現代文最新傾向LABO 斎藤隆

入試現代文の最新傾向を分析し、次年度の傾向を予測する大胆企画

予想問題『素手のふるまい アートがさぐる《未知の社会性》』鷲田清一

(1)はじめに/なぜ、この論考に注目したのか?

 

① 当ブログは以下の基本的方針で作成しています。

 

 この基本的方針は、現在も変わっていません。

 以下に、当ブログの第一回記事の「開設の言葉」を引用します。

 

gensairyu.hatenablog.com

 

 …………………………

 

(引用開始) 

 

(青字は当ブログによる「注」です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(以下、同じです)

 

(2)入試現代文(国語)・小論文の最新傾向ー重要な、気付きにくい2本の柱

 今現在の入試現代文(国語)・小論文の最新傾向として、注目するべきポイントとしては、2つの大きな柱があります。

 

【1】1つの柱は、「IT社会の光と影と闇」です。

 この論点・テーマは、3・11東日本大震災の前から登場していたので、割と有名ですが、最近のスマホ(スマートフォン)の爆発的な流行により、新たな論点・テーマが発生しています。

 スマホは、それまでの携帯電話とは、まるで違うものです。それだけに、プラス面、マイナス面も、携帯電話と比較して、拡大化・深刻化するのです。

 私が、「IT社会の光と影と闇」と書き、「光と影」だけにしなかったのは、事態の深刻性を強調するためです。

 

【2】もう1つの柱は、「3・11東日本大震災の各方面に対する影響」です。

 「各方面」は、実に多方面にわたっています。

 入試現代文(国語)・小論文の問題を読んでいると、現代文明論(文明論)、科学批判(近代科学論・現代科学論)以外に、自己論(アイデンティティ論)・環境論・人間関係論・人生論・政治論(民主主義論等)等、「影響」が思いもしない方面にまで及んでいる事に、驚かされます。

 「影響」は、「単なる影響」のレベルでは、ありません。今までないくらいに大きく、底知れぬほど深く、長期的なものと言えます。

 

(引用終了)

…………………………… 

 

(今回の記事の記述)

 2016・2017・2018年度の入試国語(現代文)・小論文に出題された問題を概観しても、上記の傾向に変化はないようです。

 

 私は、以上のように、

「IT社会の光と影と闇」・「3・11東日本大震災の各方面に対する影響」の2つの視点(入試頻出論点・流行論点)を重視して、最近の論考を読んでいます。そして、特に注目するべきものを、「予想出典」・「予想問題」として、週に1回のペースで当ブログで記事を発表しています。

 

 東日本大震災以後は、この大震災に関連するハイレベルで良質な哲学的論考が多く発表されています。

 そこで、今回の記事では、難関大学国語(現代文)・小論文対策として、鷲田清一氏の最近の論考を解説することにします。

 

② 鷲田清一氏は、ほとんどの難関大学の入試現代文(国語)・小論文で一度は出題されている、トップレベルの頻出著者です。

 

 最近では、センター試験、東大、東北大、早大、上智大等で、出題されています。

 

 鷲田氏の入試頻出著書としては、

『モードの迷宮』(ちくま学芸文庫)、

『じぶんーこの不思議な存在』(講談社現代新書)、

『悲鳴をあげる身体』(PHP 新書)、

『「聴く」ことの力ー臨床哲学試論』(ちくま学芸文庫)、

『わかりやすいはわかりにくい? 臨床哲学講座』(ちくま新書)、

『しんがりの思想』(角川新書)、

『語りきれないこと』(角川新書)、

等があります。

 

 最近の難関大学では、

『わかりやすいはわかりにくい? 臨床哲学講座』(ちくま新書)、

『「聴く」ことの力ー臨床哲学講座』(ちくま学芸文庫)、

『語りきれないこと』(角川新書)、

からの出題が目立ちます。

 

  最近、鷲田氏は『素手のふるまい アートがさぐる〈未知の社会性〉』を発表しました。

 「東日本大震災」以後の 「東北復興」・「日本人の意識改革」・「日本人の価値観の転換」は、鷲田氏の最近のメインテーマで、多くの論考を発表しています。

 そして、それらは、入試現代文・小論文に多数出題されています。

 本書は、その集大成とも言うべき、充実した内容になっています。

 

