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現代文最新傾向LABO 斎藤隆

入試現代文の最新傾向を分析し、次年度の傾向を予測する大胆企画

トランプ現象と夏目漱石→反グローバリズム的発言と文明開化批判

(1)今回の記事を書く理由→「トランプ現象」と夏目漱石→反グローバリズム的発言と「文明開化」批判

 

 アメリカ大統領選における「トランプ現象」は、日本でも、2016年後半期から、政治的・経済的・社会的に大きな話題になりました。

 当初の予想に反して、結果的に当選したトランプ氏の「反グローバリズム的」な発言により、現在、「グローバル化・国際化の功罪」が改めて注目されています。

 トランプ氏の一連の「反グローバリズム的」発言を読みながら、私は、時代状況は違うものの、漱石の小説・講演における、痛快で爽快な「文明開化批判」を思い出しました。

 私のように感じる読書家は少なくないはずです。

 大学入試の作成者の中にも、私と同様の感想を持つ人は、いるはずです。

 

 漱石の「文明開化批判」は、入試頻出事項です。

 

  しかも、2016年は夏目漱石の没後100年、2017年は生誕150年です。

 このような、有名作家の節目の年度には、当該作家関連の論考が、多く発表されるために(現に、2016年度には、漱石関連の充実した論考が目立ちました)、その影響で、翌年の大学入試の現代文(国語)・小論文でも、当該作家関連の論考が流行することがあります。

 従って、2017年度・2018年度には、漱石の「文明開化批判」が、入試にかなり出題されることが予想されます。

 そこで、今回の記事でも、現代文(国語)・小論文対策として、漱石の小説・講演における「文明開化批判」を解説します。

 今回の記事は、前回の記事の続きです。

 今回の記事を、より良く理解するために、前回の記事に目を通しておいて下さい。

  

gensairyu.hatenablog.com

 

 

 (2)夏目漱石の「文明開化」批判の時代背景→植民地主義・帝国主義の時代

 

「現代日本の開化」『三四郎』『吾輩は猫である』の時代背景について、検討します。

 

《各作品の発表年度》

  「現代日本の開化」1911年、

『三四郎』1908年、

『吾輩は猫である』1905年、

これらの発表年度は、これから解説する事項に重要な意味を持ちます。

 

 

 日本は1905年に日露戦争に勝ったため、世界の一流国の仲間入りができました。

 20世紀初頭までは、世界のほぼ全体が白人国家の植民地主義的な支配下にありました。

 アジアでは、シャム(タイ)と日本だけが、かろうじて独立を保持していました。

 中国は、清朝内部の混乱のために西洋列強の介入を拒否できずに、実質的に植民地状態でした

 ロシアとの日露戦争は、明治37年(1904年)に始まりました。

 

 ロシアは、日本とは比較にならない、西洋最大の大国です。

 日本は膨大な人的・経済的犠牲を払いましたが、その翌年にギリギリの勝利を手にしました。

 そして、日本は、世界の一流国に仲間入りするという、明治維新からの目標に到達した。

 つまり、日露戦争後に欧米列強との不平等条約を改正できたのです。

 

 

 漱石は時代を読み取る観察力を持っていました。 

 世界の一等国となること、そして、欧米との不平等条約を修正すること。

 これは、日本国、日本国民の遠大な目標でした。 

 その目標が、実現したのです。

 日露戦争に勝って一等国になったと、日本国民も日本国家も自画自賛し、増長するようになリました。

 そのために、もともと不自然だった、急激な文明化、つまり、西洋文明の無思慮な模倣がさらに進むはずと予想して、漱石は悲しい気持ちになったのです。

 

 

(3)『現代日本の開化』ー夏目漱石の「文明開化」批判

 

 物事の本質を見抜くことの出来た先鋭的な感覚を持っていた夏目漱石は、時代の波に乗るために、多少の矛盾には目をつぶってって、要領よく生きていくというようなことができなかった人です。

 それゆえに、彼は、当時の日本の「近代化」「西洋化」の熱病=「文明開化」に対しても、これを批判することができたのでした。
 漱石は、「現代日本の開化」の中で、「日本の近代化」を「皮相上滑りの開化」であると痛烈に批判しています。

