現代文最新傾向LABO 斎藤隆

入試現代文の最新傾向を分析し、次年度の傾向を予測する大胆企画

予想問題・養老孟司・個性・自分さがし『ぼちぼち結論』『バカの壁』

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 養老氏は、入試現代文(国語)・小論文における著者別出題数で、ほぼ毎年、ベスト10に入っている頻出著者です。

 高校現代文(国語)や小論文の教科書にも、養老孟司氏の論考は、かなり採用されています。

 そこで、今回は、現代文(国語)・小論文対策として、養老氏の論考の中でも特に頻出で、入試現代文(国語)・小論文でも頻出論点の、「個性」の予想問題について解説します。

 

 以下の記事では、次の各項目を説明します。

 

(2)養老孟司氏の論考の特徴

(3)予想問題・『ぼちぼち結論』養老孟司・2009東京女子大出題

(4)個性個性崇拝に関する養老孟司氏の見解

     ①  「個性信仰」は西洋文化に由来する(『無思想の発見』)

     ②  「自分さがし」批判→「自分」とは「創る」ものであって、「探す」ものではない(『無思想の発見』)

           ③  「個性」とは「人を見る目」(『逆立ち日本論』)

           ④  「個性」は外部的評価によるものである(『逆立ち日本論』)

           ⑤  「オンリーワン」・「世界に一つだけの花」批判(『超バカの壁』)

           ⑥  「個性」より大切なもの(『バカの壁』)

(5)当ブログの「個性」・「個性崇拝」関連の記事の紹介

(6)養老孟司氏の紹介

(7)当ブログの、養老孟司氏の論考に関連する記事の紹介

  

 (2)養老孟司氏の論考の特徴

 養老孟司氏の論考においては、「問題提起」と「その解答」が最初に提示されることが多いのです。
 しかし、「その問題提起」と「その解答」の「関連性」が、一見わかりにくい時があります。少々、飛躍している感じがあります。
 その場合に、混乱したり、停止したりしないで、すぐに、さらに読み進めることが大事です。
 直後から、実に、わかりやすい説明が始まることが多いのが、養老孟司氏の論考の特徴です。

 

 (3)予想問題・『ぼちぼち結論』養老孟司・2009東京女子大出題

 

(【1】【2】【3】・・・・は当ブログで付記した段落番号です)

【1】若い頃にはよく注意されたものである。「ちゃんと現実を見なさい、現実を」と。その現実なるものがよくわからなかったから、現実とはどういうものか、いつも頭の隅で考えていた。大人になれば、あれこれ現実というものに触れるはずだ。そうなれば、少しは「現実がわかる」ようになるだろう、と。 

【2】ところがいつまでたっても、その「現実」なるものがわからない。とうとう自分で勝手に定義することになった。現実とは「その人の行動に影響を与えるもの」である。それ以外にない。そう思ったら、長年の重荷が下りてしまった。 

【3】だから現実は人によって違う。A 唯一客観的現実なんてものは、皮肉なことに、典型的な抽象である。だって、だれもそれを知らないからである。私が演壇の上で講演をしているとする。聴衆の目に映る私の姿は、すべて異なっている。なぜなら私を見る角度は、全員が異なっているからである。それならテレビカメラは、どの角度から私を捉えたら、「客観的」映像となるのか。二人の人が同一の視点から、同じものを見るなんてことは、それこそ「客観的に不可能」なのである。 

【4】こんなことを言うと、すぐに屁理屈だといわれる。人それぞれ、見うる角度が違うからどうだというのだ。そんなことは些細な違いに過ぎないじゃないか。そういう些細なことに囚われるのが学者というもので、だから世間の役に立たないのだ。

 

ーーーーーーーー

 

(設問)

問1 傍線部Aにおいて「唯一客観的現実」が「抽象」だという理由を30字以内で説明せよ。

……………………………

(解説・解答)

問1(傍線部・理由説明問題)

 「唯一客観的現実」が「客観的にみて存在不可能」、その根拠として「各人の見る角度は違う」の2点を指摘するようにしてください。

(解答)

各人の見る角度は違うので唯一客観的事実は存在不可能だから。(29字)

 

ーーーーーーーー

 

(問題文本文)
【5】それは果たして些細なことなのだろうか。それを些細なこととみなすことで、近代社会は「進歩発展」してきた。だから特定のカメラマンが特定の角度から、特定の時点で撮影した映像を、客観的映像などと強弁するのである。

【6】一人一人の世界が感覚的に異なるからこそ、個人や個性の意味が生じる。 

【7】〔  ①  〕、個人なんかいらない。それを「些細な違い」と暗黙に決め付けるから、若者が人生の意味を見つけられないのである。これといってさしたる才能もない自分が生きる意味なんて、どこにあるというのか。世界中を見渡せば、自分の人生なんて六十億分の一に過ぎない。過去に生きた人まで含めたら、いったいどこまで些細になるだろうか。 

【8】B そう思うから、今度は個性、個性と逆にいう。それを強調するほうの錯覚とは、個性が「自分のなかにある」という思い込みである。 C  そもそも違いとは他人が感覚で捉えるもので、自分のなかにあるものではない。「お前は変なヤツだなあ」といわれて、「エッ、どこが」と怪訝な顔をしているのが個性であり、「私の個性はこれです」などと主張するものではない。近頃は入学や入社のときに、そんなことを書かせることもあるらしいが、話がそれではひっくり返っている。そんな会社や学校はどうせロクなところではなかろう。相手の個性を発見する目が貴重なのであって、個性自体が貴重なのではない。状況によって、社会が必要とする個性は違ってくるからである。 

【9】〔 ② 〕「自分で意識している個性」なんてものがあったら、ぎこちない人生になるであろう。俺の個性はこうだから、こうしなくっちゃ。そんなことを思いかねない。冗談じゃない、素直にしていて、そこにおのずから人と違うところがある、それを個性というのである。 

【10】素直に自分の気持ちに従わず、「こうしなくては」と思うのが世間では普通で、それは社会的役割というものがあるからである。天皇陛下はこうしなくてはならないということがたくさんあるはずで、それは社会的役割である。それを勝手に変えられたら周囲が困る。〔    ③    〕「こうしなくては」と本人も思うので、それはホンネとは違って当然である。 

【11】いまの大人は、D 社会的役割を個性つまり自分と混同していないか。社長は個性でも本人でもなく、社会的役割である。定年になればそれがわかるであろうが、現代の問題は、たとえ年配者でも「定年になるまで、それがわからない」ところにあると私は思っている。私は会社のソトの人間だから、社長も平も区別がつかない。そんなものは、私にとっては〔 ④ 〕に過ぎない。それを「〔 ⑤ 〕」だと思っているのは、そう思っているだけのことである。 」

(養老孟司『ぼちぼち結論』)

 

ーーーーーーーー

 

(設問)

問2  傍線部Bにおいて「逆に」とあるが、「何」と「何」が「逆」というのか。それぞれ10字以内で空欄を補う形で答えよ。

〔     〕と〔     〕

 

問3  傍線部Cと同趣旨の文をこの後の文中から40字以内で抜き出して、初めの5文字と終わりの5文字を記せ。

 

問4  空欄①・②・③に入る最適な言葉を次の中から、それぞれ一つずつ選べ。

ア そもそも  イ それなら  ウ それでなきゃあ

エ だから  オ だが

 

問5  空欄④・⑤に入る最適な言葉を次の中から、それぞれ一つずつ選べ。

ア 現実  イ 理想  ウ 絶対  エ 具象  オ 抽象

 

問6  傍線部Dに指摘されるような「社会的役割と個性」の混同にあたる例を次の中から一つ選べ。

ア  共演した俳優同士が恋愛関係になる。

イ  運動部の監督は選手の私生活にまで目を配るべきだ。

ウ  猛烈上司が部下にも猛烈に働くことを求める。

エ  学校では規律にやかましい先生が家ではだらしない。

オ  お笑い芸人はふだんから陽気でなければならない。

 

問7  本文の趣旨に合致するものを次の中から二つ選べ。

ア  学者は些細なことにこだわるあまり、現実というものが理解できない。

イ  個性などというものは些細な違いにすぎないのだから、そんなものにとらわれてはならない。

ウ  現代社会では個性的であることが不可欠であり、だからこそ些細な違いもおろそかにしてはならない。

エ  ひとりひとりの個人にはそれぞれの個性があり、その個性の違いに応じてそれぞれの現実がある。

オ  社会的役割こそが現実ということなのであり、それを無視して個性にこだわっても仕方がない。

カ  現代人が個性と思っているものの多くは思い違いにすぎない。

 

 ……………………………

(解説・解答)

問2(空欄補充問題・記述問題)

 「そう思う」ことと、「個性、個性という」ことが「逆」という文脈を把握することが、ポイントになります。 

(解答)

些細な違いしかない(9字)  

個性、個性という(8字)

 

問3(傍線部と同趣旨の文を抜き出す問題)

《 今度は個性、個性と逆にいう。それを強調するほうの錯覚とは、個性が「自分のなかにある」という思い込みである。 C  そもそも違いとは他人が感覚で捉えるもので、自分のなかにあるものではない。「お前は変なヤツだなあ」といわれて、「エッ、どこが」と怪訝な顔をしているのが個性であり、「私の個性はこれです」などと主張するものではない。》という文脈を理解してください。

 傍線部Cは、「個性の内容は他者評価により決定される」という内容になっています。

(解答)  相手の個性・のではない

 

問4(空欄補充問題)

 要約しようとしないで、本文を熟読・精読してください

 養老氏の表現の癖を意識して、文脈を押さえることもポイントになります。

(解答)  =ウ  =ア  =エ

 

問5(空欄補充問題)

「いまの大人は、D 社会的役割を個性つまり自分と混同していないか。社長は個性でも本人でもなく、社会的役割である。定年になればそれがわかるであろうが、現代の問題は、たとえ年配者でも「定年になるまで、それがわからない」ところにあると私は思っている。私は会社のソトの人間だから、社長も平も区別がつかない。そんなものは、私にとっては〔 ④ 〕に過ぎない。それを「〔 ⑤ 〕」だと思っているのは、そう思っているだけのことである。 」の中の、

「私は会社のソトの人間だから、社長も平も区別がつかない。そんなものは、私にとっては〔 ④ 〕に過ぎない。」

のクールな、冷淡な表現に注目してください。

 その上で、【3】段落における「現実」・「抽象」が全体のキーワードになっていることを、把握することが必要になります。

(解答)  =オ  =ア

  

問6(傍線部の具体例を選択する問題)

  「いまの大人」が、特に「サラリーマン社会に生きる大人(つまり、現代日本社会のほとんどの大人)」が、「社会的役割と個性を混同」している具体例を選択するとよいでしょう。 

(解答)  

 

問7(趣旨合致問題)

ア  本文に、このような記述はありません。

イ  本文に、このような記述はありません。

ウ  「不可欠」の部分が、言い過ぎになっています

エ  本文の趣旨に合致しています。

オ  この選択肢は問5に関連しています。筆者は「社会的役割」を「抽象」と評価しています。従って、この選択肢は誤りです。

カ  最後の2つの段落の内容に合致しています。

(解答)  エ・カ

 

 (4)「個性」・「個性崇拝」に関する養老孟司氏の見解

 

 以下では、「個性」・「個性崇拝」に関する養老孟司氏の見解を紹介・解説します。

 どれも入試頻出事項なので、よく読むようにしてください。

 

①  「個性信仰」は西洋文化に由来する(『無思想の発見』)

②  「自分さがし」批判→「自分」とは「創る」ものであって、「探す」ものではない(『無思想の発見』)

 

(概要です)

(赤字は当ブログによる強調です)

(→以下、同じです)

「日本語では、自分を表現する言葉が多く、さらに通常の一人称が場合によっては二人称に用いられることがある。日本語では一人称と二人称がしばしば行き来する。こんな言語はほかにあるか。

 日本人は実体、あるいは本心への深い確信がある。それだから言葉などはどうでもいいのである。

 俺もお前も一緒くたの世界に、ある日突然、実存的主体としての自己が侵入してきた。これを近代的自我という。日本語では、「私」は自分個人と、「公私の別」の私の両方の意味を含むので混乱がおきる。日本では過去においては、公私の私は self ではなく「家」であった。その証拠に、欧米と違って日本では相当小さな家にでもちゃんと塀があるではないか。家のそとに出れば公の世界であるが、家の中は private の世界なのである。新しい憲法は「家」を否定した。だから核家族ができた。核家族は自然にできたのではなく、憲法が作った。一方、西洋では個人が集まって家族を作る。日本と西洋では同じ家族でもベクトルが正反対なのである。憲法の一番の問題は第九条ではない。家にかんする部分である。

 自分は身体を実存だと思う。それは30年解剖をやったためであろう。数学者は数学の世界を現実と思い、ある人はお金を、ある人は社会的地位を現実だと思う。それは脳の癖である。それぞれの脳がどういう現実に長く浸かってきたかである。

 さて、そうであるならば、どのような人も自分という意識のもとで生まれてからずっと生きてきているわけである。意識というものが現実であり、実在であると思うのは当然である。

 西洋社会はキリスト教社会であり、そこでは霊魂不滅なのであるから、「変わらない私」・「自己同一性」が当然の前提とされる。西欧の「近代的自我」とは「不滅の霊魂」

の近代的な言い換えである。

 意識とは「同じ」ということである。自分が連続しているという感覚である。意識とは機能であって、実体ではない。であるとすれば、自我もまた機能であって、実体ではない。日本が封建的とかいろいろいって今までの世界を壊してきたために、何が失われたか?「自分という実体」に対する確信が失われたのである。

 だから「自分探し」が始まる。それは「感覚世界」の不在つまり経験の不足とペアである。自分とは「創る」ものであって、「探す」ものではない。大切なことは具体的な世界を身をもって知ることである。

 自分を創る作業の典型は「修行」である。叡山を走り回ったら、自分ができるのか。そんなことは知らない。しかし、伝統的にそうするのだから、できるのであろう。少なくとも、ふつうのお坊さんではなくなるはずである。それだけのことだが、人生とは「それだけのこと」に満ちている。私は三十年、解剖をやった。それだけのことである。そのあと十年、本を書いた。それだけのことである。」 (『無思想の発見』)

 

ーーーーーーーー

(当ブログによる解説)

 養老氏の見解は、歴史的・宗教的背景を踏まえており、とても説得力があります。

 このように緻密に歴史的・宗教的背景への配慮がなされているので、養老孟司氏の論考は入試頻出なのです。

 論の構成は一般常識(マスコミレベル)には沿ってはいません。

 が、入試の世界、つまり、論壇(インテリレベル)においては、日本人論・日本社会論として極めて正統的です。

 マスコミレベルにおいては、一般大衆に迎合して、あるいは、一般大衆を幼児化しようとして、または、マスコミ自身の無知ゆえなのか、欧米にもない歪んだ形の「個性崇拝」・「個性礼賛」が氾濫しています。

 そこで、養老氏は、そもそも「個性とは何か」と、「個性の本質」を考察しているのです。

 

  

③  「個性」とは「人を見る目」

④  「個性」は外部的評価によるものである

 

  『逆立ち日本論』(養老孟司・内田樹・新潮選書 )も、参考になる一冊です。

 この中で、現代日本社会における、「個性」の「奇妙な」取り扱いについて、養老孟司氏と内田樹氏が、注目するべき対談をしています。


《「個性」とは「人を見る目」》

「養老:「個性」というものは、その人に内在するものということになっていますけど、それは間違いですよ。古くから日本の世界ではそんなことを言っていません。それは「人を見る目」なんです。

 

内田:「人を見る目」が個性とは・・・・。どういうことですか?

 

養老:だって、自分の個性なんて主張したって意味がないのです。戦後、「個性」が主張され始めて何が起こったかというと、上役がサボり、教師がサボるようになりました。なぜなら上役や教師というのは、人を見る目がなくちゃできないことだったのです。それで「お前はあっち、お前はこっち」って示してやるのが本来の役目だったのです。それを「個性」という内在型にしたら自己責任だけになっちゃいました。

 入学願書に「自分の個性」とか書かせるでしょう?

 本来、「個性」というのは他人の目にどう映るかということのはずでしょう。個性なんて違って当たり前だからこそ、「お前はこういうふうに」「お前にはこれは向かない」と違いを見る目が大事なのに、それが「個性」ですべて崩れてしまった。人がどう見ようが「個性」はあるものだということになってしまいました。

  「見る目」がないと「個性」なんてないも同じです。

  他人のことがわからなくて、どうやって生きられるでしょう。

 社会は共通性の上に成り立つものです。「個性を持て」というよりも「他人の気持ちをわかるようになれ」というほうがよいはずです。

 

内田:自己評価とか自己点検というのは外部評価との「ズレ」を発見するための装置だと思うんですよ。ほとんどの人は自己評価が外部評価よりも高い。「世間のやつらはオレの真価を知らない」と思うのは向上心を動機づけるから、自己評価と外部評価がそういうふうにずれていること自体は、ぜんぜん構わないんです。でも、その「ずれ」をどうやって補正して、二つを近づけるかという具体的な問題にリンクしなければ何の意味もない。自己評価が唯一の尺度で、外部評価には耳を傾けないというのはただのバカですよ。」(『逆立ち日本論』)

 

ーーーーーーーー

(当ブログによる解説)

 この項目は、上記の予想問題の内容に関連しています。

特に、

「  本来、「個性」というのは他人の目にどう映るかということのはずでしょう。個性なんて違って当たり前だからこそ、「お前はこういうふうに」「お前にはこれは向かない」と違いを見る目が大事なのに、それが「個性」ですべて崩れてしまった。人がどう見ようが「個性」はあるものだということになってしまいました。

 「見る目」がないと「個性」なんてないも同じです。

の部分は熟読しておくべきです。

 

 

⑤  「オンリーワン」・「世界に一つだけの花」批判

 

  『超バカの壁』の中で、養老氏は、「ナンバーワンより、オンリーワン、世界に一つだけの花」に対して以下のような鋭い批判を展開していて、注目する必要があります。

 

ナンバーワンより、オンリーワン、世界に一つだけの花だ、というような言い方が支持を得ているのは戦後教育の賜物でしょうか。

 しかし、若い人には、この逆を言ってあげないと救われないと思います。あなたはただの人だというべきです。

 ナンバーワンよりオンリーワンというような表現は、その部分だけとりあげれば間違いはありません。人間はみんなそれぞれに個性を持っている独特の人なのだということは、その通りです。しかし、どうも好きになれないのです。

 そもそも「個性」というのはあるに決まっている。そこに自信があればいちいち口に出すこともない。わざわざオンリーワンだ何だと声高にいうというのは、その確信が弱いからこそだと思えるのです。他人に認めて欲しい。だからわざわざ主張をするのです。

 本当に唯一の自分の価値があることがわかっていれば、別に人に認められていなくてもいい。場合によっては引きこもっていても構わないわけです。

 ささいなことで、『それは自分らしくない』『それをやると自分ではない』というような人は逆に自分についての確信がないのです。どうもオンリーワンを主張している人は、実はこういう側の人のような気がするのです。

 そういう人は外側に何か勝手に自分で壁を作っているのです。
 それが自分だとか無理やり主張しているわけですから疲れる。それは長い間もたない。

 もっと自由でもいいのではないか。そう思うのですが、なぜか人は仕切りたがるのです。」(『超バカの壁』)

 

 

⑥  「個性」より大切なもの

 

 養老氏は『バカの壁』の中で、「『個性』より大切なもの」について、見解を展開しています。

 この論考は、かなり重要です。

 入試現代文(国語)・小論文でも、最頻出の論点です。

 以下に引用します。

 

「  本来意識というのは共通性を徹底的に追求するものなのです。その共通性を徹底的に確保するために、言語の論理と文化、伝統がある。人間の脳の特に意識的な部分というのは、個人間の差異を無視して、同じようにしよう、同じようにしようとする性質を持っている。

 一方、このところとみに、”個性”とか”自己”とか”独創性”とかを重宝する物言いが増えてきた。文部科学省も、ことあるごとに”個性”的な教育とか、”子供の個性を尊重する”とか、”独創性豊かな子供を作る”とか言っています。

 しかし、”共通了解”を追求することが文明の自然な流れだとすれば、個性強調は、おかしな話です。明らかに矛盾していると言ってよい。

 多くの人にとって共通の了解事項を広げていく。これによって文明が発展してきたはずなのに、ところがもう片方では急に”個性”が大切だとか何とか言ってくるのは話がおかしい。

 個性が大事だといいながら、実際には、よその人の顔色を窺ってばかり、というのが今の日本人のやっていることでしょう。だとすれば、そういう現状をまず認めるところから始めるべきでしょう。個性も独創性もクソも無い。

 いまの若い人を見ていて、つくづく可哀想だなと思うのは、がんじがらめの”共通了解”を求められつつも、意味不明の”個性”を求められるという矛盾した境遇にあるというところです。

 では、脳が徹底して共通性を追求していくものだとしたら、本来の”個性”というのはどこにあるか。それは、初めから私にも皆さんにもあるものなのです。なぜなら、私の皮膚を切り取ってあなたに植えたって絶対にくっつきません。・・・皮膚ひとつとってもこんな具合です。すなわち、”個性”何ていうのは初めから与えられているものであって、それ以上のものでもなければ、それ以下のものでもない。

 若い人への教育現場において、おまえの個性を伸ばせなんて馬鹿なことは言わない方がいい。

 それよりも親の気持ちが分かるか、友達の気持ちが分かるか、ホームレスの気持ちが分かるかというふうに話を持っていくほうが、余程まともな教育じゃないか。そこが今の教育は逆立ちしていると思っています」(『バカの壁』)

 

ーーーーーーーー

(当ブログによる解説)

 もっともな見解です。

 入試における頻出している正統的な意見と言えます。

 この論考は、熟読しておくべきでしょう。

 入試国語(現代文)・小論文だけではなく、これからの人生にも役立つはずです。

 

 人間は「関係性」の中で生きているのです。

 養老氏はこの点を丁寧に説明しているので、さらに、『バカの壁』から引用しておきます。

 

「  こういう状態、ー共生といってもいいし、一心同体とか運命共同体といっても構いませんーが、自然の本来の姿である。そう考えると、個性を持って、確固とした「自分」を確立して、独立して生きる、などといった考え方が、実はまったく現実味のないものだと考えられるのではないでしょうか。生物の本質から離れているのは明らかです。」(『バカの壁』)

 

  この論考は、「『個性を持って生きる』は反自然的である」と主張しているのです。

 この点は、

最近流行の「『関係性』の再評価・見直し」・「共同性」の論点

に密接に関連しています。

 そこで、以下に、

当ブログにおける「関係性」・「共同性」関連の記事

を紹介します。

 ぜひ、ご覧ください。

 

gensairyu.hatenablog.com

 

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 (5)当ブログの「個性」・「個性崇拝」関連の記事の紹介

 

gensairyu.hatenablog.com

  

gensairyu.hatenablog.com

 

gensairyu.hatenablog.com

  

gensairyu.hatenablog.com

 

 

 (6)養老孟司氏の紹介 

【1】養老孟司氏の紹介

 1937年、鎌倉市生まれ。東京大学医学部卒業後、解剖学教室に入る。1995年、東京大学医学部教授を退官し、同大学名誉教授に。1989年、『からだの見方』でサントリー学芸賞を受賞。1985年以来一般書を執筆し始め、『形を読む』『解剖学教室へようこそ』『日本人の身体観』などで人体をわかりやすく解説し、『唯脳論』『人間科学』『バカの壁』『養老訓』といった多数の著作では、「身体の喪失」から来る社会の変化について思索を続けている。

 

 【2】養老孟司氏の著書の紹介

『ヒトの見方-形態学の目から』(ちくま文庫)、

『からだの見方』(ちくま文庫)、

『唯脳論』 (ちくま学芸文庫)、

『涼しい脳味噌』(文春文庫)、

『カミとヒトの解剖学』(法藏館)、

『解剖学教室へようこそ』(ちくまプリマーブックス)、

『続・涼しい脳味噌』(文春文庫)、

『バカの壁』(新潮新書)、

『まともな人』(中公新書)、

『いちばん大事なこと― 養老教授の環境論』(集英社新書)、

『死の壁』(新潮新書)、

『無思想の発見』(ちくま新書)、

『超バカの壁』(新潮新書)、

『「自分」の壁』(新潮新書)、

『文系の壁 理系の対話で人間社会をとらえ直す』(PHP新書)、

などが、あります。

 いずれも、入試頻出出典です。

 

(7)当ブログの、養老孟司氏の論考に関連する記事の紹介 

 

gensairyu.hatenablog.com

  

gensairyu.hatenablog.com

  

 ーーーーーーーー

 

 今回の記事は、これで終わりです。

 次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

 ご期待ください。

 

  

  

gensairyu.hatenablog.com

 

gensairyu.hatenablog.com

 

gensairyu.hatenablog.com

 

gensairyu.hatenablog.com

 

ぼちぼち結論 (中公新書)

ぼちぼち結論 (中公新書)

 

  

バカの壁 (新潮新書)

バカの壁 (新潮新書)

 

 

超バカの壁 (新潮新書 (149))

超バカの壁 (新潮新書 (149))

 

 

5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

 

 

頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

 

 

 私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。

https://twitter.com/gensairyu 

https://twitter.com/gensairyu2

 

予想問題『悲鳴をあげる身体』鷲田清一・存在の世話・存在の肯定

 (1)なぜ、この論考に注目したのか?

 鷲田清一氏は、ほとんどの難関大学の入試現代文(国語)・小論文で一度は出題されている、トップレベルの頻出著者です。

 
 最近では、センター試験、東京大学、東北大学、早稲田大学、慶應大学、上智大学等で、出題されています。

 鷲田氏の入試頻出著書としては、

『モードの迷宮』(ちくま学芸文庫)、

『じぶん・この不思議な存在』(講談社現代新書)、

『悲鳴をあげる身体』(PHP 新書)、

『「聴く」ことの力ー臨床哲学試論』(ちくま学芸文庫)、

『わかりやすいはわかりにくい? 臨床哲学講座』(ちくま新書)、

『しんがりの思想』(角川新書)

等があります。

 

 最近の難関大学では、

『わかりやすいはわかりにくい? 臨床哲学講座』(ちくま新書)

『「聴く」ことの力ー臨床哲学講座』(ちくま学芸文庫)、

からの出題が目立ちます。

 その中で、『悲鳴をあげる身体』は、長期的に頻出出典になっています。

 その内容が難関大学国語(現代文)・小論文の問題としてふさわしいので、入試国語(現代文)・小論文対策として、このブログで紹介、解説します。

 

  

悲鳴をあげる身体 (PHP新書)

 

 (2)予想問題ー『悲鳴をあげる身体』鷲田清一

 

(問題文本文)

(【1】【2】【3】・・・・は当ブログで付記した段落番号です)

【1】いのちを潰さないことには、わたしたちが生きていけないということ、このことをしっかり思いださせてくれる行事がある。NHKテレビの「ひるどき日本列島」という番組で紹介していた埼玉県のある村の祭りはその一つだ。

 

【2】つつじが満開になる季節に、赤や白のその花を毟(むし)りとって、籠いっぱいにためる。それを子どもたちが手にもち、大空を仰いで空中に花をふりまく。あるいは、たがいにかけあって戯れる。ほんとうの花吹雪である。地面が花びらの絨毯と化す。その〔   ①   〕なこと。

 

 【3】せっかく花を引きちぎること、それをあたり一面にぶちまけること。せっかく育てたもののいのちを奪うこと、それを、ふだんは掃いて清めている道に棄てること。フランスのある思想家の言葉をもじって言えば、世界が無秩序に変えられるためにある秩序のように見えてくる。

 

 【4】いずれ食べるために飼育すること、いずれ摘むために栽培すること。これは農牧業というかたちでひとびとがいとなんできたことだ。せっかくていねいに作りあげたものを壊すというわたしたちの日々のいとなみの構造だけを純粋に析出したのが、この祭りだ。

 

【5】いのちの深いやりとり、深い交感。その単純な事実を子どもたちに身をもって味わわせる祭り。あるいは、世界がこのようでもありうるということを世界は現にあるのとは別のありかた、反対のありかたもしうるということを確認する作業であると言ってもよい。つまり〔   A   〕と思われたものを〔   B   〕に変える作業・・・・。世界をひっくり返すこの愉悦は、子どもを〔   ②   〕のなかに浸す。

 

【6】 

〔  X  

 

【7】この覆いは残酷さを隠すためのものだろうが、ほんとうは、〔  甲        〕   という、もっと大事なものを隠してしまっているとは言えないか。

 

 【8】家庭と学校という場所は、〔    甲     〕ということ大事なものを深く体験するためにあるはずだった。家庭や学校で体験されるべきとても大事なこと、それについてもう少し考えてみよう。

 

ーーーーーーーー

 

(設問)

問1 空欄①・②に入る言葉を次の中から、それぞれ一つずつ選べ。

① ア 豪奢  イ 高慢  ウ 傲慢

     エ 尊大  オ 横柄

② ア 日々  イ 純粋  ウ 秩序 

     エ 陶酔  オ 不快  

 

問2 空欄A・Bに入る語句の組み合わせとして最適なものを、次の中から一つ選べ。

ア  A 無秩序  B 秩序

イ  A 人工  B 自然

ウ  A 感性  B 論理

エ  A 肯定  B 否定

オ  A 必然  B 偶然 

 

問3 空欄X( 第6段落 )には、次のア~キの七つの文章が入る。正しい順序に並び替えよ。 

ア   ひとつのいのちが別のいのちの火に変わる。

イ   それどころか、じぶんたちの誕生や死も、病院というひとの眼に触れない場所で処置するようになった。

ウ   が、宇宙的と言っていいこの単純な事実を、わたしたちはふだんひとの眼に触れないようにばかりしている。

エ   わたしたちは日々、獣を殺し、魚を釣り、葉をむしって食べている。

オ   肉や魚を切り身にし、透明ラップをかけて売ったりして。

カ   新生児も遺体もきれいにされ、衣にくるまれてから対面するようになった。

キ   そしてそれをほんとうにおいしくいただく。

 

問4 空欄甲に入るのに最適な、平仮名のみの八字の表現を、本文中の表現のみを使用して記せ。

 

……………………………

 

( 解説・解答 )

 

問1(空欄補充問題)

 空欄補充問題は、本文を精読・熟読することが必要不可欠です。 

 要約を書いて考えるようなことは、するべきではありません。

 「空欄補充問題に対応する際の要約の有害性」については、下の記事に詳しく説明しましたので、ぜひ、ご覧ください。

  

gensairyu.hatenablog.com

 

 空欄補充問題対策としては、以下の記事に丁寧な説明があります。

 ぜひ、参照してください。

  

gensairyu.hatenablog.com

 

(解答)  ①=ア   ②=エ 

 

 2(空欄補充問題)

 空欄Xの直前の「つまり」に注目してください。

   「世界が現にある」がに関連しています。

   「世界は現にあるのとは別のありかた、反対のありかたもしうるということ」が

に関連しています。

 

(解答) オ

 

 問3(文章並べ替え問題)

 文章並べ替え問題についても、その解法を以前に記事化しましたので、ぜひ、ご覧ください。

 

gensairyu.hatenablog.com

 

 まず第一に、イの「それどころか」、ウの冒頭の「が」・「この単純な事実」、カの「新生児も遺体も」、キの「それ」に着目することが必要です。

 そして、各文の内容を把握すると、

 

エ  わたしたちは日々、獣を殺し、魚を釣り、葉をむしって食べている。

キ  そしてそれをほんとうにおいしくいただく。

ア  ひとつのいのちが別のいのちの火に変わる。

 

のセットが確定します。

次に、残りの文については、

 

  が、宇宙的と言っていいこの単純な事実を、わたしたちはふだんひとの眼に触れないようにばかりしている。④

オ  肉や魚を切り身にし、透明ラップをかけて売ったりして。⑤

イ  それどころか、じぶんたちの誕生や死も、病院というひとの眼に触れない場所で処置するようになった。⑥

カ  新生児も遺体もきれいにされ、衣にくるまれてから対面するようになった。⑦

 

のセットが確定します。

 

  【7】段落の「この覆いは残酷さを隠すためのもの」から、「ウ→オ→イ→カ」のセットが後半になります。

 従って、「エ→キ→ア→ウ→オ→イ→カ」正解になります。

 

  【7】段落は、以下のような文章になります。

 

「わたしたちは日々、獣を殺し、魚を釣り、葉をむしって食べている。そしてそれをほんとうにおいしくいただく。ひとつのいのちが別のいのちの火に変わる。が、宇宙的と言っていいこの単純な事実を、わたしたちはふだんひとの眼に触れないようにばかりしている。肉や魚を切り身にし、透明ラップをかけて売ったりして。それどころか、じぶんたちの誕生や死も、病院というひとの眼に触れない場所で処置するようになった。新生児も遺体もきれいにされ、衣にくるまれてから対面するようになった。」

 

(解答)エ→キ→ア→ウ→オ→イ→カ 

 

 問4(空欄補充・記述問題)

 以下の文章を赤字部分に留意して、熟読・精読してください。

 

【5】いのちの深いやりとり、深い交感。その単純な事実を子どもたちに身をもって味わわせる祭り。あるいは、世界がこのようでもありうるということを世界は現にあるのとは別のありかた、反対のありかたもしうるということを確認する作業であると言ってもよい。つまり〔A=必然〕と思われたものを〔B=偶然〕に変える作業・・・・。世界をひっくり返すこの愉悦は、子どもを〔 ②=陶酔〕のなかに浸す。

【6】 〔  X  =わたしたちは日々、獣を殺し、魚を釣り、葉をむしって食べている。そしてそれをほんとうにおいしくいただく。ひとつのいのちが別のいのちの火に変わる。が、宇宙的と言っていいこの単純な事実を、わたしたちはふだんひとの眼に触れないようにばかりしている。肉や魚を切り身にし、透明ラップをかけて売ったりして。それどころか、じぶんたちの誕生や死も、病院というひとの眼に触れない場所で処置するようになった。新生児も遺体もきれいにされ、衣にくるまれてから対面するようになった。〕

【7】この覆いは残酷さを隠すためのものだろうが、ほんとうは、〔  甲        〕   という、もっと大事なものを隠してしまっているとは言えないか。

【8】家庭と学校という場所は、〔    甲    〕ということ大事なものを深く体験するためにあるはずだった。

 

 (解答) いのちのやりとり

 

ーーーーーーーー

 

(問題文本文)

 【9】 学校について友人と話したとき、彼がおもしろい問いをぶつけてきた。幼稚園じゃお歌とお遊戯ばかりだったのに、どうして学校に上がるとお歌とお遊戯が授業から外されるんだろうというのだ。


【10】 小学校に入ると音楽の時間に楽譜の読みかた、笛の吹きかた、合唱のしかたは習った。体育の特別授業として一学期に一、二回、フォークダンスの練習もした。が、どちらの時間も生徒だった頃のわたしはてれにてれた、あるいはふてくされた。なにか恥ずかしかったからである、おもしろくなかったからである。ひとといっしょに歌うのは楽しいはずである。踊るのも楽しいはずである。ついこのあいだも見物してきたのだが、知人がやっている阿波踊りの連の練習会を見ているだけでもそれは分かる。みんな同じように踊りながら、みんなどことなく違う。勝手に踊っている。音楽や体育の時間は、音と動作をきっちり揃えることが要求される。それがつまらない理由だ。もともとみんなで同じような動作をすることは楽しいのだが、同じ動作をするのはいやなのだ。ファッションだってそう。みんなよく似た服装をしているが(していないと不安だが)、同じ服装は絶対にいやなのだ。


【11】 幼稚園では、いっしょに歌い、いっしょにお遊戯をするだけでなく、いっしょにおやつやお弁当も食べる。他人の身体に起こっていることを生き生きと感じる練習だ。そういう作業がなぜ学校では軽視されるのか、不思議なかんじがする。ここで他者への想像力は、幸福の感情と深くむすびついている。

 

【12】生きる理由がどうしても見当たらなくなったときに、じぶんが生きるにあたいする者であることをじぶんに納得させるのは、思いのほかむずかしい。そのとき、死への恐れは働いても、生きるべきだという倫理は働かない。生きるということが楽しいものであることの経験、そういう人生への肯定が底にないと、死なないでいることをじぶんでは肯定できないものだ。お歌とお遊戯はその楽しさを体験するためにあったはずだ。永井均は最近の著作のなかでこう書いている。『子供の教育において第一になすべきことは、道徳を教えることではなく、人生が楽しいということを、つまり自己の生が根源において肯定されるべきものであることを、体におぼえこませてやることである』と(『これがニーチェだ』)。あるいは、幼児期に不幸な体験があったとして、それに代わるものを、それに耐えられるだけの力を、学校はあたえうるのでなければその存在理由はない。だれかの子として認められなかった子どもに、その子を『だれか』として全的に肯定することで、〔  乙  〕をあたえうるのでなければ、その存在の意味がない。


【13】近代社会では、ひとは他人との関係の結び方を、まず家庭と学校という二つの場所で学ぶ。養育・教育というのは共同生活のルールを教えることではある。が、ほんとうに重要なのは、ルールそのものではなくて、むしろルールがなりたつための前提がなんであるかを理解させることであろう。社会において規則がなりたつのは、相手も同じ規則に従うだろうという相互の期待や信頼がなりたっているときだけである。他人へのそういう根源的な〈信頼〉がどこかで成立していないと、社会は観念だけの不安定なものになる。


【14】幼稚園でのお歌とお遊戯、学校での給食。みなでいっしょに身体を使い、動かすことで、他人の身体に起こっていること(つまり、直接に知覚できないこと)を生き生きと感じる練習を、わたしたちはくりかえしてきた。身体に想像力を備わせることで、他人を思いやる気持ちを、つまりは共存の条件となるものを、育んできたのである。

 

【15】さて家庭では、ひとは、<信頼>のさらにその基礎となるものを学ぶ。というより、からだで深く憶える。<親密さ>という感情である。

 

【16】家庭という場所、そこで人はいわば〔 丙 〕で他人の世話を享(う)ける。言う事を聞いたからとか、おりこうさんにしたらとかいった理由や条件なしに、自分がただここにいるという、ただそういう理由だけで世話をしてもらった経験がたいていのひとにはある。こぼしたミルクを拭ってもらい、顎や脇の下、指や脚の間を丹念に洗ってもらった経験・・・・。そういう ③ 「存在の世話」 を、いかなる条件や留保もつけずにしてもらった経験が、将来自分がどれほど他人を憎むことになろうとも、最後のぎりぎりのところでひとへの<信頼>を失わないでいさせてくれる。そういう人生への〔    丁 〕感情がなければ、ひとは苦しみが堆積するなかで、最終的に、死なないでいる理由をもちえないだろうと思われる。

【17】

〔  Y  

 

【18】逆にこういう経験があれば、他人もまた自分と同じ「一」として存在すべきものとして尊敬できる。かわいがられる経験。まさぐられ、遊ばれ、いたわられる経験。人間の尊厳とは、最終的にそういう経験を幼い時に持てたかどうかにかかっている。人間の尊厳とは最終的にそういう経験を幼いときにもてたかどうかにかかっているとは言えないだろうか。

 

ーーーーーーーー

 

(設問)

 

問5 空欄乙に入る五字以内の語句を本文から抜き出して記せ。

 

問6 空欄丙に入る四字以内の語句を本文から抜き出して記せ。

 

問7 傍線部③「存在の世話」とあるが、ここでは、「存在」とは、どういう意味か。最適なものを一つ選べ。

ア  宇宙的とも言っていい単純な事実

イ  じぶんが、ただここにいるということ

ウ  じぶんたちの誕生や死

エ  死なないでいること

オ  幼児期の不幸な体験

 

