言語、その道具的機能と問題点/2018予想論点/体系的総整理④
(1)はじめに
(今回の記事の記述は太字にしました)
(赤字は当ブログによる「強調」です)
(青字は当ブログによる「注」です)
「言語」・「言語論」・「言語哲学」は、もともと、国語(現代文)・小論文における入試頻出論点です。
最近では、2013東大国語第1問で「翻訳」、2014センター国語第1問で『漢文脈と近代日本』が出題されています。
また、最近では、
「能動態・受動態の二分法」にメスを入れ、「中動態」の存在意義に光を当てた『中動態の世界』(國分功一郎)、
言語習得には「洗脳」の側面があるということを指摘している『勉強の哲学』(千葉雅也)、
語ることを考察している『語りきれないこと』(鷲田清一)、
が評判になったことで、
「言語」の論点は、これから、流行論点になりそうです。
そこで、今回は、当ブログの最近の記事から、「言語」・「言語論」に関連する記事を体系的に整理して紹介します。
なお、初めに、『語りきれないこと』(鷲田清一)の中から入試頻出著者・鷲田氏の言語観を引用します。
次に、2002センター試験国語第1問に出題された『「私」とは何か』(浜田寿美男)から、浜田氏の言語観を紹介します。
今回の記事の項目は、以下の通りです。
(2)「言語=道具」とする言語観/『語りきれないこと』鷲田清一
(3)もう一つの言語観/浜田寿美男『「私」とは何か』2002センター試験国語第1問
(4)言語運用能力・思考力の衰退/「『考えないヒト』正高信男・IT化社会・コミュニケーション能力低下」
(5)「言葉」を尊重しない若者の問題性/「2016年センター国語第1問解説『キャラ化する/される子どもたち』」
(6)異文化理解/「翻訳の技法」・「翻訳言語論」について/「2013東大国語第1問解説」
(7)異文化理解/言語の違いが人間の思考に、大きな影響を与える点について/「『君たちが知っておくべきこと』佐藤優③・現代文・小論文予想出典」
(8)学校教育における「英語中心主義」の問題点/「予想問題解説『さらば、資本主義』(佐伯啓思)①」
(9)言語の機能の一側面①/尋問する言語/「『中動態の世界』國分功一郎/哲学/現代文・小論文予想出典(前編)」
(10)言語の機能の一側面②/言語の一般性→「私という言葉」が私に与える影響について/「予想問題『じぶん・この不思議な存在』鷲田清一・他者の他者としての自分」
(11)言語の機能の一側面③/言語は思考の可能性を規定する/「『中動態の世界』國分功一郎/現代文・小論文予想出典(前編)」
(12)言語の機能の一側面④/言語と人格形成の関係/「2014センター現代2014センター国語第1問(現代文)『漢文脈と近代日本』解説」
(13)言語機能の一側面⑤/言語習得には「洗脳」の側面があるということ/「予想問題『勉強の哲学 来たるべきバカのために』千葉雅也」
(2)「言語=道具」とする言語観/『語りきれないこと』鷲田清一
東日本大震災以後に書かれた、『語りきれないこと』「まえがき」で鷲田氏は次のように述べています。
「被災地の人たちのからだの奥で疹いたままのこの傷、この苦痛の経験が、やがて納得のゆく言葉でかさぶたのように被われる日まで、からだの記憶は消えることはないでしょうし、また消そうとしてはならないと、つよく思います。震災で、津波で、原発事故で、家族を、職場を、そして故郷を奪われた人たちは、これまでおのが人生のそのまわりにとりまとめてきた軸とでも言うべきものを失い、自己の生存について一から語りなおすことを迫られています。
語りなおしとは、じぶんのこれまでの経験をこれまでとは違う糸で縫いなおすということです。縫いなおせば柄も変わります。感情を縫いなおすのですから、針のその一刺し一刺しが、ちりちりと、ずきずきと痛むにちがいありません。被災地外の場所で、個々のわたしたちがしなければならないことは、まずはそういう語りなおしの過程に思いをはせつづけること、出来事の『記念』ではなく、きつい痛みをともなう癒えのプロセスを、そのプロセスとおなじく区切りなく『祈念』しつづけることだろうと思います。」
さらに、鷲田氏は「語る」ということについて、次のように述べています。
「わたしたちはそのつど、事実をすぐには受け入れられずにもがきながらも、深いダメージとしてのその事実を組み込んだじぶんについての語りを、悪戦苦闘しながら模索して、語りなおしへと、なんとか着地する。そうすることで、じぶんについての更新された語りを手にするわけです。」
