現代文最新傾向LABO 斎藤隆

入試現代文の最新傾向を分析し、次年度の傾向を予測する大胆企画

予想問題『勉強の哲学 来たるべきバカのために』千葉雅也 

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 今年のベストセラーになっている哲学書『 勉強の哲学 来たるべきバカのために 』(千葉雅也)は、入試対策上も注目するべきです。
 本書のキーワードは 「自己」・「言語」・「コード」・「アイロニー」・「ユーモア」・「自由」・「欲望」であり、これらは、国語(現代文)・小論文における頻出論点・重要語です。

 そのうえ、本書は、高レベルな内容を、丁寧に分かりやすく論じているので、入試対策上、要注意です。

 本書は来年度以降、難関大学の国語(現代文)・小論文に出題される可能性が高いので、今回、入試国語(現代文)・小論文対策として、概要を紹介・解説することにしました。

 

 今回の記事の項目は、以下の通りです。

(2)「はじめに」(P8~15)の解説

(3)「第1章 勉強と言語ーー言語偏重の人になる」の冒頭部分の解説 

(4)全体の概説 

(5)千葉雅也氏の紹介 

(6)当ブログの最近の「哲学」関連記事の紹介

 

勉強の哲学 来たるべきバカのために

 

(2)「はじめに」(P8~15)の解説

 「はじめに」は内容が充実しているので、概要を解説します。

(黒字が本文です)

(概要です)

(青字は当ブログによる「注」です)

(赤字は当ブログによる「本文の強調」です)

(以下も同じです)

 

「  いま、立ち止まって考えることが、難しい。

 溢れる情報刺激のなかで、何かに焦点を絞ってじっくり考えることが、難しい。

 そこで、キーワードになるのが『有限化』です。

 ある限られた=有限な範囲で、立ち止まって考える。無限に広がる情報の海で、次々に押し寄せる波に、ノリに、ただ流されていくのではなく。

『ひとまずこれを勉強した』と言える経験を成り立たせる。勉強を有限化する。

 

「  勉強を深めることで、これまでのノリでできた『バカなこと』が、いったんできなくなります。全体的に、人生の勢いがしぼんでしまう時期に入るかもしれません。しかし、その先には『来たるべきバカ』 (→この刺激的な表現を理解することが、本書のポイントと言えます。入試に出題される場合には、この表現の意味が、最大のポイントになるでしょう)に変身する可能性が開けているのです。この本は、そこへの道のりをガイドするものです。」


「  単純にバカなノリ。みんなでワイワイやれる。これが、第一段階。

 いったん、昔の自分がいなくなるという試練を通過する。これが、第二段階。

 しかしその先で、来たるべきバカに変身する。第三段階。」

 「来たるべきバカ」とは、アイロニー的思考、ユーモア的思考を越えて、自分の享楽的なこだわりに動かされて、それまでの自己から逸脱して、新しい自由な行動を開始する人間を意味します。

 また、「バカ」という表現は、「自己」を「相対化」しているのです。この点も注意する必要があります。

 

「  いったんノリが悪くなる、バカができなくなるという第二段階を経て、第三段階に至る。すなわち、来たるべきバカの段階、新たな意味でのノリ(→この表現にも注目してください。直後の「自己目的的」なノリに注意する必要があります)を獲得する段階へと至る。

 本書を通して、ノリという言葉の意味は、最終的に変化します。

 バンドで演奏するときのような、集団的・共同的なノリから出発し、そこから分離するようなノリへと話を進めていく。それは『自己目的的』なノリ(→「目的的」という言葉は「目的にそった、目的に関する」といった意味になります。入試頻出です)である。」

 この部分は、全体の構造を告知しています。

 第一章以下では、「来るべきバカ」への過程を読み取るようにしてください。

 

(3)「第1章 勉強と言語ーー言語偏重の人になる」(P17~)の冒頭部分の解説

    第一章冒頭部分も重要な内容を丁寧に論じていて、出題可能性が高いので、概要を解説します。

(黒字は本文です)

(「見出し」は【太字】にしました)

 

【勉強とは、自己破壊である】

「  勉強とは、自己破壊(→この表現も刺激的で、この表現の意味を理解することがポイントになります)である。

 では、何のために勉強をするのか?

