現代文最新傾向LABO 斎藤隆

入試現代文の最新傾向を分析し、次年度の傾向を予測する大胆企画

注目図書『私たち、戦争人間について』『キリスト教と戦争』石川明人

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 現代は、戦争の危機が切迫してきている時代です。このような時こそ、単に「平和」を祈るだけではなく、「戦争」・「平和」について、より具体的に主体的に考えるべきでしょう。

 この問題を考察するきっかけとなる良書(『私たち、戦争人間について: 愛と平和主義の限界に関する考察』石川明人)が最近、発行されたので、注目図書、予想出典として、今回の記事で紹介します。

 難関大学の入試国語(現代文)・小論文対策において、要注意です。

 『私たち、戦争人間について』は、石川氏の今までの著作を踏まえた戦争論エッセイです。内容的には、戦争論、平和論、戦争哲学、宗教学、軍事学などに関する良質な論考になっています。難関大学が、現代文・小論文の入試問題の題材として興味を示すはずです。今回のこの記事を熟読することは、効果的な入試対策となるでしょう。

 

 本書の概要については、「〈激動する世界と宗教〉戦争論 人間の矛盾と限界と」 (石川明人・桃山学院大学准教授・2017年9月13日・朝日新聞・夕刊)のインタビュー記事が、かなりカバーしています。

 そこで、今回の記事では、石川氏の他の著作も参照しながら、このインタビュー記事の内容を詳説していきます。

 

 今回の記事の項目は、以下のようになっています。

(2)「〈激動する世界と宗教〉戦争論 人間の矛盾と限界」(石川明人・桃山学院大学准教授・2017年9月13日・朝日新聞・夕刊)の解説

(3)「人間の『ダークな側面』、戦争と平和は連続しているのではないか、人間の矛盾や限界」について

(4)「人間ならではの営み、文化としての戦争」について

(5)「宗教は時に戦争に関わる」点について

(6)平和運動はどうあるべきか?

(7)石川明人氏の紹介

(8)当ブログにおける「平和主義」関連記事の紹介

(9)当ブログにおける「キリスト教」関連記事の紹介

 

私たち、戦争人間について: 愛と平和主義の限界に関する考察

 

(2)「〈激動する世界と宗教〉戦争論 人間の矛盾と限界」(石川明人・桃山学院大学准教授・2017年9月13日・朝日新聞・夕刊)の解説

(概要です)

(【1】・【2】・【3】・・・・は当ブログで付記した段落番号です)

(青字は当ブログによる「注」です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(以下、同じです) 

まず、今回のインタビュー記事の概要を引用します。

【1】私たちは戦争や暴力に反対して「平和」を叫ぶ。しかし心の奥ではどうだろうかーー。桃山学院大学で「戦争学入門」を教えている石川明人准教授が『私たち、戦争人間についてーー愛と平和主義の限界に関する考察』(創元社)を著した。自分の「ダークな側面」を直視することから、平和を問い直そうと語りかける。

【2】本は、こんな告白から始まる。「人を殺すのは、きっと簡単だ。(中略) きっと私も、特殊な状況に置かれたら、底知れぬほど凶暴な振舞いを平気でしてしまえるのではないか、と思うことがある。自分がどこまで『平和主義者』でいられるか、正直なところ、あまり自信がない

 その言葉に続き、1994年にルワンダで起きた大虐殺が紹介される。多数派民族が少数派を、約100日間で80万人殺害したとされる事件だ。ほとんどは鉈(なた)やこん棒を使い、一人ひとり殺された。

 虐殺や戦争は「狂気」ということで片付けられるのか。自分の理性や道徳感覚はどこまで信頼できるだろうか。戦争や平和は連続しているのではないか。そうしたことを読者に繰り返し、問うている。

【3】石川氏の大学の授業計画には「この授業では、人間ならではの営み、すなわち文化として『戦争』『軍事』を捉え、考察する」とある。「文化としての戦争」について、石川氏は、以下のように述べています。

