現代文最新傾向LABO 斎藤隆

入試現代文の最新傾向を分析し、次年度の傾向を予測する大胆企画

予想出典・『永遠平和のために』カント・平和・移民問題・グローバル化

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 

 最近では、民族紛争・宗教対立・英国のEU離脱・トランプ現象など、国際関係・外交問題・グローバル化関連のニュース・論考が非常に多くなっています。

 最近の大学入試国語(現代文)・小論文でも、これらに関連する政治哲学・政治学関連の論考の出題が増加しています。

 その際に、大哲学者カントの『永遠平和のために』が引用されたり、論考の対象になることが多いのです。

 従って、教養・予備知識として、カントやこの本について知っておくことは、国語(現代文)・小論文対策として、大切なことだと思います。

 従って、今回の記事では、『永遠平和のために』の解説をしていきます。

 

 以下の記事の項目は、次のようになっています。記事は約1万字です。

 

(2)「日本の鎖国を賢明と評した哲学者カント」(孫崎享・『日刊ゲンダイ』2017・4・22「日本外交と政治の正体」)の解説

(3)『永遠平和のために』の解説

(4)「歓待の思考」・「訪問権」、「日本の鎖国」について

(5)2003早稲田大学法学部国語(現代文)(「歓待の思考」(『主権のかなたで』)鵜飼哲)の解説

(6)『NHK100分de名著カント  永遠平和のために 』(2016・8)の紹介・解説

 

  

 (2)「日本の鎖国を賢明と評した哲学者カント」(孫崎享・『日刊ゲンダイ』2017・4・22「日本外交と政治の正体」)の解説

 

  『日刊ゲンダイ』(2017年4月22日「日本外交と政治の正体」)に、「日本の鎖国を『賢明』と評した哲学者カント」という孫崎 享氏の、以下のような論考が掲載されました。その一部を引用します。

 

(概要です)

(青字は当ブログによる「注」です)

ドイツの哲学者カント(1724~1804年)が近世最大の哲学者であることには異論がないだろう。1795年に出版された政治哲学の著書「永遠平和のために」は、欧州各国が今のような平和的な関係を築き上げていくうえで「貢献」したことも多くの人は知っている。
 だが、「永遠平和のために」の中で、日本の鎖国を「賢明であった」と評価しているのを知っている人は果たしてどれだけいるだろうか。カントは著書の中で、こう書いている。

 われわれの大陸の文明化された諸国家、とくに商業活動の盛んな諸国家の非友好的な態度をこれと比較してみると、かれらがほかの土地やほかの民族を訪問する際に(訪問することはかれらにとってそこを征服すると同じことを意味するが)示す不正は驚くべき程度に達している。

 アメリカ、黒人地方、香料諸島、喜望峰などは、それらが発見されたとき、かれらにとっては誰にも属さない地であるかのようであったが、それは彼等が住民を無に等しいとみなしたからである。


 東インドでは、かれらは、商業支店を設けるだけという口実の下に、軍隊を導入した。それとともに原住民を圧迫し、その地の諸国家を扇動して、広範な範囲におよぶ戦争を起こし、飢え、反乱、裏切りその他人類を苦しめるあらゆる災厄を嘆く声が数えたてるような悪事を持ち込んだのである。


 それゆえ中国と日本はこれらの来訪者を試した後で、次の措置をとったのは賢明であった(として鎖国に言及)。(→当ブログによる注→(カントの記述)「すなわち前者は来訪は許したが入国は許さず、後者は来訪すらもヨーロッパ民族の一民族にすぎないオランダ人にだけ許可し、しかもその際に彼らを囚人のように扱い、自国民との交際から閉め出したのである」)


 カントが、〈諸国家を扇動して、広範な範囲におよぶ戦争を起こし、飢え、反乱、裏切りその他人類を苦しめるあらゆる災厄を持ち込んだ〉とは、まさに米国の中東政策そのものであり、朝鮮半島でも「諸国家を扇動して」、「災難」を持ち込もうとしている。 

 

ーーーーーーーー

 

(当ブログによる解説) 

 外交問題の専門家である孫崎享氏が、カントの言葉を引いて、現在の世界政治の問題点について論考を発表している点に、私は注目しました。

 孫崎氏の見識、カントの言葉の重み、に注目したのです。

 

 カントの過去の言葉は、「現在の世界政治の混乱」を読み解く際の、「本質的な視座」を示唆してくれるのです。

 それだけ、カントの考察が、「人間の行動の根源」を突いているからでしょう。

 

