「水の東西」等の「リズムの哲学ノート」(山崎正和)による新解釈
(1)はじめに/山崎正和氏の最近の論考「リズムの哲学ノート」、インタビュー記事から、山崎氏の名著「水の東西」・「無常のリズム」(『混沌からの表現』)を読み直す
山崎正和氏の著作は、長期的な入試頻出出典です。山崎氏の著作は大筋は分かりやすいのですが、私は、今まで、その「思想の底流や価値観」が見えにくい面があるように感じていました。
しかし、最近『アスティオン』に連載された「リズムの哲学ノート」、2017年発行の『舞台をまわす、舞台がまわるー山崎正和オーラルヒステリー』、最近の新聞掲載の「批評」や「インタビュー」を読み、「山崎氏の思想の基盤」が見えてきたのではないか、と思っています。
つまり、山崎氏の使用する言葉の内容の理解が、より深まったということです。本来、論考は、それ自体の熟読・精読を通して理解するべきです。ただ、その著者が、ある言葉をどのような意味で使用しているかについては、その著者の他の文献を参照することは許されるのです。
そこで、これらの材料を元に、山崎氏の著名な論考である「水の東西」・「無常のリズム」(『混沌からの表現』)を読み直すとともに、「山崎氏の思想の基盤」を検証することにします。
以下の記事は、入試国語(現代文)・小論文対策としても、かなり役立つと思います。
まず、初めに注目したのは、『2016年6月25日・読売新聞・夕刊』に掲載された山崎正和氏のインタビュー記事(「生老病死の旅路」)でした。
この文章は、山崎氏の思考の根幹を、山崎氏自らが分かりやすく説明していて、私にとっては、驚きでした。一読した後に、何の前触れもなく一気に湖水が澄んで、山崎氏の思想の、深い湖の底を見てしまったような感慨を覚えました。
以下に概要を引用します。
「 運命に後押しされたとき一歩前に踏み込む、8の力で押されたら2は自分の力で頑張り、ここまで来たように思います。
京大進学以外は、自分で意図したというより、運命に押された感じですが、いま思うのは『人生はリズム』ではないか、ということです。例えば今日みたいな日、『暑いな』と言ったらそれまでだけど、『初夏だな』と思うと、そこには自然、社会と個人との応答がある。さらに『初夏だからショウブを植えよう』になると、単に暑いという認識から進んで、感じる喜び、つくる感動が生まれるんです。
実は、2012年夏に、がんの兆候を示す指標が最悪で、常識なら死んでいる、と宣告されました。その時、突然、長らく放置していた主題が蘇り、『リズムの哲学ノート』を雑誌連載しました。がんの警告という運命がリズムなら、それが私を執筆に向けて後押ししたのもリズムの流れに違いないと思います。」
この文章に、「私の解釈」を青字で挿入し、「リズム」と「リズムの同類語と思われる表現」を赤字にすると、以下のようになります。
「 運命に後押しされたとき一歩前に踏み込む、8の力で押されたら2は自分の力で頑張り、ここまで来たように思います。
京大進学以外は、自分で意図したというより、運命に押された感じですが、いま思うのは『人生はリズム』ではないか、ということです。例えば今日みたいな日、『暑いな』と言ったらそれまでだけど、『初夏だな』と思うと、そこには自然、社会と個人との応答がある。(→「リズム」、つまり、「自然」を、どのように受けとめるか、は個人の問題ということでしょう) さらに「初夏だからショウブを植えよう」になると、単に暑いという認識から進んで、感じる喜び、つくる感動が生まれるんです。(→「リズム」(「自然」)に意志で働きかけることができる。気の持ちようによって、「リズム」・「自然」から喜び感動を得ることができる。つまり、「リズム」・「自然」を、どのように柔軟に活用するかの問題でしょう)
実は、2012年夏に、がんの兆候を示す指標が最悪で、常識なら死んでいる、と宣告されました。その時、突然、長らく放置していた主題が蘇り、『リズムの哲学ノート』を雑誌連載しました。がんの警告という運命がリズム(→「リズム=運命」という関係に注目してください)なら、それが私を執筆に向けて後押ししたのもリズムの流れ (→「リズム」が私に「気付き」を与えてくれた、ということです)に違いないと思います。」
