予想出典/『小林秀雄 美しい花』若松英輔
(1)なぜ、この記事を書くのか?
最近、発行された『小林秀雄 美しい花』(若松英輔)が、前回の記事で解説した『常世の花 石牟礼道子』(若松英輔)と同様に、内容的にも、レベル的にも、難関大学の現代文(国語)・小論文の題材として、ふさわしいです。
そこで、今回の記事で解説します。
字数は、約1万字です。
今回の記事の項目は以下の通りです。
(2)予想出典・予想問題/『小林秀雄 美しい花』若松英輔/「はじめに」・「概要」
(3)予想出典・予想問題/『小林秀雄 美しい花』/①「小林秀雄における『批評』」
(4)予想出典・予想問題/『小林秀雄 美しい花』/②「美」について
(5)予想出典・予想問題/『小林秀雄 美しい花』/③「読むこと」について
(6)予想出典・予想問題/『小林秀雄 美しい花』/④「謎」について
(7)予想出典・予想問題/『小林秀雄 美しい花』/⑤「コトバ」・「神秘」・「魂」についてー「まとめ」として
(8)当ブログにおける「小林秀雄」解説記事の紹介
まず、出版元が公表している「Book 紹介」を引用します。
【内容説明】
小林秀雄は月の人である。中原中也、堀辰雄、ドストエフスキー、ランボー、ボードレール。
小林は彼らに太陽を見た。
歴史の中にその実像を浮かび上がらせる傑作評伝。
『ランボオ』『Xへの手紙』『ドストエフスキイの生活』から『モオツァルト』まで。
小林秀雄の著作を生き直すように読み、言葉の向こうへ広がる世界へと誘う。
【出版社内容情報】
美しい「花」がある、「花」の美しさという様なものはない。
色、音、光、香り、言葉、あるいは不可視な感情の痕跡――。
芸術に触れ、真につき動かされたときに遭遇する何かこそが、真の美であり、実在なのだと語った小林秀雄。
ベルクソン、ランボー、モーッアルト、ドストエフスキー、本居宣長らとの出会を通じ、小林が生涯にわたって考え続けたのが美をめぐる問題だった。
不世出の批評家が語りながら考え、書きながら生きた軌跡をその現場に降り立つように蘇らせる試みにみちた長編評論
(2)予想出典・予想問題/『小林秀雄 美しい花』若松英輔/「はじめに」・「概要」
(赤字は当ブログによる「強調」です)
(青字は当ブログによる「注」です)
『小林秀雄 美しい花』の「序章」で若松氏は、次のように述べています。
「 小林にとって批評とは、読み、書くことによって、論じる相手の生涯を生き直してみようとすることだった。」
この言葉は、また、若松氏の覚悟でもあります。
若松氏は、小林秀雄と同じ道を辿ろうしているでしょう。
小林秀雄は一連の著書で、読者に、ある意味で苛烈な要求をしています。
直に、「見ること」、「聴くこと」、「読むこと」、「感じること」を心掛けよ。
次に、「考えること」を、それらと同レベルに設定せよ。
これは、真に実存的に物を見て、「存在の根源」を見詰めるということでしょう。
対象に「没入せよ」と言うのです。
「没入」とは、批評する相手の心を通して自分を照らす、ということでもあります。
これが、小林秀雄の「批評の構造」です。
若松氏は、まさに、この「批評の構造」の実践として、本書『小林秀雄 美しい花』を執筆しています。
それゆえにこそ、若松氏は、新たな小林秀雄像を実感できたのでしょう。
このことは、以下の若松氏の言葉からも明らかです。
「 小林は多くの人に影響を与えた「太陽の人」として語り継がれてきました。しかし彼は、誰よりも真摯に他者からの影響をという「光」を受けた「月の人」でした。これまでの小林秀雄像を刷新できればと思います。」
(『小林秀雄 美しい花』)
若松氏は、小林秀雄に寄り添い、交感することにより、小林秀雄が捉えた「超越者」、「目に見えない叡智」、「世界の根源」を垣間見ようとしています。
言い換えれば、異界と交感した批評家、哲学者、詩人である小林秀雄に、まさに「没入」しています。
