『中動態の世界』國分功一郎/哲学/現代文・小論文予想出典(後編)
(1)なぜ、この記事を書くのか?
國分功一郎氏は、最近の入試頻出著者です。國分氏の論考は、最近、慶応大学(商学部)、中央大学、同志社大学、関西大学、獨協大学などの難関大学の国語(現代文)・小論文で出題されています。
従って、難関大学入試(受験)・センター試験の国語(現代文)・小論文対策として、國分功一郎の氏の論考・著書を読むことを、おすすめします。
最近、当ブログでは、「予想問題『暇と退屈の倫理学』國分功一郎/消費社会・真の豊かさ」を発表しましたが、國分氏が今年に刊行した『中動態の世界』が、また素晴らしい名著です。
従って今回は、「予想出典」として本書の紹介記事を発表します。
『中動態の世界』は、最近のベストセラーになっています。
近代的常識や「べき論」の牢獄からの穏当な脱走を提案する、現代人救済のための哲学書です。
近代批判の良書です。
丁寧に、分かりやすく記述されているので、難関大学を目指す受験生、高校生であれば、充分に楽しめることでしょう。高校生、受験生は、最低1冊は、國分功一郎氏の著書を読んでおくべきでしょう。
入試のレベルで見ると、入試出典として採用されやすい論考には、一定のポイントがあります。未知のユニーク視点、日本語として美しい文、明快な論理構造などです。
本書は、これらのポイントを充分に満たしています。
本書が、来年度以降の国語(現代文)・小論文問題として出題される可能性は、かなり高いと思われます。
そこで、国語(現代文)・小論文対策として、予想出典記事を発表します。
『中動態の世界』は密度の濃い論考であり、「入試題材の宝庫」なので、今回の予想出典記事は、前編・後編の2回に分けて発表します。
今回は前回の「『中動態の世界』國分功一郎/哲学/現代文・小論文予想出典(前編)」(→主に本書の前半を中心に解説しました)に続く、その「後編」(→主に本書の後半を中心に解説します)です。
今回の記事の理解を深めるために、ぜひ、前回の「前編」を、読んでください。
『中動態の世界』の後半では、アレント、ハイデッガー、スピノザ等の偉大な哲学者達の説を、國分氏が解明した「中動態の世界」の視座から読み直すことで、彼らの説をより明快に解説しています。
ただ、國分氏は、偉大な哲学者達の論理や直感に一定の評価をして、彼らの学問的価値を高めようとしています。彼らへの畏敬の念が感じられる論考です。
『暇と退屈の倫理学』と合わせ読むと「人間性の真の解放」の意味が実感できます。
今回の記事は、「第5章意志と選択」・「第8章中動態と自由の哲学」を中心に解説していきます。今回の記事の項目は、以下のようになっています。
(2)「第5章・意志と選択/アレント」の解説
(3)「第8章・中動態と自由の哲学/スピノザ」の解説
(4)國分功一郎氏の紹介・著書
(5)当ブログにおける「哲学」関連記事の紹介
(2)「第5章・意志と選択/アレント」の解説
(引用部分は概要です)
(赤字は当ブログによる「強調」です)
(青字は当ブログによる「注」です)
【アレントの意志論】
本書によると、アレントは「能動/受動の図式」にこだわり、「中動性」の正しい理解に至っていないようです。國分氏は、アレントの『精神の生活』を解説しつつ、その点を厳しく指摘していきます。
初めに、國分氏は、「アレントの意志の定義」を呈示しています。
「 アレントは次のように述べている。
われわれは記憶は、過去に関わる精神的な器官と見なすことができる。 それは過ぎ去ったものにかかわっているからである。ならば同じ意味で、われわれは未来にかかわる精神的な器官を考えることができるだろう。それが意志である。」(P128 )
アレントが批判している「アリストテレスの可能態の考え方」は、未来は過去に存在していたものの帰結以外のなにものでもない、としています。
この説に対して、アレントは次のように指摘しています。
「実在する一切のものには、その原因の一つとしての可能態が先行しているはずだ、という見解は、暗々裏に未来を、真正な時制とすることを否定している。」(P129)
アレントは「未来」と「意志」の存在を強く主張しています。『中動態の世界』から引用します。
「アレントによれば、未来が未来として認められるためには、未来は過去からの帰結であってはならない。未来は過去から切断された絶対的な始まりでなければならない。そのような真正な時制としての未来が認められれたとき、はじめて意志に場所が与えられる。始まりを司る能力、何事かを始める能力の存在が認められることになる。」(P130)
次に、『中動態の世界』は「意志と選択の違いとは何か?」の論点に入ります。
まず、國分氏は、次のように述べています。
「意志の概念は、責任の概念と結びついている。われわれは、意志を、何ごとかを開始する能力として理解している。だからこそ、この言葉に基づいて責任を考えることができる。 」(P130)
【意志と選択の違いとは何か?】
それでは、意志と選択の違いは何でしょうか?
