現代文最新傾向LABO 斎藤隆

入試現代文の最新傾向を分析し、次年度の傾向を予測する大胆企画

予想問題/『大政翼賛会のメディアミックス』大塚英志/メディア論

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 

 大塚英志氏は入試頻出著者です。

 大塚氏の論考は、最近では、立命館大学、関西大学、文教大学、大阪教育大学等で出題されています。

 最近、大塚氏は、『大政翼賛会のメディアミックス 「翼賛一家」と参加するファシズム』(平凡社)を発表しました。

 この論考は、「ファシズム」(全体主義)、「シェア」、「動員」、「大きな物語」、「日本文化論」、「日本人論」、「歴史認識」、「メディア論」等の入試重要論点について、鋭い問題意識を示しています。

 このような問題意識に、難関大学の入試問題作成者(教員)は注目するのです。

 

 そこで、現代文(国語)・小論文対策として、今回の記事で、この論考、特に、本質論、大塚氏の主張が展開されている「序章」と「あとがき」の部分を、大塚氏の他の論考も紹介しながら、詳細に解説します。

 

 なお、以下の部分も要注意です。

第2章「メディアミックスする大政翼賛会」、

第3章「『町内』という世界」。

 

 ところで、今回のこの記事は、最近、当ブログで発表した記事(→『予想問題/「シェアの未来/翼賛に通じる『共有』賛美」大塚英志』)に関連しています。

 ぜひ、こちらも参照してください。

 

 

gensairyu.hatenablog.com

 

 

 今回の記事の項目は、以下の通りです。

 記事は、約1.5 万字です。

(2)予想問題/『大政翼賛会のメディアミックス』「序章」についての解説

(3)予想問題/『大政翼賛会のメディアミックス』「あとがき」についての解説

(4)「参加型ファシズム」における「動員」について

(5)「翼賛体制」と「シェア」の関係性について

(6)対策論

 

 

大政翼賛会のメディアミックス:「翼賛一家」と参加するファシズム

大政翼賛会のメディアミックス:「翼賛一家」と参加するファシズム

 

 

 

 まず、『大政翼賛会のメディアミックス 「翼賛一家」と参加するファシズム』についての《出版社による「BOOK」紹介》を引用します。

 

【出版社による「BOOK」紹介】( 本書表紙の内側の記述でもあります )

「  戦時下、大政翼賛会が主導して「翼賛一家」というキャラクターが生みだされた。多くの新聞、雑誌にまんがが連載され、単行本もいくつか出版されるが、「翼賛一家」の展開はそれだけではない。それは、レコード化、ラジオドラマ化、小説化もされる国策メディアミックスであり、読者からの参加を募ることによって、大衆の内面を動員するツールだったのだ。

「町内」という世界観や銃後の心得を人々に教え込み、やがては植民地政策の一環として台湾へも進出する「翼賛一家」とは一体何だったのか──。
「自由な表現」が可能になった現在、私たちは無自覚に「表現させられて」はいないのか。現代への視座にも富んだ刺激的論考!



(2)予想問題/『大政翼賛会のメディアミックス』「序章」についての解説


(太字は「序章」の本文です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です) 

 

(『大政翼賛会のメディアミックス』「序章」)

「翼賛一家」というまんがが、戦時下にあった。昭和十五年末から、多くの新聞、雑誌に連載され、単行本もいくつか出た。レコード化、ラジオドラマ化、小説化などもされた。これは今のことばで言えばメディアミックス作品である。

 本書はこの「翼賛一家」のメディアミックス

 (→メディアミックスとは、アニメ、音楽、ゲーム、キャラクター商品など、複数の媒体を使い、同時進行的に展開する広告・宣伝の手法です。現代日本で、私達が日常、目にしているものです。)

 について考えるものである。

「翼賛一家」が戦時下における政治的動員の手段として意図され、仕掛けられた「メディアミックス」であった点は本書で検証していくが、それまでの多メディア展開と異なる点が大きくいって三つある。


 

(当ブログによる解説)

 現代において、「漫画」は、軽いもの、ふざけているものとして、一段低く見られている側面があります。

 しかし、戦前に、漫画は、厳粛性に反するもの、ふざけているものとして、一方的に抑圧されていたのではないのです。

 むしろ、逆に、国民の内面、心を「動員」するために活用されていたのです。

 これは、驚くべきことであり、興味深いことです。

 私達は、「漫画」についての、常識的位置付けを改めた方がよいでしょう。

 「漫画」の持つ影響力、さらに言えば、「漫画表現に潜む危険性」を意識するべきなのです。

 「翼賛一家」は、長谷川町子の「サザエさん」のような、家族の日常生活を主題にした漫画です。

 

 本書で「翼賛一家」の漫画の写真を見ると、すぐに分かりますが、何人かの登場人物は、「サザエさん」に、よく似ています。

 

(→ここで「翼賛一家」の「漫画の写真」に関連して、「民俗学的手法」について解説します。

 「民俗学」とは、概説すると、「民間の生活様式や伝統文化を研究する学問」です。

 日本民俗学は、柳田国男が基礎を築き、弟子の折口信夫らが継承したと言えます。柳田民俗学は歴史学批判から出発しています。すなわち、従来の歴史学においては、文献研究を偏重しすぎ、歴史の真の実像を把握していないのではないかとの疑問から、民俗学的立場より、正しい日本の歴史を明確化するべく、柳田独自の理論を構築しているのです。

