『中動態の世界』國分功一郎/哲学/現代文・小論文予想出典(前編)
(1)なぜ、この記事を書くのか?
國分功一郎氏は、最近の入試頻出著者です。國分氏の論考は、最近、慶応大学(商学部)、中央大学、同志社大学、関西大学、獨協大学などの国語(現代文)・小論文で出題されています。
従って、国語(現代文)・小論文対策として、國分功一郎の氏の論考・著書を読むことを、おすすめします。
最近、当ブログでは、「予想問題『暇と退屈の倫理学』國分功一郎/消費社会・真の豊かさ」を発表しましたが、國分氏が今年に刊行した『中動態の世界』が、また素晴らしい名著です。
従って今回は、「予想出典」として本書の紹介記事を発表します。
『中動態の世界』は、最近のベストセラーになっています。
本書は、ミステリーを越えた、皮肉的傑作スリラー風の、本格的な哲学書です。
近代的常識や「べき論」の牢獄からの穏当な脱走を提案する、現代人救済のための哲学書です。
丁寧に、分かりやすく記述されているので、難関大学を目指す受験生、高校生であれば、充分に楽しめることでしょう。高校生、受験生は、最低1冊は、國分功一郎氏の著書を読んでおくべきでしょう。
バッハを聴いた後のような、爽やかな読後感に包まれる稀有な書です。すでに、古典の風格があります。私は世界レベルの書だと思っています。ぜひ、購入して、座右の書にしてください。
入試のレベルで見ると、入試出典として採用されやすい論考には、一定のポイントがあります。未知のユニーク視点、日本語として美しい文、明快な論理構造などです。
本書は、これらのポイントを充分に満たしています。最近でも、2016東大・一橋大現代文で本文的中、2017東大・大阪大学現代文、2017センター試験現代文で論点的中の実績のある私としては、本書は「入試題材」の宝庫と考えています。(→なお、各「的中報告記事」については、この記事の「(4)当ブログにおける「哲学」関連記事の紹介」、最後の部分にリンク画像を貼っておきますので、ぜひ、ご覧ください。)
本書が、来年度以降の国語(現代文)・小論文問題として出題される可能性は、かなり高いと思われます。そこで、国語(現代文)・小論文対策として、今回は『中動態の世界』について予想出典(予想問題)記事を書くことにしました。
『中動態の世界』は密度の濃い論考であり、「入試題材の宝庫」なので、今回の予想出典記事は、前編・後編の2回に分けて発表します。
今回の記事の項目は、以下のようになっています。
(2)『中動態の世界』の解説
①『中動態の世界』という本のもくろみ・執筆のきっかけ
② 能動と受動をめぐる諸問題
③ 中動態という古名
④ 中動態の意味論
⑤ 言語の歴史
⑥ 尋問する言語
⑦ 非自発的同意/カツアゲの問題
⑧ 中動態と自由の哲学/中動態の世界に生きる
(3)國分功一郎氏の紹介・著書・訳書
(4)当ブログにおける「哲学」関連記事の紹介
(2)『中動態の世界』の解説
今回の記事では、著者である國分功一郎氏のインタビューをまじえて、『中動態の世界』を解説していきます。
(引用部分は概要です)
(①~⑨は当ブログによる項目番号です)
(赤字は当ブログによる「強調」です)
(青字は当ブログによる「注」です)
①『中動態の世界』という本のもくろみ・執筆のきっかけ
まず、國分氏のインタビューでの発言を引用します。
「僕が中動態を知ったのは大学生の頃です。聞いた瞬間に衝撃が走るような感じがあったことを覚えています。能動と受動で人間の行為を分類してしまう思考に対する疑問、その分類に付随する形で存在している意志や自発性、責任といった概念に対する疑問、自分の中にボンヤリと存在していたそれらの疑問が心の中ではっきり浮かび上がってきたような感覚だったのだろうと思います。
そうした疑問は現代哲学の中では、むしろ、ありふれたものです。また、それらの疑問を中動態に結びつける学者も国内外を問わず結構いました。でも、彼らの書き物を読んでも全く納得できませんでした。それらはいずれも中動態について『能動態でも受動態でもない』ということ以上のことを何も言っていなかったからです。
