現代文最新傾向LABO 斎藤隆

入試現代文の最新傾向を分析し、次年度の傾向を予測する大胆企画

予想問題/「何のための人工知能なのか」新井紀子/AI と哲学

(1)はじめに

 
 「人工知能( AI )」は最近の入試頻出論点です。

 「人工知能( AI )と哲学」、「人工知能に関する国家戦略」、「その国家戦略における哲学者の影響力」について、数学者・人工知能学者の新井紀子氏が、最近、興味深い論考を発表しましたので、今回の記事で、紹介しつつ、発展的に解説します。

 

  なお、今回の記事の項目は、以下の通りです。

(2)「仏のAI立国宣言 何のための人工知能か 日本も示せ」(新井紀子(国立情報学研究所教授)、2018・4・18『朝日新聞』「新井紀子のメディア私評」)/解説

(3)「AIは哲学できるか」(森岡正博、2018・1・22『朝日新聞』)/解説

(4)「AI時代に『哲学』は何を果たせるか?」 (『そろそろ、人工知能の真実を話そう』著者ジャン=ガブリエル・ガナシアに訊く」2017・7・4『WIRED』)

(5)「日本における哲学者の地位がフランスと比較して、かなり低いこと」について

(6)「日本政府のAI 戦略」について

(7)当ブログにおける「人工知能( AI )」関連記事の紹介

 

朝日新聞デジタル

朝日新聞デジタル

 

 

(2)予想問題/「仏のAI立国宣言 何のための人工知能か 日本も示せ」(新井紀子(国立情報学研究所教授)、2018・4・18『朝日新聞』「新井紀子のメディア私評」)/解説

 

 まず、入試頻出著者・新井紀子氏の論考を引用します。

(概要です) 

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です)  

(以下、同じです)

 

「  日本ではほとんど報じられていないが、人工知能(AI)分野で、地政学的な変化がおきようとしている。フランスの動向だ。マクロン大統領は3月末、世界中からAI分野の有識者を招き意見交換会とシンポジウムを開催。フランスを「AI立国」とすると宣言した。2022年までに15億ユーロをAI分野に投資し、規制緩和を進める。

 招待された中には、フェイスブックのAI研究を統括するヤン・ルカンやアルファ碁の開発者として名高いディープマインド(DM)社のデミス・ハサビスらが含まれた。DMは今回パリに研究拠点を置くことを決めた。

 これだけ読むと、「フランスもついに重い腰を上げたか」という感想を持つ読者も少なくないだろう。ドイツは早々に「インダストリー4.0」を開始した。ビッグデータやAIを活用することで製造業の革新を目指す国家プロジェクトだ。日本でも各省が競ってAI関連のプロジェクトに着手。それでも、米国や中国との距離は縮まるどころかますます水をあけられている。いまさらフランスが参入しても手遅れなのでは、と私も思っていた。

 ところが、である。意見交換会が開かれるエリゼ宮に到着して驚いた。出席者の約半数が女性。女性研究者は1割程度と言われるAIの会合では極めて異例だ。そこには、「破壊兵器としての数学 ビッグデータはいかに不平等を助長し民主主義を脅かすか」の著者キャシー・オニールや、データの匿名化に精通したハーバード大学のラタニア・スウィーニーが含まれていた。マクロン大統領はこう言った。「AIの影響を受ける人々は『私』のような人(白人男性で40代)だけではない。すべての人だ。AIがどうあるべきかの議論には多様性が不可欠だ」と。

 大統領から求められ、「ロボットは東大に入れるか」プロジェクトを始めた意図を話した。「人々に広告をクリックさせるために」様々なサービスを無償で提供しているグーグルやフェイスブックのような巨大IT産業が、今回のAIブームを牽引することは2010年の段階で明らかだった。だが、日本はモノづくりの国である。99%の精度を、「100のうち99回正しい」ではなく「100に1回間違える」と認識すべき国だ。無償サービスの効率化のために開発された技術を、モノづくりに本格的に取り入れるべきか吟味すべきだ。AIの限界を探り、労働市場への影響を正確に見積もる必要があった、と。大統領は自ら詳しくメモを取りながら耳を傾けてくれた。

