予想問題『悲鳴をあげる身体』鷲田清一・存在の世話・存在の肯定
(1)なぜ、この論考に注目したのか?
鷲田清一氏は、ほとんどの難関大学の入試現代文(国語)・小論文で一度は出題されている、トップレベルの頻出著者です。
最近では、センター試験、東京大学、東北大学、早稲田大学、慶應大学、上智大学等で、出題されています。
鷲田氏の入試頻出著書としては、
『モードの迷宮』(ちくま学芸文庫)、
『じぶん・この不思議な存在』(講談社現代新書)、
『悲鳴をあげる身体』(PHP 新書)、
『「聴く」ことの力ー臨床哲学試論』(ちくま学芸文庫)、
『わかりやすいはわかりにくい? 臨床哲学講座』(ちくま新書)、
『しんがりの思想』(角川新書)
等があります。
最近の難関大学では、
『わかりやすいはわかりにくい? 臨床哲学講座』(ちくま新書)
『「聴く」ことの力ー臨床哲学講座』(ちくま学芸文庫)、
からの出題が目立ちます。
その中で、『悲鳴をあげる身体』は、長期的に頻出出典になっています。
その内容が難関大学国語(現代文)・小論文の問題としてふさわしいので、入試国語(現代文)・小論文対策として、このブログで紹介、解説します。
(2)予想問題ー『悲鳴をあげる身体』鷲田清一
(問題文本文)
(【1】【2】【3】・・・・は当ブログで付記した段落番号です)
「【1】いのちを潰さないことには、わたしたちが生きていけないということ、このことをしっかり思いださせてくれる行事がある。NHKテレビの「ひるどき日本列島」という番組で紹介していた埼玉県のある村の祭りはその一つだ。
【2】つつじが満開になる季節に、赤や白のその花を毟(むし)りとって、籠いっぱいにためる。それを子どもたちが手にもち、大空を仰いで空中に花をふりまく。あるいは、たがいにかけあって戯れる。ほんとうの花吹雪である。地面が花びらの絨毯と化す。その〔 ① 〕なこと。
【3】せっかく花を引きちぎること、それをあたり一面にぶちまけること。せっかく育てたもののいのちを奪うこと、それを、ふだんは掃いて清めている道に棄てること。フランスのある思想家の言葉をもじって言えば、世界が無秩序に変えられるためにある秩序のように見えてくる。
【4】いずれ食べるために飼育すること、いずれ摘むために栽培すること。これは農牧業というかたちでひとびとがいとなんできたことだ。せっかくていねいに作りあげたものを壊すというわたしたちの日々のいとなみの構造だけを純粋に析出したのが、この祭りだ。
【5】いのちの深いやりとり、深い交感。その単純な事実を子どもたちに身をもって味わわせる祭り。あるいは、世界がこのようでもありうるということを世界は現にあるのとは別のありかた、反対のありかたもしうるということを確認する作業であると言ってもよい。つまり〔 A 〕と思われたものを〔 B 〕に変える作業・・・・。世界をひっくり返すこの愉悦は、子どもを〔 ② 〕のなかに浸す。
【6】
〔 X 〕
【7】この覆いは残酷さを隠すためのものだろうが、ほんとうは、〔 甲 〕 という、もっと大事なものを隠してしまっているとは言えないか。
【8】家庭と学校という場所は、〔 甲 〕ということ大事なものを深く体験するためにあるはずだった。家庭や学校で体験されるべきとても大事なこと、それについてもう少し考えてみよう。
ーーーーーーーー
(設問)
問1 空欄①・②に入る言葉を次の中から、それぞれ一つずつ選べ。
① ア 豪奢 イ 高慢 ウ 傲慢
エ 尊大 オ 横柄
② ア 日々 イ 純粋 ウ 秩序
エ 陶酔 オ 不快
問2 空欄A・Bに入る語句の組み合わせとして最適なものを、次の中から一つ選べ。
ア A 無秩序 B 秩序
イ A 人工 B 自然
ウ A 感性 B 論理
エ A 肯定 B 否定
オ A 必然 B 偶然
問3 空欄X( 第6段落 )には、次のア~キの七つの文章が入る。正しい順序に並び替えよ。
ア ひとつのいのちが別のいのちの火に変わる。
イ それどころか、じぶんたちの誕生や死も、病院というひとの眼に触れない場所で処置するようになった。
ウ が、宇宙的と言っていいこの単純な事実を、わたしたちはふだんひとの眼に触れないようにばかりしている。
エ わたしたちは日々、獣を殺し、魚を釣り、葉をむしって食べている。
