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現代文最新傾向LABO 斎藤隆

入試現代文の最新傾向を分析し、次年度の傾向を予測する大胆企画

予想問題『じぶん・この不思議な存在』鷲田清一・他者の他者としての自分

 

(1)なぜ、この論考に注目したのか?

 

 鷲田清一氏は、ほとんどの難関大学の入試現代文(国語)・小論文で一度は出題されている、トップレベルの頻出著者です。

 
 最近では、センター試験、東京大学、東北大学、早稲田大学、慶應大学、上智大学等で、出題されています。

 鷲田氏の入試頻出著書としては、

『モードの迷宮』(ちくま学芸文庫)、

『じぶん・この不思議な存在』(講談社現代新書)、

『悲鳴をあげる身体』(PHP 新書)、

『「聴く」ことの力ー臨床哲学試論』(ちくま学芸文庫)、

『わかりやすいはわかりにくい? 臨床哲学講座』(ちくま新書)、

『しんがりの思想』(角川新書)、

等があります。

 

 最近の難関大学では、

『わかりやすいはわかりにくい? 臨床哲学講座』(ちくま新書)、

『「聴く」ことの力ー臨床哲学講座』(ちくま学芸文庫)、

からの出題が目立ちます。

 

 その中で、『じぶん・この不思議な存在』は、長期的に頻出出典になっています。

 その内容が難関大学現代文(国語)・小論文の問題としてふさわしいので、このブログで予想問題の紹介、解説をします。

 

 なお、今回の記事の項目は以下の通りです。 

(2)予想問題・『じぶん・この不思議な存在』鷲田清一・立命館大学国語(現代文)

(3)本書『じぶん・この不思議な存在』の解説

 ①総説

 ②「自分さがし」・「自分の個性」について

 ③本書のキーワードである「他者の他者としての自分」を、鷲田氏は他の著書でどのように説明しているのか?

 ④まとめ

(4)当ブログにおける、鷲田清一氏・関連の記事の紹介

(5)当ブログにおける、「関係性」関連の記事の紹介

 

 

じぶん・この不思議な存在 (講談社現代新書)

 

 

 

 

 

 

(2)予想問題・『じぶん・この不思議な存在』鷲田清一・立命館大学国語(現代文)過去問

 

(問題文本文)

(赤字はブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です)

【1】わたしたちは、目の前にあるものを、それは何であるかと解釈し、区分けしながら生きている。たとえば現実と非現実、自分と自分でないもの、生きているものと死んだもの、よいことと悪いこと、大人と子供、男性と女性・・・・。こうした区分けのしかたを他の人たちと共有しているとき、わたしたちは自分を「普通」(ノーマル、ナチュラル)の人間だと感じる。そして、わたしたちが共有している意味の分割線を混乱させたり、不明にしたり、無視したりする存在に出会ったとき、彼らを、別の世界に生きている人というより、わたしたちと同じこの世界にいながら、「普通」でない人と見なしてしまう。 

【2】ではなぜ、わたしたちは〔  A  〕の境界にこのようにヒステリックに固執するのだろう。それは、わたしたちが「~である/~でない」というしかたでしか自分を感じ、理解することができないからではないだろうか。そしてそういう〔  A  〕の分割の中にうまく自分を挿入できないとき、いったい自分はだれなのかという、その〔  B  〕の輪郭が失われてしまうからではないだろうか。つまり、それほどまでに〈わたし〉はもろく、不可解な〔  B  〕であるからではないだろうか。 

【3】たとえば、身体を持たない〈わたし〉があり得ないことはあまりに明白であるのに、それでは〈わたし〉と身体とはどのような関係にあるかと問うてみると、自分がほとんどなんの確かな答えも持っていないことに気づかされる。 

 

ーーーーーーーー 

 

(問題)

問1  空欄A・Bに入れるのに、最も適当なものを、次の中から選べ。

1 人間   2 原因   3 存在   4 解釈

5 所有物   6 結果   7 身体   8 意味

 

……………………………

 

(解説・解答)

