する意識があまりに低い。低いどころか、そういう言葉づかいで教育を論ずる人そのものがほとんどいない。むしろ、どうやって子どもたちを閉じ込めている知的な枠組みを強化するか、どうやって子どもたちを入れている「檻」を強化するかということばかり論じている。

 しかし、考えればわかるはずですが、子どもたちを閉じ込めている枠組みを強化して行けば、子どもたちは幼児段階から脱却することができない。できなくなる。でも、現代日本人はまさにそのようなものになりつつある。けっこうな年になっても、幼児的な段階に居着いたままで、子どもの頃と知的なフレームワークが変わらない。

(→当ブログによる「注」→悲惨な状況です。それに気付かないことも悲惨です。このことが、日本に固有な、歪んだ「高齢化社会」問題の原因の一つになっているのです→この点については、新たに記事化する予定です)

 もちろん、知識は増えます。でも、それは水平方向に広がるように、量的に増大しているだけで、深く掘り下げていくという垂直方向のベクトルがない。読解力というのは量的なものではありません。

 僕が考える読解力というのは、自分の知的な枠組みを、自分自身で壊して乗り越えていくという、ごくごく個人的で孤独な営みであって、他人と比較したり、物差しをあてがって数値的に査定するようなものではない。読解力とは、いわば生きる力そのもののことですから。

(→当ブログによる「注」→「読解力」=「生きる力そのもの」という指摘は、重要です)

 現実で直面するさまざまな事象について、それがどういうコンテクストの中で生起しているのか、どういうパターンを描いているのか、どういう法則性に則っているのか、それを見出す力は、生きる知恵そのものです。何か悲しくて、生きる知恵を数値的に査定したり、他人と比較しなくてはならないのか。そういう比較できないし、比較すべきではないものを数値的に査定するためには、「読解力とはこういうテストで数値的に考量できる」というシンプルな定義を無理やり押し付けるしかない。けれども、ある種のドリルやテストを課せば読解力が向上するという発想そのものが子どもたちの「世界を読み解く力」を損なっている。(→上記の「読解力」=「生きる力」=「生きる知恵」=「世界を読み解く力」は重要な指摘と言えます)

 僕がそのように思うに至ったのには、レヴィナスを翻訳した経験が深く与っています。レヴィナスは「邪悪なほど難解」という形容があるほど難解な文章を書く哲学者です。
 僕は1970年代の終わり頃、修士論文を書いている時にレヴィナスの名を知り、参考文献として何冊かを取り寄せ、最初に『困難な自由』という、ユダヤ教についてのエッセイ集を読みました。しかし、これが全く理解できない。そして、茫然自失してしまった。にもかかわらず、自分はこれを理解できるような人間にならなければということについては深い確信を覚えました。ただ知識を量的に増大させて太刀打ちできるようなものではない、ということはよくわかりました。人間そのものの枠組みを作り替えないと理解できない。

 それまでも難しい本はたくさん読んできましたが、その難しさは知識の不足がもたらしたもので、別に自分自身が変わらなくても、勉強さえすれば、いずれ分かるという種類の難解さに思われました。でも、レヴィナスの難解さは、あきらかにそれとは質の違うものでした。今のままの自分では一生かかっても理解できないだろうということがはっきりわかる、そういう難解さでした。その時は「成熟する」という言い回しは浮かびませんでしたが、とにかく自分が変わらなければ始まらないことは実感した。

 レヴィナスが難解だったのは、語学力や知識の問題というよりは、自分が幼くて、レヴィナスのような「大人」の言うことがわからなかったからだということがわかった。レヴィナスの書くものの本質的なメッセージは、一言で言うと、「成熟せよ」ということです。

 全く分からないけど、どんどん読む。そうすると、何週間かたつうちに、意味は分からなくても、テキストと呼吸が合ってくる。呼吸が合ってくると、「このセンテンスはこの辺で終わる」ということがわかる。どの辺で「息継ぎ」するかがわかる。そのうちにある語が来ると、次にどういう語が来るか予測できるようになる。ある名詞がどういう動詞となじみがいいか、ある名詞がどういう形容詞を呼び寄せるか、だんだん分かるようになる。不思議なもので、そうなってくると、意味が分からなくても、文章を構成する素材については「なじみ」が出てくる。

 そのうちにだんだん意味がわかってくる。

 でも、それは頭で理解しているわけじゃないんです。まず身体の中にしみ込んできて、その「体感」を言葉にする、そういうプロセスです。それは喩えて言えば、「忘れていた人の名前が喉元まで出かかっている」時の感じに似ています。これはただ「わからない」というのとはもう質が違います。体はもうだいぶわかってきている。それを適切な言葉に置き換えられないだけなんです。

 身体は、もうかなりわかっているんだけれど、まだうまく言葉にならないで「じたばたしている」、これこそ言葉がまさに生成しようとしているダイナミックな局面です。たしかに思いはあるのだが、それに十全に照応する記号がまだ発見されない状態、それはと子どもが母語を獲得してゆくプロセスそのものです。僕たちは誰もが母語を習得したわけですから、そのプロセスがどういうものであるかを経験的には知っているはずなんです。

 まず「感じ」がある。未定型の、星雲のような、輪郭の曖昧な思念や感情の運動がある。それが表現されることを求めている。言葉として「受肉」されることを待望している。だから必死で言葉を探す。でも、簡単には見つからない。そういうものなんです。それが自然なんです。それでいいいんです。そういうプロセスを繰り返し、深く、豊かに経験すること、それが大切なんです。

 レヴィナスを毎日翻訳するという生活が10年近く続いたわけですけれど、これだけ「わからない言葉」に身をさらすということをしていると、まだぴったりした言葉に出会っていない思念や感情は、いわば「身に合う服」がないまま、裸でうろうろしているような感じなんです。だから、何を見ても「あ、これなら着られるかな、似合うかな」と思う。四六時中そればかり考えている。新聞を読んでも、小説を読んでも、漫画を読んでも、友だちと話していても、いつも「まだ服を着ていない思い」が着ることのできる言葉を探している。そのことがずっと頭の中にある。そうすると、喉に刺さった魚の骨みたいなもので、気になって気になって、朝から晩まで、そのことばかり考えている。でも、魚の骨と同じで、そのことばかり考えているうちに、それに慣れて、意識的にはもう考えなくなってしまう。そして、ある日気がつくと、喉の痛みがなくなっている。喉に刺さっていた小骨が唾液で溶けてしまったんです。「痛い痛い」と言いながら、身体はずっと気長に唾液を分泌し続けていた。そして、ある日「喉に刺さった小骨」は溶けて、カルシウムになって、僕の身体に吸収され、僕の一部分になってしまっていた。

 新しい記号の獲得というのは、そういうふうにして行われるものだと思います。「記号化されることを求めているアイデアの破片」のようなものが、いつも頭の中に散らばっている。デスクトップ一杯に散らかっている。だから、何を見ても「これはあれかな」と考える。音楽を聴いても、映画を見ても、本を読んでいても、いつも考えている。

 そういう時に役に立つのは「なんだかよくわからない話」です。自分にうまく理解できない話。そういう話の中に「これはあれかな」の答えが見つかることがある。当然ですよね、自分が知っているものの中にはもう答えはないわけだから。知らないことの中から答えを探すしかない。自分がふだん使い慣れている記号体系の中にはぴったりくる言葉がないわけですから、「よそ」から持ってくるしかない。自分がそれまで使ったことのない言葉、よく意味がわからないし、使い方もわからない言葉を見て、「あ、これだ!」と思う。そういうことが実際によくあります。

 これは本当によい修業だったと思います。そういう明けても暮れても「言葉を探す」という作業を10年20年とやってきた結果、「思いと言葉がうまくセットにならない状態」、アモルファスな「星雲状態」のものがなかなか記号として像を結ばないという状態が僕にはあまり不快ではなくなった。むしろそういう状態の方がデフォルト(→当ブログによる「注」→「普通」という意味)になった。

 たいせつなのは、どういう「ヴォイス(voice)」を選ぶかということだと思います。「ヴォイス」というのは、その人固有の「声」のことです。余人を以ては代え難い、その人だけの「声」。

 国語教育目標は、生徒たち一人ひとりが自分固有の「ヴォイス」を発見すること、それに尽くされるのではないかと僕は思います。

 基本は呼吸なんです。呼吸は国語によって変わります。イタリア人やフランス人とは息継ぎのリズムが違います。イタリア人が日常的に話しているイタリア語をリズミカルに、抑揚をつけて話すとオペラになる。日本人でも日常の言葉を音楽的に処理すると、謡になったり、浄瑠璃になったり、落語になったりする。

 多くの人が勘違いしているようですけれど、自分の思考プロセスは自分のものではありません。それは、マグマや地下水流のようなもので、自分の外部に繋がっています。それと繋がることが「ヴォイス」を獲得するということです。呼吸と同じです。呼吸というのは酸素を外部から採り入れ、二酸化炭素を外部に吐き出すことです。外部がないと成り立たない。自分の中にあるものの組み合わせを替えたり、置き換えたりしているだけではすぐに窒息してしまいます。生きるためには外部と繋がらなければならない。

 言葉が生成するプロセスというのは、自分のものではありません。自分の中で活発に働いているけれども、自分のものではない。それに対する基本的なマナーは敬意を持つことなんです。自分自身の中から言葉が湧出するプロセスに対して丁寧に接する。敬意と溢れるような好奇心を以て向き合う。」(「言葉の生成について」)

 

 (当ブログによる解説) 

 上記の最終段落について解説します。

   「言葉が生成するプロセス」への「敬意」、つまり、「成熟」と「自分以外のものへの敬意」の「関係」については、『困難な成熟』の第3章「与えるということ」の一節が参考になります。

 「敬意」は「成熟」の前提条件ともいえるものです。

 

(以下、引用)

「  贈与は「私が贈与した」という人ではなく、「私は贈与を受けた」と思った人間によって生成するのです。 「目に映るすべてのものはメッセージ」(ユーミンの『優しさに包まれたなら』) この感覚のことを「被贈与の感覚」という。

 「カーテンを開いて、静かな木漏れ陽の、やさしさに包まれたなら、きっと、目に映るすべてのことはメッセージ」

 聴いて、はっとしました。これは贈与論ではないか、と。

「目に映るすべてのことはメッセージ」ですよ。この感覚のことを「被贈与の感覚」と僕は申し上げているわけです。

誰もメッセージなんか送っていないんです。

 木漏れ陽は誰かからのメッセージじゃありません。ただの自然現象です。でも、ユーミンはそこに「メッセージ」を読み出した。自分を祝福してくれるメッセージをそこから「勝手に」受け取った。そしてその贈り物に対する「お返し」に歌を作った。 

 その歌を僕らは聴いて、心が温かくなった。「世界は住むに値する場所だ」と思った。そういう思いを与えてくれたユーミンに「ありがとう」という感謝を抱いた。返礼義務を感じたので、とりあえずCDを買った(昔なので、買ったのはLPですけど。)

 そして、はじめてこの歌を聴いてから35年くらい経ってからも、こうやって「あれはいいね」という文章を書いている。

 贈与は 形あるものではありません。

 それは運動です。 人間的な営為のすべては「贈与を受けた立場からしか始まらない。

 そして、市民的成熟とは、「自分が贈与されたもの」 それゆえ「反対給付の義務を負っているもの」について、どこまで 長いリストを作ることができるか、それによって考慮されるものなのです。 そのリストが長ければ長いほど、「大人」だということになる。

 皆さんにしてほしいのは、ユーミンが歌ったとおり、 「目に映るすべてのことはメッセージ」ではないかと思って、 周りを見わたして欲しいということ、それだけです。

 (『困難な成熟』)

 

 また、上記の「言葉の生成について」の中の、

「言葉が生成するプロセスというのは、自分のものではありません。自分の中で活発に働いているけれども、自分のものではない」

の部分は、「言語道具観」とは異なる内田氏の「言語観」を知っておくと、分かりやすくなります。

 従って、「言語観」についての内田氏の見解(「白川静先生を悼む」『内田樹の研究室』2006年11月6日)を引用します。

 

「  白川先生の漢字論は『コミュニケーションの道具としての言葉』という功利的言語観と隔たるところ遠い。

 私たちが言葉を用いるのではなく、言葉によって私たちが構築され変容されてゆく。

 白川先生はそう教えた。

 この言語観はソシュール以後の構造主義言語学やレヴィ=ストロースやジャック・ラカンの構造主義記号論と深く通じている。

 そういう意味で白川静先生は「日本を代表する構造主義者」と呼んでよいのではないかと私は思っている。

(内田樹「白川静先生を悼む」『内田樹の研究室』2006年11月6日)

 

 (「言葉の生成について」の概要の続き)

「ヴォイス」の発見とは、自分の中で言葉が生まれていくプロセスそのものを観察し、記述できること、そう言ってよいかと思います。自分の中で言葉が生まれ、それを使ってなにごとかを表現し、今度はそうやって表現されたものに基づいて「このような言葉を発する主体」は何者なのかという一段次数の高いレベルから反転して、自己理解を深めてゆく。そういうダイナミックな往還の関係があるわけです。そのプロセスが起動するということがおそらく「ヴォイス」の発見ということではないかと僕は思います。(→当ブログによる「注」→「ヴォイス」の発見は「自己理解」の重要なプロセス、という指摘は、「自己理解」を考察する上で必要なことです)

 今の子どもたちの語彙が貧困で、コミュニケーション力が落ちている最大の理由は、周囲の大人たちの話す言葉が貧困で、良質なコミュニケーションとして成り立っていないからです。

 周りにいる大人たちが陰影に富んだ豊かな言葉でやりとりをしていて、意見が対立した場合はさまざまな角度から意見を述べ合い、それぞれが譲り合ってじっくり合意形成に至る、そういうプロセスを日常的に見ていれば、そこから学ぶことができる。それができないとしたら、それは子どもたちではなく、周りの大人たちの責任です。

 もし今の子どもたちの読解力が低下しているとしたら、その理由は社会自体の読解力が低下しているからです。子どもに責任があるわけじゃない。大人たち自身が難解な文章を「中腰」で読み続けることがもうできない。

 時々、議論を始める前に、「まずキーワードを一意的に定義しましょう。そうしないと話にならない」という人がいますね。そういうことを言うとちょっと賢そうに見えると思っているからそんなことを言うのかも知れません。でも、よく考えるとわかりますけれど、そんなことできるわけがない。キーワードというのは、まさにその多義性ゆえにキーワードになっている。

 それが何を意味するかについての理解が皆それぞれに違うからこそ現に問題が起きている。その定義が一致すれば、もうそこには問題はないんです。語義の理解が違うから問題が起きている。

 語義についての理解の一致こそが議論の最終目的なわけです。

 そこに到達するまでは、キーワードの語義はペンディングにしておくしかない。多義的なまま持ちこたえるしかない。今日の僕の話にしても「教育」とは何か、「学校」とは何か、「言語」とは何か、「成熟」とは何か・・・・無数のキーワードを含んでいます。その一つ一つについて話を始める前に一意的な定義を与え、それに皆さんが納得しなければ話が始められないということにしたら、僕は一言も話せない。語義を曖昧なままにして話を始めて、こちらが話し、そちらが聴いているうちに、しだいに言葉の輪郭が整ってくる。合意形成というのは、そういうものです。

 僕たちが使う重要な言葉は、それこそ「国家」でも、「愛」でも、「正義」でも、一義的に定義することが不可能な言葉ばかりです。しかし、定義できるということと、その言葉が使えるということはレベルの違う話です。一意的に定義されていないということと、その言葉がそれを使う人の知的な生産力を活性化したり、対話を円滑に進めたりすることとの間に直接的な関係はないんです。むしろ、多義的であればあるほど、僕たちは知的に高揚し、個人的な、個性的な、唯一無二の定義をそこに書き加えていこうとする。

 でも、それは言葉を宙吊りにしたまま使うということですよね。言葉であっても、観念であっても、身体感覚であっても、僕たちはそれを宙吊り状態のまま使用することができる。シンプルな解に落とし込まないで、「中腰」で維持してゆくことができる。その「中腰」に耐える忍耐力こそ、大人にとっても子どもにとっても、知的成熟に必須のものだと思います。でも、そういうことを言う人が今の日本社会にはいない。全くいない。」(「言葉の生成について」)

 

(当ブログによる解説)

 上記は「効率第一主義」の弊害が顕著になっています。

 すべてのことに「効率第一主義」を適用することは、誤りといえます。

 ましてや、「本質的な議論」に「効率第一主義」を適用しようとする発想は、異様としか言えません。

 「本質的な議論」は、時間をかけて徹底的におこなうべきでしょう。

  

(「言葉の生成について」の概要の続き)

「  誰もが「いいから早く」って言う。「400字以内で述べよ」って言う。だから、こういう講演の後に質疑応答があると、「先生は講演で『宙吊り』にするということを言われましたが、それは具体的にはどうしたらいいということですか」って(笑)、質問してくる人がいる。「どうしたらいいんですか」というシンプルな解を求めるのを止めましょうという話をしているのに、それを聞いた人たちが「シンプルな解を求めないためには、どうしたらいいんですか」というシンプルな解を求めてくる。

(→当ブログによる「注」→この部分は低レベルなコントのようになっています。登場人物は、どうしようもない「漫画的な愚者」です)

 自分で考えてください、自分で考えていいんです。自分で考えることが大切なんです、とそういう話をしているのに、「一般解」を求めてくる。何を論じても、「で、早い話がどうしろと言っているんですか?」と聞いてくる。そこまで深く「シンプルな解」への欲求が内面化している。

 首尾一貫した、整合的なセンテンスを語らなければならないというルールがいつから採用されたんでしょう。だって、言葉の生成というのはそういうものじゃないでしょう。言葉がなかなか着地できないまま、ふらふらと空中を漂って、「なんて言えばいいんだろう、もっと適当な表現はないかなあ」と、つっかえたり、言いよどんだり、前言撤回したり、そういう言語活動こそが「ヴォイス」を獲得するために必須の行程なんです。そういう言葉がうねうねと渦を巻くようなプロセスを「生成的なもの」だと見なして、大人たちが忍耐強く、興味深くそれを支援するということが言葉能力の成熟のためには絶対に必要なんです。」 

(2016年12月9日 大阪府高等学校国語研究会にて)

(「言葉の生成について」内田樹/2018・3・28『内田樹の研究室』)

  

 

 (当ブログによる解説)

 上記の論考の中心ポイントである、「読解力」と「経験・年齢」の「関係」については、『寝ながら学べる構造主義』の「あとがき」に、以下のように書かれています。

 かなり参考になるので引用します。

 

「  私は二十歳の頃、構造主義という当時最先端の思想に食いつこうと必死だったが、難解すぎてさっぱり分からなかった。

 それから歳を経て人並みに世間の苦労を積み、「人としてたいせつなこと」が段々と分かるようになってきました。

 そういう年回りになってから読むと、かつては邪悪なまでに難解であった構造主義者の言いたいことがすらすら分かるじゃありませんか。

 レヴィ=ストロースは要するに「みんな仲良くしようね」と言っており、バルトは「ことばづかいで人は決まる」と言っており、ラカンは「大人になれよ」と言っており、フーコーは「私はバカが嫌いだ」と言っているのでした。

 べつに哲学史の知識がふえたためでも、フランス語読解力がついたためでもありません。

 馬齢を重ねているうちに、人と仲良くすることの大切さも、ことばのむずかしさも、大人になることの必要性も、バカはほんとに困るよね、ということも痛切に思い知らされ、おのずと先賢の教えがしみじみ身に沁みるようになったというだけのことです

 (内田樹『寝ながら学べる構造主義』)

 

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寝ながら学べる構造主義 *3

 

 

 やはり、「読解力」アップのポイントは、「知的成熟」、つまり、「大人になる」ことなのでしょう。

 しかし、子供にとっては、上記の「言葉の生成について」で述べられているように、身近に手本となるような「大人のロールモデル」がいないという不幸な現状があります。

 現代の日本社会が、「大人」というものの価値を認識していないので、「真の大人」がいなくなっているのです。

 

 内田樹氏と同様に、鷲田清一氏も、『大人のいない国』の「プロローグ」で、「大人」というものの再評価を主張しています。

 

「  近頃の不正の数々は、システムを管理している者の幼稚さを表に出した。

 ナイーブなまま、思考停止したままでいられる社会は、じつはとても危うい社会であることを浮き彫りにしたはずなのである。それでもまだ外側からナイーブな糾弾しかしない。そして心のどこかで思っている。いずれだれかが是正してくれるだろう、と。しかし実際にはだれも責任をとらない。

 サーヴィス社会(→当ブログによる「注」→「高度消費社会」と言い換えてもよいでしょう)たしかに心地よい。けれども、先にあげた生きるうえで欠かせない能力の一つ一つをもういちど内に回復してゆかなければ、脆弱なシステムとともに自身が崩れてしまう。システム管理者の幼稚さはそのことを知らせたはずだ。

 「地域の力」といったこのところよく耳にする表現も、見えないシステムに生活を委託するのではなく、目に見える相互のサービス(他者に心をくばる、世話をする、面倒をみる)をいつでも交換できるように配備しておくのが、起こりうる危機を回避するためにはいちばん大事なことだと告げているのだろう。これ以上向こうに行くと危ないという感覚、あるいはものごとの軽重の判別、これらをわきまえてはじめて「一人前」である。

 ひとはもっと「おとな」に憧れるべきである。そのなかでしか、もう一つの大事なもの、「未熟」は、護れない。芸術をはじめとする文化のさまざまな可能性を開いてきた「未熟」な感受性を、護ることはできない。 (『大人のいない国』)  

 

 

 (3)当ブログにおける「内田樹」関連記事の紹介

 

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ーーーーーーーー
  

 今回の記事は、これで終わりです。

 次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

 ご期待ください。

   

 

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困難な成熟

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

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5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

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*1:文春新書

*2:文春新書

*3:文春新書

予想問題「スポーツ本来の意義 高尚な遊び取り戻す時」佐伯啓思

 (1)なぜ、この記事を書くのか?

 

 「遊びの精神」は、 入試頻出論点です。

 また、東京オリンピック、最近のマラソンブーム、ジョギングブーム等により、「スポーツ」関連論点は流行論点になっています。

 最近の日大アメリカンフットボール部の「危険なタックル問題」が、きっかけとなり、「スポーツ」関連論点は、さらに流行する可能性があります。

 

 最近、入試頻出著者・佐伯啓思氏が、「遊びの精神」・「スポーツ」」に関する秀逸な論考を発表しました。

 来年度以降の入試国語(現代文)・小論文対策として、この論考、および、「遊びの精神」について、幅広く解説します。

 

 なお、今回の項目は以下の通りです。記事は、約1万字です。

 

(2)予想問題/「スポーツ本来の意義 『高尚な遊び』取り戻す時」(佐伯啓思『朝日新聞』2018・6・1「異論のススメ」))

(3)ホイジンガの主張する「遊戯」・「高尚な気晴らし」について

(4)「遊びの価値」について

(5)「ゆとり」とは何か?

(6)「遊びの精神」・「余裕」の必要性

(7)「遊びの精神」・「余裕」を身に付けるためには?

