現代文最新傾向LABO 斎藤隆

入試現代文の最新傾向を分析し、次年度の傾向を予測する大胆企画

予想問題/「シェアの未来/翼賛に通じる『共有』賛美」大塚英志

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 

 大塚英志氏は入試頻出著者です。

 大塚氏の論考は、最近では、立命館大学、関西大学、文教大学、大阪教育大学等で出題されています。

 最近、大塚氏は、「シェアの未来」「翼賛に通じる『共有』賛美」(〈耕論〉『朝日新聞』2018年6月15日)を発表しました。

 この論考は、短いながらも、現代文明批判として、鋭い問題意識を含んでいます。

 このような問題意識に、難関大学の入試問題作成者は注目するのです。

 そこで、現代文(国語)・小論文対策として、今回の記事で、この論考を、大塚氏の他の論考も紹介しながら、詳細に解説します。

 

 

朝日新聞デジタル

朝日新聞デジタル

 

 

 

(2)予想問題/「シェアの未来」「翼賛に通じる『共有』賛美」 (大塚英志〈耕論〉『朝日新聞』2018・6・15)

 

 

大政翼賛会のメディアミックス: 「翼賛一家」と参加するファシズム

大政翼賛会のメディアミックス: 「翼賛一家」と参加するファシズム

 

 

 

(本文は太字になっています)

(概要です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です) 

 

 

(「翼賛に通じる『共有』賛美」大塚英志)

 「シェアによって様々な問題が解決し、新しい時代がくるという見方に、そもそも違和感があります。シェアハウスは昔は「下宿」、民泊は「民宿」。海賊版だって、ウェブ上では「シェア」を自称していますよ。

 

(当ブログによる解説)

 「シェアリング・エコノミー」とは、物・サービス・場所などを、多くの人と共有・交換して利用する社会的な仕組み。

 自動車を個人や会社で共有するカーシェアリングをはじめ、ソーシャルメディアを活用して、個人間の貸し借りを仲介するさまざまなシェアリングサービスが登場しています。

 シェアエコノミー。シェアエコ。共有型経済。

 「共有経済」は、共有の社会関係によって統御される経済を指します。

 

  

(「翼賛に通じる『共有』賛美」大塚英志)

 所有への執着が減ったという議論も表層的でしょう。1980年代、ブランドものを身にまとい、人にどう見られるかを目的とする「消費による自己実現」が指摘されました。いまは見せるツールがウェブになっただけで、「インスタ映え」のために消費して、誰かの「いいね」で自己が確立できた気分になる、という構造は同じです。

 

(当ブログによる解説)

 人々の関心は、自己を取り巻く目に見える絆、自己承認欲求の充足、に集中しているようです。 

 そこには、「社会」や「政治」の入り込む隙間はないようです。

 

 この点について、大塚英志氏は、以下のような秀逸な指摘をしています。

「  想像力はもはや現実の「歴史」へと向かない。人々は「絆」と称し、ミニマムな世界の維持に必死である。(『月刊未来まんが研究所』vol.2)

  

 

(「翼賛に通じる『共有』賛美」大塚英志)

 むしろ、シェアという語の背後にある「共有」を賛美する空気の意味が、僕は気になります。

 1940年に近衛文麿を中心に戦時体制の確立を目指した、新体制運動下の大衆文化を研究しています。近衛新体制は「協同主義」と言って、隣組内で炊事など家事労働を「協同」で行わせたり、不用品の交換会を推進したり。それを賛美する記事が当時の新聞にいくらでも出ています。翼賛体制は、実はシェアリングエコノミーですよ。

 

 (当ブログによる解説)

 上記の「戦時体制の確立」→「協同主義」→「翼賛体制」の流れに注目してください。

 これは、「国民の一体化」、つまり、「全体主義」の確立を目指す露骨な政策です。

 

 「翼賛」は、元来は、「力を添えて助けること。補佐すること」という言葉です。

 しかし、戦前の「大政翼賛会」により、「世間的圧力による日本的ファシズム」、「反対意見を許さない総与党的風潮」をイメージする言葉となったのです。

 