この「実験的精神」こそ、小林秀雄が生涯を賭けて試み、私たちに感動を与えてくれる各著作の原動力になっていることに留意するべきです。
本書『小林秀雄 美しい花』は、死者・小林秀雄との「会話」の記録とも言えます。
若松氏にとって、「死者」とは「今なお生きている者」です。
この価値観は、若松氏のこれまでの著作の基盤になっています。
彼にとっての、「哲学者」や「詩人」とは、自らが何かを創造する者ではありません。
「何か」から伝達される「言葉」の通り道としての「人間」です。
このことは、小林秀雄を崇拝していた池田晶子氏も指摘しています。
若松氏も、「死者から言葉を預かった者」としての立場から本書を書いているのでしょう。
若松氏は、その著書『内村鑑三 悲しみの使徒』の中で以下のように述べています。
「 死者がいる「霊性」の世界は、確かにある「実在」であり、小林秀雄もこの認識を前提としている。」
以下では、『小林秀雄 美しい花』をはじめとする若松氏の各著作の中のキーワードである、
① 「小林秀雄における『批評』」、
② 「美」、
③ 「読むこと」、
④ 「謎」、
⑤ 「コトバ」・「神秘」・「魂」、
について解説していきます。
この記事を読んでいけば分かることですが、注意するべきは、これらのキーワードは、「超越者」、「目に見えない叡智」、「世界の根源」に密接に関連しているということです。
(3)予想出典・予想問題/『小林秀雄 美しい花』若松英輔/①「小林秀雄における『批評』」
「小林秀雄における『批評』」については、「序章 美と見神」に、簡潔な解説があります。
「 自己を、もっともよく理解しているのは自分である、と思うのは、一種の幻想に過ぎない。むしろ、人間にとって自己とは永遠の謎とほとんど同義であり、生きるとは、己れという解明不可能な存在に、可能な限り接近しようとする試みだと言ったほうが現実に近い。それが現実であるならば、自分よりも自分に近い他者という存在も空想の産物ではなくなる。論じる対象自身よりもその人の心に近づこうとすること、こうした一見不可能な試みに身を投じること、それが小林秀雄にとっての批評の基点だった。」(「序章 美と見神」『小林秀雄 美しい花』若松英輔)
同様のことを、小林秀雄は『人間の建設』の中で述べています。
以下に引用します。
「(小林) 自己表現、本物の自己、確固たる自我の表明に拘泥するばかりで、物の本質を見る目を曇らせてしまってはいないか。
自分の心の「ほしいままなもの」、小我への執着を捨て、自然を客体として眺めるのをやめ、自己を自然の中に置くとき、物事の本質、本然の姿は見えてくるのだ。」
「(小林) その人の身になってみるというのが、実は批評の極意です。高みにいて、なんとかかんとかいう言葉はいくらでもありますが、その人の身になってみたら、だいたい言葉がないのです。いったんそこまで行って、なんとかして言葉をみつけるというのが批評なのです。」
物事をよく「見る」ということ、「その人の身になってみること」、このことを、現代人は忘れがちです。
素直になれ、と小林秀雄は、静かに諭しているのです。
また、『小林秀雄全集第七巻』の中で、小林秀雄は、このようにも言っています。
「 僕も前に福沢諭吉の事を書いたことがあるけれども、福沢諭吉は『文明論之概略』の序文でこういう事を言っている。現代の日本文明というものは、一人にして両身あるごとき文明だ、つまり過去の文明と新しい文明を一つの身にもっておる、一生にして二生を持つが如き事をやっている、そういう経験は西洋人にはわからん、現代の日本人だけがもっている実際の経験だというのだよ。そういう経験をもったということは、われわれのチャンスであるというのだ。そういうチャンスは利用しなくちゃいかん。だから、俺はそれを利用し、文明論を書く、と言うのだ。 実証精神というのは、そういうものだと思うのだがね。
