2015東大国語第1問(現代文)『傍らにあること』池上哲司/解説
(1)はじめに ─ なぜ、この記事を書くのか?
「自己」・「アイデンティティ」・「自分らしさ」、「自己と死」は、入試頻出論点です。
「自己」・「アイデンティティ」の内実をいかに考えるかについては、さまざまな視点があります。
今回の記事で解説する、2015東大国語第1問(現代文)『傍らにあること』池上哲司は、読むべき内容になっています。
設問も、全体的に見て、ハイレベルで良問です。
ぜひ、チャレンジしてください。
なお、今回の記事の項目は以下の通りです。
(2)2015東大国語第1問(現代文)「傍らにあること」池上哲司/解説
(3)補充説明① ─ 本書の内容 ─ 「自由の重さ」と「他者の承認」
(4)補充説明② ─ 最近の東大国語第1問の傾向について
(5)池上哲司氏の紹介
(6)当ブログにおける「自己」・「自分」・「自分らしさ」関連記事の紹介
(7)当ブログにおける「承認欲求」関連記事の紹介
(2)2015東大国語第1問(現代文)「傍らにあること」池上哲司/解説
(問題文本文)(概要です)
(【1】・【2】・【3】・・・・は当ブログで付記した段落番号です)
(赤字は当ブログによる「強調」です)
(青字は当ブログによる「注」です)
(問)次の文章を読んで、後の設問に答えよ。
【1】昨日机に向かっていた自分と現在机に向かっている自分、両者の関係はどうなっているのだろう。身体的にも意味的にも、昨日の自分と現在の自分とが微妙に違っていることは確かである。しかし、その違いを認識できるのは、その違いにもかかわらず成立している不変の自分なるものがあるからではないのかこういった発想は根強く、誘惑的でさえある。ァこのような見方は出発点のところで誤っているのである。このプロセスを時間的に分断し、対比することで、われわれは過去の自分と現在の自分とを別々のものとして立て、それから両者の同一性を考えるという道に迷いこんでしまう。過去の自分と現在の自分という二つの自分があるのではない。あるのは、今働いている自分ただ一つである。生成しているところにしか自分はない。
【2】過去の自分は、身体として意味として現在の自分のなかに統合されており、その限りで過去の自分は現在の自分と重なることになる。身体として統合されているとは、たとえば、運動能力に明らかである。最初はなかなかできないことでも、訓練を通じてわれわれはそれができるようになる。そして、いったん可能となると、今度はその能力を当たり前のものとしてわれわれは使用する。また、意味として統合されているとは、われわれが過去の経験を土台として現在の意味づけをなしていることに見られるとおりである。現在の自分が身体的、意味的統合を通じて、結果として過去の自分を回収する。換言すれば、回収されて初めて、過去の自分は「現在の自分の過去」という資格を獲得できるのである。
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(設問)(1)
このような見方は出発点のところで誤っているのである」(傍線部ア)とあるが、なぜそういえるのか、説明せよ。(60字程度)
……………………………
(解説・解答)
傍線部の「このような見方」とは、「身体的にも意味的にも、昨日の自分と現在の自分とが微妙に違っていることは確かである。
しかし、その違いを認識できるのは、その違いにもかかわらず成立している不変の自分なるものがあるからではないのか」とする「見方」です。
次に、傍線部の「出発点のところ」とは、「過去の自分と現在の自分とを別々のものとして」考えることです。
それが「誤っている」理由は、
【1】段落最終部分「過去の自分と現在の自分という二つの自分があるのではない。あるのは、今働いている自分ただ一つである。生成しているところにしか自分はない」、
【2】段落冒頭部分「過去の自分は、身体として意味として現在の自分のなかに統合されており、その限りで過去の自分は現在の自分と重なることになる」からです。
以上のポイントをまとめるとよいでしょう。
自分は「不変」ではないのです。
自分は、意識レベル、無意識レベルで、日々、自ら微調整し、変化している運動体、可動体です。
このことが、池上氏の主張の根幹であり、スタートです。
(解答)
「不変の自分」という発想は、過去を統合した現在の生成としてしかありえない自分を、過去と現在に分断することを前提とするから。