「意識的に準備して、過去からの経験を基に、より良いものにしようとし、継承する。その意味で、芸術などの文化とまったく同じです。戦争を肯定しているわけではありません。戦争や軍事が文化じゃないとしたら、人間の本能だから仕方ないということになる。健全な平和観の促進につなげるためには、戦争や軍事をタブー視しないことが大事じゃないでしょうか

【4】石川氏は戦争や軍事を通じて「人間とは何か」を考えてもらいたいと語る。 

「戦争では、人間はここまでクズになれるのかということが起きます。同時に、人間の勇気や自己犠牲が発揮される。人間の『わけの分からなさ』が再確認できます。人間について考察するのに、これほど有効な糸口はありません」

【5】自身はキリスト教徒。宗教学を軸足に、戦争論にも射程を広げていった。宗教は時に、戦争や暴力に関わる。「宗教は命を大切にするはずなのに」という声に対しては、こう説明する。

「宗教は『良く生きること』を説き、単に生存することを重視するわけではない。宗教が尊重するのは『条件付きの命』。そうであれば条件付きで戦争をしても不思議ではないのです

【6】では、平和運動は、どうあるべきか?

「よく、ラブ&ピースみたいなことを言いますね。でも世界を平和にするような愛とは、見ず知らずの人も大切にしたり許したりするレベル。そんな愛は無理でしょう。世界中の人と愛し合えると思えるなんて、逆に危うい認識のような気がする。愛の不可能性を正直に認めることから始めるべきではないでしょうか

 

ーーーーーーーー

 

(当ブログによる解説)

 このインタビュー記事は、『私たち、戦争人間についてーー愛と平和主義の限界に関する考察』の内容の概要になっています。

 ただし、石川氏の発言は、少々衝撃的で、日本人の一般常識に反するようです。このことは、このインタビュー記事だけでは、石川氏の主張の全容が分かりにくいという側面も、あるようです。そこで、以下では、

①【1】・【2】・【4】段落→人間の「ダークな側面」、戦争と平和は連続しているのではないか、人間の矛盾や限界

②【3】段落→人間ならではの営み、文化としての戦争

③【5】段落→「宗教は時に戦争に関わる」点

④【6】段落→平和運動はどうあるべきか

の各項目について、『私たち、戦争人間について』のほかに、石川氏の他の著書をも参照しながら詳説していきます。

 

 (3)「人間の『ダークな側面』」、「戦争と平和は連続しているのではないか」、「人間の矛盾や限界」について 

 ① 「人間の『ダークな側面』」について

 石川氏のルワンダ虐殺に関する発言について、補足します。

 この事件は、銃や爆弾ではなく、人が原始的にナタ・棍棒を使う方法で、約100日間で80万人が殺された事件です。人間はこれほど残酷になり得るもので、殺人者は別段「狂っていた」わけでもなく、普通に正気を保ちながら殺人を遂行したのです。殺人者には聖職者も含まれていました。

 石川氏は、『私たち、戦争人間について』の中で、このような事実を指摘して、「人を殺すことは簡単だ」と述べているのです。 

 

② 「戦争と平和は連続しているのではないか」という点について

 このことについては、『キリスト教と戦争』の中で、石川氏は同趣旨のことを述べているので、以下に、その概要を引用します。なかなか鋭い指摘であると、私は思います。


「多くのキリスト教徒は、『平和、平和』と口にするが、およそ人間の口から叫ばれる平和とは、ほとんどの場合、誰かにとって都合の良い『秩序』に他ならない。それは誰かによって作られ、誰かによって維持されるしかないものである。ほとんどの場合、『戦い』は平和のためにと思ってなされるのであるから、平和を望む気持ちと、戦いを決断する気持ちとの間に、根本的な違いはないのである。戦争についての問いは、人間の本性についての問いであり、戦争観とは人間観の応用に他ならないと言ってもよいだろう。」(『キリスト教と戦争』)(P212)


