現代文最新傾向LABO 斎藤隆

入試現代文の最新傾向を分析し、次年度の傾向を予測する大胆企画

予想問題/「平成と日本人」山崎正和《地球を読む》『読売新聞』

(1)なぜ、この論考に注目したのか?

 

 

 山崎正和氏は、長期的にトップレベルの入試頻出著者です。

 今回の論考も、「公共意識」の視点からの本質的考察で素晴らしいと思います。

 難関大学の現代文(国語)・小論文の入試問題作成者も注目すると思われます。


 しかも、『読売新聞』の「地球を読む」シリーズからは、難関大学の現代文(国語)・小論文に、よく出題されるので、要注意なのです。

 

 今回の記事の項目は、以下の通りです。

 

(2)予想問題/「平成と日本人」山崎正和(『読売新聞』2019年2月24日《地球を読む》)/日本における「公共の観念」
 

(3)「山崎正和さんが語る『平成』 日本は初めて文化国家になった」(『産經新聞』2019年3月19日)について
/定常型社会と文化国家の関係

 

(4)「公共の精神」の重要性について

 

(5)「日本の戦後60年 市民宗教 繁栄の礎」 山崎正和(『読売新聞』《地球を読む》2005年7月31日)について/「常識的倫理観」・「市民宗教」

 

(6)「地方分権 文化と誇りを取り戻そう」山崎正和(『読売新聞』《地球を読む》2010年3月21日)について/「地方の振興」と「文化力」の関係

 

 

(2)予想問題/「平成と日本人」山崎正和(『読売新聞』2019年2月24日《地球を読む》)/日本における「公共の観念」


 

(「平成と日本人」は太字になっています)

(概要です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

  

(「平成と日本人」山崎正和)

 平成の30年は二つの歴史的な激動期の終焉とともに始まった。

 一つは武力とイデオロギーを懸けた東西対立の解消である。

 日本では戦後国内を左右した政治と思想の対立が一挙の基盤を失った。

 もう一つは明治に始まり敗戦復興時に加速され60年代に頂点を極めた産業の飛躍が終わろうとした時である。

 平成がこの終焉とともに始まったことは重要であって、日本人は一見、この時代を消極的に生き始めたように見えた。

 他方、平成の30年は自然災害と経済低迷によって、いわば両手打ちを食らって手荒く始まった。災害と経済には似たところがあって、どちらも人為の力で対処できない面がある。人が自分の生き方を変え、環境と運命に適合していく知恵が必要になるのである。

 その点、平成の日本人は災害について素晴らしい反応を見せた。阪神淡路、東日本、熊本などの大震災、中国地方の水害を含めて、平成の災害では全国規模の市民の自発的支援活動が一般化した。全国規模の、市民の自発的支援活動が一般化して、年齢や階層を問わぬ市民が、私費で参加し、それを組織する専門家の民間活動団体(NGO)も結成された。年齢や階層を問わぬ市民が私費で参加し、それを周旋、組織する専門家の民間活動団体(NPO)も結成された。明治以来の近代社会の中で、血縁地縁によらない相互扶助が習慣化したのは最初ではないだろうか。

 これに対して経済の方は、不況、低成長を長らく嘆かれながら、それにしてはよく安定しているというのが、庶民の実感だと言えそうである。失業者数も少なく、倒産社数も突出せず、住宅や高額商品のローン負債者の群れも目立たない。何と言っても、アメリカや中国のような所得格差の天文学的な開きは日本には認められないのである。

 明らかに経済の面でも、日本人は平成の直前頃から生き方を変え、大量生産、効率主義からの自発的な転換を図っていた。物質の消費よりは情報の享受に関心を持ち、趣味、観光、スポーツなど、文化活動により多くの時間を費やす傾向を強めてきた。

 


(当ブログによる解説)

上記の

「  明らかに経済の面でも、日本人は平成の直前頃から生き方を変え、大量生産、効率主義からの自発的な転換を図っていた。物質の消費よりは情報の享受に関心を持ち、趣味、観光、スポーツなど、文化活動により多くの時間を費やす傾向を強めてきた」

の部分については、山崎氏のインタビューがあるので、以下に引用します。

 「日本人のライフスタイルの変化」が論点になっています。


「表現する自我、さらに進んだ 『柔らかい個人主義の誕生』」(山崎正和『朝日新聞』2016年9月28日)からの引用です。


 「1970年代から80年代にかけて、産業構造が変わり、人間の生き方や考え方も変わっていく。この本でそう主張しましたが、大筋は書いた通りになり、威張るつもりはないけれど、うれしく思っています。

