現代文最新傾向LABO 斎藤隆

入試現代文の最新傾向を分析し、次年度の傾向を予測する大胆企画

予想問題・「である」ことと「する」こと②・『日本の思想』丸山真男

(1)今回の記事は、前回の記事(「予想問題『日本の思想』《Ⅳ「である」ことと「する」こと》(丸山真男)①」)の、続きです

 

 今回の記事は、「前回の記事の続き」です。

 今回の記事の理解を深めるために、「前回の記事」を読むことを、おすすめします

 下に、リンク画像を貼っておきます。

 

 

 

 (2)前回の記事のまとめ

 

 前回の記事では、丸山真男氏の『日本の思想』《Ⅳ・「である」ことと「する」こと》を、東大・上智大・学習院大の過去問を参照しつつ、検討しました。

 丸山真男氏の思想が目指すのは、「自由で自立した主体」になることです。

 このことを明解に解説している、長谷川宏氏の解説、つまり、『丸山眞男をどう読むか』(講談社現代新書)を再掲します。

 

 「洋の東西の比較という手法によって、日本人の主体的自由の意識の遅れを明らかにしつつ、しかし、丸山眞男はその遅れをとりもどすところにしか未来を展望しえなかった。そして、遅れをとりもどすには、西洋の近代思想を学ぶなかで、人びとが真に自由で自立した主体になることがもっとも確実な道だと考えられた。」

 

 

 参考までに、以下に丸山真男氏の『日本の思想』ⅳ《「である」ことと「する」こと》の要約を再掲します。

(要約)

「権利の上にねむる者は保護に値しないという民法の精神は、憲法にも当てはまる。また、これは西欧民主主義の道程がさし示す歴史的教訓でもある。自由や民主主義においても、不断に思考や行動を点検・吟味する日常の実践的努力が必要である。」

 

 次に、内田樹氏・鷲田清一氏の論考を参照しつつ、「現代の日本人」の一部にみられる、一種の「思考停止状態」について検討しました。

 そして、前回の記事は、以下の記述で終わりました。

 「『対策論として、どのようなことが考えられるか』については、次回の記事で考察していきたいと思います。」 

 

ーーーーーーーー

 今回の記事は、「前回の記事」の続編です。

 以下では、

(3) 「自由」・「民主主義」を侵害する危険性の高い事柄の検討、

(4) 「日本人」、あるいは、「情報化社会の人間」の「思考の弱点」の検討、

(5) 「民主主義」・「自由」に関する「日本人」の「思考停止状態」に対する対策、

について、考察していきます。

 

 ーーーーーーーー

 

 (3)まず、「自由」・「民主主義」を侵害する危険性の高い事柄を検討します

 ここでは、まず、「自由」・「民主化義」を侵害する危険性の高い事柄について、鷲田清一氏の論考(『わかりはやすいはわかりにくい?』(ちくま新書))を参照しながら、検討します。

 以下に鷲田氏の論考(概要)を引用します。

 (なお、赤字は当ブログによる「強調」です。青字は当ブログによる「注」です)

「正面からはなかなか反対しにくい問題というのが、いまの社会には意外と多くある。(→当ブログによる注→この状態を、難関大学の入試現代文(国語)・小論文に出題されている論考では、「全体主義的傾向・風潮」と表現していることもあります)

 たとえば「エコ」。環境保護がめざす人類文明のサステイナビリティ(持続可能性)について言えば、人類文明が育んできた諸価値のうちのいったい何をサステイン(維持・育成)するのかについて、突っ込んで議論されてきたとは思えない。くわえて、地球温暖化が科学的に実証されたことなのか・・・・・・。こうした問いよりも、それを大きな声では発しにくい空気(→まさに、「全体主義的風潮」)のほうが、わたしにははるかにリアルに迫っている。

 「安心・安全」がいかに監視社会の深化と連動しているかの指摘も、何かひねくれ者の発言であるかのように受けとられる。あるいは、「イノべーション」。〈新しさ〉の形而上学こそ近代という時代を空転させることになった元凶であることの指摘も無視して、「イノベーション」がいかにもニューウェイヴであるかのように呼びかけられる。」(鷲田清一『わかりやすいはわかりにくい?』第13章「わかりやすいはわかりにくい?」)

