予想論点ー労働観・自己・『人はなぜ働かなくてはならないのか』
最近、様々な労働問題・雇用問題が注目されています。そこで、入試現代文(国語)・小論文予想論点として、「労働の意義」・「労働観」について解説します。
(1)なぜ、この記事を書くのか?
かつて、日本は先進国でも低失業率を誇ってきましたが、最近では、経済のグローバル化、不景気、デフレ経済を背景にして、雇用環境・労働環境は著しく悪化しています。
その中でも、若者の雇用が厳しさを増しています。 フリーターやニート(無業者)の増加も、若者の労働の意欲の弱体化というよりも、正社員として安定的に働ける機会が減少したことの影響が大きいのでしょう。
また、2000年代に入ってからは、特に、苛酷な「長時間労働」や「過労」が社会問題化しています。
このように、様々な労働問題が注目されている時期には、「労働の本質」を問われる問題が、よく出題されます。
そこで、今回は、現代文(国語)・小論文対策として、「労働観」・「労働の意義」について解説することにします。
(2)『人はなぜ働かなくてはならないのか』(小浜逸郎)を解説する理由
小浜逸郎氏が入試頻出著者であり、『人はなぜ働かなくてはならないのか』が入試頻出出典であり、「近代的労働観」について、分かりやすく説明しているからです。
また、本書が「アイデンティティ」・「自己」に関する重要論点について、分かりやすい解説が、なされているからです。
ここで、小浜逸郎の紹介をします。
小浜 逸郎(こはま いつお、1947年4月15日生まれ)は日本の評論家。国士舘大学客員教授。
主な著書は、以下の通りです。主な出題校を付記します。
『大人への条件』(ちくま新書)、
『なぜ人を殺してはいけないのか-新しい倫理学のために』 (洋泉社、新書y)・(のちPHP文庫)→2008愛媛大学
『人はなぜ働かなくてはならないのか 新しい生の哲学のために』(洋泉社、新書y)→2003早稲田大学教育学部、2007山口大学
『エロス身体論』(平凡社新書)→2009早稲田大学スポーツ科学部
『「責任」はだれにあるのか』(PHP新書)、
『言葉はなぜ通じないのか』(PHP新書)→2008岡山大学、2010明治大学政経学部
『人はひとりで生きていけるか 「大衆個人主義」の時代』(PHP研究所)、
『日本の七大思想家 丸山眞男/吉本隆明/時枝誠記/大森荘蔵/小林秀雄/和辻哲郎/福澤諭吉』(幻冬舎新書)
(3)2003早稲田大学教育学部・『人はなぜ働かなくてはならないのか』(小浜逸郎)の解説
(問題文本文)(概要です)
(青字は当ブログによる注です)
「【1】労働が私たちの社会的な存在のあり方そのものによって根源的に規定されてあるということには、三つの意味が含まれている。一つは、私たちの労働による生産物やサービス行動が、単に私たち自身に向かって投与されたものではなく、同時に必ず、「だれか他の人のためのもの」という規定を帯びることである。
【2】自分のためだけの労働もあるのではないか、という反論があるかもしれない。なるほど、ロビンソン・クルーソー的な一人の孤立した個人の自給自足的労働を極限として思い浮かべるならば、どんな他者のためという規定も帯びない生産物やサービス活動を想定することは可能である。じっさい、私たちの文明生活においても、〔 1 〕など、部分的にはこのような自分の身体の維持のみに当てられたとしか考えられない労働が存在しうる。 」
……………………………
(設問)
問1 空欄1に当てはまる最適なものを次の中から選べ。
ア ボランティア活動への参加
イ 夫婦二人からなる共同生活
ウ 身近な存在への看護や介護
エ 一人暮しにおける家事活動
オ インターネットによる学習
……………………………
(解説・解答)
すぐに選択肢を見てください。まず、自分で、記述式問題を解く感じで解答を作り、それから選択肢を見るという、手間のかかる不思議な解法があるようですが、すぐに選択肢を見る方が効率的です。
次に、消去法を積極的に活用してください。難関大学入試においては、消去法を活用しなければ、高得点は取れません。
空欄直後の「部分的にはこのような自分の身体の維持のみに当てられたとしか考えられない労働」に注目するとよいでしょう。
ア・イ・ウでは、「自分」以外が加わるので、誤りです。
オは、全くの論点ズレです。
正解は、エです。
ーーーーーーーー
(問題文本文)(概要です)
「【3】しかし、そのようにして維持された自分の身体は、ほとんどの場合、今度はそれ自身が他の外的な活動のために使用されることになる。また自分自身を直接に養う労働行為といえども、そこにはそれをなし得る一定の能力と技術が不可欠であり、それらを私たちは、ロビンソン・クルーソー的な孤立に至るまでの生涯のどこかで、「人間一般」に施しうるものとして習い覚えたのである。自分自身を直接に養う労働行為において、私たちは、「未来の自分」「いまだ自分ではない自分」を再生産するためにそれを行うのであるから、いわば、自分を「他者」であるかのように見なすことによってそれを実行しているのだ。2 自分一人のために技巧を凝らした料理を作ってみても、どこかむなしい感じがつきまとうのはそのゆえである。 」
……………………………
(設問)
問2 傍線部2とは、どういうことか。最適なものを次の中から選べ。
ア 自分一人のために自身で作る料理は、料理をするという社会的行為と、それを食べるという生命維持のための行為が同一人物のなかで行われるために、その技巧についての判断が不能になり、自分が「他者」であるという錯覚に陥ってしまうということ。
イ 自分一人のために自身で作る料理は、それをなし得る一定の能力と技術が必要となるために、人生において事前に学習や修練が不可欠になり、その成果として料理がとらえられてしまうので、味わうことに集中できないということ。
ウ 自分一人のために自身で作る料理は、自分自身を直接に養う労働行為であり、自己の料理に対する技能についていちばんよく承知している本人としては、ことさらに技巧を凝らすことに対して無意味さを感じるということ。
エ 自分一人のために自身で作る料理は、人間のみが可能に文明の産物であり、単なる生命維持のための行為ではなく、社会的な労働行為への端緒となるので、そこに必要以上の技巧が凝らされると「本来の自分」がおおい隠されてしまうということ。
オ 自分一人のために自身で作る料理は、自己を「他者」と見なして行われるが、労働行為の主体とその生産物の受益者が完全に一致しているので、技巧を凝らしても新たな価値を見出し得ないということ。
……………………………
(解説・解答)
この問題でも、すでに選択肢を見てください。。
傍線部の「どことなくむなしい感じ」とは、「どんな料理を作っても、やりがいがない」ということです。
ア 「自分が『他者』であるという錯覚に陥ってしまう」の部分が誤りです。
イ 全くの論点ズレです。
ウ 「ことさらに技巧を凝らすことに対して無意味さを感じるということ」の部分が誤りです。
エ 「『本来の自分』がおおい隠されてしまうということ」の部分が誤りです。
オ 本文の文脈に沿って、傍線部の「どことなくむなしい感じがつきまとう」の説明をしています。
正解は、オです。
ーーーーーーーー
(問題文本文)(概要です)
「【4】さらに、私たちは、資本主義的な分業と交換と流通の体制、つまり商品経済の体制のなかで生きているという条件を取り払って、たとえば原始人は、閉ざされた自給自足体制をとっていたという「純粋モデル」を思い描きがちである。だが、いかなる小さな孤立した原始的共同体といえども、その内部においては、ある一人の労働行為は、常に同時にその他の成員一般のためという規定を帯びていたのである。つまり、ある一人の労働行為は、彼が属する社会のなかでの一定の役割を担うという意味から自由ではあり得なかった。
【5】労働の意義が、人間の社会存在的本質に宿っているということの第二の意味は、そもそもある労働が可能となるために、人は、他人の生産物やサービスを必要とするという点である。これもまた、いかなる原始共同体でも変わらない。一見一人で労働する場合にも、その労働技術やそれに用いる道具や資材などから、他人の生産物やサービス活動の関与を排除することは難しい。すっかり排除してしまったら、3 猿が木に登って木の実を採取する以上の大したことはできないであろう。 」
……………………………
(設問)
問3 傍線部3とは、どういうことか。最適なものを次の中から選べ。
ア どんな他者のためという規定も帯びない、独立したサービス活動を行うこと。
イ 人手を借りず、道具も使わないで自分の身体のみを用いて活動すること。
ウ 孤立した原始共同体の構成員として、自給自足の生活に徹すること。
エ 資本主義的な分業と交換と流通の体制の中で、限定された単純作業を行うこと。
オ 社会的な人間関係から隔絶し、いかなる人からも認識・評価されないこと。
……………………………
(解説・解答)
「猿」が本文で、どのような文脈で使われているかを考えてください。
ア 「独立したサービス活動」の部分が誤りです。
イ 傍線部の直前の文脈に沿っています。
ウ 「孤立した原始共同体の構成員」の部分が誤りです。
エ 全体が誤りです。
オ 「いかなる人からも認識・評価されない」の部分が誤りです。
正解は、イです。
ーーーーーーーー
(問題文本文)(概要です)
「【6】そして第三の意味は、労働こそまさに、社会的な人間関係それ自体を形成する基礎的な媒介になっているという事実である。労働は人間〔 X 〕の、〔 Y 〕を介してのモノや行動への外化・表出形態の一つであるから、それははじめから〔 Z 〕的な行為であり、他者への呼びかけという根源的な動機を潜ませている。 」
……………………………
(設問)
問4 空欄X・Y・Zに当てはめる言葉として最適なものを次の中から選べ。
ア X 存在 Y 言語 Z 個別
イ X 精神 Y 身体 Z 関係
ウ X 世界 Y 疎外 Z 中心
エ X 関係 Y 精神 Z 身体
オ X 中心 Y 世界 Z 疎外
カ X 個別 Y 存在 Z 言語
……………………………
(解説・解答)
直前の「労働こそまさに、社会的な人間〔X〕関係それ自体を形成する基礎的な媒介になっているという事実」、直後の「他者への呼びかけという根源的な動機を潜ませている」という記述より、Zに、イの「関係」が入ることが分かります。
「人間〔X〕」から、Xに、イの「精神」が入ることが分かります。
正解は、イです。
ーーーーーーーー
(問題文本文)(概要です)
「【7】人はそれぞれの置かれた条件を踏まえて、それぞれの部署で自らの労働行為を社会に向かって投与するが、それらの諸労働は、およそ、ある複数の人間行為の統合への見通しと目的とを持たずにばらばらに存在するということはあり得ず、4 だれかのそれへの気づきと関与と参入とをはじめから「当てにしている」。そしてできあがった生産物や一定のサービス活動が、だれか他人によって所有されたり消費されたりすることもまた「当てにしている」。そこには、労働行為というものが、社会的な共同性全体の連鎖的関係を通してその意味と本質を受け取るという原理が貫かれている。労働は、一人の人間が社会的人格としてのアイデンティティを承認されるための、必須条件なのである。」
(小浜逸郎「人間はなぜ働かなくてはならないのか」)
……………………………
(設問)
問5 傍線部4「だれかのそれへの気づきと関与と参入をはじめから『当てにしている』」とは、どういうことか。最適なものを一つ選べ。
ア 労働とは、個人的行為ではなく、他者の働きかけでどのようにも変質し得る他者依存型の行為であるということ。
イ 労働とは、それを行う者と享受する者とがその価値と目的を認め合い共有することによって、はじめて有益なものとなる行為となるということ。
ウ 労働とは、ともすると社会的行為と理解されやすいが、実はつねに他者の行為を当てにしている利己的行為であるということ。
エ 労働とは、自己と他者という社会性の中で発生してきたものであるので、他者の関わりを想定しない労働はあり得ないということ。
オ 労働とは、他者への呼びかけという本質を持つ行為であり、呼びかける対象のない労働は無意味な行為になるということ。
問6 本文の内容と合致するものを、次の中から二つ選べ。
ア 自身を維持するための労働は、社会的な評価にさらされることを免れる場合が多いために、外界に働きかけるものに比べて惰性に陥りがちである。
イ 労働とは本来、他人の生産物やサービスを前提にしているものであり、自己の働きかけは常に他者の働きかけと結びついている。
ウ 資本主義的な分業と交換と流通の体制にあっては、労働の成果が他人の手に落ちるあり方は、必ずしも一定していないので平等にすべきである。
エ 労働とは、必ずしも人間行為の統合への見通しと目的をもって行われるものではなく、いかなる場合でも他人との協業や分業のあり方が前提になっていない。
オ 労働とは、人間精神の表れであり、たとえそれが自己に向けられたものであっても社会的な行為と関係することを免れない。
……………………………
(解説・解答)
問5
「だれかのそれへの気づきと関与と参入とをはじめから『当てにしている』」とは、「他者を意識している」ということです。
ア 「他者依存型の行為である」の部分が、誤りです。
イ 「それを行う者と享受する者とがその価値と目的を認め合い共有することによって、はじめて有益なものとなる行為となる」という限定的な解釈は、本文とズレています。
ウ 全体的に論点ズレで、誤りです。
エ この選択肢が正解です。
オ 全体的に論点ズレで、誤りです。
正解は、エです。
問6
→問題文本文を読む前に、この「趣旨合致問題」を見ておくと、効率的です。
ア 「惰性に陥りがちである」という表現は、本文にありません。
イ【4】段落に合致しています。→正解です。
ウ 「労働の成果が他人の手に落ちるあり方は、必ずしも一定していないので平等にすべきである」の部分が誤りです。
エ 全体として、「本文の内容」に反しています。
オ 本文の内容に合致しています。→正解です。この選択肢は問4と関連していることに注意してください。
→入試本番では、よく、あることです。
→難関・国公立・私立大学の入試問題においては、本文のキーポイントを、表から、裏から、斜めから、何度も聞いてくるのです。この点は、模擬試験と大きく違う所です。大学の優秀な教員は、時間をかけて問題文本文をじっくり読むことで、本文のキーポイントを見抜くことができます。そして、自信をもって、大胆に何度でも、受験生に、そのポイントを理解できているかを聞いてくるのです。私が今まで見た中で、一番すごかったのは、一橋大学です。一つのポイントを4回(しかも、全て記述式で!)聞いてきたことがありますした。
→本問のキーポイントについては、この後に、すぐ解説します。
正解は、イ・エです。
ーーーーーーーー
(4)本問・本文の要約
労働が私たちの社会的な存在のあり方そのものによって根源的に規定されてあるということには、三つの意味が含まれている。
一つは、私たちの労働による生産物やサービス行動が、単に私たち自身に向かって投与されたものではなく、同時に必ず、「だれか他の人のためのもの」という規定を帯びることである。
労働の意義が、人間の社会存在的本質に宿っているということの第二の意味は、そもそもある労働が可能となるためには、人は、他人の生産物やサービスを必要とするという点である。
そして、第三の意味は、労働こそまささに、社会的な人間関係それ自体を形成する基礎的な媒体になっているという事実である。
労働は、一人の人間が社会的人格としてのアイデンティティを承認されるための、必須条件なのである。
(5)本問のキーポイント・論点の解説
本問で重要なのは、問4・問6です。
まず、問題4・問6に関連する本文を、ポイントをしぼって再掲します。
「【6】そして第三の意味は、労働こそまさに、社会的な人間関係それ自体を形成する基礎的な媒介になっているという事実である。労働は人間〔 X=精神 〕の、〔 Y=身体 〕を介してのモノや行動への外化・表出形態の一つであるから、それははじめから〔 Z=関係 〕的な行為であり、他者への呼びかけという根源的な動機を潜ませている。 」
「【7】人はそれぞれの置かれた条件を踏まえて、それぞれの部署で自らの労働行為を社会に向かって投与するが、それらの諸労働は、およそ、4 だれかのそれへの気づきと関与と参入とをはじめから「当てにしている」。そしてできあがった生産物や一定のサービス活動が、だれか他人によって所有されたり消費されたりすることもまた「当てにしている」。そこには、労働行為というものが、社会的な共同性全体の連鎖的関係を通してその意味と本質を受け取るという原理が貫かれている。労働は、一人の人間が社会的人格としてのアイデンティティを承認されるための、必須条件なのである。」
この二つの段落が、ほぼ同じ内容を強調していることを、確認してください。
さらに、分かりやすくするために、キーセンテンスだけを抜き書きすると、以下のようになります。
「労働こそまさに、それははじめから〔 Z=関係 〕的な行為であり、他者への呼びかけという根源的な動機を潜ませている。 」
∥
「それらの諸労働は、だれかのそれへの気づきと関与と参入とをはじめから「当てにしている」。」
↓
「労働は、一人の人間が社会的人格としてのアイデンティティを承認されるための、必須条件なのである。 」
つまり、「人間が自分のアイデンティティを承認されるためには、労働が必須条件、言い換えれば、必要条件だ」と言うことです。
「労働」は、賃金を得るためだけのものではないのです。
自分の、人間としての「アイデンティティ」を他者に承認してもらうために、あるのです。
逆に言えば、自分の「アイデンティティ」を、他者に承認され、尊重されるためには、自分の労働を丁寧に遂行する必要がある、ということになります。
この論理は、「近代的人間観」・「アイデンティティ」・「自己」と、「関係性」・「人間関係」の関連を、スムーズに説明することを可能にします。
それどころか、両者の、相互補完的な、密接な関連を、私たちに、知らせてくれます。
私たちの今まで常識の中では、本来、「近代的人間」・「近代的人間観」とは、宗教的・封建主義的な拘束から解き放たれた自由な人間でした。
すなわち、自我を確立して、自立性を保持し、理性・自己責任に基づいて行動できる人間。
そして、「自分自身のみ」を自己の存在根拠とする人間。
しかし、現代になり、極端な個人主義、IT社会、個性尊重の果ての「個性崇拝」などの中で、他者との人間関係に思い悩み、孤立感、虚無感に苦しむ人間が多くなりました。
このような状況において、この小浜氏の論考は、対策論として、かなり有用だと思います。
この論理の流れは、よく理解しておいてください。
類似の論考が、入試頻出です。(小浜氏の論考のように簡潔で分かりやすくは、ありませんが)
また、自分の「アイデンティティ」について、悩みのある人は、この論理の流れを、よく噛み締めるとよいでしょう。
本問は良問です。
小浜氏の論考が、入試現代文(国語)・小論文の頻出論点・テーマである「アイデンティティ」・「自己」に関して、分かりやすく、簡潔に説明しているからです。
これだけ、簡潔に分かりやすく、解説がなされていれば、高校生・受験生にも、充分に理解できるでしょう。
しかも、早稲田大学教育学部の設問が、小浜氏の見解のポイントを、的確に設問化しているからです。→問4・6の解説を、よく読んでください。特に、問6の青字の解説を。
『人はなぜ働かなくてはならないのか』は、まさに良書と言えるでしょう。
「高校生・受験生の必読書」とも言えます。
入試だけではなく、人生に役に立ちます。
(6)本書の構成の解説
小浜氏は、以下の問題提起から、今回の論考を始めています。
「私は、どんな実力者やヒーローの中にも、彼らがすぐれていればいるほど、自分の資産がこれくらいになったからというだけの理由で、仕事への情熱を投げ捨ててしまわない「何か」があり、その「何か」にこそ、凡人の営々たる勤労意欲と相通ずるものがあるということを指摘したいのである」
そして、小浜氏は、「なぜ人は働くのか?」という問いに対して、成立可能な、
「好きな仕事に就くことで人生の充実を味わえるから」、
「労働の意義はモラルに関連するから」、
という理由付けを否定する論証を、以下のように、展開しています。
つまり、「好きな仕事に就くことで人生の充実を味わえるから」は、誰もが好きな仕事に就ける訳ではないので、これは不適当です。
次に、「労働の意義はモラルに関連するから」は、道徳の強制は人を遠ざけるので、これも成り立ちません。
最後に、本問の本文の論考を展開し、結論として、小浜氏は以下のように述べています。
「労働の意義を根拠づけているのは、私たち人間が、本質的に社会的な存在であるという事実そのものにある」と。
もともと、人生には、自分のアイデンティティを承認されるために生きている側面があります。
そう考えると、全ての労働・職業は、自分のアイデンティティの承認につながるのでしょう。
そこには、「他者との関係性」の中に生きていく、人間の存在の「けなげさ」が感じられます。
『人はなぜ働かなくてはならないのか』は、評判になった、『なぜ人を殺してはいけないのか』の続編です。
『なぜ人を殺してはいけないのか』も根源的な考察に満ちた名著でしたが、『人はなぜ働かなくてはならないのか』は、さらに、じっくりとした明察を示した一冊になっています。小浜氏の代表作の一つに挙げられると思います。
小浜氏も本書の中で「人間というこの不可思議な存在に対する解明の糸口だけはつかんでいるという、ささやかな自負がないわけではない。」と述べています。
なお、 『人はなぜ働かなくてはならないのか』の目次は、以下のようになっています。
どの項目も、入試頻出論点に関連しています。
第1問 思想や倫理は何のためにあるのか
第2問 人間にとって生死とは何か
第3問 「本当の自分」なんてあるのか
第4問 人はなぜ働かなくてはならないのか
第5問 なぜ学校に通う必要があるのか
第6問 なぜ人は恋をするのか
第7問 なぜ人は結婚するのか
第8問 なぜ「普通」に生きることはつらいのか
第9問 国家はなぜ必要か
第10問 戦争は悪か
最近の小浜氏の著書の中では、本書のほかに、入試頻出出典である『言葉はなぜ通じないのか』(PHP新書)、『日本の七大思想家 丸山眞男/吉本隆明/時枝誠記/大森荘蔵/小林秀雄/和辻哲郎/福澤諭吉』 (幻冬舎新書) が、特に、おすすめです。
ーーーーーーーー
今回の記事は、これで終わりです。
次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。
なぜ人を殺してはいけないのか―新しい倫理学のために (新書y (010))
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人工知能②ー身体性・自我・倫理問題ー現代文・小論文予想論点
2017センター国語第1問・「科学論」・「科学コミュニケーション」を発展的に考察し、「人工知能」について考えます。現代文(国語)・小論文・予想論点として解説します。
以下では、
(1)なぜ、この記事を書くのか
(2)神里達博氏の論考・「人工知能と囲碁」(「月刊安心新聞」 朝日新聞)の紹介・解説ー身体性・自我・倫理問題
(3)「人工知能学会・倫理委員会」の取り組みー倫理問題
(4)「『人工知能学会・倫理委員会』の取り組み」は、杞憂とは言えないということ
(5)「人工知能」関連の当ブログの記事の紹介
(6)神里達博氏など、今回、参照した著者の紹介
について解説していきます。
(1)なぜ、この記事を書くのか?
今回の記事は「人工知能」の第2回目です。
今回は、2017センター試験国語・第1問を意識して、前回の記事・「現代文・小論文・予想問題ー『AIの衝撃・人工知能は人類の敵か』」とは、違う視点から「人工知能」を解説します。
前回の記事については、下にリンク画像を貼っておきます。
今回の記事の主な題材としては、神里達博氏の論考(「人工知能と囲碁」・月刊安心新聞 2016.3.18「朝日新聞」)を使用します。
2017センター試験国語・第1問本文に以下次のような小林傳司氏の論考が出題されました。
「科学論」における「科学コミュニケーション」の論点です。
今回のセンター試験の問題の、キーワードの一つは、「科学ー技術の両面価値」です。
このキーワードで、すぐに思い浮かべるのは、「人工知能」でしょう。
(2017センター試験・第1問・問題文本文)(概要です)
(赤字は当ブログによる「強調」です)
「十九世から二十世紀前半にかけて、既に「科学」は社会の諸問題を解決する能力を持っていた。「もっと科学を」というスローガンが説得力を持ち得た所以(ゆえん)である。しかし、二十世紀後半の科学ー技術は両面価値的存在になり始める。現代の科学ー技術は、自然に介入し、操作する能力を入手開発するようになっており、その結果、自然の脅威を制御できるようになってきた。同時にその科学ー技術の作り出した人工物が人類にさまざまな災いをもたらし始めてもいる。こうして「もっと科学を」というスローガンの説得力は低下し始め、「科学が問題ではないか」という新たな意識が社会に生まれ始めているのである。」(小林傳司「科学コミュニケーション」)
……………………………
(当ブログによる解説)
「科学論」で、最近、最も注目されるべき論点は「人工知能」です
最近、「人工知能(AI)技術」が大きな話題になっています。
特に、東大受験を諦めた人工知能の「東ロボくん」、自動車の自動運転、囲碁・将棋でプロに勝利した事、個々人の患者に対応したテーラーメイド治療などで、「人工知能」は注目を集めています。
このように、「人工知能」は、人類の進歩に寄与することが期待される一方で、「人工知能が人間を超える日」も問題になっています。
つまり、シンギュラリティ(技術的特異点)
(→「シンギュラリティ(Singularity)」とは、「人工知能が人間の能力を超えることで起こる出来事。人類が人工知能と融合し、人類の進化が特異点(成長曲線が無限大になる点)に到達すること」という意味)
という言葉をキーワードにして、「2045年までにAIが人類を超える」とする見解が、最近の様々な月刊誌の「人工知能特集」・新刊本で目立ちます。
軍事技術への転用、人工知能の暴走への不安もあります。
まさに、「人工知能」には、顕著な「両面価値」が存在しているがゆえに、現在、最も注目されるべき論点なのです。
(2)神里達博氏の論考・「人工知能と囲碁」(「月刊安心新聞」朝日新聞)の紹介・解説ー身体性・自我・倫理問題
ここで、特に参考になるのは、最近発表された神里達博氏の論考(「人工知能と囲碁」 神里達博 (月刊安心新聞) 2016.3.18 朝日新聞)です。
以下に、神里氏の論考を紹介しつつ、当ブログの解説をしていきます。
(神里氏の論考)
(概要です)
(赤字は当ブログによる「強調」です)
(青字は当ブログによる「注」です)
「囲碁で、世界トップクラスの棋士が1勝4敗で負け越した。このニュースを聞いて、AIが人類を敵に回すSF映画を思い出した方も多いのではないか。今回のAIの「快挙」は、そんな悪夢の始まりなのだろうか。今月はこのあたりから考えてみよう。
まず、今回のAI勝利の最大の要因は、ここ数年、大いに注目されている「ディープラーニング」を応用したことにある。
人工知能の世界では、「パターン認識」という課題が古くから関心を集めてきた。たとえば、この世には無数のバナナがあり、全く同じ形のものは無い。だが人間はバナナに共通のパターンをつかんでいるから、瞬時にバナナだと認識できる。一方、コンピューターは正確な計算を積み上げていくことは得意でも、そういう物事を概略的に捉えるような仕事は元来、不得意である。
しかし、現実世界に存在するほとんどの情報源は、この種の「パターン」である。従って、コンピューターに人間並みの知的作業をさせようと思えば、パターンを認識してもらうよりない。これは容易ではないものの、長年の研究によりさまざまな手法が開発され、郵便番号などの文字を読みとったり、人の音声や顔を認識したりといった作業は、以前から実用レベルに達している。
さて、ディープラーニングが従来と比べて優れている点は、大量のデータを学ぶことで、自力で「特徴ある何か」の存在を見つけることができる点だ。たとえば「バナナというのは、黄色くて、曲がっている」といった特徴を、あらかじめ人間がコンピューターに教えなくても、大量のバナナを含んだ画像を与えることで、そこから「なにか共通する存在が映り込んでいる」ということを抽出する。あとは人間が「ああ、それはバナナと言うものですよ」と教えてやれば、コンピューター内部に「バナナの概念と名前」のパターンが構築されるのだ。
ディープラーニングは、AIの歴史の初期から検討されてきた、脳の神経回路網をモデルとする研究の系譜に連なる。だが近年、ハードウェアの計算能力が向上したことや、コンピューターに教えるためのデジタルデータがネット上に大量に蓄積されたこと、またアリゴリズム(算法)の適切な改良などにより、従来のものと比べてはるかに精度の良い認識が可能になったのである。
機械に対する根源的な不安・不信が広がることは過去にも何度か起きている。古くは産業革命期のラッダイト運動
(→19世紀初期にイギリスの織物工業地帯に起こった機械破壊運動。産業革命による機械普及に対して、失業の危機を感じた労働者が起こした)
が有名であるが、1930年代、また60年代にも機械と人間の競争についての議論が盛り上がったことが知られている。
最近でも、宇宙物理学者のホーキング博士
(→イギリスの理論物理学者。量子宇宙論・現代宇宙論の重要人物。現代の理論的宇宙論を明解に解説した『ホーキング、宇宙を語る』などでも有名。車椅子の物理学者としても知られている)
が、真に知的なAIが完成することは、人類の終焉(しゅうえん)を意味するだろうと警告したことが話題になった。
今はAIへの脅威論が広がる「ネオ・ラッダイド
(→技術革新・高度情報化社会を嫌悪し、テレビ・自動車・電気などを拒否する生活を実践する運動)
の季節」なのかもしれない。」
ーーーーーーーー
(当ブログによる解説)
2014年、BBCの取材に対して、ホーキング博士は次のように語っています。
「完全な人工知能を開発できたら、それは人類の終焉を意味するかもしれない」
「人工知能が自分の意志をもって自立し、そして、さらに、これまでにないような早さで能力を上げ、自分自身を設計しなおすこともあり得る。ゆっくりとしか進化できない人間に、勝ち目はない。いずれは人工知能に取って代わられるだろう」
人工知能の進化に人類が歩調を合わせることができる能力を、人工知能が上回ることになる、いわゆる「技術的特異点」についてホーキング博士は、既に重大な懸念を表明しています。
「インディペンデント」(英国の新聞)に2014年に掲載された論説で、博士は、
「人工知能の発明は人類史上最大の出来事だ。だが同時に、『最後』の出来事になってしまう可能性もある」
と述べています。
ホーキング博士は「人工知能」の専門家ではないから、その意見は、あまり問題にする必要はないとする見解もあります。
が、「人工知能の専門家」でないがゆえに、見えることもあるのではないでしょうか。
無視しては、いけないと私は思います。
ーーーーーーーー
(神里氏の論考)
「しかし、すでに述べたように、今回のAIの「快挙」は、長年の人工知能研究の流れの延長線上にあるものだ。それだけでコンピューターが意志を持つなどということはあり得ない。重要なのは、AIには身体がないという点であろう。生命は身体という限界性があるがゆえに、自我(→大学入試の現代文(国語)・小論文レベルでは「アイデンティティ」・「自己」と同様に考えてもよいでしょう)を持つことに「意義」がある。この点でのAIと生命の隔たりは大きい。」
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(当ブログによる解説)
上記の最終段落の「AIと身体性の関係」について、さらに解説します。
「人工知能(AI)と身体性の関係」は、「人工知能」における重要な論点ですが、少々、分かりにくい側面があります。
その点で、下記の内田樹氏の論考は、「理解の助け」になると思われるので、紹介します。
(内田樹氏の論考)
(概要です)
(赤字は当ブログによる「強調」です)
(青字は当ブログによる「注」です)
「養老孟司先生が書評で取り上げてた月本洋『日本人の脳に主語はいらない』(講談社選書メチエ)を読む。
御影駅の待合室でぱらりと開いて、「私は人工知能の研究をしていたが、数年前に人間並みの知能を実現するには『身体』が必要であるという考えにいたった」(4頁)という箇所を読んで、思わず「おおおお」とのけぞってしまった。
そのときはそれが非常に重要なことであることはわかったのだが、どういうふうに武道の稽古につなげればいいのかよくわからなかった。
そのあと池谷裕二さんと対談したときにミラーニューロンの話を聞いて、学習というのが決定的に身体的な経験であることを教えていただいた。
それからSさんと出会い、その指導を見て、身体図式のブレークスルー(→「打開。突破」という意味)は知的なブレークスルーと同期するということについての確信が深まった。
そして、この本を読んでいろいろなことが繋がった。
月本さんによると、最近の脳科学の実験により、「人間はイメージするときに身体を動かしている」ことがわかった。
月本さんはこれを「仮想的身体運動」と呼ぶ。
「人間は言葉を理解する時に、仮想的に身体を動かすことでイメージを作って、言葉を理解している」(4頁)ということである。
書き手と読み手の「身体的な(要は「脳的な」ということだけれど)同期」が「理解」ということの本質であるという月本説は、「身体で読む」私にはたいへん腑に落ちる説明である。
ミラーニューロンによって、私たちは他人の行動を見ているときに、それと同じ行動を仮想的に脳内で再演している。
その仮想身体運動を通じて「他人の心と自分の心」が同期する(ように感じ)、他人の心が理解できる(ように感じる)のである。」
( 「御影駅からリッツカールトンにゆく途中で考えたこと」内田樹の研究室 2008年05月04日)
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(神里氏の論考)
「それでは、私たちが素朴に抱く、AIを含めた社会のIT化に対する不安感は、単に杞憂(きゆう)だろうか。問題の本質は、技術を支配するのは誰かという点だ。いかなる技術も結局は人間のためにあるのだが、技術が社会のなかで適切に機能するかどうかは、制度設計に大きく依存する。
米国政府は、AIを使ってテロリストの行動の特徴を認識するシステムを作り、空港に導入しようとしている。その倫理的な妥当性は、誰がどう担保すべきなのだろうか。
このように考えていくと、SF的な視点も時には有効だろうが、真の問題を隠蔽(いんぺい)してしまう可能性も否定できない。人間への脅威は、当面はやはり機械ではなく、人間だ。技術と制度をバランスよく目配りしながら、総合的に判断できる人間の知性こそが今、求められているのである。」
(「人工知能と囲碁ー技術を支配するのは誰か」 2016・3・18 「朝日新聞」 月刊安心新聞)
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(当ブログによる解説)
最終段落が重要です。
この点について、さらに解説します。
上記の、「SF的な視点も時には有効だろうが、真の問題を隠蔽(いんぺい)してしまう可能性も否定できない。人間への脅威は、当面はやはり機械(→「人工知能」)ではなく、人間だ。技術と制度をバランスよく目配りしながら、総合的に判断できる人間の知性が今、求められているのである。」
の部分は、じっくり考える必要があります。
「技術と制度をバランスよく目配りしながら、総合的に判断できる人間の知性」の内実は、何か?
この問題は、単純なものでは、ないでしょう。
悩みつつ、ゆっくり考えていくべきです。
これについて、参考になるのは、以下の見解です。
(3)「人工知能学会・倫理委員会」の取り組みー倫理問題
「技術と制度をバランスよく目配りしながら、総合的に判断できる人間の知性」について、さらに、考えていきます。
参考になるのは、以下に引用する「人工知能学会・ 倫理委員会の取組み」(「人 工 知 能」30 巻 3 号・2015 年 5 月)です。
(概要です)
(赤字は当ブログによる「強調」です)
(青字は当ブログによる「注」です)
「2・2 我々の役割の明確化
では、我々、倫理委員会の役割は何だろうか。人工知能が人工知能をつくるというような未来は当分来ないので、 特に何もしなくてよいのだろうか。
いや、そうではないだろう。
人工知能研究者にとってみると当たり前の技術が社会に大きなインパクトを与えてしまうこともあり得る。
今後、人工知能の技術が、さまざまな 形で社会のインフラに組み込まれていくことは確実であろうから、そうしたときに、思いがけず大きなインパクトを与えてしまうことがあるかもしれない。
専門家として、予見できるものを予見しておくことは、社会に対する誠実な態度であろう。
さまざまな諸問題が起こらないうちに、どういう問題が発生する可能性があるのか、それに対して我々はどのような解決策をもつことができるのかなどを議論しておく必要 があるだろう。
人工知能技術に関して、禁止すべき行為があり得るのかもしれない。例えば、「犯罪的な AI、軍事 AI、中毒や依存をもたらすような AI に基づくシステム」に関しては、社会的な注意を払うべきであると議論されている。
もしこのような AI を抑制すべきことが適切なのであれば、社会を巻き込んでいくことも必要であろう。
また、東日本大震災における原子力発電所の事故を鑑みるに、考え得る最悪なシナリオとその対応を列挙することも専門家の重要な役割であろう。
さらには、現在の技術だけでなく、今後の技術の方向性を指し示すことも社会と対話するうえで重要な役割であろう。
2・3 考え方の指針
では,こうした役割を果たしていくために、どのような考え方が活動の指針となるだろうか?