 石川氏は、『戦争は人間的な営みである』の中でも視点を変えて、同様のことを力説しています。この主張にも、深い思索が感じられます。以下に引用します。ぜひ、熟読してください。


「人間は、ただ食って、寝て、子供を残すだけでは満足できない生き物である。『正しく生きる』『快適に生きる』『美しく生きる』ことを求める。愛とか正義とか平和とか理想といったものにこだわるからこそ、『この社会を正しくせねばならない』と思うわけであろう。

 そうした思いが通常は政治運動や社会運動へと結びつくが、時にはさらに、戦争やテロへと結びつく。そういう意味で、やはり戦争と平和は、正反対のものではなく、むしろ同じ地平にあるものだと考えられねばならない。」 (『戦争は人間的な営みである』)


 次の引用も『戦争は人間的な営みである』からです。「キリスト教の殉教」を思考の出発点にしていますが、「戦争の本質」についての論考です。私は、卓見だと思います。この部分を何度も読み返すためだけでも、この本を購入する意味があります。


「多くの一般のキリスト教徒たちは、信仰深い殉教者たちに対して『あいつは自分の命を粗末にした』とは言わない。なぜならば『命よりも大切なものがある』ことを知っているからである。

 命が大切であることは誰もが知っているが、しかしそれでも人間は、『意味の喪失』あるいは『意味の獲得』によって、死を選択し、死を受け入れることがある。

 何らかの意味での『愛情』、あるいは『真心』があるからこそ、人間は命をかけて戦うことができてしまう、戦争を正当化できてしまうのだ。そこに、悲劇の本質があると考えるべきである。」 (『戦争は人間的な営みである』)

 

③ 「人間の矛盾や限界」について

 『私たち、戦争人間について』の「序章」には「人間の矛盾や限界」について、素朴で鋭い記述があります。以下に引用します。


「私たちは、戦争や暴力はいけないと口にして、『平和、平和』と叫んでいる。だが、本当に私はたちは、心の底から『平和主義者』でありたいと思っているのだろうか。

 現に、これまで人間は、愛とか平和とかを口にしながら、恐ろしいこと、おぞましいことをやってきた。人類の平和を祈りましょう、と言っている一方で、学校や職場では誰かと対立していることも珍しくない。

 

 『戦争は人間的な営みである』にも「人間の矛盾」についての、鋭い指摘があります。以下に引用します。言われてみれば、確かに、その通りで、感心してしまいます。
「平和を愛し、暴力を嫌う日本人の多くが、今でも忠臣蔵の物語を好むのはなぜだろうか。正義の味方が悪の組織と戦うアニメやドラマを、何の躊躇もなく子供たちに見せるのはなぜだろうか。」

 

 以上の2つの指摘は、まさに人間の矛盾です。人間は、特に日本人は、「武器」「兵器」「暴力」に関して無神経な言語表現をするようです。例えば、野球界では、平然と、1番打者を「切り込み隊長」、4番打者を「主砲」「巨砲」と表現しています。私は、以前から違和感を感じていましたが、今だに変わらないので、多くの日本人は何も感じていないのでしょう。

 以下に引用する石川氏の主張は、かなり本質的・根源的な論考です。読んでいて、思わず考えさせれられます。見事な内容です。


「人間は平和を祈りながら戦争をし、戦争をしながら平和を祈る。この矛盾に見えるものが、まさに現実の人間の姿であり、私たちが営む戦争の一側面なのである」

「『純然たる悪意』のみによって、何十万、何百万もの人間を、破壊や殺人に駆り立てることはできない。戦争は『悪意』よりも、むしろ何らかの『善意』によって支えられているのである。

 この世の『悪』が、すべて純然たる悪意のみから生まれているならば、この世の中の出来事はもっとわかりやすいものになっているはずである。善意からも悪が生じうるという人間的宿命を、もっと素直に見つめなければならない。

 警戒すべきなのは、あからさまな悪ではなく、むしろ浅薄な善意なのである。われわれが見つめるべきなのは、ある種の善意が戦争や暴力を正当化するという、人間の痛切な矛盾そのものなのである。」(『戦争は人間的な営みである』)

