現代文最新傾向LABO 斎藤隆

入試現代文の最新傾向を分析し、次年度の傾向を予測する大胆企画

アイデンティティ・主体性/2018予想論点/体系的総整理③

(1)はじめに/早くも、当ブログの予想問題記事が2018センター試験国語第1問(現代文・評論文)に論点的中(「主体性の相対化」)しました

 

(今回の記事の記述は太字にしました)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です)


 『中動態の世界』(國分功一郎)、『勉強の哲学 』(千葉雅也)等が評判になったことにより、「アイデンティティ」の論点が、今年の流行論点になる可能性が高いと思われます。

 「アイデンティティ」は毎年、現代文・小論文で一定の割合で出題されている頻出論点ですが、2018年度は、より一層、出題率が高まると予想されるのです。

 

 さっそく、2018センター試験国語(現代文)「アフォーダンス」が出題されました。

 「物体の属性(形・材質等)が、物体の加工についてのメッセージをデザイナーに発している」とする考えです。

 2018センター国語(現代文)の出典『デザインド・リアリティ』は2008年発行です。なぜ10年前の本から出題されたのでしょうか?

 評判の哲学書『中動態の世界』(國分功一郎)のインパクトにより、「主体性の相対化」、「環境からの影響の重要性」が注目されていることが背景にあるのではないか、と思われます。

 

 また、2018センター試験国語(現代文・評論)の結論部分は 「原心理なるものは想定できず私達の心の現象は、文化歴史的条件と不可分の一体である‘心理学として再記述されていくであろう」となっています。

 この記述は『中動態の世界』(國分功一郎)における、「古代ギリシャ哲学の『意志概念の不在』」と「中動態」の説明と、ほぼ同内容であり、とても興味深いです。

 以上の『中動態の世界』における「古代ギリシャ哲学の『意志概念の不在』」と「中動態」の説明については、当ブログで予想出典(問題)記事として発表済みなので、ぜひ参照してください。

 

gensairyu.hatenablog.com

 

gensairyu.hatenablog.com

 

 今回の記事では、「アイデンティティ」・「自己」を、主に「主体性」・「自発性」、「思考」・「意志」の側面から考えて、当ブログの今までの記事を体系的に整理していきます。

 中心となるのは、『中動態の世界』関連記事です。

 適宜、「新情報」も追加します。

 

  そもそも、当ブログは以下の基本的方針で作成しています。

 以下に、当ブログの第1回記事の「開設の言葉」を引用します。

 

gensairyu.hatenablog.com

 

 ……………………………

 

 (引用開始)

 今現在の入試現代文・小論文の最新傾向として、注目するべきポイントとしては、2つの大きな柱があります。

【1】1つの柱は、「IT社会の光と影と闇」です。

 この論点・テーマは、3・11東日本大震災の前から登場していたので、割と有名ですが、最近のスマホの爆発的な流行により、新たな論点・テーマが発生しています。

 

【2】 もう1つの柱は、「3・11東日本大震災の各方面に対する影響」です。

 「各方面」は、実に多方面にわたっています。

 2016年の、センター試験や難関大学の現代文(国語)・小論文入試問題を、検討している現在も、この考えは変わってはいません。 

(引用終了)

 

 ……………………………

 

(今回の記事の記述)

 上記の「東日本大震災」と「情報化社会」・「IT化社会」の視点から見ても、「アイデンティティ」・「主体性」の論点は重要です。

 

 「東日本大震災」からの視点とは、

この出来事が、

「生と死」・「本質」・「人生」・「人生観」・「世界観」の「見直し」の契機、

「アイデンティティ」・「自己」・「主体性」の相対化、

「絆」・「共同体」・「人間関係」の再評価、

「ニヒリズム」の蔓延、

の契機になったということです。


 「情報化社会」・「IT化社会」からの視点とは、

「情報化社会」・「IT化社会」と「消費社会」が車の両輪となり、

人々の「暇」・「思考」・「自由」・「主体性」・「自主性」・「自己」の「搾取」をしているということです。

 