(8)当ブログにおける「佐伯啓思」関連記事の紹介

(9)当ブログにおける「スポーツ」関連記事の紹介

 

 

(2)予想問題/「スポーツ本来の意義 『高尚な遊び』取り戻す時」(佐伯啓思『朝日新聞』2018・6・1「異論のススメ」))

 

(概要です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です)

(以下、同じです) 

 

「  アメフトの試合における日大の悪質な反則行為が社会問題となっている。連日、ニュースのトップを飾るほどの事件かとも思うが、なにせこのところのトップニュースは、「もり・かけ(森友・加計学園)問題」から、財務省の事務次官を始めとする多様なセクハラ問題と、何やら各種・各所の「反則」行為とその糾弾ばかりが目立っている。

 日大アメフト問題はともかく、改めてスポーツについて論じてみたい。スポーツとは、もともとディス・ポルトという語源をもっているようだが、これは船が停泊する港(ポルト)を否定する(ディス)ものであり、停泊地から離れる、つまり、はめをはずす、といった意味を含んでいるという説がある。実際、英語の「スポート」には「戯れ」や「気晴らし」や「ふざけ」といった意味がある。だから、もともとスポーツは「はめをはずす」ものといえるのだが、その第一義的な意義は、それが日常の窮屈な秩序や組織の規則から一時的に解放されて気晴らしを行う、という点にあった。日常のなかに無理やりに押し込まれた過剰なエネルギーの発露である。

 ところが、オランダの歴史家であるヨハン・ホイジンガが、かつて「ホモ・ルーデンス」(1938年)と題する本で、人間の文化は(そして政治も経済も)「遊び」のなかで生み出された、述べた。「ホモ・ルーデンス」とは「遊び(ルードゥス)」から発した「遊ぶ人」だ。

 もちろん、これは「遊び人」ではない。「ホモ・ルーデンス」とは、ただ生きるという生存活動ではなく、日常的生活を超えた次元で、人間のもつ過剰なエネルギーが生み出した活動の様式なのである。「遊び」という言葉が十分に暗示しているように、それは、生活必需品の生産や確保を旨とする日常の活動とは異なった次元にあった。賞品や名誉をめぐって争われる競技など、その典型であろう。生を確保するための日常の活動では人々は必死になるが、この過剰なエネルギーの発露である「遊び」においては、人は、どこか余裕をもち、楽しんで気晴らしをするだろう。

 ホイジンガは、その場合、非日常的なこの過剰なエネルギーを整序するものとして、とりわけ宗教的・儀式的なものの役割を重視している。古代ギリシャのオリンピックも、もともとは神々へ捧げる祝祭の競技であった。スポーツは、確かに「遊び(ルードゥス)」を起源としているが、「スポーツ」がもっている非日常的な「はめはずし」の行き過ぎを防ぐものは、その背後にある「聖なるもの」であり、そこに一定の「様式」や「規則」が生み出されてきたのである。日本では、「道」という観念がその代替的役割を果たしたのであろう。

 そして、神々を背後において行われる競技という「遊び」の精神は、ソクラテスやソフィストの言論競技の根底にもあり、そうだとすれば、それは言論を戦わせる民主政治にも通じる。また、もともと、聖なる場所にしつらえられた市場でモノのやりとりをする市場経済にも通じるものである。それらの根底には「遊び」の要素がある。

 とすれば、「スポーツ」にも、また政治上の言論戦にも、また経済競争にも、どこか余裕があり、楽しむ精神があり、偶発性があり、ルールがあり、その先には、何らかの「聖なるもの」へ向けた意識があった神々が見ている、というような意識である。スポーツの競争や競技は、むろん真剣勝負であるが、その真剣さは、生きるための日常の必死な生真面目さとは一線を画した、どこかに余裕をもった真剣勝負であった。

 ところが、オランダの歴史家であるホイジンガは、今日、スポーツから遊びが失われている、という。そもそも、祭祀(さいし)との関連がすっかり失われ、ただただ勝つことや記録だけが自己目的化され、カネをかけた大規模な大会に組織され、機械的で合理的な訓練が優位となり、もっぱら職業的な活動となっている。これでは、本来の「高尚な気晴らし」は失われてしまう。勝つために合理的に訓練され組織された闘争本能の発露になっている、ということだ。

 政治も経済も、もともと「遊び」に淵源(えんげん)をもつというホイジンガの発想を借用すれば、今日の民主政治も市場競争も、スポーツと同様、あまりに合理化され、組織化され、過度に勝敗にこだわり、数字に動かされ、自由さも余裕も失ってしまったようにみえる。確かに、今日の国会論戦も、金融市場の投機も、どこかゲーム的で「過剰なエネルギーの発露」の感がないわけではないが、そこには、「遊び」のもつ余裕もなければ、逆に生きる上での必死の生真面目さもない。ただ、「勝つこと」だけがすべてになってしまった。

 今日、大衆的なショウと化した政治も過度に競争状態に陥った経済も、そしてスポーツも、従来のルールに従っていては勝てない。だから、トランプのような「反則的な」大統領が登場して保護主義を唱え、習近平が自由貿易を唱えている。これも反則であろう。フェイクニュースの横行も反則である。本来の「遊び」が失われてしまい、本当に、はめがはずれてしまった。勝つためには反則でもしなければ、という意識があらゆる領域で社会を動かしている。「遊び」がもっていた余裕や自由さが社会からなくなりつつあるのだ。まずはスポーツこそ人間存在の根源にある「遊び」の精神を取り戻す時であろう。」

(「スポーツ本来の意義 『高尚な遊び』取り戻す時」佐伯啓思『朝日新聞』2018・6・1「異論のススメ」)

 

 現代文明は、「余裕」や「人間性」を喪失した、下品で悲惨な状況になっているようです。

 特に、日本社会は、政治の失敗、グローバル化の影響により、「余裕」・「ゆとり」をすっかり失い、貧困化し、節約ヒステリーに陥っている感じです。

 また、マスコミや医学界に踊らされて健康ヒステリー、清潔パニックにも陥っているようです。

 日本社会の劣化が露呈しているのです。


 日本人は、本来は「遊びの達人」でした。

 日本の伝統文化には「遊びの精神」が色濃いようです。

 「梁塵秘抄」には、次のような有名な一節があります。

 「遊びをせんとや生まれけむ

 戯れせんとや生まれけん

 遊ぶ子供の声聞けば

 我が身さへこそ動(ゆる)がるれ」

 歌舞伎、能楽、狂言、茶の湯、花道、歌舞伎、落語、和歌、俳句、川柳、民謡等には、「遊びの精神」が充満しています。

 しかし、近代以降の日本は「遊び」を軽視しています。

 

 教育の分野でも、すぐに役に立つ実用的な教育が求められる傾向があります。

 果たして、それで創造的な人間が育つでしょうか?

 

 最近の、日本の淀んだような閉塞感を払拭するためには、「遊びの精神」の再評価が不可欠でしょう。

 

朝日新聞デジタル

朝日新聞デジタル

 

 

 

(3)ホイジンガの主張する「遊戯」・「高尚な気晴らし」について

 

 ホイジンガは、「遊戯」、「高尚な気晴らし」、「聖なる遊び」について、以下のように述べています。

 ホイジンガは、「遊び」は、「単なる遊び」ではなく、宇宙における人間存在を高貴たらしめている、「聖なるなるもの」、「美なるもの」という側面がある、と強調しているのです。

 以下に、上記の佐伯氏の論考に関連するホイジンガの見解を引用します。

 

「  プラトンの遊びと神聖なるものとの同一化は、神聖なものを遊びと呼ぶことで冒瀆(ぼうとく)しているのではない。その反対である。彼は、遊びという概念を、精神の最高の境地に引きあげることによって、それを高めている。われわれは、この本の初めの箇所で、遊びはすべての文化に先行して存在していた、と述べた。人間は子どものうちは楽しみのために遊び、真面目な人生の中に立てば、休養、レクリエーションのために遊ぶ。しかし、それよりもっと高いところで遊ぶこともできるのだ。それが、美と神聖の遊びである。」

 

「  祭礼の行為は遊びでありつつ、同時に、清め、祈り、救済の約束、等々であり、共同体の安寧と福祉を人々に確信させるという、高次の機能を果たしている。聖なる遊びは、共同体の繁栄のためになくてはならぬものであり、宇宙的洞察と社会の発展を内に秘めていながら、しかし常に遊びであり、必要と真面目の味気ない世界の外で、それを超えて成し遂げられる行為である。」


「  遊戯というものが現にあるということが、宇宙の中でわれわれ人間が占めている位置の超理論的な性格を、絶えず幾度となく証明する理由になっているのであり、しかもこの場合、それが最高の意味での証明でさえある。動物は遊戯をすることができる。だからこそ、動物はもはや単なる機械的なもの以上の存在である。われわれは遊戯もするし、それと同時に、自分が遊戯していることを知ってもいる。だからこそ、われわれは単に理性を行使するだけの存在以上のものである。」

 

「  遊戯はものを結びつけ、また解き放つのである。それはわれわれを虜にし、また呪縛する。それはわれわれを魅惑する。すなわち遊戯は、人がさまざまな事象の中に認めて言い表わすことのできる性質のうち、最も高貴な二つの性質によって充されている。リズムとハーモニーがそれである。」

 


(4)「遊びの価値」について

 

 上記の佐伯氏の論考の最終部分では、以下のように述べられています。

 

「遊び」がもっていた余裕や自由さが社会からなくなりつつあるのだ。まずはスポーツこそ人間存在の根源にある「遊び」の精神を取り戻す時であろう。

 

 この言葉は重要です。

 人間存在の根源には、「遊びの精神」があるのです

 「遊びの精神」は人間にとって不可欠、と言ってもよいでしょう。

 

 この点に関して、プラトンは、以下のように述べています。

「  人間のさまざまの問題は、たしかに大いなる真面目さをもってするには値しないものです」

 ここでプラトンが意識しているのは、「パイデイアπαιδεία」という言葉です。

 「パイデイア」は「パイディアπαιδία」(「子どもの遊び」という意味。転じて「遊び一般」)から派生した来た言葉で、「教育」・「教養」といった意味を有しています。

 プラトンは、「遊び」につながる「この語本来の意味」に注目しているようです。

 そして、「正しい生き方とは、一種の『遊び』を楽しみながら、人生を過ごすことにある。そうすることによって、私達は神の加護を受け、戦争にも勝利することができる」と言っています。

 

 遊びは、つらい人生を生きていくための大切な要素であり、人生を支える基盤のひとつなのです。

 従って、人間的に豊かに生きていくためには、「遊びの精神」を忘れては、いけないでしょう。

 

 ドイツの教育学者で、幼児教育の祖であるフレーベルは、子ども時代の「遊び」を評価し、「遊びは人を強くする精神的沐浴(もくよく)」と述べています。

 このことは、「大人の遊び」にも、通じる部分があると思います。

 

 しかし、現代の日本人は、「遊び」というものに偏見を持っている感じです。

 余裕がないのでしょうか?

 

 このことについて、多田道太郎氏が『遊びと日本人』の中で、洒落た卓見を述べています。

 考えさせる内容を含んでいるので、以下に引用します。

「『大人の遊び』というものに関して、私たちは、大抵、冷淡である。むしろ、冷酷である。ときには酷薄でさえある。遊びそのものの魅力には、われ知らず引き寄せられる一方、私たちは傍観者としては、冷たくこれを射る眼をもっている。これはどうしたことか、と問うことも愚に似ている。それほど堅い偏見の殻が遊びについての考えを厚くおおうている。」

「  最も感動的な子供の遊びを上限に置き、もっとも非感動的なセックスや麻薬の遊びを下限におくと、その上限下限の階段序列にさまざまの遊びを置くことができる。そして、ひとは、ある遊びを許し、他の遊びを許さないが、そのことは、当の人物のリベラル度をはかる物差しともなる。

 

 哲学者であるスピノザも、『エチカ』(1677年)の中で次のように述べています。

「  人間の体は、性質を異にする多くの部分から成り立っているので、それぞれの器官がいつもよく働き、心身共に能力を十分に発揮するためには、それぞれの諸器官が多様で必要な栄養をとらえねばならない。自由な生活の楽しみこそが、生命活動の栄養である。」

 

 18世紀のドイツの詩人、フリードリヒ・フォン・シラーも、「遊びの重要性」について、以下のように述べているのです。

「  人間は、文字通り人間であるときだけ遊んでいるのであって、遊んでいるところでだけ真の人間なのだ。」

 

 「人間」と「遊び」は、密接な関係にあるということでしょう。

 「遊んでいるところでだけ真の人間なのだ」の部分は、感動しました。

 そして、思わず納得してしまいました。

 

 「遊び」は、「人間の豊かさ」の原点です。

 さらに、「面白さを追求する精神」が「創造力の源泉」となり、社会を豊かにしていくのです。

 「スポーツ」・「遊び」の教育的効果だけでなく、「人間としての豊かさ」を育成する要素としての「スポーツ」・「遊び」の重要性を意識するべきでしょう。

 

 

(5)「ゆとり」とは何か?

 

 ところで、「ゆとり」とは、何でしょうか?

 曖昧な内容を含んだ言葉です。

 なかなか、実感できない側面があります。

 辞書をひくと、「余裕を持たせるために設けられた空間」と説明され、類語として、「スペース」 ・  「余剰 」・「余り」 ・ 「残り」などが挙げられています。

 

 この点について、入試頻出著者・鷲田清一氏が、鋭い指摘しているので、以下に引用します。

 

 「 ゆとりとは、じぶんが自由にできる時間をもつということではなくて、意のままにならないもの、それは物であったり別の生き物であったり記憶であったりするが、そういうもののひとつひとつに丁寧に接するなかで生まれてくるものであるはずだ。それは、じぶん以外の何かを迎え容れうる、そういう空白をもっているということであって、くつろぐ、つまりじぶんの気に入ったもので回りを満たすという態度とは正反対のものなのである。」(『想像のレッスン』鷲田清一)

 

  「ゆとり」と「くつろぎ」が、正反対という指摘には、唸るしか、ありません。

 

〈想像〉のレッスン NTT出版ライブラリーレゾナント015

〈想像〉のレッスン NTT出版ライブラリーレゾナント015

 

 

 

(6)「遊びの精神」・「余裕」の必要性

 

 「遊びの精神」・「余裕」は、人間が真に人間的に生きるためには、必要不可欠なものです。

 このことを、明解に気付かせてくれる、皮肉的な論考を以下に紹介します。

  佐原真氏の『遺跡が語る日本人のくらし』です。

 

「  オーストラリアのヨーク半島の付け、西側にいたイル=イヨロント族の変化を見てみます。 

 かれらは食料採集民で、狩りをしたり木の実を集めたりという生活をしていました。かれらにとっても石斧(いしおの)は男のものでした。奥さんや子供が借りることはできましたけれど、借りるとき、返すときのあいさつは、夫は妻に、父は子に優位に立っていることを確かめる機会でした。そこへ白人がやってきて、鉄の斧が入ってきました。イル=イヨロント族の人びとが白人の手助けをすると、その代償として鉄の斧をくれたりします。ときには、奥さんが鉄の斧をもらうことがあります。夫のほうは石の斧しかもっていないのに、奥さんが鉄の斧をもっていることになります。そうすると、「すまんけど、おまえの鉄の斧を貸してくれ」ということもおきてきます。これが石が鉄に代わったことでおきたさまざまな結果の一つです。 

 もっと重要なことは、イル=イヨロント族が浮いた時間をどう使ったかということです。この点にいま私は大きな関心をもっています。 

 浮いた時間を使って、なんとかれらは昼寝をしたのです。私はじつは、その部分を読んだときに吹き出してしまいました。この笑いには軽蔑の意味もふくまれていたと思うのです。ところが、私のこの感想は実はまちがっていた、といまは思っています。 

 二千年前、日本ではどうだったでしょうか。石から鉄へと変わってきたときに、弥生人はおそらく浮いた時間で宴会に出席することも、昼寝をすることもしませんでした。石から鉄への変化を、生産力の飛躍的な増大につなげたのです。いままで石の斧が一本倒している時間で、四本倒すというぐあいに、すごく生産力を高めたのです。 

 四世紀、六世紀(古墳時代)の農民が働き者だったことは、群馬県で火山の噴火や洪水の直後に復旧工事にとりくんだ証拠からわかっています。また、日本の農業が草をとればとるほど、よい収穫を約束される農業であることから、弥生農民が働き者だったことを、私は予測しています。 

 パプア=ニューギニアやオーストラリアでは浮いた時間を遊びに使ったのに、日本では労働に使ったということで、日本人は勤勉だと先祖をほめたたえるつもりか、と思われるかもしれません。そうではありません。 

 道具や技術は、毎年のようにどんどんすぐれたものになっていきます。なんのためだと思いますか。質問すると、すこしでも楽になるようにとか、効率がよくなるようにとか、企業がもうけるためだとかいう答えがよくもどってきます。しかし、結果から見ると、私はそうではない面もあると思うのです。 

 じつは、私たちを忙しくするために道具や技術は発達してきているのではないでしょうか。それまで十時間かかったところを、三時間で行くことができるようになったとします。浮いた七時間をどう使うかと考えてみると、ほかの仕事をしているのです。 

 すくなくとも、つい最近までは、歩いている時間とか車に乗っている時間はボケーッとしていることができました。あるいは空想にふけることができました。しかし、いまや携帯電話ができたのです。歩いていても、車に乗っていても、いつ電話がかかてくるかわかりません。相手からだけでなくて、自分からもかけます。なにもそんなときまでと思うのですが、そんな大人たちが増えています。 

 私たちは、技術や道具の発達は自分たちを解放するためだと思っていますが、じつは大きな誤解で、自分たちを忙しくするために技術や道具が発達している面もあるのではないかと思うのです。

 そこで私は思うのです。オーストラリアのイル=イヨロント族が浮いた時間を寝たというのは、正解だ、と。 

 多田道太郎さんは、つぎのようなことを私に語ってくれました。 

「日本には『休む』とか『怠ける』ということばがあるけれども、みんな悪い意味で使われている。しかし、私たちは、むしろ強制されたことはなにもしないという状況に自分をおくことがたいせつだ。そういう状況のなかで、自由にしたいことをする、それが遊びだ。

 多田さんのいうことのなかに、私にとって非常に重要なことが含まれていました。それは、強制されている状況からは空想力がはばたくはずがない、休んではじめて人間の構想力とか空想力がはばたくのだということです。働きづめに働いていると、そのあげくに出てくることは、しょせんたいしたことはないのだということです。空想力は想像力とおきかえてもいい。アインシュタインが知識よりも想像力のほうがずっと大切だ、と言っていることを思いだします。 

 たしかに日本人は働きすぎると思います。私たちはもうすこし余裕をもって、いい意味での怠惰の精神、遊びの精神で生きていくべきではないでしょうか。これを、なによりもまず自分自身に言いたいと思います。 もっと余裕をもって、遊びをもって生きていったらいいのではないか、それをイル=イヨロント族に学びたいという思いなのです。

(佐原真『遺跡が語る日本人のくらし』)

 

  以下の部分を読み、佐原氏の発想に、思わずニヤリとしてしまいました。

 現代文明は、根本的に愚かなのでしょうか。

 その愚かな面に誰も気付かない不思議さ。

 「常識」の恐ろしさということが、よく分かります。

 常識の刻印が押された瞬間に、私達は、疑問を感じなくなるでしょう。

 そのバカバカしさを、オーストラリアのイル=イヨロント族が教えてくれている感じです。  

 

 「 私たちは、技術や道具の発達は自分たちを解放するためだと思っていますが、じつは大きな誤解で、自分たちを忙しくするために技術や道具が発達している面もあるのではないかと思うのです。

 そこで私は思うのです。オーストラリアのイル=イヨロント族が浮いた時間を寝たというのは、正解だ、と。 」

 

 「 たしかに日本人は働きすぎると思います。私たちはもうすこし余裕をもって、いい意味での怠惰の精神、遊びの精神で生きていくべきではないでしょうか。これを、なによりもまず自分自身に言いたいと思います。 もっと余裕をもって、遊びをもって生きていったらいいのではないか、それをイル=イヨロント族に学びたいという思いなのです。」

 

遺跡が語る日本人のくらし (岩波ジュニア新書)

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 (7)「遊びの精神」・「余裕」を身に付けるためには?

 

 それでは、「余裕」を身に付けるためには、どうしたら良いのでしょうか?