 ここで、「自由」・「民主主義」を侵害する可能性のある事柄として問題になっているのは、「エコ」・「環境保護」、「安心・安全」、「イノべーション」・「新しさ」です。

 従って、以下では、これらについて検討していきます。

ーーーーーーーー

 【1】「エコ」・「環境保護」について

 初めに、「エコファシズム」の説明します。

 「エコファシズム」とは「環境保全・生態系保全等を口実として全体主義的に、民主主義・自由・人権の抑圧などを正当化する思想」です。

 「エコファシズム」に関する論考として、1999年度に早稲田大学文学部に出題された、大澤真幸氏の論考(「自由の牢獄」(季刊『アスティオン』1997年7月))の概要を紹介します。(なお、紹介する部分は、今回の記事に関連する部分だけです。)


編集

 以下の大澤氏の論考を読めば分かりますが、「エコファシズム」は、まさに現代的・世界的問題といえるのです。

 

(大澤真幸氏の論考(概要))

(なお、青字は、原則として当ブログによる「注」です)

「エコロジー思想は、過剰な自由に由来するディレンマからの、最も効果的な解放の手段となる。過剰な自由の困難からの逃れるためには、受け入れ可能な拘束を、それに課すことが必要だった。《 2 》的な自然環境(地球環境)との調和的な関係は、社会システムにとって、最も一般的な目的である。〔 イ 〕つまり、それは、他の特定の目的の場合と違い、システムに、参加している誰もが合意しうる、高い一般性の水準にある。その上で、この一般性の高い目的の名のもとに、任意の行為に対する拘束を構成することができるのである。〔 ロ 〕過剰な自由は、言わば人を窒息させてしまうのだ。自由は、むしろ拘束をこそ前提にして倫理可能になる。だからこそ、今日、民族への帰属や環境倫理が要求されるのである。自由の牢獄(→当ブログによる注→自由の牢獄」の「意味」をここで説明します。「『自由の行使』には、思考・決断が必要であり、『自己責任』が付随します。これらのものを面倒と感じ、回避したい人にとっては、『自由』は『苦痛・牢獄』でしかない」、という意味です)からの解放としての意義をもっている。〔 ハ 〕そうであるとすれば、最初、自由に対する外敵として(のみ)見えていた、民族主義や環境倫理が自由の最終的な救済者であると見なすことも、できなくはない。が、しかし、その上でなお次のように言わなくてはならない。〔 ニ 〕確かに、自由には拘束が内在している。だが、自由の構成条件となりうるどのような拘束でも、それが実体化されて固定されてしまえば、自由に対する、単なる、外的な脅威へと転じてしまう。たとえば、過激なナショナリズムが、全体主義と親和的なものとなりうる、ということは誰もが自覚している懸念(けねん)である。〔 ホ 〕 」

 

問1 次の文は、本文中に入るべきものである。〔イ〕~〔ホ〕から最も適当な箇所を選べ。

あるいは、原理的に言えば、エコロジー主義は、自由を抑圧するどのような全体主義的な政策をも正当化することを許す、危険性をも宿している。

 

問2 文中の《2》に入る最も適当な語を、次の中から選べ。

イ 周縁   ロ 集団   ハ 民族 ニ 中心 ホ 包括

……………………

(解答)

問1 

問2 

(解法)

問1【脱落文挿入問題対策】

〔 ハ 〕の直後の

民族主義環境倫理が自由の最終的な救済者であると見なすことも、できなくはないが、しかし、その上でなお次のように言わなくてはならない。確かに、・・・・。だが、・・・・どのような拘束でも、それが実体化されて固定されてしまえば、自由に対する、単なる、外的な脅威へと転じてしまう。たとえば、過激なナショナリズムが、全体主義と親和的なものとなりうる・・・・。〔 ホ 〕」

の文脈を丁寧に押さえてください(赤字に注意してください)。

 そうすれば、脱文(「あるいは、原理的に言えば、エコロジー主義は、自由を抑圧するどのような全体主義的な政策をも正当性化することを許す、危険性をも宿している。」)が〔 ホ 〕に入ることが分かるでしょう。

