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現代文最新傾向LABO 斎藤隆

入試現代文の最新傾向を分析し、次年度の傾向を予測する大胆企画

国語予想問題「プロの裏切り・プライドと教養の復権を」神里達博

(1)現代文(国語)・小論文予想問題ー「プロの裏切り・プライドと教養の復権を」(2015・12・18「朝日新聞」月刊安心新聞)ーなぜ、この論考に注目したのか?

 

① 第一に、最近の流行論点・テーマが含まれているからです。

 つまり、

「企業の怠慢・不正・犯罪」、

「専門家・科学者の怠慢・不正・犯罪」、

「専門家・科学者の倫理(モラル)」、

「総合的教養(生きた教養)」、

「『大衆社会の病理=嫉妬』の問題性」、

「日本社会における悪平等主義(悪平等思想)」、

が含まれているからです。

 

② 第二に、最近(2015年4月20日)、秀逸な著作、『文明探偵の冒険』(講談社現代新書)を発表して、大学入試現代文(国語)・小論文で、これから注目するべき神里達博氏の論考だからです。

 

 ここのところ、特に、東日本大震災・福島原発事故以降は、難関大学の現代文(国語)・小論文においては、科学史、科学論などの「科学批判」は、よく出題されています。

 東日本大震災・福島原発事故で明らかになったように、「現代文明の発展と存続」を考察する際に、「現代文明と科学の関係」こそが、中心テーマになるからです。

 『文明探偵の冒険』は、「科学の限界」や「歴史の本質」を本質的に、粘り強く、考察した名著だと思います。

 以下に、神里達博氏の紹介をします。

 

 ③ 神里達博氏の紹介

神里達博(かみさと たつひろ)

大阪大学コミュニケーションデザイン・センター特任准教授。専門は科学史、科学技術社会論。1967年生まれ。1992年東京大学工学部卒業(化学工学専攻)。2002年東京大学大学院総合文化研究科博士課程単位取得満期退学(科学史・科学哲学専攻)。旧科学技術庁、旧三菱化学生命科学研究所、東京大学大学院工学系研究科原子力国際専攻特任准教授などを経て、2012年4月から現職。

主な著書に、

『食品リスク―BSEとモダニティ』(弘文堂・2005年)、

『科学技術のポリティクス』(城山英明編・東京大学出版会・2008年・分担執筆)、

『没落する文明』(萱野稔人との共著・集英社新書・2012年)、

などがあります。

 

 

文明探偵の冒険 今は時代の節目なのか (講談社現代新書)

 

 

 

 

 

 

 

(2)「プロの裏切りープライドと教養の復権を」の解説

 

(神里達博氏の論考)(概要です)

(赤字は当ブログによる「強調」です。青字は当ブログによる「注」です)

 

「師走も半ばを過ぎた。今年を振り返りながら改めて思うのは、「プロのモラル」に関わる事件が多かったということである。

 杭工事のデータ偽装(「三井不動産レジデンシャル」・「旭化成建材」)は典型例だろう。そのような行為は、企業ブランドを大きく傷つけ、また業界全体に対する不信を招きかねない、重大な裏切りである。

 また「東洋ゴム工業」は、建築物の免震ゴムで、また鉄道や船舶などに使う防振ゴムで、それぞれ性能の偽装を行っていたことが発覚した。これらも、2度も顧客を欺いた、許し難い行為であろう。

 今年は他にも、40年以上にもわたって組織的に行政の目を欺いてきた「化学及(および)血清療法研究所(化血研)」の不正や、「東芝」の不正会計など、類似する事例が多数、報じられた。これらに共通するのは、なんらかの専門性をもって社会に対して仕事を請け負っていた者が、主として経済的利益を増やすために、信頼に背く行為を行っていた、という点である。私たちは、このような「プロの裏切り」に対して、どう対処すべきなのか。すぐに聞こえてくるのは罰則や監視の強化を求める声だが、ここでは少し違う角度から考えてみたい。まず、専門家のモラルとは、どのように維持されてきたのか、歴史的な流れを確認しておこう。

     *

 日本語でいう「プロ」とは「プロフェッショナル」の略語だが、英語の「Profess=明言する」から派生した言葉だ。これは元々、キリスト教世界において、特別に神から召喚(→「人を呼び出す」という意味)されて就くべき仕事、すなわち、聖職者、医師、法曹家の三つを指していた。そこでは専門的な訓練とともに、職に伴う倫理が求められたのは言うまでもない。そして、それを担保するのは、個人の自律もあっただろうが、同業者の相互チェックも重要な意味を持っていたと考えられる。自分たちの仕事のいわば「品質保証」は、職能共同体による自治によって担われてきたのだ。