 本の端緒になったのは、時代の変化でした。洋服の有名ブランドや美容院が人気を集めるようになった。カラオケも流行しはじめた。自分を見せる、聞かせるという「自己表現」の欲望に人々が目覚めていったんですね。

 私はこれを「表現する自我」という概念で説明しました。それは、近代に西欧から流入してきた「自我」とは逆です。「自我」は欲望の主体であって、他人の持ち分を奪い、他人を手段として使って、自分を大きくしようとする。資本家が労働者を使って資本を増やすように。

 「表現する自我」は尊敬できる他人を必要とします。化粧し、着飾った女性は、自らの姿を同性の美女か気に入った異性に見せたいと思うもの。猫に見せても意味がない。猫には評価する能力がないから。

 それから、もう一つ、私が考えたのが「時間消費」という概念です。当時、外食産業やホテル、旅行業者が人気を集めていました。旅行は風光明媚な景勝の地に長く滞在し、外食はごちそうを味わって時間をかけて食べることを楽しむ。

 今の若い人は自動車を買わないといいます。代わりに何をやっているか。たとえば「ポケモンGO」。時間を消費しているんですね。

 かつて「消費」といわれていた多くの部分は、実は「生産」なんじゃないかと私は考えました。例えば、握り飯を食べるのは、ごはんをエネルギーに換え、再び働けるようにする。労働力の再生産なんです。

 マックス・ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で書いたようにプロテスタントたちは神のために時間を無駄にせず懸命に富を増やした。社交なんてとんでもない。クリスマスまで否定したんですね。

 だが、それから時が過ぎ、私の友人でもあるダニエル・ベルがいうように「脱産業化社会」になった。そうした経済や社会の変化とともに人間の自我も変化する、と私は考えました。

 時間消費を楽しみ、自己表現する自我の登場です。それは、かつての産業社会の硬い個人主義とは区別される「柔らかい個人主義」なんですね。他人に自らを表現し、時間を消費して社交を楽しむんですね。」

(「表現する自我、さらに進んだ 『柔らかい個人主義の誕生』」 山崎正和『朝日新聞』2016年9月28日)

 

 山崎氏は、昭和後半期(1960年代)が、「大量生産大量消費型」の高度経済成長時代とすると、70年代から80年代の日本は「多品種少量生産型」と規定できると言っています。

 つまり、「物」ではなく、「ソフト」や「サービス」に、消費するようになっていったと言っているのです。

 そして、平成時代には、この消費傾向が加速していった、と分析しているのです。


 上記の山崎氏のインタビューで述べられている『柔らかい個人主義の誕生―消費社会の美学』 (山崎正和)の中から、ポイントとなる重要部分を以下に引用しておきます。

 

「  皮肉なことに、日本は60年代に最大限国力を拡大し、まさにそのことゆえに、70年代にはいると国家として華麗に動く余地を失うことになった。そして、そのことの最大の意味は、国家が国民にとって面白い存在ではなくなり、日々の生活に刺激をあたえ、個人の人生を励ましてくれる劇的な存在ではなくなった、ということであった。」

 

「  確実なことは、人々は「誰かである人」として生きるために、広い社会のもっと多元的な場所を求め始める、ということであろう。それは、しばしば文化サーヴィスが商品として売買される場所でもあろうし、また、個人が相互にサーヴィスを提供しあう、一種のサロンやボランティア活動の集団でもあるだろう。当然ながら、多数の人間がなま身のサーヴィスを求めるとすれば、その提供者もまた多数が必要とされることになるのであって、結局、今後の社会にはさまざまなかたちの相互サーヴィス、あるいは、サーヴィスの交換のシステムが開発されねばなるまい。」

 

「  もし、このような場所が人生のなかでより重い意味を持ち、現実にひとびとがそれにより深くかかわることになるとすれば、期待されることは、一般に人間関係における表現というものの価値が見直される、ということである。すなわち、人間の自己とは与えられた実体的な存在ではなく、それが積極的に繊細に表現されたときに初めて存在する、という考え方が社会の常識となるにほかならない。そしてまた、そういう常識に立って、多くのひとびとが表現のための訓練を身につければ、それはおそらく、従来の家庭や職場への帰属関係をも変化させることであろう。

 だが、これよりももっと大きな変化は、豊かな社会の実現が人間の基礎的な欲望を満足させるとともに、結果として、消費者自身にも自分が何かを求めながら、正確には何を欲しているかわからない、という心理状況をつくりだしたことであろう。

