予想問題『身の構造』市川浩/早大教育・過去問ー身体論・身(み)
(1)なぜ、この記事を書くのか?
近代原理であるデカルトの「心身二元論」については、様々な批判があります。
近代化の進展により、以下のような深刻な病理が顕著になってきました。
様々な事物からの奥行き・味わいの消滅、自己確認と無縁になってしまった労働環境、人間関係の希薄化・表面化・一時化、アイデンティティの不安定化・拡散、人間の冷酷化・ロボット化、感性の幼児化・未発達。
これらの深刻な病理は、「生きている身体」(「身(み)」)、感覚の直接性(体感)を保持している「身体」の重要性を、軽視してきた結果です。それゆえに、今こそ、「身体性の復権」が課題になっているのです。
「心身二元論」の見直しに関連する議論は、「身体論」と言われています。「身体論」は入試現代文(国語)・小論文における頻出・重要論点です。
今回は、「身体論」における頻出著者である市川浩氏の論考『身の構造』の解説を、早稲田大学教育学部の過去問解説を通して行います。
なお、市川氏は『身の構造』の中で以下のように述べています。(赤字は当ブログによる「強調」です)
「近代科学が発展してくる前提として、決定的な「切断」の論理がはたらいていることを認識しなくてはならない。自と他とを明確に分ける。身体と心とを明確に分ける。このような「切断」を前提として近代科学が発展してきた。それがあまりにも効果的だから、何でもできそうに思えている。しかし、実際には、物事はそれほど「切断」されていない。自分と他人、心と身体は、案外つながっているのではなかろうか。」(『身の構造』)
この視点は、近代批判として重要な視点だと思います。
(2)『〈身〉の構造』の解説ー早稲田大学教育学部・過去問の解説
(問題文本文)(概要)
(赤字は当ブログによる「強調」です)
(青字は当ブログによる「注」です)
(以下も同様です)
【1】われわれのからだは、そのすべての部分がいつも同じようにはたらいているわけではない。寝ているとき、座っているとき、しゃべっているとき、歩いているときは、はたらいている神経も筋肉も同じではない。われわれは、刻一刻たえず新しい身の統合をなしとげている。このたえず変化する動的な統合の複雑さには、どのような人工的システムもかなわないだろう。だがこの現実的な統合が身の統合のすべてではない。
【2】道を歩いている人のなかには、剣道の達人もあれば、ピアノの上手な人もあるだろう。道を歩くという現実的な統合の範囲にとどまるかぎり、ふたりの身の統合の構造は似たようなものであり、からだとしては同じだ、といえるかもしれない。しかし、それがふたりの身の真の姿ではない。ふたりの身は、今は実現していないが、実現しうる〔 1 〕な統合可能性を A 構造化している。ひとりの身のうちには、これまでの剣の立ち合い、さらにはこれまでの剣道の歴史、B ケンゼン 一致の思想までも、肉化しているかもしれない。ピアノを弾く人は、ピアノの鍵盤を身体図式のうちに組みこみ、ピアノ曲の解釈の歴史、演奏法の伝統をも潜在的な身の統合のうちに包みこんでいる。身は解剖学的構造をもった生理的身体であると同時に、文化や歴史をそのうちに沈澱させ、身の構造として構造化した文化的・歴史的身体にほかならない。つまり身体は文化を内蔵するのである。
【3】そればかりではなく、素質のように未来に実現すべき〔 2 〕統合もあれば、病者にとっての健康のように回復すべき可能的統合もある。病や障害は、現実的統合としてみれば、それ自体は積極的な統合である。それが異常や欠如とみなされるのは、今は不在である可能的身体(いわゆる健康な身体)との関係において、異常であったり、欠如であったりするにすぎない。「健康」という概念は時代や社会によって異なる。色弱が問題にならない社会もあれば、聖なる呪術師や巫女が、精神異常とされる社会もあるだろう。身の可能的統合の拡がりは、時代や社会によって変化する。生き身は単なる生理的身体ではなく、そのような潜在的、あるいは可能的な統合を内蔵している。
【4】この内蔵化の過程というのは、連続的な過程にみえて、実はかなり不連続である。スポーツでも楽器の演奏でも、あるいはもっと抽象的な学習でもよい。試みるたびにうまくなり、理解が進むのは当然として、あるとき突然身の動きが自由になり、頭が晴れる思いをすることがあるのではないだろうか。あたかもそれまで無かった網目が突然身のうちに張りめぐらされたかのように。経験は身のうちに沈澱し、くりかえしは(能動的な訓練の場合はもちろん、とくに意識することなくくりかえしている場合でも)、自分では気がつかない小さな発見と創造によって、まだ不確定な網目を潜在的に身のうちに紡ぎ出しているのではないだろうか。