問8 空欄丁に入る最適な二字の語句を本文から抜き出して記せ。

 

問9 空欄Y(第17段落)には、次のア~オの五つの文章が入る。正しい順序に並び替えよ。

ア こういう経験がないと、一生どこか欠乏感をもってしか生きられない。

イ その経験があれば、母がじぶんを産んでしばらくして死んでも耐えられる。

ウ つまりじぶんを、存在する価値のあるものとして認めることが最後のところでできないのである。

エ あるいは、生きることのプライドを、追いつめられたぎりぎりのところでもてるかどうかは、じぶんが無条件に肯定された経験をもっているかどうか、わたしがわたしであるというだけでぜんぶ認められ世話されたことがあるかどうかにかかっていると言い換えてもいい。

オ あるいは、じぶんが親や他人にとって邪魔な存在ではないのかという疑いをいつも払拭できない。

 

問10 次の文の中で、本文の内容に合致するものを選べ。ただし、正解は一つとは限らない。

ア  学校では、いのちのやりとりを学ぶ機会が、案外多いと言える。

イ  花を引きちぎり、あたり一面にぶちまけるような祭りは、資源保護に反するので、教育上規制するべきである。

ウ  じぶんが生きるに値する価値があるか否かを認識することは意外に難しいので、生きていくためには、じぶんの存在を肯定されることが必要と言える。

エ  養育や教育は、共同生活のルールを教えることであるから、幼稚園では、歌や遊戯でそのルールを身体に覚えさせている。

オ  存在の世話を自分自身に対してしても、そこに意味はない。

カ  自分の存在理由は自分で捜すしかないので、自己責任の問題である。

キ  他者の存在の承認には、様々な点でリスクがあるので、慎重におこなうべきである。

ク  人間の尊厳とは、じぶんが無条件に肯定された経験をもっているかどうかに関係していると言える。

 

……………………………

 

( 解説・解答 )

問5(空欄補充・記述問題)

 【12】段落を赤字部分に着目して、熟読・精読するとよいでしょう。

 

「  生きる理由がどうしても見当たらなくなったときに、じぶんが生きるにあたいする者であることをじぶんに納得させるのは、思いのほかむずかしい。そのとき、死への恐れは働いても、生きるべきだという倫理は働かない。生きるということが楽しいものであることの経験、そういう人生への肯定が底にないと、死なないでいることをじぶんでは肯定できないものだ。お歌とお遊戯はその楽しさを体験するためにあったはずだ。永井均は最近の著作のなかでこう書いている。『子供の教育において第一になすべきことは、道徳を教えることではなく、人生が楽しいということを、つまり自己の生が根源において肯定されるべきものであることを、体におぼえこませてやることである』と(『これがニーチェだ』)。あるいは、幼児期に不幸な体験があったとして、それに代わるものを、それに耐えられるだけの力を、学校はあたえうるのでなければその存在理由はない。だれかの子として認められなかった子どもに、その子を『だれか』として全的に肯定することで、〔  乙  〕をあたえうるのでなければ、その存在の意味がない。

 

(解答) 存在理由

  

問6(空欄補充・記述問題)

 空欄丙を含む一文が【16】段落の冒頭部分になっていることに注目してください。

  【16】段落の前半部分は、空欄丙を含む一文の説明になっています。

    また、【17】段落は【16】段落と密接に関連しています。

 従って、【16】・【17】段落を赤字部分に着目して熟読・精読することが必要です。

 

【16】家庭という場所、そこで人はいわば〔 丙 〕で他人の世話を享(う)ける。

言う事を聞いたからとか、おりこうさんにしたらとかいった理由や条件なしに、自分がただここにいるという、ただそういう理由だけで世話をしてもらった経験がたいていのひとにはある。こぼしたミルクを拭ってもらい、顎や脇の下、指や脚の間を丹念に洗ってもらった経験・・・・。そういう  ③「存在の世話」 を、いかなる条件や留保もつけずにしてもらった経験が、将来自分がどれほど他人を憎むことになろうとも、最後のぎりぎりのところでひとへの<信頼>を失わないでいさせてくれる。そういう人生への〔    丁  〕肯定感情がなければ、ひとは苦しみが堆積するなかで、最終的に、死なないでいる理由をもちえないだろうと思われる。

【17】あるいは、生きることのプライドを、追いつめられたぎりぎりのところでもてるかどうかは、じぶんが無条件に肯定された経験をもっているかどうか、わたしがわたしであるというだけでぜんぶ認められ世話されたことがあるかどうかにかかっていると言い換えてもいい。その経験があれば、母がじぶんを産んでしばらくして死んでも耐えられる。こういう経験がないと、一生どこか欠乏感をもってしか生きられない。あるいは、じぶんが親や他人にとって邪魔な存在ではないのかという疑いをいつも払拭できない。つまりじぶんを、存在する価値のあるものとして認めることが最後のところでできないのである。

  

(解答) 無条件

 

問7(傍線部説明問題)

 「存在の世話」における「存在」の意味が問われています。

 傍線部③を含む【16】段落の

「家庭という場所、そこで人はいわば〔 丙=無条件 〕で他人の世話を享(う)ける。言う事を聞いたからとか、おりこうさんにしたらとかいった理由や条件なしに、自分がただここにいるという、ただそういう理由だけで世話をしてもらった経験がたいていのひとにはある。」

の文脈を把握してください。

「イ  じぶんが、ただここにいるということ」が正解になります。

 

 (解答) イ

 

問8(空欄補充・記述問題)

 空欄丁を含む【16】段落が【12】段落を受けていることを読み取ってください。

 そのうえで、【12】段落を熟読・精読する必要があります。

 特に、赤字部分に注意してください。

 

【12】生きる理由がどうしても見当たらなくなったときに、じぶんが生きるにあたいする者であることをじぶんに納得させるのは、思いのほかむずかしい。そのとき、死への恐れは働いても、生きるべきだという倫理は働かない。生きるということが楽しいものであることの経験、そういう人生への肯定が底にないと、死なないでいることをじぶんでは《肯定》できないものだ。お歌とお遊戯はその楽しさを体験するためにあったはずだ。永井均は最近の著作のなかでこう書いている。『子供の教育において第一になすべきことは、道徳を教えることではなく、人生が楽しいということを、つまり自己の生が根源において《肯定》されるべきものであることを、体におぼえこませてやることである』と(『これがニーチェだ』)。あるいは、幼児期に不幸な体験があったとして、それに代わるものを、それに耐えられるだけの力を、学校はあたえうるのでなければその存在理由はない。だれかの子として認められなかった子どもに、その子を『だれか』として全的に《肯定》することで、〔 =存在理由 〕をあたえうるのでなければ、その存在の意味がない。

 

(解答) 肯定

 

問9(文章並べ替え問題)

 まず第一に、アの「こういう経験」、イの「その経験」、ウの「つまり」、エの「あるいは」・「と言い換えてもいい」、オの「あるいは」に着目してください。

 そうすると、

 

エ あるいは、生きることのプライドを、追いつめられたぎりぎりのところでもてるかどうかは、じぶんが無条件に肯定された経験をもっているかどうか、わたしがわたしであるというだけでぜんぶ認められ世話されたことがあるかどうかにかかっていると言い換えてもいい。

その経験があれば、母がじぶんを産んでしばらくして死んでも耐えられる。

 

というセットは、すぐに確定できるでしょう。

 次に、ア、ウ、オは、以下のように、それぞれの文の赤字部分に注目するとよいでしょう。

 

ア こういう経験がないと、一生どこか欠乏感をもってしか生きられない。

オ あるいは、じぶんが親や他人にとって邪魔な存在ではないのかという疑いをいつも払拭できない。

ウ つまりじぶんを、存在する価値のあるものとして認めることが最後のところでできないのである。

 

  【18】段落の内容に注目すると、「ア→オ→ウ」が後半になることが分かります。

 

(解答)  エ→イ→ア→オ→ウ

 

問10 (趣旨合致問題)

 趣旨合致問題の解法のポイントについては、下の記事で丁寧に説明したので、ぜひ、ご覧ください。

 問題文本文を読む前に、設問を見ることが大切です。

 設問のポイントのみ、チェックできれば、それでよいのです。

 割り切ることが必要です。

 

  今回の趣旨合致問題は、標準レベルで素直な問題です。

 

gensairyu.hatenablog.com

 

(解答) ウ・ク

 

 

(3)「存在の肯定」・「存在の承認」・「存在の贈与」についての補足説明 

 

 「存在の肯定」・「存在の承認」・「存在の贈与」は、鷲田氏の論考におけるキーワードです。

 「存在の肯定」・「存在の承認」・「存在の贈与」は、難解な側面があります。

 従って、簡単に理解しようとはしないで、鷲田氏の様々な文章を読み、じっくり考えるようにした方がよいと思います。

 その点で、以下の『「聴く」ことの力』 における論考は、「存在の肯定」・「存在の承認」「存在の贈与」を考えるうえで、かなり参考になるでしょう。

 

生きる理由がどうしても見当たらなくなったときに、じぶんがほんとうに生きるにあたいする者であることをじぶんに納得させるのが、思いのほかむずかしい。

生きるということが楽しいものであることのたっぷりとした経験、そういう人生への肯定が底にないと、ひとはじぶんが死なないでいることをじぶんでは肯定できないものだ。

しかし、この経験がたっぷりとはできなかったらどうか。

そのときには、他者がそれを贈るのである。

他者をそのままそっくり肯定すること、条件をつけないで。

こういう贈り物ができるかどうかは、ふたたびそのひとが、つまり贈るひと自身が、かつてたった一度きりであっても、無条件でその存在を肯定された経験があるかどうかにかかっている。

相手の側からすれば、他者の存在をそっくりそのまま受容してなされる。

「存在の世話」とでもいうべき行為である。

ケアの根っこにあるべき経験とはそういうものではなかろうか。

 

 また、『死なないでいる理由』の中の、以下の文章は、今回の記事で取り上げた『悲鳴をあげる身体』の一節と、ほとんど同内容ですが、味わい深いものがあります。

 

「こぼしたミルクを拭ってもらい、便で汚れた肛門をふいてもらい、顎や脇の下、指や脚のあいだを丹念に洗ってもらった経験。

そういう「存在の世話」を、いかなる条件も保留もつけずにしてもらった経験が、将来じぶんがどれほど他人を憎むことになろうとも、最後のぎりぎりのところでひとへの<信頼>を失わないでいさせてくれる。

そういう人生への肯定感がなければ、ひとは苦しみが堆積するなかで、最終的に、死なないでいる理由をもちえないだろうとおもわれる。

 

 

 (4)当ブログの、鷲田清一氏の論考に関連する記事の紹介

 

 鷲田清一は、入試国語(現代文)・小論文におけるトップレベルの頻出著者なので、意識して、鷲田氏の論考を読むようにしてください。

  

gensairyu.hatenablog.com

 

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 ーーーーーーーー

 

今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

ご期待ください。

 

   

 

 

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gensairyu.hatenablog.com

 

悲鳴をあげる身体 (PHP新書)

悲鳴をあげる身体 (PHP新書)

 

 

 

頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

 

 

5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

 

 

 私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。

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予想出典・『永遠平和のために』カント・平和・移民問題・グローバル化

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 

 最近では、民族紛争・宗教対立・英国のEU離脱・トランプ現象など、国際関係・外交問題・グローバル化関連のニュース・論考が非常に多くなっています。

 最近の大学入試国語(現代文)・小論文でも、これらに関連する政治哲学・政治学関連の論考の出題が増加しています。

 その際に、大哲学者カントの『永遠平和のために』が引用されたり、論考の対象になることが多いのです。

 従って、教養・予備知識として、カントやこの本について知っておくことは、国語(現代文)・小論文対策として、大切なことだと思います。

 従って、今回の記事では、『永遠平和のために』の解説をしていきます。

 

 以下の記事の項目は、次のようになっています。記事は約1万字です。

 

(2)「日本の鎖国を賢明と評した哲学者カント」(孫崎享・『日刊ゲンダイ』2017・4・22「日本外交と政治の正体」)の解説

(3)『永遠平和のために』の解説

(4)「歓待の思考」・「訪問権」、「日本の鎖国」について

(5)2003早稲田大学法学部国語(現代文)(「歓待の思考」(『主権のかなたで』)鵜飼哲)の解説

(6)『NHK100分de名著カント  永遠平和のために 』(2016・8)の紹介・解説

 

  

 (2)「日本の鎖国を賢明と評した哲学者カント」(孫崎享・『日刊ゲンダイ』2017・4・22「日本外交と政治の正体」)の解説

 

  『日刊ゲンダイ』(2017年4月22日「日本外交と政治の正体」)に、「日本の鎖国を『賢明』と評した哲学者カント」という孫崎 享氏の、以下のような論考が掲載されました。その一部を引用します。

 

(概要です)

(青字は当ブログによる「注」です)

ドイツの哲学者カント(1724~1804年)が近世最大の哲学者であることには異論がないだろう。1795年に出版された政治哲学の著書「永遠平和のために」は、欧州各国が今のような平和的な関係を築き上げていくうえで「貢献」したことも多くの人は知っている。
 だが、「永遠平和のために」の中で、日本の鎖国を「賢明であった」と評価しているのを知っている人は果たしてどれだけいるだろうか。カントは著書の中で、こう書いている。

 われわれの大陸の文明化された諸国家、とくに商業活動の盛んな諸国家の非友好的な態度をこれと比較してみると、かれらがほかの土地やほかの民族を訪問する際に(訪問することはかれらにとってそこを征服すると同じことを意味するが)示す不正は驚くべき程度に達している。

 アメリカ、黒人地方、香料諸島、喜望峰などは、それらが発見されたとき、かれらにとっては誰にも属さない地であるかのようであったが、それは彼等が住民を無に等しいとみなしたからである。


 東インドでは、かれらは、商業支店を設けるだけという口実の下に、軍隊を導入した。それとともに原住民を圧迫し、その地の諸国家を扇動して、広範な範囲におよぶ戦争を起こし、飢え、反乱、裏切りその他人類を苦しめるあらゆる災厄を嘆く声が数えたてるような悪事を持ち込んだのである。


 それゆえ中国と日本はこれらの来訪者を試した後で、次の措置をとったのは賢明であった(として鎖国に言及)。(→当ブログによる注→(カントの記述)「すなわち前者は来訪は許したが入国は許さず、後者は来訪すらもヨーロッパ民族の一民族にすぎないオランダ人にだけ許可し、しかもその際に彼らを囚人のように扱い、自国民との交際から閉め出したのである」)


 カントが、〈諸国家を扇動して、広範な範囲におよぶ戦争を起こし、飢え、反乱、裏切りその他人類を苦しめるあらゆる災厄を持ち込んだ〉とは、まさに米国の中東政策そのものであり、朝鮮半島でも「諸国家を扇動して」、「災難」を持ち込もうとしている。 

 

ーーーーーーーー

 

(当ブログによる解説) 

 外交問題の専門家である孫崎享氏が、カントの言葉を引いて、現在の世界政治の問題点について論考を発表している点に、私は注目しました。

 孫崎氏の見識、カントの言葉の重み、に注目したのです。

 

 カントの過去の言葉は、「現在の世界政治の混乱」を読み解く際の、「本質的な視座」を示唆してくれるのです。

 それだけ、カントの考察が、「人間の行動の根源」を突いているからでしょう。

 

 以上の文章におけるカントの『永遠平和のために』から引用部分は、『永遠平和のために』の中で、「第二章の第三確定条項」を説明する所に記述されています。

 つまり、カントは、海外に進出している西洋諸国の、アフリカ・アジアなどにおける侵略的な外交姿勢を批判し、中国と日本の鎖国政策を、ある程度、賢明な措置と判断しているのです。

 この点について、さらに解説していきます。

 

永遠平和のために (岩波文庫)

 

(3)『永遠平和のために』の解説

 

 まず、「本書の目次」を紹介します。

 この「目次」は、ある程度、要約のようになっているので、丁寧に読んでいくと、『永遠平和のために』の概要が分かるでしょう。

 

ーーーーーーーー


『永遠平和のために』(カント (著)/ 宇都宮芳明 (訳) 岩波文庫)

【目次】

永遠平和のために

 

第一章 この章は、国家間の永遠平和のための予備条項を含む

 第一条項 将来の戦争の種をひそかに保留して締結された平和条約は、決して平和条約と見なされてはならない 。

 第二条項 独立しているいかなる国家(小国であろうと、大国であろうと、この場合問題ではない)も継承、交換、買収、または贈与によって、他の国家がこれを取得できるということがあってはならない。

 第三条項 常備軍は、時とともに全廃されなければならない。

 第四条項 国家の対外戦争にかんしては、いかなる国債も発行されてはならない。

 第五条項 いかなる国家も、他の国家の体制や政治に暴力をもって干渉してはならない。

 第六条項 いかなる国家も、他国との戦争において、将来の平和時における相互間の信頼を不可能にしてしまうような行為をしてはならない 。

 

第二章 この章は、国家間の永遠平和のための確定条項を含む

 第一確定条項 各国家における市民的体制は、共和的でなければならない。

 第二確定条項 国際法、自由な諸国家の連合制度に基礎を置くべきである。

 第三確定条項 世界市民法は、普遍的な友好をもたらす諸条件に制限されなければならない。

(→上記の孫崎氏の論考は、この条項(「歓待の思考」・「訪問権」)に関連しています。詳しくは、以下に解説します。)
  
第一補説 永遠平和の保証について

第二補説 永遠平和のための秘密条項(1796)

 

付録 
一 永遠平和という見地から見た道徳と政治の不一致について
二 公法の先験的概念による政治と道徳の一致について

 

 ーーーーーーーー

 

(当ブログによる解説) 

 

「第一章 第三条項 常備軍は、時とともに全廃されなければならない。」

「第一補説 永遠平和の保証について」

が、少々、理想主義的ですが、全体としては、現実主義的と評価できると思います。

 この点については、この記事の 「(6)『NHK100分de名著  カント  永遠平和のために』」で、改めて解説します。

 

 

(4)「歓待の思考」・「訪問権」、「日本の鎖国」について

 

 『永遠平和のために』においては、上記の孫崎氏の文章における〈カントの『永遠平和のために』からの引用部分〉の前に、「第二章の第三確定条項」を説明する記述があります。

 この記述は、一般的に、政治哲学・政治学の分野においては、「訪問権」・「歓待の思考」についての記述と言われています。

 以下のようになっています。

 

 (青字は当ブログによる「注」です)

「外国人が要求できるのは、客人の権利(この権利を要求するには、かれを一定の期間家族の一員として扱うという、好意ある特別な契約が必要となろう)ではなくて、訪問の権利である。この権利は、地球の表面を共同に所有する権利に基づいて、たがいに交際を申し出ることができるといった、すべての人間に属している権利である。人間は、もともとだれひとりとして、地上のある場所にいることについて、他人よりも多くの権利を所有しているわけではない。(→すなわち、いかなる個人も他国を訪れた際に、「歓待」される権利を持つのです )」(『永遠平和のために』第二章第三確定条項より)

 

 しかし、当時の世界状況は、カントの見解とは、かなり異なっていました。

 西欧諸国は,通商・布教などを名目として、自国の権益拡大を世界各地で実施していました。

 カントには、それらの行為は,あまりに強権的・強圧的に見えたのでしょう。

 そのために、孫崎享氏の引用した、以下のような見解を述べたのです。

 

 「われわれの大陸の文明諸国家、特に商業活動の盛んな諸国家の非友好的な態度を比較してみると、かれらがほかの土地やほかの民族を訪問する際に(訪問することは、かれらにとって、そこを征服することと同じことを意味するが)示す不正は恐るべき程度にまで達してしている。
 アメリカ、アフリカ、香料諸島、喜望峰などは、それらが発見されたとき、かれらにとっては、だれにも属さない土地であるかのようであったが、それは彼らが先住民たちを無に等しいとみなしたからである。

 東インドでは、かれらは商業支店を設けるだけだという口実の下に軍隊を導入したが、しかし、それとともに先住民を圧迫し、その諸国家を扇動して、広範な範囲におよぷ戦争をおこし、飢え、反乱、裏切り、そのほか人類を苦しめるあらゆる災厄と同様の悪事をもちこんだのである。
 それゆえ、中国と日本が、これらの来訪者を試した後で、つぎの措置をとったのは賢明であった。すなわち、中国は、来航は許したが入国は許さず、日本は来航すらもヨーロッバ民族の一民族にすぎないオランダ人だけに許可し、しかも、その際かれらを囚人のようにあつかい、自国民との交際に制限をあたえたのである。」(『永遠平和のために』)


 近代になり、ヨーロッパの強権的・強圧的な海外進出をくい止める措置として,中国(清朝)、日本(徳川幕府)などの国が,鎖国政策をとったことを、カントは「賢明な措置」として肯定しています。

 カントはケンペルの「旅行記」などを通して,日本が鎖国政策に踏み切らざるを得ない理由を、ある程度理解していたのでしょう。

 

 ケンペルは『日本誌』(今井正編訳・霞ヶ関出版)の付録第二章「もっともな理由のある日本の鎖国」で、以下のような見解を述べています。

 

(概要です)

「日本人の場合は、異国との交わりは、ただ生活のため、便益のため、贅沢のために必要な物資を入手する方便であることは、だれも否定しないであろう。
 人類の繋りの基盤がここに置かれているならば、自然にめぐまれ、あらゆる種類の必要物資を豊富に授かっており、かつその国民の多年にわたる勤勉な努力によって国造りが完成している国家としては、自分からは何も求めるものがない外国にたいしては、外国人どもの計略にのらず、貪慾をはねかえし、騙されないようにし、戦いをしないようにして、その国民と国境を守ることが上策であり、また為政者の義務でもある。

 それは、たしかに納得できる国家の行き方であろう。日本は他の世界諸国に比べて、このような有利な条件に恵まれている国である。」

 

ーーーーーーーー

 

(当ブログによる解説)


 江戸幕府の鎖国政策は、日本においても、明治以降、全面的に否定的な評価を受けてきましたが、ケンペルの見解は、それとは正反対です。

 ケンペルは、当時の世界と日本の状況を踏まえた上で、日本には、鎖国をする論理的根拠があるとしています。

 当時の西洋に、日本の鎖国に対して一定の評価をしている知識人がいたという事実は、現代の日本人が、ぜひとも知っておくべきことです。

 近代的な西洋的価値観(明治時代以降の日本国・日本人の価値観そのもの)に染まり、日本の鎖国を全否定することはないのです。

 

 

 (5)2003早稲田大学法学部国語(現代文)(「歓待の思考」(『主権のかなたで』)鵜飼哲)の解説


 次に、『永遠平和のために』の中の「歓待の思考」から出題された入試国語(現代文)問題として有名な、2003年の早稲田法学部の問題について解説します。

 この問題文本文は、『永遠平和のために』の「第二章 第三確定条項 世界市民法は、普遍的な友好をもたらす諸条件に制限されなければならない。」を説明しているカントの記述の引用から始まります。 

 以下に引用します。

 

(概要です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

「『世界公民法は普遍的な好遇についての諸条件に限られるべきである』

この条項で提起されているのは博愛ではなくて、権利についてである。そして、ここで歓待(よい待遇)というのは、外国人が他国の土地に足を踏み入れたというだけの理由で、その国の人間から敵としての扱いを受けない権利のことである。その国の人間は、彼の生命に危険のおよばない方法でするかぎり、その外国人を退去させることはできる。しかし彼が彼の居場所で平和にふるまうかぎり、その外国人に敵としての扱いをしてはならない。もっとも彼が要求できるのは、滞在権((そのためには、この権彼をしばらく家族の一員として扱うという、特別の好意ある契約が必要とされるであろう))ではなくて、訪問権である。この権利は、地球表面の共同所有権に基づいて互いに友好を結び合うよう、すべての人間にそなわる権利である。つまり、地球の表面は球面で、人間は無限に分散して拡がることはできず、結局は並存することを互いに忍び合わなくてはならないが、しかし根源的には誰ひとりとして地上のある場所にいることについて、他の人より多くの権利を持つ者ではないからである。」

  

 この引用文の直後で、著者・鵜飼哲氏は、以下のような重要な考察をしています。

「  生まれてきたときには、誰もがこの世に「客」としてやってくるほかはないのであり、そこでいわば最初の歓待の経験をするということに関してである。

 この「起源」の歓待は、単に、その名が示すような「歓び」だったわけではないだろう。この世界の「客」となったばかりの新生児は、たとえ歓待を受けようと、まだ、笑ってはいない。「初めに」「客」であったことは、おそらく、死にも比すべき外傷でさえあるだろう。主権が主権である限りその核に持ち続ける残酷さ、かつての日本の外務官僚の、「外国人は煮て食おうと焼いて食おうと主権国家の自由」という発言にみられるような恐るべき残酷さは、このような外傷に対する反動として考察したとき、はじめてその本質が垣間見えるのではないだろうか。」


 この世に生を受け、そして、生きるということの、歓待に付随する「不快感」が外傷のように心の底に残り、「主権」という仕組みのもとで排外的な心情を生み出していく、と鵜飼氏は説明しています。

 日常の空間に、まるで「客」のように到来する存在(たとえば「路上生活者」)に対する、排他的な感情の根本に、このような「不快感」があるのではないか、と鵜飼氏は主張しているのです。

 そして、鵜飼氏は、日本国の出入国管理法の残酷さ、排外主義的伝統を批判します。

 グローバリゼーションの進行や、少子化による労働力不足に付随して発生するであろう「移民」の問題などが、具体的・歴史的な場で思考されるためには、カントのいう「歓待の思考」の発想が要請されるとしています。

 

 この問題の「本文全体の要約」としては、以下のようになります。

「グローバリゼーションの進行の中で、地球の表面をすべての人間が権利として共有するという歓待の思考が現実化されつつある。しかし、これに、よそ者を排除する力を持つ主権が立ちはだかる。従って、歓待の思考は、思考だけではなく、社会・国家のレベルの具体的・歴史的現実の中で、この主権を対象化し、制限しなければならない。それは、また日本人一人一人が排外主義を脱して、自己を再発明することをも意味するのである。」

 

 

 なお、この論考が含まれている『主権のかなたで』は、全体として、以下のような内容になっています。

 

「  国民国家や市民社会の「よそ者」として排除され、不安定な生を強いられる人々。排除の根源にある「主権」の論理に対置すべき「歓待」の原理とは何か。排除に抵抗する実践の理路はどのようなものでありうるのか。デリダ、サイード、シュミットらのテクストに向き合い、世紀転換期の激動を凝視しつつ、来たるべき世界の予兆を探る繊細な思索の記録。

 収録されている論考のほとんどは、1995年から2005年の10年間に、つまり世紀転換期に書かれています。それは、20世紀の終わりと21世紀の始まりというだけでなく、戦後50年であった1995年という転換点と、2001年の〈9・11〉という転換点を含んだ時期の思考と抵抗の軌跡でもあります。」(「表紙カバー」より)

 

 

(6)『NHK100分de名著カント  永遠平和のために 』(2016・8)の紹介・解説

 

 カントの「平和」についての考え方を知るために、本書と『永遠平和のために』(岩波文庫)を併読することを、おすすめします。

 

  『 NHK100分de名著 カント  永遠平和のために 』(番組の解説者は津田塾大学教授の萱野稔人(かやの・としひと)氏です)のWeb上の解説が、『 永遠平和のために』の理解のために秀逸なので、以下に引用します。

 

(概要です)

(赤字、太字は、当ブログによる「強調」です) 

「  人間の本性は「邪悪なもの」であり「戦争すること」である

 18世紀ドイツの哲学者イマヌエル・カントが生きた時代は、ヨーロッパの多くの国が王権を巡る争いや植民地獲得のための競争に明け暮れていました。この情勢を憂えたカントは著書『永遠平和のために』の中で、人間の本性は邪悪であり戦争に向かうのは当然だと説きました。この考えの意味するところを、津田塾大学教授の萱野稔人(かやの・としひと)さんに解説していただきます。

* * *

 カントがいかに現実主義者だったかは、彼の人間観にも現れています。その人間観はかなり悲観的です。人間はもともと道徳を備えているとも、道徳的に完成できるとも言っていません。「人間は邪悪な存在である」というのが、カントのそもそもの出発点です。それをはっきり示しているのが「軍事国債の禁止」にある次の文章です。

 

「国債の発行によって戦争の遂行が容易になる場合には、権力者が戦争を好む傾向とあいまって(これは人間に生まれつきそなわっている特性のように思える)、永遠平和の実現のための大きな障害となるのである。」
(『永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編』中山元訳、光文社古典新訳文庫)以下同

 

 つまりカントは、「人間にはもともと戦争を好む傾向があるので、国債を発行していくらでも金が手に入るようになると、その傾向に火がついて軍備をどんどん拡張し、しまいには戦争をはじめてしまう」と言っているのです。人間の本質を「邪悪」ととらえた箇所として、以下の一節も重要です。

 

「戦争そのものにはいかなる特別な動因も必要ではない。戦争はあたかも人間の本性に接ぎ木されたかのようである。」

 

 戦争は、相手が自分に対してなんらかの利害対立や敵意を持つからこそ起こる、と多くの人は思っているでしょう。しかしカントは、戦争すること自体が人間の本性だから、特別な原因がなくても戦争は起こる──というのです。

 現代に生きる私たちは、武器を持たずに人ごみのなかを無防備に歩くことができますが、それは法の支配が確立されているからであって、じつは見ず知らずの人びとのなかを丸腰で歩けることのほうが歴史的にみれば奇跡的な状態なのです。カントの言葉を引いてみましょう。


「ともに暮らす人間たちのうちで永遠平和は自然状態(スタトゥス・ナーチューラーリス)ではない。自然状態とはむしろ戦争状態なのである。つねに敵対行為が発生しているわけではないとしても、敵対行為の脅威がつねに存在する状態である。」


 こうした自然状態を戦争状態とみるという考え方は、カントがオリジナルではなく、17世紀に活躍した思想家トマス・ホッブズに端を発する「社会契約説」を下敷きにしています。社会契約説とは、どのように人間が国家をつくったのかを論じたもので、要約すると、国家の成り立ちを次のように考えます。


「法秩序が存在しない自然状態では、人間は常に自分の利益だけを考えて行動する。それゆえに放っておくと戦争状態へと向かい、生存さえ危うくなってしまう。そこで命や一定の権利を守るために、人間は相互にルールを守るという契約を結び、それが国家(政府)になった」

 

 カントもこの社会契約説を支持し、人間の本性は邪悪で戦争に向かうのは当然だと考えました。この考えは人類の歴史をみれば正しく、人間は本来平和的だったと道徳的に主張することはナンセンスです。戦争に向かうのは人間の本性として当たり前なのだから、それを異常なものだと特別視してしまうと問題の本質を見誤ります。


 カントにとって大事なのは「なぜ戦争が起こるか」ではなく、「どうすれば戦争が起きなくなるか」です。この問いの転換こそが『永遠平和のために』を読み解く際の重要な鍵となりますので、ここでぜひ頭に入れておいてください。

(『 NHK100分de名著 カント 永遠平和のために 』のWeb上の解説より)

 

 ーーーーーーーー

 

(当ブログによる解説)

 本書のカントは、「自然状態とは戦争状態」という前提に立ち、その上で、独立国家同士が牽制しつつも、平和を維持するためには国家間に国際連合的なものが必須であると説いています。

 この点からも、カントは現実主義者と評価するべきでしょう。

 カントは、現実世界が弱肉強食の世界であることを認めた上で、「世界平和」へ至る道について方法論を呈示しているのです。

 

 カントは、「永遠平和は確実に実現する」とは言っていません。

 たとえば、『永遠平和のために』の「第一補説」では、以下のように述べています。

 

「なるほどこの保証は、永遠平和の到来を予言するのに十分な確実さはもたない。しかし実践的見地では十分な確実さをもち、この目的にむかって努力することをわれわれに義務づけるのである」

 

 カントの想定する「永遠平和」は、目指すべきものとして把握されており、「完全な形で実現するものだ」という、いわゆるメルヘン的・空想的な平和主義では、ありません。

 カントは、「平和それ自体」への限りない接近に、希望の光明を見出だしているのでしょう。
 カントは、「永遠平和に向かって努力すること」それ自体が意味のあることである、と本書で力説しているのでしょう。

 

ーーーーーーーー

 

 今回の記事は、これで終わりです。

 次回の記事は、約1週間後の予定です。

 ご期待ください。

 

    

 

永遠平和のために (岩波文庫)

永遠平和のために (岩波文庫)

 

  

カント『永遠平和のために』 2016年8月 (100分 de 名著)

カント『永遠平和のために』 2016年8月 (100分 de 名著)

 

  

哲学はなぜ役に立つのか?

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主権のかなたで

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日本外交:現場からの証言

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

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予想問題『じぶん・この不思議な存在』鷲田清一・他者の他者としての自分

 

(1)なぜ、この論考に注目したのか?

 

 鷲田清一氏は、ほとんどの難関大学の入試現代文(国語)・小論文で一度は出題されている、トップレベルの頻出著者です。

 
 最近では、センター試験、東京大学、東北大学、早稲田大学、慶應大学、上智大学等で、出題されています。

 鷲田氏の入試頻出著書としては、

『モードの迷宮』(ちくま学芸文庫)、

『じぶん・この不思議な存在』(講談社現代新書)、

『悲鳴をあげる身体』(PHP 新書)、

『「聴く」ことの力ー臨床哲学試論』(ちくま学芸文庫)、

『わかりやすいはわかりにくい? 臨床哲学講座』(ちくま新書)、

『しんがりの思想』(角川新書)、

等があります。

 

 最近の難関大学では、

『わかりやすいはわかりにくい? 臨床哲学講座』(ちくま新書)、

『「聴く」ことの力ー臨床哲学講座』(ちくま学芸文庫)、

からの出題が目立ちます。

 

 その中で、『じぶん・この不思議な存在』は、長期的に頻出出典になっています。

 その内容が難関大学現代文(国語)・小論文の問題としてふさわしいので、このブログで予想問題の紹介、解説をします。

 

 なお、今回の記事の項目は以下の通りです。 

(2)予想問題・『じぶん・この不思議な存在』鷲田清一・立命館大学国語(現代文)

(3)本書『じぶん・この不思議な存在』の解説

 ①総説

 ②「自分さがし」・「自分の個性」について

 ③本書のキーワードである「他者の他者としての自分」を、鷲田氏は他の著書でどのように説明しているのか?

 ④まとめ

(4)当ブログにおける、鷲田清一氏・関連の記事の紹介

(5)当ブログにおける、「関係性」関連の記事の紹介

 

 

じぶん・この不思議な存在 (講談社現代新書)

 

 

 

 

 

 

(2)予想問題・『じぶん・この不思議な存在』鷲田清一・立命館大学国語(現代文)過去問

 

(問題文本文)

(赤字はブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です)

【1】わたしたちは、目の前にあるものを、それは何であるかと解釈し、区分けしながら生きている。たとえば現実と非現実、自分と自分でないもの、生きているものと死んだもの、よいことと悪いこと、大人と子供、男性と女性・・・・。こうした区分けのしかたを他の人たちと共有しているとき、わたしたちは自分を「普通」(ノーマル、ナチュラル)の人間だと感じる。そして、わたしたちが共有している意味の分割線を混乱させたり、不明にしたり、無視したりする存在に出会ったとき、彼らを、別の世界に生きている人というより、わたしたちと同じこの世界にいながら、「普通」でない人と見なしてしまう。 

【2】ではなぜ、わたしたちは〔  A  〕の境界にこのようにヒステリックに固執するのだろう。それは、わたしたちが「~である/~でない」というしかたでしか自分を感じ、理解することができないからではないだろうか。そしてそういう〔  A  〕の分割の中にうまく自分を挿入できないとき、いったい自分はだれなのかという、その〔  B  〕の輪郭が失われてしまうからではないだろうか。つまり、それほどまでに〈わたし〉はもろく、不可解な〔  B  〕であるからではないだろうか。 

【3】たとえば、身体を持たない〈わたし〉があり得ないことはあまりに明白であるのに、それでは〈わたし〉と身体とはどのような関係にあるかと問うてみると、自分がほとんどなんの確かな答えも持っていないことに気づかされる。 

 

ーーーーーーーー 

 

(問題)

問1  空欄A・Bに入れるのに、最も適当なものを、次の中から選べ。

1 人間   2 原因   3 存在   4 解釈

5 所有物   6 結果   7 身体   8 意味

 

……………………………

 

(解説・解答)

問1

A  

は、前にある「意味の分割線」に注目してください。

 つまり、【1】段落最終文の

「わたしたちが共有している意味の分割線を混乱させたり、不明にしたり、無視したりする存在に出会ったとき、彼らを、別の世界に生きている人というより、わたしたちと同じこの世界にいながら、「普通」でない人と見なしてしまう。 」

の文脈に注目するとよいでしょう。

 

B 

【2】段落第2文の

わたしたちが「~である/~でない」というしかたでしか自分を感じ、理解することができないからではないだろうか。

における、

《 「自分」は「~である/~でない」という部分 》は、《 「自分」の「何」についての議論なのか 》、を考えるとよいでしょう。

  

(解答)  A=8  B=3

 

ーーーーーーーー

 

 (問題文本文) 

【4】「わたしの足」というとき、わたしと足はどういう関係にあるのかと考え始めると、たちまち謎に包まれる。わたしは足であるか? ノー。わたしは足を持つのか? たぶん、イエス。もし身体がわたしの所有物だとすると、所有物は譲渡や交換が可能であるはずだから、足から順に自分の身体を次々に別の身体と取り替えていっても、わたしはわたしであるはずだ。けれども想像が腹部あたりに達したころから、だんだんあやしい気分、おぞましい気分になってくる。〔 C 

【5】つまり、自分が身体であるのか、身体を持つのかはっきりしないまま、わたしたちはなんとなく自分がこの身体の皮膚の内側にあると思い込んでいる。だから、身体の形状がわたしたちのそれとは違った異形の身体に出会ったときには、すくなからず動揺してしまう。わたしをいまこの〈わたし〉としている身体的条件がたんに一つの〔 D 〕にすぎず、〈わたし〉の存在にとってかならずしも決定的なことではないことが、目にみえるかたちで暴露されるからである。

 

ーーーーーーーー

 

(問題)

問2  空欄Cに入れるのに、最も適当なものを、次の中から選べ。

1 身体はわたしが所有しているものだと、断言したくなってくる

2 身体などなくなってしまえと、言いたくなってくる

3 身体はわたしが所有しているものではないと、前言を翻(ひるがえ)したくなってくる

4 わたしの身体を誰かの身体とそっくり交換したくなってくる

5 わたしの身体を誰かと交換したいなどとは、今後一切思わなくなる

 

 

問題3  空欄Dに入れるのに、最も適当なものを、次の中から選べ。 

1 差異化の可能化

2 偶然性の可能化

3 可能性の抽象化

4 可能性の具体化

5 差異性の必然化

……………………………

 

(解説・解答)

 

問2

こういう難解な文章を、要約して解くことは有害無益です。時間的にも、損失です。本文の精読・熟読に専念してください。

「もし身体がわたしの所有物だとすると、所有物は譲渡や交換が可能であるはずだから、足から順に自分の身体を次々に別の身体と取り替えていっても、わたしはわたしであるはずだ。けれども想像が腹部あたりに達したころから、だんだんあやしい気分、おぞましい気分になってくる。」という文脈に注目してください。

 

(解答) 3

 

問3 

「 わたしをいまこの〈わたし〉としている身体的条件が、たんに一つの〔 D 〕にすぎず」、

(わたしをいまこの〈わたし〉としている身体的条件が)〈わたし〉の存在にとって

かならずしも決定的ではないこと」と、

「目にみえるかたちで暴露されるからである。」の文脈に着目してください。

 

(解答) 4

 

ーーーーーーーー

 

(問題文本文)

【6】このように考えてくると、わたしがだれであるかということは、わたしがだれでないかということ、つまりだれを自分とは異なるもの(他者)と見なしているかということと、背中合わせになっていることがわかる。ところが、わたしがそれによって他者との差異を確認するその意味の軸線がわたしたちによって共有されているところでは、この軸線がその形成の歴史を忘却して「自然」的なものと見なされ(ここから「自然」が規範としての意味を持ち始める)、それを共有しないものは、わたしたちではないもの=「普通」でないものとして否認される。「普通」ということは世界の解釈の一体系を共有しているということにすぎないにもかかわらず、である。わたしたちが自分の存在に形を与えていくこのプロセスは、だから同時に、きわめて〔   E 〕なプロセスでもある。それは、常に解釈の規準を提示し、それを共有できないものは排除し、それを外れるものには欠陥とか劣性といった否定的なまなざしのもとで自らを見ることを強いる。 

【7】わたしはだれかという問いは、わたしはだれを〈非―わたし〉として差異化(=差別)することによってわたしであり得ているのか、という問いと一体をなしている。わたしもあなたも同じ「人間」であるという言い方は、〈わたし〉が一定の差別(逆差別も含めて)の上に初めて成り立つ存在にすぎないことをかえって覆い隠してしまうおそれがある。

【8】「わたしはだれ?」ーーそれは、おそらく、〈わたし〉を形作っている差異の軸線をそのつど具体的なコンテクスト(→「文脈。脈絡」という意味)に則して検証していくところでしか答えられないであろう。 

 

ーーーーーーーー

 

(問題)

問4  空欄Eに入れるのに、最も適当なものを、次の中から選べ。

1 抽象的   2 政治的  3 倫理的

4 自然的   5 決定的

 

問5  この文章の筆者は、傍線①の「わたしはだれ?」という問いに対して、どのように答えようとしているか。最も適当なものを、次の中から選べ。

1 わたしたちは、わたしたちではないひとを知ることをとおしてしか、じぶん自身を知ることができない。

 

2 わたしたちは、じぶんは誰かという問いをじぶんの内部に向けることによってしか、じぶん自身を知ることができない。

 

3 わたしたちは、じぶんではないものからじぶんの存在を隔離することになってしか、じぶん自身を知ることができない。

 

4 わたしたちは、じぶん自身の中身をそのつど検証していくことによってしか、じぶん自身を知ることができない。

 

5 わたしたちは、身体を所有することによってしか、じぶん自身を知ることができない。

……………………………

 

(解説・解答)

 

問4

「このプロセス」は、「政治的な、かけひき」の側面があります。

わたしがだれであるかということは、わたしがだれでないかということ、つまりだれを自分とは異なるもの(他者)と見なしているかということと、背中合わせになっていることがわかる。ところが、わたしがそれによって他者との差異を確認するその意味の軸線がわたしたちによって共有されているところでは、この軸線がその形成の歴史を忘却して「自然」的なものと見なされ(ここから「自然」が規範としての意味を持ち始める)、それを共有しないものは、わたしたちではないもの=「普通」でないものとして否認される。それは、常に解釈の規準を提示し、それを共有できないものは排除し、それを外れるものには欠陥とか劣性といった否定的なまなざしのもとで自らを見ることを強いる 

文脈の赤字部分に注目してください。

  

(解答) 2

 

問5

【2】段落の「ではなぜ、わたしたちは〔 A=意味 〕の境界にこのようにヒステリックに固執するのだろう。それは、わたしたちが「~である/~でない」というしかたでしか自分を感じ、理解することができないからではないだろうか。」、

7】段落のわたしはだれかという問いは、わたしはだれを〈非―わたし〉として差異化(=差別)することによってわたしであり得ているのか、という問いと一体をなしている

【8】段落の「わたしはだれ?」ーーそれは、おそらく、〈わたし〉を形作っている差異の軸線をそのつど具体的なコンテクスト(→「文脈。脈絡」という意味)に則して検証していくところでしか答えられないであろう。 

に着目してください。

 

(解答) 1

 

ーーーーーーー

 

【要約】

わたしたちは目の前にあるものを、なんであるかと解釈し、区分けしながら生きている。なぜなら、わたしたちが、「~である/~でない」というしかたでしか、じぶんを感じ、理解することができないからである。わたしたちは、わたしたちでないひとを知ることをとおしてしか、じぶんを知ることができない、といえるのである。

 

【出典】

本問は以下の目次の中の「2 じぶんの内とじぶんの外」の一節です。

 

【目次】
1  爆弾のような問い
2  じぶんの内とじぶんの外
3  じぶんに揺さぶりをかける
4  他者の他者であるということ
5 「顔」を差しだすということ
6  死にものとしての「わたし」

 

 

(3)本書『じぶん・この不思議な存在』の解説

 

 ①総説

 本書『じぶん・この不思議な存在』」の冒頭に、以下のような、「問題提起」の一節があります。

「  わたしってだれ?