 何のために、自己破壊としての勉強などという恐ろしげなことをするのか?

 それは、『自由になる』ためです。

 どういう自由(→ここにおける「自由」の意味内容の理解も問題になりそうです)か? これまでの『ノリ』から自由になるのです。」

 

「  私たちは、同調圧力によって、できることの範囲を狭められていた。不自由だった。その限界を破って、人生の新しい『可能性』を開くために、深く勉強するのです。

 けれども、後ろ髪を引かれるでしょう――私たちは、なじみの環境において、『その環境ならではのことをノってやれていた』からです。ところが、この勉強論は、あろうことか、それをできなくさせようとしている――勉強によってむしろ、能力の損失が起こる。」

 

「  こんなふうに、勉強は、むしろ損をすることだと思ってほしい。(→「損する」とは、どういう意味か? この点も問われそうです)

 勉強とは、かつてのノっていた自分をわざと破壊する、自己破壊である。

 言い換えれば、勉強とは、わざと『ノリが悪い』人になることである。」

 

【自由になる、可能性の余地を開く】

「  自由になるということ。それは、いまより多くの可能性を考え、実行に移せるような新しい自分になるということです。新たな行為の可能性を開くのです。そのために、これまでの自分を(全面的にではなくても)破壊し、そして、生まれ直すのです。第二の誕生です

 会社や家族や地元といった『環境』が、私たちの可能性を制約している、と考えてみる。

 圧縮的に言えば、私たちは『環境依存的』な存在であると言える。」(P23)

 

「  概念を定義しながら、話を進めていきましょう。まず、『環境』と『他者』から。

 本書では、『環境』という概念を、『ある範囲において、他者との関係に入った状態』という意味で使うことにします。シンプルには、環境=他者関係です。 

 『他者』とは、『自分自身ではないものすべて』です。普通は『他者』と言うと、他の人間=他人のことですが、それより意味を広げてください。親も恋人も、知らない人も、リンゴやクジラも、高速道路も、神も、すべて『他者』と捉えることにします。こういう『他者』概念は、とくにフランス現代思想(→多くの入試頻出著者、特に、哲学者はフランス現代思想に強く影響されています。従って、この記述は要注意です)において見られる使い方です。」

 この「他者」概念の説明は、特に重要なので、しっかり理解するようにしてください。「自己」以外は、すべて「他者」と考えることで、「自己の位置付け」が単純化します。

 

「  環境的な制約=他者関係による制約から離れて生きることはできません。

 環境のなかで、何をするべきかの優先順位がつく。環境の求めに従って、次に『すべき』ことが他のことを押しのけて浮上する。もし『完全に自由にしてよい』となったら、次の行動を決められない、何もできないでしょう。(→「生きる」とは「環境の中で生きる」ということです。「人間・生物は、環境の要求の中で、状況に合わせて、生きるしかない」と言ってもよいでしょう。)  環境依存的に不自由だから、行為できるのです。(→この部分は、秀逸な表現です。感動的な、逆説的記述です。入試で、この部分が出題されたら、空欄補充問題、理由説明問題など、様々な角度から出題されるでしょう)

 『何でも自由なのではない、可能性が限られている』ということを、ここまで『不自由』と言ってきましたが、今後は、哲学的に『有限性』と言うことにしましょう。逆に、『何でも自由』というのは、可能性が『無限』だということです。

 無限vs.有限、この対立が、本書においてひじょうに重要になります。  

 無限の可能性のなかでは、何もできない。行為には、有限性が必要である。

 この部分は、かなり重要な指摘です。少し立ち止まって熟考する必要があります。「無限の可能性」の中では、「選択」が非常に困難になるのです。不可能に近いでしょう。

 

「  有限性とつきあいながら、自由になる。

 まずは抽象的にそう言わせてください。おいおいその意味は明らかになります。」

 

【目的、環境のコード、ノリ】

「  私たちは環境依存的であり、環境には目的があり、環境の目的に向けて人々の行為が連動している。環境の目的が、人々を結びつけている=『共同化』している。

 そこで、次のように定義しましょう。

 環境における『こうするもんだ』とは、行為の『目的的・共同的な方向づけ』である。それを、環境の『コード』と呼ぶことにする。

 言い直すと、『周りに合わせて生きている』というのは、環境のコードによって目的的に共同化されているという意味です。」

 

