現代文最新傾向LABO 斎藤隆

入試現代文の最新傾向を分析し、次年度の傾向を予測する大胆企画

2011センター国語第1問(現代文・評論文)解説

 (1)なぜ、この記事を書くのか?

 

 鷲田清一氏は、ほとんどの難関大学の入試現代文(国語)・小論文で一度は出題されている、トップレベルの頻出著者です。
 最近では、センター試験、東京大学、東北大学、早稲田大学、慶應大学、上智大学等で出題されています。

 鷲田氏の入試頻出著書としては、

『モードの迷宮』(ちくま学芸文庫)、

『じぶん・この不思議な存在』(講談社現代新書)、

『悲鳴をあげる身体』(PHP 新書)、

『「聴く」ことの力ー臨床哲学試論』(ちくま学芸文庫)、

『わかりやすいはわかりにくい? 臨床哲学講座』(ちくま新書)等があります。

 

 今回の「身ぶりの消失」は、『 感覚の幽い風景 』所収の「現代住居論」・「身体論」・「ケア論」の名著です。

 「身体論」・「ケア論」は入試頻出論点です。

 特に、鷲田氏の「身体論」・「ケア論」は、最近の流行論点になっています。

 

 本文はハイレベルですが、設問はきわめて基礎的です。

 このことは、センター試験国語(現代文・評論文)の最近の一般的特徴です。

 従って、直前演習の題材として、オススメです。

 

 そればかりではなく、頻出著者・鷲田清一氏の頻出・流行論点である、今回の論考を考察することは、現代文対策、小論文対策としても有用です。

 

 今回の記事の項目は以下の通りです。記事は約1万字です。

(2)2011センター試験第1問・「身ぶりの消失」鷲田清一/問題・解説・解答

(3)本文のポイントの解説

(4)当ブログの「センター試験解説・関連記事」の紹介(リンク画像)

(5)当ブログの「鷲田清一氏・関連記事」の紹介(リンク画像)

  

感覚の幽(くら)い風景 (中公文庫)

 

(2)2011センター試験第1問・「身ぶりの消失」鷲田清一(『感覚の幽い風景』所収)/問題・解説・解答

 

問 次の文章を読んで、後の問いに答えよ。

 

(問題文本文)(概要です)

(【1】・【2】・【3】・・・・は当ブログで付記した段落番号です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です) 

 

【1】わたしは思い出す。しばらく前に訪れた高齢者用のグループホーム(→本文の「注」→高齢者などが自立して地域社会で生活するための共同住居)のことを。

【2】住むひとのいなくなった木造の民家をほとんど改修もせずに使うデイ・サーヴィス(→本文の「注」→高齢者などのため、入浴、食事、日常動作訓練などを日帰りで行う福祉サービス)の施設だった。もちろん「バリアフリー」からはほど遠い。玄関の前には石段があり、玄関の戸を引くと、玄関間がある。靴を脱いで、よいしょと家に上がると、今度は襖。それを開けてみなが集っている居間に入る。軽い「認知症」を患っているその女性は、お菓子を前におしゃべりに興じている老人たちの輪にすぐには入れず、呆然と立ち尽くす。が、なんとなくいたたまれず腰を折ってしゃがみかけると、とっさに「どうぞ」と、いざりながら(→本文の「注」→座った状態で体の位置をずらしながら)、じぶんが使っていた座布団を差し出す手が伸びる。「おかまいなく」と座布団をおし戻し、「何言うておすな、遠慮せんといっしょにお座りやす」(→本文の「注」→「何言うておすな」・「お座りやす」→それぞれ「何をおっしゃっているんですか」・「お座りなさいませ」の意)とふたたび座布団がおし戻される・・・・。

【3】和室の居間で立ったままでいることは「不自然」である。「不自然」であるのは、いうまでもなく、人体にとってではない。居間という空間においてである。居間という空間がもとめる挙措の「風」に、立ったままでいることは合わない。高みから他のひとたちを見下ろすことは「風」に反する。だから、いたたまれなくなって、腰を下ろす。これはからだで憶えているふるまいである。からだはそんなふうに動いてしまう。

【4】からだが家のなかにあるというのはそういうことだ。からだの動きが、空間との関係で、ということは同じくそこにいる他のひとびととの関係で、ある形に整えられているということだ。