 その内容が難関大学現代文(国語)・小論文の問題としてふさわしいので、現代文対策、小論文対策として、このブログで紹介、解説します。

 なお、今回の記事の項目は以下の通りです。

 

(2)予想問題『素手のふるまい』/2017佐賀大学・前期日程・芸術地域デザイン学部/総合問題

(3)「コミュニティの解体」の意味、由来について

 ① 「市民の『おまかせ』構造」と、「その対策」について

 ② 「シチズン・シップ(市民力)」について

(4)「アートの力」について

(5)「わからないこと」への態度

(6)当ブログの「鷲田清一」関連記事の紹介

(7)当ブログの「東日本大震災」関連記事の紹介

 

素手のふるまい アートがさぐる【未知の社会性】

 

(2)予想問題『素手のふるまい』/2017佐賀大学・前期日程・芸術地域デザイン学部/総合問題

 


次の文章を読み、後の問いに答えよ。

 

 限られた資源と富の、適切な分配と運用を意味する「経済」は、いまや世界市場での熾烈(しれつ)なマネー・ゲームに、それを制御するすべもなく深く組み込まれている。 こういう制御不能なものの上に、わたしたちの日常生活がある。物価や株式の変動も、もろもろの格差や過疎化の進行も、流通する食材の安全性も、雇用環境や就労条件も、これに煽(あお)られ、左右される。限られた資源と富の、適切な分配と運用を意味する「経済」は、いまや殖財や投資を軸に動いており、企業活動はいまや「経世済民」(politicaleconomy)、つまりは「世を治め民を救う」という軌道から逸れている。それはもはや「経済」(経世済民)を担う公器といえる存在ではなくなっている。

 このことと同時に深く潜行するかたちで進んできたのが、私たちのコミュニティの解体である。

 私たちの共同性は、生き存(ながら)える過程をともにすることで成り立つものである。もっといえば、生き存えるために不可欠のことがら、調理、排泄物処理、出産、子育て、治療、看護、介護、看取り、防災などなどを協働しておこなうところで力をつけてきたものである。ところがこれらの《いのちの世話》ともいうべきプロセスを、人びとは行政や企業によるもろもろのサーヴィスとして消費するようになって久しい。地域から共同性が消えてゆくいちばんの要因はここにある。

 流通にあってはスーパーマーケットの大資本が地域の商店を駆逐してゆく。病の治療は医療と保険のシステムが、教育は学校制度が、ほぼ専門的にカヴァーする。このようにわたしたちの暮らしが行き届いたサーヴィス・システムの恩恵をこうむるなかで、「主(あるじ)」たるべき市民が「顧客」という受け身で無力な存在に成り下がってきた。

 そういう「命に近い仕事」を代行するシステムが停止あるいは機能不全に陥ったときに、ほとんど為す術がないのが現代社会の市民である。

 《生存の技法》がわたしたちの手からすっぽ抜けになっている。国家と市場がわたしたちの一人ひとりの「命に近い仕事」をも植民地化してくるただなかで、〈社会的なもの〉の動性をいかに回復してゆくのか

 そのとき、この失われた「命に近い」手仕事のなかにアートをどう組み込んでゆくか。不快なもの、あるいは異物をたえず押し隠してゆく「安楽」という名の感覚麻痺(まひ)が社会を覆うなか、アートはそこにどんな孔(あな)を穿(うが)つのか

 芸術から生活技術まで、スキルから作法まで《生存の技法》という文脈の中で、アートといま呼ばれているものをもう一度かき混ぜるなかで、「検証」という名のアートの自己言及をなすよりも先に、《アルス》(わざ)の始源のかたちまで立ち戻ることが、そのままアートの孕(はら)む〈未知の社会性〉が閃(ひらめ)く瞬間をみることにつながるはずだ。」

(鷲田清ー『素手のふるまいアートがさぐる〈未知の社会性〉』(朝日新聞出版、2016年)

 

(設問)

問① 「コミュニティの解体」の意味、由来を説明しなさい。 
問② 「コミュニティの維持や回復にアートを組み込む」とは、どのようなことか。説明しなさい。


   「コミュニティの維持や回復」・「新たなコミュニティの創造」には「アートの力」が不可欠ではないか?