 前回の記事(「情報化社会・IT化社会/2018予想論点/体系的整理②」)に引用した入試頻出著者・國分功一郎氏の発言(2018年1月1日の朝日新聞)は「アイデンティティ」・「主体性」を考える際にも、かなり参考になるので、再掲します。

 

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(引用開始)

(青字は当ブログによる「注」です)

 

「(國分功一郎氏は)いまや平成の日常となった、満員電車の風景を例に語り始めた。多くの人がぼうっとスマホを見ている。消費社会は私たちを終わることのない消費のゲームに投げ込み、もはや依存症(→一種の「自己喪失」・「自己疎外」と評価できます)に近い。平成にもたらされたのは、依存を利用して人々にお金を使わせる仕組みではないでしょうか(→「資本主義」・「高度消費社会」による「マインドコントロール」・「飼育」です。「健康ヒステリー」も、同様です)」

 暇は「自分で自分のすることを決められる自由」。(→これこそ「自主性」・「自己確立」です)

 退屈は「満たされない状態」。
 國分はそう整理し、「暇だからといって退屈するわけではない」と言う。
 平成になってIT化が進んでも、人々は楽になるどころか逆に長時間、仕事に拘束される(→「IT化社会のマイナス面」です。「人間のロボット化・」が進行中です)。仕事以外も誰かとつながり続けている。(→「不安感」・「自己承認欲求」と言えます)

 自分が本当にしたいことは何なのか。心身が疲れてそれを考えられない。(→「思考停止」・「自己喪失」・「自己疎外」・「反知性主義」) 楽しむ(→「人生を楽しむ」ということです。「生の喜び」・「生きがい」そのものです)には、自分と向き合う時間や訓練が必要(→「思索の訓練」、または、國分氏が『暇と退屈の倫理学』で強調している「動物的とりさらわれ(没頭)」の訓練)なのです。人は楽しみ方を知らないと、暇、自由の中で退屈する。退屈がつらいから、スマホに貴重な時間を奪われる」

 國分はユダヤ人哲学者ハンナ・アーレントを思い出したと言う。
「アーレントは『孤独と寂しさは違う』と言っています。孤独とは、私が自分自身(→ここで言う「自分自身」とは、「思い出」・「課題」・「予定」・「夢」・「ビジョン」・「身体」・「感覚」・「欲望」・「意欲」等です)と一緒にいること(→「味わうこと」・「思考」・「思索」・「自問自答」)。自分と一緒にいられない人が寂しさを感じ、一緒にいてくれる他者を求める。だから、自己と対話できない。孤独にならなければ、人はものを考えられない。孤独(→ある意味で「自己そのもの」です)こそ、現代社会で失われているものです。」 (『朝日新聞』2018・1・1/平成とは/第一部 時代の転換/3幸福論/「一瞬のハッピーがあれば、人はまた走れる」) 

(引用終了)

 

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朝日新聞デジタル for Tablet

朝日新聞デジタル for Tablet

 

 

 

 なお、最近、発表した「2018予想論点/体系的整理①・②」については、以下のリンク画像から、ご覧ください。

 

gensairyu.hatenablog.com

 

gensairyu.hatenablog.com

 

 今回の記事の項目は以下のようになっています。

 

(2)『中動態の世界』ー「アイデンティティ」・「主体性」概念の再検討

(3)「自己喪失」・「自己疎外」/「思考停止状態」・「マインドコントロール」・「隷属的思考」・「反知性主義」

(4)対策ー「真のアイデンティティ」を取り戻すためには/対策論

(5)「自己肯定」・「自己承認」・「承認欲求」

 

中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)

 

 

(2)『中動態の世界』ー「アイデンティティ」・「主体性」概念の再検討

 

①『中動態の世界』國分功一郎/哲学/現代文・小論文予想出典(前編)

 

gensairyu.hatenablog.com

 

 最近評判になっている『中動態の世界』(國分功一郎)は、現在の「アイデンティティ」概念・「主体性」概念を根本的に見直す契機になる名著と言えます。

 この本を読めば、自責・責任感・自省に捕らわれ過ぎることはない、ということが分かります

 環境・状況・外部の中で、折り合いをつけながら、人間は仕方なく生き考えているという側面があるのです。

 「自己」・「主体性」が自分のすべてをコントロールしているわけではないのです。

 