 以上の文章におけるカントの『永遠平和のために』から引用部分は、『永遠平和のために』の中で、「第二章の第三確定条項」を説明する所に記述されています。

 つまり、カントは、海外に進出している西洋諸国の、アフリカ・アジアなどにおける侵略的な外交姿勢を批判し、中国と日本の鎖国政策を、ある程度、賢明な措置と判断しているのです。

 この点について、さらに解説していきます。

 

永遠平和のために (岩波文庫)

 

(3)『永遠平和のために』の解説

 

 まず、「本書の目次」を紹介します。

 この「目次」は、ある程度、要約のようになっているので、丁寧に読んでいくと、『永遠平和のために』の概要が分かるでしょう。

 

ーーーーーーーー


『永遠平和のために』(カント (著)/ 宇都宮芳明 (訳) 岩波文庫)

【目次】

永遠平和のために

 

第一章 この章は、国家間の永遠平和のための予備条項を含む

 第一条項 将来の戦争の種をひそかに保留して締結された平和条約は、決して平和条約と見なされてはならない 。

 第二条項 独立しているいかなる国家(小国であろうと、大国であろうと、この場合問題ではない)も継承、交換、買収、または贈与によって、他の国家がこれを取得できるということがあってはならない。

 第三条項 常備軍は、時とともに全廃されなければならない。

 第四条項 国家の対外戦争にかんしては、いかなる国債も発行されてはならない。

 第五条項 いかなる国家も、他の国家の体制や政治に暴力をもって干渉してはならない。

 第六条項 いかなる国家も、他国との戦争において、将来の平和時における相互間の信頼を不可能にしてしまうような行為をしてはならない 。

 

第二章 この章は、国家間の永遠平和のための確定条項を含む

 第一確定条項 各国家における市民的体制は、共和的でなければならない。

 第二確定条項 国際法、自由な諸国家の連合制度に基礎を置くべきである。

 第三確定条項 世界市民法は、普遍的な友好をもたらす諸条件に制限されなければならない。

(→上記の孫崎氏の論考は、この条項(「歓待の思考」・「訪問権」)に関連しています。詳しくは、以下に解説します。)
  
第一補説 永遠平和の保証について

第二補説 永遠平和のための秘密条項(1796)

 

付録 
一 永遠平和という見地から見た道徳と政治の不一致について
二 公法の先験的概念による政治と道徳の一致について

 

 ーーーーーーーー

 

(当ブログによる解説) 

 

「第一章 第三条項 常備軍は、時とともに全廃されなければならない。」

「第一補説 永遠平和の保証について」

が、少々、理想主義的ですが、全体としては、現実主義的と評価できると思います。

 この点については、この記事の 「(6)『NHK100分de名著  カント  永遠平和のために』」で、改めて解説します。

 

 

(4)「歓待の思考」・「訪問権」、「日本の鎖国」について

 

 『永遠平和のために』においては、上記の孫崎氏の文章における〈カントの『永遠平和のために』からの引用部分〉の前に、「第二章の第三確定条項」を説明する記述があります。

 この記述は、一般的に、政治哲学・政治学の分野においては、「訪問権」・「歓待の思考」についての記述と言われています。

 以下のようになっています。

 

 (青字は当ブログによる「注」です)

「外国人が要求できるのは、客人の権利(この権利を要求するには、かれを一定の期間家族の一員として扱うという、好意ある特別な契約が必要となろう)ではなくて、訪問の権利である。この権利は、地球の表面を共同に所有する権利に基づいて、たがいに交際を申し出ることができるといった、すべての人間に属している権利である。人間は、もともとだれひとりとして、地上のある場所にいることについて、他人よりも多くの権利を所有しているわけではない。(→すなわち、いかなる個人も他国を訪れた際に、「歓待」される権利を持つのです )」(『永遠平和のために』第二章第三確定条項より)

 

 しかし、当時の世界状況は、カントの見解とは、かなり異なっていました。

 西欧諸国は,通商・布教などを名目として、自国の権益拡大を世界各地で実施していました。

 カントには、それらの行為は,あまりに強権的・強圧的に見えたのでしょう。

 そのために、孫崎享氏の引用した、以下のような見解を述べたのです。

 

