現代文最新傾向LABO 斎藤隆

入試現代文の最新傾向を分析し、次年度の傾向を予測する大胆企画

予想問題/「原発と人間の限界」高村薫/思考停止・欲望・身体性

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 

 

 高村薫氏の論考は、簡潔な表現で本質を鋭く突くのが特徴です。

 爽やかで、切れ味の良い文章なので、難関大学の現代文(国語)・小論文で頻出です。

 

 最近、入試頻出著者・高村氏が発表された「原発と人間の限界」高村薫(『朝日新聞』2019年6月28日)は、秀逸な「現代文明批判」・「現代文明論」であり、「日本人論」・「日本社会論」です。

 「現代文明批判」・「現代文明論」、「日本人論」・「日本社会論」は、現代文(国語)・小論文入試で最頻出の論点です。

 今回の論考は字数が約4000字であり、難関大学の現代文、小論文の題材としています。

 内容的にも、近年の政治的、経済的、社会的な重要論点が網羅されています。

 

 私は、この論考は、来年度以降の難関大学の現代文(国語)・小論文に出題される可能性が高いと思います。

 そこで、当ブログでは今回の論考を、高村氏の他の重要な論考も参照しながら、予想問題として詳細に解説することにします。 

 

 今回の記事の項目は、以下の通りです。

 記事は約1万5千字です。

(2)予想問題/「原発と人間の限界」高村薫(『朝日新聞』2019年6月28日)/思考停止・身体性・欲望

(3)当ブログにおける「高村薫」関連記事の紹介

 



(2)予想問題/「原発と人間の限界」高村薫(『朝日新聞』2019年6月28日)/思考停止・欲望・身体性


 

朝日新聞デジタル

朝日新聞デジタル

 

 

 

 

(「原発と人間の限界」の本文は太字になっています)

(概要です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

 

 

 原子力発電をめぐる平成の30年は、国内外の潮流が肯定と否定、推進と縮小もしくは撤退の二つの方向へ分かれ、ウラン濃縮や核兵器の拡散問題もはらみながら、世界に複雑なエネルギー地図を描きだした時代だった。

 1970年代の石油危機が推し進めた先進国の原発利用は、79年の米スリーマイル原発や86年の旧ソ連のチェルノブイリ原発、そして日本の東京電力福島第一原発の過酷事故を経て停滞へと転じ、安全面の不確実性とともに発電コストが大幅に上昇して、近年は新規の建設が困難になってきている。一方で、経済発展とともにエネルギー需要が高まっているアジアや中東では、原発の需要は依然として高い。

 また、原発の積極的な導入が一段落する一方で、地球温暖化の危機感が世界規模で共有され、化石燃料に代わって再生可能エネルギーの利用が飛躍的に拡大したのもこの時代だった。その結果、各国で進められる温暖化防止の取り組みが、CO2を出さない原発の位置づけをあらためて不透明にしており、将来的には廃止を目指すものの、既存の原発は当面使い続けるという国が大多数を占める。日本もそこに含まれる。

 これが2019年の世界の原発のおおまかな現状である。将来的には確実に衰退すると言われる一方、撤退の難しさや、産業界の都合と国益の交錯からくる混沌とした状況は当面続くだろう。しかも、使用済み核燃料の最終処分地という難題や発電コストの増大、ひとたび事故が起きた際の想像を絶する被害のリスクにもかかわらず、多くの国で原発がいまなお命脈を保ち続けている現実には、20世紀型の繁栄への拭いがたい執着も透けて見える。これは日本も同様である。

 私たち日本人は、原子力については広島と長崎への原爆投下という唯一無二の歴史をもつ。その重い記憶の一方、戦後の復興期に語られた「原子力の平和利用」という言葉は、国と産業界と国民に強力な麻酔をかけ、1957年には茨城県東海村の第1号実験炉に初めて「原子の火」がともった。そうして日本は商業原発の建設へ踏み出したのだが、科学の進歩がそのまま人類の希望だった20世紀後半は、同時に大国が核実験を繰り返して核兵器が拡散した時代でもあった。そのなかで日本人がなぜ、核兵器の脅威と原発の夢をかくも都合よく切り離すことができたのか、私たちは今日に至るまで真剣に自問した形跡がない。

 とまれ日本の原発は、平成を迎えた89年には37基を数えるまでになった。その3年前にはチェルノブイリ原発で爆発事故がきていたが、深刻な放射能汚染にさらされた欧州に比べて、地理的に遠い日本ではそれほど大きな騒ぎにはならなかった。

