現代文最新傾向LABO 斎藤隆

入試現代文の最新傾向を分析し、次年度の傾向を予測する大胆企画

予想問題/「思考停止 変える力を」高村薫『朝日新聞』/現代文明論

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 

 高村薫氏の論考は、簡潔な表現で本質を鋭く突くのが特徴です。

 爽やかで、切れ味の良い文章なので、難関大学の現代文(国語)・小論文で頻出です。

 最近、入試頻出著者・高村氏が発表された「思考停止 変える力を」(『朝日新聞』2019・4・30)は、熱意溢れる「現代文明批判」・「現代文明論」です。

 平成時代の30年間の簡潔な総括をしています。

 比較的短い論考ですが、近年の政治的、経済的、社会的な重要論点が網羅されています。

 この論考は、来年度以降の難関大学の現代文(国語)・小論文に出題される可能性が高いと思います。

 そこで、当ブログでは今回の論考を、高村氏の他の重要な論考も参照しながら、予想問題として詳細に解説することにします。 

 

 今回の記事の項目は、以下の通りです。

 記事は約1万5千字です。

 

(2)予想問題/「思考停止 変える力を」高村薫『朝日新聞』2019・4・30/現代文明批判

(3)高村薫氏の紹介

 

 

朝日新聞デジタル

朝日新聞デジタル

 

 

 

(2)予想問題/「思考停止 変える力を」高村薫『朝日新聞』2019・4・30/現代文明批判

 

(「思考停止 変える力を」は太字になっています)

(概要です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です) 

 

「  平成は、日本中が土地投機に踊ったバブル経済の崩壊で始まった。私たちは誰も予想しなかった不景気の不意打ちを食らって突然将来が見えなくなり、国も企業も停滞から抜け出そうと焦り、もがいた。それでも1990年代前半、日本経済はいずれまた上向くと国民の多くが信じていたし、この国にはまだ、細川連立内閣を誕生させて55年体制を終わらせるくらいのエネルギーはあったのだ。

 とはいえ、急激な景気後退は、金融機関が抱える巨額の不良債権や、大企業の不正な会計処理といった日本経済の零落を明るみに出し、90年代後半には山一証券や日本長期信用銀行などが廃業に追い込まれて、日本社会は「失われた10年」とささやかれ始めた。

 また、賃金が上がらなくなり、終身雇用が崩れ始めて非正規雇用が増加するにつれ、生活にも閉塞感が広がって、日本人は普遍的な価値観より、内向きで刹那的な生き方へと傾斜していった。死傷者6千人を数えた地下鉄サリン事件でさえ、市井と無縁のカルト教団の話として片付けてしまったことが、それを如実に物語っている。」

 

 

(当ブログによる解説)

【 「日本人」における「普遍的価値観」の軽視について 】

 「普遍的価値観」の軽視は、由々しき問題と言えます。

 最近の「日本人」における「普遍的価値観」の軽視について は、高村氏は、「精神世界、無関心な私たち」(『朝日新聞』2018年7月10日 )の中で、次のような見解を述べています。

 本質を分かりやすく説明している卓見だと思います。

 

「  たとえ凄惨な無差別テロを引き起こしたカルト教団の幹部たちであっても、いざ七名も一度に死刑が執行されてみれば、さすがに気持ちがふさぐ。

 死刑制度の是非はべつにして、かくも重大な反社会的行為が身近で行われていた数年間、日本社会はいったい何をしていたのだろうか。私たちはオウム真理教の何を恐れ、何を断罪したのだろうか。教祖らの死刑執行を受けてあらためてそんな自問に駆られる傍らには、教団の反社会性を看過し続けた私たちの無力と無関心、さらには一方的なカルト宗教批判に終始したことへの自省や後悔が含まれている。また、教祖らの逮捕から二十三年、日本社会がこの稀有(けう)な事件を十分に言葉にする努力を放棄したままこの日を迎えたことへの絶望も含まれている。

 裁判では、宗教教義と犯罪行為の関係性は慎重に排除され、一連の事件はあくまで一般の刑法犯として扱われたが、その結果、神仏や教祖への帰依が反社会的行為に結びつく過程は見えなくなり、宗教の犯罪という側面は手つかずで残された。

 しかしながら、どんなに異様でも、オウム真理教は紛れもなく宗教である。それがたまたま俗世の事情で犯罪集団と化したのか、それとも教義と信仰に導かれた宗教の犯罪だったのかは、まさにオウム事件の核心部分であったのに、司法も国民もそこを迂回してしまったのである。

