現代文最新傾向LABO 斎藤隆

入試現代文の最新傾向を分析し、次年度の傾向を予測する大胆企画

『生物と無生物のあいだ』福岡伸一・頻出出典・科学論・生命とは何か?

 「科学論」・「科学批判」は、東日本大震災以降、増加し、現在に続いています。 

 今回の記事は以下の構成になっています。

(1)なぜ、この記事を書くのか?

(2)『生物と無生物のあいだ』(福岡伸一)ー2008早稲田大学・国際教養学部の問題・解答・解説

(3)「動的平衡」の概略的解説

(4)「生命とは何か?」ー「エントロピー増大の法則」と「動的平衡」の関係

(5)福岡伸一氏の紹介

 

 

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 

 「科学論・科学批判」は、東日本大震災以後、激増し、現在に続いています。

 その背景は、以下の通りです。

 

 難関大学・センター試験の入試現代文(国語)・小論文に出題される「科学批判」・「科学論」の論点・テーマは、3・11東日本大震災・福島原発事故以降、より先鋭化し、明らかに出題率も増加しています。

 3・11以前も、環境汚染・地球温暖化・チェルノブイリ原発事故等により、「科学批判」・「科学論」の論点・テーマは、一定の多くの出題がみられました。
 しかし、3・11以降は、「近代科学」に対する批判は明白に先鋭化し、「科学批判」・「科学論」の論点・テーマは出題率が増加しています。

 これは、考えてみれば、当然のことです。

 福島原発事故の際の、原子力村の学者達、地震学者達の無責任な「想定外」の連呼。

 崩壊した「安全神話」。

 今だに完全には収束していない福島原発の処理。

 これらをみれば、「科学」に対する厳しい批判的論考は、増えこそすれ、減ることはないでしょう。

 

 しかも、現代文明においては、地球温暖化・核廃棄物等の問題を見ても分かるように、我々人類の生存・存立に多大な影響を及ぼすような理科系の論点・テーマが発生しています。

 現代文明は、「文明と科学」が密接な関係にあるのです。

 

 「文明と科学」の問題は、文科系、理科系の壁を越えて、今や、人類全体にとって、緊急な重大な問題になっているのです。

 大学における現代文(国語)・国語入試問題作成者の「問題意識」も同じでしょう。

 たとえ、問題作成者の「問題意識」がそうでないとしても、入試現代文(国語)・小論文の世界は、「出典」の関係で論壇・言論界・出版界の影響を受けるのです。


 以上の理由により、最近の入試現代文(国語)・小論文においても、「科学論・科学批判」は、最も注目するべき論点・テーマです

  従って、現代文(国語)・小論文対策として、今回は、入試頻出出典として、『生物と無生物のあいだ』を、早稲田大学国際教養学部の過去問を元に解説します。

 

 

(2)『生物と無生物のあいだ』(福岡伸一)ー2008早稲田大学・国際教養学部の問題・解答・解説

 

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)

 

 

 

 

 

 

 

(本文)(概要です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です)

(【1】【2】【3】・・・・は、当ブログで付加しすた段落番号です)

【1】生命とは何か? それは自己複製を行うシステムである。20世紀の生命科学が到達したひとつの答えがこれだった。1953年、科学専門誌『ネイチヤー』にわずか千語(1ページあまり)の論文が掲載された。そこには、DNAが、互いに逆方向に結びついた2本のリボンからなっているとのモデルが提出されていた。生命の神秘は二重ラセンをとっている。多くの人々が、この天啓を目の当たりにしたと同時にその正当性を信じた理由は、構造のゆるぎない美しさにあった。〔 A 〕さらに重要なことは、構造がその機能をも明示していたことだった。論文の若き共同執筆者ジェームズ・ワトソンとフランシス・クリックは最後にさりげなく述べていた。この対(つい)構造が〔 1 〕ことに私たちは気がついていないわけではない、と。


【2】DNAの二重ラセンは、互いに他を写した対構造をしている。そして二重ラセンが解けるとちょうどポジとネガの関係となる。ボジを元に新しいネガが作られ、元のネガから新しいポジが作られると、そこには二組の新しいDNA二重ラセンが誕生する。ポジあるいはネガとしてラセン状のフィルムに書き込まれている暗号、これがとりもなおさず遺伝子情報である。これが生命の "自己複製" システムであり、新たな生命が誕生するとき、あるいは細胞が分裂するとき、情報が伝達される仕組みの根幹をなしている。

 

【3】分子生物学的な生命観に立つと、生命体とはミクロなパーツからなる精巧なプラモデル、〔 B 〕分子機械に過ぎないといえる。デカルトが考えた機械的生命観の究極的な姿である。生命体が分子機械〔 C 〕、それを巧みに操作することによって生命体を作り変え、"改良" することも可能だろう。たとえ、すぐにそこまでの応用に到達できなくとも、たとえば分子機械の部品をひとつだけ働かないようにして、そのとき生命体にどのような異常が起きるかを観察すれば、部品の役割をいい当てることができるだろう。つまり、生命の仕組みを分子のレベルで解析することができるはずである。このような考え方に立って、遺伝子改変動物が作成されることになった。"ノックアウト" マウスである。」

 

…………………………… 

 

(問題) 

問1空欄A~Cに入る最も適当な語を、それぞれ次のア~オの中から選べ。

A  ア もちろん  イ もっとも

   ウ とりわけ  エ なかでも

      オ しかし

B  ア あるいは  イ すなわち  

      ウ もしくは  エ いわゆる

      オ いわんや

C  ア を使えるならば

      イ のはずならば

      ウ でないならば  

      エ に似ているならば

      オ であるならば

 

問2  空欄1に入る最も適当なものを次の中から選べ。

ア  直ちに自己複製機構を示唆する

イ  いずれ生命の神秘を明らかにする

ウ  DNA二重ラセンの根本機能を担う

エ  生命の設計図としての機能を持つ

 

……………………………

 

(解説・解答)

→今回のように、空欄補充問題が多い時は、本文の要約はアバウトで良いのです。厳密にやる事は無理ですし、時間のムダです。

 また、すぐに、選択肢を見て、正解を検討するようにしてください。記述式のように解く、つまり、「自分で解答を書いてから選択肢を見る」という方法もあるようですが、無限の可能性にチャレンジすることになります。

 

 問1 (空欄補充問題)

Cは、直後の二つの文の「文末」に注目してください。

(解答)  A→オ  B→イ  C→オ

 

問2(空欄補充問題)

 まず、空欄の直前の二つの文、つまり、「さらに重要なことは、構造がその機能をも明示していたことだった。論文の若き共同執筆者ジェームズ・ワトソンとフランシス・クリックは最後にさりげなく述べていた」に注目するとよいでしょう。

 次に、第【2】段落の最終文の生命の「 "自己複製" システム」に着目してください。

 アが正解になります。

 

ーーーーーーーー

 

(本文)(概要です)
【4】私は膵臓(すいぞう)のある部品に興味を持っていた。膵臓は消化酵素を作ったり、インシュリンを分泌して血糖値をコントロールしたりする重要な臓器である。この部品はおそらくその存在場所や存在量から考えて、重要な細胞プロセスに関わっているに違いない。そこで、私は遺伝子操作技術を駆使して、この部品の情報だけをDNAから切り取って、この部品が欠損したマウスを作った。ひとつの部品情報が叩き壊されている(ノックアウト)マウスである。このマウスを育ててどのような変化が起こっているのかを調べれば、部品の役割が判明する。マウスは消化酵素がうまく作れなくなって、栄養失調になるかもしれない。あるいはインシュリン分泌に異常が起こつて糖尿病を発症するかもしれない。
【5】長い時間とたくさんの研究資金を投入して、私たちはこのようなマウスの受精卵を作り出した。それを仮母の子宮に入れて子供が誕生するのを待った。母マウスは無事に出産した。赤ちやんマウスはこのあと一体どのような変化を来たすであろうか、A  私たちは固唾(かたず)を呑んで観察を続けた。子マウスはすくすくと成長した。そしておとなのマウスになった。なにごとも起こらなかった。栄養失調にも糖尿病にもなっていない。血液が調べられ、顕徴鏡写真がとられ、ありとあらゆる精密検査が行われた。どこにもとりたてて異常も変化もない。私たちは困惑した。一体これはどういうことなのか。

【6】実は、私たちと同じような期待をこめて全世界で、さまざまな部品のノックアウトマウス作成が試みられ、そして私たちと同じような困惑あるいは落胆に見舞われるケースは少なくない。予測と違って特別な異常が起きなければ研究発表もできないし、論文も書けないので正確な研究実例は顕在化しにくい。が、その数はかなり多いのではないだろうか。

【7】私も最初は落胆した。もちろん〔 2 〕、実は、ここに生命の本質があるのではないか、そのようにも考えてみられるようになってきたのである。

【8】遺伝子ノックアウト技術によって、パーツを一種類、ピースをひとつ、完全に取り除いても、何らかの方法でその欠落が埋められ、バックアップが働き、全体が組みあがってみると何ら機能不全がない。生命というあり方には、パーツが張り合わされて作られるプラモデルのようなアナロジーでは説明不可能な重要な特性が存在している。ここには何か別のダイナミズムが存在している。私たちがこの世界を見て、そこに生物と無生物とを識別できるのは、そのダイナミズムを感得しているからではないだろうか。では、その " 動的なもの ″ とは一体なんだろうか。

【9】私は一人のユダヤ人科学者を思い出す。彼は、DNA構造の発見を知ることなく、自ら命を絶ってこの世を去った。その名をルドルフ・シェーンハイマーという。彼は、生命が「動的な平衡状態」にあることを最初に示した科学者だった。私たちが食べた分子は、瞬く間に全身に散らばり、一時、緩くそこにとどまり、〔 3 〕身体から抜け出て行くことを証明した。つまり私たち生命体の身体はプラモデルのような静的なパーツから成り立っている分子機械ではなく、パーツ自体のダイナミックな流れの中に成り立っている。」 (『生物と無生物のあいだ』福岡伸一)

 

…………………………… 

 

(問題)

問3  傍線部A「私たちは固唾を呑んで観察を続けた」に込められた気持ちとして、最も適当なものを次の中から選べ。

ア  生命の神秘が解明されるのではないかと、わくわくしながら見守っている。

イ  長い時間と多額の研究資金を投入したのに、実験が失敗したらどうしようとびくびくしている。

ウ  赤ちゃんマウスがおとなになるまで育って、実験が成功するように祈っている。

エ  いつどんな異常が現れるか、期待と緊張でどきどきしている。

 

問4  空欄2に入る最も適当なものを次の中から選べ。

ア  今でも心底落胆している。しかし落胆ばかりでは研究は進まないので

イ  今ではもう落胆していない。想像をたくましくすれば

ウ  今でも半ば落胆している。しかしもう半分の気持ちでは

エ  今ではまったく落胆していない。なぜならば

 

問5  空欄3に入る最も適当なものを次の中から選べ。

ア  次の瞬間には

イ  私たちが死ねばすぐさま

ウ  次の世代には

エ  そのままの形で

 

問6  「生命とは何か」について著者が最も重視する論旨として適当なものを次の中から選べ。

ア  生命は実験的に異常を生じさせても、それを修正するシステムである。

イ  生命は個々のパーツに還元できない動的なシステムである。

ウ  生命は自己複製を行うシステムである。

エ  生命は無生物には見られない特別な要素を有する動的平衡システムである。

 

ーーーーーーーー

 

(要約・解説・解答)

(要約)

生命の仕組みを分子レベルで解析できるという分子生物学照り返しな生命観に立ち、遺伝子改変動物を作成して、観察を続けた。しかし、ついに、異常も変化も見られなかった。生命とは静的なパーツから成り行つ分子機械ではなく、「動的平衡状態」にあるものであり、パーツ自体のダイナミックの流れの中に成り立っている。

 

(解説・解答)

問3(傍線部説明問題)

 【3】~【5】段落に注目して、「遺伝子改変動物作成の意図」を考えてください。

 正解はエです。

 

問4(空欄補充問題)

「私も最初は落胆したもちろん〔 2 〕(今でも半ば落胆している。しかしもう半分の気持ちでは) 、実は、ここに生命の本質があるのではないか、そのようにも考えてみられるようになってきたのである。」という、空欄を含む一文のニュアンスに注意してください。

 その上で、最後の三つの段落から、「落胆しつつも発想を変えようとしている著者の心理」を押さえるとよいでしょう。

 正解はウです。

 

問5(空欄補充問題)

 空欄直前の「瞬く間に全身に散らばり、一時、緩くそこにとどまり」、空欄直後の「身体から抜け出ていく」、同段落最終文の「パーツ自体のダイナミックな流れ」に着目してください。

 正解はアです。

 

問6(趣旨合致問題)

→本文を読む前に、この設問を見るべきです。出題者は、「生命とは何か」が本文のテーマであると、ヒントを明示しています。

 

 分子生物学的生命観に疑問を抱きはじめる最後の三つの段落に注目するとよいです。

 特に重要なのは最終の【9】段落の次の二つの文です。

生命が「動的な平衡状態」にあること」

「私たち生命体の身体はプラモデルのような静的なパーツから成り立っている分子機械ではなく、パーツ自体のダイナミックな流れの中に成り立っている。」

 最強のキーワード(「動的な平衡状態」)の入っている選択肢を選ぶようにしてください。

 正解はエです。

 

ーーーーーーーー

 

(3)「動的平衡」の概略的解説

 

 福岡氏は、この実験の結論として、次のような感動的なことを述べています。

 

「私たちは遺伝子を失ったマウスに何事も起きなかったことに落胆するのではなく、何事も起きなかったことに驚愕すべきなのである。動的な平衡力がもつ、柔らかな適応力となめらかな復元力の大きさにこそ感嘆すべきなのだ。」

 

 ここには、「生命の神秘と素晴らしさ」が、あります。

 そして、それを素直に評価する福岡氏の、柔軟な感性に、私は感心しました。

 『生物と無生物のあいだ』は、「『科学者と詩人』の心」を持つ著者によって、丁寧な記述がなされた名著だと思います。

 

 ここで言う「動的平衡」とは、概略的に言うと、以下のような内容になります。

 

 生物分子レベルでのパーツから成る集合体です。

 従って、分子レベルでみれば、「絶えず分子の入れ替わり(食べたものが吸収されて生物の構成物となり、不要なものは排泄等により生物の体外へ排出されていく)が起きている」という意味で、「動的」であり、

 同時に、「『動的』でありつつ、常に一つの個体としての生物を形作っている中で、その個体の生存のために内部の組織が協働して、秩序が保持されている状態」という意味で、「平衡」と言えるのです。 

 

 

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 (4)「生命とは何か?」ー「エントロピー増大の法則」と「動的平衡」の関係

 

あらゆる物質は、エントロピーを増大させています。

エントロピーとは「乱雑さ(ランダム)」を表す尺度である。すべての物理学的プロセスは、物質の拡散が均一なランダム状態に達するように、エントロピー最大の方向へ動き、そこに達して終わる。これをエントロピー増大の法則と呼ぶ。」(『生物と無生物のあいだ』福岡伸一)

 

 秩序は無秩序の方へ、形あるものは崩れる方へ動く。

 全ての構造物は風化し、全ての熱あるものは冷める。

 エントロピー増大の法則です。

 エントロピー増大の法則は容赦なく、生体を構成する成分にも降りかかります。 

 高分子は酸化され分断されます。

 タンパク質は損傷を受け変性します。

 生命にとって、エントロピー最大の状態とは「死」です。

 

 この点について、『生物と無生物のあいだ』の続刊の『動的平衡』において、福岡氏は「生と死」について、さらに分かりやすく、以下のように述べています。

 

「長い間、エントロピー増大の法則と追いかけっこしているうちに、少しずつ分子レベルで損傷が蓄積し、やがてエントロピーの増大に追いつかれてしまう。つまり、秩序が保てない時が必ず来る。それが個体の死である。

 したがって「生きている」とは「動的な平衡」によって、「エントロピー増大の法則」と折り合いをつけているということである。」(『動的平衡』)

 

 では、生命は「自らの死」をどのように引き延ばしていくのか。

 

 もし、やがては崩壊する構成成分をあえて先回りして分解し、このような乱雑さが蓄積する速度よりも早く、常に再構築を行うことができれば、結果的にその仕組みは、増大するエントロピーを系の外部に捨てていることになります。

 この点について、福岡氏は、以下のように述べています。

 「エントロピー増大の法則に抗う唯一の方法は、システムの耐久性と構造を強化することではなく、むしろその仕組み自体流れの中に置くことなのである。つまり流れこそが、生物の内部に必然的に発生するエントロピーを排出する機能を担っていることになるのだ。」(『生物と無生物のあいだ』)

 つまり、生命体は、自らの物質的条件により、エントロピー最大化に対抗しようとしているのです。

 

 では、どのように「自らの生命の秩序」を生み出していくのでしょうか。

 言い換えると、かみ砕いていうと、「食べる」というのはどういう行為なのでしょうか。

 福岡氏は、以下のように記述しています。

「生物は、その消化プロセスにおいて、タンパク質にせよ、炭水化物にせよ、有機高分子に含まれているはずの秩序をことごとく分解し、そこに含まれる情報をむざむざ捨ててから吸収しているのである。なぜなら、その秩序とは、他の生物の情報であったものであり、自分自身にとってはノイズになりうるものだからである。」

肉体というものについて、私たちは自らの感覚として、外界と隔てられた個物としての実体があるように感じている。しかし、分子のレベルではその実感はまったく担保されていない。私たち生命体は、たまたまそこに密度が高まっている分子のゆるい「淀み」でしかない。しかも、それは高速で入れ替わっている。この流れ自体が「生きている」ということであり、常に分子を外部から与えないと、出ていく分子との収支があわなくなる。」(『生物と無生物のあいだ』)

 

 つまり、体内の分子は、絶えず破壊され、また新たに作られているのです。

 エントロピーの最大化に対抗するためには、生命は、自らを破壊し、かつ再生するという形で、自らを維持しているのです。

 

 以上のことを、まとめて言うと、以下のようになります。

エントロピー増大の法則は、容赦なく生体を構成する成分にも降りかかる。高分子は酸化され分断される。集合体は離散し、反応は乱れる。タンパク質は損傷をうけ変性する。しかし、もし、やがては崩壊する構成成分をあえて先回りして分解し、このような乱雑さが蓄積する速度よりも早く、常に再構築を行なうことができれば、結果的にその仕組みは、増大するエントロピーを系の外部に捨てていることになる。つまり、エントロピーの増大の法則に抗う唯一の方法は、システムの耐久性と構造を強化することではなく、むしろ、その仕組み自体を流れるの中に置くことなのである。つまり、流れこそが、生物の内部に必然的に発生するエントロピーを排出する機能を担っていることになるのだ。」(『生物と無生物のあいだ』)

 

 「生命」が「自らの生命」を維持するために、恒常的に、自分の組織を自ら進んで破壊・排出しているということです。

 私は、その点に「生命の神秘」と「生命の英知」を感じます。

 

 

 シャコンヌ

 

 『動的平衡』では、このことについて、さらに、分かりやすく、ある意味で、衝撃的な説明をしています。

生命とは、絶対的な決まった形のあるものではなく、瞬間瞬間の化学変化の連鎖によって維持されている。」

生体を構成している分子は、すべて高速で分解され、食物として摂取した分子と置き換えられている。体のあらゆる組織や細胞の中身は、こうして常に作り替えられ、更新され続けているのである。

 だから、私たちの身体は分子的な実態としては、数か月前の自分とはまったく別物になっている。分子は、環境からやってきて、一時、淀みとして私たちを作り出し、次の瞬間にはまた環境へと解き放たれてゆく。

 分子は常に私たちの身体の中を通り抜けている。

 いや「通り抜ける」という表現も正確ではない。

 なぜなら、そこには分子が「通り過ぎる」べき容れ物があったわけではなく、ここで容れ物と呼んでいる私たちの身体自体「通り過ぎつつある」分子が、一時的に形作っているにすぎないからである。
 つまり、そこにあるのは、流れそのものでしかない。
 その流れの中で、私たちの身体は変わりつつ、かろうじて一定の状態を保っている。
 その流れ自体が、「生きている」ということなのである。
 シェーンハイマーは、この生命の特異的なありようをダイナミック・ステイト(動的な状態)と呼んだ。
 私はこの概念をさらに拡張し、生命の均衡の重要性をより強調するため「動的平衡動」と訳したい。
 ここで、私たちは改めて「生命とは何か?」という問いに答えることができる。
 「生命とは動的平衡にあるシステムである」という回答である。

(『動的平衡』)

 

 以上の記述の中で、

私たちの身体自体「通り過ぎつつある」分子が、一時的に形作っているにすぎないからである。

 つまり、そこにあるのは、流れそのものでしかない。
 その流れの中で、私たちの身体は変わりつつ、かろうじて一定の状態を保っている。
 その流れ自体が、「生きている」ということなのである。

の部分が特に衝撃的ですが、何となく分かる気もします。

 この部分は、「生命の儚さ」の分子科学的な説明なのです。

 「若さ」も、ほんの一瞬です。

 「かろうじて一定の状態を保っている」ことの、奇跡的な状況を、「生命のいとおしさ」と、私たちは評価しているのでしょう。

 「生きていること」の、「危うさ」と「奇跡性」を感じないわけには、いきません。

  

動的平衡 生命はなぜそこに宿るのか

動的平衡 生命はなぜそこに宿るのか

 

 

 

(4)福岡伸一氏の紹介

 

福岡伸一(ふくおか  しんいち)

1959年東京生まれ。京都大学卒。

米国ハーバード大学研究員、京都大学助教授などを経て、現在、青山学院大学理工学部 化学・生命科学科教授。分子生物学専攻。専門分野で論文を発表するかたわら、一般向け著作・翻訳も手がける。

 

2007年に発表した『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書)は、サントリー学芸賞、および中央公論新書大賞を受賞し、ベストセラーとなる。

他に『プリオン説はほんとうか?』(講談社ブルーバックス・講談社出版文化賞)

『ロハスの思考』(ソトコト新書・木楽舎)、

『生命と食』(岩波ブックレット)、

『できそこないの男たち』(光文社新書)、

『動的平衡』(木楽舎)、

『世界は分けてもわからない』(講談社現代新書)

『ルリボシカミキリの青』(文春文庫・文藝春秋)

『生命科学の静かなる革命』(インターナショナル新書・集英社インターナショナル)

など、著書多数。

 

 美術ではヨハネス・フェルメールの熱心なファン。

 現存画は必ず所蔵されている場で鑑賞することをポリシーとしていて、著書の発表や絵画展の企画にも携わっている。

 

ーーーーーーーー

 

以上で、今回の記事は終わりです。

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

 

 

   

  

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生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)

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生命科学の静かなる革命 (インターナショナル新書)

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

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 私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。

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頻出論点・「『私』消え、止まらぬ連鎖」高村薫・消費社会・欲望論

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 

 様々な、深刻な社会問題の背景には、実は、「消費社会」・「欲望論」の問題が潜んでいます。

 「消費社会」・「欲望論」の論点は、このブログで以前にも記事化しました。(→下にリンク画像を貼っておきます)

 しかし、分かりにくい側面がありますので、入試頻出著者である高村薫氏の論考「『私』消え、止まらぬ連鎖」(2007・早稲田大学・文化構想学部)を元にして、解説していきます。

 

 高村薫氏の論考は、簡潔な表現で本質を鋭く突くのが特徴です。

 爽やかで、切れ味の良い文章なので、難関大学の現代文(国語)・小論文で頻出です。

 現代文(国語)・小論文対策として、今回の記事は、かなり役に立つと思います。

 

 以下では、次の項目を解説していきます。

 

(2)「『私』消え、止まらぬ連鎖」高村薫・(2007早稲田大学・文化構想学部)の問題・解答・解説

(3)当ブログによる発展的解説ー「消費社会のマイナス面と、その対策」・「欲望論」

(4)「モラル(倫理)」について

(5)「入試現代文(国語)・小論文における原典修正」について

(6)高村薫氏の紹介

 

 

(2)「『私』消え、止まらぬ連鎖」高村薫・2007早稲田大学・文化構想学部の問題・解答・解説

 

(概要です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です)

(【1】【2】【3】・・・・は当ブログで付加した段落番号です)

 

【1】食べる。寝る。愛する。排泄(はいせつ)する。そのつど、ただこの身体から湧(わ)きだし、自らを駆り立てる生命の営みを、わざわざ欲望と名付け、「」という主語を与えているのは人間だけである。しかも、所有や支配の欲望になると、とたんに話は複雑になる。

【2】持ち家がほしい。名声がほしい。力がほしい。そういう「」は、はたしてどこまで「」であるか。たとえば〔 A 〕を惜しんで株に熱中する「」を、「」はどこまで「」だと知っているか。人間の欲望について考えるとき、A まずはそう問わなければならないような世界に私たちは生きている。〔 イ 〕

【3】たとえば、ある欲望をもったとき、私たちはそれをかなえようとする。その段階で、私たちはなにがしかの手段に訴えねばならず、そのために対外的な意味や目的への、欲望の読み替えが行われる。健康のため。家族のため。生活の必要のため、などなど。こうした読み替えは、すなわち欲望の外部化であり、欲望は、この高度な消費社会では「私」から離れて、つくられるものになってゆく。

【4】そこでは名声や幸福といった抽象的な欲望さえ、目と耳に訴える情報に外部化され、置換されるのが普遍的な光景である。たとえば、家がほしい「私」は、ぴかぴかの空間や家族の笑顔の映像に置換された新築マンションの広告に見入る。そこにいるのはうつくしい映像情報に見入る「私」であり、家族の笑顔を脳に定着させる「私」であって、たんに家がほしい漠とした「私」はずっと後ろに退いている。代わりに、家族の笑顔を見たい「私」が前面に現れ、それは映像のなかの新築マンションと結びついて、欲望は具体的なかたちになるわけである。〔 ロ 〕

【5】けれども、こうしてかたちになった欲望は、ほんとうに「私」の欲望か。「私」はたしかに家がほしかったのだけれども、その欲望は正しくこういうかたちをしていたのか。仮に、確かに家族の笑顔を見たいがために家がほしかったのだとしても、家という欲望と、家族の笑顔という欲望は本来別ものであり、これを一つにしたのは「私」ではない、〔 B  〕である。

【6】このように、消費者と名付けられたときから「私」は誰かがつくり出した欲望のサイクルに取り込まれている。そこでは「私」は覆い隠され、ただ大量の情報に目と耳を奪われて思考を停止した、「私」ではない何者かが闊歩(かっぽ)している。〔 ハ 〕

【7】こうして、欲望から「私」が消え、おおよそ政治の権力闘争から一般の消費生活まで、欲望のための欲望と化して、現代社会はある。欲望は「私」の外部で回転し、「私」を駆り立てる。そこに明確な主体はおらず、従って欲望を止めるものはいない。〔 ニ 〕

【8】ところで〔 ① 〕の世界では、欲望のサイクルも〔 ② 〕になるはずだが、実際はあたかも〔 ③ 〕であるかのように回転し続け、そこここで、さまざまな悲喜劇を引き起こす。欲望は必ずしもかなえられないばかりか、ときには実質的な損害になって返ってくる。そのとき、これがサイクルであるがために悪者はすっきり定まらず、定まらないがために悪者探しは逆に苛烈になる。〔 ホ 〕

9】「私」の欲望であれば、失意も損失も「私」が引き受けることで収まりがつくが、「私」の消えた現代の欲望は、始まりも終わりもない。破綻(はたん)したら破綻したで、ともかく悪者を探して社会的な辻褄(つじつま)を合わせるだけである。一方、〔 C 〕の「私」はどこまでも無垢(むく)(→「①潔白で純真なこと②金・銀などの金属が、まじりけのないこと」という意味。今回は①の意味)に留まるのだが、「私」が無垢でないことは、「私」が知っている。」

( 高村  薫 「『私』消え、止まらぬ連鎖 情報に支配され『消費者』に」 )(朝日新聞・2006年1月5日・夕刊4面・文化欄「新・欲望論2」)

 

ーーーーーーーー 

 

(問題)

問1  空欄 A・Bに入る最も適当な語をそれぞれ次の中から選べ。

A  イ 名声  ロ 寸暇  ハ 身命  ニ 財貨  ホ 労力

B  イ 欲望  ロ 消費  ハ 笑顔  ニ 幸福  ホ 広告

 

 問2  傍線部A「そう問わなければならないような世界」を説明している最も適当なものを次の中から選べ。

イ   「私」自身の欲望が消費を形成する世界

ロ   「私」自身の欲望が所有の主体となる世界

ハ   「私」自身の欲望が行動の基準となる世界

ニ   「私」自身の欲望が自己を隠蔽(いんぺい)する世界

ホ   「私」自身の欲望が家族の幸福となる世界 

 

問3  文章中の空欄①・②・③に入る語句の最も適当な組み合わせを次の中から選べ。

イ   ① 有限  ② 有限  ③ 無限

ロ   ① 有限  ② 無限  ③ 有限

ハ   ① 有限  ② 無限  ③ 有限

ニ   ① 無限  ② 無限  ③ 有限

ホ   ① 無限  ② 有限  ③ 無限

ヘ   ① 無限  ② 有限  ③ 有限

 

問4  次の文は、本文中に入るべきものである。空欄・イ~ホから最も適当な箇所を選べ。

個々の欲望の当否は、ほとんど損得に置き換えられ、損得もまた外部化されて新たな欲望になるだけである。

 

問5  文章中の〔 C 〕に入る最も適当な語句を次の中から選べ。

イ   自らを駆り立てる「私」

ロ   消費者という名の「私」

ハ   明確な主体としての「私」

ニ   損害を引き受ける「私」

ホ   悪者と断定された「私」

 

問6  本文の内容と合致するものを次の中から一つ選べ。

イ   「私」の欲望は映像情報によって外部化され、欲望の主体を明確で形ある具体的なものにしている。

ロ   私の欲望は常に政治権力に支配されており、欲望のあり方も国家により巧みに管理されている。

ハ   私の欲望は経済力によって左右され、損得勘定が重視されるのが現代社会の特徴となっている。

ニ   私の欲望は情報のグローバル化によって均質化し、効率性を追求する現代社会に順応している。

ホ   私の欲望は消え止まることなく連鎖を続け、いつの間にか、消費者は情報に支配されてしまう。 

 

ーーーーーーーー

 

(要約)

私たちは欲望をかなえようとして、対外的な意味・目的ヘの欲望の読み替えを行う。こうした欲望の外部化は、高度消費社会では、「私」から離れて、つくられるものになってゆく。欲望から「私」が消え、明確な主体を持たぬ「消費者」がいるだけになる。そこでは、欲望のサイクルは回転し続け、さまざまな悲喜劇を引き起こす。「私」の消えた現代の欲望は、破綻したら破綻したで、悪者を探して社会的な辻褄を合わせるだけである。が、「私」が無垢でないことは、「私」が知っている。

 

 ーーーーーーーー

 

(解答)

問1 A →ロ   B →ホ

問2 ニ    問3 イ   問4 ニ   問5 ロ   問6 ホ

 

(解説)

問1(空欄補充問題)

 →空欄補充問題は、すでに選択肢を見て、チェックしていくべきです。

 A  熱中している状態についての慣用表現です。

 B  「家という欲望と、家族の笑顔という欲望は本来別ものであり、これを一つにしたのは『私』ではない、〔B=広告〕である」の文脈に注目してください。

 「欲望の外部化」については、【3】~【5】段落に説明があります。

 「広告」・「広告化文明」は、現代文(国語)・小論文における、重要なキーワードです。

 

問2(傍線部説明問題)

 傍線部の「そう」に注目してください。

 傍線部の説明は、【5】段落~【7】段落に、あります。

 

問3(空欄補充問題)

 直前段落・最終文の「欲望を止めるものはない」や、直後の段落の「現代の欲望は、始まりも終わりもない」から、「実際にはあたかも『無限』であるかのように回転し続け」とされている、という文脈に注意してください。

 本来、 「地球環境」や「地球の資源の有限性」を考えれば、「欲望のサイクル」は「有限」になるはずですが、「無限」と思い込むことに、しているのです。

 

問題4(脱文挿入問題)

 →「脱文挿入問題」は、本文を読む前に「脱文」を読んで、「脱文」のポイントを頭に入れ、本文を読みながら挿入箇所の候補をチェックしていく作戦が、オススメです。

 「欲望の外部化・「損得」の説明が記述されている段落に注目してください。

 

問5(空欄補充問題)

ハ   明確な主体「私」、

ニ   損害を引き受ける「私」、

ホ   悪者と断定された「私」、

は、いずれも、本文の記述とは、対立的な内容になっています。

 

問6(趣旨合致問題)

→「趣旨合致問題」こそ、本文を読む前に、設問・選択肢を見るべきです。

 「テーマ」は、「私が消えた欲望の連鎖(サイクル)」です。

 キー段落は、【段落です。

  【段落の、「消費者と名付けられたときから「私」は誰かがつくり出した欲望のサイクルに取り込まれている。そこでは「私」は覆い隠され、ただ大量の情報に目と耳を奪われて思考を停止した、「私」ではない何者が闊歩(かっぽ)している。」という記述を熟読してください。

 

イ   「欲望の主体を明確で形ある具体的なものにしている」の部分が誤りです。「欲望の主体」は消えています。

ロ   「欲望のあり方も国家により巧みに管理されている」の部分が誤りです。このような記述は、本文には、ありません。

ハ   「私の欲望は経済力によって左右され」の部分が誤りです。このような記述は、本文には、ありません。

ニ   「私の欲望は情報のグローバル化によって均質化し」の部分が誤りです。このような記述は、本文には、ありません。

ホ   これが正解です。

 

ーーーーーーーー

 

(3)当ブログによる発展的解説ー「消費社会のマイナス面と、その対策」・「欲望論」

 

 まず、【8】段落と【9】段落の接続が少々、ギクシャクしている感じがしているのは、以下の具体例の段落がカットされているからです。

 カット部分を含めて全体を読むと、論旨が、より明確になります。

 以下が、カット部分(概要)です。

  

「たとえば去年春のJR西日本の転覆事故や、秋に明るみに出たマンションの耐震擬装問題で、声高に責任の所在が求められたのは記憶に新しい。けれども冷静に見るなら、過剰な利便性を求めた社会とJRも、より安価で広いマンションを求めた消費者と業者も、全員が欲望のサイクルを回っていたとは言えまいか。人命の損失も、数千万円という多額の損害も、現に発生した以上、責任を負うべき主体は社会的にはっきりしているが、それでは片付かない心地悪さが残るのは、誰もが欲望のサイクルの一員だったからであろう。また、そこに欲望のほんとうの始まりである「私」が隠れていたからであろう。」

 

 上記の早稲田大学・文化構想学部の問題文本文と、カット部分からなる、高村氏の論考は、本質をズバリと突いた、切れ味の良い論考です。

 

 今回の論考では、「高度消費社会」は、「私」が消えた「欲望のサイクル」と化していることを前提にしています。そして、損害発生の場面における苛烈な悪者探しの底に流れる、ある種の居心地の悪さを指摘しています。つまり、「欲望のサイクル」の中で生きるしかない「現代の日本人の、仕方なさ」を提示しているのです。

 

 高村氏の論旨は、実に明快です。

 「消費社会」は、本来的な、どうしようもない「マイナス面」を含んでいることが、よく分かります。  

 一方で、「消費社会」は、「幸福追求ヘの意志」、「情報化社会( IT化社会 )」、「資本主義」、「経済のグローバル化」に密接に関連しているので、これを単純に、全面的に否定することは困難です。

 それだけに、「消費社会のマイナス面」についての「対策論」は、複雑な側面を有しているのです。

 

 ただ、欲望のサイクルは、いつまでも続けられないと思います。

 それ自体に無理があるがあるからです。

 

 第一に、地球の資源には限りがあります。

 さらに、地球環境をいかに維持していくか、という問題もあります。

 

 また、「広告に取り込まれて、誰かがつくり出した欲望のサイクルに取り込まれている」(【6】段落)ということは、自分の主体性を放棄して、操り人形(マリオネット)(自己喪失・アイデンティティ喪失)になっている側面があるということにも、注目する必要があるでしよう。

 

 以上の、「消費社会の問題点と、それらの対策」・「欲望論」については、当ブログで、最近、記事化したので、それらを参照してください。

 以下に、リンク画像を貼っておきます。

  

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(4)「モラル(倫理)」について

 

 なお、ここで、「消費社会のマイナス面」・「欲望論」に関連して、「モラル」について解説します。

 以下は、最近の当ブログの記事( 「予想問題『スポーツと民主主義』」『反・民主主義論』」 )の、私の解説です。

 ここに、再掲します。

 さらに、詳しい解説を読みたい方は、下の記事を参照してください。

 

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 人々は、自分とは無関係な、スポーツ選手の経済的欲望・社会的欲望の暴走は、「高い精神性や公共性」、つまり、「公正性」・「上品さ」・「徳」・「冷静さ」を掲げて制御・制限できても、自分自身の「経済的欲望」・「社会的欲望」の制御・制限はできないのではないでしょうか。

 「自由」、「権利」という名のもとに、人々は、自己が逸脱した行動をとっていることの「愚」に恥ずかしさを感じていない、あるいは、多少は感じていても、他者が同様な行動をとっていることから、自己の行動を容認しているのでしょう。

 「資本主義の進展」・「新自由主義」・「IT革命」などにより、「宗教的精神」・「道徳的精神」が薄まってしまったことも、背景にあるのでしょう。
 しかも、人々のその自己容認を承認する公教育、マスコミの報道が氾濫しているという現状があります。

 

 上記の解説は、「消費社会のマイナス面と、その対策」・「欲望論」を考察する際に、重要な視点になると思います。

 

 

(5)「入試現代文(国語)・小論文における原典修正」について

 

 なお、今回の早稲田大学文化構想学部の問題のように、難関大学の入試(現代文)国語・小論文の問題文本文は、「原典の一部カット」や・「修正」をしている場合が多いのです。

 そのような場合は、本文の文脈が少々、ギクシャクしていることがあります。

 その時は、「本文の要約」を厳密にやるべきでは、ありません。

 私は、「入試現代文(国語)・小論文の本文は、原典の修正が著しいので、本文の要約は頭の中でアバウトに考えれば良い」と、生徒に指導しています。

 メモを書くことは、入試の場では、「時間のムダ」でしかないと言っています。

 入試現代文(国語)・小論文の問題文本文における「原典修正の現実と、その対策」については、下の記事を参照してください。

 

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 土の記(上)

 

 

 

 

 

 

(6)高村薫氏の紹介
髙村 薫 (たかむら・かおる)

作家。1953年(昭和28年)大阪府大阪市生まれ。国際基督教大学人文科学科卒。

著作に
デビュー作『黄金を抱いて飛べ』(新潮文庫)(第3回日本推理サスペンス大賞受賞)、
『リヴィエラを撃て(上)・(下)』(新潮文庫)(第11回日本冒険小説協会大賞・第46回日本推理作家協会賞受賞)、
『マークスの山(上)・(下)』(新潮文庫)(第109回直木賞・第12回日本冒険小説協会大賞受賞)、
『李欧』(講談社文庫)(『わが手に拳銃を』(1992年)をベースにした作品)、
『照柿(上)・(下)』(新潮文庫)、
『レディ・ジョーカー(上)・(中)・(下)』(新潮文庫)(毎日出版文化賞受賞。『98年度版このミステリーがおもしろい』ベスト1)、
『晴子情歌(上)・(下)』(新潮社)、

『空海』(新潮社)、

『土の記(上・下)』(新潮社)、

などがある。

 

ーーーーーーーー

 

今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

 

  

 

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土の記(上)

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土の記(下)

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空海

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2017早大(文化)「見ることとうつすこと」鈴木理策・予想出典

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 

 今年の早稲田大学文化構想学部の国語の問題を読んだところ、鈴木理策氏の「見ることとうつすこと」という名文に邂逅したので、すぐに記事化することにしました。

 近いうちに、鈴木理策氏の論考・対談などが難関大学の現代文(国語)・小論文に出題される可能性があるからです。

 この名文は、「経験」・「風景との交流」・「表現」・「芸術」・「写真」の問題について、本質的・根源的な考察がなされているので、一読する価値があります。

 最近の難関大学には、「近代的な常識」・「近代的価値観」を根本的に見直し、「人間の本質」、「人生の本質」に迫ろうとする論考が、よく出題されています。

 この論考も、その傾向に沿っているのです。

 この論考自体が、入試に出題されないとしても、このような本質的・根源的な論考を熟読することは、難関大学の現代文を解く上で、かなり参考になると思います。

 

 

鈴木理策 熊野、雪、桜

 

 

 

 

 

 

(2)「見ることとうつすこと」鈴木理策(2017早稲田大学文化構想学部)の解説

 

(鈴木氏の論考)(概要です)

(【1】【2】【3】・・・・は、当ブログで付記した段落番号です)

(青字は、当ブログによる「注」です)

(赤字は、当ブログによる「強調」です)

(紫色の字は、早稲田大学・文化構想学部の入試で、傍線部説明問題・空欄補充問題として問われた部分です)

 

【1】松本清張原作の『天才画の女』というドラマがあります。一九八〇年の作品です。放送当時、私は高校生でした。画家憧れ、上京することを夢見ていた私にとって、東京の画壇を舞台とするこのミステリーはどの部分をとっても興味深く、すっかり夢中になりました。ですから少し前にケーブルテレビでこのドラマが再び放送されると知った時は心躍り、ぬかりなく全話を録画して、以来繰り返し、繰り返し見ています。歳を重ね、写真家となった今、昔とは違う感じ方をしても良いはずですが、何度見ても十六歳の頃の心境に引き戻されます。記憶とは本当に不思議なものです。

【2】物語の主人公は会津から上京した若い画家の卵です。彼女の実家には終戦後まもなく放浪画家が逗留した際に描いた天井画が残されていて、ドラマ版の主人公はその天井画を写真に撮り、プロジェクターで画布に投影して、こつこつと模写していました。それは彼女なりの絵の勉強法であり、あくまで「模写」だったのですが、同じマンションで起った殺人事件をきっかけに、彼女の絵が「作品」として銀座の有名画廊に運ばれさらに目利きという知られる美術愛好家の銀行家の目に留まってしまいます。模写であると言い出せないまま画家として脚光を浴びることになった主人公の戸惑いと高揚、彼女に商機を見出して売りだしに躍起となる画廊主の欲望、彗星のごとく現れた新人を訝(いぶか)しみ、盗作を疑って真相を探り始めるライバル画廊の炯眼(けいがん)(→「鑑識眼」という意味)。さまざまな思惑と感情が絡み合う中、物語はスリリングに展開していきます。初めて見た時から三十年以上もの時間が経っているのに、見る度に必ず少し緊張してしまうのは、表現とはいかに成立し得るのか、という根源的な問いをこのドラマは含んでいるからではないかと思います。

【3】十九世紀に写真術が発明された時、一番に影響を受けたのは画家たちだったと言われています。対象を正確に写し描くという職能は、写真の再現性の前では意味を持たなくなったためです。写真に写されたものは非常に多くの情報を含んでいたので、肉眼で見ることの信頼性は揺らぎ始めました。「機械の眼」を通すと、見て知っていると思っている以上のものが見えるという事実に直面した画家の中には、写真を見て絵を描き始める者もありました。しかし彼らはそのことを進んで公言することはなかったようです。写真を手本にして描くことに後ろめたさを感じていたのでしょうか? だとすれば、その感情は何処からくるものなのでしょうか? 

