坂口安吾『茶番に寄せて』/2017早大政経現代文(国語)解説
(1)なぜ、この記事を書くのか?
坂口安吾は入試国語(現代文)・小論文における頻出著者です。最近では、以下のような大学で出題されています。
「散る日本」ー佐賀大学、南山大学
「FARCEに就いて」ー上智大学、神戸女学院大学
「文学のふるさと」ー明治大学、早稲田大学文化構想、
「意慾的創作文章の形式と方法」ー京都大学
「美について」ー大阪大学(小論文)
「娯楽奉仕の心構え」ー島根大学
「傲慢な眼」ー大阪府立大学
今回、解説する2017 早稲田大学政経学部に出題された 『茶番に寄せて 』は、2010 早稲田大学早大(国際教養学部)にも同一の文章が箇所が出題されている頻出出典です。
なお、今回の記事の項目は、以下の通りです。
(2)2017早稲田大学・政経学部ー現代文(国語)解説/『茶番に寄せて』坂口安吾
(3)「FARCEに就て」の解説
(4)坂口安吾氏の紹介
(5)「無頼派」について
(2)2017早稲田大学・政経学部ー現代文(国語)解説/『茶番に寄せて』坂口安吾
【1】日本には傑(すぐ)れた道化芝居が殆(ほと)んど公演されたためしがない。文学の方でも、井伏鱒二という特異な名作家が存在はするが、一般に、批評家も作家も、編輯者も読者も厳粛で、笑うことを好まぬという風がある。
【2】僕はさきごろ『文体』編輯の北原武夫から、思いきった戯作を書いてみないかという提案を受けた。かねて僕は戯作を愛し、落語であれ漫才であれ、インチキ・レビュウの脚本であれ、頼まれれば、白昼も芸術として堂々通用のできるものを書いてみせると大言壮語していたことがあるものだから、紙面をさいてくれる気持になったのである。北原の意は有難いが、読者がそこまでついてきてくれるかどうかは疑わしい。けれども僕は、そのうち、思いきった戯作を書いて、読者に見参するつもりである。
【3】〔 ① 〕
【4】然(しか)し、諷刺は、笑いの豪華さに比べれば、極めて貧困なものである。諷刺する人の優越がある限り、諷刺の足場はいつも危く、その正体は貧困だ。諷刺は、諷刺される物と対等以上であり得ないが、それが〔 ② 〕という正当ならぬ方法を用い、すでに自ら不当に高く構えこんでいる点で、物言わぬ諷刺の対象がいつも勝を占めている。
【5】諷刺にも優越のない場合がある。諷刺者自身が同時に諷刺される者の側へ参加している場合がそうで、また、諷刺が虚無へ渡る橋にすぎない場合がそうだ。これらの場合は、諷刺の正体がすでに a 合理に属しているから、もはや諷刺と言えないだろう。諷刺は本来笑いの合理性を掟とし、そこを踏み外してはならないのである。即ち諷刺は対象への否定から出発する。これは道化の邪道である。むしろ贋物(にせもの)なのである。
【6】正しい道化は人間の存在自体が孕(はら)んでいる不合理や矛盾の肯定からはじまる。警視総監が泥棒であっても、それを否定し揶揄(やゆ)するのではなく、そのような不合理自体を、合理化しきれないゆえに、肯定し、丸呑みにし、笑いという豪華な魔術によって、有耶無耶(うやむや)のうちにそっくり昇天させようというのである。b 合理の世界が散々もてあました不合理を、もはや精根つきはてたので、突然不合理のまま丸呑みにして、笑いとばして了(しま)おうというわけである。
【7】だから道化の本来は〔 ③ 〕だ。そこまでは合理の法でどうにか捌(さば)きがついてきた。ここから先は、もう、どうにもならぬ。ーーという、ようやっと持ちこたえてきた合理精神の歯をくいしばった渋面が、笑いの国では、突然赤褌ひとつになって裸踊りをしているようなものである。それゆえ、笑いの高さ深さとは、笑いの直前まで、合理精神が不合理を合理化しようとしてどこまで努力してきたか、そうして、とうとう、どの点で兜(かぶと)を脱いで投げ出してしまったかという程度による。
【8】だから道化は戦い敗れた合理精神が、完全に c 合理を肯定したときである。即ち、合理精神の悪戦苦闘を経験したことのない超人と、合理精神の悪戦苦闘に疲れ乍(なが)らも決して休息を欲しない超人だけが、道化の笑いに鼻もひっかけずに済まされるのだ。道化はいつもその一歩手前のところまでは笑っていない。そこまでは d 合理の国で悪戦苦闘していたのである。突然ほうりだしたのだ。むしゃくしゃして、原料のまま、不合理を突きだしたのである。