【5】一方でバリアフリーにつくられた空間ではそうはいかない。人体の運動に合わせたこの抽象的な空間では、からだは空間の内部にありながらその空間の〈外〉にある。からだはその空間にまだ住み込んでいない。そしてそこになじみ、そこに住みつくというのは、これまでからだが憶えてきた挙措を忘れるということだ。ただっぴろい空間にあって立ちつくしていても「不自然」でないような感覚がからだを侵蝕(しんしょく)してゆくということだ。単独の人体がただ物理的に空間の内部にあるということがまるで自明であるかのように。こうして、さまざまなふるまいをまとめあげた「暮らし」というものが、人体から脱落してゆく。

 

……………………………

 

(設問)

問2 傍線部A「からだが家のなかにあるというのはそういうことだ 」とあるが、それはどういうことか。その説明として最適なものを次の中から選べ。

①  身体との関係が安定した空間では人間の身体が孤立することはないが、他のひとびとと暮らすなかで自然と身に付いた習慣によって、身体が侵蝕されているということ。

②  暮らしの空間でさまざまな記憶を蓄積してきた身体は、不自然な姿勢をたちまち正してしまうように、人間の身体はそれぞれの空間で経験してきた規律に完全に支配されているということ。

③  生活空間のなかで身に付いた感覚によって身体が規定されてしまうのではなく、経験してきた動作の記憶を忘れ去ることで、人間の身体は新しい空間に適応し続けているということ。

④  バリアフリーに作られた空間では身体が空間から疎外されてしまうが、具体的な生活経験を伴う空間では、人間の身体は空間と調和していくことができるのでふるまいを自発的に選択できているということ。

⑤  ただ物理的に空間の内部に身体が存在するのではなく、人間の身体が空間やその空間にいるひとびとと互いに関係しながら、みずからの身体の記憶に促されることでふるまいを決定しているということ。

 

……………………………

 

(解説・解答)
問2(傍線部説明問題)

 まず、傍線部の「そういうこと」に注目してください。

 直前段落の「和室の居間で立ったままでいることは『不自然』である。『不自然』であるのは、いうまでもなく、人体にとってではない。居間という空間においてである。これはからだで憶えているふるまいである。からだはそんなふうに動いてしまう。」を受けている表現です。

 次に、傍線部の直後の、「からだの動きが、空間との関係で、ということは同じく、そこにいる他のひとびととの関係で、ある形に整えられている」が、傍線部を言い換えていることに着目するとよいでしょう。

 ⑤は、「からだの動きが、/空間との関係で、/そこにいる他のひとびととの関係で、/ある形に整えられている」という2つの要素を含んでいます。

 また、⑤の「みずからの身体の記憶に促されることでふるまいを決定している」は、直前段落の「これはからだで憶えているふるまいである。からだはそんなふうに動いてしまう」を受けている表現です。

 従って、⑤が正解になります。

①は、「空間との関係」を欠いているので誤りです。

②は、「そこにいる他のひとびととの関係」を欠いているので誤りです。

③は、「経験してきた動作の記憶を忘れ去ること」の部分が誤りです。

④は、「そこにいる他のひとびととの関係」を欠いているので誤りです。また、「ふるまいを自発的に選択できている」も「空間との関係」・「そこにいる他のひとびととの関係」に反しています。

(解答)⑤

 

ーーーーーーーー 

 

(問題文本文)

 【6】心ある介護スタッフは、入所者がこれまでの「暮らし」のなかで使いなれた茶碗や箸を施設にもってくるよう「指導」する。洗う側からすれば、割れやすい陶器製の茶碗より施設が供するプラスチックのコップのほうがいいに決まっているが、それでも使いなれた茶碗を奨(すす)める。割れやすいからていねいに持つ、つまり、身体のふるまいに気をやる機会を増すことで「痴呆(ちほう)」(→本文の「注」→「認知症」)の進行を抑えるということももちろんあろう。が、それ以上に、身体を孤立させないという配慮がそこにはある。