 それどころか、国は当時、日本の原発は多重防護のシステムが備わっているので、チェルノブイリのような事故は起こり得ないと繰り返し説明し、私を含めて大半の日本人は、日本の原発を世界一安全と信じ込んだのである。そんな安全神話が生まれた正確な過程はいまとなっては判然としないが、私たちの思考停止が、繁栄を謳歌(おうか)していた社会の空気と軌を一にしていたのは確かである。

 


(当ブログによる解説)

 上記の「私たちの思考停止」について解説します。

 「思考停止」は、最近の「日本人論」・「日本社会論」のキーワードになっています。

 私は、最近の日本人を見ていると、「思考停止」と言うよりは、最初から思考力が欠如しているのではないか、内面は幼児のまま、少しも成長していないのではないかと思います。


 が、とにかく、有力な論者達は「思考停止」というキーワードを多用しています。

 高村氏は、「思考停止」の実態について、以下のように皮肉を籠めて説明しています。

 哀しみを感じてしまうような実態です。

 

「現在の自分の生活がひっくり返るような大事は起こらないという根拠のない楽観と、仮にそうでなくとも運を天にまかせるほかない無為の間で、私たち日本人は今日も浮遊し続けている」

(「この夏に死んだ言葉」高村薫『作家的覚書』)

 

 

作家的覚書 (岩波新書)

作家的覚書 (岩波新書)

 

 

 

 

(「原発と人間の限界」本文)

 もっとも、少し注意深く新聞を読んでいれば、定期検査での不正やデータ改ざん、ときどき発生する配管破断などの事故、地震による緊急停止など、「世界一安全」の内実に不安を覚える出来事がなかったわけではない。そこには、使う以上の燃料を生みだすとうたわれた高速増殖炉「もんじゅ」のナトリウム漏れ事故や、93年の着工から一度も本格稼働していない青森県六ケ所村の核燃料再処理工場など、そもそも確かな技術的裏付けがあったのか、根本的な疑問が生じる事例も含まれる。

 原発は、設計・建設から運転まで、ある意味究極のアナログである。機械や列車と同じく人間がプログラムを組み、構造計算をし、データを検証し、一つ一つ点検・確認をして動かしてゆくのである。しかし人間がこの巨大なシステムを構築したとき、密閉された容器のなかで起きる核分裂反応や、それに伴ってシステムの随所で間断なく発生する物理的・化学的反応のすべてを計算できたはずもない。「もんじゅ」の場合も、ヒューマンエラー以前に、高速中性子や液体金属ナトリウムの物理的振る舞いなど、技術者たちはそもそもいまだ完全に理解できていない世界に手を出したのではないのか。

 

 

(当ブログによる解説)

 上記の「技術者たちはそもそもいまだ完全に理解できていない世界に手を出したのではないのか」の部分は、衝撃的な指摘であり、冷徹な科学批判と言えます。

 一般人、マスコミには、このような視点は予想外でしょう。

 一般人、マスコミは科学技術者を盲目的に信頼しきっているからです。

 よく考えてみれば、そのような信頼は、根拠のない信仰にすぎないのです。

 この点について、高村氏は、傑作サスペンス、科学系犯罪小説とも言うべき『神の火』の中で、以下のように記述しています。

 

「  すべての科学技術は本来、その運用に当たって完全という言葉は使えない人間の所産に過ぎないが、いったん壊れたが最後、周辺地域が死滅するような技術の恩恵を、人間はどれほど受けてきたというのか。原子力は、人間にどれほど必要な代物だったというのか、そう思い至ると、島田は回復不能の懐疑の闇に陥った。」(『神の火』高村薫)

 

 

神の火(上) (新潮文庫)

神の火(上) (新潮文庫)

 

 

神の火(下) (新潮文庫)

神の火(下) (新潮文庫)

 

 

 

 

(「原発と人間の限界」本文)

 平成の日本で、原発は当否以前の無関心にのみ込まれて日常の一部になった。そして2011年3月11日、東日本大震災が起きる。

 被災地でまさに生死のはざまに投げ込まれた数万、数十万の人びとと違い、私のように遠く離れたところからテレビ中継を見つめることしかできなかった者にとっても、福島第一原発が刻々と崩壊してゆく時間は、一生消えない衝撃をこの心身に刻んだ。