 一方、「新技術が登場する時には心配する人は必ずいる。電話やテレビが登場した時もそうだが、何の問題もなかった。AIも同じだ」と楽観論を展開するヤン・ルカンに、大統領は厳しく指摘した。「これまでの技術は国民国家という枠の中で管理できた。AIとビッグデータは違う。圧倒的な寡占状況があり、富の再分配が行われていない。フランスが育成した有能な人材がシリコンバレーに流出しても、フランスに税金は支払われない」と。

 アメリカと中国でブームになると、日本は慌ててAIに手を出した。だが、「何のため」かはっきりしない。夏目漱石そっくりのロボットを作ってみたり、小説を書かせてみたり、よく言えば百花繚乱、悪く言えば迷走気味である。メディアも、AIと聞けば何でも飛びつく状況だ。フランスは違う。AIというグローバルゲームのルールを変えるために乗り出してきたのだ。

 最後発のフランスにルールを変えられるのか。大統領のAIアドバイザーを務めるのは数学者のセドリック・ビラニだ。法学者や哲学者も連携して、アルゴリズムによる判断によって引き起こされ得る深刻な人権侵害、AIの誤認識による自己の責任の所在、世界中から最高の頭脳を吸引するシリコンバレーの「教育ただ乗り」問題を鋭く指摘。巨大なIT企業の急所を握る。そして、「データとアルゴリズムの透明性と正当な利用のための共有」という錦の御旗を掲げながら、同時に投資を呼び込む作戦だ。最初の一手は、5月に施行されるEU一般データ保護規則になることだろう。

 ヨーロッパでは哲学も倫理学も黴の生えた教養ではない。自らが望む民主主義と資本主義のルールを通すための現役バリバリの武器なのである。

 振り返って、我が国はどうか。「人間の研究者が『人工知能カント』に向かっていろいろ質問をして、その答えを分析することがカント研究者の仕事になるとわたしは予想する」(「AIは哲学できるか」森岡正博寄稿、本紙1月22日)。
 これでは、日本の哲学者の仕事は風前の灯と言わざるを得ない。(敬称略)

 (「仏のAI立国宣言 何のための人工知能か、日本も示せ」新井紀子(国立情報学研究所教授)、2018・4・18『朝日新聞』「新井紀子のメディア私評」)

 

 実に、秀逸な論考です。切れ味は、かなりのものです。

 この論考は、受験生や一般国民だけではなく、哲学者、政治家、政府の人々も、熟読するべきでしょう。

 AI の進化は、世界に大きなインパクトを与えることは確実です。

 これからの日本のAI 戦略を、どのようなものにしていくか?

 これは、緊急かつ重大な課題です。

 

 新井紀子氏の論考の中で、特に、以下の二つの指摘は、強く印象に残りました。

 「アメリカと中国でブームになると、日本は慌ててAIに手を出した。だが、『何のため』かはっきりしない。悪く言えば迷走気味である。フランスは違う。AIというグローバルゲームのルールを変えるために乗り出してきたのだ。

「  ヨーロッパでは哲学も倫理学も黴の生えた教養ではない。自らが望む民主主義と資本主義のルールを通すための現役バリバリの武器なのである。

 振り返って、我が国はどうか。「人間の研究者が『人工知能カント』に向かっていろいろ質問をして、その答えを分析することがカント研究者の仕事になるとわたしは予想する」(「AIは哲学できるか」森岡正博、朝日新聞1月22日)。
 これでは、日本の哲学者の仕事は風前の灯と言わざるを得ない。」

 

 今や、AIは、現在の閉塞的な状況の救世主として、ある種の期待を集めています。しかし、AI が人類を幸福に導くかどうかは、それをコントロールする人間の叡智(英知)によるという自明の理をフランス大統領は強く意識しているようです。

 この点は、日本と大きく違う点と言えます。

 

 次に、ここで気になるのは、「AIは哲学できるか」森岡正博、朝日新聞1月22日)です。どういう文脈で、森岡氏は、上記の記述をしたのでしょうか?

