現代文最新傾向LABO 斎藤隆

入試現代文の最新傾向を分析し、次年度の傾向を予測する大胆企画

論点/「『新潮45』問題と休刊 せめて議論の場は寛容に」佐伯啓思

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 

 入試頻出著者・佐伯啓思氏は、最近、着目するべき論考(「『新潮45』問題と休刊 せめて論議の場は寛容に」 佐伯啓思《異論のススメ》『朝日新聞』2018年10月5日)を発表しました。


 この論考は、

「日本人と情緒性の関係」、

「過剰反応社会」、

「正義論」、

「正義に潜む独善性」、

「ポリティカル・コレクトネス」、

「寛容」、

「寛容のパラドックス」、

「戦う民主主義」、

といった、最新の様々な論点を含んでいて、注目するべき論考です。

 

 そこで、今回は、現代文(国語)・小論文対策として、この論考を詳しく発展的に解説します。

 記事は、約1万字です。

 

 

朝日新聞デジタル

朝日新聞デジタル

 

 

 


(2)予想問題解説/「『新潮45』問題と休刊 せめて論議の場は寛容に」 佐伯啓思《異論のススメ》『朝日新聞』2018年10月5日

 

(概要です)

(太字が本文です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です) 


 新潮社の月刊誌「新潮45」8月号に掲載された杉田水脈氏の、LGBTへの行政支援に異議を唱える原稿が差別的だとの批判を受け、国会でも取り上げられた。これに対し、「新潮45」は10月号で、杉田擁護の原稿を数本掲載したが、一部に不適切な表現があるとされ、ツイッター等で同誌への激しい非難が生じた。そして新潮社は突然、同誌を休刊とした。事実上の廃刊である。

 本紙も、9月26日朝刊で、1面と社会面の両面を使って「新潮45」の休刊を報じている。この雑誌の休刊がそれほどの重大ニュースなのかと思うが、発端となった杉田氏の文章が「日本を不幸にする『朝日新聞』」と題する特集のひとつであった。何やら「朝日」対「新潮45」という構図である。

 私はこの数年、「新潮45」に連載していたので、少し書きにくいのだが、個人的な立場を離れて若干の感想を記しておきたい。

 まず、この数年、いわゆる論壇がいささか異常な状態になっているように思う。論壇のすべてとはいわないが、その目立つ部分が、論点を単純化し、多くの場合、左右の批判の応酬、それも、たぶんに情緒的な攻撃にも似た状態になり、そこにSNSが加わって、ともかくも世論に働きかけるという状態になっている。そうしないと目立たないのであり、目立たなければ話題にならず、もっと端的にいえば「売れない」のだ。

 

 

(当ブログによる解説)

【日本人と情緒性の関係】

 上記に関連して、「日本人と情緒性の関係」を考察していきます。

 「日本人と情緒性の関係」については、内田樹氏の『日本辺境論』が、かなり参考になります。

 内田樹氏は、本書で以下のように述べています。

「  日本社会の基本精神は、「理性から出発し、互いに独立した平等な個人」のそれではなく、「全体の中に和を以て存在し、一体を保つ、全体のために個人の独立・自由を没却するところの和」であり、それは「渾然たる一如一体の和」だ。

 言いかえれば、「和の精神」ないし原理で成り立っている社会集団の構成員たる個人は、相互のあいだに区別が明らかでなく、ぼんやり漠然と一体をなして溶け合っている。

 まさに、これは、私がこれまで説明してきた社会関係の不確実性・非固定性の意識にほかならないのであって、わが国伝統の社会意識、ないし法意識の正確な理解であり、表現である、と言うことができる。

という川島武宣氏の見解を紹介し、内田氏は次のように言っています。

 

「  主義主張、利害の異なる他者と遭遇したとき日本人はとりあえず、「渾然たる一如一体」の、アオモルファス(→当ブログによる「注」→結晶構造を持たない状態の物質)な、どろどろしたアマルガム(→合金)をつくろうとします。そこに圭角(けいかく)(→行動・言語に角があって円満でないこと)のあるもの、尖ったものを収めてしまおうとする。