「  環境のコードに習慣的・中毒的に合わせてしまっている状態を、本書では、ひとことで『ノリ』と表すことにしましょう。

 ノリとは、環境のコードにノってしまっていることである。」(P27)

 

「  本書では、ノリという言い方をまず、環境への『適応』、『順応』という意味で使います。」

 

【自分は環境のノリに乗っ取られている】

「  私たちは、いつでもつねに、環境のノリと癒着しているはずです。

 たいていは、環境のノリと自分の癒着は、なんとなくそれを生きてしまっている状態であって、分析的には意識されていない。」(P28)

 

「  自分は、環境のノリに、無意識的なレベルで乗っ取られている。

 ならば、どうやって自由になることができるのでしょう?

 丁寧に考える必要があります。というのも、環境から完全に抜け出すことはできないからです。完全な自由はないのです。ならば、どうしたらいいのか。そこで、次のように考えてみるのはどうでしょう――環境に属していながら同時に、そこに『距離をとる』(→自己の状況の「客観化」・「相対化」ということでしょう。自己の状況に意識的になるということです)ことができるような方法を考える必要があるのだ、と。

 その場にいながら距離をとることを考える必要がある。

 このことを可能にしてくれるものがある。

 それは『言語』です。どういうことでしょうか?」(P30)

 

【自分とは、他者によって構築されたものである】

「  生(せい)とは、他者と関わることです。純粋にたった一人の状態はありえません。外から影響を受けていない『裸の自分』など、ありえません。どこまで皮を剥いても出てくるのは、他者によって『つくられた=構築された』自分であり、いわば、自分はつねに『着衣』(→この表現も悩ましいです。入試では、設問の題材になるでしょう)なのです。

 自分は『他者によって構築されたもの』である。

 

「  そして、言語という存在。

 言語を使えている、すなわち『自分に言語がインストールされている』のもまた、他者に乗っ取られているということなのです。


 
「  言語は、環境の『こうするもんだ』=コード(→「記号」です)のなかで、意味を与えられるのです。だから、言語習得とは、環境のコードを刷り込まれることなのです。言語習得と同時に、特定の環境でのノリを強いられることになっている。」

 

「  言葉の意味は、環境のコードのなかにある。

 いよいよ、「言語論」に入りました。入試頻出論点でありながら、大部分の受験生の不得意分野です。丁寧な読解を心がけてください。

 

「  言語習得とは、ある環境において、ものをどう考えるかの根っこのレベル(→「価値観」です)で『洗脳』を受けるようなことなのです。これはひじょうに根深い。言葉ひとつのレベルでイデオロギーを刷り込まれている、これを自覚するのはなかなか難しいでしょう。だから、こう言わねばならない。言語を通して、私たちは、他者に乗っ取られている。」(P34)

   「言語」=「コード」=「記号」=「価値観」ということでしょう。「価値観」→「文化」→「言語」の方が、分かりやすいかもしれません。
 

 (4)全体の概説

 全体について、「結論」(P216~)を参考にし、適宜、本文を引用して、解説していきます。

 本文の引用は「」で表示します。

(1)【第1章】「勉強と言語ーー言語偏重の人になる」 (原理編1)

「勉強とは、これまでの自分の自己破壊である」と要約されています。

 

① 人は基本的には、周りの環境の「ノリ」に合わせて生きています(環境への「適応」・「順応」)。

 勉強するのは、環境や同調圧力によって狭められた人生の「可能性」を切り開き、これまでのノリから「自由」になるためです。

 ここでの「勉強」とは、「自分の根っこのところに作用する勉強」(P19)のことで、著者は「ラディカル・ラーニング(深い学習)」と呼んでいます。

 この一連の「引っ越し」において、千葉氏は「言語」を重視します。

 この点は重要なので、本文第1章のポイントを以下に引用します。

「   言語は、私たちの環境のノリを強いるものであると同時に、逆に、ノリに対して『距離をとる』ためのものでもある。」(P39)