 「翼賛体制」とは、大政翼賛会を中心とする第2次世界大戦中の政治体制です。

 日中戦争の長期戦化にともない、「国防国家体制」と呼ばれた国家総力戦体制の樹立が必要となりました。

 そのためには、政府と軍部をの矛盾をはじめとする支配層内部の対立解消と、国民の自発的な戦争協力を永続化させる組織の構築が、緊急の課題となりました。

 このため、近衛文麿首相を中心とする新体制運動が展開され、1940年10月12日大政翼賛会が結成されました。


 「世間的圧力による日本的ファシズム」は、現在でも、「日大タックル問題」と「モリ・カケ問題」の背景にあると言えるでしょう。

 「翼賛体制」は、大塚氏の主張するように、決して、単なる過去の出来事ではないのです。

 

 

(「翼賛に通じる『共有』賛美」大塚英志)

 いま、二次創作という形でキャラクターをシェアする文化があります。大政翼賛会は「翼賛一家」というキャラクターをシェアさせました。隣組は一つの「一家」であり、八紘一宇(はっこういちう)の象徴です。朝日新聞はその意をくみ、「翼賛一家」キャラクターを使った読者の投稿漫画、つまり二次創作を募っています。このキャラクターは、ほかの分野でもシェアされ、一般の人々がこれを用いた人形劇を作るマニュアルまで作られました。

 

 (当ブログによる解説)

 「二次創作」とは、何らかの下地となる作品、表現があり、それらを元にしている創作物および創作行為を指します。 

 パロディ、オマージュと似た言葉だが、二次創作と一言で言っても、ショートショート風のものもあれば、大長編やミステリー、コメディから妄想ラブストーリーまで多種多様です。

 

 

 (「翼賛に通じる『共有』賛美」大塚英志)

 翼賛体制は、そうやって「愛国心のシェア」を進めたわけです。

 そもそも「シェア」と「社会」は同義のはず。近代化の過程で、自由主義経済がもたらす貧困や格差の問題を「社会問題」と呼び、それは解決の責任が社会にあるという意味でした。社会とは本来、責任をシェアする場です。そして、シェアした責任を遂行するシステムが「国」です。

 それがいまは、格差も貧困も自己責任論がまかり通っています。NPOや民間の善意に任せ、国家がシェアすることを忌避しようとする社会問題があまりに多い。だから、この種の自己責任論を有権者が不用意に語ることは、社会問題をシェアしない国家を許し、自身も社会のシェアを拒むということになりかねないと思います。

 

 (当ブログによる解説)

 上記の

「いまは、自己責任論がまかり通っています。この種の自己責任論を有権者が不用意に語ることは、社会問題をシェアしない国家を許し、自身も社会のシェアを拒むということになりかねない」

の部分は、重要な問題を含んでいます。

 

 「社会のシェアを拒む」ということは、「公共性」・「社会性」を拒否するということです。

 「自己責任論」を徹底すれば、「公共性」・「社会性」の存在する意味はなくなります。

 

 「漫画というメディア」においても、「社会性の欠如」は、顕著なようです。

 大塚氏は、以下のように指摘しています。

漫画というメディアには他者性(→当ブログによる「注」→客観的視点→社会性・公共性)がないんです。これは僕が前々から言ってきたことで、「私」みたいなものを全肯定してくれるような言説を少年少女漫画は積み重ね、その他者性がないがゆえに戦後史の中で肥大することができた。(『少女たちの「かわいい」天皇』)

 

 現代社会における「他者性」・「社会性」の排除の、ある意味での正当性(→誤解に基づく正当性)や、「心地良さ」を少年・少女も敏感に察知し、その状況を積極的に受け入れたということでしょう。

 
 「社会のシェアを拒む」ということは、「公共性」・「社会性」を拒否するということです。

 「公共性の軽視」、「自己責任論」の蔓延している一例として、大塚氏は、『愚民社会』の中で以下のような事例を挙げています。

(大塚) 今、震災で地域の存続が問題になっていますが、ムラ的な共同体は近代の明治期あたりで解体し始めて、昭和初頭の世界恐慌のときにほぼ崩壊しているわけです。地域の「互助システム」を使って共同体単位で日本を復興しょうとするのは世界恐慌時の政策です。農山漁村の経済更生運動、とかいうやつです。でも、失敗した。とうに旧来のムラのシステムは崩壊していたからです。結局、何をやったかといえば郷土史や民話集をつくって「郷土愛」みたいなものを「あること」にして、ファシズムの下支えとしての郷土をつくった。だから厳しい言い方をすれば、被災地の復興が進まないという責任の一つには「あなたたち、復興し得るような社会システムやモチベーションを本当は持っていないんでしょう? ということでしょう。