この本は今までいろいろな方が考えてこられたことの総合に過ぎません。これは謙遜ではなくて、僕は本当にそういう気持ちで取り組んだんです。『 能動態でも受動態でもない』という説明では不十分だということも言語学者バンヴェニストを読めば分かることです。しかし、バンヴェニストの議論をきちんと押さえた上で、先ほど述べた意志や責任の問題にまで言及している本があるかというと、全くない。だから、各トピックについてのこれまでの研究の最良の部分を総合したというわけです。
以上が『中動態の世界』(医学書院)という本のもくろみであるわけです。」
(國分氏の発言・特集「中動態の世界」『週刊読書人ウェブ』2017・6・29)
國分氏は謙虚な発言をしていますが、私は、本書は野心作であり、労作であり、名著だと思います。
上記の発言を読んだだけで、文法用語である中動態が、現代的な困難な哲学的課題をクリアするツールになりうる、ということが分かります。ここから、私たちは、ワクワクすることになります。
次は、本書を執筆する「きっかけ」、本書と『暇と退屈の倫理学』との関連、についてです。
「『暇と退屈の倫理学』で人間には“ぼんやりとした退屈に浸っている”状態が大切だ、と主張した点が、アルコールや薬物などへの依存症の回復に有効なアプローチたり得る、と専門家や当事者から指摘され続け、とうとう本格的に『中動態』研究に乗り出す。」(國分氏の発言・『文春オンライン』2017・5・14)
② 能動と受動をめぐる諸問題
以下の國分氏の発言を読むと、私たちの常識である「能動/受動の対立」が、実は、曖昧で危ういものであることが、分かります。「常識」というものの、一面のバカバカしさが分かります
「『謝る』や『仲直りする』は、まさしく、『する』と『される』の分類では説明できないものです。
『私が謝罪する』という文は能動態です。しかし、実際には私が能動的に謝罪するのではない。私がどれだけ自分の『能動性』を発揮しようとも、謝罪することはできません。なぜならば、自分の心の中に『私が悪かった』という気持ちが現れることが重要だからです。
また『謝る』が能動として説明できないからといって、これを受動で説明することもできません。できないというか、それを受動で説明しようものなら、大変なことになってしまうでしょう(もちろん、謝罪会見では、多くの人が『私は謝罪させられている』と思っているでしょうが)。
要するに、『する』と『される』、能動と受動の対立では、『謝る』という行為をうまく説明できないのです。『中動態の世界』では他にもいくつかの行為を分析していますが、これは『謝る』のような心に深く結びついた行為にのみ当てはまることではありません。」(國分氏の発言 | 現代ビジネス | 講談社)
この発言について、國分氏は、本書の中で以下のように記述しています。来年度以降の入試に、そのまま出題されそうなので、精読を、おすすめします。
「私が『自分の過ちを反省して、相手に謝るぞ』と意志しただけではダメである。
心の中に『私が悪かった』という気持ちが現れてこなければ、他者の要求に応えることはできない。そして、そうした気持ちが現れるためには、心のなかで諸々の想念をめぐる実にさまざまな条件が満たされねばならないだろう。
謝罪する気持ちが相手の心のなかに現れていなければ、それを謝罪として受け入れることはできない。そうした気持ちの現れを感じたとき、私は自分のなかに『許そう』という気持ちの現れを感じる。私が謝るのではない。私のなかに、私の心のなかに、謝る気持ちが現れることが本質的なのである。」(P19)
「謝ること」の本質について、鋭い考察が見られる論考です。説得力のある、分かりやすい記述になっています。
次は、常識的には、能動態でしかない「歩く」という動詞についての分析です。読みごたえが、あります。
「 たとえば『歩く』という基本的行為ですら、ちょっと分析してみると、『私の身体において歩くという行為が実現されている』と説明しなければならないものであることが分かります。歩くという行為が実現するためには、実に多くの条件が満たされねばならず、したがって、『歩こう』という意志が歩くという行為を引き起こしているとはとても言えないからです。」(國分氏の発言 | 現代ビジネス | 講談社)
以上の発言は、「能動/受動の二分法」についての私たちの常識を再考する、重要な内容を含んでいます。同内容のことについて、國分氏は、本書の中で以下のように記述しています。