「  勉強とは結局、別のノリに引っ越すことですが、この勉強論で光を当てたいのは、以前のノリ1から新しいノリ2へ引っ越す途中での、二つのノリの『あいだ』です。そこにフォーカスするのが本書の特徴です。

 二つのノリのあいだで、私たちは居心地の悪い思いをする――。

 以前のノリ1と別のノリ2のあいだで、自分が引き裂かれるような状態。

 あるいは、
 二つの環境のコードのあいだで、板挟みになる。」(P40)

 

② 「不慣れな言葉の違和感」に注意することも重要です。その違和感を通して、特定の環境における用法から、別の用法を考え直す可能性が開けるのです。

 この点について、第1章では、以下のように述べられています。

「  言語には2つの使用がある。一つは『道具的』な言語使用。環境において、目的的な行為のために言語を使うこと。たとえば、『塩を取って』というのは『依頼』であり、相手を動かして塩を手に入れるという目的のために言っている。言葉のリモコンで何かをするわけです。

 二番目は、たんにそう言うために言っているという言語使用。これを『玩具的』な言語使用と呼びましょう。おもちゃで遊ぶように、言語を使うこと自体が目的になっている。先ほど挙げた詩の例はそういうものと捉えてほしい。ダジャレとか早口言葉もそうですね。」(P49)

「  慣れ親しんだ『こうするもんだ』から、別の『こうするもんだ』へ移ろうとする狭間における言語的な違和感を見つめる。そしてその違和感を、『言語をそれ自体として操作する意識』へと発展させる必要がある。」 (P52)

「  自由になる、つまり、環境の外部=可能性の空間を開くには、『道具的言語使用』のウェイトを減らし、言葉を言葉として、不透明なものとして意識する『玩具的な言語使用』にウェイトを移す必要がある。」(P56)

「  深い勉強、ラディカル・ラーニングとは、ある環境に癒着していたこれまでの自分を、玩具的な言語使用の意識化によって自己破壊し、可能性の空間へと身を開くことである。」(P217)

 

(2)【第2章】「アイロニー、ユーモア、ナンセンス」(原理編2)

 この章を要約すると「環境のノリから自由になるとは、ノリの悪い語りをすることである」ということになります。

 

① ノリの悪い語りは、自由になるための思考スキルに対応します。

 思考にはツッコミ(アイロニー)とボケ(ユーモア)があります。前者は根拠を疑って真理を目指し。後者は根拠を疑うことはせず、見方を多様化します。

 「アイロニー」と「ユーモア」は、本書におけるポイントであり、入試頻出論点なので、第2章から引用します。
「  辞書的には、アイロニーは『皮肉』、ユーモアは『しゃれ』ですが、要はツッコミとボケのことだと理解してもらってかまいません。」(P74)

「(0) 最小限のアイロニー意識:自分が従っているコードを客観視する。

その上で、

(1) アイロニー:コードを疑って批判する。

(2) ユーモア:コードに対してズレようとする。

そもそも不確定なコードをますます不確定にすることを、『コードの転覆』と呼ぶことにする。アイロニーとユーモアはそのための技術である。」(P75)

 

② 勉強の基本は「アイロニー」ですが、本書ではそれを徹底化することを避けて「ユーモアに折り返すこと」を推奨しています。

 この理由は、以下の通りです。 

「  アイロニーによってコードの根拠づけを無理にもとめられると、コードそのものの不確定性、要は『空気でしかなかった』という事実が、露になる。」(P81)

 つまり、アイロニーが過剰になると、絶対的に真なる根拠を得たいという欲望になるが、それは実現不可能な欲望なのです。

 そこで、アイロニーをやりすぎずにユーモアに折り返す。

 しかし、さらに先には、ユーモアの過剰もナンセンスへと進んでいってしまうのです。

 

③ だが、事実上、私たちの言語使用では、ユーモアは過剰化せず、ある見方を仮固定することになります。それを可能にする条件は、個性としての「享楽的こだわり」です。もちろん、「享楽的こだわり」もまた勉強の過程を通じて変化しうることになります。