「(大塚) 本当になんとかしたいのだったら、東北だけはリアルなカタストロフィが今回あったわけで、それは、彼らだけは「近代」をやり直すチャン(→「復興し得るような社会システム」を構築すること)があるということです。たぶん、やらないで、中央の政治家に助成の陳情して、おしまいだと思いますが。

(『愚民社会』大塚英志 宮台真司 )

 

 

愚民社会

愚民社会

 

 

 

 「自己責任論」に、「現代のweb社会の問題性」が加わることにより、「公共性の成立」はますます困難になっているようです。

  この辺の事情について、大塚氏は、『感情化する社会』の中で以下のように解説しています。

 参考になる分析です。

「感情化」とは、著者によれば、わたしたちの自己表出が「感情」という形でのみなされ、理性や合理でなく、感情の交換のみが社会を動かすようになることであり、そこで人々は「感情」以外のコミュニケーションを忌避する

 フェイスブックの「いいね!」が象徴するように、WebではSNSにおけるコミュニケーションが端的にそれを示している。そこでの議論の多くは、相手の非難に対し論理的に反論しようと努めても、いつのまにか「感情的」な表現に陥ることが避けられない。「いいね!」とは、私はそのように「感情的」になっていませんよ、という「感情」表現としてある。

 2016年8月8日、現行天皇は生前退位について「お気持ち」を表明した。それに対し、一方で、政権側は困惑し、他方で、国民の多数が「共感」を示した。著者は、この状況を、天皇は権力に「お気持ち」を忖度させず、国民が直接「お気持ち」を忖度する関係を作ってしまったと指摘する。

 リベラル側の視点に立てば、それは一見いいことのようだが、もちろん著者はそう軽薄ではない。

「   アダム・スミスは『道徳感情論』の中で以下のように主張している。感情同士を直接「共感」させるのではなく、そのあいだに中立的な観察者を設けることではじめて適切な判断ができるようになる、そのことをスミスは「道徳」といった。天皇と国民の直接的な「共感」には、この中立的な観察者が欠けている。

 「共感」に対して批評的であること、言葉を換えれば、他者をどう理解していくかという手続きを放棄した場合、そこは「感情」だけが共振してしまう「セカイ」であり、それは「社会」とはいえない、と。

 「人々が共感し合って何が悪い?」と問う者がいるとすれば、その人は「共感」できない感情は不快である、という真実から目をそらしている。なぜなら、不快なことの多くは「感情」の外にある「現実」だからだ。だから歴史的現実をいまも過度に生きる沖縄は「不快」さの対象となる。そして、相手が自分に「感情労働」を提供しないことが、「悪」と見なされ、「反日」と見なされて、「正義」の敵とさえ見なされる。

まずは「感情」の外に立つこと、すなわち、「批評」を取り戻すこと。

「沖縄」について「コメント」される言葉は、これを措いてあるはずがない。

(『感情化する社会』大塚英志)

 

 

感情化する社会

感情化する社会

 

 

 

(「翼賛に通じる『共有』賛美」 大塚英志)

 「日本」や「愛国心」というものがシェアされて、「社会」はシェアされないなかで、しょせんは起業家向けのビジネスモデルに過ぎないシェアリングエコノミーなるものが賛美されるのは、いささかグロテスクです。

 (「翼賛に通じる『共有』賛美」 大塚英志)

 

 (当ブログによる解説)

 ここでは、国、社会、マスコミが、「社会のシェア」とは別に、「シェアリングエコノミー」を無批判に賛美していることが問題なのです。

 

 大塚氏の『愚民社会』によれば、そもそも、近代以前の日本に、「公共性の伝統」はあったのです。

 以下に引用します。

「  本当は「空気」を読むのではない形での共同体と共同体の間の利害調整とか、共同体内の合理的な利害調整が、近代以前の社会になかったのかといったら、あったはずなんです。ぼくの専門ではありませんが、民俗学では例えば水利権とかですね。ムラの中でどうやって水を再配分していくのか、村落共同体の中と、更に対立する村との間でどうやって利害調整していくのかについてはかなり合理的なシステムや、協議の具体的な痕跡が残っているので、そういうノウハウはあったわけです。