【5】練習は、能動的に身をある方向に整除して、統合を容易にする回路を身のうちに形成する試みである。身体を動かさないイメージ練習や、イメージを積極的に浮かべて練習することが、動きを内蔵する早道であることがある。これは意識的・能動的な統合である。ところが逆につぎの段階では、C イメージが邪魔になる。こんどは動きによってイメージを消し、無心の状態に達することが必要になる。場合によっては、練習を休むことによって、上手くなったり、こつがつかめることさえある。この場合にはたらいているのは、無意識的・受動的な統合ともいうべきものである。休んでいる間も練習された動きは、徐々に身のうちに沈澱し、動きのネットワークが〔 3 〕に構成され、あるとき突然網目がつながるのであろう
【6】ところが一たん網目ができあがると、くりかえしはただの反復に陥りがちである。最も D 抵抗のない道がえらばれ、習慣は惰性となるだろう。しかし惰性なくりかえしは、あるとき飽和状態になる。われわれは突然惰性的生に飽きていることを発見する。
【7】どんな E 立派な計画やユートピアにたいしても、「否!」という少数者がいるというだけではなく、計画は現実化するにつれて惰性化し、それに飽きた多数者を生み出す。人間は座りつづけることもできないし、立ちつづけることもできない。すぐに惰性化する存在でありながら、惰性的でありつづけることもできない。
【8】人間は易きにつく存在だから、禁欲の時代のつぎに享楽の時代が来るのはわかりやすい道理である。面白いのは、人間は享楽にも飽きるということである。享楽の時代のつぎに禁欲の時代が来るという不思議さーー同じ状態を永くつづけることができない人間のいたたまれなさは、動かしがたくみえる生き方を転換し、不可避とみえる袋小路を打開する力さえもっている。これが F 慢性的=創造的な習慣的身体の逆説である。(市川浩の文章による)
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(設問)
問1 空欄1~3に入れるのに最適なものを次の中から選べ。
1 動的 2 現実的 3 潜在的 4 構造的
5 生理的 6 文化的・歴史的 7 可能的
8 積極的 9 抽象的 10 能動的
11 受動的 12 習慣的
問2 傍線部Aの「構造化」とほぼ同じ意味で用いられている語(3字)を文中から抜き出せ。
問3 傍線部Bのカタカナに該当する漢字を次の中から選べ。
1 健全 2 剣禅 3 剣善 4 剣前 5 研漸
問4 傍線部C「イメージが邪魔になる」のはなぜか。その理由として最適なものを次の中から選べ。
1 イメージ練習ばかりに頼っていると、それが沈殿して受動的な網目を構成してしまうから
2 イメージ練習の反復は、身体化されることがなく飽和状態になってマンネリ化するから。
3 イメージ練習で形成化されたものが固定化し、新しい能動的な網目を生み出さないから
4 イメージ練習と能動的練習は回路がちがうので、新しい網目を統合しないから
5 イメージ練習ばかりに頼っていると、網目の受動的なこと構成を阻害されるから
問5 傍線部D「抵抗のない道がえらばれ」るということと、ほぼ同じ意味で用いられている語句(5字)を文中から抜き出せ。
問6 本文の論旨の上で、傍線部E「立派な計画やユートピア」に相当する語はどれか。次の中から最適なものを選べ。
1 結合 2 歴史 3 過程 4 網目 5 構成 6 惰性
問7 傍線部F「惰性的=創造的な習慣的身体の逆説」とはどういうことか。その説明として最適なものを次の中から選べ。
1 惰性と創造を反復しつつ、最終的には無意識のうちに習慣化した身体を作り出すという逆説
2 享楽にさえ飽きる存在でありながら、逆に禁欲的状態によってユートピアを創造する不思議さ
3 惰性と創造を共存させながら、習慣によって生を新しく転換するというパラドックス
4 惰性的な生は永続せず、必ず新しい生を生み出さずにはいない身体の不思議なあり方
5 惰性と創造を繰り返しつつ、しかも同じ状態にとどまらない人間の心の面白さ
問8 この文章の主題を端的に示す表題として最適なものを次の中から選べ。
1 身体は潜在的可能を統合する
2 身体は文化を内蔵する
3 意識的・能動的な統合
4 身体を統合するネットワーク
5 人間は享楽にも飽きる
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(解説・解答)
問1 (空欄補充問題)
