現代文最新傾向LABO 斎藤隆

入試現代文の最新傾向を分析し、次年度の傾向を予測する大胆企画

予想問題『ゲンロン0 観光客の哲学』東浩紀/哲学/グローバリズム

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 哲学者である東浩紀氏は、入試国語(現代文)・小論文における、最近の入試頻出著者です。

 東氏が最近、『ゲンロン0 観光客の哲学』という画期的な書を発行しました。

 この哲学書は、現代のグローバリズム、トランプ現象を強く意識しています。

 内容的にみて、来年度以降の入試国語(現代文)・小論文に出題される可能性が高いので、国語(現代文)・小論文対策として、今回は本書の解説をします。

 

ゲンロン0 観光客の哲学

 

 

(2)『ゲンロン0 観光客の哲学』(東浩紀)の解説

 

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【本書執筆の背景】

 本書執筆の背景として、東氏は、ツイートで以下のように述べています。本書理解の参考になると思われるので、以下に引用します。

「ゲンロン0は哲学と文学を扱った本ですが、その背景には、震災(→東日本大震災)後、『いまここ』の現実に右往左往することしかできなくなった人文学と批評全体への静かな怒り、というか(自戒を込めた)絶望が宿っています。そんなことを書きました。」(東浩紀@ゲンロン6発売中 @hazuma 2017・4・8)


 また、本書の冒頭には、以下のような記述があります。

「ぼくはこの四半世紀、哲学や社会分析からサブカル評論や小説執筆まで、多岐にわたる仕事を行ってきた。それゆえ、受容も多様で、不毛な誤解に曝されることもあった。本書はその状況を変えるためにも書かれた。だから本書はいままでの仕事をたがいに接続するように構成されている。本書は、『存在論的、郵便的』の続編としても、『動物化するポストモダン』の続編としても、『一般意志2.0』の続編としても、『弱いつながり』の続編としても読むことができるはずである。『クォンタム・ファミリーズ』の続編としてすら読むことができるかもしれない。」(P7)

【本書の主題→「誤配」・「観光客」】

 本書の主題は、初めに、以下のように明示されています。
「誤配こそが社会をつくり連帯をつくる。だから、ぼくたちは積極的に誤配に身を曝さねばならない」(P9)


 グローバリズムの進展と、それへの反動としてのナショナリズムの台頭という状況下で、リベラリズムの理念である「普遍性」は崩壊しています。現代の世界では、人々は、以前のようには「寛容」を他者に対して示せなくなりつつあります。
 このような、何となく居心地の悪い時代において、リベラルな思考の基本として、著者は「観光客」の概念を強く主張しています。

 

【東氏の主張する「観光客」とは何か】

 本書冒頭で、東氏は、前著の『弱いつながり』を要約して、次のように説しています。
「ぼくは2014年に『弱いつながり』という小さな本を刊行した。そこでぼくは、村人、旅人、観光客という三分法を提案している。人間が豊かに生きていくためには、特定の共同体にのみ属する『村人』でもなく、どの共同体にも属さない『旅人』でもなく、基本的には特定の共同体に属しつつ、ときおり別の共同体も訪れる『観光客』的なありかたが大切だという主張である。」(P14)

 さらに、本書では、次のようにも述べています。
「ぼくはこの本で、もういちど世界市民への道を開きたいと考えている。ただし、ヘーゲル以来の、個人から国民へ、そして世界市民へという弁証法的上昇とは別のしかたで。それが観光客の道である。」(P154・155) 

 そして、観光学は経済などの側面から観光を規定するばかりで、人文学的な問いをしてこなかった、と言っています。

 

【なぜ、「観光客」的なあり方が重要なのか】

 端的に言えば、リベラルな知識人が主張する「他者を大事にしよう」という言葉に、誰も耳を貸さなくなり始めているからです。

 この点について、著者は以下のように述べています。
「この70年ほどの、人文系のいわゆる『リベラル知識人』にはひとつの共通の特徴がある。それはみな、手を替え品を替え『他者を大事にしろ』と訴え続けてきたということである。」(P15)