 この点は伝統的な「職人」の世界も似ている。倫理を下支えするのは、技に対するプライドというべきものであったはずだ。

 だが近代に入ると、さまざまな仕事が社会的分業によって行われるようになっていく。これはまさに、「専門家=エキスパート」と呼ばれる人たちの増大を意味するのだ。典型例は「科学者」であろう。職業としての科学者が出現してきたのは、19世紀の欧州である。

 このようにして、多数の専門家によって社会が運営されるようになってくると、伝統的な職能共同体に属する「プロ」や「職人」の倫理は、社会の背景へと退いていく。このような社会構造の変容に対して、最も早く警告を発した者の一人に、スペインの哲学者、オルテガがいる。彼は、大衆社会の出現とは、誰もが専門家となり、しかし自分の専門以外には関心を持たない、「慢心した坊ちゃん」の集まりになることだと看破した。そうやって「総合的教養」を失っていくヨーロッパ人を彼は「野蛮」と嘆いたのだ。

     *

 今、日本で起こっていることは、そのさらに先を行くものにも見える。素人には分からない狭く閉ざされた領域に住む「専門家」が、いつの間にか社会全体の規範から逸脱し、結局は自己利益の増大、あるいは自己保身のために、社会を欺く。この事態は実に深刻だ。

 とはいえ、この状況はいずれ、世界中を悩ます共通の難問となるかもしれない。なぜなら近代の重要な本質が「分業」である以上、この世界は専門分化によってどこまでも分断されていく運命にあるからだ。

 ならば、この流れに抗(あらが)う方法はあるのだろうか。

 おそらく鍵となるのは、かつての「プロ」や「職人」が持っていた「プライド」と、失われた「教養」であると考えられる。すなわち、「目先の利益」や「大人の事情」よりも、自らの仕事に対する誇りを優先させることができるか、そして自分の専門以外の事柄に対する判断力の基礎となる「生きた教養」を再構築できるかどうか、ではないか。

 そのために私たちにもすぐできることがある。それは利害関係を超えた「他者」に関心を持つこと、そして、その他者の良き仕事ぶりを見つけたら、素直に敬意(リスペクト)を表明することだ。人は理解され、尊敬されてはじめて、誇りを持てる。抜本的解決は容易ではないが、できれば罰則や監視ではなく、知性尊敬によって世界を変えていきたい。」
(「プロの裏切り・プライドと教養の復権を」  2015・12・18「朝日新聞」月刊安心新聞)

 

ーーーーーーーー

 

(当ブログによる解説)

 「プロのモラル違反」は、国民の生命・健康・財産に重大な悪影響を及ぼすことが多いので、深刻な問題です。

 それだけに、この問題の対策は、緊急の課題です。

 マスコミなどでは、この種の問題が発生すると、決まって対策として議論に上がるのは、罰則・監視の強化です。しかし、いくら罰則・監視を強化しても、モラル違反は完全にはなくなりません。このことは、今までに何回も繰り返されたことです。

 

 神里氏の言うように、確かに「罰則」・「監視」では、根本的・本質的な解決にはならないのです。しかも、厳重な「罰則」や「監視」の中では、専門家たちの意欲・やる気は、どうしても減退していくでしょう。それでは、長期的視点から見て、社会にとって賢明な対策とは言えません。

 このことは、かつての「出産時の死亡事故」を契機とした、当該産婦人科医へのマスコミ・行政・司法の厳罰的な対応が、結果として産婦人科医の激減を招来した、これまでの経緯を見ても明らかです。今になって、行政・社会が産婦人科医の優遇策を打ち出していますが、既に手遅れでしょう。

 

 私も、本質的解決は、「知性」・「敬意(リスペクト)」によるしかないと思います。たとえ、実現困難な道だ、としてもです。

 そのためには、日本社会は、今こそ、歪んだ「悪平等主義」・「悪平等思想」を見直すべきです。「高い専門性」・「高い能力」のある人間を素直に高評価するべきなのです。

 それこそ、真の「個性重視」ではないでしょうか。「個性」とは、ファッションなどの外見的なものではありません。能力・技能こそ「真の個性」の最たるものです。

 また、これこそ、「真のグローバル化」です。欧米では、医師・弁護士・IT技術者専門性の高い技術者などの専門家・プロ・エリートの高評価は、当然のことです。


 だとすれば、専門家・プロ・エリートには、「素直に」「敬意」を表し、様々な待遇面でも、「それなりの高待遇」をもって対応するべきです。
 専門家たちがプライド・誇りを持って、気持ちよく、レベルの高い、きちんとした仕事をすれば、それが社会の長期的利益につながるのです。

