予想問題「憲法9条の矛盾」平和主義・集団的自衛権・佐伯啓思
(1)なぜ、この記事を書くのか?
平和主義、憲法9条改正問題、集団的自衛権は、大学入試現代文(国語)・小論文の最近の流行論点です。
しかし、これらの論点は、なかなか分かりにくい側面があります。
また、このような「政治的問題」は、政治的思想調査、政治的踏み絵になりかねないので、大学入試現代文(国語)・小論文に出題されない、と考えている人がいるようです。
しかし、そうしたことはありません。
最近でも、 慶応大学法学部・小論文で、政治的問題と言える「日本の戦後補償問題」が出題されています。
最近発表された、入試頻出著者の佐伯啓思氏の「異論のススメー憲法9条の矛盾・平和守るため戦わねば」 (朝日新聞 2017・5・5)は、以上の論点を明解に解説しています。
そこで、今回は、この論考についての解説記事を書きます。
特に、憲法9条を中心とする「憲法改正問題」については、反対説、賛成説、さまざまな見解を読むべきです。
そのことが視野を広げ、理解を深めるポイントになります
今回は、賛成説を丁寧に説明している、佐伯啓思氏の論考を解説します。
佐伯啓思氏は、入試現代文(国語)・小論文における入試頻出著者です。そして、この論考は佐伯氏の最新の論考です。
佐伯氏の論考は、最近では、神戸大学、新潟大学、早稲田大学(政経)・(文)、立教大学、法政大学、中央大学、関西大学等で出題されています。
(2)集団的自衛権ー「憲法9条の矛盾・平和守るため戦わねば」 佐伯啓思(『朝日新聞』2017年5月5日朝刊「異論のススメ」)
(概要です)
(【1】【2】【3】・・・・は当ブログで付加した段落番号です)
(赤字、太字は、当該ブログによる「強調」です)
(青字は当ブログによる「注」です)
「【1】この5月3日で憲法施行から70年が経過した。安倍首相は3年後の憲法改正をめざすとし、9条に自衛隊の合憲化を付加したいと述べた。私にはそれで充分だとは思えない。
【2】実際には、今日ほどこの憲法の存在が問われているときはないだろう。最大の理由はいうまでもなく、朝鮮半島有事の可能性が現実味を帯びてきたからである。北朝鮮と米国の間に戦闘が勃発すれば、日本も戦闘状態に入る。また、韓国にいる日本人の安全も確保しなければならない。はたしてこうしたことを憲法の枠組のなかで対応できるのか、という厳しい現実を突きつけられているからである。
【3】2年ほど前に、安倍首相は集団的自衛権の行使容認をめざして、日本の安全保障にかかわる法整備をおこなった。野党や多くの「識者」や憲法学者は、これを違憲として、憲法擁護を訴えたが、はたして、彼らは今日の事態についてどのようにいうのであろうか。野党も、朝鮮半島情勢にはまったく無関心のふりをしている。」
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(当ブログによる解説)
集団的自衛権については これを認めることが「世界の常識」のようです。
グローバルスタンダード(国際基準)を崇拝するマスメディアや学界、評論家などのうちの多数が、この論点では、なぜグローバルスタンダードを考慮しないのかが不可解です。
自分達の立場にとって不都合があるからでしょうか?
何か意図があるのでしょうか?
あるいは、不勉強、無知なのでしょうか?