 しかし、イギリスのEU離脱、「アメリカ第一」を宣言するトランプ大統領の登場、頻発するテロ、西欧における極右政党の台頭など、今や「他者を大事に」というリベラルの主張は影響力を喪失しています。

 世界の人々は、自分や自分の国のことを第一に考えたいと考え始めているようです。

 

 このような問題点に対して、東氏は「観光客というあり方」を前面に押し出すという方針を提示します。東氏は、この方針の主旨を以下のように述べています。

「他者とつきあうのは疲れた、仲間だけでいい、他者を大事にしろなんてうんざりだ」と叫び続けている人々に、「でも、あなたたちも観光は好きでしょう」と問いかけ、そしてその問いかけを入り口にして、彼らを、いわば裏口から、「他者を大事にしろ」というリベラルの命法のなかにふたたび引きずりこみたいと考えている、と。

 そして、「観光客から始まる新しい(他者の)哲学を構想する。これが本書の目的である。」(P17)と続けています。

 

【人文系知識人のグローバリズム・アレルギー】

 東氏は、「観光客の哲学」を論じる前提として、「人文系知識人のグローバリズム・アレルギー」について考察しています。 
 そして、「グローバリズム・アレルギー」こそ、彼らの限界であると、以下のように言っています。
「グローバリズムを悪としてしか捉えてこられなかったこと。それこそがいままでの人文思想の限界だと考える。」(P32)


 この主張は、本書の大きなポイントになっていることに注意してください。

 「グローバリズム」は、「欲望の無制限の解放」と表裏一体であるとして、「グローバリズム」に批判的な人文系知識人は、むしろ多数派なのです。
 

 これに対して、東氏は、インタビューにおいても、以下のように、「グローバリズムへの抵抗」に賛意を示していません。
「この本のテーマでもありますが、ぼく自身はあまりグローバリズムは悪いと思っていません。だから『抵抗』ということもあまり考えません。思想が抵抗の道具だ、という発想が前提になっている今の人文書の読者さんとは、この点でも世界観が大きくずれています。」(『週刊読書人ウェブ』2017年5月4日・東浩紀氏インタビュー)


 そして、以下のように、グローバリズムのプラス面を容認したうえで、東氏は議論を進めるのです。

「グローバリズムは確かに富の集中を強めただろう。先進国内部で貧富の差を拡大もしただろう。しかし同時に国家間では貧富の格差を縮めてもいる。いまや世界は急速に均質になりつつある現代では国家間の経済格差は、各国国大の都市と地方の格差よりも小さくなりつつある。」(P33)

 世界はグローバリズムにより「フラット化」しました。

 この現実の哲学的意味を問うことが、「観光」の哲学的意味を問うことでもあるとして、「観光」について、以下のように論は進められます。

「観光は、本来ならば行く必要がないはずの場所に、ふらりと気まぐれで行き、見る必要のないものを見、会う必要のないひとに会う行為である」(P34)

「観光客にとっては、訪問先のすべての事物が商品であり展示物であり、中立的で無為な、つまりは偶然のまなざしの対象となる。」(P35)

 

【なぜ、「観光」をキーワードにしているか】

 なぜ観光をキーワードにしているか、といえば、「観光が必要なものではなく、しかも偶然性を強くもっていて、それが郵便的だからだ」と、東氏は述べています。以下に引用します。

「観光客と二次創作の両者に共通するのは無責任さである。観光客は住民に責任を負わない。同じように二次創作者も原作に責任を負わない。観光客は、観光地に来て、住民の現実や生活の苦労などまったく関係なく、自分の好きなところだけを消費して去っていく。二次創作者もまた、原作者の意図や苦労などまったく関係なく、自分の好きなところだけを消費して去っていく。」(P45・46)

 ただ、この「観光客の哲学」という理論に説得性を持たせることは、容易ではありません。  

 なぜならば、近代から現代に至るまで、人文系の思想家は、「観光客」を考慮の外に置いていたからです。

 