 上記の記事のポイント部分を引用します。 

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(引用開始)

(2)『中動態の世界』の解説 ② 能動と受動をめぐる諸問題

 以下では、「能動/受動の二分法」と「意志・責任」の「密接な関係」についての記述が展開されます。

 本書の最重要部分です。

 大げさに言えば、この世の中の隠されたスリラーについて、冷静に記述されています。

「 『能動と受動の区別』は、すべての行為を『する』か『される』かに分配することを求める。しかし、この区別は、以上のことを考えてみると、非常に不便で不正確なものだ。だが、それにもかかわらず、われわれはこの区別を使っている。そしてそれを使わざるをえない。どうしてなのだろうか。」(P21)

「  能動/受動の区別の曖昧さとは、要するに、意志の概念の曖昧さなのではないか? 一方、能動や意志という概念は実に都合よく使われるものである。」(P24~26)

 

 上記の「能動や意志という概念は実に都合よく使われるものである」については、以下のように説明しています。

「  能動における『する』という行為の出発点は『私』にあり、また『私』こそがその原動力であることを強調する。だから、そこには『意志』の存在が喚起されてくる。そして、自分の『意志』で自由に選択した行為であるからには、そこには『責任』が伴ってくることにもなる。」(P22)

「  責任を負うためには人は能動的でなければならない。人は能動的であったから責任を負わされるというよりも、責任あるものと見なしてよいと判断されたときに、能動的であったと解釈されるということである。意志を有していたから責任を負わされるのではない。責任を負わせてよいと判断された瞬間に、意志の概念が突如出現する。

  『夜更かしのせいで授業中に居眠りをしているのだから、居眠りの責任を負わせてもよい』と判断された瞬間に、その人物は、夜更かしを自らの意志で能動的にしたことにされる。

 つまり、責任の概念は、自らの根拠として行為者の意志や能動性を引き合いに出すけれども、実はそれらとは何か別の判断に依拠しているということである。」(P25・26)

 

 「能動態」→「意志」→「主体性」→「責任」の流れは、極めて論理的に見えます。

 しかし、立ち止まって考えてみれば、詭弁のような怪しさに満ちた、胡散臭い言葉の構築に過ぎないのではないでしょうか。

 この点について、國分氏は、以下のように、説明しています。短い文章ですが、衝撃的な内容を含んでいるようです。

「  意志の概念が引き合いに出されたり、行為が能動と受動に振り分けられることには、一定の社会的必要性があることを意味している。」(P29)

 

 上記の文章は、読んでいて、ゾッとする内容です。「能動性と責任の密接な関係」、「主体性のリスク」が、よく分かります。以下の文章と合わせて読むことで、より理解が進むでしょう。

「  能動と受動の区別は、責任を問うために社会がある必要とするものだった。だが、社会的必要性はこの区別を単に想定し、要請しているのであって、それを効果として発生させているのではない。」

「  この区別はふだん、われわれの思考の中でまるで必然的な区別のあるかのように作用している。従って、この区別の外部を思い描くことは容易ではない。われわれは能動でも受動でもない状態をそう簡単には想像できない。」(P 32・33)

 まさに、スリラーです。日本の学校教育の強固さ、徹底性が、よく分かります。
 言語や文法が、権力による制度的支配の、見えない、隠された道具のように見えます。

 言語の法則に過ぎないと思われている文法が、責任の基礎にあること。

 このことは、驚きでしか、ありません。

 

 私たちは自由に思考するように思っていますが、実は、文法に支配されているということです。思考は言語の組み合わせにより構築されるのですから、このことは当然のことなのです。日々、意識していないだけです。そして、自由だと思いこんでいるだけです。

 

 さて、以下の文章から、さらに、「新たな驚き」の事実が明らかになります。丁寧に読んでください。「哲学的な覚醒のスタート」です。

「  フランスの言語学者バンヴェニストがはっきりと述べていることだが、能動と受動の対立というのは、一度これを知ってしまうとそれ以外のものが認められなくなるほどに強力だけれども、少しも普遍的なものではない。バンヴェニストは『多くの言語が能動態と受動態の対立を知らないし、そもそも、インド=ヨーロッパ語族の諸言語の歴史においても、この対立は比較的最近現れたものなのだ』と述べている。」(P34)

