予想問題「スポーツ本来の意義 高尚な遊び取り戻す時」佐伯啓思
(1)なぜ、この記事を書くのか?
「遊びの精神」は、 入試頻出論点です。
また、東京オリンピック、最近のマラソンブーム、ジョギングブーム等により、「スポーツ」関連論点は流行論点になっています。
最近の日大アメリカンフットボール部の「危険なタックル問題」が、きっかけとなり、「スポーツ」関連論点は、さらに流行する可能性があります。
最近、入試頻出著者・佐伯啓思氏が、「遊びの精神」・「スポーツ」」に関する秀逸な論考を発表しました。
来年度以降の入試国語(現代文)・小論文対策として、この論考、および、「遊びの精神」について、幅広く解説します。
なお、今回の項目は以下の通りです。記事は、約1万字です。
(2)予想問題/「スポーツ本来の意義 『高尚な遊び』取り戻す時」(佐伯啓思『朝日新聞』2018・6・1「異論のススメ」))
(3)ホイジンガの主張する「遊戯」・「高尚な気晴らし」について
(4)「遊びの価値」について
(5)「ゆとり」とは何か?
(6)「遊びの精神」・「余裕」の必要性
(7)「遊びの精神」・「余裕」を身に付けるためには?
(8)当ブログにおける「佐伯啓思」関連記事の紹介
(9)当ブログにおける「スポーツ」関連記事の紹介
(2)予想問題/「スポーツ本来の意義 『高尚な遊び』取り戻す時」(佐伯啓思『朝日新聞』2018・6・1「異論のススメ」))
(概要です)
(赤字は当ブログによる「強調」です)
(青字は当ブログによる「注」です)
(以下、同じです)
「 アメフトの試合における日大の悪質な反則行為が社会問題となっている。連日、ニュースのトップを飾るほどの事件かとも思うが、なにせこのところのトップニュースは、「もり・かけ(森友・加計学園)問題」から、財務省の事務次官を始めとする多様なセクハラ問題と、何やら各種・各所の「反則」行為とその糾弾ばかりが目立っている。
日大アメフト問題はともかく、改めてスポーツについて論じてみたい。スポーツとは、もともとディス・ポルトという語源をもっているようだが、これは船が停泊する港(ポルト)を否定する(ディス)ものであり、停泊地から離れる、つまり、はめをはずす、といった意味を含んでいるという説がある。実際、英語の「スポート」には「戯れ」や「気晴らし」や「ふざけ」といった意味がある。だから、もともとスポーツは「はめをはずす」ものといえるのだが、その第一義的な意義は、それが日常の窮屈な秩序や組織の規則から一時的に解放されて気晴らしを行う、という点にあった。日常のなかに無理やりに押し込まれた過剰なエネルギーの発露である。
ところが、オランダの歴史家であるヨハン・ホイジンガが、かつて「ホモ・ルーデンス」(1938年)と題する本で、人間の文化は(そして政治も経済も)「遊び」のなかで生み出された、述べた。「ホモ・ルーデンス」とは「遊び(ルードゥス)」から発した「遊ぶ人」だ。
もちろん、これは「遊び人」ではない。「ホモ・ルーデンス」とは、ただ生きるという生存活動ではなく、日常的生活を超えた次元で、人間のもつ過剰なエネルギーが生み出した活動の様式なのである。「遊び」という言葉が十分に暗示しているように、それは、生活必需品の生産や確保を旨とする日常の活動とは異なった次元にあった。賞品や名誉をめぐって争われる競技など、その典型であろう。生を確保するための日常の活動では人々は必死になるが、この過剰なエネルギーの発露である「遊び」においては、人は、どこか余裕をもち、楽しんで気晴らしをするだろう。
ホイジンガは、その場合、非日常的なこの過剰なエネルギーを整序するものとして、とりわけ宗教的・儀式的なものの役割を重視している。古代ギリシャのオリンピックも、もともとは神々へ捧げる祝祭の競技であった。スポーツは、確かに「遊び(ルードゥス)」を起源としているが、「スポーツ」がもっている非日常的な「はめはずし」の行き過ぎを防ぐものは、その背後にある「聖なるもの」であり、そこに一定の「様式」や「規則」が生み出されてきたのである。日本では、「道」という観念がその代替的役割を果たしたのであろう。