【なぜ、「観光客」は哲学の対象にならなかったのか】

 著者は、ヘーゲル、カール・シュミット、ハンナ・アレントなどの哲学者の見解を検証して、この理由を追求していきます。

 そして、明らかになるのは、ここでも、「人文系知識人のグローバリズム・アレルギー」が関係しているということです。

 東氏は以下のように述べています。

「シュミットもコジェーヴもアーレントも、19世紀から20世紀にかけての大きな社会変化のなかで、あらためて人間とはなにかを問うた思想家である。そこでシュミットは友と敵の境界を引き政治を行うものこそが人間だと答え、コジェーヴは他者の承認を賭けて闘争するものが人間だと答え、アーレントは広場で議論し公共をつくるものこそが人間だと答えた。」(P108)

 

 さらに、「これまでの人文学には、ある偏った無意識の欲望があったのだ」と、以下のように主張しています。

「シュミットとコジェーヴとアーレントは同じパラダイムを生きている。彼らはみな、経済合理性だけで駆動された、政治なき、友敵なきのっぺりとした大衆消費社会を批判するためにこそ、古きよき『人間』の定義を復活させようとしている。言い換えれば、彼らはみな、グローバリズムが可能にする快楽と幸福のユートピアを拒否するためにこそ、人文学の伝統を用いようとしている。本書が『観光客』について考えることで乗り越えたいのは、まさにこの無意識の欲望である。」(P109・110)

「20世紀の人文学は、大衆社会の実現と動物的消費社会の出現を『人間でないもの』の到来として位置付けた。そしてその到来を拒否しようとした。しかし、そのような拒否がグローバリズムが進む21世紀で通用するわけがない。」(P110)

 

 以上のように、著者は、「大衆社会の実現と動物的消費社会の出現」に批判的な「20世紀の人文学」を、「21世紀で通用」しないと、断言しています。この点も、本書のポイントになっています。

 現実に即して考察していく東氏の特徴が、よく現れていると思います。

 

 そして、東氏は、「20世紀の人文学」を立脚点としながら、「21世紀で通用」する理論の構築を試みようとするのです。
 ここで、「20世紀の人文学」の伝統の限界を、逆に活用していこうするのです。柔軟な、創造的な頭脳の凄みを感じます。
 以下に列挙する、その理論構成を丁寧に熟読してください。

 

 まず、「実は、『観光客』には、彼らが『人間ならざるもの』(→この強烈な表現に注目してください)として排除しようとしたすべての要件がそろっている」と東氏は言います。(P111・112)

 それは、「モダンな人間観」、「政治から排除されるべき異物性」です。

 つまり、「観光客」は「20世紀の人文学」からは「まともな人間」とは評価されてない、ということです。

 このことについての東氏の、明快な考察を以下に引用します。入試の題材になりそうな緻密な、丁寧な論考です。

「観光客は大衆である。労働者であり消費者である。観光客は私的な存在であり、公共的な役割を担わない。観光客は匿名であり、訪問先の住民と議論しない。訪問先の歴史にも関わらない。政治にも関わらない。観光客はただお金を使う。そして国境を無視して惑星上を飛びまわる。友もつくらなければ敵もつくらない。そこには、シュミットとコジェーヴとアーレントが『人間ではないもの』として思想の外部に弾き飛ばそうとした、ほぼすべての性格が集っている。観光客はまさに、20世紀の人文思想全体の敵なのだ。だからそれについて考え抜けば、必然的に、20世紀の思想の限界は乗り越えられる。(P111・112)

 

 上記の考え方は、まさに、「逆転の発想」と言えます。

 「20世紀の思想の限界」を乗り越えるためには、20世紀の思想が無視した対象 す(=「観光客」)の価値を再検証して、それについて考え抜く必要があるとしているのです。

 

【21世紀という時代の図式】

 以下では、「21世紀という時代」についての、東氏による分析が述べられています。現状に適合する理論構築のための、前提です。

 ここから、21世紀という時代の図式が整然と整理されていきます。以下に重要ポイントを引用します。それぞれの詳細は後述します。

「現代は、政治にはナショナリズムが、経済にはグローバリズムが割り当てられ、共存している『二層構造』の時代である。」(123・124)

「リバタリアニズム(→自由至上主義)はグローバリズムの思想的な表現で、コミュニタリアニズム(→共同体主義)は現代のナショナリズムの思想的な表現である。」

 