 このとき私たちはそれぞれ多くのことを考えたが、とくにこの地震国で原発を利用することの無謀は間違いなく私たちの心身に刻み込まれたはずである。個々に価値観は違っても、事故直後に半径20キロ以内のすべての住民が、取るものも取りあえず退避させられた現地の映像を一目でも見たなら、人間の営みが消された風景の残酷さに悄然(しょうぜん)としないはずはない。廃虚と化した4基の原子炉と人間の消えた大地は、まさに「原子力の平和利用」の幻想の下から現れた極北の現実だと言ってよい。

 


(当ブログによる解説)

 上記の

「人間の営みが消された風景の残酷さ」、

「人間の消えた大地」、

に関しては、「離郷」というキーワードがあります。

 「離郷」は、人類、各民族、各個人に関する歴史的、社会的なキーワードと言えます。

 最近でも、東日本大震災、福島原発事故において発生した切実で悲惨な現象です。

 「離郷」については、高村氏の「日本の未来 地に足をつけて」(『朝日新聞』2013年7月5日)という題名の本質的な論考が思い起こされます。

 以下に、その論考の重要部分引用します。

 

「  住み慣れた土地への思いはけっして無条件の愛着だけで語れるものではなく、個々の暮らしの諸条件によって、複雑かつ多様になるということである。東日本大震災を目の当たりにしたせいだろうか。最近、故郷を去る人のことをよく考える。地方の山間に広がる限界集落で、自身の病気や身体的な不自由により、ついに自発的に土地を捨てる決心をする人びと。

 チェルノブイリや福島のように、原発の重大事故で強制的に故郷を追われる人びと。選択の余地もなく故郷を追われるのは、内戦状態のシリアや、ソマリアや南北スーダンなどの難民もそうだろう。限界集落も土砂災害も、原発事故も戦争も、みな人間の営みの過剰と欲望の物語であるが、同時に個人の意思の及びがたい共同体全体の物語でもあり、それゆえ、どんな離郷も深い無念の光景となる。人が離郷で失うのは、馴(な)れ親しんだ暮らしだけではない。最大の喪失は、土地の匂いといった己が身体に根ざしたアイデンティティーである。」

(「日本の未来 地に足をつけて」高村薫『朝日新聞』2013年7月5日)

 

 東日本大震災、福島原発事故において発生した「不意の強制的な離郷」、すなわち、「日常生活の不意の崩壊」ということの重大性について、一般の人々も、国も、もう少し想像力を働かせるべきでしょう。

 そうすれば、避難者達の継続的で安定した生活を軽視して、膨大な予算を必要とする東京オリンピックを開催するという政策が実行される訳がないのです。

 

 

 

(「原発と人間の限界」本文)

 事故から8年経ったいまも汚染水の漏出は止まらず、原子炉の底から溶け落ちた核燃料はその姿をやっとカメラで確認した段階であって、取り出し作業の見通しも立っていないが、これは「想定外」の結果とは言えない。60年代に原発建設が始まったとき、国は20世紀末までに廃炉技術を確立すると約束したのだが、それがいまだ果たされていないのは、端的に技術的に困難だということだろう。小惑星に探査機を着陸させることはできても、高レベルの放射能に汚染された原子炉内で活動できるロボットさえ十分に実用化できないのは、原子力を前にした人間の、これが現時点での能力の限界ということなのだ。

 

 

(当ブログによる解説)

 上記の「想定外」「能力の限界」については、高村氏は、「科学技術のモラルの問題」の視点から、以下のようにも述べています。

 すなわち、「想定外」、「能力の限界」と言って済ますのではなく、「科学技術のモラルの問題」として、科学者達を厳しく糾弾するべきであると主張しているのです。

 「科学技術のモラルの問題」については、2017年、2018年の東大入試の国語問題、2017年センター試験国語第1問としても出題されている重要論点です。

 

 

 

gensairyu.hatenablog.com

 

gensairyu.hatenablog.com

 

gensairyu.hatenablog.com

 

 

 

【福島原発事故についての、高村薫氏のインタビュー】

「(高村薫)「「想定外」という言葉が使われましたけれども、今回の場合にはそもそも想定しなければならないことが想定されていなかった、という意味では「人間のやることに限界がある」という以前の話で「問題外」の事態だったと思う。「これで大丈夫だろうか」というその想定をするときに、非常に恣意的に、自分たちの都合のいいように作ってきたと思います。だからこれは、科学技術のモラルの問題だと思います。」

(「この国と原発事故」高村薫『NHKインタビュー』2011年5月3日)

 

 

 

(「原発と人間の限界」本文)