 形骸化が著しい伝統仏教の現状に見られるように、日本人はいまや宗教と正対する意思も言葉も持っていない。この精神世界への無関心は、理性や理念への無関心と表裏一体であり、代わりに戦後の日本人は物質的な消費の欲望で人生を埋めつくした。地道な言葉の積み重ねを失ったそういう社会で、若者たちの求めた精神世界が既存の宗教でなかったのは、いわば当然の結果だったと言える。(中略)

 オウムをめぐる言説の多くが生煮えに終わったのは、信仰についてのそうした本質的な認識が私たちに欠けているためであり、自他の存在の途絶に等しい信心の何たるかを、仏教者すら認識していないこの社会の限界だったと言えよう。

 それでも、いつの世も人間は生きづらさを和らげる方便としての信仰を求めることを止(や)めはしない。オウム真理教が私たちに教えているのは、非社会的・非理性的存在としての人間と宗教を、社会に正しく配置することの不断の努力の必要である。」

(「精神世界、無関心な私たち」高村薫『朝日新聞』2018年7月10日 )

 

 上記の最終部分の

「  いつの世も人間は生きづらさを和らげる方便としての信仰を求めることを止(や)めはしない」

「  非社会的・非理性的存在としての人間と宗教を、社会に正しく配置することの不断の努力の必要」

は、少々難解です。


 「信仰」とは、「超越的な存在」への「畏敬」であり、「信頼」です。

 「非社会的・非理性的存在としての人間」とは、「自己の本質の一部に非社会的・非理性的の側面があること」の自覚です。

 自己を完全な非社会的・非理性的存在とは考えないことが重要なのです。

 

 また、
「  形骸化が著しい伝統仏教の現状に見られるように、日本人はいまや宗教と正対する意思も言葉も持っていない。この精神世界への無関心は、理性や理念への無関心と表裏一体であり、代わりに戦後の日本人は物質的な消費の欲望で人生を埋めつくした。

の部分は、何度も反芻して熟読するべきでしょう。

 

(「思考停止 変える力を」高村薫)

「  さらにウィンドウズ95がもたらしたネット社会の爆発的拡大と進化は、私たちが日常的に接する情報量を飛躍的に増大させ、人と人の物理的な距離を不可視化して、コミュニケーションのかたちを一変させた。

 そして、iPhoneの発売から11年、スマートフォンはいまや身体の一部になり、私たちはまさに日常と非日常の境目が溶けだした世界を生きている。大人も子どもも日夜スマホで他者とつながり、休みなく情報を求めて指を動かし続ける。そうして現れては消える世界と戯れている間、私たちはほとんど何も考えていない。スマホは、出口が見えない社会でものを考える苦しさを忘れさせる、強力な麻酔になっているのである。」

 

 

(当ブログによる解説)

 「情報化社会」が人間をいかに歪めているか、がよく分かる論考です。

 「情報化社会」のマイナスの側面が見事に指摘されています。

 

 高村氏の『作家的時評集2008ー2013』では、「情報化社会」により、「個人と世界の関係」がいかに醜悪に変質してしまったかを、以下のように的確に指摘しています。

 

「  情報化社会とは、人が個々にピンポイントで世界を切り取るようになった結果、個人にとって世界がそれぞれ縮小し続ける社会なのである。」

「  自分の意志と指先で開くウエブページ=世界という感覚においては、見えない彼方への渇望も、見えない彼方があることへの絶望も存在しない。」

(『作家的時評集2008ー2013』高村薫)

 

 上記の「思考停止 変える力を」に述べているように、「出口が見えない社会」でも、「ものを考える苦しさ」を放棄しては、いけないのでしょう。

 言葉を駆使して、「ものを考える苦しさ」の中で、解決策を模索していく努力が自分を救うのでしょう。

 この地道な努力しか、自分を幸福にする手段はないのです。

 この意味で、「言葉の軽視」は、人間を不幸にするのです。 

 

 

作家的時評集2008-2013

作家的時評集2008-2013

 

 

 

 「言葉」の重要性について、高村氏は、『作家的時評集2000ー2007 』の中で、以下のように述べています。

 