というのが、鷲田清一氏の主張です。

 以下では、この点について、解説していきます。

 

(3)「コミュニティの解体」の意味、由来について

 

① 「市民の『おまかせ』構造」と、「その対策」について

 この論点について、鷲田氏の他の著書(『しんがりの思想 反リーダーシップ論』)が参考になるので、以下に引用します。

 

gensairyu.hatenablog.com

 

  以下は、上の記事の引用です。

 『しんがりの思想 反リーダーシップ論』(鷲田清一)からの引用です。

 

ーーーーーーーー

 

(引用開始)

 
(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です)

(以下、同じです) 

「  政治や企業活動と地域社会の違いは、専従のリーダーがいないことである。政治のプロフェッショナル、つまりは職業政治家、ならびに専従の経営者にあたるものが存在しない。すでに述べたように、地方議会の議員がそれにあたるはずであったのだが、町内会や婦人会,商店街の振興会や社会福祉協議会などといった、選挙での集票機能をもった既存の団体とのパイプを使うばかりで、都市部であらたに動きだした NPO(→nonprofit organization の略。非営利の民間組織)やボランティアといった新しい市民のネットワークにうまく対応もしくは連携がとれていない大方の地方議員、残念ながら地域社会の十全な力になっているとはとてもいえない。

 地方議員のこの無力は、市民に力がついてきたからではなく、逆に、政治のプロ(であるはずのひとたち)への市民の『おまかせ』構造がますます昂じてきた結果なのである。」

(『しんがりの思想 反リーダーシップ論』鷲田清一)

(引用終了)

 

しんがりの思想 ―反リーダーシップ論― (角川新書)

 

 

② 「シチズン・シップ(市民力)」について

 

 「市民の『おまかせ』構造」と、「その対策」について考察するということは、「シチズン・シップ(市民力)」を考察することです。

 「シチズン・シップ」については、『パラレルな知性』(鷲田清一)の中の、以下の論考が分かりやすいので、熟読してください。

 

「  本来、大学で学ぶということは、全体を見渡し、何が一番大事なのかという『価値の遠近法』を身につけることだったはずではないか。それは平たくいえば、さまざまな事態に直面した際に、絶対に失ってはならないものと、あればいいというものと、端的になくてもいいものと、絶対にあってはならないものという四つを、即座に見分けられる力をつけることである。

 もちろん、その価値の遠近は人によって異なりはするが、本を読むなり対話をするなかで、その全体を考えられるようになる。こうした教養の基盤としての教育が失われたままに知識としての専門家ばかりになってしまった。さながら『智者』はいるが『賢者』がいない社会であろう。

 専門家社会というのは、トータルの責任を取らない社会なのである。これを裏返せば、わたしたちが市民としてどんどん劣化してきたということだとおもう。『市民社会』と言いながら、市民がきわめて無能力化している社会なのだ。大震災は、こうした姿を図らずも露わにした。

 大震災を経て、わたしたちの社会はようやく『他人に任せすぎてきた』ことに気がついた。少し自分でも勉強して自衛しなければという気運が、人びとのあいだに生まれだしているようにおもう。震災は、そういうシチズン・シップ(市民力)を喚起したのではないだろうか。」(『パラレルな知性』)

 

パラレルな知性 (犀の教室)

パラレルな知性 (犀の教室)

 

 

  「シチズンシップ(市民力)」について、同様な内容のことを、<河北新報120年>で、鷲田氏は、「東北復興」に関して、より具体的に述べています。これを読むと、より理解が進みます。

 

「  東日本大震災と東京電力福島第1原発事故で私たちは、二つの『制御不能』に直面した。天災は防ぎようがないと再認識したし、原子力は人間が制御できないメカニズムだった。

 だが、制御不能は既に生活全般に及んでいる。例えば食材の流通や就労状況もグローバル市場に左右され、暮らしを翻弄している。

 これを民意で制御できる社会、いつでも立ち止まれる社会へと作り替えていくためには、どれぐらいのサイズの共同体がいいのか。そういう課題を可視化したのが『3・11』だった。

 もう『中央』対『地方』の図式で物事を捉える時代ではなくなった。昔は地方を『じかた』と読んでいた。『ちほう』という概念を捨てて『じかた』と考える方がいいと思う。(→「対策論」に入ります)

 じかたの対義語は『町方(まちかた)』。地方(じかた)は町方に食料を売り、日用品を買う。そういう循環関係、定常経済が成り立つ『藩』サイズのコミュニティーがたくさん自立分散している状態こそ、東北が目指すべき姿だろう。