まず、我々は社会と対話しなければならない。倫理観は研究者自身ではなく、社会全体でつくっていくものである。
そして、人々の役に立つ人工知能、人々の生活を幸せにし、人生をより豊かにするような人工知能、つまり「万人のための人工知能」を目指すべきであろう。
では、人々を幸せにし、人生をより豊かにするということはどういうことであろうか。
人間にはさまざまな価値基準があるので、一般的には、ある特定の尺度でもって良い悪いを判断することは難しいだろう。
人工知能が使われるうえで、さまざまな良い点や悪い点(→「両面価値」)が出てくるであろうが、おそらく多くの人にとって社会における人工知能システムの良し悪しを判断する価値基準の一つが、「人間としての尊厳が守られるか」ではないだろうか。人工知能が発展することで、人間としての尊厳が侵される(例えばコンピュータに指示されるとおりに動くと生産性が上がるので、それを強要される)ようなことは不幸なことである。
人工知能の技術は、「人間の尊厳」を守るように使われていくべきではないだろうか。
また、人工知能が社会の期待に沿って倫理的に使われるためにはどのような手段を講じれば良いだろうか。
そのためには人工知能システムがオープンであること(透明性をもつこと)が必要であるし、説明可能であることも 必要であろう。
もし人工知能が「暴走する」という危惧を多くの人がもつのであれば、その制御権を複数の人間(市 民)に分散することなども必要かもしれない。
こうした議論を通じて明らかになってくるのは、人工知能の倫理的問題というときに主に議論すべきは、ロボット三原則のような「人工知能がもつべき倫理」ではなく、人間の側の倫理、すなわち「人工知能を使う人間の倫理」、「人工知能を開発する人間の倫理」であるということである。」 (「人工知能学会・ 倫理委員会の取組み」・「人 工 知 能」30 巻 3 号・2015 年 5 月)
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(当ブログによる解説)
「専門家として、予見できるものを予見しておくことは、社会に対する誠実な態度であろう」
「万人のための人工知能」
「人々を幸せにし、人生をより豊かにするということ」
「人工知能の技術は、「人間の尊厳」を守るように使われていくべきではないだろうか」
「人工知能の倫理的問題というときに主に議論すべきは、人間の側の倫理、すなわち「人工知能を使う人間の倫理」、「人工知能を開発する人間の倫理」であるということである」
以上の言葉は、どれもが、誠実、謙虚、聡明であり、極めて正当です。
「技術と制度をバランスよく目配りしながら、総合的に判断できる人間の知性」
を考える際の、大きなヒントになるものと言えるでしょう。
上記の「人工知能学会・倫理委員会の取り組み」は、2017センター試験国語・第一問で出題された小林傳司氏の問題意識と同方向です。
小林氏は、「科学と市民の共存」のために「科学コミュニケーション(→科学について、科学者が科学者ではない一般市民と対話すること)」の重要性を主張していますが、上記の「人工知能学会・倫理委員会の取り組み」も、全体として、同様のことを強調しているのです。
小林氏の問題意識の詳細については、最近の当ブログの記事(「2017センター試験国語第一問題・論点的中報告・問題解説」→上にリンク画像があります)で取り上げましたので、そちらを参照してください。
また、
「人工知能の倫理的問題というときに主に議論すべきは、人間の側の倫理、すなわち「人工知能を使う人間の倫理」、「人工知能を開発する人間の倫理」であるということである」
の部分は、
「人間への脅威は、当面はやはり機械ではなく、人間だ」とする、上記の神里氏の見解とも同方向であり、この見解も卓見だと思います。
(4)「『人工知能学会・倫理委員会』の取り組み」は、杞憂とは言えないということ
上記の「ホーキング博士の重大な懸念」を読むと、上記の「人工知能学会・倫理委員会の取り組み」は、決して、杞憂とは言えないことが、分かります。
また、下記に引用する養老孟司氏の見解も、「ホーキング博士の重大な懸念」と同様の内容です。
(養老孟司氏の見解)(概要です)
「人間は考えたことを必ず実現してきた動物だ。カメラでも、月世界旅行でも、先に考えている、そしてそれを実現する。
人間には非常に悪い癖があって、考えたものをつくろうとする。考えるだけでは満足できない。
そうすると、人間が最初に考えてつくりだしたもののひとつが神でしょう。だから、それもいずれ実現するのです。
論理で考えるとすぐにわかりますが、もし今以上に大きい脳味噌ができたとすると、われわれが考えることを全部考えられて、われわれが感じることを全部感じることができる。脳にプラス・アルファがついていたら、それでわれわれの仕事は終わり。」 (『男女の怪』養老孟司・阿川佐和子、だいわ文庫)
また、小林雅一氏は、『AIの衝撃ー人工知能は人類の敵か』(→当ブログで最近、予想論点として記事化しました→上にリンク画像があります)の中で、次のような見解を述べています。
「人間を超えるものを人間はあえて作るだろうか」という「問い」に対して、
「未来の人間はあえてそうした決断を下す」というのが、小林氏の結論です。
この見解の詳細を以下に引用します。
以下は、上のリンク画像の記事の一部抜粋です。
(概要です)
(太字は当ブログによる「強調」です)
(青字は当ブログによる「注」です)
「人間を超えるものを人間はあえて作るだろうか」
「創造性の萌芽を、最近のコンピュータは示し始めたようです。たとえば、ニューラルネット(→当ブログによる注→人間の脳の神経回路の仕組みを模したモデル。コンピュータに学習能力を持たせることにより、様々な問題を解決するためのアプローチ)、
機械学習(→当ブログによる注→人工知能における研究課題の一つ。人間が自然に行っている学習能力と同様の機能をコンピュータで実現しようとする技術)
の研究者たちは、最近のニューラルネットは『ある領域で学んだ事柄を別の領域ヘと応用する能力を示し始めている』と言います。
ニューラルネット、つまりコンピュータが示す、この種の能力を彼らは『汎化能力』(→当ブログによる注→様々な異なる対象に共通する性質・法則等を見出すこと。一般化。普遍化)と呼んでいます。
今、この分野の技術は日進月歩で進化しています。今後、最先端のニューラルネットを搭載したロボットが世界を自由に動き回り、外界の情報を吸収して学ぶようになれば、それは多彩な経験から学んで成長する人間に急速に近づいていくでしょう。それは、いずれ意識すらも備えた強いAIヘとつながる道でもあります。
問題は、人間に勝る知性を備えたAI、あるいはそれを搭載したロボットをあえて人間が開発するだろうか、ということです。
産業革命を境に、人類は、力の大きさや移動速度、あるいは計算能力などの面において、人間の能力を遥かに超えるマシンを次々と開発してきました。
しかし、どんなことにも対応できる柔軟な『知能』という最後の砦さえも、あえてロボットやコンピュータに譲りわたす決断を人間は下すでしょうか。」
ーーーーーー
(前回の記事の一部抜粋です)
(当ブログによる解説)
この部分は、恐い話です。
まるで、コンピューターが、犬や猫といった身近な動物よりも、「高等な知的生物」になってしまったかのようです。
「コンピューターが、学習する」というのは、どういうことなのでしょうか。
この記事の前半にも書きましたが、コンピューターは人間と違って、「飽き」や「疲れ」がないだけに、自律的な学習能力を身に付けたら、恐ろしい存在になると思います。
コンピューター・人工知能関係の科学者は、そのような危険性・危機感を感じないのでしょうか。
あるいは、「それでも、構わない」と思っているのでしょうか。
もし、コンピュータ・人工知能関係の科学者が、このような「科学の暴走」に対して、何らかの問題意識を持たないのであれば、村上陽一郎氏が様々な論考で主張する通り、「科学の進歩」に対する「民主的コントロール」が必要になってくるのでは、ないでしょうか。
特に、今回の問題は、「人類の存続」に直結する重大な問題です。
「人間にとっての『最後の砦』」
(ここも、前回の記事の一部抜粋です)
この部分は全体の最終部分です。
「未来の人間はあえてそうした決断を下す」というのが、小林氏の結論です。
その理由を、小林氏は以下のように述べています。
「それは私たち人類が今後、直面するであろう未曾有の困難と危機に対処するためです。現時点で、すでに深刻な様相を呈している地球温暖化や砂漠化、PM2・5のような大気汚染、行き場を失った核廃棄物、等々。これら世界的問題は早晩、人類単独の力では対処しきれなくなるでしょう。そこに人間を超える知能を備えたコンピュータやロボットが必要とされるのではないでしょうか。」
ーーーーーーーー
(以下は、今回の記事の解説になります)
(当ブログによる解説)
このように、「将来、人工知能が人間を超えるか」については、肯定説・否定説の対立があります。
しかし、いずれにせよ、人工知能が人間を超える可能性がないわけではないのですから、そのことに伴う危険性と対策を、前もって幅広く考慮しておくことは必要でしょう。
その点で、私は、人工知能学会の姿勢には賛成です。
今までの入試現代文(国語)・小論文に出題された問題の「出題意図の傾向」(→問題文本文・設問から推測した「出題意図」)も、おおむね、私の立場と同方向です。
(5)「人工知能」関連の当ブログの記事の紹介
入試頻出著者・山崎正和氏が、『ポスト・ヒューマン誕生』(レイ・カーツワイル・日本放送出版協会)を元に、「人工知能」・「ナノ技術」・「ロボット工学」・「自己」・「身体」・「人間とは何か」・「近代科学」などについて考察した論考、を紹介・解説しました。
(6)神里達博氏など、今回、参照した著者の紹介
① 神里達博氏の紹介
神里達博(かみさと たつひろ)
千葉大学教授。専門は科学史、科学技術社会論。1967年生まれ。1992年東京大学工学部卒業(化学工学専攻)。2002年東京大学大学院総合文化研究科博士課程単位取得満期退学(科学史・科学哲学専攻)。
主な著書に、
『食品リスク―BSEとモダニティ』(弘文堂)、
『科学技術のポリティクス』(城山英明編・東京大学出版会・分担執筆)、
『没落する文明』(萱野稔人との共著・集英社新書)等。
② 小林傳司氏の紹介
小林傳司(こばやし ただし)
1954年生まれ。科学哲学者、大阪大学教授。1978年京都大学理学部生物学科卒、1983年東京大学大学院理学系研究科博士課程単位取得退学。現在は、大阪大学理事(教育担当)、副学長。専門は、科学哲学・科学技術社会論。
主な著書・共編著として、
『トランス・サイエンスの時代 科学技術と社会をつなぐ』(NTT出版ライブラリーレゾナント)
『公共のための科学技術』(編 玉川大学出版部)
『社会技術概論』(小林信一,藤垣裕子共編著・放送大学教育振興会)等。
③ 内田樹氏の紹介
内田樹(うちだ たつる)
トップレベルの入試頻出著者。
倫理学者、翻訳家。専門は、フランス現代思想ですが、論考で取り上げるテーマは、教育論、グローバル化、政治論等、多方面に及んでいます。
著書としては、
『街場の現代思想』(文春文庫)、
『下流志向』(講談社文庫)、
『日本辺境論』(新潮新書)、
『街場のメディア論』(光文社新書)、
『疲れすぎて眠れぬ夜のために』(角川文庫)等、
④ 月本 洋氏の紹介
月本 洋(つきもと ひろし)
東京電機大学工学部情報通信工学科教授
現在の専門分野は、知能情報学・言語学。
著書に、『心の発生-認知発達の神経科学的理論』 (ナカニシヤ出版)、『日本語は論理的である』(講談社選書メチエ) 、『日本人の脳に主語はいらない』(講談社選書メチエ) 等。
⑤ 養老孟司氏の紹介
養老孟司(ようろう たけし)
1937年、鎌倉市生まれ。東京大学医学部卒業。東京大学名誉教授。『からだの見方』でサントリー学芸賞を受賞。著書として、『形を読む』『解剖学教室へようこそ』『日本人の身体観』『唯脳論』『人間科学』『バカの壁』『養老訓』等、多数。
入試頻出著者。
なお、入試頻出著者である内田樹氏・養老孟司氏の論考についての、当ブログの他の記事については、下の記事を参照してください。
⑥ 小林雅一氏の紹介
小林雅一(こばやし・まさかず)。KDDI 総研リサーチフェロー、情報セキュリティ大学院大学准教授。
東京大学理学部物理学科卒業。同大学院理学系研究科を修了後、ボストン大学に留学、マスコミ論を専攻。
著書に『グローバル・コミュニケーションの未来図』(光文社新書)、『クラウドからAIヘ』(朝日新書)、『ウェブ進化 最終形』(朝日新書)、『日本企業復活ヘのHTML5戦略』(光文社)等。
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今回の記事は、これで終わります。
次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。
この参考書は、私が制作しました。
私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。
https://twitter.com/gensairyu2
2017センター試験国語第2問・問題解説・小説の純客観的解法
2017年センター国語第2問は、素直に解けば、20分程度で満点の取れる問題です。以下に、今回の問題を通して小説問題の効率的な解法を説明していきます。
(1)2017年センター試験国語第2問(小説)の解説
2017年センター試験国語の小説問題は、文語文・擬古文的で読みにくい側面はありますが、設問・選択肢が素直なので、良問だと思います。
今後の小説問題対策として、有用な問題と考えてたので、今回、記事化することにしました。
以下では、次の項目を解説していきます。
今回の記事は、約1万2千字です。
(2)「小説問題解法」のポイント・注意点
(3)「センター試験小説問題」の解法のポイント・コツ
(4)2017センター試験国語第2問の解説
(5)今回の小説問題本文の「あらすじ」
(6)野上弥生子氏の紹介
(7)当ブログの「夏目漱石」関連記事の紹介・一覧
(8)当ブログの「小説問題解説」関連記事の紹介・一覧
(9)当ブログの「センター試験国語解説」記事の紹介・一覧
(10)2017センター試験国語第1問に「当ブログの予想論点記事(科学論)」が的中(著者・論点)したこと、についての報告記事、の紹介
(2)「小説問題解法」のポイント・注意点
小説・エッセイ(随筆)問題の入試出題率は、相変わらず高く、毎年約1割です。
まず、センター試験の国語では、毎年、出題されます。
次に、難関国公立私立大学では、頻出です。
東大・京都大・大阪大(文)・一橋大・東北大・広島大・筑波大・岡山大・長崎大・熊本大等の国公立大、早稲田大(政経)(文)(商)(教育)(国際教養)(文化構想)、上智大、立命館大、学習院大、マーチ(明治大・青山学院大・立教大・中央大・法政大)(特に文学部)、女子大の現代文では、特に頻出です。
また、難関国公立私立大学の小論文の課題文として、出題されることもあります。
小説・エッセイ問題については、「解法(対策)を意識しつつ、慣れること」が必要となります。
本来、小説やエッセイは、一文一文味わいつつ読むべきです。(国語自体が本来は、そういうものです。)
が、これは入試では、時間の面でも、解法の方向でも、有害ですらあります。
あくまで、設問(そして、選択肢)の要求に応じて、主観的文章を(設問の要求に応じて)純客観的に分析しなくてはならないのです。(国語を純客観的に分析? これ自体がパラドックスですが、ここでは、この問題には踏み込みません。日本の大学入試制度の問題点です。)
この点で、案外、読書好きの受験生が、この種の問題に弱いのです。(読書好きの受験生は、語彙力があるので、あとは、問題対応力を養成すればよいのです。)
しかし、それほど心配する必要はありません。
「入試問題の要求にいかに合わせていくか」という方法論を身に付けること、つまり、小説・エッセイ問題に、「正しく慣れる」ことで、得点力は劇的にアップするのです。
そこで、次に、小説・エッセイ問題の解法のポイントをまとめておきます。
【1】5W1H(つまり、筋)の正解な把握
① 誰が(Who) 人物
② いつ(When) 時
③ どこで(Where) 場所
④ なぜ(Why) 理由→これが重要
⑤ なにを(What) 事件
⑥ どうした(How) 行為
上の①~⑥は、必ずしも、わかりやすい順序で書いてあるとは限りません。
読む側で、一つ一つ確認していく必要があります。
特に、④の「なぜ(理由)」は、入試の頻出ポイントなので、注意してチェックすることが大切です。
【2】登場人物の心理・性格をつかむ
① 登場人物の心理は、その行動・表情・発言に、にじみ出ているので、軽く読み流さないようにする。
② 情景描写は、登場人物の心情を暗示的・象徴的に提示している場合が多いということを、意識して読む。
③ 心理面に重点を置いて、登場人物相互間の人間関係を押さえていく。
④ 登場人物の心理を推理する問題が非常に多い。その場合には、受験生は自分をその人物の立場に置いて、インテリ的に(まじめに→さらに言えば、人生重視的に)、一般的に、考えていくようにする。
⑤ 心理は、時間とともに流動するので、心理的変化は丁寧に追うようにする。
以上を元に、いかに小説問題を解いていくか、を以下で解説していきます。
(3)「センター試験小説問題」の解法のポイント・コツ
【1】先に設問をチェックする
センター試験の小説問題の本文は、難関大学の小説問題か、それ以上の長文の場合が多いのです。
そこで、センター試験小説問題を効率的に解くための1つ目のコツは、本文を読む前に設問(特に、設問文)に目を通すことです。
すぐに設問文に目を通し、「何を問われているか」を押さえてください。
「設問で問われていること」を意識しつつ読むことで、時間を短縮化することができます。
【2】消去法を、うまく使う
センター試験の小説問題の選択肢は、最近は、少々、長文化しています。
しかし、明白な傷のある選択肢が多いので、消去法を駆使していくことで、効率的に処理することが可能です。
(4)2017センター試験国語第2問の解説
(設問文のリード文)
(青字は、当ブログによる「注」です)
(赤字は、当ブログによる「強調」です)
「一昨年の秋、夫が旅行の土産にあけびの蔓(つる)で編んだ手提げ籠(かご)を買ってきた。直子は病床からそれを眺め、快復したらその中に好きな物を入れてピクニックに出掛けることを楽しみにしていた」
→問題のリード文(説明文)は、設問のヒントになることが多いので、注意してください。今回も、問2のヒントになっています。
(本文の概要)
(青字は、当ブログによる「注」目です)
(赤字は、当ブログによる「強調」です)
「病床にあった時、夫に買ってもらった手提げ籠を眺めて秋のピクニックに行きたいと思っていた。しかし、健康になったものの、特別に出かけようという気にもならなかった。
その内、世間で話題になっている文部省の絵の展覧会の話がを聞いて、早く行ってみようと思った。けれども、具体的に行こうと思いついたのは、全く偶然な出来心だった。
ある時、夕焼け空を見て明日の晴れやかな秋日和を想像すると、全く偶然な出来心で、夫の土産の籠を持ち、ぶらぶら遊びながら展覧会に出かける気になった。
「それが可(よ)い。展覧会は込むだろうから朝早くに出掛けて、すんだら上野から何処(どこ)か静かな田舎に行く事にしよう。」とそう思うと、A 誠に物珍らしい楽しい事が急に湧いたような気がして、直子は遠足を待つ小学生のような心で明日を待った。」
……………………………
(設問)
問2 傍線部A「誠に物珍しい楽しい事が急に湧いたような気がして」とあるが、それはどういうことか。その説明として最も適当なものを、次の①~⑤のうちから一つ選べ。
① この秋はそれまでの数年間と違って体調がよく、籠を持ってどこかへ出掛けたいと考えていたところ、絵の鑑賞を夫から勧められてにわかに興味を覚え、子供と一緒に絵を見ることが待ち遠しくなったということ。
② 長い間患っていた病気が治り、子供も自分で歩けるほど成長しているので一緒に外出したいと思っていたところ、翌日は秋晴れのようだから、全快を実感できる絶好の日になるとふと思いついて、心が弾んだということ。
③ 珍しく秋に体調がよく、子供とどこかへ出掛けたいのに行き先がないと悩んでいたところ、夫の話から久しぶりに絵の展覧会に行こうとはたと思いつき、手頃な目的地が決まって楽しみになったということ。
④ 籠を持って子供と出掛けたいと思いながら、適当な行き先が思い当たらずにいたところ、翌日は秋晴れになりそうだから、展覧会の絵を見た後に郊外へ出掛ければいいとふいに気がついて、うれしくなったということ。
⑤ 展覧会の絵を早く見に行きたかったが、子供は退屈するのではないかとためらっていたところ、絵を見た後にどこか静かな田舎へ行けば子供も喜ぶだろうと突然気づいて、晴れやかな気持ちになったということ。
……………………………
(解説・解答) 心情把握問題
→すぐに選択肢を見て、選択肢に合わせて考えるようにしてください。「記述式として解く」(一度、自分で解答を書く❗)という解法もあるようですが、解答の幅が広がりすぎ(特に、小説問題では)、効率性の面からみて、おすすめできません。私の推奨する「小説の純客観的解法」は、「設問にも客観的に対応すること」、つまり、「設問に素直に対応すること」を含みます。
「小説の筋をまとめる」だけの、単純な設問です。「どの程度まで、まとめていくか」については、設問・選択肢の要求に素直に従ってください。
④は、直前の「筋」を過不足なく、まとめているので、これが正解です。
「籠を持ってまずは遊びながら展覧会を見てみようと思いついた」のは、「其前日の「全く偶然な出来心」によるのですから、「夫の勧めなどにより、そのようにしたいと思った」としている①・③は、不適当です。
また、「夫の土産の手提げ籠」に言及していない②・⑤も、不適当です。
正解は④です。
ーーーーーーーー
(本文の概要)
「何処か小学校の運動会と見えて、沢山な子供の群れがいた。近づいて見ると、長方形に取り囲まれた見物人の人垣の中に小さい一群れの子供が遊戯を始めているところであった。一張りの白いテントの内からは、ピアノ音がはずみ立って響いた。くたびれて女中に負(おぶ)さった子供は、初めて見る此珍しい踊りの群れを、呆(あ)っけにとられた顔をして熱心に眺めた。直子も何年ぶりかでこんな光景を見たので、もの珍しい心を以(もっ)て立ち留まって眺めていたが、五分許(ばか)りも見ている間に、ふと訳もない涙が上瞼(うわまぶた)の内から熱くにじみ出して来た。訳もない涙。直子はこの涙が久しく癖になった。何に出る涙か知らぬ。何に感じたと気のつく前に、ただ流れ出る涙であった。子供に乳房を与えながら、その清らかなまじめな瞳を見詰めている内に溢(あふ)るる涙のとどめられなくなる時もあった。可愛いと云うのか、悲しいと云うのか、美しいからか、清らかなゆえにか、なんにも知らぬ。今目の前に踊る小さい子供の群れ、秋晴れの空のま下に、透明な黄色い光線の中をただ小鳥のように魚のように、手を動かしたり足をあげたりしている、ただその有様(ありさま)が胸に沁(し)むのである。直子はそんな心持から女中の肩を乗り出して眺め入ってる自分の子供を顧みると、我知らず微笑まれたが、B この微笑みの底にはいつでも涙に変(かわ)る或物(あるもの)が沢山隠れてような気がした。 」
……………………………
(設問)
問3 傍線部B「この微笑みの底にはいつでも涙に変(かわ)る或物(あるもの)が沢山隠れているような気がした」とあるが、それはどういうことか。その説明として最も適当なものを、次の①~⑤のうちから一つ選べ。
① 思わずもらした微笑みは、身を乗り出して運動会を見ている子供の様子に反応したものだが、そこには病弱な自分がいつも心弱さから流す涙と表裏一体のものがあると感じたということ。
② 思わずもらした微笑みは、小学生たちの踊る姿に驚く子供の様子に反応したものだが、そこには無邪気な子供の将来を思う不安から流す涙につながるものがあると感じたということ。
③ 思わずもらした微笑みは、子供の振る舞いのかわいらしさに反応したものだが、そこには純真さをいつまでも保ってほしいと願うあまりに流れる涙に結びつくものがあると感じたということ。
④ 思わずもらした微笑みは、幸せそうな子供の様子に反応したものだが、そこにはこれまで自分がさまざまな苦労をして流した涙の記憶と切り離せないものがあると感じたということ。
⑤ 思わずもらした微笑みは、子供が運動会を見つめる姿に反応したものだが、そこには純粋なものに心を動かされてひとりでにあふれ出す涙に通じるものがあると感じたということ。
……………………………
(解説・解答) 心情把握問題
傍線部の「この微笑の底」に注目すれば、極めて素直な問題だと分かります。
「この微笑の底」とありますから、直前に着目すると「直子はそんな心持から女中の肩を乗り出して眺め入ってる自分の子供を顧みると、我知らず微笑まれたが」とあるので、さらに遡ることになります。
その際には、傍線部の「涙に変(かわ)る或物(あるもの)」を意識して遡ることに注意してください。
すると、「小学校の運動会の遊戯の光景を五分程度見ている間に、ふと訳もない涙が熱くにじみ出して来る。子供に乳房を与えながら、その清らかなまじめな瞳を見詰めている内に溢(あふ)るる涙のとどめられなくなる時もあった。」が、解答のポイントだということが分かるはずです。
正解は⑤です。
①~④はそれぞれ、以下の部分が不適当です。
① 「病弱な自分がいつも心弱さから流す涙と表裏一体のものがある」の部分。
② 「小学生たちの踊る姿に驚く子供の様子」、「無邪気な子供の将来を思う不安から流す涙につながるものがある」の部分。
③ 「思わずもらした微笑みは、子供の振る舞いのかわいらしさに反応したもの」の部分。
④ 「そこにはこれまで自分がさまざまな苦労をして流した涙の記憶と切り離せないものがあると感じた」の部分。
ーーーーーーーー
(本文の概要)
「(展覧会で、直子は「幸ある朝」という絵の前に立ちつつ、その絵の作者である画家の義妹であり、直子の古い学校友達の「淑子さん」に関する思い出に浸る。)
直子は今「幸ある朝」の前に立って丁度その頃のことがいろいろ思い出されたのであった。淑子さんはそれから卒業すると間もなくお嫁に行って、そして間もなく亡くなられた。今はもうこの世にない人である。彼(あの)「造花」の画のカンヴァスから此(こ)のカンヴァスの間にはかれこれ十年近くの長い日が挟まっているのだけれども、ちっともそんな気はしない。ほんの昨日の出来事で、今にもあの快活な紅い頬をしたお転婆な遊び友達の群れが、どやどやと此室に流れ込んで来そうな気がする。そして其中に交じる自分は、ひとり画の前に立つ此の自分ではなくって全く違った別の人のような気がする。直子はその親しい影の他人を正面に見据えて見て、笑い度いような冷やかしたいような且(かつ)憫(あわれ)み度(た)いような気がした。而(しか)してふり返る度にうつる過去の姿の、如何(いか)にも価なく見すぼらしいのを悲しんだ。直子は C こうした雲隠れのような追懐に封じらてる 内に、突然けたたましい子供の泣き声が耳に入った。」
……………………………
(設問)
問4 傍線部C「こうした雲のような追懐に封じられてる」とあるが、それはどういうことか。その説明として最も適当なものを、次の1~5のうちから一つ選べ。
① 絵を見たことをきっかけに、淑子さんや友人たちと同じように無邪気で活発だった自分が、ささなことにも心を動かされていたことを思い出した。それに引きかえ、長い間の病気が自分の活発な気質をくもらせてしまったことに気づき、沈んだ気持ちに陥っている。
② 絵を見たことをきっかけに、淑子さんをはじめ女学院時代の友人たちとの思いでが次から次へと湧き上がってきた。当時のことは鮮やかに思い出されるのに淑子さんはすでに亡く、自分自身も変化していることに気づかされて、もの思いから抜け出すことができずにいる。
③ 絵を見たことをきっかけに、親しい友人であった淑子さんと自分たちとの感情がすれ違ってしまった出来事を思い出した。淑子さんと二度と会うことができなくなった今となっては、慕わしさが次々と湧き起こるとともに当時の未熟さが情けなく思われて、後悔の念に胸がふさがれてる。
④ 絵を見たことをきっかけに、女学校の頃の出来事や友人たちの姿がとりとめもなく次々に浮かんできた。しかし、すでに十年近い時間が過ぎてしまい、もうこの世にいない淑子さんの姿がかすんでしまっていることに気づいて、件名に思い出そうと努めている。
⑤ 絵をみたことをきっかけに淑子さんが自分たちに仕掛けたかわいらしい謎によって引き起こされた、さまざまな感情がよみがえり、ふくれ上がってきた。それをたどり直すことで、ささやかな日常を楽しむことができた女学生の頃の感覚を懐かしみ、取り戻したいという思いにとらわれている。
……………………………
(解説・解答) 心情把握問題
問3と同様に、傍線部の「こうした」に注目することがスタートです。直前を精読してください。
傍線部Cの「追懐」というのは、直子自身やその友達の「淑子さん」たちに関する記憶です。また、その追憶に「封じられる」というのは、「その状態」に、「拘束されていること。捕らわれていること」を意味しています。
ただ女学生のころのことを思い出しているというだけでは、ありません。
「ほんの昨日の出来事で、今にもあの快活な紅い頬をしたお転婆な遊び友達の群れが、どやどやと此室に流れ込んで来そうな気がする。そして其中に交じる自分は、ひとり画の前に立つ此の自分ではなくって全く違った別の人のような気がする。直子はその親しい影の他人を正面に見据えて見て、笑い度いような冷やかしたいような且(かつ)憫(あわれ)み度(た)いような気がした。而(しか)してふり返る度にうつる過去の姿の、如何(いか)にも価なく見すぼらしいのを悲しんだ。」とあるように、直子は、「女学生のころの直子」と「今の直子自身」とは「全く違った別の人のような気がする」という思いに、捕らわれているのです。
このことを踏まえている選択肢を選んでください。
正解は②です。
他の選択肢は「女学生時代の直子」と「今の直子自身」との「違い」の説明が不十分です。
ーーーーーーーー
(設問)
問5 本文には、自分の子供の様子を見守る直子の心情が随所に描かれている。それぞれの場面の説明として最も適当なものを、次の①~⑤のうちから一つ選べ。
① 子供が歩き出すことを直子が想像したり、成長していたずらもするようになったことが示されたりする場合には、子供を見守り続ける直子の心情が描かれている。そこでは、念願だった秋のピクニックを計画する余裕もないほどに、子育てに熱中する直子の母としての自覚が印象づけられている。
② 「かァかァかァ。」と鴉の口まねをするなど、目にしたものに子供が無邪気に反応する場面には、子供とは異なる思いでそれらを眺める直子の心の動きが描かれている。そこでは、長い間病床についていたために、ささいなことにも暗い影をみてしまう直子の不安な感情が暗示されている。
③ 運動会の小学生たちを子供が眺める場面には、その様子を注意深く見守ろうとする直子の心情が描かれている。そこでは、直子には見慣れたものである秋の風物が、子供の新鮮な心の動きによって目新しいものになっている様が表わされている。
④ 初めて接する美術品を子供が眺めている場面には、その反応を見守ろうとする直子の心情が描かれている。そこでは、美術品の中に自分の知っているものを見つけた子供が無邪気な反応を示す様を、周囲への気兼ねなく楽しく直子ののびやかな気分が表わされている。
⑤ 「とや、とや。」と言って子供が急に泣き出した場面には、自分の思いよりも子供のことを優先する直子の心の動きが描かれている。そこでは、突然現実に引き戻された直子が、娘時代はもはや遠くなってしまったと嘆く様が表わされている。
……………………………
(解説・解答) 心情把握問題
まず「初めて接する美術品を子供が眺めている場面」という指定に従って、42行目以下を精読します。(本文については、各種解説書や、Web 上の予備校の速報などを参照してください)
すると、子供が絵を眺める際の反応を見守ろうとしている直子の心情が記述されています。
④との関連で、特に注意するべきは、50行目以下の部分です。概要を引用します。
「子供はたまたま自分の知った動物とか鳥とか花とかの形を見出した時には非常に満足な笑い方をした。女の裸体像を見つけては、『おっぱい、おっぱい』とさも懐(なつか)しそうに指(ゆびさ)しをするのには直子も女中も一緒に笑い出した。まだ朝なのでこうした戯れも誰の邪魔にもならぬ位(くら)い入場者のかげは乏しかったのである」
以上の部分から、④が正解になります。
他の選択肢は、以下の点で誤りです。
① 「念願だった秋のピクニックを計画する余裕もないほどに、子育てに熱中する直子の母としての自覚」は、本文に、このような記述は、ありません。
② 「ささいなことにも暗い影を見てしまう直子の不安な感情」は、本文に、このような記述は、ありません。
③ 「直子には見慣れた ものである秋の風物が、子供の新鮮な心の動きによって目新しいものになっている様」は、本文に、このような記述は、ありません。
⑤「娘時代はもはや遠くなってしまったと嘆く様」のような表現は、本文に、ありません。
ーーーーーーーー
(設問)
問6 この文章の表現に関する説明として適当でないものを、次の①~⑥のうちから二つ選べ。
→他の設問もそうですが、この設問も問題5と同様に、本文より先に設問を見ておけば、ラクな問題です。本文を読みながら、一つ一つの選択肢をチェックしていくようにしてください。
① 語句に付された傍点には、共通してその語を目立たせる働きがあるが1行目「あんよ」、24行目「あらわ」のように、その前後の連続するひらがな表記から、その語を識別しやすくする効果もある。
② 22行目以降の落葉や46行目以降の日本画の描写には、さまざまな色彩語が用いられている、前者については、さらに擬音語が加えられ、視覚・聴覚の両面から表現されている。
③ 38行目「透明な黄色い光線」、55行目「真珠色の柔らかい燻したような光線」のように、秋晴れの様子が室内外に差す光の色を通して表現されている。
④ 43行目「直子は本統(ほんとう)は画(え)の事などは何にも知らぬのである」、44行目「画の具のなさえ委(くわ)しくは知らぬ素人である」は、直子の無知を指摘し、突き放そうとする表現である。
⑤ 55行目「暫時うるさい『品定め』から免れた悦(よろこ)びを歌いながら、安らかに休息してるかのように見えた」は、絵画や彫刻にかたどられた人たちの、穏やかな中にも生き生きとした姿を表現したものである。
⑥ 直子が、亡くなった淑子のことを回想する68行目以降の場面では、女学生時代の会話が再現されている。これによって、彼女とのやり取りが昨日のことのように思い出されたことが表現されている。
……………………………
(解説・解答) 表現に関する問題
④ 本文の他の記述を考慮しても、43行目・44行目の表現が「直子の無知を指摘し、突き放そうとする表現」と評価することは、無理です。
⑤ 「『品定め』から免れた悦(よろこ)びを歌いながら、安らかに休息してるかのように見えた」の説明としては、「絵画や彫刻にかたどられた人たちの、穏やかな中にも生き生きとした姿」は、ズレている、と言えます。
従って、不適当です。
他の選択肢は、本文と照合すると、「適当」と評価されます。
→本設問は、素直で単純な問題でした。選択肢だけで、ある程度、正解が絞れました。
(解答) ④・⑤
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(5)今回の小説問題本文の「あらすじ」
病床にあった時、夫に買ってもらった手提げ籠を眺めて秋のピクニックに行きたいと思っていた。しかし、健康になったものの、特別に出かけようという気にもならなかった。
その内、世間で話題になっている文部省の絵の展覧会の話がを聞いて、早く行ってみようと思った。けれども、具体的に行こうと思いついたのは、全く偶然な出来心だった。
ある時、夕焼け空を見て明日の晴れやかな秋日和を想像すると、全く偶然な出来心で、夫の土産の籠を持ち、ぶらぶら遊びながら展覧会に出かける気になった。
秋の一日、主人公・直子は、子供(幼児)と一緒に文部省美術展覧会(文展)を見に行く。その会場に着くまでの運動会の場面、会場内での出来事が描かれている。
直子が流す涙、美術品を見て女学校時代を思い出す場面などがメインになっている。
(6)野上弥生子氏の紹介
野上 弥生子(のがみ やえこ、本名:野上 ヤヱ(のがみ やゑ)、旧姓小手川、1885年~ 1985年) は、日本の小説家。大分県臼杵市生まれ。14歳で上京。
1906年明治女学校高等科卒業。同年野上豊一郎と結婚,その縁で夏目漱石門下となり『縁 (えにし) 』 (1907) を発表。以来、『海神丸』 (22) ,『大石良雄』 (26) などを書き,昭和に入ると『真知子』 (28~30) ,『若い息子』 (32) ,『迷路』 (6部,36~56) などの社会小説を発表。
豊一郎の妻。夏目漱石の門下。弥生子は漱石の会に出る夫を通じて、夏目漱石の指導を受けた。「海神丸」で文壇的地位を確立。広い社会的視野と教養主義を統一した作風を築いたと評価される。没するまでに読売文学賞、女流文学賞、文化勲章、日本文学大賞などを受賞。
(7)当ブログの「夏目漱石」関連記事の紹介・一覧
私は2016年12月30に以下のようなツイートをしました。
「#ブログ更新しました
「 #トランプ現象 と #夏目漱石 →反グローバリズム的発言と文明開化批判」
今年は漱石没後100年、来年は生誕150年という節目。また、来年度の入試では、トランプ現象に関する論考が流行になる可能性が大です。https://t.co/ne30miUrDT」
この直後の、センター試験国語第一2問題に野上弥生子氏の『秋の一日』が出題されましたので、2017年1月31日に以下のツイートをしました。
「 #ブログ更新中
#2017センター試験国語 に出題された #野上弥生子 は #夏目漱石 の弟子。私の予想通りに、今年も、早くも、漱石関連の著作が出題されました。2016は漱石没後100年、2017年は #漱石生誕150年 。この調子で、今年は漱石関係の著作が多く出題されそうです。 https://t.co/yKIJlAIIwU」
ここ数年は、これまで以上に、漱石関係の著作に注目する必要があると思われます。
そこで、当該ブログの最近の「漱石関係」の記事のリンク画像を以下に貼っておきます。ぜひ、ご参照ください。
(8)当ブログの「小説問題解説」関連記事の紹介・一覧
(9)当ブログの「センター試験国語解説」記事の紹介・一覧
(10)「2017センター試験国語第1問・的中報告・問題解説」記事の紹介
以下の記述は、上の記事の冒頭部分です。上の記事を、ぜひ、ご参照ください。
……………………………
「(1)当ブログの予想論点記事が2017センター試験国語[1]に的中(著者・論点)しました。
2016東大・一橋大・静岡大ズバリ的中(3大学ともに全文一致→下にリンク画像があります)に続く快挙です。
2016・12・13に発表した当ブログの記事((「国語予想問題『プロの裏切り・プライドと教養の復権を』神里達博」→下にリンク画像を貼っておきます)が、2017センター試験国語(現代文)問題[1](「科学コミュニケーション」・小林傳司)に、的中(著者・論点→科学論→科学コミュニケーション)しましたので、この記事で報告します。」
ーーーーーーーー
今回の記事は、これで終わりです。
次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。
今回の試験問題になった「秋の一日」が収録されています。
下の本は、私の制作した問題集です。文語文・擬古文対策をポイントにしています。早稲田大学政経学部などで出題された、文語文・擬古文(夏目漱石・高村光太郎・正岡子規・柳宗悦など)の過去問を7問解説しています。
下の本は、私の制作した問題集です。小説問題(夏目漱石・芥川龍之介・幸田文など)が6問収録されています。
5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)
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私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。
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現代文(国語)解法・対策ー「文章並べ替え問題」のコツ・ポイント
(1)現代文(国語)で頻出の「文章並べ替え問題」をマスターしよう。
最近は、早稲田大学、マーチレベル大学、関関同立などの難関大学で、「文章並べ替え問題」が流行になっています。
今まで出題歴のない大学や学部で、突然、出題されることも、よくあります。
従って、しっかりと対策をしておくべきです。
この問題が出来ないと、全体の文脈の把握が困難になります。配点以上のダメージを受けることになります、
しかも、本番では、本文全体のキーの部分が、文章並べ替え問題として使われることが多いので、「文章並べ替え問題」を得意分野にしておくべきです。
「文章並べ替え問題」が不得意な受験生は、「文章並べ替え問題」のみを、集中的にやるようにしてください。
短期間に「文章並べ替え問題」を集中的にやることで、解法のポイント・コツを会得することが、可能になるのです。
しかも、その際には、志望校レベルの過去問のみを、やるようにした方が賢明です。
良質な問題を演習しなければ、実力はつきません。
「文章並べ替え問題」は、論理力や推理力のアップに有用です。
しかも、先程述べましたように、志望大学で今まで「文章並べ替え問題」が出題されていないとしても、いつ出題されるか分からないので、油断なく準備しておくべきでしょう。
【「文章並べ替え問題」の解法・ポイント】
① 第一に、「並べ替えるべき文章」(選択肢の文章)の全体、空欄の直前・直後の文脈にざっと目を通して、大まかな内容(文脈)を把握する。
② その後は、まずは、「並べ替えるべき文章」(選択肢の文章)に集中する。
初めに、「並べ替えるべき文章」(選択肢の文章)の各文の中心テーマを把握。その際に、各文の接続語、指示語、文末等をチェックする。
③ その上で、文章のペアを作っていく。 その際には、わかるものからペアを作っていく。
つまり、どれが「全体の最初の文章」として適切か、については、あまり気にしないようにする。
→全部の順序を一度に確定しようとはしないことです。せっかちは禁物です。イライラしないように! 冷静第一です。地道第一です。
最初は、「ペアを作ること」に専念するべきです。
④ ペアを2~3組程度作った後で、「どのペアが最初に来るか、最後に来るか」、を考える。
その際には、「空欄(並べ替え問題の空欄)の直前・直後」と「並べ替えた文」との接続関係を精密にチェックする。
以上を前提にして、早稲田大学教育学部・政経学部の過去問の演習にチャレンジしてしてください。
演習問題の直後に、解説・解答記事があります。
(2)2010年度・早稲田大学教育学部・「旅のいろいろ」谷崎潤一郎
(↑「旅のいろいろ」が収録されています)
(問題文本文)
(青字は当ブログによる「ふりがな」・「注」です)
「当節の宣伝は騒々しいお客を一(ひ)と纏(まと)めにして一つの地方へ掃き寄せてくれる働きがある。せんだっても和気律次郎君の話に、近来紀州の白浜が大々的の宣伝をやり出した結果、別府がすっかりさびれてしまって弱っているということであったが、もともとわれわれは、新し物好きの、一時のお調子に乗り易い国民であるから、或る一箇所が鉦(かね)や太鼓でジャンジャン囃(はや)し立てると、どッとその方へ寄り集まつて、余所(よそ)の土地は皆お留守になってしまう。そこで、そのコツを呑(の)み込んで、宣伝の裏を掻(か)くようにする、一方へ人が集まった隙(ひま)にその反対の方面へ行く、という風に心がけると、面白い旅をすることがある。何処(どこ)そことはっきり指摘するのは趣意(→「考え。目的」という意味。「意味問題」が入試頻出)に反するからいわないが、大体において、瀬戸内海の沿岸や島々などは、そういう意味で閑却(かんきゃく)(→「無視する。捨て置く」という意味。「意味問題」が頻出)されている地方ではないか。冬あの辺へ行ってみると、実にぽかぽかして暖かい。
[ D ]
そうしてそういう心がけになれば汽車や電車の御厄介(ごやっかい)(→「読み」が頻出)にならずとも、たとえば私が住んでいるこの精道村の裏山あたりの誰も気が付かない谷あいや台地などに、却(かえ)って恰好(かっこう)(→「読み」が頻出)な花と場所とを見出だすことがあるからである。
なおまた、これだけは大阪地方の読者諸君にそっとお知らせしたいのであるが、私は実は、桃の花の咲く時分、関西線の汽車に乗って春の大和路を眺めることを楽しみの一つに数えているのである。」(谷崎潤一郎「旅のいろいろ」)
ーーーーーーーー
問題 空欄Dには、次のア~オの五つの文章が入る。正しい順序に並び替えよ。
ア 如才(じょさい)のない(→「如才のない」とは「気がきいて、手抜かりがない」という意味。「意味問題」が入試頻出です)鉄道省では、毎年山々の雪が融(と)けてスキーが駄目になった時分からぽつぽつ花の宣伝を始め、四月中は花見列車を出すのは勿論(もちろん)(→「読み」が入試頻出)、次の日曜には何処(どこ)が見頃とか何処が七分咲きとか一々掲示をしてくれるので、静かな花見をしたい者は、そういう場所を避けて廻ればよいことになる。
イ 阪神地方も暖かいけれども、あの辺はまたひとしお暖かく、一月の末には早(は)やちらほらと梅が咲き初めるし、蓬(よもぎ)を摘んで草餅を作ったりなどしている。
ウ 私は花見が大好きで春はどうしても絢爛(けんらん)(→「読み」・「意味問題」が入試頻出)たる花盛りの景色を見ないと、春の気分を堪能(たんのう)(→「読み」・「意味問題」が入試頻出)しないのであるが、これにもやはり今のコツで行く。
エ そのくせ、避寒の客たちは白浜や別府や熱海などへ集まってしまっているから、何処の宿屋もひっそり閑(かん)として、まことに悠々たるものである。
オ それというのが、何も花を見るのには名所の花に限ったことはないのであって、見事に咲いたただ一本の桜があれば、その木陰に幔幕(まんまく)を張り、重詰めを開いて、心のどかに楽しむことが出来るからである。
ーーーーーーーー
(解説・解答)
上記の、
① 第一に、「並べ替えるべき文章」(選択肢の文章)の全体、空欄の直前・直後の文脈にざっと目を通して、大まかな内容(文脈)を把握する。
② その後は、まずは、「並べ替えるべき文章」(選択肢の文章)に集中する。
初めに、「並べ替えるべき文章」(選択肢の文章)の各文の中心テーマを把握。その際に、各文の接続語、指示語、文末等をチェックする。
③ その上で、文章のペアを作っていく。 その際には、わかるものからペアを作っていく。
つまり、どれが「全体の最初の文章」として適切か、については、あまり気にしないようにする。
の手順に注意してください。
(1)まず、各選択肢を検討します。
イ・エは「暖かい」・「避寒」でペアになり、ア・ウ・オに共通するテーマは「花見」なので、グルーピング(分類分け)が可能になります。
まず、イ・エから検討します。
エの「そのくせ」がヒントになります。
イの「あの辺はまたひとしお暖かく、一月の末には早(は)やちらほらと梅が咲き初めるし、蓬(よもぎ)を摘んで草餅を作ったりなどしている」を受けて、「そのくせ」(それなのに)「避寒の客たちは白浜や別府や熱海などへ集まってしまっている」(エ)のである、と理解することが可能です。
「イ→エ」のペアが確定します。
次にア・ウ・オを検討します。
オの「それというのが、心のどかに楽しむことが出来るからである」は、直前の一文のを理由になるので、オの「何も花を見るのには名所の花に限ったことはない」に対応する一文を探せばよいことになります。
そうなると、「何も花を見るのには名所の花に限ったことはない」は、アの「鉄道省では、・・・・次の日曜には何処(どこ)が見頃とか何処が七分咲きとか一々掲示をしてくれるので、静かな花見をしたい者は、そういう場所を避けて廻ればよい」に対応します。
従って、「ア→オ」が成立します。
ウの「私は花見が大好きで」・「これにもやはり今のコツで行く」は、「花見の基本的な方針」の表明なので、「ア→オ」の前にくることが分かります。
よって、「ウ→ア→オ」のセットが確定します。
(2)次に、「これまでに作ったペア、セット」と、「空欄の直前・直後の文脈」との接続関係の確認をします。
空欄直前は「大体において、瀬戸内海の沿岸や島々などは、そういう意味で閑却されている地方ではないか。冬あの辺へ行ってみると、実にぽかぽかして暖かい。」であり、
空欄直後は、「そうしてそういう心がけになれば汽車や電車の御厄介にならずとも、たとえば私が住んでいるこの精道村の裏山あたりの誰も気が付かない谷あいや台地などに、却って恰好(かっこう)な花と場所とを見出だすことがあるからである。」
となっているので、「イ→エ」→「ウ→ア→オ」が確定します。
(解答) イ→エ→ウ→ア→オ
ーーーーーーーー
(谷崎潤一郎の紹介)
谷崎 潤一郎(たにざき じゅんいちろう・1886年~1965年)日本の小説家。
初期は「耽美主義」と評価された。国内外で、近代日本文学を代表する小説家の一人として、評価は非常に高い。過去においては、ノーベル文学賞の候補になったことがあった。
代表作として、
『刺青』(→入試頻出です)『痴人の愛』『卍(まんじ)』『蓼喰う虫』『春琴抄』『陰翳礼讚』(→入試頻出です)『細雪』『少将滋幹の母』『鍵』『瘋癲老人日記』などがある。
→なお、2010年度早稲田大学・教育学部では、問19として、「谷崎潤一郎の作品名(小説)を一つあげて、記せ」という問題が出題されました。谷崎潤一郎は文学史問題として頻出ですが、このような出題は珍しいです。
(3)2009年度・早稲田大学教育学部・「高坐の牡丹燈籠」岡本綺堂
(問題文本文)(青字は当ブログによる「ふりがな」・「注」です)
「私は「牡丹燈籠(ぼたんどうろう)」の速記本を近所の人から借りて読んだ。その当時、わたしは十三、四歳であったが、一編の眼目とする牡丹燈籠の怪談の件(くだり)を読んでも、さのみに怖いとも感じなかった。どうしてこの話がそんなに有名であるのかと、いささか不思議にも思う位であった。それから半年ほどの後、円朝が近所(麹町区山元町)の万長亭という寄席へ出て、かの「牡丹燈籠」を口演するというので、私はその怪談の夜を選んで聴きに行った。作り事のようかであるが、恰(あたか)もその夜は初秋の雨が昼間から降りつづいて、怪談を聴くには全くお誂(あつら)え向きの宵であった。
「お前、怪談を聴きに行くのかえ」と、母は嚇(おど)すように云った。
「なに、牡丹燈籠なんか怖くありませんよ」
速記の活版本で高(たか)をくくっていた。(→「高をくくる」とは「軽くみる」という意味。今回の入試では「高」の部分が空欄になっていて、「ひらがな二字で記せ」という問題として出題されています)私は、平気で威張って出て行った。ところが、いけない。円朝がいよいよ高坐にあらわれて、燭台(しょくだい)の前でその怪談を話し始めると、私はだんだんに一種の妖気(ようき)を感じて来た。満場の聴衆はみな息を嚥(の)んで聴きすましている。伴蔵とその女房の対話が進行するにしたがって、私の頸(くび)のあたりは何だか冷たくなって来た。周囲に大勢の聴衆がぎっしりと詰めかけているにも拘(かかわ)らず、私はこの話の舞台となっている根津のあたりの暗い小さい古家のなかに坐って、自分ひとりで怪談を聴かされているように思われて、ときどきに左右を見返った。今日(こんにち)と違って、その頃の寄席はランプの灯が暗い。高坐の蝋燭(ろうそく)の火も薄暗い。外には雨の音がきこえる。それらのことも怪談気分を作るべく恰好(かっこう)(→「読み」が頻出)の条件になっていたに相違ないが、いずれにしても私がこの怪談におびやかされたのは事実で、席の刎(は)ねたのは十時頃、雨はまだ降りしきっている。私は暗い夜道を逃げるように帰った。
この時に、私は円朝の話術の妙と云うことをつくづく覚(さと)った。速記本で読まされては、それほどに凄(すご)くも怖(おそ)ろしくも感じられない怪談が、高坐に持ち出されて円朝の口にのぼると、人を悸(おび)えさせるような凄味(すごみ)を帯びて来るのは、実に偉いものだと感服した。時は欧化主義の全盛時代で、いわゆる文明開化の風が盛んに吹き捲(まく)っている。学校にかよう生徒などは、もちろん怪談のたぐいを信じないように教育されている。その時代にこの怪談を売り物にして、東京じゅうの人気を殆(ほとん)ど独占していたのは、怖い物見たさ聴きたさが人間の本能であるとは云え、確かに円朝の技倆(ぎりょう)(→「読み」が入試頻出)に因(よ)るものであると、今でも私は信じている。
[ D ]
「牡丹燈籠」の原本が「剪燈(せんとう)新話」の牡丹燈記であるとは誰も知っているが、全体から観(み)れば、牡丹燈籠の怪談はその一部分に過ぎないのであって、飯島の家来孝助の復讐(ふくしゅう)と、萩原の下人(げにん)伴蔵の悪事とを組み合わせた物のようにも思われる。飯島家の一条は、江戸の旗本戸田平左衛門の屋敷に起こった事実をそのまま取り入れたもので、それに牡丹燈籠の怪談を結び付けたのである。伴蔵の一条だけが円朝の創意であるらしく思われるが、これにも何か粉本(ふんぽん)(→「種本」という意味。今回の入試では、「意味」を選択問題として出題。文脈から解答が可能です)があるかも知れない。ともかくも、こうした種々の材料を巧みに組み合わせて、毎晩の聴衆を倦(う)ませないように、一晩ごとに必ず一つの山を作って行くのであるから、一面に於(お)いて彼は立派な創作家であったとも云い得る。」
(岡本綺堂「高坐の牡丹燈籠」『岡本綺堂随筆集』)
ーーーーーーーー
問題 空欄Dには、次のア~オの五つの文章が入る。正しい順序に並び替えよ。
ア これは円朝自身が初めてこの話を作った時に、心おぼえの為にその筋書を自筆で記しるして置いたのであるという。
イ 実に立派な紀行文である。
ウ 春陽堂発行の円朝全集のうちに「怪談牡丹燈籠覚書」というものがある。
エ 円朝は塩原多助を作るときにも、その事蹟を調査するために、上州沼田その他に旅行して、「上野(こうずけ)下野(しもつけ)道の記」と題する紀行文を書いているが、それには狂歌や俳句などをも加えて、なかなか面白く書かれてある。
オ 自分の心覚えであるから簡単な筋書に過ぎないが、それを見ても円朝が相当の文才を所有していたことが窺(うかが)(→「読み」・「意味問題」が入試頻出)い知られる。
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(解説・解答)
(1)まず、各選択肢を検討します。
ウの「春陽堂発行の円朝全集のうちに「怪談牡丹燈籠覚書」というものがある。」は、具体例の提示であるから、これが最初になります。
アの「これ」が、ウの「怪談牡丹燈籠覚書」をさすので、「ウ→ア」の接続関係が確定します。
アの「心おぼえの為」と、オの「自分の心覚えである」・「それを見て」に着目すると、「ア→オ」の接続関係が理解できます。
エは、「円朝は塩原多助を作るときにも」に着目すれば、「円朝が相当の文才を所有していたことが窺(うかが)い知られる」と「円朝の表現力」をかなり評価しているオの、付加的内容であることがわかります。
「オ→エ」が確定します。
イの「実に立派な紀行文である」は、「まとめ」の内容になっていますので、「エ→イ」が確定します。
以上より、「ウ→ア→オ→エ→イ」のセットが、一応確定します。
(2)「このセット」と、「空欄の直前・直後の文脈」との接続関係の確認をしてください。
今回は、特に直後の文脈との接続関係が問題になります。
オ 自分の心覚えであるから簡単な筋書に過ぎないが、それを見ても円朝が相当の文才を所有していたことが窺(うかが)い知られる。
↓
エ 円朝は塩原多助を作るときにも、その事蹟を調査するために、上州沼田その他に旅行して、「上野(こうずけ)下野(しもつけ)道の記」と題する紀行文を書いているが、それには狂歌や俳句などをも加えて、なかなか面白く書かれてある。
↓
イ 実に立派な紀行文である。
↓
(空欄の直後)「ともかくも、こうした種々の材料を巧みに組み合わせて、毎晩の聴衆を倦(う)ませないように、一晩ごとに必ず一つの山を作って行くのであるから、一面に於(お)いて彼は立派な創作家であったとも云い得る。」
の文脈の流れは、スムーズです。
従って、このセットが正解になります。
(解答) ウ→ア→オ→エ→イ
(4)2008年度・早稲田大学政経学部・『春の修善寺』岡本綺堂
(問題文本文)(青字は当ブログによる「ふりがな」・「注」です)
「 避寒の客が相当にあるとはいっても、正月ももう末に近いこの頃は修善寺の町も静で、宿の二階に坐っていると、きこえるものは桂川の水の音と修禅寺の鐘の声ばかりである。修禅寺の鐘は一日に四、五回撞(つ)く。時刻をしらせるのではない、寺の勤行(ごんぎょう)の知(しら)せらしい。ほかの時はわたしも一々記憶していないが、夕方の五時だけは確かにおぼえている。それは修禅寺で五時の鐘をつき出すのを合図のように、町の電灯が一度に明るくなるからである。
春の日もこの頃はまだ短い。四時をすこし過ぎると、山につつまれた町の上にはもう夕闇が降りて来て、桂川の水にも鼠色の靄(もや)がながれて薄暗くなる。河原に遊んでいる家鴨(あひる)の群の白い羽もおぼろになる。川沿いの旅館の二階の欄干にほしてある紅あかい夜具がだんだんに取込まれる。この時に、修禅寺の鐘の声が水にひびいて高くきこえると、旅館にも郵便局にも銀行にも商店にも、一度に電灯の花が明るく咲いて、町は俄(にわか)に夜のけしきを作って来る。旅館は一(ひ)としきり忙しくなる。大仁(おおひと)から客を運び込んでくる自働車や馬車や人力車の音がつづいて聞える。それが済むとまたひっそりと鎮(しず)まって、夜の町は水の音に占領されてしまう。二階の障子をあけて見渡すと、近い山々はみな一面の黒いかげになって、町の上には家々の湯の烟(けむり)が白く迷っているばかりである。
[ 7 ]温泉場に来ているからといって、みんなのんきな保養客ばかりではない。この古い火鉢の灰にも色々の苦しい悲しい人間の魂が籠っているのかと思うと、わたしはその灰をじっと見つめているのに堪えられないように思うこともある。
修禅寺の夜の鐘は春の夜の寒さを呼び出すばかりでなく、火鉢の灰の底から何物かを呼び出すかも知れない。宵(よい)っ張(ぱ)りの私もここへ来てからは、九時の鐘を聴かないうちに寝ることにした。」(岡本綺堂『春の修善寺』)
ーーーーーーーー
問 空欄7は、次の5つの文からなっている。その順序を正しく並べ替えよ。
イ しかし湯治客のうちにも、町の人のうちにも、色々の思いをかかえてこの鐘の声を聴いているのもあろう。
ロ わたしが今無心に掻(か)きまわしている古い灰の上にも、遣瀬(やるせ)ない(→「せつない。悲しい」という意味」)女の悲しい涙のあとが残っているかも知れない。
ハ それに注意するのはおそらく一山の僧たちだけで、町の人々の上にはなんの交渉もないらしい。
ニ 修禅寺では夜の九時頃にも鐘を撞く。
ホ 現にわたしが今泊っているこの室だけでも、新築以来、何百人あるいは何千人の客がとまって、わたしが今坐っているこの火鉢のまえで、色々の人が色々の思いでこの鐘を聴いたであろう。
ーーーーーーーー
(解説・解答)
(1)まず、各選択肢を検討します。
各選択肢の指示語や接続語、並列の助詞などに注目してください。
イの「しかし」・「この鐘」・「色々の思い」、ロの「古い灰の上にも」の「も」、ハの「それ」、ホの「現にわたしが」・「色々の思い」・「この鐘」、がポイントになります。
ハの「それ」は、ニの「修禅寺では夜の九時頃にも鐘を撞く」ことを、さしています。 「ニ→ハ」が確定します。
イの「しかし」に着目して、ハの「町の人々の上にはなんの交渉もないらしい」と、イの「町の人のうちにも、色々の思いをかかえてこの鐘の声を聴いているのもあろう」の接続関係に注目します。「ハ→イ」が確定します。
ホの「現にわたしが」・「色々の思い」・「この鐘」に着目して、「イ→ホ」の接続関係を確認します。
ホの「この火鉢のまえで、色々の人が色々の思いでこの鐘を聴いたであろう」、ロの「古い灰の上にも、遣瀬(やるせ)ない女の悲しい涙のあとが残っているかも知れない」に注目して、 「ホ→ロ」を確定させます。
以上より、「ニ→ハ→イ→ホ→ロ」が一応、決まります。
(2)「一応確定したセット」と、「空欄の直前・直後の文脈」との接続関係の確認
「ニ→ハ→イ→ホ→ロ」が一応、決まりますが、「空欄の直前・直後との接続関係」を確認することを忘れないようにしてください。
今回の問題でも、接続関係を確認してみます。
ホ 現にわたしが今泊っているこの室だけでも、新築以来、何百人あるいは何千人の客がとまって、わたしが今坐っているこの火鉢のまえで、色々の人が色々の思いでこの鐘を聴いたであろう。
↓
ロ わたしが今無心に掻(か)きまわしている古い灰の上にも、遣瀬(やるせ)ない女の悲しい涙のあとが残っているかも知れない。
↓
(空欄の直後)「温泉場に来ているからといって、みんなのんきな保養客ばかりではない。この古い火鉢の灰にも色々の苦しい悲しい人間の魂が籠っているのかと思うと、わたしはその灰をじっと見つめているのに堪えられないように思うこともある。」
以上を検討すると、文脈の流れは、スムーズです。
従って、「ニ→ハ→イ→ホ→ロ」が正解になります。
(解答) ニ→ハ→イ→ホ→ロ
ーーーーーーーー
(岡本綺堂の紹介)
岡本綺堂(おかもと きどう・1872年~1939年) は、小説家、劇作家。本名は岡本 敬二(おかもと けいじ)。別号に狂綺堂、鬼菫、甲字楼など。
代表作として、
『半七捕物帳』
『番町皿屋敷』
『修禅寺物語』(→文学史問題として頻出です)
などがある。
ーーーーーーーー
今回の記事は、終わりです。
次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。
ご期待ください。
この私の参考書にも、早稲田大学政経学部等の出題の「並べ替え問題」が入っています。
私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。
https://twitter.com/gensairyu2
2017センター試験国語第1問・的中報告・問題解説・科学論
(1)当ブログの予想論点記事が2017センター試験国語[1]に的中(著者・論点)しました。
2016東大・一橋大・静岡大ズバリ的中(3大学ともに全文一致→下にリンク画像があります)に続く快挙です。うれしいことです。
2016・12・13に発表した当ブログの記事(「国語予想問題『プロの裏切り・プライドと教養の復権を』神里達博」→下にリンク画像を貼っておきます)が、2017センター試験国語(現代文)問題[1](「科学コミュニケーション」・小林傳司)に、的中(著者・論点→科学論→科学コミュニケーション)しましたので、この記事で報告します。
つまり、2017センター試験に、下の記事の中で紹介・解説した小林傳司氏のインタビュー記事(朝日新聞2016年3月10日(東日本大震災5年 問われる科学)「7:教訓を生かす 科学技術、社会と関わってこそ 専門家に任せすぎるな」)に強く関連した、小林氏の論考が出題されたのです。
下の鷲田清一氏の論考は、2016年度・静岡大学国語にズバリ的中しました。
「2017センター試験国語[1]の『要旨』」と「当ブログ記事・的中」の説明
2017センター試験に出題された小林氏の論考の「要旨」は、以下の通りです。
科学社会学者(コリンズ、ピンチ)の見解を引用しつつ、その主張を考察する論考です。
「現在、科学の様々なマイナス面が明らかになるにつれて、「科学が問題ではないか」という問題意識が生まれてきている。しかし、科学者は、このような問題意識を、科学に対する無知・誤解から生まれた反発とみなしがちである。
だが、科学社会学(コリンズ、ピンチ)は、従来の科学者が持つこのような発想を批判する。科学は全面的に善なる存在ではないし、無謬の知識でもない、という。現実の科学は人類に寄与する一方で、制御困難な問題も引き起こす存在である(→科学の「両面価値的性格」)、と主張した。
そして、科学社会学は、一般市民への啓蒙について「科学の内容ではなく、専門家と政治家やメディア、われわれとの関係について伝えるべき」と言う。
科学社会学は、一般市民を科学の「ほんとうの」姿を知らない存在として見なしてしまっている。この「大衆に対する、硬直した態度」は、科学社会学も、従来の科学と同様である。科学社会学は、科学を正当に語る資格があるのは科学社会学としてしまう点に限界がある。」
センター試験の問題文本文(小林氏の論考)は、
①「科学社会学者(コリンズ、ピンチ)が科学の両面価値的性格を認めている点」は賛成していますが、
②「『科学と一般市民の関係』についての科学社会学者の主張」については、厳しく批判しています。そして、その批判で終わっています。
「では、どうしたら良いのか」という筆者の主張・結論が不明確なのです。
この点で、今回のセンター試験の第一問は、一見、読みにくい問題でした。
この②の問題の筆者(小林氏)の主張・結論は、まさに、朝日新聞のインタビュー記事の小林氏の見解だと思います。(以下で紹介します)
この記事の、『(東日本大震災5年 問われる科学)「7:教訓を生かす 科学技術、社会と関わってこそ 専門家に任せすぎるな」』という見出しだけでも、ある程度のヒントになります。
以下は 2016・12・13に発表した当ブログの記事(「国語予想問題『プロの裏切り・プライドと教養の復権を』神里達博」)からの引用、つまり、朝日新聞のインタビュー記事の小林氏の見解です。
ーーーーーーーー
(以下は、当ブログの前掲の記事からの引用)
専門家に望まれる態度・心掛け
「専門家主義」からの脱却
①専門家たちは、「総合的教養」・「生きた教養」を身に付ける→「専門家の相互チェック」のために
②さらに、専門家も、国民も、「民主的コントロール」を意識する→(まさに、今回のセンター試験に出題された「科学コミュニケーション」です!)