國分氏は、以下のように記述しています。
「ある行為が過去からの帰結であれば、その行為をその行為者の意志によるものと見なすことはできない。その行為はその人によって開始されたものではないからである。たしかにその行為者は何らかの選択はしたのだろう。しかしこの場合、選択は諸々の要素の相互作用の結果として出現したのであって、その行為者が己の意志によって開始したのではないことになる。
日常において、選択は不断に行われている。そして選択はそれが過去からの帰結であるならば、意志の実現とは見なせない。ならば次のように結論できよう。意志と選択は明確に区別されねばならない。」 (P131)
以上の区別の基準は、かなり明確です。
次に、國分氏は「意志の内容」の考察に入ります。
「過去からの帰結としての選択と、区別されるべきものとしての意志とは、何か? それは過去からの帰結としてある選択の脇に突然現れて、無理やりにそれを過去から切り離そうとする概念である。しかもこの概念は自然とそこに現れてくるのではない。それは呼び出される。」(P132)
「しかもこの概念(→「意志」)は自然とそこに現れてくるのではない。それは呼び出される。」の部分は、かなり衝撃的な内容になっています。
ここで、私達は、立ち止まって考えるべきです。「意志」という、私達のアイデンティティの根幹である「意志」は、「自然とそこに現れてくるのではない」のです。
さらに、國分氏は続けて、以下のように説明しています。熟読するべき箇所です。
「責任を問うためには、この選択の開始地点を確定しなければならない。その確定のために呼び出されるのが意志という概念である。この概念は私の選択の脇に来て、選択と過去のつながりを切り裂き、選択の開始地点を私の中に置こうとする。」(P 132)
上記の、
「責任の確定のために呼び出されるのが意志という概念である。」
「この(責任の)概念は選択の開始地点を私の中に置こうとする。」
の部分により、「責任概念」の強力なパワーが、よく分かります。
まさに、「責任社会」の構築のために「意志概念」が発明されたことが、よく分かります。
さらに、本書から引用します。
「こう考えると、選択と意志の区別は明確であり、実に単純であると言わねばならない。望むと望まざるとにかかわらず、選択は不断に行われている。意志は後からやってきてその選択に取り憑く。
ところが、この実に単純な区別がこれまで正確に理解されてこなかった。意志をめぐる議論が常に混乱の中にあったのはそのためであると思われる。 」
「アレントが解きほぐしたのは、思想史における混乱だけではない。この混乱は、『意志』という語を用いる際、われわれ自身がしばしば陥る混乱でもある。」(P132)
確かに、私達は日々の、「選択」に過ぎない決断を「意志」と考え、その自己の判断を自分自身で尊重しています。完全に混乱しています。その点を、アレントは問題視したのです。
【意志が選択にすり替えられてしまう】
以下は、「意志が選択にすり替えられてしまう」ことについての、國分氏の丁寧な説明です。
読みごたえのある論考です。いかにも、入試に出題されそうな部分です。熟読してください。
「選択がそれまでの経緯や周囲の状況、心身の状態など、さまざまな影響のもとで行われるのは、考えてみれば当たり前のことである。ところが抽象的な議論になるとそれが忘れあれ、いつの間にやら選択が、絶対的な始まりを前提とする意志にすり替えられてしまう。過去から地続きであって常に不純である他ない選択が、過去から切断された始まりと見なされる純粋な意志に取り違えられてしまうのだ。」
「『意志など幻想だ』と言われるときも、実際には、意志ではなくて選択が扱われていたというのに、結論部においてはなぜか意志が否定されている場合がある。」
「たとえば、ある人が何かを選択するにあたり、その選択行為が明確に意識されるよりも前の時点で、脳内で何らかの活動が始まっていたことが実験によって証明されたとしよう。これによって否定されるのは、単に、選択の開始地点は人の明晰な意識のなかにあるという思い込みに過ぎない。そして、ある選択が、行為として行われた時点に至るまでのさまざまな要素によって影響を受けているのは当たり前であって、そんなことはわざわざ指摘するまでもない。また、脳内で起こることをすべて意識できるはずがないのだから、選択が意識されるよりも前に脳内で何らかの活動が始まっているのも当然である。」(P133・134)
上記の引用では、意志と選択が区別されています。「選択」は過去の様々な事情を原因として、なされる行為です。従って、「意志」は、必然的に、一切の過去の原因から「切断」されたものでなければならないことになります。
しかし、そのような「純粋な意志」は存在しないのです。
この部分は、近代原理の当然の前提である「意志」の存在それ自体の、内容の見直しをしていて、入試題材として価値が高いと思われます。
【では意識の役割は?】
では、意識の役割は何でしょうか?