【7】停電のときでも身の回りのほとんどの物に手を届けることができるように、からだは物に身をもたせかけている。からだは物の場所にまでいつも出かけていっている。
物との関係が切断されれば、身は宙に浮いてしまう。
新しい空間で高齢者が転びやすいのは 、比喩(ひゆ)ではなく、まさに身が宙に浮いてしまうからである。 まわりの空間への手がかりが奪われているからである。「バリアフリー」で楽だとおもうのは、あくまで介護する側の視点である。まわりの空間への手がかりがあって、他の身体、──それは、たえず動く不安定なものだ──との丁々発止のやりとりもはじめて可能になる。とすれば、人体の運動に対応づけられた空間では、他のひととの関係もぎくしゃくしてくることになる。あるいは、物とのより滑らかな関係に意を配るがために、他者に関心を寄せる余裕もなくなってくる 。そう、たがいに「見られ、聴かれる」という関係がこれまで以上に成り立ちにくくなる。空間がいってみれば、 中身を失う・・・・。

【8】X 「中身」?

【9】この言葉をいきいきと用いた建築論がある。青木淳『原っぱと遊園地』(王国社、2004年)だ。青木によれば、「遊園地」が「あらかじめそこで行われることがわかっている建築」だとすれば、「原っぱ」とは、そこでおこなわれることが空間の「中身」を創(つく)ってゆく場所のことだ。原っぱでは、子どもたちはとにもかくにもそこへ行って、そこから何をして遊ぶか決める。そこでは、たまたま居合わせた子どもたちの行為の糸がたがいに絡まりあい、縒(よ)り合わされるなかで、空間の「中身」が形をもちはじめる。その絡まりや縒り合せをデザインするのが、巧(うま)い遊び手のわざということであろう。

【10】青木はこの「原っぱ」と「遊園地」を、二つの対立する建築理念の比喩として用いている。 そして前者の建築理念、つまりは、特定の行為のための空間を作るのではなく、行為と行為をつなぐものそれ自体をデザインするような建築を志す。「B 空間がそこで行われるだろうことに対して先回りしてしまってはいけない」というわけだ。

 

………………………………

 

(設問)

問3 傍線部B「空間がそこで行われることに先回りしてしまってはいけない」とあるが、それはなぜか。その説明として最適なものを次の中から一つ選べ。

①  原っぱのように、遊びの手がかりがきわめて少ない空間では、行為の内容や方法が限定されやすく空間の用途が特化される傾向を持ってしまうから。

②  原っぱのように、使用規則やそこでの「行動基準が規定されていない空間では、多様で自由な行為が保証されているためにかえってその空間の利用法を見失わせてしまうから。

③  遊園地のように、明確に定められた規則に従うことが自明とされた空間では、行為が事前に制限されるので空間を共有するひとびとの主体性が損なわれてしまうから。

④  遊園地のように、その場所で行われる行為を想定して設計された空間では、行為相互の偶発的な関係から空間の予想外の使い方が生み出されにくくなるから。

⑤  遊園地のように、特定の遊び方に合わせて計画的にデザインされた空間では、空間の用途や行為の手順が誰にでも容易に推測できて興味をそいでしまうから。

 

………………………………

 

(解説・解答)

問3(傍線部説明問題・理由説明)

 傍線部(「空間がそこで行われるだろうことに対して先回りしてしまってはいけない 」)が直前の二文の理由付けになっているという構造に注目してください。

 直前の二文は以下の通りです。
 「青木はこの『原っぱ』と『遊園地』を、二つの対立する建築理念の比喩として用いている。 そして前者の建築理念、つまりは、特定の行為のための空間を作るのではなく、行為と行為をつなぐものそれ自体をデザインするような建築を志す。」

 傍線部の「先回り」とは、「遊園地」の「建築理念」、つまり、「あらかじめそこで行われることがわかっている建築」(直前の【9】段落)を指しています。
 それを否定して、「原っぱ」の建築理念(→「そこでおこなわれることが空間の「中身」を創ってゆく場所」)(直前の【9】段落)を支持しているのです。

 

 ④の「行為相互の偶発的な関係から空間の予想外の使い方が生み出される」は、
【9】段落「たまたま居合わせた子どもたちの行為の糸がたがいに絡まりあい、縒(よ)り合わされるなかで、空間の『中身』が形をもちはじめる」
の言い換えになっています。

正解は④です。

 