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(問題文本文)(概要です)
【3】統合が意識されている場合もあれば、意識されていない場合もある。したがって、現在の自分へと回収されている過去の自分が、それとして常に認識されているとは限らない。むしろ、忘れられていることの方が多いと思われる。二十年前の今日のことが記憶にないからといって、それ以前の自分とそれ以後の自分とが断絶しているということにはならない。第一、二十年前から今日現在までのことを、とぎれることなく記憶していること自体不可能である。重要なのは、何を忘れ、何を覚えているかである。つまり、自分の出会ったさまざまな経験を、どのようなものとして引き受け、意味づけているかである。そして、そのような過去への姿勢を、現在の世界への姿勢として自らの行為を通じて表現するということが、働きかけるということであり、他者からの応答によってその姿勢が新たに組み直されることが、自分の生成である。そしてこの生成の運動において、いわゆる自分の自分らしさというものも現れるのである。
【4】 ィこの運動を意識的に完全に制御できると考えてはならない。つまり、自分らしさは、自らがそうと判断すべき事柄ではないし、そうあろうと意図して実現できるものでもない。具体的に言えば、自分のことを人格者であるとか、高潔な人柄であるとか考えるなら、それはむしろ、自分がそのような在り方からどれほど遠いかを示しているのである。また、人格者となろうとする意識的努力は、それがどれほど真摯なものであれ、いや、真摯なものであればあるほど、どうしてもそこには不自然さが感じられてしまう。ここには、自分の自分らしさは他人によって認められるという逆説が成立する。このことは、とりわけ意識もせずに、まさに自然に為される行為に、その人のその人らしさが紛(まご)う方なく認められるという、日常の経験を考えてみても分かるだろう。
【5】自分とはこういうものであろうと考えている姿と、現実の自分とが一致していることはむしろ稀である。それは、現実の自分とはあくまで働きであり、その働きは働きの受け手から判断されうるものだからである。しかし、そうであるならば、自分の自分らしさは他人によって決定されてしまいはしないか。ここが面倒なところである。自分らしさは他人によって認められるのであるが、決定されるわけではない。自分らしさは生成の運動なのだから、固定的に捉えることはできない。それでも、自分らしさが認められるというのは、自分について他人が抱いていた漠然としたイメージを、一つの具体的行為として自分が現実化するからである。しかし、ゥその認められた自分らしさは、すでに生成する自分ではなく、生成する自分の残した足跡でしかない。
【6】いわゆる他人に認められる自分らしさは、生成する自分という運動を貫く特徴ではありえない。かといって、自分で自分の自分らしさを捉えることもできない。結生成する自分の方向性などというものはないのだろうか。
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設問(2)
「この運動を意識的に完全に制御できると考えてはならない」(傍線部イ)とあるが、なぜそう言えるのか。(60字程度)
……………………………
(解説・解答)
「この運動」とは、直前の「いわゆる自分の自分らしさというもの」が「現れる」「生成の運動」です。
「この運動を意識的に完全に制御できると考えてはならない」という理由は、
【4】段落「自分の自分らしさは他人によって認められるという逆説が成立する」、
【5】段落「自分とはこういうものであろうと考えている姿と、現実の自分とが一致していることはむしろ稀である。それは、現実の自分とはあくまで働きであり、その働きは働きの受け手から判断されうるものだからである」からです。
なお、【3】段落後半部分「そのような過去への姿勢を、現在の世界への姿勢として自らの行為を通じて表現するということが、働きかけるということであり、他者からの応答によってその姿勢が新たに組み直されることが、自分の生成である」、
自分の生成→他者との関係の中で作られる
【5】段落後半部分「自分らしさが認められるというのは、自分について他人が抱いていた漠然としたイメージを、一つの具体的行為として自分が現実化する」、
自分らしさ→自分が現実化する
についても、指摘するとよいでしょう。
(解答)
自分らしさは、自らの働きかけに対する他者からの応答により再構成され、他人により判断され、認識されるものだから。