この点について、國分氏は以下のように述べています。
「選択が過去からの帰結であり、決して純粋な始まりではないとすれば、われわれは選択における意識の役割をもあらためて定義することができるだろう。
意識は選択に影響を与える無数の影響の一つである。」
「選択は無数の要素の影響を受けざるをえず、意識はそうした要素の一つに過ぎないとしたら、意識は決して万能ではない。しかし、それは無力でもない。」
「意志という絶対的な始まりを想定せずとも、選択という概念ーー過去からの帰結であり、また無数の要素の相互作用のもとにあるーーを通じて、われわれは意識のための場所を確保することができる。むしろ意志の概念を斥けることによってこそ、意識の役割を正当に評価することができる。」(P135)
上記の「意志の概念を斥けることによってこそ、意識の役割を正当に評価することができる」の部分は、かなり重大なことを主張しています。
「意志概念の却下」を主張しているのです。「意志」の内容が空虚であるならば、「意志概念」を尊重する必要はない、むしろ「意志概念」は余計なものだ、と言っているのです。思い切った提言だと思います。
【意志をめぐるアレントの不可解な選択】
一方で、國分氏は、アレント自身により定義された意志概念は、それを哲学的に擁護することは困難と述べています。
「意志は過去からの帰結であってはならず、過去から切断された絶対的な始まりでなければならないが、それはとても存在するとは思えない。」
「アレントによる意志の定義は、自らが定義している対象の存在の可能性を自らで切り崩してしまう、そのような定義である。」
「なぜならば、われわれは純粋で絶対的な始まりなど考えることができないからである。一人一人の精神のなかに純粋で絶対な始まりがあるなどと主張することは、少なくとも哲学的にはきわめて困難である。それはいわば『無からの創造』を求める主張である。」(P138)
アレントの定義は一種の自己矛盾である、と主張しているのです。そして、次のように述べています。
「意志の概念を擁護することは、キリスト教神学の伝統に訴えかける以外の仕方では、不可能である。」(P138)
【「カツアゲ」・「便所掃除」の問題】
銃で脅された人物が、自分の手でポケットからお金を取り出して、それを相手に渡すという「カツアゲ」の例について、アレントは、アリストテレスの定義によればカツアゲされてお金を差し出すことは自発的な行為になるとしています。
しかし、國分氏は、この「カツアゲ」の事例について、「ここでは、するとさせるの境目が問われているのであり、この事例は中動態と無関係ではありえない」と主張しています。
そして、嫌がる相手に便所掃除させる事例について、「権力」と「暴力」の視点を援用して以下のように説明しています。
「権力を行使するものは権力によって相手に行為をさせるのだから、行為のプロセスの外にいる。これは中動性に対立する意味での能動性に該当する。権力によって行為させられる側は、行為のプロセスの内にいるのだから中動的である。」(P151)
「武器で脅されて便所掃除されられている者は、それを進んですると同時にイヤイヤさせられてもいる。すなわち、単に行為のプロセスの中にいる。能動性と中動性の対立で説明すれば、これは簡単に説明できることである。能動と受動の対立、『する』と『される』の対立でこれを説明しようとするからうまくいかないのだ。」
「こう考えると、暴力と権力をきちんと区別せず、両者を曖昧に重ねてしまう考え方というのは、能動性と中動性の対立で理解すべきであるものを、無理やりに、能動性と受動性、『する』と『される』の対立に押し込む考え方だと言うことができるだろう。」(P151)
【非自発的同意の概念】
ここで、國分氏は、アレントの説を批判して、「非自発的同意の概念」の必要性を主張しています。
「アレントは武器のような道具を用いなければ得られない同意は同意ではないと考えている。それは強制された同意であって、自発的な同意ではない、と。これはつまりアレントが、強制か同意かという視点で行為を捉えていることを意味する。だからこそアレントによれば『一致して行為すること』と見なされるべき行為は、自発的な同意に基づく場合に限られるのである。
しかし実際の行為は強制か自発かでは割り切れるものではない。」(P156)