オ 肉や魚を切り身にし、透明ラップをかけて売ったりして。
カ 新生児も遺体もきれいにされ、衣にくるまれてから対面するようになった。
キ そしてそれをほんとうにおいしくいただく。
問4 空欄甲に入るのに最適な、平仮名のみの八字の表現を、本文中の表現のみを使用して記せ。
……………………………
( 解説・解答 )
問1(空欄補充問題)
空欄補充問題は、本文を精読・熟読することが必要不可欠です。
要約を書いて考えるようなことは、するべきではありません。
「空欄補充問題に対応する際の要約の有害性」については、下の記事に詳しく説明しましたので、ぜひ、ご覧ください。
空欄補充問題対策としては、以下の記事に丁寧な説明があります。
ぜひ、参照してください。
(解答) ①=ア ②=エ
問2(空欄補充問題)
空欄Xの直前の「つまり」に注目してください。
「世界が現にある」がAに関連しています。
「世界は現にあるのとは別のありかた、反対のありかたもしうるということ」が
Bに関連しています。
(解答) オ
問3(文章並べ替え問題)
文章並べ替え問題についても、その解法を以前に記事化しましたので、ぜひ、ご覧ください。
まず第一に、イの「それどころか」、ウの冒頭の「が」・「この単純な事実」、カの「新生児も遺体も」、キの「それ」に着目することが必要です。
そして、各文の内容を把握すると、
エ わたしたちは日々、獣を殺し、魚を釣り、葉をむしって食べている。
↓
キ そしてそれをほんとうにおいしくいただく。
↓
ア ひとつのいのちが別のいのちの火に変わる。
のセットが確定します。
次に、残りの文については、
ウ が、宇宙的と言っていいこの単純な事実を、わたしたちはふだんひとの眼に触れないようにばかりしている。④
↓
オ 肉や魚を切り身にし、透明ラップをかけて売ったりして。⑤
↓
イ それどころか、じぶんたちの誕生や死も、病院というひとの眼に触れない場所で処置するようになった。⑥
↓
カ 新生児も遺体もきれいにされ、衣にくるまれてから対面するようになった。⑦
のセットが確定します。
【7】段落の「この覆いは残酷さを隠すためのもの」から、「ウ→オ→イ→カ」のセットが後半になります。
従って、「エ→キ→ア→ウ→オ→イ→カ」が正解になります。
【7】段落は、以下のような文章になります。
「わたしたちは日々、獣を殺し、魚を釣り、葉をむしって食べている。そしてそれをほんとうにおいしくいただく。ひとつのいのちが別のいのちの火に変わる。が、宇宙的と言っていいこの単純な事実を、わたしたちはふだんひとの眼に触れないようにばかりしている。肉や魚を切り身にし、透明ラップをかけて売ったりして。それどころか、じぶんたちの誕生や死も、病院というひとの眼に触れない場所で処置するようになった。新生児も遺体もきれいにされ、衣にくるまれてから対面するようになった。」
(解答)エ→キ→ア→ウ→オ→イ→カ
問4(空欄補充・記述問題)
以下の文章を赤字部分に留意して、熟読・精読してください。
【5】いのちの深いやりとり、深い交感。その単純な事実を子どもたちに身をもって味わわせる祭り。あるいは、世界がこのようでもありうるということを世界は現にあるのとは別のありかた、反対のありかたもしうるということを確認する作業であると言ってもよい。つまり〔A=必然〕と思われたものを〔B=偶然〕に変える作業・・・・。世界をひっくり返すこの愉悦は、子どもを〔 ②=陶酔〕のなかに浸す。
【6】 〔 X =わたしたちは日々、獣を殺し、魚を釣り、葉をむしって食べている。そしてそれをほんとうにおいしくいただく。ひとつのいのちが別のいのちの火に変わる。が、宇宙的と言っていいこの単純な事実を、わたしたちはふだんひとの眼に触れないようにばかりしている。肉や魚を切り身にし、透明ラップをかけて売ったりして。それどころか、じぶんたちの誕生や死も、病院というひとの眼に触れない場所で処置するようになった。新生児も遺体もきれいにされ、衣にくるまれてから対面するようになった。〕
【7】この覆いは残酷さを隠すためのものだろうが、ほんとうは、〔 甲 〕 という、もっと大事なものを隠してしまっているとは言えないか。