 ここで、われわれが予兆を見つつある変化は、ひと言でいえば、より柔らかで、小規模な単位からなる組織の台頭であり、言い換えれば、抽象的な組織のシステムよりも、個人の顔の見える人間関係が重視される社会の到来である。そして、将来、より多くの人々がこの柔らかな集団に帰属し、具体的な隣人の顔を見ながら生き始めた時、われわれは初めて、産業か時代の社会とは歴然と違う社会に住むことになろう。」

(『柔らかい個人主義の誕生―消費社会の美学』山崎正和)

 

 

柔らかい個人主義の誕生―消費社会の美学 (中公文庫)

柔らかい個人主義の誕生―消費社会の美学 (中公文庫)

 

 

 

(「平成と日本人」山崎正和)

 平成の30年を見渡したとき、GDPを比較すると日本の国力が相対的に低下したことは疑いない。日米中の3国の動向を比較しても、そのことははっきりしている。GDP至上主義者は落胆するだろうが、その代わり、今日の日本には明治以来のいつの時代にもなかった、誇るべき国威が新しく芽生えているように思われてならない。

 ほかでもなく、日本人が、今風に言えば「生きざま」を変えて、生活の文化を磨き、他人への配慮を強め、社会関係の質を高めようとしてきたことの結実である。

 

 

(当ブログによる解説)

 上記の

「日本人が、今風に言えば「生きざま」を変えて、生活の文化を磨き、他人への配慮を強め、社会関係の質を高めようとしてきたことの結実である。」

の部分は、前述の「日本人のライフスタイルの変化」を、より具体化している記述です。

 

 なぜ、日本人は、「ライフスタイルの変化」を意識し始めたのでしょうか?

 この点について、山崎氏は、『柔らかい個人主義の誕生―消費社会の美学』 (中公文庫)の中で、以下のように述べています。

 

「  いわば、前産業化時代の社会において、大多数の人間が「誰でもない人(ノーボディー)」であったとすれば、産業化時代の民主社会においては、それがひとしなみに尊重され、しかし、ひとしなみにしか扱われない「誰でもよい人(エニボディー)」に変った、と言えるだろう。

 これに対して、今や多くの人々が自分を「誰かである人(サムボディー)」として主張し、それがまた現実に応えられる場所を備えた社会が生まれつつある、と言える。
 人々は「誰かである人」として生きるために、広い社会のもっと多元的な場所を求め始める、と言うことであろう。

(『柔らかい個人主義の誕生―消費社会の美学』山崎正和)

 


 
(「平成と日本人」山崎正和)

 テレビ番組の一節を紹介しておきたい。新しい平成の国威は静かに海を渡り、フランスのパリに影響を及ぼしているというのである。(平成30年9月24日NHK「とことんフランス! 深田恭子のジャポニズム2018」)

 最初は、近頃のパリジェンヌはラーメンをすすって食べるようになったという話題、魚の鮮度を保つ日本の「沖締め」の技術が広くフランスの漁師に習得され、パリの料理界において、魚の常識を一新したことを伝えられた。日本人として見ていて悪い気はしない。俄然緊張して乗り出したのは、三番目の話題であった。

 パリの街並みは壮麗だが、道路はお世辞にも清潔とは言えない。見かねた在住日本人たちが立ち上がり、自発的に清掃を始め出したというのである。パリ市民の反応は否定的で、清掃業者の職を奪うという反対の声すらあった。

 ことは他文化の批判につながりかねない心配があったわけだが、日本人の寡黙と愚直さが救いになったらしい。そろいのエプロンを用意して頑張っていたら、やがてフランス人が参加し始めた。今では彼ら自身の運動になり、清掃業者も喜んでいるという。

 この話を聞いて、私は胸に熱いものを禁じ得なかった。明治に輸入された「公共」の観念が、平成の終わりには身に付いた国民の習慣になり、今、かつての故郷に帰りつつあると実感したからである。

(「平成と日本人 激動期経て生き方に変化」山崎正和『読売新聞』《地球を読む》2019年2月24日)

 

 

(当ブログによる解説)

 上記の山崎氏の論考の最後は、

「  明治に輸入された「公共」の観念が、平成の終わりには身に付いた国民の習慣になり、今、かつての故郷に帰りつつあると実感したからである」

となっています。

 この点について、「山崎氏は近代以前の日本には『公共意識』は無かったと考えているのか」、と誤解することがあるかも知れません。 

 

