現代文最新傾向LABO 斎藤隆

入試現代文の最新傾向を分析し、次年度の傾向を予測する大胆企画

予想問題/「AI 社会 新たな世界観を」山極寿一『朝日新聞』

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 

 AI 社会、科学批判は、最近の流行論点、頻出論点です。

 この論点については、背景知識の有無がモノをいいます。

 最近、これらの論点に関する、入試頻出著者・山極寿一氏の秀逸な論考(「AI社会 新たな世界観を」山極寿一『朝日新聞』《科学批評》)が発表されました。

 そこで、国語(現代文)・小論文対策として、この論考、および、この論考に関連する論点を、詳しく解説します。

 

 

朝日新聞デジタル

朝日新聞デジタル

 

 

 

(2)予想問題/「科学技術発展のリスク AI社会 新たな世界観を」 山極寿一《科学季評》『朝日新聞』2018年8月8日

 

(本文は太字にしました)

(概要です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です) 

 

 最近のあらゆる未来志向型プロジェクトで、人工知能(AI)は欠かせない要素だ。AIを用いたスマート農業やスマート漁業、複雑なデータ解析を一瞬でこなす医療診断、人口縮小社会の効率的な情報システムの構築など、枚挙にいとまがない。果たしてAIは人間に明るい未来を約束してくれるだろうか。

 AI社会とは、情報によって人間が地球規模でつながる仕組みだ。人々はすでに情報なしで暮らせない社会に生きているが、今後あらゆる行為を選ぶうえでAIの判断が欠かせなくなる。言葉を持った人間が、身体ではなく脳でつながろうとしてきた当然の帰結だと私は思う。

 人類が700万年にわたる進化の過程で手に入れた最も大きな力は、相手の気持ちに立って物事を推し量れる共感力だ。人類の祖先が200万年前に脳を大きくし始めたのは、集団の規模が拡大し、より多くの人と密接に協力関係を結ぶようになったからだ。ゴリラの3倍の大きさを誇るホモ・サピエンスの脳でも、共感し合いながら暮らせる集団の規模は150人程度だ。それが、約7万年前に言葉による認知革命が起こり、さらに1万2千年前に始まった農耕によって、より多くの人々が一緒に暮らすことが可能になった。

 以後、人類は世界を言葉で分類し、あらゆるものを情報化して操作してきた。だが、共感力を用いた人間のつながりは、身体を用いたコミュニケーションが不可欠だ。情報を介して脳だけでつながっても共感力は発揮できない。これまでの戦争における人間の扱いや、誤った情報操作による虐待の歴史は、いまだに人間が共感力を広げられていないことを示している。

 


(当ブログによる解説)

 「共感力」については、入試頻出著者・山崎正和氏の次の論考(「物神崇拝と動物愛護ののちに」『一冊の本』2001年2月号)が、かなり参考になります。

 以下に、概要を引用します。

 

「  一般に人間には対象のなかに自分と同質の生命を感じとる能力があって、この共感によって対象の生命と一体化することを感情移入という。

 そして、犬や花であれ無生物の人形であれ、とくに自分より小さいものに感情を移入したときに、その対象を可愛いと感じるらしい。そういう感情移入が起こるのは対象の形や性質にもよるが、それ以上に人間の心の側の積極的な能力によっている。現に実際には生命のない人形を可愛いと思うのは、明らかに特定の文化に育てられた心の作用の結果だろう。 

 ところで、この心の作用はもともとは「可愛さ」とは関係がなく、もっと広く物神崇拝という伝統的な精神の文化のなかで働いていた。巨大な岩石に畏敬を覚えたり、日常の食物や道具を「もったいない」と感じるのは、そういう文化の現れであろう。いうまでもなく巨石も一粒の米も可愛いものではなく、むしろ人が頭を垂れるべき対象であった。それをいえば人形も古代では可愛さの対象ではなく、恐れたり願をかけたりする、まじないの道具であった。なまじ人間の形をしているからややこしいが、人形は人間以上に大きい生命の象徴であって、いわば物神崇拝の精神を凝縮して具象化した対象だったようである。

