現代文最新傾向LABO 斎藤隆

入試現代文の最新傾向を分析し、次年度の傾向を予測する大胆企画

予想問題「好きなこととは何か?」『暇と退屈の倫理学』國分功一郎

(1)なぜ、この 記事を書くのか?

 國分功一郎氏は、最近の入試頻出著者です。國分氏の論考は、最近、慶応大学(商学部)、中央大学、同志社大学、関西大学、獨協大学などの国語(現代文)・小論文で出題されています。
 従って、国語(現代文)・小論文対策として、國分功一郎の氏の論考・著書を読むことを、おすすめします。

 
「自分らしく生きるためには、ということ」ーー國分功一郎氏は、『暇と退屈の倫理学』の中で、この問いが「暇と退屈への対応問題」という「案外と重要な哲学的問題」であると主張しています。そして、この重大問題に、様々な哲学者の知見を引用しながら堂々と立ち向かっています。

 この本は人生を考えるために、丁寧に分かりやすく書かれ、しかも、切れ味のよい秀逸なポストモダンの哲学書です。近代原理を改めて批判的に検証しようとする、近代批判の最新の名著です。

 高校生、受験生は、最低1冊は、國分功一郎氏の著書を読んでおくべきでしょう。

 

 最近、当ブログでは、流行出典である『暇と退屈の倫理学』の入試頻出箇所(「第4章 暇と退屈の疎外論ーー贅沢とは何か?」) について、予想問題記事を発表しましたが、同じく、頻出箇所である「序章 好きなこととは何か」を題材にして、予想問題(予想論点)を解説することにしました。

 問題としては、「2013年度同志社大学過去問」と「当ブログによる予想問題」を使用します。


 今回の記事の項目は、以下のようになっています。

(2)予想問題 「好きなこととは何か?」(『暇と退屈の倫理学』國分功一郎)/
2013同志社大過去問+予想問題

(3) 『暇と退屈の倫理学』の構成

(4)当ブログにおける『中動態の世界』(國分功一郎)関連記事の紹介

(5)國分功一郎氏の紹介・著書

(6)当ブログにおける「哲学」関連記事の紹介

 

暇と退屈の倫理学 増補新版 (homo Viator)

(2)予想問題 「好きなこととは何か?」(『暇と退屈の倫理学』國分功一郎)/

2013同志社大過去問+予想問題

 

(問題文本文)(概要です)

(【1】・【2】・【3】・・・・は当ブログで付記した段落番号です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です) 

 

【1】人類の歴史の中にはさまざまな対立があり、それが数えきれぬほどの悲劇を生み出してきた。だが、人類が豊かさを目指して努力してきたことは事実として認めてよいものと思われる。人々は社会の中にある不正と闘ってきたが、それは社会をよりよいものにしようと、少なくとも建前としてはそう思ってきたからだ。

【2】しかし、ここで不可解な逆説が見出される。人類が目指してきたはずの豊かさ、それが達成されると人が不幸になってしまうという逆説である。

【3】イギリスの哲学者バートランド・ラッセル[1872~1970]は1930年に『幸福論』という書物を出版し、その中でこんなことを述べた。今の西欧諸国の若者たちは自分の才能を発揮する機会が得られないために不幸に陥りがちである。それに対し、東洋諸国ではそういうことはない。共産主義革命が進行中のロシアでは、若者は世界中のどこよりも幸せであろう。なぜならそこには創造するべき新世界があるからだ。

【4】ラッセルが言っているのは簡単なことである。

【5】20世紀初頭のヨーロッパでは、すでに多くのことが成し遂げられていた。これから若者たちが苦労してつくり上げねばならない新世界などもはや存在しないように思われた。したがって若者にはあまりやることがない。だから彼らは不幸である。
【6】それに対しロシアや東洋諸国では、まだこれから新しい社会を作っていかねばならないから、若者たちが立ち上がって努力すべき課題が残されている。したがって、そこでは若者たちは幸福である。

【7】彼の言うことは分からないではない。使命感に燃えて何かの仕事に打ち込むことはすばらしい。ならば、そのようなすばらしい状況にある人は「幸福」であろう。逆に、そうしたすばらしい状況にいない人々、打ち込むべき仕事を持たぬ人々は「不幸」であるのかもしれない。

【8】しかし、何かおかしくないだろうか? 本当にそれでいいのだろうか?