問1

A  

は、前にある「意味の分割線」に注目してください。

 つまり、【1】段落最終文の

「わたしたちが共有している意味の分割線を混乱させたり、不明にしたり、無視したりする存在に出会ったとき、彼らを、別の世界に生きている人というより、わたしたちと同じこの世界にいながら、「普通」でない人と見なしてしまう。 」

の文脈に注目するとよいでしょう。

 

B 

【2】段落第2文の

わたしたちが「~である/~でない」というしかたでしか自分を感じ、理解することができないからではないだろうか。

における、

《 「自分」は「~である/~でない」という部分 》は、《 「自分」の「何」についての議論なのか 》、を考えるとよいでしょう。

  

(解答)  A=8  B=3

 

ーーーーーーーー

 

 (問題文本文) 

【4】「わたしの足」というとき、わたしと足はどういう関係にあるのかと考え始めると、たちまち謎に包まれる。わたしは足であるか? ノー。わたしは足を持つのか? たぶん、イエス。もし身体がわたしの所有物だとすると、所有物は譲渡や交換が可能であるはずだから、足から順に自分の身体を次々に別の身体と取り替えていっても、わたしはわたしであるはずだ。けれども想像が腹部あたりに達したころから、だんだんあやしい気分、おぞましい気分になってくる。〔 C 

【5】つまり、自分が身体であるのか、身体を持つのかはっきりしないまま、わたしたちはなんとなく自分がこの身体の皮膚の内側にあると思い込んでいる。だから、身体の形状がわたしたちのそれとは違った異形の身体に出会ったときには、すくなからず動揺してしまう。わたしをいまこの〈わたし〉としている身体的条件がたんに一つの〔 D 〕にすぎず、〈わたし〉の存在にとってかならずしも決定的なことではないことが、目にみえるかたちで暴露されるからである。

 

ーーーーーーーー

 

(問題)

問2  空欄Cに入れるのに、最も適当なものを、次の中から選べ。

1 身体はわたしが所有しているものだと、断言したくなってくる

2 身体などなくなってしまえと、言いたくなってくる

3 身体はわたしが所有しているものではないと、前言を翻(ひるがえ)したくなってくる

4 わたしの身体を誰かの身体とそっくり交換したくなってくる

5 わたしの身体を誰かと交換したいなどとは、今後一切思わなくなる

 

 

問題3  空欄Dに入れるのに、最も適当なものを、次の中から選べ。 

1 差異化の可能化

2 偶然性の可能化

3 可能性の抽象化

4 可能性の具体化

5 差異性の必然化

……………………………

 

(解説・解答)

 

問2

こういう難解な文章を、要約して解くことは有害無益です。時間的にも、損失です。本文の精読・熟読に専念してください。

「もし身体がわたしの所有物だとすると、所有物は譲渡や交換が可能であるはずだから、足から順に自分の身体を次々に別の身体と取り替えていっても、わたしはわたしであるはずだ。けれども想像が腹部あたりに達したころから、だんだんあやしい気分、おぞましい気分になってくる。」という文脈に注目してください。

 

(解答) 3

 

問3 

「 わたしをいまこの〈わたし〉としている身体的条件が、たんに一つの〔 D 〕にすぎず」、

(わたしをいまこの〈わたし〉としている身体的条件が)〈わたし〉の存在にとって

かならずしも決定的ではないこと」と、

「目にみえるかたちで暴露されるからである。」の文脈に着目してください。

 

(解答) 4

 

ーーーーーーーー

 

(問題文本文)

【6】このように考えてくると、わたしがだれであるかということは、わたしがだれでないかということ、つまりだれを自分とは異なるもの(他者)と見なしているかということと、背中合わせになっていることがわかる。ところが、わたしがそれによって他者との差異を確認するその意味の軸線がわたしたちによって共有されているところでは、この軸線がその形成の歴史を忘却して「自然」的なものと見なされ(ここから「自然」が規範としての意味を持ち始める)、それを共有しないものは、わたしたちではないもの=「普通」でないものとして否認される。「普通」ということは世界の解釈の一体系を共有しているということにすぎないにもかかわらず、である。わたしたちが自分の存在に形を与えていくこのプロセスは、だから同時に、きわめて〔   E 〕なプロセスでもある。それは、常に解釈の規準を提示し、それを共有できないものは排除し、それを外れるものには欠陥とか劣性といった否定的なまなざしのもとで自らを見ることを強いる。 