そして、神々を背後において行われる競技という「遊び」の精神は、ソクラテスやソフィストの言論競技の根底にもあり、そうだとすれば、それは言論を戦わせる民主政治にも通じる。また、もともと、聖なる場所にしつらえられた市場でモノのやりとりをする市場経済にも通じるものである。それらの根底には「遊び」の要素がある。
とすれば、「スポーツ」にも、また政治上の言論戦にも、また経済競争にも、どこか余裕があり、楽しむ精神があり、偶発性があり、ルールがあり、その先には、何らかの「聖なるもの」へ向けた意識があった。神々が見ている、というような意識である。スポーツの競争や競技は、むろん真剣勝負であるが、その真剣さは、生きるための日常の必死な生真面目さとは一線を画した、どこかに余裕をもった真剣勝負であった。
ところが、オランダの歴史家であるホイジンガは、今日、スポーツから遊びが失われている、という。そもそも、祭祀(さいし)との関連がすっかり失われ、ただただ勝つことや記録だけが自己目的化され、カネをかけた大規模な大会に組織され、機械的で合理的な訓練が優位となり、もっぱら職業的な活動となっている。これでは、本来の「高尚な気晴らし」は失われてしまう。勝つために合理的に訓練され組織された闘争本能の発露になっている、ということだ。
政治も経済も、もともと「遊び」に淵源(えんげん)をもつというホイジンガの発想を借用すれば、今日の民主政治も市場競争も、スポーツと同様、あまりに合理化され、組織化され、過度に勝敗にこだわり、数字に動かされ、自由さも余裕も失ってしまったようにみえる。確かに、今日の国会論戦も、金融市場の投機も、どこかゲーム的で「過剰なエネルギーの発露」の感がないわけではないが、そこには、「遊び」のもつ余裕もなければ、逆に生きる上での必死の生真面目さもない。ただ、「勝つこと」だけがすべてになってしまった。
今日、大衆的なショウと化した政治も過度に競争状態に陥った経済も、そしてスポーツも、従来のルールに従っていては勝てない。だから、トランプのような「反則的な」大統領が登場して保護主義を唱え、習近平が自由貿易を唱えている。これも反則であろう。フェイクニュースの横行も反則である。本来の「遊び」が失われてしまい、本当に、はめがはずれてしまった。勝つためには反則でもしなければ、という意識があらゆる領域で社会を動かしている。「遊び」がもっていた余裕や自由さが社会からなくなりつつあるのだ。まずはスポーツこそ人間存在の根源にある「遊び」の精神を取り戻す時であろう。」
(「スポーツ本来の意義 『高尚な遊び』取り戻す時」佐伯啓思『朝日新聞』2018・6・1「異論のススメ」)
現代文明は、「余裕」や「人間性」を喪失した、下品で悲惨な状況になっているようです。
特に、日本社会は、政治の失敗、グローバル化の影響により、「余裕」・「ゆとり」をすっかり失い、貧困化し、節約ヒステリーに陥っている感じです。
また、マスコミや医学界に踊らされて健康ヒステリー、清潔パニックにも陥っているようです。
日本社会の劣化が露呈しているのです。
日本人は、本来は「遊びの達人」でした。
日本の伝統文化には「遊びの精神」が色濃いようです。
「梁塵秘抄」には、次のような有名な一節があります。
「遊びをせんとや生まれけむ
戯れせんとや生まれけん
遊ぶ子供の声聞けば
我が身さへこそ動(ゆる)がるれ」
歌舞伎、能楽、狂言、茶の湯、花道、歌舞伎、落語、和歌、俳句、川柳、民謡等には、「遊びの精神」が充満しています。
しかし、近代以降の日本は「遊び」を軽視しています。
教育の分野でも、すぐに役に立つ実用的な教育が求められる傾向があります。
果たして、それで創造的な人間が育つでしょうか?
