現代文最新傾向LABO 斎藤隆

入試現代文の最新傾向を分析し、次年度の傾向を予測する大胆企画

予想問題/『知性の転覆 人がバカになってしまう構造』橋本治

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 

 2019年1月29日、作家の橋本治氏が、惜しまれつつ、死去しました。

 70歳でした。


 橋本治氏は、慈愛と反骨、スジ重視の著作者です。

 だから、読者も多かったのでしょう。

 橋本治氏は、入試頻出著者でもあります。

 最近では、橋本治氏の著作は、京大、愛媛大、立教大、南山大、明治学院大、二松学舎大、文教大等で出題されています。

 

 そこで、今回は、現代文(国語)・小論文対策として、橋本氏の入試頻出出典、入試予想出典の解説をしていきます。

 解説は約1.5万字です。

 記事の項目は、以下の通りです。

(2)予想問題/『浮上せよと活字は言う』橋本治

(3)予想問題/「敬語への自覚、他者への自覚」(『橋本治が大辞林を使う』)

(4)予想問題/『知性の顚覆 日本人がバカになってしまう構造』橋本治

(5)予想問題/『「わからない」という方法』橋本治

(6)当ブログにおける「知性」・「反知性主義」関連記事の紹介

 

 

(2)予想問題/『浮上せよと活字は言う』橋本治

 

浮上せよと活字は言う (平凡社ライブラリー)

浮上せよと活字は言う (平凡社ライブラリー)

 

 

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です)


 最近、京都大学国語(現代文)では、『浮上せよと活字は言う 』の次の一節が出題されています。

 

「若者の活字離れ」とは「かつて本を読んでいた若者の活字離れ」で、「大学生の活字離れ」というものでしかない。本を読むやつはいつだって読む。本を読まない人間は、いつの時代にもいる。近代は、「本を読むべきだ。本を読むということが自身の思考力を身につけることなのだ。人は言葉で思考し、その思考を言葉によって整理する。人にとって思考と認識とは、人である限り続く義務であり権利であるはずのもので、そのことの結果によって得るものが、”自由”と呼ばれるものだ」と、知性なるものが言い続けてきた。 

 その強制力によってかろうじて若者達は本を読み続けたのだ。

 すべての文化には、それが文化であるような構造が隠されている。だから、読み取りという作業が必須になる。

 活字離れというのは、活字文化という閉鎖的なムラ社会に起こった過疎化現象だ。退廃の元凶はどこにあるのかと言われたら、私には「ムラにある」としか言えない。

(『浮上せよと活字は言う 』橋本治)

 

最後の

「  活字離れというのは、活字文化という閉鎖的なムラ社会に起こった過疎化現象だ。退廃の元凶はどこにあるのかと言われたら、私には「ムラにある」としか言えない。

 の部分は、反骨精神が横溢していて、思わずニヤリとしてしまいます。

 「活字文化ムラ」の魅力の低下でしょうか。

 「知性の強制力」の衰弱でしょうか。

 さらに、橋本氏の追及は続きます。

 

「  「若者が活字離れを起こして本を読まない」などという一行の、何というもっともらしさよ。いかにももっともらしい説明が、しかし、なんの説明にもなっていない。「若者が活字離れを起こした」と「若者が本を読まない」とは、まったく同じことだからだ。同じ言葉の繰り返しが、あたかも一方が他方の説明であるかのように響いて、そしてその先には何もない。権力となってしまった言葉とは、こんなものだ。何の意味も持たず、しかしそれは有効なものとして、存在を続ける。

 十年以上も前にその時代の若者達が何故に“活字離れ”などという事態を惹き起こしたのか? その解明は、当面どうでもいい。問題は、「若者が本を読まないのは活字離れを起こしているからだ」などと平然と言って、それで何かの説明になっているかと思う“活字”の方にある。そのように形骸化してしまった活字が見捨てられぬままになっていたら、その方がよほどおかしいというものだ。

(『浮上せよと活字は言う』橋本治)

 

 活字文化ムラの低脳化を糾弾しているのです。

 自分の側の問題点を何ら考慮することなく、若者側を批判している活字文化ムラの傲慢さを的確に突いているのです。

 「スジ重視」の橋本氏の本領が存分に発揮されている記述と言えます。

 この厳密な論理性ゆえに、橋本氏の著作は入試頻出出典になりやすいのでしょう。

 また、この論理が理解できない読者は、橋本氏の著作の価値を評価することはできないでしょう。

 