 柳田国男は「重出立証法」と呼ぶ研究手法を主張しています。

 はじめに、柳田国男は文献史料研究に片寄っている歴史学の姿勢を徹底的に批判した上で、日常的事象に注目しました。そして、それらの広域的収集、比較検討により、歴史の変遷を知ろうと試みたのです。この手法を「重出立証法」と名づけ、民俗の変遷こそが「歴史」に他ならないと述べています。そして、この手法を基礎とした学問を「民俗学」と呼んだのです。

 本書もそうですが、筑波大学で日本民俗学を研究した大塚英志氏の評論に写真が多いのは、「民俗学的手法」を意識しているからでしょう。だからこそ、大塚氏の評論は、臨場感に満ちていて、分かりやすいのです)

 「翼賛一家」の「大和一家」は11人家族です。

 

 「大和一家」の顔触れは、

主人の賛平さん(体操教師)→「サザエさん」の「波平」に似ています❗

妻のたみさん、

爺さんの武士(たけし)さん、

婆さんのふじさん、

長男の勇君(会社員)、

長女のさくらさん、

二男の次郎君(大学生)、

次女のみさお(女学生)、

三男の三郎君(小学生)→「サザエさん」の「カツオ」に似ています❗

三女の稲子さん(小学生)→「ワカメ」に似ています❗

四女の昭子ちゃん、

です。

 

 「サザエさん」と「翼賛一家」の類似は、かなり明らかでしょう。 

 ただし、大塚氏は以下のように強調しています。

 

「サザエさん」と「翼賛一家」の類似は、こういったキャラクターの類似ではなく、「一家」と「町内」という枠組みの継続にこそ見て取るべきである。

(『大政翼賛会のメディアミックス』「第2章」)

 

 

(『大政翼賛会のメディアミックス』「序章」)

 一つ目は、これがあらかじめ多メディア展開を想定したものである、ということ。つまり、最初から「メディアミックス」という企画であったということ。「翼賛一家」の場合、同名のまんがなり小説なり、何かまず一つのメディアで「原作」に相当する作品が大ヒットし、その人気に便乗する形で二次的にアニメーションや映画、舞台などがつくられたわけではない。最初からメディアミックスを想定したキャラクターと舞台設定が用意され、事前に受け手に対して示された。個別の作品が受け手に届けられる前に、今風に言えばキャラクター設定や舞台背景が新聞各紙などで広く公開されたのである。このようにして示されたキャラクターや設定が、複数のつくり手に共有され、いくつものまんがや舞台、レコード、人形劇、紙芝居、ラジオドラマ、浪曲などの多メディア展開がなされたのである。そこには、いわゆる「原作」に相当する作品は存在しない。それぞれのつくり手が、示された「キャラクター」と「設定」の範囲内で、自由に創作するのである。

 

 二つ目は、この多メディア展開においていわゆる「二次創作」が推奨された点である。言い方を換えると「オリジナルの作者」が固有名を持った形で存在しない、ということだ。『朝日新聞』東京版での連載はあらかじめキャラクターと舞台設定を提示した上で、読者から「投稿」を募るものだった。アニメーションの脚本はアマチュアからの公募で行われ、当選者として「現在父とともに塗装業を営みつつ文学を愛好する青年」が顔写真入りで報じられている。舞台については既存の劇団による公演とは別に、アマチュアが上演するための演劇、及び人形劇の脚本が、演出方法や人形製作のマニュアル入りでつくられた。

 

(当ブログによる解説)

 『まんがでわかるまんがの歴史』(ひらりん・大塚英志)(「第14講 戦時下、朝日新聞社は何故、二次創作を呼びかけたのか」)にも、戦時下にあった「メディアミックス」の話として、大政翼賛会主導による「大和一家」という作品が取り上げられています。

 翼賛体制のもとに作られた「新日本漫画家協会」がキャラクターの設定を作り、朝日、読売、国民、東京毎夕の各新聞でまんがが連載されました。

 さらに、他の雑誌や台湾の新聞にも時々掲載されたとのことです。

 朝日新聞は、読者から二次創作の投稿を、大々的に募っていました。 

 その他にも、何と、ラジオドラマ、小説、キャラクターグッズ、盆踊りの音頭さえもあったようです。

 

 

(『大政翼賛会のメディアミックス』「序章」)

 三つ目は、この二次創作を含む多メディア展開を「原作者」でなく、第三者が「版権」として統一的に管理していることである。個々のつくり手より「版権」が上位にあり、これを一つの機関が管理するという仕組みなのである。この版権元の許諾を以て、個々のつくり手は初めて「翼賛一家」のまんが制作やメディア展開が可能になる。

 