    じぶんってなに?

 だれもがそういう爆弾のような問いを抱えている。

 爆弾のような、といったのは、この問いに囚(とら)われると、いままでせっかく積み上げ、塗り固めてきたことがみな、がらがら崩れだしそうな気がするからだ。

だれもが、人生のなかで何度も何度もこの問いを口にする。

あるいは、ひとりごちる。

あるいは、そのような問いの切迫を、それと意識することなく感じている。

そして、そのように問うことじたいが、どうやらこの問いのうちに潜んでいる不安をあおりたてることになっているらしいことも、うすうすは気がついている。


 本書の内容、つまり、上記の「問題提起」に対する解説は、以下の、本書の「エピローグ」に要約されています。

「わたしがこの本のなかで伝えたかったことはただ一つ、〈わたしはだれ?〉という問いに答えはないということだ。

 とりわけ、その問いを自分の内部に向け、そこに何か自分だけに固有なものをもとめる場合には。そんなものはどこにもない。

 じぶんが所有しているものとしてのじぶんの属性のうちにではなくて、誰かある他者にとっての他者のひとりでありえているという、そうしたありかたのなかに、ひとはかろうじてじぶんの存在を見いだすことができるだけだ

 問題なのは、つねに具体的な「だれか」としての他者、つまりわたしの他者であり、したがって〈わたしはだれ?〉という問いには一般的な解は存在しないということである。

 ひとはそれぞれ、自分の道で特定の他者に出会うしかない。」 ( P 176 )

 

 

②  「自分さがし」・「自分の個性」について

 本書は本来、これらの本質を解説しているとも言えます。

 しかし、本書の内容がかなり難解な側面を有しているので、当ブログでは、ここで、改めて、これらについて解説します。

 

 約30年前の高度消費社会の時期から、「自分探し」・「わたし探し」ということが流行し始めました。

 主に、小学校・中学校教育、マスコミの商業戦略( ファッション・化粧品のCM等 )の影響もあって、日本社会における一部の人々は、「じぶんらしい個性」を闇雲に模索してきました。

 そのバカバカしい、反知性主義的ブームの具体例として、「キラキラネーム」が挙げられます。 

 とても読めないような、判読不能な名前すら、あります。

 暗号の世界に迷い込み、「名前の機能」を喪失しています。

 「キラキラネーム」については、最近の難関大学入試の国語(現代文)・小論文論点になっています。

 このブログで最近、記事として発表していますので、こちらも参照してください。

 

gensairyu.hatenablog.com

  

gensairyu.hatenablog.com

 

 この反知性主義的ブームの前提には、「自分の個性」が存在するという、根拠のない確信があるようです。

 しかし、「自分の個性」などとというものが、本当にあるのでしょうか?

 

 自分の中を探せばどこかに「じぶん」らしさがあるというのは、単なる幻想にすぎません。

 なぜなら、「固有な個性」を具体的に表現する道具が、主に形容詞、形容動詞という、一般的に使用されている語句だからです。

 それは、「真にオリジナルな個性」を、本来的に表現できないことを意味しているのです。

 さらに言えば、「じぶん」という名詞も、単なる一般名詞にすぎません。

 自分の中を探しても「じぶん」は見当たらないし、それ自体、単なるフィクションにすぎないのです。

 そうだとすれば、どのように解決策を考えればよいのでしょか?


 鷲田氏は、ここで「他者の他者であること」という「視点」に注目しています。

「  他者にとって意味のある他者たりえているかが、わたしたちがじぶんというものを感じられるかどうかを決めるというわけだ。

 母親に「この子とはそりが合いません」と言わせたら勝ちである。

 母親はいよいよ子どもを別の存在として認めたのだから。

 逆に、風邪で数日学校を休んだ後、学校に戻っても何の話題にもされなかった子どもは不幸である。

 他者のなかにじぶんがなにか意味のある場所を占めていないことを思い知らされたのだから。

 ときには恨まれ、気色わるがられたっていい。

 他人にとってひとりの確実な他者たりうるのであれば。」 ( P 146 )


 以上のように考えて、

 《『自分らしくあらねばならぬ』という強迫観念 》から自由になることについて考えてみることも大切だ、と鷲田氏は指摘するのです。

 

 鷲田氏は、R・D・レインの『自己と他者』から、一人の患者のエピソードを紹介しています。彼は、看護婦に一杯のお茶を入れてもらって、「だれかがわたしに一杯のお茶を下さったなんて、これが生まれてはじめてです」と語りました。

 ただ「誰かのために何かをする」ということ、そして、それ以上でも以下でもないということは、ふつう考えられているよりもずっと難しいことだと、鷲田氏は述べます。

 誰かに何かを「してあげる」という意識が働くとき、私は相手を「助けられる人」、つまり私の行為の客体にしてしまうことになります。このとき、他者は私の中に取り込まれてしまっています。

 こうした関係に陥ることなく、他者を他者として遇し、私もまた他者にとっての他者として遇されるような関係の中で、はじめて私と他者の双方が固有の存在になることができる」と鷲田氏は言います。

 

 こうして鷲田氏は、「私」の固有性とは、「他者の他者」となることだ、と主張します。

 この点について、鷲田氏は、実に的確な引用を提示しています。

「じぶんらしさ」というものは、イメージとして所有すべきものではなく、じぶん以外のなにかあるものを求めるプロセスのなかでかろうじて後からついてくるものである。

 じぶんが何に対してじぶんであるかという、その相手方がいつもじぶんを計る尺度である。」 (キルケゴール)

 

 ③  本書のキーワードである「他者の他者としての自分」を、鷲田氏は他の著書でどのように説明しているのか?

 

 鷲田氏は、本書のキーワード「他者の他者としての自分」を、他の著書で以下のように説明しています。

 これらを、読むことで、より理解が深まるでしょう。

 主なものを挙げます。

 

  まず、『大事なものは見えにくい』の中では、以下のように記述しています。

「  <わたし>の存在は、だれかある他者の宛先となることで、はじめてなりたってきた。

 <わたし>の存在とは、だれかの思いの宛先であるということ

 ヘーゲルやキュルケゴールといった哲学者の言葉を借りれば、「他者の他者」であるということだ。

 わたしわたし以外のだれかの他者であることによってはじめて、いいかえると、だれかある他者に「あなた」「おまえ」と名指されることによって、わたしたちはひとりの<わたし>になる。

 だから、というかたちでの、わたしにとっての二人称の他者の喪失とは、「他者の他者」たるわたしの喪失にほかならない。」 (『大事なものは見えにくい』P36 )

 

 だから、私にとっての大切な人の死は、あれほど悲しいのです。

 その悲しみの大きさの理由が、これを読んで、初めて分かります。

 

 次に、『「聴く」ことの力』では、以下のように説明しています。

「だれかに触れられているということ、

だれかに見つめられていること、

だれかからことばを向けられているということ、

これらのまぎれもなく現実的なものの体験のなかで、

その他者のはたらきかえの対象として自己を感受するなかではじめて、

いいかえると「他者の他者」としてじぶんを体験するなかではじめて、

その存在をあたえられるような次元というものが、<わたし>にはある。

<わたし>の固有性は、ここではみずからあたえうるものではなく、

他者によって見出されるものとしてある。」 ( P 126 )

 

 さらに続けて、鷲田氏は、以下のように述べています。

「  「わたし」、という(一般的な、社会的な)言葉を使うときわたしという存在はすでに集団の中に消えていく。(→この点は、この記事で解説しました)

「わたし」が「わたし」を見つけられるのは、「他者から他者として見られたときだけ」である。

 

  「他者の他者として自己」と「他者」の「関係」は、「自他の補完性」、あるいは、「自己と他者の関係性」とみることができます。

 このことについて、2000慶應大学文学部小論文で鷲田清一氏の論考(『「聴く」ことの力』)を題材として、以下のような問題が出題されました。

 

「(問1) 自己と他者の補完性を著者はどのように考えているのかまとめなさい (300字以内)。

(問2)「他者の他者としてのじぶん」とは何か述べなさい (400字以内)。」

 

 この問題も、今回の記事に関連しています。

 

 ④  まとめ 

 

 今回の記事は、言葉や論理では理解できるものの、実感としては、よく分からない側面があるかもしれません。

 マスコミからの情報、小学校・中学校・高校などの教育現場で指導、一般常識と、鷲田氏の主張が大きくズレているからでしょう。

 しかし、それでよいのです。

 「人生上の真理」と一般常識が全く違う場面は、いくらでもあります。

 

 人生には「不可解な側面」が付きまといます。

 それを簡単に割り切るのがマスコミであり、一般常識です。

 それはそれでよいのです。

 一般社会は、それらをスルーして、進行するのが常であり、それはそれで問題はないのです。

 

 一方で、哲学や難関大学入試の世界では、まさに、「人生上の不可解な側面」が問題になるのです。

 「人生上の不可解な側面」を簡単に割り切らずに、いかに対応していくべきか?

 

 この点について、鷲田氏は本書『じぶん・この不思議な存在』で、以下のような見解を述べています。

  

「  成熟というものは、同一であることを願うひとにしか訪れない。

 未熟という名の非同一性。

 つまりはアイデンティティの不在。

 一貫性のなさ、持続性のなさ、かたちのなさ。

 「青二才」とか、「未熟者」というのは、それこそ子どものように、本気でなににでもなろうとするし、ついさきほど言ったこともすぐに裏切るほど気まぐれで、あきっぽく、節操がないし、根は続かず、片時もじっとしていない。

 けれども、ここで未熟という場合の「未」は「まだない」ではない。

 ここでひとは、成熟するよりも速く「青二才」にならなければならないのだ。

 そうでなければ、ふたたび、かたちへの抑えがたい欲望に溺れてしまうことになるだろう。」 ( P82 )

 

 さらに、鷲田氏は本書で、こうも述べています。

「  人生を一つの説話でリニアに語りだし、〈わたし〉の存在を透明なもの、クリアなものにしようという、わたし達の欲望。

 その根深さによくよく目をこらす必要がある。

 わかりやすいっていうのは、きっと死ぬほどたいくつなはずだ。

 存在が不可解である、意味が不確定であるからこそ、わたしたちはそれに魅かれる。

 恋愛だって、賭け事だって、学問だって、人がのめりこむのは、それを前にしていると、自分の淵から、何か理解できないもの、自分ではコントロールできないものが押しよせてくるからだ。

 わかった顔をしているひとより、ぼうぜんとして「わからない・・・」とつぶやく無防備なひとのほうが、たぶん信用できる。」 (P84 )

 

 言葉や論理では理解できるものの、実感としては完全に納得できない、よく分からない側面。

 人生上の、曖昧な側面の存在。

 分からない状態の継続。

 しかし、それでよいのです。

 それを、手早く処理する必要は、ないのです。

 「人生上の不可解な側面」を、手早く処理することなど、できるわけがないのですから。

 

 さらに、『わかりやすいはわかりにくい?-臨床哲学講座』(ちくま新書)で述べられている以下の言葉には、深く考えさせられます。


「生きてゆくうえで本当に大事なこと(例えば、私は誰とか、愛とか)には、たいして答えがない。これらの問いは、問い続けることが答える事だ。」

 

 

 (4)当ブログにおける、鷲田清一氏・関連の記事の紹介

 

gensairyu.hatenablog.com

 

gensairyu.hatenablog.com

  

gensairyu.hatenablog.com

 

gensairyu.hatenablog.com

 

gensairyu.hatenablog.com

 

(5)当ブログにおける、「関係性」関連の記事の紹介

 

gensairyu.hatenablog.com

 

gensairyu.hatenablog.com

 

ーーーーーーーー

 

今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

ご期待ください。

 

  

 

じぶん・この不思議な存在 (講談社現代新書)

じぶん・この不思議な存在 (講談社現代新書)

 

 

大事なものは見えにくい (角川ソフィア文庫)

大事なものは見えにくい (角川ソフィア文庫)

 

   

頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

 

 

 私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。

https://twitter.com/gensairyu 

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現代文・小論文キーワード・最新オススメ本『現代思想史入門』船木享

現代文・小論文キーワード・マスターのためのオススメ本→『現代思想史入門』(船木享・ちくま新書)→2017早大人間現代文に、早くも4000字の論考が出題されました。

 この記事の構成は、以下のようになっています。

(1)キーワードをマスターしよう→これこそが、効果的・合理的な学習法

(2)本書をオススメする理由→6つの理由

(3)本書の中から、これから出題が予想される論考の引用→キーワード赤字で「強調」しました

(4)目次など、本書の構成の詳細→予想問題として、注目するべき項目を赤字で指摘しました

 

(1)キーワードをマスターしよう→これこそが、効果的・合理的な学習法

 

 これから、私が最近、キーワード集として使用を始めて、かなり役に立っている新刊本を紹介していきます。
 それは、『現代思想史入門』(船木亨)(ちくま新書・2016年発行)(1200円+税)(約570ページ)です。

 以前の記事(→下に、リンク画像を貼っておきます)で紹介したオススメ本と組み合わせて利用すると、より、よいと思います。

 

  現代思想史入門 (ちくま新書)

 

 

 

 

 

 

gensairyu.hatenablog.com

 

 入試現代文(国語)・小論文の得点力アップのためには、キーワードのマスターが必要です。

 私は、現代文・小論文の長年の指導経験から、キーワードのマスターや語彙力・単語力の増強をしないで、問題演習をすることは無意味であると確信しています。


 評論文が読めるようになるための近道は、独特で難解な用語を、根本から理解することです。
 そのことは、論点・テーマを理解することにも、なります。

 キーワードや語彙・単語の知識が不充分なまま、現代文・小論文の問題を解いてみても、結局は、それらの単語力不足を痛感するだけです。

 つまり、まったく、時間の無駄な消費なのです。

 ここで言う「マスター」とは、「理解」の後に「暗記」することを意味します。

 そうでなければ、「暗記」しても、すぐに忘れてしまいます。

 また、真に「理解」しなければ、入試の現場で応用することは、できません。


 問題は、キーワード・マスターのために、どのような本(参考書・問題集)を選択するか、です。

 これが、入試合格のための、重要なポイントです。

 勉強時間を増やすことも重要ですが、参考書・問題集選択も重要なポイントなのです。


 「参考書選択」については、私は、少々理解に時間がかかっても、きちんとした内容のある本を選択するべきだと思います。

 「簡単に、すぐに分かること」を売り物にしている本は、早く読めるかもしれませんが、「真の理解」・「確実な暗記」には、つながりません。

 このことは、皆さんにも、思い当たる経験があると思います。

 

 

(2)本書(『現代思想史入門』船木享)をオススメする理由→6つの理由

 私は、以下の6つの理由により、本書をオススメします。

 理由を列挙した後で、それぞれの理由について詳しく説明します。

 

① 筆者が一流の哲学者で、入試頻出著者だからです。

② 丁寧に、分かりやすく書かれているからです。

③ 本書の基本的方針・構成が素晴らしいからです。

④ 本書が「引く事典」であると同時に、「読む事典」にもなっているからです。

⑤ 本書が、最新キーワードを網羅的に取り上げているからです。

⑥ 「目次、事項索引、人名・書名索引」が丁寧に、詳細に作成されているからです。これらは、全部で約30ページもあります。

 

ーーーーーーーー

 

①  本書をオススメする第1の理由は、筆者が一流の哲学者で、現代文・小論文の入試頻出著者だからです。

 船木亨氏は、哲学者です。専修大学文学部哲学科教授で、放送大学客員教授です。専攻はフランス現代哲学です。哲学は入試頻出分野です。 

 最近の現代文・小論文における入試頻出著者です。

 実際に、2016年に発行された『現代思想史入門』から、約4000字の論考が、早くも、2017早稲田大学人間科学部の国語(現代文)に出題されています。

 出題された部分は、第1章「生命―進化論から生命政治まで」の一節です。

 内容は、「ダーウィンの進化論が現代思想に与えた重大な影響」についてです。


 今の時期は、まだ本年度の入試情報が出そろっていません。これから、新たな情報が出そろってきて、本書からの出題情報がありましたら、この記事に追加の記述をする予定です。
 ともあれ、本書は将来的に、現代文・小論文の頻出出典になるような格調の高い論考です。
 最新キーワード集として有用な上に、将来的に予想問題の宝庫の可能性もあります。 

 

②  本書をオススメする第2の理由は、丁寧に、分かりやすく書かれているからです。

 私が、本書を、すすめる第2の理由は、本書が、ある程度、大学入試の現代文(国語)・小論文を意識して、受験生レベルにも理解できるように丁寧に分かりやすく書かれているからです。

 つまり、筆者は、学術的な、難解な思想専門用語をなるべく回避して、広く社会一般に向けて、思想史や自己の見解を語ろうとしています。

 従って、安心感を持って読み進めることができます。

 

③  本書をオススメする第3の理由は、本書の基本的方針・構成が素晴らしいからです。

 本書の基本的な方針は、以下のようになっています。 アマゾンの「ブック紹介」から引用します。

( 赤字は当ブログによる「強調」です )

「 二〇世紀のイデオロギー対立は終焉したが、新たな思想・哲学が出現していないように見える。近代のしがらみを捨てて、いま一度、現代思想の諸地層をもっとつぶさに見ていこう。そこに新たな思考が芽生えるきっかけが見つかりそうだ。生命精神歴史情報暴力の五つの層において現代思想をとらえ、それぞれ一九世紀後半あたりを出発点として、五度にわたってさらいなおす。現代思想の意義を探りつつ、その全体像を俯瞰する、初学者にもわかりやすい新しいタイプの入門書。」  ( アマゾンの「ブック紹介」より引用 )

 

 『現代思想史入門』の「はじめに」には、次のような記述があります。

「  本書が採用するのは、地層学になぞらえられた思想の流れと、それに断層を見いだしていく仕方である。

 重要なのはその時期を生きているひとびとの脳裏に生まれてくる発想であり、その表現の変遷である。おなじ言説が違う意味で使われるようになり、違う言説がおなじ意味で使われ続ける。そのありさまを知ることが、その時期の「思考」を理解するということである。
 そうした理由から、生命精神歴史情報暴力という五つの観点をとって五つの層と成し、それぞれ一九世紀後半くらいの出発点から、現代思想の歴史を五度にわたってさらえなおすことにした。それらの層の記述を順に重ねていきながら、「現代思想」と呼ばれるべきものの、それぞれの意義とその全体像が見えてくるようにしたつもりである。(→5つの視点(キーワード)から、思想史・思想界を分析・概観するということです)

 それぞれの章に対応するが、

 その第一の層は、進化論の衝撃から現代の生命政治にいたる生命概念の地層である。他の生物と共通する「生命」の新たな意味が、思想的にも政治的にもひとびとを捉えていく。

 第二の層は、それが宇宙進化論にまで進むあいだに定義されなおしていく人間概念の地層である。生命に対抗して、宗教や思想を形成してきた精神の地位を復活させようとした数々の試みである。

 第三の層は、そのとき変形されていく歴史概念の地層である。人間の歴史としてではなく、すべてが歴史として説明されるようになる結果として生じた「知」の変遷である。

 第四の層は、歴史が普遍的登記簿になってだれもが参照利用できるようになったポストモダンの地層である。情報化し、価値の相対化によって生じた現代社会の様相である。

 第五の層は、人間が新たな使命を与えられながらそこへと消滅していく機械概念の地層である。理性的主体としての「人間」が、社会形成においては「暴力」に囚われていたのに対し、機械との関わりにおいて生きられるようになっていく。

 これらの五つの層のそれぞれに見いだされるのは、社会状況と人間行動の捉えがたさ、混沌と冥(くら) さであるが、それらを重ねあわせてみることによって、この一五〇年の現代思想の重畳した諸地層のさまと、それぞれのよってきた由来や経路を捉えることくらいはできるだろう。

 

④  本書をオススメする第4の理由は、本書が「引く事典」と同時に、「読む事典」にも、なっているからです。

 読み物としてもボリュームがあります。

 約570ページもあり、読みごたえがあります。

 そして、筆者が分かりやすい比喩や、適切な引用をしているので、読みやすくなっています。

    「読む事典」にもなっていることで、そのまま、現代文・小論文の問題文本文を読解する訓練になります。

 現在の入試頻出著者の文章を、どんどん読めるのです。

 

⑤  本書をオススメする第5の理由は、最新のキーワード・論点を網羅的に取り上げているからです。

 IoT(イォット)についても、詳しい説明があります。

 これは、本書が2016年度に発行しているからこそ可能なことであり、他のキーワード集には決して真似のできないことです。
 そのために、説明が、現代という時代背景を踏まえた、分かりやすい正確なものになっています。

 

 また、大学の教員の現在の問題意識を知ることができます。

 これは、入試現代文・小論文において、とても有利になります。

 

⑥  本書をオススメする第6の理由は、「目次、事項索引、人名・書名索引」が、丁寧に詳細に作成されているからです。

 これらの「目次、事項索引、人名・書名索引」は、小さな活字で、全部で30ページ近くもあります。

 

 本書の「目次」の大筋は、以下のようになっています。

序章 現代とは何か
第1章 生命―進化論から生命政治まで
第2章 精神―宇宙における人間
第3章 歴史―構造主義史観へ
第4章 情報―ポストモダンと人間のゆくえ
第5章 暴力―マルクス主義から普遍的機械主義へ 

 

 なお、本書の詳細な目次については、この記事の最後に、要注意事項は赤字化して、引用しています。

 

 この種の字典・解説書物・参考書は、「索引も命」です。

 手に取ると分かりますが、索引だけで、かなりのページです。

 索引を、一通りめくるだけでも、手間が、かかります。

 しかし、それがいざ、特定の項目を調べる時には役立つのです。

 索引を見ていくだけでも分かりますが、大学入試現代文・小論文における重要単語は、特に説明が丁寧になっています。

 いくつか、参照ページ数の例を挙げます

 
「アイデンティティ」→15箇所、

「解釈」→25箇所、

「記号」→15箇所、

「構造主義」→40箇所、

「進化論」→45箇所、

「欲望」→30箇所、

 

 これらの単語は、入試頻出キーワード・論点ですが、かなり難解です。

 しかし、これだけのページを読んでいけば、理解が進むと思います。

 キーワードの多面的理解が可能になります。

 

 なお、前述のように、私は、本書から、来年度以降の入試現代文・小論文に出題される可能性が高いと考えています。

 そこで、今後、出題が予想される箇所について、この後に、幾つか、解説していきます。

 

 

 現代思想史入門 (ちくま新書)

 

 

 

 

 

 

(3)今後、出題が予想される論考→2箇所(ほんの一例です) 

 

( 概要です )

( 赤字は当ブログによる「強調」です )

( 青字は当ブログによる「注」です )

【 第1章 生命   4 生命政治   生と統計・生と死 】
「いまのひとびとには、健康のためにみずから進んで隷属しようとする思考があり、それを促すための膨大な情報が流されている。厚生権力は、行動ばかりでなく特定の思考を促進して、自由で平等であるはずのひとびとをいいなりにしようとしている。

 喫煙も肥満も運動不足も、一定割合のひとに深刻な状態をもたらすのは確かである。それは統計学的に正しい。だが、だからこそ逆に、統計学的には、一定割合のひとは、それにもかかわらず健康であり続け、あるいはほかのことが原因で死ぬのである。「裏は真ならず」、喫煙も肥満も運動不足も、それを解消すればするほど健康になるというわけではない。

 あるひとたちの初期のガンを切除させるために、自分も毎年のようにX線検査を受け、それがもとでガンになる確率を高めていく、しかも自分についてはしばしば末期ガンでしか発見されないというのは、一体どのような取引なのであろか。喫煙しているひとが、肺ガンで死ぬ確率よりその他の原因で死ぬ確率が高いにもかかわらず、好きな喫煙をやめてしまうというのは、一体どのような取引なのであろうか。似たようなことだと思うのだが、風呂で水死する確率が高齢者は高いからといって(2014年に4866人の9割)、かれらが風呂に入るのを禁じるべきだと、はたしてわれわれは考えるだろうか。

 厚生権力はこのように「ひとの生命を救う」というスローガンのもとに、こまごまとした生活の指針を発してきた。ひとが何のために生まれ、なぜ死ななければならないかについては答えられないのに、すべてのひとを「死に対する戦争」に巻き込んで、生きているあいだのすべてを健康に捧げるようにと強制する。それは、それぞれのひとに自分の身体を配慮させることによって、人間であるとはどういうことかについての思考の枠組を変更させようとしているともいえる。

 

……………………………

 

(当ブログによる解説)

 つまり、「人生」=「常に、自分の健康のみに注意」、というバカバカしい展開になるのです。

 今は、まさに、一部の人々は、この状況になっています。 

 病人でもない人々が、日々、「自分の将来の病気への不安」に思い煩うということです。

 一種の自主的な「精神的幽閉」です。

 見事な、反知性主義的状況と評価できます。

 

 

 【第5章 暴力   4 ポスト・ヒューマニズム   機械としての人間】

自然と文化を分けて考える場合、機械はまさに人間の作るものだから文化であるが、ガリレイやデカルトによって、科学が研究すべき自然もまた機械であるとみなされた。「宇宙は巨大な時計のようなものだ」というのであるが、人間が作ったものをモデルにして自然を考えはじめたのに、その自然のなかの機械が人間をも作りだしたと考えることになるのである。

 当初は、人間精神は、機械ではないと考えられていた。自然法則を数学を使って見いだして、それを応用して機械をつくるくらいであるから、機械とおなじ本性のものであるはずはない。何かを創造したり、発見したりすることのできる機械はあり得ないとされていた。それに対し、18世紀に、ラ・メトリの『人間機械論』という書物が現われた。「人間機械論」とは、宇宙や自然は機械だとする勢いで、人間身体をも機械とみなし、そのように認識する精神の働きも、 という機械の働きにすぎないと主張する思想である。

 ラ・メトリ以降も、その復刻版にすぎないような思想がつぎからつぎに出てきて、現在では脳科学と呼ばれている。現代の生物学者ドーキンスも、進化の過程で意識が自然発生したと述べていたが、進化を認識するほどの精神が進化によって発生する理由は、進化論のなかには見あたらない。現代の宇宙物理学者ホーキングも、宇宙とはみずからを認識する知性を宇宙のなかに作りだすと述べていたが、つじつまあわせ以上の何があるのか。

 もし、人間精神をそのまま脳という機械であるとみなすなら、機械とみなすその認識の働きを、表象の生産という機械の効果にしてしまう。(→この辺から、意味不明になっています。筆者の論考の文脈が混乱しているのではなく、脳科学の論理に混乱・こじつけがあるのです。) すると、機械として表象されたものは、脳という機械が作りだした効果にすぎないのだから、機械として理解された脳自体が何のことか分からなくなってしまう。それでは脳の説明にはなっていない。それは、何かが分かったかのようなイメージだけを与えてくれる混乱思考なのである。

 

……………………………

 

(当ブログによる解説)

 この論考は、「脳科学批判」として秀逸だと思います。

 最近では、機械的人間観に基づく脳科学は暴走気味で、オカルト的な側面さえ感じるようになっています。

 この暴走気味の脳科学に対しては、批判的な論考が散見されるようになってきています。

 「脳科学批判」は、近いうちに、入試流行論点になると思います。

 この点については、近日中に、このブログで予想論点記事を発表する予定です。

 

 

 (4)本書の目次の詳細(本書からの引用)→要注意箇所の指摘→赤字で「強調」しました

  

 ( 赤字は当ブログによる「強調」です )

「  目次 

はじめに
今日を読み解く思想/近代の行きづまり/ツリーからリゾームヘ/現代思想の諸地層

序章  現代とは何か 
1 近代の終わり
ソーカル事件/思想の難解さ/宴のあと
2 現代のはじまり
時代としての〈いま〉/一九世紀なかばの生活/歴史のなかに入っていく哲学/シェリー夫人の「フランケンシュタイン」/われわれのなかの怪物

 

第1章 生命ーー進化論から生命政治まで
1 進化論→(この部分が、前述のように、2017早稲田大学人間科学部・国語(現代文)に出題されました)
生物学と自然科学/ドリーシュの「生気論」/ダーウィンの「進化論」/哲学から科学が独立する/ヘッケルの「系統樹」
2 優生学
優生思想/ゴールトンの「優生学」/タブーとなった優生学/出生前診断
3 公民権運動と生命倫理
アメリカ公民権運動/フェミニズム/生命倫理生命倫理のその後
4 生命政治
医療のアンチ・ヒューマニズムフーコーの「ビオ-ポリティーク」/人口政策/大病院の起源/臨床医学の病気観/政策と産業のための医療政策と産業のための医療/病人の側から見た病院/予防医学/生と統計/死と生/病気における苦痛/フーコーの「狂気の歴史」健康な精神なるもの排除と治療
5 トリアージ社会
知と権力の結合/ベンタムの「パノプティコン」/アガンベンの「剥きだしの生」/生命の数/統計的判断の不条理/道徳の終焉/国家と健康神なき文化的妄信

 

第2章 精神――宇宙における人間
1 進化論の哲学
スペンサーの「文明進化論」/ジェイムズの「プラグマティズム」/ベルクソンの「創造的進化」/ホワイトヘッドの「有機的哲学」/ビッグバン仮説/宇宙進化論/宇宙と神/歴史は進化の普遍的登記簿に
2 西欧の危機
シュペングラーの「西洋の没落」/フッサールの「西欧的なもの」/新たな哲学へ
3 生の哲学
存在と生/ディルタイの「解釈学」/ギュイヨーの「生の強度」/ニーチェの「ニヒリズム」/神の死
4 人間学
シェーラーの「宇宙における人間の地位」/文化人類学レヴィ=ストロースの「構造人類学」/野生の思考/哲学的人間学

5 実存主義とは何だったのか

有神論と無神論/サルトルの「実存主義」/ハイデガーの「アンチ・ヒューマニズム」/存在論的差異/死に向かう存在/存在と言葉/存在か無か/〈わたし〉と〈もの〉/メルロ・ポンティの「両義性の哲学」/進化と宗教

 

第3章 歴史――構造主義史観
1 歴史の歴史
古代・中世・近代/歴史の概念/ヘーゲルの「歴史哲学」/ポパーの「歴史主義の貧困」/宇宙の歴史と歴史学/ナチュラルヒストリー/存在したもの/普遍的登記簿/歴史とポストモダン
2 現代哲学
哲学の終焉のはじまり/哲学の四つの道/哲学という思想/生か意識か/現象学/フッサールの「現象学的反省」/時間性/ベルクソンの「純粋持続」/ドゥルーズの「差異の哲学」/現代哲学の終焉
3 論理実証主義
心理学と心霊学/フレーゲの「意味と意義」/ウィトゲンシュタインの「語り得ないもの」/英米系哲学
4 構造主義
歴史言語学派/ソシュールの「差異の体系」/構造主義の出発/構造主義の三つの課題/ロラン・バルトの「エクリチュール」/構造主義的批評/フーコーの「エピステーメー」/構造主義的歴史/フーコー学
5 象徴から言語へ
メルロ=ポンティの「生の歴史」/象徴と記号/フーコーの「人間の終焉

 

第4章 情報――ポストモダンと人間のゆくえ

1 ポストモダニズム
建築のポストモダン/メルロ=ポンティの「スタイル」/ベンヤミンの「アウラ」/芸術のポストモダン/文学のポストモダン/近代文学/映画のポストモダン

2 ポストモダン思想
リオタールの「ポストモダンの条件」/大きな物語/思想のポストモダンポスト構造主義/デリダの「脱構築」/ロゴス中心主義/デリダ=サール論争/前衛とポストモダニスト/状況なるもの/ポストモダン思想のその後

3 情報化社会論
ダニエル・ベルの「イデオロギーの終焉」/アルチュセールの「国家イデオロギー装置」/トフラーの「未来学」/ボードリヤールの「シミュラークル」/道徳と芸術のゆくえ/価値の相対化/マンフォードの「ポスト歴史的人間」

4 世界と人間とメディア
ルネサンス/世界の発見/人間の発見/時計の発明/大衆の出現とマスメディア/大衆社会論/マクルーハンの「メディアはメッセージである」/文明進歩の地理空間/帝国とグローバリゼーション管理社会論

5 マルクス主義と進歩の終わり
文明の終わり/マルクスの「共産主義革命」/資本主義社会/共産主義社会/歴史の過剰と欠如/人間の脱人間化と世界の脱中心化/サルトルの「自由の刑」/哲学のゆくえ

 

第5章 暴力――マルクス主義から普遍的機械主義
1 革命の無意識
五月革命/ライヒの「性革命」/精神分析/フロイトの「無意識」/エディプス・コンプレックス/精神分析のその後/ラカンの「鏡像段階」/構造化された無意識/どのような意味で構造主義
2 フランクフルト学派
ベンヤミンの「暴力論」/神的暴力/亡命ユダヤ人思想家たち/アドルノとホルクハイマーの「啓蒙の弁証法」/フロムの「自由から逃走」/マルクーゼの「人間の解放」/資本主義からの逃走

3 アンチ・オイディプス
ドゥルーズとガタリの「欲望する機会」/狂人たち/無意識は表象しない/国家/野生と野蛮/資本主義社会/メルロ=ポンティの「現象的身体」/マルクスの「非有機的肉体」/フロイトの「死の衝動」/アルトーの「器官なき身体」/ドゥルーズとガタリの「千のプラトー」/自由から逃走へ
4 ポスト・ヒューマニズム 
現代フランス思想/ニーチェの「神の影」/機械としての人間/カフカの「エクリチュール機械」/自然と文化の二元論/機械としての人間/カンギレムの「生命と人間の連続史観」/機械一元論哲学/ドゥルーズとガタリの「普遍的機会主義」
5 機械と人間のハイブリッド
ハラウェイの「サイボーグ宣言」/女性/人間はみな畸形である/ハラウェイの「有機的身体のアナロジー」/機械と生物のネットワーク/死の衝動と生の強度/生の受動性

 

おわりに
今日の思考/哲学の栄枯盛衰/非哲学の出現/現代哲学から現代思想へ/現代思想の諸断層

 

あとがき
事項索引
人名・書名索引

 

(5)筆者紹介


船木  亨 (ふなき  とおる)
1952年東京都生まれ。東京大博士(文学)。東京大学大学院人文科学研究科(倫理学専攻)博士課程修了。専修大学文学部哲学科教授、放送大学客員教授。専攻はフランス現代哲学。

著書として、

『ドゥルーズ』(清水書院 Century books 人と思想 1994)、

『ランド・オブ・フィクション ベンタムにおける功利性と合理性』(木鐸社 1998)、

『メルロ=ポンティ入門』(ちくま新書 2000)、

『<見ること>の哲学 鏡像と奥行』(世界思想社 2001)、

『デジタルメディア時代の《方法序説》 機械と人間とのかかわりについて』(ナカニシヤ出版 2005)、

『進化論の5つの謎 いかにして人間になるか』(ちくまプリマー新書 2008)、

『現代哲学への挑戦』(放送大学教育振興会 2011)、

『差異とは何か <分かること>の哲学』(世界思想社、2014)

など。

 

 ーーーーーーーー

 

今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後の予定です。ご期待ください。

  

  

 

現代思想史入門 (ちくま新書)

現代思想史入門 (ちくま新書)

 

 

現代哲学への挑戦 (放送大学教材)

現代哲学への挑戦 (放送大学教材)

 

  

頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

 

  

5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

 

 

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2017早大国際現代文・解説・論点的中報告⑦・IT化社会・モラル

(1)2017では、センター現代文、東大、早大政経・法、学習院大、慶大経済(小論文)、大阪大、神戸大に続き、早大国際現代文にも、当ブログの予想論点記事が的中しました。

 2017でも、

①センター現代文(「科学論」)、  

②東大現代文(「科学と倫理」)、

③早大(政経)(法)現代文・学習院大現代文(「ポピュリズム」)、

④慶大経済小論文(「ソクラテス的思考」)、

⑤大阪大現代文(「文系の知」)、

⑥神戸大現代文(『考える身体』)

に続き、

早大国際教養学部現代文『「患者様」が医療を壊す』岩田健太郎)にも、当ブログの予想論点記事(  「 IT化社会の影・闇」、「科学論・モラル・信頼」 )が的中しました。

 つまり、2017早大国際現代文(『「患者様」が医療を壊す』岩田健太郎)に、当ブログの予想論点記事

「開設の言葉ー入試現代文の最新傾向ー重要な、気付きにくい2本の柱」

「国語予想問題『プロの裏切り・プライドと教養の復権を』神里達博」

が、的中しました。


 2016東大現代文ズバリ的中(全文一致)・2016一橋大現代文ズバリ的中(全文一致)に続く喜びです。

 そこで、今回は、2017早大国際現代文の問題解説をします。


 なお、これまでに発表した、

「2017の論点的中報告・問題解説記事①~④」については、

「2017の論点的中報告・問題解説記事⑤」に、リンク画像を貼っておきましたので、そちらを、ご覧ください。

  

gensairyu.hatenablog.com

 

gensairyu.hatenablog.com

 

 2017年度の早大国際の現代文問題(『「患者様」が医療を壊す』岩田健太郎)では、以下のような内容の論考が出題されました。

 論点は「医者・患者の目指すべき関係」です。

 

 最近の「医者と患者の関係」の悪化の原因は、患者の権利意識の高まり(悪平等主義)ではないか。
 患者が自らの権利意識を背景に、インターネット等の情報に基づいて、医者に無理な要求をしたり、医者を糾弾しようとすればするほど、医者から良好な医療を得ることが困難となる。

 それは、患者にとって損失である。
 そこで筆者が提案するのは「お医者さんごっこ」である。
 つまり、医療の場で患者は医者を専門家(プロ)として信頼し任せる。また、医者は、患者とのコミュニケーションを充分にとって全力を尽くす。
 このように、患者も医者も、大人として、演技することが、「医者と患者の関係」を改善することの近道である。

 

 今回の問題(『「患者様」が医療を壊す』岩田健太郎 )は、

「IT化社(情報化社会)のマイナス面」→「専門家よりもインターネット上の情報を優先する」、
「自己中心主義」→「社会全体の幼児化現象」・「現代日本社会における共同性軽視の風潮」、
「『平等』の内容を誤解したことによる、極端な平等主義」→「悪平等主義」・「エリート・専門家を尊重しない風潮」、
「『権利』の内容を誤解したことによる、異様な権利意識」、
「科学に対する根拠不明な懐疑主義」→「一種の偶像破壊か?」、


つまり、「反知性主義」、「近代思想・現代思想そのもの」、

に関連しています。


 つまり、これらの現象に対して、

「医療の充実」・「真の共同性の復活」には、🍎「専門家のプライドを尊重するために、専門家を信頼することの必要性」、

ひいては、「良好な人間関係の構築には他者を尊重・信頼する必要があること」を呈示して、

根本的な現代文明批判」をしているのではないのでしょうか?