【7】わたしはだれかという問いは、わたしはだれを〈非―わたし〉として差異化(=差別)することによってわたしであり得ているのか、という問いと一体をなしている。わたしもあなたも同じ「人間」であるという言い方は、〈わたし〉が一定の差別(逆差別も含めて)の上に初めて成り立つ存在にすぎないことをかえって覆い隠してしまうおそれがある。

【8】「わたしはだれ?」ーーそれは、おそらく、〈わたし〉を形作っている差異の軸線をそのつど具体的なコンテクスト(→「文脈。脈絡」という意味)に則して検証していくところでしか答えられないであろう。 

 

ーーーーーーーー

 

(問題)

問4  空欄Eに入れるのに、最も適当なものを、次の中から選べ。

1 抽象的   2 政治的  3 倫理的

4 自然的   5 決定的

 

問5  この文章の筆者は、傍線①の「わたしはだれ?」という問いに対して、どのように答えようとしているか。最も適当なものを、次の中から選べ。

1 わたしたちは、わたしたちではないひとを知ることをとおしてしか、じぶん自身を知ることができない。

 

2 わたしたちは、じぶんは誰かという問いをじぶんの内部に向けることによってしか、じぶん自身を知ることができない。

 

3 わたしたちは、じぶんではないものからじぶんの存在を隔離することになってしか、じぶん自身を知ることができない。

 

4 わたしたちは、じぶん自身の中身をそのつど検証していくことによってしか、じぶん自身を知ることができない。

 

5 わたしたちは、身体を所有することによってしか、じぶん自身を知ることができない。

……………………………

 

(解説・解答)

 

問4

「このプロセス」は、「政治的な、かけひき」の側面があります。

わたしがだれであるかということは、わたしがだれでないかということ、つまりだれを自分とは異なるもの(他者)と見なしているかということと、背中合わせになっていることがわかる。ところが、わたしがそれによって他者との差異を確認するその意味の軸線がわたしたちによって共有されているところでは、この軸線がその形成の歴史を忘却して「自然」的なものと見なされ(ここから「自然」が規範としての意味を持ち始める)、それを共有しないものは、わたしたちではないもの=「普通」でないものとして否認される。それは、常に解釈の規準を提示し、それを共有できないものは排除し、それを外れるものには欠陥とか劣性といった否定的なまなざしのもとで自らを見ることを強いる 

文脈の赤字部分に注目してください。

  

(解答) 2

 

問5

【2】段落の「ではなぜ、わたしたちは〔 A=意味 〕の境界にこのようにヒステリックに固執するのだろう。それは、わたしたちが「~である/~でない」というしかたでしか自分を感じ、理解することができないからではないだろうか。」、

7】段落のわたしはだれかという問いは、わたしはだれを〈非―わたし〉として差異化(=差別)することによってわたしであり得ているのか、という問いと一体をなしている

【8】段落の「わたしはだれ?」ーーそれは、おそらく、〈わたし〉を形作っている差異の軸線をそのつど具体的なコンテクスト(→「文脈。脈絡」という意味)に則して検証していくところでしか答えられないであろう。 

に着目してください。

 

(解答) 1

 

ーーーーーーー

 

【要約】

わたしたちは目の前にあるものを、なんであるかと解釈し、区分けしながら生きている。なぜなら、わたしたちが、「~である/~でない」というしかたでしか、じぶんを感じ、理解することができないからである。わたしたちは、わたしたちでないひとを知ることをとおしてしか、じぶんを知ることができない、といえるのである。

 

【出典】

本問は以下の目次の中の「2 じぶんの内とじぶんの外」の一節です。

 

【目次】
1  爆弾のような問い
2  じぶんの内とじぶんの外
3  じぶんに揺さぶりをかける
4  他者の他者であるということ
5 「顔」を差しだすということ
6  死にものとしての「わたし」

 

 

(3)本書『じぶん・この不思議な存在』の解説

 

 ①総説

 本書『じぶん・この不思議な存在』」の冒頭に、以下のような、「問題提起」の一節があります。

「  わたしってだれ?