 

問2

「《2》的な自然環境」と、直後の「地球環境」が同義であることに注目してください。

→【空欄補充問題対策】

 「空欄補充問題」は、空欄の直前・直後にヒントがあることが非常に多いのです。空欄補充問題を解く際には、本文の精読・熟読が不可欠です。要約を離れて(→「『要約を書くこと』についての私の見解」→私は、「要約を書くこと」は無意味、むしろ消費時間・労力を考えた場合には、有害無益だと思っています。人間の頭脳は、自然に要約しつつ理解するように出来ているからです。高校の段階で「要約についての自分の考え」を客観化するために、「要約を書くこと」は、一定の意義があります。しかし、浪人になった時まで、「要約を書くこと」を中心に、現代文を学習することは、一橋大学志望者以外は再考するべきです。単語力アップをこそ、心掛けるべきです)、本文に集中しながら、考察するようにしてください。

……………………

(内容の解説)

 「エコファシズム」は、かなり危険な側面があるのです。

 大澤氏の論考を熟読すれば、その危険性は理解できるでしょう。

 次に大澤真幸氏の紹介をします。

大澤 真幸(おおさわ まさち) 1958年長野県生まれ。東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得満期退学。社会学者。専攻は数理社会学、理論社会学。千葉大学文学部助教授、京都大学大学院人間・環境学研究科教授を歴任。

 大澤真幸氏は、トップレベルの入試頻出著者です。

 大澤真幸氏の論考は、最近では、埼玉大学、静岡大学、早稲田大学(文学部)・(商学部)、上智大学、明治大学、同志社大学等で出題されています。

 著書として、

『文明の内なる衝突』(河出文庫)、

『不可能性の時代』(岩波新書)、

『〈自由〉の条件』(講談社)、

等があります。

 

 

……………………

 

【2】「監視社会」について

 「監視社会」も、「自由」との関係で、最近の流行論点・テーマになっています。

 「監視社会」に関する論考として、最新で、鋭い考察のなされている、頻出著者の古東哲明氏の論考(概要)を、以下に紹介します。

「電子光学技術(人工衛星・情報収集技術網)による「パナプティコン(一望監視システム)」(→当ブログによる注→中央の監視塔からは牢獄を監視できるが、牢獄からは監視塔の様子が分からないような一望監視システムのために、囚人は常に直接的に監視されている気分になり、遂には、その気分が日常化してしまうという趣旨)が追い打ちをかける。世界規模での「警察化(監視化)」が進行する。世界全体が「一大監房」と化する。自由を奪われ「拘禁」されているという閉塞感情が瀰漫(びまん)(→当ブログによる注→「はびこる。広がる」という意味)する。〈今ここ〉で生きているこのリアルな空間や光景を喪失することを通じ、抑圧的で不自由な生存を獲得する。」(古東哲明『瞬間を生きる哲学』)

……………………

 「監視社会」の論点は、最近になって、ますます問題化しています。

 最近になって、次々と新たな「監視手段」が開発され、実施されてきているからです。

  具体的に言えば、インターネットにおけるクッキー(→Webプラウザ内に蓄積される来歴情報)などの閲覧者把持技術、携帯電話へのGPS(グローバル・ポジショニング・システム→地球上の現在位置を測定する装置)機能搭載、地域・施設等における監視カメラ数の激増などです。

 

 問題は、人々が、「監視社会」の中に自分が存在しているという意識が、希薄なことなのです。

 例えば、利便性・有益性のみを考慮して、自己情報の自主的開示により、外部による管理・監視を承認・同意したと取り扱われることが、非常によくみられるのです。

 このことの危険性を、どれだけの人が正確に認識しているのでしょうか。

 気軽に考えている感じが、します。

 

