現代文最新傾向LABO 斎藤隆

入試現代文の最新傾向を分析し、次年度の傾向を予測する大胆企画

予想問題/「言葉の生成について」内田樹/読解力・知的成熟

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 

 PISA 経済協力開発機構(OECD)の2015年国際学習到達度調査(PISA)で、日本の「読解力」の順位が前回の4位から8位に低下しました。

 このことを契機に、「教育現場」における「読解力の養成」が問題化しています。

  

   「子供の読解力の養成」について、最近、入試頻出著者・内田樹氏が、『内田樹の研究室』に秀逸な論考を発表しました。

 そこで、国語(現代文)・小論文対策として、以下にその概要を引用し、ポイントを解説していきます。

 

 

(2)予想問題/「言葉の生成について」内田樹/2018・3・28『内田樹の研究室』

 

(概要です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です)

 

「『徒然草』の現代語訳をしている時に、一つ発見がありました。今日はその経験を踏まえて、言葉はどうやって生まれるのか、言葉はどうやって受肉するのかという、言葉の生まれる生成的なプロセスについて、思うところをお話ししたいと思います。

 つい最近、PISA(→当ブログによる「注」→OECD生徒の学習到達度調査Programme for International Student Assessment、PISAとは、経済協力開発機構(OECD)による国際的な生徒の学習到達度調査のこと。日本では国際学習到達度調査とも言われるが、英語の原文は「国際生徒評価のためのプログラム」)の読解力テストの点数が劇的に下がったという報道がありました。記事によると、近頃の子どもたちはスマホなど簡便なコミュニケーションツールを愛用しているので、難解な文章を読む訓練がされていない、それが読解力低下の原因であろうと書かれていました。

 たしかに、それはその通りだろうと思います。しかし、だからと言って「どうやって読解力を育成するか?」というような実利的な問題の立て方をするのは、あまりよろしくないのではないかという気がします。

 というのは、読解力というのは目の前にある文章に一意的な解釈を下すことを自制する、解釈を手控えて、一時的に「宙吊りにできる」能力のことではないかと僕には思えるからです。

 難解な文章を前にしている時、それが「難解である」と感じるのは、要するに、それがこちらの知的スケールを越えているからです。

 それなら、それを理解するためには自分を閉じ込めている知的な枠組みを壊さないといけない。これまでの枠組みをいったん捨てて、もっと汎用性の高い、包容力のある枠組みを採用しなければならない。読解力が高まるとはそういうことです。大人の叡智に満ちた言葉は、子どもには理解できません。経験も知恵も足りないから、理解できるはずがないんです。ということは、子どもが読解力を高めるには「成熟する」ということ以外にない。ショートカットはない。

 僕はニュースを見ていて、読解力が下がっているというのは、要するに日本人が幼児化したのだと感じました。「読解力を上げるためにはこれがいい!」というようなこと言い出した瞬間に、他ならぬそのような発想そのものが日本人の知的成熟を深く損うことになる。(→当ブログによる「注」→ということは、子どもが読解力を高めるには「成熟する」ということ以外にない。ショートカットはない。→成熟する他に対策はないのに、対策を考えること自体が愚かなのです。)

 なぜ、そのことに気がつかないのか。」(「言葉の生成について」)

 

(当ブログによる解説)

 現代日本では、真の「市民的成熟」は非常に困難という事情があります。

 それでは、いかにして市民的成熟を達成するか?

 このことについては、内田樹氏の最近の著書『困難な成熟』が、かなり参考になります。

 この本は、著者に定期的に送られてくる人生相談の質問に答えたメルマガ連載を書籍化したものです。

 この本の最初には、次のような記述が、あります。

  タイトルは「困難な成熟」としました。我が師エマニュエル・レヴィナス先生の『困難な自由』から拝借しました。全体を貫く主題は「いかにして市民的成熟を達成するのか」というただひとつの問に集約されるように思ったからです。

 成熟というプロセスは「それまでそんなふうに見たことのない仕方でものごとをを見るようになった」「それまで、そんなものがこの世に存在するとは知らなかったものを認識した」というかたちをとる。