 

(4)「人間ならではの営み、文化としての戦争」について

 この点については、『私たち、戦争人間について』の第3章「戦争に役に立つ技術と知識」に、詳しく記述があります。

 戦争に不可欠な道具というと、兵器・武器のみをイメージすることが普通です。しかし、実際上は、戦争遂行には広範囲の用具・知識・技術が必要になります。このことについて説明している部分を、以下に引用します。

「戦争のための道具作りにおいては、どんなアイディアも許され、求められる。戦争はもちろん破壊的行為であるが、戦争ほど創造的な舞台はないのも事実だ。
 一方、武器や兵器といったものを、強く嫌悪する平和主義者たちも少なくない。武器があるから戦争が起きるのだ、持っていれば使いたくなるのが当然だ、という意見がある。高価な兵器を作ったり買ったりするのをやめて、その予算を福祉や教育にあてるべきだ、という声も耳にする。だが、そもそも、何が「武器」で何が「武器」ではないのだろうか。
 軍隊では、その時代に存在するすべてのモノや知識が活用される。したがって、あるモノや知識について、どこまでは軍事と『無関係』で、どこからが『間接的』に軍事的であり、どうなったら完全『軍事』だと判断されるのかは、最終的には恣意的なものでしかない。
 こうした『境界』が曖昧だという話は、もちろん軍事に限ったものではなく、他のさまざまな分野においても見られるだろう。だが、戦争や軍事ほど、一般の人たちが『自分はそれに関わっていない』と思いたがるものもない。
 戦争は悪である、と教育されるあまり、ふだん私たちは、自分の持っている能力が戦争に役立ち得るとは考えたがらない。みな自分だけは、平和主義者でいたいのだ。しかし、私たちが持っているあらゆるモノや、技術や、知識は、何らかの形で軍事に貢献する可能性を常に持っている。」(『私たち、戦争人間について』)


 つまり、戦争とは、国家の存立と各人の生命をかけて戦うものなので、その時点で人間の文明の最先端の成果が総動員されるのです。その意味で、あらゆる産業が「軍需産業」とも評価できるのです。さらに言えば、私たちは何らかの形で「軍事」に関与しているとも言えるのです。

 

(5)「宗教は時に戦争に関わる」点について

 この問題に関しては、『キリスト教と戦争』が詳しく論じています。

 まず、本書の内容の説明をします。

 以下は「BOOK・データベース」からの引用ですより)

世界最大の宗教、キリスト教の信者は、なぜ『愛と平和』を祈りつつ『戦争』ができるの? 殺人や暴力は禁止されているのではなかったか? 本書では、聖書の記述や、アウグスティヌス、ルターなど著名な神学者たちの言葉を紹介しながら、キリスト教徒がどのように武力行使を正当化するのかについて見ていく。平和を祈る宗教と戦争との奇妙な関係は、人間が普遍的に抱える痛切な矛盾を私たちに突きつけるであろう。


  『キリスト教と戦争』の「前書き」冒頭には、以下のように、非キリスト教徒の素朴な疑問と、石川氏による一応の解説が記述されています。


「なぜ、キリスト教徒は『愛』と『平和』を口にするのに、戦争をするのだろうか。それに対する答えはどうしても言い訳じみたものになりがちである。たとえば、『キリスト教徒がこれまで多くの戦争をしてきたのは事実だが、それはその時のキリスト教徒の過ちであって、キリスト教そのものが好戦的なのではない』とか、『わたしたちが信じているのは、戦争をしてきたキリスト教徒ではなく、愛を説くイエス・キリストである』とか『戦争を繰り返してきたこと自体、罪深い私たちが神を必要とする何よりの証拠である』と。
 このような返答では、ほとんどの非キリスト教徒の方々は、納得できないだろう。」
 「キリスト教というと平和主義のイメージが強く、『右の頬(ほお)を打たれたら左の頬も差し出せ』というようなイエスの有名な言葉を知っている人も多いだろう。しかし、キリスト教国家である欧米は決して「平和主義」ではなかったのです。むしろ、古来好戦的な傾向が強かったことは、十字軍や帝国主義などの歴史を見れば明白です。」