 

 このように考えると、今回の2017早大国際・現代文の問題は、かなりの良問と言えます。

 来年度の国語(現代文・評論文)・小論文対策のために、この問題は、よく理解しておくべきだと思われます。

 

 今回の早大国際の現代文問題は、当ブログの、当ブログの予想論点記事

「開設の言葉ー入試現代文の最新傾向ー重要な、気付きにくい2本の柱」

「国語予想問題『プロの裏切り・プライドと教養の復権を』神里達博」

を読んでおけば、かなり、分かりやすかったと思われます。

 

 これら二つの記事のポイントを、以下に、再掲します。

 

 まず、
「開設の言葉ー入試現代文の最新傾向ー重要な、気づきにくい2本の柱」で述べたキーワード、「IT化社会のマイナス面」、つまり、 「IT化社会の影・闇を記述した箇所を再掲します。

ーーーーーーーー(再掲、スタート)

 

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入試現代文(国語)・小論文の最新傾向として、注目するべきポイントとしては、2つの大きな柱があります。

 

【1】1つの柱は、「 IT化社会の光と影と闇」です。

 この論点・テーマは、3・11東日本大震災の前から登場していたので、割と有名ですが、最近のスマホ(スマートフォン)の爆発的な流行により、新たな論点・テーマが発生しています。

 スマホは、それまでの携帯電話とは、まるで違うものです。それだけに、プラス面、マイナス面も、携帯電話と比較して、拡大化・深刻化するのです。

 私が、「 IT化社会の光と影と闇」と書き、「光と影」だけにしなかったのは、事態の深刻性を強調するためです。

 

【2】もう1つの柱は、「3・11東日本大震災の各方面に対する影響」です。

 

ーーーーーーーー(再掲、終了)

 

 次に、
「国語予想問題『プロの裏切り・プライドと教養の復権を』神里達博」
の中の、「プロ・専門家を尊重する必要性」について記述した箇所を再掲します。

 

ーーーーーーーー(再掲、スタート)

 

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(2)「プロの裏切りープライドと教養の復権を」の解説

(神里達博氏の論考)(概要です)

(赤字は当ブログによる「強調」です。青字は当ブログによる「注」です)

「今年を振り返りながら改めて思うのは、「プロのモラル」に関わる事件が多かったということである。

 杭工事のデータ偽装(「三井不動産レジデンシャル」・「旭化成建材」)は典型例だろう。そのような行為は、企業ブランドを大きく傷つけ、また業界全体に対する不信を招きかねない、重大な裏切りである。

 今年は他にも、40年以上にもわたって組織的に行政の目を欺いてきた「化学及(および)血清療法研究所(化血研)」の不正や、「東芝」の不正会計など、類似する事例が多数、報じられた。これらに共通するのは、なんらかの専門性をもって社会に対して仕事を請け負っていた者が、主として経済的利益を増やすために、信頼に背く行為を行っていた、という点である。私たちは、このような「プロの裏切り」に対して、どう対処すべきなのか。すぐに聞こえてくるのは罰則や監視の強化を求める声だが、ここでは少し違う角度から考えてみたい。まず、専門家のモラルとは、どのように維持されてきたのか、歴史的な流れを確認しておこう。

     *

 日本語でいう「プロ」とは「プロフェッショナル」の略語だが、英語の「Profess=明言する」から派生した言葉だ。これは元々、キリスト教世界において、特別に神から召喚(→「人を呼び出す」という意味)されて就くべき仕事、すなわち、聖職者、医師、法曹家の三つを指していた。そこでは専門的な訓練とともに、職に伴う倫理が求められたのは言うまでもない。そして、それを担保するのは、個人の自律もあっただろうが、同業者の相互チェックも重要な意味を持っていたと考えられる。自分たちの仕事のいわば「品質保証」は、職能共同体による自治によって担われてきたのだ。

 この点は伝統的な「職人」の世界も似ている。倫理を下支えするのは、技に対するプライドというべきものであったはずだ。

 だが近代に入ると、さまざまな仕事が社会的分業によって行われるようになっていく。これはまさに、「専門家=エキスパート」と呼ばれる人たちの増大を意味するのだ。典型例は「科学者」であろう。職業としての科学者が出現してきたのは、19世紀の欧州である。

 このようにして、多数の専門家によって社会が運営されるようになってくると、伝統的な職能共同体に属する「プロ」や「職人」の倫理は、社会の背景へと退いていく。このような社会構造の変容に対して、最も早く警告を発した者の一人に、スペインの哲学者、オルテガがいる。彼は、大衆社会の出現とは、誰もが専門家となり、しかし自分の専門以外には関心を持たない、「慢心した坊ちゃん」の集まりになることだと看破した。そうやって「総合的教養」を失っていくヨーロッパ人を彼は「野蛮」と嘆いたのだ。

     *

 今、日本で起こっていることは、そのさらに先を行くものにも見える。素人には分からない狭く閉ざされた領域に住む「専門家」が、いつの間にか社会全体の規範から逸脱し、結局は自己利益の増大、あるいは自己保身のために、社会を欺く。この事態は実に深刻だ。

 とはいえ、この状況はいずれ、世界中を悩ます共通の難問となるかもしれない。なぜなら近代の重要な本質が「分業」である以上、この世界は専門分化によってどこまでも分断されていく運命にあるからだ。

 ならば、この流れに抗(あらが)う方法はあるのだろうか。

 おそらく鍵となるのは、かつての「プロ」や「職人」が持っていた「プライド」と、失われた「教養」であると考えられる。すなわち、「目先の利益」や「大人の事情」よりも、自らの仕事に対する誇りを優先させることができるか、そして自分の専門以外の事柄に対する判断力の基礎となる「生きた教養」を再構築できるかどうか、ではないか。

 そのために私たちにもすぐできることがある。それは利害関係を超えた「他者」に関心を持つこと、そして、その他者の良き仕事ぶりを見つけたら、素直に敬意(リスペクト)を表明することだ。人は理解され、尊敬されてはじめて、誇りを持てる。抜本的解決は容易ではないが、できれば罰則や監視ではなく、知性尊敬によって世界を変えていきたい。」
(「プロの裏切り・プライドと教養の復権を」  2015・12・18「朝日新聞」月刊安心新聞)

 ーーーーーーーー

 (当ブログによる解説)

 「プロのモラル違反」は、国民の生命・健康・財産に重大な悪影響を及ぼすことが多いので、深刻な問題です。それだけに、この問題の対策は、緊急の課題です。

 神里氏の言うように、確かに「罰則」・「監視」では、根本的・本質的な解決にはならないのです。しかも、厳重な「罰則」や「監視」の中では、専門家たちの意欲・やる気は、どうしても減退していくでしょう。それでは、長期的視点から見て、社会にとって賢明な対策とは言えません。

 私も、本質的解決は、「知性」・「敬意(リスペクト)」によるしかないと思います。たとえ、実現困難な道だ、としてもです。

 そのためには、日本社会は、今こそ、歪んだ「悪平等主義」・「悪平等思想」を見直すべきです。「高い専門性」・「高い能力」のある人間を素直に高評価するべきなのです。

 それこそ、真の「個性重視」ではないでしょうか。「個性」とは、ファッションなどの外見的なものではありません。能力・技能こそ「真の個性」の最たるものです。

 また、これこそ、「真のグローバル化」です。欧米では、医師・弁護士・IT技術者専門性の高い技術者などの専門家・プロ・エリートの高評価は、当然のことです。

 だとすれば、専門家・プロ・エリートには、「素直に」「敬意」を表し、様々な待遇面でも、「それなりの高待遇」をもって対応するべきです。

 専門家たちがプライド・誇りを持って、気持ちよく、レベルの高い、きちんとした仕事をすれば、それが社会の長期的利益につながるのです。

 歪んだ「悪平等思想」から離れ、長期的視点から、物事を考えることこそが、賢明な道なのです。
 これこそが、今回の問題の根本的な解決策だと思います。

ーーーーーーーー(再掲、終了)

 

 「患者様」が医療を壊す (新潮選書)

 

 

 

 

 

 

(2)2017早大国際教養現代文の解説ー『「患者様」が医療を壊す』岩田健太郎

 

(問題文本文)(概要です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です)

 

「  賢い患者になりましょう。
 こんな言葉がもてはやされたことがあります。実は僕も、「患者はもっと賢くあるべきだ」と思っていたクチです。
 薬の名前くらいちゃんと覚えておかねばならない。病気についてもちゃんと勉強しておく。賢い患者にならねばならない、という理念はアメリカでは常識的で、僕も「それが正しい」と固く信じていました。
 〔  a  〕「賢い患者になる」というコンセプト(→「概念・考え方」という意味)は「勝ち組になりましょう」というコンセプトです。これは勝ち組の立場からの意見であり、上から見た見解です。もちろん、賢くなって良いですよ。でも、そうでなければならない、と決めつけるのはよくないのです。
 最近僕は、患者さんにだっていろいろなあり方があって良いのだと思うようになってきました。〔   b   〕、繰返しの名前とかしっかり覚えてくるのはよいことですよ。インターネットで自分の病気について勉強するのも素晴らしいでしょう。しかし、何事も過ぎたるは及ばざるがごとし。僕らは病気と闘うため「だけ」に生きているわけではないのです。〔   c   〕こういうことに固執しすぎて、目を〔   X   〕と輝かせて、病気のことだけ考えている患者さんを診ると、僕はちょっと困ってしまいます。〔                 〕
 「先生にお任せします」
とにこにこと平和な顔でおっしゃる患者さんは実に幸せそうに見えることができた。そこまで無条件に主治医を信頼しているのですから。どんな薬を出されてもこういう患者さんは幸福です。こんな人にお節介を焼いて、

「医療の言っていることが正しいなんて保証はないんだから、ちゃんと薬の名前くらいチェックしておかなきゃダメよ。もしかしたら副作用が多かったり、値段の高い薬を押しつけられているかもしれないわよ。賢い患者にならなきゃ」なんて言ってはいけないのですね。〔  2    〕 

 「先生にもらった薬なんですが、名前は・・・・ああ、なんて言いましたっけ」
というのも結構じゃあないですか。これこそ信頼の表れではありませんか。良好な「お医者さんごっこ」がそこでおっしゃる行われているのです。
 別に薬の名前を調べたり、インターネットで病気の勉強をするな、というのではありません。どんどん勉強したらよいのです。でもそれが医者を糾弾する「がために」行う勉強であれば、本末転倒。「医者の揚げ足を取ってやろう」的な目的で行う知識の取得は邪悪な性質を帯びてしまい、それは長い目で見るとその患者さん自身の〔   Y   〕を損なっていくという非常に不幸な経緯をたどることになるのです。これでは何のために「賢い患者」になったのだか分かりません。
 本当に賢い人は、実は凡愚のように見えるものです。黒澤明の『椿三十郎』じゃないですが、抜き身の刃物を出しっぱなしにしているのは本当の賢さではないのです。「ここでは全てあなたにお任せ・・・・という態度が適切な振る舞い方だな」と認識できるならば、その人はさらに「一段高い賢さ」を備えているのだと僕は思います。
 「この先生は私のために生まれてきてくれたのだ」
 と考えることが出来れば、「お医者さんごっこ」として上出来なのだ、という話をしました。今からまったく逆の話をします。Aという正論の逆はBという暴論なのではありません。同時に 甲  矛盾する二つの概念が成立してしまうのが大人の世界です。〔 Z 〕「目の前の主治医はあなたのためにいるかけがえのない存在だ」と認識した方が良いのですが、その実、医者というのはあなたのためだけにいるわけではないのです。そういうことも同時に頭の片隅には置いておく。矛盾する概念を両方頭の引き出しに入れておいて、自由に都合良く活用する。これが「お医者さんごっこ」です。

 病気を診ず、患者を診る。

 という言葉があります。実は、僕の大嫌いな言葉です。通常は「良い言葉」とされるこの言葉が、なせば僕の神経を逆撫でしてしまうのでしょう。
〔   d   〕、病気と患者というのは対立概念ではありません。〔  3  〕患者があって病気があり、病気があるから人は「患者」と呼ばれるのです。両者は本来お互いを内包する、共存する概念で、少しも対立していません。
 少しも対立していないものを無理矢理対立させる。これは二項対立(→入試頻出キーワード)の好きな、単純思考な人たちの常套手段です。日本のマスメディアの常套手段でもあります。
 このようにありもしない対立概念を作ってしまい、仮想敵たる「病気しか診ない医師」に対するルサンチマン(→「恨み・憎悪」という意味)をつのらせ、そして自分はそうではない、正義の「患者を診る医者」であるべき、「こっち側」に引っ込む。テレビで見てると、こんな番組ばっかりでしょ、最近は。
 そのような恣意性と偽善性を僕は嫌うのです。  
 同じような理由で僕の嫌いな表現に「全人的に患者を診る」という言葉があります。全人的? 患者を全人的に診るなんてたいていの医者にあるとてもむりです。〔  4  〕そういう出来もしないことをべらべらと口にする軽薄さが好きになれない。こういうことを軽々しく口にしてはいけない。患者の「本当の気持ち」なんてそう簡単に分かるわけがないのに、「分かったようなふり」をする軽薄さが気に入らない。」  ( 岩田健太郎『「患者様」が医療を壊す』より )


ーーーーーーーー


(問題)

問1  空欄a~dに入る最も適切なものを次の中から、それぞれ一つ選べ。

 

あまり   ロ しかし   ハ そもそも

ニ ところで   ホ もちろん

 

問2  X~Zに入る最も適切なものを次の中からそれぞれ一つ選べ。

 

X  イ うるうる  ロ ぎらぎら  ハ くりくり

      らんらん  ホ りんりん

Y  イ 健康  ロ 常識  ハ 精神  ニ 知性  ホ 分別

Z  イ 偽善的には  ロ 現実的には

      ハ 合理的には  ニ ドグマとしては

      ホ ファンタジーとしては

 

問3  次の文は、本文中の空欄1~4 のどこかに入る。最も適切な場所を次の中から一つ選べ。

病気なんて、所詮(しょせん) 人生の一要素に過ぎないのですから。

 イ 1     ロ 2     ハ 3     ニ 4  

 

問4  傍線部甲「矛盾する二つの概念」が具体的に指すものとして最も適切なものを次の中から一つ選べ。

 

イ  賢い医者と愚かな医者

ロ  賢い患者と愚かな患者

ハ  病気しか診ない医者と患者を診る医者

ニ  唯一無二の主治医と万人のための医者

ホ  病気の勉強をする患者と主治医にお任せの患者

 

問5  「お医者さんごっこ」という表現が本文中に複数回出てくるが、筆者はこの表現をどのような意味で使っているか。最も適切なものを次の中から一つ選べ。

 

イ  患者は医者に無条件に従う。

ロ  患者は医者より劣っているようにふるまう。

ハ  主治医は私(患者)のためにいるのだと心から信じる。

ニ  医者と患者が共に建前と本音を上手に使い分ける。

ホ  心の中では医者を信じていなくても、口では「先生にお任せします」と言う。

 

問6  本文の内容と合致するものを、次の中から二つ選べ。

 

イ  医者を信頼する態度を示す患者は賢い。

ロ  凡愚のように見える人は、本当は賢い。

ハ  物事を固定的な二項対立として考えることは非生産的である。

ニ  賢い患者は病気のことを医者にすべてまかせてしまう。

ホ  インターネットで薬のチェックをしている患者は賢くない。

へ  病気しか診ない医者の方が患者しか診ない医者より優れている。

  

ーーーーーーーー

 

(解説・解答)

問1(接続語の空欄補充問題・選択問題)

 空欄前後の文脈を精読・熟読するようにしてください。

 自分でメモした要約を元に考えることは、やめるべきです。

 私は、当ブログのこれまでの記事で、受験生による「要約のメモ」に基づく読解が、いかに有害無益か、を何度も説明してきました。

 実際に、入試本番で、時間不足、精読・熟読の不足、自分の不完全な要約メモに依存することによる混乱、などで失敗した受験生は、私の意見に納得してくれるはずです。

 入試本番の厳しい時間制限を考慮しない、極度に理想主義的な指導者の言葉に、そのまま従うのは、賢明ではありません。

 

(解答) a ロ   b ホ   c イ   d ハ

 

問2(空欄補充問題・選択問題)

X  慣用表現です。一つ一つ、地道に覚えていくだけです。

 

Y  別に薬の名前を調べたり、インターネットで病気の勉強をするな、というのではありません。どんどん勉強したらよいのです。でもそれが医者を糾弾する「がために」行う勉強であれば、本末転倒。「医者の揚げ足を取ってやろう」的な目的で行う知識の取得は邪悪な性質を帯びてしまい、それは長い目で見るとその患者さん自身の〔 Y 〕を損なっていくという非常に不幸な経緯をたどることになるのです。

の文脈を、丁寧に把握してください。

 「医者に行く」ということは、健康の回復が目的です。 

 しかし、「医者の揚げ足を取ってやろう」的な目的で行う知識の取得は、本来の目的に反するということを、ここでは言っているのです。

 

Z 直後の「その実」に着目してください。

   「[    Z ]「目の前の主治医はあなたのためにいるかけがえのない存在だ」と認識した方が良いのですが、その実、医者というのはあなたのためだけにいるわけではないのです。

となっていますから、[  Z  ]その実」は、対応関係になります。

 

(解答)  X ニ   Y イ   Z ホ

 

問3(脱文挿入問題)

 空欄 Ⅰ の2文前の表現との関係に注目してください。

   「僕らは病気と闘うため「だけ」に生きているわけではないのです。〔 c 〕こういうことに固執しすぎて、目を〔 X 〕と輝かせて、病気のことだけ考えている患者さんを診ると、僕はちょっと困ってしまいます。

 つまり、筆者は、「病気」を、それほど重大視しては、いないのです。

 

(解答) イ

 

問4(傍線部説明問題)

 直後の文脈に着目するとよいでしょう。

[    Z ]目の前の主治医はあなたのためにいるかけがえのない存在だ」と認識した方が良いのですが、その実、医者というのはあなたのためだけにいるわけではないのです。そういうことも同時に頭の片隅には置いておく。矛盾する概念矛盾する概念を両方両方頭の引き出しに入れておいて、自由に都合良く活用する。これが「お医者さんごっこ」です。

 赤字に注目して熟読するとよい、と思います。

 

(解答)  ニ

 

問5(説明問題)

 空欄を含む文の、2つ後ろの文の表現がポイントになります。

同時に甲矛盾する二つの概念が成立できるしてしまうのが大人の世界です。〔 Z 〕「目の前の主治医はあなたのためにいるかけがえのない存在だ」と認識した方が良いのですが、その実、医者というのはあなたのためだけにいるわけではないのです。そういうことも同時に頭の片隅には置いておく。矛盾する概念を両方頭の引き出しに入れておいて、自由に都合良く活用する。これが「お医者さんごっこ」です。

 

(解答)  ニ

 

問6(内容判定問題)

 この問題は、本文を読む前に、選択肢を先に読んで、ポイントをチェックしておくべきです。

 

(解答)  イ・ハ

 

 (3)解説

 

 筆者は、最近の「医者と患者の関係」の悪化の原因を、患者の過度の権利意識の高まりが、原因ではないかと述べています。最近の患者の中には、いろいろと、面倒な人もいるようです。インターネット上の不正確な情報をもとに治療方針に注文をつける場合もあるようです。

 患者が「自らの権利意識」や「インターネット上の不正確な情報」を背景に、医者に無理な要求をすればするほど、医者から得られるべき良好な医療を得ることが困難となると、筆者は主張しています。

 ここで、筆者の提案するのは、「お医者さんごっこ」です。つまり、患者は医者を専門家として尊重して、信頼し任せる。一方、医者は、患者を「お客様」として扱うのではなく、患者とのコミュニケーションを充分にとって全力を尽くす。充分にコミュニケーションをとって全力を尽くす。
 このように患者も医者も振舞う(演技する)ことが、「患者と医者の関係」を改善することの近道であるとしています。
 確かに、医者も人間ですから、患者から信頼されれば、気持ちよく仕事ができます。
 結局、お互いを尊重して、充分なコミュニケーションをとることで、良い医療が得られるのではないかと、筆者は考えます。

 

 (4)本書の筆者紹介


岩田 健太郎(イワタ ケンタロウ)

1971年、島根県生まれ。島根医科大学(現・島根大学医学部)卒。米国アルバートアインシュタイン医科大学ベスイスラエル・メディカルセンター、北京インターナショナルSOSクリニック、亀田総合病院勤務などを経て、神戸大学大学院医学研究科微生物感染症学講座感染治療学分野教授。

 

著書に

『主体性は教えられるか』(筑摩選書)、

『悪魔の味方ー米国医療の現場から』(克誠堂出版)、

『感染症外来の事件簿』(医学書院)、

『感染症は実在しないー構造構成的感染症学』(北大路書房)、

『予防接種は「効く」のか?ーワクチン嫌いを考える』(光文社新書)

『1秒もムダに生きないー時間の上手な使い方』(光文社新書)、

『「患者様」が医療を壊す』(新潮選書)、

『ためらいのリアル医療倫理ー命の価値は等しいか?』(技術評論社)、

など多数がある。

 

ーーーーーーーー

 

今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

ご期待ください。

 

   

 

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「患者様」が医療を壊す (新潮選書)

「患者様」が医療を壊す (新潮選書)

 

 

 

食べ物のことはからだに訊け!: 健康情報にだまされるな (ちくま新書)

食べ物のことはからだに訊け!: 健康情報にだまされるな (ちくま新書)

 

 

 

頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

 

 

 

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『考える身体』身体論・解説・論点的中報告⑥・2017神戸大現代文

(1)2017では、センター現代文、東大、早大政経・法、学習院大、慶大経済(小論文)、大阪大に続き、神戸大現代文にも、当ブログの予想論点記事が的中しました。

 

 2017でも、

①センター国語第1問(現代文・評論文)、

②東大国語第1問(現代文・評論文)、

③早大政経現代文・早大法現代文・学習院大現代文、

④慶大経済小論文、

⑤大阪大現代文

に続き、
神戸大国語(現代文・評論文)(『考える身体』三浦雅士)にも、当ブログの予想論点記事(心身二元論身体論)が的中しました。

 

 つまり、2017神戸大現代文に、当ブログの予想論点記事

「2012東大国語第1問(現代文)解説『意識は実在しない』河野哲也」、

「2017早大(文化)「見ることとうつすこと」鈴木理策・予想出典」、  

「2016年東大国語ズバリ的中報告・内田樹・『日本の反知性主義』」、

が、的中しました。


 2016東大現代文ズバリ的中(全文一致)・2016一橋大現代文ズバリ的中(全文一致)に続く喜びです。

 そこで、今回は、2017神戸大現代文の問題解説をします。


 なお、これまでに発表した、

「2017の論点的中報告・問題解説記事①~⑤」、

「2016東大現代文ズバリ的中報告・問題解説記事」、

「2016一橋大現代文ズバリ的中報告・問題解説記事」、

については、「2017の論点的中報告・問題解説記事⑤」にリンク画像を貼っておきましたので、そちらを、ご覧ください。

 

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 今年度の神戸大の現代文問題(『考える身体』三浦雅士)では、以下のような文章が出題されました。冒頭部分を引用します。

 

(問題文本文)(概要です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です)

「  舞踊ほど根源的な芸術はない。ここ二十年来、バレエや日本舞踊を熱心に見続けてきて、繰り返しそう思った。

 感動とは身体的なものだ。人によっては、理論的な何かがまずあって、その理論に近いものに出会って感動するということがあるのかもしれない。だが、それはたぶん偽物である。ほんものの感動はそんな余裕を与えない。それは嵐のように、突風のように襲ってくるのである。鼓動が高まり背筋が青ざめる。文字通り、打ちのめされるのである。

 感動は相対的なものではない。絶対的なものだ。嵐が過ぎ去って、これはいったい何だったのかと、人は考える。感動する身体とはいったい何か。そしてまた、感動される身体とはいったい何か、と。だが、考えているそのそばから、さらにまた新しい感動が襲ってくる。身体が震えるのである。こうして、なかば陶酔し、なかば覚醒しているという不思議な状態に置かれる。これこそ舞踊の醍醐味なのだ。

 この舞踊の醍醐味のなかで、感動とは身体の問題であると考えるようになった。

 (『考える身体』三浦雅士 )

 

 今回の問題(『考える身体』)は、

「極端な科学重視主義」→「『理系の知』の重視」、
「極端な客観重視主義」、
「理性・知性重視主義」、
「精神性重視主義」、
「合理主義」、
「観念的発想」、
つまり、「近代思想・現代思想そのもの」、

「最近の文系学部軽視の風潮」、

「現代日本社会における、共同性軽視の風潮」
に関連しています。


 つまり、これらの現象に対して、「人間的な生の充実」・「真の共同性の復活」には、「『身体性』の再評価・重視」が不可欠という原理・原則論を呈示して、「根本的な現代文明批判」をしているのではないのでしょうか?

 まさに、ポストモダン(脱近代)的な発想です。

 

 各人が「自己の身体性」を再評価・重視することは、「人間的な生の充実」・「真の共同性の復活」のためには、不可欠なのです。

 このように考えると、今回の神戸大現代文の問題は、かなりの良問と言えます。来年度の国語(現代文・評論文)・小論文対策のために、この問題は、よく理解しておくべきだと思われます。

 

 今回の神戸大の現代文問題は、当ブログの、

「2012東大国語第1問(現代文)解説『意識は実在しない』河野哲也」、

「2017早大(文化)「見ることとうつすこと」鈴木理策・予想出典」、  

「2016年東大国語ズバリ的中報告・内田樹・『日本の反知性主義』」、

を読んでおけば、かなり、分かりやすかったと思われます。

 これら三つの記事のポイントを、以下に、再掲します。

 

 まず、「2012東大国語第1問(現代文)解説『意識は実在しない』河野哲也」の記事から、「身体論」の前提となっているデカルトの「物心二元論(心身二元論)」を記述した箇所を再掲します。

 

gensairyu.hatenablog.com

 

ーーーーーーーー(再掲、スタート)

 

 入試現代文(国語)・小論文における「科学批判」(近代科学論・現代科学論)の中で多いのは、「科学」の根本原理である「物心二元論(心身二元論)」を批判し、この根本原理そのものを見直そうとする論考(→「身体論」)です。

 今回、検討する問題も、同じ方向の論考です。

 そこで、まず、デカルトの「物心二元論(心身二元論)」の定義・内容について説明します。

【物心二元論(心身二元論)】

 デカルト(近代哲学の父)は、世界のあらゆるものは二種類に分類できると考えました。
 「考えるもの」と「広がりのあるもの」です。
 「考えるもの」、つまり、「魂」が、「広がりのある事物」とは全然違う性質のものだ、という主張は、その後の「精神と身体の二元論」(「心身二元論」)の基礎となりました。

【一元論と二元論】

 「一元論」とは、世界の全てを、ある一つの原理で説明できるという思想であり、「二元論」とは、世界の全ては二つの原理で説明する必要があるという思想です。

 世界を一つの原理のみで説明することは、少々無理があります。

 そこで出てきたのが、「生滅変化する現象の世界」と「変化しない理念の世界(イデア)」を対立(「二元論」)させるプラトンの哲学です。

 この二元論は、「心身二元論」の基礎になっています
 
【デカルトの心身二元論】

 デカルトの「心身二元論」とは、「精神(心)」と「身体(身)」を明確に区別した「二元論」です。
 つまり、精神(心)と身体(物質)という根本原理によって世界を説明する考え方です。

 ……………………

 今回の問題を解いていく際には、以上の「デカルトの心身二元論」 を予備知識として、しっかり理解しておく必要があります。

 そうでないと、本問は、かなりの難問になってしまいます。

 

ーーーーーーーー(再掲、終了)

 

 「身体論」は、デカルトの「物心二元論(心身二元論)」を根本的に見直そうとする思想です。

 

 次に、「2017早大(文化)「見ることとうつすこと」鈴木理策・予想出典」の中の、鈴木氏が、「『見ること』における『身体性』の見直し」を主張している箇所を再掲します。

 

gensairyu.hatenablog.com

 

ーーーーーーーー(再掲、スタート)

 

(鈴木氏の論考)(概要です)

(【1】【2】【3】・・・・は、当ブログで付記した段落番号です)

(青字は、当ブログによる「注」です)

(赤字は、当ブログによる「強調」です)

(紫色の字は、早稲田大学・文化構想学部の入試で、傍線部説明問題・空欄補充問題として問われた部分です)

【8】私は撮影では出来るだけ何もしないことを目指します。わざわざ大型カメラを担いで出かけていくのですから、何もしない、というのは矛盾しているようですが、画面に作為を込めないこと、私自身の存在を消していくことを目指しているのです(→「写真家としての主体性の放棄」、を意図している感じです。「写真家と風景の関係」から、「近代的な『主体』・『客体』」という枠組みを消去しようという、大胆な実験の感じがします。「写真家の主体性」を明確化することは、「お決まりの作法」に染まることだ、と意識しているのです)カメラを構えて歩いて行き、気になる光景に出会ったら三脚を立て、大体の位置で構図を決めて、その後は変更しません。ピントは、その場所で最初に目がいった部分に合わせます。シャッターも狙わずに押す工夫をしています。(→道を歩いていて、気になった風景のある場所に立ち止まり、風景をじっくり見つめる直前の瞬間を、風景を「構図」・「シャッターチャンス」を意識して見つめる直前の瞬間を、フィルムに保存する感じです)そんな風に撮影した写真は、いわゆる写真的な見どころを含みませんが、外の世界をありのまま(→写真家の「近代的な解釈」による変形・強調が介入していない、ということです)表しています。(→写真を見る人は、初めて風景と対面した時の、ぼんやりとした当惑の場に、直面することになります)私が写真でしたいと思っていることは少し変わっているかもしれません。

【9】今年の春、香川県丸亀市猪熊弦一郎現代美術館の企画で個展を開催しました。展覧会は七月から東京オペラシティアートギャラリーに巡回しています。写真を見せるというより風景を見る(→「対象と直に交わっている場」・「外の世界と入場者の身体が直接触れる場」、つまり、「風景と初めて出会う場」・「風景に目の焦点が合って、風景を『構図』・『シャッターチャンス』の枠組みの中で再構成する以前の場」という意味、だと思います)になれば良いと考え、自身で展示構成を行いました。会場に並ぶ写真を見ると、その都度新しい発見があります。写真家は自分の写した全てを確認済みと思われるでしょうが、ものを見ることは常に新しい経験(→外の世界とその人の身体が直接触れた時に、その人の目に映る「今」は、「過去」と常に違うからです)です。」  (「見ることとうつすこと」鈴木理策)

 

ーーーーーーーー(再掲、終了)

 

 さらに、「2016年東大国語ズバリ的中報告・内田樹氏・『日本の反知性主義』」の中の、身体性重視の記述を再掲します。

gensairyu.hatenablog.com

 

ーーーーーーーー(再掲、スタート) 

 

(内田氏の論考)(概要です)

(青字は、当ブログによる「注」です)

(赤字は、当ブログによる「強調」です)

バルトによれば、無知とは知識の欠如ではなく、知識に飽和されているせいで未知のものを受け容れることができなくなった状態を言う。実感として、よくわかる。「自分はそれについてはよく知らない」と涼しく認める人は「自説に固執する」ということがない。他人の言うことをとりあえず黙って聴く。聴いて「得心がいったか」「腑に落ちたか」「気持ちが片付いたか」どうかを自分の内側をみつめて判断する。ァそのような身体反応を以てさしあたり理非の判断に代えることができる人を私は「知性的な人」だとみなすことにしている。その人においては知性が活発に機能しているように私には思われる。そのような人たちは単に新たな知識や情熱を加算しているのではなく、自分の知的な枠組みそのものをそのつど作り替えているからである。知性とはそういう知の自己刷新のことを言うのだろうと私は思っている。個人的な定義だが、しばらくこの仮説に基づいて話を進めたい。」  (『日本の反知性主義』内田樹 )

…………………………………………

問(1)「そのような身体反応を以てさしあたり理非の判断に代えることができる人」(傍線部ア)とはどういう人のことか、説明せよ。

…………………………………………

〔解答・解説〕

 傍線部の「そのような身体反応」に注目する必要があります。

 「そのような身体反応」とは、直前の「得心」(納得)、「腑に落ちた」「気持ちが片づいた」を指しています。

 つまり、傍線部アは、「頭脳のみで観念的に考えるのではなく、全身的納得を意識して理非の判定をするということ 」、を意味しています。

 従って、解答は、「納得や了解等の全身的な感覚を意識して物事の正否を判定する人」となります。」

 

ーーーーーーーー(再掲、終了)

 

 今回は、『考える身体』の入試頻出箇所を、最近の立教大学の過去問を使用して、予想問題として解説します。

 (なお、漢字の書き取り問題、読み問題は省略します)

 

 考える身体

 

 

 

 

 

(2)予想問題解説・『考える身体』三浦雅士ー立教大学国語(現代文)出題

 

(問題文本文)(概要です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です)

 

【1】人は意識において考えるよりも先に、まず身体において考えているというべきだろう。ある① 身体所作の体系を採用したその段階において、人の身体は、意識よりも先にすでに考えはじめているのだ。少なくともある種の考え方、思考の流儀を採用しているのである。そういえば、十九世紀の小説の名手たちは、登場人物を描くにあたって、何よりも、その顔かたちと身ごなしを克明に描きだしていた。思想はまずその身体に現れると直観していたに違いない。

【2】ここには、おもしろい問題が山積している。

【3】身体の問題というと、人はまず自分の身体を眺める。手を見、腕を見、さらには我が身を鏡に映しだしてみる。つまり、身体というと、人はまず個人の身体を思い浮かべるのだ。そしてたいていは、どこかしら恥ずかしくなって、肩をすくめる。身体は個人に属すのであって、集団に属すわけではないというわけだ。だが、ほんとうはそうではない。仕草や表情にしてもそうだが、共同体の基盤は身体にあると言っていいほどなのである。

 

ーーーーーーーー

 

(問題)

問1  傍線部①の「身体所作」とほぼ同じ内容を表す言葉を本文中から二つ抜き出し、それぞれ四字以内で記せ。

 

………………………………

 

(解説・解答)

問1(単語力を問う問題・記述問題)

 このような「単語力を問う問題」は、入試では頻出です。模擬試験と大きく違う点です。 

 しかも、今回は記述式問題なので、配点は高いと思われます。

 さらに、今回の問題は、入試頻出です。ミスした人は、よく復習しておいてください。

(解答)  身ごなし・仕草

 

ーーーーーーーー

  

(問題文本文)(概要です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です)

【4】日常生活の随所にその証拠がころがっている。たとえば、人はなぜスポーツを観戦するのか。勝敗の行方を見極めたいと思うからか。そうではない。人の身体の動きに同調してみたいのである。相撲で、ひとりの力士が土俵を割りそうになりながら残すとき、見るものも同じように反り身になって相手の回しを握り締めているのである。だからこそ、手に汗握るのだ。つまり、スポーツを見るものは、そのスポーツをいっしょに戦っているのである。野球にしてもそうだ。投球が決まった一瞬、まるで指揮者に操られたように、会場の全体がどよめく。投手や打者の呼吸に、全観衆の呼吸が同調しているからである。それが人間の身体なのだ。

【5】想像力といえば、意識の問題と考えられがちだが、そうではない。それはまず身体の問題なのだ。身体がまず他人の身体になりきるのである。その運動、その緊張、その痛みを分け持ってしまう。想像力の基盤は身体にあるとさえ言いたいほどである。