「 私が歩く。そのとき、私は『歩こう』という意志をもって、この歩行なる行為を自分で遂行しているように思える。しかし、事はそう単純ではない。
体には200以上の骨、100以上の関節、400の骨格筋がある。それらが繊細な連係プレーを行うことによって歩くことができる。私はそうした複雑な人体の機構を、自分で動かそうと思って動かしているわけではない。
実際、あまりに複雑な人体の機構を、意識という一つの司令塔からコントロールすることは不可能であり、身体の各部は意識からの指令を待たず、各部で自動的に連絡をとりあって複雑な連携をこなしていることが知られている。」(P 17 )
この興味深い論点については、國分氏は、さらに続けて、以下のように述べています。
「 さらに、歩こうという意志が行為の最初にあるかどうかも疑わしい。
脳内では、意志という主観的な経験に先立ち、無意識のうちに運動プログラムが進行している。しかもそれだけではない。意志の現れが感じられた後、脳内ではこの運動プログラムに従うとしたら身体や世界はどう動くのかが『内部モデル』に基づいてシミュレートされるのだが、その結果としてわれわれは、実際にはまだ身体は動いていないにもかかわらず、意志に沿って自分の身体が動いたかのような感覚を得る。どのようにして起こっているのかわからないことに対して、自分の意志によってのみ、なしているという表現は妥当ではない。それよりは『(さまざまな必要条件が満たされつつ)私のもとで歩行が実現されている』と表現されるべきである。」(P20)
以上の論考は、かなり緻密な論理構成になっています。このような緻密性は、難関大学の入試問題作成者が好むポイントです。
この部分は出題の可能性が高いので、熟読しておくべきでしょう。
以下の部分では、國分氏は、再び、「能動/受動の二分法」の曖昧性を主張しています。
「『私は歩く』という表現は能動態に属する。しかし、今、見たように能動性のカテゴリーに収まりきらない能動態でないのであれば対する受動態なのか。『私が歩く』を『私は歩かされている』と言い換えられるとは思えない。」(P 21)
以下では、「能動/受動の二分法」と「意志・責任」の「密接な関係」についての記述が展開されます。本書の最重要部分です。大げさに言えば、この世の中の隠されたスリラーについて、冷静に記述されています。
「 『能動と受動の区別』は、すべての行為を『する』か『される』かに分配することを求める。しかし、この区別は、以上のことを考えてみると、非常に不便で不正確なものだ。だが、それにもかかわらず、われわれはこの区別を使っている。そしてそれを使わざるをえない。どうしてなのだろうか。」(P21)
「 能動/受動の区別の曖昧さとは、要するに、意志の概念の曖昧さなのではないか? 一方、能動や意志という概念は実に都合よく使われるものである。」(P24~26)
上記の「能動や意志という概念は実に都合よく使われるものである」については、以下のように説明しています。
「 能動における『する』という行為の出発点は『私』にあり、また『私』こそがその原動力であることを強調する。だから、そこには『意志』の存在が喚起されてくる。そして、自分の『意志』で自由に選択した行為であるからには、そこには『責任』が伴ってくることにもなる。」(P22)
「 責任を負うためには人は能動的でなければならない。人は能動的であったから責任を負わされるというよりも、責任あるものと見なしてよいと判断されたときに、能動的であったと解釈されるということである。意志を有していたから責任を負わされるのではない。責任を負わせてよいと判断された瞬間に、意志の概念が突如出現する。
『夜更かしのせいで授業中に居眠りをしているのだから、居眠りの責任を負わせてもよい』と判断された瞬間に、その人物は、夜更かしを自らの意志で能動的にしたことにされる。
つまり、責任の概念は、自らの根拠として行為者の意志や能動性を引き合いに出すけれども、実はそれらとは何か別の判断に依拠しているということである。」(P25・26)
「能動態」→「意志」→「主体性」→「責任」の流れは、極めて論理的に見えます。
しかし、立ち止まって考えてみれば、詭弁のような怪しさに満ちた、胡散臭い言葉の構築に過ぎないのではないでしょうか。
