(予想問題)『日本の反知性主義』・鷲田清一氏の論考・異文化理解
(1)なぜ、この論考に注目したのか?
鷲田清一氏は、ほとんどの難関大学の入試現代文(国語)・小論文で一度は出題されている、トップレベルの頻出著者です。
最近では、東北大学、早稲田大学、上智大学等で、出題されています。
鷲田氏の入試頻出著書としては、
『モードの迷宮』(ちくま学芸文庫)、
『じぶんーこの不思議な存在』(講談社現代新書)、
『悲鳴をあげる身体』(PHP 新書)、
『「聴く」ことの力ー臨床哲学試論』(ちくま学芸文庫)、
『わかりやすいはわかりにくい? 臨床哲学講座』(ちくま新書)、
『しんがりの思想』(角川新書)
等があります。
最近の難関大学では、
『わかりやすいはわかりにくい? 臨床哲学講座』(ちくま新書)
『「聴く」ことの力ー臨床哲学講座』(ちくま学芸文庫)、
からの出題が目立ちます。
最近、鷲田氏は『日本の反知性主義』(内田樹・編)(晶文社)(2015年発行)に、「『摩擦』の意味ー知性的であるということについて」という題名の論考を発表しました。
その内容が難関大学現代文(国語)・小論文の問題としてふさわしいので、このブログで紹介、解説します。
(2)鷲田氏の論考の概要、解説
鷲田氏の論考について、以下、各項目に従って概要を記述し、解説していきます。
① 分断の過剰
鷲田氏は、以下のように述べています。
「交通・伝達の不能によって、一つの文化が崩壊する可能性は、社会が、異なる共同体・文化集団・階層が、『統合』されたものとしてある以上は、その社会につねに伏在しています。
しかし、社会が、最終的に解体・崩壊しないのは、それらの差異を、民主制・立憲制という理念で覆いえてきたからです。
そのような理念の一つである〈近代性〉は、〈普遍性〉を謳うものゆえに、これに従わない人たちを否認・排除してしまいます。
それゆえにこそ、ある社会を構成する複数文化のその《共存》のありようが、きわめて重要になります。
この《共存》の可能性を、社会の諸構成部分のあいだの『摩擦』の中に見ることは、できないでしょうか。
『摩擦』による刺戟の偏在が、何よりも平和の保障なのです」
………………………………
この項目で、鷲田氏は、「ある社会を構成する複数文化のその《共存》のありよう」を論点として提示しています。
そして、この項目で、エリオット(イギリスの詩人、劇作家、文芸批評家。ノーベル文学賞受賞者)の
「一つの社会の中に階層・地域などの相違が多ければ多いほど、はじめて単に一種の闘争、嫉視、恐怖のみが他のすべてを支配するという危険から脱却することが可能となる」(「文化の定義のための覚書」)
という言葉を引用して、「摩擦」の「平和」への貢献についての可能性に言及しています。
つまり、「複数文化の共存」が「摩擦による刺戟の偏在」を発生させ、それが「平和の保障」になる、というのです。
これは、多文化社会の、もう一つのメリットを指摘する、ユニークな発想です。
多文化社会は、グローバル化という歴史上の必然からの派生的現象であり、受け入れるしかないという、運命論的・受け身的な考えではなく、多文化社会に積極的価値を認める発想です。
多文化社会のマイナス面のみを過大評価せず、バランス感覚を働かせて、プラス面も考えていこうという、柔軟な姿勢が見られます。
これは、充分に成立しうる、まさに「平和」的な考え方だと思います。
② 「知性的」ということの意味
鷲田氏は、以下のように述べています。
「知性的になれば、世界を理解するときの補助線・参照軸が増殖し、世界の理解は、ますます煩雑になってくるのです。
世界が壊れないためには、煩雑さに耐えることが、何より必要です。
煩雑さとは、『手続き、規則、礼儀、調整、正義、道理』です。
こういう共有された作法に則って、私たちは、限られた自分の視野を点検・吟味し続けてきたのです。
そして、一つの社会・文化の解体回避のためには、これらの作法とともに、自由主義が必要不可欠なのです」
………………………………
「自由主義」について、この項目で、鷲田氏は、オルテガ(スペインの哲学者)の
「自由主義とは、多数者が少数者に与える権利であり、敵との共存、そればかりか弱い敵との共存の決意を表明する。
人類がかくも美しく、・・・・・・・かくも自然に反することに到達したということは信じがたいことである」(『大衆の反逆』ちくま学芸文庫)
という言葉を引用して、「自由主義」の偉大なる価値を強調してします。