 そして、国民国家(=ネーション)間の関係を「愛を確認しないまま、肉体関係だけをさきに結んでしまったものになりがちな」関係にたとえています。以下に引用します。

「いまの時代、経済=身体は、欲望に忠実に、国境を越えすぐにつながってしまう。けれども政治=頭はその現実に追いつかない。政府=頭のほうは、両国のあいだにはさまざまな問題があり、いまだ信頼関係は育っていないので、経済=身体だけの関係は慎むべきだと考える。とはいえ市民社会=身体はすでに快楽を知っており、関係はなかなか切断できない。機会があればまた関係をもってしまう。比喩的に言えば、いま世界でそのような事態が起きている。」(P126) 

 

【「観光客の哲学」の方向性】

 以上のように述べたうえで、東氏は、「本書が構想する観光客の哲学」の方向性を、以下のように考察しています。
(P127) 「21世紀の世界は、人間が人間として生きるナショナリズムの層と、人間が動物としてしか生きることのできないグローバリズムの層、そのふたつの層がたがいに独立したまま重なりあった世界だと考えることができる。この世界像のうえであらためて定義すれば、本書が構想する観光客の哲学なるものは、グローバリズムの層とナショナリズムの層をつなぐヘーゲル的な成熟とは別の回路がないか、市民が市民社会にとどまったまま、個人が個人の欲望に忠実なまま、そのままで公共と普遍につながるもうひとつの回路はないか、その可能性を探る企てである。」(P127)

 

 なお、東氏は、本書で「グローバル化した現代」を以下のように二項対立で提示しています。

 まじめな公⇔ふまじめな私
 社会⇔実存
 人間(誇り高き精神)⇔動物(欲求を満たすのみ)
 全体主義⇔個人主義
 ナショナリズム⇔グローバリズム
 国民国家⇔帝国
 リベラリズム⇔リバタリアニズム

 上記で注目するべき点は、「グローバリズム」→「帝国」、という点です。
 

【「郵便的マルチチュード」という新たな概念】

 以上の考察を元にして、東氏は、現代の思想的な困難を次のようにまとめています。

「リバタリアニズムはグローバリズムの思想的な表現で、コミュタリアニズムは現代のナショナリズムの思想的表現である。そして、リベラリズムは、かつてのナショナリズムの思想的な表現だ。
 リベラリズムは普遍的な正義を信じた。他者への寛容を信じた。けれども、その立場は20世紀後半に急速に影響力を失い、いまではリバタリアニズムとコミュタリアニズムだけが残されている。リバタリアンには動物の快楽しかなく、コミュタリアンには共同体の善しかない。このままではどこにも普遍的な他者は現れない。それがぼくたちが直面している思想的な困難である。」(P132・133)

 

【では、この思想的困難を克服する道はあるのだろうか】

 結論的には「観光客の哲学」に行きつくことになりますが、そこに至るまでの経路が以下に展開されます。


 まず、「観光客」は、このような「二重構造の時代」において、「動物の層から人間の層へつながる横断の回路、すなわち、市民が市民として市民社会の層にとどまったまま、そのままで公共と普遍につながる回路」(p144)として位置づけられます。
 すなわち、「観光客」とは「帝国(→グローバリズム)の体制と国民国家の体制のあいだを往復し、私的な生の実感を私的なまま公的な政治につなげる存在の名称」(P155)です。

 
 そして、東氏は以下のように、「世界市民への道」、つまり「連帯」への道を「弁証法的上昇とは別の方法」で模索すると述べています。

「ぼくはこの本で、もういちど世界市民への道を開きたいと考えている。ただし、ヘーゲル以来の、個人から国民へ、そして世界市民へという弁証法的上昇とは別のしかたで。それが観光客の道である。」(P154・155) 

 

【「観光客の哲学」の構想の契機】

 では、こうした状況把握をしたうえで、東氏は、「観光客の哲学」の構想の契機をどこに見出しているのでしょうか。


 そこで著者が注目したのが、アントニオ・ネグリとマイケル・ハートによる『帝国』(アントニオ・ネグリとマイケル・ハート)という書にある「マルチチュード」という概念です。