 これにたいして、一匹ぴきの子犬に可愛らしさを感じるのは、これまではもっと直接的な生命の共感によるものと考えられてきた。大きさの点でも子犬は人間を超えた生命の象徴ではなく、逆に人間より弱く小さな生命の持ち主である。それを愛するのは物神崇拝とは別の文化の現れであり、動物愛護と呼ばれる精神の発動だと考えられてきた。いったい動物愛護の感情がいつ生まれたか定かではないが、おそらく十七世紀ごろの近代的な自然観の誕生と何らかの関係があるだろう。ともかくそれは一粒の米をもったいないと思う感情とは異なり、むしろ人間の子供を可愛がる感情に似ていると見なされてきた。そしてたぶん人形が人に可愛がられる対象に変わったのも、こうした文化の歴史的な変化と並行していたはずである。 

 だが、人形が初めて可愛い存在に変わったとき、それはおそらく人間の想像力の多大な発揮を必要とするものだっただろう。形も単純だったし、もちろん自分の力で動くものではなかった。犬や猫のような愛玩動物とは違って、向こうから人間の感情移入の働きを誘発する存在ではなかった。これには直接的な生命の共感が難しいだけに、人間はより多く努力して実在しない生命を読みとる必要があった。いいかえれば、人形を可愛いと感じるためには、人は物神崇拝の文化を失いながら、物神崇拝のために求められるような強い想像力を要求されていたはずである。やがて何百年もの歳月をかけて、人間は少しずつ人形を可愛がる感情を育て、同時に可愛らしさをそそる人形の形状を生みだしてきた。しかしそれでも、近代文化は人形と愛玩動物のあいだに厳然たる区別を置く一方、どんな単純な人形にも生命を感じとる感受性を残してきたのである。 

 こう考えると、「アイボ」の出現はこの長い区別を攪乱し、物神崇拝と動物愛護の文化の終わりの始まりになるのかもしれない。まるで生きた動物のように反応する機械にたいして、人間にはそこに生命を読みとる強い想像力はいらない。可愛らしさは対象のほうからかってにやってきて、人間の受け身の心を直接にとらえてくれる。これを続けて行けば感情移入の能力は萎縮して、やがて動かない人形は可愛いものではなくなるかもしれない。同時に愛玩動物の可愛らしさも生物の特権的な特徴ではなくなり、少なくとも感情の次元で動物と機械との区別が弱くなることが考えられるのである。

 すでに科学の世界では物神崇拝的な生命観は完全に否定され、生物と無生物の距離さえ大きく縮まろうとしている。法律の世界でも動物と物体の区別は捨てられ、飼い犬を殺しても器物損壊としてしか罰せられない。そこへまったく思いがけない方向から、いま感情文化の世界にも同じ流れの変化が迫っているのかもしれないのである。

(山崎正和「物神崇拝と動物愛護ののちに」『一冊の本』2001年2月号)

 

 また、「身体を用いたコミュニケーション」、つまり、「身体コミュニケーション」については、入試頻出著者・市川浩氏の次の論考(『「身」の構造―身体論を超えて』)を、知っておくべきでしょう。

 概要を以下に引用します。

 

「  相手がにっこりすると、思わず私もにっこりします。これは相手がほほ笑んでいるから、こちらもほほ笑み返さなければ礼儀上悪いと思ってにっこりするわけではありません。相手のほほ笑みを見ると、こっちも思わずほほ笑んでしまう。

 逆に、相手の顔がこわばっていると、自然に私の顔もこわばってしまう。つまり、他者の身体というのは、決して科学が扱うような客体的身体ではなく、表情をもった身体であり、私の身体もまた気づかぬうちに表情や身ぶりで、それに応えています。

 つまり、身体的レヴェルでの他者の主観性の把握と、私の応答があるわけです。これがいわゆるノン・ヴァーバル・コミュニケーション(→「非言語コミュニケーション)ですが、もしこうした身体的な場の共有がなけれは、言葉のうえでは話が通じても、心が通わないでしょう。

 逆に場が共有されていれば、言葉が足りなかったり、多少行き違ってもわかり合うことができます。

(中略)

 電話だと誤解が起こりやすいのは、身体的レヴェルでのコミュニケーションが制限されているからです。大事な話があるときは、電話では話せないから会えないか、と言います。

(中略)