 ここで、古東哲明氏の紹介をします。

古東哲明(ことう てつあき) 京都大学哲学科卒業、同大学院博士課程単位取得満期退学。広島大学総合科学研究科人間文化研究講座教授。

 著書として、

『〈在る〉ことの不思議』(勁草書房)、

『ハイデガー=存在神秘の哲学』(講談社現代新書)、

『瞬間を生きる哲学ー〈今ここ〉に佇む技法』(筑摩選書)、

等があります。

 古東氏は、入試頻出著者です。古東氏の論考は最近では東京学芸大学、同志社大等で出題されています。

 

 

……………………

 

【3】「イノべーション」・「新しさ」について

 この論点については、「自由」・「民主主義」どころか、「人間存在の根本」を動揺させる可能性・危険性のある「人工知能」の問題があります。

 この「人工知能」については、小林雅一氏の論考(『AIの衝撃ー人工知能は人類の敵か』(講談社現代新書)(2015・3・20発行)の概要を紹介した、予想問題記事を最近発表したので、ぜひ、ご覧ください。

 

 

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 (4)「日本人」、あるいは、「情報化社会の人間」の、「思考の弱点」について、改めて検討します

 

「日本人の思考の弱点」

 ここで、参考になるのは、2008年早稲田大学法学部の問題として出題された丸山真男氏の『現代政治の思想と行動』です。

(青字は当ブログによる付記です。)

「現実と本来一面において与えられたものであると同時に他面で日々造られて行くものなのですが、普通「現実」というときはもっぱら前の契機だけが前面に出て現実のプラスティック(→当ブログによる注→「柔軟」という意味)な面は無視されます。いいかえれば現実とは日本では端的に〔 P 〕と等置されます。現実たれということは〔 P 〕に屈服せよということにほかなりません。現実が所与性(→「与えられたもの」という意味。入試頻出キーワード)と過去性においてだけ捉えられるとき、それは容易に諦観に転化します。私はかつてこうした思考様式がいかに広く戦前戦後の指導者層に喰入り、それがいよいよ日本の「現実」をのっぴきならない泥沼に追い込んだかを分析したことがあります。

 日本人の「現実」観を構成する第二の特徴は現実の一次元性とでもいいましょうか。いうまでもなく社会的現実はきわめて錯雑し矛盾したさまざまな動向によって〔 Q 〕に構成されていますが、そうした現実の多元的構造はなくいわゆる「現実を直視せよ」とか「現実的地盤に立て」とかいって叱咤(しった)する場合にはたいてい簡単に無視されて、現実の一つの側面だけが強調されるのです。」

問6 本文中の空欄P・Qに入る語句の組合せとして最も適切なものを次の中から一つ選べ。

1 P指導者の意志・Q合理的

2 P多数者の主観・Q多面的

3 P過去の前例・Q恣意的

4 P生活習慣・Q有機的

5 P既成事実・Q立体的

  問7 本文中で、次の文が入る最も適切な箇所の直前の文の最後の五文字(句読点を除く)を抜き出し、記せ。

「現実だから仕方がない」というふうに、現実はいつも、「仕方のない」過去なのです。

……………………

(解答)

問6 

問7 転化します

(解法)問6

「現実とは・・・・端的に〔P〕と等置」、

現実的たれということは〔P〕に屈服せよということ」、

現実が所与性と過去性においてだけ捉えられる」、

という文脈を把握できれば、Pにヤの「既成事実」が入ることが分かります。

 次に、Qについては、直後の「そうした現実の多元的構造」に着目すれば、ヤの「立体的」が入ることが分かります。

 

 問7

 二番目の〔P〕の直後の一文の、「それ(現実)は容易に諦観(→当ブログによる注→「あきらめ」という意味→キーワードです)に転化します」の言い換えが、脱文の「『現実だから仕方がない』」になっていることに注目してください。

 

……………………

(内容解説)

 丸山真男氏は、「日本人の思考の弱点」を改善するために、

①諦観しない、

②多角的検討・思考・視点の必要性、

を主張しています。

 「多角的検討・思考・視点」とは、短期的視点のほかに、「長期的視点」を意識すること、たとえば「歴史に学ぶこと」も入ります。

 「歴史に学ぶこと」については、前回の記事で、鷲田清一氏の発言(インタビュー記事)を引用しました。

 重要なポイントなので、この記事においても、概要の一部を再掲します。

「百年や千年の昔に、よく似た事態について書いている人がいる。問題を考える時の補助線になるような言葉、「今までそんな風に考えたこともなかった」というような言葉を、探しています。」(2016・8・26「朝日新聞DIGITAL」(「特集:折々のことば」)