「言語」については、「人間は言語で初めて世界を分節して、世界を認識している」と言われています。
鷲田氏の主張は、この見解(言語道具説)に沿っているようです。
さらに、本書より引用します。
「感情というのは確かに言葉で編まれていて、言葉がなかったら、感情はすべて不定形で区別がつかない。言葉を覚えることで、じぶんが今どういう感情でいるかを知っていく。語りがきめ細やかになって、より正確なものになるためには、言葉をより繊細に使いわけていかなければならない。心の繊維としての言葉をどれほど手に入れ、見つけていくかは、とても大事なことです。」
「感情というのは確かに言葉で編まれていて、言葉がなかったら、感情はすべて不定形で、区別がつかない。」の部分は、特に重要です。
語りきれないこと 危機と傷みの哲学 (角川oneテーマ21)
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(3)もう一つの言語観/浜田寿美男『「私」とは何か』2002センター試験国語第1問
2002センター試験国語第1問(『「私」とは何か』浜田寿美男)の問題文本文の冒頭部分を引用します
「ことばが語と文法からなるというのは、ことばをある切り口で切ったときの一つの事実ではある。しかしそうして切り取ったことばには、一つ、致命的に欠ける点がある。それはことばのもつ対話性を二次的にしか考えられないという点である。ことばはそもそも他者とのかかわりの場で働くもの。ところが、<語ー文法>的なことば観は、しばしば独我論的で、そこに他者とのかかわりが見えてこない。
もちろん、ことばを道具として獲得したのちには、その道具を使って他者と対話することにはなる。しかしそこにおいて、対話はことば獲得の結果であって、それ以上のものではない。言い換えれば、このことば観のなかでは、ことばが獲得されたのち、それによってはじめて他者との対話が可能になるのであって、他者との対話(もちろんことば以前の)からことばが生まれてくるという発想がない。つまりことばそのもののもつ第一次的、本質的な対話性に目を向ける視点が、そこにはすっぽり抜け落ちているのである。このことば観によっては、ことばが私たちの生活世界において働くその様をありのままにみることはできない。」(浜田寿美男・『「私」とは何か』)
浜田氏は、「言葉は道具だ」という言語観に関しての違和感を述べています。
この言語観に限界がある、と主張しているのです。
一理あると、私は感じています。
この点については、このような立論も可能である、と意識しておけばよいでしょう。
(4)言語運用能力・思考力の衰退/「『考えないヒト』正高信男・IT化社会・コミュニケーション能力低下」
上の記事の、ポイントの一部を以下に引用します。
……………………………
(引用開始)
(1)なぜ、この記事を書くのか?
携帯電話、スマホなどへの過度の依存により、言語運用能力・思考力の衰退、反知性主義などの退化的現象が現代日本に顕著になっている、という意見が強まっています。
そこで、「携帯電話」と「人間のサル化(退化)」の関係を鋭く指摘している、入試頻出著者・正高信男氏の論考が、再び流行・頻出出典となる可能性が高まっているので、今回は、この記事を書くことにしました。
(→「(2)予想問題『考えないヒト』正高信男ー立教大(全学部入試)・お茶の水女子大・過去問」の部分は今回の記事ではカットします)
(今回の問題のまとめ)
人間の言語によるコミュニケーションは、相手の心を読む過程です。つまり、相手方の発話を手掛かりにして、他の種々の非言語的状況を総合的に考慮して、相手の心理を推測する複雑で精密な過程です。
しかし、最近の日本人は言葉のメッセージを、厳密に記号として把握する「サル的な、単純なスタイル」へ先祖返りしていると、正高氏は主張しているのです。
ケータイメールのように、視覚情報にのみ依存したコミュニケーションにおいては、対面的状況で言語を使用する場合のように、非言語的状況を総合的に考慮する必要はありませんから、頭や心を使わないようになります。そうなると、長期的に見て、言語運用能力が低下し、必然的に、人間的な思考力、感受性が低下していくのでしょう。
すなわち、「人間のサル化」・「人間のロボット化」という現象が蔓延していくのです。
これは、スリラーであり、悲劇であり、人間の孤立化、共同体崩壊・社会崩壊に直結する問題です。
(引用終了)
(5)「言葉」を尊重しない若者の問題性/「2016年センター国語第1問解説『キャラ化する/される子どもたち』」