「  成熟した文明社会を築くためには、やはり言葉が重要だろうと思います。言葉の機能が失われると、社会的な広がりが実感できない。世界がどんな姿をしているか、自分は何を感じ、何を望むのか。それを捉えるのは言葉だからです。言葉で捉える過程がなければ、人間はただ刺激に反応するだけの動物的存在に成り下がってしまいます。

 だからこそ、私たちの世代は言葉を今以上に減らさない努力をしなければならない。たとえば、外交というのは戦略ですが、戦略はまさに言葉です。テレビゲームでいう戦略は反射神経の問題で、敵が現れたら倒すだけのことですが、外交はそんな条件反射の世界ではない。国民の生命と財産を守るために、世界中の国々が、頭と言葉で闘うことなのです。

 文化の面も同様で、今、日本から画期的な経済理論や社会学理論が出てこないでしょう。学力の面でも日本は確実に立ち行かなくなっているのですが、これも言葉の文化を維持して育てる土壌が失われたからだろうと思います。そして、言葉の蓄積を守る土壌がないところには、新たな蓄積も生まれませんから、知識はさらに失われるほかありません。そうなると、当然高等教育のレベルは下がるし、日本は技術立国を目指すと言っているけれど、技術者を育てる土壌もなくなる。言葉がなくなるということは、日本の根本がなくなるということとイコールなのです。

 だからこそ、私たちの世代がまだ現役の間に、何とかして言葉の復権を訴えていくしかないのだと思っています。私は物書きですから、小説を書くことしかできませんが、私にとって言葉は他者と向き合う手段です。言葉を介して自分とは何か。世界とは何かを知りたい。それが大きな共同という枠組みのなかで生きていることの実践です。だから私は書き続けているのだと思いますね。」

(「成熟した文明社会には言葉が必要」高村薫『作家的時評集2000ー2007』)

 

 上記の

「言葉で捉える過程がなければ、人間はただ刺激に反応するだけの動物的存在に成り下がってしまいます」と、

「思考停止 変える力を」の「大人も子どもも日夜スマホで他者とつながり、休みなく情報を求めて指を動かし続ける。そうして現れては消える世界と戯れている間、私たちはほとんど何も考えていない」

を対比してみると、

現代の日本人が、「ただ刺激に反応するだけの動物的存在」、つまり、「ただの非人間的存在」、「反知性主義的存在」であることが、よく理解できます。

 

 

作家的時評集2000-2007 (朝日文庫 た 51-1)

作家的時評集2000-2007 (朝日文庫 た 51-1)

 

 

 

 高村氏は、「ネット社会」における、「言葉」・「価値観」・「原理原則」の恐るべき崩壊についても、以下のように厳しく糾弾しています。

 そして、現代日本の状況は、「文明の終わりの始まりなのかもしれません」とまで言っているのです。

 「文明の終わりの始まり」に関しては、次の、最近の高村氏の論考(「不祥事にしら切る官邸・官僚」『河北新報』2018年5月14日)も読んでおくべきでしょう。

 

「  時代がどんなに変わっても、変えてはならないものを原理原則と言います。公文書の保存はその一つ。それを改ざんしても罪を問われないとなると、歴史の検証ができなくなる。日本がいまだに昭和の戦争の検証と総括ができていなのは、政治家と官僚が公文書を廃棄したからです。戦争の総括ができないことで、戦後の日本人がどれほどの損失を被っているか。過去の検証ができないことの不幸は、若い世代も無縁ではない。国会と行政府から完全に独立した公文書管理機関が絶対に必要です。

 社会の秩序を保つ公共の精神も、政治や統治を行うための理念も、現実には日々の仕事に、欲望に追われて生きる私たち国民が広く共有するものではありません。

 だから、私たちは代表者を選んで政治を委託し、あるいは知識人の語る言葉に耳を傾け、新聞を読んで知識を得てきたのが、ネット社会が根本的に変えてしまいました。

 大衆が、それぞれにものを言い、瞬時に多数派を形成して社会を動かすようになった今、理念や原理原則は後退し、耳を傾けるべき意見、従うべき社会常識、信ずるべき価値観が消え、全てがフラット化されてしまった。

 私の世代が政治の現状を憂う一方で、若い世代はなおも肯定的な人が多い。このまとまりのなさが日本を漂流させているのです。

 合理的な若い世代は、国会で証人喚問しても無駄だから、それよりも重要法案を審議しろ、と言う。確かに証人喚問しても何も出てこない可能性は大だが、政治を私物化して公文書の改ざんまで引き起こした上に誰も責任を取らない、こんな政治家に重要法案など審議させてはならない。これが原理原則です。政治の停滞がもたらす不利益は、こんな政治を許してきた私たち有権者の自業自得なのです。