 

 最後の一文は、少々曖昧ですが、重要な示唆的な内容になっています。

 今回の「言葉の生成について」を『困難な成熟』を参照しながら読むと、理解が深まると思います。

 

困難な成熟

困難な成熟

 

 

 内田氏は、『内田樹の研究室』における別の記事(「大人への道」)で、以下のように、「資本主義の進展」により「日本社会の幼児化」が顕著になったと述べています。

 

「  企業から、「共同的に生きる」ということの基礎的なノウハウが欠如した社会集団(→当ブログによる「注」→ここでは、「幼児化したまま、成熟していない若者」をさしています)がいるのだけれど、それを「どうしたらいいのか」という問いがあった。

 「どうしたらいい」のかという対症的な問いの前に、「どうしてこのような集団が発生したのか」という原因についての問いが立てられなければならない。

 同じことをもう繰り返し書いているので、詳しくはもう書かないが、要するに「自己利益を優先的に追求すること」「自分らしく生きること」がたいへんけっこうなことであるというイデオロギーが80年代から20年余にわたり官民あげての合意によって、日本全体に普及したことの見事な結果である。

 当の若い方たちに責任があるわけではない。

 自己利益と自分らしさの追求が、国策的に推奨されたのは、それが集団の解体を促進し、市民たちの原子化を徹底し、結果的に消費活動の病的な活性化をもたらしたからである。

 考えれば当然のことだ。

 資本主義は市民の原子化・砂粒化(→当ブログによる「注」→伝統文化・伝統的価値の破壊、地域社会の破壊、家族関係の破壊、それらが導く個人の孤立化)を推し進める。

 「他者と共生する能力の低い人間」は「必要なものを自分の金で買う以外に調達しようのない人間」だからである。

 それこそ理想的な消費者である。

 それゆえ、高度消費社会は、「自分が自分の手で稼いだものについては、それを占有し、誰ともシェアしてはならない。『自分らしさ』は誰とも共有できない商品に埋め尽くされることで証示される」と信じる子どもたちを作り出すことに国力を傾けた。

 共生能力が低く、自己利益の確保を集団の利益の増大よりも優先させる若者たちは官民挙げての国民的努力の「成果」以外のなにものでもない。

 それについて「誰の責任だ」と凄んでみても始まらない。

 そのような若者たちのありようについては、ある年齢以上の日本人全員に責任がある(私自身は「そういうのはよろしくないです」とずっと言ってきたが、私の声がさっぱり「世論」の容れるところにならなかったのは畢竟私の非力さゆえであり、その意味では、この否定的状況について私もまたその有責者であることに変わりはない)。

 何より、このような共生能力の欠如は、日本社会が例外的に豊かで安全である限りは市場に活気をもたらす「プラス」の要因であったことを、私たちはどれほど苦々しくても認めなければならないと思う。

 そのような理想的消費者の出現のおかげで、現に企業はおおいに収益を上げたわけであるから(花王さんも含めてね)、いまさら「困った」と言われても困る。

 「痩せたい。でも食べたい」というのと同じである。

 この世が成熟した市民ばかりになれば、市場は「火が消えたようになる」けれど、それでもいいですか、ということである。

 というのも、「成熟した市民」は、その定義からして、他者と共生する能力が高く、自分の資産を独占せず、ひろく共用に供する人間だからである。

 それは自分もあまりお金をつかわないし、人にもつかわせない人、ということである。

「成熟した市民」とは言い換えれば「飢餓ベース」「貧窮ベース」の人間のことである。

 危機的状況でも乏しい資源しかない場所でも生き延びることができる「仕様」の人間のことである。

 記号的・誇示的な消費活動ともっとも無縁な人たちである。

 だから、資本主義は市民の成熟を喜ばない。

 そのことを肝に銘じておこう。

 日本社会が「子ども」ばかりになったのは資本主義の要請に従ったからである。

(「大人への道」内田樹『内田樹の研究室』2010年4月22日)

 

 

 さらに、内田氏は、『大人のいない国』の中で、今の日本には、「成熟した人間」のロールモデルがいないと、以下のように述べています。

 