 この傾向は個人間の利害の対立を調停するときに顕著に現われます。

 戦後制定された調停制度を普及させるために、委員たちに配布された「調停かるた」というものがあったそうです。「かるた」に曰く。「論より義理と人情の話し合い」、「権利義務などと四角にもの言わず」、「なまなかの法律論はぬきにして」、 「白黒を決めぬ ところに味がある」。

 一読してびっくりしたのは、これが日々学内外のさまざまなトラ ブルに遭遇して、その調停にかかわるときに、私の口を衝(つ)いて出る言葉そのままだからです。川島はこのようなマインドは、 「和を以て貴しとなす」と日本最初の憲法に掲げられてから変っていないと書いています。たしかに変っていない。それは確信を込めて申し上げられます。

 

 なぜ、このような特異な国民性になったのでしょうか? 

 内田氏は、その理由は日本語の世界で唯一と言ってよい日本語の「言語構造」にある、と説明しています

 日本語は、「表意文字=漢字」と「表音文字=かな」から成り立っています。

 そして、その二つの文字は、脳の二つの異なる部位でコントロールされていのです。

 一つの部位は「合理性」を、もう一つの部位は「情緒性」を担当しています。

 思考は、言語で行うので、言語自体に情緒性があれば、思考にも情緒性が付加されるのは当然のことなのです。

 つまり、思考が、純粋に合理的ではなくなるのです。

 


【過剰反応社会】

 現代の日本社会で起きている「過剰反応現象」の原因を、榎本博明氏は、『「過剰反応」社会の悪夢』の中で、以下のように述べています。

「日本社会が過剰反応を生み出しており、多くの人々に感情的な反応を取らせる構造になっている。」

「  例えば、世の中の出来事を伝えるニュース番組では、今や必ずといっていいほど「コメンテーター」や「司会者」が登場し、自分の判断や感情を付け加えた上でニュースを伝えます。これにより、私たちはニュースを受け取ると同時に、コメンテーターたちの「感情」をも受け取ることになるのです。

 こうなってしまうと、私たちはニュースの内容を自分なりに理解しようと試みる時間も与えられないまま、「かわいそう」、「許せない」といった感情に支配されることになります。

 このように、感情優先の報道が多くなってしまったことにより、多くの人が感情的な反応をするようになってしまい、冷静さを失った過剰反応も増えてしまった

 

 また、榎本氏は、次のようなことも述べています。

「偽物のプライドを持つ人は、自己誇大感と自信のなさの間を揺れ動くため心の余裕がなく、過剰に攻撃的な反応を示す。背景には対人不安心理が絡むこともあり、脆くてすぐに崩れ落ちそうなプライドを必死に支えようとする悪あがきなのである。」
(『「過剰反応』社会の悪夢』榎本博明)

 

 「過剰反応を回避する」ために、榎本氏は、以下のことに注意するとよいと述べています。

 つまり、

「物事を多面的にみることができること」、

「相手の身になって考えること」

が大切であるとしています。

 要するに、客観的に、冷静になるべし、ということでしょう。

 

 

「過剰反応」社会の悪夢 (角川新書)

「過剰反応」社会の悪夢 (角川新書)

 

 

 

 
(「『新潮45』問題と休刊 せめて論議の場は寛容に」)

 評論家であれ著述家であれ、表現者とは、常に自らの表現の内容と形式について細心の注意を払うべきものであり、普通はそうするものだ。とりわけ、誰かを傷つける可能性のある文章を書く場合には、必要以上に神経を使うのが当然である。表現の自由をたてに何を書いてもよいというものではない。

 その意味で、杉田氏の原稿に配慮が欠け、杉田擁護の論考の一部に問題があったのは事実だと思う。だがその後の、「新潮45」バッシングもまた異常であって、杉田氏を擁護する者は、それだけで差別主義者であるかのようにみなされるとすれば、これもまた問題であろう。