 「忖度(そんたく)」は、一般の社会生活でも日常的にありますが、一線を越えれば当然罰せられる。今回の不祥事では、官邸も官僚も一線をはるかに越えていても、のうのうとしらを切る。この事態を、私たちは心底恐れるべきです。というのも、これは真実や正義が価値を持たなくなった世界の出現を意味するからです。

 かつて「お天道(てんと)様が見ている」と言われたような絶対的な規範は、もう存在しない。いまや、うそと分かっていても、フェイクニュースであっても、「いいね」ボタンが多ければ OK という社会が出現しているのです。

 そして、その「いいね」も日々変わっていく。真実や正義や公正が意味をなさない時代になり、原理原則が崩壊した社会に私たちは生きています。文明の終わりの始まりなのかもしれません。」

(「不祥事にしら切る官邸・官僚」 高村薫『 河北新報』2018年5月14日)

 上記の

「大衆がそれぞれに、ものを言い、瞬時に多数派を形成して社会を動かすようになった今、理念や原理原則は後退し、耳を傾けるべき意見、従うべき社会常識、信ずるべき価値観が消え、全てがフラット化されてしまった。」

の部分は、

政治的理念・政治的原理原則の地位低下、

専門性の軽視、

一般的社会常識・普遍的価値観の熔解、

を意味しています。

 

 さらに言えば、極端な、個人主義的、感覚主義的政治状況を意味しているのです。

 ネット社会により、「正義」が無価値となり、「伝統的な原理原則」が崩壊してしまったと、高村氏は主張しているのです。

 これは、極めて危険な状況と評価するべきでしょう。

 

 

(「思考停止 変える力を」高村薫)

「  平成は、阪神淡路大震災や東日本大震災をはじめ未曽有の自然災害が頻発した時代だが、振り返れば、大都市神戸が震災で火の海になっても、あるいは東北沿岸で1万8千人が津波にのまれても、またあるいは福島第一原発が全電源を失って爆発しても、日本社会の思考停止は基本的に変わることがなかった。

 復興の名の下、被災地では大量のコンクリートを投じた巨大堤防の建設が進み、原発は各地で、なおも動き続け、いつの間にか持続可能な新しい生き方へ踏み出す意思も機会も見失って、私たちはいまに至っている。」

 

 
(当ブログによる解説)

上記の

「日本社会の思考停止は基本的に変わることがなかった。」

「いつの間にか持続可能な新しい生き方へ踏み出す意思も機会も見失って、私たちはいまに至っている。」

の部分は、絶望感に満ちています。

 

 意思なき日本人は、重大事件が発生しても、何も考えず、何らの行動も起こさず、見事な完璧な「受動性」の中で、水中の水草のように、ただ生きているのでしょうか。

 素質なのか、家庭教育の影響なのか、学校教育の影響なのか、とにかく日本人は、大人しすぎるのです。

 高村氏は、「この寄辺のなさから脱却するために」(『いきいき』2011年6月号)という論考の中で、東日本大震災直後の原発問題について、以下のように述べています。

 以下の論考には、高村氏の怒りが感じられます。

「  政治はどんな決断もしない。近代でいちばん難しい状況に陥っているかもしれません。

 そうであれば、私たち国民がどこかで決断しなければならない。子どもたちのために一歩踏み出す決断です。

 これは、産業革命以来、近代社会を支えてきた生活スタイルからの転換を図るというほどの大きな決断になります。

 どんなに電力が足りなくても、地震国の日本だから、原発は止めると決断する。どうやって止めるのか、後はどうするのか、そういったことを言い合う前にとにかく止める。

 そうすれば、安心が生まれます。晴れない心にひとつ安心ができます。いまの日本にいちばん足りないのは、将来に対する安心です。貧しくなる不安と命の不安だったら、命の不安のほうがずっと深刻なことはいうまでもないでしょう。

 今回の震災後に思ったのは、日本人は基本的に善意に満ちた人たちが多いということです。

 我慢と善意が寄り添って、静かに沈滞している感じです。

 善意の共同体に企業が甘えている。それが日本です。私たちは共同体のよさをそのままにして、その上にもうひとつ賢くなることだと思います。

 どこに問題があり、何がまずいのか。目の前の現実を見つめ、怒るときは怒らなければならない。」

(「この寄辺のなさから脱却するために」高村薫『いきいき』2011年6月号)