ここで参考になるのは、科学哲学者である小林傳司氏の意見です。以下に、概要を引用します。
(小林傳司氏の意見)(概要です)
(赤字は当ブログによる「強調」です。青字は当ブログによる「注」です)
「震災(→「東日本大震災」)により科学者への信頼は大きく失墜した。学界などから様々な反省が言われたが、今では以前に戻ったかのように見える。
一つは、日本社会が「専門家主義」から脱却できないことだ。「科学と社会の対話が大切」と言いながら、原発再稼働などの政策決定過程をみると「大事なことは専門家が決めるから、市民は余計な心配をしなくてよい」という姿勢が今も色濃い。震災で専門家があれほど視野が狭いことが露見したにもかかわらずだ。
これらの課題にどう対応すればよいか。まずは、市民が意思決定を専門家に任せすぎず、自分たちの問題ととらえることだ。科学技術は、それがなければ私たちは生活ができないほど重要で強力になっている。原子力のような巨大技術ほど「科学技術のシビリアンコントロール(→民主的コントロール)」が必要だ。
専門家は、市民が基礎知識に欠ける発言をしてもさげすんではならない。専門家は明確に言える部分と不確実な部分を分けて説明する責務があり、最終的には「社会が決める」という原則を受け入れなければいけない。
日本社会は「この道一筋何十年」という深掘り型は高く評価してきたが、自分の専門を超えて物事を俯瞰(ふかん)的に見られる科学者を育ててこなかった。広い意味での「教養」が重要だと思う。」
(朝日新聞 2016年3月10日 (東日本大震災5年 問われる科学)「7:教訓を生かす 科学技術、社会と関わってこそ 専門家に任せすぎるな」)
ーーーーーーーー
(ここも当ブログの前掲の記事からの引用です)
(当ブログによる解説)
ここで、小林傳司氏は、まず、「震災(→「東日本大震災」)で専門家の視野の狭さが露見したこと」を指摘しています。
そして、専門家も、市民も、「専門家主義」から脱却し、「科学技術のシビリアンコントロール」を実現することの必要性を強調しています。
小林氏の言うように、「この道一筋何十年」という深掘り型の専門家の意見のみを重視する「日本型の専門家主義」では、「視野の狭さ」という欠陥をカバーすることは、不可能でしょう。
対策としては、小林氏の言う「自分の専門を超えて物事を俯瞰(ふかん)的に見られる科学者」、つまり、「総合的教養」・「生きた教養」を持つ科学者の養成・育成が必要です。
それとともに、「科学技術のシビリアンコントロール」が必要なことは、言うまでもありません。
(「2016・12・13に発表した当ブログの記事(「国語予想問題『プロの裏切り・プライドと教養の復権を』神里達博」)からの引用」終わり)
ーーーーーーーー
(今回の記事の、本来の記述に戻ります)
言ってみれば、要するに、このインタビュー記事、つまり、「小林氏の問題意識」・「現在の科学哲学の問題意識」を前もって知っていれば、このセンター試験の問題は、かなり楽に読めたのでした。
最新の教養・予備知識がいかに入試に役立つか、よく分かる適例です。
なお、「科学コミュニケーション(サイエンス・コミュニケーション)」とは、「科学について、科学者が科学者ではない一般市民と対話すること」を言います。「科学コミュニケーション」自体がひとつの研究分野にもなっています。「科学社会学」・「科学哲学」・「科学技術社会論」・「社会学」の研究者などがこの分野の研究を行っています。
今日では、「科学コミュニケーション」に関連する様々な用語が発生しています。「大衆の科学理解 」・「科学技術への公衆関与 」・「科学に対する公衆の意識」・「科学リテラシー」などです。
神里氏に関する前掲の記事(「国語予想問題『プロの裏切り・プライドと教養の復権を』神里達博」)は、現在の「科学社会学・科学哲学・科学技術社会論などの問題意識」を知るのに役立ちます。
(2)2017センター試験国語[1](小林傳司(こばやし ただし)・「科学コミュニケーション」)の解説
2017センター試験国語(現代文・評論)についてさらに、詳しく説明します。
ただし、今回の論点は、「東日本大震災」・「人工知能」等に関連しているので、これからも、現代文(国語・評論)・小論文に出題される可能性が高いと言えます。従って、これからのセンター試験・国公立大学二次試験・難関私立大学入試の、現代文(国語・評論)・小論文対策に役立つように説明したいので、「ハイレベルな内容面」を中心に解説していきます。
従って、基礎的な設問(問1・2)の解説、各設問の選択肢の絞り方などについては、省略します。これらについては、各種解説書などを、参照してください。
ーーーーーーーー
(問題文本文)(概要です)(【1】【2】【3】・・・・は段落番号です。センター試験の問題でも段落番号は付加されていました)
(赤字は当ブログによる「強調」です。青字は当ブログによる「注」です)
【1】現代社会は科学技術に依存した社会である。19世紀以降に科学が社会の中に組み込まれていき、戦争により、重要性を増した。
【2】第二次世界大戦以後、科学技術は膨張を続ける。現代の科学技術は、かつてのような思弁的、宇宙論的伝統に基づく自然哲学的性格を失い、先進国の社会体制を維持する重要な装置となってきている。
【3】十九世から二十世紀前半にかけて、既に「科学」は社会の諸問題を解決する能力を持っていた。「もっと科学を」というスローガンが説得力を持ち得た所以(ゆえん)である。しかし、二十世紀後半の科学ー技術は両面価値的存在になり始める。現代の科学ー技術は、自然に介入し、操作する能力を入手開発するようになっており、その結果、自然の脅威を制御できるようになってきた。同時にその科学ー技術の作り出した人工物が人類にさまざまな災いをもたらし始めてもいる。B こうして「もっと科学を」というスローガンの説得力は低下し始め、「科学が問題ではないか」という新たな意識が社会に生まれ始めているのである。
ーーーーーーーー
(設問)(解説・解答)
問3 傍線部B「こうして『もっと科学を』というスローガンの説得力は低下し始め、『科学が問題ではないか』という新たな意識が社会に生まれ始めているのである。」とあるが、それはどういうことか。その説明として最も適当なものを、次の①~⑤のうちから一つ選べ。
正解は④です。④は、以下のような記述です。
④ 20世紀前半までの科学は、その理論を応用する技術と強く結びついて日常生活に役立つものを数多く作り出したが、現代における技術と結びついた科学は、その作り出した人工物が各種の予想外の災いをもたらすこともあり、その成果に対する全的な信頼感が揺らぎつつあるということ。
【3】段落の、「科学ー技術」の「両面価値的存在」(→プラス面とマイナス面を同時に持つということ)(→入試における頻出キーワードです)の内容を把握すれば、よいでしょう。
④以外の選択肢は、「科学ー技術」の「両面価値的価値」の内容の説明が出来ていません。
ーーーーーーーー
(問題文本文)(概要です)
【4】しかし、科学者は依然として「もっと科学を」という発想になじんでおり、このような「科学が問題ではないか」という問いかけを、科学に対する無知・誤解からの反発とみなしがちである。
【5】 このような状況に一石を投じたのが科学社会学者のコリンズとピンチの『ゴレム』である。ゴレムは魔術的力を備え、日々その力を増加させつつ成長する。人間の命令に従い、人間の代わりに仕事をし、外的から守ってくれる。しかし、この怪物は不器用で危険な存在でもあり、適切に制御しなければ主人を破壊する威力を持っている。つまり、科学は全面的に善なる存在ではないし、無謬の知識でもないという。現実の科学は新知識の探求を通じて人類に寄与する一方で、社会制御困難な問題も引き起こす存在であると主張した。
【6】コリンズとピンチは『ゴレム』の中で、科学者が振りまいた「科学の神のイメージ」を、「不確実で失敗しがちな向こう見ずでへまをする巨人」のイメージ、つまり C ゴレムのイメージに取りかえることを主張したのである。 そして、科学上の論争の終結が論理的な決着にならないことを具体例で説明した。」
ーーーーーーーー
(設問)(解説・解答)
問4 傍線部C「ゴレムのイメージに取りかえることを主張したのである」とあるが、それはどういうことか。その説明として最も適当なものを、次の①~⑤のうちから一つ選べ。
正解は③です。③は、以下のような記述です。
③ 全面的に善なる存在という科学に対する認識を、魔術的力とともに日々成長して人間の役に立つが欠陥が多く危険な面も備える怪物ゴレムのイメージで捉えなおすことで、現実の科学は新知識の探求を通じて人類に寄与する一方で制御困難な問題も引き起こす存在であると主張したということ。
【5】段落の内容を把握することが必要です。つまり、「ゴレム」が「善悪両面を持っていること」を読み取る必要があります。この点は、問3と同じです。「ゴレム」は「科学ー技術」の喩え(たとえ)だからです。
ーーーーーーーー
(問題文本文)(概要です)
「【7】~【9】の「重力波の論争」は具体例。→設問を本文より先に見ておけば、この部分は、スルーするべきだと分かります。「設問を本文より先に見ると、設問に引きずられるから、見ない方がよい。本文の要約を終わらせてから設問を見てください」という、時間制限を考慮しない不思議な指導法があるようです。しかし、それはそれとして、つまり、指導法に関する当否は別として、時間制限のある受験生としては、効率的に、賢明に、やるようにしてください。【10 】で本質論に戻っていることに、注意してください。
【10 】コリンズとピンチは、このようなケーススタディーをもとに、「もっと科学を」路線を批判するのである。民主主義国家の一般市民は確かに、「科学ー技術」の様々な問題に対して意思表明をし、決定を下さねばならない。ただ、科学社会学は、一般市民に伝えるべきことは、科学の内容ではなく、専門家と政治家やメディア、そしてわれわれとの関係についてなのだ、と言う。
【11】科学を「実在と直結した無謬の知識という神のイメージ」から「ゴレムのイメージ」(=「ほんとうの」姿)に変えようという主張は、「科学を一枚岩とみなす発想」を切り崩す効果を持っている。(→筆者は、この点について、二人の主張に賛成しています。)
【12】 D にもかかわらず、この議論の仕方には問題がある。コリンズとピンチは、一般市民の科学観が「実在と直結した無謬の知識という神のイメージ」であり、それを「ゴレム」に取り替えよ、それが科学の「ほんとうの」姿であり、これを認識すれば、科学至上主義の裏返しの反科学主義という病理は癒やされるという。しかし、「ゴレム」という科学イメージは、なにも科学社会学者が初めて発見したものではない。
【13】結局のところ、コリンズとピンチはは科学者の一枚岩という「神話」を堀り崩すのに成功したが、その作業のために、「一枚岩の」一般市民という描像を前提にしてしまっている。言いかえれば、科学者も一般市民も科学の「ほんとうの」科学を知らないという前提である。その「ほんとうの」姿を知っているのは(コリンズとピンチのような)科学社会学者であると答える構造の議論をしてしまっているのである。(→科学社会学は、科学を正当に語る資格があるのは自分たちだけとしている、傲慢な点に限界があるのです→この点が問5の正解が④である根拠です)」 (小林傳司「科学コミュニケーション」)
ーーーーーーーー
(設問)(解説・解答)
問5 傍線部D「にもかかわらず、この議論の仕方には問題がある。」とあるが、それはなぜか。その理由として最も適当なものを、次の①~⑤のうちから一つ選べ。
正解は④です。④は、以下のような記述です。
④ コリンズとピンチは、歴史的にポピュラーな「ゴレム」という科学イメージを使って科学は無謬の知識だという発想を批判したが、専門家科学者と政治家やメディア、そして一般市民との関係について人々に伝えるべきだという二人の主張も、一般市民は科学の「ほんとうの」姿を知らない存在だと決めつける点において、科学者と似た見方であるから。
「理由」は、文脈的に傍線部の後ろにあることを読み取るべきです。【13】段落の「結局のところ」、「言いかえれば」以下を熟読すればよいでしょう。
ーーーーーーーー
(設問)(解説・解答)
問6 この文章の表現と構成・展開について、次の(1)・(2)の問いに答えよ。→他の設問もそうですが、この設問こそ、本文より先に設問を見ておけば、ラクな問題です。本文を読みながら、一つ一つの選択肢をチェックしていくようにしてください。
(1)この文章の第1~8段落の表現に関する説明として適当でないものを、次の①~④のうちから一つ選べ。
正解は③です。③は、以下のような記述です。
③ 第6段落の「コリンズとピンチの処方箋」という表現は、筆者が当時の状況を病理と捉えたうえで、二人の主張が極端な対症療法であるとみなされていたということを、医療に関わる用語を用いたたとえによって示している。
③は、「極端な対症療法(→患者の症状に対応して行う療法)であると見なされた」という部分が不適当です。本文に、このような記述はありません。
……………………………
(設問)(解説・解答)
問6 この文章の表現と構成・展開について、次の(2)の問いに答えよ。
(2)この文章の構成・展開に関する説明として適当でないものを、次の①~④のうちから一つ選べ。
正解は①です。①は、以下のような記述です。
① 第1~第3段落では十六世紀から二十世紀にかけての科学に関する諸状況を時系列的に述べ、第4段落ではその諸状況が科学者の高慢な認識を招いたと結論づけてここまでを総括している。
①の「第1~第3段落では十六世紀から二十世紀にかけての科学に関する諸状況を時系列的に述べ」の部分は【3】段落冒頭文より、誤りです。
また、「第4段落ではその諸状況が科学者の高慢な認識を招いたと結論づけて」の部分は、【4】段落にこのような記述は、ありません。
ーーーーーーー
(解説→当ブログによる総まとめ)
(1)本文の内容説明
前述しましたが、小林氏の本文における主張は以下の2点でした。
①「科学社会学者(コリンズ、ピンチ)が科学の両面価値的性格を認めている点」は賛成していますが、
②「『科学と一般市民の関係』についての科学社会学者の主張」については、厳しく批判しています。そして、その批判で終わっています。
この点について、「では、どうしたら良いのか」という小林氏の筆者の主張・結論は、まさに、朝日新聞のインタビュー記事の小林氏の見解でしょう。
(2)設問を、本文よりも先に見ることの重要牲
今回のセンター試験の問題は、設問を本文より先に見て解いていけば、20分程度で完了する問題でした。上記の説明で、「【7】~【9】の「重力波の論争」は具体例」と説明しましたが、「重力波の論争」の部分の内容面については、特に問われることなく、設問は終わっています。以下のように、問題6(1)④・(2)②で、「形式的な論理構造」を聞いてきただけです!
問6(1)この文章の第1~8段落の表現に関する説明として適当でないものを、次の1~4のうちから一つ選べ。
④ 第8段落の「優れた検出装置を~。しかし~わからない。しかし~わからない……」という表現は、思考が循環してしまっているということを、逆接の言葉の繰り返しと末尾の記号によって示している。
(2)この文章の構成・展開に関する説明として適当でないものを、次の1~4のうちから一つ選べ。
② 第5~第6段落ではコリンズとピンチの共著『ゴレム』の趣旨と主張をこの文章の論点として提示し、第7~9段落で彼らの取り上げたケーススタディーの一例を紹介している。
つまり、設問を先に見ていないと、難解な「重力波の論争」の内容面まで理解しようとする無駄な労力・時間を使ってしまうのです。ぜひとも、本文より先に、設問を見るようにしてください。
(3)科学社会学・科学哲学・科学技術社会論、小林傳司氏の、最近の問題意識
以下は、「公共圏における科学技術・教育研究拠点(STiPS)代表 小林傳司氏(大阪大学)」のWeb 上の発言です。概要を引用します。
(赤字は当ブログによる「強調」です)
「われわれが提案したのは、ELSIというものを中心としたプログラムです。ELSIとは、 “Ethical、Legal、Social Issues”のことで、倫理的、法的、そして社会的な論点ということです。科学技術がこれだけ発展してきますと、社会のいたるところに浸透していますので、自動的に科学技術の成果が社会に対して利益とか善なる効果、プラスの効果を生むというふうにはならなくなってきていて、予想しがたいようなマイナスの効果も出てきていますし、さまざまな問題も出てくる。だからそういうことをきちっと考えないと、科学技術をわれわれの社会はうまく使えないだろうと。これは最近だとライフサイエンスなどで非常に話題になっている問題群で、人間の遺伝情報を扱う、あるいは人間の身体そのものを実験的な研究によって改変する、そういうことが技術的にも理論的にも可能になってきているわけですが、やはり対象は人間ですので、その人間をいじるときにはさまざまな倫理的な配慮というものが要ります。」
「考えてみれば、科学技術のための予算というのは税金をどんどん投入しているわけですから、その税金を使った研究というのがどのぐらい社会にとって価値を生んでいるのかという観点から、説明を求められる時代というのが来ているわけですね。国家財政がこれほど厳しくても、日本はずっと科学技術予算というのは頑張ってきたわけです。あまり減らさずに、逆に少しずつ増やすということを行ってきたわけですから、それが何のためかということが問われるという、そういう時代になっています。
今までは、科学技術政策というと、重点的にこの分野の振興をしましょうとか、この分野を発展させましょうという形で分野を決めていた。その分野は科学技術の専門分野という形で決めてきたわけですが、この第四期の計画ではそうではなくて、今われわれの社会が抱えている課題というものがあって、その課題を解決するにはどういうような分野の科学技術が動員されるべきか、そういう問題の立て方に切り替えたわけですね。
その中で、では科学技術政策をどうやって人々が納得する形で、理論的に整合的な政策が組めるのかということから、「科学技術イノベーション政策における『政策のための科学』」というプログラムが考えられてきたという背景があります。」(公共圏における科学技術・教育研究拠点(STiPS)代表として 小林傳司・大阪大学)
ーーーーーーーー
(当ブログによる解説)
上記の発言を読むと、小林氏は、目指すべき「科学コミュニケーション」のあり方を真摯に考えていることが分かります。
今年のセンター試験国語(現代文)で重要なポイントになっている科学技術の両面価値的な側面を強く意識して、望ましい「科学と人類の望ましい関係」を模索しているのです。
今年のセンター試験に出題された小林氏の論考の先に、この小林氏の発言があるのです。
逆に言えば、センター試験の前に、この小林氏の問題意識を知っておけば、センター試験の問題をラクに解けたでしょう。
「科学への市民の積極的関与」「民主的コントロール」、そこには様々な可能性と困難があるようです。
科学社会学、科学哲学は、新しい学問分野ですが、「人類・現代文明の発展と存続」のために、重要な学問分野として、これからも、注目していくべきでしょう。
「科学と人類の望ましい関係」をいかに構築していくか。
この問題は、まさに、科学社会学、科学哲学の学者だけではなく、人類の知恵の働かせ所なのです。
その際には、前述した、「『専門家主義』からの脱却」が強く求められることは、言うまでもありません。
(4)小林傳司氏の紹介
なお、ここで小林傳司氏の紹介をします。
小林傳司(こばやし ただし)
1954年生まれ。科学哲学者、大阪大学教授。1978年京都大学理学部生物学科卒、1983年東京大学大学院理学系研究科博士課程単位取得退学。1987年福岡教育大学講師、助教授、1990年南山大学人文学部助教授、教授、2005年大阪大学コミュニケーションデザインセンター教授、副センター長を歴任。現在は、大阪大学理事(教育担当)、副学長。専門は、科学哲学・科学技術社会論。
主な著書・共編著として、
『誰が科学技術について考えるのか コンセンサス会議という実験』(名古屋大学出版会・2004)
『トランス・サイエンスの時代 科学技術と社会をつなぐ』(NTT出版ライブラリーレゾナント・2007)
『科学とは何だろうか 科学観の転換』(中島秀人、中山伸樹共編著・木鐸社・科学見直し叢書・1991)
『公共のための科学技術』(編 玉川大学出版部・2002)
『社会技術概論』(小林信一,藤垣裕子共編著・放送大学教育振興会・2007)
『シリーズ大学』(7巻 ・広田照幸,吉田文,上山隆大,濱中淳子と編集委員 ・岩波書店 ・2013~14)、
等があります。
(5)なぜ、2017年度センター試験で「科学論・科学批判」が出題されたのかー「科学論・科学批判」が最近の流行論点である理由
「科学論・科学批判」は、東日本大震災以後、激増し、現在に続いています。その背景は、以下の通りです。
以下は、2016・6・10に発表した「東大現代文対策ー3・11後の最新傾向分析①ー2012河野哲也」の記事の一部引用です。重要なポイントなので、再掲します。
「難関大学・センター試験の入試現代文(国語)・小論文に出題される「科学批判」(科学論)の論点・テーマは、3・11東日本大震災・福島原発事故以降、より先鋭化し、明らかに出題率も増加しています。
3・11以前も、環境汚染・地球温暖化・チェルノブイリ原発事故等により、「科学批判」の論点・テーマは、一定の多くの出題がみられました。
しかし、3・11以降は、「科学」に対する批判は明白に先鋭化し、「科学批判」の論点・テーマは出題率が増加しています。
これは、考えてみれば、当然のことです。
福島原発事故の際の、原子力村の学者達、地震学者達の無責任な「想定外」の連呼。
崩壊した「安全神話」。
今だに完全には収束していない福島原発の処理。
これらをみれば、「科学」に対する厳しい批判的論考は、増えこそすれ、減ることはないでしょう。
大学における現代文(国語)・国語入試問題作成者の「問題意識」も同じでしょう。
たとえ、問題作成者の「問題意識」がそうでないとしても、入試現代文(国語)・小論文の世界は、「出典」の関係で論壇・言論界・出版界の影響を受けるのです」
(再掲終わりです)
ーーーーーーーー
(今回の記事の、本来の記述に戻ります)
以上の理由に加えて、最近では、人工知能・ドローン・最先端医療等により、科学技術のマイナス面への社会的関心がますます高まっています。従って、2017年度の入試現代文(国語)・小論文においても、「科学論・科学批判」は、最も注目するべき論点・テーマです。
以下の記事に、最近、当ブログに発表した「科学論・科学批判」記事(4記事)の一覧があります。興味のある方は、参照してください。
ーーーーーーーー
今回の記事は、これで終わりです。
次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。
小林傳司氏の最近の著書です。
トランス・サイエンスの時代―科学技術と社会をつなぐ (NTT出版ライブラリーレゾナント)
- 作者: 小林傳司
- 出版社/メーカー: NTT出版
- 発売日: 2007/06
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↓本書は私の最新の参考書です。「科学批判・科学論」を重視しています。
私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。
https://twitter.com/gensairyu2
直前特集・小論文・総整理ー慶大・難関大ー頻出論点・重要ポイント
(1)入試直前特集・小論文・総整理ー慶大・難関大ー頻出論点・重要ポイント
小論文対策・入試直前特集として、小論文の重要ポイント・頻出論点を、慶応大の過去問などを通して、提示していきます。
最近の記事の重要部分を一部抜粋を列挙していきますが、一部抜粋の部分にも省略があります。全文を読みたい方は、リンク画像から、当該記事を、お読みください。
なお、前回の記事も、合わせて、お読みください。
(2)小論文答案における「要約・記述」の重要性
上記の記事の中で、「小論文答案における『要約』記述の重要性」について記述しました。
合格答案を書く上で、必要不可欠なポイントなので、ここに再掲します。
……………………………
〈小論文問題の「要約」について〉
本番の小論文問題で、課題文が出題された時には、必ず、「課題文の要約」を書くようにしてください。
この「要約」に、課題文のポイントを書くことによって、「受験生の理解度」を示すことが出来ると共に、「答案の方向性」を予告することが出来ます。
答案のレベル(受験生の理解度)、方向性が、採点者にわかりやすくなるのです。
「小論文の採点基準」の一つに、「理解度の項目」があります。
この「理解度の項目」のポイントを、確実に獲得することが可能になるのです。
このことは、あまり知られていないようです。
が、過去に、難関大の講師として入試小論文の採点経験のある予備校講師は、例外なく、このことを教えているようです。
「要約提示による理解度のアピールが、いかに重要か」を示す参考資料を、以下に引用します。
慶應大法学部・小論文の問題文の前に、毎年度、付加されている注意事項です。
「この試験では、広い意味での社会科学・人文科学の領域から読解資料が与えられ、問いに対して論述形式の解答が求められる。(中略)その目的は受験生の理解、構成、発想、表現などの能力を評価することにある。そこでは、読解資料をどの程度理解しているか(理解力)(←太字は、当ブログによる強調)、理解に基づく自己の所見をどのように論理的に構成するか(構成力)、論述の中にどのように個性的・独創的発想が盛り込まれているか(発想力)、表現がどの程度正解かつ豊かであるか(表現力)が評価の対象となる。」
難関国公立大の小論文試験も、同様の採点基準のはずです。
ーーーーーーーーーーー
(3)異文化理解(国際化・グローバル化)ー1999慶応大・文学部の問題を通して解説
上の記事(一部抜粋。しかも、省略あり)を通して、「異文化理解」(「国際化」・「グローバル化」)のポイントを解説をします。
……………………………
「異文化理解の困難性あるいは不可能性」について説明します。
1999年度の慶応大(文学部)小論文に出題された、川田順造氏の『サバンナの博物史』を紹介します。
川田氏は、最近でも、大阪大、早稲田大、上智大の現代文(国語)に出題されている入試頻出著者(→トップレベルの文化人類学者)です。
以下に、問題文本文の、キーセンテンス部分の概要を記述します。
(なお、赤字、緑字は、当ブログによる強調です)
(問題文本文の冒頭部分)
「近年になって私は、サバンナに生きるモシ族の人たちの、自然に対するあの強靭さ、一切の感傷を払拭した即物性とでもいうべきものを、幾分かは理解できると思うようになった。かつては私はそれを単に、自然に対するこの人たちの感動の欠如というふうにとっていたのだったが。」
(問題文本文の最終部分)
「『自然』という、モシ語にもない概念によって、たとえば『モシ族における自然の利用』といった形でこのサバンナの文化を論んじることが、一方的な枠組みによる対象の切りとりになりやすいことはあきらかだ。
私自身しばしば行ってきたこのような切りとりは、彼らの思考の枠組みだけをとりいれることによって、『正しい』ものとなるわけでは勿論ない。彼らの枠組みと私の枠組みとの、葛藤ないし相互作用のうちに、世界像ないしイデオロギーと、技術・物質文化とが、相互にもっているはずのかかわりを、具体的にあきらかにしてゆくこと。私が将来に向かって、未解決のままにかかえている課題の一つだ。」
ーーーーーー
(当ブログによる解説)
設問は、以下のようになっています。
「問1 モシ族における「もの」と「ひと」の関係を要約して述べなさい。(300字以内)
問2 自分たちと異なる文化を理解するための心構えを、筆者の見方をとり入れながら、具体的な事例をまじえて述べなさい。(400字以内)」
問2は、まさに、「異文化理解のための心構え」を聞いてきています。
この問題については、「異文化理解の困難性ないし不可能性」(赤字部分)を前提に、それでも、真の異文化理解を目指すべきである(緑色部分)、という方向で論じて下さい。
なお、「世界像ないしイデオロギー」とは「モシ族の文化の価値観」を、「技術・物質文化」とは「現代文明」を、意味しています。
また、「相互にもっているはずのかかわり」とは、「モシ族の文化の価値観」と「現代文明の価値観」の「重なり合う部分」・「共通点」を意味しています。
僅かな「共通点」を手掛かりに、 真に異文化を理解していこうとする、慎重で客観的な態度を表明しているのです。
ところで、問2の「具体的な事例」については、「日本と韓国」、または、「日本と西欧」の「食文化の違い」に言及するとよいと思います。
ーーーーーーーーーーー
(4)「国家の自律性・アイデンティティ」ーグローバル化・国際化ー福沢諭吉『文明論之概略』(頻出出典)
以下は、上記の記事の一部抜粋です。省略も、かなりあります。全文を読みたい方は、上のリンク画像をクリックしてください。
……………………………
(1)現代文・小論文・オリジナル予想論点解説ー「福沢諭吉から考える『独立と文明』の思想」(『さらば、資本主義』第6章・佐伯啓思・新潮新書)を題材として作成
【なぜ、この論考に注目したのか?】
① 第一の理由は、福沢諭吉の論考、特に、『文明論之概略』は、最近では、慶応大・小論文(総合政策)(商学部)、早稲田大・現代文(文化構想)などで出題されている頻出出典だからです。
② 第二の理由は、日本社会で論点化している「集団的自衛権」・「憲法改正問題」などを契機として、最近では、難関大の入試現代文(国語)・小論文でも、「国家論」・「国家と国民の関係論」・「民主主義論」・「愛国心」が、流行になりつつあるからです。
(2)「福沢諭吉から考える『独立と文明』の思想」の解説(概要の解説)
以下に、第6章の「見出し」(→【】で表示)毎に、「佐伯氏の論考の概要」を示しつつ、「当ブログの解説」を記述していきます。
(なお、①・②・③・・・・は、「当ブログで付記した段落番号」です)
(また、青字は「当ブログによるフリガナ・注」です)
(赤字は「当ブログによる強調」です)
【1】「明治日本で最高の書物」
(佐伯氏の論考の概要)
「『文明論之概略』は、明治日本が生み出した最高の書物の一つでしょう。今日読んでも実に教えられることが多いからです。」
【2】「目的は独立維持」
(佐伯氏の論考の概要)
「① 近代の入り口にあって、福沢が、西洋をモデルとして日本を文明化すべしと説いたことは誰もが知っている。
② しかし、福沢は、決して単純な文明主義者でも、西洋主義者でも、進歩主義者でもありません。
③ 『文明論之概略』を材料にして、今日われわれが直面している問題の所在を論じてみたいのです。
④ そのために、この書物の結論であり、その主張のエッセンスがつまっている最終章(第10章)「自国の独立を論ず」をざっとみてみましょう。
⑤ この章の結論は、日本にとって緊急かつ枢要なことは「国の独立」の一点にある、ということです。福沢は、この書物で「文明とは何か」を論じた後に、最後に、文明化とは、端的にいえば独立を確保するための手段だという。
⑥ ここには、かなり大事な問題があるのです。」
ーーーーーー
(当ブログの解説)
⑤段落は、明治維新期の世界情勢、つまり、「帝国主義」、「植民地主義」の説明です。
しかし、この説明部分は、「単なる過去」の解説ではありません。
「現在」にも通ずる問題なのです。
それが、佐伯氏の問題意識です。
ーーーーーー
(佐伯氏の論考の概要)
「⑦ 明治時代の日本に対して、福沢は実は、大変な危機感を持っていたのです。それを概略、次のように述べています。
⑧ 世の識者は、維新という大改革によって古習を一掃しようとした。
⑨ 確かに、改革は進んだ。そこで、どうなったか。人々はいう。学問も仕官もただただカネのため。
⑩ 確かに、これは人々にとって実に気楽な時代である。しかし、ここにこそ、この時代の危機がある、と福沢はいうのです。
⑪ 確かに文明は広まっているが、人々の品行は一向に向上せず、また、そもそも学芸に身を委ねるものも、その学芸に本心から命も抛(なげう)つような覚悟など持ってはいない。これでは、ただの安楽世界で楽に生きようとしているだけだ。
⑫ これが福沢の時代認識だったのです。」
ーーーーーー
(当ブログによる解説)
(1)福沢諭吉の時代認識・危機感は、「安楽世界」という表現に集約されています。
まさに、「反知性主義」の蔓延です。
(2)問題は、「学芸に身を委ねるもの」の怠慢です(⑪段落)。
【3】「ナショナリティの正体」
(佐伯氏の論考の概要)
「① どこに問題があったのでしょうか。そもそも、どうして文明化が重要かというと、それは国の独立を保つためではなかったのか。西洋文明を取り入れること自体が目的ではない。福沢は、こう言うのです。
② 考えてみれば、国の独立が課題となるのは、まさにグローバリズムの時代になったからではないのでしょうか。鎖国政策のままでは、西洋列強に侵略されることは時間の問題だったのです。
③ では、このグローバルな世界の中で独立を保つとは、どういうことなのか。
④ そこで、福沢は次のようなことを述べる。
⑤ 独立を保つということは、このグローバル世界において「力」をもつ、ということである。「力」とは、軍事力や経済力もありますが、何より「国体(→当ブログによる注→①国家の状態。国柄。②国のあり方。国家の根本体制)」、つまり「ナショナリティ(→①国民性。民族性。②国情。国風。)」の堅固さのことなのです。ここで「国体」あるいは「ナショナリティ」とは、禍福をともにして寄り集まった人々であり、他国のことより自国のことにいっそう関心を注ぎ、自国民のために力を尽くす独立した人たちだ、というのです(第2章)。必要なのは「報国心(→「愛国心」という意味)」です。「報国心」は国に対する公の意識ですが、それはまた、自国中心主義で、「偏頗心(へんぱしん)(→一方に偏った不公平な心)」です。「立国」とは確かにある意味では国家的エゴイズムなのです。しかし、それでよい。」
ーーーーーーー
(当ブログによる解説)
(1)開明的な民主主義者として著名な福沢諭吉が、「力」・「国体」・「ナショナリティ」・「偏頗心」を強調していることに、違和感を感じる人もいるかもしれません。
しかし、この時代の世界情勢を意識してください。
当時、東南アジアの国々は欧米諸国に植民地化されていました。
(2)⑤段落における、「『報国心(愛国心)』は自国中心主義で『偏頗心』です。『立国』とは確かにある意味で国家的エゴイズムなのです。「しかし、それでよい」の部分は、現在の日本人には、理解しにくいかもしれませんが、世界的常識です。
ーーーーーーー
(佐伯氏の論考の概要)
「⑥ では、どうして西洋諸国は強固な国を作ったのか。それは、西洋では「人間交際」がきわめて活発に行われ、「人民は智力活発」であるがゆえに、科学が発達し、産業を進展させ、強力な軍事力をもつにいたったからだ。この場合、もっとも根底にあるものは、精神の活発な働きなのです。そして、この精神を活発に働かせるような「人民の気風」こそが福沢のいう「文明」にほかならないのです。
⑦ それゆえ、文明とは、外的なものではなく、何よりも精神の働きだった。そして、この精神の働きを活性化させるものは、その国の民衆がもっている「智恵」と「徳義」なのです。「智徳」を向上させることこそが文明の基礎になるわけで、いってみれば、「民度(→市民の政治的・社会的・文化的意識のレベル。市民社会としての成熟度のこと)」あるいは「国民のレベル」を高める以外にない、ということなのです。
⑧ 西洋には、精神の働きを活発にするような「人民の気風」がありました。それがゆえに西洋は文明国になった。
⑨ かくて、西洋の侵攻から国を守り、独立を保つには、西洋並みの「文明化」を図るほかないのです。人民の気風を高め、智徳を向上させるほかないのです。
⑩ しかし、西洋的な学術や技術を学べば、自動的に人民の気風が高まり、智徳が向上するのでしょうか。
⑪「報国心」などといっても容易ではありません。」
ーーーーーー
(当方ブログの解説)
(1)この部分では、⑥段落の、「人間交際」→「人民は智力活発」→「精神の活発な働き」→「人民の気風」→「文明」という、キーワードの流れを把握してください。
(2)⑦段落における「智徳」は、福沢諭吉のキーワードです。
(3)⑦段落の「民度」は、難関大学の入試現代文(国語)・小論文のキーワードです。
ーーーーーー
(佐伯氏の論考の概要)
「⑫ 問題は、識者、つまり、知識人なのです。しかし、大半の知識人は、ヨーロッパ模倣の欧化主義者か、平等にして皆兄弟だ、などと理想を唱える。
⑬ それらは、すべて間違っています。いかなる国も富と力を蓄えようとしている。「戦争」と「貿易」こそが今日の世界の現実だ、というのです。」
ーーーーーー
(当ブログによる解説)
福沢諭吉は、「『戦争』と『貿易』こそが今日の世界の現実だ」』と断言しています。
いつの時代の世界にも、確かに、このような冷徹な一面があるのです。
【4】「貿易も戦争も国力の発動である」
(佐伯氏の論考の概要)
「① こうなると、福沢の論は、この21世紀のグローバリズムの時代とそれほど変わらないのではないでしょうか。グローバリズムとは、世界的規模での競争や戦争の時代を生み出してしまうのです。
③④→今回の「直前特集」では省略します。
⑤ 国とは、あくまで偏頗心、つまり、「私情」によって支えられており、「市場」ができれば偏頗心も報国心もなくなるというものではない。「貿易」も国力の発動であり、また、国力の原因だというのです。
⑥ 自由貿易や自由競争が「天下の公道(→「公道」は「正しい道理」という意味)」である、などという「結構人(けっこうじん)(→①好人物。お人よし。②馬鹿正直な人物)の議論」を鵜呑みにしてはならない、と戒めているのです。
⑦ 西洋諸国は、いかにも「天下の公道」に則ったかのようなことをいっているが、実際には自らの利を求めているだけだ。偏頗心、つまり「私情」によって動いている、という。 」
ーーーーーー
(当ブログの解説)
ここでは、福沢諭吉の「自由貿易」・「自由競争」批判を取り上げています。
「自由競争」・「自由貿易」とは、大国が「私情」、つまり、「自国の利益」のために推進する政策だ、と主張しているのです。
ーーーーーー
(佐伯氏の論考の概要)
「⑧ もしも、独立を忘れて文明だけを強調するとどういうことになるのか。福沢は次のようなことをいいます。
⑨ わが国では、今日、港の様相は、ほとんど西洋と変わらなくなった。しかし、そんなことは日本の独立文明とは何の関係もないことだ。
⑩ このような文明の外観は、結局、国を貧しくして、長い年月の後に必ず自国の独立を害するであろう。
⑪ まさに今日と、さして変わらない状況ではないでしょうか。」
ーーーーーー
(当ブログの解説)
(1)福沢諭吉は、明治期における「反知性主義」的現象を批判しています。
文明の外観のみの重視。
国家の独立の軽視、あるいは、独立精神についての無自覚。
これらを、福沢諭吉は、危機感とともに、鋭く批判しているのです。
ーーーーーー
(佐伯氏の論考の概要)
「⑫ ためしに今日われわれの見ている状況を、これに倣(なら)って述べてみましょう。
⑬ わが国では、現在、空港には外国資本のホテルや商店ができている。だが、外国資本が日本に入ってきて、いくらビジネスをしようが、利益はもっていかれるだけで、「独立日本」とは何の関係もない。
⑭ さらに、自由貿易だとかTPPだとかいっているが、日本国内では職がなくなり、利益をあげているのは外国なのだ。これでは、日本は本当の文明の生まれる国ではないだろう。」
ーーーーーー
(当ブログの解説)
難関大の現代文(国語)・小論文においては、このような「グローバル化を鋭く批判する論考」は、頻出です。
「国家の独立」、つまり、「国家のアイデンティティ」・「国家の自律性」・「国家の主体性」を重視・確立しないと、長期的にみて、国家は没落してしまいます。
「本当の文明」を保持していない国家は、必ず没落することは歴史が証明しています。
【5】「『かざりじゃないのよ、文明は』」
(佐伯氏の論考の概要)
「① 福沢は、文明化よりも、独立の方を重視したのです。今日でいえば、グローバル化するよりも、独立の方が大事だ、ということです。
(②~⑥は省略)
⑦ 今回の記事では省略
⑧ 福沢の「文明」の定義は、人間精神の活発化であり、それは「智徳」に支えられたものでした。しかし、グローバリズムの受容が、逆に精神をきわめて一方向へ偏ったものにしてしまったのです。
⑪ 独立こそが目的で、文明はその手段である、という『文明論之概略』のもっとも重要な主題が再び、たち現れてくるのです。
⑫ グローバル化を前提に、自国をどのようにするのか、それを自らの意志で決めるという態度が必要になります。今日、「独立」とは何より「独立しようとする意志」であり、それは矜持(きょうじ)(→「自負。プライド」という意味)であり、ディグニティ(「威厳。高潔さ。品位」という意味)というものでしょう。
⑬ それは、一人ひとりの「徳」であり、その「徳」によってたつところに「一身独立」が生まれるのです。そして、「一身独立」の気風が国民に広がったとき初めて「一国独立」が達成されるのです。」
ーーーーーー
(当ブログによる解説)
⑫段落の「グローバル化を前提にして、そのなかで、自国をどのようにするのか、それを自らの意志で決める、という態度が必要になります」の部分は、第6章全体のキーセンテンスです
このキーセンテンスの言い換えが、「独立しようとする意志」・「矜持」・「ディグニティ」・「徳 」になっていることを確認してください。
ーーーーーーーーーーー
(5)「生物多様性」ー2015慶応大・法学部の小論文問題を通して解説
……………………………
【1】「生物多様性」という言葉に、一定の価値を認める見解もあります。
