2009センター国語第1問(現代文)「かんけりの政治学」解説
1)はじめに
「子供社会と大人社会の対比」、あるいは、「子供社会に大人社会の原型・萌芽を見るという視点」は、入試国語(現代文)・小論文における頻出論点です。
子供社会は、大人社会の特徴を分析する上で、有効なリトマス試験紙になります。
子供社会と対比することで、当たり前と思っている大人社会の異常性、現代文明の異常性が際立つのです。
今回解説する2009年センター試験(「かんけりの政治学」栗原彬)は、「子供社会」の分析が秀逸です。
そこで、入試国語(現代文)・小論文対策として、今回は、この問題の解説をします。
今回の記事の項目は以下の通りです。
(2)2009年センター試験国語(現代文・評論)・問題文・解説
(3)要約
(4)栗原彬氏の紹介
(5)当ブログにおける「センター試験国語」関連記事の紹介
(2)2009年センター試験国語(現代文・評論)・問題文・解説
(問題文本文)(概要です)
(【1】・【2】・【3】・・・・は当ブログで付記した段落番号です)
(赤字は当ブログによる「強調」です)
(青字は当ブログによる「注」です)
【問題】 次の文章を読んで、後の問いに答えよ。
【1】 私の住む東京都品川区の旗の台の近辺では子どもたちが普通の隠れん坊をすることはほとんどない。そのかわりに変型した隠れん坊はしばしばおこなわれている。商店街の裏手の入り組んだ路地や、整地中の小工場の跡地や、まだ人の入っていない建て売り住宅の周りや、周囲のビルに押しつぶされそうな小公園で、子どもたちの呼び方では「複数オニ」とか「陣オニ」といった隠れん坊の変り種が生き延びている。その変り種のなかでも、かんけり(→本文の「注」→「かんけり(缶蹴り)」は、隠れん坊の一種。オニが陣地に缶を一個立て、缶を守りながら相手を捕まえる遊び。オニに捕まらないように缶を蹴ると、捕まった仲間を逃がすことができる)は子どもたちに好まれている。
【2】「複数オニ」とは、その呼び名のとおり、見つかった者すべてが見つかった時点でオニに転じて、複数のオニが残りの隠れている子どもを探す隠れん坊である。
【3】 「陣オニ」の場合は、立木でも塀の一部でもよい、オニが決めた「陣」にオニより早くタッチすればオニになることから免れる。ただし、かんけりと違って、助かるのは陣にタッチした本人だけである。
【4】 子どもたちが集まって何かして遊ぼうとするときに、隠れん坊をしないで「複数オニ」や「陣オニ」をすることには見過ごし難い意味がありそうだ。隠れん坊は、a 藤田省三が「或る喪失の経験 隠れん坊の精神史」という論文(『精神史的考察』平凡社、1982年、所収)で述べたように、人生の旅を凝縮して型取りした身体ゲームである。オニはひとり荒野を彷徨し、隠れる側はどこかに「籠る」という対照的な構図はあるけれども、いずれも同じ社会から引き離される経験であり、オニは隠れていた者を見つけることによって仲間のいる社会に復帰し、隠れた者もオニに見つけてもらうことによって擬似的な死の世界から蘇生して社会に戻ることができる。隠れん坊が子どもの遊びの世界から消えることは、子どもたちが相互に役割を演じ遊ぶことによって自他を再生させつつ社会に復帰する演習の経験を失うということである。A たしかに「複数オニ」や「陣オニ」はおこなわれているけれども、それらはもはや普通の隠れん坊の退屈さを救うためにアクセントをつけた、といった程度のことではない。
ーーーーーーーー
【設問】
問2 傍線部A「たしかに『複数オニ』や『陣オニ』はおこなわれているけれども、それらはもはや普通の隠れん坊の退屈さを救うためにアクセントをつけた、といった程度のことではない」とあるが、それはどういうことか。その説明として最も適当なものを、次の中から一つ選べ。
①「複数オニ」や「陣オニ」は、子どもたちがいくつもの役割を相互に演じ遊ぶ点で、従来の隠れん坊の枠をこえた、人生の行程が凝縮して経験される苛酷な身体ゲームになってしまっているということ。
②「複数オニ」や「陣オニ」は、オニに捕まった者も助かる契機が与えられている点で、従来の隠れん坊にはなかった、擬似的な死の世界から蘇生する象徴的意味を内包してしまっているということ。
③「複数オニ」や「陣オニ」は、オニも隠れた者も仲間のもとに戻ることが想定されていない点で、従来の隠れん坊の本質であった、社会から離脱し復帰する要素を完全に欠いてしまっているということ。