この文章は、山崎正和氏の愛読者にとっては、より深い読解の重要な手がかりになるはずです。
上記の文章を読むと、山崎氏は、「リズム」を、かなり重視していることが分かります。
そして、山崎氏は「人生=リズム=自然=運命」と考えているということが分かります。
しかも、この「リズム=自然=運命」に対して、ある程度は、人間の意志による働きかけが可能であるということが理解できます。
さらに、冒頭の「運命に後押しされたとき一歩前に踏み込む、8の力で押されたら2は自分の力で頑張り、ここまで来たように思います」という文を読むと、「運命=リズム」の動きに逆らわないで、むしろ、その動きに「自然に」乗ることの重要性に気づきます。
また、「実は、2012年夏に、がんの兆候を示す指標が最悪で、常識なら死んでいる、と宣告されました。その時、突然、長らく放置していた主題が蘇り、『リズムの哲学ノート』を雑誌連載しました。」という記述から明らかですが、山崎氏の「主題」(→テーマ)、つまり、山崎氏の「思想の根幹」は、「リズムの哲学」です。
言い換えれば、山崎氏は、「リズム」を深く考察することが、「人生・世界・事物」の「根源・原理」の追求につながると考えているのです。
この一節から、急に視界が開けてきた感じがしました。
(追記)2018年3月に『リズムの哲学ノート』が発行されました。
なお、以下の記事の項目は、次の通りです。
(2)「リズムの哲学ノート」と「無常のリズム」
(3)「リズムの哲学ノート」と「水の東西」
(4)山崎正和氏の思想の背景
(5)「積極的無常観」について
(6)山崎正和氏の紹介
(7)当ブログの「山崎正和氏・関連記事」の紹介
(8)当ブログの「無常観・関連記事」の紹介
(2)「リズムの哲学ノート」と「無常のリズム」
「リズムの哲学ノート」(『アスティオン』連載)を元にすれば、山崎氏のこれまでの著作を、さらに深く読解することが可能になりそうです。
そこで、今回は、このことにチャレンジしてみます。
このチャレンジは、あくまで試論であり、後に修正する可能性もあることを意識して、大胆に私の考えを展開していくつもりです。
着目するべきは、「リズムの哲学ノート」の中で記述されている「リズム」の内容説明です。
前述のように、「人生=リズム=自然=運命」と考える山崎氏の思想からすると、「リズム」の内容説明は、そのまま「人生」の内容説明になるからです。
以下に、主に「リズムの哲学ノート」の中から参考になりそうな記述を引用しつつ、山崎氏の名著「水の東西」・「無常のリズム」(『混沌からの表現』)の解釈をしていきます。
(引用は概要です)
(赤字は当ブログによる「強調」です)
(青字は当ブログによる「注」です)
まず、「リズムの哲学ノート」の中で、私が注目したのは以下の部分です。
「 何よりも哲学は、この世界の根源的な原理であるリズムを感じとり、リズムとともに生きることによって、その働きを如実に知ることができるはずである。」(「リズムの哲学ノート」『アスティオン85』)
「 逆説に響くかもしれないが、人がこの無常観を忘れないかぎり、常識世界における冒険的な自由意志の発揮は安全でもあり有用でもあるといえる。無常観とは正確にリズムの観念の裏返しであって、どんな営みにも始めと中と終わり(序・破・急)(→「序・破・急」を「無常観」の象徴と考えていることが分かります)があり、とりわけ必然的に終わりがあることを知る世界観である。そしてこの世界観を悟達した人は、あらゆる行動について過剰な意志を抱くことはないだろうし、個別の具体的な行為についても終わりの到来を敏感に悟り、心やすらかに諦めることができるはずである。」(『アスティオン85』)
上記の最後の一文「この世界観(→「無常観」)を悟達した人は、あらゆる行動について過剰な意志を抱くことはないだろうし、個別の具体的な行為についても終わりの到来を敏感に悟り、心やすらかに諦めることができるはずである」
は、まるで日本人のことを説明している感じです。
「心やすらかに諦めることができる」の部分は、日本人の「何事にも淡白な性格」や「諦念」を、そのまま解説しているようです。
上記の論考を元にすれば、あの有名な「無常のリズム」(『混沌からの表現』)の内容も、よく理解できます。まず、「無常のリズム」の一節(概要)を引用します。