 つまり、「日本の開化」は、外からの強大な圧力に押されて仕方なく進めているというだけで、あまりにも外発的と空しく思っていたのです。

 ただ、1868年の明治維新に至るまで、日本は長年、鎖国政策を続けていましたから、世界に向かって開国してから、政治的・経済的・社会的な大混乱に陥ったとしても、当然といえば当然だったのです。

 

 とはいえ、漱石は時代の課題に本質的に考察しようとする、誠実な思想家としての側面をもっていたのです。

 「現代日本の開化」で、「文明開化」批判を展開している部分を、以下に引用します。

 

(『現代日本の開化』の一部抜粋)

(赤字は当ブログによる「強調」です。青字は当ブログによる「注」です)

日本の開化は自然の波動を描いて甲の波が乙の波を生み乙の波が丙の波を押し出すように内発的に進んでいるかと云うのが当面の問題なのですが残念ながらそう行っていないので困るのです。行っていないと云うのは、先程(さきほど)も申した通り活力節約、活力消耗の二大方面において、ちょうど複雑の程度二十を有しておったところへ、俄然(がぜん)外部の圧迫で三十代まで飛びつかなければならなくなったのですから、あたかも天狗(てんぐ)にさらわれた男のように無我夢中で飛びついて行くのです。その経路はほとんど自覚していないくらいのものです。元々開化が甲の波から乙の波へ移るのはすでに甲は飽(あ)いていたたまれないから内部欲求の必要上ずるりと新らしい一波を開展するので甲の波の好所も悪所も酸いも甘いも甞(な)め尽した上にようやく一生面を開いたと云って宜(よろ)しい。したがって従来経験し尽した甲の波には衣を脱いだ蛇へびと同様未練もなければ残り惜しい心持もしない。のみならず新たに移った乙の波に揉(も)まれながら毫(ごう)も借り着をして世間体を繕(つくろ)っているという感が起らない。ところが日本の現代の開化を支配している波は西洋の潮流でその波を渡る日本人は西洋人ではないのだから、新らしい波が寄せるたびに自分がその中で食客(いそうろう)をして気兼(きが)ねをしているような気持になる。新らしい波はとにかく、今しがたようやくの思いで脱却した旧(ふる)い波の特質や真相やらも弁(わきまえ)る(→入試頻出語句)ひまのないうちにもう棄(す)てなければならなくなってしまった。食膳(しょくぜん)に向って皿の数を味い尽すどころか元来どんな御馳走(ごちそう)が出たかハッキリと眼に映じない前にもう膳を引いて新らしいのを並べられたと同じ事であります。こういう開化の影響を受ける国民はどこかに空虚の感がなければなりませんまたどこかに不満と不安の念を懐(いだ)かなければなりません。それをあたかもこの開化が内発的ででもあるかのごとき顔をして得意でいる人のあるのは(よろ)しくない。それはよほどハイカラ(→「ハイカラ」とは、西洋風の服装・・・生活・・じなどを意味する日本語の造語。現在では、あまり使われない)です、(よろ)しくない虚偽でもある軽薄でもある(→かなり怒っています。当時の日本に、このような危機感を抱けた人物は、あまり多くないでしょう。欧米への留学経験があり、欧米と日本との違いを実感として知っている人だけが、このような感覚を抱けるのでしょう)自分はまだ煙草(たばこ)を喫(す)っても碌(ろく)に味さえ分らない子供の癖に、煙草を喫ってさも旨(うま)そうな風をしたら生意気でしょう。それをあえてしなければ立ち行かない日本人はずいぶん悲酸(ひさん)な国民と云わなければならない(→「悲酸」(悲惨)とまで言っていることに注意)。開化の名は下せないかも知れないが、西洋人と日本人の社交を見てもちょっと気がつくでしょう。西洋人と交際をする以上、日本本位ではどうしても旨く行きません。交際しなくともよいと云えばそれまでであるが、情けないかな交際しなければいられないのが日本の現状でありましょうしかして強いものと交際すれば、どうしても己を棄てて先方の習慣に従わなければならなくなる。我々があの人は肉刺(フォーク)の持ちようも知らないとか、小刀(ナイフ)の持ちようも心得ないとか何とか云って、他を批評して得意なのは、つまりは何でもない、ただ西洋人が我々より強いからである。我々の方が強ければあっちこっちの真似まねをさせて主客の位地(いち)を易(かえ)るのは容易の事である。(→面白い指摘です。「欧米中心主義的なグローバル化は偶然の産物」という見方も可能であるという見解です)がそう行かないからこっちで先方の真似をする。しかも自然天然に発展して来た風俗(→「その社会・地域の日常生活の習慣・風習」という意味)を急に変える訳にいかぬからただ器械的に西洋の礼式などを覚えるよりほかに仕方がない自然と内に醗酵(はっこう)して醸(かも)された礼法(→「礼儀作法」という意味)でないから取ってつけたようではなはだ見苦しいこれは開化じゃない、開化の一端とも云えないほどの些細(ささい)な事であるが、そういう些細な事に至るまで、我々のやっている事は内発的でない、外発的であるこれを一言にして云えば現代日本の開化は皮相上滑(うわすべ)りの開化であると云う事に帰着するのである。無論一から十まで何から何までとは言わない。複雑な問題に対してそう過激の言葉は慎(つつし)まなければ悪いが我々の開化の一部分、あるいは大部分は己惚(うぬぼれ)てみても上滑りと評するより致し方がないしかしそれが悪いからお止しなさいと云うのではない事実やむをえない、涙を呑(の)んで上滑りに滑って行かなければならないと云うのです。」