 ただ、そうしたノウハウを「近代」の中で、近代的個人や新しい公共性としてつくり変えていうことしないで、村落共同体が経済共同体として崩壊していくとともに、その課題が持ち越されなかったということですね。 

 

 確かに、近代における「公共性」構築の困難性は、否定できない側面があります。

 大塚氏は、『人身御供論』の中で、この困難性を以下のように説明しています。

「 通過儀礼とは加入礼とも表現されるように、ある「社会」に加入するための儀式である。ところが近代「社会」がかかえる本質的な困難さは加入すべき「社会」の具体像が曖昧だという点にある。

「  そもそも通過儀礼が成立するための諸条件を「近代世界」は失なっているのであり、そこで近代以前の社会が持つ通過儀礼の形式のみを社会制度として復活させたところで、もやは人は「成熟」に至れないのだ。

「  成熟の社会的手続きとしての通過儀礼とそれを可能とした諸条件が解体してしまった結果、「成熟」という主題はムラという具体の場から乖離し、国家と個人という二つの未知の領域において問題とされるようになった。

(『人身御供論』大塚英志)

 

 それでは、「公共性の構築」のために、私たちは、どのように考えていけば良いのでしょうか?

 その方向性を、大塚英志氏は、『戦後民主主義のリハビリテーション 論壇でぼくは何を語ったか』の中で、次のように提案しています。

「  戦後の日本社会が達成し得たことと達成し得なかったこととを冷静に分析し、次の世代に財産として残すべきことと、反省をもって語り伝えるべきことを、ともに歴史化していく作業がそろそろ始められていいのではないか 。

「侵略史観」と「聖戦史観」の互いに自動化した言説に引き裂かれたままの戦前の歴史以上に、戦後史は歴史化されていないのである。主体のアイデンティティの拠り所を、ぼくは「民族」というファンタジーよりは「日本国憲法」という、ぼくたちの五十年の具体的な歴史を支えてきた相応に歴史化されたファンタジーに見い出すことのほうが、まだしも妥当だと考える。日本人は戦後史にこそ誇りをもつべきだと考えるぼくは、やはりそう語らざるをえないのである (大塚英志「福田和也と『保守』の葬送」大塚英志『戦後民主主義のリハビリテーション』)

 

 『戦後民主主義のリハビリテーション』 (角川文庫)は、「戦後民主主義」を考える上で、かなり参考になる著書です。

 本書の内容は以下のようになっています。

「  オウムの時代からネットバブル崩壊、そして自衛隊イラク派遣まで「論壇」を舞台に書かれた言葉の数々。この十年、社会は急速に階級化し、「自己責任」が是とされてきた。多くの言論人とメディアが右傾化と保身に転向し、公共性が社会から失われつつある現在、著者はあえて「戦後民主主義」こそが理念としてなお有効性を持つと主張する。個人が暗黙に「空気」を読むことを要求され、語るべき言葉が沈黙する時、それはファシズムの到来ではないのか? 一貫して同じ場所から語り続けるサヨクの矜持。」 (「Book」データベース)

 

 

戦後民主主義のリハビリテーション―論壇でぼくは何を語ったか (文芸シリーズ)

戦後民主主義のリハビリテーション―論壇でぼくは何を語ったか (文芸シリーズ)

 

 

 

 「公共性の構築」における年長者の役割を考慮することも、重要でしょう。

 この点については、『少女民俗学』 の文庫版での、大塚氏の解説が参考になります。

「  相応に齢をとった旧〈おたく〉としては,価値の崩壊を指摘するよりは、古い世代に常に課せられた責務として,目の前の彼ら彼女たちに、おずおずとぼくたちも本当は持ったことがない〈倫理〉を真摯に説くことも、また必要なのかもしれない。「鏡像」の向こう側にいる他者である彼らに向かって。みんな、おやじになったのだから。

(『少女民俗学 』大塚英志 ) 

 

 また、新たな「公共性の構築」に関しては、インターネット社会における「言葉」の問題を、強く意識する必要があります。

 大塚氏の以下の見解(「インフラとしての近代はネットが可能にした」〈インターネットは「愚民化」に影響するか〉 大塚英志×宮台真司 対談全文(後)『NEWS ポストセブン』2012・2・5)は、示唆に富んでいて、大いに参考になります。 

