現代文最新傾向LABO 斎藤隆

入試現代文の最新傾向を分析し、次年度の傾向を予測する大胆企画

2007センター国語第1問(現代文)「日本の庭について」・解説

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 

 「グローバル化」、「国際化」、「国際交流」の前提として、「日本文化の特質」、つまり、「自己」・「自文化」を知ることが不可欠になります。

 「他者理解」・「他文化理解」の前提は、「自己理解」・「自文化理解」です。

 そのため、日本と西洋を比較する「日本文化論」、「日本芸術論」、「比較文化論」は、最近の入試頻出論点です。

 日本と西洋とを比較する「日本文化論」、「日本芸術論」、「比較文化論」には、様々な視点、切り口があります。

 「日本文化論」、「日本芸術論」、「比較文化論」の論考に対応するためには、それらの個性的な視点、切り口を素直に理解して、筆者の「論の流れ」を読み取ることがポイントになります。

 「素直な読解」は、現代文、小論文においては、常に必要なことです。

 

 今回は、センター試験国語、難関大学の国語(現代文)・小論文対策として、山本健吉氏の「日本文化論」の秀逸な論考を解説します。

 

 なお、今回の記事は、約1万字です。

 記事の項目は以下の通りです。

 

(2)2007センター試験国語第1問・「日本の庭について」山本健吉/解説

(3)要約

(4)当ブログにおける「日本文化論」・「日本芸術論」・「比較文化論」関連記事の紹介

(5)当ブログにおける「センター試験現代文・解説」関連記事の紹介

 

 

俳句鑑賞歳時記 (角川ソフィア文庫)

 

 

(2)2007センター試験国語第1問・「日本の庭について」山本健吉/解説

 

(問題文本文)(概要です)

(【1】・【2】・【3】・・・・は当ブログで付記した段落番号です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です) 

 

【問】 次の文章を読んで、後の問に答えよ。

【1】日本の庭は時間とともに変化し、推移することが生命なのだ。ある形を凍結させ、永久に動かないようにとの祈念を籠(こ)めた、記念碑的な造型が、そこにあるわけではない。不変の形を作り出すことが芸術の本質なら、変化を生命とする日本の庭は、およそ芸術と言えるかどうか。これは少なくとも、ヨーロッパ式の芸術理念とは違った考えに基づいて、作り出され存在しているもののように思われる。

【2】私たち日本人の多くは、少なくとも戦後の住宅難からアパート暮らし、団地暮らし、マンション暮らしが一般化するまでは、規模の大小にかかわらず、日本式の庭または庭らしい空間を伴った家に住んでいた。庭らしい空間というのは、庭を持たない家でも、物干し場や張り出しの手摺(てす)りや軒下などの僅(わず)かな空間を利用しては、鉢植や盆栽を並べたり、蜜柑(みかん)箱や石油缶などに土を入れてフラワー・ボックスに仕立てたり、庭の代用物を作ることに執心するいじましい心根を持っているからである。

【3】そういう心根の大本をたずねると、日本人が古来、人間の生活と自然とを連続したものと受け取り、自然を対象化して考える傾向のなかったことに気づく。それは征服すべき対象ではなく、その中に在って親和関係を保つべきものであった。あるいは、草木鳥獣虫魚から地水火風に到(いた)るあらゆるものと、深い「縁」を結ぶことによって生きるという考え方である。それらの生物も無機物も、あるいは自然界のあらゆるものを、魂と命とを持ったものとして心を通わせ、畏(おそ)れ親しんだアニミズムの思想、あるいは心情があった。

【4】ヨーロッパ式の庭園は、左右相称で、幾何学的図形をなしている花壇や、やはり幾何学的図形を石組で作り出し、中央に噴水を出した泉水や、丸く刈り込んだ樹木や大理石その他の彫刻を置いた、よく手入れされた芝生など、人間の造型意志をはっきり示しているところに特色がある。それは最初に設計した人の手を離れた時、一つの完成に達しているのであって、その後手入れさえ施していればそのまま最初の形を保持して行くことが出来ると考えた。

【5】庭園において動かない造型を作り出すということは、彫刻や絵画や建築や、ヨーロッパ流の芸術理念を作り出しているそれらのジャンルに準じて、庭園も考えられているということである。