最近の、日本の淀んだような閉塞感を払拭するためには、「遊びの精神」の再評価が不可欠でしょう。
(3)ホイジンガの主張する「遊戯」・「高尚な気晴らし」について
ホイジンガは、「遊戯」、「高尚な気晴らし」、「聖なる遊び」について、以下のように述べています。
ホイジンガは、「遊び」は、「単なる遊び」ではなく、宇宙における人間存在を高貴たらしめている、「聖なるなるもの」、「美なるもの」という側面がある、と強調しているのです。
以下に、上記の佐伯氏の論考に関連するホイジンガの見解を引用します。
「 プラトンの遊びと神聖なるものとの同一化は、神聖なものを遊びと呼ぶことで冒瀆(ぼうとく)しているのではない。その反対である。彼は、遊びという概念を、精神の最高の境地に引きあげることによって、それを高めている。われわれは、この本の初めの箇所で、遊びはすべての文化に先行して存在していた、と述べた。人間は子どものうちは楽しみのために遊び、真面目な人生の中に立てば、休養、レクリエーションのために遊ぶ。しかし、それよりもっと高いところで遊ぶこともできるのだ。それが、美と神聖の遊びである。」
「 祭礼の行為は遊びでありつつ、同時に、清め、祈り、救済の約束、等々であり、共同体の安寧と福祉を人々に確信させるという、高次の機能を果たしている。聖なる遊びは、共同体の繁栄のためになくてはならぬものであり、宇宙的洞察と社会の発展を内に秘めていながら、しかし常に遊びであり、必要と真面目の味気ない世界の外で、それを超えて成し遂げられる行為である。」
「 遊戯というものが現にあるということが、宇宙の中でわれわれ人間が占めている位置の超理論的な性格を、絶えず幾度となく証明する理由になっているのであり、しかもこの場合、それが最高の意味での証明でさえある。動物は遊戯をすることができる。だからこそ、動物はもはや単なる機械的なもの以上の存在である。われわれは遊戯もするし、それと同時に、自分が遊戯していることを知ってもいる。だからこそ、われわれは単に理性を行使するだけの存在以上のものである。」
「 遊戯はものを結びつけ、また解き放つのである。それはわれわれを虜にし、また呪縛する。それはわれわれを魅惑する。すなわち遊戯は、人がさまざまな事象の中に認めて言い表わすことのできる性質のうち、最も高貴な二つの性質によって充されている。リズムとハーモニーがそれである。」
(4)「遊びの価値」について
上記の佐伯氏の論考の最終部分では、以下のように述べられています。
「遊び」がもっていた余裕や自由さが社会からなくなりつつあるのだ。まずはスポーツこそ人間存在の根源にある「遊び」の精神を取り戻す時であろう。
この言葉は重要です。
人間存在の根源には、「遊びの精神」があるのです
「遊びの精神」は人間にとって不可欠、と言ってもよいでしょう。
この点に関して、プラトンは、以下のように述べています。
「 人間のさまざまの問題は、たしかに大いなる真面目さをもってするには値しないものです」
ここでプラトンが意識しているのは、「パイデイアπαιδεία」という言葉です。
「パイデイア」は「パイディアπαιδία」(「子どもの遊び」という意味。転じて「遊び一般」)から派生した来た言葉で、「教育」・「教養」といった意味を有しています。
プラトンは、「遊び」につながる「この語本来の意味」に注目しているようです。
そして、「正しい生き方とは、一種の『遊び』を楽しみながら、人生を過ごすことにある。そうすることによって、私達は神の加護を受け、戦争にも勝利することができる」と言っています。
遊びは、つらい人生を生きていくための大切な要素であり、人生を支える基盤のひとつなのです。
従って、人間的に豊かに生きていくためには、「遊びの精神」を忘れては、いけないでしょう。
ドイツの教育学者で、幼児教育の祖であるフレーベルは、子ども時代の「遊び」を評価し、「遊びは人を強くする精神的沐浴(もくよく)」と述べています。
このことは、「大人の遊び」にも、通じる部分があると思います。
しかし、現代の日本人は、「遊び」というものに偏見を持っている感じです。
余裕がないのでしょうか?