この点について、國分氏は、以下のように、説明しています。短い文章ですが、衝撃的な内容を含んでいるようです。
「 意志の概念が引き合いに出されたり、行為が能動と受動に振り分けられることには、一定の社会的必要性があることを意味している。」(P29)
上記の文章は、読んでいて、ゾッとする内容です。「能動性と責任の密接な関係」、「主体性のリスク」が、よく分かります。以下の文章と合わせて読むことで、より理解が進むでしょう。
「 能動と受動の区別は、責任を問うために社会がある必要とするものだった。だが、社会的必要性はこの区別を単に想定し、要請しているのであって、それを効果として発生させているのではない。」
「 この区別はふだん、われわれの思考の中でまるで必然的な区別のあるかのように作用している。従って、この区別の外部を思い描くことは容易ではない。われわれは能動でも受動でもない状態をそう簡単には想像できない。」(P 32・33)
まさに、スリラーです。日本の学校教育の強固さ、徹底性が、よく分かります。
言語や文法が、権力による制度的支配の、見えない、隠された道具のように見えます。
言語の法則に過ぎないと思われている文法が、責任の基礎にあること。
このことは、驚きでしか、ありません。
以下の文章は、この「驚き」を、私たちの脳に定着させる働きがあるようです。
「 言語が思考を規定するのではない。言語は思考の可能性を規定する。つまり、人が考えうることは言語に影響されるということだ。これをやや哲学っぽく定式化するならば、言語は思考の可能性の条件であると言えよう。」(p111)
私たちは自由に思考するように思っていますが、実は、文法に支配されているということです。思考は言語の組み合わせにより構築されるのですから、このことは当然のことなのです。日々、意識していないだけです。そして、自由だと思いこんでいるだけです。
さて、以下の文章から、さらに、「新たな驚き」の事実が明らかになります。丁寧に読んでください。「哲学的な覚醒のスタート」です。
「 フランスの言語学者バンヴェニストがはっきりと述べていることだが、能動と受動の対立というのは、一度これを知ってしまうとそれ以外のものが認められなくなるほどに強力だけれども、少しも普遍的なものではない。バンヴェニストは『多くの言語が能動態と受動態の対立を知らないし、そもそも、インド=ヨーロッパ語族の諸言語の歴史においても、この対立は比較的最近現れたものなのだ』と述べている。」(P34)
③ 中動態という古名
これからは、「中動態」の説明になります。
本書から引用します。
「 能動態と受動態の区別が新しいものであるとはどういうことかと言うと、かつて、能動態でも受動態でもない『中動態 』なる態が存在していて、これが能動態と対立していたというのである。すなわち、もともと存在していたのは、能動態と受動態の区別ではなく、能動態と中動態の区別だった。」(P34)
「 受動態はずいぶんと後になってから、中動態の派生形として発展してきたものであることが比較言語学によって、すでに明らかになっている。」(P41)
またも、ここで、衝撃の事実が告げられています。
「中動態」とは、能動態と受動態の「中間の態」という意味です。
日常、私たちは「能動/受動」で文章を把握しています。この対比は、主語(主体)の存在を前提としています。そして、そこから「意志」や「責任」の問題が発生しています。
一方で、中動態という態は、能動と受動の間にあると錯覚しがちですが、実は、そうではない可能性が、本書で指摘されています。
つまり、「責任の明確化」という観点から中動態は徐々に排除され、「能動態と受動態との対立」へと変化して行った可能性があるのです。
本書、『中動態の世界』は、前記の「①『中動態の世界』という本のもくろみ・執筆のきっかけ」の國分氏の発言から分かりますが、その「中動態の実体」を、実証的に検証していこうとする壮大な意図を有しています。
すなわち、本書によると、「能動態と受動態」のほかに中動態があったのではないのです。
「能動態と中動態の対比」がもともと存在していたが、その後、受動態が中動態から発展し、中動態に、とって変わったという歴史的経緯があったのです。そして、中動態は、動作の結果が主体のもとにとどまるような行為などに部分的に用いられたらしいのです。