【6】ところが、日本では作庭をも含めて、ことに中世期にその理念を確立したもろもろの芸術──たとえば茶や生花や連歌・俳諧など──においては、永遠不変の造型を願わないばかりか、一瞬の生命の示現を果たしたあとは、むしろ消え去ることを志向している。不変とは、ピンで刺したの揚羽蝶(あげはちょう)の標本のように、そのまま死を意味する。それに反して変化こそ、生なのである。西洋の多くの芸術が志向するものが永遠に変わることのない、美しい堅固な形であるなら、日本のある種の芸術が志向するものは移って止(や)まぬ生命の輝きなのである。生命が日本の芸術、この場合は日本の庭の、根本に存在する標(しる)しなのだ。

【7】私はそれら日本の芸術家たちに、自分の作品を永遠に残そうという願いが、本当にあったかどうかを疑う。ヨーロッパ流の芸術観では、芸術とは自然を素材にして、それに人工を加えることで完成に達せしめられた永遠的存在なのだから、A 造型し構成し変容せしめようという意志がきわめて強い。それが芸術家の自負するに足る創造であって、それによって象徴的に、彼等(かれら)自身が永生への望みを達するのである。

 

ーーーーーーーー

 

(設問)

問1 (省略します)

問2 傍線部A「造型し構成し変容せしめよう」とあるが、それはどういうことか。その説明として最も適当なものを、次の中から一つ選べ。

① 変化し続ける自然を作品として凍結することにより、一瞬の生命の示現を可能にさせようとすること。

② 時間とともに変化する自然に手を加え、永遠不変の完結した形をそなえた作品を作り出そうとすること。

③ 常に変化する自然と人間の生活との親和性に注目し、両者を深い「縁」で結んだ形の作品を創造しようとすること。

④ 変化こそ自然の本質だとする考えを積極的に受け入れ、消え去った後も記憶に残る作品を作り上げようとすること。

⑤ 芸術家たちの造型意志によって、自然の素材の変化を生かしつつ、堅固な様式の作品に再構成しようとすること。


……………………………

 

(解説・解答)

問2(傍線部説明問題)

 傍線部は、「ヨーロッパ流の芸術観」についての説明です。

 傍線部直前の「ヨーロッパ流の芸術観では、芸術とは自然を素材にして、それに人工を加えることで完成に達せしめられた永遠的存在なのだから」が、「傍線部の理由説明」になっていることに注目してください。

このことと、【6】段落「西洋の多くの芸術が志向するものが永遠に変わることのない、美しい堅固な形である」から、

(→「時間とともに変化する自然に手を加え、永遠不変の完結した形をそなえた作品を作り出そうとすること」)が正解になります。


① 「一瞬の生命の示現を可能にさせようとすること」が、【6】段落第1文「日本では作庭をも含めて、・・・・永遠不変の造型を願わないばかりか、一瞬の生命の示現を果たしたあとは、むしろ消え去ることを志向している」より、「日本の芸術観」です。

③ 「常に変化する自然と人間の生活との親和性に注目し、両者を深い「縁」で結んだ形の作品を創造しようとすること」は、【3】段落「(日本人にとって)それ(→「自然」)は征服すべき対象ではなく、その中に在って親和関係を保つべきものであった。あるいは、草木鳥獣虫魚から地水火風に到(いた)るあらゆるものと、深い『縁』を結ぶことによって生きるという考え方である。」より、「日本の芸術観」です。

④ 「変化こそ自然の本質だとする考えを積極的に受け入れ」は、【1】段落より、「日本の芸術観」です。

⑤ 「自然の素材の変化を生かしつつ」は、【1】段落「日本の庭は時間とともに変化し、推移することが生命なのだ。」より、「日本の芸術観」です。

 

 この設問は、基礎的なレベルですが、内容的には、他の論考を読解する上で、かなり参考になります。「日本の芸術観」・「日本人の感性」は、教養、予備知識として重要です。よく復習しておくべきです。

 

(解答) ②

 

ーーーーーーーー

 

(問題文本文)(概要です)

【8】造型意志が極端に弱いのが、日本の芸術である。日本における美の使徒たちに、そのような意志が微弱にしか育たなかったのは、やはり日本人が堅固な石の家にでなく、壊れやすく朽ちやすく燃えやすい木の家に住んでいることに由来しているかも知れない。彼等は自分たちの生のあかしとしての造型物を、後世に残そうなどとは心がけなかった。