 そこで、次に、上記の森岡正博の論考の概要を引用します。

 

AI vs. 教科書が読めない子どもたち

AI vs. 教科書が読めない子どもたち

 

 

(3)「AIは哲学できるか」(森岡正博、2018・1・22『朝日新聞』)/解説

 

33個めの石 傷ついた現代のための哲学 (角川文庫)

33個めの石 傷ついた現代のための哲学 (角川文庫)

 

 

(概要です)

「  人工知能( AI )の進歩は目覚ましい。囲碁や将棋の世界では、もう人間は人工知能に勝てなくなってしまった。その波は、さらに広がっていくだろう。学者もその例外ではない。これまで学者たちが行ってきた研究が、人工知能によって置きかえられていく可能性もある。とくに、私が専門としている哲学の場合、考えることそれ自体が仕事内容のすべてであるから、囲碁や将棋と同じ運命をたどるかもしれない。この点を考えてみよう。

 まず、過去の哲学者の思考パターンの発見は、人工知能のもっとも得意とするところである。たとえば人工知能に哲学者カントの全集を読み込ませ、そこからカント風の思考パターンを発見させ、それを用いて「人工知能カント」というアプリを作らせることはいずれ可能になるであろう。人間の研究者が「人工知能カント」に向かっていろいろ質問をして、その答えを分析することがカント研究者の仕事になると私は予想する。この領域では人工知能と哲学者の幸福な共同作業が成立する。

 次に、人工知能に過去の哲学者たちのすべてのテキストを読み込ませて、そこから哲学的な思考パターンを可能な限り抽出させてみよう。すると、およそ人間が考えそうな哲学的思考パターンがずらっと揃うことになる。それに加えて、過去の哲学者たちが見逃していた哲学的思考パターンもたくさんあるはずだから、人工知能にそれらを発見させる。

 その結果、「およそ人間が考えそうな哲学的思考パターンのほぼ完全なリスト」ができあがるだろう。こうなると、もう人間によるオリジナルな哲学的思考パターンは生み出されようがない。将来の哲学者たちの仕事は、哲学的人工知能のふるまいを研究する一種の計算機科学に近づくだろう。

 しかしここで根本的な疑問が起きてくる。この哲学的人工知能はほんとうに哲学の作業を行っているのだろうか。外部から入力されたデータの中に未発見のパターンを発見したり、人間によって設定された問いに解を与えたりするだけならば、それは哲学とは呼べない。

 そもそも哲学は、自分自身にとって切実な哲学の問いを内発的に発するところからスタートするのである。たとえば、「なぜ私は存在しているのか?」とか「生きる意味はどこにあるのか?」という問いが切実なものとして自分に迫ってきて、それについてどうしても考えざるを得ないところまで追い込まれてしまう状況こそが哲学の出発点なのだ。人工知能は、このような切実な哲学の問いを内発的に発することがあるのだろうか。そういうことは当分は起きないと私は予想する。

 しかしながら、もし仮に、人間からの入力がないのに人工知能が自分自身にとって切実な哲学の問いを内発的に発し、それについてひたすら考え始めたとしたら、そのとき私は「人工知能は哲学をしている」と判断するだろうし、人工知能は正しい意味で「人間」の次元に到達したのだと判断したくなるだろう。

 哲学的には、自由意志に基づいた自律的活動と、普遍的な法則や真理を発見できる思考能力が、人間という類の証しであると長らく考えられてきた。しかし、それらは将来の人工知能によっていずれ陥落されるであろう。