 


「日本の現代開化の真相もこの話と同様で、分らないうちこそ研究もして見たいが、こう露骨にその性質が分って見るとかえって分らない昔の方が幸福であるという気にもなります。とにかく私の解剖した事が本当のところだとすれば我々は日本の将来というものについてどうしても悲観したくなるのであります。外国人に対して乃公(おれ)の国には富士山があるというような馬鹿(→過激な罵倒です)は今日はあまり云わないようだが、戦争(→日露戦争です)以後一等国になったんだという高慢な声は随所に聞くようである。なかなか気楽な見方をすればできるものだと思います。(→大国ロシアに勝ち日本国民も日本国家も、自信過剰になっていて思い上がっていた、この時代にしては、実に大胆な勇気のある発言です。日本国民・日本国家を敵に回す可能性が大ですから)ではどうしてこの急場を切り抜けるかと質問されても、前(ぜん)申した通り私には名案も何もないただできるだけ神経衰弱に罹(かか)らない程度において、内発的に変化して行くが好かろうというような体裁の好いことを言うよりほかに仕方がない。にがい真実を臆面(おくめん)なく諸君の前にさらけ出して、幸福な諸君にたとい一時間たりとも不快の念を与えたのは重々御詫(おわび)を申し上げますが、また私の述べ来(き)たったところもまた相当の論拠と応分の思索の結果から出た生真面目(きまじめ)の意見であるという点にも御同情になって悪いところは大目に見ていただきたいのであります。」

 

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(当ブログによる解説)

 いかにも「無鉄砲」で、「へそ曲がり」の漱石らしい記述です。

  『坊っちゃん』の登場人物である「坊っちゃん」と「赤シャツ」が、「漱石の分身」であるのは有名です。

 上記の講演には、「坊っちゃんのストレートな激情」と「赤シャツの皮肉」が、入り交じっていて、読んでいて、わくわくします。

 現代の状況にも、充分に適合する内容になっていることに、驚嘆します❗

 

 上記の「現代日本の開化」を読んで、注意するべきことは、夏目漱石は「文明開化」を全面的には否定してはいないという点です。

 上記に引用した最後の部分で、「しかしそれが悪いからお止しなさいと云うのではない事実やむをえない、涙を呑(の)んで上滑りに滑って行かなければならないと云うのです」と述べていることに注目してください。

 だからこそ、ここに、「急激な文明開化・西洋化の中で、日本の伝統的精神をいかに保持し、日本人の自己・アイデンティティを確保していくのか」という、夏目漱石の重大な悩み・課題が発生するのです。

 

 その当時、一応、「和魂洋才」というスローガンが、打ち立てられました。

 しかし、「和魂洋才」は、単なるスローガンにすぎず、実際には、大部分の「和魂」=「日本の伝統的価値観」はあっさり脱ぎ捨てられたのでは、ないでしょうか。

 西洋文化を「涙を呑(の)んで上滑りに滑って行かなければならない」状態で取り入れていけば、「和魂」は、いつの間にか、忘れられていくのが道理だからです。

 

 

 ところで、夏目漱石は当時の「日本の近代化」を、本音では、どのように評価していたのでしょうか?