 東北は『つくる』ことを大事にしてほしい。近代は生活基盤のほとんどを金で『買う』。だが、本当に安心できるのは、買わなくても誰かが助けてくれる暮らしの方だ。買う社会をつくる社会に戻す必要がある。

 誰もが公共を担う一員としての意識(→まさに、「シチズン・シップ(市民力)」です)を持ち、『市民』の名刺をもう一枚持つ東北を望みたい。行政任せではなく『みんなのもの』をみんなで担っていく。

(「地方と町方で好循環」鷲田清一〈河北新報120年〉2017年1月17日)

 

表現者たちの「3・11」―震災後の芸術を語る (河北選書)

表現者たちの「3・11」―震災後の芸術を語る (河北選書)

 

 

 ここで、「シチズン・シップ」の回復、創造において、「アートの力」がポイントになってきます。

 以下では、「アートの力」について、解説します。

 

 (4)「アートの力」について

 

① 「生きる力」としてのアート

 

  『都市と野生の思考』 (鷲田清一・山極寿一)から、ポイント部分を引用します。 

「(鷲田) だから生きる力をつけるために、コミュニケーション力をつけようみたいな話になりがちなんですが、そこでアーティストならプリコラージュする。つまり、あり合わせのものを使って自分で道具までつくり、なんとかするわけです。

(山極) 言い換えれば、自分の生活を、自分の感性と力で築き上げていく能力ですね。今のようにすべてが既製品で、人から与えられたものだけで暮らしていたら、生きている実感なんてなくなって当然です。自分では何もつくらず、選ぶだけなんだから。

(鷲田) これからは生きる力としてのアートが必要ではないかと思います。あらゆる社会的活動の中で、アートだけが目標を設定しません。それ以外の活動は、すべてマーケットや企業の論理が入り込んでいて、必ず目標が設定される。受験勉強も、大学運営も目標ありきじゃないですか。(→「目標」という「拘束」が絶対的価値を有している、現代社会の問題点を指摘しているのです。)

(山極) 確かにそうですね。

(鷲田) ところがアートはおもしろいからやる。最初からどんな絵を描くのかがわかっている画家はいない。何かおもしろいものを描きたいと、ああでもない、こうでもないとやっているうちに「いける!」となったときに、最初に考えもしなかったような作品ができる。それが生きる力の根源みたいなものでしょう。アート以外のアクティビティでは、目標が壊れたら、そこで終わりなんですよ。震災はそのことを教えてくれた。

(山極) アートは目標がないのがよいわけですね。(→ここが、ポイントです。熟考してください)

 

都市と野生の思考 (インターナショナル新書)

都市と野生の思考 (インターナショナル新書)

 

 

 上記の鷲田氏の考察は、「語源」からスタートしています。

 つまり、「芸術(art)」の語源を意識しています。 

 「art」は、本来、ラテン語の「ars(アルス)」であり、これは「生きるための技術」という意味です。

 現在、「目標」という言葉の価値が高まり、人々は何事に対しても目標を設定し、これに向かって邁進するようになっています。

 しかし、本来、「art」には、「目標」というものがなく、偶然の産物として発生する側面があります。

 「到達点が明確化していない場面で、人はどのように生きていくのか」という力がまさに、「生きるための技術」であり、「art」です。

 今はそこが軽視されているのではないかと、鷲田氏は主張しているのではないでしょうか。

 この見解は、卓見と言えます。

 私達の、ある種の思考停止状態、近代原理による拘束、悲しきマインドコントロール、を気付かせてくれるからです。

 

 このことに関連して、『素手のふるまい』の冒頭で、「アートが社会的に何の役にも立たないことにおいてのみ、社会に役立つ」という、一見、分かりにくい逆説が記述されていることに注目するべきです。

 そして、

「  東日本大震災直後、被災地に様々なアーティストが駆けつけ、人々を励ましたり、ボランティア活動を支援したりした。また、『絆』の連呼に疑問を持ち何もしないアーティストもいた。被災したひとの心を癒やすとか元気づけるというような『社会に役に立つアートという側面』だけにとどまったものだとしたら、『アート』は薄っぺらな意味しかもたないだろう」と、鷲田氏は述べています。

 これは、アートの、「生きるための技術」としての側面を強調しているのでしょう。

 