このことについて、多田道太郎氏が『遊びと日本人』の中で、洒落た卓見を述べています。
考えさせる内容を含んでいるので、以下に引用します。
「『大人の遊び』というものに関して、私たちは、大抵、冷淡である。むしろ、冷酷である。ときには酷薄でさえある。遊びそのものの魅力には、われ知らず引き寄せられる一方、私たちは傍観者としては、冷たくこれを射る眼をもっている。これはどうしたことか、と問うことも愚に似ている。それほど堅い偏見の殻が遊びについての考えを厚くおおうている。」
「 最も感動的な子供の遊びを上限に置き、もっとも非感動的なセックスや麻薬の遊びを下限におくと、その上限下限の階段序列にさまざまの遊びを置くことができる。そして、ひとは、ある遊びを許し、他の遊びを許さないが、そのことは、当の人物のリベラル度をはかる物差しともなる。」
哲学者であるスピノザも、『エチカ』(1677年)の中で次のように述べています。
「 人間の体は、性質を異にする多くの部分から成り立っているので、それぞれの器官がいつもよく働き、心身共に能力を十分に発揮するためには、それぞれの諸器官が多様で必要な栄養をとらえねばならない。自由な生活の楽しみこそが、生命活動の栄養である。」
18世紀のドイツの詩人、フリードリヒ・フォン・シラーも、「遊びの重要性」について、以下のように述べているのです。
「 人間は、文字通り人間であるときだけ遊んでいるのであって、遊んでいるところでだけ真の人間なのだ。」
「人間」と「遊び」は、密接な関係にあるということでしょう。
「遊んでいるところでだけ真の人間なのだ」の部分は、感動しました。
そして、思わず納得してしまいました。
「遊び」は、「人間の豊かさ」の原点です。
さらに、「面白さを追求する精神」が「創造力の源泉」となり、社会を豊かにしていくのです。
「スポーツ」・「遊び」の教育的効果だけでなく、「人間としての豊かさ」を育成する要素としての「スポーツ」・「遊び」の重要性を意識するべきでしょう。
(5)「ゆとり」とは何か?
ところで、「ゆとり」とは、何でしょうか?
曖昧な内容を含んだ言葉です。
なかなか、実感できない側面があります。
辞書をひくと、「余裕を持たせるために設けられた空間」と説明され、類語として、「スペース」 ・ 「余剰 」・「余り」 ・ 「残り」などが挙げられています。
この点について、入試頻出著者・鷲田清一氏が、鋭い指摘しているので、以下に引用します。
「 ゆとりとは、じぶんが自由にできる時間をもつということではなくて、意のままにならないもの、それは物であったり別の生き物であったり記憶であったりするが、そういうもののひとつひとつに丁寧に接するなかで生まれてくるものであるはずだ。それは、じぶん以外の何かを迎え容れうる、そういう空白をもっているということであって、くつろぐ、つまりじぶんの気に入ったもので回りを満たすという態度とは正反対のものなのである。」(『想像のレッスン』鷲田清一)
「ゆとり」と「くつろぎ」が、正反対という指摘には、唸るしか、ありません。
(6)「遊びの精神」・「余裕」の必要性
「遊びの精神」・「余裕」は、人間が真に人間的に生きるためには、必要不可欠なものです。
このことを、明解に気付かせてくれる、皮肉的な論考を以下に紹介します。
佐原真氏の『遺跡が語る日本人のくらし』です。
「 オーストラリアのヨーク半島の付け、西側にいたイル=イヨロント族の変化を見てみます。
かれらは食料採集民で、狩りをしたり木の実を集めたりという生活をしていました。かれらにとっても石斧(いしおの)は男のものでした。奥さんや子供が借りることはできましたけれど、借りるとき、返すときのあいさつは、夫は妻に、父は子に優位に立っていることを確かめる機会でした。そこへ白人がやってきて、鉄の斧が入ってきました。イル=イヨロント族の人びとが白人の手助けをすると、その代償として鉄の斧をくれたりします。ときには、奥さんが鉄の斧をもらうことがあります。夫のほうは石の斧しかもっていないのに、奥さんが鉄の斧をもっていることになります。そうすると、「すまんけど、おまえの鉄の斧を貸してくれ」ということもおきてきます。これが石が鉄に代わったことでおきたさまざまな結果の一つです。