 参考になるのは、『三四郎』の中の「広田先生」の発言です。

 「広田先生」の年齢などの人物設定をみると、「広田先生」は「漱石の分身」であり、「広田先生」の発言は、「夏目漱石の本音」と解釈することが可能です。

 そこで、次に、『三四郎』について検討することにします。

 

(4)『三四郎』における「文明開化」批判

 

 特に、注目されるべきは、「広田先生」の有名な「日本は滅びるね」という発言と、その前後の記述です。

 

 熊本から東京に向かう汽車の中で、三四郎は、「西洋化に邁進(まいしん)する日本」を批判的に見る広田先生に出会います。

 広田先生は、日本が日露戦争に勝ったと浮かれているが、「このままいくと、日本は滅びる」と言い、三四郎を驚かせます。

 戦争に勝ったとしても、国力から見て無理な戦争により、国民は、経済的にも、精神的にも、疲弊していたのです。

 特に、広田先生のようなインテリ階層は、戦勝の喜びよりも、疲弊しつつも、西洋化・近代化に熱中・狂奔する、思考停止状態の、(つまり、反知性主義的な)日本の将来に絶望感・危機感を抱いていたのでしょう。

 

 この辺の事情は、現在の日本の状況に酷似しています。現在の日本は、東日本大震災・福島原発事故、そして、世界的な不景気の中で、大震災からの復興、福島原発の処理に疲弊しています。それにもかかわらず、今の日本は、日本の農林水産業を壊滅させかねないグローバル経済(過激な新自由主義経済)への参加、膨大な予算を浪費する(単なる大人の運動会である)東京オリンピックの開催、に狂奔しています。全くの思考停止状態、反知性主義の蔓延と評価せざるを得ません。「(このままいくと)日本は滅びるね」という広田先生のセリフは、そのまま、「現在の日本」に当てはまると思います。

 

 以下に、「日本は滅びるね」という発言を含む『三四郎』の一部を引用します。

 

(『三四郎』の本文)

(赤字は当ブログによる「強調」です。青字は当ブログによる「注」です)

 「浜松で二人とも申し合わせたように弁当を食った。食ってしまっても汽車は容易に出ない。窓から見ると、西洋人が四、五人列車の前を行ったり来たりしている。そのうちの一組は夫婦とみえて、暑いのに手を組み合わせている。女は上下(うえした)ともまっ白な着物で、たいへん美しいこういう派手(はで)なきれいな西洋人は珍しいばかりではない。すこぶる上等に見える。三四郎は一生懸命にみとれていた。これではいばるのももっともだと思った。自分が西洋へ行って、こんな人のなかにはいったらさだめし肩身の狭いことだろうとまで考えた。窓の前を通る時二人の話を熱心に聞いてみたがちっともわからない。熊本の教師とはまるで発音が違うようだった。
 ところへ例の男が首を後から出して、
「まだ出そうもないのですかね」と言いながら、今行き過ぎた西洋の夫婦をちょいと見て、
ああ美しい(→「文明開化=西洋化」に批判的な広田先生も、知らぬ間に「西洋的な美意識」に拘束されてしまったようで、少々、皮肉的な表現になっています。「皮肉的な表現」は、漱石の得意技です。このことを読者の方で強く意識していないと、軽く読み過ごしてしまうほどに、漱石は、さりげなく「皮肉表現」を多用しています。「『漱石の皮肉表現の真意』の説明問題」は、難関大学の入試で頻出なので、注意しておいてください)と小声に言って、すぐに生欠伸(なまあくび)をした。三四郎は自分がいかにもいなか者らしいのに気がついて、さっそく首を引き込めて、着座した。男もつづいて席に返った。そうして、
どうも西洋人は美しいですね」と言った。
 三四郎はべつだんの答も出ないのでただはあと受けて笑っていた。すると髭の男は、
お互いは哀れだなあ」と言い出した。「こんな顔をして、こんな顔をして、こんなに弱っていては、いくら日露戦争に勝って、一等国になってもだめですね。もっとも建物を見ても、庭園を見ても、いずれも顔相応のところだが、――あなたは東京がはじめてなら、まだ富士山を見たことがないでしょう。今に見えるから御覧なさい。あれが日本一(にほんいち)の名物だ。あれよりほかに自慢するものは何もない。ところがその富士山は天然自然に昔からあったものなんだからしかたがない。我々がこしらえたものじゃない」と言ってまたにやにや笑っている。三四郎は日露戦争以後こんな人間に出合うとは思いもよらなかったどうも日本人じゃないような気がする
しかしこれからは日本もだんだん発展するでしょうと弁護した。