 さらに、鷲田氏は、以下のように述べています。

 「『生きるためにアートは本当に必要なのか』という問いに『素手』で向き合う姿。彼らが備えていたのは、あらかじめ共有するゴールはなくとも、ゆるやかだがもろくはない人間関係を編み、ともに何かを作り上げていく技(→多様性の重視ということです)だ。今社会に何が必要で何を立て直さないといけないのか、正解はなく、さまざまな見え方や感じ方をすり合わせていくしかない。その時に我々が持たなくてはいけない社会的態度が、アートの中にある」(『素手のふるまい』)

 

 

② 「自分たちのものだという感覚」と「アート」 

 

 「シチズン・シップ」の問題について、鷲田氏は、「若者の行動力」に期待を寄せています。


「  今の美大の卒業生は社会とリンクした活動を始める人が多い。彼らはどんどん人と交わり、お金を使わず自分の手でモノをこしらえ、面白がって社会を変えようとするタフさを持っている。・・・現代社会はあまりにも複雑で自分たちのものだという感覚が持ちにくい。だから自ら動かせるシステムを作りたいと思うのだろう。震災を契機に広がった感覚だと思う。」(『素手のふるまい』)

 

 「シチズン・シップ(市民力)」の回復、創造に「若者の行動力」が寄与する、と主張しているのでしょう。

 さらに、鷲田氏の見解を引用します。


「  アートはあらかじめ意味やコンテクストの描きこまれていない『がらんどう』から出発するものだからこそ、ゼロからコンテクストを編んでゆくという、手作り感のある運動を牽引するのだろう。このような『素手』の手法こそ、システムや制度にぶら下がらなくてもやってゆける、そのような市民力の育成のなかで生きてくるものであろう。」(『素手のふるまい』)

 
 以下は、「若者の行動力」に対する最高級の賛辞と思われます。


「  世界を転覆するとまでは言わないにしても、わたしたちがいま知っているお行儀のよい議会政治の蓋を開け、祭と祀と政とが不可分であったような『まつりごと』の次元へと測鉛を下ろし、社会秩序のフォーマットを根底から書き換えようという野心に突き動かされていると見えるものもある。」(『素手のふるまい』)

 

 このような芸術家の活動は、新たな「民主主義」・「自由主義」へのチャレンジ、表現とも言うべきものでしょう。

 

「  各自が各自の感受性に素直でいようとしていた。集まった人たちのゆるやかなイメージの交換と調整のなかで、つまり、最後までたがいの差異を解消しないまま、それでも最後はこれ以外にはないという一つのところへもってゆけた。これは、同一のイメージを共有するという形でみなが結集すること(→全体主義的傾向、集団主義的傾向です)対極にあるいとなみである。集団を、内部に向けて集結させるのではなく、未知のものへと開いてゆくこと。

 たがいに差異(→多様性)を深く内臓したまま、ゆるやかではあるがけっして脆くはない紐帯(→「絆」です)をかたちづくること。そういう〈未知の社会性〉の芽ばえに、〈自由〉の新しい形の生成(→自由主義重視)に、彼らは賭けていたのではないか。」(『素手のふるまい』)

 

 『おとなの背中』の中でも、鷲田氏は、「自由主義重視の見解」を述べています。

 

「  東日本大震災後、『幽霊のように』流通している言葉に『絆』がある。『絆』はもともと『動物をつなぎとめる綱』を意味する。何か具体的に必要かが見えるときに比喩の言葉を必要とするとは思えない。とすれば、『絆』言論を生業とする人たちのあいだで流通している言葉のように思える。

 『つながり』を否定する人はいないから、反対できない匿名の言葉として流通しているだけではないか。

 他者とのあいだに存在する差異(→多様性)を知ることは痛い認識であるが、それを通してでしか本当に必要なものは見えない。『絆』という言葉の被いは、多様性の前提となる差異の存在を覆い隠すものになってはならない。(→ここでは、「絆」の危険な側面を指摘しているのです。)

 

おとなの背中 (単行本)

おとなの背中 (単行本)

 

 

 以上のように『素手のふるまい』は、鷲田氏の臨床哲学者として力量が、存分に発揮された良書です。

 これからの入試頻出著書となる可能性が高いと思われます。

 以下に、Web 上の【Book 紹介】を引用します。

 