(司会者) 次の質問を紹介致します。福岡県20代の女性からです。「ネットは、呪いの言葉で溢れているという評論もあったように、2ちゃんねるやmixiを始め、ネットが愚民化を助長しているように思います。その一方で、民意を組み上げる『一般意志2.0』だという評価もあったようですが、インターネットは反愚民化に役立つと思いますか?お二人のネットの可能性についての意見が知りたいです」

(大塚) 近代的な個人の前提は、自分の言葉を持っていて、それを発信して、なおかつ議論ができるパブリックな場が保証されているってことだったわけですね。だけれども実際にはメディアにモノを書ける人間はついこの間まで限定されていたわけです、だから、そういう意味で近代的な個人を作る前提みたいな事は理念としてはあったんだけど、ツールとしてのインフラは整ってこなかったわけです。でも今は本当に何かを言おうと思えば、各自が自分で言葉を発信できるし、それこそニコニコチャンネルで勝手に何かを言うことも可能だし・・・・。というふうに言葉を発信するツールも、議論をしていくツールも出来上がって、いわば"インフラとしての近代"はネットが可能にしたんだと思います。

 ただ、もう一つそこで重要になってくるのは、それが柳田國男の問題なんだけど、「言葉をどういうふうに作っていくのか」。その言葉は観察し記録する言葉であって、それから議論しコミュニケーションし、最終的にそこにある合意という公共性を作っていく言葉。そういったものを作っていくための、いわば言葉の技術や言語的なスキルの問題。そちらの方がインターネットはまだ提供できてないんだろうなという気がして。

 ネットに出来上がっている世論みたいなことを、いわば一つの空気として、それが「民意なんだ」と。それは多分違う形の何かなんでしょうね。民主主義ではなくてね。それを新しい民主主義と呼んで、その空気にしたがって生きていくだったならば、魚の群れとしてこの国が生きていくっていう選択で、それはまたやっていったら、中国とは違う何かなるのかもしれないけど。僕はそういうのは嫌だなと思いますけどね。

(「インフラとしての近代はネットが可能にした」 大塚英志×宮台真司 対談全文(後)『NEWS ポストセブン』2012・2・5)

 

 「真に民主的な公共性」を作り上げていくためには、「公共性構築の言葉」は慎重に吟味し、検証していくべきなのです。

 

 また、「伝統と公共性の関係」にも配慮する必要がある、と大塚英志氏は、『「伝統」とは何か』の中で次のように主張しています。

 そして、「公共性の構築」について、新たな方向性を提案しています。

「伝統」も、「歴史」と同様に「つくられた」ものである。特に今日、 ぼくたちが「伝統」と信じる習慣や思考の多くは、明治以降の近代に新たに出来上がったものだ。

 近代国家というのはそこに生きる人が、 たとえば「自分は日本人だ」という「われわれ意識」がないと成り立たない。その時、「日本」という「われわれ」の帰属先が、昔からずっとあるように根拠付けるために「伝統」が「発見」されてしまうのだ。 このような、「伝統」とは近代の中で作られたものだ、という論議は 実は全く珍しいものではない。社会学や歴史学や、いわゆる現代思想系の研究者には自明の論議であるはずだ。だから本書の立場は、その種の論議に接している人々には何をいまさら、と聞こえるかもしれない。しかし、一つの理論として「伝統」は作られたものだ、と語ることは容易だが、そのことをぼくたちが具体的に実感することは、「つくる会」の教科書をめぐる騒動一つとってもけっこう困難だ。 だから本書では、「日本」の近代において、「伝統」がいかに「作られて」いったかについて、なるべく具体的で、かつ、好奇心を持って 読んでもらえそうな事例を示し、その過程を語ることにした。

 それは結果として、「伝統」がいかに政治的に作られ、しかも、そのことは時間が経つといかに見えにくくなるかということや、「伝統」 を作ろうとするあまりに陥る袋小路の奇妙さを実感していただくことになる、とぼくは考えるからだ。

 「個」を確立させ、それぞれが自分の「心意」をことばとして表出する技術を持ち、それぞれの差異を踏まえて公共性を立ち上げようとするかつての「公民の民俗学」と、一方では「国家」の、他方では「母」 の代償としての「世間」の中で、すでにある秩序に合わせることで 「正しい選挙民たれ」と説く「世間の民俗学」の差はあまりに大きい。  