 すると、かの男は、すましたもので「滅びるね」と言った。ーー熊本でこんなことを口に出せば、すぐなぐられる。悪くすると国賊取り扱いにされる。三四郎は頭の中のどこのすみにもこういう思想を入れる余裕はないような空気のうちで生長した。だからことによると自分の年の若いのに乗じて、ひとを愚弄(ぐろう)するのではなかろうかとも考えた。男は例のごとく、にやにや笑っている。そのくせ言葉つきはどこまでもおちついている。どうも見当がつかないから、相手になるのをやめて黙ってしまった。すると男が、こう言った。

「熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より・・・・」でちょっと切ったが、三四郎の顔を見ると耳を傾けている。
「日本より頭の中のほうが広いでしょう(→一見、分かりにくい表現です。「文明開化が進行中の今こそ、視野を狭くしては、いけない」「良く考えよ」と言いたいのです)」と言った。「とらわれちゃだめだ。いくら日本のためを思ったって贔屓(ひいき)の引き倒し(→「相手を大切にすることにより、かえって、相手に害悪がおよぶ」という意味→「日本のためになると思い、文明開化を積極的に進めることは、かえって、日本のためにはならない」ということです)になるばかりだ」」

 

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(当ブログによる解説)

 年齢的にみて、広田先生方は、「夏目漱石の分身」と考えることが可能です。

 その上で、「(日本は)滅びるね」を、どのように解釈するべきでしょうか。

 私は、以下のように考えました。

 

 「文明開化=西洋化」に伴い、日本国家・日本人は、「自分たちの、精神的伝統=伝統的価値観」を軽視・無視していくでしょう。

 「伝統的な価値観」は、「自己」の「精神的な基盤」です。

 「伝統的価値観」を「喪失」することは、日本国家・日本人の「自己(アイデンティティ)」の「喪失」と同じことです。

 もはや、「まともな国家・個人と言えなくなる」、ということです。

 これは、国家・個人の実質的な「滅亡」と同視できるのです。

 

 前回の記事で、私が強調したことですが、明治時代の日本人が、運慶の彫刻を無条件に賞賛する理由は、無意識の内に、「過去の自分たちの価値観」、「運慶の生きていた頃(平安時代・鎌倉時代)の日本の伝統的芸術観・価値観」を懐かしがっているからです。

 最近では、ますます「グローバル化」が叫ばれ、「一部の企業の、社内での英語公用語化」、「小学校低学年からの英語教育導入」などということが流行しているようです。

 これらは、無思慮な、思考停止的な「グローバル化」としか評価できません。

 今日、より一層、私達は、「日本人」としての「アイデンティティーの確立」・「自己の確立」を意識する必要があります。

 いずれにせよ、「過激なグローバル化」が進展中の現代にこそ、この「文明開化」批判を熟読して、「漱石の心の葛藤」を追体験するべきだ、と私は思います。

 

 

 (5)『吾輩は猫である』における「文明開化」批判

 

 吾輩は猫である (新潮文庫)

 

 

 

 

 

 

 『吾輩は猫である』の中の「文明開化」批判も、読みごたえがあります。

 『吾輩は猫である』の中には、「文明開化」批判を展開している記述が数ヶ所ありますが、特に、本質的な批判をしている部分を以下に引用します。

 