 福田恆存氏の以下の論考(「教養について」『私の幸福論』)が、大いに参考になるでしょう。

 

「  大抵の人が、新しく知ったことについて、いい気になりすぎる。それにばかり眼を注いでいるものですから、かえってほかのことが見えなくなる。峠の上で自分が新しく知ったことだけが、知るに値する大事なことだと思いこんで、それにまだ気づかぬ谷間の人々を軽蔑する。

 あるいは、憂国の志を起して、その人たちに教えこもうとする。が、そういう自分には、もう谷間の石ころが見えなくなっていることを忘れているのです。同時に見いだしたばかりの新世界にのみ心を奪われて、未知の世界に背を向けている自分に気づかずにいるのです。 

 こうして、知識は人々に余裕を失わせます。いや、逆かもしれない。知識の重荷を背負う余裕のない人、それだけの余力のない人が、それを背負いこんだので、そういう結果になるのかもしれません。というのも、知識が重荷だという実感に欠けているからでしょう。

 もっと皮肉にいえば、それを重荷と感じるほど知識を十分に背負いこまずに、いいかげんですませているからでしょう。しかし、本人が実感しようとしまいと、知識は重荷であります。自分の体力以上にそれを背負いこんでよろめいていれば、周囲を顧みる余裕のないのは当然です。

 それが無意識のうちに、人々の神経を傷つける。みんないらいらしてくる。そうなればなるほど、自分の新しく知った知識にしがみつき、それを知らない人たちに当り散らすということになる。そして、ますます余裕を失うのです。 

 家庭における親子の対立などというものも、大抵はその程度のことです。旧世代と新世代の対立というのも、そんなものです。が、新世代は、自分の新しく知った知識が、刻々に古くなりつつあるのに気づかない。

 ですから、あるときがくると、また別の新しい知識を仕入れた新世代の出現に出あって、愕然とするのです。そのときになってはじめて、かれらは自分には荷の勝ちすぎた知識であったことに気づき、あまりにもいさぎよくそれを投げすててしまう。

 すなわち、自分を旧世代のなかに編入するのです。 とにかく、知識のある人ほど、いらいらしているという実情は、困ったものです。もっと余裕がほしいと思います。知識は余裕をともなわねば、教養のうちにとりいれられません。

 対人関係において、自分の位置を発見し、そうすることによって、自分を存在せしめ主張するのと同様に、知識にたいしても、自分の位置を発見し、そうすることによって、知識を、そして自分を自由に操らなければなりません。

 さもなければ、荷物の知識に、逆に操られてしまうでしょう。知識に対して自分の位置を定める(→当ブログによる「注」→冷静、客観性)というのは、その知識と自分との距離を測定することです。この一定の距離を、隔てるというのがとりもなおさず、余裕をつくることであり、力をぬくことであります。くりかえし申しますが、それが教養というものなのです。 

 ここから、おのずと読書法が出てまいります。本は、距離をおいて読まねばなりません。早く読むことは自慢にはならない。それは、あまりにも著者の意のままになることか、あるいはあまりにも自己流に読むことか、どちらかです。どちらもいけない。本を読むことは、本と、またその著者と対話をすることです。本は、問うたり、答えたりしながら読まねばなりません。要するに、読書は、精神上の力くらべであります。本の背後にある著者の思想や生きかたと、読む自分の思想や生きかたと、この両者のたたかいなのです。そのことは、自分を否定するような本についてばかりでなく、自分を肯定してくれる本についてもいえます。 

 したがって、本を読むときには、一見、自分に都合のいいことが書いてあっても、そこまで著者が認めてくれるかどうか、そういう細心の注意を払いながら、一行一行、問答をかわして読み進んでいかなければなりません。自分を否定するような本についても同様です。字面では否定されているが、自分のぶつかっているこの問題については、あるいは著者も自分のいきかたを認めるかもしれない。そういうふうに自分を主張しながら、行間に割りこんでいかねばなりません。それが知識にたいして自分の居場所を打ちたてるということです。本はそういうふうに読んで、はじめて教養となりましょう。 」

(福田恆存「教養について」『私の幸福論』)

 

 

私の幸福論 (ちくま文庫)

私の幸福論 (ちくま文庫)

 

 

 

 「余裕」とは、「周囲を顧みる余裕」ということです。

 また、「本は、距離をおいて読まねばなりません」という記述から、「余裕」とは、問題となっている対象から「距離を置くこと」であるということ、が分かります。

 かなり参考になる論考です。

  

 「余裕を取り戻すには、どうするべきか?」については、内山節氏の『自由論 自然と人間のゆらぎの中で』も、参考になります。

 

「  現代人の忙しさの背景には、私たちの社会が、だんだんプロセスを問わない社会になってきたことが、関係しているのであろう。

 あたかも結果が正解であればそれでよい試験のように、それがどのような人間関係のなかでつくられ、どのようなプロセスを経て手に入れたものなのかというようなことは、現在ではどうでもよくなった。

 できるだけ早く結果を手にすることが、価値になったのである。こうしてプロセスに時間がかかることは、時間の無駄だとみなされるようになり、誰もが時間の合理的管理という発想を、身につけるようになっていった。

 ところが、時間を合理的に管理することによって、時間の余裕は生まれなかったのである。逆に暇なはずの時間においてさえ、時間に支配され、時間に追われつづける今日の状況が生まれてきた。おそらく、時間をもっと合理的に管理すれば、余裕という自由も生まれてくるだろうと考える発想は、根本のところで誤っているのであろう。

 そうではなく、ものをつくりだしていくプロセスや、それを手に入れるプロセスなどに、時間を超越した価値をみいだせる社会こそが、人間的な余裕を生み出すのである」(『自由論 自然と人間のゆらぎの中で』内山節)

 

 

自由論――自然と人間のゆらぎの中で (岩波人文書セレクション)

自由論――自然と人間のゆらぎの中で (岩波人文書セレクション)

 

 

 

「『時間の合理的管理』が『余裕』を作り出すのではない。時間を超越した価値をみいだせる社会こそが、人間的な余裕を生み出すのである」という内山氏の主張には、賛成せざるをえないでしょう。

 「効率性第一主義」は、非人間的発想なのでしょう。

 「効率性第一主義」が常識化している現代文明それ自体が、病んでいるのです。

 私達は、今こそ、その病理を意識するべきなのでしょう。

 

 

(8)当ブログにおける「佐伯啓思」関連記事の紹介

 

  佐伯啓思氏は、入試頻出著者です。

 

gensairyu.hatenablog.com

 

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(9)当ブログにおける「スポーツ」関連記事の紹介

 

 「スポーツ」関連論点は、最近の流行論点です。

 

gensairyu.hatenablog.com

 

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ーーーーーーーー

 

今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

ご期待ください。

 

  

 

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反・幸福論 (新潮新書)

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西欧近代を問い直す (PHP文庫)

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

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5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

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 私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。

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予想問題/公共哲学/「生き方変える働き方改革を」高端正幸

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 

 最近は、「働き方改革」関連法案と電通過労自殺事件の影響もあってか、最近、「長時間労働」や「働き方」に関するニュースや論考が目立っています。

 このような議論が盛んになった翌年の入試現代文・小論文では、「労働」・「働き方」に関連する根本的・本質的な論考が出題されることが多いので、注意が必要です。

 特に、「『生き方変える働き方改革を』高端正幸『朝日新聞』2018・3・29《あすを探る》」は、最近の入試頻出論点の「公共哲学」に関する論点を多く含んでいるので、今回の記事で解説します。

 この論考は、ユニークな視点が盛り込まれていて、とても参考になります。

 来年の入試現代文・小論文に出題される可能性は高いと思われます。

 

 なお、今回の記事の項目は、以下の通りです。記事は約1万字です。

  

(2)予想問題/「生き方変える働き方改革を」(高端正幸『朝日新聞』2018・3・29

《あすを探る/財政・経済》 

(3)予想問題/「『働き方改革』を問う」(内山 節『東京新聞』2018年2月11日「時代を読む」)

(4)「公共の価値」/人々の「おまかせ構造」の問題性

(5)予想問題/「公共哲学」に関する秀逸な論考ー『「里」という思想』(内山節)

 

 

朝日新聞デジタル

朝日新聞デジタル

 

 

 

(2)予想問題/「生き方変える働き方改革を」(高端正幸『朝日新聞』2018・3・29

《あすを探る/財政・経済》)

 

(高端氏の論考は太字部分です)

(概要です)

(【1】・【2】・【3】・・・・は当ブログで付記した段落番号です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です)

(以下、同じです) 

 

【1】家族や地域が自分の拠(よ)りどころになるという手ごたえが薄れ、まじめに頑張れば家計の安定が得られるという約束も揺らぐ時代に私たちは生きている。家族や地域という「共」、そして個人的・物質的な豊かさという「私」における拠りどころや指針の喪失は、不安を増幅させる。

 

 (→当ブログによる「注」→「家族や地域という『共』」の部分は、よく覚えておいてください。)

 

【2】そこで「公」の役割が重要になる。しかし、「共」が失われ、「私」も窮したままでは、「公」も揺らぐと考えたほうがよい。「公」・「共」・「私」は、互いに支え合うものだからだ。

【3】佐賀県伊万里市の図書館は、1995年に開館した。公民館の一室が図書館だったこの地に、市民とともに育つ、市民の図書館を欲した市民たちが、勉強を重ね、市役所と協力して開館にこぎつけた。読書会・学習会などイベントの企画、サークル活動の成果の展示、公報活動など、幅広い活動を市民と職員が一体となって担い、図書館を支える市民の輪を広げながら、人と人とが、つながり学び合う場を丁寧に育んでいる。

【4】図書館は単なる「本をタダで読んだり借りたりできる場所」ではない。地域の知的財産を市民が育て、分かち合う。それが伊万里市民図書館の目指す姿であり、全国の公共図書館が内包する可能性だ。

【5】いわば、「共」の力が「公」の図書館の存在意義を高めるとともに、「公」の図書館が「共」を絶えず活性化させている。そこに集う個々の「私」も、図書館という共有財産から知的・文化的な豊かさを享受し、地域のつながりに包摂され、「共」の一員となる。その結果、地域における「公」への信頼も育まれる。「公」・「共」・「私」が結びつき、互いを高め合う中でこそ、「公」の存在意義が形をとるということを、この事例は物語っている。

 

(→当ブログによる「注」→この具体例は、「公」・「共」・「私」の関係を実感するために、重要です。

 「「公」・「共」・「私」が結びつき、互いを高め合う中でこそ、「公」の存在意義が形をとるということを、この事例は物語っています。」の部分はキーセンテンスです。

 特に重要です。)


【6】ところがいま、福祉、学校、公共交通など、あらゆる分野で「公」の存在意義が揺らいでいる。私たちは、モノやサービスをひたすら個人消費する生活に浸(つ)かりきったうえに、その消費生活にさえ窮する時代に生きている。いきおい、肥大化する「私」への執着が、「公」や「共」の可能性に対する想像力を縮ませる。そこで、「私」の論理で「公」が否定されたり、「共」、つまり、地域やNPOの力がやみくもに期待されたりする。

 

(→当ブログによる「注」→まさに、「人任せ」、「受け身状態」、「永続的なお客様状態」です。

 各人が、自己の「当事者性」に思いが及ぶことはないようです。

 主体的に自己の困難を克服しようとする気概がないのでしょう。)

 

【7】しかし、「公」・「共」・「私」は、どれかのかわりにどれかを、という関係にはない。私たちは、これら三つの領域が結びつき、互いを高め合う関係を、想像力を膨らませて模索するほかないのだ。

【8】その意味で不可欠なのは、私たち一人一人が、「必死に稼ぎ、自力で生活を成り立たせる」ことに埋没することをやめ、「私」を超える領域(→「公」)に真摯(しんし)なまなざしを向けることではないか。

【9】その点、「働き方改革」が大きな意味を持ちうることを忘れるべきではない。「残業代ゼロ」「定額働かせ放題」などと揶揄(やゆ)されても仕方のない法案であるうえ、過労死問題もクローズアップされたため、過労死防止という当然なすべきことに改革の目的が矮小(わいしょう)化された感がある。また、少子化問題にとらわれるあまり、ワーク・ライフ・バランスの「ライフ」の中身も家事・育児といった家庭生活のみであるかのごとく扱われがちだ

 

(→当ブログによる「注」→「過労死防止という当然なすべきこと」の部分は、まさに、当たり前です。

 「少子化問題にとらわれるあまり、ワーク・ライフ・バランスの「ライフ」の中身も家事・育児といった家庭生活のみであるかのごとく扱われがちだ。」の部分は特に重要です。

 「ライフ」は、完全に私的領域のみが考慮され、「地域という『共』」は考慮外になっているようです。

 「私」の存在基盤のはずの「共」を考える時間的・精神的・金銭的余裕がないのでしょうか。)

 

【10】しかし、本来の「働き方改革」は、稼ぐための労働に汲々(きゅうきゅう)とする「私」が、「公」や「共」の価値に気づくだけの精神的余裕や、社会活動に参加する時間的余裕を取り戻し、互いに支え、支えられる関係に包まれてゆくことを射程に入れるべきものだ。

【11】「働き方」の改革は手段にすぎない。目的は「生き方」を変えることにある。その先にこそ、「公」・「共」・「私」が共鳴する、望むべき社会への途も開けるのではないだろうか。

(「生き方変える働き方改革を」 高端正幸)

 

(→当ブログによる「注」→「【11】「働き方」の改革は手段にすぎない。目的は「生き方」を変えることにある。その先にこそ、「公」・「共」・「私」が共鳴する、望むべき社会への途も開けるのではないだろうか。」の部分も、再考するべき内容になっています。

 理想論に聞こえるかもしれませんが、過去の伝統社会は、まさに、「『公』・『共』・『私』が共鳴する社会」だったのです。

 私たちが、「私」が肥大化した現代文明の中で、何となく窒息状態にあるとしたら、過去の「『公』・『共』・『私』が共鳴する社会」を再評価することが必要でしょう。

 この点は重要なので、以下にさらに論じていきます。)

 

 

復興と日本財政の針路 (叢書 震災と社会)

復興と日本財政の針路 (叢書 震災と社会)

 

 

 

(3)予想問題/「『働き方改革』を問う」(内山 節『東京新聞』2018年2月11日「時代を読む」)

 

 「働き方改革」を、「働き方」、「仕事」、「労働論」、つまり、「働きがいを感じられる仕事」に限定して考えると、以下の入試頻出著者・内山氏の論考が大いに参考になります。


(概要です)

「18世紀から19世紀にかけてヨーロッパで産業革命がおこり資本主義が生まれていったとき、労働者の多くは、この新しい経済と労働のかたちに批判的だった。当時は長時間労働が蔓延していた。

 だが、その頃の労働者たちが書いたものを読むと、批判の軸になっていたのは低賃金や長時間労働ではなかったことがわかる。誇りをもてない労働、自分を一定時間の消耗にさらすだけの労働、監視されながら命令に従うだけの労働。そういう労働のあり方に対して、労働者たちは怒りをもっていたのである。

 それは当然であったのかもしれない。なぜなら、資本主義が生まれる前の社会では、普通の人々は農民や職人、商人として働いている。いわば自営で仕事をし、一人一人が自分の仕事スタイルをもっていた。その仕事スタイルは、それぞれの考え方や自分がもっている技などからつくられてくるもので、人々は自分がつくりだす労働に誇りをもっていたのである。

 ところが、資本主義の時代になると、安価に大量生産されてくる工場生産物によって、職人たちは仕事を奪われていった。仕事を失った職人は、工場で働くようになる。そして、勤めるようになった企業で感じたものは、誇りをもてない労働、人間性を奪われた労働、働きがいのない労働だったのである。

 仕事帰りに1杯の酒が飲めることとの引き換えに、誇りのない、苦痛なだけの労働に従事しなければならないのか。当時の労働者たちは、そんなことを訴える文章をよく書いていた。

 現代の人々も、同じようなことを感じているのかもしれない。社会のなかでは長時間労働が蔓延し、格差社会のもとでの低賃金労働も構造化されている。だが、それ以上に問題なのは、誇りをもてない労働、働きがいのない労働の広がりである。

 自分の労働は、お金と引き換えにおこなう精神的、肉体的消耗にすぎないと感じている人もいるだろう。社会に役立っているのかどうかもわからないままに、ノルマや数字に追われる労働をしている。そんな感覚も今日の労働の世界には広がっている。

 現在の労働の問題点は、働きがいのない労働に長時間従事しなければならないことや、働きがいのない低賃金労働が広がっていることにあるといってもよい。逆に言えば、労働のなかに誇りや楽しみ、働きがいを感じられる仕事なら、私たちは少々労働時間が延びても、その仕事をやり遂げようとするものである。もちろん、あまりにも長い労働時間は、よいことではないのだが。

 現在語られている「働き方改革」に、疑問を感じる人はけっこう多い。その理由は、労働の質を問うていないからである。労働が働きがいのあるものになるためには、自分の仕事に社会的有用性が感じられ、労働の価値を認めてくれる職場や取引先、消費者などとの関係が重要なはずだ。とすれば、それは、経済のあり方、企業のあり方の改革でなければならないはずなのである。そういう根本的な視点をもたずに残業時間を減らせと言っているだけなら、働く側にとっては、残業代が減るだけのことになってしまう。

 資本主義形成期の労働者たちは、働きがいがなくなった労働を問題にしていた。そして今日もなお、同じ問題が問われている。」

(「『働き方改革』を問う」(内山 節『東京新聞』2018年2月11日「時代を読む」)

 

 
 上記の論考を要約すると以下のようになります。

 

現在語られている「働き方改革」に問題点


「労働の質」を問うていないからである。

労働が「働きがい」のあるものになるためには、「自分の仕事に社会的有用性が感じられ、労働の価値を認めてくれる職場や取引先、消費者などとの関係」(→ある意味で、「公」との関係性)が「重要」なはずだ。

「働き方改革」は、「経済のあり方、企業のあり方の改革」でなければならないはずなのである。

そういう「根本的な視点」をもたずに「残業時間を減らせ」と言っているだけなら、働く側にとっては、残業代が減るだけのことになってしまう。

 

 

(4)「公共の価値」/人々の「おまかせ構造」の問題性


 仕事に「生きがい」を持つことも大切です。

 一方で、仕事以外の私的な生活の場で「公共の価値」を意識することも必要です。


 (なお、「公共」とは、「私」や個 (individual) に対置される概念です。英語のパブリック (public) を翻訳した言葉です。)

 
 「公共」は「私」の存立基盤です。

 「公共の価値」を意識することは、「公共哲学」の重要論点です。


 ここで問題になるのは、「公共の価値」を意識しないこと、つまり、人々の「おまかせ構造」です

 上記の高端氏の論考では、以下のように、人々の「おまかせ構造」を問題視しています。

「【6】私たちは、モノやサービスをひたすら個人消費する生活に浸(つ)かりきったうえに、その消費生活にさえ窮する時代に生きている。いきおい、肥大化する「私」への執着が、「公」や「共」の可能性に対する想像力を縮ませる。そこで、「私」の論理で「公」が否定されたり、「共」、つまり、地域やNPOの力がやみくもに期待されたりする。」(「生き方変える働き方改革を」高端正幸)

 


 ここで問題になっているのは、「地域やNPO」への「おまかせの構造」です。

 この点を具体的に説明しているのは、入試頻出著者・鷲田清一氏の『しんがりの思想』です。

 

 以下に、その部分を引用します。

「  日本社会は明治以降、近代化の過程で、行政、医療、福祉、教育、流通など地域社会における相互支援の活動を、国家や企業が公共的なサービスとして引き取り、市民はそのサービスを税金やサービス料と引き換えに消費するという仕組みに変えていった。一歩先に近代化に取り組んでいた西欧諸国が、そうした相互支援の活動を、教区など、行政機構と個人のあいだにある、いわゆる中間集団の活動にある程度残しておいたのとは対照的に。

 が、それと並行して進行したのが、市民たちの相互支援のネットワークが張られる場たるコミュニティ、たとえば町内、氏子・檀家、組合、会社などによる福祉・構成活動の先細りである。人々は、提供されるサービス・システムにぶら下がるばかりで、自分たちで力を合わせてそれを担う力量(→まさに、「当事者性」です)を急速に失っていった。いいかえると、それらのサービス・システムが劣化したり機能停止したときに、対案も出せねば課題そのものを引き取ることもできずに、クレームをつけるだけの、そういう受動的で無力な存在に、いつしかなってしまっていた。

 公共機関への「おまかせ」の構造である。」

 

 今回、特に、問題となるのは、一般的に使用されている「ワークライフバランス」という言葉の「内容」です。

 この点について、高端氏は上記の論考で、以下のように、その常識的意味に疑問を提示しています。

 

【9】その点、「働き方改革」が大きな意味を持ちうることを忘れるべきではない。「残業代ゼロ」「定額働かせ放題」などと揶揄(やゆ)されても仕方のない法案であるうえ、過労死問題もクローズアップされたため、過労死防止という当然なすべきことに改革の目的が矮小(わいしょう)化された感がある。また、少子化問題にとらわれるあまり、ワーク・ライフ・バランスの「ライフ」の中身も家事・育児といった家庭生活のみであるかのごとく扱われがちだ。」 (「生き方変える働き方改革を」高端正幸)

 

 さらに言えば、現代社会では、「ワーク」も私的利益のみで働き、「ワーク」も「ライフ」ともに「私的な性格」しか持ちえなくなっていることが問題でしょう。

 私的利益のみに意識的になり、公共的なことは「お上」・「公」に依存する傾向が著しくなっているようです。
 
 つまり、現代の高度に発達したサービス社会の中での「市民性の喪失」を、大きな課題になってきているのです。

 「市民性の喪失」は、「当事者性の喪失」とも言えます。


 

 それでは、「当事者性」をどのように取り戻してゆくべきでしょうか。

 高端氏は、上記の論考で以下のように強調しています。

 これこそ、正論でしょう。

 

【10】本来の「働き方改革」は、稼ぐための労働に汲々(きゅうきゅう)とする「私」が、「公」や「共」の価値に気づくだけの精神的余裕や、社会活動に参加する時間的余裕を取り戻し、互いに支え、支えられる関係に包まれてゆくことを射程に入れるべきものだ。

【11】「働き方」の改革は手段にすぎない。目的は「生き方」を変えることにある。その先にこそ、「公」・「共」・「私」が共鳴する、望むべき社会への途も開けるのではないだろうか。」(「生き方変える働き方改革を」高端正幸)

 

 現代社会の様々な閉塞的・悲観的状況を打開するためには、現在の日本の、「働きすぎ」の社会のあり方を根本的に見直して、「公」・「共」・「私」が共鳴する、望むべき社会への途を目指すしか、対応策はないのです。

 これは、決して、単なる「理想論」ではありません。

 対応策は、ただ、これだけなのです。

 問題は、国民が、このことに気付き行動に移すかどうか、だけでしょう。


 言い換えれば、国家資本主義、高度消費社会が進展している現代日本社会では、各人が無自覚に自己世界に自閉していては、いずれ、各方面で破局的結果を招来することになる可能性が濃厚です。

 各自の人生を真に充実させるためには、「私」を「公共世界」に接続させることが大切です。

 「公共哲学」への注目が不可欠でしょう。

 

しんがりの思想 ―反リーダーシップ論― (角川新書)

しんがりの思想 ―反リーダーシップ論― (角川新書)

 

 

 

 このことを、強調しているのが、内山節氏の以下の論考です。 

 最近の入試頻出論考なので、以下に概要を引用します。

 

(5)予想問題/「公共哲学」に関する秀逸な論考ー『「里」という思想』(内山節)

 

 (概要です)

「  私たちは日本という風土のなかで暮らしている。そして、日本の風土のなかで暮らしてきた人々の過去の経験を受け継いでいる。日本的な農業や林業、漁業の仕方、日本的な建築、日本的な宗教観、祭りなどの行事やさまざまな習慣。私たちの発想や考え方も、この風土から完全に離れては作られていない。いわば、私たちは、日本の風土を基層文化として持ちながら存在しているのである。 

 ところが、そんなことは十分に認めているはずの私も、日本という国家に対しては、少し冷静な態度をとりたくなる。というのは、次のような気持ちが私にはあるからである。 

 私が上野村(群馬県多野郡にある山村)に滞在するようになった頃、村人が使う「公共」という言葉に関心をもったことがあった。「それは公共の仕事だから」とか、「それは公共のことだから」というようなかたちで、村人は何度となく「公共」という言葉を使う。ところが、村人が使うこの言葉の響きは、それまで私が東京で感じていたものとは少し違っていた。 

 東京で「公共」といえば、国や自治体が担うもの、つまり行政が担当すべきものを指していた。それに対して、私たち「私」であり、「私人」であった。だが、村人が使う「公共」は、それとは違う。「公共」とは、村では、みんなの世界のことであり、「公共の仕事」とは、「みんなでする仕事」のことであった。だから、春になって、冬の間に荒れた道をみんなでなおすことは、「公共の仕事」であり、山火事の報を受けて家から消火にとび出すことも、祭りの準備をすることも、「公共の仕事」であった。 「公共」と行政とは、村では必ずしも一致していないのである。村人の感覚では、行政の前に「公共」があり、行政は「公共」のある部分を代行することはあっても、それはあくまで代行であって、行政イコール「公共」ではなかった。 

 そして、村人が感じている「公共」の世界とは、それほど広いものではなかった。それは、自分たちが直接かかわることのできる世界であり、自分たちが行動することによって責任を負える世界のことであった 。つまり、自分との関係がわかる広さといってもよいし、それは、おおよそ、「村」という広さであるといってもよい。 

 つまり、村人にとっては、社会は、それぞれの地域で展開している「公共」の世界の連合体のようなものとして、とらえられていた。そして、私には、その方が社会の自然なとらえ方のように思われた。「公共」とは、自分たちが共同で作りだしている世界だととらえる考え方も、行政は公共のある部分を代行しているにせよ、決して行政イコール公共ではないという見方も、社会とはそれぞれの地域の人々が責任を負っている場所の連合体だというとらえ方も、である。 

 私には、近代国家はこのような社会観をつき崩してきたように思われる。近代国家は、すべての人々を国民として共通化、平準化しようとしてきた。国民としての画一化をは図ったといってもよい。おそらく、その理由は、近代国家というものが、ヨーロッパの絶対王制の時代状況下で生まれたからであろう。すなわち、度重なる戦争をくり返していたヨーロッパ絶対王制の国家は、戦争に勝利するためには、臣民の国民としての統一と、国家統一のための国民的アイデンティティーの確立、共通意識をもった国民としての画一化が、どうしても必要であった。そして、この国民としての共通化が、後に市場経済形成にも役立っていった。 

 この国民国家が、近代化の過程で日本にも移入されてきたのだとするなら、村人の感じている「公共」の世界と国家との間には、ずいぶん大きな隔たりがあることになる。そのどちらに重心を置くことが、自然と人間の未来にとってよいのか。それは、私たちが考えてもよい課題である。 」(内山節『「里」という思想』) 

 

 上野村では、「公共哲学」が自然な形で実践されているのです。

 日本の農村地域で普通に行われている「地域の助け合い」、「地域の共同作業」が、「公共哲学」という学問領域の雛型になっている感じです。

 まさに、「ポストモダン」、「脱近代」の時代における「伝統社会の再評価・見直し」の一環と言えるでしょう。

 伝統の中に、人類の知恵が潜在していることが多いのです。

 

 内山氏が、上野村に滞在するようになり、内山氏は伝統社会の素晴らしさを知ることになりました。

 このことは、内山氏の幸運であり、それにより上記の論考を読めることは、私たちの幸運です。

 

 特に、以下の部分は重要です。熟読するべきです。

 

 「 村人が使う「公共」は、それとは違う。「公共」とは、村では、みんなの世界のことであり、「公共の仕事」とは、「みんなでする仕事」のこと」

 

「  「公共」と行政とは、村では必ずしも一致していないのである。村人の感覚では、行政の前に「公共」があり、行政は「公共」のある部分を代行することはあっても、それはあくまで代行であって、行政イコール「公共」ではなかった。」

 

「  村人が感じている「公共」の世界とは、それほど広いものではなかった。それは、自分たちが直接かかわることのできる世界であり、自分たちが行動することによって責任を負える世界のことであった。」

 

「  村人にとっては、社会は、それぞれの地域で展開している「公共」の世界の連合体のようなものとして、とらえられていた。そして、私には、その方が社会の自然なとらえ方のように思われた。」

 

「里」という思想 (新潮選書)

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今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

ご期待ください。

 

   

 

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

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5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

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予想問題/「自分なりの死の哲学は」佐伯啓思『朝日新聞』

(1)はじめに/なぜ、この記事を書くのか?