【4】写真を見て描くということは、描く対象を直接見ていないこと、さらに描いている光景とつながった空間(その場)に画家がいないことを意味します。これが後ろめたさの原因だとすれば、画家が対象と直に交わっているかどうかが絵画にとっては重要ということになります。外の世界と画家の身体が直接触れた結果としての絵画は、画家の目に映る「今」が絵具を介して表出され、揺らぎを帯びたみずみずしい感動を伝えるが、写真を見て描いた絵画は、より仔細に対象を観察できるはメリットがあるにせよ、間接的な経験であるため、絵画に寄せられる期待に応えていない、ということだったのかもしれません。(→「模写」の問題が発生していると思います)

【5】写真はすでに誰かによって見られた結果である、ということも写真を基に描いた画家たちにとって都合の悪い事実だったのだと思います。世界をどの様に見ているか作家性と結び付けて評価される場合が多く、他人が撮った写真をお手本にして描いたとなれば、そのオリジナリティはどこにあるかが曖昧になってしまいます。(→「オリジナリティ」がないのであれば、まさに、「模写」「コピー」の問題になるはずです)ただし二十世紀以降、絵画についての考え方は変化・多様化し、写真の機械的な視線や無名性をあえて取り入れた絵画も登場し始めます。時代の変遷の中で、絵画と写真は敵対するものでは無くなっていきました。

【6】表現をめぐる価値観は時代と共に変化していますが、写真表現に関してはかなり長い間、根強い考え方が引き継がれいるように思います。それはフレーミングやシャッターチャンスに撮影者の狙いを盛り込むことで個性を表すのが良い、という考え方です。この考えは写真を見る側に、撮影者が何を表現しようとしているか、その意図を正しく理解することが大切だ、というような見方を要求します。(→写真は撮影者の個性を表現するものである、という根強い常識のことを、説明しているのです。「写真を見る作法」についての固定観念は、今や、かなり強固なものになっています。「写真を鑑賞する様々な可能性」を封じ、一つの方法のみしかないと、写真家も、見る側も思い込んでいるのです。「写真家の個性」についての、「偏見」が崇拝の対象になったということです)

【7】この時、撮影者と写真を見る人の間では、写真を通して言葉による確認作業(→「固定観念」・「暗黙の了解」のキャッチボールです)が行われている訳です。このことは写真表現を画一化させる原因になっているになっていると思います。過去に撮られた写真のイメージを思い出して安定した構図(→「構図」を考えること自体が「近代的人間の悲しみ」と言えます。「自然」・「風景」そのものには、「構図」は、ないのですから)に整え直したり(→この点は、ほとんど、「模写」・「コピー」と変わらないとも評価できます。つまり、記憶に残っているシーンを「模写」しているだけなのです)、画面の中に見どころを用意するためにシャッターチャンスを待ったりすること(→写真家の功名心による「風景の一部の切り取り」と評価できます。しかも、「模写的」な「切り取り」です)は、写真家が直接世界と出会う機会を遠ざけるものです。(→「無の心を持って、風景と直接的に対面・交流すること」は、全くできていない、ということです)  写真は二度と出会うことの無い光景(→確かに、人と光景・風景は、一期一会の関係です)と出会う豊かさに満ちた表現であり、大きな可能性に満ちています。

【8】私は撮影では出来るだけ何もしないことを目指します。わざわざ大型カメラを担いで出かけていくのですから、何もしない、というのは矛盾しているようですが、画面に作為を込めないこと、私自身の存在を消していくことを目指しているのです(→「写真家としての主体性の放棄」、を意図している感じです。「写真家と風景の関係」から、「近代的な『主体』・『客体』」という枠組みを消去しようという、大胆な実験の感じがします。「写真家の主体性」を明確化することは、「お決まりの作法」に染まることだ、と意識しているのです)カメラを構えて歩いて行き、気になる光景に出会ったら三脚を立て、大体の位置で構図を決めて、その後は変更しません。ピントは、その場所で最初に目がいった部分に合わせます。シャッターも狙わずに押す工夫をしています。(→道を歩いていて、気になった風景のある場所に立ち止まり、風景をじっくり見つめる直前の瞬間を、風景を「構図」・「シャッターチャンス」を意識して見つめる直前の瞬間を、フィルムに保存する感じです)そんな風に撮影した写真は、いわゆる写真的な見どころを含みませんが、外の世界をありのまま(→写真家の「近代的な解釈」による変形・強調が介入していない、ということです)表しています。(→写真を見る人は、初めて風景と対面した時の、ぼんやりとした当惑の場に、直面することになります)私が写真でしたいと思っていることは少し変わっているかもしれません。

【9】今年の春、香川県丸亀市猪熊弦一郎現代美術館の企画で個展を開催しました。展覧会は七月から東京オペラシティアートギャラリーに巡回しています。写真を見せるというより風景を見る(→「対象と直に交わっている場」・「外の世界と入場者の身体が直接触れる場」、つまり、「風景と初めて出会う場」・「風景に目の焦点が合って、風景を『構図』・『シャッターチャンス』の枠組みの中で再構成する以前の場」という意味、だと思います)になれば良いと考え、自身で展示構成を行いました。会場に並ぶ写真を見ると、その都度新しい発見があります。写真家は自分の写した全てを確認済みと思われるでしょうが、ものを見ることは常に新しい経験(→外の世界とその人の身体が直接触れた時に、その人の目に映る「今」は、「過去」と常に違うからです)です。東京展では会場内での撮影を可としました。私の見た風景が来場者のカメラに新たな風景として写されることに興味があったからです。写真を撮った写真は「模写」と呼ばれるのかどうかも気になるところです。」(「見ることとうつすこと」鈴木理策)

 

ーーーーーーーー

 

(解説)

 この論考は、「表現」・「模写」をキーワードにして、「『風景・写真家・写真を見る人』の関係」、「風景を見ること(風景を見るという経験)」、「写真を撮ること」、「写真を見ること」を論じています。

 

 最後の段落の「写真を撮った写真は「模写」と呼ばれるのかどうかも気になるところです。」は、読み手の方でも、気になる一文です。

 私が考える、この一文の解釈は、以下の通りです。

 「模写か否か」は、「対象と直に交わっているかどうか」、「外の世界と画家の身体が直接触れているか否か」、さらに、そこに「揺らぎを帯びたみずみずしい感動」が発生しているか否か、によって、判定されるべきことだ、と思います。

 

 

(3)鈴木理策氏の紹介

 

鈴木理策(すずき  りさく)

1963 和歌山県新宮市生まれ

1987 東京綜合写真専門学校研究科修了

1990 初の個展「TRUE FICTION」(吉祥寺パルコギャラリー、東京)開催

1998 初の写真集『KUMANO』を上梓

2000 第25回木村伊兵衛写真賞を受賞

2006 第22回東川賞国内作家賞、平成18年度和歌山県文化奨励賞受賞

2008 日本写真協会年度賞受賞

2006− 東京藝術大学美術学部先端芸術表現科准教授

【主な個展】

2004 「唯一の時間」西村記念館、和歌山
2005 「海と山のあいだ」ギャラリー小柳、東京
2006 「Sakura」Yoshii Gallery、ニューヨーク、アメリカ
2007 「熊野 雪 桜」東京都写真美術館、東京
2009 「White」ギャラリー小柳、東京
2011 「Yuki-Sakura」Christophe Guye Galerie、チューリッヒ、スイス
2013 「アトリエのセザンヌ」ギャラリー小柳、東京

【主なグループ展】
2000
「現代写真の母型1999」川崎市市民ミュージアム、神奈川
「the 1st Korea Japan Photo-Biennale」ソウル、韓国
2002
「風景論」東京都写真美術館、東京
「サイト―場所と光景」東京国立近代美術館、東京
2003
「The History of Japanese Photography 1854-2000」ヒューストン美術館、アメリカ
「KEEP IN TOUCH: Positions in Japanese Photography」Camera Austria、オーストリア
2008
「建築の記憶―写真と建築の近現代」東京都庭園美術館、東京
「Heavy Light, Recent Photography and Video from Japan」 ICP、ニューヨーク、アメリカ
2010
「Summer Loves」Huis Marseille Museum for Photography、アムステルダム、オランダ
2013
「マンハッタンの太陽」栃木県立美術館、栃木
2014
「写真分離派展 日本」京都造形芸術大学ギャルリ・オーブ、京都

【主な写真集】
『KUMANO』(1998光琳社出版)、『PILES OF TIME』(1999光琳社出版)、『Saskia』(2000リトルモア)、『Fire: February 6』(2002 Nazraeli Press)、『Mont Sainte Victoire』(2004 Nazraeli Press)、『熊野 雪 桜』(2007淡交社)、『Yuki Sakura』(2008 Nazraeli Press)、『雪華図』(2012 SUPER DELUXE)、『White』(2012 edition nord)、『Atelier of Cézanne』(2013 Nazraeli Press) など

 

  ーーーーーーーー

 

 今回の記事は、これで終わりです。

 今回の記事は、「速報」ということでしたので、考察する時間が充分とは言えませんでした。

 近いうちに、「再考」という形で、今回の鈴木氏の論考を、じっくり検討した結果を発表できたら、よいと思っています。

 

 次回の記事は、約1週間後の予定です。

 

  

 

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鈴木理策 熊野、雪、桜

鈴木理策 熊野、雪、桜

 

 

 

祝/言

祝/言

 

 

 この雑誌には、鈴木理策氏の写真、対談などが、よく掲載されています。

芸術新潮 2017年 02 月号 [雑誌]

芸術新潮 2017年 02 月号 [雑誌]

 

 

 

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予想論点ー労働観・自己・『人はなぜ働かなくてはならないのか』

最近、様々な労働問題・雇用問題が注目されています。そこで、入試現代文(国語)・小論文予想論点として、「労働の意義」・「労働観」について解説します。

 

 (1)なぜ、この記事を書くのか?

 

 かつて、日本は先進国でも低失業率を誇ってきましたが、最近では、経済のグローバル化、不景気、デフレ経済を背景にして、雇用環境・労働環境は著しく悪化しています。
 その中でも、若者の雇用が厳しさを増しています。 フリーターやニート(無業者)の増加も、若者の労働の意欲の弱体化というよりも、正社員として安定的に働ける機会が減少したことの影響が大きいのでしょう。
 また、2000年代に入ってからは、特に、苛酷な「長時間労働」や「過労」が社会問題化しています。

 このように、様々な労働問題が注目されている時期には、「労働の本質」を問われる問題が、よく出題されます。

 そこで、今回は、現代文(国語)・小論文対策として、「労働観」・「労働の意義」について解説することにします。

 

 

 (2)『人はなぜ働かなくてはならないのか』(小浜逸郎)を解説する理由

 

 小浜逸郎氏が入試頻出著者であり、『人はなぜ働かなくてはならないのか』が入試頻出出典であり、「近代的労働観」について、分かりやすく説明しているからです。

 また、本書が「アイデンティティ」・「自己」に関する重要論点について、分かりやすい解説が、なされているからです。

 

 ここで、小浜逸郎の紹介をします。

小浜 逸郎(こはま いつお、1947年4月15日生まれ)は日本の評論家。国士舘大学客員教授。

 

 主な著書は、以下の通りです。主な出題校を付記します。

『大人への条件』(ちくま新書)、

『なぜ人を殺してはいけないのか-新しい倫理学のために』 (洋泉社、新書y)・(のちPHP文庫)→2008愛媛大学

『人はなぜ働かなくてはならないのか 新しい生の哲学のために』(洋泉社、新書y)→2003早稲田大学教育学部、2007山口大学

『エロス身体論』(平凡社新書)→2009早稲田大学スポーツ科学部

『「責任」はだれにあるのか』(PHP新書)、 

『言葉はなぜ通じないのか』(PHP新書)→2008岡山大学、2010明治大学政経学部

『人はひとりで生きていけるか 「大衆個人主義」の時代』(PHP研究所)、

『日本の七大思想家 丸山眞男/吉本隆明/時枝誠記/大森荘蔵/小林秀雄/和辻哲郎/福澤諭吉』(幻冬舎新書)

 

 人はなぜ働かなくてはならないのか―新しい生の哲学のために (新書y)

 

 

 

 

 

(3)2003早稲田大学教育学部・『人はなぜ働かなくてはならないのか』(小浜逸郎)の解説

 

 

(問題文本文)(概要です)

(青字は当ブログによる注です)

【1】労働が私たちの社会的な存在のあり方そのものによって根源的に規定されてあるということには、三つの意味が含まれている。一つは、私たちの労働による生産物やサービス行動が、単に私たち自身に向かって投与されたものではなく、同時に必ず、「だれか他の人のためのもの」という規定を帯びることである。 


【2】自分のためだけの労働もあるのではないか、という反論があるかもしれない。なるほど、ロビンソン・クルーソー的な一人の孤立した個人の自給自足的労働を極限として思い浮かべるならば、どんな他者のためという規定も帯びない生産物やサービス活動を想定することは可能である。じっさい、私たちの文明生活においても、〔 1 〕など、部分的にはこのような自分の身体の維持のみに当てられたとしか考えられない労働が存在しうる。 

 

…………………………… 

 

(設問)

問1 空欄1に当てはまる最適なものを次の中から選べ。

ア  ボランティア活動への参加

イ  夫婦二人からなる共同生活

ウ  身近な存在への看護や介護

エ  一人暮しにおける家事活動

オ  インターネットによる学習

 

……………………………

 

(解説・解答)

 すぐに選択肢を見てください。まず、自分で、記述式問題を解く感じで解答を作り、それから選択肢を見るという、手間のかかる不思議な解法があるようですが、すぐに選択肢を見る方が効率的です。

 次に、消去法を積極的に活用してください。難関大学入試においては、消去法を活用しなければ、高得点は取れません。

 

 空欄直後の「部分的にはこのような自分の身体の維持のみに当てられたとしか考えられない労働」に注目するとよいでしょう。

 ア・イ・ウでは、「自分」以外が加わるので、誤りです。

 オは、全くの論点ズレです。

 正解は、エです。

 

 ーーーーーーーー 

 

  (問題文本文)(概要です)

【3】しかし、そのようにして維持された自分の身体は、ほとんどの場合、今度はそれ自身が他の外的な活動のために使用されることになる。また自分自身を直接に養う労働行為といえども、そこにはそれをなし得る一定の能力と技術が不可欠であり、それらを私たちは、ロビンソン・クルーソー的な孤立に至るまでの生涯のどこかで、「人間一般」に施しうるものとして習い覚えたのである。自分自身を直接に養う労働行為において、私たちは、「未来の自分」「いまだ自分ではない自分」を再生産するためにそれを行うのであるから、いわば、自分を「他者」であるかのように見なすことによってそれを実行しているのだ。2 自分一人のために技巧を凝らした料理を作ってみても、どこかむなしい感じがつきまとうのはそのゆえである。 

 

 ……………………………

 

 (設問)

問2  傍線部2とは、どういうことか。最適なものを次の中から選べ。

ア  自分一人のために自身で作る料理は、料理をするという社会的行為と、それを食べるという生命維持のための行為が同一人物のなかで行われるために、その技巧についての判断が不能になり、自分が「他者」であるという錯覚に陥ってしまうということ。

 

イ  自分一人のために自身で作る料理は、それをなし得る一定の能力と技術が必要となるために、人生において事前に学習や修練が不可欠になり、その成果として料理がとらえられてしまうので、味わうことに集中できないということ。

 

ウ  自分一人のために自身で作る料理は、自分自身を直接に養う労働行為であり、自己の料理に対する技能についていちばんよく承知している本人としては、ことさらに技巧を凝らすことに対して無意味さを感じるということ。

 

エ  自分一人のために自身で作る料理は、人間のみが可能に文明の産物であり、単なる生命維持のための行為ではなく、社会的な労働行為への端緒となるので、そこに必要以上の技巧が凝らされると「本来の自分」がおおい隠されてしまうということ。

 

オ  自分一人のために自身で作る料理は、自己を「他者」と見なして行われるが、労働行為の主体とその生産物の受益者が完全に一致しているので、技巧を凝らしても新たな価値を見出し得ないということ。

 

…………………………… 

 

(解説・解答)

 この問題でも、すでに選択肢を見てください。。

 傍線部の「どことなくむなしい感じ」とは、「どんな料理を作っても、やりがいがない」ということです。

ア  「自分が『他者』であるという錯覚に陥ってしまう」の部分が誤りです。

イ 全くの論点ズレです。

ウ  「ことさらに技巧を凝らすことに対して無意味さを感じるということ」の部分が誤りです。

エ    「『本来の自分』がおおい隠されてしまうということ」の部分が誤りです。

 本文の文脈に沿って、傍線部の「どことなくむなしい感じがつきまとう」の説明をしています。

 

 正解は、オです。

 

 ーーーーーーーー

 

  (問題文本文)(概要です)

【4】さらに、私たちは、資本主義的な分業と交換と流通の体制、つまり商品経済の体制のなかで生きているという条件を取り払って、たとえば原始人は、閉ざされた自給自足体制をとっていたという「純粋モデル」を思い描きがちである。だが、いかなる小さな孤立した原始的共同体といえども、その内部においては、ある一人の労働行為は、常に同時にその他の成員一般のためという規定を帯びていたのである。つまり、ある一人の労働行為は、彼が属する社会のなかでの一定の役割を担うという意味から自由ではあり得なかった。 


【5】労働の意義が、人間の社会存在的本質に宿っているということの第二の意味は、そもそもある労働が可能となるために、人は、他人の生産物やサービスを必要とするという点である。これもまた、いかなる原始共同体でも変わらない。一見一人で労働する場合にも、その労働技術やそれに用いる道具や資材などから、他人の生産物やサービス活動の関与を排除することは難しい。すっかり排除してしまったら、3 猿が木に登って木の実を採取する以上の大したことはできないであろう。 

 

 ……………………………

 

(設問) 

問3 傍線部3とは、どういうことか。最適なものを次の中から選べ。

ア  どんな他者のためという規定も帯びない、独立したサービス活動を行うこと。

イ  人手を借りず、道具も使わないで自分の身体のみを用いて活動すること。

ウ  孤立した原始共同体の構成員として、自給自足の生活に徹すること。

エ  資本主義的な分業と交換と流通の体制の中で、限定された単純作業を行うこと。

オ  社会的な人間関係から隔絶し、いかなる人からも認識・評価されないこと。

 

 …………………………… 

 

(解説・解答)

「猿」が本文で、どのような文脈で使われているかを考えてください。

ア 「独立したサービス活動」の部分が誤りです。

イ    傍線部の直前の文脈に沿っています。

ウ  「孤立した原始共同体の構成員」の部分が誤りです。

エ    全体が誤りです。

オ    「いかなる人からも認識・評価されない」の部分が誤りです。

 

正解は、イです。

 

ーーーーーーーー

 

 (問題文本文)(概要です)
【6】そして第三の意味は、労働こそまさに、社会的な人間関係それ自体を形成する基礎的な媒介になっているという事実である。労働は人間〔  X  〕の、〔  Y  〕を介してのモノや行動への外化・表出形態の一つであるから、それははじめから〔  Z  〕的な行為であり、他者への呼びかけという根源的な動機を潜ませている。 

 

…………………………… 

 

(設問) 

問4 空欄X・Y・Zに当てはめる言葉として最適なものを次の中から選べ。

ア  X 存在  Y 言語  Z 個別

イ  X 精神  Y 身体  Z 関係

ウ  X 世界  Y 疎外  Z 中心

エ  X 関係  Y 精神  Z 身体

オ  X 中心  Y 世界  Z 疎外

カ  X 個別  Y 存在  Z 言語

 

……………………………

 

(解説・解答)

 直前の「労働こそまさに、社会的な人間〔X〕関係それ自体を形成する基礎的な媒介になっているという事実」、直後の「他者への呼びかけという根源的な動機を潜ませている」という記述より、Zに、イの「関係」が入ることが分かります。

  「人間〔X〕」から、Xに、イの「精神」が入ることが分かります。

 

 正解は、イです。

 

ーーーーーーーー

 

 (問題文本文)(概要です)
【7】人はそれぞれの置かれた条件を踏まえて、それぞれの部署で自らの労働行為を社会に向かって投与するが、それらの諸労働は、およそ、ある複数の人間行為の統合への見通しと目的とを持たずにばらばらに存在するということはあり得ず、4 だれかのそれへの気づきと関与と参入とをはじめから「当てにしている」。そしてできあがった生産物や一定のサービス活動が、だれか他人によって所有されたり消費されたりすることもまた「当てにしている」。そこには、労働行為というものが、社会的な共同性全体の連鎖的関係を通してその意味と本質を受け取るという原理が貫かれている。労働は、一人の人間が社会的人格としてのアイデンティティを承認されるための、必須条件なのである。 

(小浜逸郎「人間はなぜ働かなくてはならないのか」)

 

……………………………

 

 (設問)

問5 傍線部4「だれかのそれへの気づきと関与と参入をはじめから『当てにしている』」とは、どういうことか。最適なものを一つ選べ。

ア  労働とは、個人的行為ではなく、他者の働きかけでどのようにも変質し得る他者依存型の行為であるということ。

イ  労働とは、それを行う者と享受する者とがその価値と目的を認め合い共有することによって、はじめて有益なものとなる行為となるということ。

 ウ  労働とは、ともすると社会的行為と理解されやすいが、実はつねに他者の行為を当てにしている利己的行為であるということ。

エ  労働とは、自己と他者という社会性の中で発生してきたものであるので、他者の関わりを想定しない労働はあり得ないということ。

オ  労働とは、他者への呼びかけという本質を持つ行為であり、呼びかける対象のない労働は無意味な行為になるということ。

 

 問6 本文の内容と合致するものを、次の中から二つ選べ。

ア  自身を維持するための労働は、社会的な評価にさらされることを免れる場合が多いために、外界に働きかけるものに比べて惰性に陥りがちである。

イ  労働とは本来、他人の生産物やサービスを前提にしているものであり、自己の働きかけは常に他者の働きかけと結びついている。

ウ  資本主義的な分業と交換と流通の体制にあっては、労働の成果が他人の手に落ちるあり方は、必ずしも一定していないので平等にすべきである。

エ  労働とは、必ずしも人間行為の統合への見通しと目的をもって行われるものではなく、いかなる場合でも他人との協業や分業のあり方が前提になっていない。

オ  労働とは、人間精神の表れであり、たとえそれが自己に向けられたものであっても社会的な行為と関係することを免れない。

 

 ……………………………

 

 (解説・解答)

問5

「だれかのそれへの気づきと関与と参入とをはじめから『当てにしている』」とは、「他者を意識している」ということです。

ア  「他者依存型の行為である」の部分が、誤りです。

イ  「それを行う者と享受する者とがその価値と目的を認め合い共有することによって、はじめて有益なものとなる行為となる」という限定的な解釈は、本文とズレています。

ウ    全体的に論点ズレで、誤りです。

エ    この選択肢が正解です。

オ    全体的に論点ズレで、誤りです。

 

 正解は、エです。

 

問6

→問題文本文を読む前に、この「趣旨合致問題」を見ておくと、効率的です。

ア  「惰性に陥りがちである」という表現は、本文にありません。

イ【4】段落に合致しています。→正解です。

ウ  「労働の成果が他人の手に落ちるあり方は、必ずしも一定していないので平等にすべきである」の部分が誤りです。

エ   全体として、「本文の内容」に反しています。

オ   本文の内容に合致しています。→正解です。この選択肢は問4と関連していることに注意してください。

→入試本番では、よく、あることです。

→難関・国公立・私立大学の入試問題においては、本文のキーポイントを、表から、裏から、斜めから、何度も聞いてくるのです。この点は、模擬試験と大きく違う所です。大学の優秀な教員は、時間をかけて問題文本文をじっくり読むことで、本文のキーポイントを見抜くことができます。そして、自信をもって、大胆に何度でも、受験生に、そのポイントを理解できているかを聞いてくるのです。私が今まで見た中で、一番すごかったのは、一橋大学です。一つのポイントを4回(しかも、全て記述式で!)聞いてきたことがありますした。

→本問のキーポイントについては、この後に、すぐ解説します。

 

 正解は、イ・エです。

 

ーーーーーーーー

 

(4)本問・本文の要約

 

 労働が私たちの社会的な存在のあり方そのものによって根源的に規定されてあるということには、三つの意味が含まれている。

 一つは、私たちの労働による生産物やサービス行動が、単に私たち自身に向かって投与されたものではなく、同時に必ず、「だれか他の人のためのもの」という規定を帯びることである。

 労働の意義が、人間の社会存在的本質に宿っているということの第二の意味は、そもそもある労働が可能となるためには、人は、他人の生産物やサービスを必要とするという点である。

 そして、第三の意味は、労働こそまささに、社会的な人間関係それ自体を形成する基礎的な媒体になっているという事実である。

 労働は、一人の人間が社会的人格としてのアイデンティティを承認されるための、必須条件なのである。

 

 

 (5)本問のキーポイント・論点の解説

 

 本問で重要なのは、問4・問6です。

 まず、問題4・問6に関連する本文を、ポイントをしぼって再掲します。

【6】そして第三の意味は、労働こそまさに、社会的な人間関係それ自体を形成する基礎的な媒介になっているという事実である。労働は人間〔  X=精神  〕の、〔  Y=身体  〕を介してのモノや行動への外化・表出形態の一つであるから、それははじめから〔  Z=関係  〕的な行為であり、他者への呼びかけという根源的な動機を潜ませている。 

 

【7】人はそれぞれの置かれた条件を踏まえて、それぞれの部署で自らの労働行為を社会に向かって投与するが、それらの諸労働は、およそ、4  だれかのそれへの気づきと関与と参入とをはじめから「当てにしている」。そしてできあがった生産物や一定のサービス活動が、だれか他人によって所有されたり消費されたりすることもまた「当てにしている」。そこには、労働行為というものが、社会的な共同性全体の連鎖的関係を通してその意味と本質を受け取るという原理が貫かれている。労働は、一人の人間が社会的人格としてのアイデンティティを承認されるための、必須条件なのである。 

 

 この二つの段落が、ほぼ同じ内容を強調していることを、確認してください。

 さらに、分かりやすくするために、キーセンテンスだけを抜き書きすると、以下のようになります。

 

労働こそまさに、それははじめから〔 Z=関係 〕的な行為であり、他者への呼びかけという根源的な動機を潜ませている。 

それらの諸労働は、だれかのそれへの気づきと関与と参入とをはじめから「当てにしている」。

労働は、一人の人間が社会的人格としてのアイデンティティを承認されるための、必須条件なのである。 

 

 つまり、「人間が自分のアイデンティティを承認されるためには、労働が必須条件、言い換えれば、必要条件だ」と言うことです。

 「労働」は、賃金を得るためだけのものではないのです。

 自分の、人間としての「アイデンティティ」を他者に承認してもらうために、あるのです。

 逆に言えば、自分の「アイデンティティ」を、他者に承認され、尊重されるためには、自分の労働を丁寧に遂行する必要がある、ということになります。

 

 この論理は、「近代的人間観」・「アイデンティティ」・「自己」と、「関係性」・「人間関係」の関連を、スムーズに説明することを可能にします。

 それどころか、両者の、相互補完的な、密接な関連を、私たちに、知らせてくれます。

 

 私たちの今まで常識の中では、本来、「近代的人間」・「近代的人間観」とは、宗教的・封建主義的な拘束から解き放たれた自由な人間でした。

 すなわち、自我を確立して、自立性を保持し、理性・自己責任に基づいて行動できる人間。

 そして、「自分自身のみ」を自己の存在根拠とする人間。

 

 しかし、現代になり、極端な個人主義、IT社会、個性尊重の果ての「個性崇拝」などの中で、他者との人間関係に思い悩み、孤立感、虚無感に苦しむ人間が多くなりました。

 このような状況において、この小浜氏の論考は、対策論として、かなり有用だと思います。   

 

 この論理の流れは、よく理解しておいてください。

 類似の論考が、入試頻出です。(小浜氏の論考のように簡潔で分かりやすくは、ありませんが)

 また、自分の「アイデンティティ」について、悩みのある人は、この論理の流れを、よく噛み締めるとよいでしょう。

 

 本問は良問です。

 小浜氏の論考が、入試現代文(国語)・小論文の頻出論点・テーマである「アイデンティティ」・「自己」に関して、分かりやすく、簡潔に説明しているからです。

 これだけ、簡潔に分かりやすく、解説がなされていれば、高校生・受験生にも、充分に理解できるでしょう。

 しかも、早稲田大学教育学部の設問が、小浜氏の見解のポイントを、的確に設問化しているからです。問4・6の解説を、よく読んでください。特に、問6の青字の解説を。

 

  『人はなぜ働かなくてはならないのか』は、まさに良書と言えるでしょう。

  「高校生・受験生の必読書」とも言えます。

 入試だけではなく、人生に役に立ちます。

 

 

 (6)本書の構成の解説

 

 小浜氏は、以下の問題提起から、今回の論考を始めています。

「私は、どんな実力者やヒーローの中にも、彼らがすぐれていればいるほど、自分の資産がこれくらいになったからというだけの理由で、仕事への情熱を投げ捨ててしまわない「何か」があり、その「何か」にこそ、凡人の営々たる勤労意欲と相通ずるものがあるということを指摘したいのである」

 

 そして、小浜氏は、「なぜ人は働くのか?」という問いに対して、成立可能な、

「好きな仕事に就くことで人生の充実を味わえるから」、

「労働の意義はモラルに関連するから」、

という理由付けを否定する論証を、以下のように、展開しています。

 つまり、「好きな仕事に就くことで人生の充実を味わえるから」は、誰もが好きな仕事に就ける訳ではないので、これは不適当です。

 次に、「労働の意義はモラルに関連するから」は、道徳の強制は人を遠ざけるので、これも成り立ちません。

 

 最後に、本問の本文の論考を展開し、結論として、小浜氏は以下のように述べています。

「労働の意義を根拠づけているのは、私たち人間が、本質的に社会的な存在であるという事実そのものにある」と。

 

 もともと、人生には、自分のアイデンティティを承認されるために生きている側面があります。
 そう考えると、全ての労働・職業は、自分のアイデンティティの承認につながるのでしょう。
 そこには、「他者との関係性」の中に生きていく、人間の存在の「けなげさ」が感じられます。

 

 『人はなぜ働かなくてはならないのか』は、評判になった、『なぜ人を殺してはいけないのか』の続編です。
 『なぜ人を殺してはいけないのか』も根源的な考察に満ちた名著でしたが、『人はなぜ働かなくてはならないのか』は、さらに、じっくりとした明察を示した一冊になっています。小浜氏の代表作の一つに挙げられると思います。

 小浜氏も本書の中で「人間というこの不可思議な存在に対する解明の糸口だけはつかんでいるという、ささやかな自負がないわけではない。」と述べています。

 

 なお、 『人はなぜ働かなくてはならないのか』の目次は、以下のようになっています。

 どの項目も、入試頻出論点に関連しています。

第1問    思想や倫理は何のためにあるのか

第2問    人間にとって生死とは何か

第3問  「本当の自分」なんてあるのか

第4問    人はなぜ働かなくてはならないのか

第5問    なぜ学校に通う必要があるのか

第6問    なぜ人は恋をするのか

第7問    なぜ人は結婚するのか

第8問    なぜ「普通」に生きることはつらいのか

第9問    国家はなぜ必要か

第10問  戦争は悪か

 

 最近の小浜氏の著書の中では、本書のほかに、入試頻出出典である『言葉はなぜ通じないのか』(PHP新書)、『日本の七大思想家 丸山眞男/吉本隆明/時枝誠記/大森荘蔵/小林秀雄/和辻哲郎/福澤諭吉』 (幻冬舎新書) が、特に、おすすめです。

 

 ーーーーーーーー

 

今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

 

  

 

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なぜ人を殺してはいけないのか―新しい倫理学のために (新書y (010))

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言葉はなぜ通じないのか (PHP新書)

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

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 私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。

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人工知能②ー身体性・自我・倫理問題ー現代文・小論文予想論点

2017センター国語第1問・「科学論」・「科学コミュニケーション」を発展的に考察し、「人工知能」について考えます。現代文(国語)・小論文・予想論点として解説します。

 

 以下では、

 

(1)なぜ、この記事を書くのか

(2)神里達博氏の論考・「人工知能と囲碁」(「月刊安心新聞」 朝日新聞)の紹介・解説ー身体性・自我・倫理問題

(3)「人工知能学会・倫理委員会」の取り組みー倫理問題

(4)「『人工知能学会・倫理委員会』の取り組み」は、杞憂とは言えないということ

(5)「人工知能」関連の当ブログの記事の紹介

(6)神里達博氏など、今回、参照した著者の紹介

 

について解説していきます。

 

(1)なぜ、この記事を書くのか? 

 

 今回の記事は「人工知能」の第2回目です。

 今回は、2017センター試験国語・第1問を意識して、前回の記事・「現代文・小論文・予想問題ー『AIの衝撃・人工知能は人類の敵か』」とは、違う視点から「人工知能」を解説します。

 前回の記事については、下にリンク画像を貼っておきます。

 

 今回の記事の主な題材としては、神里達博氏の論考(「人工知能と囲碁」・月刊安心新聞   2016.3.18「朝日新聞」)を使用します。

  

gensairyu.hatenablog.com

 

 

 2017センター試験国語・第1問本文に以下次のような小林傳司氏の論考が出題されました。

 「科学論」における「科学コミュニケーション」の論点です。

 今回のセンター試験の問題の、キーワードの一つは、「科学ー技術の両面価値」です。

 このキーワードで、すぐに思い浮かべるのは、「人工知能」でしょう。

 

 

(2017センター試験・第1問・問題文本文)(概要です) 

(赤字は当ブログによる「強調」です)

 

「十九世から二十世紀前半にかけて、既に「科学」は社会の諸問題を解決する能力を持っていた。「もっと科学を」というスローガンが説得力を持ち得た所以(ゆえん)である。しかし、二十世紀後半の科学ー技術は両面価値的存在になり始める。現代の科学ー技術は、自然に介入し、操作する能力を入手開発するようになっており、その結果、自然の脅威を制御できるようになってきた。同時にその科学ー技術の作り出した人工物が人類にさまざまな災いをもたらし始めてもいる。こうして「もっと科学を」というスローガンの説得力は低下し始め、「科学が問題ではないか」という新たな意識が社会に生まれ始めているのである。」(小林傳司「科学コミュニケーション」)

 

 

gensairyu.hatenablog.com

 

 …………………………… 

 

(当ブログによる解説) 

 

 「科学論」で、最近、最も注目されるべき論点は「人工知能」です

 最近、「人工知能(AI)技術」が大きな話題になっています。

 

 特に、東大受験を諦めた人工知能の「東ロボくん」、自動車の自動運転、囲碁・将棋でプロに勝利した事、個々人の患者に対応したテーラーメイド治療などで、「人工知能」は注目を集めています。

 このように、「人工知能」は、人類の進歩に寄与することが期待される一方で、「人工知能が人間を超える日」も問題になっています。

 つまり、シンギュラリティ(技術的特異点)

(→「シンギュラリティ(Singularity)」とは、「人工知能が人間の能力を超えることで起こる出来事。人類が人工知能と融合し、人類の進化が特異点(成長曲線が無限大になる点)に到達すること」という意味)

という言葉をキーワードにして、「2045年までにAIが人類を超える」とする見解が、最近の様々な月刊誌の「人工知能特集」・新刊本で目立ちます。

 軍事技術への転用、人工知能の暴走への不安もあります。

 

 まさに、「人工知能」には、顕著な「両面価値」が存在しているがゆえに、現在、最も注目されるべき論点なのです。

 

 

 (2)神里達博氏の論考・「人工知能と囲碁」(「月刊安心新聞」朝日新聞)の紹介・解説ー身体性・自我・倫理問題

 

 

文明探偵の冒険 今は時代の節目なのか (講談社現代新書)

文明探偵の冒険 今は時代の節目なのか (講談社現代新書)

 

 

 

 ここで、特に参考になるのは、最近発表された神里達博氏の論考(「人工知能と囲碁」 神里達博 (月刊安心新聞) 2016.3.18 朝日新聞)です。

 以下に、神里氏の論考を紹介しつつ、当ブログの解説をしていきます。


(神里氏の論考)

(概要です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です)

 囲碁で、世界トップクラスの棋士が1勝4敗で負け越した。このニュースを聞いて、AIが人類を敵に回すSF映画を思い出した方も多いのではないか。今回のAIの「快挙」は、そんな悪夢の始まりなのだろうか。今月はこのあたりから考えてみよう。

 まず、今回のAI勝利の最大の要因は、ここ数年、大いに注目されている「ディープラーニング」を応用したことにある。

 人工知能の世界では、「パターン認識」という課題が古くから関心を集めてきた。たとえば、この世には無数のバナナがあり、全く同じ形のものは無い。だが人間はバナナに共通のパターンをつかんでいるから、瞬時にバナナだと認識できる。一方、コンピューターは正確な計算を積み上げていくことは得意でも、そういう物事を概略的に捉えるような仕事は元来、不得意である。

 しかし、現実世界に存在するほとんどの情報源は、この種の「パターン」である。従って、コンピューターに人間並みの知的作業をさせようと思えば、パターンを認識してもらうよりない。これは容易ではないものの、長年の研究によりさまざまな手法が開発され、郵便番号などの文字を読みとったり、人の音声や顔を認識したりといった作業は、以前から実用レベルに達している。

 

 さて、ディープラーニングが従来と比べて優れている点は、大量のデータを学ぶことで、自力で「特徴ある何か」の存在を見つけることができる点だ。たとえば「バナナというのは、黄色くて、曲がっている」といった特徴を、あらかじめ人間がコンピューターに教えなくても、大量のバナナを含んだ画像を与えることで、そこから「なにか共通する存在が映り込んでいる」ということを抽出する。あとは人間が「ああ、それはバナナと言うものですよ」と教えてやれば、コンピューター内部に「バナナの概念と名前」のパターンが構築されるのだ。

 ディープラーニングは、AIの歴史の初期から検討されてきた、脳の神経回路網をモデルとする研究の系譜に連なる。だが近年、ハードウェアの計算能力が向上したことや、コンピューターに教えるためのデジタルデータがネット上に大量に蓄積されたこと、またアリゴリズム(算法)の適切な改良などにより、従来のものと比べてはるかに精度の良い認識が可能になったのである。

 

 機械に対する根源的な不安・不信が広がることは過去にも何度か起きている。古くは産業革命期のラッダイト運動

(→19世紀初期にイギリスの織物工業地帯に起こった機械破壊運動。産業革命による機械普及に対して、失業の危機を感じた労働者が起こした)

が有名であるが、1930年代、また60年代にも機械と人間の競争についての議論が盛り上がったことが知られている。

 最近でも、宇宙物理学者のホーキング博士

(→イギリスの理論物理学者。量子宇宙論・現代宇宙論の重要人物。現代の理論的宇宙論を明解に解説した『ホーキング、宇宙を語る』などでも有名。車椅子の物理学者としても知られている)

 が、真に知的なAIが完成することは、人類の終焉(しゅうえん)を意味するだろうと警告したことが話題になった。

 今はAIへの脅威論が広がる「ネオ・ラッダイド

(→技術革新・高度情報化社会を嫌悪し、テレビ・自動車・電気などを拒否する生活を実践する運動)

の季節」なのかもしれない。

 

ーーーーーーーー

 

(当ブログによる解説) 

 2014年、BBCの取材に対して、ホーキング博士は次のように語っています。

「完全な人工知能を開発できたら、それは人類の終焉を意味するかもしれない」

「人工知能が自分の意志をもって自立し、そして、さらに、これまでにないような早さで能力を上げ、自分自身を設計しなおすこともあり得る。ゆっくりとしか進化できない人間に、勝ち目はない。いずれは人工知能に取って代わられるだろう」

 人工知能の進化に人類が歩調を合わせることができる能力を、人工知能が上回ることになる、いわゆる「技術的特異点」についてホーキング博士は、既に重大な懸念を表明しています。

「インディペンデント」(英国の新聞)に2014年に掲載された論説で、博士は、

「人工知能の発明は人類史上最大の出来事だ。だが同時に、『最後』の出来事になってしまう可能性もある」

と述べています。

 

 ホーキング博士は「人工知能」の専門家ではないから、その意見は、あまり問題にする必要はないとする見解もあります。

 が、「人工知能の専門家」でないがゆえに、見えることもあるのではないでしょうか。

 無視しては、いけないと私は思います。

 

ーーーーーーーー

 

 (神里氏の論考)

しかし、すでに述べたように、今回のAIの「快挙」は、長年の人工知能研究の流れの延長線上にあるものだ。それだけでコンピューターが意志を持つなどということはあり得ない。重要なのは、AIには身体がないという点であろう。生命は身体という限界性があるがゆえに、自我(→大学入試の現代文(国語)・小論文レベルでは「アイデンティティ」・「自己」と同様に考えてもよいでしょう)を持つことに「意義」がある。この点でのAIと生命の隔たりは大きい。

 

 ーーーーーーーー

 

(当ブログによる解説) 

 上記の最終段落の「AIと身体性の関係」について、さらに解説します。

 「人工知能(AI)と身体性の関係」は、「人工知能」における重要な論点ですが、少々、分かりにくい側面があります。

 その点で、下記の内田樹氏の論考は、「理解の助け」になると思われるので、紹介します。

 

(内田樹氏の論考) 

(概要です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です)

養老孟司先生が書評で取り上げてた月本洋『日本人の脳に主語はいらない』(講談社選書メチエ)を読む。

御影駅の待合室でぱらりと開いて、「私は人工知能の研究をしていたが、数年前に人間並みの知能を実現するには『身体』が必要であるという考えにいたった」(4頁)という箇所を読んで、思わず「おおおお」とのけぞってしまった。

そのときはそれが非常に重要なことであることはわかったのだが、どういうふうに武道の稽古につなげればいいのかよくわからなかった。

そのあと池谷裕二さんと対談したときにミラーニューロンの話を聞いて、学習というのが決定的に身体的な経験であることを教えていただいた。

それからSさんと出会い、その指導を見て、身体図式のブレークスルー(→「打開。突破」という意味)は知的なブレークスルーと同期するということについての確信が深まった。
そして、この本を読んでいろいろなことが繋がった。

月本さんによると、最近の脳科学の実験により、「人間はイメージするときに身体を動かしている」ことがわかった。
月本さんはこれを「仮想的身体運動」と呼ぶ。
「人間は言葉を理解する時に、仮想的に身体を動かすことでイメージを作って、言葉を理解している」(4頁)ということである。

書き手と読み手の「身体的な(要は「脳的な」ということだけれど)同期」が「理解」ということの本質であるという月本説は、「身体で読む」私にはたいへん腑に落ちる説明である。

ミラーニューロンによって、私たちは他人の行動を見ているときに、それと同じ行動を仮想的に脳内で再演している。

その仮想身体運動を通じて「他人の心と自分の心」が同期する(ように感じ)、他人の心が理解できる(ように感じる)のである。」
( 「御影駅からリッツカールトンにゆく途中で考えたこと」内田樹の研究室  2008年05月04日)

 

 

日本人の脳に主語はいらない (講談社選書メチエ 410)

日本人の脳に主語はいらない (講談社選書メチエ 410)

 

 

 

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 (神里氏の論考) 

それでは、私たちが素朴に抱く、AIを含めた社会のIT化に対する不安感は、単に杞憂(きゆう)だろうか。問題の本質は、技術を支配するのは誰かという点だ。いかなる技術も結局は人間のためにあるのだが、技術が社会のなかで適切に機能するかどうかは、制度設計に大きく依存する。

 米国政府は、AIを使ってテロリストの行動の特徴を認識するシステムを作り、空港に導入しようとしている。その倫理的な妥当性は、誰がどう担保すべきなのだろうか。

 このように考えていくと、SF的な視点も時には有効だろうが、真の問題を隠蔽(いんぺい)してしまう可能性も否定できない。人間への脅威は、当面はやはり機械ではなく、人間だ。技術と制度をバランスよく目配りしながら、総合的に判断できる人間の知性こそが今、求められているのである。

(「人工知能と囲碁ー技術を支配するのは誰か」 2016・3・18 「朝日新聞」 月刊安心新聞)

 

 ーーーーーーーー

 

 (当ブログによる解説)

 最終段落が重要です。 

 この点について、さらに解説します。

 上記の、SF的な視点も時には有効だろうが、真の問題を隠蔽(いんぺい)してしまう可能性も否定できない。人間への脅威は、当面はやはり機械(→「人工知能」)ではなく、人間だ。技術と制度をバランスよく目配りしながら、総合的に判断できる人間の知性が今、求められているのである。

の部分は、じっくり考える必要があります。

 

 「技術と制度をバランスよく目配りしながら、総合的に判断できる人間の知性」の内実は、何か?