(『大人のいない国』からの引用)

鷲田 幼稚な人が幼稚なままでちゃんと生きていける。

内田 そうなんです。欧米にもアジアにも、そんな社会ないですよ。日本みたいに外側だけ中高年で、中身が子どものままというような人たちが権力を持ったり、情報を集中管理していたりしたら、ふつうはつぶれますよ。

鷲田 今の日本には大人がいないんですよ。いるのは老人と子どもだけ。若い人はみんな、もう自分は若くないと思っているし、オジサン、オバサンたちはまだ自分はどこか子どもだと思っている。成熟していない大人と、もうこの先ないと思っている子どもだけの国になってしまいましたね。

内田 学生たちに聞くと「とにかく年をとりたくない」って言うんですよ。まだ20歳ですよ。子どもなのに、大人になりたくない、と。それも仕方がないかなとも思うんです。だって、成熟した人間のロールモデル(→当ブログによる「注」→自分にとって、具体的な行動・思考の模範・手本となる人物のこと)がいないんですから。

 (『大人のいない国』)

 

 

大人のいない国 (文春文庫)

大人のいない国 (文春文庫)

 

 

(「言葉の生成について」の概要の続き)

「  以前、ある精神科医の先生から「治療家として一番必要なことは、軽々しく診断を下さないことだ」という話を伺ったことがあります。それを、その先生は「中腰を保つ」と表現していました。この「中腰」です。立たず、座らず、「中腰」のままでいる。急いでシンプルな解を求めない。これはもちろんきついです。でも、それにある程度の時間耐えないと、適切な診断は下せない。適切な診断力を持った医療人になれない。

 今の日本社会は、自分自身の知的な枠組みをどうやって乗り越えていくのか、という実践的課題の重要性に対する意識があまりに低い。低いどころか、そういう言葉づかいで教育を論ずる人そのものがほとんどいない。むしろ、どうやって子どもたちを閉じ込めている知的な枠組みを強化するか、どうやって子どもたちを入れている「檻」を強化するかということばかり論じている。

 しかし、考えればわかるはずですが、子どもたちを閉じ込めている枠組みを強化して行けば、子どもたちは幼児段階から脱却することができない。できなくなる。でも、現代日本人はまさにそのようなものになりつつある。けっこうな年になっても、幼児的な段階に居着いたままで、子どもの頃と知的なフレームワークが変わらない。

(→当ブログによる「注」→悲惨な状況です。それに気付かないことも悲惨です。このことが、日本に固有な、歪んだ「高齢化社会」問題の原因の一つになっているのです→この点については、新たに記事化する予定です)

 もちろん、知識は増えます。でも、それは水平方向に広がるように、量的に増大しているだけで、深く掘り下げていくという垂直方向のベクトルがない。読解力というのは量的なものではありません。

 僕が考える読解力というのは、自分の知的な枠組みを、自分自身で壊して乗り越えていくという、ごくごく個人的で孤独な営みであって、他人と比較したり、物差しをあてがって数値的に査定するようなものではない。読解力とは、いわば生きる力そのもののことですから。

(→当ブログによる「注」→「読解力」=「生きる力そのもの」という指摘は、重要です)

 現実で直面するさまざまな事象について、それがどういうコンテクストの中で生起しているのか、どういうパターンを描いているのか、どういう法則性に則っているのか、それを見出す力は、生きる知恵そのものです。何か悲しくて、生きる知恵を数値的に査定したり、他人と比較しなくてはならないのか。そういう比較できないし、比較すべきではないものを数値的に査定するためには、「読解力とはこういうテストで数値的に考量できる」というシンプルな定義を無理やり押し付けるしかない。けれども、ある種のドリルやテストを課せば読解力が向上するという発想そのものが子どもたちの「世界を読み解く力」を損なっている。(→上記の「読解力」=「生きる力」=「生きる知恵」=「世界を読み解く力」は重要な指摘と言えます)