 杉田氏の論考が評論としての周到さを欠いたものだったと私も思うが、ここには少なくとも、三つの重要な論点が含まれていた。ひとつは、問題となった「生産性」である。日本では、構造改革以降、この20年以上、あらゆる物事を生産性や成果主義のタームで論じてきたのである。私はこのこと自体が問題だと思うから杉田氏の論旨には賛同しないが、しかし、政策判断の基準として生産性が適切なのか、どこまでこの概念を拡張できるのか、という論点はある。

 第二に、そもそも結婚や家族とは何か、ということがある。法的な問題以前に、はたして結婚制度は必要なのか、結婚によって家族(家)を作る意味はどこにあるのか。こうした論点である。そして第三に、LGBTは「個人の嗜好(しこう)」の問題なのか、それとも「社会的な制度や価値」の問題なのか、またそれをつなぐ論理はどうなるのか、ということだ。しかし、杉田氏への賛同も批判も、この種の基本的な問題へ向き合うことはなく、差別か否かが独り歩きした。これでは、不毛な批判の応酬になるほかない。

 また、「新潮45」休刊の背景には、SNSにおける激しい批判と、文芸関係者による新潮社への抗議があったようだ。もともと作家や文芸評論家を主力執筆者にもっていた同社が、この圧力に屈したということになる。だがこれも両者ともに過剰反応ではなかろうか。人間は、100%の善人でもなければ100%の悪人でもない。裏も表もある。簡単に白黒つけられるものではない。白と黒の間には無数の灰色があり、その濃淡を仕分け、それを描くのが表現者の仕事である。そして、新潮社の雑誌の特質は、きれいごとではない、この人間の複雑な様相をいささかシニカルに描きだすところにあった。それがすべて崩れてしまった。

 す私は、人間社会の深いところに「正義」の観念(→当ブログによる「注」→正義に関する論点は、受験上、かなり重要です→「正義論」→後述します)はあると思うが、それを振りかざすことは嫌悪する。それはたちまち不寛容になり、それでは議論も何も成り立たなくなる。だから、人間の行為や人物を白黒に分けて、「白」でないものはすべて「黒」と断定して糾弾する、などということもやりたくはない。それゆえ、近年の風潮であるいわゆるPC(ポリティカル・コレクトネス)も、基本的には疑いの目をもってみたくなる。自分たちの主張を「正義」として、反対の立場を封印することは「コレクトネス」でも何でもない。

 


(当ブログによる解説)

【正義の味方】

 上記の
「私は、人間社会の深いところに「正義」の観念はあると思うが、それを振りかざすことは嫌悪する」

の部分に関しては、最近、「正義の味方」というキーワードが、最近、問題になっています。

 「正義の味方」とは、一般的にはプラスイメージの存在です。

 しかし、その「正義の味方」から実力を行使された側からは、「自分とは違う価値観から考えた正義を実現する者」にすぎないわけです。

 「何が正義か」は、それぞれの価値観によるのです。

 すべての正義が普遍的なわけではありません。

 「絶対的な正義」はないのです。

 けれども、「独善的な正義」が、現代社会には氾濫しています。

 
 そのためでしょうか、近年の様々な分野の作品では、「正義の味方」という言葉は、少々、胡散臭い、怪しいイメージの存在として使用されているようです。

 「正義の味方的な、おバカキャラ」、「正義漢的なトラブルメーカー」等が、それです。

 さらに、「正義」を振りかざし、独善的な振る舞いをする人への皮肉として、「正義の味方」と呼ばれることさえあるようです。

 つまり、本来の言葉の意味から、全く正反対の意味として使用されている場合もあるのです。

 

 

【正義に潜む独善性】

 「正義に潜む独善性」については、先崎彰容氏の論考(「独善的な政治思想の暴走を思いとどまり、安易な正義感に浸った自分を戒め・・・・熱い矜持をもった若者たちへ」 先崎彰容『正論』2017年6月2日)が、かなり参考になります。