 この問題は、単純なものでは、ないでしょう。

 悩みつつ、ゆっくり考えていくべきです。

 これについて、参考になるのは、以下の見解です。 

 

 

(3)「人工知能学会・倫理委員会」の取り組みー倫理問題

 

AIと人類は共存できるか?

AIと人類は共存できるか?

 

 

 

 「技術と制度をバランスよく目配りしながら総合的に判断できる人間の知性」について、さらに、考えていきます。

 

 参考になるのは、以下に引用する「人工知能学会・ 倫理委員会の取組み」(「人 工 知 能」30 巻 3 号・2015 年 5 月)です。

(概要です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です)

2・2 我々の役割の明確化

では、我々、倫理委員会の役割は何だろうか。人工知能が人工知能をつくるというような未来は当分来ないので、 特に何もしなくてよいのだろうか。
いや、そうではないだろう。
人工知能研究者にとってみると当たり前の技術が社会に大きなインパクトを与えてしまうこともあり得る。
今後、人工知能の技術が、さまざまな 形で社会のインフラに組み込まれていくことは確実であろうから、そうしたときに、思いがけず大きなインパクトを与えてしまうことがあるかもしれない。
専門家として、予見できるものを予見しておくことは、社会に対する誠実な態度であろう。
さまざまな諸問題が起こらないうちに、どういう問題が発生する可能性があるのか、それに対して我々はどのような解決策をもつことができるのかなどを議論しておく必要 があるだろう。
人工知能技術に関して、禁止すべき行為があり得るのかもしれない。例えば、「犯罪的な AI、軍事 AI、中毒や依存をもたらすような AI に基づくシステム」に関しては、社会的な注意を払うべきであると議論されている。
もしこのような AI を抑制すべきことが適切なのであれば、社会を巻き込んでいくことも必要であろう。
また、東日本大震災における原子力発電所の事故を鑑みるに、考え得る最悪なシナリオとその対応を列挙することも専門家の重要な役割であろう。
さらには、現在の技術だけでなく、今後の技術の方向性を指し示すことも社会と対話するうえで重要な役割であろう。

 

2・3 考え方の指針
では,こうした役割を果たしていくために、どのような考え方が活動の指針となるだろうか?
まず、我々は社会と対話しなければならない倫理観は研究者自身ではなく、社会全体でつくっていくものである。

そして、人々の役に立つ人工知能、人々の生活を幸せにし、人生をより豊かにするような人工知能、つまり「万人のための人工知能」を目指すべきであろう。
では、人々を幸せにし、人生をより豊かにするということはどういうことであろうか。
人間にはさまざまな価値基準があるので、一般的には、ある特定の尺度でもって良い悪いを判断することは難しいだろう。
人工知能が使われるうえで、さまざまな良い点や悪い点(→「両面価値」)が出てくるであろうが、おそらく多くの人にとって社会における人工知能システムの良し悪しを判断する価値基準の一つが、「人間としての尊厳が守られるか」ではないだろうか。人工知能が発展することで、人間としての尊厳が侵される(例えばコンピュータに指示されるとおりに動くと生産性が上がるので、それを強要される)ようなことは不幸なことである。
人工知能の技術は、「人間の尊厳」を守るように使われていくべきではないだろうか。
また、人工知能が社会の期待に沿って倫理的に使われるためにはどのような手段を講じれば良いだろうか。
そのためには人工知能システムがオープンであること(透明性をもつこと)が必要であるし、説明可能であることも 必要であろう。
もし人工知能が「暴走する」という危惧を多くの人がもつのであれば、その制御権を複数の人間(市 民)に分散することなども必要かもしれない。
こうした議論を通じて明らかになってくるのは、人工知能の倫理的問題というときに主に議論すべきは、ロボット三原則のような「人工知能がもつべき倫理」ではなく、人間の側の倫理、すなわち「人工知能を使う人間の倫理」、「人工知能を開発する人間の倫理」であるということである。」 (「人工知能学会・ 倫理委員会の取組み」・「人 工 知 能」30 巻 3 号・2015 年 5 月)

 

ーーーーーーーー

 

  (当ブログによる解説)

専門家として、予見できるものを予見しておくことは、社会に対する誠実な態度であろう

万人のための人工知能

人々を幸せにし、人生をより豊かにするということ

人工知能の技術は、「人間の尊厳」を守るように使われていくべきではないだろうか」

人工知能の倫理的問題というときに主に議論すべきは、人間の側の倫理、すなわち「人工知能を使う人間の倫理」、「人工知能を開発する人間の倫理」であるということである」

 

 以上の言葉は、どれもが、誠実、謙虚、聡明であり、極めて正当です。 

 「技術と制度をバランスよく目配りしながら総合的に判断できる人間の知性」

を考える際の、大きなヒントになるものと言えるでしょう。

 

 上記の「人工知能学会・倫理委員会の取り組み」は、2017センター試験国語・第一問で出題された小林傳司氏の問題意識と同方向です。

 小林氏は、「科学と市民の共存」のために「科学コミュニケーション(→科学について、科学者が科学者ではない一般市民と対話すること)」の重要性を主張していますが、上記の「人工知能学会・倫理委員会の取り組み」も、全体として、同様のことを強調しているのです。

 

 小林氏の問題意識の詳細については、最近の当ブログの記事(「2017センター試験国語第一問題・論点的中報告・問題解説」→上にリンク画像があります)で取り上げましたので、そちらを参照してください。

 

 また、

人工知能の倫理的問題というときに主に議論すべきは、人間の側の倫理、すなわち「人工知能を使う人間の倫理」、「人工知能を開発する人間の倫理」であるということである」

の部分は、

人間への脅威は、当面はやはり機械ではなく、人間だ」とする、上記の神里氏の見解とも同方向であり、この見解も卓見だと思います。

 

 

 (4)「『人工知能学会・倫理委員会』の取り組み」は、杞憂とは言えないということ

 

 上記の「ホーキング博士の重大な懸念」を読むと、上記の「人工知能学会・倫理委員会の取り組み」は、決して、杞憂とは言えないことが、分かります。

 

 また、下記に引用する養老孟司氏の見解も、ホーキング博士の重大な懸念」と同様の内容です。

 

  (養老孟司氏の見解)(概要です)

人間は考えたことを必ず実現してきた動物だ。カメラでも、月世界旅行でも、先に考えている、そしてそれを実現する。

 人間には非常に悪い癖があって、考えたものをつくろうとする。考えるだけでは満足できない。

 そうすると、人間が最初に考えてつくりだしたもののひとつが神でしょう。だから、それもいずれ実現するのです。 

 論理で考えるとすぐにわかりますが、もし今以上に大きい脳味噌ができたとすると、われわれが考えることを全部考えられて、われわれが感じることを全部感じることができる。脳にプラス・アルファがついていたら、それでわれわれの仕事は終わり。」 (『男女の怪』養老孟司・阿川佐和子、だいわ文庫)

 

 また、小林雅一氏は、『AIの衝撃ー人工知能は人類の敵か』(→当ブログで最近、予想論点として記事化しました→上にリンク画像があります)の中で、次のような見解を述べています。

 

「人間を超えるものを人間はあえて作るだろうか」という「問い」に対して、

「未来の人間はあえてそうした決断を下す」というのが、小林氏の結論です。

 

 この見解の詳細を以下に引用します。

 以下は、上のリンク画像の記事の一部抜粋です。

 

(概要です)

(太字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です)

 

「人間を超えるものを人間はあえて作るだろうか」

 「創造性の萌芽を、最近のコンピュータは示し始めたようです。たとえば、ニューラルネット(→当ブログによる注→人間の脳の神経回路の仕組みを模したモデル。コンピュータに学習能力を持たせることにより、様々な問題を解決するためのアプローチ)

機械学習(→当ブログによる注→人工知能における研究課題の一つ。人間が自然に行っている学習能力と同様の機能をコンピュータで実現しようとする技術)

の研究者たちは、最近のニューラルネットは『ある領域で学んだ事柄を別の領域ヘと応用する能力を示し始めている』と言います。

  ニューラルネット、つまりコンピュータが示す、この種の能力を彼らは『汎化能力』(→当ブログによる注→様々な異なる対象に共通する性質・法則等を見出すこと。一般化。普遍化)と呼んでいます。

 今、この分野の技術は日進月歩で進化しています。今後、最先端のニューラルネットを搭載したロボットが世界を自由に動き回り、外界の情報を吸収して学ぶようになれば、それは多彩な経験から学んで成長する人間に急速に近づいていくでしょう。それは、いずれ意識すらも備えた強いAIヘとつながる道でもあります。

 問題は、人間に勝る知性を備えたAI、あるいはそれを搭載したロボットをあえて人間が開発するだろうか、ということです。

 産業革命を境に、人類は、力の大きさや移動速度、あるいは計算能力などの面において、人間の能力を遥かに超えるマシンを次々と開発してきました。

 しかし、どんなことにも対応できる柔軟な『知能』という最後の砦さえも、あえてロボットやコンピュータに譲りわたす決断を人間は下すでしょうか。」

 

ーーーーーー

 

(前回の記事の一部抜粋です)

(当ブログによる解説)

 この部分は、恐い話です。

 まるで、コンピューターが、犬や猫といった身近な動物よりも、「高等な知的生物」になってしまったかのようです。

 「コンピューターが、学習する」というのは、どういうことなのでしょうか。

 この記事の前半にも書きましたが、コンピューターは人間と違って、「飽き」や「疲れ」がないだけに、自律的な学習能力を身に付けたら、恐ろしい存在になると思います。

 コンピューター・人工知能関係の科学者は、そのような危険性・危機感を感じないのでしょうか。

 あるいは、「それでも、構わない」と思っているのでしょうか。

 もし、コンピュータ・人工知能関係の科学者が、このような「科学の暴走」に対して、何らかの問題意識を持たないのであれば、村上陽一郎氏が様々な論考で主張する通り、「科学の進歩」に対する民主的コントロール」が必要になってくるのでは、ないでしょうか。

 特に、今回の問題は、「人類の存続」に直結する重大な問題です。

「人間にとっての『最後の砦』」

(ここも、前回の記事の一部抜粋です)

 この部分は全体の最終部分です。

 「未来の人間はあえてそうした決断を下す」というのが、小林氏の結論です。

 その理由を、小林氏は以下のように述べています。

 「それは私たち人類が今後、直面するであろう未曾有の困難と危機に対処するためです。現時点で、すでに深刻な様相を呈している地球温暖化や砂漠化、PM2・5のような大気汚染、行き場を失った核廃棄物、等々。これら世界的問題は早晩、人類単独の力では対処しきれなくなるでしょう。そこに人間を超える知能を備えたコンピュータやロボットが必要とされるのではないでしょうか。

 

 ーーーーーーーー

 

(以下は、今回の記事の解説になります)

(当ブログによる解説)

 

 このように、「将来、人工知能が人間を超えるか」については、肯定説・否定説の対立があります。

 しかし、いずれにせよ、人工知能が人間を超える可能性がないわけではないのですから、そのことに伴う危険性と対策を、前もって幅広く考慮しておくことは必要でしょう。

 その点で、私は、人工知能学会の姿勢には賛成です。

 

 今までの入試現代文(国語)・小論文に出題された問題の「出題意図の傾向」(→問題文本文・設問から推測した「出題意図」)も、おおむね、私の立場と同方向です。

 

 

 

 (5)「人工知能」関連の当ブログの記事の紹介

 

 入試頻出著者・山崎正和氏が、『ポスト・ヒューマン誕生』(レイ・カーツワイル・日本放送出版協会)を元に、「人工知能」・「ナノ技術」・「ロボット工学」・「自己」・「身体」・「人間とは何か」・「近代科学」などについて考察した論考、を紹介・解説しました。 

gensairyu.hatenablog.com

 

 

(6)神里達博氏など、今回、参照した著者の紹介

 

①  神里達博氏の紹介

神里達博(かみさと たつひろ)

千葉大学教授。専門は科学史、科学技術社会論。1967年生まれ。1992年東京大学工学部卒業(化学工学専攻)。2002年東京大学大学院総合文化研究科博士課程単位取得満期退学(科学史・科学哲学専攻)。

主な著書に、

『食品リスク―BSEとモダニティ』(弘文堂)、

『科学技術のポリティクス』(城山英明編・東京大学出版会・分担執筆)、

『没落する文明』(萱野稔人との共著・集英社新書)等。

 

 

②  小林傳司氏の紹介

小林傳司(こばやし ただし)

1954年生まれ。科学哲学者、大阪大学教授。1978年京都大学理学部生物学科卒、1983年東京大学大学院理学系研究科博士課程単位取得退学。現在は、大阪大学理事(教育担当)、副学長。専門は、科学哲学・科学技術社会論。

主な著書・共編著として、

『トランス・サイエンスの時代 科学技術と社会をつなぐ』(NTT出版ライブラリーレゾナント)
『公共のための科学技術』(編 玉川大学出版部)
『社会技術概論』(小林信一,藤垣裕子共編著・放送大学教育振興会)等。

 

③  内田樹氏の紹介  

内田樹(うちだ  たつる)

トップレベルの入試頻出著者。

倫理学者、翻訳家。専門は、フランス現代思想ですが、論考で取り上げるテーマは、教育論、グローバル化、政治論等、多方面に及んでいます。

著書としては、

『街場の現代思想』(文春文庫)、

『下流志向』(講談社文庫)、

『日本辺境論』(新潮新書)、

『街場のメディア論』(光文社新書)、

『疲れすぎて眠れぬ夜のために』(角川文庫)等、

 

 

 ④  月本 洋氏の紹介

月本 洋(つきもと  ひろし) 

東京電機大学工学部情報通信工学科教授
現在の専門分野は、知能情報学・言語学。
著書に、『心の発生-認知発達の神経科学的理論』 (ナカニシヤ出版)、『日本語は論理的である』(講談社選書メチエ)  、『日本人の脳に主語はいらない』(講談社選書メチエ) 等。

 


⑤  養老孟司氏の紹介

養老孟司(ようろう  たけし)

1937年、鎌倉市生まれ。東京大学医学部卒業。東京大学名誉教授。『からだの見方』でサントリー学芸賞を受賞。著書として、『形を読む』『解剖学教室へようこそ』『日本人の身体観』『唯脳論』『人間科学』『バカの壁』『養老訓』等、多数。
入試頻出著者。
 なお、入試頻出著者である内田樹氏・養老孟司氏の論考についての、当ブログの他の記事については、下の記事を参照してください。

 

 

gensairyu.hatenablog.com

 

 

⑥  小林雅一氏の紹介  

小林雅一(こばやし・まさかず)。KDDI 総研リサーチフェロー、情報セキュリティ大学院大学准教授。

 東京大学理学部物理学科卒業。同大学院理学系研究科を修了後、ボストン大学に留学、マスコミ論を専攻。

 著書に『グローバル・コミュニケーションの未来図』(光文社新書)、『クラウドからAIヘ』(朝日新書)、『ウェブ進化 最終形』(朝日新書)、『日本企業復活ヘのHTML5戦略』(光文社)等。

 

 ーーーーーーーー 

 

今回の記事は、これで終わります。

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

 

 

   

 

 

文明探偵の冒険 今は時代の節目なのか (講談社現代新書)

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 この参考書は、私が制作しました。

頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

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2017センター試験国語第2問・問題解説・小説の純客観的解法

2017年センター国語第2問は、素直に解けば、20分程度で満点の取れる問題です。以下に、今回の問題を通して小説問題の効率的な解法を説明していきます。

 

(1)2017年センター試験国語第2問(小説)の解説

 

 2017年センター試験国語の小説問題は、文語文・擬古文的で読みにくい側面はありますが、設問・選択肢が素直なので、良問だと思います。

 今後の小説問題対策として、有用な問題と考えてたので、今回、記事化することにしました。

 以下では、次の項目を解説していきます。

 今回の記事は、約1万2千字です。

 

(2)「小説問題解法」のポイント・注意点

(3)「センター試験小説問題」の解法のポイント・コツ

(4)2017センター試験国語第2問の解説

(5)今回の小説問題本文の「あらすじ」

(6)野上弥生子氏の紹介

(7)当ブログの「夏目漱石」関連記事の紹介・一覧

(8)当ブログの「小説問題解説」関連記事の紹介・一覧

(9)当ブログの「センター試験国語解説」記事の紹介・一覧

(10)2017センター試験国語第1問に「当ブログの予想論点記事(科学論)」が的中(著者・論点)したこと、についての報告記事、の紹介

 

 

(2)「小説問題解法」のポイント・注意点

 

 小説・エッセイ(随筆)問題の入試出題率は、相変わらず高く、毎年約1割です。

 まず、センター試験の国語では、毎年、出題されます。

 次に、難関国公立私立大学では、頻出です。

 東大・京都大・大阪大(文)・一橋大・東北大・広島大・筑波大・岡山大・長崎大・熊本大等の国公立大、早稲田大(政経)(文)(商)(教育)(国際教養)(文化構想)、上智大、立命館大、学習院大、マーチ(明治大・青山学院大・立教大・中央大・法政大)(特に文学部)、女子大の現代文では、特に頻出です。

 また、難関国公立私立大学の小論文の課題文として、出題されることもあります。

 

 小説・エッセイ問題については、「解法(対策)を意識しつつ、慣れること」が必要となります。

 本来、小説やエッセイは、一文一文味わいつつ読むべきです。(国語自体が本来は、そういうものです。)

 が、これは入試では、時間の面でも、解法の方向でも、有害ですらあります。

 あくまで、設問(そして、選択肢)の要求に応じて、主観的文章を(設問の要求に応じて)純客観的に分析しなくてはならないのです。(国語を純客観的に分析? これ自体がパラドックスですが、ここでは、この問題には踏み込みません。日本の大学入試制度の問題点です。)

 この点で、案外、読書好きの受験生が、この種の問題に弱いのです。(読書好きの受験生は、語彙力があるので、あとは、問題対応力を養成すればよいのです。)

 

 しかし、それほど心配する必要はありません。

 「入試問題の要求にいかに合わせていくか」という方法論を身に付けること、つまり、小説・エッセイ問題に、「正しく慣れる」ことで、得点力は劇的にアップするのです。

 そこで、次に、小説・エッセイ問題の解法のポイントをまとめておきます。

 

【1】5W1H(つまり、筋)の正解な把握

 

① 誰が(Who)     人物

② いつ(When)      時

③ どこで(Where) 場所

④ なぜ(Why)   理由→これが重要

⑤ なにを(What)    事件

⑥ どうした(How) 行為

 

 上の①~⑥は、必ずしも、わかりやすい順序で書いてあるとは限りません。

 読む側で、一つ一つ確認していく必要があります。

 特に、④の「なぜ(理由)」は、入試の頻出ポイントなので、注意してチェックすることが大切です。

 

【2】登場人物の心理・性格をつかむ

 

① 登場人物の心理は、その行動・表情・発言に、にじみ出ているので、軽く読み流さないようにする。

 

② 情景描写は、登場人物の心情を暗示的・象徴的に提示している場合が多いということを、意識して読む。

 

③ 心理面に重点を置いて、登場人物相互間の人間関係を押さえていく。

 

 登場人物の心理を推理する問題が非常に多い。その場合には、受験生は自分をその人物の立場に置いて、インテリ的に(まじめに→さらに言えば、人生重視的に)、一般的に、考えていくようにする。

 

⑤ 心理は、時間とともに流動するので、心理的変化は丁寧に追うようにする。

 

 以上を元に、いかに小説問題を解いていくか、を以下で解説していきます。

 


(3)「センター試験小説問題」の解法のポイント・コツ

 

【1】先に設問をチェックする

 

 センター試験の小説問題の本文は、難関大学の小説問題か、それ以上の長文の場合が多いのです。

 そこで、センター試験小説問題を効率的に解くための1つ目のコツは、本文を読む前に設問(特に、設問文)に目を通すことです。

 すぐに設問文に目を通し、「何を問われているか」を押さえてください。

 「設問で問われていること」を意識しつつ読むことで、時間を短縮化することができます。

 

【2】消去法を、うまく使う

 

 センター試験の小説問題の選択肢は、最近は、少々、長文化しています。

 しかし、明白な傷のある選択肢が多いので、消去法を駆使していくことで、効率的に処理することが可能です。

 

 

(4)2017センター試験国語第2問の解説

  

野上彌生子全小説 〈1〉 縁 父親と3人の娘

 

 

 

 

 

 

(設問文のリード文)

(青字は、当ブログによる「注」です)

(赤字は、当ブログによる「強調」です)

一昨年の秋、夫が旅行の土産にあけびの蔓(つる)で編んだ手提げ籠(かご)を買ってきた。直子は病床からそれを眺め、快復したらその中に好きな物を入れてピクニックに出掛けることを楽しみにしていた

 →問題のリード文(説明文)は、設問のヒントになることが多いので、注意してください。今回も、問2のヒントになっています。

 

(本文の概要)

(青字は、当ブログによる「注」目です)

(赤字は、当ブログによる「強調」です)

病床にあった時、夫に買ってもらった手提げ籠を眺めて秋のピクニックに行きたいと思っていた。しかし、健康になったものの、特別に出かけようという気にもならなかった。

 その内、世間で話題になっている文部省の絵の展覧会の話がを聞いて、早く行ってみようと思った。けれども、具体的に行こうと思いついたのは、全く偶然な出来心だった。

 ある時、夕焼け空を見て明日の晴れやかな秋日和を想像すると、全く偶然な出来心で、夫の土産の籠を持ち、ぶらぶら遊びながら展覧会に出かける気になった。

 「それが可(よ)い。展覧会は込むだろうから朝早くに出掛けて、すんだら上野から何処(どこ)か静かな田舎に行く事にしよう。」とそう思うと、A  誠に物珍らしい楽しい事が急に湧いたような気がして、直子は遠足を待つ小学生のような心で明日を待った。

 

  ……………………………

 

(設問)

問2 傍線部A「誠に物珍しい楽しい事が急に湧いたような気がして」とあるが、それはどういうことか。その説明として最も適当なものを、次の①~⑤のうちから一つ選べ。

 

① この秋はそれまでの数年間と違って体調がよく、籠を持ってどこかへ出掛けたいと考えていたところ、絵の鑑賞を夫から勧められてにわかに興味を覚え、子供と一緒に絵を見ることが待ち遠しくなったということ。


② 長い間患っていた病気が治り、子供も自分で歩けるほど成長しているので一緒に外出したいと思っていたところ、翌日は秋晴れのようだから、全快を実感できる絶好の日になるとふと思いついて、心が弾んだということ。


③ 珍しく秋に体調がよく、子供とどこかへ出掛けたいのに行き先がないと悩んでいたところ、夫の話から久しぶりに絵の展覧会に行こうとはたと思いつき、手頃な目的地が決まって楽しみになったということ。


④ 籠を持って子供と出掛けたいと思いながら、適当な行き先が思い当たらずにいたところ、翌日は秋晴れになりそうだから、展覧会の絵を見た後に郊外へ出掛ければいいとふいに気がついて、うれしくなったということ。

 

 ⑤ 展覧会の絵を早く見に行きたかったが、子供は退屈するのではないかとためらっていたところ、絵を見た後にどこか静かな田舎へ行けば子供も喜ぶだろうと突然気づいて、晴れやかな気持ちになったということ。

 

……………………………

 

(解説・解答) 心情把握問題

→すぐに選択肢を見て、選択肢に合わせて考えるようにしてください。「記述式として解く」(一度、自分で解答を書く❗)という解法もあるようですが、解答の幅が広がりすぎ(特に、小説問題では)、効率性の面からみて、おすすめできません。私の推奨する「小説の純客観的解法」は、「設問にも客観的に対応すること」、つまり、「設問に素直に対応すること」を含みます。

 

 「小説の筋をまとめる」だけの、単純な設問です。「どの程度まで、まとめていくか」については、設問・選択肢の要求に素直に従ってください。

 ④は、直前の「筋」を過不足なく、まとめているので、これが正解です。

 

    「籠を持ってまずは遊びながら展覧会を見てみようと思いついた」のは、「其前日の「全く偶然な出来心」によるのですから、「夫の勧めなどにより、そのようにしたいと思った」としている①・③は、不適当です。

 また、「夫の土産の手提げ籠」に言及していない②・⑤も、不適当です。

 

 正解は④です。

 

ーーーーーーーー

 

 (本文の概要)

何処か小学校の運動会と見えて、沢山な子供の群れがいた。近づいて見ると、長方形に取り囲まれた見物人の人垣の中に小さい一群れの子供が遊戯を始めているところであった。一張りの白いテントの内からは、ピアノ音がはずみ立って響いた。くたびれて女中に負(おぶ)さった子供は、初めて見る此珍しい踊りの群れを、呆(あ)っけにとられた顔をして熱心に眺めた。直子も何年ぶりかでこんな光景を見たので、もの珍しい心を以(もっ)て立ち留まって眺めていたが、五分許(ばか)りも見ている間に、ふと訳もない涙が上瞼(うわまぶた)の内から熱くにじみ出して来た。訳もない涙。直子はこの涙が久しく癖になった。何に出る涙か知らぬ。何に感じたと気のつく前に、ただ流れ出る涙であった。子供に乳房を与えながら、その清らかなまじめな瞳を見詰めている内に溢(あふ)るる涙のとどめられなくなる時もあった。可愛いと云うのか、悲しいと云うのか、美しいからか、清らかなゆえにか、なんにも知らぬ。今目の前に踊る小さい子供の群れ、秋晴れの空のま下に、透明な黄色い光線の中をただ小鳥のように魚のように、手を動かしたり足をあげたりしている、ただその有様(ありさま)が胸に沁(し)むのである。直子はそんな心持から女中の肩を乗り出して眺め入ってる自分の子供を顧みると、我知らず微笑まれたが、B  この微笑みの底にはいつでも涙に変(かわ)る或物(あるもの)が沢山隠れてような気がした。 」

 

……………………………

 

(設問)

問3 傍線部B「この微笑みの底にはいつでも涙に変(かわ)る或物(あるもの)が沢山隠れているような気がした」とあるが、それはどういうことか。その説明として最も適当なものを、次の①~⑤のうちから一つ選べ。

 

① 思わずもらした微笑みは、身を乗り出して運動会を見ている子供の様子に反応したものだが、そこには病弱な自分がいつも心弱さから流す涙と表裏一体のものがあると感じたということ。


② 思わずもらした微笑みは、小学生たちの踊る姿に驚く子供の様子に反応したものだが、そこには無邪気な子供の将来を思う不安から流す涙につながるものがあると感じたということ。


③ 思わずもらした微笑みは、子供の振る舞いのかわいらしさに反応したものだが、そこには純真さをいつまでも保ってほしいと願うあまりに流れる涙に結びつくものがあると感じたということ。


④ 思わずもらした微笑みは、幸せそうな子供の様子に反応したものだが、そこにはこれまで自分がさまざまな苦労をして流した涙の記憶と切り離せないものがあると感じたということ。


⑤ 思わずもらした微笑みは、子供が運動会を見つめる姿に反応したものだが、そこには純粋なものに心を動かされてひとりでにあふれ出す涙に通じるものがあると感じたということ。

 

 ……………………………

 

(解説・解答) 心情把握問題

 傍線部の「この微笑の底」に注目すれば、極めて素直な問題だと分かります。

 「この微笑の底」とありますから、直前に着目すると「直子はそんな心持から女中の肩を乗り出して眺め入ってる自分の子供を顧みると、我知らず微笑まれたが」とあるので、さらに遡ることになります。

 その際には、傍線部の「涙に変(かわ)る或物(あるもの)」を意識して遡ることに注意してください。

 すると、「小学校の運動会の遊戯の光景を五分程度見ている間に、ふと訳もない涙が熱くにじみ出して来る。子供に乳房を与えながら、その清らかなまじめな瞳を見詰めている内に溢(あふ)るる涙のとどめられなくなる時もあった。」が、解答のポイントだということが分かるはずです。

 正解は⑤です。

 

①~④はそれぞれ、以下の部分が不適当です。

① 「病弱な自分がいつも心弱さから流す涙と表裏一体のものがある」の部分。

②  「小学生たちの踊る姿に驚く子供の様子」、「無邪気な子供の将来を思う不安から流す涙につながるものがある」の部分。
③    「思わずもらした微笑みは、子供の振る舞いのかわいらしさに反応したもの」の部分。
④    「そこにはこれまで自分がさまざまな苦労をして流した涙の記憶と切り離せないものがあると感じた」の部分。

 

 ーーーーーーーー

 

 (本文の概要)

(展覧会で、直子は「幸ある朝」という絵の前に立ちつつ、その絵の作者である画家の義妹であり、直子の古い学校友達の「淑子さん」に関する思い出に浸る。)

直子は今「幸ある朝」の前に立って丁度その頃のことがいろいろ思い出されたのであった。淑子さんはそれから卒業すると間もなくお嫁に行って、そして間もなく亡くなられた。今はもうこの世にない人である。彼(あの)「造花」の画のカンヴァスから此(こ)のカンヴァスの間にはかれこれ十年近くの長い日が挟まっているのだけれども、ちっともそんな気はしない。ほんの昨日の出来事で、今にもあの快活な紅い頬をしたお転婆な遊び友達の群れが、どやどやと此室に流れ込んで来そうな気がする。そして其中に交じる自分は、ひとり画の前に立つ此の自分ではなくって全く違った別の人のような気がする。直子はその親しい影の他人を正面に見据えて見て、笑い度いような冷やかしたいような且(かつ)憫(あわれ)み度(た)いような気がした。而(しか)してふり返る度にうつる過去の姿の、如何(いか)にも価なく見すぼらしいのを悲しんだ。直子は C  こうした雲隠れのような追懐に封じらてる 内に、突然けたたましい子供の泣き声が耳に入った。

 

 …………………………… 

 

(設問) 

問4 傍線部C「こうした雲のような追懐に封じられてる」とあるが、それはどういうことか。その説明として最も適当なものを、次の1~5のうちから一つ選べ。

 

 ① 絵を見たことをきっかけに、淑子さんや友人たちと同じように無邪気で活発だった自分が、ささなことにも心を動かされていたことを思い出した。それに引きかえ、長い間の病気が自分の活発な気質をくもらせてしまったことに気づき、沈んだ気持ちに陥っている。

 

② 絵を見たことをきっかけに、淑子さんをはじめ女学院時代の友人たちとの思いでが次から次へと湧き上がってきた。当時のことは鮮やかに思い出されるのに淑子さんはすでに亡く、自分自身も変化していることに気づかされて、もの思いから抜け出すことができずにいる。

 

③ 絵を見たことをきっかけに、親しい友人であった淑子さんと自分たちとの感情がすれ違ってしまった出来事を思い出した。淑子さんと二度と会うことができなくなった今となっては、慕わしさが次々と湧き起こるとともに当時の未熟さが情けなく思われて、後悔の念に胸がふさがれてる。

 

④ 絵を見たことをきっかけに、女学校の頃の出来事や友人たちの姿がとりとめもなく次々に浮かんできた。しかし、すでに十年近い時間が過ぎてしまい、もうこの世にいない淑子さんの姿がかすんでしまっていることに気づいて、件名に思い出そうと努めている。

 

⑤ 絵をみたことをきっかけに淑子さんが自分たちに仕掛けたかわいらしい謎によって引き起こされた、さまざまな感情がよみがえり、ふくれ上がってきた。それをたどり直すことで、ささやかな日常を楽しむことができた女学生の頃の感覚を懐かしみ、取り戻したいという思いにとらわれている。

 

 ……………………………

 

(解説・解答) 心情把握問題

 

 問3と同様に、傍線部の「こうした」に注目することがスタートです。直前を精読してください。

 傍線部Cの「追懐」というのは、直子自身やその友達の「淑子さん」たちに関する記憶です。また、その追憶に「封じられる」というのは、「その状態」に、「拘束されていること。捕らわれていること」を意味しています。

 

 ただ女学生のころのことを思い出しているというだけでは、ありません。

ほんの昨日の出来事で、今にもあの快活な紅い頬をしたお転婆な遊び友達の群れが、どやどやと此室に流れ込んで来そうな気がする。そして其中に交じる自分は、ひとり画の前に立つ此の自分ではなくって全く違った別の人のような気がする。直子はその親しい影の他人を正面に見据えて見て、笑い度いような冷やかしたいような且(かつ)憫(あわれ)み度(た)いような気がした。而(しか)してふり返る度にうつる過去の姿の、如何(いか)にも価なく見すぼらしいのを悲しんだ。」とあるように、直子は、「女学生のころの直子」と「今の直子自身」とは「全く違った別の人のような気がする」という思いに、捕らわれているのです。

 このことを踏まえている選択肢を選んでください。

 正解は②です。

 他の選択肢は「女学生時代の直子」と「今の直子自身」との「違い」の説明が不十分です。

 

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(設問)

問5 本文には、自分の子供の様子を見守る直子の心情が随所に描かれている。それぞれの場面の説明として最も適当なものを、次の①~⑤のうちから一つ選べ。

 

① 子供が歩き出すことを直子が想像したり、成長していたずらもするようになったことが示されたりする場合には、子供を見守り続ける直子の心情が描かれている。そこでは、念願だった秋のピクニックを計画する余裕もないほどに、子育てに熱中する直子の母としての自覚が印象づけられている。

 

② 「かァかァかァ。」と鴉の口まねをするなど、目にしたものに子供が無邪気に反応する場面には、子供とは異なる思いでそれらを眺める直子の心の動きが描かれている。そこでは、長い間病床についていたために、ささいなことにも暗い影をみてしまう直子の不安な感情が暗示されている。

 

③ 運動会の小学生たちを子供が眺める場面には、その様子を注意深く見守ろうとする直子の心情が描かれている。そこでは、直子には見慣れたものである秋の風物が、子供の新鮮な心の動きによって目新しいものになっている様が表わされている。

 

④ 初めて接する美術品を子供が眺めている場面には、その反応を見守ろうとする直子の心情が描かれている。そこでは、美術品の中に自分の知っているものを見つけた子供が無邪気な反応を示す様を、周囲への気兼ねなく楽しく直子ののびやかな気分が表わされている。

 

⑤ 「とや、とや。」と言って子供が急に泣き出した場面には、自分の思いよりも子供のことを優先する直子の心の動きが描かれている。そこでは、突然現実に引き戻された直子が、娘時代はもはや遠くなってしまったと嘆く様が表わされている。

 

 ……………………………

 

(解説・解答) 心情把握問題


 まず「初めて接する美術品を子供が眺めている場面」という指定に従って、42行目以下を精読します。(本文については、各種解説書や、Web 上の予備校の速報などを参照してください)

 すると、子供が絵を眺める際の反応を見守ろうとしている直子の心情が記述されています。

 ④との関連で、特に注意するべきは、50行目以下の部分です。概要を引用します。

「子供はたまたま自分の知った動物とか鳥とか花とかの形を見出した時には非常に満足な笑い方をした。女の裸体像を見つけては、『おっぱい、おっぱい』とさも懐(なつか)しそうに指(ゆびさ)しをするのには直子も女中も一緒に笑い出した。まだ朝なのでこうした戯れも誰の邪魔にもならぬ位(くら)い入場者のかげは乏しかったのである」

 以上の部分から、④が正解になります。

 

  

 他の選択肢は、以下の点で誤りです。


① 「念願だった秋のピクニックを計画する余裕もないほどに、子育てに熱中する直子の母としての自覚」は、本文に、このような記述は、ありません。


② 「ささいなことにも暗い影を見てしまう直子の不安な感情」は、本文に、このような記述は、ありません。


③ 「直子には見慣れた ものである秋の風物が、子供の新鮮な心の動きによって目新しいものになっている様」は、本文に、このような記述は、ありません。


⑤「娘時代はもはや遠くなってしまったと嘆く様」のような表現は、本文に、ありません。

 

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 (設問)

問6 この文章の表現に関する説明として適当でないものを、次の①~⑥のうちから二つ選べ。

→他の設問もそうですが、この設問も問題5と同様に、本文より先に設問を見ておけば、ラクな問題です。本文を読みながら、一つ一つの選択肢をチェックしていくようにしてください。

  

① 語句に付された傍点には、共通してその語を目立たせる働きがあるが1行目「あんよ」、24行目「あらわ」のように、その前後の連続するひらがな表記から、その語を識別しやすくする効果もある。


② 22行目以降の落葉や46行目以降の日本画の描写には、さまざまな色彩語が用いられている、前者については、さらに擬音語が加えられ、視覚・聴覚の両面から表現されている。


③ 38行目「透明な黄色い光線」、55行目「真珠色の柔らかい燻したような光線」のように、秋晴れの様子が室内外に差す光の色を通して表現されている。

 

④ 43行目「直子は本統(ほんとう)は画(え)の事などは何にも知らぬのである」、44行目「画の具のなさえ委(くわ)しくは知らぬ素人である」は、直子の無知を指摘し、突き放そうとする表現である。

 

⑤ 55行目「暫時うるさい『品定め』から免れた悦(よろこ)びを歌いながら、安らかに休息してるかのように見えた」は、絵画や彫刻にかたどられた人たちの、穏やかな中にも生き生きとした姿を表現したものである。

 

⑥ 直子が、亡くなった淑子のことを回想する68行目以降の場面では、女学生時代の会話が再現されている。これによって、彼女とのやり取りが昨日のことのように思い出されたことが表現されている。

 

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(解説・解答) 表現に関する問題

 

④ 本文の他の記述を考慮しても、43行目・44行目の表現が「直子の無知を指摘し、突き放そうとする表現」と評価することは、無理です。

 

⑤ 「『品定め』から免れた悦(よろこ)びを歌いながら、安らかに休息してるかのように見えた」の説明としては、「絵画や彫刻にかたどられた人たちの、穏やかな中にも生き生きとした姿」は、ズレている、と言えます。 

 従って、不適当です。

 

 他の選択肢は、本文と照合すると、「適当」と評価されます。

 →本設問は、素直で単純な問題でした。選択肢だけで、ある程度、正解が絞れました。

 

(解答) ④・⑤

 

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(5)今回の小説問題本文の「あらすじ」

 

 病床にあった時、夫に買ってもらった手提げ籠を眺めて秋のピクニックに行きたいと思っていた。しかし、健康になったものの、特別に出かけようという気にもならなかった。

 その内、世間で話題になっている文部省の絵の展覧会の話がを聞いて、早く行ってみようと思った。けれども、具体的に行こうと思いついたのは、全く偶然な出来心だった。

 ある時、夕焼け空を見て明日の晴れやかな秋日和を想像すると、全く偶然な出来心で、夫の土産の籠を持ち、ぶらぶら遊びながら展覧会に出かける気になった。

 秋の一日、主人公・直子は、子供(幼児)と一緒に文部省美術展覧会(文展)を見に行く。その会場に着くまでの運動会の場面、会場内での出来事が描かれている。

 直子が流す涙、美術品を見て女学校時代を思い出す場面などがメインになっている。

 

 

(6)野上弥生子氏の紹介

 


野上 弥生子(のがみ やえこ、本名:野上 ヤヱ(のがみ やゑ)、旧姓小手川、1885年~ 1985年) は、日本の小説家。大分県臼杵市生まれ。14歳で上京。

 1906年明治女学校高等科卒業。同年野上豊一郎と結婚,その縁で夏目漱石門下となり『縁 (えにし) 』 (1907) を発表。以来、『海神丸』 (22) ,『大石良雄』 (26) などを書き,昭和に入ると『真知子』 (28~30) ,『若い息子』 (32) ,『迷路』 (6部,36~56) などの社会小説を発表。

豊一郎の妻。夏目漱石の門下。弥生子は漱石の会に出る夫を通じて、夏目漱石の指導を受けた。「海神丸」で文壇的地位を確立。広い社会的視野と教養主義を統一した作風を築いたと評価される。没するまでに読売文学賞、女流文学賞、文化勲章、日本文学大賞などを受賞。

 

 

(7)当ブログの「夏目漱石」関連記事の紹介・一覧

 

 私は2016年12月30に以下のようなツイートをしました。

 

#ブログ更新しました
「 #トランプ現象 と #夏目漱石 →反グローバリズム的発言と文明開化批判」
今年は漱石没後100年、来年は生誕150年という節目。また、来年度の入試では、トランプ現象に関する論考が流行になる可能性が大です。https://t.co/ne30miUrDT

 

 この直後の、センター試験国語第一2問題に野上弥生子氏の『秋の一日』が出題されましたので、2017年1月31日に以下のツイートをしました。

 

 #ブログ更新中
#2017センター試験国語 に出題された #野上弥生子 は #夏目漱石 の弟子。私の予想通りに、今年も、早くも、漱石関連の著作が出題されました。2016は漱石没後100年、2017年は #漱石生誕150年 。この調子で、今年は漱石関係の著作が多く出題されそうです。 https://t.co/yKIJlAIIwU

 

 ここ数年は、これまで以上に、漱石関係の著作に注目する必要があると思われます。

 そこで、当該ブログの最近の「漱石関係」の記事のリンク画像を以下に貼っておきます。ぜひ、ご参照ください。

 

gensairyu.hatenablog.com

 

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(8)当ブログの「小説問題解説」関連記事の紹介・一覧

 

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(9)当ブログの「センター試験国語解説」記事の紹介・一覧

 

 

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(10)「2017センター試験国語第1問・的中報告・問題解説」記事の紹介

 

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 以下の記述は、上の記事の冒頭部分です。上の記事を、ぜひ、ご参照ください。

 

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「(1)当ブログの予想論点記事が2017センター試験国語[1]に的中(著者・論点)しました。

2016東大・一橋大・静岡大ズバリ的中(3大学ともに全文一致→下にリンク画像があります)に続く快挙です。

 2016・12・13に発表した当ブログの記事((「国語予想問題『プロの裏切り・プライドと教養の復権を』神里達博」→下にリンク画像を貼っておきます)が、2017センター試験国語(現代文)問題[1](「科学コミュニケーション」・小林傳司)に、的中(著者・論点→科学論→科学コミュニケーション)しましたので、この記事で報告します。

 

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今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

 

   

 

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 今回の試験問題になった「秋の一日」が収録されています。

野上彌生子全小説 〈1〉 縁 父親と3人の娘

野上彌生子全小説 〈1〉 縁 父親と3人の娘

 

 

下の本は、私の制作した問題集です。文語文・擬古文対策をポイントにしています。早稲田大学政経学部などで出題された、文語文・擬古文(夏目漱石・高村光太郎・正岡子規・柳宗悦など)の過去問を7問解説しています。

頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

 

 

下の本は、私の制作した問題集です。小説問題(夏目漱石・芥川龍之介・幸田文など)が6問収録されています。

5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

 

 

私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。

https://twitter.com/gensairyu 

https://twitter.com/gensairyu2

 

現代文(国語)解法・対策ー「文章並べ替え問題」のコツ・ポイント

 

 (1)現代文(国語)で頻出の「文章並べ替え問題」をマスターしよう。

 

 最近は、早稲田大学、マーチレベル大学、関関同立などの難関大学で、「文章並べ替え問題」が流行になっています。

 今まで出題歴のない大学や学部で、突然、出題されることも、よくあります。

 従って、しっかりと対策をしておくべきです。

  

 この問題が出来ないと、全体の文脈の把握が困難になります。配点以上のダメージを受けることになります、

 しかも、本番では、本文全体のキーの部分が、文章並べ替え問題として使われることが多いので、「文章並べ替え問題」を得意分野にしておくべきです。

 

 「文章並べ替え問題」が不得意な受験生は、「文章並べ替え問題」のみを、集中的にやるようにしてください。

 短期間に「文章並べ替え問題」を集中的にやることで、解法のポイント・コツを会得することが、可能になるのです。

 しかも、その際には、志望校レベルの過去問のみを、やるようにした方が賢明です。

 良質な問題を演習しなければ、実力はつきません。

 

 「文章並べ替え問題」は、論理力や推理力のアップに有用です。

 しかも、先程述べましたように、志望大学で今まで「文章並べ替え問題」が出題されていないとしても、いつ出題されるか分からないので、油断なく準備しておくべきでしょう。

 

【「文章並べ替え問題」の解法・ポイント】

 