 僕がそのように思うに至ったのには、レヴィナスを翻訳した経験が深く与っています。レヴィナスは「邪悪なほど難解」という形容があるほど難解な文章を書く哲学者です。
 僕は1970年代の終わり頃、修士論文を書いている時にレヴィナスの名を知り、参考文献として何冊かを取り寄せ、最初に『困難な自由』という、ユダヤ教についてのエッセイ集を読みました。しかし、これが全く理解できない。そして、茫然自失してしまった。にもかかわらず、自分はこれを理解できるような人間にならなければということについては深い確信を覚えました。ただ知識を量的に増大させて太刀打ちできるようなものではない、ということはよくわかりました。人間そのものの枠組みを作り替えないと理解できない。

 それまでも難しい本はたくさん読んできましたが、その難しさは知識の不足がもたらしたもので、別に自分自身が変わらなくても、勉強さえすれば、いずれ分かるという種類の難解さに思われました。でも、レヴィナスの難解さは、あきらかにそれとは質の違うものでした。今のままの自分では一生かかっても理解できないだろうということがはっきりわかる、そういう難解さでした。その時は「成熟する」という言い回しは浮かびませんでしたが、とにかく自分が変わらなければ始まらないことは実感した。

 レヴィナスが難解だったのは、語学力や知識の問題というよりは、自分が幼くて、レヴィナスのような「大人」の言うことがわからなかったからだということがわかった。レヴィナスの書くものの本質的なメッセージは、一言で言うと、「成熟せよ」ということです。

 全く分からないけど、どんどん読む。そうすると、何週間かたつうちに、意味は分からなくても、テキストと呼吸が合ってくる。呼吸が合ってくると、「このセンテンスはこの辺で終わる」ということがわかる。どの辺で「息継ぎ」するかがわかる。そのうちにある語が来ると、次にどういう語が来るか予測できるようになる。ある名詞がどういう動詞となじみがいいか、ある名詞がどういう形容詞を呼び寄せるか、だんだん分かるようになる。不思議なもので、そうなってくると、意味が分からなくても、文章を構成する素材については「なじみ」が出てくる。

 そのうちにだんだん意味がわかってくる。

 でも、それは頭で理解しているわけじゃないんです。まず身体の中にしみ込んできて、その「体感」を言葉にする、そういうプロセスです。それは喩えて言えば、「忘れていた人の名前が喉元まで出かかっている」時の感じに似ています。これはただ「わからない」というのとはもう質が違います。体はもうだいぶわかってきている。それを適切な言葉に置き換えられないだけなんです。

 身体は、もうかなりわかっているんだけれど、まだうまく言葉にならないで「じたばたしている」、これこそ言葉がまさに生成しようとしているダイナミックな局面です。たしかに思いはあるのだが、それに十全に照応する記号がまだ発見されない状態、それはと子どもが母語を獲得してゆくプロセスそのものです。僕たちは誰もが母語を習得したわけですから、そのプロセスがどういうものであるかを経験的には知っているはずなんです。

 まず「感じ」がある。未定型の、星雲のような、輪郭の曖昧な思念や感情の運動がある。それが表現されることを求めている。言葉として「受肉」されることを待望している。だから必死で言葉を探す。でも、簡単には見つからない。そういうものなんです。それが自然なんです。それでいいいんです。そういうプロセスを繰り返し、深く、豊かに経験すること、それが大切なんです。

 レヴィナスを毎日翻訳するという生活が10年近く続いたわけですけれど、これだけ「わからない言葉」に身をさらすということをしていると、まだぴったりした言葉に出会っていない思念や感情は、いわば「身に合う服」がないまま、裸でうろうろしているような感じなんです。だから、何を見ても「あ、これなら着られるかな、似合うかな」と思う。四六時中そればかり考えている。新聞を読んでも、小説を読んでも、漫画を読んでも、友だちと話していても、いつも「まだ服を着ていない思い」が着ることのできる言葉を探している。そのことがずっと頭の中にある。そうすると、喉に刺さった魚の骨みたいなもので、気になって気になって、朝から晩まで、そのことばかり考えている。でも、魚の骨と同じで、そのことばかり考えているうちに、それに慣れて、意識的にはもう考えなくなってしまう。そして、ある日気がつくと、喉の痛みがなくなっている。喉に刺さっていた小骨が唾液で溶けてしまったんです。「痛い痛い」と言いながら、身体はずっと気長に唾液を分泌し続けていた。そして、ある日「喉に刺さった小骨」は溶けて、カルシウムになって、僕の身体に吸収され、僕の一部分になってしまっていた。

