予想問題・養老孟司・個性・自分さがし『ぼちぼち結論』『バカの壁』
(1)なぜ、この記事を書くのか?
養老氏は、入試現代文(国語)・小論文における著者別出題数で、ほぼ毎年、ベスト10に入っている頻出著者です。
高校現代文(国語)や小論文の教科書にも、養老孟司氏の論考は、かなり採用されています。
そこで、今回は、現代文(国語)・小論文対策として、養老氏の論考の中でも特に頻出で、入試現代文(国語)・小論文でも頻出論点の、「個性」の予想問題について解説します。
以下の記事では、次の各項目を説明します。
(2)養老孟司氏の論考の特徴
(3)予想問題・『ぼちぼち結論』養老孟司・2009東京女子大出題
(4)個性個性崇拝に関する養老孟司氏の見解
① 「個性信仰」は西洋文化に由来する(『無思想の発見』)
② 「自分さがし」批判→「自分」とは「創る」ものであって、「探す」ものではない(『無思想の発見』)
③ 「個性」とは「人を見る目」(『逆立ち日本論』)
④ 「個性」は外部的評価によるものである(『逆立ち日本論』)
⑤ 「オンリーワン」・「世界に一つだけの花」批判(『超バカの壁』)
⑥ 「個性」より大切なもの(『バカの壁』)
(5)当ブログの「個性」・「個性崇拝」関連の記事の紹介
(6)養老孟司氏の紹介
(7)当ブログの、養老孟司氏の論考に関連する記事の紹介
(2)養老孟司氏の論考の特徴
養老孟司氏の論考においては、「問題提起」と「その解答」が最初に提示されることが多いのです。
しかし、「その問題提起」と「その解答」の「関連性」が、一見わかりにくい時があります。少々、飛躍している感じがあります。
その場合に、混乱したり、停止したりしないで、すぐに、さらに読み進めることが大事です。
直後から、実に、わかりやすい説明が始まることが多いのが、養老孟司氏の論考の特徴です。
(3)予想問題・『ぼちぼち結論』養老孟司・2009東京女子大出題
(【1】【2】【3】・・・・は当ブログで付記した段落番号です)
「【1】若い頃にはよく注意されたものである。「ちゃんと現実を見なさい、現実を」と。その現実なるものがよくわからなかったから、現実とはどういうものか、いつも頭の隅で考えていた。大人になれば、あれこれ現実というものに触れるはずだ。そうなれば、少しは「現実がわかる」ようになるだろう、と。
【2】ところがいつまでたっても、その「現実」なるものがわからない。とうとう自分で勝手に定義することになった。現実とは「その人の行動に影響を与えるもの」である。それ以外にない。そう思ったら、長年の重荷が下りてしまった。
【3】だから現実は人によって違う。A 唯一客観的現実なんてものは、皮肉なことに、典型的な抽象である。だって、だれもそれを知らないからである。私が演壇の上で講演をしているとする。聴衆の目に映る私の姿は、すべて異なっている。なぜなら私を見る角度は、全員が異なっているからである。それならテレビカメラは、どの角度から私を捉えたら、「客観的」映像となるのか。二人の人が同一の視点から、同じものを見るなんてことは、それこそ「客観的に不可能」なのである。
【4】こんなことを言うと、すぐに屁理屈だといわれる。人それぞれ、見うる角度が違うからどうだというのだ。そんなことは些細な違いに過ぎないじゃないか。そういう些細なことに囚われるのが学者というもので、だから世間の役に立たないのだ。
ーーーーーーーー
(設問)
問1 傍線部Aにおいて「唯一客観的現実」が「抽象」だという理由を30字以内で説明せよ。
……………………………
(解説・解答)
問1(傍線部・理由説明問題)
「唯一客観的現実」が「客観的にみて存在不可能」、その根拠として「各人の見る角度は違う」の2点を指摘するようにしてください。
(解答)
各人の見る角度は違うので唯一客観的事実は存在不可能だから。(29字)
ーーーーーーーー
(問題文本文)
【5】それは果たして些細なことなのだろうか。それを些細なこととみなすことで、近代社会は「進歩発展」してきた。だから特定のカメラマンが特定の角度から、特定の時点で撮影した映像を、客観的映像などと強弁するのである。