  

 また、「多角的視点の獲得」については、佐藤優氏の『君たちが知っておくべきことー未来のエリートとの対話』が参考になります。

 以下に概要を記述します。(なお、赤字は当ブログによる強調です)

「重要なことは、やはり頭のいい人が書いたものを読むことです。たとえば、浅田彰(あさだ あきら)さんや、イスラム法学者の中田考(なかた こう)さん。一見、自分とは関係がないと思えるようなジャンルの本もきちんとフォローしていく。この人から見ると世界はこういうふうに見えるのだな、という視点を獲得していくことが重要なのです。」(佐藤優『君たちが知っておくべきこと』(P170))

 

 佐藤氏が言おうとしていることは、優秀な「他者の視点」を「冷静」に取り入れることも考慮しよう、ということです。

 この姿勢は、自分を振り返る姿勢、自分を俯瞰的に見る姿勢にもつながり、とても良いことだと思います。

 なお、佐藤優氏の『君たちが知っておくべきこと』については、このブログで、最近、「予想問題①~③ 」の記事を発表しましたので、そちらも、ご覧下さい。

 

 

……………………

 

【2】情報化社会(IT化社会)における「人間の思考の弱点」

 

 情報化社会の「人間の思考の弱点」については、1997年の慶応大学・環境情報学部(いわゆる慶応大学SFC )に出題された問題が良問なので、ここで紹介します。

(設問文)

「以下の資料1~4は、すべて『知識』と『情報』について論じたものであるが、これらの資料のそれぞれに必ず言及しながら、来たるべき二十一世紀の社会における『知識』と『情報』の関係について1000字以内で論じなさい。」

 〔資料1〕~〔資料4〕の文字数の比率は、「1:1:2:4」になっています。

 出題者の出題意図としては、受験生に〔資料3〕〔資料4〕を重視してもらいたいことは明白です。

 そこで、この記事においては、〔資料3〕〔資料4〕を中心に検討していきます。

 なお、〔資料1〕・〔資料2〕の「見出し」・「出典」は以下の通りです。

 

〔資料1〕デジタルテクノロジーとその人間社会への貢献

村井純「デジタルテクノロジーとその人間社会への貢献」より抜粋・編集

 

 〔資料2〕ネットワーク

公文俊平「ネットワーク」より抜粋・編集

 

 以上の、〔資料1〕・〔資料2〕は、それぞれ、「デジタルテクノロジー」、「ネットワーク」をプラス評価しています。

 

 〔資料3〕知(智)について

(問題文本文の結論・主張部分の概要を記述します)

(赤字は当ブログによる強調です)

 「智恵について、私は一応こういうふうにレヴェルを区別してみます。いわば知の建築上の構造です。

information (情報)

knowledge(知識)

intelligence(知性)

wisdom(叡智)(えいち)(→「読み」、「意味(英知・智恵)」ともに入試頻出語句)

 一番下に来るのが土台としてのウィズダム(叡智)です。その上に来るのが、インテリジェンス(知性)です。聡明叡智の働きは、主としてウィズダムとインテリジェンスという、上記の構造の下半分の作用に重きが置かれているように思われます。その一段上のノレッジ(知識)というのは、叡智と知性を土台として、いろいろな情報を組合せたものです。個々の学問は、大体このノレッジのレヴェルに位置します。一番上の情報というのは、無限に細分化されうるもので、簡単にいうと真偽がイエス・ノーで答えられる性質のものです。クイズの質問になりうるのは、この情報だけです。

 現代の「情報社会」の問題性は、このように底辺に叡智があり、頂点に情報がくる三角形の構造が、逆三角形になって、情報最大・叡智最小の形をなしていることにあるのではないでしょうか。叡智と知性とが知識にとって代わられ、知識がますます情報にとって代わらようとしています。「秀才バカ」というのは、情報最大・叡智最小の人のことで、クイズには最も向いていますが、複雑な事態に対する判断力は最低です。」(丸山真男著『「文明論之概略」を読む』より抜粋・編集)