    じぶんってなに?

 だれもがそういう爆弾のような問いを抱えている。

 爆弾のような、といったのは、この問いに囚(とら)われると、いままでせっかく積み上げ、塗り固めてきたことがみな、がらがら崩れだしそうな気がするからだ。

だれもが、人生のなかで何度も何度もこの問いを口にする。

あるいは、ひとりごちる。

あるいは、そのような問いの切迫を、それと意識することなく感じている。

そして、そのように問うことじたいが、どうやらこの問いのうちに潜んでいる不安をあおりたてることになっているらしいことも、うすうすは気がついている。


 本書の内容、つまり、上記の「問題提起」に対する解説は、以下の、本書の「エピローグ」に要約されています。

「わたしがこの本のなかで伝えたかったことはただ一つ、〈わたしはだれ?〉という問いに答えはないということだ。

 とりわけ、その問いを自分の内部に向け、そこに何か自分だけに固有なものをもとめる場合には。そんなものはどこにもない。

 じぶんが所有しているものとしてのじぶんの属性のうちにではなくて、誰かある他者にとっての他者のひとりでありえているという、そうしたありかたのなかに、ひとはかろうじてじぶんの存在を見いだすことができるだけだ

 問題なのは、つねに具体的な「だれか」としての他者、つまりわたしの他者であり、したがって〈わたしはだれ?〉という問いには一般的な解は存在しないということである。

 ひとはそれぞれ、自分の道で特定の他者に出会うしかない。」 ( P 176 )

 

 

②  「自分さがし」・「自分の個性」について

 本書は本来、これらの本質を解説しているとも言えます。

 しかし、本書の内容がかなり難解な側面を有しているので、当ブログでは、ここで、改めて、これらについて解説します。

 

 約30年前の高度消費社会の時期から、「自分探し」・「わたし探し」ということが流行し始めました。

 主に、小学校・中学校教育、マスコミの商業戦略( ファッション・化粧品のCM等 )の影響もあって、日本社会における一部の人々は、「じぶんらしい個性」を闇雲に模索してきました。

 そのバカバカしい、反知性主義的ブームの具体例として、「キラキラネーム」が挙げられます。 

 とても読めないような、判読不能な名前すら、あります。

 暗号の世界に迷い込み、「名前の機能」を喪失しています。

 「キラキラネーム」については、最近の難関大学入試の国語(現代文)・小論文論点になっています。

 このブログで最近、記事として発表していますので、こちらも参照してください。

 

gensairyu.hatenablog.com

  

gensairyu.hatenablog.com

 

 この反知性主義的ブームの前提には、「自分の個性」が存在するという、根拠のない確信があるようです。

 しかし、「自分の個性」などとというものが、本当にあるのでしょうか?

 

 自分の中を探せばどこかに「じぶん」らしさがあるというのは、単なる幻想にすぎません。

 なぜなら、「固有な個性」を具体的に表現する道具が、主に形容詞、形容動詞という、一般的に使用されている語句だからです。

 それは、「真にオリジナルな個性」を、本来的に表現できないことを意味しているのです。

 さらに言えば、「じぶん」という名詞も、単なる一般名詞にすぎません。

 自分の中を探しても「じぶん」は見当たらないし、それ自体、単なるフィクションにすぎないのです。

 そうだとすれば、どのように解決策を考えればよいのでしょか?