 以下に概要を引用します。

「  5月連休明けの大学は、学生相談の季節である。新しい学年が始まり、次の進路への階段を一歩あがる。なんといっても大学は自由だ。時間はいくらでもあり、何より通学範囲や上京によって、格段に世界が広がるのだ。黙っていても刺激は外からやってくる。今までの「自分」が揺さぶられ、目の前には可能性という名の広野が茫漠とどこまでも続いている。

≪右に進むのか左に進むのか≫

 人は自分なりの「ものさし」を持たないと、最初の一歩を踏みだすことができない。右に進むのか、左に進むのかを判断する基準がなければ、私たちは広野に佇(たたず)んだまま餓死することもある。多感な学生時代の、将来に対する不安と飢餓感は、大げさではなく、孤独感を抱えたまま広野を歩む作業なのである。

 だから今年もまた、1人の学生が私の研究室の扉をノックしたときも、別段、驚きはなかった。

 若々しい紅潮した顔つきの学生は、幼い頃から父母にいわれ安定した公務員職を今でも目指していること、しかし高校生時代から急速に「人権」や「憲法」といった問題について自分なりに考え、うなされるように思考を深めてもいること、それが恐らく大学でいう「政治学」「政治思想史」という学問分野に当たること、さらには大学院進学に伴う将来不安について、一息に語りつくした。その顔つきと、緊張感に満ちた態度は、まさに20年前の自分自身と同じだった。


 今、私は「教員」という立場であることによって、自分の半分程度の年齢の学生から助言を請われている。それはようやく発見した遠くに見える灯のような存在として彼の前にあるのだろう。だから私は、実は自分がつい先ほどまで原稿を書いていて、その締め切りに追われて動揺している人間であり、数百枚の大作であるがゆえに日々作品への自信と不安の間を揺れ動いている人間であること、つまり到底成熟した人間ではあり得ないことを隠さねばならない。

 引き出しにそっとしまい込むように、自分の半身を隠し「教員」という役割を果たさねばならない。そしてできうれば、この20歳の学生の期待に応えられるような灯として、一歩を踏みだすための「ものさし」を提供したい。

≪過激になりすぎていないか≫

 不惑を越えた自分が、そういう人間になれるかどうかは今もって分からない。ただ、ぼんやりと熱を帯びた頭で聞いていた学生のある言葉が耳に触れたとき、私のなかである感動が襲っていた。

 「人権」や「憲法」という言葉に触発され、高校時代から自分なりの考えを練り続けてきた若者は、自分自身の思考が深まりすぎて「勝手な独善に陥っているのではないか。過激になりすぎているのではないか」と思い、私の読書経験と学生時代の生活、また勉強のための参考文献を聞きたいと言ってきたのである。

 彼は今、自分が独善に陥っているのではと逡巡し、立ち止まっている。茫漠とした先には「政治」という言葉だけが見えかけている。だがそこまで、どう到達したらよいのかが分からない。若いとはいえ、自分なりの方法はある。でもその歩みはやみくもではないのか。どんどん思い込みの道に迷い込んでいる。歩むべき方向を指し示し、同じ悩みをかつて抱き、そして現在、目的地に向かってのっしのっしと歩いているように見える教員、つまりは私のもとに彼は辿りついたのである。

≪政治は英雄的行為ではない≫

 私は何も、自分を信頼してくれたことに感動したのではない。多感でうなされるような情熱をもつ学生が、自分の突進する政治思想を懐疑し、他者の意見を聞くことで冷静に相対化しようと思ったこと、この姿勢に感動したのだ。

 なぜなら私にとって「政治」とは、誰か悪人を仕立てあげ、批判罵倒し「殺せ、引きずり降ろせ」と騒ぐことではないから。あるいは政治とは、生きる力を減退させることではなく、むしろ人びとの生活の営みを維持する生命をたたえた行為だと思うから。つまり政治は善人と悪人に腑分けし、自分を善人であると叫ぶ卑猥な快楽を意味しない。複雑な人間関係を調停し、終わりのない生活を支え続け、英雄的な行為とはまるで無縁なのが政治なのだと思う。