 

 「我慢」と「善意」だけでは、まともな人生を得ることはできないということを、日本人は自覚するべきです。

 民主主義社会においては、国民は、「どこに問題があり、何がまずいのか。目の前の現実を見つめ、怒るときは怒らなければならない」のは、当然のことなのです。

 この当然のことを理解しない日本人に対して、高村氏は、静かに怒っているのでしょう。

 日本社会の「思考停止」は、かなり深刻な状況になっているようです。

 

 この点に関して、『作家的覚書』の中には、次のような記述があります。

 

「  今日、国会を闊歩している政治家の多くが不真面目の極致あることは疑いようもない。

 かくも不真面目な国会審議を目の当たりにしながら、怒りの声を上げない有権者も真面目に生きていないと言うのほかないが、自衛隊員の戦死や非正規雇用者の貧困を想像するぐらいのことがなぜ出来ないのか。」

(「真面目に生きる」 高村薫『作家的覚書」)

 

「かくも不真面目な国会審議を目の当たりにしながら、怒りの声を上げない有権者も真面目に生きていないと言うのほかない」

の部分は、高村氏の怒りが頂点に達している感じです。

 現在の状況を熟知していれば、文字通りの「見ざる聞かざる言わざる」状態、素直な奴隷状態になっている、大部分の日本人に対して、同じ日本人として、何かしら言いたくなる気持ちは理解できます。

 日本沈没を傍観できるほど、冷血ではないということです。

 

 

作家的覚書 (岩波新書)

作家的覚書 (岩波新書)

 

 

 

 「日本人の幼児性」は、直ぐに、オリンピックに絡め取られる所にも現れています。

 単なる「大人の世界的運動会」に、なぜ、あれほどに興奮するのでしょうか?

 そして、興奮すると、極端に視野が狭くなってしまう「単純性」も、日本人の弱点です。

 

 高村氏は、『作家的覚書』の中で以下のように、「オリンピック」に興奮する日本人に、警告を発しています。

 「原爆の日」、「終戦記念日」、「熊本地震の被災地の状況」、「沖縄の基地問題」、「北朝鮮のミサイル発射事案」、「天皇のお気持ち表明」等、それなりに報道されるべき数々の問題・出来事が、「リオ五輪」報道より軽視されてしまった2016年夏を概観する論考です。

 

「  全国紙や公共放送が突然オリンピック一色になってしまうのが自然の成り行きであるはずもない。これは、いくらかは大衆の気分と政治の思惑を反映した結果だ。

(中略)

 普通の人間は、複数の事柄を同時に注視することはできない。数あるトピックのなかからオリンピック観戦を選んだとき、たとえば沖縄の現状や、天皇の生前退位の可能性や、日銀の金融政策の是非などへの目配りは大きく減じる以外にない。してみれば、こうしたお祭り騒ぎを作りだしているのは、私たち自身だということもできよう。扱いは小さくとも、内外の重要な出来事は日々報じられている以上、それに注意を払わないのは私たちなのだ。よりよく生きるために、時代に足をすくわれないために、私たちは相当強い意思を発動させなければならない。」

(「お祭りのあと」高村薫『作家的覚書』)

 

 
(「思考停止 変える力を」高村薫)

「  思えば、この30年間に世界経済は激変し、中国のGDP(国内総生産)は今や日本の3倍である。日本のお家芸だった製造業の多くは苦境にあり、次世代の5G技術でも米中に遠く及ばない。

 世界が猛烈なスピードで変わり続ける一方、この国は産業構造の転換に失敗し、財政と経済の方向性を見誤ったまま、なおも経済成長の夢にしがみついているのだが、老いてゆく国家とはこういうものかもしれない。自民党の一党支配に逆戻りして久しい政治がそうであるように、この国にはもはや変化するエネルギーが残っていないのだ。」

 

 

(当ブログによる解説)

 「財政と経済の方向性を見誤ったまま、なおも経済成長の夢にしがみついている」政治の現況について、高村氏は、『作家的覚書』の中で、以下のように述べているのです。

 

