予想問題/『困難な成熟』「責任を取ることの意味」内田樹/倫理
(1)はじめに/なぜ、この記事を書くのか?
現代の世界、アメリカ、日本社会においては、「責任」・「倫理」をめぐる議論は、やむことを知りません。
現代文明は、崩壊の危機に直面しているのでしょうか。
「政治」、「行政」、「経済」、「社会」等の様々な分野に、酷い脱法行為、モラルハザード、無責任が蔓延している今、「責任」概念の沿革、本質、意義を見直す必要があります。
「責任」には、「法的責任」、「道義的責任」、「社会的責任」等があります。
「責任」・「倫理」は、入試頻出論点であり、「人生」の重要課題の一つです。
「責任」・「倫理」を考える上で、秀逸な論考(「責任を取ることの意味」『困難な成熟』内田樹) が最近発表されたので、現代文(国語)・小論文対策として、この記事で解説します。
前回の記事に続けて、『困難な成熟』に関連した記事になります。
入試頻出著者・内田樹氏のメインテーマの一つは、「責任」・「倫理」です。
これは、内田樹氏のメインテーマである「成熟とは何か」「大人になるとは、どういうことか」に密接に関連しているのです。
内田氏は、この、「責任」・「倫理」に関連した著作を、最近、何冊も発行しています。
内田氏のブログ(『内田樹の研究室』)でも、このテーマに関連した記事が多いようです。
そこで、上記の論考(「責任を取ることの意味」『困難な成熟』)を、内田氏の他の著作、ブログ記事を参照しつつ、解説することにします。
(2)予想問題/「責任を取ることの意味」『困難な成熟』 内田樹/倫理
(本文)
(概要です)
(赤字は当ブログによる「強調」です)
(青字は当ブログによる「注」です)
「「責任を取る」とはどういうことでしょうか。ニュースを眺めていると、テレビでもネットでも、不祥事を起こした企業や個人に対する「責任を取れ」という言葉が溢れています。しかし、人の死にかかわることや、原発事故など、個人のレベルをはるかに超えた問題について、人はどう責任を取ればいいのでしょうか。
《答えはシンプル》
「責任を取る」とはどういうことか。これは僕にとってはストライクゾーンど真ん中の質問です。というのも、「責任論」というのは、僕の師匠であるところのエマニュエル・レヴィナス先生の哲学の最大の主題であったからであります。ということはつまり、僕はレヴィナス先生に「弟子入り」宣言をなした1987年から四半世紀にわたり「責任」について考え続けてきたということになります。
ですから、問いに対する僕の答えはシンプルです。でも、その理由を語るためにはいささか長い紙数が必要になります。
問いはこうでした。「責任を取るということは可能でしょうか?」
答え、「不可能です」
以上。おしまい。
シンプルですよね。でも、どうして責任を取るということが不可能なのか、その理路を語るためには、ずいぶん長いお話に付き合ってもらわなければなりません。そのご用意はよろしいかな。では、話を始めます。
《「ごめん」で済む話はない》
人を傷つけたり、人が大切にしているものを損なったりした場合、それを「復元する」ということは原理的に不可能です。
仮にすばらしく医学が発達していて、多少の怪我なら死者でも蘇生させることができる世界があったとします。そこで、誰かがあなたを殺しました。それもけっこうえげつないやり方で。斧で首を切り落とすとか、チェーンソーで胴体まっぷたつとか。でも、すぐに病院に運び込んだら、失血死した死者を医師たちがさくさくと縫い合わせて、傷跡をきれいにして、どんと心臓に電気ショックを送ったら、あなたは無事に蘇生しました。病院に運んだりする手間はぜんぶ殺人者が整えてくれました。もちろん、医療に要した費用も彼が払いました。
さて、この場合、「いったん殺したけれど、きれいに元通りにしたから、これでチャラね」と殺人者が言ったとして、あなたはそれを許せますか?
もし、責任を取るというのが、「損なわれたものを原状に復す」ということを意味するなら、この殺人者はたしかに責任を取ったことになる。
でも、「冗談じゃない」と皆さんは思うでしょう?