【8】家庭と学校という場所は、〔 甲 〕ということ大事なものを深く体験するためにあるはずだった。
(解答) いのちのやりとり
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(問題文本文)
「【9】 学校について友人と話したとき、彼がおもしろい問いをぶつけてきた。幼稚園じゃお歌とお遊戯ばかりだったのに、どうして学校に上がるとお歌とお遊戯が授業から外されるんだろうというのだ。
【10】 小学校に入ると音楽の時間に楽譜の読みかた、笛の吹きかた、合唱のしかたは習った。体育の特別授業として一学期に一、二回、フォークダンスの練習もした。が、どちらの時間も生徒だった頃のわたしはてれにてれた、あるいはふてくされた。なにか恥ずかしかったからである、おもしろくなかったからである。ひとといっしょに歌うのは楽しいはずである。踊るのも楽しいはずである。ついこのあいだも見物してきたのだが、知人がやっている阿波踊りの連の練習会を見ているだけでもそれは分かる。みんな同じように踊りながら、みんなどことなく違う。勝手に踊っている。音楽や体育の時間は、音と動作をきっちり揃えることが要求される。それがつまらない理由だ。もともとみんなで同じような動作をすることは楽しいのだが、同じ動作をするのはいやなのだ。ファッションだってそう。みんなよく似た服装をしているが(していないと不安だが)、同じ服装は絶対にいやなのだ。
【11】 幼稚園では、いっしょに歌い、いっしょにお遊戯をするだけでなく、いっしょにおやつやお弁当も食べる。他人の身体に起こっていることを生き生きと感じる練習だ。そういう作業がなぜ学校では軽視されるのか、不思議なかんじがする。ここで他者への想像力は、幸福の感情と深くむすびついている。
【12】生きる理由がどうしても見当たらなくなったときに、じぶんが生きるにあたいする者であることをじぶんに納得させるのは、思いのほかむずかしい。そのとき、死への恐れは働いても、生きるべきだという倫理は働かない。生きるということが楽しいものであることの経験、そういう人生への肯定が底にないと、死なないでいることをじぶんでは肯定できないものだ。お歌とお遊戯はその楽しさを体験するためにあったはずだ。永井均は最近の著作のなかでこう書いている。『子供の教育において第一になすべきことは、道徳を教えることではなく、人生が楽しいということを、つまり自己の生が根源において肯定されるべきものであることを、体におぼえこませてやることである』と(『これがニーチェだ』)。あるいは、幼児期に不幸な体験があったとして、それに代わるものを、それに耐えられるだけの力を、学校はあたえうるのでなければその存在理由はない。だれかの子として認められなかった子どもに、その子を『だれか』として全的に肯定することで、〔 乙 〕をあたえうるのでなければ、その存在の意味がない。
【13】近代社会では、ひとは他人との関係の結び方を、まず家庭と学校という二つの場所で学ぶ。養育・教育というのは共同生活のルールを教えることではある。が、ほんとうに重要なのは、ルールそのものではなくて、むしろルールがなりたつための前提がなんであるかを理解させることであろう。社会において規則がなりたつのは、相手も同じ規則に従うだろうという相互の期待や信頼がなりたっているときだけである。他人へのそういう根源的な〈信頼〉がどこかで成立していないと、社会は観念だけの不安定なものになる。
【14】幼稚園でのお歌とお遊戯、学校での給食。みなでいっしょに身体を使い、動かすことで、他人の身体に起こっていること(つまり、直接に知覚できないこと)を生き生きと感じる練習を、わたしたちはくりかえしてきた。身体に想像力を備わせることで、他人を思いやる気持ちを、つまりは共存の条件となるものを、育んできたのである。
【15】さて家庭では、ひとは、<信頼>のさらにその基礎となるものを学ぶ。というより、からだで深く憶える。<親密さ>という感情である。
