2018センター国語第1問・現代文解説・的中報告・アフォーダンス
(1)2018センター試験国語第1問(現代文・評論)的中報告
(今回の記事の記述は太字にしました)
(赤字は当ブログによる「強調」です)
(青字は当ブログによる「注」です)
(以下、同じです)
2018センター試験国語第1問(現代文・評論)『デザインド・リアリティ』において、「アフォーダンス理論」・「文化心理学」が出題されました。
「アフォーダンス理論」・「文化心理学」は、「ポストモダン(脱近代)」・「近代批判」における著名論点である「自己相対化」、「中動態の世界」、「環境との関係性の重視・見直し」、「アニミズムの再評価」と、ほぼ同内容と言ってよいくらいに密接に関連しています。
「自己相対化」、「中動態の世界」、「環境との関係性の重視・見直し」、「アニミズムの再評価」については、当ブログの複数の記事で解説しました。
従って、今年も2017年度に続き、センター試験国語(現代文・評論)で当ブログは論点的中したようです。
当ブログの的中実績は以下の通りです。
「アフォーダンス理論」・「文化心理学」を含めた、これらの論点は、「アイデンティティ」・「自己」・「主体性」関連の論点です。
「アイデンティティ」・「自己」・「主体性」関連論点は毎年、現代文・小論文で一定の割合で出題されている頻出論点です。
特に、個人の無力さが実感された東日本大震災以後、出題率が増加しています。
そして、2018年度は、「アイデンティティ」が論点になっている『中動態の世界』(國分功一郎)、『勉強の哲学 』(千葉雅也)等が評判になったことにより、より一層、出題率が高まり、今年の流行論点になる可能性が高いと思われます。
これからの国立大学・私立大学の国語(現代文)・小論文入試に、出題の可能性が高いので、今回の記事で解説・紹介することにします。
そこで、今回はこの問題の重要設問、重要ポイントの解説と論点的中報告、論点解説をします。
記事は約1万字です。
なお、今回の記事の項目は、以下のようになっています。
(2)2018センター国語第1問(現代文)【問3】の解説ー「アフォーダンス理論」
(3)「アフォーダンス理論」に類似している「中動態の世界」
(4)2018センター試験国語第1問【問5】の解説ー「文化心理学」
(5)2012センター試験国語現代文「アフォーダンス理論」と「自己相対化」の類似性
(6)「アフォーダンス理論」と「アニミズム」との類似性
(7)『夢十夜・第六夜』(夏目漱石)と「アフォーダンス理論」との類似性
(8)「アフォーダンス理論」と「アニミズム」/日本人論・日本文化論
(9)「アフォーダンス理論」の解説ー『アフォーダンス入門』(佐々木正人)より
(10)「アフォーダンス理論」が慶應義塾大学(環境情報学部)小論文に出題されています
(11)センター試験現代文・出典『デザインド・リアリティ』の著者、有元典文氏、岡部大介氏の紹介
(2)2018センター国語第1問(現代文)【問3】の解説ー「アフォーダンス理論」
「アフォーダンス理論」と密接に関連する設問は問3と問5です。そこで、この2問の解説をします。(なお、他の設問は基礎的レベルです)
はじめに、問3の解説をします。
【問3】に関連する本文
(概要です)
(赤字は当ブログによる「強調」です)
(青字は当ブログによる「注」です)
(以下、同じです)
【10】今とは異なるデザインを共有するものは、今ある現実の別のバージョンを知覚することになる。あるモノ・コトに手を加え、新たに人工物化し直すこと、つまりデザインすることで、世界の意味は違って見える。例えば、B 図1のように湯飲み茶碗に持ち手をつけると珈琲カップになり、指に引っ掛けて持つことができるようになる。このことでモノから見て取れるモノの扱い方の可能性、つまりアフォーダンスの情報が変化する。
【11】モノはその物理的なたたずまいの中に、モノ自身の扱い方の情報を含んでいる、というのがアフォーダンスの考え方である。鉛筆なら「つまむ」という情報が、バットなら「にぎる」という情報が、モノ自身から使用者に供される(アフォードされる)。バットをつまむのは、バットの形と大きさを一見するだけで無理だろう。鉛筆をにぎったら、突き刺すのには向くが用途には向かなくなってしまう。
……………
(設問)
【問3】
問3 傍線部B「図1のように」とあるが、次に示す(この記事では一部省略)のは、4人の生徒が本文を読んだ後に図1と図2(この記事では省略)について話している場面である。本文の内容をふまえて、空欄に入る最適なものを次の中から一つ選べ。