 さらに、『[増補]浮上せよと活字は言う』では、次のように明快な結論を導いているのです。

 まさに、卓見でしょう。

「  出版が“産業”として成り立つためには、「多種多様の人間が、ある時期に限って同じ一つの本を一斉に読む」という条件が必要となる。こんなことは、どう考えたって異常である。出版というものが、“産業”として成り立っていたのは、この異常な条件が生きていたというだけで、つまりは、そんなものが成り立っていた二十世紀という時代が異常だった──というだけの話である。

 従って、二十一世紀には、本は「永遠の名作」としてロングセラーとして細々と売るしかない。なぜなら、二十一世紀にはもうベストセラーは存在しないからだ。」
 本の未来は「富山の薬売り」のように、「必要なものを必要なだけ補充し続ける」という方向性にある。

(『(増補)浮上せよと活字は言う』橋本治)

 

 要するに、出版産業は、「異常な時代」が始まる前の「元のように」、細々とした状況になるということです。  

 私も、それが自然な流れであると思います。

 ベストセラーとは、極めて特殊な現象です。

 その「特殊な現象」に恒常的に、制度的に、過度に依存している出版産業が歪んでいるだけなのです。

 本来、本は、一部の人間に必要なものに過ぎないからです。

 一方で、その一部の「本好き人間」は本を生存の糧にしているのです。

 従って、出版産業が壊滅することはないでしょう。

 「良質な出版産業」が細々と命脈を保っていくだけでよいのでしょう。
 


 ところで、私は、橋本氏は歴史に残る批評家になるだろうと思っています。

 『浮上せよと活字は言う 』の次の一節は、橋本氏の訃報を聞いた後では、心に沁みます。

 橋本氏の密かな使命感が感じられるからです。

 橋本氏は、自己を愛し、他者を愛し、伝統を愛し、日本を愛する著作者でした。

 

「  人の物語は、結局その人を表す一行の墓碑銘なのかもしれない。その墓碑銘を人に刻んでもらう為に、人は自分自身の物語を刻んで行く。「これを読んでくれ」と言ったまま、道の脇で死んでいる。それでいいのではないかと、私は思う。その一行だけで、人は後世の人間に役立つ有益な何かを残すのだ。

 言葉というものは、それだけ濃厚な価値を秘めた重要なものだと思って、私は『中央公論』誌に連載されたこの訳の分からない文章に、『浮上せよと活字は言う』と題をつけた。

 様々の具体的なディティールを持って、活字という思考の根源が、再び姿を現すことを祈って──。

(『浮上せよと活字は言う 』橋本治)

 

 

(3)予想問題/「敬語への自覚、他者への自覚」(『橋本治が大辞林を使う』)

 

 

橋本治が大辞林を使う

橋本治が大辞林を使う

 

 


 橋本氏の慈愛は、次に引用する「敬語への自覚、他者への自覚」(『橋本治が大辞林を使う』)にも満ちています。

 一見、過去の遺物に見える「敬語」が、「いかに人生上の重要なスキルになるか」を、若者に丁寧に論じています。

 「不器用な、不利な人生を歩むな」と、若者に実利的に説得しています。

 私は、橋本氏の若者への慈愛に満ちた、あの視線を感じます。
  

「  これからの日本語にとって重要なのは敬語への自覚である。年寄りを尊敬しろと言っても、誰を尊敬できるかという社会的な基準はない。 

 人が生きていく限り、人と人との間の親疎の距離を測ることが必要で、他人との間の距離を再確認できるのが敬語である。

 敬語は、初対面の人間との距離を間の距離を設定する。親近感を成立させるためには相手と同じ言語を使う。相手と交わりたくなければ敬語を使う。相手の立場を尊重する敬語が、相手との接近を拒否するというパラドックスが生じる。

 言葉は自分と自分の外側との境に存在する。自分と他者を繋ぐものが言葉である。言葉がより内側に向かって使われればモノローグになる。限定された地域の内側だけで流通する言葉が方言である。したがって、方言は地域的なモノローグと言える。より外側に向かって使われた言葉が共通語である。共通語は他者との交流を目的とし、重点は外側=他者に置かれる。自分が希薄になるので、自分をより濃厚に明確に語るために方言が必要になる。