① 第一に、「並べ替えるべき文章」(選択肢の文章)の全体、空欄の直前・直後の文脈にざっと目を通して、大まかな内容(文脈)を把握する。

 

② その後は、まずは、「並べ替えるべき文章」(選択肢の文章)に集中する。 

 初めに、「並べ替えるべき文章」(選択肢の文章)各文の中心テーマを把握。その際に、各文の接続語、指示語、文末等をチェックする。

 

③ その上で、文章のペアを作っていく。  その際には、わかるものからペアを作っていく。

 つまり、どれが「全体の最初の文章」として適切か、については、あまり気にしないようにする。

 →全部の順序を一度に確定しようとはしないことです。せっかちは禁物です。イライラしないように! 冷静第一です。地道第一です。

 最初は、「ペアを作ること」に専念するべきです。

 

④ ペアを2~3組程度作った後で、「どのペアが最初に来るか、最後に来るか」、を考える。

 その際には、「空欄(並べ替え問題の空欄)の直前・直後」と「並べ替えた文」との接続関係を精密にチェックする。

 

 以上を前提にして、早稲田大学教育学部・政経学部の過去問の演習にチャレンジしてしてください。

 演習問題の直後に、解説・解答記事があります。

 

 

(2)2010年度・早稲田大学教育学部・「旅のいろいろ」谷崎潤一郎

 

 

陰翳礼讃 (中公文庫)

 

 

 

 

 

 

 (↑「旅のいろいろ」が収録されています)

 

(問題文本文)

(青字は当ブログによる「ふりがな」・「注」です)

当節の宣伝は騒々しいお客を一(ひ)と纏(まと)めにして一つの地方へ掃き寄せてくれる働きがある。せんだっても和気律次郎君の話に、近来紀州の白浜が大々的の宣伝をやり出した結果、別府がすっかりさびれてしまって弱っているということであったが、もともとわれわれは、新し物好きの、一時のお調子に乗り易い国民であるから、或る一箇所が鉦(かね)や太鼓でジャンジャン囃(はや)し立てると、どッとその方へ寄り集まつて、余所(よそ)の土地は皆お留守になってしまう。そこで、そのコツを呑(の)み込んで、宣伝の裏を掻(か)くようにする、一方へ人が集まった隙(ひま)にその反対の方面へ行く、という風に心がけると、面白い旅をすることがある。何処(どこ)そことはっきり指摘するのは趣意(→「考え。目的」という意味。「意味問題」が入試頻出)に反するからいわないが、大体において、瀬戸内海の沿岸や島々などは、そういう意味で閑却(かんきゃく)(→「無視する。捨て置く」という意味。「意味問題」が頻出)されている地方ではないか。冬あの辺へ行ってみると、実にぽかぽかして暖かい。

[   D   ]

そうしてそういう心がけになれば汽車や電車の御厄介(ごやっかい)(→「読み」が頻出)にならずとも、たとえば私が住んでいるこの精道村の裏山あたりの誰も気が付かない谷あいや台地などに、却(かえ)って恰好(かっこう)(→「読み」が頻出)な花と場所とを見出だすことがあるからである。

 なおまた、これだけは大阪地方の読者諸君にそっとお知らせしたいのであるが、私は実は、桃の花の咲く時分、関西線の汽車に乗って春の大和路を眺めることを楽しみの一つに数えているのである。」(谷崎潤一郎「旅のいろいろ」)

  

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問題  空欄Dには、次のア~オの五つの文章が入る。正しい順序に並び替えよ。

 

 如才(じょさい)のない(→「如才のない」とは「気がきいて、手抜かりがない」という意味。「意味問題」が入試頻出です)鉄道省では、毎年山々の雪が融(と)けてスキーが駄目になった時分からぽつぽつ花の宣伝を始め、四月中は花見列車を出すのは勿論(もちろん)(→「読み」が入試頻出)、次の日曜には何処(どこ)が見頃とか何処が七分咲きとか一々掲示をしてくれるので、静かな花見をしたい者は、そういう場所を避けて廻ればよいことになる。

 

 阪神地方も暖かいけれども、あの辺はまたひとしお暖かく、一月の末には早(は)やちらほらと梅が咲き初めるし、蓬(よもぎ)を摘んで草餅を作ったりなどしている。

 

 私は花見が大好きで春はどうしても絢爛(けんらん)(→「読み」・「意味問題」が入試頻出)たる花盛りの景色を見ないと、春の気分を堪能(たんのう)(→「読み」・「意味問題」が入試頻出)しないのであるが、これにもやはり今のコツで行く。

 

 そのくせ、避寒の客たちは白浜や別府や熱海などへ集まってしまっているから、何処の宿屋もひっそり閑(かん)として、まことに悠々たるものである。

 

 それというのが、何も花を見るのには名所の花に限ったことはないのであって、見事に咲いたただ一本の桜があれば、その木陰に幔幕(まんまく)を張り、重詰めを開いて、心のどかに楽しむことが出来るからである。

 

ーーーーーーーー

 

(解説・解答)

上記の、

① 第一に、「並べ替えるべき文章」(選択肢の文章)の全体、空欄の直前・直後の文脈にざっと目を通して、大まかな内容(文脈)を把握する。

 

② その後は、まずは、「並べ替えるべき文章」(選択肢の文章)に集中する。 

 初めに、「並べ替えるべき文章」(選択肢の文章)各文の中心テーマを把握。その際に、各文の接続語、指示語、文末等をチェックする。

 

③ その上で、文章のペアを作っていく。  その際には、わかるものからペアを作っていく。

 つまり、どれが「全体の最初の文章」として適切か、については、あまり気にしないようにする。

 

の手順に注意してください。

 

 

(1)まず、各選択肢を検討します。

 

 イ・エは「暖かい」・「避寒」でペアになり、ア・ウ・オに共通するテーマは「花見」なので、グルーピング(分類分け)が可能になります。

 

 まず、イ・エから検討します。

 エの「そのくせ」がヒントになります。

 イの「あの辺はまたひとしお暖かく、一月の末には早(は)やちらほらと梅が咲き初めるし、蓬(よもぎ)を摘んで草餅を作ったりなどしている」を受けて、「そのくせ」(それなのに)「避寒の客たちは白浜や別府や熱海などへ集まってしまっている」(エ)のである、と理解することが可能です。

 「イ→エ」のペアが確定します。

 

 次にア・ウ・オを検討します。

 オの「それというのが、心のどかに楽しむことが出来るからである」は、直前の一文のを理由になるので、オの「何も花を見るのには名所の花に限ったことはない」に対応する一文を探せばよいことになります。

 そうなると、何も花を見るのには名所の花に限ったことはない」は、アの「鉄道省では、・・・・次の日曜には何処(どこ)が見頃とか何処が七分咲きとか一々掲示をしてくれるので、静かな花見をしたい者は、そういう場所を避けて廻ればよい」に対応します。

 従って、「ア→オ」が成立します。

 ウの「私は花見が大好きで」・「これにもやはり今のコツで行く」は、「花見の基本的な方針」の表明なので、「ア→オ」の前にくることが分かります。

 よって、「ウ→ア→オ」のセットが確定します。

 

(2)次に、「これまでに作ったペア、セット」と、「空欄の直前・直後の文脈」との接続関係の確認をします。

 

 空欄直前は「大体において、瀬戸内海の沿岸や島々などは、そういう意味で閑却されている地方ではないか。冬あの辺へ行ってみると、実にぽかぽかして暖かい。」であり、

空欄直後は、「そうしてそういう心がけになれば汽車や電車の御厄介にならずとも、たとえば私が住んでいるこの精道村の裏山あたりの誰も気が付かない谷あいや台地などに、却って恰好(かっこう)な花と場所とを見出だすことがあるからである。」

となっているので、「イ→エ」→「ウ→ア→オ」が確定します。 

 

(解答) イ→エ→ウ→ア→オ

 

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(谷崎潤一郎の紹介)

 

谷崎 潤一郎(たにざき じゅんいちろう・1886年~1965年)日本の小説家。

初期は「耽美主義」と評価された。国内外で、近代日本文学を代表する小説家の一人として、評価は非常に高い。過去においては、ノーベル文学賞の候補になったことがあった。

代表作として、
『刺青』(→入試頻出です)『痴人の愛』『卍(まんじ)』『蓼喰う虫』『春琴抄』『陰翳礼讚』(→入試頻出です)『細雪』『少将滋幹の母』『鍵』『瘋癲老人日記』などがある。

→なお、2010年度早稲田大学・教育学部では、問19として、「谷崎潤一郎の作品名(小説)を一つあげて、記せ」という問題が出題されました。谷崎潤一郎は文学史問題として頻出ですが、このような出題は珍しいです。

 

 

(3)2009年度・早稲田大学教育学部・「高坐の牡丹燈籠」岡本綺堂

 

(問題文本文)(青字は当ブログによる「ふりがな」・「注」です)

私は「牡丹燈籠(ぼたんどうろう)」の速記本を近所の人から借りて読んだ。その当時、わたしは十三、四歳であったが、一編の眼目とする牡丹燈籠の怪談の件(くだり)を読んでも、さのみに怖いとも感じなかった。どうしてこの話がそんなに有名であるのかと、いささか不思議にも思う位であった。それから半年ほどの後、円朝が近所(麹町区山元町)の万長亭という寄席へ出て、かの「牡丹燈籠」を口演するというので、私はその怪談の夜を選んで聴きに行った。作り事のようかであるが、恰(あたか)もその夜は初秋の雨が昼間から降りつづいて、怪談を聴くには全くお誂(あつら)え向きの宵であった。
「お前、怪談を聴きに行くのかえ」と、母は嚇(おど)すように云った。
「なに、牡丹燈籠なんか怖くありませんよ」
 速記の活版本で高(たか)をくくっていた。(→「高をくくる」とは「軽くみる」という意味。今回の入試では「高」の部分が空欄になっていて、「ひらがな二字で記せ」という問題として出題されています)私は、平気で威張って出て行った。ところが、いけない。円朝がいよいよ高坐にあらわれて、燭台(しょくだい)の前でその怪談を話し始めると、私はだんだんに一種の妖気(ようき)を感じて来た。満場の聴衆はみな息を嚥(の)んで聴きすましている。伴蔵とその女房の対話が進行するにしたがって、私の頸(くび)のあたりは何だか冷たくなって来た。周囲に大勢の聴衆がぎっしりと詰めかけているにも拘(かかわ)らず、私はこの話の舞台となっている根津のあたりの暗い小さい古家のなかに坐って、自分ひとりで怪談を聴かされているように思われて、ときどきに左右を見返った。今日(こんにち)と違って、その頃の寄席はランプの灯が暗い。高坐の蝋燭(ろうそく)の火も薄暗い。外には雨の音がきこえる。それらのことも怪談気分を作るべく恰好(かっこう)(→「読み」が頻出)の条件になっていたに相違ないが、いずれにしても私がこの怪談におびやかされたのは事実で、席の刎(は)ねたのは十時頃、雨はまだ降りしきっている。私は暗い夜道を逃げるように帰った。
 この時に、私は円朝の話術の妙と云うことをつくづく覚(さと)った。速記本で読まされては、それほどに凄(すご)くも怖(おそ)ろしくも感じられない怪談が、高坐に持ち出されて円朝の口にのぼると、人を悸(おび)えさせるような凄味(すごみ)を帯びて来るのは、実に偉いものだと感服した。時は欧化主義の全盛時代で、いわゆる文明開化の風が盛んに吹き捲(まく)っている。学校にかよう生徒などは、もちろん怪談のたぐいを信じないように教育されている。その時代にこの怪談を売り物にして、東京じゅうの人気を殆(ほとん)ど独占していたのは、怖い物見たさ聴きたさが人間の本能であるとは云え、確かに円朝の技倆(ぎりょう)(→「読み」が入試頻出)に因(よ)るものであると、今でも私は信じている。
[   D   ]
「牡丹燈籠」の原本が「剪燈(せんとう)新話」の牡丹燈記であるとは誰も知っているが、全体から観(み)れば、牡丹燈籠の怪談はその一部分に過ぎないのであって、飯島の家来孝助の復讐(ふくしゅう)と、萩原の下人(げにん)伴蔵の悪事とを組み合わせた物のようにも思われる。飯島家の一条は、江戸の旗本戸田平左衛門の屋敷に起こった事実をそのまま取り入れたもので、それに牡丹燈籠の怪談を結び付けたのである。伴蔵の一条だけが円朝の創意であるらしく思われるが、これにも何か粉本(ふんぽん)(→「種本」という意味。今回の入試では、「意味」を選択問題として出題。文脈から解答が可能です)があるかも知れない。ともかくも、こうした種々の材料を巧みに組み合わせて、毎晩の聴衆を倦(う)ませないように、一晩ごとに必ず一つの山を作って行くのであるから、一面に於(お)いて彼は立派な創作家であったとも云い得る。

 (岡本綺堂「高坐の牡丹燈籠」『岡本綺堂随筆集』)

 

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問題 空欄Dには、次のア~オの五つの文章が入る。正しい順序に並び替えよ。

 

ア これは円朝自身が初めてこの話を作った時に、心おぼえの為にその筋書を自筆で記しるして置いたのであるという。

 

イ 実に立派な紀行文である。

 

 春陽堂発行の円朝全集のうちに「怪談牡丹燈籠覚書」というものがある。

 

エ 円朝は塩原多助を作るときにも、その事蹟を調査するために、上州沼田その他に旅行して、「上野(こうずけ)下野(しもつけ)道の記」と題する紀行文を書いているが、それには狂歌や俳句などをも加えて、なかなか面白く書かれてある。

 

オ 自分の心覚えであるから簡単な筋書に過ぎないが、それを見ても円朝が相当の文才を所有していたことが窺(うかが)(→「読み」・「意味問題」が入試頻出)い知られる。

 

ーーーーーーーー

 

(解説・解答) 

(1)まず、各選択肢を検討します。

 

 ウの「春陽堂発行の円朝全集のうちに「怪談牡丹燈籠覚書」というものがある。」は、具体例の提示であるから、これが最初になります。

 アの「これ」が、ウの「怪談牡丹燈籠覚書」をさすので、「ウ→ア」の接続関係が確定します。

 アの「心おぼえの為」と、オの「自分の心覚えである」・「それを見て」に着目すると、「ア→オ」の接続関係が理解できます。

 エは、「円朝は塩原多助を作るときにも」に着目すれば、「円朝が相当の文才を所有していたことが窺(うかが)い知られる」と「円朝の表現力」をかなり評価しているオの、付加的内容であることがわかります。

 「オ→エ」が確定します。

 イの「実に立派な紀行文である」は、「まとめ」の内容になっていますので、「エ→イ」が確定します。

 以上より、「ウ→ア→オ→エ→イ」のセットが、一応確定します。

 

 

(2)「このセット」と、「空欄の直前・直後の文脈」との接続関係の確認をしてください。

 

 今回は、特に直後の文脈との接続関係が問題になります。

 

オ 自分の心覚えであるから簡単な筋書に過ぎないが、それを見ても円朝が相当の文才を所有していたことが窺(うかが)い知られる。

エ 円朝は塩原多助を作るときにも、その事蹟を調査するために、上州沼田その他に旅行して、「上野(こうずけ)下野(しもつけ)道の記」と題する紀行文を書いているが、それには狂歌や俳句などをも加えて、なかなか面白く書かれてある。

イ 実に立派な紀行文である。

(空欄の直後)「ともかくも、こうした種々の材料を巧みに組み合わせて、毎晩の聴衆を倦(う)ませないように、一晩ごとに必ず一つの山を作って行くのであるから、一面に於(お)いて彼は立派な創作家であったとも云い得る。」

の文脈の流れは、スムーズです。

 従って、このセットが正解になります。

 

(解答)  ウ→ア→オ→エ→イ

 

 

(4)2008年度・早稲田大学政経学部・『春の修善寺』岡本綺堂

 

 (問題文本文)(青字は当ブログによる「ふりがな」・「注」です)

 避寒の客が相当にあるとはいっても、正月ももう末に近いこの頃は修善寺の町も静で、宿の二階に坐っていると、きこえるものは桂川の水の音と修禅寺の鐘の声ばかりである。修禅寺の鐘は一日に四、五回撞(つ)く。時刻をしらせるのではない、寺の勤行(ごんぎょう)の知(しら)せらしい。ほかの時はわたしも一々記憶していないが、夕方の五時だけは確かにおぼえている。それは修禅寺で五時の鐘をつき出すのを合図のように、町の電灯が一度に明るくなるからである。

 春の日もこの頃はまだ短い。四時をすこし過ぎると、山につつまれた町の上にはもう夕闇が降りて来て、桂川の水にも鼠色の靄(もや)がながれて薄暗くなる。河原に遊んでいる家鴨(あひる)の群の白い羽もおぼろになる。川沿いの旅館の二階の欄干にほしてある紅あかい夜具がだんだんに取込まれる。この時に、修禅寺の鐘の声が水にひびいて高くきこえると、旅館にも郵便局にも銀行にも商店にも、一度に電灯の花が明るく咲いて、町は俄(にわか)に夜のけしきを作って来る。旅館は一(ひ)としきり忙しくなる。大仁(おおひと)から客を運び込んでくる自働車や馬車や人力車の音がつづいて聞える。それが済むとまたひっそりと鎮(しず)まって、夜の町は水の音に占領されてしまう。二階の障子をあけて見渡すと、近い山々はみな一面の黒いかげになって、町の上には家々の湯の烟(けむり)が白く迷っているばかりである。

 [   7   ]温泉場に来ているからといって、みんなのんきな保養客ばかりではない。この古い火鉢の灰にも色々の苦しい悲しい人間の魂が籠っているのかと思うと、わたしはその灰をじっと見つめているのに堪えられないように思うこともある。
 修禅寺の夜の鐘は春の夜の寒さを呼び出すばかりでなく、火鉢の灰の底から何物かを呼び出すかも知れない。宵(よい)っ張(ぱ)りの私もここへ来てからは、九時の鐘を聴かないうちに寝ることにした。」(岡本綺堂『春の修善寺』)

 

ーーーーーーーー

 

問 空欄7は、次の5つの文からなっている。その順序を正しく並べ替えよ。

 

イ しかし湯治客のうちにも、町の人のうちにも、色々の思いをかかえてこの鐘の声を聴いているのもあろう。

 

ロ わたしが今無心に掻(か)きまわしている古い灰の上にも、遣瀬(やるせ)ない(→「せつない。悲しい」という意味」)女の悲しい涙のあとが残っているかも知れない。

 

ハ それに注意するのはおそらく一山の僧たちだけで、町の人々の上にはなんの交渉もないらしい。

 

ニ 修禅寺では夜の九時頃にも鐘を撞く。

 

ホ 現にわたしが今泊っているこの室だけでも、新築以来、何百人あるいは何千人の客がとまって、わたしが今坐っているこの火鉢のまえで、色々の人が色々の思いでこの鐘を聴いたであろう。

 

ーーーーーーーー

 

(解説・解答)

(1)まず、各選択肢を検討します。

 

 各選択肢の指示語や接続語、並列の助詞などに注目してください。

 イの「しかし」・「この鐘」・「色々の思い」、ロの「古い灰の上にも」の「も」、ハの「それ」、ホの「現にわたしが」・「色々の思い」・「この鐘」、がポイントになります。

 

 ハの「それ」は、ニの「修禅寺では夜の九時頃にも鐘を撞く」ことを、さしています。 「ニ→ハ」が確定します。

 イの「しかし」に着目して、ハの「町の人々の上にはなんの交渉もないらしい」と、イの「町の人のうちにも、色々の思いをかかえてこの鐘の声を聴いているのもあろう」の接続関係に注目します。「ハ→イ」が確定します。

 ホの「現にわたしが」・「色々の思い」・「この鐘」に着目して、「イ→ホ」の接続関係を確認します。

 ホの「この火鉢のまえで、色々の人が色々の思いでこの鐘を聴いたであろう」、ロの「古い灰の上に、遣瀬(やるせ)ない女の悲しい涙のあとが残っているかも知れない」に注目して、 「ホ→ロ」を確定させます。

 以上より、「ニ→ハ→イ→ホ→ロ」が一応、決まります。

 

(2)「一応確定したセット」と、「空欄の直前・直後の文脈」との接続関係の確認

 「ニ→ハ→イ→ホ→ロ」が一応、決まりますが、「空欄の直前・直後との接続関係」を確認することを忘れないようにしてください。

 今回の問題でも、接続関係を確認してみます。

 

ホ 現にわたしが今泊っているこの室だけでも、新築以来、何百人あるいは何千人の客がとまって、わたしが今坐っているこの火鉢のまえで、色々の人が色々の思いでこの鐘を聴いたであろう。

ロ わたしが今無心に掻(か)きまわしている古い灰の上にも、遣瀬(やるせ)ない女の悲しい涙のあとが残っているかも知れない。

(空欄の直後)「温泉場に来ているからといって、みんなのんきな保養客ばかりではない。この古い火鉢の灰にも色々の苦しい悲しい人間の魂が籠っているのかと思うと、わたしはその灰をじっと見つめているのに堪えられないように思うこともある。」

 

 以上を検討すると、文脈の流れは、スムーズです。

 従って、「ニ→ハ→イ→ホ→ロ」が正解になります。

 

 (解答) ニ→ハ→イ→ホ→ロ

 

 ーーーーーーーー

 

(岡本綺堂の紹介) 


岡本綺堂(おかもと きどう・1872年~1939年) は、小説家、劇作家。本名は岡本 敬二(おかもと けいじ)。別号に狂綺堂、鬼菫、甲字楼など。
代表作として、
『半七捕物帳』
『番町皿屋敷』
『修禅寺物語』(→文学史問題として頻出です)
などがある。

 

 ーーーーーーーー

 

今回の記事は、終わりです。

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

ご期待ください。

 

   

  

陰翳礼讃 (中公文庫)

陰翳礼讃 (中公文庫)

 

  

春の修善寺

春の修善寺

 

 

この私の参考書にも、早稲田大学政経学部等の出題の「並べ替え問題」が入っています。

頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

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 私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。

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2017センター試験国語第1問・的中報告・問題解説・科学論

(1)当ブログの予想論点記事が2017センター試験国語[1]に的中(著者・論点)しました。

2016東大・一橋大・静岡大ズバリ的中(3大学ともに全文一致→下にリンク画像があります)に続く快挙です。うれしいことです。

 

 2016・12・13に発表した当ブログの記事(「国語予想問題『プロの裏切り・プライドと教養の復権を』神里達博」→下にリンク画像を貼っておきます)が、2017センター試験国語(現代文)問題[1](「科学コミュニケーション」・小林傳司)に、的中(著者・論点→科学論→科学コミュニケーション)しましたので、この記事で報告します。

 

 つまり、2017センター試験に、下の記事の中で紹介・解説した小林傳司氏のインタビュー記事(朝日新聞2016年3月10日(東日本大震災5年 問われる科学)「7:教訓を生かす 科学技術、社会と関わってこそ 専門家に任せすぎるな」)に強く関連した、小林氏の論考が出題されたのです。

 

 

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 下の鷲田清一氏の論考は、2016年度・静岡大学国語にズバリ的中しました。

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 「2017センター試験国語[1]の『要旨』」と「当ブログ記事・的中」の説明

 

 2017センター試験に出題された小林氏の論考の「要旨」は、以下の通りです。

 科学社会学者(コリンズ、ピンチ)の見解を引用しつつ、その主張を考察する論考です。

 現在、科学の様々なマイナス面が明らかになるにつれて、「科学が問題ではないか」という問題意識が生まれてきている。しかし、科学者は、このような問題意識を、科学に対する無知・誤解から生まれた反発とみなしがちである。

 だが、科学社会学(コリンズ、ピンチ)は、従来の科学者が持つこのような発想を批判する。科学は全面的に善なる存在ではないし、無謬の知識でもない、という。現実の科学は人類に寄与する一方で、制御困難な問題も引き起こす存在である(→科学の「両面価値的性格」)、と主張した。

 そして、科学社会学は、一般市民への啓蒙について「科学の内容ではなく、専門家と政治家やメディア、われわれとの関係について伝えるべき」と言う。
 科学社会学は、一般市民を科学の「ほんとうの」姿を知らない存在として見なしてしまっている。この「大衆に対する、硬直した態度」は、科学社会学も、従来の科学と同様である。科学社会学は、科学を正当に語る資格があるのは科学社会学としてしまう点に限界がある。

 

 センター試験の問題文本文(小林氏の論考)は、

①「科学社会学者(コリンズ、ピンチ)が科学の両面価値的性格を認めている点」は賛成していますが、

 

「『科学と一般市民の関係』についての科学社会学者の主張」については、厳しく批判しています。そして、その批判で終わっています。

 「では、どうしたら良いのか」という筆者の主張・結論が不明確なのです。

 この点で、今回のセンター試験の第一問は、一見、読みにくい問題でした。

 

 この②の問題の筆者(小林氏)の主張・結論は、まさに、朝日新聞のインタビュー記事の小林氏の見解だと思います。(以下で紹介します)


 この記事の、『(東日本大震災5年 問われる科学)「7:教訓を生かす 科学技術、社会と関わってこそ 専門家に任せすぎるな」』という見出しだけでも、ある程度のヒントになります。

 

 以下は 2016・12・13に発表した当ブログの記事(「国語予想問題『プロの裏切り・プライドと教養の復権を』神里達博」)からの引用、つまり、朝日新聞のインタビュー記事の小林氏の見解です。

 

ーーーーーーーー

 

(以下は、当ブログの前掲の記事からの引用)

専門家に望まれる態度・心掛け

「専門家主義」からの脱却

①専門家たちは、「総合的教養」・「生きた教養」を身に付ける→「専門家の相互チェック」のために

②さらに、専門家も、国民も、「民主的コントロール」を意識する→(まさに、今回のセンター試験に出題された「科学コミュニケーション」です!)

 

 ここで参考になるのは、科学哲学者である小林傳司氏の意見です。以下に、概要を引用します。

 (小林傳司氏の意見)(概要です)

(赤字は当ブログによる「強調」です。青字は当ブログによる「注」です)

震災(→「東日本大震災」)により科学者への信頼は大きく失墜した。学界などから様々な反省が言われたが、今では以前に戻ったかのように見える。

一つは、日本社会が「専門家主義」から脱却できないことだ。「科学と社会の対話が大切」と言いながら、原発再稼働などの政策決定過程をみると「大事なことは専門家が決めるから、市民は余計な心配をしなくてよい」という姿勢が今も色濃い。震災で専門家があれほど視野が狭いことが露見したにもかかわらずだ。

 これらの課題にどう対応すればよいか。まずは、市民が意思決定を専門家に任せすぎず、自分たちの問題ととらえることだ。科学技術は、それがなければ私たちは生活ができないほど重要で強力になっている。原子力のような巨大技術ほど「科学技術のシビリアンコントロール(→民主的コントロール)」が必要だ。

 専門家は、市民が基礎知識に欠ける発言をしてもさげすんではならない。専門家は明確に言える部分と不確実な部分を分けて説明する責務があり、最終的には「社会が決める」という原則を受け入れなければいけない。

 日本社会は「この道一筋何十年」という深掘り型は高く評価してきたが、自分の専門を超えて物事を俯瞰(ふかん)的に見られる科学者を育ててこなかった。広い意味での「教養」が重要だと思う。」

(朝日新聞 2016年3月10日 (東日本大震災5年 問われる科学)「7:教訓を生かす 科学技術、社会と関わってこそ 専門家に任せすぎるな」)

 ーーーーーーーー

(ここも当ブログの前掲の記事からの引用です)  

(当ブログによる解説) 

 ここで、小林傳司氏は、まず、「震災(→「東日本大震災」)専門家の視野の狭さが露見したこと」を指摘しています。

 そして、専門家も、市民も、「専門家主義」から脱却し、「科学技術のシビリアンコントロール」を実現することの必要性を強調しています。

 小林氏の言うように、「この道一筋何十年」という深掘り型の専門家の意見のみを重視する「日本型の専門家主義」では、「視野の狭さ」という欠陥をカバーすることは、不可能でしょう。

 対策としては、小林氏の言う「自分の専門を超えて物事を俯瞰(ふかん)的に見られる科学者」、つまり、「総合的教養」・「生きた教養」を持つ科学者の養成・育成が必要です。

 それとともに、科学技術のシビリアンコントロール」が必要なことは、言うまでもありません。

 

(「2016・12・13に発表した当ブログの記事(「国語予想問題『プロの裏切り・プライドと教養の復権を』神里達博」)からの引用終わり)

ーーーーーーーー

 (今回の記事の、本来の記述に戻ります)

 言ってみれば、要するに、このインタビュー記事、つまり、「小林氏の問題意識」・「現在の科学哲学の問題意識」を前もって知っていれば、このセンター試験の問題は、かなり楽に読めたのでした。

 最新の教養・予備知識がいかに入試に役立つか、よく分かる適例です。 

 

 なお、「科学コミュニケーション(サイエンス・コミュニケーション)」とは、「科学について、科学者が科学者ではない一般市民と対話すること」を言います。「科学コミュニケーション」自体がひとつの研究分野にもなっています。「科学社会学」・「科学哲学」・「科学技術社会論」・「社会学」の研究者などがこの分野の研究を行っています。

 今日では、「科学コミュニケーション」に関連する様々な用語が発生しています。「大衆の科学理解 」・「科学技術への公衆関与 」・「科学に対する公衆の意識」・「科学リテラシー」などです。

 

 神里氏に関する前掲の記事(「国語予想問題『プロの裏切り・プライドと教養の復権を』神里達博」)は、現在の「科学社会学・科学哲学・科学技術社会論などの問題意識」を知るのに役立ちます。

 

(2)2017センター試験国語[1](小林傳司(こばやし  ただし)・「科学コミュニケーション」)の解説

 

 2017センター試験国語(現代文・評論)についてさらに、詳しく説明します。

 ただし、今回の論点は、「東日本大震災」・「人工知能」等に関連しているので、これからも、現代文(国語・評論)・小論文に出題される可能性が高いと言えます。従って、これからのセンター試験・国公立大学二次試験・難関私立大学入試の、現代文(国語・評論)・小論文対策に役立つように説明したいので、「ハイレベルな内容面」を中心に解説していきます。

 従って、基礎的な設問(問1・2)の解説、各設問の選択肢の絞り方などについては、省略します。これらについては、各種解説書などを、参照してください。

 

 ーーーーーーーー

 

(問題文本文)(概要です)(【1】【2】【3】・・・・は段落番号です。センター試験の問題でも段落番号は付加されていました)

(赤字は当ブログによる「強調」です。青字は当ブログによる「注」です) 

1】現代社会は科学技術に依存した社会である。19世紀以降に科学が社会の中に組み込まれていき、戦争により、重要性を増した。

2】第二次世界大戦以後、科学技術は膨張を続ける。現代の科学技術は、かつてのような思弁的、宇宙論的伝統に基づく自然哲学的性格を失い、先進国の社会体制を維持する重要な装置となってきている。

3】十九世から二十世紀前半にかけて、既に「科学」は社会の諸問題を解決する能力を持っていた。「もっと科学を」というスローガンが説得力を持ち得た所以(ゆえん)である。しかし、二十世紀後半の科学ー技術は両面価値的存在になり始める。現代の科学ー技術は、自然に介入し、操作する能力を入手開発するようになっており、その結果、自然の脅威を制御できるようになってきた。同時にその科学ー技術の作り出した人工物が人類にさまざまな災いをもたらし始めてもいる。B こうして「もっと科学を」というスローガンの説得力は低下し始め、「科学が問題ではないか」という新たな意識が社会に生まれ始めているのである。

 

ーーーーーーーー

 

(設問)(解説・解答)


問3 傍線部B「こうして『もっと科学を』というスローガンの説得力は低下し始め、『科学が問題ではないか』という新たな意識が社会に生まれ始めているのである。」とあるが、それはどういうことか。その説明として最も適当なものを、次の①~⑤のうちから一つ選べ。

 

 正解は④です。④は、以下のような記述です。

 

 20世紀前半までの科学は、その理論を応用する技術と強く結びついて日常生活に役立つものを数多く作り出したが、現代における技術と結びついた科学は、その作り出した人工物が各種の予想外の災いをもたらすこともあり、その成果に対する全的な信頼感が揺らぎつつあるということ。

 

 【3】段落の、「科学ー技術」の「両面価値的存在」(→プラス面とマイナス面を同時に持つということ)(→入試における頻出キーワードです)の内容を把握すれば、よいでしょう。

 ④以外の選択肢は、「科学ー技術」の両面価値的価値」の内容の説明が出来ていません。

 

ーーーーーーーー

 

 (問題文本文)(概要です) 

【4】しかし、科学者は依然として「もっと科学を」という発想になじんでおり、このような「科学が問題ではないか」という問いかけを、科学に対する無知・誤解からの反発とみなしがちである。

5】 このような状況に一石を投じたのが科学社会学者のコリンズとピンチの『ゴレム』である。ゴレムは魔術的力を備え、日々その力を増加させつつ成長する。人間の命令に従い、人間の代わりに仕事をし、外的から守ってくれる。しかし、この怪物は不器用で危険な存在でもあり、適切に制御しなければ主人を破壊する威力を持っている。つまり、科学は全面的に善なる存在ではないし、無謬の知識でもないという。現実の科学は新知識の探求を通じて人類に寄与する一方で、社会制御困難な問題も引き起こす存在であると主張した。 

6】コリンズとピンチは『ゴレム』の中で、科学者が振りまいた「科学の神のイメージ」を、「不確実で失敗しがちな向こう見ずでへまをする巨人」のイメージ、つまり C  ゴレムのイメージに取りかえることを主張したのである。 そして、科学上の論争の終結が論理的な決着にならないことを具体例で説明した。

 

ーーーーーーーー

 

(設問)(解説・解答)

 

 傍線部C「ゴレムのイメージに取りかえることを主張したのである」とあるが、それはどういうことか。その説明として最も適当なものを、次の①~⑤のうちから一つ選べ。

 

正解は③です。③は、以下のような記述です。

 

③ 全面的に善なる存在という科学に対する認識を、魔術的力とともに日々成長して人間の役に立つが欠陥が多く危険な面も備える怪物ゴレムのイメージで捉えなおすことで、現実の科学は新知識の探求を通じて人類に寄与する一方で制御困難な問題も引き起こす存在であると主張したということ。

 

  5】段落の内容を把握することが必要です。つまり、「ゴレム」が「善悪両面を持っていること」を読み取る必要があります。この点は、問3と同じです。「ゴレム」は「科学ー技術」の喩え(たとえ)だからです。

 

ーーーーーーーー 

 

 (問題文本文)(概要です)

「【7】~【9】の「重力波の論争」は具体例。→設問を本文より先に見ておけば、この部分は、スルーするべきだと分かります。「設問を本文より先に見ると、設問に引きずられるから、見ない方がよい。本文の要約を終わらせてから設問を見てください」という、時間制限を考慮しない不思議な指導法があるようです。しかし、それはそれとして、つまり、指導法に関する当否は別として、時間制限のある受験生としては、効率的に、賢明に、やるようにしてください。【10 】で本質論に戻っていることに、注意してください。

【10 】コリンズとピンチは、このようなケーススタディーをもとに、「もっと科学を」路線を批判するのである。民主主義国家の一般市民は確かに、「科学ー技術」の様々な問題に対して意思表明をし、決定を下さねばならない。ただ、科学社会学は、一般市民に伝えるべきことは、科学の内容ではなく、専門家と政治家やメディア、そしてわれわれとの関係についてなのだ、と言う。

【11】科学を「実在と直結した無謬の知識という神のイメージ」から「ゴレムのイメージ」(=「ほんとうの」姿)に変えようという主張は、「科学を一枚岩とみなす発想」を切り崩す効果を持っている。(→筆者は、この点について、二人の主張に賛成しています。)

12】 D にもかかわらず、この議論の仕方には問題がある。コリンズとピンチは、一般市民の科学観が「実在と直結した無謬の知識という神のイメージ」であり、それを「ゴレム」に取り替えよ、それが科学の「ほんとうの」姿であり、これを認識すれば、科学至上主義の裏返しの反科学主義という病理は癒やされるという。しかし、「ゴレム」という科学イメージは、なにも科学社会学者が初めて発見したものではない。

【13】結局のところ、コリンズとピンチはは科学者の一枚岩という「神話」を堀り崩すのに成功したが、その作業のために、「一枚岩の」一般市民という描像を前提にしてしまっている。言いかえれば、科学者も一般市民も科学の「ほんとうの」科学を知らないという前提である。その「ほんとうの」姿を知っているのは(コリンズとピンチのような)科学社会学者であると答える構造の議論をしてしまっているのである。(→科学社会学は、科学を正当に語る資格があるのは自分たちだけとしている、傲慢な点に限界があるのです→この点が問5の正解が④である根拠です)」 (小林傳司「科学コミュニケーション」)

 

ーーーーーーーー

 

(設問)(解説・解答)

 

問5 傍線部D「にもかかわらず、この議論の仕方には問題がある。」とあるが、それはなぜか。その理由として最も適当なものを、次の①~⑤のうちから一つ選べ。

 

正解は④です。④は、以下のような記述です。

 

④ コリンズとピンチは、歴史的にポピュラーな「ゴレム」という科学イメージを使って科学は無謬の知識だという発想を批判したが、専門家科学者と政治家やメディア、そして一般市民との関係について人々に伝えるべきだという二人の主張も、一般市民は科学の「ほんとうの」姿を知らない存在だと決めつける点において、科学者と似た見方であるから。

 

 「理由」は、文脈的に傍線部の後ろにあることを読み取るべきです。【13】段落の「結局のところ」、「言いかえれば」以下を熟読すればよいでしょう。

 

ーーーーーーーー

 

(設問)(解説・解答) 


問6 この文章の表現と構成・展開について、次の(1)・(2)の問いに答えよ。→他の設問もそうですが、この設問こそ、本文より先に設問を見ておけば、ラクな問題です。本文を読みながら、一つ一つの選択肢をチェックしていくようにしてください。


(1)この文章の第1~8段落の表現に関する説明として適当でないものを、次の①~④のうちから一つ選べ。

 

 正解は③です。③は、以下のような記述です。

 

③ 第6段落の「コリンズとピンチの処方箋」という表現は、筆者が当時の状況を病理と捉えたうえで、二人の主張が極端な対症療法であるとみなされていたということを、医療に関わる用語を用いたたとえによって示している。

 

 ③は、「極端な対症療法(→患者の症状に対応して行う療法)であると見なされた」という部分が不適当です。本文に、このような記述はありません。

 

…………………………… 

 

(設問)(解説・解答)

問6  この文章の表現と構成・展開について、次の(2)の問いに答えよ。

 

(2)この文章の構成・展開に関する説明として適当でないものを、次の①~④のうちから一つ選べ。

 

 正解は①です。①は、以下のような記述です。


① 第1~第3段落では十六世紀から二十世紀にかけての科学に関する諸状況を時系列的に述べ、第4段落ではその諸状況が科学者の高慢な認識を招いたと結論づけてここまでを総括している。

 

 ①の「第1~第3段落では十六世紀から二十世紀にかけての科学に関する諸状況を時系列的に述べ」の部分は3】段落冒頭文より、誤りです。

 また、「第4段落ではその諸状況が科学者の高慢な認識を招いたと結論づけて」の部分は、4】段落にこのような記述は、ありません。

 

ーーーーーーー

 

(解説→当ブログによる総まとめ)

 

(1)本文の内容説明

 

前述しましたが、小林氏の本文における主張は以下の2点でした。

 

①「科学社会学者(コリンズ、ピンチ)が科学の両面価値的性格を認めている点」は賛成していますが、

 

「『科学と一般市民の関係』についての科学社会学者の主張」については、厳しく批判しています。そして、その批判で終わっています。

 この点について、「では、どうしたら良いのか」という小林氏の筆者の主張・結論は、まさに、朝日新聞のインタビュー記事の小林氏の見解でしょう。 

 

(2)設問を、本文よりも先に見ることの重要牲

 

 今回のセンター試験の問題は、設問を本文より先に見て解いていけば、20分程度で完了する問題でした。上記の説明で、「【7】~【9】の「重力波の論争」は具体例」と説明しましたが、「重力波の論争」の部分の内容面については、特に問われることなく、設問は終わっています。以下のように、問題6(1)④・(2)②で、「形式的な論理構造」を聞いてきただけです!