「『対立が対立として認めるられる場所』にこそ『文化』があり、『社会』があるのです。
分離・分断の過剰が社会・文化を崩壊させるのです」
鷲田氏は、以上のように述べて、「自由主義」の存在価値を説明しています。
対立が対立として認められる状況、
われわれの隣人が訴えてゆける状況、
を維持していくことは、人類の歴史からみて、困難が伴うのは、明らかです。
多数派・強者は、少数派・弱者の対立姿勢の継続、弱者の訴えの表面化を認めないのが、歴史上の事実です。
それが、闘争の断続的継続の原因でもあったのです。
人類は、その負の連鎖を、終わらせる努力を、これまでしてきました。
その努力の一つとして、人類は、「自由主義」という「気高い決意」を表明したのです
「自由主義」は、「文化」「社会」の「平和的存続」の前提条件なのです。
③ 多文化性という淵
鷲田氏は、以下のように述べています。
「自由主義が、現在、再び動揺しています。
多文化主義を目指してきたフランス社会が普遍主義を声高に叫び、他の、普遍主義を封印しようとする動きによって脅かされつつあります。
この問題の根には、フランス特有の普遍主義、『人権』の普遍性を掲げるナショナリズムという逆説があります。
多文化性を、はてなき相対主義の淵(過剰な分離・分断)へと転落させることを阻止するためには、『普遍』の覆いをかけるしかありませんが、『普遍』を謳うがゆえに、これに従わない人達を否認・排除してしまう危険性があります。
ここで、自由主義の必要性を再認識することが必要です。
そして、異文化理解のためには、自己への懐疑の精神、自己の疎隔化が重要です。
未知のものである異文化を認識・理解するためには、まずは自分を自分から遠ざける必要があるのです」
…‥…‥…‥…‥…‥…‥…
鷲田氏は、この項目で、 「フランスにおける、いわゆる《ヴェール》問題」を例に挙げて、異文化理解の困難性を論考しています。
異文化理解が困難な状況に陥った時に、私たちは、いかなる構えをとるべきか。
文化人類学者の川田順造氏も述べているように、本来的に、異文化を完全に理解することは困難であり、さらに言えば、完全な理解は、ほとんど不可能です。
それでも、決定的な対立を避けるためには、異文化理解への方向に、私たちは、努力しなくては、いけないのです。
問題は、その努力の構え、姿勢をとる時の基本的方針です。
「完全な理解は、ほとんど不可能」を前提にすると、考えつく作戦は、二つです。
諦めて、適当なところで、知ろうとする努力を打ち切るか。
あくまで慎重の上に慎重に、丁寧に自分の知的混乱に対応していくか。
ここで後者の立場に立つことこそ真の「知性」ではないか、と鷲田氏は力説しているのです。
マニュアルは、ないのです。
異文化理解の場で、マニュアルを探そう、体系的に考察していこうとすること自体が、誤りなのです。
むしろ、知的混乱こそ、あるべき状態と見抜いて、冷静に知的混乱の中に身を置くこと。
むしろ、自己から遠ざけかること。
自己の価値観、思考の枠組みから離れて、未知なる異文化に対応すること。
これらのことを、意識すべきなのです。
マニュアル、体系的考察は、「自己の価値観、思考の枠組み」に他なりません。
そして、時間をかけて、じっくりと対応すること。
性急な判断を、しないようにすること。
性急な判断は、そもそも、不可能なのです。
このような態度こそが「知性的態度」ではないか、と鷲田氏は言いたいのでしょう。
私は、このように解釈しました。
鷲田清一氏は、エリオットの
「文化の発展の徴候の一つとして見るべきものは懐疑的精神の出現ということであります。
わたくしの言わんとするのは、明証を検討する習性と、一気に事を決しないだけの能力ということであります」(「文化の定義のためにの覚える書き」)
という言葉を引用しています。
「一気に事を決しないだけの能力」という表現には、深い意味が込められています。
「忍耐力」、
つまり、「自分の判断を、じっくり吟味する」、
「自分の判断を懐疑的精神に基づいて精査し、場合によっては却下する」、
このことこそ、「知性的態度」なのではないでしょうか。
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以上のように考えていくと、鷲田氏のこの論考には、感服するばかりです。
近いうちに、難関大学の現代文・小論文の問題に出題される可能性が、極めて高いと思われます。
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