「言葉が失墜 物語なき憲法論」國分功一郎/現代文・小論文予想問題
(1)はじめに
「言葉が失墜、『物語』なき憲法論」(國分功一郎・朝日新聞2018年3月2日)は、大学入試国語(現代文)・小論文対策としても、注目するべき論考です。
國分功一郎氏は、入試頻出著者であり、「物語」・「物語論」は入試頻出論点だからです。
私は、この論考に関して、以下のように、2つのツィートをしました。
「2018東大国語 第1問(現代文) のキーワードも『物語』になっている。東大現代文作成者と國分功一郎 氏の問題意識が見事にリンクしていて、非常に興味深い。現代の日本の政治状況における『物語の崩壊現象』=『絶望的状況』に対するアンチテーゼなのだろう。」
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「2018東大国語 第1問(現代文)『歴史を哲学する』(野家啓一)においても、『物語』がキーワードになっています。『物語』は現代日本を考える上での、新たな視点になりつつあるのでしょうか? 興味深い指摘です。」
以下に2018東大国語第1問(現代文)の一部を、当ブログの記事から引用します。
ーーーーーーー
(引用開始)
(2)2018東大国語第1問(現代文・評論)本文・解説・解答/『歴史を哲学する』野家啓一
(問題文本文)
(概要です)
(【1】・【2】・【3】・・・・は当ブログで付記した段落番号です)
(赤字は当ブログによる「強調」です)
(青字は当ブログによる「注」です)
【1】余りに単純で身も蓋もない話ですが、過去は知覚的に見ることも、聞くことも、触ることもできず、ただ想起することができるだけです。その体験的過去における「想起」に当たるものが、歴史的過去においては「物語り行為」であるのが僕の主張にほかなりません。つまり、過去は知覚できないがゆえに、その「実在」を確証するためには、想起や物語り行為をもとにした「探究」の手続き、すなわち発掘や史料批判といった作業が不可欠なのです。
(中略)
【6】「理論的存在」と言っても、ミクロ物理学と歴史学とでは分野が少々かけ離れすぎておりますので、もっと身近なところ、歴史学の隣接分野である地理学から例をとりましょう。われわれは富士山や地中海をもちろん目で見ることができますが、同じ地球上に存在するものでも、「赤道」や「日付変更線」を見ることはできません。確かに地図の上には赤い線が引いてありますが、太平洋を航行する船の上からも赤道を知覚的に捉えることは不可能です。しかし、船や飛行機で赤道や日付変更線を「通過」することは可能ですから、その意味ではそれらは確かに地球上に「実在」しています。その「通過」を、われわれは目ではなく六分儀などの「計器」によって確認します。計器による計測を支えているのは、地理学や天文学の「理論」にほかなりません。ですから赤道や日付変更線は、直接に知覚することはできませんが、地理学の理論によってその「実在」を保証された「理論的存在」と言うことができます。この「理論」を「物語り」と呼び換えるならば、われわれは歴史的出来事の存在論へと一歩足を踏み入れることになります。
【7・最終段落】具体的な例を挙げましょう。仙台から平泉へ向かう国道4号線の近くに「衣川の古戦場」があります。ご承知のように、前9年の役や後3年の役の戦場となった場所です。現在目に見えるのは草や樹木の生い茂った何もないただの野原にすぎません。しかし、この場所で行われた安倍貞任と源義家との戦いがかつて「実在」したことをわれわれは疑いません。その確信は、『陸奥話記』や『古今著聞集』などの文書史料の記述や『前9年合戦絵巻』などの絵画資料、あるいは武具や人骨の発掘物に関する調査など、すなわち「物語り」のネットワークによって支えられています。このネットワークから独立に「前9年の役」を同定することはできません。それは物語りを超越した理想的年代記作者、すなわち「神の視点」を要請することにほかならないからです。だいいち「前9年の役」という呼称そのものが、すでに一定の「物語り」のコンテクストを前提としています。つまり「前9年の役」という歴史的出来事はいわば「物語り負荷的」な存在なのであり、その存在性格は認識論的に見れば、素粒子や赤道などの「理論的存在」と異なるところはありません。言い換えれば、エ 歴史的出来事の存在は「理論内在的」あるいは「物語り内在的」なのであり、フィクションといった誤解をあらかじめ防止しておくならば、それを「物語り的存在」と呼ぶこともできます。(『歴史を哲学する』野家啓一)