上の記事のポイントの一部分を以下に引用します。
……………………………
(引用開始)
(4)2015年信州大(教育)国語(現代文)(『友だち地獄ー「空気を読む」世代のサバイバル』土井隆義)の解説
出題された文章の中で、特に気になったのは、
「現代の若者たちは、自らのふるまいや態度に対して、言葉で根拠を与えることに、さしたる意義を見出だしにくくなっている」
の部分です。
そして、土井氏は、現代の若者たちは言葉以前の「内発的な衝動や生理的な感覚」こそが純粋な「自分の根源」であると感じている、と続けています。
「言葉」を尊重しないということは、単に「自己の言語能力」に限界を感じているだけかもしれません。
しかし、「言葉」を尊重しないということは、「論理性」・「客観性」・「社会性」を尊重しないということに、つながります。
人間を言語活動から定義する「ホモロクエンス」という言葉が、あります。
「話す人」という意味です。
人間が動物ではなく、ほかならぬ人間であるのは、言語活動をするからだ、とする人間観です。
この人間観は、一般的に承認されている人間観です。
もし、言葉を尊重しない若者が社会の多数派を占めるようであれば、この人間観も修正を迫られることになると思われます。
これは、かなり重大な問題を孕んでいるのでは、ないでしょうか。
もし、そのような状況になったとしたら、「コミュニケーション」は、どのような形態になるのでしょうか。
予想も、つきません。
この問題については、入試現代文(国語)・小論文においても、重要な論点・テーマになっていくものと思われるのです。
(引用終了)
(6)異文化理解/「翻訳の技法」・「翻訳言語論」について/「2013東大国語第1問(現代文・評論文)解説」
上の記事から、「翻訳の技法」についての著者の主張部分を、以下に引用します。
詳細は、リンク画像から、参照してください。
……………………………
(引用開始)
(3)2013年東大国語第1問(現代文・評論文)「ランボーの詩の翻訳について」湯浅博雄→本文・設問・解説・解答
(【1】・【2】・【3】・・・・は、当ブログで付記した段落番号です)
【1】詩人━ 作家が言おうとすること、いやむしろ正確に言えば、その書かれた文学作品が言おう、言い表そうと志向することは、それを告げる言い方、表し方、志向する仕方と切り離してはありえない。人々はよく、ある詩人ー作家の作品は「しかじかの主張をしている」、「こういうメッセージを伝えている」、「彼の意見、考え、感情、思想はこうである」、と言うことがある。筆者も、ときに(長くならないよう、短縮し、簡潔に省略するためにせよ)それに近い言い方をしてしまう場合がある。しかし、実のところ、ある詩人ー作家の書いた文学作品が告げようとしているなにか、とりあえず内容・概念的なものとみなされるなにか、言いかえると、その思想、考え、意見、感情などと思われているなにかは、それだけで切り離され、独立して自存していることはないのである。〈意味され、志向されている内容〉は、それを〈意味する仕方、志向する仕方〉の側面、表現形態の面、意味するかたちの側面と一体化して作用することによってしか存在しないし、コミュニケートされない。だから、〈意味されている内容・概念・イデー〉のみを抜き出して「これこそ詩人ー作家の思想であり、告げられたメッセージである」ということはできないのだ。
【2】それゆえまた、詩人ー 作家のテクストを翻訳する者は、次のような姿勢を避けるべきだろう。つまり翻訳者が、むろん原文テクストの読解のために、いったんそのテクストの語り方の側面、意味するかたちの側面を経由して読み取れるのは当然なのであるが、しかし、フォルム的側面はすぐに読み終えられ、通過されて、もうこの〈意味するかたちの側面〉を気づかうことをやめるという姿勢はとるべきではない。
もっぱら自分が抜き出し、読み取ったと信じる意味内容・概念の側面に注意を集中してしまうという態度をとってはならない。そうやって自分が読み取った意味内容、つまり〈私〉へと伝達され、〈私〉によって了解された概念的中身・内容が、それだけで独立して、まさにこのテクストの〈言おう、語ろう〉としていることをなす(このテクストの志向であり、意味である)とみなしてはならないのである。
【3】翻訳者は、このようにして自分が読み取り、了解した概念的中身・内容が、それだけで独立して(もうそのフォルム的側面とは無関係に)、このテクストの告げる意味であり、志向であるとみなしてはならず、また、そういう意味や志向を自分の母語によって読みやすく言い換えればよいと考えてはならないだろう。