 以上の点については、第2章では、以下のように丁寧に記述されています。

「  まず、自分の置かれている環境を客観視するという意味で、最小限のアイロニー意識をもつのが大前提なのでした。その上で、

(1) アイロニーを深める、すなわち、環境のコードの根拠を徹底的に疑っていくなら、ついには、言語を破棄し、言語というフィルターを通さずじかに、『現実それ自体』に触れたいという欲望になる。それは、極限としては、もはや何も言うことができない状態、『言語なき現実のナンセンス』になる。そこで、

(2) あらためて、環境ごとに異なるコードでの言語使用を認めるのが、ユーモアへの転回である。まず、拡張的ユーモア(→ズレた方向に話を広げるユーモア)は、複数の環境をコード変換で行き来できるようにする。このことを『諸言語の旅』と表現したのでした。

 以上を『アイロニーからユーモアの折り返し』と呼ぶことにしましょう。

(2ー1) しかしユーモアが過剰化されると、極限としては、あらゆる言葉がつながって、言語がトータルに無意味になるという『意味飽和のナンセンス』が想定される。ならば、諸言語への旅は、旅として成立しなくなる。比愉的に言えぱこれは、『どこかへ行くことが、即、世界中に行くことになってしまう』という状態なのです

 では、拡張的ユーモアにおける話・言葉の接続過剰はどうやって止まるのか?

 私たちは、ひとりひとりにそれぞれに、言葉をめぐる何らかの『重みづけ』(→「享楽的こだわり」です)をもっている。その『重みづけ』が私たちを『何でもどうにでも言える』のではなくさせる。

(2ー2) 縮減的ユーモア(→不必要に細かい話、自閉的な面をもっています)は、非意味的形態としての言語をもてあそぶ、強度的で享楽的な語りである。これは『形態のナンセンス』である。そこで、次のように考えます。個々人がもつさまざまな非意味的形態への享楽的こだわりが、ユーモアの意味飽和を防ぎ、言語の世界における足場の、いわば『仮固定』を可能にする。

 このことを 『形態の享楽によるユーモアの切断』と呼びましょう。」(P110~112)

 「享楽的こだわり」による「形態のナンセンス」には、「ユーモアの接続過剰」を断ち切る力があるということです。

  

④ なお、「享楽的こだわり」についても、注意が必要です。以下に、本文を引用します。

「  本書では、享楽的こだわりは、絶対に固定的なものではないと考えます。もし絶対に固定的なのならば、私たちは、運命的に自分のこだわりに従って生きるしかなくなる。だがそうではないのです。深い勉強は、ラディカル・ラーニングは、自分の根っこにある享楽的こだわりに介入するのです。

 享楽的こだわりが、勉強を通して、変化する可能性がある。」(P113) 


(3)【第3章】「決断ではなく中断」(原理編3・実践編1)

 要約は、以下のようになっています。

「  どのように勉強を開始するか。まず、自分の現状をメタに観察し、自己アイロニー〔自己ツッコミ〕と自己ユーモア〔自己ボケ〕の発想によって、現状に対する別の可能性を考える。」(P218)

 

① どのように勉強を始めるかについては、著者は、「身近なところから問題を見つけ、キーワード化し、それを扱うにふさわしい専門分野を探す」ことを薦めています。そして、「勉強とは何らかの専門分野に入ること、そのノリに引っ越すことである」としています。

 この一連の勉強過程でキーワードになるのが「有限化」です。無限に広がる情報に、ノリに、ただ流されるのではなく、「ひとまずこれを勉強した」と言える経験を成立させること。「勉強の有限化」とはそのような状態を指します。

 このことについて、第3章では、以下のように述べられています。

「  アイロニー的に勉強のテーマを考える。それは『追究型』と言える。他方で、ボケ=ユーモア方向もある。それは『連想型』です。キーワードを出すのにも、分野を想定するのにも、追究と連想がどちらも使えます。」(P131)
「  勉強は二つの方向できりがなくなる―――追求と連想、アイロニーとユーモアです。言い換えれば、『深追いのしすぎ』と『目移り』になる。勉強はアイロニーが基本なので、『深追いしているうちに目移りしてしまう』というのが、よく起こることです。」(P135)