 

6(1)この文章の第1~8段落の表現に関する説明として適当でないものを、次の1~4のうちから一つ選べ。


④ 第8段落の「優れた検出装置を~。しかし~わからない。しかし~わからない……」という表現は、思考が循環してしまっているということを、逆接の言葉の繰り返しと末尾の記号によって示している。

 

(2)この文章の構成・展開に関する説明として適当でないものを、次の1~4のうちから一つ選べ。

② 第5~第6段落ではコリンズとピンチの共著『ゴレム』の趣旨と主張をこの文章の論点として提示し、第7~9段落で彼らの取り上げたケーススタディーの一例を紹介している。

 

 つまり、設問を先に見ていないと、難解な「重力波の論争」の内容面まで理解しようとする無駄な労力・時間を使ってしまうのです。ぜひとも、本文より先に、設問を見るようにしてください。

 

 

(3)科学社会学・科学哲学・科学技術社会論、小林傳司氏の、最近の問題意識

 

 

以下は、「公共圏における科学技術・教育研究拠点(STiPS)代表   小林傳司氏(大阪大学)」のWeb 上の発言です。概要を引用します。

 

(赤字は当ブログによる「強調」です)


「われわれが提案したのは、ELSIというものを中心としたプログラムです。ELSIとは、 “Ethical、Legal、Social Issues”のことで、倫理的法的、そして社会的な論点ということです。科学技術がこれだけ発展してきますと、社会のいたるところに浸透していますので、自動的に科学技術の成果が社会に対して利益とか善なる効果プラスの効果を生むというふうにはならなくなってきていて、予想しがたいようなマイナスの効果も出てきていますし、さまざまな問題も出てくる。だからそういうことをきちっと考えないと、科学技術をわれわれの社会はうまく使えないだろうと。これは最近だとライフサイエンスなどで非常に話題になっている問題群で、人間の遺伝情報を扱う、あるいは人間の身体そのものを実験的な研究によって改変する、そういうことが技術的にも理論的にも可能になってきているわけですが、やはり対象は人間ですので、その人間をいじるときにはさまざまな倫理的な配慮というものが要ります。」

 

「考えてみれば、科学技術のための予算というのは税金をどんどん投入しているわけですから、その税金を使った研究というのがどのぐらい社会にとって価値を生んでいるのかという観点から、説明を求められる時代というのが来ているわけですね。国家財政がこれほど厳しくても、日本はずっと科学技術予算というのは頑張ってきたわけです。あまり減らさずに、逆に少しずつ増やすということを行ってきたわけですから、それが何のためかということが問われるという、そういう時代になっています

 今までは、科学技術政策というと、重点的にこの分野の振興をしましょうとか、この分野を発展させましょうという形で分野を決めていた。その分野は科学技術の専門分野という形で決めてきたわけですが、この第四期の計画ではそうではなくて、今われわれの社会が抱えている課題というものがあって、その課題を解決するにはどういうような分野の科学技術が動員されるべきか、そういう問題の立て方に切り替えたわけですね。

 その中で、では科学技術政策をどうやって人々が納得する形で、理論的に整合的な政策が組めるのかということから、「科学技術イノベーション政策における『政策のための科学』」というプログラムが考えられてきたという背景があります。」(公共圏における科学技術・教育研究拠点(STiPS)代表として 小林傳司・大阪大学)

 

 ーーーーーーーー 

 

(当ブログによる解説) 

 上記の発言を読むと、小林氏は、目指すべき「科学コミュニケーション」のあり方を真摯に考えていることが分かります。

 今年のセンター試験国語(現代文)で重要なポイントになっている科学技術の両面価値的な側面を強く意識して、望ましい「科学と人類の望ましい関係」を模索しているのです。

 今年のセンター試験に出題された小林氏の論考の先に、この小林氏の発言があるのです。

 逆に言えば、センター試験の前に、この小林氏の問題意識を知っておけば、センター試験の問題をラクに解けたでしょう。 

 

 「科学への市民の積極的関与」「民主的コントロール」、そこには様々な可能性と困難があるようです。

 科学社会学、科学哲学は、新しい学問分野ですが、「人類・現代文明の発展と存続」のために、重要な学問分野として、これからも、注目していくべきでしょう。

 「科学と人類の望ましい関係」をいかに構築していくか。

 この問題は、まさに、科学社会学、科学哲学の学者だけではなく、人類の知恵の働かせ所なのです。

 その際には、前述した、「『専門家主義』からの脱却」が強く求められることは、言うまでもありません。 

 

 

 (4)小林傳司氏の紹介

 

なお、ここで小林傳司氏の紹介をします。

小林傳司(こばやし ただし)

1954年生まれ。科学哲学者、大阪大学教授。1978年京都大学理学部生物学科卒、1983年東京大学大学院理学系研究科博士課程単位取得退学。1987年福岡教育大学講師、助教授、1990年南山大学人文学部助教授、教授、2005年大阪大学コミュニケーションデザインセンター教授、副センター長を歴任。現在は、大阪大学理事(教育担当)、副学長。専門は、科学哲学・科学技術社会論。

主な著書・共編著として、

『誰が科学技術について考えるのか コンセンサス会議という実験』(名古屋大学出版会・2004)
『トランス・サイエンスの時代 科学技術と社会をつなぐ』(NTT出版ライブラリーレゾナント・2007)
『科学とは何だろうか 科学観の転換』(中島秀人、中山伸樹共編著・木鐸社・科学見直し叢書・1991)
『公共のための科学技術』(編 玉川大学出版部・2002)
『社会技術概論』(小林信一,藤垣裕子共編著・放送大学教育振興会・2007)
『シリーズ大学』(7巻 ・広田照幸,吉田文,上山隆大,濱中淳子と編集委員 ・岩波書店 ・2013~14)、
等があります。

 

 

(5)なぜ、2017年度センター試験で「科学論・科学批判」が出題されたのかー「科学論・科学批判」が最近の流行論点である理由

 

 「科学論・科学批判」は、東日本大震災以後、激増し、現在に続いています。その背景は、以下の通りです。

 以下は、2016・6・10に発表した「東大現代文対策ー3・11後の最新傾向分析①ー2012河野哲也」の記事の一部引用です。重要なポイントなので、再掲します。

 

gensairyu.hatenablog.com

 

 「難関大学・センター試験の入試現代文(国語)・小論文に出題される「科学批判」(科学論)の論点・テーマは、3・11東日本大震災・福島原発事故以降、より先鋭化し、明らかに出題率も増加しています。
 3・11以前も、環境汚染・地球温暖化・チェルノブイリ原発事故等により、「科学批判」の論点・テーマは、一定の多くの出題がみられました。
 しかし、3・11以降は、「科学」に対する批判は明白に先鋭化し、「科学批判」の論点・テーマは出題率が増加しています。


 これは、考えてみれば、当然のことです。

 福島原発事故の際の、原子力村の学者達、地震学者達の無責任な「想定外」の連呼。

 崩壊した「安全神話」。

 今だに完全には収束していない福島原発の処理。

 これらをみれば、「科学」に対する厳しい批判的論考は、増えこそすれ、減ることはないでしょう。

 大学における現代文(国語)・国語入試問題作成者の「問題意識」も同じでしょう。

 たとえ、問題作成者の「問題意識」がそうでないとしても、入試現代文(国語)・小論文の世界は、「出典」の関係で論壇・言論界・出版界の影響を受けるのです」

(再掲終わりです)

 

ーーーーーーーー

 

(今回の記事の、本来の記述に戻ります)


 以上の理由に加えて、最近では、人工知能・ドローン・最先端医療等により、科学技術のマイナス面への社会的関心がますます高まっています。従って、2017年度の入試現代文(国語)・小論文においても、「科学論・科学批判」は、最も注目するべき論点・テーマです。

 

 以下の記事に、最近、当ブログに発表した「科学論・科学批判」記事(4記事)の一覧があります。興味のある方は、参照してください。 

 

gensairyu.hatenablog.com

  

 ーーーーーーーー

 

今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

 

 

  

 

gensairyu.hatenablog.com

 

 小林傳司氏の最近の著書です。

トランス・サイエンスの時代―科学技術と社会をつなぐ (NTT出版ライブラリーレゾナント)

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公共のための科学技術

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朝日新聞デジタル

朝日新聞デジタル

 

 

↓本書は私の最新の参考書です。「科学批判・科学論」を重視しています。

頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

 

 

 

 私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。

https://twitter.com/gensairyu 

https://twitter.com/gensairyu2

 

直前特集・小論文・総整理ー慶大・難関大ー頻出論点・重要ポイント

(1)入試直前特集・小論文・総整理ー慶大・難関大ー頻出論点・重要ポイント

 

 小論文対策・入試直前特集として、小論文の重要ポイント・頻出論点を、慶応大の過去問などを通して、提示していきます。

 最近の記事の重要部分を一部抜粋を列挙していきますが、一部抜粋の部分にも省略があります。全文を読みたい方は、リンク画像から、当該記事を、お読みください。

 

 なお、前回の記事も、合わせて、お読みください。

  


 

 

(2)小論文答案における「要約・記述」の重要性

 

 

 

 上記の記事の中で、「小論文答案における『要約』記述の重要性」について記述しました。

 合格答案を書く上で、必要不可欠なポイントなので、ここに再掲します。

 ……………………………

 

 〈小論文問題の「要約」について〉

 本番の小論文問題で、課題文が出題された時には、必ず、「課題文の要約」を書くようにしてください。

 この「要約」に、課題文のポイントを書くことによって、「受験生の理解度」を示すことが出来ると共に、「答案の方向性」を予告することが出来ます。

 答案のレベル(受験生の理解度)、方向性が、採点者にわかりやすくなるのです。

 「小論文の採点基準」の一つに、「理解度の項目」があります。

 この「理解度の項目」のポイントを、確実に獲得することが可能になるのです。

 このことは、あまり知られていないようです。

 が、過去に、難関大の講師として入試小論文の採点経験のある予備校講師は、例外なく、このことを教えているようです。

 「要約提示による理解度のアピールが、いかに重要か」を示す参考資料を、以下に引用します。

 慶應大法学部・小論文の問題文の前に、毎年度、付加されている注意事項です。

「この試験では、広い意味での社会科学・人文科学の領域から読解資料が与えられ、問いに対して論述形式の解答が求められる。(中略)その目的は受験生の理解、構成、発想、表現などの能力を評価することにある。そこでは、読解資料をどの程度理解しているか(理解力)(←太字は、当ブログによる強調)、理解に基づく自己の所見をどのように論理的に構成するか(構成力)、論述の中にどのように個性的・独創的発想が盛り込まれているか(発想力)、表現がどの程度正解かつ豊かであるか(表現力)が評価の対象となる。」 

 難関国公立大の小論文試験も、同様の採点基準のはずです。

 

ーーーーーーーーーーー 

 

(3)異文化理解(国際化・グローバル化)ー1999慶応大・文学部の問題を通して解説

 


 

 上の記事(一部抜粋。しかも、省略あり)を通して、「異文化理解」(「国際化」・「グローバル化」)のポイントを解説をします。

 

……………………………

 

  「異文化理解の困難性あるいは不可能性」について説明します。

 1999年度の慶応大(文学部)小論文に出題された、川田順造氏の『サバンナの博物史』を紹介します。

 川田氏は、最近でも、大阪大、早稲田大、上智大の現代文(国語)に出題されている入試頻出著者(→トップレベルの文化人類学者)です。

 

 以下に、問題文本文の、キーセンテンス部分の概要を記述します。

 (なお、赤字緑字は、当ブログによる強調です)

 

(問題文本文の冒頭部分)

「近年になって私は、サバンナに生きるモシ族の人たちの、自然に対するあの強靭さ、一切の感傷を払拭した即物性とでもいうべきものを、幾分かは理解できると思うようになった。かつては私はそれを単に、自然に対するこの人たちの感動の欠如というふうにとっていたのだったが。」

 (問題文本文の最終部分)

「『自然』という、モシ語にもない概念によって、たとえば『モシ族における自然の利用』といった形でこのサバンナの文化を論んじることが、一方的な枠組みによる対象の切りとりになりやすいことはあきらかだ。

 私自身しばしば行ってきたこのような切りとりは、彼らの思考の枠組みだけをとりいれることによって、『正しい』ものとなるわけでは勿論ない。彼らの枠組みと私の枠組みとの、葛藤ないし相互作用のうちに、世界像ないしイデオロギーと、技術・物質文化とが、相互にもっているはずのかかわりを、具体的にあきらかにしてゆくこと。私が将来に向かって、未解決のままにかかえている課題の一つだ。」 

 

ーーーーーー

 

(当ブログによる解説)

 

 設問は、以下のようになっています。

「問1 モシ族における「もの」と「ひと」の関係を要約して述べなさい。(300字以内)

問2 自分たちと異なる文化を理解するための心構えを、筆者の見方をとり入れながら、具体的な事例をまじえて述べなさい。(400字以内)」

 

 問2は、まさに、「異文化理解のための心構え」を聞いてきています。

 この問題については、「異文化理解の困難性ないし不可能性」(赤字部分)を前提に、それでも、真の異文化理解を目指すべきである(緑色部分)、という方向で論じて下さい。

 お、「世界像ないしイデオロギー」とは「モシ族の文化の価値観」を、「技術・物質文化」とは「現代文明」を、意味しています。

 また、「相互にもっているはずのかかわり」とは、「モシ族の文化の価値観」と「現代文明の価値観」の「重なり合う部分」・「共通点」を意味しています。

 僅かな「共通点」を手掛かりに、 真に異文化を理解していこうとする、慎重で客観的な態度を表明しているのです。

 

 ところで、問2の「具体的な事例」については、「日本と韓国」、または、「日本と西欧」の「食文化の違い」に言及するとよいと思います。

 

 ーーーーーーーーーーー

 

 (4)「国家の自律性・アイデンティティ」ーグローバル化・国際化ー福沢諭吉『文明論之概略』(頻出出典)

 

さらば、資本主義 (新潮新書)

 

 

 

 

 


 以下は、上記の記事の一部抜粋です。省略も、かなりあります。全文を読みたい方は、上のリンク画像をクリックしてください。

 

……………………………

 

(1)現代文・小論文・オリジナル予想論点解説ー「福沢諭吉から考える『独立と文明』の思想」(『さらば、資本主義』第6章・佐伯啓思・新潮新書)を題材として作成

 

 【なぜ、この論考に注目したのか?】

① 第一の理由は、福沢諭吉の論考、特に、『文明論之概略』は、最近では、慶応大・小論文(総合政策)(商学部)、早稲田大・現代文(文化構想)などで出題されている頻出出典だからです。

 

② 第二の理由は、日本社会で論点化している「集団的自衛権」・「憲法改正問題」などを契機として、最近では、難関大の入試現代文(国語)・小論文でも、「国家論」・「国家と国民の関係論」・「民主主義論」・「愛国心」が、流行になりつつあるからです。

 

 (2)「福沢諭吉から考える『独立と文明』の思想」の解説(概要の解説)

 

 以下に、第6章の「見出し」(→【】で表示)毎に、「佐伯氏の論考の概要」を示しつつ、「当ブログの解説」を記述していきます。

 (なお、①・②・③・・・・は、「当ブログで付記した段落番号」です)

 (また、青字は「当ブログによるフリガナ・注」です)

 (赤字は「当ブログによる強調」です)

 

【1】「明治日本で最高の書物」

 (佐伯氏の論考の概要)

 「『文明論之概略』は、明治日本が生み出した最高の書物の一つでしょう。今日読んでも実に教えられることが多いからです。」

 

【2】「目的は独立維持」

(佐伯氏の論考の概要)

「① 近代の入り口にあって、福沢が、西洋をモデルとして日本を文明化すべしと説いたことは誰もが知っている。

② しかし、福沢は、決して単純な文明主義者でも、西洋主義者でも、進歩主義者でもありません。

③ 『文明論之概略』を材料にして、今日われわれが直面している問題の所在を論じてみたいのです。

④ そのために、この書物の結論であり、その主張のエッセンスがつまっている最終章(第10章)「自国の独立を論ず」をざっとみてみましょう。

⑤ この章の結論は、日本にとって緊急かつ枢要なことは「国の独立」の一点にある、ということです。福沢は、この書物で「文明とは何か」を論じた後に、最後に、文明化とは、端的にいえば独立を確保するための手段だという。

⑥ ここには、かなり大事な問題があるのです。」

 ーーーーーー

 (当ブログの解説)

 ⑤段落は、明治維新期の世界情勢、つまり、「帝国主義」、「植民地主義」の説明です。

 しかし、この説明部分は、「単なる過去」の解説ではありません。

 「現在」にも通ずる問題なのです。

 それが、佐伯氏の問題意識です。

  ーーーーーー

  (佐伯氏の論考の概要)

「⑦ 明治時代の日本に対して、福沢は実は、大変な危機感を持っていたのです。それを概略、次のように述べています。

⑧ 世の識者は、維新という大改革によって古習を一掃しようとした。

⑨ 確かに、改革は進んだ。そこで、どうなったか。人々はいう。学問も仕官もただただカネのため。

⑩ 確かに、これは人々にとって実に気楽な時代である。しかし、ここにこそ、この時代の危機がある、と福沢はいうのです。

⑪ 確かに文明は広まっているが、人々の品行は一向に向上せず、また、そもそも学芸に身を委ねるものも、その学芸に本心から命も(なげう)つような覚悟など持ってはいない。これでは、ただの安楽世界で楽に生きようとしているだけだ。

⑫ これが福沢の時代認識だったのです。」

  ーーーーーー

 (当ブログによる解説)

(1)福沢諭吉の時代認識・危機感は、「安楽世界」という表現に集約されています。

 まさに、「反知性主義」の蔓延です。 

(2)問題は、「学芸に身を委ねるもの」の怠慢です(⑪段落)。

 

【3】「ナショナリティの正体」 

(佐伯氏の論考の概要)

「① どこに問題があったのでしょうか。そもそも、どうして文明化が重要かというと、それは国の独立を保つためではなかったのか。西洋文明を取り入れること自体が目的ではない。福沢は、こう言うのです。

② 考えてみれば、国の独立が課題となるのは、まさにグローバリズムの時代になったからではないのでしょうか。鎖国政策のままでは、西洋列強に侵略されることは時間の問題だったのです。

③ では、このグローバルな世界の中で独立を保つとは、どういうことなのか。

④ そこで、福沢は次のようなことを述べる。

⑤ 独立を保つということは、このグローバル世界において「」をもつ、ということである。「」とは、軍事力や経済力もありますが、何より「国体(→当ブログによる注→①国家の状態。国柄。②国のあり方。国家の根本体制)」、つまり「ナショナリティ(→①国民性。民族性。②国情。国風。)」の堅固さのことなのです。ここで「国体」あるいは「ナショナリティ」とは、禍福をともにして寄り集まった人々であり、他国のことより自国のことにいっそう関心を注ぎ、自国民のために力を尽くす独立した人たちだ、というのです(第2章)。必要なのは「報国心(→「愛国心」という意味)」です。「報国心」は国に対する公の意識ですが、それはまた、自国中心主義で、「偏頗心(へんぱしん)(→一方に偏った不公平な心)」です。「立国」とは確かにある意味では国家的エゴイズムなのです。しかし、それでよい。」

 ーーーーーーー

 (当ブログによる解説)

(1)開明的な民主主義者として著名な福沢諭吉が、「力」・「国体」・「ナショナリティ」・「偏頗心」を強調していることに、違和感を感じる人もいるかもしれません。

 しかし、この時代の世界情勢を意識してください。

 当時、東南アジアの国々は欧米諸国に植民地化されていました。

 (2)⑤段落における、「『報国心(愛国心)』は自国中心主義で『偏頗心』です。『立国』とは確かにある意味で国家的エゴイズムなのです。「しかし、それでよい」の部分は、現在の日本人には、理解しにくいかもしれませんが、世界的常識です。

  ーーーーーーー

 (佐伯氏の論考の概要)

「⑥ では、どうして西洋諸国は強固な国を作ったのか。それは、西洋では「人間交際」がきわめて活発に行われ、「人民は智力活発」であるがゆえに、科学が発達し、産業を進展させ、強力な軍事力をもつにいたったからだ。この場合、もっとも根底にあるものは、精神の活発な働きなのです。そして、この精神を活発に働かせるような「人民の気風」こそが福沢のいう「文明」にほかならないのです。

⑦ それゆえ、文明とは、外的なものではなく、何よりも精神の働きだった。そして、この精神の働きを活性化させるものは、その国の民衆がもっている「智恵」と「徳義」なのです。智徳」を向上させることこそが文明の基礎になるわけで、いってみれば、「民度(→市民の政治的・社会的・文化的意識のレベル。市民社会としての成熟度のこと)」あるいは「国民のレベル」を高める以外にない、ということなのです。

⑧ 西洋には、精神の働きを活発にするような「人民の気風」がありました。それがゆえに西洋は文明国になった。

⑨ かくて、西洋の侵攻から国を守り、独立を保つには、西洋並みの「文明化」を図るほかないのです。人民の気風を高め、智徳を向上させるほかないのです。

⑩ しかし、西洋的な学術や技術を学べば、自動的に人民の気風が高まり、智徳が向上するのでしょうか。

⑪「報国心」などといっても容易ではありません。」

 ーーーーーー

 (当方ブログの解説)

(1)この部分では、⑥段落の、「人間交際」→「人民は智力活発」→「精神の活発な働き」→「人民の気風」→「文明」という、キーワードの流れを把握してください。

(2)⑦段落における「智徳」は、福沢諭吉のキーワードです。

(3)⑦段落の「民度」は、難関大学の入試現代文(国語)・小論文のキーワードです。

 ーーーーーー

 (佐伯氏の論考の概要)

「⑫ 問題は、識者、つまり、知識人なのです。しかし、大半の知識人は、ヨーロッパ模倣の欧化主義者か、平等にして皆兄弟だ、などと理想を唱える。

⑬ それらは、すべて間違っています。いかなる国も富と力を蓄えようとしている。「戦争」と「貿易」こそが今日の世界の現実だ、というのです。」

  ーーーーーー

  (当ブログによる解説)

 福沢諭吉は、「『戦争』と『貿易』こそが今日の世界の現実だ」』と断言しています。

 いつの時代の世界にも、確かに、このような冷徹な一面があるのです。

 

 【4】「貿易も戦争も国力の発動である」

 (佐伯氏の論考の概要)

「① こうなると、福沢の論は、この21世紀のグローバリズムの時代とそれほど変わらないのではないでしょうか。グローバリズムとは、世界的規模での競争や戦争の時代を生み出してしまうのです。

③④→今回の「直前特集」では省略します。 

⑤ 国とは、あくまで偏頗心、つまり、「私情」によって支えられており、「市場」ができれば偏頗心報国心もなくなるというものではない。「貿易」も国力の発動であり、また、国力の原因だというのです。

⑥ 自由貿易や自由競争が「天下の公道(→「公道」は「正しい道理」という意味)」である、などという「結構人(けっこうじん)(→①好人物。お人よし。②馬鹿正直な人物)の議論」を鵜呑みにしてはならない、と戒めているのです。

⑦ 西洋諸国は、いかにも「天下の公道」に則ったかのようなことをいっているが、実際には自らの利を求めているだけだ。偏頗心、つまり「私情」によって動いている、という。 」

 ーーーーーー

 (当ブログの解説)

 ここでは、福沢諭吉の「自由貿易」・「自由競争」批判を取り上げています。

 「自由競争」・「自由貿易」とは、大国が「私情」、つまり、「自国の利益」のために推進する政策だ、と主張しているのです。

 ーーーーーー

(佐伯氏の論考の概要)

「⑧ もしも、独立を忘れて文明だけを強調するとどういうことになるのか。福沢は次のようなことをいいます。

⑨ わが国では、今日、港の様相は、ほとんど西洋と変わらなくなった。しかし、そんなことは日本の独立文明とは何の関係もないことだ。

⑩ このような文明の外観は、結局、国を貧しくして、長い年月の後に必ず自国の独立を害するであろう。

⑪ まさに今日と、さして変わらない状況ではないでしょうか。」

 ーーーーーー

(当ブログの解説)

(1)福沢諭吉は、明治期における「反知性主義」的現象を批判しています。

 文明の外観のみの重視。 

 国家の独立の軽視、あるいは、独立精神についての無自覚。

 これらを、福沢諭吉は、危機感とともに、鋭く批判しているのです。 

 ーーーーーー

 (佐伯氏の論考の概要)

「⑫ ためしに今日われわれの見ている状況を、これに倣(なら)って述べてみましょう。 

⑬ わが国では、現在、空港には外国資本のホテルや商店ができている。だが、外国資本が日本に入ってきて、いくらビジネスをしようが、利益はもっていかれるだけで、「独立日本」とは何の関係もない。

⑭ さらに、自由貿易だとかTPPだとかいっているが、日本国内では職がなくなり、利益をあげているのは外国なのだ。これでは、日本は本当の文明の生まれる国ではないだろう。」

 ーーーーーー

(当ブログの解説)

 難関大の現代文(国語)・小論文においては、このような「グローバル化を鋭く批判する論考」は、頻出です。 

 国家の独立」、つまり、「国家のアイデンティティ」・「国家の自律性」・「国家の主体性」を重視・確立しないと、長期的にみて、国家は没落してしまいます。

 「本当の文明」を保持していない国家は、必ず没落することは歴史が証明しています。

 

【5】「『かざりじゃないのよ、文明は』」

(佐伯氏の論考の概要)

「① 福沢は、文明化よりも、独立の方を重視したのです。今日でいえば、グローバル化するよりも、独立の方が大事だ、ということです。

(②~⑥は省略)

⑦ 今回の記事では省略

⑧ 福沢の「文明」の定義は、人間精神の活発化であり、それは「智徳」に支えられたものでした。しかし、グローバリズムの受容が、逆に精神をきわめて一方向へ偏ったものにしてしまったのです。

⑪ 独立こそが目的で、文明はその手段である、という『文明論之概略』のもっとも重要な主題が再び、たち現れてくるのです。

 ⑫ グローバル化を前提に、自国をどのようにするのか、それを自らの意志で決めるという態度が必要になります。今日、「独立」とは何より「独立しようとする意志」であり、それは矜持(きょうじ)(→「自負。プライド」という意味)であり、ディグニティ(「威厳。高潔さ。品位」という意味)というものでしょう。

⑬ それは、一人ひとりの「」であり、その「」によってたつところに「一身独立」が生まれるのです。そして、「一身独立」の気風が国民に広がったとき初めて「一国独立」が達成されるのです。」

 ーーーーーー

(当ブログによる解説)

 ⑫段落の「グローバル化を前提にして、そのなかで、自国をどのようにするのか、それを自らの意志で決める、という態度が必要になります」の部分は、第6章全体のキーセンテンスです

 このキーセンテンスの言い換えが、「独立しようとする意志」・「矜持」・「ディグニティ」・「 」になっていることを確認してください。

 

  ーーーーーーーーーーー

 

 (5)「生物多様性」ー2015慶応大・法学部の小論文問題を通して解説

 


 …………………………… 

 

【1】「生物多様性」という言葉に、一定の価値を認める見解もあります。

 以下は、2015年度の慶応大法学部・小論文に出題された、阿部健一氏の論考(「生物多様性という関係価値ー利用と保全と地域社会」)の「キー」の部分(概要)です。

 

(見出し)『生物多様性』という言葉の創出

 生物学者は、生物のかけがいのない価値を認め、しかもその多くが危機的状態にあることを実感している。しかし、地球上の多くの種が消滅の危機にある。わかりやすく一般社会に訴え、社会的関心を巻き起こすようなメッセージ性の強い言葉の必要性を痛感していたことだろう。

 『生物多様性』は、その意味で待望されていた言葉であったに違いない。実際この言葉をきっかけに、生物の保全の必要性と重要性を想起させることができ、社会に関心を呼び起こすことに成功した」

 

 一方で、阿部健一氏も、養老孟司氏と同様に、「『生きとし生けるもの』全体が巨大なシステムをなしている」という側面を認めているようです。

 以下に引用します。(概要です)

 

(見出し) つながることの価値

 生物学者は生物相互のつながりに価値を見出した。多様なことだけが重要なのでなくて、それが相互につながっていることが大事なのである」

(阿部健一「生物多様性という関係価値ー利用と保全と地域社会」『科学』2010年10月号所収) 

 ーーーーーー

 「生物多様性」という用語には問題がある、という説(養老孟司の見解)もあります。詳しくは、上のリンク画像の記事を参照してください。

 

 ーーーーーーーーーーー

 

(6)「個性崇拝」の問題性ー2005慶応大・文学部の問題を通して解説

以下は、上の記事の一部抜粋です。省略も、あります。

 ……………………………

 

 〔1〕【「近代・現代と個性の関係」についてー「個性崇拝」批判】

この論点については、2005年に慶応大文学部・小論文で出題された土井隆義氏(→土井氏の別の論考(『キャラ化する/される子供たち』)は、2016年度のセンター試験・国語(現代文)に出題されています。この問題の解説については、このブログで、センター試験直後に記事化しました)の論考(『個性を煽られる子どもたち』)が、最近の入試現代文(国語)・小論文の頻出出典になっているので、ここで紹介します。

 

(問題文本文の一部の概要)

(以下の「本文の一部」は、本文全体の「キー」なので、熟読してください)

(なお、①・②・③・・・・は、当ブログで付記した段落番号)

「① 若者たちが切望する個性とは、社会のなかで創り上げていくものではなく、あらかじめ持って生まれてくるものです。人間関係のなかで切磋琢磨(せっさたくま)しながら培っていくものではなく、自分の内面へと奥ぶかく分け入っていくことで発見されるものです。

② 本来、自らの個性を見極めるためには、他者との比較が必要不可欠のはずです。他者と異なった側面を自覚できてはじめて、そこに独自性の認識も生まれうるからです。このように、本来の個性とは相対的なものであり、社会的な関数です。

③ しかし、現代の若者たちにとっての個性とは、他者との比較のなかで自らの独自性に気づき、その人間関係のなかで培っていくものではありません。あたかも自己の深淵に発見される実体であるかのように、そして大切に研磨されるべきダイヤの原石であるかのように感受され、さしたる根拠もなく誰もが信じているのです。彼らがめざしているのは、これから自己を構築していくことではなく、元来あるはずの自己を探索していくことなのです。」

 

 記事の都合上、設問1(要約問題)は、省略します。ちなみに、この大問は設問は2つです。

設問2 次に掲げるのは、この文章のすぐ後に筆者が引用している、ある少女の投書です。この投書が仮に新聞の相談コーナーに寄せられたものであって、あなたが、その回答者ならば、この相談に対してどのように回答しますか。360字以上400字以内で書きなさい

「私は、自分らしさというのが、まったくわかりません。付き合う友達によって変わってしまう自分、気分によって変わってしまう自分を考えると、いったい何が本当の私なのか、わからなくなります。自分には個性がないんじゃないかと、ずっと悩んでいます。」

 

 ーーーーーー

 

(当ブログによる解説)

〈1〉【「難関・国公立私立大学小論文対策のポイント」→筆者の意見に賛成の方向で書くべき】  

 難関大の小論文の答案を書く時には、なるべく(設問で「本文に対する反対意見を書きなさい」という指定がある時は別として)、本文の筆者に「賛成の方向」で書くことが大切です。 

 これが、「合格答案を書くポイント」です。

 問題文本文は、一流の学者・評論家が長時間をかけて、じっくり考察したものです。

 それに対して、受験生が短時間で、説得力のある反対意見を書くことは、そもそも「無理」なのです。

 大学側も、そのような「無茶なこと」は要求していないと思います。

 大学側が見たいことは、受験生の、問題文本文の「読解力」と「論述力」です。 

〈2〉【本問の解答・解説】

 問題文本文のキーセンテンスは、③段落第1文の「個性とは、他者との比較のなかで自らの独自性に気づき(→②段落を前提としていることに注意してください)、その人間関係のなかで培っていくもの(→①段落を前提にしています)」です。

 従って、

第一に、「個性」とは、他者との比較の中で見極めていく必要があること、

第二に、「個性」とは、人間関係・社会の中で培っていくべきこと、

を教えるとよいでしょう。

 

 

ーーーーーーーーーーー 

 

 (7)「情報化社会」の問題点ー1997慶応大・環境情報学部の問題を通して解説

 

 

 


下の記述は、上の記事の一部抜粋です。省略があります。

 

 ……………………………

 

情報化社会(IT化社会)における「人間の思考の弱点」

 情報化社会の「人間の思考の弱点」については、1997年の慶応大・環境情報学部(いわゆる慶応大SFC )に出題された問題が良問なので、ここで紹介します。

(設問文)

「以下の資料1~4は、すべて『知識』と『情報』について論じたものであるが、これらの資料のそれぞれに必ず言及しながら、来たるべき二十一世紀の社会における『知識』と『情報』の関係について1000字以内で論じなさい。」

〔資料1〕~〔資料4〕の文字数の比率は、「1:1:2:4」になっています。

 出題者の出題意図としては、受験生に〔資料3〕〔資料4〕を重視してもらいたいことは明白です。

 そこで、この記事においては、〔資料3〕〔資料4〕を中心に検討していきます。

 なお、〔資料1〕・〔資料2〕は、それぞれ、「デジタルテクノロジー」、「ネットワーク」をプラス評価しています。

 

 〔資料3〕知(智)について

(問題文本文の結論・主張部分の概要を記述)

(赤字は当ブログによる強調)

 「智恵について、私は一応こういうふうにレヴェルを区別してみます。いわば知の建築上の構造です。

information (情報) 

knowledge(知識)

intelligence(知性)

wisdom(叡智)(えいち)

 上記の構造の下半分の作用に重きが置かれているように思われます。その一段上のノレッジ(知識)というのは、叡智と知性を土台として、いろいろな情報を組合せたものです。個々の学問は、大体このノレッジのレヴェルに位置します。一番上の情報というのは、無限に細分化されうるもので、簡単にいうと真偽がイエス・ノーで答えられる性質のものです。クイズの質問になりうるのは、この情報だけです。

 現代の「情報社会」の問題性は、このように底辺に叡智があり、頂点に情報がくる三角形の構造が、逆三角形になって、情報最大・叡智最小の形をなしていることにあるのではないでしょうか。叡智と知性とが知識にとって代わられ、知識がますます情報にとって代わられようとしています。「秀才バカ」というのは、情報最大・叡智最小の人のことで、クイズには最も向いていますが、複雑な事態に対する判断力は最低です。」(丸山真男著『「文明論之概略」を読む』より抜粋・編集)

……………………

(内容解説)

 現代の「情報社会」の問題性→情報最大・叡智最小→「秀才バカ」→クイズ向きの人→複雑な事態に対する判断力は最低、という論理の流れは、極めて分かりやすくなっています。

 「情報社会」においては、情報摂取に時間・労力を奪われ、じっくり考える余裕も気力も体力もなくなり、思考力が衰えるということでしょう。

 対策としては、「情報社会に内在する危険性を知ること」、そして、「意識して情報から離れて、思考する時間を作ること」が、考えられます。

……………………

 (慶応大・環境情報学部の問題本文)

〔資料4〕「情報」と「知識」

(結論部分の概要を記述)

「コンピューター・ネットワークは情報処理や情報伝達を迅速かつ大量に行い、知識の生産と普及を助けますけれども、はたして知識の生産そのものを行っているのかどうか疑問です。知識の生産そのものは、依然として個々人の主観的内面の世界で行われているのかではないでしょうか。

 これから、出生いらいパソコンとともに育った「新々人類」がふえていきます。私が心配していることは、彼らがコンピューターに強いが本を読まない、情報には詳しいが、ものを考えない人になっていくことです。彼らが「ポスト工業社会」の制度的担い手たる大学や研究所の主役になったとき、その大学や研究所そのものが知識を生産する能力を失っていくことを心配するのは、私だけの単なる杞憂(きゆう)でしょうか。」(富永健一著『近代化の理論ー近代化における西洋と東洋』)

……………………

(内容解説)

 ここで指摘されている「コンピューターには強いが本を読まない、情報には詳しいが、ものを考えない人種」というのは、〔資料3〕の「情報最大・叡智最小の人」と同一でしょう。

 となると、〔資料3〕・〔資料4〕は、同一内容の主張をしていることになります。

 このことを読み取れるか否かが、本問のポイントということになるのです。

 

ーーーーーーーーーーー


編集

(8)2016早稲田大・スポーツ科学部の変わった問題についてー難関・小論文で頻出の「珍問・奇問」対策

 

  

ーーーーーーーーーーー

 

以上で、今回の記事は終わりです。

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

 

 

 以下の2冊は、私が書いた本です。小論文の論点整理にも役立ちます。

頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

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5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

 

 

 

 私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。

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入試直前特集ー2017現代文・小論文入試予想論点・体系的総整理

入試直前特集ー2017年度・現代文(国語)・小論文・入試予想論点ー体系的総整理

 

 当ブログは以下の基本的方針で作成しています。

 以下に、当ブログの第一回記事の開設の言葉を引用します。下にリンク画像が貼ってあります。

 

 「今現在の入試現代文・小論文の最新傾向として、注目するべきポイントとしては、2つの大きな柱があります。

【1】1つの柱は、「IT社会の光と影と闇」です。

 この論点・テーマは、3・11東日本大震災の前から登場していたので、割と有名ですが、最近のスマホの爆発的な流行により、新たな論点・テーマが発生しています。

【2】 もう1つの柱は、「3・11東日本大震災の各方面に対する影響」です。

 「各方面」は、実に多方面にわたっています。

 2016年の、センター試験や難関大学の現代文(国語)・小論文入試問題を、検討している現在も、この考えは変わってはいません。」

   

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以下では、

(1)「東日本大震災」関連記事

(2)「IT化社会」関連記事

(3)「グローバル化」・「民主主義」・「トランプ現象」関連記事

(4)「知」・「知性」・「反知性主義」関連記事

(5)「消費社会」・「地球環境問題」関連記事

(6)「アイデンティティ」・「自己」・「個性」関連記事

(7)「文語文・擬古文対策」関連記事

(8)「センター試験対策」関連記事

(9)「早稲田大・上智大・同志社大対策」関連記事

(10)「小説・エッセイ(随筆)・対策」関連記事

の各論点に関する記事のリンク画像を列挙していきます。

 

 1つの記事が複数の論点に関係する時には、それぞれの論点の場所にリンク画像を貼ります。

 

ーーーーーーーーーー

 

(1)「東日本大震災」関連記事

 

この論点では、以下の①~⑤のように分類しています。

①  科学論・科学批判

②  善意(ボランティア・救援物資)の暴走ーモラルの喪失

③  「関係性(絆)」の再評価

④  「津波」関連の論点

⑤  日本国家の疲弊

 

……………………………………

 

 ①  科学論・科学批判

 

 「科学論・科学批判」は、東日本大震災以後、激増し、現在に続いています。その背景は、以下の通りです。

 以下は、2016・6・10に発表した「東大現代文対策ー311後の最新傾向分析①ー2012河野哲也」の記事の一部引用です。

 「難関大学・センター試験の入試現代文(国語)・小論文に出題される「科学批判」(科学論)の論点・テーマは、3・11東日本大震災・福島原発事故以降、より先鋭化し、明らかに出題率も増加しています。

 3・11以前も、環境汚染・地球温暖化・チェルノブイリ原発事故等により、「科学批判」の論点・テーマは、一定の多くの出題がみられました。

 しかし、3・11以降は、「科学」に対する批判は明白に先鋭化し、「科学批判」の論点・テーマは出題率が増加しています。

 

 これは、考えてみれば、当然のことです。

 福島原発事故の際の、原子力村の学者達、地震学者達の無責任な「想定外」の連呼。

 崩壊した「安全神話」。

 今だに完全には収束していない福島原発の処理。

 これらをみれば、「科学」に対する厳しい批判的論考は、増えこそすれ、減ることはないでしょう。

 大学における現代文(国語)・国語入試問題作成者の「問題意識」も同じでしょう。

 たとえ、問題作成者の「問題意識」がそうでないとしても、入試現代文(国語)・小論文の世界は、「出典」の関係で論壇・言論界・出版界の影響を受けるのです。」

 

 以上の理由により、2017年度の入試現代文(国語)・小論文においても、「科学論・科学批判」は、最も注目するべき論点・テーマです。

 

 「近代・現代科学の基本原理である心身二元論」、に対する根本的批判が展開されています。現代文(国語)・小論文における最頻出論点です。少々難解ですが、この論点をマスターすることが、合格の必須条件です。

gensairyu.hatenablog.com

 

 東日本大震災・福島原発事故で明らかになったように、「現代文明の発展と存続」を考察する際に、「現代文明と科学の関係」こそは、中心論点・テーマです。

 神里達博氏の『文明探偵の冒険』は、「科学の限界」や「歴史の本質」を本質的に、粘り強く、考察した名著だと思います。

gensairyu.hatenablog.com

 

gensairyu.hatenablog.com

 

 現在、話題になっている「人工知能」に関する最良の論考の「予想出典・解説記事」です。

gensairyu.hatenablog.com

 

 入試頻出著者・山崎正和による、『ホスト・ヒューズマン誕生』(レイ・カーツライル)に関する哲学的・本質的論考を、「予想問題記事」として発表しました。

gensairyu.hatenablog.com

 

 

②  善意(ボランティア・救援物資)の暴走ーモラルの喪失

 

 最近の早稲田大学・上智大学・同志社大学の入試現代文(国語)の問題の中で、特に気になっているのは、3・11東日本大震災の直後に2年連続して出題された、中野好夫氏の「悪人礼賛」という論考です。

 この論考は、上智大学(経済)で出題された翌年に、早稲田大学(政経)でも出題されました。

 内容は、「善意の暴走」、「善意の厚顔無恥」に対する徹底的な批判です。

 この内容は、「被災地ヘの救援物資」が、「善意による二次被害」になる場合があることを強調しています。

 この論考は、私が特に重視している「東日本大震災後に新たに発生した論点・テーマ」といえるので、現代文(国語)・小論文対策として、このブログで取り上げることにしました。

 

gensairyu.hatenablog.com

 

  

 ③  「関係性(絆)」の再評価

 

 以下は、下のリンク画像(「センター試験現代文対策ー3・11後の最新・傾向分析①ー2012」)の引用です。

 「関係性(絆)」の論点の重要性を、わかりやすく説明したので、ここに再掲します。

 

 〈 問題6は、何を聞きたかったのでしょうか?

  問題文本文第9段落第3文(私の概要⑤第3文(最終文))に、

 「この自己と他者の『境界』を、生きるだけでなく、はっきり意識するところに、人間的な自己意識が生まれる。」

という、キーセンテンスがあります。

 このキーセンテンスに注目できたか否かを、聞いているのです。

 ここに注目できれば、選択肢④の最終文に着目して、これが正解だ、とすぐに分かります。

 つまり、「自己」についての、一般的・常識的な発想を試験時間中には、執着しないで(無視して)、素直に(とにかく)木村氏の主張を理解していけば、難問では、ありません。

 むしろ、易しすぎるくらいです。

 (ただ、このような柔軟な読解の姿勢を身に付けることは、なかなか大変なことです。→日頃の勉強における自覚・訓練が大切です。)

 

 「自己は孤立しては生きていけない。」

 「自己と他者の境界にしか、生存の場は、ないのだ。」

 「自己と他者の境界でこそ生存できる、このことを意識することが自己意識である。」

 さらに言えば、「『自分』を意識することではなく、『自己と他者の境界』を明確に意識することが、『自己意識』だ。」という主張です。

 ……………………

 木村氏の、この主張は、一見、難解ですが、3・11東日本大震災以降の日本人にとっては、充分に納得できる見解です。

 安定した日常では、自覚しにくいことですが。

 あの非常時を、思い出してください。

 「自己」の、無力、情けなさ、弱さ、頼りなさ、そして、どうしようもない不安感を、思い起こしてください。

 そうすれば、木村氏の見解に、納得できるはずです。

  問5と問6は、同じことを、聞いています。

 まさに、センター試験国語(現代文)の問題作成者は、木村氏の主張のポイントを、聞いてきているのです。

 見事な、問題作成能力です。

……………………

 私は、この問題が、3・11東日本大震災直後の2012年度に出題されたことに、注目しています。

 つまり、出題の背景に、

「3・11への意識があったのではないか」、

「今こそ『連帯性』・『関係性』・『共同性』を再評価・見直しするべきだと意識したのではないか」、

と考えています。 

 とすると、かなりメッセージ性の強い問題です。

 問題作成者の問題意識が、顕著に感じられる問題です。

 私は、2012年に初めて、この問題を見た時に、その強烈なメッセージに、思わず唸りました。

 ある意味で、感銘すら受けました。

 

 この時期こそ、いや、これからもずっと、この「自己」・「アイデンティティ」・「連帯性」・「関係性」・「共同性」の論点・テーマを、じっくりと考えていくべきだからです。

 私は、3・11直後の2011年は、他の人々と同じように、いつも頭の片隅で「自己」・「アイデンティティ」・「連帯性」・「関係性」・「共同性」について、考えを巡らせていました。

 そして、2012年に、センター試験のこの問題を見た時の、あのほっとしたような、自分の目を疑うような、不思議な感じを、私は忘れることができません。

 

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「共同体と伝承・物語成立の関係」・「物語と共同体結束の関係」も、入試現代文(国語)・小論文の重要論点・テーマになっています。

 現代社会は、「個人主義」の過度の進展により、「『共同体解体』の対策論」が、かなり前から論点・テーマ化しています。

 一方、3・11東日本大震災の際に、「共同体」の価値の見直し・再評価がなされ、「絆」がキーワード化しました。

 東日本大震災関連の論点・テーマは、私が、このブログ開設以降、特に注目している論点・テーマです。

 これらのことより、「『共同体』とは本来、何だったのか」という本質論も、最近の流行論点・テーマになっているのです。

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 ④  「津波」関連の論点 

 

  

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  ⑤  日本国家の疲弊

 

 東日本大震災、グローバル化、デフレ経済などにより、日本は疲弊しています。

 それでも、かなり無理をして、東京オリンビックを開催しようとしています。

 『三四郎』の中の「(日本は)滅びるね」という広田先生のセリフは、今現在も苦く心に響きます。

 ↓

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 「乱世」の中でも、人々は、「乱世」のまま生きていくことは、できません。

 「秩序」、「安定」、さらには、レベルの高い「精神生活」が必要不可欠です。

 3・11東日本大震災の時にも、体育館等に避難していた被災者達は、読書への欲求があったと聞いています。

 また、少し落ち着いた時には、近くの書店に訪れる人が多かったようです。

 今現在の人々も、「乱世を乱世のままに生きていくこと」は、できないのです。

 ↓

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 東日本大震災、グローバル化、デフレ経済などにより日本は疲弊しきっています。

そのことについて記述しています。

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(2)「IT化社会」関連記事

 

 前記した当ブログの「開設の言葉」を、再掲します。

 

 「今現在の入試現代文・小論文の最新傾向として、注目するべきポイントとしては、2つの大きな柱があります。

 1つの柱は、「IT社会の光と影と闇」です。

 この論点・テーマは、3・11東日本大震災の前から登場していたので、割と有名ですが、最近のスマホの爆発的な流行により、新たな論点・テーマが発生しています。」

 

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2015センター試験国語[1]佐々木敦『未知との遭遇』の解説が含まれています。

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(3)「グローバル化」・「民主主義」・「トランプ現象」関連記事

 

「グローバル化(国際化)」と「民主主義」・「トランプ現象」は、相互に密接に関連しているので、ここで、まとめておきます。

 

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日本の思想 (岩波新書) 

 

 

 

 

 

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(4)「知」・「知性」・「反知性主義」関連記事

 

 これらの論点は、2016年度に、大流行しましたが、今年も要注意だと思います。

 

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 (5)「消費社会」・「球環境問題」関連記事

 「消費社会」と「地球環境問題」は、密接に関係しています。現代の「消費社会」の根本的見直しをしなければ、「地球環境問題」を真に解決することはできません。

 

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 (6)「アイデンティティ」・「自己」・「個性」関連記事

 

 

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 (7)「文語文・擬古文対策」関連記事

 

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(8)「センター試験対策」関連記事

 

 

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2015センター試験国語[1]佐々木敦『未知との遭遇』の解説が含まれています。

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 (9)「早稲田大・上智大・同志社大対策」関連記事

 

 頻出出典です。今回は、2000年度・早稲田大学政経学部の過去問を中心に解説しました。

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 中野好夫氏の「悪人礼賛」は、2012上智大学経済学部で出題された翌年(2013)に早稲田大学政経学部でも、同一箇所出題されました。これからも、注目するべき論考です。

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 早稲田大学政経学部の過去問が2問(2大問→山崎正和・夏目漱石)含まれています。 

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 2012年度は、東大と早稲田大学教育学部で、河野哲也『意識は実在しない』の同一箇所から出題されました。『意識は実在しない』は、現在、流行頻出出典になっています。2017年度も、要注意です。

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 2008早稲田大学法学部・出題の丸山真男氏の『現代政治の思想と行動』、1999早稲田大学文学部・出題の大澤真幸の「自由の牢獄」の解説が含まれています。

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早稲田大学文学部現代文、早稲田大学政経学部現代文に出題された野家啓一氏の論考(2つの学部の問題文本文は、ほぼ同一内容)の解説が含まれています。

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 早稲田大学・上智大学・同志社大学などの難関大学の、入試現代文(国語)・小論文における「原典修正」の意外な、驚くべき実態と、「それらの問題本文を要約する際の注意点」は、入試本番に、かなり役立つと思います。

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(10)「小説・エッセイ(随筆)・対策」関連記事 

 小説エッセイ随筆の出題率は減っていません。むしろ、最近は増加傾向になっています。油断しないでください。

  

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ーーーーーーーーーー

 

 今回の記事は、これで終わりです。

 次回の記事は、約10日後に発表の予定です。

 

  

  

 

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受験勉強・直前期・入試当日の心構えー天才棋士・羽生に学ぶ勝負哲学

 

(1)受験勉強・直前期・入試本番当日の心構えー将棋の天才・羽生善治氏の勝負哲学を参考にしよう

 

① なぜ、この記事を書くのか?