 「マルチチュード」とは、本書『観光客の哲学』内では「帝国の内部から生まれる帝国の秩序そのものへの抵抗運動を広く指す言葉」と説明されており、反体制運動や市民運動などを指します。

 著者が「マルチチュード」に注目した理由は、それが私的な生と公共の政治を分割しない性質、つまり上記の「二重構造」を揺るがす性質を持つ概念だからです。

 しかし、その一方で「マルチチュード」には重大な欠陥もあります。東氏は、以下のように説明しています。
「ひとことで言えば、マルチチュードがなぜ生まれるのか、そのメカニズムがうまく説明されていなかったし、また生まれたあとの拡大の論理にも無理があった。」(P155)


 つまり、「マルチチュード」は政治を動かすための方法論に問題があるのです。

 そこで著者は、この「マルチチュード」に修正を加えます。それが、『存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて』(1998年発行の著者の書)で提示された「誤配」(→「配達の失敗や予期しないコミュニケーションを引き起こす」という意味)という概念です。


 つまり、「観光客」とは訪れた先で偶然的に出会った人と言葉を交わす人たちであり、「誤配」の可能性を多く含んでいます。彼らは、連帯なしにコミュニケーションをして、私的な欲望で公的な空間をひそかに変容させる。そして、それは事後的に連帯が存在するかのような錯覚を与える、と言うのです。

 すなわち、観光客は観光の場で、さまざまな人や事物と出会う。それは、たまたま入った美術館や土産物屋かもしれない。観光客は、そこで「連帯」しようとはしない。「そのかわりたまたま出会ったひとと言葉を交わす」。その「偶然的なコミュニケーション」を通じて、あとから「なにか連帯らしきものがあったかのような気もしてくる」と、述べています。

 

 以下に引用する部分は、 「観光の魅力」を簡潔に表現しています。

「観光客が観光対象について正しく理解するなどまず期待できない。しかし、それでもその『誤配』こそがまた新たな理解やコミュニケーションにつながったりする。それが観光の魅力なのである。」(P159)


 著者は以上の点から、「観光客」を哲学的に言い換えたものとして、「郵便的マルチチュード」と表現するのです。

 

【「郵便的マルチチュード」の定義、効果】

 「郵便的マルチチュード」の定義として、東氏は以下のように述べています。重要なポイントなので、熟読してください。

 「郵便的マルチチュード」とは、「たえず連帯しそこなうことで事後的に生成し、結果的にそこに連帯が存在するかのように見えてしまう、そのような錯覚の集積がつくる連帯を作り出す集団」(P159)です。

 (→「郵便的」という言葉は、東氏の前著『存在論的、郵便的』の中核となる概念です。
 「郵便的」というのは「誤配=絶対的な偶然性」を重視する東氏のキーワードです。つまり、「郵便的」とは、「誤配、すなわち、配達の失敗や予期しないコミュニケーションの可能性を多く含む状態」を意味しています。)


 つまり、「これからの人類の連帯」は、デモのようなやみくもな動員でなく、「郵便物の誤配のような予期せぬ出会いの集積」で作られるとするのです。


 なお、東氏は、「郵便的マルチチュード」の具体的イメージを、インタビューで以下のように答えています。より分かりやすくなるので、ここで引用します。

「本では書いていないのですが、『郵便的マルチチュード』の実践のひとつの例は学校だと思います。たとえば同窓会。あれはまさに、『連帯は本当は存在しないのに、むしろ失敗していたのに事後的に連帯があるかのように見える』例ですね。ああいう時間的なズレを抱えた連帯をどう作るかが、郵便的マルチチュードの実践の肝だと思います。」(『週刊読書人ウェブ』2017年5月4日・東浩紀氏インタビュー)


 著者は「マルチチュード」がグローバリズムの中から生まれてくることに注目します。しかし、ネグリらが国民国家から「帝国」(→グローバリズム)への移行を考えているのに対して、著者は移行は起こらずに二層構造がこれからもつづくと考えています。