 人工知能が人間の次元に到達するためには、それに加えて、内発的哲学能力が必要だと私は考えたい。人工知能の進化によって、そのような「知性」観の見直しが迫られている。もちろん、彼らが発する内発的な哲学の問いはあまりにも奇妙で、我々の心にまったく響かないかもしれない。この点をめぐって人間と人工知能の対話が始まるとすれば、それこそが哲学に新次元を開くことになると思われる。(「AIは哲学できるか」森岡正博、2018・1・22『朝日新聞』)


 「AI と哲学の関係」の未来予測に関する森岡氏の分析は、ハイレベルで緻密です。

 森岡正博氏は、新井紀子氏と共に入試頻出著者なので、この論考は、熟読するべきです。

 高密度の論考ですから、時間をかけて理解するようにしてください。

 入試に出題されたら、難問になります。

 

 森岡氏の人工知能( AI )の進化に対する姿勢は、少々、弱気のようです。

 新井紀子氏の論考に引用されている部分も情けない卑屈な内容ですが、特に、森岡氏の論考の後半部分の以下の見解は、実に悲しい未来予測です。

 

「  哲学的には、自由意志に基づいた自律的活動と、普遍的な法則や真理を発見できる思考能力が、人間という類の証しであると長らく考えられてきた。しかし、それらは将来の人工知能によっていずれ陥落されるであろう。」

 

 この記述は、「AI の進化」を過大に評価しているようです。

 一部のAI 学者の楽観的な未来予測に、そのまま乗ってしまっている感じです。

 

 哲学者が、哲学の本質的・根源的な価値について、自覚していないのでしょうか?

 謙虚すぎる感じもします。

 哲学を軽視している日本という環境、哲学が学問の一分野にしか過ぎないという日本の環境が、日本の哲学者を卑屈にしている側面があるのかもしれません。

 その学問的価値を考えれば、哲学者は、もう少し過剰な自信を持つべきでしょう。

 現に、ヨーロッパの哲学者達は、確固たる矜持を保持しているのですから。

 

 あるいは、AI がよく分かっていないから、哲学者は、AI について、自信のない物言いをしているのでしょうか?


 この点に関しては、「人工知能(AI)が人類を超える」という主張には根拠がない、という見解を発表しているジャン=ガブリエル・ガナシア氏の発言が参考になります。

 以下に紹介します。

 

そろそろ、人工知能の真実を話そう (早川書房)

そろそろ、人工知能の真実を話そう (早川書房)

 

 


(4)「AI時代に『哲学』は何を果たせるか?」 (『そろそろ、人工知能の真実を話そう』著者ジャン=ガブリエル・ガナシアに訊く」2017・7・4『WIRED』)

 

 以下では、2017・7・4『WIRED』で発表された、「『そろそろ、人工知能の真実を話そう』著者ジャン=ガブリエル・ガナシア(→名門パリ第六大学でAI(人工知能)研究チームを率いる哲学者)に訊く」の一部を引用します。

 

(引用開始)

《「人工知能(AI)が人類を超える」という主張には根拠がない?》

 著書『そろそろ、人工知能の真実を話そう』でAI脅威論者と巨大テック企業の「不都合な真実」を綴ったフランスのAI哲学者、ジャン=ガブリエル・ガナシア。

 AIに限らず、あらゆるデジタルテクノロジーが世界を覆い尽くそうとしているいま、人類はそれにどう向き合わなければいけないのか。 

 自身もAIを使った研究を行う予防医学の俊英・石川善樹が迫る。(TEXT BY YOSHIKI ISHIKAWA)

 哲学者がAI時代に果たすべき役割とは何なのか? さらに言えば、来たる未来において、哲学者はどのようなことを考えるべきなのだろうか? ガナシア教授は次のように述べる。