 若者言葉は、限定された範囲でしか流通しないという意味で方言の一種である。若者言葉を使う人間は仲間であるという安心感が得られる。しかし、意思疎通を図る必要のある他者は存在せず、言葉はぞんざいになるという言葉の罠がある。他者に対して説明する必要もなくなる。

 言葉の機能は説明することであるのに、他者や説明を欠く若者言葉が、他者との交流が頻繁な大都会で流通していることは不思議である。若者言葉が必要な理由は、より濃厚に明確に自分自身を語りたい欲求が強いからである。

 かつての日本では、まず自分の内側に向かう方言を使い、後に他者に向かう共通語を使った。それが逆になり、幼児期の親子の間で共通語や敬語が使われるために親子の間に距離ができる。

 子どもは成長してその距離を埋めるために方言=若者言葉を使って、自分をより濃厚に明確に語ろうとするのである。そのため、説明を必要とする他者が希薄になり日本語が劣化する。

 日本語を修復するために敬語で他者への認識への自覚が必要になる。

 (『橋本治が大辞林を使う』橋本治)

 

 橋本氏の言いたいことは、以下の通りです。

「  敬語とは、尊敬語ではなく、現代においては、他者との距離あらわすものだ。
身分の上下、社会的地位というものは、現代においては、あまり意味をなさないものだが、それでも自己と他者との距離感は必要である。それを表現するのが敬語である。」

 

 橋本氏は、若者が要領良く、社会を渡っていけるように、人間関係を円滑にするスキル、つまり、実社会における敬語の有用性を心を込めて解説しているのです。

 まるで、人間関係に不器用だった、かつての若者だった自分、橋本治に語りかけているかのようです。

 


(4)予想問題/『知性の顚覆 日本人がバカになってしまう構造』橋本治

 

 

知性の顚覆 日本人がバカになってしまう構造 (朝日新書)

知性の顚覆 日本人がバカになってしまう構造 (朝日新書)

 

 

 

 最近の著作にも、他者への慈愛に満ち、反骨精神の溢れる記述があります。

 その一つとして、『知性の顚覆 日本人がバカになってしまう構造』を取り上げます。

 以下に、注目するべき部分を引用します。

 本書のテーマである「反知性主義」とは何か、を解説している部分です。

 

「  「自分は反知性主義者か?」と自問して、「そうじゃないだろう」と思う。私は反知性主義が下品で嫌いだが、しかし私の中には「知性なんか嘘臭ェ」と思う気持ちも歴然とある。

 私の中には「勉強なんか嫌いだ」と思う子供もまだ健在だから、私は「ヤンキー」でもあるし「反知性主義者」でもある。

 堅気面している反知性主義者より、不良が入ってる分だけ「ヤンキー」のほうがましだと思うが、しかし私は「ヤンキー」だって好きじゃない。

 私にとって「ヤンキー」とは「経験値だけで物事を判断する人たち」である。この「ヤンキー」に対するものは、「経験値を用いずに、すべてを知識だけでジャッジする人」で「経験値を用いる」ということをしないのはそもそも「経験値」に値するようなものを持ち合わせていないからなのか、あるいは「自分の経験値」を知識に変換する習慣を持たないのか、どちらかだろう。

 そういう人たちを何と呼ぶのかと言えば「ヤンキー」の反対側であることによって、「大学出」とでもいうのだろう。

(『知性の顚覆 日本人がバカになってしまう構造』橋本治)

 

 この断定的表現は、小林秀雄氏の以下の「気合い」の影響を受けている感じで、心地良いです。

「  小林秀雄にとって重要なのは、「いかなる時いかなる場合に於いても、馬鹿は馬鹿、馬鹿げていることはただ馬鹿げている」という事実だけである。その点に関して、小林秀雄にはまったく遠慮がない。遠慮なく「馬鹿」と言うだけではなく、遠慮なく「馬鹿ではないもの」を賞揚して、その残りの「馬鹿」を黙殺する。

(『小林秀雄の恵み』橋本治)
 

「 「自分で以てものをはっきりと見て、明確な判断を下せる人間にとってスローガンは要らない」は、小林秀雄の根本を貫く考え方である。

(『小林秀雄の恵み』橋本治)

 

 

小林秀雄の恵み

小林秀雄の恵み

 

 


