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現代文最新傾向LABO 斎藤隆

入試現代文の最新傾向を分析し、次年度の傾向を予測する大胆企画

『君たちが知っておくべきこと』佐藤優③・現代文・小論文予想出典

(1)この記事は、「現代文(国語)・小論文・予想問題(出典)・実戦的解説ー『君たちが知っておくべきこと・未来のエリートとの対話』(佐藤優)②」の続編になります。

 この記事は、『君たちが知っておくべきこと』を題材とした予想問題の、第3回目の記事です。

 私は、本書から来年度以降の難関大学の入試現代文(国語)・小論文に、多く出題されると予想したので、3回連続の予想出典解説記事を書きました。

 

 なぜ、このように考えたのか?

 難関大学入試現代文(国語)・小論文のこれまでの出題傾向から見て、佐藤氏の意見は、極めて正統的だからです。

 つまり、「アカデミック」と言えるのです。

 

 また、対話形式、講義形式の文章は、特に小論文問題で、よく出題されるので、本書は要注意だと思います。

 

 本書が、ある程度のベストセラーになっていて、大学側も注目することも、入試予想出典として本書に着目する理由の一つです。

 

 

 (2)「国際基準」の「真のエリートになるために」

 

 今回の記事は、第1回講義「真のエリートになるために」の「まとめ」です。

 

 ただし、説明の都合上、第1回講義「真のエリートになるために」の他に、第2回講義「戦争はいつ起きるのか」、「あとがきの」からの引用が含まれています。

 

 「世界のエリート」を観察してきた佐藤優氏の講義による、「国際基準」の「真のエリートになるための条件」を、当ブログの視点で整理して列挙します。

 絞ったつもりですが、かなりの数になりました。

 佐藤氏の、丁寧な性格が窺われます。

 

 これらの「条件」は、社会人にとっても、日々の生活、つまり、人生を知的に賢明に生きるために必要不可欠なものです。

 ぜひ、参考にして下さい。

 

 それでは、「国際基準の、真のエリートになるための条件」を、以下に列挙します。

 

【1】 「日本では、周囲の『嫉妬』を買わないように細心の配慮をする」(「あとがき」)

 →この条件は本書の「あとがき」に書かれています。この内容については、「前々回の記事」で解説しました。→下に、リンク画像を貼っておきます。

 

【2】「『権威』を絶対視しないようにする」(本書 P 58)

→この条件については、「前回の記事」で解説しました。

→下に、リンク画像を貼っておきます。

 

【3】「人の気持ちになって考えること」(本書 P 79)

→「他者理解」・「異文化理解」の論点です。

→1999年度の慶応大学(文学部)の小論文を参照しつつ解説します。

 

【4】「自分の思考の鋳型を知ろう」(本書 P82)

→「自己理解」の論点です。

 

【5】「教養を高める」ー「教養を身につけるには」「リベラルアーツとは何か」(本書 P123)

→「教養」「リベラルアーツ」は、「文系学部消滅」の論点との関係で、来年度のヤマです。

 

【6】「反知性主義に『上から目線』で対抗する」

(本書 P70)

→「反知性主義対策」です。

2016年度・大阪大学・現代文(国語)に出題された、白井聡氏の「反知性主義、その世界的文脈と日本的特徴」(『日本の反知性主義』所収)を参照しつつ解説します。

 



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 それでは、具体的に「国際基準のエリートになるための条件」を、佐藤氏の講義に沿って解説していきます。

 

(3)「人の気持ちになって考えること」(本書 P 79)

 

 以下に、佐藤氏の講義の概要を記述します。

 (なお、【1】【2】【3】・・・・は、当方ブログで付記した段落番号です。赤字は、当ブログによる強調です。)

 

「(佐藤)人の気持ちになって下さい。こんなことを言ったら、相手はどう思うだろうとか、別な人はどう考えているだろうかと想像する癖をつけると、だいぶ違ってきます。

(生徒) たとえば、中国と日本でも考えていることは相当違うと思うし、また、沖縄の人が実際にどう思っているかを日本の政治家があまりよく理解していないことがあるのは、相手の気持ちを理解しようとする力が弱くなっているということですか。