 「われわれの大陸の文明諸国家、特に商業活動の盛んな諸国家の非友好的な態度を比較してみると、かれらがほかの土地やほかの民族を訪問する際に(訪問することは、かれらにとって、そこを征服することと同じことを意味するが)示す不正は恐るべき程度にまで達してしている。
 アメリカ、アフリカ、香料諸島、喜望峰などは、それらが発見されたとき、かれらにとっては、だれにも属さない土地であるかのようであったが、それは彼らが先住民たちを無に等しいとみなしたからである。

 東インドでは、かれらは商業支店を設けるだけだという口実の下に軍隊を導入したが、しかし、それとともに先住民を圧迫し、その諸国家を扇動して、広範な範囲におよぷ戦争をおこし、飢え、反乱、裏切り、そのほか人類を苦しめるあらゆる災厄と同様の悪事をもちこんだのである。
 それゆえ、中国と日本が、これらの来訪者を試した後で、つぎの措置をとったのは賢明であった。すなわち、中国は、来航は許したが入国は許さず、日本は来航すらもヨーロッバ民族の一民族にすぎないオランダ人だけに許可し、しかも、その際かれらを囚人のようにあつかい、自国民との交際に制限をあたえたのである。」(『永遠平和のために』)


 近代になり、ヨーロッパの強権的・強圧的な海外進出をくい止める措置として,中国(清朝)、日本(徳川幕府)などの国が,鎖国政策をとったことを、カントは「賢明な措置」として肯定しています。

 カントはケンペルの「旅行記」などを通して,日本が鎖国政策に踏み切らざるを得ない理由を、ある程度理解していたのでしょう。

 

 ケンペルは『日本誌』(今井正編訳・霞ヶ関出版)の付録第二章「もっともな理由のある日本の鎖国」で、以下のような見解を述べています。

 

(概要です)

「日本人の場合は、異国との交わりは、ただ生活のため、便益のため、贅沢のために必要な物資を入手する方便であることは、だれも否定しないであろう。
 人類の繋りの基盤がここに置かれているならば、自然にめぐまれ、あらゆる種類の必要物資を豊富に授かっており、かつその国民の多年にわたる勤勉な努力によって国造りが完成している国家としては、自分からは何も求めるものがない外国にたいしては、外国人どもの計略にのらず、貪慾をはねかえし、騙されないようにし、戦いをしないようにして、その国民と国境を守ることが上策であり、また為政者の義務でもある。

 それは、たしかに納得できる国家の行き方であろう。日本は他の世界諸国に比べて、このような有利な条件に恵まれている国である。」

 

ーーーーーーーー

 

(当ブログによる解説)


 江戸幕府の鎖国政策は、日本においても、明治以降、全面的に否定的な評価を受けてきましたが、ケンペルの見解は、それとは正反対です。

 ケンペルは、当時の世界と日本の状況を踏まえた上で、日本には、鎖国をする論理的根拠があるとしています。

 当時の西洋に、日本の鎖国に対して一定の評価をしている知識人がいたという事実は、現代の日本人が、ぜひとも知っておくべきことです。

 近代的な西洋的価値観(明治時代以降の日本国・日本人の価値観そのもの)に染まり、日本の鎖国を全否定することはないのです。

 

 

 (5)2003早稲田大学法学部国語(現代文)(「歓待の思考」(『主権のかなたで』)鵜飼哲)の解説


 次に、『永遠平和のために』の中の「歓待の思考」から出題された入試国語(現代文)問題として有名な、2003年の早稲田法学部の問題について解説します。

 この問題文本文は、『永遠平和のために』の「第二章 第三確定条項 世界市民法は、普遍的な友好をもたらす諸条件に制限されなければならない。」を説明しているカントの記述の引用から始まります。 

 以下に引用します。

 

(概要です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

「『世界公民法は普遍的な好遇についての諸条件に限られるべきである』

この条項で提起されているのは博愛ではなくて、権利についてである。そして、ここで歓待(よい待遇)というのは、外国人が他国の土地に足を踏み入れたというだけの理由で、その国の人間から敵としての扱いを受けない権利のことである。その国の人間は、彼の生命に危険のおよばない方法でするかぎり、その外国人を退去させることはできる。しかし彼が彼の居場所で平和にふるまうかぎり、その外国人に敵としての扱いをしてはならない。もっとも彼が要求できるのは、滞在権((そのためには、この権彼をしばらく家族の一員として扱うという、特別の好意ある契約が必要とされるであろう))ではなくて、訪問権である。この権利は、地球表面の共同所有権に基づいて互いに友好を結び合うよう、すべての人間にそなわる権利である。つまり、地球の表面は球面で、人間は無限に分散して拡がることはできず、結局は並存することを互いに忍び合わなくてはならないが、しかし根源的には誰ひとりとして地上のある場所にいることについて、他の人より多くの権利を持つ者ではないからである。」

