現代文最新傾向LABO 斎藤隆

入試現代文の最新傾向を分析し、次年度の傾向を予測する大胆企画

「身体、この遠きもの」鷲田清一・1999東大国語(現代文)解説

(1)「身体論」・「心身問題」とは何か?

 入試頻出論点、流行論点である「身体論」は難解です。難解ゆえに、読解問題として、ふさわしいから、頻出、流行になっているという側面が、あるように思えます。
「身体論」は予備知識・教養がモノを言うので、入試国語(現代文)・小論文対策として、しっかり準備しおくことが賢明です。

 「身体論」は「心身問題」とも呼ばれています。 

 そもそも「心身問題」とは何か、については、以下に引用する鷲田清一氏の説明が分かりやすいです。

 

(概要です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

「心(精神)と身体(その構造・状態・行動)との関係については、いろいろな動機や関心のもとに昔から問題にされてきた。しかし、特に西洋近世のデカルト的二元論の考え方が有力になってからは、この問題が哲学の主題の一つとなり、現在にいたっている。すなわち、身体は、科学的法則にのっとって機械論的に説明されるべき物質的世界に属し、他方われわれは、感じたり欲したり考えたりする心的過程を内的に意識するが、この両者はどう関係しているのか、

 という問題である。」(鷲田清一『哲学事典』平凡社)

 

 上記は、「心と身体の関係」についての「デカルト的二元論」が議論の対象になっていると述べているのです。

 さらに、鷲田氏の論考を引用します。

 

「精神(こころ)と身体(からだ)とが異なる属性をもつ2つの別の実体であるとするなら、日常の暮らしのなかでこれらのあいだに相互作用があるのはどうしてかという問題である。じっさい、ひとは悲しみにうちひしがれているとき眼から涙を流すし、怯えているときは身体ががくがく震えるというふうに、あきらかに心身は同一の出来事の二面といっていいほどに緊密に結びついている。この問題は「心身問題」とよばれ、近世の哲学史においてはしばらく、こころの問題はこうした文脈で語られることになった。」(鷲田清一『現代社会学事典』弘文堂)

 

 上記の論考のポイントは、心身は同一の出来事の二面 」の部分です。このことが、

デカルト的二元論に対する批判の本質的根拠になっているのです。

 

 なお、今回の記事の項目は、以下のように、なっています。

(2)「身体、この遠きもの」鷲田清一氏の・1999年東大国語第1問(現代文・評論文)解説

(3)参考資料ー「身体、この遠きもの」ー 「前記の鷲田清一氏の論考の続き部分」の解説

(4)当ブログにおける「東大現代文」関連の記事の紹介

(5)当ブログにおける「鷲田清一」関連の記事の紹介

(6)当ブログにおける「身体論」・「心身問題」関連の記事の紹介

(7)当ブログにおける「センター試験」関連の記事の紹介

 

新編 普通をだれも教えてくれない (ちくま学芸文庫)

 

(2)「身体、この遠きもの」鷲田清一氏の・1999年東大国語第1問(現代文・評論文)解説

(問題文本文)

(【1】・【2】・【3】・・・・は当ブログで付記した段落番号です)

(青字は当ブログによる「注」です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(以下、同じです)

 

【1】身体はひとつの物質体であることは間違いないが、他の物質体とは異質な現われ方をする。

【2】たとえば、身体はそれが正常に機能しているばあいには、ほとんど現われない。歩くとき、脚の存在はほとんど意識されることはなく、脚の動きを意識すれば逆に脚がもつれてしまう。話すときの口唇や舌の動き、見るときの眼についても、同じことが言える。呼吸するときの肺、食べるときの胃や膵臓(すいぞう)となれば、これらはほとんど存在しないにひとしい。つまり、わたしたちにとって身体は、ふつうは素通りされる透明なものであって、その存在はいわば消えている。が、その同じ身体が、たとえばわたしが疲れきっているとき、あるいは病の床に臥(ふ)しているときには、にわかに、不透明なものとして、あるいは腫(は)れぼったい厚みをもったものとして、わたしたちの日々の経験のなかに浮上してくる。そしてわたしの経験に一定のバイヤス(→本文の「注」→受けとめ方に片寄りを生じさせること)をかけてくる。あるいは、わたしの経験をこれまでとは別の色で染め上げる。ときには、わたしと世界とのあいだにまるで壁のように立ちはだかる。ァ わたしがなじんでいたこの身体は、よそよそしい異物として迫ってきさえするのである。