「 寺田寅彦は、花火のなかには『序・破・急』の三段の生成のリズムがあると書いた。始めがあり、中があり、終わりがあり、それが整然たるリズムに乗って展開するとき、われわれはものごとが『完結』したという印象を受ける。
日本人は、この三段の生成のリズムに敏感であり、一瞬の変化のなかにもまとまりを感じ取る感受性にめぐまれているのかもしれない。
その感受性が、花火という、純粋な『変化』そのもののような美を育てた。はじけては消える夏の夜の花火を見ていると、ふと、そこはかとない悲しみがただようことは事実である。
日本人は昔からそういう『はかなさ』に心ひかれ、人生の無常に耽溺してきたと信じられている。それは、たしかに、その通りなのだが、しかしその同じ日本人が、ふしぎに一方で極端なニヒリズムに走らなかったことも事実なのである。人生の無常をかこち(→「嘆く」という意味)ながら、われわれの先祖はそのなかにけっこう安定した自然(→「リズム」、「無常観」)を見出だしていた。そしてそれはたぶん、一瞬の変化の中にも『序・破・急』を感じとる、あの敏感な秩序の感覚のせいにちがいないのである。」(「無常のリズム」『混沌からの表現』)
上記の赤字部分の内容は、前記の論考(「リズムの哲学ノート」)を青字に注目して読むと、さらに理解が深まるでしょう。
精読すると分かるのですが、下記の論考は、上記(「無常のリズム」)の赤字部分を詳しく説明しているようにも思います。山崎氏は、上記の赤字部分を意識して、下記のようなことを述べているのではないでしょうか。
「 この世界観(→「無常観」)を悟達した人は、あらゆる行動について過剰な意志を抱くこと(→「過剰な意志重視主義」は現代人の悪弊です。「意志万能主義」は「滑稽な信仰」と化しています。特に、日本の会社、教育現場、スポーツ分野に蔓延している、一種の「無知」・「傲慢」です)はないだろうし、個別の具体的な行為についても終わりの到来(→「終わりの到来」とは、「無常の実相」であり、「リズムの実相」と言えるでしょう)を敏感に悟り、心やすらかに諦めること(→「心の平穏を得る」ということでしょうか。そうであるならば、上記の「人生の無常をかこちながら、われわれの先祖はそのなかにけっこう安定した自然を見出だしていた」の部分に対応することになります)ができるはずである。」(山崎正和『アスティオン85』)
以上の二つの論考は、「日本人と無常観」に関する卓越した考察であり、山崎正和氏の「主題」に密接に関連しています。
そのことを再確認した私は、この二つの論考の内容の深さに感動し、何度も読み直してしまいました。
(3)「リズムの哲学ノート」と「水の東西」
次に、「リズムの哲学ノート」の以下の記述を読むと、「水の東西」の解釈に役に立ちます。
まず、「水の東西」の著名な一節を引用します。
「赤字の部分」に注目してください。
「リズム」と、「リズムと読み替えることが可能な表現」を、赤字化しました。
「『鹿おどし』が動いているのを見ると、その愛嬌の中に、なんとなく人生の気だるさのようなものを感じることがある。かわいらしい竹のシーソーの一端に水受けが付いていて、それに筧の水が少しずつたまる。静かに緊張が高まりながら、やがて水受けがいっぱいになると、シーソーはぐらりと傾いて水をこぼす。緊張が一気に解けて水受けが跳ね上がるとき、竹が石をたたいて、こおんと、くぐもった優しい音を立てるのである。
見ていると、単純な、緩やかなリズムが、無限にいつまでも繰り返される。緊張が高まり、それが一気にほどけ、しかし何事も起こらない徒労がまた一から始められる。ただ、曇った音響が時を刻んで、庭の静寂と時間の長さをいやが上にも引き立てるだけである。水の流れなのか、時の流れなのか、『鹿おどし』は我々に流れるものを感じさせる。それをせき止め、刻むことによって、この仕掛けはかえって流れてやまないものの存在を強調していると言える。
言うまでもなく、水にはそれ自体として定まった形はない。そうして、形がないということについて、恐らく日本人は西洋人と違った独特の好みを持っていたのである。『行雲流水』という仏教的な言葉があるが、そういう思想はむしろ思想以前の感性によって裏付けられていた。それは外界に対する受動的な態度と言うよりは、積極的に、形なきものを恐れない心の現れではなかっただろうか。