①  「原っぱ」の建築理念として誤りです。

②  「原っぱ」を否定的に記述しているので誤りです。

③  「規則に従うこと」の部分が無関係で誤りです。
 また、「遊園地」と「原っぱ」の対比は、「空間の中身」に関連しているので、「主体性」について記述している③は不適切です。

⑤  「遊園地」と「原っぱ」の対比は、「空間の中身」に関連しているので、「人の興味」について記述している⑤は不適切です。

(解答)④

 

ーーーーーーーー

 

(問題文本文)

【11】では、造作はすくないほうがいいのか。ホワイトキューブ(→本文の「注」→白い壁面で囲まれた空間、美術作品の展示などに使う) のようなまったく無規定のただのハコが理想的だということになるのだろうか。ちがう、と青木はいう。

【12】まったくの無個性の抽象空間のなかで、理論的にはそこでなんでもできるということではない。たとえば、工場をアトリエやギャラリーに改装した空間が好まれるのは、それが特性のない空間だからではない。工場の空間はむしろ逆に、きわめて明確な特性を持っている。工場には、様々な機械の自由な設置を可能にするために、できる限り無柱の大きな容積を持った空間が求められる。そこでの作業を考え、部屋の隅々まで光が均等に行き渡るように、天井にはそのためにもっとも適切な採光窓がとられる。その目標から逸脱する部位での建設コストは切り詰められる。工場はこうした論理を徹底することでつくられてきた。この結果として、工場は工場ならではの空間の質を持つに至る。 工場は、無限定の空間と均一な光で満たされるということと引き替えに、一般的な意味での居心地の良さを捨てるという、明確な特性を持った空間なのである。
工場は、単に空間と光の均質を実現した抽象的な空間なのではない。工場は、そこでの作業を妨害しない範囲で、柱や梁(はり)のトラス(→本文の「注」→三角形を組み合わせた構造)が露出されている、きわめて物質的で具体的な空間なのである。

【13】このような空間に「自由」を感じるのは、そこではその空間の「使用規則」やそこでの「行動基準」がキャンセルされているからだ。「使用規則」をキャンセルされた物質の塊が別の行為への手がかりとして再生するからだ。原っぱもおなじだ。そこは雑草の生えたでこぼこのある更地であり、来るべき自由な行為のために整地されキューブとしてデザインされた空間なのではない。そこにはいろんな手がかりがある。

【14】木造家屋を再利用したグループホームは、逆に空間の「使用規則」やそこでの「行動基準」がキャンセルされていない。その意味では「自由」は限定されているようにみえるが、そこで開始されようとしているのは別の「暮らし」である。からだと物や空間とのたがいに浸透しあう関係のなかで、別のひととの別の暮らしへと空間自体が編みなおされようとしている。その手がかりの充満する空間だ。青木はいう。「文化というのは、すでにそこにあるモノと人の関係が、それをとりあえずは結びつけていた機能以上に成熟し 、今度はその関係から新たな機能を探る段階のことではないか」、と。そのかぎりでC 高齢者たちが住みつこうとしているこの空間には「文化」がある

 

……………………………

 

(設問)

問4 傍線部C「高齢者たちがすみつこうとしているこの空間には『文化』がある」とあるが、それはどういうことか。その説明として最適なものを次の中から一つ選べ。

①  木造家屋を再利用したグループホームという空間では、人のふるまいが制約されているということとひきかえに、伝統的な暮らしを取り戻す可能性があるということ。

②  木造家屋を再利用したグループホームという空間では、多くの入居者の便宜をはかるために設備が整えられているので、暮らすための手がかりが豊富にあり、快適な生活が約束されているということ。

③  木造家屋を再利用したグループホームという空間では、そこで暮らす者にとって、身に付いたふるまいを残しつつ、他者との出会いに触発されて新たな暮らしを築くことができるということ。

④  木造家屋を再利用したグループホームという空間では、空間としての自由度がきわめて高く、ひとびとがそれぞれ身に付けてきた暮らしの知恵を生かすように暮らすことができること。

⑤  木造家屋を再利用したグループホームという空間では、さまざまな生活歴を持ったひとびとの行動基準の多様性に対応が可能なため、個々の趣味に合った生活を送ることができるということ。

 

……………………………

 

(解説・解答)

問4(傍線部説明問題)