ーーーーーーーー
設問(3)
「その認められた自分らしさは、すでに生成する自分ではなく、生成する自分の残した足跡でしかない」(傍線部ウ)とはどういうことか、説明せよ。(60字程度)
……………………………
(解説・解答)
傍線部の2文前の「自分らしさは生成の運動なのだから、固定的に捉えることはできない。」に注目してください。
この文を元に、傍線部を、分かりやすく考えると、
「自分について他人が抱いていた漠然としたイメージを、一つの具体的行為として自分が現実化する」「自分らしさ」は、「自分」の「生成の運動」の一場面に過ぎないということです。
この設問は、設問(1)と、ほぼ同一であることを意識してください。
難関大学現代文では、模試とは違い、同一ポイントを視点を変えて問うことが、よく、あります。
(解答)
ある時点で、他人が認めた自分らしさは、生成し変化し続ける自分にとって、その過程のうちの一場面でしかないこと。
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(問題文本文)(概要です)
【7】生成の方向性は生成のなかで自覚される以外にない。ただこの場合、何か自分についての漠然としたイメージが具体化することで、生成の方向性が自覚されるというのではない。というのは、ここで自覚されるのは依然として生成の足跡でしかないからである。生成の方向性は、棒のような方向性ではなく、生成の可能性として自覚されるのである。自分なり、他人なりが抱く自分についてのイメージ、それからどれだけ自由になりうるか。どれだけこれまでの自分を否定し、逸脱できるか。この「・・・・でない」という虚への志向性が現在生成する自分の可能性であり、方向性である。そして、これはまさに自分が生成する瞬間に、生成した自分を背景に同時に自覚されるのである。
【8】このような可能性のどれかが現実のなかで実現されていくが、それもわれわれの死によって終止符を打たれる。こうして、自分の生成は終わり、後には自分の足跡だけが残される。
【9】だが、本当にそうか。なるほど、自分はもはや生成することはないし、その足跡はわれわれの生誕と死によって限られている。しかし、働きはまだ生き生きと活動している。ある人間の死によって、その足跡のもっている運動性も失われるわけではない。つまり、ェ残された足跡を辿る人間には、その足の運びの運動性が感得されるのであり、その意味で足跡は働きをもっているのである。われわれがソクラテスの問答に直面するとき、ソクラテスの力強い働きをまざまざと感じるのではないか。
【10】自分としてのソクラテスは死んでいるが、働きとしてのソクラテスは生きている。生成する自分は死んでいるが、その足跡は生きている。正確に言おう。自分の足跡は他人によって生を与えられる。われわれの働きは徹頭徹尾他人との関係において成立し、他人によって引き出される。そして、自分が生成することを止めてからも、その働きが可能であるとするならば、その可能性はこの現在生成している自分に含まれているはずである。そのように、自分の可能性はなかば自分に秘められている。ォこの秘められた、可能性の自分に向かうのが、虚への志向性としての自分の方向性でもある。
(池上哲司『傍らにあること―老いと介護の倫理学』)
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設問(4)
「残された足跡を辿る人間には、その足の運びの運動性が感得される」(傍線部エ)とはどういうことか、説明せよ。(60字程度)
……………………………
(解説・解答)
傍線部「その足の運びの運動性」とは、
【5】段落の「自分について他人が抱いていた漠然としたイメージを、一つの具体的行為として自分が現実化」した「自分らしさ」であり、
【6】段落の「自分の自分らしさ」、「生成する自分の方向性」です。
次に、傍線部直前の「つまり」に着目して、
【8】段落「このような可能性(→「現在生成する自分の可能性」)のどれかが現実のなかで実現されていくが、それもわれわれの死によって終止符を打たれる。こうして、自分の生成は終わり、後には自分の足跡だけが残される。」
↓
【9】段落「しかし、働きはまだ生き生きと活動している。ある人間の死によって、その足跡のもっている運動性も失われるわけではない。」
↓
「つまり(→「言い換え」)、ェ残された足跡を辿る人間には、その足の運びの運動性が感得されるのであり、その意味で足跡は働きをもっているのである。」