【9】たとえば、生花とは造型なのか。たとえそこにいくらかの造型的要素があったとしても、それが生花の生命であり、目標であるのか。馬鹿(ばか)らしい。彫刻や絵画が永遠の造型を目ざしているのに、花というはかない素材で何を造型しうるというのか。一ときの美しさを誇ってたちまち花は散るのである。散るからこそ花は美しく、そこに生きた花の短い命との一期(いちご)の出会いを愛惜すること
が出来る。B 造型ではなく、花の命を惜しむことが、生花の極意である。

【10】あるいはまた、主(あるじ)と客とが一室に対座して、一服の茶を喫することに、形を残そうとの願いがいささかでも認められようか。茶室や茶庭や茶碗や(注1)茶匙(ちゃさじ)や茶掛(ちゃがけ)などに、ある造型が認められるとしても、それが茶の湯の目的なのではない。一服の茶を媒介として、そこに美しく凝縮し純化した時間と空間とが作り出されたら、それは客に取っても主に取っても、何物にも替えがたい最高度の悦楽で、それこそ生涯の目標とするに足る、輝かしい生命の発露、一期一会(いちごいちえ)の出会いであった。

【11】造型意志を極小にまで持って行った文学は、十七字の発句(ほっく)であろう。だが、芭蕉は発句よりも(注2)連句に、自分の生きがいを覚えた。連句はそれこそ自分一個のはからいを極微に止(とど)めて、あとはなりゆく自然のままに自分を委(ゆだ)ねてしまった文学なのだ。座の雰囲気の純一化が連句を付け合う者たちの楽しみであって、(注3)文台引き卸せば即ち反古(ほうぐ)とは、芭蕉の日ごろの覚悟であった。残された懐紙は、座の楽しみの粕(かす)に過ぎなかった。自己を没却し、自然のままに随順し、仲間と楽しみを一つにするところに、やはり茶会と同じ、一期一会の歓(よろこ)びがあった。

 

ーーーーーーーー

 

(設問)

問3 傍線部B「造型ではなく、花の命を惜しむことが、生花の極意である」とあるが、筆者は、この生花に続けて、茶の湯、連句の例を挙げている。それは「一期の出会い」を踏まえた上で、日本の芸術のどのような点を強調するためか。その説明として最も適当なものを、次の中から一つ選べ。

① 花の命の短さ、茶の湯の主客の対座、連句の中の発句のもつ十七字という極小の単位などにしぼって、芸術における簡素さを強調するため。

② 生花をともにでる場、茶の湯の主客の対座、連句の座のうちの楽しい雰囲気を取り上げて、芸術における人間関係の豊かさを強調するため。

③ 花の短い命、茶の湯の対座、連句を楽しむ時間の短さに注目して、表現された形よりも芸術における性を強調するため。

④ 花の短い命と向き合うことと、茶の湯の対座、仲間で作り合う連句の座とを重ねて、芸術における個の表現意識の弱さを強調するため。

⑤ 生花、茶の湯、連句を、人と物、人と人とが出会う場の価値にかかわらせて、芸術における空間性そのものを強調するため。


……………………………

 

(解説・解答)

問3(傍線部説明問題)

 設問文の「筆者は、この生花に続けて、茶の湯、連句の例を挙げている。それは『一期の出会い』を踏まえた上で、日本の芸術のどのような点を強調するためか」に注意してください。

④ 「花の短い命と向き合うこと」は、傍線部直前の「散るからこそ花は美しく、そこに生きた花の短い命との一期(いちご)の出会いを愛惜することが出来る。」に合致しています。

 次に、「芸術における個の表現意識の弱さを強調する」は、【11】段落「芭蕉は発句よりも(注2)連句に、自分の生きがいを覚えた。連句はそれこそ自分一個のはからいを極微に止(とど)めて、あとはなりゆく自然のままに自分を委(ゆだ)ねてしまった文学なのだ。・・・・自己を没却し、自然のままに随順し、仲間と楽しみを一つにするところに、やはり茶会と同じ、一期一会の歓(よろこ)びがあった。」に合致しています。

 

① 「連句の中の発句のもつ十七字という極小の単位などにしぼって」は、【11】段落「造型意志を極小にまで持って行った文学は、十七字の発句(ほっく)であろう。だが、芭蕉は発句よりも(注2)連句に、自分の生きがいを覚えた。」に反しています。