【16】家庭という場所、そこで人はいわば〔 丙 〕で他人の世話を享(う)ける。言う事を聞いたからとか、おりこうさんにしたらとかいった理由や条件なしに、自分がただここにいるという、ただそういう理由だけで世話をしてもらった経験がたいていのひとにはある。こぼしたミルクを拭ってもらい、顎や脇の下、指や脚の間を丹念に洗ってもらった経験・・・・。そういう ③ 「存在の世話」 を、いかなる条件や留保もつけずにしてもらった経験が、将来自分がどれほど他人を憎むことになろうとも、最後のぎりぎりのところでひとへの<信頼>を失わないでいさせてくれる。そういう人生への〔 丁 〕感情がなければ、ひとは苦しみが堆積するなかで、最終的に、死なないでいる理由をもちえないだろうと思われる。
【17】
〔 Y 〕
【18】逆にこういう経験があれば、他人もまた自分と同じ「一」として存在すべきものとして尊敬できる。かわいがられる経験。まさぐられ、遊ばれ、いたわられる経験。人間の尊厳とは、最終的にそういう経験を幼い時に持てたかどうかにかかっている。人間の尊厳とは最終的にそういう経験を幼いときにもてたかどうかにかかっているとは言えないだろうか。
ーーーーーーーー
(設問)
問5 空欄乙に入る五字以内の語句を本文から抜き出して記せ。
問6 空欄丙に入る四字以内の語句を本文から抜き出して記せ。
問7 傍線部③「存在の世話」とあるが、ここでは、「存在」とは、どういう意味か。最適なものを一つ選べ。
ア 宇宙的とも言っていい単純な事実
イ じぶんが、ただここにいるということ
ウ じぶんたちの誕生や死
エ 死なないでいること
オ 幼児期の不幸な体験
問8 空欄丁に入る最適な二字の語句を本文から抜き出して記せ。
問9 空欄Y(第17段落)には、次のア~オの五つの文章が入る。正しい順序に並び替えよ。
ア こういう経験がないと、一生どこか欠乏感をもってしか生きられない。
イ その経験があれば、母がじぶんを産んでしばらくして死んでも耐えられる。
ウ つまりじぶんを、存在する価値のあるものとして認めることが最後のところでできないのである。
エ あるいは、生きることのプライドを、追いつめられたぎりぎりのところでもてるかどうかは、じぶんが無条件に肯定された経験をもっているかどうか、わたしがわたしであるというだけでぜんぶ認められ世話されたことがあるかどうかにかかっていると言い換えてもいい。
オ あるいは、じぶんが親や他人にとって邪魔な存在ではないのかという疑いをいつも払拭できない。
問10 次の文の中で、本文の内容に合致するものを選べ。ただし、正解は一つとは限らない。
ア 学校では、いのちのやりとりを学ぶ機会が、案外多いと言える。
イ 花を引きちぎり、あたり一面にぶちまけるような祭りは、資源保護に反するので、教育上規制するべきである。
ウ じぶんが生きるに値する価値があるか否かを認識することは意外に難しいので、生きていくためには、じぶんの存在を肯定されることが必要と言える。
エ 養育や教育は、共同生活のルールを教えることであるから、幼稚園では、歌や遊戯でそのルールを身体に覚えさせている。
オ 存在の世話を自分自身に対してしても、そこに意味はない。
カ 自分の存在理由は自分で捜すしかないので、自己責任の問題である。
キ 他者の存在の承認には、様々な点でリスクがあるので、慎重におこなうべきである。
ク 人間の尊厳とは、じぶんが無条件に肯定された経験をもっているかどうかに関係していると言える。
……………………………
( 解説・解答 )
問5(空欄補充・記述問題)
【12】段落を赤字部分に着目して、熟読・精読するとよいでしょう。
「 生きる理由がどうしても見当たらなくなったときに、じぶんが生きるにあたいする者であることをじぶんに納得させるのは、思いのほかむずかしい。そのとき、死への恐れは働いても、生きるべきだという倫理は働かない。生きるということが楽しいものであることの経験、そういう人生への肯定が底にないと、死なないでいることをじぶんでは肯定できないものだ。お歌とお遊戯はその楽しさを体験するためにあったはずだ。永井均は最近の著作のなかでこう書いている。『子供の教育において第一になすべきことは、道徳を教えることではなく、人生が楽しいということを、つまり自己の生が根源において肯定されるべきものであることを、体におぼえこませてやることである』と(『これがニーチェだ』)。あるいは、幼児期に不幸な体験があったとして、それに代わるものを、それに耐えられるだけの力を、学校はあたえうるのでなければその存在理由はない。だれかの子として認められなかった子どもに、その子を『だれか』として全的に肯定することで、〔 乙 〕をあたえうるのでなければ、その存在の意味がない。」