 しかし、こうした営みには結局のところ際限がない。行きつく果てがナンセンスにならないよう、どこかで有限化する必要があるのです。

 さらに、第3章から引用します。

「  僕が言いたいことはシンプルです――『最後の勉強』をやろうとしてはいけない。絶対的な根拠を求めるな、ということです。それは、究極の自分探しとしての勉強はするな、と言い換えてもいい。自分を真の姿にしてくれるベストな勉強など、ない。」(P136)

「  では、どうやって勉強を有限化すればいいのか。」(P137)

 

 この解答が、実に秀逸です。じっくり、味わってください。

 以下に引用します。 

「  自分なりに考えて比較するというのは、信頼できる情報の比較を、ある程度のところで、享楽的に「中断」することである。

 信頼できる情報に自分の享楽を絡めて、『まあこれだろう』ときめる。」(P140)

 「中断」・「有限化」というのは、実は、継続のための不可欠な手法である、と千葉氏は主張しているのです。極度の理想主義が、継続を阻害してしまうという現実を知るべきです。

 そして、「中断」、つまり「便宜的な仮固定」を意識して活用して、思考活動のエンジンを完全には切ってしまわないことが、大切なのでしょう。

 

② 「欲望年表」、これは一種の自己分析です。自分のこだわりの発端を分析することで、享楽的こだわりも、また変化の契機を得るのです。ある。

 

 「環境のなかでノッている保守的な『バカ』の段階から、環境から浮くような小賢しい存在になることを経由して、メタな意識をもちつつも、享楽的なこだわりに後押しされてダンス的に新たな行為を始める『来たるべきバカ』へ。」(P219)

 これが本書における「勉強の原理論」の流れです。

 

 この点について、千葉氏は、以下のようにツイートしています。

「考えてみれば、僕の本では、アイロニー・ユーモア・享楽という三点での分析を繰り返す、というふうに(これを「勉強の三角形」と呼んでいる)、いわゆる『一周回って』というのに理論的な定義を与えたことになる。」

 

(4)【第4章】「勉強を有限化する技術」(実践編2)

 第4章は、要約すると「勉強とは、何かの専門分野に参加することである」となります。

 専門分野への参加に際しては入門書を複数比較してその分野の大枠を知ることなど、正統的な助言がなされています。
 なお、「このくらいでいい」という勉強の「有限化」をしてくれる存在が教師です。

 

 第4章は、勉強を「有限化」するための、具体的方法を提示しています。以下に列挙します。


①    勉強の本体は、信頼できる文献を読むことである。
② 「読書ノート」について、
③    「勉強のタイムラインを維持する」ための「ノートアプリ」について、
④ フリーライティングをするための「アウトライナー」について

 

 (5)千葉雅也氏の紹介

千葉雅也(ちば・まさや)
1978年栃木県生まれ。東京大学教養学部卒業。パリ第10大学および高等師範学校を経て、東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻表象文化論コース博士課程修了。博士(学術)。哲学/表象文化論を専攻。フランス現代思想の研究と、美術・文学・ファッションなどの批評を連関させて行う。現在は、立命館大学大学院先端総合学術研究科准教授。

 

【単著編集】

『動きすぎてはいけない――ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』(河出書房新社、2013年/第4回紀伊國屋じんぶん大賞受賞作)、
『別のしかたで――ツイッター哲学』(河出書房新社、2014年)、
『勉強の哲学――来たるべきバカのために』(文藝春秋、2017年)、

 

【監修編集】 

『哲子の部屋3――“本当の自分”って何?』(NHK『哲子の部屋』制作班著、河出書房新社、2015年。)、

 

【共著編集】 

『ヘーゲル入門』(河出書房新社、2010年)、
『ファッションは語りはじめた――現代日本のファッション批評』(フィルムアート社、2011年)、
『相対性コム デ ギャルソン論――なぜ私たちはコム デ ギャルソンを語るのか』(フィルムアート社、2012年)、
『身体と親密圏の変容』(大澤真幸、佐藤卓己、杉田敦、中島秀人、諸富徹編、岩波書店、2015年)、
『高校生と考える世界とつながる生き方』(左右社、2016年)

 

 (6)当ブログの最近の「哲学」関連記事の紹介

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今回の記事は、これで終わりです。 

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

ご期待ください。

 

   

 

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動きすぎてはいけない: ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学 (河出文庫)

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別のしかたで:ツイッター哲学

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

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