【角川メディアミックスの起源として】

 このようなあらかじめ多メディア展開を前提につくられた企画であること、二次創作の推奨、第三者による版権管理は、現在の「メディアミックス」と同じビジネススキームである。おそらく、現在の若い世代にとっては、むしろ、まんが・アニメ・ゲームはこのようにつくられることの方が普通に感じられるだろう。「二次創作」も海賊版的行為でなく、版権元の許諾の下に商業出版され、同人誌活動も推奨される。まんがなどの「原作」がヒットして「アニメ化」「映画化」されるのではなく、「キャラクターや舞台設定」(いわゆる世界観)がメディアミックスを前提に用意され、メディア、デバイスごとに作品がアウトプットされる。「翼賛一家」は正にその形である。

 

 

(当ブログによる解説)

 大塚氏は、「翼賛一家」について、本書の他の部分で以下のように述べています。

 この指摘は、現代日本社会とも、決して無縁ではないことを、強く意識するべきだと思います。

 特に、東日本大震災の直後から「絆」の過度の強調、賞揚が目立ち、国民の側からの違和感があまりなかったことは、注目するべき現象と言えるからです。

 

「翼賛一家」の舞台は町内である。一家(家庭)➡町内(隣組)➡国家が、ピラミッド型のヒエラルキーではなく入れ子構造をイメージさせるものとして家庭と隣組の関係はあった。そして、「隣組一家」は「皇国一家」の単位である。

(『大政翼賛会のメディアミックス』)

 

  

(『大政翼賛会のメディアミックス』「序章」)

 現在のこのような形式のメディアミックスは、一九八〇年代後半に角川書店でビジネスモデル化されたものだと言われている。そして、ぼくは、かつてこの仕組みを「つくった」当事者の一人でもあった。そのことは、ぼく自身が北米のアニメーション研究者マーク・スタインバーグの研究対象になることで、検証されている(マーク・スタインバーグ著/大塚英志監修/中川譲翻訳『なぜ日本は〈メディアミックスする国〉なのか』、平成二十七年三月七日、角川学芸出版)。

 これまでぼくは、このような仕組みは、自分たちが「新しく」つくったと思い込んでさえいた。だが、驚くべきことに、同じ形式が戦時下に存在したのである。

 しかし、「翼賛一家」が一九八〇年代から今に至る角川型メディアミックスと決定的に異なる点が一つある。それは、このメディアミックスが戦時下のプロパガンダ、すなわち、翼賛体制への総動員のツールとして用いられ、そして何より、「版権」の管理元が大政翼賛会である、ということである。

 ぼくは長い間、自分たちが「つくった」と思い込んでいたメディアミックスの手法が、戦時下のメディアミックスと同じ枠組みのものであることについては無自覚であった。しかし角川書店が読者を映画館や商品の購入へと「動員」する技術と、翼賛会が国民を戦時体制、そして戦場へと「動員」した技術は実は「同じ」なのである。

 そもそも「宣伝」ということばは戦時下において企業広告やマーケティング技術ではなく、プロパガンダを意味した。そして、戦後の「宣伝」の基礎が戦時下につくられたことについては、多くの証言や研究がある。ぼくたちが「メディアミックス」の実践に夢中であった一九八〇年代、そこに関わった人間は誰一人「翼賛一家」の存在は知らなかった。北米のゲームシステムを援用した新しいメディア展開をつくり出しているつもりだった。そのあたりのことは関係者の証言をまとめたので、興味のある方は参照されたい(安田均・水野良ほか監修/マーク・スタインバーグ編/大塚英志・谷島貫太・滝浪佑紀『『ロードス島戦記』とその時代──黎明期角川メディアミックス証言集』、平成三十年三月二十五日、角川文化振興財団)。

 


 
(当ブログによる解説) 

 本書『大政翼賛会のメディアミックス』は、80年代後半に角川メディアミックスを自分自身が「作った」と思い込んでいた大塚英志氏が、それが実は戦中に遡ることを証明した書なのです。

 40年前に、自分と同じようなアイデアが、大掛かりに実行されていた。

 その事実を知った時は、本人にとっても衝撃だったでしょう。

 「大政翼賛会」の巧妙な先進性については、現代の日本人も知っておく必要があります。

 あの当時の戦争指導者の中には、魔術的な「メディアミックス」を考案した、特殊な「異能」とも言えるような知恵者がいたということです。

 

 

(『大政翼賛会のメディアミックス』「序章」)

 今にして思えば、一方でそれは、未だ、姿形さえ見えなかったSNSの時代とメディアのあり方を予見していたようにも思える。現在の角川型メディアミックスは、プラットフォームが「投稿」の場を管理し、見かけ上は自由な表現が担保されている。だから、角川はプラットフォーム企業に変化もした。今や、「投稿」というメディアとの接触行為が、人々の日常に当たり前すぎるほどに組み込まれている。誰もが自由に情報や意見、自己表現を発信できる新しい時代の到来のようにも思える。

 しかし、そこで、私たちは本当に「自由に」表現しているのだろうか。プラットフォームに「投稿」することが日常化した現在において、「投稿する人」は実は無自覚に「表現させられて」はいないのか。何故なら、角川型、SNS型のプラットフォームはユーザーに「投稿させる」ことで成り立つビジネススキームだからである。私たちは、実はプラットフォーム企業を介して「投稿させられている」「表現させられている」のではないか。

 

 

