現代文最新傾向LABO 斎藤隆

入試現代文の最新傾向を分析し、次年度の傾向を予測する大胆企画

現代文・小論文・予想問題ー『AIの衝撃ー人工知能は人類の敵か』

(1)最近、流行している、理科系の論点・テーマに注目しよう

 最近は、大学入試の現代文(国語)・小論文の世界に、理科系論点・テーマが、多く出題されるようになってきました。

 現代文明においては、地球温暖化・核廃棄物等の問題を見ても分かるように、我々人類の生存・存立に多大な影響を及ぼすような理科系論点・テーマが発生しているからです。

 これらの問題は、文科系、理科系の壁を越えて、今や、人類全体にとって、緊急な重大な問題になっているのです。

 

 たとえば、理科系論点・テーマにおける、最近のトップレベルの頻出著者である池内了氏の論考の出題状況は、以下の通りです。

 (なお、池内了氏は、天文学者、宇宙物理学者です。総合研究大学院大学名誉教授、名古屋大学名誉教授。理学博士。兵庫県姫路市出身。)

 

早稲田大学(文)ー「擬似科学入門」

早稲田大学(国際教養)ー「物理学と神」

新潟大学ー「物理学と神」

福井大学ー「本の棲み分け」

中央大学ー「科学の限界」

奈良教育大学ー「科学の限界」

明治学院大学(小論文)ー「人間と科学の不協和音」

立教大学ー「科学の限界」

愛媛大学(小論文)ー「科学と人間の不協和音」

立命館大学ー「擬似科学入門」

 

 

 

 

 以上のように、池内了氏の論考は、最近のトップレベルの頻出出典です。

 従って、このブログでも、近いうちに、現代文(国語)・小論文の予想問題記事として「池内了氏の論考研究」の記事を書く予定です。

 

 ともあれ、理科系論点・テーマは、最近の流行です。

 理科系論点・テーマについては、予備知識が、より重要になるので、このブログでは特に重視しています。

 最近でも、山崎正和氏の「ナノ技術等による人間改造」についての論考を予想問題記事として発表しています。

 下に、リンク画像を貼っておきますので、ぜひ、参照してください。

  

 

(2)『AIの衝撃ー人工知能は人類の敵か』・小林雅一氏の論考

 

なぜ、この本についての予想問題記事を書くのか

 最近、出版された『AIの衝撃ー人工知能は人類の敵か』(講談社現代新書)は、「最先端の人工知能」について解説した理科系的な論考です。

 そして、哲学的な思索が含まれていて、難関国公立私立大学の現代文(国語)・小論文の傾向に沿っていると言えます。

 従って、このブログで現代文(国語)・小論文の予想問題記事として発表します。

 

 

 

 

小林雅一氏の紹介

 

 小林雅一(こばやし・まさかず)。KDDI 総研リサーチフェロー、情報セキュリティ大学院大学准教授。

 東京大学理学部物理学科卒業。同大学院理学系研究科を修了後、ボストン大学に留学、マスコミ論を専攻。慶応大学メディア・コミュニケーション研究所などで教鞭をとった後、現職。

 著書に『グローバル・コミュニケーションの未来図』(光文社新書)、『クラウドからAIヘ』(朝日新書)、『ウェブ進化 最終形』(朝日新書)、『日本企業復活ヘのHTML5戦略』(光文社)等。

 

本書の紹介

 

 表紙の「帯」には、以下のような文章があります。

 本書のポイントが、よく分かります。

 なお、太字は、当ブログによる強調です。

 

「脳科学とコンピュータの融合が私たちの常識を覆す!」

「自動運転車、ドローン、ロボット、兵器、雇用・産業構造、医療・介護、芸術・・・・『自ら学んで成長する能力』を身につけた次世代ロボットは、人間社会をどのように変えるのか」

 

ーーーーーー

 

(当ブログによる解説) 