斧で首を切られて殺されたときの不快感と絶望感は、傷跡が生理学的にどれほどきれいに縫い合わされたからと言って、それで消えるものじゃない。その経験は人間の深いところにある、何かピュアで無垢なものを取り返しのつかないしかたで壊してしまった。そこで失われたものはどんな手立てを尽くしてももう復元できません。
別にそこまで極端な例を挙げなくても、ふだんの生活でも、復元というのは不可能だということはわかりますね。
あなたが配偶者とか恋人に向かって「あなたのその性根の卑しいところが私は我慢できないの」とか「おまえさ、飯食うときに育ちの悪さが出っからよ、人前でいっしょに飯食うのやなんだよ、オレ」とか、そういうめちゃくちゃひどいことを言ったとします。でも、言ったあとに「これはあまりにひどいことを申し上げた」と深く反省して、「さっきのなしね。ごめんね。つい、心にもないことを言ってしまって・・・・」と言い訳しても、もう遅いですよね。もう、おしまいです。復元不能。
世の中には、「ごめん」で済む話もあれば、「ごめん」で済まない話もある。そして、たいていの話は(満員電車の中で足を踏んじゃったとかいう、ほんとうにささいな事例以外は)「ごめんじゃ済まない」話なんです。足踏まれたくらいでさえ、「てめ、このやろう」と逆上して、刺しちゃう奴とかいるくらいですから。
「ごめんで済む話」はこの世にない、と。そう思っていいたほうが無難だと思います。
(当ブログによる解説)
私達の行動や発言は、案外、影響力があります。
従って、行動や発言に注意せよ、ということです。
「口は災いの門」という諺もあります。
(予想問題/「責任を取ることの意味」『困難な成熟』 内田樹)
《「眼には眼を、歯には歯を」という知恵》
「ごめん」で済む話はない。どのような損害であれ、それを原状に復元して、「なかったこと」することはできない。そういうことです。ですから、「もう起きてしまったこと」について「責任を取る」ということはできません。原理的にできないのです。もう起きちゃったんだから。
だから、人が不始末を犯したときに、「おい、どうすんだよ。責任取れよ」と凄んでいる人がいますけれど、あれは「私がこうむった損害について、あなたが原状回復をなすならば、すべては『なかったこと』にしてあげよう」と言っているわけじゃないんです。「どうすんだよ、お前、こんなことしやがって。どうやって責任取るんだよ。でも、おまえがどのようなかたちで責任を取ったつもりになろうしても、オレは『それでは責任を取ったことにはならない』と言うからね」と言っているんです。
だからこそ、「眼には眼を、歯には歯を」という古代の法典が作られたのです。
これは「同罪刑法」と呼ばれるルールですが、別にこれは未開人が考え出した残虐な法律というわけではありません。逆です。
どこかで無限責任を停止させなければならないので、法律で「これ以上は責任を遡及してはならない」という限度を定めたのです。
人に眼を抉られた人間には、相手の眼を抉る権利があるということを言っているのではありません。逆です。「人に眼を抉られた人間は、相手の目を抉る以上の報復をなしてはならない」と、復讐の権利の行使を抑制しているのです。
実際には、眼を抉られた人の視力は、加害者の眼を抉ったことで回復するわけではありません。目は見えないままだし、痛みは消えないし、容貌だってずいぶん損なわれてしまった。でも、そういう損害は、相手の目を抉っても、何一つ回復されない。
だから、「責任を取る」とは「原状に回復すること」であるというルールに基づけば、「眼には眼を」というのは、全然「原状回復」じゃない。だから、責任を取ったことにはならないのです。
同罪刑法が教えているのは、どのようなことであれ、一度起きてしまったことを原状に復することはできないということです。人間は自分がひとたび犯した罪について、これを十分に償うということが決してできない。
同罪刑法は、「責任を取ることの不可能性」を教えているのです。人間が人間に加えた傷は、どのような対抗的暴力を以ても、どのような賠償の財貨を以ても、癒やすことができない。「その傷跡からは永遠に血が流れ続ける」とレヴィナス先生は『困難な自由』に書いています。
(当ブログによる解説)
砂漠地域には、レックス・タリオニス(lex talionis)、つまり同罪刑法、同害復讐法がありました。
タリオニスという単語は、「同じ」を意味するタリス(talis)(ラテン語)に由来しています。
この律法は『出エジプト記』(旧約聖書の二番目の書)に記述されています。
「もし人があい争って、害を与えたときには、命には命で、目には目で、歯には歯で、手には手で、足には足で、やけどにはやけどで、傷には傷で、打ち身には打ち身で償わなければならぬ」(『出エジプト記』)
この律法は、一般的には「復讐の法」であると解釈されています。