 

 生徒を指導していていると、生徒の精神面のサポートが合格実績に大きく影響することが実感できます。

 様々な場面で、特に、天才・プロ将棋棋士・羽生善治氏の「勝負哲学」の言葉を参考にしてアドバイスすると効果的です。

 生徒たちの肩から余計な力が抜け、実力以上の結果を出す感じです。

 そこで、このブログでも、「羽生善治氏の勝負哲学」を分かりやすく紹介することにしました。

 

 ② 「勝負哲学」の有用性

 

 大学入試・センター試験もプロ将棋も、「人生をかけた真剣勝負」という点で共通しています。

 大学入試・センター試験もプロ将棋も、さらに人生全体が、「決断の連続」であり、一瞬の躊躇(ちゅうちょ)が命取りとなりかねません。 

 プロ将棋の世界で、将棋史上最高の、驚異的な勝率、実績を誇る羽生善治氏の「勝負哲学」は、大学入試やその他の試験の場面でも、大いに参考になるでしょう。

 

 「心の持ちよう」が、勝負の結果に大きく影響します。精神論も重要です。

 以下では、羽生氏の著書、インタビュー記事、羽生氏に関するテレビの特集番組などから、受験勉強、特に、入試直前期、入試本番当日で役に立ちそうな、「羽生氏の勝負哲学」を引用しつつ、解説していきます。

 読者の皆さんの方で、個別的に興味を持った、共感した幾つかの項目を参考にしてください。

 なお、以下の「勝負哲学」は、大学入試・センター試験だけではなく、私立小学校入試、私立・公立中学入試、高校入試、就職試験、公務員試験、司法試験、公認会計士試験、税理士試験などの試験でも、さらにビジネスや日常生活の様々な場面でも、参考になると思います。

 

 

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(2)羽生善治氏の紹介

 

羽生善治(はぶ・よしはる)

1970年、埼玉県所沢市に生まれ、その後、東京・八王子市に移り住む。

史上3人目の中学生棋士となる。

1989年、竜王戦でタイトル戦に初登場。当時最年少記録の19歳で初タイトル獲得。棋界で名人位と並んで序列トップの竜王位に就いた。

1996年2月に将棋界で初の7タイトル独占を達成。2012年7月には十五世名人・大山康晴の通算タイトル獲得期数80期の記録を抜いた。全7タイトル戦のうち竜王戦を除く6つでの永世称号に加え、名誉NHK杯選手権者の称号を含め、史上初となる7つの永世称号を保持している。

 以下の記事で参考にする羽生氏の著書は、以下の通りです。

『決断力』 (角川oneテーマ21) 

『結果を出し続けるために(ツキ、プレッシャー、ミスを味方にする法則)』(日本実業出版社)

『捨てる力』 (PHP文庫)

『大局観:自分と闘って負けない心』(角川oneテーマ21) 

『迷いながら、強くなる』 (知的生きかた文庫 BUSINESS)(三笠書房)

『勝負哲学』(岡田武史・羽生善治)(サンマーク出版)

 最後の『勝負哲学』は、岡田武史氏との対談をまとめたものです。ここで、岡田氏の紹介をします。

岡田 武史(おかだ たけし)

サッカー日本代表前監督。1956年大阪府生まれ。早稲田大学政治経済学部を卒業後、古河電工サッカー部(現ジェフユナイテッド市原・千葉)に入団。日本代表としても活躍する。1990年現役引退後、コーチ就任。その後、ドイツへのコーチ留学、ジェフユナイテッド市原のコーチを経て1994年日本代表コーチとなる。1997年日本代表監督に就任、ワールドカップフランス大会の日本代表監督を務める。コンサドーレ札幌、横浜F・マリノスで監督を歴任 。

 

 

(3)受験勉強中の、特に、入試直前期の心構え

 

決断力 (角川oneテーマ21)

 

 

 

 

 

 

①  「前進」の必要性→積極性が必要

 

 まず第一に、強調したいことは、「前進」の必要性です。

 具体的には、なるべく早く、少なくとも入試の3~4ヶ月前からは第1志望校の過去問をやるべきだ、ということです。

 実力がついているか不安があっても、とにもかくにも、第2志望以下の過去問の研究は切り上げて、第1志望校の過去問研究に取りかかるべきです。

 極端なことを言えば、第1志望校にだけ受かればよいのです。

 第1志望校に受かる実力がつけば、第2志望校以下にも合格します。

 ためらっている時間は、ないのです。

 

 この点で参考になるのは、以下の羽生氏の言葉です。

(赤字は当ブログによる「強調」です。青字は当ブログに「注」です)


「『決断』は、怖くても前に進もうという勇気が試される。

現状に満足してしまうと進歩はない。

物事を進めようとするときにリスクばかり強調する人がいるが、環境が整ってないことは逆説的にいえば非常に良い環境だと言える。

リスクの大きさはその価値を表していると思えばそれだけやりがいが大きい」

(『決断力』 )

 

②  「ルーティーン」の重要性→集中力を高める儀式的行為

 

 羽生氏に関するテレビの特集番組や、羽生氏についての評論から気付くことは、「ルーティーン(→「固定化・マニアル化された日常の作業・行為」という意味)」の重要性です。

 

 羽生氏は対局の日は、必ず、対局場の将棋会館の近くの駅から将棋会館まで、同じルートを歩くことで、集中力を高めているらしいです。

 歩行中は、何も考えないことを心掛けているようです。

 一度、頭の中を完全に空白にして、再び新鮮な心持ちで真剣勝負に向かう前の儀式的な雰囲気があります。

 あるインタビューで、羽生氏は、以下のような主旨のことを述べていました。

「その前の日までは、いろいろたくさん考えます。けれども、あえて、もう一回頭を空白にして、新たな気持ちで臨む方が気持ちに合っています。」

 

 対局に臨む時の羽生氏の一連の行動は、見事にルーティン化しているようです。

 「1日に1度は麺類を食べる」

 「盤の前に着座して、扇子の止め紙を静かに外す」

 「眼鏡を外し、眼鏡のレンズを、ゆったりと丁寧に拭く」。

 こうした一連の行動を通して、対局前の心を整えているようです。

 

 さらに、羽生氏は、長丁場の対局時の1時間程度の休憩時間には、必ず、少し離れたレストランに足を運ぶらしいです。

 そして、サンドイッチを頼み、淡々と食べる。

 食事後は、すぐに、対局室に戻る。

 この時、彼は将棋について考えていない。

 このルーティンが、脳に空白を、もたらすのです。

 

 一つのことに集中するには、日常生活における様々な些末な思考をカットすることが必要で、そのためには一連の規則化されたルーティーン的な行為がポイントになるのでしょう。

 集中力を高めるためのルーティンの重要性は、再評価されるべきでしょう。

 

 

③  集中力を持続させるために→集中力の基盤は根気・エネルギー・体力→目標の再確認をせよ→「自分の人生」の再確認

 

 受験勉強中には、特に直前期においては、いかに集中力を持続させるか、が問題になります。

 誰にも、ふっと気が抜けること、気が散ることなどが、得てしてあるからです。

 羽生氏の著書を読んでいて、感心したのは、以下の記述です。


「私は、集中力の基盤になるのは根気であり、その根気を支えるためには体力が必要だと思っている。
 体力は、別の言葉でいえばエネルギーである。エネルギーは生きる力だ。エネルギーが枯渇してしまうと、やる気はふくらまないし、持続しない。個人として、自分が大事にしていたり、何かに賭けていたり、究めたいと思っていたり。人生の中で目指しているもの(→「人生の目標」です。広く、「価値観、人生観」と考えても、よいでしょう)がはっきりしている人は、エネルギーがある。」(『決断力』)

 

 つまり、集中力を維持し、高めるためには、自分の「人生の目標」「価値観、人生観」を再確認・再評価するとよいのです。

 言い換えれば、視野を広げ、自分の人生の根本を見つめて、新たな気持ちになるということです。

 

 

④  不安・迷い・スランプ・プレッシャー対策→頂上は近い。心配するな→「もう一息の努力」が結果につながる

  「不安・迷い・スランプ・プレッシャーの対策」としては、「もう一息の努力が結果につながる」

ということを知っておくとよいでしょう。

 あきらめないことが、重要です。 

 「不安・迷い・プレッシャー」自体が、良いシグナルなのです。

 「不安・迷い・プレッシャー」を、一方的にマイナス評価している一般的な常識に、とらわれないようにしてください。

 羽生氏は、以下のように述べています。

 

 

プレッシャーがかかるということは、その状況自体、結構いいところまできている。
 緊張するということは、目標・勝利に近づいている証拠。

 ある程度、結果に期待できるレベルに到達していると自覚しているから、プレッシャーがかかるのです。

 プレッシャーがかかっている時は、山登りに例えると、8合目(→「頂上まで、あと一歩」という意味)まで来ているような状態です。

 自分の状態を俯瞰(ふかん)できないので、あと少しのところでひるんでしまい、ダメだと思ってしまう、努力をやめてしまうのです。

 しかし、そこからもうひと頑張りできるかどうかが、明暗を分けます。

 もうひと頑張りしてから、『やっぱリダメだった』と、判断すればいいのです」

(『結果を出し続けるために(ツキ、プレッシャー、ミスを味方にする法則)』)

 

 少々、楽観的な言葉ですが、私は一理あると思います。

 何よりも、せっかくの成功の可能性を手離さないという、羽生善治氏の力強い意志に、こちらまで、勇気づけられます。

 「自分を信頼する姿勢」も、爽(さわ)やかで、見習いたいものです。

 また、次の羽生氏の言葉も、素晴らしいです。

 

「強くなっていくプロセスの中で、右肩上がりに成長していければいいが、実際のところそういうことはありません。

 停滞している時期があったり、あんまり強くなっていないんじゃないかな、進歩していないんじゃないかなと、そういう迷っている時間ためらっている時間は、前に進んでいくためには、必要なプロセスなのです」(『迷いながら、強くなる』)

 

 また、スランプ、つまり、追いつめられた時こそが、「飛躍のチャンス」と思う気持ちも大切です。

 羽生氏の、「追いつめられた時の対処法」は、一味違います。

 「必ず訪れる人生の一場面」として、「追いつめられた時」にも、冷静に、ポジティブに対応することが大切と、羽生氏は言っています。

 以下に、羽生氏の言葉を紹介します。

 

「将棋は自分との孤独な闘いである。追い込まれた状況から、いかに抜け出すか。でも、人間はほんとうに追いつめられた経験をしなければダメである。追いつめられた時にこそ、大きな飛躍があるのだ。」(『決断力』)

「報われないかもしれないところで、同じ情熱、気力、モチベーションをもって継続してやるのは非常に大変なことであり、私は、それこそが才能だと思っている」(『決断力』)

 

 ところで、「不安・不調・スランプ」から脱出するためには、具体的に、何をすればよいのでしょうか?

 この対策も、「予備知識」がある方が有利です。

 この点について、羽生氏は、以下のように述べています。

 

「不調から脱却するためには、基本を繰り返すことが大切です」(『大局観』)

 

 私も、この作戦には全面的に賛成します。

 この点について、私は以下のように考えます。

 「基本」を「低レベル・入門レベルのこと」と誤解している人もいるようですが、基本は、全ての物事の根本・基盤です。

 「基本」を繰り返すことにより、「目の前の課題・問題」の本筋に戻り、かつ、そのことが平常心を取り戻すきっかけになるのです。

 

 

 ⑤  大局観(全体・本質を見抜く力)の養成を、意識するべき→今からでも、間に合います→余裕を持とう

 

 直前期にこそ、大切なことは、「余裕」を持つことです。

 具体的には、常に、「全体を見る目」を持つことが重要です。

 この点について、羽生氏は、「大局観」として、解説しています。

 以下に、引用します。


全体を判断する目とは、大局観である。

 一つの場面で、今はどういう状況で、これから先どうしたらいいのか、そういう状況判断ができる力だ。(→「俯瞰(ふかん)・鳥瞰(ちょうかん)できる能力」と言ってもよいと思います)

 本質を見抜く力といってもいい。

 その思考の基礎になるのが、勘つまり直感力だ。

 直感力の元になるのは感性である」(『決断力 』)


 「大局観」は、自分の内外の大量の情報から、合理的な選択を行うために必要不可欠です。

 「大局観」の元になる「感性」を鍛えるには、 日頃から意識して「全体」を考えるようにすることが必要です。

 今からでも、間に合います。

 心がけるようにすると、よいでしょう。

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 (4)入試本番当日の心構え

 

①  勝負のポイント 

 

 「勝負のポイント」は、何でしょうか?

 羽生氏によると、「勝負のポイント」は、単純化すると、以下の3点です。

 

【勝負のポイント】

【1】恐れないこと→リスクを恐れない 

  【2】客観的な視点を持つこと→「中立」・「冷静」

  【3】相手の立場を考えること→入試では、「設問を重視」・「出題意図を考える」(『結果を出し続けるために』)

 スッキリと、単純化されていて、見事なものです!

 紙に書いて机の前に貼っておいたり、小さな紙に書いて本番の試験会場で見直すことを、オススメします。

 

 以下では、さらに、詳しく解説していきます。

 

 ②  積極性→リスクを恐れない→(上記【1】「恐れないこと」に関連します)

 

 入試本番当日の最大のポイントは、「積極性を持つこと」だと、私は思っています。

 「この気持ちを持てるか否か」が、入試の結果に多大な影響を及ぼします。

 この点について、羽生氏は、以下のように説明しています。

 説得力のある説明だと思います。

 

「二人の剣豪が決闘を始めたとする。怖いから後ろに下がりたい気持ちになるだろうが、一歩下がっても、相手に一歩間合いを詰められるだけだ。状況は変わらない。逆にいうと、下がれば下がるほど状況が悪くなるのだ。怖くても前に進んでいく、そういう気持ち、姿勢が非常に大事だと思っている」(『決断力』)

 

 「勝負には通らなくてはいけない道が存在すると私は思っている。リスクを前に怖じ気づかないことだ。恐れることも正直ある。しかし、勝負する以上、必ずどこかでそういう場面に向き合い、決断を迫られることになる。私は、そういうときには、『あとはなるようになれ』という意識(→「結果を気にしないで、全力を尽くす」ということです)で指している。どんな場面でも、今の自分をさらけ出すことが大事なのだ(→「現在の自分の実力以上の結果は出ない。とにかく全力を尽くす。覚悟を決める」ということです )」(『決断力』)。

 

 「積極性」を持つためには、以下に引用する羽生氏の見解のように、「自分への信頼」が必要になります。

 「自分への信頼」を実感できるまで、努力することが、前提ですが。

 

「どんな場面でも、今の自分を認めること(→今の自分に自信を持つ)

毎回石橋を叩いていたら、勢いも流れも絶対つかめない。

勝敗を決するのは、高いテンション、自分への信頼です」(『捨てる力』)

 

 ③  自然体・冷えた情熱→(上記【2】「客観的な視点を持つこと」に関連します)

 

 羽生氏は、『決断力』 の中で、 「決断力を高める方法」としては、「結局のところ、自然体が一番大事」と述べています。

 同様のことを、さらに、『勝負哲学』の中で、丁寧に説明しています。

 とても参考になると思いますので、以下に紹介します。

 

「  場になじむ、自然体ということが大切です。
 支配とか制するとかいうと、やはり強すぎる。もっとやわらかい感じです。『場になじんでいる』ような。場を見下ろすのではなくて、自分も風景のひとつとして場の中へ違和感なく溶け込めている(→まさに、「無我の境地」です)。そういうときは集中力も増すし、間違いなく、いい対局ができます」(『勝負哲学』)

「  こと将棋という競技においては、その闘争心がむしろ邪魔になることもあるのです。だから私は、戦って相手を打ち負かしてやろうと考えたことは全くといっていいほどありません。」(『勝負哲学』)

「将棋は結果だけが全てです。その世界で長年勝ち続けるためには、『相手を打ち負かしてやろう』と考えていては(→「勝とう」と思った瞬間に「無我」ではなくなるからです)、とても勝ち続けることは叶(かな)わないのです。
 それよりはむしろ、相手に展開をあずける委託の感覚(→「無我の境地」です。入試の場面でいえば、「設問の要求・指示に沿って素直に考える」ということです)や、もっといえば、相手との共同作業で局面をつくり上げていく協力意識や共有感のほうが大切になってくるのです。」(『勝負哲学』)

 

  上記の「相手との共同作業」については、羽生氏は『決断力』では「対局相手にアイディアを引き出してもらう」とまで表現しています。

 これを、入試の場面に置き換えると、「設問文、設問の選択肢、本文・本文のリード文・本文の注を、もう一度、丁寧に熟読・精読して、そこから再考してみる姿勢が大切」ということになります。

 設問・本文から離れた状態で、自分一人で、考え込まないことがポイントです。

 

 論点を「自然体」に戻します。

 問題は、「自然体」と「情熱」の関係、です。

 「情熱」を前面に出すと「自然体」の維持は困難になるからです。

 この微妙な関係について、羽生氏は、以下のような説明をしています。羽生氏の経験に基づいた説明だけに、読みごたえがあります。

 

勝負に『』は必要ですし、大切なものです。深い集中力も重要です。しかし一方で、私の経験は、そういう熱っぽい感情をできるだけ制御しないと勝負には勝てないことも教えています。

 勝負にいちばん悪影響を与えるのは『怒』とか『激』といった荒々しい感情です。つまり、カッとなったら負けなんです。

 これはボクシングなんかの勇猛なスポーツでも同じでしょう。動物的な闘争心は必要でも、それが自分の制御を超えて暴れ出してしまったら勝つことは難しくなります。
 だから私は、感情をコントロールすることが将棋の実力につながるんだと思って、闘争心をむき出しにするのではなく、それを抑制する方向に自分を訓練してきたつもりです。」(『勝負哲学』)


「『冷えた情熱』というか『熱い冷静さ』みたいなものです。そうでないと、『落ち着いた平凡な一手』は指せません。

 そのために、あまり気負わず、自然体(→「無我の境地」)でやっていきたい。そのほうが自分の力を出しやすいようにも思えます。」(『勝負哲学』)

 

 ところで、「冷静さ」を入手する「具体的な方法」は、あるのでしょうか?

 参考になるのは、羽生氏の以下の説明です。

 

「将棋に限らず、何事も激しく戦っているところに目が行きがちだ。しかし、最終的に決断して指す前に、もう1度全体を見ることだ。(→「鳥瞰的な視点を意識して、冷静になること」の重要性を強調しているのです)最終的な確認をすれば、ミスは少なくなるものなのだ。」(『結果を出し続けるために』)

 

 つまり、部分に集中していた気持ちを、全体を見ることにより、静めるということでしょう。

 この方法は、かなり効果的だと思います。

 

 

 ④  集中するためには→リラックス・休息の必要性

 「集中する手順」として、羽生氏は、以下の「自分なりの方法」を紹介していますが、この手順は、一般的に有効でしょう。

 

〔1〕集中するためには、少しずつ時間をかけて、その状態にもっていく

  〔2〕集中力をつけるために、何も考えない時間をもつ(『大局観』) 

 

 上記〔2〕について、さらに詳しく解説します。

 羽生氏は、 「頭の中に空いたスペースがないと集中できない」(『決断力』)と言っています。

 そして、「頭の中の空きスペース」を作るための「自分自身のやり方」まで、紹介してくれています。 

 以下に引用します。

 

集中するためには刺激を遮断する時間を作る

普通に歩くのでも、音楽を聴くのでも、絵を描くのでもいいのですが、何も考えずに頭に刺激が入らない状態にすることです。

 とくに都会に住んでいると刺激だらけなので、自分をそうした刺激から遮断するのです。別の静かな場所に行く、といったことをする必要もありません。普段の生活の中で、自然に歩いていたり、地下鉄の階段を昇り降りしたりすることでも、相当ポーッとできます

 つまり、メリハリをつけるというか、脳をうまく休ませることが大切です。情報・刺激を遮断して、脳を飢餓状態にする、お腹を空かせた状態にするのです。これは短い時間でも構いません。5分やるだけでも全然違います。」(『結果を出し続けるために』)

 

 この方法は、受験勉強中にも、入試直前期にも、役に立ちます。

 ぜひ、実践してください。

 

 

 ⑤  ポジティブ・シンキング→(上記【1】「恐れないこと」に関連します)

 

 『勝負哲学』の中で、羽生氏の対談相手の岡田監督は、「ポジティブ・シンキング」の重要性について、以下のようなことを述べています。

 

「岡田:ある用事でサッカー協会の人に電話をした時、その人の横にたまたまAという選手がいたことがありました。Aは海外でプレーする日本代表の選手で、帰国して自主トレの最中だったようです。その人が『Aがそばにいるんですけど代わりますか』というので、Aともしばらく話をしてなかったこともあって代わってもらったんです。
 そうしたら、Aは開口一番、あっけらかんと『ぼくのためにわざわざ電話ありがとうございます』なんていうんです。彼と話したくて私が電話をしたと思い込んでいるんですね(笑)。Aが海外で結果を残している理由の一端がわかった気がしました。プラス思考で、つねに自分中心で物事を考えているんです。でも、そのくらいのほうが勝負ごとでは力を発揮できますよ。

羽生:また、それくらいのほうが結果を引きずらないし、気分転換もうまいはずです。」(『勝負哲学』)

 

 「A選手」の「自分中心主義」的なプラス思考は、かなりハイレベルですが、見習いたいものです。

 羽生氏も、「A選手」の反応をプラス評価しているようです。

 この羽生氏の評価も、いかにも、おおらかな天才棋士らしい評価で、素晴らしいです。

 

 プラス思考について言えば、一般の人々もプラス思考を、どんどん持つべきだと、私は思っています。

 

 

 ⑥  プレッシャー対策

 

 プラス思考(ポジティブ・シンキング)が、「プレッシャー対策」に不可欠なことは、今や常識です。

 しかしながら、本来、人間の能力は「プレッシャー」に強いことを知れば、さらに、不安がなくなるはずです。

 この点について、『勝負哲学』の中で、岡田氏・羽生氏は、とても有益なことを指摘しています。

 「大ピンチのときには、人間は意外に正しい判断をする」と、言っているのです。

 真剣勝負の場面で、プレッシャーが心身の動きを鈍くすることは、誰しもが経験していることです。

 しかし、岡田氏も羽生氏も「重圧がかかった状態のほうが感覚が研ぎすまされて、集中力が高まることが多い」と発言しています。

 

 「自分が苦しい」と感じるのは、まだ、状況が最悪にまで落ちていないからです。

 最悪の状況、つまり、どん底にまで落ちて、どうしようもなくなれば、実は落ち着くようです。

 開き直るしかなくなれば、一切の雑念が消え、思考も冴えてくるということです。

 この指摘は、覚えておく価値があると思います。

 

 

 ⑦  周りの人から「信用の風」を送ってもらうように、努力する→自信につながる→ これは、案外、重要です

 

プロスポーツで、チャンスに強い選手が、周りの期待通りに活躍し、ヒーローインタビューで「ファンのみなさんのおかげです」と感謝する場面をよく見聞きします。

 あれは、決して、表面的な社交辞令ではないのです。

 「周囲の信用による後押し」が、ぎりぎりの勝負になってモノをいうのです。

 

「将棋に限らず、勝負の世界では、多くの人たちに、どれだけ信用されているか、風を送ってもらうかは、戦う際のうえでの重要なポイントであり、自分のパワーを引き出してくれる源である」と羽生氏は語っています。(『決断力』) 

 そして、「そのためにも、日頃から実力を磨き、周りからの信用を勝ち取ることが大切だ」と羽生氏は続けています。

 

 「風を送ってもらう」とは、羽生氏らしい個性的な詩的な表現です。

 確かに、「信用されている」という自信が、「自分自身の支え」になり、より大きなパワーを引き出す源になり得ます。

 「そのためにも日々の努力が大切だ」という羽生氏の言葉は、羽生氏の経験から発せられたものだけに、重味が重みがあります。

 充分に参考にする価値があるでしょう。

 

 ちなみに、羽生氏は、別の著書(『大局観』)で、

「傍から見たときに幸運に思える人は、幸運を掴む機会を増やしたり、不運を少しでも軽くするような準備をしていることが多い」と言っています。

 「幸運」・「不運」を軽視しない、謙虚な羽生氏の態度は、参考にするべきです。

 

  

⑧  万が一、ミスをした時の対策 

 

 羽生氏が長年のプロ棋士生活の中で編み出した「効果的なミス対策」は、かなり役に立ちます。

 これについては、『結果を出し続けるために』に、詳しく書いてあります。

 簡単に言うと、以下のようになるようです。

「ミスをしてしまったら、まずミスをした瞬間から、ミスする前の局面のことを頭から消すことだ。その瞬間に『これは初めて見た局面だ』と考え直し、新たに取り組むのだ」。

 

 羽生善治氏の「効果的なミス対策」(『結果を出し続けるために』)をまとめると以下のようになります。

 

【4つの気持ちの切り替え方】

①  まず、一呼吸おく→ミスが重なるのは、ミスの後に別のミスが起こりやすいから。原因は、最初のミスによる精神的な動揺。

 

②  現在に集中する→ミスをしてしまったら、その瞬間に、ミスする前の場面を頭から消す。そして、「これは初見の場面」と考え直して、新たに取り組むべき。

反省はしない。後でする。ミスの結果については、気にしないようにする。

 

③  優劣の判断を冷静に行う

 

④  すべてに完璧さを求めず、能力を発揮する機会、自分の可能性を拡大するチャンスと考えるようにする→ここでも、「ポジティブ・シンキング(プラス思考)」が効果的です。

 上記のについては、羽生氏は、『決断力』 で、次のようにも言っています。

 この積極的な生き方は、見習うべきだと思います。

「対局してみると、予想外のことが必ず起きます。そんな慣れていない状況になると、失敗する確率も当然高まりますが、未知の事態に踏み込むのを恐れるのでなく、そこに挑戦する楽しみを持つことが本当に大事なのです」(『決断力』)

 

 

 (5)今回の記事、「受験勉強・直前期・本番当日の心構え」の「まとめ」

 

「今回の記事のまとめ」として、羽生善治氏の以下の言葉を引用します。


「要するに勝負とは、奇襲作戦では通用しないということです。楽観せず、悲観もしない。ひたすら平常心で、勝負どころを期待せずにじっと待つ。これが『勝負の心構え』としての王道であり、本筋である。は向かい合う相手ではなく、自分自身なのだ。」(『決断力 』)

 

 今現在の羽生氏の人生観を反映している、哲学的な深い言葉です。

 特に、「勝負どころを期待せずにじっと待つ」の部分は、その冷静さに戦慄さえ感じます

 味わい深いので、何度か反芻することを、おすすめします。

 私は、この言葉に感動しました。

 

ーーーーーーーー

 

 今回の記事は、これで終わりです。

 次回の記事は、約10日後に発表の予定です。

 ご期待ください。

 

 

決断力 (角川oneテーマ21)

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トランプ現象と夏目漱石→反グローバリズム的発言と文明開化批判

(1)今回の記事を書く理由→「トランプ現象」と夏目漱石→反グローバリズム的発言と「文明開化」批判

 

 アメリカ大統領選における「トランプ現象」は、日本でも、2016年後半期から、政治的・経済的・社会的に大きな話題になりました。

 当初の予想に反して、結果的に当選したトランプ氏の「反グローバリズム的」な発言により、現在、「グローバル化・国際化の功罪」が改めて注目されています。

 トランプ氏の一連の「反グローバリズム的」発言を読みながら、私は、時代状況は違うものの、漱石の小説・講演における、痛快で爽快な「文明開化批判」を思い出しました。

 私のように感じる読書家は少なくないはずです。

 大学入試の作成者の中にも、私と同様の感想を持つ人は、いるはずです。

 

 漱石の「文明開化批判」は、入試頻出事項です。

 

  しかも、2016年は夏目漱石の没後100年、2017年は生誕150年です。

 このような、有名作家の節目の年度には、当該作家関連の論考が、多く発表されるために(現に、2016年度には、漱石関連の充実した論考が目立ちました)、その影響で、翌年の大学入試の現代文(国語)・小論文でも、当該作家関連の論考が流行することがあります。

 従って、2017年度・2018年度には、漱石の「文明開化批判」が、入試にかなり出題されることが予想されます。

 そこで、今回の記事でも、現代文(国語)・小論文対策として、漱石の小説・講演における「文明開化批判」を解説します。

 今回の記事は、前回の記事の続きです。

 今回の記事を、より良く理解するために、前回の記事に目を通しておいて下さい。

  

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 (2)夏目漱石の「文明開化」批判の時代背景→植民地主義・帝国主義の時代

 

「現代日本の開化」『三四郎』『吾輩は猫である』の時代背景について、検討します。

 

《各作品の発表年度》

  「現代日本の開化」1911年、

『三四郎』1908年、

『吾輩は猫である』1905年、

これらの発表年度は、これから解説する事項に重要な意味を持ちます。

 

 

 日本は1905年に日露戦争に勝ったため、世界の一流国の仲間入りができました。

 20世紀初頭までは、世界のほぼ全体が白人国家の植民地主義的な支配下にありました。

 アジアでは、シャム(タイ)と日本だけが、かろうじて独立を保持していました。

 中国は、清朝内部の混乱のために西洋列強の介入を拒否できずに、実質的に植民地状態でした

 ロシアとの日露戦争は、明治37年(1904年)に始まりました。

 

 ロシアは、日本とは比較にならない、西洋最大の大国です。

 日本は膨大な人的・経済的犠牲を払いましたが、その翌年にギリギリの勝利を手にしました。

 そして、日本は、世界の一流国に仲間入りするという、明治維新からの目標に到達した。

 つまり、日露戦争後に欧米列強との不平等条約を改正できたのです。

 

 

 漱石は時代を読み取る観察力を持っていました。 

 世界の一等国となること、そして、欧米との不平等条約を修正すること。

 これは、日本国、日本国民の遠大な目標でした。 

 その目標が、実現したのです。

 日露戦争に勝って一等国になったと、日本国民も日本国家も自画自賛し、増長するようになリました。

 そのために、もともと不自然だった、急激な文明化、つまり、西洋文明の無思慮な模倣がさらに進むはずと予想して、漱石は悲しい気持ちになったのです。

 

 

(3)『現代日本の開化』ー夏目漱石の「文明開化」批判

 

 物事の本質を見抜くことの出来た先鋭的な感覚を持っていた夏目漱石は、時代の波に乗るために、多少の矛盾には目をつぶってって、要領よく生きていくというようなことができなかった人です。

 それゆえに、彼は、当時の日本の「近代化」「西洋化」の熱病=「文明開化」に対しても、これを批判することができたのでした。
 漱石は、「現代日本の開化」の中で、「日本の近代化」を「皮相上滑りの開化」であると痛烈に批判しています。

 つまり、「日本の開化」は、外からの強大な圧力に押されて仕方なく進めているというだけで、あまりにも外発的と空しく思っていたのです。

 ただ、1868年の明治維新に至るまで、日本は長年、鎖国政策を続けていましたから、世界に向かって開国してから、政治的・経済的・社会的な大混乱に陥ったとしても、当然といえば当然だったのです。

 

 とはいえ、漱石は時代の課題に本質的に考察しようとする、誠実な思想家としての側面をもっていたのです。

 「現代日本の開化」で、「文明開化」批判を展開している部分を、以下に引用します。

 

(『現代日本の開化』の一部抜粋)

(赤字は当ブログによる「強調」です。青字は当ブログによる「注」です)

日本の開化は自然の波動を描いて甲の波が乙の波を生み乙の波が丙の波を押し出すように内発的に進んでいるかと云うのが当面の問題なのですが残念ながらそう行っていないので困るのです。行っていないと云うのは、先程(さきほど)も申した通り活力節約、活力消耗の二大方面において、ちょうど複雑の程度二十を有しておったところへ、俄然(がぜん)外部の圧迫で三十代まで飛びつかなければならなくなったのですから、あたかも天狗(てんぐ)にさらわれた男のように無我夢中で飛びついて行くのです。その経路はほとんど自覚していないくらいのものです。元々開化が甲の波から乙の波へ移るのはすでに甲は飽(あ)いていたたまれないから内部欲求の必要上ずるりと新らしい一波を開展するので甲の波の好所も悪所も酸いも甘いも甞(な)め尽した上にようやく一生面を開いたと云って宜(よろ)しい。したがって従来経験し尽した甲の波には衣を脱いだ蛇へびと同様未練もなければ残り惜しい心持もしない。のみならず新たに移った乙の波に揉(も)まれながら毫(ごう)も借り着をして世間体を繕(つくろ)っているという感が起らない。ところが日本の現代の開化を支配している波は西洋の潮流でその波を渡る日本人は西洋人ではないのだから、新らしい波が寄せるたびに自分がその中で食客(いそうろう)をして気兼(きが)ねをしているような気持になる。新らしい波はとにかく、今しがたようやくの思いで脱却した旧(ふる)い波の特質や真相やらも弁(わきまえ)る(→入試頻出語句)ひまのないうちにもう棄(す)てなければならなくなってしまった。食膳(しょくぜん)に向って皿の数を味い尽すどころか元来どんな御馳走(ごちそう)が出たかハッキリと眼に映じない前にもう膳を引いて新らしいのを並べられたと同じ事であります。こういう開化の影響を受ける国民はどこかに空虚の感がなければなりませんまたどこかに不満と不安の念を懐(いだ)かなければなりません。それをあたかもこの開化が内発的ででもあるかのごとき顔をして得意でいる人のあるのは(よろ)しくない。それはよほどハイカラ(→「ハイカラ」とは、西洋風の服装・・・生活・・じなどを意味する日本語の造語。現在では、あまり使われない)です、(よろ)しくない虚偽でもある軽薄でもある(→かなり怒っています。当時の日本に、このような危機感を抱けた人物は、あまり多くないでしょう。欧米への留学経験があり、欧米と日本との違いを実感として知っている人だけが、このような感覚を抱けるのでしょう)自分はまだ煙草(たばこ)を喫(す)っても碌(ろく)に味さえ分らない子供の癖に、煙草を喫ってさも旨(うま)そうな風をしたら生意気でしょう。それをあえてしなければ立ち行かない日本人はずいぶん悲酸(ひさん)な国民と云わなければならない(→「悲酸」(悲惨)とまで言っていることに注意)。開化の名は下せないかも知れないが、西洋人と日本人の社交を見てもちょっと気がつくでしょう。西洋人と交際をする以上、日本本位ではどうしても旨く行きません。交際しなくともよいと云えばそれまでであるが、情けないかな交際しなければいられないのが日本の現状でありましょうしかして強いものと交際すれば、どうしても己を棄てて先方の習慣に従わなければならなくなる。我々があの人は肉刺(フォーク)の持ちようも知らないとか、小刀(ナイフ)の持ちようも心得ないとか何とか云って、他を批評して得意なのは、つまりは何でもない、ただ西洋人が我々より強いからである。我々の方が強ければあっちこっちの真似まねをさせて主客の位地(いち)を易(かえ)るのは容易の事である。(→面白い指摘です。「欧米中心主義的なグローバル化は偶然の産物」という見方も可能であるという見解です)がそう行かないからこっちで先方の真似をする。しかも自然天然に発展して来た風俗(→「その社会・地域の日常生活の習慣・風習」という意味)を急に変える訳にいかぬからただ器械的に西洋の礼式などを覚えるよりほかに仕方がない自然と内に醗酵(はっこう)して醸(かも)された礼法(→「礼儀作法」という意味)でないから取ってつけたようではなはだ見苦しいこれは開化じゃない、開化の一端とも云えないほどの些細(ささい)な事であるが、そういう些細な事に至るまで、我々のやっている事は内発的でない、外発的であるこれを一言にして云えば現代日本の開化は皮相上滑(うわすべ)りの開化であると云う事に帰着するのである。無論一から十まで何から何までとは言わない。複雑な問題に対してそう過激の言葉は慎(つつし)まなければ悪いが我々の開化の一部分、あるいは大部分は己惚(うぬぼれ)てみても上滑りと評するより致し方がないしかしそれが悪いからお止しなさいと云うのではない事実やむをえない、涙を呑(の)んで上滑りに滑って行かなければならないと云うのです。」

 


「日本の現代開化の真相もこの話と同様で、分らないうちこそ研究もして見たいが、こう露骨にその性質が分って見るとかえって分らない昔の方が幸福であるという気にもなります。とにかく私の解剖した事が本当のところだとすれば我々は日本の将来というものについてどうしても悲観したくなるのであります。外国人に対して乃公(おれ)の国には富士山があるというような馬鹿(→過激な罵倒です)は今日はあまり云わないようだが、戦争(→日露戦争です)以後一等国になったんだという高慢な声は随所に聞くようである。なかなか気楽な見方をすればできるものだと思います。(→大国ロシアに勝ち日本国民も日本国家も、自信過剰になっていて思い上がっていた、この時代にしては、実に大胆な勇気のある発言です。日本国民・日本国家を敵に回す可能性が大ですから)ではどうしてこの急場を切り抜けるかと質問されても、前(ぜん)申した通り私には名案も何もないただできるだけ神経衰弱に罹(かか)らない程度において、内発的に変化して行くが好かろうというような体裁の好いことを言うよりほかに仕方がない。にがい真実を臆面(おくめん)なく諸君の前にさらけ出して、幸福な諸君にたとい一時間たりとも不快の念を与えたのは重々御詫(おわび)を申し上げますが、また私の述べ来(き)たったところもまた相当の論拠と応分の思索の結果から出た生真面目(きまじめ)の意見であるという点にも御同情になって悪いところは大目に見ていただきたいのであります。」

 

ーーーーーーーー

 

(当ブログによる解説)

 いかにも「無鉄砲」で、「へそ曲がり」の漱石らしい記述です。

  『坊っちゃん』の登場人物である「坊っちゃん」と「赤シャツ」が、「漱石の分身」であるのは有名です。

 上記の講演には、「坊っちゃんのストレートな激情」と「赤シャツの皮肉」が、入り交じっていて、読んでいて、わくわくします。

 現代の状況にも、充分に適合する内容になっていることに、驚嘆します❗

 

 上記の「現代日本の開化」を読んで、注意するべきことは、夏目漱石は「文明開化」を全面的には否定してはいないという点です。

 上記に引用した最後の部分で、「しかしそれが悪いからお止しなさいと云うのではない事実やむをえない、涙を呑(の)んで上滑りに滑って行かなければならないと云うのです」と述べていることに注目してください。

 だからこそ、ここに、「急激な文明開化・西洋化の中で、日本の伝統的精神をいかに保持し、日本人の自己・アイデンティティを確保していくのか」という、夏目漱石の重大な悩み・課題が発生するのです。

 

 その当時、一応、「和魂洋才」というスローガンが、打ち立てられました。

 しかし、「和魂洋才」は、単なるスローガンにすぎず、実際には、大部分の「和魂」=「日本の伝統的価値観」はあっさり脱ぎ捨てられたのでは、ないでしょうか。

 西洋文化を「涙を呑(の)んで上滑りに滑って行かなければならない」状態で取り入れていけば、「和魂」は、いつの間にか、忘れられていくのが道理だからです。

 

 

 ところで、夏目漱石は当時の「日本の近代化」を、本音では、どのように評価していたのでしょうか?