 新しい記号の獲得というのは、そういうふうにして行われるものだと思います。「記号化されることを求めているアイデアの破片」のようなものが、いつも頭の中に散らばっている。デスクトップ一杯に散らかっている。だから、何を見ても「これはあれかな」と考える。音楽を聴いても、映画を見ても、本を読んでいても、いつも考えている。

 そういう時に役に立つのは「なんだかよくわからない話」です。自分にうまく理解できない話。そういう話の中に「これはあれかな」の答えが見つかることがある。当然ですよね、自分が知っているものの中にはもう答えはないわけだから。知らないことの中から答えを探すしかない。自分がふだん使い慣れている記号体系の中にはぴったりくる言葉がないわけですから、「よそ」から持ってくるしかない。自分がそれまで使ったことのない言葉、よく意味がわからないし、使い方もわからない言葉を見て、「あ、これだ!」と思う。そういうことが実際によくあります。

 これは本当によい修業だったと思います。そういう明けても暮れても「言葉を探す」という作業を10年20年とやってきた結果、「思いと言葉がうまくセットにならない状態」、アモルファスな「星雲状態」のものがなかなか記号として像を結ばないという状態が僕にはあまり不快ではなくなった。むしろそういう状態の方がデフォルト(→当ブログによる「注」→「普通」という意味)になった。

 たいせつなのは、どういう「ヴォイス(voice)」を選ぶかということだと思います。「ヴォイス」というのは、その人固有の「声」のことです。余人を以ては代え難い、その人だけの「声」。

 国語教育目標は、生徒たち一人ひとりが自分固有の「ヴォイス」を発見すること、それに尽くされるのではないかと僕は思います。

 基本は呼吸なんです。呼吸は国語によって変わります。イタリア人やフランス人とは息継ぎのリズムが違います。イタリア人が日常的に話しているイタリア語をリズミカルに、抑揚をつけて話すとオペラになる。日本人でも日常の言葉を音楽的に処理すると、謡になったり、浄瑠璃になったり、落語になったりする。

 多くの人が勘違いしているようですけれど、自分の思考プロセスは自分のものではありません。それは、マグマや地下水流のようなもので、自分の外部に繋がっています。それと繋がることが「ヴォイス」を獲得するということです。呼吸と同じです。呼吸というのは酸素を外部から採り入れ、二酸化炭素を外部に吐き出すことです。外部がないと成り立たない。自分の中にあるものの組み合わせを替えたり、置き換えたりしているだけではすぐに窒息してしまいます。生きるためには外部と繋がらなければならない。

 言葉が生成するプロセスというのは、自分のものではありません。自分の中で活発に働いているけれども、自分のものではない。それに対する基本的なマナーは敬意を持つことなんです。自分自身の中から言葉が湧出するプロセスに対して丁寧に接する。敬意と溢れるような好奇心を以て向き合う。」(「言葉の生成について」)

 

 (当ブログによる解説) 

 上記の最終段落について解説します。

   「言葉が生成するプロセス」への「敬意」、つまり、「成熟」と「自分以外のものへの敬意」の「関係」については、『困難な成熟』の第3章「与えるということ」の一節が参考になります。

 「敬意」は「成熟」の前提条件ともいえるものです。

 

(以下、引用)

「  贈与は「私が贈与した」という人ではなく、「私は贈与を受けた」と思った人間によって生成するのです。 「目に映るすべてのものはメッセージ」(ユーミンの『優しさに包まれたなら』) この感覚のことを「被贈与の感覚」という。