何もある対象に向かって実証的方法を使うということが実証精神でないよ。自分が現に生きている立場、自分の特殊の立場が、学問をやる場合に先ず見えていなくちゃならぬ。俺は現にこういう特殊な立場に立っているんだということが学問の切掛けにならなければいけないのじゃないか。
そういうふうな処が今の学者にないことが駄目なのだ。日本の今の現状というようなものをある方法で照明する。そうでないのだ。西洋人にはできないある経験を現に僕等しているわけだろう。そういう西洋人ができない経験、僕等でなければやれない経験をしているという、そういう実際の生活の切掛けから学問が起こらなければいけないのだよ。そういうものが土台になって学問が起こらなければいけない。そういうものを僕は実証的方法というのだよ。」
「 眼の前の物をはっきり見て、凡そ見のこしということをしない自分の眼力と、凡そ自由自在な考える力とを信じる。そこからしか学問も芸術も始まらない。」
(「實験的精神」『小林秀雄全集第七巻』)
若松氏が、「小林秀雄における『批評』」を、いかに考えているかは、小林秀雄の「様々なる意匠」の有名な一節、「批評とは竟(つい)に己れの夢を懐疑的に語る事ではないのか」の解説から明らかになります。
この一節は、一般的には、「批評とは、ある対象物により自己の内部に湧いてきた感触を、自己の、あり得る限りの技量を尽くした言語、理論に置き換え語ること」と理解されています。
しかし、若松氏は、以下のように、全く別の解釈をします。
「 この「己れの夢」は評者自身の夢でなく、論じられる対象物である「彼」と、論じる「私」の「主客が渾沌こんとんとするような交わり」が起きた末に語られた夢だ。」
若松氏は、小林秀雄の「その人の身になってみること」を徹底して考えていくのでしょう。
つまり、若松氏自身もまた、小林秀雄の「身になってみる」を実践しているのです。
自分が語っているのか、小林秀雄の言葉が乗り移ったのか分からないような、その境地まで思いを沈めているのです。
例えば、小林秀雄と、中原中也の恋人の長谷川泰子をめぐる事件を論ずる際にも、この、小林秀雄に寄り添う姿勢は貫かれます。
若松氏は、二人の青年がランボーの詩を訳した時、互いの訳文が影響し合うほど「精神的に密接な関係」だった事実を指摘しています。
その上で、小林秀雄は単に泰子を愛したのでない、としています。
つまり、「中原から長谷川泰子を奪うことで、中原との関係を手に入れようとしたのではないか」と推測しているのです。
小林秀雄に寄り添えば、「小林秀雄における中原中也の価値」が、見えてくるのでしょう。
対象者に寄り添い、感じること、その実感を大切にして考えることこそが、「小林秀雄における『批評』」の真髄なのです。
つまり、「小林秀雄における批評」の「根拠」は、対象者に寄り添い、感じること、その実感を大切にして考えること、と言えるのです。
この点について、若松英輔氏は、ツイートで次のように述べています。
「 小林秀雄は、親友の河上徹太郎こそが本当の批評家で自分は詩人にすぎない、と言っていますが本当です。小林の作品は詩のように読むのがよく、事実を追い、「証拠」を見つけようとするには不向きな書き手だと思います。私は、小林が優れているから読んできたのではありません。まず、打たれたのです。」
(4)予想出典・予想問題/『小林秀雄 美しい花』若松英輔/②「美について」
「美」が小林秀雄のテーマであったことを、若松氏は、以下のようにして指摘しています。
「 美は今に宿り、悠久の世界がそこにあることを教える。悠久は、彼方に存在するのではない。今に随伴する。今とは、永遠の時が世界に現象するときの謂いである。今を見つめない者がどうして永遠を知ることができようか、今を、真実の意味で育むことを知らない者が、どうして永遠を誓うことができるだろうか、と小林は問い掛けるのである。」(『小林秀雄 美しい花』)
「 ベルクソン、ランボー、モーッアルト、ドストエフスキー、本居宣長らとの出会を通じ、小林が生涯にわたって考え続けたのが美をめぐる問題だった。」