 実は、山崎氏は、「近代以前の日本」と「公共意識」の関係について、以下のように考えているのです。

 

 山崎氏は、『不機嫌の時代』の中で、「日本の近代化=明治維新」における、日本人の「公共意識」の変容に注目しています。

 『不機嫌の時代』は、鷗外、漱石等の作品に共通している「ある感情」を分析することにより、「日本の近代化=明治維新」が個人の精神に、どのような影響をもたらしたかを考察した名著です。

 ここでの考察の対象は、時代を覆う「気分」であり、これを山崎氏は「不機嫌」と評価したのです。

 この時代における大きな変化は、「家」・「家業」・「家庭」に発生していたのです。

 かつて、「家」・「家業」・「家庭」は半ば公的な存在でした。

 「家」・「家業」・「家庭」は「公」の中に存在する「私」でしたが、その中に、ある種の「公」を内包していたのです。

 江戸後期の中産階級の家は、人的交流、地域社会の中核として機能していました。今で言えば、行政の小型の出張所のようなものでしょうか。

 そこでの「家」・「家業」・「家庭」は公的側面を持ち、主人と女房は「公=外部」を充分に意識して、「家業」を運営していたのです。

 しかし、明治維新以後の「近代化=西洋化」によってより、「家」・「家業」・「家庭」における公的側面は縮小され、女房の役割は限局的な人間関係に固定されてしまったのです。

 西洋の近代化は、教会の権威否定であり、各個人が神と直接的に対面することを目指しました。その過程で、個人の内部に「神」という一種の「公共」を設定したことにより、「公共」は、個人の内面にこそ存在することになるのでしょう。

 日本の近代化においては、西洋的な「神」を導入しなかったので、本来的に多元的存在の「公共」を国家的制度に限定し、様々な「公共」と関わりあいながら生きていた個人を強制的に儒教的体系に組み入れたのです。

 

 そして、日露戦争に奇跡的に勝利すると、明治政府は国民を動員させる具体的な目標を見出だせなくなってしまいます。

 その後に、曖昧な「不機嫌」が、時代の空気として、特にインテリ層に広く蔓延していくのです。

 それは、明治維新政府の強引な政策により、各個人が感じていた喪失感に起因しているのです。 

 
 以上のことを山崎正和氏は、『不機嫌の時代』の中で、冷静に分析しているのです。

 

 

不機嫌の時代 不機嫌からの精神史的考察 (講談社学術文庫)

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読売年鑑〈2019年版〉

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(3)「山崎正和さんが語る『平成』 日本は初めて文化国家になった」(『産經新聞』2019年3月19日)について
/定常型社会と文化国家の関係

 


 上記の「平成と日本人」の中で、山崎氏の思いの溢れている記述は、最終段落である以下の部分です。

「  この話を聞いて、私は胸に熱いものを禁じ得なかった。明治に輸入された「公共」の観念が、平成の終わりには身に付いた国民の習慣になり、今、かつての故郷に帰りつつあると実感したからである。

 

「  明治に輸入された「公共」の観念が、平成の終わりには身に付いた国民の習慣になった

ということは、山崎氏の価値観からすると、日本が「文化国家」になったということなのです。

 

 日本が「文化国家」になったということについては、山崎氏は、この論考以前にも、他の新聞(『産經新聞』2019年3月19日)で述べているので、以下に引用します。


「山崎正和さんが語る「平成」 日本は初めて文化国家になった」(『産經新聞』2019年3月19日)

「  日本人が非常に大きなことをしたのが、平成の時代です。たとえば、日本人がお互いを助け合った。神戸、東北、熊本で大地震が起こり、多くの水害もあった。そこで日本人は相互援助をやった。

 一般の人が、自分と関係のないところまで行って災害復旧の援助をやっている。それまでは、助け合うとしても地縁、血縁の中。それとは無関係に相互協力を始めたという意味で、日本史上の画期的な時代です。はじめて“国民”というものがうまれたのかもしれない。

 経済は確かに沈滞したけれど、その中で比較的、うまく生きている。失業者は少ないし、貧富の差もあまり開かなかった。政治的には揺れ動きましたけどね。でも日本はどの政党が天下をとっても壊れない。極端な政策や独裁政党は出ない。きわめて安定した国であることを証明したのです。