「  労働人口に占める非正規雇用の割合が四割を超えたとメディアが報じている。三割に達したのがほんの数年前だったから、いずれ五割になり、六割になってゆくのは時間の問題なのだろう。しかも、三割だの四割だのと大きく取り上げられても、個々の生活者にとっては所詮、抽象的な数字であるからか、社会や政治を動かすほどの国民的な関心を喚起することもなく、九月に施行された労働者派遣法の改正法を危ぶむ声も、特段大きくはなっていない。

 このように、四割を超えたと大々的に報じられる傍らで、非正規で働く人びとの不安や絶望は数値化されることなく埋もれてゆき、この国で働くことの厳しさは、国民全体の問題として顧みられないまま放置されている。

 また、こうした労働環境は、結果的にこの国の労働生産性をきわめて低いものにしているようで、昨年はOECD加盟34力国中22位、アメリカの3分の2に留まっている。

 だからといって、必ずしも競争力につながらない過剰な品質や過剰なサービスをすべて否定すべきだとは思わないが、そのことと企業自身が自らの生産性の低さに甘んじていることは別の話である。そう、日本の多くの企業経営者たちは雇用者に厳しく、自分には甘いのだ。

 ひところアベノミクスを礼賛し、株高に沸いていたのは、研究開発やマーケティングや経営資源の効率化によって順当に利益を上げるよりも、円安や賃金抑制によって手っ取り早く黒字を出して安穏としている企業経営者たちだった。

 非正規雇用のもたらす貧困が日本社会をむしばんでいる一方、たとえば京都はいま空前の高級マンション建設ラッシュで、価格帯が七億円という高額物件でも東京を中心に千件以上の問い合わせが殺到していると聞く。彼ら富裕層の懐に入っている資産のいくらかは、本来なら自社の雇用者の賃金に回されるべきものだったという意味では、非正規の人びとから搾り取ったものだということもできる。そんなことは考えたこともないのだろう富裕層たちが牽引してゆく国に、どんな未来があるか、私には想像することもできない。

 国や社会のあるべき姿について語る政治家は現れるだろうか。持続可能な新しい産業は生まれてゆくだろうか。さまざまな資源の適切な分配は行われるだろうか。人材は育ってゆくだろうか。子どもたちの教育の機会均等は保証されるだろうか。非正規雇用を増やすばかりで、人間の幸福について思いを致さない無能な政治と無能な企業が国を潰す。」

(「無能のともがら」 高村薫『作家的覚書』)

 

 最終部分の

「非正規雇用を増やすばかりで、人間の幸福について思いを致さない無能な政治と無能な企業が国を潰す」

は、心に響きます。

 まさに、現在、日本は崩壊の過程に入っていると言えましょう。

 景気は完全に悪化して、人々の気持ちも荒んでいるようです。

 このような状況下で、富裕層たちは、自分達だけが安定的に生きられると思っているのでしょうか?

 彼らの想像力のなさが、不気味とも言えるのです。

 

 「作家的覚書」の中では、高村氏は時折、ふと絶望感を吐露しています。

 怒りと絶望は併存するものです。

 以下の、この絶望感もまた、本音なのでしょう。

 

「  思えば、遠くまで来たものである。誰もがみな、政治や社会の暮らしのなかに微かな変化の兆しを感じ取る能力をもっているが、それが何であるのかようやく言葉にできた時には、経験したことのない大きな変化の波がすぐ後ろに迫ってきているものなのだろう。気がつくと、情緒と欲望の低劣な言葉が政治や社会を席巻する時代となっていた。

 失ったものはあまりに大きく、もはや取り戻すことはできないかもしれない。残された道は、すぐ後ろに迫ってきている大波に呑み込まれないよう、黙って逃げることだけである」

(「あとがき」高村薫『作家的覚書』)

 

 「失ったものはあまりに大きく、もはや取り戻すことはできないかもしれない」
の部分は、悲しみに満ちています。

 しかし、生きている限り、現状打破のために死力を尽くしたい。

 このことも、また、高村氏の本音なのです。

 

 

(「思考停止 変える力を」高村薫)

「  その一方で、深刻な少子高齢化も、企業の多くに賃上げの体力がないまま進む貧困と格差の拡大も、とうの昔に破綻(はたん)している原子力政策も、平成の30年間に私たちが見て見ぬふりをし続けた結果の危機でもある。」

 

 

(当ブログによる解説)

【現代日本の惨状】

 『作家的覚書』の中には、「この国の内外の情勢や、社会や生活のさまざまな状態が、破れかぶれで寒々しいものになっている」状況を、的確に指摘している記述が数ヵ所あります。

