現代文・小論文予想問題/『困難な成熟』内田樹/成熟とは何か
(1)なぜ、この記事を書くのか?
「成熟」は、入試頻出論点であり、人生の重要課題の一つです。
人間の「成熟」を考える上で、秀逸な論考(「文庫版のためのあとがき」『困難な成熟』内田樹)が最近発表されたので、この記事で解説します。
入試頻出著者・内田樹氏のメインテーマは、「成熟とは何か」「大人になるとは、どういうことか」です。
内田氏は、このメインテーマに関連した著作を、最近でも何冊も発行しています。
内田氏のブログ(『内田樹の研究室』)でも、このメインテーマに関連した記事が多いようです。
そこで、上記の論考(「文庫版のためのあとがき」『困難な成熟』)を、内田氏の著作、ブログ記事を参照しつつ、解説することにします。
(2)現代文・小論文予想問題/「文庫版のためのあとがき」『困難な成熟』内田樹/成熟と何か
(概要です)
(本文は太字にしました)
(赤字は当ブログによる「強調」です)
(青字は当ブログによる「注」です)
(「文庫版のためのあとがき」》『困難な成熟』)
「 この本は、「成熟」とか「自己陶冶」とか「大人になる」ということがもはや人々にとってそれほど喫緊の課題ではなくなった時代の風潮に対する僕からの提言です。
もちろん「大人のナントカ」とか「いぶし銀のなんちゃら」とかいうようなコピーを掲げて、「バーでワインを頼む時の心得」とか「こういうスーツではタイはなんとかでなければならぬ」とかいうようなことを書いている人は今も掃いて捨てるほどいますけれど、僕が論じようとしている「大人」というのは、そういうもののことではありません。文庫版解説として、それについて思うことを書いてみたいとおもいます。」
(当ブログによる解説)
上記の
「「大人のナントカ」とか「いぶし銀のなんちゃら」とかいうようなコピーを掲げて、「バーでワインを頼む時の心得」とか「こういうスーツではタイはなんとかでなければならぬ」とかいうようなこと」は、外形的、表面的なことで、実に下らないことです。
このような本、記事が人気があるというのは、人々が「画一的な、陳腐なマニュアル」を嫌悪しているのではなく、むしろ歓迎していることでもあります。
いい歳になった成人達が、低レベルなマスコミ等が適当に捏造した画一的な「大人らしさ」に釣られるとは、実に情けないことです。
大人としての自立性も、知性もないのでしょう。
現代の日本人の悲しさです。
(「文庫版のためのあとがき」『困難な成熟』)
「僕の記憶では、昔の人は「大人というのはこういうふうにふるまうものだ」というようなことをことさらに言挙げする習慣はなかったように思います。大人というと、夏目漱石とか、森鷗外とか、永井荷風とか、谷崎潤一郎とか、内田百閒とか、そういう人たちの顔がまず思い浮かびますが、そういう文豪たちが「大人というものは」というような説教をしている文章を寡聞にして僕は読んだ記憶がありません。どちらかというと、この人たちの作物の魅力は、そのような定型をおおらかに踏みにじってゆく堂々たる風儀にあったように思います。(→当ブログによる「注」→「自信」であり「落ち着き」です)
漱石という号を夏目金之助が撰したのは二十三歳の時でした。『晋書』にある「漱石枕流」(石で口漱ぎ、流れを枕にす)の故事を踏まえたものです。昔、中国に孫子荊という人がいて、この人は若い時から早く隠棲したいものだと思い、ある時、古詩を引いてその隠棲の境涯を述べました。ところがそれが記憶違いだった。オリジナルは「枕石漱流」でした。「石を枕にして眠り、目覚めたら川の流れで口を漱ぐ」という、アーシーでビューティフルなライフスタイルを描写した一節だったのを、動詞を前後入れ間違えて、「石で歯を磨き、流水に頭を浸して寝る」という千日回峰行的な誤読をしてしまった。周りに「そうじゃないよ」と指摘されたのですが、孫子荊は一歩も退かず、「いや、オレは隠棲したら、石で歯を磨いて、頭を川水に浸けて寝るのだ」と言い張った。その故事を踏まえて、漱石という号を選んだのでした。つまり、一度言い出したら間違いとわかっても訂正しない頑迷なおのれの性情の偏りを重々わきまえた上で、それを笑い、かつ律するというこの構えのうちに僕は「大人の風儀」とでもいうべきものを見るのです。(→当ブログによる「注」→「客観性」、「余裕」、「ゆとり」と言えるでしょう)」
(当ブログによる解説)
「一度言い出したら間違いとわかっても訂正しない頑迷なおのれの性情の偏りを重々わきまえた上で、それを笑い、かつ律するというこの構え」ということは、「自己の中の他者と違う多様性(個性)」を知ることです。
しかも、「頑迷な」という点から、自己の内部に「マイナス的な側面があること」を知ること、とも考えることができるでしょう。