 鷲田氏は、ここで「他者の他者であること」という「視点」に注目しています。

「  他者にとって意味のある他者たりえているかが、わたしたちがじぶんというものを感じられるかどうかを決めるというわけだ。

 母親に「この子とはそりが合いません」と言わせたら勝ちである。

 母親はいよいよ子どもを別の存在として認めたのだから。

 逆に、風邪で数日学校を休んだ後、学校に戻っても何の話題にもされなかった子どもは不幸である。

 他者のなかにじぶんがなにか意味のある場所を占めていないことを思い知らされたのだから。

 ときには恨まれ、気色わるがられたっていい。

 他人にとってひとりの確実な他者たりうるのであれば。」 ( P 146 )


 以上のように考えて、

 《『自分らしくあらねばならぬ』という強迫観念 》から自由になることについて考えてみることも大切だ、と鷲田氏は指摘するのです。

 

 鷲田氏は、R・D・レインの『自己と他者』から、一人の患者のエピソードを紹介しています。彼は、看護婦に一杯のお茶を入れてもらって、「だれかがわたしに一杯のお茶を下さったなんて、これが生まれてはじめてです」と語りました。

 ただ「誰かのために何かをする」ということ、そして、それ以上でも以下でもないということは、ふつう考えられているよりもずっと難しいことだと、鷲田氏は述べます。

 誰かに何かを「してあげる」という意識が働くとき、私は相手を「助けられる人」、つまり私の行為の客体にしてしまうことになります。このとき、他者は私の中に取り込まれてしまっています。

 こうした関係に陥ることなく、他者を他者として遇し、私もまた他者にとっての他者として遇されるような関係の中で、はじめて私と他者の双方が固有の存在になることができる」と鷲田氏は言います。

 

 こうして鷲田氏は、「私」の固有性とは、「他者の他者」となることだ、と主張します。

 この点について、鷲田氏は、実に的確な引用を提示しています。

「じぶんらしさ」というものは、イメージとして所有すべきものではなく、じぶん以外のなにかあるものを求めるプロセスのなかでかろうじて後からついてくるものである。

 じぶんが何に対してじぶんであるかという、その相手方がいつもじぶんを計る尺度である。」 (キルケゴール)

 

 ③  本書のキーワードである「他者の他者としての自分」を、鷲田氏は他の著書でどのように説明しているのか?

 

 鷲田氏は、本書のキーワード「他者の他者としての自分」を、他の著書で以下のように説明しています。

 これらを、読むことで、より理解が深まるでしょう。

 主なものを挙げます。

 

  まず、『大事なものは見えにくい』の中では、以下のように記述しています。

「  <わたし>の存在は、だれかある他者の宛先となることで、はじめてなりたってきた。

 <わたし>の存在とは、だれかの思いの宛先であるということ

 ヘーゲルやキュルケゴールといった哲学者の言葉を借りれば、「他者の他者」であるということだ。

 わたしわたし以外のだれかの他者であることによってはじめて、いいかえると、だれかある他者に「あなた」「おまえ」と名指されることによって、わたしたちはひとりの<わたし>になる。

 だから、というかたちでの、わたしにとっての二人称の他者の喪失とは、「他者の他者」たるわたしの喪失にほかならない。」 (『大事なものは見えにくい』P36 )

 

 だから、私にとっての大切な人の死は、あれほど悲しいのです。

 その悲しみの大きさの理由が、これを読んで、初めて分かります。

 

 次に、『「聴く」ことの力』では、以下のように説明しています。

「だれかに触れられているということ、

だれかに見つめられていること、

だれかからことばを向けられているということ、

これらのまぎれもなく現実的なものの体験のなかで、

その他者のはたらきかえの対象として自己を感受するなかではじめて、

いいかえると「他者の他者」としてじぶんを体験するなかではじめて、

その存在をあたえられるような次元というものが、<わたし>にはある。

<わたし>の固有性は、ここではみずからあたえうるものではなく、

他者によって見出されるものとしてある。」 ( P 126 )

 

 さらに続けて、鷲田氏は、以下のように述べています。

「  「わたし」、という(一般的な、社会的な)言葉を使うときわたしという存在はすでに集団の中に消えていく。(→この点は、この記事で解説しました)

「わたし」が「わたし」を見つけられるのは、「他者から他者として見られたときだけ」である。

 