 世界、日本が、今どのような状況になっているのか、を把握する必要があるのです。

 『作家的覚書』の中から、2ヶ所引用してみます。

 

「  予想もしなかった自然災害や事故、事件などに接するたびに、私たちは、なすすべもなく悄然となるか、またすぐに日常に引き戻されてしまい、何が問題となっていたのか、何を考えなければならなかったのか、思いだすこともできず押し流されてゆくことの繰り返しではある。

 それでもいま、言葉にしなければならない皮膚感覚のレベルで、この国の内外の情勢や、社会や生活のさまざまな状態が、破れかぶれで寒々しいものになっているのを感じない人は、いないのではないだろうか。  

 科学技術の進歩は今もとどまるところを知らないが、日本でも海外でも人間の総合的な知力は年々細り、いま私たちの眼前に広がっているのは、熟慮を欠いた野蛮な欲望が急激に支配的になっている世界ではないか。

 たとえば、私たちはシリアの空爆をなぜ止めることはできない? 当事者たちに各々利益があっても、少し前までなら、国際社会は何としても停戦や空爆停止の合意にこぎつけていただろう。それが、もはや出来なくなった世界の出現は、結果的に難民流入による欧米社会の不安定化を招き、イスラム過激派のテロを触発することになっている。また、平和と協調のための既存の枠組みが機能しなくなった世界では、国家の利害も剥き出しになる。

 ロシアのクリミア併合や、南シナ海での中国の傍若無人を、二十年前にだれが想像しただろうか。こうした時代の潮流はこの日本の戦後の歩みをも大転換させ、憲法違反をものともせずに集団的自衛権行使に突き進む、無思慮を絵に描いたような軽薄な政治を生みだした。 

 いま世界に蔓延しているのは、論理の整合性を欠いた欲望であり、論理の破綻をものともしない暴走の連鎖である。アメリカや中国やロシアはそれぞれ自国に都合のよい理屈で弱者を蹴散らして物事を強行し、日本をはじめ世界中の国々がそれに追従する。正義や公平ではなく、当面の損得や不作為を優先して論理を無視することが広く当たり前になった世界の一角に、沖縄の米軍基地、高速増殖炉《もんじゅ》の廃炉、福島第1原発の汚染水処理、間もなく満期となる日米原子力協定と核燃料サイクル事業の行く末、はたまた天皇の生前退位のための法整備などの諸問題が連なっている。 

 そこかしこで、無理が通れば道理が引っ込み、次々に整合性を失って破綻してゆく物事は、一時的な辻褄合わせが施されても、最後は放置されるほかはない。」

(「もう後がない」高村薫 『作家的覚書』) 

「「とにかく景気対策を!」こう叫ぶ多数派は、この先起きるであろうことへの想像力を決定的に欠いてはいる。

 一方、少数派が信じる民主主義の理念や立憲主義と、幾ばくかの理性や知性は、ここへきてついに過去の遺物になり、両者の間には乗り越えられない決定的な壁が出現しているのかもしれない。

 それでも、わずかばかりの理性ゆえに、少数派は、なおもこの国の未来を案じることを止められないし、小説家は人間への眼差しを捨てることも出来ないのだが、筆者は今、自身の視線が少しずつ同時代を離れてゆきそうな予感もある。」

(「少数派の独り言」 高村薫『作家的覚書』)

 以上を読むと、高村氏が「破れかぶれで寒々しいものになっている」と表現する理由がよく分かると思います。

 

 

(「思考停止 変える力を」高村薫)

「  平成が終わって令和が始まるいま、何よりも変わる意思と力をもった新しい日本人が求められる。どんな困難が伴おうとも、役目を終えたシステムと組織をここで順次退場させなければ、この国に新しい芽は吹かない。常識を打ち破る者、理想を追い求める者、未知の領域に突き進む者の行く手を阻んではならない。」

(「思考停止 変える力を」 高村薫『朝日新聞』2019・4・30)

 

 

(当ブログによる解説)

 「思考停止 変える力を」の最終部分は、高村氏による「対策論」になっています。

 高村氏の論考は、問題点の指摘ばかりではなく、「対策論」が明示されていることが多いのです。

 上記の高村氏の「対策論」は、具体的であり、建設的なので、じっくりと熟読するべきでしょう。

 