自己の内面を熟知するということが、「大人」らしさを醸し出すのでしょう。
これに対して、「子供」の特徴を、内田氏は、『期間限定の思想』の中で以下のように述べています。
「 「私」は無垢であり、邪悪で強力なものが「外部」にあって、「私」の自己実現や自己認識を妨害している。そういう話型で「自分についての物語」を編み上げようとする人間は、老若男女を問わず、みんな「子ども」(→単純性)だ。
こういう精神のあり方(→自己の中のマイナスの側面、多様性に気付かないということ)が社会秩序にとって、潜在的にどれほど危険なものかはヒトラー・ユーゲントや紅衛兵や全共闘の事例からも知れるだろう。」」(『期間限定の思想』)
「私」は無垢であり、邪悪で強力なものが「外部」にある」と思い込み、信じきることは、まるで「子供」です。
自己の内面の邪悪な側面に気付かないとは、鈍感なのでしょうか。
が、現代の日本では、このような気味の悪い「大人」が多いようです。
(「文庫版のためのあとがき」『困難な成熟』)
「 それは他に名を挙げた文人たちについても同様です。荷風先生も百閒先生も「こればかりは譲れない」という強いこだわりをそれぞれにお持ちでしたけれど、おのれの偏奇を少し遠い距離から冷めた目で観察(→「客観視)し、それを味わい深い文章に仕上げることによって文名を上げたのでした。
そういう書き物を読んで、僕は「この人は大人だな」と感服しました。
それはつまり、「大人」を大人たらしめているのは、然るべき知識があったり、技能があったり、あれこれの算段が整ったりという実定的な資質のことではなくて、むしろおのれの狭さ、頑なさ、器の小ささ、おのれの幼児性(→誰にも、頑固、狭量、幼児性はあります)を観察し、吟味し、記述することができる能力(→「自己観察」、「自己分析」、「自己相対化」)のことだということです。」
(当ブログによる解説)
上記の「むしろ、おのれの狭さ、頑なさ、器の小ささ、おのれの幼児性」の部分は、重要です。
「大人の条件」は、「自分の内部に多様な側面を持つことである」と主張しているのです。
内田氏は、『大人のいない国』の中でも、以下のように述べています。
「 大人の条件として個人の中に多様性を持てているかが重要です。
子どもと大人の違いは個人の中に多様性があるかどうかということですから。
たとえば僕は今57歳ですけれど、僕の中には四歳の幼児もいるし、14歳の中学生もいるし、20歳の青年もいるし・・・・その時々の自分が全部ごちゃっと同居している。
だから、もののはずみで小学生の自分が現れることだってある。年をとる効用ってそれだと思うんです。
生きてきた年数分だけの自分が一人の人間の中に多重人格のように存在する。そのまとまりのなさが大人の「手柄」じゃないかな。」(『大人のいない国』)
上記の「文庫版のためのあとがき」の中の、
「おのれの狭さ、頑なさ、器の小ささ、おのれの幼児性を観察し、吟味し、記述することができる能力」の部分も重要です。
つまり、この部分は、自分の「器の小ささ」を自覚することの重要性を述べているのです。
この点については、「大人の責任感」について述べている『街場の共同体論』の次の一節が参考になります。
「 システムの保全が「自分の仕事」だと思う人がいないと、システムは瓦解します。
この「システム保全仕事」は、基本的にボランティアです。だって、システムの保全は「みんなの仕事」だからです。「みんな」で手分けして行うものです。別に工程表があるわけでもないし、指揮系統があるわけでもないし、一人ひとりの分掌を定めた組織図があるわけでもありません。
それこそ「道路に落ちている空き缶を拾う」ような気分で行う仕事です。「道路に落ちている空き缶」を拾うのは、誰にとっても「自分の仕事」ではありません。自分が捨てたわけじゃないんですから。そんなものは捨てたやつが拾うべきであって、通りすがりの人間にそんな責任はない。それも理屈です。そういうのは「みんなの仕事」ではあっても、「自分の仕事」ではない。そう考えるのが「こども」です。
「おとな」は違います。
「おとな」というのは、そういうときにさくっと空き缶を拾って、ゴミ箱が手近になければ自分の家に持ち帰って、びん・かん・ペットボトルのビニール袋に入れて、ゴミの日に出すような人です。
システムが破綻したときに、「システム回復は自分の業務契約には入っていない」、「そんなリスクがあるとは前任者から引き継がれていない」、「そもそも想定外だった」というふうに責任を自分以外のものに付け替えるの「こども」の特徴です。中高年であっても、禿げていて腹が出ていて、態度が大きくても、そういうことを言う人間はみんな「こども」です。