 こういう確信を抱いてきた私にとって、学生が自らの独善的な政治思想の暴走に思いとどまり、安易な正義感に浸った自分を戒めるために、研究室のドアの前に立ったことは、評価すべきだと思われた。真摯な態度は、過剰に陥りがちな青春時代とはまた違う、若さだけがもつ熱い矜持があった。それが資料に埋もれた私の頭を次第に冷やし、心地よい風が吹き抜けていったのである。

(「独善的な政治思想の暴走を思いとどまり、安易な正義感に浸った自分を戒め・・・・熱い矜持をもった若者たちへ」 先崎彰容『正論』2017年6月2日)

 

 

 

上記の

「  若者は、自分自身の思考が深まりすぎて「勝手な独善に陥っているのではないか。過激になりすぎているのではないか」と思い

「  彼は今、自分が独善に陥っているのではと逡巡(しゅんじゅん)し、立ち止まっている」

「  多感でうなされるような情熱をもつ学生が、自分の突進する政治思想を懐疑し、他者の意見を聞くことで冷静に相対化しようと思ったこと」

「  学生が自らの独善的な政治思想の暴走に思いとどまり、安易な正義感に浸った自分を戒めるため」 

は、「キーセンテンス」になっています。


 特に、「逡巡」、「懐疑」、「冷静に相対化」は、「正義に潜む独善性」について鈍感な、現代の日本人が何度も反芻するべきキーワードでしょう。

 

 

違和感の正体 (新潮新書)

違和感の正体 (新潮新書)

 

 

 

【ポリティカル・コレクトネス】

 次に、最新のキーワードとして、「ポリティカル・コレクトネス」を理解することも重要です。

 「ポリティカル・コレクトネス」とは、「政治的に正しい表現」とも呼ばれています。

 公正・公平・中立的で、差別・偏見が含まれていない表現を指しています。

 1980年代に多民族国家アメリカ合衆国で提唱された、「用語における差別・偏見を取り除くために、政治的観点から正しい用語を使う」という意味で使用される表現です。

 また、伝統的主流派に反対して、「少数派の権利保護」、「社会的公正の実現」を主張する立場を指す場合もあります。

 

 「ポリティカル・コレクトネス」は差別是正活動の一環として、英語以外の言語にも波及した結果、一部表現の言い換えにつながりました。

 「ポリティカル・コレクトネス」の圧力は、日本における差別用語の「言い換え」圧力と類似しています。

 「ポリティカル・コレクトネス」は、「表現の自由」を阻害するものになりかねないのです。
 そのため、「ポリティカル・コレクトネス」の圧力を行き過ぎと考える人々からは、「言葉狩り」と評価されることもあるようです。

 

 以下の内田樹氏の見解(「『政治的に正しいこと』は正しいのか?」内田樹『内田樹の研究室』2008年3月16日)は、その一例です。 

「  バリ島海水浴でばりばりに日焼けした上にスキー焼けしたので、季節感のない色黒男になってしまった。

 むかしはこういうのを「くろんぼ大会」と称したのであるが若い人はご存じないであろう。

 1960年代までは夏休み明けに一番黒く日焼けした子どもを学校で表彰していた。

 たいへんよい企図のものであったと思うのだが、「くろんぼ」がご案内のとおりポリティカリーにコレクトではないということで使用禁止用語となり、ついでに「よく遊んだこと」を肌の黒さを基準に考量し、これを讃えるという風儀もまた失われたのである。

 ポリティカル・コレクトネスによる用語制限によって私たちが得たものと失ったものはどちらが多いのか、ときどき疑問になる。

 自分の語法に伏流するイデオロギー性を自己検閲する習慣を定着させたという功績はむろん高く評価されねばならぬ。

 だが、PC の難点は「自分の語法に伏流するイデオロギー性を自己検閲する習慣に伏流するイデオロギー性」の検出には、ほとんど知的リソースを備給しないという点にある。

 わかりにくくてすまない。

 要するに、PC 的なことを大声で言うやつは総じて頭が悪いということである。

 頭が悪いことと邪悪なことではどちらがより有害であるかについては意見の分かれるところであるが、アナトール・フランスはこの論件についてたいへん適切な言葉を残している。