【9】道化は昨日は笑っていない。そうして、明日は笑っていない。一秒さきも一秒あとも、もう笑っていないが、道化芝居のあいだだけは、笑いのほかには何物もない。涙もないし、揶揄もないし、凄味(すごみ)などというものもない。裏に物を企んでいる大それた魂胆は微塵(みじん)もないのだ。ひそかに裏を諷しているしみったれた精神もない。だから道化は純粋な休みの時間だ。昨日まで営々と貯め込んだ百万円を、突然バラまいてしまう時である。惜(おし)げもなく底をはたく時である。
【10】道化は浪費であるけれども、一秒さきまで営々と貯めこんできた努力のあとであることを忘れてはならない。甚だしく勤勉な貯金家が、エイとばかり矢庭(やにわ)に金庫を蹴とばして、札束をポケットというポケットへねじこみ、さて、血走った眼付をして街へ飛びだしたかと思うと、疾風のようにみんな使って、元も子もなくしてしまったのである。
【11】道化の国では、ビールよし、シャンパンよし、おしるこもよし、巴里の女でもアルジェリアの女でもなんでもいい。使い果してしまうまでは選り好みなしにO・Kだ。否定の精神がないのである。すべてがそっくり肯定されているばかり。泥棒も悪くないし、聖人も善くはない。学者は学問を知らず、裏長屋の熊さんも学者と同じ程度には物識りだ。即ち泥棒も牧師くらい善人なら、牧師も泥棒くらい悪人なのである。善玉悪玉の批判はない。人性の矛盾撞着(どうちゃく)がそっくりそのまま肯定されているばかり。どこまで行っても、ただ肯定があるばかり。
【12】道化の作者は誰に贔負(ひいき)も同情もしない。また誰を憎むということもない。ただ肯定する以外には何等の感傷もない木像なのである。憐れな孤児にも同情しないし、無実の罪人もいたわらない。ふられる奴にも助太刀しないし、貧乏な奴に一文もやらない。そうかと思うと、ふられた奴が恋仇の結婚式で祝辞をのべ、死んだ奴が花束の下から首を起こして突然棺桶をねぎりだす。別段死者や恋仇をいたわる精神があるわけじゃない。万事万端ただ森羅万象の肯定以外に何物もない。どのような不合理も矛盾もただ肯定の一手である。解決もなく、解釈もない。解決や解釈で間に合うなら、笑いの国のお世話にはならなかった筈なのである。
【13】フランスに『フィガロ』という『都新聞』のような新聞がある。「セビリアの理髪師」や「フィガロの結婚」のフィガロから来た名称らしく、なぜ私が笑うかって言うのですかい。笑わないと泣いちゃうからさ、というフィガロの科白(せりふ)が題字のところに刷りこんである。(多分そうだったと思いますよ)「セビリアの理髪師」や「フィガロの結婚」は却々(なかなか)の名作だが、4 ここに引用したような笑いの精神は、僕のとらないところである。世之助の武者振りや源内先生の戯作には、そういうケチな魂胆がない。
【14】一言にして僕の笑いの精神を表わすようなものを探せば、「浜松の音は、ざざんざあ」という太郎冠者がくすねた酒に酔っぱらい、おきまりに唄いだすはやしの文句でも引くことにしようか。「橋の下の菖蒲(しょうぶ)は誰が植えたしょうぶぞ。ぼろおんぼろおん」という山伏のおきまりの祈りの文句にでもしようか。それ自体が不合理だ。人を納得させもしないし、偉くもしない。ただゲタゲタと笑うがいいのだ。一秒さきと一秒あとに笑わなければいいのである。そのときは、笑ったことも忘れるがいい。そんなにいつまで笑いつづけていられるものじゃないことは分りきっているのである。
【15】道化文学は、作者にとっては、趣向がすべてであり、結果としては読者から、笑ってもらうことがすべてなのである。
(坂口安吾「茶番に寄せて」)
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(設問)(基礎的な語句問題等は省略しました)
問1 傍線部 a ~ d の合理の中に、本来は不合理と入るべきで、このままでは意味の通らない箇所が二箇所ある。次の中から二つ選べ。
イ a ロ b ハ c ニ d
問2 空欄①には、次の五つの文から構成される一段落が入る。五つの文を正しく並べ替えたとき、三番目に来る文はどれか。
イ そうして、喜劇には諷刺がなければならないという考えをもつ。