 だからこそ、ぼくは「公民の民俗学」の可能性を改めて主張する。 「群れを慕う」感情の断念から出発し、名付けられていない、定かさえないが、しかし、それぞれの「私」を出発点とし、互いの差異を自らのことばで語り合い、それらの交渉の果てに「公共性」があるのだと考えた、昭和初頭に束の間出現した「公民の民俗学」こそが、ぼくたちが「日本」や「ナショナリズム」という、近代の中で作られた 「伝統」に身を委ねず、それぞれが違う「私」たちと、しかし共に生きいるためにどうにかこうにか共存できる価値を「創る」ための唯一の手段であると考える。

  「創る」のは「伝統」ではなく、「個」から出発する「公共性」である。 その時、ぼくたちには「伝統」も「ナショナリズム」も不要となるはずである。

(大塚英志『「伝統」とは何か』)

 

 大塚氏は、過去の翼賛体制の復活を、かなり警戒しています。

 「新たな公共性構築」のためには、「新たな政策」については、「翼賛体制の復活」を避けつつ、多角的な、慎重な考察をしていく必要があるのです。

 現代への冷徹な観察と批判的考察をしていけば、大塚氏のような、「新たな政策」に対して過敏な警戒的姿勢は当然の態度と言えるのです。

 

  現在の状況をみて、大塚氏は、『ジセダイ』『平成30年論』の中で、以下のように「嫌な予感」を表明しています。

 入試頻出著者である鷲田清一氏、内田樹氏、等も、様々な著作で、以下と同様の見解を表明しているのです。

「去年あたりから『一九八四年』が売れている、という話を出版関係者からちらりと聞くようになった。今更、村上春樹の『1Q84』との混同でもないだろうし、アメドラではディックの『高い城の男』がアマゾンで映像化されたり、ここ数年、ディストピア(→反理想世界。暗黒的世界。このような世界を表現した作品)という語そのものがなじみ深い語になったように、ディストピアそのものの流行は確かにある。

 だが、それは流行というよりは、北米でも日本でもEUでも私たちの現実が『一九八四年』に近づいてしまっているからではないかと、これも月並みなことを敢えて書く。

 ぼくはこの問題に限らず、このような「月並み」な批評や議論に立ち戻るべきではないか、と考える。それ故、ここから先は『一九八四年』論と現代社会という月並みなことを今更、書くことにする

 『一九八四年』について最低限確認しておけば、1948年に執筆され、既に原著はパブリックドメインとなった古典的ディストピア小説である。

 そして今回、問題としたいのは、その1948年の創造力の中に21世紀に入って十数年も過ぎ、ポストモダンということばさえ死語となった現在が、未だにある、ということについてだ。それはつまり私たちが社会なり現実を設計するための創造力が未だ1948年、70年前かそれ以前の水準にある、ということを意味する。

 それは、当然だが、「探偵妄想」という近代初頭の病に未だ囚われていることの「古さ」とやはり重なり合う。

 それではキンドルで『一九八四年』を買って、読み進めてみよう。一応、全体のプロットは読んではいなくても何となく知っている、という前提で話を進める。

 小説の冒頭、主人公のウィンストンは「探偵妄想」に似た視線を女から感じる。

 しかし、とくにこの娘はたいていの女性よりずっと危険だ、と以前、廊下ですれ違った時、彼女は横目でこちらの内奥まで貫き通すような一瞥をくれ、心がしばし、不吉な恐怖感で溢れた。〈思考警察〉の手先かもしれないという考えさえ脳裏をよぎった。そんなことはまずありそうもなかったが 安感はついぞ消えることがなく、彼女が近くに来ると、不安に恐怖と敵意までもが入り混じるのだ。

(ジョージ・オーウェル著・高橋和久訳『一九八四年』2009年、早川書房)

 興味深いのはこの「他者への脅え」が「女性」への脅え、そしてそれを通り越して女性への「敵意」としてさえウィンストンの中にあることだ。

 こういった「探偵妄想」が決してウィンストンの妄想ではないのは、この世界では人々は居室一つ一つに設置された「テレスクリーン」で監視されているからである。このテレスクリーンは同時に端末でもあり、あらゆる情報はそこからもたらされる。