「生徒Aーーでは、デザインを変えたら、変える前と違った扱いをしなきゃいけないわけではないってことか。
生徒Cーーそれじゃ、デザインを変えたら、変える前と扱い方を必ず変えなければならないということではなくて、〔 〕ということになるのかな。
生徒Dーーそうか、それが、「今と異なるデザインを共有する」ことによって、「今ある現実の別のバージョンを知覚することになる」ってことなんだ。
生徒Cーーまさにそのとおりだね。」
① どう扱うかは各自の判断に任されていることがわかる
② デザインが変わると無数の扱い方が生まれることを知る
③ ものの見方やとらえ方を変えることの必要性を実感する
④ 立場によって異なる世界が存在することを意識していく
⑤ 形を変える以前とは異なる扱い方ができることに気づく
(解説・解答)
「【10】例えば、B 図1のように湯飲み茶碗に持ち手をつけると珈琲カップになり、指に引っ掛けて持つことができるようになる。このことでモノから見て取れるモノの扱い方の可能性、つまりアフォーダンスの情報が変化する。
【11】モノはその物理的なたたずまいの中に、モノ自身の扱い方の情報を含んでいる、というのがアフォーダンスの考え方である。」
の部分がポイントになっています。
特に、太字の部分が重要です。
正解は⑤です。
アフォーダンス入門――知性はどこに生まれるか (講談社学術文庫 1863)
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『アフォーダンス入門』(佐々木正人)によると、
「アフォーダンス(affordance)」は、アメリカの心理学者J・J・ギブソンが提唱した概念で、「afford」と「-ance」の造語です。
生態光学、生態心理学の基底的概念になっています。
アフォーダンスとは、環境が動物に提供する「価値」ないしは「意味」のことです。
これが本来の意味のアフォーダンスです。世界と行為者の間には無限の関係性(アフォーダンス)が存在します。
動物や人は「その関係性」、つまり、「アフォーダンス」を見つけ、「何ができるか」を判断し行動をするわけです。
デザイン分野では、「アフォーダンス理論」は、「物体の属性(形・材質等)が、物体の加工についてのメッセージをデザイナーに発している」とする考えです。
(「アフォーダンス理論」は、最近(2005年)、慶應義塾大学(環境情報学部)小論文でも出題されました(→この記事の最後で一部を紹介します)。
センター試験で注目されたことにより、これからは、出題可能性が高まると思われます。)
この理論を前もって知っていると、簡単な問題です。
しかし、この理論を知らなくても、本文の説明が分かりやすいので、素直に熟読すれば、解答は容易でしょう。
この「アフォーダンス理論」は、「主体性の相対化」を内容としているのです。
「物体の加工」については、物体の属性(形・材質等)からのメッセージに拘束・支配されているので、そこには、「主体性の自由」はなく、「主体性」は、いかに能動的に見えても、半ば受動的な状態にあるのです。
「アフォーダンス理論」の根底には、人間の頭脳内部で、全ての知覚・創造が開始し完結するのではない、という世界観があります。
この考え方は、自己中心的な「近代的人間観」に反しています。
まさに、「ポストモダン」の発想と言えます。
(3)「アフォーダンス理論」に類似している「中動態の世界」
同様の「ポストモダン」の発想として、最近、『中動態の世界』(國分功一郎)が注目されています。
『中動態の世界』は「能動/受動の二分法」への疑問を提示しています。
「能動/受動の二分法への疑問」という点は、アフォーダンス理論と共通しています。
以下に、「中動態の解説」をします。
かつて能動態でも受動態でもない「中動態」なる態が存在していました。
「中動態」とはかつてのインド=ヨーロッパ語族(現在の英独仏露語のもと)に広く存在していた態です。プラトンやアリストテレスが活躍した古代ギリシャ時代では当然のように存在し、サンスクリット語にも同種の文法は見られるそうです。
具体例としては、内面から自然に沸き上がってくる、喜怒哀楽のような感情表現をイメージすると、分かりやすいでしょう。
「私は喜ぶ」という表現は、自らの意志で喜んでいるかどうかは、多くは状況・環境によります。
何か喜ばしい状況・環境の中で、自然に感情が発生したのだとすると、これを純粋な能動態として分類することは無理でしょう。