「世界の常識が集団的自衛権を認めること」については、以下の見解が参考になります。
「国際法は憲法に勝るが世界の常識 集団的自衛権は憲法違反、の大間違い 」
(『週刊ダイヤモンド』2015年7月11日号)
百地章氏(日大教授)が6月26日の「言論テレビ」で集団的自衛権、平和安全法制について重要な点を指摘しました。
野党が、多くの憲法学者の多数説を根拠として一連の法案を廃案にせよと主張しています。しかし、そもそも、批判的立場の人々は、 国際法と憲法の関係を理解していないというのです。
百地氏は、この点を理解しなければ、「集団的自衛権の行使容認」の違憲性・合憲性を正しく判断することはできない、と以下のように言います。
「集団的自衛権が国内で問題になることはありません。国際間の権利で、国際法上の権利です。国際社会においては、各国の憲法よりも国際法が優位するというのが法学者の常識であり大前提です。
そこで国連憲章51条を見れば、全ての国連加盟国に『固有の権利』として集団的自衛権を認めています。
すなわち、国連加盟諸国は全て国際法上、集団的自衛権を有し、行使することができるのです。日本国憲法に、わが国には集団的自衛権があるとか行使できるとか書いていなくても、権利はあり、行使できるのです。
憲法に書いていないのは日本だけではありません。その他諸国の憲法にも書かれていません。領土主権についても同じです」
また、長尾一紘氏(中大名誉教授)は、「『集団的自衛権は合憲』・なぜか疎外されている『集団的自衛権は合憲』の憲法学者座談会ーー長尾一紘×百地章×浅野善治」 (『週刊新潮 』2017年5月18日菖蒲月特大号 2017・5・10発売)の中で、次のような見解を述べています。
「日本の憲法学者は9条に関する限り、まるでガラパゴス諸島の生物です。昭和20年代で思考停止してしまったようです。
主権国家が当然保有する、集団的自衛権について賛成と反対の意見が対立していること自体が間違いで、世界中でも、こんな議論をしているのは日本だけ。国際的な基準に合わせるべきでしょう。
集団的自衛権に反対する声があること自体が異常ですが、それを異常と認識しない人々もまた異常と言わざるを得ません。」
さらに、髙橋 洋一氏( 経済学者・嘉悦大学教授 )は、「集団的自衛権」について、
「反対しているのは中韓だけ! 集団的自衛権 『世界の常識』が理解できない左派マスコミにはウンザリだ」(髙橋 洋一・現代ビジネス ・ 講談社) - isMedia)の中で、以下のように述べています。
「《日本は不思議な国》
世界の多くの国がどこかと何らかの同盟関係をなぜ結ぶかといえば、そのほうが戦争のリスクを減らせるからである。集団的自衛権の行使は同盟関係の基本中の基本なので、何らかの同盟関係を結んでいる国では、本来、議論にさえならない。
この点、日米同盟がありながら、集団的自衛権の行使の是非を議論する日本は不思議な国だ。多くの国では、日本が集団的自衛権の行使をするといったら、同盟関係がありながら集団的自衛権の行使を認めなかったこれまでの『非常識』を、世界の常識に変えるくらいにしか思わない。」
これらの見解は、集団的自衛権を考える際には、大いに参考になるはずです。
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〈「異論のススメ」の続き〉
「【4】私がここで述べたいのは、現行の法的枠組のなかでいかなる対応が可能なのか、という技術的な問題ではない。そうではなく、国の防衛と憲法の関係というかなりやっかいな問題なのである。」
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(当ブログによる解説)
「国の防衛と憲法の関係」については、佐伯氏は、『反・民主主義論』(新潮新書)の「まえがき」で、さらに分かりやすく記述しているので、以下に概要を引用します。
「 2015年から16年にかけて、「民主主義」の意味を問いかける事象が世界的に起きた。アメリカではトランプ現象が生じた。日本でも、2015年が戦後70年ということであったが、戦後憲法も戦後民主主義も戦後平和主義も定着とは言えず、むしろその欺瞞が露呈してきた。
「国家」「民主主義」「平和」「国防」といった政治学の、そして「国」のもっとも根幹に関わる概念について、われわれはまともに思索を張り巡らせたことがあったのか。
そこで本書で「民主主義」や「憲法」を論じ、唯一の正解はないが、私なりの見解をさし示してみたい。さもなければ、いつまでたってもわれわれは護憲・改憲の党派的対立から抜け出せず、また、民主主義の名のもとに、われわれの政治はとどまるところをしらず混迷に陥っていくだろうからである。」
上記の論考においては、「護憲・改憲の党派的対立」がポイントになっています。
国の防衛を考える際に、政治的・党派的立場から考えを進める発想は、大学入試においては、必要ありません。
あくまで、事実と論理を重視してください。
入試において問われているのは、知識・常識と論理力だけです。
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〈「異論のススメ」の続き〉