 また、「芸術における簡素さを強調するため」は、本文に、このような記述は、ありません。

② 「芸術における人間関係の豊かさを強調するため」は、「生花」とは無関係です。

③ 「芸術における刹那(せつな)性を強調するため」は、【10】・【11】段落の最終文の「一期一会(いちごいちえ)」とはズレています。

⑤ 「芸術における空間性そのものを強調するため」は、【11】段落最終文「自己を没却し、自然のままに随順し、仲間と楽しみを一つにするところに、やはり茶会と同じ、一期一会の歓(よろこ)びがあった。」に反しています。

 

(解答) ④


ーーーーーーーー

 

(問題文本文)(概要です)

【12】では庭は、どのような意味で、日本の芸術であったのか。

(空白アリ)

【13】日本の代表的な庭園とされている一つに、(注4)龍安寺(りょうあんじ)方丈の石庭がある。一樹一草も使わず、大小十五の石が五十余(注5)坪の地に置かれ、一面に白砂を敷きつめただけの庭で、庭全体が海面の体相をなし、巌(いわお)が島嶼(とうしょ)に準(なぞら)えられ、一見する者は誰しも精神の緊張を覚える。この庭は外国人にもひどく感動を与えるらしく、ことにアメリカにはこの形を模した石庭がいくつも作られているという。だが、それが龍安寺の石庭と似ても似つかぬものであったとしても、致し方もない。

【14】石庭といえば、日本の庭の代表のように言われているのは、どういう理由によるのだろう。Cこの庭の絶賛者の一人に志賀直哉氏がある。氏は言う。「これ程に張り切った感じの強い、広々した庭を自分は知らない。然(しか)しこれは日常見て楽しむ底(てい)の庭ではない。楽しむにしては余りに厳格すぎる。しかも吾々(われわれ)の精神はそれを眺める事によって不思議な歓喜踊躍(ようやく)を感ずる」(『龍安寺の庭』)。

【15】大正十三年に書かれたこの文章が、この庭を一躍有名にし、その後賛美者の列がつづき、中には石の配置にことさらな意味づけを見出そうとする哲学好きも多かった。私もまた、志賀氏の文章によって、龍安寺の庭の美を知った一人だが、論者のその意味づけのうるささに何時(いつ)か嫌悪を覚えるようになり、これが果たして日本の庭を代表する傑作なのかと、いくばくの疑いを抱くようになった。

【16】志賀氏はまた次のように言っている。「(注6)相阿弥(そうあみ)が石だけの庭を残して置いてれた事は後世の者には幸いだった。木の多い庭ではそれがどれだけ元の儘(まま)であるか後世では分からない。例えば(注7)本法寺の(注8)光悦の庭でも中の『(注9)八ッ橋』を信じられるだけで、他は信じられない。そういう意味で龍安寺の庭程(ほど)原形を失わぬ庭は他(ほか)にないだろう。庭では吾々は当時のままでそれを感ずる事が出来る」(同)。

【17】この一文は、石庭を相阿弥の作と想定して、ほぼその最初に作られたままの姿で今日といえども存在していることを、今日の鑑賞家である自分たちにとって幸いだとしているのである。変化してやまぬ草木が一本もないのだから、作者が最初に置いた石の配置さえ動かさなければ、それは原形を失っていないはずだし、それを相阿弥の庭としてまじり気なく受け取ることが出来ることになる。

【18】だが志賀氏はここで、作者(相阿弥と想定して)の意図が、そのままの形で今日のわれわれに伝わることを、どうして幸いとしたのであろう。ここにはやはり、永遠不変の記念碑的な造型物を志向するヨーロッパ流の芸術理念の上に、飽くまでも作者の個の表現としての作品を重んずる近代風の考えが重なっているのではなかろうか。そのような点から考えれば、龍安寺の石庭は、変化することのない堅固な素材だけで作られていて、それはヨーロッパ風の芸術理念から言っても、何等(なんら)躓(つまず)きとなる要素はない。だが、日本の庭の多くは、作られた瞬間に、歳月による自然の変化に委ねられ、その結果庭は日々に成熟を加えて行く。言わばそれは、芭蕉の言葉にあるように、「造化にしたがひ、造化にかへる」(『笈(おい)の小文』)ことを理想としている。芸術という熟語はアートの訳語として作られたものだが、術の字はやはり手わざであり、人工であって、造化(自然)に随(したが)うという東洋古来の理念を含んでいない。