  傍線部の直前の「そのかぎりで」という限定的表現、傍線部の「この空間」、「文化」に着目する必要があります。

 
 傍線部Cの直前に、
 「文化というのは、すでにそこにあるモノと人の関係が、それをとりあえず結びつけていた機能以上に成熟し、今度はその関係から新たな機能を探る段階のことではないか」
と、「青木淳」による「文化」の定義が示されていて「そのかぎりで」傍線部Cが成立するのです。

 従って、③が正解になります。

 

①は、「伝統的な暮らしを取り戻す」が、「今度はその関係から新たな機能を探る段階」に反しています。

②の「多くの入居者の便宜をはかる」・「快適な生活が約束されている」、

④の「空間としての自由度がきわめて高く」、

⑤の「さまざまな生活歴を持ったひとびとの行動基準の多様性に対応が可能なため、個々の趣味に合った生活を送ることができる」は、

【14】段落の「木造家屋を再利用したグループホームは、逆に空間の『使用規則』やそこでの『行動基準』がキャンセルされていない。その意味では『自由』は限定されているようにみえる」に反しています。

(解答)③


ーーーーーーーー


(問題文本文)

【15】住宅は「暮らし」の空間である。「暮らし」の空間が他の目的を明確にもった空間と異なるのは、そこでは複数の異なる行為がいわば同時並行でおこなわれることにある。何かを見つめながら、まったく別の物思いにふけっている。食事をしながら、おしゃべりに興ずる。食器を洗いながら、子どもたちと打ち合わせをする。電話で話しながら、部屋を片づける。ラジオを聴きながら、家計簿をつける。食事、労働、休息、調理、育児、しつけ、介護、習い事、寄りあいと、暮らしのいろいろな象面(→本文の「注」→ここでは暮らしのなかの場面のこと)がたがいに被(かぶ)さりあっている。これが住宅という空間を濃くしている。(犬なら、餌(えさ)を食いながら人の顔を眺めるということができない? 排尿しながら、他の犬の様子をうかがうということができない?)

【16】住宅は、いつのまにか目的によって仕切られてしまった。リヴィングルーム、ベッドルーム、仕事部屋、子ども部屋、ダイニングルーム、キッチン、バスルーム、ベランダ・・・・。生活空間がさまざまの施設やゾーニング(→建築などの設計において、用途などの性質によって空間を区分・区画すること)によって都市空間が切り分けられるのとおなじように、用途別に切り分けられるようになった。当然、ふるまいも切り分けられる。襖を腰を下ろして開けるというふうに、ふるまいを鎮め、それにたしかな形をあたえるのが住宅であったように、歩きながら食べ、ついでにコンピュータのチェックをするというふうに 、(注意されながらも)その形をはみだすほどに多型的に動き回らせるのも住宅である。D  行為と行為をつなぐこの空間の密度を下げているのが、現在の住宅である。かつての木造家屋にはいろんなことがそこでできるという、空間のその可塑性によって、からだを眠らせないという知恵が、ひそやかに挿し込まれていた。木造家屋を再利用したグループホームは、たぶん、そういう知恵をひきつごうとしている。

(鷲田清一「身ぶりの消失」による)


ーーーーーーー

 

(設問)

問5 傍線部D「行為と行為をつなぐこの空間の密度を下げているのが、現在の住宅である」とあるが、それはどういうことか。その説明として最適なものを次の中から一つ選べ。

①  現在の住宅では、仕事部屋や子ども部屋など目的ごとに空間が切り分けられており、それぞれの用途とはかかわらない複数の異なる行為を同時に行ったり、他者との関係を作り出したりするような可能性が低下してしまっていること。

②  現在の住宅では、ゾーニングが普及することでそれぞれの空間の独立性が高められており、家族であってもそれぞれが自室で過ごす時間が増えることで、人と人とが触れあい、関係を深めていくことが少なくなってしまっていること。

③  現在の住宅では、空間の慣習的な使用規則に縛られない設計がなされており、居住者たちがそのときその場で思いついたことを実現できるように、各自がそれぞれの行為を同時に行えるようになっていること。

④  木造家屋などかつての居住空間では、居間や台所など空間ごとの特性が際立っていたが、現代の住宅では、居住者が部屋の用途を交換でき、空間それぞれの特性がなくなってきていること。