 そして、日本は初めての文化国家になっていきました。マンガの輸出に始まり、いろんな形で文化を輸出した。サッカーの試合では、日本の応援席だけ試合がすんだらきれいに掃除され、外国人がびっくり。日本人はごく普通にやっているだけですが。すると世界で一番公共心のある国民、となった。パリで在住日本人が道路を掃除しだしたら、パリの人が街を掃除するようになった。日本は文化文明を輸出できる国になりました。

 今の日本は、江戸時代に似ているでしょうね。江戸時代は西も東も、庶民自身が楽しむ文化を創った。国力が随分あったのに、あまり偉大なものを作ろうとも、外国に攻めていこうとも考えなかった。自ら好きなもの、愛するものを、楽しんでいればそれでいい。たとえばゴミが落ちていれば拾いたくなる、そういう感覚を大切にしていればいい時代です。

 日本は経済力で米国や中国と戦う国ではなくなるでしょう。環境と資源を大切にする国民です。これを大切にしてたら、そんなに経済は伸びない。俗に言う定常型社会、つまり成長がないまま、しかし安定する社会が実現できるかもしれない。国力が、力や金ではなく、品格とか文化とかに移っていくのではないか。それが私の見方です。」

(「山崎正和さんが語る『平成』 日本は初めて文化国家になった」『産經新聞』2019年3月19日)

 


(4)「公共の精神」の重要性について

 

 

 山崎正和氏は、最近の著書『社交する人間』の中で、人間が「人間らしく生きる場」としての「社交」の再評価の必要性、を強調しています。

 「社交」においてこそ、「公共の精神=規律」は不可欠と言えます。

 山崎氏は、『社交する人間』の中で、以下のように述べています。

 

「  社交とは、功利的な目的や心情にもとづく衝動から解放されて、穏やかな感情に包まれたり、集まることそれ自体が目的となって、相互に利用価値がなくなるという意味で平等になったりと、自由と調和の両立をもたらすものである。

 このような社交の起源は有史以前にさかのぼる。例えば、先史的な民族の慣習のなかには、共同感情のほかに、すでにより意識的な、いわばつくられた共感の形跡が見られる。その後、社交は「生産と分配の経済」、「贈与と交換の経済」の中でに、衰退、発展を繰り返していく。

 現代は、工業化の時代が過ぎ去り、ポスト産業化の時代へと移行しつつある。

 つまり、「生産と分配の経済」、「贈与と交換の経済」へと移行し、「人間が人間を相手に働く社会」へと変容している。

 このような時代の流れを背景に、古くて新しい人間関係が形成されてきている。

 それはすべての点で組織とは対蹠的な手段であり、明示的な規則もなく、ただ暗黙の慣習化された規制が支配する集団である。

 そこでは、個人の相互評価が集団をつくる絆となる。いいかえれば、忠誠心ではなくて名誉心によって、義務ではなくて友情によって結ばれている。つまり、社交的な人間関係が形成されてきているのである。

 一方で、現代社会は近代文明の複雑化、グローバル化によって「リスク社会」となり、その趨勢は覆すことができない。

 そのような社会において救済すべきことは、克服できないリスク社会の克服をめざすのではなく、それと並存しうる別種の社会を避難所とすべきである。

 それが、社交社会であり、具体的にはサービス交換の社会であり、あえて別の表現を加えるなら、契約社会に対立する信用社会である。

 もし、現代文明に正しく「第三の道」と呼べるものがあるとすれば、それは一方に茫漠たる地球社会、他方に国家や企業を含めた組織社会をひかえて、その両方に拮抗して、個人に心の居場所を与える、もう一つの人間関係でなければならないだろう。

(『社交する人間』山崎正和)

 

 

 

社交する人間―ホモ・ソシアビリス (中公文庫)

社交する人間―ホモ・ソシアビリス (中公文庫)

 

 

 


(当ブログによる解説)

 山崎氏の問題意識は、現代文明においては、「社交」、つまり、「信用社会」の、価値の再評価が重要ではないかということです。

 確かに、個人に心の居場所を与える、もう一つの人間関係としての「社交の場」は必要でしょう。

 現代文明が発達すればするほど、人間は労働力として、人材として、歯車として、労働生産性、専門性のみを評価されることが多くなるので、そこに圧迫感が強まるのは明白です。

 このような状況になれば、「人間として扱われる場」、人間が「人間らしく生きる場」としての「社交」の重要性が再評価されるべきなのです。 

 