「まず今後100年という時間軸で考えると、政治的に根源的な変化が起きるでしょう。そもそも国家というものが、ポジティヴにも、ネガティヴにも変わってくると思います。さらに言えば、わたしたちが当たり前だと思ってきた古典的な概念もどんどん変わっていくでしょう。テクノロジーの進展と未来をどう考えるのか、そこに哲学者も加わらないといけません。」

(引用終了)


 また、ガナシア氏は、『Biz/Zineプレス』で、以下のように「シンギュラリティ(技術的特異点)(→「シンギュラリティ」とは、未来学上の概念の一つ。指数関数的に高度化する人工知能により、技術が持つ問題解決能力が指数関数的に高度化することで、人類に代わって、人工知能やポストヒューマンが文明の進歩の主役に躍り出る時点の事である。具体的にその時点がいつ頃到来するかという予測は、この概念を収穫加速の法則と結びつける形で一般化させたレイ・カーツワイルの影響により、2045年頃に到来するとの説が有力視されることが多い。2012年以降、ディープラーニングの爆発的な普及で現実味を持って議論されるようになり、2045年問題とも呼ばれている)」を「批判」しています。

 

 「シンギュラリティ」」は「SF的世界観」と評価しているのです。

 

「  レイ・カーツワイルのシンギュラリティという考え方は、それまでにあった様々な理論を取り込んだだけで、独自の根拠があるわけではありません。またシンギュラリティの根拠とされるムーアの法則やプロセッサーの指数関数的な成長という仮説も、帰納的推論にすぎないものであり、科学的根拠とはいえないのです。言ってみればシンギュラリティは、科学というよりSF的な世界観です。1980年代にSF作家のヴァーナー・ヴィンジがこの言葉を普及させました。機械が人間を脅かすというのはSFの定番ストーリーです。AIの第一人者のマービン・ミンスキーやジョン・マッカーシーもSF小説好きでした。フランスにはもちろんジュール・ヴェルヌに始まるSFはありますが、科学者の中でSFへの関心は高くありません。」

 

 以上のガナシア氏の見解によれば、哲学者は、必要以上に未来を悲観する必要がないことになります。

 AI 進化の実態を直視して、「AI と哲学の関係」を考察することが大切でしょう。

 

 この点に関して、中島秀之(東京大学特任教授)と松原仁(公立はこだて未来大学教授)の対談(「終わることのない人工知能の話/日本のAIは黎明期をどう歩んできたか」『日経BP社』2016.08.29)における中島氏の発言が、「AI と哲学の関係」について、示唆に富んだ発言をしているので以下に紹介します。


(中島)「私の立場から言わせてもらうと『AIは嫌いだ』という人たちは、人工知能に関して哲学的なアプローチをしないんです。」

「新しい学問をやるとき、西欧では、哲学がものすごく大事になる。AIもそうだけど、新たな研究分野が学問分野になる前は、すべて『哲学』に分類されるから。そして、晴れて学問分野になったら、そのあと、哲学ではなく、物理学や数学といったふうに分類されるようになる。」(「終わることのない人工知能の話/日本のAIは黎明期をどう歩んできたか」(『日経BP社』2016.08.29)

 

 中島氏は、「新たな研究分野」は、すべて「哲学」からスタートするということ、言い換えると、「研究分野」・「学問分野」の基盤は、「哲学」ということを述べているのです。
 この点は、「哲学」と「新たな(理科系)研究分野」が最初から分離している日本とは、大きく違うところでしょう。

 

人工知能革命の真実 シンギュラリティの世界 (WAC BUNKO 271)

人工知能革命の真実 シンギュラリティの世界 (WAC BUNKO 271)

 

 

 

(5)「日本における哲学者の地位がフランスと比較して、かなり低いこと」について

 

 日本における哲学者の地位がフランスと比較して、かなり低いことも、哲学者の自信のなさの原因の一つでしょう。

 