【9】ある社会的な不正を正そうと人が立ち上がるのは、その社会をよりよいものに、より豊かなものにするためだ。ならば、社会が実際にそうなったのなら、人は喜ばねばならないはずだ。なのに、ラッセルによればそうではないのだ。人々の努力によって社会がよりよく、より豊かになると、人はやることがなくなって不幸になるというのだ。

【10】

 

〔X〕


【11】なぜこんなことになってしまうのだろうか? 何かがおかしいのではないか? 
【12】A そう、ラッセルの述べていることは分からないではない。だが、やはり何かがおかしい。そして、これをさも当然であるかのごとくに語るラッセルも、何かおかしいのである。

【13】ラッセルのように、打ち込むべき仕事を外から与えられない人間は不幸であると主張するなら、このおかしな事態をどうにもできない。やはりわたしたちはここで、「何かがおかしい」と思うべきなのだ。

【14】人類は豊かさを目指してきた。なのになぜその豊かさを喜べないのか? 以下に続く考察はすべてこの単純な問いを巡って展開されることとなる。

【15】人間が豊かさを喜べないのはなぜなのだろうか? 豊かさについてごく簡単に考察してみよう。

【16】国や社会が豊かになれば、そこに生きる人たちには余裕がうまれる。その余裕にはすくなくとも二つの意味がある。

【17】一つ目はもちろん金銭的な余裕だ。人は生きていくのに必要な分を超えた量の金銭を手に入れる。稼いだ金銭をすべて生存のために使い切ることはなくなるだろう。

【18】もう一つは時間的な余裕である。社会が富んでいくと、人は生きていくための労働にすべての時間を割く必要がなくなる。そして、何もしなくてもよい時間、すなわち暇を得る。

【19】では、続いてこんな風に考えてみよう。富んだ国の人たちはその余裕を何に使ってきたのだろうか? そして何に使っているのだろうか?

【20】「富むまでは願いつつもかなわなかった自分の好きなことをしている」という答えが返ってきそうである。確かにそうだ。金銭的・時間的な余裕がない生活というのは、あらゆる活動が生存のために行われる、そういった生活のことだろう。生存に役立つ以外のことはほとんどできない。ならば、余裕のある生活が送れるようになった人々は、その余裕をつかって、それまでは願いつつもかなわなかった何か好きなことをしている、そのように考えるのは当然だ。

【21】~【25】

 

[Y]

 

【26】さて、カタログからそんな「その人の感覚のあり方」を選ぶとはいったいどういうことなのか?

【27】最近他界した経済学者ジョン・ガルブレイス[1908~2006]は、20世紀半ば、1958年に著した『豊かな社会』でこんなことを述べている。

【28】現代人は自分が何をしたいのかを自分で意識することができなくなってしまっている。広告やセールスマンの言葉によって組み立てられて初めて自分の欲望がはっきりするのだ。自分が欲しいものが何であるのかを広告屋に教えてもらうというこのような事態は、19世紀の初めなら思いもよらぬことであったに違いない。

【29】経済は消費者の需要によって動いているし動くべきであるとする「消費者主権」という考えが長く経済学を支配していたがために、B 自分の考えは経済学者たちから強い抵抗にあったとガルブレイスは述べている。つまり、消費者が何かを必要としているという事実(需要)が最初にあり、それを生産者が感知してモノを生産する(供給)、これこそが経済の基礎であると考えられていたというわけだ。

【30】ガルブレイスによれば、そんなものは経済学者の思い込みに過ぎない。だからこう指摘したのである。高度消費社会ーー彼の言う「豊かな社会」ーーにおいては、供給が需要に先行している。いや、それどころか、供給側が需要を操作している。つまり、生産者が消費者に「あなたが欲しいのはこれなんですよ」と語りかけ、それを買わせるようしている、と。

【31】今となってはガルブレイスの主張は誰の目にも明らかである。消費者の中で欲望が自由に決定されるなどとは誰も信じてはいない。欲望は生産に依存する。生産は生産によって満たされるべき欲望をつくり出す。

【32】ならば、「好きなこと」が、消費者の中で自由に決定された欲望に基づいているなどとは到底言えない。私の「好きなこと」は、生産者が生産者の都合のよいように、広告やその他手段によって創り出されているかもしれない。もしそうでなかったら、どうして日曜日にやることを土曜日にテレビで教えてもらったりするだろうか? どうして趣味をカタログから選び出したりするだろうか?