(佐藤) 【1】その通りです。話が飛ぶようですが、私にはロシアにいた時に出会った、非常に尊敬している文化人類学者がいます。本人はグルジアで生まれた。哲学者のウィトゲンシュタイン(→本書による注→哲学者(1889ー1951)言語の分析を哲学の手法として捉え、分析哲学の基礎を築いた。主著に『論理哲学論考』)は、言語の違いが人間の思考に、ものすごい影響を与えると言っているけれど、グルジア語は非常に特殊な言語です。

【2】その先生に、ある時、こう聞かれたことがある。『あなたは生粋(きっすい)の日本人では、ないでしょう。どこか少数民族の血が入っている。あるいは、外国人の血が。違いますか?』と。

【3】『私は母親が沖縄なんです』と答えたら、『ああ、それで分かった』と言われた。彼は日本人には何人も会っているけれど、私と話している時の感覚が他の日本人と全然違ったんだそうです。

【4】彼が言うには、『大民族の出身の人は、複雑なコンプレックスを抱えながらも自分たちの思いを言語化できない少数民族の気持ちは分からない。そもそも、《自分たちが分かっていない》ということも分からない。あなたは少なくとも、《分かっていない》ということについては分かっている。だから、ソ連でも少民族の友だちが多いでしょ』と。

【5】図星でした。少数民族の友人たちは、ロシアに関する重要な情報を私に教えてくれていました。それは、私の中に刷り込まれている、母親が日本の少数民族である沖縄人だという意識が彼らに通じていたのかもしれない。

【6】人には、それぞれ育ってきた文化による拘束性がある。それがあるから、他人の気持ちを理解することは口で言うほど簡単なことではないのです。

 

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(当ブログによる解説)

 

【4】段落と【6】段落の赤字の部分を熟読して下さい。

 特に、重要なのは、【4】段落のそもそも、《自分たちが分かっていない》ということも分からない。」の部分です。

 これは、「自分たちは、他の少数民族の複雑な気持ちを充分に分かっている」と、楽天的に思い込んでいる状態(誤解)を説明しています。

 この事こそが、「異文化理解の困難性ないし不可能性」を物語っています。 

 

 佐藤氏は、入試現代文・小論文頻出の「異文化理解」のポイントを、実に分かりやすく講義しています。

 異文化理解がいかに困難か、が述べられています。

 

 人は、どうしても自分の文化の価値観を基準にして、異文化を理解しようとして(自文化中心主義(エスノセントリズム))、その「困難性ないし不可能性」に直面するのです。

 各文化は、 各地域の風土に適合する形で発生・発展してきたので、文化が大きく異なれば、価値観が全く異なることは当然のことです。

 そうなると、「異文化理解」は、ほとんど不可能になるのです。

 たとえ、本人は、充分に理解したつもりでも。

 

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(さらに、当ブログによる解説)

「異文化理解の困難性あるいは不可能性」について、さらに説明します。

 

 1999年度の慶応大学(文学部)小論文に出題された、川田順造氏の『サバンナの博物史』を紹介します。

 慶応大学小論文対策としても役立つように解説していきます。

 川田氏は、最近でも、大阪大学、早稲田大学、上智大学の現代文(国語)に出題されている入試頻出著者です。

 また、『サバンナの博物史』は、長年の入試頻出出典です。

 以下に、慶応大(文)の小論文問題の問題文本文(一部)の、キーセンテンス部分の概要を記述します。

 なお、赤字緑字は、当ブログによる強調です。

 

(問題文本文の冒頭部分)

「近年になって私は、サバンナに生きるモシ族の人たちの、自然に対するあの強靭さ、一切の感傷を払拭した即物性とでもいうべきものを、幾分かは理解できると思うようになった。かつては私はそれを単に、自然に対するこの人たちの感動の欠如というふうにとっていたのだったが。」

 (問題文本文の最終部分)

「『自然』という、モシ語(→当ブログによる注→西アフリカ内陸部のサバンナに居住する農耕民、モシ族(人口約200万人)の使う言語)にもない概念によって、たとえば『モシ族における自然の利用』といった形でこのサバンナの文化を論んじることが、一方的な枠組みによる対象の切りとりになりやすいことはあきらかだ。

 私自身しばしば行ってきたこのような切りとりは、彼らの思考の枠組みだけをとりいれることによって、『正しい』ものとなるわけでは勿論ない。彼らの枠組みと私の枠組みとの、葛藤ないし相互作用のうちに、世界像ないしイデオロギーと、技術・物質文化とが、相互にもっているはずのかかわりを、具体的にあきらかにしてゆくこと。私が将来に向かって、未解決のままにかかえている課題の一つだ。」 