 (引用終了)

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 (今回の記事の記述)

  さらに、上記の記事のポイント部分を引用します。

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(引用開始)

(2)『中動態の世界』の解説 ④中動態の意味論

 本書によると、

「主体から発して主体の外で完遂する過程」として、「能動態しかない動詞」として挙げられているのは、「曲げる」「食べる」「与える」などです。

 一方で、「主語がその動作主である過程の内部にいる」として、「中動態しかない動詞」として挙げられているのは、「生まれる」「死ぬ」「寝ている」などです。(P86)

 

 中動態が指し示していたのは、「主語が過程の内部にある」状態です。中動態のみをとっていた動詞、たとえば「できあがる」「惚れ込む」「希望する」などは、どれも、生成の過程、感情に突き動かされている過程、未来に期待している過程を表しています。

 逆に能動態のみをとっていた動詞、たとえば「行く」や「食べる」は、「行ってしまう」や「平らげる」といったニュアンスを持ち、主語が完結した過程の外部にいる状態を表していました。(P88・89 )

「中動/能動」という対で語られる時、問題になるのは「過程の内か外か」でした。


 ここで、古代ギリシアに「意志」という概念はなかった、という衝撃の事実が、明らかにされてます。

 中動態の動詞「生まれる、思われる、現れる」は、自由な意志による主体的な行為ではない、ということです。そして、「能動/受動の対」で人間の行動を判断しようとする思考が、中動態的思考を抑圧した可能性が明らかにされます。


「中動態と対立するところの能動態においては、ーーこう言ってよければーー主体は蔑ろにされている。

 

『能動性』とは単に過程の出発点になるということであって、われわれがたとえば『主体性』といった言葉で想像するところの意味からは著しく乖離している」 (P91)

 能動態と中動態の対立が、能動態と受動態の対立に転じたということは、意志の有無が問題にされるようになったことを意味します。つまり、「能動/中動」が対立する世界には、「意志」は存在しなかった。つまり、古代ギリシアには、アリストテレスの哲学には、「意志」の概念はなかったのです。

 

重要なことなので、本書から引用します。

「 アレントによれば、ギリシア人たちは意志という考え方を知らない。彼らは意志に相当する言葉すらもたなかった。ギリシアの大哲学者アリストテレスの哲学には、意志の概念が欠けている。」(P100)

 (引用終了)

 

……………………………

 

 (今回の記事の記述)

 上記の、めまいのするような、驚くべき内容を、よく熟読してください。

 何かが、足元から、崩れるような感じさえ、します。

 「中動態の世界」を知ることで、「意志」・「主体性」・「自己」(アイデンティティ)の過大評価を見直すことができます。

 肩から力を抜いた人生を送ることができます。

 伝統的な生き方を知ることができたからです。

 

②『中動態の世界』國分功一郎/哲学/現代文・小論文予想出典(後編)

 

gensairyu.hatenablog.com

 

上の記事のポイント部分を引用します。

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(引用開始)

(2)「第5章・意志と選択/アレント」の解説

(引用部分は概要です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です) 

 

【アレントの意志論】

 本書によると、アレントは「能動/受動の図式」にこだわり、「中動性」の正しい理解に至っていないようです。國分氏は、アレントの『精神の生活』を解説しつつ、その点を厳しく指摘していきます。


 初めに、國分氏は、「アレントの意志の定義」を呈示しています。

「  アレントは次のように述べている。
 われわれは記憶は、過去に関わる精神的な器官と見なすことができる。 それは過ぎ去ったものにかかわっているからである。ならば同じ意味で、われわれは未来にかかわる精神的な器官を考えることができるだろう。それが意志である。」(P128 )

 

 アレントが批判している「アリストテレスの可能態の考え方」は、「未来は過去に存在していたものの帰結以外のなにものでもない」としています。

 この説に対して、アレントは次のように指摘しています。

「実在する一切のものには、その原因の一つとしての可能態が先行しているはずだ、という見解は、暗々裏に未来を、真正な時制とすることを否定している。」(P129)