⑤  木造家屋などかつての居住空間では、人体の運動と連動して空間が作り変えられるような特性があったが、空間ごとの役割を明確にした現在の住宅では、予想外の行為によって空間の用途を多様にすることが困難になっていること。 

 

問6 この文章の表現について、次の(1)・(2)の問いに答えよ。

(1)傍線部X(→【8】段落)の表現効果を説明するものとして最適なものを次の中から一つ選べ。

①  議論を中断し問題点を整理して、新たな仮説を立てようとしていることを読者に気づかせる効果がある。

②  これまでの論を修正する契機を与えて、新たに論を展開しようとしていることを読者に気づかせる効果がある。

③  行き詰まった議論を打開するために話題を転換して、新たな局面に読者を誘導する効果がある。

④  あえて疑問を装うことで立ち止まり、さらに内容を深める新たな展開に読者を誘導する効果がある。


(2)筆者は論を進める上で青木淳の建築論をどのように用いているか。その説明として最適なものを次の中から一つ選べ。

①  筆者は青木の建築論に異を唱えながら、一見すると関連のなさそうな複数の空間を結びつけ、「暮らし」の空間として木造家屋を再利用したグループホームに関する主張をしている。

②  筆者は青木の建築論の背景にある考え方を例に用いて、それぞれの作業ごとに切り分けられた現代の「暮らし」の空間を批判し、木造家屋を再利用したグループホームの有用性を説く主張を補強している。

③  筆者は青木の建築論を援用しながら、空間の編みなおしという知見を提示することで、「暮らし」の空間として木造家屋を再利用したグループホームに価値を見いだす主張に説得力を与えている。

④  筆者は青木の建築論を批判的に検証したうえで、現代の「暮らし」と工場における空間とを比較し、木造家屋を再利用したグループホームに自由な空間の良さがあると主張している。


……………………………

 

(解説・解答)

問5(傍線部説明問題)

 傍線部の「行為と行為をつなぐこの空間の密度」とは、「(人を)多型的に動き回らせる」空間です。

 つまり、【15】段落に記述されている、

「複数の異なる行為」が「同時並行でおこなわれる」空間、

「暮らしのいろいろな象面がたがいに被さりあっている」空間、

「濃く」なっている空間です。

 一方、傍線部D「行為と行為をつなぐこの空間の密度を下げているのが、現在の住宅である」とは、その逆です。

 つまり、「現在の住宅」は、「目的によって仕切られ」、「用途別に切り分けられるようになった」空間です。(【16】段落)

 以上より①が正解です。

 

 ②~⑤は、「行為の重なり合い」について触れていないので不適切です。

(解答)①

 

問6(1)表現効果

 傍線部の前後の「論の構造」を問う問題です。「論の構造」を把握していれば、解答にたどり着けます

  【7】~【9】段落の「論の構造」は、以下のようになっています。

【7】段落「『バリアフリー』で楽だとおもうのは、あくまで介護する側の視点である。そう、たがいに『見られ、聴かれる』という関係がこれまで以上に成り立ちにくくなる。空間がいってみれば、 中身を失う・・・・。」

【8】段落「X「『中身」』?」

【9】段落「この言葉(→「中身」)をいきいきと用いた建築論がある。青木淳『原っぱと遊園地』(王国社、2004年)だ。青木によれば、『遊園地』が『あらかじめそこで行われることがわかっている建築』だとすれば、『原っぱ』とは、そこでおこなわれることが空間の『中身』を創(つく)ってゆく場所のことだ。」

 以上から、明白なように、「論」が「空間の中身」に関連していることについては、傍線部Xの前後を通じて一貫しています。

 従って、④が正解です。

①の「議論を中断し問題点を整理」、

②の「ここまでの論を修正する契機を与えて」、

③の「行き詰まった議論を打開するために話題を転換して」

は、いずれも不適切です。

(解答)④

 

問6(2)(「引用文の位置付け」を問う問題)

 筆者は【13】段落で「青木淳の建築論」を引用して、「原っぱ」・「(アトリエとしての)工場」に共通するのは、新たな行為を生み出す「手がかり」があることと述べています。