 

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(当ブログによる解説)

 

 1999年度の慶応大学(文)の設問は、以下のようになっています。

「問1 モシ族における「もの」と「ひと」の関係を要約して述べなさい。(300字以内)

問2 自分たちと異なる文化を理解するための心構えを、筆者の見方をとり入れながら、具体的な事例をまじえて述べなさい。(400字以内)」

 

 問1は、要約問題です。

 

 問2は、まさに、「異文化理解のための心構え」を聞いてきています。

 この問題については、「異文化理解の困難性ないし不可能性」(赤字部分)を前提に、それでも、真の異文化理解を目指すべきである(緑色部分)、という方向で論じて下さい。

 お、「世界像ないしイデオロギー」とは「モシ族の文化の価値観」を、「技術・物質文化」とは「現代文明」を、意味しています。

 また、「相互にもっているはずのかかわり」とは、「モシ族の文化の価値観」と「現代文明の価値観」の「重なり合う部分」・「共通点」を意味しています。

 僅かな「共通点」を手掛かりに、 真に異文化を理解していこうとする、慎重で客観的な態度を表明しているのです。

 

 ところで、問2の「具体的な事例」については、「日本と韓国」、または、「日本と西欧」の「食文化の違い」に言及するとよいと思います。

 ところで、慶応大学小論文は、よく「具体例の記述」を要求してきますが、あくまで、本質論を中心に論述するようにしてください。

 

 なお、「言語の違いと、価値観の違い」、「翻訳の不可能性と、異文化理解の不可能性」については、最近のセンター試験、東大入試でも出題されています。

 これらの問題は、かなり難解なので、さらに、私のブログで近日中に解説の予定です。

 

 

(4)「自分の思考の鋳型(いがた)を知ろう」(P 82)

佐藤氏の講義の概要を記述します。

「(佐藤) 皆さんに、ぜひ読んでほしいのが、岡田尊司(たかし)という精神科の先生が書いた『マインド・コントロール』という本です。

 たとえば、高学歴の人達がカルトに入信したり、ブラック企業で違法行為に手を染めていったりということがある。こういう人たちは、さまざまなマインド・コントロールを受けている。

 彼の分析によると、マインド・コントロールの原形は、子供たちが集まるスポーツクラブや進学塾にあると言うのです。そこでは、子供をトンネルに入れるみたいに周囲から遮断して、その小さな世界のルールや価値観で支配する。トンネルの先に見える明かりは、試合に勝つ、もしくは、志望校に合格すること。そこに向かって脇目もふらずに邁進(まいしん)していく、そんな世界を作る。

 この方法をとることで、確かに効率的に能力を伸ばすことはできるかもしれないけれど、そういう形で思考の鋳型(いがた)(→当ブログによる注→「鋳物を作る際に、溶かした金属を注ぎ入れる型」という意味)を作られた人というのは弱いのです。つまり、企業、役所などでも、比較的簡単に疑問も持たず、その世界に没入してしまう。マインド・コントロールされやすい。

 話を戻すと、人の気持ちを、どのように理解するかという問題は、相手だけではなく、自分とも向き合わないといけない。」

 

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(当ブログによる解説)

① 岡田尊司氏は、医学者(精神科医)、作家です。

 岡田氏の論考は、最近の入試小論文に出題されています。

 これからは、要注意の著者です。

 

② 「マインド・コントロール」については、前回の記事の「順応気構え」で触れました。

 前回の記事では、「権威」にマインド・コントロールされる問題でした。

 しかし、今回は、スポーツクラブや進学塾における「目標」にマインド・コントロールされることが問題になっています。

 「目標」(または「目的」)を絶対視する習慣が身に付いてしまうと、「目標」・「目的」が「権威」と同位置になってしまうのです。

 

 それでは、その対策をどのように考えるべきでしょうか。

 前回の記事では、寺田寅彦氏の論考を紹介して、「権威を相対化する必要がある」ことを解説しました。

 同様に、「目標」・「目的」の「相対化」が必要です。

 ある種の余裕が必要になります。

 「しゃかりき」にならないようにするべきです。

 「目標」・「目的」の否定ではなく。

 

③ (講義の最終段落について)