こういう人間たちは、不調に陥ったシステムの立て直しというような大切な仕事には使えないということです。」(『街場の共同体論』)
器の大小は、「共同体に対する責任感」に関連するのでしょう。
自分の「器の小ささ」を自覚するとは、それ自体が、自分の「共同体に対する責任感」を意識することです。
つまり、その自覚自体が、大人の条件を満たしつつあることを意味しているのではないでしょうか。
このこと、つまり、「大人と共同性」に関して、内田氏は、『街場の共同体論』の中で、以下のような見解を述べています。
「 消費者マインド(→「商品経済の中で、いかに賢明に行動するかという意識→ズル賢さ」「お客様意識」)と市場原理(→「資本主義原理」)を深々と内面化したせいで、最低限の学習努力・労働努力で成果を上げることをめざし、競争のためにはまわりの人間の足を引っ張るのが合理的だと考えるような子供たちが、そのまま成長して、そのまま加齢して老人になる。このときに、日本はほんとうに「おとなのいない国」になってしまうでしょう。それはもう安全でも豊かでもない国になるということです。」
(『街場の共同体論』)
このことに関連して内田氏はまた、「器」について、『困難な成熟』の中で、「贈与と被贈与」の側面からも考察しています。
つまり、言い換えれば、「広義の共同性」と「贈与・被贈与」の関係について、鋭い分析をしています。以下に引用します。
「 贈与は「私が贈与した」という人ではなく、「私は贈与を受けた」と 思った人間によって生成するのです。 「目に映るすべてのものはメッセージ」(ユーミンの『優しさに包まれたなら』) この感覚のことを「被贈与の感覚」という。 誰もメッセージなんか送っていないんです。
だけど、ユーミンは 自分を祝福してくれるメッセージをそこから勝手に 受け取った。そしてその贈りものに対する「お返し」に歌を作った。
その歌を僕らは聴いて、心が温かくなった。 「世界は住むに値する場所だ」と思った。 そして今もこうして この歌について多くの人に書いている。 贈与は 形あるものではありません。それは運動です。 人間的な営為のすべては贈与を受けた立場からしか始まらない。
そして、市民的成熟とは、「自分が贈与されたもの」 それゆえ「反対給付の義務を負っているもの」について、どこまで 長いリストを作ることができるか、それによって考慮されるものなのです。
そのリストが長ければ長いほど(→感謝の気持ちが強ければ強いほど、つまり、謙虚になればなるほど)、「大人」だということになる。 皆さんにしてほしいのは、ユーミンが歌ったとおり、 「目に映るすべてのことはメッセージ」ではないかと思って、 周りを見わたして欲しいということ、それだけです。」(『困難な成熟』)
(「文庫版のためのあとがき」『困難な成熟』)
「「成熟する」というプロセスを多くの人は「旅程を進む」という移動のメタファーで考えているのではないかと思います。あれこれと苦労を重ねているうちに、さまざまな経験知が獲得されて、思慮が深まり、次第に「大人になってゆく」と。でも、僕は大人になるプロセスというのはそういうのとはちょっと違うのではないかと思います。知恵や経験が「加算」されるわけではない。
ある出来事のせいでものの考え方が変わるいうことがあります。例えば、信頼していた人に裏切られたとします。そのせいでそれまで「人というのはこういうものだ」と思っていた「人間の定義」に若干の変更が加えられる。でも、それは定義の変更だけでは済まない。同時に、自分の過去の記憶の「書き換え」が行われる。これまでうまく飲み込めなかった出来事や片付かなかった気持ちが飲み込めたり、片付いたりする。逆に、それまで忘れていたことが不意に思い出されて、「なるほど、あれはそういう意味だったのか」と得心がゆく。人に裏切られ、傷ついたことによって、自分がこれまでどれだけの人を裏切り、傷つけてきたのか、その記憶が痛切に甦ってくる。一つの出来事を通過することによって、自分のそれまでの人生が表情や奥行きを変えてしまう。あれこれの経験の意味が変わってしまう。そういうことを何度も何度も繰り返すことが「大人になる」というプロセスではないかと僕は思うのです。
晩年を迎えると「自叙伝」を書きたくなる人がいます。僕ももういい年ですので、その気持ちがわかります。それは歳をとると、それまで「オレの子供時代はこういうふうだったよ」と久しく人にも話し、自分でも信じてきたことが「どうもそうではなかった」ということが分かってくるからです。自分の周りにいた人たち、記憶の中ではるか遠景に霞んでいた人たちの相貌が何十年も経ってから不意にくっきりと浮かび上がってきて、その立ち居振る舞いや、片言隻語がありありと思い出されて、それが自分にとって何を意味していたのかが不意にわかるということがあります。