「【5】戦争というような非常事態が生じても、あくまで現行憲法の平和主義を貫くべきだ、という意見がある。とくに護憲派の人たちはそのようにいう。しかし、今日のような「緊急事態前夜」になってみれば、そもそもの戦後憲法の基本的な立場に無理があったというほかないであろう。憲法の前文にはつぎのようなことが書かれている。「日本国民は・・・・平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」。これを受けて9条の非武装平和主義がある。
【6】ところが、今日、もはや「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」いるわけにはいかなくなった。ということは、9条平和主義にもさしたる根拠がなくなるということであろう。考えてみれば、日本は、北朝鮮とはいまだに平和条約を締結しておらず、ロシアとも同じである。中国との国交回復にさいしては、尖閣問題は棚上げされ、領土問題は確定していない。つまり、これらの諸国とは、厳密には、そして形式上は、いまだに完全には戦争が終結していないことになる。サンフランシスコ講和条約は、あくまで米英蘭など、西洋諸国とのあいだのものなのである。」
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(当ブログによる解説)
「今日、もはや「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」いるわけにはいかなくなった。ということは、9条平和主義にもさしたる根拠がなくなるということであろう。」
と、佐伯氏は主張しています。
この問題を考えるについては、「現在の日本をめぐる国際情勢」をどのように評価するか、という点が重要でしょう。
特に問題ではない、と評価すれば、今も、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」よいことになります。
一方、現在の国外の状況を憂慮するべきだ、と考えれば、緊急事態前夜と考えることになるのです。
このように考えると、「現在の日本をめぐる国際情勢」に関する記述は、以下のようになるでしょう。
「 日本をめぐる国際情勢がどれだけ悪化しているかを列挙してみたい。
北方領土問題をめぐるロシア。
尖閣諸島問題におけるでの不当な態度を示す中国の態度。
核開発をやめない北朝鮮。
歴史問題に関する韓国の態度。
明らかに、日本における安全保障環境が激変しているのではないでしょうか。」
佐伯氏は、現状を直視しない性善説、つまり他人・他国を簡単に信頼する立場には立っていません。
この立場は、グローバルスタンダードからは通説でしょう。
ただし、この論点が、大学入試現代文(国語)に出題された場合には、出題者の立場に沿って考察するべきです。
また、入試小論文に出題された場合には出題者の立場に沿って論述、つまり、特に指定のない限り、課題文に賛成する方向で論述する方が賢明です。( 受験生が、短時間で、一流の学者・評論家の論考を論破できるような論文を書くことは無理でしょう。大学側がそれを要求することは、ないと思います。)
その方が、合格率がアップします。
選抜試験なので、自分の政治的立場を貫く必要はないのです。
試験は、自分の政治的立場を主張する場では、ありません。
大人になることです。
冷静になることです。
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〈「異論のススメ」の続き〉
「【7】しかも、この憲法発布後しばらくして、冷戦がはじまり、朝鮮戦争が生じる。戦後憲法の平和主義によって日本を永遠に武装解除した米国は、つねに軍事大国として世界の戦争にかかわってきた。しかも、その米国が日本の安全保障までつかさどっているのである。
【8】こうした矛盾、あるいは異形を、われわれはずっと放置してきた。そして、もしかりに米国と北朝鮮が戦争状態にでも突入すれば、われわれはいったいなにをすべきなのか、それさえも国会でほとんど論議されていないありさまである。米国がすべて問題を処理してくれるとでも思っているのであろうか。」
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(当ブログによる解説)
「こうした矛盾、あるいは異形を、われわれはずっと放置してきた。」
について、佐伯氏は、『反・民主主義論』の中で、さらに詳しく述べています。
「 すべてが日本国憲法という印章(→「水戸黄門の印籠、葵の御紋」をイメージすると、よいでしょう)の前で思考停止になってしまう。戦前では、「国体」や「天皇」を持ち出せば、直立不動、フリーズした。戦後はそれが「憲法」に変わっただけです。「憲法」という言葉の前で直立不動になってしまう人がいる。「憲法に反する」と言えば、脳内細胞がフリーズしてしまう。」( 「第一章 日本を滅ぼす『異形の民主主義』)
日本国憲法は、その条文を厳密に解釈すれば、日本は自衛権も持てないと言うことになります。
日本の防衛を事実上、カバーしたのは米軍でした。
日本の戦後の長期的な平和は、憲法9条によってのみ実現したのではなく、それ以上に強大な米軍による抑止力によって実現したのです。
これは日本国憲法についての矛盾です。
非武装平和主義を宣言しながら、その背後に強大な米軍が存在していたのです。