【6】模倣もまた身体の想像力のひとつと考えるといい。人は、歩き方、走り方、泳ぎ方を習うが、教科書によってではない。身体を介して習うのである。実際、子供は、教えるよりも先にまねている。身体の想像力は、意識の想像力を上回る。稽古事の経験者ならばだれでも思いあたるだろうが、言葉による注意は、身体の想像力のきっかけにすぎない。

【7】舞踊に関心を持つようになってはじめて、以上の事実に気づいた。人はなぜダンスを見るのか。何よりもまず身体そのものが、他人の身体と同調したいからなのだ。舞台を見るとき、人は、ダンサーとともに踊っているのである。回転し、跳躍しているのである。だからこそ、見終えた後に、快い疲労を覚えるのだ。また、だからこそ、より美しく舞うもの、より華やかに踊るものにひかれるのである。スポーツにしても同じだ。人は、より強い、より速い、より美しいフォームにひかれる。身体の想像力の限界を試そうとでもするように、人は舞台を見る。試合を見る。見ているのは目ではない。身体なのだ。

【8】そういえば、昔はよく、尊敬する人物の肖像や彫像を机上に飾ったものだ。なぜか。見ることが、全身的な行為であると信じられていたからである。〔   A   〕の想像力以上に、〔   B   〕の想像力が重要であることが、直観的に把握されていたからだ。人物だけではない。たとえば雄大な光景は人を雄大にする。人は全身で見るのであり、見た瞬間、何よりもまず身体がその光景に同調しようとするのだ。

 

ーーーーーーーー

 

(問題)

問2  空欄A・Bには、それぞれどんな言葉を補ったらよいか。本文中から最も適当な言葉を抜き出して記せ。

 

………………………………

 

(解説・解答)

問2  (空欄補充問題・記述問題)

  【8】段落の内容をよく把握することが必要になります。

 また、空欄A・Bを含む一文が、直前の一文の理由になっていることを確認してください。

 (解答)  A 意識  B 身体

 

ーーーーーーーー

 

(問題文本文)(概要です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です)

【9】このように考えると、なぜ舞踊と遊戯が神事として誕生したかが分かってくる。舞踊と遊戯、すなわちダンスとスポーツは、おそらくその起源をひとつにしている。いずれも、身体を介して、人間が集団を成していること、共同体を形づくっていることを確認する行為にほかならなかったのである。神前で舞うとき、共同体の成員もまたともに舞うのだ。相撲にしてもそうだ。観客もまた力を尽くして戦うのである。たとえば綱引きのような遊戯は、身体のこのような共同性をそのまま象徴していると言っていい。しかも舞踊や遊戯は、身体を介して、人と人の共同性のみならず、人と自然の共同性をも教えたはずである。身体の想像力は、人と動物、人と自然の境界をも、やすやすと越えたはずだからだ。

【10】近代になって、意識と身体は画然と分けられた。同時に、五感とその領域も鋭く分割された。〔   C   〕の領域には美術が、[   D   ]の領域には音楽が配分された。そのいずれにもかかわる舞踊や演劇は、いささか曖昧な芸術としてさげすまれた。身体の領域はただ健康の問題、医学の問題へと差し回されたのである。そして、ひたすら健康の技術にかかわるものとして、保健体育の思想が登場したのだった。

【11】だが、いまや近代の全体が問い直されているのである。美術も音楽も、いや文学さえもが、じつは全身的な感受の対象であることが明らかになりつつある。たとえば文体は、呼吸を通して全身にかかわるのである。芸術の鑑賞は、いまや身体の想像力を抜きに語ることはできない。いわんや舞台芸術の鑑賞、スポーツの観戦にいたっては、まさに身体の問題にほかならないのである。

【12】おそらく、新しい観客論がいま要請されているのである。そう、たとえばオリンピックを、そのような観客論の立場から考察し直すような視点が要請されているのだ。」( 三浦雅士「考える身体」 )

 

ーーーーーーーー

 

(問題)

問3  空欄C・Dには、それぞれどんな言葉を補ったらよいか。自分で考えて記せ。

 

問4  筆者の考えによれば、スポーツを観戦することと雄大な光景を眺めることの間には共通点がある。その共通点とは何かを、本文に即して句読点とも二十字以内で記せ。

 

問5  傍線部②について。「新しい観客論がいま要請されている」のはなぜか。その理由を、本文に即して句読点とも六十字以内で説明せよ。

 

………………………………

 

(解答・解説)(解答)

 

問3(空欄補充問題・記述問題)

 常識・単語力のレベルの問題です。

 確実に解答できるようにしてください。

 (解答)C視覚D聴覚

 

問4(説明問題・記述問題)

 「同調」がキーワードになっていることを、読み取ってください。

 第【8】段落に注目するとよいでしょう。

 設問文の本文に即して」に注意してください。

 「本文中のキーワード」を使用することを要求されているのです。

 (解答)何よりもまず見る側の身体が同調する点。(19字)

 

5(理由説明問題・記述問題)→「心身二元論」の見直し

 最終の二つの段落に着目する必要があります。

 ポイントは「近代」、つまり、「近代原理」・「心身二元論」の見直しです。

 

  設問文の本文に即して」に注意してください。

 「本文中のキーワード」を使用することを要求されているのです。

 (解答)  意識と身体を画然と分けた「近代」が問い直されている今、スポーツの鑑賞も身体の想像力の問題として見直されるべきだから。(60字)

 

ーーーーーーーー

 

 【要約】

人は意識において考えるより先に、まず身体において考えている。共同体の基盤は身体にある。人がスポーツを見るとき、そのスポーツを一緒に戦っている。想像力は、まず身体の問題である。舞踊や遊戯は、身体を介して、人と人の共同性のみならず、人と自然の共同性をも教えたはずである。あらゆる意味で分断の時代であった近代が問い直される中、新しい観客論も要請されている。

 

 

 

 (3)本書・著者の紹介

 

【本書の内容】

身体の思想ではない。いまや、思想の身体こそ語られるべきではないか――。人類の起源から現代にいたる歴史的文脈のなかに「身体」を位置づけ、身体と精神、言葉、思考、芸術、舞踊との関係を縦横に描き出す。(「ブック紹介」より引用)

 

【著者紹介】

三浦 雅士(みうら まさし)
1946年生まれ。編集者、文芸評論家、舞踊研究者。日本芸術院会員。弘前高校卒業。『ユリイカ』『現代思想』編集長を経て、批評活動を展開する。1991年『ダンスマガジン』編集長、94年『大航海』編集長。文芸評論家、新書館編集主幹。

 

【著書】
『私という現象 同時代を読む』(冬樹社 1981年/講談社学術文庫 1996年)
『メランコリーの水脈』(サントリー学芸賞・福武書店 1984年/福武文庫 1989年/講談社文芸文庫 2003年)
『寺山修司 鏡のなかの言葉』(新書館 1987年)
『身体の零度 何が近代を成立させたか』(読売文学賞・講談社選書メチエ 1994年)
『バレエの現代』(文藝春秋 1995年)
『考える身体』(NTT出版 1999年)
『バレエ入門』(新書館 2000年)
『村上春樹と柴田元幸のもうひとつのアメリカ』(新書館 2003年)
『青春の終焉』(伊藤整文学賞・講談社 2001年/講談社学術文庫 2012年)
『漱石―母に愛されなかった子』(岩波新書 2008年)
『人生という作品』(NTT出版 2010年)
『ポストモダンを超えて: 21世紀の芸術と社会を考える 』(平凡社 2016年)

 

ーーーーーーーー 

 

今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

ご期待ください。

 

   

 

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考える身体

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ポストモダンを超えて: 21世紀の芸術と社会を考える

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

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2017大阪大国語(現代文・評論)解説・論点的中報告⑤・文系の知

(1)2017でも、センター現代文、東大現代文、早大政経・法・現代文、学習院大現代文、慶大経済・小論文に続き、大阪大現代文にも、当ブログの予想論点記事が的中しました。

 

 2017でも、

①センター国語第1問(現代文・評論文)、

②東大国語第1問(現代文・評論文)、

③早大政経現代文・早大法現代文・学習院大現代文、

④慶大経済小論文、

に続き、

大阪大国語(現代文・評論文)(『「文系学部廃止」の衝撃』吉見俊哉)にも、当ブログの予想論点記事が的中しました。

 

 つまり、2017大阪大国語(現代文・評論文)に、当ブログの予想論点記事
(「予想問題・『文系学部解体』室井尚・『日本の反知性主義』(1)」、
 「予想問題・『文系学部解体』室井尚・『日本の反知性主義』(2)」)
が、的中しました。

 2016東大現代文ズバリ的中(全文一致)・2016一橋大現代文ズバリ的中(全文一致)に続く喜びです。

 そこで、今回は、2017大阪大学国語(現代文・評論文)の問題解説をします。


 なお、これまでに発表した、

「2017の論点的中報告・問題解説記事①~④」、

「2016東大現代文ズバリ的中報告・問題解説記事」、

「2016一橋大現代文ズバリ的中報告・問題解説記事」、

については、下にリンク画像を貼っておきます。

 

gensairyu.hatenablog.com

  

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 「予想論点的中報告記事②」として扱います↓ 

gensairyu.hatenablog.com

 

 「予想論点的中報告記事①」として扱います↓

gensairyu.hatenablog.com

 

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 今年度の大阪大学の現代文問題(『「文系学部廃止」の衝撃』吉見俊哉)では、以下のような内容の論考が出題されました。

 

 「文系の知は役に立たないから要らない」という議論ばかりではなく、「文系の知は役に立たないけれども価値がある」という議論には、賛成できない。
 むしろ、「文系の知」は必ず役に立つ。「役に立つ」とは、今後五年の経済成長に貢献するといった「手段的な有用性」に限定されない。

 そうした「効用」の論理は、特定の価値世界のなかの出来事にすぎない。

 歴史のなかでは「価値の軸」は必ず変化する。高度成長期と現在を比較すれば明らかなように、これまでも数十年単位で「価値の軸」は変化してきた。

 そして、この「価値の軸」が大きく変化するとき、過去の「手段的な有用性」は、一挙に役に立たなくなる。

 短期的な答えを出す「理系的な知」より、目的や価値の新たな軸を発見・創造する「文系的な知」こそが、長期的に見て、役に立つのだ。

 


 今回の問題(『「文系学部廃止」の衝撃』)は、
「グローバル経済・新自由主義に関連した、日本社会の短期的利益の極端な追求」、
「『理系の知』の重視」、
「最近の文系学部軽視の風潮」、
「読書離れ」、
「反知性主義→日本社会の幼児化・テーマパーク化・劇場化、日本人のマリオネット化(操り人形化→羊化→政治的無関心・健康ヒステリー・グローバル化崇拝現象など)」、
「ポピュリズム」、
に関連しています。


 つまり、これらの現象に対して、

「日本(組織)の存続」・「日本(組織)の持続的発展」には、「『文系の知』の再評価・重視」、つまり、「教養・哲学の再評価・重視」が不可欠という原理・原則論を呈示して、根本的な「現代文明批判」をしているのではないのでしょうか?

 市民が教育によって「文系の知」・「幅広い教養」・「哲学的な知」、すなわち、「確固たるアイデンティティ」・「確固たる自己」・「批判的思考」を持つことは、「日本(組織)の存続」・「日本(組織)の持続的発展」のために不可欠なのです。

 このように考えると、今回の大阪大学国語(現代文・評論文)の問題は、かなりの良問と言えます。来年度の国語(現代文・評論文)・小論文対策のために、この問題は、よく理解しておくべきだと思われます。

 

 今回の大阪大学の現代文問題は、当ブログの、

「予想問題・『文系学部解体』室井尚・『日本の反知性主義』(1)」、
「予想問題・『文系学部解体』室井尚・『日本の反知性主義』(2)」

を読んでおけば、かなり、分かりやすかったと思われます。→リンク画像は下に貼っておきます。

 これら二つの記事のポイントを、以下に、再掲します。

 

 まず、「予想問題・『文系学部解体』室井尚・『日本の反知性主義』(1)」の記事から、「文系の知」の「価値」を記述した箇所を再掲します。

 

ーーーーーーーー(再掲、スタート)

 

 【2】「文系学部解体」の進行

 実は、この問題は1990年代以後の「大学改革」の結果である、と室井氏は、主張しています。
 この経過について、本書の「巻末資料」の「著者blog 」を引用します。

「大学審議会が91年に出した『大学設置基準の大綱化』は、各大学独自の教育・カリキュラム改革を推進させ、その結果、約5年で」教養部・一般教育部は、ほとんどの大学から姿を消した。新自由主義経済学の影響の強いこの改革は、要するに、大学教育に競争原理を持ち込むことにより、お互いに切磋琢磨することによって、教育の質や効率を高めるという効果を狙っていた。さらに、文部科学省は、2004年に国立大学法人化を実施し、国立大学は、企業の形態を取ることになった。」 

 しかし、短期的な数値目標の設定や、競争原理の導入は、大学教育の質の向上に結びつかなかったと、室井氏は述べています。
 この改革の背景にあるのは、大学に「民間企業の論理」を導入する考え方であると、室井氏は、結論付けています。

 即戦力となる人材育成の要求等の、「短期的視点」でしか思考しない論理が持ち込まれ、その結果として、「文系の知」が軽視されたということなのです。

【3】斎藤隆による補足説明

 大学とは、本来、「教養」を身につけ、「多様性」を受けとめる場です。
 その大学が、いわゆる構造改革以降、新自由主義的な効率化、合理化、競争原理の波にさらされ、目に見える具体的成果を要求されています。

 「教育上の成果」とは、何でしょうか。
 短期的に、成果が顕在化するものなのでしょうか。
 室井氏の言うように、「アカデミー」とは、「無用の知」という余裕を備えた「知性の学び」です。
 そこから、「豊かな可能性を秘めた創造的な知性」が、醸成されていくのです。
 従って、大学教育の教育上の成果は、「長期的な視点」で考えるべきです。
  「文系学部解体・軽視」は、大学だけではなく、現代の社会や経済と密接に関連した問題だと思います。

 あらゆる事項を、お金、つまり、「経済的効果」に換算することでしか評価できない、現代日本社会の貧しい思考力を、本書を読みながら、悲しみの中で、改めて知ってしまいました。
 そのような悪化した状況下でも、決して挫けないで、大学教育に対して希望を捨てない室井氏の姿勢に、私は救いを感じました。
 この問題は、国立大学だけに限定されたことでは、ありません。
 国家から補助金を支給されている私立大学においても、同じような問題が発生しているはずです。

 これらの問題が、大学入試の国語(現代文)・小論文問題に、どのような影響があるのか、大いに興味があります。

 実際に、2016年度には、前述のように、国立大学のトップレベル4校(東大・大阪大・広島大・静岡大)に、『日本の反知性主義』から「知性」に関する論点・テーマが出題されました。

 来年度も、難関大学の国語(現代文)・小論文入試で、類似の現象が見られる可能性が大です。

 
ーーーーーーーー(再掲、終了)

 

 上記の最終段落の予想は、2017年の今年、慶大経済学部小論文、慶大商学部小論文、大阪大学現代文などで、的中しました。

 

 次に、「予想問題・『文系学部解体』室井尚・『日本の反知性主義』(2)」の中の、「長期的視点から見た『文系的知』の重要な価値」について記述した箇所を再掲します。

 

ーーーーーーーー(再掲、スタート)


 このように考えると、吉岡氏、内田氏、室井氏が、「隙間」・「ノイズ」という、一見、「無価値なもの」の「見直し・再評価」から、「大学の存在価値」を再考する姿勢が、とても興味深いのです。

 「文系的知」も、一見、つまり、「短期的視点」から見ると、いかにも価値の低いものです。
 しかし、「隙間」や「ノイズ」と同じように、本質的・根源的・哲学的に、長期的視点で考察してみると、「文系的知」には、奥深く、重要な価値があるのではないでしょうか。

 
ーーーーーーーー(再掲、終了)

 

 これら二つの記事を読んでおけば、今年の大阪大学現代文の問題は、かなり分かりやすかったと思われます。

 

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 今回の問題は、頻出著者である吉見俊哉氏の著作からの出題であり、しかも、「知性」という流行論点を含んでいるので、来年度の国語(現代文・評論文)・小論文にも出題される可能性が大です。

 従って、国語(現代文・評論文)・小論文対策として、解説していきます。

 なお、今回の問題は、英語の長文読解問題としても有用です。

 ぜひとも、気合いを入れて、お読みください。

 

 「文系学部廃止」の衝撃 (集英社新書)

 

 

 

 

 

(2)2017大阪大学現代文解説ー『「文系学部廃止」の衝撃』吉見俊哉

(問題文本文)(概要です)

(赤字は、当ブログによる強調です)

(青字は、当ブログによる注です)

【1】 大学の知が「役に立つ」のは、必ずしも国家や産業に対してだけとは限りません。神に対して役に立つこと、人に対して役に立つこと、そして地球社会の未来に対して役に立つこと・・・・。大学の知が向けられるべき宛先にはいくつものレベルの違いがあり、その時々の政権や国家権力、近代的市民社会といった臨界を超えています。 

【2】そしてこの多層性は、時間的なスパンの違いも含んでいます。文系の知にとって、三年、五年ですぐに役に立つことは難しいかもしれません。しかし、三〇年、五〇年の中長期的スパンでならば、工学系よりも人文社会系の知のほうが役に立つ可能性が大です。ですから、「人文社会系の知は役に立たないけれども大切」という議論ではなく、「人文社会系は長期的にとても役に立つから価値がある」という議論が必要なのです。

【3】そのためには、「役に立つ」とはどういうことかを深く考えなければなりません。概していえば、「役に立つ」ことには (1) 二つの次元があります。一つ目は、目的がすでに設定されていて、その目的を実現するために最も優れた方法を見つけていく目的遂行型です。これは、どちらかというと理系的な知で、文系は苦手です。たとえば、東京と大阪を行き来するために、どのような技術をくみあわせれば最も速く行けるのかを考え、開発されたのが新幹線でした。また最近では、情報工学で、より効率的なビッグデータの処理や言語検索のシステムが開発されています。いずれも目的は所与で、その目的の達成に「役に立つ」成果を挙げます。文系の知にこうした目に見える成果の達成は難しいでしょう。

【4】しかし、「役に立つ」ことには、実はもう一つの次元があります。たとえば本人はどうしていいかわからないでいるのだけれども、友人や教師の言ってくれた一言によってインスピレーションが生まれ、厄介だと思っていた問題が一挙に解決に向かうようなときがあります。この場合、何が目的か最初はわかっていないのですが、その友人や教師の一言が、向かうべき方向、いわば目的や価値の軸を発見させてくれるのです。このようにして、「役に立つ」ための価値や目的自体を創造することを価値創造型と呼んでおきたいと思います。これは、役に立つと社会が考える価値軸そのものを再考したり、新たに創造したりする実践です。文系が「役に立つ」のは、多くの場合、この後者の意味においてです。

 

 ーーーーーーーー

 

(問題)

(問2)傍線部(1)「二つの次元」について、それぞれを端的に示す言葉を本文中から抜き出しながら、両者の違いを八〇字以内で説明しなさい。

 

………………………………

 

(解説・解答)

(問2)(内容説明問題)

 

 【3】・【4】段落をまとめるとよいでしょう。「目的遂行型」「価値創造型」というキーワードを使ってまとめてください。 

 

(解答)

一つは目的遂行型で、所与の目的達成に役立ち、短期に成果を出す理系的知である。他方、価値創造型は価値や目的自体を創造・再考する、長期的に有効な文系的知である。(78字)

 

 ーーーーーーーー

 

(問題文本文)(概要です)

(赤字は、当ブログによる強調です)

(青字は、当ブログによる注です)

【5】古典的な議論では、ドイツの社会学者マックス・ウエーバーによる「目的合理的行為」と「価値合理的行為」という区分があります。そこでは、合理性には「目的合理性」と「価値合理性」の二つがある、と言われました。「目的合理性」とは、ある目的に対して最も合理的な手段連鎖が組み立てられていくことであるのに対し、「価値合理性」は、何らかの目的に対してというよりも、それ自体で価値を持つような活動です。

【6ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で論じたことは、プロテスタンティズムの倫理は価値合理的行為であったのだが、その行為の連鎖が結果的にきわめて目的合理的なシステムである資本主義を生み出し、やがてその価値合理性が失われた後も自己転回を続けたという洞察です。そこで強調されたのは、目的合理性が自己完結したシステムは、いつか価値の内実を失って化石化していくのだが、目的合理的な行為自体がその状態を内側から変えていくことはできない、という暗澹たる予言でした。

【7】このウェーバーの今なお見事な古典的洞察に示されるように、目的遂行型の有用性、「役に立つこと」は、与えられた目的や価値がすでに確立されていて、その達成手段を考えるには有効ですが、そのシステムを内側から変えていくことができません。したがって目的や価値軸そのものが変化したとき、一挙に役に立たなくなります。

 

【8】つまり、目的遂行型ないしは手段的有用性としての「役に立つ」は、与えられた目的に対してしか役に立つことができません。もし目的や価値の軸そのものが変わってしまったならば、「役に立つ」と思って出した解も、もはや価値がないということになります。そして実際、こうしたことは、長い時間のなかでは必ず起こることなのです。

【9】価値の軸は、決して不変ではありません。数十年単位で歴史を見れば、当然、価値の尺度が変化してきたことが分かります。たとえば、一九六〇年代と現在では、価値軸がすっかり違います。一九六四年の東京オリンピックが催されたころは、より速く、より高く、より強くといった右肩上がりの価値軸が当たり前でしたから、その軸にあった「役に立つ」ことが求められていました。新幹線も首都高速道路も、そのような価値の軸からすれば追い求めるべき「未来」でした。ところが、二〇〇〇年代以降、私たちは、もう少し違う価値観を持ち始めています。末長く使えるとか、リサイクルできるとか、ゆっくり、愉快に、時間をかけて役に立つことが見直されているのです。価値の軸が変わってきたのです。

(中略)

【10】すべてがそうというわけではありませんが、概して理系の学問は、与えられた目的に対して最も「役に立つ」ものを作る、目的遂行型の知であることが多いと思います。そして、そのような手段的有用性においては、文系よりも理系が優れていることが多いのも事実です。しかし、もう一つの価値創造的に「役に立つ」という点ではどうでしょうか。

【11】目的遂行型の知は、短期的に答えを出すことを求められます。しかし、価値創造的に「役に立つ」ためには長期的に変化する多元的な価値の尺度を視野に入れる力が必要なのです。ここにおいて文系の知は、短くても二〇年、三〇年、五〇年、場合によっては一〇〇年、一〇〇〇年という、総体的に長いスパンのなかで対象を見極めようとしてきました。これこそが、文系の知の最大の特徴だと言えますが、だからこそ、文系の学問には長い時間のなかで価値創造的に「役に立つ」ものを生み出す可能性があるのです。

【12】また、多元的な価値の尺度があるなかで、その時その時で最適の価値軸に転換していくためには、それぞれの価値軸に対して距離を保ち、批判していくことが必要です。そうでなければ (2) 一つの価値軸にのめり込み、それが新たなものに変わったときにまったく対応できないということになるでしょう。たとえば過去の日本が経験したように、「鬼畜米英」となれば一斉に「鬼畜米英」に、「高度成長」と言えば皆が「高度成長」に向かって走っていくというようなことでは、絶対に新しい価値は生まれません。それどころか、そうやって皆が追求していた目標が時代に合わなくなった際、新たな価値を発見することもできず、どこに向かって舵を切ったらいいか、再び皆でわからなくなってしまうのです。

【13】価値の尺度が劇的に変化する現代、前提としていたはずの目的が、一瞬でひっくり返ってしまうことは珍しくありません。そうしたたなかで、いかに新たな価値の軸をつくり出していくことができるか。あるいは新しい価値が生まれてきたとき、どう評価していくのか。それを考えるには、目的遂行型な知だけでは駄目です。価値の軸を多元的に捉える視座を持った知でないといけない。そしてこれが、主として文系の知なのだと思います。

【14】なぜならば、新しい価値の軸を生んでいくためには、現存の価値の軸、つまり皆が自明だと思っているものを疑い、反省し、批判を行い、違う価値の軸の可能性を見つける必要があるからです。経済成長や新成長経済といった自明化している目的と価値を疑い、そういった自明性から飛び出す視点がなければ、新しい創造性は出てきません。ここには文系的の知が絶対に必要ですから、理系的な知は役に立ち、文系的なそれは (3)役に立たないけれども価値があるという議論は間違っていると、私は思います。主に理系な知は短く役に立つことが多く、文系的な知はむしろ長く役に立つことが多いのです。

(吉見俊哉『「文系学部廃止」の衝撃』より。出題の都合により一部改変した箇所がある。)

 

 ーーーーーーーー

 

(問題)

(問3)傍線部(2)「一つの価値軸にのめり込み、それが新たなものに変わったときにまったく対応できない」と筆者が述べている理由を、八〇字以内で説明しなさい。

 

(問4)傍線部(3)「役に立たないけれども価値がある」という議論と、筆者の立場との相違点について、理系の知に対する文系の知の違いに言及しながら二〇〇字以内で説明しなさい。

 

………………………………

  

(解説・解答) 

(問3)(理由説明問題)

 

 文脈から判断すると、【12】・【13】段落の内容をまとめるとよいでしょう。

 「のめり込み」という、少々、極端な表現に注目して答案をまとめてください。

 「価値の一元化・固定化のみの状況に安住する(熱中する)と、多元的な価値軸に対して距離を保つこと、批判することができず、新たな価値軸を作り出すことも、評価すること(→相対主義的態度)も、困難になるから」という指摘が、必要不可欠になります。

 

 (解答)

目的遂行型の知は価値や目的が固定している時には、かなり有効だが、その価値のみを追求していると、長期的には変化する多元的な価値を評価・創造することはできないから。(80字)

 

 

(問4)(内容説明問題)

 

 問2・3の解答内容を踏まえつつ、全文要約的に、まとめることを求めらています。

  「文系の知」と「理系の知」との役立ち方の次元が相反することを簡潔にまとめると、よいでしょう。

 

 「役に立つ」には、「目的遂行型」(理系の知)と「価値創造型」(文系の知)の二つの次元があること。

 「理系の知」は短期的には役立つが、「文系の知」は短期的には役立たないこと。

 しかし、文系の知は「変化する多元的な価値の尺度」を視野に入れ、現存の価値が変化したとき、新たな価値軸を創造し、新しい価値軸を評価することができる点で、長期的に役立つ知であること。

 つまり、「文系の知」は、価値軸の変化を予見したり、先導したりする価値創造的な次元を含む。その点で、「短く役立つ知」である「理系の知」とは次元が異なること。

 

 以上の点に留意して、答案を作成してください。

 

 (解答)

理系の知は目的遂行的で所与の目的達成に有効なのに対し、文系の知は価値創造的でその有効性は長期的に見ないと明確ではない。一般的には理系の知の方が評価が高く、文系の知は「役に立たないが大切だ」程度に扱われている。しかし、価値の尺度が変化する中では理系の知は対応できない。従って、価値軸を多元的に捉える視座を持ち、その時代の価値を相対化し、新たな価値を創造していく文系の知が必要だと筆者は主張する。(196字)

 

 

(3)本書の内容紹介、著者紹介

 

吉見 俊哉(よしみ・しゅんや)
1957年、東京都生まれ。東京大学大学院情報学環教授。同大学副学長、大学総合教育センター長などを歴任。社会学、都市論、メディア論、文化研究を主な専攻としつつ、日本におけるカルチュラル・スタディーズの中心的な役割を果たす。


主な著書に、
『都市のドラマトゥルギー』(弘文堂、1987年 河出文庫 2008年)、
『メディア時代の文化社会学』(新曜社、1994年)、
『「声」の資本主義』(講談社学術選書、1995年)、
『リアリティ・トランジット』(紀伊国屋書店、1996年)、
『メディアとしての電話』(弘文堂、共著、 1992年)、
『都市の空間 都市の身体』(勁草書房、編著、1996年)、
『デザイン・テクノロジー・市場』(情報社会の文化3、東京大学出版会、共編著、1998年)、
『カルチュラル・スタディーズとの対話』(新曜社、共編著、1999年)、
『ニュースの誕生』(東京大学出版会、共編著、1999年)、
『カルチュラル・スタディーズ』(岩波書店、2000年)、
『メディア・スタディーズ』(せりか書房、編著、2000年)、
『内破する知』(東京大学出版会、共著、2000年)、
『カルチュラル・ターン、文化の政治学へ』(人文書院、2003 年)、
『ポスト戦後社会』(岩波新書、2008年)、
『天皇とアメリカ』(共著、集英社新書、2010 年)、
『大学とは何か』(岩波新書 2011年)
等多数。

 

ーーーーーーーー

 

今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

ご期待ください。

  

   

  

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「文系学部廃止」の衝撃 (集英社新書)

「文系学部廃止」の衝撃 (集英社新書)

 

 

大予言 「歴史の尺度」が示す未来 (集英社新書)

大予言 「歴史の尺度」が示す未来 (集英社新書)

 

 

頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

 

  

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2017慶大経済小論文・解説・論点的中報告④・ソクラテス的思考

(1)2017でも、センター現代文、東大現代文、早大政経・法・現代文、学習院大現代文に続き、慶大経済・小論文にも、当ブログの予想論点記事が的中しました。

 

 つまり、「慶大経済・小論文問題」に、当ブログの予想論点記事(「デモクラシー(民主主義)」・「文系学部解体」・「リベラルアーツ」)が的中しました。
 2016東大現代文ズバリ的中・一橋大現代文ズバリ的中(共に全文一致)に続く喜びです。
 そこで、今回は、「2017慶大経済・小論文」の解説をします。


 なお、これまでに発表した、2017の「論点的中報告・問題解説記事①~③」、2016の「東大現代文ズバリ的中報告・問題解説記事」、「一橋大現代文ズバリ的中・問題解説記事」については、下にリンク画像を貼っておきます。

 

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 「予想論点的中報告記事②」として扱います↓ 

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 「予想論点的中報告記事①」として扱います↓

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 今年度の慶大経済学部の小論文問題では、

「組織・国家の存続・発展のためにはデモクラシー(民主主義)が不可欠である。デモクラシー(民主主義)の基盤としては、伝統・権威に依存することなく、批判的思考態度を持ち、他者に敬意を抱きつつ、議論を重視するソクラテス的思考が必要となる。イエスマンばかりでは、組織・国家の存続・発展は望めない。このことは、歴史的に明らかである。ソクラテス的思考を養成するには人文学(リベラルアーツ、つまり、主に「文系の知」)を学ぶことが不可欠である。」という、論考が出題されました。


 今回の問題は、「トランプ現象」・「イギリスのEU離脱」・「ポピュリズム」、「最近の文系学部軽視の風潮」に関連しています。


 つまり、「トランプ現象」・「ポピュリズム」、「最近の文系学部軽視の風潮」に対して、「デモクラシー・民主主義」には、「ソクラテス的思考」・「文系学部の再評価・重視」が不可欠という原理・原則論を呈示して、根本的批判をしているのではないのでしょうか?

 市民が教育によって「批判的思考」と「省察の能力」を持つことは、「デモクラシー」の安定・存続、ひいては、国家・組織の存続・発展のために不可欠なのです。

 このように考えると、今回の慶大経済学部の問題は、かなりの良問と言えます。来年度の国語(現代文・評論文)・小論文対策のために、この問題は、よく理解しておくべきだと思われます。

 

 今回の慶大経済の小論文問題は、当ブログの「『君たちが知っておくべきこと』佐藤優③」、「予想問題・『文系学部解体』②」を読んでおけば、かなり、分かりやすかったと思われます。

 これら二つの記事のポイントを、以下に、再掲します。

 

 まず、「『君たちが知っておくべきこと』佐藤優③」の記事から、佐藤氏の講義(「教養を身につけるには」「リベラルアーツとは何か」・P123)の概要を再掲します。

 

ーーーーーーーー(再掲、スタート)

 

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です)

「  どうして近代になって、こんなに受験勉強が大変になったのでしょうか。

 しかも、皆さんがやっていることは、基本的には専門教育ではなく、一般教養です。そのために、なぜこれだけの時間をかけるかということについて、最も説得力のある説明をしているのは、アーネスト・ゲルナーというイギリスの社会人類学者です。

 ゲルナーは、高いレベルでの文化を支えるためには、専門教育のレベルが低くなってくると言う。専門教育を受けた人間は応用が利(き)かないということで職業教育上、一段下に見られるようになる。だから、一般教養が必要だというわけです。

 最近は盛んに『教養が必要、リベラルアーツ(→「①職業・専門には直接結びつかない教養。自由学芸。②一般教養」という意味)が重要』と言われています。リベラルアーツリベラルとは何か? 自由人であるということです。つまり、奴隷ではないということです。

 自由人が身につけるべきものが教養であるなら、すなわち、テクネー(技術)を持っているのは奴隷だということになる。司法試験の準備、国家医師試験の準備は、世間的にはエリートを作り出すためのシステムと思われているけれど、その実、テクネーにすぎないのではないか。

 そう世界が思い始めたことで、幅広い教養が必要なのだという考え方に回帰しているのかもしれない。」

「  幅広い教養を身につけようと思ったら、まず自らの意志を持つこと、それから、いい先生を見つけること。あとは切磋琢磨できるいい友だちを見つけること。」

……………………………

(当ブログによる解説)

 佐藤氏の、自由人=教養、奴隷=テクネー(技術)、という対比は、極めて明解です。

 この講義は、現代の常識を、激しく揺さぶる内容を含んでいるので、熟読しておいて下さい。

 入試頻出著者の室井尚氏、吉見俊哉氏も、同趣旨の内容を発言しています。
 最近は、「教養」・「リベラルアーツ」の価値が再評価されています。

 「専門的知識・技術」に価値があるのは、勿論です。
 しかし、その価値は、短期的視点から見た評価です。

 長期的視点(→今回の慶大経済の小論文問題は、まさに、この点がポイントになっています)から見た場合に、「教養」・「リベラルアーツ」には独特の高い価値があるのです。

ーーーーーーーー(再掲、終了)
 

 次に、「予想問題・『文系学部解体』②」の中の、《「大学が崩壊する」ー自分の頭で何も考えないような「人材育成」に反対》の概要・解説を再掲します。

 

ーーーーーーーー(再掲、スタート)

 

 【概要④】

 「『教養教育』や『リベラルアーツ教育』が大切だというのは、さまざまな考え方を学ぶことで、自分がそれまで自由に考えていなかったこと、さまざまなイデオロギーや因襲に縛られていたということに対する『自覚』や『気づき』を与えてくれるから大切なのです。」

……………………………

(当ブログによる解説)

 さらには、『真の自由』こそは、『創造力の根源』や『真理探究の基礎』でも、あります。(→今回の慶大経済の問題は、まさに、ここがポイントになっています)
 これらの『創造力』、『真理探究』こそ人類の発展に不可欠なのです。

 ーーーーーーーー(再掲、終了)

 

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 「デモクラシー・民主主義」の論点についても、当ブログで昨年に予想論点記事を発表していたので、下にリンク画像を貼っておきます。

 

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 なお、今年度、2017年度において、「文系学部解体」・「リベラルアーツ」については、大阪大学国語(現代文・評論文)、法政大学国語(現代文・評論文)、慶應大学商学部小論文でも出題されています。

 また、「デモクラシー(民主主義)」については、新潟大学国語(現代文・評論文)、早稲田大学文学部国語(現代文・評論文)でも出題されています。
 これらのうち、大阪大学国語(現代文・評論文)については、さらに、「問題解説記事」を発表する予定です。ご期待ください。

 

 今回の問題は、流行論点を含んでいて、来年度の国語(現代文・評論文)・小論文にも出題される可能性が大なので、国語(現代文・評論文)・小論文対策として、解説していきます。

 今回の問題は、英語の長文読解問題としても有用です。ぜひとも、気合いを入れて、お読みください。

 

 経済成長がすべてか?――デモクラシーが人文学を必要とする理由

 

 

 

 

 

 

(1)慶應大学経済学部・小論文・問題解説(マーサ・C.ヌスバウム『経済成長がすべてか?ーーデモクラシーが人文学を必要とする理由』)

 

(問題文本文)(概要です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です)

 


【1】吟味されない人生は生きるに値しない」とソクラテスは公言していました。彼はこうした批判的問いかけという理想への忠誠を貫いたために命を落としたのです。今日では、ソクラテスの例が西洋における伝統的なリベラル教育の理論と実践の中心をなしています。伝統や権威を盲信するのではなく、自分自身で考え議論するソクラテス的なやり方で、議論する能力が、デモクラシーにとってかけがえのないものです。

【2】不決断というものはたいてい、権威への服従と仲間の圧力によってさらに悪化するものです。ソクラテスの批判的探求は完全に反権威主義的なものです。重要なのは話者の地位ではなく、ひたすら議論の中身なのです。
【3】「周囲の集団も重要ではありません。ソクラテス的論者はたえず異議を唱える人です。各人の議論だけが物事をはっきりさせると知っているからです。数よりも議論にしたがうように訓練された人が、デモクラシーに有用なのです。そのような人は、間違ったことや軽率なことを言わせようとする圧力に抵抗することができるでしょう。
【4】検証されない生活を送っている人々のさらなる問題は、しばしば互いに敬意を欠くことです。政治討論がスポーツの試合さながら自陣営に得点をもたらすためのものだと考えられるようになると、「相手陣営」は敵と見なされ、これを打ち負かしたい、辱しめたいとすら願うようになるのです。妥協点や共通点を探ろうとは思いつきもしないのです。(→トランプ現象をイメージします)  対話の相手に向けるソクラテスの態度は、彼が自分自身に向ける態度とまさに同じものです。各人が検証を必要としており、誰もが議論の前では平等なのです。このような批判的態度は、各人の立ち位置を明らかにします。その過程で、共有された前提や意見が交わる点が明らかになっていき、そのおかげで市民はひとつの結論を共有する方向に進んでいくのです。
【5】さて今度は、この能力と、強力なグローバル市場に包囲されている現代の多元的デモクラシーとの関連について考えてみましょう。経済的成功がまさに目標とされている場合でも、一流の会社経営者たちは、批判的な声が沈黙させられないような企業文化を、つまり主体性と説明責任を重んじる文化を作り出す重要性を知悉しています。優れたビジネス教育者たちは、私たちの最大の失敗のいくつかーーエンロンやワールドコムの破滅的な失敗ーーの原因として、イエスマンの文化を挙げていました。イエスマンの文化においては、批判的なアイデアは決して口にされないのです。
【6】ビジネスにおける二つ目の問題は、イノベーション(→「技術革新」という意味)です。繁栄したイノベーション文化を維持するのに不可欠な、想像力と独立した思考の技能を、教養教育が強化すると考えるに足る理由はいくつもあります。多くの会社が、専門に特化した訓練を受けてきた者よりも、教養課程で学んできた学生を好みます。アメリカ経済の特徴のひとつは、一般教養に重きを置いたきたところ、そして科学の分野では、より専門的な応用技術よりも基礎教育・基礎研究に重きを置いてきたところにあると思われます。