このことの本質は、「能動/受動の二分法」が常識化している現代人には、理解不能に近いでしょう。
「同じ『能動態』であっても、対比の相手が受動態の時と中動態の時では意味も変わる。つまり、文法が違うということは、世界観そのものが違うということなのである」と國分氏も、本書で述べています。
「中動態の実相」については、以下で説明していきます。
④ 中動態の意味論
本書によると、
「主体から発して主体の外で完遂する過程」として、「能動態しかない動詞」として挙げられているのは、「曲げる」「食べる」「与える」などです。
一方で、「主語がその動作主である過程の内部にいる」として、「中動態しかない動詞」として挙げられているのは、「生まれる」「死ぬ」「寝ている」などです。(P86)
この点については、國分氏の発言を参照すると、より分かりやすくなるでしょう。以下に引用します。
「たとえば『曲げる』というのはこの対立(→「能動/中動」の対立)言うと、能動に対応します。『曲げる』という過程は主語の外で完結するからです。それに対し、たとえば『反省する』というのは主語の内で起こる過程です。『惚れる』とかもそうです。中動態は僕らが知っている能動/受動の対立ではうまく説明できない事態をうまく説明してくれます。『惚れる』というのは能動でも受動でもない。単に誰かを好きになってしまう過程あるいは出来事が主語の中で起こっているだけです。中動態はこういう事態を実にうまく説明してくれる。」(特集「中動態の世界」 第二部 「失われた「態」を求めて」國分功一郎講演『週刊読書人ウェブ』2017・6・29)
「主語が、過程の内にあるか外にあるか」がポイントになっています。(P88)
本書を元に解説します。
中動態が指し示していたのは、「主語が過程の内部にある」状態です。中動態のみをとっていた動詞、たとえば「できあがる」「惚れ込む」「希望する」などは、どれも、生成の過程、感情に突き動かされている過程、未来に期待している過程を表しています。
逆に能動態のみをとっていた動詞、たとえば「行く」や「食べる」は、「行ってしまう」や「平らげる」といったニュアンスを持ち、主語が完結した過程の外部にいる状態を表していました。(P88・89 )
「中動/能動」という対で語られる時、問題になるのは「過程の内か外か」でした。
ここで、古代ギリシアに「意志」という概念はなかった、という衝撃の事実が、明らかにされてます。
中動態の動詞「生まれる、思われる、現れる」は、自由な意志による主体的な行為ではない、ということです。そして、「能動/受動の対」で人間の行動を判断しようとする思考が、中動態的思考を抑圧した可能性が明らかにされます。
「中動態と対立するところの能動態においては、ーーこう言ってよければーー主体は蔑ろにされている。『能動性』とは単に過程の出発点になるということであって、われわれがたとえば『主体性』といった言葉で想像するところの意味からは著しく乖離している」 (P91)
能動態と中動態の対立が、能動態と受動態の対立に転じたということは、意志の有無が問題にされるようになったことを意味します。つまり、「能動/中動」が対立する世界には、「意志」は存在しなかった。つまり、古代ギリシアには、アリストテレスの哲学には、「意志」の概念はなかったのです。
重要なことなので、本書から引用します。
「 アレントによれば、ギリシア人たちは意志という考え方を知らない。彼らは意志に相当する言葉すらもたなかった。ギリシアの大哲学者アリストテレスの哲学には、意志の概念が欠けている。」(P100)
上記の赤字部分は、本当に衝撃的な内容です。
すぐには、信じられないような内容です。しかし、事実なのです。
何と言うことでしょう。主体性についての近代的常識は、ここで、大きく揺らぐことになります。そして、私たちは、「主体性」とは何かのための罠ではないか、と疑問視し始めるのです。
⑤ 言語の歴史
なぜ、言語世界から中動態は消え、「能動/受動の対立」が支配的になったのか。
國分氏は、「『能動/受動の対立』が支配的になったことは、『出来事を描写する言語』から『行為者を確定する言語へ』という、『言語の移行の歴史の一側面』なのではないか」と述べています。(P175・176)