【3】 あるときは、わたしたちの行為を支えながらわたしたちの視野からは消え、あるときは、わたしたちがなそうとしている行為を押しとどめようとわたしたちの前に立ちはだかる、こうした身体の奇妙な現われ方は、さらに別の局面でも見いだされる。それはたとえば、わたしたちがなにかをじぶんのものとして「もつ」(所有する)という局面だ。なにかを所有するというのは、なにかをじぶんのものとして、意のままにできるということである。そのとき身体は、ものを捕る、掴(つか)む、持つというかたちで、ィ 所有という行為の媒体として働いている 。つまり身体は、わたしが随意に使用しうる「器官」である。が、その身体をわたしは自由にすることができない。痛みが身体のそこかしこを突然襲うこと、あるいは身体にも《倦怠(けんたい)》が訪れることに、だれも抗(あらが)うことはできない。このことを、『存在と所有』の著者G・マルセルは次のような逆説としてとらえる。つまり、「わたしが事物を意のままにすることを可能にしてくれるその当のものが、現実にはわたしの意のままにならない」という逆説のなかに、かれは「不随意性〔意のままにならないこと〕ということの形而上学的な神秘」を見てとるのである。

【4】こういう「神秘」は、身体一般のなかには見いだされない。身体一般というのは医学研究者にとっては存在しても、ひとりひとりの個人には存在しない。身体はわたしたちにとっていつも「だれかの身体」なのだ。痛みひとつをとっても、それはつねにわたしの痛みであって、その痛みをだれか任意の他人に代わってもらうなどということはありえない。そのとき、痛みはわたしの痛みというより、わたしそのものとなっており、わたしの存在と痛みの経験とを区別するのはむずかしい。ゥ 身体にはたしかに「わたしは身体をもつ」と言うのが相応(ふさわ)しい局面があるにはあるが、同時に「わたしは身体である」と言ったほうがぴったりとくる局面もあるのである。人称としてのわたしと身体との関係は、対立や齟齬(そご)(→「食い違い」という意味)といった乖離(かいり)(→「落差。分離」という意味)状態にあるときもあれば、一方が他方に密着したり埋没したりするときもあるというふうに、どうも極端に可塑(かそ)(→「柔軟。変形可能」という意味)的なものであるらしい。

【5】身体は皮膚に包まれているこの肉の塊のことだ、と、これもだれもが自明のことのように言う。が、これもどうもあやしい。たとえば怪我をして、一時期杖をついて歩かなければならなくなったとき、持ちなれぬ杖の把手(とって)の感触がはじめは気になってしようがない。が、持ちなれてくると、掌(てのひら。たなごころ)の感覚は掌と把手との接触点から杖の先に延びて、杖の先で地面の形状や固さを触知している。ェ 感覚の起こる場所が掌から杖の先まで延びたのだ。同じようにわたしたちの足裏の感覚は、それがじかに接触している靴の内底においてではなく、地面と接触している靴の裏面で起こる。わたしたちは靴の裏で、道が泥濘(でいねい)かアスファルトか砂利道かを即座に感知するのである。身体の占める空間はさらに、わたしのテリトリーにまで拡張される。見ず知らずのひとが、じぶんの家族なら抵抗がない至近距離に入ってきたとき、皮膚がじかに接触しているのでなくても不快な密着感に苦しくなる。いつも座っているじぶんの座席に、ある日別の人間が座っていると、それがたとえ公共的な場所(たとえば図書館)であっても苛立(いらだ)たしい気分になる。あるいはさらにもっと遠く、たとえばテレビで船やヘリコプターからの中継を見ているとき、まるで酔ったような気分になることすらある。このようにわたしたちの身体の限界は、その物体としての身体の表面にあるわけではない。わたしたちの身体は、その皮膚を超えて伸びたり縮んだりする。わたしたちの気分が縮こまっているときには、わたしたちの身体的存在はぐっと収縮し、じぶんの肌ですら外部のように感じられる。身体空間は物体としての身体が占めるのと同じ空間を構成するわけではないのだ。

 

ーーーーーーーー

 