【6】一人一人の世界が感覚的に異なるからこそ、個人や個性の意味が生じる。
【7】〔 ① 〕、個人なんかいらない。それを「些細な違い」と暗黙に決め付けるから、若者が人生の意味を見つけられないのである。これといってさしたる才能もない自分が生きる意味なんて、どこにあるというのか。世界中を見渡せば、自分の人生なんて六十億分の一に過ぎない。過去に生きた人まで含めたら、いったいどこまで些細になるだろうか。
【8】B そう思うから、今度は個性、個性と逆にいう。それを強調するほうの錯覚とは、個性が「自分のなかにある」という思い込みである。 C そもそも違いとは他人が感覚で捉えるもので、自分のなかにあるものではない。「お前は変なヤツだなあ」といわれて、「エッ、どこが」と怪訝な顔をしているのが個性であり、「私の個性はこれです」などと主張するものではない。近頃は入学や入社のときに、そんなことを書かせることもあるらしいが、話がそれではひっくり返っている。そんな会社や学校はどうせロクなところではなかろう。相手の個性を発見する目が貴重なのであって、個性自体が貴重なのではない。状況によって、社会が必要とする個性は違ってくるからである。
【9】〔 ② 〕「自分で意識している個性」なんてものがあったら、ぎこちない人生になるであろう。俺の個性はこうだから、こうしなくっちゃ。そんなことを思いかねない。冗談じゃない、素直にしていて、そこにおのずから人と違うところがある、それを個性というのである。
【10】素直に自分の気持ちに従わず、「こうしなくては」と思うのが世間では普通で、それは社会的役割というものがあるからである。天皇陛下はこうしなくてはならないということがたくさんあるはずで、それは社会的役割である。それを勝手に変えられたら周囲が困る。〔 ③ 〕「こうしなくては」と本人も思うので、それはホンネとは違って当然である。
【11】いまの大人は、D 社会的役割を個性つまり自分と混同していないか。社長は個性でも本人でもなく、社会的役割である。定年になればそれがわかるであろうが、現代の問題は、たとえ年配者でも「定年になるまで、それがわからない」ところにあると私は思っている。私は会社のソトの人間だから、社長も平も区別がつかない。そんなものは、私にとっては〔 ④ 〕に過ぎない。それを「〔 ⑤ 〕」だと思っているのは、そう思っているだけのことである。 」
(養老孟司『ぼちぼち結論』)
ーーーーーーーー
(設問)
問2 傍線部Bにおいて「逆に」とあるが、「何」と「何」が「逆」というのか。それぞれ10字以内で空欄を補う形で答えよ。
〔 〕と〔 〕
問3 傍線部Cと同趣旨の文をこの後の文中から40字以内で抜き出して、初めの5文字と終わりの5文字を記せ。
問4 空欄①・②・③に入る最適な言葉を次の中から、それぞれ一つずつ選べ。
ア そもそも イ それなら ウ それでなきゃあ
エ だから オ だが
問5 空欄④・⑤に入る最適な言葉を次の中から、それぞれ一つずつ選べ。
ア 現実 イ 理想 ウ 絶対 エ 具象 オ 抽象
問6 傍線部Dに指摘されるような「社会的役割と個性」の混同にあたる例を次の中から一つ選べ。
ア 共演した俳優同士が恋愛関係になる。
イ 運動部の監督は選手の私生活にまで目を配るべきだ。
ウ 猛烈上司が部下にも猛烈に働くことを求める。
エ 学校では規律にやかましい先生が家ではだらしない。
オ お笑い芸人はふだんから陽気でなければならない。
問7 本文の趣旨に合致するものを次の中から二つ選べ。
ア 学者は些細なことにこだわるあまり、現実というものが理解できない。
イ 個性などというものは些細な違いにすぎないのだから、そんなものにとらわれてはならない。
ウ 現代社会では個性的であることが不可欠であり、だからこそ些細な違いもおろそかにしてはならない。
エ ひとりひとりの個人にはそれぞれの個性があり、その個性の違いに応じてそれぞれの現実がある。