以下は、2015年度の慶応大法学部・小論文に出題された、阿部健一氏の論考(「生物多様性という関係価値ー利用と保全と地域社会」)の「キー」の部分(概要)です。
「(見出し)『生物多様性』という言葉の創出
生物学者は、生物のかけがいのない価値を認め、しかもその多くが危機的状態にあることを実感している。しかし、地球上の多くの種が消滅の危機にある。わかりやすく一般社会に訴え、社会的関心を巻き起こすようなメッセージ性の強い言葉の必要性を痛感していたことだろう。
『生物多様性』は、その意味で待望されていた言葉であったに違いない。実際この言葉をきっかけに、生物の保全の必要性と重要性を想起させることができ、社会に関心を呼び起こすことに成功した」
一方で、阿部健一氏も、養老孟司氏と同様に、「『生きとし生けるもの』全体が巨大なシステムをなしている」という側面を認めているようです。
以下に引用します。(概要です)
「(見出し) つながることの価値
生物学者は生物相互のつながりに価値を見出した。多様なことだけが重要なのでなくて、それが相互につながっていることが大事なのである」
(阿部健一「生物多様性という関係価値ー利用と保全と地域社会」『科学』2010年10月号所収)
ーーーーーー
「生物多様性」という用語には問題がある、という説(養老孟司の見解)もあります。詳しくは、上のリンク画像の記事を参照してください。
ーーーーーーーーーーー
(6)「個性崇拝」の問題性ー2005慶応大・文学部の問題を通して解説
以下は、上の記事の一部抜粋です。省略も、あります。
……………………………
〔1〕【「近代・現代と個性の関係」についてー「個性崇拝」批判】
この論点については、2005年に慶応大文学部・小論文で出題された土井隆義氏(→土井氏の別の論考(『キャラ化する/される子供たち』)は、2016年度のセンター試験・国語(現代文)に出題されています。この問題の解説については、このブログで、センター試験直後に記事化しました)の論考(『個性を煽られる子どもたち』)が、最近の入試現代文(国語)・小論文の頻出出典になっているので、ここで紹介します。
(問題文本文の一部の概要)
(以下の「本文の一部」は、本文全体の「キー」なので、熟読してください)
(なお、①・②・③・・・・は、当ブログで付記した段落番号)
「① 若者たちが切望する個性とは、社会のなかで創り上げていくものではなく、あらかじめ持って生まれてくるものです。人間関係のなかで切磋琢磨(せっさたくま)しながら培っていくものではなく、自分の内面へと奥ぶかく分け入っていくことで発見されるものです。
② 本来、自らの個性を見極めるためには、他者との比較が必要不可欠のはずです。他者と異なった側面を自覚できてはじめて、そこに独自性の認識も生まれうるからです。このように、本来の個性とは相対的なものであり、社会的な関数です。
③ しかし、現代の若者たちにとっての個性とは、他者との比較のなかで自らの独自性に気づき、その人間関係のなかで培っていくものではありません。あたかも自己の深淵に発見される実体であるかのように、そして大切に研磨されるべきダイヤの原石であるかのように感受され、さしたる根拠もなく誰もが信じているのです。彼らがめざしているのは、これから自己を構築していくことではなく、元来あるはずの自己を探索していくことなのです。」
記事の都合上、設問1(要約問題)は、省略します。ちなみに、この大問は設問は2つです。
設問2 次に掲げるのは、この文章のすぐ後に筆者が引用している、ある少女の投書です。この投書が仮に新聞の相談コーナーに寄せられたものであって、あなたが、その回答者ならば、この相談に対してどのように回答しますか。360字以上400字以内で書きなさい
「私は、自分らしさというのが、まったくわかりません。付き合う友達によって変わってしまう自分、気分によって変わってしまう自分を考えると、いったい何が本当の私なのか、わからなくなります。自分には個性がないんじゃないかと、ずっと悩んでいます。」
ーーーーーー
(当ブログによる解説)
〈1〉【「難関・国公立私立大学小論文対策のポイント」→筆者の意見に賛成の方向で書くべき】
難関大の小論文の答案を書く時には、なるべく(設問で「本文に対する反対意見を書きなさい」という指定がある時は別として)、本文の筆者に「賛成の方向」で書くことが大切です。
これが、「合格答案を書くポイント」です。
問題文本文は、一流の学者・評論家が長時間をかけて、じっくり考察したものです。
それに対して、受験生が短時間で、説得力のある反対意見を書くことは、そもそも「無理」なのです。
大学側も、そのような「無茶なこと」は要求していないと思います。
大学側が見たいことは、受験生の、問題文本文の「読解力」と「論述力」です。
〈2〉【本問の解答・解説】
問題文本文のキーセンテンスは、③段落第1文の「個性とは、他者との比較のなかで自らの独自性に気づき(→②段落を前提としていることに注意してください)、その人間関係のなかで培っていくもの(→①段落を前提にしています)」です。
従って、
第一に、「個性」とは、他者との比較の中で見極めていく必要があること、
第二に、「個性」とは、人間関係・社会の中で培っていくべきこと、
を教えるとよいでしょう。
ーーーーーーーーーーー
(7)「情報化社会」の問題点ー1997慶応大・環境情報学部の問題を通して解説
下の記述は、上の記事の一部抜粋です。省略があります。
……………………………
情報化社会(IT化社会)における「人間の思考の弱点」
情報化社会の「人間の思考の弱点」については、1997年の慶応大・環境情報学部(いわゆる慶応大SFC )に出題された問題が良問なので、ここで紹介します。
(設問文)
「以下の資料1~4は、すべて『知識』と『情報』について論じたものであるが、これらの資料のそれぞれに必ず言及しながら、来たるべき二十一世紀の社会における『知識』と『情報』の関係について1000字以内で論じなさい。」
〔資料1〕~〔資料4〕の文字数の比率は、「1:1:2:4」になっています。
出題者の出題意図としては、受験生に〔資料3〕と〔資料4〕を重視してもらいたいことは明白です。
そこで、この記事においては、〔資料3〕と〔資料4〕を中心に検討していきます。
なお、〔資料1〕・〔資料2〕は、それぞれ、「デジタルテクノロジー」、「ネットワーク」をプラス評価しています。
〔資料3〕知(智)について
(問題文本文の結論・主張部分の概要を記述)
(赤字は当ブログによる強調)
「智恵について、私は一応こういうふうにレヴェルを区別してみます。いわば知の建築上の構造です。
information (情報)
knowledge(知識)
intelligence(知性)
wisdom(叡智)(えいち)
上記の構造の下半分の作用に重きが置かれているように思われます。その一段上のノレッジ(知識)というのは、叡智と知性を土台として、いろいろな情報を組合せたものです。個々の学問は、大体このノレッジのレヴェルに位置します。一番上の情報というのは、無限に細分化されうるもので、簡単にいうと真偽がイエス・ノーで答えられる性質のものです。クイズの質問になりうるのは、この情報だけです。
現代の「情報社会」の問題性は、このように底辺に叡智があり、頂点に情報がくる三角形の構造が、逆三角形になって、情報最大・叡智最小の形をなしていることにあるのではないでしょうか。叡智と知性とが知識にとって代わられ、知識がますます情報にとって代わられようとしています。「秀才バカ」というのは、情報最大・叡智最小の人のことで、クイズには最も向いていますが、複雑な事態に対する判断力は最低です。」(丸山真男著『「文明論之概略」を読む』より抜粋・編集)
……………………
(内容解説)
現代の「情報社会」の問題性→情報最大・叡智最小→「秀才バカ」→クイズ向きの人→複雑な事態に対する判断力は最低、という論理の流れは、極めて分かりやすくなっています。
「情報社会」においては、情報摂取に時間・労力を奪われ、じっくり考える余裕も気力も体力もなくなり、思考力が衰えるということでしょう。
対策としては、「情報社会に内在する危険性を知ること」、そして、「意識して情報から離れて、思考する時間を作ること」が、考えられます。
……………………
(慶応大・環境情報学部の問題本文)
〔資料4〕「情報」と「知識」
(結論部分の概要を記述)
「コンピューター・ネットワークは情報処理や情報伝達を迅速かつ大量に行い、知識の生産と普及を助けますけれども、はたして知識の生産そのものを行っているのかどうか疑問です。知識の生産そのものは、依然として個々人の主観的内面の世界で行われているのかではないでしょうか。
これから、出生いらいパソコンとともに育った「新々人類」がふえていきます。私が心配していることは、彼らがコンピューターに強いが本を読まない、情報には詳しいが、ものを考えない人になっていくことです。彼らが「ポスト工業社会」の制度的担い手たる大学や研究所の主役になったとき、その大学や研究所そのものが知識を生産する能力を失っていくことを心配するのは、私だけの単なる杞憂(きゆう)でしょうか。」(富永健一著『近代化の理論ー近代化における西洋と東洋』)
……………………
(内容解説)
ここで指摘されている「コンピューターには強いが本を読まない、情報には詳しいが、ものを考えない人種」というのは、〔資料3〕の「情報最大・叡智最小の人」と同一でしょう。
となると、〔資料3〕・〔資料4〕は、同一内容の主張をしていることになります。
このことを読み取れるか否かが、本問のポイントということになるのです。
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(8)2016早稲田大・スポーツ科学部の変わった問題についてー難関・小論文で頻出の「珍問・奇問」対策
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以上で、今回の記事は終わりです。
次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。
以下の2冊は、私が書いた本です。小論文の論点整理にも役立ちます。
5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)
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入試直前特集ー2017現代文・小論文入試予想論点・体系的総整理
入試直前特集ー2017年度・現代文(国語)・小論文・入試予想論点ー体系的総整理
当ブログは以下の基本的方針で作成しています。
以下に、当ブログの第一回記事の開設の言葉を引用します。下にリンク画像が貼ってあります。
「今現在の入試現代文・小論文の最新傾向として、注目するべきポイントとしては、2つの大きな柱があります。
【1】1つの柱は、「IT社会の光と影と闇」です。
この論点・テーマは、3・11東日本大震災の前から登場していたので、割と有名ですが、最近のスマホの爆発的な流行により、新たな論点・テーマが発生しています。
【2】 もう1つの柱は、「3・11東日本大震災の各方面に対する影響」です。
「各方面」は、実に多方面にわたっています。
2016年の、センター試験や難関大学の現代文(国語)・小論文入試問題を、検討している現在も、この考えは変わってはいません。」
以下では、
(1)「東日本大震災」関連記事
(2)「IT化社会」関連記事
(3)「グローバル化」・「民主主義」・「トランプ現象」関連記事
(4)「知」・「知性」・「反知性主義」関連記事
(5)「消費社会」・「地球環境問題」関連記事
(6)「アイデンティティ」・「自己」・「個性」関連記事
(7)「文語文・擬古文対策」関連記事
(8)「センター試験対策」関連記事
(9)「早稲田大・上智大・同志社大対策」関連記事
(10)「小説・エッセイ(随筆)・対策」関連記事
の各論点に関する記事のリンク画像を列挙していきます。
1つの記事が複数の論点に関係する時には、それぞれの論点の場所にリンク画像を貼ります。
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(1)「東日本大震災」関連記事
この論点では、以下の①~⑤のように分類しています。
① 科学論・科学批判
② 善意(ボランティア・救援物資)の暴走ーモラルの喪失
③ 「関係性(絆)」の再評価
④ 「津波」関連の論点
⑤ 日本国家の疲弊
……………………………………
① 科学論・科学批判
「科学論・科学批判」は、東日本大震災以後、激増し、現在に続いています。その背景は、以下の通りです。
以下は、2016・6・10に発表した「東大現代文対策ー311後の最新傾向分析①ー2012河野哲也」の記事の一部引用です。
「難関大学・センター試験の入試現代文(国語)・小論文に出題される「科学批判」(科学論)の論点・テーマは、3・11東日本大震災・福島原発事故以降、より先鋭化し、明らかに出題率も増加しています。
3・11以前も、環境汚染・地球温暖化・チェルノブイリ原発事故等により、「科学批判」の論点・テーマは、一定の多くの出題がみられました。
しかし、3・11以降は、「科学」に対する批判は明白に先鋭化し、「科学批判」の論点・テーマは出題率が増加しています。
これは、考えてみれば、当然のことです。
福島原発事故の際の、原子力村の学者達、地震学者達の無責任な「想定外」の連呼。
崩壊した「安全神話」。
今だに完全には収束していない福島原発の処理。
これらをみれば、「科学」に対する厳しい批判的論考は、増えこそすれ、減ることはないでしょう。
大学における現代文(国語)・国語入試問題作成者の「問題意識」も同じでしょう。
たとえ、問題作成者の「問題意識」がそうでないとしても、入試現代文(国語)・小論文の世界は、「出典」の関係で論壇・言論界・出版界の影響を受けるのです。」
以上の理由により、2017年度の入試現代文(国語)・小論文においても、「科学論・科学批判」は、最も注目するべき論点・テーマです。
「近代・現代科学の基本原理である心身二元論」、に対する根本的批判が展開されています。現代文(国語)・小論文における最頻出論点です。少々難解ですが、この論点をマスターすることが、合格の必須条件です。
↓
東日本大震災・福島原発事故で明らかになったように、「現代文明の発展と存続」を考察する際に、「現代文明と科学の関係」こそは、中心論点・テーマです。
神里達博氏の『文明探偵の冒険』は、「科学の限界」や「歴史の本質」を本質的に、粘り強く、考察した名著だと思います。
↓
現在、話題になっている「人工知能」に関する最良の論考の「予想出典・解説記事」です。
↓
入試頻出著者・山崎正和による、『ホスト・ヒューズマン誕生』(レイ・カーツライル)に関する哲学的・本質的論考を、「予想問題記事」として発表しました。
↓
② 善意(ボランティア・救援物資)の暴走ーモラルの喪失
最近の早稲田大学・上智大学・同志社大学の入試現代文(国語)の問題の中で、特に気になっているのは、3・11東日本大震災の直後に2年連続して出題された、中野好夫氏の「悪人礼賛」という論考です。
この論考は、上智大学(経済)で出題された翌年に、早稲田大学(政経)でも出題されました。
内容は、「善意の暴走」、「善意の厚顔無恥」に対する徹底的な批判です。
この内容は、「被災地ヘの救援物資」が、「善意による二次被害」になる場合があることを強調しています。
この論考は、私が特に重視している「東日本大震災後に新たに発生した論点・テーマ」といえるので、現代文(国語)・小論文対策として、このブログで取り上げることにしました。
③ 「関係性(絆)」の再評価
以下は、下のリンク画像(「センター試験現代文対策ー3・11後の最新・傾向分析①ー2012」)の引用です。
「関係性(絆)」の論点の重要性を、わかりやすく説明したので、ここに再掲します。
〈 問題6は、何を聞きたかったのでしょうか?
問題文本文第9段落第3文(私の概要⑤第3文(最終文))に、
「この自己と他者の『境界』を、生きるだけでなく、はっきり意識するところに、人間的な自己意識が生まれる。」
という、キーセンテンスがあります。
このキーセンテンスに注目できたか否かを、聞いているのです。
ここに注目できれば、選択肢④の最終文に着目して、これが正解だ、とすぐに分かります。
つまり、「自己」についての、一般的・常識的な発想を試験時間中には、執着しないで(無視して)、素直に(とにかく)木村氏の主張を理解していけば、難問では、ありません。
むしろ、易しすぎるくらいです。
(ただ、このような柔軟な読解の姿勢を身に付けることは、なかなか大変なことです。→日頃の勉強における自覚・訓練が大切です。)
「自己は孤立しては生きていけない。」
「自己と他者の境界にしか、生存の場は、ないのだ。」
「自己と他者の境界でこそ生存できる、このことを意識することが自己意識である。」
さらに言えば、「『自分』を意識することではなく、『自己と他者の境界』を明確に意識することが、『自己意識』だ。」という主張です。
……………………
木村氏の、この主張は、一見、難解ですが、3・11東日本大震災以降の日本人にとっては、充分に納得できる見解です。
安定した日常では、自覚しにくいことですが。
あの非常時を、思い出してください。
「自己」の、無力、情けなさ、弱さ、頼りなさ、そして、どうしようもない不安感を、思い起こしてください。
そうすれば、木村氏の見解に、納得できるはずです。
問5と問6は、同じことを、聞いています。
まさに、センター試験国語(現代文)の問題作成者は、木村氏の主張のポイントを、聞いてきているのです。
見事な、問題作成能力です。
……………………
私は、この問題が、3・11東日本大震災直後の2012年度に出題されたことに、注目しています。
つまり、出題の背景に、
「3・11への意識があったのではないか」、
「今こそ『連帯性』・『関係性』・『共同性』を再評価・見直しするべきだと意識したのではないか」、
と考えています。
とすると、かなりメッセージ性の強い問題です。
問題作成者の問題意識が、顕著に感じられる問題です。
私は、2012年に初めて、この問題を見た時に、その強烈なメッセージに、思わず唸りました。
ある意味で、感銘すら受けました。
この時期こそ、いや、これからもずっと、この「自己」・「アイデンティティ」・「連帯性」・「関係性」・「共同性」の論点・テーマを、じっくりと考えていくべきだからです。
私は、3・11直後の2011年は、他の人々と同じように、いつも頭の片隅で「自己」・「アイデンティティ」・「連帯性」・「関係性」・「共同性」について、考えを巡らせていました。
そして、2012年に、センター試験のこの問題を見た時の、あのほっとしたような、自分の目を疑うような、不思議な感じを、私は忘れることができません。〉
「共同体と伝承・物語成立の関係」・「物語と共同体結束の関係」も、入試現代文(国語)・小論文の重要論点・テーマになっています。
現代社会は、「個人主義」の過度の進展により、「『共同体解体』の対策論」が、かなり前から論点・テーマ化しています。
一方、3・11東日本大震災の際に、「共同体」の価値の見直し・再評価がなされ、「絆」がキーワード化しました。
東日本大震災関連の論点・テーマは、私が、このブログ開設以降、特に注目している論点・テーマです。
これらのことより、「『共同体』とは本来、何だったのか」という本質論も、最近の流行論点・テーマになっているのです。
↓
④ 「津波」関連の論点
⑤ 日本国家の疲弊
東日本大震災、グローバル化、デフレ経済などにより、日本は疲弊しています。
それでも、かなり無理をして、東京オリンビックを開催しようとしています。
『三四郎』の中の「(日本は)滅びるね」という広田先生のセリフは、今現在も苦く心に響きます。
↓
「乱世」の中でも、人々は、「乱世」のまま生きていくことは、できません。
「秩序」、「安定」、さらには、レベルの高い「精神生活」が必要不可欠です。
3・11東日本大震災の時にも、体育館等に避難していた被災者達は、読書への欲求があったと聞いています。
また、少し落ち着いた時には、近くの書店に訪れる人が多かったようです。
今現在の人々も、「乱世を乱世のままに生きていくこと」は、できないのです。
↓
東日本大震災、グローバル化、デフレ経済などにより日本は疲弊しきっています。
そのことについて記述しています。
↓
(2)「IT化社会」関連記事
前記した当ブログの「開設の言葉」を、再掲します。
「今現在の入試現代文・小論文の最新傾向として、注目するべきポイントとしては、2つの大きな柱があります。
1つの柱は、「IT社会の光と影と闇」です。
この論点・テーマは、3・11東日本大震災の前から登場していたので、割と有名ですが、最近のスマホの爆発的な流行により、新たな論点・テーマが発生しています。」
2015センター試験国語[1]佐々木敦『未知との遭遇』の解説が含まれています。
↓
(3)「グローバル化」・「民主主義」・「トランプ現象」関連記事
「グローバル化(国際化)」と「民主主義」・「トランプ現象」は、相互に密接に関連しているので、ここで、まとめておきます。
(4)「知」・「知性」・「反知性主義」関連記事
これらの論点は、2016年度に、大流行しましたが、今年も要注意だと思います。
(5)「消費社会」・「球環境問題」関連記事
「消費社会」と「地球環境問題」は、密接に関係しています。現代の「消費社会」の根本的見直しをしなければ、「地球環境問題」を真に解決することはできません。
(6)「アイデンティティ」・「自己」・「個性」関連記事
(7)「文語文・擬古文対策」関連記事
(8)「センター試験対策」関連記事
2015センター試験国語[1]佐々木敦『未知との遭遇』の解説が含まれています。
↓
(9)「早稲田大・上智大・同志社大対策」関連記事
頻出出典です。今回は、2000年度・早稲田大学政経学部の過去問を中心に解説しました。
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中野好夫氏の「悪人礼賛」は、2012上智大学経済学部で出題された翌年(2013)に早稲田大学政経学部でも、同一箇所出題されました。これからも、注目するべき論考です。
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早稲田大学政経学部の過去問が2問(2大問→山崎正和・夏目漱石)含まれています。
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2012年度は、東大と早稲田大学教育学部で、河野哲也『意識は実在しない』の同一箇所から出題されました。『意識は実在しない』は、現在、流行頻出出典になっています。2017年度も、要注意です。
↓
2008早稲田大学法学部・出題の丸山真男氏の『現代政治の思想と行動』、1999早稲田大学文学部・出題の大澤真幸の「自由の牢獄」の解説が含まれています。
↓
早稲田大学文学部現代文、早稲田大学政経学部現代文に出題された野家啓一氏の論考(2つの学部の問題文本文は、ほぼ同一内容!)の解説が含まれています。
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早稲田大学・上智大学・同志社大学などの難関大学の、入試現代文(国語)・小論文における「原典修正」の意外な、驚くべき実態と、「それらの問題本文を要約する際の注意点」は、入試本番に、かなり役立つと思います。
↓
(10)「小説・エッセイ(随筆)・対策」関連記事
小説エッセイ随筆の出題率は減っていません。むしろ、最近は増加傾向になっています。油断しないでください。
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今回の記事は、これで終わりです。
次回の記事は、約10日後に発表の予定です。
私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。
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受験勉強・直前期・入試当日の心構えー天才棋士・羽生に学ぶ勝負哲学
(1)受験勉強・直前期・入試本番当日の心構えー将棋の天才・羽生善治氏の勝負哲学を参考にしよう
① なぜ、この記事を書くのか?
生徒を指導していていると、生徒の精神面のサポートが合格実績に大きく影響することが実感できます。
様々な場面で、特に、天才・プロ将棋棋士・羽生善治氏の「勝負哲学」の言葉を参考にしてアドバイスすると効果的です。
生徒たちの肩から余計な力が抜け、実力以上の結果を出す感じです。
そこで、このブログでも、「羽生善治氏の勝負哲学」を分かりやすく紹介することにしました。
② 「勝負哲学」の有用性
大学入試・センター試験もプロ将棋も、「人生をかけた真剣勝負」という点で共通しています。
大学入試・センター試験もプロ将棋も、さらに人生全体が、「決断の連続」であり、一瞬の躊躇(ちゅうちょ)が命取りとなりかねません。
プロ将棋の世界で、将棋史上最高の、驚異的な勝率、実績を誇る羽生善治氏の「勝負哲学」は、大学入試やその他の試験の場面でも、大いに参考になるでしょう。
「心の持ちよう」が、勝負の結果に大きく影響します。精神論も重要です。
以下では、羽生氏の著書、インタビュー記事、羽生氏に関するテレビの特集番組などから、受験勉強、特に、入試直前期、入試本番当日で役に立ちそうな、「羽生氏の勝負哲学」を引用しつつ、解説していきます。
読者の皆さんの方で、個別的に興味を持った、共感した幾つかの項目を参考にしてください。
なお、以下の「勝負哲学」は、大学入試・センター試験だけではなく、私立小学校入試、私立・公立中学入試、高校入試、就職試験、公務員試験、司法試験、公認会計士試験、税理士試験などの試験でも、さらにビジネスや日常生活の様々な場面でも、参考になると思います。
(2)羽生善治氏の紹介
羽生善治(はぶ・よしはる)
1970年、埼玉県所沢市に生まれ、その後、東京・八王子市に移り住む。
史上3人目の中学生棋士となる。
1989年、竜王戦でタイトル戦に初登場。当時最年少記録の19歳で初タイトル獲得。棋界で名人位と並んで序列トップの竜王位に就いた。
1996年2月に将棋界で初の7タイトル独占を達成。2012年7月には十五世名人・大山康晴の通算タイトル獲得期数80期の記録を抜いた。全7タイトル戦のうち竜王戦を除く6つでの永世称号に加え、名誉NHK杯選手権者の称号を含め、史上初となる7つの永世称号を保持している。
以下の記事で参考にする羽生氏の著書は、以下の通りです。
『決断力』 (角川oneテーマ21)
『結果を出し続けるために(ツキ、プレッシャー、ミスを味方にする法則)』(日本実業出版社)
『捨てる力』 (PHP文庫)
『大局観:自分と闘って負けない心』(角川oneテーマ21)
『迷いながら、強くなる』 (知的生きかた文庫 BUSINESS)(三笠書房)
『勝負哲学』(岡田武史・羽生善治)(サンマーク出版)
最後の『勝負哲学』は、岡田武史氏との対談をまとめたものです。ここで、岡田氏の紹介をします。
岡田 武史(おかだ たけし)
サッカー日本代表前監督。1956年大阪府生まれ。早稲田大学政治経済学部を卒業後、古河電工サッカー部(現ジェフユナイテッド市原・千葉)に入団。日本代表としても活躍する。1990年現役引退後、コーチ就任。その後、ドイツへのコーチ留学、ジェフユナイテッド市原のコーチを経て1994年日本代表コーチとなる。1997年日本代表監督に就任、ワールドカップフランス大会の日本代表監督を務める。コンサドーレ札幌、横浜F・マリノスで監督を歴任 。
(3)受験勉強中の、特に、入試直前期の心構え
① 「前進」の必要性→積極性が必要
まず第一に、強調したいことは、「前進」の必要性です。
具体的には、なるべく早く、少なくとも入試の3~4ヶ月前からは第1志望校の過去問をやるべきだ、ということです。
実力がついているか不安があっても、とにもかくにも、第2志望以下の過去問の研究は切り上げて、第1志望校の過去問研究に取りかかるべきです。
極端なことを言えば、第1志望校にだけ受かればよいのです。
第1志望校に受かる実力がつけば、第2志望校以下にも合格します。
ためらっている時間は、ないのです。
この点で参考になるのは、以下の羽生氏の言葉です。
(赤字は当ブログによる「強調」です。青字は当ブログに「注」です)
「『決断』は、怖くても前に進もうという勇気が試される。
現状に満足してしまうと進歩はない。
物事を進めようとするときにリスクばかり強調する人がいるが、環境が整ってないことは逆説的にいえば非常に良い環境だと言える。
リスクの大きさはその価値を表していると思えばそれだけやりがいが大きい」
(『決断力』 )
② 「ルーティーン」の重要性→集中力を高める儀式的行為
羽生氏に関するテレビの特集番組や、羽生氏についての評論から気付くことは、「ルーティーン(→「固定化・マニアル化された日常の作業・行為」という意味)」の重要性です。
羽生氏は対局の日は、必ず、対局場の将棋会館の近くの駅から将棋会館まで、同じルートを歩くことで、集中力を高めているらしいです。
歩行中は、何も考えないことを心掛けているようです。
一度、頭の中を完全に空白にして、再び新鮮な心持ちで真剣勝負に向かう前の儀式的な雰囲気があります。
あるインタビューで、羽生氏は、以下のような主旨のことを述べていました。
「その前の日までは、いろいろたくさん考えます。けれども、あえて、もう一回頭を空白にして、新たな気持ちで臨む方が気持ちに合っています。」
対局に臨む時の羽生氏の一連の行動は、見事にルーティン化しているようです。
「1日に1度は麺類を食べる」
「盤の前に着座して、扇子の止め紙を静かに外す」
「眼鏡を外し、眼鏡のレンズを、ゆったりと丁寧に拭く」。
こうした一連の行動を通して、対局前の心を整えているようです。
さらに、羽生氏は、長丁場の対局時の1時間程度の休憩時間には、必ず、少し離れたレストランに足を運ぶらしいです。
そして、サンドイッチを頼み、淡々と食べる。
食事後は、すぐに、対局室に戻る。
この時、彼は将棋について考えていない。
このルーティンが、脳に空白を、もたらすのです。
一つのことに集中するには、日常生活における様々な些末な思考をカットすることが必要で、そのためには一連の規則化されたルーティーン的な行為がポイントになるのでしょう。
集中力を高めるためのルーティンの重要性は、再評価されるべきでしょう。
③ 集中力を持続させるために→集中力の基盤は根気・エネルギー・体力→目標の再確認をせよ→「自分の人生」の再確認
受験勉強中には、特に直前期においては、いかに集中力を持続させるか、が問題になります。
誰にも、ふっと気が抜けること、気が散ることなどが、得てしてあるからです。
羽生氏の著書を読んでいて、感心したのは、以下の記述です。
「私は、集中力の基盤になるのは根気であり、その根気を支えるためには体力が必要だと思っている。
体力は、別の言葉でいえばエネルギーである。エネルギーは生きる力だ。エネルギーが枯渇してしまうと、やる気はふくらまないし、持続しない。個人として、自分が大事にしていたり、何かに賭けていたり、究めたいと思っていたり。人生の中で目指しているもの(→「人生の目標」です。広く、「価値観、人生観」と考えても、よいでしょう)がはっきりしている人は、エネルギーがある。」(『決断力』)
つまり、集中力を維持し、高めるためには、自分の「人生の目標」や「価値観、人生観」を再確認・再評価するとよいのです。
言い換えれば、視野を広げ、自分の人生の根本を見つめて、新たな気持ちになるということです。
④ 不安・迷い・スランプ・プレッシャー対策→頂上は近い。心配するな→「もう一息の努力」が結果につながる
「不安・迷い・スランプ・プレッシャーの対策」としては、「もう一息の努力が結果につながる」
ということを知っておくとよいでしょう。
あきらめないことが、重要です。
「不安・迷い・プレッシャー」自体が、良いシグナルなのです。
「不安・迷い・プレッシャー」を、一方的にマイナス評価している一般的な常識に、とらわれないようにしてください。
羽生氏は、以下のように述べています。
「プレッシャーがかかるということは、その状況自体、結構いいところまできている。
緊張するということは、目標・勝利に近づいている証拠。
ある程度、結果に期待できるレベルに到達していると自覚しているから、プレッシャーがかかるのです。
プレッシャーがかかっている時は、山登りに例えると、8合目(→「頂上まで、あと一歩」という意味)まで来ているような状態です。
自分の状態を俯瞰(ふかん)できないので、あと少しのところでひるんでしまい、ダメだと思ってしまう、努力をやめてしまうのです。
しかし、そこからもうひと頑張りできるかどうかが、明暗を分けます。
もうひと頑張りしてから、『やっぱリダメだった』と、判断すればいいのです」
(『結果を出し続けるために(ツキ、プレッシャー、ミスを味方にする法則)』)
少々、楽観的な言葉ですが、私は一理あると思います。
何よりも、せっかくの成功の可能性を手離さないという、羽生善治氏の力強い意志に、こちらまで、勇気づけられます。
「自分を信頼する姿勢」も、爽(さわ)やかで、見習いたいものです。
また、次の羽生氏の言葉も、素晴らしいです。
「強くなっていくプロセスの中で、右肩上がりに成長していければいいが、実際のところそういうことはありません。
停滞している時期があったり、あんまり強くなっていないんじゃないかな、進歩していないんじゃないかなと、そういう迷っている時間、ためらっている時間は、前に進んでいくためには、必要なプロセスなのです」(『迷いながら、強くなる』)
また、スランプ、つまり、追いつめられた時こそが、「飛躍のチャンス」と思う気持ちも大切です。
羽生氏の、「追いつめられた時の対処法」は、一味違います。
「必ず訪れる人生の一場面」として、「追いつめられた時」にも、冷静に、ポジティブに対応することが大切と、羽生氏は言っています。
以下に、羽生氏の言葉を紹介します。
「将棋は自分との孤独な闘いである。追い込まれた状況から、いかに抜け出すか。でも、人間はほんとうに追いつめられた経験をしなければダメである。追いつめられた時にこそ、大きな飛躍があるのだ。」(『決断力』)
「報われないかもしれないところで、同じ情熱、気力、モチベーションをもって継続してやるのは非常に大変なことであり、私は、それこそが才能だと思っている」(『決断力』)
ところで、「不安・不調・スランプ」から脱出するためには、具体的に、何をすればよいのでしょうか?
この対策も、「予備知識」がある方が有利です。
この点について、羽生氏は、以下のように述べています。
「不調から脱却するためには、基本を繰り返すことが大切です」(『大局観』)
私も、この作戦には全面的に賛成します。
この点について、私は以下のように考えます。
「基本」を「低レベル・入門レベルのこと」と誤解している人もいるようですが、基本は、全ての物事の根本・基盤です。
「基本」を繰り返すことにより、「目の前の課題・問題」の本筋に戻り、かつ、そのことが平常心を取り戻すきっかけになるのです。
⑤ 大局観(全体・本質を見抜く力)の養成を、意識するべき→今からでも、間に合います→余裕を持とう
直前期にこそ、大切なことは、「余裕」を持つことです。
具体的には、常に、「全体を見る目」を持つことが重要です。
この点について、羽生氏は、「大局観」として、解説しています。
以下に、引用します。
「全体を判断する目とは、大局観である。
一つの場面で、今はどういう状況で、これから先どうしたらいいのか、そういう状況判断ができる力だ。(→「俯瞰(ふかん)・鳥瞰(ちょうかん)できる能力」と言ってもよいと思います)
本質を見抜く力といってもいい。
その思考の基礎になるのが、勘つまり直感力だ。
直感力の元になるのは感性である」(『決断力 』)
「大局観」は、自分の内外の大量の情報から、合理的な選択を行うために必要不可欠です。
「大局観」の元になる「感性」を鍛えるには、 日頃から意識して「全体」を考えるようにすることが必要です。
今からでも、間に合います。
心がけるようにすると、よいでしょう。
(4)入試本番当日の心構え
① 勝負のポイント
「勝負のポイント」は、何でしょうか?
羽生氏によると、「勝負のポイント」は、単純化すると、以下の3点です。
【勝負のポイント】
「【1】恐れないこと→リスクを恐れない
【2】客観的な視点を持つこと→「中立」・「冷静」
【3】相手の立場を考えること→入試では、「設問を重視」・「出題意図を考える」」(『結果を出し続けるために』)
スッキリと、単純化されていて、見事なものです!
紙に書いて机の前に貼っておいたり、小さな紙に書いて本番の試験会場で見直すことを、オススメします。
以下では、さらに、詳しく解説していきます。
② 積極性→リスクを恐れない→(上記【1】「恐れないこと」に関連します)
入試本番当日の最大のポイントは、「積極性を持つこと」だと、私は思っています。
「この気持ちを持てるか否か」が、入試の結果に多大な影響を及ぼします。
この点について、羽生氏は、以下のように説明しています。
説得力のある説明だと思います。
「二人の剣豪が決闘を始めたとする。怖いから後ろに下がりたい気持ちになるだろうが、一歩下がっても、相手に一歩間合いを詰められるだけだ。状況は変わらない。逆にいうと、下がれば下がるほど状況が悪くなるのだ。怖くても前に進んでいく、そういう気持ち、姿勢が非常に大事だと思っている」(『決断力』)
「勝負には通らなくてはいけない道が存在すると私は思っている。リスクを前に怖じ気づかないことだ。恐れることも正直ある。しかし、勝負する以上、必ずどこかでそういう場面に向き合い、決断を迫られることになる。私は、そういうときには、『あとはなるようになれ』という意識(→「結果を気にしないで、全力を尽くす」ということです)で指している。どんな場面でも、今の自分をさらけ出すことが大事なのだ(→「現在の自分の実力以上の結果は出ない。とにかく全力を尽くす。覚悟を決める」ということです )」(『決断力』)。
「積極性」を持つためには、以下に引用する羽生氏の見解のように、「自分への信頼」が必要になります。
「自分への信頼」を実感できるまで、努力することが、前提ですが。
「どんな場面でも、今の自分を認めること(→今の自分に自信を持つ)。
毎回石橋を叩いていたら、勢いも流れも絶対つかめない。
勝敗を決するのは、高いテンション、自分への信頼です」(『捨てる力』)
③ 自然体・冷えた情熱→(上記【2】「客観的な視点を持つこと」に関連します)
羽生氏は、『決断力』 の中で、 「決断力を高める方法」としては、「結局のところ、自然体が一番大事」と述べています。
同様のことを、さらに、『勝負哲学』の中で、丁寧に説明しています。
とても参考になると思いますので、以下に紹介します。
「 場になじむ、自然体ということが大切です。
支配とか制するとかいうと、やはり強すぎる。もっとやわらかい感じです。『場になじんでいる』ような。場を見下ろすのではなくて、自分も風景のひとつとして場の中へ違和感なく溶け込めている(→まさに、「無我の境地」です)。そういうときは集中力も増すし、間違いなく、いい対局ができます」(『勝負哲学』)
「 こと将棋という競技においては、その闘争心がむしろ邪魔になることもあるのです。だから私は、戦って相手を打ち負かしてやろうと考えたことは全くといっていいほどありません。」(『勝負哲学』)
「将棋は結果だけが全てです。その世界で長年勝ち続けるためには、『相手を打ち負かしてやろう』と考えていては(→「勝とう」と思った瞬間に「無我」ではなくなるからです)、とても勝ち続けることは叶(かな)わないのです。
それよりはむしろ、相手に展開をあずける委託の感覚(→「無我の境地」です。入試の場面でいえば、「設問の要求・指示に沿って素直に考える」ということです)や、もっといえば、相手との共同作業で局面をつくり上げていく協力意識や共有感のほうが大切になってくるのです。」(『勝負哲学』)
上記の「相手との共同作業」については、羽生氏は『決断力』では「対局相手にアイディアを引き出してもらう」とまで表現しています。
これを、入試の場面に置き換えると、「設問文、設問の選択肢、本文・本文のリード文・本文の注を、もう一度、丁寧に熟読・精読して、そこから再考してみる姿勢が大切」ということになります。
設問・本文から離れた状態で、自分一人で、考え込まないことがポイントです。
論点を「自然体」に戻します。
問題は、「自然体」と「情熱」の関係、です。
「情熱」を前面に出すと、「自然体」の維持は困難になるからです。
この微妙な関係について、羽生氏は、以下のような説明をしています。羽生氏の経験に基づいた説明だけに、読みごたえがあります。
「勝負に『熱』は必要ですし、大切なものです。深い集中力も重要です。しかし一方で、私の経験は、そういう熱っぽい感情をできるだけ制御しないと勝負には勝てないことも教えています。
勝負にいちばん悪影響を与えるのは『怒』とか『激』といった荒々しい感情です。つまり、カッとなったら負けなんです。
これはボクシングなんかの勇猛なスポーツでも同じでしょう。動物的な闘争心は必要でも、それが自分の制御を超えて暴れ出してしまったら勝つことは難しくなります。
だから私は、感情をコントロールすることが将棋の実力につながるんだと思って、闘争心をむき出しにするのではなく、それを抑制する方向に自分を訓練してきたつもりです。」(『勝負哲学』)
「『冷えた情熱』というか『熱い冷静さ』みたいなものです。そうでないと、『落ち着いた平凡な一手』は指せません。
そのために、あまり気負わず、自然体(→「無我の境地」)でやっていきたい。そのほうが自分の力を出しやすいようにも思えます。」(『勝負哲学』)
ところで、「冷静さ」を入手する「具体的な方法」は、あるのでしょうか?