 このテレスクリーンをスマホなり、対話型スピーカー端末なりと比べること自体、自分の想像力の陳腐さの証しとなるが、しかし、アマゾンの書評の一つには、ネットのある時代に作中の事柄は古くさすぎてつまらない、というニュアンスのものがあったので、一応「テレスクリーン」という比喩で「現在」を読み解くというわかり易い説明を一度だけしておく。

 そもそも、「テレスクリーン」が予見したものはデバイスということばがなかった時点で、デバイスによって私たちの日常全てが監視可能になる、という未来である。

 私たちはスマホの画面で留守中のペットや子供、遠方に住む年老いた親を「監視」できるのであり、「テレスクリーン」の日常化に気づいていないだけの話だ。それだけでなく、私たちの現在はスマホというモニター付きのデバイスをわざわざ持ち歩き、写真で自らを頻繁に撮影し、位置情報や検索・購入履歴も、その日の心拍数や歩いた歩数、その軌跡までiPhoneは勝手に記録し、そしてビッグデータとして吸い上げていく。スマホは携帯型テレスクリーンである。つまり、テレスクリーンのコンセプトが今や私たちの日常に違和なく組み込まれているのだ。テレスクリーンではライザップのインストラクターのように、毎朝の体操をサボタージュすると叱責が飛ぶが、ランニングなりその日の歩数について誉めてくれたり叱ってさえくれるアプリも確かあるはずだ。

 一方で何か犯罪が起きれば、まるでアメドラのように被疑者なり被害者なりの足取りが監視カメラの映像として次々と報道される。「監視社会」という言い方がもはや左翼の戯言にしか聞こえない程度には、私たちは監視されることになれている。

 このように「テレスクリーン」一例だけでも私たちの社会は『一九八四年』が描いた想像力のなかにいる。それは、私たちの現在が意に反して「監視社会」になったのではなく、望んでそうなったと理解すべきだ。

 何故なら私たちの多くはこの「監視社会」をディストピアと思っていないからだ。その証拠に、『一九八四年』ではディストピアとして描かれた「監視社会」を生きながら、それを不快と難じない、あるいは快適さえと感じるメンタリティがいつの頃からか成立しているではないか。

 いや、おまえは今しがた、私たちは近代の病としての監視妄想に苛まれていると言ったばかりではないか、と反論があるだろう。だが、スマホという「テレスクリーン」は同時に私たちの自我をテクノロジーで肥大させてくれる装置である。TwitterでもインスタでもLINEでもいいが、それは、物理的な距離を超えて私たちの内面を快適に拡張している。だからこそ、「工作員妄想」もまた肥大する。

 私たちは一方では、web のテクノロジーに快適に監視され、しかし、「工作員」に疑心暗鬼になっている。「工作員妄想」に苛まれながら国家の監視に安堵している。そういう矛盾を矛盾ともはや思えなくなっている。

 そう考えると『一九八四年』をディストピア小説として読むことが可能なのか、いささか不安になる。

 ぼくが「月並みな批評」がもう一度、必要だと考えるのはそれ故だ。

 (『ジセダイ』『平成30年論』大塚英志 「第2回:まるで『一九八四年』のようだと月並に思い、そして、吐き気さえしてきた2月」2018年03月16日 更新)

 

 上記の最終部分の状況は、自由を重視する立場からすれば、自発的奴隷状況、「自由からの逃走」とも評価し得るものでしょう。

 由々しき状況です。

 大塚氏の不安は、決して「杞憂」とは言えないのです。

 現代こそ、冷徹な観察と、批判的考察は、不可欠な時代と言えるのではないでしょうか。 

 

 

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

 

 

 

(3)大塚英志氏の紹介

 

大塚 英志(おおつか えいじ、1958年8月28日)は、批評家、民俗学者、小説家、漫画原作者、編集者。

国際日本文化研究センター研究部教授であり、東京藝術大学大学院映像研究科兼任講師も務める。

2006年から2014年まで神戸芸術工科大学教授及び特別教授、2014年から2016年までは東京大学大学院情報学環特任教授も務めた。

【主な受賞歴】サントリー学芸賞社会・風俗部門(『戦後まんがの表現空間 記号的身体の呪縛』)、角川財団学芸賞(『「捨て子」たちの民俗学―小泉八雲と柳田国男』)

 

【単著】

『システムと儀式』(本の雑誌社:1988年、ちくま文庫:1992年)

