予想問題「未来世代への責任」岩井克人/地球環境問題・世代間倫理
(1)なぜ、この記事を書くのか?
現在は、異常気象、地球温暖化など「地球環境問題」に関する論点が、問題化しています。
「地球環境問題」は「科学批判」のテーマにおける重要な論点でもあります。
「科学批判」は、2017年度のセンター試験国語(現代文)、東大国語(現代文)でも出題された流行論点・頻出論点です。この2問については、「論点的中記事」を発表しましたので、リンク画像を最後に貼っておきます。ぜひ、ご覧下さい。
最近、次のような記事が発表されました。
「地球環境に科学者ら1万5千人警告 『時間切れが迫る』」(2017年11月15日・朝日新聞デジタル)
「地球温暖化や自然破壊の悪化に警鐘を鳴らし、持続可能な社会に向かうよう訴える声明が、世界の約1万5千人の科学者らの署名とともに米科学誌に発表された。
日本から署名を寄せた、ノーベル物理学賞受賞者で東京大宇宙線研究所長の梶田隆章さんは『もうすでに非常に厳しい段階に入りつつある。一刻も早い対策の実現が必要との思いです』と朝日新聞の取材に対しコメントした。
この声明は科学誌バイオサイエンスに13日付で発表された『世界の科学者による人類への警告』。184カ国の1万5364人の科学者らが署名した。1992年に米NGO『憂慮する科学者同盟』が発表した声明の更新版にあたる。
この25年間で世界の人口が約20億人増え、様々な環境問題が深刻化したと指摘。地球温暖化が進んで平均気温が約0・5度上昇しているとしている。
声明は、現状維持では取り返しがつかない状態になるとして『時間切れが迫りつつある』と訴える一方、人類は事態好転に向けた変化を起こせるとも指摘。政府や市民がとるべき対策として、二酸化炭素を排出する化石燃料から再生可能エネルギへの切り替えを進めることなど、13項目を提言した。」
こういう「地球環境問題」に関する論点がクローズアップされている時には、「地球環境問題」の基本的な、根本的な論点が出題されることが多いようです。
そこで、現代文(国語)・小論文対策として、今回は、入試頻出著者・岩井克人氏の、著名な論考「未来世代への責任」、つまり「世代間倫理」についての予想問題解説記事を書きます。
「世代間倫理」は、慶応大学小論文でよく出題され、最近では2017東大現代文(→この記事の最後に「論点的中報告記事」のリンク画像があります)にも出題されている重要論点です。
設問としては、金沢大学の現代文(国語)の過去問を使用します。
なお、今回の記事の項目は以下の通りです。
(2)「未来世代への責任」岩井 克人/地球環境問題・世代倫理/2002金沢大過去問
(3)「世代間倫理」の定義
(4)新自由主義経済とモラルハザード(倫理崩壊)の関係/岩井氏の見解
(5)岩井克人氏の紹介
(6)当ブログの「地球環境問題」・「消費社会」関連記事の紹介→「地球環境問題」と「消費社会」の論点は密接に関係しています
(2)「未来世代への責任」岩井 克人/地球環境問題・世代倫理/2002金沢大過去問
(引用部分は概要です)
(【1】・【2】・【3】・・・・は当ブログによる段落番号です)
(赤字は当ブログによる「強調」です)
(青字は当ブログによる「注」です)
【1】私は経済学者です。そして、経済学者とは現代において数少ない「悪魔」の一員です。
【2】人類は太古の昔から利己心の悪について語ってきました。他者に対して責任ある行動をとることーーそれが人間にとって真の「倫理」であると教えてきたのです。だが、経済学という学問はまさにこの「倫理」を否定することから出発したのです。
【3】経済学の父アダム・スミス(→アダム・スミス(1723年~1790年)は、イギリスの哲学者・倫理学者・経済学者。スコットランド生まれ。主著に倫理学書『徳感情論』(1759年)と経済学書『国富論』(1776年)。市場経済システムが「自己完結的」であるということを、最初に明確に定義した)はこう述べています。「通常、個人は自分の安全と利得だけを意図している。だが、彼は見えざる手に導かれて、自分の意図しなかった〈公共〉の目的を促進することになる」。ここでスミスが「見えざる手」と呼んだのは、資本主義を律する市場機構のことです。資本主義社会においては、自己利益の追求こそが社会全体の利益を増進するのだと言っているのです。(→「自己完結的」というのは、「自己利益の追求」という人間の欲望を自由に解放しておけば、市場も社会も自然と成長し続ける、という意味です。たとえ、各個人の行為が利己的でも、それが集積されると、結果として個々の意図とは無関係に、社会全体の利益となるということです)