 そして、そのような「社交の場」においては、「他者を思いやること」が「場」の基盤になるのでしょう。

 抽象的な他者を思いやる気持ちが、「公共の精神」であることを考えれば、「社交の場」においても、「公共の精神」が不可欠になるのです。

 歴史的に見て、「文化国家」には、様々な「社交の場」が発達していたことを考えると、「社交」の再評価を主張する山崎氏の見解は、まさに卓見と言えます。

 

 山崎正和氏の『「厭書家」の本棚』を読むと、「社交」における「規律」、つまり、「公共の精神」の重要性がよく理解できます。

 以下に、ポイントを引用します。

 

「  四〇年の交遊を振り返って思うことは、丸谷さんが生来の「社交する作家」であり、対談の精神はその文学活動の中核をなしていたのではないかということである。対談に欠かせない人をそらさぬ気遣い、「淡きこと水の如し」、また「親しんで狎(な)れず」といわれる人との距離感、その均衡をみごとに貫いたのが丸谷文学だった。

 本来、社交には、規律と遊び心という矛盾する姿勢が必要だが、丸谷さんはその二つを過不足なく備えていた。

 規律といえば、この人はかつて対談の時間に遅れるということがなかった。いつも私よりも早く会場に着いていて、私に忸怩(じくじ)たる思いをさせた。酒は好きで陽気に飲んだが、この人が泥酔する姿を見たことがない。 

(『「厭書家」の本棚』山崎正和)

 

 

「厭書家」の本棚

「厭書家」の本棚

 

 

 


(5)「日本の戦後60年 市民宗教 繁栄の礎」 山崎正和(『読売新聞』《地球を読む》2005年7月31日)について/「常識的倫理観」・「市民宗教」

 

 

 この論考では、「公共の観念」は、「常識的倫理観」、「市民宗教」と言い換えられています。

 やはり、この論考でも、山崎氏は、日本における「常識的倫理観」のレベルの高さを、かなり評価しているのです。

 日本人は経済力に目を向けるのではなく、自国の「常識的倫理観」のレベルの高さを意識して、自信を持つべきである、と主張しているのでしょう。

 

 以下に、「日本の戦後60年 市民宗教 繁栄の礎」 のポイントを引用します。

 

「  第2次大戦後、見た目の廃墟(はいきょ)のなかで、じつは日本には大きな遺産が残されていた。戦前の1930年代に、すでに政治経済の近代化と、市民社会の基礎が築かれていたからである。

 鉄道と電力の全国普及はすでに終わり、各種の重工業もほぼ整備されていた。初等教育の義務化は徹底されて、非識字率はつとにゼロに近づいていた。普通選挙も施行されて、国民は政党政治を経験していた。芽生えとはいえ、労働組合の活動もあり、知識人は社会主義やアナキズムのあらましも知っていた。

 大都市が誕生し、都市的な生活様式も大衆文化も賑(にぎ)わっていた。情報の発展はめざましく、ラジオも映画も、今日の大新聞も出揃(でそろ)っていた。郊外住宅、ターミナル百貨店、民間航空、女性事務職も誕生し、豊かな家庭では電化製品さえ知られていたのである。

 たしかに30年代の終わりから軍国主義が台頭するが、戦中でさえそれが国民の心を完全に支配したわけではなかった。宝塚歌劇も職業野球も半ばまで生き残ったし、谷崎潤一郎など耽美(たんび)主義の作家も広く読みつがれた。国家神道は鼓吹されたが、国民の心になじんでいたのは、むしろ仏教的な無常観に近いものだった。戦争前からの数年間、日本人は思想的に奇妙な二重生活を送ったというのが実情だろう。

 そして、このことが日本の敗戦後の移行を滑らかなものにし、混乱を最小限に抑えて、復興に向かわせる要因となった。にわか仕立ての軍国主義の衣を脱ぐと、国民はただちに身につい市民感覚に帰れたからである。国家神道はイスラムのような固い伝統を持たず、逆に公序良俗の意識は戦後のイラク社会とは違って根強かった。復興をめざすにつけても、日本人にはなつかしい過去があり、そこへ帰るべき具体的な目標のイメージがあった。またジャズもハリウッドも親の代から親しんでいて、アメリカ化といっても違和感はなかった。

 60年代までの日本は、したがって30年代の延長であり、拡大であった。新しく女性の解放と農村の救済を加えれば、社会運営の思想もそのままで通用した。勤勉、清潔、協調、向上心、核家族の愛といったモラルも、大宗教や大イデオロギーの指導なしに維持された。自由か平等かという大議論なしに、常識的な善意から福祉政策も整備された。この間、日本人はいわば「プロジェクトX」の時代を生きたわけだが、それを支えた精神は暗黙の世俗的な道徳、常識的な規律、「市民宗教(シビル・レリジョン)」ともいうべきものであった。