 さて、福島第一原発の事故は、世界の原発利用に一定のブレーキをかけたと同時に、太陽光や風力などの再生可能エネルギーの普及を大きく加速させた。では、当の日本はどうだったか。たとえば国のエネルギー基本計画を見てみよう。そこに定められた2030年度の電源構成は、再生可能エネルギーが22~24%、原子力が20~22%となっているが、原発の新規制基準に伴うコスト増や、40年を超えた原発の延命の困難などを考えると、原子力の比率の20%超という数字はおよそ現実味がない。一方、再エネの比率のほうは、2040年に全世界の発電量の40%に達するという国際エネルギー機関(IEA)の予測に比べて、明らかに低すぎる。

 これはもはや科学技術の問題ではなく、経済の話ですらない。電力会社を頂点とする産業界と、永田町と霞が関の利害がいまなお不可分であり続けていることの帰結であり、三者がそれぞれ変革から逃げてもたれあった末の、成算のないなし崩しに過ぎない。そして国民もまた、長引く景気低迷と生活の厳しさに埋もれ、再び無関心にのみ込まれていまに至っているのである。

 

 

(当ブログによる解説)

上記の、

「国民もまた、長引く景気低迷と生活の厳しさに埋もれ、再び無関心にのみ込まれていまに至っている」の部分も、日本人の幼児性、あるいは、「抽象的思考」ができない愚かさを指摘しています。

 日本人が「抽象的思考」ができない点については、高村氏は、これまでにも何度か、主張しているようです。

 以下の論考は、大部分の日本人には、耳の痛い内容になっています。

「  私たちはいつのころからか、生命や社会や人生について抽象的な思考をしなくなったのではないだろうか。「人間とは」と言いだすだけで「ドン引き」されるいまの時代、もてはやされるのは日常の小さな仕合わせや、ささやかな暮らしの風景や、心温まる小さな生きものたちの物語などである。

 そこでは、人間の一生は日々の暮らしの送り方や、手づくりのご飯や、食卓に生けた一輪の花などに還元される。もっと言えば、個々人の生活感覚や価値観へと矮小(わいしょう)化される。

 それはそれで人間が生きることの一面ではあるし、軽んじていいとも思わないが、それだけで事足りるかと言えば、そうではないだろうと思うのだ。たとえば、「人間とは」を考える言葉が失われたところでは、「人間らしさ」を考えることもできない。「人間らしさ」を考えることができないところでは、貧困や難民について深く考えることもできない。こうして多くの深刻な問題が、私たちの関心の外に放り出されているのである。

 今日、私たちはネットを通して自分に必要な情報を必要なだけ入手するようになった。そうして個々に興味のある情報だけを効率的に収集することで、個人や仲間内の関心事だけで満たされた快適な暮らしが出来上がるが、それは抽象的な思考や公共への関心とは無縁の暮らしと言える。

 もっとも、社会や他者への無関心と引き換えに、足もとの小さな仕合わせがやたらにクローズアップされる今日の風潮は、私たちの隠れた不安を映しているのかもしれない。老いも若きも、明るい未来を思い描くことができないゆえの、足もとの仕合わせ探しかもしれない。かくして「生きるとは」「人間とは」などと哲学するより、猫でも眺めて癒やされたいというのがいまの時代であれば、なるほど、小説が売れないはずである。」

(「抽象的な思考はどこへ」高村薫『毎日新聞』2016年3月13日)

 


 「社会や他者への無関心と引き換えに、足もとの小さな仕合わせがやたらにクローズアップされる今日の風潮」は、確かに、その通りでしょう。

 この「風潮」が、「明るい未来を思い描くことができないゆえの、足もとの仕合わせ探し」であることも、卓見と言えます。

 だからこそ、「猫でも眺めて」、一時的にでも「癒やされたい」と思うのでしょうか。

 

 高村氏は、日本人に蔓延している「思考停止」を、歯がゆく思っていることは間違いないでしょう。

 小説『神の火』の中でも、登場人物に次のように語らせています。


「敗戦のとき、私はこれで新しい日本国が出来るぞと小躍りしたもんだ。

 ところが、五年待って十年待って、あれれだ。国民主権というが、国民の選んだ政治家が、外国から金貰って言うなりになっている国がどこにある。

 日本人が自分の国と意識するに足る主権を持ってこなかったのは、全部日本人の責任だ。自分で考えず、自腹を切らず、責任も取らず、自分の懐だけ肥やすような国民に、自分の国が持てるはずがない。」

(『神の火』高村薫)

 