(解答) 存在理由
問6(空欄補充・記述問題)
空欄丙を含む一文が【16】段落の冒頭部分になっていることに注目してください。
【16】段落の前半部分は、空欄丙を含む一文の説明になっています。
また、【17】段落は【16】段落と密接に関連しています。
従って、【16】・【17】段落を赤字部分に着目して熟読・精読することが必要です。
【16】家庭という場所、そこで人はいわば〔 丙 〕で他人の世話を享(う)ける。
言う事を聞いたからとか、おりこうさんにしたらとかいった理由や条件なしに、自分がただここにいるという、ただそういう理由だけで世話をしてもらった経験がたいていのひとにはある。こぼしたミルクを拭ってもらい、顎や脇の下、指や脚の間を丹念に洗ってもらった経験・・・・。そういう ③「存在の世話」 を、いかなる条件や留保もつけずにしてもらった経験が、将来自分がどれほど他人を憎むことになろうとも、最後のぎりぎりのところでひとへの<信頼>を失わないでいさせてくれる。そういう人生への〔 丁 〕肯定感情がなければ、ひとは苦しみが堆積するなかで、最終的に、死なないでいる理由をもちえないだろうと思われる。
【17】あるいは、生きることのプライドを、追いつめられたぎりぎりのところでもてるかどうかは、じぶんが無条件に肯定された経験をもっているかどうか、わたしがわたしであるというだけでぜんぶ認められ世話されたことがあるかどうかにかかっていると言い換えてもいい。その経験があれば、母がじぶんを産んでしばらくして死んでも耐えられる。こういう経験がないと、一生どこか欠乏感をもってしか生きられない。あるいは、じぶんが親や他人にとって邪魔な存在ではないのかという疑いをいつも払拭できない。つまりじぶんを、存在する価値のあるものとして認めることが最後のところでできないのである。
(解答) 無条件
問7(傍線部説明問題)
「存在の世話」における「存在」の意味が問われています。
傍線部③を含む【16】段落の
「家庭という場所、そこで人はいわば〔 丙=無条件 〕で他人の世話を享(う)ける。言う事を聞いたからとか、おりこうさんにしたらとかいった理由や条件なしに、自分がただここにいるという、ただそういう理由だけで世話をしてもらった経験がたいていのひとにはある。」
の文脈を把握してください。
「イ じぶんが、ただここにいるということ」が正解になります。
(解答) イ
問8(空欄補充・記述問題)
空欄丁を含む【16】段落が【12】段落を受けていることを読み取ってください。
そのうえで、【12】段落を熟読・精読する必要があります。
特に、赤字部分に注意してください。
【12】生きる理由がどうしても見当たらなくなったときに、じぶんが生きるにあたいする者であることをじぶんに納得させるのは、思いのほかむずかしい。そのとき、死への恐れは働いても、生きるべきだという倫理は働かない。生きるということが楽しいものであることの経験、そういう人生への肯定が底にないと、死なないでいることをじぶんでは《肯定》できないものだ。お歌とお遊戯はその楽しさを体験するためにあったはずだ。永井均は最近の著作のなかでこう書いている。『子供の教育において第一になすべきことは、道徳を教えることではなく、人生が楽しいということを、つまり自己の生が根源において《肯定》されるべきものであることを、体におぼえこませてやることである』と(『これがニーチェだ』)。あるいは、幼児期に不幸な体験があったとして、それに代わるものを、それに耐えられるだけの力を、学校はあたえうるのでなければその存在理由はない。だれかの子として認められなかった子どもに、その子を『だれか』として全的に《肯定》することで、〔 乙=存在理由 〕をあたえうるのでなければ、その存在の意味がない。
(解答) 肯定
問9(文章並べ替え問題)