「  阪神大震災、東日本大震災、原発事故をへて、 臨床哲学者はアートが社会とどのようにかかわるのかを問い続けた。 

 藝大生ふたりは被災地支援の記録と報告会を行い、写真家は東北の村に入って新しい制作に取り組む。世界的に活躍する美術家によるインスタレーション(仮設構築物)、陶芸家の無人タコツボ販売所、美術家の焚き火の集い、工芸家による建築物のウクレレ化保存計画・・・・美よりもなによりも面白さにひかれて始まるアートのさまざまな動きを具体的に見ながら問いかける━━現代社会の隙間で『新しい社会性』はどのように胎動していくのか。

 人間の生きる技術としてのアートは教育、ケアの領域でも核になるのではないか。弛(ゆる)さ、弱さ、傷つきやすさ(→これらも「多様性」の問題です)をそのまま保持する勁(つよ)さとはどのようなものか。わかりやすさに負けず、いかに『わからなさ』(→多様性)を社会とアートの連帯の綴じ目にできるのか。

 芸術から生活技術まで、スキルから作法まで、《生存の技法》の文脈のなかで、素手でこじあけるアートが教育やケアの領域を横断し、未来の予兆を手探りする。これからの日本に必要な人間の生きる技術=『生存の技法』としてのアートと社会との錯綜した関係を読みほどく、臨床哲学者の注目の刺激的評論エッセイ。」

 

 「アート」について、鷲田氏は本書の最後で次のように述べています。

 「多様性維持のためのアートの役割」についての考察です


「  人びとが固まりはじめたら、人びとをつなぐシステムが凝固しはじめたら、すぐに溶剤をかける。固まるものから、たえずすり抜ける。糾合しようという動きにたえず抗う。そのようにいつもシステムの外部に片足を掛けていようとする人は、システムから外されてきた人たちの輪にもたやすく入っていける。

 そして、わたし(たち)の存在を塞ぐもの、囲い込むもの、凝り固まらせるものへの抗いとしてこそ、アートはある。他者との関係、ひいては自己自身との関係をたえず開いておくために、そこにすきまをこじ開ける動性として、アートはある。

 とすれば、生を丸くまとめること(→全体主義、集団主義)への抗いとして、アートはいつも世界への違和の感覚によって駆動されているはずである。そしてそれがまた、システムにぶら下がらなくても生きてゆける、そんな力の育成(→「シチズン・シップ(市民力)」の育成)につながるはずである。そう、《生存の技法》に、である。」(『素手のふるまい』)

 

 (5)「わからないこと」への態度

 

 この点について、鷲田氏の見解を、以下に、確認的に引用します。

「  そもそも人の智慧というのは、わからないものに直面したときに、答えがないまま、つまりはわからないままに、それにどう正確に処するかにあると言ってよい。イデオロギーとはだれも正面だっては反対できない思想のことだと、最初に行ったのは柄谷行人だと記憶するが、いまわたしたちの社会に流通している『エコ』『多様性』『安心・安全』『コミュニティ』『コミュニケーション』『イノヴェーション」(などの観念は、それを仔細に吟味すればさまざまの不整合や撞着に突き当たるはずなのに、さらなる吟味を抑圧し、それに対して正面からは異を唱えさせなくする思考の政治力学が根深く働いている。わたしたちの思考を催眠状態に置くような力学である━━『アート』もまたこの力学に巻き込まれており、それがイデオロギーというべきこうした範疇の諸観念と安易に接合することに抗って、わたしはこの原稿を書いている━━。そして、思考を停止させたまま、含みもなければ曲折もない、そんな単純な物言いが、あるいは不満や不安の強度を単純に高めるだけの粗雑な物言いが、言論の表面を厚く覆っている。屈折もなければ否定による媒介もないそうした思考には、他の人びとの思考の痙攣との過剰な同調はあっても、それをわからないままに抱え込んでいられる奥行きはない。あるいは、すぐには解消されない葛藤の前でその葛藤にさらされ続ける耐性というか、ためがない。

 しかし、個人の人生であれ国家の運営であれ、そこでほんとうに重要なことは、すぐにはわからないけれども大事なことを見さだめ、それに、わからないまま正確に対処するということである。」 (『素手のふるまい』)

 

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 今回の記事は、これで終わりです。

 次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

 ご期待ください。

 

   

 

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