見えない水と、目に見える水。
もし、流れを感じることだけが大切なのだとしたら、我々は水を実感するのにもはや水を見る必要さえないと言える。ただ断続する音の響きを聞いてその間隙に流れるもの(→リズム)を間接に心で味わえばよい。そう考えればあの『鹿おどし』は、日本人が水を鑑賞する行為の極致を現す仕掛けだと言えるかもしれない。」(「水の東西」『混沌からの表現』)
この「水の東西」と、以下の「リズムの哲学ノート」の一節を読み比べてください。
まるで、山崎氏は、「水の東西」を意識して以下の論考を展開している感じです。
「 あらためて読者の記憶を喚起したいが、私の提唱するリズムはベルクソンの言う純粋持続ではなかった。 リズムには拍節が打ち込まれるのが本来であり、純粋持続とは違って堰(せ)き止められ、鹿おどし構造(→「リズム=鹿おどし構造」の関係に注目してください)をつくるのが本然の姿であった。」(『アスティオン83』)
上記で山崎氏は、「リズムは鹿おどし構造をつくるのが本然の姿」と言っています。
「水の東西」は、「鹿おどし構造」について論じていますが、「水の東西」の論考自体が「リズム」について考察していることになります。
このことは、私にとっては、衝撃でした。
つまり、この「水の東西」は水を通して、「日本人の無常観」を論じていることになります。
このことを意識して、「水の東西」を熟読すると、私は新たな感慨に包まれます。
これほど、日本人の、ひいては、自分自身の「無常観」を冷静に洞察した著者は、珍しいと思います。
さらに、以下の論考も注目するべきです。
「 身体が『もの思う』とは、現象に目を凝らすことであり、耳を澄ますことだろうが、いずれも目や耳が思わずしてしまう反応であって、ここには能動性と受動性の前後関係はまったくない。目を凝らし耳を澄ますのは、何かが見えたり聞こえたりしたからであり、その逆もまた真であって、認められるのは、いわば『誘いだされた能動性』というべきもののほかにはない。」(『アスティオン85』)
この上記の赤字部分は、かなり重要なことを指摘しています。日本人が「鹿おどし」の音に耳を澄ますことは、まさに「身体が『もの思う』こと」なのです。
このことを元に「水の東西」の下記の部分を読むと、これまでの解釈とは違った解釈が可能になると思われます。
「 もし、流れを感じることだけが大切なのだとしたら、我々は水を実感するのにもはや水を見る必要さえないと言える。ただ断続する音の響きを聞いて、その間隙に流れるもの(→リズム)を間接に心で味わえばよい。そう考えればあの『鹿おどし』は、日本人が水を鑑賞する行為の極致を現す仕掛けだと言えるかもしれない。」(「水の東西」『混沌からの表現』)
の赤字部分を熟読してください。
日本人は「身体が『もの思う』(→身体によって、音と共に「無常観」を再確認する)民族」ということが、よく分かります。
なお、「身体でものを思う」の点は、デカルトの「物心二元論」、「身体論」の論点にも関連していることに注目してください。
以下に、当ブログの「物心二元論(心身二元論)」・「身体論」関連記事のリンク画像を貼っておきます。ぜひ、参照してください。
さらに、「リズムの哲学ノート」から引用します。
「 リズムの特性の第一は、それがもっぱら顕現する現象であり、ひたすら感知することはできても、それを造りだすことはできないという事実である。
そしてその第二の特色はそれを感じることが喜びであり、その認識が解放感に直結しているという不思議である。たしかにすべて知ることは喜びを伴うが、リズムを知ることの歓喜は次元を異にしている。リズムの喜びはその喜び方そのものが身体的であって、人はただ目を凝らし耳を澄ますだけではなく、たとえ僅かでも全身を揺すりながら享受するのが普通だろう。哲学にとって、リズムは知ることが最終目的となるような現象であり、裏返せば知ることをそれだけで完結自立させるような現象なのである。」(『アスティオン85』)
この論考を元にすると、「水の東西」の下記の部分の解釈が、より深まるはずです。
「 ただ断続する響きを聞いて、その間隙に流れるもの(→リズム)を間接に心で味わえばよい。」(「水の東西」『混沌からの表現』)