 「カーテンを開いて、静かな木漏れ陽の、やさしさに包まれたなら、きっと、目に映るすべてのことはメッセージ」

 聴いて、はっとしました。これは贈与論ではないか、と。

「目に映るすべてのことはメッセージ」ですよ。この感覚のことを「被贈与の感覚」と僕は申し上げているわけです。

誰もメッセージなんか送っていないんです。

 木漏れ陽は誰かからのメッセージじゃありません。ただの自然現象です。でも、ユーミンはそこに「メッセージ」を読み出した。自分を祝福してくれるメッセージをそこから「勝手に」受け取った。そしてその贈り物に対する「お返し」に歌を作った。 

 その歌を僕らは聴いて、心が温かくなった。「世界は住むに値する場所だ」と思った。そういう思いを与えてくれたユーミンに「ありがとう」という感謝を抱いた。返礼義務を感じたので、とりあえずCDを買った(昔なので、買ったのはLPですけど。)

 そして、はじめてこの歌を聴いてから35年くらい経ってからも、こうやって「あれはいいね」という文章を書いている。

 贈与は 形あるものではありません。

 それは運動です。 人間的な営為のすべては「贈与を受けた立場からしか始まらない。

 そして、市民的成熟とは、「自分が贈与されたもの」 それゆえ「反対給付の義務を負っているもの」について、どこまで 長いリストを作ることができるか、それによって考慮されるものなのです。 そのリストが長ければ長いほど、「大人」だということになる。

 皆さんにしてほしいのは、ユーミンが歌ったとおり、 「目に映るすべてのことはメッセージ」ではないかと思って、 周りを見わたして欲しいということ、それだけです。

 (『困難な成熟』)

 

 また、上記の「言葉の生成について」の中の、

「言葉が生成するプロセスというのは、自分のものではありません。自分の中で活発に働いているけれども、自分のものではない」

の部分は、「言語道具観」とは異なる内田氏の「言語観」を知っておくと、分かりやすくなります。

 従って、「言語観」についての内田氏の見解(「白川静先生を悼む」『内田樹の研究室』2006年11月6日)を引用します。

 

「  白川先生の漢字論は『コミュニケーションの道具としての言葉』という功利的言語観と隔たるところ遠い。

 私たちが言葉を用いるのではなく、言葉によって私たちが構築され変容されてゆく。

 白川先生はそう教えた。

 この言語観はソシュール以後の構造主義言語学やレヴィ=ストロースやジャック・ラカンの構造主義記号論と深く通じている。

 そういう意味で白川静先生は「日本を代表する構造主義者」と呼んでよいのではないかと私は思っている。

(内田樹「白川静先生を悼む」『内田樹の研究室』2006年11月6日)

 

 (「言葉の生成について」の概要の続き)

「ヴォイス」の発見とは、自分の中で言葉が生まれていくプロセスそのものを観察し、記述できること、そう言ってよいかと思います。自分の中で言葉が生まれ、それを使ってなにごとかを表現し、今度はそうやって表現されたものに基づいて「このような言葉を発する主体」は何者なのかという一段次数の高いレベルから反転して、自己理解を深めてゆく。そういうダイナミックな往還の関係があるわけです。そのプロセスが起動するということがおそらく「ヴォイス」の発見ということではないかと僕は思います。(→当ブログによる「注」→「ヴォイス」の発見は「自己理解」の重要なプロセス、という指摘は、「自己理解」を考察する上で必要なことです)

 今の子どもたちの語彙が貧困で、コミュニケーション力が落ちている最大の理由は、周囲の大人たちの話す言葉が貧困で、良質なコミュニケーションとして成り立っていないからです。

 周りにいる大人たちが陰影に富んだ豊かな言葉でやりとりをしていて、意見が対立した場合はさまざまな角度から意見を述べ合い、それぞれが譲り合ってじっくり合意形成に至る、そういうプロセスを日常的に見ていれば、そこから学ぶことができる。それができないとしたら、それは子どもたちではなく、周りの大人たちの責任です。

 もし今の子どもたちの読解力が低下しているとしたら、その理由は社会自体の読解力が低下しているからです。子どもに責任があるわけじゃない。大人たち自身が難解な文章を「中腰」で読み続けることがもうできない。