「強制はないが自発的でもなく、自発的ではないが同意している、そうした事態は十分に考えられる。というか、そうした事態は日常にあふれている。それが見えなくなっているのは、強制か自発かという対立で、すなわち、能動か受動かという対立で物事を眺めているからである。そして、能動と中動の対立を用いれば、そうした事態は実にたやすく記述できるのだ。」(P158)
【「仕方なく」を排除した先】
以下においては、國分氏は、「非自発的同意の概念」を排除することによる問題性を指摘しています。
「非自発的同意を行為の類型から排除することは、単に行為の記述として不十分なだけではない。それは看過できない重大な帰結を招き寄せる。」(P158)
「非自発的同意を行為の一類型として認めないならば、ある同意に関して『同意したのだから自発的であったのだ』と見なされてしまう可能性が出てくる。道具等々を用いた強い強制力が働いていなくても、人は、何らかの理由から、疑問を感じているのに同意してしまう場合がある。つまり、暴力によって『あらゆる可能性を閉ざ』されているわけではないが、かといって自発的でもない、にもかかわらず同意してしまうことがありうる(ハラスメントにおいてはこうしたケースが問題になる)。」
「 非自発的な同意というカテゴリーがなければ、そうした同意は単なる同意として、すなわち『あなたが進んで結んだ同意』として理解されてしまうだろう。」(P159)
以上を読むと、「非自発的同意の概念」を排除することにより、「自発性や同意の範囲」が「不当に拡大」することが、よく分かります。
それとともに、「責任の範囲」が「不当に拡大」することになるのです。
そして、今まで、「責任の範囲は不当に拡大」されているのです。これは、「意志概念の確立」に伴う異様な皮肉であり、スリラーとも評価できるでしょう。
さらに、國分氏は議論を進めます。
「そもそも自発的な同意とは何なのだろうか?そういうものはありうるのだろうか? 人はどういう場合に、自発的に一致して行為していると言いうるのだろうか?」
「ここでわれわれはアレントの意志の定義を思い起こさざるをえない。過去からの帰結でない、真の始まりである未来を司る器官としての意志とは、まさしく、純粋に自発的な能力のことであろう。人々が自発的に一致して行為するとは、おそらくアレントのなかで、各人が各人の『意志』をもって集団的に行為することを意味していたのだろう。」
「しかし、すでに指摘した通り、そのような意志の存在は哲学的にはとても支持しえない。純粋な始まりなどないし、純粋に自発的な同意もありえない。選択が常に不純であるように、同意も常に不純であろう。そして、そうしたことはわれわれの日常にあふれている(たとえば、誰しもが糊口の資を得るために、仕方なく働いている)。」(P159)
上記の「純粋に自発的な同意もありえない」 ということは、「同意の内容」を検討する際には、常に「中動態的な視点」が必要だということです。
行為の実態を精密に分析するためには、「能動/受動の二分法」以外に、「中動態的な視点」が不可欠だということです。
(3)「第8章・中動態と自由の哲学/スピノザ」の解説
國分氏は、スピノザについて、以下のように評価しています。
中動態という語を用いなかったスピノザではあるが、スピノザ哲学の核心には
中動態が確たる地位を占めている、と。
スピノザは能動でも受動でもない動詞の形態に注目しているようです。
以下は、これらのことを指摘している部分の引用です。
「スピノザがヘブライ語の文法書を書いていて、中動態についてかなり精確に察知していて、スピノザ哲学がそういう中動態の世界を描いていた。」(P231)
「スピノザは、能動態でも受動態でも説明できない観念があることに気づいており、しかも、それが重要な観念であることを 意識している。」(P236)
「スピノザが『中動態』という用語を用いたことはないし、『ヘブライ語文法綱要』でもそのような表現は現れない。だが、その思想のなかにはこの失われた態に通ずる概念が明確に存在している。」(p236)
以上を前提にして、國分氏は、「能動/中動」の視点から、スピノザ哲学を読み直しています。
まず、上記の「スピノザが『中動態』という用語を用いたことはない」の中の「この失われた態(中動態)に通ずる概念」は、「内在原因」と呼ばれていることを紹介しています。
『エチカ』の体系の出発点には神なる実体があるのですが、その神と万物との関係を定義するのが、この概念です。
「神と万物との関係」について、國分氏は、さらに以下のように説明しています。