(当ブログによる解説)
 上記に関連して、大塚氏は、『週刊ポスト』(2018年12月21日号)の本書の「(自著)書評」の中で、「参加型ファシズム」とweb社会の関係について、注目するべきことを述べています。

 

「翼賛一家」メディアミックスは、外地でも展開、台湾では「ニコニコ共栄圏」なるプロパガンダに合流するのも冗談でなく本当だ。作品としては何一つ見るべきものを残さなかったが、版権の統一管理は現在のメディアミックスの基本。メディアミックスの語自体、翼賛会周辺にいて後に「電通」などの中核になった人々が戦後使い出したことばなのだ。

 だが、気づいてほしいのは、あの戦争の、あの体制は「素人」が「投稿」を通じて、自ら動員される参加型ファシズムであって、何だかとてもよく似たものをぼくはwebで日々見ている気がする、ということだ。

(『週刊ポスト』2018年12月21日号【書評】『大政翼賛会のメディアミックス 「翼賛一家」と参加するファシズム』(大塚英志)《評者》大塚英志)

 

 現代文明のキーワードは、「人々の受動性」です。 

 マスメディア、高度に制度化された教育機構の中で、人々は、知らぬ間に受動性を内面化してしまうのです。

 そして、外形上は、自主的参加の環境の下で、何の反発も感じずに、大きな黒い渦に呑み込まれてしまう。

 この危険性は、現代においてこそ、より顕著になっていると言えるでしょう。

 このことを、大塚氏は懸念しているのです。

 

 

(『大政翼賛会のメディアミックス』「序章」)

 そういう「今」の問題を考えていく上で、手塚治虫の証言が重要である。戦後まんがの基礎を構築した手塚は、自分の作家デビューは「翼賛一家」だと述べているのである。

 何故、手塚治虫は「翼賛一家」を描いたのか。

 ぼくには、そのことが、誰もが「投稿」する時代の密やかな始まりが、戦時下に用意されていたことの証のようにも思える。しかも、それは今で言う「メディアミックス」の枠組みの中で、なされたのである。

 

 

(当ブログによる解説)

 大塚氏は、「メディアミックス」のある種の「危険性」を、本書の他の部分で以下のように述べています。

「  翼賛体制が、昭和研究会の生硬な「思想」としての「協同主義」を、最終的に「感情」という非論理的なものの動員のレベルに持っていくまでの制度設計は、参加型メディアミックスをそこに組み込むことで思いのほか、実効性のあるものになっている。

(『大政翼賛会のメディアミックス』)

 

 つまり、「参加型メディアミックス」は、「大衆の内面を、根こそぎ動員していくツール」として、意外な程に効果的だったということです。

 

 

(『大政翼賛会のメディアミックス』「序章」)

 戦時下、「メディアミックス」という便利な和製英語は存在しなかった。それ故、戦時下のプロパガンダを「メディアミックス」として分析する視点はこれまで、ほとんど存在しなかった。だから、まんがやアニメファンの感覚でも、学術研究でも、「メディアミックス」は何となく戦後の新しい現象のように扱われてきた。だが、「メディアミックス」として戦時下プロパガンダを捉え直すことで、初めて見えてくる光景が確実にある。その光景は不気味なほどに「現在」と重なり合ってくるようにも思える。

 本書をぼくが執筆しようと思った動機はまさにこの点にある。

(『大政翼賛会のメディアミックス』「序章」)

 

 

(当ブログによる解説)

 『大政翼賛会のメディアミックス』の「ポイント」のようなことを、大塚氏自身が前に引用した『週刊ポスト』(2018年12月21日号)で書いているので、以下に引用します。

 

「  日米開戦のちょうど一年前、発足直後の大政翼賛会宣伝部が自ら「版権」を握った「翼賛一家」なるまんがのキャラクターデザインと設定を朝・読・毎など全国紙各誌で一斉に公開、プロからアマチュアまで国民参加のメディアミックスを仕掛けた、って何か三谷幸喜の舞台にでもありそうな話だけど実話。

 人気まんが家から若手まで総動員で。一斉に複数の作家による新聞雑誌の同時多発連載、単行本も続々。そこに新人・長谷川町子や酒井七馬が混じる。病み上がりの古川ロッパは年末にレコーディングに翻弄、NHKはラジオドラマ、金語楼の新作落語。

 この「翼賛一家」(というより翼賛会のメディアミックス)は「素人」参加が肝。実は「素人」という語は翼賛用語。前のめりの朝日新聞は、キャラクターを使った読者の二次創作まんがを募集、その参加する「素人」の一人として、終戦の年、大学ノートに翼賛一家のキャラクターを用いた二次創作を書き残したのが16歳の手塚治虫。最後の「翼賛一家」の作者であった。

(『週刊ポスト』2018年12月21日号【書評】『大政翼賛会のメディアミックス 「翼賛一家」と参加するファシズム』(大塚英志)《評者》大塚英志)

 

 戦後に活躍する多くの文化人が、大政翼賛会のプロパガンダに協力していることは、意外です。

 本書(『大政翼賛会のメディアミックス』)によると、ある人は熱心に関わり、ある人は自己嫌悪を日記に吐露していたようです。

 本書は、「戦争と文化人との関係」に注目しています。

 そして、その点を、冷徹に告発しています。

 改めて、「文化人の戦争責任」、「文化人の政治的モラル」について考える必要があるのではないでしょうか?