(『小林秀雄 美しい花』 )
「 音楽、絵画、彫刻、言葉によって深奥に導かれ、「何か」に遭遇すること。その「何か」を小林は「美」と呼んだ。」
(『小林秀雄 美しい花』)
「批評と美」に関連して、若松氏は、「批評とは論理の構築ではなく、美を垣間(かいま)見た者たちによる詩」ではないか、と述べています。
この一節は、小林秀雄など超一流の批評家についてのみ言えることですが、反芻を必要とする、興味深い内容を含んでいるようです。
この一節の真の理解のためには、以下の若松氏の指摘が参考になるでしょう。
「 言葉にならないことに胸が満たされたとき人は、言葉との関係をもっとも深める。文字があるその奥には、言葉にならない呻(うめ)きがある。そう思って誰かの文章を読んでみる。書かれていないはずのことが、まざまざと心に浮かび上がってくるのに驚くだろう。奇妙に聞こえるかもしれないが、言葉とは、永遠に言葉たり得ない何ものかの顕現なのである。」(『言葉の贈り物』若松英輔)
「 哲学という言葉が苛烈な力を持って若い私を魅了したのは、人間が感じる世界の彼方にある、もう一つの世界をかいま見させてくれると思ったからだった。」(『言葉の贈り物』若松英輔)
「 ソクラテスがまずとらえたのは、人間の問題ではなく、彼が「知恵」と呼ぶ神の働きがいかに世界で働いているかという理(ことわり)だった。」
(『言葉の贈り物』若松英輔)
上記の
「永遠に言葉たり得ない何ものか」、
「世界の彼方にある、もう一つの世界」、
「知恵」
こそが、「言葉の根源」であり、「美」でもあるでしょう。
ここで、小林秀雄の、あの有名な一節を再考します。
「 物数を極めて、工夫を尽して後、花の失せぬところを知るべし」。美しい花がある、花の美しさという様なものはない。彼の花の観念の曖昧さについて頭を悩ます現代の哲学者の方が、化かされているに違いない。肉体の動きに則って観念の動きを修正するがいい、前者の動きは後者の動きより遥かに神妙で深淵だから、彼はそう言っているのだ。」(「当麻」小林秀雄)
『小林秀雄 美しい花』で若松氏は、
「 小林が生涯かけて探求したものは、時には「歴史」であり、「魂」であり、「美」であり、「花」である」」
と述べています。
この記述からも明らかですが、『小林秀雄 美しい花』のタイトルの「美しい花」は、小林秀雄の「当麻」の「美しい花がある、花の美しさという様なものはない」のオマージュでしょう。
上記の小林秀雄の一節は、私たち現代人への痛烈な皮肉になっています。
肉体、実感から離れ、観念に支配・拘束された思考機械に堕落した自己の惨めさに気付け、と小林秀雄は、親身に忠告してくれているのです。
一見、素っ気ない文章ですが、ここには、神のような鋭さと、女神のような優しさが横溢しています。
だからこそ、一部の、いや、意外に多くの読者が、小林秀雄に耽溺していくでしょう。
小林秀雄は、ドストエフスキーを論じて「颱風に巻き込まれた人間だけが颱風の眼を知っている事を絶叫しているだけだ」と述べています。
このことについて、若松氏は、次のように書いています。
「 客観という、ほとんど迷信のような視座に翻弄されている者は、対象を遠く離れて見ようとする。主観から離れれば離れるほどよく見えると信じて疑わない。確かに、その眼には全体の風景はよく映るだろう。しかし、その人物には「颱風」の中心で何が起こっているかはけっして分からない。実際の台風も、離れている者に迫りくるのは暴風雨だが、その中心では、ときに穏やかな天空があり、外から見るのとはまったく異なる光景が広がっているのである。」
(『小林秀雄 美しい花』若松英輔)
現代社会に蔓延し絶対的宗教と化している客観主義、科学万能主義への懐疑が、述べられています。
客観主義、科学万能主義を無反省に信奉することは、ある意味で、自己の実感を否定・無視することに直結するのです。