 歪んだ「悪平等思想」から離れ、長期的視点から、物事を考えることこそが、賢明な道なのです。
 これこそが、今回の問題の根本的な解決策だと思います。

 

 問題は、いかに、それをスムーズに実現するか、です。つまり、社会が専門家たちに素直に敬意を表する前提として、専門家たちに、それにふさわしい態度・心掛けが必要だからです。

 以下で、詳しく検討していきます。

 

文明探偵の冒険 今は時代の節目なのか (講談社現代新書)

文明探偵の冒険 今は時代の節目なのか (講談社現代新書)

 

 

 

(3)専門家に望まれる態度・心掛け

 

【1】「専門家主義」からの脱却

(①専門家たちは、「総合的教養」・「生きた教養」を身に付ける→「専門家の相互チェック」のために

②さらに、専門家も、国民も、「民主的コントロール」を意識する)

 

 ここで参考になるのは、科学哲学者である小林傳司氏の意見です。以下に、概要を引用します。

 

(小林傳司氏の意見)(概要です)

(赤字は当ブログによる「強調」です。青字は当ブログによる「注」です)

 

震災(→「東日本大震災」)により科学者への信頼は大きく失墜した。学界などから様々な反省が言われたが、今では以前に戻ったかのように見える。

一つは、日本社会が「専門家主義」から脱却できないことだ。「科学と社会の対話が大切」と言いながら、原発再稼働などの政策決定過程をみると「大事なことは専門家が決めるから、市民は余計な心配をしなくてよい」という姿勢が今も色濃い。震災で専門家があれほど視野が狭いことが露見したにもかかわらずだ。

 これらの課題にどう対応すればよいか。まずは、市民が意思決定を専門家に任せすぎず、自分たちの問題ととらえることだ。科学技術は、それがなければ私たちは生活ができないほど重要で強力になっている。原子力のような巨大技術ほど「科学技術のシビリアンコントロール」が必要だ。

 専門家は、市民が基礎知識に欠ける発言をしてもさげすんではならない。専門家は明確に言える部分と不確実な部分を分けて説明する責務があり、最終的には「社会が決める」という原則を受け入れなければいけない。

 日本社会は「この道一筋何十年」という深掘り型は高く評価してきたが、自分の専門を超えて物事を俯瞰(ふかん)的に見られる科学者を育ててこなかった。広い意味での「教養」が重要だと思う。」

(朝日新聞 2016年3月10日 (東日本大震災5年 問われる科学)「7:教訓を生かす 科学技術、社会と関わってこそ 専門家に任せすぎるな」)

 

ーーーーーーーー

 

(当ブログによる解説) 

 ここで、小林傳司氏は、まず、「震災(→「東日本大震災」)専門家の視野の狭さが露見したこと」を指摘しています。

 そして、専門家も、市民も、「専門家主義」から脱却し、「科学技術のシビリアンコントロール」を実現することの必要性を強調しています。

 小林氏の言うように、「この道一筋何十年」という深掘り型の専門家の意見のみを重視する「日本型の専門家主義」では、「視野の狭さ」という欠陥をカバーすることは、不可能でしょう。

 対策としては、小林氏の言う「自分の専門を超えて物事を俯瞰(ふかん)的に見られる科学者」、つまり、「総合的教養」・「生きた教養」を持つ科学者の養成・育成が必要です。

 それとともに、科学技術のシビリアンコントロール」が必要なことは、言うまでもありません。

 

 なお、ここで小林傳司氏の紹介をします。

小林傳司(こばやし ただし)

1954年生まれ。科学哲学者、大阪大学教授。1978年京都大学理学部生物学科卒、1983年東京大学大学院理学系研究科博士課程単位取得退学。1987年福岡教育大学講師、助教授、1990年南山大学人文学部助教授、教授、2005年大阪大学コミュニケーションデザインセンター教授、副センター長を歴任。現在は、大阪大学理事(教育担当)、副学長。専門は、科学哲学・科学技術社会論。