【4】① 経済学者の「悪魔」ぶりがもっとも顕著に発揮されるのは、環境問題に関してでしょう。 多くの人にとって、資本主義が前提とする私的所有制こそ諸悪の根源です。環境破壊とは、私的所有制の下での個人や企業の自己利益の追求によって引き起こされると思っているはずです。
【5】だが、経済学者はそのような常識を逆撫でします。私的所有制とは、まさに環境問題を解決するために導入された制度だと言うのです。
【6】かつて、人類は誰のものでもない草原で自由に家畜を放牧していました。家畜を一頭増やせば、それだけ多く肉や皮やミルクがとれます。草原は誰のものでもないので、家畜が食べる牧草はタダです。確かに一頭増えれば他の家畜が食べる牧草が減り、その発育に影響しますが、自由に放牧されている家畜の中で自分の家畜が占める割合は微々たるものです。それゆえ、人々は草原に牧草がある限り、自分の家畜を増やしていくことになります。その結果、牧草は次第に枯渇し、いつの日か無数の痩せこけた家畜がわずかに残された牧草を求めて争い合う事態が到来することになると言うのです。
【7】これこそ「元祖」環境問題です。そして経済学者は、それは、自然のままの草原が誰の所有でもない共有地であるがゆえの悲劇であると主張します。環境問題とは 「共有地の悲劇」だと言うのです。(→「共有地の悲劇」とは、1968年に生物学者ギャレット・ハーディンが発表したモデルのことです。このモデルは、後にゲーム理論として定式化され、社会的ジレンマ、特に環境問題を議論するときに、取り上げられることが多いようです。ある集合体において、メンバー全員が互いに協力的行動をとっていれば、メンバー全員にメリットがあります。しかし、各人が個別の合理的判断の下、利己的に行動する非協力的状態になると、結果として、誰にとってもデメリットになってしまうという結果を示すモデルです)
【8】事実、もし草原が分割され、その一画を牧場として所有するようになると、その中の家畜はすべて「自分」の家畜となります。その時さらに一頭飼うかどうかは、その一頭が新たに牧草を食べることによって、牧場内の他の家畜の発育がどれだけ影響を受けるかを勘案して決めるようになるはずです。(→この点を「合理的判断」と評価するのです)もはや牧草はタダではありません。他人に牧場を貸したり売ったりする時でも、その中の牧草の価値に応じた賃料や価格を請求するようになるはずです。牧草は合理的に管理され、共有地の悲劇から救われることになります。私的所有制の下での自己利益の追求こそが環境破壊を防止することになると言うわけです。
【9】「悪魔」の一員だけあって、経済学者の論理は完璧です(私自身この論理を30年間教えてきました)。実際、1997年の地球温暖化防止に関する京都議定書(→「京都議定書」は、1997年12月に京都市で開かれた第3回気候変動枠組条約締約国会議(地球温暖化防止京都会議、COP3)で同月11日に採択された、気候変動枠組条約に関する議定書。正式名称は、「気候変動に関する国際連合枠組条約の京都議定書」。地球温暖化の原因となる、温室効果ガスの一種である二酸化炭素 、メタン 、亜酸化窒素 、ハイドロフルオロカーボン類等について、先進国における削減率を1990年を基準として各国別に定めました)は、この論理を取り入れました。また、先進諸国に温暖化ガスの排出枠を権利として割り当て、その過不足を売買することを条件付きで許したのです。(→「排出取引」のことを言っています。「排出取引」とは、各国家や各企業ごとに温室効果ガスの排出枠を定め、排出枠が余った国や企業と、排出枠を超えて排出してしまった国や企業との間で取引する制度。この取引はビジネスとしても成り立つため、企業や政府、双方に経済効果・環境効果が生まれます。「排出権取引」、「排出量取引」とも言います。京都議定書第17条に規定されていて、温室効果ガスの削減を補完する「京都メカニズム」(柔軟性措置)の1つです)
【10】ここでは、温暖化ガスが汚染する大気は家畜が食べ荒らす牧草に対応し、各国が売買しうる排出枠は牧畜家が所有する牧場に対応しています。すなわち、それは大気という自然環境に一種の所有権を設定することによって、それが共有地である限り進行していく温暖化という悲劇を解決しようとしているのです。
【11】では、これで環境問題はすべてめでたく解決するのでしようか?