『物語消費論 「ビックリマン」の神話学』(新曜社:1989年、角川文庫『定本 物語消費論』:2001年)

『子供流離譚 さよなら〈コドモ〉たち』(新曜社:1990年)

『物語治療論 少女はなぜ「カツ丼」を抱いて走るのか』(講談社:1991年)

『戦後民主主義の黄昏 わたしたちが失おうとしているもの』(PHP研究所:1994年)

『「彼女たち」の連合赤軍 サブカルチャーと戦後民主主義』(文藝春秋:1996年、角川文庫:2001年)

『戦後民主主義のリハビリテーション 論壇でぼくは何を語ったか』(角川書店:2001年、角川文庫:2005年『GQ』1999年9月号~2001年3月号、『Voice』2000年3月号~2001年4月号連載の時評と『諸君!』『論座』『中央公論』等の論壇誌に掲載した評論をまとめたもの)

『「おたく」の精神史 1980年代論』(講談社現代新書:2004年、朝日文庫:2007年、星海社新書:2016年『諸君!』1999年10月号~2000年10月号連載)

『サブカルチャー文学論』(朝日新聞社:2004年、朝日文庫:2007年、『文學界』1998年4月号~2000年8月号連載)

『物語消滅論 キャラクター化する「私」、イデオロギー化する「物語」』(角川Oneテーマ21:2004年)

『「伝統」とは何か』(ちくま新書:2004年)

『憲法力 いかに政治のことばを取り戻すか』(角川Oneテーマ21:2005年)

『更新期の文学』(春秋社:2005年、『早稲田文学』2004年5月号~2005年5月号連載)

『村上春樹論 サブカルチャーと倫理』(若草書房:2006年)

『怪談前後 柳田民俗学と自然主義』(角川選書:2007年、『群像』2002年8月号~2004年2月号連載)

『公民の民俗学』(作品社:2007年、『「伝統」とは何か』に補論を加えて改題したもの)

『偽史としての民俗学 柳田國男と異端の思想』(角川書店:2007年、『怪』連載)

『護憲派の語る「改憲」論 日本国憲法の「正しい」変え方』(角川oneテーマ21:2007年)

『物語論で読む村上春樹と宮崎駿 構造しかない日本』(角川oneテーマ21:2009年)

『大学論 いかに教え、いかに学ぶか』(講談社現代新書:2010年)

『物語消費論改』(アスキー新書:2012年)

『社会を作れなかったこの国がそれでもソーシャルであるための柳田國男入門』(角川EPUB選書:2014年)

『メディアミックス化する日本』(イースト新書:2014年)

『感情化する社会』(太田出版:2016年)

『日本がバカだから戦争に負けた 角川書店と教養の運命』(星海社新書:2017年)

 

【共著】

(大澤信亮)『「ジャパニメーション」はなぜ敗れるか』(角川oneテーマ:2005年)

(川口創)『「自衛隊のイラク派兵差止訴訟」判決文を読む』(角川グループパブリッシング:2009年)

(世界まんが塾)『世界まんが塾』(角川書店:2017.3)(ひらりん)『まんがでわかるまんがの歴史』(KADOKAWA:2017年)

 

【対談集】

『最後の対話 ナショナリズムと戦後民主主義』(福田和也との対談、PHP研究所:2001年)

『天皇と日本のナショナリズム』(宮台真司・神保哲生の鼎談相手の一人、春秋社:2006年)

『リアルのゆくえ おたく/オタクはどう生きるか』(東浩紀との対談、講談社現代新書:2008年)

『愚民社会』(宮台真司との対談、太田出版:2011年)

 

【編著】

『「私」であるための憲法前文』(角川書店、2003年)

『読む。書く。護る。 「憲法前文」のつくり方』(角川書店、2004年)

『柳田国男 山人論集成』(角川ソフィア文庫、2013年)

『神隠し・隠れ里 柳田国男傑作選』(角川ソフィア文庫、2014年)

『動員のメディアミックス 〈創作する大衆〉の戦時下・戦後―』(思文閣出版、2017年)

『東大・角川レクチャーシリーズ 00 『ロードス島戦記』とその時代 黎明期角川メディアミックス証言集』(KADOKAWA、2018年)

 

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 今回の記事は、これで終わりです。

 次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

 ご期待ください。

 

 

  

 

 

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