(引用終了)
ーーーーーーー
前記の私のツィートの「『物語の崩壊現象』=『絶望的状況』」が、「日本の反知性主義」を意味すると想定すると、この「絶望的状況」は、2016東大国語第1問(現代文・評論)に出題された「反知性主義者たちの肖像」(内田樹『日本の反知性主義』所収)にも関連します。
また、私は、今回の「言葉が失墜、『物語』なき憲法論」に関して、以下のようなツィートをしました。
「國分功一郎氏は嘆きつつも、勇気を奮って、現代日本の反知性主義的、思考停止状態を、より良き状態へ導こうとしている。絶望しているだけでは、世界は変わらないからだ。今回の論考は『中動態の世界』のような「穏健革命的な憲法論」を書き上げるための、自分への働きかけのように見えます。 」
https://t.co/z5wvozNCAA
これは、國分氏の論考を読んだ直後に、直感的に感じたことです。
以下では、「言葉が失墜、『物語』なき憲法論」の解説をします。
なお、今回の記事は、約1万字です。記事の項目は、以下の通りです。
(2)「言葉が失墜、『物語』なき憲法論」(國分功一郎・朝日新聞2018年3月2日)の解説
(3)「大きな物語」と「小さな物語」
(4)「物語」の価値
(5)「憲法論」の現状を、どのように考えるか? 「憲法論」の目指すべき方向性?
「物語の再興」か、「立憲的改憲」か。
(6)「立憲的改憲」について
(7)國分功一郎氏の立場は?
(8)当ブログにおける「國分功一郎」関連記事の紹介
(9)当ブログにおける「憲法論」関連記事の紹介
(2)「言葉が失墜、『物語』なき憲法論」(國分功一郎・朝日新聞2018年3月2日)の解説
(本文)(概要です)
(【1】・【2】・【3】・・・・は当ブログで付記した段落番号です)
(赤字は当ブログによる「強調」です)
(青字は当ブログによる「注」です)
【1】この数年、時代の要請もあって憲法学者の本をしばしば繙(ひもと)くようになった。私の専門は哲学だから門外漢として読むわけだが、一つ気がついたことがあった。
【2】憲法というのは高度に専門的・技術的であって、素人が容易に口出しできるものではない。ところが、戦後日本の憲法学を牽引してきた学者たちの言葉は少し違っていた。彼らの言葉はどこか文学的だった。
【3】私の愛読する樋口陽一氏の文章は、口調こそ硬いけれども、門外漢を排さぬ不思議な柔軟さを備えている。思えば、最近活躍する若手憲法学者、木村草太氏の本にはエンターテインメント小説的な要素が強い。憲法学者の言葉が広く読まれてきたことは戦後日本の特徴かもしれない。
【4】どうして憲法が文学と関係を結ぶのだろうか。それはおそらく、憲法が専門的・技術的でありながらも、それを支えるために何らかの物語を必要とするからだ。
【5】戦後日本の憲法が訴えてきた価値の代表が平和主義と個人主義である。だが、9条を読んだだけでは平和主義の意味など分からない。ただ「個人」と言われてもピンとこない。
【6】身分制・家制度などの「くびき」からの解放があって初めて個人は存在する。個人はあらかじめ存在せず、解放によって生まれる。そして性差別の現存などから明らかなように、その解放はまだ十分ではない。
【7】このような物語(→「国民共通の歴史認識・現状認識」でしょうか)があって初めて人は「個人主義」の価値を理解できる。そして価値を共有しようとする人々の志によって憲法が生きる。憲法学者たちはこのことに意識的であった。それが彼らに緊張感をもたらし、その筆致は文学的なものにまで高まった。
【8】平和主義について言えば、価値を支えていたのはむしろ「あんな戦争はもうイヤだ」という感覚であったと思われる。感覚は大切であるが、それだけでは理解は生まれない。だからこそ憲法学者たちは専門的・技術的な論議だけに甘んじなかった。おそらく戦後の日本では、この感覚に匹敵する強度をもった平和主義の物語を紡ぎ出さんとする文学的な試みに、憲法学者たちが身を投じてきたのだ。