オ 社会的役割こそが現実ということなのであり、それを無視して個性にこだわっても仕方がない。
カ 現代人が個性と思っているものの多くは思い違いにすぎない。
……………………………
(解説・解答)
問2(空欄補充問題・記述問題)
「そう思う」ことと、「個性、個性という」ことが「逆」という文脈を把握することが、ポイントになります。
(解答)
些細な違いしかない(9字)
個性、個性という(8字)
問3(傍線部と同趣旨の文を抜き出す問題)
《 今度は個性、個性と逆にいう。それを強調するほうの錯覚とは、個性が「自分のなかにある」という思い込みである。 C そもそも違いとは他人が感覚で捉えるもので、自分のなかにあるものではない。「お前は変なヤツだなあ」といわれて、「エッ、どこが」と怪訝な顔をしているのが個性であり、「私の個性はこれです」などと主張するものではない。》という文脈を理解してください。
傍線部Cは、「個性の内容は他者評価により決定される」という内容になっています。
(解答) 相手の個性・のではない
問4(空欄補充問題)
要約しようとしないで、本文を熟読・精読してください
養老氏の表現の癖を意識して、文脈を押さえることもポイントになります。
(解答) ①=ウ ②=ア ③=エ
問5(空欄補充問題)
「いまの大人は、D 社会的役割を個性つまり自分と混同していないか。社長は個性でも本人でもなく、社会的役割である。定年になればそれがわかるであろうが、現代の問題は、たとえ年配者でも「定年になるまで、それがわからない」ところにあると私は思っている。私は会社のソトの人間だから、社長も平も区別がつかない。そんなものは、私にとっては〔 ④ 〕に過ぎない。それを「〔 ⑤ 〕」だと思っているのは、そう思っているだけのことである。 」の中の、
「私は会社のソトの人間だから、社長も平も区別がつかない。そんなものは、私にとっては〔 ④ 〕に過ぎない。」
のクールな、冷淡な表現に注目してください。
その上で、【3】段落における「現実」・「抽象」が全体のキーワードになっていることを、把握することが必要になります。
(解答) ④=オ ⑤=ア
問6(傍線部の具体例を選択する問題)
「いまの大人」が、特に「サラリーマン社会に生きる大人(つまり、現代日本社会のほとんどの大人)」が、「社会的役割と個性を混同」している具体例を選択するとよいでしょう。
(解答) オ
問7(趣旨合致問題)
ア 本文に、このような記述はありません。
イ 本文に、このような記述はありません。
ウ 「不可欠」の部分が、言い過ぎになっています
エ 本文の趣旨に合致しています。
オ この選択肢は問5に関連しています。筆者は「社会的役割」を「抽象」と評価しています。従って、この選択肢は誤りです。
カ 最後の2つの段落の内容に合致しています。
(解答) エ・カ
(4)「個性」・「個性崇拝」に関する養老孟司氏の見解
以下では、「個性」・「個性崇拝」に関する養老孟司氏の見解を紹介・解説します。
どれも入試頻出事項なので、よく読むようにしてください。
① 「個性信仰」は西洋文化に由来する(『無思想の発見』)
② 「自分さがし」批判→「自分」とは「創る」ものであって、「探す」ものではない(『無思想の発見』)
(概要です)
(赤字は当ブログによる強調です)
(→以下、同じです)
「日本語では、自分を表現する言葉が多く、さらに通常の一人称が場合によっては二人称に用いられることがある。日本語では一人称と二人称がしばしば行き来する。こんな言語はほかにあるか。
日本人は実体、あるいは本心への深い確信がある。それだから言葉などはどうでもいいのである。