  

 この引用文の直後で、著者・鵜飼哲氏は、以下のような重要な考察をしています。

「  生まれてきたときには、誰もがこの世に「客」としてやってくるほかはないのであり、そこでいわば最初の歓待の経験をするということに関してである。

 この「起源」の歓待は、単に、その名が示すような「歓び」だったわけではないだろう。この世界の「客」となったばかりの新生児は、たとえ歓待を受けようと、まだ、笑ってはいない。「初めに」「客」であったことは、おそらく、死にも比すべき外傷でさえあるだろう。主権が主権である限りその核に持ち続ける残酷さ、かつての日本の外務官僚の、「外国人は煮て食おうと焼いて食おうと主権国家の自由」という発言にみられるような恐るべき残酷さは、このような外傷に対する反動として考察したとき、はじめてその本質が垣間見えるのではないだろうか。」


 この世に生を受け、そして、生きるということの、歓待に付随する「不快感」が外傷のように心の底に残り、「主権」という仕組みのもとで排外的な心情を生み出していく、と鵜飼氏は説明しています。

 日常の空間に、まるで「客」のように到来する存在(たとえば「路上生活者」)に対する、排他的な感情の根本に、このような「不快感」があるのではないか、と鵜飼氏は主張しているのです。

 そして、鵜飼氏は、日本国の出入国管理法の残酷さ、排外主義的伝統を批判します。

 グローバリゼーションの進行や、少子化による労働力不足に付随して発生するであろう「移民」の問題などが、具体的・歴史的な場で思考されるためには、カントのいう「歓待の思考」の発想が要請されるとしています。

 

 この問題の「本文全体の要約」としては、以下のようになります。

「グローバリゼーションの進行の中で、地球の表面をすべての人間が権利として共有するという歓待の思考が現実化されつつある。しかし、これに、よそ者を排除する力を持つ主権が立ちはだかる。従って、歓待の思考は、思考だけではなく、社会・国家のレベルの具体的・歴史的現実の中で、この主権を対象化し、制限しなければならない。それは、また日本人一人一人が排外主義を脱して、自己を再発明することをも意味するのである。」

 

 

 なお、この論考が含まれている『主権のかなたで』は、全体として、以下のような内容になっています。

 

「  国民国家や市民社会の「よそ者」として排除され、不安定な生を強いられる人々。排除の根源にある「主権」の論理に対置すべき「歓待」の原理とは何か。排除に抵抗する実践の理路はどのようなものでありうるのか。デリダ、サイード、シュミットらのテクストに向き合い、世紀転換期の激動を凝視しつつ、来たるべき世界の予兆を探る繊細な思索の記録。

 収録されている論考のほとんどは、1995年から2005年の10年間に、つまり世紀転換期に書かれています。それは、20世紀の終わりと21世紀の始まりというだけでなく、戦後50年であった1995年という転換点と、2001年の〈9・11〉という転換点を含んだ時期の思考と抵抗の軌跡でもあります。」(「表紙カバー」より)

 

 

(6)『NHK100分de名著カント  永遠平和のために 』(2016・8)の紹介・解説

 

 カントの「平和」についての考え方を知るために、本書と『永遠平和のために』(岩波文庫)を併読することを、おすすめします。

 

  『 NHK100分de名著 カント  永遠平和のために 』(番組の解説者は津田塾大学教授の萱野稔人(かやの・としひと)氏です)のWeb上の解説が、『 永遠平和のために』の理解のために秀逸なので、以下に引用します。

 

(概要です)

(赤字、太字は、当ブログによる「強調」です) 

「  人間の本性は「邪悪なもの」であり「戦争すること」である

 18世紀ドイツの哲学者イマヌエル・カントが生きた時代は、ヨーロッパの多くの国が王権を巡る争いや植民地獲得のための競争に明け暮れていました。この情勢を憂えたカントは著書『永遠平和のために』の中で、人間の本性は邪悪であり戦争に向かうのは当然だと説きました。この考えの意味するところを、津田塾大学教授の萱野稔人(かやの・としひと)さんに解説していただきます。

* * *

 カントがいかに現実主義者だったかは、彼の人間観にも現れています。その人間観はかなり悲観的です。人間はもともと道徳を備えているとも、道徳的に完成できるとも言っていません。「人間は邪悪な存在である」というのが、カントのそもそもの出発点です。それをはっきり示しているのが「軍事国債の禁止」にある次の文章です。