僕たちがこれまでの生きてきた時間というのは、自分が思っているよりもずっと深く厚みのあるもであり、自分が今のような自分であるのは、自己決定したからでも、運命に偶然的に翻弄されたからでもなく、多くの人たちとのさまざまな関わり合いを通じて、陶器のようにゆっくり錬成されて出来上がったのだということがわかる。」
(当ブログによる解説)
上記の「多くの人たちとのさまざまな関わり合いを通じて」、「陶冶」が進むこと、つまり、「成熟」することに関して、内田氏は、『呪いの時代』の中で「結婚」の有用性について述べています。
「 結婚が必要とするのは、「他者と共生する力」です。よく理解もできないし、共感もできない他人と、それにもかかわらず生活を共にし、支え合い、慰めあうことができる、その能力は人間が共同体を営んでゆくときの基礎的な能力に通じていると僕は思います。
日本社会の深刻な問題は、他者との共生能力が劣化していることです。
自分と価値観が違い、美意識が違い、生活習慣が違う他者を許容することのできない人が増えている。社会人としての成熟の指標のひとつは他者と共生できる能力です。
この能力を開発する上で結婚というのは優れた制度だと僕は思います。
「他者と共生する」というのは、「他者に耐える」ということではありません。「他者」を構成する複数の人格特性のうちにいくつか「私と同じもの」を見出し、「この他者は部分的には私自身である」と認めることです。」(『呪いの時代』)
(「文庫版のためのあとがき」『困難な成熟』)
「「陶冶」というのは陶器を焼き、鋳物を作ることですけれど、この動詞が成熟のメタファー として用いられることにはそれなりの理由があると思います。
一つはそのプロセスには時間がかかること、一つはもとの物質が別の物質に変成すること、そしてもう一つは混入したものの化学的な干渉によって予想外の彩りや文様を帯びること。
これはそのまま成熟の定義として使えると思います。」
(当ブログによる解説)
ここで、『困難な成熟』の中から、「陶冶」に関連している、内田氏の「成熟の定義」を紹介します。
「 子として友人として配偶者として親として、それぞれの立場において、愛したり愛されたり、傷ついたり傷つけられたり、助けたり助けられたり・・・というごくごく当たり前の人生を一日一日淡々と送っている間にいつのまにか身につく経験知・実践知の厚みや深みを僕たちは「成熟」という言葉で指し示している。」
(『困難な成熟』)
なお、なぜ『困難な成熟』という題名にしたのか、については、次のような記述があります。
「 ある日気がついたら、前より少し大人になっていた。
そういう経験を積み重ねて、薄皮を一枚ずつ剥いでゆくように人は成熟して。ロードマップもないし、ガイドラインもないし、マニュアルもない。そういうこみいった事情を僕は「困難」という形容詞に託したつもりです。」(『困難な成熟』)
(「文庫版のためのあとがき》」『困難な成熟』)
「 自分で自分の成熟を統御することはできません。
自分が成熟するというのは「今の自分とは別の自分になること」ですから、「こういう人間になりたい」というふうに目標を設定して、それを達成するというかたちをとることがありえないのです(後に回顧すると、自分が設定した目標がいかに幼く、お門違いなものか思い知って赤面する・・・・というのが「成熟した」ということなんですから)。
しかし、現代社会はそういうふうにオープンエンドな成熟への道を進むように若い人たちを促し、励ます仕組みがありません。これはもうはっきり言い切ってしまいますけれど、「ありません」。
今の社会の仕組みはどれも目標を数値的に設定して、そこに至る行程を細部まで予測し、最小限の時間、最少エネルギー消費で目標に到達する技術を競うというものです。一見するとスマートで合理的に見えますけれど、人生の本質的な目標の多くはそういうスキームには収まりません。」
(当ブログによる解説)
上記の「今の社会の仕組みは、目標を数値的に設定して、そこに至る行程を細部まで予測し、最小限の時間、最少エネルギー消費で目標に到達する技術を競うというもの」という、一見合理的ですが、本質的には無味乾燥な「スキーム」を信仰している日本人の「社会的未成熟」を、内田氏は、以下のように揶揄しています。
説得力に満ちた論考です。
私も、この見解に賛成します。
「 基本的に「人間的成長」というものは、だいたいが「それまで非常に気になっていたこと」が「後で考えたらどうでもよくなる」という形式でなされるものである。
私の経験からして、昼寝というのはそれに似た心理的効果をもたらす。
だいたい私はリゾートに行っても、ほとんど昼寝している。