このことに関連して、以下のことも述べています。
「 1万年以上にも及ぶ言語の歴史を俯瞰すると、文法体系上、先にできたのは名詞で、動詞はそのあとに発達した。さらに、人称は非人称(三人称)が先にでき、一人称や二人称はそのあとに発達した。
動詞とは、行為を行為者に帰属させることを求める言語であり、行為の帰属先に要求されるのが『意志』である。」(P175)
「 おそらく、いまに至るまでわれわれを支配している思考、ギリシアに始まった西洋の哲学によってある種の仕方で規定されてきた この思考は、中動態の抑圧のもとに成立している。」(P120)
⑥ 尋問する言語
本書の中で、著者は、「能動/受動の対立」を際立たせる現在の言語を「尋問する言語」と呼んでいます。
「その言語は行為者に尋問することをやめない。常に行為の帰属先を求め、能動か受動のどちらかを選ぶよう強制する。」(P195)
まさに、「オール・オア・ナシング」の世界です。
警察による取り調べをイメージします。「能動/受動の二分法」自体が警察的役割を担っているようです。私たちが日々、不可思議な疲労感を感じる原因の中には、このことがあるのかも知れません。
⑦ 非自発的同意/カツアゲの問題
以下では、「非自発的同意」の問題を解説します。
國分の発言を引用します。
「力に怯え心ならずも従うーーカツアゲや性暴力・各種ハラスメントで顕著ですが、非自発的同意という事態が日常にはゴロゴロある。能動性、受動性という概念にうまく当てはまらない状況です。」(國分氏の発言・『文春オンライン』2017・5・14)
本書では、「銃で脅迫されて、ポケットから財布を取り出す行為は能動か受動か?」(P142~158)ということが論点化されています。
ハンナ・アレントによると「アリストテレスの哲学なら能動になる」ということです。「私が暴力によって脅されてはいるものの、物理的には強制されずに行った行為」だからです。
確かに、「財布を出さない」ということを能動的に選択できる余地が、論理的には残されてはいます。しかし、現実的に、その余地はあるのでしょうか?
ここで、「私が暴力によって脅されてはいるものの、物理的には強制されずに行った行為」の中に、もう一つ概念が必要だったことがわかります。それが「同意」です。この場合の行為には、自発性は存在しないが「同意」は存在しているのです。(P142~158)
「強制ではないが自発的でもなく、自発的ではないが同意はしている。そうした事態は日常的に多くみられる」のです。(P158)
「自分はカツが食べたいが、仲間が蕎麦にしようというから仕方なく蕎麦屋に行く」という場合などが、これに当たります。
「強制か自発か、つまり能動か受動か、ではなく能動と中動の対立する事態を枠組みとして設定すれば、事態が分かりよくなる。」(P 158)と、國分氏は述べています。
つまり、すべての行為を「能動/受動の区別」に無理に当てはめる必要はない、それでは、実態を把握できないと、主張しているのです。妥当な見解だと思います。
「能動/受動という対立図式」は、ある行為を誰に帰属させるべきかという問い、すなわち意志の問題を前景化します。
では、中動態の概念を再構成することで何がわかるのでしょうか。
今でも、私たちは、「能動/受動の二分法」に対応しない「中動態の世界」に生きているのです。中動態の概念を再構成することにより、存在しているけれども、存在していないことになっている世界が、浮かび上がるのです。明解化されるのです。
⑧中動態と自由の哲学/中動態の世界に生きる
本書の後半部では、國分氏は、アレント、ハイデッガー、ドゥルーズ、デリダ、スピノザらが注目した「中動態」的問題の哲学的意義を、みずからが明確化した「中動態的発想」を基礎にして、果敢に検証しています。
そして、「内面的自由」へと向かうコースを提示していきます。
『中動態の世界』は、私たちを「近代の主体性」の「幻想と呪縛」から覚醒させることを意図して書かれた書です。現代社会の中で硬直した私たちの思考を、心地よく「尋問する言語」より解放してくれます。
この「尋問する言語」は、常に、自分自身をも尋問していることを意識してください。自分を拘束している「他者」は、自分自身なのです。