【4】自分が抜き出し、読み取った中身・内容を、自らの母語によって適切に言い換えれば首尾よく翻訳できると考え、そう実践することは、しばしば読みやすく、理解しやすい翻訳作品を生み出すかもしれない。ただし、そこには、大きな危うさも内包されているのだ。原文のテクストがその独特な語り口、言い方、表現の仕方によって、きわめて微妙なやり方で告げようとしているなにかを十分に気づかうことから眼をそらせてしまうおそれがあるだろう。
(引用終了)
……………………………
(7)異文化理解/言語の違いが人間の思考に、大きな影響を与える点について/「『君たちが知っておくべきこと』佐藤優③・現代文・小論文予想出典」
上の記事から、「言語の違いが人間の思考に、大きな影響を与える点」について、ポイントの一部分を以下に引用します。
……………………………
(引用開始)
(3)「人の気持ちになって考えること」(P79)
以下に、佐藤氏の講義の概要を記述します。
(なお、【1】【2】【3】・・・・は、当方ブログで付記した段落番号です。赤字は、当ブログによる強調です。)
「(佐藤) 【1】私にはロシアにいた時に出会った、非常に尊敬している文化人類学者がいます。本人はグルジアで生まれた。哲学者のウィトゲンシュタイン(→本書による注→哲学者(1889ー1951)言語の分析を哲学の手法として捉え、分析哲学の基礎を築いた。主著に『論理哲学論考』)は、言語の違いが人間の思考に、ものすごい影響を与えると言っているけれど、グルジア語は非常に特殊な言語です。
【2】その先生に、ある時、こう聞かれたことがある。『あなたは生粋(きっすい)の日本人では、ないでしょう。どこか少数民族の血が入っている。あるいは、外国人の血が。違いますか?』と。
【3】『私は母親が沖縄なんです』と答えたら、『ああ、それで分かった』と言われた。彼は日本人には何人も会っているけれど、私と話している時の感覚が他の日本人と全然違ったんだそうです。
【4】彼が言うには、『大民族の出身の人は、複雑なコンプレックスを抱えながらも自分たちの思いを言語化できない少数民族の気持ちは分からない。そもそも、《自分たちが分かっていない》ということも分からない。あなたは少なくとも、《分かっていない》ということについては分かっている。だから、ソ連でも少数民族の友だちが多いでしょう』と。
【5】図星でした。少数民族の友人たちは、ロシアに関する重要な情報を私に教えてくれていました。それは、私の中に刷り込まれている、母親が日本の少数民族である沖縄人だという意識が彼らに通じていたのかもしれない。
【6】人には、それぞれ育ってきた文化による拘束性がある。それがあるから、他人の気持ちを理解することは口で言うほど簡単なことではないのです。」
ーーー
(当ブログによる解説)
特に、重要なのは、【4】段落の「そもそも、《自分たちが分かっていない》ということも分からない。」の部分です。
これは、「自分たちは、他の少数民族の複雑な気持ちを充分に分かっている」と、楽天的に思い込んでいる状態(誤解)を説明しています。
この事こそが、「異文化理解の困難性、ないし不可能性」を物語っています。
佐藤氏は、入試現代文・小論文頻出の「異文化理解」のポイントを、実に分かりやすく講義しています。
異文化理解がいかに困難か、が述べられています。
人は、どうしても自分の文化の価値観を基準にして、異文化を理解しようとして(自文化中心主義=エスノセントリズム)、その「異文化理解の困難性、ないし不可能性」に直面するのです。
各文化は、 各地域の風土に適合する形で発生・発展してきたので、文化が大きく異なれば、価値観が全く異なることは当然のことです。
そうなると、「異文化理解」は、ほとんど不可能になるのです。
ーーー
(さらに、当ブログによる解説)
「異文化理解の困難性ないしは不可能性」について、さらに説明します。
1999年度の慶応大学(文学部)小論文に出題された、入試頻出著者・川田順造氏の『サバンナの博物史』を紹介します。
慶応大学小論文対策としても役立つように解説していきます。
川田氏は、最近でも、大阪大学、早稲田大学、上智大学の現代文(国語)に出題されている入試頻出著者です。
また、『サバンナの博物史』は、長年の入試頻出出典です。
以下に、慶応大(文)の小論文問題の問題文本文(一部)の、キーセンテンス部分の概要を記述します。
なお、赤字、緑字は、当ブログによる強調です。