【33】こう言ってもいいだろう。「豊かな社会」、すなわち、余裕のある社会においては、確かにその余裕は余裕を獲得した人々の「好きなこと」のために使われている。しかし、その「好きなこと」とは、願いつつもかなわなかったことではない。

【34】問題はこうなる。そもそもわたしたちは、余裕を得た暁にかなえたい何かなど持っていたのか?

【35】すこし視野を広げてみよう。

【36】20世紀の資本主義の特徴の一つは、文化産業と呼ばれる領域の巨大化にある。20世紀の資本主義は新しい経済活動の領域として文化を発見した。

【37】もちろん文化や芸術はそれまでも経済と切り離せないものだった。芸術家だって霞を食って生きているわけではないのだから、貴族から依頼を受けて肖像画を描いたり、曲を作ったりしていた。芸術が経済から特別に独立していたということはない。

【38】けれども20世紀には、広く文化という領域が大衆に向かって開かれるとともに、大衆向けの作品を操作的に作りだして大量に消費させ利益を得るという手法が確立された。そうした手法に基づいて利益を挙げる産業を文化産業と呼ぶ。

【39】文化産業については膨大(ぼうだい)な研究があるが、その中でも最も有名なものの一つが、マックス・ホルクハイマー[1895~1973]とテオドール・アドルノ[1903~1969]が1947年に書いた『啓蒙の弁証法』である。

【40】アドルノとホルクハイマーはこんなことを述べている。文化産業が支配的な現代においては、消費者の感性そのものがあらかじめ製作プロダクションのうちに先取りされている。

【41】どういうことだろうか? 彼らは哲学者なので、哲学的な概念を用いてこのことを説明している。すこし噛み砕いて説明してみよう。

【42】彼らが利用するのは、18世紀ドイツの哲学者カント[1724~1804]の哲学だ。C カントは人間が行う認識という仕組みがどうして可能であるのかを考えた。どうやって人間は世界を認識しているのか? 人間はあらかじめいくつかの概念をもっている、というのがカントの考えだった。人間は世界をそのまま受け取っているのではなくて、あらかじめもっていた何らかの型(概念)にあてはめて理解しているというわけだ。

【43】たとえば、たき火に近づけば熱いと感じる。このときひとは、「炎は熱いから、それに近づくと熱いのだ」という認識を得るだろう。この「から」にあたるのが、人間があらかじめもっている型(概念)だ。この場合には、原因と結果を結びつける因果関係という概念である。因果関係という型があらかじめ頭の中にあるからこそ、ひとは「炎は熱いから、それに近づくと熱いのだ」という認識を得られる。

【44】もしもこの概念がなければ、たき火が燃えているという知覚と、熱いという感覚とを結びつけることができない。単に、「ああ、たき火が燃えているなぁ」という知覚と、「ああ、なんか顔が熱いなぁ」という感覚があるだけだ。

【45】人間は世界を受け取るだけでない。それらを自分なりの型にそって主体的にまとめ上げる。18世紀の哲学者カントはそのように考えた。そして、人間にはそのような主体性が当然期待できるのだと、カントはそう考えていた。

【46】アドルノとホルクハイマーが言っているのは、カントが当然と思っていたこのことが、いまや当然ではなくなったということだ。人間に期待されていた主体性は、人間によってではなく、産業によってあらかじめ準備されるようになった。産業は主体が何をどう受け取るのかを先取りし、受け取られ方の決められたものを主体に差し出している。

【47】もちろん熱いモノを熱いと感じさせないことはできない。白いモノを黒に見せることもできない。当然だ。だが、それが熱いとか白いとかではなくて、「楽しい」だったらどうだろう? 「これが楽しいってことなのですよ」というイメージとともに、「楽しいもの」を提供する。たとえばテレビで、或る娯楽を「楽しむ」タレントの映像を流し、その次の日には、視聴者に金銭と時間を使ってもらって、その娯楽を「楽しんで」もらう。わたしたちはそうして自分の「好きなこと」を獲得し、お金と時間を使い、それを提供している産業が利益を得る。

【48】「好きなこと」はもはや願いつつもかなわなかったことではない。それどころか、そんな願いがあったかどうかも疑わしい。願いをかなえられる余裕を手にした人々が、今度は文化産業に「好きなこと」を与えてもらっているのだから。

【49】ならば、どうしたらいいのだろうか?