この他にも、「謝る」・「仲直りする」など、相手と互いに心が通いあって、初めて成立する行為も「する/される」のみで単純に分類することは困難です。
そこで、このような表現は、「中動態」の概念に含まれるのではないか、と國分氏は主張しているのです。
この点について、國分氏はインタビューで以下のように発言しています。当ブログの最近の記事(「『中動態の世界』國分功一郎/哲学/現代文・小論文予想出典(前編)」)の一部を以下に引用します。
………………………………
(引用開始)
「 過去や現実の制約から完全に解き放たれた絶対的自由など存在しない。逃れようのない状況に自分らしく対処していくこと、それが中動態的に生きることであり、スピノザの言う『自由』に近付くこと。僕はこの本で自由という言葉を強調したかった」(國分氏の発言『文春オンライン』2017・5・14)
(引用終了)
………………………………
『中動態の世界』には、同様の、以下のような記述があります。
最近の記事 (「『中動態の世界』國分功一郎/哲学/現代文・小論文予想出典(後編)」)から引用します。
………………………………
(引用開始)
【能動と受動の度合い/純粋な能動にはなりえない
國分氏は「スピノザ倫理学の一つの注意点」として、以下のことを指摘しています。
「われわれはどれだけ能動に見えようとも、完全な能動、純粋無垢な能動ではありえない。外部の原因を完全に排することは様態には叶わない願いだからである。完全に能動たりうるのは、自らの外部をもたない神だけである。」
(引用終了)
(4)2018センター試験国語第1問【問5】の解説ー「文化心理学」
【問5】に関連する本文
【19】(最終段落)
「 C 心理’学(しんりダッシュがく)」の必要性を指摘しておきたい。人間の、現実をデザインするという特質が、人間にとって本質的で基本的な条件だと思われるからである。人間性は、社会文化と不可分のセットで成り立っており、ヴィゴツキーが主張する通り私たちの精神は道具に媒介されているのである。したがって、「原心理」なるものは想定できず、これまで心理学が対象としてきた私たちのこころの現象は、文化歴史的条件と不可分の一体である「心理’学」として再記述されていくであろう。この「心理’学」は、つまり「文化心理学」のことである。文化心理学では、人間を文化と深く入り交じった集合体の一部であると捉える。この人間の基本的条件が理解された後、やがて「´」は記載の必要がなくなるものだと思われる。
(有元 典文・岡部 大介『デザインド・リアリティー 集合的達成の心理学』による)
この段落については、次のような設問が出題されました。
(設問)
問5 傍線部C「心理’学(しんりダッシュがく)」の必要性」とあるが、それはどういうことか。その説明として最適なものを次の中から選べ。
(解説・解答)
この設問の解答は①でした。①は、以下のような内容です。
① 人間が文化的歴史的条件と分離不可能であることに自覚的でない心理学は、私たちの私たちのこころの現象を捉えるには不十分でモノ、自らがデザインした環境の影響を受け続ける人間の基本的条件とし、そのような文化と心理とを一体として考える「心理´学」が必要であるということ。
傍線部の後ろの、
「私たちのこころの現象は、文化的歴史的条件と不可分の一体である『心理´学』として再記述」、
「この『心理´学』は、つまり『文化心理学』のこと」、
「『文化心理学』では、人間を文化と深く入り交じった集合体の一部であると捉える」
から、①が正解となります。
傍線部直後の「文化心理学」の内容を読み取る問題でした。
出題者が本文から「文化心理学」の「特異性」を読み取ってもらいたかったのでしょう。
なお、他の選択肢は、以下の理由によって、誤りになります。
② 「人工物化された新たな環境に直面した際に明らかになる人間の心理」の部分が、本文にこのような記述がなく、誤りです。誤りです。
③ 「心理学実験室での人間の「記憶'」を動物実験で得られた動物の「記憶ʼ 」とは異なるものとして認知し研究する」の部分が、本文にこのような記述がなく、誤りです。
④ 「こころの現象を文化歴史的条件と切り離した現象として把握し、それを主要な研究対象としてきた既存の心理学」とありますが、「既存の心理学」は、意識的に「こころの現象を文化歴史的条件と切り離した現象として把握した」わけではないので、誤りです。