 その後日本人は国際化の波に洗われ、不況や経済摩擦の危機も経験し、冷戦と国際テロの脅威も知ることになった。日本は「大国」になって「バッシング」も受け、ふたたび侮りを蒙(こうむ)って「ナッシング」と呼ばれることもあった。だがその間、国民の国家観、世界観に大きな動揺がなく、一貫して「市民宗教」を守り抜いたことは注目してよいだろう。

 戦後60年を振り返って、日本人が思想的に成熟したことはほぼ三つあるが、そのどれもがこの「市民宗教」に根ざしていると考えられる。第一はもちろん「政教分離」だが、この近代国家の基本というべき一点で、日本は世界のどの先進国にも先駆けている。

 最近の米大統領選挙を見て日本人が驚いたのは、妊娠中絶や同性愛が宗教問題として争点となり、それが政治的な対立と直結したことだろう。またコーランの冒涜(ぼうとく)が中東の民衆をあれほど激怒させ、流血の危機を招いたのも日本人には少なくとも意外であった。逆にフランス政府が「政教分離」を叫ぶあまり、学校でイスラムのスカーフを禁止したのは、日本人の目には過度に神経質に映った。

 日本人には妊娠中絶も同性愛も個人の倫理問題であり、コーランもスカーフも宗教ではなく、その象徴の問題である。個人の倫理問題に政治が干渉すべきではなく、象徴の扱いについて政治的に対立するのは過剰反応だと、日本人は感じている。ちなみに話題の首相の「靖国参拝」にしても、争われているのは追悼すべき人間の名前であって、靖国神道の教義ではない。反対者も賛成者も、靖国に一つの霊安所として以外の関心はないのである。

 たぶん、このことと関連して、第二に日本人が達成したのはナショナリズムの克服であろう。つとに多くのサッカーの国際試合において、日本の応援団の公平さは世界的な評価を受けてきた。竹島問題で韓国の攻撃を浴びているさなかにさえ、女性の「韓流ブーム」にかげりは見られなかった。直近の中国の反日暴動にたいしても、日本の街では民衆のデモも中国人迫害も起こらなかった。

 一方、若者の国際化は進み、NGOへの関心も広く高まっているのだから、この寛容が政治的なアパシー(無関心)の産物だとは考えにくい。むしろ若者の自然な感性がもはや民族単位ではなく、近代の普遍的な価値観にそって働いていると見るのが自然だろう。そしてたぶんそのことがいま日本の若者文化を力づけ、マンガやファッションやポップ音楽を中心に、大挙して国境を越えさせていると推察できるのである。

 最後に日本の戦後を特徴づける第三の趨勢(すうせい)は、英雄崇拝とポピュリズムの道がほぼふさがれたことだろう。もともと「市民宗教」は常識の体系であるから、社会は穏健な常識人に信頼を寄せがちになる。カリスマ的な指導者は近代以前にも、大戦中にすら現れなかったが、戦後の自民党政治のなかで完全に後を断った。英雄不在がこれだけ続き、それに国民が不満を抱く様子もないことを見れば、これがこの国の永続する姿になったといえるだろう。

 大宗教も大イデオロギーもなしに、1億人以上の国民が60年の安定を保ったことは、奇跡に近い。多元化する世界の将来を考えれば、これは貴重な歴史的実験だといえるかもしれない。だが「市民宗教」の理念はまだ普遍的に理解されておらず、外国では一部の知識人の言説にとどまっていることを、日本人は知っておかねばならない。しかもこの常識的な倫理観は無自覚のままに放置すれば、ただの惰性的な慣習、安易な便宜主義、仲間うちの自己満足に堕する危険もないとはいえない。

 いま日本人に必要なことは、「市民宗教」もまた宗教であること、その暗黙の倫理のなかにじつは倫理が潜んでいること、したがって普遍化の可能性があることを、言葉にして語ることだろう。それは日本人の宗教を世界に布教するためではなく、日本人にみずからがときに世界の無理解に耐えても、粘り強く生きぬくために必要なのである。

(「日本の戦後60年 市民宗教 繁栄の礎」 山崎正和『読売新聞』《地球を読む》2005年7月31日)

 


(当ブログによる解説)