日本人も微かに、無意識の内に、「音の響き」に身体を共鳴させているのでしょう。リズムを知ることの歓喜、リズムを再確認することの歓喜と共に。
次の一節も参考になります。
「 リズムは当然ながら、たんに哲学者に認識されるだけでなく、常識社会に暮らす普通の人にも感知される。そして、リズムを知るということ、いいかえればリズムを体感しながら生きるということは、誰であれ、二つの意味で認識者を自由にしてくれる。」(『アスティオン85』)
「花火」や「鹿おどし」の「リズム」を体感することは、ある意味で人を自由にしてくれるということでしょう。
それでは、「二つの意味」とは何か?
以下の説明を熟読してください。
「 第一に、それはいっさいの機械的な必然性、硬直した規則性から人を解き放ち、閉じられた受動性の檻から救出してくれる。
第二にリズムは機械的必然性とは逆の、カント的な自由意志の桎梏リズムは機械的必然性とは逆の、カント的な自由意志の桎梏(しっこく)(→「拘束」という意味。「自由意志を持つべし」という命令自体が「近代原理」からの「拘束」ということです。ここには、「近代批判」の視点があることに注意してください)からも人を解放する。意志は見えない石碑に彫られた銘文であって、睡眠中にも他事に追われているときにも人を縛りつづける。むしろ意志は行動が挫折したときに強化され、人の死後に不動の命令となるものであって、およそ生の柔軟性とは無縁の存在なのであった。(→「自由意志」、「意志」をマイナス評価していることに注意してください) この自由意志がいったん形成され、生の硬直が発生した後では、もちろんリズムにこれと対抗して勝つ可能性はない。人にできることは、いわば予防的措置であって、日頃からリズムに敏感な生活習慣を身につけ、頑固な自由意志が生まれにくい環境に暮らすことだろう。」(『アスティオン85』)
上記の最終部分を読むと、「鹿おどし」は「日本の伝統の知恵」なのかもしれません。
何か他のことをしている時にも、音は聞こえるのです。
水の流れを見ることに集中していなくとも、「鹿おどし」の音は、聞こえるのです。
そして、「リズムを体感しながら生きるということは、誰であれ二つの意味で認識者を自由にしてくれる」のです。
さらに、「リズムの哲学ノート」からの引用を続けます。
「 自然現象についていえば、朝夕の推移、季節の変化を外界の事象として傍観するのではなく、それに運ばれてみずからが現在を生きていることを実感することである。」(『アスティオン85』)
上記では、「自然現象に運ばれて自分が生きていること」を実感することが、「真の生の実感」であると、山崎氏は主張しているのでしょう。
「リズムの哲学ノート」の以下の論考も「水の東西」・「無常のリズム」を読解に、大いに参考になります。
「 リズムそのものは普遍的であり、さればこそリズム感覚の伝播も早いのであるが、あるリズム単位を最初に発見するのはあくまでも共同体の総意であって、それ以上の絶対的な法則というものはない。現代でもリズムの完結性の指標は文明によって多様に見られ、「序破急」とか「起承転結」とか「ソナタ形式」とか、地域ごとに多彩を極めているのはそのことの名残りだろう。」(『アスティオン81』)
「『ある身体』は世界的なリズムの小さな波として閉じこめられ、誕生と死のあいだの短い時間内にあらしめられている存在だった。この究極の受動性と局限性はただの知識ではなく、幼、青、壮、老という身体変化を通じて直接に感じられる。そしてその結果として獲られる不安と儚さの感覚(→「無常観」と読み替えることが可能です)が、『ある身体』(→「存在する身体」という意味)を駆って身体の外の無限の時空、世界全体を知ろうと努めさせるのだろう。」(『アスティオン82』)
以上を読むと、山崎氏は、ほとんどすべての事象を「リズム」や「鹿おどし」の視点から見つめ、読み直そうとしていることが分かります。
そして、そのことが、的確であることに感服してしまいます。
日本人だけではなく、人類全体、そればかりではなく、この世のすべての存在は「リズム」の下にあるのですから、このことは当然のことでしょう。
(4)山崎正和氏の思想の背景
では、なぜ、山崎氏は、このような「揺るぎない強固な視点」・「透徹した視点」を身に付けたのでしょうか?