 『作家的覚書』の中でも、高村氏は、政治的、社会的な重要問題よりも、オリンピックの方が大切と認識している、日本人のバカバカしさを、以下のように嘆いているのです。

 オリンピックは、たとえ国際親善に寄与するとしても、本質は単なる大人の運動会、しかも膨大な費用のかかる大会にすぎないはずです。


「  今夏は、広島・長崎の原爆の日や終戦記念日と、4年に一度のオリンピックの開催時期が重なったために、例年に比べて戦争を振り返る機会が少なかったように思う。連日の日本選手の活躍に沸くオリンピックのニュースの隣では、復興の進まない熊本地震の被災地の現状や、沖縄県東村高江のヘリパッド建設、北朝鮮のミサイル発射、尖閣列島の実効支配を狙う中国戦艦の領海侵犯などが伝えられていた。

 この間、大きく扱われた唯一の例外は、生前退位の意向を強くにじませた天皇のお気持ち表明だったが、皇位継承問題だけでなく、象徴天皇のあり方にまで影響が及びかねない大問題にもかかわらず、これも結局オリンピックの喧噪に押し流されてしまい、国民が深刻に受け止めた様子はない。」

(「お祭りのあと」高村薫『作家的覚書』)

 

 


(「原発と人間の限界」本文)

 とまれ、日本がこうして非常識な数字を並べている間に、世界では自然エネルギーへの投資と技術革新が飛躍的に進み、そのコストはすでに原子力の4分の1にまで下がっているとするデータもある。エネルギー分野で完全に世界の流れに乗り遅れた日本の現状は、いまや人工知能(AI)や次世代通信5Gの技術が席巻する世界に日本企業の姿がないことと二重写しになる。

 この顚末(てんまつ)は、ひとえに日本人の選択と投資の失敗の結果ではあるが、原子力の利用をめぐる不条理は日本だけの問題ではない。戦後、日本は広島と長崎の直接体験が重しとなって核兵器の保有には踏み出さなかったが、世界では核実験が地下にもぐり、さらにはコンピューター上のシミュレーションで間に合うようになって核の保有が拡大していった。現在、世界じゅうに1万4千発もある核弾頭や443基に上る原発は、原子力が人間の身体性を伴わなくなったことの帰結でもある。

 令和となったいま、その原子力を押しのけて、AIや5Gが人間の文明の頂点に君臨する。人間は日夜、モノとインターネットがつながったIoTやクラウドサービスを通してビッグデータと結びつき、世界じゅうどこにいても、スマホ一台で生活のほとんどすべてのニーズが瞬時に解決する。そして、世界を覆いつくすそのサイバー空間の外に、人類がついに満足に制御することのできなかったアナログの原発と、行き場のない核のごみが取り残されているのである。これが今日私たちのたどり着いた地平である。

 巨大地震が明日起きてもおかしくないこの地震国で、あえて法外なコストをかけて原発を稼働させ続ける人間の営みは、理性では説明がつかない。次に起きる過酷事故は確実に亡国の事態に直結するが、人間は最後まで自らに都合の悪い事実は見ない。冒頭に述べた世界の原発事情も、核兵器の拡散も地球温暖化も、そういう人間の不条理な本態と、度し難い欲望の写し絵であり、それだけのことだということもできる。

 

 

(当ブログによる解説)

 度し難い「人間の欲望」の恐ろしさについて、高村氏は、最近のインタビューの中で、以下のように述べています。

「 小説『神の火』は、原子力をめぐるスパイの話です。

 私のように20世紀の真ん中に生まれた人間には、科学技術に対する信奉がありました。1970年の大阪万博のように、新しい技術の発展や、ひたすら明るい未来にあこがれていたんですね。もともと私は文学少女というよりは理系なんです。中でも原子力は、原爆の恐ろしさはあっても、平和利用という条件付きで「希望の火」でした。

 86年、当時のソ連でチェルノブイリ原発事故が起きました。遠い社会主義国で起きたことで、関西に暮らす私のところまで被害は及ばないし、日本の原発は何重にも防護されているから大丈夫だと信じていました。

 90年ごろになって、北朝鮮がウランの濃縮や核兵器の開発をしているという話が出始めました。子どものころ、日本海側に海水浴に行くと、「不審船を見たら通報」という看板が立つなど北朝鮮は身近な脅威でした。そこに関西電力の美浜原発とか、高浜原発とか「原発銀座」の建物が並んでいるのは大丈夫なのかと思い始めました。