ロ ところが何事も合理化せずにいられぬ人々が存在して、笑いも亦合理的でなければならぬと考える。
ニ 無意味なものにゲラゲラ笑って愉しむことができないのである。
ハ 笑いは不合理を母胎にする。
ホ 笑いの豪華さも、その不合理とか無意味のうちにあるのであろう。
問3 空欄②に入る語句として最適なものを次の中から一つ選べ。
イ 諷刺 ロ 魔術 ハ 道化 ニ 揶揄 ホ 批判
問4 空欄③に入る語句として最適なものを次の中から一つ選べ。
イ 肯定と否定の相剋(そうこく)
ロ 合理精神の休息
ハ 人間存在の逆説
ニ 社会諷刺の隠れ蓑(みの)
ホ 予期せぬ笑いの魔術
問5 傍線部4に「ここに引用したような笑いの精神は、僕のとらないところである」とあるが、それはなぜか。その説明として最適なものを次の中から一つ選べ。
イ 笑いと涙は表裏一体のものであり、本来の笑いの精神からいえば、笑いのうちに涙を含んでいるものだから。
ロ 笑いは人類に普遍的な行為であり、フィガロの言葉だけではとても本来の笑いの精神をとらえることができないから。
ハ 笑いも涙も突発的なもので、なぜ突然泣いたりの笑ったリすることのか本人にも理由がわからないのが本来の笑いの精神だから。
ニ 笑いのなかにしか人生の真実はなく、本来の笑いの精神からいえば涙など一滴も入り込む余地は考えられないから。
ホ 笑いはただおかしいから笑うばかりで、その理由を解釈すること自体が本来の笑いの精神からはずれているから。
問6 問題文の内容と合致するものとして最適なものを次の中から一つ選べ。
イ 笑いは不合理の産物だが、その笑いが傑れた道化芝居になるためには合理的な解釈と気のきいた諷刺が必要で、日本には「セビリアの理髪師」や「フィガロの結婚」のような諷刺劇の伝統がないために、傑れた道化芝居が上演されることが少ない。
ロ 道化というのは、人生の戦いに敗れた合理精神が何もかも投げ出してしまう瞬間に生れる一瞬の哄笑こそが命で、その瞬間が到達するまでは一切の笑いを禁じられ、修行僧のような難行苦行に悪戦苦闘する不合理な経験を強いられている。
ハ 諷刺が笑いに比べて貧困なのは、本来対象とは対等でまたあるに敗れるかかわらず、自らを高く構えて対象に優越しようとするからで、この世のあらゆるものを肯定し、不合理を不合理としてまるごと享受する笑いの豪華さにはとても及ばない。
ニ 笑いに、否定の精神がないというのは、すべてをそのまま受け入れるということを意味しているが、そのことを通して憐れな孤児や無実の罪人の存在を世に知らしめ、感傷的にならずに社会的弱者を救済し手をさしのべる契機をもたらしている。
ホ 道化の国では、あらゆるものの価値が転倒し善悪正邪が入れ代わることで笑いが発生するが、それは道化芝居のなかだけに起こる出来事であって、現実にはありえないからこそ純粋に笑ってその不合理な行為を肯定することができるのである。
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(解説・解答)
まず、「茶番(ちゃばん)」の意味を確認します。
「茶番」とは、「①滑稽(こっけい)な即興寸劇。②底の見えすいた下手な芝居。ばかげた振る舞い」という意味です。
次に、この論考のキーセンテンスの解説をします。
「正しい道化は人間の存在自体が孕(はら)んでいる不合理や矛盾の肯定からはじまる」(【6】第1文)
この一文は、この論考のキーセンテンスです。この一文は、素晴らしい思想を含んでいるようです。単純に表現するすれば、全肯定的ヒューマニズム、笑劇的ヒューマニズム、日本人には珍しいラテン風楽天主義、笑い飛ばせ主義となります。
現代日本の閉塞的状況においてこそ、坂口安吾氏の論考は、先鋭的な近代批判、現代文明批判として、さらに、再評価されるべきです。
鬱々していても仕方がない。
日々、顔を歪めて生きていても、何の解決にはならないのです。
どのようにしても、解決策がないのであれば、悩みは笑い飛ばしてしまえば、よいのです。悩みは時間が解決してくれるでしょう。時間が解決してくれない悩みは、ありません。例えば、あなたが消えてしまえば、悩みも消えてなくなります。人生は有限で、悩みも有限です。無限と思い込むから、顔を歪めてしまうのです。ここは、ラテン的楽天主義、全肯定的ヒューマニズム、笑劇的ヒューマニズムで生きて、人生を楽しむべきでしょう。