 「自己理解」は「他者理解」の前提になります。

 「自己理解」ができないと、「他者理解」は、できないのです。

 比較対照する基準がないからです。

 

 そして、「自己理解」、「他者理解」は、「人間理解」に繋がります。

 「人間理解」は「社会理解」に、「世界理解」に関連してくるのです。

 これらの「理解」の前提に「自己理解」があることを、強く意識してください。

 

(5)「教養を身につけるには」「リベラルアーツとは何か」(P123)

 

佐藤氏の講義の概要を記述します。

 

「どうして近代になって、こんなに受験勉強が大変になったのでしょうか。

 しかも、皆さんがやっていることは、基本的には専門教育ではなく、一般教養です。そのために、なぜこれだけの時間をかけるかということについて、最も説得力のある説明をしているのは、アーネスト・ゲルナーというイギリスの社会人類学者です。

 ゲルナーは、高いレベルでの文化を支えるためには、専門教育のレベルが低くなってくると言う。専門教育を受けた人間は応用が利(き)かないということで職業教育上、一段下に見られるようになる。だから、一般教養が必要だというわけです。

 最近は盛んに『教養が必要、リベラルアーツが重要』と言われています。リベラルアーツのリベラルとは何か? 自由人であるということです。つまり、奴隷ではないということです。

 自由人が身につけるべきものが教養であるなら、すなわち、テクネー(技術)を持っているのは奴隷だということになる。司法試験の準備、国家医師試験の準備は、世間的にはエリートを作り出すためのシステムと思われているけれど、その実、テクネーにすぎないのではないか。

 そう世界が思い始めたことで、幅広い教養が必要なのだという考え方に回帰しているのかもしれない。」

「幅広い教養を身につけようと思ったら、まず自らの意志を持つこと、それから、いい先生を見つけること。あとは切磋琢磨できるいい友だちを見つけること。」

 

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(当ブログによる解説)

 佐藤氏の、自由人=教養、奴隷=テクネー(技術)、という対比は、極めて明解です。

 この講義は、現代の常識を、激しく揺さぶる内容を含んでいるので、熟読しておいて下さい。

 入試頻出著者の室井尚氏、吉見俊哉氏も、同趣旨の内容を発言しています。

 

 最近は、「教養」・「リベラルアーツ」の価値が再評価されています。

 「専門的知識・技術」に価値があるのは、勿論です。

 しかし、その価値は、短期的視点から見た評価です。

 長期的視点から見た場合に、「教養」・「リベラルアーツ」には独特の高い価値があるのです。

 

 この来年度のヤマの論点(「教養の本質的価値」)については、最近、このブログで2回連続の記事にしたので、下にリンク画像を貼っておきます。

 



(6)「反知性主義対策」ー「反知性主義に『上から目線』で対抗する」(P 70)

 

佐藤氏の講義の概要を記述します。

 

 「反知性主義と『知識を詰め込まれた後進国型のエリート』は、話が繋がります。なぜかと言えば、反知性主義というのは、知識の量とは関係ないからです。

 知に対する姿勢の問題、知というものをどういうふうに見ているか、ということなのです。

 中世の哲学の格言で、『総合知に対立する博識』という言い方がある。今でいうと、オタクみたいな形で細かい知識や情報を山ほど持っていても、中世の発想からすると、そうした知識群は、いかに人間が救われるかということに繋がっていかなければ全く意味がないのです。

 それと似たような意味で、知識をどう有機的に繋げていくかと考える姿勢がないと、大量の知識を持っていたしても反知性主義に陥ってしまう。

 反知性主義に対抗するには、何が必要か、ということは、すごく難しい。結局、反知性主義者を封じ込めていくしかないと思いますが、そうすると、やはり力の論理になってしまう。

 我々自身が反知性主義者の言説にとらわれないためには、どうするべきか。

 反知性主義的な言説が、どうして出てくるか、メタ(高い次元)のところから見る努力をすること。反知性主義に対してだけではなく、あらゆる物事を鳥瞰(ちょうかん)する徹底した「上から目線」を持てるように意識していくことは、決して悪いことではないのです。」

 

ーーーーーー

 

(当ブログによる解説)

① 「反知性主義」の内容については、赤字の部分に説明されています。

 「知識相互間の有機的関連性」を意識しなければ、知識群を、自分のためにも、社会のためにも生かすことはできないということです。

 すなわち、知識は単体では、たいした有用性はないのです。

 