 また、高村氏は、『作家的自覚』の中で、以下のような対策論を述べています。一見、理想論ですが、究極の対策論と言えます。

 

「  思えば、70代以上の日本人は敗戦直後の窮乏を知っているが、70年前のそれは未来に向かって開けていたのに対して、今日の貧困は先々よくなってゆく可能性のない、抜け出すのがきわめて難しい牢獄(ろうごく)である。2010年代の日本社会に広がるこの沈滞と貧困は、ゆるやかな衰退期にさしかかった社会のそれだという意味では、私たち日本人が初めて目の当たりにする未知の風景なのである。

 そして海外に眼(め)を転じれば、いつの間にか世界第2位の経済大国となっていた中国の姿も、近現代の日本人が初めて見る風景である。また、中国の大国化は相対的にアメリカを縮ませ、ロシアはウクライナのクリミア半島を一方的に編入し、「イスラム国」の台頭で中東各国は崩壊の危機にある。

 こうして私たちは20世紀の欧米の秩序が終わろうとしていることに戸惑い、為すすべもなく立ちすくんでいるのだが、勇ましい言葉を弄(ろう)して民衆を扇動する歴史修正主義者はこういう時代に登場してくることを、歴史は教えている。歴史はまた、310万人が犠牲になったかの戦争の責任を日本人は自ら追及しなかったこと、はたまた福島第1原発の事故でも結局誰も責任を取っていないことを教えている。この国では、為政者を筆頭に物事の最終的な責任を取る者はいないのである。

 だから、何者にも踊らされてはならないと思う。戦後70年の己が足下を見つめ、持続可能な社会のために産業や経済をいかにして新しい座標軸で捉え直すか、縮小する社会をいかに再構築するか、私たち一人一人が知恵を絞り、天変地異をなんとかやり過ごしながら自分の足で立つのみである。」

(「自分の足で立つほかない」 高村薫『作家的自覚』)

 

 各個人が民主主義を推進し、歴史を作っているのだ、という自覚、使命感を持つことが大切である、と高村氏は、主張しているのでしょう。

 原理原則論であり、ある意味で理想論ですが、このこと以外には、実効性のある対策はないのです。

 

 高村氏は、東日本大震災・福島原発事故の直後にも、前を実よ前を見よ、強い意志を持つべし、と呼び掛けています。

 勇気づけられる高村氏の提言の要旨を以下に引用します。

 

「  1万人を超えた死者たちが、生き残った私たちに生き方を見つめ直せ、新しい時代へ踏み出せと、呼びかけているように思う。

 十六年前の阪神大震災のときにはなかったこの重い気分は、一つには、被害が大きすぎるために一部には復興しきれない地域も出てくるのではないかという予感から来ている。

 そして、言うまでもなく、福島第一原発の事故が私たちの上に落としている影は途方もなく大きい。

 しかし、私達は、希望を捨てるべきではない。

 求めるべきは、安易な希望ではなく、新しい日本をつくるというほどの大きな意志と知恵である。」

(『作家的時評集2008ー2013』高村薫)

 


(3)高村薫氏の紹介


髙村 薫 (たかむら・かおる)

作家。1953年(昭和28年)大阪府大阪市生まれ。国際基督教大学人文科学科卒。


著作に、

デビュー作『黄金を抱いて飛べ』(新潮文庫)(第3回日本推理サスペンス大賞受賞)、

『リヴィエラを撃て(上)・(下)』(新潮文庫)(第11回日本冒険小説協会大賞・第46回日本推理作家協会賞受賞)、

『マークスの山(上)・(下)』(新潮文庫)(第109回直木賞・第12回日本冒険小説協会大賞受賞)、

『李欧』(講談社文庫)(『わが手に拳銃を』(1992年)をベースにした作品)、

『照柿(上)・(下)』(新潮文庫)、

『レディ・ジョーカー(上)・(中)・(下)』(新潮文庫)(毎日出版文化賞受賞。『98年度版このミステリーがおもしろい』ベスト1)、

『晴子情歌(上)・(下)』(新潮社)、

『空海』(新潮社)、

『土の記(上・下)』(新潮社)、

『作家的覚書』(岩波新書)、

などがある。

 

 

土の記(上)

土の記(上)

 

 

土の記(下)

土の記(下)

 

 

 

  こちらの記事も、参照してください。

 

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 今回の記事は、これで終わりです。

 次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

 ご期待ください。

 

 

  

 

 

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