問1(誤記指摘問題→「キーワード」の誤記を指摘する問題)
→このような問題が頻出なので、設問文を本文より先に読むべきなのです。今回は、本文を熟読・精読する前に、この設問を読まないと、大混乱→空中分解→終わり、という流れになります。
しかも、今回は「合理」・「不合理」というキーワードが問題となっているので、設問を先に読まないことのハンデは、極大になります。
この設問の解法としては、特に、【6】段落第1文の「正しい道化は人間の存在自体が孕(はら)んでいる不合理や矛盾の肯定からはじまる」がキーセンテンスになっていることに注意してください。
その上で、「合理」と「不合理」の対比を意識して、a~dそれぞれの正当性を確認してください。
(解答) イ・ハ
問2(文章並べ替え問題)
【文章並べ替え問題について】
最近は、早稲田大学、マーチレベル大学、関関同立などの難関大学で、「文章並べ替え問題」が流行になっています。国語(現代文)だけではなく、小論文でも出題されることもあります。
今まで出題歴のない大学や学部で、突然、出題されることも、よくあります。
従って、しっかりと対策をしておくべきです。
この問題が出来ないと、全体の文脈の把握が困難になります。配点以上のダメージを受けることになります、
しかも、本番では、本文全体のキーの部分が、文章並べ替え問題として使われることが多いので、「文章並べ替え問題」を得意分野にしておくべきです。
「文章並べ替え問題」が不得意な受験生は、「文章並べ替え問題」のみを、集中的にやるようにしてください。
短期間に「文章並べ替え問題」を集中的にやることで、解法のポイント・コツを会得することが、可能になるのです。
しかも、その際には、志望校レベルの過去問のみを、やるようにした方が賢明です。
良質な問題を演習しなければ、実力はつきません。
「文章並べ替え問題」は、論理力や推理力のアップに有用です。
しかも、先程述べましたように、志望大学で今まで「文章並べ替え問題」が出題されていないとしても、いつ出題されるか分からないので、油断なく準備しておくべきでしょう。
【「文章並べ替え問題」の解法・ポイント】
① 第一に、「並べ替えるべき文章」(選択肢の文章)の全体、空欄の直前・直後の文脈にざっと目を通して、大まかな内容(文脈)を把握する。
② その後は、まずは、「並べ替えるべき文章」(選択肢の文章)に集中する。
初めに、「並べ替えるべき文章」(選択肢の文章)の各文の中心テーマを把握。その際に、各文の接続語、指示語、文末等をチェックする。
③ その上で、文章のペアを作っていく。 その際には、わかるものからペアを作っていく。
つまり、どれが「全体の最初の文章」として適切か、については、あまり気にしないようにする。
→全部の順序を一度に確定しようとはしないことです。せっかちは禁物です。イライラしないように! 冷静第一です。地道第一です。
最初は、「ペアを作ること」に専念するべきです。
④ ペアを2~3組程度作った後で、「どのペアが最初に来るか、最後に来るか」、を考える。
その際には、「空欄(並べ替え問題の空欄)の直前・直後」と「並べ替えた文」との接続関係を精密にチェックする。
今回の設問の解法としては、「笑い」と「諷刺」の対比に注目する必要があります。
そして、直前段落と直後段落の接続に着目して、最初と最後を、まず決めてから並べていくと、効率的に解くことができます。
ハ→ホ→ロ→ニ→イの順になります。
(解答) ロ
問3(空欄補充問題)
【空欄補充問題のポイント】
「空欄補充問題」は、空欄の直前・直後にヒントがあることが非常に多いのです。
空欄補充問題を解く際には、本文の精読・熟読に基づく精密な分析が不可欠です。
要約を離れ、本文に集中しながら(本文をじっと見ながら)、考察するようにしてください。段落の要約をメモしながらする作戦は、取らない方が賢明です。
今回の問題については、直後の「正当ならぬ方法を用い、すでに自ら不当に高く構えこんでいる点」に着目してください。
(解答) ニ
問4(空欄補充問題)
「道化」の「本来」的性格を、直後の段落から読み取ってください。
具体的には、