 過去の問題としてだけではなく、現代の問題としても、です。

 国民全体がこのことに自覚的であるべきでしょう。

 

 戦時下、大政翼賛会主導で「翼賛一家」という漫画が生み出されました。

 レコード、小説、人形劇などへの展開も見られた。

 そして、それらは、国民動員のツールとして、効果的に機能したという歴史がある。

 日本文化史の深層に眠っていた、この意外な事実を大塚英志氏は、見事に発掘したのです。

 さらに、大塚氏は本書で、「翼賛体制」を支えた漫画を主とする「メディアミックス」が、戦後に、どのように応用され、増殖し、拡散したのかも分析しています。

 この分析の過程は、ミステリアスで、推理小説の味わいがあります。

 

 

(3)予想問題/『大政翼賛会のメディアミックス』「あとがき」についての解説

 

(太字は「あとがき」の本文です)

  

 『大政翼賛会のメディアミックス』については、「あとがき」の部分も、難関大学入試の現代文、小論文として出題される可能性が高いと思います。

 従って、大塚氏の主張が色濃く出ている部分を以下に引用しておきます。

 鮮烈な見解が簡潔に記述されているので、何回か熟読して、じっくりと理解するとよいでしょう。

 

 「「メディアミックス」という和製英語は、戦時下に達成された宣伝技術に対し戦後に名付けを行ったものだった、とさえ思えてくる。戦時下メディアの方法論は戦後、広告業界と新興産業のテレビに継承されるが、メディアミックスも例外ではないはずだ。」

(『大政翼賛会のメディアミックス』「あとがき」)

 

「  私たちが歴史を描こうとする時、そこには、しばしば、それぞれの政治的、あるいは、職業的立場などから見て、不都合な事実がある。例えば、ぼくはまんが業界の一員だが、手塚、長谷川、酒井らへの言及に躊躇しないわけではない。政治的には、ぼくは「パヨク」「極左」の類いのようだが、戦後民主主義を一貫して擁護してきた。だからといって、リベラルなメディアや文化人の戦時下の行動に「配慮・すべきだとは思わない。」

(『大政翼賛会のメディアミックス』「あとがき」)

 

「ぼくはいつも、私たちの戦後の表現は戦時下に多くの出自があると主張してきた。しかし、それを以て戦時下の一つ一つの表現を糾弾するのでも、逆に、そのような表現が生み出したから、あの戦争は正しかったと主張するものでもない。不都合な歴史を排除しない歴史を描く態度が、恐らく今の私たちに強く求められていることだと信じるからだ。」

(『大政翼賛会のメディアミックス』「あとがき」)

 

 大塚氏は、歴史を、偏見を持たず、冷静に、客観的に俯瞰すること、過去と現在の密接な関係性を一概に否定するべきではないことを、強く主張しているのです。

 当然と言えば当然のことなのですが、日本人にとっては、たとえインテリでも、このことが分からないことが多いので、大塚氏は、あえて述べているのでしょう。

 この点は、歴史認識における日本人の致命的弱点です。

 

(4)「参加型ファシズム」における「動員」について

 

 「参加型ファシズム」を考える際には、「動員」が大きな論点になります。

 この点については、最近の大塚氏のインタビュー記事(大塚英志・インタビュー「感情が政権と一体化、近代に失敗しすぎた日本」大塚英志『朝日新聞』2019年1月2日)が、かなり参考になるので、以下に引用します。

 

━━動員の問題も、80年代の『物語消費論』で大塚さんが論じたテーマですね。

 「考える問題としては持続していますが、大きく僕の立場は変わりました。あのとき、ぼくは広告代理店や出版社の周辺で、人を動員する理論について考えて実践するのが仕事だった。作品のテーマや中身、人の心を本当に打つことをしなくても、つまり、空っぽのもので、人は動員できるんだよな、と考えていた。それがメディアミックスの技術論です。しかし、当時自分で考えた新しい理論のつもりだった動員の技術が実は戦時下によく似たものとしてあったことに気がつき、「大政翼賛会のメディアミックス」という本を書きました」

「大政翼賛会は昭和15年、近衛新体制の発足に合わせて「翼賛一家」という読者参加型のメディアミックスを作り出しました。

 翼賛会がキャラクターや世界観の「版権」を持っていて、古川ロッパが音楽を作ったりね。朝日、読売、毎日に漫画が連載されたり単行本も出たりして、まんが家なら横山隆一のような売れっ子のみならず、新人の長谷川町子や無名の酒井七馬たちの名前もありました。

 しかし、朝日は「このキャラクターを使って、漫画を投稿してください」と「二次創作」の「投稿」を呼びかけた。

 「投稿」という、今、ネットで私たちが普通に使うことばは実は翼賛体制用語です。「素人」というのも翼賛体制独特の用語で、「翼賛一家」は、アマチュアに翼賛会が二次創作的な参加を求め、動員するプロパガンダの技法です。 