【12】答えは「否」です。わが人類は不幸にも、経済学者の論理が作動しえない共有地を抱えているのです。
【13】それは「未来世代」の環境です。
【14】② 地球温暖化が深刻であるのは、各国間の利害が対立しているからではありません。未来と現在の二つの世代の間の利害が対立しているからなのです。未来世代を取り巻く自然環境が現在世代によって一方的に破壊されてしまうからなのです。
【15】もちろん、経済学者の論理にしたがえば、この問題も未来世代に未来の環境に関する所有権を与えることによって解決されるはずです。未来世代は、未来の環境が受ける被害に応じた補償額を現在世代に請求するようになり、現在世代はその費用を考慮して環境破壊的な経済活動を自主的に抑えるようになるからです。
【16】だが、ここに根源的な問題が浮かび上がります。未来世代とは、まだこの世に存在していない人間です。タイムマシーンにでも乗らない限り、未来世代が現在世代と取引することは論理的に不可能なのです。
【17】唯一可能な方策は、現在世代が未来世代の権利を代行することです。だが、それは利害関係の当事者の一方が同時に他方も代理して取引するという、まさに利害の相反する状況を作り出してしまいます。現在世代が自己利益を追求している限り、未来世代の利益を考慮して、自分自身と取引することなど、ありえません。
【18】とうとう、われわれは、私有財産制によっては解決不可能な問題に行き当たってしまったのです。
【19】未来世代とは単なる他者ではありません。それは自分の権利を自分で行使できない本質的に無力な他者なのです。③ その未来世代の権利を代行しなけれはならない現在世代とは、未成年者の財産を管理する後見人や意識不明の患者を手術する医者と同じ立場に置かれているのです。自己利益の追求を抑え、無力な他者の利益の実現に責任を持って行動することが要請されているのです。すなわち、「倫理」的な存在となることが要請されているのです。
【20】どうやら、私は「悪魔」の一員として失格したようです。経済学者の論理を極限まで推し進めた結果、その論理が追放してしまったはずの「倫理」なるものを再び呼び戻す羽目に陥ってしまったからです。
【21】だが京都議定書の批准をめぐる最近の混乱(→当時のアメリカのブッシュ大統領が、地球温暖化対策のための京都議定書から離脱する旨表明しました。また、最近では、アメリカのトランプ大統領が、地球温暖化対策の国際的なルールを定めたパリ協定から離脱すると発表しました。結果として、京都議定書は失敗でした。先進国のみにCO2排出削減を義務付けましたが、CO2排出量が多い中進国、発展途上国を野放しにしたため、世界全体のCO2排出量は増え続けています。さらに、これから地球温暖化防止のために必要な国際的な枠組みは、義務も罰則もありません。従って、世界全体のCO2排出量を半減させて、CO2濃度を現状の濃度のままとする、という目標を達成できないことは確実です)は、まさにその「倫理」こそ地球上で最も枯渇した資源(→「新自由主義」・「利己主義」との関係が問題になります。→後述します)であることを思い出させてくれました。環境問題が真に困難な問題であることを結果的に指し示すことになったという意味では、④ 私も立派に「悪魔」としての役割を果たしたと言えるのかもしれません。
(岩井克人「未来世代への責任」)
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(設問)
問1 傍線部①について、なぜ、そのように言えるのかを簡潔に説明せよ。
問2 傍線部②について、この部分でなぜ、「各国間の利害のか対立」以外に「未来と現在の二つの世代の間の利害の対立」が持ち出されるのか。その理由を120字以内で記せ。
問3 傍線部③について、「現在世代」をこのように、たとえている理由を簡潔に説明せよ。
問4 傍線部④について、なぜ、そのように言えるのかを簡潔に説明せよ。
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(解説・解答)
問1(傍線部説明問題・理由説明問題)
→記述式問題の場合にも、出題者が何を問題としているかを、本文を熟読する前にチェックしておく方が効率的です。設問から先に見るべきでしょう。
→熟読・精読を心がけてください。要約を意識しなくても、人間の脳は、自然に要約しているのです❗
傍線部が、
【1】段落「私は経済学者です。そして、経済学者とは現代において数少ない『悪魔』の一員です」、
および、【2】・【3】段落を受けて、
「経済学者の『悪魔』ぶりがもっとも顕著に発揮される」となっていることに注意してください。
傍線部の理由説明は、【4】~【8】段落に述べられています。
(解答)
環境破壊とは、私的所有制の下で個人や企業が自己利益追求の結果、引き起こされると考える常識に対して、経済学者は環境問題を「共有地の悲劇」の一種と考え、私的所有制の下での、自己利益の追求こそが環境問題を解決すると主張するから。
問2(傍線部説明問題・理由説明問題)
傍線部が、
「【11】では、これで環境問題はすべてめでたく解決するのでしようか?