 危機感がはっきりとした形になったのが91年の湾岸戦争。米軍がイラクで厚さ5メートルの地下壕の壁を貫く爆弾を撃ち込んだと新聞で読み、わっと思いました。この爆弾だと原発の建屋に穴があくんじゃないかと。日本海をミサイルが飛び交うようになったら、日本の原発はあっという間に破壊されます。そうしたら日本は壊滅です。原子力の技術者たちがどんなに優秀で、多重防護のシステムがきちんと機能しても、戦争が起きたら終わりでしょう。それで、『神の火』を書いたんです。

 その後、原発の検査漏れやデータの改ざんといった不祥事が出てきました。東日本大震災で起きた東京電力福島第一原発の事故は、安全に対する意識の低さを物語るものです。

 以前、ある不祥事を起こした組織の人たちの説明を聞いたことがあります。これぐらいの検査はしなくても安全に影響はないから、しなかったんだと。専門家が考える安全と、私たち一般の人が考える安全が違うということを痛感しました。ギリシャ神話のプロメテウスが神の火を盗んだときの奢(おご)りを人間も持っているのでしょうか。

 いまの世の中は、自ら手がけた科学技術が、制御できないかもしれないと思いながらも使う方向に突き進んでいます。遺伝子操作や人工知能もそうでしょう。欲望が止められないからです。科学技術は人間に大きな利益をもたらしましたが、同時に破滅させるような負の遺産も残したと思います。本当に恐ろしいのは、人間の欲望なのかも知れません。

(インタビュー・欲望(リレーおぴにおん)火のいざない 2 「『原子の火』 怖いのは人の欲」 高村薫『朝日新聞』2018年12月5日)

 

 「欲望」については、高村氏の「『私』消え、止まらぬ連鎖」が必読です。

 この論考は、2007年の早稲田大学・文化構想学部入試の国語問題にも出題されました。

 また、高校の一部の、ハイレベルの教科書にも採用されているようです。

 以下に、私のこのブログで解説した、2007年の早稲田大学・文化構想学部入試の国語問題を引用しておきます。

 

【「『私』消え、止まらぬ連鎖」高村薫/2007早稲田大学・文化構想学部の問題】

 なお、解答・解説については、以下の記事を参照してください。

 

 

gensairyu.hatenablog.com

 

 

(概要です)

(【1】【2】【3】・・・・は当ブログで付加した段落番号です)

 

「【1】食べる。寝る。愛する。排泄(はいせつ)する。そのつど、ただこの身体から湧(わ)きだし、自らを駆り立てる生命の営みを、わざわざ欲望と名付け、「私」という主語を与えているのは人間だけである。しかも、所有や支配の欲望になると、とたんに話は複雑になる。

【2】持ち家がほしい。名声がほしい。力がほしい。そういう「私」は、はたしてどこまで「私」であるか。たとえば〔 A 〕を惜しんで株に熱中する「私」を、「私」はどこまで「私」だと知っているか。人間の欲望について考えるとき、A まずはそう問わなければならないような世界に私たちは生きている。〔 イ 〕

【3】たとえば、ある欲望をもったとき、私たちはそれをかなえようとする。その段階で、私たちはなにがしかの手段に訴えねばならず、そのために対外的な意味や目的への、欲望の読み替えが行われる。健康のため。家族のため。生活の必要のため、などなど。こうした読み替えは、すなわち欲望の外部化であり、欲望は、この高度な消費社会では「私」から離れて、つくられるものになってゆく。

【4】そこでは名声や幸福といった抽象的な欲望さえ、目と耳に訴える情報に外部化され、置換されるのが普遍的な光景である。たとえば、家がほしい「私」は、ぴかぴかの空間や家族の笑顔の映像に置換された新築マンションの広告に見入る。そこにいるのはうつくしい映像情報に見入る「私」であり、家族の笑顔を脳に定着させる「私」であって、たんに家がほしい漠とした「私」はずっと後ろに退いている。代わりに、家族の笑顔を見たい「私」が前面に現れ、それは映像のなかの新築マンションと結びついて、欲望は具体的なかたちになるわけである。〔 ロ 〕

【5】けれども、こうしてかたちになった欲望は、ほんとうに「私」の欲望か。「私」はたしかに家がほしかったのだけれども、その欲望は正しくこういうかたちをしていたのか。仮に、確かに家族の笑顔を見たいがために家がほしかったのだとしても、家という欲望と、家族の笑顔という欲望は本来別ものであり、これを一つにしたのは「私」ではない、〔 B  〕である。

【6】このように、消費者と名付けられたときから「私」は誰かがつくり出した欲望のサイクルに取り込まれている。そこでは「私」は覆い隠され、ただ大量の情報に目と耳を奪われて思考を停止した、「私」ではない何者かが闊歩(かっぽ)している。〔 ハ 〕