 ですから、漫画だけでなく「素人」が「翼賛一家」の人形劇を人形から作るためのマニュアルも販売されました。

 アマチュアだった手塚治虫は「翼賛一家」を習作として書き残しています。つまり、創作する「素人」の「投稿」参加型動員企画だったのです」

 「このように翼賛会のプロパガンダにアマチュアの創作的参加を組み込むことが、これも翼賛体制用語でいう「協同(協動)」でした。

 「欲しがりません勝つまでは」は、戦後、『暮しの手帖』を創刊する花森安治が翼賛会にいて、投稿から選んだものです。

 戦時標語は多くが「投稿」です。国民歌謡も、川柳、ポスターも投稿。

 それから、映画のシナリオの投稿がすごく多い。漫画だとか、模型とか、秘密兵器のアイデアとか、あらゆるものの「投稿」が公募されました。

 大抵、翼賛会や軍、情報局とともに各新聞社が主催、共催する「協動」です。「投稿」の専門誌やハウツー本もあった。そういう参加型のファシズムを戦時下翼賛会がつくったんですよ」

 

━━ そのほうが共感や一体感が出る。

「そうです。そのときに、理屈はいいんだ、みんなで何かをやることで感情が一つになるんだということです。「感情」という言葉も、実は近衛新体制の文献の中で、よく目にするキーワードです」

 

━━ 一見、「個」と親和性がありそうです。

「近衛新体制は個を否定しますが矛盾しません。「翼賛一家」ならキャラクター、標語ならその時々のプロパガンダのテーマがある。それをシェアする。そして、「個人」としての作家、芸術家の作ったのでなく、みんなで投稿して、みんなで作ったものだから共有できるよねって」

「重要なのは、稚拙でいいんだ、あなたの気持ちをぶつけてください、ということです。

 それを投稿していく、共有していく、気持ちが一体化していくというのは、今でも、ツイッター含めたSNSで繰り返されているでしょ? 

 この「協働」って単語は、2000年代以降は代表的クールジャパン用語です。

 二次創作「協働」なんだそうです、クールジャパン的には」

 

━━ 戦争に向かうときにも使えるわけですよね。

「かつては。ただ、武力の戦争というものは、もう出来ないでしょう。リスクに対してメリットが小さすぎる」

「中国や北朝鮮が攻めてくる的イメージがずっと繰り返されてきましたが、「攻めてくる」のは、無国籍なグローバルな経済の波です。その意味での「見えない戦争」はとっくに始まっていて、もう負けていますね。さっき言ったように「移民」法は成立、水、固有種の種子といった、いわば国家の基本をなすようものはどんどん外資に譲り渡す流れになっている。日本の中で「勝っている」人は確かにいるけれど、それはグローバルな経済の方に飛び乗った人たちで、私たちの大半はもう「負けて」いる。

 だから、ここにあるのは、もう焼け野原なのかもしれない。でも、かつての「戦後」は、この国が「近代」をやり直すチャンスだったわけで、もう一回、「近代」及び「戦後」をやってみるしかないでしょう。」

(大塚・インタビュー「感情が政権と一体化、近代に失敗しすぎた日本」大塚英志『朝日新聞』2019年1月2日)

 

 上記の最後の部分は、厭世的になっています。

 世の中の動きが見えてしまうと、こうならざるを得ないのでしょう。

 

 ところで、「参加型のファシズム」においては、「きっかけ」は受け身であっても、最終的には自主的な「動員」が不可欠なのです。

 そして、いかに自主的な「動員」を産出していくか、そこに「メディアミックス」の存在価値があるのでしょう。

 国民自らが燃え上がることが、必要不可欠だからです。


(5)「翼賛体制」と「シェア」の関係性について

 

 最近流行の「シェア」という用語は、「翼賛体制」下での「協同主義」に極めて類似しています。

 そもそも、「シェア」自体が、「メディアミックス」の重要な構成要素になっているのです。

 

 しかも、「シェア社会は弱者救済からの逃げ道」でもあるのです。

 となると、「シェア」という用語には、大いなる警戒が必要になるのです。

 最近、大塚氏は、このような視点からの主張を繰り返し述べています。

 その一例として、『週刊ポスト(2019年3月8日号)』の、
『社会運動 0円生活を楽しむ シェアする社会』(市民セクター政策機構)についての大塚氏の「書評」を以下に引用します。

 

「  シェアリング、という言葉をこの頃、よく聞く。去年、リベラルな新聞社からそのテーマで取材依頼を受けて会ってみたら、どうやらモノに憑かれた旧「おたく」の象徴としてのオマエに、物欲から解放された新思想に対して反省の弁を述べよという主旨が見え見えだった。

 嫌なこったと、戦争中、その新聞が、家事や育児や調理器具などを隣組で共有しようという大政翼賛会のプロパガンダに乗った記事を書きまくったことを、その場で新聞社のデータベースに入り込んで実物を見てもらったが、あなたはシェアを否定するのかとかえってくってかかられた。そして、記事になると、シェアビジネスの推進者と政府の民間委員っぽいことをやっている人のシェア礼賛のコメントの隣で、それを否定するぼくだけが浮いていた。