(『吾輩は猫である』の本文)

(赤字は当ブログによる「強調」です。青字は当ブログによる「注」です)

 

 以下は、落雲館中学校生徒が「苦沙弥」先生宅の庭に野球ボールを打ち込み、「苦沙弥」先生が激高している場面(第8話)です。

 

「哲学者先生(→八木  独仙(やぎ どくせん)。苦沙弥先生の同窓。ヤギヒゲが特徴の、哲学者風な人物。夏目漱石も漢文学に精通しているので、「漱石の分身」とも評価し得ます。禅語、「東洋的な消極的の修養」論を話題に取り上げるのが得意)はだまって聞いていたが、ようやく口を開ひらいて、かように主人に説き出した。

『ぴん助やきしゃごが何を云ったって知らん顔をしておればいいじゃないか。どうせ下らんのだから。中学の生徒なんか構う価値があるものか。なに妨害になる。だって談判しても、喧嘩をしてもその妨害はとれんのじゃないか。僕はそう云う点になると西洋人より昔の日本人の方がよほどえらいと思う西洋人のやり方積極的積極的と云って近頃大分だいぶ流行(はや)るが、あれは大(だい)なる欠点を持っているよ。第一積極的と云ったって際限がない話だ。いつまで積極的にやり通したって、満足と云う域とか完全と云う境(さかい)にいけるものじゃない。向むこうに檜(ひのき)があるだろう。あれが目障(めざわ)りになるから取り払う。とその向うの下宿屋がまた邪魔になる。下宿屋を退去させると、その次の家が癪(しゃく)に触る。どこまで行っても際限のない話しさ西洋人の遣(や)り口(くち)はみんなこれさ。ナポレオンでも、アレキサンダーでも勝って満足したものは一人もないんだよ。人が気に喰わん、喧嘩をする、先方が閉口しない、法庭(ほうてい)へ訴える、法庭で勝つ、それで落着と思うのは間違さ。心の落着は死ぬまで焦(あせ)ったって片付く事があるものか。寡人政治(かじんせいじ)がいかんから、代議政体(だいぎせいたい』にする。代議政体がいかんから、また何かにしたくなる。川が生意気だって橋をかける、山が気に喰わんと云って隧道トンネルを堀る。交通が面倒だと云って鉄道を布(し)く。それで永久満足が出来るものじゃない。さればと云って人間だものどこまで積極的に我意を通す事が出来るものか。西洋の文明は積極的、進取的かも知れないがつまり不満足で一生をくらす人の作った文明さ日本の文明は自分以外の状態を変化させて満足を求めるのじゃない西洋と大(おおい)に違うところは、根本的に周囲の境遇は動かすべからざるものと云う一大仮定の下(もと)に発達しているのだ。親子の関係が面白くないと云って欧洲人のようにこの関係を改良して落ちつきをとろうとするのではない。親子の関係は在来のままでとうてい動かす事が出来んものとして、その関係の下(もと)に安心を求むる手段を講ずるにある。夫婦君臣の間柄もその通り、武士町人の区別もその通り、自然その物を観(み)るのもその通り。ーー山があって隣国へ行かれなければ、山を崩すと云う考を起す代りに隣国へ行かんでも困らないと云う工夫をする。山を越さなくとも満足だと云う心持ちを養成するのだ。それだから君見給え。禅家(ぜんけ)でも儒家(じゅか)でもきっと根本的にこの問題をつらまえる(→「つらまえる」とは「捉まえる。捕まえる」と書き、「とらえる。つかまえる」という意味)いくら自分がえらくても世の中はとうてい意のごとくなるものではない、落日(らくじつ)を回(めぐ)らす事も、加茂川を逆(さか)に流す事も出来ない。ただ出来るものは自分の心だけだからね。心さえ自由にする修業をしたら、落雲館の生徒がいくら騒いでも平気なものではないか、今戸焼の狸でも構わんでおられそうなものだ。ぴん助なんか愚(ぐ)な事を云ったらこの馬鹿野郎とすましておれば仔細(しさい)(→入試頻出語句)なかろう。何でも昔しの坊主は人に斬(き)り付けられた時電光影裏(でんこうえいり)に春風(しゅんぷう)を斬るとか、何とか洒落(しゃ)れた事を云ったと云う話だぜ。心の修業がつんで消極の極に達するとこんな霊活な作用が出来るのじゃないかしらん。僕なんか、そんなむずかしい事は分らないが、とにかく西洋人風の積極主義ばかりがいいと思うのは少々誤っているようだ。現に君がいくら積極主義に働いたって、生徒が君をひやかしにくるのをどうする事も出来ないじゃないか。君の権力であの学校を閉鎖するか、または先方が警察に訴えるだけのわるい事をやれば格別だが、さもない以上は、どんなに積極的に出たったて勝てっこないよ。もし積極的に出るとすれば金の問題になる。多勢(たぜい)に無勢(ぶぜい)の問題になる。換言すると君が金持に頭を下げなければならんと云う事になる。衆を恃(たの)む(→「多人数を頼りに強引に何事かをする」という意味)小供に恐れ入らなければならんと云う事になる。君のような貧乏人でしかもたった一人で積極的に喧嘩をしようと云うのがそもそも君の不平の種さ。どうだい分ったかい』」