 

 アレントは「未来」と「意志」の存在を強く主張しています。『中動態の世界』から引用します。

「アレントによれば、未来が未来として認められるためには、未来は過去からの帰結であってはならない。未来は過去から切断された絶対的な始まりでなければならない。そのような真正な時制としての未来が認められれたとき、はじめて意志に場所が与えられる。始まりを司る能力、何事かを始める能力の存在が認められることになる。」(P130)

 
 次に、『中動態の世界』は「意志と選択の違いとは何か?」の論点に入ります。
 まず、國分氏は、次のように述べています。

「意志の概念は、責任の概念と結びついている。われわれは、意志を、何ごとかを開始する能力として理解している。だからこそ、この言葉に基づいて責任を考えることができる。 」(P130)

 

【意志と選択の違いとは何か?】

 それでは、意志と選択の違いは何でしょうか?
 國分氏は、以下のように記述しています。

ある行為が過去からの帰結であれば、その行為をその行為者の意志によるものと見なすことはできない。その行為はその人によって開始されたものではないからである。たしかにその行為者は何らかの選択はしたのだろう。しかしこの場合、選択は諸々の要素の相互作用の結果として出現したのであって、その行為者が己の意志によって開始したのではないことになる。

 日常において、選択は不断に行われている。そして選択はそれが過去からの帰結であるならば、意志の実現とは見なせない。ならば次のように結論できよう。意志と選択は明確に区別されねばならない。」 (P131)

(引用終了)

 

  

(3)「自己喪失」・「自己疎外」/「思考停止状態」・「マインドコントロール」・「隷属的思考」・「反知性主義」

 

 「自己喪失」・「自己疎外」も「アイデンティティ」・「主体性」に関連する重要論点です。

 「自己喪失」・「自己疎外」は、「思考停止状態」・「マインドコントロール」・「反知性主義」を含むので、以下では、「思考停止状態」・「マインドコントロール」・「反知性主義」について解説した記事を紹介します。

 

①「予想問題・丸山真男『日本の思想』Ⅳ「である」ことと「する」こと①」/「思考停止状態」

 

gensairyu.hatenablog.com

 

 上の記事のポイント部分を引用します。 

 ……………………………

 

(引用開始)

 鷲田清一氏は、「現代日本の思考停止状態」を以下のように論じています。(以下は概要です)

(なお、赤字は当ブログによる強調、青字は当ブログによる注です)

 

「正面からはなかなか反対しにくい問題というのが、いまの社会には意外と多くある。(→当ブログによる注→この状態を、難関大学の入試現代文(国語)・小論文に出題されている論考では、「全体主義的傾向・風潮」と表現していることもあります)

 たとえば「エコ」。いま、環境保護に反対するひとはたぶんいないだろう。けれども環境保護がめざす人類文明のサステイナビリティ(持続可能性)について言えば、人類文明が育んできた諸価値のうちのいったい何をサステイン(維持・育成)するのかについて、突っ込んで議論されてきたとは思えない。くわえて、地球温暖化が科学的に実証されたことなのか・・・・・・。こうした問いよりも、それを大きな声では発しにくい空気のほうが、わたしにははるかにリアルに迫っている。

 「安心・安全」がいかに監視社会の深化と連動しているかの指摘も、何かひねくれ者の発言であるかのように受けとられる。あるいは「イノベーション」。〈新しさ〉の形而上学(→当ブログによる注→「哲学」という意味)こそ近代という時代を空転させることになった元凶であることの指摘も無視して、「イノベーション」がいかにもニューウェイヴであるかのように呼びかけられる。

 ああでもない、こうでもないとじっくり吟味する余裕もないままに、こぞって思考停止状態に陥っているという印象が拭(ぬぐ)えない。言いかえると、論理に代わってイメージの連接が、推論を駆動しているかのような印象が拭えない。」(『わかりやすいはわかりにくい?』(鷲田清一)の第13章「わかりやすいはわかりにくい?ー知性について」の冒頭部分)