 このシェア、という問題、このところ、政府周辺のビジネスに敏感な人々と左派の間の奇妙な共有のキーワードになっている。翼賛体制の時は、それは「協同主義」と言って、元左翼で翼賛会に流れ込んだ人たちが持ち込んだ思想だった。と、そう言うと多分もっと嫌な顔をされたんだろうが、リベラルな市民運動の機関紙で「シェアする社会」の特集を見るとやはり気になる。

 隣保共助は、福祉や弱者救済からの政治の逃亡の言い訳なのになあ、今も昔も、とぼくは思う。ぼくにはシェア社会の礼賛は、要は自分らで解決しろという、一つ間違うとマイルドな自己責任論のような気がする。今、子育てや弱者救済に回すお金がないのは、オリンピックやイージス・アショアに無駄金使ってるからだろうと、正しい税の分配を主張すべきなのが左派の立ち位置ではないのか。

 シェア社会を「運動化」するなら、そういう近隣のコミュニティが、一瞬でファシズムの下部構造に変わった歴史を踏まえておかないと、とぼくは思うけど、こういうことを言うから右からも左からも嫌われるんだろうな。

(『週刊ポスト』(2019年3月8日号)【書評】『社会運動 0円生活を楽しむ シェアする社会』(市民セクター政策機構)《評者》大塚英志)

 

 上記の
「シェアリング、ということばをこの頃、よく聞く。去年、リベラルな新聞社からそのテーマで取材依頼を受けて会ってみた」

「記事になると、シェアビジネスの推進者と政府の民間委員っぽいことをやっている人のシェア礼賛のコメントの隣で、それを否定するぼくだけが浮いていた」

における「記事」は、

「シェアの未来」「翼賛に通じる『共有』賛美」(《耕論》『朝日新聞』2018年6月15日)をさしています。

 

朝日新聞デジタル

朝日新聞デジタル

 

 

 

 この新聞「記事」については、前述のように、最近、当ブログで解説したので、そちらも参照してください。

 

 

gensairyu.hatenablog.com

 

 

 以下に、上記の当ブログの最近の「記事」(→『予想問題/「シェアの未来/翼賛に通じる『共有』賛美」大塚英志』)の一部を引用します。

 

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 (「翼賛に通じる『共有』賛美」大塚英志)

 いま、二次創作という形でキャラクターをシェアする文化があります。大政翼賛会は「翼賛一家」というキャラクターをシェアさせました。隣組は一つの「一家」であり、八紘一宇(はっこういちう)の象徴です。朝日新聞はその意をくみ、「翼賛一家」キャラクターを使った読者の投稿漫画、つまり二次創作を募っています。このキャラクターは、ほかの分野でもシェアされ、一般の人々がこれを用いた人形劇を作るマニュアルまで作られました。

 翼賛体制は、そうやって「愛国心のシェア」を進めたわけです。

 そもそも「シェア」と「社会」は同義のはず。近代化の過程で、自由主義経済がもたらす貧困や格差の問題を「社会問題」と呼び、それは解決の責任が社会にあるという意味でした。社会とは本来、責任をシェアする場です。そして、シェアした責任を遂行するシステムが「国」です。

 それがいまは、格差も貧困も自己責任論がまかり通っています。NPOや民間の善意に任せ、国家がシェアすることを忌避しようとする社会問題があまりに多い。だから、この種の自己責任論を有権者が不用意に語ることは、社会問題をシェアしない国家を許し、自身も社会のシェアを拒むということになりかねないと思います。

 「日本」や「愛国心」というものがシェアされて、「社会」はシェアされないなかで、しょせんは起業家向けのビジネスモデルに過ぎないシェアリングエコノミーなるものが賛美されるのは、いささかグロテスクです。

 (「シェアの未来」 「翼賛に通じる『共有』賛美」 大塚英志 《耕論》『朝日新聞』2018年6月15日)

 

 
 (当ブログによる解説)

 ここでは、国、社会、マスコミが、「社会のシェア」とは別に、「シェアリングエコノミー」を無批判に賛美していることが問題なのです。

 「社会のシェア」とは、「公共性」・「社会性」を意味します。

 「社会のシェアを拒むということ」は、結局は、「公共性」・「社会性」の存在を否定することです。

 「自己責任論」を徹底すれば、「公共性」・「社会性」の存在する意味はなくなります。

 

 大塚氏の『愚民社会』によれば、そもそも、近代以前の日本に、「公共性の伝統」はあったのです。

 以下に引用します。

 

  本当は「空気」を読むのではない形での共同体と共同体の間の利害調整とか、共同体内の合理的な利害調整が、近代以前の社会になかったのかといったら、あったはずなのです。ぼくの専門ではありませんが、民俗学では例えば水利権とかです。ムラの中でどうやって水を再配分していくのか、村落共同体の中と、更に対立する村との間でどうやって利害調整していくのかについてはかなり合理的なシステムや、協議の具体的な痕跡が残っているので、そういうノウハウはあったわけです。

 ただ、そうしたノウハウを「近代」の中で、近代的個人や新しい公共性としてつくり変えていうことしないで、村落共同体が経済共同体として崩壊していくとともに、その課題が持ち越されなかったということですね。 

(『愚民社会』大塚英志)

 

(当ブログの最近の「記事」(→『予想問題/「シェアの未来/翼賛に通じる『共有』賛美」大塚英志』)の引用終了

 

 

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愚民社会

愚民社会

 

 

 

 

(6)対策論

 

 どうすべきなのか?