 ここで注目するべきことは、「『自ら学んで成長する能力』を身につけた次世代ロボット」という表現です。

 「自ら学んで成長する能力を身につけたロボット」は、もはや、人間の指令に従って単純な作業をする、従順な常識的な「ロボット」の概念・イメージを超えた存在です。

 本書は、もはや、気楽に「ロボット」とは言えないような、高度に発達した「人工知能」の現状と将来像について書かれた、ショッキングな内容を含んでいます。

 

 ーーーーーー

 

② 「表紙カバー」には、「はじめに」より引用された、以下のような文章があります。

 本書の要約のように、分かりやすいので、全文を引用します。 

 

自ら学んで進化するAI(→当ブログによる注→人工知能)は従来のビジネス・モデルを覆す。だが・・・・それを作りだした人類が意図したのとは全く違う方向ヘと発達してしまう危険性も秘めています。最近、巷で囁かれる『異常な発達を遂げたAIが暴走して人類を破滅させる』といった懸念は、この点に起因しています。『AIが人間の雇用を奪う』との予想もあります。かつてはSFに過ぎなかった、これらの危険性が、今や現実味を帯びて語られるようになりました。たとえば著名な理論物理学者のスティーブン・ホーキング氏やマイクロソフト共同創業者のビル・ゲイツ氏ら、先見の明のある有識者が次々とそうした警鐘を鳴らしています。我々人類に、途方もなく豊かで便利な暮らしをもたらしてくれるかもしれないAI。その一方で、扱い方を誤れば、人類を破滅に導くかもしれないAI。この自律的進化を始めた人工知能ヘの理解を深め、これはどう向き合っていけばいいのかを探るのが本書の目的です。」

 

ーーーーーー

 

(当ブログによる解説)

 最終部分の

「扱い方を誤れば、人類を破滅に導くかもしれないAI。この『自律的進化を始めた人工知能』

をよく読むと、かなり恐ろしい内容になっています。

 「人類を破滅に導く」の部分は、勿論、怖いです。

 しかし、この表現は、やや抽象的なので、実感が湧きにくい所があります。

 

 それよりも、『自律的進化を始めた人工知能』という表現は、かなり衝撃的な、戦慄を催す内容を含んでいます。

 「自律的」ということは、管理者である人間のコントロールから外れて、人工知能が自ら「進化」、つまり「学習」して、自分の能力を高めることができるということです。

 これ自体も、怖いことですが、人工知能は生物ではないだけに「疲れ」や「飽き」を感じることは、ありません。

 つまり、人間のコントロールがないならば、その進化は限界なく発展が可能なのです。

 このことは、底知れぬ恐怖に繋がるのではないでしょうか。

 

(3)特に重要な、第4章「人間の存在価値が問われる時代」の最終部分

 

 本書において、難関国公立私立大学の現代文(国語)・小論文の出典として使われそうな部分は、何箇所かあります。

 しかし、第一に考えられるのは、第4章「人間の存在価値が問われる時代」の最終部分です。

 (その他の部分については、来年度の入試直前期に、予想問題記事を書く予定です。)

 以下に、各見出し毎に、概要を記述します。

 なお、太字は、当ブログによる強調です。

 

(4)「創造性」とは何か

 

「これまで人間とコンピュータ(機械)を分ける最大の要素は、『創造性』・『独創性』にあると考えられてきました。しかし、作曲活動のような最も人間的・創造的な作業までもが、『音楽データの量とそれを再構成する能力』などという無機質なコンピュータ科学の対象となりつつある今、その本質が改めて問い直されています。

 一体、創造性とは何なのでしょうか?