 (引用終了)

 

 

②「現代文・小論文キーワード・最新オススメ本『現代思想史入門』船木享」/「隷属的思考」・「マインドコントロール」

 

gensairyu.hatenablog.com

 

 上の記事のポイント部分を引用します。

……………………………

 

(引用開始)

【 第1章 生命   4 生命政治   生と統計・生と死 】
「いまのひとびとには、健康のためにみずから進んで隷属しようとする思考があり、それを促すための膨大な情報が流されている。厚生権力は、行動ばかりでなく特定の思考を促進して、自由で平等であるはずのひとびとをいいなりにしようとしている。

 喫煙も肥満も運動不足も、一定割合のひとに深刻な状態をもたらすのは確かである。それは統計学的に正しい。だが、だからこそ逆に、統計学的には、一定割合のひとは、それにもかかわらず健康であり続け、あるいはほかのことが原因で死ぬのである。「裏は真ならず」、喫煙も肥満も運動不足も、それを解消すればするほど健康になるというわけではない。」

……………………………

 

(当ブログによる解説)

 つまり、「人生」=「常に、自分の健康のみに注意」、というバカバカしい展開になるのです。

 今は、まさに、一部の人々は、この状況になっています。 

 病人でもない人々が、日々、「自分の将来の病気への不安」に思い煩うということです。

 一種の自主的な「精神的幽閉」・「思考停止状態」です。

 見事な、反知性主義的状況と評価できます。

(引用終了)

 

 

③「頻出論点・「『私』消え、止まらぬ連鎖」高村薫・消費社会・欲望論」/「自己喪失」・「自己疎外」

 

gensairyu.hatenablog.com

 

 上の記事のポイント部分を引用します。

 ……………………………

 

(引用開始)

(概要です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(【1】【2】【3】・・・・は当ブログで付加した段落番号です)

 

「【2】持ち家がほしい。名声がほしい。力がほしい。そういう「私」は、はたしてどこまで「私」であるか。たとえば〔A=寸暇〕を惜しんで株に熱中する「私」を、「私」はどこまで「私」だと知っているか。人間の欲望について考えるとき、 まずはそう問わなければならないような世界に私たちは生きている。

 【3】たとえば、ある欲望をもったとき、私たちはそれをかなえようとする。その段階で、私たちはなにがしかの手段に訴えねばならず、そのために対外的な意味や目的への、欲望の読み替えが行われる。健康のため。家族のため。生活の必要のため、などなど。こうした読み替えは、すなわち欲望の外部化であり、欲望は、この高度な消費社会では「私」から離れて、つくられるものになってゆく。

【4】そこでは名声や幸福といった抽象的な欲望さえ、目と耳に訴える情報に外部化され、置換されるのが普遍的な光景である。たとえば、家がほしい「私」は、ぴかぴかの空間や家族の笑顔の映像に置換された新築マンションの広告に見入る。そこにいるのはうつくしい映像情報に見入る「私」であり、家族の笑顔を脳に定着させる「私」であって、たんに家がほしい漠とした「私」はずっと後ろに退いている。代わりに、家族の笑顔を見たい「私」が前面に現れ、それは映像のなかの新築マンションと結びついて、欲望は具体的なかたちになるわけである。

【5】けれども、こうしてかたちになった欲望は、ほんとうに「私」の欲望か。「私」はたしかに家がほしかったのだけれども、その欲望は正しくこういうかたちをしていたのか。仮に、確かに家族の笑顔を見たいがために家がほしかったのだとしても、家という欲望と、家族の笑顔という欲望は本来別ものであり、これを一つにしたのは「私」ではない、〔B=広告 〕である。

【6】このように、消費者と名付けられたときから「私」は誰かがつくり出した欲望のサイクルに取り込まれている。そこでは「私」は覆い隠され、ただ大量の情報に目と耳を奪われて思考を停止した、「私」ではない何者かが闊歩(かっぽ)している。」

( 高村  薫 「『私』消え、止まらぬ連鎖 情報に支配され『消費者』に」 )(朝日新聞・2006年1月5日・夕刊4面・文化欄「新・欲望論2」)