 要するに、橋本氏の上記の記述によれば、ほとんど全ての人はバカということになります。

 大部分の人は「反知性主義」的ということです。

 確かに、そういう側面はあるでしょう。

 問題は、その上で、各個人が、自己の「反知性主義」的状況から、いかに脱出するかを模索することでしょう。

 しかし、現在では、大部分の人は、そのことを考えもしていません。

 いわば、無思考のまま立ち枯れしているように見える状況こそが悲惨なのです。

 バカが無自覚のまま、奴隷的状況の中で自滅していくこと、それを傍観者として無視できないという一点に、橋本氏の著作は収斂しているとも言えるのでしょう。

 いわば、お節介なおばさん的な所が、橋本氏の魅力でもあるのです。

 そのことからくる、その口調の暖かさが、橋本氏の毒舌を円やかなものにしてくれるのでしょう。

 私たちは、ソフトなストレートパンチを、たいした痛みを感じずに受けとめることができるのです。

 

 次に橋本氏は、「知性的な人」と「反知性的な人」がいるわけではないと言っています。
 人間は、置かれた状況、「機嫌」しだいで、「反知性主義者」になりうる、と考えているようです。

 以下に引用します。

「  不機嫌になると、人の言うことなんか聞きたくなくなる。そういう状態を「反知性」というのだろうと思う。

 だから私は、うっかりすると「反知性」になる。正確に言えば、「知性」そのものに対して反ではなくて、「今の知性」に対して反だけれども、それは「自分には違う質の知性がある」と思い込んだ上でのことだから、そんなものが「知性」に値しなかったら、やっぱり「反知性主義」だろう。

 どうでもいい私自身のことを延々と書いていたのは、「人は扱いによって反知性になる」ということを言いたかっただけで、それは結構由々しいことなんじゃないかと思うし、私自身「反知性的」になると、「あ、やばい」と思って「前向きになって自分の考え方を検討する」に方向を変えるのだけれども、そんな面倒なことを誰もがやるとは思わない。不機嫌な人間は、「自分の考え方を検討する」なんてことはしないで、「不機嫌エネルギーで自分の正しさを押し通す」という方向に進むのだと思う。
「反知性」が問題なら、それを生んでしまう社会の側と当人のメンタリティの両方とを考えるべきだろう。

(『知性の転覆』橋本治)

 

 また、題名である「知性の顚覆」については、次のような説明があります。 

「 「知性の顚覆」というと、知性が肥大化して積載荷重の限度を超えた船のように、バランスを崩して引っくり返ったように思われてしまうが、今回の事態は知性というものを支える基盤が、骨粗鬆症になったかのように脆くなって「陥没した」と言った方がいいような気がする。

 問題にするべきことは、知性の肥大化というようなことではなくて、「知性」というものに価値を見出す人間の数が減って、それほどの重さでもない「知性」を支えることが出来なくなって陥没現象を起こした──「知性」の側がその基盤の劣化に気づけなかったことのような気がする。

 (『知性の顚覆』橋本治)

 

「知性」というものに価値を見出す人間の数が減って、それほどの重さでもない「知性」を支えることが出来なくなって陥没現象を起こした

の部分は、重要な指摘を含んでいます。

「知性」というものに価値を見出す人間の数

の減少ということは、無思考の人間が、圧倒的な多数になったということです。

 

 以上のことを述べた上で、橋本氏の考察は、「バカの実態」の分析に向かいます。

「  戦後の日本には、時々「バカでもいい」という宥しが、笑いと共にやって来る。バカを演じて笑いを取るというのは伝統的なあり方だから、ここを発展させると、素のバカでも「恥知らず!」などと言われずに、笑って許してもらえることになる。芸能的には、「愚は天寵である」という考え方も古くに存在した。しかし、現実社会にバカを撥ねつけるだけの力がなくなっていたから、「あきれる」が否定的にも肯定的にも意味を持たず、ただ「あきれて、笑って、許してしまう」になる。近年の「おばかブーム」というのは、そういうものである。崩すものも茶化すものもなくなってしまった時代に、CMがおもしろくなるはずはない。

(『知性の転覆』橋本治)

 