 これは生き身が、単なる対象としての身体ではなく、互いに感応(→「共感」)し、問いかけ、応答する、表情的身体だからこそ可能なのです。人々の間で無意識のうちに交わされる身体的対話は、社会のうちに共通の表情を作り上げて行きます。外国人を見ると同じ顔に見えるように、われわれもひとりひとり違った顔をしているように見えながら、外から見れば、共通の表情をしているのでしょう。 

 (市川浩『「身」の構造―身体論を超えて』)

 

 

〈身〉の構造 身体論を超えて (講談社学術文庫)

〈身〉の構造 身体論を超えて (講談社学術文庫)

 

 

 

(「科学技術発展のリスク AI社会 新たな世界観を」 山極寿一)

 科学技術は今、情報によって人間や社会を作り替えようとしている。世界的なベストセラー「サピエンス全史」の著者ユヴァル・ノア・ハラリは、新作「ホモ・デウス」で、人間が超人となり神の領域に手を出そうとする未来を警告している。

 現代の科学は、人間の感覚や情動も、生化学データを処理するアルゴリズム (→当ブログによる「注」→アルゴリズムとは、数学、コンピューティング、言語学、あるいは関連する分野において、問題を解くための手順を定式化した形で表現したものを言う。算法と訳されることもある)であることを証明した。興奮とは、脳内の伝達物質アドレナリンが大量に放出されることと同義だといったように。だから、不安や苦痛、不快や恐怖は人為的に生化学的な処置をすることで取りのぞける。人類を悩ましてきた病気や戦争による被害はこの1世紀、特効薬の開発や、情報技術による世界的なルールの徹底によって激減した。

 次に人間が望むのは寿命の延長、不死の身体で、AIを含む科学技術の発展により生まれたゲノム編集や人体の工学的な改良によって実現する。今や人間は超人類を生み出す神の手を持とうとしていると、ハラリは主張する。

 その時、人間は生きる目的を何に求めたらいいのだろう。一部の人間が人類を超越し、神のごとき能力を持つホモ・デウスになれば、人種差別どころか、人と家畜に匹敵するような大きな差別が生まれるかもしれない。もはやこの世界の外にいる神は存在しない。不死の世界に天国も地獄も影響力を持ちえないからだ。

 こうなると、科学技術という“宗教”に対抗する世界観が必要だ。

 

 

(当ブログによる解説)

「  次に人間が望むのは寿命の延長、不死の身体で、AIを含む科学技術の発展により生まれたゲノム編集や人体の工学的な改良によって実現する。今や人間は超人類を生み出す神の手を持とうとしていると、ハラリは主張する。

 その時、人間は生きる目的を何に求めたらいいのだろう。一部の人間が人類を超越し、神のごとき能力を持つホモ・デウスになれば、人種差別どころか、人と家畜に匹敵するような大きな差別が生まれるかもしれない。もはやこの世界の外にいる神は存在しない。不死の世界に天国も地獄も影響力を持ちえないからだ。

 こうなると、科学技術という“宗教”に対抗する世界観が必要だ。

の部分は、「パラダイムシフト」に関連しています。

 

 「パラダイムシフト」(paradigm shift)とは、その時代や分野において当然のことと考えられていた認識・思想、社会全体の価値観などが革命的に変化することをいいます。「パラダイムチェンジ」ともいいます。

科学史家トーマス・クーンが『科学革命の構造』で提唱した「パラダイム概念」の説明で用いられたものが拡大解釈されて一般化したものです。

 「パラダイムシフト」は、狭義では「科学革命」と同義です。

 

 一般用語としての「パラダイム」は「規範」を意味する単語です。

 しかし、科学史家トーマス・クーンの科学革命で提唱した「パラダイム概念」が、拡大解釈され、一般化されて用いられ始めました。

 拡大解釈された「パラダイム」は「認識の仕方」・「常識」・「支配的な解釈」などの意味合いで使われています。

 広義の「パラダイムシフト」は、「発想の転換」や「常識への懐疑」、「革新的な発想」などの意味で使用されています。

 人類は、恒常的に何らかの重大な問題に直面しているため、そのたびに新たな解決が求められています。

 その解決のための手段としての「パラダイムシフト」は、一定の説得力を持っているために、一般化したのです。

 「パラダイム」は、狭義には、その時代・分野における主流の思想が衰え、新しい思想が主流となることを指します。

『ホモ・デウス』によると、「パラダイムシフト」の必要性が強く感じられます。

 近い将来、以下のように、「データイズムに社会/世界の最高権威の地位を譲り渡すことになる」可能性が高いからです。

 