 入試頻出著者・佐伯啓思氏が、入試頻出論点である「死の哲学」・「死生観」・「尊厳死」・「安楽死」・「孤独死」・「無縁死」について、秀逸な論考(→「いかに最期を迎えるか、自分なりの『死の哲学』は」佐伯啓思(『朝日新聞』2018年2月2日「異論のススメ」)を発表しました。

 これらの論点は、現代文明批判、現代文明論、近代批判の論点として、最頻出なので、佐伯氏の著書『反・幸福論』・『日本の宿命』を参照しながら解説していきます。

 

 今回の記事の項目は、以下の通りです。なお、記事は約1万字です。

(2)予想問題/「いかに最期を迎えるか、自分なりの『死の哲学』は」佐伯啓思(『朝日新聞』2018年2月2日「異論のススメ」)

(3)「死生学」について

(4) 「日本古来の伝統的死生観」の再評価について

(5)佐伯啓思氏の紹介

(6)当ブログにおける「佐伯啓思」関連記事の紹介

(7)当ブログにおける「哲学」関連記事の紹介

 

反・幸福論 (新潮新書)

 

 

(2)予想問題/「いかに最期を迎えるか、自分なりの『死の哲学』は」佐伯啓思(『朝日新聞』2018年2月2日「異論のススメ」)

 

(「異論のススメ」本文①)

(概要です)

(赤字は、当ブログによる「強調」です)

(青字は、当ブログによる「注」です)

 

 去る1月21日の未明に評論家の西部邁(→西部 邁(にしべ すすむ、1939年3月15日~2018年1月21日)は日本の保守派の評論家。元経済学者。雑誌『表現者』顧問。元東京大学教養学部教授)さんが逝去され、本紙に私も追悼文を書かせていただいた。西部さんの最期は、ずっと考えてこられたあげくの自裁死である。彼をこの覚悟へと至らしめたものは、家族に介護上の面倒をかけたくない、という一点が決定的に大きい。西部さんは、常々、自身が病院で不本意な延命治療や施設で介護など受けたくない、といっておられた。もしそれを避けるなら自宅で家族の介護に頼るほかない。だがそれも避けたいとなれば、自死しかないという判断であったであろう。

 このような覚悟をもった死は余人にはできるものではないし、私は自死をすすめているわけではないが、西部さんのこの言い分は私にはよくわかる。いや、彼は、われわれに対してひとつの大きな問いかけを発したのだと思う。それは、高度の医療技術や延命治療が発達したこの社会で、人はいかに死ねばよいのか、という問題である。死という自分の人生を締めくくる最大の課題に対してどのような答えを出せばよいのか、という問題なのである。今日、われわれは実に深刻な形でこの問いの前に放り出されている。」

 

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(当ブログによる解説)

 上記の論考の前半部分は、西部氏への追悼文です。

 追悼文は、名文が多いようです。 

 以下の佐伯氏の「西部氏への追悼文」も、心に響きます。

「  西部邁さんが逝去された。予想していたとはいえ、現実となればたいへんに寂しい。その死について他人がとやかくいう筋合いではない。余人にはできぬその激しい生き方の延長上にある強い覚悟をもった死であった。

 私が西部さんと出会ったのは、もう40年以上前になる。若手の経済学者として東大に赴任された西部さんとは、毎週、ほとんど夜が明けるまで論じ、笑い、厳しく問い詰められた。私の大学院生活の後半のすべてがそこにあった。この濃密な時間のなかで、西部さんが絶えず問いかけたのは、生への覚悟であった。お前は何を信条にして生きているのか、それを実践しているのか、という問いかけであった。自らの信条も覚悟ももたぬ者が学問や研究などやって何になるのだ、というのである。

 その西部さんが、社会に蔓延する偽善や欺瞞の言説に我慢がならなかったのは当然であろう。どれほどの高名な学者であれ、社会的な著名人であれ、その言動の根底に偽善やごまかしを見いだせば、西部さんは容赦なかった。その意味で、彼ほど、権力や権威や評判におもねることを嫌った人を私は知らない。

 西部さんは、チェスタトン(→ギルバート・キース・チェスタトン(1874年5月29日~1936年6月14日)はイギリスの作家、批評家、詩人、随筆家。ロンドン・ケンジントンに生まれ。セント・ポール校、スレイド美術学校に学ぶ。推理作家としても有名で、カトリック教会に属するブラウン神父が遭遇した事件を解明するシリーズが探偵小説の古典として知られている。後期ヴィクトリア朝時代の物質主義・機械万能主義に対し鋭い批判を加えた。(→「現代文明批判」と同じです)得意の警句と逆説を駆使したその文芸批評、文明批評は鋭利、過激)の次の言葉をよく口にしていた。「一人の良い女性、一人の良い友、ひとつの良い思い出、一冊の良い書物」、それがあれば人生は満足だ、と。西部さんは存分に生き、満足して亡くなられたと思う。心からご冥福をお祈りします。」(「西部邁さんを悼む 絶えず問うた 生への覚悟」佐伯啓思『朝日新聞』2018.1.25)

 

 この追悼文の以下の部分は、特に心に染みます。

 「西部さんは、チェスタトンの次の言葉をよく口にしていた。「一人の良い女性、一人の良い友、ひとつの良い思い出、一冊の良い書物」、それがあれば人生は満足だ、と。西部さんは存分に生き、満足して亡くなられたと思う。」

 

 「人生の究極の価値」、「生きがい」について考えさせられます。

 人間は何のために生きているのか?

 何を求めて生きているのか?

 人生に不可欠なものは何か?

 「生きがい」とは何なのか?

 生きていくために必要なものは、案外少ないのでないか?

 本当に必要なものは、それほどないのでは、ないか?

 人生に多くのものを求めるのは、間違いなのではないか?

 要するに、人生とは大したことではないのでは、ないか?

 

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朝日新聞デジタル

朝日新聞デジタル

 

 

 

(「異論のススメ」本文②)

(概要です)

 

 簡単な事実をいえば、日本は超高齢社会にはいってしまっている。2025年には65歳以上の割合は人口の30%に達するとされる。介護施設の収容能力をはるかに超えた老人が出現する。また、現在、50歳で独身という生涯未婚率は、男で23%、女で14%となっている。少子化の現状を考慮すれば、1人で死なねばならない老人の割合は今後も増加することになろう。

 おまけに医療技術や新たな医薬品の開発によって寿命はますます延びる。政府は人生100歳社会の到来を唱え、医療の進歩と寿命の延長は、無条件で歓迎すべきこととされる。しかしそうだろうか。それはまた別の面からいえば、年老いて体は弱っても容易には死ねない社会の到来でもあるだろう。ということは、長寿社会とは、家族の負担も含めて長い老齢期をどうすごすか、という問題であり、その極限に、家族もなく看取(みと)るものもない孤独死独居死という事実が待ち構えている、ということでもあろう。

 とはいえ、統計的なことをここで述べたいわけではない。超高齢社会とは、人の死に方という普遍的なテーマの方に、われわれの関心を改めて振り向ける社会なのである。近代社会は、生命尊重、自由の権利、個人の幸福追求を基本的な価値としてきた。それを実現するものは経済成長、人権保障、技術革新だとされてきた。しかし、今日、われわれは、もはやこれらが何らの解決ももたらさない時代へと向かっている。近代社会が排除し、見ないことにしてきた「死」というテーマにわれわれは向きあわざるを得なくなっている。 

 いくら思考から排除しようとしても、また、いくら美化しようとしても、老・病・死という現実は、とてもきれいごとで片付くものではない。仏教の創始者にとって人間の最大の苦とされた老・病・死の問題は、それが、決して他人には代替不能な個人的な事態であるにもかかわらず、それを自力ではいかんともしがたい、という点にある。徹底して個人の問題であるにもかかわらず、個人ではどうにもならないのだ。自宅にいて家族に看取ってもらうのが一番などといって、政府もこの方向を模索しているが、じっさいにはそれは容易なことではない。また、家族にも事情があり、その家族もいない者はどうすればよいのか、ということにもなる。

 やむをえず入院すると、そこでは延命治療が施される。私は、自分の意思で治療をやめる尊厳死はもちろん、一定の条件下で積極的に死を与える安楽死も認めるべきだと思う。だが、その種の議論さえ、まだタブー視されるのである。

 

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 (当ブログによる解説)

 『反・幸福論』の中で、佐伯啓思氏は、「無縁社会われわれが自主的に選択した近代原理からの当然の帰結である」として、次のように述べます。

「都市化という形で近代化を目指したとき、われわれはこぞって『故郷喪失者』になろうとしたのです。いつまでも『故郷』などに縛られたくはない。都会ではばたかなければ幸福になどなれないと考えたのです。積極的に『故郷喪失者』であろうとしたのでした。それはまた『縁』を断ち切ることでした。われわれは『無法者』ではないにしても『無縁者』になろうとしたのでした。今頃になってまた『コミュニティ』が見直されたり、時には『絆』などといわれたりします。両方とも、『共同体』や『縁』とはあえて言わないのです。『共同体』や『縁』は『ムラ』『イエ』を連想させてしまうからです。

『絆』というのは、個人がある意味で自由に選びとり作り出すものです。それは偶然を引き受けようという『縁』とは似てはいるがまったく違った言葉です」

(『反・幸福論』第三章「『無縁社会』で何が悪い」)

 

 「縁」・「絆」の「背景」の落差の指摘は秀逸です。

 「縁」と「絆」には、「個人の意志の介在の有無」という大きな落差があります。

 その大きな落差こそ、「孤独死」の背景なのです。

 

 つまり、「孤独死」の背景には、個人の意志による選択があるということです。

 「個人主義」の重視からの、自明の帰結が「孤独死」ということになります。

 「個人主義」の問題点を検証しないで、「孤独死」それ自体を問題にしても、何の解決にもならないのです。

 

 もっとも、「死」は、本質的に、それ自体が「孤独」で、「個人的な現象」と言えます。

  『反・幸福論』でも説かれているように、「人は、生まれる時は母親とともにあるが、死ぬ時はみな孤独に死ぬ」ということを再確認するべきでしょう。

 

  『反・幸福論』には、次のような一節があります。

「生まれるということ」は母親という他者がいなければ成り立ちませんが、「死」は、全く個人的で個体的な現象という以外にない。だから、死とは本質的に『無縁化』なのです。」(『反・幸福論』P 86 )

 

    「異論のススメ」の中の「尊厳死」・「安楽死」については、「積極的安楽死」・「消極的安楽死」の区別から考えると、分かりやすくなります。

 

 「積極的安楽死」とは、致死性薬物の服用、投与により、死に至る行為です。

 医療上の積極的安楽死は、患者の要求に応じて、医師が延命治療を中止することです。

 自分で積極的安楽死を行った場合は自殺なので犯罪にはなりません。

 日本では、他人による積極的安楽死は法律で容認されていないので、刑法上は殺人罪の対象となります。

 

 一方で、「消極的安楽死」とは、救命のための治療を開始せず、人間を死に至らせる行為です。

 医療上の消極的安楽死は、病気の治療をすることが可能であっても、患者の明確な意志に基づき治療をしないことにより、結果として患者を死に至らせることです。

 世界各国では、終末期の患者に対する消極的安楽死は広く認められています。

 日本では、患者本人の明確な意思表示に基づく「消極的安楽死」は、殺人罪、殺人幇助罪・承諾殺人罪には、なりません。

 

 「安楽死」の背景には、「自分の命の取扱いは自分で決める」という「個人主義」における「自己決定権の思想」があります。

 人間には、他者の権利を著しく侵害することがない限り、自己の意思に従い、より良い死に方を選択する自由が、個人の権利として存在するのです。

 

 「尊厳死」(→「尊厳死」とは、人間が人間としての尊厳を保ち死に臨むことであり、インフォームド・コンセントのひとつとされています。末期癌患者などの治癒の見込みのない人が、クオリティ・オブ・ライフ(QOL) と尊厳を保ちつつ最期の時を過ごすための医療がターミナルケア(終末期医療)です)についても、「安楽死」と同様に、自らの死のあり方を自己の意思によって決定する「自己決定権」の観点から説明されることが多いのです。

 

 これらの議論がタブー視されるのは、「延命治療」の悲惨な実態を知らないこと、自分の死を具体的に想像できないこと、つまり、死をタブー視することによる「死への意識不足」が原因でしょう。

 

 ーーーーーーーー

 

(「異論のススメ」本文③)

(概要です)

 

 近代社会が、生命尊重や個人の自由、幸福追求を強く唱えたのは、ただ生きていればよいからではなく、個人の充実した生の活動をかけがえのないものと考えたからである。だから、その条件として生命尊重や自由の権利などに重要な意味が与えられたのだ。しかし、人は年老い、活力を失い、病に伏し、死に接近してゆく。これが厳然たる現実である。いくら「充実した生の活動」といっても、その生がかげり、活動が意のままにならない時がくる。

 かつて、この「老い、活力を失い、病に伏し、死に接近する」苦にこそ人生の実相をみたのは仏教であった。自由の無限の拡大や幸福追求をむしろ苦の原因として、この苦からの解脱を説いた。それは、今日の近代社会のわれわれの価値観とはまったく違うものである。ただ仏教が述べたのは、生は死への準備であり、常に死を意識した生を送るべきだということである。死の側から生を見たということである。

 別に仏教が死に方を教示してくれるわけでもないし、仏教の復興を訴えようというのではない。「死」は、あくまで個人的な問題なのである。「死の一般論」などというものはない。自分なりの「死の哲学」を模索するほかない。

 西部さんの自死は、あくまで西部さんなりの死の哲学であった。ただそれは、「では、お前は死をどう考えるのかね?」と問いかけている。答えを出すのはたいへん難しい。だが、われわれの前にこの問いがおかれていることは間違いないだろう。

(「いかに最期を迎えるか、自分なりの“死の哲学”は」佐伯啓思『朝日新聞』2018年2月2日「異論のススメ」)

 

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 (当ブログによる解説)

 上記の論考の中で、特に重要なのは、以下の一節です。

    「死」は、あくまで個人的な問題なのである。「死の一般論」などというものはない。自分なりの「死の哲学」を模索するほかない。

 

 佐伯氏が主張するのは、各自が自分なりの「死生観」を持つべきだということです。

 近代原理は、徹底的に「死」を遠ざけてきました。

 「死」はタブーであり、思考の対象から一切除去するべき事項です。

 テレビでも、新聞、雑誌においても、様々なバカバカしい理由を付加して、死体の映像はカットされています。

 

 しかし、東日本大震災は、むき出しの無慈悲な膨大な「死」を私たちに見せつけました。

 それにより、私たちは「自分自身の死」をイメージすることになりました。

 このことは、「人生」を考えることでも、あります。

 この経緯を佐伯氏は、以下のように述べています。

 

「  私の基本的な立場は次のようなものです。

 今日の日本社会の混迷、もっと特定化して言えば、言論におけるタガのはずれ方を生みだしたものは、大きく言えば、戦後日本で、われわれがその上に社会を組み立ててきた価値が借りものであり、そのことの意味を分かっていなかったからだ、ということです。

 もっと端的に言いましょう。戦後日本の「自由」「民主」「平和」「富の増大」「ヒューマニズム」「幸福追求」などという価値はどこか借り物であり、われわれの腑に落ちていないからです。そして、大事なことは、それにもかかわらず、われわれはそれを正しいものとして積極的にもちあげ、それに疑問を呈することを許さなかったのです。

 もっと大きく言うと、それを近代主義ということも可能でしょう。近代主義とは、自由の拡大、平等や民主主義の進展、経済発展、人権や基本的権利の拡張、平和の増進が人々の「幸福」につながり、「幸福の増大」は望ましいことだ、という考え方です。その意味での「幸福追求」こそがわれわれが目指すべきものだ、ということなのです。今日、この近代主義の価値観を疑う者はまずいないでしょう。

 私には、この種の「幸福追求」を絶対化し、それを疑うことをやめたところに、今日の日本の閉塞感がでてきているように思えるのです。「幸福追求」は必ず行き詰まります。まず他人のそれと衝突するでしょう。そうすると、いったいどうしてそれを調停するのか。

 また、人は、決して「運命的なもの」から逃れられません。別の言い方をすれば、理不尽な偶然のいたずらから逃れることはできません。人間の手ではどうにもならないことがいくらでもあります。こうなると、「幸福であろう、幸福であろう」という強迫観念がむしろ不幸をもたらしてしまうのです。

 実は、前作の『反・幸福論』を連載している最中に東日本大震災が起きました。まさに、どうにもならない理不尽で偶然の途方もない力が、人の幸福をあざわらうかのように吹き飛ばしてしまったのです。

 私には、この大震災は、われわれの追求してきた幸福のあり方、生活の組み立て方を根底から考え直す契機となるべきものと思われました。まさしく、人は、むきだし生と死の前に立たされたのでした。

 死生観こそが求められているのでした。被災者や被災地を考えれば早急な「復興」が必要なことは言うまでもありません。しかし、その「復興」は、いく分かは新たな社会像をさし示すものでなければならず、そのためには何らかの自然観や死生観がなければならないのです(『日本の宿命』「まえがき」 )

 

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   「死生観」とは、何か?

 このことを考えることは、私たちを迷路に誘い込むことになる側面があることは確かでしょう。

 単純な問題ではないのです。

 永遠に解けない難問の一つと言えます。

 ごく一部の自覚的な思索者においては、この問題を解くためにこそ生きている、とさえ言えるのです。

 

 佐伯氏は、「死生観」について、以下のように述べています。、

「『死生観』とは、『死』をどういうものとして受け入れ、『死』を前提としてどのように生きればよいのかという漠然たる了解です。中世には『メメント・モリ(死を忘れるな)』という教訓がありましたが、生命尊重主義生存第一主義をとる近代社会では確固たる『死生観』を持ちえなかった」(『反・幸福論』)

 

 そして、佐伯氏は、「死」に最も接しているはずの医者が「死」に関心を持っていないとして、医者を批判しています。

「  医者が『死』についてあまり関心をもたないのは、ひとつは、医者は死者を相手にするのではなく、あくまで『生』の側にいるからでしょう。職業柄『生かす』ことを考えるのでしょう。

 それと、もうひとつは、どうやら『生』も『死』もたかが生物体の個体が消滅するかどうかだけのことで、それも生物的現象だと思っているふしがあります。

 強いていえば、現代の死生観なるものはそういうものなのです。いわば『死生観なき時代の死生観』といってもよいでしょう。」

 

 佐伯氏は、現代の「死生観」とは「生命尊重主義」・「生存第一主義」の時代の「死生観もどき」だとして、次のように述べます。

「  この文明の最高度な段階で、われわれは『死とは、ただ個体としての生物体の消滅である』という、あまりにあけすけで単純でむき出しの『死』という原点に復帰したというわけです。とすれば、ベッドにくくりつけられて死ぬのも、誰に知られることもなくひっそりと孤独死をするのも実は同じことなのではないでしょうか。どちらも、『死とは、ただ個体としての生物体の消滅である』という現代の原理からすれば、同じ考え方に基づいているのではないでしょうか」

 

 次に、上記の論考(「自分なりの死の哲学は」)では、「孤独死」・「独居死」を論じていましたが、『反・幸福論』では、「『無縁死』とは『現代の姥捨て』ではないか」という重要な指摘をしています。

 佐伯氏は、次のように述べています。

「  無縁死とは、もっとわかりやすい現代の姥捨てということになるでしょう。いわば自己責任原則による姥捨てのセルフサービスのようなものなのです。

(→当ブログによる「注」→なんとも過激な皮肉的表現です。しかし、一面において、この指摘は正当です。私たちは個人主義を信奉し、個人主義的な行為、言い換えれば、孤立的行為を喜んで遂行しています。一方で、「姥捨て」は、他律的孤立化の元での死、他律的・強制的な個人主義的状況(「死」)の創出と評価することが可能だからです)

 そして結局、姥捨てにかわる別のやり方を現代の文明が発見したわけでもないのです。

 私は、何も無縁死を礼讃しようとしているわけではありません。

 ただ、姥捨てを悲惨だ、凄惨だ、人権無視だといって非難するほど、われわれが進歩したわけでもなんでもない、ということなのです」

 

 さらに、佐伯氏は、「孤独死」についても次のように述べます。

「『死』とは、どうしても生物体としての個体の消滅です。『人間』が否応なく動物に戻る瞬間なのです。そこにどんな死に方がいいも悪いもありません。自然死としては、できるだけ荷物を軽くし、現世の縁をたち、誰にもさして迷惑をかけず(確かに死体処理者や遺品処理者にはかなり迷惑がかかりますが)、猫が自らの死期を悟ったとき姿を消すように、いつのまにか、こっそりと孤独死するのが本当の姿なのです

 