主な著書・共編著として、

『誰が科学技術について考えるのか コンセンサス会議という実験』(名古屋大学出版会・2004)
『トランス・サイエンスの時代 科学技術と社会をつなぐ』(NTT出版ライブラリーレゾナント・2007)
『科学とは何だろうか 科学観の転換』(中島秀人、中山伸樹共編著・木鐸社・科学見直し叢書・1991)
『公共のための科学技術』(編 玉川大学出版部・2002)
『社会技術概論』(小林信一,藤垣裕子共編著・放送大学教育振興会・2007)
『シリーズ大学』(7巻 ・広田照幸,吉田文,上山隆大,濱中淳子と編集委員 ・岩波書店 ・2013~14)、
があります。

 

【2】「ノブレス・オブリージュ」を意識すること

① 「ノブレス・オブリージュ」の意味・意義

 「ノブレス・オブリージュ」の意味については、→佐藤優氏の著作『君たちが知っておくべきこと』(新潮社)が参考になります。

 

(佐藤優氏の論考)(概要です)

(赤字は当ブログによる「強調」です。青字は当ブログによる「注」です)

 

「私は、1996年から2002年までは、秋学期に東京大学教養学部後期教養課程で、民族・エスニシティー(→「民族性。その民族に固有な性質・特徴」という意味)理論に関する講義を行った。後期教養課程は、前期教養課程の1、2年次の成績が特によい東京大学の超エリートの集まる課程だ。学生たちは、選りすぐりで、確かに優秀だった。しかし、モスクワ大学の学生たちが、エリートであるという意識を素直に示して、勉学に励むとともにノブレス・オブリージュ(高貴なる者に伴う義務感)を身に付けようとしていたのに対し、成績の特に優秀な東大生たちは、周囲の嫉妬を買わないように細心の配慮をしていた。」(「あとがき」『君たちが知っておくべきこと』)

 

ーーーーーーーー

 

(当ブログによる解説) 

 問題になるのは、「ノブレス・オブリージュ(高貴なる者に伴う義務感)」の意味です。

 これについては、佐藤氏は、本書の19ページでも、コメントしています。

「皆さんは日本のエリートの予備軍なんです。そこのところ、ちゃんと誇りを持ってほしいと思う。

 そしてエリートは独自のノブレス・オブリージュ(高貴さは義務を強制する)、つまり社会の指導層として果すべき特別の義務を持つ。その精神は皆さんぐらいの年頃から形成していかないといけない。」

 

 「ノブレス・オブリージュ」は、欧米社会の基礎的な道徳観であり、「高貴なる身分に付随する義務」を意味しています。

 すなわち、「高い地位にある者は、それにふさわしい振る舞いをしなければならない」とするものです。

 「それにふさわしい振る舞い」とは、「その身分にふさわしい高潔さ、気品、寛容、勇気」です。

 「ノブレス・オブリージュ」の根本に流れる思想は、「人間として望ましき人格の養成」です。

  「ノブレス・オブリージュ」は、「普遍的な、高い品性」を重視しているのです。

 

gensairyu.hatenablog.com

 

 ② 内田樹氏の見解→悲観論 

 日本のエリートは「ノブレス・オブリージュ」を持つことができるか、については、内田樹氏の悲観論があります。以下に、引用します。

 

(内田樹氏の論考)

(赤字は当ブログによる「強調」です。青字は当ブログによる「注」です)

 

「「人参と鞭」で子どもたちを学校に誘導しようとする(現代日本の教育)戦略はこうして破綻する。「欲望のない子ども」たちと「あまりにスマートな子どもたち」が学校から立ち去ることをそれはむしろ推進することになる。
 引きこもり不登校の子どもたちは別に「反社会的」なわけではない。むしろ「過剰に社会的」なのである。現在の教育イデオロギーをあまりに素直に内面化したために、学校教育の無意味さに耐えられなくなっているのである。
 だから、ひどい言い方をすれば、今学校に通っている子どもたちは「なぜ学校に通うのか?」という問いを突き詰めたことのない子どもたちなのである。「みんなが行くから、私も行く」という程度の動機の子どもたちだけがぼんやり学校に通っているのである。