 今、私達に必要な心構えとは、どのようなものでしょうか。

 まず、前述の大塚氏の見解をよく咀嚼する必要があるでしょう。

 ポイントとなる部分を以下に再掲します。

 

「  戦時下、「メディアミックス」という便利な和製英語は存在しなかった。それ故、戦時下のプロパガンダを「メディアミックス」として分析する視点はこれまで、ほとんど存在しなかった。だから、まんがやアニメファンの感覚でも、学術研究でも、「メディアミックス」は何となく戦後の新しい現象のように扱われてきた。だが、「メディアミックス」として戦時下プロパガンダを捉え直すことで、初めて見えてくる光景が確実にある。その光景は不気味なほどに「現在」と重なり合ってくるようにも思える。

 本書をぼくが執筆しようと思った動機はまさにこの点にある。」

(『大政翼賛会のメディアミックス』「序章」)

 

「  不都合な歴史を排除しない歴史を描く態度が、恐らく今の私たちに強く求められていることだ。」

(『大政翼賛会のメディアミックス』「あとがき」)

 

 また、大塚氏の『物語消費論改』にも参考になる記述があります。


 大塚氏は、本書において、「復興」、「愛国」、「反原発」といった「大きな物語」に魅了されている人々の動きは、結局は「ファシズム」に回収されかねないと懸念しています。

 従って、現在必要な態度として、以下のように、「大きな物語」から「降りること」の重要さを述べています。

 

 「降りること」は世界に対するゲームに用意されたマップや攻略本を捨てることだ。しかし、それは現実と書物と双方の世界で、きっちりと「迷う」ことの選択である。

(『物語消費論改』大塚英志)

 

物語消費論改 (アスキー新書)

物語消費論改 (アスキー新書)

 

 

 

 ここで、特に、思いおこすべきは、フロムの『自由からの逃走』です。

 フロムは、「自由」が「邪悪なもの」へと反転する危険性に警鐘を鳴らしています。

 『自由からの逃走』において、封建的制度の解体の結果により自由を手にいれた人々が、逆に自由により、孤立、不安に取りつかれるという皮肉な現象に注目しました。

 そして、自由を自ら放棄し、新たな服従に向かう悲惨な結末を描写しています。

 この歪んだメカニズムが現実化は、ワイマール末期のドイツにおけるヒトラーの急速な台頭に見られるのです。

 フロムによれば、「自由」が「服従」へ反転する要因は、個人の内面の「孤独感」、「不安感」、「無力感」です。 

 これらの負の感情が、自ら、「自己の自由」を否定するのです。

 そうした感情の克服のために、フロムが主張したのが、「積極的自由」・「~への自由」であり、その具体例としての「生命の表現としての愛」です。

 「積極的自由」とは、単に拘束がない状態ではなく、自己の可能性を能動的に展開する自発的な営みです。

 こうした創造の力によって、われわれは負の感情を克服できるのです。

 

 要するに、「日本人のアイデンティティの確立」が問題になっているのでしょう。

 大塚氏は、この点について、少々過激な、皮肉的な論考(『愚民社会』)を発表しているので、以下に引用します。

 日本人に絶望しながらも、なお説得していこうとする誠実な論調を読み取ってください。

 

「  対談のゲラをチェックし終えて改めて思うのは、宮台さんは「近代」を「政策」や「制度」として可能なものにしていくべきだと考え、ぼくは、それを担保しうる個人を可能にする「カリキュラム」をただひたすら考えたい、と思っているという「違い」だ。

 教師になってしみじみ思うのは、人はやはり「教育」によっていかようにも変わることができる、ということだ。ぼくはこの国の現在に絶望しつつ、しかし、「教育」によってしか「近代」は達成されないと信じている。

 それは、特定のイデオロギーを啓蒙するのではなく、まして既にある「公」や「空気」に「群れ」として考えなしに従うことなく、「自力で思考するための方法」を身につけるためのものであるべきで、そういう当たり前の実践は教育現場に、実はいくらでもある。それについてはいつかどこかでまた話すかもしれないが、そういう場所に身を置くことが、今のぼくの仕事だ。

 

 それでもここまで書いて、大抵の人たちが最後には必ずこう聞いてくる。

 「私はどうすればいいのですか」と。

 知らねーよ。

 あなたの「私」もあなたの「ふるまい」も、それはあなたの責任であり、それを引き受けるのが嫌いなら、つまり「近代」が嫌なら頭の中を真っ白にして、魚の群れに加わりゃいいじゃないか。

 そうして、いつかどこかでその群れが誰かを殺すことに比喩として、あるいは比喩としてでなく、あなたは加担することになるのである。

(「「あとがき」にかえて━━ もう一度だけ「公民の民俗学」について」大塚英志『愚民社会』)

 

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 今回の記事は、これで終わりです。

 次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

 ご期待ください。

 

 

    

 

 

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