⑤ 「ある行い(「行為」)結果と別の行い(「行為'」)の結果」を比較するような内容ではないので、誤りです。
ここで言う「文化心理学」は、「アフォーダンス理論」と同様に、「主体性」・「アイデンティティ」・「自己」の「相対化」の発想が背景にあります。
「アイデンティティ」・「自己」・「主体性」を、他の何物からも影響を受けない、「確固とした独立性のあるもの」と把握する「近代的な自己概念」は、現実の実態に大きく反するのです。
「近代的な自己概念」を、「単なる机上の空論」あるいは「理想論」とする論考が、最近では増加しています。
このような「ポストモダン」的論考が、最近のセンター試験、難関大学・入試国語(現代文・評論)・小論文の出典として主流になっています。
上記の『デザインド・リアリティー』の記述(→「『原心理』なるものは想定できず、これまで心理学が対象としてきた私たちのこころの現象は、文化歴史的条件と不可分の一体である『心理’学』として再記述されていくであろう」)は『中動態の世界』(國分功一郎)における、「古代ギリシャ哲学の『意志概念の不在』」と「中動態」の説明と、ほぼ同内容であり、とても興味深いです。
当ブログの予想問題記事(「『中動態の世界』國分功一郎/哲学/現代文・小論文予想出典(前編)」)から、「古代ギリシャ哲学の『意志概念の不在』」と「中動態」の説明を以下に引用します。
………………………………
(引用開始)
「中動/能動」という対で語られる時、問題になるのは「過程の内か外か」でした。
ここで、古代ギリシアに「意志」という概念はなかった、という衝撃の事実が、明らかにされてます。
中動態の動詞「生まれる、思われる、現れる」は、自由な意志による主体的な行為ではない、ということです。そして、「能動/受動の対」で人間の行動を判断しようとする思考が、中動態的思考を抑圧した可能性が明らかにされます。
「中動態と対立するところの能動態においては、ーーこう言ってよければーー主体は蔑ろにされている。『能動性』とは単に過程の出発点になるということであって、われわれがたとえば『主体性』といった言葉で想像するところの意味からは著しく乖離している」 (P91)
能動態と中動態の対立が、能動態と受動態の対立に転じたということは、意志の有無が問題にされるようになったことを意味します。つまり、「能動/中動」が対立する世界には、「意志」は存在しなかった。つまり、古代ギリシアには、アリストテレスの哲学には、「意志」の概念はなかったのです。
重要なことなので、本書から引用します。
「 アレントによれば、ギリシア人たちは意志という考え方を知らない。彼らは意志に相当する言葉すらもたなかった。ギリシアの大哲学者アリストテレスの哲学には、意志の概念が欠けている。」(P100)
(引用終了)
…………………………
まさに『中動態の世界』は『デザインド・リアリティ』に、きわめて類似した発想です。この『中動態の世界』の発想によると、「私」と「外界」は渾然一体です。
以上の『中動態の世界』における「古代ギリシャ哲学の『意志概念の不在』」と「中動態」の、さらなる詳しい説明については、当ブログで上記のリンク画像から「予想出典(問題)記事」を参照してください。
『中動態の世界』は、心理学的側面もある重層的な良書です。
(5)2012センター試験国語現代文「アフォーダンス理論」と「自己相対化」の類似性
「2012センター国語第1問解説「境界としての自己」木村敏・関係性」から、「自己相対化」の説明部分を引用します。
……………………………
(引用開始)
本問の
「自己の相対化」・「自己の否定」、
そして、これと表裏一体の、
「自己と他者の境界の重視」・「関係性の重視」・「間主観性の重視」は、
最近流行の現代文・小論文の論点・テーマです。
これらの論点・テーマは、「自己」・「アイデンティティ」・「個性」・「私らしさ」の、過度の重視が目立ってきた10年くらい前(キラキラネームの氾濫が目につく頃)から出題され始め、東日本大震災以後、明らかに増加しました。
木村敏氏が主張する「自己概念の相対化」は、「自己概念そのものの否定」では、ありません。
一般的・常識的な「自己概念」から派生する、
「個人の深刻な孤立化」、
各種の(「自己概念」の誤解に基づく)「傲慢」、
「共同体軽視・無視・嫌悪」、
「倫理・モラルの軽視・無視」
等のマイナス面を回避するために「新たな自己概念」を構築しようするものです。
それでは、2012年度のセンター試験国語(現代文)[1]の問題文本文・設問を検討します。