まず第一に、アの「こういう経験」、イの「その経験」、ウの「つまり」、エの「あるいは」・「と言い換えてもいい」、オの「あるいは」に着目してください。
そうすると、
エ あるいは、生きることのプライドを、追いつめられたぎりぎりのところでもてるかどうかは、じぶんが無条件に肯定された経験をもっているかどうか、わたしがわたしであるというだけでぜんぶ認められ世話されたことがあるかどうかにかかっていると言い換えてもいい。
↓
イその経験があれば、母がじぶんを産んでしばらくして死んでも耐えられる。
というセットは、すぐに確定できるでしょう。
次に、ア、ウ、オは、以下のように、それぞれの文の赤字部分に注目するとよいでしょう。
ア こういう経験がないと、一生どこか欠乏感をもってしか生きられない。
↓
オ あるいは、じぶんが親や他人にとって邪魔な存在ではないのかという疑いをいつも払拭できない。
↓
ウ つまりじぶんを、存在する価値のあるものとして認めることが最後のところでできないのである。
【18】段落の内容に注目すると、「ア→オ→ウ」が後半になることが分かります。
(解答) エ→イ→ア→オ→ウ
問10 (趣旨合致問題)
趣旨合致問題の解法のポイントについては、下の記事で丁寧に説明したので、ぜひ、ご覧ください。
問題文本文を読む前に、設問を見ることが大切です。
設問のポイントのみ、チェックできれば、それでよいのです。
割り切ることが必要です。
今回の趣旨合致問題は、標準レベルで素直な問題です。
(解答) ウ・ク
(3)「存在の肯定」・「存在の承認」・「存在の贈与」についての補足説明
「存在の肯定」・「存在の承認」・「存在の贈与」は、鷲田氏の論考におけるキーワードです。
「存在の肯定」・「存在の承認」・「存在の贈与」は、難解な側面があります。
従って、簡単に理解しようとはしないで、鷲田氏の様々な文章を読み、じっくり考えるようにした方がよいと思います。
その点で、以下の『「聴く」ことの力』 における論考は、「存在の肯定」・「存在の承認」「存在の贈与」を考えるうえで、かなり参考になるでしょう。
「生きる理由がどうしても見当たらなくなったときに、じぶんがほんとうに生きるにあたいする者であることをじぶんに納得させるのが、思いのほかむずかしい。
生きるということが楽しいものであることのたっぷりとした経験、そういう人生への肯定が底にないと、ひとはじぶんが死なないでいることをじぶんでは肯定できないものだ。
しかし、この経験がたっぷりとはできなかったらどうか。
そのときには、他者がそれを贈るのである。
他者をそのままそっくり肯定すること、条件をつけないで。
こういう贈り物ができるかどうかは、ふたたびそのひとが、つまり贈るひと自身が、かつてたった一度きりであっても、無条件でその存在を肯定された経験があるかどうかにかかっている。
相手の側からすれば、他者の存在をそっくりそのまま受容してなされる。
「存在の世話」とでもいうべき行為である。
ケアの根っこにあるべき経験とはそういうものではなかろうか。」
また、『死なないでいる理由』の中の、以下の文章は、今回の記事で取り上げた『悲鳴をあげる身体』の一節と、ほとんど同内容ですが、味わい深いものがあります。
「こぼしたミルクを拭ってもらい、便で汚れた肛門をふいてもらい、顎や脇の下、指や脚のあいだを丹念に洗ってもらった経験。
そういう「存在の世話」を、いかなる条件も保留もつけずにしてもらった経験が、将来じぶんがどれほど他人を憎むことになろうとも、最後のぎりぎりのところでひとへの<信頼>を失わないでいさせてくれる。
そういう人生への肯定感がなければ、ひとは苦しみが堆積するなかで、最終的に、死なないでいる理由をもちえないだろうとおもわれる。」
(4)当ブログの、鷲田清一氏の論考に関連する記事の紹介
鷲田清一は、入試国語(現代文)・小論文におけるトップレベルの頻出著者なので、意識して、鷲田氏の論考を読むようにしてください。
ーーーーーーーー
今回の記事は、これで終わりです。
次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。
ご期待ください。
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