1は、直後の一文の「ひとりの身のうちには、これまでの剣の立ち合い、さらにはこれまでの剣道の歴史、ケンゼン一致の思想までも、肉化しているかもしれない。」に注目してください。1には「潜在的」(3)が入ります。
2は、直前の「素質のように未来に実現すべき」に着目するとよいでしょう。2には「可能的」(7)が入ります。
3は、直前の一文「この場合にはたらいているのは、無意識的・受動的な統合ともいうべきものである」に注意してください。また、「休んでいる間も練習された動きは、徐々に身のうちに沈澱し、動きのネットワークが〔 3 〕に構成」されるというのですから、3には「受動的」(11)が入ります。
(解答) 1=3 2=7 3=11
問2( キーワードを問う問題)→本文を読む前にチェックするべきです。
①Aを含む一文「ふたりの身は、今は実現していないが、実現しうる〔1=潜在的〕な統合可能性を A 構造化している。」、
②同一段落最終文 「つまり身体は文化を内蔵するのである。」、
③【3】段落最終文「生き身は単なる生理的身体ではなく、そのような潜在的、あるいは可能的な統合を内蔵 している。」、
④【4】段落第1文「この内蔵化の過程というのは、連続的な過程にみえて、実はかなり不連続である。」、
の関連性に注目してください。
(解答) 内蔵化
問3 (語彙力を問う問題)
「剣禅一致」とは「剣道の究極の境地は、禅の無念無想の境地と同じ」という意味です。文脈から、漢字を推測してください。このような漢字書き取り問題は頻出です。
(解答) 2
問4 (傍線部説明問題・理由説明問題)
傍線部直後の、
「こんどは動きによってイメージを消し、無心の状態に達することが必要になる。場合によっては、練習を休むことによって、上手くなったり、こつがつかめることさえある。この場合にはたらいているのは、無意識的・受動的な統合ともいうべきものである。」
は、傍線部の言い換えになっていることを読み取ってください。
(解答) 5
問5 (語彙力を問う問題)
→本文を読む前にチェックするべきです。
【8】段落冒頭文の「易きにつく」が、「安易な道を選ぶ」という意味であることが分かれば、単純な問題です。
(解答) 易きにつく
問6 (キーワードを選択する問題)
→本文を読む前にチェックするべきです。
傍線部直後の「計画は現実化するにつれて惰性化」、直前の段落の「一たん網目ができあがると、くりかえしはただの反復に陥りがちである」の表現の類似性に注目してください。
(解答) 4
問7 (傍線部説明問題)
傍線部の「逆説」は「矛盾」を意味しています。この点を確認したうえで、傍線部直前の「これ」に注目する必要があります。
傍線部直前の「これ」は、一文前の「享楽の時代のつぎに禁欲の時代が来るという不思議さーー同じ状態を永くつづけることができない人間のいたたまれなさは、動かしがたくみえる生き方を転換し、不可避とみえる袋小路を打開する力さえもっている。」を、さしています。
この部分を精読してください。
→無意味、ムダな「要約」をカットして、「精読・熟読」に専念するべきです。
(解答) 4
問8 (主題を選択する問題)
→本文を読む前にチェックするべきです。この問題は、一種の「趣旨合致問題」です。
【2】段落最終文の「つまり身体は文化を内蔵するのである。」が、キーセンテンスになっています。このキーセンテンスは、市川氏の主張の根幹になっています。
なお、「文化」とは、「人間の知的思考や精神的進歩と、その成果・価値観」です。「ある社会の成員が共有している行動様式や生活様式」をさすことが多いです。
(解答) 2
(3)市川浩氏の主張「身体論」・「身体観」の解説
心身二元論は、デカルトが提唱した理論です。デカルトは、疑い得ない「わたし」を発見しました。ここでの「わたし」とは、「思考しているわたし」であり、「純粋な精神」です。
ここにおける「精神の尊厳」はモンティーニュ、パスカルへと受け継がれていきます。つまり、言い換えれば、哲学においては「身体」それ自体は考察の外に置かれるようになったのです。
この点に市川浩氏は注目しました。
心身二元論に限界を感じた市川氏は、別の身体観を打ち出すに至ります。
つまり、「身体」とは、「世界と互いに感応しあう関係性をもったもの」という身体観です。
『身の構造』には、次のような記述があります。
「私が感覚を通して世界をとりもどしたのは、デカルトの考えを、身をもって確かめ直すことだったと思うんです。そういう意味で心身二元論にはおかしなところがあるという感じを、私はたえず持ち続けてきました。」 (『身の構造』)