俺もお前も一緒くたの世界に、ある日突然、実存的主体としての自己が侵入してきた。これを近代的自我という。日本語では、「私」は自分個人と、「公私の別」の私の両方の意味を含むので混乱がおきる。日本では過去においては、公私の私は self ではなく「家」であった。その証拠に、欧米と違って日本では相当小さな家にでもちゃんと塀があるではないか。家のそとに出れば公の世界であるが、家の中は private の世界なのである。新しい憲法は「家」を否定した。だから核家族ができた。核家族は自然にできたのではなく、憲法が作った。一方、西洋では個人が集まって家族を作る。日本と西洋では同じ家族でもベクトルが正反対なのである。憲法の一番の問題は第九条ではない。家にかんする部分である。
自分は身体を実存だと思う。それは30年解剖をやったためであろう。数学者は数学の世界を現実と思い、ある人はお金を、ある人は社会的地位を現実だと思う。それは脳の癖である。それぞれの脳がどういう現実に長く浸かってきたかである。
さて、そうであるならば、どのような人も自分という意識のもとで生まれてからずっと生きてきているわけである。意識というものが現実であり、実在であると思うのは当然である。
西洋社会はキリスト教社会であり、そこでは霊魂不滅なのであるから、「変わらない私」・「自己同一性」が当然の前提とされる。西欧の「近代的自我」とは「不滅の霊魂」
の近代的な言い換えである。
意識とは「同じ」ということである。自分が連続しているという感覚である。意識とは機能であって、実体ではない。であるとすれば、自我もまた機能であって、実体ではない。日本が封建的とかいろいろいって今までの世界を壊してきたために、何が失われたか?「自分という実体」に対する確信が失われたのである。
だから「自分探し」が始まる。それは「感覚世界」の不在つまり経験の不足とペアである。自分とは「創る」ものであって、「探す」ものではない。大切なことは具体的な世界を身をもって知ることである。
自分を創る作業の典型は「修行」である。叡山を走り回ったら、自分ができるのか。そんなことは知らない。しかし、伝統的にそうするのだから、できるのであろう。少なくとも、ふつうのお坊さんではなくなるはずである。それだけのことだが、人生とは「それだけのこと」に満ちている。私は三十年、解剖をやった。それだけのことである。そのあと十年、本を書いた。それだけのことである。」 (『無思想の発見』)
ーーーーーーーー
(当ブログによる解説)
養老氏の見解は、歴史的・宗教的背景を踏まえており、とても説得力があります。
このように緻密に歴史的・宗教的背景への配慮がなされているので、養老孟司氏の論考は入試頻出なのです。
論の構成は一般常識(マスコミレベル)には沿ってはいません。
が、入試の世界、つまり、論壇(インテリレベル)においては、日本人論・日本社会論として極めて正統的です。
マスコミレベルにおいては、一般大衆に迎合して、あるいは、一般大衆を幼児化しようとして、または、マスコミ自身の無知ゆえなのか、欧米にもない歪んだ形の「個性崇拝」・「個性礼賛」が氾濫しています。
そこで、養老氏は、そもそも「個性とは何か」と、「個性の本質」を考察しているのです。
③ 「個性」とは「人を見る目」
④ 「個性」は外部的評価によるものである
『逆立ち日本論』(養老孟司・内田樹・新潮選書 )も、参考になる一冊です。
この中で、現代日本社会における、「個性」の「奇妙な」取り扱いについて、養老孟司氏と内田樹氏が、注目するべき対談をしています。
《「個性」とは「人を見る目」》
「養老:「個性」というものは、その人に内在するものということになっていますけど、それは間違いですよ。古くから日本の世界ではそんなことを言っていません。それは「人を見る目」なんです。
内田:「人を見る目」が個性とは・・・・。どういうことですか?
養老:だって、自分の個性なんて主張したって意味がないのです。戦後、「個性」が主張され始めて何が起こったかというと、上役がサボり、教師がサボるようになりました。なぜなら上役や教師というのは、人を見る目がなくちゃできないことだったのです。それで「お前はあっち、お前はこっち」って示してやるのが本来の役目だったのです。それを「個性」という内在型にしたら自己責任だけになっちゃいました。
入学願書に「自分の個性」とか書かせるでしょう?