『舞台をまわす、舞台がまわるーー山崎正和オーラルヒステリー』(2017年発行)を読むと、「満洲からの引き揚げ体験」等が、山崎氏の幼年期・少年期の人格形成にかなり影響を及ぼしたことが想像されます。
つまり、満州での凄惨な体験や、敗戦後の未曾有の混乱が、山崎氏を早熟で鋭敏な人間に作り上げたのでしょう。
満州医科大学教授を父として京都に生まれた山崎氏は、国際都市・奉天で少年時代を過ごします。
結核治療を理由に戻った京都でイジメを受け、再び満州に戻りました。
しかし、そこにソ連軍が来ました。山崎氏は以下のように述べています。
「これは本当に『占領軍』でした。それは血に飢えた狼でした。
このような状況の中で、日本人は子供を学校に通わせました。母親たちは地下室に潜み、大人の男は外出したら殺されるという状況下に、子供だけが外出したんです。」
マイナス10度以下の学校では、首つり死体が凍結した状態で梁(はり)から、ぶら下がることもありました。そのような中で、臨時教員の授業を受けたのです。
これらの体験と、山崎氏本人の繊細な卓越した感受性が、「強固なリズムの視点」の基盤にあるのでしょう。
(5)「積極的無常観」について
日本人の「リズム(無常観)」に対する態度は、「積極的無常観」とでも言うべきものでしょう。山崎氏も、そのように呼んでいます。
「無常のリズム」の中で「積極的無常観」に該当する記述は、以下の部分です。
「 日本人は昔からそういう「はかなさ」に心ひかれ、人生の無常に耽溺してきたと信じられている。それは、たしかに、その通りなのだが、しかしその同じ日本人が、ふしぎに一方で極端なニヒリズムに走らなかったことも事実なのである。人生の無常をかこちながら、われわれの先祖はそのなかにけっこう安定した自然(→「リズム」、「無常観」)を見出だしていた。」
また、「水の東西」の中で、「積極的無常観」に該当する記述としては、以下の部分が挙げられます。特に、赤字の部分に着目してください。
「 それ自体として定まった形はない。そうして、形がないということについて、恐らく日本人は西洋人と違った独特の好みを持っていたのである。『行雲流水』という仏教的な言葉があるが、そういう思想はむしろ思想以前の感性によって裏付けられていた。それは外界に対する受動的な態度と言うよりは、積極的に、形なきものを恐れない心の現れではなかっただろうか。」(「水の東西」『混沌からの表現』)
朝日新聞に、山崎正和氏が受けたインタビュー記事(「震災国の私たち」2012年3月9日『朝日新聞』)の中でも、山崎氏は同様の主旨のことを延べています。
以下に引用します。
「 日本では17年の間に2度も国家規模の大震災が起きた。この結果、日本人の中である種の無常観が目覚めたかも知れない。」
「 日本人の場合、無常観を抱えたまま頑張るという不思議な伝統がある。いわば積極的無常観。それが戻ってきたのではないか。」
「 大震災はいつか必ずやってくる。それにもかかわらず、だれもヤケにも投げやりにもならず、『守るな 逃げろ』という非難訓練にまじめに参加している。」
「 震災を予期した無常観を抱えながら、極めて地道に一つひとつ解決し前に進んでいく。そうやって生きていくと思います。」
さらに2014年1月12日『読売新聞』の「《シリーズ・地球を読む》『積極的無常観』のすすめ」の中では、より詳細に「積極的無常観」について述べているので、以下にポイントになる部分を引用します。