そして、市川氏は、 「身体のはたらき」の視点から、「身体の機能」と「精神の機能」との「融合」を徹底的に考察し、「精神とは身体である」と結論付けました。(『精神としての身体』)
この点について、さらに詳述します。
市川氏は『身の構造』の中で、次のように述べています。
「誤解をおそれずいうなら、身体が精神である。精神と身体は、同一の現実につけられた二つの名前にほかならない。それはデカルトが、二元論的な立場からではあるが、精神は身体の一部に(たとえば脳髄に)他の部分をさしおいて宿っているわけではなく、身体と全面的に合一し、あたかも一つの全体をなしているとのべたとき、いいあらわそうとした事態である。〈はたらきとしての身体〉が、あるレヴェルの統合を達成し、「身体が真に人間の身体となった」とき、精神と身体はもはや区別されない。「精神」と「身体」は、人間的現実の具体的な活動のある局面を抽象し、固定化することによってあたえられた名前である。このような具体的現実を指し示すことばとして、より適切なのは、日本語の「身(み)」ということばであろう。「わが身」「身につく」「身にしみる」「身を入れる」「身になってみる」「身につまされる」・・・・というとき、「身」は、ある場合には「身体」、ある場合には「心」、ある場合には「自己」、またある場合には「立場」ということばで近似的におきかえることができる。しかし、そのいずれもが「身」ということばのもっている、ある充実した親密性を失っている。
「身」は、単なる身体でもなければ、精神でもなくーーしかし時としてそれらに接近するーー精神である身体、あるいは身体である精神としての〈実存〉を意味するのである。われわれが生きている人間的現実を指し示す言葉として、〈身〉以上に適当な用語は見出しにくいように思われる。」(『身の構造』)
市川浩氏は、日本語の「身(み)」が、「身体」を現す言葉として最適だと述べています。
確かに、例えば「身構える」という言葉は、「肉体」が身構える姿勢をとる時だけではなく、「気持ち」が警戒する時にも使います。
『身の構造』の中には、このような適切な具体例が数多く列挙されていて、「身(み)」=「精神である身体、あるいは、身体である精神としての〈実存〉」=「人われわれが生きている人間的現実」ということがよくわかります。
次に、『「身」の構造』の中から、今回の早稲田大学教育学部の過去問に関連する記述、つまり、「可能的統合」に関連した記述を引用します。
「赤ん坊が自分の手を見つめる」の一節です。(概要です)
味わい深い内容です。
「赤ん坊がまじまじと自分の手を見つめながら、手を開いたり閉じたりしていることがあります。あたかも不思議なものを見るかのように、あきずにくりかえしている。赤ん坊は、何か物を取ろうとしても、なかなかうまく手を届かせることができません。対象としての自分の手と内側から感じている自分の手がまだうまく統合されていないのでしょう。考えてみれば、対象として見えている手が、同時に主体として感じている手でもあるということは、不思議なことですね。赤ん坊は、そういう不思議さを自分の手を動かして見ながら感じているのでしょう。
手そのものを見て遊ぶ赤ん坊の手遊びは、身が身へ折り返す二重化のはじまりであり、もっとも原初的な自意識の萌芽ではないでしょうか。自分の自分に対する関係が反省ですが、身体的レベルでの反省(→一種の「可能的統合」と評価できます)ともいうべきものが、この二重感覚にはあるわけです。」(『身の構造』)
次に、『身の構造』の中から、市川氏の論考のキーワードである「潜在的な統合可能性」についての記述を、引用します。今回の早大教育の過去問と合わせて読むと、市川氏の見解について、より理解が進むでしょう。
「身体はたえず錯綜し生成するものである。意識に現れて現実化している統合のほか、意識に現れない潜在的な統合可能性がある。この現実化している統合は「狭義の錯綜体」であり、それを背後で支える無意識の統合は「広義の錯綜体」である。こうした錯綜体はあらかじめ確定された体系ではない。私達が生きていく中でたえず生成され、更新していくものである。つまり、私たちがこれまで知らなかった、潜在的な統合可能性を自己のうちから引き出し、実際に統合する身体として、現実化させるということである。(→ 前述の「赤ん坊が自分の手を見つめる」の記述は、この点に関連しています)このとき私達は気づかぬうちに、自己の錯綜体に直面している。そして、これらの現実的・可能的な統合は他者がいる世界との、かかわりのなかで行われるのである。」
「このように錯綜体(→「身(み)」)は、生理的・文化的な共有の間身体図式の中で形成され、また身体図式は個々人の新しい行動がたえず共有されることによってつくられてゆく。身は文化によって形成されつつ、文化を形作る。」 (『身の構造』)
