現代文最新傾向LABO 斎藤隆

入試現代文の最新傾向を分析し、次年度の傾向を予測する大胆企画

予想問題「消費されるスポーツ」『スポーツを考える』多木浩二/早大過去問

(1)はじめに

 

 多木浩二氏は、トップレベルの入試頻出著者です。多木氏の論考は、最近では、東大、早大(政経学部)・(文学部)・(教育学部)・(スポーツ科学部)、上智大、明治大、中央大などで出題されています。

 その中でも、『スポーツを考える』は、特に、頻出著書になっています。

 そこで、今回は、国語(現代文)・小論文対策として、この論考の予想問題について、解説します。

 

 なお、今回の記事の項目は以下の通りです。

(2)予想問題/「消費されるスポーツ」『スポーツを考える』多木浩二/早大スポーツ科学部過去問

(3)要約

(4)多木浩二氏の紹介

(5)当ブログにおける「スポーツ」関連記事の紹介

 

スポーツを考える―身体・資本・ナショナリズム (ちくま新書)

 


(2)予想問題/「消費されるスポーツ」『スポーツを考える』多木浩二/早大スポーツ科学部過去問

 


(問題文本文)(概要です)

(【1】・【2】・【3】・・・・は当ブログで付記した段落番号です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です) 

 

【問題】次の文章を読んで、後の問いに答えよ。

【1】スポーツを観る経験の仕方はふたつある。ひとつはメディアによってスペクタクルとして受けとることである。それは消費行動になる。メディアはスポーツを記号化し、観戦者はそのなかに没入することはないが、その記号を自分のペースで利用することができる。これはとくにテレビの場合に著しい。それは直接の体験ではないばかりではない。いつでもリプレイでき、画像を止めることも、そこに動きの説明を書き込むこともできるからである。観戦する側は、スタジアムにいるわけではなく、自分の家の室内にいて、ときには別の行為をしながらときどき観るといった経験が可能である。スポーツは日常生活のなかに同化してしまうのであり、スポーツがわれわれを日常性から逸脱させることはない。われわれはスポーツのみならず、スポーツする身体も消費しているのである。  〔 イ 〕  

【2】テレビによる経験は、最初からある距離をとっているから、決して臨場的なエクスタシーを感じることはない。しかし、これはスポーツにたいして空間的、時間的に個人的な経験を拡大する。われわれは決して個人では経験できないいろいろな角度、いろいろな視野で観られるだけでなく、反復して観ることもできるし、スローで確かめることもできる。つまり、スポーツをメディアが構成する言説(→「言説」→「意見を言ったり物事を説明したりすること。また、その言葉。意見。主張」という意味)として受けとる。これは特異な経験ではない。現代社会での経験は、生の出来事を経験するよりも言説に媒介された経験の方が正常だと言えるからである。衛星中継の発達によってわれわれの経験する空間はネーションを超えてひろがり、日本にいながら世界のどこかで行われているゲームを観戦することができる。だが、じかに目で観ている場合と、速度、力、全体の雰囲気は違っている。テレビのカメラを通したものであるし、レンズやフレーム、クローズ・アップとロング・ショットというイメージ言説のモードは免れない。〔 ロ 〕

【3】しかし、スタジアムに行くことは、すでにそのゲームの一部になることである。もちろん今そこで起こったことを再現して検証したり、ファウルをチェックしたりすることなどできない。それができないことは、スポーツ観戦が〔 ① 〕できないことに他ならない。そのとき、テレビでは決してありえない〔 ② 〕瞬間を経験する。日常のわれわれの生活はダブル・バインド(二重拘束)の状態にある。というのは現代社会は多価値的であり、同時に相反する異質な価値を受けとることが普通の状態であるからである。われわれは最初からねじれた存在である。スポーツを直接観ることはそのことを忘れさせる。われわれは日常のダブル・バインドの状態から脱出する。少なくとも人びとは真の存在を回復したような錯覚に陥る。われわれはこのことをエクスタシーと呼んでいる。〔 ハ 〕 