④「複数オニ」や「陣オニ」は、子どもたちの自由を制限するさまざまなルールが付加されている点で、従来の隠れん坊とは異質な、管理社会のコスモロジーに主導された遊びに変質してしまっているということ。
⑤「複数オニ」や「陣オニ」は、隠れた者も途中でオニに転じることになっている点で、従来の隠れん坊の本義であった、相互の役割を守りつつ競い合う精神からは逸脱してしまっているということ。
……………………………
(解説・解答)
問2(傍線部説明問題)
傍線部Aを含む【4】段落の冒頭に「隠れん坊をしないで『複数オニ』や『陣オニ』をすることには見過ごし難い意味がありそうだ」とあり、それを受けて、傍線部Aの直前で、「隠れん坊が子どもの遊びの世界から消えることは、子どもたちが相互に役割を演じ遊ぶことによって自他を再生させつつ社会に復帰する演習の経験を失うということである。」という記述があります。
この記述を、傍線部Aで「たしかに『複数オニ』や『陣オニ』はおこなわれているけれども、それらはもはや普通の隠れん坊の退屈さを救うためにアクセントをつけた、といった程度のことではない」と、確認的に論を展開しているのです。
特に注目するべきは、「それらはもはや普通の隠れん坊の退屈さを救うためにアクセントをつけた、といった程度のことではない」の部分です。
つまり、「複数オニ」や「陣オニ」には、「重大な問題点」があるということです。
その「重大な問題点」とは、傍線部Aの直前の、「隠れん坊が子どもの遊びの世界から消えることは、子どもたちが相互に役割を演じ遊ぶことによって自他を再生させつつ社会に復帰する演習の経験を失う」ということです。
このことを指摘している③(→「複数オニ」や「陣オニ」は、オニも隠れた者も仲間のもとに戻ることが想定されていない点で、従来の隠れん坊の本質であった、社会から離脱し復帰する要素を完全に欠いてしまっているということ。)が正解になります。
① 「従来の枠を超えた」の部分が誤りです。
② 「陣オニ」には「助かる契機」が欠けています。
④ 「子どもたちの自由を制限するさまざまなルールが付加されている点」ということではありません。
⑤ 「陣オニ」の説明部分が誤りです。
(解答) ③
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(問題文本文)(概要です)
【5】b 小学六年生の男の子から聞いた話を翻案すれば、「複数オニ」の演習の主題は裏切りである。オニが目をつぶってかぞえている間に子どもたちはいっせいに逃げる。それぞれ隠れ場所を工夫しても、同じ方向に逃げれば、近くにいる者同士は互いにどの辺に隠れているかを知っている。そのとき一方が見つかれば即座にオニという名のスパイに変じて、寸秒前に仲間だった者の隠れ家をあばくことになる。近くに隠れた者との仲間意識は裏切り・裏切られる恒常的な不安によって脅かされている。連帯と裏切りとの相互変換が半所属の不安を産み出し、その不安を抑えこもうとして、裏切り者の残党狩りはいっそう苛酷なものになる。オニは聖なる媒介者であることをやめて秘密警察に転じ、隠れる側も一人ひとりが癒し難い離隔を深めつつ、仲間にスパイを抱えた逃亡者集団と化す。
【6】「陣オニ」について、さきほどの少年は「自分だけ助かればよい」ゲームだという。「陣オニ」の本質をいいつくした説明であろう。「陣」になる木や石は、元来、呪的な(→本文の「注」→呪術的な、に同じ。ここでは、超自然な力が宿っている、の意)意味をもち、集団を成り立たせる中心であった。だが、今日、子どもたちのおこなう「陣オニ」では、「陣」は社会秩序そのものであり、「陣」に触れることは、自分を守ってくれる秩序へのコミットメント(→本文の「注」→関与すること。参加すること)を競争場裡(きょうそうじょうり)で獲得すること、選良(→本文の「注」→ここでは、エリートのこと)の資格を手にすることである。社会秩序の中心と私的エゴイズムとを結びつけるための単独的な冒険ということが、「陣オニ」の演習の本義なのだ。
【7】 隠れん坊の系譜をはずれた身体ゲームのなかで子どもたちに好まれている遊びは「高(たか)オニ」である。「高オニ」は、土の盛り上がったところ、石段の上部、ブロック塀の上など、オニの立った平面よりもより高い位置に立つことによってオニになることを免れる遊びで、鬼ごっこの一種と考えられる。この遊びの演習課題は、人より高い位置に立つこと、より高みをめざすことがポイントである。