 そして、日本人が「バカになってしまう構造」を提示しています。

 バブル経済の崩壊後、モノを売るにはどうすればよいか。

 「バカじゃない人」より「バカな人」のほうが圧倒的に多いので、「バカな人」をターゲットに、低コストの商品を販売すればよい、というのがその解答でした。

 つまり、「あなたはバカのままでいい」という広告が氾濫することになります。

 経済が先行きの見えない閉塞的状況になった今、顧客のレベルを下げても、多数の消費者の獲得こそが必要不可欠となります。

 経済は品位を打ち捨てて、堂々とバカ礼賛化の方向に舵を切るのです。

 

「  マンガの配信サービスをする会社のCMコピーで、「難しい本読んでれば、マンガを読むよりエラいんですか?」というのがある。

 別に私は「えらい」とは思わないのだけれど、挑戦的なコピーの割に絵柄はずいぶん弛緩していて、会社の休憩室と思しいところで、女子社員と思しい人間たちがマンガを読んでいる―そこへ上司と思しき男がやってきて、本で軽く一人の頭を叩く。

 これで、よぼよぼのジーさんが「若きウェルテルの悩み」なんかをもってきたら、「えらくなんかねーよ」ははっきりするんだろうけれど、やってくるのは三十がらみの若い男で、もってくるのは文庫サイズのビジネスのノウハウ本だから、これが「難しい本」だとすると、彼女たちは「会社員失格」になってしまうようにも思うが、そんなこととは無関係に、更に先には哀しいワンシーンが待っている。

 ワンルームと思しい狭くて奥行きのないごたごたとしたものの大井部屋の中で、体よく言えば、「部屋着姿」の、「若い」という時期からは離れつつある女が一人、ベッドに寄りかかってマンガを読み、「ナハハ」という哀しくてだらしのない笑い声を口の端から漏らす。

 よくできた現代風俗の哀しい一断面ではあるけれど、一昔前ならこんなシーンはストーリーを引っくり返すオチのために使われた。つまり、この情景はそのまま肯定されるものではなくて、何らかの批評性を生み出すワンシーンとして登場した。でも今はそうではない。

 閉鎖状況でもあるようなこのシーンを、ネガティヴにとらえず、ありのまま丸ごと肯定して、「私たちはこんなあなたを否定しません。あなたのためにサービスを提供しているのです」という訴え方をしている。

 「それでいいのかよ?」と私は思うが、「こういう私のあり方をよく思わないんでしょ?」とどこかで感じている人々をそのまま非難をせずに描くことで、彼等を救ってもいる。

 「どういう救いなんだ?」と、私なんかは思うけれども。

 悪い言い方を承知で言うと、馬鹿な人間の方が、数は多い。これに対して批判めいた接し方はせずに、その在り方を全面的に肯定してしまえば、肯定された方はどうともならないが、肯定した方はそれだけ多くの顧客を獲得できる。

(『知性の転覆』橋本治)

 

 上記と同様のことを、橋本氏は、『バカになったか、日本人』の中でも述べています。

「 「おバカブーム」は多くの人に癒しと救いを与えた。そのことは実に大きな功績だが、「おバカブーム」の問題点は、その後に「バカでもいいんだ」という知能の空白状態を作り出してしまったことにある。

 (『バカになったか、日本人』橋本治)

 

 これは、企業側の巧妙で卑劣な戦略です。

 ある意味で、極めて合理的で摩擦の少ない受け入れられやすい戦略です。

 この戦略に絡めとられた各個人には、明るい未来はないでしょう。

 このような悲惨な状況の中で頼りになるのは、やはり、、各人の「知性の欠片」であり、それと連動している「直感」でしかないでしょう。

 橋本氏も以下のように言っています。

 

「  それでも、「なんか釈然としねーな」と思う人間は、自分なりの真実を探そうとする。最早「知性」というものは、そういう試行錯誤からやり直すしかないところまで来ているんじゃないか。

(『知性の顚覆 日本人がバカになってしまう構造』橋本治


 橋本氏の優しさは、最終的には、「バカな人」を完全には見捨てない点に見られます。
 そして、そのことが、結果的に、全体の利益や幸福に繋がると主張しているのです。
 このことは、スジとして、正論です。

 

「  知性が「自分の納得」を目指すだけでよかった時代は、もう特権化した知性を孤立させたまま収束して行く──ということは、終わって行く。このままにしておけばそうなるしかない。

 「少数の人間の頭がよければいい」という時代は、「なんで俺達を置いていくんだよ!」という人達の声によって終わり、「なんで置いていくんだよ!」という人達は、その「俺達」のレベルに合致するような人間を選ぶ。