本来、「個性」というのは他人の目にどう映るかということのはずでしょう。個性なんて違って当たり前だからこそ、「お前はこういうふうに」「お前にはこれは向かない」と違いを見る目が大事なのに、それが「個性」ですべて崩れてしまった。人がどう見ようが「個性」はあるものだということになってしまいました。
「見る目」がないと「個性」なんてないも同じです。
他人のことがわからなくて、どうやって生きられるでしょう。
社会は共通性の上に成り立つものです。「個性を持て」というよりも「他人の気持ちをわかるようになれ」というほうがよいはずです。
内田:自己評価とか自己点検というのは外部評価との「ズレ」を発見するための装置だと思うんですよ。ほとんどの人は自己評価が外部評価よりも高い。「世間のやつらはオレの真価を知らない」と思うのは向上心を動機づけるから、自己評価と外部評価がそういうふうにずれていること自体は、ぜんぜん構わないんです。でも、その「ずれ」をどうやって補正して、二つを近づけるかという具体的な問題にリンクしなければ何の意味もない。自己評価が唯一の尺度で、外部評価には耳を傾けないというのはただのバカですよ。」(『逆立ち日本論』)
ーーーーーーーー
(当ブログによる解説)
この項目は、上記の予想問題の内容に関連しています。
特に、
「 本来、「個性」というのは他人の目にどう映るかということのはずでしょう。個性なんて違って当たり前だからこそ、「お前はこういうふうに」「お前にはこれは向かない」と違いを見る目が大事なのに、それが「個性」ですべて崩れてしまった。人がどう見ようが「個性」はあるものだということになってしまいました。
「見る目」がないと「個性」なんてないも同じです。」
の部分は熟読しておくべきです。
⑤ 「オンリーワン」・「世界に一つだけの花」批判
『超バカの壁』の中で、養老氏は、「ナンバーワンより、オンリーワン、世界に一つだけの花」に対して以下のような鋭い批判を展開していて、注目する必要があります。
「ナンバーワンより、オンリーワン、世界に一つだけの花だ、というような言い方が支持を得ているのは戦後教育の賜物でしょうか。
しかし、若い人には、この逆を言ってあげないと救われないと思います。あなたはただの人だというべきです。
ナンバーワンよりオンリーワンというような表現は、その部分だけとりあげれば間違いはありません。人間はみんなそれぞれに個性を持っている独特の人なのだということは、その通りです。しかし、どうも好きになれないのです。
そもそも「個性」というのはあるに決まっている。そこに自信があればいちいち口に出すこともない。わざわざオンリーワンだ何だと声高にいうというのは、その確信が弱いからこそだと思えるのです。他人に認めて欲しい。だからわざわざ主張をするのです。
本当に唯一の自分の価値があることがわかっていれば、別に人に認められていなくてもいい。場合によっては引きこもっていても構わないわけです。
ささいなことで、『それは自分らしくない』『それをやると自分ではない』というような人は逆に自分についての確信がないのです。どうもオンリーワンを主張している人は、実はこういう側の人のような気がするのです。
そういう人は外側に何か勝手に自分で壁を作っているのです。
それが自分だとか無理やり主張しているわけですから疲れる。それは長い間もたない。
もっと自由でもいいのではないか。そう思うのですが、なぜか人は仕切りたがるのです。」(『超バカの壁』)
⑥ 「個性」より大切なもの
養老氏は『バカの壁』の中で、「『個性』より大切なもの」について、見解を展開しています。
この論考は、かなり重要です。
入試現代文(国語)・小論文でも、最頻出の論点です。
以下に引用します。
「 本来意識というのは共通性を徹底的に追求するものなのです。その共通性を徹底的に確保するために、言語の論理と文化、伝統がある。人間の脳の特に意識的な部分というのは、個人間の差異を無視して、同じようにしよう、同じようにしようとする性質を持っている。
一方、このところとみに、”個性”とか”自己”とか”独創性”とかを重宝する物言いが増えてきた。文部科学省も、ことあるごとに”個性”的な教育とか、”子供の個性を尊重する”とか、”独創性豊かな子供を作る”とか言っています。
しかし、”共通了解”を追求することが文明の自然な流れだとすれば、個性強調は、おかしな話です。明らかに矛盾していると言ってよい。