 マッキントッシュやアイフォーンをはじめとする画期的製品を次々と世に送り出し、2011年に他界したスティーブ・ジョブズ氏と、著名なSF作家のアイザック・アシモフは、『創造性』について、同じような内容のことを、言っています。

 つまり、『創造性』とは全くゼロから何かを生み出すことではありません。むしろ幅広い経験を通じて目撃したり学んだりしたさまざまな事柄、つまり一見すると無関係な事柄の間に他者が気づかない関連性を見出し、これに基づいて別々の事柄を一つにつなぎ合わせる能力です。

 それは一見簡単そうにも見えますが、実は天才にしかできないことです。」

 

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 (当ブログによる解説)

 第一に、確かに、「一見、無関係な事柄に関連性を見出し、一つにつなぎ合わせること」が「創造性」のすべてではありませんが、「創造性」には、このような側面があると思います。 

 創造性のある人達の発言だけに、重みのある言葉です。

 「創造性」が、そのような「様々な事柄についての知識」を前提とする能力だとすると、多くの事柄を知っておくことが、「創造」に資することになります。

 とすると、「知識重視の詰め込み式教育」にも、一定の価値があるのでしょうか?

 私は、一定の価値がある、と思います。

 現に、最近の日本では評判の悪い「詰め込み式教育」は、欧米では、それほど低評価されていません。

 創造性重視の「ゆとり教育」は、知識(事柄)の不足につながり、かえって逆効果になりかねません。

 

② 第二に、「それ(創造)は一見簡単そうに見えますが、実は天才にしかできないことです。」という本文の記述は、痛快な指摘です。

 特に、日本人、その中でも、日本の教育関係者は、「教育により創造性が養成できる」という不思議な幻想に捕らわれていて、「ゆとり教育」、「創造性育成教育」という奇妙なスローガンを掲げています。

 単なる、大衆に迎合した、無意味なキャッチコピーなのでしょうか?

 

 それらのスローガン・発想の無意味性を、「実は創造天才にしかできない」という、この記述は、明確に否定しています。

 私も、この記述は真理だと思います。

 それは、世界の様々な分野の「創造」の歴史を見ていけば、明らかです。

 日本の教育関係者は、なぜ、「創造性」をこのように簡単に考えるのでしょうか。

 「創造性」について、その真の価値を知らず、「創造性」について、じっくりと考えることをしないからでしょう。

 明治維新以来、「欧米の模倣」を伝統にしてきた日本民族の限界と言えそうです。

 

 そもそも、創造力のある天才を養成することなど、全く不可能なことです。

 

(5)人間を超えるものを人間はあえて作るだろうか

 以下に、概要を記述します。

「こうした創造性の萌芽を、最近のコンピュータは示し始めたようです。たとえば、ニューラルネット(→当ブログによる注→人間の脳の神経回路の仕組みを模したモデル。コンピュータに学習能力を持たせることにより、様々な問題を解決するためのアプローチ)

機械学習(→当ブログによる注→人工知能における研究課題の一つ。人間が自然に行っている学習能力と同様の機能をコンピュータで実現しようとする技術)

の研究者たちは、最近のニューラルネットは『ある領域で学んだ事柄を別の領域ヘと応用する能力を示し始めている』と言います。

 

 ニューラルネット、つまりコンピュータが示す、この種の能力を彼らは『汎化能力』(→当ブログによる注→様々な異なる対象に共通する性質・法則等を見出すこと。一般化。普遍化)と呼んでいます。

 

 ただ、ニューラルネットが学習の対象とする範囲は所詮、人間がシステムに与えたデータに限定され、それ以上のことは学ぶことができません。つまり、私たち人間の広範囲の経験、それに裏打ちされた『常識』や『直観』をニューラルネットは備えていないのです。これがない限り、『全く異なる領域に属する事柄を結びつけて考えること』はできないと見る専門家もいます。

 しかし、今、この分野の技術は日進月歩で進化しています。今後、最先端のニューラルネットを搭載したロボットが世界を自由に動き回り、外界の情報を吸収して学ぶようになれば、それは多彩な経験から学んで成長する人間に急速に近づいていくでしょう。それは、いずれ意識すらも備えた強いAIヘとつながる道でもあります。