(設問)(漢字問題は省略します)

設問(1) 「わたしがなじんでいたこの身体が、よそよそしい異物として迫ってきさえする」(傍線部ア)とあるが、このような事が起こるのはなぜか、その理由を説明せよ。(60字程度)

 

設問(2) 「所有という行為の媒体として働いている」とあるが、どういう意味か、説明せよ。(60字程度)

 

設問(3) 「身体にはたしかに『わたしは身体をもつ』と言うのが相応しい局面があるにはあるが、同時に『わたしは身体である』と言ったほうがぴったりとくる局面もある」とあるが、「わたしは身体をもつ」ということと、「わたしは身体である」ということとの違いを、筆者の論旨にしだがって説明せよ。(60字程度)

 

設問(4) 「感覚の起こる場所が掌から杖の先まで伸びたのだ」とあるが、このようなことが生じるのはなぜか。その理由を、筆者の論旨にしたがって説明せよ。(60字程度)

 

ーーーーーーーー

 

【 東大現代文の解法のポイント 】

①  「全問・記述式問題の特殊性」を意識しよう→「時間配分」に気を付けよう

 東大現代文は素直な標準レベルの問題が多いので、論理的に精読・熟読していく姿勢が大切です。ある程度の理解が進むまでは、要約を考えないようにするべきです。

 問題は、いかに時間内に答案を書き上げるか、です。この答案作成の訓練は、何回か、しておくべきです。 

 その際には、過去問題を使用することを、おすすめします。模擬問題は、本文のレベルも、設問のレベルも、本番の問題とズレがあるので、使用しない方が賢明です。作成者のレベル、作成時間などに、落差がありすぎるのです。

 東大の合格点は、5~6割なので、記述問題においては、満点を狙う必要は、ありません。特に、大問1においては、最後の記述問題が最も配点が高いので、ここでじっくり考えられる時間を確保することが大切です。そのためには、最初の方の設問に時間をかけすぎないようにしてください。最初の方の設問については、7~8割の点が取れそうと思ったら、それで満足して、次の設問に取りかかるべきでしょう。

 「腹八分の精神」が、全体の得点をアップさせるポイントです。完全主義は、入試においては、有害無益です。

 

②設問に指定がある場合以外には、「自分なりの表現」は使用しないようにしよう→誤読・誤解と評価される可能性があります❗

 設問(三)・(四)に「筆者の論旨にしたがって」と、「注意書き」があります。

 これは、「なるべく、本文の表現を使用して答案を作成してください」という意味です。特に、キーワードは本文の表現を、「そのまま」使用するべきです。採点者は、キーワードに着目して採点しているのです。

 受験生が類語や、「自分なり」の表現を使用すると、「誤読・誤解しているのでは、ないか」と、マイナス評価される可能性があります。

 

ーーーーーーーー

 

(解説・解答)

設問(一)

 傍線部アは段落の最終文であること、に着目することが大切です。

 まず、【2】段落が、「身体」が「正常に機能しているとき」と、「そうでない場合」を対比していることを確認してください。。前者では、「ほとんど意識のなかに現われない」のに対して、後者では、「よそよそしい異物として迫ってきさえする」(傍線部)のです。

 第2に、傍線部「わたしがなじんでいたこの身体が、よそよそしい異物として迫ってきさえする」を、【3】段落第1文「あるときは、わたしたちの行為を支えながらも、わたしたちの視野から消えている。あるときは、わたしたちの行為を押しとどめる。」と、説明し直していることに着目してください。

 

(解答)
普通は意識しない身体が、不調な時には、自分の意志や行為を阻害する存在として意識されるから。

 

設問(二)

 傍線部イの直後の文章「つまり身体は、わたしが随意に使用しうる『器官』である」を、本文の表現を使用して、分かりやすく説明してください。

 「媒体」=媒介、仲介という意味です。従って、身体という「器官」は、「所有という行為」の仲介するのです。


(解答)
ものを所有することは、身体という器官を使い、ものを随意に扱うことを通じて初めて現実の行為になるということ。

 

 なお、ここで、【3】段落最終文の「形而上学的」について説明します。

「形而上」とは「抽象的・精神的なもの」という意味です。

「形而上学」とは「物事の存在の根本原理を研究する学問」・「思想」・「哲学」という意味です。

 このキーワードは、入試頻出事項ですが、案外と盲点になっています。

 