しかし、これは実際には「正義の法」です。
すなわち、砂漠の民に、犯罪人を罰する時には、その罪に相当する罰を与えるべきである、と制限を設定することを強調する法です。
「復讐」においては、被害者は被害より多く害を相手に与えようとします。
一方で、「正義」は、「罪と罰との間の均衡」を要求します。
すなわち、この律法は、「正義の法」なのです。
(予想問題/「責任を取ることの意味」『困難な成熟』 内田樹)
《「責任を取る」ことなど誰にもできない》
まことに逆説的なことですが、私たちが「責任」という言葉を口にするのは、「責任を取る」ことを求められるような事態に決して陥ってはならない、という予防的な文脈においてだということです。それ以外に「責任」という言葉の生産的な使用法はありません。
さっき言ったように「責任取れよな」という言葉は、「お前には永遠に責任を取ることができない」という呪いの言葉です。「これこれの償いをなしたら許されるであろう」と言っているわけではありません。
学校でいじめにあった子どもが自殺したときに、親がいじめた子どもの両親と学校長と担任を相手取って、「1億円の損害賠償請求」をしたというような記事を読むことがあります。これだって「1億円払ったら許してやる」と言っているわけではありません。この賠償額の設定基準は「相手の一生を台無しにできるくらいの金額」ということです。つまり、賠償請求をすることを通じて、「私はおまえたちを絶対に許さない」という賠償の不可能性を告げているのです。
「責任を取れ」というセンテンスは「なぜなら、おまえには責任を取ることができないからだ」という口にされないセンテンスを常に伴っているのです。
ですから、「どうやって責任を取るのか」というのは問いのありようとして、すでに間違っているのです。
責任は取れないんですから。誰にも。
私たちが責任について思考できることは、ひとつだけです。
それは、どうすれば「責任を取る」ことを求められるような立場に立たないか、ということ、それだけです。
勘違いしてもらっては困りますが、それは何についても「私は知らない。私は関与していない。私には責任がない」という言い訳を用意して、逃げ出すということではありません。まるで、逆です。
だって、その人は「私には責任がない」と言い張っているわけですからね。いかなる不祥事が起きようと、他人が傷つこうと、貴重な富が失われようと、システムが瓦解しようと、「私には責任がない」と言って逃げ出すんです。そんなことを金切り声で言い立てる人間ばかりだったら、世の中、どうなりますか。「私には責任がない」と言う権利を留保している人間だけで構成された社会を想像してください。そりゃすごいですよ。電気は消える。水道は止まる。電車は来ない。銀行のATMは動かない。電話は通じない。その他もろもろ。
きちんと機能している社会、安全で、そこそこ豊かで、みんながルールをだいたい守っている社会に住みながら、かつ「責任を取ることを人から求められないで済む」生き方をしようと思ったら、やることはひとつしかありません。
それは「オレが責任を持つよ」という言葉を言うことです。
《逆説的な結論》
これも考えればすぐにわかりますが、構成員全員が「オレには責任ないからね」と言い募り、不祥事の責任を誰か他人に押しつけようと汲々としている社会と、構成員全員が自分の手の届く範囲のことについては、「あ、それはオレが責任を持つよ」とさらっと言ってくれる社会で、どちらが「誰かが責任を取らなければならないようなひどいこと」が起こる確率が高いか。
まことに逆説的なことではありますが、「オレが責任を取るよ」という言葉を言う人間が一人増えるごとに、その集団からは「誰かが責任を取らなければならないようなこと」が起きるリスクがひとつずつ減っていくのです。集団構成員の全員が人を差し置いてまで「オレが責任を取るよ」と言う社会では、「誰かが責任を取らなければならないような事故やミス」が起きても、「誰の責任だ」と言うような議論は誰もしません。そんな話題には誰も時間を割かない。だって、みんなその「ひどいこと」について、自分にも責任の一端があったと感じるに決まっているからです。
「この事態については、オレにも責任の一端はあるよな」と思って、内心忸怩(じくじ)(→深く恥じ入る様子)たる人間がどうして「責任者出てこい」というような他罰的な言葉をぺらぺら口に出すことができるでしょうか。
(当ブログによる解説)
上記の議論は「組織論」の観点からも妥当と言えるでしょう。
内田氏は、『困難な成熟』の中で以下のように述べています。
「 私たちは何のために集団を形成して暮らしているのか。
それは集団内部で相対的な優劣や勝敗を競って、有限の資源を傾斜配分するゲームをするためではありません。
生き延びるためです。