 問題は、人間に勝る知性を備えたAI、あるいはそれを搭載したロボットをあえて人間が開発するだろうか、ということです。

 産業革命を境に、人類は、力の大きさや移動速度、あるいは計算能力などの面において、人間の能力を遥かに超えるマシンを次々と開発してきました。

 しかし、どんなことにも対応できる柔軟な『知能』という最後の砦さえも、あえてロボットやコンピュータに譲りわたす決断を人間は下すでしょうか。」

 

ーーーーーー

 

(当ブログによる解説)

 この部分は、恐い話です。

 まるで、コンピューターが、犬や猫といった身近な動物よりも、「高等な知的生物」になってしまったかのようです。

 「コンピューターが、学習する」というのは、どういうことなのでしょうか。

 この記事の前半にも書きましたが、コンピューターは人間と違って、「飽き」や「疲れ」がないだけに、自律的な学習能力を身に付けたら、恐ろしい存在になると思います。

 コンピューター・人工知能関係の科学者は、そのような危険性・危機感を感じないのでしょうか。

 あるいは、「それでも、構わない」と思っているのでしょうか。

 

 もし、コンピュータ・人工知能関係の科学者が、このような「科学の暴走」に対して、何らかの問題意識を持たないのであれば、村上陽一郎氏が様々な論考で主張する通り、「科学の進歩」に対する民主的コントロール」が必要になってくるのでは、ないでしょうか。

 特に、今回の問題は、「人類の存続」に直結する重大な問題です。

 

(6)人間にとっての「最後の砦」

 

 この部分は全体の最終部分です。

 以下に、概要を記述します。

 (なお、太字は、当ブログによる強調です。)

 「未来の人間はあえてそうした決断を下す」というのが、小林氏の結論です。

 その理由を、小林氏は以下のように述べています。

 「それは私たち人類が今後、直面するであろう未曾有の困難と危機に対処するためです。現時点で、すでに深刻な様相を呈している地球温暖化や砂漠化、PM2・5のような大気汚染、行き場を失った核廃棄物、等々。これら世界的問題は早晩、人類単独の力では対処しきれなくなるでしょう。そこに人間を超える知能を備えたコンピュータやロボットが必要とされるのではないでしょうか。

 たとえば、温暖化、砂漠化、大気汚染等を解決するために、長期にわたる世界的な気候変動・大気成分等のデータを収集し、これを高速に解析するにニューラルネットなど機械学習技術が使われるでしょう。

 このような場合、またも、チェスや将棋や作曲活動で人間がコンピュータに抜かれたときに聞かれる『そもそも、これは大したものではなかった』という負け惜しみが、今度は人間自体に跳ね返ってくるかもしれない。そう懸念する向きもあるかもしれない。つまり、汎用知能までもコンピュータやロボットに抜かれたときに、『知能を武器として生き残ってきた人類そのものが、実は大したものではなかった』とする自虐的な思想です。

 しかし、そうした事態はおそらく起きないでしょう。それは知能』が人間に残された最後の砦ではなく、それを上回る何物か』を人間は持っているのです。

 それは、ある能力において自分よりもすぐれた存在を創造し、それを受け入れる私たちの先見性懐の深さです。蒸気機関からコンピュータ、そして産業用ロボットまで、私たち人間はあえて自らの雇用や居場所を犠牲にしてまで、人類全体の生存と繁栄を促す新たな技術を開発し、それを受け入れてきました。このように、将来を見据えることのできる叡智包容力こそが、私たち人間に残された最後の砦なのです。」

 

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(当ブログによる解説)

 

① この部分においては、まず第一に、「先見性と「将来性を見据えることのできる叡智」、懐の深さ」と「包容力が、それぞれ、同類語表現であることを確認する必要があります。

 

② 第二に、「将来を見据えることのできる叡智包容力こそが私たち人間に残された最後の砦」とは、何を意味しているのでしょうか?