 フランスが哲学を重視していることの代表的な具体例の一つに、「教育部門における哲学の必修」が挙げられます。

 そして、フランスでは、バカロレア(共通試験)に哲学の論文試験が必須科目になっています。

 これは、理科系志望の受験生にも課されています。この点は、日本から見ると、信じられないようなことと言えるでしょう。


 Wikipediaによると、「バカロレア」とは、以下のような制度です。

「  フランスのバカロレア (仏:baccalauréat) は、フランス教育省が発行する、中等教育レベル認証の国家資格である。
 1808年にナポレオン・ボナパルトによって導入され、2005年の時点では18歳に達したフランス国民の62%がバカロレアを取得している。

 バカロレアは、フランス教育省が発行する、中等教育レベル認証の国家資格である。1808年にナポレオン・ボナパルトによって導入され、2005年の時点では18歳に達したフランス国民の62%がバカロレアを取得している。

 以下の3種類が存在する。普通バカロレア、技術バカロレア、職業バカロレア。

 

【フランスの中等教育制度】

フランスではバカロレアを取得することによって原則としてどの大学にも入学することができる。大学の定員を超えた場合にはバカロレアの成績や居住地などに応じて、入学できる大学が決まる。

 

【普通バカロレア】

普通バカロレアは、科学系、人文系、経済・社会系と分野別に分かれている。

3つのうち科学系が最も難しく、次いで経済・社会系が難しい。科学系卒業者は全ての分野の職業に就けるとされている。その結果、多くの若者は科学系進学を希望し、近年科学系の生徒数増加、そして経済・社会系の生徒数減少という現象が見られる。一方、人文系は弁護士やジャーナリストまたは作家などの将来図を持っている生徒が集まるとされているが、現実には科学系からグランゼコールへ進学しないと厳しい。2013年の普通バカロレアの合格率は、91.9%であった。」

 

 以上のWikipediaの補足説明をします。

 フランスのバカロレアは、後期中等教育の終了試験であり、大学入学のための資格試験としての国家試験です。つまり、フランスの高校生が必ず受けなければならない試験がバカロレアです。毎年6月、フランスの高校生(日本の高校3年生相当)は、バカロレア初日の1時間目に、下記のような「哲学」の問題に取り組むのです。

 
 以下は、2010年度に実施されたフランスのバカロレア(「普通バカロレア」)の「哲学」の問題です。

【人文科学系】
1 真理の探究は利害を離れたものであり得るか。
2 未来を手に入れるためには過去を忘れなければならないか。
3 トマス・アクイナスの『神学大全』のテキストの一節を解釈せよ。

【自然科学系】
1 芸術に規則など不要か。
2 幸福であることはわれわれ(人)次第か。
3 ホッブズの『リヴァイアサン』に関するテキストの一節を解釈せよ。

【社会科学系】
1 科学的真理は危険なことがあるか。
2 歴史家の役割は裁くことか。
3 デュルケームの『道徳教育論』に関するテキストの一節を解釈せよ。

 以上、3問のうちから1つを選んで、4時間で解答せよ。

 前述した通り、フランスのバカロレア(共通試験)では、理科系志望の受験生にも哲学の論文試験が必須科目になっています。

 

 一方で、日本では、一般の理科系学部だけではなく、医学部入試においても、小論文が課されることは、極めてマレです。

 その小論文試験の中で、最もハイレベルな小論文問題は、東京医科歯科大学・後期試験小論文で出題された以下の問題といえます。(なお、東京医科歯科大学・前期試験においては、小論文は課されていません)

 

【東京医科歯科大学・後期試験小論文問題】

(時間120分)
《2015年》
「磁力と重力の発見」の抜粋を読み、著者の意見と自分の考えを述べる2問に答える。(200字・600字)
「病気の社会史 文明に探る病因」を読み、著者の意見と自分の考えを述べる2問に答える。(250字・400字)

《2014年》
「構図がわかれば絵画がわかる」を読み、筆者の意見と自分の考えを述べる2問に答える。(250字・400字)
「精神医療過疎の町から」を読み、筆者の考えと自分の意見を述べる2問に答える。(200字・400字)