【50】いまアドルノとホルクハイマーを通じて説明した問題というのは決して目新しいものではない。それどころか、大衆社会を分析した社会学の本には必ず書かれているであろう月並みなテーマだ。だが本書は、この月並みなテーマを取り上げたいのである。

【51】資本主義の全面展開によって、少なくとも先進国の人々は裕福になった。そして暇を得た。だが、暇を得た人々は、その暇をどう使ってよいのか分からない。何が楽しいのか分からない。自分の好きなことが何なのか分からない。

【52】そこに資本主義がつけ込む。文化産業が、既成の楽しみ、産業に都合のよい楽しみを人々に提供する。かつては労働者の労働力が搾取されていると盛んに言われた。D いまでは、むしろ労働者の暇が搾取されている。高度情報化社会という言葉が死語となるほどに情報化が進み、インターネットが普及した現在、この暇の搾取は資本主義を牽引する大きな力である。(國分功一郎「『好きなこと』とは何か?」)

 

ーーーーーーーー

 

(設問)

問1 空欄Xに入る次の5つの「文章のブロック」を並べ替えよ。(予想問題)

ア  それだったら、社会をより豊かなものにしようと努力する必要などない。

イ  なぜと言って、不正をただそうとする営みが実現を見たら、結局人々は不幸になるというのだから。

ウ  人々は社会をより豊かなものにしようと努力してきた。なのにそれが実現したら、人は逆に不幸になる。

エ  社会的不正などそのままにしておけばいい。豊かさなど目指さず、惨めな生活を続けさせておけばいい。

オ  もしラッセルの言うことが正しいのなら、これはなんとばかばかしいことであろうか。

 

問2 傍線部Aについて、「ラッセルの述べていること」を、筆者が「やはり何かがおかしい」と感じるのはなぜか。最適なものを、次の中から一つ選べ。(同志社大学)

ア  ラッセルの主張に従えば、すでに自由を獲得した西欧諸国の若者たちが、自分の才能を発揮する場を求めて、共産主義革命が進行中のロシアに移住してしまうことになるから。

イ  ラッセルの主張に従えば、人々が幸福を得るためには、不正や不便との闘いなど努力すべき課題が残されていた、19世紀のヨーロッパに戻る必要が生じてしまうから。

ウ  ラッセルの主張に従えば、打ち込むべき仕事をもつ人々も、打ち込むべき仕事を外から与えられない人間も、ともに不幸であり、人類に本当の幸福はありえないことになってしまうから。

エ  ラッセルの主張に従えば、人々が努力してよりよく、より豊かな社会を実現させると、新世界の創造など打ち込むべき仕事をもてなくなり、不幸に陥ってしまうことになるから。

オ  ラッセルの主張に従えば、人類が豊かさを目指して社会のなかにある不正や不便と闘ってきたのは、建前にすぎなかったからこそ、よりよい社会が実現してしまったことになるから。

 

問3 空欄Yに入る次の5つの段落を並べ替えよ。(予想問題)

ア  ところがいまでは「趣味」をカタログ化して選ばせ、そのために必要な道具を提供する企業がある。テレビCMでは、子育てを終え、亭主も家にいる、そんな年齢の主婦を演じる女優が、「でも、趣味ってお金がかかるわよね」とつぶやく。すると間髪を入れず、「そんなことはありません!」とナレーションが入る。カタログから「趣味」を選んでもらえれば、必要な道具が安くすぐに手に入ると宣伝する。

イ  こう問うてみると、これまでのようにはすんなりと答えがでてこなくなる。もちろん、「好きなこと」なのだから個人差があるだろうが、いったいどれだけの人が自分の「好きなこと」を断定できるだろうか?