【9】いま憲法論議が盛んといわれる。だが、そうだろうか。私には論議が盛んなのではなくて、単にこれまで憲法を支えてきた物語が理解されなくなっただけに思える。というよりも、文学的な言葉によって紡ぎ出される物語そのものを人々が受容できなくなった。
【10】いまよく耳にする「世界には危険な連中がいるから軍備が必要」というタイプの「改憲論」は、価値を共有するための物語ではない。ただ感覚に訴えているだけである。いまはそれが有効に作用する。
【11】それ故であろう。「護憲論」の側ももはや物語を紡ぎ出すことに力を注ぐわけにはいかず、「9条があったから戦争に巻き込まれなかった」という安全を訴える主張を繰り返さざるをえなくなっている。「護憲論」も感覚に訴えているのだ。私はこの主張の内容は正しいと思う。だが、それは憲法の価値を共有するための物語にはなりえない。
【12】現代の日本において、文学的に紡ぎ出された物語はもはや有効に作用しなくなっている。だから、平和主義も個人主義も理解されない。これは端的に「言葉の失墜」と呼ぶべき事態であろう。言葉が失墜した時代に、憲法が掲げてきた高度な価値をどうやったら共有できるのだろうか。また、それを踏みにじろうとする勢力が現れた時、どう対応すればよいのだろうか。
【13】今の時点ではできることを懸命にやるしかない。だが、「今の時点でできること」に甘んじてはならない。そうでなければ、早晩憲法は死んでしまう。
…………………………
(今回の記事における、当ブログによる解説)
以下では、上記の論考のポイントを列記します。
【4】段落の「どうして憲法が文学と関係を結ぶのだろうか。」は、重要な問題提起です。
「憲法を支えるために何らかの物語」は、「国民の間の共通な価値観」を意味しています。
【7】段落は、全体の中心部分です。
「このような(→憲法についての)「物語」(→「国民共通の歴史認識・現状認識」、つまり、「価値を共有しようとする人々の志」)が憲法を支えるのです。
【8】段落も重要です。
「平和主義の価値」を支えていたのは、→「平和主義についての国民の理解・総意」でした。
【10】・【11】段落の「憲法の価値を共有するための物語」は、この論考のキーフレイズです。
【12】段落の「言葉の失墜」・「言葉が失墜した時代」にも、着目する必要があります。
いわば、この論考の、マイナスのキーフレイズです。
これらは、「政治家の言葉の軽さ」、「政治の言葉に対する国民の不信感」、ひいては、「国民の政治不信」を意味しているのでしょう。
【13】段落(最終段落)の「今の時点ではできることを懸命にやるしかない。」の「できること」は、少々、曖昧です。
厳しい字数制限のある新聞発表の論考という性格上、ある程度、仕方のない点と言えます。
「考えられる限りのあらゆること」という意味でしょう。
(3)「大きな物語」と「小さな物語」
「大きな物語」と「小さな物語」は、入試現代文・小論文における重要論点です。
この点について、國分氏は、2018年3月3日に以下のように2つのツィートしています。
「この記事(→今、検討中の「言葉が失墜、『物語』なき憲法論」)では「物語」の話をしていますが、その中でも触れた憲法学者の木村草太さんが、ほんの少し前に新城カズマさんとの対談本『社会をつくる「物語」の力』を出版されていました。この符合には驚きました。今の社会を考える上で「物語」がカギになるというのは僕も同感です。」
「また僕の業界では「物語」といえば「大きな物語」(モダン)と「小さな物語」(ポストモダン)を当然思い起こします。人々が文学的な言葉によって紡ぎ出される物語を受容できなくなったのは後者に対応する事態なのか。僕は違うだろうと思っていますが、この点もまだ分析不十分・考察不十分ですね。」
そこで、「『大きな物語』と『小さな物語』」について、以下で解説します。
『哲学キーワード事典』(編者・木田元)では、以下のように解説しています。
「ポストモダンを、一つの問題を表す言葉たらしめたのは、ジャン=フランソワ・リオタールである。リオタールによれば、ポストモダンとは「大きな物語」に対する不信があらわになった状況をいう。「大きな物語」とは、啓蒙の物語であり、理性と自由の漸進的な解放の物語、疎外された労働の解放の物語(マルクス主義)である。 モダンにおいてはこうした物語ないし「メタ物語」が正当化の機能を果たしていたのであるが、いまやメタ物語は維持しがたく、諸々の小さな物語が分立している状態にあるという」 (『哲学キーワード事典』)