【4】言うまでもないが、エクスタシーはスポーツの独占物ではない。芸術がもっとも深いエクスタシーを生みだしてきたであろうし、宗教も人をトランス(→「トランス」→ある種の精神状態を表す語。入神状態・恍惚と訳される)状態に誘い込む。しかしスポーツは身体的であり、決して特別な感受性を必要とはしない。さらに今日では芸術にはむしろこうしたエクスタシーから遠ざかることが必要になっている。宗教はたんなるエクスタシーとは異なるものをもっている。そうなるとスポーツのスタジアムで集団的に一体化することは今日、もっとも普通の人間にエクスタシーを経験させるものではないのか。われわれのまわりには群衆がひしめいている。自分もそのひとりなのである。この群衆経験の極限にあるのがエクスタシーである。ファシズムの集団的行動は、このエクスタシーあるいはダブル・バインドの消滅を意識的に取り入れたものであった。エクスタシーの瞬間のもたらす幻覚は、日常を離脱し、他界に触れ、真の存在を取りもどしたかのように錯覚させることである。〔 ニ 〕

【5】しかし、現代社会では今後ますますメディアの力はひろがり、直接的経験は少なくなる。このことは間違いない。言い換えると、スポーツはますます記号として消費される身体のパフォーマンスになる。これには明らかに二つの面がある。ひとつは、〔  ③  〕しかし、もう一面では、その放映権料がスポーツを支え、巨大な資本の力は浸透度をさらに強めていくだろう。主体のない巨大な力がひろがる領域は、一見すると力の支配のメカニズムの場に見えるが、スポーツはそのメカニズムが単純なだけに、その④  ディジタルな競争の無限の反復は、反対に資本主義のモデルに見えるようになっていくだろう。〔 ホ 

(多木浩ニ『スポーツを考える』)

 

ーーーーーーーー

 

【設問】

問1 次の一文は本文中に入るべきものである。〔イ〕~〔ホ〕の中から最適な箇所を選べ。

そう考えると政治がスポーツを利用したというより、スポーツこそ政治のモデルであったのかもしれない。

 

問2 空欄①・②に入る最適な語句を、それぞれ、次の中から選べ。

①  イ 記号化   ロ 実体化   ハ 正常化  ニ 特権化

②  イ 絶対的   ロ 抽象的   ハ 理想的  ニ 歴史的

 

問3 空欄③に入る最適なものを次の中から選べ。

イ メディアと観客の関係は、それ自体が一種のねじれたダブル・バインドの様相を呈するようにもなる

ロ 確かに観客はメディアによって集合化はされるが、メディアは観客のエクスタシーを脱色する機能にもなる

ハ 疑いなくメディアは観客を集合化し、メディアが観客のエクスタシーをいっそう煽り立てる役割を果たすことにもなる

ニ メディアが集合化しようとすればするほど、観客はメディアの提供するエクスタシーからますます遠ざかる結果にもなる

 

問4 傍線部④「ディジタルな競争」とは、ここではどのようなことを指しているか。次の中から、最適なものを選べ。

イ スポーツの記録や判定に、ディジタル時計の精度が求めらること。 

ロ スポーツの結果が、結局は勝つか負けるの二者択一に帰着すること。

ハ スポーツの勝敗や選手の成績など、すべて数字によって表示されること。

ニ スポーツから人間的な要素を切り捨て、合理性と勝敗のみを追求すること。

 

問5 本文の論旨と合致しないものが次の中に2つある。それを選べ。

イ スポーツを観る経験の仕方の1つは、メディアによってスペクタクルとして受けとることであり、それは今日では決して特異な経験とは言えない。

ロ スポーツのスタジアムで集団的に一体化することは、日常性からの逸脱であり、われわれがすでにそのゲームの一部になっていることを意味する。

ハ一見すると、巨大な資本の力がスポーツに浸透しつつあるように見えるが、実際はスポーツこそが巨大な資本のメカニズムを操っているのである。

ニ テレビによる観戦の経験ではなく、スポーツを直接観る経験こそが、われわれを日常生活におけるダブル・バインドの状態から脱出させるものだ。

ホ エクスタシーはスポーツの独占物ではないが、今日では芸術や宗教によるよりも、はるかに深いエクスタシーが、スポーツの観戦によって得られる。

 


ーーーーーーーー

 

【解法・解答】

問1(空欄補充問題)

    「スポーツと政治」の関係について論じている段落はどこか?