「 若者が明日の希望のために努力するのにたいして、老人は明日はどうなるかわからないからこそ、今日をがんばるのである。世は無常であることを痛感するがゆえに、今日を常の通りに生きようとするのである。無常を覚えながら自暴自棄にならず、逆に今日を深く味わう生き方を私はかねて積極的無常観と呼んできた。時代にはそれぞれを覆う独特の気分があるが、21世紀前半を特徴づける気分には、この積極的無常観が色濃い影を落としそうな予感がする。世界的に高齢化が進み、老人の感性が社会への影響力を増すことが考えられるうえ、たまたまそれと並んで、社会の予測不可能性が急速に高まる傾向が顕著になったからである。」
「 たとえば日本では東海、東南海、南海大地震が同時に襲う恐れが明日にもありうることは誰もが知っている。だが、この報道にたいして、日本人は恐慌にも自暴自棄にも陥らず、防災ならぬ「『減災」』をめざして地道な努力を重ねている。注目に値するのが減災という概念であって、災害のあることを受け入れたうえで積極的な対処を図る思想である。」
「 振り返ると、日本には積極的無常観の長い伝統があって、『明日に夢があるから今日頑張ろう』という思想と、『明日はどうなるかわからないから今日がんばろう』という思想が両立してきた。」
「 科学技術が進歩を続け、他方で明日をも知れぬ個人の偶然が残る限り、進歩主義と積極的無常観の両立は日本が世界に発しうるメッセージになるのではなかろうか。」
以上を読めば、「積極的無常観」こそが、私たちがとるべき賢明な態度だということが、よく分かると思います。
そして、現に、日本人の多くが、無意識的にせよ、意識的にせよ、「積極的無常観」をとっているということは、誇らしいことだと考えます。
(6)山崎正和氏の紹介
【1】山崎正和氏の紹介
山崎正和氏は、1934年、京都生まれ。京都大学文学部哲学科卒業。劇作家、評論家、演劇研究者。評論は、文明批評、文芸批評、芸術論、演劇論と、実に多彩である。文化功労者。日本芸術院会員。大阪大学教授、東亜大学学長、中央教育審議会会長などを歴任。
【2】山崎正和氏の著書
主な著書として、
『世阿弥』(新潮文庫)(第9回岸田國士戯曲賞受賞)、
『劇的なる日本人』(新潮社)、
『混沌からの精神』(ちくま学芸文庫)、
『日本文化と個人主義』(中央公論社)、
『近代の擁護』(PHP研究所)、
『社交する人間』(中公文庫)、
『装飾とデザイン』(中公文庫)、
『日本人はどこへ向かっているのか』(潮出版社)、
『山崎正和全戯曲』(河出書房新社)、
『舞台をまわす、舞台がまわる-山崎正和オーラルヒストリー』(中央公論新社)
などがあります。
以上の、ほとんどの著作は、難関国公立・私立大学の現代文(国語)・小論文の入試頻出出典です。
(7)当ブログの「山崎正和氏・関連記事」の紹介
(8)当ブログの「無常観・関連記事」の紹介
ーーーーーーーー
今回の記事は、これで終わりです。
次回の記事は、約1週間後の予定です。
ご期待ください。
- 作者: 御厨貴,飯尾潤,村井良太,苅部直,川出良枝,堂目卓生,梅田百合香,大竹文雄,佐藤卓己,五野井郁夫,武藤秀太郎,池内恵,柳川範之,遠藤乾,牧原出,伊藤正次,サントリー文化財団「震災後の日本に関する研究会」
- 出版社/メーカー: CCCメディアハウス
- 発売日: 2014/02/20
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
- この商品を含むブログ (4件) を見る
5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)
- 作者: 斎藤隆
- 出版社/メーカー: 開拓社
- 発売日: 1997/10/01
- メディア: 単行本
- クリック: 1回
- この商品を含むブログを見る
私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。
https://twitter.com/gensairyu2