 欧米の学校教育は、まだ日本の学校ほど激しく劣化していない。「何のために学校教育を受けるのか」について、とりあえずエリートたちには自分たちには「公共的な使命」が託されているという「ノブレス・オブリージュ」の感覚がまだ生きているからである。パブリックスクールからオックスフォードやケンブリッジに進学するエリートの少なくとも一部は、大英帝国を担うという公的義務の負荷を自分の肩に感じている。そういうエリートを育成するために学校が存在している。
 だが、日本の場合、東大や京大の卒業者の中に「ノブレス・オブリージュ」を自覚している者はほとんどいない。
 彼らは子どもの頃から、自分の学習努力の成果はすべて独占すべきであると教えられてきた人たちである。公益より私利を優先し、国富を私財に転移することに熱心で、私事のために公務員を利用しようとするものの方が出世するように制度設計されている社会で公共心の高いエリートが育つはずがない。
 
 結論を述べる。
 日本の学校教育制度は末期的な段階に達しており、小手先の「改革」でどうにかなるようなものではない。そこまで壊れている。」(内田樹の研究室「学校教育の終わり」2013・4・7)

 

ーーーーーーーー

 

(当ブログによる解説) 

 内田氏の意見は、日本で「公共心の高いエリートが育つ」ことについて、悲観的です。

 その理由も、極めて論理的です。説得力もあります。

 私も、悲観的な展望を持たざるを得ません。

 しかし、それでも、日本の将来のために、なんとか良い方向への模索をするべきではないでしょうか。

 エリートたる科学者、専門家が、「善き行い」をしなければ、日本社会は、決して良い方向には行かないのですから。

 

 

 【3】「倫理(モラル)」を身に付けること

 

① 「倫理モラル」を身に付けること

 長期的視点から見た、不正や犯罪的行為の対策として、最も効果的なものは、専門家たちが「倫理(モラル)」を身に付けることでしょう。

 「倫理(モラル)の重要性」を実感することのできる、前田英樹氏の論考(『倫理という力』(講談社現代新書)の一節)を以下に引用します。

 

(前田英樹氏の論考)(概要です)

(赤字は当ブログによる「強調」です。青字は当ブログによる「注」です)

 

「アラン(→フランスの哲学者・評論家。『幸福論』(岩波文庫)で名高い)が書いたたくさんの新聞コラム(『プロポ』)のなかに「在るものを愛すること」という短文がある。これは、一九八〇年の復活祭の朝、ルーアンの地方紙に載った記事だが、何度読み返してもよい文章である。
 アランは書いている。この世には、理解せずに受け容れなくてはならない、いろいろな物事がある。その意味で、何ぴとも宗教なしでは生きていない。宇宙ひとつの事実である。その事実の前で、理性はまず身を屈めねばならないと。子供は、蹴つまずいた石ころに腹を立てる。大人は、雨だ、雪だ、風だ、日照りだとぶつぶつ文句を言う。こういうのは、彼らが物事一切の関係をよく理解していないところから来る。彼らは、何でも物事は気まぐれの意志みたいなものに依りかかっていると思っている。お天気屋の庭師が、この世界のあちこちに水を撒くみたいに思っている。だから彼らは祈るのだ。祈るとは、際立って非宗教的な行為である。
 けれども、「必然性」というものをいささかでも理解している人、そういう人はもはや宇宙に取り引き勘定を求めたりはしない。なぜ雨が降るのか、かくかくの死が訪れるのか、そんなことを尋ねたりはしない。なぜなら、こうした質問に答えなどないことを、この人は知っているから。ただもうご覧の通り、言えることはこれしかない。しかも、それだけで充分だ。在ることは、すでに何事かである。そのことが、あらゆる理性を圧倒する

 そこでアランは書く。真の宗教的感情は、在るものを愛することにある。私はそのことを信じて疑わないと。ただ在るものなど、愛されるに値しないのではないか、あなたがたはそう言うかもしれない。だが、全然そうではないのだ。世界を判断せず、愛さなくてはならぬ。在るものの前に身を屈めなくてはならぬ。」(『倫理という力』P 165)

 

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 (当ブログによる解説)

 

この世には、理解せずに受け容れなくてはならない、いろいろな物事がある。

 

宇宙ひとつの事実である。その事実の前で、理性はまず身を屈めねばならない。」

 

「必然性」というものをいささかでも理解している人、そういう人はもはや宇宙に取り引き勘定を求めたりはしない。」

 

在ることは、すでに何事かである。そのことが、あらゆる理性を圧倒する。」

 

真の宗教的感情真の宗教的感情は、在るものを愛することにある。」

 

世界を判断せず、愛さなくてはならぬ。在るものの前に身を屈めなくてはならぬ。」

 