↓
「(→これ以下も「傍線部エの言い換え」になっています)われわれがソクラテスの問答に直面するとき、ソクラテスの力強い働きをまざまざと感じるのではないか」
という論理展開に注目してください。
【9】段落のポイントは、以下の部分です。
「自分の死後も『自分の働き』はまだ生き生きと活動している。ある人間の死によって、その足跡のもっている運動性も失われるわけではない。」
つまり、「周りの人々の思惑を過度に気にすることなく、自由に、のびのびと生きよう」と呼び掛けているのでしょう。
少々、ロマンティックで、センチメンタルな文章になっています。
難関大学の出題者が好む詩的な内容です。
(解答)
自分の可能性を追求し続けた人の生の働きは、自分の死後にも、その痕跡を辿る他人の精神の中で、生きているかのように再現されるということ。
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設問(5)
「この秘められた、可能性の自分に向かうのが、虚への志向性としての自分の方向性でもある」(傍線部オ)とあるが、どういうことか。本文全体の論旨を踏まえた上で、百字以上百二十字以内で説明せよ。
……………………………
(解説・解答)
設問(5)
「この秘められた、可能性の自分に向かうのが、虚への志向性としての自分の方向性でもある」(傍線部オ)とあるが、どういうことか。本文全体の論旨を踏まえた上で、説明せよ。」
上記の赤字部分に注目してください。
入試の性格上、出題者の出題意図を強く意識して、説明することになります。
「出題者の読みの方向性」に着目する必要があるということです。
「出題者の読みの方向性」は、設問から推測するべきです。
難関大学の現代文問題においては、本文のポイントや、少々曖昧な記述は、設問で的確に問われています。
従って、各設問の流れに素直に乗って、「出題者」の出題意図に沿って、「本文全体の論旨」をまとめていく姿勢が大切です。
傍線部の「虚への志向性としての自分の方向性」とは、
【7】段落後半部分「自分なり、他人なりが抱く自分についてのイメージ、それからどれだけ自由になりうるか。どれだけこれまでの自分を否定し、逸脱できるか。この『・・・・でない』という虚への志向性が現在生成する自分の可能性であり、方向性である。そして、これはまさに自分が生成する瞬間に、生成した自分を背景に同時に自覚されるのである。」に関連しています。
この設問においては、「自己」の内容をまとめる必要があります。
つまり、各設問のポイントを網羅することが大切です❗
以下に、「各設問のポイント」を列挙していきます。
① 「あるのは、今働いている自分ただ一つである。生成しているところにしか自分はない。」(【1】段落最終部分)という点。→(設問1)
② 「過去の自分は、身体として意味として現在の自分のなかに統合されており、その限りで過去の自分は現在の自分と重なることになる。」(【2】段落冒頭部分)という点→(設問3)
③ 「働きかけ」・「自分らしさ」については、以下の点がポイントになります。
【3】段落後半部分「重要なのは、何を忘れ、何を覚えているかである。つまり、自分の出会ったさまざまな経験を、どのようなものとして引き受け、意味づけているかである。そして、 そのような過去への姿勢を、現在の世界への姿勢として自らの行為を通じて表現するということが、働きかけるということであり、他者からの応答によってその姿勢が新たに組み直されることが、自分の生成である。そしてこの生成の運動において、いわゆる自分の自分らしさというものも現れるのである。」→(設問2)
④ 「われわれの働き」は、死後も、「他人によって引き出される」可能性があるのです。→(設問4)
つまり、「われわれの働き」・「われわれの足跡」は、自分の死後も生きている、ということです。
以下の部分に注意してください。
【9】段落「その(自分の)足跡はわれわれの生誕と死によって限られている。しかし、働きはまだ生き生きと活動している。ある人間の死によって、その足跡のもっている運動性も失われるわけではない。つまり、ェ残された足跡を辿る人間には、その足の運びの運動性が感得されるのであり、その意味で足跡は働きをもっているのである。」
【10】段落前半部分「自分の足跡は他人によって生を与えられる。われわれの働きは徹頭徹尾他人との関係において成立し、他人によって引き出される。そして、自分が生成することを止めてからも、その働きが可能である。」