2年前にハワイに1週間行ったときも、ひたすら昼寝をし続けて、兄に「よくそれだけ寝られるものだ」と感嘆されたことがある。
温泉でもいちばん気分がいいのは、昼風呂に浸かったあとに、ちょっと昼ビールなどを飲んでそのまま浴衣のままごろんと畳の上で寝てしまうときである。
昼寝から起き出したあとに最初につぶやくことばもそういえばつねにどことなく達観をにじませたものであった。
「さあ、それではしゃきしゃきとことをすすめましょうか」というようなことばは決して口にされず、「なもん、どーでもいいじゃないの」というようなけだるい言葉だけが選択的に口を衝いて出てしまうのである。
イタリアやスペインの諸君があまり働いていないわりには、どうも「大人」っぽい雰囲気を漂わせているのは、彼らがこまめにシエスタをすることと無関係ではないのかもしれぬ。
昼寝は戦争とか投資信託とかM&Aとか、そういう殺伐としているものともなじみがよろしくない。
日本人のとげとげしい社会的未成熟は、あるいは昼寝の不足に由来するのやも知れぬ。
「クールビズ」よりも「サマータイム」よりも、「日本中、午後1時から3時までシエスタ」ということにした方が日本の霊的成熟には資するところがあるのではないか。(「ゆとり」、「余裕」を意味しているのでしょう)
少子化対策には間違いなく有効である。」
(「昼寝のすすめ」『内田樹の研究室』2007年9月16日)
ヒツジ的に、ロボット的に、効率的・合理的スキームを何の疑いもなく、信奉しているだけでは、人間的に成長することはできません。
イタリア、スペインのようにラテン的に、余裕をもって、人間的に生活しなくては、人間的に成長してわけがないのです。
つまり、「成熟すること」の前提に、人間的生活があるのです。
現代の日本人は、このことに思い至らないのでしょう。
(「文庫版のためのあとがき」『困難な成熟』)
「「成熟」はそうです。先に述べた通り、「成熟した私」というのがどういうものであって、どういう属性を具えているのかを今、ここで言えるということはありえません。「幸福」というのもそうです。幸福を数値的に示すことはできません。年収がいくらで、持ち家の坪数がいくらで、乗っている車の値段がいくらで、子どもの評定平均値が何点で・・・・というようなことをいくら積み重ねても「幸福」にはたどりつけません。「長寿」というのもそうですね。これも人間にとってたいせつな課題です。だから階段で転びかけたり、車に轢かれかけたら「おっと危ない」と身をかわして、無事であれば「ああ、よかった」と嘆息したりもするわけです。でも、「長寿に最小限の時間で到達する」というのはどう考えても論理矛盾です。「あっという間に百歳になりました」と言って喜ぶ人というものを僕は想像できません。
人間にとってたいせつなことのほとんど(→本質的なこと)は「明確な目標設定/効率的な工程管理/費用対効果のよい目標達成」というような枠組みでは語ることができない。
現代人はそれをどうも忘れてかけているようです。
この本はその基本的なことを思い出してもらうために書きました。できれば、この本を何年か間をあけて、ときどき取り出して繰り返し読んで頂ければと思います。前に読んだときには読み落としていたことに次の時には眼が止まるということがあれば、僕もこの本を書いた甲斐があります。
みなさんのご健闘を祈ります。」
(「文庫版のためのあとがき」『困難な成熟』)
(当ブログによる解説)
「大人の条件」とは、マニュアルが適用できないような場面でも対応できる柔軟な「応用能力」を身に付けることです。
「応用能力」を一定のマニュアルやスキームで、身に付けることはできないのです。
つまり、「大人の条件」を一定のスキーム等で満たすことは不可能ということになります。
この点について、内田氏は以下のように述べています。
「「大人」と「子ども」の違いは、子どもは「やりかたのわかっていること」しかできないけれど、大人の条件は「どうふるまったらよいのかわからないときにも適切にふるまうことができる」ということにあります。
言い換えると、「こういう場合には何をすればいいのかを示すマニュアルやガイドラインがないときにも、最適選択ができる」ということです。
どうやったらそんなことができるのでしょう。論理的には不可能です。でも、実践的には別にむずかしいことではありません。「判断を保留する」「両方の言い分のナカを取る」「誰か最適なソリューションを知っていそうな人を探して答えを訊き出す」「いきなり土下座して、問題を『なかったこと』にしてもらう」などなど。
これらに共通するのは「問いとそれに対する単一の正解」というスキームそのものを「揺り動かす」ということです。
なんだ、簡単じゃないかと思われますか?