参考になるのは、羽生氏の以下の説明です。
「将棋に限らず、何事も激しく戦っているところに目が行きがちだ。しかし、最終的に決断して指す前に、もう1度全体を見ることだ。(→「鳥瞰的な視点を意識して、冷静になること」の重要性を強調しているのです)最終的な確認をすれば、ミスは少なくなるものなのだ。」(『結果を出し続けるために』)
つまり、部分に集中していた気持ちを、全体を見ることにより、静めるということでしょう。
この方法は、かなり効果的だと思います。
④ 集中するためには→リラックス・休息の必要性
「集中する手順」として、羽生氏は、以下の「自分なりの方法」を紹介していますが、この手順は、一般的に有効でしょう。
「〔1〕集中するためには、少しずつ時間をかけて、その状態にもっていく。
〔2〕集中力をつけるために、何も考えない時間をもつ」(『大局観』)
上記〔2〕について、さらに詳しく解説します。
羽生氏は、 「頭の中に空いたスペースがないと集中できない」(『決断力』)と言っています。
そして、「頭の中の空きスペース」を作るための「自分自身のやり方」まで、紹介してくれています。
以下に引用します。
「集中するためには刺激を遮断する時間を作る。
普通に歩くのでも、音楽を聴くのでも、絵を描くのでもいいのですが、何も考えずに頭に刺激が入らない状態にすることです。
とくに都会に住んでいると刺激だらけなので、自分をそうした刺激から遮断するのです。別の静かな場所に行く、といったことをする必要もありません。普段の生活の中で、自然に歩いていたり、地下鉄の階段を昇り降りしたりすることでも、相当ポーッとできます。
つまり、メリハリをつけるというか、脳をうまく休ませることが大切です。情報・刺激を遮断して、脳を飢餓状態にする、お腹を空かせた状態にするのです。これは短い時間でも構いません。5分やるだけでも全然違います。」(『結果を出し続けるために』)
この方法は、受験勉強中にも、入試直前期にも、役に立ちます。
ぜひ、実践してください。
⑤ ポジティブ・シンキング→(上記【1】「恐れないこと」に関連します)
『勝負哲学』の中で、羽生氏の対談相手の岡田監督は、「ポジティブ・シンキング」の重要性について、以下のようなことを述べています。
「岡田:ある用事でサッカー協会の人に電話をした時、その人の横にたまたまAという選手がいたことがありました。Aは海外でプレーする日本代表の選手で、帰国して自主トレの最中だったようです。その人が『Aがそばにいるんですけど代わりますか』というので、Aともしばらく話をしてなかったこともあって代わってもらったんです。
そうしたら、Aは開口一番、あっけらかんと『ぼくのためにわざわざ電話ありがとうございます』なんていうんです。彼と話したくて私が電話をしたと思い込んでいるんですね(笑)。Aが海外で結果を残している理由の一端がわかった気がしました。プラス思考で、つねに自分中心で物事を考えているんです。でも、そのくらいのほうが勝負ごとでは力を発揮できますよ。
羽生:また、それくらいのほうが結果を引きずらないし、気分転換もうまいはずです。」(『勝負哲学』)
「A選手」の「自分中心主義」的なプラス思考は、かなりハイレベルですが、見習いたいものです。
羽生氏も、「A選手」の反応をプラス評価しているようです。
この羽生氏の評価も、いかにも、おおらかな天才棋士らしい評価で、素晴らしいです。
プラス思考について言えば、一般の人々もプラス思考を、どんどん持つべきだと、私は思っています。
⑥ プレッシャー対策
プラス思考(ポジティブ・シンキング)が、「プレッシャー対策」に不可欠なことは、今や常識です。
しかしながら、本来、人間の能力は「プレッシャー」に強いことを知れば、さらに、不安がなくなるはずです。
この点について、『勝負哲学』の中で、岡田氏・羽生氏は、とても有益なことを指摘しています。
「大ピンチのときには、人間は意外に正しい判断をする」と、言っているのです。
真剣勝負の場面で、プレッシャーが心身の動きを鈍くすることは、誰しもが経験していることです。
しかし、岡田氏も羽生氏も「重圧がかかった状態のほうが感覚が研ぎすまされて、集中力が高まることが多い」と発言しています。
「自分が苦しい」と感じるのは、まだ、状況が最悪にまで落ちていないからです。
最悪の状況、つまり、どん底にまで落ちて、どうしようもなくなれば、実は落ち着くようです。
開き直るしかなくなれば、一切の雑念が消え、思考も冴えてくるということです。
この指摘は、覚えておく価値があると思います。
⑦ 周りの人から「信用の風」を送ってもらうように、努力する→自信につながる→ これは、案外、重要です
プロスポーツで、チャンスに強い選手が、周りの期待通りに活躍し、ヒーローインタビューで「ファンのみなさんのおかげです」と感謝する場面をよく見聞きします。
あれは、決して、表面的な社交辞令ではないのです。
「周囲の信用による後押し」が、ぎりぎりの勝負になってモノをいうのです。
「将棋に限らず、勝負の世界では、多くの人たちに、どれだけ信用されているか、風を送ってもらうかは、戦う際のうえでの重要なポイントであり、自分のパワーを引き出してくれる源である」と羽生氏は語っています。(『決断力』)
そして、「そのためにも、日頃から実力を磨き、周りからの信用を勝ち取ることが大切だ」と羽生氏は続けています。
「風を送ってもらう」とは、羽生氏らしい個性的な詩的な表現です。
確かに、「信用されている」という自信が、「自分自身の支え」になり、より大きなパワーを引き出す源になり得ます。
「そのためにも日々の努力が大切だ」という羽生氏の言葉は、羽生氏の経験から発せられたものだけに、重味が重みがあります。
充分に参考にする価値があるでしょう。
ちなみに、羽生氏は、別の著書(『大局観』)で、
「傍から見たときに幸運に思える人は、幸運を掴む機会を増やしたり、不運を少しでも軽くするような準備をしていることが多い」と言っています。
「幸運」・「不運」を軽視しない、謙虚な羽生氏の態度は、参考にするべきです。
⑧ 万が一、ミスをした時の対策
羽生氏が長年のプロ棋士生活の中で編み出した「効果的なミス対策」は、かなり役に立ちます。
これについては、『結果を出し続けるために』に、詳しく書いてあります。
簡単に言うと、以下のようになるようです。
「ミスをしてしまったら、まずミスをした瞬間から、ミスする前の局面のことを頭から消すことだ。その瞬間に『これは初めて見た局面だ』と考え直し、新たに取り組むのだ」。
羽生善治氏の「効果的なミス対策」(『結果を出し続けるために』)をまとめると以下のようになります。
【4つの気持ちの切り替え方】
① まず、一呼吸おく→ミスが重なるのは、ミスの後に別のミスが起こりやすいから。原因は、最初のミスによる精神的な動揺。
② 現在に集中する→ミスをしてしまったら、その瞬間に、ミスする前の場面を頭から消す。そして、「これは初見の場面」と考え直して、新たに取り組むべき。
→反省はしない。後でする。ミスの結果については、気にしないようにする。
③ 優劣の判断を冷静に行う
④ すべてに完璧さを求めず、能力を発揮する機会、自分の可能性を拡大するチャンスと考えるようにする→ここでも、「ポジティブ・シンキング(プラス思考)」が効果的です。
上記の④については、羽生氏は、『決断力』 で、次のようにも言っています。
この積極的な生き方は、見習うべきだと思います。
「対局してみると、予想外のことが必ず起きます。そんな慣れていない状況になると、失敗する確率も当然高まりますが、未知の事態に踏み込むのを恐れるのでなく、そこに挑戦する楽しみを持つことが本当に大事なのです」(『決断力』)
(5)今回の記事、「受験勉強・直前期・本番当日の心構え」の「まとめ」
「今回の記事のまとめ」として、羽生善治氏の以下の言葉を引用します。
「要するに勝負とは、奇襲作戦では通用しないということです。楽観せず、悲観もしない。ひたすら平常心で、勝負どころを期待せずにじっと待つ。これが『勝負の心構え』としての王道であり、本筋である。敵は向かい合う相手ではなく、自分自身なのだ。」(『決断力 』)
今現在の羽生氏の人生観を反映している、哲学的な深い言葉です。
特に、「勝負どころを期待せずにじっと待つ」の部分は、その冷静さに戦慄さえ感じます
味わい深いので、何度か反芻することを、おすすめします。
私は、この言葉に感動しました。
ーーーーーーーー
今回の記事は、これで終わりです。
次回の記事は、約10日後に発表の予定です。
ご期待ください。
私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。
https://twitter.com/gensairyu2
トランプ現象と夏目漱石→反グローバリズム的発言と文明開化批判
(1)今回の記事を書く理由→「トランプ現象」と夏目漱石→反グローバリズム的発言と「文明開化」批判
アメリカ大統領選における「トランプ現象」は、日本でも、2016年後半期から、政治的・経済的・社会的に大きな話題になりました。
当初の予想に反して、結果的に当選したトランプ氏の「反グローバリズム的」な発言により、現在、「グローバル化・国際化の功罪」が改めて注目されています。
トランプ氏の一連の「反グローバリズム的」発言を読みながら、私は、時代状況は違うものの、漱石の小説・講演における、痛快で爽快な「文明開化批判」を思い出しました。
私のように感じる読書家は少なくないはずです。
大学入試の作成者の中にも、私と同様の感想を持つ人は、いるはずです。
漱石の「文明開化批判」は、入試頻出事項です。
しかも、2016年は夏目漱石の没後100年、2017年は生誕150年です。
このような、有名作家の節目の年度には、当該作家関連の論考が、多く発表されるために(現に、2016年度には、漱石関連の充実した論考が目立ちました)、その影響で、翌年の大学入試の現代文(国語)・小論文でも、当該作家関連の論考が流行することがあります。
従って、2017年度・2018年度には、漱石の「文明開化批判」が、入試にかなり出題されることが予想されます。
そこで、今回の記事でも、現代文(国語)・小論文対策として、漱石の小説・講演における「文明開化批判」を解説します。
今回の記事は、前回の記事の続きです。
今回の記事を、より良く理解するために、前回の記事に目を通しておいて下さい。
(2)夏目漱石の「文明開化」批判の時代背景→植民地主義・帝国主義の時代
「現代日本の開化」『三四郎』『吾輩は猫である』の時代背景について、検討します。
《各作品の発表年度》
「現代日本の開化」1911年、
『三四郎』1908年、
『吾輩は猫である』1905年、
これらの発表年度は、これから解説する事項に重要な意味を持ちます。
日本は1905年に日露戦争に勝ったため、世界の一流国の仲間入りができました。
20世紀初頭までは、世界のほぼ全体が白人国家の植民地主義的な支配下にありました。
アジアでは、シャム(タイ)と日本だけが、かろうじて独立を保持していました。
中国は、清朝内部の混乱のために西洋列強の介入を拒否できずに、実質的に植民地状態でした
ロシアとの日露戦争は、明治37年(1904年)に始まりました。
ロシアは、日本とは比較にならない、西洋最大の大国です。
日本は膨大な人的・経済的犠牲を払いましたが、その翌年にギリギリの勝利を手にしました。
そして、日本は、世界の一流国に仲間入りするという、明治維新からの目標に到達した。
つまり、日露戦争後に欧米列強との不平等条約を改正できたのです。
漱石は時代を読み取る観察力を持っていました。
世界の一等国となること、そして、欧米との不平等条約を修正すること。
これは、日本国、日本国民の遠大な目標でした。
その目標が、実現したのです。
日露戦争に勝って一等国になったと、日本国民も日本国家も自画自賛し、増長するようになリました。
そのために、もともと不自然だった、急激な文明化、つまり、西洋文明の無思慮な模倣がさらに進むはずと予想して、漱石は悲しい気持ちになったのです。
(3)『現代日本の開化』ー夏目漱石の「文明開化」批判
物事の本質を見抜くことの出来た先鋭的な感覚を持っていた夏目漱石は、時代の波に乗るために、多少の矛盾には目をつぶってって、要領よく生きていくというようなことができなかった人です。
それゆえに、彼は、当時の日本の「近代化」「西洋化」の熱病=「文明開化」に対しても、これを批判することができたのでした。
漱石は、「現代日本の開化」の中で、「日本の近代化」を「皮相上滑りの開化」であると痛烈に批判しています。
つまり、「日本の開化」は、外からの強大な圧力に押されて仕方なく進めているというだけで、あまりにも外発的と空しく思っていたのです。
ただ、1868年の明治維新に至るまで、日本は長年、鎖国政策を続けていましたから、世界に向かって開国してから、政治的・経済的・社会的な大混乱に陥ったとしても、当然といえば当然だったのです。
とはいえ、漱石は時代の課題に本質的に考察しようとする、誠実な思想家としての側面をもっていたのです。
「現代日本の開化」で、「文明開化」批判を展開している部分を、以下に引用します。
(『現代日本の開化』の一部抜粋)
(赤字は当ブログによる「強調」です。青字は当ブログによる「注」です)
「日本の開化は自然の波動を描いて甲の波が乙の波を生み乙の波が丙の波を押し出すように内発的に進んでいるかと云うのが当面の問題なのですが残念ながらそう行っていないので困るのです。行っていないと云うのは、先程(さきほど)も申した通り活力節約、活力消耗の二大方面において、ちょうど複雑の程度二十を有しておったところへ、俄然(がぜん)外部の圧迫で三十代まで飛びつかなければならなくなったのですから、あたかも天狗(てんぐ)にさらわれた男のように無我夢中で飛びついて行くのです。その経路はほとんど自覚していないくらいのものです。元々開化が甲の波から乙の波へ移るのはすでに甲は飽(あ)いていたたまれないから内部欲求の必要上ずるりと新らしい一波を開展するので甲の波の好所も悪所も酸いも甘いも甞(な)め尽した上にようやく一生面を開いたと云って宜(よろ)しい。したがって従来経験し尽した甲の波には衣を脱いだ蛇へびと同様未練もなければ残り惜しい心持もしない。のみならず新たに移った乙の波に揉(も)まれながら毫(ごう)も借り着をして世間体を繕(つくろ)っているという感が起らない。ところが日本の現代の開化を支配している波は西洋の潮流でその波を渡る日本人は西洋人ではないのだから、新らしい波が寄せるたびに自分がその中で食客(いそうろう)をして気兼(きが)ねをしているような気持になる。新らしい波はとにかく、今しがたようやくの思いで脱却した旧(ふる)い波の特質や真相やらも弁(わきまえ)る(→入試頻出語句)ひまのないうちにもう棄(す)てなければならなくなってしまった。食膳(しょくぜん)に向って皿の数を味い尽すどころか元来どんな御馳走(ごちそう)が出たかハッキリと眼に映じない前にもう膳を引いて新らしいのを並べられたと同じ事であります。こういう開化の影響を受ける国民はどこかに空虚の感がなければなりません。またどこかに不満と不安の念を懐(いだ)かなければなりません。それをあたかもこの開化が内発的ででもあるかのごとき顔をして得意でいる人のあるのは宜(よろ)しくない。それはよほどハイカラ(→「ハイカラ」とは、西洋風の服装・・・生活・・じなどを意味する日本語の造語。現在では、あまり使われない)です、宜(よろ)しくない。虚偽でもある。軽薄でもある。(→かなり怒っています。当時の日本に、このような危機感を抱けた人物は、あまり多くないでしょう。欧米への留学経験があり、欧米と日本との違いを実感として知っている人だけが、このような感覚を抱けるのでしょう)自分はまだ煙草(たばこ)を喫(す)っても碌(ろく)に味さえ分らない子供の癖に、煙草を喫ってさも旨(うま)そうな風をしたら生意気でしょう。それをあえてしなければ立ち行かない日本人はずいぶん悲酸(ひさん)な国民と云わなければならない(→「悲酸」(悲惨)とまで言っていることに注意)。開化の名は下せないかも知れないが、西洋人と日本人の社交を見てもちょっと気がつくでしょう。西洋人と交際をする以上、日本本位ではどうしても旨く行きません。交際しなくともよいと云えばそれまでであるが、情けないかな交際しなければいられないのが日本の現状でありましょう。しかして強いものと交際すれば、どうしても己を棄てて先方の習慣に従わなければならなくなる。我々があの人は肉刺(フォーク)の持ちようも知らないとか、小刀(ナイフ)の持ちようも心得ないとか何とか云って、他を批評して得意なのは、つまりは何でもない、ただ西洋人が我々より強いからである。我々の方が強ければあっちこっちの真似まねをさせて主客の位地(いち)を易(かえ)るのは容易の事である。(→面白い指摘です。「欧米中心主義的なグローバル化は偶然の産物」という見方も可能であるという見解です)がそう行かないからこっちで先方の真似をする。しかも自然天然に発展して来た風俗(→「その社会・地域の日常生活の習慣・風習」という意味)を急に変える訳にいかぬから、ただ器械的に西洋の礼式などを覚えるよりほかに仕方がない。自然と内に醗酵(はっこう)して醸(かも)された礼法(→「礼儀作法」という意味)でないから取ってつけたようではなはだ見苦しい。これは開化じゃない、開化の一端とも云えないほどの些細(ささい)な事であるが、そういう些細な事に至るまで、我々のやっている事は内発的でない、外発的である。これを一言にして云えば現代日本の開化は皮相上滑(うわすべ)りの開化であると云う事に帰着するのである。無論一から十まで何から何までとは言わない。複雑な問題に対してそう過激の言葉は慎(つつし)まなければ悪いが我々の開化の一部分、あるいは大部分は己惚(うぬぼれ)てみても上滑りと評するより致し方がない。しかしそれが悪いからお止しなさいと云うのではない。事実やむをえない、涙を呑(の)んで上滑りに滑って行かなければならないと云うのです。」
「日本の現代開化の真相もこの話と同様で、分らないうちこそ研究もして見たいが、こう露骨にその性質が分って見るとかえって分らない昔の方が幸福であるという気にもなります。とにかく私の解剖した事が本当のところだとすれば我々は日本の将来というものについてどうしても悲観したくなるのであります。外国人に対して乃公(おれ)の国には富士山があるというような馬鹿(→過激な罵倒です)は今日はあまり云わないようだが、戦争(→日露戦争です)以後一等国になったんだという高慢な声は随所に聞くようである。なかなか気楽な見方をすればできるものだと思います。(→大国ロシアに勝ち日本国民も日本国家も、自信過剰になっていて思い上がっていた、この時代にしては、実に大胆な勇気のある発言です。日本国民・日本国家を敵に回す可能性が大ですから)ではどうしてこの急場を切り抜けるかと質問されても、前(ぜん)申した通り私には名案も何もない。ただできるだけ神経衰弱に罹(かか)らない程度において、内発的に変化して行くが好かろうというような体裁の好いことを言うよりほかに仕方がない。にがい真実を臆面(おくめん)なく諸君の前にさらけ出して、幸福な諸君にたとい一時間たりとも不快の念を与えたのは重々御詫(おわび)を申し上げますが、また私の述べ来(き)たったところもまた相当の論拠と応分の思索の結果から出た生真面目(きまじめ)の意見であるという点にも御同情になって悪いところは大目に見ていただきたいのであります。」
ーーーーーーーー
(当ブログによる解説)
いかにも「無鉄砲」で、「へそ曲がり」の漱石らしい記述です。
『坊っちゃん』の登場人物である「坊っちゃん」と「赤シャツ」が、「漱石の分身」であるのは有名です。
上記の講演には、「坊っちゃんのストレートな激情」と「赤シャツの皮肉」が、入り交じっていて、読んでいて、わくわくします。
現代の状況にも、充分に適合する内容になっていることに、驚嘆します❗
上記の「現代日本の開化」を読んで、注意するべきことは、夏目漱石は「文明開化」を全面的には否定してはいないという点です。
上記に引用した最後の部分で、「しかしそれが悪いからお止しなさいと云うのではない。事実やむをえない、涙を呑(の)んで上滑りに滑って行かなければならないと云うのです」と述べていることに注目してください。
だからこそ、ここに、「急激な文明開化・西洋化の中で、日本の伝統的精神をいかに保持し、日本人の自己・アイデンティティを確保していくのか」という、夏目漱石の重大な悩み・課題が発生するのです。
その当時、一応、「和魂洋才」というスローガンが、打ち立てられました。
しかし、「和魂洋才」は、単なるスローガンにすぎず、実際には、大部分の「和魂」=「日本の伝統的価値観」はあっさり脱ぎ捨てられたのでは、ないでしょうか。
西洋文化を「涙を呑(の)んで上滑りに滑って行かなければならない」状態で取り入れていけば、「和魂」は、いつの間にか、忘れられていくのが道理だからです。
ところで、夏目漱石は当時の「日本の近代化」を、本音では、どのように評価していたのでしょうか?
参考になるのは、『三四郎』の中の「広田先生」の発言です。
「広田先生」の年齢などの人物設定をみると、「広田先生」は「漱石の分身」であり、「広田先生」の発言は、「夏目漱石の本音」と解釈することが可能です。
そこで、次に、『三四郎』について検討することにします。
(4)『三四郎』における「文明開化」批判
特に、注目されるべきは、「広田先生」の有名な「日本は滅びるね」という発言と、その前後の記述です。
熊本から東京に向かう汽車の中で、三四郎は、「西洋化に邁進(まいしん)する日本」を批判的に見る広田先生に出会います。
広田先生は、日本が日露戦争に勝ったと浮かれているが、「このままいくと、日本は滅びる」と言い、三四郎を驚かせます。
戦争に勝ったとしても、国力から見て無理な戦争により、国民は、経済的にも、精神的にも、疲弊していたのです。
特に、広田先生のようなインテリ階層は、戦勝の喜びよりも、疲弊しつつも、西洋化・近代化に熱中・狂奔する、思考停止状態の、(つまり、反知性主義的な)日本の将来に絶望感・危機感を抱いていたのでしょう。
この辺の事情は、現在の日本の状況に酷似しています。現在の日本は、東日本大震災・福島原発事故、そして、世界的な不景気の中で、大震災からの復興、福島原発の処理に疲弊しています。それにもかかわらず、今の日本は、日本の農林水産業を壊滅させかねないグローバル経済(過激な新自由主義経済)への参加、膨大な予算を浪費する(単なる大人の運動会である)東京オリンピックの開催、に狂奔しています。全くの思考停止状態、反知性主義の蔓延と評価せざるを得ません。「(このままいくと)日本は滅びるね」という広田先生のセリフは、そのまま、「現在の日本」に当てはまると思います。
以下に、「日本は滅びるね」という発言を含む『三四郎』の一部を引用します。
(『三四郎』の本文)
(赤字は当ブログによる「強調」です。青字は当ブログによる「注」です)
「浜松で二人とも申し合わせたように弁当を食った。食ってしまっても汽車は容易に出ない。窓から見ると、西洋人が四、五人列車の前を行ったり来たりしている。そのうちの一組は夫婦とみえて、暑いのに手を組み合わせている。女は上下(うえした)ともまっ白な着物で、たいへん美しい。こういう派手(はで)なきれいな西洋人は珍しいばかりではない。すこぶる上等に見える。三四郎は一生懸命にみとれていた。これではいばるのももっともだと思った。自分が西洋へ行って、こんな人のなかにはいったらさだめし肩身の狭いことだろうとまで考えた。窓の前を通る時二人の話を熱心に聞いてみたがちっともわからない。熊本の教師とはまるで発音が違うようだった。
ところへ例の男が首を後から出して、
「まだ出そうもないのですかね」と言いながら、今行き過ぎた西洋の夫婦をちょいと見て、
「ああ美しい」(→「文明開化=西洋化」に批判的な広田先生も、知らぬ間に「西洋的な美意識」に拘束されてしまったようで、少々、皮肉的な表現になっています。「皮肉的な表現」は、漱石の得意技です。このことを読者の方で強く意識していないと、軽く読み過ごしてしまうほどに、漱石は、さりげなく「皮肉表現」を多用しています。「『漱石の皮肉表現の真意』の説明問題」は、難関大学の入試で頻出なので、注意しておいてください)と小声に言って、すぐに生欠伸(なまあくび)をした。三四郎は自分がいかにもいなか者らしいのに気がついて、さっそく首を引き込めて、着座した。男もつづいて席に返った。そうして、
「どうも西洋人は美しいですね」と言った。
三四郎はべつだんの答も出ないのでただはあと受けて笑っていた。すると髭の男は、
「お互いは哀れだなあ」と言い出した。「こんな顔をして、こんな顔をして、こんなに弱っていては、いくら日露戦争に勝って、一等国になってもだめですね。もっとも建物を見ても、庭園を見ても、いずれも顔相応のところだが、――あなたは東京がはじめてなら、まだ富士山を見たことがないでしょう。今に見えるから御覧なさい。あれが日本一(にほんいち)の名物だ。あれよりほかに自慢するものは何もない。ところがその富士山は天然自然に昔からあったものなんだからしかたがない。我々がこしらえたものじゃない」と言ってまたにやにや笑っている。三四郎は日露戦争以後こんな人間に出合うとは思いもよらなかった。どうも日本人じゃないような気がする。
「しかしこれからは日本もだんだん発展するでしょう」と弁護した。
すると、かの男は、すましたもので、「滅びるね」と言った。ーー熊本でこんなことを口に出せば、すぐなぐられる。悪くすると国賊取り扱いにされる。三四郎は頭の中のどこのすみにもこういう思想を入れる余裕はないような空気のうちで生長した。だからことによると自分の年の若いのに乗じて、ひとを愚弄(ぐろう)するのではなかろうかとも考えた。男は例のごとく、にやにや笑っている。そのくせ言葉つきはどこまでもおちついている。どうも見当がつかないから、相手になるのをやめて黙ってしまった。すると男が、こう言った。
「熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より・・・・」でちょっと切ったが、三四郎の顔を見ると耳を傾けている。
「日本より頭の中のほうが広いでしょう(→一見、分かりにくい表現です。「文明開化が進行中の今こそ、視野を狭くしては、いけない」「良く考えよ」と言いたいのです)」と言った。「とらわれちゃだめだ。いくら日本のためを思ったって贔屓(ひいき)の引き倒し(→「相手を大切にすることにより、かえって、相手に害悪がおよぶ」という意味→「日本のためになると思い、文明開化を積極的に進めることは、かえって、日本のためにはならない」ということです)になるばかりだ」」
ーーーーーーーー
(当ブログによる解説)
年齢的にみて、広田先生方は、「夏目漱石の分身」と考えることが可能です。
その上で、「(日本は)滅びるね」を、どのように解釈するべきでしょうか。
私は、以下のように考えました。
「文明開化=西洋化」に伴い、日本国家・日本人は、「自分たちの、精神的伝統=伝統的価値観」を軽視・無視していくでしょう。
「伝統的な価値観」は、「自己」の「精神的な基盤」です。
「伝統的価値観」を「喪失」することは、日本国家・日本人の「自己(アイデンティティ)」の「喪失」と同じことです。
もはや、「まともな国家・個人と言えなくなる」、ということです。
これは、国家・個人の実質的な「滅亡」と同視できるのです。
前回の記事で、私が強調したことですが、明治時代の日本人が、運慶の彫刻を無条件に賞賛する理由は、無意識の内に、「過去の自分たちの価値観」、「運慶の生きていた頃(平安時代・鎌倉時代)の日本の伝統的芸術観・価値観」を懐かしがっているからです。
最近では、ますます「グローバル化」が叫ばれ、「一部の企業の、社内での英語公用語化」、「小学校低学年からの英語教育導入」などということが流行しているようです。
これらは、無思慮な、思考停止的な「グローバル化」としか評価できません。
今日、より一層、私達は、「日本人」としての「アイデンティティーの確立」・「自己の確立」を意識する必要があります。
いずれにせよ、「過激なグローバル化」が進展中の現代にこそ、この「文明開化」批判を熟読して、「漱石の心の葛藤」を追体験するべきだ、と私は思います。
(5)『吾輩は猫である』における「文明開化」批判
『吾輩は猫である』の中の「文明開化」批判も、読みごたえがあります。
『吾輩は猫である』の中には、「文明開化」批判を展開している記述が数ヶ所ありますが、特に、本質的な批判をしている部分を以下に引用します。
(『吾輩は猫である』の本文)
(赤字は当ブログによる「強調」です。青字は当ブログによる「注」です)
以下は、落雲館中学校生徒が「苦沙弥」先生宅の庭に野球ボールを打ち込み、「苦沙弥」先生が激高している場面(第8話)です。
「哲学者先生(→八木 独仙(やぎ どくせん)。苦沙弥先生の同窓。ヤギヒゲが特徴の、哲学者風な人物。夏目漱石も漢文学に精通しているので、「漱石の分身」とも評価し得ます。禅語、「東洋的な消極的の修養」論を話題に取り上げるのが得意)はだまって聞いていたが、ようやく口を開ひらいて、かように主人に説き出した。
『ぴん助やきしゃごが何を云ったって知らん顔をしておればいいじゃないか。どうせ下らんのだから。中学の生徒なんか構う価値があるものか。なに妨害になる。だって談判しても、喧嘩をしてもその妨害はとれんのじゃないか。僕はそう云う点になると西洋人より昔の日本人の方がよほどえらいと思う。西洋人のやり方は積極的積極的と云って近頃大分だいぶ流行(はや)るが、あれは大(だい)なる欠点を持っているよ。第一積極的と云ったって際限がない話だ。いつまで積極的にやり通したって、満足と云う域とか完全と云う境(さかい)にいけるものじゃない。向むこうに檜(ひのき)があるだろう。あれが目障(めざわ)りになるから取り払う。とその向うの下宿屋がまた邪魔になる。下宿屋を退去させると、その次の家が癪(しゃく)に触る。どこまで行っても際限のない話しさ。西洋人の遣(や)り口(くち)はみんなこれさ。ナポレオンでも、アレキサンダーでも勝って満足したものは一人もないんだよ。人が気に喰わん、喧嘩をする、先方が閉口しない、法庭(ほうてい)へ訴える、法庭で勝つ、それで落着と思うのは間違さ。心の落着は死ぬまで焦(あせ)ったって片付く事があるものか。寡人政治(かじんせいじ)がいかんから、代議政体(だいぎせいたい』にする。代議政体がいかんから、また何かにしたくなる。川が生意気だって橋をかける、山が気に喰わんと云って隧道トンネルを堀る。交通が面倒だと云って鉄道を布(し)く。それで永久満足が出来るものじゃない。さればと云って人間だものどこまで積極的に我意を通す事が出来るものか。西洋の文明は積極的、進取的かも知れないがつまり不満足で一生をくらす人の作った文明さ。日本の文明は自分以外の状態を変化させて満足を求めるのじゃない。西洋と大(おおい)に違うところは、根本的に周囲の境遇は動かすべからざるものと云う一大仮定の下(もと)に発達しているのだ。親子の関係が面白くないと云って欧洲人のようにこの関係を改良して落ちつきをとろうとするのではない。親子の関係は在来のままでとうてい動かす事が出来んものとして、その関係の下(もと)に安心を求むる手段を講ずるにある。夫婦君臣の間柄もその通り、武士町人の区別もその通り、自然その物を観(み)るのもその通り。ーー山があって隣国へ行かれなければ、山を崩すと云う考を起す代りに隣国へ行かんでも困らないと云う工夫をする。山を越さなくとも満足だと云う心持ちを養成するのだ。それだから君見給え。禅家(ぜんけ)でも儒家(じゅか)でもきっと根本的にこの問題をつらまえる(→「つらまえる」とは「捉まえる。捕まえる」と書き、「とらえる。つかまえる」という意味)。いくら自分がえらくても世の中はとうてい意のごとくなるものではない、落日(らくじつ)を回(めぐ)らす事も、加茂川を逆(さか)に流す事も出来ない。ただ出来るものは自分の心だけだからね。心さえ自由にする修業をしたら、落雲館の生徒がいくら騒いでも平気なものではないか、今戸焼の狸でも構わんでおられそうなものだ。ぴん助なんか愚(ぐ)な事を云ったらこの馬鹿野郎とすましておれば仔細(しさい)(→入試頻出語句)なかろう。何でも昔しの坊主は人に斬(き)り付けられた時電光影裏(でんこうえいり)に春風(しゅんぷう)を斬るとか、何とか洒落(しゃ)れた事を云ったと云う話だぜ。心の修業がつんで消極の極に達するとこんな霊活な作用が出来るのじゃないかしらん。僕なんか、そんなむずかしい事は分らないが、とにかく西洋人風の積極主義ばかりがいいと思うのは少々誤っているようだ。現に君がいくら積極主義に働いたって、生徒が君をひやかしにくるのをどうする事も出来ないじゃないか。君の権力であの学校を閉鎖するか、または先方が警察に訴えるだけのわるい事をやれば格別だが、さもない以上は、どんなに積極的に出たったて勝てっこないよ。もし積極的に出るとすれば金の問題になる。多勢(たぜい)に無勢(ぶぜい)の問題になる。換言すると君が金持に頭を下げなければならんと云う事になる。衆を恃(たの)む(→「多人数を頼りに強引に何事かをする」という意味)小供に恐れ入らなければならんと云う事になる。君のような貧乏人でしかもたった一人で積極的に喧嘩をしようと云うのがそもそも君の不平の種さ。どうだい分ったかい』」
ーーーーーーーー
(当ブログによる解説)
確かに、「西洋人風の積極主義」には、「不満足で一生をくらす人の作った文明」という側面があるようです。
「欲望の追求」に、切りがないということです。
漱石は、「西洋の欲望的な歴史」の本質を見抜いているのです。
…………………………
「不満足で一生をくらす人」に関しては、藤田省三氏の論考『全体主義の時代経験』(→入試頻出出典です。最近、早稲田大学政経学部でも出題されています。この問題については、下の記事で解説しています→リンク画像を貼っておきます)でも、同様なことを論じています。
以下は、最近、このブログで記事として発表したものです。
(藤田省三氏の論考『全体主義の時代経験』)
「抑制なく邁進(ばくしん)する産業技術の社会は、即座の効用を誇る完成製品を提供し、その速効製品を新しく次々と開発し、その新品を即刻使用させることに全力を尽くして止まない(→「消費社会」が高度化した「高度消費社会」の段階になったことを意味しています)。そして私たちの圧倒的大多数が、この回転の体系に関係する何処(どこ)かに位置することを以て生存の手段としている。ーーという社会的関連が在るのだから、分断された一回的享受の反復がいよいよめまぐるしく繰り返されていく傾向は、何らかの意識的努力がない限り停(と)どまる処を知らない筈である。」
ーーーーーーーー
(当ブログによる解説)
20世紀は、大量生産・大量消費・大量廃棄の「使い捨て文明」(→「欲望の飽くなき追求」の一形態です)のもと、人類は科学技術の恩恵を受けて、快適な生活をおくる事ができました。
しかし、様々な資源の枯渇と、地球温暖化現象によって、人類は、存亡の危機にまで直面しています。
21世紀は、「使い捨て社会」から「持続可能」な「資源循環型社会」の構築、「環境重視社会」への転換が求められています。
…………………………
『吾輩は猫である』の解説に戻ります。
この作品は単に面白いだけではなく、「現代の日本社会のあり方」について再考する契機になります。
漱石のような、自分をも突き放して考察の対象とする「軽やかで鋭敏な批判精神」を持つことは、現代の日本人に必要不可欠だと思います。
現在、漱石の作品が、ますます人気になっている背景には、現代の日本人が、このような「漱石の視点」を無意識の内に求めているからではないでしょうか。
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↓ 以下は、今回の記事に関連する、当ブログの記事の紹介です。
(6)『現代日本の開化』・『夏目漱石』関連の他の記事
(7)「文語文・擬古文」関連の他の記事
(8)「グローバル化」関連の記事
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今回の記事は、これで終わりです。
次回の記事は、約10日後に発表の予定です。
↓ 「明治時代の文明開化」に関する、森鴎外のエッセイ(随筆)『混沌』(早稲田大学 政経学部過去問)の問題・解答・解説があります。
私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。
https://twitter.com/gensairyu2
小説問題・純客観的解法『夢十夜・第六夜』夏目漱石と文明開化
け
(1)小説問題・純客観的解法『夢十夜・第六夜』・夏目漱石と文明開化
① 小説問題を得意分野にしよう
小説問題を得意分野にしよう。
センター試験でも、難関大学入試でも、小説・エッセイ(随筆)問題が国語(現代文)における敗因だったという受験生が多いようです。
確かに、小説問題、エッセイ・随筆問題は、国語(現代文)という科目の中でも、特に解きにくい側面が、あります。
しかし、少し工夫することで、つまり、対策を意識することで、小説問題、エッセイ・随筆問題を、得意分野にすることが、可能です。
あきらめないことが、肝心です!
② 小説問題解法のポイント・注意点
小説・エッセイ(随筆)問題の入試出題率は、相変わらず高く、毎年約1割です。
まず、センター試験の国語では、毎年、出題されます。
次に、難関・国公立・私立大学では、頻出です。
小説・エッセイ問題については、「解法(対策)を意識しつつ、慣れること」が必要となります。
本来、小説やエッセイは、一文一文味わいつつ読むべきです。(国語自体が本来は、そういうものです。)
が、これは入試では、時間の面でも、解法の方向でも、有害ですらあります。
あくまで、設問(そして、選択肢)の要求に応じて、主観的文章を、(設問の要求に応じて)純客観的に分析しなくてはならないのです。(国語を純客観的に分析? これ自体がパラドックスですが、ここでは、この問題には踏み込みません。日本の大学入試制度の問題点です。)
この点で、案外、「読書好きの受験生」、特に「小説・エッセイ好きの受験生」が、この種の問題に弱いのです。(ただ、「読書好きの受験生」は、語彙力があるのが「救い」です。)
しかし、それほど心配する必要はありません。
「入試問題の要求にいかに合わせていくか」という「方法論」を身に付けること、つまり、小説・エッセイ問題に、「正しく慣れる」ことで、得点力は劇的にアップするのです。
そこで、次に、小説・エッセイ問題の解法のポイントをまとめておきます。
【1】5W1H(つまり筋)の正確な把握
① 誰が(Who) 人物
② いつ(When) 時
③ どこで(Where) 場所
④ なぜ(Why) 理由→これが重要→ほとんどが「理由」に関する問題だ、と言ってもよいくらいです。「理由を意識する習慣」をつけるようにしてください。
⑤ なにを(What) 事件
⑥ どうした(How) 行為
上の①~⑥は、必ずしも、わかりやすい順序で書いてあるとは限りません。
読む側で、一つ一つ確認していく必要があります。
特に、④の「なぜ(理由)」は、入試の頻出ポイントなので、注意してチェックすることが大切です。→「理由」は「行為」の直前・直後に記述されていることが多いので、「精読・熟読」が必要不可欠です。小説・エッセイ問題においても、「要約」を意識し過ぎることは、有害無益です。
【2】登場人物の心理・性格をつかむ
① 登場人物の心理は、その行動・表情・発言に、にじみ出ているので、軽く読み流さないようにする。
② 情景描写は、登場人物の心情を暗示的・象徴的に提示している場合が多いということを、意識して読む。
③ 心理面に重点を置いて、登場人物相互間の人間関係を押さえていく。
④ 登場人物の心理を推理する問題が非常に多い。その場合には、受験生は自分をその人物の立場に置いて、インテリ的に、真面目に、さらに言えば、「人生重視的」に、一般的に、インテリ的に(まじめに)、考えていくようにする。→ある意味で、「まともな大人」的に考えるということです。
⑤ 心理は、時間とともに流動するので、心理的変化は丁寧に(精読・熟読が不可欠)追うようにする。
以上を元に、「いかに小説問題を解いていくか」、を以下で解説していきます。
③ 「トランプ現象」、つまり、「グローバル化の功罪」の最近の論点化に注目して、『夢十夜・第六夜』の演習・解答・解説、『三四郎』・『吾輩は猫である』・『現代日本の開化』の解説をしていきます。
(ただし、今回の記事では、『夢十夜・第六夜』の演習・解答・解説を中心に記述します。『三四郎』・『吾輩は猫である』・『現代日本の開化』の解説は次回の記事で発表の予定です)
具体的な問題としては、『夢十夜・第六夜』が役に立つと思います。
『夢十夜・第六夜』は「明治時の文明開化」を背景にした短編小説です。
「明治時の文明開化」とは、現代でいえば、「グローバル化」であり「国際化」です。 「グローバル化・国際化」については、「グローバル化・国際化の推進」に否定的なトランプ候補が2016年のアメリカ大統領選挙に勝利したことで、最近また、「グローバル化・国際化の功罪」が改めて論点化しています。
『夢十夜・第六夜』も「明治時の文明開化」の「マイナス面」を論点・テーマとしている小説なので、予想問題として検討しておく価値があります。
ただし、私は『夢十夜・第六夜』のみが、そのまま出題されるというよりも、『三四郎』『現代日本の開化』と共に出題される可能性が高いのではないか、と思っています。
その方が、ハイレベルな問題を作ることが可能だからです。
そこで、今回の記事では、字数の関係で『夢十夜・第六夜』を中心に記述し、次回の記事で『三四郎』『現代日本の開化』について記述する予定です。
こうした広い、柔軟な視点に立った、大胆な論点・テーマ予想が、当ブログの特色です。
こうした柔軟な論点・テーマ予測が2016年度の東大国語(内田樹氏)、一橋大学国語(長谷正人氏)、静岡大学国語(鷲田清一氏)のズバリ的中につながったのです。
(3)『夢十夜・第六夜』の予想問題と解答・解説
(『夢十夜』・「第六夜」全文)
(【1】・【2】・【3】・・・・は当ブログで付加した「段落番号」です。青字は当ブログによる「注意」です。赤字は「設問番号」です。)
「【1】 運慶(うんけい)が護国寺(ごこくじ)の山門で仁王(におう)を刻んでいると云う評判だから、散歩ながら行って見ると、自分より先にもう大勢集まって、しきりに下馬評(げばひょう)(→「読み」・「書き取り」・「意味問題」に注意)をやっていた。
【2】 山門の前五六間の所には、大きな赤松があって、その幹が斜(ななめ)に山門の甍(いらか)(→「読み」に注意)を隠して、遠い青空まで伸(の)びて(→「書き取り」に注意)いる。松の緑と朱塗(しゅぬり)の門が互いに照(うつ)り合ってみごとに見える。その上松の位地が好い。門の左の端を眼障(めざわ)りにならないように、斜(はす)に切って行って、上になるほど幅を広く屋根まで突出(つきだ)しているのが何となく古風である。鎌倉時代とも思われる。
【3】 ところが見ているものは、みんな自分と同じく、明治の人間である。その中(うち)でも車夫が一番多い。辻待(つじまち)をして退屈だから立っているに相違(→「書き取り」に注意)ない。
「大きなもんだなあ」と云っている。
「人間を拵(こしら)えるよりもよっぽど骨が折れるだろう」とも云っている。
そうかと思うと、「へえ仁王だね。今でも仁王を彫(ほ)るのかね。へえそうかね。私(わっし)ゃまた仁王はみんな古いのばかりかと思ってた」と云った男がある。
「どうも強そうですね。なんだってえますぜ。昔から誰が強いって、仁王ほど強い人あ無いって云いますぜ。何でも日本武尊(やまとたけるのみこと)(→「読み」に注意)よりも強いんだってえからね」と話しかけた男もある。この男は尻を端折(はしょ)って、帽子を被(かぶ)らずにいた。よほど無教育な男と見える。(→「無教育」と思った理由は?→問1)
【4】 運慶は見物人の評判には委細頓着(とんじゃく)なく(→「意味問題」?→問2)鑿(のみ)と槌(つち)を動かしている。いっこう振り向きもしない。高い所に乗って、仁王の顔の辺(あたり)(→「読み」に注意)をしきりに彫(ほ)り抜(ぬ)いて行く。
【5】 運慶は頭に小さい烏帽子(えぼし)のようなものを乗せて、素袍(すおう)だか何だかわからない大きな袖(そで)を背中(せなか)で括(くく)っている。その様子がいかにも古くさい。わいわい云ってる見物人とはまるで釣り合が取れないようである。自分はどうして今時分まで運慶が生きているのかなと思った。どうも不思議な事があるものだと考えながら、やはり立って見ていた。
【6】 しかし運慶の方では不思議とも奇体(→「意味問題」に注意)ともとんと感じ得ない様子で一生懸命(→「書き取り」注意)彫っている。仰向(あおむ)いてこの態度を眺めていた一人の若い男が、自分の方を振り向いて、
「さすがは運慶だな。(→理由は?→問4)眼中に我々なしだ。天下の英雄はただ仁王と我(わ)れとあるのみと云う態度だ。天晴(あっぱれ)(→「読み」・「意味問題」に注意)だ」と云って賞(ほ)め出した。
【7】 自分はこの言葉を面白いと思った。(→どうして「面白い」と思ったのか?→問5)それでちょっと若い男の方を見ると、若い男は、すかさず、
「あの鑿と槌の使い方を見たまえ。大自在(だいじ)(→「書き取り」に注意)ざいの妙境(→「書き取り」に注意。「意味問題」?→問6)に達している」と云った。
【8】 運慶は今太い眉(まゆ)を一寸(いっすん)の高さに横へ彫り抜いて、鑿の歯を竪(たて)に返すや否や斜(は)すに、上から槌を打(う)ち下(おろ)した。堅い木を一(ひ)と刻(きざ)みに削(けず)(→「書き取り」に注意)って、厚い木屑(きくず)が槌の声に応じて飛んだと思ったら、小鼻のおっ開(ぴら)いた怒り鼻の側面がたちまち浮き上がって来た。その刀(とう)の入れ方がいかにも無遠慮であった。そうして少しも疑念を挾(さしはさ)んでおらんように見えた。
【9】 「よくああ無造作(むぞうさ)に(→「書き取り」に注意。「同義語」を本文中から抜き出せ→問7)鑿を使って、思うような眉(まみえ)や鼻ができるものだな」と自分はあんまり感心したから独言(ひとりごと)(→「読み」に注意)のように言った。するとさっきの若い男が、
「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋(うま)っているのを、鑿(のみ)と槌(つち)の力で掘り出すまでだ。まるで土の中から石を掘り出すようなものだからけっして間違うはずはない」と云った。
【10】 自分はこの時始めて彫刻とはそんなものかと思い出した。(→「彫刻」をどのように考えたのか?→問8)はたしてそうなら誰にでもできる事だと思い出した。それで急に自分も仁王が彫(ほ)ってみたくなったから見物をやめてさっそく家うちへ帰った。
【11】 道具箱から鑿(のみ)と金槌(かなづち)を持ち出して、裏へ出て見ると、せんだっての暴風(あらし)で倒れた樫(かし)を、薪(まき)にするつもりで、木挽(こびき)に挽(ひ)かせた手頃な奴(やつ)が、たくさん積んであった。
【12】 自分は一番大きいのを選んで、勢いよく彫(ほ)り始めて見たが、不幸にして、仁王は見当らなかった。その次のにも運悪く掘り当てる事ができなかった。三番目のにも仁王はいなかった。自分は積んである薪を片(かた)っ端(ぱし)から彫って見たが、どれもこれも仁王を蔵(かく)しているのはなかった。ついに明治の木にはとうてい仁王は埋(うま)っていないものだと悟った(→理由は?→問9)。それで運慶が今日(きょう)まで生きている理由もほぼ解った。(→理由は?→問10)」
…………………………
(問題・解説・解答)
問1 自分が「帽子を被(かぶ)らずにいた男」を「無教育な男だ」と思った理由は何か?