「邪悪な人間はときどき邪悪でなくなることがあるが、愚鈍な人間はつねに愚鈍なままである。」

 そういえば先日「丸坊主」と書いたら、「PC 的に不適切用語です」という校閲からのチェックが入った。

 ちょうど山本浩二くんといっしょにお茶を飲んでいるところだったので、いったいどこが不適切であるのかについてしばらく意見交換した。

 「丸」は PC 的に問題ではないであろうから、不適切なのは「坊主」の方なのであろう。

 しかし、寡聞にしていつから「坊主」が活字にしてはならぬ語に登録されたのか私は知らない(その経緯を知っている人がいたらご教示ください)。

 たしかに「坊主」には貶下的なニュアンスがあるのは事実である。

 「三日坊主」とか「腕白坊主」とか「生臭坊主」とか。

 そもそも、年少のものを呼称するに僧侶の称を流用するという習慣自体が「僧侶一般」に対する世俗の人間たちの ambivalent な感情抜きには説明できない。

 だが、僧侶を両義的にみつめるまなざしはすでに平安時代から存在したのである

 つまり、「坊主」というのは「その本義とは違う不適切な含意をともなう語」として古来使われてきた語なのである。

 その語義を昨日今日ぽっと出てきた「良識」で使用禁止にしてよろしいのか。

 それが「正しい」ということになれば、およそ敬意と嫌悪の両義を含むすべての語は使用を禁じられねばならないことになる。

 私は一昨日所用のために警察署に行ったが、その窓口で警察官は私を「ご主人さん」と呼んだ。

 「ここにハンコ捺して、証紙貼って持ってきて」

 「ご」も「主人」も「さん」もどこにも貶下的な語義はないが、その語はあきらかに「市民を敵視する」トーンで使われていた。

「あのですね、こっちは『ご』に『主人』に『さん』と三段構えで敬語使ってるわけですよ。市民に対する公僕の『お仕えする』という姿勢をアピールするために。これなら文句のつけようないでしょう? え? まだ足りないの?『お市民さま』の方がいい?」

 こういうのはよろしくないと私は思う。

 おそらく、警察庁内部の知恵者が「年齢にかかわらず男性は『ご主人さん』、既婚未婚の別なく女性は『奥さん』と統一的に呼称しておけば、まず PC 的批判は受けずに済むでしょう」というようなことを提言して、そういうことが内規化されたのであろう。

 しかし、私は「ご主人さん」と呼ばれて、飲み屋で「社長」とか「大将」とか呼ばれたような嫌な気分になった。

「社長」も「大将」も、「ご主人さん」も社会的地位についての指示記号である。

 そして、私は使用人を持たない未婚の男子であるから、誰からも「ご主人さん」と呼ばれる立場にない。

 誰からも「ご主人さん」と呼ばれる立場にない人間に対して平然とそのような呼称を用いるのは、あきらかに非礼である。

 「ご主人さん」が貶下的含意をもつのは、そのような指示記号が明らかに事実を指示していない場合に、あえてその呼称を用いることで、「要するに、お前が社会的に何ものであるかなんてことに、オレはぜんぜん興味ないわけよ」というメッセージを発信しているからである。

 あらゆる名詞は「その名詞を用いても、指示対象についての情報が少しも増えない」場合には貶下的含意を持つことができる。

 悪意は語義のレベルにあるのではなく、文脈にある。

 ポリティカリーにコレクトな「言葉の検閲者」たちを私が嫌うのは、彼らの言語の機能と本質についての理解(→言語論の論点として重要です)があまりに浅いからである。

 使える言葉をいくら規制しても、使う人間に悪意がある限り、言葉は語義を離れて攻撃的に機能することができる。

 現に、私は「ポリティカリーにコレクトな人々」という語をもっぱら「頭の悪い人」という意味で用いている。

 おそらく、この用例もやがて日本語の語彙に登録されて、「ポリティカリーにコレクトな」という形容詞そのものが「不適切語」として校閲にチェックされる日が来るであろう。(→かなり強烈な皮肉です)