國分氏は本書の冒頭でアルコールや薬物の依存症における「意志」概念の問題性を対話の形で記述しています。中動態の再認識や再評価は、それらの依存症の治癒にも寄与できる可能性があるようです。
さらに、中動態的発想は、普遍的な価値があると思います。中動態の世界に生きる方が、より自然に、人間らしく生きられるような気がします。皮肉なことに、「主体性」に不必要にこだわることが、かえって、人間を息苦しくさせるのでは、ないでしょうか。
國分氏は、以下のように述べています。
「 責任の観念と結びついている以上、能動と受動の区別を易々と捨て去ることはできません。しかし、この区別が決して普遍的ではないこと、それどころか、かなり不便なものであることもまた事実です。」(國分氏の発言 | 現代ビジネス | 講談社)
「 過去や現実の制約から完全に解き放たれた絶対的自由など存在しない。逃れようのない状況に自分らしく対処していくこと、それが中動態的に生きることであり、スピノザの言う“自由”に近付くこと。僕はこの本で自由という言葉を強調したかった」(國分氏の発言・『文春オンライン』2017・5・14)
本書の最後で、國分氏は以下のように述べています。
私たちは、この言葉を何度も噛みしめるべきでしょう。
「 たしかにわれわれは中動態の世界を生きているのだから、少しずつその世界を知ることはできる。そうして、少しずつだが自由に近づいていくことができる。これが中動態の世界を知ることで得られるわずかな希望である。」(P294)
「中動態」を意識することで、近代になってからこれまでの、「意志」・「主体性」・「自己」の過大評価を見直すことができます。肩から力を抜いた生き方を、自信を持って送ることができます。伝統的な生き方を知ることができたからです。
この点について、より良く考えたい人には、本書と『暇と退屈の倫理学』を合わせて読むことを、おすすめします。
ここで、字数がリミットになりました。次回は、本書『中動態の世界』の後半部を中心に、現代文・小論文入試で出題されそうな部分を解説する予定です。
(3)國分功一郎氏の紹介・著書・訳書
國分功一郎(こくぶん・こういちろう)
1974年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。高崎経済大学経済学部准教授。専攻は哲学。
【著書】
『スピノザの方法』(みすず書房)、
『暇と退屈の倫理学』(朝日出版社。のち増補新版、太田出版。第2回紀伊國屋じんぶん大賞受賞作)、
『哲学の自然』(中沢新一との共著、太田出版)、
『ドゥルーズの哲学原理』(岩波書店)、
『来るべき民主主義──小平市都道328号線と近代政治哲学の諸問題』(幻冬舎新書)、
『社会の抜け道』(古市憲寿との共著、小学館)、
『哲学の先生と人生の話をしよう』(朝日新聞出版)、
『統治新論──民主主義のマネジメント』(大竹弘二との共著、太田出版)、
『近代政治哲学――自然・主権・行政』(筑摩書房・ちくま新書)、
『民主主義を直感するために』(晶文社)、
『中動態の世界――意志と責任の考古学』(医学書院。第16回小林秀雄賞受賞作)など。
【訳書】
デリダ『マルクスと息子たち』(岩波書店)、
コールブルック『ジル・ドゥルーズ』(青土社)、
ドゥルーズ『カントの批判哲学』(ちくま学芸文庫)、
オンフレ『ニーチェ』(ちくま学芸文庫)など。
【共訳】
デリダ『そのたびごとにただ一つ、世界の終焉』(岩波書店)、
フーコー『フーコー・コレクション4』(ちくま学芸文庫)、
ガタリ『アンチ・オイディプス草稿』(みすず書房)などがある。
(4)当ブログにおける「哲学」関連記事の紹介
入試国語(現代文)・小論文においては、哲学の一定レベルの理解が不可欠です。積極的に取り組むようにしてください。
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今回の記事は、これで終わりです。
次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。
ご期待ください。
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