……………………………
(今回の記事における、当ブログによる解説)
すなわち、「ポストモダン」、「リオタール」、「大きな物語」、「啓蒙の物語」、「マルクス主義」、「小さな物語」の関係を把握することが、ここでは大切です。
現代社会は、「諸々の小さな物語(→主に「自己物語」・「自己承認欲求物語」)が分立している状態」と言われています。
(4)「物語」の価値
それでは、そもそも、「物語」(→主に「大きな物語」)はなぜ、問題になるのでしょうか。
この点については、山崎正和氏の論考が、このことを本質的に解説しています。
最近、当ブログでこの山崎氏の論考を紹介したので、以下に引用します。
ーーーーーーーー
(引用開始)
【4】「ビブリオバトル」の解説ー後半部分(「未知の本に触れ・知磨く」)ー関連論点の解説
(1)「『物語』と『共同体の結束』の関係」
(山崎正和氏の論考の概要)
(①・②・③・・・・は、当ブログで付記した段落番号です)
「① ビブリオバトルは、なぜこれほど成功したのか。良い本を読むと感動を他人に語りたくなる習慣が本能のようにあったからだが、そういう本能はなぜ人間に備わっていたのだろうか。
② おそらく、根源は、共同体の中に生きる存在としての人間が、その共同体を言葉によって固めてきた、というところまで遡るだろう。
③ 言葉は情報や感想を語るとともに、物語を伝えてきた。物語は人が口頭で語り、そして語り継ぐことによって共同体を一つにまとめてきた。」
……………………………
(当ブログによる解説)
【「『物語』と『共同体の結束』」について】
〔1〕上記の山崎氏の論考は、かなり価値の高い内容になっています。
特に重要なのは、「物語は人が口頭で語り、そして語り継ぐことによって共同体を一つにまとめてきた。」の部分です。
〔2〕概要としては記述しませんでしたが、上記の論考の中で、山崎氏は 「物語」の具体例として、「噂話(うわさばなし)」・「伝承」・「昔話」・「神話」・「叙事詩」を挙げています。
「噂話」・「伝承」・「昔話」・「神話」・「叙事詩」は、人々の退屈しのぎ・レクリエーションになり、コミュニケーションの道具になると同時に、これらは「共同体」の結束に役立ったのです。
(引用終了)
ーーーーーーーー
(5)「憲法論」の現状を、どのように考えるか?
「憲法論」の目指すべき方向性?
「物語の再興」か、「立憲的改憲」か。
それでは、「憲法論」の現状を、どのように考えるべきでしょうか。
「憲法論」の目指すべき方向性は?
「憲法」を支える「物語の再興」か?
「立憲的改憲」か?
はじめに、「立憲的改憲」を主張している中島岳志氏の見解から検討してみます。
(6)「立憲的改憲」について
中島岳志氏は、2018年3月4日に國分氏の今回の論考について、5件のツィートをしています。
①「國分功一郎さんの論考は、短文ながら非常に重要な論点をいくつも含んでいる。國分さんが指摘するように、憲法をめぐる信頼と安定性は、「価値を共有するための物語」によって成り立っていた。しかし、これがいま失墜している。」
②「日本国憲法は短い。そのため不文律の合意や慣習、解釈の体系によって補完してきた。その全体を支えてきたのが、国民の間主観性(→当ブログによる「注」→「相互主観性」あるいは「共同主観性」とも言われる。二人以上の人間において同意が成り立っていること。こうして獲得される共同的な主観性において超越的世界は内在化され,その客観性が基礎づけられる、説明されている)である。これは國分さんが言う通り、文学的次元を伴う。安倍内閣は、これを意図的に崩壊させた。」
③「自衛権の範囲も明記されていない穴だらけの9条が、戦後日本社会の軍事的歯止めとして機能してきたのは、間主観性に基づく物語の力によってである。9条を変えることに国民が不安を抱くのは、単なる条文の問題を超えて、物語の喪失や改変に対する無意識の危惧があるからだろう。」
④「物語の再興か、立憲的改憲か。私はもはや前者が機能しない段階に達していると思っている。だから今できることは、長い憲法への漸進的移行である。不文律の合意を明文化していく必要があると考えている。9条に自衛権の範囲を明記した方がよいと考える。」