「スピノザは神なる実体とは、この宇宙あるいは自然そのものに他ならず、そうした実体がさまざまな仕方で変状したものとして万物は存在していると考えた。すなわち、あらゆる物は神の一部であり、また神の内にある、と。したがって、神は万物の原因という意味で作用を及ぼすわけだが、その作用は神の内に留まる。神は作用するが、その作用は神以外の何ものにも届かない。」(p236)
そして、さらに、國分氏は、スピノザ哲学における「様態」についても、以下のように説明しています。
「神こそが唯一存在している『実体』であり、これがさまざまな仕方で『変状』することによって諸々の個物が現れる。実体の変状として存在する個物のことをスピノザは『様態』と呼んだ。」(P239)
以上の各定義の後に、國分氏は、すぐに、以下のような重要な指摘をしています。
「『エチカ』の中の『様態的存在論』は、いわゆる能動/受動の対では説明できないものであって、これは『中動態的存在論』としてしか理解できない」とするアガンベンの説を紹介しているのです。
そして、以下のように述べています。
「スピノザ哲学の核心には、われわれの言語、いわゆる能動と受動に支配されたこの言語ではうまく説明しきれないものがあるのだ。」(P240)
さらに、スピノザの存在論において中動態が確たる地位を占めていることは、神を説明するスピノザの言葉遣いに明白だとして、以下のように記述しています。
「神という実体の変状は、『変状 affectio 』という名詞だけでなく、『 afficitur 変状する』という動詞によっても説明される。 これは、『働きかける』『ある状態におく』『刺激する』『影響を及ぼす』などを意味する afficio という動詞が受動態に活用したものである。」(P241)
「afficitur の指し示す事態も同様である。この表現は神が一つの過程のなかにいることを示している。」(P242)
以上のことを述べた上で、以下のように結論付けています。
「スピノザが構想する世界は中動態だけがある世界である。内在原因とはつまり中動態の世界を説明する概念に他ならない。」(P243)
結論として、國分氏は、スピノザの言う能動と受動を考えると、「質」の問題として考えることができると、以下のように述べています。
「われわれの変状がわれわれの本質によって説明できるとき、すなわち、われわれの変状がわれわれの本質を十分に表現しているとき、われわれは能動である。逆に、その個体の本質が外部からの刺激によって圧倒されてしまっている場合には、そこに起こる変状は個体の本質をほとんど表現しておらず、外部から刺激を与えたものの本質を多く表現していることになるだろう。その場合にはその個体は受動である。」(P256)
「一般に能動と受動は行為の方向として考えられている。行為の矢印が自分から発していれば能動であり、行為の矢印が自分に 向いていれば受動だというのがその一般的なイメージであろう。それに対しスピノザは、能動と受動を、方向ではなく、質の差として考えた。」 (P257)
【これで「カツアゲ」が説明できる!】
國分氏は、スピノザの説は「カツアゲ」の説明に役立つと、以下のように評価しています。
「これはきわめて説得力のある考え方と思われる。というのもわれわれは、行為していることが必ずしも能動であることを意味しないという事実をよく知っているからである。」(P257)
カツアゲを、私達は能動とは言いません。
しかし、「一般的な能動と受動の区別では、困っている人に義の心からお金を渡す行為と、脅されてお金を渡す行為をうまく区別できない」と國分氏は主張しています。なぜならば行為の方向はどちらも同じだからです。
これに対して、スピノザのように、「能動と受動を、方向ではなく、質の差として考える」と、この事態を明確に説明できるのです。
このことを、國分氏は以下のように述べています。
「困っている人に義の心からお金を渡す行為は、その人の本質が原因となって起こっている行為なので限りなく能動に近い行為と言いうるだろう。」(P257)
【能動と受動の度合い/純粋な能動にはなりえない】
國分氏は「スピノザ倫理学の一つの注意点」として、以下のことを指摘しています。
「われわれはどれだけ能動に見えようとも、完全な能動、純粋無垢な能動ではありえない。外部の原因を完全に排することは様態には叶わない願いだからである。完全に能動たりうるのは、自らの外部をもたない神だけである。」