   「それじゃ困るでしょう」というところで二〇一七年の世界があるわけだから、知性の方も尖鋭で複雑なことばかりを相手にせず、少しは「人に説明する」ということの必要に目覚めたらどうでしょう。

 私の言っていることが複雑すぎるというのは重々承知しているけれど、既に世界は、「みんなの頭がもっとよくなければ困る」というところに行っているんですから。

(『知性の転覆』橋本治)

 

 「既に世界は、「みんなの頭がもっとよくなければ困る」というところに行っている」の部分は、鋭い指摘です。

 ここに、世界を慈愛の眼で見る、橋本氏の優しさが垣間見えるようです。

 橋本氏のスケールの大きな優しさは、橋本氏の美点であると同時に、脇の甘さにもなっているのでしょう。

 それゆえ、この点が分かりにくいという、一部の人達の批判の原因になっているのです。

 

(5)予想出典/『「わからない」という方法』橋本治

 

 

「わからない」という方法 (集英社新書)

「わからない」という方法 (集英社新書)

 

 

 

  『「わからない」という方法』も、橋本氏特有の「慈愛と反骨、スジ重視」に満ちています。

 入試頻出著書・『「わからない」という方法』を熟読すると、最終的に自己の武器になるのは、「自己の知性」ということが分かります。

 最近は、「情報化社会」の時代と言われ、「情報自体」が崇拝の対象となり、「情報格差」という馬鹿げたキーワードすら発生しています。

 しかし、橋本氏は、「他者の知識、つまり、情報化社会に甘い幻想などを抱かず、まずは、自己の知性を磨くべし」と主張しているのです。

 これは、内田樹氏、佐藤優氏、鷲田清一氏等、主要な論者が等しく主張していることで、まさに正論です。

 

 以下に、少々長くなりますが、『「わからない」という方法』のポイントの部分(→この部分は入試頻出箇所でもあります)を引用します。

「  二十世紀は、「わかる」が当然の時代だった。自分はわからなくても、どこかに「正解」はある──人はそのように思っていた。既にその「正解」はどこかにあるのだから、恥ずかしいのだとしたら、その「正解」を知らないでいることが恥ずかしいのであり、「正解」が存在することを知らないでいることが恥ずかしかったのである。

 だから、人は競って大学へ行ったし、子供達を競わせて大学に行かせた。ビジネスの理論書を必死になって読み漁ったし、誰よりも早く「先端の理論」を知りたがった。それをすることと、現実に生きる自分達が知らないままでいる「正解」を手に入れることとは、イコールだと思っていたのである。

 たとえば、大学へ行くことを当たり前にして、多くの日本人は、大学がそうたいしたものではないという幻滅に訪れられた。しかし、それは果たして、「日本の大学がたいしたものではないから」なのか、あるいはまた、日本の大学に「自分達の思い込みをなんとかしてくれるだけの万能性がなかったから」なのかはわからない。

 だからこそ、「日本の大学はたいしたものではない」と思ってしまった人達の中には、「外国の大学だったらまた別かもしれない」という思い込みだって生まれる。外国の大学へ行くには金がかかる。「それだけの金がかかる以上、外国の大学にあるものは〝本物〟であるはずだ」という思い込みだって生まれる。

 外国の大学には外国の大学なりのよさとすごさはある。しかし、それと「外国の大学だからすごい」という思い込みとは、別である。それが、「自分達の知らない世界にはまだすごいものがあって、そこには〝正解〟があるはずだ」と思い込んだ結果なら、外国の大学だとて、「どうってことはない」のである。

 たとえばまた、大学を出て社会人になり、しばらくして壁にぶち当たることがある。その時に、「会社を辞めて大学に入り直そう」という決断をする人もいる。それは、あるいは必要なことかもしれない。しかし、もしかしたらそれは、錯覚かもしれない。「社会に出て未熟な自分のメッキが剥げた」という事実があるのなら、その未熟さは、自分で克服しなければならない。

 その克服手段が「大学に入って学び直せばなんとかなる」であるのは、もしかしたら、短絡かもしれない。この人が、「自分は正解から離れた。大学には正解がある。その正解に近づけば、もう一度成功を取り戻すことができる」と思い込んでいるのだとしたら、この人のあり方は、「どこかに自分の知らない正解はある」と思い込んでいる二十世紀病なのである。