(引用終了)

 

 

君たちが知っておくべきこと: 未来のエリートとの対話

 

 

 ④「『君たちが知っておくべきこと』佐藤優③・現代文・小論文予想出典」/「マインドコントロール」

 

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 上の記事のポイント部分を引用します。

 ……………………………

 

(引用開始)

マインドコントロール(4)「自分の思考の鋳型(いがた)を知ろう」(P82)

佐藤氏の講義の概要を記述します。

「(佐藤) 皆さんに、ぜひ読んでほしいのが、岡田尊司(たかし)という精神科の先生が書いた『マインド・コントロール』という本です。

 たとえば、高学歴の人達がカルトに入信したり、ブラック企業で違法行為に手を染めていったりということがある。こういう人たちは、さまざまなマインド・コントロールを受けている。

 彼の分析によると、マインド・コントロールの原形は、子供たちが集まるスポーツクラブや進学塾にあると言うのです。そこでは、子供をトンネルに入れるみたいに周囲から遮断して、その小さな世界のルールや価値観で支配する。トンネルの先に見える明かりは、試合に勝つ、もしくは、志望校に合格すること。そこに向かって脇目もふらずに邁進(まいしん)していく、そんな世界を作る。

 この方法をとることで、確かに効率的に能力を伸ばすことはできるかもしれないけれど、そういう形で思考の鋳型(いがた)(→当ブログによる注→「鋳物を作る際に、溶かした金属を注ぎ入れる型」という意味)を作られた人というのは弱いのです。つまり、企業、役所などでも、比較的簡単に疑問も持たず、その世界に没入してしまう。マインド・コントロールされやすい。

 (引用終了)

 

 

⑤「2016東大国語ズバリ的中報告・内田樹『日本の反知性主義』」/「反知性主義」

 

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勉強の哲学 来たるべきバカのために

 

(4)対策ー「真のアイデンティティ」を取り戻すためには/対策論

 

 以下は、対策論の記事の紹介です。

 

①「予想問題『勉強の哲学 来たるバカのために』千葉雅也」/「自己改革」

 

gensairyu.hatenablog.com

 

上の記事のポイント部分を引用します。

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(引用開始)

(3)「第1章 勉強と言語ーー言語偏重の人になる」(P17~)の冒頭部分の解説

    第一章冒頭部分も重要な内容を丁寧に論じていて、出題可能性が高いので、概要を解説します。

(黒字は本文です)

(「見出し」は【太字】にしました)

 

【勉強とは、自己破壊である】

「  勉強とは、自己破壊(→この表現も刺激的で、この表現の意味を理解することがポイントになります)である。

 では、何のために勉強をするのか?

 何のために、自己破壊としての勉強などという恐ろしげなことをするのか?

 それは、『自由になる』ためです。

 どういう自由(→ここにおける「自由」の意味内容の理解も問題になりそうです)か? 

 これまでの『ノリ』から自由になるのです。」

 

「  私たちは、同調圧力によって、できることの範囲を狭められていた。不自由だった。その限界を破って、人生の新しい『可能性』を開くために、深く勉強するのです。

 けれども、後ろ髪を引かれるでしょう――私たちは、なじみの環境において、『その環境ならではのことをノってやれていた』からです。ところが、この勉強論は、あろうことか、それをできなくさせようとしている――勉強によってむしろ、能力の損失が起こる。」

 

「  こんなふうに、勉強は、むしろ損をすることだと思ってほしい。(→「損する」とは、どういう意味か? この点も問われそうです)

 勉強とは、かつてのノっていた自分をわざと破壊する、自己破壊である。

 言い換えれば、勉強とは、わざと『ノリが悪い』人になることである。」

 

【自由になる、可能性の余地を開く】

「  自由になるということ。それは、いまより多くの可能性を考え、実行に移せるような新しい自分になるということです。新たな行為の可能性を開くのです。そのために、これまでの自分を(全面的にではなくても)破壊し、そして、生まれ直すのです。第二の誕生です。

会社や家族や地元といった『環境』が、私たちの能性を制約している、と考えてみる。

 圧縮的に言えば、私たちは『環境依存的』な存在であると言える。」(P23)