 参考になるのは、『三四郎』の中の「広田先生」の発言です。

 「広田先生」の年齢などの人物設定をみると、「広田先生」は「漱石の分身」であり、「広田先生」の発言は、「夏目漱石の本音」と解釈することが可能です。

 そこで、次に、『三四郎』について検討することにします。

 

(4)『三四郎』における「文明開化」批判

 

 特に、注目されるべきは、「広田先生」の有名な「日本は滅びるね」という発言と、その前後の記述です。

 

 熊本から東京に向かう汽車の中で、三四郎は、「西洋化に邁進(まいしん)する日本」を批判的に見る広田先生に出会います。

 広田先生は、日本が日露戦争に勝ったと浮かれているが、「このままいくと、日本は滅びる」と言い、三四郎を驚かせます。

 戦争に勝ったとしても、国力から見て無理な戦争により、国民は、経済的にも、精神的にも、疲弊していたのです。

 特に、広田先生のようなインテリ階層は、戦勝の喜びよりも、疲弊しつつも、西洋化・近代化に熱中・狂奔する、思考停止状態の、(つまり、反知性主義的な)日本の将来に絶望感・危機感を抱いていたのでしょう。

 

 この辺の事情は、現在の日本の状況に酷似しています。現在の日本は、東日本大震災・福島原発事故、そして、世界的な不景気の中で、大震災からの復興、福島原発の処理に疲弊しています。それにもかかわらず、今の日本は、日本の農林水産業を壊滅させかねないグローバル経済(過激な新自由主義経済)への参加、膨大な予算を浪費する(単なる大人の運動会である)東京オリンピックの開催、に狂奔しています。全くの思考停止状態、反知性主義の蔓延と評価せざるを得ません。「(このままいくと)日本は滅びるね」という広田先生のセリフは、そのまま、「現在の日本」に当てはまると思います。

 

 以下に、「日本は滅びるね」という発言を含む『三四郎』の一部を引用します。

 

(『三四郎』の本文)

(赤字は当ブログによる「強調」です。青字は当ブログによる「注」です)

 「浜松で二人とも申し合わせたように弁当を食った。食ってしまっても汽車は容易に出ない。窓から見ると、西洋人が四、五人列車の前を行ったり来たりしている。そのうちの一組は夫婦とみえて、暑いのに手を組み合わせている。女は上下(うえした)ともまっ白な着物で、たいへん美しいこういう派手(はで)なきれいな西洋人は珍しいばかりではない。すこぶる上等に見える。三四郎は一生懸命にみとれていた。これではいばるのももっともだと思った。自分が西洋へ行って、こんな人のなかにはいったらさだめし肩身の狭いことだろうとまで考えた。窓の前を通る時二人の話を熱心に聞いてみたがちっともわからない。熊本の教師とはまるで発音が違うようだった。
 ところへ例の男が首を後から出して、
「まだ出そうもないのですかね」と言いながら、今行き過ぎた西洋の夫婦をちょいと見て、
ああ美しい(→「文明開化=西洋化」に批判的な広田先生も、知らぬ間に「西洋的な美意識」に拘束されてしまったようで、少々、皮肉的な表現になっています。「皮肉的な表現」は、漱石の得意技です。このことを読者の方で強く意識していないと、軽く読み過ごしてしまうほどに、漱石は、さりげなく「皮肉表現」を多用しています。「『漱石の皮肉表現の真意』の説明問題」は、難関大学の入試で頻出なので、注意しておいてください)と小声に言って、すぐに生欠伸(なまあくび)をした。三四郎は自分がいかにもいなか者らしいのに気がついて、さっそく首を引き込めて、着座した。男もつづいて席に返った。そうして、
どうも西洋人は美しいですね」と言った。
 三四郎はべつだんの答も出ないのでただはあと受けて笑っていた。すると髭の男は、
お互いは哀れだなあ」と言い出した。「こんな顔をして、こんな顔をして、こんなに弱っていては、いくら日露戦争に勝って、一等国になってもだめですね。もっとも建物を見ても、庭園を見ても、いずれも顔相応のところだが、――あなたは東京がはじめてなら、まだ富士山を見たことがないでしょう。今に見えるから御覧なさい。あれが日本一(にほんいち)の名物だ。あれよりほかに自慢するものは何もない。ところがその富士山は天然自然に昔からあったものなんだからしかたがない。我々がこしらえたものじゃない」と言ってまたにやにや笑っている。三四郎は日露戦争以後こんな人間に出合うとは思いもよらなかったどうも日本人じゃないような気がする
しかしこれからは日本もだんだん発展するでしょうと弁護した。

 すると、かの男は、すましたもので「滅びるね」と言った。ーー熊本でこんなことを口に出せば、すぐなぐられる。悪くすると国賊取り扱いにされる。三四郎は頭の中のどこのすみにもこういう思想を入れる余裕はないような空気のうちで生長した。だからことによると自分の年の若いのに乗じて、ひとを愚弄(ぐろう)するのではなかろうかとも考えた。男は例のごとく、にやにや笑っている。そのくせ言葉つきはどこまでもおちついている。どうも見当がつかないから、相手になるのをやめて黙ってしまった。すると男が、こう言った。

「熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より・・・・」でちょっと切ったが、三四郎の顔を見ると耳を傾けている。
「日本より頭の中のほうが広いでしょう(→一見、分かりにくい表現です。「文明開化が進行中の今こそ、視野を狭くしては、いけない」「良く考えよ」と言いたいのです)」と言った。「とらわれちゃだめだ。いくら日本のためを思ったって贔屓(ひいき)の引き倒し(→「相手を大切にすることにより、かえって、相手に害悪がおよぶ」という意味→「日本のためになると思い、文明開化を積極的に進めることは、かえって、日本のためにはならない」ということです)になるばかりだ」」

 

ーーーーーーーー

 

(当ブログによる解説)

 年齢的にみて、広田先生方は、「夏目漱石の分身」と考えることが可能です。

 その上で、「(日本は)滅びるね」を、どのように解釈するべきでしょうか。

 私は、以下のように考えました。

 

 「文明開化=西洋化」に伴い、日本国家・日本人は、「自分たちの、精神的伝統=伝統的価値観」を軽視・無視していくでしょう。

 「伝統的な価値観」は、「自己」の「精神的な基盤」です。

 「伝統的価値観」を「喪失」することは、日本国家・日本人の「自己(アイデンティティ)」の「喪失」と同じことです。

 もはや、「まともな国家・個人と言えなくなる」、ということです。

 これは、国家・個人の実質的な「滅亡」と同視できるのです。

 

 前回の記事で、私が強調したことですが、明治時代の日本人が、運慶の彫刻を無条件に賞賛する理由は、無意識の内に、「過去の自分たちの価値観」、「運慶の生きていた頃(平安時代・鎌倉時代)の日本の伝統的芸術観・価値観」を懐かしがっているからです。

 最近では、ますます「グローバル化」が叫ばれ、「一部の企業の、社内での英語公用語化」、「小学校低学年からの英語教育導入」などということが流行しているようです。

 これらは、無思慮な、思考停止的な「グローバル化」としか評価できません。

 今日、より一層、私達は、「日本人」としての「アイデンティティーの確立」・「自己の確立」を意識する必要があります。

 いずれにせよ、「過激なグローバル化」が進展中の現代にこそ、この「文明開化」批判を熟読して、「漱石の心の葛藤」を追体験するべきだ、と私は思います。

 

 

 (5)『吾輩は猫である』における「文明開化」批判

 

 吾輩は猫である (新潮文庫)

 

 

 

 

 

 

 『吾輩は猫である』の中の「文明開化」批判も、読みごたえがあります。

 『吾輩は猫である』の中には、「文明開化」批判を展開している記述が数ヶ所ありますが、特に、本質的な批判をしている部分を以下に引用します。

 

(『吾輩は猫である』の本文)

(赤字は当ブログによる「強調」です。青字は当ブログによる「注」です)

 

 以下は、落雲館中学校生徒が「苦沙弥」先生宅の庭に野球ボールを打ち込み、「苦沙弥」先生が激高している場面(第8話)です。

 

「哲学者先生(→八木  独仙(やぎ どくせん)。苦沙弥先生の同窓。ヤギヒゲが特徴の、哲学者風な人物。夏目漱石も漢文学に精通しているので、「漱石の分身」とも評価し得ます。禅語、「東洋的な消極的の修養」論を話題に取り上げるのが得意)はだまって聞いていたが、ようやく口を開ひらいて、かように主人に説き出した。

『ぴん助やきしゃごが何を云ったって知らん顔をしておればいいじゃないか。どうせ下らんのだから。中学の生徒なんか構う価値があるものか。なに妨害になる。だって談判しても、喧嘩をしてもその妨害はとれんのじゃないか。僕はそう云う点になると西洋人より昔の日本人の方がよほどえらいと思う西洋人のやり方積極的積極的と云って近頃大分だいぶ流行(はや)るが、あれは大(だい)なる欠点を持っているよ。第一積極的と云ったって際限がない話だ。いつまで積極的にやり通したって、満足と云う域とか完全と云う境(さかい)にいけるものじゃない。向むこうに檜(ひのき)があるだろう。あれが目障(めざわ)りになるから取り払う。とその向うの下宿屋がまた邪魔になる。下宿屋を退去させると、その次の家が癪(しゃく)に触る。どこまで行っても際限のない話しさ西洋人の遣(や)り口(くち)はみんなこれさ。ナポレオンでも、アレキサンダーでも勝って満足したものは一人もないんだよ。人が気に喰わん、喧嘩をする、先方が閉口しない、法庭(ほうてい)へ訴える、法庭で勝つ、それで落着と思うのは間違さ。心の落着は死ぬまで焦(あせ)ったって片付く事があるものか。寡人政治(かじんせいじ)がいかんから、代議政体(だいぎせいたい』にする。代議政体がいかんから、また何かにしたくなる。川が生意気だって橋をかける、山が気に喰わんと云って隧道トンネルを堀る。交通が面倒だと云って鉄道を布(し)く。それで永久満足が出来るものじゃない。さればと云って人間だものどこまで積極的に我意を通す事が出来るものか。西洋の文明は積極的、進取的かも知れないがつまり不満足で一生をくらす人の作った文明さ日本の文明は自分以外の状態を変化させて満足を求めるのじゃない西洋と大(おおい)に違うところは、根本的に周囲の境遇は動かすべからざるものと云う一大仮定の下(もと)に発達しているのだ。親子の関係が面白くないと云って欧洲人のようにこの関係を改良して落ちつきをとろうとするのではない。親子の関係は在来のままでとうてい動かす事が出来んものとして、その関係の下(もと)に安心を求むる手段を講ずるにある。夫婦君臣の間柄もその通り、武士町人の区別もその通り、自然その物を観(み)るのもその通り。ーー山があって隣国へ行かれなければ、山を崩すと云う考を起す代りに隣国へ行かんでも困らないと云う工夫をする。山を越さなくとも満足だと云う心持ちを養成するのだ。それだから君見給え。禅家(ぜんけ)でも儒家(じゅか)でもきっと根本的にこの問題をつらまえる(→「つらまえる」とは「捉まえる。捕まえる」と書き、「とらえる。つかまえる」という意味)いくら自分がえらくても世の中はとうてい意のごとくなるものではない、落日(らくじつ)を回(めぐ)らす事も、加茂川を逆(さか)に流す事も出来ない。ただ出来るものは自分の心だけだからね。心さえ自由にする修業をしたら、落雲館の生徒がいくら騒いでも平気なものではないか、今戸焼の狸でも構わんでおられそうなものだ。ぴん助なんか愚(ぐ)な事を云ったらこの馬鹿野郎とすましておれば仔細(しさい)(→入試頻出語句)なかろう。何でも昔しの坊主は人に斬(き)り付けられた時電光影裏(でんこうえいり)に春風(しゅんぷう)を斬るとか、何とか洒落(しゃ)れた事を云ったと云う話だぜ。心の修業がつんで消極の極に達するとこんな霊活な作用が出来るのじゃないかしらん。僕なんか、そんなむずかしい事は分らないが、とにかく西洋人風の積極主義ばかりがいいと思うのは少々誤っているようだ。現に君がいくら積極主義に働いたって、生徒が君をひやかしにくるのをどうする事も出来ないじゃないか。君の権力であの学校を閉鎖するか、または先方が警察に訴えるだけのわるい事をやれば格別だが、さもない以上は、どんなに積極的に出たったて勝てっこないよ。もし積極的に出るとすれば金の問題になる。多勢(たぜい)に無勢(ぶぜい)の問題になる。換言すると君が金持に頭を下げなければならんと云う事になる。衆を恃(たの)む(→「多人数を頼りに強引に何事かをする」という意味)小供に恐れ入らなければならんと云う事になる。君のような貧乏人でしかもたった一人で積極的に喧嘩をしようと云うのがそもそも君の不平の種さ。どうだい分ったかい』」

 

ーーーーーーーー

 

(当ブログによる解説)

 確かに、「西洋人風の積極主義」には、「不満足で一生をくらす人の作った文明」という側面があるようです。

 「欲望の追求」に、切りがないということです。

 漱石は、「西洋の欲望的な歴史」の本質を見抜いているのです。

 

…………………………

 

  「不満足で一生をくらす人」に関しては、藤田省三氏の論考『全体主義の時代経験』(→入試頻出出典です。最近、早稲田大学政経学部でも出題されています。この問題については、下の記事で解説しています→リンク画像を貼っておきます)でも、同様なことを論じています。

 以下は、最近、このブログで記事として発表したものです。

(藤田省三氏の論考『全体主義の時代経験』)

「抑制なく邁進(ばくしん)する産業技術の社会は、即座の効用を誇る完成製品を提供し、その速効製品を新しく次々と開発し、その新品を即刻使用させることに全力を尽くして止まない(→「消費社会」が高度化した「高度消費社会」の段階になったことを意味しています)。そして私たちの圧倒的大多数が、この回転の体系に関係する何処(どこ)かに位置することを以て生存の手段としている。ーーという社会的関連が在るのだから、分断された一回的享受の反復がいよいよめまぐるしく繰り返されていく傾向は、何らかの意識的努力がない限り停(と)どまる処を知らない筈である。」

 

ーーーーーーーー

 

(当ブログによる解説)

 20世紀は、大量生産・大量消費・大量廃棄の「使い捨て文明(→「欲望の飽くなき追求」の一形態です)のもと、人類は科学技術の恩恵を受けて、快適な生活をおくる事ができました。

 しかし、様々な資源の枯渇と、地球温暖化現象によって、人類は、存亡の危機にまで直面しています。

 21世紀は、「使い捨て社会」から「持続可能」な「資源循環型社会」の構築、「環境重視社会」への転換が求められています。 

 

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…………………………

 

  『吾輩は猫である』の解説に戻ります。

 この作品は単に面白いだけではなく、「現代の日本社会のあり方」について再考する契機になります。

 漱石のような、自分をも突き放して考察の対象とする「軽やかで鋭敏な批判精神」を持つことは、現代の日本人に必要不可欠だと思います。

 現在、漱石の作品が、ますます人気になっている背景には、現代の日本人が、このような「漱石の視点」を無意識の内に求めているからではないでしょうか。

 

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 ↓ 以下は、今回の記事に関連する、当ブログの記事の紹介です。

 

(6)『現代日本の開化』・『夏目漱石』関連の他の記事

 

 

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(7)「文語文・擬古文」関連の他の記事

 

 

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 (8)「グローバル化」関連の記事

 

 

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ーーーーーーーー

 

 今回の記事は、これで終わりです。

 次回の記事は、約10日後に発表の予定です。

 

  

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吾輩は猫である (新潮文庫)

吾輩は猫である (新潮文庫)

 

 

↓ 「明治時代の文明開化」に関する、森鴎外のエッセイ(随筆)『混沌』(早稲田大学 政経学部過去問)の問題・解答・解説があります。 

頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

 

  

 私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。

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小説問題・純客観的解法『夢十夜・第六夜』夏目漱石と文明開化

(1)小説問題・純客観的解法『夢十夜・第六夜』・夏目漱石と文明開化

 

① 小説問題を得意分野にしよう

 小説問題を得意分野にしよう。

 センター試験でも、難関大学入試でも、小説・エッセイ(随筆)問題が国語(現代文)における敗因だったという受験生が多いようです。

 確かに、小説問題、エッセイ・随筆問題は、国語(現代文)という科目の中でも、特に解きにくい側面が、あります。

 しかし、少し工夫することで、つまり、対策を意識することで、小説問題、エッセイ・随筆問題を、得意分野にすることが、可能です。

 あきらめないことが、肝心です! 

 

② 小説問題解法のポイント・注意点

 小説・エッセイ(随筆)問題の入試出題率は、相変わらず高く、毎年約1割です。

 まず、センター試験の国語では、毎年、出題されます。

 次に、難関・国公立・私立大学では、頻出です。

 

 

 小説・エッセイ問題については、「解法(対策)を意識しつつ、慣れること」が必要となります。

 本来、小説やエッセイは、一文一文味わいつつ読むべきです。(国語自体が本来は、そういうものです。)

 が、これは入試では、時間の面でも、解法の方向でも、有害ですらあります。

 あくまで、設問(そして、選択肢)の要求に応じて、主観的文章を、(設問の要求に応じて)純客観的に分析しなくてはならないのです。(国語を純客観的に分析? これ自体がパラドックスですが、ここでは、この問題には踏み込みません。日本の大学入試制度の問題点です。)

 この点で、案外、「読書好きの受験生」、特に「小説・エッセイ好きの受験生」が、この種の問題に弱いのです。(ただ、「読書好きの受験生」は、語彙力があるのが「救い」です。)

 

 しかし、それほど心配する必要はありません。

 「入試問題の要求にいかに合わせていくか」という「方法論」を身に付けること、つまり、小説・エッセイ問題に、「正しく慣れる」ことで、得点力は劇的にアップするのです。

 そこで、次に、小説・エッセイ問題の解法のポイントをまとめておきます。

 

【1】5W1H(つまり筋)の正確な把握

① 誰が(Who)     人物

② いつ(When)       時

③ どこで(Where) 場所

④ なぜ(Why)   理由→これが重要→ほとんどが「理由」に関する問題だ、と言ってもよいくらいです。「理由を意識する習慣」をつけるようにしてください。

⑤ なにを(What)    事件

⑥ どうした(How) 行為

 

 上の①~⑥は、必ずしも、わかりやすい順序で書いてあるとは限りません。

 読む側で、一つ一つ確認していく必要があります。

 特に、④の「なぜ(理由)」は、入試の頻出ポイントなので、注意してチェックすることが大切です。→「理由」は「行為」の直前・直後に記述されていることが多いので、「精読・熟読」が必要不可欠です。小説・エッセイ問題においても、「要約」を意識し過ぎることは、有害無益です。

 

【2】登場人物の心理・性格をつかむ

 

① 登場人物の心理は、その行動・表情・発言に、にじみ出ているので、軽く読み流さないようにする。

 

② 情景描写は、登場人物の心情を暗示的・象徴的に提示している場合が多いということを、意識して読む。

 

③ 心理面に重点を置いて、登場人物相互間の人間関係を押さえていく。

 

④ 登場人物の心理を推理する問題が非常に多い。その場合には、受験生は自分をその人物の立場に置いて、インテリ的に、真面目に、さらに言えば、「人生重視的」に、一般的に、インテリ的に(まじめに)、考えていくようにする。→ある意味で、「まともな大人」的に考えるということです。

 

⑤ 心理は、時間とともに流動するので、心理的変化は丁寧に(精読・熟読が不可欠)追うようにする。

 

 以上を元に、「いかに小説問題を解いていくか」、を以下で解説していきます。

 

③ 「トランプ現象」、つまり、「グローバル化の功罪」の最近の論点化に注目して、『夢十夜・第六夜』の演習・解答・解説、『三四郎』・『吾輩は猫である』・『現代日本の開化』の解説をしていきます。

(ただし、今回の記事では、『夢十夜・第六夜』の演習・解答・解説を中心に記述します。『三四郎』・『吾輩は猫である』・『現代日本の開化』の解説は次回の記事で発表の予定です) 

 

 

 具体的な問題としては、『夢十夜・第六夜』が役に立つと思います。

  『夢十夜・第六夜』は「明治時の文明開化」を背景にした短編小説です。

 「明治時の文明開化」とは、現代でいえば、「グローバル化」であり「国際化」です。     「グローバル化・国際化」については、「グローバル化・国際化の推進」に否定的なトランプ候補が2016年のアメリカ大統領選挙に勝利したことで、最近また、「グローバル化・国際化の功罪」が改めて論点化しています。

  『夢十夜・第六夜』も「明治時の文明開化」の「マイナス面」を論点・テーマとしている小説なので、予想問題として検討しておく価値があります。

    ただし、私は『夢十夜・第六夜』のみが、そのまま出題されるというよりも、『三四郎』『現代日本の開化』と共に出題される可能性が高いのではないか、と思っています。

 その方が、ハイレベルな問題を作ることが可能だからです。

 そこで、今回の記事では、字数の関係で『夢十夜・第六夜』を中心に記述し、次回の記事で『三四郎』『現代日本の開化』について記述する予定です。

 

 こうした広い、柔軟な視点に立った、大胆な論点・テーマ予想が、当ブログの特色です。

 こうした柔軟な論点・テーマ予測が2016年度の東大国語(内田樹氏)、一橋大学国語(長谷正人氏)、静岡大学国語(鷲田清一氏)のズバリ的中につながったのです。

 

 

  

文鳥・夢十夜 (新潮文庫) 

 

 

 

 

 

(3)『夢十夜・第六夜』の予想問題と解答・解説


(『夢十夜』・「第六夜」全文)

(【1】・【2】・【3】・・・・は当ブログで付加した「段落番号」です。青字は当ブログによる「注意」です。赤字は「設問番号」です。)


【1】 運慶(うんけい)が護国寺(ごこくじ)の山門で仁王(におう)を刻んでいると云う評判だから、散歩ながら行って見ると、自分より先にもう大勢集まって、しきりに下馬評(げばひょう)(→「読み」・「書き取り」・「意味問題」に注意)をやっていた。

【2】 山門の前五六間の所には、大きな赤松があって、その幹が斜(ななめ)に山門の甍(いらか)(→「読み」に注意)を隠して、遠い青空まで伸(の)びて(→「書き取り」に注意)いる。松の緑と朱塗(しゅぬり)の門が互いに照(うつ)り合ってみごとに見える。その上松の位地が好い。門の左の端を眼障(めざわ)りにならないように、斜(はす)に切って行って、上になるほど幅を広く屋根まで突出(つきだ)しているのが何となく古風である。鎌倉時代とも思われる。
【3】 ところが見ているものは、みんな自分と同じく、明治の人間である。その中(うち)でも車夫が一番多い。辻待(つじまち)をして退屈だから立っているに相違(→「書き取り」に注意)ない。
「大きなもんだなあ」と云っている。
「人間を拵(こしら)えるよりもよっぽど骨が折れるだろう」とも云っている。
 そうかと思うと、「へえ仁王だね。今でも仁王を彫(ほ)るのかね。へえそうかね。私(わっし)ゃまた仁王はみんな古いのばかりかと思ってた」と云った男がある。
「どうも強そうですね。なんだってえますぜ。昔から誰が強いって、仁王ほど強い人あ無いって云いますぜ。何でも日本武尊(やまとたけるのみこと)(→「読み」に注意)よりも強いんだってえからね」と話しかけた男もある。この男は尻を端折(はしょ)って、帽子を被(かぶ)らずにいた。よほど無教育な男と見える。(→「無教育」と思った理由は?→問1)

【4】 運慶は見物人の評判には委細頓着(とんじゃく)なく(→「意味問題」?→問2)鑿(のみ)と槌(つち)を動かしている。いっこう振り向きもしない。高い所に乗って、仁王の顔の辺(あたり)(→「読み」に注意)をしきりに彫(ほ)り抜(ぬ)いて行く。
【5】 運慶は頭に小さい烏帽子(えぼし)のようなものを乗せて、素袍(すおう)だか何だかわからない大きな袖(そで)を背中(せなか)で括(くく)っている。その様子がいかにも古くさい。わいわい云ってる見物人とはまるで釣り合が取れないようである。自分はどうして今時分まで運慶が生きているのかなと思った。どうも不思議な事があるものだと考えながら、やはり立って見ていた。
【6】 しかし運慶の方では不思議とも奇体(→「意味問題」に注意)ともとんと感じ得ない様子で一生懸命(→「書き取り」注意)彫っている。仰向(あおむ)いてこの態度を眺めていた一人の若い男が、自分の方を振り向いて、
「さすがは運慶だな。(→理由は?→問4)眼中に我々なしだ。天下の英雄はただ仁王と我(わ)れとあるのみと云う態度だ。天晴(あっぱれ)(→「読み」・「意味問題」に注意)だ」と云って賞(ほ)め出した。
【7】 自分はこの言葉を面白いと思った。(→どうして「面白い」と思ったのか?→問5)それでちょっと若い男の方を見ると、若い男は、すかさず、

「あの鑿と槌の使い方を見たまえ。大自在(だいじ)(→「書き取り」に注意)ざいの妙境(→「書き取り」に注意。「意味問題」?→問6)に達している」と云った。
【8】 運慶は今太い眉(まゆ)を一寸(いっすん)の高さに横へ彫り抜いて、鑿の歯を竪(たて)に返すや否や斜(は)すに、上から槌を打(う)ち下(おろ)した。堅い木を一(ひ)と刻(きざ)みに削(けず)(→「書き取り」に注意)って、厚い木屑(きくず)が槌の声に応じて飛んだと思ったら、小鼻のおっ開(ぴら)いた怒り鼻の側面がたちまち浮き上がって来た。その刀(とう)の入れ方がいかにも無遠慮
であった。そうして少しも疑念を挾(さしはさ)んでおらんように見えた。
【9】 「よくああ無造作(むぞうさ)に(→「書き取り」に注意。「同義語」を本文中から抜き出せ→問7)鑿を使って、思うような眉(まみえ)や鼻ができるものだな」と自分はあんまり感心したから独言(ひとりごと)(→「読み」に注意)のように言った。するとさっきの若い男が、
「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋(うま)っているのを、鑿(のみ)と槌(つち)の力で掘り出すまでだ。まるで土の中から石を掘り出すようなものだからけっして間違うはずはない」と云った。
【10】 自分はこの時始めて彫刻とはそんなものかと思い出した。(→「彫刻」をどのように考えたのか?→問8)はたしてそうなら誰にでもできる事だと思い出した。それで急に自分も仁王が彫(ほ)ってみたくなったから見物をやめてさっそく家うちへ帰った。

【11】 道具箱から鑿(のみ)と金槌(かなづち)を持ち出して、裏へ出て見ると、せんだっての暴風(あらし)で倒れた樫(かし)を、薪(まき)にするつもりで、木挽(こびき)に挽(ひ)かせた手頃な奴(やつ)が、たくさん積んであった。

【12】 自分は一番大きいのを選んで、勢いよく彫(ほ)り始めて見たが、不幸にして、仁王は見当らなかった。その次のにも運悪く掘り当てる事ができなかった。三番目のにも仁王はいなかった。自分は積んである薪を片(かた)っ端(ぱし)から彫って見たが、どれもこれも仁王を蔵(かく)しているのはなかった。ついに明治の木にはとうてい仁王は埋(うま)っていないものだと悟った(→理由は?→問9)。それで運慶が今日(きょう)まで生きている理由もほぼ解った。(→理由は?→問10)

 

…………………………

 

(問題・解説・解答)

 

問1 自分が「帽子を被(かぶ)らずにいた男」を「無教育な男だ」と思った理由は何か?


(解答) 判定できるはずがないのに、仁王(彫刻)と日本武尊(やまとたけるのみこと)の強さを比較しているから。

 

(別解) 単なるうわさ話の受け売りをしているから。

 

 

問2 「委細頓着(とんじゃく)なく」の意味は?

 

(解答) 「少しも気にしない」という意味。

 

 

問3 「運慶の性格」を説明せよ。

 

(解答) 運慶の性格がわかるのは、「運慶は見物人の評判には委細頓着なく鑿と槌を動かしている。一切振り向きもしない。」の部分です。→第【6】段落

 ここからは、運慶が、「自分が生きている時代にも、周囲の人間の声にも影響されない、超然として動じない人物」だということが分かります。

 

問4 「さすがは運慶だな」と感じた理由を、これより前から抜き出せ。

 

(解答) 「一人の若い男」が、「さすがは運慶だな」と感じた理由は、その直後に書かれています。

 つまり、「眼中に我々なしだ。天下の英雄はただ仁王と我(わ)れとあるのみと云う態度だ。天晴(あっぱれ)(→「読み」・「意味問題」)だ」と云って賞(ほ)め出した。」の部分が、その理由です。

 解答の条件は、「これより前から抜き出せ」なので、「不思議とも奇体ともとんと感じ得ない様子で一生懸命彫っている。」の部分が正解になります。

 

 

問5 「自分はこの言葉をおもしろいと思った」理由は何か?

 

(解答) 見物人たちのセリフを見ると ほとんどが運慶ではなく仁王への賞賛であるのがわかります。 しかし、ひとりだけ若い男は「さすがは運慶だな」と運慶を賞賛します。 主人公が「この言葉を面白いと思った」理由はここにあります。

 

(別解) 運慶は見物人がいないかのように一心不乱に仁王像を彫っています。

 見物人は、運慶に全く無視されているので、気分が悪いはずですが、「天晴(あっぱれ)だ」と、冷静に運慶の彫刻への態度を絶賛しているからです。

 

(別解) 他の見物人は、「運慶」を評価していないのに、「若い男」は一人で運慶を正当に賞賛しているうえに、芸術の理想についても熟知しているから。

 

  

問6 若い男が言った「大自在の妙境に達している」とはどのような意味か?

 

(解答) 「大自在」は、「何の束縛もなく、自由な様子」という意味。

 「妙境」は、「きわめて優れた境地」という意味。

  つまり、運慶が、鑿と槌を、全く自由に操作して仁王を彫っているという意味。

 (少しも迷うこともなく、仁王の姿を木から彫り上げていくという意味。)

 

問7 「無造作に」の同義語を抜き出せ。

 

(解答) 直後の「その刀の入れ方がいかにも無遠慮であった。」の文の「無遠慮」が正解です。

 

問8 「自分はこのとき初めて彫刻とはそんなものかと思い出した。」とあるが、「彫刻」を、どのようなことと考えたのか。


(解答) 彫刻とは、木の中に埋まっているものを、鑿と槌の力で掘り出すこと。

 

 

 問9 「ついに明治の木にはとうてい仁王は埋(うま)っていないものだと悟った」とあるが、この理由について説明せよ。

 

(解答)  ここで考えられる可能性のあるポイントは3通りです。すなわち、

(1)① もともと、木には、「仁王」は入っていなかった。→「明治の木」という一風、変わった表現に注目すると、明治時代には、「木」という物まで、ダメになってしまったから

(2)「仁王」は入っていたのに、見えなかった。→

② 漱石が、本来、彫刻家ではないから見えなかった。

③ 同じ芸術家として、「仁王」は見えるはずだが、明治時代の人間だから見えなかった。

 

 考えられる可能性としては、以上の3通りがあります。

 ただ、初めの2つは、あまりに表面的で深みがなく、現代文(国語)の解答として適切ではない、と評価されることが多いでしょう。

 「『ついに明治の木にはとうてい仁王は埋(うま)っていないものだと悟った』の解釈として考えてられる、あらゆる可能性を検討せよ」という問題が出題された時には、このように様々な可能性を探るべきですが、通常は最後(③)のみを考えればよいと思います。

 そうすると、以下のように考えることがポイントになると思います。

 

 明治時代には、「文明開化」による「西洋化・近代化」により、日本人の精神構造が、「西洋的な人間中心主義的発想」となりました。

 そして、「自然との交流」は、出来なくなりました。その結果、木の中の「仁王」を見ることは、出来なくなったのです。

 

 →ここで、「仁王」の意味するものは、何でしょうか?

 「芸術そのもの」・「芸術の精神・精髄」と考えるべきです。

 

 

問10 「運慶が今日まで生きている理由もほぼわかった。」とあるが、その理由は何か?

 

(解答) 本問は、この小説のテーマ・主題、メッセージに関連すると言えます。

 判断材料となる本文の記述は、「ついに明治の木にはとうてい仁王は埋(うま)っていないものだと悟った。それで運慶が今日まで生きている理由もほぼわかった」とあるだけです。従って、解釈に幅が出てきそうな問題です。

 選択式問題であれば、消去法で選択肢を絞り、残った選択肢の比較対照で何とかなるでしょう。

 しかし、記述式問題だと、悩ましいことになります。

 そこで、以下では、考え得る解答を幾つか挙げてみます。


① 明治時代は運慶の生きていた時代とは違い、「まるで土の中から石を掘り出すように、木の中にあるものを彫り出すこと」が不可能な時代だから、「運慶」(運慶の像に対する高評価)が今日まで生きている理由もほぼわかった、と考えることが可能です。

 つまり、「運慶の像」が、今(明治時代)まで生き残っていることを、「運慶が今日まで生きている」と表現したのです。

 

 つまり、「文明開化」に伴う、「日本の伝統的芸術精神」の衰退の中で、その「伝統的芸術精神」を懐かしがる明治時代の日本人の気持ちが、「運慶の像に対する高評価」を生んでいると考えるのです。

 

② 次に、夢の中ではありますが、文字通り、「運慶本人が今日(きょう)まで生きている」と考えてみることも可能です。

 漱石は、「運慶は死ぬに死ねない」と考えているのです。

 漱石は、「運慶=日本の伝統的な芸術精神・芸術観」に生き残ってもらいたいのでしょう。

 「運慶」に「日本の伝統」を伝えてもらいたいのでしょう。漱石の伝統重視の姿勢がうかがわれます。

 

 

 上記の①・②から明らかなように、要するに、この作品は「明治時代の文明開化」に対する「痛烈な批判」「出題(テーマ)」にしています。

 この文明開化の過程で「日本人の伝統的な価値観・芸術的精神」が、他愛もなく打ち捨てられていることを、漱石はよく知っていました。

 その中で、日本の行く末を案じ、漱石は「第六夜」のような夢を見たのです。

 この「第六夜」は、「漱石の生涯のテーマ」に関係しているのです。

 

 

問11 「運慶」は、「何」の「象徴(シンボル)」、または、「隠喩(メタファー)」として描かれているか?

 

(解答)

① まず、「抽象的イメージ」としては、「運慶」は「伝統的価値観・芸術観」・「芸術家の理想像」の「象徴・暗喩」として描かれていると考えることが可能です。

② さらに、「運慶」は、「無知な人々に囲まれた孤高の中で、傑出した作品を作りそうあげていく人物」として描かれています。

 その点からみて、この側面では、漱石自身が、「運慶」に「自分の芸術家としての理想の姿」、あるいは、「現在の自分の姿」を重ね合わせている、とみることも可能性です。

 

 

問12 見物人のうち、「漱石の分身」と評価し得る人物はいるか。もし、いるとして、どうして、「漱石の分身」と評価し得るのか?

 

(解答) 「運慶」を、「芸術家の理想像」、または、「漱石自身」とみれば、「運慶をプラス評価している人物」、つまり、「若い男」を「漱石の分身」とみることができます。 

 ここで、「若い男」とは、「さすがは運慶だな。眼中に我々なしだ。天下の英雄はただ仁王と我(わ)れとあるのみと云う態度だ。天晴(あっぱれ)だ」と云って賞(ほ)め出した「若い男」をさしています。

 

 自分で自分を、励ましている、勇気づけている、と評価し得るのです。

 夢の中での出来事なので、「漱石という一人の人格」が、様々な人物に変身しているとみることが可能性なのです。

 

 …………………………

 

 これで、『夢十夜・第六夜』の演習・解答・解説は、終わりです。

  今回の『夢十夜・第六夜』で解説したこと(「文明開化と漱石の関係」)は、さらに『三四郎』・『現代日本の開化』などに関連しています。

 次回の記事では、この点について解説していく予定です。

 ご期待ください。

 

ーーーーーーーー

 

 なお、以下に、

「『小説・エッセイ(随筆)問題』関連の記事」、

「『夏目漱石』関連の記事」、

「『グローバル化・国際化』関連の記事」、

「『文語文・擬古文対策』関連の記事」

のリンク画像を貼っておきます。

 ぜひ、参考にしてください。

 

 

(4)「小説・エッセイ(随筆)問題」関連の記事

 

  ↓「文語文・擬古文対策」としても、役に立ちます。

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 ↓「文語文・擬古文対策」としても、役に立ちます。

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 (5)上記以外の「夏目漱石」関連の記事

 

 ↓「文語文・擬古文対策」としても、役に立ちます。

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(6)『グローバル化・国際化』関連の記事

 

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↓2016年度・静岡大学国語にズバリ的中しました。

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 ↓2016年度・東大国語にズバリ的中しました。「ズバリ的中報告・東大国語解説記事」のリンク画像は、下に貼ってあります。

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 ーーーーーーーー

 

 これで、今回の記事は終わりです。

 次回の記事(「夏目漱石と文明開化(グローバル化・国際化)の関係」、『三四郎』・『現代日本の開化』の解説)は、約10日後に発表の予定です。

 ご期待ください。

 

 

 

文鳥・夢十夜 (新潮文庫)

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 以下の2冊の問題集は、私が執筆しました。ぜひ、ご覧ください。

頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

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5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

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にっぽんスズメ歳時記

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国語予想問題「プロの裏切り・プライドと教養の復権を」神里達博

(1)現代文(国語)・小論文予想問題ー「プロの裏切り・プライドと教養の復権を」(2015・12・18「朝日新聞」月刊安心新聞)ーなぜ、この論考に注目したのか?

 

① 第一に、最近の流行論点・テーマが含まれているからです。

 つまり、

「企業の怠慢・不正・犯罪」、

「専門家・科学者の怠慢・不正・犯罪」、

「専門家・科学者の倫理(モラル)」、

「総合的教養(生きた教養)」、

「『大衆社会の病理=嫉妬』の問題性」、

「日本社会における悪平等主義(悪平等思想)」、

が含まれているからです。

 

② 第二に、最近(2015年4月20日)、秀逸な著作、『文明探偵の冒険』(講談社現代新書)を発表して、大学入試現代文(国語)・小論文で、これから注目するべき神里達博氏の論考だからです。

 

 ここのところ、特に、東日本大震災・福島原発事故以降は、難関大学の現代文(国語)・小論文においては、科学史、科学論などの「科学批判」は、よく出題されています。

 東日本大震災・福島原発事故で明らかになったように、「現代文明の発展と存続」を考察する際に、「現代文明と科学の関係」こそが、中心テーマになるからです。

 『文明探偵の冒険』は、「科学の限界」や「歴史の本質」を本質的に、粘り強く、考察した名著だと思います。

 以下に、神里達博氏の紹介をします。

 

 ③ 神里達博氏の紹介

神里達博(かみさと たつひろ)

大阪大学コミュニケーションデザイン・センター特任准教授。専門は科学史、科学技術社会論。1967年生まれ。1992年東京大学工学部卒業(化学工学専攻)。2002年東京大学大学院総合文化研究科博士課程単位取得満期退学(科学史・科学哲学専攻)。旧科学技術庁、旧三菱化学生命科学研究所、東京大学大学院工学系研究科原子力国際専攻特任准教授などを経て、2012年4月から現職。

主な著書に、

『食品リスク―BSEとモダニティ』(弘文堂・2005年)、

『科学技術のポリティクス』(城山英明編・東京大学出版会・2008年・分担執筆)、

『没落する文明』(萱野稔人との共著・集英社新書・2012年)、

などがあります。

 

 

文明探偵の冒険 今は時代の節目なのか (講談社現代新書)

 

 

 

 

 

 

 

(2)「プロの裏切りープライドと教養の復権を」の解説

 

(神里達博氏の論考)(概要です)

(赤字は当ブログによる「強調」です。青字は当ブログによる「注」です)

 

「師走も半ばを過ぎた。今年を振り返りながら改めて思うのは、「プロのモラル」に関わる事件が多かったということである。

 杭工事のデータ偽装(「三井不動産レジデンシャル」・「旭化成建材」)は典型例だろう。そのような行為は、企業ブランドを大きく傷つけ、また業界全体に対する不信を招きかねない、重大な裏切りである。

 また「東洋ゴム工業」は、建築物の免震ゴムで、また鉄道や船舶などに使う防振ゴムで、それぞれ性能の偽装を行っていたことが発覚した。これらも、2度も顧客を欺いた、許し難い行為であろう。

 今年は他にも、40年以上にもわたって組織的に行政の目を欺いてきた「化学及(および)血清療法研究所(化血研)」の不正や、「東芝」の不正会計など、類似する事例が多数、報じられた。これらに共通するのは、なんらかの専門性をもって社会に対して仕事を請け負っていた者が、主として経済的利益を増やすために、信頼に背く行為を行っていた、という点である。私たちは、このような「プロの裏切り」に対して、どう対処すべきなのか。すぐに聞こえてくるのは罰則や監視の強化を求める声だが、ここでは少し違う角度から考えてみたい。まず、専門家のモラルとは、どのように維持されてきたのか、歴史的な流れを確認しておこう。

     *

 日本語でいう「プロ」とは「プロフェッショナル」の略語だが、英語の「Profess=明言する」から派生した言葉だ。これは元々、キリスト教世界において、特別に神から召喚(→「人を呼び出す」という意味)されて就くべき仕事、すなわち、聖職者、医師、法曹家の三つを指していた。そこでは専門的な訓練とともに、職に伴う倫理が求められたのは言うまでもない。そして、それを担保するのは、個人の自律もあっただろうが、同業者の相互チェックも重要な意味を持っていたと考えられる。自分たちの仕事のいわば「品質保証」は、職能共同体による自治によって担われてきたのだ。

 この点は伝統的な「職人」の世界も似ている。倫理を下支えするのは、技に対するプライドというべきものであったはずだ。

 だが近代に入ると、さまざまな仕事が社会的分業によって行われるようになっていく。これはまさに、「専門家=エキスパート」と呼ばれる人たちの増大を意味するのだ。典型例は「科学者」であろう。職業としての科学者が出現してきたのは、19世紀の欧州である。

 このようにして、多数の専門家によって社会が運営されるようになってくると、伝統的な職能共同体に属する「プロ」や「職人」の倫理は、社会の背景へと退いていく。このような社会構造の変容に対して、最も早く警告を発した者の一人に、スペインの哲学者、オルテガがいる。彼は、大衆社会の出現とは、誰もが専門家となり、しかし自分の専門以外には関心を持たない、「慢心した坊ちゃん」の集まりになることだと看破した。そうやって「総合的教養」を失っていくヨーロッパ人を彼は「野蛮」と嘆いたのだ。

     *

 今、日本で起こっていることは、そのさらに先を行くものにも見える。素人には分からない狭く閉ざされた領域に住む「専門家」が、いつの間にか社会全体の規範から逸脱し、結局は自己利益の増大、あるいは自己保身のために、社会を欺く。この事態は実に深刻だ。

 とはいえ、この状況はいずれ、世界中を悩ます共通の難問となるかもしれない。なぜなら近代の重要な本質が「分業」である以上、この世界は専門分化によってどこまでも分断されていく運命にあるからだ。

 ならば、この流れに抗(あらが)う方法はあるのだろうか。

 おそらく鍵となるのは、かつての「プロ」や「職人」が持っていた「プライド」と、失われた「教養」であると考えられる。すなわち、「目先の利益」や「大人の事情」よりも、自らの仕事に対する誇りを優先させることができるか、そして自分の専門以外の事柄に対する判断力の基礎となる「生きた教養」を再構築できるかどうか、ではないか。

 そのために私たちにもすぐできることがある。それは利害関係を超えた「他者」に関心を持つこと、そして、その他者の良き仕事ぶりを見つけたら、素直に敬意(リスペクト)を表明することだ。人は理解され、尊敬されてはじめて、誇りを持てる。抜本的解決は容易ではないが、できれば罰則や監視ではなく、知性尊敬によって世界を変えていきたい。」
(「プロの裏切り・プライドと教養の復権を」  2015・12・18「朝日新聞」月刊安心新聞)

 

ーーーーーーーー

 

(当ブログによる解説)

 「プロのモラル違反」は、国民の生命・健康・財産に重大な悪影響を及ぼすことが多いので、深刻な問題です。

 それだけに、この問題の対策は、緊急の課題です。

 マスコミなどでは、この種の問題が発生すると、決まって対策として議論に上がるのは、罰則・監視の強化です。しかし、いくら罰則・監視を強化しても、モラル違反は完全にはなくなりません。このことは、今までに何回も繰り返されたことです。

 

 神里氏の言うように、確かに「罰則」・「監視」では、根本的・本質的な解決にはならないのです。しかも、厳重な「罰則」や「監視」の中では、専門家たちの意欲・やる気は、どうしても減退していくでしょう。それでは、長期的視点から見て、社会にとって賢明な対策とは言えません。

 このことは、かつての「出産時の死亡事故」を契機とした、当該産婦人科医へのマスコミ・行政・司法の厳罰的な対応が、結果として産婦人科医の激減を招来した、これまでの経緯を見ても明らかです。今になって、行政・社会が産婦人科医の優遇策を打ち出していますが、既に手遅れでしょう。

 

 私も、本質的解決は、「知性」・「敬意(リスペクト)」によるしかないと思います。たとえ、実現困難な道だ、としてもです。

 そのためには、日本社会は、今こそ、歪んだ「悪平等主義」・「悪平等思想」を見直すべきです。「高い専門性」・「高い能力」のある人間を素直に高評価するべきなのです。

 それこそ、真の「個性重視」ではないでしょうか。「個性」とは、ファッションなどの外見的なものではありません。能力・技能こそ「真の個性」の最たるものです。

 また、これこそ、「真のグローバル化」です。欧米では、医師・弁護士・IT技術者専門性の高い技術者などの専門家・プロ・エリートの高評価は、当然のことです。


 だとすれば、専門家・プロ・エリートには、「素直に」「敬意」を表し、様々な待遇面でも、「それなりの高待遇」をもって対応するべきです。
 専門家たちがプライド・誇りを持って、気持ちよく、レベルの高い、きちんとした仕事をすれば、それが社会の長期的利益につながるのです。

 歪んだ「悪平等思想」から離れ、長期的視点から、物事を考えることこそが、賢明な道なのです。
 これこそが、今回の問題の根本的な解決策だと思います。

 

 問題は、いかに、それをスムーズに実現するか、です。つまり、社会が専門家たちに素直に敬意を表する前提として、専門家たちに、それにふさわしい態度・心掛けが必要だからです。

 以下で、詳しく検討していきます。

 

文明探偵の冒険 今は時代の節目なのか (講談社現代新書)

文明探偵の冒険 今は時代の節目なのか (講談社現代新書)

 

 

 