【8】段落「合理精神の悪戦苦闘に疲れ乍(なが)らも決して休息を欲しない超人だけが、道化の笑いに鼻もひっかけずに済まされるのだ」、
【9】段落「道化は純粋な休みの時間だ」、
がポイントになります。
(解答) ロ
問5(傍線部説明問題・理由説明問題)
傍線部の「ここに引用したような笑いの精神」は、直前の「なぜ私が笑うかって言うのですかい。笑わないと泣いちゃうからさ」を、さしています。
このような「笑いの精神」は、
【12】段落「道化の作者は誰に贔負(ひいき)も同情もしない。また誰を憎むということもない。ただ肯定する以外には何等の感傷もない木像なのである」、
「どのような不合理も矛盾もただ肯定の一手である。解決もなく、解釈もない。解決や解釈で間に合うなら、笑いの国のお世話にはならなかった筈なのである」、
に反しています。
(解答) ホ
問6(趣旨合致問題)
【趣旨合致問題のポイント】
問題文本文を読む前に、設問を見ることが大切です。
設問のポイントのみ、チェックできれば、それでよいのです。
割り切ることが必要です。
本問の解法としては、「諷刺」と違い、「道化」の「笑い」が「全存在を、そのままで肯定するもの」という筆者がポイントになります。
イ 「その笑いが傑れた道化芝居になるためには合理的な解釈と気のきいた諷刺が必要」の部分が、「諷刺」をプラス評価している点で、【4】段落の趣旨に反しているので、誤りです。
ロ 「修行僧のような難行苦行に悪戦苦闘する不合理な経験を強いられている」の部分は、本文に、このような記述がないので、誤りです。
ハ 【4】・【12】段落の趣旨に合致しています。
ニ 「社会的弱者を救済し手をさしのべる契機をもたらしている」の部分は、本文に、このような記述がないので、誤りです。
ホ 「現実にはありえないからこそ純粋に笑ってその不合理な行為を肯定することができるのである」の部分は、本文に、このような記述がないので、誤りです。
(解答) ハ
(3)「FARCEに就て」の解説
坂口安吾は「FARCEに就て」 (→この論考も入試頻出出典です) においても「茶番に寄せて」と同趣旨のことを述べているので、以下に引用します。
「ファルス (→「FARCE」とは「笑劇。道化芝居」という意味)とは、人間のすべてを、全的に、一つ残さず肯定しようとするものである。およそ人間の現実に関する限りは、空想であれ、夢であれ、死であれ、怒りであれ、矛盾であれ、トンチンカンであれ、ムニャムニャであれ、何から何まで肯定しようとするものである。ファルスとは、否定をも肯定し、肯定をも肯定し、さらにまた肯定し、結局人間に関する限りのすべてを永遠に永劫に永久に肯定肯定肯定して止むまいとするものである。諦めを肯定し、溜息を肯定し、何言ってやんでいを肯定し、と言ったようなもんだよを肯定し──つまり、全的に人間存在を肯定しようとすることは、結局、途方もない混沌を、途方もない矛盾の玉を、グイとばかりに呑みほすことになるのだが、しかし決して矛盾を解決することにはならない、人間ありのままの混沌を永遠に肯定しつづけて止まないところの根気のほどを、呆れ果てたる根気のほどを、白熱し、一人熱狂して持ちつづけるだけのことである。哀れ、その姿は、ラ・マンチャのドン・キホーテ先生のごとく、頭から足の先までRidicule(→「あざけり,嘲笑」という意味)に終ってしまうとは言うものの、それはファルスの罪ではなく人間様の罪であろう、と、ファルスは決して責任を持たない。」
以上のうちで、注目するべき論考は、以下の部分です。
「人間のすべてを、全的に、トンチンカンであれ、ムニャムニャであれ、何から何まで肯定しようとするものである」
「人間ありのままの混沌を永遠に肯定しつづけて止まないところの根気のほどを、呆れ果てたる根気のほどを、白熱し、一人熱狂して持ちつづけるだけのことである」
安吾の論理は一見暴論ですが、一種の「悟りへの道」を拓くものにも見えます。
その過激性は、究極の過激を意識しつつ、露悪的であることを装いながら、品格を保ち、迷いのある人々を労るものですあると、私には思われるのです。
破天荒な言葉・論理の渦巻きに巻き込まれる感じはしますが、逆に鼓舞され、勇気付けられるような、奇妙な「ぬくみ」が、そこには存在するのです。表面的な陳腐な、いかにも大衆受けするような優しい言葉を超えた、人間味のある温かさを感じてしまうのです。繰り返される全的な肯定が、その理由でしょう。