【7】こうして、欲望から「私」が消え、おおよそ政治の権力闘争から一般の消費生活まで、欲望のための欲望と化して、現代社会はある。欲望は「私」の外部で回転し、「私」を駆り立てる。そこに明確な主体はおらず、従って欲望を止めるものはいない。〔 ニ 〕

【8】ところで〔 ① 〕の世界では、欲望のサイクルも〔 ② 〕になるはずだが、実際はあたかも〔 ③ 〕であるかのように回転し続け、そこここで、さまざまな悲喜劇を引き起こす。欲望は必ずしもかなえられないばかりか、ときには実質的な損害になって返ってくる。そのとき、これがサイクルであるがために悪者はすっきり定まらず、定まらないがために悪者探しは逆に苛烈になる。〔 ホ 〕

【9】「私」の欲望であれば、失意も損失も「私」が引き受けることで収まりがつくが、「私」の消えた現代の欲望は、始まりも終わりもない。破綻(はたん)したら破綻したで、ともかく悪者を探して社会的な辻褄(つじつま)を合わせるだけである。一方、〔 C 〕の「私」はどこまでも無垢(むく)(→「①潔白で純真なこと②金・銀などの金属が、まじりけのないこと」という意味。今回は①の意味)に留まるのだが、「私」が無垢でないことは、「私」が知っている。」

( 高村  薫 「『私』消え、止まらぬ連鎖 情報に支配され『消費者』に」 )(朝日新聞・2006年1月5日・夕刊4面・文化欄「新・欲望論2」)

 

ーーーーーーーー 

 

(問題)

問1  空欄 A・Bに入る最も適当な語をそれぞれ次の中から選べ。

A  イ 名声  ロ 寸暇  ハ 身命  ニ 財貨  ホ 労力

B  イ 欲望  ロ 消費  ハ 笑顔  ニ 幸福  ホ 広告

 

 問2  傍線部A「そう問わなければならないような世界」を説明している最も適当なものを次の中から選べ。

イ   「私」自身の欲望が消費を形成する世界

ロ   「私」自身の欲望が所有の主体となる世界

ハ   「私」自身の欲望が行動の基準となる世界

ニ   「私」自身の欲望が自己を隠蔽(いんぺい)する世界

ホ   「私」自身の欲望が家族の幸福となる世界 

 

問3  文章中の空欄①・②・③に入る語句の最も適当な組み合わせを次の中から選べ。

イ   ① 有限  ② 有限  ③ 無限

ロ   ① 有限  ② 無限  ③ 有限

ハ   ① 有限  ② 無限  ③ 有限

ニ   ① 無限  ② 無限  ③ 有限

ホ   ① 無限  ② 有限  ③ 無限

ヘ   ① 無限  ② 有限  ③ 有限

 

問4  次の文は、本文中に入るべきものである。空欄・イ~ホから最も適当な箇所を選べ。

個々の欲望の当否は、ほとんど損得に置き換えられ、損得もまた外部化されて新たな欲望になるだけである。

 

問5  文章中の〔 C 〕に入る最も適当な語句を次の中から選べ。

イ   自らを駆り立てる「私」

ロ   消費者という名の「私」

ハ   明確な主体としての「私」

ニ   損害を引き受ける「私」

ホ   悪者と断定された「私」

 

問6  本文の内容と合致するものを次の中から一つ選べ。

イ   「私」の欲望は映像情報によって外部化され、欲望の主体を明確で形ある具体的なものにしている。

ロ   私の欲望は常に政治権力に支配されており、欲望のあり方も国家により巧みに管理されている。

ハ   私の欲望は経済力によって左右され、損得勘定が重視されるのが現代社会の特徴となっている。

ニ   私の欲望は情報のグローバル化によって均質化し、効率性を追求する現代社会に順応している。

ホ   私の欲望は消え止まることなく連鎖を続け、いつの間にか、消費者は情報に支配されてしまう。

 

 

(「原発と人間の限界」本文)

 仮に破滅的な事故を免れても、そう遠くない将来、使用済み核燃料の一時保管すらできなくなり、廃炉の技術も費用も十分に確保できないまま、次々に耐用年数を超えた原発が各地に放置されることになるだろう。この途方もない負の遺産を、AIが片付けてくれることはない。片付ける意思をもつことができるのは人間だけだが、果たして身体性を失った人間にそんな意思がもてるだろうか。

(「原発と人間の限界」高村薫『朝日新聞』2019年6月28日)

 

 