ウ「好きなこと」という表現から、「趣味」という言葉を思いつく人も多いだろう。趣味とは何だろう? 辞書によれば、趣味はそもそもは「どういうものに美しさやおもしろさを感じるかという、その人の感覚のあり方」を意味していた(『大辞泉』)。これが転じて、個人が楽しみとしている事柄を指すようになった。 

エ  ならば今度はこんな風に問うてみよう。その「好きなこと」とは何か? やりたくてもできなかったこととはいったい何だったのか? いまそれなりに余裕のある国・社会に生きている人たちは、その余裕をつかって何をしているのだろうか?

オ  土曜日にテレビをつけると、次の日の日曜日に時間的・金銭的余裕をつぎ込んでもらうための娯楽の類を宣伝する番組が放送されている。その番組を見て、番組が勧める場所に行って、金銭と時間を消費する。さて、そうする人々は、「好きなこと」をしているのか? それは「願いつつもかなわなかった」ことなのか?

 

問4  傍線部Bについて、ガルブレイスの考えが「経済学者たちから強い抵抗にあった」のは、なぜか。最適なものを、次の中から一つ選べ。(同志社大学)

ア  資本主義発生以前の19世紀では、広告やセールスマンの言葉によって組み立てられる欲望はなかったから。

イ  19世紀の初めでは、消費者の個別の注文を受け、生産者がモノを生産する「消費者主義」が、正当性をもっていたから。

ウ  消費者の需要がまずあって、生産者がそれを感知して供給するという考え方が、経済学を支配していたから。

エ  消費者の需要によって経済は動いているとする経済学者に、生産者の都合を優先する考えが受け入れられなかったから。

オ  「ゆたかな社会」、すなわち、余裕のある社会の到来は、経済学者ガルブレイスの思い込みにすぎなかったから。

 

問5 傍線部Cについて、カントの考える「認識という仕組み」の説明として最適なものを、次の中から一つ選べ。(同志社大学)

ア  人間は、あらかじめもっている世界認識という型を現象にあてはめて、主体性を発揮する。

イ  因果関係という概念は、「炎」と「熱」の場合には説明が可能だが、「楽しい」の場合には不可能になる。
ウ  人間は、原因と結果を結びつける因果関係という概念を働かせて、知覚から感覚を導き出す。
エ  因果関係という概念のうち、「から」にあたる型を現象にあてはめて、世界を受け取る主体性が期待される。 
オ  人間は、あらかじめもっている概念にあてはめて世界を理解し、主体的にまとめ上げる。


問6 本文中の「好きなこと」と、ほぼ同じ意味を持つ漢字2字の語句を、すべて抜き出せ。(予想問題)

  

問7 本文の内容に合致するものを、次の中から二つ選べ。(同志社大学)

ア  国や社会が豊かになれば、人々に金銭的余裕と時間的余裕が生まれる。

イ  余裕のある国・社会に生きている人々は、あらゆる活動が生存のために行われる生活を忘れている。

ウ  娯楽の類を宣伝する番組は、趣味をカタログから選びやすいように配慮した、企業の好意に基づいている。

エ  「趣味」を「その人の感覚のあり方」と説く辞書の定義は、今日では無効になっている。

オ  20世紀には、文化という領域が大衆に向かって開かれ、文化産業が巨大化した。

カ  いつの時代でも、文化や芸術は経済の支配化にある。

 

問8 傍線部Dについて、「いまでは、むしろ労働者の暇が搾取されている」のは、なぜか説明せよ。(句読点とも40字以内) (同志社大学)

 

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(解説・解答)
問1(文章並べ替え問題)

→並べ替え問題は、まず、2~3のセットを早く確定することが、解法のポイントです。

 まず第一に、

オ「もしラッセルの言うことが正しいのなら、これなんとばかばかしいことであろうか。」、

ウ「人々は社会をより豊かなものにしようと努力してきた。なのにそれが実現したら、人は逆に不幸になる。」、

ア「それだったら、社会をより豊かなものにしようと努力する必要などない。」、

の文脈より「オ→ウ→ア」のセットができます。

 エはアの言い換えです。

 イは「オ→ウ→ア→エ」の理由部分になります。

(解答) オ→ウ→ア→エ→イ

 

問2(傍線部説明問題・理由説明問題)

 直前の【8】~【11】段落、直後の【13】段落に着目してください。

 標準レベルの問題です。

(解答) エ

 