安吾は、戯作者・エンターティナーであり、また、人間性を信頼する哲学者である、と私は感じます。理性中心主義が、人間の行動を抑制し過ぎているのではないか、と分かりやすいほどの過激な表現で訴えているのです。
人間が矛盾的存在であることを認めながら、矛盾(=「人間ありのままの混沌」)こそが人間の精神の真実である、と述べているのです。
これこそ、天衣無縫的な稚気による、日本独特の理性の破壊、純文学的理性の破壊でしょう。
この稚気は、頭の固くなった現代の日本人には、理解不能なレベルに突き抜けているようです。言ってみれば、ラテン風とも言えるような、かつ、仏教的悟りの境地なのかもしれません。
小林一茶のような、坂口安吾の無条件な全肯定主義は、閉塞感が社会全体を覆っている、現代日本には、かなり有用な妙薬ではないでしょうか。
苦味のある濃厚な含む笑いが、その当時の現状の打破には必要と考えていたのかもしれません。
坂口安吾は、理性への懐疑、知性への懐疑を前提として、笑いつつ、毒を味わいつつ、悟りに到達しようとする道のあることを確信しているのでしょう。
つまり、安吾は、人々に各自の生命力自体の活力を、再認識させようとしているのかもしれません。現代の理性重視、知性重視という近代原理が、いかに人々の発想や行動を拘束し、生命力を低下させているかを考えさせようとしているのでしょう。
理性批判、知性批判は、感性の復活、心身二元論批判に通じるものがあります。それゆえに、坂口安吾の論考は、入試頻出出典になっているのです。
坂口安吾は笑いの共感を得やすいように、分かりやすく、過激性の効果を承知して語っているのでしょう。その主張の根源には真の自由の追求があると思われます。
(4)坂口安吾氏の紹介
坂口 安吾(さかぐち あんご、1906年(明治39年)10月20日 ~ 1955年(昭和30年)2月17日)は、日本の小説家、評論家、随筆家。本名は坂口 炳五(さかぐち へいご)。
戦前・戦後にかけての近代日本文学の代表的作家の一人。新潟県出身。東洋大学印度哲学倫理学科卒業。アテネ・フランセでフランス語習得。1926(大正15)年、求道を目指し、東洋大学印度哲学科に入学したが、悟りを得ることはなかった。
1930(昭和5)年、友人らと創刊した同人雑誌『言葉』に発表した「風博士」を牧野信一に絶賛されたことにより、作家活動を開始する。1946(昭和21)年、戦後の本質を鋭く洞察した『堕落論』、『白痴』の発表により、一躍人気作家として脚光を浴びる。
純文学のみならず、歴史小説、推理小説、探偵小説も執筆し、文芸論や時代風俗から古代歴史まで広範囲に及ぶ随筆・エッセイなど、多彩な執筆活動をした。
小説の代表作は「紫大納言」「真珠」「白痴」「桜の森の満開の下」「夜長姫と耳男」など
エッセイの代表作は「FARCEに就て」「文学のふるさと」「日本文化私観」「堕落論」「教祖の文学」など。
(5)「無頼派」について
無頼派(ぶらいは)は、第二次世界大戦後、既存の文学への批判的姿勢を鮮明にした日本の作家達に冠された名称です。「新戯作派(しんげさくは)」と同義ですが、現在はこの呼称の方が有名です。
無頼派と同義の「新戯作派」という言葉は、坂口安吾の戯作に関する論考が、きっかけになっています。『戯作者文学論』、『大阪の反逆 ー織田作之助の死 』などで、坂口は、文学における戯作性の再評価を主張しました。つまり、洒落・滑稽を重視した江戸時代後期の「戯作精神」を復活を唱えたのです。
この「戯作精神の復活」の思想は、坂口の論考『FARCEに就て』、『お伽草紙』『如是我聞』『晩年』『グッド・バイ』の太宰治の諸作品における道化精神などに見られます。そこには、日本文学の私小説的リアリズムへの痛烈な批判的精神があります。
「無頼派作家」には、坂口安吾、太宰治、織田作之助、田中英光、檀一雄などが含まれます。
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今回の記事は、これで終わりです。
次回の記事は、約1週間後の予定です。
ご期待ください。
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