もっと重要なことは、イル=イヨロント族が浮いた時間をどう使ったかということです。この点にいま私は大きな関心をもっています。
浮いた時間を使って、なんとかれらは昼寝をしたのです。私はじつは、その部分を読んだときに吹き出してしまいました。この笑いには軽蔑の意味もふくまれていたと思うのです。ところが、私のこの感想は実はまちがっていた、といまは思っています。
二千年前、日本ではどうだったでしょうか。石から鉄へと変わってきたときに、弥生人はおそらく浮いた時間で宴会に出席することも、昼寝をすることもしませんでした。石から鉄への変化を、生産力の飛躍的な増大につなげたのです。いままで石の斧が一本倒している時間で、四本倒すというぐあいに、すごく生産力を高めたのです。
四世紀、六世紀(古墳時代)の農民が働き者だったことは、群馬県で火山の噴火や洪水の直後に復旧工事にとりくんだ証拠からわかっています。また、日本の農業が草をとればとるほど、よい収穫を約束される農業であることから、弥生農民が働き者だったことを、私は予測しています。
パプア=ニューギニアやオーストラリアでは浮いた時間を遊びに使ったのに、日本では労働に使ったということで、日本人は勤勉だと先祖をほめたたえるつもりか、と思われるかもしれません。そうではありません。
道具や技術は、毎年のようにどんどんすぐれたものになっていきます。なんのためだと思いますか。質問すると、すこしでも楽になるようにとか、効率がよくなるようにとか、企業がもうけるためだとかいう答えがよくもどってきます。しかし、結果から見ると、私はそうではない面もあると思うのです。
じつは、私たちを忙しくするために道具や技術は発達してきているのではないでしょうか。それまで十時間かかったところを、三時間で行くことができるようになったとします。浮いた七時間をどう使うかと考えてみると、ほかの仕事をしているのです。
すくなくとも、つい最近までは、歩いている時間とか車に乗っている時間はボケーッとしていることができました。あるいは空想にふけることができました。しかし、いまや携帯電話ができたのです。歩いていても、車に乗っていても、いつ電話がかかてくるかわかりません。相手からだけでなくて、自分からもかけます。なにもそんなときまでと思うのですが、そんな大人たちが増えています。
私たちは、技術や道具の発達は自分たちを解放するためだと思っていますが、じつは大きな誤解で、自分たちを忙しくするために技術や道具が発達している面もあるのではないかと思うのです。
そこで私は思うのです。オーストラリアのイル=イヨロント族が浮いた時間を寝たというのは、正解だ、と。
多田道太郎さんは、つぎのようなことを私に語ってくれました。
「日本には『休む』とか『怠ける』ということばがあるけれども、みんな悪い意味で使われている。しかし、私たちは、むしろ強制されたことはなにもしないという状況に自分をおくことがたいせつだ。そういう状況のなかで、自由にしたいことをする、それが遊びだ。」
多田さんのいうことのなかに、私にとって非常に重要なことが含まれていました。それは、強制されている状況からは空想力がはばたくはずがない、休んではじめて人間の構想力とか空想力がはばたくのだということです。働きづめに働いていると、そのあげくに出てくることは、しょせんたいしたことはないのだということです。空想力は想像力とおきかえてもいい。アインシュタインが知識よりも想像力のほうがずっと大切だ、と言っていることを思いだします。
たしかに日本人は働きすぎると思います。私たちはもうすこし余裕をもって、いい意味での怠惰の精神、遊びの精神で生きていくべきではないでしょうか。これを、なによりもまず自分自身に言いたいと思います。 もっと余裕をもって、遊びをもって生きていったらいいのではないか、それをイル=イヨロント族に学びたいという思いなのです。」
(佐原真『遺跡が語る日本人のくらし』)
以下の部分を読み、佐原氏の発想に、思わずニヤリとしてしまいました。