【8】「複数オニ」「陣オニ」「高オニ」のような戸外の遊びに飽きた子どもたちは、子ども部屋に閉じこもって「人生ゲーム」に興じる。「人生ゲーム」は、周知のように、金を操作することによって人生の階段を上昇することを争うゲームである。ルーレットをまわすたびに金が動く。人生の修羅場をくぐって他人を蹴落(けお)としながら、自動車を買い、会社に入り、結婚し、土地を買い、家を建て、株を売買する。こうして最終的に獲得した財産の多寡に応じて、その人の人生の到達度が量られる。成功の頂点は億万長者、ついで社長で、最底辺は浮浪者(→本文の「注」→ 一定の職業および住居をもたない人に対して慣習的に用いられていた言葉)である。その間に万年課長とか平社員とかレーサーといった地位・職業が位階づけられて配列されている。
【9】B 「複数オニ」「陣オニ」「高オニ」の行き着く先が「人生ゲーム」といえるのではないか。これらのすべての身体ゲームが共通のコスモロジー(→本文の「注」→ 世界観。宇宙観)をもっている。それは、私生活主義と競争民主主義に主導された市民社会の模型としてのコスモロジーであり、また、産業社会型の管理社会の透視図法を骨格にもつコスモロジーでもある。これらの身体ゲームを通して、子どもたちは現実の社会への適応訓練をおこない、おとなの人生の写し絵を身体に埋め込むのである。
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(設問)
問3 傍線部B「『複数オニ』『陣オニ』『高オニ』の行き着く先が『人生ゲーム』といえるのではないか」とあるが、それはどういうことか。その説明として最も適当なものを、次の中から一つ選べ。
①「複数オニ」「陣オニ」「高オニ」において他者からの不信感を払拭するすべを学ぶことが、金銭によって運営される市民社会を模した「人生ゲーム」へとつながっていくということ。
②「複数オニ」「陣オニ」「高オニ」において他者から疎外される寂しさに耐えることが、他人を蹴落とし孤独に対処することが求められる「人生ゲーム」へとつながっていくということ。
③「複数オニ」「陣オニ」「高オニ」において他者と競争してより優位に立つ経験をもつことが、社会的成功を利己的にめざすことを目的とした「人生ゲーム」へとつながっていくということ。
④「複数オニ」「陣オニ」「高オニ」において他者への不安と信頼の間での振る舞い方を身につけることが、より高い地位や職業を得ることをめざす「人生ゲーム」へとつながっていくということ。
⑤「複数オニ」「陣オニ」「高オニ」において他者とともに形成する社会秩序の不安定さを感じとることが、私生活主義を貫くことを必要とする「人生ゲーム」へとつながっていくということ。
……………………………
(解説・解答)
問3(傍線部説明問題)
傍線部Bの直後に「これらのすべての身体ゲームが共通のコスモロジーをもっている。それは、私生活主義と競争民主主義に主導された市民社会の模型としてのコスモロジー」という記述があります。
「私生活主義」・「競争民主主義」が、「人生ゲーム」の「コスモロジー」(→世界観。宇宙観)です。
この2つのキーワードを意識している選択肢は、③(→「利己的」・「競争」→「複数オニ」「陣オニ」「高オニ」において「他者と競争してより優位に立つ経験をもつこと」が、「社会的成功を利己的にめざすことを目的」とした「人生ゲーム」へとつながっていくということ。)のみです。
なお、
【5】段落第1文「『複数オニ』の演習の主題は裏切りである」、
【6】段落最終文の「社会秩序の中心と私的エゴイズムとを結びつけるための単独行的な冒険ということが、『陣オニ』の演習の本義なのだ」、
【7】段落最終文の「この遊び(→「高オニ」)の演習課題は、人より高い位置に立つこと、より高みをめざすことがポイントである」を踏まえておく必要があります。
いずれも、「利己的な発想」です。
① 「他者からの不信感を払拭するすべを学ぶこと」の部分が誤りです。
② 「他者から疎外される寂しさに耐えること」の部分が誤りです。
④ 「他者への不安と信頼の間での振る舞い方を身につけること」の部分が誤りです。
⑤ 「他者とともに形成する社会秩序の不安定さを感じとること」の部分が誤りです。
(解答)③