 時々、議論を始める前に、「まずキーワードを一意的に定義しましょう。そうしないと話にならない」という人がいますね。そういうことを言うとちょっと賢そうに見えると思っているからそんなことを言うのかも知れません。でも、よく考えるとわかりますけれど、そんなことできるわけがない。キーワードというのは、まさにその多義性ゆえにキーワードになっている。

 それが何を意味するかについての理解が皆それぞれに違うからこそ現に問題が起きている。その定義が一致すれば、もうそこには問題はないんです。語義の理解が違うから問題が起きている。

 語義についての理解の一致こそが議論の最終目的なわけです。

 そこに到達するまでは、キーワードの語義はペンディングにしておくしかない。多義的なまま持ちこたえるしかない。今日の僕の話にしても「教育」とは何か、「学校」とは何か、「言語」とは何か、「成熟」とは何か・・・・無数のキーワードを含んでいます。その一つ一つについて話を始める前に一意的な定義を与え、それに皆さんが納得しなければ話が始められないということにしたら、僕は一言も話せない。語義を曖昧なままにして話を始めて、こちらが話し、そちらが聴いているうちに、しだいに言葉の輪郭が整ってくる。合意形成というのは、そういうものです。

 僕たちが使う重要な言葉は、それこそ「国家」でも、「愛」でも、「正義」でも、一義的に定義することが不可能な言葉ばかりです。しかし、定義できるということと、その言葉が使えるということはレベルの違う話です。一意的に定義されていないということと、その言葉がそれを使う人の知的な生産力を活性化したり、対話を円滑に進めたりすることとの間に直接的な関係はないんです。むしろ、多義的であればあるほど、僕たちは知的に高揚し、個人的な、個性的な、唯一無二の定義をそこに書き加えていこうとする。

 でも、それは言葉を宙吊りにしたまま使うということですよね。言葉であっても、観念であっても、身体感覚であっても、僕たちはそれを宙吊り状態のまま使用することができる。シンプルな解に落とし込まないで、「中腰」で維持してゆくことができる。その「中腰」に耐える忍耐力こそ、大人にとっても子どもにとっても、知的成熟に必須のものだと思います。でも、そういうことを言う人が今の日本社会にはいない。全くいない。」(「言葉の生成について」)

 

(当ブログによる解説)

 上記は「効率第一主義」の弊害が顕著になっています。

 すべてのことに「効率第一主義」を適用することは、誤りといえます。

 ましてや、「本質的な議論」に「効率第一主義」を適用しようとする発想は、異様としか言えません。

 「本質的な議論」は、時間をかけて徹底的におこなうべきでしょう。

  

(「言葉の生成について」の概要の続き)

「  誰もが「いいから早く」って言う。「400字以内で述べよ」って言う。だから、こういう講演の後に質疑応答があると、「先生は講演で『宙吊り』にするということを言われましたが、それは具体的にはどうしたらいいということですか」って(笑)、質問してくる人がいる。「どうしたらいいんですか」というシンプルな解を求めるのを止めましょうという話をしているのに、それを聞いた人たちが「シンプルな解を求めないためには、どうしたらいいんですか」というシンプルな解を求めてくる。

(→当ブログによる「注」→この部分は低レベルなコントのようになっています。登場人物は、どうしようもない「漫画的な愚者」です)

 自分で考えてください、自分で考えていいんです。自分で考えることが大切なんです、とそういう話をしているのに、「一般解」を求めてくる。何を論じても、「で、早い話がどうしろと言っているんですか?」と聞いてくる。そこまで深く「シンプルな解」への欲求が内面化している。

 首尾一貫した、整合的なセンテンスを語らなければならないというルールがいつから採用されたんでしょう。だって、言葉の生成というのはそういうものじゃないでしょう。言葉がなかなか着地できないまま、ふらふらと空中を漂って、「なんて言えばいいんだろう、もっと適当な表現はないかなあ」と、つっかえたり、言いよどんだり、前言撤回したり、そういう言語活動こそが「ヴォイス」を獲得するために必須の行程なんです。そういう言葉がうねうねと渦を巻くようなプロセスを「生成的なもの」だと見なして、大人たちが忍耐強く、興味深くそれを支援するということが言葉能力の成熟のためには絶対に必要なんです。」 