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〈「異論のススメ」の続き〉
「【9】憲法9条は、まず前半で「侵略戦争の放棄」という意味での平和主義をかかげる。それはよいとしても、後段にある「戦力の放棄と交戦権の否定」は、そのまま読めば、いっさいの自衛権の放棄をめざすというほかない。少なくとも自衛権の行使さえできるだけ制限しようとする。なにせ戦力をもたないのだから、自衛のしようがないからだ。これがなりたつのは、文字どおり、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」できる場合に限られるだろう。そして、そのようなことは、戦後世界のなかでは一度も生じなかった。
【10】 国連憲章を引き合いに出すまでもなく、自衛権は主権国家の固有の権利である。憲法は、国民の生命、財産などの基本的権利の保障をうたっているが、他国からの脅威に対して、それらの安全を確保するにも自衛権が実効性をもたなければならない。つまり、国防は憲法の前提になる、ということであり、憲法によって制限されるべきものではない。
【11】そのこと(→「国防は憲法の前提になる」ということ)と,憲法の基調にある「平和への希求」はけっして矛盾するものではない。平和主義とは無条件の戦争放棄ではなく、あくまでみずからの野心に突き動かされた侵略戦争の否定であり、これは国際法上も違法である。もしも、われわれが他国によって侵略や攻撃の危機にさらされれば、これに対して断固として自衛の戦いをすることは、平和国家であることと矛盾するものではなかろう。いや、平和を守るためにも、戦わなければならないであろう。」
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(当ブログによる解説)
「国家の自衛権」とは、急迫不正の侵害を排除するために、武力をもって必要な行為を行う国際法上の権利です。
自己保存の本能を基礎に置く合理的な権利であると考えられてきました。
佐伯氏は、国家の自衛権について、「誰が国を守るのか」( 『産経新聞』 2014・7・21 )の中で、より分かりやすく説明しています。
以下に引用します。
「戦後日本は、民主主義と平和主義を高く掲げ、この2つの主義を両輪にしてきた。その結果、多くの者にとっては、民主主義イコール平和主義とみなされた。民主主義者は平和主義者でなければならなかった。
にもかかわらず、戦後日本の民主主義と平和主義の組み合わせが、どうも、うさん臭いのは、この平和主義がもっぱら憲法9条の武力放棄を意味しているからにほかならない。平和愛好、構築なら誰も批判もしないだろうが、問題はその方法なのである。憲法9条といういささか特異な形態における平和主義という「方法」が問題なのである。
もっとも、いわゆる護憲派の平和主義者からすれば、憲法9条に示された平和主義こそが理想的理念だということになる。とすれば、その途端にまた、うさん臭さが露呈してくる。それは、日米安保体制の存在である。平和主義を掲げながら米軍を駐留させ、他国との交戦になれば、米軍を頼みにするというこの欺瞞(ぎまん)である。交戦とまではいかなくとも、少なくとも、戦争の抑止を米軍に依存していることは間違いない。
憲法を前提とすれば、こういう形にならざるをえない。しかしそれを平和主義といって、何やら就職活動の履歴書のように、いかにも温厚、誠実、穏健を演出しても、その背後にあるものを想起すれば、欺瞞的というほかない。
実は、民主主義はイコール平和主義ではないのである。たとえば、戦後日本で民主主義の手本とみなされたジャンジャック・ルソーは、決してそんなことはいっていない。それどころか、統治者が国のために死ねといえば、市民は進んで死ななければならない、と明瞭に書いている。言い方は少々どぎついが、端的にいえばそういうことになるのであって、それが西欧政治思想の根本なのである。
どうしてかというと、近代国家は主権によって動かされる。そして、主権者の役割は何よりまず国民の生命財産を守ることとされる。とすれば、もし主権者が君主なら、君主は彼の国民の生命財産を守らなければならない。そして、主権者が国民ならば国民が自らの手によって彼ら自身の生命財産を守らなければならない。これが道理というものであろう。とすれば、民主主義では国民皆兵が原則なのである。もちろん、具体的にはさまざまな形がありうる。しかし「理念」としてはそうなる。
こうしたいささか面倒なことを書いてきたのは、集団的自衛権にかかわる論議において、この種の原則論がまったく確認されていないことに危惧をおぼえるからである。技術的・法的な手続き論も必要だが、本当に重要なのは「誰が国を守るのか」という原則論にこそあるのではなかろうか。」
上記の論考の最終部分の「本当に重要なのは「誰が国を守るのか」という原則論にこそあるのではなかろうか。」の一文は、重要な視座と言えます。
また、この直前の「民主主義では国民皆兵が原則なのである。もちろん、具体的にはさまざまな形がありうる。しかし「理念」としてはそうなる」の部分は、現代の西洋の政治理念そのものです。
現在のスイス、スウェーデンの国防政策を見ても、このことは、明白な事実です、
この点については、以下に記述していきます。
まず、国民皆兵とは、以下のような内容の制度です。