(解答) 判定できるはずがないのに、仁王(彫刻)と日本武尊(やまとたけるのみこと)の強さを比較しているから。
(別解) 単なるうわさ話の受け売りをしているから。
問2 「委細頓着(とんじゃく)なく」の意味は?
(解答) 「少しも気にしない」という意味。
問3 「運慶の性格」を説明せよ。
(解答) 運慶の性格がわかるのは、「運慶は見物人の評判には委細頓着なく鑿と槌を動かしている。一切振り向きもしない。」の部分です。→第【6】段落
ここからは、運慶が、「自分が生きている時代にも、周囲の人間の声にも影響されない、超然として動じない人物」だということが分かります。
問4 「さすがは運慶だな」と感じた理由を、これより前から抜き出せ。
(解答) 「一人の若い男」が、「さすがは運慶だな」と感じた理由は、その直後に書かれています。
つまり、「眼中に我々なしだ。天下の英雄はただ仁王と我(わ)れとあるのみと云う態度だ。天晴(あっぱれ)(→「読み」・「意味問題」)だ」と云って賞(ほ)め出した。」の部分が、その理由です。
解答の条件は、「これより前から抜き出せ」なので、「不思議とも奇体ともとんと感じ得ない様子で一生懸命彫っている。」の部分が正解になります。
問5 「自分はこの言葉をおもしろいと思った」理由は何か?
(解答) 見物人たちのセリフを見ると ほとんどが運慶ではなく仁王への賞賛であるのがわかります。 しかし、ひとりだけ若い男は「さすがは運慶だな」と運慶を賞賛します。 主人公が「この言葉を面白いと思った」理由はここにあります。
(別解) 運慶は見物人がいないかのように一心不乱に仁王像を彫っています。
見物人は、運慶に全く無視されているので、気分が悪いはずですが、「天晴(あっぱれ)だ」と、冷静に運慶の彫刻への態度を絶賛しているからです。
(別解) 他の見物人は、「運慶」を評価していないのに、「若い男」は一人で運慶を正当に賞賛しているうえに、芸術の理想についても熟知しているから。
問6 若い男が言った「大自在の妙境に達している」とはどのような意味か?
(解答) 「大自在」は、「何の束縛もなく、自由な様子」という意味。
「妙境」は、「きわめて優れた境地」という意味。
つまり、運慶が、鑿と槌を、全く自由に操作して仁王を彫っているという意味。
(少しも迷うこともなく、仁王の姿を木から彫り上げていくという意味。)
問7 「無造作に」の同義語を抜き出せ。
(解答) 直後の「その刀の入れ方がいかにも無遠慮であった。」の文の「無遠慮」が正解です。
問8 「自分はこのとき初めて彫刻とはそんなものかと思い出した。」とあるが、「彫刻」を、どのようなことと考えたのか。
(解答) 彫刻とは、木の中に埋まっているものを、鑿と槌の力で掘り出すこと。
問9 「ついに明治の木にはとうてい仁王は埋(うま)っていないものだと悟った」とあるが、この理由について説明せよ。
(解答) ここで考えられる可能性のあるポイントは3通りです。すなわち、
(1)① もともと、木には、「仁王」は入っていなかった。→「明治の木」という一風、変わった表現に注目すると、明治時代には、「木」という物まで、ダメになってしまったから
(2)「仁王」は入っていたのに、見えなかった。→
② 漱石が、本来、彫刻家ではないから見えなかった。
③ 同じ芸術家として、「仁王」は見えるはずだが、明治時代の人間だから見えなかった。
考えられる可能性としては、以上の3通りがあります。
ただ、初めの2つは、あまりに表面的で深みがなく、現代文(国語)の解答として適切ではない、と評価されることが多いでしょう。
「『ついに明治の木にはとうてい仁王は埋(うま)っていないものだと悟った』の解釈として考えてられる、あらゆる可能性を検討せよ」という問題が出題された時には、このように様々な可能性を探るべきですが、通常は最後(③)のみを考えればよいと思います。
そうすると、以下のように考えることがポイントになると思います。
明治時代には、「文明開化」による「西洋化・近代化」により、日本人の精神構造が、「西洋的な人間中心主義的発想」となりました。
そして、「自然との交流」は、出来なくなりました。その結果、木の中の「仁王」を見ることは、出来なくなったのです。
→ここで、「仁王」の意味するものは、何でしょうか?
「芸術そのもの」・「芸術の精神・精髄」と考えるべきです。
問10 「運慶が今日まで生きている理由もほぼわかった。」とあるが、その理由は何か?
(解答) 本問は、この小説のテーマ・主題、メッセージに関連すると言えます。
判断材料となる本文の記述は、「ついに明治の木にはとうてい仁王は埋(うま)っていないものだと悟った。それで運慶が今日まで生きている理由もほぼわかった」とあるだけです。従って、解釈に幅が出てきそうな問題です。
選択式問題であれば、消去法で選択肢を絞り、残った選択肢の比較対照で何とかなるでしょう。
しかし、記述式問題だと、悩ましいことになります。
そこで、以下では、考え得る解答を幾つか挙げてみます。
① 明治時代は運慶の生きていた時代とは違い、「まるで土の中から石を掘り出すように、木の中にあるものを彫り出すこと」が不可能な時代だから、「運慶」(運慶の像に対する高評価)が今日まで生きている理由もほぼわかった、と考えることが可能です。
つまり、「運慶の像」が、今(明治時代)まで生き残っていることを、「運慶が今日まで生きている」と表現したのです。
つまり、「文明開化」に伴う、「日本の伝統的芸術精神」の衰退の中で、その「伝統的芸術精神」を懐かしがる明治時代の日本人の気持ちが、「運慶の像に対する高評価」を生んでいると考えるのです。
② 次に、夢の中ではありますが、文字通り、「運慶本人が今日(きょう)まで生きている」と考えてみることも可能です。
漱石は、「運慶は死ぬに死ねない」と考えているのです。
漱石は、「運慶=日本の伝統的な芸術精神・芸術観」に生き残ってもらいたいのでしょう。
「運慶」に「日本の伝統」を伝えてもらいたいのでしょう。漱石の伝統重視の姿勢がうかがわれます。
上記の①・②から明らかなように、要するに、この作品は「明治時代の文明開化」に対する「痛烈な批判」を「出題(テーマ)」にしています。
この文明開化の過程で「日本人の伝統的な価値観・芸術的精神」が、他愛もなく打ち捨てられていることを、漱石はよく知っていました。
その中で、日本の行く末を案じ、漱石は「第六夜」のような夢を見たのです。
この「第六夜」は、「漱石の生涯のテーマ」に関係しているのです。
問11 「運慶」は、「何」の「象徴(シンボル)」、または、「隠喩(メタファー)」として描かれているか?
(解答)
① まず、「抽象的イメージ」としては、「運慶」は「伝統的価値観・芸術観」・「芸術家の理想像」の「象徴・暗喩」として描かれていると考えることが可能です。
② さらに、「運慶」は、「無知な人々に囲まれた孤高の中で、傑出した作品を作りそうあげていく人物」として描かれています。
その点からみて、この側面では、漱石自身が、「運慶」に「自分の芸術家としての理想の姿」、あるいは、「現在の自分の姿」を重ね合わせている、とみることも可能性です。
問12 見物人のうち、「漱石の分身」と評価し得る人物はいるか。もし、いるとして、どうして、「漱石の分身」と評価し得るのか?
(解答) 「運慶」を、「芸術家の理想像」、または、「漱石自身」とみれば、「運慶をプラス評価している人物」、つまり、「若い男」を「漱石の分身」とみることができます。
ここで、「若い男」とは、「さすがは運慶だな。眼中に我々なしだ。天下の英雄はただ仁王と我(わ)れとあるのみと云う態度だ。天晴(あっぱれ)だ」と云って賞(ほ)め出した「若い男」をさしています。
自分で自分を、励ましている、勇気づけている、と評価し得るのです。
夢の中での出来事なので、「漱石という一人の人格」が、様々な人物に変身しているとみることが可能性なのです。
…………………………
これで、『夢十夜・第六夜』の演習・解答・解説は、終わりです。
今回の『夢十夜・第六夜』で解説したこと(「文明開化と漱石の関係」)は、さらに『三四郎』・『現代日本の開化』などに関連しています。
次回の記事では、この点について解説していく予定です。
ご期待ください。
ーーーーーーーー
なお、以下に、
「『小説・エッセイ(随筆)問題』関連の記事」、
「『夏目漱石』関連の記事」、
「『グローバル化・国際化』関連の記事」、
「『文語文・擬古文対策』関連の記事」
のリンク画像を貼っておきます。
ぜひ、参考にしてください。
(4)「小説・エッセイ(随筆)問題」関連の記事
↓「文語文・擬古文対策」としても、役に立ちます。
↓「文語文・擬古文対策」としても、役に立ちます。
(5)上記以外の「夏目漱石」関連の記事
↓「文語文・擬古文対策」としても、役に立ちます。
(6)『グローバル化・国際化』関連の記事
↓2016年度・静岡大学国語にズバリ的中しました。
↓2016年度・東大国語にズバリ的中しました。「ズバリ的中報告・東大国語解説記事」のリンク画像は、下に貼ってあります。
ーーーーーーーー
これで、今回の記事は終わりです。
次回の記事(「夏目漱石と文明開化(グローバル化・国際化)の関係」、『三四郎』・『現代日本の開化』の解説)は、約10日後に発表の予定です。
ご期待ください。
以下の2冊の問題集は、私が執筆しました。ぜひ、ご覧ください。
5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)
- 作者: 斎藤隆
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私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。
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国語予想問題「プロの裏切り・プライドと教養の復権を」神里達博
(1)現代文(国語)・小論文予想問題ー「プロの裏切り・プライドと教養の復権を」(2015・12・18「朝日新聞」月刊安心新聞)ーなぜ、この論考に注目したのか?
① 第一に、最近の流行論点・テーマが含まれているからです。
つまり、
「企業の怠慢・不正・犯罪」、
「専門家・科学者の怠慢・不正・犯罪」、
「専門家・科学者の倫理(モラル)」、
「総合的教養(生きた教養)」、
「『大衆社会の病理=嫉妬』の問題性」、
「日本社会における悪平等主義(悪平等思想)」、
が含まれているからです。
② 第二に、最近(2015年4月20日)、秀逸な著作、『文明探偵の冒険』(講談社現代新書)を発表して、大学入試現代文(国語)・小論文で、これから注目するべき神里達博氏の論考だからです。
ここのところ、特に、東日本大震災・福島原発事故以降は、難関大学の現代文(国語)・小論文においては、科学史、科学論などの「科学批判」は、よく出題されています。
東日本大震災・福島原発事故で明らかになったように、「現代文明の発展と存続」を考察する際に、「現代文明と科学の関係」こそが、中心テーマになるからです。
『文明探偵の冒険』は、「科学の限界」や「歴史の本質」を本質的に、粘り強く、考察した名著だと思います。
以下に、神里達博氏の紹介をします。
③ 神里達博氏の紹介
神里達博(かみさと たつひろ)
大阪大学コミュニケーションデザイン・センター特任准教授。専門は科学史、科学技術社会論。1967年生まれ。1992年東京大学工学部卒業(化学工学専攻)。2002年東京大学大学院総合文化研究科博士課程単位取得満期退学(科学史・科学哲学専攻)。旧科学技術庁、旧三菱化学生命科学研究所、東京大学大学院工学系研究科原子力国際専攻特任准教授などを経て、2012年4月から現職。
主な著書に、
『食品リスク―BSEとモダニティ』(弘文堂・2005年)、
『科学技術のポリティクス』(城山英明編・東京大学出版会・2008年・分担執筆)、
『没落する文明』(萱野稔人との共著・集英社新書・2012年)、
などがあります。
(2)「プロの裏切りープライドと教養の復権を」の解説
(神里達博氏の論考)(概要です)
(赤字は当ブログによる「強調」です。青字は当ブログによる「注」です)
「師走も半ばを過ぎた。今年を振り返りながら改めて思うのは、「プロのモラル」に関わる事件が多かったということである。
杭工事のデータ偽装(「三井不動産レジデンシャル」・「旭化成建材」)は典型例だろう。そのような行為は、企業ブランドを大きく傷つけ、また業界全体に対する不信を招きかねない、重大な裏切りである。
また「東洋ゴム工業」は、建築物の免震ゴムで、また鉄道や船舶などに使う防振ゴムで、それぞれ性能の偽装を行っていたことが発覚した。これらも、2度も顧客を欺いた、許し難い行為であろう。
今年は他にも、40年以上にもわたって組織的に行政の目を欺いてきた「化学及(および)血清療法研究所(化血研)」の不正や、「東芝」の不正会計など、類似する事例が多数、報じられた。これらに共通するのは、なんらかの専門性をもって社会に対して仕事を請け負っていた者が、主として経済的利益を増やすために、信頼に背く行為を行っていた、という点である。私たちは、このような「プロの裏切り」に対して、どう対処すべきなのか。すぐに聞こえてくるのは罰則や監視の強化を求める声だが、ここでは少し違う角度から考えてみたい。まず、専門家のモラルとは、どのように維持されてきたのか、歴史的な流れを確認しておこう。
*
日本語でいう「プロ」とは「プロフェッショナル」の略語だが、英語の「Profess=明言する」から派生した言葉だ。これは元々、キリスト教世界において、特別に神から召喚(→「人を呼び出す」という意味)されて就くべき仕事、すなわち、聖職者、医師、法曹家の三つを指していた。そこでは専門的な訓練とともに、職に伴う倫理が求められたのは言うまでもない。そして、それを担保するのは、個人の自律もあっただろうが、同業者の相互チェックも重要な意味を持っていたと考えられる。自分たちの仕事のいわば「品質保証」は、職能共同体による自治によって担われてきたのだ。
この点は伝統的な「職人」の世界も似ている。倫理を下支えするのは、技に対するプライドというべきものであったはずだ。
だが近代に入ると、さまざまな仕事が社会的分業によって行われるようになっていく。これはまさに、「専門家=エキスパート」と呼ばれる人たちの増大を意味するのだ。典型例は「科学者」であろう。職業としての科学者が出現してきたのは、19世紀の欧州である。
このようにして、多数の専門家によって社会が運営されるようになってくると、伝統的な職能共同体に属する「プロ」や「職人」の倫理は、社会の背景へと退いていく。このような社会構造の変容に対して、最も早く警告を発した者の一人に、スペインの哲学者、オルテガがいる。彼は、大衆社会の出現とは、誰もが専門家となり、しかし自分の専門以外には関心を持たない、「慢心した坊ちゃん」の集まりになることだと看破した。そうやって「総合的教養」を失っていくヨーロッパ人を彼は「野蛮」と嘆いたのだ。
*
今、日本で起こっていることは、そのさらに先を行くものにも見える。素人には分からない狭く閉ざされた領域に住む「専門家」が、いつの間にか社会全体の規範から逸脱し、結局は自己利益の増大、あるいは自己保身のために、社会を欺く。この事態は実に深刻だ。
とはいえ、この状況はいずれ、世界中を悩ます共通の難問となるかもしれない。なぜなら近代の重要な本質が「分業」である以上、この世界は専門分化によってどこまでも分断されていく運命にあるからだ。
ならば、この流れに抗(あらが)う方法はあるのだろうか。
おそらく鍵となるのは、かつての「プロ」や「職人」が持っていた「プライド」と、失われた「教養」であると考えられる。すなわち、「目先の利益」や「大人の事情」よりも、自らの仕事に対する誇りを優先させることができるか、そして自分の専門以外の事柄に対する判断力の基礎となる「生きた教養」を再構築できるかどうか、ではないか。
そのために私たちにもすぐできることがある。それは利害関係を超えた「他者」に関心を持つこと、そして、その他者の良き仕事ぶりを見つけたら、素直に敬意(リスペクト)を表明することだ。人は理解され、尊敬されてはじめて、誇りを持てる。抜本的解決は容易ではないが、できれば罰則や監視ではなく、知性と尊敬によって世界を変えていきたい。」
(「プロの裏切り・プライドと教養の復権を」 2015・12・18「朝日新聞」月刊安心新聞)
ーーーーーーーー
(当ブログによる解説)
「プロのモラル違反」は、国民の生命・健康・財産に重大な悪影響を及ぼすことが多いので、深刻な問題です。
それだけに、この問題の対策は、緊急の課題です。
マスコミなどでは、この種の問題が発生すると、決まって対策として議論に上がるのは、罰則・監視の強化です。しかし、いくら罰則・監視を強化しても、モラル違反は完全にはなくなりません。このことは、今までに何回も繰り返されたことです。
神里氏の言うように、確かに「罰則」・「監視」では、根本的・本質的な解決にはならないのです。しかも、厳重な「罰則」や「監視」の中では、専門家たちの意欲・やる気は、どうしても減退していくでしょう。それでは、長期的視点から見て、社会にとって賢明な対策とは言えません。
このことは、かつての「出産時の死亡事故」を契機とした、当該産婦人科医へのマスコミ・行政・司法の厳罰的な対応が、結果として産婦人科医の激減を招来した、これまでの経緯を見ても明らかです。今になって、行政・社会が産婦人科医の優遇策を打ち出していますが、既に手遅れでしょう。
私も、本質的解決は、「知性」・「敬意(リスペクト)」によるしかないと思います。たとえ、実現困難な道だ、としてもです。
そのためには、日本社会は、今こそ、歪んだ「悪平等主義」・「悪平等思想」を見直すべきです。「高い専門性」・「高い能力」のある人間を素直に高評価するべきなのです。
それこそ、真の「個性重視」ではないでしょうか。「個性」とは、ファッションなどの外見的なものではありません。能力・技能こそ「真の個性」の最たるものです。
また、これこそ、「真のグローバル化」です。欧米では、医師・弁護士・IT技術者専門性の高い技術者などの専門家・プロ・エリートの高評価は、当然のことです。
だとすれば、専門家・プロ・エリートには、「素直に」「敬意」を表し、様々な待遇面でも、「それなりの高待遇」をもって対応するべきです。
専門家たちがプライド・誇りを持って、気持ちよく、レベルの高い、きちんとした仕事をすれば、それが社会の長期的利益につながるのです。
歪んだ「悪平等思想」から離れ、長期的視点から、物事を考えることこそが、賢明な道なのです。
これこそが、今回の問題の根本的な解決策だと思います。
問題は、いかに、それをスムーズに実現するか、です。つまり、社会が専門家たちに素直に敬意を表する前提として、専門家たちに、それにふさわしい態度・心掛けが必要だからです。
以下で、詳しく検討していきます。
(3)専門家に望まれる態度・心掛け
【1】「専門家主義」からの脱却
(①専門家たちは、「総合的教養」・「生きた教養」を身に付ける→「専門家の相互チェック」のために
②さらに、専門家も、国民も、「民主的コントロール」を意識する)
ここで参考になるのは、科学哲学者である小林傳司氏の意見です。以下に、概要を引用します。
(小林傳司氏の意見)(概要です)
(赤字は当ブログによる「強調」です。青字は当ブログによる「注」です)
「震災(→「東日本大震災」)により科学者への信頼は大きく失墜した。学界などから様々な反省が言われたが、今では以前に戻ったかのように見える。
一つは、日本社会が「専門家主義」から脱却できないことだ。「科学と社会の対話が大切」と言いながら、原発再稼働などの政策決定過程をみると「大事なことは専門家が決めるから、市民は余計な心配をしなくてよい」という姿勢が今も色濃い。震災で専門家があれほど視野が狭いことが露見したにもかかわらずだ。
これらの課題にどう対応すればよいか。まずは、市民が意思決定を専門家に任せすぎず、自分たちの問題ととらえることだ。科学技術は、それがなければ私たちは生活ができないほど重要で強力になっている。原子力のような巨大技術ほど「科学技術のシビリアンコントロール」が必要だ。
専門家は、市民が基礎知識に欠ける発言をしてもさげすんではならない。専門家は明確に言える部分と不確実な部分を分けて説明する責務があり、最終的には「社会が決める」という原則を受け入れなければいけない。
日本社会は「この道一筋何十年」という深掘り型は高く評価してきたが、自分の専門を超えて物事を俯瞰(ふかん)的に見られる科学者を育ててこなかった。広い意味での「教養」が重要だと思う。」
(朝日新聞 2016年3月10日 (東日本大震災5年 問われる科学)「7:教訓を生かす 科学技術、社会と関わってこそ 専門家に任せすぎるな」)
ーーーーーーーー
(当ブログによる解説)
ここで、小林傳司氏は、まず、「震災(→「東日本大震災」)で専門家の視野の狭さが露見したこと」を指摘しています。
そして、専門家も、市民も、「専門家主義」から脱却し、「科学技術のシビリアンコントロール」を実現することの必要性を強調しています。
小林氏の言うように、「この道一筋何十年」という深掘り型の専門家の意見のみを重視する「日本型の専門家主義」では、「視野の狭さ」という欠陥をカバーすることは、不可能でしょう。
対策としては、小林氏の言う「自分の専門を超えて物事を俯瞰(ふかん)的に見られる科学者」、つまり、「総合的教養」・「生きた教養」を持つ科学者の養成・育成が必要です。
それとともに、「科学技術のシビリアンコントロール」が必要なことは、言うまでもありません。
なお、ここで小林傳司氏の紹介をします。
小林傳司(こばやし ただし)
1954年生まれ。科学哲学者、大阪大学教授。1978年京都大学理学部生物学科卒、1983年東京大学大学院理学系研究科博士課程単位取得退学。1987年福岡教育大学講師、助教授、1990年南山大学人文学部助教授、教授、2005年大阪大学コミュニケーションデザインセンター教授、副センター長を歴任。現在は、大阪大学理事(教育担当)、副学長。専門は、科学哲学・科学技術社会論。
主な著書・共編著として、
『誰が科学技術について考えるのか コンセンサス会議という実験』(名古屋大学出版会・2004)
『トランス・サイエンスの時代 科学技術と社会をつなぐ』(NTT出版ライブラリーレゾナント・2007)
『科学とは何だろうか 科学観の転換』(中島秀人、中山伸樹共編著・木鐸社・科学見直し叢書・1991)
『公共のための科学技術』(編 玉川大学出版部・2002)
『社会技術概論』(小林信一,藤垣裕子共編著・放送大学教育振興会・2007)
『シリーズ大学』(7巻 ・広田照幸,吉田文,上山隆大,濱中淳子と編集委員 ・岩波書店 ・2013~14)、
があります。
【2】「ノブレス・オブリージュ」を意識すること
① 「ノブレス・オブリージュ」の意味・意義
「ノブレス・オブリージュ」の意味については、→佐藤優氏の著作『君たちが知っておくべきこと』(新潮社)が参考になります。
(佐藤優氏の論考)(概要です)
(赤字は当ブログによる「強調」です。青字は当ブログによる「注」です)
「私は、1996年から2002年までは、秋学期に東京大学教養学部後期教養課程で、民族・エスニシティー(→「民族性。その民族に固有な性質・特徴」という意味)理論に関する講義を行った。後期教養課程は、前期教養課程の1、2年次の成績が特によい東京大学の超エリートの集まる課程だ。学生たちは、選りすぐりで、確かに優秀だった。しかし、モスクワ大学の学生たちが、エリートであるという意識を素直に示して、勉学に励むとともにノブレス・オブリージュ(高貴なる者に伴う義務感)を身に付けようとしていたのに対し、成績の特に優秀な東大生たちは、周囲の嫉妬を買わないように細心の配慮をしていた。」(「あとがき」『君たちが知っておくべきこと』)
ーーーーーーーー
(当ブログによる解説)
問題になるのは、「ノブレス・オブリージュ(高貴なる者に伴う義務感)」の意味です。
これについては、佐藤氏は、本書の19ページでも、コメントしています。
「皆さんは日本のエリートの予備軍なんです。そこのところ、ちゃんと誇りを持ってほしいと思う。
そしてエリートは独自のノブレス・オブリージュ(高貴さは義務を強制する)、つまり社会の指導層として果すべき特別の義務を持つ。その精神は皆さんぐらいの年頃から形成していかないといけない。」
「ノブレス・オブリージュ」は、欧米社会の基礎的な道徳観であり、「高貴なる身分に付随する義務」を意味しています。
すなわち、「高い地位にある者は、それにふさわしい振る舞いをしなければならない」とするものです。
「それにふさわしい振る舞い」とは、「その身分にふさわしい高潔さ、気品、寛容、勇気」です。
「ノブレス・オブリージュ」の根本に流れる思想は、「人間として望ましき人格の養成」です。
「ノブレス・オブリージュ」は、「普遍的な、高い品性」を重視しているのです。
② 内田樹氏の見解→悲観論
日本のエリートは「ノブレス・オブリージュ」を持つことができるか、については、内田樹氏の悲観論があります。以下に、引用します。
(内田樹氏の論考)
(赤字は当ブログによる「強調」です。青字は当ブログによる「注」です)
「「人参と鞭」で子どもたちを学校に誘導しようとする(現代日本の教育)戦略はこうして破綻する。「欲望のない子ども」たちと「あまりにスマートな子どもたち」が学校から立ち去ることをそれはむしろ推進することになる。
引きこもりや不登校の子どもたちは別に「反社会的」なわけではない。むしろ「過剰に社会的」なのである。現在の教育イデオロギーをあまりに素直に内面化したために、学校教育の無意味さに耐えられなくなっているのである。
だから、ひどい言い方をすれば、今学校に通っている子どもたちは「なぜ学校に通うのか?」という問いを突き詰めたことのない子どもたちなのである。「みんなが行くから、私も行く」という程度の動機の子どもたちだけがぼんやり学校に通っているのである。
欧米の学校教育は、まだ日本の学校ほど激しく劣化していない。「何のために学校教育を受けるのか」について、とりあえずエリートたちには自分たちには「公共的な使命」が託されているという「ノブレス・オブリージュ」の感覚がまだ生きているからである。パブリックスクールからオックスフォードやケンブリッジに進学するエリートの少なくとも一部は、大英帝国を担うという公的義務の負荷を自分の肩に感じている。そういうエリートを育成するために学校が存在している。
だが、日本の場合、東大や京大の卒業者の中に「ノブレス・オブリージュ」を自覚している者はほとんどいない。
彼らは子どもの頃から、自分の学習努力の成果はすべて独占すべきであると教えられてきた人たちである。公益より私利を優先し、国富を私財に転移することに熱心で、私事のために公務員を利用しようとするものの方が出世するように制度設計されている社会で公共心の高いエリートが育つはずがない。
結論を述べる。
日本の学校教育制度は末期的な段階に達しており、小手先の「改革」でどうにかなるようなものではない。そこまで壊れている。」(内田樹の研究室「学校教育の終わり」2013・4・7)
ーーーーーーーー
(当ブログによる解説)
内田氏の意見は、日本で「公共心の高いエリートが育つ」ことについて、悲観的です。
その理由も、極めて論理的です。説得力もあります。
私も、悲観的な展望を持たざるを得ません。
しかし、それでも、日本の将来のために、なんとか良い方向への模索をするべきではないでしょうか。
エリートたる科学者、専門家が、「善き行い」をしなければ、日本社会は、決して良い方向には行かないのですから。
【3】「倫理(モラル)」を身に付けること
① 「倫理モラル」を身に付けること
長期的視点から見た、不正や犯罪的行為の対策として、最も効果的なものは、専門家たちが「倫理(モラル)」を身に付けることでしょう。
「倫理(モラル)の重要性」を実感することのできる、前田英樹氏の論考(『倫理という力』(講談社現代新書)の一節)を以下に引用します。
(前田英樹氏の論考)(概要です)
(赤字は当ブログによる「強調」です。青字は当ブログによる「注」です)
「アラン(→フランスの哲学者・評論家。『幸福論』(岩波文庫)で名高い)が書いたたくさんの新聞コラム(『プロポ』)のなかに「在るものを愛すること」という短文がある。これは、一九八〇年の復活祭の朝、ルーアンの地方紙に載った記事だが、何度読み返してもよい文章である。
アランは書いている。この世には、理解せずに受け容れなくてはならない、いろいろな物事がある。その意味で、何ぴとも宗教なしでは生きていない。宇宙はひとつの事実である。その事実の前で、理性はまず身を屈めねばならないと。子供は、蹴つまずいた石ころに腹を立てる。大人は、雨だ、雪だ、風だ、日照りだとぶつぶつ文句を言う。こういうのは、彼らが物事一切の関係をよく理解していないところから来る。彼らは、何でも物事は気まぐれの意志みたいなものに依りかかっていると思っている。お天気屋の庭師が、この世界のあちこちに水を撒くみたいに思っている。だから彼らは祈るのだ。祈るとは、際立って非宗教的な行為である。
けれども、「必然性」というものをいささかでも理解している人、そういう人はもはや宇宙に取り引き勘定を求めたりはしない。なぜ雨が降るのか、かくかくの死が訪れるのか、そんなことを尋ねたりはしない。なぜなら、こうした質問に答えなどないことを、この人は知っているから。ただもうご覧の通り、言えることはこれしかない。しかも、それだけで充分だ。在ることは、すでに何事かである。そのことが、あらゆる理性を圧倒する。
そこでアランは書く。真の宗教的感情は、在るものを愛することにある。私はそのことを信じて疑わないと。ただ在るものなど、愛されるに値しないのではないか、あなたがたはそう言うかもしれない。だが、全然そうではないのだ。世界を判断せず、愛さなくてはならぬ。在るものの前に身を屈めなくてはならぬ。」(『倫理という力』P 165)
ーーーーーーーー
(当ブログによる解説)
「この世には、理解せずに受け容れなくてはならない、いろいろな物事がある。」
「宇宙はひとつの事実である。その事実の前で、理性はまず身を屈めねばならない。」
「「必然性」というものをいささかでも理解している人、そういう人はもはや宇宙に取り引き勘定を求めたりはしない。」
「在ることは、すでに何事かである。そのことが、あらゆる理性を圧倒する。」
「真の宗教的感情真の宗教的感情は、在るものを愛することにある。」
「世界を判断せず、愛さなくてはならぬ。在るものの前に身を屈めなくてはならぬ。」
以上の一節は、何度でも噛みしめてください。
「倫理」の根底には「宗教的感情」があります。
重要なことは、「理性の限界」「自己の限界」を思い知ることです。
いくら「理性的」に、「人間中心主義的」に、「傲慢」に生きたところで、人間には、「必然性」・「天候」・「死」などの無数の限界があります。
特に、「死」は、絶対的な限界と言えます。
まずは、「在るもの」の前で、「謙虚」になることでしょう。
肩から力を抜き、「素直に謙虚に生きること」が、大切なのではないでしょうか。
ーーーーーーーー
(前田英樹氏の論考)(概要です)
(赤字は当ブログによる「強調」です。青字は当ブログによる「注」です)
「しかし、生きる目的は、ほんとうは私たちにはどうにもならない死の成就と切り離すことができない。私たちのなかで育っていく死によって、少しずつ遂げられていくような生の目的がある。したがって、私たちにはその双方が、はっきりとは見定めがたい。見定めがたいということが、人間の理性がこの世に生きるということの意味である。生の目的は、私たちを産んだ自然(スピノザの言う「能産的自然」)だけが知っている。この自然は、それ自体が〈ひとつの生〉であり、運動であり、力だとも言える。それは、無数の種を産み、個体を産む。産んでは消滅させ、消滅させてはまた産む。それは何のためか。何のためか、と問うことのできる人間を、自然が生んだのは、また何のためか。」(『倫理という力』P 184)
(P 185)「要するに、私たちの生の目的は、自然という〈ひとつの生〉が創り出す目的と同じ方向を向いている。私たちの理性は、この目的が何なのかを問う問うことはできる。が、明確な答えを引き出すことはできない。「在るものを愛すること」だけが、ついにその答えになる。」(『倫理という力』P185)
ーーーーーーーー
(当ブログによる解説)
「宇宙」「自然」という〈ひとつの生〉が、人間を産んだ」
そして、「宇宙」・「自然」の中で人間は死んでいく。
私たちの生の目的は、何か。
これは、私たちの根源的な疑問であり、悩みです。
しかし、「「在るものを愛すること」だけが、ついにその答えになる。」
この部分は、詩的な美しさに満ちています。
何度でも読み返すべきでしょう。
読めば読むほどに、味わいが深まっていくはずです。
② 前田英樹氏の紹介
以下に、前田英樹氏の紹介を、します。
前田 英樹
1951年、大阪府生まれ。中央大学大学院文学研究科フランス文学専攻修了。現在、立教大学現代心理学部教授。言語、身体、記憶、時間などをテーマとして映画、絵画、文学、思想などを扱う。
前田英樹氏は、以下に示すように、難関大学の現代文(国語)・小論文における、トップレベルの頻出著者です。
主な著書は、以下の通りです。
『沈黙するソシュール』(書肆山田、1989年/講談社学術文庫、2010年)、
『倫理という力』(講談社現代新書 2001)、→2006国学院大学、2002明治大学、
『宮本武蔵『五輪書』の哲学』(岩波書店 2003)、
『宮本武蔵 剣と思想』(ちくま文庫 2009)、
『絵画の二十世紀 マチスからジャコメッティまで』(日本放送出版協会〈NHKブックス〉 2004)、→2005早稲田大学(法学部)
『言葉と在るものの声』(青土社 2007)、→2009上智大学、2008お茶の水大学
『独学の精神』(ちくま新書 2009)、→2012大阪大学
『日本人の信仰心』(筑摩選書 2010)、→2013北海道大学、2010法政大学・青山学院大学・学習院大学、2012上智大学、
『深さ、記号』(書肆山田 2010)、
『民俗と民藝』(講談社選書メチエ 2013)、→2015早稲田大学(文学部)
『ベルクソン哲学の遺言』(岩波書店〈岩波現代全書〉 2013)、
『剣の法』(筑摩書房 2014)、
『小津安二郎の喜び』(講談社選書メチエ 2016)。
③ 「倫理」は、最近の難関大学の現代文(国語)・小論文の流行論点・テーマです。
「倫理」については、以下の記事も重要です。ぜひ、ご覧ください。
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今回の記事は、これで終わりです。
次回の記事は、約10日後に発表の予定です。
私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。
https://twitter.com/gensairyu2
2008センター試験国語第2問(小説)解説『彼岸過迄』夏目漱石
(1)センター試験国語第2問・小説問題対策→純客観的・論理的解法ー2008『彼岸過迄』夏目漱石
①小説問題を得意分野にしよう
センター試験でも、難関大学入試でも、小説・エッセイ(随筆)問題が国語(現代文)における敗因だったという受験生が多いようです。
確かに、小説問題、エッセイ・随筆問題は、国語(現代文)という科目の中でも特に解きにくい側面があります。
しかし、少し工夫することで、つまり、対策を意識することで、小説問題、エッセイ(随筆)問題を得意分野にすることが、可能です。
あきらめないことが肝心です!