  【4】段落第6文以下、特に第10文に注目してください。

「そうなるとスポーツのスタジアムで集団的に一体化することは今日、もっとも普通の人間にエクスタシー(→「エクスタシー」という言葉はギリシャ語のエクスタシスが語源で、神との合一、魂の現象界への離脱といった意味合いがある。快感が最高潮に達して無我夢中の状態になること。恍惚(こうこつ)。忘我)を経験させるものではないのか。われわれのまわりには群衆がひしめいている。自分もそのひとりなのである。この群衆経験の極限にあるのがエクスタシーである。(第10文→)ファシズム(→第一次大戦後に出現した全体主義的・排外的な政治理念・政治体制。自由主義に反対し、一党独裁による専制主義・国粋主義を採用する。対外的には反共政策・侵略政策をとる。初めはイタリアのムッソリーニの政治運動呼称であったが、広義にはドイツのナチズムやスペイン等の同様の政治運動を指す。「ファッショ」)の集団的行動は、このエクスタシーあるいはダブル・バインド(→「ダブル・バインド」とは、二つの矛盾した命令をすることで、相手の精神にストレスがかかる状態)の消滅を意識的に取り入れたものであった。エクスタシーの瞬間のもたらす幻覚は、日常を離脱し、他界に触れ、真の存在を取りもどしたかのように錯覚させることである。」


(解答)  ニ


問2(空欄補充問題)

① 空欄①直前の「それ」とは、1つ前の文の「今そこで起こったことを再現して検証したり、ファウルをチェックしたりすること」をさし、これは【1】段落第4文以下「メディアはスポーツを記号化し、観戦者はそのなかに没入することはないが、その記号を自分のペースで利用することができる。これはとくにテレビの場合に著しい。」を意味しています。

 なお、「記号化」とは、「個々の具体的特徴や違いを省略化して、事実を単純化・シンボル化する」という意味です。

 

② 直後の第5文以下「日常のわれわれの生活はダブル・バインド(二重拘束)の状態にある。というのは現代社会は多価値的であり、同時に相反する異質な価値を受けとることが普通の状態であるからである。われわれは最初からねじれた存在である。スポーツを直接観ることはそのことを忘れさせる。われわれは日常のダブル・バインドの状態から脱出する。少なくとも人びとは真の存在を回復したような錯覚に陥る。われわれはこのことをエクスタシーと呼んでいる。 」に着目してください。

 特に、最終部分の「真の存在を回復したような錯覚」・「エクスタシー」に着目するとよいでしょう。

 まさに、「絶対的瞬間」と言えます。


(解答)  ① イ  ② イ

 

問3(空欄補充問題)

【2】段落第1文「テレビによる経験は、最初からある距離をとっているから、決して臨場的なエクスタシーを感じることはない。

【4】段落第6文以下「そうなるとスポーツのスタジアムで集団的に一体化(→「集団的に一体化」の部分に「身体論な視点」があります)することは今日、もっとも普通の人間にエクスタシーを経験させるものではないのか。われわれのまわりには群衆がひしめいている。自分もそのひとりなのである。この群衆経験の極限にあるのがエクスタシーである。ファシズムの集団的行動は、このエクスタシーあるいはダブル・バインドの消滅を意識的に取り入れたものであった。エクスタシーの瞬間のもたらす幻覚は、日常を離脱し、他界に触れ、真の存在を取りもどしたかのように錯覚させることである。そうかんがえると政治がスポーツを利用したというより、スポーツこそ政治のモデルであったのかもしれない。 」

の対比より判断するとよいでしょう。

 

 イは、【3】段落(→「日常のわれわれの生活はダブル・バインド(二重拘束)の状態にある。というのは現代社会は多価値的であり、同時に相反する異質な価値を受けとることが普通の状態であるからである。われわれは最初からねじれた存在である」)から見て、「ダブル・バインド」の意味を取り違えています。

 

(解答) ロ

 

問4(傍線部説明問題)