 以上の一節は、何度でも噛みしめてください。

 

  「倫理」の根底には「宗教的感情」があります。

 

 重要なことは、「理性の限界」「自己の限界」を思い知ることです。

 いくら「理性的」に、「人間中心主義的」に、「傲慢」に生きたところで、人間には、「必然性」・「天候」・「」などの無数の限界があります。

 特に、「」は、絶対的な限界と言えます。

 まずは、「在るものの前で、「謙虚」になることでしょう。

 肩から力を抜き、「素直に謙虚に生きること」が、大切なのではないでしょうか。

 

  ーーーーーーーー

 

(前田英樹氏の論考)(概要です)

(赤字は当ブログによる「強調」です。青字は当ブログによる「注」です)


「しかし、生きる目的は、ほんとうは私たちにはどうにもならない死の成就と切り離すことができない私たちのなかで育っていく死によって、少しずつ遂げられていくような生の目的がある。したがって、私たちにはその双方が、はっきりとは見定めがたい。見定めがたいということが、人間の理性がこの世に生きるということ意味である。生の目的は、私たちを産んだ自然(スピノザの言う「能産的自然」)だけが知っている。この自然は、それ自体が〈ひとつの生〉であり、運動であり、だとも言える。それは、無数の種を産み、個体を産む。産んでは消滅させ、消滅させてはまた産む。それは何のためか。何のためか、と問うことのできる人間を、自然が生んだのは、また何のためか。」(『倫理という力』P 184)


(P 185)「要するに、私たちの生の目的は、自然という〈ひとつの生〉が創り出す目的同じ方向を向いている。私たちの理性は、この目的が何なのかを問う問うことはできる。が、明確な答えを引き出すことはできない。「在るものを愛すること」だけが、ついにその答えになる。」(『倫理という力』P185)

 

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 (当ブログによる解説)

 

宇宙」「自然」という〈ひとつの生〉が、人間を産んだ」

そして、「宇宙」・「自然」の中で人間は死んでいく。

私たちの生の目的は、何か。

これは、私たちの根源的な疑問であり、悩みです。

しかし、「「在るものを愛すること」だけが、ついにその答えになる。」

この部分は、詩的な美しさに満ちています。

何度でも読み返すべきでしょう。 

読めば読むほどに、味わいが深まっていくはずです。

 

② 前田英樹氏の紹介

 以下に、前田英樹氏の紹介を、します。

 

前田 英樹

1951年、大阪府生まれ。中央大学大学院文学研究科フランス文学専攻修了。現在、立教大学現代心理学部教授。言語、身体、記憶、時間などをテーマとして映画、絵画、文学、思想などを扱う。

 

 前田英樹氏は、以下に示すように、難関大学の現代文(国語)・小論文における、トップレベルの頻出著者です。

 

主な著書は、以下の通りです。

『沈黙するソシュール』(書肆山田、1989年/講談社学術文庫、2010年)、

『倫理という力』(講談社現代新書 2001)、→2006国学院大学、2002明治大学、

『宮本武蔵『五輪書』の哲学』(岩波書店 2003)、

『宮本武蔵  剣と思想』(ちくま文庫 2009)、

『絵画の二十世紀  マチスからジャコメッティまで』(日本放送出版協会〈NHKブックス〉 2004)、→2005早稲田大学(法学部)

『言葉と在るものの声』(青土社 2007)、→2009上智大学、2008お茶の水大学

『独学の精神』(ちくま新書 2009)、→2012大阪大学

『日本人の信仰心』(筑摩選書 2010)、→2013北海道大学、2010法政大学・青山学院大学・学習院大学、2012上智大学、

『深さ、記号』(書肆山田 2010)、

『民俗と民藝』(講談社選書メチエ 2013)、→2015早稲田大学(文学部)

『ベルクソン哲学の遺言』(岩波書店〈岩波現代全書〉 2013)、

『剣の法』(筑摩書房 2014)、

『小津安二郎の喜び』(講談社選書メチエ 2016)。

 

 

倫理という力 (講談社現代新書)

倫理という力 (講談社現代新書)

 

 

 

③ 「倫理」は、最近の難関大学の現代文(国語)・小論文の流行論点・テーマです。

「倫理」については、以下の記事も重要です。ぜひ、ご覧ください。

  

gensairyu.hatenablog.com

 

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ーーーーーーーー

 

今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約10日後に発表の予定です。

 

 

朝日新聞デジタル

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

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