(「『政治的に正しいこと』は正しいのか?」内田樹『内田樹の研究室』2008年3月16日)

 

 
(「『新潮45』問題と休刊 せめて論議の場は寛容に」)

 そして、リベラル派が唱えるPCに対するいらだちが、いわゆる保守派には根強くあった。しかしまた、その自称保守派も、このところ急激に不寛容になりつつある。論の結論だけで、敵か味方かに単純化されてしまう。SNSがそれを増長する。

 本当に大事なのは、議論の結論というより、その論じ方であろう。

 もともと、リベラルも保守も、その基底には「寛容」があったはずだ。異なった立場を認め、多様性を容認することは、どちらにも共通する原則である。この原則だけが、健全な論争を可能にしたのだ。だが今日、社会から「寛容さ」が急激に失われている。それは論壇だけのことではないのだが、せめて紙媒体の論議の場だけでも「寛容さ」を保つ矜持がなければ、わが国の知的文化は本当に崩壊するだろう。

(「『新潮45』問題と休刊 せめて議論の場は寛容に」佐伯啓思)

 


(当ブログによる解説)

【「寛容」に関して】

 「寛容」に関しては、「寛容のパラドックス」を理解する必要があります。

 「寛容のパラドックス」とは、カール・ポパーが1945年に発表したパラドックスです。

 ポパーは、以下のように述べています。

 「もし社会が無制限に寛容であるならば、その寛容は最終的には不寛容な人々によって奪われるか破壊される。寛容な社会を維持するためには、社会は不寛容に不寛容であらねばならない」

 原則的に「寛容」は守るべき重要な概念だが、例外を認めなければ、寛容な社会は実現不可能である、とするのです。

 

 以下に詳説します。

 ポパーは、『開かれた社会とその敵』において、このパラドックスを以下のように定義しました。

「寛容のパラドックス」についてはあまり知られていない。

 無制限の寛容は確実に寛容の消失を導く。

 もし我々が不寛容な人々に対しても無制限の寛容を広げるならば、もし我々に不寛容の脅威から寛容な社会を守る覚悟ができていなければ、寛容な人々は滅ぼされ、その寛容も彼らとともに滅ぼされる。

 この定式において、私は例えば、不寛容な思想から来る発言を常に抑制すべきだ、などと言うことをほのめかしているわけではない。

 我々が理性的な議論でそれらに対抗できている限り、そして世論によってそれらをチェックすることが出来ている限りは、抑制することは確かに賢明ではないだろう。

 しかし、もし必要ならば、たとえ力によってでも、不寛容な人々を抑制する権利を我々は要求すべきだ。

 と言うのも、彼らは我々と同じ立場で理性的な議論を交わすつもりがなく、全ての議論を非難することから始めるということが容易に解るだろうからだ。彼らは理性的な議論を「欺瞞だ」として、自身の支持者が聞くことを禁止するかもしれないし、議論に鉄拳や拳銃で答えることを教えるかもしれない。

 ゆえに我々は主張しないといけない。寛容の名において、不寛容に寛容であらざる権利を。

 
 同様の見解を哲学者ジョン・ロールズも『正義論』において、以下のように述べています。

「  公正な社会は不寛容に寛容であらねばならない。

 そうでなければ、その社会は不寛容と言うことになり、そうするとつまり、不公正な社会ということになる。

  しかし、社会は、寛容という原則よりも優先される自己保存の正当な権利を持っている。

 寛容な人々が、自身の安全と自由の制度が危機に瀕していると切実かつ合理的な理由から信じる場合に限り、不寛容な人々の自由は制限されるべきだ」


 以上の、ポパー、ロールズに反対する説があります。

 渡辺一夫氏は、「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか」の中で、以下のように主張しています。

「  我々と同じ意見を持っている者のための思想の自由でなしに、我々の憎む思想にも自由を与えることが大事である。」

「  寛容は寛容によってのみ護られるべきであり、決して不寛容によって護られるべきでないという気持ちを強められる。

 よしそのために個人の生命が不寛容によって奪われることがあるとしても、寛容は結局は不寛容に勝つに違いないし、我々の生命は、そのために燃焼されてもやむを得ぬし、快いとおもわねばなるまい。