② (講義の最終段落について)

 「あらゆる物事を鳥瞰する徹底した『上から目線』」の重要性

 

 「反知性主義対策」として、佐藤氏は、「『上から目線』で対抗する」ことを提唱しています。

 これは、「反知性主義」に直接的に対抗することを避けて、「上から目線」を持って、鳥瞰的に、つまり、冷静に客観的に対応することを推奨しているのだ、と思います。

 

 何事に対しても、このような余裕的な、冷静な態度を保持することは大切なことです。

 以下の、白井聡氏の論考を解説する際にも、述べますが、「反知性主義」は攻撃的性格を持っています。

 そのような攻撃的性格を有しているものに対しても、こちらとしては、冷静な態度を取ることが肝要なのです。

 

 なお、「『鳥瞰』の重要性」については、「電子書籍」、「紙の本質の恩恵・自己確立」の記事で説明しました。

 この論点も、来年度のヤマなので、ぜひ参照して下さい。

 

 

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(さらに、当ブログによる解説)

 

 「反知性主義者に『上から目線』で対抗する」で参考になるのは、白井聡氏の「反知性主義、その世界的文脈と日本的特徴」(『日本の反知性主義』所収)です。 

 

 白井氏は、最近、『永続敗戦論』『日本劣化論』等注目すべき著作を発表している思想史家、政治学者です。

 これから、難関大学の現代文・小論文に、出題されることが予想されます。

 

 白井氏の「反知性主義、その世界的文脈と日本的特徴」は、2016年大阪大学国語(現代文・評論文)に出題されたので、ここで、その一部を紹介します。

 

 大阪大学国語(現代文・評論文)対策としては、問題文本文の熟読・精読を重視するべきです。

 要約をすぐに記述することはやめて、頭の中で、徐々にまとめていくようにした方が賢明です。

 本文のレベルがハイレベルなので、簡単に要約はできない場合が多いのです。

 

(白井氏の論考については、概要を記述します。なお、赤字は、当ブログによる強調です。)

「【1】リチャード・ホーフスタッター(→当ブログによる注→アメリカ合衆国の政治史家)による『アメリカの反知性主義』によれば、反知性主義とは「知的な生き方、および、それを代表するとされる人びとに対する憤りと疑惑」であり、「そのような生き方の価値を極小化しようとする傾向」と定義される。私はこの一般的な定義に同意するが、ここでポイントとなっているのは、反知性主義が積極的に攻撃的な原理であるということだ。知性の本質的な意味での働きに対して侮辱的で攻撃的な態度を取ることに、反知性主義の核心は見出される。

【2】ホーフスタッターの古典は歴史研究であったのと同時に、マッカーシズム(→当ブログによる注→1950年代にアメリカ合衆国において発生した反共産主義的な社会的・政治的運動。アメリカ合衆国の上院議員のマッカーシーの告発により、共産主義者との批判を受けた政府職員、マスメディア関係者等が攻撃された)において、その病巣を露呈させたアメリカのデモクラシーに対する分析でもあった。つまり、 反知性主義は、政治の重要なファクターである。反知性主義の類似物として、「パンとサーカス」(→当ブログによる注→権力者により無償で付与される「パン(食料)と、サーカス(娯楽)」によって、市民が政治的盲目に置かれている状況。愚民化政策の「たとえ」として、よく使用されている警句・格言)の標語に象徴される愚民化政策((→当ブログによる注→国民の関心を政治に向けさせないことを目的として、国民を意図的に愚民化させる政策)というものが古代からある。為政者が、大衆が持つ知性への憎悪を操作・利用して動員し、それによって政敵を武装解除するということは、歴史上無数に繰り返されてきたに違いない。

3】ただし、大衆民主主義の時代が到来することによって、反知性主義は、大衆の恒常的エートス(→当ブログによる注→「習慣。特性」という意味)となる可能性が現れる。すなわち、この世の中には「知性の不平等」がつねに存在し、この不平等はより実際的な富や権力の不平等に関連する。前近代の身分制社会においては、この格差は「生まれながら」のものとして正当化され、低位に位置づけられた層は、納得しない少数の例外者を除いて、「分を弁(わきま)(→当ブログによる注→この大阪大学の問題では、「読みの問題」として出題されています。)える」ことになる。これに対して、万人が同等の権利を持つ、したがって同等の発言権を持つという前提に立つ民主制においては、現実に存在する「知性の不平等」とそれに関連する「現実的不平等」は、度し難い不正としてつねに現れ、不満の種とならざるを得なくなる。