問3(段落並べ替え問題)

 →並べ替え問題は、まず、2~3のセットを早く確定することが、解法のポイントです。

 イ・エの問題提起部分に注目すれば、「エ→イ→オ」は明白です。

 また、空欄直後の【26】「さて、カタログからそんな『その人の感覚のあり方』を選ぶとはいったいどういうことなのか?」より、「ウ→ア」がラストになることが分かります。

(解答) エ→イ→オ→ウ→ア

 

問4(傍線部説明問題・理由説明問題)

 解法としては、傍線部直前の、

【29】「経済は消費者の需要によって動いているし動くべきであるとする「消費者主権」という考えが長く経済学を支配していたがために(→「ために」に注意してください)

に注目してください。

(解答) ウ

 

問5(傍線部説明問題)

 解法としては、

「彼らが利用するのは、18世紀ドイツの哲学者カント[1724~1804]の哲学だ。 カントは人間が行う認識という仕組みがどうして可能であるのかを考えた。

という傍線部直後の

「どうやって人間は世界を認識しているのか? 人間はあらかじめいくつかの概念をもっている、というのがカントの考えだった。人間は世界をそのまま受け取っているのではなくて、あらかじめもっていた何らかの型(概念)にあてはめて理解しているというわけだ。」、

 【45】段落の「人間は世界を受け取るだけでない。それらを自分なりの型にそって主体的にまとめ上げる。18世紀の哲学者カントはそのように考えた。」

に着目するべきです。

(解答) オ

 

問6(キーワードの類語を抜き出す問題・記述式問題)→入試頻出です

→この問題は、本文を熟読する前に見た方が効率的です。

 解法としては、筆者が「好きなこと」を、分かりやすく具体化して、言い換えている点に注目してください。

 筆者の立場に立って、筆者の「工夫」や「丁寧さ」を読み取る態度が必要になります。

 そのうえで、資本主義・文化産業の「操作」・「先取り」という「仕掛け」を読み取るとよいでしょう。

(解答)  趣味・需要・欲望・感性

 

問7(趣旨合致問題)

→趣旨合致問題は、本文を熟読する前に見た方が効率的です。そのうえで、各選択肢のポイントを、前もって、チェックしておくべきでしょう。

ア 【15】・【18】段落に合致しています。

イ   本文に、このような記述は、ありません。

ウ 【38】・【47】・【52】段落に反しています。

エ   「今日では無効になっている」の部分が本文に反しています。

オ 【39】段落以降に合致しています。

カ   「言い過ぎ」になっているので、誤りです。

(解答) ア・オ

 

問8(傍線部説明問題・理由説明問題・記述式問題)

→この問題も本文を熟読する前に見た方が効率的です。

 この問題は、問6に関連しています。傍線部は、筆者が最も主張したいキーセンテンスです。

 傍線部の理由としては、直前の、

【51】段落「資本主義の全面展開によって、少なくとも先段落進国の人々は裕福になった。そして暇を得た。だが、暇を得た人々は、その暇をどう使ってよいのか分からない。何が楽しいのか分からない。自分の好きなことが何なのか分からない。」、

【52】段落「そこに資本主義がつけ込む。文化産業が、既成の楽しみ、産業に都合のよい楽しみを人々に提供する。かつては労働者の労働力が搾取されていると盛んに言われた。」、

さらに、
【47】段落「わたしたちはそうして自分の『好きなこと』を獲得し、お金と時間を使い、それを提供している産業が利益を得る。」、

に注目するとよいでしょう。

(解答)
人々が暇を活用できないことにつけ込み、文化産業が楽しみを提供し利益を得るから。(39字)

 

ーーーーーーーー

 

(出典) 《序章   「好きなこと」とは何か?》『暇と退屈の倫理学』國分功一郎、の一節

 

 ーーーーーーーー

 

 なお、問題文本文の続き、つまり、「序章」の続きには、以下のような重要な記述があります。赤字部分に特に注意して、熟読してください。

なぜ暇は搾取されるのだろうか? それは人が退屈することを嫌うからである。人は暇を得たが、暇を何に使えばよいのか分からない。このままでは暇の中で退屈してしまう。だから、与えられた楽しみ、準備・用意された快楽に身を委ね、安心を得る。では、どうすればよいのだろうか? なぜ人は暇の中で退屈してしまうのだろうか? そもそも退屈とは何か? 