 ただし、ネグリらが「ネットワーク」・「連帯」を重視するのに対して、著者は「連帯そのもの」を重視するような考えは「否定神学的」であり、限界に突き当たる、と主張しています。

 (なお、著者は、「否定神学的」について以下のように説明しています。反体制運動や市民は、連帯も、連帯の理由も存在しないのに、連帯することになっている。無から連帯が生まれている。こういう思考回路を「否定神学的」と言っているのです。)

 

 以上のことを、東氏は、以下のように丁寧に記述しています。入試題材として採用される可能性が高いので、熟読するようにしてください。

「ネグリたちのマルチチュードは、あくまでも否定神学的なマルチチュードだった。だから、彼らは、連帯しないことによる連帯を夢見るしかなかった。けれども、ぼくたちは、観光客という概念のもと、その郵便化を考えたいと思う。そうすることで、たえず連帯しそこなうことで事後的に生成し、結果的にそこに連帯が存在するかのように見えてしまう。そのような錯覚の集積がつくる連帯を考えたいと思う。ひとがだれかと連帯しようとする。それはうまくいかない。あちこちでうまくいかない。あとから振り返ると、なにか連帯らしきものがあったかのような気もしてくる。そして、その錯覚がつぎの連帯の(失敗の)試みを後押しする。それが、ぼくが考える観光客=郵便的マルチチュードの連帯のすがたである。」(P159)

 さらに、こうも述べています。
「マルチチュードが郵便化すると観光客になる。観光客が否定神学化するとマルチチュードになる。連帯の理想を掲げ、デモの場所を求め、ネットで情報を集めて世界中を旅し、本国の政治とまったく無関係な場所にも出没する21世紀の『プロ』の市民運動家たちの行動様式がいかに観光客のそれに近いか、気がついていないのだ。観光客は、連帯はしないが、そのかわりたまたま出会ったひとと言葉を交わす。《デモには敵がいるが、観光には敵がいない。デモ(根源的民主主義)は友敵理論の内側にあるが、観光はその外部にあるのだ。」(P160)

 ポイントになるのは以下の部分です。
「ネグリたちはマルチチュードの連帯を夢見た。ぼくはかわりに観光客の誤配を夢見る。マルチチュードがデモに行くとすれば、観光客は物見遊山に出かける。前者がコミュニケーションなしに連帯をするのだとすれば、後者は連帯なしにコミュニケーションする。前者が帝国から生まれた反作用であり、私的な生を国民国家の政治で取りあげろと叫ぶのだとすれば、後者(→観光客)は帝国と国民国家の隙間から生まれたノイズであり、私的な欲望で公的な空間をひそかに変容させるだろう。」(P160)


 「観光客」は、近代思想では考慮外ですが、著者は「観光客」を通して、「新たな政治的連帯の回路」を考えられるのではないか、と主張しているのです。

 そして、「二十一世紀の新たな抵抗は、帝国と国民国家の隙間から生まれる。それは、帝国を外部から批判するのでもなく、また内部から脱構築するのでもなく、いわば誤配を演じなおすことを企てる。」(P192)と強調しています。
 さらに、また、ローティの「憐れみ」の考えを紹介し、「この『憐れみ』こそがある種の誤配を生み、社会をつくるのだ」と主張しています。


ーーーーーーーー

 

 本書は、グローバル化が進展した社会における、国際協調の枠組みの柔軟化のための、傑出した試論と評価できるでしょう。

 実現可能な世界市民への道が提示されています。

 普通の市民が普通の欲望的な観光をすることにより、世界に平和的な協調的なムードが広がる可能性に頼るしか道はない。これを絶望的状況と見るか、観光という希望があることこそ大きな救いと見るかは、評価が分かれるところでしょう。

 しかし、私は、現在の便利で安価な世界観光事情を考慮すると、決して、グローバリズムが派生させている現代の混乱を、完全に絶望視する必要はないと思います。

 東氏も、現在の世界観光事情をも意識して、「観光客の哲学」に「連帯への光明」を見出だしているのでしょう。

 
 なお、以下のインタビューは、本書を読解するうえで、かなり参考になると思われるので、引用します。東氏の真意が、よく分かります。

「(聞き手=坂上秋成) こういう言い方が適切かは分かりませんが、それでも第一部での『郵便的マルチチュード』がどういうものであるかという結論みたいなものを無理やり言うのであれば、それは『憐れみ』に集約されるのかなとも思うのですが。