そのことは、「自己の素朴な判断」を冷笑の対象としてしまうこと、ひいては、自己否定に繋がるのです。
「自己を、反生物的な、反人間的な思考機械に変容させて、合理的に人生を生きることの底知れぬニヒリズム」に、現代人は封印されているとも言ってよいでしょう。
(5)予想出典・予想問題/『小林秀雄 美しい花』若松英輔/③「読むこと」について
若松氏は、小林秀雄の導きに従い、「読むこと」を重層的に解釈しています。
人生を賭けて、文字に、文章に、作者に向き合うことにより、「読むこと」には、無限な可能性が発生していくということです。
『小林秀雄 美しい花』には、以下のような記述があります。
「 読むとは心の中に不可視な文字で書くことである。読むとは、魂の奥に、ふれることのできない一冊の本を書くことにほかならない。人が衝撃を受けるのは、紙の上に印刷された文字にではなく、自らの胸の内に読むことによって記された言葉だというのである。」
(『小林秀雄 美しい花』)
「 批評家が批評家を読むなかで、「読む」ということの可能性へと話は進む。読むことで、文章の合間からその人が再び立ち上がり、生きなおされる。」
(『小林秀雄 美しい花』)
さらに、『悲しみの秘儀』の中で若松氏は、「読者」、「文学」を次のように定義しています。
斬新な、想像力を掻き立てるような記述と評価できるでしょう。
「 読者とは、書き手から押し付けられた言葉を受け止める存在ではない。書き手すら感じ得なかった真意を個々の言葉に、また物語の深層に発見していく存在である。こうした固有の役割が、読み手に託されていることを私たちは、書物を開くたびに、何度となく想い返してよい。また、文学とは、ガラスケースに飾られた書物の中にあるのではなく、個々の魂で起こる一度切りの経験の呼び名であることも想い出してよいのである。」
(「文学の経験」『悲しみの秘儀』若松英輔)
次の記述は、「よむ」の深遠な実相を私たちに伝えてくれます。
「 「よむ」という営みは、文字を追うこととは限らない。こころを、あるいは空気を「よむ」ともいう。句を詠む、歌を詠むともいう。「詠む」は、「ながむ」とも読む。『新古今和歌集』の時代、「眺む」には、遠くを見ることだけでなく、異界の光景を認識することを指した。」
(「低くて濃密な場所」『悲しみの秘儀』若松英輔)
『悲しみの秘儀』のテーマは、「言葉と生命・魂との密接な関連性」です。
この書も、読むべき良書です。
「読むこと」に関連して、若松氏は、「言葉」を「人間」より上位に置いて、以下のような箴言を記述しています。
「 人間が言葉を使うのではなく、言葉と共に、さらにいえば人が、真の意味で言葉に用いられたとき、出来事が起こる。」
(『小林秀雄 美しい花』)
確かに、「言葉」は、個々の個人よりも長く、この世に存在し、個人の意識・思考・行動を規定してきた存在です。
私たちは、「言葉」の持つ「力」、さらに言えば、「魔力」を考える必要があるでしょう。
このことに意識が及べば、「読むこと」を簡単に考えることはできないはずです。
(6)予想出典・予想問題/『小林秀雄 美しい花』若松英輔/④「謎」について
「 人を大切に思うとは、その人の存在が「謎」として深まっていくことではないのか。この本ではそう呼びかけたかったのである。」
以上のようなことを、若松氏は述べています。
「小林秀雄と謎の関係」について、若松氏は、以下のように述べています。
「 「謎」という一語こそ『無常という事』(→小林秀雄の著作)を読み解く最も重要な鍵語だ。」
「 「謎」は信じることを通じてのみ、ふれ得るもので「思想」と同義である。」
(『小林秀雄 美しい花』)
「 人生という謎は、解かれることよりも、愛されることを望んでいる。謎を謎のままに、その世界を歩くこと、それが小林にとって生きることだった。」
(『小林秀雄 美しい花』 )
人生は謎に満ちています
人生自体が謎と言えます。
「自己」とは何か?
「生きる」とは何か?
「死」とは何か?