 

 第1章では、現在のローマ・カトリックは、一応は平和主義ではあるが、正当防衛と見なされる場合には戦争を否定していないという事実が述べられています。

 キリスト教は決して、無抵抗主義、絶対的平和主義を採用しては、いないのです。このことは、日本人が、ぜひ知っておくべきことです。

 キリスト教が大筋で、絶対的平和主義を採用していないことについては、石川氏は、以下のように、『キリスト教と戦争』の中で詳しく説明しています。   

 

「21世紀現在でも、絶対平和主義と正戦論(→「戦争」を「正当な戦争」と「不当な戦争」とに区別して,「正当な原因をもつ戦争」だけを合法と認める理論)との間ではさまざまな議論がなされている。キリスト教信仰に基づいた絶対平和主義者の声も、決して小さいわけではない。しかし、キリスト教主流派の歴史においては、やはり条件付きで戦争を肯定するのが基本的なスタイルとして引き継がれてきたのである。そうした思想は、5世紀にはすでに明らかな形で現れ、13世紀以降はある種の権威・伝統さえ有するようになって現在にいたっているというのが、端的な事実なのである。」

「聖書にはっきりと『いかなる理由によっても戦争をしてはいけない』とか『暴力はどんな状況でも禁じる』などと書いてくれていれば、話はもっと簡単であった。ところが、聖書では、『敵を愛せ』などと、良くも悪くも常識とは異なる表現がなされているものだから、では、やむをえないかぎりの実力行使でもって悪人を善の道に導くならば、それは敵に対する『愛』の行為に相当するのではないか、とか、無条件の非暴力主義は時には悪を放置・黙認する無責任な姿勢であり、愛に反する態度でもあるのではないか、などと、議論が錯綜するのである。

 聖書というのは、それぞれの人生や社会状況と重ね合わせて読まれる書物である。人や社会は、同じ教典を読んでいても、さまざまな人生経験を念頭に、またさまざまな平和を思い描きながら感じ、考え、行動する。キリスト教徒といえども、誰もが必ず『愛』と『暴力』は矛盾すると考えるわけではないのである。」(『キリスト教と戦争』)


 さらに、石川氏は、以下のように、現在のキリスト教の繁栄の背景に注目すれば、キリスト教が「非暴力主義」・「完全な平和主義」を採用しなかったことは明白である、と主張しています。

 

「単純に考えれば、もし最初からすべてのキリスト教徒が『平和主義的』に振る舞っていたら、キリスト教徒は絶滅していたか、せいぜい小さなセクトであるにとどまっていたのではないかと思われる。後のキリスト教徒は、実際には、異教徒や他教派を迫害し、戦争や植民地支配を行って勢力を拡大し、安全保障にも現実的に取り組むことで、生存し、仲間を増やしてきた。今現在も、世界中いたるところに23億人ものキリスト教徒がいるということが、少なくとも主派の教派は、決して純粋な非暴力主義でも完全な平和主義でもなかった証拠であろう。キリスト教は真理であるから世界に広まったのだ、などと思い込んでいるとしたら、それはナイーブというよりむしろ傲慢である。」 (『キリスト教と戦争』)

 

 以上は、かなり説得力のある論考になっている、と私は思います。

 

(6)平和運動はどうあるべきか?