(問題文本文の冒頭部分)
「近年になって私は、サバンナに生きるモシ族の人たちの、自然に対するあの強靭さ、一切の感傷を払拭した即物性とでもいうべきものを、幾分かは理解できると思うようになった。かつては私はそれを単に、自然に対するこの人たちの感動の欠如というふうにとっていたのだったが。」
(問題文本文の最終部分)
「『自然』という、モシ語(→当ブログによる注→西アフリカ内陸部のサバンナに居住する農耕民、モシ族(人口約200万人)の使う言語)にもない概念によって、たとえば『モシ族における自然の利用』といった形でこのサバンナの文化を論んじることが、一方的な枠組みによる対象の切りとりになりやすいことはあきらかだ。
私自身しばしば行ってきたこのような切りとりは、彼らの思考の枠組みだけをとりいれることによって、『正しい』ものとなるわけでは勿論ない。彼らの枠組みと私の枠組みとの、葛藤ないし相互作用のうちに、世界像ないしイデオロギーと、技術・物質文化とが、相互にもっているはずのかかわりを、具体的にあきらかにしてゆくこと。私が将来に向かって、未解決のままにかかえている課題の一つだ。」
(引用終了)
(8)学校教育における「英語中心主義」の問題点/「現代文・小論文・予想問題解説『さらば、資本主義』(佐伯啓思)①」
「異文化理解」は重要です。
しかし、日本の学校教育における「英語中心主義」には、問題点があります。
この点について、上の記事から、ポイントの一部分を引用します。
……………………………
(引用開始)
(2)「帝国主義」とは、一つの国家が自国の民族主義・文化・宗教・経済体系等を拡大する目的で、あるいは、領土・天然資源等を獲得する目的で、軍事力を背景として他国家を侵略しようとする思想・政策です。
「植民地主義」とは国家主権を国外に拡大する思想・政策です。
「帝国主義」と「植民地主義」とは、当然、表裏の関係にあります。
「帝国主義」は、第二次世界大戦後に事実上、終焉し、「脱植民地化」が進行しました。
(3)しかし、現在では「文化帝国主義」、「経済的帝国主義(自由貿易帝国主義)」、「政治的帝国主義(過度の政治的影響力の行使)」が進展しています。
「文化帝国主義」とは自国の文化・言語を他国に植え付け、他文化・他言語との差別化を促進する政策・行為です。
「英語帝国主義」は、「文化帝国主義」の一部です。
「文化帝国主義」は、それを推進する側が有用性・一般性・普遍性を強調する形態をとることが多いのです。
(4)最近における「小学校英語教育の強化政策」の論点は、この「文化帝国主義」の一部である「英語帝国主義」の、「自発的・受身的な受容」の視点から考察すると、かなり問題性があると思います。
ある意味で、「自主的・受身的植民地化政策」と評価しうる政策です。
この点については、鈴木孝夫氏(言語学者)の秀逸な論考(『日本の感性が世界を変える・言語生態学的文明論』新潮選書)を題材にした予想問題記事を制作することを、現在、検討中です。
(鈴木氏は、難関大学の入試現代文(国語)・小論文の頻出著者です。)
(5)また、「小学校英語教育」については、この記事を書いている時に、施光恒(せ・てるひさ)氏の注目すべきインタビュー記事がありましたので、ここで、報告します。
そのインタビュー記事は、2016年9月8日の朝日新聞に掲載されました(オピニオン&フォーラム「異議あり」)。
施氏の紹介は、「教育改革にダメを出す政治学者 施光恒さん」となっています。
「大見出し」は、「英語強化は民主主義の危機 分断も招く」、
「小見出し」は、「苦手な人は人生の選択肢が保障されず、社会の意思疎通も不十分に」です。
今現在、政府は「英語強化の改革」を進めています。
「小学校で英語を教科に格上げし、大学では授業を英語でするよう求める」改革です。
この「改革」に対して、施氏は、「これでは日本はだめになる」と批判しています。
施氏は、九州大学准教授で、専攻は政治理論、政治哲学です。著書に『リベラリズムの再生』(慶應義塾大学出版会)、『TPP 黒い条約』(共著)(集英社新書)、『英語化は愚民化』(集英社新書)等があります。
『英語化は愚民化』は、最近、出版されたものです。
インタビューを読むと、「英語教育の強化」の論点・テーマを「民主主義」や「日本社会のコミュニケーションの分断」の視点から批判していて、とても興味深い内容になっています。
いかにも、難関大学の入試問題作成者が好みそうな内容です。
(引用終了)
(9)言語の機能の一側面①/尋問する言語/「『中動態の世界』國分功一郎/哲学/現代文・小論文予想出典(前編)」