(当ブログによる解説)

 「身体性を失った人間」とは、「自分の現実感覚を自覚できない人間」という意味です。

 あるいは、「現実感覚の価値を軽視して、理念に振り回されているロボット的人間」という意味でしょう。

 「近代化」のなれの果てに、このような歪んだ人間が大量に発生しているのです。

 このような歪んだ人間には、人間的な想像力が欠如している場合が多いのです。

 この点について、高村氏は以下のように述べています。

 

「  思うに、この現代の社会ではわたくしたちが働かせる想像力の大半は、知識と情報の織物であって、そこに身体の実感が伴わない場合が多いものだ。

 現実と虚構がいつでも入れ替わり得る意識の前で、絶対の現実である身体が消えてしまった結果、イメージだけがどこまでも一人歩きするというのは、たとえば経済がそうである。

 またたとえば、核兵器はもちろんのこと毒ガスや生物兵器や対人地雷を今なお戦略的に有効と考えている人たちは、刃物で人を傷つけるときの感触を知らないに違いないし、さぞかし人間の死に対する実感は希薄なのだろうと考えられる。」

(『半眼訥訥』高村薫)

 

 

半眼訥訥 (文春文庫)

半眼訥訥 (文春文庫)

 

 

 

 「現実感覚の喪失」については、『作家的覚書』の中に秀逸な論考があるので、以下に紹介します。タイトルは、「2016年のヒロシマ」です。

 

 高村氏は、「オバマ米大統領の広島訪問を、私にはひどく不思議に感じられた」と述べ、以下のように続けています。

 

「  一日本人として、大きな違和感とともに、「なぜ」と自問せずにはいられなかった。なぜ、あの日広島には怒りの声一つなかったのか。なぜ、誰ひとりとしてアメリカの原爆投下を非難しなかったのか。

 戦時下とはいえ一般市民が史上初の原子爆弾の実験台にされ、想像を絶する地獄絵図を味あわされたことの怒りと恨みは、戦後の平和の下で行き場を失っただけで、けっして消え去ってはいない。そう思い込んできた私にとって、抗議行動どころか、歓迎ムード一色だったオバマ氏の広島訪問は、いろいろな意味で戦後の日本人の在り方への思いを揺るがすものとなった。

 ヒロシマ・ナガサキは核兵器の悲劇のシンボルとなる一方、苦しみの主体だった被爆者たちと日本人の怒りは漂白され、核兵器廃絶の理想を語る言葉だけが踊る。

 核のボタンを持参して平和公園に立ったオバマ氏と、怒りを失った被爆地の姿が、くしくも核兵器に溢れた世界の現実を表している。」

(「2016年のヒロシマ」高村薫『作家的覚書』)

 


 上記は、「戦時下とはいえ一般市民が史上初の原子爆弾の実験台にされ、想像を絶する地獄絵図を味あわされたことの怒りと恨み」が、「核兵器廃絶」という「概念」の世界に宙づりにされ、現実感覚から喪失してしまった不思議さを、指摘しているのでしょう。

 なぜ、「怒りと恨み」を持ち続けることができないのでしょうか?

 あるいは、「自分の現実感覚」を自覚できないのでしょうか?

 全く不思議なことと言わざるを得ません。

 

 とは言っても、高村氏は、『作家的覚書』の中で希望の言葉も述べています。

 以下に、私が感銘した一節を引用します。


「  情緒と欲望の低劣な言葉が、政治や社会を席巻する。私たちはいま、どういう時代に生きているのか。考えなくてはいけない。」

「「これはいったいどういう時代なのだ」と、言葉を失って立ちすくんだ瞬間、人は同時に言葉を探し始めるのです。そうしてあれこれ言葉を探しているとき、私たちはすでに未来ヘの意思をもっているのだと思います。諦めないでおきましょう。」

(『作家的覚書』高村薫)

 

 どんな絶望的な状況においても、「諦めない」ことが大切なのでしょう。

 諦めれば、それで終わりなのですから。

 

 

 

(3)当ブログにおける「高村薫」関連記事の紹介

 

 

gensairyu.hatenablog.com

 

 

ーーーーーーーー

  

 

 今回の記事は、これで終わりです。

 次回の記事は、約1ヶ月後に発表の予定です。

 ご期待ください。

 

 

   

 

 

gensairyu.hatenablog.com

  

gensairyu.hatenablog.com

 

gensairyu.hatenablog.com

 

頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

 

 

 

5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

 

 

 

 私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。

https://twitter.com/gensairyu 

https://twitter.com/gensairyu2