ここで、「身体と文化の密接な関係」が、説明されています。
今回の問題の問8に関連しています。
「文化」が、「人間の知的思考や精神的進歩と、その成果・価値観」であることを意識してください。
身体と精神的活動は密接に関連しているのです。
このことは、「近代以前の人間」にとって、当たり前のことであり、常識でした。
市川氏は「錯綜体」(→「身(み)」)が有する特異な特徴について、さらに次のように述べています。
「我々の潜在的な身の統合可能性として、“ 常 ”の身ではなく、“ 稀 ”であり、“ 奇 ”であり、“ 異 ”であるような身の統合可能性があるということです。そういった潜在的な統合可能性によっても我々は形づくられているから、自己が自己自身にとって疑わしいものであったり、不思議なものであったりするわけでしょう。」 (『身の構造』P208)
上記は、私達が時時々感じる「不審な存在としての自己」や「自己の不可思議性」についての、秀逸な説明になっています。
「自己の不可解性」に悩むことは、ないということです。
市川氏の見解によれば、「自己の不可解性」は、人間にとって当然のことなのです。
(4)市川浩氏の紹介
【経歴・思想】
市川 浩(いちかわ ひろし・1931年 ~ 2002年)京都生まれ。日本における哲学者、身体論者。明治大学名誉教授。 京都大学文学部を卒業後、1954年(昭和29)毎日新聞社に入社、大阪本社に勤務。4年間の記者生活ののち、東京大学大学院に入学、同人文科学研究科比較文学・比較文化課程修了。東邦大学助教授などを経て、1972年明治大学商学部教授(~1999年)。
前述のように、デカルト以来、西洋哲学では「心身二元論」が主流でした。精神(心)と身体を別々のものととらえ、身体は精神によって支配されるものとしたのです。この考え方に立てば、精神についてのみ研究すれば、人間の本質を理解できることになります。
しかし、「心身二元論で人間の精神活動を真に理解することはできない」という立場もあります。
その一つが、「生の哲学」です。「生の哲学」はショーペンハウアーにより提唱され、ニーチェやベルクソンが同様の見解を述べています。市川氏はこの「生の哲学」の流れをくむ哲学者です。
市川の哲学の根底には、ポール・ヴァレリーの身体観があります。ヴァレリーは身体を「錯綜体」としてとらえました。すなわち、身体は当然、自己のものでありながら、完全に自己のものでなく(たとえば、私は自分の顔を見ることができない)、しかし、もちろん、言うまでもなく、他者のものではない。また、他者のものである(他人からは、自己の身体を見ることができる)と同時に、当然、自己のものでもある。ヴァレリーは、このように、「身体」を「主客が錯綜するもの」として把握したのです。
【著作】
単著
『精神としての身体』 (勁草書房・1975、のち講談社学術文庫・1992年・ISBN 978-4061590199)
『人類の知的遺産 ベルクソン』(講談社・1983、のち講談社学術文庫)
『<身>の構造 』(青土社・1985、のち講談社学術文庫)
『現代芸術の地平』 (岩波書店・1985)
『<私さがし>と<世界さがし>』(岩波書店・1989)
『「中間者」の哲学—メタ・フィジックを超えて』( 岩波書店・1990年・ISBN 978-4000013581)
『身体論集成』 (中村雄二郎編・岩波現代文庫・2001)
→以上の著書は現代思想に多大な影響を及ぼしています。
編著
『新・哲学入門』(山崎正一共編・講談社現代新書・1968)
『現代哲学事典』(山崎正一共編・講談社現代新書・1970)
『身体の現象学』(山崎賞選考委員会・河出書房新社・1977)
『<知>と<技>のフィールド・ワーク』 (思潮社・1990)
『現代哲学の冒険 全15巻』(岩波書店・1990-91)
『寺山修司の宇宙 / 市川浩』(新書館・1992)
(5)当ブログにおける「心身二元論」・「身体論」関係記事の紹介
「身体論」は、難関国公立・私立大学の現代文(国語)・小論文における頻出・流行論点です。
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今回の記事は、これで終わりです。
次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。
ご期待ください。
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