いや、けっこうむずかしいですよ。要は「揺り動か」せればそれでいいわけですけれど、それはしばしば堅牢な構築物を棒きれ一本で「揺り動かす」ようなタイトな条件を要求します。アルキメデスは「われに支点を与えよ。しからば地球を動かしてみせよう」と豪語しましたけれど、「レヴァレッジ」(梃子装置)という言葉はこういうときにこそ使いたいですね。
「ピンチ」とは出来合いの「問題と解法」のスキームでは打つ手がない状況のことです。状況そのものを揺り動かさないと「取り付く島」がない。そういう場合に手持ちの棒きれ一本でなんとかしようと思ったら、「われに支点を与えよ」というしかありません。
「大人」とはこの堅牢な構築物を一押しで揺るがすことのできるような「梃子の支点」を直感的に探り当てることのできる人のことです。あるいは、そのための能力開発に惜しみなく人間的リソースを投じ続けてきた人です。そのような能力は「構築物」の内側(私たちが平時において住みなじんでいる"システム"のことです)においてはふつう評価の対象にはなりません。
だから、"システム"の内部での相対的な競争(ラット・レース)で優位に立つこと、同類たちとの「勝ち負け」に血道を上げている「子ども」たちは決して、そのような能力の開発に資源を投じません(この場合の「子ども」というのは、もうおわかりでしょうけれど、生物学的な年齢とは関係ありません)。」
(「大人になるための本」内田樹『じぶんや第46講』『紀伊国屋書店』)
この内田氏の見解によると、現代の日本には、まともな「大人」は、極めて少ないことになります。
ここから、「日本の教育方針の迷走・混乱」の原因が読み解けるようです。
内田氏は、以下のように述べています。
特に、最終部分の
「 大人がつねに自分の未熟を恥じる文化からしか、子どもを成熟に導くメカニズムは生成しない。」
に注目してください。
「 繰り返し言うように、教育の本義は「子どもたちを共生と協働を果たしうるだけの市民的成熟に導くこと」である。
それ以外に、ない。
教育の本義は格付けや選別や排除や標準化ではない。
子どもたちを生き延びさせることであり、同時に共同体を生き延びさせることである。
教育関係者があまり口にしないことで私がはっきり言っていることは、「子どもが危険だ」というのは、「子ども自身が危険にさらされている」ということと、「社会が子どもによって危険にさらされる」ということを同時に含意している、ということである。
子どもが子どものままにとどまっていることを許した共同体は人類史上一つも存在しない。
存在したのかもしれないが、消滅して、今は存在しない。
成熟のメカニズム、共生と協働のための能力を適切に育成するプログラムを持たない共同体は、長くは存在できない。
「英語ができないと金儲けに後れを取る」というような動機で英語学習を勧奨する文言を一国の教育行政を預かる省庁が満天下に公言することについて、「それはどうか」とたしなめる声は庁内からは出なかったのか。
教育はその原点に還るべきだと私は思う。
子どもを成熟させるために何が必要か、それを問うのである。
それだけを問うのである。
そう問うたときに、「ほんとうの大人」であれば、自身の未熟を深く恥じるだろう。
大人がつねに自分の未熟を恥じる文化からしか、子どもを成熟に導くメカニズムは生成しない。」
(「成熟のために」『内田樹の研究室』2009年6月27日)
真に「自分の未熟」を恥じている大人が、現代日本に、どれくらいいるのでしょうか。
それを考えると、暗澹たる思いにならざるを得ません。
(3)当ブログにおける「内田樹」関連記事の紹介
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今回の記事は、これで終わりです。
次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。
ご期待ください。
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