(3)専門家に望まれる態度・心掛け

 

【1】「専門家主義」からの脱却

(①専門家たちは、「総合的教養」・「生きた教養」を身に付ける→「専門家の相互チェック」のために

②さらに、専門家も、国民も、「民主的コントロール」を意識する)

 

 ここで参考になるのは、科学哲学者である小林傳司氏の意見です。以下に、概要を引用します。

 

(小林傳司氏の意見)(概要です)

(赤字は当ブログによる「強調」です。青字は当ブログによる「注」です)

 

震災(→「東日本大震災」)により科学者への信頼は大きく失墜した。学界などから様々な反省が言われたが、今では以前に戻ったかのように見える。

一つは、日本社会が「専門家主義」から脱却できないことだ。「科学と社会の対話が大切」と言いながら、原発再稼働などの政策決定過程をみると「大事なことは専門家が決めるから、市民は余計な心配をしなくてよい」という姿勢が今も色濃い。震災で専門家があれほど視野が狭いことが露見したにもかかわらずだ。

 これらの課題にどう対応すればよいか。まずは、市民が意思決定を専門家に任せすぎず、自分たちの問題ととらえることだ。科学技術は、それがなければ私たちは生活ができないほど重要で強力になっている。原子力のような巨大技術ほど「科学技術のシビリアンコントロール」が必要だ。

 専門家は、市民が基礎知識に欠ける発言をしてもさげすんではならない。専門家は明確に言える部分と不確実な部分を分けて説明する責務があり、最終的には「社会が決める」という原則を受け入れなければいけない。

 日本社会は「この道一筋何十年」という深掘り型は高く評価してきたが、自分の専門を超えて物事を俯瞰(ふかん)的に見られる科学者を育ててこなかった。広い意味での「教養」が重要だと思う。」

(朝日新聞 2016年3月10日 (東日本大震災5年 問われる科学)「7:教訓を生かす 科学技術、社会と関わってこそ 専門家に任せすぎるな」)

 

ーーーーーーーー

 

(当ブログによる解説) 

 ここで、小林傳司氏は、まず、「震災(→「東日本大震災」)専門家の視野の狭さが露見したこと」を指摘しています。

 そして、専門家も、市民も、「専門家主義」から脱却し、「科学技術のシビリアンコントロール」を実現することの必要性を強調しています。

 小林氏の言うように、「この道一筋何十年」という深掘り型の専門家の意見のみを重視する「日本型の専門家主義」では、「視野の狭さ」という欠陥をカバーすることは、不可能でしょう。

 対策としては、小林氏の言う「自分の専門を超えて物事を俯瞰(ふかん)的に見られる科学者」、つまり、「総合的教養」・「生きた教養」を持つ科学者の養成・育成が必要です。

 それとともに、科学技術のシビリアンコントロール」が必要なことは、言うまでもありません。

 

 なお、ここで小林傳司氏の紹介をします。

小林傳司(こばやし ただし)

1954年生まれ。科学哲学者、大阪大学教授。1978年京都大学理学部生物学科卒、1983年東京大学大学院理学系研究科博士課程単位取得退学。1987年福岡教育大学講師、助教授、1990年南山大学人文学部助教授、教授、2005年大阪大学コミュニケーションデザインセンター教授、副センター長を歴任。現在は、大阪大学理事(教育担当)、副学長。専門は、科学哲学・科学技術社会論。

主な著書・共編著として、

『誰が科学技術について考えるのか コンセンサス会議という実験』(名古屋大学出版会・2004)
『トランス・サイエンスの時代 科学技術と社会をつなぐ』(NTT出版ライブラリーレゾナント・2007)
『科学とは何だろうか 科学観の転換』(中島秀人、中山伸樹共編著・木鐸社・科学見直し叢書・1991)
『公共のための科学技術』(編 玉川大学出版部・2002)
『社会技術概論』(小林信一,藤垣裕子共編著・放送大学教育振興会・2007)
『シリーズ大学』(7巻 ・広田照幸,吉田文,上山隆大,濱中淳子と編集委員 ・岩波書店 ・2013~14)、
があります。

 

【2】「ノブレス・オブリージュ」を意識すること

① 「ノブレス・オブリージュ」の意味・意義

 「ノブレス・オブリージュ」の意味については、→佐藤優氏の著作『君たちが知っておくべきこと』(新潮社)が参考になります。

 

(佐藤優氏の論考)(概要です)

(赤字は当ブログによる「強調」です。青字は当ブログによる「注」です)

 

「私は、1996年から2002年までは、秋学期に東京大学教養学部後期教養課程で、民族・エスニシティー(→「民族性。その民族に固有な性質・特徴」という意味)理論に関する講義を行った。後期教養課程は、前期教養課程の1、2年次の成績が特によい東京大学の超エリートの集まる課程だ。学生たちは、選りすぐりで、確かに優秀だった。しかし、モスクワ大学の学生たちが、エリートであるという意識を素直に示して、勉学に励むとともにノブレス・オブリージュ(高貴なる者に伴う義務感)を身に付けようとしていたのに対し、成績の特に優秀な東大生たちは、周囲の嫉妬を買わないように細心の配慮をしていた。」(「あとがき」『君たちが知っておくべきこと』)

 

ーーーーーーーー

 

(当ブログによる解説) 

 問題になるのは、「ノブレス・オブリージュ(高貴なる者に伴う義務感)」の意味です。

 これについては、佐藤氏は、本書の19ページでも、コメントしています。

「皆さんは日本のエリートの予備軍なんです。そこのところ、ちゃんと誇りを持ってほしいと思う。

 そしてエリートは独自のノブレス・オブリージュ(高貴さは義務を強制する)、つまり社会の指導層として果すべき特別の義務を持つ。その精神は皆さんぐらいの年頃から形成していかないといけない。」

 

 「ノブレス・オブリージュ」は、欧米社会の基礎的な道徳観であり、「高貴なる身分に付随する義務」を意味しています。

 すなわち、「高い地位にある者は、それにふさわしい振る舞いをしなければならない」とするものです。

 「それにふさわしい振る舞い」とは、「その身分にふさわしい高潔さ、気品、寛容、勇気」です。

 「ノブレス・オブリージュ」の根本に流れる思想は、「人間として望ましき人格の養成」です。

  「ノブレス・オブリージュ」は、「普遍的な、高い品性」を重視しているのです。

 

gensairyu.hatenablog.com

 

 ② 内田樹氏の見解→悲観論 

 日本のエリートは「ノブレス・オブリージュ」を持つことができるか、については、内田樹氏の悲観論があります。以下に、引用します。

 

(内田樹氏の論考)

(赤字は当ブログによる「強調」です。青字は当ブログによる「注」です)

 

「「人参と鞭」で子どもたちを学校に誘導しようとする(現代日本の教育)戦略はこうして破綻する。「欲望のない子ども」たちと「あまりにスマートな子どもたち」が学校から立ち去ることをそれはむしろ推進することになる。
 引きこもり不登校の子どもたちは別に「反社会的」なわけではない。むしろ「過剰に社会的」なのである。現在の教育イデオロギーをあまりに素直に内面化したために、学校教育の無意味さに耐えられなくなっているのである。
 だから、ひどい言い方をすれば、今学校に通っている子どもたちは「なぜ学校に通うのか?」という問いを突き詰めたことのない子どもたちなのである。「みんなが行くから、私も行く」という程度の動機の子どもたちだけがぼんやり学校に通っているのである。

 欧米の学校教育は、まだ日本の学校ほど激しく劣化していない。「何のために学校教育を受けるのか」について、とりあえずエリートたちには自分たちには「公共的な使命」が託されているという「ノブレス・オブリージュ」の感覚がまだ生きているからである。パブリックスクールからオックスフォードやケンブリッジに進学するエリートの少なくとも一部は、大英帝国を担うという公的義務の負荷を自分の肩に感じている。そういうエリートを育成するために学校が存在している。
 だが、日本の場合、東大や京大の卒業者の中に「ノブレス・オブリージュ」を自覚している者はほとんどいない。
 彼らは子どもの頃から、自分の学習努力の成果はすべて独占すべきであると教えられてきた人たちである。公益より私利を優先し、国富を私財に転移することに熱心で、私事のために公務員を利用しようとするものの方が出世するように制度設計されている社会で公共心の高いエリートが育つはずがない。
 
 結論を述べる。
 日本の学校教育制度は末期的な段階に達しており、小手先の「改革」でどうにかなるようなものではない。そこまで壊れている。」(内田樹の研究室「学校教育の終わり」2013・4・7)

 

ーーーーーーーー

 

(当ブログによる解説) 

 内田氏の意見は、日本で「公共心の高いエリートが育つ」ことについて、悲観的です。

 その理由も、極めて論理的です。説得力もあります。

 私も、悲観的な展望を持たざるを得ません。

 しかし、それでも、日本の将来のために、なんとか良い方向への模索をするべきではないでしょうか。

 エリートたる科学者、専門家が、「善き行い」をしなければ、日本社会は、決して良い方向には行かないのですから。

 

 

 【3】「倫理(モラル)」を身に付けること

 

① 「倫理モラル」を身に付けること

 長期的視点から見た、不正や犯罪的行為の対策として、最も効果的なものは、専門家たちが「倫理(モラル)」を身に付けることでしょう。

 「倫理(モラル)の重要性」を実感することのできる、前田英樹氏の論考(『倫理という力』(講談社現代新書)の一節)を以下に引用します。

 

(前田英樹氏の論考)(概要です)

(赤字は当ブログによる「強調」です。青字は当ブログによる「注」です)

 

「アラン(→フランスの哲学者・評論家。『幸福論』(岩波文庫)で名高い)が書いたたくさんの新聞コラム(『プロポ』)のなかに「在るものを愛すること」という短文がある。これは、一九八〇年の復活祭の朝、ルーアンの地方紙に載った記事だが、何度読み返してもよい文章である。
 アランは書いている。この世には、理解せずに受け容れなくてはならない、いろいろな物事がある。その意味で、何ぴとも宗教なしでは生きていない。宇宙ひとつの事実である。その事実の前で、理性はまず身を屈めねばならないと。子供は、蹴つまずいた石ころに腹を立てる。大人は、雨だ、雪だ、風だ、日照りだとぶつぶつ文句を言う。こういうのは、彼らが物事一切の関係をよく理解していないところから来る。彼らは、何でも物事は気まぐれの意志みたいなものに依りかかっていると思っている。お天気屋の庭師が、この世界のあちこちに水を撒くみたいに思っている。だから彼らは祈るのだ。祈るとは、際立って非宗教的な行為である。
 けれども、「必然性」というものをいささかでも理解している人、そういう人はもはや宇宙に取り引き勘定を求めたりはしない。なぜ雨が降るのか、かくかくの死が訪れるのか、そんなことを尋ねたりはしない。なぜなら、こうした質問に答えなどないことを、この人は知っているから。ただもうご覧の通り、言えることはこれしかない。しかも、それだけで充分だ。在ることは、すでに何事かである。そのことが、あらゆる理性を圧倒する

 そこでアランは書く。真の宗教的感情は、在るものを愛することにある。私はそのことを信じて疑わないと。ただ在るものなど、愛されるに値しないのではないか、あなたがたはそう言うかもしれない。だが、全然そうではないのだ。世界を判断せず、愛さなくてはならぬ。在るものの前に身を屈めなくてはならぬ。」(『倫理という力』P 165)

 

ーーーーーーーー

 

 (当ブログによる解説)

 

この世には、理解せずに受け容れなくてはならない、いろいろな物事がある。

 

宇宙ひとつの事実である。その事実の前で、理性はまず身を屈めねばならない。」

 

「必然性」というものをいささかでも理解している人、そういう人はもはや宇宙に取り引き勘定を求めたりはしない。」

 

在ることは、すでに何事かである。そのことが、あらゆる理性を圧倒する。」

 

真の宗教的感情真の宗教的感情は、在るものを愛することにある。」

 

世界を判断せず、愛さなくてはならぬ。在るものの前に身を屈めなくてはならぬ。」

 

 以上の一節は、何度でも噛みしめてください。

 

  「倫理」の根底には「宗教的感情」があります。

 

 重要なことは、「理性の限界」「自己の限界」を思い知ることです。

 いくら「理性的」に、「人間中心主義的」に、「傲慢」に生きたところで、人間には、「必然性」・「天候」・「」などの無数の限界があります。

 特に、「」は、絶対的な限界と言えます。

 まずは、「在るものの前で、「謙虚」になることでしょう。

 肩から力を抜き、「素直に謙虚に生きること」が、大切なのではないでしょうか。

 

  ーーーーーーーー

 

(前田英樹氏の論考)(概要です)

(赤字は当ブログによる「強調」です。青字は当ブログによる「注」です)


「しかし、生きる目的は、ほんとうは私たちにはどうにもならない死の成就と切り離すことができない私たちのなかで育っていく死によって、少しずつ遂げられていくような生の目的がある。したがって、私たちにはその双方が、はっきりとは見定めがたい。見定めがたいということが、人間の理性がこの世に生きるということ意味である。生の目的は、私たちを産んだ自然(スピノザの言う「能産的自然」)だけが知っている。この自然は、それ自体が〈ひとつの生〉であり、運動であり、だとも言える。それは、無数の種を産み、個体を産む。産んでは消滅させ、消滅させてはまた産む。それは何のためか。何のためか、と問うことのできる人間を、自然が生んだのは、また何のためか。」(『倫理という力』P 184)


(P 185)「要するに、私たちの生の目的は、自然という〈ひとつの生〉が創り出す目的同じ方向を向いている。私たちの理性は、この目的が何なのかを問う問うことはできる。が、明確な答えを引き出すことはできない。「在るものを愛すること」だけが、ついにその答えになる。」(『倫理という力』P185)

 

ーーーーーーーー

 

 (当ブログによる解説)

 

宇宙」「自然」という〈ひとつの生〉が、人間を産んだ」

そして、「宇宙」・「自然」の中で人間は死んでいく。

私たちの生の目的は、何か。

これは、私たちの根源的な疑問であり、悩みです。

しかし、「「在るものを愛すること」だけが、ついにその答えになる。」

この部分は、詩的な美しさに満ちています。

何度でも読み返すべきでしょう。 

読めば読むほどに、味わいが深まっていくはずです。

 

② 前田英樹氏の紹介

 以下に、前田英樹氏の紹介を、します。

 

前田 英樹

1951年、大阪府生まれ。中央大学大学院文学研究科フランス文学専攻修了。現在、立教大学現代心理学部教授。言語、身体、記憶、時間などをテーマとして映画、絵画、文学、思想などを扱う。

 

 前田英樹氏は、以下に示すように、難関大学の現代文(国語)・小論文における、トップレベルの頻出著者です。

 

主な著書は、以下の通りです。

『沈黙するソシュール』(書肆山田、1989年/講談社学術文庫、2010年)、

『倫理という力』(講談社現代新書 2001)、→2006国学院大学、2002明治大学、

『宮本武蔵『五輪書』の哲学』(岩波書店 2003)、

『宮本武蔵  剣と思想』(ちくま文庫 2009)、

『絵画の二十世紀  マチスからジャコメッティまで』(日本放送出版協会〈NHKブックス〉 2004)、→2005早稲田大学(法学部)

『言葉と在るものの声』(青土社 2007)、→2009上智大学、2008お茶の水大学

『独学の精神』(ちくま新書 2009)、→2012大阪大学

『日本人の信仰心』(筑摩選書 2010)、→2013北海道大学、2010法政大学・青山学院大学・学習院大学、2012上智大学、

『深さ、記号』(書肆山田 2010)、

『民俗と民藝』(講談社選書メチエ 2013)、→2015早稲田大学(文学部)

『ベルクソン哲学の遺言』(岩波書店〈岩波現代全書〉 2013)、

『剣の法』(筑摩書房 2014)、

『小津安二郎の喜び』(講談社選書メチエ 2016)。

 

 

倫理という力 (講談社現代新書)

倫理という力 (講談社現代新書)

 

 

 

③ 「倫理」は、最近の難関大学の現代文(国語)・小論文の流行論点・テーマです。

「倫理」については、以下の記事も重要です。ぜひ、ご覧ください。

  

gensairyu.hatenablog.com

 

gensairyu.hatenablog.com

 

ーーーーーーーー

 

今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約10日後に発表の予定です。

 

 

朝日新聞デジタル

朝日新聞デジタル

 

 

  

 

gensairyu.hatenablog.com

 

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gensairyu.hatenablog.com

 

頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

 

 

 私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。

https://twitter.com/gensairyu 

https://twitter.com/gensairyu2

  

2008センター試験国語第2問(小説)解説『彼岸過迄』夏目漱石

(1)センター試験国語第2問・小説問題対策→純客観的・論理的解法ー2008『彼岸過迄』夏目漱石 

 

彼岸過迄 (新潮文庫)

 

 

 

 

 

  

①小説問題を得意分野にしよう

 

 センター試験でも、難関大学入試でも、小説・エッセイ(随筆)問題が国語(現代文)における敗因だったという受験生が多いようです。

 確かに、小説問題、エッセイ・随筆問題は、国語(現代文)という科目の中でも特に解きにくい側面があります。

 しかし、少し工夫することで、つまり、対策を意識することで、小説問題、エッセイ(随筆)問題を得意分野にすることが、可能です。

 あきらめないことが肝心です! 

 

 ②小説問題解法のポイント・注意点

 

 小説・エッセイ(随筆)問題の入試出題率は、相変わらず高く、毎年約1割です。

 まず、センター試験の国語では毎年出題されます。

 次に、難関国公立私立大学では頻出です。

 東大・京都大・大阪大(文)・一橋大・東北大・広島大・筑波大・岡山大・長崎大・熊本大等の国公立大、早稲田大(政経)(文)(商)(教育)(国際教養)(文化構想)、上智大、立命館大、学習院大、マーチ(明治大・青山学院大・立教大・中央大・法政大)(特に文学部)、女子大の現代文では、特に頻出です。

 また、難関国公立私立大学の小論文の課題文として、出題されることもあります。

 

 小説・エッセイ問題については、「解法(対策)を意識しつつ、慣れること」が必要となります。

 本来、小説やエッセイは、一文一文味わいつつ読むべきです。(国語自体が本来は、そういうものです。)

 が、これは入試では、時間の面でも、解法の方向でも、有害ですらあります。

 あくまで、設問(そして、選択肢)の要求に応じて、主観的文章を(設問の要求に応じて)純客観的に分析しなくてはならないのです。(国語を純客観的に分析? これ自体がパラドックスですが、ここでは、この問題には踏み込みません。日本の大学入試制度の問題点です。)

 この点で、案外、読書好きの受験生が、この種の問題に弱いのです。(読書好きの受験生は、語彙力があるので、あとは、問題対応力を養成すればよいのです。)

 

 しかし、それほど心配する必要はありません。

 「入試問題の要求にいかに合わせていくか」という方法論を身に付けること、つまり、小説・エッセイ問題に、「正しく慣れる」ことで、得点力は劇的にアップするのです。

 そこで、次に、小説・エッセイ問題の解法のポイントをまとめておきます。

 

【1】5W1H(つまり、筋)の正確な把握

 

① 誰が(Who)     人物

② いつ(When)      時

③ どこで(Where) 場所

④ なぜ(Why)   理由→これが重要

⑤ なにを(What)    事件

⑥ どうした(How) 行為

 

 上の①~⑥は、必ずしも、わかりやすい順序で書いてあるとは限りません。

 読む側で、一つ一つ確認していく必要があります。

 特に、④の「なぜ(理由)」は、入試の頻出ポイントなので、注意してチェックすることが大切です。

 

【2】人物の心理・性格をつかむ

 

① 登場人物の心理は、その行動・表情・発言に、にじみ出ているので、軽く読み流さないようにする。

 

② 情景描写は、登場人物の心情を暗示的・象徴的に提示している場合が多いということを、意識して読む。

 

③ 心理面に重点を置いて、登場人物相互間の人間関係を押さえていく。

 

④ 登場人物の心理を推理する問題が非常に多い。その場合には、受験生は自分をその人物の立場に置いて、インテリ的に(真面目に、さらに言えば、人生重視的に)、一般的に、考えていくようにする。

 

⑤ 心理は、時間とともに流動するので、心理的変化は丁寧に追うようにする。

 

 気持ちを表している部分に傍線を引く。登場人物の心情を記述している部分に、薄く傍線を引きながら本文を読むことが大切です。

 

  以上を元に、「いかに小説問題を解いていくか」、を以下で解説していきます。

 

 

(2)センター試験・小説問題の解法のポイント・コツ

 

【1】先に設問をチェックする

 

 センター試験の小説問題の本文は、難関大学の小説問題か、それ以上の長文の場合が多いのです。

 そこで、センター試験小説問題を効率的に解くための1つ目のコツは、本文を読む前に設問(特に、設問文)に目を通すことです。

 すぐに設問文に目を通し、「何を問われているか」を押さえてください。

 「設問で問われていること」を意識しつつ読むことで、時間を短縮化することができます。

 

【2】消去法を、うまく使う

 

 センター試験の小説問題の選択肢は、最近は、少々、長文化しています。

 しかし、明白な傷のある選択肢が多いので、消去法を駆使していくことで、効率的に処理することが可能です。

 

 

(3)2008センター試験・小説問題・『彼岸過迄』(夏目漱石)→問題・解説・解答

 

彼岸過迄 (新潮文庫)

彼岸過迄 (新潮文庫)

 

 

 

【1】【2】【3】・・・・は当ブログで付加した段落番号です)

   (青字は当ブログによる「振り仮名」・「注」です。赤字は当ブログによる「強調」です)

 

第2問 次の文章は、夏目漱石の小説『彼岸過迄(ひがんすぎまで)』の一節である。「僕」と従妹(いとこ)の田口千代子は、幼いうちに「僕」の母が将来の結婚を申し入れた間柄である。父の死後、母は「僕」と千代子との結婚を強く望むが、「僕」は積極的に千代子を求めようとしない。以下の文章は、田口家の別荘を「僕」と母が訪れた場面である。これを読んで、後の問いに答えよ。

【1】 田口の叔母は、高木さんですと云って丁寧(ていねい)にその男を僕に紹介した。彼は見るからに肉の緊(し)まった血色の好い青年であった。年からいうと、あるいは僕より上かも知れないと思ったが、そのきびきびした顔つきを形容するには、是非とも青年という文字(もんじ)が必要になったくらい彼は生気に充(み)ちていた。僕はこの男を始めて見た時、これは自然が反対を比較するために、わざと二人を同じ座敷に並べて見せるのではなかろうかと疑(うたぐ)った。無論その不利益な方面を代表するのが僕なのだから、こう改まって引き合わされるのが、僕にはただ悪い洒落(しゃれ)としか受取られなかった。
【2】 二人の容貌(ようぼう)がすでに意地の好くない対照を与えた。しかし様子とか応対ぶりとかになると僕はさらにはなはだしい相違を自覚しない訳にいかなかった。僕の前にいるものは、母とか叔母とか従妹とか、皆親しみの深い血族ばかりであるのに、それらに取り巻かれている僕が、この高木に比べると、かえってどこからか客にでも来たように見えたくらい、彼は自由に遠慮なく、しかもある程度の品格を落す危険なしに己(おのれ)を取扱かう術(すべ)を心得ていたのである。知らない人を怖(おそ)れる僕にいわせると、この A この男は生まれるや否や交際場裏(こうさいじょうり)に棄(す)てられて、そのまま今日まで同じ所で人となったのだと評したかった。彼は十分と経(た)ないうちに、凡(すべ)ての会話を僕の手から奪った。そうしてそれを悉(ことごと)く一身に集めてしまった。その代り僕を除(の)け物にしないための注意を払って、時々僕に一句か二句の言葉を与えた。それがまた生憎(あいにく)僕には興味の乗らない話題ばかりなので、僕はみんなを相手にする事もできず、高木一人を相手にする訳にも行かなかった。彼は田口の叔母を親しげにお母さんお母さんと呼んだ。千代子に対しては、僕と同じように、千代ちゃんという幼馴染(おさななじ)みに用いる名を、自然に命ぜられたかのごとく使った。そうして僕に、先ほど御着になった時は、ちょうど千代ちゃんと貴方(あなた)の御噂(うわさ)をしていたところでしたと云った。

【3】 僕は初めて彼の容貌を見た時からすでに羨(うらや)ましかった。話をするところを聞いて、すぐ及ばないと思った。それだけでもこの場合に僕を不愉快にするには充分だったかも知れない。けれどもだんだん彼を観察しているうちに、彼は自分の得意な点を、劣者の僕に見せつけるような態度で、誇り顔に発揮するのではなかろうかという疑いが起った。その時僕は急に彼を憎み出した。そうして僕の口を利くべき機会が廻(まわ)って来てもわざと沈黙を守った。
【4】 落ちついた今の気分でその時の事を回顧して見ると、こう解釈したのはあるいは僕の僻(ひが)みだったかも分からない。僕はよく人を疑る代わりに、疑る自分も同時に疑わずにはいられない性質(たち)だから、結局他(ひと)に話をする時にもどっちと判然(はっきり)したところが云いにくくなるが、もしそれが本当に僕の僻(ひが)み根性だとすれば、その裏面にはまだ凝結した形にならない嫉妬(しっと)が潜(ひそ)んでいたのである。」

 

 ーーーーーーーー

 

(問1は、省略します)


問2 傍線部A「この男は生まれるや否や交際場裏に棄てられて、そのまま今日まで同じ所で人となったのだと評したかった」とあるが、そのように高木を評する「僕」の思いを説明したものとして最も適当なものを、次の中から一つ選べ。


① 初対面の人にも全くものおじせず、家族のように親しげに周囲の人の名を呼ぶので、羨ましく思っている。

② 明るく話し上手で人づきあいに長けているうえ、そつのない態度で会話を支配するので、不快に思っている。

③ 周囲のすべての人に配慮しつつも、その態度はおしつけがましいものでもあるので、うっとうしく思っている。

④ 品格もあり容貌も立派な人物だが、完全無欠な態度によって「僕」の居場所を脅かすので、憎らしく思っている。

⑤ 洋行帰りという経歴の持ち主であり、自分をよく見せる作為的な振る舞いをするので、面白くなく思っている。

 

……………………………

 

【解説・解答】主人公(「僕」)の心理を問う問題

(解説)

  「生まれるや否や交際場裏に棄てられて、そのまま今日まで」という露骨な悪意に満ちた表現のニュアンスから、「僕」は高木を不快に思っていることが分かります。

 また、「交際場裏に棄てられ」という表現と、傍線部分の直前の「僕の前にいるものは、母とか叔母とか従妹とか、皆親しみの深い血属ばかりであるのに、それらに取り巻かれている僕が、この高木に比べると、かえってどこからか客にでも来たように見えたくらい、彼は自由に遠慮なく、しかもある程度の品格を落す危険なしに己を取扱かう術(すべ)を心得ていた」とから、「高木」は美辞麗句を駆使して、その場の人々を、自分に有利なように巧妙に操るテクニック(社交術)を自然に身に付けている、と言いたいのです。 

 

 

 【 「傍線部説明問題」の解法のポイント・コツ 】

 「傍線部それ自体」を、「精密に分析」していくことが必要です。

 これは、小説問題だけではなく、評論問題でも必要なことです。

 厳しい時間制限があるので、「傍線部それ自体」の「精密分析」に、すぐに着手してください。

 段落要約・全体要約を書いている時間的余裕は、ありません。

 

①は、「羨ましく思っている」の部分が不適で、誤りです。

②は、上記の解説より、これが最適であり、正解です。

③は、「周囲のすべての人に配慮」の部分が誤りです。「僕」は「配慮」されていません。

④・⑤は、「交際場」との関連性がないので、誤りです。

 

(解答) ② 

 

 ーーーーーーーー

 

 (問題文本文)

「【5】 僕は男として嫉妬の強い方か弱い方か自分にもよく解(わか)らない。競争者のない一人息子としてむしろ大事に育てられた僕は、少なくとも家庭のうちで嫉妬を起す機会をもたなかった。小学や中学は自分より成績のいい生徒が幸いにしてそうなかったためか、至極(しごく)太平(→「平和」と意味)に通り抜けたように思う。高等学校から大学へかけては、席次(注1 「席次」ー成績の順位→本番の問題用紙では「注」は問題文本文の後に列記されていました)にさほど重きをおかないのが、一般の習慣であった上、年ごとに自分を高く見積る見識というものが加わって来るので、点数の多少は大した苦にならなかった。これらを外(ほか)にして、僕はまだ痛切な恋に落ちた経験がない。一人の女を二人で争った覚えはなおさらない。自白すると僕は若い女殊(こと)に美しい若い女に対しては、普通以上に精密な注意を払い得る男なのである。往来を歩いて綺麗(きれい)な顔と綺麗な着物を見ると、雲間から明らかな日が射した時のように晴やかな心持になる。たまにはその所有者になって見たいという考えも起こる。しかしその顔とその着物がどうはかなく変化し得るかをすぐ予想して、酔よいが去って急にぞっとする人の浅ましさを覚える。B  僕をして執念(しゅうね)く美しい人に附纏(つけまつ)わらせない(注2 「附纏わる」は「つきまとう」に同じ)ものは、まさにこの酒に棄てられた淋(さび)しみの障害に過ぎない。僕はこの気分に乗り移られるたびに、若い自分が突然老人(としより)か坊主に変ったのではあるまいかと思って、非常な不愉快に陥る。が、あるいはそれがために恋の嫉妬というものを知らずに済ます事が出来たかもしれない。」

 

ーーーーーーーー 

 

 問3 傍線部B「僕をして執念く美しい人に附纏わらせないものは、まさにこの酒に棄てられた淋しみの障害に過ぎない」とあるが、この部分で「僕」は自分をどのようにとらえているか。その説明として最も適当なものを次の①~⑤のうちから一つ選べ。

① 美しい女性への関心が人一倍あるのにもかかわらず、痛切な恋に落ちた経験がないために、自分からはどのように女性に対してよいかわからないと感じている。

② 美しい女性と過ごしたいという気持ちを持つ一方で、その美しさは表面的なものに過ぎないとわかっているので、自分は惑わされることはないと思っている。

③ 美しい女性を見ると気持ちが高ぶるが、幼いころから感情を抑制してきたため、自分は美しさや魅力を率直に認める感性を失ってしまったと考えている。

④ 美しい女性の魅力に安易に惹かれることを不愉快に感じ、自己を律して冷静な自分に立ち返り欲望を抑えなければならないと考えている。

⑤ 美しい女性も時の経過とともに変化していくことを想像するとすぐに冷めてしまい、自分は対象に集中できず満たされることがないと感じている。

 

……………………………

 

 【解説・解答】主人公( 「僕」 )の心理を問う問題

(解説)

 傍線部直前に「その顔とその着物がどうはかなく変化し得るかをすぐ予想して」とあります。

 そして、直後には「若い自分が突然老人か坊主に変わったのではないか」ともあります。

 美しい女性が「はかなく変化」するというのは、「老化すること」を意味します。

 正解は⑤です。

 

(解答) ⑤ 

 

 ーーーーーーーー

 

 (問題文本文) 

「【6】 僕は普通の人間でありたいという希望をもっているから、嫉妬心のないのを自慢にしたくも何ともないけれども、今話したような訳で、眼(ま)の当たりにこの高木という男を見るまでは、そういう名のつく感情に強く心を奪われた試しがなかったのである。僕はその時高木から受けた名状しがたい(→「名状しがたい」とは、「説明できない」という意味)不快を明らかに覚えている。そうして自分の所有でもない、また所有する気もない千代子が原因で、この嫉妬心が燃え出したのだと思った時、C  僕はどうしても僕の嫉妬心を抑え付けなければ自分の人格に対して申し訳ないような気がした。僕は存在の権利を失った嫉妬心を抱(いだ)いて、誰にも見えない腹の中で苦悶(くもん)し始めた。幸い千代子と百代子(ももよこ)が日が薄くなったから海へ行くといい出したので、高木が必ず彼らについて行くに違ないと思った僕は、早くあとに一人残りたいと願った。彼らは果(は)たして高木を誘った。ところが意外にも彼は何とか言い訳を拵(こしら)えて容易に立とうとしなかった。僕はそれを僕に対する遠慮だろうと推察して、ますます眉(まゆ)を暗くした。彼らは次に僕を誘った。僕はもとより応じなかった。高木の面前から一刻も早く逃(のが)れる機会は、与えられないでも手を出して奪いたいくらいに思っていたのだが、今の気分では二人と浜辺まで行く努力がすでに厭(いや)であった。母は失望したような顔をして、いっしょに行っておいでなといった。僕は黙って遠くの海の上を眺ながめていた。姉妹(きょうだい)は笑いながら立ち上った。」

 

ーーーーーーーー 

 

問4 傍線部C「僕はどうしても僕の嫉妬心を抑え付けなければ自分の人格に対して申し訳がないような気がした」とあるが、なぜ「僕」はこのような気持ちになったのか。その理由として最も適当なものを次の①~⑤のうちから一つ選べ。

 

① 「僕」は常々普通の人間でいたいという希望を持っていたため、人並みに嫉妬心を持っていても不思議はないと考えていた。千代子に高木と比較されたという思いによって生じた「僕」の僻み根性が、そうした感情と結びついてしまったことにやりきれなさを覚えたから。

② 「僕」は高木の登場によって、これまでの自己認識を超えるような嫉妬心を抱いた。高木への僻み根性に根ざしたその感情は、恋人と意識したこともない千代子を介して生じたものであり、そうした感情を制御しない限り、自分を卑しめることになるような気がしたから。

③ 「僕」は今まで本当に女性を愛した経験はなかったが、ライバルである高木の存在によって初めて千代子を愛しているのではないかと考えはじめた。高木に対する嫉妬心を消し去らなければ、千代子と純粋な気持ちで恋愛はできないと気づいたから。

④ 「僕」は一人息子として生まれたうえ、学校にも競争者がいなかったため、嫉妬心を抱く環境になかった。千代子を恋人として扱う高木に萌し始めた嫉妬心は、経験のない感情であり、そうした感情によって動揺する自分を浅ましいものと判断したから。

⑤ 「僕」は今まで若い女性に対してあまりに臆病であったために、本来は恋にかかわる嫉妬心が起こるはずがなかった。如才なく振舞う高木によって書きたてられた、そうした嫉妬の感情が自分の自制心を失わせることに気づいて羞恥を覚えたから。

 

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  【解説・解答】主人公( 「僕」 )の心理を問う問題

(解説)

 傍線部直前の「自分の所有でもない、また所有する気もない千代子が原因で、この嫉妬心が燃え出したのだと思った時」に注目してください。

 この直前部分と傍線部は、密接に関連しています。

 この直前部分との関連性がある記述は、②の「恋人と意識したこともない千代子を介して生じたものであり」しか、ありません。

 ②が正解です。

 

(解答) ②

 

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 (問題文本文)

「【7】「相変らず偏窟(へんくつ)ね貴方は。まるで腕白小僧みたいだわ」
 千代子にこう罵(ののし)られた僕は、実際誰の目にも立派な腕白小僧として見えたろう。僕自身も腕白小僧らしい思いをした。調子のいい高木は縁側へ出て、二人のために菅笠(すげがさ)のように大きな麦藁帽(むぎわらぼう)を取ってやって、行っていらっしゃいと挨拶(あいさつ)(→「書き取り」で頻出)をした。
【8】 二人の後姿が別荘の門を出た後で、高木はなおしばらく年寄りを相手に話していた。こうやって避暑に来ていると気楽でいいが、どうして日を送るかが大問題になってかえって苦痛になるなどと、実際活気に充みちた身体(からだ)を暑さと退屈さに持ち扱っている(注3 「持ち扱っている」ー取り扱いに困って、もてあましている)風に見えた。やがて、これから晩まで何をして暮らそうかしらと独り言(ひとりごと)のように云って、不意に思い出したごとく、玉(注4 「玉」ーここでは「玉突き」を略して言っている。玉突きは、ビリヤードのこと)はどうですと僕に聞いた。幸いにして僕は生れてからまだ玉突きという遊戯を試みた事がなかったのですぐ断った。高木はちょうどいい相手ができたと思ったのに残念だといいながら帰って行った。僕は活発に動く彼の後影を見送って、彼はこれから姉妹のいる浜辺の方へ行くに違いないという気がした。けれども僕は坐(すわ)っている席を動かなかった。

【9】 高木の去った後、母と叔母は少時(しばらく)彼の噂をした。初対面の人だけに母の印象は殊に深かったように見えた。気の置けない、いたって行き届いた人らしいといって賞(ほ)めていた。叔母はまた母の批評をいちいち実例に照らして確かめるふうに見えた。この時僕は高木について知り得た極めて乏しい知識のほとんど全部を訂正しなければならない事を発見した。僕が百代子から聞いたのでは、亜米利加(アメリカ)帰りという話であった彼は、叔母の語るところによると、そうではなくって全く英吉利(イギリス)で教育された男であった。叔母は英国流の紳士という言葉を誰かから聞いたと見えて、二、三度それを使って、何の心得もない母を驚かしたのみか、だからどことなく品の善(よ)いところがあるんですよと母に説明して聞かせたりした。母はただへえと感心するのみであった。

【10】 二人がこんな話をしている内、僕はほとんど一口も口を利きかなかった。ただ上辺から見て平生(へいぜい)(→入試頻出語句)の調子と何の変わる所もない母が、この際高木と僕を比較して、腹の中でどう思っているだろうと考えると、僕は母に対して気の毒でもありまた恨めしくもあった。同じ母が、千代子対僕という古い関係を一方に置いて、さらに千代子対高木という新しい関係を一方に想像するなら、果たしてどんな心持ちになるだろうと思うと、仮令(たとい)少しの不安でも、避け得られるところをわざと与えるために彼女を連れ出したも同じ事になるので、僕はただでさえ不愉快な上に、年寄りにすまないという苦痛をもう一つ重ねた。
【11】 前後の模様から推すだけで、実際には事実となって現れて来なかったから何ともいいかねるが、叔母はこの場合を利用して、もし縁があったら千代子を高木に遣(や)るつもりでいるぐらいの打ち明け話を、僕ら母子(おやこ)に向って、相談とも宣告とも片付かない形式の下に、する気だったかもしれない。凡(すべ)てに気が付くくせに、こうなるとかえって僕よりも迂遠(うと)い母はどうだか、僕はその場で叔母の口から、僕と千代子と永久に手を別(わか)つべき談判の第一節を予期していたのである。幸か不幸か、叔母がまだ何もいい出さないうちに、姉妹は浜から広い麦藁帽の縁(ふち)をひらひらさして帰って来た。 D 僕が僕の占いの的中しなかったのを、母のために喜んだのは事実である。同時に同じ出来事が僕を焦燥(もどか)しがらせたのも嘘ではない

【12】 夕方になって、僕は姉妹と共に東京から来るはずの叔父を停車場(ステーション)に迎えるべく母に命ぜられて家いえを出た。彼らは揃(そろ)いの浴衣(ゆかた)を着て白い足袋(たび)を穿(は)いていた。それを後ろから見送った彼らの母の眼に彼らがいかなる誇りとして映じたろう。千代子と並んで歩く僕の姿がまた僕の母には画(え)として普通以上にどんなに価が高かったろう。僕は母を欺く材料に自然から使われる自分を心苦しく思って、門を出る時振り返って見たら、母も叔母もまだこっちを見ていた。」

 

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問5 傍線部D「僕が僕の占いの的中しなかったのを、母のために喜んだのは事実である。同時に同じ出来事が僕を焦燥しがらせたのも嘘ではない」とあるが、この部分での「僕」の心情はどのようなものと考えられるか。その説明として最も適当なものを次の①~⑤のうちから一つ選べ。

 

① 高木を千代子の結婚相手にしたいと叔母が言わなかったのことは、「僕」との縁談を期待する母の気持ちを考えるとよかったが、その一方で、「僕」と千代子の縁談の可能性が消えないまま。どっちつかずの状況に留まることにいらだちを感じている。

 ② 高木と千代子の結婚を予期しない母の驚きや動揺に配慮した叔母が、二人の結婚話を持ち出さなかったのはよかったが、その一方で、千代子の結婚相手として自分にも見込みがあるという思いとともに、事態はまだ流動的であるという不安を感じている。

③ 内心では高木が千代子の結婚相手になるのもやむを得ないと考えている母に、叔母が二人を結婚させたいと打ち明けることは避けられたので安心したが、その一方で、高木と比べると千代子の結婚相手として劣る自分にじれったさを感じている。

④ 母が高木に好印象を持ったことを察した叔母が、そのことに乗じて千代子と高木の縁談を持ち出すのではないかという不安がぬぐわれてほっとしたが、その一方で、母の抱いた印象が「僕」と高木を比較した結果であることに不満を感じている。

⑤ 高木と千代子に縁談が持ち上がっていることを叔母が明かさなかったため、千代子と「僕」の結婚を望む母の期待が続くことを喜んだが、その一方で、千代子と結婚する意志のないまま母を欺き通さなければならないことに歯がゆさを感じている。

 

 

問6 この文章における表現の特徴についての説明として適当なものを、次の中から二つ選べ。

① 初めて嫉妬に心を奪われることになった経緯を、「僕」の心情の描写よりも、高木をめぐる母と叔母の噂話、千代子と高木とのやりとり、高木の「僕」に対する態度の描写などを通して示している。

② 「落ち着いた今の気分でその時の事を回顧してみると」とあるように、出来事全体を見渡せる「今」の立場から、当時の「僕」の心情や行動について原因や理由を明らかにしながら描いている。

③ 「僕」自身の心情を回顧的に語る部分に現在形を多用することで、別荘での出来事から遠く隔たった現在においても、「僕」の内面の混乱が整理されないまま未だに続いていることを示している。

④ 「凝結した形にならない嫉妬」「存在の権利を失った嫉妬心」などのように、漢語や概念的な言葉で表現することによって、「僕」が自分の心情を対象化し分析的にとらえようとしていることがわかる。

⑤ 笑いながらの千代子の発言を「罵られた」と述べたり、玉突きの経験がないことを「幸いにして」と述べたりすることによって、出来事をそのままには受け取ろうとしない「僕」の屈折したユーモアを示している。

⑥ 「自然が反対を比較する」「会話を僕の手から奪った」「自然から使われる自分」などの表現から、擬人法を用いることで、「僕」が抽象的なものごとをわかりやすく説明しようとしていることがわかる。

 

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 【解説・解答】

(解説)

問5 主人公の心理を問う問題

→第【11】段落の最後に傍線部があるので、第【11】段落を、精密に分析することが必要です。

 第【11】段落冒頭から明らかですが、「僕の占い」というのは、「叔母がこの場合を利用して、もし縁があったら千代子を高木に遣るつもりでいるくらいの打ち明け話を」するだろうという予想のことです。 

 現実化はしませんでした。

 その時点で「母」はそういうことには「迂遠い」ので、自分の息子(「僕」)と千代子の縁談は当初の予定通り進むだろうと思っているわけです。

 一方で、「僕」としては、「僕と千代子と永久に手を別つべき談判」を期待していました。

 従って、「占い」が外れて、「母」には良いよかったのですが、「僕」にとっては、残念だったというわけです。

 ①が正解です。

 

(解答) ①

 

問6 「表現の特徴」を問う問題

→最近のセンター試験・小説問題の流行です。

  問題文本文を熟読する前に、この問6に注目すると、戦いを有利に進めることが出来ます。

 効率的で、賢明な作戦だと思います。

 

① 「『僕』の心情の描写よりも」の部分が、不適です。

② 第【4】段落に合致しています。

③ 「『僕』の内面の混乱が整理されないまま未だに続いていることを示している」の部分が、第【4】段落第一文の「落ちついた今の気分でその時の事を回顧して見ると」に反していて、不適です。

④ 特に、問題は、ありません。合致しています。

⑤ 「『僕』の屈折したユーモア」を読み取ることは、できません。不適です。

⑥ 「会話を僕の手から奪った」の「主語」は「高木」なので、「擬人法」では、ありません。不適です。 

 

(解答) ②・④  

 

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 今回の記事は、これで終わりです。

 次回の記事は、約10日後に発表の予定です。

 

 

   

 

 

彼岸過迄

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