【12】答えは「否」です。わが人類は不幸にも、経済学者の論理が作動しえない共有地を抱えているのです。
【13】それは「未来世代」の環境です。」
の理由部分になっていることに注目してください。
そのうえで、傍線部直後の「未来世代を取り巻く自然環境が現在世代によって一方的に破壊されてしまうからなのです」が、「傍線部の言い換え」になっていることを読み取ってください。
(解答)
京都議定書の発想は、共有地である自然環境に所有権を設定することにより温暖化が解決可能とするものだが、それは現在世代の利害対立の面から捉えた議論にすぎず、一方的に被害を受ける未来世代を考慮していないという欠陥を指摘するため。(120字以内)
問3(傍線部説明問題・理由説明問題)
傍線部直後の2つの文に注目してください。
つまり、傍線部は、
「自己利益の追求を抑え、無力な他者の利益の実現に責任を持って行動することが要請されているのです。すなわち、「『倫理」』的な存在となることが要請されているのです。」という2つの文の具体例としての役割があるのです。
言い換えると、「未来世代の権利を代行しなけれはならない現在世代」は、「自己利益の追求を抑え、無力な他者(→まだ存在していない「未来世代」)の利益の実現に責任を持って行動することが要請されている」、つまり、
「倫理的な存在」になることが要請されているのです。
(解答)
「後見人」も「医者」も、自分の権利を行使できない無力な者に対する「倫理」的な存在となることが要請されており、無力な者の権利の代行を委任されている点で共通しているから。
問4(傍線部説明問題・理由説明問題)
傍線部直前の「京都議定書の批准をめぐる最近の混乱は、まさにその「倫理」こそ地球上で最も枯渇した資源であることを思い出させてくれました。環境問題が真に困難な問題であることを結果的に指し示すことになったという意味では」に注目する必要があります。
特に、「環境問題が真に困難な問題であることを結果的に指し示すことになったという意味では」という限定的な表現に注目してください。
私が「悪魔」である理由は以下の通りです。
未来世代の環境を保障するのに唯一可能なものは「倫理」である。しかし、その「倫理」が地球上で最も枯渇した資源であることを明らかにしたからです。
つまり、このままでは、人間には悲惨な将来のみが待っていること、を完璧に証明したからと推測されます。
(解答)
「京都議定書の批准をめぐる混乱」にみられるように、人が「倫理的存在」となることは困難である。だが、環境問題の根本的解決には「倫理」が必要なことを証明した。人は「倫理的存在」であることはできないのに、「倫理」が環境問題の解決に不可欠という現実を突きつけたことが、「悪魔」なのである。
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【要約】
他者に対して責任ある行動をとること、という人間にとっての真の「倫理」を否定している点で、経済学者は現代における「悪魔」だと言える。
それが顕著なのは「環境問題」に関してである。
経済学者は、「資本主義が前提とする私的所有制こそ諸悪の根源」だとする一般的常識を否定して、私的所有制の下での自己利益追求こそが環境破壊を解決する制度だと言う。
しかし、この論理は、未来と現在の世代間の利害対立を解消できないという根本的欠陥を有している。
未来世代に環境の所有権を与えたうえで、現代世代が未来世代と合理的な取引を行うのであれば、現在世代は環境破壊的経済活動を自主的に抑制するようになるだろう。しかし、未来世代が未だ存在しない以上、未来世代と現在世代の取引は論理的に不可能である。
つまり、経済学者の言うような私有財産制では、環境問題が根本的には解決しない。
従って、現在世代には、自己利益の追求を抑え、無力な他者の利益の実現に、倫理的に責任を持って行動することが要請される。
しかし、「倫理」は同時に現在、地球上で最も枯渇した資源であるから、「倫理的行動」の実現は困難である。
このように、環境問題が真に困難な問題であることを指し示すことになったという意味では、私も立派に「悪魔」としての役割を果たしたと言えるのかもしれない。
(3)「世代間倫理」の定義