⑤「しかし、「いまの時点でできることに甘んじてはならない」という國分さんの指摘に、強く同意する。私はこの次元の問題を、「死者の立憲主義」や「死者のデモクラシー」という概念で捉え直したいと考えている。ここには文学の力が必要になる。」
上記の「死者の立憲主義」については、中島岳志氏の最近の著書『「リベラル保守」宣言』において、詳しく解説されています。
中島氏は「保守」にとっての「立憲主義」を、「死者の立憲主義」という言葉で表現しています。
保守は、人間は完璧ではないと把握します。だから、保守は「進歩」という立場を取りません。また、「復古」という立場も採用しません。なぜなら、過去の人間も不完全だからです。
その上で、以下のように述べています。
「保守は特定の人間によって構想された政治イデオロギーよりも、歴史の風雪に耐えた制度や良識に依拠し、理性を超えた宗教的価値を重視します。」
すなわち、保守にとって大事なのは、生まれた土地や伝統、そしてそこで培われた歴史的集合的価値観です。
従って、「保守」は、時間的変化に応じ、「歴史に潜む潜在的英知を継承するための漸進的改革」を進めようとするのです。
(7)國分功一郎氏の立場は?
國分氏の立場については、「言葉が失墜、『物語』なき憲法論」と、この記事に関連する國分氏の「ツィート」から考えてみます。
國分氏は、この記事に関連して、以下のような、4つのツィートをしています。
①「ただ僕が一番関心を持っているのは何よりも「言葉の失墜」です。これはジョルジオ・アガンベン『身体の使用』(みすず書房)における言語が歴史的ア・プリオリの座を占めなくなった、つまり我々の考え方が言語によって規定されなくなったという議論を参照しています(191-192頁)。」
②「言葉はというと、お店で使われる定型句が典型で、殆ど透明な記号になりつつある。僕らもメールを書くとき、予測変換で出てくる言葉を選んでいるだけです。それで十分コミュニケーションできてしまう。もちろんこの点はAIが人間に近づいているのではなく、人間がAIに近づいているという論点につながる。」
③「この点はフーコーの『言葉と物』の図式の次の展開と言えるものであって、フーコーは古典主義時代の透明な記号としての言語が、物質性をもった言語の存在そのものに取って代わられるという変化を論じたけれども、現在、言語は古典主義時代のそれに近づいているのではないか。」
④「その時、厚みのない、メッセージとエビデンス(→「根拠。証言。形跡」という意味)だけになった「言語」で、果たして我々は価値なるものを支える物語を作りうるのだろうか。そういう問題提起であるわけです。答えはもちろん、答えの方向性も僕には見えていないんですが。」
次に、國分氏の今回の論考のポイントを列挙すると、以下のようになります。
「【4】どうして憲法が文学と関係を結ぶのだろうか。それはおそらく、憲法が専門的・技術的でありながらも、それを支えるために何らかの物語を必要とするからだ。
【7】このような物語があって初めて人は「個人主義」の価値を理解できる。そして価値を共有しようとする人々の志によって憲法が生きる。憲法学者たちはこのことに意識的であった。それが彼らに緊張感をもたらし、その筆致は文学的なものにまで高まった。
【9】いま憲法論議が盛んといわれる。だが、そうだろうか。私には論議が盛んなのではなくて、単にこれまで憲法を支えてきた物語が理解されなくなっただけに思える。というよりも、文学的な言葉によって紡ぎ出される物語そのものを人々が受容できなくなった。
【12】現代の日本において、文学的に紡ぎ出された物語はもはや有効に作用しなくなっている。だから、平和主義も個人主義も理解されない。これは端的に「言葉の失墜」と呼ぶべき事態であろう言葉が失墜した時代に、憲法が掲げてきた高度な価値をどうやったら共有できるのだろうか。また、それを踏みにじろうとする勢力が現れた時、どう対応すればよいのだろうか。」
以上より考えると、國分氏は「大きな物語の復権」を目指しているような感じです。
内田樹氏も、以下のように、最近の哲学者たちは「大きな物語の復権」に関心を移しつつある、と述べています。(内田樹「大きな物語の復権」『内田樹の研究室』2010年09月29日 )
以下に概要を引用します。
ーーーーーーーー
(引用開始)
「FM東京からの電話取材で「マルクスブーム」についてお話する。