 そして、筆者は、【14】段落で以下のように述べています。

「木造家屋を再利用したグループホーム」では、「別のひととの別の暮らしへと空間自体が編みなおされようとしている」

(グループホームは)その手がかりの充満する空間だ」

 つまり、「木造家屋を再利用したグループホーム」でも、新たな行為を生み出す「手がかり」があると主張しているのです。

 従って、この構造を把握している③(③→筆者は青木の建築論を援用しながら、空間の編みなおしという知見を提示することで、「暮らし」の空間として木造家屋を再利用したグループホームに価値を見いだす主張に説得力を与えている。)が正解です。

 

①・④→「青木淳の建築論」に批判的ではないので、誤りです。

②は、「筆者は青木の建築論の背景にある考え方を例に用いて」の部分が意味不明です。また、「グループホームの有用性」の意味が曖昧で不適切です。

(解答)③

 

ーーーーーーーー

(出典)「身ぶりの消失」(『風景の幽い感覚』)

 

(3)本文のポイントの解説

 

 「身ぶりの消失」のポイントは、以下の段落の赤字部分でしょう。再掲します。

 

 ……………………………

 

【1】わたしは思い出す。しばらく前に訪れた高齢者用のグループホームのことを。

【2】住むひとのいなくなった木造の民家をほとんど改修もせずに使うデイ・サーヴィスの施設だった。もちろん「バリアフリー」からはほど遠い。玄関の前には石段があり、玄関の戸を引くと、玄関間がある。靴を脱いで、よいしょと家に上がると、今度は襖。それを開けてみなが集っている居間に入る。軽い「認知症」を患っているその女性は、お菓子を前におしゃべりに興じている老人たちの輪にすぐには入れず、呆然と立ち尽くす。が、なんとなくいたたまれず腰を折ってしゃがみかけると、とっさに「どうぞ」と、いざりながら、じぶんが使っていた座布団を差し出す手が伸びる。「おかまいなく」と座布団をおし戻し、「何言うておすな、遠慮せんといっしょにお座りやす」とふたたび座布団がおし戻される・・・・。

【3】和室の居間で立ったままでいることは「不自然」である。「不自然」であるのは、いうまでもなく、人体にとってではない。居間という空間においてである。居間という空間がもとめる挙措の「風」に、立ったままでいることは合わない。高みから他のひとたちを見下ろすことは「風」に反する。だから、いたたまれなくなって、腰を下ろす。これはからだで憶えているふるまいである。からだはそんなふうに動いてしまう。

【4】A  からだが家のなかにあるというのはそういうことだ。からだの動きが、空間との関係で、ということは同じくそこにいる他のひとびととの関係で、ある形に整えられているということだ。

 【7】停電のときでも身の回りのほとんどの物に手を届けることができるように、からだは物に身をもたせかけている。からだは物の場所にまでいつも出かけていっている。物との関係が切断されれば、身は宙に浮いてしまう。新しい空間で高齢者が転びやすいのは 、比喩(ひゆ)ではなく、まさに身が宙に浮いてしまうからである。 まわりの空間への手がかりが奪われているからである。「バリアフリー」で楽だとおもうのは、あくまで介護する側の視点である。まわりの空間への手がかりがあって、他の身体、──それは、たえず動く不安定なものだ──との丁々発止のやりとりもはじめて可能になる。とすれば、人体の運動に対応づけられた空間では、他のひととの関係もぎくしゃくしてくることになる。あるいは、物とのより滑らかな関係に意を配るがために、他者に関心を寄せる余裕もなくなってくる 。そう、たがいに『見られ、聴かれる』という関係がこれまで以上に成り立ちにくくなる。空間がいってみれば、 中身を失う・・・・。

 

……………………………

 

 鷲田氏は、常識では、絶対的なプラス的存在である「バリアフリー空間の問題性」を、鋭く指摘しています。

 鷲田氏は、「身体と空間の関係性」を重視しています。

 身体性重視の観点からの「合理性批判」・「近代批判」は、読んでいて心地よいです。

 國分功一郎氏の『 中動態の世界 』と同じ味わいです。

 「高齢化社会問題」、「ケアの論点」を考える上で、この論考は重要です。

 国語(現代文)・小論文対策として、この論考を、ぜひ熟読しておいてください。

 

 

(4)当ブログの「センター試験解説・関連記事」の紹介

 

 

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 ーーーーーーーー

 

今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

ご期待ください。

 

   

  

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

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5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

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