さまざまな危機を乗り越えて生き延びるためです。
そのためには、ともに集団を形成する「仲間たち」が、知性において、感受性において、身体能力において、それぞれに固有の異能において、ポテンシャルを開花させ、その生きる知恵と力とを最大化してくれることがどうしたって必要です。
組織論はそのためのものです。
どういう組織であれば組織構成員たちひとりひとりの能力が最大化するか。
それが組織論のすべてです。」
(『困難な成熟』)
また、内田氏は「贈与論」の観点から、「責任」について、ブログ『内田樹の研究室』の中で以下のようにも述べています。
卓見と思われるので、以下に引用します。
「 すべての人がそれぞれの現場で、ちょっとずつオーバーアチーブする。それによって、社会システム全体の質が少しだけ向上して、僕たちは生活の全局面で(電車が時刻表通りに来るというようなかたちで)そのささやかな成果を享受することができる。
そういう意味では、僕たちはすでに贈与と返礼のサイクルのうちに巻き込まれているのです。
それが順調に機能している限り、僕たちは人間的な生活を送ることができている。
僕たちの時代がしだいに貧しくなっているのは、システムの不調や資源の枯渇ゆえではなく、僕たちひとりひとりが「よきパッサー」である努力を怠ってきたからではないかと僕は考えています。
僕たちは人間の社会はどこでも贈与と返礼のサイクルの上に構築されているという原理的なことを忘れかけていた。
だから、それをもう一度思い出す必要がある。
僕はそう思います。」
(「自立と予祝について」『内田樹の研究室』2010年11月8日)
上記と同様に、次の内田氏の見解も、「責任」と「贈与」の密接な関係を、見事に説明しています。
「 国民国家という制度はパーフェクトなものではないが、とりあえずこの制度をフェアにかつ合理的に運営してゆく以外に選択肢がない以上、集団のフルメンバーは共同体に対する「責任」を負う必要がある、というものである。
責任とは、この共同体がフェアで合理的に運営され、それによって成員たちが幸福に暮らせるための努力を他の誰でもなく、おのれの仕事だと思う、ということである。
「このシステムにはいろいろ問題がある」と不平をかこつのはよいことである。けれども、「責任者出てこい。なんとかしろ」と言うのはフルメンバーの口にする言葉ではない。「問題のうちいくつかについては私がなんとかします」というのが大人の口にすべき言葉である。」
(「国旗問題再論」『内田樹の研究室』2011年5月31日)
以上により、「責任」・「組織」・「贈与」の密接な関連が分かるでしょう。
この三者の関係性は、入試頻出論点になっています。
なお、「責任と贈与の関係」については、当ブログの前回の記事を参照してください。
(予想問題/「責任を取ることの意味」『困難な成熟』内田樹)
長くなりましたので、結論を申し上げます(もう申し上げましたけど、まとめ)。
責任というのは、誰にも取ることのできないものです。にもかかわらず、責任というのは、人に押しつけられるものではありません。自分で引き受けるものです。というのは、「責任を引き受けます」と宣言する人間が多ければ多いほど、「誰かが責任を引き受けなければならないようなこと」の出現確率は逓減(ていげん)してゆくからです。
どのような社会的な概念も、人間が幸福に、豊かに、安全に生き延びるために考案されたものです。「責任」という概念もそのひとつです。
「責任」は「鍋」とか「目覚まし時計」のように、実体的に存在するものではありません。でも、それが「ある」というふうに考えた方がいいと昔の人は考えた。
それをどういうふうに扱うのかについて、エンドレスに困惑することを通じて、人間が倫理的に成熟してゆくことを可能にする、遂行的な概念だからこそ、作り出されたのです。
(当ブログによる解説)
上記の
「 どのような社会的な概念も、人間が幸福に、豊かに、安全に生き延びるために考案されたものです。「責任」という概念もそのひとつです。
「責任」は、それが「ある」というふうに考えた方がいいと昔の人は考えた。
それをどういうふうに扱うのかについて、エンドレスに困惑することを通じて、人間が倫理的に成熟してゆくことを可能にする、遂行的な概念だからこそ、作り出されたのです。」
の部分は、かなり重要なことを言っています。
従って、さらに、内田氏の著作を参照しながら解説します。
内田氏は、『他者と死者』の中で以下のように述べています。
「倫理」・「責任」と「人間性」の「関係性」についての本質的な説明です。
「 神の裁きが完全であれば、皮肉なことに、人間たちの倫理性は衰微する。
なぜなら、人間が倫理的にふるまう努力をしなくても、神の奇跡的介入によって、人間の世界は倫理的なものになるはずだからである。