現代文明は、根本的に愚かなのでしょうか。
その愚かな面に誰も気付かない不思議さ。
「常識」の恐ろしさということが、よく分かります。
常識の刻印が押された瞬間に、私達は、疑問を感じなくなるでしょう。
そのバカバカしさを、オーストラリアのイル=イヨロント族が教えてくれている感じです。
「 私たちは、技術や道具の発達は自分たちを解放するためだと思っていますが、じつは大きな誤解で、自分たちを忙しくするために技術や道具が発達している面もあるのではないかと思うのです。
そこで私は思うのです。オーストラリアのイル=イヨロント族が浮いた時間を寝たというのは、正解だ、と。 」
「 たしかに日本人は働きすぎると思います。私たちはもうすこし余裕をもって、いい意味での怠惰の精神、遊びの精神で生きていくべきではないでしょうか。これを、なによりもまず自分自身に言いたいと思います。 もっと余裕をもって、遊びをもって生きていったらいいのではないか、それをイル=イヨロント族に学びたいという思いなのです。」
(7)「遊びの精神」・「余裕」を身に付けるためには?
それでは、「余裕」を身に付けるためには、どうしたら良いのでしょうか?
福田恆存氏の以下の論考(「教養について」『私の幸福論』)が、大いに参考になるでしょう。
「 大抵の人が、新しく知ったことについて、いい気になりすぎる。それにばかり眼を注いでいるものですから、かえってほかのことが見えなくなる。峠の上で自分が新しく知ったことだけが、知るに値する大事なことだと思いこんで、それにまだ気づかぬ谷間の人々を軽蔑する。
あるいは、憂国の志を起して、その人たちに教えこもうとする。が、そういう自分には、もう谷間の石ころが見えなくなっていることを忘れているのです。同時に見いだしたばかりの新世界にのみ心を奪われて、未知の世界に背を向けている自分に気づかずにいるのです。
こうして、知識は人々に余裕を失わせます。いや、逆かもしれない。知識の重荷を背負う余裕のない人、それだけの余力のない人が、それを背負いこんだので、そういう結果になるのかもしれません。というのも、知識が重荷だという実感に欠けているからでしょう。
もっと皮肉にいえば、それを重荷と感じるほど知識を十分に背負いこまずに、いいかげんですませているからでしょう。しかし、本人が実感しようとしまいと、知識は重荷であります。自分の体力以上にそれを背負いこんでよろめいていれば、周囲を顧みる余裕のないのは当然です。
それが無意識のうちに、人々の神経を傷つける。みんないらいらしてくる。そうなればなるほど、自分の新しく知った知識にしがみつき、それを知らない人たちに当り散らすということになる。そして、ますます余裕を失うのです。
家庭における親子の対立などというものも、大抵はその程度のことです。旧世代と新世代の対立というのも、そんなものです。が、新世代は、自分の新しく知った知識が、刻々に古くなりつつあるのに気づかない。
ですから、あるときがくると、また別の新しい知識を仕入れた新世代の出現に出あって、愕然とするのです。そのときになってはじめて、かれらは自分には荷の勝ちすぎた知識であったことに気づき、あまりにもいさぎよくそれを投げすててしまう。
すなわち、自分を旧世代のなかに編入するのです。 とにかく、知識のある人ほど、いらいらしているという実情は、困ったものです。もっと余裕がほしいと思います。知識は余裕をともなわねば、教養のうちにとりいれられません。
対人関係において、自分の位置を発見し、そうすることによって、自分を存在せしめ主張するのと同様に、知識にたいしても、自分の位置を発見し、そうすることによって、知識を、そして自分を自由に操らなければなりません。
さもなければ、荷物の知識に、逆に操られてしまうでしょう。知識に対して自分の位置を定める(→当ブログによる「注」→冷静、客観性)というのは、その知識と自分との距離を測定することです。この一定の距離を、隔てるというのがとりもなおさず、余裕をつくることであり、力をぬくことであります。くりかえし申しますが、それが教養というものなのです。