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(問題文本文)(概要です)
【10】もとより玩具産業が次から次へと繰り出して見せる新しいゲームの魅力に子どもたちは抗し難い。ひとり遊びに子どもを引き入れるゲーム・ウォッチ、列強に分かれて太平洋戦争を再演してみせるシミュレーション・ゲームに子どもたちの関心が移れば、「人生ゲーム」は「クラシック」なゲーム、「ダサイ」遊びになってしまう。だが、たび重なるモデル・チェンジにもかかわらず、幻想的に上演されるゲームは、限定された同じコスモロジーを浮かび上がらせる。子どもたちに目先の関心を変えさせ、次から次へと飽きさせることもまたこの商業主義のコスモロジーの特徴である。子どもたちは飽きることの中毒症にかかったようなものだ。しかし、とことんまで飽きたとき、ふと、C飽きることに飽きてしまう一瞬が子どもたちを訪れる。密室で、とにかく他人を打ち負かすありとあらゆるゲームに熱中していた子どもたちが、思い出したように外へ出てくることがある。そのときボールがあれば、三角ベース(→本文の「注」→少人数で行う、野球を模した遊び)やサッカーが始まることもあるだろう。何もなくからだだけあるとき、「陣オニ」や「高オニ」が思い出されるだろう。だが、飽きることの煉獄(れんごく)(→本文の「注」→ここでは、苦しみを受ける場所のたとえ)から戻ってくるとき、子どもたちは管理社会のコスモロジーそれ自体に飽きているのだ。「陣オニ」や「高オニ」に同構造のコスモロジーを感じ取れば、子どもたちのからだは急速に熱中度を失う。
【11】子どもたちのからだの慣性が、意図しないで管理社会のコスモロジーを引き寄せてしまう。累々たる管理社会のコスモロジーの山だ。だが、その間隙(かんげき)をぬうようにして、同じからだの慣性がもう一つのコスモロジーに出会う場合がある。もう一つのコスモロジーが憑きやすい遊びは、からだの集まりが相互性を帯びるときに思い出される。かんけりはそのような身体ゲームの一つである。
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(設問)
問4 傍線部C「飽きることに飽きてしまう一瞬が子どもたちを訪れる」とあるが、ここで子どもたちはどのような状態にあると筆者は考えているか。その説明として最も適当なものを、次の中から一つ選べ。
① たび重なるゲームのモデル・チェンジに関心を失った子どもたちは、ふと戸外での遊びを思い出すことによって、管理社会のコスモロジーとは異なるコスモロジーに参入することになる。
② 次々に売り出される室内ゲームに魅力を感じなくなった子どもたちは、管理社会のコスモロジーを他の遊びにも感じ取ったとき、別のコスモロジーに基づいた遊びに向かう可能性を手にすることになる。
③ 玩具産業が提供する室内ゲームにも戸外での遊びにも飽きてしまった子どもたちは、他人を打ち負かすことの繰り返しを自省しはじめ、あらたなコスモロジーを身体性のうちに見いだそうとしている。
④ 商業主義のコスモロジーに気づいた子どもたちは、同時に管理社会のコスモロジーからも離脱していることになるので、あらたなコスモロジーが内包された遊びを楽しめるようになっている。
⑤ 商業主義がもたらす遊びに関心をもてず管理社会のコスモロジーに飽きてしまった子どもたちは、別のコスモロジーに出会ったとしても、もはや遊びへの熱意を失ってしまっている。
……………………………
(解説・解答)
問4(傍線部説明問題)
C を含む段落の後(【11】段落)に、「子どもたちのからだの慣性が、意図しないで管理社会のコスモロジーを引き寄せてしまう。累々たる管理社会のコスモロジーの山だ。だが、その間隙をぬうようにして、同じからだの慣性がもう一つのコスモロジーに出会う場合がある。」とあります。
この部分は、「傍線部の一部説明」になっています。「設問の条件」は、「ここで子どもたちはどのような状態にあると筆者は考えているか」となっているので、解答するについては、確認的に、その経過を前段落(【10】段落)をも意識して検討するべきです。
傍線部の「飽きること」とは、傍線部直前の「子どもたちに目先の関心を変えさせ、次から次へと飽きさせることもまたこの商業主義のコスモロジーの特徴である。子どもたちは飽きることの中毒症にかかったようなものだ。」における「飽きることの中毒症」の部分を指しています。