設問(三)

 傍線部ウは、内容的に見て、直前の一文の言い換えになっていることを読み取ってください。

「わたしは身体をもつ」という局面は、【3】段落の傍線部イの直後の一文で述べられているように、「わたし」という主体が身体を客体化している状態です。
 一方で、「わたしは身体である」という局面は、傍線部ウの直前の一文、直後の一文で明らかなように、「わたし」という主体と「身体の経験」とが「区別できない」状態です。

 

(解答)
前者は、「わたし」が身体を器官として使用しうる局面であるのに対して、後者は、身体の経験が「わたし」に密着し不可分となる局面。

 

 なお、 「わたしは身体をもつ」ということについては、鷲田氏は、別の著書(『悲鳴をあげる身体』)で、興味深い指摘をしています。入試頻出事項なので、以下に引用します。

「わたしは身体をもつ」ということにも、問題がないわけではない。というのも、「わたし」はその身体(という所有物)の外部に立てないからである。身体なしに「わたし」は存在しえないという意味でももちろんあるが、それ以上に、身体ではない「わたし」にとって、内/外ということは比喩的な意味でしか語りえないからである。なにかの内か外かということは、それ自体が空間的な存在についてしか言えない。所有が「わたし」とその外部に存在するものとの関係であるとき、「わたし」と外部を隔てているのは、空間的存在としての身体である。

 そうとすれば、すくなくとも「わたし」と身体とのあいだには所有の関係はなりたちにくいように思われる。」 (『悲鳴をあげる身体』)


設問(四)

 本設問を解くポイントは、二つあります。

 一つは【1】段落で述べられている、身体は単なる「物質体」ではないことです。それは、要するに、「身体は心理的存在でもある」ということです。「心身二元論」に疑問を提示しているのです。
 もう一つは、最終段落後半で、その時の気分に応じて、身体が「その皮膚を超えて伸びたり縮んだりする」と述べられていることです。


(解答)身体は単なる物体ではなく、心理的な存在であるので、身体感覚や身体空間は、その時の気分や状況に応じて伸縮するものとなるから。

 

ーーーーーーーー 

(出典)鷲田清一『普通をだれも教えてくれない』〈Ⅱ からだが悲鳴をあげている パニック・ボディ《身体、この遠きもの》〉の一節。

 

(3)参考資料ー「身体、この遠きもの」ー 「前記の鷲田清一氏の論考の続き部分」の解説

 前記の鷲田清一氏の論考(「身体、この遠きもの」)の続き部分を引用します。


「  身体はまた、時間的な現象でもある (→「身体」を「現象」と把握している点を強く意識して、以下を読解することが大切です)  身体はたえず変化している(→「身体は固定している物体ではない」ということです。ここで、「一般社会の常識」に異議を提示しているのです) 。細胞はつねに生成し、皮膚はつねに入れ替わる。同じ身体ということは、大づかみにしか言えない。また、記憶というと精神や脳の働きのように言われるが、実際には身体もまた記憶する。たとえば子どものとき、わたしたちは小学校の校歌だとか歴代の天皇の名前だとか円周率を何十桁だとか暗記したものだが、それを口ずさまないで紙に書きなさいと言われても、記憶はなかなかよみがえらない。口を動かさないとだめなのだ。あるいは字、いくら記憶をたどっても出てこない字が、手を宙で動かせば出てくる。身体の運動のなかに記憶は書き込まれているのである。このように身体の存在を、いま・ここという経験の中心に限定すること、あるいは皮膚に包まれたこの物質的な身体の占める空間に限定することは、どうも身体についての抽象的な考え方のようである。