【7】しかしくり返しますが、持続的安定を望むデモクラシーの目標は、単なる経済成長だけではありえないし、またあるべきではないのですから、ここで私たちの中心的な主題である政治文化について再び考えてみましょう。人間は権威と仲間の圧力に追従しがちです。おぞましい事態を回避するためには、個々人が異議を申し立てることのできる文化を作り、こうした傾向を押しとどめる必要があります。ひとつの批判的な声が重要な結果をもたらしうるのです。個々人の主体的な声を重視することは、責任の文化を推奨することにもなるのです。自分の考えに責任を持つ人々は、自分の行為にも責任を持とうとするものです。タゴール(→「タゴルラビンドラナート・タゴール」は、インドの詩人 、思想家。詩聖として非常な尊敬を集めている。1913年には『ギーターンジャリ』によってノーベル文学賞を受賞。これはアジア人に与えられた初のノーベル賞でもあった。 インド国歌及びバングラデシュ国歌の作詞・作曲者で、タゴール国際大学の設立者でもあった。 )は、社会生活の官僚主義化と近代国家の機械的な性質が、人々の道徳的想像力を鈍磨させ、その結果人々は何の良心の呵責もなくおぞましい事態を黙認するようになると強調しています。世界がまっしぐらに崩壊へ向かうのを避けたいのなら独立した思考が重要である、とタゴールは言い添えています。

マーサ・C.ヌスバウム著、小沢自然・小野正嗣訳、『経済成長がすべてか?――デモクラシーが人文学を必要とする理由』(岩波書店、2013 年)

 

ーーーーーーーー

 

(問題) 

設問A ソクラテス的論者とは、どのように議論をする人なのか。200字以内で説明しなさい。

……………………………

(解説・解答)

 課題文を読むと、「ソクラテス的論者の特徴」について、3つの点が言及されているので、これを要約的にまとめると、よいでしょう。

 

(解答)

ソクラテス的論者の特徴は、以下の3点である。

第1に、伝統や権威を盲信するのではなく、自分で考え議論する点である。このような反権威主義的な態度の人物が重視するのは、議論の中身である。

第2に、批判的思考力を持ち、自分の考察についても、常に注意深いことである。

第3に、対話の相手に敬意を抱き、議論の前では誰もが平等であると考えることである。 

 

 ーーーーーーー

 

(問題) 

設問B  ソクラテス的なやり方で議論する能力を持つ人材は、組織(企業、行政機関など) において、どのような活躍ができるのか。

 また、そのためには、組織は、どのような条件を備えることが必要か、課題文のみにとらわれず、あなたの考えを論じなさい。

……………………………

(解説・解答)

 

問われているのは、以下の2点です。
(1)  ソクラテス的なやり方で議論をすることができる人は、組織において、どのような活躍ができるのか。
(2)  そのために組織は、どのような条件を備えることが必要か。

 

 まず、「(1)ソクラテス的なやり方で議論をすることができる人は、組織において、どのような活躍ができるのかについては、

 

第1に、「イノベーションに寄与できること」が、あげられます。「繁栄したイノベーション文化を維持する」ためには、「ソクラテス的思考」、つまり、「想像力と独立した思考」が不可欠です。このことは、以下の本文から導かれます。

「経済的成功がまさに目標とされている場合でも、一流の会社経営者たちは、批判的な声が沈黙させられないような企業文化を、つまり主体性と説明責任を重んじる文化を作り出す重要性を知悉しています。」 


第2に、重大な失敗を指摘して、会社の安定的経営・健全経営に貢献できます。会社が危機に陥ることを回避することができます。イエスマンばかりでは、会社の危機に対応できないのです。批判的思考が不可欠なのです。このことは、以下の本文から導かれます。

「優れたビジネス教育者たちは、私たちの最大の失敗のいくつかーーエンロンやワールドコムの破滅的な失敗ーーの原因として、イエスマンの文化を挙げていました。イエスマンの文化においては、批判的なアイデアは決して口にされないのです。」

 「タゴールは、社会生活の官僚主義化と近代国家の機械的な性質が、人々の道徳的想像力を鈍磨させ、その結果人々は何の良心の呵責もなくおぞましい事態を黙認するようになると強調しています。世界がまっしぐらに崩壊へ向かうのを避けたいのなら独立した思考が重要である、とタゴールは言い添えています。」

 

 次に、(2)  そのために組織は、どのような条件を備えることが必要かについては、

 

第1に、「社内デモクラシー」・「社内民主主義」の「育成」・「保持」が重要になります。言い換えると、多様な批判的意見を尊重することが必要になります。このことは、以下の本文から導かれます。

「経済的成功がまさに目標とされている場合でも、一流の会社経営者たちは、批判的な声が沈黙させられないような企業文化を、つまり主体性と説明責任を重んじる文化を作り出す重要性を知悉しています。」

 

第2に、「社員教育」として、「教養教育」を積極的に導入する必要があります。このことは、本文第6段落から導かれます。

 

 以上を答案の形にすると、以下のようになります。

 (解答)

「(1)ソクラテス的なやり方で議論をすることができる人は、組織において、どのような活躍ができるのかについては、

第1に、「イノベーションに寄与できること」が、あげられる。「繁栄したイノベーション文化を維持する」ためには、「ソクラテス的思考」、つまり、「想像力と独立した思考」が不可欠である。

第2に、重大な失敗を指摘して、会社の安定的経営・健全経営に貢献できる。会社が危機に陥ることを回避することができる。イエスマンばかりでは、会社の危機に対応できない。批判的思考が不可欠なのである。

次に、(2)  そのために組織は、どのような条件を備えることが必要かについては、

 第1に、「社内デモクラシー」・「社内民主主義」の「育成」・「保持」が重要になる。言い換えると、多様な批判的意見を尊重することが必要になる。

 第2に、「社員教育」として、「教養教育」を積極的に導入する必要がある。

 

【小論文答案作成のポイント】

 まず、本文を中心に考えることが必要です。つまり、「本文のキーワード」を使って記述するべきです。「本文のキーワード」を「自分なりの表現」で書かないようにしてください。採点者が、読解不足と判定するリスクがあります。つまらない自己主張をしないで、素直に問題に対応してください。

 その上で、自分の考えを記述するようにしてください。

 慶應大学経済学部の小論文は、わずか60分間で合計600字の記述を要求しています。

 問題文本文を読解すること、構想すること、メモをとること、などを考慮すると、設問Bも、設問Aと同様に、ほぼ要約を聞いていると考えるべきでしょう。私は、このように指導しています。このことは、設問Bの問題文からも明白です。

 例えば、設問Bの 「そのために組織は、どのような条件を備えることが必要かにおいて、「IT活用、コンペの実施、異業種や外国の企業との交流」等の、「本文とは無関係な、下らない具体例」をダラダラと書かないでください。

 試験の場で、自己主張することは、無意味どころか、時間的にも、内容的にも、字数的にも、有害でしかありません。「具体例を積極的に書くように」という指導法が、高校、予備校・塾で主流のようです。が、そのような、出題意図や、試験の実情を無視した、逆方向の指導のおかげで、長年、私の生徒の(小論文試験のある慶大などの難関大学の)合格率が5割超になっています。

 従って、私のこの指導法は、正しいと思います。 

 

 

(3)本書の内容紹介、著者・訳者の紹介

【本書の内容紹介】

グローバル市場での競争力を維持するために各国があらゆる無駄の切り棄てを余儀なくされる時代、短期的な利益の追求を国家が最優先する状況のなかで、人文学と芸術は無用の長物と見なされている。そのことが私たちの社会にもたらすものとは、なにか。科学や技術と同じくらい重要な、強い経済と繁栄のために真に求められるものを提示する。(「ブック紹介」より引用)


【著者紹介】【マサ・C.ヌースバウム】

マーサ・C.ヌスバウム(1947年生まれ)は、アメリカ合衆国の哲学者、倫理学者。ニューヨーク生まれ。ニューヨーク大学卒業後、ハーヴァード大学で修士号および博士号を取得。現在、シカゴ大学教授。
経済学者アマルティア・センとの共同研究で、潜在能力アプローチ(capability approach)を提起し、従来の開発や貧困をめぐる議論に介入した。2012年アストゥリアス皇太子賞社会科学部門、2016年京都賞思想・芸術部門を受賞。

【著書編集】

〈単著〉
『女性と人間開発ーー潜在能力アプローチ』(池本幸生・田口さつき・坪井ひろみ訳、岩波書店、2005年)
『感情と法ー現代アメリカ社会の政治的リベラリズム』(河野哲也訳、慶應義塾大学出版会)
『正義のフロンティアーー障碍者・外国人・動物という境界を越えて』(神島裕子訳、法政大学出版局)
『良心の自由ーアメリカの宗教的平等の伝統』(河野哲也監訳、慶應義塾大学出版会、2010)
『経済成長がすべてか?ーーデモクラシーが人文学を必要とする理由』(小沢自然・小野正嗣訳、岩波書店、2013年)

〈共著編集〉
『国を愛するということーー愛国主義の限界をめぐる論争』(辰巳伸知・能川元一訳、人文書院、2000年)

〈共編著編集〉
『クオリティー・オブ・ライフーー豊かさの本質とは』(水谷めぐみ・竹友安彦訳、里文出版、 2006年)
『クローン、是か非か』(中村桂子・渡会圭子訳、産業図書、1999年)

『動物の権利』(安部圭介・山本龍彦・大林啓吾監訳、尚学社、2013年)

 

 

【訳者紹介】

【 小沢/自然 
イギリス・エセックス大学大学院文学部博士課程修了。文学博士。現在、台湾・淡江大学外国語文学部英文学科准教授

 

【 小野/正嗣
東京大学大学院総合文化研究科博士課程満期退学。パリ第8大学文学博士。現在、明治学院大学文学部フランス文学科准教授。作家。(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

 

 

 ーーーーーーー

 

今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

ご期待ください。

  

 

  

gensairyu.hatenablog.com

  

経済成長がすべてか?――デモクラシーが人文学を必要とする理由

経済成長がすべてか?――デモクラシーが人文学を必要とする理由

 

 

 

女性と人間開発――潜在能力アプローチ (岩波オンデマンドブックス)

女性と人間開発――潜在能力アプローチ (岩波オンデマンドブックス)

  • 作者: マーサ・C.ヌスバウム,池本幸生,田口さつき,坪井ひろみ
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2016/10/12
  • メディア: オンデマンド (ペーパーバック)
  • この商品を含むブログを見る
 

 

 

頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

 

 

 

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2017早大現代文・学習院大現代文・論点的中報告③・ポピュリズム

(1)2017早大・学習院大・国語(現代文・評論文)・予想論点的中報告・解説③→ポピュリズム

 

 今回の記事では、このブログで予想論点記事として発表した「トランプ現象」・「ポピュリズム」・「民主主義」が、2017年度入試の国語(現代文・評論文)問題に、どのように的中したかを報告します。

 

 つまり、具体的に、「トランプ現象」・「ポピュリズム」・「民主主義」が、

①  早稲田大学・政経学部・法学部と、学習院大学の、国語(現代文・評論文)に、どのように出題されているか、

②  そして、「論点・テーマ」を意識した学習が難関大学入試国語(現代文・評論文)に、いかに有用か、

を解説していきます。

 

 参考までに、「トランプ現象」・「ポピュリズム」・「民主主義」に関する、当ブログの記事のリンク画像を以下に貼ります。

 

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 なお、「科学論」については、2017センター試験国語第1問(現代文・評論文)、2017東大国語(現代文・評論文)に、当ブログの予想論点・テーマ記事が的中しました。

 これらについては、すでに、それぞれ、「予想論点的中報告・解説記事」を発表していますので、そちらをご覧ください。→下に、リンク画像を貼っておきます。

 「科学論」は、当ブログの予想通りに、今年の流行論点・テーマになっているようです。

 「科学論」がセンター試験・東大以外に、さらに、どのような大学に出題されているか、については、近い内に追加の記事を発表する予定ですので、ご期待ください。

  

gensairyu.hatenablog.com

 

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  ここで、「ポピュリズム」の意味を確認的に説明します。

 「ポピュリズム」とは、一般大衆の利害・権利・欲望・不安・恐怖などを利用して、大衆の支持を基盤として、既存の体制・エリート層・インテリ階級などと対決姿勢をとる政治思想のことです。日本語では「大衆主義」・「大衆迎合主義」などと訳されています。
 また、同様の思想を持つ人物・集団を「ポピュリスト」と呼び、大衆主義者・大衆迎合主義者などと訳されています。

 

 「ポピュリズム」の最近の事例については、2017年度入試・学習院大学経済学部に出題された吉田徹氏の論考(「ポピュリズムにどう向き合う」)が分かりやすいので、ここで紹介します。

(なお、この2017年度・学習院大学経済学部の問題の概要については、今回の記事の最後に解説します。)

 

(概要です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です)

「一匹の妖怪が世界を徘徊(はいかい)している。ポピュリズムという名の妖怪が」。マルクスの「共産党宣言」をもじった言葉がメディアで躍る。

 英国では2014年の欧州議会選挙で主権回復と移民の権利制限を訴える英国独立党(UKIP)が二大政党の得票率を上回った。フランスでも12年の大統領選以降、ユーロ圏離脱や移民排斥を主張する国民戦線(FN)が保革に次ぐ第三極の地位を固めた。

 南欧では、反緊縮と雇用創出を公約に掲げるスペインの左派政党ポデモスや、ギリシャの急進左派連合(SYRIZA)が伸長。オランダやスイス、デンマークなどの小国、ポーランドやハンガリーなどの東欧諸国では、ポピュリズム勢力が与党の座を占めたり、閣外協力を通じたりして、政策に影響を及ぼしている。

 米大統領選予備選での「トランプ旋風」も加わり、先進国はポピュリズムの時代を迎えている。

 

 それでは、このブログで予想していた「トランプ現象」・「ポピュリズム」・「民主主義」が具体的に、上記の難関大学でいかに出題されているかを解説していきます。

 今回の論点は、流行論点化していて、来年度にも出題が予想されるので、この記事を予想論点記事としても、お読みください。

 

 権力の読みかた―状況と理論


 

 

 

 

(2)2017早稲田大学政経学部ー『権力の読み方』萱野稔人

 

 2017年度の早稲田大学政経学部・国語(現代文・評論文)では、入試頻出著者の萱野稔人氏の、以下のような論考が出題されました。

 最初の2つの段落は、以下のような内容です。

 

(概要です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です)

(【1】【2】・・・・は当ブログで付記した段落番号です)

 

「【1】現代のポピュリズム運動には、「国家はわれわれのたちに治安を守るべきだ」という要求が込めらている。一義的には国家のためのものである治安を、なぜ民衆がみずからのために国家に対して要求するのか、あるいは要求できるのか。

【2】じつは、ポピュリズムのこうした要求は国家のひとつの歴史的形態を前提にしている。国民国家とよばれるものがそれだ。国民国家とはまさに、国民として同定された住民全体が国家の主体となるような国家形態にほかならない。いわばそこでは、富を徴収する側と徴収される側とが一体化しているのである。」

 

 最後の2つの段落は、以下のような内容です。

「【15】国家はいまや、軍事的にも経済的にも、国民という形態に依存する必要性から脱しつつあるのだ。国家にとって、領土内における住民全体の生存条件を整えることは、見返りのすくない非効率的な作業となりつつあるのである。

【16】ポピュリズムによる「国家への呼びかけ」は、現在の国家の脱国民化にたいするひとつの反作用にほかならない。その運動をうみだしている不安感は、国民国家のもとでむすばれていた民衆と国家のセキュリティ上の絆がほころびつつあることに起因している。そのほころびをむすび直そうとして、ポピュリズムは、国民であるための核となる人種的アイデンティティへますます傾斜(→「人種差別的になる」ということです)しているのだ。」(萱野稔人『権力の読み方』)

  

 今回の問題本文全体の要旨は以下の通りです。

 

 国内の産業構造の転換、つまり「経済のグローバル化」の進展によって、国家の関心は、自国の経済を牽引するグローバル(多国籍)企業の活動の保障に、重点を移していきます。

 すなわち、逆に見ると、ある意味で、「国家」が「国民」を見捨てるという「国家の脱国民化」の動きが顕著になっていくのです。

 この流れの中で、見捨てられつつ「国民」(つまり、「グローバル化」の恩恵を受けない階層)が、「ポピュリズム」の基盤となっていくのです。(→今回の「トランプ現象」において、「貧困化しつつある労働者階級」が特にトランプ候補を支持したのも、同じ構図です)

 その際の「国民」の要求は、「レイシズム」(→「人種主義」という意味です。「本質的な優劣の基準」を人種に求める主義です。人種差別的な思想です)的な色彩を帯びます。

 「国民」は「国家との一体性」を強く求めるからです。

 

 これらのことは、「トランプ現象」についての予備知識があれば、分かりやすかったでしょう。

 

 なぜ、トランプ候補はグローバル企業のアメリカ国外の経済活動を制限しようとするのか?

 なぜ、トランプ候補は人種差別的な発言をするのか?

 そして、その発言が、トランプ候補の支持率アッブに直結したのか?

 なぜ、トランプ候補は、インテリ階級を、マスメディアを罵倒するのか?

 なぜ、これらの過激な発言をしていたトランプ候補は、労働者階級の圧倒的な支持を集めたのか?

 

 これらのことは、一体として、「見捨てられつつある国民」を救済するための手段として機能しているのです。

 だからこそ、トランプ候補は、マスメディアの攻撃を受ければ受けるほど、支持者を集めたのでしょう。

 

 トランプ現象についての様々な論考を入試以前に読み、これらについての疑問を前もって持っていれば、今回の入試問題を、スムーズに理解できたはずです。

 

 ーーーーーーーー

 

  なお、問題としては、以下のような設問が出題されています。

 問1  この文章が議論の前提としている「ポピュリズム」の例として適切でないもの次の中から一つ選べ。

イ  デモ行進を通じて市民が政治的要求を達成しようとするありさま。

ロ  より過激な言葉遣いをする政治家ほど世論の支持を集めるありさま。

ハ  移民労働者に対する排外主義政策が民衆の広範な支持を得るありさま。

ニ  治安が悪化しているという感覚に基づき人々が監視強化を求めるありさま。

ホ  社会的弱者の境遇は自己責任の結果だとする世論が社会に蔓延するありさま。

 

ーーーーーーーー

 

 (解説・解答)

 ロ・ハは、トランプ現象そのものです。

 私のブログ記事を入試の前に読んで、トランプ現象についての新聞記事などを熟読していた受験生にとっては、ラクな問題だったでしょう。

 正解はです。

 

ーーーーーーーー

 

 また、最後の設問(趣旨合致問題。配点割合は多いはずです)は、次のような内容になっていて、「トランプ現象」・「ポピュリズム」を、予備知識・教養として知っておけば、かなり有利になると思います。

 

問7  本文の内容に合致する文として最も適切なものを次の中から一つ選べ。

イ  昨今の人種主義にもとづく差別の蔓延は、国民国家という体制のなかで偶然に生まれてしまった病である。

ロ  経済のグローバル化によって起こった生産拠点の海外移転は、国民に与えられるべき福祉のリソース(→「資源。資産」という意味)を流出させている。

ハ  国民が、いずれは自らの首を絞めるような政策を支持し始めているのは、国家形態が次の段階に移行する前触れである。

ニ  人間社会は進歩によって国民国家という形態を生み出したが、同時にぞれを維持するために暴力を占有するようになった。

ホ  コンピューター・ネットワークを介して行われるサイバー戦争のような軍事テクノロジーの高度化は、国民を兵士として動員する理由を失わせた。

 

ーーーーーーーー

 

(解説・解答)(趣旨合致問題)

 

イ  「トランプ現象」・「ポピュリズム」を知っておけば、この選択肢は、それらの現実と大きくズレているので、本文を読まなくても、この選択肢は誤りと、すぐに分かります。

 

ロ  文章自体が論理的に成立しない内容になっているので、誤りです。

 

【15】・【16】段落より、これが正解です。現在の国家の脱国民化が「人種主義的」なポピュリズムを生み出しているのです。

 

ニ  これが適切か否かについては、問題文本文の全文を精読・熟読する必要がありますが、結論・主張部分である【15】・【16】段落の内容とは無関係です。その点で、と比較して、正解の可能性は低いと予想できます。

 

ホ  このような具体的・些末的な内容は、通常は、「本文の内容に合致する文として最も適切なもの」を選ぶ問題としては、正解とは無関係な場合が多いのです。この選択肢も、正解の可能性は低いと予想できます。

 

 ーーーーーーーー

 

ここで、萱野稔人氏の紹介をします。

萱野 稔人(かやの としひと)
1970年生まれ。2003年パリ第十大学大学院哲学科博士課程修了(パリ大学哲学博士)。現在、津田塾大学国際関係学科准教授。
著書に
『カネと暴力の系譜学』(河出書房新社)、
『権力の読みかた―状況と理論』(青土社)、
『「生きづらさ」について』(光文社新書、雨宮処凛との共著)、
『金融危機の資本論―グローバリゼーション以降、世界はどうなるのか』(青土社、本山美彦との共著)、
『超マクロ展望―世界経済の真実』(集英社新書、水野和夫との共著)、
『ナショナリズムは悪なのか』(NHK出版新書)、

などがある。

  

 離脱と移動―バタイユ・ブランショ・デュラス

 

 

 

 

 

(3)2017早稲田大学法学部ー『離脱と移動』西谷修

 

 早稲田大学法学部では、入試頻出著者である西谷修氏の論考(『離脱と移動』)が出題されました。

 この論考は、(主に、ポピュリズムにおける)「ナショナリズム(国家主義)への依存」を強く批判しています。

 この問題も、最近の「トランプ現象」・「イギリスのEU離脱」などのポピュリズムにおける「排外主義」を意識した出題と思われます。

 以下に問題本文の最終部分の一部を引用します。

 

(概要です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です)

(【最終段落】は当分ブログで付記した段落番号です)

「人間は定住することにあまりになじんでいるため、移動や環境の変化が不安を誘う。あるいは言語や文化の違う環境が疎外感を生む。そして移民を迎える側も、異質な要素の侵入による自分の環境の変化に不安を抱く。それだけでなく、世界の全般的な流動化(→グローバル化)が個や共同体のレベルで「アイデンティティの危機」を生む。だがひとつになったこの地球上で、誰も自明で不変な環境に生きているわけではない。もちろん流動の時代であればこそ、国家や民族の神話がふたたび担ぎ出され、そこに拠り所を求めるだけでなく、その価値を原理に社会を再統合しようとする動き(→現在では、「トランプ現象」、「イギリスのEU離脱」などが、これに該当することは明白です)も現れる。けれどもそうした逆行の試みが、輪をかけた混乱と抗争しか招かないのは二十世紀の歴史がすでに証明している。

【最終段落】移動の時代の遠い発端で、世界進出を開始したヨーロッパが最初に到達したのはカリブ海だった。そこではヨーロッパとの暴力的な出会いのなかで原住民がほぼ絶滅し、その後にまず大西洋の向こうから、移民たちだけの「新世界」が作られた。いま「クレオール」と呼ばないれて注目されるこの世界は、起源の不在を出発点とし、世界の各地から多様な要素を受け入れて複合的に形成され、みずからがつねに変成の途上にあることを意識している。そこではアイデンティティとは、どんな単一の起源や本質に還元されるものでもなく、それ自体複合的なものとして形成され、そのつど編み直される帰属のバランスのことだ。カリブ海の経験が、現在の世界のモデルになるとは言わないが、そこにひとつの先例を見ることはできる。たぶん長い射程で考えれば逆行できないだろうこの「移動の時代」に、それに見合った住まい方を見いだすには、4 危機」を唱えて身構える(→「ポピュリズム」・「トランプ現象」そのもの、と言えます)より、未知の状況に積極的に対処する創意(→異文化理解、異文化との共生の意欲・工夫)こそが必要だろう。」(西谷修『離脱と移動』)

 

最後の設問として、次のような問題が出題されています。この大問における唯一の記述式問題で、指定字数も比較的多いので、配点は多いと思われます。

 

問  傍線部4「「危機」を唱えて身構えるより、未知の状況に積極的に対処する創意(→異文化理解、異文化との共生の意欲・工夫)こそが必要だろう。」 とは具体的にはどういうことか、著者の考えに即し、「アイデンティティ」「移動」2語を用いて120字数以上180字数以内で説明せよ。

 

 この問題は、傍線部直前の最終段落の「たぶん長い射程で考えれば逆行できないだろうこの「移動の時代(→「ほぼ宿命」・「時代の流れ」という意味です)と、傍線部を含む文の二つ前の文、つまり、「アイデンティティとは、どんな単一の起源や本質に還元されるものでもなく、それ自体複合的なものとして形成され、そのつど編み直される帰属のバランスのことだ」を、中心にまとめるべきです。

 

 この論考の趣旨は、以下のようになっています。

 世界の全般的な流動化(→グローバル化)が、個や共同体のレベルで「アイデンティティの危機」を生むが、ひとつになったこの地球上で、誰も自明で不変な環境に生きているわけではない。

 流動の時代であればこそ、国家や民族の神話(→ナショナリズム・国家主義)に拠り所を求めるのは、賢明ではない。

 そうした逆行の試みが、輪をかけた混乱と抗争しか招かないのは二十世紀の歴史がすでに証明している。

 むしろ、アイデンティティの複合化に、新たな解決策の光明を見いだそうとしている論考です。

 従って、その論理の流れに沿った記述を心がけるべきです。

 

 解答としては、以下のようになります。

「現代の移動の時代は、個・共同体のレベルで「アイデンティティの危機」を生み、国家や民族の神話に拠り所を求める傾向があるが、そうした逆行の試みが輪をかけた混乱と抗争しか招かないのは二十世紀の歴史がすでに証明している。この移動の時代に、それに見合った住まい方を見いだすには、アイデンティティの本来的な複合的性格に注目して、未知の状況に柔軟に対応するべきだということ。」(180字)

 

 この問題は、明らかに、現在の「トランプ現象」・「イギリスのEU離脱」・「ポピュリズム」などを意識して、出題されたものだと思います。

 その点で、これらについての予備知識・教養があれば、かなり読みやすく、分かりやすかったでしょう。

 このように、現在の社会情勢を積極的に知ろうとすることは、入試国語(現代文・評論文)・小論文に、かなり、役に立つと言えるのです。

 

 ーーーーーーーー

 

ここで、西谷修氏の紹介をします。

西谷 修(にしたに おさむ )

日本のフランス哲学者。1950年愛知県生まれ。東京大学法学部卒業。東京都立大学大学院人文科学研究科修士課程修了。フランス思想・哲学研究をベースに文明論、戦争論、世界史論、メディア論、ドグマ人類学、身体・医療思想、芸術論などのテーマで多くの論考を展開している。明治学院大学、東京外国語大学教授を経て、立教大学。立教大学大学院文学研究科(比較文明学専攻)特任教授。東京外国語大学名誉教授。

著書として、
『不死のワンダーランド』(青土社 1990年 / 講談社学術文庫 1996年)
『戦争論』(岩波書店 1992年 / 講談社学術文庫 1998年)
『夜の鼓動にふれる――戦争論講義』(東京大学出版会 1995年 / ちくま学芸文庫 2015年)
『離脱と移動――バタイユ・ブランショ・デュラス』(せりか書房 1997年)
『世界史の臨界』(岩波書店 2000年)
『「テロとの戦争」とは何か――9.11以後の世界』(以文社 2002年 / 「〈テロル〉との戦争」増補新版 2006年)
『理性の探求』(岩波書店 2009年) 
『アフター・フクシマ・クロニクル』(ぷねうま舎、2014年)
『戦争とは何だろうか』(ちくまプリマー新書、2016年) 
『アメリカ 異形の制度空間』(講談社選書メチエ、2016年)
などがある。 

  

 ポピュリズムを考える 民主主義への再入門 NHKブックス

 

 

 

 

 

(4)2017学習院大学経済学部

 

 学習院大学経済では、吉田徹の氏の論考(「ポピュリズムにどう向き合う」)が出題されました。

 

 最初の4つの段落は、以下のようになっています。

 

「「一匹の妖怪が世界を徘徊(はいかい)している。ポピュリズムという名の妖怪が」。マルクスの「共産党宣言」をもじった言葉がメディアで躍る。

 英国では2014年の欧州議会選挙で主権回復と移民の権利制限を訴える英国独立党(UKIP)が二大政党の得票率を上回った。フランスでも12年の大統領選以降、ユーロ圏離脱や移民排斥を主張する国民戦線(FN)が保革に次ぐ第三極の地位を固めた。

 南欧では、反緊縮と雇用創出を公約に掲げるスペインの左派政党ポデモスや、ギリシャの急進左派連合(SYRIZA)が伸長。オランダやスイス、デンマークなどの小国、ポーランドやハンガリーなどの東欧諸国では、ポピュリズム勢力が与党の座を占めたり、閣外協力を通じたりして、政策に影響を及ぼしている。

 米大統領選予備選での「トランプ旋風」も加わり、先進国はポピュリズムの時代を迎えている。」

 

 最後の4つの段落は、以下のようになっています。


 「民意の期待値を代表エリートが満たしていないと感じられる時に、いや応なくポピュリズムは台頭する。

 ポピュリズムは民主政における鬼子だ。ポピュリズムと無縁な民主政はなかったし、これからもないだろう。ただしポピュリズムは、硬直化し劣化した政治を流動化させ、それまで取り上げられてこなかった争点を政治に持ち込むことで、代表制と民意の間で不可避的に生まれる不一致を解消する契機ともなる。

 もっとも、それを可能とするのは「共産党宣言」の言葉を再び借りれば「妖怪をはらい清める同盟」の実現にかかっている。具体的には、既存の政治が自己改革を含むイノベーションを完遂し、政策の実効性を高めるといった、民意の「入力」と政策の「出力」の両面での改善を意味する。

 こうした民主政の絶えざるバージョンアップ、すなわち統治されるものと統治するものの一致が実現され、民主政の持つ本来の理念が生かされるのであれば、ポピュリズムという妖怪は初めて窒息させられることになるだろう。」(2016年月2月に発表された、吉田徹「ポピュリズムにどう向き合う」)

  

 この問題文本文に対して、次のような問題が出題されています。

 この大問の設問は全部で7問です。

 次の問題は問5で、選択肢が8個で、正解が2個なので、配点は多いはずです。

 

問5の②  傍線部B(→今回のこの記事では、この部分はカットしました)で、筆者はポピュリズムの特徴を「人々を束ねるイデオロギーではなく、彼らの不満を表現する否定の政治だ」と述べています。現代のポピュリズム政治家はどのような政治をするのですか。次の中から、合致するものを二つ選びなさい。

 

1  ポピュリスト政治家は、ナチスなどに見られたようなファシズム的な政策を唱えることが一般的である。

2  ポピュリスト政治家は、世界的な市場の拡大によって社会的な格差が拡大したとして、福祉政策の充実を訴えている。

3  ポピュリスト政治家は、民族や言語の同質性に根幹を置き、地域的に限定された国民国家の再編を主張することが多い。

 4  ポピュリスト政治家は、巧みな選挙戦術を駆使して議会を牛耳ることで、政策決定の回路を我が物としようとしている。

5  ポピュリスト政治家は、伝統的に労働者階級に地盤を置いて、既得権益を握る人々を攻撃する政策なら何でも賛成する。

6  ポピュリスト政治家は、市場の自由化を図って新自由主義を主張し続ける一方で、文化的には伝統主義的な傾向が強くなっている。

7  ポピュリスト政治家は、移民排斥を主張すると同時に、市場の世界的な拡大を肯定しようとするため、一貫性に欠けることがある。

8  ポピュリスト政治家は、マスメディアの力を利用して、テロなどの事件が起きるたびに宣伝活動を繰りひろげて、勢力を拡大しようとしている。

 

ーーーーーーーー

 

(解説・解答)

 

 本文を熟読・精読することは、勿論です。

 が、トランプ現象イギリスのEU離脱ポピュリズムを知っておけば、この問題においても、かなり有利だと思います。

 本文を熟読・精読しなくても、2・3が正解だということは見当がつくはずです。

 

 結果として、正解は、2・3です。

 

 この問題も、論点についての予備知識・教養の重要性を知らせてくれます。

 

ーーーーーーーー

 

ここで、吉田徹氏の紹介をします。

吉田 徹(よしだ とおる)

1975年生まれ。日本の政治学者。東京都出身。
1997年 慶應義塾大学法学部政治学科卒業2002年 東京大学大学院総合文化研究科国際社会科学修士課程修了。ドイツ研究振興協会DIGES II(Diploma for German Studies and European Studies)修了。2005年 東京大学大学院総合文化研究科国際社会科学博士課程単位取得退学。
専門は、比較政治・ヨーロッパ政治。北海道大学法学研究科教授。芹沢一也主宰のシノドスアドバイザー。フランス社会科学高等研究院日仏財団リサーチ・アソシエイト。

著書として、
『ミッテラン社会党の転換―社会主義から欧州統合へ』(法政大学出版局、2008年)
『二大政党制批判論―もうひとつのデモクラシーへ』(光文社新書、2009年)
『ポピュリズムを考える―民主主義への再入門』(日本放送出版協会、2011年)
『感情の政治学』(講談社選書メチエ、2014年)
『「野党」論―それは何のためにあるのか』(ちくま新書、2016年)
などがある。

 

ーーーーーーーー

 

今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後の予定です。

ご期待ください。

 

 

  

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権力の読みかた―状況と理論

権力の読みかた―状況と理論

 

 

離脱と移動―バタイユ・ブランショ・デュラス

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ポピュリズムを考える 民主主義への再入門 NHKブックス

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2017東大国語第1問(現代文・評論)的中報告・解説・科学と倫理

(1)2017東大国語第一問・的中報告→2017センター試験国語第1問(現代文・評論文)に続き、2017東大国語第1問にも当ブログの予想論点記事(「科学論」「科学と倫理」)が的中しました。2016東大現代文ズバリ的中・一橋大現代文ズバリ的中(共に全文一致)に続く喜びです。そこで、今回は、2017東大国語第1問(現代文・評論)の解説をします。

 

 当ブログでは、「東日本大震災」・「福島原発事故」・「人工知能」などを素材として、「科学の急激な発展」、「科学の暴走」、「科学コミュニケーション」、「科学と倫理」について考察した予想論点記事を発信してきました。

 詳しくは、下のリンク画像をご覧ください。

 

 そして、2017センター試験国語第1問で、「科学コミュニケーション」が出題され、2017東大国語第1問で「科学と倫理」が出題されました。

 「科学コミュニケーション」の重要な目的の1つが、「科学的倫理基準の民主的コントロール」であることを考慮すると、2つの問題は、『「科学の暴走」と「人類の危機」』という同一の問題意識が背景にあると言えるでしょう。

 2017センター試験国語第1問、2017東大国語第1問ともに、「科学の暴走」という、現代の重大な問題を真正面から取り上げた、「誠実」かつ「真摯(しんし)」な問題だと思います。

 2つの問題の作成チームに敬意を表します。

 「人工知能」・「遺伝子操作」・「分子生物学」・「原発」・「先端医療」等を考えると、今回の2問は、来年度入試においても、国語(現代文)・小論文における重要論点・テーマとなるはずです。

 従って、よく理解しておく必要があるでしよう。

 

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 芸術家たちの精神史: 日本近代化を巡る哲学

 

 

 

 

 

(2)2017東大国語第1問(現代文・評論)・解説ー『芸術家たちの精神史』伊藤徹

 

(問題文本文)(概要です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です)

【1】テクノロジーには問題を自ら作り出し、それをまた新たな技術の開発によって解決しようとするかたちで自己展開していく傾向が、本質的に宿っているように私には思われる。科学技術によって産み落とされた環境破壊が、それを取り戻すために、新たな技術を要請するといった事例は、およそ枚挙にいとまないし、感染防止のためのワクチンに対してウィルスが耐性を備えるようになり、新たな開発を強いられるといったことは、毎冬のように耳にする話である。東日本大震災の直後稼働を停止した浜岡原発に対して、中部電力が海抜二二メートルの防波堤を築くことによって、「安全審査」を受けようとしているというニュースに接したときも、同じ思いがリフレインするとともに、こうした展開にはたして終わりがあるのだろうかという気がした。技術開発の発展が無限に続くとは、たしかにいいきれない。次のステージになにが起こるのか、当の専門家自身が予測不可能なのだから、先のことは誰にも見えないというべきだろう。けれどもァ 科学技術の展開には、人間の営みでありながら、有無をいわせず人間をどこまでも牽引(けんいん)していく不気味なところがある。

 

 ーーーーーーーー

 

(問題)

設問(一)「科学技術の展開には、人間の営みでありながら、有無をいわせず人間をどこまでも牽引していく不気味なところがある」(傍線部ア)とはどういうことか、説明せよ。(60字程度)

………………………………

 

(解説・解答)(傍線部説明問題)

→今回の東大の問題も、設問が誘導的で親切です。

 本文より先に、設問から読むとラクです。

  「不気味なところ」を、明確に説明するようにしてください。

 

 つまり、 「科学技術の展開」がどのような点で「不気味」と言えるのかを説明することが大切です。

 第一段落は、全体が「科学技術の展開の不気味なところ」の説明になっています

 傍線部と第1段落第1文が、ほぼ同内容です。

    「困難を人間の力で解決しようとして営まれるテクノロジーには、問題を自ら作り出し、それをまた新たな技術の開発によって解決しようとするかたちで自己展開していく傾向が、本質的に宿っている」の部分が、かなり「不気味な」内容です。

 従って、第1段落第1文のキーフレイズを使用して、傍線部を説明するとよいでしょう。

 

(解答)

問題解決のための科学技術が自ら新たな問題を作り出し、次なる技術を要請するという自己展開過程に、人間を巻き込むということ。(60字)

 

(補足的説明) 

   「科学技術の自己展開の不気味さ」は、「人工知能の発展」に特に顕著です。

 人工知能がどこまで発達するかは、全く未知数です。

 最近のSF映画には、人工知能をテーマにしたものが目立ちます。

 特に、『2001年宇宙の旅』『ターミネーター』『マトリックス』などは、「人工知能の自己展開の不気味さ」をテーマにしていると言えます。

   「人工知能の自己展開の不気味さ」については、下の記事を、ご覧ください。

 

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ーーーーーーーー 

 

 (問題文本文)(概要です)

【2】医療技術の発展は、人工受精技術を開発してきた。そして、多胎妊娠対策のために、現在は子宮内に戻す受精卵の数を制限するようになっている。だが、この制限によっても多胎の「リスク」は、自然妊娠の二倍と、なお完全にコントロールできたわけではないし、複数の受精卵からの選択、また選択されなかった「もの」の「処理」などの問題は、依然として残る。

【3】いずれにせよ、こうした問題に関わる是非の判断は、技術そのものによって解決できる次元には属していない。 延命に関する技術の進展は、以前なら死んでいたはずの人間の生命を救済し、多数の療養型医療施設を生み出すに到っている。

【4】しかしながら老齢の人間の生命をできるだけ長く引き伸ばすということは、可能性としては現代の医療技術から出てくるが、現実化すべきかどうかとなると、その判断は別なカテゴリーに属す。「できる」ということが、そのまま「すべき」にならないのは、核爆弾の技術をもつことが、その使用を是認することにならないのと一般である。テクネーである技術は、ドイツ語の語源が示す通り、「できること」の世界に属すものであって、「すべきこと」とは区別されねばならない。

【5】テクノロジーは、本質的に「一定の条件が与えられたときに、それに応じた結果が生じる」という知識の集合体である。すなわち、「どうすればできるのか」についての知識、ハウ・トゥーの知識だといってよい。それは、結果として出てくるものが望ましいかどうかに関する知識、それを統御する目的に関する知識ではないし、またそれとは無縁でなければならない。その限りのところでは、テクノロジーは、ニュートラルな道具だと、いえなくもない。ところが、こうして「すべきこと」から離れているところに、それがィ 単なる道具としてニュートラルなものに留まりえない理由もある。

【6】テクノロジーは、実行の可能性を示すところまで人間を導くだけで、そこに行為者としての人間を放擲(ほうてき)するのであり、放擲された人間は、かつてはなしえなかったがゆえに、問われなかった問題に、しかも決断せざるをえない行為者として直面する。