ここから、おのずと読書法が出てまいります。本は、距離をおいて読まねばなりません。早く読むことは自慢にはならない。それは、あまりにも著者の意のままになることか、あるいはあまりにも自己流に読むことか、どちらかです。どちらもいけない。本を読むことは、本と、またその著者と対話をすることです。本は、問うたり、答えたりしながら読まねばなりません。要するに、読書は、精神上の力くらべであります。本の背後にある著者の思想や生きかたと、読む自分の思想や生きかたと、この両者のたたかいなのです。そのことは、自分を否定するような本についてばかりでなく、自分を肯定してくれる本についてもいえます。
したがって、本を読むときには、一見、自分に都合のいいことが書いてあっても、そこまで著者が認めてくれるかどうか、そういう細心の注意を払いながら、一行一行、問答をかわして読み進んでいかなければなりません。自分を否定するような本についても同様です。字面では否定されているが、自分のぶつかっているこの問題については、あるいは著者も自分のいきかたを認めるかもしれない。そういうふうに自分を主張しながら、行間に割りこんでいかねばなりません。それが知識にたいして自分の居場所を打ちたてるということです。本はそういうふうに読んで、はじめて教養となりましょう。 」
(福田恆存「教養について」『私の幸福論』)
「余裕」とは、「周囲を顧みる余裕」ということです。
また、「本は、距離をおいて読まねばなりません」という記述から、「余裕」とは、問題となっている対象から「距離を置くこと」であるということ、が分かります。
かなり参考になる論考です。
「余裕を取り戻すには、どうするべきか?」については、内山節氏の『自由論 自然と人間のゆらぎの中で』も、参考になります。
「 現代人の忙しさの背景には、私たちの社会が、だんだんプロセスを問わない社会になってきたことが、関係しているのであろう。
あたかも結果が正解であればそれでよい試験のように、それがどのような人間関係のなかでつくられ、どのようなプロセスを経て手に入れたものなのかというようなことは、現在ではどうでもよくなった。
できるだけ早く結果を手にすることが、価値になったのである。こうしてプロセスに時間がかかることは、時間の無駄だとみなされるようになり、誰もが時間の合理的管理という発想を、身につけるようになっていった。
ところが、時間を合理的に管理することによって、時間の余裕は生まれなかったのである。逆に暇なはずの時間においてさえ、時間に支配され、時間に追われつづける今日の状況が生まれてきた。おそらく、時間をもっと合理的に管理すれば、余裕という自由も生まれてくるだろうと考える発想は、根本のところで誤っているのであろう。
そうではなく、ものをつくりだしていくプロセスや、それを手に入れるプロセスなどに、時間を超越した価値をみいだせる社会こそが、人間的な余裕を生み出すのである」(『自由論 自然と人間のゆらぎの中で』内山節)
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「『時間の合理的管理』が『余裕』を作り出すのではない。時間を超越した価値をみいだせる社会こそが、人間的な余裕を生み出すのである」という内山氏の主張には、賛成せざるをえないでしょう。
「効率性第一主義」は、非人間的発想なのでしょう。
「効率性第一主義」が常識化している現代文明それ自体が、病んでいるのです。
私達は、今こそ、その病理を意識するべきなのでしょう。
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(9)当ブログにおける「スポーツ」関連記事の紹介
「スポーツ」関連論点は、最近の流行論点です。
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今回の記事は、これで終わりです。
次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。
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