 石川氏の平和運動についての基本的姿勢は、カントの『永遠平和のために』と同様に現実的であり、説得力があると思います。カントの『永遠平和のために』ついては、最近、記事を発表したので、ぜひ参照してください。

gensairyu.hatenablog.com

 

①  「現実的に考察する必要性」について

  『私たち、戦争人間について』の第6章「私たちの愛と平和主義には限界がある」においては、まず、「人類の歴史をたどると、少なくとも人口比で見れば殺戮は減少してきている事実」が指摘されています。つまり、「国家の成立、情報化、文明化等の理由により、闘争、紛争は少なくなり、殺される人間の比率は減少の一途をたどっている」のです。

 20世紀は2度の世界大戦により、かなりの人間が死亡したように思われていますが、現実に統計的に見れば、殺戮は減っているのです。

 その意味では、「平和の追求」や「戦争の防止」を考えることは、一定の意義・効果があるのです。

 しかし、戦後日本がやってきたような、ひたすら、抽象的に「平和を守れ」と叫ぶだけ方法では、効果は期待できないでしょう。

 国際紛争の実態を直視して、「平和追求」・「戦争防止」の方策を、現実的に考えて行かなくてはならないでしょう。

 石川氏は、『私たち、戦争人間について』の中で、「戦後日本は戦時中の『必勝の信念』を『平和への信念』に置き換えただけで、基本的には変わっていないのではないか」と述べています。

 私も、この見解に賛同します。

 では、具体的には、どのように考えるべきか?

  『キリスト教と戦争』の中で、石川氏は以下のように述べています。

「戦争は極めて複雑な名称なので、平和については戦争そのものに関する十分な考察のうえで議論されねばならない。同じ『戦争』であるからといって、戦国時代の戦いを念頭に太平洋戦争について議論しても無意味であるように、太平洋戦争のイメージだけで二一世紀の戦争は語れない。戦争は時代とともに常に変化していくので、私たちは常に新たな軍事・戦略環境を念頭におく必要がある。」

 さらに、『戦争は人間的な営みである』の中では、より分かりやすく説明しています。以下に引用する見解は、現実的で、説得力があります。

「私たちは、交通事故あるいは火事などに対して、『火事反対』『交通事故反対』とデモ行進をしたりはしない。
 交通事故を減らしたければ、『反対』と叫ぶ以前に、自動車、道路、標識、信号機などについて、あるいは運転する人間の行動などについて、研究するしかない。自動車や交通規制について無知であれば、交通安全についても無知であろう。
 同じように、『戦争反対』と叫ぶだけでは意味がないのである。もちろん戦争を火事や交通事故と同じレベルで考えているのではなく、その問題に対する態度そのものを問うているのである。

 戦争に対する『反対』は、それを叫ぶ本人のセンチメンタリズムを満足させるだけでしかない。平和を手に入れたければ、なおさらのこと『戦争』や『軍事』そのものを研究するしかないのだ。これは極めて当たり前の理屈である。」(『戦争は人間的営みである』)

 

② 「愛の不可能性」について

 石川氏は、『キリスト教と戦争』の中で、キリスト教における「愛」に関して、アメリカで発生した事件を紹介しています。

「2006年の秋、アメリカの小さな村の学校に、銃を持った男が押し入った。拳銃、ショットガン、ライフルを彼は、少女達を監禁し、5人を射殺、5人に重傷を負わせ、自らもその場で自殺した。
 静かな田舎町の学校で起きたこの惨事は、衝撃的な事件として報道された。しかし、事件そのものよりも、さらに人々を驚かせたものがある。それは、その被害者遺族や近隣住民たちの反応であった。殺された少女の家族らは、事件後すぐに『私たちは、犯人を赦(ゆる)します』と言ったからである。それだけでなく、彼らは自殺した犯人の家族たちをも気遣い、ともに悲しみと苦悩を分かち合って、金銭的な援助までしたのであった。
 このニュースは、アメリカのみならず世界各国に報道された。悲しみと怒りのなかにいるはずの被害者遺族たちが、犯人を赦し、犯人の家族をも思いやったこということは、キリスト教的な愛の実践として、国内外の多くの人々を感動させたのである。