出題者の問題意識が、色濃く出ている設問(問5・問6)を、中心に解説していきます。
まず、問5を検討します。問5に関する本文を読んでください。
「ふつうにいわれる『自他関係』とは、境界線上でかわされる心理的な関係ということだろう。そこではやはり境界をはさんだ二つの領域が想定されていて、他者は外部世界に、自己は内部世界におかれることになる。D しかし、そのようなイメージは、特異点としての『私』という自己を考える場合には適切でない。『私』が円の中心だとするならば、私以外のすべての他者は中心の外にいることになる。『私』自身ですら、これを意識したとたんに中心から外に押し出される。しかし中心には内部というものがない。」
問5 傍線部D「しかしそのようなイメージは、特異点としての『私』という自己を考える場合には適切でない。」とあるが、筆者はどのような考えから適切でないと判断しているのか。その説明として最も適当なものを次の①~⑤のうちから1つ選べ。
正解は、③でした。(他の選択肢が不適当な理由については、他の解答集を参照してください。)
③ 他者の属する外部世界との対立関係で自己をとらえる見方は、境界に隔てられた空間的な内部世界を想定しているが、絶対的な異質性をもつ「私」の自己意識は内部空間をもたない円の中心のようなものであり、むしろ他者との境界そのものにほかならないという考え。
………
問5は、何を聞きたかったのでしょうか?
この設問は、「自己」についての、一般的・常識的な理解と、木村氏の見解との、際立った相違点を、聞こうとしています。
「自己」についての木村氏の見解は、一般的・常識的な理解と、まるで正反対です。
「私の自己意識」は、「他者との境界そのもの」と、木村氏は、主張しています。
「自己」は、「硬い外枠を持った内部世界」ではないのです。
近代的常識は、ここでは、全く通用しません。
反発心を持たないで、木村氏の論考の文脈を理解することが、ここでのポイントです。
「一般的な常識」も、あなたの外部から、やって来たものに過ぎないのです。
「一般的な常識」に、あまりこだわらないことが、現代文(国語)・小論文対策の重要ポイントと言えます。
(引用終了)
(6)「アフォーダンス理論」と「アニミズム」との類似性
「2009早大政経学部現代文解説「『安楽』への全体主義」藤田省三」の中から、実質的に「アフォーダンス理論」と類似の見解を述べている部分を、赤字化して引用します。
……………………………
(引用開始)
(藤田省三氏の論考)(概要です)
「【5】必要物の獲得とか課題や目標の達成とかのためには、もともと避けることの出来ない道筋があって、その道筋を歩む過程は、多少なりとも不快な事や苦しい事や痛い事などの試練を含んでいるものである。そして、それら一定の不快・苦痛の試練を潜り抜けた時、すなわちその試練に耐え克服して道筋を歩み切った時、その時に獲得された物は、単なる物それ自体だけではなくて、成就の「喜び」を伴った物なのである。そうして物はその時十分な意味で私たちに関係する物として自覚される。すなわち、〔B=相互〕的な交渉の相手として経験を生む物となる。「大物主の神」(おおものぬしのかみ)
(→「偉大なモノの神」という意味。「モノ」とは「人が畏怖の念を感じる、魔性を持つ存在。精霊」という意味。「物」は「物の怪(け)」《→もちろん、宮崎駿作品の『もののけ姫』は、この言葉に由来しています》の「モノ」です。「モノ」は「神」という側面を有していました。「大物主の神」は精霊の上に君臨する神なのです)
とも呼ばれ、「物語り」
(→「(物)もの」は「鬼」や「霊」など「不思議な霊力を持つもの」をいう言葉であったので、もともとは、「現実から離れた世界を語る」という意味で「物語」の語が発生したとも考えられるのです)
とも称されて来た、そういう「物」は、明らかに唯の単一な物品それ自体ではなくて、様々な相貌と幾つもの質を持って私たちの精神に動きを与える物(→「アニミズム的な発想」・「アフォーダンス理論的発想」といえます)なのであった。そして成就の「喜び」はそうした精神の動きの一つの極致であった。」
ーーー
(当ブログによる発展的解説)
藤田省三氏は、上記の段落で、「物」との「アニミズム的な交流」、つまり、「霊的な交流」(→「アフォーダンス的」交流とも評価できます)まで意識しているようです。「もったいない精神」、「物を大切する」よりも、さらに上のレベルです。
それと、「使い捨て社会」「消費社会」とでは、大きな落差があります。