 

「国債の発行によって戦争の遂行が容易になる場合には、権力者が戦争を好む傾向とあいまって(これは人間に生まれつきそなわっている特性のように思える)、永遠平和の実現のための大きな障害となるのである。」
(『永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編』中山元訳、光文社古典新訳文庫)以下同

 

 つまりカントは、「人間にはもともと戦争を好む傾向があるので、国債を発行していくらでも金が手に入るようになると、その傾向に火がついて軍備をどんどん拡張し、しまいには戦争をはじめてしまう」と言っているのです。人間の本質を「邪悪」ととらえた箇所として、以下の一節も重要です。

 

「戦争そのものにはいかなる特別な動因も必要ではない。戦争はあたかも人間の本性に接ぎ木されたかのようである。」

 

 戦争は、相手が自分に対してなんらかの利害対立や敵意を持つからこそ起こる、と多くの人は思っているでしょう。しかしカントは、戦争すること自体が人間の本性だから、特別な原因がなくても戦争は起こる──というのです。

 現代に生きる私たちは、武器を持たずに人ごみのなかを無防備に歩くことができますが、それは法の支配が確立されているからであって、じつは見ず知らずの人びとのなかを丸腰で歩けることのほうが歴史的にみれば奇跡的な状態なのです。カントの言葉を引いてみましょう。


「ともに暮らす人間たちのうちで永遠平和は自然状態(スタトゥス・ナーチューラーリス)ではない。自然状態とはむしろ戦争状態なのである。つねに敵対行為が発生しているわけではないとしても、敵対行為の脅威がつねに存在する状態である。」


 こうした自然状態を戦争状態とみるという考え方は、カントがオリジナルではなく、17世紀に活躍した思想家トマス・ホッブズに端を発する「社会契約説」を下敷きにしています。社会契約説とは、どのように人間が国家をつくったのかを論じたもので、要約すると、国家の成り立ちを次のように考えます。


「法秩序が存在しない自然状態では、人間は常に自分の利益だけを考えて行動する。それゆえに放っておくと戦争状態へと向かい、生存さえ危うくなってしまう。そこで命や一定の権利を守るために、人間は相互にルールを守るという契約を結び、それが国家(政府)になった」

 

 カントもこの社会契約説を支持し、人間の本性は邪悪で戦争に向かうのは当然だと考えました。この考えは人類の歴史をみれば正しく、人間は本来平和的だったと道徳的に主張することはナンセンスです。戦争に向かうのは人間の本性として当たり前なのだから、それを異常なものだと特別視してしまうと問題の本質を見誤ります。


 カントにとって大事なのは「なぜ戦争が起こるか」ではなく、「どうすれば戦争が起きなくなるか」です。この問いの転換こそが『永遠平和のために』を読み解く際の重要な鍵となりますので、ここでぜひ頭に入れておいてください。

(『 NHK100分de名著 カント 永遠平和のために 』のWeb上の解説より)

 

 ーーーーーーーー

 

(当ブログによる解説)

 本書のカントは、「自然状態とは戦争状態」という前提に立ち、その上で、独立国家同士が牽制しつつも、平和を維持するためには国家間に国際連合的なものが必須であると説いています。

 この点からも、カントは現実主義者と評価するべきでしょう。

 カントは、現実世界が弱肉強食の世界であることを認めた上で、「世界平和」へ至る道について方法論を呈示しているのです。

 

 カントは、「永遠平和は確実に実現する」とは言っていません。

 たとえば、『永遠平和のために』の「第一補説」では、以下のように述べています。

 

「なるほどこの保証は、永遠平和の到来を予言するのに十分な確実さはもたない。しかし実践的見地では十分な確実さをもち、この目的にむかって努力することをわれわれに義務づけるのである」

 

 カントの想定する「永遠平和」は、目指すべきものとして把握されており、「完全な形で実現するものだ」という、いわゆるメルヘン的・空想的な平和主義では、ありません。

 カントは、「平和それ自体」への限りない接近に、希望の光明を見出だしているのでしょう。
 カントは、「永遠平和に向かって努力すること」それ自体が意味のあることである、と本書で力説しているのでしょう。

 

ーーーーーーーー

 

 今回の記事は、これで終わりです。

 次回の記事は、約1週間後の予定です。

 ご期待ください。

 

    

 

永遠平和のために (岩波文庫)

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