②小説問題解法のポイント・注意点
小説・エッセイ(随筆)問題の入試出題率は、相変わらず高く、毎年約1割です。
まず、センター試験の国語では毎年出題されます。
次に、難関国公立私立大学では頻出です。
東大・京都大・大阪大(文)・一橋大・東北大・広島大・筑波大・岡山大・長崎大・熊本大等の国公立大、早稲田大(政経)(文)(商)(教育)(国際教養)(文化構想)、上智大、立命館大、学習院大、マーチ(明治大・青山学院大・立教大・中央大・法政大)(特に文学部)、女子大の現代文では、特に頻出です。
また、難関国公立私立大学の小論文の課題文として、出題されることもあります。
小説・エッセイ問題については、「解法(対策)を意識しつつ、慣れること」が必要となります。
本来、小説やエッセイは、一文一文味わいつつ読むべきです。(国語自体が本来は、そういうものです。)
が、これは入試では、時間の面でも、解法の方向でも、有害ですらあります。
あくまで、設問(そして、選択肢)の要求に応じて、主観的文章を(設問の要求に応じて)純客観的に分析しなくてはならないのです。(国語を純客観的に分析? これ自体がパラドックスですが、ここでは、この問題には踏み込みません。日本の大学入試制度の問題点です。)
この点で、案外、読書好きの受験生が、この種の問題に弱いのです。(読書好きの受験生は、語彙力があるので、あとは、問題対応力を養成すればよいのです。)
しかし、それほど心配する必要はありません。
「入試問題の要求にいかに合わせていくか」という方法論を身に付けること、つまり、小説・エッセイ問題に、「正しく慣れる」ことで、得点力は劇的にアップするのです。
そこで、次に、小説・エッセイ問題の解法のポイントをまとめておきます。
【1】5W1H(つまり、筋)の正確な把握
① 誰が(Who) 人物
② いつ(When) 時
③ どこで(Where) 場所
④ なぜ(Why) 理由→これが重要
⑤ なにを(What) 事件
⑥ どうした(How) 行為
上の①~⑥は、必ずしも、わかりやすい順序で書いてあるとは限りません。
読む側で、一つ一つ確認していく必要があります。
特に、④の「なぜ(理由)」は、入試の頻出ポイントなので、注意してチェックすることが大切です。
【2】人物の心理・性格をつかむ
① 登場人物の心理は、その行動・表情・発言に、にじみ出ているので、軽く読み流さないようにする。
② 情景描写は、登場人物の心情を暗示的・象徴的に提示している場合が多いということを、意識して読む。
③ 心理面に重点を置いて、登場人物相互間の人間関係を押さえていく。
④ 登場人物の心理を推理する問題が非常に多い。その場合には、受験生は自分をその人物の立場に置いて、インテリ的に(真面目に、さらに言えば、人生重視的に)、一般的に、考えていくようにする。
⑤ 心理は、時間とともに流動するので、心理的変化は丁寧に追うようにする。
⑥ 気持ちを表している部分に傍線を引く。登場人物の心情を記述している部分に、薄く傍線を引きながら本文を読むことが大切です。
以上を元に、「いかに小説問題を解いていくか」、を以下で解説していきます。
(2)センター試験・小説問題の解法のポイント・コツ
【1】先に設問をチェックする
センター試験の小説問題の本文は、難関大学の小説問題か、それ以上の長文の場合が多いのです。
そこで、センター試験小説問題を効率的に解くための1つ目のコツは、本文を読む前に設問(特に、設問文)に目を通すことです。
すぐに設問文に目を通し、「何を問われているか」を押さえてください。
「設問で問われていること」を意識しつつ読むことで、時間を短縮化することができます。
【2】消去法を、うまく使う
センター試験の小説問題の選択肢は、最近は、少々、長文化しています。
しかし、明白な傷のある選択肢が多いので、消去法を駆使していくことで、効率的に処理することが可能です。
(3)2008センター試験・小説問題・『彼岸過迄』(夏目漱石)→問題・解説・解答
(【1】【2】【3】・・・・は当ブログで付加した段落番号です)
(青字は当ブログによる「振り仮名」・「注」です。赤字は当ブログによる「強調」です)
第2問 次の文章は、夏目漱石の小説『彼岸過迄(ひがんすぎまで)』の一節である。「僕」と従妹(いとこ)の田口千代子は、幼いうちに「僕」の母が将来の結婚を申し入れた間柄である。父の死後、母は「僕」と千代子との結婚を強く望むが、「僕」は積極的に千代子を求めようとしない。以下の文章は、田口家の別荘を「僕」と母が訪れた場面である。これを読んで、後の問いに答えよ。
「【1】 田口の叔母は、高木さんですと云って丁寧(ていねい)にその男を僕に紹介した。彼は見るからに肉の緊(し)まった血色の好い青年であった。年からいうと、あるいは僕より上かも知れないと思ったが、そのきびきびした顔つきを形容するには、是非とも青年という文字(もんじ)が必要になったくらい彼は生気に充(み)ちていた。僕はこの男を始めて見た時、これは自然が反対を比較するために、わざと二人を同じ座敷に並べて見せるのではなかろうかと疑(うたぐ)った。無論その不利益な方面を代表するのが僕なのだから、こう改まって引き合わされるのが、僕にはただ悪い洒落(しゃれ)としか受取られなかった。
【2】 二人の容貌(ようぼう)がすでに意地の好くない対照を与えた。しかし様子とか応対ぶりとかになると僕はさらにはなはだしい相違を自覚しない訳にいかなかった。僕の前にいるものは、母とか叔母とか従妹とか、皆親しみの深い血族ばかりであるのに、それらに取り巻かれている僕が、この高木に比べると、かえってどこからか客にでも来たように見えたくらい、彼は自由に遠慮なく、しかもある程度の品格を落す危険なしに己(おのれ)を取扱かう術(すべ)を心得ていたのである。知らない人を怖(おそ)れる僕にいわせると、この A この男は生まれるや否や交際場裏(こうさいじょうり)に棄(す)てられて、そのまま今日まで同じ所で人となったのだと評したかった。彼は十分と経(た)ないうちに、凡(すべ)ての会話を僕の手から奪った。そうしてそれを悉(ことごと)く一身に集めてしまった。その代り僕を除(の)け物にしないための注意を払って、時々僕に一句か二句の言葉を与えた。それがまた生憎(あいにく)僕には興味の乗らない話題ばかりなので、僕はみんなを相手にする事もできず、高木一人を相手にする訳にも行かなかった。彼は田口の叔母を親しげにお母さんお母さんと呼んだ。千代子に対しては、僕と同じように、千代ちゃんという幼馴染(おさななじ)みに用いる名を、自然に命ぜられたかのごとく使った。そうして僕に、先ほど御着になった時は、ちょうど千代ちゃんと貴方(あなた)の御噂(うわさ)をしていたところでしたと云った。
【3】 僕は初めて彼の容貌を見た時からすでに羨(うらや)ましかった。話をするところを聞いて、すぐ及ばないと思った。それだけでもこの場合に僕を不愉快にするには充分だったかも知れない。けれどもだんだん彼を観察しているうちに、彼は自分の得意な点を、劣者の僕に見せつけるような態度で、誇り顔に発揮するのではなかろうかという疑いが起った。その時僕は急に彼を憎み出した。そうして僕の口を利くべき機会が廻(まわ)って来てもわざと沈黙を守った。
【4】 落ちついた今の気分でその時の事を回顧して見ると、こう解釈したのはあるいは僕の僻(ひが)みだったかも分からない。僕はよく人を疑る代わりに、疑る自分も同時に疑わずにはいられない性質(たち)だから、結局他(ひと)に話をする時にもどっちと判然(はっきり)したところが云いにくくなるが、もしそれが本当に僕の僻(ひが)み根性だとすれば、その裏面にはまだ凝結した形にならない嫉妬(しっと)が潜(ひそ)んでいたのである。」
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(問1は、省略します)
問2 傍線部A「この男は生まれるや否や交際場裏に棄てられて、そのまま今日まで同じ所で人となったのだと評したかった」とあるが、そのように高木を評する「僕」の思いを説明したものとして最も適当なものを、次の中から一つ選べ。
① 初対面の人にも全くものおじせず、家族のように親しげに周囲の人の名を呼ぶので、羨ましく思っている。
② 明るく話し上手で人づきあいに長けているうえ、そつのない態度で会話を支配するので、不快に思っている。
③ 周囲のすべての人に配慮しつつも、その態度はおしつけがましいものでもあるので、うっとうしく思っている。
④ 品格もあり容貌も立派な人物だが、完全無欠な態度によって「僕」の居場所を脅かすので、憎らしく思っている。
⑤ 洋行帰りという経歴の持ち主であり、自分をよく見せる作為的な振る舞いをするので、面白くなく思っている。
……………………………
【解説・解答】主人公(「僕」)の心理を問う問題
(解説)
「生まれるや否や交際場裏に棄てられて、そのまま今日まで」という露骨な悪意に満ちた表現のニュアンスから、「僕」は高木を不快に思っていることが分かります。
また、「交際場裏に棄てられ」という表現と、傍線部分の直前の「僕の前にいるものは、母とか叔母とか従妹とか、皆親しみの深い血属ばかりであるのに、それらに取り巻かれている僕が、この高木に比べると、かえってどこからか客にでも来たように見えたくらい、彼は自由に遠慮なく、しかもある程度の品格を落す危険なしに己を取扱かう術(すべ)を心得ていた」とから、「高木」は美辞麗句を駆使して、その場の人々を、自分に有利なように巧妙に操るテクニック(社交術)を自然に身に付けている、と言いたいのです。
【 「傍線部説明問題」の解法のポイント・コツ 】
「傍線部それ自体」を、「精密に分析」していくことが必要です。
これは、小説問題だけではなく、評論問題でも必要なことです。
厳しい時間制限があるので、「傍線部それ自体」の「精密分析」に、すぐに着手してください。
段落要約・全体要約を書いている時間的余裕は、ありません。
①は、「羨ましく思っている」の部分が不適で、誤りです。
②は、上記の解説より、これが最適であり、正解です。
③は、「周囲のすべての人に配慮」の部分が誤りです。「僕」は「配慮」されていません。
④・⑤は、「交際場」との関連性がないので、誤りです。
(解答) ②
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(問題文本文)
「【5】 僕は男として嫉妬の強い方か弱い方か自分にもよく解(わか)らない。競争者のない一人息子としてむしろ大事に育てられた僕は、少なくとも家庭のうちで嫉妬を起す機会をもたなかった。小学や中学は自分より成績のいい生徒が幸いにしてそうなかったためか、至極(しごく)太平(→「平和」と意味)に通り抜けたように思う。高等学校から大学へかけては、席次(注1 「席次」ー成績の順位→本番の問題用紙では「注」は問題文本文の後に列記されていました)にさほど重きをおかないのが、一般の習慣であった上、年ごとに自分を高く見積る見識というものが加わって来るので、点数の多少は大した苦にならなかった。これらを外(ほか)にして、僕はまだ痛切な恋に落ちた経験がない。一人の女を二人で争った覚えはなおさらない。自白すると僕は若い女殊(こと)に美しい若い女に対しては、普通以上に精密な注意を払い得る男なのである。往来を歩いて綺麗(きれい)な顔と綺麗な着物を見ると、雲間から明らかな日が射した時のように晴やかな心持になる。たまにはその所有者になって見たいという考えも起こる。しかしその顔とその着物がどうはかなく変化し得るかをすぐ予想して、酔よいが去って急にぞっとする人の浅ましさを覚える。B 僕をして執念(しゅうね)く美しい人に附纏(つけまつ)わらせない(注2 「附纏わる」は「つきまとう」に同じ)ものは、まさにこの酒に棄てられた淋(さび)しみの障害に過ぎない。僕はこの気分に乗り移られるたびに、若い自分が突然老人(としより)か坊主に変ったのではあるまいかと思って、非常な不愉快に陥る。が、あるいはそれがために恋の嫉妬というものを知らずに済ます事が出来たかもしれない。」
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問3 傍線部B「僕をして執念く美しい人に附纏わらせないものは、まさにこの酒に棄てられた淋しみの障害に過ぎない」とあるが、この部分で「僕」は自分をどのようにとらえているか。その説明として最も適当なものを次の①~⑤のうちから一つ選べ。
① 美しい女性への関心が人一倍あるのにもかかわらず、痛切な恋に落ちた経験がないために、自分からはどのように女性に対してよいかわからないと感じている。
② 美しい女性と過ごしたいという気持ちを持つ一方で、その美しさは表面的なものに過ぎないとわかっているので、自分は惑わされることはないと思っている。
③ 美しい女性を見ると気持ちが高ぶるが、幼いころから感情を抑制してきたため、自分は美しさや魅力を率直に認める感性を失ってしまったと考えている。
④ 美しい女性の魅力に安易に惹かれることを不愉快に感じ、自己を律して冷静な自分に立ち返り欲望を抑えなければならないと考えている。
⑤ 美しい女性も時の経過とともに変化していくことを想像するとすぐに冷めてしまい、自分は対象に集中できず満たされることがないと感じている。
……………………………
【解説・解答】主人公( 「僕」 )の心理を問う問題
(解説)
傍線部直前に「その顔とその着物がどうはかなく変化し得るかをすぐ予想して」とあります。
そして、直後には「若い自分が突然老人か坊主に変わったのではないか」ともあります。
美しい女性が「はかなく変化」するというのは、「老化すること」を意味します。
正解は⑤です。
(解答) ⑤
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(問題文本文)
「【6】 僕は普通の人間でありたいという希望をもっているから、嫉妬心のないのを自慢にしたくも何ともないけれども、今話したような訳で、眼(ま)の当たりにこの高木という男を見るまでは、そういう名のつく感情に強く心を奪われた試しがなかったのである。僕はその時高木から受けた名状しがたい(→「名状しがたい」とは、「説明できない」という意味)不快を明らかに覚えている。そうして自分の所有でもない、また所有する気もない千代子が原因で、この嫉妬心が燃え出したのだと思った時、C 僕はどうしても僕の嫉妬心を抑え付けなければ自分の人格に対して申し訳ないような気がした。僕は存在の権利を失った嫉妬心を抱(いだ)いて、誰にも見えない腹の中で苦悶(くもん)し始めた。幸い千代子と百代子(ももよこ)が日が薄くなったから海へ行くといい出したので、高木が必ず彼らについて行くに違ないと思った僕は、早くあとに一人残りたいと願った。彼らは果(は)たして高木を誘った。ところが意外にも彼は何とか言い訳を拵(こしら)えて容易に立とうとしなかった。僕はそれを僕に対する遠慮だろうと推察して、ますます眉(まゆ)を暗くした。彼らは次に僕を誘った。僕はもとより応じなかった。高木の面前から一刻も早く逃(のが)れる機会は、与えられないでも手を出して奪いたいくらいに思っていたのだが、今の気分では二人と浜辺まで行く努力がすでに厭(いや)であった。母は失望したような顔をして、いっしょに行っておいでなといった。僕は黙って遠くの海の上を眺ながめていた。姉妹(きょうだい)は笑いながら立ち上った。」
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問4 傍線部C「僕はどうしても僕の嫉妬心を抑え付けなければ自分の人格に対して申し訳がないような気がした」とあるが、なぜ「僕」はこのような気持ちになったのか。その理由として最も適当なものを次の①~⑤のうちから一つ選べ。
① 「僕」は常々普通の人間でいたいという希望を持っていたため、人並みに嫉妬心を持っていても不思議はないと考えていた。千代子に高木と比較されたという思いによって生じた「僕」の僻み根性が、そうした感情と結びついてしまったことにやりきれなさを覚えたから。
② 「僕」は高木の登場によって、これまでの自己認識を超えるような嫉妬心を抱いた。高木への僻み根性に根ざしたその感情は、恋人と意識したこともない千代子を介して生じたものであり、そうした感情を制御しない限り、自分を卑しめることになるような気がしたから。
③ 「僕」は今まで本当に女性を愛した経験はなかったが、ライバルである高木の存在によって初めて千代子を愛しているのではないかと考えはじめた。高木に対する嫉妬心を消し去らなければ、千代子と純粋な気持ちで恋愛はできないと気づいたから。
④ 「僕」は一人息子として生まれたうえ、学校にも競争者がいなかったため、嫉妬心を抱く環境になかった。千代子を恋人として扱う高木に萌し始めた嫉妬心は、経験のない感情であり、そうした感情によって動揺する自分を浅ましいものと判断したから。
⑤ 「僕」は今まで若い女性に対してあまりに臆病であったために、本来は恋にかかわる嫉妬心が起こるはずがなかった。如才なく振舞う高木によって書きたてられた、そうした嫉妬の感情が自分の自制心を失わせることに気づいて羞恥を覚えたから。
……………………………
【解説・解答】主人公( 「僕」 )の心理を問う問題
(解説)
傍線部直前の「自分の所有でもない、また所有する気もない千代子が原因で、この嫉妬心が燃え出したのだと思った時」に注目してください。
この直前部分と傍線部は、密接に関連しています。
この直前部分との関連性がある記述は、②の「恋人と意識したこともない千代子を介して生じたものであり」しか、ありません。
②が正解です。
(解答) ②
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(問題文本文)
「【7】「相変らず偏窟(へんくつ)ね貴方は。まるで腕白小僧みたいだわ」
千代子にこう罵(ののし)られた僕は、実際誰の目にも立派な腕白小僧として見えたろう。僕自身も腕白小僧らしい思いをした。調子のいい高木は縁側へ出て、二人のために菅笠(すげがさ)のように大きな麦藁帽(むぎわらぼう)を取ってやって、行っていらっしゃいと挨拶(あいさつ)(→「書き取り」で頻出)をした。
【8】 二人の後姿が別荘の門を出た後で、高木はなおしばらく年寄りを相手に話していた。こうやって避暑に来ていると気楽でいいが、どうして日を送るかが大問題になってかえって苦痛になるなどと、実際活気に充みちた身体(からだ)を暑さと退屈さに持ち扱っている(注3 「持ち扱っている」ー取り扱いに困って、もてあましている)風に見えた。やがて、これから晩まで何をして暮らそうかしらと独り言(ひとりごと)のように云って、不意に思い出したごとく、玉(注4 「玉」ーここでは「玉突き」を略して言っている。玉突きは、ビリヤードのこと)はどうですと僕に聞いた。幸いにして僕は生れてからまだ玉突きという遊戯を試みた事がなかったのですぐ断った。高木はちょうどいい相手ができたと思ったのに残念だといいながら帰って行った。僕は活発に動く彼の後影を見送って、彼はこれから姉妹のいる浜辺の方へ行くに違いないという気がした。けれども僕は坐(すわ)っている席を動かなかった。
【9】 高木の去った後、母と叔母は少時(しばらく)彼の噂をした。初対面の人だけに母の印象は殊に深かったように見えた。気の置けない、いたって行き届いた人らしいといって賞(ほ)めていた。叔母はまた母の批評をいちいち実例に照らして確かめるふうに見えた。この時僕は高木について知り得た極めて乏しい知識のほとんど全部を訂正しなければならない事を発見した。僕が百代子から聞いたのでは、亜米利加(アメリカ)帰りという話であった彼は、叔母の語るところによると、そうではなくって全く英吉利(イギリス)で教育された男であった。叔母は英国流の紳士という言葉を誰かから聞いたと見えて、二、三度それを使って、何の心得もない母を驚かしたのみか、だからどことなく品の善(よ)いところがあるんですよと母に説明して聞かせたりした。母はただへえと感心するのみであった。
【10】 二人がこんな話をしている内、僕はほとんど一口も口を利きかなかった。ただ上辺から見て平生(へいぜい)(→入試頻出語句)の調子と何の変わる所もない母が、この際高木と僕を比較して、腹の中でどう思っているだろうと考えると、僕は母に対して気の毒でもありまた恨めしくもあった。同じ母が、千代子対僕という古い関係を一方に置いて、さらに千代子対高木という新しい関係を一方に想像するなら、果たしてどんな心持ちになるだろうと思うと、仮令(たとい)少しの不安でも、避け得られるところをわざと与えるために彼女を連れ出したも同じ事になるので、僕はただでさえ不愉快な上に、年寄りにすまないという苦痛をもう一つ重ねた。
【11】 前後の模様から推すだけで、実際には事実となって現れて来なかったから何ともいいかねるが、叔母はこの場合を利用して、もし縁があったら千代子を高木に遣(や)るつもりでいるぐらいの打ち明け話を、僕ら母子(おやこ)に向って、相談とも宣告とも片付かない形式の下に、する気だったかもしれない。凡(すべ)てに気が付くくせに、こうなるとかえって僕よりも迂遠(うと)い母はどうだか、僕はその場で叔母の口から、僕と千代子と永久に手を別(わか)つべき談判の第一節を予期していたのである。幸か不幸か、叔母がまだ何もいい出さないうちに、姉妹は浜から広い麦藁帽の縁(ふち)をひらひらさして帰って来た。 D 僕が僕の占いの的中しなかったのを、母のために喜んだのは事実である。同時に同じ出来事が僕を焦燥(もどか)しがらせたのも嘘ではない。
【12】 夕方になって、僕は姉妹と共に東京から来るはずの叔父を停車場(ステーション)に迎えるべく母に命ぜられて家いえを出た。彼らは揃(そろ)いの浴衣(ゆかた)を着て白い足袋(たび)を穿(は)いていた。それを後ろから見送った彼らの母の眼に彼らがいかなる誇りとして映じたろう。千代子と並んで歩く僕の姿がまた僕の母には画(え)として普通以上にどんなに価が高かったろう。僕は母を欺く材料に自然から使われる自分を心苦しく思って、門を出る時振り返って見たら、母も叔母もまだこっちを見ていた。」
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問5 傍線部D「僕が僕の占いの的中しなかったのを、母のために喜んだのは事実である。同時に同じ出来事が僕を焦燥しがらせたのも嘘ではない」とあるが、この部分での「僕」の心情はどのようなものと考えられるか。その説明として最も適当なものを次の①~⑤のうちから一つ選べ。
① 高木を千代子の結婚相手にしたいと叔母が言わなかったのことは、「僕」との縁談を期待する母の気持ちを考えるとよかったが、その一方で、「僕」と千代子の縁談の可能性が消えないまま。どっちつかずの状況に留まることにいらだちを感じている。
② 高木と千代子の結婚を予期しない母の驚きや動揺に配慮した叔母が、二人の結婚話を持ち出さなかったのはよかったが、その一方で、千代子の結婚相手として自分にも見込みがあるという思いとともに、事態はまだ流動的であるという不安を感じている。
③ 内心では高木が千代子の結婚相手になるのもやむを得ないと考えている母に、叔母が二人を結婚させたいと打ち明けることは避けられたので安心したが、その一方で、高木と比べると千代子の結婚相手として劣る自分にじれったさを感じている。
④ 母が高木に好印象を持ったことを察した叔母が、そのことに乗じて千代子と高木の縁談を持ち出すのではないかという不安がぬぐわれてほっとしたが、その一方で、母の抱いた印象が「僕」と高木を比較した結果であることに不満を感じている。
⑤ 高木と千代子に縁談が持ち上がっていることを叔母が明かさなかったため、千代子と「僕」の結婚を望む母の期待が続くことを喜んだが、その一方で、千代子と結婚する意志のないまま母を欺き通さなければならないことに歯がゆさを感じている。
問6 この文章における表現の特徴についての説明として適当なものを、次の中から二つ選べ。
① 初めて嫉妬に心を奪われることになった経緯を、「僕」の心情の描写よりも、高木をめぐる母と叔母の噂話、千代子と高木とのやりとり、高木の「僕」に対する態度の描写などを通して示している。
② 「落ち着いた今の気分でその時の事を回顧してみると」とあるように、出来事全体を見渡せる「今」の立場から、当時の「僕」の心情や行動について原因や理由を明らかにしながら描いている。
③ 「僕」自身の心情を回顧的に語る部分に現在形を多用することで、別荘での出来事から遠く隔たった現在においても、「僕」の内面の混乱が整理されないまま未だに続いていることを示している。
④ 「凝結した形にならない嫉妬」「存在の権利を失った嫉妬心」などのように、漢語や概念的な言葉で表現することによって、「僕」が自分の心情を対象化し分析的にとらえようとしていることがわかる。
⑤ 笑いながらの千代子の発言を「罵られた」と述べたり、玉突きの経験がないことを「幸いにして」と述べたりすることによって、出来事をそのままには受け取ろうとしない「僕」の屈折したユーモアを示している。
⑥ 「自然が反対を比較する」「会話を僕の手から奪った」「自然から使われる自分」などの表現から、擬人法を用いることで、「僕」が抽象的なものごとをわかりやすく説明しようとしていることがわかる。
……………………………
【解説・解答】
(解説)
問5 主人公の心理を問う問題
→第【11】段落の最後に傍線部があるので、第【11】段落を、精密に分析することが必要です。
第【11】段落冒頭から明らかですが、「僕の占い」というのは、「叔母がこの場合を利用して、もし縁があったら千代子を高木に遣るつもりでいるくらいの打ち明け話を」するだろうという予想のことです。
現実化はしませんでした。
その時点で「母」はそういうことには「迂遠い」ので、自分の息子(「僕」)と千代子の縁談は当初の予定通り進むだろうと思っているわけです。
一方で、「僕」としては、「僕と千代子と永久に手を別つべき談判」を期待していました。
従って、「占い」が外れて、「母」には良いよかったのですが、「僕」にとっては、残念だったというわけです。
①が正解です。
(解答) ①
問6 「表現の特徴」を問う問題
→最近のセンター試験・小説問題の流行です。
問題文本文を熟読する前に、この問6に注目すると、戦いを有利に進めることが出来ます。
効率的で、賢明な作戦だと思います。
① 「『僕』の心情の描写よりも」の部分が、不適です。
② 第【4】段落に合致しています。
③ 「『僕』の内面の混乱が整理されないまま未だに続いていることを示している」の部分が、第【4】段落第一文の「落ちついた今の気分でその時の事を回顧して見ると」に反していて、不適です。
④ 特に、問題は、ありません。合致しています。
⑤ 「『僕』の屈折したユーモア」を読み取ることは、できません。不適です。
⑥ 「会話を僕の手から奪った」の「主語」は「高木」なので、「擬人法」では、ありません。不適です。
(解答) ②・④
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(4)当ブログにおける、他の「小説問題・対策記事」の紹介
当ブログで、最近、発表した記事のリンク画像を下に貼っておきます。
ぜひ、ご覧ください。
(5)当ブログにおける、他の「センター試験・対策記事」の紹介
(6)当ブログにおける、他の「夏目漱石・関連記事」の紹介
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今回の記事は、これで終わりです。
次回の記事は、約10日後に発表の予定です。
私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。
https://twitter.com/gensairyu2
2009早大政経学部現代文解説「『安楽』への全体主義」藤田省三
(1)現代文(国語)・小論文予想問題・「『安楽』への全体主義」(『全体主義の時代経験』藤田省三)ーなぜ、この論考に注目したのか?
世界中で「異常気象」が続き、今や恒常化しつつあります。
地球環境問題は、ますます、重大化しています。
地球環境に重大な影響を与えている、現代文明のあり方の見直しが、必要な時期です。
見直しをしないで、現代文明がこのまま進行していけば、人類は、いずれ滅亡するでしょう。
このまま、「行ける所まで行く」という選択肢もありますが、賢明ではないでしょう。
20世紀において、人類は、大量生産・大量消費・大量廃棄の、飽くなき「使い捨て文明」・「高度な消費社会(「消費社会」とは、欲求・新製品・消費(廃棄)が無限循環するようになった社会)」と、進化した科学技術の恩恵を受けて、とても快適な生活をおくる事ができました。
しかし、様々な資源の枯渇と、異常気象(地球温暖化現象)によって、人類滅亡の可能性まで発生しています。
その意味で、これからの21世紀は、ある意味で異常な「使い捨て社会」から、「持続可能」を意識した「資源循環型社会」の構築、「環境重視社会」への転換が求められています。
このような見地から、前回は、環境問題についての入試頻出出典である『いちばん大事なこと』(養老孟司)の解説をしました。
しかも、藤田氏の論考にあるように、「消費社会」は、各人の「人生」から充実感・達成感を掠(かす)め取ってしまうという側面もあります。
そこで、今回は、「人生」の視点から「使い捨て社会」・「消費社会」を鋭く批判した、入試頻出出典「安楽への全体主義」(『全体主義の時代経験』藤田省三)を、2009早稲田大学政経学部・過去問を通して解説します。
【1】藤田省三氏の紹介
藤田省三(ふじた・しょうぞう)1927年生まれ。東京大学法学部卒業。法政大学名誉教授。思想史。2003年5月没。
藤田省三氏は、難関国公立私立大の現代文国語小論文における頻出著者です。
以下の著書紹介で、出題校を列挙します。
【2】藤田省三氏の著書
『天皇制国家の支配原理』(みすず書房)
『維新の精神』(みすず書房)
『現代史断章』(みすず書房)
『原初的条件』(未来社)
『転向の思想史的研究――その一側面』(みすず書房)
『精神史的考察――いくつかの断面に即して』(平凡社ライブラリー)(みすず書房)→1984共通一次試験(センター試験の前身)、2004青山学院大学、2009中央大学、2011一橋大学、2012早稲田大学(商)、
『全体主義の時代経験』(みすず書房)→2005上智大学(経済)、2006法政大学、2009早稲田大学(政経)、2011神戸大学、2016東北大学、
『戦後精神の経験』(みすず書房)→2008九州大学、
『藤田省三セレクション』(平凡ライブラリー)→2012早稲田大学(商)、2013早稲田大学(文)、
『藤田省三著作集』(全10巻、みすず書房1997-98)ほか。
著名出典の「『安楽』への全体主義」(『全体主義の時代経験』藤田省三)は、同一部分(「安楽への全体主義」)が頻出です。早稲田大学だけでも、文学部の「小論文」(最近まで、「小論文」がありましたが、「社会」に変更になりました)で2回、政経学部で1回出題されました。
(2)現代文(国語)・小論文予想問題・「『安楽』への全体主義」(『全体主義の時代経験』藤田省三)ー2009年・早稲田大学政経学部の問題を通して解説します
(藤田省三氏の論考)(概要です)
( 「・」の付加された活字は太字にしました。)
(赤字は当ブログによる強調です。青字は当ブログによる注です。紫色の字は、設問に関する語句です)
「【1】今日の社会は、不快の源そのものを追放しようとする結果、不快のない状態としての「安楽」すなわちどこまでも括弧(かっこ)つきの唯々一面的な「安楽」を優先的価値として追求することとなった。それは、不快の対極として生体内で不快と共存している快楽や安らぎとは全く異なった不快の欠如態なのである。そして、人生の中にある色々な価値が、そういう欠如態としての「安楽」に対してどれだけ貢献できる ものであるかということだけで取捨選択されることになった。「安楽」が第一義的な追求目標となったということはそういうことであり、「安楽への隷属状態」が現れて来たというのも又そのことを指している。
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(当ブログによる発展的解説)
この論考は、1985年、つまり、「物質的豊かさ」の高まった高度経済成長期に発表されました。
この時期に、藤田省三氏は、既に「消費社会(使い捨て社会)」の根本的・致命的欠陥を見抜いていたのです。
この時期の異様な社会現象(「安楽への隷属状態」)を、鷲田清一氏も、以下のように論じています。
今回の藤田氏の論考は、「安楽への隷属状態=消費社会」が中心ですが、鷲田清一氏は、その中でも、特に、「清潔症候群(清潔シンドローム)」について論じています。
「そういえば、1980年代というのは清潔への強迫観念が異様なまでにエスカレートした時代だった。80年代、毎朝洗髪する女子高校生が急増したといわれるが、この朝シャン・ブームとともに、デオドラント製品などいわゆるエチケット商品も急速に売り上げを伸ばした。オーラルケア商品、スクラブ洗顔剤などが続々開発され、シャンプー、リンス、トリートメントはここ数年で二千億円を超える市場へと急成長したという。清潔症候群と呼ばれる現象だ。
「大人」の世界も同じ。禁煙をはじめとして、環境の浄化や身体からの毒性排除など、〈清浄〉へのヒステリックとも言える志向(→この「ヒステリック」が「全体主義的な風潮」を発生させるのです)が、近年とみに強くなっている。これに加えて、純愛ブーム、ピュアな行動、クリーンな政治・・・・、そんな観念が多くの人たちの意識を占領しつつあるように見える。禁煙に禁酒、禁カフェインに禁防腐剤(→「禁〇〇」の氾濫こそ「全体主義」の象徴です。現在は、「全体主義」的発想が蔓延している時代なのです)、低カロリーに低脂肪、そしてジョギングに徒歩通勤、夜遊びは慎み、週末は家族とカウチポテト・・・・といったライフ・スタイル、言ってみれば「自己抑制の美学」から、もっと直接的な感覚次元での「清潔願望」まで、〈清浄〉への志向が、世代を問わず、異様なくらいエスカレート(→ある意味で、「全体主義的な傾向」といえます)してきている。そして、いわゆる3Kに対して、さらさら、すべすべ、すっきりなどという、3Sなる強迫言語がまかり通るほどだ。
ここで〈ピュア〉や〈クリーン〉とは、汚染度ゼロということ、つまりは、混じり気のないこと、異質なものが混入していないことを意味する。」(鷲田清一『じぶん・・・・この不思議な存在』P53以下)
以上のように、鷲田清一氏も、藤田省三氏と同様に、1980年代に始まったヒステリックな、「全体主義的な状況」を冷静に分析しています。
そして、この異様な、清潔症候群(清潔シンドローム)を含んだ、「安楽への隷属状態」という「全体主義的な状況」が、今現在にまで継続し、かつ、より悪化していることが問題なのです。
ーーーーーーーー
(藤田省三氏の論考)(概要です)
「【2】〔 1 〕安楽であること自体は悪いことではない。それが何らかの忍耐を内に秘めた安らぎである場合には、それは最も望ましい生活態度の一つでさえある。価値としての自由の持つ第一特性である。他人(ひと)を自由にし他人に自発性の発現を容易にするからである。しかし、或る自然な反応の欠如態としての「安楽」が他の全ての価値を支配する唯一の中心価値となって来ると事情は一変する。それが日常生活の中で四六時中忘れることの出来ない目漂となって来ると、心の自足的安らぎは消滅して「安楽」への狂おしい追求と「安楽」喪失への焦立(いらだ)った不安が却って心中を満たすこととなる。
【3】こうして能動的な「安楽への隷属」は「焦立つ不安」を分かち難く内に含み持って、今日の特徴的な精神状態を形づくることとなった。「安らぎを失った安楽」という前古 A 未曾有の逆説が此処に出現する。それは、「ニヒリズム」の一つではあっても、深い淵のような容量を以て耐え且つ受納していく平静な虚無精神とは反対に、他の諸価値を尽(ことごと)く手下として支配しながら(→この部分に全体主義的な雰囲気があります)ある種の自然反応の無い状態を追い求めてやまないという点で、全く新しい新種の「能動的ニヒリズム」と呼ばれるべきであるかもしれない。」
ーーーーーーーー
問1 傍線部A「未曾有」の読みを平仮名で記せ。
……………………………
【解答】
みぞう
……………………………
(当ブログによる発展的解説)
第【3】段落は、「生活の場面」における「全体主義」に関する記述です。
「全体主義」については、当ブログで最近、記事を発表したので、こちらも、ご覧ください。
ーーーーーーーー
(当ブログによる発展的解説)
今回の論考は、「生活の場面における全体主義」について考察しています。
「『安楽』への全体主義」です。
「生活場面の全体主義」とは,あらゆるものが「画一化」され,その上、不快なものを、それを回避する工夫なしに、根こそぎ殲滅(せんめつ)しようとするものです。
つまり、「日常生活の『安楽』」が、あらゆるものの中で最高価値化して、すべてを判断する基準となり、不快なものを完全排除する基準となるのです。
ーーーーーーーー
(藤田省三氏の論考)(概要です)
「【4】安らぎを失って動き廻る「安楽の隸属する」という尋常事でない精神状態が私たちの中に定住した時、それがタダ事ではないだけに、その定住も又タダでは済まない筈である。誘致料はどれ程であるか。私たちが精神の面で払っている損失(コスト)は一体何なのであろうか。先駆的な動物行動学者の注意深い人間観察が教えてくれているところによると、そのコストは「喜び」という感情の消滅であった。
【5】必要物の獲得とか課題や目標の達成とかのためには、もともと避けることの出来ない道筋があって、その道筋を歩む過程は、多少なりとも不快な事や苦しい事や痛い事などの試練を含んでいるものである。そして、それら一定の不快・苦痛の試練を潜り抜けた時、すなわちその試練に耐え克服して道筋を歩み切った時、その時に獲得された物は、単なる物それ自体だけではなくて、成就の「喜び」を伴った物なのである。そうして物はその時十分な意味で私たちに関係する物として自覚される。すなわち、〔 B 〕的な交渉の相手として経験を生む物となる。「大物主の神」(おおものぬしのかみ)(→「偉大なモノの神」という意味。「モノ」とは「人が畏怖の念を感じる、魔性を持つ存在。精霊」という意味。「物」は「物の怪(け)」《→もちろん、宮崎駿作品の『もののけ姫』は、この言葉に由来しています》の「モノ」です。「モノ」は「神」という側面を有していました。「大物主の神」は精霊の上に君臨する神なのです)とも呼ばれ、「物語り」(→「(物)もの」は「鬼」や「霊」など「不思議な霊力を持つもの」をいう言葉であったので、もともとは、「現実から離れた世界を語る」という意味で「物語」の語が発生したとも考えられるのです)とも称されて来た、そういう「物」は、明らかに唯の単一な物品それ自体ではなくて、様々な相貌と幾つもの質を持って私たちの精神に動きを与える物(→「アニミズム的な発想」といえます)なのであった。そして成就の「喜び」はそうした精神の動きの一つの極致であった。
【6】それに対して、ただ一つの効用のためだけに使われる場合の物は、平べったい単一の相貌とたった一つの性質だけを私たちに示すに過ぎない。それは一切の包合性を欠いている。「〔 C 〕」の極限の形が恐らくそこにあり、私たちはそれに対しては使いそして捨てる他(ほか)ない。(→「使い捨て社会」「消費社会」) それと〔 B 〕的な交渉をする余地はもはやない。完成された製品によって営まれる生活圏が経験を生まないのはその事に由来する。」
ーーーーーーーー
問2 空欄B(2箇所ある)に入る語として最も適当なものを次の中から一つ選べ。
イ 自発 ロ 逆説 ハ 相互 ニ 一方 ホ 自足
問3 空欄Cに入る語として最も適当なものを次の中から一つ選べ。
イ 価値判断 ロ 優先価値 ハ 交換価値 ニ 使用価値 ホ 価値体系
……………………
【解説・解答】
(解説)
問2 一番目のBの直前の「私たちに関係する物」、および、二番目のBの直前の「それと」、直後の「的な交渉をする余地はもはやない」に、注目するとよいでしょう。
問3 直前の「一つの効用のためだけに使われる」、および、直後の「それに対しては使い」に着目するとよいでしょう。
(解答)
問2 ハ
問3 ニ
ーーーーーーーー
(当ブログによる発展的解説)
藤田省三氏は、上記の段落で、「物」との
「アニミズム的な交流」、つまり、「霊的な交流」まで意識しているようです。→「もったいない精神」、「物を大切する」よりも、さらに上のレベルです。
それと、「使い捨て社会」「消費社会」とでは、大きな落差があります。
「アニミズム」とは、動物・植物・岩石・川・星など、この世の全ての物にはラテン語でいう「アニマ」、つまり、「たましい」があると考える発想です。
その「アニマ」を、人を障害したり救助したりすることができる強力なものと考えています。
従って、「アニマ」を持つもの、つまり、この世の全てのもの、崇拝や恐れの対象になるのです。
「アニミズム」という宗教は一種原始的宗教です。
ちなみに、スイスの心理学者であるピアジェによると、「アニミズム」は、幼児期の心理的特徴であるとされています。
日本の「妖怪」という概念も「アニミズム」に属するといえます。
『もののけ姫』の世界のように、身近に自然が横溢していた時代には、人々は自然の中に「生命の脈動」を敏感に感じる取るとることができました。
さらには、岩石や川、夜空の星にまで、「命の脈動」を見いだしたに違いないのです。
『風の谷のナウシカ』『もののけ姫』『となりのトトロ』などの宮崎駿作品の根元的意味を考察する論考は、最近の入試現代文(国語)・小論文によく出題されています。
それらの論考は、いずれも、直接的・間接的な、痛烈な「現代文明批判」の内容になっています。
なお、「消費社会」については、最近、当ブログで記事を発表したので、こちらをご覧ください。
「消費社会」について、さらに説明します。
経済成長を遂げた「高度消費社会」では、人々は不快を自ら考えて回避するのではなく、不快を呼び起こす根元それ自体を、廃棄、そして、製品購買という形で排除しようと行動します。
不満足な物を、なんとか活かそうと考える姿勢は、このようにして失われるのです。
「消費社会」が本格化する以前には、自ら考える余地が存在していました。
が、現在の「高度消費社会」には、個人の意識上も、社会制度上も、そうした「余地」・「発想」、つまり、「人生」上の「工夫」・「遊び」・「悩み」・「経験」が存在しないのです。
言い換えれば、こうして、人々の人生は、ある意味で、「様々な買い物をするだけの、平板な、味気ない人生」になったのです。
「人生上の工夫」は、「買い物をする際の工夫」に変換しましたが、「味気ないこと」に、変わりはありません。
ーーーーーーーー
(藤田省三氏の論考)(概要です)
「【7】そうして、そういう単一の効用をもたらす「物」を手に入れた時、その事が私たちにもたらす感情は、或る種の「享受」の楽しみである。むろん享受の楽しみ自体は決して悪いことではない。それが、目まぐるしい使い捨ての高速回転などとは無関係な落ち着いた平静を伴っている限り、それは大切な生活態度の一つなのである。そこには物事に対するゆったりとした味わいの態度が、つまり一つの経験的態度が生まれる。当然、時間の過剰な短縮も過剰な濫費も又そこにない。だから次の仕事への用意が次第にその中で蓄積される。そのようにして享受の楽しみは、次に予想される苦労を含んだ道筋を、自ら進んで歩もうとする態度と接続される。それが、enーjoy と呼ばれて広い意味での悦びの一つとされているのも、こうして見るとき当然のこととして納得される。そうしてその継続線上の一方の極に克服の「喜び」が存在する。
【8】〔 2 〕、次々と使い捨てていく単一効用を「享受」する楽しみは、そういう自然な接続の内にあるものではない。事の性質から見て当然のことであるが、それはただ一回的な「享受」に過ぎない。次の瞬間にはまた別の一回的な「享受」がやって来るだけである。時間は分断されて何の継続も何の結実ももたらさない。かくて苦しみとも喜びとも結合しない享受の楽しみは、空しい同一感情の分断された反復(→当ブログによる注→「消費社会」そのものです)にしか過ぎない。その分断された反復が、激しく繰り返されればされる程、空しさも又激しい空しさとなってますます平静な落ち着きから遠ざかっていく。此処にも又「能動的ニヒリズム」が顔をのぞかせているようである。
【9】〔 3 〕、抑制なく邁進(ばくしん)する産業技術の社会は、即座の効用を誇る完成製品を提供し、その速効製品を新しく次々と開発し、その新品を即刻使用させることに全力を尽くして止まない→(→「消費社会」が高度化した「高度消費社会」の段階になったことを意味しています)。そして私たちの圧倒的大多数が、この回転の体系に関係する何処(どこ)かに位置することを以て生存の手段としている。という社会的関連が在るのだから、分断された一回的享受の反復がいよいよめまぐるしく繰り返されていく傾向は、何らかの意識的努力がない限り停(と)どまる処を知らない筈である。」
ーーーーーーーー
問4 空欄1(第【3】段落)・2・3に入る語を次の中から一つ選べ。ただし、同じ語を二度用いては、ならない。
イ だから ロ しかも ハ しかし ニ むろん
……………………………
【解説・解答】
【空欄補充問題対策ー接続語を入れる問題】
「空欄補充問題」の中でも、「複数の空欄に接続語を入れる問題」は、かなり微妙な側面があります。
明確な根拠がない限り、順序通りに、最初の空欄から解答を確定していかない方がよいです。
まず、明確な根拠のある空欄から解答を確定していくようにしてください。
「最終的に、すべての空欄を埋めればよいのだ」と余裕を持って、問題に対応することが大切です。
(解説)
1 空欄を含む文と、直後の「しかし」以下の文とは、「譲歩表現(譲歩構文)」の構造になっています。
【「譲歩表現(譲歩構文)」の重要性・マスターするポイント】
「譲歩表現(譲歩構文)」については、現代文の参考書よりも、「英文法」、あるいは、「英語長文読解」の、(厚い)参考書に詳しく解説してあるので、それらを参照する方が賢明です。
現代文(国語)・小論文の読解においては、この「譲歩表現(譲歩構文)」を、いかにマスターするかが、大ポイントになります。
「譲歩表現(譲歩構文)」のパターンは、かなり多いのです。
つまり、「なるほど・・・・しかし」と同内容の「譲歩表現」と同様のパターンは、日本語の接続語が多彩である上に、著者がアバウトに使用することもあるので、かなり多いのです。
現代文の参考書などでは、過失か故意か不明ですが、「『譲歩表現(譲歩構文)』のパターンは、20、または、30」と書いてあるようですが、それは、少なすぎます。
それを見て、油断しない方がよいと思います。
かなり多いので、完全マスターは困難ですが、なるべく多く覚えるようにしてください。
その姿勢を持てば、入試には対応できます。
2 〔2〕の直前と直後が「対比関係」にあることを、読み取る必要があります。〔3〕以下は、現代社会のマイナス面の添加的な説明になっています。
(解答)
1=ニ 2=ハ 3=ロ
ーーーーーーーー
(藤田省三氏の論考)(概要です)
「【10】そうである以上、一定の苦痛や不快の試練に耐えてそれを克服した処に生まれる典型的な「喜び」は、すなわち歓喜の感情は、その存在の余地も大きく奪われているのである。
【11】全ての不快の素を無差別に一掃して了(しま)おうとする現代社会は、このようにして、『安楽への隷属』を生み、安楽喪失への不安を生み、分断された刹那的享受の無限連鎖を生み、そしてその結果、『喜び』の感情の典型的な部分を喪(うしな)わせた。そしてその『喜び』が物事成就に至る紆余(うよ)曲折の克服から生まれる感情である限り、それの消滅は単にそれだけに停どまるものではない。克服の過程が否応なく含む一定の『忍耐』、様々な『工夫』、そして曲折を越えていく『持続』などのいくつも徳が同時にまとめて喪われているのである。克服の『喜び』が精神生活の中の大切な極として重要視されなければならないのも、それがこうした諸徳性を含み込んだ総合的感情だからこそなのである。だからその『喜び』が消滅することは複合的統合態としての精神の、つまり精神構造の、解体と雲散を指し示している。
【12】試練の土台の上に、一歩一歩あゆみ昇る自己克服の段階が積み重なって、その頂きの上に歓喜がある、という精神の構造的性格が無くなって、不快の素の一切をますます一掃しようとする『安楽の隷属』精神が生活を貫く時、人生の歩みは果たしてどうなるか。生きる時間の経過は、立体的な構造の形成・再形成でありえなくなる時、平べったい舗道の上を無抵抗に運ばれていく滑車の自働過程となる他ないであろう。人生の全過程が自動車となるわけだ。ここには、自分の知覚で感じ取られる起伏がない。人生の歩みは、山や谷を失った平板な時間の経過となる。そうして山や谷を失った時、その人生にはリズムが無くなるのだ。」(藤田省三の文章による)
ーーーーーーーー
問5 問題文の趣旨と合致するものを、次のイ~ヘの中から3つ選べ。
イ 価値の多様化と「安楽」の第一義的な追求とは、矛盾して相いれないものである。
ロ 不快の根を絶ち「安楽」を追求するのは人間にとって自然であり、必ずしも否定されることではない。
ハ 「安楽」喪失への極度の不安に襲われると、人間はその場かぎりの楽しみを次々と空しく求めることになる。
ニ 物を自分の「安楽」のためにだけ使い捨てると人生にリズムが生まれず、人間的な経験を見失うことになる。
ホ 生体内で快と自然に共存している不快をできる限り除去することが、人間社会の基本的なあり方である。
ヘ 「ニヒリズム」も能動的になると積極的な意味を持ち、人間的な価値を生み出す源泉となりうる。
問6 傍線部X「欠如態としての『安楽』」と、波線部Y「成就の『喜び』」とのちがいを、文中で述べられている「経験」(波線を付した(→当ブログでは紫色にしました)三箇所にある→【5】・【6】・【7】段落にあります)との関わりにおいて、30字数以上40字数以内で記せ。ただし、Xを「前者」、Yを「後者」と表記し、句読点等も字数に数えるものとする。
……………………………
【解説・解答】
(解説)
問5
イ 【1】段落に合致しています。
ハ 【2】【7】段落に合致しています。
ニ 【5】【11】段落に合致しています。
ロ・ホは、「不快の一掃」をプラス評価しているので、不適切です。
ヘ 「能動的ニヒリズム」をプラス評価しているので、不適切です。
問6
両者を、「不快の一掃 or 不快の試練」・「経験の喪失 or 経験の蓄積」という対比的な視点で、記述するべきです。
字数が少ないので、キーワードを確実に入れるようにしてください。
(解答)
問5 イ・ハ・ニ
問6 前者は不快を一掃し生の経験を無化するが、後者は不快の試練を経て経験を蓄積する。(句読点とも39字)
ーーーーーーーー
(出典)藤田省三 「『安楽』への全体主義」(『全体主義の時代経験』)
(要約)
今日の社会は、不快の源を一掃して、一面的な「安楽」を追求する能動的ニヒリズムの状態に陥っている。その結果、人生の多様な素晴らしい緒価値を「安楽」に隷属させ、事物との相互的な交渉に基づく「経験」が失われてしまった。人生の歩みは、平板な時間の経過となり、人生にはリズムが無くなることになった。
ーーーーーーーー
(3)当ブログによる発展的解説
【1】藤田氏の論考を読んでの、素直な感想
前にも述べましたが、藤田氏の論考にあるように、「消費社会」は、各人の「人生」から「充実感・達成感」を、根こそぎ掠(かす)め取ってしまうという側面があります。
いわば、「消費社会」は、人々の「人生」を平板化・無味乾燥化してしまうのです。
その上、「消費社会」の蔓延により、地球環境は、かなり悪化してしまい、「人類存続の危機」のレベルにまで達しています。
しかし、現代の状況をクールに観察すれば、悲観するしかない感じもします。
文明国の人々が手にした「快適=消費文明」を簡単に手離すか、と思うのです。
あとは、人類が滅亡していく過程を見ているだけしか、出来ないのではないか、という諦めの思いもあります。
とは言え、世の中を良くして行こうとする動きもあります。
「希望の芽」は、確かにあるのです。
だとしたら、人類は、ここで、賢明なる転換をするべきではないでしょうか。
【2】各個人による個別的対策について
各個人の個別的対策としては、日本的な「もったいない」思想、日本にまだ残っている「伝統的アニミズム思想」の再評価・見直しが必要でしょう。
つまり、消費者の側の人々は、「欲望」を即時に商品化した新製品に振り回されない価値観を持つことも、大切でしょう。
【3】社会的・制度的な対策について
この記事の冒頭で述べたことを、再掲します。
20世紀は、大量生産・大量消費・大量廃棄の「使い捨て文明」のもと、人類は科学技術の恩恵を受けて、快適な生活をおくる事ができました。
しかし、様々な資源の枯渇と、地球温暖化現象によって、人類は、存亡の危機にまで直面しています。
21世紀は、「使い捨て社会」から「持続可能」な「資源循環型社会」の構築、「環境重視社会」への転換が求められています。
この改革は、地域レベル、国家レベル、地球レベルで、推進されるべきでしょう。
エコ、リサイクル、リユース、ロハスデザイン(→「健康と地球の持続可能性を志向するライフスタイル」意味。一般的には、環境・健康を意識した製品、ライフスタイル(シンプルデザイン・スローライフ)などを含んでいます)、という言葉が、様々な場面で使われています。
私たちの身の回りでも、「使い捨て文化」を見直そうという動きが起きています。
これ自体は、よいことです。
また、世界各国で、「使い捨て文化」に歯止めをかけようとする、国家レベルの積極的・具体的な動きが出てきているようです。
これからは、古くなったり、壊れたりした物を捨てて、安易に新たに購入することは賢い行動ではなくなるのでは、ないのでしょうか。
ーーーーーーーー
これで、今回の記事は終わりです。
次回の記事は約10日後に発表の予定です。
私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。
https://twitter.com/gensairyu2
現代文予想問題ー地球環境問題『いちばん大事なこと』(養老孟司)
(1)現代文(国語)・小論文予想問題(出典)ー地球環境問題・『いちばん大事なこと』(養老孟司)ーなぜ、この論考に注目したのか?