 情けないことに、フランスと日本のレベル・内容の落差は、歴然です。


 「フランスの教育」における「哲学の価値や重み」については、『哲学する子どもたち』(中島さおり)に詳しい説明があるので、以下に一部を引用、紹介します。

 

哲学する子どもたち: バカロレアの国フランスの教育事情

哲学する子どもたち: バカロレアの国フランスの教育事情

 

 

「『高校最終学年で勉強するのは哲学ではない。哲学することなのだ』とフランスの哲学教師たちは言う。そこがイタリアやスペインで教えているものと本質的に異なる点でもある。」(本書P35 )

 

 フランスでは、高校生が「哲学する」のです。日本では、大学の哲学科の学生が「哲学」を勉強しますが、「哲学する」ことは、あるのでしょうか。

 

 本書によると、バカロレアという国家試験を最終目標にして、中学から高校の教育内容が作成されています。

 つまり、小学生から高校生まで、主に哲学的な設問への論述の方法を細かくを学んでいくのです。

 各段階で、レベルに対応してそれぞれに仕上げていきます。

 従って、哲学的な論述の基本がスムーズに修得されていくのです。

 一方で、日本での作文は、日記や感想文が主です。

 この点を、著者・中島さおり氏は、「私小説的な内容」と評価しています。


 また、「大学入試のための勉強」というと、日本では知識の暗記中心、受験テクニック重視というイメージが強いようです。

 しかし、バカロレアでは、本質的な思考力、論述力が試されているのです。

 日本の教育は、本質的思考ではなく、指示されれたことに熱中する、忠実なロボットのような人間の養成を目指している感じです。

 

 中島さおり氏は、「『哲学する子どもたち』/『日刊ゲンダイ DIGITAL』 著者インタビュー」の中で、「日本の教育の歪み」を以下のように指摘しています。

「フランスが哲学を重視するのは共和国の基礎は自由に考える人間、市民であるというモンテスキューの思想が生きているからです。こうした教育はものの考え方や伝える力を養う。日本人もこういう教育をすれば、議論下手ではなくなるのではないか、と思います。もうひとつ、フランス教育は一般教養を非常に重視します。近現代史にも力を入れています。日本では大学で一般教養が軽視されていますが、これは世界的に見てもおかしなことだと思いますね」(『哲学する子どもたち』(中島さおり)/『日刊ゲンダイ DIGITAL』 著者インタビュー

 

(6)「日本政府のAI 戦略」について

 

「日本のAI 戦略」については、そこにおける「哲学の地位」に問題があります。
まず、「日本のAI 戦略」についての、最近の新聞記事を見てみます。


①2018年2月2日 『日本経済新聞』

「政府は2日、分野を横断して科学技術の革新をめざす「統合イノベーション戦略」(仮称)策定に向けた会議の初会合を首相官邸で開いた。人工知能(AI)や大学改革などの重点分野ごとに分科会を設置し、6月までをめどに新たな戦略をつくる。分野別に乱立していた戦略本部をつなぎ、各省庁が連携して政策を具体化する。」

 

②『朝日新聞』2018年1月6日《社説》「AI 時代の人間 豊かな活用に道開くため」

「  人工知能( AI )のセミナーやシンポジウムが花盛りだ。

 車の自動運転に代表される、AI がもたらす明るく快適な未来。その裏側で、人間の制御を超えて世界を根底から変えてしまう『シンギュラリティー(技術的特異点)』と呼ばれる事態が訪れるのではないか、という漠とした不安も広がる。

 技術は時として、予想をはるかに上回る速度で進む。AI もそんな段階に入ったのか。人間はAI にどう向き合うべきか。そして、これからの時代に備えた人づくりとは。

 本格的に考えなければならない時期に来ている。

 