「 異なった世代間の倫理関係が世代間倫理であり、例えば、高齢者介護など世代間の支え合いに基づく社会保障制度に関する責任負担の問題や、雇用における年齢差別の問題を考える場合のような、同時代の中の世代間の倫理問題と、例えば植民地政策や戦争のように、遠い過去に不正や危害について子孫が責任を負うべきかとか、あるいは、天然資源の利用、核廃棄物の貯蔵、地球温暖化など特に環境倫理の問題を考える場面で、未来世代との正義(公平性)や未来世代への責任もしくは義務を考える場合のような、同時代ではない遠く隔たった世代間の倫理問題とがある。とりわけ、後者は人間の同時的相互関係を基本とする近代倫理学にとっては難問である」(『現代倫理学事典』弘文堂)
この定義においても、未来世代との関係における「世代間倫理」は、困難な問題と記述されていることに注目してください。
(4)新自由主義経済とモラルハザード(倫理崩壊)の関係/岩井氏の見解
新自由主義経済とは市場原理主義、グローバル化、自由貿易、公的部門の民営化、規制緩和などを推進することで、公的部門の比率を減少させ、民間部門の役割を増大させる政治経済思想です。
そして、自由貿易による関税撤廃。市場経済、規制緩和による価格破壊。これらにより、輸入食品の安全性問題や国内農業の崩壊、コスト削減・成果主義による企業のモラル・安全意識の低下が目立ってきています。
しかも、弱肉強食の競争原理を掲げる新自由主義・市場主義は、「公共性の問題」を、「競争の公正性」、「セーフティネット」に置き換えます。公共性を軽視した社会運営は、人々から連帯感、共生意識、倫理観を奪い取り、非人間的な人間関係だけが残ることになります。
新自由主義経済が進展して、利己主義が世界中ではびこり、モラルハザード(倫理崩壊)が起き、世界各地でデモと暴動が頻発する時代となりました。自分たちの生命・存在に危機が迫れば、秩序・倫理が喪失していくことは当然です。
この点に関して、岩井氏は、「経済学はその理論体系から倫理を葬り去ることによって成立した学問です」(『経済学の宇宙』P361)と「経済学」を批判しています。
そして、岩井氏は、以下のように、『資本主義から市民主義へ』の中で資本主義社会における「倫理の必要性」を強調しています。
「じつは「『資本主義社会は倫理性を絶対に必要とする」』というのが、ぼくの主張です。しかも、まさにそれが契約関係によって成立する社会であることによって倫理性が要請されるということなのです。」(P129『資本主義から市民主義へ』)
経済学者が倫理を強調することは、珍しいことです。
上記の「未来世代への責任」では、
「【1】私は経済学者です。そして、経済学者とは現代において数少ない「悪魔」の一員です。
【2】人類は太古の昔から利己心の悪について語ってきました。他者に対して責任ある行動をとることーーそれが人間にとって真の「倫理」であると教えてきたのです。だが、経済学という学問はまさにこの「倫理」を否定することから出発したのです。」
と述べられていることに、矛盾する感じです。
しかし、「【21】だが京都議定書の批准をめぐる最近の混乱は、まさにその「『倫理」』こそ地球上で最も枯渇した資源であることを思い出させてくれました」という由々しき現状、
新自由主義経済における倫理性の全くの欠如という状況から、
これまでの視点を大きく変換したのでしょう。
岩井氏の「倫理」に関する考察はユニークな上に、入試頻出なので、さらに引用していきます。
熟読してください。
「倫理の問題に戻ります。端的に言ってしまうと、倫理とは、人間が死ぬ存在であることと本質的にかかわっていると思っています。なぜなら、人間が永遠に生きられるとすると、現在何か悪いことをやっても、将来かならず相手に対して償いをすることが可能になるからです。それは、すべてを、法律的な権利義務の関係、いや、もっと正確には、経済的な貸し借り関係に還元してしまうことになるのです。そこでは、ほんとうの意味での倫理性は必要でなくなってしまう。だが、人間は有限な存在です。だから、自分のおこなった行為に対して、どのようにしても償いや返済ができない可能性がある。そこではじめて、本来的な意味での主体的な責任という問題が生まれてくるのです。それが究極の意味での倫理の問題だと思うのです。」(P131・132『資本主義から市民主義へ』)