以上の①~④の踏まえて、「可能性としての自分に向き合う」ことが、大切なのです。
このことが、「自分なり、他人なりが抱く自分についてのイメージ、それからどれだけ自由になりうるか。どれだけこれまでの自分を否定し、逸脱できるか」(【7】段落)(→「虚への志向性」)を考え実践する、という「自分の方向性でもある」ということです。
(解答)
自己とは、固定不変の存在でなく、過去を引き受けつつ他者との関係や応答の中で不断に生成され、自らの死後も他人の中で生きうる運動であるから、今までの自分を否定し、逸脱できるかという自由の中に進むべき自らの可能性があるということ。(114字)
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(出典)
池上哲司『傍らにあること 老いと介護の倫理学』〈第2章 自分ということ/6 自分への還帰〉
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(3)補充説明① ─ 本書の内容 ─ 「自由の重さ」と「他者の承認」
今回の問題は、「自由と責任」、ひいては、「『自由の重さ』と『他者の承認』」に関連しています。
この点については、池上哲司氏は、本書『傍らにあるもの』で、以下のように述べています。
「 自由であるとは自らの判断に従って行為しうることであり、かつ現実に行為することである。したがって、先生や上司の言うことが間違っていると判断したにもかかわらず、自分の将来のことを考えて、反対意見を述べず先生や上司の判断に従うのであれば、それは自由であるとは言えない。つまり、可能性としては自由であるが、現実としては自由ではないのである。行為しうることと現実に行為することとの間にはさまざまな障害が存在しており、その障害を克服しうるか否かに自由はかかっている。
だが、自由の現実のために自らの生命に危険がある場合はどうであろう。命を賭して自らの自由を実現することはできても、その結果自らの生命そのものを奪われることになったのでは、元も子もないのではないか。自由の実現が自由の可能性を奪う、これは極端な例である。しかし、自由ということを考えるとき、最終的にはこの問題を避けて通れないはずである。この点を考える前に、まずわれわれは、自由に耐えられるかという問いの意味を吟味することにしよう。
耐えるということは、自由がわれわれにとって重荷となるということである。自由であることがわれわれの負担になるのは、自由が必然的に責任を伴うからである。自らの自由によって為したことに対しては、自分以外のほかの誰に責任を負わせることができようか。
つまり、自由であればあるほど責任は大きく重くならざるをえない。それなのに、自らの判断にわれわれは絶対的な確信を抱くことができない。そこで、われわれは自分の判断や行為を肯定してくるれる他者を探しては、気休めをえようとする。
先生が認めてくれた、上司が認めてくれた、世界的権威が認めてくれた。けれども、相変わらず責任は自ら独りにあり、そこから逃れることはできない。この事実に気づいたとき、われわれにとって自由は厭うべきものでしかない。自由と責任を肩代わりしてくれる者をわれわれは探し求め、肩代わりしてくるなら、自らの自由さえ嬉々として譲り渡そうとする」(『傍らにあること』)
池上氏は、この論考で以下のように私達に告げていると、私は感じました。
「『他者の承認」、「他者の共感」が必要なのは、分かるが、焦ることはない。自分の死後、他者の承認、他者の共感はあるかもしれない」
私達は孤独であり、自由ではあるが、責任を背負わされています。
このような状況において、私達は、「自らの判断」に「絶対的な確信」を「抱く」ために、何が必要になるのでしょうか?
ここで、「他者の承認」、「他者の共感」を必要なのは、仕方のないことでしょう。
しかし、余りにそれらを求め過ぎることは、自分を卑屈にすることであり、自分を歪めることになるのです。
このことを、池上氏は主張しているのではないでしょうか。
現代日本の一部の人々は、「承認欲求」が強すぎるために、余りに他者の反応に過敏になり、主体性を弱め、ひいては、「自己喪失状況」に陥っている人もいるようです。
そのような人々に、
「焦る必要はない。私達のメッセージは、私達の死後も残る。」
「私達の死後にも、私達の足跡を辿る人間には、その足の運びの運動性が感得されるのであり、その意味で足跡は働きをもっている」
このように、池上氏は語りかけているのでは、ないでしょうか?