 上記は、理の当然のことを改めて指摘した論考と言えるでしょう。

 死は個人的な現象です。

 「死=孤独」なのですから、「孤独死」というのは、考えてみれば、実に奇妙な表現と言えるのです。

 孤独死を問題視する論考は、本音の所は、上記の佐伯氏の論考の 「(確かに死体処理者や遺品処理者にはかなり迷惑がかかりますが)」の部分を、気にしているのでしょう。

 

 (3)「死生学」について

 

「  「死」は、あくまで個人的な問題なのである。「死の一般論」などというものはない。自分なりの“死の哲学”を模索するほかない。西部さんの自死は、あくまで西部さんなりの死の哲学であった。ただそれは、「では、お前は死をどう考えるのかね?」と問いかけている。答えを出すのはたいへん難しい。だが、われわれの前にこの問いがおかれていることは間違いないだろう。

(「いかに最期を迎えるか、自分なりの“死の哲学”は」佐伯啓思『朝日新聞』2018年2月2日「異論のススメ」)

 

 上記の論考における「死生観」を考える上で、最近の学問である「死生学」を軽視することはできません。

 「死生学」は、個人の死とその死生観についての学問です。

 具体的には自己の死に向き合うことで、「死までの生き方」を考える学問です。

 死生学の開拓者の一人、アリエスによれば、「人間は死者を埋葬する唯一の動物」です。

 この埋葬儀礼はネアンデルタール人にまでさかのぼるものです。

 それ以来長い歴史の中で、人類は「死に対する態度=死生観」を養ってきました。

 死生学はこのような死生観を哲学・医学・心理学・民俗学・文化人類学等を通して解明し、「死への準備教育」を目的とする学際的な学問です。

 死生学は尊厳死問題・緩和医療問題等を背景にして、最近、確立された新しい学問領域です。


 現代社会は、「死」を徹底的にタブー視する社会です。

 近代以前において「死」は最重要な哲学的思索の対象でしたが、近代以降の社会思想は、人間生活から死を排除しました。

 現代社会において一般化している「核家族」も、死を排除した小共同体です。

 子供は成人になるまで、身近な家族の死に直面する機会は、極めて少ないでしょう。

 それに対し、前近代における大家族においては、家族構成は二世代になり、家族の死は身近なものでした。

   「死生学」は、死をタブー視している現代社会において、「死への態度」という視点から「生の根元的価値」を見つめ直そうという学問的試みです。

 

   「死生学」においては、「死への準備教育(死の準備教育)」を重視しています。

   「死への準備教育(death education)」とは、人間らしい死を迎えること、死に直面したり、親族と死別したりすることの苦悩を和らげるための教育、に関連する教育をいいます。

   「死への準備教育」は、欧米を中心に広まっています。

 具体的には、ホスピスと幼稚園の併設、学会開催、社会講座開催等です。

 

 日本でも、最近、「死への準備教育」は注目され、「死への準備教育」が求められるようになっています。

 その背景には、以下の点が挙げられるでしょう。

 

 高齢化社会の進行。

 病院死の急増。

 延命治療等による、周りを医療機器に囲まれた死の急増。(→輸液ルート、導尿バルン、気道チューブ、動脈ライン等、身体中にチューブやセンサーが取り付けられた重症患者のことを『スパゲティ症候群』と呼びます)

 死の定義の曖昧化。具体的には、脳死と心臓死の論争。

 「生きること」の意義の喪失。それに伴う自殺や犯罪の増加。

 

 これらの深刻な現代状況を背景に、「人間らしく死ぬこととは、どうことか?」「生と死とは何か?」を追求する「死生学」の意義が問われるようになって来たのです。

 

 (4) 「日本古来の伝統的死生観」の再評価について

 

「 「死」は、あくまで個人的な問題なのである。「死の一般論」などというものはない。自分なりの「死の哲学」を模索するほかない。西部さんの自死は、あくまで西部さんなりの死の哲学であった。ただそれは、「では、お前は死をどう考えるのかね?」と問いかけている。答えを出すのはたいへん難しい。だが、われわれの前にこの問いがおかれていることは間違いないだろう。」

 (「いかに最期を迎えるか、自分なりの“死の哲学”は」佐伯啓思『朝日新聞』2018年2月2日「異論のススメ」)

 

 上記に関連する日本古来の伝統的死生観の再評価について、当ブログで、最近解説したので、以下に、その記事(→「予想問題「無常という事」小林秀雄・身体感覚・身体論・死生観・随筆」)の該当部分を再掲します。

 

gensairyu.hatenablog.com

 

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(再掲開始)

 

(小林氏の論考)(概要です)

「【8】上手に思い出す事は非常に難しい。だが、それが、過去から未来に向かって飴(あめ)の様に延びた時間という蒼(あお)ざめた思想(僕にはそれが現代における最大の妄想と思われるが)から逃れる唯一の本当に有効なやり方の様に思える。成功の期はあるのだ。この世は無常とは決して仏説という様なものではあるまい。それは幾時(いつ)如何(いか)なる時代でも、人間の置かれる一種の動物的状態である。現代人には、鎌倉時代の何処かのなま女房ほどにも、無常ということが分かっていない。常なるもの(→伝統的価値観、死生観、死への意識)を見失ったからである。」  (『文学界』昭和17年6月号)

 

ーーーーーーーー

 

(当ブログの解説)

 

(問題)「現代人は、鎌倉時代のなま女房ほどにも無常ということがわかっていない」とは、どういう意味か?

 

 「なま女房」は、確固たる「死生観」(→「死」と「生」に関する価値観。「生死は無常なのでどうすることもできない」とする価値観)を保持していたが、現代の日本人は、「死」・「人生の無常」を直視していないということです。

 

(問題)「常なるもの」とは何か?

 「日本古来の伝統的死生観」です。

 前述したように、明治時代からの、「文明開化」による「西洋化・近代化」により、日本人の精神構造が、「西洋的な人間中心主義的発想」となりました。

 そして、「自然との交流」・「死後の世界との交流」は、出来なくなりました。

 その結果、「死」・「歴史」は、日々の生活から遠ざかったのです。

 それとともに、「日本古来の伝統的死生観」も、ほとんど消滅してしまったのです。

 このことは、戦後になって、著しく進行したのです。

 

 この人間として不自然な状態から脱却するためには、日頃から、頭だけで観念的に考えないようにする、全身で納得することを心がける、腑に落ちるということを大切にする、というようにして、「自分の身体感覚」をも重視して、考察することを意識するべきです。

 「自分の身体性」に意識が向けば、自分の「老」・「死」は、時間と宿命の流れに支配され、自分の意識を超越したものだという当然の事実が強く認識できるはずです。

 人は「老」・「死」の絶対性から逃れることはできないのです。

 このことを「無常」というのでしょう。

 現代の日本人は、「自己の身体性」から目を背けたために、この「無常の感覚」、つまり、「日本の伝統的価値観」まで忘れてしまったのでしょう。

 

 小林秀雄氏は、「死を直視することの重要性」を以下のように述べています。

「人の世の秩序を、つらつら思うなら、死によって完結する他はない生の営みの不思議を納得するでしょう。死を目標とした生しか、私たちには与えられていない。そのことが納得出来た者には、よく生きる事は、よく死ぬ事だろう。 」(小林秀雄「生と死」『小林秀雄全作品  第26集』)

 

「この世に生まれ、暮らし、様々な異変に会い、死滅するという人の一生を、これを生きて知る他はない当人の身になって納得してみよ。歴史の真相に推参できるだろう。兼好はこれを『実(まこと)の大事』と呼んでいる。」(小林秀雄「生と死」)

 

 「小林秀雄についての批評」に関してはトップレベルの文芸評論家の秋山駿氏は、「小林秀雄ーその生と文学の魅力」 (『Web版 有鄰・第414号(平成14年5月10日)』有隣堂)の中で、とても参考になることを述べています。

「小林は乱暴な人だ、と言ったが、その乱暴とは、一度自分で決断したら、前途も知らず、前後も見ず、自分を信じて一直線に突き進む元気、といった意味のものだ。

 その一直線に突き進む元気が、小林の文学の中央を貫く。出発点から最後まで貫く。」

 そして、『考えるヒント』について、以下のように続けています。

「小林は、戦後の時代が、あまりにも日本文化の基本から外れた方へ進んでいるのを見て、時代に抗して、警告として、彼が日本と現代について考えたところを種子として、われわれへとばら撒いたのであった。一粒の麦もし死なば・・・・、それがヒントの真意であった。」

 このことは、「無常という事」についても、同じように言えるのでは、ないでしょうか。

 ただ、「無常という事」は戦争中の作品です。

 とすると、戦争中から、戦後思想的なものはあったのでしょう。

 

(再掲終了)

 

朝日新聞デジタル

朝日新聞デジタル

 

  

 

(5)佐伯啓思氏の紹介

 

 1949(昭和24)年、奈良県生まれ。社会思想家。京都大学名誉教授。東京大学経済学部卒。東京大学大学院経済学研究科博士課程単位取得。2007年正論大賞。

 

著書は、

『隠された思考』(筑摩学芸文庫)(サントリー学芸賞)

『時間の身振り学』(筑摩書房)→神戸大学、早稲田大学(政経)で出題

『「アメリカニズム」の終焉』(中公文庫)(東畑記念賞)

『現代日本のリベラリズム』(講談社)(読売論壇賞)

『現代社会論』(講談社学術文庫)

『自由とは何か』(講談社現代新書)→立教大学、法政大学で出題

『反・幸福論』(新潮新書)→小樽商科大学で出題

『倫理としてのナショナリズム』(中公文庫)→関西大学で出題

『日本の宿命』(新潮新書)

『正義の偽装』(新潮新書)

『西田幾多郎・無私の思想と日本人』(新潮新書)

など多数。

 

(6)当ブログにおける「佐伯啓思」関連記事の紹介

 

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 ーーーーーーーー

 

今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

ご期待ください。

 

    

 

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反・幸福論 (新潮新書)

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

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5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

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2015東大国語第1問(現代文)『傍らにあること』池上哲司/解説

(1)はじめに ─ なぜ、この記事を書くのか?


 「自己」・「アイデンティティ」・「自分らしさ」、「自己と死」は、入試頻出論点です。

  「自己」・「アイデンティティ」の内実をいかに考えるかについては、さまざまな視点があります。

 今回の記事で解説する、2015東大国語第1問(現代文)『傍らにあること』池上哲司は、読むべき内容になっています。

 設問も、全体的に見て、ハイレベルで良問です。

 ぜひ、チャレンジしてください。

 

 なお、今回の記事の項目は以下の通りです。

 

(2)2015東大国語第1問(現代文)「傍らにあること」池上哲司/解説

(3)補充説明① ─ 本書の内容 ─ 「自由の重さ」と「他者の承認」

(4)補充説明② ─ 最近の東大国語第1問の傾向について

(5)池上哲司氏の紹介

(6)当ブログにおける「自己」・「自分」・「自分らしさ」関連記事の紹介

(7)当ブログにおける「承認欲求」関連記事の紹介

 

傍らにあること: 老いと介護の倫理学 (筑摩選書)

 


(2)2015東大国語第1問(現代文)「傍らにあること」池上哲司/解説

 

(問題文本文)(概要です)

(【1】・【2】・【3】・・・・は当ブログで付記した段落番号です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です) 

 

(問)次の文章を読んで、後の設問に答えよ。

【1】昨日机に向かっていた自分と現在机に向かっている自分、両者の関係はどうなっているのだろう。身体的にも意味的にも、昨日の自分と現在の自分とが微妙に違っていることは確かである。しかし、その違いを認識できるのは、その違いにもかかわらず成立している不変の自分なるものがあるからではないのかこういった発想は根強く、誘惑的でさえある。ァこのような見方は出発点のところで誤っているのである。このプロセスを時間的に分断し、対比することで、われわれは過去の自分と現在の自分とを別々のものとして立て、それから両者の同一性を考えるという道に迷いこんでしまう。過去の自分と現在の自分という二つの自分があるのではない。あるのは、今働いている自分ただ一つである。生成しているところにしか自分はない。

【2】過去の自分は、身体として意味として現在の自分のなかに統合されており、その限りで過去の自分は現在の自分と重なることになる。身体として統合されているとは、たとえば、運動能力に明らかである。最初はなかなかできないことでも、訓練を通じてわれわれはそれができるようになる。そして、いったん可能となると、今度はその能力を当たり前のものとしてわれわれは使用する。また、意味として統合されているとは、われわれが過去の経験を土台として現在の意味づけをなしていることに見られるとおりである。現在の自分が身体的、意味的統合を通じて、結果として過去の自分を回収する。換言すれば、回収されて初めて、過去の自分は「現在の自分の過去」という資格を獲得できるのである。


ーーーーーーーー

 

(設問)(1)

このような見方は出発点のところで誤っているのである」(傍線部ア)とあるが、なぜそういえるのか、説明せよ。(60字程度)

……………………………


(解説・解答)

 傍線部の「このような見方」とは、「身体的にも意味的にも、昨日の自分と現在の自分とが微妙に違っていることは確かである。

 しかし、その違いを認識できるのは、その違いにもかかわらず成立している不変の自分なるものがあるからではないのか」とする「見方」です。

 

 次に、傍線部の「出発点のところ」とは、「過去の自分と現在の自分とを別々のものとして」考えることです。

 それが「誤っている」理由は、

【1】段落最終部分「過去の自分と現在の自分という二つの自分があるのではない。あるのは、今働いている自分ただ一つである。生成しているところにしか自分はない」、

【2】段落冒頭部分「過去の自分は、身体として意味として現在の自分のなかに統合されており、その限りで過去の自分は現在の自分と重なることになる」からです。

 以上のポイントをまとめるとよいでしょう。

 

 自分は「不変」ではないのです。
 自分は、意識レベル、無意識レベルで、日々、自ら微調整し、変化している運動体、可動体です。
 このことが、池上氏の主張の根幹であり、スタートです。

 

(解答)
「不変の自分」という発想は、過去を統合した現在の生成としてしかありえない自分を、過去と現在に分断することを前提とするから。


ーーーーーーーー

 

(問題文本文)(概要です)

【3】統合が意識されている場合もあれば、意識されていない場合もある。したがって、現在の自分へと回収されている過去の自分が、それとして常に認識されているとは限らない。むしろ、忘れられていることの方が多いと思われる。二十年前の今日のことが記憶にないからといって、それ以前の自分とそれ以後の自分とが断絶しているということにはならない。第一、二十年前から今日現在までのことを、とぎれることなく記憶していること自体不可能である。重要なのは、何を忘れ、何を覚えているかである。つまり、自分の出会ったさまざまな経験を、どのようなものとして引き受け、意味づけているかである。そして、そのような過去への姿勢を、現在の世界への姿勢として自らの行為を通じて表現するということが、働きかけるということであり、他者からの応答によってその姿勢が新たに組み直されることが、自分の生成である。そしてこの生成の運動において、いわゆる自分の自分らしさというものも現れるのである。

【4】 ィこの運動を意識的に完全に制御できると考えてはならない。つまり、自分らしさは、自らがそうと判断すべき事柄ではないし、そうあろうと意図して実現できるものでもない。具体的に言えば、自分のことを人格者であるとか、高潔な人柄であるとか考えるなら、それはむしろ、自分がそのような在り方からどれほど遠いかを示しているのである。また、人格者となろうとする意識的努力は、それがどれほど真摯なものであれ、いや、真摯なものであればあるほど、どうしてもそこには不自然さが感じられてしまう。ここには、自分の自分らしさは他人によって認められるという逆説が成立する。このことは、とりわけ意識もせずに、まさに自然に為される行為に、その人のその人らしさが紛(まご)う方なく認められるという、日常の経験を考えてみても分かるだろう。 

【5】自分とはこういうものであろうと考えている姿と、現実の自分とが一致していることはむしろ稀である。それは、現実の自分とはあくまで働きであり、その働きは働きの受け手から判断されうるものだからである。しかし、そうであるならば、自分の自分らしさは他人によって決定されてしまいはしないか。ここが面倒なところである。自分らしさは他人によって認められるのであるが、決定されるわけではない。自分らしさは生成の運動なのだから、固定的に捉えることはできない。それでも、自分らしさが認められるというのは、自分について他人が抱いていた漠然としたイメージを、一つの具体的行為として自分が現実化するからである。しかし、ゥその認められた自分らしさは、すでに生成する自分ではなく、生成する自分の残した足跡でしかない。

【6】いわゆる他人に認められる自分らしさは、生成する自分という運動を貫く特徴ではありえない。かといって、自分で自分の自分らしさを捉えることもできない。結生成する自分の方向性などというものはないのだろうか。


ーーーーーーーー

 

設問(2)

「この運動を意識的に完全に制御できると考えてはならない」(傍線部イ)とあるが、なぜそう言えるのか。(60字程度)

……………………………


(解説・解答)

 「この運動」とは、直前の「いわゆる自分の自分らしさというもの」が「現れる」「生成の運動」です。

 

   「この運動を意識的に完全に制御できると考えてはならない」という理由は、

【4】段落「自分の自分らしさは他人によって認められるという逆説が成立する」、

【5】段落「自分とはこういうものであろうと考えている姿と、現実の自分とが一致していることはむしろ稀である。それは、現実の自分とはあくまで働きであり、その働きは働きの受け手から判断されうるものだからである」からです。


 なお、【3】段落後半部分「そのような過去への姿勢を、現在の世界への姿勢として自らの行為を通じて表現するということが、働きかけるということであり、他者からの応答によってその姿勢が新たに組み直されることが、自分の生成である」、


自分の生成→他者との関係の中で作られる


【5】段落後半部分「自分らしさが認められるというのは、自分について他人が抱いていた漠然としたイメージを、一つの具体的行為として自分が現実化する」、

 

自分らしさ→自分が現実化する

についても、指摘するとよいでしょう。


(解答)

自分らしさは、自らの働きかけに対する他者からの応答により再構成され、他人により判断され、認識されるものだから。

 

ーーーーーーーー


設問(3)

「その認められた自分らしさは、すでに生成する自分ではなく、生成する自分の残した足跡でしかない」(傍線部ウ)とはどういうことか、説明せよ。(60字程度)

……………………………


(解説・解答)

 傍線部の2文前の「自分らしさは生成の運動なのだから、固定的に捉えることはできない。」に注目してください。

 この文を元に、傍線部を、分かりやすく考えると、

「自分について他人が抱いていた漠然としたイメージを、一つの具体的行為として自分が現実化する」「自分らしさ」は、「自分」の「生成の運動」の一場面に過ぎないということです。

 

 この設問は、設問(1)と、ほぼ同一であることを意識してください。

 難関大学現代文では、模試とは違い、同一ポイントを視点を変えて問うことが、よく、あります。


(解答)

ある時点で、他人が認めた自分らしさは、生成し変化し続ける自分にとって、その過程のうちの一場面でしかないこと。


ーーーーーーーー

 

(問題文本文)(概要です)

【7】生成の方向性は生成のなかで自覚される以外にない。ただこの場合、何か自分についての漠然としたイメージが具体化することで、生成の方向性が自覚されるというのではない。というのは、ここで自覚されるのは依然として生成の足跡でしかないからである。生成の方向性は、棒のような方向性ではなく、生成の可能性として自覚されるのである。自分なり、他人なりが抱く自分についてのイメージ、それからどれだけ自由になりうるか。どれだけこれまでの自分を否定し、逸脱できるか。この「・・・・でない」という虚への志向性が現在生成する自分の可能性であり、方向性である。そして、これはまさに自分が生成する瞬間に、生成した自分を背景に同時に自覚されるのである。

【8】このような可能性のどれかが現実のなかで実現されていくが、それもわれわれの死によって終止符を打たれる。こうして、自分の生成は終わり、後には自分の足跡だけが残される。

【9】だが、本当にそうか。なるほど、自分はもはや生成することはないし、その足跡はわれわれの生誕と死によって限られている。しかし、働きはまだ生き生きと活動している。ある人間の死によって、その足跡のもっている運動性も失われるわけではない。つまり、ェ残された足跡を辿る人間には、その足の運びの運動性が感得されるのであり、その意味で足跡は働きをもっているのである。われわれがソクラテスの問答に直面するとき、ソクラテスの力強い働きをまざまざと感じるのではないか。

【10】自分としてのソクラテスは死んでいるが、働きとしてのソクラテスは生きている。生成する自分は死んでいるが、その足跡は生きている。正確に言おう。自分の足跡は他人によって生を与えられる。われわれの働きは徹頭徹尾他人との関係において成立し、他人によって引き出される。そして、自分が生成することを止めてからも、その働きが可能であるとするならば、その可能性はこの現在生成している自分に含まれているはずである。そのように、自分の可能性はなかば自分に秘められている。ォこの秘められた、可能性の自分に向かうのが、虚への志向性としての自分の方向性でもある。

(池上哲司『傍らにあること―老いと介護の倫理学』)

 

ーーーーーーーー

 

設問(4)

「残された足跡を辿る人間には、その足の運びの運動性が感得される」(傍線部エ)とはどういうことか、説明せよ。(60字程度)

……………………………


(解説・解答)

  傍線部「その足の運びの運動性」とは、

【5】段落の「自分について他人が抱いていた漠然としたイメージを、一つの具体的行為として自分が現実化」した「自分らしさ」であり、

【6】段落の「自分の自分らしさ」、「生成する自分の方向性」です。

 

 次に、傍線部直前の「つまり」に着目して、

【8】段落「このような可能性(→「現在生成する自分の可能性」)のどれかが現実のなかで実現されていくが、それもわれわれの死によって終止符を打たれる。こうして、自分の生成は終わり、後には自分の足跡だけが残される。」


【9】段落「しかし、働きはまだ生き生きと活動している。ある人間の死によって、その足跡のもっている運動性も失われるわけではない。」

「つまり(→「言い換え」)ェ残された足跡を辿る人間には、その足の運びの運動性が感得されるのであり、その意味で足跡は働きをもっているのである。」


(→これ以下も「傍線部エの言い換え」になっています)われわれがソクラテスの問答に直面するとき、ソクラテスの力強い働きをまざまざと感じるのではないか」

という論理展開に注目してください。

 

 【9】段落のポイントは、以下の部分です。

「自分の死後も『自分の働き』はまだ生き生きと活動している。ある人間の死によって、その足跡のもっている運動性も失われるわけではない。」

 

 つまり、「周りの人々の思惑を過度に気にすることなく、自由に、のびのびと生きよう」と呼び掛けているのでしょう。

 少々、ロマンティックで、センチメンタルな文章になっています。

 難関大学の出題者が好む詩的な内容です。

 

(解答)

自分の可能性を追求し続けた人の生の働きは、自分の死後にも、その痕跡を辿る他人の精神の中で、生きているかのように再現されるということ。

 

ーーーーーーーー


設問(5)

「この秘められた、可能性の自分に向かうのが、虚への志向性としての自分の方向性でもある」(傍線部オ)とあるが、どういうことか。本文全体の論旨を踏まえた上で、百字以上百二十字以内で説明せよ。


……………………………

 

(解説・解答)

設問(5)

「この秘められた、可能性の自分に向かうのが、虚への志向性としての自分の方向性でもある」(傍線部オ)とあるが、どういうことか本文全体の論旨を踏まえた上で、説明せよ。」

 