 

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(当ブログによる解説)

 確かに、「西洋人風の積極主義」には、「不満足で一生をくらす人の作った文明」という側面があるようです。

 「欲望の追求」に、切りがないということです。

 漱石は、「西洋の欲望的な歴史」の本質を見抜いているのです。

 

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  「不満足で一生をくらす人」に関しては、藤田省三氏の論考『全体主義の時代経験』(→入試頻出出典です。最近、早稲田大学政経学部でも出題されています。この問題については、下の記事で解説しています→リンク画像を貼っておきます)でも、同様なことを論じています。

 以下は、最近、このブログで記事として発表したものです。

(藤田省三氏の論考『全体主義の時代経験』)

「抑制なく邁進(ばくしん)する産業技術の社会は、即座の効用を誇る完成製品を提供し、その速効製品を新しく次々と開発し、その新品を即刻使用させることに全力を尽くして止まない(→「消費社会」が高度化した「高度消費社会」の段階になったことを意味しています)。そして私たちの圧倒的大多数が、この回転の体系に関係する何処(どこ)かに位置することを以て生存の手段としている。ーーという社会的関連が在るのだから、分断された一回的享受の反復がいよいよめまぐるしく繰り返されていく傾向は、何らかの意識的努力がない限り停(と)どまる処を知らない筈である。」

 

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(当ブログによる解説)

 20世紀は、大量生産・大量消費・大量廃棄の「使い捨て文明(→「欲望の飽くなき追求」の一形態です)のもと、人類は科学技術の恩恵を受けて、快適な生活をおくる事ができました。

 しかし、様々な資源の枯渇と、地球温暖化現象によって、人類は、存亡の危機にまで直面しています。

 21世紀は、「使い捨て社会」から「持続可能」な「資源循環型社会」の構築、「環境重視社会」への転換が求められています。 

 

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  『吾輩は猫である』の解説に戻ります。

 この作品は単に面白いだけではなく、「現代の日本社会のあり方」について再考する契機になります。

 漱石のような、自分をも突き放して考察の対象とする「軽やかで鋭敏な批判精神」を持つことは、現代の日本人に必要不可欠だと思います。

 現在、漱石の作品が、ますます人気になっている背景には、現代の日本人が、このような「漱石の視点」を無意識の内に求めているからではないでしょうか。

 

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 ↓ 以下は、今回の記事に関連する、当ブログの記事の紹介です。

 

(6)『現代日本の開化』・『夏目漱石』関連の他の記事

 

 

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(7)「文語文・擬古文」関連の他の記事

 

 

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 (8)「グローバル化」関連の記事

 

 

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 今回の記事は、これで終わりです。

 次回の記事は、約10日後に発表の予定です。

 

  

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吾輩は猫である (新潮文庫)

吾輩は猫である (新潮文庫)

 

 

↓ 「明治時代の文明開化」に関する、森鴎外のエッセイ(随筆)『混沌』(早稲田大学 政経学部過去問)の問題・解答・解説があります。 

頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

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