「能動/受動の二分法」を採用している現在の言語には、「尋問する言語」としての側面があります。
上の記事から、ポイントの一部分を引用します。
……………………………
(引用開始)
⑥ 尋問する言語
本書の中で、著者は、「能動/受動の対立」を際立たせる現在の言語を「尋問する言語」と呼んでいます。
「その言語は行為者に尋問することをやめない。常に行為の帰属先を求め、能動か受動のどちらかを選ぶよう強制する。」(P195)
(→当ブログによる「注」→この「強制」の背景には、「責任を問う」ということがあるのです)
まさに、「オール・オア・ナシング」の世界です。
警察による取り調べをイメージします。
「能動/受動の二分法」自体が警察的役割を担っているようです。
私たちが日々、不可思議な疲労感を感じる原因の中には、このことがあるのかも知れません。
(引用終了)
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(10)言語の機能の一側面②/言語の一般性→「私という言葉」が私に与える影響について/「予想問題『じぶん・この不思議な存在』鷲田清一・他者の他者としての自分」
「私という言葉」が私に与える影響、「言語の一般性」、つまり、「言語の負の側面」についても知っておくべきです。
以下に、ポイント部分を引用します。
……………………………
(引用開始)
『「聴く」ことの力』では、以下のように説明しています。
「だれかに触れられているということ、
だれかに見つめられていること、
だれかからことばを向けられているということ、
これらのまぎれもなく現実的なものの体験のなかで、
その他者のはたらきかえの対象として自己を感受するなかではじめて、
いいかえると『他者の他者』としてじぶんを体験するなかではじめて、
その存在をあたえられるような次元というものが、<わたし>にはある。
<わたし>の固有性は、ここではみずからあたえうるものではなく、
他者によって見出されるものとしてある。」 ( P126 )
さらに続けて、鷲田氏は、以下のように述べています。
「 『わたし』、という(一般的な、社会的な)言葉を使うとき、わたしという存在はすでに集団の中に消えていく。『わたし』が『わたし』を見つけられるのは、『他者から他者として見られたときだけ』である。」
(引用終了)
(11)言語の機能の一側面③/言語は思考の可能性を規定する/「『中動態の世界』國分功一郎/哲学/現代文・小論文予想出典(前編)」
上の記事から、ポイントの一部分を引用します。
……………………………
(引用開始)
「 言語が思考を規定するのではない。言語は思考の可能性を規定する。つまり、人が考えうることは言語に影響されるということだ。これをやや哲学っぽく定式化するならば、言語は思考の可能性の条件であると言えよう。」(p111)
私たちは自由に思考するように思っていますが、実は、文法に支配されているということです。思考は言語の組み合わせにより構築されるのですから、このことは当然のことなのです。日々、意識していないだけです。そして、自由だと思いこんでいるだけです。
(引用終了)
(12)言語の機能の一側面④/言語と人格形成の関係/「2014センター現代2014センター国語第1問(現代文)『漢文脈と近代日本』解説」
「言語」は、「人格形成」に密接な「関係」を有しています。このことも、重要論点です。
最近では、「能動態・受動態の二分法」と「意志」・「自己意識」の関係にメスを入れ、「中動態」の存在意義に光を当てた『中動態の世界』(國分功一郎)が評判になったことで、「言語と人格形成の関係」の論点は、頻出論点になりそうです。
……………………………
(引用開始)
【6】そもそも中国古典文は、特定の地域の特定の階層の人々によって担われた書きことばとして始まりました。逆に言えば、その書きことばによって構成される世界に参入することが、すなわちその階層に属することになるわけです。どんなことばについてもそうですが、人がことばを得、ことばが人を得て、その世界は拡大します。前漢から魏晋にかけて、その書きことばの世界は古典世界としてのシステムを整えていき、高度なリテラシー(読み書き能力)によって社会に地位を占める階層がその世界を支えました。それが、士人もしくは士大夫と呼ばれる人々です。