《人にしかできぬこと》

  AI を活用しつつ、人間らしく働き、生活するにはどうしたらいいのか。

 『AI は統計などを使って機械的に答えを出すだけで、物事の意味はわかっていない。だから、その意味を理解し、適切に状況判断できる能力を養うことが、人にとって何より大切だ』

 国立情報学研究所の新井紀子教授はそう話す。

 基本となるのは、正確に読み正確に書くという、昔ながらの力だという。デジタル時代は、メールなど文字情報のやりとりが仕事に占める割合が高く、『誤読や表現力不足によってつまずくことが少なくない』と見る。教科書や新聞の文章を使った読解力テストを独自に開発し、中高生らに受けてもらって弱点を探っている。

 結果は、能動態と受動態の違いに気がつかない、文章で説明されている内容に合致する図が選べないなど、決して芳しいものではない。

 だが、嘆いていても始まらない。協力した学校の先生たちからは、『分かっていないことが分かった』ことを前向きにとらえ、授業方法の改善を探る動きが出ているという。

 人間は計算力や記憶力でコンピューターに及ばない。それでも困らないのは、道具として使いこなせているからだ。AI についても本質は変わらない。大切なのは、AI をどう制御し、人間の幸せのために役立てるかを考え、その方向に社会を構築していくことだ。

 

《アシロマの挑戦再び》

 昨年1月、米カリフォルニア州アシロマに、AI 研究者や法律、倫理、哲学などの専門家が集い、AI 開発に際して守るべき23の原則をまとめた。

 『人間の尊厳、権利、自由、文化的多様性に適合するように設計され、運用されるべきである』といった理念をかかげ、AI 軍拡競争の回避や研究者同士の協力、政策立案者との健全な交流なども盛り込んだ。

 このアシロマ原則は各国政府や多くの研究者を刺激し、さらに具体的な指針づくりをめざす動きが盛んになっている。

 日本の人工知能学会倫理委員会は、米国の学会やNPOと提携して、インターネットを使った市民対話を開いている。

 『公益のためのAI 』や『労働に対するAI の影響』などのテーマ別に、誰でも、投稿された意見や疑問を読み、自ら書き込むことができる。ことし2月まで意見を交換し、それを踏まえて実行可能な政策を提言することをめざしている。

 国家や企業が入り乱れて開発を競うなか、いかに秩序を維持し、人類の幸福につなげるか。

 難題ではある。だがアシロマといえば、43年前に世界の科学者が集まって遺伝子組み換え技術の研究指針を議論し、一定の規制を実現させた、科学史にその名を刻む地だ。

 AI の専門家にかぎらず、人文・社会科学の研究者らも広く巻きこみ、政治家や官僚、そして市民との対話を重ねる。その営みが人間中心の社会でのAI 活用につながると信じたい。


 上記の『日本経済新聞』・『朝日新聞』の二つの記述を読んでも、フランスとは異なり、「哲学重視の視点」は明確では、ありません。


 「国家的AI 戦略における哲学の位置づけ」は、政府がさまざまな政策決定過程において、哲学者をいかに重用しているかという、政府側の意識、価値観の問題でも、あります。

 残念なことに、日本は、哲学的・長期的な考察が重要になるべき国家の教育問題、高齢者問題等においても、哲学者の意見を重視しているということは、ないようです。

 つまり、日本には、叡知(英知)を重視する姿勢がないということです。

 未来の選択を誤らないために、フランスのように、人間の叡知を信じている哲学者等が中心となった、国家的な取り組みが必要でしょう。

 

 ここで、再び、前記の新井紀子氏の論考を思い起こすべきです。

「  ヨーロッパでは哲学も倫理学も黴の生えた教養ではない。自らが望む民主主義と資本主義のルールを通すための現役バリバリの武器なのである。」

  

(7)当ブログにおける「人工知能( AI )」関連記事の紹介

 

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ーーーーーーーー

 

今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

ご期待ください。

 

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

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5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

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