 上記の赤字部分に注目してください。

 入試の性格上、出題者の出題意図を強く意識して、説明することになります。

   「出題者の読みの方向性」に着目する必要があるということです。

   「出題者の読みの方向性」は、設問から推測するべきです。

 難関大学の現代文問題においては、本文のポイントや、少々曖昧な記述は、設問で的確に問われています。

 従って、各設問の流れに素直に乗って、「出題者」の出題意図に沿って、「本文全体の論旨」をまとめていく姿勢が大切です。

 

 傍線部の「虚への志向性としての自分の方向性」とは、

【7】段落後半部分「自分なり、他人なりが抱く自分についてのイメージ、それからどれだけ自由になりうるか。どれだけこれまでの自分を否定し、逸脱できるか。この『・・・・でない』という虚への志向性が現在生成する自分の可能性であり、方向性である。そして、これはまさに自分が生成する瞬間に、生成した自分を背景に同時に自覚されるのである。」に関連しています。


 この設問においては、「自己」の内容をまとめる必要があります。

 つまり、各設問のポイントを網羅することが大切です❗

 以下に、「各設問のポイント」を列挙していきます。

 

① 「あるのは、今働いている自分ただ一つである。生成しているところにしか自分はない。」(【1】段落最終部分)という点。→(設問1)

 

② 「過去の自分は、身体として意味として現在の自分のなかに統合されており、その限りで過去の自分は現在の自分と重なることになる。」(【2】段落冒頭部分)という点→(設問3)

 

③ 「働きかけ」・「自分らしさ」については、以下の点がポイントになります。

【3】段落後半部分「重要なのは、何を忘れ、何を覚えているかである。つまり、自分の出会ったさまざまな経験を、どのようなものとして引き受け、意味づけているかである。そして、 そのような過去への姿勢を、現在の世界への姿勢として自らの行為を通じて表現するということが、働きかけるということであり、他者からの応答によってその姿勢が新たに組み直されることが、自分の生成である。そしてこの生成の運動において、いわゆる自分の自分らしさというものも現れるのである。」→(設問2)

 

④ 「われわれの働き」は、死後も、「他人によって引き出される」可能性があるのです。→(設問4)

 つまり、「われわれの働き」・「われわれの足跡」は、自分の死後も生きている、ということです。

 以下の部分に注意してください。

【9】段落「その(自分の)足跡はわれわれの生誕と死によって限られている。しかし、働きはまだ生き生きと活動している。ある人間の死によって、その足跡のもっている運動性も失われるわけではない。つまり、ェ残された足跡を辿る人間には、その足の運びの運動性が感得されるのであり、その意味で足跡は働きをもっているのである。」

【10】段落前半部分「自分の足跡は他人によって生を与えられる。われわれの働きは徹頭徹尾他人との関係において成立し、他人によって引き出される。そして、自分が生成することを止めてからも、その働きが可能である。」

 以上の①~④の踏まえて、「可能性としての自分に向き合う」ことが、大切なのです。

 このことが、「自分なり、他人なりが抱く自分についてのイメージ、それからどれだけ自由になりうるか。どれだけこれまでの自分を否定し、逸脱できるか」(【7】段落)(→「虚への志向性」)を考え実践する、という「自分の方向性でもある」ということです。

 

(解答)

自己とは、固定不変の存在でなく、過去を引き受けつつ他者との関係や応答の中で不断に生成され、自らの死後も他人の中で生きうる運動であるから、今までの自分を否定し、逸脱できるかという自由の中に進むべき自らの可能性があるということ。(114字)

 

ーーーーーーーー


(出典)

池上哲司『傍らにあること 老いと介護の倫理学』〈第2章 自分ということ/6 自分への還帰〉

ーーーーーーーー

 

(3)補充説明① ─ 本書の内容 ─ 「自由の重さ」と「他者の承認」

 

 今回の問題は、「自由と責任」、ひいては、「『自由の重さ』と『他者の承認』」に関連しています。

 この点については、池上哲司氏は、本書『傍らにあるもの』で、以下のように述べています。

 

「 自由であるとは自らの判断に従って行為しうることであり、かつ現実に行為することである。したがって、先生や上司の言うことが間違っていると判断したにもかかわらず、自分の将来のことを考えて、反対意見を述べず先生や上司の判断に従うのであれば、それは自由であるとは言えない。つまり、可能性としては自由であるが、現実としては自由ではないのである。行為しうることと現実に行為することとの間にはさまざまな障害が存在しており、その障害を克服しうるか否かに自由はかかっている。

 だが、自由の現実のために自らの生命に危険がある場合はどうであろう。命を賭して自らの自由を実現することはできても、その結果自らの生命そのものを奪われることになったのでは、元も子もないのではないか。自由の実現が自由の可能性を奪う、これは極端な例である。しかし、自由ということを考えるとき、最終的にはこの問題を避けて通れないはずである。この点を考える前に、まずわれわれは、自由に耐えられるかという問いの意味を吟味することにしよう。

 耐えるということは、自由がわれわれにとって重荷となるということである。自由であることがわれわれの負担になるのは、自由が必然的に責任を伴うからである。自らの自由によって為したことに対しては、自分以外のほかの誰に責任を負わせることができようか。

 つまり、自由であればあるほど責任は大きく重くならざるをえない。それなのに、自らの判断にわれわれは絶対的な確信を抱くことができない。そこで、われわれは自分の判断や行為を肯定してくるれる他者を探しては、気休めをえようとする。 

 先生が認めてくれた、上司が認めてくれた、世界的権威が認めてくれた。けれども、相変わらず責任は自ら独りにあり、そこから逃れることはできない。この事実に気づいたとき、われわれにとって自由は厭うべきものでしかない。自由と責任を肩代わりしてくれる者をわれわれは探し求め、肩代わりしてくるなら、自らの自由さえ嬉々として譲り渡そうとする」(『傍らにあること』)

 


 池上氏は、この論考で以下のように私達に告げていると、私は感じました。

「『他者の承認」、「他者の共感」が必要なのは、分かるが、焦ることはない。自分の死後、他者の承認、他者の共感はあるかもしれない」



 私達は孤独であり、自由ではあるが、責任を背負わされています。

 このような状況において、私達は、「自らの判断」に「絶対的な確信」を「抱く」ために、何が必要になるのでしょうか?

 ここで、「他者の承認」、「他者の共感」を必要なのは、仕方のないことでしょう。

 しかし、余りにそれらを求め過ぎることは、自分を卑屈にすることであり、自分を歪めることになるのです。

 このことを、池上氏は主張しているのではないでしょうか。

 

 現代日本の一部の人々は、「承認欲求」が強すぎるために、余りに他者の反応に過敏になり、主体性を弱め、ひいては、「自己喪失状況」に陥っている人もいるようです。

 そのような人々に、

「焦る必要はない。私達のメッセージは、私達の死後も残る。」

「私達の死後にも、私達の足跡を辿る人間には、その足の運びの運動性が感得されるのであり、その意味で足跡は働きをもっている」

 このように、池上氏は語りかけているのでは、ないでしょうか?

 

 以上を意識して、池上氏の今回の論考の重要部分を読み直してみるとよいでしょう。


「【7】自分なり、他人なりが抱く自分についてのイメージ、それからどれだけ自由になりうるか。どれだけこれまでの自分を否定し、逸脱できるか。この「・・・・でない」という虚への志向性が現在生成する自分の可能性であり、方向性である。そして、これはまさに自分が生成する瞬間に、生成した自分を背景に同時に自覚されるのである。

【8】このような可能性のどれかが現実のなかで実現されていくが、それもわれわれの死によって終止符を打たれる。こうして、自分の生成は終わり、後には自分の足跡だけが残される。

【9】だが、本当にそうか。なるほど、自分はもはや生成することはないし、その足跡はわれわれの生誕と死によって限られている。しかし、働きはまだ生き生きと活動している。ある人間の死によって、その足跡のもっている運動性も失われるわけではない。つまり、ェ残された足跡を辿る人間には、その足の運びの運動性が感得されるのであり、その意味で足跡は働きをもっているのである。われわれがソクラテスの問答に直面するとき、ソクラテスの力強い働きをまざまざと感じるのではないか。

【10】自分としてのソクラテスは死んでいるが、働き(→「影響力」でしょう)としてのソクラテスは生きている。生成する自分は死んでいるが、その足跡は生きている。正確に言おう。自分の足跡は他人によって生を与えられる。われわれの働きは徹頭徹尾他人との関係において成立し、他人によって引き出される。そして、自分が生成することを止めてからも、その働きが可能であるとするならば、その可能性はこの現在生成している自分に含まれているはずである。」

 

 

(4)補充説明② ─ 最近の東大国語第1問の傾向について

 

 昨年の国語第1問(現代文)のテーマ(藤山直樹『落語の国の精神分析』)も、今年のテーマも、ともに「自己」・「アイデンティティ」でした。

 

 昨年の国語第1問のキーセンテンスは以下の通りです。
                  


「  自己のなかに自律的に作動する複数の自己があって、それらの対話と交流のなかに、ひとまとまりの『私』というある種の錯覚が生成される。それが精神分析の基本的な人間理解のひとつである」

「  落語を観る観客はそうした自分自身の本来的な分裂を、生き生きとした形で外から眺めて楽しむことができるのである。分裂しながらも、ひとりの落語家として生きている自分を見ることに、何か希望のようなものを体験するのである。

 

 以上の段落を読むと、筆者が「自己」を「複数」・「分裂」の視点から分析していることが分かります。

 
 この論考も興味深い内容を有しているので、解説記事を近日中に書く予定です。

 

  

(5)池上哲司氏の紹介

 

池上 哲司(いけがみ てつじ)
大谷大学文学部哲学科教授
 1949年、東京生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程(哲学専攻)単位取得退学。大谷大学文学部哲学科専任講師を経て大谷大学文学部哲学科助教授。1983年から1985年3月まで西ドイツ・アウクスブルク大学に留学。1992年大谷大学文学部哲学科教授、現在に至る。

 

【著書】

『実践哲学の現在』(共著・世界思想社)、
『自己と他者』(共編著・昭和堂)、
『モラル・アポリア』(共著・ナカニシヤ出版)、
『岩波講座 哲学12 性/愛の哲学』(共著・岩波書店)、
『親鸞像の再構築』(共著・筑摩書房)などのほか、
エッセイ集『不可思議な日常』(東本願寺出版部)がある。


【翻訳】

『近代政治哲学入門(叢書・ウニベルシタス)』(法政大学出版局)、
『倫理学の根本問題(現代哲学の根本問題3)』(晃洋書房)など。

 

不可思議な日常

不可思議な日常

 

 


(6)当ブログにおける「自己」・「自分」・「自分らしさ」関連記事の紹介

 

  「自己」・「自分」・「自分らしさ」は入試頻出論点です。

 以下の記事を、よく理解するように、してください。

 

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 (7)当ブログにおける「承認欲求」関連記事の紹介

 

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 ーーーーーーーー

 

今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

ご期待ください。

  

   

 

 

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傍らにあること: 老いと介護の倫理学 (筑摩選書)

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

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予想問題/「何のための人工知能なのか」新井紀子/AI と哲学

(1)はじめに

 
 「人工知能( AI )」は最近の入試頻出論点です。

 「人工知能( AI )と哲学」、「人工知能に関する国家戦略」、「その国家戦略における哲学者の影響力」について、数学者・人工知能学者の新井紀子氏が、最近、興味深い論考を発表しましたので、今回の記事で、紹介しつつ、発展的に解説します。

 

  なお、今回の記事の項目は、以下の通りです。

(2)「仏のAI立国宣言 何のための人工知能か 日本も示せ」(新井紀子(国立情報学研究所教授)、2018・4・18『朝日新聞』「新井紀子のメディア私評」)/解説

(3)「AIは哲学できるか」(森岡正博、2018・1・22『朝日新聞』)/解説

(4)「AI時代に『哲学』は何を果たせるか?」 (『そろそろ、人工知能の真実を話そう』著者ジャン=ガブリエル・ガナシアに訊く」2017・7・4『WIRED』)

(5)「日本における哲学者の地位がフランスと比較して、かなり低いこと」について

(6)「日本政府のAI 戦略」について

(7)当ブログにおける「人工知能( AI )」関連記事の紹介

 

朝日新聞デジタル

朝日新聞デジタル

 

 

(2)予想問題/「仏のAI立国宣言 何のための人工知能か 日本も示せ」(新井紀子(国立情報学研究所教授)、2018・4・18『朝日新聞』「新井紀子のメディア私評」)/解説

 

 まず、入試頻出著者・新井紀子氏の論考を引用します。

(概要です) 

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です)  

(以下、同じです)

 

「  日本ではほとんど報じられていないが、人工知能(AI)分野で、地政学的な変化がおきようとしている。フランスの動向だ。マクロン大統領は3月末、世界中からAI分野の有識者を招き意見交換会とシンポジウムを開催。フランスを「AI立国」とすると宣言した。2022年までに15億ユーロをAI分野に投資し、規制緩和を進める。

 招待された中には、フェイスブックのAI研究を統括するヤン・ルカンやアルファ碁の開発者として名高いディープマインド(DM)社のデミス・ハサビスらが含まれた。DMは今回パリに研究拠点を置くことを決めた。

 これだけ読むと、「フランスもついに重い腰を上げたか」という感想を持つ読者も少なくないだろう。ドイツは早々に「インダストリー4.0」を開始した。ビッグデータやAIを活用することで製造業の革新を目指す国家プロジェクトだ。日本でも各省が競ってAI関連のプロジェクトに着手。それでも、米国や中国との距離は縮まるどころかますます水をあけられている。いまさらフランスが参入しても手遅れなのでは、と私も思っていた。

 ところが、である。意見交換会が開かれるエリゼ宮に到着して驚いた。出席者の約半数が女性。女性研究者は1割程度と言われるAIの会合では極めて異例だ。そこには、「破壊兵器としての数学 ビッグデータはいかに不平等を助長し民主主義を脅かすか」の著者キャシー・オニールや、データの匿名化に精通したハーバード大学のラタニア・スウィーニーが含まれていた。マクロン大統領はこう言った。「AIの影響を受ける人々は『私』のような人(白人男性で40代)だけではない。すべての人だ。AIがどうあるべきかの議論には多様性が不可欠だ」と。

 大統領から求められ、「ロボットは東大に入れるか」プロジェクトを始めた意図を話した。「人々に広告をクリックさせるために」様々なサービスを無償で提供しているグーグルやフェイスブックのような巨大IT産業が、今回のAIブームを牽引することは2010年の段階で明らかだった。だが、日本はモノづくりの国である。99%の精度を、「100のうち99回正しい」ではなく「100に1回間違える」と認識すべき国だ。無償サービスの効率化のために開発された技術を、モノづくりに本格的に取り入れるべきか吟味すべきだ。AIの限界を探り、労働市場への影響を正確に見積もる必要があった、と。大統領は自ら詳しくメモを取りながら耳を傾けてくれた。

 一方、「新技術が登場する時には心配する人は必ずいる。電話やテレビが登場した時もそうだが、何の問題もなかった。AIも同じだ」と楽観論を展開するヤン・ルカンに、大統領は厳しく指摘した。「これまでの技術は国民国家という枠の中で管理できた。AIとビッグデータは違う。圧倒的な寡占状況があり、富の再分配が行われていない。フランスが育成した有能な人材がシリコンバレーに流出しても、フランスに税金は支払われない」と。

 アメリカと中国でブームになると、日本は慌ててAIに手を出した。だが、「何のため」かはっきりしない。夏目漱石そっくりのロボットを作ってみたり、小説を書かせてみたり、よく言えば百花繚乱、悪く言えば迷走気味である。メディアも、AIと聞けば何でも飛びつく状況だ。フランスは違う。AIというグローバルゲームのルールを変えるために乗り出してきたのだ。

 最後発のフランスにルールを変えられるのか。大統領のAIアドバイザーを務めるのは数学者のセドリック・ビラニだ。法学者や哲学者も連携して、アルゴリズムによる判断によって引き起こされ得る深刻な人権侵害、AIの誤認識による自己の責任の所在、世界中から最高の頭脳を吸引するシリコンバレーの「教育ただ乗り」問題を鋭く指摘。巨大なIT企業の急所を握る。そして、「データとアルゴリズムの透明性と正当な利用のための共有」という錦の御旗を掲げながら、同時に投資を呼び込む作戦だ。最初の一手は、5月に施行されるEU一般データ保護規則になることだろう。

 ヨーロッパでは哲学も倫理学も黴の生えた教養ではない。自らが望む民主主義と資本主義のルールを通すための現役バリバリの武器なのである。

 振り返って、我が国はどうか。「人間の研究者が『人工知能カント』に向かっていろいろ質問をして、その答えを分析することがカント研究者の仕事になるとわたしは予想する」(「AIは哲学できるか」森岡正博寄稿、本紙1月22日)。
 これでは、日本の哲学者の仕事は風前の灯と言わざるを得ない。(敬称略)

 (「仏のAI立国宣言 何のための人工知能か、日本も示せ」新井紀子(国立情報学研究所教授)、2018・4・18『朝日新聞』「新井紀子のメディア私評」)

 

 実に、秀逸な論考です。切れ味は、かなりのものです。

 この論考は、受験生や一般国民だけではなく、哲学者、政治家、政府の人々も、熟読するべきでしょう。

 AI の進化は、世界に大きなインパクトを与えることは確実です。

 これからの日本のAI 戦略を、どのようなものにしていくか?

 これは、緊急かつ重大な課題です。

 

 新井紀子氏の論考の中で、特に、以下の二つの指摘は、強く印象に残りました。

 「アメリカと中国でブームになると、日本は慌ててAIに手を出した。だが、『何のため』かはっきりしない。悪く言えば迷走気味である。フランスは違う。AIというグローバルゲームのルールを変えるために乗り出してきたのだ。

「  ヨーロッパでは哲学も倫理学も黴の生えた教養ではない。自らが望む民主主義と資本主義のルールを通すための現役バリバリの武器なのである。

 振り返って、我が国はどうか。「人間の研究者が『人工知能カント』に向かっていろいろ質問をして、その答えを分析することがカント研究者の仕事になるとわたしは予想する」(「AIは哲学できるか」森岡正博、朝日新聞1月22日)。
 これでは、日本の哲学者の仕事は風前の灯と言わざるを得ない。」

 

 今や、AIは、現在の閉塞的な状況の救世主として、ある種の期待を集めています。しかし、AI が人類を幸福に導くかどうかは、それをコントロールする人間の叡智(英知)によるという自明の理をフランス大統領は強く意識しているようです。

 この点は、日本と大きく違う点と言えます。

 

 次に、ここで気になるのは、「AIは哲学できるか」森岡正博、朝日新聞1月22日)です。どういう文脈で、森岡氏は、上記の記述をしたのでしょうか?

 そこで、次に、上記の森岡正博の論考の概要を引用します。

 

AI vs. 教科書が読めない子どもたち

AI vs. 教科書が読めない子どもたち

 

 

(3)「AIは哲学できるか」(森岡正博、2018・1・22『朝日新聞』)/解説

 

33個めの石 傷ついた現代のための哲学 (角川文庫)

33個めの石 傷ついた現代のための哲学 (角川文庫)

 

 

(概要です)

「  人工知能( AI )の進歩は目覚ましい。囲碁や将棋の世界では、もう人間は人工知能に勝てなくなってしまった。その波は、さらに広がっていくだろう。学者もその例外ではない。これまで学者たちが行ってきた研究が、人工知能によって置きかえられていく可能性もある。とくに、私が専門としている哲学の場合、考えることそれ自体が仕事内容のすべてであるから、囲碁や将棋と同じ運命をたどるかもしれない。この点を考えてみよう。

 まず、過去の哲学者の思考パターンの発見は、人工知能のもっとも得意とするところである。たとえば人工知能に哲学者カントの全集を読み込ませ、そこからカント風の思考パターンを発見させ、それを用いて「人工知能カント」というアプリを作らせることはいずれ可能になるであろう。人間の研究者が「人工知能カント」に向かっていろいろ質問をして、その答えを分析することがカント研究者の仕事になると私は予想する。この領域では人工知能と哲学者の幸福な共同作業が成立する。

 次に、人工知能に過去の哲学者たちのすべてのテキストを読み込ませて、そこから哲学的な思考パターンを可能な限り抽出させてみよう。すると、およそ人間が考えそうな哲学的思考パターンがずらっと揃うことになる。それに加えて、過去の哲学者たちが見逃していた哲学的思考パターンもたくさんあるはずだから、人工知能にそれらを発見させる。

 その結果、「およそ人間が考えそうな哲学的思考パターンのほぼ完全なリスト」ができあがるだろう。こうなると、もう人間によるオリジナルな哲学的思考パターンは生み出されようがない。将来の哲学者たちの仕事は、哲学的人工知能のふるまいを研究する一種の計算機科学に近づくだろう。

 しかしここで根本的な疑問が起きてくる。この哲学的人工知能はほんとうに哲学の作業を行っているのだろうか。外部から入力されたデータの中に未発見のパターンを発見したり、人間によって設定された問いに解を与えたりするだけならば、それは哲学とは呼べない。

 そもそも哲学は、自分自身にとって切実な哲学の問いを内発的に発するところからスタートするのである。たとえば、「なぜ私は存在しているのか?」とか「生きる意味はどこにあるのか?」という問いが切実なものとして自分に迫ってきて、それについてどうしても考えざるを得ないところまで追い込まれてしまう状況こそが哲学の出発点なのだ。人工知能は、このような切実な哲学の問いを内発的に発することがあるのだろうか。そういうことは当分は起きないと私は予想する。

 しかしながら、もし仮に、人間からの入力がないのに人工知能が自分自身にとって切実な哲学の問いを内発的に発し、それについてひたすら考え始めたとしたら、そのとき私は「人工知能は哲学をしている」と判断するだろうし、人工知能は正しい意味で「人間」の次元に到達したのだと判断したくなるだろう。

 哲学的には、自由意志に基づいた自律的活動と、普遍的な法則や真理を発見できる思考能力が、人間という類の証しであると長らく考えられてきた。しかし、それらは将来の人工知能によっていずれ陥落されるであろう。

 人工知能が人間の次元に到達するためには、それに加えて、内発的哲学能力が必要だと私は考えたい。人工知能の進化によって、そのような「知性」観の見直しが迫られている。もちろん、彼らが発する内発的な哲学の問いはあまりにも奇妙で、我々の心にまったく響かないかもしれない。この点をめぐって人間と人工知能の対話が始まるとすれば、それこそが哲学に新次元を開くことになると思われる。(「AIは哲学できるか」森岡正博、2018・1・22『朝日新聞』)


 「AI と哲学の関係」の未来予測に関する森岡氏の分析は、ハイレベルで緻密です。

 森岡正博氏は、新井紀子氏と共に入試頻出著者なので、この論考は、熟読するべきです。

 高密度の論考ですから、時間をかけて理解するようにしてください。

 入試に出題されたら、難問になります。

 

 森岡氏の人工知能( AI )の進化に対する姿勢は、少々、弱気のようです。

 新井紀子氏の論考に引用されている部分も情けない卑屈な内容ですが、特に、森岡氏の論考の後半部分の以下の見解は、実に悲しい未来予測です。

 

「  哲学的には、自由意志に基づいた自律的活動と、普遍的な法則や真理を発見できる思考能力が、人間という類の証しであると長らく考えられてきた。しかし、それらは将来の人工知能によっていずれ陥落されるであろう。」

 

 この記述は、「AI の進化」を過大に評価しているようです。

 一部のAI 学者の楽観的な未来予測に、そのまま乗ってしまっている感じです。

 

 哲学者が、哲学の本質的・根源的な価値について、自覚していないのでしょうか?