 二十世紀は、イデオロギーの時代であり、進歩を前提とする理論の時代だった。「その〝正解である理論〟をマスターしてきちんと実践できたら、すべてはうまく行く」──そういう思い込みが、世界全体に広がっていた。そういう状況の中では、「自分の現実をなんとかしてくれる〝正解〟はどこかにある」という考え方もたやすく生まれるだろう。その人達は学習好きになって、次から次へと「理論」を漁る。

 一つの理論がだめになったら、もう一つ別のナントカ理論へと走る。思想さえもが流行になったら、その後では、「流行」さえもが思想である。「それを知らなかったら、時代からおいてきぼりを食らわされる」──そういう不安感の下では、流行もたやすく思想になり、であればこそ、二十世紀末には、わけのわからない 「宗教もどき」がさまざまな事件を引き起こしもした。

  「理論の合理性を求めて、どうして人は宗教という超理論へ走ってしまうのか?」 ──二十世紀末の「宗教もどき」が引き起こした惨劇に対して、多くの人達はこのように首をひねった。しかし、その求められた「理論」が、「なんでも解決してくれる万能の正解」と一つだったとしたら、この矛盾はたやすく解決されるだろう。「なんでも解決してくれる万能の正解」は幻想であり、これはそもそも宗教的なものだからだ。

 二十世紀は理論の時代で、「自分の知らない正解がどこかにあるはず」と多くの人は思い込んだが、これは「二十世紀病」と言われてしかるべきものだろう。「どこかに〝正解〟はある」と思い、「これが〝正解〟だ」と確信したら、その学習と実践に一路邁進する。二十世紀のそのはじめには社会主義があって、これをこそ「正しい」と思った人達は、これを熱心に学習し実践しようとした。

 やがてそこにさまざまな理論が登場して、第二次世界大戦後の二、三十年間は、「一世を風靡(ふうび)したナントカ理論」の花盛りとなる。そこで激化したのは、子供の進学競争ばかりではない。大人だとてやはり、やたらの学習意欲で猪突猛進をしていたのである。

 学習──つまりは、「既に明らかになっているはずの〝正解〟の存在を信じ、それを我が物としてマスターしていく」である。ここでは、「正解」に対する疑問はタブーだった。それが「正解」であることを信じて熱心に学習することだけが正しく、その「正解」に対する疑問が生まれたら、「新しい正解を内合している(はずの)新理論」へと走る──これが一般的なあり方だった。

   「どこかに〝正解〟はあるはずだ」という確信は動かぬまま、理論から理論へと走って、理論を漁ることは流行となり、流行は思想となる。やがては、なにがなんだかわからない 〝混迷の時代〟となって、そこに訪れるのが、「正解である可能性を含んでいる(はずの)情報をキャッチしなければならない」という、情報社会である。

 どこかに「正解」はあるはずなのだから、それを教えてくれる「情報」を捕まえなければならない──そのような思い込みがあって、二十世紀末の情報社会は生まれるのだが、それがどれほど役に立つものかはわからない。しかし、「〝正解〟につながる(はずの)情報を仕入れ続けなければ脱落者になってしまう」という思い込みが、一方にはある。だから、それをし続けなければならない。

 それをし続けることによって得ることができるのは、「自分もまた〝正解はどこかにある〟と信じ込んでいる二十世紀人の一人である」という一体感だけである。だからこそ、情報社会の裏側では、得体の知れない孤独感もまた、同時進行でひっそりと広がって行く。情報社会でなにを手に入れられるのかは知らないが、情報社会の一員にならなければ、情報社会から脱落した結果の孤独を味わわなければならないからである。

 そもそもが「恥の社会」である日本に、「自分の知らない〝正解〟がどこかにあるはず」という二十世紀病が重なってしまった。その結果、「わからない=恥」は、日本社会に抜きがたく確固としてしまったのである。

 

(→当ブログによる「注」→日本人の大部分が罹患している「正解病」についての考察です。「正解病」は不治の病のようなものです。情報崇拝、マスコミ崇拝、科学崇拝、健康診断崇拝、統計崇拝、学問崇拝等、広く蔓延している反知性主義的死病です)

 