「言語・法・貨幣、さらにそれとは別のカテゴリーですけれど、定言命題(→ 主語に対して述語が結びついているという形の単純な命題)としての倫理―これらが、まさに自己循環論法の産物であるということ、つまり実体的な根拠をもっていないということに、究極的には人間の人間としての自由の拠り所があるし、人間にとっての救いがあると思っています。自己循環論法であるからこそ、遺伝子情報の制約からも、人間理性の限界からも自由になれるのです。その意味で、言語・法・貨幣、そして倫理、とりわけ、それらすべての基礎にある言語のなかに、もっとも根源的な真理が隠されているわけです。無根拠だから空虚なのではありません。無根拠だから真理を見出していく無限の潜在力にあふれているのです。」(P144・145『資本主義から市民主義へ』)
「ミルトン・フリードマンのような単純な新古典派経済学(→「新古典派経済学」とは、経済学における学派の一つ。 新古典派の考え方は、自由放任主義である。 価格の調整速度が速いということを前提として理論を展開している。 競争原理が第一と考えている)の人たちは、ぜんぶ利潤追求でOKだと語っていますが、ぼくは逆に、資本主義そのものに矛盾があるということを、不均衡動学(→『不均衡動学の理論』)で論証し、『貨幣論』で論証し、会社論(→『会社はこれからどうなるのか』→本書において岩井氏は、「会社は株主のものである」とする株主主権を批判する一方で、「信任」ということを重視しています。また、2008年以降の世界経済危機を、1970年代後半から始まったグローバル化のもととなった「新古典派経済学」の「壮大な失敗」と考えています)でも論証しているわけです。会社論では信任が必要だ、倫理が必要だということを語っている。つまり、資本主義はつねにどこかで市民社会とつながっていなければならない。そうしなれば、自己崩壊の危機をつねにかかえてしまうことになる。やはり、法が自己循環的な構造をもっているがゆえに、どこかで市民社会とつながっていなければ、自己崩壊してしまう危険をつねにかかえてしまう。」(P273・274『資本主義から市民主義へ』)
あらゆる学問がそうですが、「経済学」も、常にどこかで市民社会とつながっていなければならない学問です。
市民社会の基盤には、倫理があるのですから、経済学も倫理性を有しているべきでしょう。そうしなれば、一般社会から隔絶した空理空論と評価されることになるでしょう。
以上の点で、岩井氏の論考は、極めて正当と評価できると思います。
(5)岩井克人氏の紹介
岩井 克人(いわい かつひと、1947年生まれ ) 日本の経済学者(経済理論・法理論・日本経済論)。学位はPh.D.(マサチューセッツ工科大学・1972年)。米イェール大学助教授、東大助教授、米ペンシルベニア大学客員教授、米プリンストン大学客員准教授、東大教授などを経る。国際基督教大学客員教授、東京大学名誉教授、公益財団法人東京財団名誉研究員、日本学士院会員。
【著書】
『ヴェニスの商人の資本論』(筑摩書房・1985年、ちくま学芸文庫・1992年)
『不均衡動学の理論』(岩波書店・1987年)
『貨幣論』(筑摩書房・1993年、ちくま学芸文庫・1998年)
『資本主義を語る』(講談社・1994年、ちくま学芸文庫・1997年)
『二十一世紀の資本主義論』(筑摩書房・2000年、ちくま学芸文庫・2006年)
『会社はこれからどうなるのか』(平凡社・2003年、平凡社ライブラリー・2009年)
『会社はだれのものか』(平凡社・2005年)
『IFRSに異議あり』(日本経済新聞出版社・2011年)
『経済学の宇宙』(日本経済新聞出版社・2015年)
『不均衡動学の理論』(モダン・エコノミックス20/ 岩波オンデマンドブックス)
なお、当ブログでは、岩井克人氏の論考については、最近、予想問題記事を発表しました。ぜひ、ご覧ください。
(6)当ブログの「地球環境問題」・「消費社会」関連記事の紹介
「地球環境問題」の根本的原因・背景に「消費社会」の問題があります。常に、セットで考えるようにしてください。「消費社会」・「高度消費社会」の論点は、入試頻出論点です。
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今回の記事は、これで終わりです。
次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。
ご期待ください。
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