「今どうしてマルクスなのか?」ってさ、この定型的なタイトルなんとかなりませんか。
まあ、よろしい。
どうして、私たちは今ごろ「マルクス本」を書いたのか。
それについては『若マル』の中に縷々書いたので繰り返すの面倒だが、やはり最大の理由は「グランド・セオリーの復権」という思想史的な軌道修正である。
「グランド・セオリーの終焉」というのは、ご存じポスト・モダニズムの惹句である。
世界を概観し、歴史の流れを比較的単純なストーリーパターンでおおづかみに説明するような「大きな物語」を退けたポストモダニストたちは、きわめて複雑な知的ハイテクノロジーを駆使して、何を書いているのかぜんぜんわからない大量のテクストを書きまくった。
「何を書いているのかぜんぜんわからないテクスト」を書く人間はもちろん「わざと」そうしているのである。
それは読者に「この人は、どうしてこんなにむずかしく書くのだろうか?」という問いを発させるという遂行的な目的があるからである。
このような問いを立てた読者は高い確率で「この著者は私に理解できないことをさらさらと書けるほどに知的に卓越しているのだ」という判断を下すことになる。
この反応は人類学的には実はたいへんに正しいのである。
「なんだかわけのわからないもの」に触れたとき、「これは理解するに値しないほど無価値なものだ」とただちに断定するタイプの人間と、「これには私の理解を超える価値があるのではないか」と推量するタイプの人間ではどちらが心身のパフォーマンスを向上させる可能性が高いか、考えればわかる。
「わけのわからないもの」に遭遇したとき、「ふん」と鼻を鳴らして一瞥もくれずに立ち去るものと、これはいったい何であろうかと立ち止まってあれこれ思量するものでは、世界に対する「踏み込み」の深さが違う。
(中略)
ポストモダン知識人たちは、読んで「わかる」というのは、既知に同定され、定型に回収されることであるから、読んでも「わからない」方が書きものとしては良質なのだと考えた。
推論としては合理的である。
そして、ついに書いている本人さえ自分の書いたものを読んでも意味がわからないという地点にまで至って、唐突にポストモダンの時代は終わった。
もし、いまマルクスが再び読まれ始めているというのがほんとうだとしたら、それは「『大きな物語の終焉』という物語」が終焉したということではないかと私は思う。」(内田樹「大きな物語の復権」『内田樹の研究室』2010年09月29日)
(引用終了)
ーーーーーーーー
(今回の記事における、当ブログによる解説)
確かに、内田氏の言うように、「書いている本人さえ自分の書いたものを読んでも意味がわからないという地点」に到達して、「書いている本人」、つまり、「若き哲学者たち」は、「分かりやすい哲学」を目指しているのかもしれません。
つまり、「グランド・セオリー(→「大きな物語」)の復権」という「思想史的な軌道修正」が、今現在、始まりつつあるのかも、しれません。
この記事の最初に引用した私のツィート(→「國分功一郎氏は嘆きつつも、勇気を奮って、現代日本の反知性主義的、思考停止状態を、より良き状態へ導こうとしている。絶望しているだけでは、世界は変わらないからだ。今回の論考は『中動態の世界』のような「穏健革命的な憲法論」を書き上げるための、自分への働きかけのように見えます。」https://t.co/z5wvozNCAA)は、このような動きを感じているからこその感想でしょうか。
國分氏は、憲法について、「グランド・セオリー(→「大きな物語」)の復権」という「思想史的な軌道修正」の先導役を、担おうとしているのでしょうか。
もし、そうだとすると、このことは、国民にとっても、良いことだと思います。哲学者たちが、憲法、政治、社会、共同体について考察し、論考を発表していくことは、国民の思索の大いなる参考になることは確かだからです。
(8)当ブログにおける「國分功一郎」関連記事の紹介
(9)当ブログにおける「憲法論」関連記事の紹介
ーーーーーーーー
今回の記事は、これで終わりです。
次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。
ご期待ください。
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