 傍線部直前の「その」は、「スポーツはそのメカニズムが単純な」を指しています。

 次に、「傍線部それ自体」(→「ディジタルな競争」)に注目する必要があります。

 「ディジタル」(→「デジタル」とも表記)とは、「連続的な数量に基づく『アナログ』に対して、離散的な数量に基づき値を扱う方式」という意味です。

 また、「ディジタルデータ」はすべて「0」と「1」を組み合わせた数字で構成されています。つまり、「有」・「無」のどちらかです。そのため、「ディジタル」は「単純」の意味で使用されることが多いのです。

 以上より、ロ(→「スポーツの結果が、結局は勝つか負けるの二者択一に帰着すること」)が正解になります。

 

 ニは「合理性を追求すること」の部分が「ディジタルな競争」からズレるので、誤りです。

 

 (解答)  ロ

 

問5(趣旨合致問題)

イ イは、「スポーツを観る経験の仕方の1つは、メディアによってスペクタクル(→「スペクタクル」とは「視覚的に強烈な印象を与えるようなもの」という意味。広義では、光景や情景などが意味される。芸能業界用語としては、「視覚的に強い印象を与えるような大掛かりな場面や出し物」の意味)として受けとることであり、それは今日では決して特異な経験とは言えない。」となっています。

 これは、
【1】段落第1文「スポーツを観る経験の仕方はふたつある。ひとつはメディアによってスペクタクルとして受けとることである。それは消費行動になる。」

【2】段落(特に第4文以下)
「【2】テレビによる経験は、最初からある距離をとっているから、決して臨場的なエクスタシーを感じることはない。しかし、これはスポーツにたいして空間的、時間的に個人的な経験を拡大する。われわれは決して個人では経験できないいろいろな角度、いろいろな視野で観られるだけでなく、反復して観ることもできるし、スローで確かめることもできる。つまり、スポーツをメディアが構成する言説として受けとる。これは特異な経験ではない。

に合致しています。

 

 なお、本書には、「スペクタクルとしてのスポーツは日常を超えているのではなく、日常生活では拡散して見えにくくなる身体感覚を、目に見えるまで凝縮して情報の領域に持ち込むものなのである。」との記述があります。


ロ (「スポーツのスタジアムで集団的に一体化することは、日常性からの逸脱であり、われわれがすでにそのゲームの一部になっていることを意味する。」)は、

【1】段落第5文、【3】段落第1文以下に合致しています。

【3】段落「しかし、スタジアムに行くことは、すでにそのゲームの一部になることである。もちろん今そこで起こったことを再現して検証したり、ファウルをチェックしたりすることなどできない。それができないことは、スポーツ観戦が〔①=記号化]できないことに他ならない。そのとき、テレビでは決してありえない〔②=絶対的〕瞬間を経験する。日常のわれわれの生活はダブル・バインド(二重拘束)の状態にある。というのは現代社会は多価値的であり、同時に相反する異質な価値を受けとることが普通の状態であるからである。われわれは最初からねじれた存在である。スポーツを直接観ることはそのことを忘れさせる。われわれは日常のダブル・バインドの状態から脱出する。少なくとも人びとは真の存在を回復したような錯覚に陥る。われわれはこのことをエクスタシーと呼んでいる。


ニ (「テレビによる観戦の経験ではなく、スポーツを直接観る経験こそが、われわれを日常生活におけるダブル・バインドの状態から脱出させるものだ。」)は、

【3】段落第5文以下に合致しています。

【3】段落第5文以下「日常のわれわれの生活はダブル・バインド(二重拘束)の状態にある。というのは現代社会は多価値的であり、同時に相反する異質な価値を受けとることが普通の状態であるからである。われわれは最初からねじれた存在である。スポーツを直接観ることはそのことを忘れさせる。われわれは日常のダブル・バインドの状態から脱出する。少なくとも人びとは真の存在を回復したような錯覚に陥る。われわれはこのことをエクスタシーと呼んでいる。 」

 

ハ (→「一見すると、巨大な資本の力がスポーツに浸透しつつあるように見えるが、実際はスポーツこそが巨大な資本のメカニズムを操っているのである。」)は、

【5】段落最終後半部分(→「もう一面では、その放映権料がスポーツを支え、巨大な資本の力は浸透度をさらに強めていくだろう。主体のない巨大な力がひろがる領域は、一見すると力の支配のメカニズムの場に見えるが、スポーツはそのメカニズムが単純なだけに、そのディジタルな競争の無限の反復は、反対に資本主義のモデルに見えるようになっていくだろう。」)より不適です。