(東) 偶然性に導かれた感情移入ですね。

 あと、これも本には書いていないんですが、ぼくの考えでは生きることそのものが『観光』なんです。ぼくたちはこの現実に観光客のようにやってくる。たまたまある時代ある場所に生まれ落ち、ツアー客がツアーバスで見知らぬ他人と同席するように、見知らぬ同時代人と一緒に生きていく。ツアーは1年で終わることもあれば80年続くこともあるけど、いつかは終わり、元の世界に戻っていく。そしてそんな観光地=この現実に対して、ぼくたちはほとんど何もできない、何も変えられないし、ほとんどのことは理解できない。でも、ちょっとだけ関わることができる。人生ってそんなもんだと思いますね。」(『週刊読書人ウェブ』2017年5月4日・東浩紀氏インタビュー)

 

 

(3)東浩紀氏の紹介

東 浩紀(あずま ひろき)
1971年東京都生まれ。哲学者・作家。専門は現代思想、表象文化論、情報社会論。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。株式会社ゲンロン代表、同社で批評誌『ゲンロン』を刊行。著書に『存在論的、郵便的』(新潮社、第21回サントリー学芸賞)、『クォンタム・ファミリーズ』(新潮社、第23回三島由紀夫賞)、『弱いつながり』(幻冬舎)など多数。2017年、『ゲンロン0 観光客の哲学』(ゲンロン)を刊行。

 

【単著 編集】

『存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて』(新潮社、1998年)
『郵便的不安たち』(朝日新聞社、1999年/のち文庫)
『不過視なものの世界』(朝日新聞社、2000年、対談集)
『動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会』(講談社現代新書、2001年)
『ゲーム的リアリズムの誕生―動物化するポストモダン2』(講談社現代新書、2007年)
『情報環境論集―東浩紀コレクションS』(講談社・講談社BOX、2007年)
『批評の精神分析―東浩紀コレクションD』(講談社・講談社BOX、2007年)
『郵便的不安たちβ』(河出文庫・東浩紀アーカイブス1、2011年)
『サイバースペースはなぜそう呼ばれるか』(河出文庫・東浩紀アーカイブス2、2011年)
『一般意志2.0―ルソー、フロイト、グーグル』(講談社、2011年/のち、講談社文庫、2016年)
『セカイからもっと近くに―現実から切り離された文学の諸問題』(東京創元社、2013年)
『弱いつながり―検索ワードを探す旅』(幻冬舎、2014年)
『ゲンロン0 観光客の哲学』(ゲンロン、2017年)

 

【共著 編集】

笠井潔『動物化する世界の中で』(集英社・集英社新書、2003年/ 往復書簡形式)
大澤真幸『自由を考える―9・11以降の現代思想』(日本放送出版協会・NHKブックス、2003年)
北田暁大『東京から考える―格差・郊外・ナショナリズム』(日本放送出版協会・NHKブックス、2007年)
大塚英志『リアルのゆくえ―おたく/オタクはどう生きるか』(講談社・講談社現代新書、2008年)
宮台真司『父として考える』(日本放送出版協会・生活人新書、2010年)
猪瀬直樹『正義について考えよう』(扶桑社新書、2015年)
大山顕『ショッピングモールから考える―ユートピア・バックヤード・未来都市』(ゲンロン、2015年/のち、幻冬舎新書、2016年)
小林よしのり、宮台真司『戦争する国の道徳―安保・沖縄・福島』(幻冬舎新書、2015年)
大山顕『ショッピングモールから考える―付章―庭・オアシス・ユートピア』(幻冬舎、2016年)
津田大介、中川淳一郎、夏野剛、西村博之、堀江貴文『ニコニコ超トークステージ ネット言論はどこへいったのか?』(角川学芸出版、2016年)

 

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今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

ご期待ください。

 

     

 

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ゲンロン0 観光客の哲学

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動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

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現代日本の批評 1975-2001

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