【7】妊婦の血液検査によって胎児の染色体異常を発見する技術には、そのまま妊娠を続けるべきか、中絶すべきかという判断の是非を決めることはできないが、その技術と出会い行使した妊婦は、いずれかを選び取らざるをえない。

 

 ーーーーーーーー

  

(問題)

設問(二)「単なる道具としてニュートラルなものに留まりえない理由」(傍線部イ)とはどういうことか、説明せよ。(60字程度)

 

………………………………

 

(解説・解答)(傍線部説明問題)

 

「こうして「すべきこと」から離れているところに、それが ィ 単なる道具としてニュートラルなものに留まりえない理由もある。」

という文脈からは、傍線部の意味は把握困難ですが、直後の2つの段落に、分かりやすい説明があります。

 この設問は、傍線部直前と傍線部だけを見て悩まずに、すぐに傍線部直後を読めば、標準的なレベルの問題と言えます。

 

 (解答)

 テクノロジーは行為の是非とは無関係に、行為の実行の可能性を示すのみで、人間にその行為の是非の決断を迫るということ。(57字)

 

ーーーーーーーー

 

(問題文本文)(概要です)

【7】妊婦の血液検査によって胎児の染色体異常を発見する技術には、そのまま妊娠を続けるべきか、中絶すべきかという判断の是非を決めることはできないが、その技術と出会い行使した妊婦は、いずれかを選び取らざるをえない。

【8】療養型医療施設における胃瘻や経官栄養が前提としている生命の可能な限りの延長は、否定しがたいものだ。だが、飢えて死んでいく子供たちが世界に数えきれないほど存在している現実を前にするならば、自ら食事をとることができなくなった老人の生命を、公的資金の投入まで行なって維持していくことが、社会的正義にかなうかどうか、少なくとも私自身は躊躇(ちゅうちょ)なく判断することができない。

【9】ここで判断の是非を問題にしようというのでは、もちろんないし、選択的妊娠中絶の問題一つをとってみても、最終的な決定基準があるとは思えない。むしろ肯定・否定を問わず、いかなる論理をもってきても、それを基礎づけるものが欠けていること、そういう意味でゥ 実践的判断が虚構的なものでしかないことは明らかだと、私は考えている。 

【10】たとえば現世代の化石燃料の消費を将来への責任によって制限しようとする論理(→環境倫理)は、物語としては理解できるが、現在存在しないものに対する責任など、応答の相手がいないという点で、想像力の産物でしかないといわざるをえない。その他倫理的基準なるものを支えているとされる概念、たとえば「個人の意思」や「社会的コンセンサス」などが、その美名にもかかわらず、虚構性をもっていることは、少しく考えてみれば明らかである。主体となる「個人」など、確固としたものであるはずがなく、その判断が、時と場合によって、いかに動揺し変化するかは、誰しもが経験することであり、そもそも「個人の意思」を書面で残して「意思表明」とするということ自体、かかる「意思」なるものの可変性をまざまざと表している。

 

 ーーーーーーーー

 

(問題)

設問(三)「実践的判断が虚構的なものでしかないことは明らか」(傍線部ウ)とあるが、なぜそういえるのか、説明せよ。(60字程度)

 

………………………………

 

(解説・解答)(理由説明問題)

①  傍線部直前の「そういう意味で」に着目して、「むしろ肯定・否定を問わず、いかなる論理をもってきても、それを基礎づけるものが欠けていること」が、ヒントになることを読み取ってください。

②  また、直後の段落が、傍線部の具体的説明になっていることを読み取ってください。

③  この設問は、傍線部の直前・直後をまとめる問題です。

 

(解答) 

科学技術使用の是非を判断する時に適用される倫理的基準は、人間の可変的な想像力によるので、判断の基礎として確固としていないから。(63字)

 

ーーーーーーーー 

 

(問題文本文)(概要です)

「【11】だが、行為を導くものの虚構性の指摘が、それに従っている人間の愚かさの摘発に留まるならば、それはほとんど意味もないことだろう。虚構(→ここに言う「虚構」とは「人工な制度」も含まれます)とは、むしろ人間の行為、いや生全体に不可避的に関わるものである。人間は、虚構とともに生きる、あるいは虚構を紡ぎ出すことによって己れを支えているといってもよい。問題は、テクノロジーの発展において、虚構のあり方が大きく変わったところにある。テクノロジーは、それまでできなかったことを可能にすることによって、人間が従来それに即して自らを律してきた虚構、しかもその虚構性が気づかれなかった虚構、すなわち神話を無効にさせ、もしくは変質を余儀なくさせた。それは、不可能であるがゆえにまったく判断の必要がなかった事態、「自然」に任すことのできた状況を人為の範囲に落とし込み、これに呼応する新たな虚構の産出を強いるようになったのである。そういう意味でェ テクノロジーは、人間的生のあり方を、その根本のところから変えてしまう。 」(  伊藤徹『芸術家たちの精神史』)

 

 ーーーーーーーー

 

(問題)

設問(四)「テクノロジーは、人間的生のあり方を、その根本のところから変えてしまう」(傍線部エ)とはどういうことか、本文全体の論旨を踏まえた上で、100字以上120字以内で説明せよ。

 

………………………………

 

(解説・解答)(傍線部説明問題)

 本設問は「人間の生の不安定性」という点で、前の設問(一)~(三)に関連していることに注意してください。

  傍線部直前の「そういう意味」は、直前の一文、つまり、それ(→テクノロジー)は、不可能であるがゆえにまったく判断の必要がなかった事態、「自然」に任すことのできた状況を人為の範囲に落とし込み、これに呼応する新たな虚構の産出を強いるようになったのであるを、受けています。

②  傍線部の「人間的生のあり方を、その根本のところから変えてしまう」の説明は、最終段落第4文(「問題は、テクノロジーの発展において」以下)から始まることに注意してください。

   「従来の倫理的基準のあり方」が、「暴走するテクノロジー」によって、いったい、どのように変質しているのか、を「本文全体の論旨を踏まえた上で」説明するようにしてください。

④  上記のについては、「テクノロジーの本質的な性質」を指摘した第1段落第1文(「テクノロジーには問題を自ら作り出し、それをまた新たな技術の開発によって解決しようとするかたちで自己展開していく傾向が、本質的に宿っているように私には思われる」)を、意識してください。

 

(解答)

自己展開するテクノロジーの発達により不可能な行為が可能になり、人間はその是非の決断を迫られる場面に直面して、既存の倫理の虚構性が暴露されたが、新たな問題に対処するために倫理的基準を作成し続ける必要性が生じたということ。 (116字)

 

(補足的説明)

 

 自己展開する、急速なテクノロジー(科学技術)の発展に合わせて、社会は、頻繁に新しい科学的倫理基準を作成する必要に迫られます。

 「倫理」・「科学的倫理基準」は人々の行動基準です。

 「倫理」・「科学的倫理基準」が可変的で暫定的であるということは、「テクノロジーが人間的生のあり方を、その根本のところから変えてしまう」ことに、つながるのです。

 つまり、「人間的生のあり方が可変性的に暫定的になるということ」は、「人間が将来を明確に展望できないために、不安で不安定な精神生活の中に、生きざるを得ないということ」なのです。

 「利便性と効率性を過度に求めた結果、人類滅亡の不安までも生じている」という皮肉な状況を、筆者である伊藤徹氏は指摘しているのです。

 

 

(3)伊藤徹氏の紹介

 

著者について
1957年 静岡市に生まれる。 1980年 京都大学文学部卒業。 1985年 京都大学大学院文学研究科博士後期課程研究指導認定退学。 現在 京都工芸繊維大学教授。(哲学・近代日本精神史専攻)。京都大学博士(文学)
著 書
『柳宗悦 手としての人間』(平凡社,2003年),
『作ることの哲学ー科学技術時代のポイエーシス』(世界思想社,2007年),
『作ることの日本近代・1910~40年代の精神史』〔編著〕(世界思想社,2010年)
『 芸術家たちの精神史』(ナカニシヤ出版)

 

『芸術家たちの精神史』の内容は、〈ナカニシヤ出版の「BOOK」データベース〉によると、以下のようになっています。(赤字は当ブログによる「強調」です)

「作品に映る近代日本の精神を考察。高橋由一から岡本太郎、寺山修司まで、芸術家たちが造形してきた近代日本の精神と、原発問題に象徴されるテクノロジーの暴走、一見かけ離れた両者の交叉点を哲学的に探る。」

 

 以上を読むと、今回の東大現代文の論点・テーマが「テクノロジーの暴走」であり、2017センター試験国語第1問の論点と同一であることが、分かります。

 


(4)当ブログの他の「科学の暴走」・「科学と倫理」関連記事の紹介

 

今回の東大現代文に関連している当ブログの最近の記事です。

今回の問題に対する理解を深めるためにも、ぜひ、ご覧ください。

 

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ーーーーーーーー

 

今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

 

   

 

芸術家たちの精神史: 日本近代化を巡る哲学

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作ることの日本近代―一九一〇‐四〇年代の精神史― (世界思想ゼミナール)

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

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志望理由の書き方ー推薦・AO入試ー熱意・意欲を具体的に明示せよ

(1)志望理由は、合格のポイントです

志望理由は、一般に思われているよりも、合否のポイントになっているようです。


 これから、長年の受験指導から実感した、合格率の高まる志望理由の書き方を提示していきます。

 ただし、この記事は、あなた方、読者諸君の合格を100パーセント保証するものでは、ありません。

 合格を決定づけるのは、あなた自身の熱意・意欲であり、キャラクター、学力などです。

 自分自身の気持ちを、合格に向けて集中するようにしてください。

 なお、これから、様々な文例を提示しますが、それらを、そのまま書くことはやめた方がよいです。

 自分自身の表現で、もちろん、なるべく大人の表現で、書くようにしてください。

 年齢・キャラクターにふさわしい表現があります。

 読む側は、あなた自身の表現か否かについて、敏感になっています❗

 

 

(2)志望理由書に書くべきこと→相手方は、特に、ここを見ています

 

 ①  まず、第1に、卒業後につきたい職業を具体的に明示する

 

 まず、卒業後につきたい職業を具体的に明示してください。

 なるべく、大学教育を受ける必要のある職業を書くべきです。

 今回は、一例として、「高校の国語教師」ということで書いていきます。

 

 なぜ、高校の国語教師を目指すのか?

 理由としては、以下のようなことを書くとよいでしょう。

 

 ・国語が得意

 ・人を教えることに興味がある、

 ・高校で素晴らしい国語教師に出会い、あの教師のようになりたいと思った

 ・高校の国語教師として教育に携わり、社会貢献していきたい←ここが最も重要です

 

②  上記した職業につくために、大学で専門教育を受ける必要があるので、その大学・学部を選択した理由を書く→以下の(3)~(11)では、この点を重点的に記述していきます

 

 この部分は、大学側が最も注目しています。

 受験生としては、分量的にも、内容的にも、ここを最も充実させるべきです。

 

 「その大学・学部を選択する理由」としては、一般的に、

「実地教育」、

「現場重視」、

「学生参加型授業」、

「少人数教育」、

「最先端授業」、

「グローバル化を意識した授業」

などがあります。

 

③  入学後に、どの授業を選択するのか、どのように自分の勉強を進めていくか、を書く

 

 志望校が要求していなくても、用紙に余裕がある時には、この点についても記述するようにしてください。

 ここでも、具体的ビジョンを明示するべきです。

 「自分の、勉学への熱意・意欲の証明」です。

 

 

(3)最大のポイントは、「その大学・学部を選択した理由」を、具体的に、しっかり書くことです

 

  「志望校のどこに惚れたか」、を具体的に明示してください。

 志望校が、学校案内のパンフレット、インターネットや学校説明会で発信しているアピールポイントを、受験生としては、素直に評価してあげることが大切です。

 素直にプラス評価されると、つまり、惚れられると、人間は嬉しいものです。

 惚れてくれた相手に、つい、好意を持ってしまいます。

 従って、堂々と、熱く、「いかに惚れたか」を、受験生は具体的にアピールしてください。

 

このことは、以下の大学側の記述を見ても、明らかです。

 

(慶應義塾大学のHPより引用)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

 

「〈この入試について〉

 1994(平成6)年度より慶應義塾大学文学部では、従来の入学試験制度に加えて、「自主応募制による推薦入学者選考」制度を採用しています。この制度は文学部の従来の入学試験制度とは異なる視点から入学者選考を行うことを目的として設けられたものです。

「自主応募制による推薦入学者選考」の目的は、一般の学力考査とは異なった視点・尺度を導入することによって、さまざまな資質を持ち、慶應義塾大学文学部への志望動機が明確で意欲的な皆さんに対し入学への道を開くことにあります。

 

ーーーーーーーー

 

(当ブログによる解説)

 「慶應義塾大学文学部への志望動機が明確で意欲的」とは、「いかに自分の大学で学ぶ意欲があるか」ということです。

 つまり、「いかに熱く、自分の大学に惚れているか」、ということなのです。

 単に、「学問修得の意欲」を言っているのでは、ないのです。

 この点は、よく意識しておいてください。

 

 

慶應義塾大学(文学部) (2019年版大学入試シリーズ)

慶應義塾大学(文学部) (2019年版大学入試シリーズ)

 

 

 

(4)なぜ、その大学を選択したのか①ー「塾長メッセージ」も参考にする 

 

(慶應義塾大学のHPより引用)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です)

 

【塾長メッセージ】

学問による貢献

慶應義塾は1858年、福澤諭吉(→創立者が著名人の場合は、創立者についての、ある程度の予備知識を仕入れておいた方が賢明です。慶應義塾大学の場合は、福澤諭吉の著作を1~2冊は読んでおくべきです。面接で、「福澤諭吉の著作を読んだことがあるか」と問われることもあります)によって創立されました。封建の江戸時代に生まれ、幕末に慶應義塾を創立し、近代国家として歩みはじめた明治の日本の知的指導者となった福澤は、そのような激動の時代を生きた同世代人を、「恰(あたか)も一身(いっしん)にして二生(にしょう)を経(ふ)るが如く」と表現しています。まるで一人の人間が二つの人生を生きたような、大きな変化だったということです。

今日の私たちもまた、大きな変化の時代を生きています。たとえば社会の基本をなす人口構造について見れば、今年大学を卒業する大学生が生まれた頃には、65歳以上の高齢者は総人口の10人に1人を超えたばかりでしたが、今日ではもう4人に1人が高齢者の社会になろうとしています。そして今年の大学の卒業生が働き盛りの40代になる頃には人口の3人に1人、その人たち自身が高齢者の仲間入りをする今世紀半ばには5人に2人が高齢者となります。まさに人口の構造がピラミッド型から逆ピラミッド型に近い形にまで変わるような、大変化の時代となります。

大きな変化の時代には、過去の延長線上でものを考え、問題を解決することは難しくなります。新しい状況を自らの頭で理解し、その理解にもとづいて問題を解決することが求められます。考えるべき問題を見つけ、その問題が起きる理由について自らの考えをまとめ、その考えが正しいかどうか客観的に確かめて結論を導き、その結論にもとづいて問題を解決するということです。これは学問の方法にほかなりません。

福澤が「一身にして二生を経る」と言ったような大きな変化の時代に、学問の大切さを強調したのはそのためです。大きな変化の時代であればあるほど、学問の重要性はますます高まってきます。私ども慶應義塾は、何よりも学問を大切にした創立者福澤諭吉の考えにもとづき、学問によって自ら考えることのできる人材を育て、学問を深めて社会に新たな叡智を与え、学問にもとづく医療などの実践活動を行うことによって、社会の進歩に貢献していきたいと考えています。

 

ーーーーーーーー 

 

(当ブログによる解説)

 「大学全体の方針」について、「自分が、どう思っているか」をコメントしておくべきです。

 なるべく、プラス評価する方が良いでしょう。

 上記の文章の最終部分を読むと、「学問によって自ら幅広く深く考える人間に成長して、社会に貢献していきたい」というようなことを書くと、相手方は、高い評価を与えてくれるでしょう。

 ここでも、「自分がいかに慶應義塾大学に興味を持ち、慶應義塾大学に関する様々な資料を調査したか、そして、それに共感したか」、を積極的にアピールするようにしてください。

 

 

(5)なぜ、その大学を選択したのか②ーその大学が取り組んでいる「新しい教育の試み」

 

(慶應義塾大学のHPより引用)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

 

【新しい教育の取り組み】

ここでは、慶應義塾が取り組んでいる新しい教育の試みなどについてご紹介します。

《現在の取り組みの数々》

〈全塾的な取り組み〉

文部科学省「スーパーグローバル大学創成支援」事業に世界レベルの教育研究を行うトップ大学として採択される慶應義塾大学は、文部科学省の平成26年度「スーパーグローバル大学創成支援」事業に、世界レベルの教育研究を行うトップ大学(タイプA)として採択されました。この事業は、徹底した国際化と大学改革を断行する大学を重点支援することにより、我が国の高等教育の国際競争力を強化することを目的としています。

〈個別の取り組み〉

科学的思考力を育む文系学生の実験の開発ー実学の伝統の将来への継承-文系学生が自然科学の実験や実習を通してデータの定量的な評価を行い、問題の本質を見抜き、解決策を考えることができるような総合的な科学的思考力を育成するプログラムです。また、得られた理論、根拠と結論をしっかり文章と口頭で表現できる学生を育成します。

 

ーーーーーーーー 

 

(当ブログによる解説)

 まず、「世界レベルの教育研究を行うトップ大学で学びたい」に類する記述は、書いても、よいと思います。

 いずれにせよ、この「新しい教育の試み」については、ぜひ、コメントするべきです。

 「この『新しい教育の試み』を活用して自分の視野を広げていきたい」くらいのことは書いた方が良いでしょう。

 積極性が、「志望理由書」においては、不可欠です。

 

 

(6)なぜ、その大学の、その学部を選択したのか①ー「少人数教育」

 

(慶應義塾大学のHPより引用)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

 

 2年次以降は、落ち着きのある洗練された雰囲気をもつ三田キャンパスにおいて、17専攻のいずれかに所属し学びます。卒業後の進路も意識しつつ、専門的で深遠な知の領域に進んでゆきます。文学部が大切にしている教育の特色の一つに、少人数教育少人数教育があります。ゼミ(研究会、演習)をはじめとして三田で開講される多くの授業科目は小規模で、教員と学生、さらに学生同士が親密な関係を保ちつつ、切磋琢磨しながら成長してゆくことができます。

 

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(当ブログによる解説)

 「少人数教育」についても、かなりプラス評価をするべきです。

 「キメ細かい教育を受けられること」への「期待」と「感謝」の気持ちを、素直に表現してください。

 相手方は、「素直で、謙虚な受験生」を高く評価します。

 

pi201b♪エンジェルプチアート

 

 

 (7)なぜ、その大学の、その学部を選択したのか②ー「教育方針」〈1〉

 

(慶應義塾大学のHPより引用)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

 

文学部の方針

 福澤諭吉は、societyという概念を「人間交際」という日本語で表現しました。そして、学問にとりくむことの趣旨について、個人で充足するためではなく、「人間交際の仲間に入り、その仲間たる身分をもって世のために勉むるところなかるべからず」(『学問のすすめ』)と説きました。
 文学部の「文」は、ひとりぼっちで机に向かい、黙々と本を読むことによって達成されるのではありません。慶應義塾大学文学部は、「文」(ことば)によって人と人をつなぐことをめざします。そして「文」(ことば)はまた、人と人とのつながりのなかで生成されます。文学部の「文」(ことば)は、人間交際を成立させる要です。と同時に、人間交際の躍動のなかで「文」(ことば)が構成されるのです。私たちの「文」(ことば)は、決してモノローグではあり得ず、人と人との交わりと、それが幾重にも重なり合う社会のなかで育まれ、その交わりや社会を紡ぐ媒体になります。
 このように文学部の「文」(ことば)は、「人間交際」すなわち社会のあり方と緊密な関係をもちます。文学部の研究教育が多様な領域に開かれているのは、こうした知の躍動が現代社会のなかで無限の拡がりをもって展開してゆくからです。そしてそこの根幹には、さまざまな人々や社会がいろいろなものの見方や考え方をもつことを尊重する、という意思や姿勢が貫かれています。「人間交際」は他者への理解と配慮によって成立するからです。文学部の知の多様性は、そうした思想を基盤としています。
 さらに文学部の知は、単に多様性や広領域性を特徴とするだけではありません。私たちの知は、人間と文化、社会、環境を成り立たせている根源を志向します。つまり事象の本質を追究するという姿勢です。そしてそれには「文」(ことば)が重要な役割を果たします。いわゆるグローバル化や情報社会の到来によって、変動の激しい流動化する社会や世界の動向があるからこそ、根源や本質を追究するという文学部の意義はますます重要になってきます。慶應義塾大学文学部の教員と学生は、ともに互いの文ことばを尊重しながら、事柄の本質を見極めるための知的探究に共同してとりくんでいます。

 

ーーーーーーーー

 

(当ブログによる解説)

 慶應義塾大学文学部における「人間交際」の重視や、「グローバル化や情報社会の到来」の中でこそ、「根源や本質を追究するという文学部の意義はますます重要になってきます」という文学部のポジティブな姿勢についても、受験生は何らかのコメントを記述するべきです。

 

 

(8)なぜ、その大学の、その学部を選択したのか③ー「教育方針」〈2〉

 

(慶應義塾大学のHPより引用)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

 

【カリキュラム】

1年は日吉キャンパスで幅広く学び、2年から三田キャンパスで専攻に所属

他学部と異なり、文学部の学生は、日吉キャンパスで第1学年を、第2学年以降を三田キャンパスで過ごします。日吉では、さまざまな学問に接することによって自らの視野を広げ、第1学年の終わりに17専攻から進むべき専攻を決定します。

〈多様な科目を学べる系列科目を含め、全ての科目は半期制で履修〉

カリキュラムは、総合教育科目と必修語学科目、専門教育科目に分かれています。総合教育科目は、系列科目と系列外科目に分かれ、系列科目はさらに人文科学系列、社会科学系列、自然科学系列に区分され、多様な科目が用意されています。各科目とも2007年度から半期制をとっています。

〈バライティ豊かな13ヶ国語を学ぶための語学科目〉

英語、ドイツ語、フランス語、中国語、朝鮮語、ロシア語、スペイン語、イタリア語の他、ギリシア語、ラテン語、アラビア語、ペルシア語、トルコ語などの授業も設置されています。英語はプレースメントに基づく習熟度別クラスとなっています。

 

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(当ブログによる解説) 

「バライティ豊かな13ヶ国語を学ぶための語学科目」

「英語はプレースメントに基づく習熟度別クラス」

は、ともに、学生にとって、魅力的なシステムでしょう。

 

 これらについての、「期待」と「意欲」についても、何らかのコメントが欲しいところです。

 

 

(9)なぜ、その大学の、その学部を選択したのか④ー教育方針〈3〉

 

(慶應義塾大学のHPより引用)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

 

〈専攻以外の科目も自由に学び、幅広い視野を身につける〉

専門教育科目には、特色あるユニークな講義が目白押しです。各専攻の必修科目数を抑えることにより、専攻以外の科目も自由に履修できるよう配慮しています。このメリットを活かして、文学部では、それぞれの関心に応じて、幅広い視野で複眼的、総合的に判断できる能力を身につけることをめざします。

 

ーーーーーーーー

 

(当ブログによる解説)

 これからの激動の時代において、「幅広い視野で複眼的、総合的に判断できる能力」は、必要不可欠だと思います。

 大学で、この能力を身に付けられることは、幸福なことでしょう。

 ただ、専攻と専攻以外の科目のバランスに注意する必要はあるでしょう。

 その点に配慮して、志望理由書に、このシステムについてのコメントを書くようにしてください。

 

 

 (10)なぜ、その大学を選択したのか②ー就職・進学への充実したサポート

 

(慶應義塾大学のHPより引用)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

 

進路に関すること、就職・進学に関することはどんなことでも相談に応じています。

遠慮なく就職・進路支援担当窓口を利用してください。

その他、ES添削や模擬面接も受けられます

【 求人情報 】

〈慶應義塾大学への求人票の利用方法〉

①  インターネット経由で送られて求人票 → keio.jp上の「求人ナビ」で公開中
②  郵送・メール等で送られてきた求人票 → 学生部就職・進路支援担当事務室内のファイルでのみ公開中
③  企業団体が大学に持参した求人票 → 企業の人事の方が大学に直接持参した求人票。学生部就職・進路支援担当事務室内のファイルで公開中

就職関連図書の閲覧について

就職資料室(南校舎1階)で利用が可能です。

就職関連図書等は就職資料室に設置しています。学生証があれば閲覧できますので気軽に利用して下さい。

また、就職ガイダンスのDVDも就職資料室にて貸し出しています。

 

「【 OB・OG名簿閲覧方法 】

OB・OG訪問システム(塾員検索用)のための専用P C でOB・ OG名簿を閲覧することができます。

[OB・OG訪問システム(塾員検索用)専用PC設置場所]
・就職・進路進路支担当援事務室(南校舎地下1階)
・就職資料室(南校舎1階)

【 就職活動体験記 】

就職活動を終了した先輩達の「就職活動体験記」がインターネットで閲覧できます。
keio.jpにログインし、「就職・進路支援システム」から利用してください。

【 就職ガイダンス・業界説明会 】

就職・進路に関する様々なガイダンス、説明会を開催しています。
また、希望者には就職資料室にて収録DVDの貸し出しを行っています。

 

 ーーーーーーーー

 

(当ブログによる解説)

 見事な、充実した、「就職・進学へのサポート・システム」です。

 文字通り、至れり尽くせりです。

 上記に引用したものは、実際の一部です。

 この点も、慶應義塾大学の魅力の一つと言えます。

 私が志望理由書を書くとしたら、この点についても、コメントするでしょう。

 

 

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(11)まとめ

 

 以上、志望理由書に書くべきポイントを、幾つか記述しましたが、もちろん、以上のすべてを書く必要は、ありません。

 あなたの主観、相手方から要求されている字数などにより、取捨選択してください。

 大切なことは、「受験生の熱意、誠意、謙虚さ」です。

 これらを、「分かりやすく、具体的に相手方に伝達すること」を心がけてください。 

 「結果を気にせず、爽やかに、自己をアピールすること」が重要なポイントだ、と私は思っています。

 

ーーーーーーーー

 

なお、こちらの記事も、ぜひ参考にしてください。

 

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 ーーーーーーーー

 

今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

ご期待ください。

 

 

  

 

 

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

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5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

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『生物と無生物のあいだ』福岡伸一・頻出出典・科学論・生命とは何か?

 「科学論」・「科学批判」は、東日本大震災以降、増加し、現在に続いています。 

 今回の記事は以下の構成になっています。

(1)なぜ、この記事を書くのか?

(2)『生物と無生物のあいだ』(福岡伸一)ー2008早稲田大学・国際教養学部の問題・解答・解説

(3)「動的平衡」の概略的解説

(4)「生命とは何か?」ー「エントロピー増大の法則」と「動的平衡」の関係

(5)福岡伸一氏の紹介

 

 

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 

 「科学論・科学批判」は、東日本大震災以後、激増し、現在に続いています。

 その背景は、以下の通りです。

 

 難関大学・センター試験の入試現代文(国語)・小論文に出題される「科学批判」・「科学論」の論点・テーマは、3・11東日本大震災・福島原発事故以降、より先鋭化し、明らかに出題率も増加しています。

 3・11以前も、環境汚染・地球温暖化・チェルノブイリ原発事故等により、「科学批判」・「科学論」の論点・テーマは、一定の多くの出題がみられました。
 しかし、3・11以降は、「近代科学」に対する批判は明白に先鋭化し、「科学批判」・「科学論」の論点・テーマは出題率が増加しています。

 これは、考えてみれば、当然のことです。

 福島原発事故の際の、原子力村の学者達、地震学者達の無責任な「想定外」の連呼。

 崩壊した「安全神話」。

 今だに完全には収束していない福島原発の処理。

 これらをみれば、「科学」に対する厳しい批判的論考は、増えこそすれ、減ることはないでしょう。

 

 しかも、現代文明においては、地球温暖化・核廃棄物等の問題を見ても分かるように、我々人類の生存・存立に多大な影響を及ぼすような理科系の論点・テーマが発生しています。

 現代文明は、「文明と科学」が密接な関係にあるのです。

 

 「文明と科学」の問題は、文科系、理科系の壁を越えて、今や、人類全体にとって、緊急な重大な問題になっているのです。

 大学における現代文(国語)・国語入試問題作成者の「問題意識」も同じでしょう。

 たとえ、問題作成者の「問題意識」がそうでないとしても、入試現代文(国語)・小論文の世界は、「出典」の関係で論壇・言論界・出版界の影響を受けるのです。


 以上の理由により、最近の入試現代文(国語)・小論文においても、「科学論・科学批判」は、最も注目するべき論点・テーマです

  従って、現代文(国語)・小論文対策として、今回は、入試頻出出典として、『生物と無生物のあいだ』を、早稲田大学国際教養学部の過去問を元に解説します。

 

 

(2)『生物と無生物のあいだ』(福岡伸一)ー2008早稲田大学・国際教養学部の問題・解答・解説

 

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)

 

 

 

 

 

 

 

(本文)(概要です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です)

(【1】【2】【3】・・・・は、当ブログで付加しすた段落番号です)

【1】生命とは何か? それは自己複製を行うシステムである。20世紀の生命科学が到達したひとつの答えがこれだった。1953年、科学専門誌『ネイチヤー』にわずか千語(1ページあまり)の論文が掲載された。そこには、DNAが、互いに逆方向に結びついた2本のリボンからなっているとのモデルが提出されていた。生命の神秘は二重ラセンをとっている。多くの人々が、この天啓を目の当たりにしたと同時にその正当性を信じた理由は、構造のゆるぎない美しさにあった。〔 A 〕さらに重要なことは、構造がその機能をも明示していたことだった。論文の若き共同執筆者ジェームズ・ワトソンとフランシス・クリックは最後にさりげなく述べていた。この対(つい)構造が〔 1 〕ことに私たちは気がついていないわけではない、と。


【2】DNAの二重ラセンは、互いに他を写した対構造をしている。そして二重ラセンが解けるとちょうどポジとネガの関係となる。ボジを元に新しいネガが作られ、元のネガから新しいポジが作られると、そこには二組の新しいDNA二重ラセンが誕生する。ポジあるいはネガとしてラセン状のフィルムに書き込まれている暗号、これがとりもなおさず遺伝子情報である。これが生命の "自己複製" システムであり、新たな生命が誕生するとき、あるいは細胞が分裂するとき、情報が伝達される仕組みの根幹をなしている。

 

【3】分子生物学的な生命観に立つと、生命体とはミクロなパーツからなる精巧なプラモデル、〔 B 〕分子機械に過ぎないといえる。デカルトが考えた機械的生命観の究極的な姿である。生命体が分子機械〔 C 〕、それを巧みに操作することによって生命体を作り変え、"改良" することも可能だろう。たとえ、すぐにそこまでの応用に到達できなくとも、たとえば分子機械の部品をひとつだけ働かないようにして、そのとき生命体にどのような異常が起きるかを観察すれば、部品の役割をいい当てることができるだろう。つまり、生命の仕組みを分子のレベルで解析することができるはずである。このような考え方に立って、遺伝子改変動物が作成されることになった。"ノックアウト" マウスである。」

 

…………………………… 

 

(問題) 

問1空欄A~Cに入る最も適当な語を、それぞれ次のア~オの中から選べ。

A  ア もちろん  イ もっとも

   ウ とりわけ  エ なかでも

      オ しかし

B  ア あるいは  イ すなわち  

      ウ もしくは  エ いわゆる

      オ いわんや

C  ア を使えるならば

      イ のはずならば

      ウ でないならば  

      エ に似ているならば

      オ であるならば

 

問2  空欄1に入る最も適当なものを次の中から選べ。

ア  直ちに自己複製機構を示唆する

イ  いずれ生命の神秘を明らかにする

ウ  DNA二重ラセンの根本機能を担う

エ  生命の設計図としての機能を持つ

 

……………………………

 

(解説・解答)

→今回のように、空欄補充問題が多い時は、本文の要約はアバウトで良いのです。厳密にやる事は無理ですし、時間のムダです。

 また、すぐに、選択肢を見て、正解を検討するようにしてください。記述式のように解く、つまり、「自分で解答を書いてから選択肢を見る」という方法もあるようですが、無限の可能性にチャレンジすることになります。

 

 問1 (空欄補充問題)

Cは、直後の二つの文の「文末」に注目してください。

(解答)  A→オ  B→イ  C→オ

 

問2(空欄補充問題)

 まず、空欄の直前の二つの文、つまり、「さらに重要なことは、構造がその機能をも明示していたことだった。論文の若き共同執筆者ジェームズ・ワトソンとフランシス・クリックは最後にさりげなく述べていた」に注目するとよいでしょう。

 次に、第【2】段落の最終文の生命の「 "自己複製" システム」に着目してください。

 アが正解になります。

 

ーーーーーーーー

 

(本文)(概要です)
【4】私は膵臓(すいぞう)のある部品に興味を持っていた。膵臓は消化酵素を作ったり、インシュリンを分泌して血糖値をコントロールしたりする重要な臓器である。この部品はおそらくその存在場所や存在量から考えて、重要な細胞プロセスに関わっているに違いない。そこで、私は遺伝子操作技術を駆使して、この部品の情報だけをDNAから切り取って、この部品が欠損したマウスを作った。ひとつの部品情報が叩き壊されている(ノックアウト)マウスである。このマウスを育ててどのような変化が起こっているのかを調べれば、部品の役割が判明する。マウスは消化酵素がうまく作れなくなって、栄養失調になるかもしれない。あるいはインシュリン分泌に異常が起こつて糖尿病を発症するかもしれない。
【5】長い時間とたくさんの研究資金を投入して、私たちはこのようなマウスの受精卵を作り出した。それを仮母の子宮に入れて子供が誕生するのを待った。母マウスは無事に出産した。赤ちやんマウスはこのあと一体どのような変化を来たすであろうか、A  私たちは固唾(かたず)を呑んで観察を続けた。子マウスはすくすくと成長した。そしておとなのマウスになった。なにごとも起こらなかった。栄養失調にも糖尿病にもなっていない。血液が調べられ、顕徴鏡写真がとられ、ありとあらゆる精密検査が行われた。どこにもとりたてて異常も変化もない。私たちは困惑した。一体これはどういうことなのか。

【6】実は、私たちと同じような期待をこめて全世界で、さまざまな部品のノックアウトマウス作成が試みられ、そして私たちと同じような困惑あるいは落胆に見舞われるケースは少なくない。予測と違って特別な異常が起きなければ研究発表もできないし、論文も書けないので正確な研究実例は顕在化しにくい。が、その数はかなり多いのではないだろうか。

【7】私も最初は落胆した。もちろん〔 2 〕、実は、ここに生命の本質があるのではないか、そのようにも考えてみられるようになってきたのである。

【8】遺伝子ノックアウト技術によって、パーツを一種類、ピースをひとつ、完全に取り除いても、何らかの方法でその欠落が埋められ、バックアップが働き、全体が組みあがってみると何ら機能不全がない。生命というあり方には、パーツが張り合わされて作られるプラモデルのようなアナロジーでは説明不可能な重要な特性が存在している。ここには何か別のダイナミズムが存在している。私たちがこの世界を見て、そこに生物と無生物とを識別できるのは、そのダイナミズムを感得しているからではないだろうか。では、その " 動的なもの ″ とは一体なんだろうか。

【9】私は一人のユダヤ人科学者を思い出す。彼は、DNA構造の発見を知ることなく、自ら命を絶ってこの世を去った。その名をルドルフ・シェーンハイマーという。彼は、生命が「動的な平衡状態」にあることを最初に示した科学者だった。私たちが食べた分子は、瞬く間に全身に散らばり、一時、緩くそこにとどまり、〔 3 〕身体から抜け出て行くことを証明した。つまり私たち生命体の身体はプラモデルのような静的なパーツから成り立っている分子機械ではなく、パーツ自体のダイナミックな流れの中に成り立っている。」 (『生物と無生物のあいだ』福岡伸一)

 

…………………………… 

 

(問題)

問3  傍線部A「私たちは固唾を呑んで観察を続けた」に込められた気持ちとして、最も適当なものを次の中から選べ。

ア  生命の神秘が解明されるのではないかと、わくわくしながら見守っている。

イ  長い時間と多額の研究資金を投入したのに、実験が失敗したらどうしようとびくびくしている。

ウ  赤ちゃんマウスがおとなになるまで育って、実験が成功するように祈っている。

エ  いつどんな異常が現れるか、期待と緊張でどきどきしている。

 

問4  空欄2に入る最も適当なものを次の中から選べ。

ア  今でも心底落胆している。しかし落胆ばかりでは研究は進まないので

イ  今ではもう落胆していない。想像をたくましくすれば

ウ  今でも半ば落胆している。しかしもう半分の気持ちでは

エ  今ではまったく落胆していない。なぜならば

 

問5  空欄3に入る最も適当なものを次の中から選べ。

ア  次の瞬間には

イ  私たちが死ねばすぐさま

ウ  次の世代には

エ  そのままの形で

 

問6  「生命とは何か」について著者が最も重視する論旨として適当なものを次の中から選べ。

ア  生命は実験的に異常を生じさせても、それを修正するシステムである。

イ  生命は個々のパーツに還元できない動的なシステムである。

ウ  生命は自己複製を行うシステムである。

エ  生命は無生物には見られない特別な要素を有する動的平衡システムである。

 

ーーーーーーーー

 

(要約・解説・解答)

(要約)

生命の仕組みを分子レベルで解析できるという分子生物学照り返しな生命観に立ち、遺伝子改変動物を作成して、観察を続けた。しかし、ついに、異常も変化も見られなかった。生命とは静的なパーツから成り行つ分子機械ではなく、「動的平衡状態」にあるものであり、パーツ自体のダイナミックの流れの中に成り立っている。

 

(解説・解答)

問3(傍線部説明問題)

 【3】~【5】段落に注目して、「遺伝子改変動物作成の意図」を考えてください。

 正解はエです。

 

問4(空欄補充問題)

「私も最初は落胆したもちろん〔 2 〕(今でも半ば落胆している。しかしもう半分の気持ちでは) 、実は、ここに生命の本質があるのではないか、そのようにも考えてみられるようになってきたのである。」という、空欄を含む一文のニュアンスに注意してください。

 その上で、最後の三つの段落から、「落胆しつつも発想を変えようとしている著者の心理」を押さえるとよいでしょう。

 正解はウです。

 

問5(空欄補充問題)

 空欄直前の「瞬く間に全身に散らばり、一時、緩くそこにとどまり」、空欄直後の「身体から抜け出ていく」、同段落最終文の「パーツ自体のダイナミックな流れ」に着目してください。

 正解はアです。

 

問6(趣旨合致問題)

→本文を読む前に、この設問を見るべきです。出題者は、「生命とは何か」が本文のテーマであると、ヒントを明示しています。

 

 分子生物学的生命観に疑問を抱きはじめる最後の三つの段落に注目するとよいです。

 特に重要なのは最終の【9】段落の次の二つの文です。

生命が「動的な平衡状態」にあること」

「私たち生命体の身体はプラモデルのような静的なパーツから成り立っている分子機械ではなく、パーツ自体のダイナミックな流れの中に成り立っている。」

 最強のキーワード(「動的な平衡状態」)の入っている選択肢を選ぶようにしてください。

 正解はエです。

 

ーーーーーーーー

 

(3)「動的平衡」の概略的解説

 