(2016年12月9日 大阪府高等学校国語研究会にて)

(「言葉の生成について」内田樹/2018・3・28『内田樹の研究室』)

  

 

 (当ブログによる解説)

 上記の論考の中心ポイントである、「読解力」と「経験・年齢」の「関係」については、『寝ながら学べる構造主義』の「あとがき」に、以下のように書かれています。

 かなり参考になるので引用します。

 

「  私は二十歳の頃、構造主義という当時最先端の思想に食いつこうと必死だったが、難解すぎてさっぱり分からなかった。

 それから歳を経て人並みに世間の苦労を積み、「人としてたいせつなこと」が段々と分かるようになってきました。

 そういう年回りになってから読むと、かつては邪悪なまでに難解であった構造主義者の言いたいことがすらすら分かるじゃありませんか。

 レヴィ=ストロースは要するに「みんな仲良くしようね」と言っており、バルトは「ことばづかいで人は決まる」と言っており、ラカンは「大人になれよ」と言っており、フーコーは「私はバカが嫌いだ」と言っているのでした。

 べつに哲学史の知識がふえたためでも、フランス語読解力がついたためでもありません。

 馬齢を重ねているうちに、人と仲良くすることの大切さも、ことばのむずかしさも、大人になることの必要性も、バカはほんとに困るよね、ということも痛切に思い知らされ、おのずと先賢の教えがしみじみ身に沁みるようになったというだけのことです

 (内田樹『寝ながら学べる構造主義』)

 

*1" src="https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/41XEPVMR1ML._SL160_.jpg" alt="寝ながら学べる構造主義 *2" />

寝ながら学べる構造主義 *3

 

 

 やはり、「読解力」アップのポイントは、「知的成熟」、つまり、「大人になる」ことなのでしょう。

 しかし、子供にとっては、上記の「言葉の生成について」で述べられているように、身近に手本となるような「大人のロールモデル」がいないという不幸な現状があります。

 現代の日本社会が、「大人」というものの価値を認識していないので、「真の大人」がいなくなっているのです。

 

 内田樹氏と同様に、鷲田清一氏も、『大人のいない国』の「プロローグ」で、「大人」というものの再評価を主張しています。

 

「  近頃の不正の数々は、システムを管理している者の幼稚さを表に出した。

 ナイーブなまま、思考停止したままでいられる社会は、じつはとても危うい社会であることを浮き彫りにしたはずなのである。それでもまだ外側からナイーブな糾弾しかしない。そして心のどこかで思っている。いずれだれかが是正してくれるだろう、と。しかし実際にはだれも責任をとらない。

 サーヴィス社会(→当ブログによる「注」→「高度消費社会」と言い換えてもよいでしょう)たしかに心地よい。けれども、先にあげた生きるうえで欠かせない能力の一つ一つをもういちど内に回復してゆかなければ、脆弱なシステムとともに自身が崩れてしまう。システム管理者の幼稚さはそのことを知らせたはずだ。

 「地域の力」といったこのところよく耳にする表現も、見えないシステムに生活を委託するのではなく、目に見える相互のサービス(他者に心をくばる、世話をする、面倒をみる)をいつでも交換できるように配備しておくのが、起こりうる危機を回避するためにはいちばん大事なことだと告げているのだろう。これ以上向こうに行くと危ないという感覚、あるいはものごとの軽重の判別、これらをわきまえてはじめて「一人前」である。

 ひとはもっと「おとな」に憧れるべきである。そのなかでしか、もう一つの大事なもの、「未熟」は、護れない。芸術をはじめとする文化のさまざまな可能性を開いてきた「未熟」な感受性を、護ることはできない。 (『大人のいない国』)  

 

 

 (3)当ブログにおける「内田樹」関連記事の紹介

 

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ーーーーーーーー
  

 今回の記事は、これで終わりです。

 次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

 ご期待ください。

   

 

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困難な成熟

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

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5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

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