 「  日本人は経済力に目を向けるのではなく、自国の「常識的倫理観」のレベルの高さを意識して、自信を持つべきである。

 そして、日本のレベルの高い「常識的倫理観」のレベルこそが、日本人が粘り強く生きぬくために必要なのである。」

と山崎氏は強調しているのです。

 

 

 (6)「地方分権 文化と誇りを取り戻そう」山崎正和(『読売新聞』《地球を読む》2010年3月21日)について/「地方の振興」と「文化力」の関係

 


 最近では、「地方分権」、「地方の振興」が、キーワードになっています。

 「地方の振興」を考える際には、「文化力」、つまり、「文化的な活力」、「文化が生み出す価値の生産性を意識するべきではないか、というのが、以下の山崎氏の主張と言えるでしょう。

 「文化力」は「ソフトパワー」とも呼ばれています。

 「ソフトパワー」の価値、潜在的生産性については、青木保氏も『多文化世界』 の中で論じています。

 そちらも参照するとよいでしょう。


 

 

多文化世界 (岩波新書)

多文化世界 (岩波新書)

 

 

 

「  かねて地方分権の声は喧しいが、地方とは何か、地方の振興とはどういうことか、根本的な問題意識に立った議論はなされてきたのだろうか。かつて中央教育審議会の席上で、知事会の代表が権限を委譲せよと文部科学省に迫ったことがあった。すると次に口を開いた町村会の代表が、知事にたいして権限委譲を要求したのに私は思わず笑ってしまった。

 考えてみれば、地方社会は近代国家以前からあったのだし、権力の担当者と関係なく存在していた。藩主は国替えをさせられても、農民や町民は地域にとどまった。前近代の行政は明らかに今より劣っていたのに、地域社会ははるかに元気であった。地域振興を語るのなら一度、この原点から考える必要があるのではないだろうか。

 元気だった昔の村や町は、単に物を生産する場所ではなかった。鎮守の社や檀那寺があって、人が四季を祝い祭りを楽しむ場所であった。古くはそこから観世の能が生まれ、阿国の歌舞伎が育ち、伊勢の本居宣長や大坂の山片蟠桃など、学者や文人をも輩出して日本文化の基盤を養った世界であった。

 物を生産するにつけても、かつての村や町は付加価値の創出、いわば文化産業の育成に熱心であった。米や野菜のような一次産品をはじめ、繊維、紙、陶器、漆器、刃物などの工業品にも各地の名産があって、収入だけでなく地域の誇りを生み出していた。

 今日の地域を貧しくしているのは、たんに金銭的な富に欠乏だけではなく、こうしたかつての文化力が衰退したという思いと、それに伴う誇りの喪失ではないだろうか。この悲観を生んだのはもちろん近代化であり、知恵と文化の源泉が西洋に移り、輸入の窓口である東京に集まったという実感だろう。

 だが、政府にも自治体にも長らくこの事実の自覚がなく、地域振興といえば公共事業と、大企業の工場を地方へ誘致することに明け暮れていた。教育も文化も中央が地方に供給するものとなり、昨今ではとくに福祉を供給することに関心が集まっている。政府と自治体の権限争いは、要するにこの供給の権力をめぐる奪い合いなのである。

 これは少しおかしいのではないかと、私が漠然と気づいたのは30年ほど前のことであった。私も近代化は世界の趨勢であり、国家が大きな役割を演じるのは当然だと認めていた。だがその前提のもとでも、地域にまだ文化的な活力が残っていて、人がただ糊口を凌ぐだけでなく、自力で価値を生んでいることを信じたいと考えたのである。

(「地方分権 文化と誇りを取り戻そう」山崎正和(『読売新聞』《地球を読む》2010年3月21日)

 

 

 (当ブログによる解説)

 「地方の振興」を考える際には、経済的効率性、合理性のみを追求するのではなく、「地方の文化力」に注目するべきなのです。

 上記の

 「物を生産するにつけても、かつての村や町は付加価値の創出、いわば文化産業の育成に熱心であった。米や野菜のような一次産品をはじめ、繊維、紙、陶器、漆器、刃物などの工業品にも各地の名産があって、収入だけでなく地域の誇りを生み出していた。

 今日の地域を貧しくしているのは、たんに金銭的な富に欠乏だけではなく、こうしたかつての文化力が衰退したという思いと、それに伴う誇りの喪失ではないだろうか。」

の部分は、「地方の振興」を考える際には、大いに参考になると思われます。

 

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 今回の記事は、これで終わりです。

 次回の記事は、約3週間後に発表の予定です。

 ご期待ください。

 

 

  

 

 

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