 この事件が起きたのは、ペンシルバニア州のニッケルマインズという場所である。そこは『アーミッシュ』(→「アーミッシュ・アーミッシュ」は、アメリカ合衆国のペンシルベニア州などやカナダ・オンタリオ州などに居住するドイツ系移民のキリスト教集団。キリスト教と共同体に忠実である厳格な規則のある派である。アメリカ移民当時の生活様式を保持し、農耕や牧畜によって自給自足生活をしている。この派は20万人以上いるとされている)と呼ばれる、プロテスタントのキリスト教徒たちが住んでいる地域で、被害者を含め、近隣住民のほとんどはアーミッシュであった。」(『キリスト教と戦争』)

 この事件におけるアーミッシュの対応は、物語としては可能でも、とても現実のこととは思えません。

 なぜ、ここまでのことをするのでしょうか?

 キリスト教的な「愛」の教義通りの実践なのでしょうが。

 被害者側の人間的感情を、ここまで押し殺すことができるとは、とても信じられないのです。

 やはり、このような意見は多いようで、同様の見解について、石川氏は言及しています。以下に引用します。 

「ところが、こうしたアーミッシュの感動的な『赦し』に対しては、批判や疑問の声もないわけではなかったのである。

 あるコラムニストは、アーミッシュが悪に対し善によって報いようとした姿勢は、確かに感動的であったという。

 しかし、憎しみは常に悪いわけではないし、赦しが常に適切とも限らない、と論じた。彼は『われわれのなかに、子供が虐殺されたのに誰も怒らないような社会に本気で住みたいと思っている者が、どれだけいるだろうか』と問いかけたのである。」(『キリスト教と戦争』)

 つまり、宗教としての理想は別として、現実世界で字義通りの、「愛の実践」を行使することは、極めて困難と言わなければならないのです。

 石川氏は、読者に皮肉的に問いかけています。

「もし、本当に何をされても『赦す』ような宗教があったとしたら、それが世界中に広まることが可能だと思いますか?」(『キリスト教と戦争』)

 これは、当然の問いかけと言えるでしょう。もし、そのような宗教が存在したとしたら、すぐに消滅したでしょう。自己への攻撃に対して無抵抗なのですから。

 現実問題としては、「愛と平和」を実現するための絶対的平和主義では暴力や戦争を止めることができないのです。

 この一見して、悲観的な見解こそが、現実的な正解と言えるのではないでしょうか。

 石川氏は、『キリスト教と戦争』の中で、この見解と類似の主張をしています。以下に引用します。

  「私たちに可能なのは、ぎこちない愛のモノマネでもって、どうにか互いに相手を尊重する関係をつくるという希望を抱くだけだ。人は、愛という言葉のもとで、ずるいことや卑劣なこともできる。利益や面子のために、誰かを愛しているフリをすることだってある。」(『キリスト教と戦争』)

 このように考えると、前述のカントの『永遠平和のために』と同方向の結論になるのです。上記の赤字部分の内容を私たちは、よく噛みしめるべきでしょう。

 

(7)石川明人氏の紹介

石川 明人(イシカワ アキト)
1974年東京都生まれ。北海道大学卒業、同大学院博士後期課程単位取得退学。博士(文学)。北海道大学助手、助教をへて、現在、桃山学院大学准教授。専攻は宗教学、戦争論。

【単著】

『キリスト教と戦争』(中公新書)、

『戦場の宗教、軍人の信仰』(八千代出版)、

『戦争は人間的な営みである』(並木書房)、

『ティリッヒの宗教芸術論』(北海道大学出版会)、

【共著】

『人はなぜ平和を祈りながら戦うのか?』(並木書房)、
『アジアの宗教とソーシャル・キャピタル』(明石書店)などがある。

 

(8)当ブログにおける「平和主義」関連記事の紹介 

 

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 (9)当ブログにおける「キリスト教」関連記事の紹介

  

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 ーーーーーーーー

今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

ご期待ください。

 

   

 

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私たち、戦争人間について: 愛と平和主義の限界に関する考察

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キリスト教と戦争 (中公新書)

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戦争は人間的な営みである (戦争文化試論)

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朝日新聞デジタル

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