 その上、寛容な人々の増加は、必ず不寛容の暴力の発作を薄め且つ柔らげるに違いない。

 不寛容によって寛容を守ろうとする態度は、むしろ相手の不寛容をさらにけわしくするだけであると、僕は考えている。その点、僕は楽観的である。

 ただ一つ心配なことは、手っとり早く、容易であり、壮烈であり、男らしいように見える不寛容のほうが、忍苦を要し、困難で、卑怯にも見え、女々しく思われる寛容よりも、はるかに魅力があり、「詩的」でもあり、生甲斐をも感じさせてくれる場合も多いということである。

 あたかも戦争のほうが、平和よりも楽であると同じように。だがしかし、僕は、人間の想像力と利害打算とを信ずる。人間が想像力を増し、更に高度な利害打算に長ずるようになれば、否応なしに、寛容のほうを選ぶようになるだろうとも思っている。

 僕は、ここでもわざと、利害打算という思わしくない言葉を用いる。

(「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか」渡辺一夫)

 

 この論考は、1993年の慶應義塾大学文学部の小論文試験課題文として出題されています。

 

 「寛容」は「多様性」の論点のキーワードです。

 「寛容をいかに考えるか」は、非常にデリケートな問題です。

 佐伯氏の「せめて議論の場合は寛容に」という、控え目な提案にさえ、反対する見解は根強いのです。

 受験生としては、自分の立場を決定する前に、「寛容」に関する議論を、しっかりと理解しておくべきでしょう。

 


 【戦う民主主義】

 「寛容」に関しては、「戦う民主主義」を理解しておくことも大切です。

 「戦う民主主義」とは、ドイツをはじめとするヨーロッパで顕著な、民主主義理念の一つです。 

 民主主義を否定する自由、民主主義を打倒する権利を認めない「民主主義」です。


 民主主義体制を維持するためには、国民に、思想の自由、表現の自由を保障することが不可欠です。

 しかし、国民が、何らかの説得・誘導により、自分の政治的自由を自ら放棄し、民主主義的手続きにより、民主主義制度廃止の手続きをした場合はどうなるのでしょうか。

 このような民主主義体制の自滅の結果として、独裁制が成立する危険性があります。

 そこで前もって、「民主主義体制を敵視する自由」を制限し、民主主義体制維持を自国民に義務付ける、という防御手段を採用しておくことが考えられます。

 このように、民主主義的手続きで民主主義体制を否定しようという勢力から、民主主義体制を守るという発想が「戦う民主主義」です。

 

 これは、「ナチズム」の教訓に沿った思想です。

 「ナチズム」が民主主義の中から発生してしまった歴史を直視し、熟考した結果の思想なのです。

 これは、寛容を重視する伝統的リベラリズムにおいて、「人はすべての場合に寛容であるべきという必要はなく、不寛容な者には不寛容であるべき」という例外的処置が肯定されていることとも対応しています。

 

 しかし、「民主主義」の具体的内容は、一義的に決められるものではありません。

 歴史的に見て、国、宗教、民族等により、多様な内容を含んでいます。

 現在でも、民主主義の具体的内容として統一的な見解が得られているわけではありません。

 

 民主主義の内容・定義のこうした多様性を無視して、特定の思想を「ナチズム」として排除することは、場合によっては、権力者によって濫用され、「表現の自由」(→自由主義の根幹であり、民主主義の前提)が侵害されるおそれがあります。

 つまり、「ナチズム的」という、極めて曖昧なレッテルを貼れば、容易に「表現の自由」を制限することが可能になります。

 さらに、特定の価値に優劣はなく、また、優劣をつけるべきではないという、価値相対主義的な立場からも、「戦う民主主義」の思想には異議が唱えられています。

 これらの点から、「戦う民主主義」の思想を採用している国は多くはありません。


 

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 今回の記事は、これで終わりです。

 次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

 ご期待ください。

 

 

   

 

 

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