つまり、「飽きることの煉獄」(傍線部の4文後ろ)を指しています。
以上によれば、傍線部は、同一段落(【10】段落)最終部分)、【11】段落で、言い換えられていることが分かります。
↓
【10】段落最終部分 「子どもたちは管理社会のコスモロジーそれ自体に飽きているのだ。『陣オニ』や『高オニ』に同構造のコスモロジーを感じ取れば、子どもたちのからだは急速に熱中度を失う。」、
【11】段落 「子どもたちのからだの慣性が、意図しないで管理社会のコスモロジーを引き寄せてしまう。累々たる管理社会のコスモロジーの山だ。だが、その間隙をぬうようにして、同じからだの慣性がもう一つのコスモロジーに出会う場合がある。」
以上の赤字部分のキーフレイズのある②が正解になります。
①・③・④・⑤には、このキーフレイズが欠けています。
さらに、②以外には、以下のような難点があります。
① 「モデル・チェンジに関心を失った」のではなく、「そういうゲームに関心を失った」のです。
③ 「自省」が誤りです。
④ 「同時に管理社会のコスモロジーからも離脱」まではしていません。
⑤ 本文にこのような記述はありません。
(解答)②
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(問題文本文)(概要です)
【12】かんけりはね、かんを思いっきりけっとばすときが気持ちいいんだよ、と小六の男の子はいう。輪の中心に置かれたあきかんに吸い寄せられるようにして、物陰から物陰へと忍び寄っていく。背を見せたオニとの距離を見切ったとき、もうからだは物陰からとび出している。オニが猛然と迫ってくる。オニのからだとほとんど交錯するようにしながら、一瞬早くあきかんの横腹を蹴る。あきかんが空中をゆっくり弧を描いてくるりくるりと舞うとき、時よとまれ、とでも叫んでしまいそうな快感が押し寄せ、同時に「私」という名の何ものかが音もなく抜け出していき、とても身軽になったからだだけが残される。もっとも、いつもそんなにうまく蹴れるわけではない。しばしばかんはさわがしい音をたてながら舗道を転がっていったり、二、三メートル先の芝生にぽとんと落ちてとまったりする。それでもかんを蹴った喜びには変りない。
【13】かんを蹴るとき、人は市民社会の「真の御柱」(→本文の「注」→ここでは、秩序の中心のたとえ) を蹴る身ぶりを上演している。輪が市民社会を示すとすれば、かんは秩序の中心であり、管理塔でもある。子どもたちはかんを蹴ることによって、家、学校、塾、地域、社会一般、そして自己内面の管理社会のコスモロジーに蹴りを入れているのだ。
【14】小六の少年はまたいう。かんけりは隠れているとき、とっても幸福なんだよ。なんだか温かい気持ちがする。いつまででも隠れていて、もう絶対に出て来たくなくなるんだ。管理塔からの監視の死角に隠れているとき、一人であっても、あるいは二、三人がいっしょであっても、羊水(→本文の「注」→母胎内で胎児を保護している液体のこと)に包まれたような安堵感が生まれる。いうまでもなくこの「籠り」は、管理社会化した市民社会からのアジール(避難所)創建の身ぶりなのだ。市民社会からの離脱と内閉において、かいこがまゆをつくるように、もう一つのコスモス(→本文の「注」→秩序と調和をもつ世界または宇宙)が姿を現してくる。それは、胎内空間にも似て、根源的な相互的共同性に充ちたコスモスである。おとなも子どもも、そこで、見失った自分の内なる〈子ども〉、〈無垢なる子ども〉に再会するのである。
【15】小六の男の子は最後にもう一つつけ加えていう。かんけりは「陣オニ」と違ってほかの人を救おうとするの。自分も救われたいけれど、つかまった仲間を助けなくちゃって、夢中になるのが楽しい。だけどオニは大変だな。オニは気の毒だから何回かかんを蹴られたら交替するんだ。実際、かんけりでは、隠れた者は誰もオニに見つかって市民社会に復帰したいとは考えない。運悪く捕われても、勇者が忽然と現れて自分を救出してくれることを願っている。D 隠れた者が囚われた友を奪い返して帰って来ようとするのは、つねにアジールの方、市民社会の制外的領域である。オニが「気の毒」であるのは、オニが最初から市民社会の住人であるかぎり、隠れた者を何人見つけても、そのことで自分が市民社会に復帰するドラマを経験しようがないからである。隠れる者は市民社会では囚われ人以外ではなく、したがって、オニは管理者であることをやめることはできない。