 福岡氏は、この実験の結論として、次のような感動的なことを述べています。

 

「私たちは遺伝子を失ったマウスに何事も起きなかったことに落胆するのではなく、何事も起きなかったことに驚愕すべきなのである。動的な平衡力がもつ、柔らかな適応力となめらかな復元力の大きさにこそ感嘆すべきなのだ。」

 

 ここには、「生命の神秘と素晴らしさ」が、あります。

 そして、それを素直に評価する福岡氏の、柔軟な感性に、私は感心しました。

 『生物と無生物のあいだ』は、「『科学者と詩人』の心」を持つ著者によって、丁寧な記述がなされた名著だと思います。

 

 ここで言う「動的平衡」とは、概略的に言うと、以下のような内容になります。

 

 生物分子レベルでのパーツから成る集合体です。

 従って、分子レベルでみれば、「絶えず分子の入れ替わり(食べたものが吸収されて生物の構成物となり、不要なものは排泄等により生物の体外へ排出されていく)が起きている」という意味で、「動的」であり、

 同時に、「『動的』でありつつ、常に一つの個体としての生物を形作っている中で、その個体の生存のために内部の組織が協働して、秩序が保持されている状態」という意味で、「平衡」と言えるのです。 

 

 

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 (4)「生命とは何か?」ー「エントロピー増大の法則」と「動的平衡」の関係

 

あらゆる物質は、エントロピーを増大させています。

エントロピーとは「乱雑さ(ランダム)」を表す尺度である。すべての物理学的プロセスは、物質の拡散が均一なランダム状態に達するように、エントロピー最大の方向へ動き、そこに達して終わる。これをエントロピー増大の法則と呼ぶ。」(『生物と無生物のあいだ』福岡伸一)

 

 秩序は無秩序の方へ、形あるものは崩れる方へ動く。

 全ての構造物は風化し、全ての熱あるものは冷める。

 エントロピー増大の法則です。

 エントロピー増大の法則は容赦なく、生体を構成する成分にも降りかかります。 

 高分子は酸化され分断されます。

 タンパク質は損傷を受け変性します。

 生命にとって、エントロピー最大の状態とは「死」です。

 

 この点について、『生物と無生物のあいだ』の続刊の『動的平衡』において、福岡氏は「生と死」について、さらに分かりやすく、以下のように述べています。

 

「長い間、エントロピー増大の法則と追いかけっこしているうちに、少しずつ分子レベルで損傷が蓄積し、やがてエントロピーの増大に追いつかれてしまう。つまり、秩序が保てない時が必ず来る。それが個体の死である。

 したがって「生きている」とは「動的な平衡」によって、「エントロピー増大の法則」と折り合いをつけているということである。」(『動的平衡』)

 

 では、生命は「自らの死」をどのように引き延ばしていくのか。

 

 もし、やがては崩壊する構成成分をあえて先回りして分解し、このような乱雑さが蓄積する速度よりも早く、常に再構築を行うことができれば、結果的にその仕組みは、増大するエントロピーを系の外部に捨てていることになります。

 この点について、福岡氏は、以下のように述べています。

 「エントロピー増大の法則に抗う唯一の方法は、システムの耐久性と構造を強化することではなく、むしろその仕組み自体流れの中に置くことなのである。つまり流れこそが、生物の内部に必然的に発生するエントロピーを排出する機能を担っていることになるのだ。」(『生物と無生物のあいだ』)

 つまり、生命体は、自らの物質的条件により、エントロピー最大化に対抗しようとしているのです。

 

 では、どのように「自らの生命の秩序」を生み出していくのでしょうか。

 言い換えると、かみ砕いていうと、「食べる」というのはどういう行為なのでしょうか。

 福岡氏は、以下のように記述しています。

「生物は、その消化プロセスにおいて、タンパク質にせよ、炭水化物にせよ、有機高分子に含まれているはずの秩序をことごとく分解し、そこに含まれる情報をむざむざ捨ててから吸収しているのである。なぜなら、その秩序とは、他の生物の情報であったものであり、自分自身にとってはノイズになりうるものだからである。」

肉体というものについて、私たちは自らの感覚として、外界と隔てられた個物としての実体があるように感じている。しかし、分子のレベルではその実感はまったく担保されていない。私たち生命体は、たまたまそこに密度が高まっている分子のゆるい「淀み」でしかない。しかも、それは高速で入れ替わっている。この流れ自体が「生きている」ということであり、常に分子を外部から与えないと、出ていく分子との収支があわなくなる。」(『生物と無生物のあいだ』)

 

 つまり、体内の分子は、絶えず破壊され、また新たに作られているのです。

 エントロピーの最大化に対抗するためには、生命は、自らを破壊し、かつ再生するという形で、自らを維持しているのです。

 

 以上のことを、まとめて言うと、以下のようになります。

エントロピー増大の法則は、容赦なく生体を構成する成分にも降りかかる。高分子は酸化され分断される。集合体は離散し、反応は乱れる。タンパク質は損傷をうけ変性する。しかし、もし、やがては崩壊する構成成分をあえて先回りして分解し、このような乱雑さが蓄積する速度よりも早く、常に再構築を行なうことができれば、結果的にその仕組みは、増大するエントロピーを系の外部に捨てていることになる。つまり、エントロピーの増大の法則に抗う唯一の方法は、システムの耐久性と構造を強化することではなく、むしろ、その仕組み自体を流れるの中に置くことなのである。つまり、流れこそが、生物の内部に必然的に発生するエントロピーを排出する機能を担っていることになるのだ。」(『生物と無生物のあいだ』)

 

 「生命」が「自らの生命」を維持するために、恒常的に、自分の組織を自ら進んで破壊・排出しているということです。

 私は、その点に「生命の神秘」と「生命の英知」を感じます。

 

 

 シャコンヌ

 

 『動的平衡』では、このことについて、さらに、分かりやすく、ある意味で、衝撃的な説明をしています。

生命とは、絶対的な決まった形のあるものではなく、瞬間瞬間の化学変化の連鎖によって維持されている。」

生体を構成している分子は、すべて高速で分解され、食物として摂取した分子と置き換えられている。体のあらゆる組織や細胞の中身は、こうして常に作り替えられ、更新され続けているのである。

 だから、私たちの身体は分子的な実態としては、数か月前の自分とはまったく別物になっている。分子は、環境からやってきて、一時、淀みとして私たちを作り出し、次の瞬間にはまた環境へと解き放たれてゆく。

 分子は常に私たちの身体の中を通り抜けている。

 いや「通り抜ける」という表現も正確ではない。

 なぜなら、そこには分子が「通り過ぎる」べき容れ物があったわけではなく、ここで容れ物と呼んでいる私たちの身体自体「通り過ぎつつある」分子が、一時的に形作っているにすぎないからである。
 つまり、そこにあるのは、流れそのものでしかない。
 その流れの中で、私たちの身体は変わりつつ、かろうじて一定の状態を保っている。
 その流れ自体が、「生きている」ということなのである。
 シェーンハイマーは、この生命の特異的なありようをダイナミック・ステイト(動的な状態)と呼んだ。
 私はこの概念をさらに拡張し、生命の均衡の重要性をより強調するため「動的平衡動」と訳したい。
 ここで、私たちは改めて「生命とは何か?」という問いに答えることができる。
 「生命とは動的平衡にあるシステムである」という回答である。

(『動的平衡』)

 

 以上の記述の中で、

私たちの身体自体「通り過ぎつつある」分子が、一時的に形作っているにすぎないからである。

 つまり、そこにあるのは、流れそのものでしかない。
 その流れの中で、私たちの身体は変わりつつ、かろうじて一定の状態を保っている。
 その流れ自体が、「生きている」ということなのである。

の部分が特に衝撃的ですが、何となく分かる気もします。

 この部分は、「生命の儚さ」の分子科学的な説明なのです。

 「若さ」も、ほんの一瞬です。

 「かろうじて一定の状態を保っている」ことの、奇跡的な状況を、「生命のいとおしさ」と、私たちは評価しているのでしょう。

 「生きていること」の、「危うさ」と「奇跡性」を感じないわけには、いきません。

  

動的平衡 生命はなぜそこに宿るのか

動的平衡 生命はなぜそこに宿るのか

 

 

 

(4)福岡伸一氏の紹介

 

福岡伸一(ふくおか  しんいち)

1959年東京生まれ。京都大学卒。

米国ハーバード大学研究員、京都大学助教授などを経て、現在、青山学院大学理工学部 化学・生命科学科教授。分子生物学専攻。専門分野で論文を発表するかたわら、一般向け著作・翻訳も手がける。

 

2007年に発表した『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書)は、サントリー学芸賞、および中央公論新書大賞を受賞し、ベストセラーとなる。

他に『プリオン説はほんとうか?』(講談社ブルーバックス・講談社出版文化賞)

『ロハスの思考』(ソトコト新書・木楽舎)、

『生命と食』(岩波ブックレット)、

『できそこないの男たち』(光文社新書)、

『動的平衡』(木楽舎)、

『世界は分けてもわからない』(講談社現代新書)

『ルリボシカミキリの青』(文春文庫・文藝春秋)

『生命科学の静かなる革命』(インターナショナル新書・集英社インターナショナル)

など、著書多数。

 

 美術ではヨハネス・フェルメールの熱心なファン。

 現存画は必ず所蔵されている場で鑑賞することをポリシーとしていて、著書の発表や絵画展の企画にも携わっている。

 

ーーーーーーーー

 

以上で、今回の記事は終わりです。

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

 

 

   

  

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生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)

 

 

生命科学の静かなる革命 (インターナショナル新書)

生命科学の静かなる革命 (インターナショナル新書)

 

 

頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

 

 

 私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。

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頻出論点・「『私』消え、止まらぬ連鎖」高村薫・消費社会・欲望論

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 

 様々な、深刻な社会問題の背景には、実は、「消費社会」・「欲望論」の問題が潜んでいます。

 「消費社会」・「欲望論」の論点は、このブログで以前にも記事化しました。(→下にリンク画像を貼っておきます)

 しかし、分かりにくい側面がありますので、入試頻出著者である高村薫氏の論考「『私』消え、止まらぬ連鎖」(2007・早稲田大学・文化構想学部)を元にして、解説していきます。

 

 高村薫氏の論考は、簡潔な表現で本質を鋭く突くのが特徴です。

 爽やかで、切れ味の良い文章なので、難関大学の現代文(国語)・小論文で頻出です。

 現代文(国語)・小論文対策として、今回の記事は、かなり役に立つと思います。

 

 以下では、次の項目を解説していきます。

 

(2)「『私』消え、止まらぬ連鎖」高村薫・(2007早稲田大学・文化構想学部)の問題・解答・解説

(3)当ブログによる発展的解説ー「消費社会のマイナス面と、その対策」・「欲望論」

(4)「モラル(倫理)」について

(5)「入試現代文(国語)・小論文における原典修正」について

(6)高村薫氏の紹介

 

 

(2)「『私』消え、止まらぬ連鎖」高村薫・2007早稲田大学・文化構想学部の問題・解答・解説

 

(概要です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です)

(【1】【2】【3】・・・・は当ブログで付加した段落番号です)

 

【1】食べる。寝る。愛する。排泄(はいせつ)する。そのつど、ただこの身体から湧(わ)きだし、自らを駆り立てる生命の営みを、わざわざ欲望と名付け、「」という主語を与えているのは人間だけである。しかも、所有や支配の欲望になると、とたんに話は複雑になる。

【2】持ち家がほしい。名声がほしい。力がほしい。そういう「」は、はたしてどこまで「」であるか。たとえば〔 A 〕を惜しんで株に熱中する「」を、「」はどこまで「」だと知っているか。人間の欲望について考えるとき、A まずはそう問わなければならないような世界に私たちは生きている。〔 イ 〕

【3】たとえば、ある欲望をもったとき、私たちはそれをかなえようとする。その段階で、私たちはなにがしかの手段に訴えねばならず、そのために対外的な意味や目的への、欲望の読み替えが行われる。健康のため。家族のため。生活の必要のため、などなど。こうした読み替えは、すなわち欲望の外部化であり、欲望は、この高度な消費社会では「私」から離れて、つくられるものになってゆく。

【4】そこでは名声や幸福といった抽象的な欲望さえ、目と耳に訴える情報に外部化され、置換されるのが普遍的な光景である。たとえば、家がほしい「私」は、ぴかぴかの空間や家族の笑顔の映像に置換された新築マンションの広告に見入る。そこにいるのはうつくしい映像情報に見入る「私」であり、家族の笑顔を脳に定着させる「私」であって、たんに家がほしい漠とした「私」はずっと後ろに退いている。代わりに、家族の笑顔を見たい「私」が前面に現れ、それは映像のなかの新築マンションと結びついて、欲望は具体的なかたちになるわけである。〔 ロ 〕

【5】けれども、こうしてかたちになった欲望は、ほんとうに「私」の欲望か。「私」はたしかに家がほしかったのだけれども、その欲望は正しくこういうかたちをしていたのか。仮に、確かに家族の笑顔を見たいがために家がほしかったのだとしても、家という欲望と、家族の笑顔という欲望は本来別ものであり、これを一つにしたのは「私」ではない、〔 B  〕である。

【6】このように、消費者と名付けられたときから「私」は誰かがつくり出した欲望のサイクルに取り込まれている。そこでは「私」は覆い隠され、ただ大量の情報に目と耳を奪われて思考を停止した、「私」ではない何者かが闊歩(かっぽ)している。〔 ハ 〕

【7】こうして、欲望から「私」が消え、おおよそ政治の権力闘争から一般の消費生活まで、欲望のための欲望と化して、現代社会はある。欲望は「私」の外部で回転し、「私」を駆り立てる。そこに明確な主体はおらず、従って欲望を止めるものはいない。〔 ニ 〕

【8】ところで〔 ① 〕の世界では、欲望のサイクルも〔 ② 〕になるはずだが、実際はあたかも〔 ③ 〕であるかのように回転し続け、そこここで、さまざまな悲喜劇を引き起こす。欲望は必ずしもかなえられないばかりか、ときには実質的な損害になって返ってくる。そのとき、これがサイクルであるがために悪者はすっきり定まらず、定まらないがために悪者探しは逆に苛烈になる。〔 ホ 〕

9】「私」の欲望であれば、失意も損失も「私」が引き受けることで収まりがつくが、「私」の消えた現代の欲望は、始まりも終わりもない。破綻(はたん)したら破綻したで、ともかく悪者を探して社会的な辻褄(つじつま)を合わせるだけである。一方、〔 C 〕の「私」はどこまでも無垢(むく)(→「①潔白で純真なこと②金・銀などの金属が、まじりけのないこと」という意味。今回は①の意味)に留まるのだが、「私」が無垢でないことは、「私」が知っている。」

( 高村  薫 「『私』消え、止まらぬ連鎖 情報に支配され『消費者』に」 )(朝日新聞・2006年1月5日・夕刊4面・文化欄「新・欲望論2」)

 

ーーーーーーーー 

 

(問題)

問1  空欄 A・Bに入る最も適当な語をそれぞれ次の中から選べ。

A  イ 名声  ロ 寸暇  ハ 身命  ニ 財貨  ホ 労力

B  イ 欲望  ロ 消費  ハ 笑顔  ニ 幸福  ホ 広告

 

 問2  傍線部A「そう問わなければならないような世界」を説明している最も適当なものを次の中から選べ。

イ   「私」自身の欲望が消費を形成する世界

ロ   「私」自身の欲望が所有の主体となる世界

ハ   「私」自身の欲望が行動の基準となる世界

ニ   「私」自身の欲望が自己を隠蔽(いんぺい)する世界

ホ   「私」自身の欲望が家族の幸福となる世界 

 

問3  文章中の空欄①・②・③に入る語句の最も適当な組み合わせを次の中から選べ。

イ   ① 有限  ② 有限  ③ 無限

ロ   ① 有限  ② 無限  ③ 有限

ハ   ① 有限  ② 無限  ③ 有限

ニ   ① 無限  ② 無限  ③ 有限

ホ   ① 無限  ② 有限  ③ 無限

ヘ   ① 無限  ② 有限  ③ 有限

 

問4  次の文は、本文中に入るべきものである。空欄・イ~ホから最も適当な箇所を選べ。

個々の欲望の当否は、ほとんど損得に置き換えられ、損得もまた外部化されて新たな欲望になるだけである。

 

問5  文章中の〔 C 〕に入る最も適当な語句を次の中から選べ。

イ   自らを駆り立てる「私」

ロ   消費者という名の「私」

ハ   明確な主体としての「私」

ニ   損害を引き受ける「私」

ホ   悪者と断定された「私」

 

問6  本文の内容と合致するものを次の中から一つ選べ。

イ   「私」の欲望は映像情報によって外部化され、欲望の主体を明確で形ある具体的なものにしている。

ロ   私の欲望は常に政治権力に支配されており、欲望のあり方も国家により巧みに管理されている。

ハ   私の欲望は経済力によって左右され、損得勘定が重視されるのが現代社会の特徴となっている。

ニ   私の欲望は情報のグローバル化によって均質化し、効率性を追求する現代社会に順応している。

ホ   私の欲望は消え止まることなく連鎖を続け、いつの間にか、消費者は情報に支配されてしまう。 

 

ーーーーーーーー

 

(要約)

私たちは欲望をかなえようとして、対外的な意味・目的ヘの欲望の読み替えを行う。こうした欲望の外部化は、高度消費社会では、「私」から離れて、つくられるものになってゆく。欲望から「私」が消え、明確な主体を持たぬ「消費者」がいるだけになる。そこでは、欲望のサイクルは回転し続け、さまざまな悲喜劇を引き起こす。「私」の消えた現代の欲望は、破綻したら破綻したで、悪者を探して社会的な辻褄を合わせるだけである。が、「私」が無垢でないことは、「私」が知っている。

 

 ーーーーーーーー

 

(解答)

問1 A →ロ   B →ホ

問2 ニ    問3 イ   問4 ニ   問5 ロ   問6 ホ

 

(解説)

問1(空欄補充問題)

 →空欄補充問題は、すでに選択肢を見て、チェックしていくべきです。

 A  熱中している状態についての慣用表現です。

 B  「家という欲望と、家族の笑顔という欲望は本来別ものであり、これを一つにしたのは『私』ではない、〔B=広告〕である」の文脈に注目してください。

 「欲望の外部化」については、【3】~【5】段落に説明があります。

 「広告」・「広告化文明」は、現代文(国語)・小論文における、重要なキーワードです。

 

問2(傍線部説明問題)

 傍線部の「そう」に注目してください。

 傍線部の説明は、【5】段落~【7】段落に、あります。

 

問3(空欄補充問題)

 直前段落・最終文の「欲望を止めるものはない」や、直後の段落の「現代の欲望は、始まりも終わりもない」から、「実際にはあたかも『無限』であるかのように回転し続け」とされている、という文脈に注意してください。

 本来、 「地球環境」や「地球の資源の有限性」を考えれば、「欲望のサイクル」は「有限」になるはずですが、「無限」と思い込むことに、しているのです。

 

問題4(脱文挿入問題)

 →「脱文挿入問題」は、本文を読む前に「脱文」を読んで、「脱文」のポイントを頭に入れ、本文を読みながら挿入箇所の候補をチェックしていく作戦が、オススメです。

 「欲望の外部化・「損得」の説明が記述されている段落に注目してください。

 

問5(空欄補充問題)

ハ   明確な主体「私」、

ニ   損害を引き受ける「私」、

ホ   悪者と断定された「私」、

は、いずれも、本文の記述とは、対立的な内容になっています。

 

問6(趣旨合致問題)

→「趣旨合致問題」こそ、本文を読む前に、設問・選択肢を見るべきです。

 「テーマ」は、「私が消えた欲望の連鎖(サイクル)」です。

 キー段落は、【段落です。

  【段落の、「消費者と名付けられたときから「私」は誰かがつくり出した欲望のサイクルに取り込まれている。そこでは「私」は覆い隠され、ただ大量の情報に目と耳を奪われて思考を停止した、「私」ではない何者が闊歩(かっぽ)している。」という記述を熟読してください。

 

イ   「欲望の主体を明確で形ある具体的なものにしている」の部分が誤りです。「欲望の主体」は消えています。

ロ   「欲望のあり方も国家により巧みに管理されている」の部分が誤りです。このような記述は、本文には、ありません。

ハ   「私の欲望は経済力によって左右され」の部分が誤りです。このような記述は、本文には、ありません。

ニ   「私の欲望は情報のグローバル化によって均質化し」の部分が誤りです。このような記述は、本文には、ありません。

ホ   これが正解です。

 

ーーーーーーーー

 

(3)当ブログによる発展的解説ー「消費社会のマイナス面と、その対策」・「欲望論」

 

 まず、【8】段落と【9】段落の接続が少々、ギクシャクしている感じがしているのは、以下の具体例の段落がカットされているからです。

 カット部分を含めて全体を読むと、論旨が、より明確になります。

 以下が、カット部分(概要)です。

  

「たとえば去年春のJR西日本の転覆事故や、秋に明るみに出たマンションの耐震擬装問題で、声高に責任の所在が求められたのは記憶に新しい。けれども冷静に見るなら、過剰な利便性を求めた社会とJRも、より安価で広いマンションを求めた消費者と業者も、全員が欲望のサイクルを回っていたとは言えまいか。人命の損失も、数千万円という多額の損害も、現に発生した以上、責任を負うべき主体は社会的にはっきりしているが、それでは片付かない心地悪さが残るのは、誰もが欲望のサイクルの一員だったからであろう。また、そこに欲望のほんとうの始まりである「私」が隠れていたからであろう。」

 

 上記の早稲田大学・文化構想学部の問題文本文と、カット部分からなる、高村氏の論考は、本質をズバリと突いた、切れ味の良い論考です。

 

 今回の論考では、「高度消費社会」は、「私」が消えた「欲望のサイクル」と化していることを前提にしています。そして、損害発生の場面における苛烈な悪者探しの底に流れる、ある種の居心地の悪さを指摘しています。つまり、「欲望のサイクル」の中で生きるしかない「現代の日本人の、仕方なさ」を提示しているのです。

 

 高村氏の論旨は、実に明快です。

 「消費社会」は、本来的な、どうしようもない「マイナス面」を含んでいることが、よく分かります。  

 一方で、「消費社会」は、「幸福追求ヘの意志」、「情報化社会( IT化社会 )」、「資本主義」、「経済のグローバル化」に密接に関連しているので、これを単純に、全面的に否定することは困難です。

 それだけに、「消費社会のマイナス面」についての「対策論」は、複雑な側面を有しているのです。

 

 ただ、欲望のサイクルは、いつまでも続けられないと思います。

 それ自体に無理があるがあるからです。

 

 第一に、地球の資源には限りがあります。

 さらに、地球環境をいかに維持していくか、という問題もあります。

 

 また、「広告に取り込まれて、誰かがつくり出した欲望のサイクルに取り込まれている」(【6】段落)ということは、自分の主体性を放棄して、操り人形(マリオネット)(自己喪失・アイデンティティ喪失)になっている側面があるということにも、注目する必要があるでしよう。

 

 以上の、「消費社会の問題点と、それらの対策」・「欲望論」については、当ブログで、最近、記事化したので、それらを参照してください。

 以下に、リンク画像を貼っておきます。

  

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(4)「モラル(倫理)」について

 

 なお、ここで、「消費社会のマイナス面」・「欲望論」に関連して、「モラル」について解説します。

 以下は、最近の当ブログの記事( 「予想問題『スポーツと民主主義』」『反・民主主義論』」 )の、私の解説です。

 ここに、再掲します。

 さらに、詳しい解説を読みたい方は、下の記事を参照してください。

 

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 人々は、自分とは無関係な、スポーツ選手の経済的欲望・社会的欲望の暴走は、「高い精神性や公共性」、つまり、「公正性」・「上品さ」・「徳」・「冷静さ」を掲げて制御・制限できても、自分自身の「経済的欲望」・「社会的欲望」の制御・制限はできないのではないでしょうか。

 「自由」、「権利」という名のもとに、人々は、自己が逸脱した行動をとっていることの「愚」に恥ずかしさを感じていない、あるいは、多少は感じていても、他者が同様な行動をとっていることから、自己の行動を容認しているのでしょう。

 「資本主義の進展」・「新自由主義」・「IT革命」などにより、「宗教的精神」・「道徳的精神」が薄まってしまったことも、背景にあるのでしょう。
 しかも、人々のその自己容認を承認する公教育、マスコミの報道が氾濫しているという現状があります。

 

 上記の解説は、「消費社会のマイナス面と、その対策」・「欲望論」を考察する際に、重要な視点になると思います。

 

 

(5)「入試現代文(国語)・小論文における原典修正」について

 

 なお、今回の早稲田大学文化構想学部の問題のように、難関大学の入試(現代文)国語・小論文の問題文本文は、「原典の一部カット」や・「修正」をしている場合が多いのです。

 そのような場合は、本文の文脈が少々、ギクシャクしていることがあります。

 その時は、「本文の要約」を厳密にやるべきでは、ありません。

 私は、「入試現代文(国語)・小論文の本文は、原典の修正が著しいので、本文の要約は頭の中でアバウトに考えれば良い」と、生徒に指導しています。

 メモを書くことは、入試の場では、「時間のムダ」でしかないと言っています。

 入試現代文(国語)・小論文の問題文本文における「原典修正の現実と、その対策」については、下の記事を参照してください。

 

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 土の記(上)

 

 

 

 

 

 

(6)高村薫氏の紹介
髙村 薫 (たかむら・かおる)

作家。1953年(昭和28年)大阪府大阪市生まれ。国際基督教大学人文科学科卒。

著作に
デビュー作『黄金を抱いて飛べ』(新潮文庫)(第3回日本推理サスペンス大賞受賞)、
『リヴィエラを撃て(上)・(下)』(新潮文庫)(第11回日本冒険小説協会大賞・第46回日本推理作家協会賞受賞)、
『マークスの山(上)・(下)』(新潮文庫)(第109回直木賞・第12回日本冒険小説協会大賞受賞)、
『李欧』(講談社文庫)(『わが手に拳銃を』(1992年)をベースにした作品)、
『照柿(上)・(下)』(新潮文庫)、
『レディ・ジョーカー(上)・(中)・(下)』(新潮文庫)(毎日出版文化賞受賞。『98年度版このミステリーがおもしろい』ベスト1)、
『晴子情歌(上)・(下)』(新潮社)、

『空海』(新潮社)、

『土の記(上・下)』(新潮社)、

などがある。

 

ーーーーーーーー

 

今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

 

  

 

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土の記(上)

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土の記(下)

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空海

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2017早大(文化)「見ることとうつすこと」鈴木理策・予想出典

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 

 今年の早稲田大学文化構想学部の国語の問題を読んだところ、鈴木理策氏の「見ることとうつすこと」という名文に邂逅したので、すぐに記事化することにしました。

 近いうちに、鈴木理策氏の論考・対談などが難関大学の現代文(国語)・小論文に出題される可能性があるからです。

 この名文は、「経験」・「風景との交流」・「表現」・「芸術」・「写真」の問題について、本質的・根源的な考察がなされているので、一読する価値があります。

 最近の難関大学には、「近代的な常識」・「近代的価値観」を根本的に見直し、「人間の本質」、「人生の本質」に迫ろうとする論考が、よく出題されています。

 この論考も、その傾向に沿っているのです。

 この論考自体が、入試に出題されないとしても、このような本質的・根源的な論考を熟読することは、難関大学の現代文を解く上で、かなり参考になると思います。

 

 

鈴木理策 熊野、雪、桜

 

 

 

 

 

 

(2)「見ることとうつすこと」鈴木理策(2017早稲田大学文化構想学部)の解説

 

(鈴木氏の論考)(概要です)

(【1】【2】【3】・・・・は、当ブログで付記した段落番号です)

(青字は、当ブログによる「注」です)

(赤字は、当ブログによる「強調」です)

(紫色の字は、早稲田大学・文化構想学部の入試で、傍線部説明問題・空欄補充問題として問われた部分です)

 

【1】松本清張原作の『天才画の女』というドラマがあります。一九八〇年の作品です。放送当時、私は高校生でした。画家憧れ、上京することを夢見ていた私にとって、東京の画壇を舞台とするこのミステリーはどの部分をとっても興味深く、すっかり夢中になりました。ですから少し前にケーブルテレビでこのドラマが再び放送されると知った時は心躍り、ぬかりなく全話を録画して、以来繰り返し、繰り返し見ています。歳を重ね、写真家となった今、昔とは違う感じ方をしても良いはずですが、何度見ても十六歳の頃の心境に引き戻されます。記憶とは本当に不思議なものです。

【2】物語の主人公は会津から上京した若い画家の卵です。彼女の実家には終戦後まもなく放浪画家が逗留した際に描いた天井画が残されていて、ドラマ版の主人公はその天井画を写真に撮り、プロジェクターで画布に投影して、こつこつと模写していました。それは彼女なりの絵の勉強法であり、あくまで「模写」だったのですが、同じマンションで起った殺人事件をきっかけに、彼女の絵が「作品」として銀座の有名画廊に運ばれさらに目利きという知られる美術愛好家の銀行家の目に留まってしまいます。模写であると言い出せないまま画家として脚光を浴びることになった主人公の戸惑いと高揚、彼女に商機を見出して売りだしに躍起となる画廊主の欲望、彗星のごとく現れた新人を訝(いぶか)しみ、盗作を疑って真相を探り始めるライバル画廊の炯眼(けいがん)(→「鑑識眼」という意味)。さまざまな思惑と感情が絡み合う中、物語はスリリングに展開していきます。初めて見た時から三十年以上もの時間が経っているのに、見る度に必ず少し緊張してしまうのは、表現とはいかに成立し得るのか、という根源的な問いをこのドラマは含んでいるからではないかと思います。

【3】十九世紀に写真術が発明された時、一番に影響を受けたのは画家たちだったと言われています。対象を正確に写し描くという職能は、写真の再現性の前では意味を持たなくなったためです。写真に写されたものは非常に多くの情報を含んでいたので、肉眼で見ることの信頼性は揺らぎ始めました。「機械の眼」を通すと、見て知っていると思っている以上のものが見えるという事実に直面した画家の中には、写真を見て絵を描き始める者もありました。しかし彼らはそのことを進んで公言することはなかったようです。写真を手本にして描くことに後ろめたさを感じていたのでしょうか? だとすれば、その感情は何処からくるものなのでしょうか? 

【4】写真を見て描くということは、描く対象を直接見ていないこと、さらに描いている光景とつながった空間(その場)に画家がいないことを意味します。これが後ろめたさの原因だとすれば、画家が対象と直に交わっているかどうかが絵画にとっては重要ということになります。外の世界と画家の身体が直接触れた結果としての絵画は、画家の目に映る「今」が絵具を介して表出され、揺らぎを帯びたみずみずしい感動を伝えるが、写真を見て描いた絵画は、より仔細に対象を観察できるはメリットがあるにせよ、間接的な経験であるため、絵画に寄せられる期待に応えていない、ということだったのかもしれません。(→「模写」の問題が発生していると思います)

【5】写真はすでに誰かによって見られた結果である、ということも写真を基に描いた画家たちにとって都合の悪い事実だったのだと思います。世界をどの様に見ているか作家性と結び付けて評価される場合が多く、他人が撮った写真をお手本にして描いたとなれば、そのオリジナリティはどこにあるかが曖昧になってしまいます。(→「オリジナリティ」がないのであれば、まさに、「模写」「コピー」の問題になるはずです)ただし二十世紀以降、絵画についての考え方は変化・多様化し、写真の機械的な視線や無名性をあえて取り入れた絵画も登場し始めます。時代の変遷の中で、絵画と写真は敵対するものでは無くなっていきました。

【6】表現をめぐる価値観は時代と共に変化していますが、写真表現に関してはかなり長い間、根強い考え方が引き継がれいるように思います。それはフレーミングやシャッターチャンスに撮影者の狙いを盛り込むことで個性を表すのが良い、という考え方です。この考えは写真を見る側に、撮影者が何を表現しようとしているか、その意図を正しく理解することが大切だ、というような見方を要求します。(→写真は撮影者の個性を表現するものである、という根強い常識のことを、説明しているのです。「写真を見る作法」についての固定観念は、今や、かなり強固なものになっています。「写真を鑑賞する様々な可能性」を封じ、一つの方法のみしかないと、写真家も、見る側も思い込んでいるのです。「写真家の個性」についての、「偏見」が崇拝の対象になったということです)

【7】この時、撮影者と写真を見る人の間では、写真を通して言葉による確認作業(→「固定観念」・「暗黙の了解」のキャッチボールです)が行われている訳です。このことは写真表現を画一化させる原因になっているになっていると思います。過去に撮られた写真のイメージを思い出して安定した構図(→「構図」を考えること自体が「近代的人間の悲しみ」と言えます。「自然」・「風景」そのものには、「構図」は、ないのですから)に整え直したり(→この点は、ほとんど、「模写」・「コピー」と変わらないとも評価できます。つまり、記憶に残っているシーンを「模写」しているだけなのです)、画面の中に見どころを用意するためにシャッターチャンスを待ったりすること(→写真家の功名心による「風景の一部の切り取り」と評価できます。しかも、「模写的」な「切り取り」です)は、写真家が直接世界と出会う機会を遠ざけるものです。(→「無の心を持って、風景と直接的に対面・交流すること」は、全くできていない、ということです)  写真は二度と出会うことの無い光景(→確かに、人と光景・風景は、一期一会の関係です)と出会う豊かさに満ちた表現であり、大きな可能性に満ちています。

【8】私は撮影では出来るだけ何もしないことを目指します。わざわざ大型カメラを担いで出かけていくのですから、何もしない、というのは矛盾しているようですが、画面に作為を込めないこと、私自身の存在を消していくことを目指しているのです(→「写真家としての主体性の放棄」、を意図している感じです。「写真家と風景の関係」から、「近代的な『主体』・『客体』」という枠組みを消去しようという、大胆な実験の感じがします。「写真家の主体性」を明確化することは、「お決まりの作法」に染まることだ、と意識しているのです)カメラを構えて歩いて行き、気になる光景に出会ったら三脚を立て、大体の位置で構図を決めて、その後は変更しません。ピントは、その場所で最初に目がいった部分に合わせます。シャッターも狙わずに押す工夫をしています。(→道を歩いていて、気になった風景のある場所に立ち止まり、風景をじっくり見つめる直前の瞬間を、風景を「構図」・「シャッターチャンス」を意識して見つめる直前の瞬間を、フィルムに保存する感じです)そんな風に撮影した写真は、いわゆる写真的な見どころを含みませんが、外の世界をありのまま(→写真家の「近代的な解釈」による変形・強調が介入していない、ということです)表しています。(→写真を見る人は、初めて風景と対面した時の、ぼんやりとした当惑の場に、直面することになります)私が写真でしたいと思っていることは少し変わっているかもしれません。

【9】今年の春、香川県丸亀市猪熊弦一郎現代美術館の企画で個展を開催しました。展覧会は七月から東京オペラシティアートギャラリーに巡回しています。写真を見せるというより風景を見る(→「対象と直に交わっている場」・「外の世界と入場者の身体が直接触れる場」、つまり、「風景と初めて出会う場」・「風景に目の焦点が合って、風景を『構図』・『シャッターチャンス』の枠組みの中で再構成する以前の場」という意味、だと思います)になれば良いと考え、自身で展示構成を行いました。会場に並ぶ写真を見ると、その都度新しい発見があります。写真家は自分の写した全てを確認済みと思われるでしょうが、ものを見ることは常に新しい経験(→外の世界とその人の身体が直接触れた時に、その人の目に映る「今」は、「過去」と常に違うからです)です。東京展では会場内での撮影を可としました。私の見た風景が来場者のカメラに新たな風景として写されることに興味があったからです。写真を撮った写真は「模写」と呼ばれるのかどうかも気になるところです。」(「見ることとうつすこと」鈴木理策)

 

ーーーーーーーー

 

(解説)

 この論考は、「表現」・「模写」をキーワードにして、「『風景・写真家・写真を見る人』の関係」、「風景を見ること(風景を見るという経験)」、「写真を撮ること」、「写真を見ること」を論じています。

 

 最後の段落の「写真を撮った写真は「模写」と呼ばれるのかどうかも気になるところです。」は、読み手の方でも、気になる一文です。

 私が考える、この一文の解釈は、以下の通りです。

 「模写か否か」は、「対象と直に交わっているかどうか」、「外の世界と画家の身体が直接触れているか否か」、さらに、そこに「揺らぎを帯びたみずみずしい感動」が発生しているか否か、によって、判定されるべきことだ、と思います。

 

 

(3)鈴木理策氏の紹介

 

鈴木理策(すずき  りさく)

1963 和歌山県新宮市生まれ

1987 東京綜合写真専門学校研究科修了

1990 初の個展「TRUE FICTION」(吉祥寺パルコギャラリー、東京)開催

1998 初の写真集『KUMANO』を上梓

2000 第25回木村伊兵衛写真賞を受賞

2006 第22回東川賞国内作家賞、平成18年度和歌山県文化奨励賞受賞

2008 日本写真協会年度賞受賞

2006− 東京藝術大学美術学部先端芸術表現科准教授

【主な個展】

2004 「唯一の時間」西村記念館、和歌山
2005 「海と山のあいだ」ギャラリー小柳、東京
2006 「Sakura」Yoshii Gallery、ニューヨーク、アメリカ
2007 「熊野 雪 桜」東京都写真美術館、東京
2009 「White」ギャラリー小柳、東京
2011 「Yuki-Sakura」Christophe Guye Galerie、チューリッヒ、スイス
2013 「アトリエのセザンヌ」ギャラリー小柳、東京

【主なグループ展】
2000
「現代写真の母型1999」川崎市市民ミュージアム、神奈川
「the 1st Korea Japan Photo-Biennale」ソウル、韓国
2002
「風景論」東京都写真美術館、東京
「サイト―場所と光景」東京国立近代美術館、東京
2003
「The History of Japanese Photography 1854-2000」ヒューストン美術館、アメリカ
「KEEP IN TOUCH: Positions in Japanese Photography」Camera Austria、オーストリア
2008
「建築の記憶―写真と建築の近現代」東京都庭園美術館、東京
「Heavy Light, Recent Photography and Video from Japan」 ICP、ニューヨーク、アメリカ
2010
「Summer Loves」Huis Marseille Museum for Photography、アムステルダム、オランダ
2013
「マンハッタンの太陽」栃木県立美術館、栃木
2014
「写真分離派展 日本」京都造形芸術大学ギャルリ・オーブ、京都

【主な写真集】
『KUMANO』(1998光琳社出版)、『PILES OF TIME』(1999光琳社出版)、『Saskia』(2000リトルモア)、『Fire: February 6』(2002 Nazraeli Press)、『Mont Sainte Victoire』(2004 Nazraeli Press)、『熊野 雪 桜』(2007淡交社)、『Yuki Sakura』(2008 Nazraeli Press)、『雪華図』(2012 SUPER DELUXE)、『White』(2012 edition nord)、『Atelier of Cézanne』(2013 Nazraeli Press) など

 

  ーーーーーーーー

 

 今回の記事は、これで終わりです。

 今回の記事は、「速報」ということでしたので、考察する時間が充分とは言えませんでした。

 近いうちに、「再考」という形で、今回の鈴木氏の論考を、じっくり検討した結果を発表できたら、よいと思っています。

 

 次回の記事は、約1週間後の予定です。

 

  

 

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鈴木理策 熊野、雪、桜

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祝/言

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 この雑誌には、鈴木理策氏の写真、対談などが、よく掲載されています。

芸術新潮 2017年 02 月号 [雑誌]

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