以上を意識して、池上氏の今回の論考の重要部分を読み直してみるとよいでしょう。
「【7】自分なり、他人なりが抱く自分についてのイメージ、それからどれだけ自由になりうるか。どれだけこれまでの自分を否定し、逸脱できるか。この「・・・・でない」という虚への志向性が現在生成する自分の可能性であり、方向性である。そして、これはまさに自分が生成する瞬間に、生成した自分を背景に同時に自覚されるのである。
【8】このような可能性のどれかが現実のなかで実現されていくが、それもわれわれの死によって終止符を打たれる。こうして、自分の生成は終わり、後には自分の足跡だけが残される。
【9】だが、本当にそうか。なるほど、自分はもはや生成することはないし、その足跡はわれわれの生誕と死によって限られている。しかし、働きはまだ生き生きと活動している。ある人間の死によって、その足跡のもっている運動性も失われるわけではない。つまり、ェ残された足跡を辿る人間には、その足の運びの運動性が感得されるのであり、その意味で足跡は働きをもっているのである。われわれがソクラテスの問答に直面するとき、ソクラテスの力強い働きをまざまざと感じるのではないか。
【10】自分としてのソクラテスは死んでいるが、働き(→「影響力」でしょう)としてのソクラテスは生きている。生成する自分は死んでいるが、その足跡は生きている。正確に言おう。自分の足跡は他人によって生を与えられる。われわれの働きは徹頭徹尾他人との関係において成立し、他人によって引き出される。そして、自分が生成することを止めてからも、その働きが可能であるとするならば、その可能性はこの現在生成している自分に含まれているはずである。」
(4)補充説明② ─ 最近の東大国語第1問の傾向について
昨年の国語第1問(現代文)のテーマ(藤山直樹『落語の国の精神分析』)も、今年のテーマも、ともに「自己」・「アイデンティティ」でした。
昨年の国語第1問のキーセンテンスは以下の通りです。
「 自己のなかに自律的に作動する複数の自己があって、それらの対話と交流のなかに、ひとまとまりの『私』というある種の錯覚が生成される。それが精神分析の基本的な人間理解のひとつである」
「 落語を観る観客はそうした自分自身の本来的な分裂を、生き生きとした形で外から眺めて楽しむことができるのである。分裂しながらも、ひとりの落語家として生きている自分を見ることに、何か希望のようなものを体験するのである。」
以上の段落を読むと、筆者が「自己」を「複数」・「分裂」の視点から分析していることが分かります。
この論考も興味深い内容を有しているので、解説記事を近日中に書く予定です。
(5)池上哲司氏の紹介
池上 哲司(いけがみ てつじ)
大谷大学文学部哲学科教授
1949年、東京生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程(哲学専攻)単位取得退学。大谷大学文学部哲学科専任講師を経て大谷大学文学部哲学科助教授。1983年から1985年3月まで西ドイツ・アウクスブルク大学に留学。1992年大谷大学文学部哲学科教授、現在に至る。
【著書】
『実践哲学の現在』(共著・世界思想社)、
『自己と他者』(共編著・昭和堂)、
『モラル・アポリア』(共著・ナカニシヤ出版)、
『岩波講座 哲学12 性/愛の哲学』(共著・岩波書店)、
『親鸞像の再構築』(共著・筑摩書房)などのほか、
エッセイ集『不可思議な日常』(東本願寺出版部)がある。
【翻訳】
『近代政治哲学入門(叢書・ウニベルシタス)』(法政大学出版局)、
『倫理学の根本問題(現代哲学の根本問題3)』(晃洋書房)など。
(6)当ブログにおける「自己」・「自分」・「自分らしさ」関連記事の紹介
「自己」・「自分」・「自分らしさ」は入試頻出論点です。
以下の記事を、よく理解するように、してください。
(7)当ブログにおける「承認欲求」関連記事の紹介
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今回の記事は、これで終わりです。
次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。
ご期待ください。
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