Wikipediaから、概要を引用します。
「いわゆる国民皆兵による徴兵制はフランス革命から始まる。フランス革命以降、国家は国民のものであるという建前になったため、戦争に関しても、主権者たる国民全員が行なう義務があるということになった。そして、革命に伴う周辺諸国との戦争で兵員を確保する必要に迫られたため、ナポレオンなどによって国民軍が作られた。時代が下ると、祖国に対する忠誠義務と受け取られるようになった。
近代に徴兵制が生み出されたのは、戦争の近代化に伴って兵器の威力が増して、志願制では人員の補充ができなくなるほど戦死者が多くなったことと、国民主権の原理によって国民を戦場に駆り出す大義名分ができたのが主な理由である。
《現代》
兵器の近代化は、軍隊の省力化と定員減少をもたらし、同時に兵器運用技術の高度化・専門化を招いた。定員減少により、大量の新兵は不必要となり、訓練にも費用が掛かり過ぎるなどの理由によって徴兵制度の存在意義は低下した。現代においては、再び職業軍人の時代が到来したと言える。西洋諸国では、冷戦終了後から2000年代初頭にかけて次々と徴兵制を廃止し、イギリス・フランス・イタリア・スペインなどは志願制に移行している。」
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〈「異論のススメ」の続き〉
「【12】「平和とはなにか」という問題はひとまずおき、仮に護憲派の人たちのいうように「平和こそは崇高な理念」だとするなら、この崇高な価値を守るためには、その侵害者に対して身命を賭して戦うことは、それこそ「普遍的な政治道徳の法則」ではないだろうか。それどころか、世界中で生じる平和への脅威に対してわれわれは積極的に働きかけるべきではなかろうか。私は護憲派でもなければ、憲法前文をよしとするものではないが、そう解さなければ、「全世界の国民」の平和を実現するために,「いずれの国家も,自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」という憲法前文さえも死文になってしまうであろう。」
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(当ブログによる解説)
「平和こそは崇高な理念」 とする平和主義を考える際に、参考になるのはスイス、スウェーデンにおける国防政策です。
スイスは「永世中立国」であると同時に、徴兵制を採用している国民皆兵国家でもあります。
スイスは、強力な国防政策を採用する武装中立国家です。
「永世中立国」とは、将来もし他国間で戦争が起こっても、その戦争の圏外に立つことを意味するものです。つまり、自国は中立の立場である事を宣言し、他国がその中立を保障・承認している、永世中立の立場を取る国家です。この場合の中立は国際法上の義務です。
また、スウェーデンは非同盟中立の立場をとりつつ、自衛のために強力な軍隊を保持している武装中立国家です。
兵器の国産にも熱心で、独自の潜水艦・戦闘機などを開発・配備しています。
スイス、スウェーデンは、「カルタゴの歴史」を教訓にしているのでしょう。
日本人は国防問題を検討する際には、日本と同じような貿易国家・平和主義国家であった、かつての「カルタゴ」が滅亡した歴史を考慮する必要があるのではないでしょうか。
カルタゴは紀元前250年頃の地中海の貿易大国でした。が、その経済に脅威を感じたローマ帝国の攻撃により滅亡しました。
カルタゴ滅亡の理由としては、主として、一般的に、カルタゴ市民が軍事的防衛に無関心だったことが、挙げられます。もともと、自国の防衛は傭兵頼りの上に、平和主義的な意見が強かったのです。
なお、当ブログでは、先月、最近の国際情勢を意識して、カントの『永遠平和のために』についての解説記事を発表しました。
ぜひ、ご覧ください。
(3)佐伯啓思氏の紹介
1949(昭和24)年、奈良県生まれ。社会思想家。京都大学名誉教授。東京大学経済学部卒。東京大学大学院経済学研究科博士課程単位取得。2007年正論大賞。
著書は、
『隠された思考』(筑摩学芸文庫)(サントリー学芸賞)
『時間の身振り学』(筑摩書房)→神戸大学、早稲田大学(政経)で出題
『「アメリカニズム」の終焉』(中公文庫)(東畑記念賞)
『現代日本のリベラリズム』(講談社)(読売論壇賞)
『現代社会論』(講談社学術文庫)
『自由とは何か』(講談社現代新書)→立教大学、法政大学で出題
『反・幸福論』(新潮新書)→小樽商科大学で出題
『倫理としてのナショナリズム』(中公文庫)→関西大学で出題
『日本の宿命』(新潮新書)
『正義の偽装』(新潮新書)
『西田幾多郎・無私の思想と日本人』(新潮新書)
など多数。
(4)当ブログの、佐伯啓思氏の論考に関連する記事の紹介
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今回の記事は、これで終わりです。
次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。
ご期待下さい。
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- 作者: 斎藤隆
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