 

ーーーーーーーー

 

(設問)

問4 傍線部C「この庭の絶賛者の一人に志賀直哉氏がある」とあるが、志賀が絶賛したのはなぜだと筆者は考えているか。その説明として最も適当なものを、次の中から一つ選べ。

① 石と白砂だけが配置された庭の幾何学的な構図に、日本の庭には珍しいヨーロッパ的芸術理念の精巧な模倣を見出したからだと、筆者は考えている。

② 石と白砂だけに素材を限った簡潔で緊張した造型に、日本の芸術理念とヨーロッパの芸術理念との幸福な出会いを確認したからだと、筆者は考えている。

③ 石と白砂だけの一見無造作に見える景物の配置に、かえって切り取られた空間としての庭本来の魅力を強く感じたからだと、筆者は考えている。

④ 石と白砂だけで作り出された庭の純粋な空間の潔さに、一期一会の歓びにすべてをかける作者の覚悟を直感したからだと、筆者は考えている。

⑤ 石と白砂だけで実現された空間の造型性に、それを創造した作者の強固な意図がそのまま息づいていることを発見したからだと、筆者は考えている。

 

……………………………

 

(解説・解答)

問4(傍線部説明問題)

  「志賀が絶賛した」理由については、以下が該当します。
【18】段落「ここにはやはり、永遠不変の記念碑的な造型物を志向するヨーロッパ流の芸術理念の上に、飽くまでも作者の個の表現としての作品を重んずる近代風の考えが重なっているのではなかろうか。」

 従って、⑤(「→石と白砂だけで実現された空間の造型性に、それを創造した作者の強固な意図がそのまま息づいていることを発見したからだと、筆者は考えている。」)が正解になります。


① 「日本の庭には珍しいヨーロッパ的芸術理念の精巧な模倣を見出したからだと、筆者は考えている」は、本文に、このような記述はありません。

② 「日本の芸術理念とヨーロッパの芸術理念との幸福な出会いを確認したからだと、筆者は考えている」は、本文に、このような記述はありません。

③ 「かえって切り取られた空間としての庭本来の魅力を強く感じたからだと、筆者は考えている」は、本文に、このような記述はありません。

④ 「一期一会の歓びにすべてをかける作者の覚悟を直感したからだと、筆者は考えている」 は、本文に、このような記述はありません。

 

(解答) ⑤

 

ーーーーーーーー

 

(問題文本文)(概要です)

【19】この庭は一定の空間を切り取ってその中に石を配置し、それを方丈から見るものとして対象化したところに成立している。それは見るためだけの庭であって、その意味では額縁によって切り取られた絵と変わりはない。だが日本の多くの庭は、主の生活に融(と)けこんで、その中に自由に出入りすることの出来る空間であって、見るものとして対象化された作品ではない。生命を持ち、変化する草木を一本も植えこんでいないこの庭は、思わくありげな、抽象的図形で、たまたま客人として鑑賞する立場に立てば、誰しも一種の緊迫した気分に誘いこまれるだろう。だが、この寺に住まい、朝夕この庭と対している住持の立場に立てばどうなのか。このような、つねに人に非常の時間を持することを強い、日常の時間に解放することのない緊張した空間に堪えるには、人は眼(め)を眠らせるより仕方がない。それは毎日それと共にあるには、あまりに息づまるような、窮屈きわまる庭なのである。日本の多くの庭の、人の気持をくつろがせ、解き放ち、嬉戯(きぎ)の心を全身にみなぎらせてゆくような要素が、ここにはない。志賀氏が「これは日常見て楽しむ底の庭ではない。楽しむにしては余りに厳格すぎる」と言ったのは、この間の機微を言っているものだと思う。庭が人の住む建築物に付属するものであるかぎり、Dこの非日常性は例外と言うべきである。

(山本健吉「日本の庭について」による)

 

(注) 