(栗原彬「かんけりの政治学」による)
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(設問)
問5 傍線部D「隠れた者が囚われた友を奪い返して帰って来ようとするのは、つねにアジールの方、市民社会の制外的領域である」とあるが、それはなぜか。その説明として最も適当なものを、次の中から一つ選べ。
① 隠れた者にとって、かんを蹴って友を助ける行為は仲間を哀れむ思いの高まりの結果であり、共同性を認めない社会から逃れることが、仲間を救う優しさをもち続けることを意味するから。
② 隠れた者にとって、かんを蹴って友を助ける行為はかんを蹴ることそのものに対する喜びに根ざしており、窮屈な市民社会から逃れることが、自己だけでなく他者をも再生できることを意味するから。
③ 隠れた者にとって、かんを蹴って友を助ける行為は心身が汚れていない自己の発見に起因しており、相互的共同性を強いる社会から逃れることが、多様な人生のあり方を見つめ直すことを意味するから。
④ 隠れた者にとって、かんを蹴って友を助ける行為は仲間との連帯感に基づくものであり、競争で相手を蹴落とす社会から逃れることが、安らぎのある共同性のなかに居続けることを意味するから。
⑤ 隠れた者にとって、かんを蹴って友を助ける行為は一人で生きる孤独への不安に由来するものであり、私生活主義を温存する社会から逃れることが、仲間とともにあり続けることを意味するから。
……………………………
(解説・解答)
問5(傍線部説明問題)
Dの「アジール (避難所)」(→キーワードです)と対応する、前段落の「安堵感」・「相互的共同性」の2つのキーワードーを含む④が正解です。
以下に、詳説します。
「複数オニ」等とは違う、「かんけり」の持つ本質的意味を問う設問です。傍線部Dを含む段落、その直前の段落に正答の根拠があります。赤字部分が根拠です。
↓
傍線部Dを含む段落(【最終段落】)
「かんけりは「陣オニ」と違ってほかの人を救おうとするの。自分も救われたいけれど、つかまった仲間を助けなくちゃって、夢中になるのが楽しい。」、
↓
傍線部Dを含む段落の一つ前の段落(【14】段落)
「小六の少年はまたいう。かんけりは隠れているとき、とっても幸福なんだよ。なんだか温かい気持ちがする。いつまででも隠れていて、もう絶対に出て来たくなくなるんだ。管理塔からの監視の死角に隠れているとき、一人であっても、あるいは二、三人がいっしょであっても、羊水(→本文の「注」→母胎内で胎児を保護している液体のこと)に包まれたような安堵感が生まれる。いうまでもなくこの「籠り」は、管理社会化した市民社会からのアジール(避難所)創建の身ぶりなのだ。市民社会からの離脱と内閉において、かいこがまゆをつくるように、もう一つのコスモス(→本文の「注」→秩序と調和をもつ世界または宇宙)が姿を現してくる。それは、胎内空間にも似て、根源的な相互的共同性に充ちたコスモスである。」
「管理社会」とは、社会の組織化、情報の高度化などによって、人間生活のあらゆる面にわたり管理されるようになった社会。人間的な連帯がなくなり、人間疎外が深刻化している現代文明社会を批判的に把握する概念、です。
つまり、「管理社会」とは、一言で言えば、「利己的社会」です。
この反対の状態にいる時が「安堵感」を感じるということです。
また、「相互的共同性に充ちた社会」を求めているということです。
① 「仲間を哀れむ」・「優しさをもち続ける」と表現は、少々抽象的です。
② 「かんを蹴って友を助ける行為はかんを蹴ることそのものに対する喜びに根ざしており」が、誤りです。
③ 「共同性を強いる社会」の部分が、本文の内容と正反対です。
⑤ 「かんを蹴って友を助ける行為は一人で生きる孤独への不安に由来する」という記述は、本文にありません。
(解答) ④
ーーーーーーーー
(設問)
問6 この文章の特徴に関する説明として適当なものを、次の中から二つ選べ。
① 傍線部a「藤田省三」の論は「隠れん坊」に関する研究であり、この文章では同種の研究がいかに数多くなされてきたかを示すために取り上げられている。
② 傍線部a「藤田省三」の論は筆者の論とは反対の立場からの考え方であり、この文章では筆者の論に対比される異論や反論の例として取り上げられている。