私たちも、小林秀雄を師として、「謎を謎のままに、その世界を歩くこと」を心掛けるべきでしょう。
「謎を謎のままに、その世界を歩くこと」により、「謎」は解明されていくのでしょう。
解明されないとしても、それでよいのです。
生きていくこと自体が、解明なのかもしれないからです。
(7)予想出典・予想問題/『小林秀雄 美しい花』若松英輔/⑤「コトバ」・「神秘」・「魂」についてー「まとめ」として
若松氏は、池田晶子氏を、かなり評価しています。
「崇拝」と言ってもよいかもしれません。
池田晶子氏の『新・考えるヒント』(→小林秀雄の『考えるヒント』を意識して書かれています)には、以下のような記述があります。
「 小林秀雄の『考えるヒント』に倣って、考えつくところをこうして書いているわけだが、書いているうちに、彼と我とが判然としなくなってくるところが、今さなながら面白い。この経験こそ、考えるということの醍醐味、一種忘我の、と言えば誤解を招くなら、小林ふうに無私の、と言おうか、精神が自身を味わうことの喜びであろう。
人が、その固有のダイモンに憑かれることができるのは、生活すなわち生命と引き換えに、己れの魂を明け渡した時だけだ。ソクラテスは論理の、小林もまた理知の、そしてランボーは、小林の言い方を借りるなら美神の、それを宿命と言えば、わかりがいいだろうか、言葉を命と知るがゆえにそう生きざるを得なかった者たちの生である。」
(『新・考えるヒント』池田晶子 )
若松氏は、『叡知の詩学 小林秀雄と井筒俊彦』の中で、「言葉には三つの意味の次元がある」という井筒俊彦氏の見解を紹介しています。
realistc(現実的)、
narrative/legendary(物語的・神話的)、
imaginal(異界的)、
の三つの次元です。
「詩」の言葉は、「異界的な領域」まで「考え」を沈潜させていきます。
「異界的な領域」とは、意味と音が結合される以前の「コトバ」の根源が漂う世界です。
この「世界の深層」、「人間存在の深層」に、そのような領域が広がっているという事実を、「詩」は私たちに覚醒させようとしているのです。
そこから新しく世界を見直すことを、「詩」は、囁くように、諭すように、呼び掛けるように、私たちに問い掛けるのです。
『叡知の詩学』が主張しているのは、小林秀雄と井筒俊彦という哲学者の内面に、そうした「詩」が生きていたという事実です。
そして、二人は、ある意味で「詩人」でもあったのです。
「詩人」は「神秘を語る人」です。
「神秘」についても、若松氏は、考察を進めています。
「 神秘家とは、神秘体験に遭遇し、そこに意味を探る人間のことではない」と若松氏は井筒俊彦氏の言葉を引用し、以下のように述べています。
「 真実の啓示を受容した者は必ず、その実現を志し一介の行為者となり、万民のために奉仕する。
神秘とは、口先で語られるものでなく、行為され、実践されなければならない。」
(『叡智の詩学』若松英輔)
「真実の啓示を受容した者」とは「詩人」であり、「哲学者」です。
『生きる哲学』の中で、若松氏は、以下のように主張しています。
「哲学」とは、単なる静止状態の概念ではない。
「私たちが瞬間を生きる中で、まざまざと感じること」そのものである、と。
若松氏における哲学については、「コトバ」が重要な役割を果たしているので、ここで、「コトバ」の説明をします。
『生きる哲学』のはじめで、若松氏は、「本書では言語の姿にとらわれない「言葉」をコトバとカタカナで書く」と定義しています。
その上で、「私たちが文学に向き合うとき、言語はコトバへの窓になる。絵画を見るときは、色と線、あるいは構図が、コトバへの扉となるだろう。彫刻と対峙するときは形が、コトバとなって迫ってくる。楽器によって奏でられた旋律がコトバの世界へと導いてくれるだろう」と述べています。
井筒俊彦氏が「形の定まらない意味の顕れ」を「コトバ」と呼んだことを踏まえて、若松氏もその意味で「コトバ」を使うのです。
若松氏が、様々な著作で繰り返し語るのは、「コトバと魂の邂逅」についてです。
「コトバと哲学の密接な関係」です。
つまり、「コトバにより自己を見詰める作法」についてです。
『生きる哲学』には、次のような記述があります。
「 コトバとの邂逅はいつも魂の出来事である。コトバは常に魂を貫いて訪れる。何者かが魂にふれたとき、人は自らにも魂と呼ぶべき何者かが在ることを知る」(『生きる哲学』)
また、『小林秀雄 美しい花』には、以下のような、詩的な、哲学的な記述があります。