【10】日本の近世社会における漢文の普及もまた、士人的エトスもしくは士人意識―その中身については後で述べます―への志向を用意しました。漢文をうまく読み、うまく書くには、字面だけを追って真似ても限界があります。その士人としての意識に同化してこそ、まるで唐代の名文家韓愈が乗り移ったかのような文章が書けるというわけです。あるいは、彼らの詩文を真似て書いているうちに、心の構えがそうなってしまうと言ってもよいでしょう。文体はたんに文体に止まるものではないのです。
【20】しかし当の学生たちにとってみれば、漢文で読み書きするという世界がまず目の前にあり、そこには日常の言語とは異なる文脈があることこそが重要なのです。そしてそれは、道理と天下を語ることばとしてあったのです。D 漢文で読み書きすることは、道理と天下を背負ってしまうことでもあったのです。
(齋藤希史『漢文脈と近代日本』による)
(引用終了)
(13)言語機能の一側面⑤/言語習得には「洗脳」の側面があるということ/「予想問題『勉強の哲学 来たるべきバカのために』千葉雅也」
言語習得には、「洗脳」という側面があります。
以下に、上の記事のポイントの一部分を引用します。
……………………………
(引用開始)
【自分は環境のノリに乗っ取られている】
「 私たちは、いつでもつねに、環境のノリと癒着しているはずです。
たいていは、環境のノリと自分の癒着は、なんとなくそれを生きてしまっている状態であって、分析的には意識されていない。」(P28)
「 自分は、環境のノリに、無意識的なレベルで乗っ取られている。
ならば、どうやって自由になることができるのでしょう?
丁寧に考える必要があります。というのも、環境から完全に抜け出すことはできないからです。完全な自由はないのです。ならば、どうしたらいいのか。そこで、次のように考えてみるのはどうでしょう――環境に属していながら同時に、そこに『距離をとる』(→自己の状況の「客観化」・「相対化」ということでしょう。自己の状況に意識的になるということです)ことができるような方法を考える必要があるのだ、と。
その場にいながら距離をとることを考える必要がある。
このことを可能にしてくれるものがある。
それは『言語』です。どういうことでしょうか?」(P30)
【自分とは、他者によって構築されたものである】
「 生(せい)とは、他者と関わることです。純粋にたった一人の状態はありえません。外から影響を受けていない『裸の自分』など、ありえません。どこまで皮を剥いても出てくるのは、他者によって『つくられた=構築された』自分であり、いわば、自分はつねに『着衣』(→この表現も悩ましいです。入試では、設問の題材になるでしょう)なのです。
自分は『他者によって構築されたもの』である。」
「 そして、言語という存在。
言語を使えている、すなわち『自分に言語がインストールされている』のもまた、他者に乗っ取られているということなのです。」
「 言語は、環境の『こうするもんだ』=コード(→当ブログによる「注」→「記号」です)のなかで、意味を与えられるのです。だから、言語習得とは、環境のコードを刷り込まれることなのです。言語習得と同時に、特定の環境でのノリを強いられることになっている。」
「 言葉の意味は、環境のコードのなかにある。」
いよいよ、「言語論」に入りました。入試頻出論点でありながら、大部分の受験生の不得意分野です。丁寧な読解を心がけてください。
「 言語習得とは、ある環境において、ものをどう考えるかの根っこのレベル(→当ブログによる「注」→「価値観」です)で『洗脳』を受けるようなことなのです。
これはひじょうに根深い。言葉ひとつのレベルでイデオロギーを刷り込まれている、これを自覚するのはなかなか難しいでしょう。だから、こう言わねばならない。言語を通して、私たちは、他者に乗っ取られている。」(P34)
「言語」=「コード」=「記号」=「価値観」ということでしょう。
「価値観」→「文化」→「言語」の方が、分かりやすいかもしれません。
(引用終了)
……………………………
以上の問題性の対策論が本書の中心になっています。
詳細については、リンク画像から、上の記事を、参照してください。
ーーーーーーーー
今回の記事は、これで終わりです。
次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。
ご期待ください。
私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。
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