 この点を丁寧に解説している池田純一氏の論考(「第5回:『サピエンス全史』に続く物語、そして人類は「データの神」に駆逐される~連載・池田純一書評」『ワイアード・ブック・レヴュー』)の一部の概要を以下に引用します。

 

「  この話が厄介なのは、長寿・救命という「ヒューマニズム(人間第一主義)」の要請に素直に従っていく過程で、その試み自体がヒューマニズムの前提、すなわち、人間が世界の中心であり、人間が世界秩序を決める「最終権威」である、という考え方の大前提を切り崩してしまうところだ。なぜなら、人間よりもシステムのほうが人間のことをよく知る存在であることがあからさまに公知のものとなってしまうからだ。なにより、人間の精神状態(マインドやコンシャスネス)も、生体活動を支える生化学的アルゴリズムが発現させたものにすぎないと、当の〈システム〉が日々囁いてくる。

 こうしてヒューマニズムは内破し、データイズムに社会/世界の最高権威の地位を譲り渡すことになる。

 かつて神がいた場所を「データ」が占める。

(「第5回:『サピエンス全史』に続く物語、そして人類は「データの神」に駆逐される~連載・池田純一書評」『ワイアード・ブック・レヴュー』)

 

 

〈未来〉のつくり方 シリコンバレーの航海する精神 (講談社現代新書)

〈未来〉のつくり方 シリコンバレーの航海する精神 (講談社現代新書)

 

 


 「パラダイムシフト」とは、現代の科学技術の急速な発展により発生するであろう「データイズム」という「人を超える力」を、いかにして「人類」がコントロールしていくか、という問題が発生します。

 

 まさに、山極氏が主張するように、「科学技術という“宗教”に対抗する世界観が必要」になってくるのです。

 ここで言う「世界観」とは、「人間性」・「人間の自由」をいかに確保するか、の問題でもあります。

 

 新たな、想像を超える、AI 社会における「世界観」をいかに考えていくか、の問題は、簡単な問題ではありません。熟考するべき問題です。

 

 ただ、その際には、以下の村上陽一郎氏の見解(「科学と世界観」『歴史としての部分』)のように、「人間と自然の関係」は、強く意識する必要があるでしょう。

 つまり、人間の生物的側面、人間と自然は一体、という点を軽視できないのです。

 

「  今日的な視点で科学技術と「進歩」を考えた時、南北の格差に気づく。北は、科学技術の「進歩」による「恩恵」を享受する段階から、支払った代価をいとおしみ始めた。「恩恵」とはいいながら、環境破壊によって未来を危うくするという代価を支払っていることにようやく気づき始めた。しかし、南はようやく、代価を支払ってでも、「進歩」を手に入れようとする。このような北と南のライムラグが問題になる。

 北は人類の歴史の主体者として、科学技術の自然の支配と制御による、人類の悲惨と病苦からの解放という「救済」の自明性を疑い始めた。科学技術による環境破壊などを考えると必然的な流れである。しかし、そこには根本的な問題が3つある。

(中略)

 第三は、人類も自然の導く流れの外にはあり得ないことである。確かに、人間が自分たちに都合よく自然を支配する自由度は大きい。もし、生物学的な「種」が、「同一の行動様式を持つ固体の集合」と定義されているならば、人間の文化を一つの「種」とみなすことができる。人間全体というよりも、それぞれの文化を持つ民族や文化圏が一つの「種」を形成し、地球上にいくつのも「種」が共存していると言うことができる。とするならば、人間は、同一の行動様式を持つ「種」を自らの選択によって自由に決定できるかといえば、明らかにそうではない。人間と自然は切り離せない一体のものであり、人間が自然を支配し制御しているようでありながら、それは自然に強く制限されているのである

(「科学と世界観」『歴史としての科学』村上陽一郎)

 

 

歴史としての科学

歴史としての科学

 

 

 