1 茶掛──茶席に掛ける掛軸など。

2 連句──五・七・五の長句と、七・七の短句を一定の法則の下に交互に付け連ねる俳諧の一形式。

3 文台引き卸せば即ち反古──文台は句会の中心となる台で、短冊や懐紙をのせる。反古は用済みの紙。

4 龍安寺方丈──龍安寺は京都市にある臨済宗の寺。方丈は、住持(住職)の居間。

5 坪──土地面積の単位。一坪は、約三・三平方メートル。

6 相阿弥──室町後期の画家で、造園にもすぐれていた。

7 本法寺──京都市にある日蓮宗の寺。

8 光悦──本阿弥光悦。江戸初期の美術家・工芸家。

9 八ッ橋──ここでは、本法寺にある、池に沿って八角形に敷石を並べたものを指す。


ーーーーーーーー

 

(設問)

問5 傍線部D「この非日常性は例外と言うべきである」とあるが、それはどういうことか。その説明として最も適当なものを、次の中から一つ選べ。

① 日本の庭が、本来、変化を生命とし、そこに一期一会の歓びをもたらすものであるなら、龍安寺方丈の石庭は、不変の様式美という芸術理念を追い求めるがゆえに、例外と位置づけられるということ。

② 日本の庭が、本来、歳月による自然の変化に委ねられるものであるなら、龍安寺方丈の石庭は、相阿弥の庭として揺るぎない個の表現であるがゆえに、例外的に芸術の本道と位置づけられるということ。

③ 日本の庭が、本来、自然のたたずまいと一体化し、人をくつろがせるものであるなら、龍安寺方丈の石庭は、緊張感をもって見ることを強いるがゆえに、例外と位置づけられるということ。

④ 日本の庭が、本来、人工でありながら自然に従うものであるなら、龍安寺方丈の石庭は、ヨーロッパ風の芸術理念に即応した造型美のゆえに、例外的に芸術の本道と位置づけられるということ。

⑤ 日本の庭が、本来、四季の変化に人の生命のはかなさを感じさせるものであるなら、龍安寺方丈の石庭は、草木主体ではなく、生命なき石や砂からなる様式美のゆえに、例外と位置づけられるということ。

 

……………………………

 

(解説・解答)問5(傍線部説明問題)

 傍線部直前の「庭が人の住む建築物に付属するものであるかぎり」、傍線部の「この非日常性」に注目してください。

 「庭が人の住む建築物に付属するもの」とは、「日常的な庭」を意識し、傍線部と同一段落の、「日本の多くの庭の、人の気持をくつろがせ、解き放ち、嬉戯(きぎ)の心を全身にみなぎらせてゆくような要素」のある「庭」、を指しています。

 一方、「この非日常性」は、傍線部と同一段落の「この庭(→「「龍安寺方丈の石庭」)は、思わくありげな、抽象的図形で、たまたま客人として鑑賞する立場に立てば、誰しも一種の緊迫した気分に誘いこまれるだろう。だが、この寺に住まい、朝夕この庭と対している住持の立場に立てばどうなのか。このような、つねに人に非常の時間を持することを強い、日常の時間に解放することのない緊張した空間に堪えるには、人は眼(め)を眠らせるより仕方がない。それは毎日それと共にあるには、あまりに息づまるような、窮屈きわまる庭なのである。」志賀氏が『これは日常見て楽しむ底の庭ではない。楽しむにしては余りに厳格すぎる』と言ったのは、この間の機微を言っているものだと思う。」を指しています。


 つまり、「龍安寺方丈の石庭」は、「日本の日常的な庭」とは違い、「緊張した空間」、「あまりに息づまるような、窮屈きわまる庭」、「楽しむにしては余りに厳格すぎる」庭、言い換えれば、「非日常的な庭」なのです。

 以上の「対比」に着目すると、
(→「日本の庭が、本来、自然のたたずまいと一体化し、人をくつろがせるものであるなら、龍安寺方丈の石庭は、緊張感をもって見ることを強いるがゆえに、例外と位置づけられるということ」)が、正解になります。

 

 「日常」・「非日常」の対比は、入試頻出論点です。

 