「 読むとは心の中に不可視な文字で書くことである。読むとは、魂の奥に、ふれることのできない一冊の本を書くことにほかならない。人が衝撃を受けるのは、紙の上に印刷された文字にではなく、自らの胸の内に読むことによって記された言葉だというのである。」(『小林秀雄 美しい花』)
『小林秀雄 美しい花 』は、若松氏のこれまでの歩みの「一応のまとめ」のような内容になっています。
この書をきっかけにして、さらに、若松氏の他の著作を「読む」と、より理解が進むと思います。
ともあれ、『小林秀雄 美しい花 』は、「言葉を越えたコトバ」=「詩」の実相を、小林秀雄的に、実験的に、自己の実感に忠実に、探求した書と言えるでしょう。
私たちは、より分かりやすく、より親切な「小林秀雄」に出逢えたのです。
(8)当ブログにおける「小林秀雄」解説記事の紹介
上記の記事の一部を引用します。
↓
小林秀雄氏は、一時代前の思想家・文芸評論家ですが、小林氏の思想は、決して、古びていません。
それは、小林氏の論考は、「人間存在の根源」に焦点を当てているからです。
それ故に、今だに、難関大学の現代文(国語)・小論文に出題されています。
しかも、小林氏の論考は、2016センター試験にも出題され、かなり話題になりました。
(引用終了)
上記の記事の一部を引用します。
↓
【1】小林秀雄氏の紹介、入試出題状況
小林秀雄氏は、近代日本の文芸評論の確立者です。
個性的な、少々切れ味の良い挑発的な文体、詩的雰囲気のある表現が、特徴です。
西洋絵画の批評や、ランボー、アラン等の翻訳にも、業績を残しました。
入試現代文(国語)の世界では、20年くらい前までは、トップレベルの頻出著者(ほぼ全ての難関大学で、最低1回は出題されていました。)でした。
現在は、トップレベルではないですが、やはり、頻出著者です。
最近の入試に全く出題されていない、ということは、ありません。
最近でも、以下の大学で出題されています。
大阪大学『考えるヒント』
明治大学『文化について』
国学院大学『無常という事』
明治学院大「骨董」
【2】この問題に対する一般的評価、それらに対する私の意見
この問題については、
「 かつての入試頻出著者ではあるが、小林秀雄氏の文章は今の受験生には難解過ぎて、少々、不適切な問題であった」
という評価が多いようです。
本当に、そうなのでしょうか。
私は、そうは思いません。
単語のレベルは少々高いです。
しかし、
最近、京都大学・大阪大学・東北大学・一橋大学・東京学芸大学・宮崎大学・香川大学・岡山大学・奈良女子大学・早稲田大学(政経)(教育)(国際教養)(文化構想)・上智大学・明治大学(法)・青山学院大学・中央大学(法)・法政大学・関西学院大学・南山大学・国学院大学・成城大学等の現代文で流行が続いている擬古文(明治・大正期の文章)、
慶應大学・国公立大学等の小論文、
で頻出の福沢諭吉の論考と比較して、全体的に分かりやすい名文だと感じました。
丁寧に読んでいけば、受験生にとっても、難解ではないはずです。
(丁寧に読むということは、上記の京都大学・早稲田大学・上智大学・明治大学・青山学院大学等で流行している擬古文対策のポイントでも、あります。)
本文のレベルを考慮して、設問は、例年より著しく平易になっています。
しかし、本番直後では、平均点が例年より低下したことが、マスコミやウェブ上で、話題になりました。
本文の丁寧な読解を諦めた受験生が、多かったのでしょう。
受験生の粘りや集中力のなさを、問題とするべきです。
私は、本問を難問・悪問と評価することは、できません。
また、本問の問題文本文は、論理が飛躍しているので、試験問題として不適切という批判もありました。
笑うべき批判です。
今回の本文は、エッセイ・随筆なので、論理飛躍がある程度あるのは当然です。
受験生は、著者の気持ち・感性・感想に、寄り添って読解して行けばよいのです。
つまり、本問に対する様々な批判は、小林秀雄氏のイメージに固執したムード的なものか、的外れなものです。
従って、センター試験を受験するつもりの受験生としては、この問題を、スルーしないで、しっかりと学習するべきです。
また、上記の擬古文が頻出の、京都大学・早稲田大学・上智大学・明治大学・青山学院大学等を受験する受験生は、擬古文対策として、しっかり、やっておくべきです。
(引用終了)
ーーーーーーーー
今回の記事は、これで終わりです。
次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。
ご期待ください。
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