 また、「AI 社会と世界観」を安易に考えることは危険だということも、知っておくべきでしょう。

 科学技術の発展の流れに漫然と乗ってしまうことは、「ただ生存しているだけの空疎な人生」を送ることでしょう。

 以下の池田晶子氏の論考(「『コンビニエントな人生』を哲学する」『死とは何か』)は、かなり参考になります。

 

「  科学技術は、生存することそれ自体が価値であり少しでも長く生存することがよいことなのだという大前提を少しも疑わないことでこそ、めざましい進歩を遂げることができたのだ。そして、少しでも長く生存する限り、その生存はより快適なほうがいい、これが例の「クオリティ・オブ・ライフ」という妙な文句の真意である。この延長線上に、やがて「コンビニエンス」という発想が出てくる。便利さが価値になるほど、人間の価値は薄まる。 

 便利さを享受する愚昧な人々ただ生存しているだけの空疎な人々、夢の近未来社会とは、要するにこれである。わざと悲観的に言っているのではない。何のために何をしているのかを内省することなく、ひたすら外界を追求してきたことの当然の帰結である。 

 さて「便利」ということについて考えてきたが、対する「不便」というのは、便利さを知らなければ出てこない言葉である。したがって、不便という言葉を知った人はすでに不幸だろう。古来より人は、この状態を警戒して、「足るを知る」、すなわち、あるがままを認めることの幸福を説いたのではなかったか。

(池田晶子「『コンビニエントな人生』を哲学する」『死とは何か』)

 

 

死とは何か さて死んだのは誰なのか

死とは何か さて死んだのは誰なのか

 

 


(「科学技術発展のリスク AI社会 新たな世界観を」 山極寿一)

 この春、「人間とは何か」という問いに、AIとゴリラと仏教の視点から考えるシンポに参加した。大乗仏教では、世界を構成するあらゆるものは「縁起」によってつながっていると考える。一見、AIによるネットワークの拡大と似ているが、AIがデータ化された情報によってつながっているのに対し、仏教は直観により世界を把握しようとする。

 

 

(当ブログによる解説)

 「縁」については、最近出版された『熊楠の星の時間』(中沢新一)に分かりやすい説明があるので、以下に引用します。

 

「  仏教は世界の構造を「縁=relation」としてとらえます。存在しているものも非存在のものも、すべては縁によってつながり関係しあっているから、そこには実体がない。この仏教の発想からは、人間の外にある自然を、「自然」という自立的な実体として認めてしまうことは許されないことでした。

(『熊楠の星の時間』中沢新一)

 

 

熊楠の星の時間 (講談社選書メチエ)

熊楠の星の時間 (講談社選書メチエ)

 

 

  

 「縁起」とは、「全ての現象は、他との関係が縁となって生起するということ」です。

 全ての現象は、原因や条件が相互に密接に関係しあって成立しているものです。

 つまり、全ての現象は、独立的なものではなく、条件・原因がなくなれば結果も自ずからなくなるのです。

 これは、仏教の根本的教理の一つであり、釈迦の悟りの内容を表明するものとされています。

 


(「科学技術発展のリスク AI社会 新たな世界観を」 山極寿一)

 たとえば、科学は人間の身体や心の動きを図や画像、数式によって捉えようとするが、それは生物の一側面に過ぎない。生物は本来、仲間や他の生物の動きを様々な感覚を用いて直観的に予測し反応している。そこに情報には還元できない認識力や生物どうしの関係が存在する。

 宗教学者の中沢新一は、言葉や自然科学など、事物を分類して整理する「ロゴスの論理」に対し、事物を独立したものとして取り出さず、関係の網の目の中の作用として認識する「レンマの論理」が、人間に新しい世界観をもたらすかもしれないと述べている。

 


(当ブログによる解説)

 「レンマ」に関しては、『熊楠の星の時間』(中沢新一)に以下のような、丁寧な記述があります。

「  西欧ではこのロゴスの知性作用をとても重視しました。キリスト教時代でもそうですし、近代科学の時代になってもロゴスこそが真理を表現できる能力を持つ、と考えられてきました。とくに近代科学では、ロゴスの持つ能力の幅はぐっと狭められて、形式論理としてのロジックが支配的になります。