……………………

(内容解説)

 今回の丸山真男氏の論考は、かなり直接的な表現を使用しているので、内容が明解になっています。

 現代の「情報社会」の問題性→情報最大・叡智最小→「秀才バカ」→クイズ向きの人→複雑な事態に対する判断力は最低、という論理の流れは、極めて分かりやすくなっています。

 「情報社会」においては、情報摂取に時間・労力を奪われ、じっくり考える余裕も気力も体力もなくなり、ついには、思考力が衰えるということでしょうか。

 対策としては、「情報社会に内在する危険性を知ること」、そして、「意識して情報から離れる時間を作ること」が、考えられます。

……………………

 (慶応大学・環境情報学部の問題)

〔資料4〕「情報」と「知識」

(結論部分の概要を記述します)

「コンピューター・ネットワークは情報処理や情報伝達を迅速かつ大量に行い、知識の生産と普及を助けますけれども、はたして知識の生産そのものを行っているのかどうか疑問です。(→この点については最近「人工知能」の問題があります。→上にリンク画像があります)知識の生産そのものは、依然として個々人の主観的内面の世界で行われているのかではないでしょうか。

 これから、出生いらいパソコンとともに育った「新々人類」がふえていきます。私が心配していることは、彼らがコンピューターに強いが本を読まない、情報には詳しいが、ものを考えない人になっていくことです。彼らが「ポスト工業社会」の制度的担い手たる大学や研究所の主役になったとき、その大学や研究所そのものが知識を生産する能力を失っていくことを心配するのは、私だけの単なる杞憂(きゆう)でしょうか。」(富永健一著『近代化の理論ー近代化における西洋と東洋』)

……………………

(内容解説)

 ここで指摘されている「コンピューターには強いが本を読まない、情報には詳しいが、ものを考えない人種」というのは、〔資料3〕の「情報最大・叡智最小の人」と同一でしょう。

 となると、〔資料3〕・〔資料4〕は、同一内容の主張をしていることになります。

 このことを読み取れるか否かが、本問のポイントということになるのです。

 「情報社会」に内在する、「情報最大・叡智最小」(「秀才バカになること」)という危険性を回避するためには、「意識して読書をすること」、そして、「考えることを心掛けること」が考えられます。

 

 ここで、富永健一氏の紹介をします。

富永 健一(とみなが けんいち)1931年生まれ。東京都出身。日本の社会学者。東京大学名誉教授。文化功労者。日本学士院会員。専攻は社会学全般、社会学理論、社会変動・近代化等と多岐にわたる。


編集

主な著作として、

『現代の社会科学者ー現代社会科学における実証主義と理念主義』(講談社学術文庫)、

『近代化の理論ー近代化における西洋と東洋』(講談社学術文庫)→今回の入試問題の出典です、

『社会変動の中の福祉国家ー家族の失敗と国家の新しい機能』(中公新書)、

等があります。

 

 

……………………

 

 話は変わりますが、ここで、慶応大学SFC の小論文の出題傾向について、論じようと思います。

 

【慶応大学FSC・小論文対策】

 以下は、慶応大学のパンフレットより引用した「環境情報学部の特色」です。(なお、赤字は当ブログによる強調です)

「地球、自然、生命、人間、社会を理解し、 未来社会に貢献する人材を育成。
 最先端のサイエンス(脳科学、身体科学、生命科学、情報科学、環境科学等)、 テクノロジー(ICT、空間情報技術、エレクトロニクス、バイオテクノロジー等)、 デザインを駆使し、 柔軟に人文・社会科学と融合することによって、地球、自然、生命、人間、社会 を理解し、未解決の問題に取り組み、解決策を創造します。」(慶応大学のパンフレットより引用)

 

 つまり、慶応大学SFCは、情報科学、空間情報技術の修得・応用を重視しています。

 