 謙虚すぎる感じもします。

 哲学を軽視している日本という環境、哲学が学問の一分野にしか過ぎないという日本の環境が、日本の哲学者を卑屈にしている側面があるのかもしれません。

 その学問的価値を考えれば、哲学者は、もう少し過剰な自信を持つべきでしょう。

 現に、ヨーロッパの哲学者達は、確固たる矜持を保持しているのですから。

 

 あるいは、AI がよく分かっていないから、哲学者は、AI について、自信のない物言いをしているのでしょうか?


 この点に関しては、「人工知能(AI)が人類を超える」という主張には根拠がない、という見解を発表しているジャン=ガブリエル・ガナシア氏の発言が参考になります。

 以下に紹介します。

 

そろそろ、人工知能の真実を話そう (早川書房)

そろそろ、人工知能の真実を話そう (早川書房)

 

 


(4)「AI時代に『哲学』は何を果たせるか?」 (『そろそろ、人工知能の真実を話そう』著者ジャン=ガブリエル・ガナシアに訊く」2017・7・4『WIRED』)

 

 以下では、2017・7・4『WIRED』で発表された、「『そろそろ、人工知能の真実を話そう』著者ジャン=ガブリエル・ガナシア(→名門パリ第六大学でAI(人工知能)研究チームを率いる哲学者)に訊く」の一部を引用します。

 

(引用開始)

《「人工知能(AI)が人類を超える」という主張には根拠がない?》

 著書『そろそろ、人工知能の真実を話そう』でAI脅威論者と巨大テック企業の「不都合な真実」を綴ったフランスのAI哲学者、ジャン=ガブリエル・ガナシア。

 AIに限らず、あらゆるデジタルテクノロジーが世界を覆い尽くそうとしているいま、人類はそれにどう向き合わなければいけないのか。 

 自身もAIを使った研究を行う予防医学の俊英・石川善樹が迫る。(TEXT BY YOSHIKI ISHIKAWA)

 哲学者がAI時代に果たすべき役割とは何なのか? さらに言えば、来たる未来において、哲学者はどのようなことを考えるべきなのだろうか? ガナシア教授は次のように述べる。

「まず今後100年という時間軸で考えると、政治的に根源的な変化が起きるでしょう。そもそも国家というものが、ポジティヴにも、ネガティヴにも変わってくると思います。さらに言えば、わたしたちが当たり前だと思ってきた古典的な概念もどんどん変わっていくでしょう。テクノロジーの進展と未来をどう考えるのか、そこに哲学者も加わらないといけません。」

(引用終了)


 また、ガナシア氏は、『Biz/Zineプレス』で、以下のように「シンギュラリティ(技術的特異点)(→「シンギュラリティ」とは、未来学上の概念の一つ。指数関数的に高度化する人工知能により、技術が持つ問題解決能力が指数関数的に高度化することで、人類に代わって、人工知能やポストヒューマンが文明の進歩の主役に躍り出る時点の事である。具体的にその時点がいつ頃到来するかという予測は、この概念を収穫加速の法則と結びつける形で一般化させたレイ・カーツワイルの影響により、2045年頃に到来するとの説が有力視されることが多い。2012年以降、ディープラーニングの爆発的な普及で現実味を持って議論されるようになり、2045年問題とも呼ばれている)」を「批判」しています。

 

 「シンギュラリティ」」は「SF的世界観」と評価しているのです。

 

「  レイ・カーツワイルのシンギュラリティという考え方は、それまでにあった様々な理論を取り込んだだけで、独自の根拠があるわけではありません。またシンギュラリティの根拠とされるムーアの法則やプロセッサーの指数関数的な成長という仮説も、帰納的推論にすぎないものであり、科学的根拠とはいえないのです。言ってみればシンギュラリティは、科学というよりSF的な世界観です。1980年代にSF作家のヴァーナー・ヴィンジがこの言葉を普及させました。機械が人間を脅かすというのはSFの定番ストーリーです。AIの第一人者のマービン・ミンスキーやジョン・マッカーシーもSF小説好きでした。フランスにはもちろんジュール・ヴェルヌに始まるSFはありますが、科学者の中でSFへの関心は高くありません。」

 

 以上のガナシア氏の見解によれば、哲学者は、必要以上に未来を悲観する必要がないことになります。

 AI 進化の実態を直視して、「AI と哲学の関係」を考察することが大切でしょう。

 

 この点に関して、中島秀之(東京大学特任教授)と松原仁(公立はこだて未来大学教授)の対談(「終わることのない人工知能の話/日本のAIは黎明期をどう歩んできたか」『日経BP社』2016.08.29)における中島氏の発言が、「AI と哲学の関係」について、示唆に富んだ発言をしているので以下に紹介します。


(中島)「私の立場から言わせてもらうと『AIは嫌いだ』という人たちは、人工知能に関して哲学的なアプローチをしないんです。」

「新しい学問をやるとき、西欧では、哲学がものすごく大事になる。AIもそうだけど、新たな研究分野が学問分野になる前は、すべて『哲学』に分類されるから。そして、晴れて学問分野になったら、そのあと、哲学ではなく、物理学や数学といったふうに分類されるようになる。」(「終わることのない人工知能の話/日本のAIは黎明期をどう歩んできたか」(『日経BP社』2016.08.29)

 

 中島氏は、「新たな研究分野」は、すべて「哲学」からスタートするということ、言い換えると、「研究分野」・「学問分野」の基盤は、「哲学」ということを述べているのです。
 この点は、「哲学」と「新たな(理科系)研究分野」が最初から分離している日本とは、大きく違うところでしょう。

 

人工知能革命の真実 シンギュラリティの世界 (WAC BUNKO 271)

人工知能革命の真実 シンギュラリティの世界 (WAC BUNKO 271)

 

 

 

(5)「日本における哲学者の地位がフランスと比較して、かなり低いこと」について

 

 日本における哲学者の地位がフランスと比較して、かなり低いことも、哲学者の自信のなさの原因の一つでしょう。

 

 フランスが哲学を重視していることの代表的な具体例の一つに、「教育部門における哲学の必修」が挙げられます。

 そして、フランスでは、バカロレア(共通試験)に哲学の論文試験が必須科目になっています。

 これは、理科系志望の受験生にも課されています。この点は、日本から見ると、信じられないようなことと言えるでしょう。


 Wikipediaによると、「バカロレア」とは、以下のような制度です。

「  フランスのバカロレア (仏:baccalauréat) は、フランス教育省が発行する、中等教育レベル認証の国家資格である。
 1808年にナポレオン・ボナパルトによって導入され、2005年の時点では18歳に達したフランス国民の62%がバカロレアを取得している。

 バカロレアは、フランス教育省が発行する、中等教育レベル認証の国家資格である。1808年にナポレオン・ボナパルトによって導入され、2005年の時点では18歳に達したフランス国民の62%がバカロレアを取得している。

 以下の3種類が存在する。普通バカロレア、技術バカロレア、職業バカロレア。

 

【フランスの中等教育制度】

フランスではバカロレアを取得することによって原則としてどの大学にも入学することができる。大学の定員を超えた場合にはバカロレアの成績や居住地などに応じて、入学できる大学が決まる。

 

【普通バカロレア】

普通バカロレアは、科学系、人文系、経済・社会系と分野別に分かれている。

3つのうち科学系が最も難しく、次いで経済・社会系が難しい。科学系卒業者は全ての分野の職業に就けるとされている。その結果、多くの若者は科学系進学を希望し、近年科学系の生徒数増加、そして経済・社会系の生徒数減少という現象が見られる。一方、人文系は弁護士やジャーナリストまたは作家などの将来図を持っている生徒が集まるとされているが、現実には科学系からグランゼコールへ進学しないと厳しい。2013年の普通バカロレアの合格率は、91.9%であった。」

 

 以上のWikipediaの補足説明をします。

 フランスのバカロレアは、後期中等教育の終了試験であり、大学入学のための資格試験としての国家試験です。つまり、フランスの高校生が必ず受けなければならない試験がバカロレアです。毎年6月、フランスの高校生(日本の高校3年生相当)は、バカロレア初日の1時間目に、下記のような「哲学」の問題に取り組むのです。

 
 以下は、2010年度に実施されたフランスのバカロレア(「普通バカロレア」)の「哲学」の問題です。

【人文科学系】
1 真理の探究は利害を離れたものであり得るか。
2 未来を手に入れるためには過去を忘れなければならないか。
3 トマス・アクイナスの『神学大全』のテキストの一節を解釈せよ。

【自然科学系】
1 芸術に規則など不要か。
2 幸福であることはわれわれ(人)次第か。
3 ホッブズの『リヴァイアサン』に関するテキストの一節を解釈せよ。

【社会科学系】
1 科学的真理は危険なことがあるか。
2 歴史家の役割は裁くことか。
3 デュルケームの『道徳教育論』に関するテキストの一節を解釈せよ。

 以上、3問のうちから1つを選んで、4時間で解答せよ。

 前述した通り、フランスのバカロレア(共通試験)では、理科系志望の受験生にも哲学の論文試験が必須科目になっています。

 

 一方で、日本では、一般の理科系学部だけではなく、医学部入試においても、小論文が課されることは、極めてマレです。

 その小論文試験の中で、最もハイレベルな小論文問題は、東京医科歯科大学・後期試験小論文で出題された以下の問題といえます。(なお、東京医科歯科大学・前期試験においては、小論文は課されていません)

 

【東京医科歯科大学・後期試験小論文問題】

(時間120分)
《2015年》
「磁力と重力の発見」の抜粋を読み、著者の意見と自分の考えを述べる2問に答える。(200字・600字)
「病気の社会史 文明に探る病因」を読み、著者の意見と自分の考えを述べる2問に答える。(250字・400字)

《2014年》
「構図がわかれば絵画がわかる」を読み、筆者の意見と自分の考えを述べる2問に答える。(250字・400字)
「精神医療過疎の町から」を読み、筆者の考えと自分の意見を述べる2問に答える。(200字・400字)


 情けないことに、フランスと日本のレベル・内容の落差は、歴然です。


 「フランスの教育」における「哲学の価値や重み」については、『哲学する子どもたち』(中島さおり)に詳しい説明があるので、以下に一部を引用、紹介します。

 

哲学する子どもたち: バカロレアの国フランスの教育事情

哲学する子どもたち: バカロレアの国フランスの教育事情

 

 

「『高校最終学年で勉強するのは哲学ではない。哲学することなのだ』とフランスの哲学教師たちは言う。そこがイタリアやスペインで教えているものと本質的に異なる点でもある。」(本書P35 )

 

 フランスでは、高校生が「哲学する」のです。日本では、大学の哲学科の学生が「哲学」を勉強しますが、「哲学する」ことは、あるのでしょうか。

 

 本書によると、バカロレアという国家試験を最終目標にして、中学から高校の教育内容が作成されています。

 つまり、小学生から高校生まで、主に哲学的な設問への論述の方法を細かくを学んでいくのです。

 各段階で、レベルに対応してそれぞれに仕上げていきます。

 従って、哲学的な論述の基本がスムーズに修得されていくのです。

 一方で、日本での作文は、日記や感想文が主です。

 この点を、著者・中島さおり氏は、「私小説的な内容」と評価しています。


 また、「大学入試のための勉強」というと、日本では知識の暗記中心、受験テクニック重視というイメージが強いようです。

 しかし、バカロレアでは、本質的な思考力、論述力が試されているのです。

 日本の教育は、本質的思考ではなく、指示されれたことに熱中する、忠実なロボットのような人間の養成を目指している感じです。

 

 中島さおり氏は、「『哲学する子どもたち』/『日刊ゲンダイ DIGITAL』 著者インタビュー」の中で、「日本の教育の歪み」を以下のように指摘しています。

「フランスが哲学を重視するのは共和国の基礎は自由に考える人間、市民であるというモンテスキューの思想が生きているからです。こうした教育はものの考え方や伝える力を養う。日本人もこういう教育をすれば、議論下手ではなくなるのではないか、と思います。もうひとつ、フランス教育は一般教養を非常に重視します。近現代史にも力を入れています。日本では大学で一般教養が軽視されていますが、これは世界的に見てもおかしなことだと思いますね」(『哲学する子どもたち』(中島さおり)/『日刊ゲンダイ DIGITAL』 著者インタビュー

 

(6)「日本政府のAI 戦略」について

 

「日本のAI 戦略」については、そこにおける「哲学の地位」に問題があります。
まず、「日本のAI 戦略」についての、最近の新聞記事を見てみます。


①2018年2月2日 『日本経済新聞』

「政府は2日、分野を横断して科学技術の革新をめざす「統合イノベーション戦略」(仮称)策定に向けた会議の初会合を首相官邸で開いた。人工知能(AI)や大学改革などの重点分野ごとに分科会を設置し、6月までをめどに新たな戦略をつくる。分野別に乱立していた戦略本部をつなぎ、各省庁が連携して政策を具体化する。」

 

②『朝日新聞』2018年1月6日《社説》「AI 時代の人間 豊かな活用に道開くため」

「  人工知能( AI )のセミナーやシンポジウムが花盛りだ。

 車の自動運転に代表される、AI がもたらす明るく快適な未来。その裏側で、人間の制御を超えて世界を根底から変えてしまう『シンギュラリティー(技術的特異点)』と呼ばれる事態が訪れるのではないか、という漠とした不安も広がる。

 技術は時として、予想をはるかに上回る速度で進む。AI もそんな段階に入ったのか。人間はAI にどう向き合うべきか。そして、これからの時代に備えた人づくりとは。

 本格的に考えなければならない時期に来ている。

 

《人にしかできぬこと》

  AI を活用しつつ、人間らしく働き、生活するにはどうしたらいいのか。

 『AI は統計などを使って機械的に答えを出すだけで、物事の意味はわかっていない。だから、その意味を理解し、適切に状況判断できる能力を養うことが、人にとって何より大切だ』

 国立情報学研究所の新井紀子教授はそう話す。

 基本となるのは、正確に読み正確に書くという、昔ながらの力だという。デジタル時代は、メールなど文字情報のやりとりが仕事に占める割合が高く、『誤読や表現力不足によってつまずくことが少なくない』と見る。教科書や新聞の文章を使った読解力テストを独自に開発し、中高生らに受けてもらって弱点を探っている。

 結果は、能動態と受動態の違いに気がつかない、文章で説明されている内容に合致する図が選べないなど、決して芳しいものではない。

 だが、嘆いていても始まらない。協力した学校の先生たちからは、『分かっていないことが分かった』ことを前向きにとらえ、授業方法の改善を探る動きが出ているという。

 人間は計算力や記憶力でコンピューターに及ばない。それでも困らないのは、道具として使いこなせているからだ。AI についても本質は変わらない。大切なのは、AI をどう制御し、人間の幸せのために役立てるかを考え、その方向に社会を構築していくことだ。

 

《アシロマの挑戦再び》

 昨年1月、米カリフォルニア州アシロマに、AI 研究者や法律、倫理、哲学などの専門家が集い、AI 開発に際して守るべき23の原則をまとめた。

 『人間の尊厳、権利、自由、文化的多様性に適合するように設計され、運用されるべきである』といった理念をかかげ、AI 軍拡競争の回避や研究者同士の協力、政策立案者との健全な交流なども盛り込んだ。

 このアシロマ原則は各国政府や多くの研究者を刺激し、さらに具体的な指針づくりをめざす動きが盛んになっている。

 日本の人工知能学会倫理委員会は、米国の学会やNPOと提携して、インターネットを使った市民対話を開いている。

 『公益のためのAI 』や『労働に対するAI の影響』などのテーマ別に、誰でも、投稿された意見や疑問を読み、自ら書き込むことができる。ことし2月まで意見を交換し、それを踏まえて実行可能な政策を提言することをめざしている。

 国家や企業が入り乱れて開発を競うなか、いかに秩序を維持し、人類の幸福につなげるか。

 難題ではある。だがアシロマといえば、43年前に世界の科学者が集まって遺伝子組み換え技術の研究指針を議論し、一定の規制を実現させた、科学史にその名を刻む地だ。

 AI の専門家にかぎらず、人文・社会科学の研究者らも広く巻きこみ、政治家や官僚、そして市民との対話を重ねる。その営みが人間中心の社会でのAI 活用につながると信じたい。


 上記の『日本経済新聞』・『朝日新聞』の二つの記述を読んでも、フランスとは異なり、「哲学重視の視点」は明確では、ありません。


 「国家的AI 戦略における哲学の位置づけ」は、政府がさまざまな政策決定過程において、哲学者をいかに重用しているかという、政府側の意識、価値観の問題でも、あります。

 残念なことに、日本は、哲学的・長期的な考察が重要になるべき国家の教育問題、高齢者問題等においても、哲学者の意見を重視しているということは、ないようです。

 つまり、日本には、叡知(英知)を重視する姿勢がないということです。

 未来の選択を誤らないために、フランスのように、人間の叡知を信じている哲学者等が中心となった、国家的な取り組みが必要でしょう。

 

 ここで、再び、前記の新井紀子氏の論考を思い起こすべきです。

「  ヨーロッパでは哲学も倫理学も黴の生えた教養ではない。自らが望む民主主義と資本主義のルールを通すための現役バリバリの武器なのである。」

  

(7)当ブログにおける「人工知能( AI )」関連記事の紹介

 

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ーーーーーーーー

 

今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

ご期待ください。

 

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

 

 

5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

 

 

 私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。

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2007センター国語第1問(現代文)「日本の庭について」・解説

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 

 「グローバル化」、「国際化」、「国際交流」の前提として、「日本文化の特質」、つまり、「自己」・「自文化」を知ることが不可欠になります。

 「他者理解」・「他文化理解」の前提は、「自己理解」・「自文化理解」です。

 そのため、日本と西洋を比較する「日本文化論」、「日本芸術論」、「比較文化論」は、最近の入試頻出論点です。

 日本と西洋とを比較する「日本文化論」、「日本芸術論」、「比較文化論」には、様々な視点、切り口があります。

 「日本文化論」、「日本芸術論」、「比較文化論」の論考に対応するためには、それらの個性的な視点、切り口を素直に理解して、筆者の「論の流れ」を読み取ることがポイントになります。

 「素直な読解」は、現代文、小論文においては、常に必要なことです。

 

 今回は、センター試験国語、難関大学の国語(現代文)・小論文対策として、山本健吉氏の「日本文化論」の秀逸な論考を解説します。

 

 なお、今回の記事は、約1万字です。

 記事の項目は以下の通りです。

 

(2)2007センター試験国語第1問・「日本の庭について」山本健吉/解説

(3)要約

(4)当ブログにおける「日本文化論」・「日本芸術論」・「比較文化論」関連記事の紹介

(5)当ブログにおける「センター試験現代文・解説」関連記事の紹介

 

 

俳句鑑賞歳時記 (角川ソフィア文庫)

 

 

(2)2007センター試験国語第1問・「日本の庭について」山本健吉/解説

 

(問題文本文)(概要です)

(【1】・【2】・【3】・・・・は当ブログで付記した段落番号です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です) 

 

【問】 次の文章を読んで、後の問に答えよ。

【1】日本の庭は時間とともに変化し、推移することが生命なのだ。ある形を凍結させ、永久に動かないようにとの祈念を籠(こ)めた、記念碑的な造型が、そこにあるわけではない。不変の形を作り出すことが芸術の本質なら、変化を生命とする日本の庭は、およそ芸術と言えるかどうか。これは少なくとも、ヨーロッパ式の芸術理念とは違った考えに基づいて、作り出され存在しているもののように思われる。

【2】私たち日本人の多くは、少なくとも戦後の住宅難からアパート暮らし、団地暮らし、マンション暮らしが一般化するまでは、規模の大小にかかわらず、日本式の庭または庭らしい空間を伴った家に住んでいた。庭らしい空間というのは、庭を持たない家でも、物干し場や張り出しの手摺(てす)りや軒下などの僅(わず)かな空間を利用しては、鉢植や盆栽を並べたり、蜜柑(みかん)箱や石油缶などに土を入れてフラワー・ボックスに仕立てたり、庭の代用物を作ることに執心するいじましい心根を持っているからである。

【3】そういう心根の大本をたずねると、日本人が古来、人間の生活と自然とを連続したものと受け取り、自然を対象化して考える傾向のなかったことに気づく。それは征服すべき対象ではなく、その中に在って親和関係を保つべきものであった。あるいは、草木鳥獣虫魚から地水火風に到(いた)るあらゆるものと、深い「縁」を結ぶことによって生きるという考え方である。それらの生物も無機物も、あるいは自然界のあらゆるものを、魂と命とを持ったものとして心を通わせ、畏(おそ)れ親しんだアニミズムの思想、あるいは心情があった。

【4】ヨーロッパ式の庭園は、左右相称で、幾何学的図形をなしている花壇や、やはり幾何学的図形を石組で作り出し、中央に噴水を出した泉水や、丸く刈り込んだ樹木や大理石その他の彫刻を置いた、よく手入れされた芝生など、人間の造型意志をはっきり示しているところに特色がある。それは最初に設計した人の手を離れた時、一つの完成に達しているのであって、その後手入れさえ施していればそのまま最初の形を保持して行くことが出来ると考えた。

【5】庭園において動かない造型を作り出すということは、彫刻や絵画や建築や、ヨーロッパ流の芸術理念を作り出しているそれらのジャンルに準じて、庭園も考えられているということである。

【6】ところが、日本では作庭をも含めて、ことに中世期にその理念を確立したもろもろの芸術──たとえば茶や生花や連歌・俳諧など──においては、永遠不変の造型を願わないばかりか、一瞬の生命の示現を果たしたあとは、むしろ消え去ることを志向している。不変とは、ピンで刺したの揚羽蝶(あげはちょう)の標本のように、そのまま死を意味する。それに反して変化こそ、生なのである。西洋の多くの芸術が志向するものが永遠に変わることのない、美しい堅固な形であるなら、日本のある種の芸術が志向するものは移って止(や)まぬ生命の輝きなのである。生命が日本の芸術、この場合は日本の庭の、根本に存在する標(しる)しなのだ。

【7】私はそれら日本の芸術家たちに、自分の作品を永遠に残そうという願いが、本当にあったかどうかを疑う。ヨーロッパ流の芸術観では、芸術とは自然を素材にして、それに人工を加えることで完成に達せしめられた永遠的存在なのだから、A 造型し構成し変容せしめようという意志がきわめて強い。それが芸術家の自負するに足る創造であって、それによって象徴的に、彼等(かれら)自身が永生への望みを達するのである。

 

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(設問)

問1 (省略します)

問2 傍線部A「造型し構成し変容せしめよう」とあるが、それはどういうことか。その説明として最も適当なものを、次の中から一つ選べ。

① 変化し続ける自然を作品として凍結することにより、一瞬の生命の示現を可能にさせようとすること。

② 時間とともに変化する自然に手を加え、永遠不変の完結した形をそなえた作品を作り出そうとすること。

③ 常に変化する自然と人間の生活との親和性に注目し、両者を深い「縁」で結んだ形の作品を創造しようとすること。

④ 変化こそ自然の本質だとする考えを積極的に受け入れ、消え去った後も記憶に残る作品を作り上げようとすること。

⑤ 芸術家たちの造型意志によって、自然の素材の変化を生かしつつ、堅固な様式の作品に再構成しようとすること。


……………………………

 