 こうして、暇の中でいかに生きるべきか、退屈とどう向き合うべきかという問いが現れる。〈暇と退屈の倫理学〉が問いたいのはこの問いである。



(3) 『暇と退屈の倫理学』の構成

 『暇と退屈の倫理学』の「序章」の最後に,本書の構成について,著者・國分功一郎氏が簡潔にまとめているので、それを引用します。

 「最初の第一章では,暇と退屈というこの本の主題の出発点となる考えを練り上げる。暇と退屈がいかなる問題を構成しているのかが明らかにされるだろう。

 第二章から第四章までは主に歴史的な見地から暇と退屈の問題を扱っている。
 第二章はある人類学的な仮説をもとに有史以前について論じる。問題となるのは退屈の起源である。
 第三章は歴史上の暇と退屈を,主に経済史的な観点から検討し,暇が有していた逆説的な地位に注目しながら,暇だけでなく余暇にまで考察を広める。
 第四章では消費社会の問題を取り上げ,現代の暇と退屈を論じる。

 第五章から第七章では哲学的に暇と退屈の問題を扱う。
 第五章ではハイデッガーの退屈論を紹介する。
 第六章ではハイデッガーの退屈論を批判的に考察するためのヒントを生物学のなかに探っていく。
 第七章ではそこまでに得られた知見をもとに,実際に<暇と退屈の倫理学>を構想する。」

 

 ーーーーーーーー

 

(当ブログによる解説)

 第四章以下では「消費と労働」、「疎外」について考察しています。
 つまり、現代人は、ある程度の「豊かさ」と「暇」を入手したが、その「暇な時間」に何をしたいのか、よく分からない人が多い。人類は他の動物と異なり、環世界を変幻自在に飛び回ることができる自由な存在であるために、退屈を嫌う。その点に企業・広告業界等が注目し、人々が余暇に行うであろう欲望の対象を用意し、広告宣伝等により誘導する。つまり、私たちの需要・欲求は、あらかじめ企業等の供給側によって支配されているという構造があるのです。

 これに対して、國分氏は、受動的で際限のない、虚しい「消費」を批判し、「真の豊かさ」としての「浪費」の意義を強調しています。
 そして、真の豊かな「浪費」を享受するために、浪費を味わえるようにする一定の訓練と、動物的「とりさらわれ」(→「熱中。集中」という意味)の重要性を主張するのです。

 

(4)当ブログにおける『中動態の世界』(國分功一郎)関連記事の紹介

  『中動態の世界』は2017年度発行の最新の哲学書です。2017年度のベストセラーになっている、話題の哲学書です。2018年度以降の入試頻出出典になる可能性が高いので、要注意です。

 

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(5)國分功一郎氏の紹介・著書

國分功一郎(こくぶん・こういちろう)
1974年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。高崎経済大学経済学部准教授。専攻は哲学。

 

【著書】

『スピノザの方法』(みすず書房)、

『暇と退屈の倫理学』(朝日出版社。のち増補新版、太田出版。第2回紀伊國屋じんぶん大賞受賞作)、

『哲学の自然』(中沢新一との共著、太田出版)、

『ドゥルーズの哲学原理』(岩波書店)、

『来るべき民主主義──小平市都道328号線と近代政治哲学の諸問題』(幻冬舎新書)、

『社会の抜け道』(古市憲寿との共著、小学館)、

『哲学の先生と人生の話をしよう』(朝日新聞出版)、

『統治新論──民主主義のマネジメント』(大竹弘二との共著、太田出版)、

『近代政治哲学――自然・主権・行政』(筑摩書房・ちくま新書)、

『民主主義を直感するために』(晶文社)、

『中動態の世界――意志と責任の考古学』(医学書院。第16回小林秀雄賞受賞作)など。

 

(6)当ブログにおける「哲学」関連記事の紹介

 

  「哲学」は入試国語(現代文)・小論文の頻出分野です。国語(現代文)・小論文対策として、ぜひ、参照してください。

 

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ーーーーーーーー

 

今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

ご期待ください

 

  

 

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