【4】そこに現れるのは、ルサンチマン(→当ブログによる注→「妬み。恨み」という意味)」の情念が猛威を振るう世界にほかならない。「〇〇が私より富んでいるのは、〇〇が不正を働いているからだ」という思考回路が強力なものとなる。これがルサンチマンになるのは、「〇〇は私より優れているから」という可能性があらかじめ排除されている場合である。現実にある差異を否認することによって、卓越者を悪党に仕立ててしまう。

【5】そして、真正の知的精神や態度も、単なる気取りや見かけ倒しにすぎないのではないかという疑惑から、決して逃れられなくなる。客観的事実に促されて「〇〇」の知的優位を「私」が認めざるを得なくなったとき、それでもなお「平等」を維持するためには、「知的な事柄全般が本当は役に立たない余計なものにすぎない」という発想が出てくる。これはまさに、反知性主義のテーゼである。

【6】かくして、大衆民主主義社会では、反知性主義の心情が社会の潜在的な主調低音(→当ブログによる注→「主調」とは「意見等の中心を構成している調子・色調」という意味。「主調低音」とは、今回は文脈上、「意見等の基礎を構成している思想」という意味。同類語に「通奏低音」がある。「常に底流として存在している思考・主張」という意味)となる。そうである以上、政治権力は、愚民化政策を行なう権力と同様に、この心情を権力資源(→当ブログによる注→「権力の源泉」という意味)として取り込みつつ、かつ、それが圧倒的な覇権を握ることを防ぐという微妙な舵取りを迫られる。」

………………

 

問4 傍線部において、政治権力が「微妙な舵取りを迫られる」のはなぜか。160字以内で説明しなさい。

 

ーーーーーー

 

(当ブログによる解説)

①【「問4」の解説】

 (問4は、この大問(1)の最後の設問で、配点は最大です。)

 まず、傍線部を含む一文の冒頭の「そうである以上」に注目する必要があります。

 傍線部を含む一文は、直前の一文「大衆民主主義社会では、反知性主義の心情が社会の潜在的な主調低音となる。」を前提にしています。→ポイント1

 

 次に着目するべきことは、傍線部の「微妙な舵取り」が何を意味しているか、ということです。

 傍線部直前の「という」に注意すると、「微妙な舵取り」とは、「この(→「反知性主義」の)心情を権力資源として取り込みつつ、かつ、それ(→「反知性主義」の「心情」)が圧倒的な覇権を握ることを防ぐ」ということを意味していることが分かります。→ポイント2

 

 傍線部の「この心情を権力資源として取り込み」とは、【2】段落最終文の「為政者が、大衆が持つ知性への憎悪を操作・利用して」を意味しています。→ポイント3

 

 問題となるのは、傍線部の「それが圧倒的な覇権を握ることを防ぐ」が、「何を意味しているか」です。

 各段落の赤字部分を読めば分かるように、「反知性主義」は、「知性」に対して「積極的に攻撃的・憎悪的な態度」を取る危険な存在です。

 従って、「それが(「反知性主義」の「心情」)が圧倒的な覇権を握る」ことになれば、政治権力自体が攻撃の対象になる可能性もあります。

 そこで、「政治権力」としては、「反知性主義が圧倒的は覇権を握ることを防ぐ」必要があるのです。→ポイント4

 

 以上より、答案としては、上記のポイント1~4に注意して、ポイント1・3・4を中心に、まとめるとよいでしょう。

  

② この設問は、まさに、「政治権力」が「反知性主義に『上から目線』で対抗する」ことの内容を聞いています。

  「反知性主義に対抗」しているのは、「政治権力」です。

 また、「対抗」というより、「利用」に近い感じもします。

 ともあれ、「政治権力」が「反知性主義」に対して、「鳥瞰する徹底した『上から目線』」を持っていることは、確かです。

 

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 今回の記事は、これで終わります。

 次回の記事は、入試頻出著者である佐伯啓思氏の『さらば、資本主義』(新潮新書)(2015年10月20日発行)を題材にした、予想問題解説の予定です

 

 



 

 

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