東京23区では、ハエやカを、あまりと言うか、ほとんど見なくなりました。
私の好きな赤トンボ、スズメが激減しています。
緑の多い公園に行っても同じです。
ミツバチが世界から消えつつあるという情報も、よく見聞きします。
レイチェル・カーソンの『沈黙の春』の有名な一節が頭に浮かびます。
「自然は、沈黙した。うす気味悪い。鳥たちは、どこへ行ってしまったのか。みんな不思議に思い、不吉な予感におびえた。春がきたが、沈黙の春だった。いつもだったら、いろんな鳥の鳴き声がひびきわたる。だが、いまはもの音一つしない。野原、森、沼地―みな黙りこくっている。でも、敵におそわれたわけでもない。すべては、人間が自ら招いた禍いだったのだ」
カーソンの言う「人間が自ら招いた禍い」とは、殺虫剤・農薬等の化学薬品、放射能です。
『沈黙の春』は、これ自体が現代文・小論文の頻出出典である上に、様々な論考に引用されている有名な名著です。
人生観、価値観によい影響を及ぼす、読むべき一冊だと思います。
- 作者: レイチェルカーソン,Rachel Carson,青樹簗一
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一方で、地方では、熊、鹿、猪が増加し、市街地にまで出現して、様々な問題を起こし、マスコミで連日のように報道されています。
明らかに、「生態系」が大きく狂い始めているのです。
そうなると、大学入試の分野でも、地球環境問題、生態系の乱れの問題が、注目されるでしょう。
そこで、今回の記事は現代文(国語)・小論文対策として「地球環境問題」・「生態系の乱れ」を取りあげることにしました。
そして、この論点・テーマにおける頻出出典である、養老孟司氏の論考(『いちばん大事なこと』)を、当ブログのオリジナル予想問題を通して、解説することにします。
(2)養老孟司氏の紹介
養老氏は、入試現代文(国語)・小論文における著者別出題数で、ほぼ毎年、ベスト10に入っている頻出著者です。
高校現代文(国語)や小論文の教科書にも、養老孟司氏の論考は、かなり採用されています。
【1】養老孟司氏の紹介
1937年、鎌倉市生まれ。東京大学医学部卒業後、解剖学教室に入る。1995年、東京大学医学部教授を退官し、同大学名誉教授に。1989年、『からだの見方』でサントリー学芸賞を受賞。1985年以来一般書を執筆し始め、『形を読む』『解剖学教室へようこそ』『日本人の身体観』などで人体をわかりやすく解説し、『唯脳論』『人間科学』『バカの壁』『養老訓』といった多数の著作では、「身体の喪失」から来る社会の変化について思索を続けている。
【2】養老孟司氏の著書
『ヒトの見方-形態学の目から』(ちくま文庫)、
『からだの見方』(ちくま文庫)、
『唯脳論』 (ちくま学芸文庫)、
『涼しい脳味噌』(文春文庫)、
『カミとヒトの解剖学』(法藏館)、
『解剖学教室へようこそ』(ちくまプリマーブックス)
『続・涼しい脳味噌』(文春文庫)
『考えるヒト』(ちくまプリマーブックス)、
『「都市主義」の限界』(中公叢書)、
『人間科学』(筑摩書房)、
『からだを読む』(ちくま新書)、
『自分は死なないと思っているヒトへ 』(だいわ文庫)、
『バカの壁』(新潮新書)、
『まともな人』(中公新書)、
『いちばん大事なこと― 養老教授の環境論』(集英社新書)、
『死の壁』(新潮新書)、
『無思想の発見』(ちくま新書)、
『超バカの壁』(新潮新書)、
『「自分」の壁』(新潮新書)、
『文系の壁 理系の対話で人間社会をとらえ直す』(PHP新書)、
などが、あります。
いずれも、入試頻出出典です。
(3)『いちばん大事なこと』の解説ー当ブログの予想問題を通して
(養老孟司氏の論考)(概要です)
(青字は当ブログによる注です。赤字は当ブログによる強調です)
「【1】なぜ生物多様性を保護する必要があるのか。それは「人を殺してはいけない」というのと根本は同じことなのである。」
ーーーーーーーー
(当ブログによる解説)
【養老孟司氏の論考の特徴】
この部分は、少々、飛躍があり、わかりにくくなっています。
養老孟司氏の論考においては、「問題提起」と「その解答」が最初に提示されることが多いのです。
しかし、「その問題提起」と「その解答」の「関連性」が、一見わかりにくい時があります。
その場合に、混乱したり、停止したりしないで、すぐに、さらに読み進めることが大事です。
直後から、実に、わかりやすい説明が始まることが多いのが、養老孟司氏の論考の特徴です。
ーーーーーーーー
(養老孟司氏の論考)(概要です)
「【2】なぜか。殺人というと、ほとんどの人が「人が人を殺す」と考えるが、もっと具体的に考えると、例えば出刃包丁とか、ピストルの弾が人を殺す。問題はそこである。どういうことか。出刃包丁も、ビストルの弾も、むやみやたらに単純な金属の塊(かたまり)にすぎないではないか。そんなものに、人を殺す権利はない。私はそう思う。
【3】子どもが時計を分解する。分解するのは簡単だが、もう一度組み立てろといわれたら、まず不可能であろう。システムというのは、そういうものである。時計どころか、人体となれば、いったん壊したものをもとに戻すのは、当たり前だが、不可能である。
【4】要するに、なにがいいたいか。システム(→「体系」という意味)は複雑なものだが、それを破壊するのはきわめて簡単なのである。他方、システムをつくり上げるのは、現在までの人間の能力では、ほとんど不可能である。それがいいたい。だからこそ、安易に自然のシステムを破壊してはいけないのである。
【5】とくに生物について、仏教はそれをきちんと教えてきた。私はそう思う。「生きとし生けるもの」「一寸の虫にも五分の魂」「一切衆生(いっさいしゅじょう)(あるいは山川草木)悉有仏性(しつうぶっしょう)(→「一切衆生悉有仏性」とは「生きとし生けるものは、全て生まれながらにして仏となりうる素質を持つ」ということ。→入試頻出キーワード)」、こうした表現はそれをよく示している。
【6】 ブータンの人は、ビールにハエが飛び込んだら、拾い出して離してやる。それから私の顔を見て、「お前のおじいさんかもしれないからな」といって、ニヤリと笑う。私も笑うが、これは同意の笑いである。絶対に人を殺すな。〔 A 〕戦争だって、自動車事故だって、人はしばしば人の手にかかって死ぬ。医者なら、それをイヤというほど知っている。私自身は、患者さんを殺すのがイヤだから、臨床医になれなかったくらいである。人が人を殺すということはあるが、そのときに、自分でつくることのできない、複雑微妙なシステムを、自分が破壊しているという気持ちがなければならない。いわゆる「文明人」にいちばん欠けているのがそれだ、ということは、多くの人が気がついていることだろう。だから、戦争ばかりしているのである。」
ーーーーーーーー
問1 空欄〔A〕に入る最も適当なものを次の中から選べ。(当ブログによる予想問題)
イ そんなことは常識である
ロ そんなことは、いわない
ハ このことを言わなくてはならない
ニ これは、守られるべき規範である
ホ これは、もはや規範ではない
……………………
以下では、「空欄補充問題」が続きます。
そこで、【空欄補充問題対策】を特集した記事の、リンク冒頭画像を貼っておきます。→ポイントは、「効率的・合理的に解くために、すぐに選択肢のチェックをするべきだ」、ということです。
(解答) ロ
(解説) 空欄直後の二つの文より、イ・ハ・ニは不適です。
空欄を含む段落は、「絶対に人を殺すな」という規範の当否を論じているわけではないので、ホも不適です。
この段落は、「絶対に人を殺すな」とは言わないが、後半の三つの文の内容についての自覚が必要だ、と言っているのです。
ーーーーーーーー
(養老孟司氏の論考)(概要です)
「`【7】 生物多様性を維持するというのは、じつはその延長である。人間のつくり出した技術は強力だという。たしかに人間自体を簡単に殺すという意味では、素手に比べて、ピストルは強力である。しかし、ピストルの単純さと、人間の複雑さを比較してみればいい。人間に比較したら、ピストルなんて、それこそバカみたいなものにすぎない。月までロケットが飛んだ。そんなこといって、人間は威張ってみるが、飛ぶだけならハエだってカだって飛ぶ。それならハエやカがつくれるか。そもそも人間はロケットの仲間か、ハエやカの仲間か。
【8】現代社会は、ハエやカよりもロケットに価値を置く。なぜならロケットは人間が意識的に考えたもので、考えたとおり月に行くから、意識は得意になるのである。それならハエがつくれるかというなら、とんでもない。むしろそれが不可能だとわかっているから、ロケットをつくろうとするのであろう。〔 B 〕自体に価値を置く文化であるなら、ロケットよりも、人間の仲間であるハエやカのことを考えるはずである。生物というシステムについて、より真剣に考えるはずである。それがそうでないのは、意識中心の社会をつくり、意識的な存在のみを評価したからである。」
ーーーーーーーー
問2 空欄Bに入る最も適当なものを次の中から一つ選べ。(当ブログによる予想問題)
イ 環境 ロ 認識 ハ 地球 ニ 人間 ホ 精神
……………………………
(解答) ニ
(解説)
空欄直後の一文(「生物というシステムについて、より真剣に考えるはずなのである」)より、イ・ハは不適です。
二つ後ろの文より、ロも不適です。
ホの「精神」では、直後の「ロケットよりも、人間の仲間であるハエやカのことを考えるはず」の部分と、文脈上スムーズに接続しません。
ニの「人間」が入るとすると、直後の「ロケット」以下の部分、直後の一文と文脈上スムーズに接続します。
第【8】段落は、特に重要なので、しっかり理解しておいてください。
キー段落です。
現代は、「人間=生物」の視点を忘れています。
養老孟司氏は、そのことを批判しているのです。
卓見だと思います。
ーーーーーーーー
(養老孟司氏の論考)(概要です)
「【9】生態系とは、ハエやカを含めた生物が、全体としてつくり上げているシステムである。その複雑さは、とうてい把握しきれないほどのものであり、だからこそ意識(→「人間」を意味しています。また、「人間の脳味噌が要求する論理性」、つまり、「人間の傲慢性」を意味しています)はそれを嫌うのであろう。自分には、わからないことがある、それを意識は嫌う。だからバカという言葉が嫌われる。しかし、いかに嫌ったところで、意識には把握しきれないものがあるという事実は変わらない。
【10】生物多様性というのは、つまりは、「生きとし生けるもの」全体を指している。それは、ただ生きているというだけではない。その構成要素がたがいに循環する、巨大なシステムをなしている。それを「壊す」のは、人殺しと同じで、ある意味で「簡単」だが、「「つくることはできない」(→「人間の限界」です)のである。その意味で。現代人は時計を分解している」子どもと同じである。なにをしているのか一つ一つの過程は「理解しているつもり」つもりであろうが、全体としてなにをしようとしているのか、それがわかっていないに違いない。だから「 甲 」という妙な言葉になるしかないのである。」
ーーーーーーーー
問3 空欄甲に入る最も適当なものを次の中から選べ。(当ブログによる予想問題)
イ 持続可能な利用
ロ 種の保全
ハ 生態系の保全
ニ 絶滅の防止と回復
ホ 生物多様性の維持
……………………
(解答) ホ
(解説)
本問を解くについては、第【1】段落から空欄甲までの間に、筆者が何を言おうとしているのかを読み取る必要があります。
現代人は、自分が何をしているのか、一つ一つの過程は理解しているつもりですが、しかし、自分が全体として何をしようとしているのかが、わかっていないのです。
つまり、システムというものが分かっていないから、「生物多様性」などという
「妙な言葉」を使っているのです。
ーーーーーーーー
(養老孟司氏の論考)(概要です)
「【11】わずか数羽しか残っていないトキ(コウノトリ目トキ科の鳥)は、国民の大きな関心を集めてきた。保護されたトキが卵を産み、雛が孵って育つ過程は、マスコミに大きく報じられた。2003年10月、日本最後のトキが死亡した。少し想像力のある人なら、トキの絶滅を招いたのは、環境の変化だろうということに思い至るだろう。実際にはトキのように個体数が減ってしまった生物を何羽か増やしたところで、元から棲んでいた場所には帰せない。絶滅しそうな生物を保護しても、自然というシステムからはすでに切り離されている。自然というシステムから見れば、絶滅したのと同じことである。
【12】絶滅の危機を叫ぶと、逆にその意味が薄れる可能性がある。具体的には、トキの保護に懸命な皆さんの様子が報じられると、「なぜあんなに必死になるのだろう。トキが死に絶えたって、人間の生活に関係ないよ」と考える人も出てくるはずである。こういう発想が出てくるのは、ある生物が絶滅しても、それが自分にどう跳ね返ってくるか、それが見えないからである。〔 ① 〕
【13】実はそこに生物多様性の意義がある。自然はたくさんの構成要素が複雑に作用しあう巨大なシステムである。システムというものは本来、それを壊そうとする力が働いても動かない、安定したものである。ある生物が絶滅しても、何も起こらないように見えるのは、自然というシステムがいわば「自働〔 C 〕機構」をもっているからである。しかし、システムにも弱点はある。いわば思いがけないところをつかれたとき、一気に崩壊することもありうる。〔 ② 〕
ーーーーーーーー
問4 空欄Cに入る最も適当なものを次の中から一つ選べ。(当ブログによる予想問題)
イ 記憶化 ロ 固定化 ハ 補充化 ニ 定着化 ホ 安定化
……………………
(解答) ホ
(解説)
空欄を含む段落の第三文「システムというものは本来、それを壊そうとする力が働いても動かない、安定なもの」の部分に注目してください。
次段落の第四文の「自然というシステムは、・・・・バランスを保っている」にも着目すると、より分かりやすくなります。
ーーーーーーーー
(養老孟司氏の論考)(概要です)
「【14】トキが自然界から隔離されても、今のところ、自然というシステムはさほど影響を受けていない。それは、トキがシステムにとって重要でなく、別の生物が重要だという意味ではない。自然というシステムは、たくさんの生物が影響しあって微妙なバランスを保っている。今回の場合、トキの影響は目に見えるほどではなかったが、別の条件の下だったら、もっと深刻な事態を招いたかもしれない。あるいは、長い時間が経ったあとで、大きな影響が現れるかもしれない。システムを構成する何かが欠けたとき、どんな影響がいつ現れるかは予測がつかない。〔 ③ 〕
【15】これを逆向きに言うと、システムを構成する要素は、システムを維持するためにいつもなんらかの役割を果たしている可能性があるということになる。だから、システムの構成要素をいたずらに減らすことは慎むべきなのである。自然の構成要素である生物の多様性を保つ必要があるのは、そのためでもある。〔 ④ 〕
【16】実際に日本で、ある生物が絶滅したために、システムが大きな影響を受けた例がある。オオカミである。〔 ⑤ 〕」
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問5 次の一文は、もともと、ある段落の末尾にあったものである。元に戻すと、どこが適当か。〔①〕~〔⑤〕の中から一つ選べ。(当ブログによる予想問題)
システムを構成する何かが欠けたとき、どんな影響がいつ現れるかは、予測がつかない。
……………………
【脱文挿入問題の解法・コツ】 →【脱文挿入問題】は、【空欄補充問題】の一種です。が、【脱文挿入問題】については、本文を熟読・精読する前に、「脱文」を読んでおくべきです。その方が、効率的・合理的です。そして、本文を熟読・精読しながら、挿入する場所の候補を検討することが大切です。
→【「設問から先に読む」べき理由の一つ】
(解答) ③
(解説)
特に、脱落文の「どんな影響」「いつ現れるか」「予測がつかない」に注目してください。
脱落文は、〔③〕を含む段落の「まとめ」になっています。
ーーーーーーーー
(養老孟司氏の論考)(概要です)
「【17】オオカミがいなくなれば、オオカミに食われていた動物が増える。その最たるものがシカである。最近では増えすぎてさまざまな弊害が出ている。生態系への影響も深刻である。自然というシステムのバランスを考えれば、人間がオオカミの代わりをしてシカを減らさなければならない状態である。それなのに、まだシカは手厚く保護されている。
【18】そこには、シカを殺すのはかわいそうだという情緒的な発想や、自然はそのままにしておくべきだという環境原理主義が働いている。しかし、天敵がいなくなったり、ある動物だけを保護したりすれば、システムのバランスが崩れ、別の生物が影響を受ける。システム全体のバランスを保つには、ここでも、上手に自然に手を加える「手入れ」という思想が必要なのである。かわいそうだから殺さないというのは、システム全体から見れば、かならずしもプラスにならない。
【19】虫の世界でも、こうしたことは頻繁に起こっているはずである。しかし、人間の生活にあまり関係がないので、気づかれない。
【20】自然がシステムであるとわかれば、ある生物が別の生物より大切だとか、この生物は要らないという発想は出てこない。自然というシステムを構成しているという点では、どの虫も、ある意味で欠かせない存在なのである。
【21】二十世紀の科学は、システムという視点を抜きにしてさまざまな問題を扱ってきた。システムの構成要素を一つ一つ取り上げ、それを追求してきた。そして、〔 E 〕はコントロールのための科学を進展させるのに役立ち、一定の成果を上げてきた。しかし環境問題というシシステム全体の問題に取り組むには、この手法はあまり役に立たない。個々の要素をいくら追求しても、システムは理解できないし、システムがどのように動いていくのかもわからないからである。これからの科学は、システムを扱えるものにならなければならない」(『いちばん大事なこと』養老孟司)
ーーーーーーーー
問6 空欄Eに入る最も適当なものを次の中から一つ選べ。(当ブログによる予想問題)
イ 要素に分ける手法
ロ 要素をシステムの中で考える手法
ハ 要素とシステムを対比する手法
ニ 要素とシステムを分けない手法
ホ 要素からシステムを考える手法
問7 第【20】段落~第【21】段落には、その内容からいっても、論旨の展開からいっても、余分な文が一つだけ挿入してある。その文の初めと終わりの五字を記せ。句読点や記号も一字と数える。(当ブログによる予想問題)
問8 本文の趣旨と合致するものを次の中から二つ選べ。(当ブログによる予想問題)
イ 絶滅しそうな生物を保護しても、自然という巨大なシステムから見れば、絶滅したと同じことという場合がある。
ロ トキが自然界から欠けても、これからも自然というシステムには、大きな影響はない。
ハ 安易に自然のシステムを破壊してはいけないという結論の理由は、人殺しはいけないという結論の理由と通底していない。
ニ システムの個々の構成要素を一つ一つ追求することが、システムの解明に直結する。
ホ 自然はそのままにしておくべきだという発想は、自然というシステムのバランスからみた場合、必ずしも正当ではない。
ヘ システムは複雑なものだが、それを破壊するのは、それほど容易なことではないのである。
……………………
(解答)
問6 イ
問7 初め=自然環境は終わり=ムもある。
問8 イ・ホ
(解説)
問6【空欄補充問題】 最終段落第一・五文より、ロ~ホは、「システムという視点」(第一文)が入っているので、不適です。
問7【余分な文を指摘する問題】
この種の問題は、早稲田大学(政経学部)(文学部)(文化構想学部)、マーチレベル大学で頻出です。
こういう問題があるからこそ、設問から先に読む必要があるのです。
→【「設問から先に読む」べき理由の一つ】
【解法】
最終段落第四文の「しかし環境問題」以下は、「環境問題」と「システム」の関係が、論点になっています。
従って、余分な文である最終段落第五文の「物理的に小さなシステム」が、無関係になっていることに、気づく必要があります。
また、余分な文は、その直後の一文(「個々の要素」以下)とも、文脈上、スムーズに接続していないのです。
問8【趣旨合致問題】→【「趣旨合致問題」の解法・コツ】
→この設問の選択肢が出来ればよいのです。本文の熟読精読をする前に、選択肢を読んでください。
→【「設問から先に読む」べき理由の一つ】
イ 第【11】段落後半部より合致しています。
ホ 第【18】段落より合致しています。
ロ 第【14】段落より不適です。
ハ 第【1】~【7】・【10】段落より不適です。
ニ 最終段落より不適です。
へ 第【4】段落より不適です。
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(出典)養老孟司『いちばん大事なことー養老教授の環境論』〈第四章 多様性とシステム〉→入試頻出出典です!
(要約)
なぜ、生物多様性を保護する必要があるのか。生物多様性とは、つまりは、「生きとし生けるもの」全体をさしている。そして、その全体の構成要素がたがいに循環する、巨大なシステムをなしている。現代人は、そのシステムを理解できないから、「生物多様性の維持」という妙な言葉を使う。二十世紀の科学には、システムという視点が抜けていた。科学における要素に分ける手法は、環境問題というシステム全体の問題には、あまり役に立たない。これからの科学は、システムを扱えるものにならなければならない。
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(4)「生物多様性」という言葉を評価する見解についてー2015慶応大学(法学部)小論文問題の出典
【1】「生物多様性」という言葉に、一定の価値を認める見解もあります。
以下は、2015年度の慶応大学法学部・小論文に出題された、阿部健一氏の論考(「生物多様性という関係価値ー利用と保全と地域社会」)の一部(概要)です。
「(見出し)『生物多様性』という言葉の創出
生物学者は、生物のかけがいのない価値を認め、しかもその多くが危機的状態にあることを実感している。彼らにとって、生物とその生育場所を、できるだけ自然のままで保全することは当然のことである。しかし、現実には、生物の保全はなかなか進まず、地球上の多くの種が消滅の危機にある。わかりやすく一般社会に訴え、社会的関心を巻き起こすようなメッセージ性の強い言葉の必要性を痛感していたことだろう。
『生物多様性』は、その意味で待望されていた言葉であったに違いない。実際この言葉をきっかけに、生物の保全の必要性と重要性を想起させることができ、社会に関心を呼び起こすことに成功した」
一方で、阿部健一氏も、養老孟司氏と同様に、「『生きとし生けるもの』全体が巨大なシステムをなしている」という側面を認めているようです。
以下に引用します。(概要です)
「(見出し) つながることの価値
生物学者は生物相互のつながりに価値を見出した。多様なことだけが重要なのでなくて、それが相互につながっていることが大事なのである」
(阿部健一「生物多様性という関係価値ー利用と保全と地域社会」『科学』2010年10月号所収)
【2】阿部健一氏の紹介
阿部 健一(あべ けんいち)1958年生まれ。京都大学農学部農林生物学科卒。
京都大学大学院農学研究科熱帯農学専攻修士課程修了。
京都大学大学院農学研究科熱帯農学専攻博士課程中退。
総合地球環境学研究所教授。専門は環境人類学、相関地球研究。
もともと熱帯林に関わる研究を行い、生物学的な関心だけでなく、そこに住む人々の生活、地域の経済や社会構造、さらには政治環境についても関心を深めてきた。現在は環境人類学、相関地域研究を専門とし、熱帯林に限らず、広く環境問題をめぐる国家の利益や人々の生活の変化、さらには価値観の転換などについても考えるようになっている。
著書として、『生物多様性ー子どもたちにどう伝えるか』(地球研叢書)、『五感/五環ー文化が生まれるとき』(地球研叢書)等がある。
これから、注目するべき著者です。
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これで、今回の記事は終わりです。
次回の記事は、約10日後に発表の予定です。
私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。
https://twitter.com/gensairyu2
予想問題「スポーツと民主主義」『反・民主主義論』(佐伯啓思)
(1)現代文(国語)・小論文・予想問題(出典)ー「スポーツと民主主義」『反・民主主義論』(佐伯啓思)ーなぜ、これらの論考に注目したのか?
【1】『反・民主主義論』の紹介をします
表紙の帯には、「民主主義を信じるほど、不幸になっていく」という刺激的なキャチコピーがありますが、本書の内容は、極めてオーソドックスです。
表紙カバーには、以下のような、本書の概略があります。
(赤字は当ブログによる強調です)
《「民主主義を守れ」と叫ぶ人がいる。「憲法を守れ」と怒る人がいる。
だが、われわれは「民主主義」「憲法」を本当に考えてきたのだろうか。
それらを疑うことをタブーとし、思考停止を続けてきただけではないのか。
戦後70年で露呈しているのは「憲法」「平和」「国民主権」を正義とする民主主義の欺瞞と醜態だったー安保法制、無差別テロ、トランプ現象・・・・直近のニュースから、稀代の思想家がその本質を鋭く衝く。
知的刺激に満ちた本格論考。》
本書は、まさに、特に、「民主主義」をギリシャ時代の沿革から遡り、「民主主義」とは何か、を「本質的」に論考した書です。
このような、本格的・本質的な論考は、難関国公立私立大の現代文(国語)・小論文の問題として出題されやすいのです。
しかも、著者は入試頻出著者の佐伯啓思氏です。
そこで、今回、現代文(国語)・小論文対策として記事化しました。
【2】本書の紹介
本書は2016年10月20日に発行されました。
本書は、月刊「新潮45」連載の「反・幸福論」(2015年8月号~2016年5月号)に加筆を施し、改編したものです。
「加筆を施されている」ので、佐伯氏の最新の考察を読むことができます。
全体の構成は以下のようになっています。
第1章 日本を滅ぼす「異形の民主主義」
第2章 「実体なき空気」に支配される日本
第3章 「戦後70年・安倍談話」の真意と「戦後レジーム」→第1~3章は「日本の政治的混迷」に関する論考です
第4章 摩訶不思議な日本国憲法
第5章 「民主主義」の誕生と歴史を知る→本質的・哲学的論考です。来年度入試の現代文(国語)・小論文の流行出典になる可能性が大です。
第6章 グローバル文明が生み出す野蛮な無差別テロ
第7章 少数賢者の「民本主義」と愚民の「デモクラシー」
第8章 民主主義政治に抗える「文学」
第9章 エマニュエル・トッドは何を炙り出したのか→エマニュル・トッド氏は、「イギリス(英国)のEU離脱問題」・「アメリカ(米国)大統領選挙におけるトランプ現象」という「世界の混迷」について、「国民国家とグローバル化」の視点から、秀逸な見解を発表しており、大学入試現代文(国語)・小論文の分野においても、注目するべき著者です。
第10章 トランプ現象は民主主義そのもの→共和党のトランプ・アメリカ大統領候補が、トランプ・アメリカ大統領になったこと(「トランプ現象」)で、来年度の現代文(国語)・小論文のヤマ、流行出典になりそうです!
【3】本書に注目した理由
以下に、本書に注目した理由を列挙します。
① 佐伯啓思氏は、入試現代文(国語)・小論文における入試頻出著者です。
そして、本書は佐伯氏の最新の著作です。
佐伯氏の論考は、最近では、神戸大学、新潟大学、早稲田大学(政経)・(文)、立教大学、法政大学、中央大学、関西大学等で出題されています。
② 「民主主義」の論点・テーマは、最近の、現代文(国語)・小論文において流行論点・テーマになっています。
③ このところ問題になっている「集団的自衛権」に関連して、「日本国憲法論」・「憲法改正問題」・「憲法9条改正問題」が論点化・テーマ化しています。
④ 「グローバル(国際化)」は最近では、トップレベルの頻出論点・テーマです。
個別的には、「新自由主義」・「TPP問題」の論点・テーマとして、現代文(国語)・小論文で出題されています。→来年度以降は、「イギリス(英国)のEU離脱問題」・「アメリカ(米国)のトランプ現象」としても、出題されるでしょう。
以上の理由により、私は、本書は難関大学の現代文(国語)・小論文対策用の予想問題作成にかなり有用ではないかと、考えたのです。
【4】佐伯啓思氏の紹介
1949(昭和24)年、奈良県生まれ。社会思想家。京都大学名誉教授。東京大学経済学部卒。東京大学大学院経済学研究科博士課程単位取得。2007年正論大賞。
佐伯氏は、入試現代文(国語)・小論文の頻出著者です。
著書は、
『隠された思考』(筑摩学芸文庫)(サントリー学芸賞)
『時間の身振り学』(筑摩書房)→神戸大学、早稲田大学(政経)で出題
『「アメリカニズム」の終焉』(中公文庫)(東畑記念賞)
『現代日本のリベラリズム』(講談社)(読売論壇賞)
『現代社会論』(講談社学術文庫)
『自由とは何か』(講談社現代新書)→立教大学、法政大学で出題
『反・幸福論』(新潮新書)→小樽商科大学で出題
『倫理としてのナショナリズム』(中公文庫)→関西大学で出題
『日本の宿命』(新潮新書)
『正義の偽装』(新潮新書)
『西田幾多郎・無私の思想と日本人』(新潮新書)
など多数。
(2)「スポーツと民主主義」を『反・民主主義論』(佐伯啓思)・『現代民主主義の病理』(佐伯啓思)を参照しながら解説します。
一方、佐伯氏は、最近(2016年8月4日)、朝日新聞の「異論のススメ」において、「スポーツと民主主義」という秀逸な論考を発表しました。
この論考も、「民主主義」に関して、「スポーツ」と対比するという斬新な視点で、本質的・本格的な論を展開しています。
そこで、この「スポーツと民主主義」を、『反・民主主義論』(新潮新書)、佐伯氏の名著『現代民主主義の病理』(NHKブックス)を参照しつつ、解説していきます。
ーーーーーーーー
(佐伯啓思氏の論考)(概要です)
(青字は当ブログによる「注」です。赤字は当ブログによる「強調」です)
「【1】スポーツとは『ディス・ポルト』から出た言葉である。『ポルト』とは『停泊する港』あるいは、『船を横づけにする左舷』という意味だ。『ディス』はその否定であるから、『ディス・ポルト』とは、停泊できない状態、つまり、秩序を保てない状態であり、はめをはずした状態、ということになる。『ポルト』にはまた『態度』という意味もあるから、『まともな態度を保てない状態』といってもよい。
【2】どうみても、あまり褒められた意味ではなさそうである。事実、英語の『スポート』にも『気晴らし』や『悪ふざけ』といった意味があり、これなどまさしく語源をとどめている。
【3】その『スポーツ』の祭典が6日からリオで始まる。ロシア選手の組織的なドーピング問題や、大会会期中、不測の事態に要注意などといわれる今回のオリンピックをみていると、ついその語源を思い起こしてしまう。ロシアのドーピングなど、はめがはずれた(→「はめ(羽目)をはずす」とは「やり過ぎる」という意味)のか、たが(→「たが」とは「制約。抑制」という意味)がはずれたのか、確かに停泊すべき港からはずれてしまった。」
ーーーーーーーー
(当ブログの解説)
語源から、ある単語の本来の意味を考察することは、正統的な本質的考察と言えます。
ここでは、
「ポルト=停泊=秩序」、
「スポーツ=ディス・ポルト=停泊できない状態=秩序を保てない状態=まともな態度を保てない状態=気晴らし=悪ふざけ」
を確認しておく必要があります。
ーーーーーーーー
(佐伯氏の論考)(概要です)
「【4】ところで、スペインの哲学者であるオルテガが『国家のスポーツ的起源』という評論のなかで、国家の起源を獲物や褒美を獲得する若者集団の争いに求めている。その様式化されたものが争いあう競技としてのスポーツであるとすれば、確かに、ここにもスポーツの起源と語源の重なりを想像することは容易であろう。
【5】いうまでもなくオリンピックは古代ギリシャ起源であり、ギリシャ人はスポーツを重んじた。争いを様式化し、競技を美的なものにまで高めようとした。そしてギリシャでは『競技』が賛美される一方で、ポリスでは『民主政治』が興隆した。民主主義とは、言論を通じる『競技』だったのである。肉体を使う競技と言語を使う競技がポリスの舞台を飾ることになる。
【6】古代のギリシャ人を特徴づける特質のひとつはこの『競技的精神』なのである。スポーツと政治は切り離すべきだ、などとわれわれはいうが、もともとの精神においては両者は重なりあっていたのであろう。
【7】ということは、その起源(語源)に立ち返れば、両者とも一歩間違えば『はめをはずした不作法な行動』へと崩れかねない。競技で得られる報酬が大きければ大きいほど、ルールなど無視してはめをはずす誘惑は強まるだろう。
【8】それを制御するものは、自己抑制であり、克己心しかなかろう。そのために、ギリシャでは、体育は、徳育、知育と並んで教育に組み込まれ、若者を鍛える重要な教科とみなされた。その三者を組み合わすことで、体育はただ肉体の鍛錬のみならず、精神の鍛錬でもあり、また、自律心や克己心の獲得の手段ともみなされたのであろう。その上で、運動する肉体を人間存在の『美』として彫像に刻印しようとした。」
ーーーーーーーー
(当ブログの解説)
第【6】段落の「スポーツと政治は、もともとの精神において重なりあっていた」という指摘は、意外な感じがしました。
「スポーツと政治な別のもの」という、私たちの常識が、いかに、いい加減で、無根拠なものかを、再認識させられます。
しかも、両者のもともとの起源が、「競技」であり、「両者とも一歩間違えれば『はめをはずした不作法な行動』へと崩れかねない」という指摘も、新鮮です。
ーーーーーーーー
(佐伯氏の論考)(概要です)
「【9】問題は、言論競技としての民主主義の方で、むしろこちらの方が、成功したのかどうかあやしい。民主主義の精神を鍛えるなどということは不可能に近いからである。ただわれわれが垣間見(かいまみ)ることができるのは、ポリスのソフィストたちの『言論競技』のなかから、ソクラテスのような人物があらわれ、『哲学』を生み出したことである。」
ーーーーーーーー
(当ブログの解説)
① 確かに、「言論競技としての民主主義」を考えると、「討論」と「ルールに基づく決着」が、スポーツと同じ発想だ、と納得できます。
② 問題は、「民主主義の精神を鍛えるなどということは不可能に近い」という佐伯氏の見解です。
この点こそ、今回の記事の重要ポイントです。
このことは、以下の解説で詳説していきます。
ーーーーーーーー
(佐伯氏の論考)(概要です)
「【10】しかし、そのためにはソクラテスは『言論競技』を切り捨て、それを『言論問答』におきかえねばならなかった。彼は、政治よりも真の知識(哲学)を優位におき、それを教育の根本にしようとした。そうでもしなければ、スポーツも政治もただただ『はめをはずす』ことになりかねなかったからであろう。
【11】さて、これはギリシャの昔に終わったことなのであろうか。今日、われわれの眼前で展開されている事態をみれば、決してそうはいえまい。民主政治は、どこにおいても『言論競技』の様相(→勝利が目的。相手を屈服させることが目的)を呈している。アメリカのトランプ大統領候補をドーピングぎりぎり(→節度を外してしまった。一方、民衆は、それを聞くことに快感を感じている)などといえば冗談が過ぎようが、この現象が『ディス・ボルト』(→「秩序を保てない状態」・「はめをはずした状態」・「まともな態度を保てない状態」)へと急接近していることは疑いえまい。民主主義のたががはずれかけているのだ。」
ーーーーーーーー
(当ブログの解説)
① 佐伯氏は、「『民主主義』の『支え』は、既に、かなり前に外れた」という趣旨で、以下のように説明しています。
「ソクラテスは、『真理』が何かはわからないが、それがある、としておかなければ人間の知的活動などありえない、という。知的活動はともかくも『真理』へ向かおうとするものだからです。そして、真理を知ろうとするその態度(→つまり、「謙虚な態度」ということです)がまた善い社会を作り、善く生きようという政治活動にも反映されるべきだとしたのでした。
そのときに、人は『真理』や『善』の奉仕者になり、政治は幾分かは謙虚なものとなったはずでした。しかし、ギリシャの民主主義者たち(ソフィストたち)は、ソクラテスがいうような『真理』も『善』も放棄し、人間こそがすべての尺度であり、力こそがすべてを生み出すことができる、とみなした。
このときに、民主主義は『知』という支えを失ったのでした。」(『反・民主主義論』P 197、198)
② また、「トランプ現象」については、以下のように説明しています。
「大事なことは、トランプ現象の登場は、決して反民主主義的なものではなく、それこそが民主主義そのものだということです。大衆の歓呼によって指導者を選ぶ。 一方、指導者たらんとするものは、大衆的歓呼をいかに引き出すかに腐心する、それこそが民主主義の核心にほかなりません。民主主義が大衆(デモス)による統治(クラティア)である限り、大衆の歓呼によって選出される指導者こそが民主政治の第一人者なのです。」(『反・民主主義論』P 204)
ーーーーーーーー
(佐伯氏の論考)(概要です)
「【12】スポーツに高い公正性や精神性(スポーツマンシップ)を要求するアメリカで、民主主義という政治的競技において高い精神性や公共性が失われつつあるのは、いったいどういうことであろうか。」
ーーーーーーーー
(当ブログの解説)
人々は、自分とは無関係な、スポーツ選手の経済的欲望・社会的欲望の暴走は、「高い精神性や公共性」、つまり、「公正性」・「上品さ」・「徳」・「冷静さ」を掲げて制御・制限できても、自分自身の「経済的欲望」・「社会的欲望」の制御・制限はできないのではないでしょうか。
「自由」、「権利」という名のもとに、人々は、自己が逸脱した行動をとっていることの「愚」に恥ずかしさを感じていない、あるいは、多少は感じていても、他者が同様な行動をとっていることから、自己の行動を容認しているのでしょう。
「資本主義の進展」・「新自由主義」・「IT革命」などにより、「宗教的精神」・「道徳的精神」が薄まってしまったことも、背景にあるのでしょう。
しかも、人々のその自己容認を承認する公教育、マスコミの報道が氾濫しているという現状があります。
ーーーーーーーー
(佐伯氏の論考)(概要です)
「【13】今日、オリンピック級のスポーツには、ほとんど職業的とでもいいたくなるほどの高度な専門性を求められる。そのためには、スポーツ選手は職業人顔負けのトレーニングを積まなければならない。これは肉体的鍛錬であるだけではなく、高度な精神的鍛錬でもある。そこまでして、スポーツ選手は『ディス・ポルト』を防ぐ。しかし、政治の方には、そのような鍛練はほとんど課されない。
【14】その結果、高度なスポーツは『素人』から遊離して一部の者の高度な技能職的なものへと変化し、一方、政治は『素人』へと急接近して即席の競技と化している。どちらも行き過ぎであろう。スポーツと民主主義を現代にまで送り届けたギリシャの遺産が、ロシアのドーピングやアメリカの大統領選挙に行きついたとすれば、現代世界は規律や精神の鍛練の『場』である確かな『停泊地』を失ってしまったといわねばならない。」
ーーーーーーーー
(当ブログの解説)
① 「民主主義は規律や精神の鍛練の『場』」という点について
「民主主義」は、意思決定の過程で「一定の相互理解」と「コンセンサス」が生まれていくのです。
「この過程こそ」が、「精神鍛練の場」なのです。
「この過程」が、人々の「知」を鍛え、高めていくのです。
② 対策論として、どのようなことが考えられるか?
参考になるのは、『反・民主主義論』における、以下の佐伯氏の見解です。概要を引用します。
「民主主義にせよ、議会主義にせよ、可謬性(かびゅうせい)(→「ミスをする可能性」という意味」)の前提にたっていることを忘れてはならないのです。(→この部分は「謙虚さ」の重要性の強調です)
民主主義、「国民の意思」、手続きを踏んだ議会の決定は、暫定的に正当だというだけなのです。議会での決定が間違っていたかもしれない、という自己省察を放棄してはならないのです。
民主主義であれ議会主義であれ、必要なものはある種の謙虚さと自己批判能力なのです。」(『反・民主主義論』P 146、147)
ここで、佐伯氏が強調するのは、「ある種の謙虚さ」と「自己批判能力」です。
つまり、「自分たちの行動を絶対化しない謙虚さ」と「冷静さ(自己批判能力)」です。
これと同様のことを、『反・民主主義論』の別の部分でも、述べています。
以下に概要を引用します。
「本来は、デモクラシーを支えるはずの、自己省察、他者への配慮、すべては暫定的な決定だという謙虚さ、声を荒げない討議。デモクラシーを支えるはずの、自己省察、他者への配慮、すべては暫定的な決定だという謙虚さ、声を荒げない討議。こうしたものを『国民主権』のデモクラシー自身が破壊してしまった。」(『反・民主主義論』P158)
佐伯氏は、これまで、「民主主義の、あるべき姿」を何度も、強調しているのです。
1997年に発行した『現代民主主義の病理』(NHKブックス)でも、以下のように主張しています。
「わたしには、現代日本の『不幸』はデモクラシーが成立していないからなのではなく、むしろ、そのデモクラシーがあまりにも規律をもたず、いわば無責任な言論の横溢(おういつ)をもたらしているところにある、と思われるのだ。そして、それは、現代日本に限らず、デモクラシーというものにつきものの病気なのである。自由が秩序によって牽制され、権利が義務によって牽制され、競争が平等によって牽制されるように、デモクラシーもある種の規律によって牽制されなければ、衆愚政治に堕して自壊するのである。そして、デモクラシーが言論による政治を柱にする限り、言論における規律をどのように確保するかこそがデモクラシー社会の課題となるであろう。」(『現代民主主義の病理』「序 無魂無才の不幸ー日本人の『精神』はどこへ」P 9)
以上の佐伯氏の主張は、ある意味で理想論ですが、追求するべき理想論でしょう。
対策論としては、これ以外には、ないのです。
人々は長期的視点を持ち、「規律」・「真理探求」・「善」・「謙虚」・「徳」、つまり、「倫理(モラル)」を、再評価するべきです。
そのことが、ひいては、自分自身の長期的利益、つまりは、確実な幸福につながることを意識するべきです。
言い換えれば、短期的視点、短期的利益に従って行動することは、「可謬性」が高まること、つまり、不安定な政治を招来しかねないこと、ひいては、「自分自身を不安定な場に置くこと=不幸にすること」を、理解することが重要なのだと思います。
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今回の記事は、これで終わりです。
次回の記事は、約10日後に発表の予定です。
なお、佐伯啓思氏の論考については、最近も、予想問題記事を発表しました。
こちらの記事も、ぜひ、ご覧ください。
現代民主主義の病理―戦後日本をどう見るか (NHKブックス)
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