① 「龍安寺方丈の石庭は、不変の様式美という芸術理念を追い求めるがゆえに」が、傍線部の直前を意識していないので、誤りです。

②と④は、「例外的に芸術の本道と位置づけられる」が、本文にこのような記述がなく、誤りです。

⑤ 「龍安寺方丈の石庭は、草木主体ではなく、生命なき石や砂からなる様式美のゆえに、例外と位置づけられる」は、傍線部の直前を意識していないので、誤りです。


(解答) ③


ーーーーーーーー


(設問)
問6 本文は、空白行によって前後に分けられているが、本文の内容や展開の説明として最も適当なものを、次の中から一つ選べ。

① 前半では日本の庭とヨーロッパの庭との差異を芸術理念の面から説明し、後半では一転して、感性の面から龍安寺の 石庭を代表とする日本の庭とヨーロッパの庭との共通性に光を当てている。

② 前半ではヨーロッパの芸術理念と日本の芸術理念とを比較対照し、それを踏まえて後半では日本の芸術理念から見れば、龍安寺の石庭は日本の庭の例外として位置づけられると論じている。

③ 前半ではヨーロッパとは異なる日本の芸術の一般的な特徴について紹介し、その上で後半では両者の芸術理念の共通点に普遍性を認めつつ、龍安寺の石庭が日本の代表的な庭園たり得る理由を説明している。

④ 前半では庭以外の生花・茶道・連句などの芸術分野に広く触れているが、後半では日本の庭のみを取り上げ、特に龍安寺の石庭が日本の芸術理念を集約したものだとする論理展開になっている。

⑤ 前半ではヨーロッパと日本の芸術理念を比較して抽象的に論じているが、それに対して後半では日本の庭を例に挙げ、龍安寺の石庭が例外的に永遠不変性を得たことを具体的に論じている。

 

……………………………

 

(解説・解答)

問6(本文の構成を問う問題)

① 「後半では一転して、感性の面から龍安寺の 石庭を代表とする日本の庭とヨーロッパの庭との共通性に光を当てている」は、本文にこのような記述がなく、誤りです。

② これが正解です。問2~5がヒントになっています。

 

→入試本番では、各設問の関係を意識するようにしてください。センター試験、難関大学現代文においては、このことは、重要なポイントです。設問全体がストーリー性を有していることが多いのです。この点を、志望大学の過去問の演習を通して実感するべきです。模擬試験では、なく。


 ちなみに、私は、模擬試験の価値をあまり認めていません。本番と比較して、スタッフのレベルが違いすぎることが多いからです。時間内に処理する訓練に、一定の効果があるだけです。

 結論としては、時間内に処理することに問題がなければ、なるべく、模擬試験には触れないことが賢明です。時間のムダ、有害無益です。それよりも、過去問を重視するべきです。

 

③ 「後半では両者の芸術理念の共通点に普遍性を認めつつ、龍安寺の石庭が日本の代表的な庭園たり得る理由を説明している」は、本文にこのような記述がなく、誤りです。

④ 「特に龍安寺の石庭が日本の芸術理念を集約したものだとする論理展開になっている」は、本文にこのような記述は、ありません。
 むしろ、「龍安寺の石庭」は「日本の庭の例外」として位置づけられると論じています。

⑤ 「前半ではヨーロッパと日本の芸術理念を比較して抽象的に論じている」が誤りです。【9】~【11】段落で、「生花」・茶の湯」・「連句」という具体例を提示して、「日本の芸術理念」を「具体的に」論じています。


(解答) ②

 

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【出典】

山本健吉「日本の庭について」(『山本健吉全集』巻4所収)


 
(3)要約

 

 日本の庭は永遠不変の造型を願わないばかりか、一瞬の生命の示現を果たした後は、むしろ消え去る事を志向している。これに対して、ヨーロッパ式の庭園は、永遠に変わることのない不変の形を作り出すことを本質とする。それが芸術家の自負するに足る創造であって、それによって象徴的に、彼等自身が永生への望みを達するのである。一方で、造形意志が極端に弱いのが、日本の芸術である。

 ところで、日本の代表的な庭園とされる龍安寺方丈の石庭は、変化することのない堅固な素材だけで作られていて、ヨーロッパ風の芸術理念から言っても、何ら躓きとなる要素を持っていない。また、この石庭は緊張した空間であり、窮屈きわまる庭である。日本の多くの庭に見られる、人の気持ちをくつろがせ、解き放ち、嬉戯の心を全身にみなぎらせてゆくような要素はない。その点で、この非日常性を考慮すれば、龍安寺の石庭は、日本の代表的な庭園ではなく例外的存在である。

 

 

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今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

ご期待ください。

 

 

 

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