③ 傍線部bのように「小学六年生の男の子から聞いた話」を取り上げているのは、「隠れん坊」や「かんけり」などの本質や特徴を体験談として語らせることで、筆者の論に現実性をもたせるためである。
④ 傍線部bのように「小学六年生の男の子から聞いた話」を取り上げているのは、「複数オニ」をよく知っている子どもを登場させることで、大人と子どもの考え方の違いを浮き上がらせるためである。
⑤ この文章は、「隠れん坊」や「かんけり」などの子どもの遊びがもつ本質的な意味や性格を表す比喩(ひゆ)として、現代人にとっての「市民社会」や「管理社会」を取り上げている。
⑥ この文章は、「隠れん坊」や「かんけり」などの身近な題材・事実を取り上げることで、その背後にある現代人にとっての「市民社会」や「管理社会」がもつ意味や性格を説明しようとしている。
……………………………
(解説・解答)
問6(全体の構成を問う問題)
①・②、③・④、⑤・⑥、がセットになっていることに注目してください。
「全体の構成」を問う設問です。このような「全体を聞く問題」は、本文を熟読する前にチェックすると、効率的に処理することができます。
① 「いかに数多くなされてきたか」の部分が誤りです。
② 「反論」が誤りです。
③ 具体例は、「筆者の論に現実性をもたせるため」のものです。
④ 「大人と子どもの考え方の違いを浮き上がらせるため」の部分が誤りです。
⑤ 「比喩として」の部分が誤りです。本格的に論じています。
⑥ 適切です。
(解答) ③・⑥
(3)要約
隠れん坊は、人生の旅を凝縮して型どりした身体ゲームである。「複数オニ」・「陣オニ」・「高オニ」は、裏切り、単独行的な冒険、人より高い位置に立つことが演習の主題になる。子どもたちは、戸外の遊びに飽きると、「人生ゲーム」に向かう。これらの身体ゲームに共通しているのは、私生活主義・競争民主主義に主導された市民社会の模型としての、産業社会型の管理社会の透視図法を骨格にもつコスモロジーである。かんを蹴るとき、子どもたちは、管理社会のコスモロジーに蹴りを入れているような快感を感じる。管理塔からの死角に隠れている時に安堵感が生まれる「籠り」は、管理社会化した市民社会からのアジール創建の身ぶりである。これは、根源的な相互的共同性に満ちたコスモスの出現なのである。
(4)栗原彬氏の紹介
栗原 彬(くりはら あきら、1936年4月18日生まれ)は、日本の社会学者、立教大学名誉教授、立命館大学研究顧問。専門は政治社会学。
栃木県宇都宮市生まれ。東京大学教養学部卒業。三井物産勤務を経て、東京大学大学院社会学研究科で学ぶ。立教大学法学部助手、武蔵大学人文学部講師、立教大学法学部助教授・教授、2002年定年、名誉教授、明治大学文学部教授、2007年立命館大学特別招聘教授。水俣フォーラム代表および日本ボランティア学会代表。
【単著編集】
『やさしさのゆくえ 現代青年論』(筑摩書房、1981年)『歴史とアイデンティティ 近代日本の心理=歴史研究』(新曜社、1982年)
『管理社会と民衆理性 日常意識の政治社会学』(新曜社、1982年)
『政治の詩学 眼の手法』(新曜社、1983年)
『政治のフォークロア 多声体的叙法』(新曜社、1988年)
『やさしさの存在証明 若者と制度のインターフェイス』(新曜社、1989年)
『人生のドラマトゥルギー』(岩波書店、1994年)
『「やさしさ」の闘い 社会と自己をめぐる思索の旅路で』(新曜社、1996年)
『「存在の現れ」の政治 水俣病という思想』(以文社、2005年)
【編著編集】
『講座差別の社会学(全4巻)』(弘文堂、1996年 ~1997年)
『証言水俣病』(岩波新書 2000年)
『人間学』(編 世織書房 2015)
『ひとびとの精神史 第3巻 六〇年安保 1960年前後』(編 岩波書店 2015)
(5)当ブログにおける「センター試験国語」関連記事の紹介
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今回の記事は、これで終わりです。
次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。
ご期待ください。
私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。
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