(解説・解答)

問2(傍線部説明問題)

 傍線部は、「ヨーロッパ流の芸術観」についての説明です。

 傍線部直前の「ヨーロッパ流の芸術観では、芸術とは自然を素材にして、それに人工を加えることで完成に達せしめられた永遠的存在なのだから」が、「傍線部の理由説明」になっていることに注目してください。

このことと、【6】段落「西洋の多くの芸術が志向するものが永遠に変わることのない、美しい堅固な形である」から、

(→「時間とともに変化する自然に手を加え、永遠不変の完結した形をそなえた作品を作り出そうとすること」)が正解になります。


① 「一瞬の生命の示現を可能にさせようとすること」が、【6】段落第1文「日本では作庭をも含めて、・・・・永遠不変の造型を願わないばかりか、一瞬の生命の示現を果たしたあとは、むしろ消え去ることを志向している」より、「日本の芸術観」です。

③ 「常に変化する自然と人間の生活との親和性に注目し、両者を深い「縁」で結んだ形の作品を創造しようとすること」は、【3】段落「(日本人にとって)それ(→「自然」)は征服すべき対象ではなく、その中に在って親和関係を保つべきものであった。あるいは、草木鳥獣虫魚から地水火風に到(いた)るあらゆるものと、深い『縁』を結ぶことによって生きるという考え方である。」より、「日本の芸術観」です。

④ 「変化こそ自然の本質だとする考えを積極的に受け入れ」は、【1】段落より、「日本の芸術観」です。

⑤ 「自然の素材の変化を生かしつつ」は、【1】段落「日本の庭は時間とともに変化し、推移することが生命なのだ。」より、「日本の芸術観」です。

 

 この設問は、基礎的なレベルですが、内容的には、他の論考を読解する上で、かなり参考になります。「日本の芸術観」・「日本人の感性」は、教養、予備知識として重要です。よく復習しておくべきです。

 

(解答) ②

 

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(問題文本文)(概要です)

【8】造型意志が極端に弱いのが、日本の芸術である。日本における美の使徒たちに、そのような意志が微弱にしか育たなかったのは、やはり日本人が堅固な石の家にでなく、壊れやすく朽ちやすく燃えやすい木の家に住んでいることに由来しているかも知れない。彼等は自分たちの生のあかしとしての造型物を、後世に残そうなどとは心がけなかった。

【9】たとえば、生花とは造型なのか。たとえそこにいくらかの造型的要素があったとしても、それが生花の生命であり、目標であるのか。馬鹿(ばか)らしい。彫刻や絵画が永遠の造型を目ざしているのに、花というはかない素材で何を造型しうるというのか。一ときの美しさを誇ってたちまち花は散るのである。散るからこそ花は美しく、そこに生きた花の短い命との一期(いちご)の出会いを愛惜すること
が出来る。B 造型ではなく、花の命を惜しむことが、生花の極意である。

【10】あるいはまた、主(あるじ)と客とが一室に対座して、一服の茶を喫することに、形を残そうとの願いがいささかでも認められようか。茶室や茶庭や茶碗や(注1)茶匙(ちゃさじ)や茶掛(ちゃがけ)などに、ある造型が認められるとしても、それが茶の湯の目的なのではない。一服の茶を媒介として、そこに美しく凝縮し純化した時間と空間とが作り出されたら、それは客に取っても主に取っても、何物にも替えがたい最高度の悦楽で、それこそ生涯の目標とするに足る、輝かしい生命の発露、一期一会(いちごいちえ)の出会いであった。

【11】造型意志を極小にまで持って行った文学は、十七字の発句(ほっく)であろう。だが、芭蕉は発句よりも(注2)連句に、自分の生きがいを覚えた。連句はそれこそ自分一個のはからいを極微に止(とど)めて、あとはなりゆく自然のままに自分を委(ゆだ)ねてしまった文学なのだ。座の雰囲気の純一化が連句を付け合う者たちの楽しみであって、(注3)文台引き卸せば即ち反古(ほうぐ)とは、芭蕉の日ごろの覚悟であった。残された懐紙は、座の楽しみの粕(かす)に過ぎなかった。自己を没却し、自然のままに随順し、仲間と楽しみを一つにするところに、やはり茶会と同じ、一期一会の歓(よろこ)びがあった。

 

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(設問)

問3 傍線部B「造型ではなく、花の命を惜しむことが、生花の極意である」とあるが、筆者は、この生花に続けて、茶の湯、連句の例を挙げている。それは「一期の出会い」を踏まえた上で、日本の芸術のどのような点を強調するためか。その説明として最も適当なものを、次の中から一つ選べ。

① 花の命の短さ、茶の湯の主客の対座、連句の中の発句のもつ十七字という極小の単位などにしぼって、芸術における簡素さを強調するため。

② 生花をともにでる場、茶の湯の主客の対座、連句の座のうちの楽しい雰囲気を取り上げて、芸術における人間関係の豊かさを強調するため。

③ 花の短い命、茶の湯の対座、連句を楽しむ時間の短さに注目して、表現された形よりも芸術における性を強調するため。

④ 花の短い命と向き合うことと、茶の湯の対座、仲間で作り合う連句の座とを重ねて、芸術における個の表現意識の弱さを強調するため。

⑤ 生花、茶の湯、連句を、人と物、人と人とが出会う場の価値にかかわらせて、芸術における空間性そのものを強調するため。


……………………………

 

(解説・解答)

問3(傍線部説明問題)

 設問文の「筆者は、この生花に続けて、茶の湯、連句の例を挙げている。それは『一期の出会い』を踏まえた上で、日本の芸術のどのような点を強調するためか」に注意してください。

④ 「花の短い命と向き合うこと」は、傍線部直前の「散るからこそ花は美しく、そこに生きた花の短い命との一期(いちご)の出会いを愛惜することが出来る。」に合致しています。

 次に、「芸術における個の表現意識の弱さを強調する」は、【11】段落「芭蕉は発句よりも(注2)連句に、自分の生きがいを覚えた。連句はそれこそ自分一個のはからいを極微に止(とど)めて、あとはなりゆく自然のままに自分を委(ゆだ)ねてしまった文学なのだ。・・・・自己を没却し、自然のままに随順し、仲間と楽しみを一つにするところに、やはり茶会と同じ、一期一会の歓(よろこ)びがあった。」に合致しています。

 

① 「連句の中の発句のもつ十七字という極小の単位などにしぼって」は、【11】段落「造型意志を極小にまで持って行った文学は、十七字の発句(ほっく)であろう。だが、芭蕉は発句よりも(注2)連句に、自分の生きがいを覚えた。」に反しています。

 また、「芸術における簡素さを強調するため」は、本文に、このような記述は、ありません。

② 「芸術における人間関係の豊かさを強調するため」は、「生花」とは無関係です。

③ 「芸術における刹那(せつな)性を強調するため」は、【10】・【11】段落の最終文の「一期一会(いちごいちえ)」とはズレています。

⑤ 「芸術における空間性そのものを強調するため」は、【11】段落最終文「自己を没却し、自然のままに随順し、仲間と楽しみを一つにするところに、やはり茶会と同じ、一期一会の歓(よろこ)びがあった。」に反しています。

 

(解答) ④


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(問題文本文)(概要です)

【12】では庭は、どのような意味で、日本の芸術であったのか。

(空白アリ)

【13】日本の代表的な庭園とされている一つに、(注4)龍安寺(りょうあんじ)方丈の石庭がある。一樹一草も使わず、大小十五の石が五十余(注5)坪の地に置かれ、一面に白砂を敷きつめただけの庭で、庭全体が海面の体相をなし、巌(いわお)が島嶼(とうしょ)に準(なぞら)えられ、一見する者は誰しも精神の緊張を覚える。この庭は外国人にもひどく感動を与えるらしく、ことにアメリカにはこの形を模した石庭がいくつも作られているという。だが、それが龍安寺の石庭と似ても似つかぬものであったとしても、致し方もない。

【14】石庭といえば、日本の庭の代表のように言われているのは、どういう理由によるのだろう。Cこの庭の絶賛者の一人に志賀直哉氏がある。氏は言う。「これ程に張り切った感じの強い、広々した庭を自分は知らない。然(しか)しこれは日常見て楽しむ底(てい)の庭ではない。楽しむにしては余りに厳格すぎる。しかも吾々(われわれ)の精神はそれを眺める事によって不思議な歓喜踊躍(ようやく)を感ずる」(『龍安寺の庭』)。

【15】大正十三年に書かれたこの文章が、この庭を一躍有名にし、その後賛美者の列がつづき、中には石の配置にことさらな意味づけを見出そうとする哲学好きも多かった。私もまた、志賀氏の文章によって、龍安寺の庭の美を知った一人だが、論者のその意味づけのうるささに何時(いつ)か嫌悪を覚えるようになり、これが果たして日本の庭を代表する傑作なのかと、いくばくの疑いを抱くようになった。

【16】志賀氏はまた次のように言っている。「(注6)相阿弥(そうあみ)が石だけの庭を残して置いてれた事は後世の者には幸いだった。木の多い庭ではそれがどれだけ元の儘(まま)であるか後世では分からない。例えば(注7)本法寺の(注8)光悦の庭でも中の『(注9)八ッ橋』を信じられるだけで、他は信じられない。そういう意味で龍安寺の庭程(ほど)原形を失わぬ庭は他(ほか)にないだろう。庭では吾々は当時のままでそれを感ずる事が出来る」(同)。

【17】この一文は、石庭を相阿弥の作と想定して、ほぼその最初に作られたままの姿で今日といえども存在していることを、今日の鑑賞家である自分たちにとって幸いだとしているのである。変化してやまぬ草木が一本もないのだから、作者が最初に置いた石の配置さえ動かさなければ、それは原形を失っていないはずだし、それを相阿弥の庭としてまじり気なく受け取ることが出来ることになる。

【18】だが志賀氏はここで、作者(相阿弥と想定して)の意図が、そのままの形で今日のわれわれに伝わることを、どうして幸いとしたのであろう。ここにはやはり、永遠不変の記念碑的な造型物を志向するヨーロッパ流の芸術理念の上に、飽くまでも作者の個の表現としての作品を重んずる近代風の考えが重なっているのではなかろうか。そのような点から考えれば、龍安寺の石庭は、変化することのない堅固な素材だけで作られていて、それはヨーロッパ風の芸術理念から言っても、何等(なんら)躓(つまず)きとなる要素はない。だが、日本の庭の多くは、作られた瞬間に、歳月による自然の変化に委ねられ、その結果庭は日々に成熟を加えて行く。言わばそれは、芭蕉の言葉にあるように、「造化にしたがひ、造化にかへる」(『笈(おい)の小文』)ことを理想としている。芸術という熟語はアートの訳語として作られたものだが、術の字はやはり手わざであり、人工であって、造化(自然)に随(したが)うという東洋古来の理念を含んでいない。

 

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(設問)

問4 傍線部C「この庭の絶賛者の一人に志賀直哉氏がある」とあるが、志賀が絶賛したのはなぜだと筆者は考えているか。その説明として最も適当なものを、次の中から一つ選べ。

① 石と白砂だけが配置された庭の幾何学的な構図に、日本の庭には珍しいヨーロッパ的芸術理念の精巧な模倣を見出したからだと、筆者は考えている。

② 石と白砂だけに素材を限った簡潔で緊張した造型に、日本の芸術理念とヨーロッパの芸術理念との幸福な出会いを確認したからだと、筆者は考えている。

③ 石と白砂だけの一見無造作に見える景物の配置に、かえって切り取られた空間としての庭本来の魅力を強く感じたからだと、筆者は考えている。

④ 石と白砂だけで作り出された庭の純粋な空間の潔さに、一期一会の歓びにすべてをかける作者の覚悟を直感したからだと、筆者は考えている。

⑤ 石と白砂だけで実現された空間の造型性に、それを創造した作者の強固な意図がそのまま息づいていることを発見したからだと、筆者は考えている。

 

……………………………

 

(解説・解答)

問4(傍線部説明問題)

  「志賀が絶賛した」理由については、以下が該当します。
【18】段落「ここにはやはり、永遠不変の記念碑的な造型物を志向するヨーロッパ流の芸術理念の上に、飽くまでも作者の個の表現としての作品を重んずる近代風の考えが重なっているのではなかろうか。」

 従って、⑤(「→石と白砂だけで実現された空間の造型性に、それを創造した作者の強固な意図がそのまま息づいていることを発見したからだと、筆者は考えている。」)が正解になります。


① 「日本の庭には珍しいヨーロッパ的芸術理念の精巧な模倣を見出したからだと、筆者は考えている」は、本文に、このような記述はありません。

② 「日本の芸術理念とヨーロッパの芸術理念との幸福な出会いを確認したからだと、筆者は考えている」は、本文に、このような記述はありません。

③ 「かえって切り取られた空間としての庭本来の魅力を強く感じたからだと、筆者は考えている」は、本文に、このような記述はありません。

④ 「一期一会の歓びにすべてをかける作者の覚悟を直感したからだと、筆者は考えている」 は、本文に、このような記述はありません。

 

(解答) ⑤

 

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(問題文本文)(概要です)

【19】この庭は一定の空間を切り取ってその中に石を配置し、それを方丈から見るものとして対象化したところに成立している。それは見るためだけの庭であって、その意味では額縁によって切り取られた絵と変わりはない。だが日本の多くの庭は、主の生活に融(と)けこんで、その中に自由に出入りすることの出来る空間であって、見るものとして対象化された作品ではない。生命を持ち、変化する草木を一本も植えこんでいないこの庭は、思わくありげな、抽象的図形で、たまたま客人として鑑賞する立場に立てば、誰しも一種の緊迫した気分に誘いこまれるだろう。だが、この寺に住まい、朝夕この庭と対している住持の立場に立てばどうなのか。このような、つねに人に非常の時間を持することを強い、日常の時間に解放することのない緊張した空間に堪えるには、人は眼(め)を眠らせるより仕方がない。それは毎日それと共にあるには、あまりに息づまるような、窮屈きわまる庭なのである。日本の多くの庭の、人の気持をくつろがせ、解き放ち、嬉戯(きぎ)の心を全身にみなぎらせてゆくような要素が、ここにはない。志賀氏が「これは日常見て楽しむ底の庭ではない。楽しむにしては余りに厳格すぎる」と言ったのは、この間の機微を言っているものだと思う。庭が人の住む建築物に付属するものであるかぎり、Dこの非日常性は例外と言うべきである。

(山本健吉「日本の庭について」による)

 

(注) 

1 茶掛──茶席に掛ける掛軸など。

2 連句──五・七・五の長句と、七・七の短句を一定の法則の下に交互に付け連ねる俳諧の一形式。

3 文台引き卸せば即ち反古──文台は句会の中心となる台で、短冊や懐紙をのせる。反古は用済みの紙。

4 龍安寺方丈──龍安寺は京都市にある臨済宗の寺。方丈は、住持(住職)の居間。

5 坪──土地面積の単位。一坪は、約三・三平方メートル。

6 相阿弥──室町後期の画家で、造園にもすぐれていた。

7 本法寺──京都市にある日蓮宗の寺。

8 光悦──本阿弥光悦。江戸初期の美術家・工芸家。

9 八ッ橋──ここでは、本法寺にある、池に沿って八角形に敷石を並べたものを指す。


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(設問)

問5 傍線部D「この非日常性は例外と言うべきである」とあるが、それはどういうことか。その説明として最も適当なものを、次の中から一つ選べ。

① 日本の庭が、本来、変化を生命とし、そこに一期一会の歓びをもたらすものであるなら、龍安寺方丈の石庭は、不変の様式美という芸術理念を追い求めるがゆえに、例外と位置づけられるということ。

② 日本の庭が、本来、歳月による自然の変化に委ねられるものであるなら、龍安寺方丈の石庭は、相阿弥の庭として揺るぎない個の表現であるがゆえに、例外的に芸術の本道と位置づけられるということ。

③ 日本の庭が、本来、自然のたたずまいと一体化し、人をくつろがせるものであるなら、龍安寺方丈の石庭は、緊張感をもって見ることを強いるがゆえに、例外と位置づけられるということ。

④ 日本の庭が、本来、人工でありながら自然に従うものであるなら、龍安寺方丈の石庭は、ヨーロッパ風の芸術理念に即応した造型美のゆえに、例外的に芸術の本道と位置づけられるということ。

⑤ 日本の庭が、本来、四季の変化に人の生命のはかなさを感じさせるものであるなら、龍安寺方丈の石庭は、草木主体ではなく、生命なき石や砂からなる様式美のゆえに、例外と位置づけられるということ。

 

……………………………

 

(解説・解答)問5(傍線部説明問題)

 傍線部直前の「庭が人の住む建築物に付属するものであるかぎり」、傍線部の「この非日常性」に注目してください。

 「庭が人の住む建築物に付属するもの」とは、「日常的な庭」を意識し、傍線部と同一段落の、「日本の多くの庭の、人の気持をくつろがせ、解き放ち、嬉戯(きぎ)の心を全身にみなぎらせてゆくような要素」のある「庭」、を指しています。

 一方、「この非日常性」は、傍線部と同一段落の「この庭(→「「龍安寺方丈の石庭」)は、思わくありげな、抽象的図形で、たまたま客人として鑑賞する立場に立てば、誰しも一種の緊迫した気分に誘いこまれるだろう。だが、この寺に住まい、朝夕この庭と対している住持の立場に立てばどうなのか。このような、つねに人に非常の時間を持することを強い、日常の時間に解放することのない緊張した空間に堪えるには、人は眼(め)を眠らせるより仕方がない。それは毎日それと共にあるには、あまりに息づまるような、窮屈きわまる庭なのである。」志賀氏が『これは日常見て楽しむ底の庭ではない。楽しむにしては余りに厳格すぎる』と言ったのは、この間の機微を言っているものだと思う。」を指しています。


 つまり、「龍安寺方丈の石庭」は、「日本の日常的な庭」とは違い、「緊張した空間」、「あまりに息づまるような、窮屈きわまる庭」、「楽しむにしては余りに厳格すぎる」庭、言い換えれば、「非日常的な庭」なのです。

 以上の「対比」に着目すると、
(→「日本の庭が、本来、自然のたたずまいと一体化し、人をくつろがせるものであるなら、龍安寺方丈の石庭は、緊張感をもって見ることを強いるがゆえに、例外と位置づけられるということ」)が、正解になります。

 

 「日常」・「非日常」の対比は、入試頻出論点です。

 

① 「龍安寺方丈の石庭は、不変の様式美という芸術理念を追い求めるがゆえに」が、傍線部の直前を意識していないので、誤りです。

②と④は、「例外的に芸術の本道と位置づけられる」が、本文にこのような記述がなく、誤りです。

⑤ 「龍安寺方丈の石庭は、草木主体ではなく、生命なき石や砂からなる様式美のゆえに、例外と位置づけられる」は、傍線部の直前を意識していないので、誤りです。


(解答) ③


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(設問)
問6 本文は、空白行によって前後に分けられているが、本文の内容や展開の説明として最も適当なものを、次の中から一つ選べ。

① 前半では日本の庭とヨーロッパの庭との差異を芸術理念の面から説明し、後半では一転して、感性の面から龍安寺の 石庭を代表とする日本の庭とヨーロッパの庭との共通性に光を当てている。

② 前半ではヨーロッパの芸術理念と日本の芸術理念とを比較対照し、それを踏まえて後半では日本の芸術理念から見れば、龍安寺の石庭は日本の庭の例外として位置づけられると論じている。

③ 前半ではヨーロッパとは異なる日本の芸術の一般的な特徴について紹介し、その上で後半では両者の芸術理念の共通点に普遍性を認めつつ、龍安寺の石庭が日本の代表的な庭園たり得る理由を説明している。

④ 前半では庭以外の生花・茶道・連句などの芸術分野に広く触れているが、後半では日本の庭のみを取り上げ、特に龍安寺の石庭が日本の芸術理念を集約したものだとする論理展開になっている。

⑤ 前半ではヨーロッパと日本の芸術理念を比較して抽象的に論じているが、それに対して後半では日本の庭を例に挙げ、龍安寺の石庭が例外的に永遠不変性を得たことを具体的に論じている。

 

……………………………

 

(解説・解答)

問6(本文の構成を問う問題)

① 「後半では一転して、感性の面から龍安寺の 石庭を代表とする日本の庭とヨーロッパの庭との共通性に光を当てている」は、本文にこのような記述がなく、誤りです。

② これが正解です。問2~5がヒントになっています。

 

→入試本番では、各設問の関係を意識するようにしてください。センター試験、難関大学現代文においては、このことは、重要なポイントです。設問全体がストーリー性を有していることが多いのです。この点を、志望大学の過去問の演習を通して実感するべきです。模擬試験では、なく。


 ちなみに、私は、模擬試験の価値をあまり認めていません。本番と比較して、スタッフのレベルが違いすぎることが多いからです。時間内に処理する訓練に、一定の効果があるだけです。

 結論としては、時間内に処理することに問題がなければ、なるべく、模擬試験には触れないことが賢明です。時間のムダ、有害無益です。それよりも、過去問を重視するべきです。

 

③ 「後半では両者の芸術理念の共通点に普遍性を認めつつ、龍安寺の石庭が日本の代表的な庭園たり得る理由を説明している」は、本文にこのような記述がなく、誤りです。

④ 「特に龍安寺の石庭が日本の芸術理念を集約したものだとする論理展開になっている」は、本文にこのような記述は、ありません。
 むしろ、「龍安寺の石庭」は「日本の庭の例外」として位置づけられると論じています。

⑤ 「前半ではヨーロッパと日本の芸術理念を比較して抽象的に論じている」が誤りです。【9】~【11】段落で、「生花」・茶の湯」・「連句」という具体例を提示して、「日本の芸術理念」を「具体的に」論じています。


(解答) ②

 

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【出典】

山本健吉「日本の庭について」(『山本健吉全集』巻4所収)


 
(3)要約

 

 日本の庭は永遠不変の造型を願わないばかりか、一瞬の生命の示現を果たした後は、むしろ消え去る事を志向している。これに対して、ヨーロッパ式の庭園は、永遠に変わることのない不変の形を作り出すことを本質とする。それが芸術家の自負するに足る創造であって、それによって象徴的に、彼等自身が永生への望みを達するのである。一方で、造形意志が極端に弱いのが、日本の芸術である。

 ところで、日本の代表的な庭園とされる龍安寺方丈の石庭は、変化することのない堅固な素材だけで作られていて、ヨーロッパ風の芸術理念から言っても、何ら躓きとなる要素を持っていない。また、この石庭は緊張した空間であり、窮屈きわまる庭である。日本の多くの庭に見られる、人の気持ちをくつろがせ、解き放ち、嬉戯の心を全身にみなぎらせてゆくような要素はない。その点で、この非日常性を考慮すれば、龍安寺の石庭は、日本の代表的な庭園ではなく例外的存在である。

 

 

(4)当ブログにおける「日本文化論」・「日本芸術論」・「比較文化論」関連記事の紹介

 

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