日本の「妖怪」という概念も「アニミズム」に属するといえます。
『もののけ姫』の世界のように、身近に自然が横溢していた時代には、人々は自然の中に「生命の脈動」を敏感に感じる取るとることができました。
さらには、岩石や川、夜空の星にまで、「命の脈動」を見いだしたに違いないのです。
『風の谷のナウシカ』『もののけ姫』『となりのトトロ』などの宮崎駿作品の根元的意味を考察する論考は、最近の入試現代文(国語)・小論文によく出題されています。
それらの論考は、いずれも、痛烈な「現代文明批判」の内容になっています
(引用終了)
(7)『夢十夜・第六夜』(夏目漱石)と「アフォーダンス理論」との類似性
夏目漱石の『夢十夜・第六夜』の中にも、アニミズム的、アフォーダンス理論的な内容の一節があります。上の記事の、その部分を赤字化して、以下に引用します。
……………………………
(引用開始)
【8】 運慶は今太い眉を一寸の高さに横へ彫り抜いて、鑿の歯を竪(たて)に返すや否や斜(は)すに、上から槌を打ち下した。堅い木を一(ひ)と刻みに削って、厚い木屑が槌の声に応じて飛んだと思ったら、小鼻のおっ開いた怒り鼻の側面がたちまち浮き上がって来た。その刀の入れ方がいかにも無遠慮であった。そうして少しも疑念を挾(さしはさ)んでおらんように見えた。
【9】 「よくああ無造作に鑿を使って、思うような眉(まみえ)や鼻ができるものだな」と自分はあんまり感心したから独言のように言った。するとさっきの若い男が、
「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋っているのを、鑿(のみ)と槌(つち)の力で掘り出すまでだ。まるで土の中から石を掘り出すようなものだからけっして間違うはずはない」と云った。
(引用終了)
(8)「アフォーダンス理論」と「アニミズム」/日本人論・日本文化論
「アニミズム」は「日本人論」・「日本文化論」として論じられることがあります。内容的には、「アフォーダンス理論」と、きわめて類似しています。以下に、「日本人論・日本文化論としてのアニミズム」の秀逸な論考を引用します。
……………………………
(引用開始)
(松岡) かつて才能というものは日本の場合、「才」が全部物質の中にあったんです。
それを「才(ざえ)」と呼びましたけれど、石に才があり、木に才があり、花に才があり、釘に才がある。それをはたらかせるというのがモーメントとしての「能」という字なんです。
それが、やがて能をはたらかせる人に才能があるというように、どこからか変わってしまった。でも、石に才能があるほうが、ほんとうだと思うんですよ。
.(佐治晴夫、松岡正剛『二十世紀の忘れもの トワイライトの誘惑』)
(引用終了)
(9)「アフォーダンス理論」の解説ー『アフォーダンス入門』(佐々木正人)より
『アフォーダンス入門』から「アフォーダンス理論」のポイントを引用します。
まず、『アフォーダンス入門』の「Book紹介」を引用します。次に、「アフォーダンス理論」のポイントを引用します。
……………………………
(引用開始)
【 内容紹介(「BOOK」データベースより)】
「アフォーダンスとは環境が動物に提供するもの。身の周りに潜む「意味」であり行為の「資源」となるものである。地面は立つことをアフォードし、水は泳ぐことをアフォードする。世界に内属する人間は外界からどんな意味を探り出すのか。そして知性とは何なのか。二〇世紀後半に生態心理学者ギブソンが提唱し衝撃を与えた革命的理論を易しく紹介する。」
【本文からの引用】
「 生きもののするあらゆることは、それだけ独立してあるわけではない。行為があるところには、かならず行為を取り囲むことがある。まわりがあって生きもののふるまいがある。」(P30)
「 世界からの刺激を処理して中枢が「意味」をつくると考える「情報処理」理論にたいして、彼は世界にある意味をそのまま利用する自分の知覚モデルを「情報ピックアップ(抽出)」理論とよんだ。彼はぼくらが世界を「直接知覚(ダイレクト・パーセプション)」していると言った。世界にはそのまま意味になることがある。知覚とはそれを探す活動なのである。」(P78)
「 行為のプランが行為に先立ってどこか(脳?)に「スケジュール表」や「フローチャート」のようにあるという説明の仕方にならされているぼくらには、このような事実をすぐに理解することは困難なのだけれど、行為の未来をつくりだすことは、行為が徐々にあらわにする環境の変化の中にあるというわけだ。」(P134)