 叡智包容力」とは、尊い「人間性」を意味していると思われますが、この二つで、高度の知能を備えたコンピュータやロボットに真に対抗できるのでしょうか?

 そのこと自体に、かなりの不安があります。

 

 しかも、いずれ、「将来性を備え見据えることの叡智包容力」を、高度の知能を備えたコンピュータやロボットも、自律的学習により「人間化」して、身につけるようになると思います。

 勿論、遠い未来のことですが。

 私が、このように考えるのは、叡智は、知識と知性の集積から醸成・発酵されるものだからです。

 それと共に、包容力も身につけるようになるはずです。

 

 いずれにせよ、遠い未来に、コンピュータやロボットも、人間と同じように「将来性を見据えることのできる叡智包容力」を獲得するのでしょう。

 そうなると、「最後の砦」も、陥落することになります。

 「最後の砦」が陥落した後、人類は、どうなるのでしょうか?

 想像することは、できません。

 人工知能による支配?

 SF映画の現実化?・・・・・・

 やはり、想像を絶すると言わざるを得ません。

 

 それまでは、人間がこの世界を実質的にコントロールするということなのでしょう。

 それゆえに、小林氏は、「最後の砦」という、追い詰められた敗軍をイメージさせるような、微妙な、悲哀に満ちた表現を使用したのでしょう。

 このことは、考え過ぎでしょうか?

 杞憂でしょうか?

 

(7)最終部分

 最後の部分は、メルヘン風の、物語的な論考になっています。

 以下に概要を記述します。

 

「これは今から何百年後、あるいは早ければ今世紀中にも訪れる世界の出来事かもしれません。その頃の人類は、宇宙開発を加速させているでしょう。人間と高度なAIを搭載したロボットはともに手を携えて、忙しく働いているでしょう。結局、AIや次世代ロボットの登場は、人類の主な仕事が宇宙進出という次のフェーズ(→当ブログによる注→局面)へと移行するために必然の展開だったのです。

 が、一方でそうした野心的で荒々しい道を選ぶ代わりに、地球のどこかでのんびりと別の生き方を選ぶ人たちもいるかもしれません。

 また、自然環境とのバランスがとれた生活を送るため庭仕事や農作業に精を出し、その合間に将棋を指して遊んでいるかもしれません。が、この将棋もやはりAIロボットにより、その必勝法がすでに発見されています。

 あるとき、農作業の合間に将棋をしている人たちのところにAIロボットが訪れて、こう尋ねます。

『あなたたちはなぜ、そんな時代遅れの、つまらないゲームをして遊んでいるのですか?』

 私たちの遠い子孫は、このロボットに向かって次のように答えるでしょう。

『そうかもしれないね。でも君たちは、そんな頭の悪い我々が生み出したものなんだよ

 

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(当ブログによる解説)

① まず第一に、「自然環境とのバランスがとれた生活を送るため庭仕事や農作業にも精を出し」の部分は、地球環境の将来を意識して、自然環境を重視しようとする人間の「先見性、「将来を見据えることのできる叡智の具体例を示しているようです。

 

② 第二に、最終部分の、『そうかもしれないね。でも君たちは、そんな頭の悪い我々が生み出したものなんだよ』は、著者としては、「人間の包容力」、「懐の深さ」を表現したものなのでしょう。

 しかし、私は、「人間の包容力」、「懐の深さと共に、何となく、「哀愁」や「諦念」を感じてしまいます。

 遠い未来の、暗い、コンピュータやロボットが人間の上位になる状況を、私が意識しているからでしょうか?

 このような歴史の流れは、ある意味で「必然」と言えるのでしょうか? 

 

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 これで、今回の記事は終了します。

 この記事で『AIの衝撃ー人工知能は人類の敵か』に興味を持った方は、ぜひ、本書の全文を読んで下さい。

 

 次回の記事は「難関大学・現代文・小論文対策ー夏から秋に読むべき本・特集①」の予定です。

 

 

 

 

  

 

 

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