 物質の塊としての身体、わたしたちはこれを、もっとも具体的な身体として考えるくせになっているようだが、改めてよく考えてみれば、そういう物質体としての「具体的」な身体をわたしはきわめて不完全にしか知覚できない。身体の表面についてはその一部しか、じかに見ることはできないし、その一部は触れることもできない。身体の内部はこれは、カメラかなんかの媒体を通してデジタル画像としては見ることもできるだろうが、じかにそれを見たり触れたりすることはまったく不可能だろういや、もっと怖い事実がある。他人がわたしをわたしとして認めてくれるときのその顔、それをわたしは終生、じかに見ることはできない(→「永遠の不可視性」ということです)。じぶんの顔というのは、それに逐一反応する他人の表情を介して、想像ないしは解釈するしかないものなのである。だから、じぶんで見ながら制御することのできない顔をむきだしにしておくのは、きわめて無防備なことだ。それを恐れて、わたしたちは、表情を繕(つくろ)い、化粧をし、たえず鏡をのぞき込んで、じぶんの顔を微調整する。できてきたスナップ写真にも一喜一憂する。じぶんでイメージしているじぶんの顔との誤差が、気になってしようがないからだろう。そういう意味では、現在のわたしたちのように素顔を外にさらすよりも、ヴェールで覆っておくほうが、よほど理にかなっている(→「合理的。論理的」という意味)ように思われる。

 だからこそ、わたしたちは、じぶんの存在を確固としたものとして感じられるように、まさにわたしがそれであるところの身体を、たえず確認しつづけていようとする。鏡をのぞき、外見(身だしなみ)を整える。風呂につかったり、シャワーを浴びたり、日光浴をしたりして、皮膚感覚を刺激し、身体の見えない部位を触知しようとする。まるで子宮という密室のなかに戻るかのように、あるいは押し入れとか机の下とかいった狭い空間をその代理物にするかのように、わたしたちは衣服という囲いのなかに身を挿入する。わたしたちは、楽な服のほうがいいと言いながら、実際のところは、着ているか着ていないかわからないようなゆるゆる服では、気に入らない。締めつけたり囲ったりして、〈像〉としてのとりとめのない身体を触覚的に補強してくれなかったら服の意味はないからである。

 じぶんの身体のプロポーションが基準にかなっているか、顔がおかしくないか、色はどうか、髪は薄くないかなどと、わたしたちは容貌に悩むことがよくある。身体の外見を過剰なくらいに飾ることもある。ある固定観念に金縛りになって、なかなか抜けだせないこともある。このようにわたしと身体との関係が、わたしが抱く身体のイメージや観念を通して、もつれたり、かたよったり、硬直したりするのは、身体がわたしにとっては、知覚される物質体であるよりもむしろ、想像されるひとつの〈像〉(→「自分の頭の中のイメージ」です→「不安定性」がポイントになっています)であるからだろう。そして、その〈像〉としてしか近づけない、みずからの身体的な存在が、皮膚で包まれた物質体としての身体をあふれでたり、めり込んだりしているからだろう。

 じぶんがそれであるところの身体がじぶんから遠く隔てられているということ、身体とのぎくしゃく(→「しっくりとは、いかない状況」という意味)とした関係のすべてはそういうわたしたちの存在条件に因(よ)(→「生きていること」、それ自体に伴う「不安」・「悩み」ということでしょうか。「ぎくしゃくとした関係」はある意味では、「楽しみ」・「暇つぶし」とも、言えるでしょう)。ーー『各人はそれぞれおのれ自身にもっとも遠い者である。』(ニーチェ)」 (『普通をだれも教えてくれない』)

 

 上記の、

わたしが抱く身体のイメージや観念」、

身体がわたしにとっては、知覚される物質体であるよりもむしろ、想像されるひとつの〈像〉(→「自分の頭の中のイメージ」です→「不安定性」がポイントになっています)である」、

については、入試頻出事項になっています。

 鷲田氏は、『ちぐはぐな身体 ファッションって何?』の中でも、上記と同様のことを述べています。より、理解が進むと思われるので、以下に引用します。

 

(概要です)

身体は〈像 (イメージ) 〉である。人間は自分の顔を自分で直(じか)に見ることはできない。背中や後頭部も、下半身の局部もそうだ。自分で知覚できる部分は思っているほど多くない。

 自分の身体で、自分自身が、じかに見たり触れたりして確認できるのは、つねにその断片でしかないとすると、この自分の身体とは離れてみればこんなふうに見えるんだろう、という想像の中でしか、自分の身体はその全体像を表さないと言っていいはずだ。つまり、自分の身体とは自分が想像するもの、つまり<像(イメージ)>でしかありえないことになる。」

 

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↓この論考が身体論に関連しているということは、意外に盲点になっているようです。

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今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

ご期待ください。

 

    

  

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