 

ホ (「エクスタシーはスポーツの独占物ではないが、今日では芸術や宗教によるよりも、はるかに深いエクスタシーが、スポーツの観戦によって得られる。」)は【4】段落に関連しますが、このような「エクスタシーの深さ」に関する記述はないので、不適です。


【4】段落「言うまでもないが、エクスタシーはスポーツの独占物ではない。芸術がもっとも深いエクスタシーを生みだしてきたであろうし、宗教も人をトランス状態に誘い込む。しかしスポーツは身体的であり、決して特別な感受性を必要とはしない。さらに今日では芸術にはむしろこうしたエクスタシーから遠ざかることが必要になっている。宗教はたんなるエクスタシーとは異なるものをもっている。そうなるとスポーツのスタジアムで集団的に一体化することは今日、もっとも普通の人間にエクスタシーを経験させるものではないのか。われわれのまわりには群衆がひしめいている。自分もそのひとりなのである。この群衆経験の極限にあるのがエクスタシーである。ファシズムの集団的行動は、このエクスタシーあるいはダブル・バインドの消滅を意識的に取り入れたものであった。エクスタシーの瞬間のもたらす幻覚は、日常を離脱し、他界に触れ、真の存在を取りもどしたかのように錯覚させることである。そうかんがえると政治がスポーツを利用したというより、スポーツこそ政治のモデルであったのかもしれない。 」

 

 (解答) ハ・ホ

 

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(3)要約 

スポーツを観る経験の仕方は2つある。1つはメディアによりスペクタクルとして受けとることである。観戦者はメディアにより記号化されたスポーツを自分のペースで利用することができる。もう1つは、スタジアムに行くことである。スタジアムで集団的に一体化することは、最も普通の人間に、エクスタシー、あるいは、ダブル・バインドの消滅を経験させるものである。現代社会では、今後メディアの力は広がり、スポーツはますます記号化される。スポーツのディジタルな競争の無限の反復は、反対に資本主義のモデルに見えるようになっていくだろう。



生きられた家

 

 

(4)多木浩二氏の紹介

 

多木 浩二(たき こうじ、1928年 - 2011年4月13日)は、日本の思想家、批評家(美術評論家・写真評論家)。専門は、芸術学、哲学。
兵庫県神戸市生まれ。旧制第三高等学校、東京大学文学部美学美術史学科卒業。東京造形大学教授、千葉大学教授、神戸芸術工科大学客員教授を歴任。

 

【著書】

『生きられた家』(田畑書店、1976年)、のち改訂『生きられた家 経験と象徴』(青土社、1984年/岩波書店《岩波現代文庫》、2001年)

『眼の隠喩 視線の現象学』(青土社/筑摩書房《ちくま学芸文庫》、2008年)

『欲望の修辞学』(青土社、1987年)

『天皇の肖像』(岩波書店《岩波新書》、1988年/《岩波現代文庫》、2002年)

『写真の誘惑』(岩波書店、1990年)

『ヌード写真』(岩波書店《岩波新書》、1992年)

『都市の政治学』(岩波書店《岩波新書》、1994年)

『スポーツを考える 身体・資本・ナショナリズム』(筑摩書房《ちくま新書》、1995年)

『戦争論』(岩波書店《岩波新書》、1999年)

『ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』(岩波書店《岩波現代文庫》、2000年)

『写真論集成』(岩波書店《岩波現代文庫》、2003年)

『雑学者の夢』(岩波書店、2004年)

『進歩とカタストロフィ モダニズム夢の百年』(青土社、2005年)

『肖像写真 時代のまなざし』(岩波書店《岩波新書》、2007年)

『映像の歴史哲学』(みすず書房、2013年)等

 

 

(5)当ブログにおける「スポーツ」関連記事の紹介

 

 

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 今回の記事は、これで終わりです。

 次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

 ご期待ください。

 

  

 

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スポーツを考える―身体・資本・ナショナリズム (ちくま新書)

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眼の隠喩―視線の現象学 (ちくま学芸文庫)

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都市の政治学 (岩波新書 新赤版 (366))

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戦争論 (岩波新書)

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