「だが、自らの本質が原因となる部分をより多くしていくことはできる。能動と受動はしたがって、二者択一としてではなくて、度合いをもつものとして考えられねばならない。(→ここにも、「中動態の視点」が入っているようです) われわれは純粋な能動になることはできないが、受動の部分を減らし、能動の部分を増やすことはできる。」(P258)
以上は、「中動態の視点」から考えた、明快な論考になっています。中動態的思考には、的確な柔軟性、即応性があるということです。
【自由について】
以下では、國分氏は、スピノザ哲学の再評価を試みています。この論考には、説得力があると思います。ということは、入試題材として魅了的ということです。熟読してください。
「スピノザは自由意志を否定し、人がそれを感じるのは自らを行為へともたらした原因の認識を欠いているからだと説いた。そのためにスピノザはしばしば自由を否定する哲学者だと思われている。しかし実際は違う。」(P261)
「スピノザによれば、自由は必然性と対立しない。むしろ、自らを貫く必然的な法則に基いて、その本質を十分に表現しつつ行為するとき、われわれは自由であるのだ。スピノザは、いかなる受動の状態にあろうとも、それを明晰に認識さえできれば、その状態を脱することができると述べた。」(P262)
【自由は認識によって、もたらされる】
結論として、國分氏は、自由について、以下のように述べています。
「自由を追求することは自由意志を認めることではない。中動態を論ずるなかで、われわれは何度も、自由意志あるいは意志の存在について否定的な見解を述べてきた。もしかしたら、その論述は読者に『「自由」』に対する否定的な見解を抱かせたかもしれない。」
「だが自由意志や意志を否定することは自由を追い求めることとまったく矛盾しない。それどころか、自由がスピノザの言うように認識によってもたらされるのであれば、自由意志を信仰することこそ、われわれが自由になる道をふさいでしまうとすら言わねばならない。その信仰はありもしない純粋な始まりを信じることを強い、われわれが物事をありのままに認識することを妨げるからである。
その意味で、われわれが、そして世界が、中動態のもとに動いている事実を認識することこそ、われわれが自由になるための道なのである。中動態の哲学は自由を志向するのだ。」(P263)
最後の「われわれが、そして世界が、中動態のもとに動いている事実を認識することこそ、われわれが自由になるための道なのである。中動態の哲学は自由を志向するのだ」の部分は、確かに、私達の自己認識や他者理解の大きな助けになるでしょう。
「能動/受動の二分法」の不当な拘束からの解放は、私達を、より自由な精神生活へと導くのでしょう。
「真の自由とは何か?」
私達は、本書をきっかけに、再考するべきでしょう。
(4)國分功一郎氏の紹介・著書
國分功一郎(こくぶん・こういちろう)
1974年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。高崎経済大学経済学部准教授。専攻は哲学。
【著書】
『スピノザの方法』(みすず書房)、
『暇と退屈の倫理学』(朝日出版社。のち増補新版、太田出版。第2回紀伊國屋じんぶん大賞受賞作)、
『哲学の自然』(中沢新一との共著、太田出版)、
『ドゥルーズの哲学原理』(岩波書店)、
『来るべき民主主義──小平市都道328号線と近代政治哲学の諸問題』(幻冬舎新書)、
『社会の抜け道』(古市憲寿との共著、小学館)、
『哲学の先生と人生の話をしよう』(朝日新聞出版)、
『統治新論──民主主義のマネジメント』(大竹弘二との共著、太田出版)、
『近代政治哲学――自然・主権・行政』(筑摩書房・ちくま新書)、
『民主主義を直感するために』(晶文社)、
『中動態の世界――意志と責任の考古学』(医学書院。第16回小林秀雄賞受賞作)など。
(5)当ブログにおける「哲学」関連記事の紹介
哲学は国語(現代文)・小論文における入試頻出分野です。ぜひ、参考にしてください。
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今回の記事はこれで終わりです。
次回の記事は約1週間後に発表の予定です。
ご期待ください。
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