多くの人にとって共通の了解事項を広げていく。これによって文明が発展してきたはずなのに、ところがもう片方では急に”個性”が大切だとか何とか言ってくるのは話がおかしい。
個性が大事だといいながら、実際には、よその人の顔色を窺ってばかり、というのが今の日本人のやっていることでしょう。だとすれば、そういう現状をまず認めるところから始めるべきでしょう。個性も独創性もクソも無い。
いまの若い人を見ていて、つくづく可哀想だなと思うのは、がんじがらめの”共通了解”を求められつつも、意味不明の”個性”を求められるという矛盾した境遇にあるというところです。
では、脳が徹底して共通性を追求していくものだとしたら、本来の”個性”というのはどこにあるか。それは、初めから私にも皆さんにもあるものなのです。なぜなら、私の皮膚を切り取ってあなたに植えたって絶対にくっつきません。・・・皮膚ひとつとってもこんな具合です。すなわち、”個性”何ていうのは初めから与えられているものであって、それ以上のものでもなければ、それ以下のものでもない。
若い人への教育現場において、おまえの個性を伸ばせなんて馬鹿なことは言わない方がいい。
それよりも親の気持ちが分かるか、友達の気持ちが分かるか、ホームレスの気持ちが分かるかというふうに話を持っていくほうが、余程まともな教育じゃないか。そこが今の教育は逆立ちしていると思っています」(『バカの壁』)
ーーーーーーーー
(当ブログによる解説)
もっともな見解です。
入試における頻出している正統的な意見と言えます。
この論考は、熟読しておくべきでしょう。
入試国語(現代文)・小論文だけではなく、これからの人生にも役立つはずです。
人間は「関係性」の中で生きているのです。
養老氏はこの点を丁寧に説明しているので、さらに、『バカの壁』から引用しておきます。
「 こういう状態、ー共生といってもいいし、一心同体とか運命共同体といっても構いませんーが、自然の本来の姿である。そう考えると、個性を持って、確固とした「自分」を確立して、独立して生きる、などといった考え方が、実はまったく現実味のないものだと考えられるのではないでしょうか。生物の本質から離れているのは明らかです。」(『バカの壁』)
この論考は、「『個性を持って生きる』は反自然的である」と主張しているのです。
この点は、
最近流行の「『関係性』の再評価・見直し」・「共同性」の論点
に密接に関連しています。
そこで、以下に、
当ブログにおける「関係性」・「共同性」関連の記事
を紹介します。
ぜひ、ご覧ください。
(5)当ブログの「個性」・「個性崇拝」関連の記事の紹介
(6)養老孟司氏の紹介
【1】養老孟司氏の紹介
1937年、鎌倉市生まれ。東京大学医学部卒業後、解剖学教室に入る。1995年、東京大学医学部教授を退官し、同大学名誉教授に。1989年、『からだの見方』でサントリー学芸賞を受賞。1985年以来一般書を執筆し始め、『形を読む』『解剖学教室へようこそ』『日本人の身体観』などで人体をわかりやすく解説し、『唯脳論』『人間科学』『バカの壁』『養老訓』といった多数の著作では、「身体の喪失」から来る社会の変化について思索を続けている。
【2】養老孟司氏の著書の紹介
『ヒトの見方-形態学の目から』(ちくま文庫)、
『からだの見方』(ちくま文庫)、
『唯脳論』 (ちくま学芸文庫)、
『涼しい脳味噌』(文春文庫)、
『カミとヒトの解剖学』(法藏館)、
『解剖学教室へようこそ』(ちくまプリマーブックス)、
『続・涼しい脳味噌』(文春文庫)、
『バカの壁』(新潮新書)、
『まともな人』(中公新書)、
『いちばん大事なこと― 養老教授の環境論』(集英社新書)、
『死の壁』(新潮新書)、
『無思想の発見』(ちくま新書)、
『超バカの壁』(新潮新書)、
『「自分」の壁』(新潮新書)、
『文系の壁 理系の対話で人間社会をとらえ直す』(PHP新書)、
などが、あります。
いずれも、入試頻出出典です。
(7)当ブログの、養老孟司氏の論考に関連する記事の紹介
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今回の記事は、これで終わりです。
次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。
ご期待ください。
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