 そうでありながらも、慶応大学SFC・小論文では、「情報化社会のマイナス面」を問題にしている論考が、よく出題されています。

 この論点は、最近でも断続的に出題されているのです。

 この点は、慶応大学SFCの小論文の過去問を検討する際には、常に意識しておいてください。

 

 なお、専攻する学問分野のマイナスの側面を自覚することは、とても大切なことです。

 

 

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(5)「民主主義」・「自由」に関する「日本人」の「思考停止状態」に対する対策

 

① 丸山真男氏の対策論ー『日本の思想』《Ⅳ「である」ことと「する」こと》を参照しつつ考察します

 

 まず、「民主主義」・「自由」の「脆(もろ)さ」、つまり「民主主義の血塗られた歴史」(ヒットラーの権力掌握→ヒットラーの権力掌握は民主主義を背景にしています)を知るべきです。

 

 中学校・高校では、あるいは、親が、社会が、そのことを、しっかり教えるべきです。

 これこそ、真の「民主主義教育」です。

 このことは、下記の丸山真男氏の論考(『日本の思想』Ⅳ「である」ことと「する」こと)より明らかです。

 前回の記事の一部を再掲します。

 

「【】国民はいまや主権者となった、しかし主権者であることに安住して、その[ ニ(権利) ]の行使を怠っていると、ある朝目ざめてみると、もはや主権者でなくなっているといった事態が起こるぞ」という[ ホ(警告) ]になっているわけなのです。

 

 「【自由は置き物のようにそこにあるのでなく、現実の行使によってだけ守られる、〔 B(いいかえれば) 〕日々自由になろうとすることによって、〔 C(はじめて) 〕自由でありでありうるということなのです。」

 

② 鷲田清一氏の対策論→『わかりやすいはわかりにくい?』を参照しつつ考察します

 鷲田清一氏の論考の概要を記述します。

(「・」の付加されている活字は太字にしました。赤字は当ブログによる「強調」です。青字は当ブログによる「注」です)

大事なことは、困難な問題に直面したときに、すぐに結論を出さないで、問題が自分のなかで立体的に見えてくるまで、いわば潜水しつづけるということなのだ。それが、知性に肺活量をつけるということだ。

 ものごとの軽重、もろもろの価値の遠近法(→この「価値の遠近法」は重要なキーワードです)を携(たずさ)えていることが、「大人」であることの条件だ。この遠近法とは、ある事態に直面して、これは絶対手放してはならないものなのか、なくてもよいものでなのか、あるいは絶対にあってはいけないものなのか、そういうことをきちんと見極めるような視力であると言ってもよい。そのためには、たとえば目下の自分の関心とはさしあたって接点のないような思考や表現にもふれることが大事だ。(→当ブログによる注→つまり、多角的検討・検証の準備をしておくということです)

 自分と他人とがすぐには同調できないという事実、同調できないひとたちがくるあちこちにいるという事実から出発して、それらをどう摺(す)り合わせてゆくのかという智恵と対話の技量が、何より求められるものである。そういうおのれの瘡蓋(かさぶた)をめくるような痛い経験をくり返すなかでしか、ほんとうの意味での《民主主義》の社会などというものは生まれようがない。」

 

 鷲田氏は、ここで、「真の民主主義社会」を確保することの「困難性」を強調しています。

 なお、この「困難性」については、鷲田氏は、「多文化社会における自由主義・民主主義の確保」に関しても、実に素晴らしい論考を発表しています。

 「『摩擦』の意味ー知性的であるということについて」(『日本の反知性主義』所収)という論考です。

 この論考については、当ブログで予想問題記事を発表したので、下にリンク画像を貼っておきます。

 ちなみに、この予想問題記事は、2016年度の静岡大学の国語にズバリ的中しました。

  

 

 

 本論に戻ります。

 この「真の民主主義社会」を確保することの「困難性」については、世界・日本の、これまでの歴史や、現在の欧米・日本の状況(政治的・社会的混乱)を考えれば、納得できることです。

 問題は、現在の激動の状況下で、日本人が、この「困難性」を強く意識しながら、「真の民主主義社会」を確保するための地道な努力を続けていけるか、にかかっているのです。

 

 

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これで、今回の記事は終わりです。

 

 

 



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