 (引用終了)

 

 

暇と退屈の倫理学 増補新版 (homo Viator)

 

②「予想問題『暇と退屈の倫理学』國分功一郎/消費社会・真の豊かさ」/「動物的とらさらわれ(没頭)」

 

gensairyu.hatenablog.com

 

上の記事のポイント部分を引用します。

……………………………

 

(引用開始)

(当ブログによる解説)

 第四章以下では「消費と労働」、「疎外」について考察しています。
 つまり、現代人は、ある程度の「豊かさ」と「暇」を入手したが、その「暇な時間」に何をしたいのか、よく分からない人が多い。人類は他の動物と異なり、環世界を変幻自在に飛び回ることができる自由な存在であるために、退屈を嫌う。その点に企業・広告業界等が注目し、人々が余暇に行うであろう欲望の対象を用意し、広告宣伝等により誘導する。つまり、私たちの需要・欲求は、あらかじめ企業等の供給側によって支配されているという構造があるのです。

 これに対して、國分氏は、受動的で際限のない、虚しい「消費」を批判し、「真の豊かさ」としての「浪費」の意義を強調しています。

 そして、真の豊かな「浪費」を享受するために、浪費を味わえるようにする一定の訓練と、「動物的とりさらわれ」(→「没頭。熱中」という意味)の重要性を主張するのです。

(引用終了)

 

 

(5)「自己肯定」・「自己承認」・「承認欲求」

 

 「自己肯定」・「自己承認」・「承認欲求」は、アイデンティティにおける重要な論点です。これらを解説した記事を、以下に紹介します。

 

①「予想論点ー労働観・自己『人間はなぜ働かなくてはならないのか』」/「自己承認」・「承認欲求」

 

gensairyu.hatenablog.com

 

上の記事のポイント部分を引用します。

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(引用開始)

 (問題文本文)(概要です)
「【7】人はそれぞれの置かれた条件を踏まえて、それぞれの部署で自らの労働行為を社会に向かって投与するが、それらの諸労働は、およそ、ある複数の人間行為の統合への見通しと目的とを持たずにばらばらに存在するということはあり得ず、だれかのそれへの気づきと関与と参入とをはじめから「当てにしている」。そしてできあがった生産物や一定のサービス活動が、だれか他人によって所有されたり消費されたりすることもまた「当てにしている」。そこには、労働行為というものが、社会的な共同性全体の連鎖的関係を通してその意味と本質を受け取るという原理が貫かれている。労働は、一人の人間が社会的人格としてのアイデンティティを承認されるための、必須条件なのである。」 

(小浜逸郎「人間はなぜ働かなくてはならないのか」)

(引用終了)

 

 

 ②「自己承認」・「自己肯定」/「鷲田清一・関連記事」の紹介

 

gensairyu.hatenablog.com

 

 上の記事のポイント部分を引用します。

……………………………

 

(引用開始)

 本書『じぶん・この不思議な存在』」の冒頭に、以下のような、「問題提起」の一節があります。

「  わたしってだれ?

    じぶんってなに?

 だれもがそういう爆弾のような問いを抱えている。

 爆弾のような、といったのは、この問いに囚(とら)われると、いままでせっかく積み上げ、塗り固めてきたことがみな、がらがら崩れだしそうな気がするからだ。」


 本書の内容、つまり、上記の「問題提起」に対する解説は、以下の、本書の「エピローグ」に要約されています。

「わたしがこの本のなかで伝えたかったことはただ一つ、〈わたしはだれ?〉という問いに答えはないということだ。

 とりわけ、その問いを自分の内部に向け、そこに何か自分だけに固有なものをもとめる場合には。そんなものはどこにもない。

 じぶんが所有しているものとしてのじぶんの属性のうちにではなくて、誰かある他者にとっての他者のひとりでありえているという、そうしたありかたのなかに、ひとはかろうじてじぶんの存在を見いだすことができるだけだ。」 ( P 176 )

(引用終了)

 

ーーーーーーーー

 

 今回の記事は、これで終わりです。

 次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

 ご期待ください。

 

 

  

 

 

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