「 行為によって「環境を変えていく」とき、行為によって環境の見えが変わる。
行為はこの行為がつくった変化によって予期的につくられている。行為が変えた環境の見えが、引き続く行為を導く。ぼくらは行為の環境におよぼした結果に、つぎの行為の可能性の幅を見る。」(P208)
(引用終了)
(10)「アフォーダンス理論」が慶應義塾大学(環境情報学部)小論文に出題されています
以下に入試問題を引用します。
……………………………
(引用開始)
2005年慶應義塾大学(環境情報学部)小論文・課題文
人が作り出すあらゆる物を人工物といいます。人工物の使いやすさや分かりやすさを決める概念の一つとして、アフォーダンスがあります。アフォーダンスに関して書かれた資料1をよく読んでください。次に、あなた自身の身の回りでアフォーダンスが充分でないため、あるいは間違ったアフォーダンスのために、使いやすさや分かりやすさが損なわれている実例を2つ挙げてください。それらについて、それぞれ、図示して、どこがどう使いにくいか、あるいは分かりにくいか、またどのようにすれば改善できるかを、250字以内で具体的に説明してください。
【資料1】
愚かなデザイン
『誰のためのデザイン?』の中で、私(=ドナルド・ノーマン)は電灯のスイッチや水道の蛇口あるいはドアについてデザインの問題を詳しく述べたので、ここで、さらに繰り返す必要はないと思うが、それでもまだ、私を驚かせる例は次々と現われる。1の漫画「DRABBLE」を見るまでは、もうドアのことは決して書くまいと思っていた。その漫画の「主人公」はノーマンという名前(意地悪な偶然の一致だ)である。さっそく、ノーマンの言い訳をさせてもらいたい。
どうして、ドアのような単純なものに「押す」とか「引く」というような言葉による注意書きが必要なのだろうか。もし、ドアが正しくデザインされていたら、説明は不要なはずである。正しい操作以外に何もできないはずだから。
気の毒なノーマンが押しているドアをもう一度よく見てほしい。ドアの把手(とって)は平らな板でドアのガラスから少し持ち上がっている。しかし、平らな板は明らかに押すというサインである。私はそのノーマンがドアを押しているのを責めるわけにはいかない。こっちのノーマンだって同じことをしたに違いないからである。実は、私はよくドアの近くにそっと立って、そういうドアに対して人々がどう振る舞うかを見ているが、普通平らなものに対しては人は押すものだということがわかる。だからこそ平らにしてあるのではないだろうか。
(引用終了)
(11)センター試験現代文・出典『デザインド・リアリティ』の著者、有元典文氏、岡部大介氏の紹介
有元 典文
1964年生まれ。川村学園女子大学文学部助手、講師を経て、横浜国立大教育学部教授。専門は教育心理学・文化心理学。
【著書】
『インプロをすべての教室へ 学びを革新する即興ゲーム・ガイド』(共著、新曜社)、
『学校インターンシップの科学』(共著、ナカニシヤ出版)、
『越境する対話と学び』 (共著、新曜社)
『学び手の視点から創る小学校の体育授業』(共著、大学教育出版)
『デザインド・リアリティ―半径300メートルの文化心理学』(共著、有元典文・岡部大介、北樹出版)
『デザインド・リアリティ 集合的達成の心理学 増補版』(共著、有元典文・岡部大介、北樹出版)
岡部 大介
1973年生まれ。2001年より横浜国立大学教育学研究科助手を経て、東京都市大学准教授、慶應義塾大学SFC研究所上席研究員。 山形県鶴岡市出身。 専門は認知心理学・社会情報学。
【著書】
『ケータイのある風景』(共著、北大路書房)
『ワードマップ 社会・文化・活動の心理学』(共著、新曜社)
『デザインド・リアリティ 半径300メートルの文化心理学』(共著、有元典文・岡部大介、北樹出版)
『デザインド・リアリティ 集合的達成の心理学 増補版』(共著、有元典文・岡部大介、北樹出版)
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今回の記事は、これで終わりです。
次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。
ご期待ください。
私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。
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