神が完全管理する世界には善への志向は根付かない。皮肉なことだが、そうなのである。
私の外部にある「他者」がまず私の罪を咎め、それに応えて私が有責感を覚知する、というクロノロジックな順序でものごとが進む限り、人間の善性は基礎づけられない。
人間の善性を基礎づけるのは、人間自身である。
同罪刑法的志向に基づかず、神の力をも借りずに、なお善を行いうるという事実、それが人間の人間性を真に基礎づけるのである。
レヴィナスは「神なき世界」における善の可能性について、短く美しい言葉を書いている。
無秩序な世界、善が勝利に至らない世界における犠牲者の立場、それが受苦である。
受苦が神を打ち立てる。
救援のためのいかなる顕現をも断念し、十全に有責である人間の成熟をこそ求める神を。」
(『他者と死者/ラカンによるレヴィナス』内田樹)
(予想問題/「責任を取ることの意味」『困難な成熟』 内田樹)
そういう意味では、それは「摂理」とか「善」とか「美」とかいう概念と同じようにとらえがたいものです。「どんなものだか見たいから、ここに紐で括って持って来い」というようなご要望にお応えできる筋のものではありません。
(当ブログによる解説)
ここでは、「思考」と「概念」・「言葉」の関係が問題になっています。
「思考」に先行するのは「言葉」である、と主張する内田氏の見解を『こんな日本で良かったね』から引用します。
「 先行するのは「言葉」であり、「言いたいこと」というのは「言葉」が発されたことの事後的効果として生じる「幻想」である。(→当ブログによる「注」→学校教育、常識レベルでは、この「幻想」が固定化しているようです)
より厳密には、「言いたいことがうまく言えなかった」という身体的な不満足感を経由して、あたかもそのようなものが言語に先行して存在していたかのように仮象するのである。」
(『こんな日本で良かったね』内田樹)
以上の解説を、言語観、言語論レベルからさらに詳細に説明すると、以下の通りになります。「言語観」・「言語論」も入試頻出論点になっています。
内田氏の『寝ながら学べる構造主義』から引用します。
「 ギリシャ以来の伝統的言語観は、名づけられる前から「もの」はあり、ものの名前は人間が勝手につけたという「名称目録的言語観(カタログ言語観)」であった。
しかし、ソシュールは、名づけられることによって、はじめて「もの」はその意味を確定するのであり、命名される前の「名前をもたないもの」は実在しないと考えた。
言語活動は「分節する」作業そのものであり、名前がつくことで、ある概念が我々の思考の中に存在するようになる。
我々が「心」「内面」「意識」と名づけているものは、極論すれば、言語を運用した結果、事後的に得られた言語記号の効果だとさえ言えるかもしれない。」
(『寝ながら学べる構造主義』内田樹)
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(予想問題/(「責任を取ることの意味」『困難な成熟』 内田樹)
それはあるいはヒッチコックが「マクガフィン」と呼んだものと似ているのかも知れません。
マクガフィンというのは、スパイ映画なんかで、敵味方が入り乱れて奪い合う「マイクロフィルム」とか「秘密の地図」の類です。それが何であるかはどうでもよろしい。とにかく、それをめぐってすべての登場人物の欲望が編制されている。誰一人、その呪縛から逃れることができない。でも、実体が何だかわからない。そして、なんだからわからなくても、サスペンスの興趣は少しも減殺されない。
マクガフィンには効果だけがあって実体がありません。
これについてヒッチコックはこんな小咄を紹介しています。
「その網棚の上にあるのはなんだい?」
「これかい、これはマクガフィンだよ」
「マクガフィンて、何だい?」
「アディロンダック山地でライオンを狩るためのだよ」
「アディロンダックにライオンなんかいないぜ」
「ほら、マクガフィンは役に立っているだろ」
マクガフィンを「責任」に、「ライオン」を「われわれの社会を脅かすリスク」に置き換えて読んでみて下さい。」
(「責任を取ることの意味」『困難な成熟』 内田樹)
(当ブログによる解説)
この予想問題が実際に出題されたら、上記の最終部分の「責任」・「われわれの社会を脅かすリスク」というキーワードは、空欄補充問題になりそうです。
このことも、今回の記事を書く理由の一つになっています。
次に、「マクガフィン」 について、Wikipedia から概略を引用します。
「 マクガフィン (MacGuffin) 」とは、物語構成上で登場人物への動機付けや話を進めるために用いられる、仕掛けのひとつです。
登場人物たちの視点、あるいは、読者・観客などからは重要なものです。
しかし、作品の構造から言えば他のものに置き換えが可能な物です。