  「他者の他者として自己」と「他者」の「関係」は、「自他の補完性」、あるいは、「自己と他者の関係性」とみることができます。

 このことについて、2000慶應大学文学部小論文で鷲田清一氏の論考(『「聴く」ことの力』)を題材として、以下のような問題が出題されました。

 

「(問1) 自己と他者の補完性を著者はどのように考えているのかまとめなさい (300字以内)。

(問2)「他者の他者としてのじぶん」とは何か述べなさい (400字以内)。」

 

 この問題も、今回の記事に関連しています。

 

 ④  まとめ 

 

 今回の記事は、言葉や論理では理解できるものの、実感としては、よく分からない側面があるかもしれません。

 マスコミからの情報、小学校・中学校・高校などの教育現場で指導、一般常識と、鷲田氏の主張が大きくズレているからでしょう。

 しかし、それでよいのです。

 「人生上の真理」と一般常識が全く違う場面は、いくらでもあります。

 

 人生には「不可解な側面」が付きまといます。

 それを簡単に割り切るのがマスコミであり、一般常識です。

 それはそれでよいのです。

 一般社会は、それらをスルーして、進行するのが常であり、それはそれで問題はないのです。

 

 一方で、哲学や難関大学入試の世界では、まさに、「人生上の不可解な側面」が問題になるのです。

 「人生上の不可解な側面」を簡単に割り切らずに、いかに対応していくべきか?

 

 この点について、鷲田氏は本書『じぶん・この不思議な存在』で、以下のような見解を述べています。

  

「  成熟というものは、同一であることを願うひとにしか訪れない。

 未熟という名の非同一性。

 つまりはアイデンティティの不在。

 一貫性のなさ、持続性のなさ、かたちのなさ。

 「青二才」とか、「未熟者」というのは、それこそ子どものように、本気でなににでもなろうとするし、ついさきほど言ったこともすぐに裏切るほど気まぐれで、あきっぽく、節操がないし、根は続かず、片時もじっとしていない。

 けれども、ここで未熟という場合の「未」は「まだない」ではない。

 ここでひとは、成熟するよりも速く「青二才」にならなければならないのだ。

 そうでなければ、ふたたび、かたちへの抑えがたい欲望に溺れてしまうことになるだろう。」 ( P82 )

 

 さらに、鷲田氏は本書で、こうも述べています。

「  人生を一つの説話でリニアに語りだし、〈わたし〉の存在を透明なもの、クリアなものにしようという、わたし達の欲望。

 その根深さによくよく目をこらす必要がある。

 わかりやすいっていうのは、きっと死ぬほどたいくつなはずだ。

 存在が不可解である、意味が不確定であるからこそ、わたしたちはそれに魅かれる。

 恋愛だって、賭け事だって、学問だって、人がのめりこむのは、それを前にしていると、自分の淵から、何か理解できないもの、自分ではコントロールできないものが押しよせてくるからだ。

 わかった顔をしているひとより、ぼうぜんとして「わからない・・・」とつぶやく無防備なひとのほうが、たぶん信用できる。」 (P84 )

 

 言葉や論理では理解できるものの、実感としては完全に納得できない、よく分からない側面。

 人生上の、曖昧な側面の存在。

 分からない状態の継続。

 しかし、それでよいのです。

 それを、手早く処理する必要は、ないのです。

 「人生上の不可解な側面」を、手早く処理することなど、できるわけがないのですから。

 

 さらに、『わかりやすいはわかりにくい?-臨床哲学講座』(ちくま新書)で述べられている以下の言葉には、深く考えさせられます。


「生きてゆくうえで本当に大事なこと(例えば、私は誰とか、愛とか)には、たいして答えがない。これらの問いは、問い続けることが答える事だ。」

 

 

 (4)当ブログにおける、鷲田清一氏・関連の記事の紹介

 

gensairyu.hatenablog.com

 

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(5)当ブログにおける、「関係性」関連の記事の紹介

 

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ーーーーーーーー

 

今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

ご期待ください。

 

  

 

じぶん・この不思議な存在 (講談社現代新書)

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大事なものは見えにくい (角川ソフィア文庫)

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

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