「「レンマ」の学を実際に打ち立てたのは仏教だったという。仏教では「ロゴス」の中心になっている、同一律、矛盾律、排中律の3つの法則を否定した。そういう思考を徹底させたナーガールジュナ(龍樹)(→当ブログによる「注」→龍樹は、2世紀に生まれたインド仏教の僧である。龍樹とは、サンスクリットのナーガールジュナの漢訳名で、日本では漢訳名を用いることが多い。中観派の祖であり、日本では、八宗の祖師と称されることがある)はそこで、生滅(存在と非存在)、断常(非連続と連続)、一異(一と多様)、来出、というロゴスの導き出した4つの世界現象のあり方を徹底的に否定し、不生不滅、不断不常、不一不異、不来不出こそが現象の真のあり方であると主張した。

 そして世界をレンマ的、直観的に把握するために、瞑想訓練が組み入れられ、具体的には言語の働きを停止させるヨガを行う。それによって世界の実相を見届けようとする。すると、ロゴスの知性作用によって「因果関係」を認められた現象の奥に、因果関係で結びつけられていない偶然性(蓋然性)の自由な運動として、この世界がつくられている様子が直観的に把握できるようになる。

(『熊楠の星の時間』中沢新一)

 


(「科学技術発展のリスク AI社会 新たな世界観を」 山極寿一)

 レンマの思想は、大正から昭和初期に発展した「西田哲学」や、今西錦司の自然学にも反映されている。現代の科学は時間を空間的に理解しようとするが、生物はその二つを同時に直観的に認識する。それが生命の流れを感じることだ西田幾多郎は言う。今西はこの世界の構造も機能も一つのものから分化したものであるから、生物は互いに理解しあい共存する能力を持っていると言う。その生命の認識や相互作用、生物どうしが織りなす全体像を、現代の科学技術はつかむことができない。

 

 

(当ブログによる解説)

  今西は、専門を細分化する西洋型分析主義では自然が見えないと考えていたのである。むしろ、自然をトータルなものとみる東洋的全体論を自分の考えの基礎にしていた。自然の中でカゲロウを観察し、種と種はそれぞれ棲み分けを通して共存しているという「棲み分け」理論を打ち出した。これも東洋的全体論が今西の思想の底流にあったからこそ発見されたものである。

 「今西説」によると、生理・生態がよく似た個体同士は、生活史において競争と協調の動的平衡が生じます。

 この動的平衡状態の中で組織されたものが実体としての種であり、今西が提唱する「種社会」です。

 「種社会」は様々な契機によって分裂し、別の「種社会」を形成するようになります。

 分裂した種社会はそれぞれ「棲み分け」ることにより、可能ならば競争を避けつつ、適切な環境に移動することができた時、「生物個体」・「種社会」はそれぞれ自己完結的・自立的な働きを示すのです。

 その結果、生じる生理・生態・形態の変化が進化であるとしました。

 

 

(「科学技術発展のリスク AI社会 新たな世界観を」 山極寿一)

 AIもレンマもつながりを重視することに変わりはない。ただ、手法が違うので、結果はまるで異なったものになる。情報によって効率的な暮らしを与えてくれるAI社会は、個体がデータに置き換わり差別や格差を広げる危険をはらむ。一方でレンマは生命のつながりや流れに目を開かせ、私たちに新しく生きる目的をもたらしてくれるかもしれない。

(「科学技術発展のリスク AI社会 新たな世界観を」 山極寿一《科学季評》『朝日新聞』2018年8月8日)

 

 

(当ブログ記事による解説) 

「  事物を独立したものとして取り出さず、関係の網の目の中の作用として認識する「レンマの論理」が、人間に新しい世界観をもたらすかもしれないと述べている。

「  レンマは生命のつながりや流れに目を開かせ、私たちに新しく生きる目的をもたらしてくれるかもしれない。

以上の山極氏の指摘は重要です。


 AI研究の方向性としては、東洋思想的な考えで、「環境全体の中で、AIや人間をどのように考えていくか」という視点が必要になってくるでしょう。

 

 (3)当ブログにおける「AI 社会」関連記事の紹介

 

 

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 今回の記事は、これで終わりです。 

 次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

 ご期待ください。

 

  

 

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