 しかし、その二十世紀は終わってしまった。終わって行く二十世紀には、「もしかしたらもう〝正解〟はないのかもしれない…」という不安感が漂っていた。どこにも「画期的な新理論」はない。理論の代用物でもあった「画期的なヒット商品」もない。パソコンやインターネットが画期的であったとしても、それがどこまで必要なのかはわからない。なぜかと言えば、その〝必要〟は、「どこかに正解があるはず」という、二十世紀的な思い込みの上に存在するものだからである。

 よく考えてみればわかることだが、「なんでもかんでも一挙に解決してくれる便利な〝正解〟」などというものは、そもそも幻想の中にしか存在しないものである。「二十世紀が終わると同時に、幻滅もやって来た」と思う人は多いが、これもまた二十世紀病の一種である。二十世紀が終わると同時にやって来たのは、「幻滅」ではなく、ただの「現実」なのだ。

 人はこまめに挫折を繰り返す。一度手に入れただけの自信は、たやすく役立たずになり変わる。人はたんびたんびに「わからない」に直面して、その疑問を自分の頭で解いていくしかない──これは、人類史を貫く不変の真理なのである。自分がぶち当たった壁や疑問は、自分オリジナルの挫折であり疑問である。「万能の正解」という便利なものがなくなってしまった結果なのではない。それを「幻滅」と言うのなら、それは、「なんでも他人まかせですませておける」と思い込んでいた、不精者の幻滅なのである。

 二十世紀に定着してしまったものは「個人の自由」だが、そこから生まれるのは、「自分の挫折は自分オリジナルの挫折である」と言い切る権利である。「自分オリジナルの挫折」は、結局のところ、自分で切り開くしかないものなのである。

 

 二十世紀が終わって、人間は再び過去の次元に戻った。そこでは、困難を切り開くものは、常に「自分の力」だった。「自分の力」がふるえるようになる前に、「どうしたらいいのかわからない、なにがなんだかわからない」という混迷に呑み込まれても不思議ではない。人類は常に、そういうところからスタートしてきたのである。

 「わからない」は、あなた一人の恥ではない。恥だとしたら、「この世のどこかに〝万能の正解〟がある」とばかり信じて、簡単に挫折しうる「自分自身の特性」を認めないことが恥なのである。「特性」がいいものだとは限らない。

 「どこにも正解はない」という〝混迷〟の中で二十世紀は終わり、その〝混迷〟の中で二十一世紀がやって来た──そう思ってしまったら、もう二十一世紀は終わりだろう。「わかる」からスタートしたものが、「わからない」のゴールにたどり着いてしまった。これが間違いであるのは、既に言った通りで、であればこそ二十一世紀は、人類の前に再び訪れた、「わからない」をスタート地点とする、いとも当たり前の時代なのである。

 (『「わからない」という方法』橋本治)

 
 以下の部分は特に重要でしょう。

 「正解病」に陥らずに、「わからない」をスタート地点とすること、つまり、当たり前のことを当たり前に考えことは、案外、困難なことなのです。

「  二十世紀が終わって、人間は再び過去の次元に戻った。そこでは、困難を切り開くものは、常に「自分の力」だった。「自分の力」がふるえるようになる前に、「どうしたらいいのかわからない、なにがなんだかわからない」という混迷に呑み込まれても不思議ではない。人類は常に、そういうところからスタートしてきたのである。

  「わからない」は、あなた一人の恥ではない。恥だとしたら、「この世のどこかに〝万能の正解〟がある」とばかり信じて、簡単に挫折しうる「自分自身の特性」を認めないことが恥なのである。「特性」がいいものだとは限らない。

 「どこにも正解はない」という〝混迷〟の中で二十世紀は終わり、その〝混迷〟の中で二十一世紀がやって来た──そう思ってしまったら、もう二十一世紀は終わりだろう。「わかる」からスタートしたものが、「わからない」のゴールにたどり着いてしまった。これが間違いであるのは、既に言った通りで、であればこそ二十一世紀は、人類の前に再び訪れた、「わからない」をスタート地点とする、いとも当たり前の時代なのである。

 

 

 (6)当ブログにおける「知性」・「反知性主義」関連記事の紹介

 

 「知性」・「反知性主義」に関する論点は入試頻出です。

 新たな論考に積極的にチャレンジするようにしてください。

 

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 今回の記事は、これで終わりです。

 次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

 ご期待ください。

 

  

 

 

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