「泥棒が狙う宝石」・「スパイが狙う重要書類」など、そのジャンルでは陳腐なものです。
「マクガフィン」という言葉は映画監督のアルフレッド・ヒッチコックがしばしば、自身の映画を説明するときに使った言葉です。フランソワ・トリュフォーによるヒッチコックの長時間インタビュー集『映画術』には、この「マクガフィン」への言及が何度もあります。同書のヒッチコックの言によれば、「マクガフィン」は、以下のイギリスに伝わるジョークが由来であるとしています。
ふたりの男が汽車のなかでこんな対話をかわした。
「棚のうえの荷物はなんだね」とひとりがきくと、もうひとりが答えるには、「ああ、あれか、あれはマクガフィンさ」。
「マクガフィンだって? そりゃ、なんだね」
「高地地方でライオンをつかまえる道具だよ」
「ライオンだって? 高地地方にはライオンなんていないぞ」。
すると、相手は、「そうか、それじゃ、あれはマクガフィンじゃないな!」と言った。」
この「マクガフィン」について、ヒッチコックとトリュフォーが『映画術』(『映画術 ヒッチコック/トリュフォー』山田宏一・蓮實重彦訳)の中で、次のように議論しています。
『海外特派員』に関する対談です。
ヒッチコックによる「マクガフィン」の解説が、実に分かりやすいので、以下に引用します。
「記号論」の解説としても、秀逸です。
「 トリュフォー(T) その機密というのが、例の暗号ですね。
ヒッチコック(H) そう、あの暗号だ。「マクガフィン」という暗号。「マクガフィとは何か」、それについて語らなければならないな。
T 「マクガフィン」という暗号は単にプロットのためのきっかけというか口実にすぎないのではありませんか。
H そう、たしかに「マクガフィン」はひとつの「手」だ。仕掛けだ。
しかし、これにはおもしろい由来がある。きみも知ってのとおり、ラディヤード・キプリングという小説家はインドやアフガニスタンの国境で原地人と戦うイギリスの軍人の話ばかり書いていた。この種の冒険小説では、いつもきまってスパイが砦の地図を盗むことが話のポイントになる。この砦の地図を盗むことを「マクガフィン」と言ったんだよ。それ以上の意味はない。
だから、ヘンに理屈っぽいやつが「マクガフィン」の内容や真相を解明しようとしたところで、なにもありはしないんだよ。わたし自身はいつもこう考えている──砦の地図とか密書とか書類は、物語の人物たちにはたしかに命と同じように貴重なものにちがいない。しかし、ストーリーの語り手としてのわたし個人にとってはなんの意味もないものだ、とね。
ところで、この「マクガフィン」という言葉そのものの由来は何なのか。たぶんスコットランド人の名前から来ているんじゃないかと思う。こんなコントがあるんだよ。ふたりの男が汽車のなかでこんな対話をかわした。
「棚のうえの荷物はなんだね」とひとりがきくと、もうひとりが答えるには、「ああ、あれか、あれはマクガフィンさ」
「マクガフィンだって? そりゃ、なんだね」
「高地地方でライオンをつかまえる道具だよ」
「ライオンだって? 高地地方にはライオンなんていないぞ」
すると、相手は、「そうか、それじゃ、あれはマクガフィンじゃないな!」と言ったというんだよ。
この小話は「マクガフィン」というのは、じつはなんでもないということを言っているわけなんだ。
T じつにおもしろいですね。ケッサクなアイデアですね・・・・。まさに、それこそヒッチコック映画の妙と言えます。
H しかし、わたしのそんなやりかたに慣れていないシナリオライターと仕事をするときには、きまって「マクガフィン」のことでもめるんだよ。相手は「マクガフィン」とは何かということにどうしても執着する。なんでもないんだ、とわたしは言うんだよ。
たとえば『三十九夜』だ。スパイの真の目的は何か。小指のない男の正体は? それに、映画の最初のほうで殺される若い女は何を求めていたのか。他人のアパートで背中を刺されて殺されるほどの重要な秘密をにぎっていたとしたら、それはいったい何なのか。そんなことはどうでもいいんだよ。
わたしたちは映画をつくるんだからね。プロットのための口実が大きくリアルになりすぎると、シナリオとしてはおもしろくても、映画としてはややこしくてわかりにくくなってしまう。」
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(3)当ブログにおける「内田樹」関連記事の紹介
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今回の記事は、これで終わりです。
次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。
ご期待ください。
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